いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第四巻_羊祜伝・杜預(子錫)

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。

羊祜

原文

羊祜、字叔子、泰山南城人也。世吏二千石、至祜九世、並以清德聞。祖續、仕漢南陽太守。父衜、上黨太守。祜蔡邕外孫、景獻皇后同産弟。
祜年十二喪父、孝思過禮、事叔父耽甚謹。嘗遊汶水之濱、遇父老謂之曰「孺子有好相、年未六十、必建大功於天下。」既而去、莫知所在。及長、博學能屬文、身長七尺三寸、美鬚眉、善談論。郡將夏侯威異之、以兄霸之子妻之。舉上計吏、州四辟從事、秀才、五府交命、皆不就。太原郭奕見之曰「此今日之顏子也。」與王沈俱被曹爽辟。沈勸就徴、祜曰「委質事人、復何容易。」及爽敗、沈以故吏免、因謂祜曰「常識卿前語。」祜曰「此非始慮所及。」其先識不伐如此。
夏侯霸之降蜀也、姻親多告絕、祜獨安其室、恩禮有加焉。尋遭母憂、長兄發又卒、毀慕寢頓十餘年、以道素自居、恂恂若儒者。
文帝爲大將軍、辟祜、未就、公車徴拜中書侍郎、俄遷給事中・黃門郎。時高貴郷公好屬文、在位者多獻詩賦、汝南和逌以忤意見斥、祜在其閒、不得而親疏、有識尚焉。陳留王立、賜爵關中侯、邑百戸。以少帝不願爲侍臣、求出補吏、徙祕書監。及五等建、封鉅平子、邑六百戸。鍾會有寵而忌、祜亦憚之。及會誅、拜相國從事中郎、與荀勖共掌機密。遷中領軍、悉統宿衞、入直殿中、執兵之要、事兼内外。
武帝受禪、以佐命之勳、進號中軍將軍、加散騎常侍、改封郡公、邑三千戸。固讓封不受、乃進本爵爲侯、置郎中令、僃九官之職、加夫人印綬。泰始初、詔曰「夫總齊機衡、允釐六職、朝政之本也。祜執德清劭、忠亮純茂、經緯文武、謇謇正直、雖處腹心之任、而不總樞機之重、非垂拱無爲委任責成之意也。其以祜爲尚書右僕射・衞將軍、給本營兵。」時王佑・賈充・裴秀皆前朝名望、祜毎讓、不處其右。
帝將有滅吳之志、以祜爲都督荊州諸軍事、假節、散騎常侍・衞將軍如故。祜率營兵出鎭南夏、開設庠序、綏懷遠近、甚得江漢之心。與吳人開布大信、降者欲去皆聽之。時長吏喪官、後人惡之、多毀壞舊府、祜以死生有命、非由居室、書下征鎭、普加禁斷。吳石城守去襄陽七百餘里、毎爲邊害、祜患之、竟以詭計令吳罷守。於是戍邏減半、分以墾田八百餘頃、大獲其利。祜之始至也、軍無百日之糧、及至季年、有十年之積。詔罷江北都督、置南中郎將、以所統諸軍在漢東江夏者皆以益祜。在軍常輕裘・緩帶、身不被甲、鈴閤之下、侍衞者不過十數人、而頗以畋漁廢政。嘗欲夜出、軍司徐胤執棨當營門曰「將軍都督萬里、安可輕脱。將軍之安危、亦國家之安危也。胤今日若死、此門乃開耳。」祜改容謝之、此後稀出矣。
後加車騎將軍、開府如三司之儀。祜上表固讓曰「臣伏聞恩詔、拔臣使同台司。臣自出身以來、適十數年、受任外内、毎極顯重之任。常以智力不可頓進、恩寵不可久謬。夙夜戰悚、以榮爲憂。臣聞古人之言、德未爲人所服而受高爵、則使才臣不進、功未爲人所歸而荷厚祿、則使勞臣不勸。今臣身託外戚、事連運會。誡在過寵、不患見遺。而猥降發中之詔、加非次之榮。臣有何功可以堪之、何心可以安之。身辱高位、傾覆尋至。願守先人弊廬、豈可得哉。違命誠忤天威、曲從即復若此。蓋聞古人申於見知、大臣之節、不可則止。臣雖小人、敢緣所蒙、念存斯義。今天下自服化以來、方漸八年、雖側席求賢、不遺幽賤、然臣不能推有德、達有功、使聖聽知勝臣者多、未達者不少。假令有遺德於版築之下、有隱才於屠釣之閒、而朝議用臣不以爲非、臣處之不以爲愧、所失豈不大哉。臣忝竊雖久、未若今日兼文武之極寵、等宰輔之高位也。且臣雖所見者狹、據今光祿大夫李憙執節高亮、在公正色、光祿大夫魯芝絜身寡欲、和而不同、光祿大夫李胤清亮簡素、立身在朝、皆服事華髮、以禮終始、雖歴位外内之寵、不異寒賤之家、而猶未蒙此選。臣更越之、何以塞天下之望、少益日月。是以誓心守節、無苟進之志。今道路行通、方隅多事、乞留前恩、使臣得速還屯。不爾留連、必於外虞有闕。匹夫之志、有不可奪。」不聽。
及還鎭、吳西陵督歩闡舉城來降。吳將陸抗攻之甚急、詔祜迎闡。祜率兵五萬出江陵、遣荊州刺史楊肇攻抗不剋、闡竟爲抗所擒。有司奏「祜所統八萬餘人、賊衆不過三萬。祜頓兵江陵、使賊僃得設。乃遣楊肇偏軍入險、兵少糧懸、軍人挫衄。背違詔命、無大臣節。可免官、以侯就第。」竟坐貶爲平南將軍、而免楊肇爲庶人。
祜以孟獻營武牢而鄭人懼、晏弱城東陽而萊子服、乃進據險要、開建五城、收膏腴之地、奪吳人之資、石城以西、盡爲晉有。自是前後降者不絕、乃增修德信、以懷柔初附、慨然有吞并之心。毎與吳人交兵、剋日方戰、不爲掩襲之計。將帥有欲進譎詐之策者、輒飲以醇酒、使不得言。人有略吳二兒爲俘者、祜遣送還其家。後吳將夏詳・邵顗等來降、二兒之父亦率其屬與俱。吳將陳尚・潘景來寇、祜追斬之、美其死節而厚加殯斂。景・尚子弟迎喪、祜以禮遣還。吳將鄧香掠夏口、祜募生縛香、既至、宥之。香感其恩甚、率部曲而降。祜出軍行吳境、刈穀爲糧、皆計所侵、送絹償之。毎會衆江沔遊獵、常止晉地。若禽獸先爲吳人所傷而爲晉兵所得者、皆封還之。於是吳人翕然悅服、稱爲羊公、不之名也。
祜與陸抗相對、使命交通。抗稱祜之德量、雖樂毅・諸葛孔明不能過也。抗嘗病、祜饋之藥、抗服之無疑心。人多諫抗、抗曰「羊祜豈酖人者。」時談以爲華元・子反復見於今日。抗毎告其戍曰「彼專爲德、我專爲暴、是不戰而自服也。各保分界而已、無求細利。」孫皓聞二境交和、以詰抗。抗曰「一邑一郷不可以無信義。況大國乎。臣不如此、正是彰其德、於祜無傷也。」
祜貞慤・無私、疾惡邪佞、荀勖・馮紞之徒甚忌之。從甥王衍嘗詣祜陳事、辭甚俊辯。祜不然之、衍拂衣而起。祜顧謂賓客曰「王夷甫方以盛名處大位、然敗俗傷化、必此人也。」歩闡之役、祜以軍法將斬王戎、故戎・衍並憾之、毎言論多毀祜。時人爲之語曰「二王當國、羊公無德。」
咸寧初、除征南大將軍・開府儀同三司、得專辟召。初、祜以伐吳必藉上流之勢。又時吳有童謠曰「阿童復阿童、銜刀浮渡江。不畏岸上獸、但畏水中龍。」祜聞之曰「此必水軍有功。但當思應其名者耳。」會益州刺史王濬徴爲大司農、祜知其可任。濬又小字阿童、因表留濬監益州諸軍事、加龍驤將軍、密令修舟檝、爲順流之計。
祜繕甲訓卒、廣爲戎僃。至是上疏曰「先帝順天應時、西平巴蜀、南和吳會、海内得以休息、兆庶有樂安之心。而吳復背信、使邊事更興。夫期運雖天所授、而功業必由人而成、不一大舉掃滅、則衆役無時得安。亦所以隆先帝之勳、成無爲之化也。故堯有丹水之伐、舜有三苗之征、咸以寧靜宇宙、戢兵和衆者也。蜀平之時、天下皆謂吳當并亡、自此來十三年、是謂一周、平定之期復在今日矣。議者常言、吳楚有道後服、無禮先強。此乃諸侯之時耳。當今一統、不得與古同諭。夫適道之論、皆未應權、是故謀之雖多、而決之欲獨。凡以險阻得存者、謂所敵者同、力足自固。苟其輕重不齊、強弱異勢、則智士不能謀、而險阻不可保也。蜀之爲國、非不險也、高山尋雲霓、深谷肆無景、束馬懸車、然後得濟、皆言一夫荷戟、千人莫當。及進兵之日、曾無藩籬之限、斬將搴旗、伏尸數萬、乘勝席卷、徑至成都、漢中諸城皆鳥棲而不敢出、非皆無戰心、誠力不足相抗。至劉禪降服、諸營堡者索然俱散。今江淮之難不過劍閣、山川之險不過岷漢。孫皓之暴侈於劉禪、吳人之困甚於巴蜀。而大晉兵衆多於前世、資儲器械盛於往時。今不於此平吳、而更阻兵相守、征夫苦役、日尋干戈、經歴盛衰不可長久。宜當時定、以一四海。今若引梁益之兵水陸俱下、荊楚之衆進臨江陵、平南・豫州、直指夏口、徐・揚・青・兖並向秣陵、鼓旆以疑之、多方以誤之、以一隅之吳、當天下之衆、勢分形散、所僃皆急。巴漢奇兵出其空虛、一處傾壞、則上下震蕩。吳緣江爲國、無有内外、東西數千里、以藩籬自持、所敵者大、無有寧息。孫皓恣情任意、與下多忌、名臣重將不復自信、是以孫秀之徒皆畏逼而至。將疑於朝、士困於野、無有保世之計・一定之心。平常之日猶懷去就、兵臨之際必有應者。終不能齊力致死、已可知也。其俗急速、不能持久、弓弩・戟楯不如中國、唯有水戰是其所便。一入其境、則長江非復所固、還保城池、則去長入短。而官軍懸進、人有致節之志、吳人戰於其内、有憑城之心。如此、軍不踰時剋可必矣。」帝深納之。
會秦涼屢敗、祜復表曰「吳平則胡自定。但當速濟大功耳。」而議者多不同、祜歎曰「天下不如意、恒十居七八、故有當斷不斷。天與不取、豈非更事者恨於後時哉。」
其後、詔以泰山之南武陽・牟・南城・梁父・平陽五縣爲南城郡、封祜爲南城侯、置相與郡公同。祜讓曰「昔張良請受留萬戸、漢祖不奪其志。臣受鉅平於先帝、敢辱重爵、以速官謗。」固執不拜、帝許之。祜毎被登進、常守沖退、至心素著、故特見申於分列之外。是以名德遠播、朝野具瞻、搢紳僉議、當居台輔。帝方有兼并之志、仗祜以東南之任、故寢之。
祜歴職二朝、任典樞要、政事損益、皆諮訪焉、勢利之求、無所關與。其嘉謀讜議皆焚其草、故世莫聞。凡所進達、人皆不知所由。或謂祜愼密太過者、祜曰「是何言歟。夫入則造膝、出則詭辭。君臣不密之誡、吾惟懼其不及。不能舉賢取異、豈得不愧知人之難哉。且拜爵公朝、謝恩私門、吾所不取。」祜女夫嘗勸祜「有所營置、令有歸戴者、可不美乎」。祜默然不應、退告諸子曰「此可謂知其一不知其二。人臣樹私則背公。是大惑也。汝宜識吾此意。」嘗與從弟琇書曰「既定邊事、當角巾東路、歸故里、爲容棺之墟。以白士而居重位、何能不以盛滿受責乎。疏廣是吾師也。」
祜樂山水、毎1.〔因〕風景、必造峴山、置酒言詠、終日不倦。嘗慨然歎息、顧謂從事中郎鄒湛等曰「自有宇宙、便有此山。由來賢達・勝士、登此遠望、如我與卿者多矣。皆湮滅無聞、使人悲傷。如百歲後有知、魂魄猶應登此也。」湛曰「公德冠四海、道嗣前哲、令聞・令望、必與此山俱傳。至若湛輩、乃當如公言耳。」
祜當討吳賊有功、將進爵土、乞以賜舅子蔡襲、詔封襲關内侯、邑三百戸。
會吳人寇弋陽・江夏略戸口、詔遣侍臣移書詰祜不追討之意、并欲移州復舊之宜、祜曰「江夏去襄陽八百里、比知賊問、賊去亦已經日矣。歩軍方往、安能救之哉。勞師以免責、恐非事宜也。昔魏武帝置都督、類皆與州相近、以兵勢好合惡離。疆埸之閒、一彼一此、愼守而已、古之善教也。若輒徙州、賊出無常、亦未知州之所宜據也。」使者不能詰。
祜寢疾、求入朝。既至洛陽、會景獻宮車在殯、哀慟至篤。中詔申諭、扶疾引見、命乘輦入殿、無下拜、甚見優禮。及侍坐、面陳伐吳之計。帝以其病不宜常入、遣中書令張華問其籌策。祜曰「今主上有禪代之美、而功德未著。吳人虐政已甚、可不戰而剋。混一六合、以興文教、則主齊堯舜、臣同稷契、爲百代之盛軌。如舍之、若孫皓不幸而沒、吳人更立令主、雖百萬之衆、長江未可而越也、將爲後患乎。」華深贊成其計。祜謂華曰「成吾志者、子也。」帝欲使祜臥護諸將、祜曰「取吳不必須臣自行、但既平之後、當勞聖慮耳。功名之際、臣所不敢居。若事了、當有所付授。願審擇其人。」
疾漸篤、乃舉杜預自代。尋卒。時年五十八。帝素服哭之、甚哀。是日大寒、帝涕淚霑鬚鬢、皆爲冰焉。南州人征市日聞祜喪、莫不號慟、罷市、巷哭者聲相接。吳守邊將士亦爲之泣。其仁德所感如此。賜以東園祕器・朝服一襲・錢三十萬・布百匹。詔曰「征南大將軍南城侯祜、蹈德沖素、思心清遠。始在内職、値登大命、乃心篤誠、左右王事、入綜機密、出統方岳。當終顯烈、永輔朕躬、而奄忽殂隕、悼之傷懷。其追贈侍中・太傅、持節如故。」
祜立身清儉、被服率素、祿俸所資、皆以贍給九族、賞賜軍士、家無餘財。遺令不得以南城侯印入柩。從弟琇等述祜素志、求葬於先人墓次。帝不許、賜去城十里外近陵葬地一頃、諡曰成。祜喪既引、帝於大司馬門南臨送。祜甥齊王攸表祜妻不以侯斂之意、帝乃詔曰「祜固讓歴年、志不可奪。身沒讓存、遺操益厲。此夷叔所以稱賢、季子所以全節也。今聽復本封、以彰高美。」
初、文帝崩、祜謂傅玄曰「三年之喪、雖貴遂服、自天子達。而漢文除之、毀禮傷義、常以歎息。今主上天縱至孝、有曾閔之性、雖奪其服、實行喪禮。喪禮實行、除服何爲邪。若因此革漢魏之薄、而興先王之法、以敦風俗、垂美百代、不亦善乎。」玄曰「漢文以2.(末)〔來〕世淺薄、不能行國君之喪、故因而除之。除之數百年、一旦復古、難行也。」祜曰「不能使天下如禮、且使主上遂服、不猶善乎。」玄曰「主上不除而天下除、此爲但有父子、無復君臣、三綱之道虧矣。」祜乃止。
祜所著文章及爲老子傳並行於世。襄陽百姓於峴山祜平生游憩之所建碑立廟、歲時饗祭焉。望其碑者莫不流涕、杜預因名爲墮淚碑。荊州人爲祜諱名、屋室皆以門爲稱、改戸曹爲辭曹焉。
祜開府累年、謙讓不辟士、始有所命、會卒、不得除署。故參佐劉儈・趙寅・劉彌・孫勃等牋詣預曰「昔以謬選、忝僃官屬、各得與前征南大將軍祜參同庶事。祜執德沖虛、操尚清遠、德高而體卑、位優而行恭。前膺顯命、來撫南夏、既有三司之儀、復加大將軍之號。雖居其位、不行其制、至今海内渴佇、羣俊望風。渉其門者、貪夫反廉、懦夫立志、雖夷・惠之操、無以尚也。自鎭此境、政化被乎江漢、潛謀・遠計、闢國開疆、諸所規摹、皆有軌量。志存公家、以死勤事、始辟四掾、未至而隕。夫舉賢報國、台輔之遠任也。搜揚側陋、亦台輔之宿心也。中道而廢、亦台輔之私恨也。履謙積稔、晚節不遂、此遠近所以爲之感痛者也。昔召伯所憩、愛流甘棠、宣子所游、封殖其樹。夫思其人、尚及其樹。況生存所辟之士、便當隨例放棄者乎。乞蒙列上、得依已至掾屬。」預表曰「祜雖開府而不僃僚屬、引謙之至、宜見顯明。及扶疾辟士、未到而沒。家無胤嗣、官無命士、此方之望、隱憂載懷。夫篤終追遠、人德歸厚、漢祖不惜四千戸之封、以慰趙子弟心。請議之。」詔不許。
祜卒二歲而吳平、羣臣上壽、帝執爵流涕曰「此羊太傅之功也。」因以剋定之功、策告祜廟、仍依蕭何故事、封其夫人。策曰「皇帝使謁者杜宏告故侍中・太傅・鉅平成侯祜。昔吳爲不恭、負險稱號、郊境不闢、多歴年所。祜受任南夏、思靜其難、外揚王化、内經廟略、著德推誠、江漢歸心、舉有成資、謀有全策。昊天不弔、所志不卒、朕用悼恨于厥心。乃班命羣帥、致天之討、兵不踰時、一征而滅、疇昔之規、若合符契。夫賞不失勞、國有彝典、宜增啟土宇、以崇前命、而重違公高讓之素。今封夫人夏侯氏萬歲郷君、食邑五千戸、又賜帛萬匹・穀萬斛。」
祜年五歲、時令乳母取所弄金環。乳母曰「汝先無此物。」祜即詣鄰人李氏東垣桑樹中探得之。主人驚曰「此吾亡兒所失物也。云何持去。」乳母具言之、李氏悲惋。時人異之、謂李氏子則祜之前身也。又有善相墓者、言祜祖墓所有帝王氣、若鑿之則無後、祜遂鑿之。相者見曰「猶出折臂三公。」而祜竟墮馬折臂、位至公而無子。
帝以祜兄子暨爲嗣、暨以父沒不得爲人後。帝又令暨弟伊爲祜後、又不奉詔。帝怒、並收免之。太康二年、以伊弟篇爲鉅平侯、奉祜嗣。篇歴官清愼、有私牛於官舍産犢、及遷而留之。位至散騎常侍、早卒。
孝武太元中、封祜兄玄孫之子法興爲鉅平侯、邑五千戸。以桓玄黨誅、國除。尚書祠部郎荀伯子上表訟之曰「臣聞、咎繇亡嗣、臧文以爲深歎、伯氏奪邑、管仲所以稱仁。功高可百世不泯、濫賞無得崇朝。故太傅・鉅平侯羊祜明德・通賢、國之宗主、勳參佐命、功成平吳、而後嗣闕然、烝嘗莫寄。漢以蕭何元功、故絕世輒繼。愚謂鉅平封宜同酇國。故太尉廣陵公準黨翼賊倫、禍加淮南、因逆爲利、竊饗大邦。値西朝政刑失裁、中興因而不奪。今王道維新、豈可不大判臧否。謂廣陵國宜在削除。故太保衞瓘本爵菑陽縣公、既被橫害、乃進茅土、始贈蘭陵、又轉江夏。中朝名臣、多非理終、瓘功德無殊、而獨受偏賞、謂宜罷其郡封、復邑菑陽、則與奪有倫、善惡分矣。」竟寢不報。
祜前母孔融女、生兄發、官至都督淮北護軍。初、發與祜同母兄承俱得病、祜母度不能兩存、乃專心養發、故得濟、而承竟死。
發長子倫、高陽相。倫弟暨、陽平太守。暨弟伊、初爲車騎賈充掾、後歴平南將軍・都督江北諸軍事、鎭宛、爲張昌所殺、追贈鎭南將軍。祜伯父祕、官至京兆太守。子祉、魏郡太守。祕孫亮、字長玄、有才能、多計數。與之交者、必偽盡款誠、人皆謂得其心、而殊非其實也。初爲太傅楊駿參軍、時京兆多盜竊。駿欲更重其法、盜百錢加大辟、請官屬會議。亮曰「昔楚江乙母失布、以爲盜由令尹。公若無欲、盜宜自止。何重法爲。」駿慚而止。累轉大鴻臚。時惠帝在長安、亮與關東連謀、内不自安、奔于并州、爲劉元海所害。亮弟陶、爲徐州刺史。

1.毎〔因〕風景、必造峴山:現行『晉書』ではいずれの版本も「毎風景必造峴山」とするが、『太平御覽』巻四八八・人事部一二九・悲の条に引く『晉書』には「毎因風景必造峴山」とある。底本の原文通りに「風景ごとに必ず峴山に造る」と読むのでは意味が通じず、またこの前後に四字句が並んでいることからも、現行『晉書』が「因」の字を落としてしまったと見るべきであろう。
2.漢文以(末)〔來〕世淺薄:現行『晉書』ではいずれの版本も「漢文以末世淺薄」とするが、その原史料であると思われる、あるいは同じ原史料を用いているであろう習鑿齒『漢晉春秋』では、(『北堂書鈔』卷九十三・禮儀部・喪服三十四の注所引、『太平御覽』巻五四七・禮儀部二十六・喪服の条所引のいずれも)「漢文以來世乃淺薄」とする。底本の原文通りに「漢の文帝は、末世(後世・後裔)が浅はかで薄情で云々と思って……」と読むのでは、そもそもその内容は『史記』や『漢書』を始めとする漢代の事を記す諸書には見えないばかりか、また後世の文帝の評価からしても不可解なものとなる。『晉書』の編纂の段階での誤りか、あるいは後人の筆写の誤りかは分からないが、もと「來(来)」とあったのを字形の近い「末」と書き誤ったのであろう。

