いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第七巻_宗室伝

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
載録されているのは、以下の人々です。
安平献王孚(子邕・邕弟義陽成王望・望子河間平王洪・洪子威・洪弟隨穆王整・整弟竟陵王楙・望弟太原成王輔・輔弟翼・翼弟下邳献王晃・晃弟太原烈王瓌・瓌弟高陽元王珪・珪弟常山孝王衡・衡弟沛順王景)・彭城穆王権(孫紘・紘子俊)・高密文献王泰(子孝王略・略兄新蔡武哀王騰・略弟南陽孝王模・騰子荘王確・模子保)・范陽康王綏(虓)・済南恵王遂(曾孫勲)・譙剛王遜(子閔王承・承子烈王無忌・無忌子敬王恬・恬子忠王尚之・尚之弟恢之・休之・允之・韓延之・恬弟愔)・高陽王睦・任城景王陵(弟順・西河穆王斌)。

安平獻王孚子邕

原文

安平獻王孚字叔達、宣帝次弟也。初、孚長兄朗字伯達、宣帝字仲達、孚弟馗字季達、恂字顯達、進字惠達、通字雅達、敏字幼達、俱知名、故時號為八達焉。孚溫厚廉讓、博涉經史。漢末喪亂、與兄弟處危亡之中、簞食瓢飲、而披閱不倦。性通恕、以貞白自立、未嘗有怨於人。陳留殷武有名於海內、嘗罹罪譴、孚往省之、遂與同處分食、談者稱焉。
魏陳思王植有俊才、清選官屬、以孚為文學掾。植負才陵物、孚每切諫、初不合意、後乃謝之。遷太子中庶子。魏武帝崩、太子號哭過甚、孚諫曰、大行晏駕、天下恃殿下為命。當上為宗廟、下為萬國、奈何效匹夫之孝乎。太子良久乃止、曰卿言是也。時羣臣初聞帝崩、相聚號哭、無復行列。孚厲聲於朝曰、今大行晏駕、天下震動、當早拜嗣君、以鎮海內、而但哭邪。孚與尚書和洽罷羣臣、備禁衞、具喪事、奉太子以即位、是為文帝。
時當選侍中・常侍等官、太子左右舊人頗諷諭主者、便欲就用、不調餘人。孚曰、雖有堯舜、必有稷契。今嗣君新立、當進用海內英賢、猶患不得、如何欲因際會自相薦舉邪。官失其任、得者亦不足貴。遂更他選。轉孚為中書郎・給事常侍、宿省內、除黃門侍郎、加騎都尉。

訓読

安平獻王孚 字は叔達、宣帝の次弟なり。初め、孚の長兄たる朗 字は伯達、宣帝 字は仲達、孚の弟馗 字は季達、恂 字は顯達、進 字は惠達、通 字は雅達、敏 字は幼達、俱に名を知られ、故に時に號して八達と為す。孚 溫厚にして廉讓し、博く經史を涉る。漢末の喪亂に、兄弟と與に危亡の中に處り、簞食瓢飲し、披閱して倦まず。性は通恕なり、貞白を以て自立し、未だ嘗て人を怨む有らず。陳留の殷武 海內に名有り、嘗て罪譴に罹り、孚 往きて之を省し、遂に與に同處に食を分かち、談者 焉を稱す。
魏陳思王植 俊才有り、官屬を清選し、孚を以て文學掾と為す。植 才に負ひて物を陵(しの)げば、孚 每に切諫し、初め意に合はず、後に乃ち之に謝す。太子中庶子に遷る。魏武帝 崩じ、太子 號哭 甚しきに過ぎ、孚 諫めて曰く、「大行 晏駕し、天下 殿下の命を為すを恃む。當に上は宗廟が為に、下は萬國が為に、匹夫の孝に效ふは奈何」と。太子 良に久しくして乃ち止み、「卿の言 是なり」と曰ふ。時に羣臣 初めて帝の崩ずるを聞き、相 聚りて號哭し、復た行列する無し。孚 聲を朝に厲して曰く、「今 大行 晏駕し、天下 震動し、當に早く嗣君に拜し、以て海內を鎮むべし、而れども但だ哭くや」と。孚 尚書の和洽と與に羣臣を罷め〔一〕、禁衞を備へ、喪事を具へ、太子を奉じて以て位に即かしむ、是 文帝為り。
時に當に侍中・常侍等の官を選ばんとし、太子の左右舊人 頗る主を諷諭し、便ち就用せんと欲し、餘人を調せず。孚曰く、「堯舜有ると雖も、必ず稷契有り。今 嗣君 新たに立ち、當に海內の英賢を進用すべし、猶ほ得ざるを患ひ、如何に際會に因りて自ら相 薦舉せんと欲するや。官 其の任を失へば、得る者 亦 貴とする足らず」と。遂に更めて他選す。孚を轉じて中書郎・給事常侍と為し、省內に宿し、黃門侍郎に除し、騎都尉を加ふ。

〔一〕【211112追記】Ukon @konkon_ukon さまより、『三国志』巻二十三 和洽伝では、和洽が尚書に就いたことも、葬儀を取り仕切った事績も見えず、陳矯(『三国志』巻二十二 陳矯伝)の誤りではないか、とのご指摘を頂きました。ここでは底本(『晋書斠注』)に従っています。なお、この件について、『晋書斠注』に注釈がありません。

現代語訳

安平献王孚(司馬孚)は字を叔達といい、宣帝の次弟である。当初、司馬孚の長兄である司馬朗は字を伯達、宣帝(司馬懿)は字を仲達、司馬孚の弟である司馬馗は字を季達、司馬恂は字を顕達、司馬進は字を恵達、司馬通は字を雅達、司馬敏は字を幼達といい、みな名を知られ、ゆえに人々から八達と呼ばれた。司馬孚は温厚で清廉で人に譲り、広く経書や歴史書に精通した。漢末の喪乱が起こると、兄弟とともに危難のなかで過ごし、粗末な食事を強いられたが、書物を読んで堪えた。性格は度量が厚く、公正で廉潔であって自制心があり、いちども人を怨んだことがなかった。陳留の殷武は海内に名声があり、かつて罪の嫌疑をかけられたが、司馬孚は会いに行き、一緒の飲み食いをしたので、論者らはこれを称えた。
魏陳思王植(曹植)は優れた才能があり、官属を厳選し、司馬孚を文学掾とした。曹植は才能を鼻に掛けて他人を圧倒したので、司馬孚はいつも厳しく諫めたから、気に入られず、後に感謝された。太子中庶子に遷った。魏武帝(曹操)が崩じると、太子(曹丕)は号泣のありさまが度を超え、司馬孚は諫めて、「大行(先代の王)が薨去し、天下は殿下の命令を待っています。上は宗廟のため、下は万国のために、匹夫のような孝を表すのはいかがなものですか」と言った。太子は長く泣いてから止み、「卿の言う通りだ」と言った。このとき群臣は武帝が崩御したと知り、集まって号哭し、朝廷に整列する者がなかった。司馬孚は朝廷で声を高くし、「いま大行が薨去し、天下は震えて動揺しているから、早く嗣君(次代の王)の命令をもらい、海内を鎮静化すべきだ、泣いている場合か」と言った。司馬孚は尚書の和洽とともに群臣を落ち着かせ、禁衛の兵を整え、葬儀を取り仕切り、太子(曹丕)を奉って魏王の位に即かせた、これが文帝である。
侍中・常侍らのポストを選抜して任用したが、太子の左右の顔なじみは、主君に口を利いて、知り合いだけを推薦し、外部の者を排除した。司馬孚は、「(名君として)尭舜がいるが、(名臣として)后稷と契がいた。いま嗣君が立ったばかり、海内の英賢を進用すべきです、人材を得られぬことを心配すべきで、どうして転換期にあって仲間内だけを推薦するのですか。官職に適任者を得られねば、既存の官僚も立場を失うのです」と言った。改めて外部から人材を選んだ。司馬孚は転じて中書郎・給事常侍となり、政庁のなかで寝泊まりし、黄門侍郎に除され、騎都尉を加えられた。

