翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。東晋は、傍系から即位した皇帝が多いため、祖母や母の礼制上の取り扱いが、頻繁に議論の対象となりました。不適切な訳があるかも知れません、ご指摘をお願いいたします。
元敬虞皇后諱孟母、濟陽外黃人也。父豫、見外戚傳。帝為琅邪王、納后為妃、無子。永嘉六年薨、時年三十五。
帝為晉王、追尊為王后。有司奏王后應別立廟。令曰、今宗廟未成、不宜更興作、便修飾陵上屋以為廟。太興三年、冊曰、皇帝咨前琅邪王妃虞氏。朕祗順昊天成命、用陟帝位。悼妃夙徂、徽音潛翳、御于家邦、靡所儀刑、陰教有虧、用傷于懷。追號制諡、先王之典。今遣使持節兼太尉萬勝奉冊贈皇后璽綬、祀以太牢。魂而有靈、嘉茲寵榮。乃祔於太廟、葬建平陵。
太寧中、明帝追懷母養之恩、贈豫妻王氏為䢵陽縣君、從母散騎常侍新野王罕妻為平陽鄉君。
元敬虞皇后 諱は孟母、濟陽外黃の人なり。父豫、外戚傳に見ゆ。帝 琅邪王と為り、后を納れて妃と為り、子無し。永嘉六年 薨ず、時に年三十五。
帝 晉王と為り、追尊して王后と為す。有司 王后は應に別に廟を立つべしと奏す。令に曰く、「今 宗廟 未だ成らず、宜しく更めて興作すべからず、便ち陵上の屋を修飾して以て廟と為す」と。太興三年、冊に曰く、「皇帝 前琅邪王妃虞氏に咨らん。朕 祗みて昊天の成命に順ひ、用て帝位を陟む。妃 夙に徂くを悼み、徽音 潛翳たり、家邦を御し、儀刑する所靡く、陰教 虧有り、用て懷を傷つく。追號制諡は、先王の典なり。今 使持節兼太尉萬勝を遣はして冊を奉じて皇后璽綬を贈り、祀るに太牢を以てす。魂ありて靈有らば、茲の寵榮を嘉せ」と。乃ち太廟に祔し、建平陵に葬る。
太寧中、明帝 追ひて母養の恩を懷ひ、豫の妻たる王氏に贈りて䢵陽縣君と為し、從母の散騎常侍新野王罕の妻もて平陽鄉君と為す。
元敬虞皇后は諱を孟母といい、済陽外黄の人である。父の虞豫は、外戚伝に見える。元帝が琅邪王となり、皇后を納れて妃としたが、子が無かった。永嘉六(三一二)年に薨じ、時に年は三十五。
元帝が晋王となると、追尊して王后とした。担当官は王后は別に廟を立てるべきですと上奏した。令に、「いま宗廟すら完成していないが、改めて別に建てるのはおかしい、陵上の屋を改修して廟とせよ」と言った。太興三(三二〇)年、冊書に、「皇帝が前の琅邪王妃の虞氏に咨る。朕はつつしんで昊天の命令に従い、帝位をふんだ。妃の早世を悼み、徳音はかげり、国家を守って、手本となることがなく、女性の教えが欠け、痛ましく思っている。追号と制諡は、先王の典である。いま使持節兼太尉の萬勝を使わして冊を奉じて皇后の璽綬を贈り、太牢を祭らせる。魂があり霊があるなら、その栄誉を嘉納せよ」と言った。こうして太廟に祔葬し、建平陵に葬った。
太寧中(三二三-三二六)、明帝が追って母養の恩を思い、虞豫の妻である王氏に追贈して䢵陽県君とし、従母の散騎常侍である新野王罕の妻を平陽郷君とした。
豫章君荀氏、元帝宮人也。初有寵、生明帝及琅邪王裒、由是為虞后所忌。自以位卑、每懷怨望、為帝所譴、漸見疏薄。及明帝即位、封建安君、別立第宅。太寧元年、帝迎還臺內、供奉隆厚。及成帝立、尊重同于太后。咸康元年薨。詔曰、朕少遭憫凶、慈訓無稟、撫育之勤、建安君之仁也。一旦薨殂、實思報復、永惟平昔、感痛哀摧。其贈豫章郡君、別立廟于京都。
豫章君荀氏、元帝の宮人なり。初め寵有り、明帝及び琅邪王裒を生み、是に由り虞后の忌む所と為る。自ら位の卑きを以て、每に怨望を懷き、帝の譴す所と為り、漸く疏薄せらる。明帝 即位するに及び、建安君に封じ、別に第宅を立つ。太寧元年、帝 迎へて臺內に還し、供奉は隆厚たり。成帝 立つに及び、尊重は太后に同じ。咸康元年 薨ず。詔して曰く、「朕 少きとき憫凶に遭ひ、慈訓 稟くる無く、撫育の勤、安君の仁を建つなり。一旦に薨殂し、實に報復を思ひ、永く平昔を惟ひ、感痛して哀摧す。其れ豫章郡君を贈り、別に廟を京都に立てよ」と。
豫章君荀氏は、元帝の宮人である。はじめ寵愛を受け、明帝及び琅邪王裒を生み、このために虞后に嫌われた。自分の位が低いので、いつも怨みに思い、元帝に譴責され、徐々に疎んじられた。(実子の)明帝が即位すると、建安君に封じられ、別に邸宅を建てた。太寧元(三二三)年、明帝は荀氏を迎えて宮殿に還らせ、支給品は手厚かった。成帝が立つと、太后と同様に尊重された。咸康元(三三五)年に薨じた。詔して、「朕が幼いとき凶悪なことに遭い、慈悲ぶかい教育を受けなかったが、撫育にはげみ、君主を安んじる仁を実践してくれた。早くに亡くなり、まことに往時を思い返し、ずっと過去を懐かしみ、ひどく哀しんでいた。そこで豫章郡君(の号)を贈り、別に廟を京都に立てるように」と言った。
明穆庾皇后諱文君、潁川鄢陵人也。父琛、見外戚傳。后性仁慈、美姿儀。元帝聞之、聘為太子妃、以德行見重。
明帝即位、立為皇后。冊曰、妃庾氏昔承明命、作嬪東宮、虔恭中饋、思媚軌則。履信思順、以成肅雝之道。正位閨房、以著協德之美。朕夙罹不造、煢煢在疚。羣公卿士、稽之往代、僉以崇嫡明統、載在典謨、宜建長秋、以奉宗廟。是以追述先志、不替舊命、使使持節兼太尉授皇后璽綬。夫坤德尚柔、婦道承姑、崇粢盛之禮、敦螽斯之義。是以利在永貞、克隆堂基、母儀天下、潛暢陰教。鑒于六列、考之篇籍、禍福無門、盛衰由人、雖休勿休。其敬之哉、可不慎歟。
及成帝即位、尊后曰皇太后。羣臣奏:天子幼沖、宜依漢和熹皇后故事。辭讓數四、不得已而臨朝攝萬機。后兄中書令亮管詔命、公卿奏事稱皇太后陛下。咸和元年、有司奏請追贈后父及夫人毌丘氏、后陳讓不許、三請不從。
及蘇峻作逆、京都傾覆、后見逼辱、遂以憂崩、時年三十二。后即位凡六年。其後帝孝思罔極、贈琛驃騎大將軍・儀同三司、毋丘氏1.安陵縣君、從母荀氏永寧縣君、何氏建安縣君。亮表陳先志、讓而不受。
1.『晋書斠注』によると、「安陵」は「安陽」に作るべきか。
明穆庾皇后 諱は文君、潁川鄢陵の人なり。父琛、外戚傳に見る。后の性は仁慈、姿儀を美とす。元帝 之を聞き、聘して太子妃と為し、德行を以て重ぜらる。
明帝 即位し、立ちて皇后と為る。冊して曰く、「妃庾氏は昔 明命を承け、東宮に嬪と作り、虔みて中饋を恭け、思は軌則を媚(び)とす。信を履み順を思ひ、以て肅雝の道を成す〔一〕。位を閨房に正し、以て協德の美を著はす。朕 夙に不造に罹り、煢煢として疚在り。羣公卿士、之を往代に稽へ、僉(みな) 嫡を崇し統を明らかにする以て、載は典謨に在り、宜しく長秋を建て、以て宗廟を奉れ。是を以て先志を追述し、舊命を替へず、使持節兼太尉をして皇后の璽綬を授けしむ。夫れ坤德 柔を尚び、婦道 姑を承け、粢盛の禮を崇び、螽斯の義を敦くす〔二〕。是を以て利は永貞に在り〔三〕、克く堂基を隆くし〔四〕、天下に母儀たり、潛かに陰教を暢す。六列に鑒み、之を篇籍に考ふるに、禍福 門無く、盛衰 人に由り、休(ゆる)すと雖も休す勿かれ〔五〕。其れ之を敬まんや、慎まざる可きか」と。
成帝 即位するに及び、后を尊びて皇太后と曰ふ。羣臣 奏すらく、「天子は幼沖、宜しく漢和熹皇后の故事に依れ」と。辭讓すること數四、已を得ずして臨朝して萬機を攝る。后の兄中書令亮 詔命を管し、公卿の奏事 皇太后陛下と稱す。咸和元年、有司 奏して后父及び夫人毌丘氏に追贈するを請ひ、后 讓を陳べて許さず、三請するとも從はず。
蘇峻 逆を作すに及び、京都 傾覆し、后 辱を逼られ、遂に憂を以て崩ず、時に年三十二。后 位に即くこと凡そ六年。其の後 帝の孝思 極まり罔く、琛に驃騎大將軍・儀同三司を贈り、毋丘氏もて安陵縣君、從母荀氏もて永寧縣君、何氏もて建安縣君とす。亮 表して先志を陳べ、讓りて受けず。
〔一〕『毛詩』召南に「猶執婦道、以成肅雝之德也」とある。「肅」は「敬」、「雝」は「和」のこと(毛伝・集伝)。おごそかな中にも和らぎ、和やかさがある様子。
〔二〕『詩経』螽斯篇を受けており、子孫が繁栄すること。
〔三〕『易経』坤に「用六、利永貞」とある。
〔四〕『尚書』大誥に「厥子乃弗肯堂矧肯構」とあり、その偽孔伝に「乃不肯為堂基」とある。
〔五〕『尚書』呂刑に「爾尚敬逆天命、以奉我一人、雖畏勿畏、雖休勿休」とある。
明穆庾皇后は諱を文君といい、潁川鄢陵の人である。父の庾琛は、外戚伝に見える。皇后の性質は慈しみ深く、容貌が美しかった。元帝がこれを聞き、招いて太子妃とし、徳行により重んじられた。
明帝が即位すると、皇后に立った。冊書に、「妃の庾氏はむかし明命(元帝の命令)を受け、東宮に嫁ぎ、つつしんで妻となり、規則に従うことを美徳とした。信を行い順を思い、厳かだが和らぎのある道を体現した。位を後宮で正し(正妻となり)、協徳の美を明らかにした。朕が早くに不幸にあい(父を失い)、孤独さを気に病んだ。群公卿士は、これを前例から考えるに、みな嫡統を明らかにする(皇后を立てる)べきと述べ、その記載は経典にあるから、長秋宮を建て、宗廟を奉りなさいと述べた。こうして先帝の遺志をなぞり、旧命を変更せず、使持節兼太尉を使わして皇后の璽綬を授ける。それ坤徳(婦人の徳)は柔軟さを大切にし、婦道は姑から継承し、粢盛(穀類の供物)の礼を崇び、螽斯(子孫繁栄)の義を厚くする。さすれば終わりを全うでき、よく国の柱石を高くし、天下に母として規範となり、ひそかに陰教が広がる。(『古列女伝』の)六つの篇名(とされた婦人の美徳)に鑑み、書物にて検討するに、禍福は入り口がなく、盛衰はひと次第であり、他人がよしとしても気を緩めるな。よく慎むように」と言った。
