いつか読みたい晋書訳

晋書__志第十九巻_五行下

担当者:池内早紀子・伊藤裕水・小國結菜・島山奈緒子・椛島雅弘・髙橋あやの(五十音順)
『晋書』五行志について
基本的には『漢書』と『宋書』からの再構成となっている。
理屈の部分については『漢書』五行志を用い,実例については『宋書』五行志を用いる。実質的には『宋書』をベースに、『宋書』ではあまり記されない五行についての理屈の部分を『漢書』によって接木したような構成となっている。
そのため東洋文庫『漢書五行志』訳注と、筑摩書房『漢書』訳注を参照しながら進めることができる。
また少なからず『捜神記』などの先行事例を引いている部分があり,それらも先行する訳を参照とすることができる。
今回の訳註も,今言及した東洋文庫『漢書五行志』や筑摩書房『漢書』,東洋文庫『捜神記』の訳註によるところが大きいことを附言しておく。

(主催者より)表現形式等に不統一がありますが、早期公開を優先し翻訳者から提出をいただいたテキストに基づいて成形しています。製本版の作成までに現代語訳の記号等を修正予定です。記号等の変更については、翻訳者に許可を頂いています。

原文

傳曰「聽之不聰,是謂不謀,厥咎急,厥罰恒寒,厥極貧。時則有鼓妖,時則有魚孽,時則有豕禍,時則有耳痾,時則有黑眚・黑祥。惟火沴水。」
聽之不聰,是謂不謀,言上偏聽不聰,下情隔塞,則不能謀慮利害,失在嚴急,故其咎急也。盛冬日短,寒以殺物,政促迫,故其罰常寒也。寒則不生百穀,上下俱貧,故其極貧也。君嚴猛而閉下,臣戰慄而塞耳,則妄聞之氣發於音聲,故有鼓妖。寒氣動,故有魚孽。而龜能爲孽,龜能陸處,非極陰也,魚去水而死,極陰之孽也。於『易』,坎爲水,爲豕,豕大耳而不聰察,聽氣毀,故有豕禍也。一曰,寒歲豕多死及爲怪,亦是也。及人,則多病耳者,故有耳痾。水色黑,故有黑眚・黑祥。凡聽傷者,病水氣。水氣病,則火沴之。其極貧者,順之,其福曰富。劉歆聽傳曰有介蟲之孽也。

訓読

傳に曰く「聽の不聰,是れを不謀と謂ひ,厥の咎は急,厥の罰は恒寒,厥の極は貧。時には則ち鼓妖有り,時には則ち魚孽有り,時には則ち豕禍有り,時には則ち耳痾有り,時には則ち黑眚・黑祥有り。惟れ火 水を沴ふ。」と。
聽の不聰,是れを不謀と謂ふ,言ふこころは上偏り聽するも聰(き)かず,下の情隔塞すれば,則ち利害を謀慮する能はず,〔一〕失は嚴急に在り,故に其の咎急なり。盛冬は日短く,寒以て物を殺し,政促迫す,故に其の罰常寒なり。寒なれば則ち百穀を生ぜず,上下俱に貧す,故に其の極貧なり。君嚴猛にして下を閉じ,臣戰慄して耳を塞げば,則ち妄聞の氣 音聲に發す,故に鼓妖有り。寒氣動く,故に魚孽有り。而るに龜能(すなは)ち孽爲るも,龜能く陸處し,極陰に非ざるなり,魚水を去りて死す,極陰の孽なり。『易』に於いて,坎は水爲り,豕爲り,〔二〕豕 大耳にして聰察せず,聽氣毀つ,故に豕禍有るなり。一に曰く,寒歲に豕死すこと及び怪と爲ること多し,亦た是れなり。人に及べば,則ち耳を病む者多し,故に耳痾有り。水の色黑,故に黑眚・黑祥有り。凡そ聽傷へば,水氣を病む。水氣病めば,則ち火 之を沴(そこな)ふ。其の極貧なる者,之に順へば,其の福 富と曰ふ。劉歆聽傳に介蟲の孽有りと曰ふなり。

〔一〕原文には「不能」の字はないが,『漢書』五行志には「不能」の二字有り。原文では文意が通らないため補う。
〔二〕『易』説卦傳
「坎爲豕。……坎爲耳。……坎爲水。」
【参照】
『漢書』五行志中之下
「傳曰「聽之不聰,是謂不謀,厥咎急,厥罰恆寒,厥極貧。時則有鼓妖,時則有魚孽,時則有豕禍,時則有耳痾,時則有黑眚黑祥。惟火沴水。」
「聽之不聰,是謂不謀」,言上偏聽不聰,下情隔塞,則不能謀慮利害,失在嚴急,故其咎急也。盛冬日短,寒以殺物,政促迫,故其罰常寒也。寒則不生百穀,上下俱貧,故其極貧也。君嚴猛而閉下,臣戰栗而塞耳,則妄聞之氣發於音聲,故有鼓妖。寒氣動,故有魚孽。雨以龜爲孽,龜能陸處,非極陰也。魚去水而死,極陰之孽也。於易坎爲豕,豕大耳而不聰察,聽氣毀,故有豕禍也。一曰,寒歲豕多死,及爲怪,亦是也。及人,則多病耳者,故有耳痾。水色黑,故有黑眚黑祥。凡聽傷者病水氣,水氣病則火沴之。其極貧者,順之,其福曰富。劉歆聽傳曰有介蟲孽也。」

現代語訳

伝に「聴の不聡,これを不謀と言うのである,その咎は急,その罰は恒寒,その極は貧である。時には鼓妖があり,時には魚孽があり,時には豕禍があり,時には耳痾があり,時には黒眚・黒祥がある。これは火が水をそこなうのである。」と言う。
聴の不聡,これを不謀と言う,の意味するところは上の者が偏っており聴いてもきき取れず,下の者の思いが通じなければ,利害について思いめぐらすことができない,その失は厳急にある,だからその咎は急なのである。盛冬は日が短く,寒さによって生物を殺し,政が押し迫る,だからその罰は常寒なのである。寒ければ百穀を生じず,上の者も下の者もともに貧しい,だからその極は貧なのである。君王が厳しく獰猛で下の者を閉ざし,臣下が戦慄して耳を塞げば,でたらめな情報の気が音声となって現れる,だから鼓妖があるのである。寒気が動く,だから魚孽がある。しかし亀はすなわち孽であるが,亀は陸に処ることができるので,極陰ではない,魚は水を取り除くと死ぬので,極陰の孽である。『易』では,坎卦は水であり,豕である,豕は耳が大きいが聞き分けず,聴の気が毀れている,だから豕の禍があるのである。一説に,寒い歳に豕が沢山死んだり怪を起こしたりするというのも,このことを言っているのである。その禍が人に及ぶと,耳を病む者が多い,だから耳痾がある。(五行の)水の色が黒である,だから黒眚・黒祥がある。そもそも聴がそこなわれるというのは,水気を病むということである。水気が病むと,火が水氣を損なう。その極の貧は,水気にしたがえば,その福は富という。劉歆の聴伝には介蟲の孽があるという。

恒寒

原文

恒寒
庶徵之恒寒,劉歆以爲大雨雪,及未當雨雪而雨雪,及大雨雹,隕霜殺菽草,皆恒寒之罰也。京房『易傳』曰,「有德遭險茲謂逆命,厥異寒。誅罰過深,當燠而寒,盡六日,亦爲雹。害正不誅茲謂養賊,寒七十二日,殺飛禽。道人始去茲謂傷,其寒,物無霜而死,涌水而出。戰不量敵茲謂辱命,其寒,雖雨物不茂。聞善不予,厥咎聾。」

訓読

恒寒
庶徵の恒寒,劉歆以爲へらく大いに雪雨る,及び未だ當に雪雨るべからずして雪雨る,及び大いに雹雨れば,霜隕ち菽草を殺す,皆な恒寒の罰なり。京房『易傳』に曰く,「有德險に遭う茲れを逆命と謂ひ,厥の異は寒。誅罰深に過ぎ,當に燠(あたた)かかるべきも寒く,六日を盡くして,亦た雹と爲る。正しきを害するも誅せず茲れを養賊と謂ひ,寒なること七十二日,飛禽を殺す。道人去るを始む茲れを傷と謂ひ,其の寒,物霜無くして死し,涌水にして出づ。戰ふに敵を量らず茲れを辱命と謂ひ,其の寒,雨ると雖も物茂らず。善を聞くも予(たのし)まず,厥の咎聾。」と。

【参照】
『漢書』五行志
「庶徵之恆寒。劉向以爲春秋無其應,周之末世舒緩微弱,政在臣下,奧煖而已,故籍秦以爲驗。秦始皇帝卽位尚幼,委政太后,太后淫於呂不韋及嫪毐,封毐爲長信侯,以太原郡爲毐國,宮室苑囿自恣,政事斷焉。故天冬雷,以見陽不禁閉,以涉危害,舒奧迫近之變也。始皇既冠,毐懼誅作亂,始皇誅之,斬首數百級,大臣二十人,皆車裂以徇,夷滅其宗,遷四千餘家於房陵。是歲四月,寒,民有凍死者。數年之間,緩急如此,寒奧輒應,此其效也。劉歆以爲大雨雪,及未當雨雪而雨雪,及大雨雹,隕霜殺叔草,皆常寒之罰也。劉向以爲常雨屬貌不恭。京房『易傳』曰「有德遭險,茲謂逆命,厥異寒。誅過深,當奧而寒,盡六日,亦爲雹。害正不誅,茲謂養賊,寒七十二日,殺蜚禽。道人始去茲謂傷,其寒物無霜而死,涌水出。戰不量敵,茲謂辱命,其寒雖雨物不茂。聞善不予,厥咎聾。」
『宋書』五行志四
「庶徵之桓寒,劉歆以爲「大雨雪・及未當雨雪而雨雪・及大雨雹・隕霜殺菽草,皆常寒之罰也」。京房『易傳』曰「有德遭險,茲謂逆命。厥異寒。誅罰過深,當燠而寒,盡六日,亦爲雹。害正不誅,茲謂養賊。寒七十二日,殺飛禽。道人始去,茲謂傷。其寒物無霜而死,涌水出。戰不量敵,茲謂辱命。其寒雖雨物不茂。」」

現代語訳

恒寒
庶徴の恒寒というのは,劉歆は大いに雪が降ったり,まだ雪が降るべき時ではないのに雪が降ったり,大いに雹が降ると,霜が降り豆や草を枯らせてしまう,これらはどれも恒寒の罰であると考えた。京房『易伝』に,「徳のある者が災難に遭う,このことを逆命といい,その異変は寒である。誅罰が度を越していると,暖かくなるべき時なのに寒く,六日たって,また雹となる。正しい人を害したのに誅罰しない,このことを養賊といい,寒い日が七十二日続き,鳥を殺す。道を体得した人が立ち去りはじめる,このことを傷といい,その寒さは,生物が霜がないのに死に,涌き水が出る。戦う時に敵(の力量)を量らない,このことを辱命といい,その寒さは,雨が降っても物が茂らない。善いことを聞いても喜ばない,その咎は聾である。」という。

原文

吳孫權嘉禾三年九月朔,隕霜傷穀。案劉向說「誅罰不由君出,在臣下之象也。」是時,校事呂壹專作威福,與漢元帝時石顯用事隕霜同應。班固書九月二日,陳壽言朔,皆明未可以傷穀也。壹後亦伏誅。京房『易傳』曰「興兵妄誅茲謂亡法,厥災霜,夏殺五穀,冬殺麥。誅不原情茲謂不仁,其霜,夏先大雷風,冬先雨,乃隕霜,有芒角。賢聖遭害,其霜附木不下地。佞人依刑茲謂私賊,其霜在草根土隟間。不教而誅茲謂虐,其霜反在草下。」

訓読

吳の孫權嘉禾三年九月朔,霜隕ちて穀を傷なふ。〔一〕劉向の說を案ずるに「誅罰 君に由らずして出づ,臣下に在るの象なり。」と。〔二〕是の時,校事呂壹專ら威福を作し,〔三〕漢の元帝の時 石顯事を用ふるの隕霜と應を同じくす。〔四〕班固九月二日と書し,陳壽朔と言うは,皆な未だ以て穀を傷なふべからざるを明らかにするなり。壹後に亦た誅に伏す。〔五〕京房『易傳』に曰く「兵を興し妄りに誅す茲れを亡法と謂ひ,厥の災は霜,夏 五穀を殺し,冬 麥を殺す。誅するに情を原ねず茲れを不仁と謂ひ,其の霜,夏先ず大いに雷風あり,冬先ず雨,乃ち霜隕ち,芒角有り。賢聖害に遭えば,其の霜木に附き地に下らず。佞人刑に依る茲れを私賊と謂ひ,其の霜草根土の隟(げき)間に在り。教へずして誅す茲れを虐と謂ひ,其の霜反って草下に在り。」と。〔六〕

〔一〕『三國志』呉書・孫權傳
「(嘉禾三年)九月朔,隕霜傷穀。」
〔二〕『漢書』五行志中之下
「定公元年「十月,隕霜殺菽」。劉向以爲周十月,今八月也,消卦爲觀,陰氣未至君位而殺,誅罰不由君出,在臣下之象也。是時季氏逐昭公,公死于外,定公得立,故天見災以視公也。」
〔三〕『三國志』呉書・孫權傳
「(赤烏元年)初,權信任校事呂壹,壹性苛慘,用法深刻。太子登數諫,權不納,大臣由是莫敢言。」
〔四〕『漢書』五行志中之下
「元帝永光元年三月,隕霜殺桑。九月二日,隕霜殺稼,天下大飢。是時中書令石顯用事專權,與春秋定公時隕霜同應。成帝卽位,顯坐作威福誅。」
〔五〕『三國志』呉書・孫權傳
「後壹姦罪發露伏誅,權引咎責躬,乃使中書郎袁禮告謝諸大將,因問時事所當損益。」
〔六〕『漢書』五行志中之下
「(武帝元光四年四月,隕霜殺草木。)京房『易傳』曰「興兵妄誅,茲謂亡法,厥災霜,夏殺五穀,冬殺麥。誅不原情,茲謂不仁,其霜,夏先大雷風,冬先雨,乃隕霜,有芒角。賢聖遭害,其霜附木不下地。佞人依刑,茲謂私賊,其霜在草根土隙間。不教而誅茲謂虐,其霜反在草下。」」
【参照】
『宋書』五行志四
「吳孫權嘉禾三年九月朔,隕霜傷穀。按劉向說「誅罰不由君出,在臣下之象也」。是時校事呂壹專作威福,與漢元帝時石顯用事隕霜同應。班固書九月二日,陳壽言朔,皆明未可以傷穀也。壹後亦伏誅。京房『易傳』曰「興兵妄誅,茲謂亡法。厥災霜,夏殺五穀,冬殺麥。誅不原情,茲謂不仁。其霜夏先大雷風,冬先雨,乃隕霜,有芒角。賢聖遭害,其霜附木不下地。佞人依刑,茲謂私賊。其霜在草根土隙間。不教而誅,茲謂虐。其霜反在草下。」」

現代語訳

呉の孫権の嘉禾三年(234年)九月一日,霜が降り穀物を損なった。劉向の說を参照してみると,「誅罰が君主(の判斷)に基づかないのに出され,(判斷の出どころが)臣下であることの象である。」という。この時,校事である呂壹は刑罰や恩賞を獨占しており,漢の元帝の時に石顯が政事を担っていた時霜が降ったことと同じ應である。班固が九月二日と書き,陳壽が朔と言うのは,いずれもまだ穀物を損なうことができない(時期)であることを明らかにしているのである。呂壹も後に誅罰された。京房『易傳』に「兵を興してみだりに誅罰する,このことを亡法といい,その災は霜である,夏には五穀を駄目にし,冬には麦を駄目にする。誅罰する時に実情を追求しない,このことを不仁といい,その霜は,夏であればはじめに大いに雷風があり,冬であればはじめに雨が降り,そして霜が降り,尖がりがある。賢人や聖人が害されると,その霜は木に附いて地には降りない。口先だけで媚びへつらう者が刑罰を頼みにする,このことを私賊といい,その霜は草の根と土の間隙にある。(罪状を)知らせないまま誅罰を加える,このことを虐といい,その霜はかえって草の下にある。」という。

原文

四年七月,雨雹,又隕霜。案劉向說「雹者,陰脅陽也。」是時,呂壹作威用事,詆毀重臣,排陷無辜。自太子登以下咸患毒之,而壹反獲封侯寵異,與春秋時公子遂專任雨雹同應也。漢安帝信讒,多殺無辜,亦雨雹。董仲舒曰「凡雹皆爲有所脅,行專一之政故也。」

訓読

四年七月,雹雨り,又た霜隕つ。〔一〕劉向の說を案ずるに「雹は,陰 陽を脅かすなり。」と。〔二〕是の時,呂壹威を作し事を用ゐ,重臣を詆毀し,無辜を排陷す。〔三〕太子登自り以下咸な之を患毒すれども,壹反て侯に封ぜられ寵異を獲,春秋の時の公子遂專任せられ雹雨ると應を同じくするなり。〔四〕漢の安帝讒を信じ,多く無辜を殺すも,亦た雹雨る。〔五〕董仲舒曰く,「凡そ雹 皆な脅かす所有るが爲にして,專一の政を行ふが故なり。」と。〔六〕

〔一〕『三國志』呉書・孫權傳
「(嘉禾四年)秋七月,有雹。」
〔二〕『漢書』五行志中之下
「釐公二十九年「秋,大雨雹」。劉向以爲盛陽雨水,溫煖而湯熱,陰氣脅之不相入,則轉而爲雹。盛陰雨雪,凝滯而冰寒,陽氣薄之不相入,則散而爲霰。故沸湯之在閉器,而湛於寒泉,則爲冰,及雪之銷,亦冰解而散,此其驗也。故雹者陰脅陽也,霰者陽脅陰也,春秋不書霰者,猶月食也。」
〔三〕『三國志』呉書・顧雍傳
「久之,呂壹・秦博爲中書,典校諸官府及州郡文書。壹等因此漸作威福,遂造作榷酤障管之利,舉罪糾奸,纖介必聞,重以深案醜誣,毀短大臣,排陷無辜,雍等皆見舉白,用被譴讓。」
〔四〕『漢書』五行志中之下
「釐公二十九年「秋,大雨雹」。……釐公末年信用公子遂,遂專權自恣,將至於殺君,故陰脅陽之象見。釐公不寤,遂終專權,後二年殺子赤,立宣公。」
〔五〕『後漢書』五行志三
「安帝永初元年,雨雹 。二年,雨雹,大如雞子。三年,雨雹,大如鴈子,傷稼。劉向以為雹,陰脅陽也。是時鄧太后以陰專陽政。……延光元年四月,郡國二十一雨雹,大如雞子,傷稼。是時安帝信讒,無辜死者多。」
『後漢書』安帝紀
「(永初元年)是歲,郡國十八地震。四十一雨水,或山水暴至。二十八大風,雨雹。……(永初二年)六月,京師及郡國四十大水,大風,雨雹。……(元初六年四月)沛國,勃海大風,雨雹。……(延光元年)夏四月癸未,京師郡國二十一雨雹。癸巳,司空陳襃免。五月庚戌,宗正彭城劉授爲司空。」
〔六〕『漢書』五行志中之下
「釐公十年「冬,大雨雪」。劉向以爲先是釐公立妾爲夫人,陰居陽位,陰氣盛也。『公羊經』曰「大雨雹」。董仲舒以爲公脅於齊桓公,立妾爲夫人,不敢進羣妾,故專壹之象見諸雹,皆爲有所漸脅也,行專壹之政云。」
【参照】
『宋書』五行志四
「嘉禾四年七月,雨雹,又隕霜。案劉向說「雹者陰脅陽」。是時呂壹作威用事,詆毀重臣,排陷無辜。自太子登以下,咸患毒之,而壹反獲封侯寵異。與春秋公子遂專任,雨雹同應也。漢安帝信讒,多殺無辜,亦雨雹。董仲舒曰「凡雹皆爲有所脅,行專壹之政」故也。」

現代語訳

嘉禾四年(235年)七月,雹が降り,さらに霜が降りた。劉向の説を参照すると「雹は,陰が陽を脅かす(時に現れる)。」という。この時,呂壹が権力を持ち政治を行い,重臣を誹り,無実の者を斥け陥れた。太子の孫登以下みなが呂壹のことを憂えて苦々しく思ったが,呂壹はかえって侯に封ぜられて目をかけられ,春秋の時の公子遂(東門襄仲)が政治を任され雹が降ったのと同じ応である。漢の安帝が讒言を信じ,無実の者を多く殺した時も,また雹が降った。董仲舒は「およそ雹(が降る)というのは,どのような時にも脅かされるところがあるからであり,独断で政治を行うからである。」という。

原文

赤烏四年正月,大雪,平地深三尺,鳥獸死者太半。是年夏,全琮等四將軍攻略淮南・襄陽,戰死者千餘人。其後,權以讒邪數責讓陸議,議憤恚致卒,與漢景武大雪同事。

訓読

赤烏四年正月,大いに雪ふり,平地 深さ三尺,鳥獸死する者太半。是の年の夏,全琮等四將軍淮南・襄陽を攻略し,戰死者千餘人。〔一〕其の後,權 讒邪を以て數しば陸議を責讓し,議憤恚して卒を致す,〔二〕漢の景武の大雪と事を同じくす。〔三〕

〔一〕『三國志』呉書・孫權傳
「(赤烏)四年春正月,大雪,平地深三尺,鳥獸死者大半。夏四月,遣衞將軍全琮略淮南,決芍陂,燒安城邸閣,收其人民。威北將軍諸葛恪攻六安。琮與魏將王淩戰于芍陂,中郎將秦晃等十餘人戰死。車騎將軍朱然圍樊,大將軍諸葛瑾取柤中。」
〔二〕『三國志』呉書・陸遜傳
「權累遣中使責讓遜,遜憤恚致卒,時年六十三,家無餘財。……孫權以楊竺所白遜二十事問抗,禁絕賓客,中使臨詰,抗無所顧問,事事條答,權意漸解。」
〔三〕『漢書』五行志中之下
「景帝中六年三月,雨雪。其六月,匈奴入上郡取苑馬,吏卒戰死者二千餘人。明年,條侯周亞夫下獄死。
武帝元狩元年十二月,大雨雪,民多凍死。是歲淮南・衡山王謀反,發覺,皆自殺。使者行郡國,治黨與,坐死者數萬人。
元鼎二年三月,雪,平地厚五尺。是歲御史大夫張湯有罪自殺,丞相嚴青翟坐與三長史謀陷湯,青翟自殺,三長史皆棄市。」
『漢書』景帝紀
「(中六年)春三月,雨雪。」
『漢書』鼂錯傳
「景帝卽位,以錯爲內史。錯數請間言事,輒聽,幸傾九卿,法令多所更定。丞相申屠嘉心弗便,力未有以傷。內史府居太上廟堧中,門東出,不便,錯乃穿門南出,鑿廟堧垣。丞相大怒,欲因此過爲奏請誅錯。錯聞之,卽請間為上言之。丞相奏事,因言錯擅鑿廟垣爲門,請下廷尉誅。上曰「此非廟垣,乃堧中垣,不致於法。」丞相謝。罷朝,因怒謂長史曰,「吾當先斬以聞,乃先請,固誤。」丞相遂發病死。錯以此愈貴。」
『漢書』武帝傳
「(元狩元年)十一月,淮南王安・衡山王賜謀反,誅。黨與死者數萬人。十二月,大雨雪,民凍死。」
『漢書』武帝傳
「(元鼎)二年冬十一月,御史大夫張湯有罪,自殺。十二月,丞相青翟下獄死。……三月,大雨雪。」
【参照】
『宋書』五行志四
「吳孫權赤烏四年正月,大雪,平地深三尺,鳥獸死者太半。是年夏,全琮等四將軍攻略淮南・襄陽,戰死者千餘人。其後權以讒邪,數責讓陸議,議憤恚致卒。與漢景・武大雪同事也。」

現代語訳

赤烏四年(241年)正月,大雪が降り,平地では深さ三尺になり,鳥獣はほとんどが死んだ。この年の夏,全琮ら四人の將軍が淮南・襄陽を攻略し,戦死する者が千余人となった。その後,孫權は邪な讒言によってしばしば陸議(陸遜)をとがめ,陸議は憤って亡くなった,漢の景帝・武帝の時の大雪と同じである。

原文

十一年四月,雨雹。是時,權聽讒,將危太子。其後,朱據・屈晃以迕意黜辱,陳正・陳象以忠諫族誅,而太子終廢。此有德遭險,誅罰過深之應也。

訓読

十一年四月,雹雨る。〔一〕是の時,權 讒を聽き,將に太子を危くせんとす。其の後,朱據・屈晃 迕意を以て黜辱せられ,陳正・陳象 忠諫を以て族誅せられ,太子終に廢せらる。〔二〕此れ有德 險に遭い,誅罰深きに過ぐるの應なり。

〔一〕『三國志』呉書・孫權傳
「(赤烏十一年)夏四月,雨雹,雲陽言黃龍見。」
〔二〕『三國志』呉書・呉主五子傳
「是後王夫人與全公主有隙。權嘗寢疾,和祠祭於廟,和妃叔父張休居近廟,邀和過所居。全公主使人覘視,因言太子不在廟中,專就妃家計議。又言王夫人見上寢疾,有喜色。權由是發怒,夫人憂死,而和寵稍損,懼於廢黜。魯王霸覬覦滋甚,陸遜・吾粲・顧譚等數陳適庶之義,理不可奪,全寄・楊竺爲魯王霸支黨,譖愬日興。粲遂下獄誅,譚徙交州。權沈吟者歷年,後遂幽閉和。於是驃騎將軍朱據・尚書僕射屈晃率諸將吏泥頭自縛,連日詣闕請和。權登白爵觀見,甚惡之,敕據・晃等無事忩忩。權欲廢和立亮,無難督陳正・五營督陳象上書,稱引晉獻公殺申生,立奚齊,晉國擾亂,又據・晃固諫不止。權大怒,族誅正・象,據・晃牽入殿,杖一百,竟徙和於故鄣,羣司坐諫誅放者十數。眾咸寃之。」
【参照】
『宋書』五行志四
「赤烏十一年四月,雨雹。是時權聽讒,將危太子。其後朱據,屈晃以迕意黜辱,陳象以忠諫族誅,而太子終廢。此有德遭險,誅罰過深之應也。」

現代語訳

十一年(248年)四月,雹が降った。この時,孫権は讒言を聴いて,太子に危害を加えようとしていた。その後,朱據と屈晃は意に逆らったために辱め退けられ,陳正と陳象は忠義の心で諫めたために一族が誅殺されて,太子はとうとう廃された。これは徳のある者が災難に遭い,誅罰が度を越していることの応である。

原文

武帝泰始六年冬,大雪。 七年十二月,又大雪。明年,有步闡・楊肇之敗,死傷甚眾,不聰之罰也。 九年四月辛未,隕霜。是時,賈充親黨比周用事,與魯定公・漢元帝時隕霜同應也。

訓読

武帝の泰始六年冬,大いに雪ふる。 七年十二月,又た大いに雪ふる。〔一〕明年,步闡・楊肇の敗有り,死傷甚だ眾し,不聰の罰なり。〔二〕 九年四月辛未,霜隕つ。是の時,賈充 親黨比周〔三〕して事を用ふ,〔四〕魯の定公・漢の元帝の時霜隕つると應を同じくするなり。〔五〕

〔一〕『晉書』武帝紀
「(泰始七年)十二月,大雪。」
〔二〕『晉書』武帝紀
「(泰始八年)十二月,肇攻抗,不克而還。闡城陷,爲抗所禽。」
〔三〕『論語』爲政篇
「子曰,君子周而不比,(孔曰,忠信為周,阿黨爲比。)小人比而不周。」
『春秋左子傳』文公十八年
「昔,帝鴻氏有不才子。掩義隱賊,好行凶德,醜類惡物,頑嚚不友,是與比周。」
『韓非子』狐憤
「朋黨比周以弊主,言曲以便私者,必信於重人矣。故其可以功伐借者,以官爵貴之。」
〔四〕『晉書』賈充傳
充爲政,務農節用,并官省職,帝善之。又以文武異容,求罷所領兵。及羊祜等出鎮,充復上表欲立勳邊境,帝並不許。從容任職,褒貶在己,頗好進士,每有所薦達,必終始經緯之,是以士多歸焉。帝舅王恂嘗毀充,而充更進恂。或有背充以要權貴者,充皆陽以素意待之。而充無公方之操,不能正身率下,專以諂媚取容。」
〔五〕『漢書』五行志中之下
「定公元年「十月,隕霜殺菽」。劉向以爲周十月,今八月也,消卦爲觀,陰氣未至君位而殺,誅罰不由君出,在臣下之象也。是時季氏逐昭公,公死于外,定公得立,故天見災以視公也。釐公二年「十月,隕霜不殺草」,爲嗣君微,失秉事之象也。其後卒在臣下,則災爲之生矣。異故言草,災故言菽,重殺穀。一曰菽,草之難殺者也,言殺菽,知草皆死也。言不殺草,知菽亦不死也。董仲舒以爲菽,草之彊者,天戒若曰,加誅於彊臣。言菽,以微見季氏之罰也。……元帝永光元年三月,隕霜殺桑。九月二日,隕霜殺稼,天下大飢。是時中書令石顯用事專權,與春秋定公時隕霜同應。成帝卽位,顯坐作威福誅。」
『春秋』定公元年
「冬。十月。隕霜殺菽。」
『漢書』元帝紀
「(永元元年)是月雨雪,隕霜傷麥稼,秋罷。」
『漢書』楚元王傳
「元帝初卽位,太傅蕭望之爲前將軍,少傅周堪為諸吏光祿大夫,皆領尚書事,甚見尊任。更生年少於望之・堪,然二人重之,薦更生宗室忠直,明經有行,擢爲散騎宗正給事中,與侍中金敞拾遺於左右。四人同心輔政,患苦外戚許,史在位放縱,而中書宦官弘恭・石顯弄權。望之・堪・更生議,欲白罷退之。未白而語泄,遂爲許・史及恭・顯所譖愬,堪・更生下獄,及望之皆免官。」
【参照】
『宋書』五行志四
「晉武帝泰始六年冬,大雪。泰始七年十二月,大雪。明年,有步闡・楊肇之敗,死傷甚眾。泰始九年四月辛未,隕霜。是時賈充親黨比周用事。與魯定公・漢元帝時隕霜同應也。」

現代語訳

武帝の泰始六年(270年)冬,大雪が降った。 七年(271年)十二月,また大雪が降った。明年,步闡と楊肇が敗北し,死傷者が大変多く,聡くないことの罰である。 九年(273年)四月辛未,霜が降りた。この時,賈充は親しい仲間だけを取り立てて政治を行っており,魯の定公や漢の元帝の時に霜が降りたのと同じ応である。

原文

咸寧三年八月,平原・安平・上黨・泰山四郡霜,害三豆。是月,河間暴風寒冰,郡國五隕霜傷穀。是後大舉征吳,馬隆又帥精勇討涼州。 五年五月丁亥,鉅鹿・魏郡雨雹,傷禾麥。辛卯,鴈門雨雹,傷秋稼。六月庚戌,汲郡・廣平・陳留・滎陽雨雹。丙辰,又雨雹,隕霜,傷秋麥千三百餘頃,壞屋百二十餘間。癸亥,安定雨雹。七月丙申,魏郡又雨雹。閏月壬子,新興又雨雹。八月庚子,河南・河東・弘農又雨雹,兼傷秋稼三豆。

訓読

咸寧三年八月,平原・安平・上黨・泰山の四郡に霜あり,三豆〔一〕を害す。是の月,河間 暴風寒冰あり,郡國五 霜隕ち穀を傷なふ。〔二〕是の後大舉して吳を征し,馬隆又た精勇を帥ゐて涼州を討つ。〔三〕 五年五月丁亥,鉅鹿・魏郡 雹雨り,禾麥を傷なふ。辛卯,鴈門 雹雨り,秋稼を傷なふ。六月庚戌,汲郡・廣平・陳留・滎陽 雹雨る。丙〔四〕辰,又た雹雨り,霜隕ち,秋麥千三百餘頃を傷なひ,屋百二十餘間を壞す。癸亥,安定 雹雨る。七月丙〔四〕申,魏郡又た雹雨る。閏月壬子,新興又た雹雨る。〔五〕八月庚子,河南・河東・弘農又た雹雨り,兼ねて秋稼三豆を傷なふ。

〔一〕三豆がどの豆の種類を指すのかは不詳。
〔二〕『晉書』武帝紀
「(咸寧三年八月)大風拔樹,暴寒且冰,郡國五隕霜,傷穀。」
〔三〕『晉書』武帝紀
「(咸寧五年)十一月,大舉伐吳,遣鎮軍將軍・琅邪王伷出涂中,安東將軍王渾出江西,建威將軍王戎出武昌,平南將軍胡奮出夏口,鎮南大將軍杜預出江陵,龍驤將軍王濬・廣武將軍唐彬率巴蜀之卒浮江而下,東西凡二十餘萬。以太尉賈充爲大都督,行冠軍將軍楊濟爲副,總統眾軍。十二月,馬隆擊叛虜樹機能,大破,斬之,涼州平。肅慎來獻楛矢石砮。」
〔四〕「丙」,原文は「景」であるが,高祖の父(李昞)の避諱である。今『宋書』五行志に從い「丙」に改める。
〔五〕『晉書』武帝紀
「(咸寧五年四月)丁亥,郡國八雨雹,傷秋稼,壞百姓廬舍。」
【参照】
『宋書』五行志四
「晉武帝咸寧三年八月,平原・安平・上黨・秦郡霜害三豆。咸寧三年八月,河間暴風寒冰,郡國五隕霜傷穀。是後大舉征吳,馬隆又帥精勇討涼州。咸寧五年五月丁亥,鉅鹿・魏郡雨雹傷禾・麥。辛卯,雁門雨雹傷秋稼。咸寧五年六月庚戌,汲郡・廣平・陳留・滎陽雨雹。丙辰,又雨雹,損傷秋麥千三百餘頃,壞屋百三十餘間。癸亥,安定雨雹。七月丙申,魏郡又雨雹。閏月壬子,新興又雨雹。八月庚子,河東・弘農又雨雹,兼傷秋稼三豆。」

現代語訳

咸寧三年(277年)八月,平原・安平・上党・泰山の四郡に霜が降り,三種の豆を駄目にした。この月には,河間で暴風が起こり凍り,郡国五ヶ所で霜が降り穀物を傷つけた。その後大軍を起こして呉を征伐し,馬隆はまた精鋭を率いて涼州を討った。 五年(279年)五月丁亥,鉅鹿・魏郡に雹が降り,稲や麦を傷つけた。辛卯には,鴈門で雹が降り,秋に収穫する作物を傷つけた。六月庚戌には,汲郡・廣平・陳留・滎陽で雹が降った。丙辰には,また雹が降り,霜が降り,秋麦千三百頃(百畝。一頃は182アール)あまりを傷つけ,住居百二十室あまりを壞した。癸亥には,安定で雹が降った。七月丙申には,魏郡でまた雹が降った。閏月壬子には,新興でまた雹が降った。八月庚子には,河南・河東・弘農でまた雹が降り,そのうえ秋に収穫する作物や三種の豆を傷つけた。

原文

太康元年三月,河東・高平霜雹,傷桑麥。四月,河南・河内・河東・魏郡・弘農雨雹,傷麥豆。是月庚午,畿內縣二及東平・范陽雨雹。癸酉,畿內縣五又雨雹。五月,東平・平陽・上黨・雁門・濟南雨雹,傷禾麥三豆。是時王濬有大功,而權戚互加陷抑,帝從容不斷,陰脅陽之應也。

訓読

太康元年三月,河東・高平 霜雹あり,桑麥を傷なふ。四月,河南・河內・河東・魏郡・弘農 雹雨り,麥豆を傷なふ。〔一〕是の月庚午,畿內の縣二及び東平・范陽 雹雨る。癸酉,畿內の縣五又た雹雨る。五月,東平・平陽・上黨・雁門・濟南 雹雨り,禾麥三豆を傷なふ。〔二〕是の時王濬に大功有りて,權戚互ひに陷抑を加ふるも,帝從容として斷ぜず,陰 陽を脅かすの應なり。〔三〕

〔一〕『晉書』武帝紀
「(太康元年)夏四月,河東・高平雨雹,傷秋稼。遣兼侍中張側・黃門侍郎朱震分使揚越,慰其初附。白麟見于頓丘。三河・魏郡・弘農雨雹,傷宿麥。」
〔二〕『晉書』武帝紀
「(太康元年五月丁卯)郡國六雹,傷秋稼。」
〔三〕『晉書』王濬傳
「武帝謀伐吳,詔濬修舟艦。濬乃作大船連舫,方百二十步,受二千餘人。以木爲城,起樓櫓,開四出門,其上皆得馳馬來往。又畫鷁首怪獸於船首,以懼江神。舟楫之盛,自古未有。濬造船於蜀,其木柿蔽江而下。吳建平太守吾彥取流柿以呈孫晧曰「晉必有攻吳之計,宜增建平兵。建平不下,終不敢渡。」晧不從。尋以謠言拜濬爲龍驤將軍・監梁益諸軍事。語在羊祜傳。」
時朝議咸諫伐吳,濬乃上疏曰「臣數參訪吳楚同異,孫晧荒淫凶逆,荊揚賢愚無不嗟怨。且觀時運,宜速征伐。若今不伐,天變難預。令晧卒死,更立賢主,文武各得其所,則強敵也。臣作船七年,日有朽敗,又臣年已七十,死亡無日。三者一乖,則難圖也,誠願陛下無失事機。」帝深納焉。賈充・荀勖陳諫以爲不可,唯張華固勸。又杜預表請,帝乃發詔,分命諸方節度。濬於是統兵。先在巴郡之所全育者,皆堪傜役供軍,其父母戒之曰「王府君生爾,爾必勉之,無愛死也。」
太康元年正月,濬發自成都,率巴東監軍・廣武將軍唐彬攻吳丹楊,克之,擒其丹楊監盛紀。吳人於江險磧要害之處,並以鐵鎖橫截之,又作鐵錐長丈餘,暗置江中,以逆距船。先是,羊祜獲吳間諜,具知情狀。濬乃作大筏數十,亦方百餘步,縛草爲人,被甲持杖,令善水者以筏先行,筏遇鐵錐,錐輒著筏去。又作火炬,長十餘丈,大數十圍,灌以麻油,在船前,遇鎖,然炬燒之,須臾,融液斷絕,於是船無所礙。二月庚申,克吳西陵,獲其鎮南將軍留憲・征南將軍成據・宜都太守虞忠。壬戌,克荊門・夷道二城,獲監軍陸晏。乙丑,克樂鄉,獲水軍督陸景。平西將軍施洪等來降。乙亥,詔進濬爲平東將軍・假節・都督益梁諸軍事。」 【参照】
『宋書』五行志四
「晉武帝太康元年三月,河東・高平霜雹,傷桑・麥。四月,河南・河內・河東・魏郡・弘農雨雹,傷麥・豆。五月,東平・平陽・上黨・雁門・濟南雨雹,傷禾・麥・三豆。太康元年四月庚午,畿內縣二及東平范陽縣雨雹。癸酉,畿內縣五又雨雹。是時王濬有大功,而權戚互加陷抑,帝從容不斷。陰脅陽之應也。」

現代語訳

太康元年(280年)三月,河東・高平に霜が降り雹が降って,桑や麦を傷つけた。四月には,河南・河內・河東・魏郡・弘農に雹が降り,麦や豆を傷つけた。この月の庚午には,畿内の県二つと東平・范陽に雹が降った。癸酉には,畿内の五つの県にまた雹が降った。五月,東平・平陽・上黨・雁門・濟南に雹が降り,稲や麦,三種の豆を傷つけた。この時王濬が大きな功績をあげ,権力のある者が互いに陥れたり抑えつけたりしていたが,帝は従容としてやめさせなかった,(これは)陰が陽を脅かすことの應である。

原文

二年二月辛酉,隕霜于濟南・琅邪,傷麥。壬申,琅邪雨雹,傷麥。三月甲午,河東隕霜,害桑。五月丙戌,城陽・章武・琅邪傷麥。庚寅,河東・樂安・東平・濟陰・弘農・濮陽・齊國・頓丘・魏郡・河內・汲郡・上黨雨雹,傷禾稼。六月,郡國十七雨雹。七月,上黨雨雹。 三年十二月,大雪。 五年七月乙卯,中山・東平雨雹,傷秋稼。甲辰,中山雨雹。九月,南安大雪,折木。 六年二月,東海隕霜,傷桑麥。三月戊辰,齊郡臨淄・長廣不其等四縣,樂安梁鄒等八縣,琅邪臨沂等八縣,河間易城等六縣,高陽北新城等四縣隕霜,傷桑麥。六月,滎陽・汲郡・鴈門雨雹。 八年四月,齊國・天水二郡隕霜。十二月,大雪。 九年正月,京都大風雨雹,發屋拔木。四月,隴西隕霜。 十年四月,郡國八隕霜。

訓読

二年二月辛酉,霜 濟南・琅邪に隕ち,麥を傷なふ。壬申,琅邪 雹雨り,麥を傷なふ。三月甲午,河東 霜隕り,桑を害なふ。五月丙〔一〕戌,城陽・章武・琅邪 麥を傷なふ。庚寅,河東・樂安・東平・濟陰・弘農・濮陽・齊國・頓丘・魏郡・河內・汲郡・上黨 雹雨り,禾稼を傷なふ。六月,郡國十七 雹雨る。〔二〕七月,上黨 雹雨る。〔三〕 三年十二月,大いに雪ふる。 五年七月乙卯,中山・東平 雹雨り,秋稼を傷なふ。甲辰,中山 雹雨る。九月,南安大いに雪ふり,木を折る。〔四〕 六年二月,東海 霜隕ち,桑麥を傷なふ。三月戊辰,齊郡の臨淄・長廣の不其等四縣,樂安の梁鄒等八縣,琅邪の臨沂等八縣,河間の易城等六縣,高陽の北新城〔五〕等四縣 霜隕ち,桑麥を傷なふ。〔六〕六月,滎陽・汲郡・鴈門 雹雨る。 八年四月,齊國・天水二郡 霜隕つ。〔七〕十二月,大いに雪ふる。 九年正月,京都大風ありて雹雨り,屋を發し木を拔く。四月,隴西 霜隕つ。〔八〕 十年四月,郡國八 霜隕つ。〔九〕

〔一〕「丙」,原文は「景」であるが,高祖の父(李昞)の避諱である。今『宋書』五行志に從い「丙」に改める。
〔二〕『晉書』武帝紀
「(太康二年六月)郡國十六雨雹,大風拔樹,壞百姓廬舍。」
〔三〕『晉書』武帝紀
「(太康二年)秋七月,上黨又暴風雨雹,傷秋稼。」
〔四〕『晉書』武帝紀
「(太康五年七月)任城・梁國・中山雨雹,傷秋稼。減天下戶課三分之一。」
〔五〕「北新城」,原文は「北陽新城」であるが,『晉書』地理志には「北新城」とあり,『宋書』も「北新城」に作るため,「北新城」に改める。
〔六〕『晉書』武帝紀
「(太康六年)三月,郡國六隕霜,傷桑麥。」
〔七〕『晉書』武帝紀
「(太康八年)夏四月,齊國・天水隕霜,傷麥。」
〔八〕『晉書』武帝紀
「(太康九年四月)隴西隕霜,傷宿麥。」
〔九〕『晉書』武帝紀
「(太康十年四月)郡國八隕霜。」
【参照】
『宋書』五行志四
「太康二年二月辛酉,殞霜于濟南・琅邪,傷麥。壬申,琅邪雨雪傷麥。三月甲午,河東隕霜害桑。太康二年五月丙戌,城陽・章武・琅邪傷麥,庚寅,河東・樂安・東平・濟陰・弘農・濮陽・齊國・頓丘・魏郡・河內・汲郡・上黨雨雹,傷禾稼。太康二年六月,郡國十六雨雹。太康三年十二月,大雪。太康五年七月乙卯,中山・東平雨雹,傷秋稼。太康五年七月甲辰,中山雨雹。九月,南安大雪,折木。太康六年二月,東海霜傷桑・麥。太康六年三月戊辰,齊郡臨菑・長廣不其等四縣,樂安梁鄒等八縣,琅邪臨沂等八縣,河間易城等六縣,高陽北新城等四縣,隕霜傷桑・麥。太康六年六月,滎陽・汲郡・雁門雨雹。太康八年四月,齊國・天水二郡隕霜。十二月,大雪。太康九年正月,京都大風雨雹,發屋拔木。四月,隴西隕霜。太康十年四月,郡國八隕霜。」

現代語訳

二年(281年)二月辛酉,霜が済南・琅邪に降り,麦を傷つけた。壬申には,琅邪に雹が降り,麦を傷つけた。三月甲午,河東に霜が降り,桑を傷つけた。五月丙戌,城陽・章武・琅邪 で麦を傷つけた。庚寅には,河東・楽安・東平・済陰・弘農・濮陽・斉国・頓丘・魏郡・河內・汲郡・上党に雹が降り,穀物を傷つけた。六月,郡國十七ヶ所に雹が降った。七月,上党に雹が降った。 三年(282年)十二月,大雪が降った。 五年(284年)七月乙卯,中山・東平に雹が降り,秋の収穫を傷つけた。甲辰には,中山に雹が降った。九月,南安に大雪が降り,木を折った。 六年(285年)二月,東海に霜が降り,桑や麦を傷つけた。三月戊辰,斉郡の臨淄・長広の不其等四県,楽安の梁鄒等八県,琅邪の臨沂等八県,河間の易城等六県,高陽の北新城等四県に霜が降り,桑や麦を傷つけた。六月,滎陽・汲郡・鴈門に雹が降った。 八年(287年)四月,斉国・天水二郡に霜が降りた。十二月,大雪が降った。 九年(288年)正月,京都に大風が吹き雹が降り,住居を壊し木を抜いた。四月,隴西に霜が降りた。 十年(289年)四月,郡國八ヶ所に霜が降りた。

原文

惠帝元康二年八月,沛及蕩陰雨雹。 三年四月,滎陽雨雹。六月,弘農湖・華陰又雨雹,深三尺。是時,賈后凶淫專恣,與春秋魯桓夫人同事,陰氣盛也。 五年六月,東海雨雹,深五寸。十二月,丹楊・建鄴雨雹。是月,丹楊建鄴大雪。 六年三月,東海隕雪,殺桑麥。 七年五月,魯國雨雹。七月,秦・雍二州隕霜,殺稼也。

訓読

惠帝の元康二年八月,沛及び蕩陰 雹雨る。〔一〕 三年四月,滎陽 雹雨る。六月,弘農湖〔一〕・華陰又た雹雨り,深さ三尺。〔三〕是の時,賈后 凶淫專恣し,春秋の魯の桓夫人と事を同じくす,陰氣盛んなり。〔四〕 五年六月,東海 雹雨り,深さ五寸。十二月,丹楊・建鄴 雹雨る。是の月,丹楊・建鄴大いに雪ふる。〔五〕 六年三月,東海 雪隕ち,桑麥を殺す。〔六〕 七年五月,魯國 雹雨る。七月,秦・雍二州 霜隕ち,稼を殺すなり。〔七〕

〔一〕『晉書』惠帝紀
「(永平二年)是歲,沛國雨雹,傷麥。」
〔二〕「弘農湖」,元は「弘農湖城」に作るが,周家禄『晉書校勘記』に「城,衍文」とあり,『晉書』地理志上,『宋書』五行志にも「城」字はないため,「城」字を削った。
〔三〕『晉書』惠帝紀
「(永平)三年夏四月,滎陽雨雹 。六月,弘農郡雨雹,深三尺。」
〔四〕『晉書』惠帝紀
「(永平元年)六月,賈后矯詔使楚王瑋殺太宰・汝南王亮,太保・菑陽公衞瓘。乙丑,以瑋擅害亮・瓘,殺之。曲赦洛陽。以廣陵王師劉寔爲太子太保,司空・隴西王泰錄尚書事。……(永平)二年春二月己酉,賈后弒皇太后于金墉城。」
『漢書』五行志中之下
「桓公八年「十月,雨雪」。周十月,今八月也,未可以雪,劉向以為時夫人有淫齊之行,而桓有妬媢之心,夫人將殺,其象見也。桓不覺寤,後與夫人俱如齊而殺死。凡雨,陰也,雪又雨之陰也,出非其時,迫近象也。董仲舒以爲象夫人專恣,陰氣盛也。」
『史記』齊太公世家
「(襄公)四年,魯桓公與夫人如齊。齊襄公故嘗私通魯夫人。魯夫人者,襄公女弟也,自釐公時嫁爲魯桓公婦,及桓公來而襄公復通焉。魯桓公知之,怒夫人,夫人以告齊襄公。齊襄公與魯君飲,醉之,使力士彭生抱上魯君車,因拉殺魯桓公,桓公下車則死矣。魯人以爲讓,而齊襄公殺彭生以謝魯。」
『列女傳』孽嬖傳・魯恒文姜
「文姜者,齊侯之女,魯桓公之夫人也。內亂其兄齊襄公。桓公將伐鄭納厲公,既行,與夫人俱將如齊也,申繻曰「不可。女有家,男有室,無相瀆也,謂之有禮,易此必敗。且禮婦人無大故則不歸。」桓公不聽,遂與如齊。文姜與襄公通,桓公怒,禁之不止。文姜以告襄公,襄公享桓公酒,醉之,使公子彭生抱而乘之,因拉其脅而殺之,遂死於車。魯人求彭生以除恥,齊人殺彭生。『詩』曰「亂匪降自天,生自婦人。」此之謂也。頌曰,文姜淫亂,配魯桓公,與俱歸齊,齊襄淫通,俾厥彭生,摧幹拉胸,維女為亂,卒成禍凶。」
〔五〕『晉書』惠帝紀
「(永平五年六月)東海雨雹,深五寸。……(十二月)丹楊雨雹。」
〔六〕『晉書』惠帝紀
「(永平六年)三月,東海隕霜,傷桑麥。」
〔七〕『晉書』惠帝紀
「(永平六年)夏五月,魯國雨雹。秋七月,雍・梁州疫。大旱,隕霜,殺秋稼。」
【参照】
『宋書』五行志四
「晉惠帝元康二年八月,沛及湯陰雨雹。元康三年四月,滎陽雨雹。弘農湖・華陰又雨雹,深三尺。是時賈后凶淫專恣,與春秋魯桓夫人同事。陰氣盛也。元康五年六月,東海雨雹,深五寸。十二月,丹陽雨雹。元康五年十二月,丹陽建業大雪。元康六年三月,東海隕霜殺桑・麥。元康七年五月,魯國雨雹。七月,秦・雍二州隕霜殺稼。」

現代語訳

恵帝の元康二年(292年)八月,沛及び蕩陰に雹が降った。 三年(293年)四月,滎陽に雹が降った。六月,弘農湖・華陰にまた雹が降り,深さ三尺になった。この時,賈后は勝手気ままに横暴に振る舞っていた,春秋の魯の桓公の夫人(文姜)と同じであり,陰気が盛んになったのである。 五年(295年)六月,東海に雹が降り,深さ五寸になった。十二月,丹楊・建鄴に雹が降った。この月,丹楊・建鄴に大雪が降った。 六年(296年)三月,東海に雪が落ちてきて,桑や麦を駄目にした。 七年(297年)五月,魯国に雹が降った。七月,秦・雍二州に霜が降りて,作物を駄目にした。

原文

九年三月旬有八日,河南・滎陽・潁川隕霜,傷禾。五月,雨雹。是時,賈后凶躁滋甚。及冬,遂廢愍懷。

訓読

(元康)九年三月旬有八日,河南・滎陽・潁川に霜隕ち,禾を傷なふ。五月,雹雨る。是の時,賈后の凶躁滋ます甚し。冬に及び,遂に愍懷を廢す。

〔一〕『晋書』惠帝紀
「(永平九年元康九年)十二月壬戌,廢皇太子遹為庶人,及其三子幽于金墉城,殺太子母謝氏。」
【参照】
『宋書』五行志
「元康九年三月旬有八日,河南・滎陽・潁川隕霜傷禾。五月,雨雹。是時賈后凶躁滋甚,是冬遂廢愍懷。」

現代語訳

元康九年(299年)三月十八日,河南と滎陽と潁川に霜が降り,穀物を傷つけた。五月,雹がふった。この時,賈南風の悪く乱れた行動はよりひどくなった。冬になり,司馬遹は太子を廃された〔一〕。

原文

永寧元年七月,襄城・河南雨雹。十月,襄城・河南・高平・平陽又風雹,折木傷稼。

訓読

永寧元年七月,襄城・河南に雹雨る。十月,襄城・河南・高平・平陽 又た風あり雹あり,木を折り稼を傷なふ。

『宋書』五行志
「晉惠帝永寧元年七月,襄城雨雹。是時齊王冏專政。十月,襄城・河南・高平・平陽風雹,折木傷稼。」

現代語訳

永寧元年(301年)七月,襄城と河南に雹がふった。十月,襄城・河南・高平・平陽にさらに風がふき雹がふり,木を折り作物を傷つけた。

原文

光熙元年閏八月甲申朔,霰雪。劉向曰「盛陽雨水傷熱,陰氣脅之,則轉而為雹。盛陰,雨雪凝滯,陽氣薄之,則散而為霰。今雪非其時,此聽不聰之應。」是年,帝崩。

訓読

光熙元年閏八月甲申朔,霰あり雪あり。劉向曰く「盛陽 水を雨らせて湯〔一〕熱せしめ,陰氣之を脅かせば,則ち轉じて雹と為る。盛陰 雪を雨らせて凝滯せしめ,陽氣之に薄れば,則ち散じて霰と為る。今 雪 其の時にあらず,此れ聽の不聰の應なり。」と〔二〕。是の年,帝崩ず〔三〕。

〔一〕「傷熱」『宋書』『漢書』では「湯熱」とある。これに従う。
〔二〕『漢書』五行志
「釐公二十九年「秋,大雨雹」。劉向以為盛陽雨水,溫煖而湯熱,陰氣脅之不相入,則轉而為雹。盛陰雨雪,凝滯而冰寒,陽氣薄之不相入,則散而為霰。故沸湯之在閉器,而湛於寒泉,則為冰,及雪之銷,亦冰解而散,此其驗也。故雹者陰脅陽也,霰者陽脅陰也,春秋不書霰者,猶月食也。釐公末年信用公子遂,遂專權自恣,將至於殺君,故陰脅陽之象見。釐公不寤,遂終專權,後二年殺子赤,立宣公。左氏傳曰「聖人在上無雹,雖有不為災。」說曰凡物不為災不書,書大,言為災也。凡雹,皆冬之愆陽,夏之伏陰也。」
〔三〕『晋書』惠帝紀
「(光熙元年)十一月庚午,帝崩于顯陽殿,時年四十八,葬太陽陵。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝光熙元年閏八月甲申朔,霰雪。劉向曰「盛陽雨水湯熱,陰氣脅之,則轉而為雹。盛陰雨雪凝滯,陽氣薄之,則散而為霰。」今雪非其時,此聽不聰之應也。」

現代語訳

光熙元年(306年)閏八月甲申の朔日,霰と雪が降った。劉向は「盛んなる陽は,水をふらせて湯のように熱くし,陰気がこれ(盛んなる陽)を脅かせば,転変して雹になる。盛んなる陰は,雪をふらせて凝ごり固まらせる,陽気がこれ(盛んなる陰)をおびやかせば,ばらばらになって霰になる。今は雪がふったが(ふるべき)時ではないので,この事は聴の不聡の応である。」という。この年に,皇帝は崩御した。

原文

孝懷帝永嘉元年十二月冬,雪,平地三尺。 七年十月庚午,大雪。

訓読

孝懷帝永嘉元年十二月冬,雪ふり,平地に三尺。 七年十月庚午〔一〕,大いに雪ふる。

〔一〕斠注には「讀史舉正曰,當作建興元年。」とあり。『晋書』帝紀によれば,永嘉七年は3月までしかなく,それ以降の月は建興元年である。
『晋書』懷帝紀 
「(永嘉七年)七年春正月,劉聰大會,使帝著青衣行酒。侍中庾珉號哭,聰惡之。
丁未,帝遇弒,崩于平陽,時年三十。」
『晋書』愍帝紀
「建興元年夏四月丙午,奉懷帝崩問,舉哀成禮。壬申,即皇帝位,大赦,改元。…… 冬十月,荊州刺史陶侃討杜弢黨杜曾於石城,為曾所敗。己巳,大雨雹。庚午,大雪。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝懷帝永嘉元年十二月冬,雪平地三尺。
永嘉七年十月庚午,大雪。」

現代語訳

孝懷帝の永嘉元年(307年)十二月冬,雪がふって,平地には三尺つもった。 永嘉七年(313年)十月庚午の日,大雪がふった。

原文

元帝太興二年三月丁未,成都風雹,殺人。 三年三月,海鹽雨雹。是時,王敦陵上。

訓読

元帝太興二年三月丁未,成都に風あり雹あり,人を殺す。 三年三月,海鹽に雹雨る。是の時,王敦 上を陵ぐ。

〔一〕『晋書』元帝紀
「(太興三年)冬十月丙辰,徐州刺史蔡豹以畏愞伏誅。王敦殺武陵內史向碩。
永昌元年(322年)春正月乙卯,大赦,改元。戊辰,大將軍王敦舉兵於武昌,以誅劉隗為名,龍驤將軍沈充帥眾應之。
四月……辛未,大赦。敦乃自為丞相・都督中外諸軍・錄尚書事,封武昌郡公,邑萬戶。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉元帝太興二年三月丁未,成都風雹殺人。
太興三年三月,海鹽郡雨雹。是時王敦陵上。」

現代語訳

元帝太興二年(319年)三月丁未の日,成都に風がふき雹がふり,人が死んだ。 三年(320年)三月,海鹽に雹が降った。この時,王敦は下剋上をおこした〔一〕。

原文

永昌二年十二月,幽・冀・并三州大雨。

訓読

永昌二年十二月,幽・冀・并の三州に大いに雨ふる。

〔一〕「永昌二年」は以下により「太寧元年」である。
『晋書』元帝紀
「(永昌元年)閏月己丑,帝崩于內殿。」
『晋書』明帝紀
「(太寧元年)三月戊寅朔,改元。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉元帝永昌二年十二月,幽・冀・并三州大雪。」

現代語訳

永昌二年〔一〕(323年)十二月,幽州・冀州・并州の三州に大雨が降った。

原文

明帝太寧元年十二月,幽・冀・并三州大雪。 二年四月庚子,京都雨雹,鷰雀死。 三年三月丁丑,雨雪。癸巳,隕霜。四月,大雨雹。是年,帝崩,尋有蘇峻之亂。

訓読

明帝の太寧元年十二月,幽・冀・并の三州に大いに雪ふる。 二年四月庚子,京都に雹雨り,鷰雀死す。 三年三月丁丑,雪雨る。癸巳,霜隕つ。四月,大いに雹雨る。是の年,帝崩じ,尋いで蘇峻の亂有り。

〔一〕『晋書』成帝紀
「(咸和二年)十一月,豫州刺史祖約・歷陽太守蘇峻等反。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉明帝太寧元年十二月,幽・冀・并州大雪。
太寧二年四月庚子,京都大雨雹,燕雀死。
太寧三年三月丁丑,雨雹。癸巳,隕霜。四月,大雨雹。是年帝崩,尋有蘇峻之亂。」

現代語訳

明帝の太寧元年(323年)十二月,幽州・冀州・并州の三州に大雪がふった。 二年(324年)四月庚子の日に,京都(建康)に雹が降り,小鳥が死んだ。 三年(325年)三月丁丑の日に,雪が降った。癸巳の日に,霜が降りた。四月,たいそう雹がふった。この年に,明帝は崩御し,まもなく蘇峻の乱が起こった〔一〕。

原文

成帝咸和六年三月癸未,雨雹。是時,帝幼弱,政在大臣。 九年八月,成都大雪。是歲,李雄死。

訓読

成帝咸和六年三月癸未,雹雨る。是の時,帝幼弱にして,政は大臣に在り。 九年八月,成都に大いに雪ふる。是の歲,李雄 死す。

〔一〕『晋書』成帝紀
「(咸和九年)六月,李雄死,其兄子班嗣偽位。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉成帝咸和六年三月癸未,雨雹。是時帝幼弱,政在大臣。
咸和九年八月,成都雪。其日李雄死。」

現代語訳

成帝咸和六年(331年)三月の癸未の日に,雹が降った。この時・成帝がまだ幼なく政をする力がなかったので,政の主権は大臣にあった。 九年(334年)八月,成都に大雪がふった。この年に,李雄が死んだ〔一〕。

原文

咸康二年正月丁巳,皇后見于太廟,其夕雨雹。

訓読

咸康二年正月丁巳,皇后太廟に見ゆ,其の夕 雹雨る。

〔一〕『晋書』卷七 成帝紀
「(咸康二年)夏四月丁巳,皇后見于太廟。雨雹。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉成帝咸康二年正月丁巳,皇后見于太廟。其夕雨雹。」

現代語訳

咸康二年(336年)正月の丁巳の日に,皇后が太廟に参詣した,その夕方に雹が降った。

原文

康帝建元元年八月,大雪。是時,政在將相,陰氣盛也。劉向曰「凡雨陰也,雪又雨之陰也。出非其時,迫近象也。」

訓読

康帝建元元年八月,大いに雪ふる。是の時,政は將相に在りて〔一〕,陰氣盛んなり。劉向曰く「凡そ雨は陰なり,雪は又た雨の陰なり。出づること其の時に非ざるは,迫近の象なり。」と〔二〕。

〔一〕『晋書』卷九十八 列傳第六十八 桓溫傳
「溫豪爽有風概,姿貌甚偉,面有七星。少與沛國劉惔善,惔嘗稱之曰「溫眼如紫石棱,鬚作蝟毛磔,孫仲謀・晉宣王之流亞也。」選尚南康長公主,拜駙馬都尉,襲爵萬寧男,除琅邪太守,累遷徐州刺史。
溫與庾翼友善,恒相期以寧濟之事。翼嘗薦溫於明帝曰「桓溫少有雄略,願陛下勿以常人遇之,常壻畜之,宜委以方召之任,託其弘濟艱難之勳。」翼卒,以溫為都督荊梁四州諸軍事・安西將軍・荊州刺史・領護南蠻校尉・假節。」
〔二〕『漢書』五行志中之下(P.1423)
「桓公八年「十月,雨雪」。周十月,今八月也,未可以雪,劉向以為時夫人有淫齊之行,而桓有妬媢之心,夫人將殺,其象見也。桓不覺寤,後與夫人俱如齊而殺死。凡雨,陰也,雪又雨之陰也,出非其時,迫近象也。董仲舒以為象夫人專恣,陰氣盛也。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉康帝建元元年八月,大雪。是時政在將相,陰氣盛也。與春秋魯昭公時季孫宿專政同事。劉向曰「凡雨,陰也,雪又雨之陰也。出非其時,迫近象也。」」
『漢書』五行志中之下(P.1423)
「昭公四年「正月,大雨雪」。劉向以為昭取於吳而為同姓,謂之吳孟子。君行於上,臣非於下。又三家已彊,皆賤公行,慢㑄之心生。董仲舒以為季孫宿 任政,陰氣盛也。」

現代語訳

康帝の建元元年(343年)八月,大雪がふった。この時,政は將相(桓温)が握っており,陰気が盛んな状態であった。劉向が「おしなべて雨というものは陰であり,雪というものはさらに雨の陰なものである。(出現する)時でないのに出現するということは,(身分の低い者が上に)差し迫っている象である。」と言うことである。

原文

穆帝永和二年八月,冀方大雪,人馬多凍死。 五年六月,臨漳暴風震電,雨雹,大如升。
十年五月,涼州雪。明年八月,張祚枹罕護軍張瓘率宋混等攻滅祚,更立張耀靈弟玄靚。京房易傳曰「夏雪,戒臣為亂。」此其亂之應也。
十一年四月壬申朔,霜。十二月戊午,雷。己未,雪。是時帝幼,母后稱制,政在大臣,陰盛故也。

訓読

穆帝永和二年八月,冀方に大いに雪ふる,人馬多く凍死す。五年六月,臨漳に暴風震電あり,雹雨り,大は升の如し。
十年五月,涼州に雪ふる。明年八月,〔一〕枹罕護軍張瓘 宋混等を率ひて祚を攻め滅ぼし,更に張耀靈の弟 玄靚を立つ〔二〕。京房『易傳』に曰く「夏に雪ふるは,臣亂を為すを戒むるなり。」と。此れ其の亂の應なり。
十一年四月壬申朔,霜あり〔三〕。十二月戊午,雷あり。己未,雪ふる。是の時帝幼く,母后稱制し〔四〕,政は大臣に在り,陰盛んなるが故なり。

〔一〕『宋書』ではここに「張祚」の字無し。『宋書』に従い改めた。
〔二〕『晋書』穆帝紀
「(永和十一年)秋七月,宋混・張瓘弒張祚,而立耀靈弟玄靚為大將軍・涼州牧,遣使來降。以吏部尚書周閔為尚書左僕射,領軍將軍王彪之為尚書右僕射。」
〔三〕『晋書』穆帝紀
「(永和十一年)夏四月壬申,隕霜。乙酉,地震。姚襄帥眾寇外黃,冠軍將軍高季大破之。」
〔四〕『晋書』穆帝紀
「穆皇帝諱聃,字彭子,康帝子也。建元二年九月丙申,立為皇太子。戊戌,康帝崩。己亥,太子即皇帝位,時年二歲。大赦,尊皇后為皇太后。壬寅,皇太后臨朝攝政。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉穆帝永和三年八月,冀方大雪,人馬多凍死。
永和五年六月,臨漳暴風震霆,雨雹大如升。
永和十年五月,涼州雪。明年八月,枹罕護軍張瓘帥宋混等攻滅張祚,更立張曜靈弟玄靚。京房易傳曰「夏雨雪,戒臣為亂。」
永和十一年四月壬申朔,雪。十二月戊午,雷。己未,雷。是時帝幼,母后稱制,政在大臣。」