原文

時孫權稱藩、請送任子、當遣前將軍于禁還、久而不至。天子以問孚、孚曰、先王設九服之制、誠以要荒難以德懷、不以諸夏禮責也。陛下承緒、遠人率貢。權雖未送任子、于禁不至、猶宜以寬待之、畜養士馬、以觀其變。不可以嫌疑責讓、恐傷懷遠之義。自孫策至權、奕世相繼、惟強與弱、不在一禁。禁之未至、當有他故耳。後禁至、果以疾遲留、而任子竟不至。大軍臨江、責其違言、吳遂絕不貢獻。後出為河內典農、賜爵關內侯、轉清河太守。
初、魏文帝置度支尚書、專掌軍國支計、朝議以征討未息、動須節量。及明帝嗣位、欲用孚、問左右曰、有兄風不。答云、似兄。天子曰、吾得司馬懿二人、復何憂哉。轉為度支尚書。孚以為擒敵制勝、宜有備預。每諸葛亮入寇關中、邊兵不能制敵、中軍奔赴、輒不及事機、宜預選步騎二萬、以為二部、為討賊之備。又以關中連遭賊寇、穀帛不足、遣冀州農丁五千屯於上邽、秋冬習戰陣、春夏修田桑。由是關中軍國有餘、待賊有備矣。後除尚書右僕射、進爵昌平亭侯、遷尚書令。及大將軍曹爽擅權、李勝・何晏・鄧颺等亂政、孚不視庶事、但正身遠害而已。及宣帝誅爽、孚與景帝屯司馬門、以功進爵長社縣侯、加侍中。
時吳將諸葛恪圍新城、以孚進督諸軍二十萬防禦之。孚次壽春、遣毋丘儉・文欽等進討。諸將欲速擊之、孚曰、夫攻者、借人之力以為功、且當詐巧、不可力爭也。故稽留月餘乃進軍、吳師望風而退。

訓読

時に孫權 稱藩し、任子を送るを請ひ、當に前將軍于禁を遣はして還すべし、久しく至らず。天子 以て孚に問ひ、孚曰く、「先王 九服の制を設け、誠に以て荒難を要(す)ぶるに德を以て懷け、諸夏の禮を以て責めず。陛下 緒を承け、遠人 率貢す。權 未だ任子を送らず、于禁 至らざると雖も、猶 宜しく寬を以て之を待すべし、士馬を畜養し、以て其の變を觀よ。嫌疑を以て責讓す可からず、懷遠の義〔一〕を傷なふを恐る。孫策自り權に至るまで、奕世 相 繼ぎ、惟の強と弱とは、一に禁に在らず。禁の未だ至らざるは、當に他故有るべきのみ」と。後に禁 至り、果して疾を以て遲留し、而るに任子 竟に至らず。大軍 江に臨み、其の言に違ふを責め、吳 遂に絕えて貢獻せず。後に出て河內典農と為り、爵關內侯を賜ひ、清河太守に轉ず。
初め、魏文帝 度支尚書を置き、專ら軍國の支計を掌らしめ、朝議 征討の未だ息まざるを以て、動(ややもす)れば須らく節量すべしとす。明帝 嗣位するに及び、孚を用ゐんと欲し、左右に問ひて曰く、「兄の風有るや不や」と。答へて「兄に似る」と云ふ。天子曰く、「吾 司馬懿二人を得て、復た何をか憂はんや」と。轉じて度支尚書と為す。孚 以為へらく「敵を擒へ勝を制むるに、宜しく備預有るべし。諸葛亮 關中に入寇する每に、邊兵 敵を制する能はず、中軍 奔赴し、輒ち事機に及ばざれば、宜しく預め步騎二萬を選し、以て二部と為し、討賊の備と為すべし。又 關中の連りに賊寇に遭ふを以て、穀帛 足らず、冀州の農丁五千を遣はして上邽に屯し、秋冬に戰陣を習ひ、春夏に田桑を修めしむ。是に由り關中の軍國 餘有り、賊を待ちて備へ有り」と。後に尚書右僕射に除せられ、爵を昌平亭侯に進め、尚書令に遷る。大將軍曹爽の擅權するに及び、李勝・何晏・鄧颺等 政を亂し、孚 庶事を視ず、但だ身を正して害を遠ざくるのみ。宣帝 爽を誅するに及び、孚 景帝と與に司馬門に屯し、功を以て爵長社縣侯に進み、侍中を加へらる。
時に吳將諸葛恪 新城を圍み、孚を以て進みて諸軍二十萬を督して之を防禦せしむ。孚 壽春に次り、毋丘儉・文欽等を遣はして進討せしむ。諸將 速やかに之を擊たんと欲するに、孚曰く「夫れ攻むるは、人の力を借りて以て功と為し、且つ當に詐巧し、力爭す可からず」と。故に稽留すること月餘にして乃ち軍を進め、吳師 風に望みて退く。

〔一〕『春秋左氏伝』僖公 傳七年に「招攜以禮、懷遠以德、德禮不易、無人不懷」とある。

現代語訳

ときに孫権が藩屏を称し、任子を送りたい、前将軍の于禁を返還すると言ったが、なかなか到着しなかった。天子が司馬孚に質問すると、司馬孚は、「古の王は九服の制を設けて、荒難(辺境)を支配するときは徳によって懐かせ、中華と同等の礼がなくても責めませんでした。陛下が王業を継ぎ、遠方が朝貢しています。孫権はまだ任子を送らず、于禁がまだ到着しませんが、寛大に接してやりつつ、兵士と馬を養い、異変を監視しなさい。(人間扱いをして)理屈で追い詰めてはいけません、懐遠の義を損なうことを恐れます。孫策から孫権まで、代を重ねて継承し、彼らの強みと弱みは、于禁だけでは決まりません。于禁が来ないのは、他の理由でしょう」と言った。のちに于禁が到着し、やはり病気により出発が遅れたのであり、しかし任子は最後まで到来しなかった。大軍を江水にくり出し、孫権の約束違反を責めたので、呉国は二度と貢献しなくなった(司馬孚の分析が全て的中した)。後に転出して河内典農となり、関内侯を賜わり、清河太守に転じた。
これより先、魏文帝が度支尚書を設置し、軍国の収支を専任して管理させたが、朝議では軍役が連続しているので、ともすれば節約を主張した。明帝が位を嗣ぐと、司馬孚を登用しようとし、左右に、「兄(司馬懿)と同類かどうか」と質問した。「兄に似ています」と回答した。天子は、「わたしは司馬懿二人を得て、もはや何も心配がない」と言った。転じて度支尚書とした。司馬孚は、「敵を破り勝ちを収めるには、備えが必要です。諸葛亮が関中に入寇するたび、方面軍は敵を制圧できず、中央軍が駆けつけるが、時機に間に合わない、そこで歩騎二万を選抜し、二部を編成し、賊に備えなさい。関中は何度も攻撃を受け、穀帛が足りませんから、冀州の農丁五千を移住させて上邽に駐屯させ、秋冬は軍事訓練をし、春夏に耕作と養蚕をさせなさい。こうすれば関中の財政は黒字化し、賊に対処ができます」と言った。のちに尚書右僕射に除され、爵を昌平亭侯に進め、尚書令に遷った。大将軍の曹爽が専権すると、李勝・何晏・鄧颺らが政治を乱したが、司馬孚は諸々の実務をせず、ただ身を正して害を遠ざけた。宣帝が曹爽を誅殺するとき、司馬孚は景帝とともに司馬門を固め、功績により長社県侯に進み、侍中を加えられた。
ときに呉将の諸葛恪が合肥新城を囲み、司馬孚に進んで諸軍二十万を督して防御させた。司馬孚は寿春に入り、毋丘倹・文欽らに進軍し討伐させた。諸将が速やかに呉軍を撃退しようとしたが、司馬孚は、「攻撃は、人の力を利用し、巧みに欺くべきなのだ、力づくではいけない」と言った。ゆえに一ヵ月余り待機してから軍を進めると、呉軍は司馬孚の接近を察知するだけで撤退した。