訓読

羊祜(ようこ)、字は叔子、泰山南城の人なり。世々(よよ)吏二千石、祜に至るまで九世、並びに清德を以て聞こゆ。祖の續(しょく)、漢に仕えて南陽太守たり。父の衜(とう)、上黨太守たり。祜は蔡邕(さいよう)の外孫にして、景獻皇后の同産弟なり。
祜は年十二にして父を喪い、孝思は過禮、叔父の耽に事(つか)うるに甚だ謹なり。嘗て汶水の濱に遊ぶや、遇々(たまたま)父老 之に謂いて曰く「孺子には好相有り、年未だ六十ならずして、必ず天下に大功を建てん」と。既にして去り、所在を知る莫し。長ずるに及び、博學にして能く文を屬(つづ)り、身長は七尺三寸、鬚眉は美しく、談論を善くす。郡將の夏侯威は之を異とし、兄の霸の子を以て之に妻(めあわ)す。上計吏に舉げられ、州は四たび從事に辟(め)し、秀才たり、五府は交々(こもごも)命ずるも、皆な就かず。太原の郭奕は之を見て曰く「此れ今日の顏子なり」と。王沈と俱に曹爽に辟さる。沈 徴(めし)に就かんことを勸むるも、祜曰く「質を委(お)きて人に事うるは、復た何ぞ容易ならん」と。爽の敗るるに及び、沈は故吏を以て免ぜられたれば、因りて祜に謂いて曰く「常に卿の前語を識る」と。祜曰く「此れ始慮の及ぶ所に非ず」と。其の先識もて伐(ほこ)らざること此(か)くの如し。
夏侯霸の蜀に降るや、姻親は多く告絕するも、祜は獨り其の室を安んじ、恩禮焉(これ)に加うる有り。尋いで母の憂いに遭い、長兄の發も又た卒したれば、毀慕して寢頓すること十餘年、道素を以て自ら居ること、恂恂若たる儒者たり。
文帝の大將軍と爲るや、祜を辟すも、未だ就かずして、公車に徴されて中書侍郎に拜せられ、俄かに給事中黃門郎に遷る〔一〕。時に高貴郷公は文を屬ることを好み、位に在る者は多く詩賦を獻ぜしに、汝南の和逌(かゆう)は意見に忤(さから)うを以て斥(しりぞ)けられしも、祜は其の閒に在り、得て親疏せざれば、有識 焉を尚(たっと)ぶ。陳留王の立つや、爵關中侯を賜い、邑は百戸。少帝の侍臣と爲すを願わざるを以て、出でて吏に補せられんことを求め、祕書監に徙る。五等を建つるに及び、鉅平子に封ぜられ、邑は六百戸。鍾會の寵有りて忌むや、祜も亦た之を憚る。會の誅せらるるに及び、相國從事中郎に拜せられ、荀勖(じゅんきょく)と共に機密を掌(つかさど)る。中領軍に遷り、悉(ことごと)く宿衞を統べ、入りては殿中に直(とのい)し、執兵の要、事は内外を兼ぬ。
武帝の禪を受くるや、佐命の勳を以て、號を中軍將軍に進め、散騎常侍を加え、改めて郡公に封じ、邑は三千戸。固く封を讓りて受けざれば、乃ち本爵を進めて侯と爲し、郎中令を置き、九官の職を僃え、夫人に印綬を加う。泰始の初め、詔して曰く「夫れ機衡を總齊し、六職を允釐するは、朝政の本なり。祜は德を執(まも)ること清劭、忠亮なること純茂、文武を經緯し、謇謇として正直、腹心の任に處(お)ると雖も、而れども樞機の重を總べざるは、垂拱して爲す無くして委任して責成するの意に非ざるなり。其れ祜を以て尚書右僕射・衞將軍と爲し、本の營兵を給せ」と。時に王佑〔二〕・賈充・裴秀は皆な前朝の名望なれば、祜は毎(つね)に讓り、其の右に處らず。
帝 將に滅吳の志有らんとし、祜を以て都督荊州諸軍事・假節〔三〕と爲し、散騎常侍・衞將軍たること故(もと)の如くせしむ。祜 營兵を率いて出でて南夏に鎭し、庠序を開設し、遠近を綏懷し、甚だ江漢の心を得たり。吳人の與(ため)に大信を開布し、降りし者の去らんと欲せば皆な之を聽す。時に長吏 官を喪うや、後人は之を惡(にく)み、多く舊府を毀壞するも、祜 死生は命有り、居室に由るに非ざるを以て、書して征鎭に下し、普(あまね)く禁斷を加う。吳の石城の守は襄陽を去ること七百餘里にして、毎に邊害を爲したれば、祜は之を患(うれ)え、竟(つい)に詭計を以て吳をして守を罷(や)めしむ。是に於いて戍邏もて半を減じ、分かちて以て田八百餘頃を墾(ひら)かしめ、大いに其の利を獲たり。祜の始めて至るや、軍に百日の糧無きも、季年に至るに及び、十年の積有り。詔して江北都督を罷め、南中郎將を置き、以て統ぶる所の諸軍の漢東・江夏に在る者は皆な以て祜に益(ま)す。軍に在りては常に輕裘・緩帶、身に甲を被(つ)けず、鈴閤の下、侍衞する者は十數人を過ぎず、而して頗る畋漁を以て政を廢す。嘗て夜に出でんと欲するや、軍司の徐胤は棨を執りて營門に當たりて曰く「將軍は萬里を都督したれば、安くんぞ輕々しく脱すべけんや。將軍の安危は、亦た國家の安危なり。胤 今日若(も)し死せば、此の門乃ち開くのみ」と。祜 容を改めて之に謝し、此の後、出ずること稀なり。
後に車騎將軍・開府如三司の儀を加えらる〔四〕。祜 上表して固く讓りて曰く「臣 伏して恩詔を聞くに、臣を拔きて台司に同じくせしむ、と。臣は身を出だしてより以來、適(まさ)に十數年、任を外内に受け、毎に顯重の任を極む。常に以(おも)えらく、智力は頓進すべからず、恩寵は久しく謬(あやま)るべからず、と。夙夜戰悚し、榮を以て憂いと爲す。臣 古人の言を聞くに、德の未だ人の服す所と爲らずして高爵を受くれば、則ち才臣をして進まざらしめ、功の未だ人の歸する所と爲らずして厚祿を荷(こうむ)れば、則ち勞臣をして勸(つと)めざらしむ、と。今、臣 身は外戚に託し〔五〕、事は運會に連ぬ。誡めは過寵に在るとも、遺(す)てらるるを患えず。而れども猥(みだ)りに發中の詔を降し、非次の榮を加う。臣 何の功有りてか以て之に堪うべく、何の心ありてか以て之に安んずべからん。身 高位を辱(かたじけな)くせば、傾覆 尋いで至らん。先人の弊廬を守らんことを願うも、豈に得べけんや。命に違はば誠に天威に忤(さから)い、曲從せば即ち復た此くの若からん。蓋し聞くならく、古人は知らるるに申(の)び、大臣の節、不可なれば則ち止む、と。臣は小人なりと雖も、敢えて蒙る所に緣(よ)り、斯(こ)の義を存せんことを念(おも)う。今、天下の化に服してより以來、方(まさ)に漸く八年、側席して賢を求め、幽賤を遺さずと雖も、然れども臣は有德を推し、有功を達し、聖聽をして臣に勝る者多く、未だ達せざる者少なからざることを知らしむる能わず。假令(たと)い德を版築の下に遺(す)つる有り、才を屠釣の閒に隱す有り、而も朝議は臣を用いて以て非と爲さず、臣は之に處(おり)りて以て愧(はじ)と爲さずんば、失う所豈に大ならざらんや。臣は忝竊すること久しと雖も、未だ今日の文武の極寵を兼ね、宰輔の高位に等しくするに若かざるなり。且つ臣 見る所の者は狹しと雖も、據るに今、光祿大夫の李憙は節を執ること高亮にして、公に在りて色を正し、光祿大夫の魯芝は身を潔くして欲寡く、和して同ぜず、光祿大夫の李胤は清亮・簡素にして、身を立てて朝に在り、皆な服事して華髮、禮を以て終始し、位を外内の寵に歴(ふ)ると雖も、寒賤の家と異ならざるに、而れども猶お未だ此の選を蒙らず。臣 更に之を越えば、何を以てか天下の望を塞ぎ、少しく日月を益(ま)さん。是を以て心に誓い節を守り、苟進の志無し。今、道路は行通し、方隅は事多し。乞うらくは前恩を留め、臣をして速やかに屯に還るを得しめられんことを。爾(しか)らずして留連せば、必ず外虞に於いて闕くること有らん。匹夫の志、有(ま)た奪うべからず」と。〔六〕聽かれず。
鎭に還るに及び、吳の西陵督の歩闡(ほせん) 城を舉げて來降す。吳の將の陸抗 之を攻むること甚だ急なれば、祜に詔して闡を迎えしむ。祜 兵五萬を率いて江陵に出で、荊州刺史の楊肇(ようちょう)を遣わして抗を攻めしむるも剋たず、闡は竟に抗の擒うる所と爲る。有司奏すらく「祜の統ぶる所は八萬餘人なるも、賊衆は三萬を過ぎず。祜は兵を江陵に頓し、賊をして僃えをば設くるを得しむ。乃ち楊肇を遣わして偏軍もて險に入らしめ、兵は少なくして糧は懸(とお)く、軍人挫衄す。詔命に背違し、大臣の節無し。官を免じ、侯を以て第に就かしむべし」と。竟に坐して貶して平南將軍と爲し、而して楊肇を免じて庶人と爲す。
祜 孟獻の武牢に營して鄭人懼れ、晏弱(あんじゃく)の東陽に城(きず)きて萊子服せるを以て、乃ち進みて險要に據(よ)り、五城を開建し、膏腴の地を收め、吳人の資を奪い、石城以西、盡(ことごと)く晉の有と爲る。是より前後 降る者絕えず、乃ち增々德信を修め、以て初めて附けるを懷柔し、慨然として吞并の心有り。吳人と兵を交うる毎に、日を剋(き)めて方(はじ)めて戰い、掩襲の計を爲さず。將帥に譎詐の策を進めんと欲する者有れば、輒ち飲ましむるに醇酒を以てし、言うを得ざらしむ。人に吳の二兒を略して俘と爲す者有るや、祜は遣送して其の家に還らしむ。後に吳將の夏詳・邵顗(しょうぎ)等の來降するや、二兒の父も亦た其の屬を率いて與に俱す。吳將の陳尚・潘景の來寇するや、祜は追いて之を斬り、其の死節を美として厚く殯斂を加う。景・尚の子弟の喪を迎うるや、祜は禮を以て遣りて還せり。吳將の鄧香の夏口を掠(かす)むるや、祜は募りて生きながらにして香を縛り、既に至るや、之を宥す。香 其の恩の甚だしきに感じ、部曲を率いて降る。祜 軍を出だして吳の境を行(めぐ)り、穀を刈りて糧と爲せば、皆な侵す所を計り、絹を送りて之を償う。衆を江沔に會して遊獵する毎に、常に晉地に止(とど)まる。若し禽獸の先に吳人の傷つく所と爲りて晉兵の得る所と爲れば、皆な封じて之を還す。是に於いて吳人翕然として悅服し、稱して羊公と為し、之を名いわざるなり。
祜 陸抗と相い對するに、使命交通す。抗 祜の德量を稱すらく、樂毅・諸葛孔明と雖も過ぐる能わざるなり、と。抗 嘗て病み、祜 之に藥を饋(おく)るや、抗 之を服するに疑心無し。人多く抗を諫むるも、抗曰く「羊祜 豈に人を酖(ちん)する者ならんや」と。時談は以て華元・子反 復た今日に見(あらわ)れりと爲す。抗 毎に其の戍に告げて曰く「彼は專ら德を爲すに、我 專ら暴を爲さば、是れ戰わずして自ら服するなり。各々分界を保つのみにして、細利を求むる無かれ」と。孫皓 二境の交和するを聞き、以て抗を詰(とが)む。抗曰く「一邑一郷すら以て信義無かるべからず。況んや大國をや。臣 此(か)くの如くせずんば、正に是れ其の德を彰(あき)らかにし、祜に於いて傷無きなり」と。
祜 貞慤・無私にして、邪佞を疾惡したれば、荀勖・馮紞の徒は甚だ之を忌む。從甥の王衍 嘗て祜に詣(いた)りて事を陳(の)ぶるに、辭は甚だ俊辯たり。祜 之を然りとせざれば、衍 衣を拂いて起つ。祜 顧みて賓客に謂いて曰く「王夷甫は方に盛名を以て大位に處るも、然るに俗を敗り化を傷(そこな)うは、必ず此の人なり」と。歩闡の役にて、祜は軍法を以て將に王戎を斬らんとしたれば、故に戎・衍は並びに之を憾み、言論する毎に多く祜を毀(そし)る。時人は之が爲に語りて曰く「二王は國に當たるも、羊公は德無し」と。
咸寧の初め、征南大將軍・開府儀同三司に除せられ、專ら辟召するを得たり。初め、祜以(おも)えらく、吳を伐つには必ず上流の勢を藉(か)るべし、と。又た時に吳に童謠有りて曰く「阿童復た阿童、刀を銜(くわ)えて浮きて江を渡る。岸上の獸を畏れず、但だ水中の龍を畏るのみ」と。祜 之を聞きて曰く「此れ必ず水軍功有り。但だ當に其の名に應ずる者を思うべきのみ」と。會々益州刺史の王濬は徴されて大司農と爲り、祜 其の任ずべきを知る。濬は又た小字を阿童といえば、因りて表して濬を留め監益州諸軍事たらしめ、龍驤將軍を加え、密かに舟檝を修めしめ、順流の計を爲す。
祜 甲を繕いて卒を訓え、廣く戎僃を爲す。是に至りて上疏して曰く「先帝は天に順い時に應じ、西のかた巴蜀を平らげ、南のかた吳會と和し、海内は以て休息するを得、兆庶は樂安の心有り。而れども吳は復た背信し、邊事をして更(あらた)めて興らしむ。夫れ期運は天の授くる所と雖も、而れども功業は必ず人に由りて成り、一たび大舉して掃滅せずんば、則ち衆役は時として安きを得る無し。亦た先帝の勳を隆(さか)んにし、無爲の化を成す所以なり。故に堯に丹水の伐有り、舜に三苗の征有るは、咸な以て宇宙を寧靜し、兵を戢(おさ)めて衆を和する者なり。蜀平ぐの時、天下皆な吳も當に并(なら)びに亡ぼすべしと謂い、此より來ること十三年、是れ一周と謂い、平定の期は復た今日に在り。議者常(かつ)て言わく、吳楚は道有りて後に服し、禮無くして先ず強(し)いば云々〔七〕、と。此れ乃ち諸侯の時なるのみ。當今一統したれば、古と同に諭(たと)うるを得ず。夫れ道に適(かな)うの論、皆な未だ權に應じず、是の故に之を謀ること多しと雖も、而れども之を決すること獨ならんと欲す。凡そ險阻を以て存するを得る者、謂(おも)うに敵する所の者と同じければ、力は自ら固むるに足る。苟しくも其の輕重齊(ひと)しからず、強弱勢を異にせば、則ち智士は謀る能わず、而して險阻保つべからざるなり。蜀の國たるや、險ならざるに非ず、高山は雲霓を尋(つ)ぎ、深谷は無景を肆(きわ)め、馬を束して車を懸け、然る後に濟(わた)るを得たれば、皆な言わく、一夫戟を荷えば、千人當たる莫し、と。兵を進むるの日に及び、曾(すなわ)ち藩籬の限無く、將を斬りて旗を搴(と)り、尸に伏すもの數萬、勝ちに乘じて席卷し、徑(ただ)ちに成都に至り、漢中の諸城は皆な鳥棲して敢えて出でざるは、皆な戰心無きに非ず、誠に力の相い抗するに足らざればなり。劉禪の降服するに至り、諸そ營堡者は索然として俱な散ず。今、江淮の難は劍閣に過ぎず、山川の險は岷漢に過ぎず。孫皓の暴は劉禪より侈(おお)きく、吳人の困は巴蜀より甚だし。而して大晉の兵衆は前世より多く、資儲・器械は往時より盛んなり。今、此に於いて吳を平らげず、而して更めて兵を阻(たの)みて相い守らば、征夫は役に苦しみ、日々干戈を尋(つ)ぎ、盛衰を經歴して長久なるべからず。宜しく時に當たりて定め、以て四海を一にすべし。今、若し梁・益の兵を引きて水陸俱に下り、荊楚の衆は進みて江陵に臨み、平南・豫州は夏口に直指し、徐・揚・青・兖は並びに秣陵に向かい、鼓旆して以て之を疑(まど)わせ、多方にして以て之を誤(まよ)わさば、一隅の吳を以て、天下の衆に當たり、勢は分かたれ形は散じ、僃うる所は皆な急ならん。巴漢の奇兵の其の空虛に出で、一處にして傾壞せば、則ち上下震蕩せん。吳は江に緣りて國を爲せば、内外有る無く、東西數千里、藩籬を以て自ら持し、敵する所の者は大なれば、寧息すること有る無し。孫皓は情を恣(ほしいまま)にして意に任せたれば、下に忌多く、名臣・重將は復た自ら信ぜず、是を以て孫秀の徒は皆な畏逼して至れり。將は朝に疑(まど)い、士は野に困り、保世の計、一定の心有る無し。平常の日すら猶お去就を懷きたれば、兵臨の際 必ず應ずる者有らん。終に力を齊(あ)わせて死を致す能わざること、已に知るべきなり。其の俗は急速なれば、持久する能わず、弓弩・戟楯は中國に如かず、唯だ水戰のみ是れ其の便とする所有り。一たび其の境に入らば、則ち長江は復た固むる所に非ず、還りて城池を保たば、則ち長を去りて短に入らん。而して官軍懸進せば、人は節を致すの志有り、吳人其の内に戰わば、城に憑くの心有らん。此くの如くんば、軍は時を踰えずして剋つこと必なるべきなり」と。帝 深く之を納(い)る。
會々(たまたま)秦涼の屢々(しばしば)敗るるや、祜 復た表して曰く「吳 平がば則ち胡は自ら定まらん。但だ當に速やかに大功を濟(な)すべきのみ」と。而れども議者は多く同ぜざれば、祜 歎じて曰く「天下の意の如からざるもの恒に十に七八居り、故に當に斷ずべきこと有るも斷ぜず。天與えて取らざれども、豈に事を更(ふ)るに非ざる者、後時に恨(く)やまんや」と。
其の後、詔して泰山の南武陽・牟・南城・梁父・平陽五縣を以て南城郡と爲し、祜を封じて南城侯と爲し、相を置くこと郡公と同じくす。祜 讓りて曰く「昔、張良は留の萬戸を受けんことを請い、漢祖は其の志を奪わず。臣 鉅平を先帝より受けたれば、敢えて重爵を辱(かたじけな)くせば、以て官謗を速(まね)かん」と。固執して拜さざれば、帝は之を許す。祜は登進を被る毎に、常に沖退を守り、至心 素より著れたれば、故に特に分列の外に申(いた)さる。是を以て名德遠播し、朝野具瞻し、搢紳 僉な議するに、當に台輔に居るべし、と。帝 方(まさ)に兼并の志有り、祜に仗(よ)るに東南の任を以てせんとしたれば、故に之を寢(や)む。
祜は職を二朝に歴、任ぜられて樞要を典(つかさど)り、政事に損益あるや、皆な焉(これ)に諮訪し、勢利の求、關與する所無し。其の嘉謀・讜議は皆な其の草を焚(や)きたれば、故に世に聞こゆる莫し。凡そ進達する所、人皆な由る所を知らず。或いは祜の愼密なること太(はなは)だ過ぎたりと謂う者あり、祜曰く「是れ何をか言わんや。夫れ入りては則ち膝を造(なら)べ、出でては則ち辭を詭(いつわ)る。君臣密ならざるの誡め、吾は惟だ其の及ばざることを懼るのみ。賢を舉げ異を取る能わざれば、豈に人を知ることの難きを愧(は)じざるを得んや。且つ爵を公朝に拜するに、私門に謝恩するは、吾の取らざる所なり」と。祜の女の夫 嘗て祜に勸むらく「營置する所有らば、歸戴する者有らしむるは、美ならざるべけんや」と。祜 默然として應(こた)えず、退くや諸子に告げて曰く「此れ其の一を知りて其の二を知らずと謂うべし。人臣 私を樹(た)つれば則ち公に背く。是れ大惑なり。汝宜しく吾が此の意を識るべし」と〔八〕。嘗て從弟の琇に書を與えて曰く「既に邊事を定めば、當に角巾して東路し、故里に歸り、棺を容るる墟を爲さん。白士を以てして重位に居りたれば、何ぞ能く盛滿するを以て責めを受けざらんや。疏廣は是れ吾が師なり」と。
祜は山水を樂(この)み、風景に因る毎に、必ず峴山に造(いた)り、置酒して言詠し、終日倦まず。嘗て慨然として歎息し、顧みて從事中郎の鄒湛らに謂いて曰く「宇宙有りてより、便ち此の山有り。由來、賢達・勝士、此に登りて遠望し、我と卿の如き者多し。皆な湮滅して聞こゆる無ければ、人をして悲傷せしむ。如(も)し百歲の後も知有らば、魂魄猶お應に此に登るべきなり」と。湛曰く「公 德は四海に冠たり、道は前哲を嗣ぎ、令聞・令望、必ず此の山と俱に傳わらん。湛の若き輩に至りては、乃ち當に公の言の如かるべきのみ」と。
祜 吳賊を討つに當たりて功有り、將に爵土を進めんとするや、以て舅の子の蔡襲に賜わんことを乞いたれば、詔して襲を關内侯に封じ、邑は三百戸。
會々吳人の弋陽・江夏に寇して戸口を略するや、詔して侍臣を遣わして移書して祜の追討せざるの意を詰(とが)め、并びに州を移して舊に復(もど)すの宜を欲するも、祜曰く「江夏は襄陽を去ること八百里、賊の問(おとな)うを知るに比(およ)びては、賊の去ること亦た已に日を經たり。歩軍方(はじ)めて往くも、安くんぞ能く之を救わんや。師を勞して以て責めを免るるは、恐らくは事宜に非ざるなり。昔、魏の武帝の都督を置くや、類(おおむ)ね皆な州と相い近きは、兵勢を以て合するを好み離るるを惡(にく)めばなり。疆埸の閒、一彼一此なれば、愼みて守るのみなるは、古の善教なり。若し輒りに州を徙さば、賊は出ずること常無く、亦た未だ州の宜しく據る所を知らざるなり」と。使者 詰むる能わず。
祜 疾に寢ぬるや、入朝せんことを求む。既に洛陽に至るや、會々景獻の宮車は殯に在れば、哀慟して篤きに至る。中詔もて申諭し、疾を扶けて引見するや、命じて輦に乘りて殿に入り、下りて拜すること無からしめ、甚だ優禮せらる。侍坐するに及び、伐吳の計を面陳す。帝 其の病みたれば宜しく常に入るべからざるを以て、中書令の張華を遣わして其の籌策を問わしむ。祜曰く「今、主上は禪代の美有るも、而れども功德は未だ著われず。吳人の虐政は已に甚だしく、戰わずして剋つべし。六合を混一し、以て文教を興さば、則ち主は堯・舜に齊しく、臣は稷・契に同じく、百代の盛軌と爲らん。如し之を舍てば、若し孫皓の不幸にして沒し、吳人更めて令主を立てば、百萬の衆と雖も、長江は未だ越ゆるべからず、將に後患と爲らん」と。華 深く其の計に贊成す。祜 華に謂いて曰く「吾が志を成す者は、子なり」と。帝 祜をして臥(ふ)しながらに諸將を護せしめんと欲するも、祜曰く「吳を取るは必ずしも須らく臣自ら行くべからず、但だ既に平ぐるの後、當に聖慮を勞すべきのみ。功名の際、臣 敢えて居らざる所なり。若し事了(おわ)らば、當に付授する所有るべし。願わくば審(つまび)らかに其の人を擇(えら)ばれんことを」と。
疾漸(ようや)く篤くなりたれば、乃ち杜預を舉げて自らに代う。尋(つ)いで卒す。時に年五十八。帝 素服して之に哭すること、甚だ哀たり。是の日は大寒なれば、帝の涕淚は鬚鬢を霑(うるお)すも、皆な爲に冰る。南州の人 市に征(ゆ)くの日に祜の喪(う)せるを聞き、號慟せざるは莫く、市を罷め、巷に哭する者の聲は相い接す。吳の守邊の將士も亦た之が爲に泣く。其の仁德の感ずる所は此くの如し。賜うに東園の祕器・朝服一襲・錢三十萬・布百匹を以てす。詔して曰く「征南大將軍・南城侯の祜、德を蹈むに沖素、心を思うに清遠。始め内職に在り、大命に登るに値(あ)うや、乃心篤誠、王事を左右し、入りては機密を綜(す)べ、出でては方岳を統ぶ。終うるに當たりては顯烈、永く朕が躬を輔けしも、而れども奄忽として殂隕したれば、之を悼みて懷を傷う。其れ追いて侍中・太傅を贈り、持節たること故の如くせしめん」と。
祜 身を立つるに清儉、被服は率素、祿俸の資(あた)うる所、皆な以て九族に贍給し、軍士に賞賜したれば、家に餘財無し。遺令して南城侯の印を以て柩に入るるを得ざらしむ。從弟の琇(しゅう)等 祜の素志を述べ、先人の墓次に葬らんことを求む。帝 許さず、城を去ること十里の外の近陵の葬地一頃を賜い、諡して成と曰う。祜の喪の既に引かるるや、帝は大司馬門の南に於いて臨送す。祜の甥の齊王攸〔九〕 祜の妻の侯を以て斂(おさ)めざるの意を表す。帝 乃ち詔して曰く「祜は固く讓ること歴年、志は奪うべからず。身沒するも讓存し、遺操は益々厲(はげ)し。此れ夷・叔の賢と稱せられし所以にして、季子の節を全(まった)くせし所以なり。今、本封を復するを聽し、以て高美を彰らかにせん」と。
初め、文帝の崩ずるや、祜 傅玄(ふげん)に謂いて曰く「三年の喪、貴なりと雖も服を遂げ、天子より達す。而れども漢文は之を除き、禮を毀(やぶ)り義を傷(そこな)いたれば、常に以て歎息す。今、主上は天縱至孝にして、曾・閔の性有り、其の服を奪うと雖も、喪禮を實行せん。喪禮實行せられば、服を除くこと何をか爲さんや。若し此に因りて漢魏の薄を革(あらた)め、而して先王の法を興し、以て風俗を敦(ただ)し、美を百代に垂るるは、亦た善からざらんや」と。玄曰く「漢文以來、世々(よよ)淺薄にして、國君の喪を行う能わざれば、故に因りて之を除けり。之を除くこと數百年、一旦にして古に復すは、行い難きなり」と。祜曰く「天下をして禮の如くせしむる能わずんば、且(も)し主上をして服を遂げしめば、猶お善からざらんや」と。玄曰く「主上除かずして天下除くは、此れ但だ父子有るのみにして、復た君臣無しと爲し、三綱の道虧(か)く」と。祜 乃ち止む。
祜の著す所の文章及び爲すところの老子の傳は並びに世に行わる。襄陽の百姓 峴山の祜の平生游憩せるの所に碑を建て廟を立て、歲時焉(これ)を饗祭す。其の碑を望む者 流涕せざるは莫く、杜預は因りて名づけて墮淚碑と爲す。荊州の人 祜の爲に名を諱(い)み、屋室は皆な門を以て稱と爲し、戸曹を改めて辭曹と爲す。
祜 開府すること累年、謙讓して士を辟さず、始めて命ずる所有るも、會々卒すれば、除署するを得ず。故の參佐の劉儈(りゅうかい)・趙寅・劉彌(りゅうび)・孫勃等 牋もて預に詣らしめて曰く「昔、謬選を以て、忝(かたじけな)くも官屬に僃えられ、各々前の征南大將軍の祜と與に庶事に參同するを得たり。祜は德を執(まも)ること沖虛、操尚は清遠、德は高くして體は卑(ひく)く、位は優にして行いは恭し。前に顯命を膺(う)け、來りて南夏を撫(やす)んじ、既に三司の儀有り、復た大將軍の號を加えらる。其の位に居ると雖も、其の制を行わざれば、今に至るまで海内は渴佇し、羣俊は風を望む。其の門を渡らば、貪夫も廉に反(かえ)り、懦夫も志を立て、夷・惠の操と雖も、以て尚(くわ)うる無きなり。此の境に鎭してより、政化は江漢に被(およ)び、潛謀・遠計、國を闢(ひら)き疆を開き、諸そ規摹する所、皆な軌量有り。志は公家に存(あ)り、死を以て事に勤め、始めて四掾を辟すも、未だ至らずして隕す。夫れ賢を舉げて國に報ゆるは、台輔の遠任なり。側陋を搜揚するは、亦た台輔の宿心なり。中道にして廢すは、亦た台輔の私恨なり。謙を履(ふ)むこと積稔にして、晚節遂げざるは、此れ遠近の之が爲に感痛する所以の者なり。昔、召伯の憩う所、愛は甘棠に流れ、宣子の游ぶ所、其の樹を封殖す。夫れ其の人を思わば、尚お其の樹に及ぶ。況んや生存辟す所の士、便ち當に例に隨いて放棄すべき者ならんや。列上するを蒙るを乞わば、已に掾屬に至るに依るを得んことを」と。預 表して曰く「祜は開府するも僚屬を僃えずと雖も、引謙の至、宜しく顯明せらるべし。疾を扶けて士を辟すに及び、未だ到らずして沒す。家に胤嗣無く、官に命士無く、此の方の望、載(すなわ)ち隱憂を懷く。夫れ終わりを篤くして遠きを追えば、人の德は厚きに歸すとあれば、漢祖は四千戸の封を惜しまず、以て趙の子弟の心を慰む。請う、之を議せられんことを」と。詔して許さず。
祜の卒してより二歲にして吳平らぐや、羣臣は壽を上るも、帝 爵を執りて流涕して曰く「此れ羊太傅の功なり」と。因りて剋定の功を以て、策して祜の廟に告げ、蕭何の故事に仍依し、其の夫人を封ず。策して曰く「皇帝 謁者の杜宏をして故の侍中・太傅・鉅平成侯祜に告ぐ。昔、吳は不恭たり、險を負いて號を稱し、郊境闢かず、多く年所を歴たり。祜は任を南夏に受け、其の難を靜めんことを思い、外は王化を揚げ、内は廟略を經(はか)り、德を著し誠を推し、江漢歸心し、舉は成資たり、謀は全策たり。昊天は弔(あわれ)まず、志す所は卒(と)げず、朕 用(もっ)て厥の心に悼恨す。乃ち命を羣帥に班(わか)ち、天の討を致すや、兵は時を踰(こ)えずして、一征にして滅し、疇昔の規、符契を合するが若し。夫れ賞は勞を失わず、國に彝典有れば、宜しく土宇を增啟し、以て前命を崇ぶべきも、而れども重(はなは)だ公の高讓の素に違う。今、夫人の夏侯氏を萬歲郷君に封じ、食邑は五千戸、又た帛萬匹・穀萬斛を賜わん」と。
祜 年五歲にして、時に乳母をして弄ぶ所の金環を取らしむ。乳母曰く「汝 先に此の物無し」と。祜 即ち鄰人の李氏の東垣の桑樹中に詣りて探して之を得たり。主人 驚きて曰く「此れ吾が亡兒の失う所の物なり。云何(いかん)ぞ持ちて去らんや」と。乳母 具(つぶさ)に之を言いたれば、李氏は悲惋す。時人は之を異とし、李氏の子は則ち祜の前身なりと謂う。又た墓を相るを善くする者有り、祜の祖の墓所は帝王の氣有り、若し之を鑿たば則ち後無からんと言うも、祜は遂に之を鑿つ。相者 見て曰く「猶お折臂三公を出ださん」と。而して祜 竟に馬より墮ちて臂を折り、位は公に至りて子無し。
帝 祜の兄の子の暨(き)を以て嗣と爲さんとするも、暨 以(おも)えらく、父沒するに人後と爲るを得ず、と。帝 又た暨の弟の伊をして祜の後と爲さんとするも、又た詔を奉ぜず。帝 怒り、並びに收めて之を免ず。太康二年、伊の弟の篇を以て鉅平侯と爲し、祜の嗣を奉ぜしむ。篇は官を歴るに清愼、私牛有りて官舍に於いて犢(こうし)を産むや、遷るに及びて之を留む。位は散騎常侍に至るも、早くに卒す。
孝武の太元中、祜の兄の玄孫の子の法興を封じて鉅平侯と爲し、邑は五千戸。桓玄の黨なるを以て誅せられ、國除かる。尚書祠部郎の荀伯子 上表して之を訟(あらそ)いて曰く「臣聞くならく、咎繇の嗣を亡うや、臧文は以て深歎を爲し、伯氏の邑を奪われしは、管仲の仁と稱せらるる所以なり。功高ければ百世泯びざるべく、濫賞は朝を崇(お)うるを得る無し。故の太傅・鉅平侯の羊祜は明德・通賢、國の宗主にして、勳は佐命に參じ、功は平吳を成すも、而れども後嗣は闕然として、烝嘗寄る莫し。漢は蕭何の元功なるを以て、故に世を絕やせば輒ち繼がしめたり。愚 謂(おも)えらく、鉅平の封も宜しく酇國と同じくすべし、と。故の太尉・廣陵公の準は賊の倫を黨翼し、禍をば淮南に加え、逆に因りて利を爲し、竊(ひそ)かに大邦を饗す。西朝の政刑裁を失うに値い、中興因りて奪わず。今、王道は維新したれば、豈に大いに臧否を判ぜざるべけんや。謂うに廣陵國は宜しく削除に在るべし。故の太保の衞瓘は本と爵は菑陽縣公なりしも、既に橫害を被り、乃ち茅土を進め、始め蘭陵を贈り、又た江夏に轉ず。中朝の名臣、多く理に非ずして終わり、瓘の功德も殊(こと)なる無きも、而れども獨り偏賞を受けたれば、謂うに宜しく其の郡封を罷め、邑を菑陽に復さば、則ち與奪は倫有り、善惡は分かたれん」と〔十〕。竟に寢めて報ぜず。
祜の前母は孔融の女にして、兄の發を生み、官は都督淮北護軍〔十一〕に至る。初め、發 祜の同母兄の承と俱に病を得るや、祜の母は兩つながら存する能わずと度(はか)り、乃ち專心して發を養いたれば、故に濟(すく)うを得たるも、而れども承は竟に死す。
發の長子の倫、高陽相たり。倫の弟の暨、陽平太守たり。暨の弟の伊、初め車騎の賈充の掾と爲り、後に平南將軍・都督江北諸軍事を歴、宛に鎭し、張昌の殺す所と爲り、追いて鎭南將軍を贈らる。祜の伯父の祕、官は京兆太守に至る。子の祉、魏郡太守たり。祕の孫の亮、字は長玄、才能有り、計數に多(まさ)る。之と交われば、必ず偽りて款誠を盡(つ)くせば、人は皆な其の心を得たりと謂うも、而れども殊なりて其の實に非ざるなり。初め太傅の楊駿の參軍と爲るや、時に京兆は盜竊多し。駿 更(さら)に其の法を重くし、百錢を盜めば大辟を加えんと欲し、官屬を請(まね)きて會議す。亮曰く「昔、楚の江乙の母の布を失うや、以て盜は令尹に由ると爲せり〔十二〕。公に若し欲無くんば、盜は宜しく自ら止むべし。何ぞ法を重くせんや」と。駿 慚じて止む。累りに轉じて大鴻臚たり。時に惠帝は長安に在り、亮 關東と連謀したれば、内に自ら安んぜず、并州に奔るも、劉元海の害する所と爲る。亮の弟の陶、徐州刺史たり。