現代語訳

穆帝の永和二年(346年)八月,冀州に大雪がふり,人馬が多く凍死した。五年(349年)六月,臨漳に暴風がふき稲妻と雷鳴がとどろき,雹が降り,大きさは升のようであった。
十年(354年)五月,涼州に雪がふった。明年八月,枹罕護軍の張瓘が宋混等を率いて張祚を攻めて滅ぼし,そのうえ(張祚に廃された)張耀靈の弟である張玄靚を(君主に)立てた。京房の『易傳』には「夏に雪がふるのは,臣下が反乱を起こすことを戒めているのである。」とある。これはその反乱の応である。
十一年(355年)四月の壬申朔の日,霜がおりた。十二月戊午の日,雷があった。己未の日,雪がふった。この時皇帝は幼く,母である褚皇后が政務を行い,政の主権は大臣にあった,陰が盛んであるためである。

原文

升平二年正月,大雪。

訓読

升平二年正月,大いに雪ふる。

『宋書』五行志
「晉穆帝升平二年正月,大雪。」

現代語訳

升平二年(358年)正月,大雪がふった。

原文

海西公太和三年四月,雨雹,折木。

訓読

海西公太和三年四月,雹雨り,木を折る。〔一〕

〔一〕『晋書』廢帝海西公紀
「(太和三年)夏四月癸巳,雨雹,大風折木。」

現代語訳

海西公(廃帝)の太和三年(368年)四月,雹が降り,木が折れた。

原文

孝武太元二年四月己酉,雨雹。十二月,大雪。是時帝幼,政在將相,陰之盛也。
十二年四月己丑,雨雹。 二十年五月癸卯,上虞雨雹。
二十一年四月丁亥,雨雹。是時,張夫人專寵,及帝暴崩,兆庶尤之。十二月,雨雪二十三日。是時嗣主幼沖,冢宰專政。

訓読

孝武太元二年四月己酉,雹雨る〔一〕。十二月,大いに雪ふる。是の時帝幼く,政は將相に在り,陰の盛んなるなり〔二〕。
十二年四月己丑,雹雨る〔三〕。 二十年五月癸卯,上虞に雹雨る。
二十一年四月丁亥,雹雨る〔四〕。是の時,張夫人寵を專にし,帝暴かに崩ずるに及びて,兆庶〔五〕之を尤む〔六〕。十二月,雪雨ること二十三日。是の時 嗣主幼沖〔七〕にして,冢宰政を專にす〔六〕。

〔一〕『晋書』孝武帝紀
「(太元二年)夏四月己酉,雨雹。」
〔二〕『晋書』謝安傳
「時孝武帝富於春秋,政不自己,溫威振内外,人情噂沓,互生同異。安與坦之盡忠匡翼,終能輯穆。及溫病篤,諷朝廷加九錫,使袁宏具草。安見,輒改之,由是歷旬不就。會溫薨,錫命遂寢。
尋為尚書僕射,領吏部,加後將軍。及中書令王坦之出為徐州刺史,詔安總關中書事。」
〔三〕『晋書』孝武帝紀
「(太元十二年)夏四月戊辰,尊夫人李氏為皇太妃。己丑,雨雹。高平人翟暢執太守徐含遠,以郡降于翟遼。」
〔四〕『晋書』孝武帝紀
「(太元二十一年)夏四月,新作永安宮。丁亥,雨雹。慕容垂死,子寶嗣偽位。」
〔五〕『尚書』周書・呂刑
「一人有慶,兆民賴之。」
〔六〕『晋書』孝武帝紀
「時張貴人有寵,年幾三十,帝戲之曰「汝以年當廢矣。」貴人潛怒,向夕,帝醉,遂暴崩。時道子昏惑,元顯專權,竟不推其罪人。」
〔七〕『尚書』周書・大誥
「延洪惟我幼沖人・嗣無疆大厯服。」
〔八〕『晋書』安帝紀
「隆安元年春正月己亥朔,帝加元服,改元,增文武位一等。太傅・會稽王道子稽首歸政。以尚書左僕射王珣為尚書令,領軍將軍王國寶為尚書左僕射。」 【参照】
『宋書』五行志
「晉孝武帝太元二年四月己酉,雨雹。十二月,大雪。是時帝幼弱,政在將相。
太元十二年四月己丑,雨雹。是時有事中州,兵役連歲。
太元二十年五月癸卯,上虞雨雹。
太元二十一年四月丁亥,雨雹。是時張夫人專幸,及帝暴崩,兆庶尤之。
太元二十一年十二月,連雪二十三日。是時嗣主幼沖,冢宰專政。」

現代語訳

孝武帝の太元二年(377年)四月己酉の日,雹がふった。十二月,大雪がふった。この時皇帝は幼く,政事の主権は大臣にあった,陰が盛んであるためである。
十二年(387年)四月己丑の日,雹がふった。 二十年(395年)五月癸卯の日,上虞に雹がふった。
二十一年(396年)四月丁亥の日,雹がふった。この時,張夫人が寵愛を一身に受けていたが,孝武帝が突然崩御するにいたり,万民がこれをとがめた。十二月,雪が二十三日間ふり続いた。この時跡継ぎの安帝は幼く,宰相が政を行った。

原文

安帝隆安二年三月乙卯,雨雹。是秋,王恭・殷仲堪稱兵內侮,終皆誅之也。

訓読

安帝隆安二年三月乙卯,雹雨る。是の秋,王恭・殷仲堪 稱兵內侮し,終に皆な之を誅するなり〔一〕。

〔一〕『晋書』安帝紀
「(隆安二年)秋七月,慕容寶子盛斬蘭汗,僭稱長樂王,攝天子位。兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷・荊州刺史殷仲堪・廣州刺史桓玄・南蠻校尉楊佺期等舉兵反。
九月(中略)輔國將軍劉牢之次新亭,使子敬宣擊敗恭,恭奔曲阿長塘湖,湖尉收送京師,斬之。於是遣太常殷茂喻仲堪及玄,玄等走于尋陽。
(隆安三年)十二月,桓玄襲江陵,荊州刺史殷仲堪・南蠻校尉楊佺期並遇害。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝隆安二年三月乙卯,雨雹。是秋,王恭・殷仲堪入伐,終皆誅。」

現代語訳

安帝の隆安二年(398年)三月乙卯の日,雹が降った。この年の秋,王恭と殷仲堪は挙兵し反乱を起こしたが,結局どちらも誅殺された。

原文

元興二年十二月,酷寒過甚。是時,桓玄篡位,政事煩苛。識者以為朝政失在舒緩,玄則反之以酷。案劉向曰「周衰無寒歲,秦滅無燠年。」此之謂也。
三年正月甲申,霰雪又雷。雷霰同時,皆失節之應也。四月丙午,江陵雨雹。是時,安帝蒙塵。

訓読

元興二年十二月,酷寒過甚たり。是の時,桓玄位を篡い,政事煩苛たり。識者以為へらく朝政失は舒緩に在り,玄は則ち之に反するに酷を以てす。案ずるに劉向曰く「周衰ふるに寒歲無し,秦滅ぶに燠年無し。」と〔一〕。此れ之の謂いなり。
三年正月甲申,霰雪あり又た雷あり。雷霰時を同じくするは,皆節を失うの應なり。四月丙午〔二〕,江陵に雹雨る。是の時,安帝蒙塵す〔三〕。

〔一〕『漢書』五行志中之下
「襄公二十八年「春,無冰」。劉向以為先是公作三軍,有侵陵用武之意,於是鄰國不和,伐其三鄙,被兵十有餘年,因之以饑饉,百姓怨望,臣下心離,公懼而㢮緩,不敢行誅罰,楚有夷狄行,公有從楚心,不明善惡之應。董仲舒指略同。一曰,水旱之災,寒暑之變,天下皆同,故曰「無冰」,天下異也。桓公殺兄弒君,外成宋亂,與鄭易邑,背畔周室。成公時,楚橫行中國,王札子殺召伯・毛伯,晉敗天子之師于貿戎,天子皆不能討。襄公時,天下諸侯之大夫皆執國權,君不能制。漸將日甚,善惡不明,誅罰不行。周失之舒,秦失之急,故周衰亡寒歲,秦滅亡奧年。」
〔二〕「丙」,原文は「景」であるが,高祖の父(李昞)の避諱である。今『宋書』五行志に從い「丙」に改める。
〔三〕『晋書』安帝紀
「(元興二年)十二月壬辰,玄篡位,以帝為平固王。辛亥,帝蒙塵于尋陽。」
『春秋左氏傳』・僖公二十四年
「天子蒙塵于外,敢不奔問官守。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝元興二年十二月,酷寒過甚。是時桓玄篡位,政事煩苛,是其應也。晉氏失在舒緩,玄則反之。劉向曰「周衰無寒歲,秦滅無燠年。」此之謂也。
元興三年正月甲申,霰雪,又雷。雷霰不應同日,失節之應也。二月,義兵起,玄敗。
元興三年四月丙午,江陵雨雹。是時安帝蒙塵。」

現代語訳

元興二年(403年)十二月,寒さが酷く堪えがたかった。この時,桓玄は帝位を簒奪し,政は煩雑で苛烈であった。識者は・朝廷による政治はの失敗は緩みであり,桓玄はそこでこの政治とは反対に過酷な統治を行った。と考えた。考えるに劉向の言う「周が滅びようとするときには寒い年は無く,秦が滅ぶときには暑い年は無かった。」ということは,このことを言っているのだ。
三年(404年)正月甲申の日,霰と雪がふり,さらに雷が鳴った。雷と霰が同時におこるのは,皆な節度を失うことの応である。四月丙午の日,江陵に雹が降った。この時,安帝は(意に反して)連れていかれた。

原文

義熙元年四月壬申,雨雹。是時,四方未一,鉦鼓日戒。

訓読

義熙元年四月壬申,雹雨る。是の時,四方未だ一ならず,鉦鼓日ごとに戒む〔一〕。

〔一〕『毛詩』小雅・采薇
「四牡翼翼,象弭魚服,豈不日戒,玁狁孔棘。」
鄭箋「戒,警勑軍事也。」
疏「言君子小人豈不日相警戒乎,誠曰相警戒也。玁狁之難甚急豫述其苦以勸之。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝義熙元年四月壬申,雨雹。是時四方未一,鉦鼓日戒。」

現代語訳

義熙元年(405年)四月壬申の日,雹がふった。この時,天下はまだ統一されておらず,軍隊は連日厳戒体制であった。

原文

五年三月己亥,雪,深數尺。五月癸巳,溧陽雨雹。九月己丑,廣陵雨雹。明年,盧循至蔡州。
六年正月丙寅,雪又雷。五月壬申,雨雹。 八年四月辛未朔,雨雹。六月癸亥,雨雹,大風發屋。是秋,誅劉蕃等。
十年四月辛卯,雨雹。

訓読

五年三月己亥,雪ふる,深さ數尺〔一〕。五月癸巳,溧陽に雹雨る。九月己丑,廣陵に雹雨る。明年,盧循蔡州に至る〔二〕。
六年正月丙寅〔三〕,雪ふり又た雷あり。五月壬申,雹雨る。 八年四月辛未朔,雹雨る。六月癸亥,雹雨る,大いに風あり屋を發す。是の秋,劉蕃等を誅す〔四〕。
十年四月辛卯,雹雨る。

〔一〕『晋書』安帝紀
「(義熙五年)三月己亥,大雪,(中華書局本校注:三月己亥大雪 「己亥」原作「乙亥」。三月己丑朔,無乙亥。五行志下及宋書五行志四作「己亥」,是,今據改。)平地數尺。」
〔二〕『晋書』盧循傳
「循謂道覆曰「師老矣。弗能復振。可據尋陽,并力取荊州,徐更與都下爭衡,猶可以濟。」因自蔡洲南走,復據尋陽。」
〔三〕「丙」,原文は「景」であるが,高祖の父(李昞)の避諱である。今『宋書』五行志に從い「丙」に改める。
〔四〕『晋書』安帝紀
「(義熙八年)九月癸酉,葬僖皇后于休平陵。己卯,太尉劉裕害右將軍兗州刺史劉藩・尚書左僕射謝混。」
【参照】
『宋書』五行志
「義熙五年三月己亥,雪深數寸。
義熙五年五月癸巳,溧陽雨雹。九月己丑,廣陵雨雹。明年,盧循至蔡洲。
義熙五年九月己丑,廣陵雨雹。
義熙六年正月丙寅,雪,又雷。
義熙六年五月壬申,雨雹。
義熙八年四月辛未朔,雨雹。六月癸亥,雨雹,大風發屋。是秋,誅劉藩等。
義熙十年四月辛卯,雨雹。」

現代語訳

(義熙)五年(409年)三月己亥の日,雪が降り,積雪の深さは数尺になった。五月癸巳の日,溧陽に雹が降った。九月己丑の日,廣陵に雹が降った。明年(義熙六年410年),盧循の反乱が蔡州にまで到達した。
六年(410年)正月丙寅の日,雪が降りさらに雷が鳴った。五月壬申の日,雹が降った。
八年(412年)四月辛未朔の日,雹が降った。六月癸亥の日,雹が降った,大風が吹き家屋をこわした。この年の秋,劉蕃等が誅殺された。
十年(414年)四月辛卯の日,雹がふった。

雷震

原文

雷震
魏明帝景初中,洛陽城東橋・城西洛水浮橋桓楹同日三處俱時震。尋又震西城上候風木飛鳥。時勞役大起,帝尋晏駕。

訓読

雷震〔一〕
魏の明帝景初中,洛陽城東の橋・城西洛水の浮橋の桓楹同日三處俱時に震あり。尋いで又た西城の上 候風木飛鳥に震あり。時に勞役大いに起こり,帝尋いで晏駕す。

〔一〕『説文解字』十一篇下
「電,𩃬昜激燿也。从雨,从申。」
「靁,𩃬昜薄動生物者也。从雨,畾,象回轉形。」
「震,劈歷振物者。从雨,辰聲。春秋傳曰,震夷伯之廟。」
「雷」「電」「震」については上記の通り区別はあるが,ここでは全て「雷」とする。
【参照】
『宋書』五行志
「雷震
魏明帝景初中,洛陽城東橋・洛水浮橋桓楹,同日三處俱震。尋又震西城上候風木飛烏。時勞役大起,帝尋晏駕。」

現代語訳

雷震
魏の明帝の景初年間(237‐239)に,洛陽の城東の橋と城西の洛水の浮橋の標柱に同日に三箇所同時に雷が落ちた。すぐにさらに西城の上の風見鶏に雷が落ちた。その時には労役がさかんにあり,明帝はまもなく崩御した。

原文

吳孫權赤烏八年夏,震宮門柱,又擊南津大橋桓楹。

訓読

吳の孫權赤烏八年夏,宮門柱に震あり,又た南津大橋の桓楹を擊つ〔一〕。

〔一〕『三國志』吳書・孫權傳
「(赤烏八年)夏,雷霆犯宮門柱,又擊南津大橋楹。茶陵縣鴻水溢出,流漂居民二百餘家。」
【参照】
『宋書』五行志
「吳孫權赤烏八年夏,震宮門柱。又擊南津大橋桓楹。」

現代語訳

吳の孫權の赤烏八年(245年)の夏,宮門の柱に雷が落ち,さらに南津大橋の標柱にも(雷が)直撃した。

原文

孫亮建興元年十二月朔,大風震電。是月,又雷雨。義同前說,亮終廢。

訓読

孫亮建興元年十二月朔,大いに風あり震電あり。是の月,又た雷雨あり〔一〕。義 前說と同じ,亮終に廢せらる〔二〕。

〔一〕『三國志』吳書・三嗣主傳
「(建興元年)十二月朔丙申,大風雷電。(中略)是月,雷雨,天災武昌端門。改作端門,又災內殿。」
〔二〕『三國志』吳書・三嗣主傳
「(太平三年258年)九月戊午,綝以兵取尚,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外,召大臣會宮門,黜亮為會稽王,時年十六。」
【参照】
『宋書』五行志
「孫亮建興元年十二月朔,大風震電。是月又雷雨。義同前說。亮終廢。」

現代語訳

孫亮の建興元年(252年)十二月朔日,大風がふき雷といなずまがあった。この月,さらに雷雨があった。これの意味するところは前の說と同じであり,孫亮は結局廃位させられた。

原文

武帝太康六年十二月甲申朔,淮南郡震電。 七年十二月己亥,毗陵雷電,南沙司鹽都尉戴亮以聞。 十年十二月癸卯,廬江・建安雷電大雨。

訓読

武帝太康六年十二月甲申朔,淮南郡に震電あり。 七年十二月己亥,毗陵に雷電あり,南沙司鹽都尉戴亮以て聞こゆ。 十年十二月癸卯,廬江・建安に雷電あり大いに雨ふる。

【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝太康六年十二月甲申朔,淮南郡震電。
太康七年十二月己亥,毗陵雷電,南沙司鹽都尉戴亮以聞。
太康十年十二月癸卯,廬江・建安雷電大雨。」

現代語訳

武帝の太康六年(285年)十二月甲申朔の日,淮南郡に雷があった。 七年(286年)十二月己亥の日,毗陵に雷があり,南沙司鹽都尉の戴亮が奏上した。 十年(289年)十二月癸卯の日,廬江と建安に雷があり大雨が降った。

原文

惠帝永康元年六月癸卯,震崇陽陵標西南五百步,標破為七十片。是時,賈后陷害鼎輔,寵樹私戚,與漢桓帝時震憲陵寢同事也。后終誅滅。

訓読

惠帝の永康元年六月癸卯,崇陽陵の標 西南五百步に震あり〔一〕,標破れて七十片と為る。是の時,賈后鼎輔〔二〕を陷害し,私戚を寵樹す,漢の桓帝の時 憲陵の寢に震ありと同じ事なり〔三〕。后終に誅滅せらる〔四〕。

〔一〕『晋書』文帝紀
「(咸熙元年)九月癸酉,葬崇陽陵,諡曰文王。武帝受禪,追尊號曰文皇帝,廟稱太祖。」
『晋書』惠帝紀
「(永康元年)六月壬寅,葬愍懷太子于顯平陵。撫軍將軍・清河王遐薨。癸卯,震崇陽陵標。」
〔二〕『後漢書』朱浮傳
「即位以來,不用舊典,信刺舉之官,黜鼎輔之任。」
〔三〕『後漢書』五行志三・冬雷
「桓帝建和三年六月乙卯,雷震憲陵寢屋。先是梁太后聽兄冀枉殺李固・杜喬。」
〔四〕『晋書』后妃傳・賈皇后傳
「倫乃矯詔遣尚書劉弘等持節齎金屑酒賜后死。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝永康元年六月癸卯,震崇陽陵標西南五百步,標破為七十片。是時賈后陷害鼎輔,寵樹私戚。與漢桓帝時震憲陵寢同事也。后終誅滅。」

現代語訳

惠帝の永康元年(291年)六月癸卯の日,崇陽陵の墓標から西南五百步の場所に雷が落ち,墓標が破壊されて七十片になった。この時,賈南風は宰相をおとしいれて殺し,親族を重用し,後漢の桓帝の時に憲陵の陵寢に雷が落ちたことと同じである。賈南風は結局誅殺された。

原文

永興二年十月丁丑,雷震。

訓読

永興二年十月丁丑,雷震あり。

【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝永興二年十月丁丑,雷電。」

現代語訳

永興二年(301年)十月丁丑の日,雷が落ちた。

原文

懷帝永嘉四年十月,震電。

訓読

懷帝の永嘉四年十月,震電あり。

『宋書』五行志
「晉懷帝永嘉四年十月,震電。」

現代語訳

懷帝の永嘉四年(310年)十月,雷といなずまがあった。

原文

愍帝建興元年十一月戊午,會稽大雨震電。己巳夜,赤氣曜於西北。是夕,大雨震電。庚午,大雪。案劉向說「雷以二月出,八月入。」今此月震電者,陽不閉藏也。既發泄而明日便大雪,皆失節之異也。是時,劉載僭號平陽,李雄稱制於蜀,九州幅裂,西京孤微,為君失時之象也。赤氣,赤祥也。

訓読

愍帝の建興元年十一月戊午,會稽に大いに雨ふり震電あり。己巳の夜,赤氣西北に曜く。是の夕,大いに雨ふり震電あり。庚午,大いに雪ふる。劉向の說を案ずるに,「雷は二月を以て出で,八月もて入る。」と〔一〕。今此の月の震電は,陽 閉藏せざるなり。既にして發泄〔二〕して明日便ち大いに雪ふる,皆な節を失うの異なり。是の時,劉載 平陽に僭號し〔三〕,李雄 蜀に稱制し〔四〕,九州幅裂し,西京孤微す,君為るも時を失うの象なり。赤氣,赤祥なり。

〔一〕『漢書』五行志中之上・恆雨
「隱公九年「三月癸酉,大雨,震電。庚辰,大雨雪」。大雨,雨水也。震,雷也。(中略)劉向以為周三月,今正月也,當雨水,雪雜雨,雷電未可以發也。既已發也,則雪不當復降。皆失節,故謂之異。於易,雷以二月出,其卦日豫,言萬物隨雷出地,皆逸豫也。以八月入,其卦曰歸妹,言雷復歸。入地則孕毓根核,保藏蟄蟲,避盛陰之害。出地則養長華實,發揚隱伏,宣盛陽之德。入能除害,出能興利,人君之象也。是時,隱以弟桓幼,代而攝立。公子翬見隱居位已久,勸之遂立。隱既不許,翬懼而易其辭,遂與桓共殺隱。天見其將然,故正月大雨水而雷電。是陽不閉陰,出涉危難而害萬物。天戒若曰,為君失時,賊弟佞臣將作亂矣。後八日大雨雪,陰見間隙而勝陽,篡殺之旤將成也。公不寤,後二年而殺。」
〔二〕『禮記』月令
「是月也,生氣方盛,陽氣發泄,句者畢出,萌者盡達,不可以內。」
〔三〕『晋書』孝懷帝紀・永嘉二年
「冬十月甲戌,劉元海僭帝號于平陽,仍稱漢。」
『晋書』劉聰載記
「劉聰字玄明,一名載,元海第四子也。(中略)於是以永嘉四年僭即皇帝位,大赦境內,改元光興。」
『晋書』孝懷帝紀・永嘉四年
「六月,劉元海死,其子和嗣偽位,和弟聰弒和而自立。」
〔四〕『晋書』惠帝紀
「(永興二年)六月甲子,侍中・司徒・安豐侯王戎薨。隴西太守韓稚攻秦州刺史張輔,殺之。李雄僭卽帝位,國號蜀。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉愍帝建興元年十一月戊午,會稽大雨震雹。己巳夜,赤氣曜於西北,是夕,大雨震電。庚午,大雪。案劉向說,「雷以二月出,八月入」。此月雷電者,陽不閉藏也。既發泄而明日便大雪,皆失節之異也。是時劉載僭號平陽,李雄稱制於蜀,九州幅裂,西京孤微。為君失時之象。」

現代語訳

愍帝の建興元年(313年)十一月戊午の日,會稽に大雨がふり雷と稲妻があった。己巳の日の夜に,赤氣が西北の空に光った。この夕に,大雨がふり雷と稲妻があった。庚午の日,大雪がふった。劉向の說を考えると「雷は二月に出現し,八月におさまる。」とあり,今この月(十一月)の雷と稲妻は,陽気が(陰気を)閉じ込めないからである。発散したことで明くる日に大雪がふった,皆な節度を失うことの怪異である。この時,劉載は平陽で僭称し,李雄は蜀で皇帝と自称し,国土は断裂し,長安は孤立し勢力は微弱になる,君主であるのにしかるべき時を失うことの象である。赤氣は,赤祥である。

原文

元帝太興元年十一月乙卯,暴雨雷電。

訓読

元帝の太興元年十一月乙卯,暴しく雨ふり雷電あり。

現代語訳

元帝の太興元年(318年)十一月乙卯の日,雨がはげしくふり雷があった。

原文

永昌二年七月丙子朔,雷震太極殿柱。十二月,會稽・吳郡雷震電。

訓読

永昌二年〔一〕七月丙子朔,太極殿の柱に雷震あり。十二月,會稽・吳郡雷震電あり。

〔一〕元帝は永昌元年十一月に崩御し,翌年の三月に明帝が「太寧」に改元している。
『晋書』卷六 明帝紀 司馬紹
「永昌元年閏月(11月)己丑,元帝崩。庚寅,太子即皇帝位。」
「(太寧元年)三月戊寅朔,改元」
【参照】
『宋書』五行志
「晉元帝永昌二年七月丙子朔,雷震太極殿柱。
永昌二年十一月,會稽・吳郡雨震電。」

現代語訳

永昌二年(323年)七月丙子朔の日,雷があり太極殿の柱に落ちた。十二月,會稽・吳郡に雷があった。

原文

成帝咸和元年十月己巳,會稽郡大雨震電。 二年六月辛卯,臨海大雷,破郡府內小屋柱十枚,殺人。九月二日壬午立冬,會稽雷電。 四年十一月,吳郡・會稽又震電。

訓読

成帝の咸和元年十月己巳,會稽郡に大いに雨ふり震電あり。 二年六月辛卯,臨海に大いに雷あり,郡府內の小屋の柱十枚を破り,人を殺す。九月二日壬午立冬,會稽に雷電あり。 四年十一月,吳郡・會稽に又た震電あり。

『宋書』五行志
「晉成帝咸和元年十月己巳,會稽郡大雨震電。
咸和三年六月辛卯,臨海大雷,破郡府內小屋柱十枚,殺人。
咸和三年九月二日立冬,會稽震電。
咸和四年十二月,吳郡・會稽震電。
咸和四年十二月,丹陽震電。」

現代語訳

成帝の咸和元年(326年)十月己巳の日,會稽郡に大雨がふり雷があった。 二年(327年)六月辛卯の日,臨海に大きな雷があり,臨海郡の役所の小屋の柱十本をこわし,人を殺した。九月二日壬午立冬の日,會稽に雷があった。 四年(329年)十一月,吳郡・會稽にさらに雷があった。

原文

穆帝永和七年十月壬午,雷雨震電。升平元年十一月庚戌,雷。乙丑,又雷。 五年十月庚午,雷發東南方。

訓読

穆帝永和七年十月壬午,雷雨震電あり。〔一〕升平元年十一月庚戌,雷あり。乙丑,又た雷あり。〔二〕 五年十月庚午,雷 東南方に發す。

〔一〕『晉書』穆帝紀
「(永和七年)冬十月,雷雨,震電。」
〔二〕『晉書』穆帝紀
「(升平元年)十一月,雷。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉穆帝永和七年十月壬午 ,雷雨,震電。
 晉穆帝升平元年十一月庚戌,雷。乙丑,又雷。
 升平五年十月庚午,雷發東南。」

現代語訳

穆帝の永和七年(351)十月壬午,雷雨がふり雷が落ちた。〔一〕升平元年(357)十一月庚戌,雷が落ちた。乙丑,また雷が落ちた。〔二〕 五年(361)十月庚午,雷が東南の方角で起こった。

原文

孝武帝太元五年六月甲寅,雷震含章殿四柱,并殺內侍二人。 十年十二月,雷聲在南方。 十四年七月甲寅,雷震,燒宣陽門西柱。

訓読

孝武帝太元五年六月甲寅,含章殿の四柱に雷震あり,并びに內侍二人を殺す。〔一〕 十年十二月,雷聲南方に在り。 十四年七月甲寅,雷震あり,宣陽門の西柱を燒く。〔二〕

〔一〕『晉書』孝武帝紀
「(太元五年)六月甲寅,震含章殿四柱,并殺內侍二人。」
〔二〕『晉書』孝武帝紀
「(太元十四年)秋七月甲寅,宣陽門四柱災。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝武帝太元五年六月甲寅,雷震含章殿四柱。
 太元五年十二月,雷聲在南方。
 太元十四年七月甲寅,震宣陽門西柱。」

現代語訳

孝武帝の太元五年(380)六月甲寅,雷が含章殿の四つの柱に落ち,さらに内侍二人を殺した。〔一〕 十年(385)十二月,雷声が南の方角にあった。 十四年(389)七月甲寅,雷が落ち,宣陽門の西柱を焼いた。〔二〕

原文

安帝隆安二年九月壬辰,雷雨。

訓読

安帝隆安二年九月壬辰,雷雨あり。

【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝隆安二年九月壬辰,雨雷。」

現代語訳

安帝の隆安二年(398)九月壬辰,雷雨が降った。

原文

元興三年,永安皇后至自巴陵,將設儀導入宮,天雷震人馬各一,俱殪焉。

訓読

元興三年,永安皇后至ること巴陵自りし〔一〕,將さに儀導を設けて宮に入らんとするに,天雷 人馬を震はすこと各おの一,俱に殪る。

〔一〕『晉書』后妃伝下・穆章何皇后伝
「后無子。哀帝即位,稱穆皇后,居永安宮。桓玄篡位,移后入司徒府。路經太廟,后停輿慟哭,哀感路人。玄聞而怒曰「天下禪代常理,何預何氏女子事耶。」乃降后為零陵縣君。與安帝俱西,至巴陵。及劉裕建義,殷仲文奉后還京都,下令曰「戎車屢警,黎元阻饑。而饍御豐靡,豈與百姓同其儉約。減損供給,勿令游過。」后時以遠還,欲奉拜陵廟。有司以寇難未平,奏停。元興三年崩,年六十六,在位凡四十八年。」
『晉書』桓玄伝
「玄留永安皇后及皇后於巴陵。殷仲文時在玄艦,求出別船收集散軍,因叛玄,奉二后奔於夏口。」
『晉書』殷仲文伝
「至巴陵,因奉二后投義軍,而為鎮軍長史,轉尚書。」
『宋書』武帝紀上
「玄棄眾,復挾天子還復江陵。玄黨殷仲文奉晉二皇后還京師。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝元興三年,永安皇后至自巴陵。將設儀導入宮,天雷,震人馬各一俱殪。」

現代語訳

元興三年(404),永安皇后(何皇后)が巴陵から来て,儀仗を設けて宮殿に入ろうとしたとき,天の雷が人馬それぞれ一づつに落ち,そろって斃れた。

原文

義熙四年十一月辛卯朔,西北方疾風發。癸丑,雷。五年六月丙寅,雷震太廟,破東鴟尾,徹柱,又震太子西池合堂。是時,帝不親蒸嘗,故天震之,明簡宗廟也。西池是明帝為太子時所造次,故號太子池。及安帝多病患,無嗣。故天震之,明無後也。 六年正月丙寅,雷,又雪。十二月壬辰,大雷。 九年十一月甲戌,雷。乙亥,又雷。

訓読

義熙四年十一月辛卯朔,西北の方に疾風發す。癸丑,雷あり。〔一〕五年六月丙〔二〕寅,太廟に雷震あり,東の鴟尾を破り,柱を徹す,又た太子西池合堂に震あり。〔三〕是の時,帝 親づから蒸嘗せず,故に天 之れに震ふ,明らけし宗廟を簡そかにするなり。西池是れ明帝の太子為るの時造次する所,故に太子池と號す。安帝病患多きに及び,嗣無し。故に天之れに震ふ,明らけし後無ければなり。 六年正月丙寅,雷あり,又た雪あり。十二月壬辰,大いに雷あり。 九年十一月甲戌,雷あり。乙亥,又た雷あり。

〔一〕『晉書』安帝紀
「(義熙四年)冬十一月癸丑,雷。梁州刺史楊思平有罪,棄市。辛卯,大風拔樹。是月。禿髮傉檀僭即涼王位。」
〔二〕「丙」,原文は「景」であるが,高祖の父(李昞)の避諱である。今『宋書』五行志に従い「丙」に改める。
〔三〕『晉書』安帝紀
「(義熙五年)夏六月丙寅,震于太廟。劉裕大破慕容超于臨朐。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝義熙四年十一月辛卯朔,西北疾風。癸丑,雷。
 義熙五年六月丙寅,震太廟,破東鴟尾,徹壁柱。
 義熙六年正月丙寅,雷又雪。
 義熙六年十二月壬辰,大雷。
 義熙九年十一月甲戌,雷。乙亥,又雷。」

現代語訳

義熙四年(408)十一月辛卯朔,西北の方角で疾風が起こった。癸丑,雷がおこった。五年六月丙寅,雷が太廟に落ち,東の鴟尾を破壊し,柱を壊し,さらに太子西池の合堂に雷が落ちた。この時,安帝はみづから蒸や嘗といった祭祀をしなかった,そのために天はこれに雷を落としたのである,宗廟をおろそかにしたからであるのはあきらかである。西池は明帝が太子であった時に造築したものである,そのため太子池という名前なのである。安帝は病がちとなったが,後嗣が無かった。そのために天はこれに雷を落としたのである,後嗣がいないためであることは明らかである。 六年正月丙寅,雷があった,さらに雪がふった。十二月壬辰,大いに雷があった。 九年十一月甲戌,雷があった。乙亥,また雷があった。

鼓妖

原文

鼓妖
惠帝元康九年三月,有聲若牛,出許昌城。十二月,廢愍懷太子,幽于許宮。明年,賈后遣黃門孫慮殺太子,擊以藥杵,聲聞于外,是其應也。

訓読

鼓妖
惠帝元康九年三月,聲の牛の若き有りて,許昌城に出づ。十二月,愍懷太子を廢し,許宮に幽す。明年,賈后 黃門孫慮をして太子を殺さしめ,擊つに藥杵を以てするに,聲 外に聞こゆ〔一〕,是れ其の應なり。

〔一〕『晉書』愍懷太子傳
「十二月,賈后將廢太子,詐稱上不和,呼太子入朝。既至,后不見,置于別室,遣婢陳舞賜以酒棗,逼飲醉之。使黃門侍郎潘岳作書草,若禱神之文,有如太子素意,因醉而書之,令小婢承福以紙筆及書草使太子書之。文曰「陛下宜自了。不自了,吾當入了之。中宮又宜速自了。不了,吾當手了之。并謝妃共要剋期而兩發,勿疑猶豫,致後患。茹毛飲血於三辰之下,皇天許當掃除患害,立道文為王,蔣為內主。願成,當三牲祠北君,大赦天下。要疏如律令。」太子醉迷不覺,遂依而寫之,其字半不成。既而補成之,后以呈帝。帝幸式乾殿,召公卿入,使黃門令董猛以太子書及青紙詔曰「遹書如此,今賜死。」徧示諸公王,莫有言者,惟張華・裴頠證明太子。賈后使董猛矯以長廣公主辭白帝曰「事宜速決,而羣臣各有不同,若有不從詔,宜以軍法從事。」議至日西不決。后懼事變,乃表免太子為庶人,詔許之。於是使尚書和郁持節,解結為副,及大將軍梁王肜・鎮東將軍淮南王允・前將軍東武公澹・趙王倫・太保何劭詣東宮,廢太子為庶人。是日太子游玄圃,聞有使者至,改服出崇賢門,再拜受詔,步出承華門,乘粗犢車。澹以兵仗送太子妃王氏・三皇孫于金墉城,考竟謝淑妃及太子保林蔣俊。明年正月,賈后又使黃門自首,欲與太子為逆。詔以黃門首辭班示公卿。又遣澹以千兵防送太子,更幽于許昌宮之別坊,令治書御史劉振持節守之。……三月,矯詔使黃門孫慮齎至許昌以害太子。初,太子恐見酖,恒自煮食於前。慮以告劉振,振乃徙太子於小坊中,絕不與食,宮中猶於牆壁上過食與太子。慮乃逼太子以藥,太子不肯服,因如廁,慮以藥杵椎殺之,太子大呼,聲聞于外。時年二十三。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝元康九年三月,有聲若牛,出許昌城。十二月,廢太子,幽于許宮。按春秋晉文公柩有聲如牛,劉向以為鼓妖。其說曰「聲如此,怒象也。將有急怒之謀,以生兵甲之禍。」此其類也。明年,賈后遣黃門孫慮殺太子,擊以藥杵,聲聞于外。」

現代語訳

鼓妖
惠帝の元康九年(299)三月,牛のような声がすることがあり,許昌城から発生していた。十二月,愍懷太子を廃嫡し,許昌の宮殿に幽閉した。明年,賈皇后は黃門の孫慮に太子を殺させ,薬杵で撃ち,声は外まで聞こえた,これはその應である。

原文

蘇峻在歷陽外營,將軍鼓自鳴,如人弄鼓者。峻手自破之,曰「我郷土時有此,則城空矣。」俄而作亂夷滅,此聽不聰之罰也。

訓読

蘇峻 歷陽の外營に在るに〔一〕,將軍鼓 自づから鳴し,人の鼓を弄する者の如し。峻 手自づから之れを破りて,曰く「我が郷土時に此れ有り,則はち城空なり。」と。俄かにして亂を作して夷滅せらる〔二〕,此れ聽の不聰の罰なり。

〔一〕『晉書』蘇峻傳
「太寧初,更除臨淮內史。……又隨庾亮追破沈充。進使持節・冠軍將軍・歷陽內史,加散騎常侍,封邵陵公,食邑一千八百戶。」
〔二〕『晉書』蘇峻傳
「於是遣參軍徐會結祖約,謀為亂,而以討亮為名。……峻望見胤走,曰「孝能破賊,我更不如乎。」因舍其眾,與數騎北下突陣,不得入,將迴趨白木陂,牙門彭世・李千等投之以矛,墜馬,斬首臠割之,焚其骨,三軍皆稱萬歲。」
【参照】
『宋書』五行志
「蘇峻在歷陽,外營將軍鼓自鳴,如人弄鼓者。峻手自斫之,曰「我郷土時有此,則城空矣。」俄而作亂夷滅。此聽不聰之罰,鼓妖先作也。」

現代語訳

蘇峻が歴陽の外営にいると,將軍鼓がひとりでに音を立て,まるで人が太鼓をならすかのようであった。蘇峻は手づからこれをこわして,「我が郷土では時おりこのことがあった,そのときには城はがら空きだ。」と言った。まもなくして亂を起こして誅滅された,これは聽の不聰の罰である。

原文

石季龍末,洛陽城西北九里,石牛在青石趺上,忽鳴,聲聞四十里。季龍遣人打落兩耳及尾,鐵釘釘四脚。尋而季龍死。

訓読

石季龍の末,洛陽城の西北九里,石牛 青石の趺上に在り,忽まち鳴きて,聲 四十里に聞こゆ。季龍人をして兩耳及び尾を打落し,鐵釘もて四脚を釘せしむ。尋いで季龍死す。〔一〕

〔一〕『晉書』石季龍載記
「時熒惑犯積尸,又犯昴・月,及熒惑北犯河鼓。未幾,季龍疾甚,以石遵為大將軍,鎮關右,石斌為丞相・錄尚書事,張豺為鎮衞大將軍・領軍將軍・吏部尚書,並受遺輔政。……張豺使弟雄等矯季龍命殺斌,劉氏又矯命以豺為太保・都督中外諸軍・錄尚書事,加千兵百騎,一依霍光輔漢故事。侍中徐統歎曰「禍將作矣,吾無為豫之。」乃仰藥而死。俄而季龍亦死。季龍始以咸康元年僭立,至此太和六年,凡在位十五歲。」 【参照】
『宋書』五行志
「石虎末,洛陽城西北九里石牛在青石趺上,忽鳴喚,聲聞四十里。虎遣人打落兩耳及尾,鐵釘釘四脚。」

現代語訳

石虎の(統治の)末年,洛陽城の西北九里のところに,石牛が青石の台の上にいたのが,突然鳴いて,その聲は四十里まで聞こえた。石虎は人をやって兩耳と尾を打ち落とし,四つの脚に鉄釘を打った。まもなく石虎は死んだ。

原文

孝武太元十五年三月己酉朔,東北方有聲如雷。案劉向說,以為「雷當託於雲,猶君託於臣。」無雲而雷,此君不恤於下,下人將叛之象也。及帝崩而天下漸亂,孫恩・桓玄交陵京邑。

訓読

孝武太元十五年三月己酉朔,東北方に聲有て雷の如し。案ずるに劉向說に,以て「雷當さに雲に託すべきは,猶ほ君の臣に託すがごとし」と為す。雲無くして雷あるは,此れ君 下を恤れまず,下人將さに叛せんとするの象なり〔一〕。帝崩ずるに及びて天下漸く亂れ,孫恩・桓玄交ごも京邑を陵す。〔二〕

〔一〕『漢書』五行志・中之下
「史記秦二世元年,天無雲而雷。劉向以為雷當託於雲,猶君託於臣,陰陽之合也。二世不恤天下,萬民有怨畔之心。是歲陳勝起,天下畔,趙高作亂,秦遂以亡。一曰,易震為雷,為貌不恭也。」
〔二〕『晉書』孫恩伝
「明年,恩復入浹口,雅之敗績。牢之進擊,恩復還于海。轉寇扈瀆,害袁山松,仍浮海向京口。牢之率眾西擊,未達,而恩已至,劉裕乃總兵緣海距之。及戰,恩眾大敗,狼狽赴船。尋又集眾,欲向京都,朝廷駭懼,陳兵以待之。恩至新州,不敢進而退,北寇廣陵,陷之,乃浮海而北。」
『晉書』桓玄伝
「玄至新亭,元顯自潰。玄入京師,矯詔曰「義旗雲集,罪在元顯。太傅已別有教,其解嚴息甲,以副義心。」」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝武太元十五年三月己酉朔,東北有聲如雷。案劉向說以為「雷當託於雲,猶君託於臣。」無雲而雷,此君不恤下,下民將叛之象也。及帝崩而天下漸亂,孫恩・桓玄交陵京邑。」

現代語訳

孝武帝の太元十五年(390)三月己酉朔,東北の方で雷のような音がした。考えてみるに劉向の說には,「雷が雲に(身を)託すべきであるのは,あたかも君主が臣下に(身を)託すようなものである。」としている。雲が無いのに雷があるというのは,これは君主が下の者をいつくしまず,下の者がいまにも謀叛をおこそうとしていることの象なのである。孝武帝が崩御すると天下は次第に乱れていき,孫恩と桓玄がかわるがわる都をおびやかした。

原文

吳興長城夏架山有石鼓,長丈餘,面逕三尺所,下有盤石為足,鳴則聲如金鼓,三吳有兵。至安帝隆安中大鳴,後有孫恩之亂。

訓読

吳興長城夏架山に石鼓有り,長さ丈餘,面逕三尺所,下に盤石有りて足と為す,鳴せば則はち聲 金鼓の如く,三吳に兵有り。安帝隆安中に至りて大鳴し,後に孫恩の亂有り。

〔一〕『晉書』安帝紀
「十一月甲寅,妖賊孫恩陷會稽,內史王凝之死之,吳國內史桓謙・臨海太守新蔡王崇・義興太守魏隱並委官而遁,吳興太守謝邈・永嘉太守司馬逸皆遇害。遣衞將軍謝琰・輔國將軍劉牢之逆擊,走之。」
【参照】
『宋書』五行志
「吳興長城縣夏架山有石鼓,長丈餘,面徑三尺所,下有盤石為足,鳴則聲如金鼓,三吳有兵。晉安帝隆安中大鳴,後有孫靈秀之亂。」

現代語訳

吳興の長城県夏架山に石鼓が有り,高さは一丈あまり,さしわたし三尺ばかりで,下に大きな平たい石があり足としていた,音が鳴ると金鼓のような音がして,三吳に兵乱がおこる。安帝の隆安年間になると大きな音が鳴り,後に孫恩の亂がおこった。〔一〕

魚孼

原文

魚孼
魏齊王嘉平四年五月,有二魚集于武庫屋上,此魚孼也。王肅曰「魚生於水,而亢於屋,介鱗之物,失其所也。邊將其殆有弃甲之變乎。」後果有東關之敗。 干寶又以為高貴郷公兵禍之應。二說皆與班固旨同。

訓読

魚孼
魏齊王嘉平四年五月,二魚の武庫屋上に集ふ有り,此れ魚孼なり。王肅曰く「魚 水に生ずるも,屋に亢ず,介鱗の物,其の所を失ふなり。邊に將さに其れ殆んど弃甲の變有らんか。」と。後ち果たして東關の敗有り〔一〕〔二〕。干寶又た以て高貴郷公兵禍の應と為す。二說皆な班固の旨と同じ。〔三〕

〔一〕『三国志』王粛伝
「後為光祿勳。時有二魚長尺,集于武庫之屋,有司以為吉祥。肅曰「魚生於淵而亢於屋,介鱗之物失其所也。邊將其殆有棄甲之變乎。」其後果有東關之敗。」
〔二〕『三国志』魏書・三少帝紀・齊王芳
「四年春正月癸卯,以撫軍大將軍司馬景王為大將軍。二月,立皇后張氏,大赦。夏五月,魚二,見於武庫屋上。冬十一月,詔征南大將軍王昶・征東將軍胡遵・鎮南將軍毌丘儉等征吳。十二月,吳大將軍諸葛恪拒戰,大破眾軍于東關。不利而還。」
〔三〕『漢書』五行志・中之下
「史記秦始皇八年,河魚大上。劉向以為近魚孽也。是歲,始皇弟長安君將兵擊趙,反,死屯留,軍吏皆斬,遷其民於臨洮。明年有嫪毐之誅。魚陰類,民之象,逆流而上者,民將不從君令為逆行也。其在天文,魚星中河而處,車騎滿野。至于二世,暴虐愈甚,終用急亡。京房易傳曰「衆逆同志,厥妖河魚逆流上。」」
【参照】
『宋書』五行志
「魏齊王嘉平四年五月,有二魚集于武庫屋上。此魚孽也。王肅曰「魚生於淵,而亢於屋,介鱗之物,失其所也。邊將其殆有棄甲之變乎。」後果有東關之敗。干寶又以為高貴郷公兵禍之應。二說皆與班固旨同。」

現代語訳

魚孼
魏の齊王(曹芳)嘉平四年(252)五月,二匹の魚が武器庫の屋上に集まるということがあった,これは魚孼である。王肅は「魚は水に生じるものであるが,屋根に上がった,介鱗(からやうろこで覆われている動物)の物が,その(あるべき)場所を失っている。辺境におそらくは敗北する変事がまもなくおこるだろう。」といった。のちにやはり東關での敗北があった。干寶はまた高貴郷公の兵禍の應であるとした。二說はどちらも班固の旨と同じである。

原文

武帝太康中,有鯉魚二見武庫屋上。干寶以為「武庫兵府,魚有鱗甲,亦兵類也。魚既極陰,屋上太陽,魚見屋上,象至陰以兵革之禍干太陽也。至惠帝初,誅楊駿,廢太后,矢交館閣。元康末,賈后謗殺太子,尋亦誅廢。十年之間,母后之難再興,是其應也,自是禍亂搆矣。」京房易傳曰「魚去水,飛入道路,兵且作。」

訓読

武帝太康中,鯉魚二 武庫の屋上に見はるる有り。干寶以為へらく「武庫は兵府,魚は鱗甲有り,亦た兵類なり。魚既にして極陰,屋上は太陽,魚 屋上に見はるるは,至陰 兵革の禍を以て太陽を干すを象るなり。惠帝の初に至りて,楊駿を誅し,太后を廢し〔一〕,矢 館閣に交す。元康末,賈后謗りて太子を殺し〔二〕,尋いで亦た誅廢せらる〔三〕。十年の間,母后の難再たび興る,是れ其の應なり,是れ自り禍亂搆ふ。」と。京房易傳に曰く「魚 水より去り,飛びて道路に入らば,兵且さに作らんとす。」と。〔四〕

〔一〕『晉書』惠帝紀
「(永平元年)三月辛卯,誅太傅楊駿・駿弟衞將軍珧・太子太保濟・中護軍張劭・散騎常侍段廣・楊邈・左將軍劉預・河南尹李斌・中書令蔣俊・東夷校尉文淑,尚書武茂,皆夷三族。壬辰,大赦,改元。賈后矯詔廢皇太后為庶人,徙于金墉城,告于天地宗廟。誅太后母龐氏。」
〔二〕『晉書』惠帝紀
「(永平九年)十二月壬戌,廢皇太子遹為庶人,及其三子幽于金墉城,殺太子母謝氏。……(永康元年)三月,尉氏雨血,妖星見于南方。癸未,賈后矯詔害庶人遹于許昌。」
〔三〕『晉書』惠帝紀
「夏四月辛卯,日有蝕之。癸巳,梁王肜・趙王倫矯詔廢賈后為庶人,司空張華・尚書僕射裴頠皆遇害,侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。甲午,倫矯詔大赦,自為相國・都督中外諸軍,如宣文輔魏故事,追復故皇太子位。丁酉,以梁王肜為太宰,左光祿大夫何劭為司徒,右光祿大夫劉寔為司空,淮南王允為驃騎將軍。己亥,趙王倫矯詔害賈庶人于金墉城。」
〔四〕『捜神記』巻七
「太康中,有鯉魚二枚,現武庫屋上。武庫,兵府。魚有鱗甲,亦是兵之類也。魚又極陰,屋上太陽,魚現屋上,象至陰以兵革之禍干太陽也。及惠帝初,誅太后父楊駿,矢交宮闕,廢太后為庶人,死於幽宮。元康之末,而賈后專制,謗殺太子,尋亦廢故。十年之間,母后之難再興,自是禍亂構矣。京房易妖曰「魚去水,飛入道路,兵且作。」」
【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝太康中,有鯉魚二見武庫屋上。干寶曰「武庫兵府,魚有鱗甲,亦兵類也。魚既極陰,屋上太陽,魚見屋上,象至陰以兵革之禍干太陽也。」至惠帝初,誅楊駿,廢太后,矢交館閣。元康末,賈后謗殺太子,尋亦誅廢。十年間,母后之難再興,是其應也。自是禍亂構矣。京房易妖曰「魚去水,飛入道路,兵且作。」」

現代語訳

武帝の太康年間,鯉が二匹武器庫の屋上に現れたことがあった。干宝は「武器庫は兵器の府庫である,魚には鱗甲(うろこ)があり,(魚も)また兵類でもある。魚は極陰であり,屋上は太陽であるからして,魚が屋上に現れたのは,至陰が兵革の禍によって太陽を犯すことを象ったものである。惠帝の初になると,楊駿を誅殺し,太后を廢し,矢が館閣を飛び交った。元康の末に,賈后は謗って太子を殺し,ついで(賈后も)また誅廢された。十年の間に,母后の難(に遭うこと)が二度もおこった,これはその應であり,これより禍亂が生じたのである。」と考えた。京房易傳には「魚が水から去り,道路に飛び込むと,兵乱が起ころうとする。」と言っている。

蝗蟲

原文

蝗蟲
春秋,螽。劉歆從介蟲之孼,與魚同占。

訓読

蝗蟲
春秋に,螽あり〔一〕。劉歆介蟲の孼に從ふ,魚と占を同じうす〔二〕。

〔一〕『春秋』
桓公五年「 ○螽。」
僖公十五年「八月。螽。」
文公三年「○雨螽于宋。」
文公八年「○螽。」
宣公六年「○秋,八月,螽。」
宣公十三年「 ○秋,螽。」
宣公十五年「○秋,螽。」
襄公七年「 ○八月,螽。」
哀公十二年「○冬,十有二月,螽。」
哀公十三年「○九月,螽。……○十有二月,螽。」
〔二〕『漢書』五行志中之下
「桓公五年「秋,螽」。劉歆以為貪虐取民則螽,介蟲之孽也,與魚同占。劉向以為介蟲之孽屬言不從。是歲,公獲二國之聘,取鼎易邑,興役起城。諸螽略皆從董仲舒說云。」

現代語訳

蝗虫
『春秋』には,螽がある。劉歆は介蟲の孼としている,魚と占断を同じくしている。

原文

魏文帝黃初三年七月,冀州大蝗,人飢。案蔡邕說,「蝗者,在上貪苛之所致也。」是時,孫權歸順,帝因其有西陵之役,舉大眾襲之,權遂背叛也。

訓読

魏文帝黃初三年七月,冀州大いに蝗あり,人飢う〔一〕。案ずるに蔡邕說に「蝗なる者は,在上 貪苛するの致す所なり。」と〔二〕。是の時,孫權歸順し,帝 其の西陵の役〔三〕有るに因りて,大眾を舉げて之れを襲ふ,權遂いに背叛するなり。〔四〕

〔一〕『三国志』文帝紀
「(黃初三年)秋七月,冀州大蝗,民饑,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。」
〔二〕『續漢書』五行志
「光和元年詔策問曰「連年蝗蟲至冬踊,其咎焉在。」蔡邕對曰「臣聞易傳曰『大作不時,天降災,厥咎蝗蟲來。』河圖祕徵篇曰『帝貪則政暴而吏酷,酷則誅深必殺,主蝗蟲。』蝗蟲,貪苛之所致也。」是時百官遷徙,皆私上禮西園以為府。」
〔三〕『三国志』孫権伝
「(黃武元年)是歲改夷陵為西陵。」
〔四〕『三国志』文帝紀
「(黃初三年)是月,孫權復叛。復郢州為荊州。帝自許昌南征,諸軍兵並進,權臨江拒守。」
【参照】
『宋書』五行志
「魏文帝黃初三年七月,冀州大蝗,民饑。案蔡邕說「蝗者,在上貪苛之所致也。」是時,孫權歸順,帝因其有西陵之役,舉大眾襲之,權遂背叛也。」

現代語訳

魏の文帝黃初三年(222)七月,冀州で大いに蝗害があった,民衆は飢えた。考えてみるに蔡邕說には「蝗という者は,上のものが暴虐であることによって発生するものである。」とする。この時,孫權が歸順し,文帝はその西陵の役(夷陵の戦い)がおこったことによって,大軍を舉げてこれを襲った,孫權はかくて背叛した。

原文

武帝泰始十年六月,蝗。是時,荀・賈任政,疾害公直〔一〕。

訓読

武帝泰始十年六月,蝗あり〔一〕。是の時,荀・賈〔二〕政に任じ,公直を疾害す。

〔一〕『晉書』武帝紀
「(泰始十年)六月癸巳,臨聽訟觀錄囚徒,多所原遣。是夏,大蝗。」
〔二〕『晉書』荀顗伝
「顗明三禮,知朝廷大儀,而無質直之操,唯阿意苟合於荀勖・賈充之間。」
【参照】
『宋書』五行志
「武帝泰始十年六月,蝗。是時,荀・賈任政,疾害公直。」

現代語訳

武帝の泰始十年(274)六月,蝗害がおこった。この時,荀勖・賈充が政治を執り行い,公明正直な者を妬み危害を加えた。

原文

惠帝永寧元年,郡國六蝗。

訓読

惠帝永寧元年,郡國六蝗あり。〔一〕

〔一〕『晉書』惠帝紀
「(永寧元年)是歲,郡國十二旱,六蝗。」

現代語訳

惠帝永寧元年(301),郡國六箇所で蝗害があった。

原文

懷帝永嘉四年五月,大蝗,自幽・并・司・冀至于秦雍,草木牛馬毛鬣皆盡。是時,天下兵亂,漁獵黔黎,存亡所繼,惟司馬越・苟晞而已。競為暴刻,經略無章,故有此孼。

訓読

懷帝永嘉四年五月,大いに蝗あり,幽・并・司・冀自り秦雍に至るまで,草木・牛馬の毛鬣皆な盡く〔一〕。是の時,天下に兵亂あり,黔黎を漁獵し,存亡繼ぐ所,惟だ司馬越・苟晞のみ。競ひて暴刻を為し,經略章無し,故に此の孼有り。

〔一〕『晉書』懷帝紀
「五月,石勒寇汲郡,執太守胡寵,遂南濟河,滎陽太守裴純奔建鄴。大風折木。地震。幽・并・司・冀・秦・雍等六州大蝗,食草木・牛馬毛,皆盡。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝懷帝永嘉四年五月,大蝗,自幽并司冀至于秦雍,草木牛馬毛鬣皆盡。是時天下兵亂,漁獵生民,存亡所繫,唯司馬越、苟晞而已,而競為暴刻,經略無章。」

現代語訳

懷帝の永嘉四年(310)五月,大規模な蝗害があり,幽州・并州・司隷・冀州から秦雍(関中)まで,草木や牛馬の毛やたてがみまですべて食らい尽くされた。この時,天下には兵亂がおこっており,庶民から奪い取り,(国家の)存亡を繼ぐものは,ただ司馬越と苟晞のみとなった。(二人は)競うように暴逆刻薄(な政治)を行い,国家経営に筋道はなかった,だからこの孼がある。

原文

愍帝建興四年六月,大蝗。去歲劉曜頻攻北地・馮翊,麴允等悉眾御之,卒為劉曜所破,西京遂潰。 五年,帝在平陽,司・冀・青・雍螽。

訓読

愍帝建興四年六月,大いに蝗あり〔一〕。去歲劉曜頻りに北地・馮翊を攻め,麴允等悉眾之れを御し〔二〕,卒ひに劉曜の破る所と為り,西京遂ひに潰す〔三〕。 五年,帝 平陽に在り〔四〕,司・冀・青・雍螽あり。〔五〕

〔一〕『晉書』愍帝紀
「(建興四年)六月丁巳朔,日有蝕之。大蝗。」
〔二〕『晉書』愍帝紀
「(建興三年)五月,劉聰寇并州。……秋七月,石勒陷濮陽,害太守韓弘。劉聰寇上黨,劉琨遣將救之。八月癸亥,戰于襄垣,王師敗績。荊州刺史陶侃攻杜弢,弢敗走,道死,湘州平。九月,劉曜寇北地,命領軍將軍麴允討之。冬十月,允進攻青白城。以豫州牧・征東將軍索綝為尚書僕射・都督宮城諸軍事。劉聰陷馮翊,太守梁肅奔萬年。」
〔三〕『晉書』愍帝紀
「(建興四年)八月,劉曜逼京師,內外斷絕,鎮西將軍焦嵩・平東將軍宋哲・始平太守竺恢等同赴國難,麴允與公卿守長安小城以自固,散騎常侍華輯監京兆・馮翊・弘農・上洛四郡兵東屯霸上,鎮軍將軍胡崧帥城西諸郡兵屯遮馬橋,並不敢進。冬十月,京師饑甚,米斗金二兩,人相食,死者太半。太倉有麴數十䴵,麴允屑為粥以供帝,至是復盡。帝泣謂允曰「今窘厄如此,外無救援,死于社稷,是朕事也。然念將士暴離斯酷,今欲聞城未陷為羞死之事,庶令黎元免屠爛之苦。行矣遣書,朕意決矣。」十一月乙未,使侍中宋敞送牋于曜,帝乘羊車,肉袒銜璧,輿櫬出降。羣臣號泣攀車,執帝之手,帝亦悲不自勝。御史中丞吉朗自殺。曜焚櫬受璧,使宋敞奉帝還宮。初,有童謠曰「天子何在豆田中。」時王浚在幽州,以豆有藿,殺隱士霍原以應之。及帝如曜營,營實在城東豆田壁。」
〔五〕『晉書』愍帝紀
「(建興四年十一月)辛丑,帝蒙塵于平陽,麴允及羣官並從。」
〔四〕『晉書』愍帝紀
「(建興)五年春正月,帝在平陽。……秋七月,大旱,司・冀・青・雍等四州螽蝗。石勒亦競取百姓禾,時人謂之「胡蝗」。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉愍帝建興四年六月,大蝗。去歲胡寇頻攻北地・馮翊,麴允等悉眾禦之。是時又禦劉曜,為曜所破,西京遂潰。」

現代語訳

愍帝の建興四年(316)六月,大規模な蝗害がおこった。前年劉曜が頻りに北地と馮翊を攻め,麴允等の諸衆は防御したが,さいごには劉曜に破られ,西京(長安)はそのまま潰滅した。 五年,帝は平陽におり,司隷・冀州・青州・雍州で螽害があった。

原文

元帝太興元年六月,蘭陵合郷蝗,害禾稼。乙未,東莞蝗蟲縱廣三百里,害苗稼。七月,東海・彭城・下邳・臨淮四郡蝗蟲害禾豆。八月,冀・青・徐三州蝗,食生草盡,至于二年。是時,中州淪喪,暴亂滋甚也。

訓読

元帝太興元年六月,蘭陵合郷に蝗あり,禾稼を害ふ。乙未,東莞に蝗蟲あること縱廣三百里,苗稼を害ふ〔一〕。七月,東海・彭城・下邳・臨淮四郡蝗蟲禾豆を害ふ。八月,冀・青・徐三州に蝗あり〔二〕,生草を食らひ盡くし,二年に至る。是の時,中州淪喪し,暴亂滋ます甚だしきなり。

〔一〕『晉書斠注』では「吉」に作る,今『宋書』に従い「害」改めた。
〔二〕『晉書』元帝紀
「(太興元年)八月,冀・徐・青三州蝗。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉元帝太興元年六月,蘭陵合鄉蝗,害禾稼。乙未,東莞蝗蟲縱廣三百里,害苗稼。太興元年七月,東海・彭城・下邳・臨淮四郡蝗蟲害禾豆。太興元年八月,冀・青・徐三州蝗食生草盡,至于二年。是時中州淪喪,暴亂滋甚。」

現代語訳

元帝の太興元年(318)六月,蘭陵の合郷で蝗が発生し,穀物をそこなった。乙未,東莞で蝗虫が三百里四方に発生し〔一〕,(穀物の)苗をそこなった。七月,東海・彭城・下邳・臨淮の四郡で蝗虫が稲や豆類をそこなった。八月,冀州・青州・徐州の三州で蝗が発生し〔二〕,青草を食べつくして,二年まで続いた。この時,中原は失われ,暴亂はどんどん甚だしくなった。

原文

二年五月,淮陵・臨淮・淮南・安豐・廬江等五郡蝗蟲食秋麥。是月癸丑,徐州及揚州江西諸郡蝗,吳郡百姓多餓死。去年,王敦并領荊州,苛暴之釁自此興矣。

訓読

二年五月,淮陵・臨淮・淮南・安豐・廬江等五郡蝗蟲秋麥を食ふ。是の月癸丑,徐州及び揚州江西諸郡蝗あり,吳郡百姓多く餓死す〔一〕。去年,王敦荊州を并領し〔二〕,苛暴の釁 此れ自り興る。

〔一〕『晉書』元帝紀
「(太興二年)五月癸丑,太陽陵毀,帝素服哭三日。徐楊及江西諸郡蝗。吳郡大饑。」
〔二〕『晉書』元帝紀
「(太興元年)十一月乙卯,日夜出,高三丈,中有赤青珥。新蔡王弼薨。加大將軍王敦荊州牧。」
『晉書』王敦伝
「建武初,又遷征南大將軍,開府如故。中興建,拜侍中・大將軍・江州牧。遣部將朱軌・趙誘伐杜曾,為曾所殺,敦自貶,免侍中,并辭牧不拜。尋加荊州牧。」
【参照】
『宋書』五行志
「太興二年五月,淮陵・臨淮・淮南・安豐・廬江諸郡蝗食秋麥。太興三年五月癸丑,徐州及揚州江西諸郡蝗,吳民多餓死。去年,王敦并領荊州,苛暴之釁,自此興矣。又是年初,徐州刺史蔡豹帥眾伐周撫。」

現代語訳

二年(319)五月,淮陵・臨淮・淮南・安豐・廬江等の五郡で蝗蟲が発生し秋の麥を食べた。この月の癸丑の日,徐州及び揚州江西の諸郡に蝗が発生し,吳郡の民衆がたくさん餓死した。前年,王敦は荊州を并領し,苛酷暴虐の罪過はここから起こった。

原文

孝武帝太元十五年八月,兗州蝗。是時,慕容氏逼河南,征戍不已,故有斯孼。 十六年五月,飛蝗從南來,集堂邑縣界,害苗稼。是年春,發江州兵營甲士二千人,家口六七千,配護軍及東宮,後尋散亡殆盡。又邊將連有征役,故有斯孼。

訓読

孝武帝太元十五年八月,兗州に蝗あり。是の時,慕容氏 河南に逼り,征戍已まず〔一〕,故に斯の孼有り。 十六年五月,飛蝗南從り來たり,堂邑縣界に集ひ,苗稼を害ふ。是の年春,江州兵營甲士二千人,家口六七千を發し,護軍及び東宮に配するも,後ち尋いで散亡し殆んど盡く。又た邊將連りに征役有り,故に斯の孼有り。

〔一〕『晉書』孝武帝紀
「(太元十六年)夏六月,慕容永寇河南,太守楊佺期擊破之。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝武帝太元十五年八月,兗州蝗。是時丁零寇兗・豫,鮮卑逼河南,征戍不已。太元十六年五月,飛蝗從南來,集堂邑縣界,害苗稼。是年春,發取江州兵營甲士二千人家口六七千人,配護軍及東宮,後尋散亡殆盡。又邊將連有征役。」

現代語訳

孝武帝の太元十五年(390)八月,兗州で蝗害がおこった。このころ,慕容氏が河南へと迫り,征討がやむことはなかった〔一〕,そのためこの孼があるのである。 十六年五月,飛蝗が南からやってきて,堂邑県の県界に集まり,苗を損なった。この年の春,江州の兵營の兵士二千人と(その)家族六七千人を召して,護軍および東宮に配したが,そののち逃散してほとんどいなくなった。また辺境ではしきりに征役があった,だからこの孼があるのだ。

豕禍

原文

豕禍
吳孫晧寶鼎元年,野豕入右大司馬丁奉營,此豕禍也。後奉見遣攻穀陽,無功而反。晧怒,斬其導軍。及舉大眾北出,奉及萬彧等相謂曰「若至華里,不得不各自還也。」此謀泄。奉時雖已死,晧追討穀陽事,殺其子溫,家屬皆遠徙,豕禍之應也。龔遂曰,「山野之獸,來入宮室,宮室將空」,又其象也。

訓読

豕禍
吳の孫晧の寶鼎元年,野豕 右大司馬丁奉〔一〕の營に入る,此れ豕禍なり。後 奉 遣はされて穀 陽を攻むるも,功無くして反る〔二〕。晧怒り,其の導軍〔三〕を斬る〔四〕。大眾を舉げて北に出づるに及び〔五〕,奉及び萬彧等相ひ謂ひて曰はく「若し華里に至らば,各おの自ら還らざるを得ざるなり。」と〔六〕。此の謀 泄る。奉 時に已に死すと雖ども〔六〕,晧 穀陽を討つ事を追いて,其の子 溫を殺し,家屬皆遠く徙す〔七〕,豕禍の應なり。龔遂〔八〕曰はく,「山野の獸,來たりて宮室に入るは,宮室將に空し」〔九〕と,又た其の象なり。