原文

魏明悼后崩、議書銘旌、或欲去姓而書魏、或欲兩書。孚以為、經典正義、皆不應書。凡帝王皆因本國之名以為天下之號、而與往代相別耳、非為擇美名以自光也。天稱皇天、則帝稱皇帝。地稱后土、則后稱皇后。此乃所以同天地之大號、流無二之尊名、不待稱國號以自表、不俟稱氏族以自彰。是以春秋隱公三年經曰、三月庚戌天王崩、尊而稱天、不曰周王者、所以殊乎列國之君也。八月庚辰宋公和卒、書國稱名、所以異乎天王也。襄公十五年經曰、劉夏逆王后于齊、不云逆周王后姜氏者、所以異乎列國之夫人也。至乎列國、則曰、夫人姜氏至自齊、又曰、紀伯姬卒、書國稱姓、此所以異乎天王后也。由此考之、尊稱皇帝、赫赫無二、何待於魏乎。尊稱皇后、彰以諡號、何待於姓乎。議者欲書魏者、此以為天皇之尊、同於往古列國之君也。或欲書姓者、此以為天皇之后、同於往古之夫人也。乖經典之大義、異乎聖人之明制、非所以垂訓將來、為萬世不易之式者也。遂從孚議。
遷司空。代王淩為太尉。及蜀將姜維寇隴右、雍州刺史王經戰敗、遣孚西鎮關中、統諸軍事。征西將軍陳泰與安西將軍鄧艾進擊維、維退。孚還京師、轉太傅。及高貴鄉公遭害、百官莫敢奔赴、孚枕尸於股、哭之慟曰、殺陛下者臣之罪。奏推主者。會太后令以庶人禮葬、孚與羣公上表、乞以王禮葬、從之。孚性至慎。宣帝執政、常自退損。後逢廢立之際、未嘗預謀。景文二帝以孚屬尊、不敢逼。後進封長樂公。

訓読

魏明悼后 崩じ、銘旌を書するを議し、或は姓を去りて魏と書かんと欲し、或は兩書せんと欲す。孚以為へらく、「經典の義を正すに、皆 應に書すべからず。凡そ帝王 皆 本國の名に因りて以て天下の號と為し、而るに往代と相 別くるのみ、美名を擇びて以て自ら光いにする為に非ず。天 皇天と稱するは、則ち帝 皇帝と稱すればなり。地 后土と稱するは、則ち后 皇后と稱すればなり。此れ乃ち天地の大號と同じくし、無二の尊名を流す所以にして、國號を稱して以て自ら表するを待たず、氏族を稱して以ら自ら彰はすを俟たず。是を以て春秋隱公三年經に、『三月庚戌 天王 崩ず』と曰ひ、尊びて天と稱し、周王と曰はざるは、列國の君と殊なる所以なり。『八月庚辰 宋公和 卒す』といひ、國稱の名を書くは、天王と異にする所以なり。襄公十五年經に曰く『劉夏 王后を齊に逆(むか)ふ』といひ、周王后姜氏に逆くと云はざるは、列國の夫人と異にする所以なり。列國に至れば、則ち『夫人姜氏 齊自り至る』と曰ひ、又『紀伯姬 卒す』と曰ひ、國を書き姓を稱するは、此れ天王の后と異にする所以なり。此に由りて之を考ふるに、皇帝と尊稱するは、赫赫たる無二にして、何ぞ魏を待たんや。皇后と尊稱するは、彰するに諡號を以てし、何ぞ姓を待たんや。議者 魏と書かんと欲する者は、此れ以為へらく天皇の尊、往古の列國の君と同じなりと。或は姓を書かんと欲する者は、此れ以為へらく天皇の后、往古の夫人と同じなりと。經典の大義に乖き、聖人の明制に異なり、訓を將來に垂るる所以にして、萬世不易の式と為る者に非ざるなり」と。遂に孚の議に從ふ。
司空に遷る。王淩に代りて太尉と為る。蜀將姜維 隴右に寇するに及び、雍州刺史王經 戰敗し、孚を遣はして西のかた關中に鎮し、諸軍事を統べしむ。征西將軍陳泰 安西將軍鄧艾と與に進みて維を擊ち、維 退く。孚 京師に還り、太傅に轉ず。高貴鄉公 害に遭ふに及び、百官 敢て奔赴する莫く、孚 尸を股に枕し、之に哭慟して曰く、「陛下を殺すは臣の罪なり」と。主る者を推せと奏す。會 太后 庶人の禮を以て葬せと令し、孚 羣公と與に上表し、王禮を以て葬るを乞ひ、之に從ふ。孚の性は至慎なり。宣帝 執政するに、常に自ら退損す。後に廢立の際に逢ひ、未だ嘗て預謀せず。景文二帝 孚の尊に屬するを以て、敢て逼らず。後に進みて長樂公に封ず。

現代語訳

魏の明悼后が崩じると、銘旌(死者の名を記した旗)の書き方について議論が起こり、あるものは姓(毛氏)を書かず魏(国名)を書くといい、あるものは両方を(魏も毛氏も)書くと主張した。司馬孚は、「経典の義を参照するに、どちらも書いてはならぬ。帝王は本国の名を天下の呼び名とするが、他の時代の王朝と区別するとき使うだけで、美名を選んで自らに箔を付けるためではない。天を皇天と呼ぶのは、帝を皇帝と呼ぶのと同じ。地を后土と呼ぶのは、后を皇后と呼ぶのと同じ。これらは天地の大いなる呼称と同じで、無二の特別さを表すのであり、国号を設けて自称したり、氏族を名乗るのとは異なる。だから春秋の隠公三年の経に、『三月庚戌に天王が崩じた』とあり、尊んで天(王)と称し、周王としないのは、列国の君主と区別するためである。『八月庚辰に宋公の和が卒した』とあり、国名(宋)を書くのは、天王(周王)と区別するためである。襄公十五年の経に『劉夏は王后を斉で迎えた』とあるが、周の王后姜氏を迎えたと書かないのは、列国の夫人と区別するためである。列国の場合は、『夫人姜氏が斉から至った』となり、また『紀の伯姫が卒した』と書かれ、国や姓をわざわざ表記するのは、天王の后と区別するためである。以上から考えるに、皇帝と尊称するのは、輝かしく無二の存在だからであり、なぜ魏と書いてよかろうか。皇后と尊称するのは、謚号を書いて顕彰すれば十分であり、どうして姓を書いてよかろうか。魏と書けと主張する者は、皇帝の尊さが、春秋期の列国の君主と同等だと言っていることになる。姓を書けと主張すれば、天皇の后が、春秋期の列国の夫人と同列だと言っていることになる。経典の大義にそむき、聖人の明制と異なるのであり、将来の教訓として、永遠の規範となるようなやり方ではない」と言った。司馬孚の建議に従った。
司空に遷った。王淩に代わり太尉となった。蜀将の姜維が隴右に寇すると、雍州刺史の王経が戦って敗れ、司馬孚を派遣して西のかた関中に出鎮し、諸軍事を統括させた。征西将軍の陳泰が安西将軍の鄧艾とともに進んで姜維を撃ち、姜維は退いた。司馬孚は京師に還り、太傅に転じた。高貴郷公が殺害されると、百官は駆けつける者がいなかったが、司馬孚は死体を膝枕し、彼のために慟哭し、「陛下を殺したのは私の罪です」と言った。首謀者を探し出しなさいと上奏した。このとき太后が庶人の礼で葬れと命じたが、司馬孚は群公とともに上表し、王の礼で葬ることを願い、認められた。司馬孚の性格はとても慎みがあった。宣帝が執政すると、常に自ら退いて地位を下げた。後に皇帝の廃立が行われたが、決して関与しなかった。景帝と文帝は司馬孚が目上の親族なので、敢えて協力を強いなかった。後に長楽公に封じられた。

