いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第六巻_衛瓘(子恒・孫璪・玠)・張華(子禕・韙)・劉卞

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お恥ずかしい限りですが、ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。宜しくお願いいたします。

衞瓘 子恒 孫璪 玠

原文

衞瓘字伯玉、河東安邑人也。高祖暠、漢明帝時、以儒學自代郡徵、至河東安邑卒。因賜所亡地而葬之、子孫遂家焉。父覬、魏尚書。瓘年十歲喪父、至孝過人。性貞靜有名理、以明識清允稱。襲父爵閿鄉侯。弱冠為魏尚書郎。時魏法嚴苛、母陳氏憂之、瓘自請得徙為通事郎、轉中書郎。時權臣專政、瓘優游其間、無所親疏、甚為傅嘏所重、謂之甯武子。在位十年、以任職稱、累遷散騎常侍。陳留王即位、拜侍中、持節慰勞河北。以定議功、增邑戶。數歲轉廷尉卿。瓘明法理、每至聽訟、小大以情。
鄧艾・鍾會之伐蜀也、瓘以本官持節監艾・會軍事、行鎮西軍司、給兵千人。蜀既平、艾輒承制封拜。會陰懷異志、因艾專擅、密與瓘俱奏其狀。詔使檻車徵之。會遣瓘先收艾。
會以瓘兵少、欲令艾殺瓘、因加艾罪。瓘知欲危己、然不可得而距。乃夜至成都、檄艾所統諸將、稱詔、收艾、其餘一無所問。若來赴官軍、爵賞如先。敢有不出、誅及三族。比至雞鳴、悉來赴瓘、唯艾帳內在焉。平旦開門、瓘乘使者車、徑入至成都殿前。艾臥未起、父子俱被執。艾諸將圖欲劫艾、整仗趣瓘營。瓘輕出迎之、偽作表草、將申明艾事、諸將信之而止。
俄而會至、乃悉請諸將胡烈等、因執之、囚益州解舍、遂發兵反。於是士卒思歸、內外騷動、人情憂懼。會留瓘謀議、乃書版云「欲殺胡烈等」。舉以示瓘、瓘不許、因相疑貳。瓘如厠、見胡烈故給使、使宣語三軍、言會反。會逼瓘定議、經宿不眠、各橫刀膝上。在外諸軍已潛欲攻會、瓘既不出、未敢先發。會使瓘慰勞諸軍。瓘心欲去、且堅其意、曰、「卿三軍主、宜自行」。會曰、「卿監司、且先行。吾當後出」。瓘便下殿。會悔遣之、使呼瓘。瓘辭眩疾動、詐仆地。比出閤、數十信追之。瓘至外解、服鹽湯、大吐。瓘素羸、便似困篤。會遣所親人及醫視之、皆言不起。會由是無所憚。及暮、門閉、瓘作檄宣告諸軍。諸軍並已唱義、陵旦共攻會。會率左右距戰、諸將擊敗之、唯帳下數百人隨會繞殿而走、盡殺之。瓘於是部分諸將、羣情肅然。
鄧艾本營將士復追破檻車出艾、還向成都。瓘自以與會共陷艾、懼為變、又欲專誅會之功、乃遣護軍田續至緜竹、夜襲艾於三造亭、斬艾及其子忠。初、艾之入江由也、以續不進、將斬之、既而赦焉。及瓘遣續、謂之曰、「可以報江由之辱矣」。
事平、朝議封瓘。瓘以、克蜀之功、羣帥之力。二將跋扈、自取滅亡。雖運智謀、而無搴旗之效、固讓不受。除使持節・都督關中諸軍事・鎮西將軍、尋遷都督徐州諸軍事・鎮東將軍、增封菑陽侯、以餘爵封弟實開陽亭侯。

訓読

衞瓘 字は伯玉、河東安邑の人なり。高祖の暠は、漢の明帝の時、儒學を以て代郡より徵され、河東の安邑に至りて卒す。因りて亡する所の地を賜はりて之を葬り、子孫 遂に焉に家す。父の覬、魏の尚書なり。瓘 年十歲のとき父を喪ひ、至孝 人に過ぐ。性は貞靜にして名理有り、明識清允を以て稱へらる。父の爵閿鄉侯を襲ふ。弱冠にして魏の尚書郎と為る。時に魏 法は嚴苛にして、母の陳氏 之を憂ひ、瓘 自ら請ひて徙りて通事郎と為るを得て、中書郎に轉ず。時に權臣 政を專らにし、瓘 其の間を優游し、親疏する所無く、甚だ傅嘏の重ずる所と為り、之を甯武子と謂ふ。位に在ること十年、任職を以て稱へられ、累りに散騎常侍に遷る。陳留王 即位するや、侍中を拜し、持節して河北を慰勞す。議を定むるの功を以て、邑戶を增さる。數歲にして廷尉卿に轉ず。瓘 法理に明るく、每に聽訟に至り、小大 情を以てす。
鄧艾・鍾會の蜀を伐つや、瓘 本官を以て持節し艾・會の軍事を監し、鎮西軍司を行し、兵千人を給はる。蜀 既に平らぐや、艾 輒ち承制し封拜す。會 陰かに異志を懷き、艾の專擅に因りて、密かに瓘と與に俱に其の狀を奏す。詔して檻車もて之を徵さしむ。會 瓘をして先に艾を收めしむ。
會々瓘の兵 少なきを以て、艾をして瓘を殺さしめんと欲し、因りて艾に罪を加ふ。瓘 己を危ふくせんと欲すと知り、然るに得て距む可からず。乃ち夜に成都に至り、艾の統ぶる所の諸將に檄し、詔と稱して、「艾を收むれども、其の餘は一も問ふ所無し。若し來たりて官軍に赴かば、爵賞は先の如し。敢て出でざる有らば、誅は三族に及ぶ」と。雞鳴に至る比、悉く瓘に來赴し、唯だ艾のみ帳內に焉に在り。平旦に開門し、瓘 使者の車に乘り、徑ちに入りて成都の殿前に至る。艾 臥して未だ起きず、父子 俱に執へらる。艾の諸將 圖りて艾を劫せんと欲し、仗を整へて瓘の營に趣く。瓘 輕もて出でて之を迎へ、偽りて表草を作り、將に艾の事を申明せんとし、諸將 之を信じて止む。
俄かにして會 至り、乃ち悉く諸將の胡烈らに請ひて、因りて之を執へ、益州の解舍に囚へ、遂に兵を發して反す。是に於て士卒 歸らんと思ひ、內外 騷動し、人情 憂懼す。會 瓘を留めて議を謀り、乃ち版に書して云はく「胡烈らを殺さんと欲す」と。舉げて以て瓘に示すに、瓘 許さず、因りて相 疑貳す。瓘 厠に如くに、胡烈の故の給使を見て、語を三軍に宣べしめ、會 反すと言ふ。會 瓘に逼りて議を定めんとし、經宿 眠らず、各々刀を膝上に橫たふ。在外の諸軍 已に潛かに會を攻めんと欲し、瓘 既にして出でざれば、未だ敢て先に發せず。會 瓘をして諸軍を慰勞せしむ。瓘 心に去らんと欲し、且つ其の意を堅くして、曰く、「卿は三軍の主なり、宜しく自ら行くべし」と。會曰く、「卿は監司なり、且に先に行くべし。吾 當に後に出づべし」と。瓘 便ち殿を下る。會 之を遣ることを悔ひ、瓘を呼ばしむ。瓘 辭して眩みて疾動し、詐りて地に仆る。閤を出づる比、數十信もて之を追ふ。瓘 外に解くに至り、鹽湯を服し、大いに吐く。瓘 素より羸なり、便ち困篤するが似し。會 親しむ所の人及び醫を遣はして之を視るに、皆 起たずと言ふ。會 是に由り憚る所無し。暮に及び、門 閉ぢ、瓘 檄を作りて宣く諸軍に告ぐ。諸軍 並びに已に義を唱へ、旦を陵えて共に會を攻む。會 左右を率ゐて距戰するに、諸將 擊ちて之を敗り、唯だ帳下の數百人のみ會に隨ひて殿を繞(めぐ)りて走れば、盡く之を殺す。瓘 是に於て部して諸將を分け、羣情 肅然たり。
鄧艾の本營の將士 復た追ひて檻車を破りて艾を出し、還りて成都に向ふ。瓘 自ら會と與に共に艾を陷すを以て、變と為るを懼れ、又 會を誅するの功を專らにせんと欲し、乃ち護軍の田續を遣はして緜竹に至らしめ、夜に艾を三造亭に襲ひ、艾及び其の子の忠を斬る。初め、艾の江由に入るや、續の進まざるを以て、將に之を斬らんとし、既にして赦す。瓘 續を遣はすに及び、之に謂ひて曰く、「以て江由の辱に報ゆ可し」と。
事 平らぎ、朝 瓘を封ぜんとことを議す。瓘 以へらく、「克蜀の功は、羣帥の力なり、二將 跋扈し、自ら滅亡を取る、智謀を運すと雖も、而れども搴旗の效無し」といひ、固く讓して受けず。使持節・都督關中諸軍事・鎮西將軍に除し、尋いで都督徐州諸軍事・鎮東將軍に遷り、增して菑陽侯に封じ、餘爵を以て弟の實を開陽亭侯に封ず。

現代語訳

衛瓘は字を伯玉といい、河東郡安邑県の人である。高祖父の衛暠は、後漢の明帝のとき、儒学により代郡から徴召され、河東郡の安邑県に来たところで卒した。そこで亡くなった地を賜ってかれを葬り、子孫はそこに居住した。父の衛覬は、魏の尚書である。衛瓘が十歳のとき父を失い、至孝ぶりは人より優れていた。性格は貞節でしとやかであり論理的、見識があり清らかな真情を称えられた。父の爵位の閿郷侯を襲った。弱冠で魏の尚書郎となった。このとき魏の法運用は苛烈であり、母の陳氏は(職務で怨みを買うことを)心配し、衛瓘は自ら願って通事郎に移ることができ、中書郎に転じた。ときに権臣が政治で専横をしたが、衛瓘はその間を遊泳し、(権臣と)接近も対立もせず、とても傅嘏から重んじられ、(『論語』公冶長篇の)寧武子と言われた。位にあること十年、その職務で称えられ、散騎常侍に累遷した。陳留王が即位すると、侍中を拝し、持節して河北を慰労した。定策の功績で、封邑の戸数を増やされた。数年で廷尉卿に転じた。衛瓘は法理に明るく、つねに訴訟に立ち会い、(刑罰の)大小は実情を正しく踏まえたものであった。
鄧艾と鍾会が蜀を討伐すると、衛瓘は本官のまま持節して鄧艾と鍾会の軍事を監し、鎮西軍司を代行し、兵千人を給わった。蜀の平定が完了すると、鄧艾はその場で承制し官爵を発行した。鍾会はひそかに野心を抱き、鄧艾が専断したことを受け、ひそかに衛瓘とともにその罪状を上奏した。詔して檻車で鄧艾を徴させた。鍾会は衛瓘に先に鄧艾を捕らえさせた。
このとき衛瓘の兵は少なく、(鍾会は)鄧艾に衛瓘を殺させるため、鄧艾に罪を加えたのである。衛瓘は(鍾会の)害意を悟ったが、拒否できなかった。夜に成都城に至り、鄧艾が統率している諸将に檄文をあたえ、詔と称して、「鄧艾を捕らえるが、かれ以外は一切を罪に問わない、もし(鄧艾から去り)官軍に帰順するなら、爵賞は旧来どおりだ。あえて出てこない者は、誅殺が三族に及ぶ」と言った。鶏鳴(夜明け前)に、ことごとく衛瓘のもとに合流し、ただ鄧艾だけが帳内に残っていた。平旦に(夜が明けて)開門し、衛瓘は使者の車に乗り、まっすぐ入って成都城の殿前に到着した。鄧艾は横になってまだ起きず、父子ともに捕らえられた。鄧艾の諸将は示しあわせ鄧艾を脅そうとし、武器を整えて衛瓘の営所に行った。衛瓘は軽装で出迎え、偽って上表の草稿をつくり、鄧艾のことを(朝廷に)報告すると言い、諸将はこれを信じて止まった。
にわかに鍾会が到着し、胡烈らの諸将全員に頼んで、鄧艾を捕らえ、益州の解舎に収容したが、ついに(鍾会が)兵を発して反乱した。ここにおいて士卒は(魏に)帰りたいと思い、内外は騒動し、人心は憂懼した。鍾会は衛瓘を留めて意見を求め、(黙って)版に「胡烈らを殺そうと思う」と書いた。持ち上げて衛瓘に示したが、衛瓘は許さず、これにより対立が生じた。衛瓘が厠所にいくと、胡烈のもとの給使を見かけ、言葉を三軍に広く伝えさせ、鍾会が反したと言った。鍾会は衛瓘に迫って計画に巻き込もうとし、宵越しに眠らず、それぞれ刀を膝の上に横たえた。在外の諸軍はすでにひそかに鍾会を攻めようとしたが、まだ衛瓘が出てこないので、決起せずにいた。鍾会は衛瓘に諸軍を慰労させた。衛瓘は去る理由ができたと思い、意思を固めて、「あなたは三軍の主です、自分でお行きなさい」と言った。鍾会は、「あなたは監司です、先に行きなさい。私は後に続きましょう」と言った。衛瓘はこうして宮殿を去った。鍾会はかれを行かせたことを後悔し、衛瓘を呼び戻させた。衛瓘は辞退して眩暈がして発作に苦しんでいるといい、詐って地面に転倒した。(衛瓘が)閤(宮中の小門)から出たころ、(鍾会は)数十人の使者に追わせた。衛瓘は脱出し自由になると、塩湯を飲み、大いに吐いた。衛瓘はもとから痩せこけ、重病人のようであった。鍾会は身近な者や医者を派遣して様子を見たが、皆が(衛瓘は)立てないと言った。鍾会はこれにより警戒を解いた。日没に及び、門を閉じ、衛瓘は檄文を作って広く諸軍に告げた。諸軍はみなで義を唱えることとなり、明け方をまたいで一緒に鍾会を攻撃した。鍾会は左右の側近を率いて防戦したが、諸将がこれを撃ち破り、ただ帳下の数百人だけが鍾会に従って宮殿を巡って逃げたので、すべてを殺した。衛瓘は諸将を編成し直し、人々の意気は粛然となった。
鄧艾のもとの軍営の将士はまた追いかけて檻車を壊して鄧艾を助け出し、引き還して成都に向かおうとした。衛瓘は自ら鍾会とともに鄧艾を陥れたので、事変に巻き込まれることを懼れ、また鍾会を誅殺した功績を独占しようと思い、護軍の田続を派遣して緜竹に向かわせ、夜に鄧艾を三造亭で襲い、鄧艾とその子の鄧忠を斬った。これよりさき(蜀の平定戦で)、鄧艾が江由に入ると、田続が進軍しないことを理由に、かれを斬ろうとしたが、赦したことがあった。衛瓘は田続を送り出すとき、かれに、「江由の恥辱に報いよ」と言った。
事態が収束すると、朝廷で衛瓘の封建を議論した。衛瓘は、「蜀に勝った功績は、諸将の力です。二将(鄧艾と鍾会)は跋扈し、自滅しました。智謀をめぐらせましたが、敵軍の旗を抜くような武功がありません」といい、固く辞退して受けなかった。使持節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に除され、ほどなく都督徐州諸軍事・鎮東将軍に遷り、戸数を増して菑陽侯に封建し、残りの戸数で弟の衛実を開陽亭侯に封建した。

原文

泰始初、轉征東將軍、進爵為公、都督青州諸軍事・青州刺史、加征東大將軍・青州牧。所在皆有政績。除征北大將軍・都督幽州諸軍事・幽州刺史・護烏桓校尉。至鎮、表立平州、後兼督之。于時幽幷東有務桓、西有力微、並為邊害。瓘離間二虜、遂致嫌隙、於是務桓降而力微以憂死。朝廷嘉其功、賜一子亭侯。瓘乞以封弟、未受命而卒、子密受封為亭侯。瓘六男無爵、悉讓二弟、遠近稱之。累求入朝、既至、武帝善遇之、俄使旋鎮。
咸寧初、徵拜尚書令、加侍中。性嚴整、以法御下、視尚書若參佐、尚書郎若掾屬。瓘學問深博、明習文藝、與尚書郎敦煌索靖俱善草書、時人號為「一臺二妙」。漢末張芝亦善草書、論者謂瓘得伯英筋、靖得伯英肉。
太康初、遷司空、侍中・令如故。為政清簡、甚得朝野聲譽。武帝敕瓘第四子宣尚繁昌公主。瓘自以諸生之冑、婚對微素、抗表固辭、不許。又領太子少傅、加千兵百騎鼓吹之府。以日蝕、瓘與太尉汝南王亮・司徒魏舒俱遜位、帝不聽。
瓘以、魏立九品、是權時之制、非經通之道、宜復古鄉舉里選。與太尉亮等上疏曰、「昔聖王崇賢、舉善而教、用使朝廷德讓、野無邪行。誠以閭伍之政、足以相檢、詢事考言。必得其善、人知名不可虛求、故還修其身。是以崇賢而俗益穆、黜惡而行彌篤。斯則鄉舉里選者、先王之令典也。自茲以降、此法陵遲。魏氏承顛覆之運、起喪亂之後、人士流移、考詳無地、故立九品之制、粗且為一時選用之本耳。其始造也、鄉邑清議、不拘爵位、褒貶所加、足為勸勵、猶有鄉論餘風。中間漸染、遂計資定品、使天下觀望。唯以居位為貴、人棄德而忽道業、爭多少於錐刀之末、傷損風俗、其弊不細。今九域同規、大化方始。臣等以為、宜皆蕩除末法、一擬古制、以土斷定、自公卿以下、皆以所居為正、無復懸客遠屬異土者。如此、則同鄉鄰伍、皆為邑里、郡縣之宰、即以居長。盡除中正九品之制、使舉善進才、各由鄉論。然則下敬其上、人安其教、俗與政俱清、化與法並濟。人知善否之教、不在交遊、即華競自息、各求於己矣。今除九品、則宜準古制、使朝臣共相舉任、於出才之路既博、且可以厲進賢之公心、覈在位之明闇。誠令典也」。武帝善之、而卒不能改。
惠帝之為太子也、朝臣咸、謂純質、不能親政事。瓘每欲陳啟廢之、而未敢發。後會宴陵雲臺、瓘託醉、因跪帝牀前曰、「臣欲有所啟」。帝曰、「公所言何耶」。瓘欲言而止者三、因以手撫牀曰、「此座可惜」。帝意乃悟、因謬曰、「公真大醉耶」。瓘於此不復有言。賈后由是怨瓘。
宣尚公主、數有酒色之過。楊駿素與瓘不平、駿復欲自專權重、宣若離婚、瓘必遜位、於是遂與黃門等毀之、諷帝奪宣公主。瓘慚懼、告老遜位。乃下詔曰、「司空瓘年未致仕、而遜讓歷年、欲及神志未衰、以果本情。至真之風、實感吾心。今聽其所執、進位太保、以公就第。給親兵百人、置長史・司馬・從事中郎掾屬。及大車・官騎・麾蓋・鼓吹諸威儀、一如舊典。給廚田十頃・園五十畝・錢百萬・絹五百匹。牀帳簟褥、主者務令優備、以稱吾崇賢之意焉」。有司又奏收宣付廷尉、免瓘位。詔不許。帝後知黃門虛構、欲還復主、而宣疾亡。

訓読

泰始の初に、征東將軍に轉じ、爵を進めて公と為り、都督青州諸軍事・青州刺史たりて、征東大將軍・青州牧を加へらる。所在に皆 政績有り。征北大將軍・都督幽州諸軍事・幽州刺史・護烏桓校尉に除せらる。鎮に至るや、表して平州を立て、後に兼ねて之を督す。時に幽幷の東に務桓有り、西に力微有り、並びに邊害と為る。瓘 二虜を離間し、遂に嫌隙するに致り、是に於て務桓 降りて力微 憂を以て死す。朝廷 其の功を嘉し、一子に亭侯を賜ふ。瓘 以て弟を封ずるを乞ひ、未だ命を受けずして卒し、子の密 封を受けて亭侯と為る。瓘の六男 爵無く、悉く二弟に讓れば、遠近 之を稱ふ。累りに入朝を求め、既に至るや、武帝 善く之を遇し、俄かにして鎮に旋せしむ。
咸寧の初め、徵して尚書令を拜し、侍中を加ふ。性は嚴整にして、法を以て下を御し、尚書を視ること參佐の若く、尚書郎にして掾屬の若し。瓘の學問 深く博く、明らかに文藝を習ひ、尚書郎の敦煌の索靖と與に俱に草書を善くし、時人 號して「一臺二妙」と為す。漢末の張芝も亦た草書を善くし、論者 瓘 伯英が筋を得て、靖は伯英の肉を得と謂ふ。
太康の初、司空に遷り、侍中・令 故の如し。為政は清簡にして、甚だ朝野の聲譽を得たり。武帝 瓘の第四子の宣に敕して繁昌公主を尚せしむ。瓘 自ら諸生の冑なるを以て、婚は微素に對ふとし、表を抗して固辭し、許さず。又 太子少傅を領し、千兵百騎を鼓吹の府に加ふ。日の蝕するを以て、瓘 太尉の汝南王亮・司徒の魏舒と與に俱に位を遜し、帝 聽さず。
瓘 以へらく、魏の九品を立つるは、是れ權時の制にして、經通の道に非ず、宜しく古に復りて鄉舉里選すべしとす。太尉の亮らと與に上疏して曰く、「昔 聖王は賢を崇び、善を舉げて教へ、用て朝廷をして德もて讓らしめ、野に邪行無し。誠に閭伍の政を以て、以て相 檢たり、事を詢(と)ひ言を考ふるに足る。必ず其の善を得て、人 名を知りて虛しく求むる可からず、故に還りて其の身を修む。是を以て賢を崇びて俗は益々穆たり、惡を黜けて行は彌々篤し。斯れ則ち鄉舉里選は、先王の令典なり。茲より以降、此の法 陵遲す。魏氏 顛覆の運を承け、喪亂の後に起つや、人士 流移し、考詳 地無く、故に九品の制を立て、粗ぼ且に一時の選用の本と為すのみ。其の始めて造るや、鄉邑は議を清くし、爵位に拘らず、褒貶 加ふる所、勸勵を為すに足り、猶ほ鄉論の餘風有り。中間に漸く染し、遂に資を計り品を定め、天下をして觀望せしむ。唯だ居位を以て貴と為し、人は德を棄てて道業を忽せにし、多少を錐刀の末に爭ひ、風俗を傷損し、其の弊 細からず。今 九域は同に規し、大化は方に始まる。臣等 以為へらく、宜しく皆 末法を蕩除し、一ら古制に擬り、土を以て斷定し、公卿より以下、皆 居る所を以て正と為し、復た懸客遠屬異土なる者無かれ。此の如くんば、則ち同鄉鄰伍、皆 邑里と為り、郡縣の宰、即ち居を以て長たらん。盡く中正九品の制を除き、善を舉げ才を進めしむるは、各々鄉論に由れ。然らば則ち下は其の上を敬ひ、人は其の教に安んじ、俗と政 與に俱に清く、化と法 與に並びて濟たらん。人 善否の教を知り、交遊に在らざれば、即ち華競 自づから息み、各々己を求めん。今 九品を除かば、則ち宜しく古制に準じ、朝臣をして共に相 任に舉げしめ、出才の路に於て既に博く、且つ以て進賢の公心を厲まし、在位の明闇を覈す可し。誠に令典なり」と。武帝 之と善とすれども、卒に改むる能はず。
惠帝の太子と為るや、朝臣 咸 謂へらく、「純質にして、政事を親する能はず」と。瓘 每に之を廢せんことを陳啟せんと欲するに、而だ未だ敢て發せず。後に陵雲臺に會宴し、瓘 醉に託し、因りて帝の牀前に跪きて曰く、「臣 啟す所有らんと欲す」と。帝曰く、「公 言ふ所 何ぞや」と。瓘 言はんと欲して止むること三たび、因りて手を以て牀を撫でて曰く、「此の座 惜む可し」と。帝 意は乃ち悟り、因りて謬(あやま)りて曰く、「公 真に大いに醉ふか」と。瓘 此に於て復た言有らず。賈后 是に由り瓘を怨む。
宣 公主を尚し、數々酒色の過有り。楊駿 素より瓘と平らかならず、駿 復た自ら權重を專らにせんと欲す。宣 若し離婚せば、瓘 必ず位を遜れば、是に於て遂に黃門らと與に之を毀し、帝に諷して宣より公主を奪ふ。瓘 慚懼し、告老して遜位す。乃ち詔を下して曰く、「司空の瓘 年は未だ致仕ならざるに、而れども遜讓して歷年す、神志 未だ衰へざるに及ばんと欲するに、以て本情を果たす。至真の風、實に吾が心に感ず。今 其の執ふる所を聽し、位を太保に進め、公を以て第に就かしめよ。親兵百人を給ひ、長史・司馬・從事中郎の掾屬を置く。大車・官騎・麾蓋・鼓吹の諸々の威儀に及ぶは、一ら舊典に如る。廚田十頃・園五十畝・錢百萬・絹五百匹を給へ。牀帳簟褥、主る者は務めて優備せしめ、以て吾が崇賢の意を稱ふべし」と。有司 又 宣を收めて廷尉に付し、瓘の位を免ぜよと奏す。詔して許さず。帝 後に黃門の虛構せしと知り、還りて主を復せんと欲するに、而れども宣 疾亡す。