成帝が即位すると、皇后を尊んで皇太后とした。羣臣が上奏し、「天子は幼沖なので、後漢の和熹皇后の故事に依りなさい」と言った。辞譲すること四度、やむを得ず臨朝して万機を摂った。太后の兄である中書令の庾亮が詔命を管理し、公卿の奏事では皇太后陛下と称した。咸和元(三二六)年、担当官が上奏して太后の父及びその夫人毌丘氏に追贈するを請願したが、太后は辞退を述べて許さず、三回求めたが従わなかった。
蘇峻が反逆すると、京都が傾覆し、太后は辱めを迫られ、憂悶により崩御した、ときに年は三十二。太后は位にいること通算六年。その後に成帝の孝心が高ぶって、(太后の父)庾琛に驃騎大将軍・儀同三司を贈り、毋丘氏を安陵県君とし、従母の荀氏を永寧県君とし、何氏を建安県君にしようとした。庾亮が上表して(太后の)遺志を述べ、辞退して受けなかった。
成恭杜皇后1.諱陵陽、京兆人、鎮南將軍預之曾孫也。父乂、見外戚傳。成帝以后奕世名德、咸康二年備禮拜為皇后、即日入宮。帝御太極前殿、羣臣畢賀、晝漏盡、懸籥、百官乃罷。后少有姿色、然長猶無齒、有來求婚者輒中止。及帝納采之日、一夜齒盡生。改宣城陵陽縣為廣陽縣。七年三月、后崩、年二十一。外官五日一臨、內官旦一入、葬訖止。后在位六年、無子。
先是、三吳女子相與簪白花、望之如素柰、傳言天公織女死、為之著服、至是而后崩。帝下詔曰:「吉凶典儀、誠宜備設。然豐約之度、亦當隨時、況重壤之下、而崇飾無用邪。今山陵之事、一從節儉、陵中唯潔掃而已、不得施塗車芻靈。有司奏造凶門柏歷及調挽郎、皆不許。又禁遠近遣使。明年元會、有司奏廢樂。詔廢管絃、奏金石如故。
孝武帝立、寧康二年、以后母裴氏為廣德縣君。裴氏名穆、長水校尉綽孫、太傅主簿遐女、太尉王夷甫外孫。中表之美、高於當世。遐隨東海王越遇害、無子。唯穆渡江、遂享榮慶、立第南掖門外、世所謂杜姥宅云。
1.中華書局本によると、「陽」は衍字である。
成恭杜皇后 諱は陵陽、京兆の人、鎮南將軍預の曾孫なり。父乂、外戚傳に見ゆ。成帝 后 奕世名德たるを以て、咸康二年 禮を備へて拜して皇后と為し、即日 宮に入る。帝 太極前殿に御し、羣臣 賀し畢はるに、晝漏 盡きて、懸籥し、百官 乃ち罷む。后 少くして姿色有り、然るに長じて猶ほ齒無く、來りて婚を求むる者有りて輒ち中ごろに止む。帝の納采の日に及び、一夜にして齒 盡く生ゆ。宣城の陵陽縣を改めて廣陽縣と為す。七年三月、后 崩じ、年は二十一。外官は五日に一臨し、內官は旦に一入し、葬 訖止す。后 位に在ること六年、子無し。
是より先、三吳女子 相 與に白花を簪にし、之を望むに素柰の如く、言を傳へて天公の織女 死し、之に為に服を著すといひ、是に至りて后 崩ず。帝 詔を下して曰く、「吉凶の典儀、誠に宜しく備設すべし。然して豐約の度、亦 時に隨ひて當る、況んや重壤の下、無用を崇飾するや。今 山陵の事、一に節儉に從ひ、陵中 唯だ潔掃あるのみ、塗車芻靈〔一〕を施すを得ず」と。有司 凶門に柏歷を造り及び挽郎を調せんと奏し、皆 許さず。又 遠近の遣使を禁ず。明年 元會し、有司 樂を廢するを奏す。詔して管絃を廢し、金石を奏でること故の如し。
孝武帝 立ち、寧康二年、后母裴氏を以て廣德縣君と為す。裴氏 名は穆、長水校尉綽の孫にして、太傅主簿 遐の女なり、太尉王夷甫の外孫なり。中表の美、當世に高し。遐 東海王越に隨ひて害に遇ひ、子無し。唯だ穆のみ渡江し、遂に榮慶を享け、第を南掖門外に立て、世に謂ふ所の杜姥宅と云ふ。
〔一〕『礼記』檀弓下に「塗車芻靈 。自古有之。明器之道也」とあり、彩色した車や草の人形の(従葬品)は古くからあったが、言わば明器であるという。
成恭杜皇后は諱を陵陽(正しくは「陵」一字か)、京兆の人、鎮南将軍の杜預の曾孫である。父の杜乂は、外戚伝に見える。成帝は皇后が累世に名徳の家柄なので、咸康二(三三六)年に礼を備えて拝して皇后とし、即日に宮殿に入った。成帝は太極前殿にお出まし、群臣の慶賀が終わると、昼過ぎに、音楽の演奏を止め、百官は退出した。皇后は若くして容姿が美しいが、成長しても歯がなく、求婚者が来ても(歯がないから)途中で止めてしまった。成帝が嫁取りをする日、一夜で歯が生えそろった。宣城の陵陽県を改めて(皇后の諱を避けて)広陽県とした。咸康七(三四一)年三月、皇后は崩じ、年は二十一だった。外官は五日に一回だけ臨み、内官は朝方に一回だけ入り、葬儀を終わらせた。皇后は位に在ること六年、子が無かった。
これより先、三人の呉郡の女子が揃って白い花をかんざしとし、見ると茉莉花のようであり、天公の織女が死に、彼女のために服を作ったという風聞を伝えたが、ここに至って皇后が崩じた。成帝は詔を下して、「吉凶の典礼や儀式は、入念に整えるべきである。女性の見栄えも、時と場合によるが、ましてや死後、装飾をする必要があるのか。いま山稜のこと(埋葬の作法)は、ひとえに節倹に従い、陵墓のなかは簡潔であればよく、塗車芻霊(副葬品)を施してはならぬ」と言った。担当官は凶門に柏歴(死者が寄りかかる木)を造って挽郎に(葬送歌を)演奏させよと上奏したが、どちらも却下された。さらに遠近からの弔使派遣を禁じた。翌年元日の朝会で、担当官は楽器の廃止を上奏した。詔して管絃を廃し、金石での演奏は従来どおりとした。
孝武帝が立つと、寧康二(三七四)年、皇后の母裴氏を広徳県君とした。裴氏は名を穆といい、長水校尉の裴綽の孫であり、太傅主簿である裴遐の娘であり、太尉の王夷甫の外孫である。裴氏一族の美徳は、当代に高かった。裴遐は東海王越(司馬越)に随って殺害され、子が無かった。ただ裴穆のみ江水を渡り、栄華を享受することになり、邸宅を南掖門外に立て、世に杜姥宅と呼称された。
章太妃周氏以選入成帝宮、有寵、生哀帝及海西公。始拜為貴人。哀帝即位、詔有司議貴人位號、太尉桓溫議宜稱夫人、尚書僕射江虨議應曰太夫人。詔崇為皇太妃、儀服與太后同。又詔、朝臣不為太妃敬、合禮典不。太常江逌議、位號不極、不應盡敬。興寧元年薨。帝欲服重、江虨啟應緦麻三月。詔欲降為朞年、虨又啟、厭屈私情、所以上嚴祖考。帝從之。
章太妃周氏 選を以て成帝宮に入り、寵有り、哀帝及び海西公を生む。始め拜して貴人と為る。哀帝 即位し、有司に詔して貴人の位號を議せしめ、太尉桓溫 議して宜しく夫人と稱すべしとし、尚書僕射江虨 議して應に太夫人と曰ふべしとす。詔して崇して皇太妃と為し、儀服は太后と同じ。又 詔して、「朝臣 太妃に敬を為さざるは、禮典に合ふや不(いな)や」と。太常江逌 議すらく、「位號 極まらず、應に敬を盡すべからず」と。興寧元年 薨ず。帝 重く服せんと欲し、江虨 啟すらく「應に緦麻三月とすべし」と。詔して降して朞年と為さんと欲し、虨 又 啟す、「私情を厭屈するは、祖考を上嚴にする所以なり」と。帝 之に從ふ。
章太妃周氏は選ばれて成帝の後宮に入り、寵愛され、哀帝及び海西公を生んだ。はじめは拝して貴人となった。(実子の)哀帝が即位すると、担当官に詔して貴人の位号を議論させ、太尉の桓温は夫人と、尚書僕射の江虨は太夫人と称するべきと述べた。詔して位号を高めて皇太妃とし、儀礼や服制を太后と同じとした。さらに詔して、「朝臣が太妃を敬わないのは、礼典に合致するのか否か」と言った。太常の江逌が、「位号が適切でないので、敬意を尽くすべきではありません」と言った。興寧元(三六三)年に薨じた。哀帝は服喪を重くしようと考えたが、江虨が「緦麻三月にしなさい」と申した。詔して扱いを軽くして朞年としようとしたが、江虨がさらに、「私情を押し殺すのは、祖先を厳かに奉るためです」と述べた。哀帝はこれに従った。
康獻褚皇后諱蒜子、河南陽翟人也。父裒、見外戚傳。后聰明有器識、少以名家入為琅邪王妃。及康帝即位、立為皇后、封母謝氏為尋陽鄉君。
及穆帝即位、尊后曰皇太后。時帝幼沖、未親國政。領司徒蔡謨等上奏曰、嗣皇誕哲岐嶷、繼承天統、率土宅心、兆庶蒙賴。陛下體茲坤道、訓隆文母。昔塗山光夏、簡狄熙殷、實由宣哲、以隆休祚。伏惟陛下德侔二媯、淑美關雎、臨朝攝政、以寧天下。今社稷危急、兆庶懸命、臣等章惶、一日萬機、事運之期、天祿所鍾、非復沖虛高讓之日。漢和熹・順烈、並亦臨朝、近明穆故事、以為先制。臣等不勝悲怖、謹伏地上請。乞陛下上順祖宗、下念臣吏、推公弘道、以協天人、則萬邦承慶、羣黎更生。太后詔曰、帝幼沖、當賴羣公卿士將順匡救、以酬先帝禮賢之意、且是舊德世濟之美、則莫重之命不墜、祖宗之基有奉、是其所以欲正位于內而已。所奏懇到、形于翰墨、執省未究、以悲以懼。先后允恭謙抑、思順坤道、所以不距羣情、固為國計。豈敢執守沖闇、以違先旨。輒敬從所奏。於是臨朝稱制。有司奏、謝夫人既封、荀・卞二夫人亦應追贈、皆后之前母也。太后不許。太常殷融議依鄭玄義、衞將軍裒在宮庭則盡臣敬、太后歸寧之日自如家人之禮。太后詔曰、典禮誠所未詳、如所奏、是情所不能安也、更詳之。征西將軍翼・南中郎尚議謂、父尊盡於一家、君敬重於天下、鄭玄義合情禮之中」。太后從之。自後朝臣皆敬裒焉。