原文

及武帝受禪、陳留王就金墉城、孚拜辭、執王手、流涕歔欷、不能自勝。曰、臣死之日、固大魏之純臣也。詔曰、太傅勳德弘茂、朕所瞻仰、以光導弘訓、鎮靜宇內、願奉以不臣之禮。其封為安平王、邑四萬戶。進拜太宰・持節・都督中外諸軍事。有司奏、諸王未之國者、所置官屬、權未有備。帝以孚明德屬尊、當宣化樹教、為羣后作則、遂備置官屬焉。又以孚內有親戚、外有交游、惠下之費、而經用不豐、奉絹二千匹。及元會、詔孚乘輿車上殿、帝於阼階迎拜。既坐、帝親奉觴上壽、如家人禮。帝每拜、孚跪而止之。又給以雲母輦・青蓋車。
孚雖見尊寵、不以為榮、常有憂色。臨終、遺令曰、有魏貞士河內溫縣司馬孚、字叔達、不伊不周、不夷不惠、立身行道、終始若一。當以素棺單椁、斂以時服。泰始八年薨、時年九十三。帝於太極東堂舉哀三日。詔曰、王勳德超世、尊寵無二、期頤在位、朕之所倚。庶永百齡、諮仰訓導、奄忽殂隕、哀慕感切。其以東園溫明祕器・朝服一具・衣一襲・緋練百匹・絹布各五百匹・錢百萬・穀千斛以供喪事。諸所施行、皆依漢東平獻王蒼故事。其家遵孚遺旨、所給器物、一不施用。帝再臨喪、親拜盡哀。及葬、又幸都亭、望柩而拜、哀動左右。給鑾輅輕車、介士武賁百人、吉凶導從二千餘人、前後鼓吹、配饗太廟。九子、邕・望・輔・翼・晃・瓌・珪・衡・景。
邕字子魁。初為世子、拜步兵校尉・侍中。先孚卒、追贈輔國將軍、諡曰貞。邕子崇為世孫、又早夭。泰始九年、立崇弟平陽亭侯隆為安平王。立四年、咸寧二年薨、諡曰穆。無子、國絕。

訓読

武帝 受禪するに及び、陳留王 金墉城に就き、孚 辭を拜し、王の手を執り、流涕して歔欷し、自勝する能はず。曰く、「臣 死するの日、固に大魏の純臣なり」と。詔して曰く、「太傅の勳德 弘茂にして、朕の瞻仰する所、以て導を光にし訓を弘め、宇內を鎮靜す、願はくは不臣の禮を以て奉ぜよ。其れ封じて安平王と為し、邑は四萬戶とす。進みて太宰・持節・都督中外諸軍事を拜せ」と。有司 奏し、「諸王 未だ國に之かざる者は、置く所の官屬、權 未だ備有らずと」。帝 孚の明德にして尊に屬するを以て、當に化を宣め教を樹て、羣后の為に則を作るべしとし、遂に官屬を備置す。又 孚の內に親戚有り、外に交游有り、惠下の費、而るに經用 豐かならざるを以て、絹二千匹を奉る。元會に及び、孚に詔して輿車に乘りて上殿し、帝 阼階に於て迎拜す。既に坐し、帝 親ら觴を奉り壽を上り、家人の禮が如し。帝 每に拜し、孚 跪きて之を止(とど)む。又 雲母輦・青蓋車を以て給す。
孚 尊寵せらると雖も、以て榮と為ず、常に憂色有り。終に臨み、令を遺して曰く、「有魏の貞士たる河內溫縣の司馬孚、字は叔達、伊ならず周ならず、夷ならず惠ならず、身を立て道を行ひ、終始 一が若し。當に素棺單椁を以て、時服を以て斂めよ」と。泰始八年 薨じ、時に年九十三なり。帝 太極東堂に於て哀を舉ぐること三日。詔して曰く、「王の勳德 世に超へ、尊寵 二無く、期頤まで位に在り、朕の倚る所なり。庶はくは百齡を永らへ、訓導を諮仰せんことを、奄いに忽として殂隕す、哀慕 感切たり。其れ以て東園溫明祕器・朝服一具・衣一襲・緋練百匹・絹布各五百匹・錢百萬・穀千斛を以て喪事に供へよ。諸々の施行する所、皆 漢の東平獻王蒼の故事に依れ」と。其の家 孚の遺旨に遵ひ、給ふ所の器物、一に施用せず。帝 再び喪に臨み、親ら拜して哀を盡す。葬するに及び、又 都亭に幸し、柩を望みて拜し、哀は左右を動す。鑾輅輕車を給ひ、士武賁百人を介せしめ、吉凶の導從二千餘人、前後の鼓吹、太廟に配饗す。九子あり、邕・望・輔・翼・晃・瓌・珪・衡・景なり。
邕 字は子魁。初め世子と為り、步兵校尉・侍中を拜す。孚に先んじて卒し、輔國將軍を追贈し、諡して貞と曰ふ。邕の子崇 世孫と為るも、又 早夭す。泰始九年、崇の弟たる平陽亭侯隆を立てて安平王と為す。立つこと四年、咸寧二年 薨じ、諡して穆と曰ふ。子無く、國 絕ゆ。

現代語訳

武帝が受禅すると、陳留王(曹奐)は金墉城に行かされ、司馬孚は別れの挨拶をし、陳留王の手をとり、流涕してむせび泣き、堪えられなかった。「私が死ぬ日まで、大魏の純臣であり続けます」と言った。武帝が詔して、「太傅の勲功と徳行は広く盛んであり、朕は尊敬して仰ぎ見ている、教訓を明らかにして導き、天下の秩序を鎮めてくれた、不臣の礼を用いてよい。安平王に封じ、邑は四万戸とする。昇進させて太宰・持節・都督中外諸軍事を拝するように」と言った。担当官が上奏し、「諸王のうちでまだ封国に赴任せぬ者がおり、彼らの配下の官属は、体制が整っておりません」と言った。武帝は司馬孚が明徳をそなえた親族の上位者なので、教化を広めて樹立し、諸侯のために規則を作れと明じ、(諸侯の)官属が充足するようになった。また司馬孚は家の内に多く親族がおり、外に交友がおり、目下のために散財するが、収支が苦しいとして、絹二千匹を賜った。元会(元旦の式典)のとき、司馬孚に詔して輿車に乗って宮殿にのぼり、武帝は阼階に立って(客人として)迎えた。着席すると、武帝は自らさかずきを持って長寿を祝い、家人の礼で振る舞った。武帝が捧げるたび、司馬孚は跪いてお辞め下さいと言った。さらに雲母輦・青蓋車を給わった。
司馬孚は(武帝に)尊寵されたが、栄誉とはせず、いつも憂いの色があった。臨終のとき、遺令をして、「有魏の貞士である河内温県の司馬孚、字は叔達は、伊尹や周公旦(のように魏王朝を補佐する)でなく、伯夷や柳下恵(のように節度を貫く)でなく、身を立て道を行っただけの、一介の人間に過ぎない。(死体は)素棺単椁のなかに、時服で収めよ」と言った。泰始八(二七二)年に薨じ、時に年は九十三。武帝は太極東堂で哀を三日間挙げた。詔して、「王の勲徳は世を超え(魏晋に跨がり)、尊寵は並ぶものがなく、期頤(百歳)まで位におり、朕が頼りにしようと思っていた。どうか百歳まで長生きし、教え導いてほしかったが、突然薨去してしまい、とても哀しくて慕わしく思う。そこで東園温明の秘器・朝服一具・衣一襲・緋練百匹・絹布各五百匹・銭百萬・穀千斛を支給して葬儀を行え。諸々の段取りは、全て後漢の東平献王蒼(劉蒼)の故事の通りとせよ」と言った。その遺族は司馬孚の遺旨にしたがい、支給された器物は、一切を使用しなかった。武帝は再び死体を目の前にし、みずから拝して哀悼を尽くした。埋葬するとき、都亭に行幸し、柩を望んで拝み、哀しみは左右を感動させた。鑾輅軽車を支給し、士武賁百人を同行させ、吉凶の導従は二千余人、前後の鼓吹をそなえ、太廟に配饗した。九子がおり、邕・望・輔・翼・晃・瓌・珪・衡・景である。
(司馬孚の第一子)司馬邕は字を子魁という。初め世子となり、歩兵校尉・侍中を拝した。司馬孚より先に卒し、輔国将軍を追贈し、貞と諡された。司馬邕の子の司馬崇は世孫となったが、彼も早夭した。泰始九(二七三)年、司馬崇の弟である平陽亭侯隆(司馬隆)を立てて安平王とした。立って四年で、咸寧二(二七六)年に薨去し、穆と諡した。子がおらず、国は絶えた。