現代語訳

泰始年間の初め、征東将軍に転じ、爵位を進めて公となり、都督青州諸軍事・青州刺史となり、征東大将軍・青州牧を加えられた。つねに任地の統治では実績をあげた。征北大将軍・都督幽州諸軍事・幽州刺史・護烏桓校尉に任命された。鎮所に到着すると、上表して平州を立て、のちに兼ねてそこを督した。このとき幽州や平州の東に(鮮卑の)務桓がおり、西に力微がおり、どちらも国境の脅威であった。衛瓘は二虜を離間し、ついに対立させることに成功し、ここにおいて務桓は降伏して力微は憂悶して死んだ。朝廷はその功績を評価し、一子に亭侯を賜わった。衛瓘は弟を封建するよう願ったが、(弟が)まだ封建を受ける前に卒し、子の衛密が封建を受けて亭侯となった。衛瓘の六人の子は爵位がなく、すべて二人の弟に譲ったので、遠近はこれを称えた。しきりに(幽州から)入朝を求め、到着すると、武帝は厚く遇したが、にわかに鎮所に帰された。
咸寧年間の初め、徴召して尚書令を拝し、侍中を加えた。性格は厳正であり、法により配下を統御し、尚書(の地位)にあっても(下級の)参佐のようで、尚書郎にあっても掾属のようであった。衛瓘の学問は深く広く、りっぱに文芸を習得し、尚書郎の敦煌の索靖とともに草書を得意とし、当時のひとは「一台二妙」と号した。後漢末の張芝(字は伯英)もまた草書を得意としたが、論者は衛瓘が伯英の筋を得て、索靖が伯英の肉を得たと言った。
太康年間の初め、司空に遷り、侍中・尚書令は従来のままだった。為政は清らかで簡潔で、朝野から大きな賞賛の声を受けた。武帝は衛瓘の第四子の衛宣に勅して繁昌公主を娶せようとした。衛瓘は自分の家が諸生の冑(学者の子孫)であるから、婚姻の相手は微賤が釣りあうとし、反対する上表をして固辞したが、認められなかった。また太子少傅を領し、千兵と百騎を鼓吹の府に加えた。日蝕があったので、衛瓘は太尉の汝南王亮・司徒の魏舒とともに官位を返上したが、武帝は認めなかった。
衛瓘は、魏帝国が九品(中正制度)を立てたのは、一時的な便宜であり、恒久的な方法ではないので、古(漢代)の郷挙里選に戻すべきと考えた。太尉の司馬亮らとともに上疏して、「むかし聖王は賢者を尊び、善行を称えて教化し、朝廷では徳のある者に(地位を)譲らせ、在野には邪な行いがありませんでした。まことに閭伍の政(庶民の統治)は、互いに抑制させ、意見を聞く意味がありました。必ず善人を登用でき、人は分限を知って(不相応な立場を)いたずらに求めず、帰郷して修身に努めました。これにより賢者を尊んで習俗はますます安らかとなり、悪を退けて行動はますます誠意のあるものとなりました。このように郷挙里選は、先王のすぐれた法制であります。先王より以降、その制度は衰退しました。魏帝国が(漢帝国の)傾覆した命運を引き受け、喪乱の後に勢力を持つと、人民は流離し、人事考課は土地と切り放されたので、九品を立てて、当面の人事制度の根幹に据えただけです。施行された当初は、郷邑は清らかに(適正に)議論し、(評価される人の)爵位に関わらず、褒貶を加えたので、(善行を)勧めて励ますことに役立ち、(漢代の)郷論の美風が残っていました。時代が下ると形骸化し、家柄に基づいて品(評価)を定め、天下の人々に(権力者の顔色を)伺わせました。ただ高い位にいるものに高い品を与えたので、ひとは徳を捨てて道義的な行いを軽んじ、数少ないポストを争い、風俗を毀損し、その弊害は少なくありません。いま天下は統一され、教化が仕切り直されています。私たちが考えますに、荒廃した世の法規をすべて廃止し、もっぱら古制のとおりにし、戸籍を作り直し、公卿より以下、みな現在の居住地を本籍とし、流浪して本籍を離れている者が居らぬようにして下さい。そうすれば、同じ場所に住んでいる隣同士で、邑里を形成し、郡県の長官は、土地に基づいて把握して統治ができます。完全に九品中正の制度を除き、善き者を推挙し才ある者を昇進させるには、それぞれの郷論に従ってください。さすれば下位者は上位者を敬い、人々はその教えにより安らかとなり、習俗と政治はともに清く、教化と法規はともに整うでしょう。人々が善悪の教えを知り、仮住まいを解消すれば、華美な競争はおのずと静まり、それぞれ本来の姿を求めるでしょう。いま九品を除くならば、古の制度に準じ、朝臣に互いに推薦させれば、才能を発揮する機会が広がり、賢者を昇進させる公平さが奨励され、(既存の)地位(の高低)による不当な偏りを是正できるでしょう。これこそ優れた法規です」と言った。武帝は良い意見と認めたが、結局は改制できなかった。
恵帝が太子となると、朝臣はみな(忖度して遠回しに)、「純朴なので、政治を執ることはできません」と言った。衛瓘はつねに廃位を具申しようと思っていたが、まだ踏み切れずにいた。のちに陵雲台で集まって酒宴があったとき、衛瓘は酔いにかこつけ、武帝の腰掛けの前に跪いて、「申し上げたいことがあります」と言った。武帝は、「何かな」と言った。衛瓘は、言おうとして三回とどまり、手で腰掛けを撫で、「この座を惜しんで下さい」と言った。武帝は真意を理解したが、とぼけて、「あなたは飲み過ぎだな」と言った。衛瓘はこれ以降はもう口にしなかった。賈后はこれにより衛瓘を怨んだ。
衛宣は公主を娶っているが、しばしば酒色の失敗があった。楊駿はもとより衛瓘と不仲であり、楊駿はまた自ら権力を独占したいと考えた。衛宣がもし離婚すれば、衛瓘が必ず官位を返上すると考え、黄門らとともに悪評を流し、武帝をそそのかして公主を離縁させた。衛瓘は恥じて懼れ、老年を理由に官位を返上した。詔を下して、「司空の衛瓘はまだ引退の年齢ではないが、連年に謙譲をくり返し、精神がまだ衰えていないが引退し、本懐を遂げようとしている。きわめて誠意があり、私は心を動かされた。いま職務から解放し、位を太保に進め、公(爵)として邸宅に行かせよ。親兵百人を給い、長史・司馬・従事中郎の掾属を置くように。大車・官騎・麾蓋・鼓吹のもろもろの礼制は、すべて旧典どおりにせよ。廚田十頃・園五十畝・銭百万・絹五百匹を支給せよ。住居や衣服は、担当官にねんごろに整備させ、私が賢者を尊重しているという意思を表すように」と言った。担当官はさらに衛宣を捕らえて廷尉に引き渡し、衛瓘の官爵を免じなさいと上奏した。詔して許さなかった。武帝はのちに黄門から虚構を吹き込まれたと知り、公主を再び嫁がせようとしたが、衛宣は病死していた。

原文

惠帝即位、復瓘千兵。及楊駿誅、以瓘錄尚書事、加綠綟綬、劍履上殿、入朝不趨、給騎司馬、與汝南王亮共輔朝政。亮奏遣諸王還藩、與朝臣廷議、無敢應者。唯瓘贊其事、楚王瑋由是憾焉。賈后素怨瓘、且忌其方直、不得騁己淫虐。又聞瓘與瑋有隙、遂謗瓘與亮欲為伊霍之事。啟帝作手詔、使瑋免瓘等官。黃門齎詔授瑋、瑋性輕險、欲騁私怨、夜使清河王遐收瓘。左右疑遐矯詔、咸諫曰、「禮律刑名、台輔大臣、未有此比。且請距之。須自表得報、就戮未晚也」。瓘不從、遂與子恒・嶽・裔及孫等九人同被害、時年七十二。恒二子璪・玠、時在醫家得免。
初、杜預聞瓘殺鄧艾、言於眾曰、「伯玉其不免乎。身為名士、位居總帥、既無德音、又不御下以正。是小人而乘君子之器、當何以堪其責乎」。瓘聞之、不俟駕而謝。終如預言。初、瓘家人炊飯、墮地盡化為螺、歲餘而及禍。太保主簿劉繇等冒難收瓘而葬之。初、瓘為司空、時帳下督榮晦有罪、瓘斥遣之。及難作、隨兵討瓘、故子孫皆及于禍。
楚王瑋之伏誅也、瓘女與國臣書曰、「先公名諡未顯、無異凡人。每怪一國蔑然無言。春秋之失、其咎安在。悲憤感慨、故以示意」。於是繇等執黃旛、撾登聞鼓、上言曰、「初、矯詔者至、公承詔當免、即便奉送章綬。雖有兵仗、不施一刃、重敕出第、單車從命。如矯詔之文唯免公官、右軍以下即承詐偽、違其本文、輒戮宰輔、不復表上、橫收公子孫輒皆行刑、賊害大臣父子九人。伏見詔書、為楚王所誑誤、非本同謀者皆弛遣。如書之旨、謂里舍人被驅逼齎白杖者耳。律、受教殺人、不得免死。況乎手害功臣、賊殺忠良。雖云非謀、理所不赦。今元惡雖誅、殺賊猶存。臣懼、有司未詳事實、或有縱漏、不加精盡、使公父子讐賊不滅。冤魂永恨、訴於穹蒼、酷痛之臣、悲於明世。臣等身被創痍、殯斂始訖。謹條、瓘前在司空時、帳下給使榮晦無情被黜、知瓘家人數・1.小孫名字。晦後轉給右軍、其夜晦在門外揚聲大呼、宣詔免公還第。及門開、晦前到中門、復讀所齎偽詔、手取公章綬貂蟬、催公出第。晦按次錄瓘家口及其子孫、皆兵仗將送、著東亭道北圍守、一時之間、便皆斬斫。害公子孫、實由於晦。及將人劫盜府庫、皆晦所為。考晦一人、眾姦皆出。乞驗盡情偽、加以族誅」。詔從之。朝廷以瓘舉門無辜受禍、乃追瓘伐蜀勳、封蘭陵郡公、增邑三千戶、諡曰成、贈假黃鉞。

1.中華書局本によると、「小」は「子」に作るべきである。

訓読

惠帝 即位するや、瓘に千兵を復す。楊駿 誅せらるに及び、瓘を以て錄尚書事、綠綟綬を加へ、劍履上殿、入朝不趨もて、騎司馬を給し、汝南王亮と與に共に朝政を輔せしむ。亮 諸王をして藩に還らしむるを奏し、朝臣と與に廷議するに、敢て應ずる者無し。唯だ瓘のみ其の事に贊し、楚王瑋 是に由りて焉を憾む。賈后 素より瓘を怨み、且つ其の方直なるを忌み、己の淫虐を騁(きは)むるを得ず。又 瓘 瑋と隙有るを聞き、遂に瓘と亮 伊霍の事を為さんと欲すと謗る。帝に啟きて手詔を作らしめ、瑋をして瓘らの官を免ぜしむ。黃門 詔を齎して瑋に授くるに、瑋の性 輕險にして、私怨を騁めんと欲し、夜に清河王遐をして瓘を收めしむ。左右 遐の詔を矯むるを疑ひ、咸 諫めて曰く、「禮律刑名に、台輔大臣は、未だ此の比に有らず。且に請ひて之む距し。須らく自ら表して報を得るべし、戮に就くるは未だ晚からざるなり」と。瓘 從はず、遂に子の恒・嶽・裔及び孫ら九人と與に同に害せられ、時に年七十二なり。恒の二子の璪・玠、時に醫家に在りて免るるを得たり。
初め、杜預 瓘の鄧艾を殺すと聞くや、眾に言ひて曰く、「伯玉 其れ免れざるか。身は名士為り、位は總帥に居り、既にして德音無く、又 下を御して以て正さず。是れ小人にして君子の器に乘る、當に何ぞ以て其の責に堪ふるや」と。瓘 之を聞き、駕を俟たずして謝す。終に預の言が如し。初め、瓘の家人 飯を炊くに、地に墮ちて盡く化して螺と為り、歲餘にして禍に及ぶ。太保主簿の劉繇ら難を冒して瓘を收めて之を葬る。初め、瓘 司空と為るや、時に帳下督の榮晦 罪有り、瓘 斥けて之を遣はす。難 作るに及び、兵に隨ひて瓘を討ち、故に子孫 皆 禍に及ぶなり。
楚王瑋の誅に伏すや、瓘の女 國臣に書を與へて曰く、「先公 名諡 未だ顯ならず、凡人と異なる無し。每に一國 蔑然として言無きを怪しむ。春秋の失、其の咎 安くにか在る。悲憤して感慨し、故に以て意を示す」と。是に於て繇ら黃旛を執り、登聞鼓を撾(う)ちて〔一〕、上言して曰く、「初め、詔を矯むる者 至るとき、公 詔を承けて免に當たり、即便ち章綬を奉送す。兵仗有ると雖も、一刃を施さず、敕を重ねて第を出よとせば、單車もて命に從ふ。如し矯詔の文 唯だ公の官を免ずるのみなれば、右軍以下 即ち詐偽を承け、其の本文に違ひ、輒ち宰輔を戮し、復た表上せず、橫に公の子孫を收めて輒ち皆 刑を行ひ、大臣の父子九人を賊害す。伏して詔書を見るに、楚王の誑誤する所と為り、本は謀を同じくするに非ざる者は皆 弛遣せよと。書の旨の如くんば、里舍の人 驅逼せられ白杖を齎す者と謂ふべきのみ。律に、教を受けて人を殺せば、死を免るるを得ずと。況んや手づから功臣を害し、忠良を賊殺するものをや。謀に非ずと云ふと雖も、理として赦さざる所なり。今 元惡 誅すと雖も、殺賊 猶ほ存り。臣 懼るらく、有司 未だ事實を詳らかにせず、或いは縱漏有りて、精盡を加へず、公の父子の讐賊をして滅せしめざるを。冤魂 永く恨み、穹蒼に訴ふるは、酷痛の臣、明世に悲しむ。臣ら身に創痍を被り、殯斂 始めて訖る。謹みて條す、瓘 前に司空に在りし時、帳下給使の榮晦 情無くして黜せられ、瓘の家の人數・小孫の名字を知る。晦 後に給右軍に轉じ、其の夜 晦は門外に在りて聲を揚げて大呼し、詔を宣し公を免じて第に還らしむと。門 開くに及び、晦 前みて中門に到り、復た齎す所の偽詔を讀みて、手づから公の章綬貂蟬を取り、公に催して第を出でしむ。晦 次を按じて瓘の家口及び其の子孫を錄し、皆 兵仗もて將に送らんとするに、東亭の道の北に著(を)りて圍守し、一時の間に、便ち皆 斬斫す。公の子孫を害するは、實に晦に由る。人を將ゐて府庫を劫盜するに及ぶは、皆 晦の為す所なり。晦一人を考せば、眾姦 皆 出づ。乞ふ情偽を驗盡し、以て族誅を加へんことを」と。詔して之に從ふ。朝廷 瓘の門を舉げて辜無く禍を受くるを以て、乃ち瓘の蜀を伐つの勳を追ひ、蘭陵郡公に封じ、邑三千戶を增し、諡して成と曰ひ、假黃鉞を贈る。

〔一〕登聞鼓は、朝廷に鼓を掛けておき、臣民が敢言をするときに打ち鳴らして皇帝に伝えるためのもの。

現代語訳

恵帝が即位すると、衛瓘に千人の兵をもどした。楊駿が誅殺されると、衛瓘を録尚書事とし、緑綟綬を加え、剣履上殿、入朝不趨として、騎司馬を給し、汝南王の司馬亮とともに朝政を輔けさせた。司馬亮が諸王を帰藩させることを上奏し、朝臣と議論したが、あえて答えるものはなかった。ただ衛瓘のみがこの事案に賛成し、楚王の司馬瑋はこれによって衛瓘を憾んだ。賈后はかねて衛瓘を怨み、かつ正しく屈さない性格を疎み、気ままに淫行や残虐なことができずにいた。また衛瓘と司馬瑋が不仲であると聞き、衛瓘と司馬亮が伊尹と霍光の故事(廃立)を企んでいると謗った。恵帝に指図して直筆の詔を作らせ、司馬瑋に命じて衛瓘の官位を取り上げさせた。黄門が詔をもたらし司馬瑋に授けると、司馬瑋は軽率で悪賢いので、私怨を晴らそうと思い、夜に清河王の司馬遐に衛瓘を捕らえに行かせた。左右のものは司馬遐が詔を偽造したことを疑い、みな諫めて、「礼律や刑名によると、台輔の大臣は、このような処置を受けません。願い出て拒否して下さい。自ら上表して(天子から)返答を得ましょう、死刑を受けるのはそれからでも遅くありません」と言った。衛瓘は従わず、子の衛恒・衛嶽・衛裔および孫ら九人とともに殺害され、このとき七十二歳であった。衛恒の二子の衛璪・衛玠は、このとき医者の家にいたので免れることができた。
これよりさき、杜預は衛瓘が鄧艾を殺したと聞き、まわりに、「伯玉は助からないだろう。身は名士であり、位は総帥にいるが、いまだに徳が聞こえて来ず、また部下の統御を正しい方法で行っていない。これはつまらぬ人物が君子の器に乗っているのであり、その責任を果たすことができようか」と言った。衛瓘はこれを聞き、駕(の到着)を待たずに謝った。結局は杜預の言うとおりとなった。これよりさき、衛瓘の家人が飯を炊くと、地面に落ちて(穀物の粒が)すべて螺に変化し、一年あまりで禍が及んだ。太保主簿の劉繇らが危険を冒して衛瓘の遺体を回収して葬った。かつて、衛瓘が司空であったとき、帳下督の栄晦が罪を犯したので、衛瓘はかれを退けて追い払った。政難が起こると、(衛瓘の家族を知る栄晦が)兵に交じって衛瓘を討伐したので、子や孫はみな禍いに巻き込まれたのである。
楚王の司馬瑋が誅に伏すと、衛瓘の娘は国家の臣に書を送って、「先公(衛瓘)の謚号がまだ明らかでなく、凡人と区別がありません。つねづね国家に捨ておかれ連絡がないことを不審に思います。春秋の過失は、その責任がどこにあるのでしょう。悲憤して慷慨し、ゆえに思いをお伝えしました」と言った。ここにおいて劉繇らが黄色い旗を手にし、(諫言を伝える)登聞鼓を打ち鳴らし、上言して、「これよりさき、詔を偽造した者が到着したとき、公(衛瓘)は詔を受けて免官に承諾し、その場で章綬を返上し提出しました。指揮下に兵を備えていましたが、一切の武力抵抗をせず、二通目の詔勅で邸宅を出よと命じられると、単車で命令に従いました。もし(一通目の)偽造の詔の文がただ公の官職を罷免するというだけのものならば、右軍以下(栄晦ら)はその詔を受けていながら、その詔の文に逆らい、宰相の殺害を行い、また上表して報告せず、ほしいままに公の子孫を捕らえて全員に刑を執行し、大臣の父子九人を殺害したのです。伏して詔書を見ますに、楚王の司馬瑋に誑かされ誤った者で、もとの計画に参加していなかった者はみな不問にして解放せよとあります。詔書の通りにすれば、里舎(村里、私邸)の人は脅迫され白杖をもたらした者としか言えません(出典は未詳)。律によると、教唆されて人を殺したものは、死刑を免れないとあります。ましてや直接手を下して功臣を殺害し、忠良な人に危害を加えたものならばどうでしょう(死刑とすべきです)。計画にあずからないとしても、理として赦されません。いま元凶(司馬瑋)を誅しましたが、殺害の実行犯はまだ生きています。臣は、担当官がまだ事実を明らかにせず、あるいは遺漏があって、適切な処置が尽くされず、公(衛瓘)の父子の仇敵が滅びていないことを懼れます。冤罪をこうむった魂が永遠に恨み、穹蒼(天)に訴えるのは、痛惜する臣として、公明な政治の世で悲しく思います。臣らは体に傷を受けながら、殯と埋葬を終えたばかりです。謹んで訴え述べます、衛瓘がかつて司空であったとき、帳下給使の栄晦は無実でありながら追放され、衛瓘の家族の人数や子孫の名前を知っていました。のちに栄晦は給右軍に転じ、あの夜に門外で声をあげて大声で叫び、公(衛瓘)を罷免して私邸に帰らせる詔があると告げました。門が開くと、栄晦は進んで中門に到り、また持参した偽詔を読み、手ずから公の章綬や貂蟬を奪い、公に促して役所から出しました。栄晦は順を追って家族とその子孫を確認し、全員を兵で護送しようとしたとき、東亭の道の北で包囲し、一瞬のあいだに、全員を斬り殺しました。公の子孫を殺害したのは、実際は栄晦のしわざです。人を率いて府庫から強奪したのも、すべて栄晦のしたことです。栄晦一人を取り調べれば、多くの姦悪なものは判明します。どうか実情を審議し、族誅を加えて下さい」と言った。詔してこれに従った。朝廷は衛瓘が一門をあげて罪無くして禍いを受けたので、衛瓘が蜀を征伐した功績を再評価し、蘭陵郡公に封建し、邑三千戸を増し、諡して成といい、仮黄鉞を贈った。

