いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第五巻_陳騫(子輿)・裴秀(子頠・従弟楷・楷子憲)

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。
目録では「陳騫(子輿)・裴秀(子頠・従弟楷・楷子憲)」となっています。ところが『晋書斠注』で指摘されているように、裴憲伝の後ろに裴楷伝の続きとして裴楷の兄弟たちの附伝が見えるなど、裴憲伝もまた、裴楷伝の一部であると見なすことができます。そこで、今回は裴楷伝・裴憲伝およびその他の諸附伝を分けずに一まとめにしています。

陳騫 子輿

原文

陳騫、臨淮東陽人也。父矯、魏司徒。矯本廣陵劉氏、爲外祖陳氏所養、因而改焉。騫沈厚有智謀。初、矯爲尚書令、侍中劉曄見幸於魏明帝、譖矯專權。矯憂懼、以問騫。騫曰「主上明聖、大人大臣、今若不合意、不過不作公耳。」後帝意果釋。騫尚少、爲夏侯玄所侮、意色自若、玄以此異之。
起家尚書郎、遷中山・安平太守、並著稱績。徵爲相國司馬・長史・御史中丞、遷尚書、封安國亭侯。蜀賊寇隴右、以尚書持節行征蜀將軍、破賊而還。會諸葛誕之亂、復以尚書行安東將軍。壽春平、拜使持節・都督淮北諸軍事・安東將軍、進爵廣陵侯。轉都督豫州諸軍事・豫州刺史、持節・將軍如故。又轉都督江南諸軍事、徙都督荊州諸軍事・征南大將軍、封郯侯。
武帝受禪、以佐命之勳、進車騎將軍、封高平郡公、遷侍中・大將軍、出爲都督揚州諸軍事、餘如故、假黃鉞。攻拔吳枳里城、破涂中屯戍、賜騫兄子悝爵關中侯。
咸寧初、遷太尉、轉大司馬。騫因入朝、言於帝曰「胡烈・牽弘皆勇而無謀、強於自用、非綏邊之材、將爲國恥。願陛下詳之。」時弘爲揚州刺史、不承順騫命、帝以爲不協相構、於是徵弘、既至、尋復以爲涼州刺史。騫竊歎息、以爲必敗。二人後果失羌戎之和、皆被寇喪沒、征討連歲、僅而得定、帝乃悔之。
騫少有度量、含垢匿瑕、所在有績。與賈充・石苞・裴秀等俱爲心膂、而騫智度過之、充等亦自以爲不及也。累處方任、爲士庶所懷。
既位極人臣、年踰致仕、思欲退身。咸寧三年、求入朝、因乞骸骨。賜衮冕之服、詔曰「騫元勳舊德、統乂東夏、方弘遠績、以一吳會、而所苦未除、每表懇切、重勞以方事。今聽留京城、以前太尉府爲大司馬府、增置祭酒二人、帳下司馬・官騎・大1.(軍)〔車〕・鼓吹皆如前、親兵百人、廚田十頃、廚園五十畝、廚士十人、器物經用皆留給焉。又給乘輿輦、出入殿中加鼓吹、如漢蕭何故事。」騫累稱疾辭位、詔曰「騫履德論道、朕所諮詢。方賴謀猷、以弘庶績、宜時視事。可遣散騎常侍諭意。」騫輒歸第、詔又遣侍中敦諭還府、遂固請、許之、位同保傅、在三司之上、賜以几杖、不朝、安車駟馬、以高平公還第。帝以其勳舊耆老、禮之甚重。又以騫有疾、聽乘輿上殿。
騫素無謇諤之風、然與帝語傲、及見皇太子加敬、時人以爲諂。弟稚與其子輿忿爭、遂說騫子女穢行、騫表徙弟。以此獲譏於世。
元康二年薨。年八十一。加以衮斂、贈太傅、諡曰武。及葬、帝於大司馬門臨喪、望柩流涕、禮依大司馬石苞故事。子輿嗣爵。

1.『晋書斠注』に従い、「軍」を「車」に改める。

訓読

陳騫(ちんけん)は、臨淮東陽の人なり。父の矯(きょう)は、魏の司徒なり。矯、本と廣陵の劉氏なるも、外祖の陳氏の養う所と爲れば、因りて焉に改む。騫、沈厚にして智謀有り。初め、矯の尚書令たるや、侍中の劉曄(りゅうよう)、魏明帝に幸せられ、矯は權を專らにすと譖る。矯、憂懼し、以て騫に問う。騫曰く「主上は明聖にして、大人は大臣たれば、今、若し意に合わずんば、公と作さざるに過ぎざるのみ」と。後に帝の意、果たして釋く。騫、尚お少くして、夏侯玄の侮る所と爲るも、意色自若たれば、玄、此を以て之を異とす。
起家して尚書郎たり、中山・安平太守に遷り、並びに稱績を著す。徵されて相國司馬・長史・御史中丞と爲り、尚書に遷り、安國亭侯に封ぜらる。蜀賊の隴右に寇するや、尚書を以て節を持ちて征蜀將軍を行し、賊を破りて還る。諸葛誕の亂に會うや、復た尚書を以て安東將軍を行す。壽春の平ぐや、使持節・都督淮北諸軍事・安東將軍を拜し、爵を廣陵侯に進めらる。都督豫州諸軍事・豫州刺史に轉じ、持節・將軍は故の如し。又た都督江南諸軍事に轉じ、都督荊州諸軍事・征南大將軍に徙り、郯侯に封ぜらる。
武帝の禪を受くるや、佐命の勳を以て、車騎將軍に進められ〔一〕、高平郡公に封ぜられ、侍中・大將軍に遷り、出でて都督揚州諸軍事と爲り、餘は故の如く、黃鉞を假せらる〔二〕。攻めて吳の枳里城を拔き、涂中の屯戍を破りたれば、騫の兄の子の悝(かい)に爵關中侯を賜う。
咸寧の初め、太尉に遷り〔三〕、大司馬に轉ず。騫、入朝するに因り、帝に言いて曰く「胡烈・牽弘は皆な勇なるも而れども謀無く、自ら用うるに強め、綏邊の材に非ざれば、將に國の恥と爲らんとす。願わくは陛下、之を詳かにせられんことを」と。時に弘は揚州刺史たり、騫の命を承順せざれば、帝、協わずして相い構えりと以爲い、是に於いて弘を徵し、既に至るや、尋いで復た以て涼州刺史と爲す。騫、竊かに歎息し、以爲えらく、必ず敗れん、と。二人、後に果たして羌戎の和を失い、皆な寇に喪沒せられ、征討すること連歲、僅かにして定むるを得れば、帝、乃ち之を悔ゆ〔四〕。
騫、少くして度量有り、垢を含み瑕を匿し、所在に績有り。賈充・石苞・裴秀等と俱に心膂と爲り、而して騫は智度之を過ぎたれば、充等も亦た自ら以て及ばずと爲すなり。累りに方任に處り、士庶の懷く所と爲る。
既に位は人臣を極め、年は致仕を踰えたれば、思いて身を退かんと欲す。咸寧三年、入朝せんことを求め、因りて骸骨を乞う。衮冕の服を賜い、詔して曰く「騫は元勳舊德にして、東夏を統乂し、方に遠績を弘くし、以て吳會を一にせんとするも、而れども苦しむ所は未だ除かれず、每に表するに懇切にして、勞を重ぬるに方事を以てす。今、京城に留まるを聽し、前の太尉府を以て大司馬府と爲し、祭酒二人を增置し、帳下司馬・官騎・大車・鼓吹は皆な前の如くし、親兵は百人、廚田は十頃、廚園は五十畝、廚士は十人とし、器物の經用は皆な焉を留給せよ。又た乘輿・輦を給し、殿中に出入するに鼓吹を加うること、漢の蕭何の故事の如くせよ」と。騫、累りに疾と稱して位を辭したれば、詔して曰く「騫、德を履み道を論ずれば、朕の諮詢する所なり。方に謀猷を賴み、以て庶績を弘くせんとすれば、宜しく時に事を視るべし。散騎常侍を遣わして意を諭さしむべし」と。騫の輒ち第に歸るや、詔して又た侍中を遣わして敦く府に還らんことを諭さしむるも、遂に固く請いたれば、之を許し、位は保傅に同じくし、三司の上に在らしめ、賜うに几杖・不朝・安車駟馬を以てし、高平公を以て第に還らしむ。帝、其の勳舊耆老なるを以て、之を禮すること甚だ重し。又た騫に疾有るを以て、輿に乘りて上殿するを聽す。
騫、素より謇諤の風無く、然して帝と語るに傲たるも、皇太子に見ゆるに及びて敬を加うれば、時人、以て諂えりと爲す。弟の稚、其の子の輿(よ)と忿爭し、遂に騫の子女の穢行を說きたれば、騫、表して弟を徙す。此を以て世に譏りを獲たり。
元康二年〔五〕、薨す。年は八十一。加うるに衮斂を以てし、太傅を贈り、諡して武と曰う。葬するに及び、帝、大司馬門に於いて喪に臨み、柩を望みて流涕し、禮は大司馬の石苞の故事に依る。子の輿、爵を嗣ぐ。

〔一〕『晋書斠注』等でも指摘されている通り、陳騫が車騎将軍となったのは魏晋革命より前の出来事であり、陳騫伝の記述は正確さを欠く。
〔二〕このときの陳騫の官職は「仮黄鉞・使持節・都督揚州諸軍事・大将軍・侍中・高平郡公」となる。
〔三〕『晋書斠注』等でも指摘されている通り、『晋書』巻三・世祖武帝紀では、陳騫が太尉となったのは泰始十年九月のことであり、その後、呉の枳里城を抜いたとあり、陳騫伝と時系列が異なる。
〔四〕『晋書斠注』等でも指摘されている通り、胡烈・牽弘らはすでに泰始年間に死んでいるので、この記事を咸寧年間のこととして配列しているのは誤りである。
〔五〕『晋書斠注』等でも指摘されている通り、武帝紀によれば陳騫は太康二年に薨去したことになっており、記述に食い違いがある。

現代語訳

陳騫(ちんけん)は、臨淮郡・東陽の人である。父の陳矯(ちんきょう)は、魏の司徒となった。陳矯は、もともと広陵郡の劉氏であったが、外祖父の陳氏に養育されたので、そこで氏を陳に改めた。陳騫は、落ち着きがあって温厚で、智謀があった。初め、陳矯が尚書令であったとき、侍中の劉曄(りゅうよう)が魏の明帝に重用されていたが、劉曜は、陳矯が権勢を専らにしていると讒言した。陳矯は憂え恐れ、そのことを陳騫に相談した。陳騫は言った。「主上は聡明であられ、大人(父上)は大臣でありますので、もし主上の意にそぐわないことがあっても、せいぜい三公に任じないという程度の待遇がなされるだけでしょう」と。後に果たして明帝のわだかまりも解けた。陳騫は、まだ若いときに夏侯玄に侮辱されたが、それでも泰然自若とした様子だったので、夏侯玄はこのことによって陳騫を高く評価した。
陳騫は起家して尚書郎に任じられ、中山太守、ついで安平太守に昇進し、いずれも称賛されるほどの治績を上げて名声を博した。徴召されて(司馬昭の)相国府の司馬、相国府の長史、御史中丞を歴任し、尚書に昇進し、安国亭侯に封ぜられた。蜀賊が隴西地域に侵攻すると、尚書の身でありながら節を授けられて一時的に征蜀将軍を代行し、賊を破って帰還した。諸葛誕の乱が起こると、また尚書の身でありながら一時的に安東将軍を代行した。寿春が平定されると、「使持節・都督淮北諸軍事・安東将軍」の官職を拝命し、爵位を広陵侯に進められた。やがて「都督豫州諸軍事・豫州刺史」に転任し、持節や将軍の地位は元のままとされた。さらに都督江南諸軍事に転任し、ついで「都督荊州諸軍事・征南大将軍」に転任し、郯侯に封ぜられた。
武帝(司馬炎)が禅譲を受けると、その創業を補佐した勲功により、位を車騎将軍に進められ、高平郡公に封ぜられ、さらに「侍中・大将軍」に昇進し、また地方に出て都督揚州諸軍事となり、その他の地位は元のままとされ、黄鉞を授けられた。そして陳騫は呉の枳里城を攻め破り、涂中の地の屯戍(防衛施設)を破ったので、朝廷は陳騫の兄の子の陳悝(ちんかい)に関中侯の爵位を賜った。
咸寧年間の初め、陳騫は太尉に昇進し、大司馬に転任した。陳騫は入朝した機会を利用し、武帝に言った。「胡烈・牽弘はいずれも勇敢ではありますが智謀がなく、独善的で人の意見を聞かず、辺境を安撫する才能を有する者ではありませんので、やがて国の恥となるようなことをしでかすでしょう。陛下よどうか、そのことをご理解くださいますようお願い申し上げます」と。時に牽弘は揚州刺史であり、(都督揚州諸軍事である)陳騫の命に素直に従っていなかったので、武帝は、反りが合わないために陳騫は二人を陥れようとしているのだと思い、そこで牽弘を徴召し、都に到着するや否や、また涼州刺史に任じた。陳騫は、ひそかに嘆息し、必ず敗れるだろうと思った。二人は、後に果たして羌族たちとの和を失い、二人とも賊に敗れて戦死し、何年にもわたって征討が続けられ、何とか平定できたという有様だったので、武帝はそこで陳騫の言葉を聞き容れなったことを後悔した。
陳騫は、若い頃から度量があり、恥辱を耐え忍ぶことができ、至る所で優れた治績を上げた。賈充・石苞・裴秀らと一緒に武帝の中心的な補佐役となったが、陳騫の智謀や度量はその中でも群を抜いていたので、賈充らもまた自分は陳騫には及ばないと思っていた。陳騫は何度も方鎮としての任に就いていたが、士人にも庶民にも懐かれた。
位は人臣を極め、致仕の年齢を超えたので、陳騫は身を退こうと思った。咸寧三年(二七七)、入朝したいと申し出、その折に引退したいと申請した。武帝は袞衣と冕の服飾を下賜し、詔を下して言った。「陳騫は国の元勲でかつ徳望高き老臣であり、中国の東方を統治し、まさに遠大なる功績をおおいなるものにし、そうして呉や会稽の地(すなわち孫呉)を統一して併合しようとしてきたが、しかし苦難の種は除かれず、いつも懇切な言葉で上表し、地方のことで苦労を重ねてきた。今、京城(洛陽城)に留まることを許し、前の太尉府を大司馬府とし、(属官として)祭酒二人を増設し、帳下司馬・官騎・大車・鼓吹などを備えることに関しては、いずれも以前と同じようにし、親兵は百人、厨田は十頃、厨園は五十畝、厨士は十人とし、器物などの日常的な諸経費はみな引き続き給付せよ。さらに乗輿および輦を給付し、殿中に出入する際に鼓吹を加えるのは、漢の蕭何の故事のようにせよ」と。しかし、陳騫が何度も病と称して位を辞退したので、武帝は詔を下して言った。「陳騫は、徳を履み行い、道理を論じ明らかにできる人物であるので、朕の良き諮問相手である。今後もその謀略を頼りにし、それによって諸々の事績を大いなるものにしたいので、適時、その役目を担うべきである。散騎常侍を派遣して朕の意を伝えさせよ」と。陳騫がまもなく(大司馬府ではなく)自分の邸宅に帰ってしまうと、武帝は詔を下し、また侍中を派遣して懇ろに大司馬府に戻るよう説得させたが、陳騫がそのまま引退することを固く請うたので、武帝はそれを許し、陳騫の位を保傅(太保や太傅などの上公)と同等のものとし、三公の上に据え、几と杖、朝覲せずともよい権限、安車とそれを引くための四頭の馬を賜い、高平公の身分で邸宅に帰らせた。武帝は、陳騫が功績のある旧臣の長老であるからと、非常に丁重に礼遇した。さらに、陳騫が病をわずらっているからと、輿に乗って上殿することを許可した。
陳騫は、もともと直言を呈するような気風は無く、武帝と語る際には尊大な態度を取ったが、皇太子に謁見する際には恭順な姿勢を取ったので、当時の人々は、諂っているのだと考えた。陳騫の弟の陳稚は、陳騫の子の陳輿(ちんよ)と怒り争い合い、そこで陳騫の子女のみだらな行いについて説き及んだので、陳騫は上表して弟を他所に移住させた。そのことで陳騫は世の非難を浴びた。
元康二年(二九二)、陳騫は薨去した。八十一歳であった。朝廷は陳騫に袞斂の礼(優遇して袞衣と一緒に埋葬するという礼)を加え、太傅の位を追贈し、「武公」という諡号を与えた。葬礼の際、は大司馬門に自ら赴いて遺体に臨み、柩を見て涙を流し、その礼は大司馬の石苞の故事に依拠した。子の陳輿が爵位を嗣いだ。

原文

輿、字顯初。拜散騎侍郎・洛陽令、遷黃門侍郎、歷將・校・左軍、大司農・侍中。坐與叔父不睦、出爲河內太守。輿雖無檢正、而有力致。尋卒。
子植字弘先嗣、官至散騎常侍。卒、子粹嗣、永嘉中遇害。孝武帝以騫玄孫襲爵。卒、弟子浩之嗣。宋受禪、國除。

訓読

輿(よ)、字は顯初。散騎侍郎・洛陽令を拜し、黃門侍郎に遷り、將・校・左軍を歷、大司農・侍中たり。叔父と睦まざるに坐し、出でて河內太守と爲る。輿、檢正無しと雖も、而れども力致有り。尋いで卒す。
子の植、字は弘先、嗣ぎ、官は散騎常侍に至る。卒するや、子の粹、嗣ぐも、永嘉中に害に遇う。孝武帝、騫の玄孫を以て爵を襲がしむ。卒するや、弟の子の浩之、嗣ぐ。宋の禪を受くるや、國は除かる。

現代語訳

陳輿(ちんよ)は、字を顕初といった。散騎侍郎・洛陽令に任じられ、黄門侍郎に昇進し、中郎将・校尉・左軍将軍を歴任し、大司農・侍中となった。叔父(陳稚)と仲良くしなかったというかどで、地方に出されて河内太守に任じられた。陳輿は、端正な操行が無かったとはいえ、父母に対してできる限りの力を尽くし、主君に対して献身する姿勢があった。その後、まもなく死んだ。
陳輿の子の陳植は、字を弘先といい、爵位を嗣ぎ、官は散騎常侍にまで上った。陳植が死ぬと、その子の陳粋が爵位を嗣いだが、永嘉年間に殺されてしまった。(東晋の)孝武帝は、陳騫の玄孫に爵位を嗣がせた。その者が死ぬと、その弟の子の陳浩之が爵位を嗣いだ。宋が禅譲を受けると、国は除かれた。