邕弟義陽成王望 望子河間平王洪 洪子威 洪弟隨穆王整 整弟竟陵王楙

原文

義陽成王望字子初、出繼伯父朗、寬厚有父風。仕郡上計吏、舉孝廉、辟司徒掾、歷平陽太守・洛陽典農中郎將。從宣帝討王淩、以功封永安亭侯。遷護軍將軍、改封安樂鄉侯、加散騎常侍。時魏高貴鄉公好才愛士、望與裴秀・王沈・鍾會並見親待、數侍宴筵。公性急、秀等居內職、急有召便至。以望外官、特給追鋒車一乘、武賁五人。時景文相繼輔政、未嘗朝覲、權歸晉室。望雖見寵待、每不自安、由是求出、為征西將軍・持節・都督雍涼二州諸軍事。在任八年、威化明肅。先是蜀將姜維屢寇關中、及望至、廣設方略、維不得為寇、關中賴之。進封順陽侯。徵拜衞將軍、領中領軍、典禁兵。尋加驃騎將軍・開府。頃之、代何曾為司徒。
武帝受禪、封義陽王、邑萬戶、給兵二千人。泰始三年、詔曰、夫尚賢庸勳、尊宗茂親、所以體國經化、式是百辟也。且台司之重、存乎天官、故周建六職、政典為首。司徒・中領軍、以明德近屬、世濟其美。祖考創業、翼佐大命、出典方任、入贊朝政、文德既著、武功宣暢。逮朕嗣位、弼道惟明、宜登上司、兼統軍戎、內輔帝室、外隆威重。其進位太尉、中領軍如故。置太尉軍司一人、參軍事六人、騎司馬五人。又增置官騎十人、并前三十、假羽葆鼓吹。
吳將施績寇江夏、邊境騷動。以望統中軍步騎二萬、出屯龍陂、為二方重鎮、假節、加大都督諸軍事。會荊州刺史胡烈距績、破之、望乃班師。俄而吳將丁奉寇芍陂、望又率諸軍以赴之、未至而奉退。拜大司馬。孫晧率眾向壽春、詔望統中軍二萬、騎三千、據淮北。晧退、軍罷。泰始七年薨、時年六十七、賻贈有加。望性儉吝而好聚斂、身亡之後、金帛盈溢、以此獲譏。四子、弈・洪・整・楙。

訓読

義陽成王望 字は子初、出て伯父朗を繼ぎ、寬厚にして父風有り。郡の上計吏に仕へ、孝廉に舉げ、司徒掾に辟し、平陽太守・洛陽典農中郎將を歷す。宣帝に從ひて王淩を討ち、功を以て永安亭侯に封ず。護軍將軍に遷り、安樂鄉侯に改封し、散騎常侍を加ふ。時に魏の高貴鄉公 才を好み士を愛し、望 裴秀・王沈・鍾會と與に並びに親待せられ、數々宴筵に侍す。公 性急にして、秀等 內職に居り、急ぎ召有りて便ち至る。望 外官たるを以て、特に追鋒車一乘、武賁五人を給ふ。時に景文 相 繼いで輔政し、未だ嘗て朝覲せず、權は晉室に歸す。望 寵待せらると雖も、每に自安せず、是に由りて出づるを求め、征西將軍・持節・都督雍涼二州諸軍事と為る。在任すること八年、威化 明肅たり。是より先 蜀將姜維 屢々關中を寇し、望 至るに及び、廣く方略を設け、維 寇を為すを得ず、關中 之を賴る。進みて順陽侯に封ず。徵して衞將軍を拜し、中領軍を領し、禁兵を典る。尋いで驃騎將軍・開府を加ふ。頃之、何曾に代りて司徒と為る。
武帝 受禪し、義陽王に封じ、邑は萬戶、兵二千人を給ふ。泰始三年、詔して曰く、「夫れ賢を尚び勳を庸ひ、宗を尊び親を茂にするは、體國經化の所以にして、是れ百辟に式(のっと)るなり。且つ台司の重、天官に存し、故に周 六職を建て、政典もて首と為す。司徒・中領軍、明德にして近屬たるを以て、世に其の美を濟す。祖考 創業するに、大命を翼佐し、出でては方任を典り、入りては朝政に贊じ、文德 既に著はれ、武功 宣く暢ぶ。朕 位を嗣ぐに逮び、道を弼けて惟れ明るく、宜しく上司に登り、兼せて軍戎を統め、內は帝室を輔け、外は威重を隆くすべし。其れ位を太尉に進め、中領軍 故の如し。太尉軍司一人、參軍事六人、騎司馬五人を置く。又 增して官騎十人を置き、前に并せて三十、羽葆鼓吹を假す」と。
吳將施績 江夏を寇し、邊境 騷動す。望を以て中軍步騎二萬を統べしめ、出でて龍陂に屯し、二方の重鎮と為り、假節、大都督諸軍事を加ふ。會 荊州刺史胡烈 績を距ぎ、之を破り、望 乃ち師を班(かへ)す。俄かにして吳將丁奉 芍陂に寇し、望 又 諸軍を率ゐて以て之に赴き、未だ至らずして奉 退く。大司馬を拜す。孫晧 眾を率ゐて壽春に向ひ、望に詔して中軍二萬、騎三千を統べ、淮北に據らしむ。晧 退き、軍 罷む。泰始七年 薨ず、時に年六十七、賻贈して加ふる有り。望の性 儉吝にして聚斂を好み、身 亡ぶの後、金帛 盈溢し、此を以て譏を獲。四子あり、弈・洪・整・楙なり。