帝既冠、太后詔曰、昔遭不造、帝在幼沖、皇緒之微、眇若贅旒。百辟卿士率遵前朝、勸喻攝政。以社稷之重、先代成義、僶俛敬從、弗遑固守。仰憑七廟之靈、俯仗羣后之力、帝加元服、禮成德備、當陽親覽、臨御萬國。今歸事反政、一依舊典。于是居崇德宮、手詔羣公曰、昔以皇帝幼沖、從羣后之議、既以闇弱、又頻丁極艱、銜恤歷祀、沈憂在疚。司徒親尊德重、訓救其弊、王室之不壞、實公是憑。帝既備茲冠禮、而四海未一、五胡叛逆、豺狼當路、費役日興、百姓困苦。願諸君子思量遠算、勠力一心、輔翼幼主、匡救不逮。未亡人永歸別宮、以終餘齒。仰惟家國、故以一言託懷。
1.及哀帝・海西公之世、太后復臨朝稱制。桓溫之廢海西公也、太后方在佛屋燒香、內侍啟云、外有急奏、太后乃出。尚倚戶前視奏數行、乃曰、我本自疑此、至半便止、索筆答奏云、未亡人罹此百憂、感念存沒、心焉如割。溫始呈詔草、慮太后意異、悚動流汗、見于顏色。及詔出、溫大喜。
簡文帝即位、尊后為崇德太后。及帝崩、孝武帝幼沖、桓溫又薨。羣臣啟曰、王室多故、禍艱仍臻、國憂始周、復喪元輔、天下惘然、若無攸濟。主上雖聖資奇茂、固天誕縱。而春秋尚富、如在諒闇、蒸蒸之思、未遑庶事。伏惟陛下德應坤厚、宣慈聖善、遭家多艱、臨朝親覽。光大之美、化洽在昔、謳歌流詠、播溢無外。雖有莘熙殷、妊姒隆周、未足以喻。是以五謀克從、人鬼同心、仰望來蘇、懸心日月。夫隨時之義、周易所尚、寧固社稷、大人之任。伏願陛下撫綜萬機、釐和政道、以慰祖宗、以安兆庶。不勝憂國喁喁至誠。太后詔曰、王室不幸、仍有艱屯。覽省啟事、感增悲歎。內外諸君、並以主上春秋沖富、加蒸蒸之慕、未能親覽、號令宜有所由。苟可安社稷、利天下、亦豈有所執、輒敬從所啟。但闇昧之闕、望盡弼諧之道。於是太后復臨朝。帝既冠、乃詔曰、皇帝婚冠禮備、遐邇宅心、宜當陽親覽、緝熙惟始。今歸政事、率由舊典。於是復稱崇德太后。
太元九年、崩于顯陽殿、年六十一、在位凡四十年。太后於帝為從嫂、朝議疑其服。太學博士徐藻議曰:「資父事君而敬同。又禮云、其夫屬父道者、妻皆母道也。則夫屬君道、妻亦后道矣。服后以齊、母之義也。魯譏逆祀、2.以明尊卑。今上躬奉康・穆・哀皇及靖后之祀、致敬同于所天。豈可敬之以君道、而服廢於本親。謂應齊衰朞。從之。
1.中華書局本は「世」を「際」に作るべきとする。
2.中華書局本によると、「尊卑」は「尊尊」に作るべきである。『春秋穀梁伝』文公二年の文、「君子不以親親害尊尊」を踏まえている。
康獻褚皇后 諱は蒜子、河南陽翟の人なり。父裒、外戚傳に見ゆ。后 聰明にして器識有り、少くして名家を以て入りて琅邪王妃と為る。康帝 即位するに及び、立ちて皇后と為り、母謝氏を封じて尋陽鄉君と為す。
穆帝 即位するに及び、后を尊びて皇太后と曰ふ。時に帝は幼沖、未だ國政を親せず。領司徒蔡謨等 上奏して曰く、「嗣皇 誕いに哲(さと)く岐嶷たり、天統を繼承し、率土 心を宅(さだ)め、兆庶 蒙賴す。陛下 體は茲れ坤道、訓は文母を隆(たつと)ぶ。昔 塗山 夏を光いにし、簡狄 殷を熙くするは、實に宣哲に由り、以て休祚を隆(たか)くす。伏して惟るに陛下 德は二媯に侔(ひと)しく、淑は關雎を美とすれば〔一〕、臨朝して攝政し、以て天下を寧んぜよ。今 社稷は危急にして、兆庶は懸命たり、臣等 章惶し、一日萬機、事運の期にして、天祿 鍾(あつ)まる所、復た沖虛高讓の日に非ず。漢和熹・順烈、並びに亦た臨朝し、近くは明穆の故事、以て先制と為す。臣等 悲怖に勝へず、謹みて地に伏して上請す。乞ふらくは陛下 上は祖宗に順ひ、下は臣吏を念じ、公を推し道を弘めて、以て天人に協へば、則ち萬邦 承慶し、羣黎 更生せん」と。太后 詔して曰く、「帝 幼沖、當に羣公卿士を賴りて將順して匡救し〔二〕、以て先帝の禮賢の意に酬(むく)い、且つ是に舊德の世濟の美ありて、則ち莫重の命 墜ちず、祖宗の基もて奉る有り、是に其れ位を內に正さんと欲する所以なるのみ。奏する所 懇ろに到り、翰墨に形はれ、執省するとも未だ究めず、以て悲しみ以て懼る。先后 允に謙抑を恭ひ、思ひて坤道に順ひ、羣情を距まざるは、固(まこと)に國計を為す所以なり。豈に敢へて沖闇を執守し、以て先旨に違はんや。輒ち敬みて奏する所に從ふ」と。是に於て臨朝稱制す。有司 奏すらく、「謝夫人 既に封ぜられ、荀・卞二夫人 亦 應に追贈すべし、皆 后の前母なりと」。太后 許さず。太常殷融 議して鄭玄の義に依り、衞將軍裒 宮庭に在れば則ち臣敬を盡せども、太后 歸寧の日 自ら家人の禮の如くせよと。太后 詔して曰く、「典禮 誠に未だ詳らかならざる所、奏する所に如くんば、是れ情 能く安ぜざる所なり、更めて之を詳らかにせよ」と。征西將軍翼・南中郎尚 議して謂ふらく、「父の尊 一家に盡くし、君の敬 天下に重し、鄭玄の義 情禮の中に合ふ」と。太后 之に從ふ。自後 朝臣 皆 裒を敬ふ。
帝 既に冠し、太后 詔して曰く、「昔 不造に遭ひ、帝 幼沖に在り、皇緒の微、眇(かす)かなりて贅旒の若し。百辟卿士 前朝に率遵し、攝政を勸喻す。社稷の重、先代 成義を以て、僶俛して敬從し、固守するに遑あらず。仰ぎて七廟の靈に憑り、俯して羣后の力に仗り、帝 元服を加へ、禮は成り德は備はり、當陽 親覽して〔三〕、萬國に臨御す。今 事を歸して政を反し、一に舊典に依る」と。是に于いて崇德宮に居し、手づから詔して羣公に曰く、「昔 皇帝の幼沖を以て、羣后の議に從ひ、既に闇弱を以て、又 頻りに極艱に丁(あ)たり、恤を歷祀に銜(は)み、沈憂 疚在り。司徒 親尊にして德は重く、其の弊を救ふことを訓へ、王室の不壞、實に公 是れ憑(たの)む。帝 既に茲に冠禮を備へ、而るに四海 未だ一ならず、五胡 叛逆し、豺狼 路に當たり、費役 日に興き、百姓 困苦す。願はくは諸君子 遠算を思量し、力を一心に勠くし、幼主を輔翼し、不逮を匡救せよ。未亡人 永く別宮に歸り、以に餘齒を終へん。仰ぎて家國を惟ひ、故に一言を以て懷を託す」と。
哀帝・海西公の世に及び、太后 復た臨朝稱制す。桓溫の海西公を廢するや、太后 方に佛屋に在りて燒香し、內侍 啟(まう)して、「外に急奏有り」と云ひ、太后 乃ち出づ。尚ほ戶前に倚りて奏を視ること數行、乃ち、「我 本に自ら此を疑ふ」と曰ひ、半に至りて便ち止み、筆を索して奏に答へて云く、「未亡人 此に百憂に罹り、感念 存沒、心 割くるが如し」と。溫 始め詔草を呈(あらは)し、太后の意 異なるを慮り、悚動して流汗し、顏色に見(あらは)る。詔 出るに及び、溫 大いに喜ぶ。
簡文帝 即位し、后を尊びて崇德太后と為す。帝 崩ずるに及び、孝武帝 幼沖にして、桓溫 又 薨ず。羣臣 啟して曰く、「王室 多故、禍艱 仍りに臻(いた)り、國憂 始めて周り、復た元輔を喪ひ、天下 惘然たり、濟ふ攸無きが若し。主上 聖資奇茂なると雖も、固に天 誕縱す。而も春秋 尚ほ富み、如し諒闇に在れば、蒸蒸の思、未だ庶事に遑あらず。伏して惟ふに陛下 德は坤厚に應じ、宣慈にして聖善、家の多艱に遭ひ、臨朝し親覽すべし。光大の美、在昔を化洽し、謳歌 流詠し、播溢して外無し。有莘 殷を熙らせ、妊姒 周を隆むると雖も、未だ以て喻えるに足らず。是を以て五謀 克く從ひ、人鬼 同心し、來蘇を仰望し〔四〕、心を日月に懸く。夫れ隨時の義、周易の尚ぶ所、社稷を寧固するは、大人の任なり。伏して願はくは陛下 萬機を撫綜し、政道を釐和し、以て祖宗を慰め、以て兆庶を安んぜよ。憂國に勝へず至誠を喁喁す」と。太后 詔して曰く、「王室の不幸、仍りに艱屯有あり。啟事を覽省するに、感增して悲歎す。內外の諸君、並びに主上の春秋 沖富にして、蒸蒸の慕を加へ、未だ能く親覽せざるを以て、號令 宜しく由る所有るべし。苟しくも社稷を安んじ、天下に利す可くんば、亦 豈に執ふる所有りて、輒ち啟する所を敬從せんや。但だ闇昧の闕、望みて弼諧の道を盡さん〔五〕」と。是に於いて太后 復た臨朝す。帝 既に冠し、乃ち詔して曰く、「皇帝 婚冠の禮 備はり、遐邇 心を宅(さだ)め、宜しく當陽に親覽し、惟始を緝熙すべし〔六〕。今 政事を歸す、舊典に率由す」と。是に於いて復た崇德太后と稱す。
太元九年、顯陽殿に崩ず、年は六十一、位に在ること凡そ四十年なり。太后 帝に於して從嫂為り、朝議 其の服を疑ふ。太學博士徐藻 議して曰く、「父を資け君に事ふるは敬は同じ。又 禮に云ふ、其の夫 父道に屬けば、妻 皆 母の道なりと〔七〕。則ち夫 君道に屬けば、妻 亦 后道なり。后に服して以て齊しきは、母の義なり。魯 逆祀を譏り、以て尊卑を明らかにす。今 上 躬ら康・穆・哀皇及び靖后の祀を奉り、敬を致して所天に同じ。豈に之を君道を以て敬ひ、而るに服 本親を廢する可きや。應に齊衰朞とすべしと謂ふ」と。之に從ふ。
〔一〕『詩経』国風 周南より。夫婦仲がよく、礼義正しいこと。
〔二〕『孝経』事君に、「將順其美、匡救其惡、故上下能相親也」とあり、節略されている。
〔三〕「當陽」は、古代の天子が南面して陽を向き、統治をしたこと。『春秋左氏伝』文公四年に見える。
〔四〕「來蘇」は、深山 @miyama__akira さまによると、『尚書』仲虺之誥に「攸徂之民、室室相慶曰、徯予后、后來其蘇」とあり、出典。やって来て安心や休息を与えること。
