いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第一巻_后妃伝上

翻訳者:榊原慎二・佐藤 大朗(ひろお)
この巻は、翻訳を分担しています。左貴嬪傳(左芬傳)に載せる作品は榊原慎二、その他は佐藤大朗が担当しました。榊原の担当部分を明確にするため、『晋書』原文から順序を変更し、作品を左貴嬪傳(左芬傳)の末尾に集約しています。作品は3点あり、「離思賦※1」「誄 幷序※2」「頌※3」と表示しました。

原文

夫乾坤定位、男女流形。伉儷之義同歸、貴賤之名異等。若乃作配皇極、齊體紫宸、象玉牀之連後星、喻金波之合羲璧。爰自敻古、是謂元妃。降及中年、乃稱王后。四人並列、光于帝嚳之宮。二妃同降、著彼有虞之典。夏商以上、六宮之制、其詳靡得而聞焉。姬劉以降、五翟之規、其事可略而言矣。周禮、天子立一后・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻、以聽王者內政。故婚義曰、天子之與后、如日之與月、陰之與陽。 由斯而談、其所從來遠矣。故能母儀天㝢、助宣王化、德均載物、比大坤維、宗廟歆其薦羞、穹壤俟其交泰。是以哲王垂憲、尤重造舟之禮。詩人立言、先奬葛覃之訓。後燭流景、所以裁其宴私。房樂希聲、是用節其容止。履端正本、抑斯之謂歟。若乃娉納有方、防閑有禮、肅尊儀而修四德、體柔範而弘六義、陰教洽于宮闈、淑譽騰於區域。 則玄雲入戶、上帝錫母萌之符。黃神降徵、坤靈贊壽丘之道、終能鼎祚惟永、胤嗣克昌。至若儷極虧閑、憑天作孽、倒裳衣于衽席、感朓側於弦望。則龍漦結釁、宗周鞠為黍苗。燕尾挻災、隆漢墜其枌社矣。自曹劉內主、位以色登、甄衞之家、榮非德舉。淫荒挺性、蔑西郊之禮容。婉孌含辭、作南國之奇態。詖謁由斯外入、穢德於是內宣。椒掖播晨牝之風、蘭殿絕河雎之響。永言彤史、大練之範逾微。緬視青蒲、脫珥之猷替矣。晉承其末、與世汚隆、宣皇創基、功弘而道屈。穆后一善、勣侔於十亂。 洎乎1.(太祖)〔世祖〕、始親選良家、既而帝掩紈扇、躬行請託。后採長白、實彰妒忌之情。賈納短青、竟踐覆亡之轍。得失遺跡、煥在綈緗、興滅所由、義同畫一。故列其本事、以為后妃傳云。

1.中華書局本に従い、「太祖」を「世祖」に改める。

訓読

夫れ乾坤は位を定め、男女は形を流す。伉儷の義 歸を同じくし、貴賤の名 等を異にす。若し乃ち配を皇極に作し、體を紫宸に齊しくせば、玉牀の後星を連ぬるに象り、金波の羲璧に合ふに喻ふ。爰に敻古自り、是を元妃と謂ふ。降りて中年に及び、乃ち王后と稱す。四人 並列し、帝嚳の宮に光る。二妃 同降し、彼の有虞の典に著る。夏商以上、六宮の制、其れ詳らかに得て聞く靡し。姬劉以降、五翟の規、其の事 略して言ふ可し。周の禮に、天子 一后・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻を立て、以て王者の內政を聽くといふ〔一〕。故に婚義に曰く、「天子の后と與(とも)にあること、日の月と與りあり、陰の陽と與にあるが如し」と〔二〕。 斯に由りて談ずるに、其の從來する所は遠し。故に能く天㝢に母儀たり、王化を助宣し、德は載物に均しく、比は坤維より大にして、宗廟は其の薦羞を歆け、穹壤は其の交泰を俟つ。是を以て哲王 憲を垂れ、尤も造舟の禮を重んず〔三〕。詩人 言を立て、先に葛覃の訓を奬む〔四〕。後燭 景を流すは、其の宴私を裁する所以なり。房樂 聲希なる、是を用て其の容止を節す。端を履み本を正すは〔五〕、抑(そも)々斯の謂か。若し乃ち娉納に方有り、防閑に禮有り、尊儀を肅して四德を修め、柔範を體して六義を弘むれば、陰教 宮闈に洽く、淑譽 區域に騰ぐ。 則ち玄雲 戶に入り、上帝 母萌の符を錫ふ。黃神 徵を降し、坤靈 壽丘の道を贊じ、終に能く鼎祚 惟永にして、胤嗣 克昌たり。若し極に儷し閑に虧き、天に憑きて孽を作さば、裳衣を衽席に倒し、朓側を弦望に感ずに至る。則ち龍漦 釁を結び〔六〕、宗周は鞠して黍苗を為す〔七〕。燕尾 災を挻き〔八〕、隆漢 其の枌社を墜つ。曹劉の內主自り、位は色を以て登り、甄衞の家、榮は德に非ずして舉せらる。淫荒 性を挺し、西郊の禮容を蔑ろにす。 婉孌 辭を含みて、南國の奇態を作す〔九〕。詖謁 斯に由りて外より入り、穢德 是に於いて內に宣す。椒掖 晨牝の風を播し、蘭殿 河雎の響を絕つ。永言の彤史、大練の範 逾々微たり。緬 青蒲に視れば、脫珥の猷 替(おとろ)ふ。 晉 其の末を承け、世と與に汚隆す、宣皇 基を創め、功は弘けれども道は屈す。穆后の一善、勣は十亂を侔つ。 世祖に洎び、始めて親ら良家を選び、既にして帝 紈扇を掩ひ、躬ら請託を行ふ。后 長白を採り、實に妒忌の情を彰らかにす。賈 短青を納れ、竟に覆亡の轍を踐む。得失遺跡、煥として綈緗に在り、興滅の由る所、義は畫一に同じ。故に其の本事を列し、以て后妃傳を為すと云ふ。

〔一〕『礼記』昏義に「古者天子后立六宮。三夫人。九嬪。二十七世婦。八十一御妻。以聽天下之內治」とある。
〔二〕『礼記』昏義に「故天子之與后、猶日之與月、陰之與陽」とあり、出典。
〔三〕周の文王の成婚のとき、舟を渭水に並べて橋にした。『毛詩』大雅 大明に「大邦有子、俔天之妹、文定厥祥、親迎于渭、造舟為梁、不顯其光」とある。
〔四〕『毛詩』周南 葛覃序に「后妃之本也。后妃在父母家。則志在於女功之事。躬儉節用。服澣濯之衣。尊敬師傅。則可以歸安父母。化天下以婦道也」とある。
〔五〕『春秋左氏伝』文公 伝元年に「履端於始、舉正於中、歸餘於終、履端於始」とあり、踏まえられているか。
〔六〕龍漦(龍の唾液)をうけたものが、褒姒を生んで、褒姒が周王朝を傾けた(『史記』巻四 周本紀)。
〔七〕黍苗は、『詩経』小雅の篇名。序に「黍苗、刺幽王也」とある。
〔八〕前漢の成帝の趙皇后は、名を飛燕という(『漢書』巻九十七下)。前漢が滅亡する原因をつくった一人とされる。
〔九〕越から呉へと赴いた、西施のことか。越と呉は南国と言えようが、不詳。恵賈皇后の名(南風)に掛けていることも考えたが、賈皇后への批判は後ろに出てくるため該当しないと思われる。

現代語訳

そもそも乾坤(陰陽)は地位が定まっているが、男女はかたちが変化する。婚姻もまた根源は同じであるが、貴賤の名称には等級が設けられている。もし王者の妻となり、からだが紫宸(天子の居所)となれば、玉製の床は後星(星の名)の連なりをかたどり、金波(衣服の布地)は日輪と対応する。かくして遠い昔から、これ(王者の正妻)を元妃と謂ふ。時代が下ると、王后と称した。四人の妻が並び立ち、帝嚳(こく)の宮殿に光り輝いた。(帝尭の)二人の娘がともに(帝舜に)嫁いだことは、かの有虞の典(『尚書』舜典)に記載がある。夏と商(殷)以前は、六宮の制は、詳細が分からない。姫氏(周)や劉氏(漢)以降、五翟(後宮?)の制度について、かんたんに述べる。周代の礼制では、天子は一人の后・三人の夫人・九人の嬪・二十七人の世婦・八十一人の御妻を立て、王者の家政を行った。ゆえに『礼記』昏義に、「天子が后とともにあるのは、日が月ととも、陰が陽とともにあるようなもの」とある。 これに基づいて論ずるに、由来は遥か遠い昔にある。ゆえに天下に向けて母として規範となり、王の教化を助け広め、恩徳は万物と等しくなり、親しみは大地よりも大きく、宗廟はその供え物を受け、天地はその交感と安泰を待つのである。だから賢王がおきてを定めると、造舟の礼(周文王の婚礼の故事)をもっとも重んじた。詩人は言葉をつづり、さきに葛覃の教え(『詩経』葛覃序)を大切にした。後燭が影を流すのは、その私生活を抑えるためである。房中の音楽演奏でめったに歌わないのは、振る舞いを控えめにするためである。原初の探究とは、そもそもこれを言うのだ。嫁取りに秩序があり、適切に規則を守り、礼儀を正して四徳を修め、女性の規範を守って詩経(の教訓)を広めるならば、婦人の教えが宮殿に広まり、国土に声望が高まるのである。 つまり黒雲が戸に入り、上帝が母萌の符を賜わる。黄神は徴証を下し、地霊は寿丘(黄帝の生地)の道を賞賛し、王朝の命運を永遠のものとし、子孫たちが繁栄する。〔ところが〕もしも華美を尽くして節制せず、天に頼って禍いを起こせば、裳衣を寝所で横倒しにし、月の満ち欠けを感ずることとなる。つまり龍のつばが予兆となり(褒姒が誕生し)、周王朝の宗家は誤って黍苗(幽王)を輩出した。燕尾(趙飛燕)は災厄をまねき、隆盛であった漢王朝はその枌社(高祖の故郷)を失墜させた。曹氏(三国魏)や劉氏(漢王朝)以降の妻は、色香によって地位を上げ、甄氏(曹操の妻)や衛氏(漢の武帝の妻)の家は、徳がないにも拘わらず皇后となった。荒淫ぶりは抜きん出て、西郊の礼は形骸化した。 美少女は物言いたげで、南国の奇妙な振る舞いをする。これにより不正な謁見者が外部から入り、穢れた徳が宮廷内に広がった。掖庭では婦人が専権する風潮がおこり、宮殿では黄河の水鳥の鳴き声が響かない。長文を綴る彤史(記録係の女官)、粗布(質素さ)の模範はいよいよ衰微した。絹糸を宮廷で見れば、婦女の賢行は衰退してゆく。 晋王朝はその後を受け継ぎ、時流とともに汚穢がひどくなり、宣皇帝(司馬懿)が王業の基礎を始めたとき、功績は大きいが道義がねじ曲がっていた。穆皇后(張春華)には一の善行があったかも知れないが、彼女の行動は十の乱を準備した。 世祖(武皇帝)の代に及び、初めて自分で良家(の子女)を選び、選び終えると武帝は絹の扇で隠して、自ら(卞藩の美しい娘がほしいと)要請した。皇后は(武帝の好みに反して)年長で品行方正な女性を選び、嫉妬の情をあらわにした。賈氏は短身で色黒なものを迎え入れ、ついに滅亡のわだちを踏んだ。得失の前例は、はっきり書物に書かれており、興隆と衰退の原因は、結局は全て同じである。ゆえにその本末をつらね、后妃伝を作った云々。

宣穆張皇后

原文

宣穆張皇后諱春華、河內平皋人也。父汪、魏粟邑令。母河內山氏、司徒濤之從祖姑也。后少有德行、智識過人、生景帝・文帝・平原王幹・南陽公主。
宣帝初辭魏武之命、託以風痹。嘗暴書、遇暴雨、不覺自起收之。家惟有一婢見之、后乃恐事泄致禍、遂手殺之以滅口、而親自執爨。帝由是重之。其後柏夫人有寵、后罕得進見。帝嘗臥疾、后往省病。帝曰、老物可憎、何煩出也!」后慚恚不食、將自殺、諸子亦不食。帝驚而致謝、后乃止。帝退而謂人曰、老物不足惜、慮困我好兒耳。 魏正始八年崩、時年五十九、葬洛陽高原陵、追贈廣平縣君。咸熙元年、追號宣穆妃。及武帝受禪、追尊為皇后。

訓読

宣穆張皇后 諱は春華、河內平皋の人なり。父汪、魏の粟邑令なり。母は河內山氏、司徒濤の從祖姑なり。后 少くして德行有り、智識は人に過ぎ、景帝・文帝・平原王幹・南陽公主を生む。
宣帝 初め魏武の命を辭し、託するに風痹を以てす。嘗て書を暴し、暴雨に遇ひ、覺えずして自ら起ちて之を收む。家に惟 一婢有りて之を見、后 乃ち事 泄れて禍を致すを恐れ、遂に手づから之を殺して以て口を滅し、而して親ら自ら爨(かまど)を執る。帝 是に由り之を重んず。其の後 柏夫人 寵有り、后 進見するを得るは罕(まれ)なり。帝 嘗て疾に臥し、后 往きて病を省る。帝曰く、「老物 憎む可し、何ぞ煩く出づるや」と。后 慚恚して食はず、將に自殺せんとし、諸子も亦 食はず。帝 驚きて謝を致し、后 乃ち止む。帝 退きて人に謂ひて曰く、「老物 惜むに足らず、我が好兒を困(くる)しむを慮るのみ」と。 魏の正始八年 崩じ、時に年五十九、洛陽の高原陵に葬り、廣平縣君と追贈す。咸熙元年、宣穆妃と追號す。武帝の受禪に及び、追尊して皇后と為す。

現代語訳

宣穆張皇后は諱を春華といい、河内平皋の人である。父の張汪は、魏の粟邑令である。母は河内山氏の出身で、司徒山濤の従祖姑である。皇后は若くして徳のある行いがあり、知識と判断力は人を上回り、景帝・文帝・平原王幹・南陽公主を生んだ。
宣帝は初め魏武(曹操)の命令を辞退し、風痹をその理由にしていた。かつて書物を風にあてていると、にわか雨が降り、うっかり自分で立って片付けた。家にいる一人の女奴隷がこれを目撃し、皇后は仮病が漏れて禍いを招くことを恐れ、自身の手で彼女を殺して口をふさぎ、(働き手がいないので)自らが飯炊きをした。宣帝はこれにより皇后を重んじた。その後に柏夫人に寵愛が移り、皇后はほとんど会えなくなった。宣帝が病に伏すと、皇后が行って看病した。宣帝は、「憎らしい老女よ、なぜわざわざ出てきたか」と言った。皇后は恥じて怒り食事をとらず、自ら死のうとしたが、実子らも食わずに(抗議した)。宣帝は驚いて謝りを入れ、皇后は絶食を止めた。宣帝は席を退いてから人に、「老女は死んでもよいが、わが良き子供たちを苦しめたくなかったのだ」と言った。 魏の正始八(二四七)年に崩じ、ときに五十九歳であり、洛陽の高原陵に葬り、広平県君と追贈された。咸熙元(二六四)年、宣穆妃と追号した。武帝が受禅すると、追尊して皇后とした。

景懷夏侯皇后

原文

景懷夏侯皇后諱徽、字媛容、沛國譙人也。父尚、魏征南大將軍。母曹氏、魏德陽鄉主。后雅有識度、帝每有所為、必豫籌畫。魏明帝世、宣帝居上將之重、諸子並有雄才大略。后知帝非魏之純臣、而后既魏氏之甥、帝深忌之。青龍二年、遂以鴆崩。時年二十四、葬峻平陵。武帝登阼、初未追崇、弘訓太后每以為言、泰始二年始加號諡。后無男、生五女。

訓読

景懷夏侯皇后 諱は徽、字は媛容、沛國譙の人なり。父尚、魏の征南大將軍なり。母曹氏、魏の德陽鄉主なり。后は雅より識度有り、帝 為す所有る每に、必ず籌畫に豫(あずか)る。魏明帝の世、宣帝 上將の重に居り、諸子 並びに雄才大略有り。后 帝の魏の純臣に非ざるを知り、而も后 既に魏氏の甥なれば、帝 深く之を忌む。青龍二年、遂に鴆を以て崩ず。時に年二十四、峻平陵に葬る。武帝 登阼し、初め未だ追崇せず、弘訓太后 每に以て言を為し、泰始二年 始めて號諡を加ふ。后に男無く、五女を生む。

現代語訳

景懐夏侯皇后は諱を徽、字を媛容といい、沛国譙県の人である。父の夏侯尚は、魏の征南大将軍である。母の曹氏は、魏の徳陽郷主である。皇后はふだんから判断力と度量があり、景帝が何かをなすときは、いつも計画段階から相談をした。魏の明帝期、宣帝(父司馬懿)は上将の重職にあり、諸子もみな雄才と大略があった。皇后は景帝が魏の純臣でないと見抜き、しかも彼女は魏王朝の血縁者であったから、景帝は彼女を深く忌み憚った。青龍二(二三四)年、とうとう鴆毒により殺された。このとき二十四歳で、峻平陵に葬られた。武帝が位に登ると、当初は追崇しなかったが、弘訓太后(羊氏)がいつも口にするので、泰始二(二六六)年になって初めて号と謚を加えた。皇后は男子がおらず、女子五人を生んだ。

景獻羊皇后

原文

景獻羊皇后諱徽瑜、泰山南城人。父衜、上黨太守。后母陳留蔡氏、漢左中郎將邕之女也。后聰敏有才行。景懷皇后崩、景帝更娶鎮北將軍濮陽吳質女、見黜、復納后、無子。武帝受禪、居弘訓宮、號弘訓太后。泰始九年、追贈蔡氏濟陽縣君、諡曰穆。咸寧四年、太后崩、時年六十五、祔葬峻平陵。

訓読

景獻羊皇后 諱は徽瑜、泰山南城の人なり。父衜、上黨太守なり。后母は陳留蔡氏、漢の左中郎將邕の女なり。后 聰敏にして才行有り。景懷皇后 崩ずるや、景帝 更めて鎮北將軍たる濮陽の吳質の女を娶り、黜けられ、復た后を納れ、子無し。武帝 受禪し、弘訓宮に居り、弘訓太后と號す。泰始九年、蔡氏に濟陽縣君と追贈し、諡して穆と曰ふ。咸寧四年、太后 崩じ、時に年六十五、峻平陵に祔葬す。

現代語訳

景献羊皇后は諱を徽瑜といい、泰山南城の人である。父の羊衜は、上党太守である。皇后の母は陳留蔡氏の出身で、漢の左中郎将である蔡邕の娘である。皇后は聡敏であって才智と徳行があった。景懐皇后(夏侯氏)が崩ずると、景帝はあらためて鎮北将軍である濮陽の呉質の娘を娶ったが、(呉質が魏王朝で)退けられると、さらに皇后(羊氏)を娶ったが、子ができなかった。武帝が受禅すると、弘訓宮に居したので、弘訓太后と号した。泰始九(二七三)年、(母の)蔡氏に済陽県君と追贈し、穆と諡した。咸寧四(二七八)年、太后が崩じ、時に年は六十五、峻平陵に合葬された。

文明王皇后

原文

文明王皇后諱元姬、東海郯人也。父肅、魏中領軍・蘭陵侯。后年八歲、誦詩論、尤善喪服。苟有文義、目所一見、必貫於心。年九歲、遇母疾、扶侍不捨左右、衣不解帶者久之。每先意候指、動中所適、由是父母令攝家事、每盡其理。祖朗甚愛異之、曰、興吾家者、必此女也、惜不為男矣。年十二、朗薨、后哀戚哭泣、發于自然、其父益加敬異。
既筓、歸于文帝、生武帝及遼東悼王定國・齊獻王攸・城陽哀王兆・廣漢殤王廣德・京兆公主。后事舅姑盡婦道、謙沖接下、嬪御有序。及居父喪、身不勝衣、言與淚俱。時鍾會以才能見任、后每言于帝曰、會見利忘義、好為事端、寵過必亂、不可大任。會後果反。武帝受禪、尊為皇太后、宮曰崇化。初置宮卿、重選其職、以太常諸葛緒為衞尉、太僕劉原為太僕、宗正曹楷為少府。后雖處尊位、不忘素業、躬執紡績、器服無文、御浣濯之衣、食不參味。而敦睦九族、垂心萬物、言必典禮、浸潤不行。
帝以后母羊氏未崇諡號、泰始三年下詔曰、昔漢文追崇靈文之號、武・宣有平原・博平之封、咸所以奉尊尊之敬、廣親親之恩也。故衞將軍・蘭陵景侯夫人羊氏、含章體順、仁德醇備、內承世冑、出嬪大國、三從之行、率禮無違。仍遭不造、頻喪統嗣、撫育眾胤、克成家道。母儀之教、光于邦族、誕啟聖明、祚流萬國。而早世殂隕、不遇休寵。皇太后孝思蒸蒸、永慕罔極。朕感存遺訓、追遠傷懷。其封夫人為縣君、依德紀諡、主者詳如舊典。於是使使持節謁者何融追諡為平陽靖君。