〔一〕『三國志』吳書・丁奉傳
「丁奉字承淵,廬江安豐人也。少以驍勇為小將,屬甘寧・陸遜・潘璋等。數隨征伐,戰鬭常冠軍。每斬將搴旗,身被創夷。稍遷偏將軍。孫亮即位,為冠軍將軍,封都亭侯。」
『三國志』吳書・丁奉傳
「(孫)休薨,(丁)奉與丞相濮陽興等從萬彧之言,共迎立孫晧,遷右大司馬左軍師。」
〔二〕穀陽は,県名,漢のときに置かれた,名は穀水の陽(北)に在ることによる。
『漢書』地理志・沛郡
「沛郡,故秦泗水郡。高帝更名。莽曰吾符。屬豫州。…… 縣三十七,相,莽曰吾符亭。龍亢,竹,莽曰篤亭。穀陽 ,蕭, …… 」,「穀陽」に顔師古注「應劭曰,在穀水之陽。」。
〔三〕「導軍」は「鄉導」と同じ意か。杜佑『通典』兵十・行軍下營審擇其地に「『孫子』曰,不用鄉導者,不得地利。」とあり,杜佑注には「不任彼鄉人而導軍者,則不能得道路之便利也。」とある。
〔四〕『三國志』吳書・丁奉傳
「建衡元年,奉復帥眾治徐塘,因攻晉穀陽。穀陽民知之,引去,奉無所獲。晧怒,斬奉導軍。三年,卒。奉貴而有功,漸以驕矜,或有毀之者,晧追以前出軍事,徙奉家於臨川。奉弟封,官至後將軍,先奉死。」
〔五〕『三国志』吳書・三嗣主・孫皓伝
「(建衡)三年春正月晦,晧舉大眾出華里,晧母及妃妾皆行,東觀令華覈等固爭,乃還。」
〔六〕『三国志』吳書・三嗣主・孫皓伝
「鳳皇元年秋八月,……是歲右丞相萬彧被譴憂死,徙其子弟於廬陵。」
裴松之注「『江表傳』曰,初晧游華里,彧與丁奉・留平密謀曰,『此行不急,若至華里不歸,社稷事重,不得不自還。』此語頗泄。晧聞知,以彧等舊臣,且以計忍而陰銜之。後因會,以毒酒飲彧,傳酒人私減之。又飲留平,平覺之,服他藥以解,得不死。彧自殺。平憂懣,月餘亦死。」
〔七〕『三国志』吳書・三嗣主・孫皓伝
「(建衡)三年春正月晦,……右大司馬丁奉・司空孟仁卒。西苑言鳳凰集,改明年元。」
〔七〕『三国志』吳書・丁奉傳
「(建衡)三年,卒。奉貴而有功,漸以驕矜,或有毀之者,晧追以前出軍事,徙奉家於臨川。奉弟封,官至後將軍,先奉死。」
〔八〕『漢書』循吏・龔遂伝
「龔遂字少卿,山陽南平陽人也。以明經為官,至昌邑郎中令,事王賀。賀動作多不正,遂為人忠厚,剛毅有大節,內諫爭於王,外責傅相,引經義,陳禍福,至於涕泣,蹇蹇亡已。」
〔九〕『漢書』五行志中
「昭帝時,昌邑王賀聞人聲曰「熊」,視而見大熊。左右莫見,以問郎中令龔遂,遂曰「熊,山野之獸,而來入宮室,王獨見之,此天戒大王,恐宮室將空,危亡象也。」賀不改寤,後卒失國。」
【参照】
『宋書』五行志
「吳孫晧寶鼎元年,野豕入右大司馬丁奉營。此豕禍也。後奉見遣攻穀陽,無功反,晧怒,斬其導軍。及舉大眾北出,奉及萬彧等相謂曰「若至華里,不得不各自還也。」此謀泄,奉時雖已死,晧追討穀陽事,殺其子溫,家屬皆遠徙。豕禍之應也。龔遂曰「山野之獸,來入宮室,宮室將空。」又其象也。」

現代語訳

豕禍
吳の孫晧寶鼎元(266)年,野豕(イノシシ)が 右大司馬の丁奉の兵営に侵入した。これは豕禍である。その後丁奉は命じられ穀陽を攻めたが,なにも功をたてられずに帰った。孫晧は怒り,丁奉の導軍(軍の案内人・斥候)を斬った。(孫晧が)多くの人々を引きつれて北に出かけるときに,丁奉と萬彧らは互いに,「(孫晧が)もし華里まで行幸されるのなら,我々は各自,もどらざるを得ないであろう。」と言いあった。この計画が泄れた。丁奉はその時,すでに死んでいたが,孫晧は穀陽の討伐の責任を追及して,その子の丁溫を殺し,親族を皆遠くへ追いやった。豕禍の應である。龔遂は「山野の獸(熊)が,来て宮室に侵入するのは,宮室が將に空虚になっているからだ」といった。(この野豕も)またその象である。

原文

懷帝永嘉中,壽春城內有豕生兩頭而不活,周馥取而觀之。時識者云「豕,北方畜,胡狄象。兩頭者,無上也。生而死,不遂也。天戒若曰,勿生專利之謀,將自致傾覆也。」周馥不寤,遂欲迎天子令諸侯,俄為元帝所敗,是其應也。石勒亦尋渡淮,百姓死者十有其九。

訓読

懷帝永嘉中,壽春〔一〕城內に豕の兩頭を生じて活かざる有り,周馥〔二〕取りて之を觀る。時に識者云ふ「豕,北方の畜,胡狄の象なり。兩頭なる者は,上無きなり〔三〕。生れて死す,遂げざるなり。天戒めて若くのごとく曰く,專利〔四〕の謀を生ずる勿かれ,將に自づから傾覆を致さんとするなり。」と。周馥寤(さと)らず,遂に天子を迎へて諸侯に令せんと欲し,俄に元帝の敗る所と為る〔五〕は,是れ其の應なり。石勒も亦た尋いで淮を渡り,百姓死する者十に其の九有り〔六〕。

〔一〕『後漢書』孝獻帝(劉協)紀第九,興平元年
「太傅馬日磾薨于壽春。」,李賢注「壽春,縣名,屬九江郡,今壽春縣也。」
〔二〕『晋書』周馥伝
「馥字祖宣,浚從父弟也。父蕤,安平太守。」
〔三〕『漢書』五行志下之上
「(平帝元始元年)六月,長安女子有生兒,兩頭異頸面相鄉,四臂共匈俱前鄉,凥上有目長二寸所。京房易傳曰「『睽孤,見豕負塗』,厥妖人生兩頭。下相攘善,妖亦同。人若六畜首目在下,茲謂亡上,正將變更。凡妖之作,以譴失正,各象其類。二首,下不壹也。足多,所任邪也。足少,下不勝任,或不任下也。凡下體生於上,不敬也。上體生於下,媟瀆也。生非其類,淫亂也。人生而大,上速成也。生而能言,好虛也。羣妖推此類,不改乃成凶也。」」
〔四〕『春秋左氏傳』哀公十六年
「若將專利,以傾王室,不顧楚國,有死不能。」
〔五〕『晋書』周馥伝
「越與苟晞不協,馥不先白於越,而直上書,越大怒。先是,越召馥及淮南太守裴碩,馥不肯行,而令碩率兵先進。碩貳於馥,乃舉兵稱馥擅命,已奉越密旨圖馥,遂襲之,為馥所敗。碩退保東城,求救於元帝。帝遣揚威將軍甘卓・建威將軍郭逸攻馥于壽春。安豐太守孫惠帥眾應之,使謝摛為檄。摛,馥之故將也。馥見檄,流涕曰「必謝摛之辭。」摛聞之,遂毀草。旬日而馥眾潰,奔于項,為新蔡王確所拘,憂憤發病卒。」
〔六〕『晋書』石勒載記
「石堪攻晉豫州刺史祖約于壽春,屯師淮上。晉龍驤將軍王國以南郡叛降于堪。南陽都尉董幼叛,率襄陽之眾又降于堪。祖約諸將佐皆陰遣使附于勒。石聰與堪濟淮,陷壽春 ,祖約奔歷陽,壽春百姓陷于聰者二萬餘戶。」
『晋書』成帝紀
「(咸和元年)十一月壬子,……石勒將石聰攻壽陽,不克,遂侵逡遒・阜陵,加司徒王導大司馬・假黃鉞・都督中外征討諸軍事以禦之。歷陽太守蘇峻遣其將韓晃討石聰,走之。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝懷帝永嘉中,壽春城內有豕生兩頭而不活。周馥取而觀之。時通數者竊謂曰「夫豕,北方之畜,胡・狄象也。兩頭者,無上也。生而死,不遂也。天意若曰,勿生專利之謀,將自致傾覆也。」周馥不悟,遂欲迎天子,令諸侯,俄為元帝所敗。是其應也。石勒亦尋渡淮, 百姓死者十八九。」

現代語訳

懷帝(司馬熾)永嘉年間(307 - 313),壽春城內で豚が 両頭の子豚を産んだが活きることができなかった。周馥はこれを取って観た。その当時,有識者は「豚は,北方の家畜であり,胡狄の象である。頭が二つあるのは,上が無いのである。生れても死んでしまい,成長しないのである。天が戒しめて,この様に言っている,私欲を専らに考えてはいけない,まさに国家の傾覆をまねいてしまうのだ。」といった。周馥は悟ることができず,さらに天子を迎えて諸侯に命令をしようとし,たちまち元帝(司馬睿)に敗れたのは,その應である。石勒も,ついで淮河を渡り,民衆の死ぬものは,十の内九にものぼった。

原文

元帝建武元年,有豕生八足,此聽不聰之罰,又所任邪也。是後有劉隗之變。

訓読

元帝建武元年,豕の八足生ずる有り,此れ聽の不聰の罰,又た任ずる所 邪なり〔一〕。是の後劉隗の變〔二〕有り。

〔一〕『漢書』五行志
「(平帝元始元年)六月,長安女子有生兒,兩頭異頸面相鄉,四臂共匈俱前鄉,凥上有目長二寸所。京房易傳曰「『睽孤,見豕負塗』,厥妖人生兩頭。下相攘善,妖亦同。人若六畜首目在下,茲謂亡上,正將變更。凡妖之作,以譴失正,各象其類。二首,下不壹也。足多,所任邪也。足少,下不勝任,或不任下也。凡下體生於上,不敬也。上體生於下,媟瀆也。生非其類,淫亂也。人生而大,上速成也。生而能言,好虛也。羣妖推此類,不改乃成凶也。」」
〔二〕『晋書』劉隗伝
「劉隗字大連,彭城人,楚元王交之後也。父砥,東光令。隗少有文翰,起家祕書郎,稍遷冠軍將軍・彭城內史。避亂渡江,元帝以為從事中郎。」
「初,隗以王敦威權太盛,終不可制,勸帝出腹心以鎮方隅,故以譙王承為湘州,續用隗及戴若思為都督。敦甚惡之,與隗書曰「頃承聖上顧眄足下,今大賊未滅,中原鼎沸,欲與足下周生之徒勠力王室,共靜海內。若其泰也,則帝祚於是乎隆。若其否也,則天下永無望矣。」隗答曰「魚相忘於江湖,人相忘於道術。竭股肱之力,效之以忠貞,吾之志也。」敦得書甚怒。及敦作亂,以討隗為名,詔徵隗還京師,百官迎之於道,隗岸幘大言,意氣自若。及入見,與刁協奏請誅王氏,不從,有懼色,率眾屯金城。及敦克石頭,隗攻之不拔,入宮告辭,帝雪涕與之別。隗至淮陰,為劉遐所襲,攜妻子及親信二百餘人奔于石勒,勒以為從事中郎・太子太傅。卒年六十一。」
『晋書』元帝紀
「(永昌元年)四月,敦前鋒攻石頭,周札開城門應之,奮威將軍侯禮死之。敦據石頭,戴若思・劉隗帥眾攻之,王導・周顗・郭逸・虞潭等三道出戰,六軍敗績。尚書令刁協奔於江乘,為賊所害。鎮北將軍劉隗奔于石勒。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉愍帝建武元年,有豕生八足。聽不聰之罰也。京房易傳曰「凡妖作,各象其類。足多者,所任邪也。」是後有劉隗之變。」

現代語訳

元帝(司馬睿)の建武元年(317),豚に八本の足が生えた,これは聴不聴の罰であり,また任用したものが邪悪であった。この後,劉隗の変が有った。

原文

成帝咸和六年六月,錢唐人家猳豕產兩子,而皆人面,如胡人狀,其身猶豕。京房易妖曰「豕生人頭豕身者,危且亂。今此猳豕而產,異之甚者也。」

訓読

成帝の咸和六年六月,錢唐の人家の猳豕〔一〕兩子を產む,而も皆人面,胡人の狀の如きも,其の身は猶ほ豕のごとし。京房『易妖』に曰はく「豕 人頭豕身を生むなる者は,危にして且に亂れんとす。今 此の猳豕にして產むは,異の甚しき者なり。」

〔一〕『春秋左氏傳』哀公十五年
「既食,孔伯姬杖戈而先,大子與五人介,輿豭從之。」,孔穎達疏「豭,是豕之牡者。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉成帝咸和六年六月,錢塘民家豭豕生兩子,皆人面,如胡人狀,其身猶豕。京房易妖曰,「豕生人頭豕身者,邑且亂亡。」此豭豕而產,異之甚者也。」

現代語訳

成帝(司馬衍)の咸和六年(331 年)六月,錢唐の民家の牡豚が二匹の子豚を産んだ,みな人面で,胡人に似ているが,身体は豚であった。京房の『易妖』には,「豚が頭が人で身体が豚というものを生むことは,危うく,まさに乱れようとしているのである。今この牡豚なのに産むというのは,非常に異(あや)しいものである。」といっている。

原文

孝武帝太元十年四月,京都有豚一頭二脊八足。 十三年,京都人家豕產子,一頭二身八足,並與建武同妖也。是後,宰相沈酗,不恤朝政,近習用事,漸亂國綱,至於大壞也。

訓読

孝武帝の太元十年四月,京都に一頭二脊八足の豚有り。 十三年,京都の人家の豕 子を產み,並びに一頭二身八足なり,建武と同じ妖なり〔一〕。是の後,宰相沈酗〔二〕して,朝政を恤(うれ)へず,近習〔三〕 用事〔四〕し,漸(ようや)く國綱を亂し,大壞に至るなり〔五〕。

〔一〕本状の二条前に既出。「元帝建武元年,有豕生八足……」。
〔二〕『尚書』微子
「我用沈酗於酒,用亂敗厥德於下。」,孔穎達疏「人以酒亂若沈於水,故以耽酒為沈也。」
〔三〕『禮記』月令
「(仲冬之月)省婦事,毋得淫,雖有貴戚近習,毋有不禁。」
〔四〕『戰國策』趙四
「趙太后,新用事秦急攻之」
〔五〕『晋書』司馬道子伝
「會稽文孝王道子字道子。……于時孝武帝不親萬機,但與道子酣歌為務,姏姆尼僧,尤為親暱,並竊弄其權。凡所幸接,皆出自小豎。郡守長吏,多為道子所樹立。既為揚州總錄,勢傾天下,由是朝野奔湊。中書令王國寶性卑佞,特為 道子 所寵昵。官以賄遷,政刑謬亂。又崇信浮屠之學,用度奢侈,下不堪命。太元以後,為長夜之宴,蓬首昏目,政事多闕。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝武帝太元十年四月,京都有豕,一頭二身八足。十三年,京都民家豕產子,一頭二身八足。並與建武同妖也。是後宰相沈酗,不恤朝政,近習用事,漸亂國綱,至於大壞也。」

現代語訳

孝武帝(司馬曜)の太元十年(385 年)四月,都(建康)に,頭が一つ体が二つ足が八本の豚がいた。 十三年(388 年),都の民家の豚が子豚を産んだが,頭が一つ体が二つ足が八本であった,建武の時と同様の妖である。この後,宰相が酒に溺れ,朝政を省みず,側近が執政し,しだいに国家の綱紀がみだれ,衰亡に至った。

黑眚黑祥

原文

黑眚黑祥
孝懷帝永嘉五年十二月,黑氣四塞,近黑祥也。帝尋淪陷,王室丘墟,是其應也。

訓読

黑眚黑祥
孝懷帝の永嘉五年十二月,黑氣 四塞す,黑祥に近し。帝尋ひで淪陷し,王室丘墟となる〔一〕,是れ其の應なり。

〔一〕『晋書』孝懷帝紀
「(永嘉五年)六月癸未,……丁酉,劉曜・王彌入京師。帝開華林園門,出河陰藕池,欲幸長安,為曜等所追及。曜等遂焚燒宮廟,逼辱妃后,吳王晏・竟陵王楙・尚書左僕射和郁・右僕射曹馥・尚書閭丘沖・袁粲・王緄・河南尹劉默等皆遇害,百官士庶死者三萬餘人。帝蒙塵于平陽,劉聰以帝為會稽公。」
『晋書』孝懷帝紀
「(永嘉)七年春正月,劉聰大會,使帝著青衣行酒。侍中庾珉號哭,聰惡之。丁未,帝遇弒,崩于平陽,時年三十。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝懷帝永嘉五年十二月,黑氣四塞。近黑祥也。」

現代語訳

黑眚黑祥
孝懷帝(司馬熾)の永嘉五年(311 年)十二月,黒気が四方にひろがり塞がった,黒祥のようである。皇帝がまもなく衰えしずみ,朝廷は廃墟となった,これはその應である。

原文

愍帝建興二年正月己巳朔,黑霧著人如墨,連夜,五日乃止,此近黑祥也。其四年,帝降劉曜。

訓読

愍帝の建興二年正月〔一〕己巳朔,黑霧人に著くこと墨の如し,連夜し,五日にして乃ち止む,此れ黑祥に近きなり。其の四年,帝 劉曜に降る。〔二〕

〔一〕『晋書』天文志・日蝕
「愍帝建興二年正月辛未辰時,日隕于地。又有三日相承,出於西方而東行。」
『晋書』孝愍帝(司馬鄴)紀
「(建興)二年春正月己巳朔,黑霧著人如墨,連夜,五日乃止。辛未,辰時日隕于地。又有三日相承,出於西方而東行。」
〔二〕『晋書』孝愍帝(司馬鄴)紀
「(建興四年)冬十月,京師饑甚,米斗金二兩,人相食,死者太半。太倉有麴數十䴵,麴允屑為粥以供帝,至是復盡。帝泣謂允曰「今窘厄如此,外無救援,死于社稷,是朕事也。然念將士暴離斯酷,今欲聞城未陷為羞死之事,庶令黎元免屠爛之苦。行矣遣書,朕意決矣。」十一月乙未,使侍中宋敞送牋于曜,帝乘羊車,肉袒銜璧,輿櫬出降。羣臣號泣攀車,執帝之手,帝亦悲不自勝。」
『晋書』孝愍帝(司馬鄴)紀
「(建興五年)冬十月丙子,日有蝕之。劉聰出獵,令帝行車騎將軍,戎服執戟為導,百姓聚而觀之,故老或歔欷流涕,聰聞而惡之。聰後因大會,使帝行酒洗爵,反而更衣,又使帝執蓋,晉臣在坐者多失聲而泣,尚書郎辛賓抱帝慟哭,為聰所害。十二月戊戌,帝遇弒,崩于平陽,時年十八。」

現代語訳

愍帝(司馬鄴)の建興二年(314 年)正月己巳朔日,黒い霧が人に付いて墨のようであった,毎夜続いて,五日たって止んだ。これは黒祥に近いものである。その(建興)四年に,皇帝が 劉曜に降った。

原文

元帝永昌元年十月,京師大霧,黑氣蔽天,日月無光。十一月,帝崩。

訓読

元帝の永昌元年十月,京師大霧あり,黑氣天を蔽ひ,日月光無し。十一月,帝崩ず。〔一〕

〔一〕『晋書』中宗元帝(司馬睿)紀
「(永昌元年)冬十月,……京師大霧,黑氣蔽天,日月無光。石勒攻陷襄城・城父,遂圍譙,破祖約別軍,約退據壽春。……十一月,……閏月己丑,帝崩于內殿,時年四十七,葬建平陵,廟號中宗。」
『晋書』五行志・黃眚黃祥
「永昌元年十月,京師大霧,黑氣貫天,日無光。」

現代語訳

元帝(司馬睿)の永昌元年(322 年)十月,都(建康)がひどい霧となり,黒気が天を覆い,日月の光が無くなった。(閏)十一月に,元帝が崩御した。

火沴水

原文

火沴水
武帝太康五年六月,任城・魯國池水皆赤如血。案劉向說,近火沴水,聽之不聰之罰也。京房易傳曰「君淫於色,賢人潛,國家危,厥異水流赤。」

訓読

火沴水
武帝の太康五年六月,任城・魯國の池水皆赤きこと血の如し。案ずるに劉向說に,「火水を沴るに近し,聽の不聰の罰なり」と。京房『易傳』に曰く「君 色に淫(みだ)れ〔一〕,賢人潛み,國家危ければ,厥(そ)の異は水流赤し。」〔二〕と。

〔一〕『晋書』胡貴嬪伝
「泰始九年(243 年),……時帝多內寵,平吳之後復納孫晧宮人數千,自此掖庭殆將萬人。」
〔二〕『水經注』巻四・河水
「南出龍門口,汾水從東來注之。」,酈道元注に「『竹書紀年』晉昭公元年,河赤于龍門三里,梁惠成王四年,河水赤于龍門三日。京房『易妖占』曰,河水赤,下民恨。」
『漢書』五行志
「京房易傳曰『君湎于酒,淫于色,賢人潛,國家危,厥異流水赤也。』」
【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝太康五年六月,任城・魯國池水皆赤如血。案劉向說,近火沴水也。聽之不聰之罰也。京房易傳曰「淫於色,賢人潛,國家危,厥異水流赤。」」

現代語訳

火沴水
武帝(司馬炎)の太康五年(284 年)六月,任城と魯國の池の水が皆血のように赤くなった。思うに劉向が,「火が水をそこなうようで,聽の不聰の罰である」と説いている。京房『易傳』に,「君主が色欲におぼれ,賢人が身を潜め,国家が危くなれば,その異は水流が赤くなる。」と言っている。

原文

穆帝升平三年二月,涼州城東池中有火。 四年四月,姑臧澤水中又有火。此火沴水之妖也。明年,張天錫殺中護軍張邕。邕,執政之人也。

訓読

穆帝の升平三年二月,涼州の城東の池中に火有り。 四年四月,姑臧の澤の水中に又た火有り。此れ火水を沴るの妖なり。明年,張天錫 中護軍張邕を殺す。邕,執政の人なり。〔一〕

〔一〕『晋書』張玄靚伝
「於是天錫從兵四百人,與邕俱入朝,肅與白駒剔刀鞘出刃,從天錫入。值邕於門下,肅斫之不中,白駒繼之,又不克,二人與天錫俱入禁中。邕得逸走,因率甲士三百餘人反攻禁門。天錫上屋大呼,謂將士曰「張邕凶逆,所行無道,諸宋何罪,盡誅滅之。傾覆國家,肆亂社稷。我不惜死,實懼先人廢祀,事不獲已故耳。我家門戶事,而將士豈可以干戈見向。今之所取,邕身而已。天地有靈,吾不食言。」邕眾聞之,悉散走,邕以劍自刎而死。於是悉誅邕黨。」
〔二〕『晋書』張玄靚伝
「玄靚右司馬張邕惡澄專擅,殺之,遂滅宋氏。玄靚乃以邕為中護軍,叔父天錫為中領軍,共輔政。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉穆帝升平三年二月,涼州城東池中有火。四年四月,姑臧澤水中又有火。此火沴水之妖也。明年,張天錫殺中護軍張邕。邕,執政臣也。」

現代語訳

穆帝(司馬聃)の升平三年(359 年)二月に,涼州の城東の池の中に火がおきた。 四年(360 年)四月,姑臧(こぞう)の澤の水中にまた火がおこった。これは火沴水の妖である。明くる年(361 年),張天錫が中護軍の張邕を殺害した。張邕は,国政を執る人であった。

原文

安帝元興二年十月,錢唐臨平湖水赤。桓玄諷吳郡使言開除以為己瑞,俄而桓玄敗。

訓読

安帝の元興二年十月,錢唐の臨平湖の水赤し〔一〕。桓玄 吳郡い諷して開除せんと言はしめ以て己が瑞と為す,俄にして桓玄敗る〔二〕。

〔一〕『水經注』漸江水
「北過餘杭,東入于海。」,酈道元注「『錢塘記』曰,桓玄之難,湖水色赤,熒熒如丹。」
〔二〕『晋書』桓玄伝
「時益州刺史毛璩使其從孫祐之・參軍費恬送弟璠喪葬江陵,有衆二百,璩弟子修之為玄屯騎校尉,誘玄以入蜀,玄從之。達枚回洲,恬與祐之迎擊玄,矢下如雨。玄嬖人丁仙期・萬蓋等以身蔽玄,並中數十箭而死。玄被箭,其子昇輒拔去之。益州督護馮遷抽刀而前,玄拔頭上玉導與之,仍曰「是何人邪。敢殺天子。」遷曰「欲殺天子之賊耳。」遂斬之,時年三十六。又斬石康及濬等五級,庾頤之戰死。昇云「我是豫章王,諸君勿見殺。」送至江陵市斬之。」
『晋書』毛璩伝
「安帝初,進征虜將軍。及桓玄篡位,遣使加璩散騎常侍・左將軍。……既而脩之與祐之・費恬及漢嘉人馮遷共殺玄。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝元興二年十月,錢塘臨平湖水赤。桓玄諷吳郡使言開除,以為己瑞。俄而玄敗。」

現代語訳

安帝(司馬徳宗)の元興二年(403 年)十月,錢唐の臨平湖の水が赤くなった。桓玄は吳郡にほのめかし除き清めるように謀らさせ自分の瑞兆とした。ほどなく桓玄は敗れた。

原文

傳曰「思心之不容,是謂不聖,厥咎霿,厥罰恒風,厥極凶短折。時則有脂夜之妖,時則有華孼,時則有牛禍,時則有心腹之痾,時則有黃眚黃祥,時則有金木水火沴土。」思心不容,是謂不聖。思心者,心思慮也。容,寬也。孔子曰「居上不寬,吾何以觀之哉。」言上不寬大包容臣下,則不能居聖位。貌言視聽,以心為主。四者皆失,則區霿無識,故其咎霿也。雨旱寒燠,亦以風為本。四氣皆亂,故其罰恒風也。恒風傷物,故其極凶短折也。傷人曰凶,禽獸曰短,草木曰折。一曰,凶,夭也。兄喪弟曰短,父喪子曰折。在人腹中,肥而包裹心者,脂也。心區霿則冥晦,故有脂夜之妖。一曰,有脂物而夜為妖,若脂夜汚人衣,淫之象也。一曰,夜妖者,雲風並起而杳冥,故與常風同象也。溫而風則生螟螣,有裸蟲之孼。劉向以為,「於易,巽為風,為木。卦在三月四月,繼陽而治,主木之華實。風氣盛至秋冬木復華,故有華孼。」一曰,地氣盛則秋冬復華。一曰,華者色也,土為內事,謂女孼也。於易,坤為土,為牛。牛大心而不能思慮,心氣毀,故有牛禍。一曰,牛多死及為怪,亦是也。及人,則多病心腹者,故有心腹之痾。土色黃,故有黃眚黃祥。凡思心傷者,病土氣。土氣病,則金木水火沴之,故曰時則有金木水火沴土。不言「惟」而獨曰「時則有」者,非一衝氣所沴,明其異大也。其極凶短折者,順之,其福曰考終命。劉歆思心傳曰,「時有臝蟲之孼,謂螟螣之屬也。」

訓読

傳に曰く「思心の不容〔一〕,是れ不聖と謂ふ,厥(そ)の咎は霿(ぼう),厥の罰は恒風,厥の極は凶短折〔二〕。時には則ち脂夜の妖有り,時には則ち華孼有り,時には則ち牛禍有り,時には則ち心腹の痾有り,時には則ち黃眚黃祥有り,時には則ち金木水火の土を沴る有り。」と。思心の不容,是れ不聖と謂ふ。思心は,心の思慮なり。容は,寬なり。孔子曰はく「上に居て寬ならず,吾れ何を以てか之を觀んや。〔三〕」と。言ふこころは上 寬大に臣下を包容せざれば,則ち聖位に居ること能はず。貌・言・視・聽,心を以て主と為す。四者皆な失へば,則ち區霿(こうぼう)して識無し,故に其の咎は霿なり。雨・旱・寒・燠,亦た風を以て本と為す。四氣皆な亂る,故に其の罰は恒風なり。恒風 物を傷なふ,故に其の極は凶短折なり。人を傷なふ凶と曰ひ,禽獸は短と曰ひ,草木は折と曰ふ。一に曰はく,凶は,夭なり。兄 弟を喪なふ短と曰ひ,父 子を喪なふ折と曰ふ。人の腹中に在りて,肥して心を包裹する者は,脂なり。心 區霿すれば則ち冥晦す,故に脂夜の妖有り。一に曰はく,脂物有りて夜に妖と為るは,脂 夜に人衣を汚(よご)すが若し,淫の象なりと。一に曰はく,夜妖なる者は,雲風並び起りて杳冥〔四〕す,故に常風と同象なり。溫にして風すれば則ち螟螣(めいとく)〔五〕を生じ,裸蟲〔六〕の孼有りと。劉向以為へらく「『易』に於いては,巽 風と為し,木と為す〔七〕。卦は三月四月に在りて〔八〕,陽を繼ぎて治め,木の華實を主る。風氣 盛んなれば秋冬に至りて木復た華す,故に華孼有り。」と。一に曰はく,地氣 盛んなれば則ち秋冬に復た華すと。一に曰はく,華なる者は色〔九〕なり,土は內事〔一〇〕為り,女孼を謂ふなり。『易』に於いては,坤 土と為し,牛と為す〔一一〕。牛は大心〔一二〕なるも思慮すること能はず,心氣 毀(こ)ぼる,故に牛禍有り。一に曰はく,牛の死する及び怪と為ること多きも,亦た是れなり。人に及べば,則ち心腹を病む者多し,故に心腹の痾有り。土色は黃,故に黃眚黃祥有り。凡そ思心傷ふ者は,土氣を病む。土氣病めば,則ち金・木・水・火 之を沴る,故に曰く時には則ち金・木・水・火 土を沴る有りと。「惟」と言はずして獨り「時則有」と曰ふは,一衝氣の沴る所に非ず,其の異大なるを明らかにするなり。其の極 凶短折なる者は,之に順なれば,其の福は考終命〔一三〕と曰ふ。劉歆の思心の傳に曰はく「時に臝蟲の孼有り,螟螣の屬を謂ふなり。」と。

〔一〕『論語』鄉黨
「入公門,鞠躬如也,如不容。」,邢昺疏「君門雖大,斂身如狹小,不容受其身也。」
〔二〕『尚書』洪範
「六極,一曰凶短折」
孔傳「動不遇吉,短未六十,折未三十。」
疏「鄭玄以為,凶・短・折皆是夭枉之名,未齓曰凶,未冠曰短,未婚曰折。」
『漢書』五行志
「常風傷物,故其極凶短折也。傷人曰凶,禽獸曰短,屮木曰折。……一曰,凶,夭也,兄喪弟曰短,父喪子曰折。」
〔三〕『論語』八佾
「子曰,居上不寬,為禮不敬,臨喪不哀,吾何以觀之哉。」
〔四〕『文選』張衡「西京賦」
「奇幻儵忽,易貌分形,吞刀吐火,雲霧杳冥。」,呂延濟注「杳冥,陰暗貌。」
〔五〕『詩経』小雅・大田
「去其螟螣,及其蟊賊。」,毛傳「食心曰螟,食葉曰螣。」。
〔六〕揚雄『太玄』玄數
「類為裸。」,司馬光注「裸,無介鱗羽毛體中而已。」
〔七〕『周易』説卦
「巽爲木爲風。」
〔八〕鄭玄注『易緯乾坤鑿度』
「震生物於東方,位在二月,巽散之於東南,位在四月,……故艮漸正月,巽漸三月,坤漸七月,乾漸九月……」
〔九〕『韓非子』説難
「昔者彌子瑕有寵於衛君……及彌子色衰愛弛,得罪於君。」
『春秋穀梁伝』僖公十九年
「梁亡,自亡也,湎於酒,淫於色,心昏,耳目塞。」
〔一〇〕『周禮』春官・世婦
「凡內事有達於外官者,世婦掌之。」
『管子』大匡
「智人不得作内事」
〔一一〕『周易』説卦
「坤為地,為母,為布,為釜,為吝嗇,為均,為子母牛,為大輿,為文,為眾,為柄,其於地也為黑。」
「乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為羊。」
〔一二〕『黄帝内経素問』靈蘭秘典論
「心者君主之官也,神明出焉」
〔一三〕『尚書』洪範
「五曰考終命。」,孔傳「各成其長短之命以自終,不橫夭。」
【参照】
『漢書』五行志
「傳曰「思心之不䜭,是謂不聖,厥咎霿,厥罰恆風,厥極凶短折。時則有脂夜之妖,時則有華孽,時則有牛禍,時則有心腹之痾,時則有黃眚黃祥,時則有金木水火沴土。」「思心之不䜭,是謂不聖。」思心者,心思慮也。䜭,寬也。孔子曰,「居上不寬,吾何以觀之哉。」言上不寬大包容臣下,則不能居聖位。貌言視聽,以心為主,四者皆失,則區霿無識,故其咎霿也。雨旱寒奧,亦以風為本,四氣皆亂,故其罰常風也。常風傷物,故其極凶短折也。傷人曰凶,禽獸曰短,艸木曰折。一曰,凶,夭也,兄喪弟曰短,父喪子曰折。在人腹中,肥而包裹心者脂也,心區霿則冥晦,故有脂夜之妖。一曰,有脂物而夜為妖,若脂水夜汙人衣,淫之象也。一曰,夜妖者,雲風並起而杳冥,故與常風同象也。溫而風則生螟螣,有裸蟲之孽。劉向以為於易巽為風為木,卦在三月四月,繼陽而治,主木之華實。風氣盛,至秋冬木復華,故有華孽。一曰,地氣盛則秋冬復華。一曰,華者色也,土為內事,為女孽也。於易坤為土為牛,牛大心而不能思慮,思心氣毀,故有牛禍。一曰,牛多死及為怪,亦是也。及人,則多病心腹者,故有心腹之痾。土色黃,故有黃眚黃祥。凡思心傷者病土氣,土氣病則金木水火沴之,故曰「時則有金木水火沴土」。不言「惟」而獨曰「時則有」者,非一衝氣所沴,明其異大也。其極曰凶短折,順之,其福曰考終命。劉歆思心傳曰時則有臝蟲之孽,謂螟螣之屬也。庶徵之常風,劉向以為春秋無其應。」

現代語訳

伝に「思心の不容(寛大でないこと)を,不聖と言い,その咎は霿(くらやみ),その罰は恒風(風つづき),その極は(不慮の夭死の)凶・短・折である。ある時には脂夜の妖があり,ある時には華孼(華のわざわい)があり,ある時には 牛禍があり,ある時には心腹の痾(やまい)があり,ある時には黃眚黃祥があり,ある時には金・木・水・火が土を沴(そこな)うことがある。」という。「思心の不容を,不聖と言う」の「思心」とは,心の思慮である。「容」とは,寬大である。孔子は,「上(の立場)に居ながら寬大でないなら,私はどこを観れば良いのか。」と言っている。その意味するところは,上の者が,寬大に臣下を包容しないのなら,聖なる位に居ることができないということである。貌(容貌)・言(言葉)・視(目)・聽(耳)は,心を基本とする。この四つをすべて失えば,ぼんやりとして何もわからなくなる,だからその咎は霿(くらやみ)である。雨・旱・寒・燠も,また風を基本とする。四気がすべて乱れると,その罰は恒風である。恒風(風つづき)は物を傷つける,だからその極は凶・短・折である。人を傷つけるのを凶とよび,禽獸の場合は短とよび,草木の場合は折とよぶ。一説には,凶は,夭(若死)である。兄が弟を喪なうのは短であり,父が子を喪なうのは折であるという。人の腹中にあって,肥えていて心を包んでいるものは,脂である。心が昏昧すれば冥晦(くらやみ)になる,だから脂夜の妖がある。一説に,脂ぎった物があって夜に妖となるのは,脂が夜に人の衣服を汚すようなもので,淫の象徴であるという。一説に,夜妖とは,雲と風が同時に起こり真っ暗になる,つまり常風と同じ象であるという。温暖で風がふけば(苗を食べる)螟螣が発生し,裸蟲(殻や鱗や羽のない生物)の孼がおきる。劉向は「『易』において,巽の卦は風であり,木である。その卦は三月と四月の間にあり,陽を受け継いで治め,木の華・実を主る。風の気が盛んで秋冬に至ると木はふたたび華がさく,だから華孼がある。」と考えている。一説には,地の気が盛んであれば秋冬にふたたび華がさくという。一説には,華というものは容色である,土は內事(宮中の奥向きのこと)であり,女孼なのだという。『易経』では,坤の卦は土であり,牛である。牛は大きな心臓だが思慮することができず,心の気がこわれている,だから牛禍がおきるのだ。一説に,牛が死ぬことや,怪異と為ることが多いというのも,またこれである。人に至れば,心腹を病む者が多い,なので心腹の痾がおこる。土の色は黃色である,なので黃眚黃祥がおきる。およそ思心の傷われている者は,土の気を病む。土の気が病むということは,金・木・水・火がそれ(土)を沴(そこな)うということである,だから「ある時には金・木・水・火が土を沴うことがおきる」という。「惟だ(もっぱらこれらが)……」と言わずに「ある時には……おこる」とだけいうのは,一つの衝気が沴(そこな)うのではないからである,その異変が大きいことを明かにするためである。その極である凶・短・折ということは,これに随順すれば,その福は「考終命(天寿のまっとう)」という。劉歆の思心に関する「伝」には,「ある時には臝蟲の孼がおきる,これは螟螣の類をいう。」といわれている。

庶徴恒風

原文

庶徴恒風
魏齊王正始九年十一月,大風數十日,發屋折樹。十二月戊午晦尤甚,動太極東閤。

訓読

庶徴恒風
魏の齊王正始九年十一月,大ひに風あること數十日,屋を發し樹を折る〔一〕。十二月戊午晦〔二〕尤も甚し,太極の東閤を動かす〔三〕。

〔一〕『三国志』魏書・少帝紀・正始九年
「冬十月,大風發屋折樹。」
〔二〕陳垣『二十史朔閏表』によれば正始九年の十二月の朔日は己未である。
〔三〕『晋書斠注』の注によれば『魏志』巻三少帝紀では十月に作るとする。また下引の『太平御覧』に引く『魏略』では「正始元年」とされているが,九年の誤りであるとした上で次の記事を引く。
『太平御覧』巻二十九
「魏略曰,正始元年南風大起數十日,發屋折樹,動太極殿東閣。正旦大會,又甚傾杯。案曹休將誅之徴也。」
【参照】
『宋書』五行五・土・恒風
「魏齊王正始九年十一月,大風數十日,發屋折樹。十二月戊子晦,尤甚,動太極東閣。」

現代語訳

庶徴恒風(大風が吹き続けるというしるし)
魏の斉王の正始九年(248)十一月,数十日の間大風が吹き,建物を壊し樹木を折った。十二月の末日(三十日)に一層ひどくなり,太極殿の東閤を揺らした。

原文

嘉平元年正月壬辰朔,西北大風,發屋折樹木,昏塵蔽天。案管輅説,此爲時刑,大臣執政之憂也。是時,曹爽區霿自專,驕僭過度,天戒數見,終不改革,此思心不睿,恒風之罰也。後踰旬而爽等誅滅。京房易傳曰「衆逆同志,至德乃潛,厥異風。其風也,行不解物,不長,雨小而傷。政悖德隱茲謂亂,厥風先風不雨,大風暴起,發屋折木。守義不進茲謂眊,厥風與雲俱起,折五穀莖。臣易上政茲謂不順,厥風大猋發屋。賦斂不理茲謂禍,厥風絶經紀,止即溫,溫即蟲。侯專封茲謂不統,厥風疾而樹不搖,穀不成。辟不思道利茲謂無澤,厥風不搖木,旱無雲,傷禾。公常於利茲謂亂,厥風微而溫,生蟲蝗,害五穀。棄政作淫茲謂惑,厥風溫,螟蟲起,害有益人之物。諸侯不朝茲謂畔,厥風無恒,地變赤,雨殺人。」

訓読

嘉平元年正月壬辰朔,西北大ひに風あり,屋を發し樹木を折り,昏塵 天を蔽ふ〔一〕。管輅の説を案ずるに,此れ時刑爲り,大臣執政の憂ひなり。是の時,曹爽區霿〔二〕にして自專〔三〕し,驕僭度を過ぎ〔四〕,天戒しめて數しば見はすも,終ひに改革せず,此れ思心の睿ならず,恒風の罰なり〔二〕。後 旬を踰へて爽等誅滅せらる〔五〕。京房易傳に曰はく「衆逆 志を同うし,至德乃ち潛む,厥の異 風。其の風や,行きて物を解さず,長からず〔六〕,雨小にして傷ふ。政は悖り德は隱る 茲れ亂と謂ひ,厥の風先づ風ありて雨ふらず,大風暴かに起り,屋を發して木を折る。義を守るも進まず 茲れ眊と謂ひ,厥の風 雲と俱に起こり,五穀の莖を折る。臣 上政を易ふ 茲れ不順と謂ひ,厥の風 大猋にして屋を發す〔七〕。賦斂に理あらず 茲れ禍と謂ひ,厥の風 經紀を絶す,止めば即ち溫,溫なれば即ち蟲あり。侯の封を專らにす 茲れ不統と謂ひ,厥の風疾にして樹 搖れず,穀成らず。辟の道き利するを思わず〔八〕 茲れ無澤と謂ひ,厥の風 木を搖すらず,旱にして雲無し,禾を傷ふ。公 常に利に於いてす 茲れ亂と謂ひ〔九〕,厥の風微にして溫,蟲蝗を生み,五穀を害す。政を棄て淫を作す 茲れ惑と謂ひ,厥の風 溫,螟蟲起こり,人に益有るの物を害す。諸侯の朝さず 茲れ畔と謂ひ,厥の風 恒なること無し,地 赤に變じ,雨 人を殺す。」と〔一〇〕。

〔一〕『三国志』魏書・管輅伝
「至十月,舉爲秀才。輅辭裴使君,使君言「何・鄧二尚書,有經國才略,於物理無不精也。何尚書神明精微,言皆巧妙,巧妙之志,殆破秋毫,君當慎之。自言不解易九事,必當以相問。比至洛,宜善精其理也。」輅言「何若巧妙,以攻難之才,游形之表,未入於神。夫入神者,當步天元,推陰陽,探玄虛,極幽明,然後覽道無窮,未暇細言。若欲差次老・莊而參爻・象,愛微辯而興浮藻,可謂射侯之巧,非能破秋毫之妙也。若九事皆至義者,不足勞思也。若陰陽者,精之以久。輅去之後,歳朝當有時刑大風,風必摧破樹木。若發於乾者,必有天威,不足共清譚者。」
「西北大風,塵埃蔽天,十餘日,聞晏・颺皆誅,然後舅氏乃服。」
〔二〕『漢書』五行志下之上・思羞
「傳曰「思心之不䜭,是謂不聖,厥咎霿,厥罰恆風,厥極凶短折。時則有脂夜之妖,時則有華孽,時則有牛禍,時則有心腹之痾,時則有黃眚黃祥,時則有金木水火沴土。」
「思心之不䜭,是謂不聖。」思心者,心思慮也。䜭,寬也。孔子曰「居上不寬,吾何以觀之哉」言上不寬大包容臣下,則不能居聖位。貌言視聽,以心爲主,四者皆失,則區霿無識,故其咎霿也。雨旱寒奧,亦以風爲本,四氣皆亂,故其罰常風也。常風傷物,故其極凶短折也。傷人曰凶,禽獸曰短,屮木曰折。一曰,凶,夭也。兄喪弟曰短,父喪子曰折。在人腹中,肥而包裹心者脂也,心區霿則冥晦,故有脂夜之妖。」
〔三〕『礼記』中庸
「子曰,愚而好自用,賤而好自專。生乎今之世,反古之道,如此者。烖及其身者也。非天子不議禮,不制度,不考文。今天下車同軌,書同文,行同倫。雖有其位,苟無其德。不敢作禮樂焉。雖有其德,苟無其位。亦不敢作禮樂焉。」
〔四〕『三国志』魏書・曹爽伝
「爽字昭伯,少以宗室謹重,明帝在東宮,甚親愛之。……帝寢疾,乃引爽入臥内,拜大將軍,假節鉞,都督中外諸軍事,錄尚書事,與太尉司馬宣王並受遺詔輔少主。明帝崩,齊王即位,加爽侍中,改封武安侯,邑萬二千戸,賜劍履上殿,入朝不趨,贊拜不名。……初,爽以宣王年德並高,恆父事之,不敢專行。及晏等進用,咸共推戴,説爽以權重不宜委之於人。乃以晏・颺・謐爲尚書,晏典選舉,軌司隸校尉,勝河南尹,諸事希復由宣王。宣王遂稱疾避爽。晏等專政,共分割洛陽・野王典農部桑田數百頃,及壞湯沐地以爲產業,承勢竊取官物,因緣求欲州郡。有司望風,莫敢忤旨。……爽飲食車服,擬於乘輿。尚方珍玩,充牣其家。妻妾盈後庭,又私取先帝才人七八人,及將吏・師工・鼓吹・良家子女三十三人,皆以爲伎樂。詐作詔書,發才人五十七人送鄴臺,使先帝倢伃教習爲伎。擅取太樂樂器,武庫禁兵。作窟室,綺疏四周,數與晏等會其中,飲酒作樂。羲深以爲大憂,數諫止之。又著書三篇,陳驕淫盈溢之致禍敗,辭旨甚切,不敢斥爽,託戒諸弟以示爽。爽知其爲己發也,甚不悅。羲或時以諫喻不納,涕泣而起。宣王密爲之備。」
〔五〕同上
「初,張當私以所擇才人張・何等與爽。疑其有姦,收當治罪。當陳爽與晏等陰謀反逆,並先習兵,須三月中欲發,於是收晏等下獄。會公卿朝臣廷議,以爲「春秋之義,『君親無將,將而必誅』。爽以支屬,世蒙殊寵,親受先帝握手遺詔,託以天下,而包藏禍心,蔑棄顧命,乃與晏・颺及當等謀圖神器,範黨同罪人,皆爲大逆不道」。於是收爽・羲・訓・晏・颺・謐・軌・勝・範・當等,皆伏誅,夷三族。」
『三国志』魏書・少帝紀
「嘉平元年春正月甲午,車駕謁高平陵。太傅司馬宣王奏免大將軍曹爽・爽弟中領軍羲・武衞將軍訓・散騎常侍彥官,以侯就第。戊戌,有司奏收黃門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尚書丁謐・鄧颺・何晏・司隸校尉畢軌・荊州刺史李勝・大司農桓範皆與爽通姦謀,夷三族。語在爽傳。丙午,大赦。丁未,以太傅司馬宣王爲丞相,固讓乃止。」
〔六〕『漢書』五行志下之上・思羞・恆風
「行不解物,不長。」,顔師古「不解物,謂物逢之而不解散也。不長,所起者近也。」
〔七〕同上
『漢書』では「猋」ではなく「焱」に作る。「猋」は「飆」で,大風・旋風のこと。「焱」について顔師古註で同様の意味であるとする。
「厥風大焱發屋。」,顔師古「焱,疾風也,音必遙反。」
〔八〕同上
「辟不思道利,茲謂無澤。」,顔師古「道讀曰導,不思導示於下而安利之。」
〔九〕同上
「公常於利茲謂亂。」,顔師古「公,上爵也。常於利,謂心常求利也。」」
〔一〇〕【参照】の『漢書』を見よ。
【参照】
『漢書』五行志下之上・思羞・恆風
「釐公十六年「正月,六鶂退蜚,過宋都」。左氏傳曰「風也」。劉歆以爲風發於它所,至宋而高,鶂高蜚而逢之,則退。經以見者爲文,故記退蜚。傳以實應著,言風,常風之罰也。象宋襄公區霿自用,不容臣下,逆司馬子魚之諫,而與彊楚爭盟,後六年爲楚所執,應六鶂之數云。京房易傳曰「潛龍勿用,衆逆同志,至德乃潛,厥異風。其風也,行不解物,不長,雨小而傷。政悖德隱茲謂亂,厥風先風不雨,大風暴起,發屋折木。守義不進茲謂耄,厥風與雲俱起,折五穀莖。臣易上政,茲謂不順,厥風大焱發屋。賦斂不理茲謂禍,厥風絕經緯,止即溫,溫即蟲。侯專封茲謂不統,厥風疾,而樹不搖,穀不成。辟不思道利,茲謂無澤,厥風不搖木,旱無雲,傷禾。公常於利茲謂亂,厥風微而溫,生蟲蝗,害五穀。棄正作淫茲謂惑,厥風溫,螟蟲起,害有益人之物。侯不朝茲謂叛,厥風無恆,地變赤而殺人。」」
『宋書』五行志五・土・恒風
「魏齊王嘉平元年正月壬辰朔,西北大風,發屋折木,昏塵蔽天。按管輅説此爲時刑,大風,執政之憂也。是時曹爽區瞀自專,驕僭過度,天戒數見,終不改革。此思心不叡,恒風之罰也。後踰旬而爽等滅。京房易傳曰「眾逆同志,至德乃潛,厥異風。其風也,行不解,物不長,雨小而傷。政悖德隱,茲謂亂。厥風先風不雨,大風暴起,發屋折木。守義不進,茲謂眊。厥風與雲俱起,折五穀莖。臣易上政,茲謂不順。厥風大飈發屋。賦斂不理,茲謂禍。厥風絕經紀,止即溫,溫即蟲。侯專封,茲謂不統。厥風疾而樹不搖,穀不成。辟不思道利,茲謂無澤。厥風不搖木,旱無雲,傷禾。公常於利,茲謂亂。厥風微而溫,生蟲蝗,害五穀。棄正作淫,茲謂惑。厥風溫,螟蟲起,害有益人之物。侯不朝,茲謂叛。厥風無恒,地變赤,雨殺人。」

現代語訳

嘉平元年(249)正月一日,西北に大風が吹き,建物を壊し樹木を折り,暗い塵が天を蔽った。管輅の説を参照してみると,これは時刑(刑殺の気)であり,大臣の執政を憂慮しているのである。この時,曹爽は道理に昏く独断専行し,度を超えて驕りたかぶり身分を弁えず,天が戒しめてしばしば(そのことを)示したが,とうとう改めなかった,これは心が寛大でないということであり,恒風の罰である。後に十日余り過ぎて曹爽らは誅滅された。京房『易傳』では「大勢の逆賊がその志を同じくし,有徳の人はかくて隠棲する,その異変は風である。その風というのは,吹いていても物をばらばらにしない,遠くないところで発生し,雨が少ないのに(植物を)傷う。政治は乱れ徳のある人物は姿を隠す,これを「乱」といい,その風はまず風があって雨がふらず,大風が突然起こって,建物を壊して木を折る。正義を守っても進まない,これを「眊」といい,その風は雲と一緒に起こり,五穀の茎を折る。臣下が上の者の政治を(勝手に)変える,これを「不順」といい,その風は大きなつむじかぜで建物を壊す。税の徴収が道理に合っていない,これを禍といい,その風は(布の糸を切るように)綱紀を絶やしてしまう,止めばただちに暖かくなり,暖かくなるとただちに虫がわく。諸侯が領地を我が物とする,これを「不統」といい,その風は疾いのに樹が揺れず,穀物が実らない。君主が(下々を)教え導いて安楽にすることを思わない,これを「無沢」といい,その風は木を揺すらず,日照になって雲が無く,稲を傷う。公の爵位を持つ者が常に利益を求めている,これを「乱」といい,その風は微かで暖かく,蟲蝗(いなご)を生み,五穀を損なう。政治を放棄して淫行をなす,これを「惑」といい,その風は暖かく,稲につく螟蟲(ずいむし)が湧き,人に役立つ物を害す。諸侯が朝見しない,これを「畔」といい,その風は一定でない,地面が赤色に変わり,雨が人を殺す。」と言う。

原文

呉孫權太元元年八月朔,大風,江海涌溢,平地水深八尺,拔高陵樹二千株,石碑蹉動,吳城兩門飛落。案華覈對,役繁賦重,區霿不容之罰也。明年,權薨。

訓読

呉孫權太元元年八月朔,大いに風あり,江海涌溢し,地を平らかにし水の深きこと八尺,高陵の樹 二千株を拔き,石碑蹉動し,吳城の兩門飛落す〔一〕。華覈の對を案ずるに,役繁く賦重し,區霿不容の罰なり〔二〕。明年,權薨ず〔三〕。

〔一〕『晋書斠注』は『宋書』では「二千株」が「二株」,『三国志』の呉主伝では「呉城両門」が「郡城南門」になっていると指摘する。(『宋書』は【参照】を見よ)
 なお,同様の記事は『捜神記』にも見られる。
『捜神記』巻六
「吳孫權太元元年八月朔,大風,江海涌溢,平地水深八尺,拔高陵樹二千株,石碑差動,吳城兩門飛落。明年權死。」
『三国志』呉書・孫権伝・大元元年
「秋八月朔,大風,江海涌溢,平地深八尺,吳高陵松柏斯拔,郡城南門飛落。」
〔二〕華覈の上奏と関係があるかどうかはわからないが,この年の十二月に兵役や税金を軽くするよう詔を下している。なお,華覈伝を参照しても孫権の治世での記事は少なく,肝心の上奏の内容は不詳。
同上
「十二月,驛徵大將軍恪,拜爲太子太傅。詔省徭役,減征賦,除民所患苦。」
〔三〕同上 大元二年
「夏四月,權薨,時年七十一,諡曰大皇帝。」
【参照】
『宋書』五行五・土・恒風
「呉孫權太元元年八月朔,大風,江海涌溢,平地水深八尺,拔高陵樹二株,石碑磋動,呉城兩門飛落。按華覈對,役繁賦重,區瞀不叡之罰也。明年,權薨。」

現代語訳

呉の孫権の太元元年(251)八月一日,大風が吹き,長江と海から水があふれ,地面を平たくして水が八尺(魏晋の一尺は約24.2cm。八尺は2メートル弱)もの深さになり,高陵(孫堅の陵墓)の樹の二千株を抜き,石碑が(本来の位置から)動いてしまい,呉の城のふたつの門が吹き飛んで落ちた。華覈の上奏を考えてみると,(当時は)兵役が頻繁で税が重かった,君主が道理に昏く寛大でないことの罰である。明年,孫権が身罷った。

原文

孫亮建興元年十二月丙申〔一〕,大風震電。是歲,魏遣大眾三道來攻,諸葛恪破其東興軍,二軍亦退。明年,恪又攻新城,喪眾太半,還,伏誅。

訓読

孫亮建興元年十二月丙申,大風震電あり。是の歲,魏 大眾を三道に遣わして來攻す,諸葛恪其の東興軍を破り,二軍も亦た退く〔二〕。明年,恪又た新城を攻め,眾を喪う太半,還りて,誅に伏す〔三〕。

〔一〕『晋書斠注』本文は「景申」となっているが,これは唐の高祖の父「李昞」の避諱であり,今「丙申」に改む。
〔二〕『三国志』呉書・孫亮伝・建興元年
「冬十月,太傅恪率軍遏巢湖,城東興,使將軍全端守西城,都尉留略守東城。十二月朔丙申,大風雷電,魏使將軍諸葛誕・胡遵等步騎七萬圍東興,將軍王昶攻南郡,毌丘儉向武昌。甲寅,恪以大兵赴敵。戊午,兵及東興,交戰,大破魏軍,殺將軍韓綜・桓嘉等。」
『三国志』魏書・斉王芳紀・嘉平四年
「冬十一月,詔征南大將軍王昶・征東將軍胡遵・鎮南將軍毌丘儉等征呉。十二月,呉大將軍諸葛恪拒戰,大破眾軍于東關。不利而還。」
〔三〕『三国志』呉書・孫亮伝・建興二年
「三月,恪率軍伐魏。夏四月,圍新城,大疫,兵卒死者大半。秋八月,恪引軍還。冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻爲丞相,封富春侯。」
『三国志』魏書・斉王芳紀・嘉平五年
「五月,呉太傅諸葛恪圍合肥新城,詔太尉司馬孚拒之。秋七月,恪退還。
魏略曰特字子產,涿郡人。先時領牙門,給事鎮東諸葛誕,誕不以爲能也,欲遣還護軍。會毌丘儉代誕,遂使特屯守合肥新城。及諸葛恪圍城,特與將軍樂方等三軍眾合有三千人,吏兵疾病及戰死者過半,而恪起土山急攻,城將陷,不可護。特乃謂呉人曰「今我無心復戰也。然魏法,被攻過百日而救不至者,雖降,家不坐也。自受敵以來,已九十餘日矣。此城中本有四千餘人,而戰死者已過半,城雖陷,尚有半人不欲降,我當還爲相語之,條名別善惡,明日早送名,且持我印綬去以爲信。」乃投其印綬以與之。呉人聽其辭而不取印綬。不攻。頃之,特還,乃夜徹諸屋材柵,補其缺爲二重。明日,謂呉人曰「我但有鬭死耳」呉人大怒,進攻之,不能拔,遂引去。朝廷嘉之,加雜號將軍,封列侯,又遷安豐太守。
【参照】
『宋書』五行五・土・恒風
「呉孫亮建興元年十二月丙申,大風震電。是歳,魏遣大眾三道來攻,諸葛恪破其東興軍,二軍亦退。明年,恪又攻新城,喪眾太半,還伏誅。」

現代語訳

孫亮の建興元年(252)十二月丙申,大風と雷があった。この歳,魏が大軍を三つの経路に派遣して侵攻したが,諸葛恪が魏軍のうちの東興軍を破り,残り二軍も退却した。明年,諸葛恪がさらに新城を攻めたが,軍の大部分を失い,帰還して,誅された。

原文

孫休永安元年十一月甲午,風四轉五復,蒙霧連日。是時,孫綝一門五侯,權傾呉主,風霧之災,與漢五侯・丁・傅同應也。十二月丁卯夜,有大風,發木揚沙。明日,綝誅。

訓読

孫休永安元年十一月甲午,風 四轉五復し,蒙霧すること連日。是の時,孫綝一門五侯,權は呉主を傾く〔一〕,風霧の災,漢の五侯・丁・傅と應を同じくするなり〔二〕。十二月丁卯夜,大風有り,木を發し沙を揚ぐ。明日,綝誅せらる〔三〕。

〔一〕『三国志』呉書・孫休伝
「孫亮廢,己未,孫綝使宗正孫楷與中書郎董朝迎休。」
「永安元年冬十月壬午,詔曰「夫褒德賞功,古今通義。其以大將軍綝爲丞相・荊州牧,增食五縣。武衞將軍恩爲御史大夫・衞將軍・中軍督,封縣侯。威遠將軍爲右將軍・縣侯。偏將軍幹雜號將軍・亭侯。長水校尉張布輔導勤勞,以布爲輔義將軍,封永康侯。董朝親迎,封爲鄉侯。……十一月甲午,風四轉五復,蒙霧連日。綝一門五侯皆典禁兵,權傾人主,有所陳述,敬而不違,於是益恣。休恐其有變,數加賞賜。」
『三国志』呉書・孫綝伝
「綝以孫亮始親政事,多所難問,甚懼。還建業,稱疾不朝,築室于朱雀橋南,使弟威遠將軍據入蒼龍宿衞,弟武衞將軍恩・偏將軍幹・長水校尉闓分屯諸營,欲以專朝自固。……亮遂與公主魯班・太常全尚・將軍劉承議誅綝。亮𡚱,綝從姊女也,以其謀告綝。綝率眾夜襲全尚,遣弟恩殺劉承於蒼龍門外,遂圍宮。使光祿勳孟宗告廟廢亮……恩爲御史大夫・衛將軍,據右將軍,皆縣侯。幹雜號將軍・亭侯,闓亦封亭侯。綝一門五侯,皆典禁兵,權傾人主,自呉國朝臣未嘗有也。」
〔二〕『漢書』五行志下之上・思羞・黄眚黄祥
「成帝建始元年四月辛丑夜,西北有如火光。壬寅晨,大風從西北起,雲氣赤黃,四塞天下,終日夜下著地者黃土塵也。是歲,帝元舅大司馬大將軍王鳳始用事。又封鳳母弟崇爲安成侯,食邑戸。庶弟譚等五人賜爵關内侯,食邑三千戸。復益封鳳五千戸,悉封譚等爲列侯,是爲五侯。哀帝即位,封外屬丁氏・傅氏・周氏・鄭氏凡六人爲列侯。楊宣對曰「五侯封日,天氣赤黃,丁・傅復然。此殆爵土過制,傷亂土氣之祥也。」京房易傳曰「經稱『觀其生』,言大臣之義,當觀賢人,知其性行,推而貢之,否則爲聞善不與,茲謂不知,厥異黃,厥咎聾,厥災不嗣。黃者,日上黃光不散如火然,有黃濁氣四塞天下。蔽賢絕道,故災異至絕世也。經曰『良馬逐』。逐,進也,言大臣得賢者謀,當顯進其人,否則爲下相攘善,茲謂盜明,厥咎亦不嗣,至於身僇家絕。」」
〔三〕『三国志』呉書・孫綝伝
「永安元年十二月丁卯,建業中謠言明會有變,綝聞之,不悅。夜大風發木揚沙,綝益恐。戊辰腊會,綝稱疾。休彊起之,使者十餘輩,綝不得已,將入,眾止焉。綝曰「國家屢有命,不可辭。可豫整兵,令府内起火,因是可得速還。」遂入,尋而火起,綝求出,休曰「外兵自多,不足煩丞相也。」綝起離席,奉・布目左右縛之。綝叩首曰「願徙交州。」休曰「卿何以不徙滕胤・呂據」綝復曰「願沒爲官奴。」休曰「何不以胤・據爲奴乎」遂斬之。以綝首令其眾曰「諸與綝同謀皆赦。」放仗者五千人。闓乘船欲北降,追殺之。夷三族。」
『三国志』呉書・孫休伝・永安元年
「頃之,休聞綝逆謀,陰與張布圖計。十二月戊辰臘,百僚朝賀,公卿升殿,詔武士縛綝,即日伏誅。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「吳孫休永安元年十一月甲午,風四轉五,復蒙霧連日。是時孫綝一門五侯,權傾吳主,風霧之災,與漢五侯・丁・傅同應也。十二月丁卯夜,又大風,發木揚沙。明日,綝誅。」

現代語訳

孫休の永安元年(258)十一月甲午,風向きが目まぐるしく変わり,連日霧で蔽われた。この時,孫綝一門から出た五人の侯は,その権勢は孫休を凌いでおり,風と霧の災いは,漢の五侯・丁氏・傅氏の時と同じ応である。十二月丁卯の夜,大風があり,木を折り砂を吹き上げた。明くる日,孫綝は誅された。

原文

武帝泰始五年五月辛卯朔,廣平大風,折木〔一〕。

訓読

武帝泰始五年五月辛卯朔,廣平に大風あり,木を折る。

〔一〕『晋書斠注』の原文は「本」だが、『宋書』に従い「木」に改める。
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉武帝泰始五年五月辛卯朔,廣平大風折木。」

現代語訳

武帝の泰始五年(269)五月一日,廣平に大風があり,木を折った。

原文

咸寧元年五月,下邳・廣陵大風,壞千餘家,折樹木。其月甲申,廣陵・司吾・下邳大風,折木。
三年八月,河間大風,折木。

訓読

咸寧元年五月,下邳・廣陵に大風あり,千餘家を壞し,樹木を折る〔一〕。其の月甲申,廣陵・司吾・下邳に大風あり,木を折る。
三年八月,河間に大風あり,木を折る〔二〕。

〔一〕『晋書』武帝本紀・咸寧元年
「夏五月,下邳・廣陵大風,拔木,壞廬舍。」
〔二〕同上咸寧三年八月
「大風拔樹,暴寒且冰,郡國五隕霜,傷穀。」
中華書局の校注では,『晋書』・『宋書』五行志の記事から「大風」の前に「河間」の二字が脱落しているのではないかと指摘されている。
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉武帝咸寧元年五月,下邳・廣陵大風,壞千餘家,折樹木。
咸寧元年五月甲申,廣陵・司吾・下邳大風折木。
咸寧三年八月,河間大風折木。」

現代語訳

咸寧元年(275)五月,下邳・廣陵に大風が吹き,千あまりの家を壊し,樹木を折った。その月の甲申の日,廣陵・司吾・下邳に大風が吹き,木を折った。
三年八月,河間に大風が吹き,木を折った。

原文

太康二年五月,濟南暴風,折木,傷麥。六月,高平大風,折木,發壞邸閣四十餘區。七月,上黨又大風,傷秋稼。
八年六月,郡國八大風。
九年正月,京都風雹,發屋拔樹。後二年,宮車晏駕。

訓読

太康二年五月,濟南に暴風あり,木を折り,麥を傷ふ。六月,高平に大風あり,木を折り,邸閣四十餘區を發壞す。七月,上黨に又た大風あり,秋稼を傷う〔一〕。
八年六月,郡國八に風あり〔二〕。
九年正月,京都に風雹あり,屋を發し樹を拔く。後二年,宮車晏駕す〔三〕。

〔一〕『晋書』武帝本紀・太康二年
「夏六月,東夷五國内附。郡國十六雨雹,大風拔樹,壞百姓廬舍。
秋七月,上黨又暴風雨雹,傷秋稼。」
五月の記事はなし。
〔二〕同上・八年
「六月,魯國大風,拔樹木,壞百姓廬舍。郡國八大水。」
この記事では大風があったのは魯国で,八つの郡国では大水があったことになっている。
〔三〕同上・太熙元年(290)四月
「己酉,帝崩于含章殿,時年五十五,葬峻陽陵,廟號世祖。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉武帝太康二年五月,濟南大風,折木傷麥。
太康二年六月,高平大風折木,發壞邸閣四十餘區。
太康八年六月,郡國八大風。
太康九年正月,京都風雹,發屋拔木。後二年,宮車晏駕。」

現代語訳

太康二年(281)五月,済南郡に暴風があり,木を折り,麦を損なった。六月,高平郡に大風があり,木を折り,穀物倉庫四十あまりを壊した。七月,上党郡にまた大風があり,秋に収穫する穀物を損なった。
八年(287)六月,八つの郡国に大風があった。
九年(288)正月,みやこに風と雹があり,建物を壊し樹木を抜いた。二年後,武帝が崩御した。

原文

惠帝元康四年六月,大風雨,拔木。
五年四月庚寅夜,暴風,城東渠波浪殺人。七月,下邳大風,壞廬舍。九月,雁門・新興・太原・上黨災風傷稼。明年,氐羌反叛,大兵西討。
九年六月,飆風吹賈謐朝服飛數百丈。明年,謐誅。十一月甲子朔,京都連大風,發屋折木。十二月,愍懷太子廢,幽于許昌。