〔五〕弼諧は、補佐し協調すること。『尚書』皋陶謨に「允迪厥德、謨明弼諧」とある。
〔六〕緝熙は、『詩経』大雅 文王に「穆穆文王、於緝熙敬止」とあり、毛伝によると光明のこと。
〔七〕『礼記』大傳に「其の夫(をつと) 父の道(つら)に屬(つ)けば、妻は皆 母の道(つら)なり。其の夫 子の道(つら)に屬けば者、妻 皆 婦の道(つら)なり(其夫屬乎父道者、妻皆母道也。其夫屬乎子道者、妻皆婦道也)」とあり、出典。
康献褚皇后は諱を蒜子といい、河南陽翟の人である。父の褚裒は、外戚伝に見える。皇后は聡明であり器量と見識をそなえ、若いとき名家出身なので入って琅邪王妃となった。康帝が即位すると、皇后に立てられ、母謝氏を封じて尋陽郷君とした。
穆帝が即位すると、皇后を尊んで皇太后とした。ときに穆帝は幼く、まだ自分で国政ができなかった。領司徒の蔡謨らが上奏して、「嗣皇(穆帝)は賢くて幼いが立派であられ、皇統を継承し、全土から心を寄せられ、万民に信頼されています。陛下(皇太后)は坤の道にあり、文徳の母の教えを体現しています。むかし塗山(禹の妻)は夏王朝を偉大とし、簡狄(帝嚳の妻、殷の契の母)が殷を繁栄させましたが、明哲であったために、王室を隆盛させました。伏して思いますに陛下は徳が二婦人(塗山・簡狄)に等しく、(關雎篇に歌われた)礼義正しさを備えているため、臨朝して摂政し、天下を安寧になさいませ。いま社稷は危急であり、万民は命の危険があり、臣らは恐怖し、一日の政治判断が、王朝の命運を決する重要な時期で、天の意向が尊位に集まっており、遠慮して手をこまねいている場合ではありません。後漢の和熹皇后・順烈皇后は、いずれも臨朝し、近くは明穆庾皇后の故事があり、前例となるものです。臣らは悲しみに堪えられず、謹んで地に伏してお願い申し上げます。どうか陛下(皇太后)は上は祖先にしたがい、下は臣民をおもい、公の道を推し進めなさい、天と人の意思に符合すれば、万国は祝福を受け、万民は生き存えるでしょう」と言った。太后は詔して、「皇帝は幼く、群公や卿士を頼って道理にしたがい凶悪から救い、先帝の礼賢なる意思にこたえ、さらに先行世代から継承された美徳があり、重要な命運が蔑ろにされず、祖先の基業を奉っていますが、これらが王朝内で位を正している(帝位にある)理由です。(ところで)行き届いた上奏がもたらされ、墨書して表現され、手に取ると読み終える前に、悲しみ懼れてしまいました。前例の皇太后たちが謙虚にふるまい、婦人の道にしたがい、群臣からの要請を拒否しなかったのは、国家の大計をなすためです。どうして幼帝を保護することに固執し、先帝の遺志に背きましょうか。つつしんで上奏に従います」と言った。ここにおいて臨朝称制した。担当官が上奏し、「謝夫人はすでに封建されており、荀・卞二夫人もまた追贈すべきです、二人は太后の前母ですから」と言った。太后は許さなかった。太常の殷融が建議して鄭玄説に依拠し、衛将軍の褚裒は宮廷では(太后の)臣下としての敬意を尽くすが、太后が帰省したときは(父と娘として)家人の礼を取りなさいと言った。太后が詔して、「礼についてまだ正解が分からず、上奏の通りなら、感情が波立ちます、改めて検討しなさい」と言った。征西将軍の翼・南中郎の尚が議論して、「父の尊さは家庭内だけに及び、君主への敬意は天下において重いため、鄭玄説は感情と礼制を折り合わせている」と言った。太后はこれに従った。以後朝臣はみな褚裒を敬った。
穆帝が成人すると、太后は詔して、「むかし不幸(先帝の死)に遭い、皇帝は幼弱で、皇統はおとろえ、断絶する恐れがあった。百官群僚は先帝の遺志にしたがい、(私に)摂政を要請した。社稷は重く、先代は義を成し、努力してつつしんで従い、守り通す余裕もなかった。あおいで七廟の霊をたより、うつむいて諸侯の力をたより、皇帝は元服を加え、儀礼は終わり徳が備わり、執政して自ら政治をとり、万国のものは朝廷に臨んだ。いま政務を(穆帝に)返還し、すべて旧典どおりとする」と言った。ここにおいて(太后は)崇徳宮に居住し、手ずから詔して群僚に、「むかし皇帝が幼弱なので、群僚の建議に従い(臨朝し)、無能ながら、しきりに困難に対処し、憐れみを歴代にもとめ、憂鬱さを気に病んだ。司徒(司馬昱)は近親であり徳が重く、この危機を救って導いてくれた、王室が存続できたのは、まことに司徒のおかげである。皇帝はもう冠礼を備え(元服し)たが、四海はまだ統一されず、五胡が叛逆し、豺狼が路にあたり、費用と労役は日ごとに増え、百姓は困窮している。どうか君子たちは遠謀を思案し、力を一心に尽くし、若い皇帝を補佐し、不足点を補い正すように。未亡人はこれからは別宮に帰り、余生を終えよう。国家のことを思い、一言だけ申し伝えた」と言った。
哀帝・海西公の時代になると、太后はまた臨朝称制した。桓温が海西公を廃したとき、太后は仏屋で焼香しており、内侍が「外に急ぎの上奏があります」と言い、太后が外に出た。戸前に寄りかかり上奏を数行だけ読むと、「まさか」と言い、半分まで読んで止め、筆を求めて上奏に返事を書き、「未亡人はこの知らせをひどく憂い、思いは生と死が半々であり、心が割けそうだ」と言った。桓温ははじめに詔の草案を提出したとき、太后の意見が異なることを心配し、恐怖で汗を流し、顔色が変わった。詔が出ると、(太后が反対しないので)桓温は大いに喜んだ。
簡文帝が即位すると、太后を尊んで崇徳太后とした。簡文帝が崩ずると、孝武帝が幼弱であり、ちょうど桓温も薨じた。群臣は、「王室は困難にあい、禍いが次々と至り、国家には憂いがめぐり、輔政の高官(桓温)も失い、天下は失意し、救いがないようです。主上(孝武帝)は才能豊かで、天与の素質があります。しかも将来性があり、喪中にあって、思いが盛んに起こり、まだ政治をする余裕がありません。伏して思うに陛下(皇太后)の徳は大地のように厚く、慈悲ぶかく善良ですから、国家の多難に直面し、臨朝して親政なさるべきです。大いなる美徳により、前代を教化し、讃える歌は広がって、伝播して全域に及びました。有莘(殷の成湯の妻)が殷を輝かせ、太姒(周の文王の妻)が周を高めましたが、(太后に)例えるには不足します。五人の謀臣がよく従い、人鬼が心を同じくし、安息を待望し、心を日月にかけました。そもそも臨機応変の措置は、周易が重んじており、社稷を安寧にするのは、優れた人の責務です。伏して願わくは陛下は政治全般を行い、政道を調和させて、祖先の霊をなぐさめ、万民を安定させて下さい。国を憂いて真心から期待を申し上げます」と言った。太后が詔して、「王室の不幸は、次々と険難が訪れた(皇帝の死が続いた)ことである。上奏を閲覧するに、感極まって悲嘆した。内外の諸君は、みな主上の年齢が若く、湧き上がる思慕を抱いており、まだ親政には堪えないから、号令は別のものが出すようにと述べた。かりにも社稷を安んじ、天下のためになるなら、どうして辞退に固執し、上奏につつしんで従わぬことがあろうか。蒙昧でその資格はないが、補佐し協調する政道に力を尽くしてみよう」と言った。ここにおいて太后はまた臨朝した。孝武帝が成人すると、詔して、「皇帝は婚冠(婚姻と成人)の礼が備わり、遠近が心を寄せているから、天子が親政し、御世の始まりを輝かせるように。いま政治を返上し、旧典の通りとする」と言った。ここにおいてまた崇徳太后と称した。
太元九(三八四)年、顕陽殿で崩じた、年は六十一、位に在ること四十年であった。太后は皇帝にとって従嫂にあたり、朝議は服喪を決めかねた。太学博士の徐藻が議して、「父を助ける場合と君主に仕える場合とでは敬いの心が同じです。また『礼記』に、その夫がその家で父(親)の世代であれば、妻も母(親)の世代として扱うとあります。つまり夫が皇帝であれば、その妻も皇后として扱うのです。太后の服喪は、皇帝の母の規定に等しくしなさい。春秋魯は逆祀を批判し、尊卑を明らかにしました。いま主上は自ら康帝・穆帝・哀帝及び靖后の祭祀を奉っていますが、君主への敬意と同等としています。どうして太后を君主として敬い、生母への服喪規定を破っていいのでしょうか。斉衰の期とすべきと申せましょう」と言った。これに従った。
穆章何皇后諱法倪、廬江灊人也。父準、見外戚傳。以名家膺選。升平元年八月、下璽書曰、皇帝咨前太尉參軍何琦。混元資始、肇經人倫、爰及夫婦、以奉天地宗廟社稷。謀于公卿、咸以宜率由舊典。今使使持節太常彪之・宗正綜、以禮納采。琦答曰、前太尉參軍・都鄉侯糞土臣何琦稽首頓首再拜。皇帝嘉命、訪婚陋族、備數採擇。臣從祖弟故散騎侍郎準之遺女、未閑教訓、衣履若如人。欽承舊章、肅奉典制。又使兼太保・武陵王晞、兼太尉・中領軍洽、持節奉冊立為皇后。
后無子。哀帝即位、稱穆皇后、居永安宮。桓玄篡位、移后入司徒府。路經太廟、后停輿慟哭、哀感路人。玄聞而怒曰:「天下禪代常理、何預何氏女子事耶!」乃降后為零陵縣君。與安帝俱西、至巴陵。及劉裕建義、殷仲文奉后還京都、下令曰:「戎車屢警、黎元阻饑。而饍御豐靡、豈與百姓同其儉約。減損供給、勿令游過。」后時以遠還、欲奉拜陵廟。有司以寇難未平、奏停。1.(永興)〔元興〕元興三年崩、年六十六、在位凡四十八年。