訓読

文明王皇后 諱は元姬、東海郯の人なり。父肅、魏の中領軍・蘭陵侯なり。后 年八歲のとき、詩論を誦し、尤も喪服を善くす。苟し文義有らば、目して一見する所、必ず心を貫く。年九歲のとき、母の疾に遇ひ、扶侍して左右を捨てず、衣 帶を解かざること之に久し。每に意に先んじ候指し、動きて適く所に中たり、是に由り父母 家事を攝らしめ、每に其の理を盡す。祖朗 甚だ之を愛異し、曰く、「吾が家を興す者は、必ず此の女なり、男為らざるを惜む」と。年十二にして、朗 薨じ、后 哀戚哭泣は、自然に發し、其の父 益々敬異を加ふ。
既に筓(かんざし)し、文帝に歸し、武帝及び遼東悼王定國・齊獻王攸・城陽哀王兆・廣漢殤王廣德・京兆公主を生む。后 舅姑に事へて婦道を盡し、謙沖にして下に接し、嬪御 序有り。父の喪に居すに及び、身は衣に勝へず、言は淚俱を與にす。時に鍾會 才能を以て任ぜられ、后 每に帝に言ひて曰く、「會 利を見て義を忘れ、事端を為すを好み、寵 過ぎれば必ず亂す、大いに任ず可からず」と。會 後に果して反す。武帝 受禪し、尊びて皇太后と為り、宮を崇化と曰ふ。初めて宮卿を置き、重ねて其の職を選び、太常諸葛緒を以て衞尉と為し、太僕劉原もて太僕と為し、宗正曹楷もて少府と為す。后 尊位に處ると雖も、素業を忘れず、躬ら紡績を執り、器服に文無く、浣濯の衣を御し、食は味を參ぜず。而して九族を敦睦せしめ、心を萬物に垂れ、言は必ず典禮あり、浸潤 行はず。
帝 后母羊氏の未だ諡號を崇めざるを以て、泰始三年 詔を下して曰く、「昔 漢文 靈文の號を追崇す、武・宣 平原・博平の封有り、咸 尊尊の敬を奉り、親親の恩を廣むる所以なり。故衞將軍・蘭陵景侯夫人羊氏、章を含み順を體し、仁德は醇備たり、內に世冑を承け、出でて大國に嬪し、三從の行、禮に率ひて違ふ無し。仍て不造に遭ひ、頻りに統嗣を喪ひ、眾胤を撫育し、克く家道を成す。母儀の教、邦族に光(み)ち、誕いに聖明を啟き、祚は萬國に流る。而るに早世殂隕し、休寵に遇はず。皇太后の孝思は蒸蒸、永く慕ひて極まり罔し。朕 遺訓を感存し、遠く追ひて懷を傷つく。其れ夫人を封じて縣君と為し、德に依りて諡を紀し、主者は詳らかに舊典の如くせよ」と。是に於て使持節謁者何融をして追諡して平陽靖君と為さしむ。

現代語訳

文明王皇后は諱を元姫といい、東海郯県の人である。父の王粛は、魏の中領軍・蘭陵侯である。皇后が八歳のとき、『詩経』と『論語』を暗誦し、服喪規定に精通していた。文に意義があれば、ちらりと一読するだけで、必ず本質を捉えた。九歳のとき、母が病気となり、そばに付き添って離れず、(看病に専心して)衣は帯を長く解かなかった。つねに意向を先読みして待ち受け、行動は(両親の)意図を外すことがなく、これにより父母は家業を管理させたが、つねに適切な措置をした。祖父の王朗がとても愛して特別視し、「わが家を興隆させるのは、きっとこの子である、男子でないのが惜しい」と言った。十二歳のとき、王朗が薨じ、彼女の哀惜と哭泣は、自然から発したもので、父(王粛)はますます娘を敬い評価した。
十五歳になり、文帝(司馬昭)に嫁ぎ、武帝及び遼東悼王定国・斉献王攸・城陽哀王兆・広漢殤王広徳・京兆公主を生んだ。皇后は舅や姑に仕えては婦人の道を尽くし、謙遜して下位者に接し、(配下の)侍妾や宮女は秩序が整えられた。父の喪に服するに及び、衣をまともに着られず、涙なしには物を言えなかった。ときに鍾会が才能によって任用されたが、皇后はつねに文帝に、「鍾会は利を見て義を忘れ、新しい事業を起こしたがります、寵用しすぎれば必ず乱を起こします、重く用いてはいけません」と言った。鍾会は後にやはり反乱をした。武帝が受禅すると、尊んで皇太后となり、宮殿を崇化宮といった。はじめに宮卿(後宮の組織)を設置するとき、(皇太后が)慎重にその職に就けるものを選び、太常の諸葛緒を衛尉とし、太僕の劉原を太僕とし、宗正の曹楷を少府とした。皇太后は尊位にあったが、婦人の本業を忘れず、みずから糸を紡ぎ、生活用品や衣服には模様がなく、なんども洗濯した衣服をつけ、食事は味付けを加えなかった。そして九族を仲睦まじくし、万物に配慮し、発言は必ず礼儀にかない、讒言をしなかった。
武帝は皇太后(王氏)の母羊氏がいまだ諡號を贈られていないから、泰始三(二六七)年に詔を下して、「むかし漢の文帝は霊文侯という号を(実母薄氏の父に)追贈し、武帝・宣帝も平原君・博平君の封号を贈ったが、これらは親族を敬い、近親への恩を広めたのである。もと衛将軍・蘭陵景侯(王粛)の夫人である羊氏は、美徳を内に含み道を体現し、仁徳が備わっており、内に高貴な血筋を受け、(家を)出て大国に嫁ぎ、三従の行いは、礼に準拠したものであった。予期せぬ不幸に遭遇し、しきりに後継者を失ったが、子孫たちを教育し、りっぱに家を繁栄に導いた。母の教えは、同族のなかに満ち、おおいに聖明をひらき、幸いは万国に浸透している。しかし若くして死去し、めでたき恩恵にあずかっていない。皇太后(王氏)の孝の思いは盛んであり、とこしえに慕って極まりがない。朕は遺訓を心に留め、思いを馳せて胸を痛めていた。そこで夫人を封じて県君とし、(生前の)徳に依って謚号を贈る、担当官は詳らかに典礼に従うように」と言った。ここにおいて使持節謁者の何融に(王粛の夫人に)平陽靖君と追諡させた。

原文

四年、后崩、時年五十二、合葬崇陽陵。將遷祔、帝手疏后德行、命史官為哀策曰、 明明先后、興我晉道。暉章淑問、以翼皇考。邁德宣猷、大業有造。貽慶孤矇、堂構是保。庶資復顧、永享難老。奄然登遐、棄我何早。沈哀罔訴、如何穹昊。嗚呼哀哉。
厥初生民、樹之惠康。帝遷明德、顧予先皇。天立厥配、我皇是光。作邦作對、德音無疆。愍予不弔、天篤降殃。日沒明夷、中年隕喪。煢煢在疚、永懷摧傷。尋惟景行、於穆不已、海岱降靈、世荷繁祉。永錫祚胤、篤生文母。誕膺純和、淑慎容止。質直不渝、體茲孝友。詩書是悅、禮籍是紀。三從無違、中饋允理。追惟先后、勞謙是尚。爰初在室、竭力致養。嬪于大邦、皇基是相。謐靜隆化、帝業以創。內敘嬪御、外協時望。履信居順、德行洽暢。密勿無荒、劬勞克讓。崇儉抑華、沖素是放。雖享崇高、歡嘉未饗。胡寧棄之、我將曷仰。 咨余不造、大罰薦臻。皇考背世、始踰三年。仰奉慈親、冀無後艱。凶災仍集、何辜於天。嗚呼哀哉。
靈轜夙駕、設祖中闈。轀輬動軫、既往不追。哀哀皇妣、永潛靈暉。進攀梓宮、顧援素旂。屏營窮痛、誰告誰依。訴情贈策、以舒傷悲。尚或有聞、顧予孤遺。嗚呼哀哉。
其後帝追慕不已、復下詔曰、外曾祖母故司徒王朗夫人楊氏、舅氏尊屬、鄭・劉二從母、先后至愛。每惟聖善、敦睦遺旨、渭陽之感、永懷靡及。其封楊夫人及從母為鄉君、邑各五百戶。太康七年、追贈繼祖母夏侯氏為滎陽鄉君。

訓読

四年、后 崩じ、時に年五十二、崇陽陵に合葬す。將に祔に遷らんとし、帝 手づから后の德行を疏し、史官に命じて哀策を為りて曰く、 「明明たる先后、我が晉道を興す。暉章たる淑問、以て皇考を翼く。德を邁め猷を宣め、大業 造有り。慶を孤矇に貽(おく)り、堂構して是れ保たしむ。庶はくは復た顧を資け、永く老ひ難きを享けん。奄然と登遐し、我を棄つること何と早きか。沈哀 訴ふる罔く、穹昊を如何せん。嗚呼 哀しきかな。
厥の初めに民を生み、之が惠康を樹つ。帝は明德に遷り、予が先皇を顧る。天 厥の配を立て、我が皇 是れ光れり。邦を作し對を作し、德音 無疆たり。予が不弔を愍み、天 篤く殃を降す。日は明夷に沒し、中年に隕喪す。煢煢として疚に在り、永く摧傷を懷く。尋いで景行を惟ひ、於穆して已まず、海岱 靈を降し、世に繁祉を荷ふ。永く祚胤を錫はらんと、篤く文母を生む。誕ひに純和を膺け、淑(よ)く容止を慎む。質直にして渝えず、茲の孝友を體す。詩書 是れ悅び、禮籍 是れ紀す。三從 違ふ無く、中饋 理を允にす。追ひて先后を惟ふに、勞謙 是れ尚し。爰に初めて室に在り、力を竭し養を致す。大邦に嬪し、皇基 是れ相ふ。謐靜にして隆化し、帝業 以て創む。內は嬪御を敘し、外は時望に協ふ。信を履み順に居り、德行 洽暢たり。密勿して荒む無く、劬勞して克く讓る。儉を崇び華を抑び、沖素 是れ放つ。崇高を享くると雖も、歡嘉 未だ饗せず。胡寧(なんす)れぞ之を棄て、我 將に曷ぞ仰へんか。 咨(ああ) 余の不造、大罰 薦(しき)りに臻る。皇考 世に背き、始めて三年を踰む。仰ぎて慈親を奉り、冀はくは後艱無からんことを。凶災 仍りて集ひ、何ぞ天に辜あらん。嗚呼 哀しきかな。
靈轜 夙に駕し、祖を中闈に設く。轀輬 軫を動かし、既に往きて追はず。哀哀たるかな皇妣、永く靈暉を潛む。進みて梓宮に攀り、顧みて素旂を援けん。屏營して痛を窮め、誰か告げて誰か依らん。情に訴へて策を贈り、以て傷悲を舒(の)ぶ。尚ほ或いは聞有れば、予が孤遺を顧みよ。嗚呼 哀しきかな」と。
其の後 帝の追慕は已まず、復た詔を下して曰く、「外曾祖母たる故司徒王朗の夫人楊氏、舅氏の尊屬たる、鄭・劉二從母、先后の至愛なり。每に聖善、敦睦の遺旨を惟るに、渭陽の感〔一〕、永く懷きて及ぶ靡し。其れ楊夫人及び從母を封じて鄉君と為し、邑は各五百戶とせよ」と。太康七年、繼祖母夏侯氏に追贈して滎陽鄉君と為す。

〔一〕『毛詩』秦風 渭陽に「我送舅氏、曰至渭陽」とあり出典。

現代語訳

泰始四(二七七)年、(武帝の母)王太后は崩じ、時に五十二歳、崇陽陵に合葬された。まさに埋葬に移ろうというとき、武帝は手ずから彼女の徳行を箇条書きにし、史官に命じて哀策を作らせて言うには、 「聡明な先后(王氏)は、わが晋王朝の道を興した。明晰な判断は、亡父(文帝)を助けた。徳を進め考えを広め、大いなる事業を創設した。愚昧な私を祝福なさり、父祖の業を継いでこれを保たせた。願わくはさらに顧命(遺命)のために働き、王朝の命運を永久としたい。突然に崩御され、私を見棄てることが何と早いことか。沈み哀しむことは訴えようがなく、蒼天をどうしたものか。ああ哀しいかな。
そもそも初めに民を生み、(次に)その安楽を樹立するものだ。帝位は明徳のひとに移り、わが先皇(文帝)に継承された。天はその妻(王氏)と結婚させ、わが父(の王業)は光り輝いた。国家を作り配偶者が立ち、徳の声望は限りがない。(ところが)天は私の不善を痛ましく思い、ひどい禍いを降した。日が昼間に沈み、(文帝が)道半ばで崩御したのである。(私は)父無し子となって不安に陥り、消せない心の傷を負った。ほどなく徳行を実践しようと思い立ったが、ああなんと素晴らしいことか、海岱(泰山)が霊異を降し、世に多くの幸福をもたらした。子孫を恒久的に繁栄させようと、学問と人格を備えた母(王氏)を与えて下さったのである。(王氏は)とても純粋で和やかな気質をもち、よく振る舞いを慎んだ。質実で規を超えず、その孝行と友好を体現した。『詩経』と『尚書』を愛読し、礼の経籍を暗誦した。三従を踏み外すことがなく、家庭内の職務は適切であった。追って先后(王氏)のことを思うに、勤労と謙譲は尊いものである。(文帝に)嫁いだ当初から、力を尽くし(子を)養育した。大国(司馬氏)に嫁いで、皇室の基礎に携わった。静謐でありながら家を盛んにし、帝業を始めた。内では女官を管理し、外では時代の要請に応えた。信義を踏んで道理に従い、徳行は広まった。勤勉で荒むことがなく、苦労しても謙った。倹約を尊び華美を抑え、純朴さがおもてに表れた。高い地位を得たが、その喜びを享受しなかった。どうして(高貴であることの利点を)棄てられよう、私ならば我慢ができようか。 ああ不幸なことに私には、大きな罰が次々と下された。皇考(皇帝の父、文帝)が世を去って、やっと三年が経った(ときに母が崩じた)。慈悲深い親を仰ぎ見て、これ以上の困難がないことを願う。凶事や災難が立て続けに起こるが、私がどのような罪を天に犯したのか。ああ哀しいことだ。
霊轜(棺を運ぶ車)が朝に出発し、弔いの祭りを中闈(宮中)に設けた。轀輬車(棺を運ぶ車)が横木を動かし、もう出発したので追うことはしない。哀しいかな亡き皇太后(王氏)よ、永久に霊界の輝きのなかに潜んでしまった。進んで陵墓によじ登り、顧みて白い旗を支えよう。ひどい恐れと痛切さは、誰に告げて誰を頼ろうか。感情を表明して策書を贈り、傷つき悲しみに暮れた心情を述べよう。なお用件があるならば私が親を失ったことに配慮してほしい。ああ哀しいかな」と言った。
その後も武帝の追慕はやまず、再び詔を下して、「外曾祖母であるもと司徒の王朗の夫人である楊氏、舅氏の尊属である、鄭氏・劉氏の二人の従母は、先后(王氏)が最も親愛していた人だ。つねに善の極みにあり、睦まじくあれという生前の気持ちを考えるに、『詩経』渭陽にみえる思いを、ずっと抱いており匹敵するものがない。そこで楊夫人及び従母を封じて郷君とし、食邑はそれぞれ五百戸とせよ」と言った。太康七(二八六)年、継祖母である夏侯氏に追贈して滎陽郷君とした。

武元楊皇后

原文

武元楊皇后諱艷、字瓊芝、弘農華陰人也。1.父文宗、見外戚傳。母天水趙氏、早卒。后依舅家、舅妻仁愛、親乳養后、遣他人乳其子。及長、又隨後母段氏、依其家。后少聰慧、善書、姿質美麗、閑於女工。有善相者嘗相后、當極貴、文帝聞而為世子聘焉。甚被寵遇、生毗陵悼王軌・惠帝・秦獻王柬、平陽・新豐・陽平公主。武帝即位、立為皇后。有司奏依漢故事、皇后・太子各食湯沐邑四十縣、而帝以非古典、不許。后追懷舅氏之恩、顯官趙俊、納俊兄虞女粲於後宮為夫人。
帝以皇太子不堪奉大統、密以語后。后曰、立嫡以長不以賢、豈可動乎。初、賈充妻郭氏使賂后、求以女為太子妃。及議太子婚、帝欲娶衞瓘女。然后盛稱賈后有淑德、又密使太子太傅荀顗進言、上乃聽之。泰始中、帝博選良家以充後宮、先下書禁天下嫁娶、使宦者乘使車、給騶騎、馳傳州郡、召充選者、使后揀擇。后性妒、惟取潔白長大、其端正美麗者並不見留。時卞藩女有美色、帝掩扇謂后曰、卞氏女佳。后曰、藩三世后族、其女不可枉以卑位。帝乃止。司徒李胤・鎮軍大將軍胡奮・廷尉諸葛沖・太僕臧權・侍中馮蓀・秘書郎左思及世族子女並充三夫人九嬪之列。司・冀・兗・豫四州二千石將吏家、補良人以下。名家盛族子女、多敗衣瘁貌以避之。
及后有疾、見帝素幸胡夫人、恐後立之、慮太子不安。臨終、枕帝膝曰、叔父駿女男胤有德色、願陛下以備六宮。因悲泣、帝流涕許之。泰始十年、崩於明光殿、絕于帝膝、時年三十七。詔曰、皇后逮事先后、常冀能終始永奉宗廟。一旦殂隕、痛悼傷懷。每自以夙喪二親、於家門之情特隆。又有心欲改葬父祖、以頃者務崇儉約、初不有言、近垂困、說此意、情亦愍之。其使領前軍將軍駿等自克改葬之宜、至時、主者供給葬事。賜諡母趙氏為縣君、以繼母段氏為鄉君。傳不云乎、慎終追遠、民德歸厚。且使亡者有知、尚或嘉之。

1.『太平御覧』一三八によると、楊皇后の父の名は「炳」とある。この「文宗」は、字か。唐代の避諱により「炳」を載せなかったと考えられるという。

訓読

武元楊皇后 諱は艷、字は瓊芝、弘農華陰の人なり。父の文宗、外戚傳に見ゆ。母の天水趙氏、早くに卒す。后 舅家に依り、舅の妻 仁愛たり、親ら乳して后を養ひ、他人をして其の子を乳せしむ。長ずるに及び、又 後母段氏に隨ひて、其の家に依る。后 少くして聰慧たり、書を善くし、姿質は美麗、女工に閑(なら)ふ。善く相(み)る者有りて嘗て后を相(み)、當に貴を極むべしとし、文帝 聞きて世子の為に聘す。甚だ寵遇を被り、毗陵悼王軌・惠帝・秦獻王柬、平陽・新豐・陽平公主を生む。武帝 即位し、立ちて皇后と為る。有司 漢の故事に依り、皇后・太子に各々湯沐邑四十縣を食むを奏するも、帝 古典に非ざるを以て、許さず。后 舅氏の恩を追懷し、趙俊を顯官とし、俊が兄虞が女粲を納れて後宮に於いて夫人と為す。
帝 以へらく皇太子の大統を奉ずるに堪へず、密かに以て后に語る。后曰く、「嫡を立つるは長を以てし賢を以てせざる、豈に動ず可きか」と。初め、賈充の妻郭氏 后に賂(まかな)はしめ、女を以て太子妃と為すことを求む。太子の婚を議するに及び、帝 衞瓘の女を娶らんと欲す。然るに后 盛んに賈后に淑德有るを稱へ、又 密かに太子太傅荀顗をして進言せしめ、上 乃ち之を聽す。泰始中、帝 博く良家を選びて以て後宮を充たし、先に書を下して天下の嫁娶を禁じ、宦者をして使車に乘り、騶騎を給ひ、傳して州郡に馳せ、選に充つる者を召さしめ、后をして揀擇せしむ。后の性は妒たり、惟だ潔白にして長大なるを取り、其の端正にして美麗なる者は並びに留められず。時に卞藩の女 美色有り、帝 扇を掩ひて后に謂ひて曰く、「卞氏の女 佳し」と。后曰く、「藩は三世の后族たり、其の女 卑位を以て枉ぐ可からず」と。帝 乃ち止む。司徒李胤・鎮軍大將軍胡奮・廷尉諸葛沖・太僕臧權・侍中馮蓀・秘書郎左思及び世族の子女もて並びに三夫人九嬪の列を充たす。司・冀・兗・豫四州の二千石將吏の家もて、良人以下を補ふ。名家盛族の子女、多く衣を敗り貌を瘁して以て之を避く。
后 疾有るに及び、帝 素より胡夫人を幸すを見、後に之を立つるを恐れ、太子を慮りて安ぜず。終に臨み、帝の膝に枕して曰く、「叔父駿の女男たる胤 德色有り、願はくは陛下 以て六宮に備へよ」と。因りて悲泣し、帝 流涕して之を許す。泰始十年、明光殿に崩じ、帝の膝に絕へ、時に年三十七なり。詔して曰く、「皇后 先后に事(つか)ふるに逮(およ)び、常に終始を能くし〔一〕永く宗廟を奉らんことを冀ふ。一旦に殂隕し、痛悼して傷懷す。每に自ら夙くに二親を喪ふを以て、家門の情に於いて特に隆し。又 心に父祖を改葬せんと欲する有り、頃者 務めて儉約を崇ぶを以て、初めに言ふ有らず、近く垂困して、此の意を說き、情 亦 之を愍む。其れ領前軍將軍駿等をして自ら改葬の宜を克くし、時に至り、主者は葬事を供給せよ。母趙氏に賜諡して縣君と為し、繼母段氏を以て鄉君と為せ。傳に云はずや、終を慎みて遠を追ひ、民の德 厚に歸すと〔二〕。且に亡者をして知る有らしむは、尚ほ或いは之を嘉す」と。