〔一〕黃門郎とは正確には「給事黃門侍郎」のこと。漢代以来の伝統的な官職で、しばしば「給事黃門郎」「黃門侍郎」「黃門郎」と略称される。この『晉書』の本文では「遷給事中黃門郎」となっているが、晋代において同系統の官職である給事中と黃門郎を兼任するのは考え難く、また給事中の方が上位なので、給事中から黃門郎に昇進したというのも考えづらい。この箇所はあるいは「遷給事黃門郎」が正しく、後世の人物が筆写の際に「中黄門」や「給事中」などの官職名に引きずられて誤って「中」を挿入し、「遷給事中黃門郎」としてしまったか。
〔二〕『晉書斠注』の本伝では、「王佑」は「王沈」の誤りであるとする『十七史商榷』の説を引く。
〔三〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔四〕公府を開くに当たって三公と同儀にするという所謂「開府儀同三司」。後漢以来、本来「公」ではない将軍などが三公と同待遇とされる場合に授けられる。「儀比三司」「開府如三公」などとも言う。
〔五〕羊祜の姉の羊徽瑜は武帝・司馬炎の伯父の司馬師に嫁ぎ、魏晋革命後「弘訓太后」の号を与えられ、当時もまだ存命である。注〔九〕も参照。
〔六〕『文選』巻三十七に「讓開府表」として同様の文章を載せるが、『晉書』とは若干の文字の異同がある。今回、訓読および訳は、基本的に原田種成『新釈漢文大系82 文選(文章篇)上』(明治書院、一九九四年)に依ったが、『晉書』のテクストに従い一部変更を加えている。
〔七〕「有道後服、無禮先強」の句について、その典拠である「漢楊雄荊州箴」(『藝文類聚』巻六・州郡・荊州の条所収)には「有道後服、無道先強、世雖安平、無敢逸豫。」とある。その意味は、「(荊楚は)道有りて後に服し、道無くして先ず強(し)いば、世は安平すると雖も、敢えて逸豫する無し。(荊楚は道が行われて後に服従するので、道が行われないうちに力で強制したら、世が平定されたとしても決して安息することはできない。)」というものである。また、後漢末の劉熙『釋名』釋州國・荊州の条には「南蠻數為寇逆、其民有道後服、無道先彊、常警僃之也。」とある。その意味は、「南蠻は數々(しばしば)寇逆を為し、其の民は道有りて後に服し、道無くして先ず彊(し)いば、常に之を警僃するなり。(南蛮はたびたび反逆して侵略し、その民は道が行われて後に服従するので、道が行われないうちに力で強制したなら、常に彼らを警戒して備える必要がある。)」というものである。いずれも「無道先強(無道先彊)」の後に文言が続き、この句で文が途切れると不自然になる。おそらく該当箇所の上奏文ではもともと、議者たちの言葉としてこれより長い文が載せられていたのを、現行『晉書』の担当者かそれ以前の史書の編纂者が不用意に省略してしまったのであろう。このような不用意な省略例は、『資治通鑑』を始めとして、諸々の史書にたまに見られる。
〔八〕『晉書』巻三十九・荀勖伝には、荀勖の話として同様の挿話が記載されている。「其壻武統亦説(荀)勖『宜有所營置、令有歸戴者。』勖並默然不應、而語諸子曰『人臣不密則失身、樹私則背公、是大戒也。汝等亦當宦達人閒、宜識吾此意。」
〔九〕『晉書』巻一・文明王皇后伝によれば、斉王・司馬攸の母の文明王皇后(王元姫)の母、すなわち司馬攸の祖母は羊氏であった。詳細は不明であるが、おそらくこの司馬攸の祖母の羊氏と羊祜の父の羊衜が兄妹(姉弟)であるか、あるいは同族中の同輩行であるため、その子ども世代である羊祜に対して、孫世代である司馬攸が「甥」とされたのであろう。
〔十〕『宋書』巻六十・荀伯子伝にも同様の上奏文が載せられているが、若干の文字の異同がある。
〔十一〕この「都督淮北護軍」とは、『三國志』巻十六・杜畿伝附杜恕伝において河東太守の杜恕が次に昇進したとされる「淮北都督護軍」と同じものであろうか。そうであれば、後漢末に曹操によって初めて置かれ、諸将の監督・関係調節を担った「都督護軍」の一種であり、淮北地域に置かれてそこを管轄する「都督護軍」を指すことになる。
〔十二〕『列女傳』辯通に「楚江乙母」の話がある。楚の共王のとき、江乙は首都の郢の大夫となり、王宮に盗人が入って物が盗まれたとのことで時の令尹に弾劾されて罷免されたが、後に江乙の母が八尋の布を失ったとき、先の息子の例に従えばその責任は時の令尹、ひいては王にあると説き、それに感心した共王が盗まれた分の布を補償し、江乙を再び起用したという。