裴秀 子頠・従弟楷・楷子憲

原文

裴秀、字季彥、河東聞喜人也。祖茂、漢尚書令。父潛、魏尚書令。秀少好學、有風操、八歲能屬文。叔父徽有盛名、賓客甚眾。秀年十餘歲、有詣徽者、出則過秀。然秀母賤、嫡母宣氏不之禮、嘗使進饌於客、見者皆爲之起。秀母曰「微賤如此、當應爲小兒故也。」宣氏知之、後遂止。時人爲之語曰「後進領袖有裴秀。」
渡遼將軍毋丘儉嘗薦秀於大將軍曹爽曰「生而岐嶷、長蹈自然、玄靜守真、性入道奧、博學強記、無文不該、孝友著於鄉黨、高聲聞於遠近。誠宜弼佐謨明、助和鼎味、毗贊大府、光昭盛化。非徒子奇・甘羅之儔、兼包顏・冉・游・夏之美。」爽乃辟爲掾、襲父爵清陽亭侯、遷黃門侍郎。爽誅、以故吏免。頃之、爲廷尉正、歷文帝安東及衞將軍司馬、軍國之政、多見信納。遷散騎常侍。
帝之討諸葛誕也、秀與尚書僕射陳泰・黃門侍郎鍾會以行臺從、豫參謀略。及誕平、轉尚書、進封魯陽鄉侯、增邑千戶。常道鄉公立、以豫議定策、進爵縣侯、增邑七百戶、遷尚書僕射。魏咸熙初、釐革憲司。時荀顗定禮儀、賈充正法律、而秀改官制焉。秀議五等之爵、自騎督已上六百餘人皆封。於是秀封濟川侯、地方六十里、邑千四百戶、以高苑縣濟川墟爲侯國。
初、文帝未定嗣、而屬意舞陽侯攸。武帝懼不得立、問秀曰「人有相否。」因以奇表示之。秀後言於文帝曰「中撫軍人望既茂、天表如此、固非人臣之相也。」由是世子乃定。
武帝既即王位、拜尚書令・右光祿大夫、與御史大夫王沉・衞將軍賈充俱開府、加給事中。及帝受禪、加左光祿大夫、封鉅鹿郡公、邑三千戶。
時安遠護軍郝詡與故人書云「與尚書令裴秀相知、望其爲益。」有司奏免秀官、詔曰「不能使人之不加諸我、此古人所難。交關人事、詡之罪耳。豈尚書令能防乎。其勿有所問。」司隸校尉李憙復上言、騎都尉劉尚爲尚書令裴秀占官稻田、求禁止秀。詔又以秀幹翼朝政、有勳績於王室、不可以小疵掩大德、使推正尚罪而解秀禁止焉。
久之、詔曰「夫三司之任、以翼宣皇極、弼成王事者也。故經國論道、賴之明喆、苟非其人、官不虛備。尚書令・左光祿大夫裴秀、雅量弘博、思心通遠、先帝登庸、贊事前朝。朕受明命、光佐大業、勳德茂著、配蹤元凱。宜正位居體、以康庶績。其以秀爲司空。」
秀儒學洽聞、且留心政事、當禪代之際、總納言之要、其所裁當、禮無違者。又以職在地官、以禹貢山川地名、從來久遠、多有變易、後世說者或強牽引、漸以闇昧、於是甄擿舊文、疑者則闕、古有名而今無者、皆隨事注列、作『禹貢地域圖』十八篇、奏之、藏於祕府。其序曰

圖書之設、由來尚矣。自古立象垂制、而賴其用。三代置其官、國史掌厥職。暨漢屠咸陽、丞相蕭何盡收秦之圖籍。今祕書既無古之地圖、又無蕭何所得、惟有漢氏輿地及括地諸雜圖、各不設分率、又不考正準望、亦不備載名山・大川。雖有麤形、皆不精審、不可依據。或荒外迂誕之言、不合事實、於義無取。大晉龍興、混一六合、以清宇宙、始於庸蜀、冞入其岨。文皇帝乃命有司、撰訪吳蜀地圖。蜀土既定、六軍所經、地域遠近、山川險易、征路迂直、校驗圖記、罔或有差。今上考禹貢山海川流、原隰陂澤、古之九州、及今之十六州・郡國・縣邑疆界・鄉陬、及古國盟會舊名、水陸徑路、爲地圖十八篇。
制圖之體有六焉。一曰分率、所以辨廣輪之度也。二曰準望、所以正彼此之體也。三曰道里、所以定所由之數也。四曰高下、五曰方邪、六曰迂直、此三者各因地而制宜、所以校夷險之異也。有圖象而無分率、則無以審遠近之差。有分率而無準望、雖得之於一隅、必失之於他方。有準望而無道里、則施於山海絕隔之地、不能以相通。有道里而無高下・方邪・迂直之校、則徑路之數必與遠近之實相違、失準望之正矣。故以此六者參而考之。然遠近之實定於分率、彼此之實1.〔定於準望、徑路之實〕定於道里、度數之實定於高下・方邪・迂直之算。故雖有峻山・鉅海之隔、絕域・殊方之迥、登降・詭曲之因、皆可得舉而定者。準望之法既正、則曲直遠近無所隱其形也。

秀創制朝儀、廣陳刑政、朝廷多遵用之、以爲故事。在位四載、爲當世名公。服寒食散、當飲熱酒而飲冷酒、泰始七年薨。時年四十八。詔曰「司空經德履哲、體蹈儒雅、佐命翼世、勳業弘茂。方將宣2.(獻)〔猷〕敷制、爲世宗範、不幸薨殂、朕甚痛之。其賜祕器・朝服一具・衣一襲・錢三十萬・布百匹。」諡曰元。
初、秀以尚書三十六曹統事準例不明、宜使諸卿任職、未及奏而薨。其友人料其書記、得表草言平吳之事、其詞曰「孫晧酷虐、不及聖明御世兼弱攻昧、使遺子孫、將遂不能臣;時有否泰、非萬安之勢也。臣昔雖已屢言、未有成旨。今既疾篤不起、謹重尸啓。願陛下時共施用。」乃封以上聞。詔報曰「司空薨、痛悼不能去心。又得表草、雖在危困、不忘王室、盡忠憂國。省益傷切、輒當與諸賢共論也。」
咸寧初、與石苞等並爲王公、配享廟庭。有二子濬・頠。濬嗣位、至散騎常侍、早卒。濬庶子憬不惠、別封高陽亭侯、以濬少弟頠嗣。

1.『晋書斠注』も指摘する通り、『藝文類聚』に引かれた該当箇所の文章と比べると、現行『晋書』では「定於準望、徑路之實」の八文字が抜けている。文脈上においても、この八文字が無いとおかしいので、ここではそれを補った。
2.「宣獻敷制」では文脈上、意味が通じないが、「武英殿二十四史本」等では「宣猷敷制」に作る。「獻」と「猷」は字形が近く、伝写の誤りの可能性があり、また「宣猷」は『詩』に由来する熟語であり、古くからしばしば用いられ、該当文においても意味が通じるので、今回はこちらで訳出する。

訓読

裴秀、字は季彥、河東聞喜の人なり。祖の茂は、漢の尚書令たり。父の潛、魏の尚書令たり。秀は少くして學を好み、風操有り、八歲にして能く文を屬る。叔父の徽(き)は盛名有り、賓客は甚だ眾し。秀、年十餘歲なるに、徽に詣る者有り、出ずるや則ち秀を過る。然るに秀の母は賤ければ、嫡母の宣氏、之に禮せず、嘗て饌を客に進めしむるや、見る者は皆な之が爲に起つ。秀の母曰く「微賤なること此くの如きも、當に應に小兒の爲なるが故なり」と。宣氏、之を知り、後に遂に止む。時人、之が爲に語りて曰く「後進の領袖、裴秀有り」と。
渡遼將軍の毋丘儉(ぶきゅうけん)、嘗て秀を大將軍の曹爽に薦めて曰く「生まれながらにして岐嶷たり、長じて自然を蹈み、玄靜にして真を守り、性は道奧に入り、博學強記にして、文として該ねざるは無く、孝友は鄉黨に著われ、高聲は遠近に聞こゆ。誠に宜しく謨明を弼佐し、鼎味を助和し、大府を毗贊し、盛化を光昭せしむべし。徒だに子奇・甘羅の儔なるのみに非ず、兼ねて顏・冉・游・夏の美を包めり」と。爽、乃ち辟して掾と爲し、父の爵の清陽亭侯を襲い、黃門侍郎に遷る。爽の誅せらるるや、故吏を以て免ぜらる。之を頃くして、廷尉正と爲り、文帝の安東及び衞將軍司馬を歷、軍國の政、多く信納せらる。散騎常侍に遷る。
帝の諸葛誕を討つや、秀、尚書僕射の陳泰・黃門侍郎の鍾會と與に行臺を以て從い、謀略に豫參す。誕の平ぐに及び、尚書に轉じ、封を魯陽鄉侯に進められ、邑を增すこと千戶。常道鄉公の立つや、議に豫かりて策を定めしを以て、爵を縣侯に進められ、邑を增すこと七百戶、尚書僕射に遷る。魏の咸熙の初め、憲司を釐革す。時に荀顗(じゅんぎ)は禮儀を定め、賈充は法律を正し、而して秀は官制を改む。秀、五等の爵を議し、騎督より已上の六百餘人、皆な封ぜらる。是に於いて秀、濟川侯に封ぜられ、地は方六十里、邑は千四百戶、高苑縣の濟川墟を以て侯國と爲す。
初め、文帝は未だ嗣を定めず、而して意を舞陽侯攸(ゆう)に屬す。武帝、立つを得ざるを懼れ、秀に問いて曰く「人に相い否むもの有り」と。因りて奇表を以て之に示す。秀、後に文帝に言いて曰く「中撫軍の人望は既に茂んにして、天表なること此くの如く、固より人臣の相に非ざるなり」と。是に由りて世子、乃ち定まる。
武帝の既に王位に即くや、尚書令・右光祿大夫を拜し、御史大夫の王沉・衞將軍の賈充と俱に開府し、給事中を加えらる。帝の受禪するに及び、左光祿大夫を加えられ、鉅鹿郡公に封ぜられ、邑は三千戶。
時に安遠護軍の郝詡(かくく)、故人に書を與えて云く「尚書令の裴秀と相い知れば、其の益と爲らんことを望む」と。有司、秀の官を免ぜんことを奏するも、詔して曰く「人をして諸を我に加えしめざること能わざるは、此れ古人の難しとする所なり。人事に交關するは、詡の罪なるのみ。豈に尚書令、能く防がんや。其れ問う所有る勿かれ」と。司隸校尉の李憙(りき)、復た、騎都尉の劉尚は尚書令の裴秀の爲に官の稻田を占すと上言し、秀を禁止せんと求む。詔して又た、秀は朝政を幹翼し、王室に勳績有れば、小疵を以て大德を掩うべからざるを以て、尚の罪を推正して秀の禁止を解かしむ。
之を久しくして、詔して曰く「夫れ三司の任、以て皇極を翼宣し、王事を弼成する者なり。故に國を經め道を論ずるに、之を明喆に賴るも、苟くも其の人に非ずんば、官は虛備せず。尚書令・左光祿大夫の裴秀、雅量は弘博、思心は通遠、先帝、登庸し、前朝に贊事す。朕の明命を受くるや、光く大業を佐け、勳德の茂著なること、元凱に配蹤す。宜しく正位して體に居り、以て庶績を康んずべし。其れ秀を以て司空と爲さん」と。
秀、儒學洽聞にして、且つ心を政事に留め、禪代の際に當たり、納言の要を總べ、其の裁當する所、禮に違う者無し。又た職の地官に在るを以て、禹貢の山川の地名、從來久遠にして、多く變易有り、後世の說者、或いは強いて牽引し、漸く以て闇昧たるを以て、是に於いて舊文を甄擿し、疑わしきは則ち闕き、古に名有るも而れども今無き者は、皆な隨事注列し、『禹貢地域圖』十八篇を作り、之を奏し、祕府に藏す。其の序に曰く、

圖書の設くるは、由來尚し。古より象を立て制を垂れ、而して其の用に賴る。三代、其の官を置き、國史、厥の職を掌る。漢の咸陽を屠るに暨び、丞相の蕭何は盡く秦の圖籍を收む。今、祕書には既に古の地圖は無く、又た蕭何の得し所も無く、惟だ漢氏の輿地及び括地の諸雜圖有るのみなるも、各々分率を設けず、又た準望を考正せず、亦た名山・大川を備載せず。麤形有りと雖も、皆な精審ならざれば、依據すべからず。或いは荒外迂誕の言にして、事實に合せざれば、義に於いて取る無し。大晉の龍興し、六合を混一し、以て宇宙を清むるは、庸蜀に始まり、冞(ふか)く其の岨に入る。文皇帝、乃ち有司に命じ、吳蜀を訪うの地圖を撰せしむ。蜀土の既に定まるや、六軍の經る所、地域の遠近、山川の險易、征路の迂直もて、圖記を校驗し、或いは差有る罔し。今、上は禹貢の山海川流、原隰陂澤、古の九州を考し、及び今の十六州・郡國・縣邑の疆界・鄉陬、及び古國の盟會の舊名、水陸の徑路もて、地圖十八篇を爲る。
制圖の體は六有り。一に曰く分率、廣輪の度を辨ずる所以なり。二に曰く準望、彼此の體を正す所以なり。三に曰く道里、由る所の數を定むる所以なり。四に曰く高下、五に曰く方邪、六に曰く迂直、此の三者は各々地に因りて宜を制するに、夷險の異を校ぶる所以なり。圖象有りて分率無ければ、則ち以て遠近の差を審らかにすること無し。分率有りて準望無ければ、之を一隅に得と雖も、必ず之を他方に失す。準望有りて道里無ければ、則ち山海絕隔の地に施すに、以て相い通ずる能わず。道里有りて高下・方邪・迂直の校無ければ、則ち徑路の數は必ず遠近の實と相い違い、準望の正を失わん。故に此の六者を以て參えて之を考す。然れば遠近の實は分率に定まり、彼此の實は準望に定まり、徑路の實は道里に定まり、度數の實は高下・方邪・迂直の算に定まる。故に峻山・鉅海の隔、絕域・殊方の迥、登降・詭曲の因有りと雖も、皆な得て舉げて定むべき者なり。準望の法、既に正しければ、則ち曲直遠近は其の形を隱す所無きなり。

秀、朝儀を創制し、廣く刑政を陳べ、朝廷、多く之を遵用し、以て故事と爲す。位に在ること四載、當世の名公と爲る。寒食散を服し、當に熱酒を飲むべきも而れども冷酒を飲み、泰始七年、薨ず。時に年は四十八。詔して曰く「司空は德を經め哲を履み、儒雅を體蹈し、命を佐け世を翼け、勳業は弘いに茂んなり。方に將に猷を宣べ制を敷き、世の宗範と爲らんとするに、不幸にして薨殂したれば、朕、甚だ之を痛む。其れ祕器・朝服一具・衣一襲・錢三十萬・布百匹を賜わん」と。諡して元と曰う。
初め、秀、尚書三十六曹、統事の準例の明らかならざるを以て、宜しく諸卿をして職に任ぜしむべしとするに、未だ奏するに及ばずして薨ず。其の友人、其の書記を料るや、表草の平吳の事を言うを得たるに、其の詞に曰く「孫晧は酷虐にして、聖明の御世に弱きを兼せ昧を攻むるに及ばず、使し子孫に遺さば、將に遂に臣とする能わざらんとす。時に否泰有れば、萬安の勢に非ざるなり。臣、昔、已に屢々言すと雖も、未だ成旨有らず。今、既に疾篤く起たず、謹重に尸啓す。願わくは陛下、時に共に施用せられんことを」と。乃ち封じて以て上聞す。詔して報じて曰く「司空、薨じ、痛悼は心を去る能わず。又た表草を得るに、危困に在りと雖も、王室を忘れず、忠を盡くして國を憂う。益傷を省ること切なれば、輒ち當に諸賢と共に論ずべきなり」と。
咸寧の初め、石苞等と並びに王公と爲れば、廟庭に配享せらる。二子有り、濬(しゅん)・頠(ぎ)。濬、位を嗣ぎ、散騎常侍に至るも、早くに卒す。濬の庶子の憬(けい)は不惠なれば、別に高陽亭侯に封じ、濬の少弟の頠を以て嗣がしむ。