原文

恒字巨山、少辟司空齊王府、轉太子舍人・尚書郎・祕書丞・太子庶子・黃門郎。恒善草隸書、為四體書勢曰。

昔在黃帝、創制造物。有沮誦・倉頡者、始作書契、以代結繩。蓋覩鳥跡以興思也。因而遂滋、則謂之字、有六義焉。一曰指事、上・下是也。二曰象形、日・月是也。三曰形聲、江・河是也。四曰會意、武・信是也。五曰轉注、老・考是也。六曰假借、令・長是也。夫指事者、在上為上、在下為下。象形者、日滿月虧、效其形也。形聲者、以類為形、配以聲也。會意者、止戈為武、人言為信也。轉注者、以老壽考也。假借者、數言同字、其聲雖異、文意一也。
自黃帝至三代、其文不改。及秦用篆書、焚燒先典、而古文絕矣。漢武時、魯恭王壞孔子宅、得尚書・春秋・論語・孝經。時人以不復知有古文、謂之科斗書。漢世祕藏、希得見之。魏初傳古文者、出於邯鄲淳。恒祖敬侯寫淳尚書、後以示淳、而淳不別。至正始中、立三字石經、轉失淳法、因科斗之名、遂效其形。太康元年、汲縣人盜發魏襄王冢、得策書十餘萬言。案敬侯所書、猶有髣髴。古書亦有數種、其一卷論楚事者最為工妙。恒竊悅之、故竭愚思、以贊其美。愧不足廁前賢之作、冀以存古人之象焉。古無別名、謂之字勢云。
黃帝之史、沮誦・倉頡、眺彼鳥跡、始作書契。紀綱萬事、垂法立制、帝典用宣、質文著世。爰暨暴秦、滔天作戾、大道既泯、古文亦滅。魏文好古、世傳丘墳、歷代莫發、真偽靡分。大晉開元、弘道敷訓、天垂其象、地耀其文。其文乃耀、粲矣其章。因聲會意、類物有方。日處君而盈其度、月執臣而虧其旁。雲委𧉮而上布、星離離以舒光。禾卉苯䔿以垂穎、山嶽峨嵯而連岡。蟲跂跂其若動、鳥似飛而未揚。
觀其錯筆綴墨、用心精專。勢和體均、發止無間。或守正循檢、矩折規旋。或方員靡則、因事制權。其曲如弓、其直如弦。矯然特出、若龍騰于川。森爾下穨、若雨墜于天。或引筆奮力、若鴻雁高飛、邈邈翩翩。或縱肆阿那、若流蘇懸羽、靡靡緜緜。是故遠而望之、若翔風厲水、清波漪漣。就而察之、有若自然。信黃唐之遺跡、為六藝之範先。籀篆蓋其子孫、隸草乃其曾玄。覩物象以致思、非言辭之可宣。

昔周宣王時、史籀始著大篆十五篇、或與古同、或與古異、世謂之籀書者也。及平王東遷、諸侯力政、家殊國異、而文字乖形。秦始皇帝初兼天下、丞相李斯乃奏益之、罷不合秦文者。斯作倉頡篇、中車府令趙高作爰歷篇、太史令胡毋敬作博學篇、皆取史籀大篆、或頗省改、所謂小篆者。或曰、下土人程邈為衙獄吏、得罪始皇、幽繫雲陽十年、從獄中作大篆、少者增益、多者損減、方者使員、員者使方、奏之始皇。始皇善之、出以為御史、使定書。或曰、邈所定乃隸字也。
自秦壞古文、有八體。一曰大篆、二曰小篆、三曰刻符、四曰蟲書、五曰摹印、六曰署書、七曰殳書、八曰隸書。王莽時、使司空甄豐校文字部、改定古文、復有六書。一曰古文、孔氏壁中書也。二曰奇字、即古文而異者也。三曰篆書、秦篆書也。四曰佐書、即隸書也。五曰繆篆、所以摹印也。六曰鳥書、所以書幡信也。及許慎撰說文、用篆書為正、以為體例。最可得而論也。秦時李斯號為工篆、諸山及銅人銘皆斯書也。漢建初中、扶風曹喜少異於斯、而亦稱善。邯鄲淳師焉、略究其妙、韋誕師淳而不及也。太和中、誕為武都太守、以能書、留補侍中、魏氏寶器銘題皆誕書也。漢末又有蔡邕、采斯喜之法、為古今雜形、然精密閑理不如淳也。
邕作篆勢曰、鳥遺跡、皇頡循。聖作則、制斯文。體有六、篆為真。形要妙、巧入神。或龜文鍼列、櫛比龍鱗。紓體放尾、長短複身。穨若黍稷之垂穎、蘊若蟲蛇之焚縕。揚波振撆、鷹跱鳥震。延頸脅翼、勢似陵雲。或輕筆內投、微本濃末、若絕若連。似水露綠絲、凝垂下端。從者如懸、衡者如編。杳杪邪趣、不方不員。若行若飛、跂跂翾翾。遠而望之、象鴻鵠羣游、駱驛遷延。迫而視之、端際不可得見、指撝不可勝原。研桑不能數其詰屈、離婁不能覩其郤間、般倕揖讓而辭巧、籀誦拱手而韜翰。處篇籍之首目、粲斌斌其可觀。摛華艷於紈素、為學藝之範先。喜文德之弘懿、慍作者之莫刊。思字體之頫仰、舉大略而論旃。

秦既用篆、奏事繁多、篆字難成、即令隸人佐書、曰隸字。漢因行之、獨符・印璽・幡信・題署用篆。隸書者、篆之捷也。上谷王次仲始作楷法。至靈帝好書、時多能者、而師宜官為最、大則一字徑丈、小則方寸千言、甚矜其能。或時不持錢詣酒家飲、因書其壁、顧觀者以酬酒、討錢足而滅之。每書輒削而焚其柎。梁鵠乃益為版而飲之酒、候其醉而竊其柎。鵠卒以書至選部尚書。宜官後為袁術將。今鉅鹿宋子有耿球碑、是術所立、其書甚工、云是宜官也。
梁鵠奔劉表、魏武帝破荊州、募求鵠。鵠之為選部也、魏武欲為洛陽令、而以為北部尉、故懼而自縳詣門、署軍假司馬。在祕書以勤書自效、是以今者多有鵠手跡。魏武帝懸著帳中、及以釘壁玩之、以為勝宜官。今宮殿題署多是鵠篆。鵠宜為大字、邯鄲淳宜為小字。鵠、謂淳得次仲法、然鵠之用筆盡其勢矣。鵠弟子毛弘教於祕書、今八分皆弘法也。漢末有左子邑、小與淳・鵠不同、然亦有名。
魏初有鍾・胡二家為行書法、俱學之於劉德升、而鍾氏小異、然亦各有巧、今大行於世云。作隸勢曰、「鳥跡之變、乃惟佐隸。蠲彼繁文、崇此簡易。厥用既弘、體象有度。煥若星陳、鬱若雲布。其大徑尋、細不容髮。隨事從宜、靡有常制。或穹隆恢廓、或櫛比鍼列、或砥平繩直、或䖤蜒膠戾、或長邪角趣、或規旋矩折。修短相副、異體同勢。奮筆輕舉、離而不絕。纖波・濃點、錯落其間。若鍾簴設張、庭燎飛煙。嶃巖𡽱嵯、高下屬連。似崇臺重宇、增雲冠山。遠而望之、若飛龍在天。近而察之、心亂目眩。奇姿譎詭、不可勝原。研桑所不能計、宰賜所不能言。何草篆之足算、而斯文之未宣。豈體大之難覩、將祕奧之不傳。聊俯仰而詳觀、舉大較而論旃」。

漢興而有草書、不知作者姓名。至章帝時、齊相杜度號善作篇。後有崔瑗・崔寔、亦皆稱工。杜氏殺字甚安、而書體微瘦。崔氏甚得筆勢、而結字小疏。弘農張伯英者、因而轉精甚巧。凡家之衣帛、必書而後練之。臨池學書、池水盡黑。下筆必為楷則、號怱怱不暇草書。寸紙不見遺、至今世尤寶其書、韋仲將謂之草聖。伯英弟文舒者、次伯英。又有姜孟穎・梁孔達・田彥和及韋仲將之徒、皆伯英弟子、有名於世、然殊不及文舒也。羅叔景・趙元嗣者、與伯英並時、見稱於西州、而矜巧自與、眾頗惑之。故英自稱、「上比崔・杜不足、下方羅・趙有餘」。河間張超亦有名、然雖與崔氏同州、不如伯英之得其法也。
崔瑗作草書勢曰、「書契之興、始自頡皇。寫彼鳥跡、以定文章。爰暨末葉、典籍彌繁。時之多僻、政之多權。官事荒蕪、剿其墨翰。惟作佐隸、舊字是刪。草書之法、蓋又簡略。應時諭指、用於卒迫。兼功幷用、愛日省力。純儉之變、豈必古式。觀其法象、俯仰有儀。方不中矩、員不副規。抑左揚右、望之若崎。竦企鳥跱、志在飛移。狡獸暴駭、將奔未馳。或𪑜・𪐴・點・𪑮、狀似連珠、絕而不離。畜怒怫鬱、放逸生奇。或凌邃惴慄、若據槁臨危。旁點邪附、似蜩螗挶枝。絕筆收勢、餘綖糾結、若杜伯揵毒緣巇、螣蛇赴穴、頭沒尾垂。是故遠而望之、𨻵焉若沮岑・崩崖。就而察之、一畫不可移。機微要妙、臨時從宜。略舉大較、髣髴若斯」。

訓読

恒 字は巨山、少くして司空齊王府に辟せられ、太子舍人・尚書郎・祕書丞・太子庶子・黃門郎に轉ず。恒 草隸書を善くし、四體書勢を為りて曰ふ〔一〕。

昔在 黃帝、制を創め物を造る。沮誦・倉頡なる者有り、始めて書契を作りて、以て結繩に代ふ。蓋し鳥の跡を覩て以て思ひを興すなり。因りて遂に滋く、則ち之を字と謂ひ、六義有り。一に指事と曰ひ、上・下 是なり。二に象形と曰ひ、日・月 是なり。三に形聲と曰ひ、江・河 是なり。四に會意と曰ひ、武・信 是なり。五に轉注と曰ひ、老・考 是なり。六に假借と曰ひ、令・長 是なり。夫れ指事とは、上に在るを上と為し、下に在るを下と為す。象形とは、日は滿ち月は虧き、其の形に效ふなり。形聲とは、類を以て形を為し、配するに聲を以てするなり。會意とは、戈を止(をさ)むるを武と為し、人の言を信と為すなり。轉注とは、老は壽考なるを以てするなり。假借とは、數言 字を同じくし、其の聲 異なると雖も、文意は一なり。
黃帝より三代に至るまで、其の文 改めず。秦 篆書を用ゐ、先典を焚燒するに及び、而して古文 絕ゆ。漢武の時、魯の恭王 孔子の宅を壞ち、尚書・春秋・論語・孝經を得たり。時人 復た古文を有るを知らざるを以て、之を科斗書と謂ふ。漢の世に祕藏せられ、希に之を見るを得たり。魏の初 古文を傳ふる者、邯鄲淳より出づ。恒の祖の敬侯 淳が尚書を寫し、後に以て淳に示すも、而して淳 別たず。正始中に至りて、三字石經を立て、轉た淳が法を失ひ、科斗の名に因りて、遂に其の形に效ふ。太康元年、汲縣の人 盜(ひそ)かに魏の襄王の冢を發(あば)き、策書十餘萬言を得たり。案ずるに敬侯が書く所、猶ほ髣髴たる有り。古書に亦た數種有り、其の一卷 楚の事を論ずる者 最も工妙為(た)り。恒 竊かに之を悅び、故に愚思を竭(つく)し、以て其の美を贊す。前賢の作に廁(まじ)ふるに足らざるを愧(は)ぢ、以て古人の象を存せんことを冀ふ。古に別名無し、之を字勢と謂ふと云ふ。
黃帝の史、沮誦・倉頡、彼の鳥跡を眺め、始めて書契を作る。萬事を紀綱し、法を垂れ制を立て、帝典 用て宣べ、質文 世に著はる。爰に暴秦に暨(およ)び、滔天 戾(つみ)を作し、大道 既に泯び、古文も亦た滅ぶ。魏文 古を好み、世々丘墳を傳ふるも、歷代に發(あき)らかにする莫く、真偽 分かつ靡し。大晉 開元し、道を弘め訓を敷き、天は其の象を垂れ、地は其の文を耀(かがや)かす。其の文 乃ち耀き、粲たるかな其の章。聲に因りて意を會し、物を類して方有り。日は君に處りて其の度を盈き、月は臣を執りて其の旁を虧く。雲は委𧉮として上に布き、星は離離として以て光を舒ぶ。禾卉は苯䔿として以て穎(ほさき)を垂れ、山嶽は峨嵯として岡を連ぬ。蟲は跂跂として其れ動くが若く、鳥は飛ぶに似て未だ揚がらず。
其の筆を錯(す)え墨を綴るを觀るに、用心 精專なり。勢は和して體は均しく、發止も間無し。或いは正を守り檢に循(したが)ひ、矩は折(さば)き規は旋(めぐ)る。或いは方員に則靡く、事に因りて權を制す。其の曲れるは弓の如く、其の直きは弦の如し。矯然として特出するは、龍の川より騰がるが若し。森爾として下り穨(くず)れるは、雨の天より墜つるが若し。或いは筆を引きて力を奮ふは、鴻雁の高く飛び、邈邈として翩翩たるが若し。或いは縱肆にして阿那たるは、流蘇の羽を懸け、靡靡として緜緜たるが若し。是の故に遠くより之を望めば、翔風の水を厲(ふるは)せ、清波の漪漣するが若し。就きて之を察すれば、自ら然るが若き有り。信に黃唐の遺跡、六藝の範先為り。籀と篆とは蓋し其の子と孫にして、隸と草とは乃ち其の曾と玄たり。物象を覩て以て思ひを致せば、言辭の宣ぶる可きに非ず。

昔 周の宣王の時、史籀 始めて大篆十五篇を著し、或いは古と同じ、或いは古と異なり、世に之を籀書と謂ふ者なり。平王 東遷するに及び、諸侯 力政し、家ごとに殊なり國ごとに異なり、而して文字 形を乖(たが)ふ。秦の始皇帝 初めて天下を兼はせ、丞相の李斯 乃ち奏して之を益し、秦の文に合はざるを罷む。斯 倉頡篇を作り、中車府令の趙高 爰歷篇を作り、太史令の胡毋敬 博學篇を作り、皆 史籀の大篆を取り、或いは頗る省改し、所謂 小篆なり。或いは曰く、「下土の人の程邈 衙の獄吏と為り、罪を始皇に得、雲陽に幽繫せらるること十年、獄中より大篆を作り、少なき者は增益し、多き者は損減し、方なる者は員(まる)からしめ、員(まる)き者は方ならしめ、之を始皇に奏す。始皇 之を善しとし、出だして以て御史と為し、書を定めしむ」と。或いは曰く、「邈の定むる所は乃ち隸字なり」と。
秦 古文を壞ちてより、八體有り。一は大篆と曰ひ、二は小篆と曰ひ、三は刻符と曰ひ、四は蟲書と曰ひ、五は摹印と曰ひ、六は署書と曰ひ、七は殳書と曰ひ、八は隸書と曰ふ。王莽の時に、司空の甄豐をして文字の部を校(かんが)へ、古文を改定せしめ、復た六書有り。一は古文と曰ひ、孔氏の壁中の書なり。二は奇字と曰ひ、即ち古文にして異なる者なり。三は篆書と曰ひ、秦の篆書なり。四は佐書と曰ひ、即ち隸書なり。五は繆篆と曰ひ、以て摹に印する所なり。六は鳥書と曰ひ、以て幡信に書す所なり。許慎 說文を撰するに及び、篆書を用て正と為し、以て體例と為し。最も得て論ず可きなり。秦の時に李斯 號して篆に工(たく)みと為し、諸山及び銅人の銘 皆な斯の書なり。漢の建初中に、扶風の曹喜 少しく斯と異なり、而して亦た稱善せらる。邯鄲淳 焉を師とし、略ぼ其の妙を究め、韋誕 淳を師とすれども及ばざるなり。太和中に、誕 武都太守と為るも、書を能くするを以て、留まりて侍中に補せられ、魏氏の寶器銘題 皆 誕の書なり。漢末に又 蔡邕有り、斯と喜との法を采り、古今の雜形を為すも、然れども精密閑理なること淳に如かざるなり。
邕 篆勢を作りて曰く、「鳥 跡を遺し、皇頡 循(したが)ふ。聖 則を作し、斯の文を制す。體に六有り、篆をば真と為す。形は要妙にして、巧は神に入る。或いは龜文 鍼のごとく列なり、櫛のごとく龍鱗に比ぶ。體を紓(のば)し尾を放ち、長短 身に複(まと)ふ。穨るるは黍稷の穎を垂るるが若く、蘊(むすぼ)れる蟲蛇の焚れ縕(みだ)るるが若し。波を揚げ撆を振(はら)へば、鷹は跱(うずくま)り鳥は震ふ。頸を延べ翼を脅(そびや)かし、勢は雲を陵(しの)ぐに似たり。或いは輕筆 內に投じ、本を微(かす)かにし末を濃(こまや)かにすれば、絕えるが若く連なるが若し。水露の絲に綠(よ)り、凝りて下端に垂るるに似たり。從なるは懸るが如く、衡なるは編むが如し。杳杪にして邪めに趣き、方ならず員からず。行くが若く飛ぶが若く、跂跂 翾翾たり。遠くより之を望めば、鴻鵠の羣游し、駱驛として遷延するに象る。迫りて之を視れば、端際も見るを得可からず、指撝も原(たず)ぬるに勝ふ可からず。研も桑も其の詰屈を數ふる能はず、離婁も其の郤間を覩る能はず、般も倕も揖讓して巧を辭し、籀も誦も手を拱きて翰(ふで)を韜(をさ)む。篇籍の首目に處り、粲として斌斌たるをば其れ觀る可し。華艷を紈素に摛べて、學藝の範先為り。文德の弘懿を喜ぶも、作者の刊する莫きを慍(うら)む。字體の頫仰を思ひ、大略を舉げて旃(これ)を論ぜり」と。

秦 既に篆を用ゐ、奏事 繁多にして、篆字 成り難く、即ち隸人をして書を佐けしめ、隸字と曰ふ。漢 因りて之を行ひ、獨だ符・印璽・幡信・題署のみ篆を用ふ。隸書なる者は、篆の捷なり。上谷の王次仲 始めて楷法を作る。靈帝 書を好むに至り、時に能くする者多く、而して師宜官 最為り、大なるは則ち一字の徑は丈あり、小なるは則ち方寸に千言あり、甚だ其の能を矜る。或る時 錢を持たずして酒家に詣りて飲み、因りて其の壁に書し、觀る者を雇(つの)りて以て酒を酬(う)り、錢の足るを討(たづ)ねて之を滅す。書する每に輒ち削りて其の柎(ふだ)を焚す。梁鵠 乃ち益して版を為りて之と酒を飲み、其の醉ふを候ちて其の柎を竊む。鵠 卒に書を以て選部尚書に至る。宜官 後に袁術の將と為る。今 鉅鹿の宋子に耿球碑有り、是れ術の立つる所、其の書 甚だ工みなり、是れ宜官と云ふなり。
梁鵠 劉表に奔り、魏武帝 荊州を破るや、募りて鵠を求む。鵠の選部と為るや、魏武 洛陽令に為らんと欲すれども、以て北部尉と為し、故に懼れて自ら縳りて門に詣り、軍の假司馬に署せらる。祕書に在りて書に勤しむを以て自ら效し、是を以て今者 多く鵠の手跡有り。魏武帝 帳中に懸著し、及び以て壁に釘して之を玩び、以て宜官に勝ると為す。今 宮殿の題署 多く是れ鵠の篆なり。鵠は大字を為すに宜しく、邯鄲淳は小字を為すに宜し。鵠、「淳 次仲の法を得たり」と謂ふも、然れども鵠の用筆は其の勢を盡くす。鵠の弟子の毛弘 祕書に教ふ、今 八分は皆 弘の法なり。漢末に左子邑有り、小(や)や淳・鵠と同じからず、然れども亦た名有り。
魏初に鍾・胡の二家有りて行書の法を為し、俱に之を劉德升に學ぶも、而れども鍾氏 小や異なり、然れども亦た各々巧有り、今 大いに世に行はると云ふ。隸勢を作りて曰く、「鳥跡の變ずるや、乃ち惟れ佐隸たり。彼の繁文を蠲(のぞ)き、此の簡易を崇ぶ。厥の用は既に弘く、體象に度有り。煥らかなるは星の陳なるが若く、鬱たるは雲の布(し)くが若し。其の大なるは徑尋にして、細かきは髮を容れず。事に隨ひて宜しきに從ひ、常制有る靡し。或いは穹隆として恢廓たり、或いは櫛のごとく比び鍼のごとく列なり、或いは砥のごとく平らかにして繩のごとく直く、或いは䖤蜒として膠戾し、或いは長く邪(なな)めに角(きそ)ひて趣き、或いは規は旋り矩は折(まが)る。修短 相 副ひ、體を異にし勢を同じくす。筆を奮ひて輕く舉ぐれば、離るるも絕えず。纖(かす)かな波・濃(こま)かな點、其の間に錯落す。鍾簴をば設張し、庭燎をば煙を飛ばすが若し。嶃巖 𡽱嵯として、高下 屬連なり。崇(たか)き臺に宇(のき)を重ね、增(あつ)き雲の山を冠(いただ)くに似たり。遠くより之を望めば、飛龍の天に在るが若し。近くより之を察せば、心は亂れ目は眩む。奇しき姿 譎詭たるは、原(たづ)ぬるに勝ふ可からず。研も桑も計る能はざる所にして、宰も賜も言ふ能はざる所なり。何ぞ草篆の算(かぞ)ふるに足りて、斯文の未だ宣べざるや。豈に體大の覩(み)難く、將た祕奧の傳はらざらんや。聊(いささ)か俯仰して詳らかに觀、大較を舉げて旃(これ)を論ぜり」と。