〔一〕武元楊皇后は、義母の文明王皇后よりも、三年早く亡くなった。
〔二〕『論語』学而篇に「曾子曰、慎終追遠、民德歸厚矣」とある。

現代語訳

武元楊皇后は諱を艷といい、字は瓊芝、弘農華陰の人である。父の文宗(楊炳)は、外戚伝に事績が見える。母の天水趙氏は、早くに卒した。皇后は舅(母方のおじ)の家を頼った、舅の妻が仁愛のあるひとで、みずから乳を飲ませて皇后を養い、自分の子は他人に乳をやらせた。成長すると、また後母(継母)の段氏に従い、その家を頼った。皇后は若くして聡明であり、文字がうまく、姿かたちは美麗で、女性の務めに習熟していた。かつて人相見が彼女を鑑定し、きっと高貴さを極めるだろうと言い、文帝(司馬昭)はこれを聞いて世子(司馬炎)の妻とした。とても寵愛され、毗陵悼王軌・恵帝・秦献王柬、平陽・新豊・陽平公主を生んだ。武帝が即位すると、皇后に立てられた。担当官が漢代の故事に基づき、皇后・太子にそれぞれ湯沐のための邑を四十県ずつ与えようと上奏したが、武帝は儒家経典に定めがないから、許可しなかった。皇后は母方の家の恩を追憶し、趙俊を高官とし、趙俊の兄である趙虞の娘にあたる趙粲を(武帝の)後宮に納れて夫人の位とした。
武帝は皇太子(後の恵帝)が皇統を継ぐには不適格と考え、密かに皇后に語った。皇后は、「嫡子を立てるのは年齢により(決めるもので)賢愚によるのではない、なぜ変更すべきですか」と言った。これより先、賈充の妻郭氏が皇后に賄賂をおくり、娘を太子の妃にすることを頼んだ。太子の妻を決めるとき、武帝は衛瓘の娘を選ぼうとした。しかし皇后が盛んに賈氏の娘には淑徳があると強調し、また密かに太子太傅の荀顗に進言させ、武帝はこれを認めた。泰始中(二六五-二七四)、武帝はひろく良家(の娘)を選んで後宮を満たそうとし、さきに命令書を下して天下の嫁取りを禁じ、宦官を馬車に乗せ、騎兵を従わせ、州郡を順番に巡らせ、条件にあう者を徴発し、皇后に人選をさせた。皇后は嫉妬深い性格なので、ただ品行の正しい年長者だけを選び、容姿の美しいものは留め置かなかった。このとき卞藩の娘は美しく、武帝は扇で(顔を)おおって皇后に、「卞氏の娘がよい」と言った。皇后は、「卞藩は三世の后族(魏帝の外戚家)です、その娘を低い地位に置いてはいけません」と言った。武帝はあきらめた。司徒の李胤・鎮軍大将軍の胡奮・廷尉の諸葛沖・太僕の臧権・侍中の馮蓀・秘書郎の左思及び世族の娘たちによって三夫人と九嬪(后妃の位)の列を満たした。司・冀・兗・豫四州の二千石の将吏の家の娘により、良人以下(の位)を補った。名家や盛族の娘は、多くが衣服をやぶり顔色をやつれさせて回避した。
皇后が病になると、武帝が胡夫人を寵愛しているのを見て、死後に(胡氏が皇后の位に)立てられることを恐れ、太子(恵帝)の行く末が心配であった。臨終の際、武帝の膝に枕して、「叔父の楊駿の娘である楊胤(武悼楊皇后)は徳と色があります、どうか陛下は彼女を六宮に置いて(皇后として)下さい」と言った。悲しみ泣いたので、武帝も涙を流して同意した。泰始十(二七四)年、明光殿で崩御し、武帝の膝で息絶え、ときに三十七歳。詔して、「皇后は先后(王氏)に仕え、いつも最期を全うして永く宗廟を守ることを願っていた。しかし先に亡くなり、つらく痛ましいと思う。つねに自分が早くに両親を失ったことから、家族への思いが特に深かった。さらに父祖を改葬したいと願っており、普段から努めて倹約をしてきたが、当初は本心を口にせず、このごろ発病してから、その本心を打ち明けるようになったが、何とかしてやりたいと思う。そこで領前軍将軍の楊駿らに自ら(親族を)改葬させ、実行するときは、担当者は必要なものを支給せよ。(皇后の)母趙氏に謚を賜って県君とし、継母の段氏を郷君とせよ。伝(『論語』学而篇)に言うではないか、親を鄭重に弔い祖先を思えば、民の徳は厚くなると。死者(皇后)にこれを知ってもらうのも、良いことではないか」と言った。

原文

于是有司卜吉、窀穸有期、乃命史臣作哀策敘懷。其詞曰、天地配序、成化兩儀。王假有家、道在伉儷。姜嫄佐嚳、二妃興媯。仰希古昔、冀亦同規。今胡不然、景命夙虧。嗚呼哀哉。 我應圖籙、統臨萬方。正位于內、實在嬪嬙。天作之合、駿發之祥。河嶽降靈、啟祚華陽。奕世豐衍、朱紼斯煌。纘女惟行、受命溥將。來翼家邦、憲度是常。緝熙陰教、德聲顯揚。昔我先妣、暉曜休光。后承前訓、奉述遺芳。宜嗣徽音、繼序無荒。如何不弔、背世隕喪。望齊無主、長去烝嘗。追懷永悼、率土摧傷。嗚呼哀哉。 陵兆既窆、將遷幽都。宵陳夙駕、元妃其徂。宮闈遏密、階庭空虛。設祖布紼、告駕啟塗。服翬褕狄、寄象容車。金路晻藹、裳帳不舒。千乘動軫、六驥躊躇。銘旌樹表、翣柳雲敷。祁祁同軌、岌岌烝徒。孰不云懷、哀感萬夫。寧神虞卜、安體玄廬。土房陶簋、齊制遂初。依行紀諡、聲被八區。雖背明光、亦歸皇姑。沒而不朽、世德作謨。嗚呼哀哉。 乃葬于峻陽陵。

訓読

是に于いて有司 吉を卜し、窀穸 期有り、乃ち史臣に命じて哀策を作りて懷を敘せしむ。其の詞に曰く、「天地 序を配し、兩儀を成化す。王 假に家を有つに、道は伉儷に在り。姜嫄 嚳を佐け、二妃 媯を興す。仰ぎて古昔を希ひ、亦た同規せんと冀ふ。今 胡ぞ然らざる、景命 夙に虧く。嗚呼 哀しきかな。 我 圖籙に應じ、萬方に統臨す。位を內に正すは、實に嬪嬙に在り。天 之に合を作し、駿(おほ)いに之の祥を發す。河嶽 靈を降し、祚を華陽に啟く。奕世に豐衍たり、朱紼 斯れ煌たり。纘女 惟行し〔一〕、命を受けて溥將す。來りて家邦を翼け、憲度 是れ常なり。陰教を緝熙し〔二〕、德聲は顯揚たり。昔 我が先妣、休光を暉曜す。后 前訓を承け、遺芳を奉述す。宜しく徽音を嗣ぎ、繼序 荒無かるべし。不弔を如何せん、世に背きて隕喪す。望齊 主無く〔三〕、長く烝嘗を去る。追ひて永悼を懷き、率土 摧傷す。嗚呼 哀しきかな。 陵兆 既に窆り、將に幽都に遷らんとす。宵に夙駕を陳べ、元妃 其れ徂く。宮闈 遏密たり、階庭 空虛たり。祖に布紼を設け、駕を告げて塗を啟く。服は翬の褕狄、象に寄せ車に容る。金路 晻藹として、裳帳 舒べず。千乘 軫を動し、六驥 躊躇す。銘旌 表に樹て、翣柳 雲敷す。祁祁として軌を同じくし、烝徒を岌岌とす。孰ぞ懷を云はざる、哀は萬夫に感ず。神を寧し卜を虞し、體を玄廬に安んず。土房陶簋、制を遂初に齊くす。行に依り諡を紀し、聲は八區を被ふ。明光に背くと雖も、亦 皇姑に歸す。沒して朽ちず、世德に謨と作る。嗚呼 哀しきかな」と。乃ち峻陽陵に葬る。

〔一〕『毛詩』大雅 大明に「纘女維莘、長子維行」とある。
〔二〕『毛詩』大雅 文王に「穆穆文王、於緝熙敬止」とある。
〔三〕望齊は、門の名。斉から呉に嫁いだ姫(名は波)が、この門から故郷を望んだ。

現代語訳

ここにおいて担当官に吉日を占わせ、埋葬の日取りを決め、史臣に命じて哀策を作らせて思いを綴った。その詞に言うには、「天地は序列をなし、父母を生み出す。王者はかりそめに国家を保つが、成否の鍵は正妻のほうにある。姜嫄(周の始祖后稷の母)は(妻となって)帝嚳を補佐し、二人の妃(尭の娘)が媯汭において(舜に嫁いで)興隆に導いた。遠い昔を仰ぎ見て、前例にあやかりたいと願う。しかしなぜか現代には当てはまらず、(皇后の)寿命が早くに尽きた。ああ哀しいことだ。 私は符命や図讖に応じ、天下に君臨した。地位を体制内で正すのは、まことに宮中の女性である。天はこれに符合し、大いにその形象を表した。河岳は神秘現象をくだし、吉祥を華陽に開いた。累世に満ち足り、赤い印綬が輝いた。女を集めて(受命の地に)赴き、天命を受けて(周王朝は)広大となったのである。(女性は王者に)嫁いで国家を輔翼し、法度を安定させる。女性の教化が明らかになり、名声は高く顕れる。むかし私の母(王氏)は、美徳を輝かせた。皇后(楊氏)は前代の教えを継承し、先人の美徳を奉った。すぐれた誉れを絶やさず、うまく継承していた。(ところが)なんと不幸なことか、世に背いて死んでしまった。望斉門に立つ者はおらず、長く烝嘗(祭祀)をしていない。追悼の心を抱き、王土は痛み傷ついた。ああ哀しいかな。 陵墓にすでに葬り、(皇后は)幽都に移ろうとしている。宵に馬車を並べ、元妃(皇后)は行ってしまった。後宮は喪に服し、宮廷は空虚である。みたまやには布紐を設け、馬車の通過を告げて道を開いた。鳥の模様の祭服を着せ、かたどって車に入れた。帝王の車は幽暗のなかにおり、祭服をゆったり広げることはない。諸侯は悼み、駿馬は足踏みをする。旗を表に立て、棺に飾りを敷き詰めている。しずしずと後に付き従い、百姓も感極まっている。どうして思いを口にせずに居られよう、悲しみは万民と共感されている。心を落ち着かせ(吉日を)占って推し量り、遺体を陵墓に安置した。墓室や副葬品は原初の礼制のとおりとした。生前の行いにより謚を記録させ、名声は全土をおおっている。明るい光に背いたが亡母のもとに行ったのだ。(皇后の徳は)死没しても朽ちず、当世の教訓となる。ああ哀しいかな」とした。 こうして峻陽陵に葬った。

武悼楊皇后 左貴嬪 胡貴嬪 諸葛夫人

原文

武悼楊皇后諱芷、字季蘭、小字男胤、元后從妹。父駿、別有傳。以咸寧二年立為皇后。婉嫕有婦德、美暎椒房、甚有寵。生渤海殤王、早薨、遂無子。太康九年、后率內外夫人命婦躬桑于西郊、賜帛各有差。
太子妃賈氏妒忌、帝將廢之。后言於帝曰、賈公閭有勳社稷、猶當數世宥之。賈妃親是其女、正復妒忌之間、不足以一眚掩其大德。后又數誡厲妃、妃不知后之助己、因以致恨、謂后構之於帝、忿怨彌深。及帝崩、尊為皇太后。賈后凶悖、忌后父駿執權、遂誣駿為亂、使楚王瑋與東安王繇稱詔誅駿。內外隔塞、后題帛為書、射之城外、曰、救太傅者有賞。賈后因宣言太后同逆。
駿既死、詔使後軍將軍荀悝送后于永寧宮。特全后母高都君龐氏之命、聽就后居止。賈后諷羣公有司奏曰、皇太后陰漸姦謀、圖危社稷、飛箭繫書、要募將士、同惡相濟、自絕于天。魯侯絕文姜、春秋所許、蓋以奉順祖宗、任至公於天下。陛下雖懷無已之情、臣下不敢奉詔。可宣敕王公于朝堂會議。詔曰、此大事、更詳之。有司又奏、駿藉外戚之資、居冢宰之任、陛下既居諒闇、委以重權、至乃陰圖凶逆、布樹私黨。皇太后內為脣齒、協同逆謀。禍釁既彰、背捍詔命、阻兵負眾、血刃宮省、而復流書募眾、以奬凶黨。上背祖宗之靈、下絕億兆之望。昔文姜與亂、春秋所貶、呂宗叛戾、高后降配。宜廢皇太后為峻陽庶人。 中書監張華等以為、太后非得罪于先帝者也、1.今黨惡所親、為不母于聖世。宜依孝成趙皇后故事、曰武帝皇后、處之離宮、以全貴終之恩。尚書令・下邳王晃等議曰、皇太后與駿潛謀、欲危社稷。不可復奉承宗廟、配合先帝。宜貶尊號、廢詣金墉城。于是有司奏、請從晃等議、廢太后為庶人。遣使者以太牢告于郊廟、以奉承祖宗之命、稱萬國之望。至於諸所供奉、可順聖恩、務從豐厚。詔不許。有司又固請、乃可之。又奏、楊駿造亂、家屬應誅。詔原其妻龐命、以慰太后之心。今太后廢為庶人、請以龐付廷尉行刑。詔曰、聽龐與庶人相隨。有司希賈后旨、固請、乃從之。龐臨刑、太后抱持號叫、截髮稽顙、上表詣賈后稱妾、請全母命、不見省。初、太后尚有侍御十餘人、賈后奪之、絕膳而崩、時年三十四、在位十五年。賈后又信妖巫、謂太后必訴冤先帝、乃覆而殯之、施諸厭劾符書藥物。
永嘉元年、追復尊號、別立廟、神主不配武帝。至成帝咸康七年、下詔使內外詳議。衞將軍虞潭議曰:「世祖武皇帝光有四海、元皇后應乾作配。元后既崩、悼后繼作、至楊駿肆逆、禍延天母。孝懷皇帝追復號諡、豈不以鯀殛禹興、義在不替者乎。又太寧二年、臣忝宗正、帝譜泯棄、罔所循按。時博諮舊齒、以定昭穆、與故驃騎將軍華恒・尚書荀崧・侍中荀邃因舊譜參論撰次、尊號之重、一無改替。今聖上孝思、祗肅禋祀、詢及羣司、將以恢定大禮。臣輒思詳、伏見惠皇帝起居注・羣臣議奏、列駿作逆謀、危社稷、引魯之文姜、漢之呂后。臣竊以文姜雖莊公之母、實為父讐。呂后寵樹私戚、幾危劉氏、按此二事異于今日。昔漢章帝竇后殺和帝之母、和帝即位盡誅諸竇。當時議者欲貶竇后、及后之亡、欲不以禮葬。和帝以奉事十年、義不可違、臣子之道、務從豐厚、仁明之稱、表于往代。又見故尚書僕射裴頠議悼后故事、稱繼母雖出、追服無改。是以孝懷皇帝尊崇號諡、還葬峻陵。此則母子道全、而廢事蕩革也。于時祭于弘訓之宮、未入太廟。蓋是事之未盡、非義典也。若以悼后復位為宜、則應配食世祖。若以復之為非、則譜諡宜闕、未有位號居正、而偏祠別室者也。若以孝懷皇帝私隆母子之道、特為立廟者、此苟崇私情、有虧國典。則國譜帝諱、皆宜除棄、匪徒不得同祀于世祖之廟也。」會稽王昱・中書監庾冰・中書令何充・尚書令諸葛恢・尚書謝廣・光祿勳留擢・丹楊尹殷融・護軍將軍馮懷・散騎常侍鄧逸等咸從潭議、由是太后配食武帝。