1.中華書局本に従い、「永興」を「元興」に改める。
穆章何皇后 諱は法倪、廬江灊の人なり。父準、外戚傳に見ゆ。名家を以て選を膺く。升平元年八月、璽書を下して曰く、「皇帝 前太尉參軍何琦に咨らん。混元 資始し〔一〕、肇めて人倫を經、爰に夫婦に及び、以て天地宗廟社稷を奉る。公卿に謀るに、咸 以へらく宜しく舊典に率由すべし。今 使持節太常彪之・宗正綜をして、禮を以て納采せしむ」と。琦 答へて曰く、「前太尉參軍・都鄉侯糞土臣何琦 稽首頓首して再拜す。皇帝の嘉命、婚を陋族に訪ひ、數は採擇に備はる。臣の從祖弟たる故散騎侍郎準の遺女、未だ教訓を閑(なら)はず、衣履 若(か)く如人(ひとなみ)なり。欽みて舊章を承け、肅みて典制を奉らん」と。又 兼太保・武陵王晞、兼太尉・中領軍洽をして、持節して冊を奉りて立ちて皇后と為す。
后 子無し。哀帝 即位し、穆皇后と稱し、永安宮に居す。桓玄 篡位し、后を移して司徒府に入らしむ。路に太廟を經て、后 輿を停めて慟哭し、哀 路人に感ず。玄 聞きて怒りて曰く、「天下 禪代は理を常にす、何ぞ何氏が女子の事に預らんや」と。乃ち后を降して零陵縣君と為す。安帝と俱に西のかた、巴陵に至る。劉裕 建義するに及び、殷仲文 后を奉りて京都に還り、令を下して曰く、「戎車 屢々警し、黎元 饑を阻む。而るに饍御 豐靡たり、豈に百姓と同に其れ儉約せん。供給を減損し、游過せしむ勿れ」と。后 時に遠還を以て、陵廟に奉拜せんと欲す。有司 寇難 未だ平らがざるを以て、停を奏す。元興三年 崩じ、年は六十六、位に在ること凡そ四十八年なり。
〔一〕『易経』乾に「大哉乾元、萬物資始、乃統天」とある。
穆章何皇后は諱は法倪といい、廬江潜県の人である。父の何準は、外戚伝に見える。名家として選出を受けた。升平元(三五七)年八月、璽書を下して、「皇帝が前太尉參軍の何琦に咨る。混元(乾元)がもとになって始まり、初めて人倫を経て、それが夫婦に及び、天地と宗廟と社稷を奉るものだ。公卿に相談すると、全員が旧典に準拠すべきと述べた。いま使持節太常の彪之・宗正の綜を使わして、礼をもって納采させる」と言った。何琦が答えて、「前太尉參軍・都鄉侯糞土の臣何琦が、稽首頓首して再拝します。皇帝の嘉命があり、婚姻の使者が陋族にいらっしゃり、採択を受ける命運が備わりました。臣の従祖弟である故散騎侍郎準が遺した娘は、まだ教訓に習熟せず、衣履は人並みです。つつしんで旧章を受け、つつしんで典制を奉ります」と言った。さらに兼太保・武陵王晞と、兼太尉・中領軍洽を使わし、持節して冊書を奉って皇后に立てた。
皇后は子が無かった。哀帝が即位すると、穆皇后と称し、永安宮に居した。桓玄が簒位すると、皇后を移して司徒府に入らせた。道中に太廟を通過し、皇后は輿を停めて慟哭し、道ゆく人に哀しみが共感された。桓玄がこれを聞いて怒り、「天下の禅代は理を尽くしたものであり、なぜ何氏の女子めが批判するのか」と言った。そこで皇后を降格して零陵県君とした。安帝とともに西のかた、巴陵に至った。劉裕が義を建てる(桓氏を討伐する)に及び、殷仲文が皇后を奉って京都に還り、令を下して、「戦車がしばしば通過し、万民の食料が不足した。しかし御膳は豪華であり、これでは百姓とともに倹約できない。食事量を減らし、贅沢をしてはならない」と言った。皇后は遠くから還ってきたので、陵廟に奉拝したいと願った。担当官は兵難が平定されていないとして、思い止まらせた。元興三(四〇四)年に崩じ、年は六十六、位に在ることは通算四十八年であった。
哀靖王皇后諱穆之、太原晉陽人也。司徒左長史濛之女也。后初為琅邪王妃。哀帝即位、立為皇后、追贈母爰氏為安國鄉君。后在位三年、無子。興寧二年崩。
哀靖王皇后 諱は穆之、太原晉陽の人なり。司徒左長史濛の女なり。后 初め琅邪王妃と為る。哀帝 即位するや、立ちて皇后と為り、母爰氏を追贈して安國鄉君と為す。后 位に在ること三年、子無し。興寧二年 崩ず。
哀靖王皇后は諱を穆之といい、太原晋陽の人である。司徒左長史の王濛の娘である。皇后は初め琅邪王妃となった。哀帝が即位すると、皇后に立てられ、母の爰氏に追贈して安国郷君とした。皇后は位に在ること三年、子が無かった。興寧二(三六四)年に崩じた。
廢帝孝庾皇后諱道憐、潁川𨻳陵人也。父冰、自有傳。初為東海王妃。及帝即位、立為皇后。1.太和六年崩、葬于敬平陵。帝廢為海西公、追貶后曰海西公夫人。太元2.(九)〔十一〕年、海西公薨于吳、又以后合葬于吳陵。
1.中華書局本によると、「六年」は「元年」に作るべきか。
2.中華書局本に従い、「九」を「十一」に改める。
廢帝孝庾皇后 諱は道憐、潁川𨻳陵の人なり。父冰、自ら傳有り。初め東海王妃と為る。帝 即位するに及び、立ちて皇后と為る。太和六年崩じ、敬平陵に葬む。帝 廢して海西公と為り、追ひて后を貶めて海西公夫人と曰ふ。太元十一年、海西公 吳に薨じ、又 后を以て吳陵に合葬す。
廃帝孝庾皇后 諱は道憐といい、潁川𨻳陵の人である。父の庾冰は、自ら列伝がある。はじめ東海王妃となる。廃帝が即位すると、立って皇后となった。太和六(三七一)年(正しくは太和元年か)崩じ、敬平陵に葬むられた。廃帝が廃されて海西公となると、追って后を貶めて海西公夫人といった。太元十一(三八六)年、海西公が呉で薨じ、また皇后を呉陵に合葬した。
簡文宣鄭太后諱阿春、河南滎陽人也。世為冠族。祖合、臨濟令。父愷、字祖元、安豐太守。
后少孤、無兄弟、唯姊妹四人、后最長。先適渤海田氏、生一男而寡、依于舅濮陽吳氏。元帝為丞相、敬后先崩、將納吳氏女為夫人。后及吳氏女並游後園、或見之、言於帝曰、鄭氏女雖嫠、賢於吳氏遠矣。建武元年、納為琅邪王夫人、甚有寵。后雖貴幸、而恒有憂色。帝問其故、對曰、妾有妹、中者已適長沙王褒、餘二妹未有所適、恐姊為人妾、無復求者。帝因從容謂劉隗曰、鄭氏二妹、卿可為求佳對、使不失舊。隗舉其從子傭娶第三者、以小者適漢中李氏、皆得舊門。帝召王褒為尚書郎、以悅后意。后生琅邪悼王・簡文帝・尋陽公主。帝稱尊號、后雖為夫人、詔太子及東海・武陵王皆母事之。帝崩、后稱建平國夫人。
咸和元年薨、簡文帝時為琅邪王、制服重。有司以王出繼、宜降所生、國臣不能匡正、奏免國相諸葛頤。王上疏曰、亡母生臨臣國、沒留國第、臣雖出後、亦無所厭、則私情得敘。昔敬后崩、孝王已出繼、亦還服重。此則明比、臣所憲章也。明穆皇后不奪其志、乃徙琅邪王為會稽王、追號后曰會稽太妃。及簡文帝即位、未及追尊。臨崩、封皇子道子為琅邪王、領會稽國、奉太妃祀。
太元十九年、孝武帝下詔曰、會稽太妃文母之德、徽音有融、誕載聖明、光延于晉。先帝追尊聖善、朝議不一、道以疑屈。朕述遵先志、常惕于心。今仰奉遺旨、依陽秋二漢孝懷皇帝故事、上太妃尊號曰1.簡文太后。于是立廟于太廟路西、陵曰嘉平。時羣臣希旨、多謂鄭太后應配食于元帝者。帝以問太子前率徐邈。邈曰、臣案陽秋之義、母以子貴。魯隱尊桓母、別考仲子之宮而不配食于惠廟。又平素之時、不伉儷于先帝、至于子孫、豈可為祖考立配。其崇尊盡禮、由於臣子、故得稱太后、陵廟備典。若乃祔葬配食、則義所不可。從之。
1.『晋書斠注』によると、「簡文太后」は「簡文宣太后」に作るべきとする。
簡文宣鄭太后 諱は阿春、河南滎陽の人なり。世々冠族為り。祖合、臨濟令なり。父愷、字は祖元、安豐太守なり。
后 少くして孤、兄弟無く、唯だ姊妹四人のみ、后 最長なり。先に渤海田氏に適し、一男を生みて寡となり、舅たる濮陽吳氏に依る。元帝 丞相と為るや、敬后 先に崩じ、將に吳氏の女を納れて夫人に為さんとす。后及び吳氏の女 並びに後園に游び、或 之に見え、帝に言ひて曰く、「鄭氏の女 嫠なると雖も、吳氏よりも賢たること遠し」と。建武元年、納れて琅邪王夫人と為り、甚だ寵有り。后 貴幸なると雖も、恒に憂色有り。帝 其の故を問ふに、對へて曰く、「妾に妹有り、中なる者 已に長沙王褒に適し、餘二妹 未だ適く所有らず、姊 人妾と為り、復た求むる者無きを恐る」と。帝 因りて從容として劉隗に謂ひて曰く、「鄭氏の二妹、卿 為に佳對を求む可し、舊を失はざらしめ」と。隗 其の從子傭を舉げて第三なる者を娶り、小者を以て漢中李氏に適し、皆 舊門を得。帝 王褒を召して尚書郎と為し、以て后の意を悅す。后 琅邪悼王・簡文帝・尋陽公主を生む。帝 尊號を稱し、后 夫人為ると雖も、太子及び東海・武陵王に詔して皆 之に母事せしむ。帝 崩じ、后 建平國夫人と稱す。
咸和元年 薨じ、簡文帝 時に琅邪王為り、服を制めて重し。有司 王の出繼を以て、宜しく所生を降すべしとし、國臣 能く匡正せず、奏して國相諸葛頤を免ず。王 上疏して曰く、「亡母 生きて臣の國に臨み、沒して國第に留め、臣 後に出ると雖も、亦 厭ふ所無く、則ち私情もて敘を得。昔 敬后 崩じ、孝王 已に出繼し、亦 還りて服 重し。此れ則ち明比なり、臣 憲章する所なり」と。明穆皇后 其の志を奪はず、乃ち琅邪王を徙して會稽王と為し、后に追號して會稽太妃と曰ふ。簡文帝 即位するに及び、未だ追尊に及ばず。崩に臨み、皇子道子を封じて琅邪王と為し、會稽國を領し、太妃祀を奉ぜしむ。