漢 興りて草書有り、作者の姓名を知らず。章帝の時に至りて、齊相の杜度 善く篇を作ると號す。後に崔瑗・崔寔有り、亦た皆 工(たくみ)と稱す。杜氏の殺字は甚だ安んずるも、而して書體は微や瘦せたり。崔氏 甚だ筆勢を得るも、而して結字は小や疏(まば)らなり。弘農の張伯英なる者、因りて轉(うた)た精(こまや)かにして甚だ巧みなり。凡そ家の衣帛、必ず書して後に之を練る。池に臨みて書を學び、池水 盡く黑し。筆を下せば必ず楷則(のり)を為し、怱怱として草書に暇あらずと號す。寸紙も遺されず、今の世に至り尤も其の書を寶とし、韋仲將 之を草聖と謂ふ。伯英の弟の文舒なる者、伯英に次ぐ。又た姜孟穎・梁孔達・田彥和及び韋仲將の徒有り、皆 伯英の弟子にして、世に名有るも、然れども殊に文舒に及ばざるなり。羅叔景・趙元嗣なる者、伯英と時を並べ、西州に稱せられ、巧を矜りて自與し、眾 頗る之に惑ふ。故に英 自稱すらく、「上は崔・杜に比ぶれば足らず、下は羅・趙に方ぶれば餘有り」と。河間の張超 亦た名有り、然れども崔氏と州を同じくすと雖も、伯英の其の法を得るに如かざるなり。
崔瑗 草書勢を作りて曰く、「書契の興るは、頡皇より始まる。彼の鳥跡を寫し、以て文章を定む。爰に末葉に暨び、典籍 彌々繁し。時の僻(ひがごと)多く、政の權(かりそめ)多し。官事は荒蕪し、其の墨翰を剿(た)つ。惟れ佐隸を作り、舊字をば是れ刪る。草書の法は、蓋し又 簡略たり。時に應じて指を諭し、卒迫に用ふ。功を兼ね用を幷せ、日を愛しみ力を省く。純儉の變、豈に必ずしも古式ならんや。其の法象を觀るに、俯仰に儀有り。方なるも矩に中(あ)たらず、員(まる)きも規に副はず。左を抑へ右を揚げ、之を望めば崎(かたむ)くが若し。竦企せる鳥の跱(うずくま)り、志は飛び移るに在り。狡き獸が暴かに駭きて、將に奔らんとして未だ馳せず。或いは𪑜・𪐴・點・𪑮は、狀は珠を連ぬるに似て、絕えて離れず。怒を畜へて怫鬱し、放逸して奇を生ず。或いは邃(ふか)きを凌(こ)えて惴慄するは、槁に據りて危に臨むが若し。旁點 邪めに附くは、蜩螗の枝を挶(ささ)ふるに似たり。筆を絕ち勢を收め、餘の綖の糾結するは、杜伯の毒を揵(あ)げて巇に緣り、螣蛇の穴に赴き、頭は沒し尾は垂るるが若し。是の故に遠くより之を望めば、𨻵焉として沮(くず)れたる岑・崩れたる崖の若し。就きて之を察すれば、一畫も移る可からず。機微 要妙にして、時に臨みて宜しきに從ふ。略ぼ大較を舉ぐること、髣髴として斯の若し」と。

〔一〕中田勇次郎(編)『中国書論大系』第一巻 漢魏晋南北朝(二玄社、一九七七年)より、上田早苗氏の訳を参照した。

現代語訳

衛恒は字を巨山といい、若くして司空斉王府に辟召され、太子舎人・尚書郎・秘書丞・太子庶子・黄門郎に転じた。衛恒は草書と隸書を得意とし、『四体書勢』を以下のように著した。

むかし黄帝が、制度や文物を最初に作った。沮誦と倉頡というものが、はじめて書契(文字)を作り、結縄に代えた。思うに鳥の足跡を見て考えついたのか。かくて次第に増えたので、これを字(孳)といい、(字には)六義(成り立ちによる六分類)がある。一に指事といい、上・下があたる。二に象形といい、日・月があたる。三に形声といい、江・河があたる。四に会意といい、武・信があたる。五に転注といい、老・考があたる。六に仮借といい、令・長があたる。さて指事とは、上にあることを上とし、下にあるを下とする。象形とは、日はまるく月は欠け、その形にならう。形声とは、同類のものを形とし、声を組み合わせる。会意とは、戈を止(おさ)めることを武とし、人の言を信とする。転注とは、老が寿考(長生き)の意味となる。仮借とは、いくつかの言葉で字が同じで、その声が異なっても、意味を同一とすることである。
黄帝より三代(夏殷周)に至るまで、文字に改変はなかった。秦が篆書を採用し、前代からの典籍を焼却すると、古文は絶えた。漢の武帝のとき、魯の恭王が孔子の旧宅を壊し、(古文で書かれた)『尚書』『春秋』『論語』『孝経』を入手した。当時のひとは古文という書体があることを認識しておらず、これを科斗書(おたまじゃくし文字)と言った。漢帝国に秘蔵され、まれにしか見られなかった。魏の初めに古文を伝える者は、邯鄲淳から出ている。恒(わたし)の祖父の敬侯が、邯鄲淳の『尚書』を書き写し、のちに邯鄲淳に見せると、邯鄲淳は(自分の筆跡と)区別がつかなかった。正始年間に至り、三字石経を立てたが、いよいよ邯鄲淳の書法が失われ、科斗の名に因み、その形をまねるに止まった。太康元(二八〇)年、汲県の人がひそかに(戦国時代の)魏の襄王の塚をあばき、策書の十万言あまりを得た(『汲冢書』のこと)。敬侯が書き写したものと比べると、(古文の字体を)彷彿とさせた。(発掘された)古書にもまた数種あり、そのうちの一巻で楚国の事を論じたものが最も(字形が)巧妙であった。恒(わたし)は内心嬉しく思い、ない知恵をしぼって、その美妙さを賛を作って称える。前代の賢人らの著作に並べると見劣りすることを恥じるが、古の字形が(後世に)残り伝わることを願う。上古には(古文に対して)特別な名称がないので、これをただ字勢と呼ぶ。
黄帝の記録官である、沮誦と倉頡は、鳥の足跡を眺め、はじめて書契を作った。万事を統括し、法制を整備し、帝王の規範は広まり、質と文が(交互に)世に現れた。ところが暴秦の時代に及び、天に届く悪事をして、大道はみな滅び、古文もまた絶えた。魏の文帝(曹丕)は古いものを好み、九丘三墳(出土典籍の総称)を伝えるが、時代が隔たり明らかでなく、真偽は不明である。晋帝国が創設され、道を広めて教えを伝え、天は象を垂れ、地は文を輝かせた。(これに呼応し)文は輝き、章は明らかである。(古文には)声に因って意味を会わせ、事物を分類する方式がある。日(の字)は君位であり丸みを満たし、月(の字)は臣下であり丸みを欠く。雲(の字)は翻って天上に広がり、星(の字)は連なって光を放つ。禾(いね)と卉(くさ)(の字)は、生い茂って穂先をたれ、山や嶽(の字)は岩がごつごつと背を連ねる。蟲(の字)は地面を這って動きそうで、鳥(の字)は飛び立ちそうである。
筆を据えて墨を綴るさまを観察すると、心配りは細やかである。(筆)勢は調和して(結)体は釣りあい、始めから終わりまで隙がない。あるものは正しく手本を守り、あたかも物差しで四角くし、コンパスで丸く書いたようだ。あるものは方形と円形に規則がなく、状況次第で場当たり的である。曲がりぐあいは弓のようで、まっすぐなのは弦のようだ。勢いよく突き出すのは、龍が川から昇るようだ。並んで下にくずれるのは、雨が天から落ちるようだ。あるものは筆を引いて力を振るい、空高く鴻や雁が軽やかに飛び去るようだ。気ままにくねるのは、羽根飾りが靡いているようだ。ゆえに遠くから見ると、風が水を震わせ、清らかな波が立つようで、近づいて見ると、自ずとその字形となったように見える。まことに黄帝と帝尭の残した事業であり、六芸の手本となった。籀文や篆書はその子や孫で、隸書や草書はその曾孫や玄孫にあたる。かたちを見て思い巡らせると、言い尽くせるものではない。

むかし周の宣王のとき、史籀がはじめて『大篆』十五篇を著し、(字形が)古と同じものも、異なるものもあり、世にいう籀書である。平王が東遷すると、諸侯が武力で政務を取り、家ごと国ごとに(制度が)異なり、文字の形も違えた。秦の始皇帝がはじめて天下を統一すると、丞相の李斯が上奏して(文字を)増やし、秦の文字と合致しないものは廃止した。李斯は『倉頡篇』を作り、中車府令の趙高は『爰歴篇』を作り、太史令の胡毋敬は『博学篇』を作り、みな史籀の『大篆』に基づき、省略や改変をしたが、いわゆる小篆である。一説に、「下土の人の程邈が官衙の獄吏となり、始皇帝から罪せられ、雲陽に捕らわれること十年、獄中で大篆を改作し、(筆画の)少ないものは増やし、多いものは減らし、角張ったものは丸くし、丸いものは角張らせ、これを始皇帝に奏上した。始皇帝はこれを善しとし、出獄させて御史(書記官)とし、書体を定めさせた」とある。一説に、「程邈の定めたのが隸字である」という。
秦が古文を破棄してから、八体(八種の書体)がある。一は大篆、二は小篆、三は刻符、四は蟲書、五は摹印、六は署書、七は殳書、八は隸書という。王莽のとき、司空の甄豊に文字の部を校訂し、古文を改定させ、これにも六書(六種の書体)があった。一は古文で、孔子の壁中から出た書。二は奇字で、古文の異体。三は篆書で、秦の篆書。四は佐書で、隸書。五は繆篆で、印文に用いる規格の篆書。六は鳥書で、旗幟や符節に書くものである。許慎が『説文解字』を撰するに及び、篆書(小篆)を正式なものとし、書体の範例とした。実物を手に入れて論じるべきである。秦代に李斯は篆書が巧みと称され、諸山と銅人の銘はいずれも李斯が書いた。後漢の建初年間、扶風の曹喜はやや李斯の書と異なるが、かれも上手いとされた。邯鄲淳がこれを師とし、ほぼその技法を究め、韋誕は邯鄲淳を師としたが及ばなかった。太和年間、韋誕は武都太守となったが、書が上手いので、宮中に留まり侍中に任命され、魏帝国の宝器や銘題はすべて韋誕が書いたものである。後漢末には蔡邕もいて、李斯と曹喜の技法を踏まえ、古今を混ぜた字形を編み出したが、精密であり雅やかで理(あで)やかなところは邯鄲淳には及ばない。
蔡邕は『篆勢』を作って、「鳥が足跡をのこし、皇頡は(形を)写した。聖人が規則を作り、文章を制作した。書体には六種あり、篆書が正式なものである。字形は精緻であり、巧妙さは神秘的である。あるときは亀の甲羅に鍼のように連なり、あるときは櫛のように竜の鱗に並ぶ。体をゆるめ尾をのばし、長短(の筆画)を重ねてゆく。くずれる様子は黍稷が穂先を垂れるようで、密集する様子は虫や蛇が絡まるようだ。(右に)波をあげ(左に筆を)払うと、鷹はうずくまり鳥は身を震わせる。首を延ばし翼をそびやかし、その勢いは雲を凌ぐほどだ。あるいは筆を軽くして内側に打ちこみ、本をかすかにし末を細やかにすれば、途切れているようで連なっているようだ。水滴が糸を伝わり、凍って下に垂れるようだ。縦画はぶら下がるようで、横画は編むかのようだ。はるか暗くに斜めに向かい、角張らず丸くもない。歩くようで飛ぶようで、這うようで飛ぶようである。遠くからこれを望むと、鴻鵠が群れて遊び、ぐずぐずと行き来する様子を象っている。近づいてこれを視ると、端っこを見極められず、指事(六書の一つ)の意味を拾えない。研(計然)や桑弘羊さえも(筆画の)屈曲を数え切れず、離婁さえも隙間を見透かせず、公輸般や工倕さえも揖譲して巧みさをゆずり、史籀や沮誦さえも手を拱いて筆を片付ける。篇籍のはじめに置かれ、あざやかで斌斌たるさまを見るがいい。あでやかさを白絹にとどめ、学芸の手本となる。文徳が広く美しいことを喜ぶが、作者が発刊しないことを恨めしく思う。字体のふるまいを心に浮かべ、大略をこのように論じた」と言った。

秦帝国は篆書を用いたが、上奏することが繁雑で多く、篆書は手間がかかるので、隸人(官署の雑用係)に書くのを助けさせ、隸字といった。漢代でも(隷書が)そのままで使われたが、ただ符節・印璽・幡信・題署のみは篆書を用いた。隸書とは、篆書の捷(早書き)である。上谷の王次仲がはじめて楷法(隷書の手本)を作った。霊帝が書を愛好すると、書に堪能な者が多く輩出されたが、師宜官が最も優れ、大きく書けば一字の直径は一丈、小さく書けば一寸四方に千字を書け、さかんに才能を誇った。あるとき銭を持たず酒屋に行って飲み、店の壁に書き付け、見物する者を募って酒を売り、銭が金額に達すると文字を消した。一筆するごとに札を削って焼いた。そこで梁鵠は何枚もの版(木片)を作ってかれと飲み、師宜官が酔うのを待って(酒代のため書いた)版を盗んだ。梁鵠はついに書の才能で選部尚書に至った。師宜官は後に袁術の将となった。いま鉅鹿の宋子県に耿球碑があるが、これは袁術が立てたもので、非常に巧みな書で、師宜官の作と言われている。
梁鵠は劉表のもとに奔り、魏武帝が荊州を破ると、募って梁鵠を求めた。(かつて)梁鵠が選部尚書であったとき、魏武は洛陽令を希望したが、(梁鵠は曹操を)北部尉とし、この経緯があるので梁鵠は懼れて自ら縛って軍門を訪れ、軍の仮司馬に配置された。秘書(省)にあって書に勤しんで身を尽くし、ゆえに梁鵠の手跡が多く残っている。魏武帝が帳中に(梁鵠の作品を)吊り下げ、あるいは壁に釘を打って愛玩し、師宜官に勝るとした。いま宮殿の題署は梁鵠による篆書が多い。梁鵠は大きな字が得意で、邯鄲淳は小さな字が得意であった。梁鵠は、「邯鄲淳が王次仲の法を修得した」と言ったが、しかし梁鵠の用筆こそがその筆勢を尽くしていた。梁鵠の弟子の毛弘は秘書(省)で教え、いまの八分はみな毛弘の書法である。後漢末に左子邑がおり、やや邯鄲淳や梁鵠と異なり、しかしかれもまた有名である。
魏代のはじめに鍾繇と胡昭の二家が行書の法を作り、どちらも劉徳升から学んだが、鍾氏は少し(劉徳升と)異なるものの、それぞれ巧みであり、いまも世で大いに行われているという。(蔡邕?が)隸勢を作って、「鳥の足跡が変化し、すなわち佐隸(隷書)となった。かの複雑な飾りを除き、この簡易さを尊んだ。すでに広く用いられ、字形に規則性がある。明らかなさまは星が並ぶようで、群がるさまは雲が垂れこめるようだ。大きなものは直径が一尋で、小さなものは髪の毛(の直径)より細い。事情に応じて便宜に従い、不変の定則はない。あるものは弓のように曲がり、あるものは櫛の歯のように並んで鍼のように連なり、砥石のように平らかで墨縄のようにまっすぐで、うねうねと曲がり、長々と斜めに進んで競って向かい、コンパスで丸を書いて差し金で線を引いたようである。長短が調和し、形は異なるが均衡が取れている。筆を奮って軽く挙げると、離れているが切れていない。かすかな波(右払い)や細やかな点が、その間に散りばめられる。鍾簴を並べ置き、宮廷の篝火が煙を飛ばすようである。高く険しい山が切り立ち、上下が連なっている。高い台が連なり、分厚い雲が山頂にかかるのに似ている。遠くから望むと、竜が天を飛ぶようだ。近づいて見ると、心が乱れ目がくらむ。奇妙に字形が変化するさまは、根源を尋ねることができない。研(計然)も桑(公羊)も数え上げられず、宰予(子我)も端木賜(子貢)も言い尽くせない。草書と篆書とが数に入れられるのに対し、この文(隷書)がまだ広く行われないのはなぜか。字形が大きすぎて見づらいとか、秘密にされて伝わらないということがあろうか。いささか俯したり仰したりして詳らかに観察し、大略を取りあげ論じた」とある。

漢帝国が興り草書ができたが、作った者の姓名は分からない。章帝の時代に至り、斉相の杜度は篇を作るのが上手いとされた。のちに崔瑗と崔寔があらわれ、どちらも巧みと称された。杜氏(杜度)の殺字(文字のくずし方)はとても安定しているが、書線はやや痩せてほっそりしている。崔氏(崔瑗と崔寔)の文字は筆勢が宜しきを得ているが、結字(文字の組み立て)が大雑把である。弘農の張伯英(張芝)という者は、これらを受けていよいよ精緻を尽くして非常に巧みであった。およそ家にある白い布は、必ず書いた後に練るのであった。池に臨んで書を学び、池の水はすっかり黒くなった。筆を下せば必ず手本となり、慌ただしくて草書で書く暇がないと言い触らした。わずかな紙切れも残されず、今の世ではかれの書は至宝とされ、韋仲将(韋誕)はかれを草聖と言った。伯英の弟の文舒(張昶)が伯英のあとに続く。また姜孟穎(姜詡)と梁孔達(梁宣)と田彦和および韋仲将(韋誕)といった人々がおり、みな伯英の弟子であるが、世に名高いものの、文舒(張昶)には及ばない。羅叔景(羅暉)と趙元嗣(趙襲)という者は、伯英と同じ時代に、西州で称され、技巧を誇って得意がったので、人々はこれに惑わされた。そこで伯英らは、「上は崔寔や杜度に比べると及ばないが、下は羅暉や趙襲に並べると余りがある」と述べ(序列を整理し)た。河間の張超もまた有名であり、崔氏と同州の出身であるが、伯英が(崔氏の)書法を習得したことには敵わない。
崔瑗が『草書勢』を作って、「書契(文字)の起こりは、頡皇から始まる。鳥の足跡を写して、文章を定めた。末代に及び、典籍はいよいよ繁雑になった。悪しきことが多い時代で、政治も便宜的な措置が多かった。役所の仕事は荒廃し、(筆記が間に合わず)墨と筆を断った。そこで佐隸(隷書)を作り、旧字を削った。草書の法は、また簡略した字形であろう。時宜に応じて内容だけは伝え、急場をしのいだ。功用を兼ねあわせ、日を惜しみ労力を省いた。より簡素に変化させるのは、必ずしも古い(立派な)方式であろうか。その字形を観察すると、俯仰には規則性がある。方形かと思いきや差し金に沿わず、円形かと思いきやコンパスに合わない。左を抑え右を揚げ、これを遠くから見ると傾いているようだ。爪先立った鳥がうずくまり、飛び移ろうとする様子のようだ。すばしこい獣が突然驚き、走り出しそうな態勢ののようだ。あるいは𪑜・𪐴・點・𪑮のありさまは、珠を連ねたようで、切れていても離れていない。怒りを溜めて苛立ち、気ままに振る舞って奇態を生じる。あるいは深いところを越えて震えるのは、枯れ木に捕まって危険に臨むようだ。傍点が斜めに付くのは、セミが枝に止まるようだ。筆を絶って力を抜き、のこりの綖(未詳)が絡まって結ばれるのは、サソリが毒をあげて隙間に居座り、空を飛ぶ蛇が穴に赴き、頭を沈め尾を垂れているようだ。ゆえに遠くからこれを望むと、崩れ落ちた崖のようだ。近づいて観察すると、一画さえも変更できない。巧妙で精緻を尽くし、時に応じて便宜に従っている。概略を記述した、だいたい以上のようである」と言った。

原文

及瓘為楚王瑋所構、恒聞變、以何劭嫂之父也、從牆孔中詣之、以問消息。劭知而不告。恒還經廚下、收人正食、因而遇害。後贈長水校尉、諡蘭陵貞世子。二子、璪・玠。
璪字仲寶、襲瓘爵。後東海王越以蘭陵益其國、改封江夏郡公、邑八千五百戶。懷帝即位、為散騎侍郎。永嘉五年、沒於劉聰。元帝以瓘玄孫崇嗣。
玠字叔寶。年五歲、風神秀異。祖父瓘曰、「此兒有異於眾。顧吾年老、不見其成長耳」。總角乘羊車入市、見者皆以為玉人、觀之者傾都。驃騎將軍王濟、玠之舅也。儁爽有風姿、每見玠、輒歎曰、「珠玉在側、覺我形穢」。又嘗語人曰、「與玠同遊、冏若明珠之在側、朗然照人」。及長、好言玄理。其後多病體羸、母恒禁其語。遇有勝日、親友時請一言、無不咨嗟、以為入微。琅邪王澄有高名、少所推服、每聞玠言、輒嘆息絕倒。故時人為之語曰、「衞玠談道、平子絕倒」。澄及王玄・王濟並有盛名、皆出玠下、世云、「王家三子、不如衞家一兒」。玠妻父樂廣、有海內重名、議者以為、「婦公冰清、女壻玉潤」。
辟命屢至、皆不就。久之、為太傅西閤祭酒、拜太子洗馬。璪為散騎侍郎、內侍懷帝。玠以天下大亂、欲移家南行。母曰、「我不能舍仲寶去也」。玠啟諭深至、為門戶大計、母涕泣從之。臨別、玠謂兄曰、「在三之義、人之所重。今可謂致身之日、兄其勉之」。乃扶輿母轉至江夏。
玠妻先亡。征南將軍山簡見之、甚相欽重。簡曰、「昔戴叔鸞嫁女、唯賢是與、不問貴賤。況衞氏權貴門戶令望之人乎」。於是以女妻焉。遂進豫章。是時大將軍王敦鎮豫章、長史謝鯤先雅重玠、相見欣然、言論彌日。敦謂鯤曰、「昔王輔嗣吐金聲於中朝、此子復玉振於江表。微言之緒、絕而復續。不意永嘉之末、復聞正始之音。何平叔若在、當復絕倒」。玠嘗以人有不及、可以情恕。非意相干、可以理遣。故終身不見喜慍之容。
以王敦豪爽不羣、而好居物上、恐非國之忠臣、求向建鄴。京師人士聞其姿容、觀者如堵。玠勞疾遂甚、永嘉六年卒、時年二十七。時人謂玠被看殺。葬於南昌。謝鯤哭之慟、人問曰、「子有何恤而致斯哀」。答曰、「棟梁折矣、不覺哀耳」。咸和中、改塋於江寧。丞相王導教曰、「衞洗馬明當改葬。此君風流名士、海內所瞻、可修薄祭、以敦舊好」。後劉惔・謝尚共論中朝人士、或問、「杜乂可方衞洗馬不」。尚曰、「安得相比、其間可容數人」。惔又云、「杜乂膚清、叔寶神清」。其為有識者所重若此。于時中興名士、唯王承及玠為當時第一云。
恒族弟展字道舒、歷尚書郎・南陽太守。永嘉中、為江州刺史、累遷晉王大理。詔有考子證父、或鞭父母問子所在。展以為恐傷正教、並奏除之。中興建、為廷尉、上疏宜復肉刑。語在刑法志。卒、贈光祿大夫。