1.『晋書斠注』によると、張華伝は「黨其所親」に作り、『資治通鑑』巻八十二も、張華伝に従っている。

訓読

武悼楊皇后 諱は芷、字は季蘭、小字は男胤、元后の從妹なり。父駿、別に傳有り。咸寧二年 以て立ちて皇后と為る。婉嫕にして婦德有り、椒房に美暎たり、甚だ寵有り。渤海殤王を生み、早く薨じ、遂に子無し。太康九年、后 內外夫人命婦を率ゐて躬ら西郊に桑し、帛を賜はること各々差有り。
太子妃賈氏 妒忌たり、帝 將に之を廢せんとす。后 帝に言ひて曰く、「賈公閭 社稷に勳有り、猶ほ當に數世 之を宥むべし。賈妃 親ら是れ其の女なり、正に復た妒忌の間、一眚を以て其の大德を掩ふに足らず」と。后 又 數々妃を誡厲し、妃 后の己を助くるを知らず、因りて以て恨を致し、后 之を帝に構ふと謂ひ、忿怨 彌々深し。帝 崩ずるに及び、尊びて皇太后と為る。賈后 凶悖たり、后の父駿の權を執るを忌みて、遂に駿 亂を為すと誣し、楚王瑋と東安王繇をして詔と稱して駿を誅せしむ。內外 隔塞し、后 帛に題して書を為り、之を城外に射、曰く、「太傅を救ふ者は賞有らん」と。賈后 因りて宣く太后の同逆を言ふ。
駿 既に死し、詔して後軍將軍荀悝をして后を永寧宮に送らしむ。特に后の母高都君龐氏の命を全し、后に居止に就くことを聽す。賈后 羣公有司を諷し奏して曰く、「皇太后 陰かに姦謀を漸め、社稷を危ふくせんと圖り、飛箭もて書を繫ぎ、將士を募るを要(もと)め、同惡相濟、自ら天に絕つ。魯侯 文姜を絕つは〔一〕、春秋の許す所、蓋し以て祖宗を奉順し、至公を天下に任ずるなり。陛下 無已の情を懷くと雖も、臣下 敢へて詔を奉らず。宣く王公に敕し朝堂に于いて會議せしむべし」と。詔して曰く、「此れ大事なり、更めて之を詳らかにせよ」と。有司 又 奏すらく、「駿は外戚の資を藉り、冢宰の任に居り、陛下 既に諒闇に居り、重權を以て委ね、至りて乃ち陰かに凶逆を圖り、私黨を布樹す。皇太后 內に脣齒と為り、逆謀に協同す。禍釁 既に彰らかなり、詔命を背捍し、兵を阻みて眾を負ひ、刃を宮省に血ぬり、而して復た書を流して眾を募り、以て凶黨を奬む。上は祖宗の靈に背き、下は億兆の望を絕つ。昔 文姜 亂に與し、春秋 貶す所なり、呂宗 叛戾し、高后 配を降す。宜しく皇太后を廢して峻陽庶人と為せ」と。 中書監張華等 以為へらく、「太后 先帝に罪を得る者に非ざるも、今 惡みて親しむ所に黨し、聖世に母たらざると為る。宜しく孝成趙皇后の故事に依り、武帝皇后と曰ひ、之を離宮に處らしめ、以て貴終の恩を全せしめよ」と。尚書令下邳王晃等 議して曰く、「皇太后 駿と與に潛かに謀り、社稷を危ふくせんと欲す。復た宗廟に奉承し、配して先帝に合す可からず。宜しく尊號を貶め、廢して金墉城に詣らしめよ」と。是に于いて有司 奏すらく、「晃等の議に從ひ、太后を廢して庶人と為すことを請ふ。使者をして太牢を以て郊廟に告げ、以て祖宗の命を奉承せしめ、萬國の望に稱へ。諸々の供奉する所に至りて、聖恩に順ひ、務めて豐厚に從ふ可し」と。詔 許さず。有司 又 固く請ひ、乃ち之を可とす。又 奏すらく、「楊駿 亂を造せば、家屬 應に誅すべし。詔して其の妻龐が命を原して、以て太后の心を慰む。今 太后 廢して庶人と為り、龐を以て廷尉行刑に付すことを請ふ」と。詔して曰く、「龐 庶人と與に相 隨ふを聽す」と。有司 賈后の旨の希ひ、固く請ひ、乃ち之に從ふ。龐 刑に臨み、太后 抱持して號叫し、截髮し稽顙して、上表して賈后に詣りて妾と稱し、母の命を全ふせんことを請ふも、省せられず。初め、太后 尚ほ侍御十餘人を有し、賈后 之を奪ひ、膳を絕ちて崩じ、時に年三十四、在位十五年なり。賈后 又 妖巫を信じ、太后 必ず冤を先帝に訴ふると謂ひ、乃ち覆して之を殯し、諸々の厭劾の符書藥物を施す。
永嘉元年、追ひて尊號に復し、別に廟を立て、神主 武帝に配せず。成帝の咸康七年に至り、詔を下して內外をして詳議せしむ。衞將軍虞潭 議して曰く、「世祖武皇帝 光は四海に有り、元皇后 乾に應じて配を作す。元后 既に崩じ、悼后 作を繼ぎ、楊駿の肆逆するに至りて、禍 天母に延ぶ。孝懷皇帝 追ひて號諡を復す、豈に以て鯀 殛せられて禹 興り、義は替(かは)らざるに在る者か。又 太寧二年、臣 宗正を忝くし、帝譜 泯棄たり、循按する所罔し。時に博く舊齒に諮り、以て昭穆を定め、故驃騎將軍華恒・尚書荀崧・侍中荀邃と與に舊譜に因りて參論して撰次するに、尊號の重、一として改替する無し。今 聖上の孝思、祗みて禋祀を肅し、詢は羣司に及び、將に以て恢く大禮を定む。臣 輒ち詳を思ひ、伏して惠皇帝起居注・羣臣議奏を見るに、駿の逆謀を作し、社稷を危ふくするを列し、魯の文姜、漢の呂后を引く。臣 竊かに以へらく文姜 莊公の母なると雖も、實に父の讐為り。呂后 寵を私戚に樹て、幾(ほとん)ど劉氏を危ふくし、此の二事を按ずるに今日と異なり。昔 漢の章帝の竇后 和帝の母を殺し、和帝 即位するや盡く諸竇を誅す。當時の議者 竇后を貶めんと欲し、后の亡するに及び、禮を以て葬らざらんと欲す。和帝 奉事すること十年以て、義 違ふ可からず、臣子の道もて、務めて豐厚に從ひ、仁明の稱、往代に表はる。又 故尚書僕射裴頠の悼后の故事を議するを見るに、繼母 出づると雖も、追ひて服し改むること無しと稱す。是を以て孝懷皇帝 號諡を尊崇し、還りて峻陵に葬る。此れ則ち母子 道 全くして、廢事 蕩革するなり。時に于いて弘訓の宮を祭り、未だ太廟に入れず。蓋し是の事の未だ盡さざる、義典に非ざるなり。若し以へらく悼后 復位するを宜と為さば、則ち應に世祖に配食すべし。若し以へらく之を復すを非と為さば、則ち譜諡 宜しく闕くべし。未だ位號有りて居正し、而るに偏りて別室に祠るなり。若し以へらく孝懷皇帝 私かに母子の道を隆し、特に立廟を為せば、此れ苟しくも私情を崇し、國典を虧くこと有り。則ち國譜帝諱、皆 宜しく除棄し、匪徒もて世祖の廟に同祀するを得ざるなり」と。會稽王昱・中書監庾冰・中書令何充・尚書令諸葛恢・尚書謝廣・光祿勳留擢・丹楊尹殷融・護軍將軍馮懷・散騎常侍鄧逸等 咸 潭の議に從ひ、是に由りて太后 武帝に配食す。

〔一〕文姜は、斉の襄公の妹。魯の桓公に嫁いだが、兄と密通した。

現代語訳

武悼楊皇后は諱を芷、字を季蘭、小字を男胤といい、元后の従妹である。父の楊駿は、別に列伝がある。咸寧二(二七六)年に皇后に立てられた。柔順で婦徳をそなえ、後宮で美名があり、とても寵愛された。渤海殤王を生んだが、早くに薨じ、結局子がなかった。太康九(二八九)年、皇后は内外の夫人や命婦をひきいて自ら西郊で桑の葉をつみ、それぞれ帛を賜って差等があった。
太子妃の賈氏が嫉妬深く、武帝はこれを廃位しようとした。皇后は武帝に、「賈公閭(賈充)は国家の元勲です、数世代は特別扱いをするべきです。賈妃はその娘ですから、嫉妬深くても、一つの欠点により大いなる徳が帳消しにはなりません」と言った。また皇后はしばしば賈妃を戒め励ましたが、賈妃は皇后に助けられたことを知らず、恨みを持つようになり、皇后が武帝に自分の悪口を言っていると考え、怒りと怨みをますます深めた。武帝が崩御すると、尊んで皇太后とした。賈后の凶暴さは度が外れており、皇太后の父楊駿が執政することを嫌い、楊駿が乱を起こすと言い触らし、楚王瑋(司馬瑋)と東安王繇(司馬繇)に詔と称して楊駿を誅殺させた。(宮殿の)内外で意思疎通ができず、皇太后は布に筆で文字を書いて、城外に射込み、「太傅(楊駿)を救った者には褒賞がある」と伝えた。賈后はこれを受けて楊太后も反逆者の一味だと言った。
楊駿が亡くなると、詔して後軍将軍の荀悝に楊太后を永寧宮へ移送させた。(恵帝は)特別に皇太后が実母の高都君龐氏の面倒を見るため、付き沿うことを許可した。賈后は群公や担当官に吹き込んで上奏し、「皇太后はひそかに姦悪なはかりごとを進め、社稷を危うくしようと図り、飛矢で文書を(宮殿の外に)射込み、将士を募集して、悪者同士でかばいあい、自ら天との関係を断ち切った。(春秋時代に)魯侯が文姜を遠ざけたのは、『春秋』において(孔子が)認めたことであり、おそらくそれは祖先を奉り、天下に至公を実現するためである。陛下は(楊太后への寛大な措置を)やむを得ないと考えたかも知れないが、臣下は同意していない。広く王公に命じて朝堂で議論するように」と言った。詔して、「これは重大なことだ、改めて慎重に検討せよ」と言った。担当官がまた上奏し、「楊駿は外戚という立場を利用し、執政の任務についたが、陛下が(父武帝の)服喪中であるから、重い権限を委任したところ、(楊駿は)ひそかに凶逆を図り、私党を形成した。皇太后は宮殿内部で首謀者の一員となり、反逆計画に協同した。禍いと罪はすでに明確であり、詔命に違背し、兵を防いで軍勢をひきい、宮廷を刀で血塗り、さらに文書を発して兵士を募り、凶悪な集団を拡大させようとした。上は祖先の霊に背き、下は億兆の民からの期待に反する。昔(春秋魯で)文姜は乱に協力して『春秋』のなかで貶され、(前漢初に)外戚呂氏は反乱し、高后(高帝の呂后)は祭祀の対象から降ろされた。どうぞ楊皇太后を廃して峻陽庶人となさいませ」と言った。 中書監の張華らが、「太后は先帝から罪を受けた者ではないが、いま(憎んで)親しんだ者に味方し、聖世の母とならなかった。(前漢の)孝成趙皇后の故事に基づき、武帝皇后といい、離宮に住まわせ、最期まで母の介助をさせなさい」と言った。尚書令である下邳王晃(司馬晃)らが議して、「皇太后は楊駿と密謀し、社稷を危うくしようとした。ふたたび宗廟を奉り、先帝に合祀すべきではない。そこで尊号を貶め、廃位して金墉城に行かせるべきだ」と言った。ここにおいて担当官が上奏し、「司馬晃らの建議に従い、太后を廃位して庶人として下さい。使者を太牢に供えて郊廟に告げさせ、祖先からの命令を奉り、万国の期待に応えなさい。お供えする物は、天子の意向に従い、手厚くなさいませ」と言った。詔はこれを許可しなかった。担当官が強く要請し、許可がおりた。さらに上奏し、「楊駿が反乱を企てたので、家属は誅殺すべきです。(ところが)詔があって楊駿の妻の龐氏(太后の母)を助命し、太后の心を慰めました。いま太后を廃位して庶人とし、龐氏を廷尉に引き渡して刑を執行して下さい」と言った。詔して、「龐氏は庶人(太后)と一緒にいることを許す」と言った。担当官は賈后の意向を実現しようと、強硬に要請し、かくして詔がこれに従った。龐氏が処刑されるとき、太后が抱きあって泣き叫び、髪を切って額を地につけ、賈后に面会して妾と自称し、母の命乞いをしたいと上表して願ったが、機会が与えられなかった。これより先、太后のもとには侍御が十余人いたが、賈后がこれを奪ったので、太后は食事をとらず崩御した、時に年は三十四、在位十五年であった。賈后もまた妖しげな巫術を信じており、太后が必ず(あの世で)先帝に無罪を訴えると言い、(棺を)ひっくり返して晒し、諸々の呪術を無効にする符書や薬物を施した。
永嘉元(三〇七)年、追って尊号(皇太后)を回復したが、別に廟を立て、神主は武帝と合祀しなかった。成帝の咸康七(三四〇)年に至り、詔を下して内外に詳らかに議論させた。衛将軍の虞潭が建議して、「世祖武皇帝は光を四海に輝かせ、元皇后(一人目の楊皇后)は乾元に応じて合祀されている。元后が崩御し、悼后(二人目の楊皇后)が役割を継いだが、(父の)楊駿が反乱すると、禍いは天母(楊悼后)に及んだ。孝懐皇帝が追って謚号を回復したが、(父の)鯀が罰せられ(たにも拘わらず子の)禹が興ったように、 義は(親子の間で)替わらぬことがあろうか。また太寧二(三二四)年、臣は忝くも宗正となったが、帝室の系譜は廃棄され、信頼性に欠いた。当時ひろく古老に質問し、昭穆(廟の序列)を定め、もと驃騎将軍の華恒・尚書の荀崧・侍中の荀邃とともに古い系譜に基づいて議論し整理したが、尊号の軽重は、一つも変更をしなかった。いま天子が祖先を思い、慎んで祭祀を整えようとし、諮問が各官にも及び、広く大いなる礼制を確立しようとなさっている。私なりに検証しようと考え、伏して恵皇帝起居注・群臣の議奏を見たが、楊駿が謀叛をなし、社稷を危うくしたことを、魯の文姜、漢の呂后を準えていた。私が考えるに文姜は(魯の)荘公の母だが、父の仇でもあった。呂后は呂氏に権力を集中させ、ほぼ劉氏を滅ぼしかけたが、この二つの前例は今日(楊悼后)とは異なる。むかし後漢章帝の妻である竇太后は和帝の母を殺し、和帝が即位すると尽く竇氏を誅殺した。当時の議者は竇太后を貶めようと考え、竇太后が亡くなると、礼制どおりの葬儀に反対した。(しかし)和帝は(竇太后に)十年間(子として)仕えたので、礼儀に違反すべきでないと考え、臣子の道に基づき、手厚く葬ったため、仁明であるという称賛が、往時において明らかになった。また故(もと)の尚書僕射の裴頠が悼后(楊氏)の案件について議論した文を見るに、継母が(家を)出ても、追って(子として)仕えて扱いを変えるべきでないと言っている。ゆえに孝懐皇帝は(楊悼后の)謚号を高め、峻陵に還して葬ったのである。これはつまり母子の道を全うし、廃位のことを撤回したのだ。そのとき弘訓の宮(恵羊皇后)を祭るが、まだ太廟に入れていなかった。恐らくこの事案はまだ議論が尽くされず、依拠すべき前例とはならない。もし楊悼后の復位を正しいとするなら、世祖に配食(合祀)すべきである。もし復位を誤りとするなら、家譜や謚号を除くべきである。(懐帝は)楊悼后の称号を回復したにも拘わらず、(廟の)別室に祭って(矛盾して)いた。もし孝懐皇帝が私的に母子の道を大切にし、特別に廟を立てた(と解釈する)ならば、私情にひきずられ、国家の法典に不備が生じることなる。皇帝の家譜や名簿から、全て抹消し、逆賊を世祖の廟に合祀してはならない」と言った。会稽王昱(司馬昱)・中書監の庾冰・中書令の何充・尚書令の諸葛恢・尚書の謝広・光禄勲の留擢・丹楊尹の殷融・護軍将軍の馮懐・散騎常侍の鄧逸らはみな虞潭の発議に従い、これにより楊(悼)太后を武帝に配食(合祀)した。

原文

左貴嬪名芬。兄思、別有傳。芬少好學、善綴文、名亞于思、武帝聞而納之。泰始八年、拜修儀。受詔作愁思之文、因為離思賦曰……(離思賦※1)。後為貴嬪、姿陋無寵、以才德見禮。體羸多患、常居薄室、帝每遊華林、輒回輦過之。言及文義、辭對清華、左右侍聽、莫不稱美。及元楊皇后崩、芬獻誄曰……(誄 幷序※2)。咸寧二年、納悼后、芬于座受詔作頌、其辭曰……(頌※3)。及帝女萬年公主薨、帝痛悼不已、詔芬為誄、其文甚麗。帝重芬詞藻、每有方物異寶、必詔為賦頌、以是屢獲恩賜焉。答兄思詩・書及雜賦頌數十篇、並行于世。

訓読

左貴嬪 名は芬。兄思、別に傳有り。芬 少くして學を好み、綴文を善くす、名は思に亞ぎ、武帝 聞きて之を納る。泰始八年、修儀を拜す。詔を受けて愁思の文を作り、因りて離思賦を為りて曰く……(離思賦※1)。後に貴嬪と為り、姿は陋にして寵無く、才德を以て禮せらる。體は羸(や)せて患ひ多く、常に薄室に居り、帝 每に華林に遊び、輒ち輦を回して之を過ぐ。言は文義に及び、辭對は清華たり、左右 侍聽し、稱美せざる莫し。元楊皇后 崩ずるに及び、芬 誄を獻じて曰く……(誄 幷序※2)。咸寧二年、悼后を納れ、芬 座に于いて詔を受けて頌を作らしめ、其の辭に曰く……(頌※3)。帝の女たる萬年公主 薨ずるに及び、帝 痛悼して已まず、芬に詔して誄を為らしめ、其の文 甚だ麗し。帝 芬の詞藻を重んじ、每に方物の異寶有らば、必ず詔して賦頌を為らしめ、是を以て屢々恩賜を獲る。兄の思に答ふるの詩・書及び雜賦頌數十篇、並びに世に行はる。

現代語訳

左貴嬪は名を芬という。兄の左思は、別に列伝がある。左芬は若くして学を好み、文を綴るのを得意とした。名声は左思に次ぎ、武帝がこれを聞いて後宮に入れた。泰始八(二七二)年、修儀の位を拝した。詔を受けて愁思(思い患うこと)を表現して、離思賦を作り……(離思賦※1)とした。後に貴嬪となったが、見栄えがしないので寵愛されず、才徳によって礼遇された。痩せ型で病気がちで、つねに薄室(染色する部屋)におり、武帝が華林園で遊ぶときはいつも、輦(座車)を引き返して通過した。論題が文章のことに及ぶと、受け答えは秀麗であり、左右のものは聞き入り、賞賛せぬものがなかった。武元楊皇后が崩御すると、左芬は誄を献じて……(誄 幷序※2)とした。咸寧二(二七六)年、武悼楊皇后が輿入れすると、左芬をそばに座らせて詔を受けて頌を作らせ、その文に……(頌※3)とした。武帝の娘である万年公主が薨ずると、武帝は痛悼して已まず、左芬に詔して誄を作らせたが、その文はとても麗しかった。武帝は左芬の詞藻(文才)を重んじ、つねに各地から珍しい献上品があれば、必ず詔して賦頌を作らせ、(作品の返礼として)恩賜を得た。兄の左思に答えた詩・書及び雑賦頌が数十篇あり、世でよく読まれた。

原文

離思賦※1
生蓬戶之側陋兮、不1.閑習於文符。不見圖畫之妙像兮、不聞先哲之典謨。既愚陋而寡識兮、謬忝厠于紫廬。非草苗之所處兮、恒怵惕以憂懼。懷思慕之忉怛兮、兼始終之萬慮。嗟隱憂之沈積兮、獨鬱結而靡訴。意慘憒而無聊兮、思纏綿以增慕。夜耿耿而不寐兮、魂憧憧而至曙。風騷騷而四起兮、霜皚皚而依庭。日晻曖而無光兮、氣懰慄以洌淸。懷愁戚之多感兮、患涕淚之自零。
昔伯瑜之婉孌兮、每綵衣以娛親。悼今日之乖隔兮、奄與家爲參辰。豈相去之云遠兮、曾不盈乎數尋。何宮禁之淸切兮、欲瞻覩而莫因。仰行雲以歔欷兮、涕流射而沾巾。惟屈原之哀感兮、嗟悲傷于離別。彼城闕之作詩兮、亦以日而喻月。況骨肉之相於兮、永緬邈而兩絕。長含哀而抱戚兮、仰蒼天而泣血。
亂曰、骨肉至親、化爲他人、永長辭兮。慘愴愁悲、夢想魂歸、見所思兮。驚寤號咷、心不自聊、泣漣2.洏兮。援筆舒情、涕淚增零、訴斯詩兮。

特に断りのない限り、校勘には百衲本を用いる。
1.底本は「閉」に作るが、意味が通らないため改めた。
2.底本は「湎」に作るが、乱辞では各句「兮」直前の字が韻字であると推測し改めた。

訓読

蓬戶の側陋なるに生まれ、文符に閑習せず。圖畫の妙像を見ずして、先哲の典謨を聞かず。既に愚陋にして識ること寡なく、謬りに紫廬に厠はるを忝くす。草苗の處る所に非ざれば、恒に怵惕して以て憂懼す。思慕の忉怛たるを懷き、始終の萬慮を兼ぬ。嗟(ああ)隱憂の沈積する、獨り鬱結して訴ふる靡し〔一〕。意 慘憒して聊しむこと無く、思ひ纏綿して以て增ます慕ふ。夜 耿耿として寐ねず、魂 憧憧として曙に至る〔二〕。風 騷騷として四もに起ち、霜 皚皚として庭に依る。日 晻曖として光無く、氣 懰慄として以て洌淸なり。愁戚の多感なるを懷き、涕淚の自ら零つるを患ふ。
昔 伯瑜の婉孌なる、每に綵衣して親を娛しましむ〔三〕。悼むらくは今日の乖隔し、奄ち家と參辰と爲るを。豈に相去ることの云(ここ)に遠からんや、曾て數尋にも盈ちず。何ぞ宮禁の淸切なる、瞻覩せんと欲すれども因る莫し。行雲を仰ぎて以て歔欷し、涕 流射して巾を沾す。惟れ屈原の哀感せるは、嗟 離別に悲傷す〔四〕。彼の城闕の詩を作れるは、亦日を以て月に喻ふ〔五〕。況や骨肉の相於りしに、永く緬邈として兩絕するをや。長く哀しみを含みて戚ひを抱き、蒼天を仰ぎて泣血す。
亂〔六〕に曰く、骨肉至親、化して他人と爲り、永く長(ひさ)しく辭す。慘愴して愁悲し、魂の歸るを夢想し、思ふ所を見る。驚寤して號咷し、心 自ら聊まず、泣(なみだ)漣洏たり。筆を援(と)りて情を舒べ、涕淚 增ます零ち、斯の詩に訴ふ。

〔一〕『楚辞』「遠遊」の「獨鬱結其誰語」を踏まえる。
〔二〕同上「夜夜耿耿而不寐兮、魂煢煢而至曙」を踏まえる。
〔三〕曹植「霊芝篇」に「伯瑜年七十、采衣以娯親。慈母笞不痛、歔欷涕沾巾」とある(宋書』巻二十二、楽志)。
〔四〕屈原は戦国時代・楚の王族であったが、讒言を受けて放逐された。『史記』巻八十四に伝がある。
〔五〕『毛詩』鄭風、子衿の「挑兮達兮、在城闕兮、一日不見、如三月兮」を踏まえる。
〔六〕乱は賦の末尾で、作品全体の内容をまとめるもの。