現代語訳

羊祜(ようこ)は字を叔子といい、泰山郡・南城の人である。家は代々二千石の(太守などの)高官を輩出しており、(漢代から)羊祜に至るまで九世、みな清廉な徳があることで有名であった。祖父の羊續(ようしょく)は、後漢に仕えて南陽太守にまで昇った。父の羊衜(ようとう)は、上党太守にまで昇った。羊祜は蔡邕(さいよう)の外孫であり、(司馬師の妻である)景献皇后(羊徽瑜)の同母弟であった。
羊祜は十二歳で父を失くしたが、孝行の思いは常礼を逸しており、その後は叔父の羊耽に養われたが、その態度は非常に礼儀正しかった。かつて汶水の浜辺を訪れていたとき、たまたまそこにいた父老が羊祜に言った。「お前には良い人相をしている。六十歳になる前に、必ず天下に有益な大功を建てるであろう」と。その後去ってからは、その父老の所在は分からなくなった。やがて羊祜は成長し、博学で文章が上手く、身長は七尺三寸まで伸び、鬚や眉は美しく、談論を得意とした。泰山太守の夏侯威は羊祜を優れた人物であるとして重んじ、兄の夏侯覇の子を羊祜に娶らせた。やがて郡の上計吏に推挙され、(泰山郡の属する)兗州府は四回に渡って従事として辟召し、あるいは秀才として推挙し、(三公などの宰相の)五府は代わる代わる辟召したが、羊祜はいずれも就任を拒否した。また、太原の人である郭奕は羊祜を見て言った。「この人はまさに現代における(孔子の弟子の)顔淵である」と。やがて、王沈と一緒に曹爽(の大将軍府)に辟召された。王沈は羊祜に対して、その辟召に応じて就任することを勧めたが、羊祜は(それを拒んで)言った。「仕官して人に仕えるのは、どうして容易なことであろうか」と。曹爽が政争で敗れると、王沈は曹爽の大将軍府の故吏であったことから罷免されたので、そのことで羊祜にこう言った。「常にそなたの以前の言葉が思い出される」と。羊祜は言った。「別にこうなると始めから分かっていたわけではありません」と。このように、羊祜は先見の明を誇ることはしなかったのである。
夏侯覇が蜀に降伏すると、姻戚の多くは夏侯覇の一族と絶縁したが、羊祜だけは妻の夏侯氏をなだめ養い、よく恩をかけて礼遇した。まもなく羊祜の母が亡くなり、長兄の羊発もまた死んでしまうと、十数年の間、体が痩せ衰えるほど母兄を慕って衰弱してしまい、その純朴な徳行に身を置く様子は、まさに穏かで恭しい儒者の姿そのものであった。
文帝(司馬昭)は大将軍となると、羊祜を辟召したが、まだ就任しないうちに、皇帝に直接徴召されて中書侍郎に任じられ、にわかに給事黄門郎に昇進した。時に高貴郷公(時の皇帝・曹髦)は文章を創作することを好み、座にいる者は多く詩や賦を献上したが、汝南の人である和逌(かゆう)は高貴郷公の意に逆らったので退けられ、羊祜はその一部始終の中で、どちらにも与せず中立の立場にあったので、識者たちは羊祜を尊んだ。陳留王(次の皇帝・曹奐)が皇帝となると、羊祜は関中侯の爵位を賜わり、封邑は百戸とされた。少帝(曹奐)が羊祜を侍臣とすることを願わなかったので、羊祜は外の官吏として任用されることを求め、祕書監に転任した。(公・侯・伯・子・男の)五等爵の制度が建立されると、鉅平子(鉅平を封邑とする子爵)に封ぜられ、封邑は六百戸とされた。鍾会が重用されて羊祜のことを忌み嫌うようになると、羊祜もまた鍾会を憚った。やがて鍾会が誅殺されると、司馬昭の相国府の従事中郎に任ぜられ、荀勖(じゅんきょく)と一緒に機密をつかさどった。その後、中領軍に昇進し、宿衛を総括し、内に入っては殿中に宿直し、内外の兵権の要を握った。
西晋の武帝が魏帝・曹奐からの禅譲を受けると、創業の勲功により、官職の呼び名を格上げして中軍将軍(職務は中領軍と同じ)に改め、さらにそこに散騎常侍の官職を加えて与え、爵位については改めて郡公に封じ、封邑は三千戸とした。しかし、羊祜は爵位の方は謙譲して固辞したので、そこでもともとの(鉅平子の)爵を進めて鉅平侯とし、その鉅平侯国の属官として郎中令を置き、九官の職を備えさせ、夫人にも印綬を授けた。泰始年間の初め、以下のような詔が下された。「そもそも枢要を総括し、(『周礼』にあるような治・教・礼・政・刑・事の)六職を治めるのに際して当を得るというのは、朝政の大本である。羊祜は徳を養うこと清くうるわしく、忠実で節操が固い様子は非常に美しく、文武を並び修め、直言すること方正、腹心の任にはあるものの、樞機の重任をつかさどっていないのは、君主が自らあれこれ事務を執るのではなく賢者を抜擢して委任し、彼らに促して徳化を成し遂げるという帝王の理想とする政治の極意に沿わない。よって、羊祜を『尚書右僕射・衛将軍(・散騎常侍)』に任じ、(中領軍・中軍将軍として率いていた)もともとの営兵を給付せよ」と。時に王佑(王沈)・賈充・裴秀らはみな前朝(曹魏)の名望家であったので、羊祜はいつも彼らに遜り、彼らの右に出ることは無かった。
武帝には呉を滅ぼさんとの意志があり、羊祜を「都督荊州諸軍事・仮節」に任じ、散騎常侍と衛将軍を引き続き兼務させた。羊祜は営兵を率いて中国南部に出鎮し、学校を開設し、遠き者も近き者も安んじ懐かせ、非常に長江・漢水地域の人々の心を得た。呉人に対して信義を開き示し、降伏した者が去りたいと願えばすべて許可した。時に晋では長吏(勅任官)が殉職すると、後任の者はこれを忌み、多くもとの官庁を壊して新しく建て直したが、羊祜は、死ぬのにも生きるのにもみな運命があり、居室によるものではないとして、所轄に命令書を下し、それをあまねく禁じた。呉の石城の守将は、(羊祜の鎮所である)襄陽から七百里余り離れた地にいたが、いつも晋の辺境を侵害していたので、羊祜はこれを思い悩み、そこで奇策をめぐらして呉が自らその守将を罷免するように仕向けた。それが成功すると、辺境防備・警邏の兵を半数に削減し、代わりに分担して八百頃余りの田を開墾させ、非常に利益を得た。羊祜が始め赴任したとき、軍には百日の軍糧の蓄えも無かったが、末年には十年の備蓄があった。やがて詔が下されて江北都督を廃止し、代わりに南中郎将を置き、江北都督が統括していた諸軍のうち漢東・江夏地域のものはすべて羊祜に移管させた。羊祜は、軍中では常に軽い皮衣を着て緩い帯を付け(ゆったりと気楽にしており)、鎧は身に着けず、その居所には護衛も十数人しか従えず、それでいて狩りと漁に打ち込んで政務を執らなかった。かつて羊祜が夜に出かけようとすると、軍司の徐胤は棨(儀杖用のほこ)を手にして軍営の門に立ちはだかって言った。「将軍は万里の地を都督なさっているのです。どうして軽々しく陣営を抜け出して良いものでしょうか。将軍の安危はすなわち国家の安危でもあるのです。私が今日死ねば、この門は開くことでしょう(私の目が黒いうちは、ここをお通しするわけにはいきません)」と。そこで羊祜は態度を改めて徐胤に謝り、その後、あまり外出しなくなった。
後に車騎将軍の官位と「開府儀同三司」の待遇を加えられた。羊祜は上表して固辞して言った。「私、羊祜が謹んで恩詔をいただきましたところ、私を抜擢して開府儀同三司にされるとか。私は仕官してから十数年になりますが、任務を朝廷の内外に受け、常に位の高く重要な地位を極めてきました。しかし、いつも思うところは、私の智力は早急に出世してよいようなものではなく、陛下の恩寵をいつまでも誤って頂戴すべきではないということです。それによって日夜おそれおののき、栄誉あることが却って憂慮すべきことに思われます。私は、古人(『管子』立政)の言に『その人物の仁徳がまだ衆人から推服されないうちに高爵を賜るようなことになれば、才能のある臣下が顕位に進まないようになるし、また、その人物の功績がまだ衆人から十分に認められないうちに高禄を食むようなことになれば、功労のある臣下が烈業に励まなくなる』とあるのを聞き知っております。今、私は晋室の外戚として身を託し、しかも晋王朝の初めて興るよい時運に巡り会いました。戒め慎しむべきことは分に過ぎた恩寵をこうむることであって、決して捨て去られることを憂えてはおりません。ところが、いやしくも陛下は内々の詔を下され、破格の栄誉を私に加えられました。私は、どのような功績があってこれに堪え、どのような心があってこれに安んじておられましょうか。かたじけなくも高貴な地位をお受けしたならば、社稷の転覆は間もなくやってくることでしょう。そうなりますと、父祖以来のあばら家をかさねて守っていきたいと願いましても、どうしてそれができましょうか。しかしながら、命に違えば誠に天子の御威光に背くことになりますし、道理を曲げて仰せに従えば前述のごとくすぐに禍敗の原因となります。聞くところによりますと、古人は己を知る者に対してはその本領を発揮し、能力が足りずに職責を果たせないときは大臣の節義として辞職するとか。私はもとよりつまらない小人物ではありますが、今、開府儀同三司をこうむるに際しまして、この『能力が足りずに職責を果たせないときは大臣の節義として辞職する』の義に従いたいと思います。今、天下が晋室の政化に服してから既に八年になろうとしています。その間、席を空しくして賢者を求め続け、世に隠れ住む身分の低い者をそのままにしないように努力しましたが、しかし、私は有徳の者や功績のある者を推挙し、私などよりもっと優秀な者が多く、まだ登用し進達していない者が少なくないことを陛下のお耳にお知らせすることができませんでした。もしも殷の傅説のような有徳者を土木工事などの労役に従事させたままに捨て置き、太公望・呂尚のような才能ある人物を屠殺場や釣り場に隠れたままにしておくようなことがありながら、朝議で私のような者を重用してそれを誤りとせず、一方で私が顕職にいながらそれを恥としないのであるならば、どうしてその損失が甚大でないということがありましょうか。私はかたじけなくも高位に在って久しくなるとは申しましても、まだ今日のように文武にわたって最高の恩典を賜り、宰相に等しい高位を授かったことはございません。ただ、私の見るところは狭く限られてはいますが、今、光禄大夫の李憙は、志節は高尚貞明、おおやけの場では顔色を厳正にし、同じく光禄大夫の魯芝は、我が身を高潔にして欲心を少なくし、人と和らぎ親しんでも決して道理を曲げて人におもねり従うようなことはせず、同じく光禄大夫の李胤は、清明でかつ簡素であり、身を正して朝廷におり、これらの者はみな君に仕えて職務に従事してすでに白髪となっていますが、常に礼節を以て終始し、内外の高位・重職を歴任しているとはいっても、身分が低く裕福ではない家と異ならない生活をしており、いまだにこの開府儀同三司の選には入っておりません。私が却ってこの者たちを越えて重用されたならば、どうして天下の期待を十分に満たし、少したりとも陛下の明を増益することができましょうか。こういうわけで私は心に誓って節を守り、かりにも位を進もうという意志はまったくありません。今、道路には盗賊がはびこり、辺境の地も多事でまだ静かになっていません。どうか私を従来の恩賜の職に留め、速やかに荊州の軍営に戻ることをお許しください。そうせずにここにぐずぐずと滞留していますと、外敵への対策や警備の面で欠漏が生じましょう。『匹夫の志は奪うべきではない』とある通りです」と。しかし、この申し出は聞き容られなかった。
鎮所に戻ると、呉の西陵督の歩闡が城ごと降伏した。呉の将である陸抗は非常に速やかに歩闡を攻撃したので、武帝は羊祜に詔を下して歩闡を迎えに行かせた。羊祜は五万の兵を率いて江陵に出て、さらに荊州刺史の楊肇(ようちょう)を派遣して陸抗を攻めさせたが勝てず、歩闡は結局、陸抗に捕らえられてしまった。これにより担当官が上奏した。「羊祜は八万人余りの兵を率いておりましたが、賊の兵はせいぜい三万程度でした。羊祜は兵を江陵に駐屯させ、賊に備えをする余裕を与えました。そこでやっと楊肇を別動隊として派遣して険固な地に入らせましたが、兵は少なくかつ兵站は遠く、結局は挫け敗れました。詔命に背き、大臣の節義もありません。官を免じ、列侯の封地の屋敷に帰らせるべきです」と。最終的に羊祜は平南将軍に降格されることとなり、一方の楊肇は罷免されて(爵位を剥奪されて)庶人の身分とされた。
羊祜は、春秋時代に魯の孟獻が虎牢に城壁を築いて鄭人がそのために畏れ、また、斉の晏弱(あんじゃく)が東陽に城壁を築いたのにならい、そこで険要の地に拠って五城を新たに建設し、肥沃な地を手に入れ、呉人の物資を奪い、石城以西の地はことごとく晋の領有下に入った。これに前後して降伏して来る呉人は絶えず、そこでさらに恩徳・威信を敷き、新規に降った人々を懷柔し、感慨して呉を併呑せんとの志を抱いた。呉人と交戦する際には、必ず宣戦布告して日程を定めてから戦い、不意をついていきなり襲うという方法を取らなかった。その配下の将帥にだまし討ちの策を勧めようとする者がいれば、いつも醇酒(よく熟した味の濃い美酒)を飲ませて、言い出せないようにさせた。ある者が呉の子どもを二人さらって捕虜にすると、羊祜はその二人の子どもを呉に送り返して家に帰らせた。後に呉の将である夏詳・邵顗(しょうぎ)らが降伏して来ると、例の二人の子どもの父もまた家族を連れだってやってきた。呉の将の陳尚・潘景が侵略してくると、羊祜はこれを追撃して斬ったが、死を恐れず名誉を守るその気節を素晴らしいものだとして厚く葬儀を行った。陳尚・潘景の子弟がその遺体を引き取りたいと願うと、羊祜は礼を尽くして送り返した。呉の将の鄧香が夏口を攻めて略奪を行うと、羊祜は鄧香に懸賞金をかけ、やがて生け捕ることに成功し、鄧香が縛られて連れて来られると、羊祜は彼を赦した。鄧香はその恩の厚さに感激し、指揮下の兵を率いて降った。羊祜は、出軍して呉の領内で穀物を刈り取って軍糧とした場合には、すべてその侵害した分を計算し、代わりに絹を送って償った。兵を長江・沔(べん)水地域に集めて移動式の狩りを行う際には、いつも晋の領内に留まり、呉の領内に踏み込むことはしなかった。そのとき晋兵が得た禽獣が、呉の人が負傷させ(て晋の領内に逃げ込んでき)たものであった場合には、封印して送り返した。これらの施策により、呉人は心安らかに喜んで心服し、「羊公」と呼んでその名を口にしないことで敬意を表した。
羊祜は陸抗と対峙しながらも、使者を互いに行き来させた。陸抗は、羊祜の徳を、楽毅・諸葛亮であっても敵うものではないと称えた。陸抗がかつて病にかかったとき、羊祜は彼に薬を贈ったが、陸抗は毒と疑うことなくそれを服用した。そのことで、多くの人々が陸抗を諫めたが、陸抗は言った。「羊祜はどうして人を毒殺するような人物であろうか」と。それにより当時、(春秋時代に戦争中の敵国の大臣同士でありながら信誠を交わし合った)華元・子反が今日に再来したのだと談論された。陸抗は常にその防衛部隊に告げて言った。「あちらがもっぱら徳を用いているのに、こちらがもっぱら暴を用いれば、まさに戦わずして自ら屈服することになる。各々ただ管轄の地を保つことに専念し、小さな利益を求めて攻め入ったり略奪しに出てはならない」と。孫皓は、両国の境界地帯が交流して仲良くしているのを聞き、そのことで陸抗をとがめた。陸抗は言った。「一邑・一郷ですら信義がなくてはなりません。ましてや大国であればなおさらです。もし私がこのような対応を取らなければ、まさに敵方の徳を顕彰することになり、羊祜の一人勝ちとなります」と。
羊祜は慎しみ深く実直かつ公正であり、よこしまなことを憎んでいたので、荀勖・馮紞などの連中は羊祜を非常に忌み嫌っていた。羊祜の従姉妹の子の王衍は、かつて羊祜を訪れて意見を述べたが、その言葉は非常に雄弁であった。羊祜がその意見に賛同しなかったので、王衍は衣を振るって立ち上がり去ってしまった。そこで羊祜は顧みて賓客たちに言った。「王夷甫(王衍)は、盛んな名声によりちょうど高位に昇っているが、しかし、風俗を乱して政化を損なうのは必ずこの者であろう」と。先述の歩闡の役のとき、羊祜は軍法により(王衍の従兄の)王戎を斬ろうとしたことがあったので、ゆえに王戎と王衍の二人はこのことを恨み、言論するごとに多く羊祜を中傷した。当時の人々はそのため語って言った。「二王(王戎・王衍)は国政をつかさどる重任にあるが、羊公には徳が無い」と。
武帝の咸寧年間の初め、「征南大将軍・開府儀同三司」に任じられ、自由に辟召する権限を得た。初め、羊祜は、呉を征伐するには必ず長江の上流の勢いを駆るべきだと考えた。また当時、呉で以下のような(予言めいた)童謠が流行っていた。「阿童よ阿童、刀をくわえて長江に浮かんで渡る。岸上の獣を畏れることなく、ただ水中の龍を畏れるのみ」と。羊祜はこれを聞いて言った。「これによれば必ず水軍が有効である。あとはただ『阿童』の名に応ずる者さえいれば」と。ちょうど益州刺史の王濬が徴召されて大司農となったが、羊祜は、この王濬が適任であることを知った。王濬は小字を「阿童」といったので、そこで上表して王濬を(長江の上流の)益州に留めて「監益州諸軍事」とさせ、龍驤将軍の位を加え、呉にバレないようにこっそりと艦船を造らせ、長江の流れに従って攻め入る計略を立てた。
羊祜は防具を修繕して兵士を訓練し、広く戦の準備を行った。そうして上奏して言った。「先帝(司馬昭)は天意に従い時運に応じ、西は巴蜀(蜀漢)を平らげ、南は呉・会稽(孫呉)と和睦し、天下はそれによって休息することができ、民衆は安楽の心地がしました。しかし、呉はまた反旗を翻し、改めて辺防を興さなければならなくなりました。そもそも機運は天により授けられるものとはいえ、しかし功業は必ず人の手によって成り、ひとたび大挙して掃滅しなければ、諸々の徭役を起こしても一時も安寧は訪れません。これはまた先帝の勲業を盛んにし、(古の舜のように)自ら動かずに天下が上手く治まる状況をもたらすための方法でもあります。ゆえに、堯は丹水の伐にて南蛮を服属させ、舜は三苗を征伐し、両者ともそれによって天下を静め安んじ、武器を取り上げ(戦をやめ)て人々に和をもたらしたのです。蜀を平定したとき、天下の人々はみな呉もあわせて滅ぼすべきであると言い、それから十三年が経ちましたが、まさに十二支が一周したのであって、今ふたたび平定の時が訪れたのです。議者はかつて言いました。『(蛮夷の地たる)呉楚は道が行われて後に服属するような地域であり、礼の無い状態で強制的に占領すれば(平定できたとしても決して安息することはできない)云々』と。これは、(春秋・戦国時代のような)諸侯が分立していた時代の話です。今や(秦の始皇帝以降)中国は統一されて久しいので、古と同じように喩えることはできません。そもそも道にかなうべきであるとして伐呉に反対する論説は、みな時機を無視しており、そのゆえに多くの謀略があれこれと提案されますが、しかし、結局はその中から一つを選んで決めなければなりません。そもそも険阻な地に依拠して保全する術を考えますに、こちらが敵対する者と同等の力であれば固く守るに足ります。しかし、こちらの勢いが軽く弱く、あちらの勢いが重く強い場合には、智士であっても良い謀略をひねり出すことはできず、そして険阻な地であっても保全することができません。蜀漢の国土は険阻であり、山は雲や虹に続くほど高く、谷は底の見えない暗闇が広がるほど深く、馬の足を包み、車を縄でつるして運んで滑落を防ぎ、そうしてやっと渡ることができるくらいであるので、みな言うには『(蜀の)一夫が戟を抱えて立ち塞がれば、こちら側が千人で攻めても敵わない』と。しかし、いざ進軍の日になると、意に反してまがきの防御は無く、敵将を斬り敵の旗を奪い、尸として地べたに転がる敵兵は数万、勝ちに乗じて席巻し、ただちに成都に至り、漢中の諸城はみな鳥が木にとまって住むように固守して出ようとしなかったのは、みな戦意が無かったというわけではなく、実に抵抗できるだけの力が無かったからです。劉禅が降服すると、あらゆる砦を守っていた者はみな散り散りになってしまいました。今、呉の長江・淮水地域の険阻さは蜀の剣閣ほどではなく、山川の険阻さは蜀の岷山・漢中地域の比ではありません。孫皓の暴虐さは劉禅よりひどく、呉人の苦しみは蜀漢の人々に勝ります。しかも、大晋の兵は蜀を滅ぼしたときの曹魏より多く、物資の蓄えや兵器もそのときよりも豊富です。今この時に呉を平らげず、兵の有利を恃みにして守りに入れば、徴発された人々は役に苦しみ、日々戦闘が止まず、世の中の盛衰をくぐり抜けて後世の王者に模範として伝えるべき治世を成すことはできません。成すべき時に従い、意を決して四海を統一すべきです。今、もし梁州・益州の兵を率いて水・陸ともに東へと進撃し、我が荊州の兵は進軍して江陵に臨み、平南将軍と豫州刺史は夏口を直接目指し、徐州・揚州・青州・兗州刺史はみな秣陵に向かい、太鼓を打って旗をかかげて多方面から押し寄せて敵を惑わせば、一辺境の呉は天下の兵衆に対処せねばならず、その勢力は分散されて、しかも急なことゆえ十分に備えることもできないでしょう。巴漢の奇兵がその虚を突き、一点集中で突き崩せば、上の者も下の者も震え揺らぎましょう。呉は長江に沿って国を形成しておりますので、(国の領域に厚みが無く)内側と外側の分業体制もなく、そのため東西に数千里の長きに渡って防衛線を築くことで国を保たざるを得ず、しかも敵方である我が兵は強大であるので、とうてい安息することはできないでしょう。孫皓の政治は気分任せですので、下々に対する猜疑心が強く、名臣や重将は信頼せず、そのゆえに呉の夏口督であった孫秀などの人々は、切羽詰まって畏れて我が国に降伏して来ました。将は朝廷に疑心を抱き、士は野に困窮し、王朝を保つ計策も固い志もありません。平時においても(孫秀らのように)我が国に降伏しようと図る者がいるのですから、我が兵が大挙して押し寄せれば、必ずそれに応じて降る者がいるに違いありません。最後まで力を合わせて死にもの狂いで戦うことができないのは、すでに明らかです。しかも、呉人の性格はせっかちで、長く持ちこたえることはできず、弓弩・戟楯などの兵器は中国(我が国)に及びませんが、ただ水戦だけはあちらに分があります。しかし、長江を突破していったん呉の境内に侵入してしまえば、長江の防衛線は崩されて復旧することはできず、呉軍が退いて堀をめぐらした城を守るようなことになれば、まさにその長所を捨てて短所に陥ることになります。そうして我が軍が深く敵地に入り込めば、我が兵には節義を尽くす志があり、一方の呉人は内で戦うならば城を頼りにする臆病な心が生まれましょう。このようになれば、我が軍がまもなく勝利すること必定です」と。武帝はこれに深く納得した。
ちょうどそのとき秦州・涼州地域では異民族を含む反乱が起こって官軍がしばしば敗れていたが、羊祜はまた上奏して言った。「呉が平定されれば胡族の反乱も自然と収まるでしょう。ただ速やかに伐呉の大功を成すべきです」と。しかし、多くの議者はこれに賛同しなかったので、羊祜は嘆いて言った。「天下には我が意に沿わない者が常に七・八割はいるがために、決行すべきことも決行されない。そうして天の与えた好機を逃したとしても、どうしてそのような経験の浅く物分かりの悪い連中が、後悔するなんてことがあろうか」と。