訓読

惠帝元康四年〔一〕六月,大いに風雨あり,木を拔く。
五年四月庚寅夜,暴風あり,城東の渠の波浪 人を殺す。七月,下邳に大風あり,廬舍を壞す。九月,雁門・新興・太原・上黨に災風ありて稼を傷ふ〔二〕。明年,氐羌反叛し,大兵西討す〔三〕。
九年六月,飆風 賈謐の朝服を吹きて飛ばすこと數百丈〔四〕。明年,謐誅さる〔五〕。十一月甲子朔,京都に連りに大風あり,屋を發し木を折る。十二月,愍懷太子廢され,許昌に幽せらる〔六〕。

〔一〕『晋書』恵帝本紀・永平元年の中華書局校注に次のようにあり,以下注釈に引く本紀の「永平」は「元康」と読み替えるものとする。
「永平元年 是年三月又改元「元康」,依例應作「元康元年」。此仍作「永平」,則三月改元後應出「元康」年號,使讀者明白自此以下至九年皆「元康之年」。紀文此處既用「永平」,下文又不出「元康」,似自此至九年皆屬「永平」矣。此為史例之失。」
〔二〕『晋書』恵帝本紀・永平五年
「秋七月,下邳暴風,壞廬舍。
九月,雁門・新興・太原・上黨大風,傷禾稼。」
四年の六月,五年四月の記事はなし。
〔三〕同上・六年
「五月,荊・揚二州大水。匈奴郝散弟度元帥馮翊・北地馬蘭羌・盧水胡反,攻北地,太守張損死之。馮翊太守歐陽建與度元戰,建敗績。徵征西大將軍・趙王倫爲車騎將軍,以太子太保・梁王肜爲征西大將軍・都督雍梁二州諸軍事,鎮關中。」
なおこの前月の四月に大風があったという記事もあるが、五行志では指摘されていない。
〔四〕『晋書』賈謐伝
「及爲常侍,侍講東宮,太子意有不悅,謐患之。而其家數有妖異,飄風吹其朝服飛上數百丈,墜於中丞臺,又蛇出其被中,夜暴雷震其室,柱陷入地,壓毀牀帳,謐益恐。及遷侍中,專掌禁内,遂與后成謀,誣陷太子。及趙王倫廢后,以詔召謐於殿前,將戮之。走入西鍾下,呼曰「阿后救我」乃就斬之。韓壽少弟蔚有器望,及壽兄鞏令保・弟散騎侍郎預・呉王友鑒・謐母賈午皆伏誅。」
〔五〕『晋書』恵帝本紀・永康元年
「夏四月辛卯,日有蝕之。癸巳,梁王肜・趙王倫矯詔廢賈后爲庶人,司空張華・尚書僕射裴頠皆遇害,侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。」
〔六〕『晋書』恵帝本紀・永平九年
「冬十一月甲子朔,日有蝕之。京師大風,發屋折木。
十二月壬戌,廢皇太子遹爲庶人,及其三子幽于金墉城,殺太子母謝氏。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉惠帝元康四年六月,大風雨拔樹。
元康五年四月庚寅夜,暴風,城東渠波浪。七月,下邳大風,壞廬舍。九月,雁門・新興・太原・上黨災風傷稼。明年,氐・羌反叛,大兵西討。
元康九年六月,飈風吹賈謐朝服飛數百丈。明年,謐誅。
元康九年十一月甲子朔,京都連大風,發屋折木。十二月,太子廢。」

現代語訳

恵帝の元康四年(294)六月,強い雨風があり,木を抜いた。
五年(295)四月庚寅の夜,暴風があり,城東の水路から起こった波が人を殺した。七月,下邳に大風があり,住宅を壊した。九月,雁門・新興・太原・上党に災風があり作物を損なった。明年,氐族と羌族が反乱を起こし,大軍が西方を討伐した。
九年六月,つむじ風が賈謐の朝服(朝廷に出仕する際に着る官吏の服)に吹きつけ数百丈(魏晋の一丈は約242cm)飛んでいった。明くる年,謐は誅された。十一月一日,みやこに立て続けに大風があり,建物を壊し木を折った。十二月,愍懷太子が廃され,許昌に幽閉された。

原文

永康元年二月,大風拔木。三月,愍懷被害。己卯,喪柩發許昌還洛。是日,又大風雷電,幃蓋飛裂。四月,張華第舍飆風起,折木飛繒,折軸六七。是月,華遇害。十一月戊午朔,大風從西北來,折木飛沙石,六日止。明年正月,趙王倫篡位。

訓読

永康元年二月,大風ありて木を拔く〔一〕。三月,愍懷害せらる〔二〕。己卯,喪柩 許昌より發し洛に還る。是の日,又た大いに風雷電あり,幃蓋飛裂す〔三〕。四月,張華の第舍に飆風起こり,木を折り繒を飛ばし,軸の六七を折る。是の月,華 害に遇う〔四〕。十一月戊午朔,大風西北從り來たり,木を折り沙石を飛ばし,六日にして止む〔五〕。明年正月,趙王倫 位を篡す〔六〕。

〔一〕『晋書』恵帝紀・永康元年
「二月丁酉,大風,飛沙拔木。」
〔二〕同上
「三月,尉氏雨血,妖星見于南方。癸未,賈后矯詔害庶人遹于許昌。」
『晋書』惠賈皇后伝
「及太子廢黜,趙王倫・孫秀等因眾怨謀欲廢后。后數遣宮婢微服於人間視聽,其謀頗泄。后甚懼,遂害太子,以絕衆望。」
〔三〕『晋書』愍懷太子伝
「喪之發也,大風雷電,幃蓋飛裂。」
〔四〕『晋書』恵帝紀・永康元年
「夏四月辛卯,日有蝕之。癸巳,梁王肜・趙王倫矯詔廢賈后爲庶人,司空張華・尚書僕射裴頠皆遇害,侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。」
『晋書』張華伝
「初,華所封壯武郡有桑化爲柏,識者以爲不祥。又華第舍及監省數有妖怪。少子韙以中台星坼,勸華遜位。華不從,曰「天道玄遠,惟修德以應之耳。不如靜以待之,以俟天命。」及倫・秀將廢賈后,秀使司馬雅夜告華曰「今社稷將危,趙王欲與公共匡朝廷,爲霸者之事。」華知秀等必成篡奪,乃距之。雅怒曰「刃將加頸,而吐言如此」不顧而出。華方晝臥,忽夢見屋壞,覺而惡之。是夜難作,詐稱詔召華,遂與裴頠俱被收。華將死,謂張林曰「卿欲害忠臣耶」林稱詔詰之曰「卿爲宰相,任天下事,太子之廢,不能死節,何也」華曰「式乾之議,臣諫事具存,非不諫也。」林曰「諫若不從,何不去位」華不能答。須臾,使者至曰「詔斬公。」華曰「臣先帝老臣,中心如丹。臣不愛死,懼王室之難,禍不可測也。」遂害之於前殿馬道南,夷三族,朝野莫不悲痛之。時年六十九。」
〔五〕『晋書』恵帝紀・永康元年(301)
「十一月戊午,大風飛沙石,六日乃止。」
〔六〕『晋書』恵帝紀・永寧元年(302)
「永寧元年春正月乙丑,趙王倫篡帝位。丙寅,遷帝于金墉城,號曰太上皇,改金墉曰永昌宮。廢皇太孫臧爲濮陽王。五星經天,縱橫無常。癸酉,倫害濮陽王臧。略陽流人李特殺趙廞,傳首京師。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉惠帝永康元年二月,大風拔木。三月,愍懷被害。己卯,喪柩發許還洛,是日,大風雷電,幃蓋飛裂。
永康元年四月,張華第舍飈風折木,飛繒軸六七。是月,華遇害。
永康元年十一月戊午朔,大風從西北來,折木飛石。明年正月,趙王倫篡位。」

現代語訳

永康元年(300)二月,大風があり木を抜いた。三月,愍懷太子が殺害された。己卯,柩が許昌を発ち洛陽に帰った。この日,さらに大風と雷があり,棺にかける蔽いと天蓋が飛んで裂けた。四月,張華の邸宅につむじ風が起こり,木を折り絹織物を飛ばし,(その)六七本の軸を折った。この月,張華は殺害された。十一月一日,大風が西北より吹いてきて,木を折り砂や石を飛ばし,六日経って止んだ。明くる年の正月,趙王の司馬倫が帝位を簒奪した。

原文

永寧元年八月,郡國三大風。

訓読

永寧元年八月,郡國三に大風あり。

現代語訳

永寧元年(301)八月,三つの郡国に大風があった。

原文

永興元年正月乙丑,西北大風。趙王倫建始元年正月癸酉,趙王倫祠太廟,災風暴起,塵四合。其年四月,倫伏辜。

訓読

永興元年正月乙丑,西北に大風あり。趙王倫建始元年正月癸酉,趙王倫 太廟を祠るに,災風暴かに起こり,四合に塵す〔一〕。其の年四月,倫 辜に伏す〔二〕。

〔一〕『晋書』趙王倫伝
「乃僭即帝位,大赦,改元建始。……倫親祠太廟,還,遇大風,飄折麾蓋。孫秀既立非常之事,倫敬重焉。秀住文帝爲相國時所居内府,事無巨細,必諮而後行。倫之詔令,秀輒改革,有所與奪,自書青紙爲詔,或朝行夕改者數四,百官轉易如流矣。時有雉入殿中,自太極東階上殿,驅之,更飛西鍾下,有頃,飛去。又倫於殿上得異鳥,問皆不知名,累日向夕,宮西有素衣小兒言是服劉鳥。倫使錄小兒并鳥閉置牢室,明旦開視,戸如故,並失人鳥所在。倫目上有瘤,時以爲妖焉。」
〔二〕『晋書』恵帝紀・永寧元年(301)
「於是大赦,改元,孤寡賜穀五斛,大酺五日。誅趙王倫・義陽王威・九門侯質等及倫之黨與。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉惠帝永興元年正月癸酉,趙王倫祠太廟,災風暴起,塵沙四合。其年四月,倫伏辜。」

現代語訳

永興元年(304)正月乙丑,西北に大風があった。趙王司馬倫の建始元年正月癸酉,趙王の司馬倫が太廟を祀ると,災風が突然起こり,四方が塵に蔽われた。その年の四月,司馬倫は罪に服した。

原文

元帝永昌元年七月丙寅,大風拔木,屋瓦皆飛。八月,暴風壞屋,拔御道柳樹百餘株。其風縱橫無常,若風自八方來者。是時,王敦專權,害尚書令刁協・僕射周顗等,故風縱橫若非一處也。此臣易上政,諸侯不朝之罰也。十一月,宮車晏駕。

訓読

元帝永昌元年七月丙寅,大風ありて木を拔く,屋瓦皆な飛ぶ。八月,暴風屋を壞し,御道の柳樹百餘株を拔く。其の風縱橫常無く,風八方自り來たる者の若し。是の時,王敦 權を專らにし,尚書令刁協・僕射周顗等を害す〔一〕,故に風縱橫にして一處に非ざるが若きなり。此れ臣 上政を易ふ,諸侯朝せざるの罰なり。十一月,宮車晏駕す〔二〕。

〔一〕『晋書』元帝紀・永昌元年
「四月,敦前鋒攻石頭,周札開城門應之,奮威將軍侯禮死之。敦據石頭,戴若思・劉隗帥眾攻之,王導・周顗・郭逸・虞潭等三道出戰,六軍敗績。尚書令刁協奔於江乘,爲賊所害。……丙子,驃騎將軍・秣陵侯戴若思,尚書左僕射・護軍將軍・武城侯周顗爲敦所害。」
〔二〕同上
「十一月,以司徒荀組爲太尉。己酉,太尉荀組薨。罷司徒,并丞相。閏月己丑,帝崩于内殿,時年四十七,葬建平陵,廟號中宗。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉元帝永昌元年七月丙寅,大風拔木,屋瓦皆飛。
永昌元年八月,暴風壞屋,拔御道柳樹百餘株。其風縱橫無常,若風自八方來者。十一月,宮車晏駕。」

現代語訳

元帝永昌元年(322)七月丙寅,大風があり木を抜き,屋根や瓦は全て吹き飛んだ。八月,暴風が建物を壊し,御道に生えていた柳を百株あまり抜いた。その風は縦横無尽に吹いて一定でなく,風が八方から吹いてくるようだった。この時,王敦は専権を振るい,尚書令の刁協・僕射の周顗等を殺害した,ゆえに風は縦横無尽で一方向ではないようなものなのだ。これは臣下が目上の者の政治を変えており,諸侯が朝見しない罰である。十一月,元帝が崩御した。

原文

成帝咸康四年三月壬辰,成都大風,發屋折木。四月,李壽襲殺李期,自立。

訓読

成帝咸康四年三月壬辰,成都に大風あり,屋を發し木を折る。四月,李壽 李期を襲殺し,自ら立つ〔一〕。

〔一〕『晋書』成帝紀・咸康四年
「夏四月,李壽弒李期,僭即僞位,國號漢。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉成帝咸康四年三月壬辰,成都大風,發屋折木。四月,李壽襲殺李期。」

現代語訳

成帝の咸康四年(338)三月壬辰,成都に大風があり,建物を壊し木を折った。四月,李壽が李期を不意打ちして殺し,自ら即位した。

原文

康帝建元元年七月庚申,晉陵・呉郡災風。

訓読

康帝建元元年七月庚申,晉陵・呉郡に災風あり〔一〕。

〔一〕『晋書』康帝紀・建元元年七月
「庚申,晉陵・吳郡災。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉康帝建元元年七月庚申,晉陵・吳郡災風。」

現代語訳

康帝の建元元年(343)七月庚申,晉陵・呉郡に災風があった。

原文

穆帝升平元年八月丁未,策立皇后何氏。是日,疾風。後桓玄篡位,乃降后爲零陵縣君,不睿之罰也。
五年正月戊戌〔一〕朔,疾風。

訓読

穆帝升平元年八月丁未,皇后何氏を策立す〔二〕。是の日,疾風あり。後桓玄 位を篡し,乃ち后を降して零陵縣君と爲す〔三〕,不睿の罰なり。
五年正月戊戌朔,疾風あり。

〔一〕『晋書斠注』本文では「戊午」としており,注で『宋書』五行志では「戊戌」であると指摘する。陳垣『二十史朔閏表』では升平五年正月は「戊戌朔」である。
〔二〕『晋書』穆帝紀・升平元年
「八月丁未,立皇后何氏,大赦,賜孝悌鰥寡米,人五斛,逋租宿債皆勿收,大酺三日。」
〔二〕『晋書』桓玄伝
「於是大赦,改元永始,賜天下爵二級,孝悌力田人三級,鰥寡孤獨不能自存者穀人五斛。……又下書曰「夫三恪作賓,有自來矣。爰暨漢魏,咸建疆宇。晉氏欽若曆數,禪位于朕躬,宜則是古訓,授茲茅土。以南康之平固縣奉晉帝爲平固王,車旗正朔一如舊典。」遷帝居尋陽,即陳留王處鄴宮故事。降永安皇后爲零陵君,琅邪王爲石陽縣公,武陵王遵爲彭澤縣侯。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉穆帝升平元年八月丁未,策立皇后何氏。是日疾風。
升平五年正月戊戌朔,疾風。」

現代語訳

穆帝の升平元年(357)八月丁未,皇后何氏を立てた。この日,疾風が起こった。この後桓玄が帝位を篡奪し,そして皇后を廃立して零陵縣君とした,不睿の罰である。
五年(361)正月戊戌一日,疾風が起こった。

原文

海西公太和六年二月,大風迅急,是年被廢。

訓読

海西公太和六年二月,大風迅急なり,是の年廢せらる〔一〕。

〔一〕『晋書』廃帝海西公紀・太和六年
「咸安二年正月,降封帝爲海西縣公。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉海西公太和六年二月,大風迅急。」

現代語訳

海西公の太和六年(371)二月,大風が激しく吹きつけた,この年皇帝(海西公)は廃立された。

原文

孝武帝寧康元年三月,京都大風,火大起。是時,桓溫入朝,志在陵上,帝又幼少,人懷憂恐,斯不睿之徵也。
三年三月戊申朔,暴風迅起,從丑上來,須臾逆轉,從子上來,飛沙揚礫。

訓読

孝武帝寧康元年三月,京都に大風あり,火大いに起こる。是の時,桓溫入朝し,志 上を陵ぐに在り〔一〕,帝又た幼少なれば〔二〕,人 憂恐を懷く,斯れ不睿の徵なり。
三年三月戊申朔,暴風迅起し,丑より上り來たり,須臾にして逆轉し,子より上り來たり,沙を飛ばし礫を揚ぐ。

〔一〕『晋書』桓温伝
「及孝武即位,詔曰「先帝遺敕云『事大司馬如事吾。』令答表便可盡敬。」又詔「大司馬社稷所寄,先帝託以家國,内外眾事便就關公施行。」復遣謝安徵溫入輔,加前部羽葆鼓吹,武賁六十人,溫讓不受。及溫入朝,赴山陵,詔曰「公勳德尊重,師保朕躬,兼有風患,其無敬。」又敕尚書安等於新亭奉迎,百僚皆拜于道側。當時豫有位望者咸戰慴失色,或云因此殺王・謝,内外懷懼。」
〔二〕『晋書』孝武帝紀・太元二十一年
「帝幼稱聰悟。簡文之崩也,時年十歲」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉孝武帝寧康元年三月戊申朔,暴風迅起,從丑上來,須臾轉從子上來,飛沙揚礫。」

現代語訳

孝武帝の寧康元年(373)三月,みやこに大風があり,ひどい火災が起こった。この時,桓溫が入朝したが,皇帝を凌ぐことを志しており,そのうえ孝武帝は幼なかったので,人びとは憂いや恐れを抱いた,通暁していないことのしるしである。
三年(375)三月戊申一日,暴風が突然発生し,丑の方角(北東)から吹き上がってきて,少しすると風向が変わり,子の方角(北)から吹き上がってきて,砂や小石を巻き上げた。

原文

太元二年二月乙丑朔,暴風折木。閏三月甲子朔,暴風疾雨俱至,發屋折木。
三年六月,長安大風,拔苻堅宮中樹。其後,堅再南伐,遂有淝水之敗,身戮國亡。
四年八月乙未,暴風揚沙石。

訓読

太元二年二月乙丑朔,暴風木を折る。閏三月甲子朔,暴風疾雨俱に至る,屋を發し木を折る〔一〕。
三年六月,長安に大風あり,苻堅の宮中の樹を拔く。其の後,堅再び南伐し,遂に淝水の敗有り,身は戮し國は亡ぶ〔二〕。
四年八月乙未,暴風 沙石を揚ぐ〔三〕。

〔一〕『晋書』孝武帝紀・太元二年
「閏月壬午,地震。甲申,暴風,折木發屋。」
〔二〕『晋書』苻堅伝上
「太元四年,晉兗州刺史謝玄率眾數萬次于泗汭,將救彭城。苻丕陷襄陽,執南中郎將朱序,送于長安,堅署爲度支尚書。以其中壘梁成爲南中郎將・都督荊揚州諸軍事・荊州刺史,領護南蠻校尉,配兵一萬鎮襄陽,以征南府器仗給之。彭超圍彭城也,置輜重於留城。」
『晋書』苻堅伝下
「……時張蚝敗謝石於肥南,謝玄・謝琰勒卒數萬,陣以待之。蚝乃退,列陣逼肥水。王師不得渡,遣使謂融曰「君懸軍深入,置陣逼水,此持久之計,豈欲戰者乎。若小退師,令將士周旋,僕與君公緩轡而觀之,不亦美乎」融於是麾軍卻陣,卻因其濟水,覆而取之。軍遂奔退,制之不可止。融馳騎略陣,馬倒被殺,軍遂大敗。王師乘勝追擊,至於青岡,死者相枕。堅爲流矢所中,單騎遁還於淮北,飢甚,人有進壺飧豚髀者,堅食之,大悅,曰「昔公孫豆粥何以加也」命賜帛十匹,緜十斤。
……堅既不許萇以禪代,罵而求死,萇乃縊堅於新平佛寺中,時年四十八。中山公詵及張夫人並自殺。是歲,太元十年也。」
〔三〕『晋書』孝武帝紀・太元四年
「秋八月丁亥,以左將軍王蘊爲尚書僕射。乙未,暴風,揚沙石。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉孝武帝太元元年二月乙丑朔,暴風折木。
太元二年閏三月甲子朔,暴風疾雨俱至,發屋折木。
太元二年六月,長安大風拔苻堅宮中樹。其後堅再南伐,身戮國亡。
太元四年八月乙未,暴風。」

現代語訳

太元二年(377)二月乙丑朔日,暴風が木を折った。閏三月甲子朔日,暴風と激しい雨が一緒にやってきて,建物を壊し木を折った。
三年(378)六月,長安に大風があり,苻堅の宮中の樹を抜いた。その後,苻堅再び南方を征伐し,その結果淝水での敗戦があり,自身は殺され国は滅んだ。
四年(379)八月乙未,暴風が砂や石を巻き上げた。

原文

十二年正月壬子夜,暴風。七月甲辰,大風折木。
十三年十二月乙未,大風,晝晦。其後帝崩而諸侯違命,權奪於元顯,禍成於桓玄,是其應也。
十七年六月乙卯,大風折木。

訓読

十二年正月壬子夜,暴風あり〔一〕。七月甲辰,大風 木を折る。
十三年十二月乙未,大風あり,晝晦し〔二〕。其の後帝崩じて諸侯命に違ふ,權は元顯に奪われ,禍は桓玄に成る,是れ其の應なり〔三〕。
十七年六月乙卯,大風 木を折る〔四〕。

〔一〕『晋書』孝武帝紀・太元十二年正月
「壬子,暴風,發屋折木。」
『晋書斠注』本文は「壬午」だが,注で孝武帝本紀は「壬子」であると指摘されており,『宋書』も同様であるため,ここでは本紀に従う。以下同じ。
〔二〕同上・十三年十二月
「乙未,大風,晝晦,延賢堂災。」
『晋書斠注』本文は「己未」。
〔三〕孝武帝の死後から桓玄の簒奪までのおおよその流れは次の通り。
『晋書』孝武帝紀
「二十一年(396)春正月,造清暑殿。……秋九月庚申,帝崩于清暑殿,時年三十五。葬隆平陵。……」
同上・安帝紀
「隆安元年(397)春正月己亥朔,帝加元服,改元,增文武位一等。太傅・會稽王道子稽首歸政。
(二年秋七月)兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷・荊州刺史殷仲堪・廣州刺史桓玄・南蠻校尉楊佺期等舉兵反。……九月辛卯,加太傅・會稽王道子黃鉞。遣征虜將軍會稽王世子元顯・前將軍王珣・右將軍謝琰討桓玄等。……輔國將軍劉牢之次新亭,使子敬宣擊敗恭,恭奔曲阿長塘湖,湖尉收送京師,斬之。於是遣太常殷茂喻仲堪及玄,玄等走于尋陽。……(冬十月)仲堪等盟于尋陽,推桓玄爲盟主。
(元興)二年(403)……十二月壬辰,玄篡位,以帝爲平固王。辛亥,帝蒙塵于尋陽。」
なお,孝武帝本紀の総評の部分には次のように見える。
「末年長星見,帝心甚惡之,於華林園舉酒祝之曰「長星,勸汝一杯酒,自古何有萬歲天子邪」太白連年晝見,地震水旱爲變者相屬。醒日既少,而傍無正人,竟不能改焉。時張貴人有寵,年幾三十,帝戲之曰「汝以年當廢矣。」貴人潛怒,向夕,帝醉,遂暴崩。時道子昏惑,元顯專權,竟不推其罪人。」
〔四〕同上太元十七年六月
「乙卯,大風,折木。」
『晋書斠注』本文は乙未。
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「太元十二年正月壬子夜,暴風。
太元十二年七月甲辰,大風拔木。
太元十七年六月乙卯,大風折木。」

現代語訳

十二年(387)正月壬子の夜,暴風があった。七月甲辰,大風が木を折った。
十三年(388)十二月乙未,大風があり,昼間に真っ暗になった。その後孝武帝が崩じて諸侯は命令に背くようになり,権力は司馬元顯に奪われ,災いは桓玄によって極まった,これはその応である。
十七年(389)六月乙卯,大風が木を折った。

原文

安帝元興二年二月甲辰夜,大風雨,大航門屋瓦飛落。明年,桓玄篡位,由此門入。
三年正月,桓玄出遊大航南,飄風飛其䡟輗蓋,經三月而玄敗歸江陵。五月,江陵又大風折木。是月,桓玄敗於崢嶸洲,身亦屠裂。十一月丁酉,大風,江陵多死者。

訓読

安帝元興二年二月甲辰夜,大いに風雨あり,大航門の屋瓦飛落す。明年,桓玄位を篡し,此の門より入る〔一〕。
三年正月,桓玄出でて大航の南に遊ぶに,飄風其の䡟輗の蓋を飛ばす〔二〕,三月を經て玄敗れて江陵に歸す〔三〕。五月,江陵又た大風ありて木を折る。是の月,桓玄 崢嶸洲に敗れ,身も亦た屠裂せらる〔四〕。十一月丁酉,大風あり,江陵 死者多し。

〔一〕安帝本紀の当該年には風雨の記事はない。なお,本紀では桓玄の簒奪は二年の十二月条で記される(前条の注釈〔三〕参照)
〔二〕『晋書』桓玄伝
「元興三年,玄之永始二年也,尚書答「春蒐」字誤爲「春菟」,凡所關署皆被降黜。玄大綱不理,而糾擿纖微,皆此類也。……玄出遊水門,飄風飛其儀蓋。夜,濤水入石頭,大桁流壞,殺人甚多。大風吹朱雀門樓,上層墜地。」
〔三〕『晋書』安帝紀・元興三年
「(春二月)乙卯,建武將軍劉裕帥沛國劉毅・東海何無忌等舉義兵。
三月戊午,劉裕斬玄將吳甫之于江乘,斬皇甫敷於羅落。己未,玄眾潰而逃。」
『晋書』桓玄伝
「劉裕執鉞麾而進,謙等諸軍一時奔潰。玄率親信數千人聲言赴戰,遂將其子昇・兄子濬出南掖門,西至石頭,使殷仲文具船,相與南奔。」
〔四〕『晋書』桓玄伝
「魏詠之破桓歆於歷陽,諸葛長民又敗歆於芍陂,歆單馬渡淮。毅率道規及下邳太守孟懷玉與玄戰於崢嶸洲。於時義軍數千,玄兵甚盛,而玄懼有敗衄,常漾輕舸於舫側,故其眾莫有鬭心。義軍乘風縱火,盡銳爭先,玄眾大潰,燒輜重夜遁,郭銓歸降。
……時益州刺史毛璩使其從孫祐之・參軍費恬送弟璠喪葬江陵,有眾二百,璩弟子修之爲玄屯騎校尉,誘玄以入蜀,玄從之。達枚回洲,恬與祐之迎擊玄,矢下如雨。玄嬖人丁仙期・萬蓋等以身蔽玄,並中數十箭而死。玄被箭,其子昇輒拔去之。益州督護馮遷抽刀而前,玄拔頭上玉導與之,仍曰「是何人邪。敢殺天子」遷曰「欲殺天子之賊耳。」遂斬之,時年三十六。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉安帝元興二年二月甲辰,大風雨,大航門屋瓦飛落。明年,桓玄篡位,由此門入。
元興三年正月,桓玄遊大航南,飄風飛其䡟輗蓋。三月,玄敗。
元興三年五月,江陵大風折木。是月,桓玄敗於崢嶸洲,身亦屠裂。
元興三年十一月丁酉,大風,江陵多死者。」

現代語訳

安帝元興二年(403)二月甲辰の夜,非常に強い風雨があり,大航門(朱雀門)の屋根と瓦が飛んで落ちた。明くる年,桓玄が帝位を簒し,この門から(宮殿に)入った。
三年(404)正月,桓玄が大航の南に遊幸していると,つむじかぜがその䡟輗(車の名前)の車蓋を飛ばした,三ヶ月経って桓玄は敗れて江陵に帰った。五月,江陵に再び大風があり木を折った。この月,桓玄は崢嶸洲で敗れ,体も八つ裂きにされた。十一月丁酉,大風があり,江陵に多数の死者が出た。

原文

義熙四年十一月辛卯朔,西北疾風起。
五年閏十月〔一〕丁亥,大風發屋。明年,盧循至蔡洲。
六年五月壬申,大風拔北郊樹,樹幾百年也。并吹琅邪・揚州二射堂倒壞。是日,盧循大艦漂沒。甲戌,又風,發屋折木。是冬,王師南討。

訓読

義熙四年十一月辛卯朔,西北に疾風起こる〔二〕。
五年閏十月丁亥,大風屋を發す。明年,盧循 蔡洲に至る〔三〕。
六年五月壬申,大風 北郊の樹を拔く,樹幾ど百年なり〔四〕。并びに琅邪・揚州に吹き二射堂倒壞す。是の日,盧循の大艦漂沒す〔五〕。甲戌,又た風あり,屋を發し木を折る。是の冬,王師南討す〔六〕。

〔一〕『晋書』の原文は「閏十一月」だが,中華書局の校注で閏十月が正しいと指摘されているのに従い,「閏十月」に改めた。
〔二〕『晋書』安帝紀・義熙四年十一月
「辛卯,大風拔樹。」
〔三〕『晋書』安帝紀・義熙六年
「六年春二月丁亥,劉裕攻慕容超,克之,齊地悉平。是月,廣州刺史盧循反,寇江州。」
〔四〕同上
「五月丙子,大風,拔木。」
〔五〕『晋書』盧循伝
「循攻柵不利,船艦爲暴風所傾,人有死者。列陣南岸,戰又敗績。」
〔六〕『晋書』安帝紀・義熙六年
「十二月壬辰,劉裕破盧循于豫章。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「晉安帝義熙四年十一月辛卯朔,西北疾風起。
義熙五年閏十月丁亥,大風發屋。明年,盧循至蔡洲。
義熙六年五月壬申,大風拔北郊樹,樹幾百年也。琅邪・揚州二射堂倒壞。是日,盧循大艦漂沒。甲戌,又風,發屋折木。是冬,王師南討。」

現代語訳

義熙四年(408)十一月一日,西北から疾風が起こった。
五年(409)閏十月丁亥,大風が建物を壊した。明年,盧循が蔡洲まで到達した。
六年(410)五月壬申,大風が北郊の樹を抜いた,樹齢はほぼ百年だった。また琅邪・揚州にも風が吹き二つの射堂(弓技場)が倒壊した。この日,盧循の大艦が流れ沈んだ。甲戌,また風があり,建物を壊し木を折った。この冬,天子の軍が南方を征討した。

原文

九年正月,大風,白馬寺浮圖剎柱折壞。
十年四月己丑朔,大風拔木。六月辛亥,大風拔木。七月,淮北大風,壞廬舍。明年,西討司馬休之應。

訓読

九年正月,大風あり,白馬寺の浮圖剎柱折壞す。
十年四月己丑朔,大風 木を拔く。六月辛亥,大風 木を拔く。七月,淮北に大風あり,廬舍を壞す〔一〕。明年,西のかた司馬休之を討つの應なり〔二〕。

〔一〕『晋書』安帝紀・義熙十年
「秋七月,淮北大風,壞廬舍。」
〔二〕同十一年
「十一年春正月,荊州刺史司馬休之・雍州刺史魯宗之並舉兵貳於劉裕,裕帥師討之。 三月辛巳,淮陵王蘊薨。壬午,劉裕及休之戰于江津,休之敗,奔襄陽。」
【参照】
『宋書』五行志五・土・恒風
「義熙十年四月己丑朔,大風拔木。
義熙十年六月辛亥,大風拔木。明年,西討司馬休之。」

現代語訳

九年正月,大風があり,白馬寺の仏塔の剎柱(心柱)が折れ壊れた。
十年四月己丑一日,大風が木を抜いた。六月辛亥,大風が木を抜いた。七月,淮北に大風があり,住居を壊した。明年,西方に司馬休之を討ったことの応である。

夜妖

原文

夜妖
魏高貴郷公正元二年正月戊戌,景帝討毋丘儉,大風晦暝,行者皆頓伏,近夜妖也。劉向曰「正晝而暝,陰為陽,臣制君也。」

訓読

夜妖
魏の高貴郷公正元二年正月戊戌,景帝毋丘儉を討つに〔一〕,大風ありて晦暝し,行者皆な頓伏す,夜妖に近きなり。劉向曰く「正晝にして暝す,陰 陽と為り,臣 君を制するなり。」〔二〕と。

〔一〕『三国志』魏書・三少帝紀・高貴郷公
「二年春正月乙丑,鎮東將軍毌丘儉・揚州刺史文欽反。戊寅,大將軍司馬景王征之。癸未,車騎將軍郭淮薨。閏月己亥,破欽于樂嘉。欽遁走,遂奔吳。甲辰,安風津都尉斬儉,傳首京都。壬子,復特赦淮南士民諸為儉・欽所詿誤者。以鎮南將軍諸葛誕為鎮東大將軍。司馬景王薨于許昌。二月丁巳,以衞將軍司馬文王為大將軍,錄尚書事。」
『三国志』魏書・毌丘儉伝
「初,儉與夏侯玄・李豐等厚善。揚州刺史前將軍文欽,曹爽之邑人也,驍果麤猛,數有戰功,好增虜獲,以徼寵賞,多不見許,怨恨日甚。儉以計厚待欽,情好歡洽。欽亦感戴,投心無貳。正元二年正月,有彗星數十丈,西北竟天,起于吳・楚之分。儉・欽喜,以為己祥。遂矯太后詔,罪狀大將軍司馬景王,移諸郡國,舉兵反。迫脅淮南將守諸別屯者,及吏民大小,皆入壽春城,為壇於城西,歃血稱兵為盟,分老弱守城,儉・欽自將五六萬眾渡淮,西至項。儉堅守,欽在外為游兵。
大將軍統中外軍討之,別使諸葛誕督豫州諸軍從安風津擬壽春,征東將軍胡遵督青・徐諸軍出于譙・宋之間,絕其歸路。大將軍屯汝陽,使監軍王基督前鋒諸軍據南頓以待之。今諸軍皆堅壁勿與戰。儉・欽進不得鬭,退恐壽春見襲,不得歸,計窮不知所為。淮南將士,家皆在北,眾心沮散,降者相屬,惟淮南新附農民為之用。大將軍遣兗州刺史鄧艾督泰山諸軍萬餘人至樂嘉,示弱以誘之,大將軍尋自洙至。欽不知,果夜來欲襲艾等,會明,見大軍兵馬盛,乃引還。大將軍縱驍騎追擊,大破之,欽遁走。是日,儉聞欽戰敗,恐懼夜走,眾潰。比至慎縣,左右人兵稍棄儉去,儉獨與小弟秀及孫重藏水邊草中。安風津都尉部民張屬就射殺儉,傳首京都。屬封侯。秀・重走入吳。將士諸為儉・欽所迫脅者,悉歸降。」
『晉書』景帝紀
「(正元)二年春正月,有彗星見於吳楚之分,西北竟天。
鎮東大將軍毋丘儉・揚州刺史文欽舉兵作亂,矯太后令移檄郡國,為壇盟于西門之外,各遣子四人質于吳以請救。二月,儉・欽帥眾六萬,渡淮而西。帝會公卿謀征討計,朝議多謂可遣諸將擊之,王肅及尚書傅嘏・中書侍郎鍾會勸帝自行。戊午,帝統中軍步騎十餘萬以征之。倍道兼行,召三方兵,大會于陳許之郊。
甲申,次于㶏橋,儉將史招・李續相次來降。儉・欽移入項城,帝遣荊州刺史王基進據南頓以逼儉。帝深壁高壘,以待東軍之集。諸將請進軍攻其城,帝曰「諸君得其一,未知其二。淮南將士本無反志。且儉・欽欲蹈縱橫之迹,習儀秦之説,謂遠近必應。而事起之日,淮北不從,史招・李續前後瓦解。內乖外叛,自知必敗,困獸思鬭,速戰更合其志。雖云必克,傷人亦多。且儉等欺誑將士,詭變萬端,小與持久,詐情自露,此不戰而克之也。」乃遣諸葛誕督豫州諸軍自安風向壽春,征東將軍胡遵督青・徐諸軍出譙宋之間,絕其歸路。
帝屯汝陽,遣兗州刺史鄧艾督太山諸軍進屯樂嘉,示弱以誘之。欽進軍將攻艾,帝潛軍銜枚,徑造樂嘉,與欽相遇。欽子鴦,年十八,勇冠三軍,謂欽曰「及其未定,請登城鼓譟,擊之可破也。」既謀而行,三譟而欽不能應,鴦退,相與引而東。帝謂諸將曰「欽走矣。」命發銳軍以追之。諸將皆曰「欽舊將,鴦少而銳,引軍內入,未有失利,必不走也。」帝曰「一鼓作氣,再而衰,三而竭。鴦三鼓,欽不應,其勢已屈,不走何待。」欽將遁,鴦曰「不先折其勢,不得去也。」乃與驍騎十餘摧鋒陷陣,所向皆披靡,遂引去。帝遣左長史司馬璉督驍騎八千翼而追之,使將軍樂綝等督步兵繼其後。比至沙陽,頻陷欽陣,弩矢雨下,欽蒙楯而馳。大破其軍,眾皆投戈而降,欽父子與麾下走保項。儉聞欽敗,棄眾宵遁淮南。安風津都尉追儉,斬之,傳首京都。欽遂奔吳,淮南平。
初,帝目有瘤疾,使醫割之。鴦之來攻也,驚而目出。懼六軍之恐,蒙之以被,痛甚,齧被敗而左右莫知焉。閏月疾篤,使文帝總統諸軍。辛亥,崩于許昌,時年四十八。」
〔二〕『漢書』五行志下之上
「釐公十五年「九月己卯晦,震夷伯之廟」。劉向以為晦,暝也。震,雷也。夷伯,世大夫,正晝雷,其廟獨冥。天戒若曰,勿使大夫世官,將專事暝晦。明年,公子季友卒,果世官,政在季氏。至成公十六年「六月甲午晦」,正晝皆暝,陰為陽,臣制君也。成公不寤,其冬季氏殺公子偃。季氏萌於釐公,大於成公,此其應也。董仲舒以為夷伯,季氏之孚也,陪臣不當有廟。震者雷也,晦暝,雷擊其廟,明當絕去僭差之類也。向又以為此皆所謂夜妖者也。劉歆以為春秋及朔言朔,及晦言晦,人道所不及,則天震之。展氏有隱慝,故天加誅於其祖夷伯之廟以譴告之也。」
【参照】
『宋書』五行志
「魏高貴郷公正元二年閏正月戊戌,大風晦暝,行者皆頓伏。近夜妖也。劉向曰「正晝而暝,陰為陽,臣制君也。」時晉景王討毋丘儉,是日始發。」

現代語訳

夜妖
魏の高貴郷公正元二年(255)正月戊戌,景帝(司馬師)が毋丘儉を討った,大風がおこり真っ暗になり,(道を)行くものたちはみなつまづき倒れた,夜妖のようなものである。劉向は「真っ昼間であるのに暗くなったのは,陰が陽となったのであり,臣下が君主を制するのである。」という。

原文

元帝景元三年十月,京都大震,晝晦,此夜妖也。班固曰「夜妖者,雲風並起而杳冥,故與常風同象也。」劉向春秋説云「天戒若曰,勿使大夫世官,將令專事暝晦,公室卑矣。」魏見此妖,晉有天下之應也。

訓読

元帝景元三年十月,京都大いに震あり,晝晦す,此れ夜妖なり。班固曰く「夜妖なる者は,雲風並びに起こりて杳冥す,故に常風と同象なり。」〔一〕と。劉向春秋説に云ふ「天戒めて若くのごとく曰く,大夫をして官を世よせしむること勿れ,將さに事を專らにし暝晦ならしめんとす。公室卑し。」〔二〕と。魏に此の妖を見めすは,晉天下を有つの應なり。

〔一〕『漢書』五行志下之上・思心
「一曰,夜妖者,雲風並起而杳冥,故與常風同象也。」
〔二〕『漢書』五行志下之上
「釐公十五年「九月己卯晦,震夷伯之廟」。劉向以為晦,暝也。震,雷也。夷伯,世大夫,正晝雷,其廟獨冥。天戒若曰,勿使大夫世官,將專事暝晦。明年,公子季友卒,果世官,政在季氏。至成公十六年「六月甲午晦」,正晝皆暝,陰為陽,臣制君也。成公不寤,其冬季氏殺公子偃。季氏萌於釐公,大於成公,此其應也。董仲舒以為夷伯,季氏之孚也,陪臣不當有廟。震者雷也,晦暝,雷擊其廟,明當絕去僭差之類也。向又以為此皆所謂夜妖者也。劉歆以為春秋及朔言朔,及晦言晦,人道所不及,則天震之。展氏有隱慝,故天加誅於其祖夷伯之廟以譴告之也。」
【参照】
『宋書』五行志
「魏元帝景元三年十月,京都大震,晝晦。此夜妖也。班固曰「夜妖者,雲風並起而杳冥,故與常風同象也。」劉向春秋説云「天戒若曰,勿使大夫世官,將令專事,冥晦。明年,魯季友卒,果世官而公室卑矣。」魏見此妖,晉有天下之應也。」

現代語訳

元帝の景元三年(262)十月,みやこに大いに雷が落ち,晝に真っ暗になった,これは夜妖である。班固は「夜妖というのは,雲と風とがどちらも起こって暗がりになる,であるから常風と同じ象なのである。」という。劉向の『春秋』説では「天は戒めてこのように言っている,大夫に官職を世襲させてはいけない,政事を独占し暗黒状態がやってくるであろう。公室(の地位)が低くなるのだ。」と言う。魏にこの妖が現れたのは,晉が天下を治めることの應である。

原文

懷帝永嘉四年十一月辛卯,晝昏,至于庚子,此夜妖也。後年,劉曜寇洛川,王師頻為賊所敗,帝蒙塵于平陽。

訓読

懷帝永嘉四年十一月辛卯,晝に昏して,庚子に至る〔一〕,此れ夜妖なり。後年,劉曜 洛川を寇し,王師頻りに賊の敗る所と為り,帝 平陽に蒙塵す。〔二〕

〔一〕『晉書』懷帝紀・永嘉四年
「冬十月辛卯,晝昏,至于庚子。」
〔二〕『晉書』懷帝紀・永嘉五年
「六月癸未,劉曜・王彌・石勒同寇洛川,王師頻為賊所敗,死者甚眾。庚寅,司空荀藩・光祿大夫荀組奔轘轅,太子左率溫畿夜開廣莫門奔小平津。丁酉,劉曜・王彌入京師。帝開華林園門,出河陰藕池,欲幸長安,為曜等所追及。曜等遂焚燒宮廟,逼辱妃后,吳王晏・竟陵王楙・尚書左僕射和郁・右僕射曹馥・尚書閭丘沖・袁粲・王緄・河南尹劉默等皆遇害,百官士庶死者三萬餘人。帝蒙塵于平陽,劉聰以帝為會稽公。荀藩移檄州鎮,以琅邪王為盟主。豫章王端東奔苟晞,晞立為皇太子,自領尚書令,具置官屬,保梁國之蒙縣。百姓饑儉,米斛萬餘價。」

現代語訳

懷帝の永嘉四年(310)十一月辛卯,晝に日がくらくなり,庚子の日まで続いた,これは夜妖である。後年,劉曜が洛川を侵し,天子の軍はしきりに賊によって敗られ,懐帝は平陽に連れ去られた。

原文

孝武帝太元十三年十二月乙未,大風晦暝。其後帝崩,而諸侯違命,干戈内侮,權奪於元顯,禍成於桓玄。

訓読

孝武帝太元十三年十二月乙未,大風ありて晦暝す。〔一〕其の後ち帝崩じて〔二〕,諸侯 命に違ひ,干戈内侮し〔三〕,權は元顯に奪われ,禍は桓玄に成る。

〔一〕『晉書』孝武帝・太元十三年
「冬十二月戊子,濤水入石頭,毀大桁,殺人。乙未,大風,晝晦,延賢堂災。」
〔二〕『晉書』孝武帝・太元二十一年
「秋九月庚申,帝崩于清暑殿,時年三十五。葬隆平陵。
帝幼稱聰悟。簡文之崩也,時年十歳,至晡不臨,左右進諫,答曰「哀至則哭,何常之有。」謝安嘗嘆以為精理不減先帝。既威權己出,雅有人主之量。既而溺于酒色,殆為長夜之飲。末年長星見,帝心甚惡之,於華林園舉酒祝之曰「長星,勸汝一杯酒,自古何有萬歳天子邪。」太白連年晝見,地震水旱為變者相屬。醒日既少,而傍無正人,竟不能改焉。時張貴人有寵,年幾三十,帝戲之曰「汝以年當廢矣。」貴人潛怒,向夕,帝醉,遂暴崩。時道子昏惑,元顯專權,竟不推其罪人。」
〔三〕『晉書』安帝紀・隆安元年
「隆安元年春正月己亥朔,帝加元服,改元,增文武位一等。太傅・會稽王道子稽首歸政。以尚書左僕射王珣為尚書令,領軍將軍王國寶為尚書左僕射。
二月,呂光將禿髮烏孤自稱大都督・大單于,國號南涼。擊光將竇苟于金昌,大破之。甲寅,尊皇太后李氏為太皇太后。戊午,立皇后王氏。
三月,呂光子纂為乞伏乾歸所敗。光建康太守段業自號涼州牧。慕容寶敗魏師于薊。
夏四月甲戌,兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷舉兵,以討尚書左僕射王國寶・建威將軍王緒為名。甲申,殺國寶及緒以悅于恭,恭乃罷兵。戊子,大赦。
五月,前司徒長史王廞以吳郡反,王恭討平之。慕容寶將慕容詳僭即皇帝位于中山,寶奔黃龍。
秋八月,呂光為其僕射楊軌・散騎常侍郭黁所攻,光子纂擊走之。
九月,慕容寶將慕容麟斬慕容詳于中山,因僭即皇帝位。
冬十月,慕容麟為魏師所敗。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝武帝太元十三年十二月乙未,大風晦暝。其後帝崩,而諸侯違命,干戈內侮,權奪於元顯,禍成於桓玄。是其應也。」

現代語訳

孝武帝の太元十三年(388)十二月乙未,大風がおこり真っ暗になった。そののち孝武帝が崩御すると,諸侯たちは命に違叛し,国内で争い合い,權力は司馬元顯に奪われ,災禍は桓玄に極まった。

臝蟲之孼

原文

臝蟲之孼
京房易傳曰「臣安祿位茲謂貪,厥災蟲食根。德無常茲謂煩,蟲食葉。不絀無德,蟲食本。與東作爭,茲謂不時,蟲食莖。蔽惡生孼,蟲食心。」

訓読

臝蟲の孼
京房易傳に曰く「臣 祿位に安んず茲れ貪と謂ふ,厥の災 蟲 根を食らふ。德 常無し茲れ煩と謂ふ,蟲 葉を食らふ。無德を絀けず,蟲 本を食らふ。東作〔一〕と爭ふ,茲れ不時と謂ふ,蟲 莖を食らふ。惡を蔽ひて孼を生ず,蟲 心を食らふ。」〔二〕と。

〔一〕『尚書』堯典
「分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷。寅賓出日,平秩東作。日中星鳥,以殷仲春。厥民析,鳥獸孳尾。」
〔二〕『漢書』五行志下之上
「(隠公)八年「九月,螟」。時鄭伯以邴將易許田,有貪利心。京房易傳曰「臣安祿茲謂貪,厥災蟲,蟲食根。德無常茲謂煩,蟲食葉。不絀無德,蟲食本。與東作爭,茲謂不時,蟲食節。蔽惡生孽,蟲食心。」」

現代語訳

臝蟲の孼
京房易傳に「臣下が祿位に安んじているこれを貪という,その災は蟲が根を食べる。德行がいつも行われるわけではない,これを煩という,(その災は)蟲が葉を食べる。德がないものを退けない,(その災は)蟲が幹を食べる。春の農作業と(労働力を)奪い合う,これを不時という,(その災は)蟲が莖を食べる。惡を隠蔽して孼(災禍の芽)を生じさせる,(その災は)蟲が芯を食べる。」と言う。

原文

武帝咸寧元年七月,郡國螟。九月,青州又螟。是月,郡國有青蟲食其禾稼。 四年,司・冀・兗・豫・荊・揚郡國二十螟。

訓読

武帝咸寧元年七月,郡國螟あり。九月,青州又た螟あり。〔一〕是の月,郡國に青蟲の其の禾稼を食らふ有り。 四年,司・冀・兗・豫・荊・揚郡國二十 螟あり。

〔一〕『晉書』武帝紀・咸寧元年
「秋七月甲申晦,日有蝕之。郡國螟。……九月甲子,青州螟,徐州大水。」
【参照】
『宋書』五行志
「蠃蟲之孽
晉孝武咸寧元年七月,郡國螟。九月,青州又螟。
咸寧元年七月,郡國有青蟲食禾稼。
咸寧四年,司・冀・兗・豫・荊・揚郡國皆螟。」

現代語訳

武帝の咸寧元年(275)七月,郡國で螟(ずいむし)の害があった。九月,青州でまた螟(ずいむし)の害があった。この月,郡國にあおむしがその実りを食べるということがあった。 四年,司隷・冀州・兗州・豫州・荊州・揚州の郡國二十で螟(ずいむし)の害があった。

原文

太康四年,會稽彭蜞及蟹皆化為鼠,甚眾,復大食稻為災。 九年八月,郡國二十四螟。九月,蟲又傷秋稼。是時,帝聽讒諛,寵任賈充・楊駿,故有蟲蝗之災,不絀無德之罰。

訓読

太康四年,會稽に彭蜞及び蟹皆な化して鼠と為ること,甚はだ眾し,復た大いに稻を食らひて災と為る。〔一〕 九年八月,郡國二十四 螟あり。〔二〕九月,蟲又た秋稼を傷なふ。是の時,帝 讒諛を聽き,賈充・楊駿を寵任す〔三〕,故に蟲蝗の災有り,無德を絀けざるの罰なり。

〔一〕『捜神記』巻七
「晉太康四年,會稽郡蟛蚑及蟹,皆化為鼠。其眾覆野。大食稻,為災。始成,有毛肉而無骨,其行不能過田畻,數日之後,則皆為牝。」
〔二〕『晉書』武帝紀
「(太康九年)九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。」
〔三〕『晉書』武帝紀
「(咸寧五年十一月)以太尉賈充為大都督,行冠軍將軍楊濟為副,總統眾軍。」
「(太康元年五月)庚辰,以王濬為輔國大將軍襄陽侯,杜預當陽侯,王戎安豐侯,唐彬上庸侯,賈充・琅邪王伷以下增封。於是論功行封,賜公卿以下帛各有差。」
「(咸寧二年)十二月,徵處士安定皇甫謐為太子中庶子,封后父鎮軍將軍楊駿為臨晉侯。」
「(太煕元年)夏四月辛丑,以侍中車騎將軍楊駿為太尉・都督中外諸軍・錄尚書事。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝太康四年,會稽彭蜞及蟹皆化為鼠,甚眾,覆野,大食稻為災。
太康九年八月,郡國二十四螟。螟説與蝗同。是時帝聽讒訴。
太康九年九月,蟲傷稼。」

現代語訳

太康四年(283),會稽に彭蜞と蟹がみな変化して鼠となるということが,はなはだ多かった,さらに稻をおおいに食べて災となった。 九年八月,郡國二十四で螟(ずいむし)の害があった。九月,蟲がまた秋の実りを損った。この時,帝は讒言を聽き,賈充・楊駿を寵用した,そのため蝗の災がおこった,德のないものを退けないことの罰である。

原文

惠帝元康三年九月,帶方等六縣螟,食禾葉盡。

訓読

惠帝元康三年九月,帶方等六縣螟あり,禾の葉を食らひて盡く。

『宋書』五行志
「晉惠帝元康二年九月,帶方・含資・提奚・南新・長岑・海冥・列口蟲食禾葉蕩盡。」

現代語訳

惠帝元康三年(293)九月,帶方などの六縣で螟(ずいむし)の害があった,イネの葉を食べつくした。

原文

永寧元年七月,梁・益・涼三州螟。是時,齊王冏執政,貪苛之應也。永寧元年十月,南安・巴西・江陽・太原・新興・北海青蟲食禾葉,甚者十傷五六。十二月,郡國六螟。

訓読

永寧元年七月,梁・益・涼三州螟あり。是の時,齊王冏政を執る,貪苛の應なり。永寧元年十月,南安・巴西・江陽・太原・新興・北海青蟲 禾葉を食らふ,甚しき者十に五六を傷ふ。十二月,郡國六螟あり。

〔一〕『晉書』惠帝紀
「(永寧元年)六月戊辰,大赦,增吏位二等。復封賓徒王晏為吳王。庚午,東萊王蕤・左衞將軍王輿謀廢齊王冏,事泄,蕤廢為庶人,輿伏誅,夷三族。甲戌,以齊王冏為大司馬・都督中外諸軍事,成都王穎為大將軍・錄尚書事,河間王顒為太尉。罷丞相,復置司徒官。己卯,以梁王肜為太宰,領司徒。封齊王冏功臣葛旟牟平公,路季小黃公,衞毅平陰公,劉真安郷公,韓泰封丘公。」
〔二〕『晉書』惠帝紀
「(永寧元年)是歳,郡國十二旱,六蝗。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝永寧元年七月,梁・益・涼三州螟。是時齊王冏秉政。貪苛之應也。
永寧元年十月,南安・巴西・江陽・太原・新興・北海青蟲食禾葉,甚者十傷五六。
永寧元年十二月,郡國八螟。」

現代語訳

永寧元年(301)七月,梁州・益州・涼州の三州で螟(ずいむし)の害があった。この時,齊王司馬冏が政治を執っていた,欲深く暴虐であることの應である。〔一〕永寧元年十月,南安・巴西・江陽・太原・新興・北海であおむしがイネの葉を食べた,甚しいものでは十のうち五六を損なった。十二月,郡國六で螟(ずいむし)の害があった。〔二〕

牛禍

原文

牛禍
武帝太康九年,幽州塞北有死牛頭語,近牛禍也。是時,帝多疾病,深以後事為念,而託付不以至公,思瞀亂之應也。案師曠曰,「怨讟動於人,則有非言之物而言。」又其義也。京房易傳曰,「殺無罪,牛生妖。」

訓読

牛禍
武帝の太康九年,幽州の塞北に死牛の頭の語る有り,牛禍に近し。是の時,帝疾病多く,深く後事を以て念を為すも,託付するに至公を以てせず,思の瞀亂(ぼうらん)の應なり〔一〕。案ずるに師曠曰く「怨讟(えんとく)人を動かせば,則ち非言の物にして言ふこと有り。」と〔二〕。又其の義なり。京房易傳に曰はく「罪無きを殺せば,牛 妖を生ず。」と。

〔一〕『捜神記』巻七
「太康九年,幽州塞北有死牛頭語。時帝多疾病,深以後事為念,而付托不以至公,思瞀亂之應也。」
『南齊書』五行志・土
「思心傳曰「心者,土之象也。思心不睿,其過在瞀亂失紀。風於陽則為君,於陰則為大臣之象,專恣而氣盛,故罰常風。心為五事主,猶土為五行主也。」一曰「陰陽相薄,偏氣陽多為風,其甚也常風。陰氣多者,陰而不雨,其甚也常陰。」一曰「風宵起而晝晦,以應常陰同象也。」」
〔二〕『春秋左傳』昭公・傳八年
「石言于晉魏榆。晉侯問於師曠曰「石何故言。」對曰「石不能言,或馮焉。不然,民聽濫也。抑臣又聞之曰『作事不時,怨讟動于民,則有非言之物而言。』今宮室崇侈,民力彫盡。怨讟並作。莫保其性。石言不亦宜乎。」於是晉侯方築虒祁之宮。叔向曰「子野之言君子哉。君子之言。信而有徵,故怨遠於其身。小人之言,僭而無徵。故怨咎及之。詩曰『哀哉不能言,匪舌是出,唯躬是瘁。哿矣能言,巧言如流,俾躬處休。』其是之謂乎。是宮也成,諸侯必叛,君必有咎,夫子知之矣。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝太康九年,幽州塞北有死牛頭語。近牛禍也。是時帝多疾病,身以後事為念,而託付不以至公,思心瞀亂之應也。師曠曰「怨讟動於民,則有非言之物而言。」又其義也。」

現代語訳

武帝(司馬炎)の太康九(288)年,幽州の塞北で死んだ牛の頭がものを言うということがあった,牛禍のようなものである。この時,武帝は疾病が多く,非常に将来のことを懸念したが,人に託するのが公平でなかった。これは思の瞀亂の應である。考えてみるに師曠は「怨みそしりが人を動かすと,言葉をしゃべらないものがもの言うことがある。」と言っている。これもまたその理屈である。京房『易傳』には「罪の無いものを殺せば,牛が妖を生じる。」と言っている。

原文

惠帝太安中,江夏張騁所乘牛言曰「天下亂,乘我何之」騁懼而還,犬又言曰「歸何早也」尋後牛又人立而行。騁使善卜者卦之,謂曰「天下將有兵亂,為禍非止一家。」其年,張昌反,先略江夏,騁為將帥,於是五州殘亂,騁亦族滅。京房易傳曰「牛能言,如其言占吉凶。」易萌氣樞曰「人君不好士,走馬被文繡,犬狼食人食,則有六畜談言。」時天子諸侯不以惠下為務,又其應也。

訓読

惠帝の太安中,江夏の張騁乘る所の牛言ひて曰はく「天下亂るるに,我に乘りて何くにか之かん。」と。騁懼れて還へる,犬又た言ひて曰はく「歸ること何んぞ早きや」と。尋いで後牛又た人のごとく立ちて行く。騁善く卜する者をして之を卦はしむるに,謂ひて曰はく「天下將に兵亂有らんとす,禍を為すこと止だ一家に非ざるのみ。」と〔一〕。其の年,張昌反(そむ)き,先ず江夏を略し,騁 將帥と為るも,是において五州殘亂〔二〕し,騁も亦た族滅せらる〔三〕。京房『易傳』に曰はく「牛 能く言はば,其の言は吉凶を占ふが如し。」と。『易萌氣樞』に曰はく「人君 士を好まず,走馬 文繡を被ひ,犬狼 人の食らうを食らわば,則ち六畜談言すること有り。」と。時に天子諸侯 下に惠むを以て〔四〕務と為さず,又た其の應なり。

〔一〕『捜神記』巻七
「太安中江夏功曹張騁所乘牛,忽言曰「天下方亂,吾甚極為,乘我何之」騁及從者數人皆驚怖。因紿之曰「令汝還,勿復言。」乃中道還,至家,未釋駕。又言曰「歸何早也」騁益憂懼,秘而不言。安陸縣有善卜者,騁從之卜。卜者曰「大凶。非一家之禍,天下將有兵起。一郡之內,皆破亡乎」騁還家,牛又人立而行。百姓聚觀。其秋張昌賊起。先略江夏,誑曜百姓,以漢祚復興,有鳳凰之瑞,聖人當世。從軍者皆絳抹頭,以彰火德之祥,百姓波蕩,從亂如歸。騁兄弟並為將軍都尉。未幾而敗。於是一郡破殘,死傷過半,而騁家族矣。京房易妖曰「牛能言,如其言占吉凶。」」
〔二〕『晉書』張昌傳
「新野王歆上言「妖賊張昌,劉尼妄稱神聖,犬羊萬計,絳頭毛面,挑刀走戟,其鋒不可當。請臺敕諸軍,三道救助。」於是劉喬率諸軍據汝南以禦賊,前將軍趙驤領精卒八千據宛,助平南將軍羊伊距守。昌遣其將軍黃林為大都督,率二萬人向豫州,前驅李宮欲掠取汝水居人,喬遣將軍李楊逆擊,大破之。林等東攻弋陽,太守梁桓嬰城固守。又遣其將馬武破武昌,害太守,昌自領其眾。西攻宛,破趙驤,害羊伊。進攻襄陽,害新野王歆。昌別率石冰東破江、揚二州,偽置守長。當時五州之境皆畏逼從逆。又遣其將陳貞、陳蘭、張甫等攻長沙、湘東、零陵諸郡。昌雖跨帶五州,樹立牧守,皆桀盜小人而無禁制,但以劫掠為務,人情漸離」
〔三〕『晋書』孝惠帝紀・太安二年
「五月,義陽蠻張昌 舉兵反,以山都人丘沈為主,改姓劉氏,偽號漢,建元神鳳,攻破郡縣,南陽太守劉彬,平南將軍羊伊,鎮南大將軍、新野王歆並遇害。」
「六月,遣荊州刺史劉弘等討 張昌 于方城,王師敗績。」
「八月,河間王顒、成都王穎舉兵討長沙王乂,帝以乂為大都督,帥軍禦之。庚申,劉弘及 張昌戰於清水,斬之。」
『禮記』祭統
「夫祭有畀・煇・胞・翟・閽者,惠下之道也。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝太安中,江夏張騁所乘牛言曰「天下方亂,乘我何之。」騁懼而還,犬又言曰「歸何蚤也。」尋後牛又人立而行。騁使善卜者卦之。謂曰「天下將有兵亂,為禍非止一家。」其年張昌反,先略江夏,騁為將帥。於是五州殘亂,騁亦族滅。京房易妖曰「牛能言,如其言占吉凶。」易萌氣樞曰「人君不好士,走馬被文繡,犬狼食人食,則有六畜祅言。」時天子諸侯不以惠下為務,又其應也。」

現代語訳

惠帝(司馬衷)の太安年間(302~303年)に,江夏の張騁の乘っていた牛が「天下が乱れているのに,我に乘っていずこに行くのか」とものを言った。張騁は懼(おそ)れて帰った。犬がまた「どうしてこんなに早く帰ってきたのか」と言った。その後に牛がまた人のように立って歩いた。張騁は卜(うらな)いにすぐれた者にこれを占わせたところ,「天下は兵乱が起きようとしている,禍いとなるのは一家だけではないだろう。」といった。その年,張昌が反乱を起こし,まず江夏を侵略した。張騁は司令官となった。このとき五つの州は傷つき乱れ,張騁もまた一族が殺された。京房『易傳』に「牛がものを言うことが出来たら,その言葉は吉凶を占っているようなものだ。」といっている。『易萌氣樞』には「君主がすぐれた臣下を好まず,駆け走る馬が刺繍入りのきらびやかな衣装を着て,犬や狼が人間の食べものを食べれば,六畜が話すことがある。」と言っている。その時皇帝や諸侯は下のものに恩恵を施すことを務めとしなかった,またその應である。

原文

元帝建武元年七月,晉陵陳門才牛生犢,一體兩頭。案京房易傳言「牛生子二首一身,天下將分之象也。」是時,愍帝蒙塵於平陽,尋為逆胡所殺。元帝即位江東,天下分為二,是其應也。

訓読

元帝の建武元年七月,晉陵の陳門才の牛 犢を生む,一體に兩頭あり。案ずるに京房『易傳』に言ふ「牛 子の二首一身を生むは,天下將に分れんとするの象なり。」と〔一〕。是の時,愍帝平陽に蒙塵せられ〔二〕,尋いで逆胡の殺す所と為る〔三〕。元帝 江東に即位し,天下分れて二と為る〔四〕,是れ其の應なり。

〔一〕『捜神記』巻七
「晉元帝建武元年七月,晉陵東門,有牛生犢,一體兩頭。京房易傳曰「牛生子,二首,一身,天下將分之象也。」
〔二〕『晋書』孝愍帝紀・建興四年
「十一月乙未……辛丑,帝蒙塵于平陽,麴允及羣官並從。劉聰假帝光祿大夫、懷安侯。壬寅,聰臨殿,帝稽首于前,麴允伏地慟哭,因自殺。」
〔三〕『晋書』孝愍帝・建興五年
「冬十月丙子,日有蝕之。劉聰出獵,令帝行車騎將軍,戎服執戟為導,百姓聚而觀之,故老或歔欷流涕,聰聞而惡之。聰後因大會,使帝行酒洗爵,反而更衣,又使帝執蓋,晉臣在坐者多失聲而泣,尚書郎辛賓抱帝慟哭,為聰所害。十二月戊戌,帝遇弒,崩于平陽,時年十八。」
〔四〕『晋書』中宗元帝紀・建武元年
「三月,帝素服出次,舉哀三日。西陽王羕及羣僚參佐・州征牧守等上尊號,帝不許。羕等以死固請,至於再三。帝慨然流涕曰「孤,罪人也,惟有蹈節死義,以雪天下之恥,庶贖鈇鉞之誅。吾本琅邪王,諸賢見逼不已。」乃呼私奴命駕,將反國。羣臣乃不敢逼,請依魏晉故事為晉王,許之。辛卯,即王位,大赦,改元。其殺祖父母・父母,及劉聰・石勒,不從此令。諸參軍拜奉車都尉,掾屬駙馬都尉。辟掾屬百餘人,時人謂之「百六掾」。乃備百官,立宗廟社稷於建康。時四方競上符瑞,帝曰「孤負四海之責,未能思𠍴,何徵祥之有。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉愍帝建武元年,曲阿門牛生犢,一體兩頭。」

現代語訳

元帝(司馬睿)の建武元年(317)七月,晉陵の陳門才の牛が 子牛を生んだが, ひとつの体に二つ頭があった。考えると京房『易傳』に「牛が二つの首に一つのからだの子を生むことは,天下が分裂しようとしていることの象である。」といっている。この時,愍帝(司馬鄴)は平陽に連れ去られており,ついで胡賊(劉聡)に殺された。元帝(司馬睿)が 江東で即位して,天下は分かれて二つとなった,これはその應である。

原文

太興元年,武昌太守王諒牛生子,兩頭八足,兩尾共一腹,三年後死,又有牛一足三尾,皆生而死。案司馬彪說「兩頭者,政在私門,上下無別之象也。」京房易傳曰「足多者,所任邪也。足少者,不勝任也。」其後王敦等亂政,此其祥也。

訓読

太興元年,武昌太守王諒の牛 子を生み,兩頭八足,兩尾にして共に一腹,三年の後死す,又た牛の一足三尾なる有り,皆な生るるも死す〔一〕。案ずるに司馬彪說に「兩頭なる者は,政 私門に在りて,上下 別無きの象なり。」と〔二〕。京房『易傳』に曰く「足多しなる者は,任ずる所 邪なるなり。足少なしなる者は,任に勝へざるなり。」〔三〕と。其の後王敦等政を亂す〔四〕,此れ其の祥なり。