現代語訳

私は貧しく狭い家に生まれ、書物に習熟しなかった。聖人の絵姿を見ず、古の賢者の言葉を聞くこともなかった。愚かで卑しいうえに知識が少なかったが、畏れ多くも後宮の一員となった。そこは雑草のような私が身を置く場所ではないため、常にびくびくとして気をもんでいる。恋しく悲しい思いを抱き、尽きることのない種々の憂いをかかえている。ああ苦しみと憂いの募ることよ、独り心は結ぼれて訴えるすべもない。心は痛み乱れて楽しまず、思いは絡みつくようにますます懐かしく感じる。夜は不安で眠れず、魂は行きつ戻りつしながら朝を迎える。風が激しく四方から起こり、真白い霜が庭に降りる。日は暗くなって光を失い、空気は悲しく冷え冷えとしている。心を痛めて感じやすくなり、涙がひとりでに落ちてくることに心を悩ませる。
かつて韓伯瑜は(年をとっても)若々しく、いつも(子供が着るような)色とりどりの服を着て親を楽しませた。今(私が親と)隔てられ、たちまち生家と参・辰の星のようになってしまったことを悲しく思う。(実際は)決して遠く離れているわけではなく、ずっと数尋にも満たないほど(の距離にいるの)だが。
屈原が哀感を述べたのは、ああ離別を悲しんだためなのだ。かの城闕の詩が作られたのも、また一日を三月に例える(ような離別の情を詠う)ためだったのだ。肉親がそばにいたのに、永久に遠くへと隔てられてしまったような私は猶更だ。哀しみをかかえ憂いを抱き続け、天を仰いで血の涙を流す。
乱にいう、肉親や近い親戚が、他人に変わり、久しく別れ別れになる。心を痛めて憂い悲しみ、夢の中で(私の)魂は(故郷に)帰り、恋しく思う人に会う。驚き目を覚まして大声で泣き、心は楽しまず、涙はとめどなく流れる。筆をとって感情を述べ、涙がますます落ちる中、この詩によって訴えた。

原文

誄 幷序※2
惟泰始十年秋七月1.丙寅、晉元皇后楊氏崩。嗚呼哀哉。昔有莘適2.殷、姜姒歸周、宣德中闈、徽音永流。樊衞二姬、匡齊翼楚。馬鄧兩妃、亦毗漢主。峨峨元后、光嬪晉宇。伉儷聖皇、比蹤往古。遭命不永、3.背陽即陰。六宮號咷、四海慟心。嗟余鄙妾、銜恩特深。4.追慕三良、甘心自沈。何用存思、不忘德音。何用紀述、託辭翰林。乃作誄曰、
赫赫元后、出自有楊。奕世朱輪、燿彼華陽。惟嶽降神、顯茲禎祥。篤生英秀、5.休有烈光。含靈握文、異于庶姜。和暢春日、操厲秋霜。疾彼攸遂、敦此義方。率6.由四教、匪怠匪荒。行周六親、徽音顯揚。顯揚伊何、京室是7.臧。乃娉乃納、8.聿嬪聖皇。正位閨閾、惟德是將。鳴佩有德、發言有章。仰觀列圖、俯覽篇籍。顧問女史、咨詢竹帛。思媚皇姑、虔恭朝夕。9.允釐中饋、執事有恪。
于禮斯勞、于敬斯勤。雖曰齊聖、邁德日新。日新伊何、克廣弘仁。終溫且惠、帝妹是親。經緯六宮、罔不彌綸。羣妾惟仰、譬彼北辰。亦既青陽、鳴鳩告時。躬執桑曲、率導媵姬。修成蠶蔟、分繭理絲。女工是察、祭服是治。祗奉宗廟、永言孝思。于彼六行、靡不蹈之。皇英佐舜、塗山翼禹。惟衞惟樊、二霸是輔。明明我后、異世同矩。亦能有亂、謀及天府。內敷陰教、外毗陽化。綢繆庶正、密勿夙夜。恩從風翔、澤隨雨播。中外禔福、遐邇詠歌。
天祚貞吉、克昌克繁。則百斯慶、育聖育賢。教踰妊姒、訓邁姜嫄。堂堂太子、惟國之元。濟濟南陽、爲屏爲藩。本支菴藹、四海蔭焉。微斯皇妣、孰茲克臻。曰乾蓋聰、曰聖允誠。積善之堂、五福所幷。宜享高年、匪隕匪傾。如彭之齒、如聃之齡。云胡不造、10.丁茲禍殃。寢疾彌留、寤寐不康。巫咸騁術、和鵲奏方。祈禱無應、嘗藥無良。形神將離、載昏載荒。奄忽崩殂、湮精滅光。哀哀太子、南陽繁昌。攀援不寐、擗踊摧傷。嗚呼哀哉。闔宮號咷、宇內震驚。奔者填衢、赴者塞庭。哀慟雷駭、流淚雨零。歔欷不已、若喪所生。
惟帝與后、契闊在昔。比翼白屋、雙飛紫閣。悼后傷后、早即窀穸。言斯既及、涕泗隕落。追惟我后、實聰實哲。通于性命、達于儉節。送終之禮、比素上世。襚無珍寶、唅無明月。潛輝梓宮、永背昭晰。臣妾哀號、同此斷絕。庭宇遏密、幽室增陰。空設幃帳、虛置衣衾。人亦有言、神道難尋。悠悠精爽、豈浮豈沈。豐奠日陳、冀魂之臨。孰云元后、不聞其音。
乃議景行、景行已溢。乃考龜筮、龜筮襲吉。爰定宅兆、克成玄室。魂之往矣、于以令日。仲秋之晨、啟明始出。星陳夙駕、靈輿結駟。其輿伊何、金根玉箱。其駟伊何、二駱雙黃。習習容車、朱服丹章。隱隱轜軒、弁絰繐裳。華轂曜野、素蓋被原。方相仡仡、旌旐翻翻。輓童引歌、白驥鳴轅。觀者夾塗、士女涕漣。千乘萬騎、迄彼峻山。峻山峨峨、曾阜重阿。弘高顯敞、據洛背河。左瞻皇姑、右睇帝家。推存揆亡、明神所嘉。諸姑姊妹、娣姒媵御。追送塵軌、號咷衢路。王侯卿士、雲會星布。羣官庶僚、縞蓋無數。咨嗟通夜、東方云曙。百祇奉迎、我后安厝。中外俱臨、同哀竝慕。涕如連雲、淚如湛露。扃闓既闔、窈窈冥冥。有夜無晝、曷用其明。不封不樹、山坂同形。
昔后之崩、大火西流。寒往暑過、今亦孟秋。自我銜卹、儵忽一周。衣服將變、痛心若抽。逼彼禮制、惟以增憂。去此素衣、結戀靈丘。有始有終、天地之經。自非三光、誰能不零。存播令德、沒圖丹青。先哲之志、以此爲榮。溫溫元后、實宣慈焉。撫育羣生、恩惠滋焉。遺愛不已、永見恩焉。懸名日月、垂萬春焉。嗚呼庶妾、感四時焉。言恩言慕、涕漣洏焉。

特に断りのない限り、校勘には百衲本を用いる。
1.底本は「景」に作るが、中華書局点校本に従い改めた。
2.底本は「股」に作るが、意味が通らない。
3.底本の「皆」から改めた。
4.底本の「迫」から改めた。
5.底本の「有」から改めた。
6.底本の「出」から改めた。
7.底本の「藏」から改めた。
8.底本の「車」から改めた。
9.底本の「尤」から改めた。
10.底本は「于」に作るが、『藝文類聚』巻十五に従い改めた。

訓読

惟れ泰始十年秋七月丙寅、晉の元皇后楊氏 崩ず〔一〕。嗚呼 哀しいかな。昔 有莘は殷に適き〔二〕、姜姒は周に歸す〔三〕。德を中闈に宣べ、徽音 永流す。樊・衞の二姬、齊を匡し楚を翼く〔四〕。馬・鄧の兩妃、亦た漢主を毗(たす)く〔五〕。峨峨たる元后、晉宇に光嬪す。聖皇に伉儷し、蹤を往古に比ぶ。命に遭ひて永からず、陽に背きて陰に即く。六宮 號咷し、四海 心に慟(なげ)く。嗟(ああ)余 鄙妾、恩を銜むこと特に深し。三良を追慕し、自沈に甘心す〔六〕。何を用て存思せん、德音を忘れじ〔七〕。何を用て紀述せん、辭を翰林に託さん。乃ち誄を作りて曰く、
赫赫たる元后、有楊自り出づ。奕世 朱輪して〔八〕、彼の華陽に燿く。惟の嶽 神を降し、茲の禎祥を顯はす。篤く英秀を生み、休く烈光を有つ〔九〕。靈を含みて文を握り、庶姜に異なり。和は春日を暢らげ、操は秋霜を厲くするがごとし。彼の遂(お)つる攸を疾み、此の義方に敦む。四教に率由し〔十〕、怠るに匪ず荒むに匪ず。行ひは六親に周ひ、徽音 顯揚す。顯揚すれば伊何(いかん)、京室 是れ臧し。乃ち娉(めと)り乃ち納め、聿(ここ)に聖皇に嬪たり。
位を閨閾に正し、惟れ德を是れ將(もち)ふ。珮を鳴らせば節有り、言を發すれば章有り〔一一〕。仰ぎては列圖を觀、俯しては篇籍を覽る。女史に顧問して、竹帛に咨詢す。思(ここ)に皇姑に媚(したが)ひ、朝夕に虔恭す。允(まこと)に中饋を釐(おさ)め、事を執るに恪(つつし)むこと有り。
禮に于て斯れ勞め、敬に于て斯れ勤む。齊聖と曰ふと雖も、德を邁めて日び新し。日び新しければ伊何、克く廣めて仁を弘む。終に溫にして且つ惠〔一二〕、帝妹是れ親しむ。六宮を經緯し、彌綸せざるは罔し。羣妾惟れ仰ぐこと、彼の北辰に譬ふ〔一三〕。亦た既に青陽にして、鳴鳩 時を告ぐ。躬ら桑曲を執り、媵姬を率導す。蠶蔟を修成し、繭を分かちて絲を理む。女工 是れ察め、祭服 是れ治む。祗みて宗廟を奉じ、永く言(ここ)に孝もて思ふ〔一四〕。彼の六行に于ては〔一五〕、之を蹈まざるは靡し。皇英 舜を佐け、塗山 禹を翼く〔一六〕。惟れ衞 惟れ樊、二霸を是れ輔く。明明たる我が后、世を異にするも矩を同じうす。亦た能く亂(おさ)むること有りて、謀は天府に及ぶ。內に陰教を敷きて、外に陽化を毗く。庶正を綢繆して、夙夜に密勿たり。恩は風に從ひて翔り、澤は雨に隨ひて播かる。中外 禔福し、遐邇 詠歌す〔一七〕。
天祚 貞吉にして、克く昌んにして克く繁し。則百の斯の慶び、聖を育み賢を育む。教へは妊姒に踰(まさ)り〔一八〕、訓へは姜嫄に邁(まさ)る。堂堂たる太子は、惟れ國の元なり。濟濟たる南陽、屏爲り藩爲り。本支 菴藹として、四海 蔭(しげ)る。斯の皇妣 微(な)かりせば、孰か茲れ克く臻(いた)らん。曰(ここ)に乾にして蓋し聰、曰に聖にして允に誠。積善の堂は、五福の幷する所なり〔一九〕。宜しく高年を享くべく、隕つるに匪ず傾(やぶ)るるに匪ざるべし。彭の齒に如く、聃の齡に如かるべし〔二〇〕。云に胡ぞ不造にして、茲の禍殃に丁(あ)たれるや。疾に寢して彌留し、寤寐 康からず。巫咸 術を騁せ、和鵲 方を奏す〔二一〕。祈禱 應ずること無く、嘗藥すれども良きこと無し。形と神と將に離れんとし、載(すなわ)ち昏にして載ち荒なり。奄忽として崩殂し、精を湮(しず)め光を滅ぼす。哀哀たる太子、南陽と繁昌と〔二二〕。攀援して寐ねず、擗踊して摧傷す。嗚呼哀しいかな。闔宮 號咷し、宇內 震驚す。奔る者 衢を填め、赴く者 庭を塞ぐ。哀慟 雷のごと駭かし、流淚 雨のごと零つ。歔欷 已まずして、生まるる所を喪ふが若し。
惟れ帝と后と、在昔に契闊す。翼を白屋に比(なら)べ、雙つながら紫閣に飛ぶ。后を悼み后を傷み、早に窀穸に即く。言に斯れ既に及び、涕泗 隕落す。我が后を追惟すれば、實に聰にして實に哲なり。性命に通じ、儉節に達せり。送終の禮、素を上世に比す。襚に珍寶無く、唅に明月無し。輝(ひかり)を梓宮に潛め、永へに昭晰に背く。臣妾 哀號し、同じく此に斷絕す。庭宇 遏密して、幽室 陰を增す。空しく幃帳を設け、虛しく衣衾を置く。人に亦た言有り、「神道 尋ね難し」と。悠悠たる精爽、豈に浮き豈に沈まん。豐奠 日び陳ね、魂の臨せんことを冀ふ。孰か元后云(あ)るに、其の音を聞かざらん。
乃ち景行を議すれば、景行 已に溢る。乃ち龜筮に考ふれば、龜筮 吉を襲ぬ。爰に宅兆を定め、克く玄室を成す。魂の往けるや、于に令日を以てす。仲秋の晨、啟明始めて出づ。星 陳なりて夙に駕し〔二三〕、靈輿 駟を結ぶ。其の輿は伊何、金根と玉箱とあり。其の駟は伊何、二駱と雙黃とあり。習習たる容車〔二四〕、朱服と丹章とあり。隱隱たる轜軒、弁絰と繐裳とあり〔二五〕。華轂 野に曜き、素蓋 原を被ふ。方相 仡仡として、旌旐 翻翻たり。輓童 歌を引き、白驥 轅を鳴らす。觀者 塗を夾み、士女 涕漣たり。千乘萬騎、彼の峻山に迄る。峻山 峨峨として、曾阜 重阿あり。弘高にして顯敞、洛に據りて河を背にす。皇姑を左瞻し、帝家を右睇す。存を推し亡を揆るは、明神の嘉する所。諸姑と姊妹と、娣姒と媵御とあり。塵軌を追送し、衢路に號咷す。王侯卿士、雲のごと會まり星のごと布く。羣官庶僚、縞蓋 數無し。咨嗟 夜を通し、東方云に曙く。百祇 奉迎して、我が后 安厝す。中外 俱に臨み、哀しみを同じうし慕ひを竝(とも)にす。涕は連雲のごとく、淚は湛露のごとし。闓(ひら)けるを扃(と)ざせば既に闔ぢ、窈窈たり冥冥たり。夜有りて晝無し、曷ぞ其の明を用ひん。封ぜず樹せず〔二六〕、山坂と形を同じうす。
昔 后の崩ずるや、大火 西流せり〔二七〕。寒往きて暑過ぎ、今亦た孟秋なり。我 卹ひを銜みて自り、儵忽として一たび周る。衣服 將に變ぜんとし、心を痛むること抽(やぶ)るが若し。彼の禮制に逼り、惟に以て憂ひを增す。此の素衣を去り、靈丘に結戀す。始め有りて終り有るは、天地の經なり。三光に非ざる自りは〔二八〕、誰か能く零ちざる。存しては令德を播き、沒しては丹青に圖(えが)かる。先哲の志、此を以て榮と爲す。溫溫たる元后、實に慈を宣べり。羣生を撫育し、恩惠 滋し。遺愛 已まず、永へに恩とせらる。名を日月に懸け、萬春に垂る。嗚呼 庶妾、四時に感ず。言に恩とし言に慕ひ、涕 漣洏たり。

〔一〕『礼記』曾子問に「賤不誄貴、幼不誄長、禮也」とあるが、漢代には下位の者が上位の者の為に誄を作ることもあった。左芬の誄も同様の例である。『藝文類聚』巻十五に引く左芬の「上元皇后誄表」には「伏惟聖善宣慈、仁洽六宫、含弘光大、德潤四海。妾聞之、前志卑不誄、尊少不誄長。揚雄、臣也。而誄漢后。班固、子也。而誄其父。皆以述揚景仁、顯之竹帛。豈所謂三代不同禮、随时而作者乎」とある。
〔二〕殷の湯王の后は有莘氏の出身。有㜪氏にも作る。『列女伝』巻一に「湯妃有㜪者、有㜪氏之女也」とある。
〔三〕「姜姒」は姜嫄(太姜)と太姒。前者は周の祖となった后稷の母。後者は文王の后。ともに『列女伝』巻一に見える。
〔四〕樊姬は楚の荘王夫人、衛姫は斉の桓公夫人。ともに『列女伝』巻二に見える。
〔五〕馬皇后は明帝の后、鄧皇后は和帝の后。ともに『後漢書』巻十上、皇后紀に見える。
〔六〕「三良」は秦の穆公のために殉死した子車氏の奄息、仲行、鍼虎の三兄弟。『春秋左氏伝』文公六年の伝に「秦伯任好卒。以子車氏之三子奄息・仲行・鍼虎爲殉。皆秦之良也」とある。
〔七〕『毛詩』鄭風、有女同車に「彼美孟姜、德音不忘」とある。
〔八〕朱輪は貴人の乗る車。車輪を朱塗りにしたことに由来する。『漢書』巻三十六、劉向伝に「今王氏一姓乘朱輪華轂者二十三人」とある。
〔九〕『毛詩』周頌、載見に「鞗革有鶬、休有烈光」とある。
〔一〇〕『論語』述而に「子以四教、文・行・忠・信」とある。
〔一一〕『毛詩』小雅、都人士に「其容不改、出言有章」とある。
〔一二〕『毛詩』邶風、燕燕に「終溫且惠、淑慎其身」とある。
〔一三〕『論語』為政に「爲政以德、譬如北辰。居其所而眾星共之」とある。
〔一四〕『毛詩』大雅、下武に「永言孝思、孝思維則」とある。
〔一五〕『周礼』地官、大司徒に「六行、孝・友・睦・婣・任・恤」とある。
〔一六〕「皇英」は娥皇と女英の姉妹で、舜の后。塗山は塗山氏の娘で、禹の后。ともに『列女伝』巻一に見える。
〔一七〕『漢書』巻五十七、司馬相如伝に「遐邇一體、中外禔福」とある。また『藝文類聚』巻十五に引く楊雄「皇后誄」にも「遐邇蒙祉、中外禔福」とある。
〔一八〕「妊姒」は太任(妊は任に同じ)と太姒。太任は周の文王の母で、やはり『列女伝』巻一に見える。
〔一九〕『尚書』周書、洪範に「九、五福。一曰壽、二曰富財、三曰康寧、四曰攸好德、五曰考終命」とある。
〔二〇〕「彭」は彭祖。「聃」は老聃(耼)。いずれも長寿の人物。彭祖は『荘子』逍遥遊に「上古有大椿者、以八千歲爲春、八千歲爲秋。而彭祖乃今以久特聞、眾人匹之、不亦悲乎」とある。老聃は一説に老子のことであるといい、『史記』巻六十三、老子伝では老子の字が「耼」であったとされる。
〔二一〕「巫咸」は伝説的な巫祝者。「和鵲」は名医であったという医和(龢)と扁鵲。『漢書』巻一百、敘伝上に「龢鵲發精於鍼石」とあり、 顔師古注に「和、秦醫和也。鵲、扁鵲也」とある。扁鵲は『史記』巻一百五に伝がある。
〔二二〕『晋書』巻三十一、元后伝に「甚被寵遇、生毗陵悼王軌・惠帝・秦獻王柬……」とあり、元后には三人の男子があったことがわかる。しかし泰始十年当時存命中であったのは、のちの恵帝・司馬衷と秦の献王・司馬柬のみ。「南陽」・「繁昌」は地名と思われるが、太子らとの詳細な関係は不明。
〔二三〕『毛詩』鄘風、定之方中に「星言夙駕、說于桑田」とある。
〔二四〕容車は葬送の際、生前の衣冠や図像を乗せる車。『後漢書』巻二十、祭遵伝に「至葬、車駕復臨、贈以將軍侯印綬、朱輪容車、介士軍陳送葬、謚曰成侯」とあり、李賢注に「容車、容飾之車、象生時也」とある。
〔二五〕『周礼』春官宗伯、司服に「凡弔事、弁絰服」とある。
〔二六〕『周易』繋辞下伝に「古之葬者、厚衣之以薪、葬之中野、不封不樹、喪期无數」とある。ここでは薄葬のことをいう。
〔二七〕大火は星の名。『爾雅』釈天に「大火謂之大辰」とある。『毛詩』豳風、七月に「七月流火、九月授衣」とあり、毛伝に「火、大火也」とある。元后が崩じたのは七月のことであった。
〔二八〕「三光」は日・月・星のこと。『白虎通』封公侯に「天有三光、日月星」とある。