その後、詔が下されて泰山郡に属する南武陽・牟・南城・梁父・平陽の五城を分割して新たに南城郡とし、羊祜をここに封じて南城侯とし、郡公の場合と同じく国相を置くことにした。羊祜は辞退して言った。「昔、張良は三万戸の封邑を授けられた際に辞退して留の地の万戸を請いましたが、漢の高祖はその志を奪いませんでした。私は先帝(司馬昭)よりすでに鉅平子の位を授かっておりますので、僭越にもさらに重爵をお受けしてしまえば、きっと位に相応しくないとの責めを受けることになりましょう」と。羊祜が固辞して受けなかったので、武帝は辞退を許した。羊祜は位を進めるごとに常に謙譲を守り、もともと誠心が顕著であったので、列爵に分封されるその枠外に身を置くことを申し上げて特別に容認されたのである。こうしてその名誉や徳望は遠くまで聞こえ、朝野ともに仰ぎ見、官僚たちはみな羊祜こそまさに三公の位に就くべきだと議論した。武帝はちょうど呉を併呑しようという志があり、羊祜に東南の任務を委ねようとしていたので、三公にすべきとの意見を聴かなかった。
羊祜は魏・晋の二朝で官職を歴任し、枢要の任をつかさどり、新しい政策や制度を創設したり改廃するごとに、誰もが羊祜に諮問し、権勢や利益の求めには応じず関与しなかった。その優れた謀略や直言による議論(の上奏文など)はすべてその下書きを焼き捨てたので、そのために世の中に漏れることは無かった。羊祜が推薦した人物たちはみな、誰の推薦により抜擢されたのかが分からず終いであった。ある人が、羊祜の慎しみ深く秘密を守る態度は行き過ぎであると言ったが、それに対して羊祜は言った。「彼は何を言っているのであろうか。そもそも『内に入っては膝が並ぶくらい近づいて話し、外に出ては話した内容を漏らさない』という。『君主が言語を慎密にしなければ臣下の信頼を失い、臣下が言語を慎密にしなければその身を滅ぼすことになり、機密に属する問題について言語を慎密にしなければ害が生ずる』という『易』繋辭上伝の戒めについて、私はただこの戒めを守りきれないことを恐れるのである。私は賢人を推挙し、能力ある者を採用することができていないので、どうして人を知ることの難しさを恥じないことがあろうか(どうしてそのような恥を他人にむざむざ知られたいと思うだろうか)。それに、爵を朝廷より頂いておきながら、他人を推薦して恩を売り、感謝を受けて私門を形成するのは、私は賛同できない」と。また、羊祜の娘の夫がかつて羊祜に勧めて言った。「世の中にとって有益な施策が行われたら、それを提案した者が誰なのかをはっきりさせて顕彰するのは、良いことではございませんか」と。羊祜はただ黙って答えず、娘の夫が退いてから息子たちに告げて言った。「彼の発言は、いわゆる『その一を知ってその二を知らない』というやつだ。人臣たるもの、私的なことを優先すれば、公に背くこととなる。これは所謂『大惑』というもので、ずる賢い臣民がいよいよ多くなり、邪悪な臣下が君側にはびこることとなる。そなたらはこの我が意を理解せよ」と。また、羊祜はかつて従弟の羊琇(ようしゅう)に書を送って言った。「辺境を安定させた後には、角巾(隠者がかぶるもの)をかぶって東行して郷里に帰り、棺を入れる土地でも探そうかと思う。寒士でありながら高位に居続けると、調子に乗って富を蓄えて驕り、責めを受けることにもなりかねない。(前漢の宣帝期に、皇太子であった後の元帝の師となり、功遂げて身を退いて天寿をまっとうした)疏広こそが私の師である」と。
羊祜は山水を好み、風景に親しむときは必ず峴山に登って宴会を開き、歓談して詩を詠み、終日飽きることがなかった。かつて感極まって嘆息し、従事中郎の鄒湛らを顧みて言った。「天地が開けてよりずっとこの山はここに在った。それ以来、私やそなたらのように、才徳ある賢人や清貧なる隠士たちがこの山に登って遠くを眺めてきたのである。ただ彼らはみな土へと帰って後世に名も聞こえず、人々を悲しみ悼ませた。もし(死んでしまっても)百年の後にも知覚があるのだとしたら、我が魂魄はなおこの山に登るであろう」と。鄒湛は言った。「羊公(羊祜)は、徳は天下第一、道は古の哲人たちを継承し、その素晴らしい名望は必ずこの山とともに後世に伝わることでしょう。私のような者こそ、羊公の言の如く、名も残さずに死んでいく哀れな存在でございます」と。
羊祜は呉賊を討つに当たって功績があり、それによりさらに上の爵位を賜ることになった際に、自分の代わりに舅の子の蔡襲(さいしゅう)に爵位を賜りたいということを願ったので、詔が下されて蔡襲が関内侯に封ぜられ、邑は三百戸とされた。
ちょうど呉人が弋陽・江夏の二郡に侵略して人々をさらっていく事件が起こると、詔が下されて侍臣が派遣されて公文書を発送し、羊祜がこれを追討しなかったことをとがめ、それに加えて州の治所を襄陽からより内地の宛に元通り戻すことの便宜を図ろうとしたが、羊祜は言った。「賊の侵略した江夏は襄陽から八百里も離れており、賊がやってきたという知らせが届く頃には、すでに賊が去って何日も経ってしまっています。そこでやっと歩兵部隊を向かわせても、どうして救うことができましょうか。骨折り損だと分かっていながら軍を形だけ動かして責任追及を避けるのは、おそらく適切なことではないでしょう。昔、魏の武帝が都督を置いたとき、それが概ねみな州の治所に近かったのは、兵勢を合わせることを重視して、分散することを避けたからです。辺境においては、時によって状況が変化するので、不慮の事態に備えてただ守るというのが古の善き教えです。もしみだりに州の治所を移すのであれば、治所が遠のいたことを良いことに賊があちこちに侵略するようになりますし、そうなればそもそも州の治所をどこに置けばいいのかが分からなくなってしまいます」と。使者は結局、羊祜をとがめることができなかった。
羊祜が病で寝込むようになると、都督の任を解いて入朝させてほしいと願い出た。そして洛陽に到着すると、ちょうど姉の景献皇后(羊徽瑜)が亡くなってその葬儀が行われていたので、哀しみに暮れて慟哭し、病が重くなった。中詔(詔勅の起草を司る専門機関の手を経ずに皇帝より直接下される詔)の下知により呼び出された羊祜が病をおして謁見することになると、武帝は命じて輦(皇帝用の車)に載せて殿中に入らせ、下りても拝礼を行わなくても良いこととし、非常に礼を尽くして優遇された。そばに侍って座ると、羊祜はそこで面と向かって伐呉の計を述べた。武帝は、羊祜の病が重いため、度々宮中に呼び出すべきではないと考え、中書令の張華を羊祜のもとに派遣してその計策を問わせた。羊祜は張華に言った。「今、陛下は禅譲を受けたという誉れがあるものの、功徳に関してはまだ特別に顕著ではない。呉人の暴虐な政治はすでに甚だしく、戦わずして勝つことができよう。天下を統一し、文徳による教化を興すことができれば、陛下は堯・舜に等しく、臣下は稷・契(堯・舜時代の賢臣)に並び、今後百代の良き模範となるに違いない。この機会を逃すと、もし不幸にも孫皓が死んで呉人が優れた君主を立ててしまえば、百万の兵であっても長江を越えることができず、まさに後の憂いとなってしまう」と。張華は深くその計に賛成した。そして羊祜は張華に言った。「我が志を成す者は、君に違いあるまい」と。武帝は羊祜に病床にありながら諸将を監督させようとしたが、羊祜は言った。「呉を取るためには、必ずしも私が行く必要もないでしょう。ただ、呉を平定した後にご聖慮をわずらわせることになりましょう。功名を成し遂げる瞬間には、私はもうそこには居りますまい。もし事が終われば、そこで何かお命じ授けください。どうか、よくよく(伐呉の)適任者をお選びください」と。
病がますます重くなると、そこで杜預を推挙して後任とさせた。まもなく羊祜は死んだ。五十八歳であった。武帝は喪服を着て哭礼を行ったが、その様子は非常に哀しみに満ちていた。その日は大変寒く、武帝の涙はほお髭とあご髭を潤したが、それはまもなく氷と化した。南方の州の人々は市が行われる日にそこで羊祜が死んだことを聞き、号泣しない者はなく、市をやめ、巷に慟哭する者の声はずっと続いた。呉の辺境防衛の将兵たちもまたそのために泣いた。羊祜の仁徳はかくも人々を感化したのであった。武帝は東園の秘器・一襲の朝服・三十万銭・百匹の布を賜った。そして詔を下して言った。「征南大将軍・南城侯の羊祜は、徳を行うこと純朴、思慮は清く深遠であった。はじめ内職に在り、要任に登るに至っても心は皇室に篤実、王事を左右し、内に入っては(尚書右僕射として)機密をつかさどり、外に出ては(都督として)州郡を統べた。その生涯を閉じるに当たっては功業あきらかで、長きに渡って朕を補佐したが、しかしたちまちにして亡くなってしまったので、甚だ悼ましく心が痛い。羊祜に侍中・太傅を追贈し、持節の肩書きは元通り与えよ」と。
羊祜は身を立てても清くつましく、被服は簡素で、授かった俸禄はすべて一族の者に恵み与え、あるいは軍の兵士たちに賞賜として与えたので、死んだときに家に余分な財産は無かった。羊祜は死ぬ前に遺言して、南城侯の印を柩に入れることを禁じた。従弟の羊琇(ようしゅう)らは、羊祜の普段からの思いを述べ、先祖の墓に葬ることを武帝に求めたが、武帝は許さず、洛陽城から十里ほど離れた近陵の葬地を一頃ほど賜い、羊祜に「成侯」という諡号を与えた。羊祜の遺体が運ばれると、武帝は大司馬門の南においてそれを見送った。羊祜の外甥である斉王の司馬攸は、郡侯の礼で柩を収めないでほしいという羊祜の妻の意を上表した。武帝はそこで詔を下して言った。「羊祜は官爵を辞退すること歴年、その志を奪うことはできなかった。すでに身は没しているのにも関わらず最後まで謙譲し、遺された節操はますます激しい。これこそまさに、周の粟を食らわずとして首陽山に隠れて餓死した殷の伯夷や叔斉が賢人と称えられ、王位を辞退した季子が節義をまっとうしたのと同様のものである。今、もとの封爵に戻すことを許し、それによって羊祜の高き美徳を顕彰しよう」と。
初め、文帝(司馬昭)が崩御したとき、羊祜は傅玄(ふげん)に言った。「三年の喪というのは、高貴な者であっても満期まで続けるものであり、それは天子であっても例外ではない。ところが、漢の文帝はこれを除いて行わなくても良いものとし、礼義を損なってしまったので、私は常に嘆息するばかりだ。今、我が君(武帝)は生まれつき孝の極みで、(孝で知られる孔子門下の)曾参や閔子騫のような性を備えていらっしゃり、喪服が無くとも喪礼を実行されるであろう。喪礼が実行されれば、服が無かったとしてもどうなるものか。もしこれによって漢魏の薄礼を改めて古の賢王の法を興し、それによって風俗を正し、誉れを百代の後まで伝えるのは、何と善いことではないか」と。傅玄は言った。「漢の文帝以来、人々は代々浅はかで薄情であり、国君の喪を行うことができなかったので、故にこれを除いて行わなくても良いことにしてきたのです。国君の三年の喪を除いてすでに数百年が経っており、それを急遽もとに戻すというのは非常に困難なことです」と。羊祜は言った。「天下の人々を礼の通りにさせられないというのであれば、せめて陛下にだけでも三年の喪に服していただければ、なお善いことではなかろうか」と。傅玄は言った。「陛下が服喪を除かずに天下の人々のみ免除するのは、それは(君臣・父子・夫妻の三綱の道のうち)ただ(先帝と今上の)父子の道のみが有るだけで、君臣の道が無いということになり、三綱の道が欠けることになります」と。羊祜はそこでやっと主張をやめた。
羊祜が著した文章や『老子』の伝(注釈書)は、みな世に広まった。襄陽の人々は、峴山中の羊祜が日頃遊び憩っていた所に碑と廟を建て、毎年定期的に供え物をして祭った。その碑を見た者はみな涙を流し、杜預はそれにちなんで「墮涙碑」と名付けた。荊州の人々は羊祜の諱を避け、(「祜」と同じ発音の)建物の「戸」はみな「門」と呼ぶようにし、(郡県の役所である)戸曹は辞曹と呼ぶようにした。
羊祜は開府して以来、何年もの間、謙譲して辟召の権限を行使しなかった。晩年になって始めて府に人を辟召して任用しようとしたが、ちょうどその手続きの間に羊祜が死んでしまい、正式に任用することができなかった。(府に辟召された)羊祜のもとの僚属であった劉儈(りゅうかい)・趙寅・劉彌(りゅうび)・孫勃らは、牋(上行文の一種)をその後任たる杜預に送って言った。「昔、手違いで選任を受け(謙遜の言葉)、かたじけなくも属官として、それぞれみな前の征南大将軍の羊祜とともに諸々の事に参画する機会を得ました。羊祜は徳を行うこと控えめで謙虚であり、節操や志は清く深遠、徳は高くふるまいは慎しみ深く、位は高くとも行いは恭しくていらっしゃいました。前に陛下の詔を受け、南中国に赴任してこの地を安んじ、開府儀同三司の待遇を得た上に、さらに大将軍の号を加えられました。ただ、開府儀同三司の位に在るとはいっても、その権限を行使しなかったので、今に至るまで天下はそれが行われることを渇望し、諸々の優れた人物は辟召されることを期待して待ち望んでおりました。羊祜は、その門を渡れば貪婪な匹夫も一転して清廉になり、つまらぬ者も高い志を立てるようになるほどの徳を備え、伯夷や(古の魯の賢者である)柳下恵の節操であっても、これに勝るものではありません。この辺境に出鎮してからというもの、政化は長江・漢水地域に及び、その深い謀略や遠くまで見通す計策は、国境を開拓し、その施した策は、みな正しい道筋に沿ったものでありました。志はいつも国家のためにあり、死ぬ覚悟で事に勤め、やがて始めて(開府儀同三司の辟召の権限を行使して)我々四人を掾(部局の長)として召しましたが、まだ到着しないうちに亡くなってしまわれました。そもそも、賢人を推挙して国に報いるのは、宰相の果てしない重任です。巷に隠れている賢者を見つけ出して採用するのは、宰相の宿願です。力不足であるからと自分の限界を勝手に敷いて途中でやめるのは、宰相がひそかに心に憎むことです。長年に渡って謙遜した人が、その結果、晚節を遂げることができずに終われば、周りの者は遠きも近きもみなその人のために感じ痛むことになります。昔、西周の召伯は甘棠の木の下で休息して人々の訴えを聞きましたが、『召伯様の休まれたところだからこの甘棠を伐ってはならない』と慕い謡われるほどに、召伯は愛されました。また、(春秋時代の)晋侯が韓宣子を遣わして即位して間もない魯の昭公を祝賀させ、魯の季武子の邸宅で宴が開かれた際に、韓宣子がその庭の美しい樹木を誉めると、季武子は感謝して両国の友誼のためにその樹を長く育て上げようと誓いました。このように、その人のことを思えば、その気持ちは樹にさえも及ぶのです。まして生前に辟召した士ともなれば、どうして例に従って放棄すべきでありましょうか。願いをつらね申し上げる恩恵を賜ることをお許しになるのであれば、どうかすでに掾属として正式に就任したのと同じ扱いにしてください」と。杜預はそれを受けて上表して言った。「羊祜は開府したものの、その権限を行使して僚属を備えることはしませんでしたが、まさに謙譲の至りでございまして、それは顕彰されるべきものです。やがて病をおして士を辟召しましたが、到着する前に亡くなってしまいました。家に跡継ぎも無く、官府に辟召により任命された士も無く、この南方の人々の心中には深い憂慮がうずまいています。そもそも、親の喪においても祖先の祭祀においてもまごころを尽くせば、人々の道徳心はすぐれたものになると言いますが、それゆえ漢の高祖は趙の子弟に対して四千戸の封を惜しまず、その心を慰めました。どうかこのことについて朝廷で議論していただきますようお願い申し上げます」と。詔が下され、それは許されなかった。
羊祜が死んでから二年後に呉が平定され、群臣は祝いを述べたが、武帝は爵(さかずき)を手に取って涙を流して言った。「これは羊太傅(羊祜)の功である」と。よって、策書を下して呉の平定の功を羊祜の廟に告げ、蕭何の故事に依拠し、羊祜の夫人を封じた。その策書には以下のように記されていた。「皇帝たる朕が謁者の杜宏に命じて故の侍中・太傅・鉅平成侯の羊祜に告げる。昔、呉は不敬であり、険阻な地形を恃みに皇帝の尊号を僭称し、その境は閉ざされたまま長い年月が流れた。羊祜は南中国に任を受け、その難を静めようと思い、外に在っては帝王の政化をその地域に広めて成果を上げ、内に在っては呉を平定するための策略を練り、徳義や誠実さは顕著で、長江・漢水地域は心服し、行いはすべて模範的であり、事を謀ればいつもそれは完全なる計略であった。しかし、天は羊祜を憐れまず、その志は遂げること叶わず、朕はそれを遺憾に思った。そこで諸軍にそれぞれ命を下し、天の誅伐を呉にもたらすと、兵はまもなくたった一度の征役で滅び、割り符がぴったり合わさるかのように、在りし日の羊祜の計略通りとなった。そもそも賞賜には功労者を漏らすべきではなく、国の本来の制度に従うならば、封邑を増し、それによって先の命を尊ぶべきであるが、しかし、それは生前の羊公の普段からの謙譲の意志に背くことになる。そこで、夫人の夏侯氏を万歳郷君に封じ、食邑は五千戸とし、さらに帛万匹・穀万斛を賜わろう」と。
羊祜が五歳のとき、おもちゃにしていた金の輪を持ってきてほしいと乳母に言うと、乳母は言った。「あなた、そんなもの元から持っていなかったでしょうに」と。すると、羊祜はすぐさま隣人の李氏の家の東垣の桑の樹の中に行き、そこを探してついに金の輪を見つけた。主人の李氏は驚いて言った。「これは我が亡き子が失くしてしまった物である。どうして持って行こうとするのか」と。乳母がその事情を述べると、李氏は悲しみ嘆いた。時の人々はこれを不思議に思い、羊祜の前身は李氏の子であったのだと言った。また、墓の良し悪しを占うのが得意な人がいて、羊祜の先祖代々の墓所には帝王の気があり、もしこれを掘ってしまえば後嗣が絶えてしまうだろうと言ったが、羊祜は気にせずそこを掘ってしまった。墓占いが得意な人はそれを見て言った。「なおこの家は臂の折れた三公を輩出するであろう」と。果たして、羊祜はなんと後に落馬して臂を折り、そして三公の位に昇り、しかも後を嗣ぐ息子は無かった。
武帝は羊祜の兄の子の羊暨(ようき)に封爵を嗣がせようとしたが、羊暨は、それでは自分の父が亡くなったときにその後嗣になれないとして断った。武帝はその代わりに、羊暨の弟の羊伊を羊祜の後継者としようとしたが、羊伊もまた詔を奉じなかった。武帝は怒り、二人とも捕えて罷免した。(天下統一の翌年の)太康二年(二八一)、羊伊の弟の羊篇を鉅平侯とし、羊祜の後を嗣がせた。羊篇は官職を歴任するに当たって清く慎ましく、かつて私的に所有していた牛が官舍で子牛を産んだが、まもなく昇進して異動することになるとこの牛の母子のことを思い、そこに置いて去った。位は散騎常侍まで昇ったが、早くに死んでしまった。
東晋の孝武帝の太元年間、羊祜の兄の玄孫の子の羊法興を鉅平侯に封じ、邑は五千戸とした。しかし、叛逆者の桓玄の仲間であったので誅殺され、鉅平侯国は除かれた。東晋末の尚書祠部郎の荀伯子は上表してこれについて論じて言った。「私が聞くところによりますと、(春秋時代に)咎繇(皋陶)を始祖とする国である六が楚によって滅ぼされると、魯の臧文仲は深く嘆き悲しみ、また、斉の伯氏は管仲に三百戸の邑を奪われましたが、粗食の貧しい生活をしながらも生涯に渡って管仲を恨む言葉を発しなかったのは、管仲が仁であると孔子に称えられた理由でもあります。功が大きければ百世の後も滅びずに続くことができ、一方で濫りに賞を受ければ結局のところ少しの間も続くことはないでしょう。故の太傅・鉅平侯の羊祜は徳高く賢明で物事に通じ、国中の人々が最も敬い慕う名臣であり、禅譲による王業の創立に参与する勲を得て、呉を平定する功績を上げましたが、しかし後嗣は絶え、その祭祀を担う人物がいません。漢は蕭何が筆頭功臣であったがゆえに、直系の後継者が絶えれば、そのたびに一族の他の者に侯国を継がせました。私が思いますに、鉅平の封も蕭何の酇侯国と同様に待遇すべきです。また、故の太尉・広陵公の陳準は、逆賊の司馬倫と徒党を組んで協力し、禍を淮南地域に及ぼし、その叛逆の中で利益を受け、ちゃっかりと大国を封地として授かりました。そのまま西朝(西晋)の政治と刑罰が適切さを欠いた時期(八王の乱・永嘉の乱の混乱期)が到来してしまい、(東晋が)中興してもそのまま封国を奪うことはしませんでした。王道が一新して安定を取り戻した今こそ、大いに善し悪しをはっきりさせるべきです。思いますに、広陵国は削除すべきです。さらに、故の太保の衛瓘は、もともと爵位は菑陽県公でしたが、冤罪によって悲運の死を遂げましたので、そこで封を進めて始め蘭陵郡公を追贈し、(孫の衛璪のときに)さらに江夏郡公へと封地を移しました。しかし、中朝(西晋)の名臣たちの多くが不条理の中で命を終えており、衛瓘の功徳も別に大したものではありませんのに、衛瓘だけが特別な恩賞を受けているので、思いますに郡公を取りやめ、封邑を菑陽県に戻せば、賞罰は理にかない、善悪がはっきりすることになりましょう」と〔十〕。結局、この上奏に対する採否の返答は無かった。
羊祜の前母は孔融の娘であり、兄の羊発を生み、羊発の官位は都督淮北護軍〔十一〕にまで至った。初め、羊発は、羊祜の同母兄の羊承と同時に病になり、羊祜の母は二人とも生きながらえさせることはできないと考え、そこで羊発の方に専念して療養したので、羊発を救うことはできたが、羊承は死んでしまった。
羊発の長子の羊倫は高陽相まで昇った。羊倫の弟の羊暨は陽平太守まで昇った。羊暨の弟の羊伊は、初め車騎将軍の賈充の掾となり、後に平南将軍・都督江北諸軍事となって宛で鎮守したが、義陽蛮出身の反乱者の張昌に殺され、鎮南将軍の官位を追贈された。羊祜の伯父の羊祕は、京兆太守まで昇った。その子の羊祉は魏郡太守まで昇った。羊祕の孫の羊亮は、字を長玄といい、才能があり、謀略に長けていた。交流しようとすれば、羊亮は必ず上辺だけ誠実を尽くすふりをし、交流者はみな彼の心を得たと思ったが、実際はそんなことはなかった。初め太傅の楊駿の属官である参軍となったが、時に京兆郡では窃盗事件が多かった。楊駿は窃盗に関する法を厳しくし、百銭を盗めば死刑にするよう改めようとして、属官を招いて会議した。羊亮は言った。「昔、楚の江乙の母が布を失ったとき、その窃盗は宰相である令尹のせいであるとされました〔十二〕。あなたにもし欲が無ければ、窃盗は自然とやむでしょう。どうして法を厳しくする必要がありましょうか」と。楊駿は恥じ入ってそれをやめた。羊亮は何度も昇進して大鴻臚となった。時に(八王の乱の最中にあって)恵帝は長安に在り、羊亮は関東と謀を通じていたので、心中は安らかでなく、やがて并州に出奔したが、(漢趙の建国者である)劉淵によって殺されてしまった。羊亮の弟の羊陶は徐州刺史まで昇った。