現代語訳

裴秀は、字を季彦といい、河東郡・聞喜の人である。祖父の裴茂は、漢の尚書令であった。父の裴潜は、魏の尚書令であった。裴秀は若い頃から学問を好み、風格と操行があり、八歳で文章を書くのに秀でていた。叔父の裴徽(はいき)には盛んな名声があり、賓客が非常に多かった。裴秀が十数歳であった頃、裴徽のもとを訪れた者がいたが、終わって出てくると今度は裴秀のもとを訪れた(というほど裴秀は評価されていた)。ただ、裴秀の母は卑賎の出自であったので、嫡母(裴潜の正妻)である宣氏は裴秀の母を礼遇せず、かつて裴秀の母に命じてご馳走を客に運ばせたが、それを見た者はみな彼女のために立ち上がった。裴秀の母は言った。「卑賎の身であることはこの通りですが、(皆がこのように礼を尽くしてくれるのは)まさにこの子(裴秀)のためでございましょう」と。宣氏はそれを知ると、それ以降、そのように粗末に扱うのをやめた。当時の人々は、そのために語って言った。「後輩の領袖として、裴秀がいる(=裴秀こそ後輩の中のトップである)」と。
渡遼将軍の毋丘倹(ぶきゅうけん)は、かつて裴秀を大将軍の曹爽に薦めて言った。「生まれながらにして高らかに聡明であり、成長するや自然の境地に至り、物静かで無為の境地にあって真の性を守り、その性は深奥なる道理に通じ、博覧強記で、あらゆる文章に通じ、その孝行・友愛の心は郷里の人々に知られ、その高らかな名声は遠近に伝え広まっています。まことに策謀の広く聡明なる君主を輔弼し、国政を助け整え、(殿下の)大将軍府を補佐し、盛んなる教化を光り輝かせるようにさせるべきです。彼は単に(年少でありながら早熟で聡明であったことで有名な春秋・戦国時代の)子奇や甘羅のような者であるというだけに留まらず、(孔子の高弟であった)顔回・冉伯牛・子游・子夏の美徳を兼ね備えております」と。曹爽は、そこで裴秀を辟召して大将軍府の掾に任じ、また、裴秀は父の爵である清陽亭侯を継承し、やがて黄門侍郎に昇進した。曹爽が誅殺されると、裴秀はその故吏であったために官職を罷免された。しばらくして廷尉正となり、文帝(司馬昭)の安東将軍府の司馬、そして(同じく司馬昭の)衞将軍府の司馬を歴任し、軍政・国政の双方に関して、信用されて多く意見が採用された。やがて散騎常侍に昇進した。
帝(司馬昭)が諸葛誕を討伐しに出ると、裴秀は、尚書僕射の陳泰・黄門侍郎の鍾会と一緒に行台(臨時的に首都外に設置した政府代行機関)の人員としてつき従い、謀略に参与した。諸葛誕の乱が平定されると、裴秀は尚書に転任し、封爵を魯陽郷侯に進められ、千戸の封邑が増加された。常道郷公(元帝・曹奐)が即位すると、裴秀は議に参与して(曹奐の即位を)策定した功により、爵を県侯に進められ、七百戸の封邑を増加され、尚書僕射に昇進した。魏の咸熙年間の初め、御史台の改革・整理を行った。時に荀顗(じゅんぎ)は礼儀を定め、賈充は法律を正し、そして裴秀は官制を改めた。裴秀は、五等爵の復活について建議し、騎督以上の位にある六百人余りの者が、みなその爵位に封ぜられた。そこで裴秀も、済川侯に封ぜられ、封地は六十里四方、封邑は千四百戸とされ、高苑県の済川墟を独立させて侯国とした。
初め、文帝はまだ後継者を決めておらず、(嫡子の司馬炎ではなく)舞陽侯の司馬攸(しばゆう)の方に意を寄せていた。武帝(司馬炎)は、世子(諸侯の後継者)に立てられないのではないかと恐れ、裴秀に問うた。「私が世子となることを阻む者がいる」と。そこで自分に珍しい人相があることを見せた。裴秀は、後に文帝に言った。「中撫軍(司馬炎)の人望は盛んであり、天子の人相であることはこの通りであり、そもそも人臣の人相ではございません」と。これにより、世子の地位は(司馬炎に)やっと定まった。
武帝が王位に即くと、裴秀は尚書令・右光禄大夫を拝命し、御史大夫の王沈・衛将軍の賈充と並んで開府し、給事中の地位を加えられた。武帝が禅譲を受けると、裴秀は左光禄大夫の地位を加えられ、鉅鹿郡公に封ぜられ、封邑は三千戸とされた。
時に安遠護軍の郝詡(かくく)は、旧友に書を送って言った。「尚書令の裴秀と知り合いになったので、利益となることが望めよう」と。そこである官僚が、裴秀の官職を罷免するよう上奏したが、次のような詔が下された。「良くないことを他人が自分に押し付けてこようとするのを防ぐことはできないものであるが、これは(孔子のような)古人でも難しいと判断しているものである。請託を狙って人と交際を結ぼうなどというのは、郝詡の方の罪である。どうして尚書令(裴秀)の方でそれを防ぐことができようか。罪に問うてはならぬ」と。さらに司隷校尉の李憙(りき)が、騎都尉の劉尚が尚書令の裴秀のために官有の稲田を私有物として官庁に申告して登録しようとしている、と上言し、裴秀を禁止処分(行動の制限をかけること)にすることを求めた。するとまた詔が下され、裴秀は朝政を主幹して補佐し、王室のために勲功や実績を立てたので、小さな過失により大いなる徳行を無下にすることはできないとして、劉尚の罪を究明して正させる一方で、裴秀の禁止処分を解除させた。
それからしばらくして、次のような詔が下された。「そもそも三公という官職は、帝王の大いなる中正の道を補佐して宣揚し、帝王の事業を補助して完成させる者である。故に、国家を治めて政令について論じるに当たっては、それを(三公にふさわしい)明智の人に頼るものだが、もしそれにふさわしい人物でないのであれば、(その者のために)無駄に官職を設けることはしないものである。尚書令・左光禄大夫の裴秀は、度量は広大で、思慮は遠くまで通じ、先帝(司馬昭)に登用され、前朝(魏王朝)に仕えてその政治を補佐した。朕が聖明なる天命を授かると、(裴秀は)あまねく大業を補佐したが、その功徳の顕著さは、(古の才人である)八元・八凱たちに匹敵するものである。まさに高位にあって中正を保ち、諸々の事業を安定させるべきであろう。そこで裴秀を司空に任じる」と。
裴秀は、儒学者として博識であり、しかも心を政事に注ぎ、禅譲の前後の時期には、(尚書令として)納言(尚書)の枢要を統べ、その裁断に関しては、何ひとつ礼に違うことが無かった。また、古の地官の職を担っているということもあり、『尚書』禹貢篇の山川等の地名が、今に至るまで遠く隔たっているために多く名前が変わり、後世の学者の中には無理やり牽強付会に当時の地名と結びつける者もあり、次第によく分からなくなってしまったとして、そこで昔の人々が書いた文章を集録し、疑わしいものについてはそれを除き、古にはその名があったが今は無くなってしまった地名については、いずれも随時注をつけて書き連ね、そうして『禹貢地域図』十八篇を作り、それを上奏して献上し、秘書の署府に収蔵された。その序文は次の通りである。

地図や戸籍を設けるという制度は、古から今まで長きにわたって続いている。古より天が下す吉兆の象を受けて天子が制度を設けては、その(地図や戸籍の)効用に頼ってきた。夏・殷・周の三代ではそれ(地図と戸籍)を担当する官を置き、国史を担う史官はその(地図や戸籍を利用してその土地ごとの民謡や伝承を採集して記録するという)職をつかさどった。漢が(秦の首都である)咸陽を屠ると、丞相の蕭何はことごとく秦の地図や戸籍を回収した。今、祕書の署府には古の地図が無いばかりか、蕭何の得た秦の地図や戸籍も無く、ただ漢朝の『輿地図』および『括地図』などの諸々の地図があるだけであるが、それぞれ分率(縮尺・スケール)を設けず、また準望(方位)を考察して正すことをしておらず、さらには名山・大川を詳細に載せることもしていない。だいたいの地形は記されているとはいえ、いずれも精密・詳細なものではないので、依拠することはできない。あるいはとんでもなく荒唐無稽の言説もあり、事実と合致しないので、義としてそのようなものは採用できない。大晋が龍の飛翔するが如く興起し、天下を統一し、世界を清めた事業は、庸や蜀の地域(=蜀漢の征服)から始まり、深くその険阻な岩山に入っていくことになった。文皇帝(司馬昭)は、そこで官僚たちに命じ、それぞれが呉や蜀を訪問した際の地図を描かせた。蜀土が平定されると、(晋の)六軍の経由した地域の距離や、山川が険阻だったか平坦だったか、征伐の道が回り道だったか真っすぐだったかについて、(その新たに作らせた)地図や注記と比較検証したところ、ほとんど間違いが無かった。今、上は山や海や河川、原野や湿地や湖沼、古の九州について考察し、それに加えて今の十六州・郡国・県邑の境界や郷村、さらには古の国の会盟の地の旧名や、水陸の経路についても含め、地図十八篇を作成した。
製図の際に重要なことは六つある。一つ目は分率であり、面積の倍率を判別するためのものである。二つ目は準望であり、方位を正すためのものである。三つ目は道里(道程)であり、経由した道のりの数値を定めるためのものである。四つ目は土地の高低、五つ目は土地が平らなのか斜め(坂)になっているのか、六つ目は道が曲がっているのか真っすぐなのかであり、この三者はそれぞれ地形に応じて適宜算定しなければならないものであるが、平坦なのか険阻なのかの違いを比較するためのものである。山川などを象った図だけあって分率が無ければ、遠近の差をはっきりとさせることはできない。分率があっても準望が無ければ、その地図をその一地方のみで局地的に活用することはできても、他の地域の地図と照合して地域全体の地勢を把握することはできない。準望があっても道里が無ければ、山や海で隔絶した地域で地図を活用しようとしても、それでは通用しない。道里があっても土地が高いか低いか、平らか斜めか、道が曲がっているか真っすぐかの比較をしなければ、(計算上の)経路の距離の数値はきっと、実際に移動した距離とは異なるものとなり、あるいは(道が曲がっているなどのせいで)準望の正確さを失うことにもなろう。故にこの六者をすべて勘案して考察しなければならない。そうすると、実際の距離は分率によって定まり、実際の方位は準望によって定まり、実際の経路の距離は道里によって定まり、実際の数値は土地が高いか低いか、平らか斜めか、道が曲がっているか真っすぐかを総合的に計算した結果によって定まることになる。故に険阻な山や巨大な海に隔てられたり、絶域や異国のように遠く遥かな地であったり、登り坂や降り坂、見たことのないような奇怪な道や、ぐねぐね曲がったような道があるなどの困難があったりしても、それらはみなすべて地図上で算定できるものである。この準望の法が正しければ、道が曲がっているのか真っすぐなのか、あるいはその距離についても、その形を隠すことができないのである。

裴秀は、晋朝の朝儀の制度を創設し、広く刑法や政令について意見を述べ、朝廷では多くその意見を採用し、それを故事とした。司空の位に在ること四年、当世の名公として称賛された。しかし、寒食散を服用した際、熱酒を飲むべきところを冷酒を飲んでしまい、泰始七年(二七一)、薨去した。時に四十八歳であった。そこで次のような詔が下された。「司空(裴秀)は徳を修め、英哲さを備え、儒学を履み行い、我が創業を補佐し、世の中を救い、その勲功・業績は大いに盛んであった。ちょうどまさに策謀を発揮して制度を敷き、世が尊ぶ模範となるべきであったのに、不幸にも薨去してしまったので、朕は非常にそれを痛ましく思う。そこで秘器・朝服一具・衣一襲・銭三十万・布百匹を賜うこととする」と。そして「元公」という諡号が与えられた。
初め、裴秀は、尚書の三十六曹について、その職務を総裁する者(尚書令・尚書僕射)の選任に関する通例が明瞭でなかったことから、諸卿の地位にある者にその職を担わせるようにするべきだと考えていたが、それを上奏する前に薨去してしまった。また、裴秀の友人が、裴秀の著作物を整理していたところ、呉を平定すべきことを述べた上表文の草稿が見つかったが、その言葉は次の通りであった。「孫皓は残酷で暴虐であり、陛下の御世に『弱きものを併呑し、愚昧なものを攻める』とあるが如く(暗愚な孫皓が君主の位にあるうちに呉を平定)されず、もし子孫にその事業をお残しになられましたら、きっと呉の人々を臣下とすることはできずじまいになってしまうでしょう。時運には盛衰がございますので、(晋に有利な現状は)けしていつまでも続く万全な情勢などではないのです。私は昔、しばしばこのことを申し上げましたが、まだ聖旨として発布されるには至っていません。今、病が篤く起き上がることができませんので、念を押して死に臨み申し上げさせていただきます。どうか陛下よ、適切な時にいずれも施行なされますようお願い申し上げます」と。そこでその友人は、それに封をして、それを上聞した。詔が下されて返答して言うには「司空が薨去してしまい、痛惜・哀悼の念が心から離れない。その上、上表文の草稿を読むと、危篤の状態にありながらも、王室のことを忘れず、忠を尽くして国を憂えているではないか。損益を省みること切実であるので、速やかに諸々の賢人たちと一緒に議論すべきである」と。
咸寧年間の初め、石苞らと一緒に王公の身分に在ったということで、裴秀は皇室の宗廟に配祀された。裴秀には二人の子がおり、裴濬(はいしゅん)・裴頠(はいぎ)といった。裴濬は、裴秀の爵位を嗣ぎ、散騎常侍にまで上ったが、早くに亡くなってしまった。裴濬の庶子の裴憬(はいけい)には知的障碍があったので、別に高陽亭侯に封じ、裴濬の少弟の裴頠に裴濬の爵位を嗣がせた。

原文

頠、字逸民。弘雅有遠識、博學稽古、自少知名。御史中丞周弼見而嘆曰「頠若武庫、五兵縱橫、一時之傑也。」賈充即頠從母夫也、表「秀有佐命之勳、不幸嫡長喪亡、遺孤稚弱。頠才德英茂、足以興隆國嗣」。詔頠襲爵、頠固讓、不許。太康二年、徵爲太子中庶子、遷散騎常侍。惠帝即位、轉國子祭酒、兼右軍將軍。
初、頠兄子憬爲白衣、頠論述世勳、賜爵高陽亭侯。楊駿將誅也、駿黨左軍將軍劉豫陳兵在門、遇頠、問太傅所在。頠紿之曰「向於西掖門遇公乘素車、從二人西出矣。」豫曰「吾何之。」頠曰「宜至廷尉。」豫從頠言、遂委而去。尋而詔頠代豫領左軍將軍、屯萬春門。及駿誅、以功當封武昌侯、頠請以封憬、帝竟封頠次子該。頠苦陳「憬本承嫡、宜襲鉅鹿、先帝恩旨、辭不獲命。武昌之封、己之所蒙。」特請以封憬。該時尚主、故帝不聽。累遷侍中。
時天下暫寧、頠奏修國學、刻石寫經。皇太子既講、釋奠祀孔子、飲饗射侯、甚有儀序。又令荀藩終父勖之志。鑄鐘鑿磬、以備郊廟朝享禮樂。頠通博多聞、兼明醫術。荀勖之修律度也、檢得古尺、短世所用四分有餘。頠上言「宜改諸度量。若未能悉革、可先改太醫權衡。此若差違、遂失神農・岐伯之正。藥物輕重、分兩乖互、所可傷夭、爲害尤深。古壽考而今短折者、未必不由此也。」卒不能用。樂廣嘗與頠清言、欲以理服之、而頠辭論豐博、廣笑而不言。時人謂頠爲言談之林藪。
頠以賈后不悅太子、抗表請增崇太子所生謝淑妃位號、仍啓增置後衞率吏、給三千兵、於是東宮宿衞萬人。遷尚書、侍中如故、加光祿大夫。每授一職、未嘗不殷勤固讓、表疏十餘上、博引古今成敗以爲言、覽之者莫不寒心。
頠深慮賈后亂政、與司空張華・侍中賈模議廢之而立謝淑妃。華・模皆曰「帝自無廢黜之意、若吾等專行之、上心不以爲是。且諸王方剛、朋黨異議、恐禍如發機、身死國危、無益社稷。」頠曰「誠如公慮。但昏虐之人、無所忌憚、亂可立待。將如之何。」華曰「卿二人猶且見信。然勤爲左右陳禍福之戒、冀無大悖。幸天下尚安、庶可優游卒歲。」此謀遂寢。頠旦夕勸說從母廣城君、令戒喻賈后親待太子而已。或說頠曰「幸與中宮内外可得盡言。言若不行、則可辭病屏退。若二者不立、雖有十表、難乎免矣。」頠慨然久之、而竟不能行。
遷尚書左僕射、侍中如故。頠雖后之親屬、然雅望素隆、四海不謂之以親戚進也、惟恐其不居位。俄復使頠專任門下事、固讓、不聽。頠上言「賈模適亡、復以臣代、崇外戚之望、彰偏私之舉。后族何常有能自保。皆知重親無脫者也。然漢二十四帝惟孝文・光武・明帝不重外戚、皆保其宗、豈將獨賢。實以安理故也。昔穆叔不拜越禮之饗、臣亦不敢聞殊常之詔。」又表云「咎繇謨虞、伊尹相商、呂望翊周、蕭張佐漢、咸播功化、光格四極。暨于繼體、咎單・傅說・祖己・樊仲、亦隆中興。或明揚側陋、或起自庶族、豈非尚德之舉、以臻斯美哉。歷觀近世、不能慕遠、溺於近情、多任后親、以致不靜。昔疎廣戒太子以舅氏爲官屬、前世以爲知禮。況朝廷何取於外戚。正復才均、尚當先其疏者、以明至公。漢世不用馮野王、即其事也。」表上、皆優詔敦譬。
時以陳準子匡・韓蔚子嵩並侍東宮、頠諫曰「東宮之建、以儲皇極。其所與游接、必簡英俊、宜用成德。匡・嵩幼弱、未識人理立身之節。東宮實體夙成之表、而今有童子侍從之聲、未是光闡遐風之弘理也。」愍懷太子之廢也、頠與張華苦爭不從。語在華傳。
頠深患時俗放蕩、不尊儒術、何晏・阮籍素有高名於世、口談浮虛、不遵禮法、尸祿耽寵、仕不事事、至王衍之徒、聲譽太盛、位高勢重、不以物務自嬰、遂相放效、風教陵遲。乃著崇有之論以釋其蔽曰

夫總混羣本、宗極之道也。方以族異、庶類之品也。形象著分、有生之體也。化感錯綜、理迹之原也。夫品而爲族、則所稟者偏、偏無自足、故憑乎外資。是以生而可尋、所謂理也。理之所體、所謂有也。有之所須、所謂資也。資有攸合、所謂宜也。擇乎厥宜、所謂情也。識智既授、雖出處異業、默語殊塗、所以寶生存宜、其情一也。眾理並而無害、故貴賤形焉。失得由乎所接、故吉凶兆焉。是以賢人君子、知欲不可絕、而交物有會、觀乎往復、稽中定務。惟夫用天之道、分地之利、躬其力任、勞而後饗。居以仁順、守以恭儉、率以忠信、行以敬讓、志無盈求、事無過用、乃可濟乎。故大建厥極、綏理羣生、訓物垂範、於是乎在、斯則聖人爲政之由也。
若乃淫抗陵肆、則危害萌矣。故欲衍則速患、情佚則怨博、擅恣則興攻、專利則延寇、可謂以厚生而失生者也。悠悠之徒、駭乎若茲之釁、而尋艱爭所緣。察夫偏質有弊、而覩簡損之善、遂闡貴無之議、而建賤有之論。賤有則必外形、外形則必遺制、遺制則必忽防、忽防則必忘禮。禮制弗存、則無以爲政矣。眾之從上、猶水之居器也。故兆庶之情、信於所習、習則心服其業、業服則謂之理然。是以君人必慎所教、班其政刑一切之務、分宅百姓、各授四職、能令稟命之者不肅而安、忽然忘異、莫有遷志。況於據在三之尊、懷所隆之情、敦以爲訓者哉。斯乃昏明所階、不可不審。
夫盈欲可損而未可絕有也、過用可節而未可謂無貴也。蓋有講言之具者、深列有形之故、盛稱空無之美。形器之故有徵、空無之義難檢、辯巧之文可悅、似象之言足惑、眾聽眩焉、溺其成說。雖頗有異此心者、辭不獲濟、屈於所狎、因謂虛無之理、誠不可蓋。唱而有和、多往弗反、遂薄綜世之務、賤功烈之用、高浮游之業、埤經實之賢。人情所殉、篤夫名利。於是文者衍其辭、訥者讚其旨、染其眾也。是以立言藉於虛無、謂之玄妙、處官不親所司、謂之雅遠、奉身散其廉操、謂之曠達。故砥礪之風、彌以陵遲。放者因斯、或悖吉凶之禮、而忽容止之表、瀆棄長幼之序、混漫貴賤之級。其甚者至於裸裎、言笑忘宜、以不惜爲弘、士行又虧矣。
老子既著五千之文、表摭穢雜之弊、甄舉靜一之義、有以令人釋然自夷、合於易之損・謙・艮・節之旨。而靜一守本、無虛無之謂也。損・艮之屬、蓋君子之一道、非易之所以爲體守本無也。觀老子之書、雖博有所經、而云「有生於無」、以虛爲主、偏立一家之辭、豈有以而然哉。人之既生、以保生爲全、全之所階、以順感爲務。若味近以虧業、則沈溺之釁興、懷末以忘本、則天理之真減。故動之所交、存亡之會也。夫有非有、於無非無。於無非無、於有非有。是以申縱播之累、而著貴無之文。將以絕所非之盈謬、存大善之中節、收流遁於既過、反澄正于胸懷。宜其以無爲辭。而旨在全有、故其辭曰「以爲文不足」。若斯、則是所寄之塗、一方之言也。若謂至理信以無爲宗、則偏而害當矣。
先賢達識、以非所滯、示之深論。惟班固著難、未足折其情、孫卿・楊雄大體抑之、猶偏有所許。而虛無之言、日以廣衍、眾家扇起、各列其說。上及造化、下被萬事、莫不貴無、所存僉同。情以眾固、乃號凡有之理皆義之埤者、薄而鄙焉。辯論人倫及經明之業、遂易門肆。頠用矍然、申其所懷、而攻者盈集、或以爲一時口言。有客幸過、咸見命著文、擿列虛無不允之徵。若未能每事釋正、則無家之義弗可奪也。頠退而思之、雖君子宅情、無求於顯、及其立言、在乎達旨而已。然去聖久遠、異同紛糾、苟少有仿佛、可以崇濟先典、扶明大業、有益於時、則惟患言之不能、焉得靜默、及未舉一隅。略示所存而已哉。
夫至無者無以能生、故始生者自生也。自生而必體有、則有遺而生虧矣。生以有爲已分、則虛無是有之所謂遺者也。故養既化之有、非無用之所能全也、理既有之眾、非無爲之所能循也。心非事也、而制事必由於心、然不可以制事以非事、謂心爲無也。匠非器也、而制器必須於匠、然不可以制器以非器、謂匠非有也。是以欲收重泉之鱗、非偃息之所能獲也;隕高墉之禽、非靜拱之所能捷也;審投弦餌之用、非無知之所能覽也。由此而觀、濟有者皆有也。虛無奚益於已有之羣生哉。