訓読

瓘 楚王瑋の構ふる所と為るに及び、恒 變を聞き、何劭は嫂の父なるを以て、牆孔中より之に詣り、以て消息を問ふ。劭 知りて告げず。恒 還りて廚下を經るに、人を收むるもの正に食し、因りて害に遇ふ。後に長水校尉を贈り、蘭陵貞世子と諡す。二子あり、璪・玠なり。
璪 字は仲寶、瓘の爵を襲ふ。後に東海王越 蘭陵を以て其の國に益し、改めて江夏郡公に封じ、邑は八千五百戶なり。懷帝 即位するや、散騎侍郎と為る。永嘉五年に、劉聰に沒す。元帝 瓘の玄孫の崇を以て嗣がしむ。
玠 字は叔寶なり。年五歲にして、風神は秀異なり。祖父の瓘曰く、「此の兒 眾に異なる有り。吾が年老を顧るに、其の成長を見ざるのみ」と。總角にして羊車に乘りて市に入り、見る者 皆 以て玉人と為し、之を觀る者 都を傾く。驃騎將軍の王濟、玠の舅なり。儁爽にして風姿有り、玠を見る每に、輒ち歎じて曰く、「珠玉 側に在れば、我が形の穢なるを覺る」と。又 嘗て人に語りて曰く、「玠と與に同に遊び、冏たること明珠の側に在るが若し、朗然として人を照らす」と。長ずるに及び、玄理を言ふを好む。其の後 病多く體は羸にして、母 恒に其の語を禁ず。遇々勝日有り、親友 時に一言を請ひ、咨嗟せざる無く、以て微に入ると為す。琅邪の王澄 高名有り、少くして推服する所あり、每に玠の言を聞くや、輒ち嘆息して絕倒す。故に時人 之の為に語りて曰く、「衞玠 道を談ずるや、平子 絕倒す」と。澄及(と)王玄・王濟 並びに盛名有り、皆 玠の下に出で、世に「王家の三子、衞家の一兒」に如かずと云ふ。玠の妻の父の樂廣、海內に重名有り、議者 以為へらく、「婦公は冰清なり、女壻は玉潤なり」と。
辟命 屢々至れども、皆 就かず。久之、太傅西閤祭酒と為り、太子洗馬を拜す。璪 散騎侍郎と為り、懷帝に內侍す。玠 天下の大いに亂るるを以て、家を移して南行せんと欲す。母曰く、「我 仲寶を舍てて去る能はざるなり」と。玠の啟諭 深至たりて、門戶の為に大いに計れば、母 涕泣して之に從ふ。別かるるに臨み、玠 兄に謂ひて曰く、「三の義在り、人の重ずる所なり。今 身を致すの日と謂ふ可し、兄 其れ之に勉めんか」と。乃ち扶けて母を輿して轉た江夏に至る。
玠の妻 先に亡す。征南將軍の山簡 之を見て、甚だ相 欽重す。簡曰く、「昔 戴叔鸞 女を嫁するに、唯だ賢のみ是れ與へ、貴賤を問はず。況んや衞氏 權貴の門戶にして令望の人なるをや」と。是に於て女を以て焉に妻す。遂に豫章に進む。是の時 大將軍の王敦 豫章に鎮し、長史の謝鯤 先づ雅より玠を重んじ、相 見て欣然とし、言論すること日を彌ふ。敦 鯤に謂ひて曰く、「昔 王輔嗣 金聲を中朝に吐き、此の子 復た玉を江表に振ふ。微言の緒、絕えて復た續く。永嘉の末を意はず、復た正始の音を聞くとは。何平叔 若し在らば、當に復た絕倒せん」と。玠 嘗て人の及ばざる有るを以て、情を以て恕す可しとす。意に非ずして相 干さば、理を以て遣る可しと。故に終身に喜慍の容を見(あらは)さず。
王敦の豪爽不羣にして、物の上に居るを好むを以て、國の忠臣に非ざる恐れ、建鄴に向ふことを求む。京師の人士 其の姿容を聞き、觀る者 堵の如し。玠の勞疾 遂に甚しく、永嘉六年に卒し、時に年二十七なり。時人 玠 殺せらると謂ふ。南昌に葬る。謝鯤 之に哭して慟じ、人 問ひて曰く、「子 何ぞ恤みて斯の哀を致す有るか」と。答へて曰く、「棟梁 折れ、覺らずして哀しむのみ」と。咸和中に、塋を江寧に改む。丞相の王導 教に曰く、「衞洗馬 明に當に改葬すべし。此の君 風流の名士にして、海內 瞻る所、薄祭を修めて、以て舊好を敦くす可し」と。後に劉惔・謝尚 共に中朝の人士を論ずるに、或いは問ふ、「杜乂 衞洗馬と方ぶ可きや不(いな)や」と。尚曰く、「安んぞ相 比するを得ん、其の間 數人を容るる可し」と。惔 又 云ふ、「杜乂の膚は清く、叔寶の神は清し」と。其の有識者の重んずる所と為るは此の若し。時に中興の名士、唯だ王承及び玠のみ當時の第一為りと云ふ。
恒の族弟の展 字は道舒、尚書郎・南陽太守を歷す。永嘉中に、江州刺史と為り、累りに晉王の大理に遷る。詔して子を考して父に證せしむめ、或いは父母を鞭ちて子の所在を問はしむる有り。展 以為へらく正教を傷つくることを恐れ、並びに奏して之を除かしむ。中興 建つや、廷尉と為り、上疏して宜しく肉刑を復すべしと。語は刑法志に在り。卒し、光祿大夫を贈る。

現代語訳

衛瓘が楚王の司馬瑋に陥れられると、衛恒は異変を聞いて、何劭が兄嫁の父なので、壁の穴のなかから訪問し、どのような事態であるか質問した。何劭は知っていたが教えなかった。衛恒が帰宅して台所を通りかかると、追っ手が食事しているところで、鉢合わせして殺害された。のちに長水校尉を贈り、蘭陵貞世子と諡した。二子がおり、衛璪と衛玠である。
衛璪は字を仲宝といい衛瓘の爵を襲った。のちに東海王越が蘭陵をその国に増し、改めて江夏郡公に封建し、邑は八千五百戸であった。懐帝が即位すると、散騎侍郎となった。永嘉五(三一一)年、劉聡に殺された。元帝は衛瓘の玄孫の衛崇に嗣がせた。
衛玠は字を叔宝という。五歳にして、人品が特別に秀でていた。祖父の衛瓘は、「この子は他の子と違う。私は年寄りだから、この子の成長を見られない」と言った。總角(少年)のとき羊車に乗って市に入ると、見るものは宝玉のひとだと言い、見物するものが殺到して都を傾けた。驃騎将軍の王済は、衛玠の舅である。英俊で容姿が立派であったが、衛玠を見るたび、いつも歎いて、「珠玉がそばにあると、自分の姿を醜く感じる」と言った。またかつてひとに、「衛玠と一緒にいると、まぶしさは明珠の側にいるようで、きらきらと人を照らす」と言った。成長すると、玄理(奥深い道理)を述べることを好んだ。その後、病気がちで痩せており、母はいつも(体力を消耗するので)議論を禁じていた。たまたま調子がいいとき、親友が発言を求めれば、いつも感銘を与え、精緻な言説とされた。琅邪の王澄は名声があり、若くして(衛玠を)崇拝し、いつも衛玠の言葉を聞くと、歎息して卒倒した。ゆえに当時の人は、「衛玠が道を談ずると、平子が気絶する」と言った。王澄・王玄・王済は三人とも高い評判があったが、みな衛玠より下と見なされ、「王家の三子は、衛家の一児に敵わない」と噂された。衛玠の妻の父の楽広は、海内に高い名声があったが、議者は、「婦公(妻の父)は清らかな氷で、女壻(娘婿)は玉潤で瑞々しく美しい」と言った。
辟召の命がしばしば来たが、いずれも就かなかった。しばらくして、太傅西閤祭酒となり、太子洗馬を拝した。(兄の)衛璪は散騎侍郎となり、懐帝のそばに仕えた。衛玠は天下が大いに乱れたので、親族を移住させ南に行こうとした。母は、「私は仲宝(衛璪)を捨てて行けない」と言った。衛玠は丁寧に説得し、一族のための見通しを述べたので、母は泣いて聞き入れた。別れるとき、衛玠は兄(衛璪)に、「三つの義があり、人が大切にするものです。いまは身を捧げる時節と言えましょう、兄は(懐帝のため)努めて下さい」と言った。母を助けて輿に乗せて江夏郡に至った。
衛玠の妻が先に亡くなった。征南将軍の山簡はかれと会い、とても敬い重んじた。山簡は、「むかし戴叔鸞(後漢の戴良)が娘を嫁がせるとき、ただ賢者であるかを基準とし、貴賤は問わなかった。まして衛氏は権貴の名門であり声望もある人だから(なおさら娘を嫁がせたい)」と言った。ここにおいて娘を妻にさせた。やがて豫章に進んだ。このとき大将軍の王敦が豫章郡に鎮していたが、さきに長史の謝鯤がとても衛玠を重んじ、会って喜び、言葉を交わしてを日数を重ねた。王敦は謝鯤に、「むかし王輔嗣(王弼)は金聲(鐘の音)を宮廷内で吐き、この人物(衛玠)もまた玉(磬の音)を江南に振るっている。奥深い言説の系譜は、絶えてもまた存続する。永嘉の末を思わず、また正始の音を聞くとは。何平叔(何晏)がもし生きていれば、また感激し卒倒するだろう」と言った。衛玠はかつて至らない人物がいたとき、恩情によって許すべきと言った。意図せぬ失敗ならば、理により見逃すべきとした。こうして死ぬまで喜怒の感情を表さなかった。
王敦は意気が盛んで気性が爽やかで、万人の上に立つことを好むので、(衛玠は王敦が)国の忠臣でないことを恐れ、(簒奪阻止のため)建鄴に行くことを求めた。京師の人士はその姿形を聞き、見物する者が垣根をなした。衛玠は疲労と病気がひどく、永嘉六年に卒し、このとき二十七歳であった。当時の人々は衛玠が殺されたと噂した。南昌に葬った。謝鯤はかれのために慟哭したので、ひとが、「なぜそこまで哀しむのか」と質問した。答えて、「(国家の)棟木や梁が折れたので、自覚なく哀しんでしまった」と言った。咸和年間に、墓を江寧に移した。丞相の王導は教書に、「衛洗馬は適切に敬って改葬すべきである。この人物は風流の名士で、海内が注目した、薄祭を行って、旧交を篤くするように」と言った。のちに劉惔と謝尚が王朝の人士について論じ、ある人が、「杜乂は衛洗馬と比べられるかどうか」と質問した。謝尚は、「どうして同格であるものか、二人の(順位の)間に数人が入る」と言った。劉惔はさらに、「杜乂は皮膚が清いが、叔宝(衛玠)は精神が清かった」と言った。見識ある者から重んぜられる様子はこのようであった。このとき東晋の名士は、ただ王承と衛玠のみが当世随一とされた。
衛恒の族弟の衛展は字を道舒といい、尚書郎・南陽太守を歴任した。永嘉年間に、江州刺史となり、晋王(司馬睿)の大理に累遷した。詔して子を取り調べるとき父に証言させ、あるいは父母を鞭打って(罪人である)子の所在を問わせていた。衛展は正しい儒の教えが損なわれることを恐れ、どちらも上奏して中止させた。中興(東晋)が建国されると、廷尉となり、上疏して肉刑を再開すべきですと言った。これは刑法志に見える。卒すると、光禄大夫を贈られた。

張華 子禕 韙 劉卞

原文

張華字茂先、范陽方城人也。父平、魏漁陽郡守。華少孤貧、自牧羊、同郡盧欽見而器之。鄉人劉放亦奇其才、以女妻焉。華學業優博、辭藻溫麗、朗贍多通。圖緯・方伎之書莫不詳覽。少自修謹、造次必以禮度。勇於赴義、篤於周急。器識弘曠、時人罕能測之。初未知名、著鷦鷯賦以自寄。其詞曰。
何造化之多端、播羣形於萬類。惟鷦鷯之微禽、亦攝生而受氣。育翩翾之陋體、無玄黃以自貴。毛無施於器用、肉不登乎俎味。鷹鸇過猶1.戢翼、尚何懼於罿罻。翳薈蒙籠、是焉游集。飛不飄揚、翔不翕集。其居易容、其求易給。巢林不過一枝、每食不過數粒。栖無所滯、游無所盤。匪陋荊棘、匪榮茝蘭。動翼而逸、投足而安。委命順理、與物無患。伊茲禽之無知、而處身之似智。不懷寶以賈害、不飾表以招累。靜守性而不矜、動因循而簡易。任自然以為資、無誘慕於世偽。
鵰鶡介其觜距、鵠鷺軼於雲際。鵾雞竄於幽險、孔翠生乎遐裔。彼晨鳧與歸雁、又矯翼而增逝。咸美羽而豐肌、故無罪而皆斃。徒銜蘆以避繳、終為戮於此世。蒼鷹鷙而受紲、鸚鵡慧而入籠。屈猛志以服養、塊幽縶於九重。變音聲以順旨、思摧翮而為庸。戀鍾岱之林野、慕隴坻之高松。雖蒙幸於今日、未若疇昔之從容。海鳥爰居、避風而至。條支巨爵、踰嶺自致。提挈萬里、飄颻逼畏。夫惟體大妨物、而形瓌足偉也。
陰陽陶烝、萬品一區。巨細舛錯、種繁類殊。鷦冥巢於蚊睫、大鵬彌乎天隅。將以上方不足、而下比有餘。普天壤而遐觀、吾又安知大小之所如。
陳留阮籍見之、歎曰、「王佐之才也」。由是聲名始著。

1.『文選』は「俄」につくり、『文選』のほうが意味が適切か。

訓読

張華 字は茂先、范陽方城の人なり。父の平、魏の漁陽郡守なり。華 少くして孤貧にして、自ら羊を牧し、同郡の盧欽 見て之を器とす。鄉人の劉放も亦た其の才を奇とし、女を以て焉に妻す。華の學業 優博にして、辭藻は溫麗、朗贍にして多く通ず。圖緯・方伎の書 詳覽せざる莫し。少くして自ら修謹し、造次にも必ず禮度を以てす。義に赴くに勇あり、急に周するに篤し。器識は弘曠にして、時人 之を測る能はず。初め未だ名を知られざるに、鷦鷯賦を著して以て自ら寄す。其の詞に曰ふ〔一〕。
何ぞ造化の多端なる、羣形を萬類に播(し)く。惟れ鷦鷯の微禽なるも、亦た生を攝して氣を受く。翩翾の陋體を育ひ、玄黃の以て自ら貴くする無し。毛は器用に施すこと無く、肉は俎味に登らず。鷹鸇 過りて猶ほ翼を戢(をさ)め、尚ほ何ぞ罿罻を懼れん。翳薈蒙籠、是れ焉に游集す。飛ぶも飄揚せず、翔るも翕集せず。其の居は容れ易く、其の求め給し易し。林に巢ふも一枝に過ぎず、食ふ每に數粒に過ぎず。栖むに滯る所無く、游ぶに盤(たの)しむ所無し。荊棘を陋とするに匪ず、茝蘭を榮とするに匪ず。翼を動かして逸(ほしいまま)にし、足を投じて安し。命を委ね理に順ひ、物と患ひ無し。伊れ茲の禽の無知なる、身を處するの智に似たる。寶を懷きて以て害を賈(か)はず、表を飾りて以て累を招かず。靜かなれば性を守りて矜らず、動きては因循にして簡易なり。自然に任せて以て資と為し、世偽を誘慕する無し。
鵰鶡は其の觜距を介とし、鵠鷺は雲際に軼す。鵾雞は幽險に竄れ、孔翠は遐裔に生ず。彼の晨鳧と歸雁と、又 翼を矯げて增(たか)く逝く。咸 美羽にして豐肌なり、故に罪無くして皆 斃る。徒に蘆を銜へて以て繳を避くるも、終に此の世に戮せらる。蒼鷹は鷙にして紲を受け、鸚鵡は慧にして籠に入る。猛志を屈して以て養に服し、塊として九重に幽縶せらる。音聲を變じて以て旨に順ひ、翮を摧きて庸を為さんことを思ふ。鍾岱の林野を戀ひ、隴坻の高松を慕ふ。幸ひを今日に蒙ると雖も、未だ疇昔の從容たるに若かず。海鳥の爰居、風を避けて至る。條支の巨爵、嶺を踰えて自ら致る。萬里に提挈し、飄颻として逼畏す。夫れ惟だ體 大なれば物を妨げ、形 瓌なれば偉とするに足るなり。
陰陽 陶烝し、萬品 一區なり。巨細 舛錯し、種 繁く類 殊なる。鷦冥は蚊睫に巢ひ、大鵬は天隅に彌る。將た以て方に上ぶれば足らず、下に比ぶれば餘り有り。天壤を普くして遐觀すれば、吾 又 安くんぞ大小の如く所を知らんと。
陳留の阮籍 之を見、歎じて曰く、「王佐の才なり」と。是に由り聲名 始めて著はる。

〔一〕鷦鷯賦は、高橋忠彦(著)『新釈漢文大系』八一 文選(賦篇下)鷦鷯賦并序(明治書院、二〇〇一年)を参考にした。

現代語訳

張華は字を茂先といい、范陽郡方城県の人である。父の張平は、魏の漁陽郡守である。張華は若いとき父を失って貧しく、自ら羊を放牧したが、同郡の盧欽は会うと器量ありとした。同郷の劉放もまたその才能を特別とし、娘を娶せた。張華の学業は秀でて広く、詩文の文采は穏やかで美しく、朗らかで豊かで多くのことに通じた。図緯と方技の書で詳らかに読み込んでいないものがなかった。若くして自ら身を修めて謹み、突然のことにも必ず礼節で対処した。義に赴いて勇敢であり、人助けを手厚くした。見識は広大で、同時代の人からは計り知れなかった。まだ名前を知られる前、鷦鷯賦を著して自分を託した。その詞は以下の通りである。
自然の力はなんと多様なことか、さまざまな生物を創り出す。鷦鷯(みそさざい)のような小さな鳥も、気を受けて命を保っている。軽くて飛べる身体を育むが、羽には自慢できる美しい色がない。毛は(人間の)役に立たず、肉はお供えに使われない。鷹やハヤブサが飛来すれば羽を畳み、網にかかることを恐れない。草木の密生するところに、好んで集まる。飛んでも高く舞い上がらず、勢いよく飛び立たない。住処を見つけやすく、食べ物も手に入れやすい。林に巣を作っても、一本の枝があれば十分で、食べものは数粒で十分である。住処にこだわらず、遊ぶところもこだわらない。いばらを嫌わず、香草を貴ぶでもない。翼を気ままに動かし、のんきに足を留める。天命に任せて道理に従い、何かを憂うこともない。この鳥は無知であるが、身の処し方は智者のようだ。宝を抱いて害を招かず、上辺を飾って災いを呼ばない。静かなときは身を屈して誇らず、動くときは順応して余計なことをしない。本性に任せることを基本とし、世間の虚飾に心引かれない。
鷹や山鳥は、鎧のような嘴と爪をもち、白鳥や鷺は雲の際まで飛ぶ。大きな鶏は山の奥に隠れ、孔雀は辺境に生息する。朝飛ぶ鴨や(北から)帰る雁は、翼を振るって高く飛ぶ。これらの鳥は、みな羽が美しく肉が美味く、だから罪がないのに落命する。葦をくわえ、いぐるみを避けようとしても無駄で、結局はひとに殺される。黒い鷹は獰猛なので(狩りに使って)縄に繋がれ、鸚鵡は賢いので籠に入れられる。猛々しい心を屈してひとに養われ、奥深くに閉じ込められる。声が枯れても主人に応え、翼が砕けようと働こうとする。(鷹は)鍾岱の原野を懐かしみ、(鸚鵡は)隴坻の高松を慕う。いまは寵愛を受けているが、かつての自由な生活のほうがよい。遠く海にすむ鳥は、風を避けて飛んできた。条支国の巨雀は、嶺を越えて(西域から)きた。助けあって万里を旅し、風に飛ばされてきたのである。体が大きければ他とぶつかり、姿が立派だと狙われる。
陰陽の気が交感し、万物を生み出す。大小が入り交じり、多くの種類に分岐する。小さな虫は蚊のまぶたに巣を作り、大鵬は天の果てまで行ける。上には上がおり、下には下がいる。天地すべてを通観すれば、大小の区別にどんな意味があろうか。
陳留の阮籍はこれを見て、歎じて、「王佐の才である」と言った。これにより名声ははじめて明らかになった。