太元十九年、孝武帝 詔を下して曰く、「會稽太妃 文母の德あり、徽音 融有り、誕(おほ)いに聖明を載(はじ)め、光は晉に延ぶ。先帝 聖善を追尊するに、朝議 一ならず、道 疑を以て屈す。朕 先志を述遵し、常に心に惕(つつし)む。今 遺旨を仰奉するに、陽秋二漢孝懷皇帝の故事に依り、太妃に尊號を上りて簡文太后と曰へ」と。是に于いて廟を太廟路西に立て、陵を嘉平と曰ふ。時に羣臣 旨を希ひ、多く鄭太后 應に元帝に配食すべしと謂ふ。帝 以て太子前率徐邈に問ふ。邈曰く、「臣 陽秋の義を案ずるに、母は子を以て貴し。魯隱 桓母を尊び、別に仲子の宮を考(な)して惠廟に配食せず〔一〕。又 平素の時、先帝に伉儷せず、子孫に至りて、豈に祖考の為に配を立つ可きか。其れ崇尊して禮を盡くすは、臣子に由り、故に太后と稱するを得、陵廟 典を備ふ。若し乃ち祔葬し配食せば、則ち義 不可なる所なり」と。之に從ふ。
〔一〕『春秋公羊伝』隠公元年を参照。
簡文宣鄭太后は諱を阿春といい、河南滎陽の人である。代々高官の一族である。祖父の鄭合は、臨済令だった。父の鄭愷は、字を祖元といい、安豊太守である。
太后は若くして父を失い、兄弟がおらず、ただ姉妹四人のみで、太后が最年長であった。さきに渤海田氏に嫁ぎ、一男を生んだが夫を失い、母方の濮陽呉氏を頼った。元帝が(西晋の)丞相となると、敬后が先に崩じ、呉氏の娘を納れて夫人にしようとした。太后及び呉氏の娘が後園で遊んでいると、あるものが彼女と会い、元帝に、「鄭氏の娘は寡婦ですが、呉氏よりも遥かに賢いですよ」と言った。建武元(三一七)年、納れて琅邪王夫人とし、とても寵愛された。太后は高貴となったが、つねに心配そうであった。元帝がその理由を問うと、答えて、「私に妹がおり、次女はすでに長沙王褒に嫁いだが、残り二人が嫁ぎ先がなく、姉は人の妻となったが、(妹を)求める者がいないことを恐れています」と言った。元帝はこれを受けて従容として劉隗に、「鄭氏の二妹に、きみがよい相手を探せ、名門を選ぶように」と言った。劉隗は従子の劉傭に三女を娶らせ、四女を漢中李氏に嫁がせ、みな名門に嫁ぐことができた。元帝は王褒を召して尚書郎とし、太后を悦ばせた。太后は琅邪悼王・簡文帝・尋陽公主を生んだ。元帝が皇帝号を称すと、太后は夫人であったが、太子及び東海・武陵王に詔して彼らには太后を母として仕えさせた。元帝が崩じると、太后は建平国夫人と称した。
咸和元(三七一)年に薨じ、簡文帝はこのとき琅邪王であり、服喪を定めて重くした。担当官は王が(会稽王家から琅邪王家に)出て継いでいるから、生母への喪を軽くせよと言い、国臣は訂正ができず、上奏して国相の諸葛頤を免じた。琅邪王が上疏して、「亡き母は生前は私の国に臨み、死後は国の邸宅に留まり、私が後に家を出ましたが、嫌がることなく、その気持ちは序列をわきまえていました。むかし敬后が崩じると、孝王がすでに他家を継いでいましたが、(もとの家に)還って服喪を重くしました。これは明らかな事例であり、私が規範とするものです」と言った。明穆皇后はその志を奪わず、琅邪王を移して会稽王とし、太后に追号して会稽太妃といった。簡文帝が即位した時点では、まだ追尊しなかった。臨終のとき、皇子の司馬道子を封じて琅邪王とし、会稽国を領し、太妃の祭祀を行わせた。
太元十九(三九四)年、孝武帝が詔を下して、「会稽太妃は文母の徳があり、徳音が広くゆきわたり、おおいに聖明を始め(皇統の起点となり)、光が晋王朝に広がった。先帝(簡文帝)が聖善を追尊しようとしたが、朝議はまとまらず、道理は疑義によって曲げられた。朕は先帝の志を尊重し、常に気に掛けてきた。いま遺言を仰ぎ見るに、春秋と両漢や孝懐皇帝の故事に従い、太妃に尊号をたてまつり簡文太后(簡文宣太后)とせよ」と言った。ここにおいて廟を太廟路西に立て、陵を嘉平といった。ときに群臣は皇帝の意に沿おうと、多くが鄭太后を元帝に配食すべきですと言った。孝武帝は太子前率の徐邈に意見を聞いた。徐邈は、「私が春秋の義を見ますに、母は子によって貴(とうと)いのです。隠公は桓公の母を尊んだが、別に仲子の宮を建てて(父の)恵公の廟に配食しませんでした。また生前、先代の帝王の正妻でなかったのに、子孫の時代に至って、どうして配食してよいのですか。尊崇して礼を尽くすのは、臣下や子の役目であり、ゆえに太后の称号を贈り、もう陵墓と廟を整備しました。もし祔葬し配食まですれば、道義から外れてしまいます」と言った。これに従った。
簡文順王皇后諱簡姬、太原晉陽人也。父遐、見外戚傳。后以冠族、初為會稽王妃、生子道生、為世子。永和四年、母子並失帝意、俱被幽廢、后遂以憂薨。咸安二年、孝武帝即位、追尊曰順皇后、合葬高平陵、追贈后父遐特進・光祿大夫、加散騎常侍。
簡文順王皇后 諱は簡姬、太原晉陽の人なり。父遐、外戚傳に見ゆ。后 冠族たるを以て、初めて會稽王妃と為り、子道生を生み、世子と為る。永和四年、母子 並びに帝の意を失し、俱に幽廢せられ、后 遂に憂を以て薨ず。咸安二年、孝武帝 即位するや、追尊して順皇后と曰ひ、高平陵に合葬し、后父遐に追贈して特進・光祿大夫とし、散騎常侍を加ふ。
簡文順王皇后は諱を簡姫といい、太原晋陽の人である。父の王遐は、外戚伝に見える。皇后は高官一族の出身なので、はじめに会稽王(後の簡文帝)の妃となり、子の司馬道生を生み、世子となった。永和四(三四八)年、母子ともに簡文帝の意に沿わず、どちらも幽閉し廃位され、皇后は憂悶して薨じた。咸安二(三七二)年、孝武帝が即位すると、追尊して順皇后といい、高平陵に合葬し、皇后の父である王遐に追贈して特進・光禄大夫とし、散騎常侍を加えた。
孝武文李太后諱陵容、本出微賤。始簡文帝為會稽王、有三子、俱夭。自道生廢黜、獻王早世、其後諸姬絕孕將十年。帝令卜者扈謙筮之、曰、後房中有一女、當育二貴男、其一終盛晉室。時徐貴人生新安公主、以德美見寵。帝常冀之有娠、而彌年無子。會有道士許邁者、朝臣時望多稱其得道。帝從容問焉、答曰、邁是好山水人、本無道術、斯事豈所能判。但殿下德厚慶深、宜隆奕世之緒。當從扈謙之言、以存廣接之道。帝然之、更加採納。又數年無子、乃令善相者召諸愛妾而示之、皆云非其人、又悉以諸婢媵示焉。時后為宮人、在織坊中、形長而色黑、宮人皆謂之崐崘。既至、相者驚云、此其人也。帝以大計、召之侍寢。后數夢兩龍枕膝、日月入懷、意以為吉祥、向儕類說之、帝聞而異焉、遂生孝武帝及會稽文孝王・鄱陽長公主。
及孝武帝初即位、尊為淑妃。太元三年、進為貴人。九年、又進為夫人。十二年、加為皇太妃、儀服一同太后。十九年、會稽王道子啟、母以子貴、慶厚禮崇。伏惟皇太妃純德光大、休祐攸鍾、啟嘉祚於聖明、嗣徽音于上列。雖幽顯同謀、而稱謂未盡、非所以仰述聖心、允答天人。宜崇正名號、詳案舊典。八月辛巳、帝臨軒、遣兼太保劉耽尊為皇太后、稱崇訓宮。安帝即位、尊為太皇太后。
隆安四年、崩于含章殿。朝議疑其服制、左僕射何澄・右僕射王雅・尚書車胤・1.孔安國・祠部郎徐廣等議曰、太皇太后名位允正、體同皇極、理制備盡、情禮兼申。陽秋之義、母以子貴、既稱夫人、禮服從正。故成風顯夫人之號、文公服三年之喪。子于父母之所生、體尊義重。且禮祖不厭孫、固宜追服無屈、而緣情立制。若嫌明文不存、則疑斯從重、謂應同于為祖母後齊衰三年。從之。皇后及百官皆服齊衰朞、永安皇后一舉哀。於是設廬於西堂、凶儀施于神獸門、葬修平陵、神主祔于宣太后廟。
1.孔安国伝にによると、当時の官位は「領軍」なので、官名の脱落が疑われる。
孝武文李太后 諱は陵容、本は微賤より出づ。始め簡文帝 會稽王と為り、三子有り、俱に夭す。道生 廢黜し、獻王 早世して自り、其の後 諸姬 孕を絕つこと將に十年。帝 卜者扈謙をして之を筮しめて、曰く、「後房中に一女有り、當に二の貴男を育て、其の一は終に晉室を盛んにすべし」と。時に徐貴人 新安公主を生み、德美を以て寵せらる。帝 常に之に娠有るを冀ひ、而して年を彌(ひさ)しくして子無し。會 道士許邁なる者有り、朝臣の時望 多く其の得道を稱ふ。帝 從容として焉に問ひ、答へて曰く、「邁は是れ山水を好む人なり、本は道術無し、斯の事 豈に能く判ずる所なるや。但だ殿下 德は厚く慶は深く、宜しく奕世の緒を隆くすべし。當に扈謙の言に從へば、以て廣接の道に存すべし」と。帝 之を然りとし、更めて採納を加ふ。又 數年 子無く、乃ち善相者をして諸愛妾を召して之に示し、皆 其の人に非ずと云ひ、又 悉く諸婢媵を以て焉に示す。時に后 宮人と為り、織坊中に在り、形は長にして色は黑く、宮人 皆 之を崐崘と謂ふ。既に至り、相者 驚きて云はく、「此れ其の人なり」と。帝 大計を以て、之を召して侍寢す。后 數々夢に兩龍ありて膝に枕し、日月 懷に入り、意 以て吉祥と為し、儕類に向ひて之を說き、帝 聞きて焉を異とし、遂に孝武帝及び會稽文孝王・鄱陽長公主を生む。
孝武帝 初めて即位するに及び、尊びて淑妃と為す。太元三年、進みて貴人と為る。九年、又 進みて夫人と為る。十二年、加へて皇太妃と為し、儀服は一に太后に同じ。十九年、會稽王道子 啟(まう)すらく、「母は子を以て貴し、慶は厚く禮は崇し。伏して惟るに皇太妃は純德にして光大、休祐 鍾する攸、嘉祚を聖明に啟き、徽音を上列に嗣ぐ〔一〕。幽顯 謀を同じくすると雖も、而るに稱 未だ盡さざると謂ふは、聖心を仰述し、允に天人に答ふる所以に非ず。宜しく名號を崇正し、詳らかに舊典を案ずべし」と。八月辛巳、帝 軒に臨み、兼太保劉耽を遣はして尊びて皇太后と為し、崇訓宮と稱す。安帝 即位し、尊びて太皇太后と為す。