杜預(子錫)

原文

杜預、字元凱、京兆杜陵人也。祖畿、魏尚書僕射。父恕、幽州刺史。預博學多通、明於興廢之道、常言「德不可以企及、立功立言可庶幾也。」初、其父與宣帝不相能、遂以幽死、故預久不得調。
文帝嗣立、預尚帝妹高陸公主、起家拜尚書郎、襲祖爵豐樂亭侯。在職四年、轉參相府軍事。鍾會伐蜀、以預爲鎭西長史。及會反、寮佐並遇害、唯預以智獲免、增邑千一百五十戸。與車騎將軍賈充等定律令、既成、預爲之注解、乃奏之曰「法者、蓋繩墨之斷例、非窮理盡性之書也。故文約而例直、聽省而禁簡。例直易見、禁簡難犯。易見則人知所避、難犯則幾於刑厝。刑之本在於簡直、故必審名分。審名分者、必忍小理。古之刑書、銘之鍾鼎、鑄之金石、所以遠塞異端、使無淫巧也。今所注皆網羅法意、格之以名分、使用之者執名例以審趣舍、伸繩墨之直、去析薪之理也。」詔班于天下。
泰始中、守河南尹。預以京師王化之始、自近及遠、凡所施論、務崇大體。受詔爲黜陟之課、其略曰「臣聞上古之政、因循自然、虛己委誠、而信順之道應、神感心通、而天下之理得。逮至湻樸漸散、彰美顯惡、設官分職、以頒爵祿、弘宣六典、以詳考察。然猶倚明哲之輔、建忠貞之司、使名不得越功而獨美、功不得後名而獨隱、皆疇咨博詢、敷納以言。及至末世、不能紀遠而求於密微、疑諸心而信耳目、疑耳目而信簡書。簡書愈繁、官方愈偽、法令滋章、巧飾彌多。昔漢之刺史、亦歲終奏事、不制算課、而清濁粗舉。魏氏考課、即京房之遺意、其文可謂至密。然由於累細以違其體、故歴代不能通也。豈若申唐堯之舊、去密就簡。則簡而易從也。夫宣盡物理、神而明之、存乎其人。去人而任法、則以傷理。今科舉優劣、莫若委任達官、各考所統。在官一年以後、毎歲言優者一人爲上第、劣者一人爲下第、因計偕以名聞。如此六載、主者總集採案、其六歲處優舉者超用之、六歲處劣舉者奏免之、其優多劣少者敘用之、劣多優少者左遷之。今考課之品、所對不鈞、誠有難易。若以難取優、以易而否、主者固當準量輕重、微加降殺、不足復曲以法盡也。己丑詔書以考課難成、聽通薦例。薦例之理、即亦取於風聲。六年頓薦、黜陟無漸、又非古者三考之意也。今毎歲一考、則積優以成陟、累劣以取黜。以士君子之心相處、未有官故六年六黜清能、六進否劣者也、監司將亦隨而彈之。若令上下公相容過、此爲清議大穨、亦無取於黜陟也。」
司隸校尉石鑒以宿憾奏預、免職。時虜寇隴右、以預爲安西軍司、給兵三百人・騎百匹。到長安、更除秦州刺史、領東羌校尉・輕車將軍・假節。屬虜兵強盛、石鑒時爲安西將軍、使預出兵擊之。預以虜乘勝馬肥、而官軍懸乏、宜并力大運、須春進討、陳五不可・四不須。鑒大怒、復奏預擅飾城門・官舍、稽乏軍興。遣御史檻車徴詣廷尉。以預尚主、在八議、以侯贖論。其後隴右之事卒如預策。
是時朝廷皆以預明於籌略、會匈奴帥劉猛舉兵反、自并州西及河東・平陽、詔預以散侯定計省闥、俄拜度支尚書。預乃奏立藉田、建安邊、論處軍國之要。又作人排新器、興常平倉、定穀價、較鹽運、制課調、内以利國、外以救邊者五十餘條、皆納焉。石鑒自軍還、論功不實、爲預所糾、遂相讎恨、言論諠譁、並坐免官、以侯兼本職。數年、復拜度支尚書。
元皇后梓宮將遷於峻陽陵。舊制、既葬、帝及羣臣即吉。尚書奏、皇太子亦宜釋服。預議「皇太子宜復古典、以諒闇終制。」從之。
預以時曆差舛、不應晷度、奏上二元乾度曆、行於世。
預又以孟津渡險、有覆沒之患、請建河橋于富平津。議者以爲殷周所都、歴聖賢而不作者、必不可立故也。預曰「『造舟爲梁』、則河橋之謂也。」及橋成、帝從百僚臨會、舉觴屬預曰「非君、此橋不立也。」對曰「非陛下之明、臣亦不得施其微巧。」
周廟欹器、至漢東京猶在御坐、漢末喪亂、不復存、形制遂絕。預創意造成、奏上之、帝甚嘉歎焉。
咸寧四年秋、大霖雨、蝗蟲起。預上疏多陳農要。事在食貨志。
預在内七年、損益萬機、不可勝數。朝野稱美、號曰「杜武庫」。言其無所不有也。
時帝密有滅吳之計、而朝議多違、唯預・羊祜・張華與帝意合。祜病、舉預自代、因以本官假節行平東將軍、領征南軍司。及祜卒、拜鎭南大將軍・都督荊州諸軍事、給追鋒車・第一駙馬。預既至鎭、繕甲兵、耀威武、乃簡精鋭、襲吳西陵督張政、大破之、以功增封三百六十五戸。政、吳之名將也、據要害之地、恥以無僃取敗、不以所喪之實告于孫皓。預欲間吳邊將、乃表還其所獲之衆於皓。皓果召政、遣武昌監劉憲代之。故大軍臨至、使其將帥移易、以成傾蕩之勢。
預處分既定、乃啟請伐吳之期。帝報待明年方欲大舉、預表陳至計曰「自閏月以來、賊但敕嚴、下無兵上。以理勢推之、賊之窮計、力不兩完、必先護上流、勤保夏口以東、以延視息、無緣多兵西上空其國都。而陛下過聽、便用委棄大計、縱敵患生。此誠國之遠圖、使舉而有敗、勿舉可也。事爲之制、務從完牢。若或有成、則開太平之基、不成、不過費損日月之間、何惜而不一試之。若當須後年、天時人事不得如常、臣恐其更難也。陛下宿議、分命臣等隨界分進、其所禁持、東西同符、萬安之舉、未有傾敗之慮。臣心實了、不敢以曖昧之見自取後累。惟陛下察之。」預旬月之中又上表曰「羊祜與朝臣多不同、不先博畫而密與陛下共施此計、故益令多異。凡事當以利害相較。今此舉十有八九利、其一二止於無功耳。其言破敗之形、亦不可得。直是計不出己、功不在身、各恥其前言、故守之也。自頃朝廷事無大小、異意鋒起。雖人心不同、亦由恃恩不慮後難、故輕相同異也。昔漢宣帝議趙充國所上事效之後、詰責諸議者、皆叩頭而謝、以塞異端也。自秋已來、討賊之形頗露。若今中止、孫皓怖而生計。或徙都武昌、更完修江南諸城、遠其居人、城不可攻、野無所掠、積大船於夏口、則明年之計或無所及。」時帝與中書令張華圍棊、而預表適至。華推枰斂手曰「陛下聖明・神武、朝野清晏、國富兵強、號令如一。吳主荒淫・驕虐、誅殺賢能、當今討之、可不勞而定。」帝乃許之。
預以太康元年正月、陳兵于江陵、遣參軍樊顯・尹林・鄧圭・襄陽太守周奇等率衆循江西上、授以節度、旬日之間、累剋城邑、皆如預策焉。又遣牙門管定・周旨・伍巢等率奇兵八百、泛舟夜渡、以襲樂郷、多張旗幟、起火巴山、出於要害之地、以奪賊心。吳都督孫歆震恐、與伍延書曰「北來諸軍、乃飛渡江也。」吳之男女降者萬餘口。旨・巢等伏兵樂郷城外。歆遣軍出距王濬、大敗而還。旨等發伏兵、隨歆軍而入、歆不覺、直至帳下、虜歆而還。故軍中爲之謠曰「以計代戰、一當萬。」於是進逼江陵。吳督將伍延偽請降而列兵登陴、預攻剋之。既平上流、於是沅湘以南、至于交廣、吳之州郡皆望風歸命、奉送印綬、預仗節稱詔而綏撫之。凡所斬及生獲吳都督・監軍十四、牙門・郡守百二十餘人。又因兵威、徙將士屯戍之家以實江北、南郡故地各樹之長吏、荊土肅然、吳人赴者如歸矣。
王濬先列上得孫歆頭、預後生送歆、洛中以爲大笑。時衆軍會議、或曰「百年之寇、未可盡剋。今向暑、水潦方降、疾疫將起、宜俟來冬、更爲大舉。」預曰「昔樂毅藉濟西一戰以并強齊。今兵威已振、譬如破竹、數節之後、皆迎刃而解、無復著手處也。」遂指授羣帥、徑造秣陵。所過城邑、莫不束手。議者乃以書謝之。
孫皓既平、振旅凱入。以功進爵當陽縣侯、增邑并前九千六百戸、封子耽爲亭侯、千戸、賜絹八千匹。
初、攻江陵、吳人知預病癭、憚其智計、以瓠繫狗頸示之。毎大樹似癭、輒斫使白、題曰「杜預頸」。及城平、盡捕殺之。
預既還鎭、累陳家世吏職、武非其功、請退、不許。
預以天下雖安、忘戰必危、勤於講武、修立泮宮、江漢懷德、化被萬里。攻破山夷、錯置屯營、分據要害之地、以固維持之勢。又修邵信臣遺跡、激用滍淯諸水以浸原田萬餘頃、分疆刊石、使有定分、公私同利。衆庶賴之、號曰「杜父」。舊水道唯沔漢達江陵千數百里、北無通路。又巴丘湖、沅湘之會、表裏山川、實爲險固、荊蠻之所恃也。預乃開楊口、起夏水達巴陵千餘里、内瀉長江之險、外通零桂之漕。南土歌之曰「後世無叛由杜翁。孰識智名與勇功。」
預公家之事、知無不爲。凡所興造、必考度始終、鮮有敗事。或譏其意碎者、預曰「禹稷之功、期於濟世、所庶幾也。」
預好爲後世名、常言「高岸爲谷、深谷爲陵」、刻石爲二碑、紀其勳績、一沈萬山之下、一立峴山之上、曰「焉知此後不爲陵谷乎。」
預身不跨馬、射不穿札、而毎任大事、輒居將率之列。結交接物、恭而有禮、問無所隱、誨人不倦、敏於事而慎於言。既立功之後、從容無事、乃耽思經籍、爲『春秋左氏經傳集解』。又參攷衆家譜第、謂之『釋例』。又作『盟會圖』『春秋長曆』、僃成一家之學、比老乃成。又撰『女記讚』。當時論者謂預文義質直、世人未之重。唯祕書監摯虞賞之曰「左丘明本爲『春秋』作傳、而左傳遂自孤行。『釋例』本爲傳設、而所發明何但左傳。故亦孤行。」時王濟解相馬、又甚愛之、而和嶠頗聚斂。預常稱「濟有馬癖、嶠有錢癖。」武帝聞之、謂預曰「卿有何癖。」對曰「臣有左傳癖。」
預在鎭、數餉遺洛中貴要。或問其故、預曰「吾但恐爲害、不求益也。」
預初在荊州、因宴集、醉臥齋中。外人聞嘔吐聲、竊窺於戸、止見一大蛇垂頭而吐。聞者異之。其後徴爲司隸校尉、加位特進、行次鄧縣而卒。時年六十三。帝甚嗟悼、追贈征南大將軍・開府儀同三司、諡曰成。預先爲遺令曰「古不合葬、明於終始之理、同於無有也。中古聖人改而合之、蓋以別合無在、更緣生以示教也。自此以來、大人君子或合或否、未能知生、安能知死、故各以己意所欲也。吾往爲臺郎、嘗以公事使過密縣之邢山。山上有冢、問耕父、云是鄭大夫祭仲、或云子産之冢也、遂率從者1.(祭)〔登〕而觀焉。其造冢居山之頂、四望周達、連山體南北之正而邪東北、向新鄭城、意不忘本也。其隧道唯塞其後而空其前、不塡之、示藏無珍寶、不取於重深也。山多美石不用、必集洧水自然之石以爲冢藏、貴不勞工巧、而此石不入世用也。君子尚其有情、小人無利可動、歴千載無毀、儉之致也。吾去春入朝、因郭氏喪亡、緣陪陵舊義、自表營洛陽城東首陽之南爲將來兆域。而所得地中有小山、上無舊冢。其高顯雖未足比邢山、然東奉二陵、西瞻宮闕、南觀伊洛、北望夷叔、曠然遠覽、情之所安也。故遂表樹開道、爲一定之制。至時皆用洛水圓石、開隧道南向、儀制取法於鄭大夫、欲以儉自完耳。棺器小斂之事、皆當稱此。」子孫一以遵之。子錫嗣。
錫、字世嘏。少有盛名、起家長沙王乂文學、累遷太子中舍人。性亮直忠烈、屢諫愍懷太子、言辭懇切、太子患之。後置針著錫常所坐處氊中、刺之流血。他日、太子問錫「向著何事。」錫對「醉不知。」太子詰之曰「君喜責人、何自作過也。」後轉衞將軍長史。趙王倫篡位、以爲治書御史。孫秀求交於錫、而錫拒之、秀雖銜之、憚其名高、不敢害也。惠帝反政、遷吏部郎・城陽太守、不拜、仍遷尚書左丞。年四十八卒、贈散騎常侍。子乂嗣。在外戚傳。

1.遂率從者(祭)〔登〕而觀焉:『晉書斠注』本伝では、王隠『晉書』においては「祭」字が「登」字になっていることを指摘する。文脈上、「祭」字では不自然で、むしろ「登」字であれば自然であり、字形が似ているために後世の者が筆写を誤ったものと見られる。

訓読

杜預、字は元凱、京兆杜陵の人なり。祖の畿、魏の尚書僕射たり。父の恕、幽州刺史たり。預は博學にして多通、興廢の道に明らかなれば、常に言(いわ)く「德は以て企(つまだ)ちて及ぶべからず、功を立て言を立つるは庶幾なるべけん」と。初め、其の父は宣帝と相い能からず、遂に幽死せしを以て〔一〕、故に預は久しく調せらるるを得ず。
文帝の嗣ぎて立つや、預は帝の妹の高陸公主を尚(めと)り、起家して尚書郎を拜し、祖の爵を襲いて豐樂亭侯たり。職に在ること四年、轉じて相府の軍事に參ず〔二〕。鍾會 蜀を伐つや、預を以て鎭西長史と爲す。會の反するに及び、寮佐は並びに害に遇うも、唯だ預のみは智を以て免るるを獲、邑を增して千一百五十戸たり。車騎將軍の賈充等と與に律令を定め、既に成るや、預は之が注解を爲し、乃ち之を奏して曰く「法なる者は、蓋し繩墨の斷例にして、理を窮め性を盡くすの書には非ざるなり。故に文は約にして例は直、聽は省にして禁は簡なり。例 直なれば見え易く、禁 簡なれば犯し難し。見え易ければ則ち人は避くる所を知り、犯し難ければ則ち刑厝(お)くに幾(ちか)し。刑の本は簡直に在れば、故に必ず名分を審(つまび)らかにす。名分を審らかにすれば、必ず小理を忍ぶ。古の刑書、之を鍾鼎に銘(しる)し、之を金石に鑄せしは、遠く異端を塞(ふさ)ぎ、淫巧無からしむる所以なり。今、注する所は皆な法意を網羅し、之を格(ただ)すに名分を以てしたれば、之を用うる者をして名例を執りて以て趣舍を審(つまび)らかにし、繩墨の直を伸ばし、析薪の理を去らしめん」と。詔して天下に班(わ)かつ。
泰始中、河南尹を守す。預 京師は王化の始にして、近きより遠きに及ばんことを以(おも)い、凡そ施す所の論、務めて大體を崇ぶ。詔を受けて黜陟の課を爲(つく)るや、其の略に曰く「臣聞くならく、上古の政、自然に因循し、己を虛(むな)しくして誠に委ね、而して信順の道は應じ、神は感じて心は通じ、而して天下の理は得らる。湻樸漸(ようや)く散ずるに至るに逮(およ)び、美を彰(あき)らかにして惡を顯(あき)らかにし、官を設けて職を分け、以て爵祿を頒(わ)かち、弘く六典を宣(あき)らかにし、以て考察を詳(つまび)らかにす。然るに猶お明哲の輔に倚(よ)り、忠貞の司を建て、名をして功を越えて獨り美なるを得ざらしめ、功をして名に後(おく)れて獨り隱なるを得ざらしめ、皆な疇咨・博詢し、敷き納るるに言を以てす。末世に至るに及び、遠きを紀すこと能わずして密微に求め、諸(これ)を心に疑いて耳目を信じ、耳目を疑いて簡書を信ず。簡書は愈々(いよいよ)繁たり、官方は愈々偽たり、法令は滋々(ますます)章たり、巧飾は彌々(ますます)多し。昔、漢の刺史、亦た歲終われば事を奏すれども、算課を制せず、而して清濁粗舉す。魏氏の考課、即ち京房の遺意にして、其の文は至密と謂うべし。然るに細に累(わずら)わさるるに由りて以て其の體に違えば、故に歴代通ずる能わず。豈に唐堯の舊を申べ、密を去りて簡に就くに若かんや。則ち簡にして從い易きなり。夫れ物の理を宣(の)べ盡くし、神にして之を明らかにするは、其の人に存す。人を去りて法を任ずれば、則ち以て理を傷(そこ)なう。今、科舉の優劣、達官に委任し、各々統ぶる所を考するに若くは莫し。官に在ること一年以後、歲毎に優なる者一人を言(もう)して上第と爲し、劣なる者一人もて下第と爲し、計に因りて偕(み)な名を以て聞す。此(か)くの如くすること六載、主者は總集して採りて案じ、其の六歲優舉に處る者は之を超用し、六歲劣舉に處る者は之を奏免し、其の優多く劣少なき者は之を敘用し、劣多く優少なき者は之を左遷す。今、考課の品、對する所は鈞(ひと)しからず、誠に難易有り。若し難きを以て優を取り、易きを以てして否(しから)ずんば、主者は固く當に輕重を準量し、微(ひそ)かに降殺を加うべかれども、曲がれるを復して法を以て盡くすに足らざらん。己丑詔書は考課成し難きを以て、薦例を通ずるを聽(ゆる)す。薦例の理、即ち亦た風聲に取る。六年にして頓薦し、黜陟に漸無きは、又た古者の三考の意に非ざるなり。今、歲毎に一たび考するは、則ち優を積みて以て陟を成し、劣を累(かさ)ねて以て黜を取らんとすればなり。士君子の心の相い處るを以て、未だ官故有らずして六年にして六たび清能を黜し、六たび否劣を進まば、監司は將に亦た隨いて之を彈ぜんとす。若令(も)し上下公相 過を容れ、此の爲に清議 大いに穨(つい)ゆれば、亦た黜陟に取る無かれ」と。
司隸校尉の石鑒 宿憾を以て預を奏したれば、職を免ぜらる。時に虜 隴右に寇したれば、預を以て安西軍司と爲し、兵三百人・騎百匹を給す。長安に到るや、更めて秦州刺史に除せられ、東羌校尉・輕車將軍・假節〔三〕を領す。屬々(たまたま)虜の兵は強盛にして、石鑒は時に安西將軍たりしに、預をして兵を出だして之を擊たしめんとす。預 虜は勝ちに乘じて馬は肥え、而れども官軍は懸乏したれば、宜しく力を并(あわ)せて大いに運し、春を須(ま)ちて進討すべしと以(おも)い、五の不可・四の不須を陳(の)ぶ。鑒 大いに怒り、復た預を奏すらく、擅(ほしいまま)に城門・官舍を飾りたれば、乏軍興〔四〕に稽せよ、と。御史を遣わして檻車もて徴して廷尉に詣らしむ。預は主を尚(めと)り、八議〔五〕に在るを以て、侯を以て贖論せらる。其の後、隴右の事 卒(つい)に預の策の如くす。
是の時、朝廷は皆な以(おも)えらく、預は籌略に明るし、と。會々匈奴の帥の劉猛は兵を舉げて反し、并州の西より河東・平陽に及びたれば、預に詔して散侯を以て計を省闥に定めしめ、俄かに度支尚書に拜す。預 乃ち奏して藉田を立て、安邊を建て、論は軍國の要に處る。又た人排の新器を作り、常平倉を興し、穀價を定め、鹽運を較(のり)し、課調を制するに、内は國を利するを以てし、外は邊を救うを以てすること五十餘條、皆な焉(これ)を納(い)る。石鑒の軍より還るや、論功實ならざれば、預の糾する所と爲り、遂に相い讎恨し、言論するに諠譁したれば、並びに坐して官を免ぜらるるも、侯を以て本職を兼ぬ。數年、復た度支尚書に拜せらる。
元皇后の梓宮 將に峻陽陵に遷されんとす。舊制、既に葬するや、帝及び羣臣は吉に即く。尚書奏すらく、皇太子も亦た宜しく服を釋くべし、と。預議すらく「皇太子は宜しく古典に復し、諒闇を以て制を終うべし」と。之に從う。
預 時曆は差舛し、晷度に應ぜざるを以て、二元乾度曆を奏上し、世に行わる。
預 又た孟津の渡は險にして、覆沒の患有るを以て、河橋を富平津に建てんことを請う。議者以爲(おも)えらく、殷・周の都とする所なるも、聖賢を歴て作らざるは、必ず立つべからざるが故なり。預曰く「『舟を造(なら)べて梁と爲す』とは、則ち河橋の謂なり」と。橋成るに及び、帝 百僚の會に臨むに從りて、觴を舉げて預に屬して曰く「君に非ざりせば、此の橋立たざらまし」と。對えて曰く「陛下の明に非ざりせば、臣も亦た其の微巧を施さざらまし」と。
周廟の欹器〔六〕、漢の東京に至りて猶お御坐に在りしも、漢末喪亂するや、復た存せず、形制遂に絕ゆ。預 創意造成し、之を奏上したれば、帝は甚だ嘉して焉(これ)を歎ず。
咸寧四年秋、大いに霖雨あり、蝗蟲起つ。預 上疏して多く農要を陳ぶ。事は食貨志に在り。
預は内に在ること七年、萬機を損益すること、勝げて數うべからず。朝野は稱美し、號して「杜武庫」と曰う。其の有せざる所無きことを言うなり。
時に帝 密かに滅吳の計有るも、而れども朝議は多く違い、唯だ預・羊祜・張華のみ帝の意と合す。祜 病むや、預を舉げて自らに代わらしめんとしたれば、因りて本官を以て假節・行平東將軍たり、征南軍司を領す。祜の卒するに及び、鎭南大將軍・都督荊州諸軍事を拜し、追鋒車・第一駙馬を給す。預 既に鎭に至るや、甲兵を繕い、威武を耀(かがや)かせ、乃ち精鋭を簡(えら)び、吳の西陵督の張政を襲い、大いに之を破り、功を以て封を增して三百六十五戸たり。政は吳の名將にして、要害の地に據り、僃え無きを以て敗を取るを恥じ、喪う所の實を以て孫皓に告げず。預 吳の邊將を間せんと欲し、乃ち表して其の獲えし所の衆を皓に還す。皓 果たして政を召し、武昌監の劉憲を遣わして之に代う。故に大軍至るに臨み、其の將帥をして移易せしめ、以て傾蕩の勢を成す。
預 處分既に定まるや、乃ち啟して伐吳の期を請う。帝は明年を待ちて方に大舉せんと欲すと報ずれば、預 表して至計を陳(の)べて曰く「閏月より以來、賊は但だ敕嚴するのみにして、下に兵上無し。理勢を以て之を推さば、賊の窮計、力は兩つながらに完くせざれば、必ず先ず上流を護し、勤めて夏口以東を保ち、以て視息を延べ、多兵に緣りて西上して其の國都を空しくすること無からん。而れども陛下過聽し、便ち用て大計を委棄せば、敵を縱(ゆる)して患生じん。此れ誠に國の遠圖にして、使(も)し舉して敗有らんとせば、舉する勿(な)くとも可なり。事之が爲に制せられば、務めて完牢に從わん。若し或いは成す有らば、則ち太平の基を開き、成らずんば、日月の間を費損するに過ぎざるに、何ぞ惜しみて一も之を試さざるや。若し當に後年を須(ま)たば、天時・人事 常の如きを得ず、臣 其の更に難くならんことを恐るるなり。陛下の宿議、臣等に分命して界に隨(したが)いて分進せしめ、其の禁持する所、東西符を同じくするは、萬安の舉にして、未だ傾敗の慮有らず。臣の心は實に了なれば、敢えて曖昧の見を以て自ら後累を取らず。惟だ陛下之を察せられよ」と。預 旬月の中に又た上表して曰く「羊祜は朝臣と多く同じからず、先に博く畫らずして密かに陛下と共に此の計を施したれば、故に益々多く異ならしむ。凡その事、當に利害を以て相い較ぶべし。今、此の舉は十に八九の利有り、其の一二のみ無功に止まるのみ。其の破敗の形を言うは、亦た得べからず。直だ是れ計は己より出でず、功は身に在らざれば、各々其の前言を恥じ、故に之を守るのみ。頃(さきごろ)より朝廷は事大小と無く、異意鋒起す。人心同じからずと雖も、亦た恩を恃み後難を慮らざるに由り、故に輕々しく相い同異するなり。昔、漢の宣帝の趙充國の上る所を議して事效あるの後、諸々の議者を詰責するや、皆な叩頭して謝し、以て異端を塞げり。秋より已來、討賊の形 頗る露(あら)わる。若し今中止せば、孫皓は怖れて生計せん。或いは徙りて武昌に都し、更に江南の諸城を完修し、其の居人を遠ざけ、城は攻むべからず、野は掠する所無く、大船を夏口に積まば、則ち明年の計 或いは及ぶ所無からん」と。時に帝は中書令の張華と圍棊せるに、而して預の表適々(たまたま)至る。華 枰を推して斂手して曰く「陛下は聖明・神武、朝野は清晏、國は富みて兵は強く、號令は一の如し。吳主は荒淫・驕虐、賢能を誅殺し、當今之を討たば、勞せずして定むべし」と。帝 乃ち之を許す。
預 太康元年正月を以て、兵を江陵に陳(じん)し、參軍の樊顯(はんけん)・尹林・鄧圭(とうけい)・襄陽太守の周奇等を遣わして衆を率いて江に循(したが)いて西上せしめ、授くるに節度を以てし、旬日の間、累(しき)りに城邑に剋(か)つこと、皆な預の策の如し。又た牙門の管定・周旨・伍巢等を遣わして奇兵八百を率い、舟を泛(うか)べて夜に渡らしめ、以て樂郷を襲い、多く旗幟を張り、火を巴山に起こし、要害の地に出でしめ、以て賊の心を奪う。吳の都督の孫歆は震え恐れ、伍延に書を與えて曰く「北來の諸軍、乃ち江を飛渡せり」と。吳の男女の降る者萬餘口。旨・巢等 兵を樂郷城外に伏す。歆 軍を遣わして出でて王濬を距(ふせ)がしむるも、大敗して還る。旨等 伏兵を發し、歆の軍に隨いて入るも、歆は覺らず、直(ただ)ちに帳下に至り、歆を虜にして還る。故に軍中は之が爲に謠して曰く「計を以て代々(かわるがわる)戰わば、一もて萬に當たる」と。是に於いて進みて江陵に逼る。吳の督將の伍延は偽りて降らんことを請うも兵を列ねて登陴したれば、預 攻めて之に剋つ。既に上流を平ぐるや、是に於いて沅湘以南、交廣に至るまで、吳の州郡は皆な風を望みて歸命し、印綬を奉送したれば、預 節を仗(つ)きて詔と稱して之を綏撫す。凡そ斬る及び生獲する所の吳の都督・監軍は十四、牙門・郡守は百二十餘人。又た兵威に因り、將士屯戍の家を徙して以て江北を實(み)たし、南郡の故地は各々之に長吏を樹(た)てたれば、荊土は肅然たり、吳人の赴く者は歸るが如し。
王濬は先に孫歆の頭を得たりと列上せしも、預 後に生きながらにして歆を送りたれば、洛中以て大笑と爲す。時に衆軍會して議するに、或るひと曰く「百年の寇、未だ盡くは剋(さだ)むべからず。今、暑に向い、水潦 方に降り、疾疫 將に起こらんとすれば、宜しく來冬を俟(ま)ち、更めて大舉を爲すべし」と。預曰く「昔、樂毅は濟西に藉(よ)りて一戰して以て強齊を并(あわ)せり。今、兵威は已に振るい、譬えば破竹の如く、數節の後、皆な刃を迎えて解けば、復た著手する處無きなり」と。遂に羣帥に指授し、徑(ただ)ちに秣陵に造(いた)らしむ。過ぐる所の城邑、束手せざるは莫し。議者乃ち書を以て之に謝す。
孫皓 既に平らげらるるや、振旅して凱入す。功を以て爵を進めて當陽縣侯たらしめ、邑を增して前に并(あ)わせて九千六百戸、子の耽を封じて亭侯と爲し、千戸たらしめ、絹八千匹を賜う。
初め、江陵を攻むるや、吳人は預の癭(こぶ)を病むを知り、其の智計を憚り、瓠(ひさご)を以て狗の頸に繫ぎて之を示す。大樹の癭に似たるある毎に、輒ち斫りて白ましめ、題して「杜預の頸」と曰う。城平ぐに及び、盡く捕えて之を殺す。
預 既に鎭に還るや、累(しき)りに家は世々吏職なれば、武は其の功に非ずと陳(の)べ、退かんことを請うも、許されず。
預 天下安しと雖も、戰を忘るれば必ず危うきを以て、講武に勤め、泮宮を修立し、江漢は德に懷き、化は萬里を被(おお)う。攻めて山夷を破り、屯營を錯置し、分かちて要害の地に據(よ)らしめ、以て維持の勢を固くす。又た邵信臣の遺跡を修め、激するに滍淯諸水を用いて以て原田萬餘頃を浸し、疆を分かちて石に刊(きざ)み、定分有らしめ、公私利を同じくす。衆庶は之を賴み、號して「杜父」と曰う。舊(も)と水道は唯だ沔漢より江陵に達すること千數百里あるのみにして、北に通路無し。又た巴丘湖は、沅湘の會にして、表裏に山川あり、實に險固たれば、荊蠻の恃む所なり。預 乃ち楊口を開き、夏水より起ちて巴陵に達すること千餘里、内は長江の險に瀉(そそ)ぎ、外は零桂の漕を通ぜしむ。南土は之を歌いて曰く「後世 叛くに杜翁よりすること無からん。孰(つまび)らかに智名と勇功とを識る」と。
預 公家の事、爲さざる無きを知る。凡そ興造する所、必ず始終を考度し、敗事有ること鮮(すくな)し。或いは其の意を譏(そし)りて碎(くじ)く者あるや、預曰く「禹・稷の功、濟世に期せしは、庶幾(こいねが)う所なり」と。
預は後世に名を爲すを好み、常(かつ)て「高岸は谷と爲り、深谷は陵と爲る」と言い、石を刻みて二碑を爲(つく)り、其の勳績を紀し、一は萬山の下に沈め、一は峴山の上に立て、曰く「焉くんぞ此の後に陵谷と爲らざるを知らんや」と。
預 身は馬に跨がず、射は札を穿たざれども、而れども大事を任ぜらるる毎に、輒ち將率の列に居る。交を結びて接物するに、恭にして禮有り、問えば隱す所無く、人を誨(おし)うるに倦(う)まず、事に敏にして言に慎なり。既に功を立つるの後、從容として事無ければ、乃ち經籍を耽思し、『春秋左氏經傳集解』を爲す。又た衆家の譜第を參攷し、之を『釋例』と謂う。又た『盟會圖』『春秋長曆』を作り、僃(ことごと)く一家の學を成し、老ゆるに比(およ)びて乃ち成る。又た『女記讚』を撰す。當時の論者、預の文義は質直なりと謂(おも)い、世人は未だ之を重んぜず。唯だ祕書監の摯虞(しぐ)のみ之を賞して曰く「左丘明は本と『春秋』の爲に傳を作るも、而れども左傳 遂に自ら孤(ひと)り行わる。『釋例』は本と傳の爲に設くるも、而れども發明する所は何ぞ但(た)だ左傳のみならんや。故に亦た孤り行われん」と。時に王濟は相馬を解し、又た甚だ之を愛し、而して和嶠は頗る聚斂す。預 常に稱すらく「濟は馬癖有り、嶠は錢癖有り」と。武帝 之を聞き、預に謂いて曰く「卿は何の癖か有らん」と。對えて曰く「臣は左傳癖有り」と。
預 鎭に在り、數々(しばしば)洛中の貴要に餉遺す。或るひと其の故を問うや、預曰く「吾れ但だ害せらることを恐るれば、益を求めざるなり」と。
預 初め荊州に在るや、宴に因りて集まり、醉いて齋中に臥す。外人 嘔吐の聲を聞き、竊(ひそ)かに戸より窺えば、止(た)だ一大蛇の頭を垂れて吐くを見る。聞く者は之を異とす。其の後、徴されて司隸校尉と爲り、位特進を加えられ、行きて鄧縣に次(やど)りて卒す。時に年六十三。帝甚だ嗟悼し、追いて征南大將軍・開府儀同三司を贈り、諡して成と曰う。預 先に遺令を爲して曰く「古、合葬せざるは、終始の理に明るく、有る無きに於いて同じとすればなり。中古、聖人の改めて之を合するは、蓋し別合在る無きを以て、更めて生に緣りて以て示教すればなり。此より以來、大人君子或いは合し或いは否(しかせ)ざるは、未だ能く生を知らず、安くんぞ能く死を知らんやとあれば、故に各々己が意の欲する所を以てするなり。吾は往(さきごろ)臺郎と爲るや、嘗て公事を以て使して密縣の邢山を過る。山上に冢有り、耕父に問うや、是れ鄭の大夫の祭仲なりと云い、或いは子産の冢なりと云いたれば、遂に從者を率いて登りて焉を觀る。其の冢を造ること山の頂に居れば、四望周達、連山は南北の正に體して東北に邪(かたむ)き、新鄭城に向かい、意は本を忘れざるなり。其の隧道は唯だ其の後を塞ぎて其の前を空け、之を塡(ふさ)がず、藏に珍寶無きを示し、重深に取らざるなり。山に美石多けれども用いざるは、必ず洧水の自然の石を集めて以て冢藏と爲し、工巧を勞せざるを貴び、而して此の石は世用に入らざるなり。君子は其の情有るを尚(たっと)び、小人は利の動ずべきこと無く、千載を歴て毀(こぼ)つ無きは、儉の致なり。吾、去春に入朝し、郭氏の喪亡するに因り、陪陵の舊義に緣り、自ら表して洛陽城東の首陽の南に營して將來の兆域と爲す。而るに得る所の地の中に小山有り、上に舊冢無し。其の高顯なること未だ邢山に比(およ)ぶに足らずと雖も、然るに東のかた二陵を奉じ、西のかた宮闕を瞻(み)、南のかた伊洛を觀、北のかた夷叔を望み、曠然として遠覽すれば、情の安んずる所なり。故に遂に表樹して開道し、一定の制を爲す。時に至りては皆な洛水の圓石を用い、隧道を開いて南向せしめ、儀制は法を鄭大夫に取り、儉を以て自ら完うせんと欲するのみ。棺器・小斂の事、皆な當に此に稱(かな)うべし」と。子孫は一に以て之に遵(したが)う。子の錫(せき)嗣ぐ。
錫、字は世嘏(せいか)。少くして盛名有り、起家して長沙王乂の文學たり、累(しき)りに遷りて太子中舍人たり。性は亮直にして忠烈、屢々(しばしば)愍懷太子を諫むるに、言辭 懇切なれば、太子は之を患(いと)う。後に針を置きて錫の常に坐處する所の氊中に著(つ)け、之を刺して流血せしむ。他日、太子 錫に問うらく「向(さき)に何れの事か著れる」と。錫對(こた)うらく「醉いて知らず」と。太子 之を詰(なじ)りて曰く「君は喜びて人を責むるに、何ぞ自ら過を作(な)さんや」と。後に衞將軍長史に轉ず。趙王倫の篡位するや、以て治書御史と爲す。孫秀 交を錫に求むるも、而れども錫は之を拒みたれば、秀 之を銜(うら)むと雖も、其の名の高きを憚り、敢えて害せざるなり。惠帝の政に反(かえ)るや、吏部郎・城陽太守に遷るも、拜せず、仍りて尚書左丞に遷る。年四十八にして卒し、散騎常侍を贈らる。子の乂嗣ぐ。外戚傳に在り。