現代語訳

(司馬孚の第二子)義陽成王望(司馬望)は字を子初、家を出て伯父の司馬朗を継ぎ、寛厚で父の面影があった。郡の上計吏に仕え、孝廉に挙がり、司徒掾に辟し、平陽太守・洛陽典農中郎将を歴任した。宣帝に従って王淩を討伐し、功績により永安亭侯に封じられた。護軍将軍に遷り、安楽郷侯に改封され、散騎常侍を加えた。時に魏の高貴郷公(曹髦)が才能を好み人士を愛したが、司馬望は裴秀・王沈・鍾会とともに親しく待遇され、しばしば酒宴に同席した。高貴郷公は性急であり、裴秀らは宮廷内に勤務し、突然のお召しがあるとすぐに駆けつけた。司馬望は宮廷外の官職なので、特別に追鋒車一乗、武賁五人を給わった。ときに景帝と文帝が相次いで輔政したが、かつて魏帝に拝謁したことがなく、権力が晋王朝に帰属した。司馬望は魏帝から特別に寵愛されたが、いつも不安であり、これにより地方転出を求め、征西将軍・持節・都督雍涼二州諸軍事となった。在任すること八年、威勢と教化は清明で厳粛であった。これより先に蜀将の姜維がしばしば関中を寇したが、司馬望が着任すると、広く方略を設けたため、姜維は寇掠できなくなり、関中から頼りにされた。進んで順陽侯に封じられた。徴して衛将軍を拝し、中領軍を領し、禁兵を掌った。すぐに驃騎将軍・開府を加えられた。しばらくして、何曾に代わって司徒となった。
武帝が受禅すると、義陽王に封じられ、邑は万戸、兵二千人を給わった。泰始三(二六七)年、詔して、「そもそも賢者を尊び功臣を用い、宗室を尊び親しさを高めるのは、国家経営の方法であり、百官諸侯が従う道である。三公の重職は、天官にあたり、だから『周礼』は六つの職を設け、政治の巻をはじめに置いた。司徒・中領軍(司馬望)は、明徳な近親者であり、世にその美徳が知られている。祖考(司馬懿)が創業してから、大いなる使命を補佐し、出でては方任を掌り、入りては朝政に賛じ、文徳は明らかで、武功も伸張している。朕が位を嗣いでからも、政道を助けているから、三公の要職に上り、あわせて軍事を統括し、内は帝室を輔け、外は兵威を高めるように。そこで位を太尉に進め、中領軍は従来通りとする。太尉のもとに軍司一人、参軍事六人、騎司馬五人を置く。さらに官騎十人を増員し、前と合計で三十とし、羽葆鼓吹を仮す」と言った。
呉将の施績(朱績)が江夏に侵略し、辺境は騒動した。司馬望に中軍歩騎二万を統率させ、出て龍陂に駐屯し、二方面の重鎮として、仮節、大都督諸軍事を加えた。たまたま荊州刺史の胡烈が施績を防ぎ、これを撃破し、司馬望は軍を返した。にわかに呉将の丁奉が芍陂を侵略すると、司馬望はまた諸軍を率いてここに赴いたが、到着する前に丁奉が撤退した。大司馬を拝した。孫晧が軍勢を率いて寿春に向かうと、司馬望に詔して中軍二万、騎三千を統率させ、淮北に拠らせた。孫晧が退き、編成が解除された。泰始七(二七一)年に薨じ、このとき年六十七、進物を加えられた。司馬望の吝嗇な倹約家であり、蓄財を好み、死後、金帛に満ちあふれ、このために批判を被った。四子がおり、弈・洪・整・楙である。

原文

弈至黃門郎、先望卒。整亦早亡。以弈子奇襲爵。奇亦好畜聚、不知紀極、遣三部使到交廣商貨、為有司所奏、太康九年、詔貶為三縱亭侯。更以章武王威為望嗣。後威誅、復立奇為棘陽王以嗣望。
河間平王洪字孔業、出繼叔父昌武亭侯遺。仕魏、歷位典農中郎將・原武太守、封襄賁男。武帝受禪、封河間王。立十二年、咸寧二年薨。二子、威・混。威嗣、徙封章武。其後威既繼義陽王望、更立混為洪嗣。混歷位散騎常侍、薨。
及洛陽陷、混諸子皆沒于胡。而小子滔初嗣新蔡王確、亦與其兄俱沒。後得南還、與新蔡太妃不協。太興二年上疏、以兄弟並沒在遼東、章武國絕、宜還所生。太妃訟之、事下太常。太常賀循議、章武・新蔡俱承一國不絕之統、義不得替其本宗而先後傍親。按滔既已被命為人後矣。必須無復兄弟、本國永絕、然後得還所生。今兄弟在遠、不得言無、道里雖阻、復非絕域。且鮮卑恭命、信使不絕。自宜詔下遼東、依劉羣・盧諶等例、發遣令還、繼嗣本封。謂滔今未得便委離所後也。元帝詔曰、滔雖出養、自有所生母。新蔡太妃相待甚薄、滔執意如此。如其不聽、終當紛紜、更為不可。今便順其所執、還襲章武。
滔歷位散騎常侍、薨、子休嗣。休與彭城王雄俱奔蘇峻。峻平、休已戰死。弟珍年八歲、以小弗坐。咸和六年襲爵、位至大宗正。薨、無嗣。河間王欽以子範之繼、位至游擊1.(大)將軍。薨、子秀嗣。義熙元年、為桂陽太守。秀妻桓振之妹、振作逆、秀不自安、謀反、伏誅、國除。
威字景曜、初嗣洪。咸寧三年、徙封章武。太康九年、嗣義陽王望。威凶暴無操行、諂附趙王倫。元康末、為散騎常侍。倫將篡、使威與黃門郎駱休逼帝奪璽綬、倫以威為中書令。倫敗、惠帝反正曰、阿皮捩吾指、奪吾璽綬、不可不殺。阿皮、威小字也。於是誅威。

1.中華書局本に従い、「大」一字を削除する。

訓読

弈 黃門郎に至り、望に先んじて卒す。整 亦 早亡す。弈の子たる奇を以て爵を襲はしむ。奇 亦 畜聚を好み、紀極を知らず、三部の使を遣はして交廣に到り商貨せしめ、有司の奏する所と為り、太康九年、詔して貶めて三縱亭侯と為す。更めて章武王威を以て望の嗣と為す。後に威 誅せられ、復た奇を立てて棘陽王と為して以て望を嗣がしむ。
河間平王洪 字は孔業、出でて叔父の昌武亭侯遺を繼ぐ。魏に仕へ、位典農中郎將・原武太守を歷し、襄賁男に封ぜらる。武帝 受禪し、河間王に封ぜらる。立つこと十二年、咸寧二年 薨ず。二子あり、威・混。威 嗣ぎ、徙して章武に封ず。其の後 威 既に義陽王望を繼げば、更めて混を立てて洪の嗣と為す。混 位散騎常侍を歷し、薨ず。
洛陽 陷するに及び、混の諸子 皆 胡に沒す。而るに小子滔のみ初め新蔡王確を嗣ぎ、亦 其の兄と俱に沒す。後に南のかた還るを得、新蔡太妃と協はず。太興二年 上疏し、兄弟の並びに沒して遼東に在り、章武國 絕ゆるを以て、宜しく所生を還らしむべし。太妃 之を訟へ、事 太常に下す。太常賀循 議すらく「章武・新蔡 俱に一國を承けて之の統を絕つまじく、義に其の本宗を替へて先んじて傍親に後たることを得ずと。滔を按ずるに既に已に命を被り人の為に後たり。必ず兄弟の復すること無きを須(ま)ち、本國 永く絕え、然る後 所生に還すを得。今 兄弟 遠に在るも、無と言ふを得ず、道里 阻なると雖も、復た絕域に非ず。且つ鮮卑は恭命たり、信使 絕えず。自ら宜しく詔して遼東に下し、劉羣・盧諶等の例に依り、發して令を遣はして還らしめ、本封を繼嗣せしむべし。滔に今 未だ便ち後とする所を委離するを得ざると謂へ」と。元帝 詔して曰く、「滔 出でて養はると雖も、自ら所生の母有り。新蔡太妃 相 待すること甚だ薄く、滔 意を執ること此の如し。如し其れ聽かざれば、終に當に紛紜すべし、更めて不可と為す。今 便ち其の執る所に順ひ、還りて章武を襲はしめよ」と。
滔 位散騎常侍を歷し、薨じ、子の休 嗣ぐ。休 彭城王雄と俱に蘇峻に奔る。峻 平らぎ、休 已に戰死す。弟の珍 年八歲、小を以て坐せず。咸和六年 爵を襲ひ、位は大宗正に至る。薨じ、嗣無し。河間王欽 子の範之を以て繼がしめ、位は游擊(大)將軍に至る。薨じ、子の秀 嗣ぐ。義熙元年、桂陽太守と為る。秀の妻は桓振の妹、振 逆を作し、秀 自安せず、謀反し、誅に伏し、國 除かる。
威 字は景曜、初め洪を嗣ぐ。咸寧三年、徙して章武に封ず。太康九年、義陽王望を嗣ぐ。威 凶暴にして操行無く、趙王倫に諂附す。元康末、散騎常侍と為る。倫 將に篡せんとし、威をして黃門郎駱休と與に帝に逼りて璽綬を奪はしめ、倫 威を以て中書令と為す。倫 敗れ、惠帝 正に反り、曰く「阿皮 吾が指を捩り、吾が璽綬を奪ふ、殺さずんばある可からず」と。阿皮、威の小字なり。是に於て威を誅す。