隆安四年、含章殿に崩ず。朝議 其の服制を疑ふに、左僕射何澄・右僕射王雅・尚書車胤・孔安國・祠部郎徐廣等 議して曰く、「太皇太后 名位は允に正たり、體は皇極に同じ、理制は備盡し、情禮は兼申す。陽秋の義に、母は子を以て貴く、既に夫人と稱すとき、禮服 正に從ふ。故に成風 夫人の號を顯はし、文公 三年の喪に服す〔二〕。子は父母の生む所、體は尊く義は重し。且つ禮に祖は孫を厭はず、固より宜しく追服して屈無く、情に緣りて制を立つ。若し明文 存せざるを嫌はば、則ち疑しきは斯れ重きに從ひ、應に祖母の後と為して同じくし齊衰三年とすべしと謂ふ〔三〕」と。之に從ふ。皇后及び百官 皆 服は齊衰の朞、永安皇后 一に哀を舉ぐ。是に於いて廬を西堂に設け、凶儀 神獸門に于いてに施し、修平陵に葬り、神主 宣太后廟に祔す。
〔一〕『詩経』大雅の思斉篇に「大姒嗣徽音」とある。周文王の妃である大姒が、姑の大任を慕って、その美徳を受け継ぎ徳音を行ったという。
〔二〕成風は魯の僖公の母、文公の祖母。
〔三〕傍系から皇帝が即位した場合、その尊属の礼制上の取り扱いが論題となる。『宋書』巻十五 礼志二にこの文が引かれている。『宋書』巻五十五 徐廣伝に、このことが前例として参照されている。
孝武文李太后は諱を陵容といい、もとは微賤な家の出身。はじめ簡文帝が会稽王だったとき、三人の子がいたが、みな夭折した。司馬道生が廃黜され、献王(司馬郁)が早世した後、諸姫は十年間妊娠しなかった。簡文帝は卜者の扈謙に占わせ、「後房のなかに女が一人おり、二人の貴い男子を育て、うち一人は最終的に晋王朝を盛んにする」と言った。ときに徐貴人が新安公主を生み、美徳によって寵愛された。簡文帝はつねに彼女の妊娠を願い、だが長年のあいだ子が無かった。ちょうど道士の許邁という者がおり、朝臣の世論はかれの能力は本物だと称えた。簡文帝が従容として質問すると、「邁(わたし)は山水を好む人であり、じつは道術が使えず、このことは判別できません。しかし殿下は徳が厚く幸運をお持ちで、累世の繁栄を開くでしょう。扈謙の占いに従えば、願いは叶うでしょう」と言った。簡文帝はその通りだと思い、改めて意見を取り入れた。さらに数年たっても子が無く、人相見に愛妾たちを見せたが、いずれも(妊娠するのは)この人ではないと言われ、(範囲を広げて)婢媵を全員見せた。このとき李后は宮人となり、織坊のなかにいたが、長身で色黒であり、宮人はみな彼女を崐崘(山の名)とあだ名した。彼女が来ると、人相見は驚いて、「この人だ」と言った。簡文帝は大計をもって、彼女を召して一緒に寝た。李后はしばしば夢に二匹の龍が現れて膝に枕し、日月が懐に入り、これを吉祥と捉え、同僚に向けて話したが、簡文帝はこれを特別なこととし、とうとう孝武帝及び会稽文孝王・鄱陽長公主を生んだ。
孝武帝が即位すると、尊んで淑妃とした。太元三(三七八)年、進んで貴人となった。太元九(三八四)年、さらに進んで夫人となった。太元十二(三八七)年、(位を)加えて皇太妃となり、儀礼の服は太后に同じとした。太元十九(三九四)年、会稽王の司馬道子が、「母は子を以て貴(とうと)いため、祝福は厚く礼は格式を高めるものです。伏して思いますに皇太妃は純朴な徳を備えて偉大であり、天佑が集まり、吉祥が聖明(な王、簡文帝)におとずれ、徳音を祖先から継承しました。尊卑が同じ考えであっても、称号が適正でないと言うのは、聖なる心を仰ぎ見、天と人が対応しないためです。名号を尊んで正し、詳らかに旧典を参照なさいませ」と述べた。八月辛巳、孝武帝は軒に臨み、兼太保劉耽を派遣して尊んで皇太后とし、崇訓宮と称した。安帝が即位すると、尊んで太皇太后とした。
隆安四(四〇〇)年、含章殿で崩じた。朝廷はその(喪の)服制を議論し、左僕射の何澄・右僕射の王雅・尚書の車胤・(領軍の)孔安国・祠部郎の徐広らは建議して、「太皇太后は名位はまさに正にあり、体は皇極と同じで、理と制を尽く備え、情と礼を併せ持ちます。『春秋』の義によれば、母は子を以て貴いのであり、すでに夫人と称したとき、礼服は正に従いました。ゆえに(春秋魯で)成風が夫人の号を与えられ、文公は三年の喪に服しました。子は父母が生んだものであり、体は尊く義は重いのです。しかも礼によると祖父母は孫を嫌うものではないので、(世代を)遡って服しても問題がなく、情によって制度が立てられています。もし(経典に)明文がないことを懸念するなら、疑わしければ(礼制の)重いほうに従い、祖母の子孫として斉衰三年にすべきと言います」と述べた。これに従った。皇后及び百官はみな服喪は斉衰の期とし、永安皇后は一に哀を挙げた。ここにおいて廬を西堂に設け、凶儀は神獣門において施し、修平陵に葬り、神主は宣太后廟に祔葬した。
孝武定王皇后諱法慧、哀靖皇后之姪也。父蘊、見外戚傳。
初、帝將納后、訪于公卿。于時蘊子恭以弱冠見僕射謝安、安深敬重之。既而謂人曰、昔毛嘉恥于魏朝、楊駿幾傾晉室。若帝納后、有父者、唯廕望如王蘊乃可。既而訪蘊女、容德淑令、乃舉以應選。寧康三年、中軍將軍桓沖等奏曰、臣聞天地之道、蓋相須而化成。帝后之德、必相協而政隆。然後品物流形、彝倫攸敘、靈根長固、本枝百世。天人同致、莫不由此。是以塗山作儷、而夏族以熙。妊姒配周、而姬祚以昌。今長秋將建、宜時簡擇。伏聞試守晉陵太守王蘊女、天性柔順、四業允備。且盛德之冑、美善先積。臣等參議、可以配德乾元、恭承宗廟、徽音六宮、母儀天下。於是帝始納焉。封蘊妻劉氏為樂平鄉君。
后性嗜酒驕妒、帝深患之。乃召蘊於東堂、具說后過狀、令加訓誡。蘊免冠謝焉。后於是少自改飾。太元五年崩、年二十一、葬隆平陵。
孝武定王皇后 諱は法慧、哀靖皇后の姪なり。父蘊、外戚傳に見ゆ。
初め、帝 將に后を納れんとし、公卿を訪ふ。時に蘊の子恭 弱冠を以て僕射謝安に見え、安 深く之を敬重す。既にして人に謂ひて曰く、「昔 毛嘉 魏朝を恥(はづかし)め、楊駿 幾(ほとん)ど晉室を傾く。若し帝 后を納れ、父有らば、唯だ王蘊の如きを廕望すれば乃ち可なり」と。既にして蘊の女を訪れ、容德淑令たり、乃ち舉げて以て選に應ぜしむ。寧康三年、中軍將軍桓沖等 奏して曰く、「臣 天地の道を聞くに、蓋し相 須ちて化は成す。帝后の德、必ず相 協ひて政は隆る。然る後 品物 形を流し、彝倫 敘する攸(ところ)、靈根 長く固く、本枝 百世たらん。天人 致を同じくし、此に由らざる莫し。是を以て塗山 儷を作して、夏族 以て熙たり。妊姒 周に配して、姬祚 以て昌たり。今 長秋 將に建てんとし、宜しく時に簡擇すべし。伏して聞くに試守晉陵太守王蘊の女、天性は柔順、四業 允に備はる。且つ盛德の冑、美善 先に積む。臣等 參議し、以て德を乾元に配し、恭んで宗廟を承け、音を六宮に徽し、儀は天下に母たる可し」と。是に於て帝 始めて焉を納る。蘊妻劉氏を封じて樂平鄉君と為す。
后の性 酒を嗜み驕妒たり、帝 深く之を患ふ。乃ち蘊を東堂に召し、具さに后の過狀を說き、訓誡を加へしむ。蘊 免冠して焉に謝す。后 是に於いて少しく自ら改飾す。太元五年 崩じ、年は二十一、隆平陵に葬る。
孝武定王皇后は諱を法慧といい、哀靖皇后のめいである。父の王蘊は、外戚伝に見える。はじめ、孝武帝が后を迎えようとし、公卿を訪問した。このとき王蘊の子である王恭は弱冠であるが僕射の謝安に会い、謝安が深くかれを敬重した。会ってから人に、「むかし毛嘉(明悼毛皇后の父)は魏朝を恥ずかしめ、楊駿(武悼楊皇后の父)は晋王朝を傾けるところだった。もし皇帝が后を迎え、父がいる者ならば、ただ王蘊のようなものを守り望むとよいでしょう」と言った。そして王蘊の娘を訪れると、寛容の徳をそなえて淑やかであったから、推挙して候補に入れた。寧康三(三七四)年、中軍将軍の桓沖ら上奏して、「臣が天地の道を聞きますに、けだし相まって教化が成されます。皇帝と皇后の徳は、調和して政治を隆めます。その後に万物は形が変化し、人倫は秩序が生まれ、根本が長く固くなり、宗家と分家が百世に栄えます。天と人とが一致するとき、これ以外の道はありません。これにより塗山氏は(夏禹の)妻を輩出し、夏王朝は栄えました。妊姒(文王の妻である太姒)が周王朝に嫁いで、姫氏の命運は盛んになりました。いま皇后を立てるにあたり、時を得た選択をなさるべきです。伏して聞きますに試守晋陵太守の王蘊の女は、天性は柔順で、婦人の四つの技能が備わっています。しかも徳の盛んな家柄で、美善を先に積んでいます。臣らが議論し、有徳者を皇帝と結婚させ、恭んで宗廟を継承し、音楽を六宮で演奏し、母としての規範を天下に及ぼしなさい」と言った。ここにおいて孝武帝ははじめて彼女を迎えた。王蘊の妻劉氏(皇后の母)を封じて楽平郷君とした。
皇后の性格は酒をたしなみ驕慢で嫉妬ぶかく、孝武帝は心を痛めた。そこで王蘊を東堂に召し、細かく皇后の過失を伝え、訓戒を加えさせた。王蘊が冠を脱いで謝った。皇后はこれを受けて少しだけ態度を改めた。太元五(三八〇)年に崩御し、年は二十一、隆平陵に葬った。