王衍之徒攻難交至、並莫能屈。又著辯才論、古今精義皆辨釋焉、未成而遇禍。
初、趙王倫諂事賈后、頠甚惡之。倫數求官、頠與張華復固執不許、由是深爲倫所怨。倫又潛懷篡逆、欲先除朝望、因廢賈后之際遂誅之。時年三十四。二子嵩・該、倫亦欲害之。梁王肜・東海王越稱頠父秀有勳王室、配食太廟、不宜滅其後嗣、故得不死、徙帶方。惠帝反正、追復頠本官、改葬以卿禮、諡曰成。以嵩嗣爵、爲中書黃門侍郎。該出後從伯𧰙、爲散騎常侍。並爲乞活賊陳午所害。

訓読

頠(ぎ)、字は逸民。弘雅にして遠識有り、博學にして古を稽え、少きより名を知らる。御史中丞の周弼、見て嘆じて曰く「頠は武庫の若く、五兵縱橫、一時の傑なり」と。賈充は即ち頠の從母の夫にして、表すらく「秀は佐命の勳有るも、不幸にして嫡長は喪亡し、遺孤は稚弱なり。頠は才德英茂なれば、以て國嗣を興隆するに足らん」と。頠に詔して爵を襲わしむるに、頠、固く讓るも、許さず。太康二年、徵されて太子中庶子と爲り、散騎常侍に遷る。惠帝の即位するや、國子祭酒に轉じ、右軍將軍を兼ぬ。
初め、頠の兄の子の憬、白衣たるに、頠、世勳を論述し、爵高陽亭侯を賜わる。楊駿の將に誅せられんとするや、駿の黨の左軍將軍の劉豫、兵を陳ねて門に在り、頠に遇い、太傅の所在を問う。頠、之を紿きて曰く「向に西掖門に於いて公の素車に乘り、二人を從えて西のかた出ずるに遇う」と。豫曰く「吾、之を何せん」と。頠曰く「宜しく廷尉に至るべし」と。豫、頠の言に從い、遂に委てて去る。尋いで頠に詔して豫に代わりて左軍將軍を領し、萬春門に屯せしむ。駿の誅せらるるに及び、功を以て當に武昌侯に封ぜらるべきも、頠、請うに憬を封ぜんことを以てすれば、帝、竟に頠の次子の該を封ず。頠、「憬は本と嫡を承けたれば、宜しく鉅鹿を襲うべきも、先帝の恩旨あり、辭するも命を獲ず。武昌の封、己の蒙くる所なり」と苦陳し、特に請うに憬を封ぜんことを以てす。該、時に主を尚れば、故に帝は聽さず。累りに遷りて侍中たり。
時に天下は暫く寧んじたれば、頠、奏して國學を修め、石に刻み經を寫さしむ〔一〕。皇太子、既に講じ、釋奠して孔子を祀り、飲饗射侯するに、甚だ儀序有り〔二〕。又た荀藩をして父の勖(きょく)の志を終え、鐘を鑄て磬を鑿ち、以て郊廟朝享の禮樂に備えしむ。頠、通博多聞にして、兼ねて醫術に明るし。荀勖の律度を修むるや、檢べて古尺を得るに、世の用うる所より短きこと四分有餘〔三〕。頠、上言すらく「宜しく諸度量を改むべし。若し未だ悉く革む能わずんば、先ず太醫の權衡を改むべし。此れ若し差違あらば、遂に神農・岐伯の正を失せん。藥物の輕重、分兩乖互すれば、傷夭すべき所、害を爲すこと尤も深し。古の壽考にして今の短折なるは、未だ必ずしも此に由らずんばあらざるなり」と。卒に用うる能わず。樂廣、嘗て頠と清言するや、理を以て之を服せしめんと欲するも、而れども頠は辭論豐博なれば、廣、笑いて言わず。時人謂えらく、頠は言談の林藪たり、と。
頠、賈后の太子を悅ばざるを以て、抗表して太子の所生の謝淑妃の位號を增崇せんことを請い、仍りて後衞率吏を增置し、三千の兵を給せんことを啓し、是に於いて東宮の宿衞は萬人たり。尚書に遷り、侍中は故の如くし、光祿大夫を加えらる。一職を授かる每に、未だ嘗て殷勤に固く讓らずんばあらず、表疏すること十餘上、博く古今の成敗を引きて以て言と爲し、之を覽る者、寒心せざるは莫し。
頠、深く賈后の政を亂せるを慮り、司空の張華・侍中の賈模と之を廢して謝淑妃を立てんことを議す。華・模、皆な曰く「帝、自ら廢黜の意無ければ、若し吾等、專ら之を行わば、上の心、以て是と爲さざらん。且つ諸王は方剛にして、朋黨は議を異にすれば、恐らくは禍は發機の如く、身は死し國は危うく、社稷に益無からん」と。頠曰く「誠に公の慮の如し。但だ昏虐の人、忌憚する所無ければ、亂は立ちどころにして待つべし。將に之を如何せん」と。華曰く「卿二人は猶お且つ信ぜらる。然れば勤めて左右の爲に禍福の戒を陳べ、大悖無からんことを冀え。幸いに天下は尚お安んずれば、庶わくは優游して歲を卒うべし」と。此の謀、遂に寢む。頠、旦夕に從母の廣城君に勸め說き、賈后に太子を親待せんことを戒喻せしめんとするのみ。或るひと頠に說きて曰く「中宮の内外と得て言を盡くすべきことを幸う。言若し行われずんば、則ち病と辭して屏退すべし。若し二者立たずんば、十表有りと雖も、難きかな、免るること」と。頠、慨然として之を久しくするも、而れども竟に行う能わず。
尚書左僕射に遷り、侍中は故の如し。頠、后の親屬なりと雖も、然るに雅望の素より隆ければ、四海、之を親戚なるを以て進むと謂わざるも、惟だ其の位に居らざるを恐る。俄かにして復た頠をして專ら門下の事に任ぜんとするに、固く讓るも、聽さず。頠、上言すらく「賈模、適に亡せ、復た臣を以て代わらしむるは、外戚の望を崇び、偏私の舉を彰かにするなり。后族、何ぞ常に能有りて自ら保たんや。皆な重親して脫する無きを知ればなり。然るに漢の二十四帝、惟だ孝文・光武・明帝のみ外戚を重んぜざるも、皆な其の宗を保ちしは、豈に將た獨り賢なればならんや。實に理を安んずるを以ての故なり。昔、穆叔は越禮の饗に拜せざれば、臣も亦た敢えて殊常の詔を聞かず」と。又た表して云く「咎繇(きゅうよう)は虞に謨り、伊尹は商を相け、呂望は周を翊け、蕭張は漢を佐け、咸な功化を播き、光く四極に格る。繼體に暨び、咎單(きゅうぜん)・傅說(ふえつ)・祖己・樊仲、亦た中興を隆んにす。或いは側陋より明揚せられ、或いは起つに庶族よりするに、豈に尚德の舉に非ずして、以て斯の美に臻らんや。近世を歷觀するに、遠きを慕う能わず、近情に溺れ、多く后の親を任じ、以て不靜を致す。昔、疎廣は太子を戒むるに舅氏の官屬と爲るを以てし、前世は以て禮を知ると爲す。況んや朝廷何ぞ外戚を取らんや。正に復た才均しきに、尚お當に其の疏なる者を先にし、以て至公なるを明らかにすべし。漢世、馮野王を用いざるは、即ち其の事なり」と。表、上せらるるや、皆な優詔もて敦譬す。
時に陳準の子の匡(きょう)・韓蔚(かんうつ)の子の嵩を以て並びに東宮に侍せしむるに、頠、諫めて曰く「東宮の建、以て皇極に儲う。其の與に游接する所、必ず英俊を簡び、宜しく成德を用うべし。匡・嵩は幼弱にして、未だ人理立身の節を識らず。東宮は實に夙成の表を體するも、而れども今、童子侍從の聲有らば、未だ是れ光闡遐風の弘理ならざるなり」と。愍懷太子の廢せらるるや、頠、張華と與に苦爭するも從われず。語は華の傳に在り。
頠、深く患うらく、時俗は放蕩にして、儒術を尊ばず、何晏・阮籍は素より世に高名有るも、浮虛を口談し、禮法に遵わず、祿を尸して寵に耽り、仕うるに事を事とせず、王衍の徒に至りては、聲譽は太だ盛んにして、位は高く勢は重きに、物務を以て自ら嬰わせず、遂に相い放效し、風教は陵遲す、と。乃ち『崇有の論』を著して以て其の蔽を釋きて曰く

夫れ羣本を總混するは、宗極の道なり。方に族を以て異にするは、庶類の品なり。形象の著われ分かたるるは、有生の體なり。化感の錯綜するは、理迹の原なり。夫れ品して族と爲せば、則ち稟くる所の者は偏り、偏りて自ら足らす無ければ、故に外資に憑る。是を以て生まれながらにして尋るべきは、所謂理なり。理の體する所、所謂有なり。有の須うる所、所謂資なり。資に合する攸有るは、所謂宜なり。厥の宜を擇ぶは、所謂情なり。識智既に授かれば、出處業を異にし、默語塗を殊にすと雖も、生存の宜を寶とする所以、其の情は一なり。眾理の並びて害無ければ、故に貴賤焉に形る。失得の接する所に由れば、故に吉凶焉に兆す。是を以て賢人君子、欲の絕やすべからざるを知り、而して物を交うるに會有り、往復を觀い、中を稽え務めを定む。惟うに夫れ天の道を用い、地の利を分かち、躬ら其れ任に力め、勞して後に饗け、居るに仁順を以てし、守るに恭儉を以てし、率うに忠信を以てし、行うに敬讓を以てし、志は盈求する無く、事に過用無く、乃ち濟すべきかな。故に大いに厥の極を建て、羣生を綏理し、物を訓えて範を垂るるは、是に於いて在り。斯れ則ち聖人の爲政の由なり。
若し乃ち淫抗陵肆なれば、則ち危害萌す。故に欲衍なれば則ち患を速き、情佚なれば則ち怨博く、擅恣なれば則ち攻を興し、利を專らにすれば則ち寇を延くは、生を厚くするを以て生を失う者と謂うべきなり。悠悠の徒、茲くの若きの釁に駭き、而して艱爭の緣る所を尋む。夫の偏質に弊有るを察し、而して簡損の善を覩い、遂に貴無の議を闡し、而して賤有の論を建つ。有を賤めば則ち必ず形を外にし、形を外にすれば則ち必ず制を遺て、制を遺つれば則ち必ず防を忽せにし、防を忽せにすれば則ち必ず禮を忘る。禮制存せざれば、則ち以て政を爲す無し。眾の上に從うは、猶お水の器に居るがごときなり。故に兆庶の情、習う所を信じ、習うれば則ち其の業に心服し、業服せらるれば則ち之を理として然ると謂う。是を以て君人は必ず教うる所を慎み、其の政刑一切の務めを班ち、宅を百姓に分かち、各々四職を授け、能く稟命の者をして肅まずして安んぜしめば、忽然として異なるを忘れ、遷志有る莫し。況んや在三の尊きに據り、隆ぶ所の情を懷い、敦めて以て訓と爲す者に於けるをや。斯れ乃ち昏明の階す所なれば、審かにせざるべからず。
夫れ盈欲は損ずべきも而れども未だ有を絕つべからず、過用は節すべきも而れども未だ無の貴きを謂うべからず。蓋し講言の具有る者は、深く有形の故を列べ、盛んに空無の美を稱す。形器の故は徵有るも、空無の義は檢べ難く、辯巧の文は悅ぶべく、似象の言は惑わずに足り、眾聽きて焉に眩い、其の成說に溺る。頗や此と異なる心の者有りと雖も、辭は濟すを獲ず、狎る所に屈し、因りて虛無の理を謂うは、誠に「蓋うべからず」なり。唱えて和を有ち、多く往きて反らず、遂に綜世の務を薄んじ、功烈の用を賤しみ、浮游の業を高くし、經實の賢を埤(ひく)しとす。人情の殉う所、夫の名利を篤くす。是に於いて文者は其の辭を衍いにし、訥者は其の旨を讚え、其の眾を染むるなり。是を以て言を立てて虛無に藉り、之を玄妙と謂い、官に處るも司る所を親らせず、之を雅遠と謂い、身を奉ずるも其の廉操を散じ、之を曠達と謂う。故に砥礪の風、彌々以て陵遲す。放者は斯に因り、或いは吉凶の禮に悖り、而して容止の表を忽せにし、長幼の序を瀆棄し、貴賤の級を混漫す。其の甚だしき者は裸裎するに至り、言笑して宜を忘れ、以て弘と爲るを惜しまざるは、士行又た虧く。
老子は既に五千の文を著し、穢雜の弊を表摭し、靜一の義を甄舉し、以て人をして釋然として自ら夷らかならしめ、易の損・謙・艮・節の旨に合すること有り。而るに靜一にして本を守るに、虛無の謂い無きなり。損・艮の屬、蓋し君子の一道にして、易の體と爲して本無を守る所以に非ざるなり〔四〕。老子の書を觀るに、博く經る所有りと雖も、而るに「有は無より生ず」と云えば、虛を以て主と爲し、一家の辭を偏立するは、豈に以て然ること有らんや。人の既に生まるるや、生を保つを以て全と爲し、全の階す所、順感を以て務めと爲す。若し近きを味わいて以て業を虧かば〔五〕、則ち沈溺の釁は興り、末を懷いて以て本を忘るれば、則ち天理の真は減ず。故に動の交わる所、存亡の會なり。夫れ有において有に非ざるは、無に於いて無に非ず。無に於いて無に非ざるは、有に於いて有に非ず〔六〕。是を以て縱播の累を申ね、而して貴無の文を著す。將に非とする所の盈謬を絕ち、大善の中節を存するを以て、流遁を既過に收め、澄正を胸懷に反さんとす。宜なり、其の無を以て辭を爲すこと。而るに旨は有を全くするに在れば、故に其の辭に曰く「以て文足らずと爲す」と。斯くの若くんば、則ち是れ寄る所の塗にして、一方の言なり。若し至理は信に無を以て宗と爲すと謂えば、則ち偏りて害あるは當なり。
先賢達識、滯る所に非ざるを以て、之に深論を示す。班固の著は難く、未だ其の情を折るに足らずと惟(いえど)も、孫卿・楊雄の大體は之を抑うるに、猶お偏るも許す所有り。而れども虛無の言、日ごとに以て廣衍たり、眾家扇起し、各々其の說を列ぬ。上は造化に及び、下は萬事を被い、無を貴ばざるは莫く、所存は僉な同じ。情、眾を以て固まり、乃ち凡そ有の理は皆な義の埤き者と號すは、薄くして鄙し。人倫及び經明を辯論するの業、遂に易門、肆にす。頠、用て矍然とし、其の懷う所を申ぶるも、而れども攻者は盈集し、或いは以て一時の口言と爲す。客有りて幸いにも過り、咸な見(われ)に文を著せと命じたれば、虛無不允の徵を擿列す。若し未だ事每に釋正する能わずんば、則ち無家の義、奪うべからざるなり。頠、退きて之を思うに、君子の宅情、顯を求むる無しと雖も、其の言を立つるに及ぶは、旨を達するに在るのみ。然るに聖を去ること久遠にして、異同紛糾するも、苟しくも少しく仿佛たる有り、以て先典を濟うるを崇び、大業を明らかにするを扶け、時に益有るべくんば、則ち言の不能なるを患うと惟(いえど)も、焉くんぞ靜默し、未だ一隅を舉げざるに及ぶを得んや。略し所存を示すのみなるかな。
夫れ至無なる者は以て能く生ずること無ければ、故に始めて生ずる者は自ら生ずるなり。自ら生じて必ず有を體すれば、則ち有遺てられて生虧く。生は有を以て已が分と爲せば、則ち虛無は是れ有の所謂遺てらるる者なり。故に既化の有を養うは、無用の能く全うする所に非ず、既有の眾を理むるは、無爲の能く循う所に非ざるなり。心は事に非ず、而して事を制するに必ず心に由るも、然るに以て事を制するに非事を以てすべからずんば、心は無たりと謂うなり。匠は器に非ずして、而れども器を制するに必ず匠を須つも、然るに以て器を制するに非器を以てすべからずんば、匠は有に非ざると謂うなり。是を以て重泉の鱗を收めんと欲さば、偃息の能く獲る所に非ず、高墉の禽を隕とさんとせば、靜拱の能く捷す所に非ず、弦餌を投ずるの用を審らかにせんとせば、無知の能く覽る所に非ざるなり。此に由りて觀るに、有を濟す者は皆な有なり。虛無、奚ぞ已有の羣生に益あらんや。