現代語訳

司馬弈は黄門郎に至り、司馬望より先に卒した。司馬整もまた早く亡くなった。司馬弈の子である司馬奇に爵を襲わせた。司馬奇もまた収集を好み、限度を知らず、三部の使者を派遣して交州や広州に行って交易をさせ、担当官に上奏され、太康九(二八八)年、詔して降格されて三縦亭侯とされた。改めて章武王威(司馬威)を司馬望の継嗣とした。後に司馬威が誅され、また司馬奇を立てて棘陽王として司馬望を嗣がせた。
河間平王洪(司馬洪)は字を孔業、家を出て叔父の昌武亭侯遺(司馬遺)を継いだ。魏王朝に仕え、位は典農中郎将・原武太守を歴任し、襄賁男に封じられた。武帝が受禅すると、河間王に封じられた。立って十二年、咸寧二(二七六)年に薨じた。二子がおり、威・混である。司馬威が嗣ぎ、移って章武に封じられた。その後に司馬威が義陽王望(司馬望)を継いだので、改めて司馬混を立てて司馬洪の継嗣とした。司馬混は位は散騎常侍を歴任し、薨じた。
洛陽が陥落すると、司馬混の子たちは皆が胡族に捕らわれた。しかし末子の司馬滔だけがこれより先に新蔡王確(司馬確)を嗣いでおり、その兄とともに捕らわれた。後に(司馬滔のみが)南方に帰ることができたが、新蔡太妃(継母)と不仲であった。太興二(三一九)年に上疏し、兄弟がみな捕まって遼東におり、章武国が絶えたので、生家(章武国)に還って嗣ぎたいと言った。太妃がこれに反対したので、事案が太常に下された。太常の賀循が議して、「章武・新蔡はどちらも一国として成立したので血統を絶やしてはならず、義によれば現在の家を投げ出して別の家の後嗣となってはならない。司馬滔の場合はすでに命令を受けて他家の後嗣(新蔡王)となっている。彼の兄弟の生還があり得ないと確認され、本国(章武国)が永久に断絶したと分かるまで、生家(章武国)に還ることはできない。いま兄弟が遠方にいるが、全滅したとは言えず、距離は離れているが、絶域とまでは言えない。しかも鮮卑は命令に恭順であり、使者の往来がある。遼東に詔して、劉羣・盧諶らの前例のように、命令を出して(東晋に)帰国させ、本封(章武国)を継承させるべきだ。司馬滔には後嗣になった(新蔡)国を投げ出してはならぬと伝えなさい」と言った。元帝は詔して、「司馬滔は出て他家を継いだが、生母が生きている。新蔡太妃は彼女を冷遇しており、司馬滔の意思はこのようである(章武への出戻りを希望している)。もし許さねば、こじれてしまい、好ましくない結果を招くだろう。司馬滔の希望を聞き、生家に還って章武国を継承させよ」と言った。
司馬滔は位は散騎常侍を歴任し、薨じると、子の司馬休が嗣いだ。司馬休は彭城王雄(司馬雄)とともに蘇峻のもとに奔った。蘇峻が平定されると、司馬休はすでに戦死していた。弟の司馬珍は八歳であり、小さくて座れなかった。咸和六(三三一)年に爵を襲い、位は大宗正に至った。薨じて、継嗣がいなかった。河間王欽(司馬欽)の子の司馬範之に継がせ、位は遊撃将軍に至った。薨じ、子の司馬秀が嗣いだ。義熙元(四〇五)年、桂陽太守になった。司馬秀の妻は桓振の妹であり、桓振が反逆すると、司馬秀は不安になり、謀反し、誅に伏し、国が除かれた。
司馬威は字を景曜といい、初めは司馬洪を嗣いだ。咸寧三(二七七)年、移って章武に封じられた。太康九(二八八)年、義陽王望(司馬望)を嗣いだ。司馬威は凶暴であり行動に歯止めが利かず、趙王倫(司馬倫)に阿付した。元康末(-二九九)、散騎常侍となった。司馬倫が簒奪をするとき、司馬威に黄門郎駱休とともに恵帝に逼って璽綬を奪わせ、司馬倫は司馬威を中書令とした。司馬倫が敗退し、恵帝が皇位に復帰すると、「阿皮が私の指をひねり、わが璽綬を奪ったな、殺す以外にあり得ない」と言った。阿皮は、司馬威の小字である。司馬威は誅された。

原文

隨穆王整、兄弈卒、以整為世子。歷南中郎將、封清泉侯、先父望薨、追贈冠軍將軍。武帝以義陽國一縣追封為隨縣王。子1.邁嗣。太康九年、以義陽之平林益邁為隨郡王。
竟陵王楙字孔偉、初封樂陵亭侯、起家參相國軍事。武帝受禪、封東平王、邑三千九十七戶。入為散騎常侍・尚書。楙善諂諛、曲事楊駿。及駿誅、依法當死、東安公繇與楙善、故得不坐。尋遷大鴻臚、加侍中。繇欲擅朝政、與汝南王亮不平。亮託以繇討駿顧望、免繇・楙等官、遣楙就國。楙遂殖財貨、奢僭踰制。趙王倫篡位、召還。及義兵起、倫以楙為衞將軍・都督諸軍事。倫敗、楙免官。齊王冏輔政、繇復為僕射、舉楙為平東將軍・都督徐州諸軍事、鎮下邳。成都王穎輔政、進楙為衞將軍。
會惠帝北征、即以楙為車騎將軍、都督如故、使率眾赴鄴。蕩陰之役、東海王越奔于下邳、楙不納、越乃還國。帝既西幸、越總兵謀迎大駕、楙甚懼。長史王修說曰、「東海宗室重望、今將興義、公宜舉徐州以授之、此克讓之美也。楙從之、乃自承制都督兗州刺史・車騎將軍、表于天子。時帝在長安、遣使者劉虔即拜焉。
楙慮兗州刺史苟晞不避己、乃給虔兵、使稱詔誅晞。晞時已避位、楙在州徵求不已、郡縣不堪命。范陽王虓遣晞還兗州、徙楙都督青州諸軍事。楙不受命、背山東諸侯、與豫州刺史劉喬相結。虓遣將田徽擊楙、破之、楙走還國。帝還洛陽、楙乃詣闕。及懷帝踐阼、改封竟陵王、拜光祿大夫。越出牧豫州、留世子毗及其黨何倫訪察宮省。楙白帝討越、乃合眾襲倫、不克。帝委罪於楙、楙奔竄獲免。越薨、乃出。及洛陽傾覆、為亂兵所害。