現代語訳

泰始十年秋七月丙寅の日に、晋の元皇后楊氏が崩御した。ああ哀しいことよ。かつて有莘氏の娘は殷に嫁ぎ、姜嫄と大姒とは周に嫁いだ。後宮に徳をもたらし、名声は広がり続けた。樊姫と衛姫の二人は、斉を正し楚を助けた。馬妃と鄧妃の二人も、また漢の皇帝を助けた。偉大なる元后は、晋の宮廷に嫁いだ。優れた皇帝のつれあいとなり、その偉業は古に等しい。天命により若くして亡くなり、明るいこの世を去り暗いあの世へと赴いた。皇后の宮殿ではみな泣き叫び、天下は心を痛めた。ああ私めは、特に深いご恩を受けてきた。三良に思いを馳せ、入水して殉じたいと願うほどだ。いかにして思いを致そうか、お言葉を忘れずにいよう。いかにして(業績を)記そうか、言葉を文苑に託そう。そこで誄を作っていう、
あきらけき元后は、楊氏から出た。代々朱い車輪の車に乗り、かの華山の南に栄えた。華山は神を降し、この瑞祥をあらわした。優れたお方を生みたてまつり、めでたく光明を持ち続けた。(皇后は)優れた力を内に備えて文才を持ち、他の大勢の妃とは違っていた。優しさは春の日をやわらげるようで、操は秋の霜を研ぎ澄ますかのようであった。堕落することを憎み、義に適った行いに努めた。(文・行・忠・信の)四教に従い、怠ることなく乱れることがなかった。行いは家族らになじみ、誉れは行き渡った。(誉れが)行き渡ったことで、王室は良好になった。(皇帝陛下は彼女を)娶って迎え入れ、(彼女は)偉大な皇帝の后となったのであった。
後宮において位階を正し、徳によって事を行った。佩玉を鳴らす音には節度があり、発する言葉は美しかった。見上げれば(聖人の)絵姿を見て、下を向けば書物を読んだ。女官を顧みては尋ね、史書に照らした。姑に従い、朝な夕な慎み恭しくした。食事に関することを整え、事を行う際は慎み深かった。
礼に力を尽くし、敬に勤しんだ。(そのさまは)聖人に等しかったが、徳を推し進めて日々改めた。日々改めることで、あまねく仁を広めた。始終温和でまた恭順であり、皇帝陛下の妹も親しみを持った。六つの宮殿を治め整え、全てを統括した。(後宮の)多くの女性に尊敬されるさまは、かの北極星のようであった。さて春になると、斑鳩が時を告げる。(皇后は)自ら桑摘みの曲をつかさどり、付き添いの女性を導いた。蚕のまぶしを整え、繭をほぐして糸を紡いだ。女工を統率し、祭祀の衣服を整えた。謹んで宗廟を継承し、久しく孝心を寄せた。かの六行に対しては、履行しないことはなかった。娥皇と女英は舜を助け、塗山氏の娘は禹を助けた。衛姫と樊姫とは、二人の覇者を補佐した。あきらけき我が皇后は、時代は異なれど基準とするところは同じであった。また統治の能力もあり、お考えは朝廷のことにも及んでいた。内には女子の教育を施し、外には男子の教化を助けた。嫡子と庶子とをまとめ、朝夕に努め励んだ。恩恵は風によって翔け、うるわしき徳業は雨によって播かれた。内外は喜び、遠近の地で歌が詠まれた。
皇統は正しさにより幸いを受け、繁栄が実現された。多くのよろこびが、聖人を育み賢人を育んだ。教訓は大姒や、姜嫄にまさるほどであった。立派な太子は、晋国の嫡子となった。多く盛んな南陽の地は、守りの要となった。嫡系も傍系も木が茂るように盛んであり、天下は栄えた。皇后なくして、ここまでは至らなかったであろう。強くて聡明であり、神聖にして誠実であった。善行に満ちた宮殿は、(長寿・富裕・健康・徳を好むこと・天寿を全うすること)五福が集まるべきところであった。当然長寿を得るべく、崩れず損なわずにいるべきであった。彭祖の寿命に等しく、老聃の年齢に等しく生きるべきであった。しかしどうして不幸にも、この災いに遭ってしまったのか。病床に伏すことが長引き、寝ても覚めても体調が良くなかった。巫咸(のようなすぐれた巫覡)が術を駆使し、医和や扁鵲(のような名医)が手を尽くした。祈禱をしても効き目はなく、薬を飲んでも治らなかった。体と魂が離れようとし、さて(容貌は)乱れに乱れた。忽ちのうちに崩御し、輝きは失せ光は消えた。哀しみに暮れる太子たちは、南陽国と繁昌県とにいた。しかし(母親に)思いを寄せるあまり眠れず、胸を叩き地団太を踏んで心を痛めた。ああ哀しいことよ、宮中の人は泣き叫び、天下は震え戦いた。行く者は道を埋め尽くし、やってくる者は庭を塞ぐほど。慟哭の声は雷のように響き、流れる涙は雨のように落ちた。すすり泣きは止まず、(皆が)生みの親を亡くしたかのようであった。
皇帝と皇后とは、古き伝統のために勤め励んだものだ。質素な家に睦まじく暮らし、揃って宮殿へと飛んだものだ。皇后を追悼し哀傷し、朝に埋葬する。その時が来ると、涙と洟が流れ落ちた。我が皇后を思い出せば、まことに聡明で明哲であったことだ。天分をよく知り、慎しむことをよく理解していた。葬送の礼は、上代のごとく質素であった。墓道に珍宝を置かず、口には明月のような宝玉を含まなかった。生命の輝きを梓の木で造った棺に潜め、明るい所からは永遠に去った。臣下や側室たちは哀しんで泣き叫び、皆(皇后と)死別することとなった。邸内の音楽は止み、薄暗い部屋は更に陰を濃くした。ひっそりと帳を設けて、寂しげに衣服を置いた。人はこう言った、「墓道が(質素で目立たず)見つけられない」と。遠く去っていった魂は、浮きもせず沈みもすまい。多くの供え物を日ごとに並べ、魂が降臨することを願う。元后という人がいながら、誰がその名声を聞かないことがあろう。
さて(皇后の)立派な行いについて議論すれば、そのような行い(の多さ)は溢れんばかりであった。さて卜筮により占ってみると、繰り返し吉と出た。墓所を決め、墓室を完成させた。魂が去ったのは、吉日のことであったのだ。仲秋の朝、明けの明星がたった今出た。星が連なって見える早朝に(葬儀に携わる者たちは)馬に乗り、棺を乗せた車は四頭の馬に繋がれた。その車は、黄金で飾った本体に玉の車室。四頭の馬は、河原毛の馬が二頭と黄色い馬が二頭。皇后の衣服を積んだ車はどんどん進み、朱色の服を着て赤い旗を持った者が乗る。棺を積んだ車は音高らかに進み、弁絰の冠を被り喪服を着た者が乗る。飾りのついた轂が野に輝き、白い車蓋が平原を被う。方相氏は勇壮な様子で、旗は翻っている。車を牽く童子は声を伸ばして歌い、白い駿馬は轅を鳴らす。見物人は道を挟むように群がり、男も女も涙を流す。多くの車馬は、かの高山に至る。山は高く険しく、峰や丘が重なっている。高く広々として、洛水に沿い黄河を背後に控える。皇太后(の墓)を左に、天子の宮殿を右に望む。生者にも死者にも思いを致すことは、あきらけき神のよしとする所。多くのおばや、女兄弟や付き添いの者がいる。(彼女たちは)塵の舞う轍を追いつつ見送り、分かれ道で泣き叫ぶ。王や侯また卿や士は、雲のように集まり星のように並んでいる。大勢の官僚たちは、絹の車蓋を無数に並べている。ああ夜が終わって、東方に曙の光が差す。多くの土地神が迎える中、我が皇后(の遺体)は安置された。皆が立ち合い、哀しみと慕情を分かち合った。涙は連なる雲、盛んに置く露のようである。(墓は)開いていた穴を閉ざして塞がれ、奥深く暗い。夜があるばかりで昼はないのだから、明るい光もないのだ。(墓の上には)高い土盛りもせず木も植えず、山の傾斜と同じ形である。
皇后が崩御した際には、大火の星が西へと流れた。寒い冬が去って暑い夏が過ぎ、今また初秋の季節となった。私が(皇后の死に)心を痛めてから、忽ち一年が経った。服装が変わる兆しに、胸が張り裂けんばかりに痛む。礼制に沿って事を行えば、そのために憂いは増す。この白い喪服を脱ぎ、墓前で恋しさを募らせる。始めがあり終りがあるのは、天地の法則である。日月や星でない限り、誰もが衰えるのだ。生前は立派な德を施し、死後は絵画として描かれる。古の賢者の志は、これを誉れとした。優しかった元后は、まことに多くの者たちを慈しんだ。民衆を大切に育み、沢山の恩恵があった。残された者たちの思いは途切れることなく、永遠に感謝される。名声を日月と共に伝え、万年にわたって示し続ける。ああ(後宮の)多くの女性たちは、季節ごとに(名声が伝わっていることを)感じる。感謝し思慕するたびに、涙が流れる。

原文

頌※3
峨峨華嶽、峻極泰淸。巨靈導流、河瀆是經。惟瀆之神、惟嶽之靈。鍾于楊族、載育盛明。穆穆我后、應期挺生。含聰履喆、岐嶷夙成。如蘭之茂、如玉之榮。越在幼沖、1.休有令名。飛聲八極、翕習紫庭。超妊邈姒、比德皇英。京室是嘉、備禮致娉。令月吉辰、百僚奉迎。周生歸韓、詩人是詠。我后戾止、車服暉暎。登位太微、明德日盛。羣黎欣戴、函夏同慶。
翼翼聖皇、叡喆孔純。愍茲狂戾、闡惠播仁。蠲釁滌穢、與時惟新。沛然洪赦、2.恩詔遐震。后之踐阼、囹圄虛陳。萬國齊歡、六合同欣。坤神抃舞、天人載悅。興瑞降祥、表精日月。和氣烟熅、三光朗烈。既獲嘉時、尋播甘雪。玄雲晻藹、靈液霏霏。既儲既積、待陽而晞。曣3.晛沾濡、柔潤中畿。長享豐年、福祿永綏。

特に断りのない限り、校勘には百衲本を用いる。
1.底本では「林」に作るが、意味が通らない。
2.底本の「思」から改めた。
3.底本の「睍」から改めた。

訓読

峨峨たる華嶽、泰淸に峻極たり。巨靈 流れを導き、河瀆 是れ經なり。惟れ瀆の神、惟れ嶽の靈。楊族に鍾(あつ)まり、盛明を載育す。穆穆たる我が后、期に應じて生を挺(ぬ)く。聰を含み喆を履み、岐嶷 夙に成る。蘭の茂るがごとく、玉の榮えるがごとし。越(ここ)に幼沖に在りて、休(よ)く令名有り。聲を八極に飛ばしめ、紫庭に翕習す。妊を超え姒を邈んじ、德を皇英に比す。京室 是れ嘉し、禮を備え娉を致す。令月吉辰、百僚 奉迎す。周生 韓に歸き、詩人 是れ詠ふ〔一〕。我が后 戾止し、車服 暉暎す。位を太微に登らしめ、明德 日び盛んなり。羣黎 欣戴し、函夏 同に慶ぶ。
翼翼たる聖皇、叡喆にして孔だ純なり。茲の狂戾を愍み、惠を闡き仁を播く。釁(あやま)ちを蠲(はら)ひ穢れを滌ひ、時と與に惟れ新し。沛然として洪赦し、恩詔 遐震す。后の踐阼するや、囹圄 虛しく陳べん。萬國 歡びを齊しうし、六合 欣びを同じうす。坤神 抃舞し、天人 載ち悅ぶ。瑞を興し祥を降し、精を日月に表す。和氣と烟熅と、三光 朗烈たり。既に嘉時を獲、尋(つ)ぎて甘雪を播く。玄雲 晻藹として、靈液 霏霏たり。既に儲(そな)へ既に積めば、陽を待ちて晞さん。曣晛に沾濡して、中畿を柔潤す。長へに豐年を享け、福祿 永へに綏んぜん。

〔一〕戦国時代の韓は周王室の血を引く。『史記』巻四十四、韓世家に「韓之先與周同姓、姓姬氏」、『史記索隠』に「按左氏傳云、『邗・晉・應・韓、武之穆』。是武王之子、故詩稱『韓侯出祖』、是有韓而先滅」とある。「韓侯出祖」は大雅、韓奕の句。

現代語訳

聳え立つ華山は、天に届くほど険しく高い。大いなる神が流れを導き、川筋は正しい。(それは)河川や、山岳の神霊である。(この神々が)楊氏の許につどい、繁栄の世を育んだ。美しく立派な我が皇后は、その時期に当たり傑出していた。聡明で明哲な性格を持ち、早熟の兆しがあった。(そのさまは)蘭が茂り、玉が輝くかのよう。年少でありながら、立派な名声があった。名声を八方の遠くまで及ぼし、その声望は宮庭にも伝わった。大姒を遠く超越し、徳は娥皇と女英に等しい。王室はこれを褒め、礼を尽くして迎え入れた。佳き月の吉日に、百官は謹んで迎える。周王室の者が韓の国に封じられたとき、『詩経』の詩人はこれを詠った。我が皇后も(晋朝に)至り、車と礼服は光り輝く。位を天の高みにまで上げ、聡明な徳は日に日に盛んになる。万民は喜んで(皇后を)押し戴き、天下はこぞって祝福する。
慎み深い皇帝陛下は、賢明できわめて純粋である。愚かで乱暴な者どもの行いに心を痛め、恵みを広め仁を施す。過ちを取り除き穢れを洗い流し、時と共に改める。盛大に大赦を行い、有り難き詔は遠方にまで轟く。皇后が位につけば、牢は無用となる。全ての国、世界中がよろこびを分かち合う。地の神は手を叩いて舞い、天の神は喜ぶ。瑞祥を示し、光明を日月によって表す。調和した陰陽の気と天地の気があり、日月や星は明るく輝く。(婚礼は)佳き日に合い、そしてめでたい雪を降らせる。濃い雲が空を暗くし、神聖な雨は盛んに降る。既に備えは十分であるから、陽光が差すのを待って乾かそう。日が出る頃には濡れ、都一帯を優しく潤す。いつまでも実り豊かな年が続き、幸福によって永遠に安らかであろう。

原文

胡貴嬪名芳。父奮、別有傳。泰始九年、帝多簡良家子女以充內職、自擇其美者以絳紗繫臂。而芳既入選、下殿號泣。左右止之曰、陛下聞聲。芳曰、死且不畏、何畏陛下。帝遣洛陽令司馬肇策拜芳為貴嬪。帝每有顧問、不飾言辭、率爾而答、進退方雅。時帝多內寵、平吳之後復納孫晧宮人數千、自此掖庭殆將萬人。而並寵者甚眾、帝莫知所適、常乘羊車、恣其所之、至便宴寢。宮人乃取竹葉插戶、以鹽汁灑地、而引帝車。然芳最蒙愛幸、殆有專房之寵焉、侍御服飾亞于皇后。帝嘗與之摴蒱、爭矢、遂傷上指。帝怒曰、此固將種也。芳對曰、北伐公孫、西距諸葛、非將種而何。帝甚有慚色。芳生武安公主。

訓読

胡貴嬪 名は芳なり。父奮、別に傳有り。泰始九年、帝 多く良家の子女を簡びて以て內職を充たし、自ら其のなる美者を擇び絳紗を以て臂に繫(むす)ぶ。而るに芳 既に選に入り、殿を下りて號泣す。左右 之を止めて曰く、「陛下 聲を聞かん」と。芳曰く、「死すら且つ畏れず、何ぞ陛下を畏れんか」と。帝 洛陽令の司馬肇を遣はして策もて芳に拜して貴嬪と為す。帝 顧問有る每に、言辭を飾らず、率爾にして答へ、進退 方雅なり。時に帝 內寵多く、平吳の後に復た孫晧の宮人數千を納れ、此自り掖庭 殆ど將に萬人にならんとす。寵に並ぶ者 甚だ眾く、帝 適く所を知る莫く、常に羊車に乘り、其の之く所を恣にし、至りて便ち宴寢す。宮人 乃ち竹葉を取りて戶に插し、鹽汁を以て地に灑し、而して帝の車を引く。然るに芳 最も愛幸を蒙り、殆ど專房の寵焉有り、侍御服飾は皇后に亞ぐ。帝 嘗て之と與に摴蒱し、矢を爭ひ、遂に上指を傷つく。帝 怒りて曰く、「此れ固に將種なり」と。芳 對へて曰く、「北のかた公孫を伐ち、西のかた諸葛を距ぐは、將種に非らざれば何ぞや」と。帝 甚だ慚色有り。芳 武安公主を生む。

現代語訳

胡貴嬪は名を芳という。父の胡奮は、別に列伝がある。泰始九(二七三)年、武帝は多くの良家の子女を選んで後宮の職を満たし、なかでも美しい者を自ら見定めて絳紗(赤い薄絹)を腕に結んで目印とした。このとき胡芳は選ばれてしまい、宮殿を下りて号泣した。そばのものが「陛下に声を聞かれます」と制止した。胡芳は「死すら畏れぬのに、なぜ陛下を畏れるものか」と言った。武帝は洛陽令の司馬肇を派遣して策書をもたらして胡芳を貴嬪とした。武帝から問い掛けがあるたび、言葉を飾らず、即座に答え、その進退は風雅であった。このとき武帝は寵愛する女性が多く、呉を平定した後はさらに孫晧の後宮から数千人を入れ、掖庭は一万人に届きそうだった。可愛がっている者がとても多く、武帝は行く先を決めず、つねに羊車に乗り、羊の赴くままとし、到着したらそこで飲み食いして寝た。宮人は竹の葉を戸に挿し、塩水を地に染みこませ、武帝の車を招いた。しかし胡芳がもっとも寵愛をこうむり、ほぼ彼女のところだけに通い、侍御(の人数)や服飾は皇后に次いだ。武帝はかつて彼女と摴蒱(すごろく)をし、熱中して矢を取りあい、武帝の手指を傷つけた。武帝は怒り、「さすがに将軍の家出身だな」と言った。胡芳は「北のかた公孫氏を討伐し、西のかた諸葛氏を防ぎ止めた(司馬懿の)血は、将軍の家ではないのですか」と答えた。武帝はひどく恥じた。胡芳は武安公主を生んだ。

原文

諸葛夫人名婉、琅邪陽都人也。父沖、字茂長、廷尉卿。婉以泰始九年春入宮、帝臨軒、使使持節・洛陽令司馬肇拜為夫人。兄銓、字德林、散騎常侍。銓弟玫、字仁林、侍中・御史中丞。玫婦弟周穆、清河王覃之舅也。永嘉初、穆與玫勸東海王越廢懷帝、立覃、越不許。重言之、越怒、遂斬玫及穆。臨刑、玫謂穆曰、我語卿何道。穆曰、今日復何所說。時人方知謀出於穆、非玫之意。

訓読

諸葛夫人 名は婉、琅邪陽都の人なり。父沖、字は茂長、廷尉卿なり。婉 泰始九年春を以て宮に入り、帝 軒に臨み、使持節・洛陽令司馬肇をして拜して夫人と為さしむ。兄銓、字は德林、散騎常侍なり。銓の弟玫、字は仁林、侍中・御史中丞なり。玫の婦の弟たる周穆、清河王覃の舅なり。永嘉初、穆 玫と與に東海王越に懷帝を廢して、覃を立つことを勸め、越 許さず。重ねて之を言ひ、越 怒り、遂に玫及び穆を斬る。刑に臨み、玫 穆に謂ひて曰く、「我 卿に語りて何と道(い)はん」と。穆曰く、「今日 復た何をか說く所あらん」と。時人 方に謀は穆より出で、玫の意に非らざるを知る。