安德陳太后諱歸女、松滋潯陽人也。父廣、以倡進、仕至平昌太守。后以美色能歌彈、入宮為淑媛、生安・恭二帝。太元十五年薨、贈夫人。追崇曰皇太后、神主祔于宣太后廟、陵曰熙平。
安德陳太后 諱は歸女、松滋潯陽の人なり。父廣、倡たるを以て進み、仕へて平昌太守に至る。后 美色にして能く歌彈するを以て、宮に入りて淑媛と為り、安・恭二帝を生む。太元十五年 薨じ、夫人を贈らる。追崇して皇太后と曰ひ、神主 宣太后廟に祔し、陵は熙平と曰ふ。
安德陳太后は諱を歸女といい、松滋潯陽の人である。父の陳広は、楽人(演奏者)として宮中に進み、史官して平昌太守に至った。皇后は容姿が美しく歌と演奏ができたので、後宮に入って淑媛となり、安・恭二帝を生んだ。太元十五(三九〇)年に薨じ、夫人の位を贈られた。追崇して皇太后といい、神主が宣太后廟に合祀され、陵は熙平といった。
安僖王皇后諱神愛、琅邪臨沂人也。父獻之、見別傳。母新安愍公主。后以太元二十一年納為太子妃。及安帝即位、立為皇后。無子。義熙八年崩于徽音殿、時年二十九、葬休平陵。
安僖王皇后 諱は神愛、琅邪臨沂の人なり。父獻之、別傳に見ゆ。母は新安愍公主なり。后 太元二十一年を以て納りて太子妃と為る。安帝 即位するに及び、立ちて皇后と為る。子無し。義熙八年 徽音殿に崩じ、時に年二十九、休平陵に葬る。
安僖王皇后は諱を神愛といい、琅邪臨沂の人。父の王献之は、別に列伝がある。母は新安愍公主である。皇后は太元二十一(三九六)年をに入って太子妃となった。安帝が即位するに及び、皇后に立てられた。子は無かった。義熙八(四一二)年 徽音殿で崩御し、時に年は二十九、休平陵に葬られた。
恭思褚皇后諱靈媛、河南陽翟人、義興太守爽之女也。后初為琅邪王妃。元熙元年、立為皇后、生海鹽・富陽公主。及帝禪位于宋、降為零陵王妃。宋元嘉十三年崩、時年五十三、祔葬沖平陵。
恭思褚皇后 諱は靈媛、河南陽翟の人にして、義興太守爽の女なり。后 初め琅邪王妃と為る。元熙元年、立ちて皇后と為り、海鹽・富陽公主を生む。帝 位を宋に禪るに及び、降りて零陵王妃と為る。宋の元嘉十三年 崩じ、時に年五十三、沖平陵に祔葬せらる。
恭思褚皇后は諱を霊媛といい、河南陽翟の人であり、義興太守である褚爽の娘。皇后は初めは琅邪王妃となった。元熙元(四一九)年、皇后に立てられ、海塩・富陽公主を生んだ。帝が南朝宋に禅譲すると、降格されて零陵王妃となった。宋の元嘉十三(四三六)年に崩御し、時に年は五十三、沖平陵に合葬された。
史臣曰、方祇體安、儷乾儀而合德。圓舒循晷、配羲曜以齊明。故知陽爍陰凝、萬物假其陶鑄。火炎水潤、六氣由其調理。取譬賢淑、作伉文思、靈根式固、實資於此。宣穆閱禮、偶德潛鱗、翊天造之艱虞、嗣塗山之逸響、寶運歸其後胤、蓋有母儀之助焉。武元楊氏預聞朝政、明不逮遠、愛溺私情、深杜衞瓘之言、不曉張泓之詐、運其陰沴、韜映乾明、晉道中微、基于是矣。惠皇稟質、王縱其嚚、識暗鳴蛙、智昏文蛤。南風肆狡、扇禍稽天。初踐椒宮、逞梟心于長樂。方觀梓樹、頒鴆羽於離明。褒后滅周、方之蓋小。妹妃傾夏、曾何足喻。中原陷於鳴鏑、其兆彰於此焉。昔者高宗諒闇、總百官於元老。成王沖眇、託萬機於上公。太后御宸、諒知非古。而明穆・康獻、仍世臨朝、時屬委裘、躬行負扆。各免華陽之釁、竟躡和熹之蹤、保陵遲以克終、所幸實為多矣。
贊曰、二妃光舜、三母翼周。末升夷癸、褒進亡幽。家邦興滅、職此之由。穆后沈斷、忘情執爨。故劍辭恩、池蒲起歎。崇化繁祉、肇基商亂。二楊繼寵、福極災生。南風熾虐、國喪身傾。獻容幸亂、居辱疑榮。援筆廢主、持尺威帝。契闊終罹、殷憂以斃。芬實窈窕、芳菲婉嫕。呂妾變嬴、黃姬化芈。石文遠著、金行潛徙。婦德傾城、迷朱奪紫。
史臣曰く、方祇 安を體し、乾儀に儷いて德を合す。圓舒 晷に循り、羲曜に配して以て明を齊す。故に知る陽 爍して陰は凝り、萬物 其の陶鑄を假る。火は炎し水は潤し、六氣 其の調理に由る。譬を賢淑に取るに、伉を文思に作し、靈根 式(もつ)て固く、實に此に資る。宣穆 禮を閱し、德に偶(あ)ひて鱗を潛め、天造の艱虞を翊け、塗山の逸響を嗣ぎ、寶運 其の後胤に歸し、蓋し母儀の助有り。武元楊氏 朝政を預聞し、明は遠に逮ばず、愛は私情に溺れ、深く衞瓘が言を杜(ふさ)ぎ、張泓の詐に曉からず、其の陰沴を運び、映を乾明に韜み、晉道 中ごろに微なるは、是に基とす。惠皇の稟質、王 其の嚚を縱にし、識は鳴蛙に暗く、智は文蛤に昏し。南風 狡を肆にし、禍を扇ぎて天に稽る。初めて椒宮を踐み、梟心を長樂に逞しくす。方に梓樹を觀て、鴆羽を離明に頒く。褒后 周を滅するも、之に方べて蓋し小なり。妹妃 夏を傾け、曾て何ぞ喻ふるに足らん。中原 鳴鏑に陷ち、其の兆 此に彰らかなり。昔者 高宗 諒闇にあり、百官を元老に總べしむ。成王 沖眇にして、萬機を上公に託す。太后 宸に御し、非古を諒知す。而して明穆・康獻、仍りに世に臨朝し、時に委裘に屬し、躬ら負扆を行ふ。各々華陽の釁を免じ、竟に和熹の蹤を躡み、陵遲を保ちて以て克く終はる、幸とする所 實に多と為さん。
贊に曰く、二妃 舜に光り、三母 周を翼く。末 升りて癸を夷け、褒 進みて幽を亡す。家邦の興滅、職(もと)より此の由なり。穆后 沈斷たりて、情を忘れて爨を執る。故に劍 恩を辭し、池蒲 歎を起す〔一〕。崇化の繁祉、肇めて商亂を基す。二楊 寵を繼ぎ、福 極はりて災 生ず。南風 虐を熾にし、國は喪ひ身は傾く。獻容 亂に幸き、辱に居りて榮を疑ふ。筆を援して主を廢し、尺を持ちて帝を威す。契闊 終に罹り、殷憂して以て斃る。芬 實に窈窕たり、芳 菲にして婉嫕たり。呂妾 嬴を變じ、黃姬 羋を化す〔二〕。石文 遠著たり、金行 潛徙す。婦德 城を傾け、朱を迷ひ紫を奪ふ。
〔一〕指し示すところが未詳。魏晋革命のことか。
〔二〕藍田邸 @kusamaturi さまによると、「呂不韋と趙姫」、「春申君・黄歇と李園の妹」を指す。双方とも、王に自分の子を孕んだ妾を献上して王統を乗っ取った逸話がある(秦王は贏姓、楚王は芈姓)。
史臣はいう、大地が安定し、天と対をなすことで徳に合致する。円い月はひかげを巡り、日輪と並ぶと明るくなる。ゆえに陽が輝いて陰は凝り、万物は形作られるのである。火は燃えて水は潤し、六気はその性質を表すのである。女子の賢さに例えれば、帝王と一対となり、根本の性質が確かなことは、実にこれに依る。宣穆皇后が礼を修め、有徳者(司馬懿)に遭遇して鱗を潜め、天がもたらした不安を助け、塗山(禹の妻)のような優れた響きを嗣ぎ、幸運はその子(司馬師・司馬昭)に伝わったが、これは母の規範をもって導いたためである。武元楊皇后が朝政に関与し、(後嗣選びで)明察が遥か未来に及ばず、愛は私情に溺れ、衛瓘の意見(恵帝は不適任である)を退け、張泓の偽装工作(恵帝の答案の代作した)を見抜けず、陰りを招き寄せてしまい、王朝の絶頂にあっても、晋王朝が中途で衰退するのは、これを起点とした。恵皇帝の生来の資質(愚昧さ)のせいで、諸王は好き勝手に騒ぎ(八王の乱)、見識は蛙の鳴声で疑われ、知恵は文蛤(はまぐり)のこと(愍懐太子の出生問題か)で暗かった。賈南風が狡猾さを発揮し、禍いを仰いで天に留めた。はじめに皇后の位を踏み、梟のような心を長楽宮で行使した(楊皇太后を殺した)。梓の木を見て、鴆羽を夜明けに分け与えた(愍懐太子を殺した)。褒后(褒姒)が周王朝を滅ぼしたことも、これに比べたら小さかろう。妹妃(末姫)が夏王朝を傾けたが、例えるに足りない。中原は異民族に蹂躙されたが、その前兆はここに明らかであった。むかし殷の高宗が服喪すると、百官を元老に統括させた。周の成王が幼弱であれば、政務全般を上公に委託した。(東晋時代)皇太后たちは寝殿にいて、これらの前例が現在も有効であると了解した。そこで明穆庾皇后・康献褚皇后は、いくども治世に臨朝し、時には先帝の衣服に仮託し、自ら屏風を背にして執政した。それぞれ華陽の破滅(西晋の滅亡)をくり返さず、後漢の和熹皇后の前例を踏み、衰微する王朝を長続きさせた、素晴らしい点は実に多いのではないか。
賛にいう、二妃(尭の二人の娘)が舜を偉大にし、三人の母が周王朝を補佐した。末姫が(夏王朝に)嫁いでに履癸(桀)を滅ぼし、褒姒が(周王朝に)嫁いで幽王を滅ぼした。国家の盛衰は、このようなものである。宣穆張皇后(司馬懿の妻)は沈着で決断力があり、感情を忘れて(女奴隷を殺し)自ら飯炊きをした。ゆえに剣は恩を辞して、池の蒲は歎いた。教化の祝福は、陰りの契機を抱えた。二楊(武元楊皇后・武悼楊皇后)が相次いで皇后となり、栄誉が絶頂になったときに災厄が生じた。南風(恵賈皇后)が暴虐をおこない、国家は喪失して身体も傾覆した。献容(恵羊皇后)が乱のなか嫁いで、(前趙劉氏に)屈辱を加えられて(晋王朝の)繁栄に疑問を持った。筆を手にして君主を廃位し、尺を持って皇帝を威圧した。けっきょく長く会わず、憂悶のうちに倒れた。左芬(左貴嬪)はまことに美しく上品で、胡芳(胡貴嬪)は香しく柔順であった。呂氏が秦王の血統を変え、黄氏が楚王の血統を乗っ取った。石文は遥かに現れ、金徳はひそかに移った。婦徳が城を傾け、朱を迷わせて紫を奪ったのである。