王衍の徒、攻難すること交々至るも、並びに能く屈する莫し。又た『辯才論』を著し、古今の精義は皆な焉を辨釋するも、未だ成らずして禍に遇う。
初め、趙王倫の諂いて賈后に事うるや、頠、甚だ之を惡む。倫、數々官を求むるも、頠、張華と與に復た固執して許さざれば、是に由りて深く倫の怨む所と爲る。倫、又た潛かに篡逆を懷き、先ず朝望を除かんと欲し、賈后を廢するの際に因りて遂に之を誅す。時に年は三十四。二子の嵩・該、倫亦た之を害せんと欲す。梁王肜(ゆう)・東海王越、頠の父の秀は王室に勳有り、太廟に配食せられたれば、宜しく其の後嗣を滅ぼすべからずと稱し、故に死せざるを得、帶方に徙さる。惠帝の正に反るや、追いて頠の本官を復し、改めて葬するに卿禮を以てし、諡して成と曰う。嵩を以て爵を嗣がしめ、中書・黃門侍郎と爲す。該、出でて從伯の𧰙(き)に後たり、散騎常侍と爲る。並びに乞活の賊の陳午の害する所と爲る。

〔一〕『晋書斠注』も指摘する通り、国学の建議は裴頠が国子祭酒であった頃の出来事なので、『晋書』がこの箇所にこの話を挿入するのは、時系列としては不正確である。
〔二〕『晋書』巻十九・礼志上・吉礼の条によれば、恵帝の元康三年(二九三)に、皇太子に対する『論語』の侍購が終わると、皇太子が自ら釈奠を行って孔子を祀ったとある。
〔三〕「尺」の十分の一が「寸」、「寸」の十分の一が「分」であり、「四分」というのは要するに0.04尺のこと。
〔四〕ここでは原文を尊重して強引に訓読してみたが、中華書局『晋書』校勘記にもあるように、「守本無」の三字は衍字である可能性が高い。そうすると、該当句は「易の體と爲す所以に非ざるなり」と訓読でき、「別に『易』はそれを本幹であると見なしているわけではない」というような意味になる。
〔五〕難解。中には「味近」を「昧道」(道に通暁していない)の誤りではないかとして解釈する研究もあるが(堀池信夫「裴頠「崇有論」考」『筑波大学哲学・思想学系論集』五〇、一九七六年など)、史料的根拠は示されておらず、真相は不明である。
〔六〕『晋書斠注』が周家禄の「語不可解」という言葉を引用しているように、この箇所は伝統的に難解な箇所とされている。

現代語訳

裴頠(はいぎ)は、字を逸民と言った。高雅で深遠な見識があり、博学で古のことに通じ、若い頃から名を知られていた。御史中丞の周弼は、裴頠に会って感嘆して言った。「裴頠は武器庫のようであり、その中にはあらゆる武器がみな揃っており、まさに一時の英傑である」と。賈充は裴頠の従母(母の姉妹)の夫に当たり、次のような上表を行った。「裴秀は王朝の創業を補佐した勲功がありますが、不幸にも嫡長子は亡くなり、残された孤児は幼弱です。裴頠は才能も徳も優れて盛んでありますので、封国を継いで興隆させるには十分です」と。そこで武帝が裴頠に詔を下して爵位を継承させたところ、裴頠は固く譲って受けようとしなかったが、武帝はそれを許さなかった。太康二年(二八一)、徴召されて太子中庶子に任じられ、さらに散騎常侍へと昇進した。恵帝が即位すると、国子祭酒に転任し、右軍将軍を兼任した。
初め、裴頠の兄の子の裴憬は無位無官であったが、裴頠が彼のために父祖の勲功を論述したので、裴憬は高陽亭侯の爵位を賜わった。また、楊駿が誅殺される直前、楊駿の仲間である左軍将軍の劉豫は、兵を並べて門を守っていたが、裴頠に遭遇すると、太傅(楊駿)の所在を問うた。裴頠は彼を欺いて言った。「先ほど、西掖門で公(楊駿)が素車(霊柩車)に乗り、二人の人物を従えて西へ出発するところに遭遇した」と。劉豫は言った。「私はどうすればよいか」と。裴頠は言った。「廷尉に出頭するのが良いだろう」と。劉豫は裴頠の言葉に従い、そのまま軍を放棄して去った。まもなく裴頠に詔が下されて劉豫に代わって左軍将軍を兼任させ、万春門に駐屯させた。楊駿が誅殺されると、その功績により武昌侯に封ぜられることになったが、裴頠が裴憬を代わりに封じてもらうよう請うたので、恵帝は結局、裴頠の次子の裴該を武昌侯に封じた。裴頠は「裴憬はもともと我が家の嫡流を継承しておりますので、まさに鉅鹿郡公を継承すべきでありましたが、(裴頠を鉅鹿郡公に封じるという)先帝の恩旨があり、私が辞退してもお許しをいただけませんでした。(鉅鹿郡公ではなく)武昌侯の位こそ、私がもらい受けるべきものでございましょう」と固く述べ、特に裴憬を封じてもらうよう申請した。裴該は、時に公主を娶っていたので、故に恵帝は聞き容れなかった。裴頠は何度も昇進して侍中となった。
時に天下はだんだんと安泰になってきたので、裴頠は上奏し、その結果、国学を建て、石に経文を刻んで写させることになった。また、皇太子に対する(論語の)侍講が終わって、皇太子が釈奠の祭祀を行って孔子を祭り、饗飲・射侯の儀礼を行ったところ、非常に儀礼の秩序が整っていた。さらに、荀藩にその亡父である荀勖(じゅんきょく)の(音律を正してそれに見合った鐘や磬などの楽器を製造するという)志を完遂させ、鐘や磬を鋳造・穿鑿し、郊祀や宗廟祭祀の際に用いられる儀礼音楽のために備えさせた。裴頠は多聞で様々なことに広く通じ、医術にも明るかった。荀勖が音律や度(丈や尺などの長さの単位)を修正した際、調査の結果、古の一尺の長さが分かり、当時使用されていた一尺よりも四分余り短かったことが判明した。そこで裴頠は上言した。「諸々の度や量を改めるべきです。もしすべてを改めることができないというのであれば、まず太医署のはかりを改めるべきです。これにもしズレがあるのでしたら、そのせいで神農・岐伯ら(いずれも医学・医薬に関して有名な伝説上の人物)の行った真正さを損なうことになってしまいます。薬物の重さについて、分量が間違っていれば、健康を損ない病状を悪化させる可能性があり、その害は非常に深いものです。昔の人々は寿命が長かったのに今の人々の寿命が短いのは、必ずしもそのせいでないとは言えますまい」と。しかし、恵帝は結局、この意見を採用することができなかった。楽広がかつて裴頠と清談した際、理によって裴頠を屈服させようとしたが、対する裴頠の議論は豊かで様々なことに広く通じていたので、楽広は笑うだけで何も言わなかった。当時の人々は、裴頠はまさに談論の林藪であると評した。
裴頠は、賈后が太子のことを快く思っていなかったことから、上表して太子の実母の謝淑妃の位号を高めることを請い、その中で太子後衛卒を増設して属吏を置き、三千の兵を配備するよう申し述べ、そこで東宮の宿衛は(従来のものと合わせて)一万人に達するほどになった。やがて裴頠は尚書に昇進し、侍中は引き続き兼任することになり、さらに光禄大夫の官位を加えられた。裴頠は一職を授かるごとに、毎回、殷勤に固く譲って辞退し、これまでに合わせて十数回も上奏し、そのたびに広く古今の成功・失敗の例を援用して意見を述べたので、これを見た者はみな肝を冷やした。
裴頠は、賈后が政治を乱しているのを深く憂慮し、司空の張華・侍中の賈模と一緒に賈后を廃して謝淑妃を皇后に立てようと議論した。張華・賈模の二人は言った。「皇帝にそもそも廃后の意志が無いのに、もし我らが勝手にそのようなことを行えば、陛下の心としてそれを善しとはしないだろう。しかも諸王は心身旺盛で、その仲間たちはきっとそれに異議を唱えるであろうから、おそらく禍が弩の引き金を引くように速やかに訪れ、我らは死に、国は危険にさらされ、社稷には何の益も無いだろう」と。裴頠は言った。「確かにあなたがたのお考えの通りですね。ただ、(賈后のような)暗愚で暴虐なる人物は、忌み憚ることがないので、何もせずとも遠くないうちに乱が訪れましょう。どうすれば良いでしょうか」と。張華は言った。「そなたら二人はまだ(賈后の)信用を得ている方である。それならば、力を尽くしてその左右の者に対して、彼らのために禍福の戒めについて述べ、せめて大きな間違いが起こらないことを願うしか無かろう。幸いにも天下はまだ安泰なので、そうすればゆったりと安らかに生涯を終えることができよう」と。そこでこの謀はやめにした。そして裴頠は、朝な夕な従母の広城君(郭槐)に説き勧め、太子に親しみ厚遇するよう賈后に教え喩してほしいと述べるのであった。ある人が裴頠に説いて言った。「中宮の内外両方から言を尽くして説得できるような状況にしてください。そして、その言葉がもし聞き容れられて実行されるということがないようであれば、その場合は病を理由に辞職して引退すべきです。もし中宮の内外両方から賈后を説得するという態勢が築き上げられなければ、十回の上表を行ったとしても、まさに『今の世の禍を免れることは難しい』というものでしょう」と。裴頠は慨然として嘆いたが、しばらくしても結局それを実践することができなかった。
裴頠は尚書左僕射に昇進し、侍中は引き続き兼任した。裴頠は、賈后の親戚であったとはいえ、高雅な名望がもともと大きかったので、四海の人々は裴頠について、親戚であるから特別に昇進できたなどと言うことはなく、むしろただ裴頠が適切な位に就けないのではないかと憂慮した。まもなく、恵帝がさらに裴頠に門下の事を専任させようと(=加官の侍中ではなく真正の侍中に任じようと)したところ、裴頠は固く譲って辞退したが、恵帝は聞き容れなかった。裴頠は上言した。「賈模がつい先日亡くなって、それで私をその後任とするのは、外戚の名望を尊重し、私党を偏重する行いを世に知らしめる行為です。皇后の一族というのは、どうしていつも能力があれば自らの家を保全できるなどということがありましょうか。みな(皇帝の一族と皇后の一族が)代々通婚を重ねて互いに一連托生であると理解しているからに過ぎません。しかし、漢の二十四帝のうち、ただ孝文帝・光武帝・明帝の三帝は外戚を重んじませんでしたが、外戚たちがいずれもその宗族を保つことができたのは、どうして彼らが賢明だからというだけが理由でございましょうか。それは、実に彼らが政治を安定させたからでございます。昔、(春秋時代の魯の)穆叔(ぼくしゅく)は(晋に答礼の使者として派遣され、)晋侯から(諸侯の君主が受けるような)礼分を越えた饗応をされた際に、それに対して拝礼を行いませんでしたが、私もまた常度を逸した詔を聞くことはできません」と。裴頠はさらに上表して言った。「咎繇(きゅうよう)(皋陶(こうよう))は舜に謀議を捧げ、伊尹は商(殷)の宰相として政治を助け、呂望(太公望)は周を補佐し、蕭何や張良は漢を補佐し、いずれも功業・教化を広く伝え、あまねく四方の果てにまで達しました。(創業の君主から)その位が継承された後にも、咎單(きゅうぜん)・傅説(ふえつ)・祖己(いずれも殷の賢臣)・樊仲(周の賢臣で、樊に封ぜられた仲山父のこと)が、また中興を盛んにしました。彼らは卑賎な身より抜擢を受けたり、庶民の家柄から身を立てたりしましたが、どうして徳を尊ぶ行い無しにこのような美業をなすことができたでしょうか。近世のことを通じて観察しますと、(為政者たちは)遠くに思いを馳せることをせず、親交のある身近な人々との関係にばかり気を取られ、多く皇后の親族を高官に任用し、それによって人々の不安をもたらしました。昔、(前漢の)疏広は、太子について、外戚である母方の祖父がその属官に任じられることを戒め、当時の人々は、疏広は礼を理解している人物だと評しました。ましてや(太子の属官ではなく)朝廷の官職に関しては、どうして外戚から採用すべきでございましょうか。それに、才能が等しい人物たちの中から選用する場合にもまさしく、最も身近でない者を優先させるべきものでございます。漢の時代、馮野王を(外戚であるという理由で三公に)任用しなかったのが、まさにそれでございます」と。その上表文が提出されると、恵帝は裴頠を賛美する詔を下して人々に訓諭した。
時に陳準の子の陳匡(ちんきょう)、韓蔚(かんうつ)の子の韓嵩の二人を東宮(皇太子)の侍従としていたが、裴頠はそれを諫めて言った。「東宮を立てるのは、まさに皇帝の控えとするためであります。ですから、ともに交遊を結んで日頃接すべき人物というのは、必ず英俊な者を選ぶものであり、まさに品徳を修めている者を用いるべきでございます。陳匡・韓嵩は幼弱であり、まだ人倫や立身の節義を知りません。東宮殿下は実に早熟の模範を体現しているにもかかわらず、童子を侍従にしているという風聞が広がってしまえば、それはあまねく遠くまで教化を発揚させるという大いなる道理にかなうものではなくなってしまいます」と。やがて愍懐太子が廃されると、裴頠は張華と一緒に固く抗議したが、聞き容れてもらえなかった。そのことについては、張華伝に記してある。
裴頠は深く憂慮していた。時俗は放蕩で、儒術を尊ばず、(魏の)何晏・阮籍らはもともと世に高名を博していたが、清談のような中身のないことばかりを談論し、礼法を遵守せず、ロクに仕事もせずに俸禄を無駄にもらって過度な恩寵を貪り、仕えても仕事にいそしまず、(近ごろの)王衍らの輩に至っては、名声・名誉は非常に盛んで、位は高く権勢も重いものであるのに、職務に関わろうともせず、遂にはそれを手本として人々が互いに真似し合うようになって、教化は衰退してしまった、と。そこで裴頠は『崇有の論』を著してその弊害を次のように解き明かした。