〔一〕『捜神記』巻七
「元帝太興元年四月,西平地震,湧水出。十二月,廬陵・豫章・武昌・西陵地震,湧水出,山崩。此王敦陵上之應也。太興元年,三月武昌太守王諒,有牛生子,兩頭,八足,兩尾,共一腹。不能自生,十餘人以繩引之。子死,母活。其三年後,苑中有牛生子,一足三尾,生而即死。」
〔二〕『後漢書』五行志五・人痾
「二年,雒陽上西門外女子生兒,兩頭 ,異肩共胷,俱前向,以為不祥,墮地棄之。自此之後,朝廷霿亂,政在私門,上下無別,二頭之象。後董卓戮太后,被以不孝之名,放廢天子,後復害之。漢元以來,禍莫踰此。」
〔三〕『漢書』五行志下之上・人痾
「六月,長安女子有生兒,兩頭異頸面相鄉,四臂共匈俱前鄉,凥上有目長二寸所。京房易傳曰「『睽孤,見豕負塗』,厥妖人生兩頭。下相攘善,妖亦同。人若六畜首目在下,茲謂亡上,正將變更。凡妖之作,以譴失正,各象其類。二首,下不壹也。足多,所任邪也。足少,下不勝任,或不任下也。凡下體生於上,不敬也。上體生於下,媟瀆也。生非其類,淫亂也。人生而大,上速成也。生而能言,好虛也。羣妖推此類,不改乃成凶也。」」
〔四〕『晋書』肅宗明帝・太寧二年
「夏五月,王敦矯詔拜其子應為武衞將軍,兄含為驃騎大將軍。帝所親信常從督公乘雄・冉曾並為敦所害。」
【参照】
『宋書』五行志
「元帝太興元年,武昌太守王諒牛生子,兩頭八足兩尾共一腹。三年後死。又有牛生一足三尾,皆生而死。按司馬彪說,兩頭者,政在私門,上下無別之象也。京房易傳曰「足多者,所任邪也。足少者,下不勝任也。」其後皆有此應。」

現代語訳

太興元年(318),武昌太守の王諒の牛が子を生んだが,二つの頭,八本の足,二つの尾で、一つの腹であった,三年後に死んだ,また一本の足、三本の尾の牛がいた。みな生れたが死んだ。考えると司馬彪の説では「二つの頭があるのは,政事が臣下の手にあり,上下の区別が無いことの象である。」と言っている。京房『易傳』には「足が多いのは,任用したものがよこしまなのである。足が少ないのは,任にたえないことである。」と言っている。その後王敦等が政事を乱した,これはその祥である。

原文

四年十二月,郊牛死。案劉向說春秋郊牛死曰「宣公區霿昏亂,故天不饗其祀。」今元帝中興之業,實王導之謀也。劉隗探會上意,以得親幸,導見疎外,此區霿不睿之禍。

訓読

四年十二月,郊牛死す。案ずるに劉向說に『春秋』の郊牛死するに曰はく「宣公區霿(こうぼう)昏亂(こんらん)なり,故に天 其の祀を饗(う)けず。」〔一〕と。今 元帝の中興の業,實は王導の謀なり〔二〕。劉隗上意を探會し,以て親幸を得,導 疎外せらる〔三〕,此れ區霿不睿の禍なり。

〔一〕『春秋』宣公三年
「春,王正月。郊牛之口傷,改卜牛,牛死,乃不郊,猶三望。」
『漢書』五行志・牛禍
「宣公三年「郊牛之口傷,改卜牛,牛死」。劉向以為近牛禍也。是時宣公與公子遂謀共殺子赤而立,又以喪娶,區霿昏亂。亂成於口,幸有季文子得免於禍,天猶惡之,生則不饗其祀,死則災燔其廟。董仲舒指略同。」
〔二〕『晉書』元帝紀
「東海王越之收兵下邳也,假帝輔國將軍。尋加平東將軍・監徐州諸軍事,鎮下邳。俄遷安東將軍・都督揚州諸軍事。越西迎大駕,留帝居守。永嘉初,用王導計,始鎮建鄴,以顧榮為軍司馬,賀循為參佐,王敦・王導・周顗・刁協並為腹心股肱,賓禮名賢,存問風俗,江東歸心焉。」
〔三〕『晋書』王敦傳
「時劉隗用事,頗疏間王氏,導等甚不平之。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉元帝太興四年十二月,郊牛死。按劉向說春秋郊牛死曰,宣公區瞀昏亂,故天不饗其祀。元帝中興之業,實王導之謀也。劉隗探會主意,以得親幸,導見疏外。此區瞀不叡之禍也。」

現代語訳

太興四年(321)十二月,(祭祀に使う)郊牛が死んだ。考えるに劉向の説には『春秋』で郊牛が死んだことについて「宣公が愚昧で乱れていた,だから天はその祭祀を受けなかった。」といっている。今,元帝(司馬睿)の中興の事業も,実は王導の計策である。劉隗は君主の心を推し量り,それにより寵愛を得たが,王導は疎外された。これは區霿不睿の禍である。

原文

成帝咸和二年五月,護軍牛生犢,兩頭六足。是冬,蘇峻作亂。 七年,九德人袁榮家牛產犢,兩頭八足,二尾共身。

訓読

成帝の咸和二年五月,護軍の牛 犢を生み,兩頭六足なり。是の冬,蘇峻亂を作す〔一〕。 七年,九德〔二〕の人 袁榮の家の牛 犢を產み,兩頭八足,二尾身を共にす。

〔一〕『晋書』蘇峻傳
「時明帝初崩,委政宰輔,護軍庾亮欲徵之。……朝廷遣使諷諭之,峻曰「臺下云我欲反,豈得活邪。我寧山頭望廷尉,不能廷尉望山頭。往者國危累卵,非我不濟,狡兔既死,獵犬理自應烹,但當死報造謀者耳。」於是遣參軍徐會結祖約,謀為亂,而以討亮為名。」
〔二〕『晋書』地理志下・交州・九德郡
「九德郡。吳置,周時越常氏地。統縣八,無戶。」
【参照】
『宋書』五行志
「咸和七年,九德民袁榮家牛產犢,兩頭八足二尾共身。京房易傳「殺無罪,則牛生妖。」

現代語訳

成帝(司馬衍)の咸和二年(327)五月,護軍の牛が子牛を生んだが,頭二つ足六本であった。この冬,蘇峻が乱を起こした。 七年(333),九德の袁榮の家の牛が子牛を産んだが,頭二つ足八本,尾二本で一つの身体だった。

原文

桓玄之國,在荊州詣刺史殷仲堪,行至鶴穴,逢一老公驅青牛,形色瓌異,桓玄即以所乘牛易取。乘至零陵涇溪,駿駛非常,息駕飲牛,牛逕入江水不出。玄遣人覘守,經日無所見。於後玄敗被誅。

訓読

桓玄 國に之き,荊州に在りて刺史殷仲堪に詣り〔一〕,行きて鶴穴に至り,一老公の青牛を驅るに逢ふ,形色は瓌異(かいい)なり,桓玄即ち乘る所の牛を以て易取す。乘りて零陵涇溪に至る,駿駛なること常に非ず,駕を息めて牛に飲ます,牛 逕(ただ)ちに江水に入りて出でず。玄 人を遣りて覘(うかが)ひ守らしむるも,日を經て見らわるる所無し。後に於いて玄敗れて誅さる〔二〕。

〔一〕『晋書』安帝紀・隆安二年
「秋七月,慕容寶子盛斬蘭汗,僭稱長樂王,攝天子位。兗州刺史王恭、豫州刺史庾楷、荊州刺史殷仲堪 、廣州刺史桓玄、南蠻校尉楊佺期等舉兵反。」
〔二〕『晋書』桓玄傳
「是月,王騰之奉帝入居太府。桓謙亦聚眾沮中,為玄舉哀,立喪庭,偽諡為武悼皇帝。毅等傳送玄首,梟於大桁,百姓觀者莫不欣幸。」
【参照】
『宋書』五行志
「桓玄之國在荊州,詣刺史殷仲堪,行至鶴穴,逢一老公,驅青牛,形色瓌異。桓玄即以所乘牛易取。乘至零陵涇溪,駿駛非常,因息駕飲牛。牛徑入江水不出。玄遣人覘守,經日無所見。」

現代語訳

桓玄が封地にいき,荊州で刺史の殷仲堪に会いにいき,鶴穴に至ったところ,一人の老人が 青牛に乗っているのにであった,非常にすぐれた様子の牛であった,そこで桓玄は乘っている牛と交換した。乘って零陵の涇溪に至ったが,その速さは尋常ではなかった,乗ることをやめて牛に水を飲ませたところ,牛はすぐさま長江の水中に入って出てこなかった。桓玄は 人をつかわして見守らせたが,一日たってもあらわれなかった。その後に桓玄は敗れ誅された。

黃眚黃祥

原文

黃眚黃祥
蜀劉備章武二年,東伐。二月,自秭歸進屯夷道。六月,秭歸有黃氣見,長十餘里,廣數十丈。後踰旬,備爲陸議所破,近黃祥也。

訓読

黃眚黃祥
蜀の劉備の章武二年,東伐す。二月,秭歸自り進みて夷道に屯す。六月,秭歸に黃氣の見はるる有り,長十餘里,廣數十丈。後ち旬を踰へ,備 陸議の破る所と爲る,黃祥に近きなり。〔一〕

〔一〕『三國志』蜀書・先主傳
「(章武)二年春正月,先主軍還秭歸,將軍吳班・陳式水軍屯夷陵,夾江東西岸。二月,先主自秭歸率諸將進軍,緣山截嶺,於夷道猇亭。駐營,自佷山。通武陵,遣侍中馬良安慰五谿蠻夷,咸相率響應。鎮北將軍黃權督江北諸軍,與吳軍相拒於夷陵道。夏六月,黃氣見自秭歸十餘里中,廣數十丈。後十餘日,陸議大破先主軍於猇亭,將軍馮習・張南等皆沒。先主自猇亭還秭歸,收合離散兵,遂棄船舫,由步道還魚復,改魚復縣曰永安。吳遣將軍李異・劉阿等踵躡先主軍,屯駐南山。秋八月,收兵還巫。司徒許靖卒。冬十月,詔丞相亮營南北郊於成都。孫權聞先主住白帝,甚懼,遣使請和。先主許之,遣太中大夫宗瑋報命。冬十二月,漢嘉太守黃元聞先主疾不豫,舉兵拒守。」
【参照】
『宋書』五行志五
「黃眚黃祥
蜀劉備章武二年,東伐。二月,自秭歸進屯夷道。六月,秭歸有黃氣見,長十餘里,廣數十丈。後踰旬,備爲陸議所破。近黃祥也。」

現代語訳

黃眚黃祥
蜀の劉備章武二年(221),東伐を行なった。二月,秭帰(しき)から進軍し夷道に駐屯した。六月,秭帰に黄気が現れ,長さは十余里,幅は数十丈であった。のち十日以上経って,劉備は陸議によって破られた,黄祥に近いものである。

原文

魏齊王正始中,中山王周南爲襄邑長。有鼠從穴出,語曰「王周南,爾以某日死。」周南不應,鼠還穴。後至期,更冠幘皁衣出,語曰「周南,汝日中當死。」又不應,鼠復入穴。斯須更出,語如向。日適欲中,鼠入須臾復出,出復入,轉更數語如前。日適中,鼠曰「周南,汝不應,我復何道。」言絕,顚蹶而死,卽失衣冠。取視,俱如常鼠。案班固說,此黃祥也。是時,曹爽專政,競爲比周,故鼠作變也。

訓読

魏の齊王正始中,中山の王周南 襄邑の長爲り。鼠の穴從り出づる有り,語げて曰く「王周南,爾 某日を以て死す。」と。周南應ぜず,鼠 穴に還る。後 期に至り,更めて冠幘皁衣(そうい)もて出で,語げて曰く「周南,汝 日中當に死せんとす。」と。又た應ぜず,鼠復た穴に入る。斯須して更めて出で,語ること向きの如し。日適(まさ)に中せんと欲し,鼠入りて須臾して復た出で,出でて復た入り,轉更して數語すること前の如し。日適に中し,鼠曰く「周南,汝應ぜずんば,我復た何をか道(い)はん。」と。言絕え,顚蹶(てんけん)にして死し,卽ち衣冠を失す。取りて視れば,俱に常鼠の如し。〔一〕班固の說を案ずるに,此れ黃祥なり。〔二〕是の時,曹爽政を專らにし,競ひて比周と爲る,故に鼠 變を作すなり。〔三〕

〔一〕『捜神記』巻十八
「魏齊王芳正始中,中山王周南,爲襄邑長。忽有鼠從穴出,在廳事上,語曰「王周南,爾以某月某日當死。」周南急往,不應。鼠還穴。後至期復出,更冠幘皁衣而語曰「周南,爾日中當死。」亦不應。鼠復入穴。須臾復出,出復入,轉行數語如前。日適中。鼠復曰「周南,爾不應死,我復何道。」言訖,顚蹶而死。卽失衣冠所在。就視之,與常鼠無異。」
〔二〕『漢書』五行志下之上
「昭帝元鳳元年九月,燕有黃鼠銜其尾舞王宮端門中,往視之,鼠舞如故。王使夫人以酒脯祠,鼠舞不休,夜死。黃祥也。時燕剌王旦謀反將敗,死亡象也。其月,發覺伏辜。京房『易傳』曰「誅不原情,厥妖鼠舞門。」」
〔三〕『三國志』魏書・曹爽傳
「丁謐畫策,使爽白天子,發詔轉宣王爲太傅,外以名號尊之,內欲令尚書奏事,先來由己,得制其輕重也。爽弟羲爲中領軍,訓武衞將軍,彥散騎常侍侍講,其餘諸弟,皆以列侯侍從,出入禁闥,貴寵莫盛焉。南陽何晏・鄧颺・李勝・沛國丁謐・東平畢軌咸有聲名,進趣於時,明帝以其浮華,皆抑黜之。及爽秉政,乃復進敘,任爲腹心。颺等欲令爽立威名於天下,勸使伐蜀,爽從其言,宣王止之不能禁。」
『三國志』魏書・王肅傳
「正始元年,……時大將軍曹爽專權,任用何晏・鄧颺等。」
『三國志』魏書・蔣濟傳
「齊王即位,……是時,曹爽專政,丁謐・鄧颺等輕改法度。會有日蝕變,詔羣臣問其得失,濟上疏曰「昔大舜佐治,戒在比周。周公輔政,慎于其朋。齊侯問災,晏嬰對以布惠。魯君問異,臧孫答以緩役。應天塞變,乃實人事。今二賊未滅,將士暴露已數十年,男女怨曠,百姓貧苦。夫爲國法度,惟命世大才,乃能張其綱維以垂于後,豈中下之吏所宜改易哉。終無益于治,適足傷民,望宜使文武之臣各守其職,率以清平,則和氣祥瑞可感而致也。」」
【参照】
『宋書』五行志五
「魏齊王正始中,中山王周南爲襄邑長。有鼠從穴出,語曰「王周南,爾以某日死。」南不應。鼠還穴。後至期,更冠幘皁衣出,語曰「周南,汝日中當死。」又不應。鼠復入,斯須更出,語如向日。適欲日中,鼠入復出,出復入,轉更數語如前。日適中,鼠曰「周南,汝不應我,復何道。」言絕,顛蹶而死,卽失衣冠。取視,俱如常鼠。案班固說,此黃祥也。是時曹爽秉政,競爲比周,故鼠作變也。」

現代語訳

魏の斉王の正始年間(240~249)に,中山の王周南は襄邑の長であった。鼠が穴から出てきてつげて「王周南,そなたは某日に死ぬ。」と言った。王周南はとりあわず,鼠は穴にかえった。後にその期日になると,また(鼠が)頭巾を付け黒い着物を着て出てきて,つげて「周南,そなたは昼間に死ぬことになっている。」と言った。やはりとりあわず,鼠はまた穴に入った。しばらくしてまた出てきて,先ほどのように語った。丁度真昼になりそうなとき,鼠は入ってしばらくしてまた出て,出るもまた入り,振り返ってまた先ほどのように語った。丁度真昼になって,鼠が「周南,そなたがとりあわないのなら,私はこれ以上何も言うまい。」と言った。言葉が絶えると,つまずき倒れて死に,すぐに衣冠が無くなった。(鼠を)取って見てみると,どこも普通の鼠のようであった。班固の説を考えてみると,これは黃祥である。この時,曹爽は政治を独占しており,権力争いをし一部の仲間とだけ付き合っていた,だから鼠が変をなしたのである。

原文

惠帝元康四年十二月,大霧。帝時昏眊,政非己出,故有區霿之妖。

訓読

惠帝の元康四年十二月,大いに霧あり。帝時に昏眊し,政 己より出づるに非ず,故に區霿の妖有り。

現代語訳

恵帝の元康四年(294)十二月,沢山の霧がたちこめた。恵帝は当時蒙昧で,政令も自ら出していなかった,だから区霿の妖があるのである。

原文

元帝太興四年八月,黃霧四塞,埃氛蔽天。

訓読

元帝の太興四年八月,黃霧四塞し,埃氛 天を蔽ふ。

【参照】
『宋書』五行志五
「晉元帝太興四年八月,黃霧四塞,埃氣蔽天。案楊宣對,近土氣,亂之祥也。」

現代語訳

元帝の太興四年(321)八月,黄色の霧が四方を塞ぎ,塵埃が天を蔽った。

原文

永昌元年十月,京師大霧,黑氣貫天,日無光。

訓読

永昌元年十月,京師大いに霧あり,黑氣 天を貫き,日 光無し。〔一〕

〔一〕『晉書』元帝紀
「(永昌元年冬十月)京師大霧,黑氣蔽天,日月無光。」
『晉書』五行志下・黑眚黑祥
「元帝永昌元年十月,京師大霧,黑氣蔽天,日月無光。十一月,帝崩。」

現代語訳

永昌元年(322)十月,京師に沢山の霧がたちこめた,黒い気が天を貫き,太陽には光が無かった。

原文

明帝太寧元年正月癸巳,黃霧四塞。二月,又黃霧四塞。是時王敦擅權,謀逆愈甚。

訓読

明帝の太寧元年正月癸巳,黃霧四塞す。〔一〕二月,又た黃霧四塞す。〔二〕是の時王敦擅權し,謀逆愈いよ甚だし。

〔一〕『晉書』明帝紀
「太寧元年春正月癸巳,黃霧四塞,京師火。」
〔二〕『晉書』明帝紀
「(二月)乙丑,黃霧四塞。」
〔三〕『晋書』天文志中
「明帝太寧元年正月己卯朔,日暈無光。癸巳,黃霧四塞。占曰「君道失明,陰陽昏,臣有陰謀。」京房曰「下專刑,茲謂分威,蒙微而日不明。」先是,王敦害尚書令刁協・僕射周顗・驃騎將軍戴若思等,是專刑之應。敦既陵上,卒伏其辜。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉元帝永昌二年正月癸巳,黃霧四塞。」

現代語訳

明帝の太寧元年(323)正月癸巳,黄色の霧が四方を塞いだ。二月,さらに黄色い霧が四方を塞いだ。この時王敦が権力を握り,謀反をたくらむ気持ちがいっそう増していった。

原文

穆帝永和七年三月,涼州大風拔木,黃霧下塵。是時,張重華納譖,出謝艾爲酒泉太守,而所任非其人,至九年死,嗣子見殺,是其應也。京房『易傳』曰「聞善不子,茲謂不知,厥異黃,厥咎聾,厥災不嗣。黃者,有黃濁氣四塞天下。蔽賢絕道,故災至絕世也。」

訓読

穆帝の永和七年三月,涼州大いに風ふき木を拔き,黃霧下塵す。是の時,張重華 譖を納れ,謝艾を出だして酒泉太守と爲すも,〔一〕任ずる所其の人に非ず,九年に至りて死し,嗣子殺さる,是れ其の應なり。〔二〕京房『易傳』に曰く「善を聞くも予(あた)へず〔三〕,茲を不知と謂い,厥の異は黃,厥の咎は聾,厥の災は不嗣。黃とは,黃濁の氣有りて天下を四塞す。賢を蔽ひ道を絕つ,故に災至りて世を絕つなり。」と。〔四〕

〔一〕『晉書』張軌傳
「重華召艾,問以討寇方略。艾曰「昔耿弇不欲以賊遺君父,黃權願以萬人當寇。乞假臣兵七千,爲殿下吞王擢・麻秋等。」重華大悅,以艾爲中堅將軍,配步騎五千擊秋。引師出振武,夜有二梟鳴于牙中,艾曰「梟,邀也,六博得梟者勝。今梟鳴牙中,克敵之兆。」於是進戰,大破之,斬首五千級。重華封艾爲福祿伯,善待之。諸寵貴惡其賢,共毀譖之,乃出爲酒泉太守。」
〔二〕『晉書』穆帝紀
「(永和九年冬十月)丁未,涼州牧張重華卒,子耀靈嗣。是月,張祚弒耀靈而自稱涼州牧。」
〔三〕原文は「子」に作る,『宋書』に從い「予」に改める。
〔四〕『漢書』五行志下之上
「成帝建始元年四月辛丑夜,西北有如火光。壬寅晨,大風從西北起,雲氣赤黃,四塞天下,終日夜下著地者黃土塵也。是歲,帝元舅大司馬大將軍王鳳始用事。又封鳳母弟崇爲安成侯,食邑萬戶。庶弟譚等五人賜爵關內侯,食邑三千戶。復益封鳳五千戶,悉封譚等爲列侯,是爲五侯。哀帝卽位,封外屬丁氏・傅氏・周氏・鄭氏凡六人爲列侯。楊宣對曰「五侯封日,天氣赤黃,丁・傅復然。此殆爵土過制,傷亂土氣之祥也。」京房『易傳』曰「經稱『觀其生』,言大臣之義,當觀賢人,知其性行,推而貢之,否則爲聞善不與,茲謂不知,厥異黃,厥咎聾,厥災不嗣。黃者,日上黃光不散如火然,有黃濁氣四塞天下。蔽賢絕道,故災異至絕世也。經曰『良馬逐』。逐,進也,言大臣得賢者謀,當顯進其人,否則爲下相攘善,茲謂盜明,厥咎亦不嗣,至於身僇家絕。」」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉穆帝永和七年三月,涼州大風拔木,黃霧下塵。是時張重華納譖,出謝艾爲酒泉太守,而所任非其人。至九年死,嗣子見弒。是其應也。京房『易傳』曰「聞善不予,茲謂不知。厥異黃,厥咎聾,厥災不嗣。黃者,有黃濁氣四塞天下,蔽賢絕道,故災至絕世也。」」

現代語訳

穆帝の永和七年(351)三月,涼州に大風が吹き木を抜き,黃色い霧が塵のように降った。この時,張重華は讒言をいれ,謝艾を酒泉太守に左遷したが,任じた官職は相応しいものではなかったので,(永和)九年になって(張重華は)死に,嗣子も殺された,これはその応である。京房『易伝』に「善いことを聞いても(ふさわしい職を)与えない,これを不知といい,その異は黄,その咎は聾,その災は不嗣(跡継ぎがない)である。黄とは,黄色く濁った気が天下を塞いでしまうことである。賢を蔽い道を絶つ,だから災いが起こって家系を断絶するのである。」と言っている。

原文

孝武泰元八年二月癸未,黃霧四塞。是時,道子專政,親近佞人,朝綱方替。

訓読

孝武の泰元八年二月癸未,黃霧四塞す。〔一〕是の時,道子 政を專らにし,佞人と親近し,朝綱方に替ふ。〔二〕

〔一〕『晉書』孝武帝紀
「八年春二月癸未,黃霧四塞。」
〔二〕『晉書』簡文三子傳
「于時孝武帝不親萬機,但與道子酣歌爲務,姏姆尼僧,尤爲親暱,並竊弄其權。凡所幸接,皆出自小豎。郡守長吏,多爲道子所樹立。既爲揚州總錄,勢傾天下,由是朝野奔湊。中書令王國寶性卑佞,特爲道子所寵昵。官以賄遷,政刑謬亂。又崇信浮屠之學,用度奢侈,下不堪命。太元以後,爲長夜之宴,蓬首昏目,政事多闕。桓玄嘗候道子,正遇其醉,賓客滿坐,道子張目謂人曰「桓溫晚塗欲作賊,云何。」玄伏地流汗不得起。長史謝重舉板答曰「故宣武公黜昏登聖,功超伊霍,紛紜之議,宜裁之聽覽。」道子頷曰「儂知儂知。」因舉酒屬玄,玄乃得起。由是玄益不自安,切齒於道子。」

現代語訳

孝武の泰元八年(383)二月癸未,黃色い霧が四方を塞いだ。この時,司馬道子は政治をほしいままにし,佞人を親しく近づけ,朝廷の綱紀を替えようとしていた。

原文

安帝元興元年十月景申朔,黃霧昏濁不雨。是時桓玄謀逆之應。

訓読

安帝の元興元年十月丙〔一〕申朔,黃霧昏濁し雨ふらず。是の時桓玄謀逆するの應。〔二〕

〔一〕「丙」,原文は「景」であるが,高祖の父(李昞)の避諱である。今『宋書』五行志に從い「丙」に改める。
〔二〕『晉書』安帝紀
「(元興元年三月)壬申,桓玄自爲侍中・丞相・錄尚書事,以桓謙爲尚書僕射,遷太傅・會稽王道子于安城。玄俄又自稱太尉・揚州牧,總百揆,以琅邪王德文爲太宰。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉安帝元興元年十月丙申朔,黃霧昏濁,不雨。」

現代語訳

安帝の元興元年(402)十月丙申朔,黃色い霧が暗く濁ったような状態となり雨が降らなかった。この時桓玄が謀反をたくらんだことの応である。

原文

義熙五年十一月,大霧。 十年十一月,又大霧。是時,帝室衰微,臣下權盛,兵及土地,略非君有,此其應也。

訓読

義熙五年十一月,大いに霧あり。 十年十一月,又た大いに霧あり。是の時,帝室 衰微し,臣下 權盛んにして,兵及び土地,略ぼ君の有に非ず,此れ其の應なり。

現代語訳

義熙五年(409)十一月,沢山の霧がたちこめた。 十年(414)十一月,また沢山の霧がたちこめた。この時,帝室は衰え,臣下は権力を増し,兵や土地は,ほとんど君主の所有ではなくなっていた,これはその応である。

地震

原文

地震
劉向曰「地震,金木水火沴土者也。」伯陽甫曰「天地之氣,不過其序,若過其序,人之亂也。陽伏而不能出,陰迫而不能升,於是有地震。」

訓読

地震
劉向曰はく〔一〕「地震,金木水火の土を沴る者なり」と。伯陽甫曰はく「天地の氣,其の序を過らず,若し其の序を過れば,人 之れを亂すなり〔二〕。陽は伏して出づること能わず,陰は迫りて升ること能わず〔三〕,是に於いて地震有り」〔四〕と。

〔一〕劉向の説に限らず,この節の全文『漢書』五行志からの引用である。【参照】を見よ。
〔二〕『晋書斠注』では『漢書』五行志の原文は「民亂之也」であると指摘しており,書き下しと訳はそれに合わせた。
〔三〕『漢書』の当該記事の夾註に「應劭曰「迫,陰迫陽,使不能升也。」」とある。
〔四〕『史記』周本紀
「四十六年,宣王崩,子幽王宮湦立。幽王二年,西周三川皆震。伯陽甫曰「周將亡矣。夫天地之氣,不失其序。若過其序,民亂之也。陽伏而不能出,陰迫而不能蒸,於是有地震。今三川實震,是陽失其所而填陰也。陽失而在陰,原必塞。原塞,國必亡。夫水土演而民用也。土無所演,民乏財用,不亡何待。昔伊・洛竭而夏亡,河竭而商亡。今周德若二代之季矣,其川原又塞,塞必竭。夫國必依山川,山崩川竭,亡國之徵也。川竭必山崩。若國亡不過十年,數之紀也。天之所弃,不過其紀。」是歲也,三川竭,岐山崩。」
【参照】
『漢書』五行志下之上・思羞・地震
「史記周幽王二年,周三川皆震。劉向以爲金木水火沴土者也。伯陽甫曰「周將亡矣。天地之氣不過其序。若過其序,民亂之也。陽伏而不能出,陰迫而不能升,於是有地震。今三川實震,是陽失其所而填陰也。陽失而在陰,原必塞。原塞,國必亡。夫水,土演而民用也。土無所演,而民乏財用,不亡何待。昔伊雒竭而夏亡,河竭而商亡,今周德如二代之季,其原又塞,塞必竭。川竭,山必崩。夫國必依山川,山崩川竭,亡之徵也。若國亡,不過十年,數之紀也。」」

現代語訳

地震
劉向は次のように言っている「地震とは,金・木・水・火の気が土の気にそこなった(ことによっておこる)ものである」と。伯陽甫は次のように言っている「天地の気というものは,その秩序を違えることがない,もしその秩序を違えているとしたら,人が秩序を乱しているのである。陽の気は(陰の気の下に)隠れていて外に出ることができず,陰の気は陽の気を圧迫して上昇することができないようにしている,こうなると地震が起きるのである」と。

原文

吳孫權黃武四年,江東地連震。是時,權受魏爵命爲大將軍・吳王,改元專制,不修臣跡。京房易傳曰「臣事雖正,專必震。其震,於水則波,於木則搖,於屋則瓦落。大經在辟而易臣,茲謂陰動,厥震搖政宮。大經搖政,茲謂不陰,厥震搖山,出涌水。嗣子無德專祿,茲謂不順,厥震動丘陵,涌水出。」劉向並云「臣下強盛,將動而爲害之應也。」

訓読

吳孫權黃武四年,江東の地 連りに震ふ〔一〕。是の時,權 魏の爵命を受け大將軍・吳王と爲るも,改元して專制し,臣の跡を修めず。京房易傳に曰はく〔二〕「臣事 正しきと雖ども,專らにすれば必ず震あり。其の震,水に於いては則ち波だち,木に於いては則ち搖れ,屋に於いては則ち瓦落す。大經 辟に在りて臣を易んず〔三〕,茲れ陰動と謂ひ,厥の震 政宮を搖する。大經 政を搖する,茲れ不陰と謂ひ,厥の震 山を搖すり,涌水を出だす。嗣子の德無く祿を專らにす,茲れを不順と謂ひ,厥の震 丘陵を動かし,涌水出づ。」と。劉向並びに〔四〕云ふ「臣下強盛にして,將に動かんとして害と爲るの應なり」〔五〕と。

〔一〕『三国志』呉書・孫権伝・黄武四年
「是歲地連震。」
〔二〕『漢書』五行志下之上・思羞・地震
「文公九年「九月癸酉,地震」。劉向以爲先是時,齊桓・晉文・魯釐二伯賢君新沒,周襄王失道,楚穆王殺父,諸侯皆不肖,權傾於下,天戒若曰,臣下彊盛者將動爲害。後宋・魯・晉・莒・鄭・陳・齊皆殺君。諸震,略皆從董仲舒説也。京房易傳曰「臣事雖正,專必震,其震,於水則波,於木則搖,於屋則瓦落。大經在辟而易臣,茲謂陰動,厥震搖政宮。大經搖政,茲謂不陰,厥震搖山,山出涌水。嗣子無德專祿,茲謂不順,厥震動丘陵,涌水出。」」
〔三〕『漢書』当該箇所夾註
「服虔曰「經,常也。辟音刑辟之辟。」蘇林曰「大經,五行之常經也。在辟,衆陰犯殺其上也。」師古曰「辟讀曰僻,謂常法僻壞而易臣也。」」
〔四〕『宋書』五行志では「董仲舒・劉向並云」となっている。
〔五〕『漢書』五行志下之上・思羞・地震
「文公九年「九月癸酉,地震」。劉向以爲先是時,齊桓・晉文・魯釐二伯賢君新沒,周襄王失道,楚穆王殺父,諸侯皆不肖,權傾於下,天戒若曰,臣下彊盛者將動爲害。」
『魏書』霊徴志・地震
「洪範論曰地陰類,大臣之象,陰靜而不當動,動者,臣下強盛,將動而爲害之應也。」
『隋書』五行志下・心咎・木金水火沴土
「梁天監五年十一月,京師地震,木金水火沴土也。洪範五行傳曰「臣下盛,將動而爲害。」京房易飛候曰「地動以冬十一月者,其邑饑亡。」時交州刺史李凱舉兵反。明年,霜,歲儉人飢。」
『隋書』経籍志一・経・書
「尚書洪範五行傳論十一卷。漢光祿大夫劉向注。」
『開元占経』巻四・地占
「『穀梁』曰,地動,大臣盛,将動有変。(変謂反也。)」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「吳孫權黃武四年,江東地連震。是時權受魏爵命,爲大將軍・吳王,改元專制,不修臣迹。京房易傳曰「臣事雖正,專必震。」董仲舒・劉向並云「臣下強盛,將動而爲害」之應也。」

現代語訳

呉の孫権の黄武四年(225),江東で連日地震があった。この時,孫権は魏に爵位と官職を授けられて大将軍・呉王となったが,(呉独自の年号に)改元して専制し,臣下としての規範に従わなかった。京房の『易伝』に「臣下として行うことが正しいとしても,独断専行すれば必ず震動が起きる。その震動は,水にあっては波だち,木にあっては揺れ,建物にあっては瓦が落ちる。常道が刑罰にあると臣下の首がすげ替えられる,これを陰動といい,その地震は政治の場を揺さぶる。常道が政治を揺さぶる,これを不陰といい,その地震は山を揺すり,湧き水を出す。世継ぎに徳がなく禄を専有する,これを不順といい,その地震は丘陵を動かし,湧き水が出る。」と言う。劉向も「臣下の勢いが盛んで,まさに動こうとして害になることの応である。」と言う。

原文

魏明帝青龍二年十一月,京都地震,從東來,隱隱有聲,搖屋瓦。

訓読

魏明帝青龍二年十一月,京都に地震あり,東より來たり,隱隱として聲有り,屋瓦を搖らす〔一〕。

〔一〕『三国志』魏書・明帝紀・青龍二年
「冬十月乙丑,月犯鎮星及軒轅。戊寅,月犯太白。十一月,京都地震,從東南來,隱隱有聲,搖動屋瓦。」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「魏明帝青龍二年十一月,京都地震,從東來,隱隱有聲,屋瓦搖。」

現代語訳

魏の明帝の青龍二年(234)十一月,みやこで地震があった,(震動は)東の方角から来て,ごおっと大きな音がして,屋根の瓦を揺すった。

原文

景初元年六月戊申,京都地震。是秋,吳將朱然圍江夏,荊州刺史胡質擊退之。又,公孫文懿叛,自立為燕王,改年,置百官。明年,討平之。

訓読

景初元年六月戊申,京都に地震あり〔一〕。是の秋,吳將の朱然 江夏を圍み,荊州刺史の胡質 之を擊退す〔二〕。又た,公孫文懿叛き,自ら立ちて燕王と爲る〔三〕,年改まり,百官を置く。明年,之を討平す〔四〕。

〔一〕『三国志』魏書・明帝紀・景初元年
「六月戊申,京都地震。」
〔二〕同上
「秋七月丁卯,司徒陳矯薨。孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡,荊州刺史胡質等擊之,然退走。初,權遣使浮海與高句驪通,欲襲遼東。遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑・烏丸屯遼東南界,璽書徵公孫淵。淵發兵反,儉進軍討之,會連雨十日,遼水大漲,詔儉引軍還。右北平烏丸單于寇婁敦・遼西烏丸都督王護留等居遼東,率部眾隨儉内附。己卯,詔遼東將吏士民爲淵所脅略不得降者,一切赦之。辛卯,太白晝見。淵自儉還,遂自立爲燕王,置百官,稱紹漢元年。」
〔三〕文懿は公孫淵の字。晋代に編纂された『三国志』では宣帝司馬懿の避諱として,伝中に字を記さず,唐代に編纂された『晋書』では高祖李淵の避諱として字のみ記す。
『三国志』公孫淵伝
「景初元年,乃遣幽州刺史毌丘儉等齎璽書徵淵。淵遂發兵,逆於遼隧,與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立爲燕王,置百官有司。遣使者持節,假鮮卑單于璽,封拜邊民,誘呼鮮卑,侵擾北方。」
『晋書』宣帝紀
「及遼東太守公孫文懿反,徵帝詣京師。」
〔四〕『三国志』魏書・明帝紀・景初二年
「二年春正月,詔太尉司馬宣王帥眾討遼東。
……(秋八月)丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。」
『晋書』宣帝紀
「景初二年,帥牛金・胡遵等步騎四萬,發自京都。車駕送出西明門,詔弟孚・子師送過溫,賜以穀帛牛酒,敕郡守典農以下皆往會焉。見父老故舊,讌飲累日。帝歎息,悵然有感,爲歌曰「天地開闢,日月重光。遭遇際會,畢力遐方。將掃羣穢,還過故鄉。肅清萬里,總齊八荒。告成歸老,待罪舞陽。」遂進師,經孤竹,越碣石,次于遼水。文懿果遣步騎數萬,阻遼隧,堅壁而守,南北六七十里,以距帝。帝盛兵多張旗幟出其南,賊盡銳赴之。乃泛舟潛濟以出其北,與賊營相逼,沈舟焚梁,傍遼水作長圍,棄賊而向襄平。
初,文懿聞魏師之出也,請救於孫權。權亦出兵遙爲之聲援,遺文懿書曰「司馬公善用兵,變化若神,所向無前,深爲弟憂之。」」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「魏明帝景初元年六月戊申,京都地震。是秋,吳將朱然圍江夏,荊州刺史胡質擊退之。又公孫淵自立爲燕王,改年,置百官。明年,討平之。」

現代語訳

景初元年(237)六月戊申の日,みやこで地震があった。この年の秋,呉の将軍の朱然が江夏を包囲し,荊州刺史の胡質がそれ(朱然)を撃退した。その上,公孫文懿(公孫淵)が反旗を翻し,自ら位について燕王となり,年が改まって,百官を置いた。明年,それ(公孫文懿)を討伐した。

原文

吳孫權嘉禾六年五月,江東地震。
赤烏二年正月,地再震。是時,呂壹專事,步騭上疏曰「伏聞校事吹毛求瑕,趣欲陷人,成其威福,無罪無辜,橫受重刑,雖有大臣,不見信任,如此,天地焉得無變。故地連震動,臣下專政之應也。冀所以警悟人主,可不深思其意哉」壹後卒敗。

訓読

吳孫權嘉禾六年五月,江東に地震あり〔一〕。
赤烏二年正月,地再び震ふ〔一〕。是の時,呂壹 事を專らにし〔二〕,步騭(しつ)上疏して曰はく「伏して聞く校事毛を吹きて瑕を求め,趣は人を陷れんと欲し,其の威福を成し,無罪無辜,重刑を橫受し,大臣有ると雖ども,信任せられず,此の如ければ,天地焉んぞ變無きを得んや。故に地連りに震動す,臣下專政の應なり。冀はくは人主を警悟する所以なれば,其の意を深思せざるべけんや」と。〔三〕壹後ち卒に敗す〔四〕。

〔一〕『三国志』の孫権伝に本記事に対応する記述はないが、步騭の上表文の中で二つの地震について言及されている。赤烏二年の地震について「再」とあるのも、二つの地震が同じ文脈の中で語られているのを受けたものであると推定し、ここでは二つの記事を分けずに一続きのものとして扱っている。なお、下の記事は注釈〔三〕の引用の一部にあたるため、上表の全体については〔三〕を参照すること。
『三国志』呉書・步騭伝
「又嘉禾六年五月十四日,赤烏二年正月一日及二十七日,地皆震動。」
〔二〕『三国志』呉書・呉主孫権伝・赤烏元年
「初,權信任校事呂壹,壹性苛慘,用法深刻。太子登數諫,權不納,大臣由是莫敢言。後壹姦罪發露伏誅〔四〕,權引咎責躬,乃使中書郎袁禮告謝諸大將,因問時事所當損益。」
同上・顧雍伝
「久之,呂壹・秦博爲中書,典校諸官府及州郡文書。壹等因此漸作威福,遂造作榷酤障管之利,舉罪糾奸,纖介必聞,重以深案醜誣,毀短大臣,排陷無辜,雍等皆見舉白,用被譴讓。」
同上・陸遜伝
「時中書典校呂壹,竊弄權柄,擅作威福,遜與太常潘濬同心憂之,言至流涕。後權誅壹〔四〕,深以自責,語在權傳。」
〔三〕『三国志』呉書・步騭伝
「後中書呂壹典校文書,多所糾舉,騭上疏曰「伏聞諸典校擿抉細微,吹毛求瑕,重案深誣,輒欲陷人以成威福。無罪無辜,橫受大刑,是以使民跼天蹐地,誰不戰慄。昔之獄官,惟賢是任,故皋陶作士,呂侯贖刑,張・于廷尉,民無寃枉,休泰之祚,實由此興。今之小臣,動與古異,獄以賄成,輕忽人命,歸咎于上,爲國速怨。夫一人吁嗟,王道爲虧,甚可仇疾。明德慎罰,哲人惟刑,書傳所美。自今蔽獄,都下則宜諮顧雍,武昌則陸遜・潘濬,平心專意,務在得情,騭黨神明,受罪何恨。」又曰「天子父天母地,故宮室百官,動法列宿。若施政令,欽順時節,官得其人,則陰陽和平,七曜循度。至於今日,官寮多闕,雖有大臣,復不信任,如此天地焉得無變。故頻年枯旱,亢陽之應也。又嘉禾六年五月十四日,赤烏二年正月一日及二十七日,地皆震動。地陰類,臣之象,陰氣盛故動,臣下專政之故也。夫天地見異,所以警悟人主,可不深思其意哉。」……權亦覺梧,遂誅呂壹〔四〕。」
〔四〕注釈〔二〕・〔三〕の〔四〕を見よ。
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「吳孫權嘉禾六年五月,江東地震。」
「赤烏二年正月,地又再震。是時呂壹專政,步騭上疏曰「伏聞校事,吹毛求瑕,趣欲陷人,成其威福,無罪無辜,橫受重刑,雖有大臣,不見信任。如此,天地焉得無變。故嘉禾六年・赤烏二年,地連震動,臣下專政之應也。冀所以警悟人主,可不深思其意哉。」壹後卒敗。」

現代語訳

呉の孫権の嘉禾六年(237)五月,江東で地震があった。
赤烏二年(239)正月,再び地震があった。この時,呂壹が政事を独断専行しており,步騭が上表して「臣が謹んで聞くところによりますと,校事(呂壹)は体毛に息を吹きかけてその下の傷を求め(るように粗を探し)ていて,その意図するところは人を陥れようとしており,(本来君主が行うべき)賞罰を好き勝手に決め,なんの罪も無い人が,道理に合わない重い刑罰を受けております,これでは大臣がいるといっても,信じて任せられておりません,このようであれば,どうして天地に異変がないままでいられましょうか。ですから地は頻りに振動しているのであり,臣下が政事を独断専行する応なのです。どうか陛下を戒め悟らせるため(の異変)なのですから,どうしてその意図に深く思い至さずにいることができましょうか」と言った。呂壹はその後結局(政争に)敗れた。

原文

魏齊王正始二年十一月,南安郡地震。三年七月甲申,南安郡地震。十二月,魏郡地震。六年二月丁卯,南安郡地震。是時,曹爽專政,遷太后于永寧宮,太后與帝相泣而別。連年地震,是其應也。

訓読

魏齊王正始二年十一月,南安郡に地震あり〔一〕。三年七月甲申,南安郡に地震あり。十二月,魏郡に地震あり〔二〕。六年二月丁卯,南安郡に地震あり〔三〕。是の時,曹爽專政し,太后を永寧宮に遷す,太后 帝と相い泣きて別る〔四〕。連年地震あるは,是れ其の應なり。

〔一〕『三国志』魏書・少帝紀・正始二年
「冬十二月,南安郡地震。」
〔二〕同上・正始三年
「秋七月甲申,南安郡地震。……冬十二月,魏郡地震。」
〔三〕同上・正始六年
「六年春二月丁卯,南安郡地震。」
〔四〕『晋書』宣帝紀
「曹爽用何晏・鄧颺・丁謐之謀,遷太后於永寧宮,專擅朝政,兄弟并典禁兵,多樹親黨,屢改制度。帝不能禁,於是與爽有隙。」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「魏齊王正始二年十一月,南安郡地震。正始三年七月甲申,南安郡地震。十二月,魏郡地震。正始六年二月丁卯,南安郡地震。是時曹爽專政,遷太后于永寧宮,太后與帝相泣而別。連年地震,是其應也。」

現代語訳

魏の齊王の正始二年(241)十一月,南安郡で地震があった。三年七月甲申の日,南安郡で地震があった。十二月,魏郡で地震があった。六年(245)二月丁卯の日,南安郡で地震があった。この時,曹爽が政事を専らにし,太后を永寧宮に遷した,太后は皇帝と互いに涙を流して別れた。連年の地震があったというのは,その応である。

原文

吳孫權赤烏十一年二月,江東地仍震。是時,權聽讒,尋黜朱據,廢太子。

訓読

吳孫權赤烏十一年二月,江東の地仍りに震あり〔一〕。是の時,權 讒を聽き,尋いで朱據を黜し,太子を廢す〔二〕。

〔一〕『三国志』呉書・孫権伝・赤烏十一年
「十一年春正月,朱然城江陵。二月,地仍震。」
〔二〕同上・太元二年(252)
「評曰孫權屈身忍辱,任才尚計,有句踐之奇英,人之傑矣。故能自擅江表,成鼎峙之業。然性多嫌忌,果於殺戮,暨臻末年,彌以滋甚。至于讒說殄行,胤嗣廢斃,豈所謂貽厥孫謀以燕翼子者哉。其後葉陵遲,遂致覆國,未必不由此也。」
『三国志』呉書・朱據伝
「赤烏九年(246),遷驃騎將軍。遭二宮搆爭,據擁護太子,言則懇至,義形于色,守之以死,遂左遷新都郡丞。未到,中書令孫弘譖潤據,因權寢疾,弘爲昭書追賜死,時年五十七。」
同上・呉書・孫和伝
「後遂幽閉和。於是驃騎將軍朱據・尚書僕射屈晃率諸將吏泥頭自縛,連日詣闕請和。權登白爵觀見,甚惡之,敕據・晃等無事忩忩。權欲廢和立亮,無難督陳正・五營督陳象上書,稱引晉獻公殺申生,立奚齊,晉國擾亂,又據・晃固諫不止。權大怒,族誅正・象,據・晃牽入殿,杖一百,竟徙和於故鄣,羣司坐諫誅放者十數。眾咸寃之。」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「吳孫權赤烏十一年二月,江東地仍震。是時權聽讒,尋黜朱據,廢太子。」

現代語訳

呉の孫権の赤烏十一年(248)二月,江東で頻繁に地震があった。この時,孫権は讒言を聴き入れ,まもなく朱據を左遷し,太子を廃した。

原文

蜀劉禪炎興元年,蜀地震。是時宦人黃皓專權。案司馬彪說「閹官無陽施,猶婦人也。」皓見任之應,與漢和帝時同事也。是冬,蜀亡。

訓読

蜀劉禪炎興元年,蜀に地震あり。是の時宦人の黃皓 權を專らにす〔一〕。司馬彪の說を案ずるに「閹官の陽施無きは,猶ほ婦人のごときなり。」と。皓を見任するの應,漢の和帝の時と事を同じくするなり〔二〕。是の冬,蜀亡ぶ〔三〕。

〔一〕『三国志』蜀書・景耀元年(258)
「景耀元年,姜維還成都。史官言景星見,於是大赦,改年。宦人黃皓始專政。吳大將軍孫綝廢其主亮,立琅邪王休。」
同上・蜀書・劉永伝
「初,永憎宦人黃皓,皓既信任用事,譖構永于後主,後主稍疎外永,至不得朝見者十餘年。」
〔二〕『後漢書』五行志四・地震
「七年九月癸卯,京都地震。儒説奄官無陽施,猶婦人也。是時和帝與中常侍鄭眾謀奪竇氏權,德之,因任用之,及幸常侍蔡倫,二人始並用權。」
〔三〕『三国志』魏書・少帝紀・景元四年(263)
「十一月,大赦。自鄧艾・鍾會率眾伐蜀,所至輒克。是月,蜀主劉禪詣艾降,巴蜀皆平。十二月庚戌,以司徒鄭沖爲太保。壬子,分益州爲梁州。癸丑,特赦益州士民,復除租賦之半五年。」
同上・蜀書・劉禅伝・景耀六年
「改元爲炎興。冬,鄧艾破衞將軍諸葛瞻於綿竹。用光祿大夫譙周策,降於艾……」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「蜀劉禪炎興元年,蜀地震。時宦人黃皓專權。按司馬彪說,奄宦無陽施,猶婦人也。此皓見任之應,與漢和帝時同事也。是冬蜀亡。」

現代語訳

蜀の劉禪の炎興元年(263),蜀で地震があった。この時宦官の黄皓が専権を振るっていた。司馬彪の説を参照すると「宦官に陽物(生殖器)が無いことは,女性のようなものである。」とある。黄皓を信任したことの応であり,漢の和帝の時に起こったことと同じである。この年の冬,蜀が滅んだ。

原文

武帝泰始五年四月辛酉,地震。是年冬,新平氐羌叛。明年,孫晧遣大眾入渦口。
七年六月丙申〔一〕,地震。

訓読

武帝泰始五年四月辛酉,地震あり〔二〕。是の年の冬,新平の氐羌叛く。明年,孫晧大眾を遣わして渦口に入る〔三〕。
七年六月丙申,地震あり。

〔一〕『晋書斠注』の原文は「景申」だが,これは唐の高祖の父「李昞」の避諱であり,「丙申」に改めた。
〔二〕『晋書』武帝・泰始五年
「夏四月,地震。」
〔三〕同上・六年
「六年春正月……吳將丁奉入渦口,揚州刺史牽弘擊走之。」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「晉武帝泰始五年四月辛酉,地震。是年冬,新平氐・羌叛。明年,孫晧大遣眾入渦口。叛虜寇秦・涼,刺史胡烈・蘇愉並爲所害。
泰始七年六月丙申,地震。武帝世,始於賈充,終於楊駿,阿黨昧利,苟專權寵,終喪天下,由是也。末年所任轉敝,故亦一年六震,是其應也。裴叔則曰「晉德所以不比隆堯・舜者,以有賈充諸人在朝。」」

現代語訳

武帝の泰始五年(269)四月辛酉の日に,地震があった。この年の冬,新平の氐族と羌族が叛いた。明くる年,孫晧が大軍を遣わして渦口に入った。
七年(271)六月丙申の日,地震があった。

原文

咸寧二年八月庚辰,河南・河東・平陽地震。
四年六月丁未,陰平・廣武地震,甲子又震。

訓読

咸寧二年八月庚辰,河南・河東・平陽に地震あり〔一〕。
四年六月丁未,陰平・廣武に地震あり,甲子又た震ふ〔二〕。

〔一〕『晋書斠注』では本紀の当該記事に「河南」の二字がないことを指摘している。
『晋書』武帝・咸寧二年
「八月庚辰,河東・平陽地震。」
〔二〕同上・四年
「六月丁未,陰平・廣武地震,甲子又震。」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「晉武帝咸寧二年八月庚辰,河南・河東・平陽地震。
咸寧四年六月丁未,陰平・廣武地震。甲子,陰平・廣武地又震。」

現代語訳

咸寧二年(276)八月庚辰の日に,河南・河東・平陽で地震があった。
四年(278)六月丁未の日に,陰平・広武で地震があった,甲子の日にまた地震があった。

原文

太康二年二月庚申,淮南・丹楊地震。
五年正月朔壬辰,京師地震。
六年七月己丑,地震。
七年七月,南安・犍爲地震。八月,京兆地震。
八年五月壬子,建安地震。七月,陰平地震。八月,丹楊地震。
九年正月,會稽・丹楊・吳興地震。四月辛酉,長沙・南海等郡國八地震。七月至于八月,地又四震,其三有聲如雷。九月,臨賀地震,十二月又震。
十年十二月己亥,丹楊地震。

訓読

太康二年二月庚申,淮南・丹楊に地震あり〔一〕。
五年正月朔壬辰,京師に地震あり〔二〕。
六年七月己丑,地震あり〔三〕。
七年七月,南安・犍爲に地震あり。八月,京兆に地震あり〔四〕。
八年五月壬子,建安に地震あり。七月,陰平に地震あり。八月,丹楊に地震あり〔五〕。
九年正月,會稽・丹楊・吳興に地震あり〔六〕。四月辛酉,長沙・南海等郡國八に地震あり。七月より八月に至るまで,地又た四たび震ひ,其の三に聲の雷の如き有り。九月,臨賀に地震あり,十二月又た震ふ。
十年十二月己亥,丹楊に地震あり。

〔一〕『晋書』武帝紀・太康二年
「二年春二月,淮南・丹楊地震。」
〔二〕本紀では正月に地震の記事はなく,二月の壬辰に地震があったとされる。
同上・五年
「二月丙寅,立南宮王子玷爲長樂王。壬辰,地震。」
〔三〕同上・六年
「秋七月,巴西地震。」
〔四〕同上・七年
「秋七月,朱提山崩,犍爲地震。
八月,東夷十一國內附。京兆地震。」
〔五〕五月から八月にかけて地震の記事は見当たらないが,七月に地震に関連すると思われる記事がある。
同上・八年
「秋七月,前殿地陷,深數丈,中有破船。」
〔六〕九年の本紀では正月以外地震の記述はない。
同上・九年
「九年春正月壬申朔,日有蝕之。……江東四郡地震。
夏四月,江南郡國八地震。隴西隕霜,傷宿麥。」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「晉武帝太康二年二月庚申,淮南・丹陽地震。
太康五年二月壬辰,地震。
太康六年七月己丑,地震。
太康七年七月,南安・犍爲地震。八月,京兆地震。
太康八年五月壬子,建安地震。七月,陰平地震。八月,丹陽地震。
太康九年正月,會稽・丹陽・吳興地震。四月辛酉,長沙・南海等郡國八地震。七月至于八月,地又四震,其三有聲如雷。
太康十年十二月己亥,丹陽地震。」

現代語訳

太康二年(281)二月庚申の日,淮南・丹楊で地震があった。
五年(284)正月一日(壬辰),みやこで地震があった。
六年(285)七月己丑の日,地震があった。
七年(286)七月,南安・犍為で地震があった。八月,京兆郡で地震があった。
八年(287)五月壬子の日,建安で地震があった。七月,陰平で地震があった。八月,丹楊で地震があった。
九年(288)正月,会稽・丹楊・呉興で地震があった。四月辛酉の日,長沙・南海等の八つの郡国で地震があった。七月から八月までの間,さらに四度の地震があり,そのうちの三度で雷のような音がした。九月,臨賀で地震があり,十二月さらに地震があった。
十年(289)十二月己亥の日,丹楊で地震があった。

原文

太熙元年正月,地又震。武帝世,始於賈充,終於楊駿,阿黨昧利,苟竊朝權。至於末年,所任轉𡚁,故頻年地震,過其序也,終喪天下。

訓読

太熙元年正月,地又た震ふ。武帝の世,賈充に始まり,楊駿に終わる,阿黨 利を昧(むさぼ)り,苟に朝權を竊む。末年に至り,任ずる所轉た𡚁なり,故に頻年地震あり,其の序を過つや,終に天下を喪ふ〔一〕。

〔一〕「武帝世」から始まる一文は、『宋書』では武帝泰始七年条の後ろについている。しかし,武帝年間の地震の記事は【参照】を見てもわかるとおり,太熙元年まで続いている。この位置に違和感があるためか、『晋書』では武帝年間の最後の記事につけられている。
『宋書』五行志・土・地震
「泰始七年六月丙申,地震。武帝世,始於賈充,終於楊駿,阿黨昧利,苟專權寵,終喪天下,由是也。末年所任轉敝,故亦一年六震,是其應也。裴叔則曰「晉德所以不比隆堯・舜者,以有賈充諸人在朝。」」
【参照】
『宋書』五行志・土・地震
「晉武帝太熙元年,地震。」

現代語訳

太熙元年(290)正月,また地震があった。武帝の世は,賈充に始まり,楊駿に終わったが,奸臣が徒党を組んで利権を漁り,いっとき朝政の大権を盗んだ。治世の末年に至ると,任用した者はますます(質が)劣っていった,だから連年地震があったのであり,天地の秩序を違えたので,とうとう天下を失った。

原文

惠帝元康元年十二月辛酉,京都地震。此夏,賈后使楚王瑋殺汝南王亮及太保衞瓘,此陰道盛,陽道微故也。

訓読

惠帝の元康元年十二月辛酉,京都に地震あり〔一〕。此の夏,賈后楚王瑋をして汝南王亮及び太保衞瓘を殺さしむ〔二〕,此れ陰道盛にして,陽道微なるが故なり。

〔一〕『晋書』孝惠帝紀・永平元年(291年)
「冬十二月辛酉,京師地震。」
〔二〕『晋書』惠賈皇后傳
「后暴戾日甚。侍中賈模,后之族兄,右衞郭彰,后之從舅,並以才望居位,與楚王瑋・東安公繇分掌朝政。后母廣城君養孫賈謐干預國事,權侔人主。繇密欲廢后,賈氏憚之。及太宰亮・衞瓘等表繇徙帶方,奪楚王中候,后知瑋怨之,乃使帝作密詔令瑋誅瓘・亮,以報宿憾。模知后凶暴,恐禍及己,乃與裴頠・王衍謀廢之,衍悔而謀寢。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉惠帝元康元年十二月辛酉,京都地震。」

現代語訳

惠帝(司馬衷)の元康元年(291年)十二月辛酉,都(洛陽)で地震があった。この夏,賈后(賈南風)は楚王司馬瑋に汝南王司馬亮と太保の衞瓘を殺させた,これは陰道が盛んで,陽道が微かなことによる。

原文

四年二月,上谷・上庸・遼東地震。五月,蜀郡山移。淮南壽春洪水出,山崩地陷,壞城府。八月,上谷地震,水出,殺百餘人。十月,京都地震。十一月,滎陽・襄城・汝陰・梁國・南陽地皆震。十二月,京都又震。是時,賈后亂朝,終至禍敗之應也。漢鄧太后攝政時,郡國地震。李固以為「地,陰也,法當安靜。今乃越陰之職,專陽之政,故應以震。」,此同事也。京房『易傳』曰「小人剝廬,厥妖山崩,茲謂陰乘陽,弱勝強。」,又曰「陰背陽則地裂,父子分離,夷羌叛去。」。

訓読

四年二月,上谷・上庸・遼東に地震あり。五月,蜀郡 山移る。淮南の壽春に洪水出づ,山崩れ地陷(おちい)り,城府を壞す。八月,上谷に地震あり,水出でて,百餘人を殺す。十月,京都に地震あり。十一月,滎陽・襄城・汝陰・梁國・南陽の地皆な震ふ。十二月,京都又た震ふ〔一〕。是の時,賈后 朝を亂し〔二〕,終に禍敗に至るの應なり。漢の鄧太后 攝政するの時,郡國に地震あり〔三〕。李固以為らく「地は陰なり,法は當に安靜なるべし。今乃ち陰の職を越えて,陽の政を專らにす,故に應ずるに震を以てす。」と〔四〕。此れ事を同じくするなり。京房『易傳』に曰はく「小人 廬を剝す〔五〕,厥の妖山崩る,茲れ陰 陽に乘ずと謂ふ,弱 彊に勝つ。」と〔六〕。又た曰はく「陰 陽に背けば則ち地裂け,父子分離し,夷羌叛き去る。」と。

〔一〕『晋書』孝惠帝紀・永平四年
「夏五月,蜀郡山移,淮南壽春洪水出,山崩地陷,壞城府及百姓廬舍。匈奴郝散反,攻上黨,殺長吏。」「六月,壽春地大震,死者二十餘家。上庸郡山崩,殺二十餘人。」(『宋書』にはあるが,五行志にこの条はない。)
「秋八月,郝散帥眾降,馮翊都尉殺之。上谷居庸・上庸並地陷裂,水泉涌出,人有死者。大饑。」「是歲,京師及郡國八地震。」
〔二〕『晋書』惠賈皇后傳
「后暴戾日甚。侍中賈模,后之族兄,右衞郭彰,后之從舅,並以才望居位,與楚王瑋・東安公繇分掌朝政。后母廣城君養孫賈謐干預國事,權侔人主。繇密欲廢后,賈氏憚之。及太宰亮・衞瓘等表繇徙帶方,奪楚王中候,后知瑋怨之,乃使帝作密詔令瑋誅瓘・亮,以報宿憾。模知后凶暴,恐禍及己,乃與裴頠・王衍謀廢之,衍悔而謀寢。」。
〔三〕『後漢書』和熹鄧皇后紀
「元興元年,帝崩,長子平原王有疾,而諸皇子夭沒,前後十數,後生者輒隱秘養於人閒。殤帝生始百日,后乃迎立之。尊后為皇太后,太后臨朝。」
「及殤帝崩,太后定策立安帝,猶臨朝政。」
〔四〕『後漢書』五行志・地震
「安帝永初元年,郡國十八地震。李固曰「地者陰也,法當安靜。今乃越陰之職,專陽之政,故應以震動。」是時鄧太后攝政專事,訖建光中,太后崩,安帝乃得制政,於是陰類並勝,西羌亂夏,連十餘年。」
〔五〕『漢書』五行志・山崩
「京房易傳曰「小人剝廬,厥妖山崩,茲謂陰乘陽,弱勝彊。」」
『周易』「剥」
「上九。碩果不食,君子得輿,小人剝廬。」
【参照】
『宋書』五行志五
「元康四年二月,蜀郡山崩殺人。上谷・上庸・遼東地震。五月壬子,壽春山崩,洪水出,城壞,地墜方三十丈。六月,壽春大雷震,山崩地坼,家人陷死,上庸郡亦如之。八月,上谷地震,水出,殺百餘人。居庸地裂,廣三十六丈,長八十四丈,水出,大饑。上庸四處山崩地陷,廣三十丈,長百三十丈,水出殺人。十月,京都地震。十一月,滎陽・襄城・汝陰・梁國・南陽地皆震。十二月,京都又震。是時賈后亂朝,據權專制,終至禍敗之應也。漢鄧太后攝政時,郡國地震。李固以為「地,陰也,法當安靜。今乃越陰之職,專陽之政,故應以震。」此同事也。京房易傳曰「無德專祿,茲謂不順。厥震動,丘陵涌水出。」。又曰「小人剝廬,厥妖山崩。茲謂陰乘陽,弱勝強。」。又曰「陰背陽,則地裂。父子分離,夷・羌叛去。」。」

現代語訳

元康四年(294)二月,上谷・上庸・遼東で地震があった。五月,蜀郡で山が(崩れ)移動した。淮南の壽春で洪水がおきた,山が崩れ地が陥没し,城府を壞した。八月,上谷で地震があり,水が出て,百人以上を殺した。十月,都(洛陽)で地震があった。十一月,滎陽・襄城・汝陰・梁国・南陽で地震があった。十二月,都でまた地震があった。この時,賈后(賈南風)が朝廷を乱しており,とうとう災難を招いたことの應である。漢の鄧太后が摂政を行っていた時,郡や国で地震があった。李固が考えるには「地は陰である,その原則は安静であるべきものだ。今,陰の職(役目)を超えて,陽の政をほしいままにしている,だから地震で應ずるのだ。」とする。これと同じことである。京房『易傳』に「小人が廬を剥ぎ取る,その妖は山崩れである,これは陰が陽に乘じるという,弱いものが強いものに勝つのである。」と言っている。また「陰が陽に背けば地が裂け,父子が離ればなれとなり,夷や羌が離叛する。」と言っている。

原文

五年五月丁丑,地震。六月,金城地震。 六年正月丁丑,地震。 八年正月丙辰,地震。

訓読

五年五月丁丑,地震あり。六月,金城に地震あり〔一〕。 六年正月丁丑,地震あり〔二〕。 八年正月丙辰〔三〕,地震あり〔四〕。

〔一〕『晋書』孝惠帝紀・永平五年
「六月,金城地震。」
〔二〕『晋書』孝惠帝紀・永平六年
「六年春正月,大赦。司空・下邳王晃薨。以中書監張華為司空,太尉・隴西王泰為尚書令,衞將軍・梁王肜為太子太保。丁丑,地震。」
〔三〕「丙辰」,『晋書斠注』では「景辰」に作る。唐の高祖李淵の父(李昞)の避諱である。今『宋書』五行志に従い「丙」に改める。
〔四〕『晋書』孝惠帝紀・永平八年
「八年春正月丙辰,地震。詔發倉廩,振雍州饑人。」
【参照】
『宋書』五行志五
「元康五年五月丁丑,地震。六月,金城地震。元康六年正月丁丑,地震。元康八年正月丙辰,地震」

現代語訳

孝惠帝(司馬衷)の元康五年(295)五月丁丑,地震があった。六月,金城で地震があった。 六年(296)正月丁丑,地震があった。 八年(298)正月丙辰,地震があった。

原文

太安元年十月,地震。時齊王冏專政之應。 二年十二月丙辰,地震。是時,長沙王乂專政之應也。

訓読

太安元年十月〔一〕,地震あり〔二〕。時に齊王冏政を專らにするの應なり〔三〕。 二年十二月丙辰,地震あり〔四〕。是の時,長沙王乂 政を專にすることの應なり〔五〕。

〔一〕『晋書斠注』では「十二月」,恵帝紀及び『宋書』五行志により「十月」に改める。
〔二〕『晋書』孝惠帝紀・太安元年
「冬十月,地震。」
〔三〕『晋書』八王伝・齊王冏伝
「冏於是輔政,居攸故宮,置掾屬四十人。大築第館,北取五穀市,南開諸署,毀壞廬舍以百數,使大匠營制,與西宮等。鑿千秋門牆以通西閣,後房施鍾懸,前庭舞八佾,沈于酒色,不入朝見。坐拜百官,符敕三臺,選舉不均,惟寵親昵……冏驕恣日甚,終無悛志。」
〔四〕『晋書』孝惠帝紀・太安二年
「十一月……丙辰,地震」
〔五〕『晋書』孝惠帝紀・太安元年
「十二月丁卯,河間王顒表齊王冏窺伺神器,有無君之心,與成都王穎・新野王歆・范陽王虓同會洛陽,請廢冏還第。長沙王乂奉乘輿屯南止車門,攻冏,殺之,幽其諸子于金墉城,廢冏弟北海王寔。大赦,改元。以 長沙王乂為太尉・都督中外諸軍事。封東萊王蕤子炤為齊王。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉惠帝太安元年十月,地震。是時齊王冏專政。太安二年十二月丙辰,地震。是時長沙王專政。」