現代語訳

諸葛夫人は名を婉といい、琅邪陽都の人である。父の諸葛沖は、字を茂長といい、廷尉卿である。諸葛婉は泰始九(二七三)年春に後宮に入り、武帝が軒に臨み、使持節・洛陽令司馬肇に命じて(諸葛婉を)夫人に任命した。兄の諸葛銓は、字を徳林といい、散騎常侍である。銓の弟の諸葛玫は、字を仁林といい、侍中・御史中丞である。諸葛玫の妻の弟である周穆は、清河王覃(司馬覃)の舅である。永嘉の初(三〇七-)、周穆は諸葛玫とともに東海王越(司馬越)に向けて懐帝を廃して、司馬覃を立てることを勧めたが、司馬越は許さなかった。重ねて提言すると、司馬越が怒り、とうとう諸葛玫と周穆を斬ることにした。刑が執行されるとき、諸葛玫は周穆に「私はきみに語り何を伝えようか」と言った。周穆は、「今日(死刑が確定しており)もう話すことはない」と言った。当時の人々は(会話の主導権を見て)謀略が周穆から出たものであり、諸葛玫の意思ではなかったと悟った。

惠賈皇后

原文

惠賈皇后諱南風、平陽人也、小名旹。父充、別有傳。初、武帝欲為太子取衞瓘女、元后納賈郭親黨之說、欲婚賈氏。帝曰、衞公女有五可、賈公女有五不可。衞家種賢而多子、美而長白。賈家種妒而少子、醜而短黑。」元后固請、荀顗・荀勖並稱充女之賢、乃定婚。始欲聘后妹午、午年十二、小太子一歲、短小未勝衣。更娶南風、時年十五、大太子二歲。泰始八年1.二月辛卯、冊拜太子妃。妒忌多權詐、太子畏而惑之、嬪御罕有進幸者。 帝常疑太子不慧、且朝臣和嶠等多以為言、故欲試之。盡召東宮大小官屬、為設宴會、而密封疑事、使太子決之、停信待反。妃大懼、倩外人作答。答者多引古義。給使張泓曰、太子不學。而答詔引義、必責作草主、更益譴負。不如直以意對。妃大喜、語泓、便為我好答、富貴與汝共之。泓素有小才、具草、令太子自寫。帝省之、甚悅。先示太子少傅衞瓘、瓘大踧踖、眾人乃知瓘先有毀言、殿上皆稱萬歲。充密遣語妃云、衞瓘老奴、幾破汝家。
妃性酷虐、嘗手殺數人。或以戟擲孕妾、子隨刃墮地。帝聞之、大怒、已修金墉城、將廢之。充華趙粲從容言曰、賈妃年少、妒是婦人之情耳、長自當差。願陛下察之。其後楊珧亦為之言曰、陛下忘賈公閭耶。荀勖深救之、故得不廢。惠帝即位、立為皇后、生河東・臨海・始平公主・哀獻皇女。
后暴戾日甚。侍中賈模、后之族兄、右衞郭彰、后之從舅、並以才望居位、與楚王瑋・東安公繇分掌朝政。后母廣城君養孫賈謐干預國事、權侔人主。繇密欲廢后、賈氏憚之。及太宰亮・衞瓘等表繇徙帶方、奪楚王中候、后知瑋怨之、乃使帝作密詔令瑋誅瓘・亮、以報宿憾。模知后凶暴、恐禍及己、乃與裴頠・王衍謀廢之、衍悔而謀寢。
后遂荒淫放恣、與太醫令程據等亂彰內外。洛南有盜尉部小吏、端麗美容止、既給厮役、忽有非常衣服、眾咸疑其竊盜、尉嫌而辯之。賈后疏親欲求盜物、往聽對辭。小吏云、先行逢一老嫗、說家有疾病、師卜云宜得城南少年厭之、欲暫相煩、必有重報。於是隨去、上車下帷、內簏箱中、行可十餘里、過六七門限、開簏箱、忽見樓闕好屋。問此是何處、云是天上、即以香湯見浴、好衣美食將入。見一婦人、年可三十五六、短形青黑色、眉後有疵。見留數夕、共寢歡宴、臨出贈此眾物。聽者聞其形狀、知是賈后、慚笑而去、尉亦解意。時他人入者多死、惟此小吏、以后愛之、得全而出。及河東公主有疾、師巫以為宜施寬令、乃稱詔大赦天下。
初、后詐有身、內稾物為產具、遂取妹夫韓壽子慰祖養之、託諒闇所生、故弗顯。遂謀廢太子、以所養代立。時洛中謠曰、南風烈烈吹黃沙、遙望魯國鬱嵯峨、前至三月滅汝家。后母廣城君以后無子、甚敬重愍懷、每勸厲后、使加慈愛。賈謐恃貴驕縱、不能推崇太子、廣城君恒切責之。及廣城君病篤、占術謂不宜封廣城、乃改封宜城。后出侍疾十餘日、太子常往宜城第、將醫出入、恂恂盡禮。宜城臨終執后手、令盡意于太子、言甚切至。又曰:「趙粲及午必亂汝事、我死後、勿復聽入、深憶吾言。」后不能遵之、遂專制天下、威服內外。更與粲・午專為姦謀、誣害太子、眾惡彰著。初、誅楊駿及汝南王亮・太保衞瓘・楚王瑋等、皆臨機專斷、宦人董猛參預其事。猛、武帝時為寺人監、侍東宮、得親信于后、預誅楊駿、封武安侯、猛三兄皆為亭侯、天下咸怨。
及太子廢黜、趙王倫・孫秀等因眾2.怨謀欲廢后。 后數遣宮婢微服於人間視聽、其謀頗泄。后甚懼、遂害太子、以絕眾望。趙王倫乃率兵入宮、使翊軍校尉齊王冏入殿廢后。后與冏母有隙、故倫使之。后驚曰、卿何為來。冏曰、有詔收后。后曰、詔當從我出、何詔也。后至上閤、遙呼帝曰、陛下有婦、使人廢之、亦行自廢。又問冏曰、起事者誰。冏曰、梁・趙。后曰、繫狗當繫頸、今反繫其尾、何得不然。至宮西、見謐尸、再舉聲而哭遽止。倫乃矯詔遣尚書劉弘等持節齎金屑酒賜后死。后在位十一年。趙粲・賈午・韓壽・董猛等皆伏誅。
臨海公主先封清河、洛陽之亂、為人所略、傳賣吳興錢溫。溫以送女、女遇主甚酷。元帝鎮建鄴、主詣縣自言。元帝誅溫及女、改封臨海、宗正曹統尚之。

1.中華書局本によると、この年は二月己亥朔のため、辛卯はめぐってこない。
2.「怨」を「怒」に作る本もある。中華書局本によると、上文の「天下皆怨」を受けたものであるので、「怨」が適切か。

訓読

惠賈皇后 諱は南風、平陽の人なり、小名は旹。父充、別に傳有り。初め、武帝 太子の為に衞瓘の女を取らんと欲し、元后 賈郭が親黨の說を納れ、賈氏を婚せんと欲す。帝曰く、「衞公が女 五の可有り、賈公が女 五の不可有り。衞家の種 賢くして子多く、美くて長白なり。賈家の種 妒たりて子少なく、醜くて短黑なり」と。元后 固く請ひ、荀顗・荀勖 並びに充が女の賢を稱へ、乃ち婚を定む。始め后妹の午を聘せんと欲するも、午は年十二、太子より一歲小あり、短小にして未だ衣に勝へず。更めて南風を娶り、時に年十五、太子より二歲大なり。泰始八年二月辛卯、冊して太子妃を拜せしむ。妒忌にして權詐多く、太子 畏れて之に惑ひ、嬪御に進幸有る罕(まれ)なり。 帝 常に太子の不慧なるを疑ひ、且つ朝臣和嶠等 多く以て言を為し、故に之を試さんと欲す。盡く東宮の大小官屬を召し、為に宴會を設け、而して疑事を密封し、太子をして之を決せしめ、信を停めて反すを待つ。妃 大いに懼れ、外人を倩(やと)ひて答を作らしむ。答ふる者 多く古義を引く。給使張泓曰く、「太子 學ばず。而るに答詔に義を引けば、必ず作草の主を責め、更めて益々譴負せられん。直に意を以て對ふるに如かず」と〔一〕。妃 大いに喜び、泓に語りて、「便ち我の為に好答せよ、富貴 汝と之を共にせん」と。泓 素より小才有り、具さに草し、太子をして自寫せしむ。帝 之を省て、甚だ悅ぶ。先に太子少傅衞瓘に示し、瓘 大いに踧踖し、眾人 乃ち瓘 先に毀言有ることを知り、殿上 皆 萬歲と稱す。充 密かに語を妃に遣りて云く、「衞瓘 老奴、幾ど汝の家を破る」と。
妃 性は酷虐にして、嘗て手づから數人を殺す。或は戟を以て孕妾に擲げ、子 刃ひ隨ひて地に墮つ。帝 之を聞き、大いに怒り、已に金墉城を修せば、將に之を廢せんとす。充華趙粲 從容として言ひて曰く、「賈妃 年少にして、妒は是れ婦人の情なるのみ、長ずれば自ずと當に差(い)ゆべし。願はくは陛下 之を察せよ」と。其の後 楊珧も亦 之の為に言ひて曰く、「陛下 賈公閭を忘るるや」と。荀勖 深く之を救ひ、故に廢せざるを得。惠帝 即位し、立ちて皇后と為る、河東・臨海・始平公主・哀獻皇女を生む。
后の暴戾 日に甚し。侍中賈模、后の族兄なり、右衞郭彰、后の從舅なり、並びに才望を以て位に居り、楚王瑋・東安公繇と與に朝政を分掌す。后母廣城君の養孫たる賈謐もて國事に干預し、人主を權侔す。繇 密かに后を廢せんと欲し、賈氏 之を憚る。太宰亮・衞瓘等 繇を表して帶方に徙し、楚王中候を奪ふに及び、后 瑋 之を怨むを知り、乃ち帝をして密詔を作らしめ瑋をして瓘・亮を誅せしめ、以て宿憾に報ゆ。模 后の凶暴なるを知り、禍 己に及ぶを恐れ、乃ち裴頠・王衍と與に之を廢せんと謀るも、衍 悔いて謀 寢む。
后 遂に荒淫 放恣し、太醫令程據等と與に亂は內外に彰はる。洛南に盜有り尉部の小吏、端麗にして容止美し、既に厮役に給ふも、忽ち非常の衣服有り、眾 咸 其の竊かに盜むを疑ひ、尉 嫌ひて之を辯ず。賈后が疏親 盜物を求めんと欲し、往きて對辭を聽す。小吏 云はく、「先に一老嫗に行逢し、說くらく家に疾病有り、師卜 云はく宜しく城南の少年の之を厭(まじな)ふを得て、暫く相 煩はんと欲す、必ず重報有ると。是の於いて隨ひ去り、車に上りて帷を下り、簏箱の中に內り、行くこと十餘里可(ばか)り、六七門限を過ぎ、簏箱を開くに、忽ち樓闕好屋を見る。此れ是 何處なると問ふに、是は天上なりと云ひ、即ち香湯を以て浴せられ、好衣美食 將に入る。一婦人を見、年は三十五六可(ばか)り、短形にして青黑色たり、眉後に疵有り。留めらること數夕、共に寢し歡宴し、出づるに臨みて此の眾物を贈らる」と。聽する者 其の形狀を聞き、是れ賈后なると知り、慚笑して去り、尉 亦 意を解く。時に他人 入る者は多く死し、惟だ此の小吏のみ、后の之を愛するを以て、全を得て出づ。河東公主 疾有るに及び、師巫 以為へらく宜しく寬令を施すべしとし、乃ち詔と稱して天下に大赦す。
初め、后 身有ると詐り、稾物を內れて產具と為し、遂に妹の夫たる韓壽の子慰祖を取りて之を養ひ、諒闇に生む所に託し、故に顯らかにせず。遂に太子を廢して、養ふ所を以て代へて立つるを謀る。時に洛中に謠ありて曰く、「南風 烈烈として黃沙を吹き、遙かに魯國を望みて鬱として嵯峨たり、前みて三月に至り汝の家を滅ぼさん」と。后の母廣城君 后に子無きを以て、甚だ愍懷を敬重し、每に后に勸厲し、慈愛を加へしむ。賈謐 貴に恃みて驕縱たり、太子を推崇する能はず、廣城君 恒に切りに之を責む。廣城君 病ひ篤かるに及び、占術 謂へらく宜しく廣城に封ずべからずと、乃ち宜城に改封す。賈后 出でて疾に侍すること十餘日、太子 常に宜城の第に往き、醫を將ゐて出入し、恂恂として禮を盡す。宜城 終に臨みて后の手を執り、意を太子に盡せしめ、言は甚だ切至たり。又曰く、「趙粲及び午 必ず汝の事を亂す、我 死する後、復た聽き入る勿かれ、深く吾が言を憶せ」と。后 能く之に遵はず、遂に天下に專制し、內外を威服す。更めて粲・午と與に專ら姦謀を為し、誣して太子を害し、眾 惡むこと彰著たり。初め、楊駿及び汝南王亮・太保衞瓘・楚王瑋等を誅し、皆 機に臨みて專斷し、宦人董猛 其の事に參預す。猛、武帝の時 寺人監と為り、東宮に侍り、親信を后に得、楊駿を誅するに預り、武安侯に封ぜられ、猛の三兄 皆 亭侯と為り、天下 咸 怨む。
太子 廢黜せらるに及び、趙王倫・孫秀等 眾の怨に因りて謀りて后を廢せんと欲す。 后 數々宮婢を遣はして微服もて人間を視聽せしめ、其の謀 頗る泄る。后 甚だ懼れ、遂に太子を害し、以て眾望を絕つ。趙王倫 乃ち兵を率ゐて宮に入り、翊軍校尉齊王冏をして殿に入り后を廢せしむ。后 冏の母と隙有り、故に倫 之を使はす。后 驚きて曰く、「卿 何の為に來るや」と。冏曰く、「詔有りて后を收む」と。后曰く、「詔 當に我從り出づべし、何の詔なるや」と。后 上閤に至り、遙かに帝を呼びて曰く、「陛下に婦有り、人をして之を廢せしめば、亦 行は自ら廢すなり」と。又 冏に問ひて曰く、「起事する者は誰ぞ」と。冏曰く、「梁・趙なり」と。后曰く、「狗を繫がば當に頸を繫ぐべし、今 反りて其の尾を繫ぐ、何ぞ得て然らざる」と。宮西に至り、謐の尸を見、再び聲を舉げて哭して遽(には)かに止む。倫 乃ち詔を矯めて尚書劉弘等をして持節し金屑酒を齎しめて后に死を賜ふ。后 位に在ること十一年。趙粲・賈午・韓壽・董猛等 皆 誅に伏す。
臨海公主 先に清河に封ぜられ、洛陽の亂るや、人の略す所と為り、傳へて吳興の錢溫に賣(う)らる。溫 以て女に送り、女 主を遇すること甚だ酷なり。元帝 建鄴に鎮し、主 縣に詣りて自ら言ふ。元帝 溫及び女を誅し、改めて臨海に封じ、宗正曹統 之を尚ぶ。

〔一〕同じ逸話が、『晋書』巻四 恵帝紀に見える。「嘗悉召東宮官屬……」とある。

現代語訳

恵賈皇后は諱を南風といい、平陽の人であり、小名は旹。父の賈充は、別に列伝がある。当初、武帝は太子のために衛瓘の娘を娶ろうとしたが、元后(王氏)が賈氏や郭氏(賈充夫妻)の親族一党の意見を入れ、賈氏を娶らせようと考えた。武帝は、「衛公の娘は五つの長所があり、賈公の娘には五つの短所がある。衛氏の血筋は賢くて子が多く、美くて長身で色白である。賈氏の血筋は嫉妬深くて子が少なく、醜くて短身で色黒である」と言った。(しかし)元后が強く要請し、荀顗・荀勖がどちらも賈充の娘の賢さを称えたので、婚約が定まった。はじめは皇后の妹の賈午を嫁がせる予定だったが、賈午は十二歳で、太子の一歳下、体が小さくて婚礼衣装が合わなかった。変更して賈南風をめとり、このとき十五歳、太子の二歳上であった。泰始八(二七二)年二月辛卯、冊書を授かり太子妃を拝した。嫉妬深くて謀りごとや偽りが多く、太子は畏れて惑い、ほとんど居所を訪れなかった。 武帝はつねに太子が不慧であることを不安に思い、しかも朝臣和嶠らも盛んに同じ懸念を口にするので、試験をすることにした。東宮の大小の官属全員を召して、彼らのために宴会を設け、(その一方で)検討事項を密封し、太子に決裁させ、書状を留めて提出を待った。賈妃は大いに懼れ、外部のひとを雇って答えを作らせた。答えた者は多くの古義(前例や典籍)を引用した。給使の張泓が、「太子は無学です。しかし返信に古義を引用すれば、必ず起草者が別にいると分かり、ますます譴責され評価が下がります。意見だけを答えるのが良いでしょう」と言った。賈妃は大いに悦び、張泓に「私のために適度な答案を作れ、一緒に富貴になろう」と語った。もともと張泓は小才があり、答案を考え、太子に書き写させた。武帝はこれを見て、とても悦んだ。先に太子少傅の衛瓘に(答案を)見せると、衛瓘は不安でそわそわしたので、人々は衛瓘が先に(太子には返信が不可能と)予測していたと知り、殿上はみなで万歳と称えた。賈充は密かに賈后に語って、「衞瓘の老奴めは、お前の家(太子)を没落させようとしている」と言った。
賈妃は性質が酷虐であり、かつて手で数人を殺した。あるときは戟を妊婦に投げつけ、胎児が戟に刺さったまま地に落ちた。武帝はこれを聞き、大いに怒り、すでに金墉城は完成していたので、彼女を(城に移して)廃位しようとした。充華(官名)の趙粲は落ち着いて、「賈妃は年が若く、嫉妬は婦人につきものの感情ですから、年を取ればきっと直ります。陛下はこれを考慮なさって下さい」と言った。その後に楊珧も彼女を弁護して、「陛下は賈公閭(賈充)をお忘れか」と言った。荀勖も必死に擁護したので、賈妃は廃位されずにすんだ。恵帝が即位すると、皇后に立てられ、河東・臨海・始平公主・哀献皇女を生んだ。
賈后の暴戻は日に日にひどくなった。侍中の賈模は、賈后の族兄であり、右衛の郭彰は、賈后の従舅であり、どちらも才望により官位に就いて、楚王瑋(司馬瑋)・東安公繇(司馬繇)とともに朝政を分掌した。賈后の母広城君の養孫である賈謐を国政に関与させ、君主を準えようとした。(これを見た)司馬繇は密かに賈后を廃位しようとし、賈后はかれを憚った。太宰亮(司馬亮)・衛瓘らが上表して司馬繇を帯方に徙し、楚王の中候(司馬瑋の兵)を奪おうとするに及び、賈后は司馬瑋がこれを怨んでいることを知り、恵帝に密詔を作らせて司馬瑋に衛瓘・司馬亮を誅殺させ、かねてからの怨みに報復した。賈模は賈后が凶暴であると知り、禍いが己に及ぶことを恐れ、裴頠・王衍とともに廃位を計画したが、王衍が悔いて計画を中止した。
賈后はいよいよ好き勝手に荒淫し、太医令の程拠らとともに乱れぶりが内外に知られた。洛南で盗難事件があって尉部の小吏は、容姿が端麗であったが、職務に従事しているにも拘わらず、ある日突然に不相応な衣服を持っており、周囲はみな盗品であると疑い、(上官の)尉が疑って問い質した。賈后の縁者は盗品を(没収して)我が物にしようと、取り調べを傍聴した。小吏が言うには、「先日ひとりの老媼と行き会って、家に病人がおり、占い師に城南の少年をまじないに使え(ば治癒する)と聞いたので、ちょっと来てほしい、必ず厚く御礼をするからと言われた。そこで随行し、車に乗り帷(とばり)をくぐり、竹籠のなかに入り、十余里ほどゆき、六七門限を過ぎてから、竹籠を開くと、楼閣や屋敷が現れた。ここはどこかと聞いたが、ここは天上だと言われ、香湯で体を清め、きれいな衣服とうまい食事を出された。ひとりの婦人が現れ、年は三十五六ばかり、背が低くて色が青黒く、眉尻にきずがあった。数日間留めおかれ、ともに寝て歓宴し、帰るときこれらを贈られたのだ」と言った。傍聴する(賈后の縁)者は姿形を聞いて、これは賈后だと悟り、恥じて笑って去り、(上官の)尉も疑いを解いた。このとき他にも連れ込まれた者は多くが死に、ただこの小吏だけが、賈后に愛されたから、生きて帰れたのである。河東公主が病気になると、占い師は法令を緩めよと言い、(賈后は)詔と称して天下に大赦した。
これより先、賈后は身籠もったと詐り、わらを入れて妊娠に見せかけ、妹の夫である韓寿の子の韓慰祖を連れてきて養い、喪中に生んだ(から公表が憚られる)ことに託け、(詐りの)子の存在を明らかにしなった。とうとう愍懐太子を廃し、養っている子を代わりに立てようと計画した。このとき洛中で童謡があり、「南風(賈后の名)が烈烈と黄砂を吹き飛ばし、遙かに魯国を望んで鬱として嵯峨である(山が高く険しい)、進んで三ヶ月で汝の家を滅ぼすぞ」と言った。賈后の母である広城君は賈后に子がないから、とても愍懐太子を敬い重んじ、つねに賈后に対して、慈愛を愍懐にそそげと指導した。賈謐は高貴さを鼻にかけて驕慢となり、(計画の妨げとなる)愍懐太子を推戴することを拒み、広城君は常にきつく彼を叱った。広城君が重病になると、占術師は広城に封建するのが不吉だといい、改めて宜城に封建した。 賈后が(後宮を)出て十余日ほど看病をしていると、愍懐太子はつねに宜城君の邸宅にゆき、医者を連れて出入りし、誠実に礼を尽くしていた。宜城君が臨終のとき賈后の手をとり、愍懐太子を可愛がるように命じ、言葉はとても切迫していた。さらに、「趙粲および賈午は必ずあなたの政事を乱す、私が死んだら、もう彼らと話してはいけない、私の言いつけを忘れぬように」と言った。賈后はこれに従うことができず、ついに天下に専制し、内外を威圧して服従させた。改めて趙粲・賈午とともに専ら姦謀をなし、無実の罪に陥れて愍懐太子を迫害し、世間の憎しみが顕著に向けられた。これより先、楊駿及び汝南王亮(司馬亮)・太保衛瓘・楚王瑋(司馬瑋)らを誅殺するとき、臨機応変に専断し、宦人の董猛が参与していた。董猛は、武帝のとき寺人監となり、東宮に侍り、賈后から親愛と信頼を受け、楊駿の誅殺に預かり、武安侯に封ぜられ、董猛の三人の兄も全員が亭侯となり、天下の皆から怨まれた。
愍懐太子が廃位し追放されると、趙王倫(司馬倫)・孫秀らは天下の怨みに答えて賈后を廃位しようとした。 賈后はしばしば宮女に質素な服をつけて世間を見聞させており、その計画を漏れ知った。賈后はひどく懼れ、とうとう太子を殺害し、世論の希望を絶った。趙王倫は兵を率いて宮中に入り、翊軍校尉である斉王冏(司馬冏)に宮殿に入って賈后を廃位させた。賈后は司馬冏の母と不仲であり、だから司馬倫は司馬冏を選んだのである。賈后は驚いて、「卿は何をしにきたのか」と聞いた。司馬冏は「詔が有り皇后を捕らえます」と言った。賈后は、「詔は私から出るものだ、そんな詔があるはずがない」と言った。賈后は上閤に登り、遙かに恵帝に呼びかけて、「陛下には(私という)妻がいるが、他人にこれを廃位させれば、あなた自身も廃位されますよ」と言った。さらに司馬冏に、「誰が計画したのか」と質問した。司馬冏は、「梁王・趙王です」と言った。賈后は、「犬を繋ぐなら首を繋ぐべきだった、今あべこべに尾を繋いでしまった、どうしてそうしなかったのか」と言った。宮殿の西に至り、賈謐の死体を見て、声をあげて哭してすぐに泣き止んだ。司馬倫は詔を偽造して尚書の劉弘らに持節して金屑酒を運ばせて賈后に死を賜った。賈后は位にあること十一年。趙粲・賈午・韓寿・董猛らも全員が誅に伏した。
(賈后の娘である)臨海公主は先に清河に封建されたが、洛陽が乱れると、人にさらわれ、移送されて呉興の銭温に(奴隷として)売られた。銭温は娘に使役させ、娘は公主をとても酷く扱った。元帝が建鄴に出鎮すると、公主は県(の役所)に駆けこんで自ら(の素性)を語った。元帝は銭温及びその娘を誅殺し、改めて臨海に封建し、宗正の曹統に彼女を娶らせた。