〔一〕『三國志』巻十六・杜畿伝附杜恕伝によれば、杜恕は劾奏され、身柄を拘束されて廷尉に突き出され、そこで死罪に当てられたが、父の杜畿の功により罰を減ぜられて章武郡への徙刑に処され、その後、復帰することなくそのまま生涯を終えた。
〔二〕いわゆる「参軍事(参軍)」。後漢末に史料に登場し、魏晋南北朝時代を通じて機構が整備され、漢代の掾属等に代わる中下級行政官に変化していく。初めは将軍などの顧問・参謀役であったが、西晋頃から属官と化していく。
〔三〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔四〕「乏軍興」とは漢代以来の法律用語。「軍興」とは軍需物資や兵員の徴発のことを指し、これに関する違犯は「乏軍興」と言って一般的には死罪が適用された。晋律は現在に伝わっていないため詳細は不明だが、参考までに唐律では「擅興律」の一条に、城郭を修繕したり堤防を作ったりするのに勝手に人を動員した場合にそれが罪とされている。
〔五〕「八議」とは、漢代以来の司法用語。『周礼』秋官・小司寇に見える「八辟」に相当し、罪を犯しても刑が減免される八種類の身分・ケースのこと。杜預のケースは、公主の夫であるために「議親」に相当する。
〔六〕傾いた器で、「宥坐の器」(座右の戒めの器)とされる。空の状態では傾き、中身を半分満たすとまっすぐになり、いっぱいにするとひっくりかえるという特殊な技巧の器。