現代語訳

孝惠帝(司馬衷)の太安元年(302)十月,地震があった。この時,齊王司馬冏が政事を独断専行していることの應である。(太安)二年(303)十二月丙辰,地震があった。この時,長沙王司馬乂が,政事を独断専行していることの應である。

原文

孝懷帝永嘉三年十月,荊・湘二州地震。時司馬越專政。 四年四月,兗州地震。五月,石勒寇汲郡,執太守胡寵,遂南濟河,是其應也。

訓読

孝懷帝永嘉三年十月,荊・湘〔一〕二州に地震〔二〕あり。時に司馬越 政を專らにす〔三〕。 四年四月,兗州に地震あり〔四〕。五月,石勒 汲郡を寇し,太守胡寵を執へ,遂に南のかた河を濟(わた)る〔五〕,是れ其の應なり。

〔一〕『晋書斠注』は「荆・襄」に作る。『晋書』孝懷帝紀,『宋書』五行志五では「荊・湘」と作る。今拠りて改める。
〔二〕『晋書』孝懷帝紀・永嘉三年
「九月……宜都夷道山崩,荊・湘二州地震。」
〔三〕『晉書』八王傳・東海王越傳
「越專擅威權,圖為霸業,朝賢素望,選為佐吏,名將勁卒,充于己府,不臣之迹,四海所知。」
〔四〕『晋書』孝懷帝紀・永嘉四年
「夏四月,大水。……,兗州地震。」
〔五〕『晋書』孝懷帝紀・永嘉四年
「五月,石勒寇汲郡,執太守胡寵,遂南濟河,滎陽太守裴純奔建鄴。大風折木。地震。」
〔六〕『晋書斠注』では「沔」に作る。今,懷帝紀及び石勒載記により改める。
【参照】
『宋書』五行志五
「晉孝懷帝永嘉三年十月,荊・湘二州地震。時司馬越專政。永嘉四年四月,兗州地震」

現代語訳

孝懷帝(司馬熾)の永嘉三年(309)十月,荊州・湘州で地震があった。当時司馬越が政事を独断専行していた。 四年四月,兗州で地震があった。五月,石勒が汲郡に侵攻し,太守の胡寵をとらえ,そして南下して黄河を渡った,これはその應である。

原文

愍帝建興二年四月甲辰,地震。三年六月丁卯,長安又地震。是時主幼,權傾於下,四方雲擾,兵亂不息之應也。

訓読

愍帝建興二年四月甲辰,地震あり〔一〕。 三年六月丁卯,長安又た地震あり〔二〕。是の時主 幼く,權 下に傾く,四方雲擾し,兵亂息まざるの應なり〔三〕。

〔一〕『晋書』孝愍帝紀・建興二年
「夏四月甲辰,地震。」
〔二〕『晋書』孝愍帝紀・建興三年
「六月,……丁卯,地震。」
〔三〕『晋書』孝愍帝紀・建興二年
「三月癸酉,石勒陷幽州,殺侍中・大司馬・幽州牧・博陵公王浚,焚燒城邑,害萬餘人。」
「六月,劉曜・趙冉寇新豐諸縣,安東將軍索綝討破之。秋七月,曜・等又逼京都,領軍將軍麴允討破之,冉中流矢而死。」
『晋書』孝愍帝紀・建興三年
「五月,劉聰寇并州。」
「秋七月,石勒陷濮陽,害太守韓弘。劉聰寇上黨,劉琨遣將救之。」
「九月,劉曜寇北地,命領軍將軍麴允討之。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉愍帝建興二年四月甲辰,地震。是時幼主在上,權傾於下,四方雲擾,兵亂不息。建興三年六月丁卯,長安地震。」

現代語訳

愍帝(司馬鄴)の建興二年(314)四月甲辰,地震があった。 三年(315)六月丁卯,長安でまた地震があった。この時皇帝は幼く,権力は臣下にあり,天下は多いに乱れ,戦乱が止むことなく続いたことの應である。

原文

元帝太興元年四月,西平地震,湧水出。十二月,廬陵・豫章・武昌・西陵地震,湧水出,山崩。干寶以為王敦陵上之應也。

訓読

元帝太興元年四月,西平に地震あり,湧水出づ〔一〕。十二月,廬陵・豫章・武昌・西陵に地震ありて,湧水出で,山崩る〔二〕。干寶以為へらく王敦 上を陵ぐ〔三〕の應なりと。〔四〕

〔一〕『晋書』中宗元帝紀・太興元年
「夏四月丁丑朔,日有食之。加大將軍王敦江州牧,進驃騎將軍王導開府儀同三司。戊寅,初禁招魂葬。乙酉,西平地震。」
〔二〕『晋書』中宗元帝紀・太興元年
「十二月,劉聰故將王騰・馬忠等誅靳準,送傳國璽於劉曜。武昌地震。」
〔三〕『晋書』中宗元帝紀・太興元年
「夏四月丁丑朔,日有食之。加大將軍王敦江州牧,進驃騎將軍王導開府儀同三司。戊寅,初禁招魂葬。乙酉,西平地震。」
「十一月乙卯,日夜出,高三丈,中有赤青珥。新蔡王弼薨。加大將軍王敦荊州牧。庚申,詔曰「朕以寡德,纂承洪緒,上不能調和陰陽,下不能濟育羣生,災異屢興,咎徵仍見。壬子・乙卯,雷震暴雨,蓋天災譴戒,所以彰朕之不德也。羣公卿士,其各上封事,具陳得失,無有所諱,將親覽焉。」新作聽訟觀。故歸命侯孫晧子璠謀反,伏誅。」
〔四〕『捜神記』巻七
「元帝太興元年四月,西平地震,湧水出。十二月,廬陵・豫章・武昌・西陵地震,湧水出,山崩。此王敦陵上之應也。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉元帝太興元年四月,西平地震,涌水出。十二月,廬陵・豫章・武昌・西陵地震,山崩。干寶曰「王敦陵上之應。」」

現代語訳

元帝(司馬睿)の太興元年(318) 四月に西平で地震があり,湧き水が出た。十二月,廬陵・豫章・武昌・西陵で地震あり,湧き水が出て,山が崩れた。干寶が考えるには,王敦が目上のものを凌いだことの應である。

原文

二年五月己丑,祁山地震,山崩,殺人。是時,相國南陽王保在祁山稱晉王不終之象也。 三年五月〔一〕庚寅,丹楊・吳郡・晉陵又地震。

訓読

二年五月己丑,祁山に地震ありて,山崩れ,人を殺す〔二〕。是の時,相國の南陽王保 祁山に在りて晉王を稱するも終えざるの象なり〔三〕。 三年五月庚寅,丹楊・吳郡・晉陵に又た地震あり〔四〕。

〔一〕「五月」,『晋書斠注』では「四月」だが『讀史舉正』によれば四月に庚寅は無い。今元帝紀にしたがいこれを改めた。
〔二〕『晋書』五行志・山崩地陷裂
「元帝太興……二年五月,祁山地震,山崩,殺人。」
〔三〕『晋書』宗室伝・司馬保傳
「愍帝之蒙塵也,保自稱晉王。」
『晋書』中宗元帝紀・太興三年五月
「是月,晉王保為其將張春所害。劉曜使陳安攻春,滅之,安因叛曜。石勒將徐龕帥眾來降。」
〔四〕『晋書』元帝紀,太興三年
「五月丙寅,孝懷帝太子詮遇害于平陽,帝三日哭。庚寅,地震。」
【参照】
『宋書』五行志五
「太興二年五月癸丑,祁山地震,山崩殺人。是時相國南陽王保在祁山稱晉王,不終之象也。太興三年四月庚寅,丹陽・吳郡・晉陵地震。其年,南平郡山崩,出雄黃數千斤。」

現代語訳

中宗元帝(司馬睿)の太興二年(319)五月己丑,祁山で地震があり,山が崩れ,人が死んだ。この時,相國の南陽王司馬保は祁山で晉王を名乗ったがその身を全う出来なかったことの象である。 三年五月庚寅,丹楊・吳郡・晉陵でまた地震があった。

原文

成帝咸和二年二月,江陵地震。三月,益州地震。四月己未,豫章〔一〕地震。是年,蘇峻作亂。 九年三月丁酉,會稽地震。

訓読

成帝咸和二年二月,江陵に地震あり。三月,益州に地震あり。四月己未,豫章に地震あり〔二〕。是の年,蘇峻亂を作す〔三〕。九年三月丁酉,會稽に地震あり〔四〕。

〔一〕『晋書斠注』では「豫章」を「豫州」に作る。今『晋書』成帝紀,『宋書』五行志に拠り「豫章」に改めた。
〔二〕『晋書』顯宗成帝紀・咸和二年
「二年……三月,益州地震。夏四月,旱。己未,豫章地震。」
〔三〕『晋書』顯宗成帝紀・咸和二年
「十一月,豫州刺史祖約・歷陽太守蘇峻 等反。」
〔四〕『晋書』顯宗成帝紀・咸和九年
「三月丁酉,會稽地震。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉成帝咸和二年三月,益州地震。四月己未,豫章地震。是年,蘇峻作亂。咸和九年三月丁酉,會稽地震。是時政在臣下。」

現代語訳

成帝(司馬衍)の咸和二年(327)二月,江陵で地震があった。三月,益州で地震があった。四月己未,豫章で地震があった。この年,蘇峻が反乱を起こした。九年三月丁酉,會稽で地震があった。

原文

穆帝永和元年六月癸亥,地震。是時,嗣主幼沖,母后稱制,政在臣下,所以連年地震。 二年十月〔一〕,地震。 三年正月丙辰,地震。九月,地又震。 四年十月己未,地震。

訓読

穆帝永和元年六月癸亥,地震あり〔二〕。是の時,嗣主幼沖にして,母后制を稱へ〔三〕,政は臣下に在り,所以に連年地震あり。 二年十月,地震あり〔四〕。 三年正月丙辰,地震あり。九月,地又た震ふ〔五〕。 四年十月己未,地震あり〔六〕。

〔一〕「十月」,『晋書斠注』では,「十二月」に作る。今,『晋書』穆帝紀・『宋書』五行志により「十月」に改めた。
〔二〕『晋書』孝宗穆帝紀・永和元年
「六月癸亥,地震。」
〔三〕『晋書』康獻褚皇后傳
「及穆帝即位,尊后曰皇太后。時帝幼沖,未親國政。……太后詔曰……於是臨朝稱制。」
〔四〕『晋書』孝宗穆帝紀・永和二年
「冬十月,地震。」
〔五〕『晋書』孝宗穆帝紀・永和三年
「三年春三月乙卯,桓溫攻成都,克之。丁亥,李勢降,益州平。林邑范文攻陷日南,害太守夏侯覽,以尸祭天。夏四月,地震。蜀人鄧定・隗文舉兵反,桓溫又擊破之,使益州刺史周撫鎮彭模。……九月,地震。」
「三年正月丙辰,地震」は帝紀に記載が無い。帝紀には「夏四月,地震」の記載がある。
〔六〕『晋書』孝宗穆帝紀・永和四年
「冬十月己未,地震。石季龍使其將苻健寇竟陵。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉穆帝永和元年六月癸亥,地震。是時嗣主幼沖,母后稱制,政在臣下,所以連年地震。永和二年十月,地震。永和三年正月丙辰,地震。永和四年十月己未,地震。」

現代語訳

穆帝(司馬聃)の永和元年(345)六月癸亥の日に,地震があった。この時,皇帝は幼少で,皇太后が皇帝に代わって政務をとり,政事は臣下の手にあった,それゆえ毎年地震があった。 永和二年(346)十月,地震があった。永和三年(347)正月丙辰,地震があった。九月,また地震があった。永和四年(348)十月己未,地震があった。

原文

五年正月庚寅,地震。是時,石季龍僭即皇帝位,亦過其序也。

訓読

五年正月庚寅,地震あり。是の時,石季龍僭して皇帝の位に即く,亦た其の序を過つなり。〔一〕

〔一〕『晋書』孝宗穆帝紀・永和五年
「五年春正月辛巳朔,大赦。庚寅,地震。石季龍僭即皇帝位于鄴。」
【参照】
『宋書』五行志五
「永和五年正月庚寅,地震。」

現代語訳

孝宗穆帝(司馬聃)の永和五年(349)正月庚寅,地震があった。この時,石季龍が身分を超えて皇帝に即位した,またその秩序を間違っているのである。

原文

九年八月丁酉,京都地震,有聲如雷。 十年正月丁卯,地震,聲如雷,雞雉皆鳴呴。 十一年四月乙酉,地震。五月丁未,地震。

訓読

九年八月丁酉,京都に地震あり,聲有り雷の如し〔一〕。 十年正月丁卯,地震あり,聲 雷の如く〔二〕,雞雉皆な鳴呴す〔三〕。 十一年四月乙酉,地震あり。五月丁未,地震あり〔四〕。

〔一〕『晋書』孝宗穆帝紀・永和九年
「秋七月丁酉,地震,有聲如雷。」
〔二〕『晋書』孝宗穆帝紀・永和十年
「十年春正月己酉朔,帝臨朝,以五陵未復,懸而不樂。涼州牧張祚僭帝位。冉閔降將周成舉兵反,自宛陵襲洛陽。辛酉,河南太守戴施奔鮪渚。丁卯,地震,有聲如雷。」
〔三〕王逸『楚辞』九思・疾世
「雲濛濛兮電儵爍,孤雌驚兮鳴呴呴。」
〔四〕『晋書』孝宗穆帝紀,永和十一年
「夏四月壬申,隕霜。乙酉,地震。姚襄帥眾寇外黃,冠軍將軍高季大破之。五月丁未,地又震。」
【参照】
『宋書』五行志五
「永和九年八月丁酉,京都地震,有聲如雷。永和十年正月丁卯,地震,有聲如雷,雞雉鳴呴。永和十一年四月乙酉,地震。五月丁未,地震。」

現代語訳

(孝宗穆帝(司馬聃)の)永和九年(353)八月丁酉,都(建康)で地震があり,雷のような音がした。永和十年(354)正月丁卯,地震があり,雷のような音がして,雞・雉がいっせいに鳴いた。永和十一年(355)四月乙酉,地震があった。五月丁未,地震があった。

原文

升平二年十一月辛酉,地震。 五年八月,涼州地震。

訓読

升平二年十一月辛酉,地震あり。 五年八月,涼州に地震あり。

〔一〕『晋書』孝宗穆帝紀・升平二年
「十一月庚子,雷。辛酉,地震。」
〔二〕『晋書』哀帝紀・升平五年
「五年五月丁巳,穆帝崩。……八月己卯夜,天裂,廣數丈,有聲如雷。」
升平五年八月には「天裂」とはあるが「地震」の記載は無い。
【参照】
『宋書』五行志五
「晉穆帝升平五年八月,涼州地震。」(升平二年の記載は無い。)

現代語訳

(孝宗穆帝(司馬聃)の)升平二年(358)十一月辛酉,地震があった〔一〕。 升平五年(361)八月,涼州で地震があった〔二〕。

原文

哀帝隆和元年四月甲戌,地震。是時,政在將相,人主南面而已。

訓読

哀帝隆和元年四月甲戌,地震あり。是の時,政 將相に在りて,人主南面するのみ。

〔一〕『晋書』哀帝紀・隆和元年
「夏四月,旱。詔出輕繫,振困乏。丁丑,梁州地震,浩亹山崩。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉哀帝隆和元年四月甲戌,地震。是時政在將相,人主南面而已。」
「隆和元年四月丁丑,涼州地震,浩亹山崩。張天錫降亡之象也。」

現代語訳

哀帝(司馬丕)の隆和元年(362)四月甲戌,地震があった〔一〕。この時,政事は将相(将軍と大臣)の手にあり,君主はその座にいるだけであった。

原文

興寧元年四月甲戌,揚州地震,湖瀆溢。二年二月庚寅,江陵地震。是時,桓溫專政。

訓読

興寧元年四月甲戌,揚州に地震ありて,湖瀆溢る〔一〕。二年二月庚寅,江陵に地震あり〔二〕。是の時,桓溫政を專らにす〔三〕。

〔一〕『晋書』哀帝紀・興寧元年
「夏四月,……。甲戌,揚州地震,湖瀆溢。」
〔二〕『晋書』哀帝紀・興寧二年
「二年春二月庚寅,江陵地震。」
〔三〕『晋書』桓溫傳
「溫性儉,每讌惟下七奠柈茶果而已。然以雄武專朝,窺覦非望,或臥對親僚曰「為爾寂寂,將為文景所笑。」眾莫敢對。
【参照】
『宋書』五行志五
「興寧二年三月庚戌朔,亦無庚寅。江陵地震。是時桓溫專政。」

現代語訳

(哀帝(司馬丕)の)興寧元年(363)四月甲戌,揚州で地震があり,湖や川が溢れた。興寧二年(364)二月庚寅,江陵で地震があった。この時,桓溫が政事を独断専行していた。

原文

海西公太和元年二月,涼州地震,水涌。是海西將廢之應也。

訓読

海西公太和元年二月,涼州に地震ありて,水涌く。是れ海西將に廢せんとするの應なり〔一〕。

〔一〕『晋書』廢帝海西公紀・太和六年
「咸安二年正月,降封帝為海西縣公。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉海西太和元年二月,涼州地震水涌。」

現代語訳

海西公(司馬奕)の太和元年(366)二月,涼州で地震があって,水が涌き出た。これは海西公がもうすぐ廃位されることの應である。

原文

簡文帝咸安二年十月辛未,安成地震。是年帝崩。

訓読

簡文帝咸安二年十月辛未,安成に地震あり〔一〕。是の年帝崩ず。〔二〕

〔一〕『晋書斠注』は,月日が重複しているので,次の一条「孝武帝寧康元年十月辛未地震」の事柄と重複して掲出されているのではないかと指摘する。
〔二〕『晋書』太宗簡文帝紀・咸安二年
「秋七月……己未,立會稽王昌明為皇太子,皇子道子為琅邪王,領會稽內史。是日,帝崩于東堂,時年五十三。葬高平陵,廟號太宗。遺詔以桓溫輔政,依諸葛亮・王導故事。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉簡文帝咸安二年十月辛未,安成地震。」

現代語訳

簡文帝(司馬昱)の咸安二年(372)十月辛未に,安成で地震があった。この年皇帝が崩御した。

原文

孝武帝寧康元年十月辛未,地震。 二年二月丁巳,地震。七月甲午,涼州地又震,山崩。是時,嗣主幼沖,權在將相,陰盛之應也。

訓読

孝武帝寧康元年十月辛未,地震あり。 二年二月丁巳,地震あり。七月甲午,涼州の地又た震ひ,山崩る〔一〕。是の時,嗣主幼沖にして,權 將相に在り,陰盛んなるの應なり。〔二〕

〔一〕『晋書』孝武帝紀・寧康二年
「秋七月,涼州地震,山崩。苻堅將鄧,羌攻張育,滅之。」
〔二〕『晋書』孝武帝紀・寧康元年
「八月壬子,崇德太后臨朝攝政。……九月,苻堅將楊安寇成都。丙申,以尚書僕射王彪之為尚書令,吏部尚書謝安為尚書僕射,……」
『晋書』孝武帝紀・太元二十一年
「帝幼稱聰悟。簡文之崩也,時年十歲。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉孝武帝寧康元年十月辛未,地震。是時嗣主幼沖,政在將相。寧康二年七月甲午,涼州地震山崩。」

現代語訳

孝武帝(司馬曜)の寧康元年(373)十月辛未,地震があった。 寧康二年(374)二月丁巳,地震があった。七月甲午,涼州の地でまた地震があり,山が崩れた。この時,皇帝は幼少で,権力は将軍・大臣にあり,陰が盛んであることの應である。

原文

太元二年閏三月壬午,地震。五月丁丑,地震。 十一年六月己卯,地震。是後緣河諸將連歲兵役,人勞之應也。 十五年三月己酉朔夜,地震。八月,京都地震。十二月己未,地震。 十七年六月癸卯,地震。十二月己未,地又震。是時,羣小弄權,天下側目。 十八年正月癸亥朔,地震。二月乙未夜,地震。

訓読

太元二年閏三月壬午,地震あり。五月丁丑,地震あり〔一〕。十一年六月己卯,地震あり〔二〕。是の後緣河に諸將連歲兵役す〔三〕,人勞するの應なり。 十五年三月己酉朔の夜,地震あり。八月,京都に地震あり。十二月己未,地震あり〔四〕。 十七年六月癸卯,地震あり。十二月己未,地又た震ふ〔五〕。是の時,羣小〔六〕 權を弄し,天下目を側(そば)む〔七〕。 十八年正月癸亥朔,地震あり。二月乙未夜,地震あり〔八〕。

〔一〕『晋書』孝武帝紀・太元二年
「(三月)閏月壬午,地震。」五月丁丑,地震。」
〔二〕『晋書』孝武帝紀・太元十一年
「六月己卯,地震。」

〔三〕例えば以下のようにある。
『晋書』孝武帝紀・太元十一年
「冬十月,慕容垂破苻丕於河東,丕走東垣,揚威將軍馮該擊斬之,傳首京都。」「戊午,慕容垂寇河東,濟北太守溫詳奔彭城。翟遼遣子釗寇陳・潁,朱序擊走之。」「冬十一月,松滋太守王遐之討翟遼于洛口,敗之。」
『晋書』孝武帝紀・太元十三年
「秋九月,翟遼將翟發寇洛陽,河南太守郭給距破之。」
『晋書』孝武帝紀・太元十四年
「十四年春正月癸亥,詔淮南所獲俘虜付諸作部者一皆散遣,男女自相配匹,賜百日廩,其沒為軍賞者悉贖出之,以襄陽・淮南饒沃地各立一縣以居之。彭城妖賊劉黎僭稱皇帝於皇丘,龍驤將軍劉牢之討平之。」
『晋書』孝武帝紀・太元十五年
「十五年春正月乙亥,鎮北將軍・譙王恬之薨。龍驤將軍劉牢之及翟遼・張願戰于太山,王師敗績。征虜將軍朱序破慕容永於太行。」
〔四〕『晋書』孝武帝紀・太元十五年
「三月己酉朔,地震。」「八月,永嘉人李耽舉兵反,太守劉懷之討平之。己丑,京師地震。」「冬十二月己未,地震。」
〔五〕『晋書』孝武帝紀・太元十七年
「六月癸卯,京師地震。」「十二月己未,地震。」
〔六〕『毛詩』邶風・柏舟「憂心悄悄,慍於群小。」,鄭玄箋「群小,衆小人在君側者。」
〔七〕『晉書』孝武帝紀・太元十七年
「十一月癸酉,以黃門郎殷仲堪為都督荊益梁三州諸軍事・荊州刺史。庚寅,徙封琅邪王道子為會稽王,封皇子德文為琅邪王。」
〔八〕『晋書』孝武帝紀・太元十八年
「十八年春正月癸亥朔,地震。」「二月乙未,地又震。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉孝武帝太元二年閏月壬午,地震。五月丁丑,地震。太元十一年六月己卯,地震。是後緣河諸將,連歲兵役。太元十五年三月己酉朔夜,地震。太元十七年六月癸卯,地震。十二月己未,地又震。是時羣小弄權,天下側目。太元十八年正月癸亥朔,地震。二月乙未,地震。」

現代語訳

孝武帝(司馬曜)太元二年(377)閏三月壬午,地震があった。五月丁丑,地震があった。太元十一年(386)六月己卯,地震があった。この後,黄河周辺で諸將が毎年戦さを起こした,民が労苦することの應である。 太元十五年(390)三月己酉朔日の夜,地震があった。八月,都で地震があった。十二月己未,地震があった。 太元十七年(392)六月癸卯,地震があった。十二月己未,また地震があった。この時,小人たちが権力をほしいままにしており,世の人々は目をそむけた。 太元十八年(393)正月癸亥朔日に,地震があった。二月乙未の夜,地震があった。

原文

安帝隆安四年四月乙未,地震。九月癸丑,地震。是時,幼主沖昧,政在臣下。

訓読

安帝隆安四年四月乙未,地震あり。九月癸丑,地震あり〔一〕。是の時,幼主沖昧にして,政 臣下に在り〔二〕。

〔一〕『晋書』安帝紀・隆安四年
「夏四月,地震。」「九月癸丑,地震。」
〔二〕『晋書』安帝紀・義熙十四年
「帝不惠,自少及長,口不能言,雖寒暑之變,無以辯也。」
『晉書』安帝紀・隆安元年
「隆安元年春正月己亥朔,帝加元服,改元,增文武位一等。太傅,會稽王道子稽首歸政。以尚書左僕射王珣為尚書令,領軍將軍王國寶為尚書左僕射。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉安帝隆安四年九月癸酉,地震。是時幼主沖昧,政在臣下。」

現代語訳

安帝(司馬徳宗)隆安四年(400)四月乙未に,地震があった。九月癸丑,地震があった。この時,君主は幼少で愚昧であり,政事は臣下の手にあった。

原文

義熙四年正月壬子夜,地震有聲。十月癸亥,地震。 五年正月戊戌夜,尋陽地震,有聲如雷。明年,盧循下。 八年,自正月至四月,南康・廬陵地四震。明年,王旅西討荊益。 十年三月戊寅,地震。

訓読

義熙四年正月壬子夜,地震ありて聲有り。十月癸亥,地震あり。五年正月戊戌夜,尋陽に地震あり,聲の雷の如き有り〔一〕。明年,盧循下る〔二〕。 八年,正月自り四月に至るまで,南康・廬陵の地四たび震ふ〔三〕。明年,王旅西のかた荊益を討つ〔四〕。 十年三月戊寅,地震あり〔五〕。

〔一〕『晋書』安帝紀・義熙五年
「五年春正月辛卯,……戊戌,尋陽地震。」
〔二〕『晋書』安帝紀・義熙六年
「六年春二月丁亥,劉裕攻慕容超,克之,齊地悉平。是月,廣州刺史盧循反,寇江州」
「五月丙子,大風,拔木。戊子,衞將軍劉毅及盧循戰于桑落洲,王師敗績。」
「秋七月庚申,盧循遁走。甲子,使輔國將軍王仲德・廣川太守劉鍾・河間內史蒯恩等帥眾追之。是月,盧循寇荊州,刺史劉道規・雍州刺史魯宗之等敗之。」
「十二月壬辰,劉裕破盧循于豫章。」
〔三〕『晋書』安帝紀・義熙八年
「是歲,廬陵・南康地四震。」
〔四〕『晋書』安帝紀・義熙八年
「十二月,以西陵太守朱齡石為建威將軍・益州刺史,帥師伐蜀,分荊州十郡置湘州。」
『晋書』安帝紀・義熙九年
「秋七月,朱齡石克成都,斬譙縱,益州平。」
〔五〕『晋書』安帝紀・義熙十年
「十年春三月戊寅,地震。」
【参照】
『宋書』五行志五
「晉安帝義熙四年正月壬子夜,地震有聲,十月癸亥,地震。義熙五年正月戊戌夜,尋陽地震,有聲如雷。明年,盧循下。義熙八年,自正月至四月,南康・廬陵地四震。明年,王旅西討荊・益。」

現代語訳

(安帝司馬徳宗の)義熙四年(408)正月壬子の夜,地震があり音がした。十月癸亥,地震があった。義熙五年(409)正月戊戌の夜,尋陽で地震があり,雷のような音がした。明年(410),盧循が降った。 義熙八年(412),正月より四月まで,南康・廬陵の地で四度地震があった。明年(413),皇帝の軍が西に進み荊州・益州を討った。 義熙十年(414)三月戊寅,地震があった。

山崩地陷裂

原文

山崩地陷裂
吳孫權赤烏十三年八月,丹楊・句容及故鄣・寧國諸山崩,鴻水溢。案劉向說「山,陽,君也。水,陰,百姓也。天戒若曰,君道崩壞,百姓將失其所與。」春秋梁山崩,漢齊・楚眾山發水,同事也。夫三代命祀,祭不越望,吉凶禍福,不是過也。吳雖稱帝,其實列國,災發丹楊,其天意矣。劉歆以為「國主山川,山崩川竭,亡之徵也。」後二年而權薨,又二十六年而吳亡。

訓読

山崩地陷裂
吳孫權赤烏十三年八月,丹楊・句容及び故鄣・寧國の諸山崩れ,鴻水溢る。〔一〕案ずるに劉向說に「山,陽なり,君なり。水,陰なり,百姓なり。天戒めて若くのごとく曰く,君道崩壞し,百姓將さに其の所を失はんか。」と。〔二〕春秋の梁山崩る〔三〕,漢の齊・楚眾山水を發す〔四〕,同事なり。夫れ三代の命祀,祭るに望を越えず,吉凶禍福,是れに過ぎざるなり〔五〕。吳 帝と稱すと雖も,其の實列國,災 丹楊に發するは,其れ天意なり。劉歆以為へらく「國 山川を主り,山崩れ川竭くるは,亡の徵なり。」と。後二年にして權薨ず,又た二十六年にして吳亡ぶ。

〔一〕『三國志』呉書・呉主孫権傳
「(赤烏十三年)八月,丹楊・句容及故鄣・寧國諸山崩,鴻水溢。詔原逋責,給貸種食。」
〔二〕『漢書』五行志・下之上
「成公五年「夏,梁山崩」。穀梁傳曰廱河三日不流,晉君帥羣臣而哭之,乃流。劉向以為山陽,君也,水陰,民也,天戒若曰,君道崩壞,下亂,百姓將失其所矣。哭然後流,喪亡象也。梁山在晉地,自晉始而及天下也。後晉暴殺三卿,厲公以弒。溴梁之會,天下大夫皆執國政,其後孫・甯出衞獻,三家逐魯昭,單・尹亂王室。董仲舒說略同。劉歆以為梁山,晉望也。崩,㢮崩也。古者三代命祀,祭不越望,吉凶禍福,不是過也。國主山川,山崩川竭,亡之徵也,美惡周必復。是歲歲在鶉火,至十七年復在鶉火,欒書・中行偃殺厲公而立悼公。
〔三〕『春秋』成公五年
「梁山崩」
『春秋左氏伝』
「梁山崩,晉侯以傳召伯宗,伯宗辟重,曰,辟傳。重人曰,待我,不如捷之速也。問其所曰,絳人也。問絳事焉,曰,梁山崩,將召伯宗謀之。問,將若之何。曰,山有朽壤而崩,可若何。國主山川,故山崩川竭,君為之不舉,降服,乘縵,徹樂,出次,祝幣,史辭,以禮焉。其如此而已。雖伯宗若之何。伯宗請見之,不可。遂以告而從之。」
『春秋公羊伝』
「梁山崩。梁山者何,河上之山也。梁山崩,何以書。記異也。何異爾。大也。何大爾。梁山崩,壅河三日不㳅。外異不書,此何以書。為天下記異也。」
『春秋穀梁伝』
「梁山崩,不日,何也。高者有崩道也。有崩道,則何以書也。曰梁山崩,壅遏河,三日不流。晉君召伯尊而問焉。伯尊來,遇輦者。輦者不辟。使車右下而鞭之。輦者曰,所以鞭我者,其取道遠矣。伯尊下車而問焉曰,子有聞乎。對曰,梁山崩,壅遏河三日不流。伯尊曰,君為此召我也,為之奈何。輦者曰,天有山,天崩之。天有河,天壅之,雖召伯尊如之何,伯尊由忠問焉。輦者曰,君親素縞。帥羣臣而哭之,既而祠焉,斯流矣。伯尊至。君問之曰,梁山崩,壅遏河三日不流,為之奈何。伯尊曰,君親素縞,帥羣臣而哭之,既而祠焉,斯流矣。孔子聞之曰,伯尊其無績乎。攘善也。」
〔四〕『漢書』文帝紀
「(元年)四月,齊楚地震,二十九山同日崩,大水潰出。」
『漢書』五行志下之上
「高后二年正月,武都山崩,殺七百六十人,地震至八月乃止。文帝元年四月,齊楚地山二十九所同日俱大發水,潰出,劉向以為近水沴土也。天戒若曰,勿盛齊楚之君,今失制度,將為亂。後十六年,帝庶兄齊悼惠王之孫文王則薨,無子,帝分齊地,立悼惠王庶子六人皆為王。賈誼・鼂錯諫,以為違古制,恐為亂。至景帝三年, 齊楚七國起兵百餘萬,漢皆破之。春秋四國同日災,漢七國同日衆山潰,咸被其害,不畏天威之明效也。」
〔五〕『春秋左氏伝』哀公六年・七月
「初昭王有疾。卜曰,河為祟。王弗祭。大夫請祭諸郊。王曰,三代命祀,祭不越望。江漢雎章,楚之望也。禍福之至,不是過也。不穀雖不德。河非所獲罪也,遂弗祭。」
【参照】
『宋書』五行志・山崩地陷裂
「吳孫權赤烏十三年八月,丹楊・句容及故鄣・寧國諸山崩,鴻水溢。按劉向說「山,陽,君也。水,陰,民也。天戒若曰,君道崩壞,百姓將失其所也」。與春秋梁山崩,漢齊・楚眾山發水同事也。「夫三代命祀,祭不越望,吉凶禍福,不是過也」。吳雖帝,其實列國,災發丹楊,其天意矣。國主山川,山崩川竭,亡之徵也。後二年而權薨,薨二十六年而吳亡。」

現代語訳

山崩地陷裂
吳の孫權の赤烏十三年(250年)八月,丹楊・句容および故鄣・寧國の山々が崩れ,洪水が溢れた。考えてみるに劉向の說では「山は,陽であり,君である。水は,陰であり,民草である。天は戒めてこのように言っている,君主の道は崩壞し,民草はその居所を失おうとしている。」としている。春秋の梁山が崩れたこと,漢の齊・楚の眾山から水を發したことは,(このことと)同じ事である。そも夏殷周の三代が(諸侯に)命じた祭祀は,祭るのに(領内の山川星辰を祭る)望のみを行い,吉凶禍福は,その境界を超えることはない。吳は帝と自称しているが,その実列國であり,災いが丹陽から始まったことは,さて天意である。劉歆は「國は山川を掌っており,山が崩れ川の水が止まってしまうのは,滅亡の徵である。」としている。そののち二年で孫権は薨去し,さらに二十六年で吳は滅亡した。

原文

魏元帝咸熙二年二月,太行山崩,此魏亡之徵也。其冬,晉有天下。

訓読

魏元帝咸熙二年二月,太行山崩る,此れ魏亡ぶの徵なり。其の冬,晉 天下を有つ。〔一〕

〔一〕『三国志』陳留王奐紀
「(咸熙二年)十二月壬戌,天祿永終,曆數在晉。詔羣公卿士具儀設壇于南郊,使使者奉皇帝璽綬冊,禪位于晉嗣王,如漢魏故事。甲子,使使者奉策。遂改次于金墉城,而終館于鄴,時年二十。」
『晉書』武帝紀
「(咸熙二年)十一月,……是時晉德既洽,四海宅心。於是天子知曆數有在,乃使太保鄭沖奉策曰「咨爾晉王,我皇祖有虞氏誕膺靈運,受終于陶唐,亦以命于有夏。惟三后陟配于天,而咸用光敷聖德。自茲厥後,天又輯大命于漢。火德既衰,乃眷命我高祖。方軌虞夏四代之明顯,我不敢知。惟王乃祖乃父,服膺明哲,輔亮我皇家,勳德光于四海。格爾上下神祇,罔不克順,地平天成,萬邦以乂。應受上帝之命,協皇極之中。肆予一人,祗承天序,以敬授爾位,曆數實在爾躬。允執其中,天祿永終。於戲。王其欽順天命。率循訓典,底綏四國,用保天休,無替我二皇之弘烈。」帝初以禮讓,魏朝公卿何曾・王沈等固請,乃從之。
泰始元年冬十二月丙寅,設壇于南郊,百僚在位及匈奴南單于四夷會者數萬人,柴燎告類于上帝曰……禮畢,即洛陽宮幸太極前殿,……於是大赦,改元。賜天下爵,人五級。鰥寡孤獨不能自存者穀,人五斛。復天下租賦及關市之稅一年,逋債宿負皆勿收。除舊嫌,解禁錮,亡官失爵者悉復之。」
【参照】
『宋書』五行志・山崩地陷裂
「魏元帝咸熙二年二月,太行山崩。此魏亡之徵也。其冬,晉有天下。」

現代語訳

魏の元帝咸熙二年(265年)二月,太行山が崩れた,これは魏が滅亡することの徵である。その冬,晉が天下を有した。

原文

武帝泰始三年三月戊午,大石山崩。 四年七月,泰山崩墜三里。京房易傳曰「自上下者為崩,厥應泰山之石顛而下,聖王受命人君虜。」及帝晏駕,而祿去王室,惠皇懦弱,懷・愍二帝俱辱虜庭,淪胥於北,元帝中興於南,此其應也。

訓読

武帝泰始三年三月戊午,大石山崩る〔一〕。 四年七月,泰山崩墜すること三里〔二〕。京房易傳に曰く「上自り下る者崩と為す,厥の應泰山の石 顛して下る,聖王受命し人君虜たり。」〔三〕と。帝晏駕するに及びて,祿 王室より去り,惠皇懦弱〔四〕,懷・愍二帝俱もに虜庭に辱められ〔五〕,北に淪胥し〔六〕,元帝南に中興す〔七〕,此れ其の應なり。

〔一〕『晉書』武帝紀
「(泰始三年)三月戊寅,初令二千石得終三年喪。丁未,晝昏。罷武衞將軍官。以李憙為太子太傅。太山石崩。」
〔二〕『晉書』武帝紀
「(泰始四年)秋七月,太山石崩,眾星西流。」
〔三〕『漢書』五行志・中之上
「孝昭元鳳三年正月,泰山萊蕪山南匈匈有數千人聲。民視之,有大石自立,高丈五尺,大四十八圍,入地深八尺,三石為足。石立處,有白烏數千集其旁。眭孟以為石陰類,下民象,泰山岱宗之嶽,王者易姓告代之處,當有庶人為天子者。孟坐伏誅。京房易傳曰「『復,崩來無咎。』自上下者為崩,厥應泰山之石顛而下,聖人受命人君虜。」又曰「石立如人,庶士為天下雄。立於山,同姓。平地,異姓。立於水,聖人。於澤,小人。」」
〔四〕『晉書』惠帝紀
「贊曰,惠皇居尊,臨朝聽言。厥體斯昧,其情則昏。高臺望子,長夜奚寃。金墉毀冕,蕩陰釋冑。及爾皆亡,滔天來遘。」
〔五〕『晉書』懷帝紀
「(永嘉五年)六月癸未,劉曜・王彌・石勒同寇洛川,王師頻為賊所敗,死者甚眾。庚寅,司空荀藩・光祿大夫荀組奔轘轅,太子左率溫畿夜開廣莫門奔小平津。丁酉,劉曜・王彌入京師。帝開華林園門,出河陰藕池,欲幸長安,為曜等所追及。曜等遂焚燒宮廟,逼辱妃后,吳王晏・竟陵王楙・尚書左僕射和郁・右僕射曹馥・尚書閭丘沖・袁粲・王緄・河南尹劉默等皆遇害,百官士庶死者三萬餘人。帝蒙塵于平陽,劉聰以帝為會稽公。荀藩移檄州鎮,以琅邪王為盟主。豫章王端東奔苟晞,晞立為皇太子,自領尚書令,具置官屬,保梁國之蒙縣。百姓饑儉,米斛萬餘價。」
『晉書』愍帝紀
「(建興四年)十一月乙未,使侍中宋敞送牋于曜,帝乘羊車,肉袒銜璧,輿櫬出降。羣臣號泣攀車,執帝之手,帝亦悲不自勝。御史中丞吉朗自殺。曜焚櫬受璧,使宋敞奉帝還宮。初,有童謠曰「天子何在豆田中。」時王浚在幽州,以豆有藿,殺隱士霍原以應之。及帝如曜營,營實在城東豆田壁。辛丑,帝蒙塵于平陽,麴允及羣官並從。劉聰假帝光祿大夫・懷安侯。壬寅,聰臨殿,帝稽首于前,麴允伏地慟哭,因自殺。尚書梁允・侍中梁濬・散騎常侍嚴敦・左丞臧振・黃門侍郎任播・張偉・杜曼及諸郡守並為曜所害,華輯奔南山。石勒圍樂平,司空劉琨遣兵援之,為勒所敗,樂平太守韓據出奔。司空長史李弘以并州叛,降于勒。」
〔六〕『晉書』懷帝紀
「(永嘉)七年春正月,劉聰大會,使帝著青衣行酒。侍中庾珉號哭,聰惡之。丁未,帝遇弒,崩于平陽,時年三十。」
『晉書』愍帝紀
「(建興五年)十二月戊戌,帝遇弒,崩于平陽,時年十八。」
『毛詩』小雅・雨無正
「舍彼有罪,既伏其辜。若此無罪,淪胥以鋪。」
〔七〕『晉書』元帝紀
「(太興元年)三月癸丑,愍帝崩問至,帝斬縗居廬。丙辰,百僚上尊號。令曰「孤以不德,當厄運之極,臣節未立,匡救未舉,夙夜所以忘寢食也。今宗廟廢絕,億兆無係,羣官庶尹,咸勉之以大政,亦何敢辭,輒敬從所執。」是日,即皇帝位。……於是大赦,改元,文武增位二等。庚午,立王太子紹為皇太子。」
【参照】
『宋書』五行志・山崩地陷裂
「晉武帝泰始三年三月戊子,太行山崩。
泰始四年七月,泰山崩,墜三里。此晉之咎徵也。至帝晏駕,而祿去王室,懷・愍淪胥於北,元帝中興於南,是其應也。京房易傳曰「自上下者為崩,厥應泰山之石顛而下,聖王受命,人君虜。」」

現代語訳

武帝の泰始三年(267年)三月戊午,大石山が崩れた。 四年(268年)七月,泰山が三里に渡って崩壊した。京房『易傳』に「上より下る者は崩である,その應は泰山の石が転がり落ちる,聖王が受命し人君は虜囚となる。」と言っている。武帝が崩御すると,福祿は王室より去り,恵帝は懦弱であり,懷帝と愍帝の二帝はどちらも夷狄の朝庭に辱めをうけ,北方で崩御し,元帝は南で中興した,これはその應である。

原文

太康五年五月丙午,宣帝廟地陷。 六年十月,南安新興山崩,涌水出。 七年二月,朱提之大瀘山崩,震壞郡舍,陰平之仇池崖隕。 八年七月,大雨,殿前地陷,方五尺,深數丈,中有破船。

訓読

太康五年丙〔一〕午,宣帝廟地陷す。〔二〕 六年十月,南安新興の山崩れ,涌水出づ。〔三〕 七年二月,朱提の大瀘の山崩れ,郡舍を震壞し,陰平の仇池の崖隕つ。〔四〕 八年七月,大雨あり,殿前の地陷す,方五尺,深さ數丈,中に破船有り。〔五〕

〔一〕もと「景」に作る。
〔二〕『晉書』武帝紀
「(太康五年)五月丙午,宣帝廟梁折。」
〔三〕『晉書』武帝紀
「(太康六年)冬十月,南安山崩,水出。」
〔四〕『晉書』武帝紀
「(太康七年)秋七月,朱提山崩,犍為地震。」
〔五〕『晉書』武帝紀
「(太康八年)秋七月,前殿地陷,深數丈,中有破船。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝太康五年丙午,宣帝廟地陷。
太康六年三月,南安新興縣山崩,涌水出。
太康七年七月,朱提之大瀘山崩,震壞郡舍。陰平之仇池崖隕。
太康八年七月,大雨。殿前地陷,方五尺,深數丈。」

現代語訳

太康五年(284年)五月丙午,宣帝廟の地面が陥没した。 六年(285年)十月,南安の新興の山が崩れ,涌水が出た。 七年(286年)二月,朱提の大瀘の山が崩れ,郡舍を揺らし壊した,陰平の仇池の崖が崩れ落ちた。 八年(287年)七月,大雨が降り,殿前の地が,縦横五尺,深さ數丈にわたって陥没し,その中にはこわれた船があった。

原文

惠帝元康四年,蜀郡山崩,殺人。五月壬子,壽春山崩,洪水出,城壞,地陷方三十丈,殺人。六月,壽春大雷,山崩地坼,人家陷死,上庸亦如之。八月,居庸地裂,廣三十六丈,長八十四丈,水出,大饑。上庸四處山崩,地墜廣三十丈,長百三十丈,水出殺人。皆賈后亂朝之應也。

訓読

惠帝元康四年,蜀郡の山崩れ,人を殺す。五月壬子,壽春の山崩る,洪水出で,城壞れ,地陷すること方三十丈,人を殺す。六月,壽春大いに雷あり,山崩れて地坼け,人家陷死す,上庸も亦た之の如し。八月,居庸の地裂け,廣さ三十六丈,長さ八十四丈,水出でて,大いに饑う。上庸四處山崩れ,地墜つること廣さ三十丈,長さ百三十丈,水出でて人を殺す。〔一〕皆な賈后朝を亂すの應なり。〔二〕

〔一〕『晉書』惠帝紀
「(永平四年)夏五月,蜀郡山移,淮南壽春洪水出,山崩地陷,壞城府及百姓廬舍。匈奴郝散反,攻上黨,殺長吏。六月,壽春地大震,死者二十餘家。上庸郡山崩,殺二十餘人。秋八月,郝散帥眾降,馮翊都尉殺之。上谷居庸・上庸並地陷裂,水泉涌出,人有死者。大饑。」
〔二〕『晉書』惠帝紀
「(永平元年三月)賈后矯詔廢皇太后為庶人,徙于金墉城,告于天地宗廟。誅太后母龐氏。……六月,賈后矯詔使楚王瑋殺太宰・汝南王亮,太保・菑陽公衞瓘。……二年春二月己酉,賈后弒皇太后于金墉城。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝元康四年五月壬子,地陷,方三十丈,殺人。史闕其處。
元康四年八月,居庸地裂,廣三十丈,長百三十丈,水出殺人。」

現代語訳

惠帝の元康四年(294年),蜀郡で山が崩れ,人を殺した。五月壬子,壽春の山が崩れた,洪水が出て,城が壞れ,地面が縦横三十丈にわたって陥没し,人を殺した。六月,壽春で大いに雷があり,山が崩れて地面が割れ,人家が陥没して死んだ,上庸もまたこのようであった。八月,居庸の地面が,広さ三十六丈,長さ八十四丈にわたって裂け,水が出て,たいへんな飢饉となった。上庸のあちらこちらで山が崩れ,地面が広さ三十丈,長さ百三十丈に渡って墜ち,水が出て人を殺した。みな賈后が朝廷を乱したことの應である。

原文

太安元年四月,西墉崩。

訓読

太安元年四月,西墉崩る。

現代語訳

太安元年(302年)四月,西の城壁が崩れた。

原文

懷帝永嘉元年三月,洛陽東北步廣里地陷。 二年八月乙亥,鄄城城無故自壞七十餘丈,司馬越惡之,遷于濮陽,此見沴之異也。越卒以陵上受禍。 三年七月戊辰,當陽地裂三所,廣三丈,長三百餘步。京房易傳曰「地坼裂者,臣下分離,不肯相從也。」其後司馬越苟晞交惡,四方牧伯莫不離散,王室遂亡。 三年十月,宜都夷道山崩。 四年四月,湘東酃黑石山崩。

訓読

懷帝永嘉元年三月,洛陽東北步廣里 地陷す。〔一〕 二年八月乙亥,鄄城の城故無くして自づから壞るること七十餘丈,司馬越 之れを惡み,濮陽に遷る〔二〕,此れ沴の異を見すなり。越卒ひに上を陵ぐ〔三〕を以て禍を受く。 三年七月戊辰,當陽の地裂くること三所,廣さ三丈,長さ三百餘步〔四〕。京房易傳に曰く「地坼裂する者は,臣下分離し,肯へて相ひ從はざるなり。」〔五〕と。其の後司馬越苟晞交ごも惡み〔六〕,四方の牧伯離散せざる莫く,王室遂ひに亡ぶ。 三年十月,宜都の夷道 山崩る。 四年四月,湘東酃の黑石山崩る。

〔一〕『晉書』懷帝紀
「夏五月,馬牧帥汲桑聚眾反,敗魏郡太守馮嵩,遂陷鄴城,害新蔡王騰。燒鄴宮,火旬日不滅。又殺前幽州刺史石尟於樂陵,入掠平原,山陽公劉秋遇害。洛陽步廣里地陷,有二鵝出,色蒼者沖天,白者不能飛。建寧郡夷攻陷寧州,死者三千餘人。」
〔二〕『晉書』懷帝紀
「(永嘉二年)八月丁亥,東海王越自鄄城遷屯于濮陽。」
〔三〕『晉書』懷帝紀
「永嘉元年春正月癸丑朔,大赦,改元,除三族刑。以太傅・東海王越輔政,殺御史中丞諸葛玫。……(十二月)東海王越矯詔囚清河王覃于金墉城。癸卯,越自為丞相。以撫軍將軍苟晞為征東大將軍。」
〔四〕『晉書』懷帝紀
「(永嘉三年)秋七月戊辰,當陽地裂三所,各廣三丈,長三百餘步。」
〔五〕『後漢書』五行志
「(和帝・永元)七年七月,趙國易陽地裂。京房易傳曰「地裂者,臣下分離,不肯相從也。」是時南單于眾乖離,漢軍追討。」
〔六〕『晉書』東海王越傳
「越自滎陽還洛陽,以太學為府。疑朝臣貳己,乃誣帝舅王延等為亂,遣王景率甲士三千人入宮收延等,付廷尉殺之。越解兗州牧,領司徒。越既與苟晞構怨,又以頃興事多由殿省,乃奏宿衞有侯爵者皆罷之。時殿中武官並封侯,由是出者略盡,皆泣涕而去。乃以東海國上軍將軍何倫為右衞將軍,王景為左衞將軍,領國兵數百人宿衞。」
『晉書』苟晞傳
「初,越疑晞與帝有謀,使遊騎於成臯間,獲晞使,果得詔令及朝廷書,遂大構疑隙。越出牧豫州以討晞,復下檄說晞罪惡,遣從事中郎楊瑁為兗州,與徐州刺史裴盾共討晞。晞使騎收河南尹潘滔,滔夜遁,及執尚書劉曾・侍中程延,斬之。會越薨,盾敗,詔晞為大將軍大都督・督青徐兗豫荊揚六州諸軍事,增邑二萬戶,加黃鉞,先官如故。」
〔七〕『晉書』懷帝紀
「(永嘉三年)九月……宜都夷道山崩,荊・湘二州地震。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉孝懷帝永嘉元年三月,洛陽東北步廣里地陷。
永嘉二年八月乙亥,鄄城城無故自壞七十餘丈,司馬越惡之,遷于濮陽。此見沴之異也。越卒陵上,終亦受禍。
永嘉三年七月戊辰,當陽地裂三所,所廣三丈,長二百餘步。京房易傳曰「地坼裂者,臣下分離,不肯相從也。」其後司馬越・苟晞交惡,四方牧伯莫不離散,王室遂亡。
永嘉三年十月,宜都夷道山崩。
永嘉四年四月,湘東酃黑石山崩。」

現代語訳

懷帝の永嘉元年(307年)三月,洛陽の東北の步廣里で地面が陥没した。 二年八月乙亥,鄄城の城壁が原因もなく自然と七十餘丈に渡って壊れた,司馬越はこのことを嫌って,濮陽へと遷った,これは沴の怪異が現れたのである。司馬越は結局上のものを凌ぐことによって災禍を受けたのである。 三年七月戊辰,當陽の地面が三箇所で広さ三丈,長さ三百步あまりにわたって裂けた。京房易傳では「地が裂けるということは,臣下がばらばらになり,従おうとしないのである。」という。その後司馬越と苟晞はたがいににくみあい,四方の長官たちは離散しないものはなく,王室はとうとう亡びた。 三年十月,宜都の夷道で山が崩れた。 四年四月,湘東の酃の黑石山が崩れた。

原文

元帝太興元年二月,廬陵・豫章・武昌・西陽地震山崩。 二年五月,祁山地震,山崩,殺人。 三年,南平郡山崩,出雄黃數千斤。時王敦陵傲,帝優容之,示含養禍萌也。 四年八月,常山崩,水出,滹沲盈溢,大木傾拔。

訓読

元帝太興元年二月,廬陵・豫章・武昌・西陽地震ありて山崩る。 二年五月,祁山地震あり,山崩れ,人を殺す。 三年,南平郡山崩れ,雄黃數千斤を出だす。時に王敦陵傲し,帝之れを優容す,禍萌を含養するを示すなり。〔一〕 四年八月,常山崩れ〔二〕,水出でて,滹沲盈溢し,大木傾拔す。

〔一〕『捜神記』巻七
「元帝太興元年四月,西平地震,涌水出。十二月,廬陵・豫章・武昌・西陵地震,湧水出,山崩。此王敦陵上之應也。」
〔二〕『晉書』元帝紀
「(太興四年)八月,常山崩。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉元帝太興四年八月,常山崩,水出,滹沱盈溢,大木傾拔。」

現代語訳

元帝の太興元年(318年)二月,廬陵・豫章・武昌・西陽で地震があり山が崩れた。 二年五月,祁山で地震があり,山が崩れ,人を殺した。 三年,南平郡で山が崩れ,数千斤の雄黄が出た。その時王敦が驕り高ぶり,元帝はそのことを許容しており,禍いの萌しを内に養っていることを示したのである。 四年八月,常山が崩れ,水が出,滹沲が満ち溢れ,大木が傾き抜けた。

原文

成帝咸和四年十月,柴桑廬山西北崖崩。十二月,劉胤為郭默所殺。

訓読

成帝咸和四年十月,柴桑の廬山西北の崖崩る。十二月,劉胤 郭默の殺す所と為る。〔一〕

〔一〕『晉書』成帝紀
「(咸和四年)冬十月,廬山崩。十二月壬辰,右將軍郭默害平南將軍・江州刺史劉胤,太尉陶侃帥眾討默。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉成帝咸和四年十月,柴桑廬山西北崖崩。十二月,劉胤為郭默所殺。」

現代語訳

成帝の咸和四年(329年)十月,柴桑の廬山の西北の崖が崩れた。十二月,劉胤が郭默に殺された。

原文

穆帝永和七年九月,峻平・崇陽二陵崩。 十二年十一月,遣散騎常侍車灌修峻平陵,開埏道,崩壓殺數十人。

訓読

穆帝永和七年九月,峻平・崇陽二陵崩る。〔一〕 十二年十一月,散騎常侍車灌をして峻平陵を修し〔二〕,埏道を開かしむるに,崩れて數十人を壓殺す。

〔一〕『晉書』穆帝紀
「(永和七年)九月,峻陽・太陽二陵崩。甲辰,帝素服臨于太極殿三日,遣兼太常趙拔修復山陵。……(永和八年)二月,峻平・崇陽二陵崩。戊辰,帝臨三日,遣殿中都尉王惠如洛陽,以衞五陵。」
〔二〕『晉書』穆帝紀
「(永和十二年)十一月,遣兼司空・散騎常侍車灌,龍驤將軍袁真等持節如洛陽,修五陵。」

現代語訳

穆帝の永和七年(351年)九月,峻平・崇陽の二陵が崩れた。 十二年十一月,散騎常侍の車灌に峻平陵を修復し,(陵墓の)参道を開かせたが,崩れて數十人を圧し殺した。

原文

升平五年二月,南掖門馬足陷地,得鍾一,有文四字。

訓読

升平五年二月,南掖門に馬足地に陷して,鍾一を得,文四字有り。

【参照】
『宋書』符瑞志
「晉穆帝升平五年二月乙未,南掖門有馬足陷地,得銅鍾一枚。」

現代語訳

升平五年(361年)二月,南掖門で馬の足が地面にはまることがあり,鍾一口を得て,(そこに)文字が四文字記されていた。

原文

哀帝隆和元年四月丁丑,浩亹山崩,張天錫亡徵也。

訓読

哀帝隆和元年四月丁丑,浩亹の山崩る〔一〕,張天錫亡ぶの徵なり。〔二〕

〔一〕『晉書』哀帝紀
「(隆和元年)夏四月,旱。詔出輕繫,振困乏。丁丑,梁州地震,浩亹山崩。」
〔二〕『晉書』孝武帝紀
「(太元元年)秋七月,苻堅將苟萇陷涼州,虜刺史張天錫,盡有其地。」
【参照】
『宋書』五行志・地震
「隆和元年四月丁丑,涼州地震,浩亹山崩。張天錫降亡之象也。」

現代語訳

哀帝の隆和元年(362年)四月丁丑,浩亹の山が崩れた,張天錫が滅亡することの徵である。

原文

安帝義熙八年三月壬寅,山陰地陷,方四丈,有聲如雷。 十年五月戊寅,西明門地穿,涌水出,毀門扇及限,此水沴土也。 十一年五月,霍山崩,出銅鍾六枚。 十三年七月,漢中成固縣水涯有聲若雷,既而岸崩,出銅鍾十有二枚。

訓読

安帝義熙八年三月壬寅,山陰地陷すること,方四丈,聲の雷の如き有り〔一〕。 十年五月戊寅,西明門地穿ち,涌水出でて,門扇及び限を毀つ,此れ水 土を沴るなり。 十一年五月,霍山崩れ,銅鍾六枚を出だす。〔二〕 十三年七月,漢中成固縣水涯に聲の雷の若き有り,既にして岸崩れ,銅鍾十有二枚を出だす。

〔一〕『晉書』安帝紀
「(義熙八年)三月甲寅,山陰地陷四尺,有聲如雷。」
〔二〕『晉書』安帝紀
「(義熙十年五月)己酉,霍山崩,出銅鍾六枚。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝義熙八年三月壬寅,山陰有聲如雷,地陷深廣各四尺。
義熙十年五月戊寅,西明門地穿,涌水出,毀門扇及限。此水沴土也。」
『宋書』符瑞志
「晉安帝義熙初,帝始康晉亂,而興霸業焉。廬江霍山常有鐘聲十二。帝將征關・洛,霍山崩,有六鐘出,制度精奇,上有古文書一百六十字。……漢中城固縣水際,忽有雷聲,俄而岸崩,得銅鐘十二枚。……十一年五月,西明門地陷,水涌出,毀門扉閾。西者,金鄉之門,為水所毀,此金德將衰,水德方興之象也。」

現代語訳

安帝の義熙八年(412)三月壬寅,山陰で地面が,縦横四丈にわたって陥没した,雷のような音が鳴った。 十年五月戊寅,西明門で地面に穴が開き,涌水が出て,門のとびらと敷居が壊れた,これは水が土をそこなったのである。 十一年五月,霍山が崩れ,銅鍾六口が出てきた。 十三年七月,漢中成固縣の水辺で雷のような音があり,まもなく岸が崩れ,銅鍾十二口が出てきた。

原文

惠帝元康九年六月夜,暴雷雨,賈謐齋屋柱陷入地,壓謐牀帳,此木沴土,土失其性,不能載也。明年,謐誅焉。

訓読

惠帝元康九年六月夜,暴かに雷雨あり,賈謐の齋屋の柱 地に陷入し,謐の牀帳を壓す,此れ木 土を沴る,土 其の性を失ひ,載すること能はざるなり。明年,謐誅せらる。〔一〕

〔一〕『晉書』賈謐傳
「及為常侍,侍講東宮,太子意有不悅,謐患之。而其家數有妖異,飄風吹其朝服飛上數百丈,墜於中丞臺,又蛇出其被中,夜暴雷震其室,柱陷入地,壓毀牀帳,謐益恐。及遷侍中,專掌禁內,遂與后成謀,誣陷太子。及趙王倫廢后,以詔召謐於殿前,將戮之。走入西鍾下,呼曰「阿后救我。」乃就斬之。韓壽少弟蔚有器望,及壽兄鞏令保・弟散騎侍郎預・吳王友鑒・謐母賈午皆伏誅。」
『晉書』惠帝紀
「(永康元年)夏四月辛卯,日有蝕之。癸巳,梁王肜・趙王倫矯詔廢賈后為庶人,司空張華・尚書僕射裴頠皆遇害,侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝元康九年六月夜,暴雷雨。賈謐齋屋柱陷入地,壓謐牀帳。此木沴土,土失其性,不能載也。明年,謐誅。」

現代語訳

恵帝の元康九年(299年)六月の夜,とつぜん雷雨があり,賈謐の家屋の柱が地に陥ち入り,賈謐の寝屋の帳を圧し壊した,これは木が土を損なったのであり,土がその性質を失って,(木を)載せることができなかったのである。明年,賈謐は誅殺された。

原文

光熙元年五月,范陽國地燃,可以爨,此火沴土也。是時,禮樂征伐自諸侯出。

訓読

光熙元年五月,范陽國の地燃ゆ,以て爨すべし〔一〕,此れ火 土を沴るなり。是の時,禮樂征伐 諸侯自り出づ〔二〕。

〔一〕『晉書』惠帝紀
「(光熙元年)五月,枉矢西南流。范陽國地燃,可以爨。」
〔二〕『論語』季氏
「孔子曰,天下有道,則禮樂征伐 ,自天子出。天下無道,則禮樂征伐,自諸侯出。自諸侯出,蓋十世,希不失矣。自大夫出,五世,希不失矣。陪臣執國命,三世,希不失矣。天下有道,則政不在大夫。天下有道,則庶人不議。」
何晏『集解』「孔曰,希少也。周幽王為犬戎所殺,平王東遷,周始微弱。諸侯自作禮樂,專行征伐,始於隱公,至昭公十世,失政死於乾侯矣。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝光熙元年五月,范陽地然,可以爨。此火沴土也。是時禮樂征伐自諸侯出。」

現代語訳

光熙元年(306年)五月,范陽國の地面が燃え,かしぐことができた,これは火が土をそこなったのである。この時,諸侯が禮樂を自作し勝手に征伐を行った。

原文

傳曰「皇之不極,是謂不建,厥咎眊,厥罰恒陰,厥極弱。時則有射妖,時則有龍蛇之孼,時則有馬禍,時則有下人伐上之痾,時則有日月亂行,星辰逆行。」
皇之不極,是謂不建。皇君,極中,建立也。人君貌言視聽思心五事皆失,不得其中,不能立萬事,失在眊悖,故其咎眊也。王者自下承天理物。雲起於山,而彌於天。天氣亂,故其罰恒陰。一曰,上失中,則下強盛而蔽君明也。『易』曰「亢龍有悔,貴而亡位,高而亡民,賢人在下位而亡輔。」如此,則君有南面之尊,而亡一人之助,故其極弱也。盛陽動進輕疾。禮,春而大射,以順陽氣。上微弱則下奮驚動,故有射妖。『易』曰「雲從龍。」又曰「龍蛇之蟄,以存身也。」陰陽氣動,故有龍蛇之孼。於『易』,乾爲君爲馬。任用而強力,君氣毀,故有馬禍。一曰,馬多死及爲怪,亦是也。君亂且弱,人之所叛,天之所去,不有明王之誅,則有篡殺之禍,故有下人伐上之痾。凡君道傷者,病天氣。不言五行沴天,而「日月亂行,星辰逆行」者,爲若下不敢沴天,猶『春秋』曰「王師敗績于貿戎」,不言敗之者,以自敗爲文,尊尊之意也。劉歆皇極傳曰有下體生於上之痾。說以爲下人伐上,天誅已成,不得復爲痾云。

訓読

傳に曰く「皇の不極,是れを不建と謂ひ,厥の咎は眊,厥の罰は恒陰,厥の極は弱。時には則ち射妖有り,時には則ち龍蛇の孼有り,時には則ち馬禍有り,時には則ち下人 上を伐つの痾有り,時には則ち日月の亂行,星辰の逆行有り。」と。
皇の不極,是れを不建と謂ふ,皇は君,極は中,建は立なり。人君の貌言視聽思心の五事皆な失ひ,其の中を得ず,萬事を立つる能はず,失は眊悖に在り,故に其の咎眊なり。王者 下自り天に承け物を理む。〔一〕雲 山より起こりて,天に彌(わた)る。天氣亂る,故に其の罰恒陰。一に曰く,上 中を失へば,則ち下強盛にして君の明を蔽ふなり,と。『易』に曰く「亢龍悔い有り,貴くして位亡く,高くして民亡く,賢人下位に在りて輔くる亡し。」と。〔二〕此くの如きなれば,則ち君に南面の尊有れども,一人の助けも亡し,故に其の極弱なり。盛陽動進すること輕疾なり。禮に,春にして大射し,以て陽氣を順ならしむ。〔三〕上微弱なれば則ち下奮ひ驚動す,故に射妖有り。『易』に曰く「雲 龍に從ふ。」と。〔四〕又た曰く「龍蛇の蟄するは,以て身を存するなり。」と。〔五〕陰陽の氣動く,〔六〕故に龍蛇の孼有り。『易』に於いて,乾は君爲り馬爲り。〔七〕用に任(た)へて強力,君氣毀つ,故に馬禍有り。一に曰く,馬の死す及び怪と爲るもの多し,亦た是れなり。君亂れ且つ弱きは,人の叛く所,天の去る所にして,明王の誅有らざれば,則ち篡殺の禍有り,故に下人 上を伐つの痾有り。凡そ君道傷なはるれば,天氣を病む。五行 天を沴ると言はずして,「日月の亂行,星辰の逆行」とは,下敢へて天を沴らざるが若きと爲す,猶ほ『春秋』に「王師 貿戎に敗績す」〔八〕と曰ひ,之を敗ると言わず,自敗を以て文と爲して,尊を尊ぶの意のごときなり。劉歆皇極の傳に下體 上に生じるの痾有りと曰ふ。說に以爲へらく下人 上を伐ち,天誅已に成り,復た痾を爲すを得ざると云ふ。