そもそも諸々の根本を総括するのは、無上なる根源の道によるものである。まさにそれぞれの種を分かつのは、万物の品によるものである。混一なる無の状態から形象が分かたれてはっきりとしたものになるのは、有生の体現によるものである。感化が錯綜するのは、治績の大本によるものである。そもそも品等をつけて(貴族と庶民などのように)種を分ければ、手に入れる物には不公平が生じ、ある者たちはその不公平により自らの生活を満たすことができなくなるので、その者たちは外からの援助を頼るのである。そのようなわけで、生まれながらにして頼るべきものは、いわゆる理というものである。理の体現している本質は、いわゆる有というものである。有が必要とするものは、いわゆる資というものである。資には集まるところがあり、それがいわゆる宜というものである。その宜を選び取るのは、いわゆる情というものである。智識を授かった以上、あるいは仕官したり隠棲したり、生業がそれぞれ異なっていたとしても、あるいは何も言わずに黙ったり進言して語ったり、歩む道がそれぞれ分かれていても、生存の宜を大事にするという点では、その情は同じものである。多くの理が並び立って害が生じないからこそ、そこで貴賤というものが形作られることになる。得失が、その接するものごとに由来して起こるからこそ、そこに吉凶が兆すことになる。そこで賢人や君子は、人々の欲というものは完全に無くすことはできないのだということを知り、時機を見計らって物を流通させ、その往来をうかがって、中正であることを図って(そのために実施すべき)自らの務めを定めるのである。思うに、天の道に従って人々を四季の農務に励ませ、山川等の地の利を分けて人々に産業に努めさせ、自らはそれが上手くいくようにその任務に力を尽くし、その労によって俸禄を受け、仁徳や順良さを保ち、恭しく倹約であることを守り、忠実さや信誠さに従い、つつましく謙譲な行いを積み、志として過度に何かを求めることもなく、物を過度に用いることもない、そのようにしてやっと成功を収めることができるのである。故に大いにその中正なる王道を建立し、万民を安んじ治め、人々に訓諭して模範を示すというのは、そのようなときにこそ実現できるものである。これこそが聖人の為政の方法である。
もし(為政者が)却って自分勝手で人の意見を聞かず、尊大不遜な態度を取り続ければ、危害が萌すことになる。故に欲深ければ禍を招き、情が淫らであれば広く恨みを買い、自分勝手で放恣であれば攻撃を受け、利益を独り占めにすればそれもまた攻撃を受けることになるが、それは生を大事にするあまり生を失ってしまった者とでも言うべきである。俗人たちはこのような失敗に驚き騒ぎ、そのような困難や争いごとの原因について探し求めようとする。そうして例の(品等をつけて貴賤を分けたことによる)不公平さが弊害をもたらしていることを察し、質素・倹約であることが善いと見て、遂には無を貴ぶなどという議論を説き起こし、有をいやしむなどという議論を始めた。有というものをいやしめば、必ず形というものを疎んじることになり、形を疎んじれば、必ず制度を放棄することになり、制度を放棄すれば、必ず欲を防ぐことをないがしろにし、欲を防ぐことをないがしろにすれば、必ず礼を忘れることになる。そして礼や制度がなくなれば、政治を行うことができなくなる。人々がお上に従うのは、水が器の中にあるようなものである。故に数多の庶民たちの情としては、慣れ親しんだものを信じ、慣れ親しめばその生業に心から服するようになり、生業が服されるようになれば、それを道理としてそうであると思うようになる。そこで君主は必ず人々を教え導く内容を重んじ、政治や刑罰に関する一切の事務を臣下に分担させ、宅地を人々に分け与え、それぞれに士農工商の四職を授け、命を奉ずる者に厳粛にせずとも安んずるようにさせられれば、人々はその職種の違いも忘れ、自ら別の職に遷ろうとする気持ちも抱かなくなる。ましてや君・父・師という尊き三者に心を寄せ、尊敬する相手の情を懐い、勉めてその言動を教訓とするような者においてはなおさらである。これぞまさに明暗を分かつ端緒であるので、必ずしっかりと心得なければならない。
過度な欲は抑えるべきであるが、しかし有を絶つべきではなく、過度に物を用いることは節制すべきであるが、しかし無が貴いなどと言うべきではない。いったい談論の才能のある者は、深く有形のものの欠点を並べ立て、空無であることの美点を称賛している。形有るものの欠点はその根拠を求めやすいが、空無の義は調べ求めることが難し(いため論難することも容易ではな)く、彼らの華やかで巧みな文章は人々に受け容れられやすく、内容の似通った言説は人々を惑わすには充分で、人々はそれを聞いてその言説に惑い、その説法に溺れることになった。ややこれとは異なる意見を持っている者がいたとしても、言葉にすることができず、親しい者たちに心を屈し、そうして虚無の理について口にするようになるが、それは実に「人の美点を覆い隠すようなことはしてはならない(=自分の美点をほこらず、相手に譲るべきである)」という行動原理から来るものである。それらの者は貴無の説を唱えて互いに和を保ち、多くはそちら側に行ってしまったきりこちら側には戻って来ず、そのまま世を治めるための務めを軽んじ、功業のはたらきをあなどり、浮遊の業を貴び、国を治める実用的な賢知を軽視するようになる。そうして貴無論者の言説が人心の従うものとなり、人々は彼らの名利を重んじることになる。そして文に巧みな者はその言葉を豊かにし、口下手な者はその内容を称え、自分たちに賛同する人々を彼らの色に染め上げるのである。そうして彼らは説を立てて虚無にかこつけ、それを玄妙であると見なし、その官に身を置きながらその職務を自分でやろうとはせず、それを高雅で俗から離れた態度であると見なし、身を朝廷に奉じて仕えているにもかかわらずその廉潔な節操を捨て、それを闊達さであると見なしているのである。故に徳行を切磋琢磨する風潮は、それによってますます衰退することになった。放縦なる者はこれにより、あるいは(婚礼などの)吉礼や(葬礼などの)凶礼に違反し、服装や挙動に関する作法をないがしろにし、長幼の序を軽視して顧みず、貴賤の等級による区別をかき乱すようになった。中でもひどい者は真っ裸になり、談笑して適切さを忘れ、それが大っぴらになることにも意を介さないが、やはり士大夫としての操行が欠如している。
老子は五千字の文章を著し、猥雑であることの弊害を明らかにし、静一の義を宣揚し、その説は人々を釈然と心安らかにさせ、『易』の損・謙・艮・節に記されている内容に合致する内容もあった。ただ、静一にして本幹を守るということに関して、虚無なるものには言及されていない。損・艮に書かれているような内容のたぐいは、思うに君子が則るべき一つの道に過ぎず、別に『易』がそれこそが本質であり、それゆえ本幹である無を守らなければならないと見なしているわけではない。老子の書を見ると、議論が多岐にわたっているにもかかわらず、(貴無論者は)「有は無から生じる」と書いてあることだけに注目して虚無こそ主であると見なし、その部分だけを取り上げて一家言を立てたが、そこにはどうしてその通りであるなどと言える道理があろうか。人は生まれた以上、生を保つことができればそれを全き状態であるとし、全き状態であるためのその端緒となるのは、感情に従順であることを務めとするということである。もし近くのことを味わって本業をおろそかにすれば、水中で溺れるように苦しい禍がふりかかり、末節ばかりに気を取られて本幹のことを忘れてしまえば、天理の真正さが損なわれることになってしまう。故に、為政者が動かす物流の交わりが、人々の存亡の命運を決定することになるのである。有にとって有でないものというのは、無にとっては無ではない。無にとって無ではないものというのは、有にとっては有ではない。そうして(貴無論者は)自分勝手に誤った学説を広めるという害悪を繰り返し行い、そして無を貴ぶ文章を著すに至ったのである。さて、貴無論者がそれは誤りであると主張する、その内容の過度な誤謬を正し、大善である中正の節度を保全することにより、誤った方向に走り去ってしまった人々を、それ以上誤った方向に進まないようにその地点に留め、清正なる心を胸中に取り戻させようではないか。無に依拠して文章をつくることはよろしい。しかし、(『老子』の)趣旨としては有というものを全き状態にすることにあるので、故に『老子』には「(聖智・仁義・巧利を棄てるべきであるというだけでは)まだ説明が足りないものと思われる」とあるのである。つまり、それは(目的に達するために)寄るべき道の一つであり、(『老子』が説くところの)一側面を表わす言葉に過ぎない。だからもし、(そのことだけを以て)実に最も貴ぶべきものは無であるというのが真理であるなどと言うのであれば、それが一部分を切り取っただけの偏った害のある考えであるというのは当然のことである。
才識に富む先代の賢者たちは、矛盾なく誰にでも理解できるような筋道によって、そのことに関して深い議論を提示してきた。ただ班固の著作に関しては内容が難しく、よってその内容の是非を論断するには足らないが、孫卿(荀子)や楊雄の考えの要点は理解でき、彼らの考えには偏りがあるものの、まだ許容の範囲内である。しかし虚無に関する言説については、日を追って人々の間に広がり、多くの学派が盛んに興り、それぞれその学説を並べ立てるに至った。上はこの世界の創造について説き及び、下は万事に至るまで、何事に関しても無を貴び、そして彼らの考えている内容はみな同じである。そして、その情が多勢によって堅固なものとなると、なんと、すべての有に関する理というのは、みな低次元の義を有するものであるに過ぎないなどと言い出すようになったが、それは浅薄で見識の狭い考えである。人倫や経義の解明について弁論する営みについては、遂に『易』学の門下たちの独壇場となった。私はそれに驚き、思う所を述べたのであるが、しかし、私に対して攻撃的な者たちがこぞって集まり、あるいは私の言葉は一時的にふと口から出ただけの与太話に過ぎないと断じた。そのとき我が客人たちが運よく訪ねてきて、みな私に文章を著すよう強く勧めたので、私は虚無の言説が妥当ではないという証拠についてあばいて書き連ねた。もしこれでまだそれぞれの事項について充分に解き明かして正すことができていないというのであれば、もはや貴無論者たちを改心させてその義が誤っていると認めさせることは不可能である。私なりに引き下がって省みて思うことには、君子の心境ともなれば、もはや自らの名声を高めることを求めなどしないものであるが、それでも言説を立てるという行為に及ぶのは、ただその考えを表明したいがためであろう。しかし、私は聖人とはほど遠く、その考えも聖人の考えとは異なるものがない交ぜになってしまっているかもしれないが、もし少しでも聖人の考えと似通っていて近しい部分があり、それによって先人の典籍を用いることを尊び、大業を明らかにすることを助け、時世に利益をもたらすことができるのであれば、たとえ言葉が不出来であることを気に病もうとも、どうして静かに黙って、その考えの一隅すらも挙げずに済ませられようものか。そこでおおむね思う所を示そうというのである。
そもそも至無なるものは何かを生じることができないのであるから、それゆえ、初めて生じたものというのは、ひとりでに生じたのである。ひとりでに生じて有として存在するのであれば、有であることが放棄されれば、生そのものが損なわれてしまうことになる。生というものが有であることを以て自らの領分であるとしているのであれば、虚無というのはいわゆる有であることが放棄されたものである。故に、すでに生じて有となったものを養うのは、無用であることによって成せるものではなく、すでに有となった人々を治めるのは、無為であることによって成せるものではないのである。心は事物ではないものの、事物を制するためには心に基づくことが必要であるが、しかし、事物でないものによって事物を制するのは不可能だというのであれば、心は無であるということになってしまう。工匠は器具ではないものの、器具を制するには必ず工匠に頼ることが必要であるが、しかし、器具でないものによって器具を制するのは不可能だというのであれば、工匠は有ではないということになってしまう。そうであるからこそ、深淵の魚鱗を手に入れるためには、くつろいで休んでいるだけでは手に入れられず、高い城壁の上にいる鳥を落とすためには、静かに手を拱いて待っていても達成することはできず、(それら魚や鳥を得るために)いぐるみや釣餌を投ずる効用について明らかにするためには、無知であってはそれを観察して理解することはできない。このことからも分かるように、有に関して事を達成できるのはいずれも有である。虚無がどうしてすでに有である諸々の生に対して益があろうか。

王衍の仲間たちは、攻撃して非難するため代わる代わる議論をふっかけてきたが、いずれも裴頠を屈服させることはできなかった。裴頠はさらに『弁才論』を著し、古今の精緻な義についてすべて解き明かして論じたが、それが完成する前に禍に遇って殺されてしまった。
初め、趙王・司馬倫は諂って賈后の言いなりになっており、裴頠は非常にそのことを憎んでいた。故に、司馬倫はしばしば官職の栄達を求めたが、裴頠は張華と一緒になってまた固執して許さなかったので、そのせいで司馬倫に深く恨まれることとなった。司馬倫はまた、ひそかに簒奪の野心を抱き、まず朝廷の名望家を排除しようとし、賈后を廃する際のどさくさに紛れてそこで裴頠を誅殺した。時に三十四歳であった。裴頠には裴嵩・裴該という二人の子がいたが、司馬倫は彼らも殺そうとした。しかし、梁王・司馬肜(しばゆう)、東海王・司馬越らが、裴頠の父の裴秀は王室に勲功があり、太廟に配祀されているほどであるので、その後嗣を滅ぼすべきではないと称したので、そこで裴嵩・裴該の二人は死を免れ、帯方郡への徙刑に留められた。恵帝が復位すると、追って裴頠の本官を回復させ、改めて卿としての礼で葬礼を行い、「成公」という諡を授けた。そして裴嵩にその爵位を嗣がせ、中書侍郎、次いで黄門侍郎に任命した。裴該は、父方の伯父である裴𧰙(はいき)の養子になり、散騎常侍に任じられた。後に二人はいずれも乞活の賊である陳午によって殺害された。

原文

楷、字叔則。父徽、魏冀州刺史。楷明悟有識量、弱冠知名、尤精老易、少與王戎齊名。鍾會薦之於文帝、辟相國掾、遷尚書郎。賈充改定律令、以楷爲定科郎。事畢、詔楷於御前執讀、平議當否。楷善宣吐、左右屬目、聽者忘倦。武帝爲撫軍、妙選僚采、以楷爲參軍事。吏部郎缺、文帝問其人於鍾會。會曰「裴楷清通、王戎簡要、皆其選也。」於是以楷爲吏部郎。
楷風神高邁、容儀俊爽、博涉羣書、特精理義、時人謂之「玉人」、又稱「見裴叔則如近玉山、映照人也」。轉中書郎、出入宮省、見者肅然改容。武帝初登阼、探策以卜世數多少、而得一、帝不悅。羣臣失色、莫有言者。楷正容儀、和其聲氣、從容進曰「臣聞天得一以清、地得一以寧、王侯得一以爲天下貞。」武帝大悅、羣臣皆稱萬歲。俄拜散騎侍郎、累遷散騎常侍・河内太守、入爲屯騎校尉・右軍將軍、轉侍中。
石崇以功臣子有才氣、與楷志趣各異、不與之交。長水校尉1.(孫)季舒嘗與崇酣燕、慢傲過度、崇欲表免之。楷聞之、謂崇曰「足下飲人狂藥、責人正禮、不亦乖乎。」崇乃止。
楷性寬厚、與物無忤。不持儉素、每遊榮貴、輒取其珍玩。雖車馬器服、宿昔之間、便以施諸窮乏。嘗營別宅、其從兄衍見而悅之、即以宅與衍。梁・趙二王、國之近屬、貴重當時、楷歲請二國租錢百萬、以散親族。人或譏之、楷曰「損有餘以補不足、天之道也。」安於毀譽、其行己任率、皆此類也。
與山濤・和嶠並以盛德居位、帝嘗問曰「朕應天順時、海内更始、天下風聲、何得何失。」楷對曰「陛下受命、四海承風、所以未比德於堯舜者、但以賈充之徒尚在朝耳。方宜引天下賢人、與弘正道。不宜示人以私。」時任愷・庾純亦以充爲言、帝乃出充爲關中都督、充納女於太子、乃止。平吳之後、帝方修太平之化、每延公卿、與論政道。楷陳三五之風、次敘漢魏盛衰之迹。帝稱善、坐者歎服焉。
楷子瓚娶楊駿女、然楷素輕駿、與之不平。駿既執政、乃轉爲衞尉、遷太子少師、優游無事、默如也。及駿誅、楷以婚親收付廷尉、將加法。是日事起倉卒、誅戮縱橫、眾人爲之震恐。楷容色不變、舉動自若、索紙筆與親故書。賴侍中傅祗救護得免、猶坐去官。太保衞瓘・太宰亮稱楷貞正不阿附、宜蒙爵土、乃封臨海侯、食邑二千戶。代楚王瑋爲北軍中候、加散騎常侍。瑋怨瓘・亮斥己任楷、楷聞之、不敢拜、轉爲尚書。
楷長子輿先娶亮女、女適衞瓘子、楷慮内難未已、求出外鎮、除安南將軍・假節・都督荊州諸軍事、垂當發而瑋果矯詔誅亮・瓘。瑋以楷前奪己中候、又與亮・瓘婚親、密遣討楷。楷素知瑋有望於己、聞有變、單車入城、匿于妻父王渾家、與亮小子一夜八徙、故得免難。瑋既伏誅、以楷爲中書令、加侍中、與張華・王戎並管機要。
楷有渴利疾、不樂處勢。王渾爲楷請曰「楷受先帝拔擢之恩、復蒙陛下寵遇、誠竭節之秋也。然楷性不競於物、昔爲常侍、求出爲河内太守、後爲侍中、復求出爲河南尹、與楊駿不平、求爲衛尉、及轉東宮、班在時類之下、安於淡退、有識有以見其心也。楷今委頓、臣深憂之。光祿勳缺、以爲可用。今張華在中書、王戎在尚書、足舉其契、無爲復令楷入。名臣不多、當見將養、不違其志、要其遠濟之益。」不聽、就加光祿大夫・開府儀同三司。及疾篤、詔遣黃門郎王衍省疾、楷回眸矚之曰「竟未相識。」衍深嘆其神儁。
楷有知人之鑒、初在河南、樂廣僑居郡界、未知名、楷見而奇之、致之於宰府。嘗目夏侯玄云「肅肅如入宗廟中、但見禮樂器」、鍾會「如觀武庫森森、但見矛戟在前」、傅嘏「汪翔靡所不見」、山濤「若登山臨下、幽然深遠」。
初、楷家炊黍在甑、或變如拳、或作血、或作蕪菁子。其年而卒。時年五十五。諡曰元。有五子輿・瓚・憲・禮・遜。

輿、字祖明。少襲父爵、官至散騎侍郎、卒諡曰簡。

瓚、字國寶。中書郎、風神高邁、見者皆敬之。特爲王綏所重、每從其遊。綏父戎謂之曰「國寶初不來、汝數往、何也。」對曰「國寶雖不知綏、綏自知國寶。」楊駿之誅、爲亂兵所害。

憲、字景思。少而穎悟、好交輕俠。及弱冠、更折節嚴重、修尚儒學、足不踰閾者數年。陳郡謝鯤・潁川庾敳皆儁朗士也、見而奇之、相謂曰「裴憲鯁亮宏達、通機識命、不知其何如父。至於深弘保素、不以世物嬰心者、其殆過之。」
初、侍講東宮、歷黃門・吏部郎、侍中。東海王越以爲豫州刺史・北中郎將・假節。王浚承制、以憲爲尚書。永嘉末、王浚爲石勒所破、棗嵩等莫不謝罪軍門、貢賂交錯、惟憲及荀綽恬然私室。勒素聞其名、召而謂之曰「王浚虐暴幽州、人鬼同疾。孤恭行乾憲、拯茲黎元、羇舊咸歡、慶謝交路。二君齊惡傲威、誠信岨絕。防風之戮、將誰歸乎。」憲神色侃然、泣而對曰「臣等世荷晉榮、恩遇隆重。王浚凶粗醜正、尚晉之遺藩。雖欣聖化、義岨誠心。且武王伐紂、表商容之閭、未聞商容在倒戈之例也。明公既不欲以道化厲物、必於刑忍爲治者、防風之戮、臣之分也。請就辟有司。」不拜而出。勒深嘉之、待以賓禮。勒乃簿王浚官寮親屬、皆貲至巨萬、惟憲與荀綽家有書百餘袠、鹽米各十數斛而已。勒聞之、謂其長史張賓曰「名不虛也。吾不喜得幽州、喜獲二子。」署從事中郎、出爲長樂太守。及勒僭號、未遑制度、與王波爲之撰朝儀、於是憲章文物、擬於王者。勒大悅、署太中大夫、遷司徒。
及季龍之世、彌加禮重。憲有二子挹・瑴、並以文才知名。瑴仕季龍爲太子中庶子・散騎常侍。挹・瑴俱豪俠耽酒、好臧否人物。與河間邢魚有隙、魚竊乘瑴馬奔段遼、爲人所獲、魚誣瑴使己以季龍當襲鮮卑、告之爲備。時季龍適謀伐遼、而與魚辭正會。季龍悉誅挹・瑴、憲亦坐免。未幾、復以爲右光祿大夫・司徒・太傅、封安定郡公。
憲歷官無幹績之稱、然在朝玄默、未嘗以物務經懷。但以德重名高、動見尊禮。竟卒於石氏、以族人峙子邁爲嗣。

楷長兄黎、次兄康、並知名。康子盾、少歷顯位。永嘉中、爲徐州刺史、委任長史司馬奧。奧勸盾刑殺立威、大發良人爲兵、有不奉法者罪使至死。在任三年、百姓嗟怨。東海王越、盾妹夫也。越既薨、騎督滿衡便引所發良人東還。尋而劉元海遣將王桑・趙固向彭城、前鋒數騎至下邳、文武不堪苛2.(故)〔政〕、悉皆散走。盾・奧奔淮陰、妻子爲賊人所得。奧又誘盾降趙固。固妻盾女、有寵、盾向女涕泣、固遂殺之。

盾弟邵、字道期。元帝爲安東將軍、以邵爲長史、王導爲司馬、二人相與爲深交。徵爲太子中庶子、復轉散騎常侍、使持節・都督揚州江西淮北諸軍事・東中郎將、隨越出項、而卒於軍中。及王導爲司空、既拜、嘆曰「裴道期・劉王喬在、吾不得獨登此位」導子仲豫與康同字、導思舊好、乃改爲敬豫焉。

楷弟綽、字季舒。器宇宏曠、官至黃門侍郎・長水校尉。綽子遐、善言玄理、音辭清暢、泠然若琴瑟。嘗與河南郭象談論、一坐嗟服。又嘗在平東將軍周馥坐、與人圍棊。馥司馬行酒、遐未即飲、司馬醉怒、因曳遐墮地。遐徐起還坐、顏色不變、復棊如故。其性虛和如此。東海王越引爲主簿、後爲越子毗所害。

初、裴・王二族盛於魏晉之世、時人以爲八裴方八王、徽比王祥、楷比王衍、康比王綏、綽比王澄、瓚比王敦、遐比王導、頠比王戎、邈比王玄云。

1.『晋書斠注』および中華書局『晋書』校勘記に従い、この「孫」字を衍字と見なす。
2.『晋書斠注』が周家禄『晋書校勘記』を引用して述べるのに従い、「故」を「政」に改める。