原文

郡守鮮于嗣薦華為太常博士。盧欽言之於文帝、轉河南尹丞、未拜、除佐著作郎。頃之、遷長史、兼中書郎。朝議表奏、多見施用、遂即真。晉受禪、拜黃門侍郎、封關內侯。華強記默識、四海之內、若指諸掌。武帝嘗問漢宮室制度及建章千門萬戶、華應對如流、聽者忘倦、畫地成圖、左右屬目。帝甚異之、時人比之子產。數歲、拜中書令、後加散騎常侍。遭母憂、哀毀過禮。中詔勉勵、逼令攝事。
初、帝潛與羊祜謀伐吳、而羣臣多以為不可、唯華贊成其計。其後、祜疾篤、帝遣華詣祜、問以伐吳之計、語在祜傳。及將大舉、以華為度支尚書、乃量計運漕、決定廟算。眾軍既進、而未有克獲、賈充等奏誅華以謝天下。帝曰、「此是吾意、華但與吾同耳」。時大臣皆以為未可輕進、華獨堅執、以為必克。及吳滅、詔曰、「尚書・關內侯張華、前與故太傅羊祜共創大計、遂典掌軍事、部分諸方、算定權略、運籌決勝。有謀謨之勳。其進封為廣武縣侯、增邑萬戶、封子一人為亭侯、千五百戶、賜絹萬匹」。
華名重一世、眾所推服、晉史及儀禮憲章並屬於華、多所損益。當時詔誥皆所草定、聲譽益盛、有台輔之望焉。而荀勖自以大族、恃帝恩深、憎疾之、每伺間隙、欲出華外鎮。會帝問華、「誰可託寄後事者」。對曰、「明德至親、莫如齊王攸」。既非上意所在、微為忤旨、間言遂行。乃出華為持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉・安北將軍。撫納新舊、戎夏懷之。東夷馬韓・新彌諸國依山帶海、去州四千餘里、歷世未附者二十餘國、並遣使朝獻。於是遠夷賓服、四境無虞、頻歲豐稔、士馬強盛。
朝議欲徵華入相、又欲進號儀同。初、華毀徵士馮恢於帝。紞即恢之弟也、深有寵於帝。紞嘗侍帝、從容論魏晉事、因曰、「臣竊謂鍾會之釁、頗由太祖」。帝變色曰、「卿何言邪」。紞免冠謝曰、「臣愚宂瞽言、罪應萬死。然臣微意、猶有可申」。帝曰、「何以言之」。紞曰、「臣以為善御者必識六轡盈縮之勢、善政者必審官方控帶之宜。故仲由以兼人被抑、冉求以退弱被進、漢高八王以寵過夷滅、光武諸將由抑損克終。非上有仁暴之殊、下有愚智之異、蓋抑揚・與奪使之然耳。鍾會才見有限、而太祖誇奬太過、嘉其謀猷、盛其名器、居以重勢、委以大兵。故使會自謂算無遺策、功在不賞、輈張跋扈、遂搆凶逆耳。向令太祖錄其小能、節以大禮、抑之以權勢、納之以軌則、則亂心無由而生、亂事無由而成矣」。帝曰、「然」。紞稽首曰、「陛下既已然微臣之言、宜思堅冰之漸、無使如會之徒復致覆喪」。帝曰、「當今豈有如會者乎」。紞曰、「東方朔有言、談何容易、易曰、臣不密則失身」。帝乃屏左右曰、「卿極言之」。紞曰、「陛下謀謨之臣、著大功於天下、海內莫不聞知、據方鎮總戎馬之任者、皆在陛下聖慮矣」。帝默然。頃之、徵華為太常。以太廟屋棟折、免官。遂終帝之世、以列侯朝見。

訓読

郡守の鮮于嗣 華を薦めて太常博士と為す。盧欽 之を文帝に言ふや、河南尹丞に轉じ、未だ拜せざるに、佐著作郎に除せらる。頃之、長史に遷り、中書郎を兼ぬ。朝議の表奏、多く施用せられ、遂に真に即く。晉 受禪するや、黃門侍郎を拜し、關內侯に封ぜらる。華 強記默識にして、四海の內、諸掌を指すが若し。武帝 嘗て漢の宮室制度及び建章の千門萬戶を問ふに、華の應對 流るるが如く、聽く者 倦むを忘れ、地に畫けば圖を成し、左右 屬目す。帝 甚だ之を異とし、時人 之を子產に比す。數歲にして、中書令を拜し、後に散騎常侍を加へらる。母の憂に遭ひ、哀毀 禮を過ぐ。詔に中りて勉勵し、令に逼りて攝事す。
初め、帝 潛かに羊祜と與に伐吳を謀り、而れども羣臣 多く以て不可と為し、唯だ華のみ其の計に贊成す。其の後、祜 疾ひ篤く、帝 華を遣はして祜に詣り、問はしむに伐吳の計を以てし、語は祜傳に在り。將に大舉せんとするに及び、華を以て度支尚書と為し、乃ち運漕を量計し、廟算を決定せしむ。眾軍 既に進み、而れども未だ克獲有らざるに、賈充ら華を誅して以て天下に謝れと奏す。帝曰く、「此れ是れ吾が意なり、華 但だ吾と同じなるのみ」と。時に大臣 皆 以て未だ輕々しく進む可からざると為し、華のみ獨り堅執し、以て必ず克つと為す。吳 滅ぶに及び、詔して曰く、「尚書・關內侯の張華、前に故太傅の羊祜と與に共に大計を創り、遂に軍事を典掌し、諸方を部分し、權略を算定し、籌を運らせ勝を決す。謀謨の勳有り。其れ封を進めて廣武縣侯と為し、邑萬戶を增し、子一人を封じて亭侯と為し、千五百戶、絹萬匹を賜へ」と。
華 名は一世に重く、眾の推服する所にして、晉史及び儀禮憲章 並びに華に屬し、多く損益する所あり。當時の詔誥 皆 草定する所なり、聲譽 益々盛んにして、台輔の望有り。而れども荀勖 自ら大族なるを以て、帝の恩 深きに恃み、之を憎疾し、每に間隙を伺ひ、華を外鎮に出さんと欲す。會々帝 華に問ふ、「誰か後事を託寄す可き者か」と。對へて曰く、「明德至親、齊王攸に如くは莫し」と。既にして上意の所在に非ざれば、微かに忤旨と為り、間言 遂に行ふ。乃ち華を出だして持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉・安北將軍と為す。新舊を撫納し、戎夏 之に懷く。東夷の馬韓・新彌の諸國 山に依り海に帶し、州を去ること四千餘里、世を歷て未だ附せざる者 二十餘國あり、並びに使を遣はして朝獻す。是に於て遠夷 賓服し、四境 虞無く、頻歲に豐稔し、士馬 強盛たり。
朝議 華を徵し入りて相にせんと欲し、又 號を進めて儀同とせんと欲す。初め、華 徵士の馮恢を帝に毀る。紞 即ち恢の弟にして、深く帝に寵有り。紞 嘗て帝に侍り、從容として魏晉の事を論じ、因りて曰く、「臣 竊かに鍾會の釁は、頗る太祖に由ると謂ふ」と。帝 色を變へて曰く、「卿 何をか言ふか」と。紞 冠を免じて謝りて曰く、「臣 愚にして瞽言を宂し、罪は萬死に應ず。然れども臣の微意、猶ほ申す可き有り」と。帝曰く、「何を以て之を言ふか」と。紞曰く、「臣 以為へらく御を善くする者は必ず六轡盈縮の勢を識り、政を善くする者は必ず官方控帶の宜を審らかにす。故に仲由 兼人を以て抑せられ、冉求 退弱を以て進められ、漢高の八王 寵過を以て夷滅せられ、光武の諸將 抑損に由りて克く終はる。上に仁暴の殊有りて、下に愚智の異有るに非ず。蓋し抑揚・與奪 之を然らしむるのみ。鍾會の才見 限有り、而れども太祖 誇奬 太に過ぎ、其の謀猷を嘉し、其の名器を盛とし、居るに重勢を以てし、委ぬるに大兵を以てす。故に會をして自ら算に遺策無く、功に不賞在りと謂はしめ、輈張跋扈して、遂に凶逆を搆ふるのみ。向(さき)に太祖をして其の小能を錄し、節するに大禮を以てし、之を抑ふるに權勢を以てし、之を納るるに軌則を以てせしめば、則ち亂心 由りて生ずる無く、亂事 由りて成ること無し」と。帝曰く、「然り」と。紞 稽首して曰く、「陛下 既に已に微臣の言を然りとせば、宜しく堅冰の漸を思ひ、會の徒が如きをして復た覆喪を致せしむる無かれ」と。帝曰く、「當今 豈に會の如き者有るや」と。紞曰く、「東方朔に言有り、『談 何ぞ容易ならん』と。易に曰く、『臣 密ならざれば則ち身を失ふ』と」と。帝 乃ち左右を屏(しりぞ)けて曰く、「卿 極めて之を言へ」と。紞曰く、「陛下の謀謨の臣、大功を天下に著はし、海內 聞知せざる莫く、方鎮に據りて戎馬の任を總ぶる者は、皆 陛下の聖慮に在り」と。帝 默然とす。頃之、華を徵して太常と為す。太廟の屋棟 折るるを以て、官を免ぜらる。遂に帝の世を終ふるに、列侯を以て朝見す。

現代語訳

郡守の鮮于嗣は張華を薦めて太常博士とした。盧欽がかれを文帝(司馬昭)に教えると、河南尹丞に転じ、まだ拝命せぬうちに、佐著作郎に除された。しばらくして、長史に遷り、中書郎を兼ねた。(張華が)朝議に提出した上表や上奏は、多くが採用され、こうして(中書郎の)真に即いた。晋が受禅すると、黄門侍郎を拝し、関内侯に封建された。張華は記憶力と知識にすぐれ、四海の内は、手のひらを指すように知り尽くしていた。武帝はかつて漢代の宮室制度および建章殿の無数の門や戸(の位置)について質問すると、張華の応答は流れるようで、聞く者を退屈させず、地面に描けば図となり、左右は目を付けた。武帝はこれを高く評価し、当時の人はかれを子産に準えた。数年で中書令を拝し、のちに散騎常侍を加えられた。母の喪に服し、哀しみ方が礼を超えた。(体調を損ねても)詔を受ければ精勤し、命令どおりに執務をした。
これよりさき、武帝はひそかに羊祜と伐呉を計画したが、群臣は多くが反対し、張華だけが賛成した。その後、羊祜の病が重くなると、武帝は張華を羊祜のもとに行かせ、伐呉の計について質問させたが、これは羊祜伝に見える。大軍を動員するに及び、張華を度支尚書とし、兵站を計算させ、軍略を決定させた。大軍がすでに進んだが、まだ勝報が届かぬとき、賈充らは張華を誅殺して天下に謝りなさいと上奏した。武帝は、「これは私の考えだ、張華は私に合意したに過ぎない」と言った。このとき大臣はみな軽々しく進んではならないと考えており、張華のみが(決戦に)こだわり、必ず勝つと言った。呉が滅ぶと、詔して、「尚書で関内侯の張華は、前に故太傅の羊祜とともに大計を創り、ついに軍務を管掌して、諸方面の軍を編成し、権略を算定し、軍略をめぐらせ勝ちを決した。参謀としての勲功がある。そこで爵位を進めて広武県侯とし、邑万戸を増し、子一人を亭侯に封建し、千五百戸とし、絹一万匹を賜え」と言った。
張華は名が同時代に重く、群臣から敬服され、晋の史書及び儀礼の憲章はすべて張華の手により、多く加筆修正をした。当時の詔誥はすべて(張華が)草稿を作り、声望はますます盛んになり、台輔(尚書台)で声望があった。ところが荀勖は自分が有力氏族であり、武帝からの恩が深いことを頼りに、張華を嫉妬して憎悪し、つねに隙を窺い、張華を外鎮に転出させようとした。たまたま武帝が張華に、「後事を託するのは誰がよいか」と質問した。(張華は)「徳に秀でて血縁が近いという点で、斉王攸(司馬攸)ほどの者はいません」と言った。これは武帝の意向と違ったので、微かに気持ちに距離が生まれ、(荀勖が)口を挟んだ。張華は(朝廷から)出て持節・都督幽州諸軍事・領護烏桓校尉・安北将軍となった。新旧を問わず歓迎し、異民族を懐柔した。東夷の馬韓と新弥の諸国は山に依って海に囲まれ、幽州を去ること四千里あまりで、歴代(王朝に)帰付したことがない二十国あまりがあったが、揃って使者を送って朝献した。ここにおいて遠方の異民族は帰服し、国境の四方に危険がなくなり、豊作が続いて、兵士と馬が盛強となった。
朝議は張華を徴召し(朝廷に入れ)て宰相にしようと考え、また号を進めて儀同(三司)にしようとした。これよりさき、張華は徴士の馮恢を武帝のまえで批判した。馮紞は馮恢の弟で、武帝から寵愛を受けていた。馮紞はかつて武帝に侍り、なにげなく魏晋(交替期)のことを論じ、この場で、「私見では鍾会の罪過は、太祖(司馬昭)が原因を作ったと思います」と言った。武帝は顔色を変え、「きみは何を言うのだ」と言った。馮紞は冠を脱いで謝り、「私は愚かで余計なことを言いました、罪は万死に当たります。しかし私の考えで、お耳に入れたいことがありました」と言った。武帝は、「なんだ」と言った。馮紞は、「思いますに馬車の制御が上手いものは必ず六本の手綱さばきを知り、政治が上手いものは必ず官僚の操縦法を心得ています。ゆえに仲由(子路)は人より優れても抑えられ、冉求は柔弱でも進められ、漢高祖の八王は寵愛されたが滅亡し、光武帝の諸将は抑制されたので寿命を終えました。主上に仁か暴かの区別があり、臣下に愚か智かの区別があったのではありません。どうやら抑揚と与奪(のさじ加減)で結果が決まったのです。鍾会の才能と見識には限界がありましたが、太祖(司馬昭)からの評価は実態を超え、かれの見識と計略をほめ、器量を大きく見積もり、重大な地位に就け、大量の兵を与えました。ゆえに鍾会は自分の計略には失敗がなく、功績への褒賞が不十分だと勘違いし、傲慢で暴れまわり、結局は凶悪な謀叛を起こしたのです。もし太祖が鍾会の能力不足を知り、礼節によって引き締め、権宜によって牽制し、かれを規則の範囲で待遇すれば、乱心が生まれる理由はなく、乱事が起こる理由もなかったのです」と言った。武帝は、「そうだな」と言った。馮紞は稽首して、「陛下が私の意見に同意して下さるなら、どうか些細な兆候を読みとり、鍾会のようなものが再び反逆を起こすことを防いで下さい」と言った。武帝は、「いま鍾会のような者がいるか」と言った。馮紞は、「東方朔は、『伝えることは何とも難しい』と言いました。易に、『臣下は機密を守らねば身を失う』とあります」と言った。武帝は左右の側近を遠ざけて、「さあ本心を話せ」と言った。馮紞は、「陛下の最高の参謀で、大きな功績を天下に表し、海内に聞き知らぬ者がなく、方鎮に拠って異民族を統率する任にある者を、陛下はもうご存知でしょう」と言った。武帝は黙りこんだ。しばらくして、張華を徴召して太常とした。太廟の屋棟が折れたので、官を免じられた。武帝の世の終わりに、列侯として朝見した。

原文

惠帝即位、以華為太子少傅、與王戎・裴楷・和嶠俱以德望為楊駿所忌、皆不與朝政。及駿誅後、將廢皇太后、會羣臣於朝堂、議者皆承望風旨、以為、「春秋絕文姜。今太后自絕於宗廟、亦宜廢黜」。惟華議以為、「夫婦之道、父不能得之於子、子不能得之於父。皇太后非得罪於先帝者也。今黨其所親、為不母於聖世。宜依漢廢趙太后為孝成后故事、貶太后之號、還稱武皇后、居異宮、以全貴終之恩」。不從、遂廢太后為庶人。
楚王瑋受密詔殺太宰汝南王亮・太保衞瓘等、內外兵擾、朝廷大恐、計無所出。華白帝以、「瑋矯詔擅害二公、將士倉卒、謂是國家意、故從之耳。今可遣騶虞幡使外軍解嚴、理必風靡」。上從之、瑋兵果敗。及瑋誅、華以首謀有功、拜右光祿大夫・開府儀同三司・侍中・中書監、金章紫綬。固辭開府。
賈謐與后共謀、以華庶族、儒雅有籌略、進無逼上之嫌、退為眾望所依、欲倚以朝綱、訪以政事。疑而未決、以問裴頠、頠素重華、深贊其事。華遂盡忠匡輔、彌縫補闕、雖當闇主・虐后之朝、而海內晏然、華之功也。華懼后族之盛、作女史箴以為諷。賈后雖凶妒、而知敬重華。久之、論前後忠勳、進封壯武郡公。華十餘讓、中詔敦譬、乃受。數年、代下邳王晃為司空、領著作。
及賈后謀廢太子。左衞率劉卞甚為太子所信遇、每會宴、卞必預焉。屢見賈謐驕傲、太子恨之、形于言色、謐亦不能平。卞以賈后謀問華、華曰、「不聞」。卞曰、「卞以寒悴、自須昌小吏受公成拔、以至今日。士感知己。是以盡言、而公更有疑於卞邪」。華曰、「假令有此、君欲如何」。卞曰、「東宮俊乂如林、四率精兵萬人。公居阿衡之任。若得公命、皇太子因朝入錄尚書事、廢賈后於金墉城、兩黃門力耳」。華曰、「今天子當陽、太子、人子也。吾又不受阿衡之命。忽相與行此、是無其君父、而以不孝示天下也。雖能有成、猶不免罪、況權戚滿朝、威柄不一、而可以安乎」。及帝會羣臣於式乾殿、出太子手書、徧示羣臣、莫敢有言者。惟華諫曰、「此國之大禍。自漢武以來、每廢黜正嫡、恒至喪亂。且國家有天下日淺、願陛下詳之」。尚書左僕射裴頠以為、「宜先檢校傳書者、又請比校太子手書、不然、恐有詐妄」。賈后乃內出太子素啟事十餘紙。眾人比視、亦無敢言非者。議至日西不決、后知華等意堅、因表乞免為庶人、帝乃可其奏。
初、趙王倫為鎮西將軍、撓亂關中、氐羌反叛、乃以梁王肜代之。或說華曰、「趙王貪昧、信用孫秀、所在為亂。而秀變詐、姦人之雄。今可遣梁王斬秀、刈趙之半、以謝關右、不亦可乎」。華從之、肜許諾。秀友人辛冉從西來、言於肜曰、「氐羌自反、非秀之為」。故得免死。倫既還、諂事賈后、因求錄尚書事、後又求尚書令。華與裴頠皆固執不可、由是致怨、倫・秀疾華如讎。武庫火、華懼因此變作、列兵固守。然後救之、故累代之寶及漢高斬蛇劍・王莽頭・孔子屐等盡焚焉。時華見劍穿屋而飛、莫知所向。
初、華所封壯武郡有桑化為柏、識者以為不祥。又華第舍及監省數有妖怪。少子韙以中台星坼、勸華遜位。華不從、曰、「天道玄遠、惟修德以應之耳。不如靜以待之、以俟天命」。及倫・秀將廢賈后、秀使司馬雅夜告華曰、「今社稷將危、趙王欲與公共匡朝廷、為霸者之事」。華知秀等必成篡奪、乃距之。雅怒曰、「刃將加頸、而吐言如此」。不顧而出。華方晝臥、忽夢見屋壞、覺而惡之。是夜難作、詐稱詔召華、遂與裴頠俱被收。華將死、謂張林曰、「卿欲害忠臣耶」。林稱詔詰之曰、「卿為宰相、任天下事。太子之廢、不能死節、何也」。華曰、「式乾之議、臣諫事具存、非不諫也」。林曰、「諫若不從、何不去位」。華不能答。須臾、使者至曰、「詔斬公」。華曰、「臣先帝老臣、中心如丹。臣不愛死、懼王室之難、禍不可測也」。遂害之於前殿馬道南、夷三族。朝野莫不悲痛之。時年六十九。

訓読

惠帝 即位するや、華を以て太子少傅と為し、王戎・裴楷・和嶠と與に俱に德望を以て楊駿の忌む所と為り、皆 朝政に與らず。駿 誅せらる後に及び、將に皇太后を廢せんとし、羣臣を朝堂に會するに、議者 皆 風旨を承望し、以為へらく、「春秋に文姜を絕つ〔一〕。今 太后 自ら宗廟を絕つ、亦た宜しく廢黜すべし」と。惟だ華のみ議して以為へらく、「夫婦の道は、父 之を子に得る能はず、子 之を父に得る能はず。皇太后 罪を先帝に得る者に非ざるなり。今 其の親しむ所に黨し、聖世に母たらざると為す。宜しく漢の趙太后を廢して孝成后と為すの故事に依り、太后の號を貶め、還りて武皇后と稱し、異宮に居りて、以て貴終の恩を全せしめよ」と。從はず、遂に太后を廢して庶人と為す。
楚王瑋 密詔を受けて太宰汝南王亮・太保衞瓘らを殺し、內外の兵 擾れ、朝廷 大いに恐れ、計 出づる所無し。華 帝に白して以へらく、「瑋 詔を矯めて擅に二公を害し、將士 倉卒たりて、是れ國家の意と謂ひ、故に之に從ふのみ。今 騶虞幡を遣はして外軍をして嚴を解かしむ可し、理として必ず風靡せん」と。上 之に從ひ、瑋の兵 果たして敗る。瑋 誅せらるに及び、華 謀を首めて功有るを以て、右光祿大夫・開府儀同三司・侍中・中書監、金章紫綬を拜す。開府を固辭す。
賈謐 后と與に共に謀るに、華の庶族にして、儒雅にして籌略有るを以て、進めば逼上の嫌無く、退かば眾望の依る所為りて、倚るに朝綱を以てし、訪ふに政事を以てせんと欲す。疑ひて未だ決せず〔二〕、以て裴頠に問ふに、頠 素より華を重んじ、深く其の事を贊す。華 遂に盡忠し匡輔して、補闕を彌縫し、闇主・虐后の朝に當たると雖も、而れども海內 晏然とするは、華の功なり。華 后族の盛なるを懼れ、女史箴を作りて以て諷を為す。賈后 凶妒なると雖も、而れども敬を知り華を重んず。久之、前後の忠勳を論じ、封を壯武郡公に進む。華 十餘たび讓し、中詔 敦譬なれば、乃ち受く。數年にして、下邳王晃に代はりて司空と為り、著作を領す。
賈后 太子を廢せんと謀るに及ぶ。左衞率の劉卞 甚だ太子の信遇する所と為り、會宴ある每に、卞 必ず焉に預る。屢々賈謐の驕傲を見て、太子 之を恨み、言色に形(あらは)し、謐も亦た平らかなる能はず。卞 賈后の謀を以て華に問ふに、華曰く、「聞かず」と。卞曰く、「卞 寒悴を以て、須昌の小吏より公の成拔を受け、以て今日に至る。士 知己に感ず。是を以て言を盡くすに、而れども公 更に卞に疑ひ有るか」と。華曰く、「假令 此有るとも、君 如何せんと欲するか」と。卞曰く、「東宮 俊乂なること林の如し、四に精兵萬人を率ゐる。公 阿衡の任に居る。若し公の命を得れば、皇太子 朝に因りて入りて錄尚書事し、賈后を金墉城に廢するは、兩黃門の力のみ」と。華曰く、「今 天子 當陽して、太子は、人の子なり。吾 又 阿衡の命を受けず。忽ち相 與に此を行ひ、是れ其の君父無くして、而して不孝を以て天下に示すなり。能く成る有ると雖も、猶ほ罪を免れず、況んや權戚 朝に滿ち、威柄 一ならず、而して以て安たる可きか」と。帝 羣臣と式乾殿に會するに及び、太子の手書を出だし、徧く羣臣に示し、敢て言有る者莫し。惟だ華のみ諫めて曰く、「此れ國の大禍なり。漢武より以來、每に正嫡を廢黜すれば、恒に喪亂に至る。且つ國家 天下を有ちて日は淺く、願はくは陛下 之を詳らかにせよ」と。尚書左僕射の裴頠 以為へらく、「宜しく先づ傳書する者を檢校し、又 請ふ太子の手書を比校すべし、然らずんば、恐らくは詐妄有らん」と。賈后 乃ち內より太子の素の啟事十餘紙を出す。眾人 比視するに、亦た敢て非と言ふ者無し。議 日西に至るも決せず、后 華らの意 堅きを知り、因りて表して免じて庶人と為すを乞ひ、帝 乃ち其の奏を可とす。
初め、趙王倫 鎮西將軍と為るに、關中を撓亂し、氐羌 反叛すれば、乃ち梁王肜を以て之に代ふ。或ひと華に說きて曰く、「趙王 貪昧にして、信もて孫秀を用ひ、所在に亂を為す。而も秀 變詐ありて、姦人の雄なり。今 梁王を遣はして秀を斬り、趙の半を刈りて、以て關右に謝す可し、亦た可ならざるか」と。華 之に從ひ、肜 許諾す。秀の友人の辛冉 西より來たり、肜に言ひて曰く、「氐羌 自ら反す、秀の為すに非ざるなり」と。故に死を免るるを得たり。倫 既に還り、賈后に諂事し、因りて錄尚書事を求め、後に又 尚書令を求む。華 裴頠と與に皆 固執して不可とし、是に由り怨を致し、倫・秀 華を疾むこと讎の如し。武庫に火あり、華 此に因りて變 作るを懼れ、兵を列ねて固守す。然る後 之を救ひ、故に累代の寶及び漢高 蛇を斬るの劍・王莽の頭・孔子の屐ら盡く焚く。時に華 劍の屋を穿ちて飛ぶを見て、向ふ所を知る莫し。
初め、華 封ずる所の壯武郡に桑の化して柏と為る有り、識者 以為へらく不祥なり。又 華の第舍及び監省 數々妖怪有り。少子の韙 中台星 坼(お)つるを以て、華に遜位を勸む。華 從はず、曰く、「天道 玄遠なり、惟だ德を修めて以て之に應ずるのみ。靜にして以て之を待ち、以て天命を俟つに如かず」と。倫・秀 將に賈后を廢せんとするに及び、秀 司馬雅を使はして夜に華に告げて曰く、「今 社稷 將に危ふからんとす、趙王 公と與に共に朝廷を匡し、霸者の事を為さんと欲す」と。華 秀ら必ず篡奪を成すを知り、乃ち之を距む。雅 怒りて曰く、「刃 將に頸に加はらんとし、而れども言を吐くこと此の如きか」と。顧みずして出づ。華 晝に方たりて臥し、忽ち夢に屋の壞るるを見て、覺りて之を惡む。是の夜 難 作こり、詐りて詔と稱して華を召し、遂に裴頠と與に俱に收めらる。華 將に死せんとするに、張林に謂ひて曰く、「卿 忠臣を害せんと欲するや」と。林 詔と稱して之を詰りて曰く、「卿 宰相と為て、天下の事を任せられる。太子の廢に、節に死する能はざるは、何ぞや」と。華曰く、「式乾の議、臣の諫事 具へて存り、諫めざるに非ざるなり」と。林曰く、「諫めて若し從ふこと非ざれば、何ぞ位を去らざる」と。華 答ふる能はず。須臾にして、使者 至りて曰く、「詔ありて公を斬れと」と。華曰く、「臣は先帝の老臣なり、中心 丹の如し。臣 死を愛まず、王室の難ありて、禍ひ測る可からざるを懼るるなり」と。遂に之を前殿の馬道の南に害し、夷三族とす。朝野 之を悲痛せざる莫し。時に年六十九なり。