〔一〕『易』坤卦・彖伝・文言伝
「彖曰,至哉坤元。萬物資生。乃順承天。……文言曰,坤至柔而動也剛。至靜而德方。後得主而有常。含萬物而化光。坤道其順乎。承天而時行。」
〔二〕『易』乾卦・上九・文言(繫辭上傳にもほぼ同文有り)
「上九曰,亢龍有悔,何謂也。子曰,貴而无位,高而无民,賢人在下位而无輔。」
〔三〕『儀禮』大射
「大射之儀,君有命戒射,宰戒百官。有事於射者,射人戒諸公卿大夫射,司士戒士射。」
〔四〕『易』乾卦・九五・文言
「雲從龍。」
〔五〕『易』繫辭下傳
「龍蛇之蟄,以存身也。」
〔六〕「陰陽氣」,『漢書』五行志は「陰氣」に作り,中華書局本では衍字として「陽」字を削る。
〔七〕『易』説卦傳
「乾爲天,爲圜,爲君,……爲良馬,爲老馬,爲瘠馬,爲駁馬。」
〔八〕『春秋公羊傳』成公元年
「秋,王師敗績于貿戎。孰敗之,蓋晉敗之。或曰,貿戎敗之。然則曷爲不言晉敗之。王者無敵,莫敢當也。」
『春秋穀梁傳』成公元年
「秋,王師敗績于貿戎。不言戰,莫之敢敵也。爲尊者諱,敵不諱敗。爲親者諱,敗不 諱敵。尊尊親親之義也。」
『春秋左氏傳』成公経元年
「秋,王師敗績于茅戎。」
『春秋左氏傳』荘公傳十一年
「凡師,敵未陳曰敗某師,皆陳曰戰,大崩曰敗績,得雋曰克。覆而敗之曰取某師,京師敗曰王師敗績于某。」
【参照】
『漢書』五行志
「傳曰「皇之不極,是謂不建,厥咎眊,厥罰恆陰,厥極弱。時則有射妖,時則有龍蛇之孽,時則有馬禍,時則有下人伐上之痾,時則有日月亂行,星辰逆行。」
「皇之不極,是謂不建」,皇,君也。極,中。建,立也。人君貌言視聽思心五事皆失,不得其中,則不能立萬事,失在眊悖,故其咎眊也。王者自下承天理物。雲起於山,而彌於天。天氣亂,故其罰常陰也。一曰,上失中,則下彊盛而蔽君明也。『易』曰「亢龍有悔,貴而亡位,高而亡民,賢人在下位而亡輔」,如此,則君有南面之尊,而亡一人之助,故其極弱也。盛陽動進輕疾。禮,春而大射,以順陽氣。上微弱則下奮動,故有射妖。『易』曰「雲從龍」,又曰「龍蛇之蟄,以存身也」。陰氣動,故有龍蛇之孽。於『易』,乾爲君爲馬,馬任用而彊力,君氣毀,故有馬禍。一曰,馬多死及爲怪,亦是也。君亂且弱,人之所叛,天之所去,不有明王之誅,則有篡弒之禍,故有下人伐上之痾。凡君道傷者病天氣,不言五行沴天,而曰「日月亂行,星辰逆行」者,爲若下不敢沴天,猶『春秋』曰「王師敗績于貿戎」,不言敗之者,以自敗爲文,尊尊之意也。劉歆皇極傳曰有下體生上之痾。說以爲下人伐上,天誅已成,不得復爲痾云。皇極之常陰,劉向以爲春秋亡其應。一曰,久陰不雨是也。劉歆以爲自屬常陰。」
『宋書』五行志
「五行傳曰「皇之不極,是謂不建。厥咎眊,厥罰恒陰,厥極弱。時則有射妖,時則有龍蛇之孽,時則有馬禍,時則有下人伐上之痾,時則有日月亂行,星辰逆行。」」

現代語訳

伝には「皇の不極,これを不建と言うのである,その咎は眊,その罰は恒陰(曇り続き),その極は弱である。時には射妖があり,時には龍蛇の孼があり,時には馬の禍があり,時には(身分が)下の人が上(の者)を伐つという痾があり,時には日月の運行の乱れや星辰の逆行がある。」という。
皇の不極,これを不建と言う,というのは,皇は君,極は中,建は立つである。人君の貌言視聴思心の五事がみな失われ,その中道を得られず,万事うまく立っていかない,その失は眊悖(暗く惑う)にある,だからその咎は眊(暗い)なのである。王者は下から天より(従順に)承け万物を治める。雲は山から沸き起こり,天に満ちわたる。天の気が乱れる,だからその罰は恒陰(曇り続き)なのである。一説には,上(の者)が中道を失うと,下(の者)が強く盛んになり君の賢明さを覆いかくしてしまう,と。『易』に「高く昇った竜には悔いがある,(これは身分は)貴いが(君主の正しい)位置を失っており,高いが(君主の位置ではないので)民はおらず,賢人は下の位にいるが(君主の位置にない者を)補佐しないということである。」とある。このようであれば,君主に南面するという尊い身分があっても,一人の助けもない,だからその極は弱なのである。盛んになった陽は軽く素早く動き進む。禮制では,春になれば大射を行い,それによって陽の気を整える。上が微かで弱ければ下は奮い立ち騒ぐ,だから射妖があるのである。『易』にいう「雲は竜に従う。」という。「竜や蛇が冬ごもりするのは,それによって身を保とうとしているのである。」という。陰陽の気が動く,だから竜蛇の孼があるのである。『易』において,乾は君であり,馬である。馬は仕事に耐えて力が強く,君主の気が損なわれる,だから馬禍があるのである。一説に,馬が死んだり怪異となるものが多いというのも,これである。君主が乱れてしかも弱いと,人は叛き,天(命)は去るのであり,明王が誅殺するというのでなければ,それは篡殺の禍があるのである,だから(身分が)下の人が上(の者)を伐つという痾があるのである。たいてい君主の道が傷つけられると,天の気を病む。五行が天を破ると言わずに,「日月の運行が乱れ,星辰が逆行する」としているのは,下(の者)が天をそこなうことなどできないというようなものであり、『春秋』に「王の軍隊が貿戎で大敗した」といって,これを敗ると言っていないのは,自分が敗れたことを文としているのであり,尊き者を尊ぶという意がある,というようなものである。劉歆の皇極の傳では,下(にあるはずの)体が上に生じるという痾があるという。説では,下の人が上を伐ち,天誅がすでに成れば,さらに痾をなすことはないという。

恒陰

原文

恒陰
吳孫亮太平三年,自八月沈陰不雨,四十餘日。是時,將誅孫綝,謀泄。九月戊午,綝以兵圍宮,廢亮爲會稽王。此恒陰之罰也。

訓読

恒陰
吳の孫亮太平三年,八月自り沈陰〔一〕にして雨ふらず,四十餘日。是の時,將に孫綝を誅せんとし,謀泄す。九月戊午,綝 兵を以て宮を圍み,亮を廢して會稽王と爲す。此れ恒陰の罰なり。〔二〕

〔一〕『禮記』月令
「季春行冬令,則寒氣時發,草木皆肅,國有大恐。行夏令,則民多疾疫,時雨不降,山林不收。行秋令,則天多沈陰,淫雨蚤降,兵革並起。」
『晉書』天文志(十煇)
「凡遊氣蔽天,日月失色,皆是風雨之候也。沈陰,日月俱無光,晝不見日,夜不見星,有雲障之,兩敵相當,陰相圖議也。」
〔二〕『三國志』呉書・孫亮傳
「(太平三年)自八月沈陰,不雨四十餘日。亮以綝專恣,與太常全尚,將軍劉丞謀誅綝。九月戊午,綝以兵取尚,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外,召大臣會宮門,黜亮爲會稽王,時年十六。」
【参照】
『宋書』五行傳
「吳孫亮太平三年,自八月沈陰不雨,四十餘日。是時將誅孫綝,謀泄。九月戊午,綝以兵圍宮,廢亮爲會稽王。此常陰之罰也。」

現代語訳

恒陰(曇り続き)
呉の孫亮の太平三年(258),八月から雲が垂れ込めて雨が降らず,四十日余りとなった。この時,孫綝を誅殺しようとし,はかりごとが漏れた。九月戊午,孫綝は兵を率いて宮殿を囲み,孫亮を廃位させて会稽王とした。これは恒陰の罰である。

原文

吳孫晧寶鼎元年十二月,太史奏,久陰不雨,將有陰謀。孫晧驚懼。時陸凱等謀因其謁廟廢之。及出,留平領兵前驅,凱先語平,平不許,是以不果。晧既肆虐,羣下多懷異圖,終至降亡。

訓読

吳の孫晧寶鼎元年十二月,太史奏すらく,久陰にして雨ふらざるは,將に陰謀有らんとす、と。孫晧驚懼す。時に陸凱等其の謁廟に因りて之を廢するを謀る。出づるに及び,留平兵を領して前驅するに,凱先んじて平に語(つ)ぐるも,平許さず,是を以て果たさず。晧既に肆虐し,羣下異圖を懷くもの多く,終に降亡に至る。〔一〕

〔一〕『三國志』呉書・陸凱傳
「或曰寶鼎元年十二月,凱與大司馬丁奉・御史大夫丁固謀,因晧謁廟,欲廢晧立孫休子。時左將軍留平領兵先驅,故密語平,平拒而不許,誓以不泄,是以所圖不果。太史郎陳苗奏晧久陰不雨,風氣迴逆,將有陰謀,晧深警懼云。」
裴注「吳錄曰,舊拜廟,選兼大將軍領三千兵爲衞,凱欲因此兵以圖之,令選曹白用丁奉。晧偶不欲曰「更選。」凱令執據,雖蹔兼,然宜得其人。晧曰「用留平。」凱令其子禕以謀語平。平素與丁奉有隙,禕未及得宣凱旨,平語禕曰「聞野豬入丁奉營,此凶徵也。」有喜色。禕乃不敢言,還,因具啓凱,故輟止。
【参照】
『宋書』五行傳
「吳孫晧寶鼎元年十二月,太史奏久陰不雨,將有陰謀。晧深驚懼。時陸凱等謀因其謁廟廢之。及出,留平領兵前驅,凱語平,平不許,是以不果。晧既肆虐,羣下多懷異圖,終至降亡。」

現代語訳

吳の孫晧寶鼎元年(266)十二月,太史が奏上して,曇り続きで雨が降らないのは,陰謀が練られようとしているからだと申し上げた。孫晧は驚き慄いた。当時陸凱等が謁廟に際して孫晧を廃位しようと企てた。(宗廟に孫晧が)出かける際に,留平は兵を率いて先鋒となり,陸凱は先んじて(企てを)留平に告げたが,留平は聞き入れず,そういうわけで(企てを)果たせなかった。孫晧はすでに暴虐をほしいままにし,群臣には謀叛の心を懐くものが多く,とうとう降伏し滅亡するに至った。

射妖

原文

射妖
蜀車騎將軍鄧芝征涪陵,見玄猨緣山,手射中之。猨拔其箭,卷木葉塞其創。芝曰「嘻,吾違物之性,其將死矣。」俄而卒,此射妖也。一曰,猨母抱子,芝射中之,子爲拔箭,取木葉塞創。芝歎息,投弩水中,自知當死。

訓読

射妖
蜀の車騎將軍鄧芝 涪陵を征し,玄猨の山に緣るを見,手づから射て之れに中(あ)つ。猨 其の箭を拔き,木の葉を卷き其の創を塞ぐ。芝曰く「嘻あ,吾れ物の性〔一〕に違ふ,其れ將に死せんとす。」と。俄かにして卒す,此れ射妖なり。一に曰く,猨母 子を抱き,芝の射 之れに中り,子爲に箭を拔き,木の葉を取りて創を塞ぐ。芝歎息し,弩を水中に投げ,自ら當に死すべきを知る。〔二〕

〔一〕『禮記』中庸
「自誠明,謂之性。自明誠,謂之教。誠則明矣,明則誠矣。唯天下至誠爲能盡其性。能盡其性,則能盡人之性。能盡人之性,則能盡物之性。能盡物之性,則可以贊天地之化育。可以贊天地之化育,則可以與天地參矣。」
〔二〕『三國志』蜀書・鄧芝傳・裴松之注引『華陽國志』
「芝征涪陵,見玄猿緣山。芝性好弩,手自射猿,中之。猿拔其箭,卷木葉塞其創。芝曰「嘻,吾違物之性,其將死矣。」一曰,芝見猿抱子在樹上,引弩射之,中猿母,其子爲拔箭,以木葉塞創。芝乃歎息,投弩水中,自知當死。」
【参照】
『宋書』五行傳
「蜀車騎將軍鄧芝征涪陵,見玄猿緣山,手射中之。猿拔其箭,卷木葉塞其創。芝曰「嘻,吾違物之性,其將死矣。」俄而卒。此射妖也。一曰猿母抱子,芝射中之,子爲拔箭,取木葉塞創。芝歎息,投弓水中,自知當死矣。」

現代語訳

射妖
蜀の車騎將軍の鄧芝が涪陵を討伐し,黒い猿が山にいるのを見,自ら(弩を)射て猿に当てた。猿はその矢を抜き,木の葉を巻いて傷を塞いだ。鄧芝は「ああ,私は万物の性に違った。もうすぐ死んでしまうだろう。」と言った。まもなく亡くなった。これは射妖である。一説にはこうある,猿の母が子を抱いていて,鄧芝の弩が母猿に当たり,子は母のために矢を抜き,木の葉を取って傷を塞いだ。鄧芝はため息をつき,弩を水中に投げ入れ,自分がきっと死ぬであろうとわかった。

原文

恭帝爲琅邪王,好奇戲,嘗閉一馬於門內,令人射之,欲觀幾箭死。左右有諫者曰「馬,國姓也。今射之,不祥。」於是乃止,而馬已被十許箭矣。此蓋射妖也。俄而禪位於宋焉。

訓読

恭帝 琅邪王爲りしとき,奇戲を好み,嘗て一馬を門內に閉ぢ,人をして之れを射せしめ,幾箭もて死するかを觀んと欲す。左右に諫むる者有りて曰く「馬は,國姓なり。今之れを射るは,不祥なり。」と。〔一〕是に於いて乃ち止まるも,馬已に十許箭を被る。此れ蓋し射妖なり。俄かにして宋に禪位す。

〔一〕『晉書』恭帝紀
「帝幼時性頗忍急,及在藩國,曾令善射者射馬爲戲。既而有人云「馬者國姓,而自殺之,不祥之甚。」帝亦悟,甚悔之。」
【参照】
『宋書』五行傳
「晉恭帝之爲琅邪王時,好奇戲,嘗閉一馬於門內,令人射之,欲觀幾箭而死。左右有諫者曰「馬,國姓也。而今射之,不祥甚矣。」於是乃止,而馬已被十許箭矣。此蓋射妖也。俄而桓玄篡位。」

現代語訳

恭帝が琅邪王であったとき,変わった遊びを好み,かつて一頭の馬を門の内に閉じこめ,人に馬を射させ,何本の矢で死ぬのかを観ようとした。左右に諫める者がおり「馬は,国(司馬氏)の姓です。今馬を射るのは、縁起が良くありません。」と言った。そこで止めたけれども,馬はすでに十本ばかりの矢を受けていた。これは思うに射妖である。まもなく宋に位を禅譲した。

龍蛇之孼

原文

龍蛇之孼
魏明帝青龍元年正月甲申,青龍見郟之摩陂井中。凡瑞興非時,則爲妖孼,況困于井,非嘉祥矣。魏以改年,非也。干寶曰「自明帝,終魏世,青龍・黃龍見者,皆其主興廢之應也。魏土運,青木色,而不勝于金。黃得位,青失位之象也。青龍多見者,君德國運内相克伐也。故高貴鄉公卒敗于兵。」案劉向説,龍貴象而困井中,諸侯將有幽執之禍也。魏世,龍莫不在井,此居上者逼制之應。高貴郷公著潛龍詩,即此旨也。

訓読

龍蛇之孼
魏の明帝青龍元年正月甲申,青龍 郟の摩陂の井中に見はる〔一〕。凡そ瑞 非時に興るは,則ち妖孼爲り,況んや井に困しむ,嘉祥に非ざるなり。魏以て年を改むるは,非なり。干寶曰はく「明帝自り,魏世終はるまで,青龍・黃龍の見はるる者は,皆な其の主の興廢の應なり。魏 土運,青 木の色,而して金に勝たず。黃 位を得て,青 位を失うの象なり。青龍の多く見るる者は,君德國運内に相ひ克伐するなり。故に高貴郷公卒に兵に敗す〔二〕。」と。劉向の説を案ずるに,龍 貴の象にして井中に困しむは,諸侯將に幽執の禍有らんとするなり〔三〕。魏の世,龍 井に在らざる莫し,此れ上に居る者逼制するの應。高貴郷公 潛龍詩を著す〔四〕,即ち此の旨なり。

〔一〕『三国志』魏書・明帝本紀
「青龍元年春正月甲申,青龍見郟之摩陂井中。二月丁酉,幸摩陂觀龍,於是改年。改摩陂爲龍陂,賜男子爵人二級,鰥寡孤獨無出今年租賦。」
『宋書』符瑞志中
「魏明帝青龍元年正月甲申,青龍見郟之摩陂井。帝親與羣臣共觀之,既而詔畫工圖寫,龍潛而不見。」
〔二〕『三国志』魏書・高貴鄉公紀・甘露五年
「五月己丑,高貴鄉公卒,年二十。
裴注「漢晉春秋曰帝見威權日去,不勝其忿。乃召侍中王沈・尚書王經・散騎常侍王業,謂曰「司馬昭之心,路人所知也。吾不能坐受廢辱,今日當與卿等自出討之。」王經曰「昔魯昭公不忍季氏,敗走失國,爲天下笑。今權在其門,爲日久矣,朝廷四方皆爲之致死,不顧逆順之理,非一日也。且宿衞空闕,兵甲寡弱,陛下何所資用,而一旦如此,無乃欲除疾而更深之邪。禍殆不測,宜見重詳。」帝乃出懷中版令投地,曰「行之決矣。正使死,何所懼。況不必死邪」於是入白太后,沈・業奔走告文王,文王爲之備。帝遂帥僮僕數百,鼓譟而出。文王弟屯騎校尉伷入,遇帝於東止車門,左右呵之,伷眾奔走。中護軍賈充又逆帝戰於南闕下,帝自用劍。眾欲退,太子舍人成濟問充曰「事急矣。當云何。」充曰「畜養汝等,正謂今日。今日之事,無所問也。」濟即前刺帝,刃出於背。文王聞,大驚,自投于地曰「天下其謂我何。」太傅孚奔往,枕帝股而哭,哀甚,曰「殺陛下者,臣之罪也。」臣松之以爲習鑿齒書,雖最後出,然述此事差有次第。故先載習語,以其餘所言微異者次其後。……
魏氏春秋曰戊子夜,帝自將宂從僕射李昭・黃門從官焦伯等下陵雲臺,鎧仗授兵,欲因際會,自出討文王。會雨,有司奏卻日,遂見王經等出黃素詔於懷曰「是可忍也,孰不可忍也。今日便當決行此事。」入白太后,遂拔劍升輦,帥殿中宿衞蒼頭官僮擊戰鼓,出雲龍門。賈充自外而入,帝師潰散,猶稱天子,手劍奮擊,眾莫敢逼。充帥厲將士,騎督成倅弟成濟以矛進,帝崩于師。時暴雨雷霆,晦冥。魏末傳曰賈充呼帳下督成濟謂曰「司馬家事若敗,汝等豈復有種乎。何不出擊。」倅兄弟二人乃帥帳下人出,顧曰「當殺邪。執邪。」充曰「殺之。」兵交,帝曰「放仗。」大將軍士皆放仗。濟兄弟因前刺帝,帝倒車下。」」
〔三〕『漢書』五行志下之上・五行皆失・龍孽
「惠帝二年正月癸酉旦,有兩龍見於蘭陵廷東里溫陵井中,至乙亥夜去。劉向以爲龍貴象而困於庶人井中,象諸侯將有幽執之禍。其後呂太后幽殺三趙王,諸呂亦終誅滅。京房易傳曰「有德遭害,厥妖龍見井中。」又曰「行刑暴惡,黑龍從井出。」」
〔四〕『三国志』魏書・高貴鄉公紀・甘露四年
「四年春正月,黃龍二,見寧陵縣界井中。」
裴注「漢晉春秋曰是時龍仍見,咸以爲吉祥。帝曰「龍者,君德也。上不在天,下不在田,而數屈於井,非嘉兆也。」仍作潛龍之詩以自諷,司馬文王見而惡之。」
【参照】
『宋書』五行五・皇之不極・龍蛇之孽
「魏明帝青龍元年正月甲申,青龍見郟之摩陂井中。凡瑞興非時,則爲妖孽,況困於井,非嘉祥矣。魏以改年,非也。晉武不賀,是也。干寶曰「自明帝終魏世,青龍黃龍見者,皆其主廢興之應也。魏土運,青,木色也,而不勝于金,黃得位,青失位之象也。青龍多見者,君德國運内相剋伐也。故高貴鄉公卒敗于兵。案劉向説『龍貴象,而困井中,諸侯將有幽執之禍也。』魏世龍莫不在井,此居上者逼制之應。高貴鄉公著潛龍詩,即此旨也。」」

現代語訳

龍と蛇のわざわい
魏の明帝青龍元年(233)正月甲申,青龍が郟県の摩陂にある井戸の中に現れた。すべて瑞兆が適切でない時に起こるものは,すなわち妖孼であり,ましてや井戸の中に陥っているのは,吉祥ではない。魏がこの出来事を以て年号を改めたのは,正しくない。干宝は「明帝の御代より,魏の世が終わるまで,青龍と黄龍が現れたという出来事は,すべてその君主の興廃の応である。魏の運気は(五行の)土であり,青は(五行の)木の色であり,金に勝てない。黄色が位を得て,青色が位を失うことの象徴である。青龍が頻繁に現れるのは,君の徳(の五行)と国の運気(の五行)が国内で互いに打ち負かし合っているのである。だから高貴郷公は結局兵に敗れた。」と言う。劉向の説を参照してみると,龍は貴顕の象徴であって,それが井戸の中に陥っているのは,諸侯がこれから幽閉の災禍に見舞われることがあるのだ,としている。魏の世では,龍が井戸の中にいないことがなかった,これは上にいる者が逼迫することの応である。高貴郷公が『潜龍詩』を著したのも,この意図からである。

原文

高貴郷公正元元年十月戊戌,黃龍見于鄴井中。

訓読

高貴郷公正元元年十月戊戌,黃龍 鄴の井中に見はる〔一〕。

〔一〕『三国志』魏書・高貴郷公髦紀
「正元元年冬十月壬辰,遣侍中持節分適四方,觀風俗,勞士民,察寃枉失職者。……戊戌,黃龍見于鄴井中。」
【参照】
『宋書』五行五・皇之不極・龍蛇之孽
「魏高貴鄉公正元元年冬十月戊戌,黃龍見于鄴井中。」

現代語訳

高貴郷公正元元年(254)十月戊戌,黄龍が鄴の井戸の中に現れた。

原文

甘露元年正月辛丑,青龍見軹縣井中。六月乙丑,青龍見元城縣界井中。
二年二月,青龍見溫縣井中。
三年,黃龍・青龍俱見頓丘・冠軍・陽夏縣界井中。
四年正月,黃龍二見寧陵縣界井中。

訓読

甘露元年正月辛丑,青龍 軹縣の井中に見はる〔一〕。六月乙丑,青龍 元城縣界の井中に見はる〔二〕。
二年二月,青龍 溫縣の井中に見る〔三〕。
三年,黃龍・青龍俱に頓丘・冠軍・陽夏縣界の井中に見はる〔四〕。
四年正月,黃龍二寧陵縣界の井中に見はる〔五〕。

〔一〕『三国志』魏書・高貴郷公紀
「甘露元年春正月辛丑,青龍見軹縣井中。」
〔二〕同上
「夏六月丙午,改元為甘露。乙丑,青龍見元城縣」
〔三〕同上
「(甘露)二年春二月,青龍見溫縣井中。」
〔四〕同上・甘露三年
「是歲,青龍・黃龍仍見頓丘・冠軍・陽夏縣界井中。」
〔五〕同上・甘露四年
「四年春正月,黃龍二,見寧陵縣界井中。」裴注「漢晉春秋曰是時龍仍見,咸以爲吉祥。帝曰「龍者,君德也。上不在天,下不在田,而數屈於井,非嘉兆也。」仍作潛龍之詩以自諷,司馬文王見而惡之。」
【参考】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「魏高貴鄉公甘露元年正月辛丑,青龍見軹縣井中。六月乙丑,青龍見元城縣界井中。
甘露二年二月,青龍見溫縣井中。
甘露三年,黃龍青龍仍見頓丘・冠軍・陽夏縣界井中。」

現代語訳

甘露元年(256)正月辛丑,青龍が軹県の井戸の中に現れた。六月乙丑,青龍が元城県の県境にある井戸の中に現れた。
二年(257)二月,青龍が温県の井戸の中に現れた。
三年(258),黄龍・青龍がともに頓丘郡,冠軍県そして陽夏県の県境の井戸の中に現れた。
四年(259)正月,二匹の黄龍が寧陵県の県境にある井戸の中に現れた。

原文

元帝景元元年十二月甲申,黃龍見華陰縣井中。
三年二月,龍見軹縣井中。

訓読

元帝景元元年十二月甲申,黃龍 華陰縣の井中に見はる〔一〕。
三年二月,龍 軹縣の井中に見はる〔二〕。

〔一〕『三国志』魏書・元帝紀・景元元年
「十二月甲申,黃龍見華陰縣井中。」
〔二〕同上・三年
「三年春二月,青龍見于軹縣井中。」
【参照】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「景元三年二月,青龍見軹縣井中。」

現代語訳

元帝景元元年(260)十二月甲申,黄龍が華陰県の井戸の中に現れた。
三年(262)二月,龍が軹県の井戸の中に現れた。

原文

呉孫晧天冊中,龍乳於長沙人家,啖雞雛。京房易妖曰「龍乳人家,王者爲庶人。」其後晧降晉。

訓読

呉の孫晧の天冊中,龍 長沙の人家に乳(う)み,雞の雛を啖らふ。京房易妖に曰はく「龍の人家に乳めば,王者 庶人と爲る。」と。其の後晧 晉に降る〔一〕。

〔一〕『晋書』武帝紀・太康元年
「二月戊午,王濬・唐彬等克丹楊城。……濬進破夏口・武昌,遂泛舟東下,所至皆平。王渾・周浚與吳丞相張悌戰于版橋,大破之,斬悌及其將孫震・沈瑩,傳首洛陽。孫晧窮蹙請降,送璽綬於琅邪王伷。
三月壬寅,王濬以舟師至于建鄴之石頭,孫晧大懼,面縳輿櫬,降于軍門。濬杖節解縛焚櫬,送于京都。」
『三国志』呉書・孫晧伝・天紀四年
「(三月)壬申,王濬最先到,於是受晧之降,解縛焚櫬,延請相見。伷以晧致印綬於己,遣使送晧。晧舉家西遷,以太康元年五月丁亥集于京邑。四月甲申,詔曰「孫晧窮迫歸降,前詔待之以不死,今晧垂至,意猶愍之,其賜號爲歸命侯。進給衣服車乘,田三十頃,歲給穀五千斛,錢五十萬,絹五百匹,緜五百斤。」晧太子瑾拜中郎,諸子爲王者,拜郎中。」
【参照】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「呉孫晧天冊中,龍乳於長沙民家,啖鷄鶵。京房易妖曰「龍乳人家,王者為庶人。」其後晧降。」

現代語訳

呉の孫晧の天冊の年(275)に,龍が長沙の人家で子どもを産み,ひよこを食べることがあった。京房の『易妖』では「龍が人家で子どもを産むと,王者が庶人になる。」と言っている。その後孫晧は晋に降伏した。

原文

武帝咸寧二年六月丙午,白龍二見于九原井中。

訓読

武帝咸寧二年六月丙午,白龍二 九原の井中に見はる〔一〕。

〔一〕『晋書』の武帝本紀では新興郡の井戸となっているが,九原県は新興郡の県なので同じ出来事を指していると考えられる。
『晋書』武帝紀・咸寧二年六月
「白龍二見于新興井中。」
『晋書』地理志上・并州・新興郡
「新興郡魏置。統縣五,戸九千。
九原 定襄 雲中 廣牧 晉昌」
【参照】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「晉武帝咸寧二年六月丙申,白龍二見于九原井中。」

現代語訳

武帝の咸寧二年(276)六月丙午,二匹の白龍が九原県の井戸の中に現れた。

原文

太康五年正月癸卯,二龍見武庫井中。帝觀之,有喜色。百僚將賀,劉毅獨表曰「昔龍漦夏庭,禍發周室。龍見鄭門,子産不賀。」帝答曰「朕德政未修,未有以應受嘉祥。」遂不賀也。孫盛曰「龍,水物也,何與於人。子産言之當矣。但非其所處,實爲妖災。夫龍以飛翔顯見爲瑞,今則潛伏幽處,非休祥也。」漢惠帝二年,兩龍見蘭陵井中,本志以爲其後趙王幽死之象。武庫者,帝王威御之器所寶藏也,屋宇邃密,非龍所處。是後七年,藩王相害,二十八年,果有二胡僭竊神器,二逆皆字曰龍,此之表異,爲有證矣。

訓読

太康五年正月癸卯,二龍 武庫の井中に見はる〔一〕。帝 之を觀るに,喜色有り。百僚將に賀せんとするに,劉毅獨り表して曰はく〔二〕「昔し龍の夏庭に漦(し)し,禍 周室に發す〔三〕。龍 鄭門に見はるるも,子産賀せず〔四〕。」と。帝答へて曰はく「朕 德政 未だ修めず,未だ以て嘉祥を應受する有らず。」と。遂に賀せざるなり。孫盛曰はく〔五〕「龍,水物なり〔六〕,何ぞ人に與からん。子産の言の當なり〔四〕。但だ其の處る所に非ざれば,實に妖災と爲る。夫れ龍の飛翔して顯見するを以って瑞と爲す,今則ち幽處に潛伏す,休祥〔七〕に非ざるなり。」と。漢の惠帝二年,兩龍 蘭陵の井中に見る,本志以爲らく其の後の趙王幽死の象なりと〔八〕。武庫なる者は,帝王威御の器の寶藏する所なり,屋宇 邃密なれば,龍の處る所に非ず。是の後七年,藩王相ひ害し〔九〕,二十八年,果して二胡の神器を僭竊すること有り,二逆皆な字 龍と曰ふ〔一〇〕,此の異を表すは,有證爲れり〔一一〕。

〔一〕『晋書』武帝紀・太康五年
「五年春正月己亥,青龍二見于武庫井中。」
〔二〕これ以降の劉毅と武帝のやりとりは劉毅の伝に記載がある。
『晋書』劉毅伝
「時龍見武庫井中,帝親觀之,有喜色。百官將賀,毅獨表曰「昔龍降鄭時門之外,子產不賀。龍降夏庭,沫流不禁,卜藏其漦,至周幽王,禍釁乃發。易稱『潛龍勿用,陽在下也』。證據舊典,無賀龍之禮。」詔報曰「正德未修,誠未有以膺受嘉祥。省來示,以爲瞿然。賀慶之事,宜詳依典義,動靜數示。」尚書郎劉漢等議,以爲「龍體既蒼,雜以素文,意者大晉之行,戢武興文之應也。而毅乃引衰世妖異,以疑今之吉祥。又以龍在井爲潛,皆失其意。潛之爲言,隱而不見。今龍彩質明煥,示人以物,非潛之謂也。毅應推處。」詔不聽。後隱氣解而復合,毅上言「必有阿黨之臣,姦以事君者,當誅而不誅故也。」」
〔三〕周の幽王の寵姫・襃姒にまつわる有名なエピソードである。
『史記』周本紀第四
「三年,幽王嬖愛襃姒。襃姒生子伯服,幽王欲廢太子。……周太史伯陽讀史記曰「周亡矣。」昔自夏后氏之衰也,有二神龍止於夏帝庭而言曰「余,襃之二君。」夏帝卜殺之與去之與止之,莫吉。卜請其漦而藏之,乃吉。於是布幣而策告之,龍亡而漦在,櫝而去之。夏亡,傳此器殷。殷亡,又傳此器周。比三代,莫敢發之,至厲王之末,發而觀之。漦流于庭,不可除。厲王使婦人裸而譟之。漦化爲玄黿,以入王後宮。後宮之童妾既齔而遭之,既笄而孕,無夫而生子,懼而弃之。宣王之時童女謠曰「檿弧箕服,實亡周國。」於是宣王聞之,有夫婦賣是器者,宣王使執而戮之。逃於道,而見鄉者後宮童妾所弃妖子出於路者,聞其夜啼,哀而收之,夫婦遂亡,犇於襃。襃人有罪,請入童妾所弃女子者於王以贖罪。弃女子出於襃,是爲襃姒。當幽王三年,王之後宮見而愛之,生子伯服,竟廢申后及太子,以襃姒爲后,伯服爲太子。太史伯陽曰「禍成矣,無可奈何」」
『漢書』五行志下之上・五行皆失・龍孽
「史記夏后氏之衰,有二龍止於夏廷,而言「余,襃之二君也」。夏帝卜殺之,去之,止之,莫吉。卜請其漦而藏之,乃吉。於是布幣策告之。龍亡而漦在,乃匵去之。其後夏亡,傳匵於殷周,三代莫發,至厲王末,發而觀之,漦流于廷,不可除也。厲王使婦人臝而譟之,漦化爲玄黿,入後宮。處妾遇之而孕,生子,懼而棄之。宣王立,女童謠曰「檿弧萁服,實亡周國。」後有夫婦鬻是器者,宣王使執而僇之。既去,見處妾所棄妖子,聞其夜號,哀而收之,遂亡奔襃。後襃人有罪,入妖子以贖,是爲襃姒,……劉向以爲夏后季世,周之幽・厲,皆誖亂逆天,故有龍黿之怪,近龍蛇孽也。漦,血也,一曰沫也。檿弧,桑弓也。萁服,蓋以萁草爲箭服,近射妖也。女童謠者,禍將生於女,國以兵寇亡也。」
〔四〕『春秋左氏伝』昭公十九年
「鄭大水。龍鬬于時門之外洧淵(杜注:時門,鄭城門也。洧水,出熒陽密縣東南至潁川長平入潁)。國人請爲禜焉。子產弗許。曰我鬬,龍不我覿也(杜注:覿,見也)龍鬬,我獨何覿焉。禳之則彼其室也。吾無求於龍,龍亦無求於我。乃止也」
『漢書』五行志下之上・五行皆失・龍孽
「左氏傳昭公十九年,龍鬬於鄭時門之外洧淵。劉向以爲近龍孽也。鄭以小國攝乎晉楚之間,重以彊吳,鄭當其衝,不能修德,將鬬三國,以自危亡。是時子產任政,内惠於民,外善辭令,以交三國,鄭卒亡患,能以德消變之效也。京房易傳曰「衆心不安,厥妖龍鬬。」」
〔五〕中華書局の校注によれば,当時孫盛は生まれておらず,孫楚の伝に当該記事が現れることから,孫楚の誤りであるとする。『開元占経』巻百二十に引く『晋陽秋』では「孫楚」となっている。これに従い現代語訳は改めている。
『晋書』孫楚伝
「時龍見武庫井中,羣臣將上賀,楚上言曰「頃聞武庫井中有二龍,羣臣或有謂之禎祥而稱賀者,或有謂之非祥無所賀者,可謂楚既失之,而齊亦未爲得也。夫龍或俯鱗潛于重泉,或仰攀雲漢游乎蒼昊,而今蟠于坎井,同於蛙蝦者,豈獨管庫之士或有隱伏,厮役之賢沒於行伍。故龍見光景,有所感悟。願陛下赦小過,舉賢才,垂夢於傅巖,望想於渭濱,修學官,起淹滯,申命公卿,舉獨行君子可惇風厲俗者,又舉亮拔秀異之才可以撥煩理難矯世抗言者,無繫世族,必先逸賤。夫戰勝攻取之勢,并兼混一之威,五伯之事,韓白之功耳。至於制禮作樂,闡揚道化,甫是士人出筋力之秋也。伏願陛下擇狂夫之言。」」
『開元占経』巻一百二十・龍魚蟲蛇占
「晉陽秋曰,太原五年龍見武庫井中。帝觀有喜色,百官将賀,劉毅以爲不祥。孫楚上事曰,頃聞武庫井中有二龍,羣官或謂之禎祥而稱賀,或有謂之非祥無所賀。可謂楚既失之,而齊亦未爲得也。而龍守鱗翼潛於重淵,或仰攀雲漢遊於蒼昊,而今蟠於坎井,同雄於蛙蝦,豈獨管庫之士或有隱伏,期役之賢沒於行伍。故龍見光景,有所感悟耶」
〔六〕『春秋左氏伝』昭公二十九年
「社稷五祀,是尊是奉。木正曰句芒,火正曰祝融,金正曰蓐收,水正曰玄冥,土正曰后土。龍,水物也,水官弃矣。故龍不生得。」
〔七〕『尚書』泰誓中
「朕夢協朕卜,襲于休祥,戎商必克。」孔傳「言我夢與卜俱合於美善,以兵誅紂必克之占」
〔八〕『漢書』五行志下之上・五行皆失・龍孽
「惠帝二年正月癸酉旦,有兩龍見於蘭陵廷東里溫陵井中,至乙亥夜去。劉向以爲龍貴象而困於庶人井中,象諸侯將有幽執之禍。其後呂太后幽殺三趙王,諸呂亦終誅滅。京房易傳曰「有德遭害,厥妖龍見井中。」又曰「行刑暴惡,黑龍從井出。」」
〔九〕八王の乱のこと。
『晋書』恵帝紀・元康元年(291)
「(三月)賈后矯詔廢皇太后爲庶人,徙于金墉城,告于天地宗廟。誅太后母龐氏。壬寅,徵大司馬・汝南王亮爲太宰,與太保衞瓘輔政。以秦王柬爲大將軍,東平王楙爲撫軍大將軍,鎮南將軍・楚王瑋爲衞將軍,領北軍中候,下邳王晃爲尚書令,東安公繇爲尚書左僕射,進封東安王。督將侯者千八十一人。庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。……
六月,賈后矯詔使楚王瑋殺太宰・汝南王亮,太保・菑陽公衞瓘。乙丑,以瑋擅害亮・瓘,殺之。曲赦洛陽。以廣陵王師劉寔爲太子太保,司空・隴西王泰錄尚書事。……」
同上・永康元年(300)
「夏四月辛卯,日有蝕之。癸巳,梁王肜・趙王倫矯詔廢賈后爲庶人,司空張華・尚書僕射裴頠皆遇害,侍中賈謐及黨與數十人皆伏誅。甲午,倫矯詔大赦,自爲相國・都督中外諸軍,如宣文輔魏故事,追復故皇太子位。丁酉,以梁王肜爲太宰,左光祿大夫何劭爲司徒,右光祿大夫劉寔爲司空,淮南王允爲驃騎將軍。己亥,趙王倫矯詔害賈庶人于金墉城。」
〔一〇〕石勒と石虎のこと。
『晋書』懐帝紀・永嘉五年
「六月癸未,劉曜・王彌・石勒同寇洛川,王師頻爲賊所敗,死者甚眾。庚寅,司空荀藩・光祿大夫荀組奔轘轅,太子左率溫畿夜開廣莫門奔小平津。丁酉,劉曜・王彌入京師。帝開華林園門,出河陰藕池,欲幸長安,爲曜等所追及。曜等遂焚燒宮廟,逼辱妃后,吳王晏・竟陵王楙・尚書左僕射和郁・右僕射曹馥・尚書閭丘沖・袁粲・王緄・河南尹劉默等皆遇害,百官士庶死者三萬餘人。帝蒙塵于平陽,劉聰以帝爲會稽公。荀藩移檄州鎮,以琅邪王爲盟主。豫章王端東奔苟晞,晞立爲皇太子,自領尚書令,具置官屬,保梁國之蒙縣。百姓饑儉,米斛萬餘價。」
『晋書』石勒載記上
「石勒字世龍。」
『晋書』石季龍載記上
「石季龍,勒之從子也,名犯太祖廟諱,故稱字焉。」
〔一一〕『捜神記』巻七
「太康五年正月,二龍見武庫井中。武庫者,帝王威御之器,所寶藏也。屋宇邃密,非龍所處。是後七年,藩王相害。二十八年,果有二胡,僭竊神器,皆字曰龍。」
【参照】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「晉武帝太康五年正月癸卯,二龍見于武庫井中。帝見龍,有喜色,百僚將賀。劉毅獨表曰「昔龍漦夏庭,禍發周室龍見鄭門,子產不賀。」帝答曰「朕德政未修,未有以膺受嘉祥。」遂不賀也。孫盛曰「龍,水物也,何與於人,子產言之當矣。但非其所處,實爲妖災。夫龍以飛翔顯見爲美,則潛伏幽處,非休祥也。漢惠帝二年,兩龍見蘭陵井中,本志以爲其後趙王幽死之象也。武庫者,帝王威御之器所寶藏也,室宇邃密,非龍所處。後七年,蕃王相害,二十八年,果有二胡僭竊神器。勒,虎二逆皆字曰龍,此之表異,爲有證矣。」史臣案龍爲休瑞,而屈於井中,前史言之已詳。但兆幽微,非可臆斷,故五行・符瑞兩存之。」

現代語訳

太康五年(284)正月癸卯,二匹の龍が武庫の井戸の中に現れた。武帝はこれを見物して,喜んだ。百官が寿ごうとしたところ,ただ劉毅のみが上奏して「昔龍が夏の宮廷に唾を残して,(その唾から襃姒が生まれたため)禍が周の王室に発生しました。龍が鄭の門に現れましたが,子産は寿ぎませんでした。」と言った。武帝が答えて「朕はまだ徳政を敷いておらず,未だ吉祥を受けとる理由がない。」と言った。そのまま祝賀を行わなかった。孫楚は「龍は,水に属する物である,どうして人と関係があるだろうか。子産の言っていることは正しい。ただその処るべき場所でなければ,本当に妖災となる。そもそも龍が飛翔して顕現すれば瑞祥である,今は深く沈み込んだところに潜んでいるのであり,吉祥ではない。」と言った。漢の恵帝二年(193),二匹の龍が蘭陵県の井戸の中に現れたが,『漢書』の五行志はその後趙王が幽閉されて死ぬことの象徴であると考えている。武庫というものは,帝王の威儀を示す御物を大事に仕舞う場所である,建物の中は奥深いので,龍のいる所ではない。この七年後,諸王が互いに害をなし,二十八年後,ついに二つの異民族が分を超えて神器を掠め取ったことがあり,二人の逆賊はみな龍という文字を字(あざな)に持っていた,この(龍が現れたという)異変の表れが,実証されたことになるのである。

原文

愍帝建興二年十一月,抱罕〔一〕羌妓産一龍子,色似錦文,常就母乳,遙見神光,少得就視。此亦皇之不建,於是帝竟淪沒。

訓読

愍帝建興二年十一月,抱罕の羌妓 一龍子を産む,色 錦文〔二〕に似たり,常に母乳に就くや,遙に神光〔三〕を見(しめ)し,就きて視るを得るもの少なし。此れも亦た皇の不建,是に於いて帝竟に淪沒す〔四〕。

〔一〕中華書局の『晋書』では「枹罕」とあるが,『晋書斠注』では「抱罕」の誤りであると指摘する。今それに従い改めた。
〔二〕『礼記』王制
「布。帛精麤不中數。幅廣狹不中量。不粥於市。姦色亂正色。不粥於市。錦文珠玉成器。不粥於市。」,疏「此錦文珠王等,是華麗之物。富人合有。」
〔三〕龍と神光が共に現れる例は漢書にある。
『漢書』宣帝本紀・甘露二年
「乃者鳳皇甘露降集,黃龍登興,醴泉滂流,枯槁榮茂,神光並見,咸受禎祥。」
〔四〕『晋書』愍帝紀・建興四年
「(十一月)辛丑,帝蒙塵于平陽,麴允及羣官並從。」
同上・建興五年
「十二月戊戌,帝遇弒,崩于平陽,時年十八。」
【参照】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「晉愍帝建興二年十一月,枹罕羌妓產一龍子,色似錦文,嘗就母乳,遙見神光,少得就視。」

現代語訳

愍帝建興二年(314)十一月,抱罕県の羌族の芸妓が龍の子を一匹産んだ,見た目は錦のように鮮やかで,母乳を飲むと常に,遠くまで神々しい光を示して,近寄って見ることができる者はほとんどいなかった。これも皇の不建であり,このことによって帝はとうとう敵の手に落ちて死んだ。

原文

呂纂末,龍出東廂井中,到其殿前蟠臥,比旦失之。俄又有黑龍升其宮門。纂咸以爲美瑞。或曰「龍者陰類,出入有時,今而屢見,必有下人謀上之變。」後纂果爲呂超所殺。

訓読

呂纂〔一〕の末,龍 東廂の井中より出で,其の殿前に蟠臥するに到るも,旦の比(ころほ)ひ之を失す。俄かに又た黑龍の其の宮門を升る有り。纂 咸な以て美瑞と爲す。或ひと曰はく「龍なるもの者は陰の類,出入に時有り,今而して屢しば見はるるは,必ず下人 上を謀るの變有らん。」と〔二〕。後ち纂果して呂超の殺す所と爲る〔三〕。

〔一〕苻堅の配下であり,後涼の創始者である呂光の子。本紀では隆安三年に即位したとあり,五年には弑されている。
『晋書』呂纂載記
「纂字永緒,光之庶長子也。……纂以隆安四年遂僭即天王位,大赦境内,改元爲咸寧。」
『晋書』安帝紀・隆安三年十二月
「呂光立其太子紹爲天王,自號太上皇。是日,光死,呂纂弒紹而自立。」
〔二〕呂纂の伝では鳩摩羅什の言葉とされており,鳩摩羅什の伝にこの一連の出来事が記されている。
『晋書』呂纂載記
「道士句摩羅耆婆言於纂曰「潛龍屢出,豕犬見妖,將有下人謀上之禍,宜增修德政,以答天戒。」纂納之。耆婆,即羅什之別名也。」
『晋書』鳩摩羅什伝
「頃之,光死,纂立。有猪生子,一身三頭。龍出東箱井中,於殿前蟠臥,比旦失之。纂以爲美瑞,號其殿爲龍翔殿。俄而有黑龍升於當陽九宮門,纂改九宮門爲龍興門。羅什曰「比日潛龍出游,豕妖表異,龍者陰類,出入有時,而今屢見,則爲災眚,必有下人謀上之變。宜克己修德,以答天戒。」纂不納,後果爲呂超所殺。」
〔三〕『晋書』安帝紀・隆安五年
「五年春二月丙子,孫恩復寇浹口。呂超弒呂纂,以其兄隆僭即僞位。」

現代語訳

呂纂の治世の末,龍が東廂の井戸の中から出てきて,その宮殿の前にとぐろを巻いて伏せっていたが,夜明けの頃いなくなった。それからまた黒龍が宮門を昇ることがあった。呂纂はどちらも祥瑞とみなした。ある人は「龍というものは(陰陽の)陰の類で,出入に適切な時がある,それにも関わらず今しばしば現れるというのは,必ずや位が下の者が上の者を謀る変事があるだろう。」と言った。その後果して呂纂は呂超に殺された。

原文

武帝咸寧中,司徒府有二大蛇,長十許丈,居聽事平橑上而人不知,但數年怪府中數失小兒及猪犬之屬。後有一蛇夜出,被刃傷不能去,乃覺之,發徒攻擊,移時乃死。夫司徒,五教之府。此皇極不建,故蛇孼見之。漢靈帝時,蛇見御座,楊賜云爲帝溺於色之應也。魏代宮人猥多,晉又過之,燕遊是湎,此其孼也。詩云「惟虺惟蛇,女子之祥」也。

訓読

武帝の咸寧中,司徒府に二大蛇有り,長さ十許丈,聽事の平橑上に居れども人知らず,但だ數年府中に數しば小兒及び猪犬の屬を失ふを怪しむのみ。後一蛇の夜に出づる有り,刃傷せられて去る能わず,乃ち之を覺る,徒を發して攻擊し,移時乃ち死す〔一〕。夫れ司徒,五教の府。此れ皇極の不建,故に蛇孼 之に見はる。漢の靈帝時,蛇 御座に見はれ,楊賜云ひて帝色に溺るるの應なりと爲す〔二〕。魏の代の宮人 猥多なれど,晉又た之を過ぐ〔三〕,燕遊是れ湎る,此れ其の孼なり。詩に云ふ「惟れ虺惟れ蛇,女子の祥〔四〕」なり。

〔一〕『捜神記』巻十九
「晉武帝咸寧中,魏舒爲司徒。府中二大蛇,長十許丈,居廳事平橑上。止之數年,而人不知,但怪府中數失小兒及雞犬之屬。後有一蛇夜出,經柱側,傷于刄,病不能登,于是覺之。發徒数百,攻擊移時,然後殺之。視所居,骨骼盈宇之間。於是毀府舎,更立之」
〔二〕『後漢書』楊賜伝
「熹平元年,青虵見御坐,帝以問賜,賜上封事曰「臣聞和氣致祥,乖氣致灾,休徵則五福應,咎徵則六極至。夫善不妄來,灾不空發。王者心有所惟,意有所想,雖未形顏色,而五星以之推移,陰陽爲其變度。以此而觀,天之與人,豈不符哉。尚書曰『天齊乎人,假我一日。』是其明徵也。夫皇極不建,則有蛇龍之孽。詩云『惟虺惟蛇,女子之祥。』故春秋兩蛇鬬於鄭門,昭公殆以女敗。康王一朝晏起,關睢見幾而作。夫女謁行則讒夫昌,讒夫昌則苞苴通,故殷湯以之自戒,終濟亢旱之灾。惟陛下思乾剛之道,別内外之宜,崇帝乙之制,受元吉之祉,抑皇甫之權,割豔妻之愛,則蛇變可消,禎祥立應。殷戊・宋景,其事甚明。」」
〔三〕武帝の後宮に宮女が多かったことは有名である。
『晋書』胡貴嬪伝
「胡貴嬪名芳。父奮,別有傳。泰始九年,帝多簡良家子女以充内職,自擇其美者以絳紗繫臂。……時帝多内寵,平吳之後復納孫晧宮人數千,自此掖庭殆將萬人。而並寵者甚眾,帝莫知所適,常乘羊車,恣其所之,至便宴寢。宮人乃取竹葉插戸,以鹽汁灑地,而引帝車。然芳最蒙愛幸,殆有專房之寵焉,侍御服飾亞于皇后。」
〔四〕『詩経』小雅・鴻鴈之什・斯干
「大人占之,維熊維羆,男子之祥,維虺維蛇,女子之祥。」
鄭箋「大人占之,謂以聖人占夢之法占之也。熊羆在山陽之祥也,故爲生男。虺蛇宂處陰之祥也,故爲生女」
【参照】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「晉武帝咸寧中,司徒府有二大蛇,長十許丈,居聽事平橑上,數年而人不知,但怪府中數失小兒及猪犬之屬。後一蛇夜出,傷於刃,不能去,乃覺之。發徒攻擊,移時乃死。夫司徒五教之府,此皇極不建,故蛇孽見之。漢靈帝時,蛇見御座,楊賜以爲帝溺於色之應也。魏氏宮人猥多,晉又過之,宴游是湎,此其孽也。詩云「惟虺惟蛇,女子之祥。」」

現代語訳

武帝の咸寧中(275~279),司徒府に二匹の大蛇がおり,長さが十丈ばかりで,聴事(役所で政事を聞く場所)の平らな垂木の上にいたが誰も知らなかった,ただ数年経って司徒府の中でしばしば子どもや猪や犬の類いが失踪するのを怪しむのみであった。その後一匹の蛇が夜中に司徒府から出てくることがあり,刃物で傷つけられて(その場から)立ち去ることができなかったため,そうしてはじめて蛇の存在に気がつき,手勢を動員して攻撃したところ,しばらくしてやっと死んだ。そもそも司徒というのは,五教を司る役所である。これは皇極の不建で,だから蛇のわざわいがここに現れたのだ。漢の霊帝の時,蛇が玉座に現れ,楊賜は皇帝が女色に溺れていることの応であると述べた。魏の時代の宮女もごたごたと数が多かったが,晋は更にそれを超えており,宴遊に溺れている,これはその災いである。詩経に言うところの「まむしや蛇は,女子の予兆」である。

原文

惠帝元康五年三月癸巳,臨淄有大蛇,長十餘丈,負二小蛇入城北門,逕從市入漢城陽景王祠中,不見。天戒若曰昔漢景王有定傾之功,而不厲節忠慎,以至失職奪功之辱。今齊王冏不寤,雖建興復之功,而驕陵取禍,此其徵也。

訓読

惠帝の元康五年三月癸巳,臨淄に大蛇有り,長さ十餘丈,二小蛇を負ひて城北の門に入り,逕ちに市從り漢の城陽景王〔一〕の祠中に入り,見えず〔二〕。天戒めて若くのごとく曰はく昔し漢の景王定傾の功有り〔三〕,而して厲節忠慎せず,以て失職奪功の辱に至る〔四〕。今齊王冏寤らず,興復の功を建つと雖も,而れども驕陵にして禍を取る〔五〕,此れ其の徵なり。

〔一〕漢の城陽景王とは高祖の孫であり,斉王劉肥の子の劉章のこと。注三に引く本紀では朱虛侯として登場する。なお、臨淄県は漢代の斉郡に置かれており,斉王の所領である。
『漢書』高五王・燕霊王建伝
「齊悼惠王子,前後凡九人爲王。太子襄爲齊哀王,次子章爲城陽景王……齊哀王襄,孝惠六年嗣立。明年,惠帝崩,呂太后稱制。元年,以其兄子鄜侯呂台爲呂王,割齊之濟南郡爲呂王奉邑。明年,哀王弟章入宿衞於漢,高后封爲朱虛侯,以呂祿女妻之。」
『漢書』地理志上・斉郡
「齊郡,戸十五萬四千八百二十六,口五十五萬四千四百四十四。縣十二。臨淄」
〔二〕『捜神記』巻七
「元康五年三月,臨淄有大蛇,長十許丈,負二小蛇,入城北門,逕從市入漢陽城景王祠中,不見。」
〔三〕『漢書』文帝紀
「孝文皇帝,高祖中子也,母曰薄姬。高祖十一年,誅陳豨,定代地,立爲代王,都中都。十七年秋,高后崩,諸呂謀爲亂,欲危劉氏。丞相陳平・太尉周勃・朱虛侯劉章等共誅之,謀立代王。語在高后紀・高五王傳。」
『漢書』高后紀
「上將軍祿・相國產顓兵秉政,自知背高皇帝約,恐爲大臣諸侯王所誅,因謀作亂。時齊悼惠王子朱虛侯章在京師,以祿女爲婦,知其謀,乃使人告兄齊王,令發兵西。章欲與太尉勃・丞相平爲内應,以誅諸呂。齊王遂發兵,又詐琅邪王澤發其國兵,并將而西。產・祿等遣大將軍灌嬰將兵擊之。嬰至滎陽,使人諭齊王與連和,待呂氏變而共誅之。……
勃入軍門,行令軍中曰「爲呂氏右袒,爲劉氏左袒。」軍皆左袒。勃遂將北軍。然尚有南軍,丞相平召朱虛侯章佐勃。勃令章監軍門,令平陽侯告衞尉,毋内相國產殿門。產不知祿已去北軍,入未央宮欲爲亂。殿門弗内,徘徊往來。平陽侯馳語太尉勃,勃尚恐不勝,未敢誦言誅之,乃謂朱虛侯章曰「急入宮衞帝。」章從勃請卒千人,入未央宮掖門,見產廷中。日餔時,遂擊產。產走。天大風,從官亂,莫敢鬬者。逐產,殺之郎中府吏舍廁中。章已殺產,帝令謁者持節勞章。章欲奪節,謁者不肯,章乃從與載,因節信馳斬長樂衞尉呂更始。」
『漢書』高五王・燕霊王建伝
「其明年,高后崩。趙王呂祿爲上將軍,呂王產爲相國,皆居長安中,聚兵以威大臣,欲爲亂。章以呂祿女爲婦,知其謀,乃使人陰出告其兄齊王,欲令發兵西,朱虛侯・東牟侯欲從中與大臣爲内應,以誅諸呂,因立齊王爲帝。……
呂祿・呂產欲作亂,朱虛侯章與太尉勃・丞相平等誅之。章首先斬呂產,太尉勃等乃盡誅諸呂。而琅邪王亦從齊至長安。」
〔四〕『漢書』高五王・燕霊王建伝
「始誅諸呂時,朱虛侯章功尤大,大臣許盡以趙地王章,盡以梁地王興居。及文帝立,聞朱虛・東牟之初欲立齊王,故黜其功。二年,王諸子,乃割齊二郡以王章・興居。章・興居意自以失職奪功。」
〔五〕『晋書』恵帝紀・永寧元年(301)
「三月,平東將軍・齊王冏起兵以討倫,傳檄州郡,屯于陽翟。征北大將軍・成都王穎,征西大將軍・河間王顒,常山王乂,豫州刺史李毅,兗州刺史王彥,南中郎將・新野公歆,皆舉兵應之,眾數十萬。倫遣其將閭和出伊闕,張泓・孫輔出堮坂以距冏,孫會・士猗・許超出黃橋以距穎。及穎將趙驤・石超戰于湨水,會等大敗,棄軍走。」
同上・太安元年(302)
「十二月丁卯,河間王顒表齊王冏窺伺神器,有無君之心,與成都王穎・新野王歆・范陽 王虓同會洛陽,請廢冏還第。長沙王乂奉乘輿屯南止車門,攻冏,殺之,幽其諸子于金墉城,廢冏弟北海王寔。」
【参照】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「晉惠帝元康五年三月癸巳,臨菑有大蛇長十餘丈,負二小蛇,入城北門,徑從市入漢城陽景王祠中不見。天戒若曰,齊方有劉章定傾之功,若不厲節忠慎,又將蹈章失職奪功之辱也。齊王冏不悟,雖建興復之功,而以驕陵取禍。負二小蛇出朝市,皆有象類也。」

現代語訳

恵帝の元康五年(295)三月癸巳,臨淄県に大蛇がおり,長さが十丈あまりで,二匹の小さな蛇を背負って城北の門に入り,まっすぐに市場から漢の城陽景王の祠の中に入って,見えなくなった。天が戒めて次のように言っている,昔漢の景王には国家転覆の危機を救った功績があったが,節義を守り忠誠深く慎むということがなかったため,職を失い功績を奪われるという屈辱を受けるに至った。今斉王の司馬冏はそのことを悟らず,中興の功績があるけれども,驕り高ぶり目上の者を侮っていることから禍を招いた,これはその徴である。

原文

明帝太寧初,武昌有大蛇,常居故神祠空樹中,每出頭從人受食。京房易妖曰「蛇見於邑,不出三年有大兵,國有大憂。」尋有王敦之逆。

訓読

明帝の太寧初め,武昌に大蛇有り,常に故神祠の空樹中に居り,每に頭を出だし人に從りて食を受く。京房易妖に曰はく「蛇 邑に見はるれば,三年を出でずして大兵有り,國に大憂有り。」と。尋いで王敦の逆〔一〕有り〔二〕。

〔一〕『晋書』明帝紀・太寧二年
「夏五月,王敦矯詔拜其子應爲武衞將軍,兄含爲驃騎大將軍。帝所親信常從督公乘雄・冉曾並爲敦所害。
六月,敦將舉兵内向,帝密知之,乃乘巴滇駿馬微行,至于湖,陰察敦營壘而出。有軍士疑帝非常人。又敦正晝寢,夢日環其城,驚起曰「此必黃鬚鮮卑奴來也。」帝母荀氏,燕代人,帝狀類外氏,鬚黃,敦故謂帝云。於是使五騎物色追帝。帝亦馳去,馬有遺糞,輒以水灌之。見逆旅賣食嫗,以七寶鞭與之,曰「後有騎來,可以此示也。」俄而追者至,問嫗。嫗曰「去已遠矣。」因以鞭示之。五騎傳玩,稽留遂久。又見馬糞冷,以爲信遠而止不追。帝僅而獲免。」
〔二〕『捜神記』巻七
「晉明帝太寧初,武昌有大蛇,常居故神祠空樹中。毎出頭,從人受食。京房易傳曰「蛇見于邑,不出三年,有大兵,國有大憂。」尋有王敦之逆。」
【参照】
『宋書』五行志五・皇之不極・龍蛇之孽
「晉明帝太寧初,武昌有大蛇,常居故神祠空樹中,每出頭從人受食。京房易妖曰「蛇見於邑,不出三年,有大兵。國有大憂。」其後討滅王敦及其黨與。」

現代語訳

明帝の太寧初めごろ(323),武昌に大蛇がおり,常に古いほこらにある木のうろの中にいて,頭を出しては人から食事をもらっていた。京房の『易妖』に「蛇が人里に現れると,三年を待たずに大きな兵乱があり,国家に大きな憂いがある。」とある。まもなく王敦の叛逆があった。

馬禍

原文

馬禍
武帝太熙元年,遼東有馬生角,在兩耳下,長三寸。案劉向說曰「此兵象也。」及帝晏駕之後,王室毒於兵禍,是其應也。『京房易傳』曰「臣易上,政不順,厥妖馬生角,茲謂賢士不足。」又曰「天子親伐,馬生角。」『呂氏春秋』曰「人君失道,馬有生角。」及惠帝踐阼,昏愚失道,又親征伐成都,是其應也。

訓読

馬禍
武帝太熙元年,遼東に馬の角を生じて,兩耳の下に在り,長さ三寸なる有り。案ずるに劉向說に曰く「此れ兵の象なり。」と。〔一〕帝 晏駕の後に及びて,王室 兵禍に毒(そこな)ふは,是れ其の應なり。〔二〕『京房易傳』に曰く「臣 上を易(あなど)り,政 順ならざれば,厥の妖 馬 角を生やす,茲れ賢士足らざるを謂ふ。」と。〔三〕又た曰く「天子親伐すれば,馬 角を生やす。」と。『呂氏春秋』に曰く「人君 道を失へば,馬 角を生やす有り。」と。〔四〕惠帝 踐阼するに及びて,昏愚にして道を失ひ,又た親ら成都を征伐するは,是れ其の應なり。〔五〕

〔一〕『漢書』五行志
「劉向以爲馬不當生角,猶吳不當舉兵鄉上也。」
〔二〕『搜神記』巻七
「晉武帝太熙元年,遼東有馬生角,在兩耳下,長三寸。及帝宴駕,王室毒於兵禍。」
恐らく武帝が亡くなった後,291年に行われた賈南風らによる楊氏の粛清や司馬亮・司馬瑋らの殺害から,八王の乱に至るまでの兵乱を指す。
〔三〕『漢書』五行志
文帝十二年,有馬生角於吳,角在耳前,上鄉。右角長三寸,左角長二寸,皆大二寸。劉向以爲馬不當生角,猶吳不當舉兵鄉上也。是時,吳王濞封有四郡五十餘城,內懷驕恣,變見於外,天戒早矣。王不寤,後卒舉兵,誅滅。『京房易傳』曰「臣易上,政不順,厥妖馬生角,茲謂賢士不足。」又曰「天子親伐,馬生角。」」
〔四〕『呂氏春秋』季夏紀・明理
「其妖孽有生如帶,有鬼投其陴,有菟生雉,雉亦生鴳,有螟集其國,其音匈匈,國有游蛇西東,馬牛乃言,犬彘乃連,有狼入於國,有人自天降,市有舞鴟,國有行飛,馬有生角,雄雞五足,有豕生而彌,雞卵多假,有社遷處,有豕生狗。」
〔五〕永興元年(304年),恵帝は司馬穎(成都王)を討伐するために出征したが敗れたことを指す。
『晋書』孝恵帝紀
「秋七月丙申朔,右衞將軍陳眕以詔召百僚入殿中,因勒兵討成都王穎。戊戌,大赦,復皇后羊氏及皇太子覃。己亥,司徒王戎・東海王越・高密王簡・平昌公模・吳王晏・豫章王熾・襄陽王範・右僕射荀藩等奉帝北征。至安陽,眾十餘萬,穎遣其將石超距戰。己未,六軍敗績于蕩陰,矢及乘輿,百官分散,侍中嵇紹死之。帝傷頰,中三矢,亡六璽。帝遂幸超軍,餒甚,超進水,左右奉秋桃。超遣弟熙奉帝之鄴,穎帥羣官迎謁道左。帝下輿涕泣,其夕幸于穎軍。穎府有九錫之儀,陳留王送貂蟬文衣鶡尾,明日,乃備法駕幸于鄴,唯豫章王熾・司徒王戎・僕射荀藩從。庚申,大赦,改元為建武。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝太熙元年,遼東有馬生角,在兩耳下,長三寸。按劉向說此兵象也。及帝晏駕之後,王室毒於兵禍,是其應也。『京房易傳』曰「臣易上政不順厥妖馬生角。」又有「天子親伐,馬生角」。『呂氏春秋』曰「人君失道,馬有生角。」」

現代語訳

馬禍
武帝太熙元年(290年),遼東で長さが三寸の角が両耳の下に生えてる馬がいた。考えるに劉向の説では「これは兵の象徴である。」と言う。武帝が亡くなった後,王室が兵禍で被害を受けることは,その応である。『京房易伝』では「臣下が上を侮り,政治が順調でないならば,その妖は,馬が角を生やす,これは優れた士が不足していることを意味する。」と言う。また「天子が自ら征伐すれば,馬が角を生やす。」と言う。『呂氏春秋』では「人君が(人君としての正しい)道を失えば,馬が角を生やす。」と言う。恵帝が即位した後,愚かで道を失い,また成都(王)を親征した(が敗れた)ことは,その応である。

原文

惠帝元康八年十二月,皇太子將釋奠,太傅趙王倫驂乘,至南城門,馬止,力士推之不能動。倫入軺車,乃進。此馬禍也。天戒若曰「倫不知義方,終爲亂逆,非傅導行禮之人也。」

訓読

惠帝元康八年十二月,皇太子將に釋奠せんとし,太傅趙王倫 驂乘し,南の城門に至り,馬止まり,力士 之を推せども動かすこと能はず。倫 軺車に入りて,乃ち進む。此れ馬禍なり。天戒めて若くのごとく曰く「倫 義方を知らず,終に亂逆を爲す,行禮を傅導するの人に非ざるなり。」と。

【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝元康元年十二月,皇太子將釋奠,太傅趙王倫驂乘,至南城門,馬止,力士推之不能動。倫入軺車,乃進。此馬禍也。天戒若曰「倫不知義方,終爲亂逆,非傅導行禮之人。」倫不悟,故亡。」

現代語訳

恵帝元康八年(298年)十二月,皇太子が釈奠を実施しようとして,太傅であった趙王倫(司馬倫)が共に馬車に乗り,南の城門に至った時,馬が止まり,力がある者が馬を押しても動かすことができなかった。司馬倫は軺車に乗り換えて進んだ。これは馬禍である。天が戒めてこのように言った,「司馬倫は正しい道を知らず,とうとう謀叛を起こした。(釈奠のような)儀式を伝導できるような(素質のある)人ではない。」と。

原文

九年十一月戊寅,忽有牡騮馬驚奔至廷尉訊堂,悲鳴而死。天戒若曰「愍懷寃死之象也。見廷尉訊堂,其天意乎。」

訓読

九年十一月戊寅,忽に牡騮馬の驚奔して廷尉の訊堂に至り,悲鳴して死す有り。天戒めて若くのごとく曰く「愍懷 寃死の象なり。廷尉の訊堂に見るるは,其れ天意なるか。」と。