惠羊皇后 謝夫人

原文

惠羊皇后諱獻容、泰山南城人。祖瑾、父玄之、並見外戚傳。賈后既廢、孫秀議立后。后外祖孫旂與秀合族、又諸子自結於秀、1.故以太安元年立為皇后。將入宮、衣中有火。
成都王穎伐長沙王乂、以討玄之為名。乂敗、穎奏廢后為庶人、處金墉城。陳眕等唱伐成都王、大赦、復后位。張方入洛、又廢后。方逼遷大駕幸長安、留臺復后位。永興初、張方又廢后。河間王顒矯詔、以后屢為姦人所立、遣尚書田淑敕留臺賜后死。詔書累至、司隸校尉劉暾與尚書僕射荀藩・河南尹周馥馳上奏曰、奉被手詔、伏讀惶悴。臣按古今書籍、亡國破家、毀喪宗祊、皆由犯眾違人之所致也。陛下遷幸、舊京廓然、眾庶悠悠、罔所依倚。家有跂踵之心、人想鑾輿之聲、思望大德、釋兵歸農。而兵纏不解、處處互起、豈非善者不至、人情猜隔故耶。今上官巳犯闕稱兵、焚燒宮省、百姓諠駭、宜鎮之以靜。而大使卒至、赫然執藥、當詣金墉、內外震動、謂非聖意。羊庶人門戶殘破、廢放空宮、門禁峻密、若絕天地。無緣得與姦人搆亂。眾無智愚、皆謂不然、刑書猥至。罪不值辜、人心一憤、易致興動。夫殺一人而天下喜悅者、宗廟社稷之福也。今殺一枯窮之人而令天下傷慘、臣懼凶豎乘間、妄生變故。臣忝司京輦、觀察眾心、實以深憂、宜當含忍。不勝所見、謹密啟聞。願陛下更深與太宰參詳。勿令遠近疑惑、取謗天下。顒見表大怒、乃遣陳顏・呂朗東收暾。暾奔青州、后遂得免。帝還洛、迎后復位。後洛陽令何喬又廢后。及張方首至、其日復后位。
會帝崩、后慮太弟立為嫂叔、不得稱太后、催前太子清河王覃入、將立之、不果。懷帝即位、尊后為惠帝皇后、居弘訓宮。洛陽敗、沒于劉曜。曜僭位、以為皇后。因問曰、吾何如司馬家兒。后曰、胡可並言。陛下開基之聖主、彼亡國之暗夫、有一婦一子及身三耳、不能庇之。貴為帝王、而妻子辱于凡庶之手。遣妾爾時實不思生、何圖復有今日。妾生於高門、常謂世間男子皆然。自奉巾櫛以來、始知天下有丈夫耳。曜甚愛寵之、生曜二子而死、偽諡獻文皇后。

1.中華書局本によると、太安初(三〇二-)はすでに孫秀は誅された後であり、整合しない。恵帝紀にある永康元(三〇〇)年十二月が正しい。『晋書斠注』によると、五行志と『太平御覧』巻百三十八に引く臧榮緒『晉書』もまた、永興元年に皇后に立ったとある。

訓読

惠羊皇后 諱は獻容、泰山南城の人なり。祖瑾、父玄之、並びに外戚傳に見ゆ。賈后 既に廢せられ、孫秀 立后を議す。后の外祖孫旂 秀と合族し、又 諸子 自ら秀と結び、故に太安元年を以て立ちて皇后と為る。將に宮に入らんとし、衣中に火有り。
成都王穎 長沙王乂を伐つに、玄之を討つを以て名と為す。乂 敗れ、穎 奏して后を廢して庶人と為し、金墉城に處らしむ。陳眕等 成都王を伐つを唱へ、大赦し、后の位を復す。張方 洛に入り、又 后を廢す。方 逼りて大駕を遷して長安に幸せしめ、留臺 后の位を復す。永興初、張方 又 后を廢す。河間王顒 詔を矯め、后の屢々姦人の立つる所と為るを以て、尚書田淑を遣はして留臺に敕して后に死を賜ふ。詔書 累りに至り、司隸校尉劉暾 尚書僕射荀藩・河南尹周馥と與に馳せて上奏して曰く、「奉りて手詔を被け、伏して讀みて惶悴す。臣 古今の書籍を按ずるに、國を亡ぼし家を破り、宗祊を毀喪するは、皆 眾を犯し人に違ふの致す所に由るなり。陛下 遷幸し、舊京 廓然たり、眾庶 悠悠とし、依倚する所罔し。家に跂踵の心有り、人は鑾輿の聲を想ひ、大德を思望し、兵を釋き農に歸る。而るに兵纏 解かず、處處に互起するは、豈に善者 至らず、人情 猜隔する故に非ずや。今 上官 巳に闕を犯し兵を稱へ、宮省を焚燒し、百姓 諠駭す、宜しく之を鎮して以て靜むべし。而るに大使 卒かに至り、赫然と藥を執り、金墉に詣るに當り、內外 震動し、聖意に非ざると謂ふ。羊庶人の門戶 殘破し、空宮に廢放せられ、門の禁は峻密たり、天地に絕つが若し。得て姦人と亂を搆ふに緣ること無し。眾 智愚と無く、皆 然らずと謂ふに、刑書 猥りに至る。罪 辜に值たらず、人心 一憤し、興動を致すに易し。夫れ一人を殺して天下 喜悅するは、宗廟社稷の福なり。今 一枯窮の人を殺して天下をして傷慘せしむ、臣 凶豎 間に乘じ、妄りに變故を生ずるを懼る。臣 忝く京輦を司り、眾心を觀察するに、實に深憂を以て、宜しく當に含忍すべし。所見に勝へず、謹みて密かに啟聞す。願はくは陛下 更めて深く太宰と參詳せよ。遠近をして疑惑せしめ、謗を天下に取ること勿れ」と。顒 表を見みて大いに怒り、乃ち陳顏・呂朗を遣はして東のかた暾を收む。暾 青州に奔り、后 遂に免るるを得。帝 洛に還り、后を迎へて位に復す。後に洛陽令何喬 又 后を廢す。張方 首めに至るに及び、其の日 后の位を復す。
會 帝 崩じ、后 太弟 立てば嫂叔と為り、太后と稱すを得ざるを慮り、前太子清河王覃に入るを催して、將に之を立てんとし、果たさず。懷帝 即位し、后を尊びて惠帝皇后と為し、弘訓宮に居らしむ。洛陽 敗れ、劉曜に沒す。曜 僭位し、以て皇后と為す。因りて問ひて曰く、「吾 司馬家の兒と何如」と。后曰く、「胡ぞ並言す可きか。陛下は開基の聖主なり、彼は亡國の暗夫なり、一婦一子及び身三有るのみ、之を庇ふ能はず。貴くも帝王と為るも、而るに妻子 凡庶の手に辱めらる。妾をして爾時 實に生を思はしめず、何ぞ復た今日有るを圖らん。妾 高門に生れ、常に世間の男子 皆 然りと。巾櫛を奉りて自り以來、始めて天下に丈夫有るを知るのみ」と。曜 甚だ之を愛寵し、曜の二子を生みて死し、獻文皇后と偽諡せらる。

現代語訳

恵羊皇后は諱を献容といい、泰山南城の人である。祖父の羊瑾、父の羊玄之は、どちらも外戚伝に見える。賈后が廃位されると、孫秀が皇后を立てることを議した。皇后の外祖父の孫旂は孫秀と合族(血縁がない同姓が連合すること)をしており、さらに諸子も自ら孫秀と結んでおり、ゆえに太安元(三〇二)年に(血縁者の羊氏を)皇后に立てた。後宮に入ろうとすると、衣装から発火した。
成都王穎(司馬穎)が長沙王乂(司馬乂)を討伐するとき、羊玄之の討伐を名目とした。司馬乂が敗れると、司馬穎は上奏して皇后を廃位して庶人とし、金墉城に押し込めた。陳眕らが成都王(司馬穎)の討伐を唱え、大赦し、皇后を復位させた。張方が洛陽に入ると、また皇后を廃位した。張方が(恵帝の)大駕を脅かして長安に行幸すると、(洛陽の)留台が皇后を復位させた。永興初(三〇四)、張方がまた皇后を廃位した。河間王顒(司馬顒)が詔を偽造し、皇后がしばしば姦悪な者に擁立されるから、尚書の田淑を派遣して留台に命じて皇后に死を賜った。詔書が何度も至ったが、司隸校尉の劉暾は尚書僕射の荀藩・河南尹の周馥ともに(長安に)馳せて上奏して、「直筆の詔書をいただき、読んで恐懼しました。私が古今の書籍を見ますに、国や家を滅ぼし、宗廟を破壊するのは、みな衆論に逆らった者のしわざです。陛下が(長安に)移り、旧京(洛陽)は空っぽで、庶民らは遠方に思いを馳せ、心の支えがありません。国家に(凶兆を示す)鳥のような心の持ち主がおり、人は皇帝の馬車の音を心待ちにし、大徳を思い望み、武装解除と帰農を願っています。しかし軍装は解かれず、あちこちで兵乱が起こるのは、善き者が到来せず、人々が猜疑して心が分断されるためでしょうか。いま高官が宮殿に押し入って武力を行使し、宮殿を焼き払い、百姓は驚き恐れているので、鎮圧して静めるべきです。しかし天子の使者が突然に至り(皇后に死を賜い)、堂々と毒薬を持ち、金墉城に向かったので、内外は震えて動揺し、陛下の意向ではないと考えています。羊庶人は住処が荒れ果て、無人の邸宅に放り出され、門の出入りが固く禁じられ、天地から隔絶されたようなものです。邪悪なものが反乱の相談には来らません。民衆は智愚となく、全員がそうではないと思っているのに、死の命令がみだりに到着しています。皇后の罪は死刑に相当しませんから、(皇后を殺せば)世論は憤り、反乱が暴発しかねません。そもそも一人を殺して天下を喜ばせれば、宗廟と社稷に幸福をもたらします。いま一人の追い詰められた婦人を殺して天下を悲しませれば、凶悪な者がその隙に乗じ、政変を起こすのではありませんか。私は忝くも京輦を司り(司隷校尉を務め)、民衆の心を観察しますに、まことに深く憂いており、(陛下は)寛容になられるべきです。恐れながら、謹んで申し上げます。どうぞ陛下は太宰に相談をなさいませ。遠近の人々を疑い惑わせ、天下から批判を受けることがありませんように」と言った。司馬顒は上表を見て大いに怒り、陳顔・呂朗を派遣して東にゆき劉暾を捕らえようとした。劉暾は青州に出奔して、皇后は殺害を免れた。恵帝が洛陽に帰ると、皇后を迎えて復位させた。後に洛陽令の何喬がまた皇后を廃位した。張方が先頭をきって到来し、その日に皇后を復位した。
恵帝が崩御すると、皇后は皇太弟が立てば(自分が)兄嫁となり、皇太后と称せないことを考え、前の皇太子である清河王覃(司馬覃)に皇宮への進入を促し、帝位に立てようとしたが、実現しなかった。懐帝が即位すると、皇后を尊んで恵帝皇后とし、弘訓宮に居住させた。洛陽が陥落すると、劉曜に捕らえられた。劉曜が帝位を僭称すると、皇后となった。劉曜は、「吾は司馬家の子(恵帝)と比べてどうかね」と質問した。皇后は「どうして比較できましょう。陛下は開基の聖主であり、かれは亡国の暗夫です、一人の妻と一人の子および身三つですら、庇うことができませんでした。貴くも帝王となりましたが、妻子が下賎の手により辱められました。あのとき私は死を覚悟させられ、まさか今日が来ることは思いもよりませんでした。私は高官の家に生まれ、つねに世間の男子は誰でも同じと思っていました。巾櫛を奉って(あなたの妻となって)以来、初めて天下に優れた男がいると知りました」と言った。劉曜は彼女をとても愛し、二子を生んで死に、献文皇后と不当に(前趙で)謚された。

原文

謝夫人名玖。家本貧賤、父以屠羊為業。玖清惠貞正而有淑姿、選入後庭為才人。 惠帝在東宮、將納妃。武帝慮太子尚幼、未知帷房之事、乃遣往東宮侍寢、由是得幸有身。賈后妒忌之、玖求還西宮、遂生愍懷太子、年三四歲、惠帝不知也。入朝、見愍懷與諸皇子共戲、執其手、武帝曰、是汝兒也。及立為太子、拜玖為淑媛。賈后不聽太子與玖相見、處之一室。及愍懷遇酷、玖亦被害焉。永康初、詔改葬太子、因贈玖夫人印綬、葬顯平陵。

訓読

謝夫人 名は玖。家は本は貧賤なり、父 屠羊を以て業と為す。玖 清惠貞正にして淑姿有り、選して後庭に入り才人と為る。 惠帝 東宮に在りしとき、將に妃に納らんとす。武帝 太子の尚ほ幼く、未だ帷房の事を知らざるを慮り、乃ち遣はして東宮に往きて侍寢せしめ、是に由り幸を得て身を有つ。賈后 之を妒忌し、玖 西宮に還るを求め、遂に愍懷太子を生み、年三四歲なるとも、惠帝 知らず。入朝し、愍懷 諸皇子と與に共に戲るるを見、其の手を執り、武帝曰く、「是れ汝の兒なるや」と。立ちて太子と為るに及び、玖に拜して淑媛と為す。賈后 太子 玖と相 見え、之を一室に處らしむを聽さず。愍懷 酷に遇ふに及び、玖 亦 害を被る。永康初、詔して太子を改葬し、因りて玖に夫人の印綬を贈り、顯平陵に葬る。

現代語訳

謝夫人は名を玖という。家はもとは卑賤で、父は羊の屠殺をなりわいとした。謝玖は清恵貞正な人柄で容姿が美しく、(武帝に)選ばれて後宮に入り才人の位に着いた。 恵帝が東宮にいた(太子の)とき、妃を納れることになった。武帝は太子が幼く、房事が分からないとことを考慮し、謝玖を東宮に行かせて添い寝させ、これにより妊娠をした。賈后は嫉妬し、謝玖に西宮(武帝のもと)に帰ることを求め、結局は愍懐太子(司馬遹)を生んだが、(愍懐太子が)三歳や四歳になっても、恵帝は認識していなかった。入朝し、愍懐太子が諸皇子たちと遊ぶのを見て、手をとり、武帝が、「これはお前(恵帝)の子か」と聞いた。(実子の愍懐が)太子に立てられると、謝玖を拝して淑媛とした。賈后は太子が謝玖と面会し、同室で過ごすことを許さなかった。愍懐が迫害されると、謝玖も殺害された。永康初(三〇〇-)、詔して太子を改葬し、謝玖に夫人の(位の)印綬を贈り、顕平陵に葬った。

懷王皇太后

原文

懷王皇太后諱媛姬、不知所出。初入武帝宮、拜中才人、早卒。懷帝即位、追尊曰皇太后。

訓読

懷王皇太后 諱は媛姬、出づる所を知らず。初め武帝宮に入り、中才人を拜し、早くに卒す。懷帝 即位し、追尊して皇太后と曰ふ。

現代語訳

懐帝の(実母)王皇太后は諱を媛姫といい、出生は未詳。はじめに武帝の後宮に入り、中才人を拝し、早くに卒した。懐帝が即位すると、追尊して皇太后とされた。

元夏侯太妃

原文

元夏侯太妃名光姬、沛國譙人也。祖威、兗州刺史。父莊、字仲容、淮南太守・清明亭侯。 妃生自華宗、幼而明慧。琅邪武王為世子覲納焉、生元帝。及恭王薨、元帝嗣立、稱王太妃。永嘉元年、薨于江左、葬琅邪國。初有讖云、銅馬入海建鄴期、太妃小字銅環、而元帝中興於江左焉。

訓読

元夏侯太妃 名は光姬、沛國譙の人なり。祖の威、兗州刺史たり。父の莊、字は仲容、淮南太守・清明亭侯なり。妃 華宗自り生まれ、幼くして明慧たり。琅邪武王 世子覲が為に焉を納れ、元帝を生む。恭王 薨じ、元帝 嗣立するに及び、王太妃と稱す。永嘉元年、江左に于いて薨じ、琅邪國に葬る。初め讖有りて、「銅馬 海に入りて建鄴の期とならん」と云ひ、太妃の小字は銅環なれば、元帝 江左に於いて中興す。

現代語訳

元夏侯太妃は名を光姫といい、沛国譙県の人である。祖父の夏侯威は、兗州刺史であった。父の夏侯荘は、字を仲容といい、淮南太守・清明亭侯であった。妃は高貴な家に生まれ、幼いときから聡明であった。琅邪武王(司馬伷)は世子の司馬覲のために彼女を嫁とし、元帝が生まれた。恭王(司馬覲)が薨じ、元帝が後嗣に立つと、王太妃と称した。永嘉元(三〇七)年、江左(江東)で薨じ、琅邪国に葬られた。これより先に讖(予言)があって、「銅馬が海に入って建鄴の期となるだろう」と言い、太妃の小字は銅環であるから、元帝は江左において中興したのである。