〔一〕文姜は、春秋魯の桓公の夫人。斉の僖公の娘。魯の桓公が文姜と(文姜の生家の)斉に行くと、文姜は兄の襄公と密通した。魯の桓公が怒ると、文姜は斉の襄公に告げた。襄公は桓公を殺した(『列女伝』孽嬖伝)。
〔二〕【211112追記】翻訳者は当初、「賈謐 后と與に共に謀るに……」、「疑ひて未だ決せず」の内容を、張華の追放工作と理解し、現代語訳で補っていました。Ukon @konkon_ukon さまのご指摘に基づいて修正しました。

現代語訳

恵帝が即位すると、張華を太子少傅とし、王戎と裴楷と和嶠とともに徳望のために楊駿から煙たがられ、朝政から閉め出された。楊駿が誅された後、(楊)皇太后を廃位しようとし、群臣を朝堂に集めたが、議者はみな情勢や意向を踏まえ、「春秋で文姜は廃されました。いま太后は自ら宗廟を絶ちました、廃位し追放すべきです」と言った。ただ張華のみが提議し、「夫婦の道は、父が子から得られず、子が父から得られません。皇太后は先帝から処罰されたのではありません。いま私的な党与に味方し、聖世に母である(皇太后である)ことは不適任です。どうか前漢の趙太后を廃位して孝成后とした故事に則り、太后の号を降格し、武皇后にもどし、別の宮殿に住まわせ、恩を施して寿命を全うさせなさい」と言った。従わず、楊太后を廃位して庶人とした。
楚王瑋(司馬瑋)が密詔を受けて太宰の汝南王亮(司馬亮)と太保の衞瓘らを殺し、内外の兵は乱れ、朝廷は大いに恐れて、手の施しようがなかった。張華は恵帝に、「楚王瑋は詔を偽作してほしいままに二公を殺害し、将士は慌ただしく、これが国家(恵帝)の意向だと言われ、従っただけです。いま騶虞幡を取り出して外の軍の囲みを解かせなさい、きっと風に靡くように収束します」と提案した。恵帝はこれに従い、楚王瑋の兵は果たして敗れた。楚王瑋が誅されると、張華は謀略を発案し功績があるので、右光禄大夫・開府儀同三司・侍中・中書監、金章紫綬を拝した。開府を固辞した。
賈謐は賈后と話し合い、張華は庶族(寒門)で、儒雅であり策略があり、進んでも上位者を脅かす懸念がなく、退いても衆望からの支持があるから、(張華に)朝廷の重大事について意見を求め、訪れて政治について相談した。これを実行するか決断できず、裴頠に意見を求めると、裴頠はもとより張華を重んじているので、深く賛成した。張華はこうして忠を尽くし匡輔して、欠点を補填し、闇主(暗愚な恵帝)と虐后(残虐な賈后)の朝廷にあって、海内が安らかで落ち着いていたのは、張華のおかげである。張華は皇后一族が盛んであることを懼れ、女史箴を作って遠回しに諫めた。賈后は凶悪で嫉妬深かったが、敬意を持って張華を尊重した。しばらくして、前後の忠勲を論じ、爵位を壮武郡公に進めた。張華は十回あまり辞退したが、中詔(内々の詔)が念入りで篤実であったので、受諾した。数年で、下邳王晃(司馬晃)に代わって司空となり、著作(の官)を領した。
賈后が(愍懐)太子の廃位を企むようになった。左衛率の劉卞はとても太子から信頼し厚遇され、宴会があるたび、劉卞は必ずそばにいた。しばしば賈謐の驕傲を見て、太子はこれを恨み、言葉や態度に表したので、賈謐も穏やかでは居られなかった。劉卞は賈后の計画を張華に質問したが、張華は、「聞いていない」と言った。劉卞は、「私は寒門の貧しい出身で、須昌の小吏からあなたに抜擢をして頂き、今日に至りました。士は己を知るものに感ずるもの。ですから本音を打ち明けたのに、あなたはそれでも私を疑うのですか」と言った。張華は、「たとえ(廃太子の)陰謀があっても、きみはどうするのか」と言った。劉卞は、「東宮には俊才が林のように集い、四方で精兵一万人を率いています。あなたは阿衡の任にいます。もしあなたの命令さえ頂ければ、皇太子はこれを受けて朝廷に入って尚書の事を録し、賈后を金墉城に押し込めるのは、二人の黄門がいれば十分にできます」と言った。張華は、「いま天子が南面し、太子は、その息子である。私は阿衡の任命を断った。軽率にこれを実行すれば、君主と父(恵帝)を蔑ろにし、不孝を天下に示すことになる。成功したとしても、罪を免れず、まして外戚の権臣が朝廷に満ちて、政権は一筋縄ではない、簡単なことではない」と言った。(後日)恵帝が群臣と式乾殿で会し、太子の直筆の書を出し、あまねく群臣に示したが、あえて口を開く者はいなかった。ただ張華だけが諫めて、「これは国の大きな禍いです。漢の武帝より以来、つねに正嫡を廃黜すれば、喪乱になりました。しかも晋帝国が天下を支配して日が浅いので、どうか陛下は慎重に検討なさい」と言った。尚書左僕射の裴頠は、「まず証拠文書をよく調べなさい、太子の筆跡と比較し、一致しなければ偽造されたものです」と言った。賈后は内から太子のふだんの上啓を十通あまり取り出した。みなで見比べたが、敢えて不一致を言うものはなかった。会議は夕方になっても結論が出ず、賈后は張華らの(太子を守る)意思が堅いのを知り、上表して(太子を)免じて庶人にするように乞い、恵帝はその上奏を認可した。
これよりさき、趙王倫(司馬倫)が鎮西将軍となると、関中を騒がせて乱し、氐羌が離反したので、梁王肜(司馬肜)に交代させた。あるひとが張華に説き、「趙王は貪欲で愚かで、孫秀を信頼して登用し、任地を混乱させています。しかも孫秀には(国家に)叛いて詐る性質があり、姦人の雄です。いま梁王を派遣して孫秀を斬り、趙王の半身を削いで、関右に謝罪すべきです、いかがですか」と言った。張華はこれに従い、司馬肜は同意した。孫秀の友人の辛冉が西から来て、司馬肜に、「氐羌は自ら反乱したのであり、孫秀のせいではありません」と言った。ゆえに(孫秀は)死を免れることができた。司馬倫がすでに(洛陽に)帰還すると、賈后に阿諛追従し、録尚書事にしてくれと求め、のちにまた尚書令(の官位)を求めた。張華は裴頠ととともに断固として反対し、これにより怨みを買って、司馬倫・孫秀から仇敵のように嫌われた。武器庫で火災があり、張華はこれをきっかけに政変が起こることを恐れ、兵を整列させて動かさなかった。火災への対処が遅れたので、累代の宝と前漢の高祖が蛇を斬った剣・王莽の頭・孔子の履物がすべて焼けた。このとき張華は(高祖の)剣が屋根を破って飛び去るのを見たが、どこに行ったか知るものはいなかった。
これよりさき、張華が封建された壮武郡で桑が柏に変化したことがあり、識者は不吉とした。また張華の邸宅と役所でしばしば妖怪が現れた。(張華の)末子の張韙は中台星が落ちたので、張華に官位を返上するよう勧めた。張華は従わず、「天道は玄遠である、ただ徳を修めて応えるだけだ。静かにこれを迎え、天命を待つしかない」と言った。司馬倫と孫秀がまさに賈后を廃そうとすると、孫秀は司馬雅を使わして夜に張華に告げ、「いま社稷が危うい状況です、趙王(司馬倫)はあなたとともに朝廷を正し、霸者の事業を実現したいそうです」と言った。張華は孫秀らが必ず簒奪をすると悟り、協力を断った。司馬雅は怒って、「刃が首に突きつけられているのに、そんな(悠長な)ことを言うのか」と言った。振り返らずに出て行った。張華は昼寝をして、屋敷が壊れる夢を見て、目が覚めると嫌がった。この日の夜に政難が起こり、詔だと詐って張華を召し、ついに裴頠とともに捕まった。張華は死に際して、張林に、「きみは忠臣を殺害するのか」と言った。張林は詔ですからと言って詰り、「あなたは宰相として、天下のことを任されたのに、太子が廃位されるとき、死んで忠節を尽くせなかったのは、なぜですか」と言った。張華は、「式乾殿で議論をしたとき、私は諫めを確かに提出していた、諫めなかったのではない」と言った。張林は、「諫めても却下されたなら、なぜ官位を去らなかったのですか」と言った。張華は答えられなかった。少しして、使者が到着し、「公を斬れという詔が出た」と言った。張華は、「私は先帝の老臣で、忠心は真っ赤である。私は死を惜しまないが、王室の危難があり、災禍を予測不能なことが心配だ」と言った。かくて前殿の馬道の南で殺害され、夷三族とした。朝野は悲痛せぬものがなかった。ときに六十九歳であった。

原文

華性好人物、誘進不倦、至于窮賤候門之士有一介之善者、便咨嗟稱詠、為之延譽。雅愛書籍、身死之日、家無餘財、惟有文史溢于机篋。嘗徙居、載書三十乘。祕書監摯虞撰定官書、皆資華之本以取正焉。天下奇祕、世所希有者、悉在華所。由是博物洽聞、世無與比。
惠帝中、人有得鳥毛三丈、以示華。華見、慘然曰、「此謂海鳧毛也、出則天下亂矣」。陸機嘗餉華鮓。于時賓客滿座、華發器、便曰、「此龍肉也」。眾未之信、華曰、「試以苦酒濯之、必有異」。既而五色光起。機還問鮓主、果云、「園中茅積下得一白魚、質狀殊常、以作鮓、過美、故以相獻」。武庫封閉甚密、其中忽有雉雊。華曰、「此必蛇化為雉也」。開視、雉側果有蛇蛻焉。吳郡臨平岸崩、出一石鼓、槌之無聲。帝以問華、華曰、「可取蜀中桐材。刻為魚形、扣之則鳴矣」。於是如其言、果聲聞數里。
初、吳之未滅也、斗牛之間常有紫氣、道術者皆以、吳方強盛、未可圖也。惟華以為不然。及吳平之後、紫氣愈明。華聞豫章人雷煥妙達緯象、乃要煥宿、屏人曰、「可共尋天文、知將來吉凶」。因登樓仰觀。煥曰、「僕察之久矣、惟斗牛之間頗有異氣」。華曰、「是何祥也」。煥曰、「寶劍之精、上徹於天耳」。華曰、「君言得之。吾少時有相者言、吾年出六十、位登三事、當得寶劍佩之。斯言豈效與」。因問曰、「在何郡」。煥曰、「在豫章豐城」。華曰、「欲屈君為宰、密共尋之、可乎」。煥許之。華大喜、即補煥為豐城令。煥到縣、掘獄屋基、入地四丈餘、得一石函、光氣非常、中有雙劍、並刻題、一曰龍泉、一曰太阿。其夕、斗牛間氣不復見焉。煥以南昌西山北巖下土、以拭劍、光芒艷發。大盆盛水、置劍其上、視之者精芒炫目。遣使送一劍并土與華、留一自佩。或謂煥曰、「得兩送一、張公豈可欺乎」。煥曰、「本朝將亂、張公當受其禍。此劍當繫徐君墓樹耳。靈異之物、終當化去、不永為人服也」。華得劍、寶愛之、常置坐側。華以南昌土不如華陰赤土、報煥書曰、「詳觀劍文、乃干將也、莫邪何復不至。雖然、天生神物、終當合耳」。因以華陰土一斤致煥。煥更以拭劍、倍益精明。華誅、失劍所在。煥卒、子華為州從事、持劍行經延平津、劍忽於腰間躍出墮水。使人沒水取之、不見劍、但見兩龍各長數丈、蟠縈有文章、沒者懼而反。須臾光彩照水、波浪驚沸、於是失劍。華歎曰、「先君化去之言、張公終合之論、此其驗乎」。華之博物多此類、不可詳載焉。
後倫・秀伏誅、齊王冏輔政、摯虞致箋於冏曰、「間於張華沒後入中書省、得華先帝時答詔本草。先帝問華、可以輔政持重付以後事者。華答、明德至親、莫如先王、宜留以為社稷之鎮。其忠良之謀、款誠之言、信於幽冥、沒而後彰。與苟且隨時者不可同世而論也。議者有責華以愍懷太子之事不抗節廷爭。當此之時、諫者必得違命之死。先聖之教、死而無益者、不以責人。故晏嬰、齊之正卿、不死崔杼之難。季札、吳之宗臣、不爭逆順之理。理盡而無所施者、固聖教之所不責也」。冏於是奏曰、「臣聞興微繼絕、聖王之高政。貶惡嘉善、春秋之美義。是以武王封比干之墓、表商容之閭。誠幽明之故有以相通也。孫秀逆亂、滅佐命之國、誅骨鯁之臣、以斲喪王室。肆其虐戾、功臣之後、多見泯滅。張華・裴頠各以見憚取誅於時、解系・解結同以羔羊並被其害、歐陽建等無罪而死、百姓憐之。今陛下更日月之光、布維新之命。然此等諸族未蒙恩理。昔欒・郤降在皁隸、而春秋傳其違。幽王絕功臣之後、棄賢者子孫、而詩人以為刺。臣備忝在職、思納愚誠。若合聖意、可令羣官通議」。議者各有所執、而多稱其冤。壯武國臣竺道又詣長沙王、求復華爵位、依違者久之。
太安二年、詔曰、「夫愛惡相攻、佞邪醜正、自古而有。故司空・壯武公華竭其忠貞、思翼朝政、謀謨之勳、每事賴之。前以華弼濟之功、宜同封建、而華固讓至于八九、深陳大制不可得爾、終有顛敗危辱之慮、辭義懇誠、足勸遠近。華之至心、誓於神明。華以伐吳之勳、受爵於先帝。後封既非國體、又不宜以小功踰前大賞。華之見害、俱以姦逆圖亂、濫被枉賊。其復華侍中・中書監・司空・公・廣武侯及所沒財物與印綬符策、遣使弔祭之」。
初、陸機兄弟志氣高爽、自以吳之名家、初入洛、不推中國人士。見華一面如舊、欽華德範、如師資之禮焉。華誅後、作誄、又為詠德賦以悼之。華著博物志十篇、及文章並行于世。二子、禕・韙。
禕字彥仲。好學、謙敬有父風、歷位散騎常侍。韙儒博、曉天文、散騎侍郎。同時遇害。禕子輿、字公安、襲華爵。避難過江、辟丞相掾・太子舍人。

訓読

華の性 人物を好み、誘進して倦まず、窮賤候門の士に至りて一介の善き者有らば、便ち咨嗟して稱詠し、之の為に延譽す。雅より書籍を愛し、身 死するの日、家に餘財無く、惟だ文史の机篋に溢るる有り。嘗て居を徙るに、書を載すること三十乘。祕書監の摯虞 官書を撰定するに、皆 華の本に資りて以て正を取る。天下の奇祕、世に希に有る所の者、悉く華の所に在り。是に由り博物 洽聞し、世に與に比するもの無し。
惠帝中に、人の鳥毛三丈を得る有り、以て華に示す。華 見て、慘然として曰く、「此れ海鳧の毛と謂ふものなり、出づれば則ち天下 亂れん」と。陸機 嘗て華に鮓に餉(おく)るに、時に賓客 座を滿たす。華 器を發し、便ち曰く、「此れ龍の肉なり」と。眾 未だ之れ信ぜず、華曰く、「試みに苦酒を以て之を濯せば、必ず異有り」と。既にして五色の光 起つ。機 還りて鮓の主に問ふに、果たして云はく、「園中の茅の積める下に一白魚得り、質狀は常と殊なり、以て鮓を作るに、過美なり、故に以て相 獻ず」と。武庫 封閉して甚だ密なりに、其の中に忽ち雉雊有り。華曰く、「此れ必ず蛇 化して雉と為るのなり」と。開きて視るに、雉の側に果たして蛇の蛻有り。吳郡の臨平の岸 崩れ、一の石鼓を出だし、之を槌つに聲無し。帝 以て華に問ふに、華曰く、「蜀中の桐材を取る可し。刻みて魚形と為し、之を扣けば則ち鳴らん」と。是に於て其の言が如くせば、果たして聲 數里に聞こゆ。
初め、吳の未だ滅びざるに、斗牛の間に常に紫氣有り、道術者 皆 以へらく、吳 方に強盛たらん、未だ圖る可からざると。惟だ華のみ以為へらく然らずと。吳 平らぐるの後に及び、紫氣 愈々明らかなり。華 豫章の人の雷煥 緯象に妙達するを聞き、乃ち煥に宿を要め、人を屏けて曰く、「共に天文に尋ね、將來の吉凶を知る可し」と。因りて樓に登りて仰觀す。煥曰く、「僕 之を察すること久しく、惟だ斗牛の間 頗る異氣有り」と。華曰く、「是れ何の祥なるか」と。煥曰く、「寶劍の精、上りて天に徹するのみ」と。華曰、「君の言 之を得たり。吾 少時 相者の言ふ有り、吾 年 六十を出でて、位は三事に登り、當に得て寶劍を之を佩べしと。斯の言 豈に效ふか」と。因りて問ひて曰く、「何れの郡に在るか」と。煥曰く、「豫章の豐城に在り」と。華曰く、「君を屈せしめ宰と為し、密かに共に之を尋ねんと欲す、可なるか」と。煥 之を許す。華 大いに喜び、即ち煥を補して豐城令と為す。煥 縣に到るに、獄屋の基を掘り、地に入ること四丈餘、一の石函を得て、光氣 非常にして、中に雙劍有り、並びに題を刻み、一に龍泉と曰ひ、一に太阿と曰ふ。其の夕に、斗牛の間の氣 復た見えず。煥 南昌の西山の北巖の下の土を以て、以て劍を拭ひ、光芒 艷發す。大盆に水を盛り、劍を其の上に置き、之を視る者 精芒に目を炫ます。使を遣はして一劍を土と并はせて送りて華に與へ、一を留めて自ら佩く。或ひと煥に謂ひて曰く、「兩を得て一を送る、張公 豈に欺く可きか」と。煥曰く、「本朝 將に亂れんとす、張公 當に其の禍を受くべし。此の劍 當に徐君の墓の樹に繫ぐのみ。靈異の物、終に當に化し去るべし、永く人の服と為らざるなり」と。華 劍を得て、寶のごとく之を愛し、常に坐側に置く。華 南昌の土 華陰の赤土に如かざるを以て、煥の書に報いて曰く、「詳らかに劍文を觀るに、乃ち干將なり、莫邪 何ぞ復た至らざる。然りと雖も、天 神物を生み、終に當に合ふべきのみ」と。因りて華陰の土一斤を以て煥に致す。煥 更めて以て劍を拭ふに、精明を倍益す。華 誅せられ、劍の所在を失ふ。煥 卒し、子の華 州從事と為り、劍を持して行きて延平津を經るに、劍 忽ち腰間に躍り出でて水に墮つ。人をして水に沒して之を取らしむるに、劍を見ず、但だ兩龍の各々長さ數丈なるを見て、蟠縈して文章有り、沒する者 懼れて反らず。須臾にして光彩 水を照らし、波浪 驚沸し、是に於て劍を失ふ。華 歎じて曰く、「先君の化し去るの言、張公 終に之の論に合ふ、此れ其の驗なるか」と。華の博物 此の類多く、詳らかに載する可からず。
後に倫・秀 誅に伏すや、齊王冏 輔政し、摯虞 箋を冏に致して曰く、「間 張華の沒後に於て中書省に入るに、華の先帝の時 詔に答ふる本草を得たり。先帝 華に問ふに、以て輔政し持重して後事を以て付する可き者はと。華 答へて、明德至親なるは、先王に如くは莫し、宜しく留めて以て社稷の鎮と為せと。其の忠良の謀、款誠の言、幽冥に信あり、沒して後に彰はる。與に苟且に隨時なる者 世を同じくして論ずる可からざるなり。議者 華を責むるに愍懷太子の事に節を抗して廷爭せざるを以てするもの有り。此の時に當たり、諫むる者 必ず違命の死を得たり。 先聖の教に、死して益無き者は、以て人を責めず。故に晏嬰、齊の正卿なるに、崔杼の難に死せず。季札、吳の宗臣なるに、逆順の理を爭はず。理 盡くして施す所無き者は、固より聖教の責めざる所なり」と。冏 是に於て奏して曰く、「臣 聞くに微を興こし絕を繼がしむは、聖王の高政なり。惡を貶し善を嘉するは、春秋の美義なり。是を以て武王 比干の墓を封じ、商容の閭を表す。誠に幽明の故にして以て相 通ずる有るなり。孫秀 逆亂し、佐命の國を滅し、骨鯁の臣を誅し、以て王室を斲喪す。其の虐戾を肆にし、功臣の後、多く泯滅せらる。張華・裴頠 各々憚らるるを以て誅を時に取り、解系・解結 同に羔羊を以て並びに其の害を被り、歐陽建ら罪無くして死し、百姓 之を憐む。今 陛下 日月の光を更め、維新の命を布く。然れども此らの諸族 未だ恩理を蒙らず。昔 欒・郤 降りて皁隸に在り、而して春秋 其の違を傳ふ。幽王 功臣の後を絕ち、賢者の子孫を棄つれば、詩人 以て刺を為す。臣 備(つつ)しみ忝く職に在り、愚誠を納れんと思ふ。若し聖意に合はば、羣官をして議を通ぜしむ可し」と。議者 各々執る所有り、而れども多く其の冤を稱す。壯武の國臣の竺道 又 長沙王に詣り、華の爵位を復せんことを求め、依違する者 之を久しくす。
太安二年、詔して曰く、「夫れ愛惡 相 攻め、佞邪 正を醜(にく)むは、古より有り。故司空・壯武公の華 其の忠貞を竭し、思ひて朝政を翼し、謀謨の勳、事ある每に之を賴る。前に華の弼濟の功を以て、宜しく同に封建すべしとし、而れども華 固讓すること八九に至り、深く大制 爾るを得可からずと陳べ、終に顛敗危辱の慮有り、辭義 懇誠にして、遠近を勸むるに足る。華の至心、神明に誓ふ。華 伐吳の勳を以て、爵を先帝に受く。後に封ずるは既に國體に非ず、又 宜しく小功を以て前の大賞を踰ゆるべからず。華の害せられるるは、俱に姦逆 亂を圖るを以て、濫りに枉賊せらる。其れ華に侍中・中書監・司空・公・廣武侯及び沒する所の財物と印綬符策とを復し、使を遣はして之を弔祭せよ」と。
初め、陸機の兄弟 志氣は高爽にして、自ら吳の名家なるを以て、初め洛に入るに、中國の人士を推さず。華と見るに一面して舊の如く、華を欽みて德もて範とし、師資の禮の如し。華 誅せらるるの後、誄を作り、又 為に德賦を詠して以て之を悼む。華は博物志十篇あり、及び文章 並びに世に行はる。二子あり、禕・韙なり。
禕 字は彥仲なり。學を好み、謙敬にして父の風有り、位は散騎常侍に歷たり。韙は儒博なり、天文に曉るく、散騎侍郎なり。時を同じくし害に遇ふ。禕の子の輿、字は公安、華の爵を襲ぐ。難を避けて江を過り、丞相掾・太子舍人に辟せらる。