訓読

楷、字は叔則。父の徽(き)、魏の冀州刺史たり。楷、明悟にして識量有り、弱冠にして名を知られ、尤も老易に精しく、少くして王戎と名を齊しくす。鍾會(しょうかい)、之を文帝に薦め、相國掾に辟され、尚書郎に遷る。賈充の律令を改定するや、楷を以て定科郎と爲す。事畢るや、楷に詔して御前に於いて執讀せしめ、當否を平議せしむ。楷、善く宣吐したれば、左右は屬目し、聽者は倦るるを忘る。武帝の撫軍と爲るや、僚采を妙選し、楷を以て參軍事と爲す。吏部郎の缺くるや、文帝、其の人を鍾會に問う。會曰く「裴楷は清通、王戎は簡要、皆な其の選なり」と。是に於いて楷を以て吏部郎と爲す。
楷、風神は高邁にして、容儀は俊爽、羣書を博涉し、特に理義に精しく、時人は之を「玉人」と謂い、又た「裴叔則を見るは玉山に近づくが如く、人を映照するなり」と稱す。中書郎に轉じ、宮省に出入し、見る者は肅然として容を改む。武帝の初めて阼に登るや、探策して以て世數の多少を卜うに、而して一を得れば、帝、悅ばず。羣臣は色を失い、言う者有る莫し。楷、容儀を正し、其の聲氣を和え、從容として進みて曰く「臣聞くならく、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く、王侯は一を得て以て天下の貞と爲る」と。武帝、大いに悅び、羣臣は皆な萬歲を稱す。俄かにして散騎侍郎を拜し、累りに遷りて散騎常侍・河内太守たり、入りて屯騎校尉・右軍將軍と爲り、侍中に轉ず。
石崇は功臣の子にして才氣有り、楷とは志趣の各々異なるを以て、之と交わらず。長水校尉の季舒、嘗て崇と酣燕するや、慢傲なること度を過ぐれば、崇、表して之を免ぜんと欲す。楷、之を聞き、崇に謂いて曰く「足下は人に狂藥を飲ますに、人に正禮を責むるは、亦た乖ならんや」と。崇、乃ち止む。
楷、性寬厚にして、物と忤らう無し。儉素を持せず、榮貴に遊ぶ每に、輒ち其の珍玩を取る。車馬器服と雖も、宿昔の間、便ち以て諸窮乏に施す。嘗て別宅を營つるに、其の從兄の衍、見て之を悅びたれば、即ち宅を以て衍に與う。梁・趙二王、國の近屬にして、當時に貴重たるに、楷、歲ごとに二國の租錢百萬を請い、以て親族に散ず。人或いは之を譏るに、楷曰く「有餘を損じて以て不足を補うは、天の道なり」と。毀譽に安んじ、其の己の任率を行うこと、皆な此の類なり。
山濤・和嶠(かきょう)と並びに盛德を以て位に居るに、帝、嘗て問いて曰く「朕、天に應じ時に順い、海内は更始するに、天下の風聲、何をか得とし何をか失とせん」と。楷、對えて曰く「陛下は命を受け、四海は風を承くるに、未だ德の堯舜に比ばざる所以の者は、但だ賈充の徒の尚お朝に在るを以てすればなるのみ。方に宜しく天下の賢人を引き、與に正道を弘いにすべし。宜しく人に示すに私を以てすべからず」と。時に任愷(じんがい)・庾純(ゆじゅん)も亦た充を以て言と爲せば、帝、乃ち充を出だして關中都督と爲すも、充、女を太子に納れたれば、乃ち止む。平吳の後、帝、方に太平の化を修め、每に公卿を延き、與に政道を論ず。楷、三五の風を陳べ、次いで漢魏盛衰の迹を敘ぶ。帝、善しと稱し、坐する者、焉に歎服す。
楷の子の瓚(さん)、楊駿の女を娶るも、然るに楷は素より駿を輕んじたれば、之と平らかならず。駿の既に政を執るや、乃ち轉じて衞尉と爲り、太子少師に遷るも、優游として事無く、默如たり。駿の誅せらるるに及び、楷、婚親なるを以て收められて廷尉に付せられ、將に法を加えられんとす。是の日、事の起くること倉卒にして、誅戮は縱橫たれば、眾人、之が爲に震恐す。楷、容色は變わらず、舉動は自若として、紙筆を索めて親故に書を與う。侍中の傅祗(ふし)を賴りて救護せられて免るるを得るも、猶お坐して官を去る。太保の衞瓘(えいかん)・太宰の亮、楷は貞正にして阿附せざれば、宜しく爵土を蒙るべしと稱し、乃ち臨海侯に封ぜられ、食邑は二千戶。楚王瑋(い)に代わりて北軍中候と爲り、散騎常侍を加えらる。瑋、瓘・亮の己を斥けて楷を任ずるを怨むに、楷、之を聞きたれば、敢えて拜さず、轉じて尚書と爲る。
楷の長子の輿、先に亮の女を娶り、女は衞瓘の子に適ぎたれば、楷、内難未だ已まざるを慮り、外鎮に出でんことを求め、安南將軍・假節・都督荊州諸軍事に除せられたるに、當に發するに垂んとして瑋は果たして矯詔して亮・瓘を誅す。瑋、楷の前に己より中候を奪い、又た亮・瓘と婚親なるを以て、密かに遣わして楷を討たしめんとす。楷、素より瑋の己に望有るを知りたれば、變有るを聞くや、單車にて入城し、妻の父の王渾の家に匿れ、亮の小子と與に一夜に八たび徙り、故に難を免るるを得たり。瑋の既に誅に伏すや、楷を以て中書令と爲し、侍中を加え、張華・王戎(おうじゅう)と並びに機要を管る。
楷、渴利の疾有り、勢に處るを樂しまず。王渾(おうこん)、楷の爲に請いて曰く「楷は先帝の拔擢の恩を受け、復た陛下の寵遇を蒙り、誠に節を竭くすの秋なり。然るに楷は性として物と競わず、昔、常侍と爲るや、求めて出でて河内太守と爲り、後に侍中と爲るや、復た求めて出でて河南尹と爲り、楊駿と平らかならざるや、求めて衛尉と爲り、東宮に轉ずるに及び、班は時類の下に在るも、淡退に安んじ、有識は以て其の心を見ること有るなり。楷は今や委頓し、臣は深く之を憂う。光祿勳は缺けたれば、以て用うべきと爲す。今、張華は中書に在り、王戎は尚書に在り、其の契を舉ぐるに足れば、爲に復た楷をして入らしむる無かれ。名臣は多からざれば、當に將養せられ、其の志に違わず、其の遠濟の益を要むべし」と。聽かず、就ち光祿大夫・開府儀同三司を加う。疾篤きに及び、詔して黃門郎の王衍を遣わして疾を省しむるや、楷、眸を回して之を矚て曰く「竟に未だ相い識らず」と。衍、深く其の神儁なるを嘆ず。
楷、知人の鑒有り、初め河南に在るや、樂廣、郡界に僑居し、未だ名を知られざるも、楷、見て之を奇とし、之を宰府に致す。嘗て夏侯玄を目て「肅肅如として宗廟中に入るも、但だ禮樂の器を見るのみ」と云い、鍾會(しょうかい)もて「武庫の森森たるを觀るが如きも、但だ矛戟の前に在るを見るのみ」といい、傅嘏(ふか)もて「汪翔にして見ざる所靡し」といい、山濤(さんとう)もて「山に登りて下を臨むが若く、深遠に幽然たり」という〔一〕。
初め、楷の家に黍を炊いて甑に在るに、或いは變ずること拳の如く、或いは血と作り、或いは蕪菁子と作る。其の年にして卒す。時に年は五十五。諡して元と曰う。五子有り、輿・瓚・憲・禮・遜。

輿、字は祖明。少くして父の爵を襲い、官は散騎侍郎に至り、卒するや諡して簡と曰う。

瓚、字は國寶。中書郎たり、風神は高邁、見る者は皆な之を敬う。特に王綏(おうすい)の重んずる所と爲り、每に其の遊に從う。綏の父の戎、之に謂いて曰く「國寶は初め來らざるに、汝の數々往くは、何ぞや」と。對えて曰く「國寶は綏を知らずと雖も、綏は自ら國寶を知ればなり」と。楊駿の誅せらるるや、亂兵の害する所と爲る。

憲、字は景思。少くして穎悟、好みて輕俠と交わる。弱冠に及び、更めて節を折りて嚴重、儒學を修め尚び、足の閾を踰えざること數年。陳郡の謝鯤(しゃこん)・潁川の庾敳(ゆがい)は皆な儁朗の士にして、見て之を奇とし、相い謂いて曰く「裴憲は鯁亮宏達、機に通じ命を識り、其の父に何如なるかを知らず。深弘にして素を保ち、世物を以て心に嬰わさざることに至りては、其れ殆ど之に過ぐ」と。
初め、東宮に侍講し、黃門・吏部郎、侍中を歷たり。東海王越、以て豫州刺史・北中郎將・假節と爲す。王浚の承制するや、憲を以て尚書と爲す。永嘉の末、王浚の石勒の破る所と爲るや、棗嵩(そうすう)等、軍門に謝罪せざるは莫く、貢賂は交錯するも、惟だ憲及び荀綽(じゅんしゃく)のみ私室に恬然とす。勒、素より其の名を聞きたれば、召して之に謂いて曰く「王浚は幽州に虐暴たり、人鬼は同に疾む。孤、恭しく乾憲を行い、茲の黎元を拯い、羇舊は咸な歡び、慶謝は路に交わる。二君は齊しく傲威を惡むも、誠信は岨絕せらる。防風の戮〔二〕、將に誰にか歸せんや」と。憲、神色侃然として、泣きて對えて曰く「臣等、世々晉の榮を荷り、恩遇は隆重たり。王浚は凶粗にして正を醜むも、尚お晉の遺藩たり。聖化を欣ぶと雖も、義として誠心を岨(はば)む。且つ武王の紂を伐つや、商容の閭を表するも、未だ商容の倒戈の例に在るを聞かざるなり。明公は既に道化を以て物を厲ますを欲せず、必ず刑忍に於いて治を爲す者なれば、防風の戮、臣の分なり。請う、辟に有司に就かん」と。拜せずして出ず。勒、深く之を嘉し、待するに賓禮を以てす。勒、乃ち王浚の官寮親屬を簿するに、皆な貲は巨萬に至るも、惟だ憲と荀綽の家のみ書百餘袠、鹽米各十數斛有るのみ。勒、之を聞き、其の長史の張賓に謂いて曰く「名は虛ならざるなり。吾、幽州を得るを喜ばざるも、二子を獲るを喜ぶ」と。從事中郎に署し、出だして長樂太守と爲す。勒の僭號するに及び、未だ制度に遑あらざるに、王波と與に之が爲に朝儀を撰し、是に於いて憲章文物、王者に擬す。勒、大いに悅び、太中大夫に署し、司徒に遷す。
季龍の世に及び、彌々禮重を加えらる。憲に二子有り、挹(ゆう)・瑴(かく)、並びに文才を以て名を知らる。瑴は季龍に仕えて太子中庶子・散騎常侍と爲る。挹・瑴、俱に豪俠にして酒に耽り、人物を臧否するを好む。河間の邢魚(けいぎょ)と隙有り、魚、竊かに瑴の馬に乘りて段遼に奔り、人の獲うる所と爲るや、魚、瑴は己をして季龍の當に鮮卑を襲わんとするを以て、之を告げて備えを爲さしめんとすと誣す。時に季龍は適に遼を伐たんことを謀り、而して魚の辭と正に會す。季龍、悉く挹・瑴を誅し、憲も亦た坐して免ぜらる。未だ幾くならずして、復た以て右光祿大夫・司徒・太傅と爲し、安定郡公に封ず。
憲、官を歷るに幹績の稱無く、然も朝に在りては玄默し、未だ嘗て物務を以て懷を經ず。但だ德は重く名は高きを以て、動れば尊禮せらる。竟に石氏に卒し、族人の峙の子の邁を以て嗣と爲す。

楷の長兄の黎、次兄の康、並びに名を知らる。康の子の盾、少くして顯位を歷たり。永嘉中、徐州刺史と爲るや、長史の司馬奧に委任す。奧、盾に刑殺して威を立てんことを勸め、大いに良人を發して兵と爲し、法を奉ぜざる者有れば罪して死に至らしむ。任に在ること三年、百姓は嗟怨す。東海王越は、盾の妹の夫なり。越の既に薨ずるや、騎督の滿衡、便ち發する所の良人を引きて東のかた還る。尋いで劉元海、將の王桑・趙固を遣わして彭城に向かわしめ、前鋒の數騎の下邳に至るや、文武は苛政に堪えずして、悉く皆な散走す。盾・奧、淮陰に奔り、妻子は賊人の得る所と爲る。奧、又た盾を誘いて趙固に降る。固の妻は盾の女にして、寵有れば、盾、女に向いて涕泣するも、固、遂に之を殺す。

盾の弟の邵(しょう)、字は道期。元帝の安東將軍と爲るや、邵を以て長史と爲し、王導もて司馬と爲し、二人は相い與に深交を爲す。徵されて太子中庶子と爲り、復た散騎常侍、使持節・都督揚州江西淮北諸軍事・東中郎將に轉じ、越に隨いて項に出で、而して軍中に卒す。王導の司空と爲るに及び、既に拜するや、嘆じて曰く「裴道期・劉王喬、在らませば、吾、獨り此の位に登るを得ず」と。導の子の仲豫、康と同字なれば、導、舊好を思い、乃ち改めて敬豫と爲す。

楷の弟の綽、字は季舒。器宇は宏曠、官は黃門侍郎・長水校尉に至る。綽の子の遐(か)、玄理を言うを善くし、音辭の清暢たること、泠然として琴瑟の若し。嘗て河南の郭象と談論するに、一坐嗟服す。又た嘗て平東將軍の周馥(しゅうふく)の坐に在り、人と圍棊す。馥の司馬、行酒するに、遐、未だ即ち飲まざれば、司馬は醉いて怒り、因りて遐を曳きて地に墮つ。遐、徐ろに起ちて坐に還り、顏色は變わらず、復た棊すること故の如し。其の性の虛和なること此くの如し。東海王越、引きて主簿と爲すも、後に越の子の毗(ひ)の害する所と爲る。

初め、裴・王の二族、魏晉の世に盛んにして、時人は以て八裴は八王に方ぶと爲し、徽は王祥に比し、楷は王衍に比し、康は王綏に比し、綽は王澄に比し、瓚は王敦に比し、遐は王導に比し、頠は王戎に比し、邈(ばく)は王玄に比すと云う。

〔一〕夏侯玄に関しての言葉は、夏侯玄が宗廟や礼楽をつかさどる太常となることになるも、活躍する間もなく誅殺されることの予言として、鍾会に関しては、才識を評価されて大いに活躍するも、結局は叛乱を起こして兵刃に倒れることの予言として描かれている。傅嘏に関しては、彼が当時の人々の中でも群を抜いて見識が広いことで有名になること、山涛については、彼が長らく隠遁することになるということを示したものか。
〔二〕昔、禹が会稽山で群神を招いた際、遅れてやってきた防風氏を禹は誅戮した、という伝説があり、多くの史書にその話が記載されている。ここで石勒は、すぐに石勒に降らずに遅参した裴憲・荀綽の二人を、防風氏になぞらえているのである。