現代語訳

杜預は字を元凱(げんかい)といい、京兆郡・杜陵の人である。祖父の杜畿(とき)は魏の尚書僕射まで昇った。父の杜恕(とじょ)は幽州刺史まで昇った。杜預は博学であり多くのことに通達し、興廃の道に明るかったので、常に言っていた。「至らぬ者は爪立ちしても徳の境地に及ぶべくもなく、功を立て、あるいは書物を著して説を立てるような者は、道に近づいた賢才に違いない」と。初め、父の杜恕は宣帝(司馬懿)と対立し、結局、捕えられて死んでしまったので、そのため杜預は長らく登用されなかった。
文帝(司馬昭)が司馬懿・司馬師の後を継いで実権を握ると、杜預は司馬昭の妹の高陸公主を娶り、起家して尚書郎に任じられ、祖父の杜畿の爵位を継いで豊楽亭侯となった。四年間在職し、司馬昭の相国府の参軍事となった。伐蜀の際、その方面軍司令官の一人であった「鎮西将軍、仮節、都督関中諸軍事」の鍾会は、杜預を自らの鎮西将軍府の長史に招いた。蜀を滅ぼした後に鍾会が魏に反旗を翻すと、属寮はみな殺されてしまったが、杜預だけは智を働かせて免れることができ、やがて封邑を増されて千一百五十戸とされた。後に車騎将軍の賈充らとともに律令を定め、それが完成すると、杜預はその注釈を作り、それができてから献上して言った。「法というものは、墨縄で直線を引くように人の罪悪を正すための基準であり、万物の道理を究めつくして人間の本性を知り尽くす書ではありません。そのため文章は簡約に、条文の内容は公正で飾り気無く、審理も簡潔に、禁止事項も簡単であらねばなりません。条文の内容が公正であれば見る者にとって分かりやすく、禁止事項が簡単であれば違犯も少なくなります。見る者にとって分かりやすければ、人々は何をしてはならないのかをよく理解し、違犯が少なければ、刑罰はただ規定として置いているだけでほとんど用いられないような平安な状態になります。刑罰の根本は簡単で公正であることに在りますので、そのため、必ず名分をはっきりとさせるべきです。名分を明らかにすれば、必ず小さな道理には目をつぶることとなりますが、それは已むを得ません。古の刑書が(字数の制限が大きい)鍾や鼎に刻まれ、金属や石に鋳込まれたのは、その禁則に対して異なる解釈が現れるのを防止し、そのため、みだりな文章の修飾を無用としたからです。今、私の注釈はみな法の精神を網羅し、名分によって理を明確にしましたので、これを用いる者にとっては明確な名分と条文によってどのように処置すれば良いかがはっきりと分かり、墨縄が真っすぐであるように罪を適用する基準が明らかで、法が煩雑で扱いきれないという弊害は除かれることになりましょう」と。そして詔が下されて天下に頒布された。
やがて武帝の泰始年間に河南尹(首都の洛陽が属する河南の長官)を代任した。杜預は、京師(首都)は帝王の政化の発端であり、(そこから同心円状に)近いところから遠いところまでその政化が波及する(ために中央官の責務は重大である)のだと考え、議論を行う際には大略を尊ぶよう心掛けた。詔を受けて官僚の昇任・降任・罷免等のルールを作ったが、そのときの上奏文のあらましは以下の通りである。「私の聞くところによりますと、上古の政治は、自然に従い、虚心になって誠実な賢才に委任し、そうして誠実さを実行して道理に従うことにより天の助けを得られるという信順の道が応ずることになり、互いの心神が感通し、そうして天下が良く治まりました。そのような淳厚・朴実さがだんだん失われ(て礼や法が興る時代にな)ると、善悪をはっきりとさせ、官を設けてそれぞれ職を分担させ、それによって位と俸禄を分け、『周礼』にも記されているような治典・礼典・教典・政典・刑典・事典の六典を宣布し、それによって官吏の政績評定をはっきりとさせるようになりました。それでもやはり賢者による輔政に頼り、忠誠・貞節ある司を設け、それによって功績以上に名声ばかりが盛んになるのを防ぎ、名声のために功績が隠れてしまうことを防ぐだけでなく、また、誰か優れた人物はいないかと求め、広く意見を諮り、臣下の述べた善策を採用して良い治世を実現しました。さらに後世になると、黄帝や太皞などが雲・竜などの遠く壮大なものを印として長官の名としていたのに対して、人々にとって親しみのある小さなものを印として『司徒』『司馬』などの名をつけるようになり、しかもそれらに疑いの目を向けて耳目の官(監察官)を信じ、さらにその耳目の官をも疑って文書を信じ、それに頼って政治を運用するようになりました。文書行政はますます煩雑になり、官吏はその本来守るべき規律・礼法に背いて偽りが増え、法令はますます飾り気が多くなり、精巧に言葉を飾って毀誉褒貶するようなことが非常に増えてきました。昔、漢の刺史もまた年度末に該当地域の官吏の評定を上奏しましたが、算課(明確な基準により成績を数値化するためのルール)を制定しなかったがために、それぞれ清濁の基準がまちまちな大雑把な選考になってしまいました。魏王朝の考課はすなわち(詳細な考課の法を施行することを主張して果たせなかった前漢の)京房の遺志に適うものであり、その文は緻密の至りと言うべきものでした。しかし、細部にこだわりすぎたが故にその本質が見失われてしまうことになり、そのため歴代これを適切に用いることができませんでした。やはり古の堯帝の旧典に倣い、緻密さを取り払って簡約さを旨とするには及びません。そうすればその簡約さによって、(本質を見失わずに)従いやすくなります。そもそも万物の理に通暁し、神妙なはたらきを尽くしてその理を明らかにするのは、それを利用する者の資質によるものです。法を用いる人物の側を重視せずに法それ自体に頼れば、その理を損なうことになります。今、科挙(諸々の科目の察挙)の優劣の判断は、各官府の長官に委ね、それぞれ統轄する所の官吏を評定するのが一番です。そしてその官職に就いて一年が経ったら、毎年、優秀なる者を一人挙げて『上第(上等)』とし、劣等なる者を一人挙げて『下第(下等)』とし、毎年の会計報告と一緒にみな名を含めて報告することとします。このように六年間続け、中央の人事担当者はその間の結果をまとめて審査し、六年間ずっと『優』を取り続けた者は飛び級で昇進させ、六年間ずっと『劣』を取り続けた者は奏請した上で罷免し、『優』が『劣』よりも多い者は(通常通り)昇進させ、『劣』が『優』より多い者は左遷します。ただ、優劣などの考課の品評は、それぞれ任ぜられた職が人によって異なるがゆえに、実にそれぞれの職務によって難易の差があることを考慮しなければなりません。もしその人が難しい職務に就いたがために(成績がそこまででなくとも)『優』を取り、簡単な職務に就いたがために(成績が良くとも)『優』が取れないという事情がありそうな場合には、中央の人事担当者は必ずその職務の軽重を考慮して控え目に見積もるなどの調整を加えなければなりませんが、そうしたとしてもでこぼこで不平等な評価を正し、法の理を尽くすには足りないでしょう。先に『己丑詔書』では、考課が難しい場合には、薦例(推薦方式)を行うことを許可されました。薦例の理とは、風聞(士大夫社会の中での評価)により取るということです。しかし、六年で告げ口や推薦により、降任・罷免や昇任が突拍子に行われ、少しずつ昇進・左遷するということでなくなれば、これは、古の『三考』(じっくりと三年で成績をつけて一考とし、三考すなわち九年で昇任・降格を判断する)の意にそぐいません。今、年ごとに一回という頻度で評定するようにと申し上げたのは、『優』を積むことによってやっと昇進を許し、『劣』を重ねることによってはじめて降任・罷免されるようにするという、古の『三考』と同様の趣旨によるものです。それなのに、薦例によって士大夫の心の赴くままに、官での好成績や失態などによらず、六年で六たび清く有能な者を退け、あるいは優秀でない者を進めるようなことになれば、監察機関(御史・司隷校尉・刺史など)はただちにこれを弾劾するはずではありますが、もし上下の者や公卿らがその過ちを見て見ぬふりをすれば、そのために清議は大いに損なわれてしまいますので、やはり薦例により降任・罷免・昇任を行うべきではありません」と。
(河南を含む地域の監察官の)司隷校尉の石鑑は、以前からの怨恨により杜預を劾奏したので、杜預は河南尹を罷免されてしまった。時に賊(鮮卑の樹機能ら)が隴右地域を侵犯していたので、杜預を(当時「行安西将軍、都督秦州諸軍事」となっていた石鑑の目付け役と参謀の役目を兼ねる)安西軍司に任じ、兵三百人・騎百匹を与えた。長安に到ると、杜預は改めて「秦州刺史」に任じられ、「東羌校尉・軽車将軍・仮節」を兼任した。ちょうど賊の兵は強盛であり、石鑑は時に安西将軍であったが、杜預に出兵させて賊を撃たせようとした。杜預は、賊は勝ちに乗じて馬も肥え、一方の官軍は物資不足であるので、力を合わせて運糧を盛んにし、春を待ってから進軍して征討すべきだと思い、五つのやってはならないこと、四つのすべきでないことを石鑑に述べた。すると石鑑は激怒し、また杜預を「あらかじめ申し立てずに勝手に城門・官舍を修繕したので、乏軍興の罪に当てるべきです」と劾奏した。そこで朝廷は御史を派遣して檻車(檻つきの護送車)で召し還し、廷尉(最高裁判所に相当する機関)に突き出した。杜預は公主(皇帝の娘)を娶っており、八議に相当するので、侯爵を剥奪することで贖罪とされた。だが、その後、隴右の事については結局は杜預の策の通りに行われた。
この時、朝廷ではみな、杜預は計略に長けていると思っていた。ちょうど匈奴の帥(匈奴人が就任することとされた匈奴五部の各部の長官)の劉猛が挙兵して反乱を起こし、戦禍が并州の西から河東郡・平陽郡にかけて広がったので、杜預に詔が下され、散侯の身分で禁中に召し出されてともに計略を練ることとなり、そこでにわかに(経済・財政担当の)度支尚書に任じられた。杜預はそこで上奏して農業促進策・辺境防衛策について献策し、軍政・国政の要について論じた。また、新たな人排(製鉄における送風の道具)を作り、常平倉(物価調整のために穀物を出し入れするための倉庫)を興し、穀物の平価を定め、塩の均輸を図り、新たな税の徴収法を定めることなど、内は国に利益をもたらすため、外は辺境を救うために五十条余りを献策し、すべて容認された。石鑑が軍から戻ると、論功が実態と異なっていたため、杜預に糾弾され、かくて互いに恨み合い、声を荒げて言い争ったので、二人とも罷免されたが、杜預は侯の身分にありながら度支尚書の職務だけは引き続き行うことになった。数年後、再び度支尚書の官位に返り咲いた。
武元楊皇后(楊艶)が崩御し、その棺を峻陽陵に埋葬することとなった。旧来の制度では、葬儀が終わると、皇帝および群臣は喪に服すのをやめて平常に戻ることとされていた。そのときある尚書が、皇太子も同様に喪を解くべきであると上奏した。杜預は議文を提出して言った。「皇太子は古典の通りに、三年の喪に服すべきです」と。武帝は杜預の意見に従った。
杜預は、時の暦の計算方法が間違っており、日時計の度数と合わないということで、「二元乾度暦」を奏上し、世に広まった。
杜預はまた、黄河の孟津の渡しが険しく、舟が転覆して沈没する憂いがあることから、黄河に渡す橋を富平津に建てることを上奏して願い出た。議者たちは「殷・周が都とした所であるのに、これまでの聖人・賢人たちが軒並み黄河に渡す橋を作らなかったのは、きっと聖人・賢人たちであっても立てることができなかったからです」と考えを述べた。そこで杜預は言った。「『詩経』にいう『(周の文王が)舟を並べて浮橋とした』とは、すなわち橋をかけたことを言うのです」と。橋が完成すると、武帝は百官が一堂に集う宴席に臨み、さかずきを挙げて自ら杜預の杯に注いで言った。「君でなければ、この橋が立つことも無かったであろう」と。杜預は答えて言った。「聡明なる陛下でなければ、私もまたこの些細な功を実行に移すことはできなかったでしょう」と。
周廟の欹器は、後漢まではまだ周廟中の御坐にあったが、後漢末の混乱期になって失われ、とうとうどのようなつくりか分からなくなってしまった。杜預は創意を凝らしてそれを再現し、これを献上して奏上したので、武帝は非常に善しとして賛嘆した。
咸寧四年(二七八)秋、長雨がひどく、蝗虫が発生した。杜預は上奏して農業についての様々な重要な事を述べた。詳細は食貨志に記してある。
預は度支尚書として内に在ること七年、その間に数えきれないほど様々な事を創設したり改廃したりした。朝廷も野に在る人々も杜預を賛美し、「杜武庫」と呼んだ。あらゆるものを持っていることを比喩して言ったのである。
時に武帝はひそかに滅呉の計を抱いていたが、朝議では反対意見が多く、ただ杜預・羊祜・張華のみが武帝の意志と合致した。羊祜が病に伏せると、杜預を推挙して自分の後任にしようとしたので、そこで度支尚書に在任したまま「仮節・行平東将軍」となり、(征南大将軍の羊祜の目付け役と参謀の役目を兼ねる)征南軍司を兼任した。羊祜が死ぬと、杜預は「鎮南大将軍・都督荊州諸軍事」に任じられ、追鋒車と第一駙馬を支給された。鎮所に到着すると、杜預は防具や兵器を修繕し、威武を輝かせ、そこで精鋭を選出し、呉の西陵督の張政を襲撃し、これを大いに破り、その功により封邑が増やされて三百六十五戸となった。張政は呉の名将であったが、要害の地に拠りながら、備えを怠って敗れたのを恥じ、失った兵や物資などの数を偽って孫皓に報告した。杜預は、呉で仲たがいを起こさせ、辺境の将帥を遠ざけようとし、そこで上表して許可を取った上で捕虜にした呉人たちを孫皓に返還した。孫皓は果たして張政を召し還し、武昌監の劉憲を派遣して後任とした。故に晋の大軍がまもなく押し寄せようとする段階で、呉の名将を異動させることに成功し、それによって呉の滅亡の形勢を作り出した。
以上のような処置が定まると、杜預はそこで伐呉の時期について述べて請うた。武帝は明年を待ってそこで大挙しようと考えていると返答したので、杜預は上表して大計を述べて言った。「閏月以来、呉賊はただ警戒して固く守るのみであり、(呉の首都がある)長江下流域では兵を上流に集めるような動きはありません。この情勢から推測しますに、賊は計策に窮し、上流域(荊州)と下流域(江東)の両方を完全に固める国力が無いので、必ずまず上流域を固めて、それによって夏口以東の下流域を保つことに努め、かりそめに命をつないでいるのでしょうから、大軍で西に上って国都を空けるということはしないでしょう。しかし陛下が群臣の間違った意見を聞いて誤った判断を下し、そこで大計(を果たせる機会)を捨ててしまえば、『敵を逃して禍が生じる』ということになってしまいかねません。これは実に国にとっての遠大なる計画でありますので、もし挙兵しても敗れるだろうとお考えになるのでしたら、挙兵しなくとも良いでしょう。そのようなお考えに基づいてそのように(明年になってから伐呉の兵を興すと)お決めになったのでしたら、私も必ずその堅実さに従います。しかし、(私の考えでは)もし事を成せれば太平の基を開くことができ、成せなくともただ時間を無駄にするというだけに過ぎませんのに、どうして惜しんで一度も試すことをしないのでしょうか。もし後年を待つのであれば、天時においても人事においても、今のような絶好の機会がそのまま続くことが叶わず、今よりさらに事を成すことが難しくなってしまうことを私は恐れます。陛下のかねてからの議論では、私たちに各々命を下し、それぞれの境界から別々に進軍させ、その割りふられた受け持ちのところを、東も西も割り符が合わさるかのように連動して一挙に攻撃するということでしたが、これは万全の策であり、失敗の恐れなどございません。私の心は実にはっきりと定まっておりますので、むざむざ曖昧な意見に従って後の禍となることが分かっているような策を取るようなことはしません。どうか陛下はこのことをよくお考えになってください」と。杜預は一か月も経たないうちにまた上表して言った。「羊祜は朝臣と多く意見が異なり、前もって群臣に広く相談せずにこっそりと内々に陛下とこの計画を練ったので、ますます反対者を増やすことになってしまいました。あらゆる物事は、その利と害をよくよく比較すべきです。今、この策は十中八九成功し、残りの一・二割も、成功しないというだけ(で大損するというわけではないの)です。反対者が、きっと失敗して国を危うくするだろうなどと言うのは、まったくあり得ないことです。彼らがそんなことを言うのは、ただこの計策が自分の言い出したことではなく、その功績が自分のものとはならないので、各々その前言を撤回することを恥じ、そのために意固地になって反対し続けているだけです。近年の朝廷では事の大小に関わらず、様々な異なる意見が蜂起するような有様です。そもそも心というものは人によって異なるとはいえ、この状況はそのような理由によるものではなく、それぞれ恩を恃みにして後の災難を考えないから、それ故に軽々しく互いに反対するのです。昔、前漢の宣帝が趙充国の上申した意見について朝廷で議論したとき、反対意見が多かったにも関わらず、後になって実際には効果があるということが分かり、諸々の議者を責め詰りましたが、朝臣たちはみな叩頭して謝罪し、それによって反対意見を抑えました。今秋以来、形勢が整い、まさに賊を討つべき機会であることがはっきりと見えてきました。もし今中止すれば、孫皓は怖れて生きるための計策を立てるでしょう。もしかしたら武昌に都を遷し、江南の諸城を徹底的に整備してその住人を遠くに移住させ、こちらからすれば城には攻め入ることができず、野には略奪するものもない状態になり、その上で呉が大船を夏口に集めれば、明年に大挙するという計は破綻することになりましょう」と。時に武帝は中書令の張華と碁を打っていたが、そこに杜預の表文がちょうど届いた。張華は碁盤を押しのけて拱手して言った。「陛下は聖明・神武であらせられ、朝廷も野も清平でかつ安寧、国は富んで兵は強く、号令は一律に行われます。呉主の孫皓は酒色に耽って驕慢でかつ暴虐、賢人や有能な者を誅殺してばかりおりますので、まさに今これを討てば、苦労せずに平定することができます」と。武帝はそこでこれを許可した。
太康元年(二八〇)正月、杜預は兵を(呉の領内の)江陵一帯に布陣させ、参軍の樊顕(はんけん)・尹林・鄧圭(とうけい)・襄陽太守の周奇らを派遣して兵を率いて長江に沿って西に上らせ、軍令を授け、十日間、度々呉の城邑を攻略させていったが、みな杜預の策の通りに上手くいった。また牙門将の管定・周旨・伍巢らを派遣して別動の襲撃部隊八百人を率いさせ、舟を浮かべて夜のうちに長江を渡らせ、そこで楽郷を急襲させたが、その際には多く旗や幟を張り、火を巴山に起こし、要害の地に出て、それによって呉賊の戦意を奪った。呉の都督の孫歆は震え恐れ、(江陵督の)伍延に書を送って言った。「北から来た晋の諸軍は、なんと長江を飛び越えて渡ってきた」と。こうして呉の男女一万人余りが降伏した。その後、周旨・伍巢らは兵を楽郷城外に伏せた。孫歆は軍を派遣して巴蜀から長江沿いに東に下ってきた王濬を防がせたが、大敗して軍を還してきた。そこで周旨らは伏兵を発して、孫歆の軍に隨ってこっそり陣中に入ったが、孫歆は気づかず、周旨らの兵はまっすぐ孫歆の居所に到達し、孫歆を捕えて帰還した。故に軍中はこのために謡って言った。「計略によって代わる代わる戦えば、一の力で万の敵に当たることができる」と。そうして進軍して江陵に近づくと、呉の江陵督の伍延は偽って降伏することを願い出たが、伍延は依然として兵を並べて城を守っていたので、杜預はその手に乗らずに攻撃して勝利した。長江の上流地域(荊北一帯)を平定すると、そこで沅水・湘水地域(荊南一帯)以南、交州・広州に至るまで、呉の州郡はみな情勢を察して晋に降伏して臣従し、印綬を送ってきたので、杜預は節を地について詔と称して彼らを慰撫した。斬首したり生け捕りにした呉の都督・監軍は合計で十四人、牙門将や郡の太守は百二十人余りに上った。また兵威によって将帥や屯兵・戍兵の家を江北に強制移住させ、江陵を中心とする南郡の故地にはそれぞれ晋の長吏(勅任官)を送り込んだので、荊州地域は粛然とし、呉人は故郷に帰るように晋に降伏してきた。
王濬は先に孫歆の首を得たと朝廷に報告して申し述べたが、杜預が後に生きたまま孫歆を洛陽に移送したので、洛陽中の人々は王濬を笑いものにした。時に諸軍は合流して会議をしていたが、そこである人が言った。「(後漢末以降の)百年来の戦乱は、まだすべて平定されたわけではありません。ただ、今は大暑に差し掛かろうとしており、ちょうど長雨が続き、疫病が流行り出しそうですので、冬を待ってから、改めて大挙すべきです」と。杜預は言った。「昔、(戦国時代の燕の将であった)楽毅は済西に拠って一戦にてかの強大な斉を併呑した。今、兵威はすでに奮っており、喩えるならば竹を割るときに数節の後までみな刃を入れるがまま割れるかのような勢いであるから、改めて再び手を入れることも無かろう」と。そして諸将に指示し、ただちに秣陵に向かわせた。行く先々の城邑は、みな抵抗せず降った。先ほどの議者はそこで書を送って先の発言を謝罪した。
呉を滅ぼして孫皓を降伏させると、杜預は軍を整えて凱旋した。その功により爵位を進めて当陽県侯とし、封邑を増やして以前のものと合わせて九千六百戸とし、子の杜耽を封じて亭侯とし、封邑は千戸とし、絹八千匹を賜った。
初め、江陵を攻めたとき、呉人は杜預が病気で顔にこぶがあるのを知り、杜預の智計を憎んで、瓠(ひさご)を犬の首に繋いで杜預になぞらえた。また、大樹に癭に似たようなものがついているのを見つけるたびに、木肌を削いで中の白い部分をあらわにさせ、そこに題して「杜預の頭」と書きつけた。江陵城を平定すると、杜預はそれらを行った者らをことごとく捕えて殺した。
呉が平定された後に鎮所に戻ると、杜預はしきりに「家は代々文官であったので、武は得意とするものではありません」と述べ、現在の官職を退くことを願い出たが、許されなかった。
杜預は『司馬法』に「天下が安寧であっても、戦を忘れるようになっては必ず危うくなる」とあるのを尤もであると思い、軍事訓練につとめる一方で、学校を修建し、長江・漢水地域は徳に懐き、政化は万里を覆った。山の蛮夷を攻め破り、屯営を要害の地にそれぞれ分けて交じり置き、態勢維持を固めた。また、(荊州に属する南陽太守として灌漑により農業生産を向上させたりなどして民に「召父」と呼ばれ慕われた前漢の)邵信臣(召信臣)のかつての業績にならい、滍水・淯水などの諸川に水門を作ってせきとめて灌漑を行い、それによって一万頃余りの原野の田地を水に浸し、それを区分けしてあぜ道に石柱を立てて刻んで境界を明らかにし、公私ともに利益を共有した。民衆は杜預を頼りにし、「杜父」と呼んだ。さらに、もともと水路はただ沔水・漢水から江陵に達するまでの千数百里のものがあるだけで、北には水路が無かった。また、巴丘湖は、沅水・湘水の交わるところであり、表裏に山川があり、実に険阻かつ堅固であるので、荊州の蛮夷が恃んで拠る所であった。そこで杜預は、楊口を開き、夏水から巴陵に達するまでの千里余り、内は長江の険要に注ぎ、外は零陵・桂陽郡の水運を通ずる水路を開いた。南土の人々はこのことを歌って言った。「後世も杜翁(杜預)に背くことはあるまい。その智略による名声、武勇による功績とがはっきりと知れ渡ったから」と。
杜預は、国家の利益となることならば何でも行った。すべて創建するときには必ず始めから終わりまでを考慮し、失敗することは少なかった。あるとき杜預の意を謗って邪魔する者が現れると、杜預は言った。「(舜の時代の)禹や后稷の功は、世を救おうと願って行われたものであったが、私の願うところもまた同様である」と。
杜預は後世に名を残すことを好み、かつて「高い崖は谷となり、深い谷は陵となる」という『詩経』小雅・十月之交にある句を口にし、石に刻んで二つの石碑を作り、自らの勲功や業績を記し、一つは万山の下に沈め、一つは峴山の上に立て、そして言った。「どうして後にそれぞれ陵・谷とはならないなどと分かろうか(万山の谷底に沈めた石碑が将来は陵の上に出て、却って峴山の上に建てた石碑が将来は谷底に沈むかもしれない)」と。
杜預は馬に跨ることができず、射撃では的を貫けなかったが、それでも大事を任されるたびに、将帥の列に身を置くこととなった。人と交流するに当たっては、恭しく礼をわきまえ、問われれば隠しだてせずに答え、人を教えて飽きることがなく、為すべきことは素早くこなし、言葉少なく慎み深かった。伐呉の功を立ててからというもの、落ち着いて特に大きな事件も早急になすべき事もなかったので、そこで経典について思索に耽り、『春秋左氏経伝集解』を著した。また、代々の注釈家の説を比べて考察して書を著し、これを『釈例』と名付けた。さらに『盟会図』『春秋長暦』を作り、みな一つの門派を形成するほどの学問を確立し、だいぶ老いてやっと完成した。また『女記讃』を著した。当時の論者は「杜預の文章の義は質朴でかつ実直である」と評し、世の人はあまり重んじなかった。ただ祕書監の摯虞(しぐ)のみは非常にほめ称えて言った。「左丘明はもともと『春秋』の注釈として『春秋左氏伝』を作ったが、その後『春秋左氏伝』はそれ自体に価値があるとして単独で世に広まった。杜預の『釈例』はもともと『春秋左氏伝』の注釈として作られたが、ただその明らかにしたことはどうしてただ『春秋左氏伝』の義のみに留まろうものか。故にやはり単独で世に広まることであろう」と。時に王済は馬の品評を得意とし、そして馬を非常に愛しており、また和嶠は財物の収集に目が無かった。杜預はいつもそれを「王済には馬癖があり、和嶠には銭癖がある」と言っていた。武帝はこれを聞いて杜預に問うた。「そなたには何癖があるのか」と。杜預は答えて言った。「私には左伝(『春秋左氏伝』)癖があります」と。
杜預は荊州の鎮所に在って、しばしば洛陽にいる貴戚や要人に物を贈った。ある人がその理由を問うと、杜預は言った。「私はただ陛下に近しい人々の讒言により害を受けることを恐れ、それを防ぐためにやっているのだ。別にそれによって利益を求めているわけではない」と。
杜預が初め荊州に在ったとき、宴を開いて集まり、醉いが回って離れで横になった。外にいる人が嘔吐の声を聞き、こっそり戸から様子を窺うと、ただ一匹の大蛇が頭を垂れて吐いているのが見えた。その話を聞いた者は、それはただならぬことだと思った。その後、杜預は徴召されて司隷校尉となり、特進の位(三公に次ぐ位)を加えられ、道行く途上、鄧県に宿ってそこで死んだ。時に六十三歳。武帝は非常に悲しみ悼み、「征南大将軍・開府儀同三司」の肩書きを追贈し、「成侯」という謚号を与えた。杜預は死ぬ前に遺言して言った。「古に合葬(妻や子孫の位牌や遺体を先に死んだ夫や先祖の廟や墓に加えること)を行わなかったのは、生死の理に明るく、夫婦も祖孫も死んでしまってはもはや同じであると見なしたからである。中古において、聖人たる周公が改めて合葬を行うように定めたのは、思うにその意図は別葬するか合葬するかにあるのではく、改めて生きている間に何をするのかが重要であるということを人々に教示するためであろう。それ以来、王公や君子たちが合葬したりしなかったりしたのは、『論語』(先進篇)で孔子が『まだ生についてすら理解できていないのに、どうして死について理解できようか』と述べているように考え、そのため各々自分がしたいように行ったからである。私がかつて尚書郎であったとき、公務で使者となり、密県の邢山に立ち寄ったことがあった。山上に塚があり、付近の農夫たちに問うと、これは(春秋時代の)鄭の大夫の祭仲の塚であると言ったり、あるいは(同じく鄭の)子産の塚であると言ったりしていたので、そのまま従者を連れて山を登ってその塚を見に行った。その塚は山の頂上に造られていたので、そこからは四方を見渡せ、連山は南北の軸に対して東北に傾き、鄭国の都であった新鄭城の方向に向いており、その大本を忘れない意志を表していた。その隧道(墓穴に通じる道)はただ奥の方だけを塞いで手前側は開けたまま塞がず、墓室に珍宝が無いことを示し、かつ墓室を深くに置かなかった。山には美石が多かったのにも関わらずそれを用いていなかったのは、きっと洧水の自然の石を集めて塚や墓室を造り、精巧を凝らさないことを尊んだからであり、そのためにその美石は世の中に流通することが無かったのであろう。君子はその塚の情緒あることを尊び、小人はそもそも手出しをする利益が無く、千年経っても破壊されずに残っているのは、実に倹の極致である。私はこの前の春に入朝し、(首陽一帯に墓地を有していた)魏の文徳郭皇后(文帝・曹丕の皇后)の一族が絶えたがために、陪陵(功臣を皇帝陵のそばに葬ること)の本来の義にのっとって、自ら上表して洛陽城の東の首陽の南に将来の墓地を構えることを願い出て許可された。そうして得た地の中に小山があり、その山上には昔の人の塚は無かった。その高く顕らかな様子はなお邢山には及ばないものの、ただ東には二帝の陵を奉じ、西には洛陽の宮殿を仰ぎ、南には伊水・洛水を見下ろし、北には(首陽山で死んだ殷の)伯夷・叔斉のゆかりの地を望み、広々と遠くを見渡せるので、情として安心できるところである。そのため、すでに墓までの道を開通して(たとえば「〇〇仟」などと)名づけて標を立て、一定の形を整えた。死の時が訪れたら、その墓にはすべて洛水の丸石を用い、隧道を南に向かって開き、その儀制はかの鄭大夫の塚にのっとり、倹をまっとうしたい。棺器・小斂(死者の衣を着替えさせること)などもすべてこの旨に合致するようにしてほしい」と。子孫はひとえにその言葉に従った。息子の杜錫(とせき)が後を嗣いだ。
杜錫は字を世嘏(せいか)といった。若くして盛んな名声があり、起家して長沙王の司馬乂の文学掾となり、何度も昇進して太子中舎人となった。性は誠実で正直であり忠誠心が激しく、しばしば(恵帝の皇太子の)愍懷太子(司馬遹(しばいつ))を諫めたが、その言葉は誠実さが過ぎて痛烈であったので、愍懷太子は杜錫を嫌った。後に愍懷太子は杜錫がいつも座っている毛織の敷物に針を固定して付けておき、それと知らずに座った杜錫は脚に針が刺さって血が流れた。他日、愍懷太子は杜錫に(からかって)問うた。「この前は何事があったのか」と。杜錫は答えた。「醉っていたので分かりません」と。愍懷太子は杜錫をなじって言った。「君は喜んで人を責めるくせに、どうして自ら過ちをなすのか」と。杜錫は後に衛将軍府の長史に転任した。趙王の司馬倫が帝位を簒奪すると、杜錫は治書侍御史に任じられた。司馬倫の側近の孫秀が杜錫に交流を求めたが、杜錫はそれを拒んだので、孫秀は杜錫を恨んだものの、その名声が高いことを憚り、敢えて害を与えることはしなかった。司馬倫が敗れて恵帝が復位すると、杜錫は尚書吏部郎・城陽太守に昇進することになったが就任せず、そこで尚書左丞に昇進することとなった。四十八歳で死に、散騎常侍の官位を追贈された。子の杜乂が後を嗣いだが、杜乂については外戚伝に記してある。

原文

史臣曰。泰始之際、人祇呈貺、羊公起平吳之策、其見天地之心焉。昔齊有黔夫、燕人祭北門之鬼。趙有李牧、秦王罷東并之勢。桑枝不競、瓜潤空慙。垂大信於南服、傾吳人於漢渚、江衢如砥、襁袂同歸。而在乎成功弗居、幅巾窮巷、落落焉其有風飇者也。杜預不有生知、用之則習、振長策而攻取、兼儒風而轉戰。孔門稱四、則仰止其三、春秋有五、而獨擅其一、不其優歟。夫三年之喪、云無貴賤。輕纖奪於在位、可以興嗟。既葬釋於儲君、何其斯酷。徇以苟合、不求其正、以當代之元良、爲諸侯之庶子。檀弓習於變禮者也、杜預其有焉。
贊曰。漢池西險、吳江左迴。羊公恩信、百萬歸來。昔之誓旅、懷經罕素。元凱文場、稱爲武庫。

訓読

史臣曰く。泰始の際、人祇(た)だ呈貺するのみなるも、羊公 平吳の策を起(た)つるは、其れ天地の心を見るかな。昔、齊に黔夫有り、燕人は北門の鬼を祭る。趙に李牧有り、秦王は東并の勢を罷む。桑枝競わず、瓜潤いて空(おお)いに慙(は)ず〔一〕。大信を南服に垂れ、吳人を漢渚に傾け、江衢は砥の如く、襁袂は同に歸す。而して成功に在りて居らず、幅巾して巷に窮まらんとし、落落焉たること其れ風飇有る者なり。杜預は生知有らず、之を用いて則ち習い、長策を振るいて攻取し、儒風を兼ねて轉戰す。孔門は四を稱すも、則ち仰ぐこと其の三に止まり、春秋に五有るも、而れども獨り其の一を擅(もっぱ)らにするは、其れ優ならざらんや。夫れ三年の喪、貴賤無しと云う。輕く纖して在位より奪うこと、以て嗟を興すべし。既に葬して儲君を釋くこと、何ぞ其れ斯(か)くも酷なるや。徇(したが)うに苟合を以てし、其の正を求めず、當代の元良を以て、諸侯の庶子と爲す。檀弓の變禮に習える者とは、杜預其れ焉(これ)たり。
贊に曰く。漢池は西のかた險にして、吳江は左のかた迴る。羊公の恩信、百萬歸來す。昔の誓旅、經を懷(ふところ)にすること罕素なり。元凱は文場にあり、稱して武庫と爲す。

〔一〕前漢の賈誼『新書』退讓などにこの話が載っている。戦国時代に梁国と楚国の境において、瓜の出来が良くない楚の亭が梁国側の出来が良いのを妬んで夜にこっそり出向いて荒らしたのに対し、梁国側は却って出来の良い瓜を楚側に贈ることで報い、それを知った楚王が恥じて、それ以来、互いに友好国となったという。羊祜と陸抗の関係の比喩。

現代語訳

史臣の評。泰始年間、人々はただ書信や詩文を作って送り合って(交友して)いただけであったが、その中にあって羊公(羊祜)が平呉の策を立てて国に貢献したのは、「進んで事をなすによろしい」という復卦のように、無窮の天地の心が見えたのであろう。昔、(戦国時代の)斉に黔夫という官吏がいて、彼の管轄地に対峙していた燕人は、斉の北門の鬼を祭って侵略されないように福を祈った。(同じく戦国時代の)趙に李牧という名将がいて、彼がいたから秦王は趙を併呑しようとするのをやめた。(羊祜はまさに黔夫や李牧のような者であり、その統治下の荊州では)桑に余計な分枝が無く(農産が上手くいき)、まさに(戦国時代に)梁国で瓜がよく実り、それが原因で起こった争いに関して楚国が大いに恥じ、やがて互いに友好を結んだという故事のようであった。羊祜は大いなる信義を南方に施し、呉人を懐けて多く(晋領の)漢水地域に降伏しに来させることに成功し、『詩』小雅・大東に「周への道は砥のように平らかである」とあるように(晋領の)長江地域への道は平らかで開かれており、親子一緒に帰服する者もあった。しかし、偉大な功績がありながらも羊祜はそれを誇らずその地位に安んじず、幅巾をつけて巷で質素に暮らそうとし、その大らかさは大風のようである。杜預は生まれながらにして物の道理を理解していたわけではなかったが、智慧を用いて様々なことに習熟し、長い鞭を振るって敵地を攻め取り、儒者の風格を兼ねつつ転戦した。孔子の門下は四科(徳行、言語、政事、文学の四つの項目)を称えたが、杜預はそのうちの三つだけを尊重し、また『春秋』の学問には五派があったが、杜預がそのうち『春秋左氏伝』だけを専ら究めたのは、優れていないということがあろうか。ところで、三年の喪に服すに当たっては貴賤の区別は無いと『春秋左氏伝』には記されている。それはたとえ王がそれを遂げることが難しいとしても、諸侯は満期まで続けねばならないという趣旨のものであり、ゆえに、皇后が崩御したときに皇帝は軽く短期間だけ喪服を着るのみで、その後すぐに政務に復帰するようにしたのは感嘆すべきことである。しかし、杜預は皇太子だけは三年の喪に服すべきだとしたが、これは何と酷なことであろうか。杜預は他人にへつらって迎合し、その正しさを求めず、当代の皇太子をまるで諸侯の庶子のように扱った。『礼記』檀弓上下篇に記載されているような、特殊な礼を心得ている者というのは、きっと杜預の如き者を言うのであろうよ。
賛。漢中・仇池の地域は西にあって険阻であり、呉や長江(の中流・下流地域)は東にめぐっている。羊公(羊祜)の恩徳や信義は、その地域の百万の人々を帰服させた。昔は出軍して誓を立てるに当たり、経典を懐に持つことは非常にまれであった。ただ、元凱(杜預)は文壇にありながら、「武庫」と称された。