現代語訳

張華は人物を大切にし、見出し昇進させることに熱心で、貧窮した賤しい門番であっても一介の見所のある人物ならば、すかさず感心して評価を与え、かれを賞賛してやった。もとより書籍を愛し、亡くなったとき、家に余財がなく、ただ書物が机や箱に溢れていた。かつて引っ越しのとき、馬車三十台の蔵書があった。秘書監の摯虞が公文書を編纂して定めるとき、すべて張華の蔵書を利用して校訂ができた。天下の奇妙で珍しい書物は、すべて張華のところにあった。これにより知識は広大で、世に並ぶものがなかった。
恵帝のとき、あるひとが長さ三丈の鳥毛を手に入れ、張華に見せた。張華はこれを見て、痛ましそうに、「これは海鳧(うみかもめ)の毛というもので、出現すれば天下が乱れるだろう」と言った。陸機はかつて張華に鮓(つけうお)を贈った。このとき賓客は座を満たしており、張華は器を取り出して、「これは龍の肉だ」と言った。だれも信用しないので、張華は、「試みに苦酒で濯(すす)げば、必ず異変が起こる」と言った。やってみると五色の光が起こった。陸機は帰って鮓の持ち主に質問すると、果たして、「庭園で茅を積んだ下に一匹の白魚があり、質感や形状が他と異なるので、酢に漬けましたが、あまりに美しいので、(陸機に)献上をしたのです」と言った。武庫の戸を密閉していたが、なかからキジが出てきた。張華は、「これはきっと蛇が変化して雉になったものだ」と言った。(武庫を)開いてみると、雉のそばに果たして蛇の抜け殻があった。呉郡の臨平で岸壁が崩れ、一つの石鼓が出現したが、叩いても音が鳴らなかった。恵帝が張華に質問すると、張華は、「蜀地方で桐の木材を手に入れなさい。刻んで魚の形をつくり、それで叩けば鳴るでしょう」と言った。言うとおりにすると、果たして音が数里に響いた。
これよりさき、呉がまだ滅ぶ前に、斗牛の間(星座の位置)につねに紫気があり、道術者はみな、呉が強く盛んになる、まだ攻略できないと言った。ただ張華のみがそうでないと言った。呉が平定された後、紫気はますます明らかであった。張華は豫章の人の雷煥が緯象(讖緯の形象)に精通していると聞き、雷煥の家に泊めてもらい、人を遠ざけて、「一緒に天文を読み解き、将来の吉凶を予知しよう」と言った。そこで楼に登って仰ぎ見た。雷煥は、「わたしは長く見ていますが、ただ斗牛の間に特別な気があります」と言った。張華は、「なんの前兆か」と言った。雷煥は、「宝剣の精が、昇って天に届いています」と言った。張華は、「私もそう思う。私は若いころ人相見に言われた、六十歳を過ぎて、三公の位に登り、宝剣を身に付けるだろうと。この予言と呼応するかも知れない」と言った。さらに質問して、「(宝剣は)どこの郡にあるか」と。雷煥は、「豫章の豊城です」と言った。張華は、「きみを仕官させて県の長官とし、ひそかに捜索させたいが、良いかな」と言った。雷煥は同意した。張華は大いに喜び、雷煥を豊城令とした。雷煥が県に到着すると、獄舎の基礎を掘り、地表から四丈あまりを掘り、一つの石箱を得て、光気が尋常でなく、なかに二本の剣があり、どちらも題が刻まれ、一つは龍泉、もう一つは太阿とあった。その日の夕方、斗牛の間の気はもう消えていた。雷煥は南昌の西山の北巌のもとの土で、その剣を拭うと、光はつやつやと輝いた。大きな盆に水をくみ、剣をその上に置くと、見るものの目を眩ませた。使者を送って一本の剣を(南昌の)土と合わせて張華に送り、一本を留めて(雷煥が)自分で身に付けた。あるひとが雷煥に、「二本を手に入れて一本だけ送った、張公を欺けますか」と言った。雷煥は、「今日の朝廷はいまにも乱れようとしている、張公はきっと災禍に巻き込まれる。この剣は徐君の墓の樹に繋ぐだけだ。霊異のものは、変化して消えるだろう、長くは人間の所有物とならない」と言った。張華は剣を手に入れ、宝のように大切にし、つねに座席のそばに置いた。張華は南昌の土よりも華陰の赤土のほうが優れているので、雷煥の書簡に返答して、「詳らかに剣に刻まれた文を見ると、これは干将である、なぜ(一対となる)莫邪がまだ来ないのか。人間が剣を遠ざけても、天は神秘的なものを生じ、最終的には一対に戻るだろうな」と言った。華陰の土一斤を雷煥に届けた。雷煥はあらためて(華陰の土で)剣を拭うと、輝きが倍加された。張華が誅殺されると、剣は所在が分からなくなった。雷煥が卒して、子の雷華が州従事となり、剣を持って延平津を通過すると、剣がたちまち腰から躍り出て川に落ちた。人に潜らせて拾わせたが、剣を発見できず、ただ二頭の龍が現れて長さ数丈で、絡みあって銘文が刻まれており、潜水したひとは懼れて帰らなかった。しばらくして光彩が川面を照らし、波が沸き立ち、こうして剣を失ったのである。雷華は歎じて、「先君(父の雷煥)が(神秘的な剣が)変化して消えると言い、張公もその通り(剣を手放す結果)となったが、それも予言の帰結であろうか」と言った。張華の博物志はこの類いの話が多く、詳しくは載せ切れない。
のちに司馬倫と孫秀が誅に伏すと、斉王冏(司馬冏)が輔政し、摯虞は書簡を司馬冏に提出して、「さきごろ張華の没後に中書省に入ると、張華が先帝(武帝)のとき詔に答えた書面の原本と草稿を入手しました。先帝が張華に質問し、輔政して重任を担い後事を託せる者はだれかと聞きました。張華は答えて、徳が明らかで最も親しいため、先王(司馬攸)が最も適任です、(洛陽に)留めて社稷の重鎮となさいませとありました。その忠良な意見と、誠意ある発言は、あの世でも明らかで、死後に表れています。かりそめで場当たり的な事案と同列に論じてはなりません。議者は張華が愍懐太子の(廃位)事件のとき命を賭して抵抗しなかったことを責めています。しかし当時、諫めて命令に違反した者は必ず殺されていました。 古の聖人の教えに、死んで人を責めても意味がない場合、それ以上は追及しないと言います。ゆえに晏嬰は、斉の正卿でしたが、崔杼の難で死にませんでした。季札は、呉の宗臣でしたが、逆順の理を争いませんでした。理が尽くされ追及することがなければ、聖人の教えでは責めないのです」と言った。司馬冏はここにおいて上奏し、「私が聞きますに衰退したものを復興し断絶したものを継承させるのは、聖王の立派な政治です。悪を貶めて善を讃えるのは、春秋のうるわしい義です。ですから(周の)武王は(殷の)比干の墓を封印し、(殷の)商容の門に石碑を立てました。まことに明暗が通じるがゆえの措置です。孫秀が反逆し、佐命の国(功臣の封国)を滅ぼし、気骨ある臣を誅し、王室を毀損しました。その残虐をほしいままにし、功臣の子孫は、多くが絶滅させられました。張華と裴頠はどちらも(孫秀から)憚られて誅殺をこうむり、解系と解結はともに羔羊によって殺害され、欧陽建らは罪がないのに死に、万民はこれを憐れんでいます。いま陛下は日月の光を改め、維新の命を広めています。しかしこれらの諸族はまだ恩の筋道にあずかっていません。むかし欒・郤(晋の旧臣)は降って皁隸(賤官)になりましたが、春秋はその違いを伝えました。幽王は功臣の子孫を絶やし、賢者の子孫を棄てたので、詩人(聖人)はこれを批判しました。忝くも官職におり、私見をお伝えしました。もしお考えに合うならば、群官に議論させて下さい」と。議者にはそれぞれ意見があったが、多くが(張華を)冤罪だと言った。壮武公国の臣の竺道もまた長沙王(司馬乂)を訪問し、張華の爵位の回復を頼んだが、反対する人が譲らなかった。
太安二年、詔して、「そもそも善悪は相容れず、侫邪が正義を憎むのは、古から同じである。故司空・壮武公の張華はその忠貞を尽くし、朝廷を輔翼しようと願い、参謀としての勲功があり、事あるごとに頼りにされた。かつて張華に輔政の功績があるので、(他の功臣と)同様に封建すべきだとしたが、張華の固辞は八九回に至り、国家の制度はそうであってはならないと述べ、(司馬倫らによって)転覆や危難が起きることを心配したが、言辞も内容も懇切であり、遠近の人々に善行を勧めるのに十分であった。張華の至心は、神明に誓って明らかである。張華は伐呉の勲功で、爵位を先帝から受けた。遡って爵位を与えるのは国家の制度ではないが、小さな功績で前の大きな賞賜を塗り替えてはならない。張華が殺害されたのは、姦悪なものが乱を企んだからで、妄りに冤罪を着せられた。そこで張華に侍中・中書監・司空・公・広武侯及び没収された財物と印綬や符策を返却し、使者を遣わして弔いの祭りをせよ」と言った。
これよりさき、陸機の兄弟は士気が高邁で、みずから呉の名家なので、洛陽に入った当初、中原の人士を支持しなかった。張華と会った途端に旧知のようで、張華を敬って徳を手本とし、師匠として礼遇した。張華が誅された後、(陸機は)誄を作り、またかれのために徳賦を詠して悼んだ。張華は『博物志』十篇を著し、ともに文章が世に伝わった。二子がおり、張禕・張韙である。
張禕は字を彥仲という。学を好み、謙敬で父の遺風があり、位は散騎常侍となった。張韙は儒学の広い見識があり、天文に明るく、散騎侍郎となった。同じときに殺害された。張禕の子の張輿は、字を公安といい、張華の爵位を襲った。難を避けて長江を渡り、丞相掾・太子舎人に辟召された。

原文

劉卞字叔龍、東平須昌人也。本兵家子、質直少言。少為縣小吏。功曹夜醉如廁、使卞執燭、不從。功曹銜之、以他事補亭子。有祖秀才者、於亭中與刺史箋、久不成、卞教之數言、卓犖有大致。秀才謂縣令曰、「卞、公府掾之精者、卿云何以為亭子」。令即召為門下史。百事疏簡、不能周密。令問卞、「能學不」。答曰、「願之」。即使就學。無幾、卞兄為太子長兵、既死、兵例須代、功曹請以卞代兄役。令曰、「祖秀才有言」。遂不聽。卞後從令至洛、得入太學、試經為臺四品吏。訪問令寫黃紙一鹿車。卞曰、「劉卞非為人寫黃紙者也」。訪問知怒、言於中正、退為尚書令史。或謂卞曰、「君才簡略、堪大不堪小。不如作守舍人」。卞從其言。
後為吏部令史、遷齊王攸司空主簿、轉太常丞・司徒左西曹掾・尚書郎、所歷皆稱職。累遷散騎侍郎、除并州刺史。入為左衞率、知賈后廢太子之謀、甚憂之。以計干張華而不見用、益以不平。賈后親黨微服聽察外間、頗聞卞言、乃遷卞為輕車將軍・雍州刺史。卞知言泄、恐為賈后所誅、乃飲藥卒。初、卞之并州、昔同時為須昌小吏者十餘人祖餞之。其一人輕卞、卞遣扶出之、人以此少之。

訓読

劉卞 字は叔龍、東平の須昌の人なり。本は兵家の子なり、質直にして言少なし。少きとき縣の小吏と為る。功曹 夜に醉ひて廁に如くに、卞をして燭を執らしむるに、從はず。功曹 之を銜み、他事を以て亭子に補す。祖秀才といふ者有り、亭中に於て刺史に箋を與ふるに、久しく成らず、卞 之に數言を教ふるや、卓犖にして大致有り。秀才 縣令に謂ひて曰く、「卞は、公の府掾の精しき者なり、卿 云何ぞ以て亭子と為すか」と。令 即ち召して門下史と為す。百事 疏簡にして、周密なる能はず。令 卞に問ふ、「能く學ばんや不や」と。答へて曰く、「之を願ふ」と。即ち就きて學ばしむ。幾も無く、卞の兄 太子長兵為るに、既にして死するに、兵の例に須らく代はるべきに、功曹 卞を以て兄の役に代ふるを請ふ。令曰く、「祖秀才 言有り」と。遂に聽さず。卞 後に令に從ひて洛に至り、得て太學に入り、經を試して臺の四品吏と為る。訪問 黃紙に一鹿車を寫さしむ。卞曰く、「劉卞 人の為に黃紙を寫す者に非ざるなり」と。訪問 知りて怒り、中正に言ひ、退けて尚書令史と為す。或 卞に謂ひて曰く、「君の才は簡略なり、大に堪へ小に堪へず。守舍人に作るに如かず」と。卞 其の言に從ふ。
後に吏部令史と為り、齊王攸の司空主簿に遷り、太常丞・司徒左西曹掾・尚書郎に轉じ、歷る所 皆 職に稱へらる。累りに散騎侍郎に遷り、并州刺史に除せらる。入りて左衞率と為り、賈后の太子を廢するの謀を知り、甚だ之を憂ふ。計を以て張華に干すれども用ひられず、益々以て平らかならず。賈后の親黨 微服して外間を聽察し、頗る卞の言を聞き、乃ち卞を遷して輕車將軍・雍州刺史と為す。卞 言の泄るるを知り、賈后の誅する所と為るを恐れ、乃ち藥を飲みて卒す。初め、卞 并州に之くとき、昔 同時に須昌の小吏と為る者 十餘人 之を祖餞す。其の一人 卞を輕り、卞 扶け之を出でしめ、人 此を以て之を少とす。

現代語訳

劉卞は字を叔龍といい、東平国の須昌県の人である。もとは兵家の子で、質朴で実直であり口数が少なかった。若いとき県の小吏となった。功曹が夜に酔って厠所にいくとき、劉卞に蝋燭を持てと言ったが、断った。功曹はこれを根に持ち、理由をつけて亭子に任命した。祖秀才というものがおり、亭中で刺史に送るための書簡を書いていたが、長らく完成しなかったが、劉卞がかれに数言を教えると、卓越して大略をつかんでいた。秀才は県令に、「劉卞は、あなたの府掾(部下)のなかで一番優秀である、なぜ亭子にしておくのだ」と言った。県令は召して門下史とした。万事にわたり大雑把で、緻密な仕事ができなかった。県令は劉卞に、「学ぶつもりはあるか」と言った。「学びたいです」と答えた。そこで(県令に)就いて学ばせた。ほどなく、劉卞の兄が太子の長兵であったが、死去したので、兵家の通例では劉卞が後任となるべきなので、功曹は劉卞に兄の代わりに兵になれと求めた。県令は、「祖秀才の言葉がある」と言った。けっきょく断った。劉卞はのちに県令に従って洛陽に至り、太学に入学でき、経の試験を受けて台の四品吏となった。訪問(官名か)が黄紙に一台の鹿車を書き写させた。劉卞は、「私はひとに指図されて黄紙に書き写す人間ではない」と言った。訪問は知って怒り、中正に言い、退けて尚書令史とした。あるひとが劉卞に、「きみの持ち味は大づかみであることで、大きなことは得意だが小さなことは得意ではない。守舎人となるのがよい」と言った。劉卞はその言に従った。
のちに吏部令史となり、斉王攸の司空主簿に遷り、太常丞・司徒左西曹掾・尚書郎に転じ、経験した官職すべてで称えられた。散騎侍郎に累遷し、并州刺史に任命された。(朝廷に)入って左衛率となり、賈后の廃太子の計画を知り、とても憂慮した。対抗策を張華に提出したが用いられず、ますます不安になった。賈后の親党は微服で巷間を嗅ぎ回っており、こっそり劉卞の言葉を聞きつけ、劉卞を軽車将軍・雍州刺史に遷した。劉卞は発言が漏洩したと知り、賈后に誅殺されることを恐れ、毒薬を飲んで卒した。これよりさき、劉卞が并州に赴任するとき、むかし同期で須昌の小吏であったもの十人あまりが餞別をした。その一人が劉卞を侮ると、劉卞は退席させたので、人々は器量が小さいと思った。

原文

史臣曰、夫忠為令德、學乃國華。譬眾星之有禮義、人倫之有冠冕也。衞瓘撫武帝之牀、張華距趙倫之命。進諫則伯玉居多、臨危則茂先為美。遵乎險轍、理有可言、昏亂方凝、則事睽其趣。松筠無改、則死勝於生。固以赴蹈為期、而不辭乎傾覆者也。俱陷淫網、同嗟承劍。邦家殄瘁、不亦傷哉。
贊曰、賢人委質、道映陵寒。尸祿觀敗、吾生未安。衞以賈滅、張由趙殘。忠於亂世、自古為難。

訓読

史臣曰く、夫れ忠は令德為り、學は乃ち國の華なり。眾星の禮義有り、人倫の冠冕有るに譬ふなり。衞瓘 武帝の牀を撫で、張華 趙倫の命を距む。諫を進むれば則ち伯玉の多に居し、危に臨むれば則ち茂先 美と為す。險轍に遵ひて、理は言ふ可き有り、昏亂 方に凝れば、則ち事 其の趣に睽(そむ)く。松筠 改むる無ければ、則ち死は生に勝る。固に赴蹈を以て期と為し、而して傾覆を辭せざるなり。俱に淫網に陷ちて、同に劍を承くるに嗟く。邦家 殄瘁し、亦た傷ましからざるやと。
贊に曰く、賢人 質を委し、道 陵寒に映す。尸祿 敗を觀て、吾が生 未だ安ぜず。衞は賈を以て滅び、張は趙に由りて殘(そこな)はる。亂世に忠たるは、古より難しと為す。

現代語訳

史臣はいう、忠は美しき徳であり、学は国の華である。群星の動きに規則があり、人倫に服装の秩序があることに譬えられる。衛瓘は武帝の椅子を撫でて、張華は趙王司馬倫の辟命を拒んだ。諫言を進めるなら伯玉(衛瓘)の行跡が大きく、危険に臨むなら茂先(張華)が美事とされる。危険な状況を引き受け、言うべき筋道があり、混乱が長期化するなら、その流れに抵抗する。節操を改めず、死は生に勝る。決然と赴き駆けつけ、苦難を避けないのである。ともに悪法に陥り、どちらも剣を受けたことを歎く。国家が滅亡し、痛切に思わないことがあろうか。
賛にいう、賢人は礼物を差しだし、道は寒さを凌いでこそ映える。無能な高官が失脚しても、自分の命はまだ安全ではない。衛瓘は賈氏によって滅ぼされ、張華は趙王(司馬倫)によって損なわれた。乱世に忠であるのは、古より難しいのであると。