現代語訳

裴楷は、字を叔則と言った。父の裴徽(はいき)は、魏の時代に冀州刺史にまで上った。裴楷は、聡明でかつ見識と度量があり、弱冠の年にはもう名を知られており、特に『老子』や『易』に精通し、若い頃から王戎と並ぶ名声を得ていた。鍾会(しょうかい)は彼を文帝(司馬昭)に推薦し、そのため裴楷は(司馬昭の)相国府の掾として辟召され、やがて尚書郎に昇進した。賈充が律令を改定する際に、裴楷は定科郎に任じられた。その事業が完成すると、武帝(司馬炎)は裴楷に詔を下して出来上がった律令を御前で朗読させ、朝臣たちにその当否を評議させた。裴楷は朗読が上手かったので、左右の者は裴楷に注目し、朗読を聞いている者は疲れを忘れて聞き入った。(時は遡って魏の時代に)武帝が中撫軍となると、その属僚を念入りに選び、その中で裴楷を参軍事に任じた。尚書吏部郎が欠員になると、文帝はその適任者を鍾会に問うた。鍾会は言った。「裴楷は清明で物事に通達しており、王戎は発言内容が簡潔で要領を得ており、いずれも候補として挙げられます」と。そこで裴楷を尚書吏部郎に任じた。
裴楷は、風采は高邁であり、容貌はすぐれて美しく爽やかで、諸書を博覧し、特に道理や経義に精通し、そこで当時の人々は裴楷のことを「玉人」と呼び、また「裴叔則に遇うのは宝玉の山に近づくようなもので、人を輝き照らすのである」と称した。やがて中書郎に転任し、禁中に出入りするようになったが、彼に出遭った者はみな粛然として襟を正したのであった。武帝が帝位に即い(て晋王朝を創設し)たばかりの頃、くじを引いて王朝が何代続くかを占ったところ、「一」という結果が出たので、武帝は不快に思った。群臣たちは色を失い、誰も口を開かなかった。そのような中、裴楷は襟を正し、その声や息を整えて、ゆったり落ち着いて進み出て言った。「私の聞くところ(『老子』)によりますと、天は一を得たことによって清らかになり、地は一を得たことによって安泰となり、王侯は一を得たことによって主となった、と言います」と。武帝は非常に喜び、群臣はみな万歳を唱えた。その後すぐに散騎侍郎に任じられ、やがて何度も昇進して散騎常侍、次いで河内太守となり、また中央に戻って屯騎校尉、右軍将軍となり、さらに侍中に転任した。
石崇は功臣の子であり才気もあって、しかし裴楷とは志向がそれぞれ異なっていたので、裴楷と交流することはなかった。長水校尉の季舒(裴楷の弟の裴綽(はいしゃく)、字は季舒)は、かつて石崇とともに宴で楽しんでいたが、季舒が度を過ぎて傲慢であったので、石崇は季舒の官を免じるよう上表しようとした。裴楷はそれを聞いて石崇に言った。「あなたは他人に狂薬(酒)を飲ませておきながら、それでいて正常な礼節を求めてとがめるなどというのは、なんと矛盾したことではありませんか」と。石崇は、それを聞いて上表するのをやめた。
裴楷は寛容・温厚な性格で、人と対立して逆らうようなことはしなかった。また、倹約・質素であることを堅持しようとはせず、富貴な人のもとを訪れるたびに、いつも珍しい鑑賞用の物品をもらってきた。その一方で、車馬や日常に用いる器物・衣服であっても、長きにわたって、諸々の窮乏している人々に対して施し与えてきた。また、かつて別宅を建てた際に、其の従兄の裴衍が、それを見て気に入ってしまったので、裴楷は即座にその別宅を裴衍に譲った。梁王・司馬肜(しばゆう)、趙王・司馬倫の二王は、皇室の近親であり、当時において位も高く重任を担っていたが、裴楷は毎年、両国の租税のうち百万銭ずつをもらえるように請い、それを自分の親族に分け与えた。中にはそれを非難する人もいたが、裴楷は言った。「余剰な分を減らして不足している分を補うのは、天の道である」と。毀誉褒貶を気にせず、己のなすべき務めであると自任していることを実行する様子は、いずれもまさにこのような具合である。
裴楷は、山涛・和嶠(かきょう)と一緒に盛んな徳によって侍中の位にあったが、武帝はかつて彼らに問うた。「朕は、天に応じ、時宜に従い、海内は更始することになったが、天下の輿論として、何を良い点とし、何を悪い点としているのであろうか」と。裴楷は答えて言った。「陛下は天命を受け、四海は陛下の教化を享受しているにもかかわらず、まだその徳が尭や舜に及ばないとされる理由は、ただ賈充のような輩がなお朝廷にいるからであります。今後は天下の賢人を招き、ともに正道を盛んにすべきです。(賈充と私的に仲が良いからと)その私情を人々の前にさらし出すべきではありません」と。時に任愷(じんがい)・庾純(ゆじゅん)らもまた賈充について意見を述べたので、武帝はそこで賈充を地方に出して関中都督に任じたが、まもなく賈充が娘を皇太子に娶らせるということになったので、そうして中止された。呉を平定した後になって、やっと武帝は太平の教化を実践し、常に公卿を招き、一緒に政道を論じるようになった。そこで裴楷は、三皇・五帝の風教について述べ、次に漢・魏の盛衰の事跡について順をおって述べた。武帝はそれを善しとして称賛し、同席していた者たちは、裴楷に嘆服した。
裴楷の子の裴瓚(はいさん)は、楊駿の娘を娶ることになったが、しかし裴楷はもとから楊駿を軽んじていたので、楊駿との仲は穏やかではなかった。楊駿が執政すると、そこで裴楷は衛尉に転任し、太子少師に昇進したが、のんびりとして何もせず、ずっと静かに黙っていた。楊駿が誅殺されたときには、裴楷は婚姻関係にある親戚であるということで捕らえられ、廷尉に送られ、法の裁きを受けることになった。その日、(楊駿誅殺の)事変は唐突に起こり、誅殺が乱雑に行われていたので、人々はそのため震え恐れていた。しかし裴楷は、顔色はいつもと変わらず、挙動は泰然自若であり、そこで紙と筆を要求して親戚や旧友たちに書信を送った。そして、侍中の傅祗(ふし)に頼んで弁護してもらい、その結果、死を免れることはできたが、それでも官は罷免されることになった。やがて大保の衛瓘(えいかん)と太宰の司馬亮が、裴楷は節操が固く正しく、付和雷同するような人物ではないので、爵位と封土を授かるべきであると称したので、そこで裴楷は臨海侯に封ぜられ、食邑は二千戸とされた。また、楚王・司馬瑋(しばい)に代わって北軍中候に任じられ、散騎常侍を加えられた。司馬瑋は、衛瓘・司馬亮が自分を退けて裴楷を北軍中候に任じたことを恨み、裴楷はそのことを聞いたので、拝命しようとせず、そこで尚書に転任することとなった。
裴楷の長子の裴輿は以前に司馬亮の娘を娶っており、裴楷の娘は衛瓘の子に嫁いでいたので、裴楷は、婚姻関係に基づく災難がまだやまないであろうことを憂慮し、地方の軍鎮として出ることを求め、「安南将軍・仮節・都督荊州諸軍事」に任命されたが、まさに出発しようというときに、果たして司馬瑋が詔と偽って司馬亮・衛瓘を誅殺した。司馬瑋は、裴楷がかつて自分から北軍中候の地位を奪い、しかも司馬亮・衛瓘と婚姻関係にある親戚であることから、ひそかに兵を派遣して裴楷を討とうとした。裴楷は、もとから司馬瑋が自分に対して恨みを抱いているのを知っていたので、事変が起こったのを聞くと、車一台だけで洛陽に入城し、妻の父である王渾の家に隠れ、さらに司馬亮の小子と一緒に一夜に八回も居場所を変えたので、その結果、難を免れることができた。司馬瑋が誅殺されると、恵帝は裴楷を中書令に任じ、侍中の官位を加え、張華・王戎(おうじゅう)と一緒に国家の枢要をつかさどった。
裴楷には渇利の病(喉が渇いて水を飲んでも、飲んだそばから尿として排泄されて渇きが引かない病気)があり、権勢の座にいることを喜ばなかった。王渾(おうこん)は裴楷のために請うて言った。「裴楷は先帝に抜擢されるという恩を受け、さらに陛下の恩寵により厚遇をこうむり、実に今こそ節義を尽くすべきときです。しかし、裴楷は他人と競い争うような性格ではなく、昔、散騎常侍となったときには、別の官職につけてもらうよう求め、地方に出て河内太守となり、後に侍中になった際には、また求めて外に出て河南尹となり、楊駿との仲が穏やかでなくなると、また求めて衛尉となり、東宮官である太子少師に転任するに及んでは、班次は同輩たちの下にありましたが、無欲で謙譲な態度でその立場に満足し、有識者はそれによってその心が垣間見えたことでございましょう。裴楷は今や体が衰弱しており、私はそのことを深く心配しております。(閑職である)光禄勲の地位は今のところ欠員でありますので、裴楷をそこに用いるのが良いと思われます。今、張華が中書(中書監)の位にあり、王戎が尚書(尚書左僕射・領吏部尚書)の位にあり、枢要を総括するには充分でございますので、そのためにさらに裴楷を参入させる必要はございません。名臣は多くありませんので、どうか裴楷を療養させ、その志を尊重し、(長生きさせることにより)長きにわたって国の利益を生ませ続けることを図るべきです」と。恵帝はそれを聞き容れず、その場で裴楷に光禄大夫・開府儀同三司の位を加えた。裴楷の病が重篤になると、恵帝は詔を下して黄門郎の王衍を派遣して見舞いに行かせたが、裴楷は、王衍の方に目を向けてじっと見つめて言った。「今まで(君とは)会ったことはないね」と。王衍は、(病衰してもなお)その精神が優れて力強いことに対し、深く嘆息した。
裴楷には人について知る鑑識眼があり、初め河南尹だった頃、楽広が郡内に寓居していたが、まだ名を知られていなかったにもかかわらず、裴楷は楽広に会って彼を高く評価し、公府に推薦して辟召させるに至った。また、かつて夏侯玄を見て言った。「粛々として宗廟の中に入ることになろうが、ただ礼器・楽器を見るだけで終わるであろう」と。また、鍾会に関しては「武器庫に兵具がたんまり収められているのを見るかのごとく才識が溢れているが、ただ、矛戟が目の前に突き付けられるのを見ることになろう」と言い、傅嘏(ふか)に関しては「広く物事に通暁し、あらゆるものを見知っている」と言い、山涛に関しては「山に登って下を臨み見るかのごとく、深遠に幽然と佇むこととなろう」と言った。
初め、裴楷の家で黍を炊いていたとき、甑の中にあった黍が、あるいは拳のように変形し、あるいは血となり、あるいはカブの種となる異変が起こった。その年のうちに、裴楷は死去した。時に五十五歳であった。「元侯」という諡を授けられた。裴楷には五人の子があり、裴輿・裴瓉・裴憲・裴礼・裴遜と言った。

裴輿は、字を祖明と言った。若い頃に父の爵を継ぎ、官位は散騎侍郎に至り、死去すると「簡侯」という諡を授けられた。

裴瓉は、字を国宝と言った。中書郎となり、風采は高邁で、見る者はみな彼を敬った。特に王綏(おうすい)に重んじられ、裴瓉はいつも王綏が出かけるのに付き従った。王綏の父の王戎は、王綏に言った。「国宝は初めこちらを訪れなかったのに、お前からしばしば彼のもとを訪れるのはなぜか」と。王綏は答えて言った。「国宝は私のことを理解していませんでしたが、私はもとから国宝のことを理解していたからです」と。楊駿が誅殺されると、裴瓉は反乱軍の兵士によって殺されてしまった。

裴憲は、字を景思と言った。若い頃から聡明で、好んで俠者たちと交流していた。弱冠の年になると素行を改め、厳粛で慎重になり、儒学を尊んで修め、数年の間、家の敷地から足を外に踏み出すことはなかった。陳郡の人である謝鯤(しゃこん)、潁川の人である庾敳(ゆがい)はいずれも英俊で明朗な士大夫であったが、裴憲に会って彼を高く評価し、互いに言い合った。「裴憲は実直かつ闊達であり、機に通じ命を知っており、その父と比べてもいかほどかは分からない。ただ、才徳が深く大きく、それでいて質素さを保ち、世間の俗事に関心が無いという点では、おそらくは父以上なのではないか」と。
初め、東宮(皇太子)のもとで侍講し、やがて黄門郎、尚書吏部郎、侍中を歴任した。東海王・司馬越が実権を握ると、彼を「豫州刺史・北中郎将・仮節」に任じた。(やがて司馬越が死に)王浚が承制する(皇帝の命を受けたとして万事を総括する)と、裴憲を尚書に任じた。永嘉年間の末、王浚が石勒に敗れて滅びると、(王浚の娘婿である)棗嵩(そうすう)らは、みな石勒の軍門に至って謝罪し、貢納や賄賂が行き交ったが、ただ裴憲と荀綽(じゅんしゃく)だけは、知り合いの家で意に介さず平然と過ごしていた。石勒は、もとから裴憲の名声を聞いていたので、召し出して言った。「王浚は幽州で暴虐に振る舞い、人も鬼もともに憎んでいた。私は、つつしんで王法を行使し、その民衆を救い、元からその地にいた人々も、難を逃れて寓居していた人々もみな歓喜し、その喜び感謝する声は道路中に満ち溢れている。二君(裴憲・荀綽)はいずれも、傲慢で威勢を張る者を憎むと聞いているが、(私がその王浚を滅ぼしたというのに)私の誠信の心は拒絶された。防風氏に対する誅戮は、いったいどちらに加えるべきか」と。裴憲は、剛直な態度で、泣いて答えた。「私たちは代々晋の栄えある恩寵をこうむり、非常に厚い待遇を受けました。王浚は凶悪かつ粗暴で、正直な者を憎むような者でしたが、それでもやはり晋の生き残りの藩屏でございました。素晴らしき教化を喜ぼうとも、義としてあなたの誠心を受け容れることはできません。しかも(周の)武王が(殷の)紂王を征伐したとき、(紂王に退けられた殷の賢臣である)商容の故郷の里門に旗を立てて彼を表彰しましたが、(後世の者により)商容の名が裏切り者の例として挙げられているのを聞いたことがありません。あなたは道徳による教化により人々を励ますことを望まず、必ず残忍な刑罰によって統治を行うというような人である以上、防風氏の誅戮は、私が甘んじて受けましょう。どうか官署で刑罰を受けることをお許しください」と。裴憲は拝礼を行わずに退出した。石勒は、深く裴憲を賛美し、上賓の礼を以て接した。やがて石勒は、王浚の親族や配下の官僚の情報を帳簿に登記することにし、みな財産は何万銭にも及んだが、ただ裴憲と荀綽の家のみ、百帙あまりの書と、塩と穀物がそれぞれ十数斛あるだけであった。石勒はそれを聞くと、その長史である張賓に対して言った。「彼らの名声は上辺だけのものではなかった。私は、幽州を得たことに関してはそんなにうれしくないが、二人を得たことに関しては非常に喜ばしく思う」と。石勒は裴憲を従事中郎に任命し、やがて地方に出して長楽太守とした。石勒が皇帝を僭称する際、制度をきちんと整える余裕がなかったが、裴憲は王波と一緒に石勒のために朝廷の儀礼について編集し、それによって石勒の国の制度や文物が、王者になぞらえるものとなった。石勒は大いに喜び、裴憲を太中大夫に任じ、やがて司徒に昇進させた。
石季龍(石虎)の世になると、裴憲はますます尊重されて礼を加えられた。裴憲には二人の子がおり、裴挹(はいゆう)・裴瑴(はいかく)と言い、いずれも文才によって名を知られていた。裴瑴は石季龍に仕えて太子中庶子・散騎常侍となった。裴挹・裴瑴はいずれも豪侠であり酒を嗜み、人物の良否を鑑定するのを好んだ。彼らは河間の人である邢魚(けいぎょ)と折り合いが悪く、あるとき邢魚は、こっそり裴瑴の馬を盗んでそれに乗って(鮮卑段部の)段遼のもとに亡命しようとし、その途上で捕まったが、邢魚は「石季龍が鮮卑を襲撃しようとしているので、裴瑴が私を派遣してそのことを告げて備えさせようとした」と嘘をついて裴瑴を誣告した。時に石季龍はちょうど段遼を征伐しようと謀議を行っており、邢魚の言葉とちょうど一致した。そこで石季龍は、裴挹・裴瑴を二人とも誅殺し、裴憲もそのせいで罷免された。ただ、まもなくまた裴憲を右光禄大夫、司徒、太傅に任じ、安定郡公に封じた。
裴憲は、様々な官職を歴任しても優れた業績を上げたという称賛の風声は無く、しかも朝廷では何も言わずに黙り続け、未だかつて諸々の事務に関して気にかけることなど無かった。ただ徳が深く高い名声を有しているということで、いつも尊重されて礼遇を受けた。そして、最後まで石氏の国(後趙)に仕えたまま死去し、族人である裴峙の子の裴邁を後嗣とした。

裴楷の長兄の裴黎と、次兄の裴康は、いずれも世に名を知られていた。裴康の子の裴盾は、若くして高位の官職を歴任した。永嘉年間、徐州刺史となると、裴盾はその長史の司馬奧を深く信任した。司馬奧は、刑殺により威厳を立てることを裴盾に勧め、そこで大々的に平民を徴発して兵とし、法に従わない者がいれば処罰して死に至らせた。三年間在任し、人々は怨嗟していた。東海王・司馬越は、裴盾の妹の夫であった。司馬越が薨去すると、裴盾の騎督の満衡は、すぐさま裴盾が徴発した平民たちを連れて東に帰ってしまった。まもなく劉元海(劉淵)が、その将帥である王桑・趙固を派遣して(徐州の)彭城に差し向け、前鋒の数騎が(徐州の)下邳に到着すると、徐州の文武の官吏たちは苛政に堪えきれず、みなすべて逃げ散ってしまった。裴盾と司馬奧は淮陰に出奔し、妻子は賊人に奪われてしまった。司馬奧はさらに、裴盾を誘って趙固に降った。趙固の妻は裴盾の娘であり、その寵愛を受けていたので、裴盾は娘に向かって泣いて命乞いをしたが、趙固は結局、裴盾を殺した。

裴盾の弟の裴邵(はいしょう)は、字を道期と言った。元帝(司馬睿(しばえい))が安東将軍となると、裴邵を長史に、王導を司馬に任じ、二人は互いに深い交流を築いた。やがて裴邵は(司馬越政権下の朝廷に)徴召されて太子中庶子に任じられ、さらに散騎常侍、「使持節・都督揚州江西淮北諸軍事・東中郎将」に転任し、司馬越に従って項に出撃し、そのまま軍中で死去した。王導が(東晋政権の)司空となったとき、その拝命を終えると、王導は嘆息して言った。「裴道期・劉王喬(劉疇(りゅうちゅう))が存命ならば、私だけがこの位に登ることはなかったであろうに」と。王導の子である王仲豫(王恬(おうてん))は、(裴邵の父である)裴康と同じ字(あざな)であったので、王導は古い友好関係を思い返し、そこで仲豫の字を改めて「敬豫」とした。

裴楷の弟の裴綽は、字を季舒と言った。度量が広く、官職は黄門侍郎・長水校尉にまで上った。裴綽の子の裴遐(はいか)は、玄妙なる道理について語ることに長じ、その声の透き通っていて語りの流暢である様子は、涼しく清らかで、まるで琴瑟の音のようであった。かつて河南の人である郭象と談論した際、同席のものはみな裴遐に対して嘆服した。また、かつて平東将軍の周馥(しゅうふく)の坐にあった際に、人と囲碁をしていた。そこで周馥の司馬が酒を注いで飲むように勧めたが、裴遐がすぐには飲もうとしなかったので、その司馬は酔いに任せて怒り、そして裴遐の体を引っぱって地面にたたき落とした。裴遐は、ゆっくりと立ち上がって坐に戻り、顔色を変えず、元通りまた棊を打った。その性格が虚静で穏和であることは、まさにこの通りである。東海王・司馬越は、裴遐を招いて主簿に任じたが、裴遐は後に司馬越の子の司馬毗(しばひ)に殺されてしまった。

初め、裴氏と王氏の二族は魏晋の世に栄え、当時の人々は、八裴(八人の裴氏)は八王(八人の王氏)になぞらえられるとして、裴徽は王祥になぞらえられ、裴楷は王衍になぞらえられ、裴康は王綏になぞらえられ、裴綽は王澄になぞらえられ、裴瓉は王敦になぞらえられ、裴遐は王導になぞらえられ、裴頠は王戎になぞらえられ、裴邈(はいばく)は王玄になぞらえられたのである。

原文

史臣曰
周稱多士、漢曰得人、取類星象、頡頏符契。時乏名流、多以幹翮相許、自家光國、豈陳騫之謂歟。秀則聲蓋朋僚、稱爲領袖。楷則機神幼發、目以清通。俱爲晉代名臣、良有以也。

贊曰
世既順才、才膺世至。高平沈敏、蘊茲名器。鉅鹿自然、亦云經笥。媧皇鍊石、晉圖開祕。頠有清規、承家來媚。

訓読

史臣曰く
周は士多しと稱し、漢は人を得たりと曰い、類を星象に取り、頡頏して符契す。時に名流乏しく、多く幹翮を以て相い許すに、自家(みずか)ら國を光いにせしは、豈に陳騫(ちんけん)の謂ならんか。秀は則ち聲は朋僚を蓋い、稱して領袖と爲す。楷(かい)は則ち機神幼發し、目るに清通を以てす。俱に晉代の名臣と爲るは、良に以有るなり。

贊に曰く
世既きて才に順い、才膺ちて世至る〔一〕。高平は沈敏にして、茲の名器を蘊む。鉅鹿は自然にして、亦た經笥なりと云う。媧皇は石を鍊り、晉圖は祕を開く。頠(ぎ)は清規有り、家を承け媚を來たす。

〔一〕治世が終わるというのは後漢の衰退と滅亡のことを指し、また治世が訪れるというのは西晋による三国統一を指す。その間の後漢末・三国時代を、ここでは世が尽きた時代であると見ているのである。

現代語訳

史臣の評
周は優秀な人士が多いと称され、漢は豊富な人材を得ていると言われ、その様子はまさに星々の煌めきに喩えられ、その豊かさはどちらも拮抗していて、ぴったり同等である。時に(魏晋の時代には)名流の士大夫は乏しく、人々は多く実務の才幹によって世に認められたが、(一門の力に頼らず)身一つで国家の栄誉を大いなるものにしたというのは、あるいは陳騫(ちんけん)のことを言うのではないだろうか。裴秀は、その名声は同僚たちを覆うほどに大きく、まさに領袖であると称された。裴楷(はいかい)は、機微を理解する才能が幼い頃より発露し、清明で物事に通達しているその鑑識眼によって他人の人柄を見抜いた。二人とも晋代の名臣となったのは、実に故あることである。


治世が終わりを迎えて乱世になると、人々は才能ある者に従うようになり、才能ある者が他の者を討伐し、また治世が訪れる。高平公・陳騫は沈着かつ聡敏で、日頃の積み重ねによりその大器を築き上げた。鉅鹿公・裴秀は自然の境地に至り、また経学に通達していると称された。(昔、天を支える柱が崩れて天が欠けた際に)女媧は五色の石を製煉して天を補修したが、(今、裴秀の作った)晋の地図が大地の秘密について解き明かした。裴頠(はいぎ)は人々に遵守すべき規範を示し、家門を継承して人々に親しまれた。