【参照】
『宋書』五行志
「元康九年十一月戊寅冬,有牝騮馬驚奔至廷尉訊堂,悲鳴而死。是殆愍懷冤死之象也。見廷尉訊堂,又天意乎。」

現代語訳

恵帝元康九年(299年)十一月戊寅,突然牡の騮馬が現れ,驚き逃げて廷尉の公堂に至って,悲しげに鳴いて死んだ。天が戒めてこのように言った「愍懷太子(司馬遹)が冤罪で死んだことの象である。廷尉の公堂に現れたのは,天意であろうなぁ。」と。

原文

懷帝永嘉六年二月,神馬鳴南城門。

訓読

懷帝永嘉六年二月,神馬 南の城門に鳴く。〔一〕

〔一〕神馬は「騰黃者,神馬也,其色黃。王者德御四方則出。」(『宋書』符瑞志),「要巉者,神馬也,與飛菟同,亦各隨其方而至,以明君德也。」(同)のように「徳のある君主」に関する吉兆とされている。
【参照】
『宋書』符瑞志
「晉懷帝永嘉六年二月壬子,神馬鳴南城門。」
『宋書』五行志
「晉孝懷帝永嘉六年二月,神馬鳴南城門。」

現代語訳

懐帝永嘉六年(312年)二月,神馬が南の城門で鳴いた。

原文

愍帝建興二年九月,蒲子縣馬生人。『京房易傳』曰「上亡天子,諸侯相伐,厥妖馬生人。」是時,帝室衰微,不絕如線,胡狄交侵,兵戈日逼,尋而帝亦淪陷,故此妖見也。

訓読

愍帝建興二年九月,蒲子縣に馬 人を生む。『京房易傳』に曰く「上 天子を亡みし,諸侯相伐てば,厥妖 馬 人を生む。」と。〔一〕是の時,帝室衰微し,絕えざること線のごとく,胡狄交侵し,兵戈日に逼(せま)り,尋(つ)いで帝も亦た淪陷す〔二〕,故に此の妖見はるるなり。

〔一〕『後漢書』五行志
「靈帝光和元年,司徒長史馮巡馬生人。『京房易傳』曰「上亡天子,諸侯相伐,厥妖馬生人。」後馮巡遷甘陵相,黃巾初起,爲所殘殺,而國家亦四面受敵。其後關東州郡各舉義兵,卒相攻伐,天子西移,王政隔塞。其占與京房同。」
〔二〕『晋書』愍帝紀
「十一月乙未,使侍中宋敞送牋于曜,帝乘羊車,肉袒銜璧,輿櫬出降。羣臣號泣攀車,執帝之手,帝亦悲不自勝。御史中丞吉朗自殺。曜焚櫬受璧,使宋敞奉帝還宮。……辛丑,帝蒙塵于平陽,麴允及羣官並從。劉聰假帝光祿大夫、懷安侯。」

現代語訳

愍帝建興二年(314年)九月,蒲子縣で馬が人を生んだ。『京房易傳』には「上には天子を軽んじ,諸侯が互いに攻撃する,その妖は馬が人を生む。」と言う。この時,(晋の)帝室は衰微し,細い糸のように(なんとか)命脈を保ち,胡狄が次々と侵攻し,兵戈が日に日に迫り,さらに皇帝(愍帝)も敵の手に落ちた,そのためこのような怪異が現れたのである。

原文

元帝太興二年,丹楊郡吏濮陽演馬生駒,兩頭,自項前別,生而死。司馬彪說曰,「此政在私門,二頭之象也。」其後王敦陵上。

訓読

元帝太興二年,丹楊郡の吏 濮陽演の馬 駒を生み,兩頭あり,項(うなじ)自り前別れ,生まるるも死す。司馬彪說に曰く「此れ政 私門に在り,二頭の象なり。」と。〔一〕其の後 王敦 上を陵(しの)ぐ。〔二〕

〔一〕『後漢書』五行志
「二年,雒陽上西門外女子生兒,兩頭,異肩共胸,俱前向,以為不祥,墮地棄之。自此之後,朝廷霿亂,政在私門,上下無別,二頭之象。後董卓戮太后,被以不孝之名,放廢天子,後復害之。漢元以來,禍莫踰此。」
『搜神記』巻七
「太興二年,丹陽郡吏濮陽演馬生駒,兩頭,自項前別。生而死。此政在私門二頭之象也。其後王敦陵上。」
〔二〕『晋書』元帝紀
「敦乃自為丞相・都督中外諸軍・錄尚書事,封武昌郡公,邑萬戸。丙子,驃騎將軍・秣陵侯戴若思,尚書左僕射・護軍將軍・武城侯周顗為敦所害。敦將沈充陷呉國,魏乂陷湘州,呉國内史張茂・湘州刺史・譙王承並遇害。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉元帝大興二年,丹陽郡吏濮陽楊演馬生駒,兩頭自頸前別,生而死。按司馬彪說「政在私門,二頭之象也。」是後王敦陵上。」

現代語訳

元帝太興二年(319年),丹楊郡の官吏である濮陽演の馬が子供を産んだが,頭が二つあり,うなじより前が分かれており,生まれたものの(結局)死んでしまった。司馬彪の説では「これは政治(の実権)が臣下にあるということであり,二頭の象である。」と言う。その後,王敦が皇帝をしのいだ。

原文

成帝咸康八年五月甲戌,有馬色赤如血,自宣陽門直走入于殿前,盤旋走出,尋逐莫知所在。己卯,帝不豫。六月,崩。此馬禍,又赤祥也。是年,張重華在涼州,將誅其西河相張祚,廄馬數十匹,同時悉無後尾也。

訓読

成帝咸康八年五月甲戌,馬有りて色赤きこと血のごとく,宣陽門より直走して殿前に入り,盤旋して走出し,尋いで逐ふも在る所を知ること莫し。己卯,帝豫(やすら)かならず。六月,崩ず。〔一〕此れ馬禍なり,又た赤祥なり。是の年,張重華 涼州に在り,將に其の西河の相張祥を誅さんとし〔二〕,廄馬數十匹,同時に悉く後尾無きなり。

〔一〕『晋書』成帝紀
「夏六月庚寅,帝不悆。……壬辰,引武陵王晞・會稽王昱・中書監庾冰・中書令何充・尚書令諸葛恢並受顧命。癸巳,帝崩于西堂,時年二十二,葬興平陵,廟號顯宗。」
〔二〕張祚は張重華の異母弟であり,354年,張重華の死後に反乱を起こし,帝位を簒奪する。この箇所以外に張重華が張祚を誅伐しようとした記述は発見できず。
【参照】
『宋書』五行志
「晉成帝咸康八年五月甲戌,有馬色赤如血,自宣陽門直走入于殿前,盤旋走出,尋逐莫知所在。己卯,帝不豫,六月崩。此馬禍,又赤祥也。張重華在涼州,將誅其西河相張祚,祚廄馬數十匹,同時悉皆無後尾。」

現代語訳

成帝咸康八年(342年)五月甲戌の日,血のように赤い色の馬がいて,(建康の)宣陽門から真っ直ぐ走って宮殿の前まで入り,ぐるぐる回って走り出て,すぐに追うも所在を知ることができなかった。己卯の日,皇帝は病となった。六月,崩御した。これは馬禍であり,また赤祥である。この年,張重華が涼州にいて,西河の相である張祚を誅伐しようとしていたが,同時に厩の馬数十匹全てにしっぽがなくなった。

原文

安帝隆安四年十月,梁州有馬生角,刺史郭銓送示桓玄。案劉向說曰「馬不當生角。猶玄不當舉兵向上也。玄不寤,以至夷滅。」

訓読

安帝隆安四年十月,梁州に馬 角生ゆる有り。刺史郭銓 桓玄に送りて示す。案ずるに劉向說に曰く「馬當に角を生ゆべからず。猶ほ玄當に舉兵して上に向かふべからざるがごときなり。玄寤らず,以て夷滅に至る。」と。 〔一〕

〔一〕『漢書』五行志
「文帝十二年,有馬生角於吳,角在耳前,上鄉。右角長三寸,左角長二寸,皆大二寸。劉向以為馬不當生角,猶吳不當舉兵鄉上也。是時,吳王濞封有四郡五十餘城,內懷驕恣,變見於外,天戒早矣。王不寤,後卒舉兵,誅滅。『京房易傳』曰「臣易上,政不順,厥妖馬生角,茲謂賢士不足。」又曰,「天子親伐,馬生角。」」
【参照】
『宋書』五行志
「晉安帝隆安四年十月,梁州有馬生角,刺史郭銓送示都督桓玄。案劉向說「馬不當生角,由玄不當舉兵向上也。覩災不悟,故至夷滅。」」

現代語訳

安帝隆安四年(398年)十月,梁州で角が生えている馬がいた。刺史の郭銓は桓玄に送って見せた。劉向の説を考えてみるに,「本来,馬は角を生えてはならないものである。桓玄が挙兵して上に刃向かうべきではないということのようである。(しかし)桓玄は悟らず,(劉裕によって)殺されてしまった。」と言うものである。

原文

石季龍在鄴,有一馬尾有燒狀。入其中陽門,出顯陽門,東宮皆不得入,走向東北,俄爾不見。術者佛圖澄歎曰,「災其及矣。」逾年季龍死,其國遂滅。

訓読

石季龍 鄴に在り,一馬有りて尾に燒狀有り。其の中陽門に入りて,顯陽門より出で,東宮皆入るを得ず,走りて東北に向かひ,俄爾として見えず。術者佛圖澄歎じて曰く「災其れ及ぶ。」と〔一〕。逾年 季龍死し,其の國遂に滅ぶ。〔二〕

〔一〕『晋書』仏図澄伝
「後月餘,有一妖馬,髦尾皆有燒狀,入中陽門,出顯陽門,東首東宮,皆不得入,走向東北,俄爾不見。澄聞而歎曰「災其及矣。」季龍大享羣臣於太武前殿,澄吟曰「殿乎,殿乎。棘子成林,將壞人衣。」季龍令發殿石下視之,有棘生焉。冉閔小字棘奴。」
〔二〕『晋書』石季龍載紀
「時熒惑犯積尸,又犯昴・月,及熒惑北犯河鼓。未幾,季龍疾甚。……尋惛眩而入。張豺使弟雄等矯季龍命殺斌,劉氏又矯命以豺為太保・都督中外諸軍・錄尚書事・加千兵百騎,一依霍光輔漢故事。侍中徐統歎曰「禍將作矣,吾無為豫之。」乃仰藥而死。俄而季龍亦死。季龍始以咸康元年僭立,至此太和六年,凡在位十五歲。」

現代語訳

石季龍(石虎)が鄴にいた時,とある馬に尻尾に焼けた跡があるものがあった。その中陽門から入り,顯陽門から出て,東宮にはどこからも入ることができず,(馬は)走って東北に向かい,たちまち見えなくなった。術者の仏図澄が嘆いて「災いが及ぼう。」と言った。翌年 石季龍は死に,その国もついに滅んだ。

人痾

原文

人痾
魏文帝黃初初,清河宋士宗母化爲鼈,入水。

訓読

人痾
魏文帝黃初の初め,清河の宋士宗の母 化して鼈と爲り,水に入る。〔一〕

〔一〕『搜神記』巻十四
「魏黃初中,清河宋士宗母,夏天於浴室裏浴,遣家中大小悉出,獨在室中。良久,家人不解其意,於壁穿中窺之。不見人體,見盆水中有一大鱉。遂開戶,大小悉入,了不與人相承。嘗先著銀釵,猶在頭上。相與守之。啼泣無可奈何。意欲求去,永不可留。視之積日,轉懈。自捉出戶外。其去甚駛,逐之不及,遂便入水。後數日,忽還,巡行宅舍如平生,了無所言而去。時人謂士宗應行喪治服。士宗以母形雖變,而生理尚存,竟不治喪。此與江夏黃母相似。」
【参照】
『宋書』五行志
「魏文帝黃初初,清河宋士宗母化爲鼈,入水。」

現代語訳

人痾
魏の文帝の黃初年間(220~226年)の初めに,清河の宋士宗の母が変化して鼈となり,川へ入った。

原文

明帝太和三年,曹休部曲丘奚農女死復生。時又有開周世冢,得殉葬女子。數日而有氣,數月而能言,郭太后愛養之。又太原人發冢破棺,棺中有一生婦人。問其本事,不知也。視其墓木,可三十歲。案『京房易傳』曰「至陰爲陽,下人爲上。」宣帝起之象也。漢平帝・獻帝並有此異,占以爲王莽・曹操之徵。

訓読

明帝太和三年,曹休の部曲 丘〔一〕奚農の女死して復た生く。時に又た周世の冢を開く有りて,殉葬の女子を得。數日にして氣有り,數月にして能く言ひ,郭太后 之を愛養す。〔二〕又た太原の人冢を發き棺を破り,棺の中に一生婦人有り。其の本事を問ふも,知らざるなり。其の墓木を視るに,三十歲ばかりなり。〔三〕案ずるに『京房易傳』に曰く「陰至りて陽と爲れば,下人 上と爲る。」と。宣帝起こるの象なり。漢の平帝・獻帝並びに此の異有りて,占に以爲らく王莽・曹操の徵なり〔四〕。

〔一〕『宋書』では「兵」に作る。
〔二〕『三国志』魏書・明帝紀・裴松之注引顧愷之啓蒙注
「魏時人有開周王冢者,得殉葬女子,經數日而有氣,數月而能語。年可二十。送詣京師,郭太后愛養之。十餘年,太后崩,哀思哭泣,一年餘而死。」
〔三〕『三国志』魏書・明帝紀・裴松之注引傅子
「時太原發冢破棺,棺中有一生婦人,將出與語,生人也。送之京師,問其本事,不知也。視其冢上樹木可三十歲,不知此婦人三十歲常生於地中邪。將一朝欻生,偶與發冢者會也。」
〔四〕『漢書』五行志
「平帝元始元年二月,朔方廣牧女子趙春病死,斂棺積六日,出在棺外,自言見夫死父,曰「年二十七,不當死。」太守譚以聞。京房易傳曰「『幹父之蠱,有子,考亡咎』。子三年不改父道,思慕不皇,亦重見先人之非,不則為私,厥妖人死復生。」一曰「至陰為陽,下人為上。」」
『後漢書』五行志
「獻帝初平中,長沙有人姓桓氏,死,棺斂月餘,其母聞棺中聲,發之,遂生。占曰「至陰為陽,下人為上。」其後曹公由庶士起。」
【参照】
『宋書』五行志
「魏明帝太和三年,曹休部曲兵奚農女死復生。時人有開周世冢,得殉葬女子,數日而有氣,數月而能語,郭太后愛養之。又太原民發冢破棺,棺中有一生婦人,問其本事,不知也。視其墓木,可三十歲。案『京房易傳』「至陰為陽,下人為上。」晉宣王起之象也。漢平帝・獻帝並有此異,占以爲王莽・曹操之徵。公孫淵炊,有小兒蒸死甑中,其後夷滅。」

現代語訳

明帝太和三年(229年),曹休の部曲である丘奚農の娘が死んでから生き返った。その時,また周の時代の墓が暴かれ,(当時)殉葬された女子を手に入れた。数日後に息を吹き返し,数ヶ月後には話すことができ,郭太后はこの女子を可愛がった。また太原の人が墓を暴いて棺を破り,棺の中に一人の生きている婦人を発見した。事の顛末を質問したが,分からなかった。彼女の墓に植えられた木を見ると,三十年くらいであった。『京房易伝』を参照すると,「陰気が極まって陽気となれば,地下にいる人が上(の人)となる。」ということである。(以上の怪異は)宣帝が興隆する象である。漢の平帝・献帝(の時代に)共にこのような怪異が起こり,占断では王莽・曹操(が興隆する)徴であった。

原文

孫休永安四年,安吳民陳焦死七日復生,穿冢出。干寶曰「此與漢宣帝同事。烏程侯晧承廢故之家,得位之祥也。」

訓読

孫休永安四年,安吳の民の陳焦死すること七日にして復た生き,〔一〕冢を穿ちて出づ。干寶曰く「此れ漢の宣帝と同事なり。〔二〕烏程侯晧 廢故の家を承け〔三〕,位を得るの祥なり。」と。〔四〕

〔一〕『三国志』呉書・三嗣主傳・孫休伝
「(永安四年)九月,布山言白龍見。是歲,安吳民陳焦死,埋之,六日更生,穿土中出。」
〔二〕『漢書』五行志
「惠帝五年十月,桃李華,棗實。昭帝時,上林苑中大柳樹斷仆地,一朝起立,生枝葉,有蟲食其葉,成文字,曰「公孫病已立」。又昌邑王國社有枯樹復生枝葉。眭孟以為木陰類,下民象,當有故廢之家公孫氏從民間受命為天子者。昭帝富於春秋,霍光秉政,以孟妖言,誅之。後昭帝崩,無子,徵昌邑王賀嗣位,狂亂失道,光廢之,更立昭帝兄衞太子之孫,是為宣帝。帝本名病已。京房易傳曰「枯楊生稊,枯木復生,人君亡子。」」
〔三〕『三国志』呉書・三嗣主傳・孫皓傳
「孫晧字元宗,權孫,和子也,一名彭祖,字晧宗。孫休立,封晧為烏程侯,遣就國。西湖民景養相晧當大貴,晧陰喜而不敢泄。休薨,是時蜀初亡,而交阯攜叛,國內震懼,貪得長君。左典軍萬彧昔為烏程令,與晧相善,稱晧才識明斷,是長沙桓王之疇也,又加之好學,奉遵法度,屢言之於丞相濮陽興、左將軍張布。興・布說休妃太后朱,欲以晧為嗣。朱曰「我寡婦人,安知社稷之慮,苟吳國無損,宗廟有賴可矣。」於是遂迎立晧,時年二十三。改元,大赦。是歲,於魏咸熙元年也。」
『三国志』呉書・孫和伝
「孫和字子孝,慮弟也。少以母王有寵見愛,年十四,為置宮衛,使中書令闞澤教以書藝。好學下士,甚見稱述。赤烏五年,立為太子,時年十九。……權沈吟者歷年,後遂幽閉和。……竟徙和於故鄣,羣司坐諫誅放者十數。眾咸寃之。太元二年正月,封和為南陽王,遣之長沙。四月,權薨,諸葛恪秉政。恪即和妃張之舅也。……及恪被誅,孫峻因此奪和璽綬,徙新都,又遣使者賜死。和與妃張辭別,張曰「吉凶當相隨,終不獨生活也。」亦自殺,舉邦傷焉。孫休立,封和子晧為烏程侯,自新都之本國。休薨,晧即阼,其年追諡父和曰文皇帝,改葬明陵,置園邑二百家,令丞奉守。」
〔四〕『搜神記』卷六
「吳孫休永安四年,安吳民陳焦死七日,復生穿冢出。烏程孫皓承廢故之家,得位之祥也。」
【参照】
『宋書』五行志
「吳孫休永安四年,安吳民陳焦死七日,復穿冢出。干寶曰「此與漢宣帝同事。烏程侯晧承廢故之家,得位之祥也。」」

現代語訳

孫休永安四年(261年),安呉の民である陳焦が死んで七日後に生き返り,墓に穴を開けて出てきた。干宝は「これは漢の宣帝と同様の事である。烏程侯の孫晧が傾いた家を継承し,帝位を得る祥である。」と述べる。

原文

孫晧寶鼎元年,丹楊宣騫母年八十,因浴化爲黿,兄弟閉戶衞之。掘堂上作大坎,實水其中。黿入坎遊戲一二日,恒延頸外望,伺戶小開,便輪轉自躍,入于遠潭,遂不復還。與漢靈帝時黃氏母同事,吳亡之象也。

訓読

孫晧寶鼎元年,丹楊の宣騫の母 年八十,浴するに因りて化して黿と爲り,兄弟 戶を閉じて之を衞る。堂上を掘りて大坎を作し,水を其の中に實(みた)す。黿 坎に入りて遊戲すること一二日,恒に頸を延ばして外望し,戶の小や開くを伺い,便ち輪轉して自ら躍り,遠潭に入り,遂に復た還らず。〔一〕漢の靈帝の時の黃氏の母と同じ事にして,〔二〕吳亡ぶの象なり。

〔一〕『搜神記』巻十四
「吳孫皓寶鼎元年六月,晦,丹陽宣騫母年八十矣。亦因洗浴化爲黿,其狀如黃氏。騫兄弟四人,閉戶衛之,掘堂上作大坎,瀉水其中。黿入坎遊戲一二日間,恒延頸外望,伺戶小開,便輪轉自躍入於深淵。遂不復還。」
〔二〕『後漢書』五行志
「靈帝時,江夏黃氏之母,浴而化為黿,入于深淵,其後時出見。初浴簪一銀釵,及見,猶在其首。」
【参照】
『宋書』五行志
「吳孫晧寶鼎元年,丹陽宣騫母年八十,因浴化爲黿。兄弟閉戶衞之,掘堂上作大坎,實水其中。黿入坎戲一二日,恒延頸外望,伺戶小開,便輪轉自躍,入于遠潭,遂不復還。」

現代語訳

孫晧の宝鼎元年(266年),丹楊の宣騫の母は八十歳であり,入浴している際に化けて黿となり,兄弟は戸を閉じて黿になった母を見守った。母屋を掘って大きな穴を作り,その中に水を満たした。黿はその穴に入って一日二日遊戯し,いつも頸を伸ばし外を見渡し,戸がやや開いているのに気付くと,すぐにぐるぐる回ってとびあがって,遠くの水の深い所に入り,そのまま二度と還ってこなかった。漢の霊帝の時に黃氏の母(に起こったこと)と同じ怪異であり,呉が亡ぶ象である。

原文

魏元帝咸熙二年八月,襄武縣言有大人見,長三丈餘,跡長三尺二寸,髮白,著黃巾黃單衣,柱杖呼王始語曰「今當太平。」晉尋代魏。

訓読

魏元帝咸熙二年八月,襄武縣言へらく大人見はるる有りて,長さ三丈餘,跡長三尺二寸,髮白くして,黃巾黃單衣を著,杖を柱き,王始に呼ばひて語げて曰く「今當さに太平ならんとす。」と。〔一〕晉尋いで魏に代はる。

〔一〕『三國志』魏書・三少帝紀・陳留王紀
「(咸熙二年)秋八月辛卯,相國晉王薨。壬辰,晉太子炎紹封襲位,總攝百揆,備物典冊,一皆如前。是月,襄武縣言有大人見,長三丈餘,跡長三尺二寸,白髮,著黃單衣,黃巾,柱杖,呼民王始語云「今當太平。」」
『晉書』武帝記
「(咸熙二年)八月辛卯,文帝崩,太子嗣相國・晉王位。下令寬刑宥罪,撫眾息役,國內行服三日。是月,長人見於襄武,長三丈,告縣人王始曰「今當太平。」」
【参照】
『宋書』符瑞志
「宣帝有狼顧之相,能使面正向後,而身形不異。魏武帝嘗夢有三匹馬在一槽中共食,其後宣帝及景・文相係為宰相,遂傾曹氏。文帝未立世子,有意於齊獻王攸。武帝時為中撫軍,懼不立,以相貌示裴秀,秀言於文帝曰「中撫軍振髮籍地,垂手過膝,天表如此,非人臣之相也。」由是得立。及嗣晉位,其月,襄武縣言有大人相,長三丈餘,足跡三尺一寸,白髮,黃單衣,黃巾,柱杖呼民王始語云「今當太平。」頃之,受魏禪。」
『宋書』五行志
「魏元帝咸熙二年八月,襄武縣言有大人見,長三丈餘,跡長三尺二寸,髮白,著黃巾黃單衣,柱杖,呼民王始語曰「今當太平。」尋晉代魏。」

現代語訳

魏の元帝咸熙二年(265)八月,襄武県が言うには,大きな人が現れ,身の丈三丈あまり,足のおおきさは三尺二寸で,髮は白く,黃色の頭巾に黃色のひとえを着て,杖をついて,王始に呼びかけて語り「今まもなく太平となるであろう。」と言ったということがあった。晉はまもなく魏にとってかわった。

原文

武帝泰始五年,元城人年七十生角。殆趙王倫篡亂之象也。

訓読

武帝泰始五年,元城の人年七十にして角を生ず。殆んど趙王倫篡亂の象なり。〔一〕〔二〕

〔一〕『晉書』惠帝紀
「永寧元年春正月乙丑,趙王倫篡帝位。丙寅,遷帝于金墉城,號曰太上皇,改金墉曰永昌宮。廢皇太孫臧為濮陽王。五星經天,縱橫無常。癸酉,倫害濮陽王臧。略陽流人李特殺趙廞,傳首京師。」
〔二〕『捜神記』巻六
「漢景帝元年九月,膠東下密人,年七十餘,生角,角有毛。京房易傳曰「冢宰專政,厥妖人生角。」五行志以為人不當生角,猶諸侯不敢舉兵以向京師也。其後遂有七國之難。至晉武帝泰始五年,元城人,年七十,生角。殆趙王倫篡亂之應也。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝泰始五年,元城人年七十,生角。案漢志説,殆趙王倫篡亂之象也。」

現代語訳

武帝の泰始五年(269),元城の人が七十歳になって角が生えた。趙王倫が簒奪しようと世を乱したことの象といえよう。

原文

咸寧二年十二月,琅邪人顏畿病死,棺斂已久,家人咸夢畿謂己曰「我當復生,可急開棺。」遂出之,漸能飲食屈伸視瞻,不能行語,二年復死。京房易傳曰「至陰為陽,下人為上,厥妖人死復生。」其後劉元海・石勒僭逆,遂亡晉室,下為上之應也。

訓読

咸寧二年十二月,琅邪の人顏畿病死し,棺斂すること已でに久し,家人咸な畿の己に謂ひて「我當さに復生せんとす,急ぎ棺を開くべし。」と曰ふを夢む。遂に之れを出すに,漸やく能く飲食屈伸視瞻するも,行語すること能はず,二年にして復死す。〔一〕京房易傳に曰く「至陰 陽と為り,下人 上と為る,厥の妖 人死して復生す。」と。〔二〕其の後劉元海・石勒僭逆し,遂ひに晉室を亡ぼす,下 上と為るの應なり。

〔一〕『捜神記』巻十五
「晉咸寧二年十二月,瑯邪顏畿,字世都,得病,就醫,張瑳使治,死於張家。棺斂已久。家人迎喪,旐每繞樹木而不可解。人咸為之感傷。引喪者忽顛仆,稱畿言曰「我壽命未應死,但服藥太多,傷我五臟耳。今當復活,慎無葬也。」其父拊而祝之,曰「若爾有命,當復更生,豈非骨肉所願。今但欲還家,不爾葬也。」旐乃解。及還家,其婦夢之曰「吾當復生,可急開棺。」婦便説之。其夕,母及家人又夢之。即欲開棺,而父不聽。其弟含,時尚少,乃慨然曰「非常之事,自古有之。今靈異至此,開棺之痛,孰與不開相負。」父母從之。乃共發棺,果有生驗,以手刮棺,指爪盡傷,然氣息甚微,存亡不分矣,於是急以綿飲瀝口,能咽,遂與出之。將護累月,飲食稍多,能開目視瞻,屈伸手足,不與人相當,不能言語,飲食所須,托之以夢。如此者十餘年。家人疲於供護,不復得操事。含乃棄絕人事,躬親侍養,以知名州黨。後更衰劣,卒復還死焉。」
〔二〕『漢書』五行志下之上
「平帝元始元年二月,朔方廣牧女子趙春病死,斂棺積六日,出在棺外,自言見夫死父,曰「年二十七,不當死。」太守譚以聞。京房易傳曰「『幹父之蠱,有子,考亡咎』。子三年不改父道,思慕不皇,亦重見先人之非,不則為私,厥妖人死復生。」一曰,至陰為陽,下人為上。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉武帝咸寧二年二月,琅邪人顏畿病死,棺斂已久,家人咸夢畿謂己曰「我當復生,可急開棺。」遂出之。漸能飲食屈申視瞻,不能行語也。二年復死。其後劉淵・石勒遂亡晉室。」

現代語訳

咸寧二年(276)十二月,琅邪の人の顏畿が病死し,棺に納め(安置し)てからとうに経っていたが,家の人々がみな夢に顔畿が自分につげて「わたしはもうじき生き返る,とく棺を開かれよ。」と言ってくることをみた。そうして顏畿を出すと,だんだんと飲食し(手足を)曲げ伸ばしし見ることができるようになったが,歩いたり話したりすることができず,二年でまた死去した。京房易傳に「きわまった陰が陽と為り,身分のひくいものが上となる,その怪異は人が死んで生き返る。」と言っている。その後劉元海と石勒が僭逆し,そのまま晉朝を滅ぼした,下のものが上となることの應である。

原文

惠帝元康中,安豐有女子周世寧,年八歲,漸化為男,至十七八而氣性成。京房易傳曰「女子化為丈夫,茲謂陰昌,賤人為王。」此亦劉元海・石勒蕩覆天下之妖也。

訓読

惠帝元康中,安豐に女子周世寧有り,年八歲にして,漸く化して男と為る,十七八に至りて氣性成る。京房易傳に曰く「女子化して丈夫と為る,茲れ陰昌んと謂ふ,賤人 王と為る。」と。〔一〕此れも亦た劉元海・石勒天下を蕩覆するの妖なり。

〔一〕『捜神記』巻七
「惠帝元康中,安豐有女子,曰周世寧,年八歲,漸化為男。至十七八,而氣性成。女體化而不盡,男體成而不徹,畜妻而無子。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝元康中,安豐有女子周世寧,年八歲,漸化為男,至十七八,而氣性成。此劉淵・石勒蕩覆晉室之妖也。漢哀帝・獻帝時並有此異,皆有易代之兆。京房傳曰「女子化為丈夫,茲謂陰昌,賤人為王。丈夫化為女子,茲謂陰勝陽,厥咎亡。」」

現代語訳

惠帝の元康年間(291〜299),安豐に周世寧という女がおり,八歳のときに,だんだんと変化して男となりはじめた,十七八になって性質が定まった。京房『易傳』に曰く「女子が変化して男性となる,これは陰が盛んであると言う,下賤の人が王となる。」と。このこともまた劉元海と石勒が天下をひっくり返すことの怪異である。

原文

永寧初,齊王冏唱義兵,誅除亂逆,乘輿反正。忽有婦人詣大司馬門求寄產,門者詰之,婦曰「我截臍便去耳。」是時,齊王冏匡復王室,天下歸功,識者為其惡之,後果斬戮。

訓読

永寧の初,齊王冏義兵を唱え,亂逆を誅除し,乘輿反正す。〔一〕忽ち婦人の大司馬門に詣りて寄產するを求むる有り,門者之れを詰す,婦曰く「我 臍を截てば便はち去るのみ。」と。是の時,齊王冏 王室を匡復し,天下功を歸すも,識者其の為に之れを惡む,後ち果たして斬戮せらる。〔二〕

〔一〕『晉書』八王傳・齊王冏傳
「冏因眾心怨望,潛與離狐王盛・潁川王處穆謀起兵誅倫。倫遣腹心張烏覘之,烏反,曰「齊無異志。」冏既有成謀未發,恐事泄,乃與軍司管襲殺處穆,送首於倫,以安其意。謀定,乃收襲殺之。……會成都軍破倫眾於黃橋,冏乃出軍攻和等,大破之。及王輿廢倫,惠帝反正,冏誅討賊黨既畢,率眾入洛,頓軍通章署,甲士數十萬,旌旗器械之盛,震於京都。天子就拜大司馬,加九錫之命,備物典策,如宣・景・文・武輔魏故事。」
〔二〕『晉書』八王傳・齊王冏傳
「初,冏之盛也,有一婦人詣大司馬府求寄產。吏詰之,婦人曰「我截齊便去耳。」識者聞而惡之。時又謠曰「著布袙腹,為齊持服。」俄而冏誅。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝永寧初,齊王冏唱義兵,誅除亂逆,乘輿反正。忽有婦人詣大司馬門求寄產。門者詰之,婦人曰「我截齊便去耳。」是時齊王冏匡復王室,天下歸功。識者為其惡之。後果斬戮。」

現代語訳

永寧年間(301〜302)の初め,齊王司馬冏が義兵を唱えて,亂臣逆賊を誅殺して除き,天子(恵帝)は位に復した。とつぜん婦人が大司馬の門に至り立ち寄ってお産することを求めたということがあった,門者は婦人を詰問し,婦人は「わたしは臍の緒を切ればすぐに去ります。」と言った。この時,齊王司馬冏は王室を元に戻し,天下は(司馬冏に)功を帰したが,識者はその為に司馬冏を嫌悪した,後にやはり誅戮された。

原文

永寧元年十二月甲子,有白頭公入齊王冏大司馬府,大呼曰「有大兵起,不出甲子旬。」冏殺之。明年十二月戊辰,冏敗,即甲子旬也。

訓読

永寧元年十二月甲子,白頭公の齊王冏の大司馬府に入りて,大呼して「大兵の起こる有り,甲子の旬を出でず。」と曰ふ有り。冏之れを殺す。〔一〕明年十二月戊辰,冏敗る,即はち甲子旬なり。〔二〕

〔一〕『晉書』八王傳・齊王冏傳
「冏於是輔政,居攸故宮,置掾屬四十人。大築第館,北取五穀市,南開諸署,毀壞廬舍以百數,使大匠營制,與西宮等。鑿千秋門牆以通西閣,後房施鍾懸,前庭舞八佾,沈于酒色,不入朝見。坐拜百官,符敕三臺,選舉不均,惟寵親昵。以車騎將軍何勖領中領軍。封葛旟為牟平公,路秀小黃公,衞毅陰平公,劉真安鄉公,韓泰封丘公,號曰「五公」,委以心膂。殿中御史桓豹奏事,不先經冏府,即考竟之。於是朝廷側目,海內失望矣。南陽處士鄭方露版極諫,主簿王豹屢有箴規,冏並不能用,遂奏豹殺之。有白頭公入大司馬府大呼,言有兵起,不出甲子旬。即收殺之。」
〔二〕『晉書』惠帝紀
「十二月丁卯,河間王顒表齊王冏窺伺神器,有無君之心,與成都王穎・新野王歆・范陽王虓同會洛陽,請廢冏還第。長沙王乂奉乘輿屯南止車門,攻冏,殺之,幽其諸子于金墉城,廢冏弟北海王寔。大赦,改元。以長沙王乂為太尉・都督中外諸軍事。封東萊王蕤子炤為齊王。」
【参照】
『宋書』五行志
「永寧元年十二月甲子,有白頭公入齊王冏大司馬府,大呼有大兵起,不出甲子旬。冏殺之。明年十二月戊辰,冏敗,即甲子旬也。」

現代語訳

永寧元年十二月甲子,白髪頭のおじいさんが齊王司馬冏の大司馬府に入って,大声で叫んで「大兵が起こることがある,甲子旬を出ない。」と言うことがあった。司馬冏はこれを殺した。明年十二月戊辰,司馬冏は敗れた,まさに甲子旬(甲子から始まる十日間)であった。

原文

太安元年四月癸酉,有人自雲龍門入殿前,北面再拜曰「我當作中書監。」即收斬之。干寶以為「禁庭尊祕之處,今賤人徑入而門衞不覺者,宮室將虛而下人踰上之妖也」。是後帝北遷鄴,又遷長安,宮闕遂空焉。

訓読

太安元年四月癸酉,人の雲龍門自り殿前に入り,北面して再拜して「我當さに中書監と作るべし。」と曰ふ有り。即はち收めて之れを斬る。干寶以為へらく「禁庭尊祕の處,今賤人徑ちに入りて門衞覺えざる者,宮室將さに虛にして下人 上を踰えんとするの妖なり」と。是の後帝北のかた鄴に遷り〔一〕,又た長安に遷り〔二〕,宮闕遂ひに空し。〔三〕

〔一〕『晉書』惠帝紀
「(永興元年)秋七月丙申朔,右衞將軍陳眕以詔召百僚入殿中,因勒兵討成都王穎。戊戌,大赦,復皇后羊氏及皇太子覃。己亥,司徒王戎・東海王越・高密王簡・平昌公模・吳王晏・豫章王熾・襄陽王範・右僕射荀藩等奉帝北征。至安陽,眾十餘萬,穎遣其將石超距戰。己未,六軍敗績于蕩陰,矢及乘輿,百官分散,侍中嵇紹死之。帝傷頰,中三矢,亡六璽。帝遂幸超軍,餒甚,超進水,左右奉秋桃。超遣弟熙奉帝之鄴,穎帥羣官迎謁道左。帝下輿涕泣,其夕幸于穎軍。穎府有九錫之儀,陳留王送貂蟬文衣鶡尾,明日,乃備法駕幸于鄴,唯豫章王熾・司徒王戎・僕射荀藩從。庚申,大赦,改元為建武。」
〔二〕『晉書』惠帝紀
「冬十一月乙未,方請帝謁廟,因劫帝幸長安。方以所乘車入殿中,帝馳避後園竹中。方逼帝升車,左右中黃門鼓吹十二人步從,唯中書監盧志侍側。方以帝幸其壘,帝令方具車載宮人寶物,軍人因妻略後宮,分爭府藏。魏晉已來之積,掃地無遺矣。行次新安,寒甚,帝墮馬傷足,尚書高光進面衣,帝嘉之。河間王顒帥官屬步騎三萬,迎于霸上。顒前拜謁,帝下車止之。以征西府為宮。唯僕射荀藩・司隸劉暾・太常鄭球・河南尹周馥與其遺官在洛陽,為留臺,承制行事,號為東西臺焉。丙午,留臺大赦,改元復為永安。辛丑,復皇后羊氏。李雄僭號成都王,劉元海僭號漢王。」
〔三〕『捜神記』巻七
「太安元年四月,有人自雲龍門入殿前,北面再拜,曰「我當作中書監。」即收斬之。禁庭尊秘之處,今賤人竟入,而門衛不覺者,宮室將虛,下人踰上之妖也。是後帝遷長安,宮闕遂空焉。」 【参照】
『宋書』五行志
「晉惠帝太安元年四月癸酉,有人自雲龍門入殿前,北面再拜曰「我當作中書監。」即收斬之。干寶曰「夫禁庭,尊祕之處,今賤人徑入,而門衞不覺者,宮室將虛,而下人踰之之妖也。」是後帝北遷鄴,又西遷長安,盜賊蹈藉宮闕,遂亡天下。」

現代語訳

太安元年(302)四月癸酉,人が雲龍門から殿前へと入り,北面して(玉座に向かって)再拜して「わたしは中書監となるべきである。」と言うことがあった。ただちに捕らえてそれを斬った。干寶は「禁庭(宮城)は尊く祕められた場所であり,いま賤人がまっすぐに入って門衛が気づかなかったことは,宮室がまもなくうつろとなり身分の低いものが上をこえることの怪異である。」と考えた。この後恵帝が北に向かって鄴へと遷御し,さらに長安へと遷御し,宮殿はそのまま空虚となった。

原文

元康中,梁國女子許嫁,已受禮娉,尋而其夫戍長安,經年不歸,女家更以適人。女不樂行,其父母逼強,不得已而去,尋得病亡。後其夫還,問其女所在,其家具説之。其夫逕至女墓,不勝哀情,便發冢開棺,女遂活,因與俱歸。後壻聞知,詣官爭之,所在不能決。祕書郎王導議曰「此是非常事,不得以常理斷之,宜還前夫。」朝廷從其議。

訓読

元康中,梁國の女子許嫁し,已に禮娉を受け,尋いで其の夫長安に戍し,年を經るも歸らざれば,女の家更めて以て人に適かしむ。女 行くを樂しまざるも,其の父母逼強し,已むを得ずして去り,尋いで病を得て亡す。後其の夫還り,其の女の所在を問えば,其の家 具さに之に説く。其の夫逕ちに女墓に至り,哀情に勝えず,便ち冢を發して棺を開けば,女遂に活し,因りて與に俱に歸る。後壻 聞知し,官に詣り之を爭うも,所在決する能わず。祕書郎の王導議して曰はく「此れ是れ非常の事,常理を以て之を斷ずるを得ず。宜しく前夫に還すべし。」と。朝廷 其の議に從ふ〔一〕。

〔一〕『捜神記』巻十五
「晉武帝世,河間郡有男女私悅,許相配適,尋而男從軍,積年不歸,女家更欲適之,女不願行,父母逼之,不得已而去,尋病死。其男戍還,問女所在,其家具說之,乃至冢,欲哭之敘哀,而不勝其情,遂發冢,開棺,女即蘇活,因負還家,將養數日,平復如初。後夫聞,乃往求之。其人不還,曰「卿婦已死,天下豈聞死人可復活耶。此天賜我,非卿婦也。」於是相訟,郡縣不能決,以讞廷尉,秘書郎王導奏以「精誠之至,感於天地,故死而更生,此非常事,不得以常禮斷之。請還開冢者。」朝廷從其議。」
【参照】
『宋書』五行志・皇之不極・人痾
「晉惠帝世,梁國女子許嫁,已受禮娉,尋而其夫戍長安,經年不歸。女家更以適人,女不樂行,其父母逼強,不得已而去,尋得病亡。後其夫還,問女所在,其家具說之。其夫徑至女墓,不勝哀情,便發冢開棺,女遂活,因與俱歸。後婿聞之,詣官爭之,所在不能決。祕書郎王導議曰「此是非常事,不得以常理斷之,宜還前夫。」朝廷從其議。」

現代語訳

元康年間(291~299),梁国にいたある娘が婚約し,既に結納を交わしたが,まもなくその夫は(兵役で)長安を守備し,何年経っても帰って来なかったので,娘の家は更に別の人へ嫁に行かせた。娘は(嫁ぎ先に)行くのを喜んでいなかったが,娘の両親が強く迫ったので,やむを得ず家を出て,まもなく病気になって死んだ。その後元々の夫が戻り,娘の所在を尋ねたので,娘の家は事情を子細にわたって説明した。夫はまっすぐに娘の墓に向かうと,哀惜の念に勝えず,ただちに墳墓を開いて棺を開けた,すると娘は生き返ったので,一緒に(家に)帰った。その後娘の婿がそのことを聞き知り,役所に行って(娘の夫がどちらなのかということについて)訴えを起こしたが,在所(の役所)では判決を下すことができなかった。秘書郎の王導は(この争いについて)論評して「これは通常ではないことですので,一定普遍の道理によってこの件を裁断することはできません。はじめの夫に返すのが妥当でしょう。」と言った。朝廷はその論評に従った。

原文

惠帝世,杜錫家葬而婢誤不得出。後十年開冢祔葬而婢尚生。始如瞑,有頃漸覺,問之,自謂再宿耳。初婢之埋年十五六,及開冢更生,猶十五六也。嫁之有子。

訓読

惠帝の世,杜錫の家葬るに婢誤りて出るを得ず。後十年にして冢を開き祔葬するに婢尚ほ生く。始め瞑るが如く,有頃(しばら)くして漸く覺め,之に問へば,自ら再宿するのみと謂ふ。初め婢の埋むるや年十五六,冢を開き更生するに及び,猶ほ十五六のごときなり。之を嫁して子有り〔一〕。

〔一〕『捜神記』巻十五
「晉世杜錫,字世嘏,家葬而婢誤不得出。後十餘年,開冢祔葬,而婢尚生。云「其始如瞑目,有頃漸覺。」問之,自謂當一再宿耳。初婢埋時,年十五六。及開冢後,姿質如故。更生十五六年,嫁之有子。」
【参照】
『宋書』五行志・皇之不極・人痾
「晉惠帝世,杜錫家葬,而婢誤不得出。後十餘年,開冢祔葬,而婢尚生。其始如瞑,有頃漸覺。問之,自謂當一再宿耳。初婢之埋,年十五六,及開冢更生,猶十五六也。嫁之有子。」

現代語訳

恵帝の御代,杜錫の家で埋葬を行ったところ下女が誤って墳墓から出られなくなった。十年後に墳墓を開き合葬しようとすると下女はまだ生きていた。始めは眠っているようだったが,しばらくして段々と目覚め,下女に尋ねると,自分で「二晩経っただけです」と言った。初め下女が埋められたとき年のころは十五六であったが,墳墓を開いて再び生き返ったときも,依然として十五六歳のようであった。下女は嫁に出されて子どもが生まれた。

原文

光熙元年,會稽謝真生子,頭大而有髮,兩蹠反向上,有男女兩體,生便作丈夫聲,經一日死。此皇之不極,下人伐上之痾,於是諸王有僭亂之象也。

訓読

光熙元年,會稽の謝真 子を生み,頭大にして髮有り,兩の蹠反りて上を向き,男女の兩體有り,生まれて便ち丈夫の聲を作し,一日を經て死す。此れ皇の不極,下人 上を伐つの痾,是に於いて諸王 僭亂有るの象なり。

【参照】
『宋書』五行志・皇之不極・人痾
「晉惠帝光熙元年,會稽謝真生子,大頭有鬢,兩蹠反向上,有男女兩體。生便作丈夫聲,經日死。」

現代語訳

光熙元年(306),會稽の謝真に子どもが生まれ,頭が大きくて髪の毛が生えており,両足の裏が反って上を向き,男女両方の特徴があり,生まれてすぐに成人男性の声を発したが,一日して死んだ。これは皇の不極であり,位が下の者が目上の者を伐つ(ときに顕れる)病で,これは諸王が皇帝に反旗を翻す象徴である。

原文

惠帝之世,京洛有人兼男女體,亦能兩用人道,而性尤淫,此亂氣所生。自咸寧・太康之後,男寵大興,甚於女色,士大夫莫不尚之。天下相倣效,或至夫婦離絕,多生怨曠,故男女之氣亂而妖形作也。

訓読

惠帝の世,京洛に人の男女の體を兼ぬる有り,亦た能く兩つながら人道に用ふ,而して性尤も淫ら,此れ亂氣の生む所。咸寧(275~279)・太康(280~289)の後より,男寵大いに興り,女色より甚しく,士大夫の之を尚ばざる莫し。天下相ひ效倣し,或いは夫婦離絶し,多く怨曠を生むに至る,故に男女の氣亂れて妖形作すなり〔一〕。

〔一〕『捜神記』巻七
「惠帝之世,京洛有人,一身而男女二體,亦能兩用人道。而性尤好淫。天下兵亂,由男 女氣亂而妖形作也。」
【参照】
『宋書』五行志・皇之不極・人痾
「晉惠・懷之世,京・洛有兼男女體,亦能兩用人道,而性尤淫。案此亂氣之所生也。自咸寧・太康之後,男寵大興,甚於女色,士大夫莫不尚之,天下皆相放効,或有至夫婦離絶,怨曠妬忌者。故男女氣亂,而妖形作也。」

現代語訳

惠帝の御代,洛陽に男女両方の特徴を備えた人がいて,両方とも生殖器として機能し,性格は一層淫乱で,これは乱気が生んだものである。咸寧・太康年間の後から,男色が大いに流行し,女色より甚しいほどで,士大夫でこの風潮を重んじない者はいなかった。世の中のあらゆる人が互いに真似しあい,或いは夫婦が離婚し,多くの独身の男女が生まれるという事態に至ることがあった,だから男女の気が乱れて異形を発生させたのだ。

原文

懷帝永嘉元年,呉郡呉縣萬詳婢生子,鳥頭,兩足馬蹄,一手,無毛,尾黃色,大如枕。此亦人妖,亂之象也。

訓読

懷帝永嘉元年,呉郡呉縣萬詳の婢 子を生む。鳥頭,兩足馬蹄,一手,毛無く,尾は黃色,大なること枕の如し。此れも亦た人妖,亂の象なり〔一〕。

〔一〕『捜神記』巻七
「晉懷帝永嘉元年,呉郡呉縣萬詳婢生一子,鳥頭,兩足馬蹄,一手無毛,尾黄色,大 如椀」
【参照】
『宋書』五行志・皇之不極・人痾
「晉孝懷帝永嘉元年,吳郡吳縣萬祥婢生子,鳥頭,兩足馬蹄,一手無毛,黃色,大如枕。」

現代語訳

懐帝の永嘉元年(307),呉郡呉県に住む万詳の下女が子どもを生んだ。(その子どもは)鳥の頭で,両足が馬の蹄で,手が一つだけで,毛が無く,尾は黄色く,枕のように大きかった。これもまた人妖で,乱の象徴である。

原文

五年五月,枹罕令嚴根妓產一龍一女一鵝。京房『易傳』曰「人生他物,非人所見者,皆爲天下大兵。」是時,帝承惠皇之後,四海沸騰,尋而陷於平陽,爲逆胡所害,此其徵也。

訓読

五年五月,枹罕令嚴根の妓 一龍一女一鵝を產む〔一〕。京房『易傳』に曰はく「人 他物を生じ,人の見る所に非ざる者は,皆な天下大兵を爲す。」〔二〕と。是の時,帝 惠皇の後を承け,四海沸騰し,尋いで平陽に陷(おちい)り,逆胡の害する所と爲る〔三〕。此れ其の徵なり〔四〕。

〔一〕『晋書』五行志 龍蛇之孽では愍帝建興二年条に同様の記事が見られる。詳細は「龍蛇の孽」参照。
〔二〕『宋書』五行志では『易妖』として引かれている。【参照】を見よ。
また『開元占経』に次のようにある。
人生五穀草木雜物
「京房曰「人生子,盡爲五穀,國民昌。人生子,盡爲草木,國主死。人生子,盡爲石,兵強。人生他物,非人所見聞者,皆爲天下有兵。」」
〔三〕『晋書』懷帝紀・永嘉五年六月
「帝蒙塵于平陽,劉聰以帝爲會稽公。」
同七年七月
「丁未,帝遇弒,崩于平陽,時年三十。」
〔四〕『捜神記』巻七
「永嘉五年,抱罕令嚴根婢一龍・一女・一鵝。京房易傳曰「人生他物,非人所見者,皆爲天下大兵。」時帝承惠帝之後,四海沸騰,尋而陷於平陽,爲逆胡所害。
【参照】
『宋書』五行志・皇之不極・人痾
「晉元帝太興三年十二月,尚書騶謝平妻生女,墮地濞濞有聲,須臾便死。鼻目皆在頂上,面處如項,口有齒,都連為一,胸如鼈,手足爪如鳥爪,皆下句。京房易妖曰「人生他物,非人所見者,皆爲天下大兵。」後二年,有石頭之敗。」

現代語訳

(永嘉)五年(311)五月,枹罕令の厳根の妓女が龍一匹と女の子一人ガチョウ一羽を産んだ。京房の『易伝』には「人間が他の生物を生み,見慣れないというものは,すべて天下に大きな戦が起こる。」とある。この時,懐帝は恵帝の跡を継ぎ,天下は大いに乱れ,まもなく懐帝は平陽に連れ去られ,異民族に殺された。これはその予兆である。

原文

愍帝建興四年,新蔡縣吏任僑妻產二女,腹與心相合,自胸以上・臍以下各分,此蓋天下未一之妖也。時內史呂會上言「案『瑞應圖』,異根同體,謂之連理,異畝同穎,謂之嘉禾。草木之異,猶以爲瑞,今二人同心,易稱『二人同心,其利斷金』,蓋四海同心之瑞也。」時皆哂之。俄而四海分崩,帝亦淪沒。

訓読

愍帝の建興四年,新蔡縣吏の任僑の妻 二女を產むも,腹と心と相ひ合し,胸自り以上・臍以下は各おの分かる,此れ蓋し天下未だ一ならざるの妖なり。時の內史呂會上言するに「『瑞應圖』を案ずるに,異根同體,之を連理と謂ひ,異畝同穎,之を嘉禾と謂ふ。〔一〕草木の異,猶ほ以て瑞と爲す,今二人 心を同じくするは,『易』に『二人 心を同じくすれば,其の利きこと金を斷つ』と稱す,〔二〕蓋し四海 心を同じくするの瑞なり。」と。時に皆之を哂う。俄かにして四海分崩し,帝も亦た淪沒す。〔三〕〔四〕

〔一〕『白虎通』封禅
「徳至地,則嘉禾生,蓂莢起,秬鬯出,太平感。徳至文表,則景星見,五緯順軌。徳至草木,則朱草生,木連理。」
『尚書』周書・微子之命
「唐叔得禾,異畝同穎,獻諸天子。王命唐叔,歸周公于東,作歸禾。周公既得命禾,旅天子之命,作嘉禾。」
〔二〕『易』繫辭上傳
「子曰,君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金。同心之言,其臭如蘭。」
〔三〕『晉書』愍帝紀
「(建興四年十一月)辛丑,帝蒙塵于平陽,麴允及羣官並從。」
〔四〕『捜神記』卷七
「晉愍帝建興四年,西都傾覆,元皇帝始爲晉王,四海宅心。其年十月二十二日,新蔡縣吏任喬妻胡氏年二十五,產二女,相向,腹心合,自腰以上,臍以下,各分。此蓋天下未一之妖也。時內史呂會上言「按『瑞應圖』云『異根同體,謂之連理。異畝同潁,謂之嘉禾。』草木之屬,猶以爲瑞,今二人同心,天垂靈象,故『易』云『二人同心,其利斷金。』休顯見生於陳東之中,蓋四海同心之瑞。不勝喜躍,謹畫圖上。」時有識者哂之。君子曰「知之難也。以臧文仲之才,獨祀爰居焉。布在方冊,千載不忘。故士不可以不學。古人有言『木無枝謂之瘣,人不學謂之瞽。』當其所蔽,蓋闕如也。可不勉乎。」」
『法苑珠林』受報篇
「漢建興四年,西都傾覆。元皇帝始為晉王,四海宅心。其年十月二十二日,新蔡縣吏任僑妻胡氏年二十五產二女,相向腹心合,自胸以上臍以下分。此蓋天下未壹之妖也。時內史呂會上言,案瑞應圖云,異根同體謂之連理,異畝同穗謂之嘉禾。草木之屬猶以為瑞,今二人同心,天垂靈象。故易云,二人同心其利斷金。休顯見生於陳東之國,斯蓋四海同心之瑞,不勝喜躍,謹畫圖上。時有識者哂之。君子曰,智之難也。以臧文仲之才,猶祀爰居焉,布在方冊,千載不忘,故士不可以不學。古人有言,木無枝,謂之瘣。人不學,謂之瞽。當其所蔽,蓋闕如也。可不勉乎。」 【参照】
『宋書』五行志
「晉愍帝建興四年,新蔡縣吏任僑妻胡,年二十五,產二女,相向,腹心合同,自胸以上,齊以下,各分。此蓋天下未一之妖也。時內史呂會上言「案『瑞應圖』,異根同體謂之連理,異苗同穎謂之嘉禾。草木之異,猶以爲瑞,今二人同心『易』稱『二人同心,其利斷金。』嘉徵顯見,生於陝東之國,斯蓋四海同心之瑞,不勝喜踊,謹畫圖以上。」時有識者哂之。」

現代語訳

愍帝の建興四年(316),新蔡県の吏である任僑の妻が二人の娘を産んだが、腹と心とが互いに合わさり,胸より上・臍より下はそれぞれ分かれている,これは思うに天下がまだ一つになっていないことの妖である。当時の内史である呂会が「『瑞応図』によれば,根元が異なり本体が同じである,これを連理といい,畝が異なり穂先が同じである,これを嘉禾という。草木の異変は,やはり瑞祥である,今二人が心を一つにするというのは,『易』に『二人が心を一つにすれば,その鋭さは金を断つほどである』というように,恐らく天下(の人々)が心を一つにするという瑞祥である。」と上申した。当時皆が呂会の発言を嘲笑った。間もなく天下はばらばらになり,愍帝も敵の手に落ちた。

原文

元帝太興初,有女子其陰在腹,當臍下,自中國來至江東,其性淫而不產。又有女子陰在首,渡在揚州,性亦淫。京房『易妖』曰「人生子,陰在首,天下大亂。在腹,天下有事。在背,天下無後。」于時王敦據上流,將欲爲亂,是其徵。

訓読

元帝の太興初め,女子の其の陰 腹に在り,臍下に當たり,中國自り來たりて江東に至る有り,其の性 淫にして產せず。又た女子の陰 首に在り,渡りて揚州に在る有り,性亦た淫。京房『易妖』に曰く「人 子を生ずるに,陰 首に在れば,天下大いに亂る。腹に在れば,天下に事有り。背に在れば,天下に後無し。」と。〔一〕時に于いて王敦上流に據り,將に亂を爲さんと欲す,是れ其の徵。〔二〕

〔一〕『開元占經』卷一一三・人及神鬼占
「京房曰「……人生子陰在首,天下大亂。在背,天子無後。人生子陰在腹,天下有大事。」」
『法苑珠林』變化篇
「晉惠懷之世,京雒有人,一身而有男女二體。亦能兩幸而尤好婬。天下兵亂,由男女氣亂而妖形作也。當中興之間,又有女子其陰在腹肚,居在楊州。亦性好婬色。故京房易曰,妖人生子陰在首,則天下大亂。若在腹則天下有事。若在背則天下無後」
〔二〕『捜神記』卷七
「太興初,有女子,其陰在腹,當臍下。自中國來,至江東。其性淫而不產。又有女子,陰在首,居在揚州,亦性好淫。京房『易妖』曰「人生子,陰在首,則天下大亂。若在腹,則天下有事。若在背,則天下無後。」」
【参照】
『宋書』五行志
「晉中興初,有女子,其陰在腹,當齊下。自中國來江東,性甚淫,而不產。京房『易妖』曰「人生子,陰在首,天下大亂。在腹,天下有事。在背,天下無後。」」

現代語訳

元帝の太興年間(318~321)の初めに,陰部が腹の,臍の下部分にあり,中原からやってきて江東に至る女子がいた,その性質は淫乱であり産むことができない。また陰部が首にあり,揚州に渡ってきた女子もいたが,性質はやはり淫乱であった。京房『易妖』に「人が子を生み,陰部が首にあれば,天下は大変乱れる。(陰部が)腹にあれば,天下に異変がある。(陰部が)背にあれば,国に跡継ぎがない。」と言う。当時王敦は(長江の)上流を本拠地とし,今にも乱を起こそうとしていた,これはその徵である。

原文

三年十二月,尚書騶謝平妻生女,墮地濞濞有聲,須臾便死。鼻目皆在頂上,面處如項,口有齒,都連爲一,胸如鼈,手足爪如鳥爪,皆下勾。此亦人生他物,非人所見者。後二年,有石頭之敗。

訓読

三年十二月,尚書騶謝平の妻 女を生むも,地に墮つること濞濞として聲有り,須臾にして便ち死す。鼻目皆頂上に在り,面處 項の如く,口に齒有り,都て連なりて一爲り,胸 鼈の如く,手足の爪 鳥爪の如く,皆下勾す。此れも亦た人 他物を生じ,人の見る所の者に非ず。後二年,石頭の敗有り。〔一〕

〔一〕『晉書』元帝紀
「(永昌元年)四月,敦前鋒攻石頭,周札開城門應之,奮威將軍侯禮死之。敦據石頭,戴若思・劉隗帥眾攻之,王導・周顗・郭逸・虞潭等三道出戰,六軍敗績。」
【参照】
『宋書』五行志
「晉元帝太興三年十二月,尚書騶謝平妻生女,墮地濞濞有聲,須臾便死。鼻目皆在頂上,面處如項,口有齒,都連爲一,胸如鼈,手足爪如鳥爪,皆下句。京房『易妖』曰「人生他物,非人所見者,皆爲天下大兵。」後二年,有石頭之敗。」

現代語訳

(元帝の太興)三年(320)十二月,尚書の騶謝平の妻が娘を生んだが,地に堕ち水が打ち寄せるような音があって,少ししてそのまま死んだ。鼻や目は皆あたまのてっぺんにあり,顔は項のようで,口には歯があり,すべて一つに繋がっており,胸は鼈(の甲羅)のようで,手足の爪は鳥の爪のように,どれもかぎ状に曲がっている。これもまた人が他の生き物を生み,人が普段見ないものであった,ということである。その後二年して,石頭の敗北があった。

原文

明帝太寧二年七月,丹楊江寧侯紀妻死,經三日復生。

訓読

明帝の太寧二年七月,丹楊江寧の侯紀の妻死するも,三日を經て復た生く。

【参照】
『宋書』五行志
「晉明帝太寧二年七月,丹陽江寧侯紀妻死,三日復生。」

現代語訳

明帝の太寧二年(324)七月,丹楊郡江寧県の侯紀の妻が死んだが,三日経ってまた生きかえった。

原文

成帝咸康五年四月,下邳民王和僑居暨陽,息女可年二十,自云上天來還,得徵瑞印綬,當母天下。晉陵太守以爲妖,收付獄。至十一月,有人持柘杖絳衣詣止車門,口列爲聖人使求見天子。門候受辭,辭稱姓呂名賜,其言王和女可右足下有七星,星皆有毛,長七寸,天今命可爲天下母。奏聞,卽伏誅,幷下晉陵誅可。

訓読

成帝の咸康五年四月,下邳の民王和僑 暨陽に居り,息女可 年二十,自ら上天より來還し,徵瑞の印綬を得,當に天下に母たるべしと云ふ。晉陵太守以て妖と爲し,獄に收付す。十一月に至りて,人の柘(しゃ)杖を持ち絳衣し車門に詣り止まり,口づから聖人の使ひ爲り天子に見ゆるを求むと列(つら)ぬる有り。門候 辭を受け,辭に稱すらく姓呂名賜,其の言に王和の女可 右足の下に七星有り,星皆毛有り,長七寸,天今可に命じて天下の母と爲す,と。奏聞し,卽ち伏誅し,幷びに晉陵に可を誅するを下す。

『宋書』五行志
「咸康五年四月,下邳民王和僑居暨陽。息女可,年二十,自云「上天來還,得徵瑞印綬,當母天下。」晉陵太守以爲妖,收付獄。至十一月,有人持柘杖絳衣,詣止車門口,列爲聖人使,求見天子。門候受辭,列姓呂名錫。云王和女可,右足下有七星,星皆有毛,長七寸,天今命可爲天下母。奏聞,卽伏誅。幷下晉陵誅可。」

現代語訳

成帝の咸康五年(339)四月,下邳の民である王和僑が暨陽県におり,娘の王可は年は二十歳で,自分で天よりやってきて,瑞祥の印綬を得,天下の母となるべきであると言った。晋陵太守はこのことを妖として,捕らえて獄に収監した。十一月になると,やまぐわの杖を持ち赤絹の服で車用の門にやってきて止まり,聖人の使いである,天子に謁見することを求めると述べつらねる者がいた。門番が文書を受けとると,文書には姓は呂,名は賜と称しており,その文には王和の娘の王可は右足の下に七星があり,星にはすべて毛があって,長さは七寸,天は今可に天下の母となるよう命じた,という。上奏したところ,(呂賜は)ただちに処刑され,また晋陵郡に可を誅殺するよう(命令を)下した。

原文

康帝建元二年十月,衞將軍營督過望所領兵陳瀆女臺,有文在其足,曰「天下之母」,灸之愈明。京都諠譁,有司收繫以聞。俄自建康縣獄亡去。明年,帝崩,獻后臨朝。此其祥也。

訓読

康帝建元二年十月,衞將軍營督 過望の領する所の兵 陳瀆の女 臺,文有りて其の足に在り,「天下の母」と曰い,之に灸すれば愈いよ明るし。京都諠譁(けんか)し,有司收繫して以聞す。俄に建康縣の獄自り亡去す。明年,帝崩じ,獻后 朝に臨む。此れ其の祥なり。

『宋書』五行志
「晉康帝建元二年十月,衞將軍營督過望所領兵陳瀆女壹,有文在足,曰「天下之母」。灸之逾明。京都諠譁,有司收繫以聞。俄自建康縣獄亡去。」

現代語訳

康帝建元二年(344年)十月,衞將軍の営督である過望が領有する兵の陳瀆の娘の台には,足に「天下の母」という文様があり,灸をすればますますはっきりと浮かび上がった。都で騒ぎになり,官吏が(陳台を)捕らえて上奏した。間もなく建康県の獄中から逃亡した。翌年,帝が崩御し,献后(褚蒜子)が政治を取り仕切った。これがその祥である。

原文

孝武帝寧康初,南郡州陵女唐氏漸化爲丈夫。

訓読

孝武帝寧康の初め,南郡州陵の女の唐氏 漸く化して丈夫と爲る。

『宋書』五行志
「晉孝武帝寧康初,南郡州陵女人唐氏漸化爲丈夫。」

現代語訳

孝武帝の寧康年間(373~375年)の初めに,南郡州陵県の娘である唐氏は段々と変化して男性となった。

原文

安帝義熙十年,無錫人趙未,年八歲,一日暴長八尺,髭鬚蔚然,三日而死。

訓読

安帝義熙十年,無錫の人 趙未,年八歲にして,一日に暴かに長じて八尺たり,髭鬚蔚然として,三日にして死す。

『宋書』五行志
「晉安帝義熙七年,無錫人趙朱,年八歲,一旦暴長八尺,髭鬚蔚然,三日而死。」

現代語訳

安帝義熙十年(414年),無錫の人の趙未は八歲であったが,一日で急成長して八尺となり,ひげが深く生え,三日後に死んだ。

原文

義熙中,東陽人莫氏生女不養,埋之數日,於土中啼,取養遂活。

訓読

義熙中,東陽の人の莫氏 女を生むも養はず,之を埋めること數日,土中に於て啼き,取りて養い遂に活す。

【参照】
『宋書』五行志
「義熙中,東陽人黃氏生女不養,埋之。數日於土中啼,取養遂活。」

現代語訳

義熙年間(405~418年)に,東陽の人である莫氏が娘を生むが育てず,その娘を埋葬してから数日後,土の中で泣き,(土の中から)取りあげて養うと復活した。

原文

義熙末,豫章吳平人有二陽道,重累生。

訓読

義熙末,豫章吳平の人 二陽道有り,重累して生ず。

【参照】
『宋書』五行志
「義熙末,豫章吳平人有二陽道,重累生。」

現代語訳

義熙年間の末に,豫章呉平には二本の男性器を持つ人がいて,(その二本の男性器は)重なる形で生じていた。

原文

恭帝元熙元年,建安人陽道無頭正平,本下作女人形體。

訓読

恭帝元熙元年,建安の人 陽道 頭無く正平にして,本の下 女人の形體に作る。

【参照】
『宋書』五行志
「晉恭帝元熙元年,建安人陽道無頭正平,本下作女人形體。」

現代語訳

恭帝元熙元年(419年),建安の人で男性器の亀頭が無く真っ平らで,男性器の根本は女性のような姿形であった。