1.『晋書』職官志は「萬」に作る。

訓読

隨穆王整、兄の弈 卒し、整を以て世子と為す。南中郎將を歷し、清泉侯に封じ、父の望に先んじて薨じ、冠軍將軍を追贈す。武帝 義陽國の一縣を以て追封して隨縣王と為す。子の邁 嗣ぐ。太康九年、義陽の平林を以て邁に益し隨郡王と為す。
竟陵王楙 字は孔偉、初め樂陵亭侯に封じ、參相國軍事に起家す。武帝 受禪し、東平王に封じ、邑は三千九十七戶。入りて散騎常侍・尚書と為る。楙 諂諛を善し、事を楊駿に曲ぐ。駿 誅せらるに及び、法に依りて當に死すべきを、東安公繇 楙と善く、故に坐せざるを得。尋いで大鴻臚に遷り、侍中を加ふ。繇 朝政を擅にせんと欲し、汝南王亮と平らかならず。亮 以て繇の駿を討つに顧望するといふに託し、繇・楙等の官を免じ、楙をして國に就かしむ。楙 遂に財貨を殖し、奢僭は制を踰ゆ。趙王倫 篡位し、召還す。義兵 起つに及び、倫 楙を以て衞將軍・都督諸軍事と為す。倫 敗れ、楙 免官す。齊王冏 輔政し、繇 復た僕射と為り、楙を舉げて平東將軍・都督徐州諸軍事と為し、下邳に鎮せしむ。成都王穎 輔政し、楙を進めて衞將軍と為す。
會 惠帝 北征し、即ち楙を以て車騎將軍と為し、都督 故の如く、眾を率ゐて鄴に赴かしむ。蕩陰の役、東海王越 下邳に奔り、楙 納れず、越 乃ち國に還る。帝 既に西のかた幸し、越 兵を總べて大駕を迎へんと謀り、楙 甚だ懼る。長史王修 說きて曰く、「東海は宗室の重望なり、今 將に義を興さんとし、公 宜しく徐州を舉げて以て之に授くべし、此れ克讓の美なり」と。楙 之に從ふ、乃ち自ら都督兗州刺史・車騎將軍を承制し、天子に表す。時に帝 長安に在り、使者劉虔を遣はして即ち拜せしむ。
楙 兗州刺史苟晞の己を避けざる慮り、乃ち虔に兵を給し、詔と稱して晞を誅せしむ。晞 時に已に位を避け、楙 州に在りて徵して求めて已まず、郡縣 命に堪へず。范陽王虓 晞を遣はして兗州に還らしめ、楙を都督青州諸軍事に徙す。楙 命を受けず、山東の諸侯に背き、豫州刺史劉喬と相 結ぶ。虓 將の田徽を遣はして楙を擊たしめ、之を破り、楙 走りて國に還る。帝 洛陽に還り、楙 乃ち闕に詣づ。懷帝 踐阼するに及び、改めて竟陵王に封ず、光祿大夫を拜す。越 出でて豫州に牧たり、世子毗及び其の黨たる何倫を留めて宮省を訪察す。楙 帝に越を討てと白し、乃ち眾を合せて倫を襲ひ、克たず。帝 罪を楙に委ね、楙 奔竄して免るるを獲。越 薨じ、乃ち出づ。洛陽 傾覆するに及び、亂兵の害する所と為る。

現代語訳

随穆王整(司馬整)は、兄の司馬弈が卒すると、司馬整を世子とした。南中郎将を歴任し、清泉侯に封じ、父の司馬望より先に薨じ、冠軍将軍を追贈された。武帝は義陽国の一県に追封して随県王とした。子の司馬邁が嗣いだ。太康九(二八八)年、義陽の平林を司馬邁の封地に増やし随郡王とした。
竟陵王楙(司馬楙)字を孔偉といい、はじめ楽陵亭侯に封じられ、参相国軍事から起家した。武帝が受禅すると、東平王に封じ、邑は三千九十七戸である。中央に入って散騎常侍・尚書となった。司馬楙はへつらいが巧みで、楊駿のための政事を曲げた。楊駿が誅されると、法では死罪に当たったが、東安公繇(司馬繇)が司馬楙と仲が良いので、処罰を免れた。ほどなく大鴻臚に遷り、侍中を加えられた。司馬繇が朝政を専断しようとしたが、汝南王亮(司馬亮)が妨げであった。司馬亮は司馬繇が楊駿を討伐するときに手心を加えた(一味の司馬楙を見逃した)ことを理由にし、司馬繇・司馬楙らの官職を免じ、司馬楙を国に行かせた。司馬楙は財貨を増やし、奢侈と僭上は分限を超えた。趙王倫(司馬倫)が簒奪すると、召還された。(三王の)義兵が決起すると、司馬倫は司馬楙を衛将軍・都督諸軍事とした。司馬倫が敗れると、司馬楙を免官した。斉王冏(司馬冏)が輔政すると、司馬繇はまた僕射となり、司馬楙を挙して平東将軍・都督徐州諸軍事とし、下邳に出鎮させた。成都王穎(司馬穎)が輔政すると、衛将軍に昇進させた。
恵帝が北伐すると、司馬楙を車騎将軍とし、都督は従来通りとし、軍勢を率いて鄴に行かせた。蕩陰の役があり、東海王越(司馬越)が下邳に奔ったが、司馬楙が拒絶したので、司馬越は帰国した。恵帝が西方に行幸すると、司馬越が兵を統率して大駕を迎えようと計画したため、司馬楙はひどく懼れた。長史の王修が、「東海王は宗室の重鎮であり、いま義挙を始めようとしている、公は徐州ごと献上しなさい、これが謙譲の美徳です」と行った。司馬楙はこれに従い、自ら都督兗州刺史・車騎将軍を承制し、天子に上表した。このとき恵帝は長安におり、使者の劉虔を派遣して拝した。
司馬楙は兗州刺史の苟晞が対抗心を持っていることを警戒し、劉虔に兵を与え、詔と称して苟晞を誅させた。この時点でもう苟晞は位を退いており、司馬楙が兗州で(苟晞を)徴して仕官させるよう要請したが、郡県は命令を実現できなかった。范陽王虓(司馬虓)は苟晞を兗州長官に復任させ、司馬楙を都督青州諸軍事に移した。司馬楙はこの任命を受けず、山東の諸侯に背き、豫州刺史の劉喬と同盟した。司馬虓は将の田徽を派遣して司馬楙を攻撃して、これを破り、司馬楙は逃げて国に帰った。恵帝が洛陽に還ると、司馬楙は宮殿を訪れた。懐帝が践祚すると、改めて竟陵王に封じ、光禄大夫を拝した。司馬越が転出して豫州牧となり、世子の司馬毗及びその党与である何倫を留めて中央政庁を掌握させた。司馬楙は懐帝に司馬越の討伐を提案し、軍勢を合わせて何倫を襲撃したが、勝てなかった。懐帝が罪を司馬楙に着せたが、司馬楙は逃亡したので捕まらずにすんだ。司馬越が薨じると、身を隠すのをやめた。洛陽が傾覆すると、乱兵に殺害された。

望弟太原成王輔 輔弟翼 翼弟下邳獻王晃 晃弟太原烈王瓌 瓌弟高陽元王珪 珪弟常山孝王衡 衡弟沛順王景

原文

太原成王輔、魏末為野王太守。武帝受禪、封渤海王、邑五千三百七十九戶、泰始二年之國。後為衞尉、出為東中郎將、轉南中郎將。咸寧三年、徙為太原王、監并州諸軍事。太康四年入朝、五年薨、追贈鎮北將軍。永平元年、更贈衞將軍・開府儀同三司。子1.弘立、元康中為散騎常侍、後徙封中丘王。三年薨、子鑠立。
翼字子世、少歷顯位、官至武賁中郎將。武帝未受禪而卒、以兄邕之支子承為嗣、封南宮縣王。薨、子2.祐嗣立、承遂無後。
下邳獻王晃字子明、3.(魏武封始亭侯)〔魏封武始亭侯〕、拜黃門侍郎、改封西安男、出為東莞太守。武帝受禪、封下邳王、邑五千一百七十六戶、泰始二年就國。晃孝友貞廉、謙虛下士、甚得宗室之稱。後為長水校尉・南中郎將。九年、詔曰、南中郎將下邳王晃清亮中正、體行明潔、才周政理、有文武策識。其以晃為使持節・都督寧益二州諸軍事・安西將軍、領益州刺史。晃以疾不行、更拜尚書、遷右僕射。久之、出為鎮東將軍・都督青徐二州諸軍事。惠帝即位、入為車騎將軍、加散騎常侍。將誅楊駿、以晃領護軍、屯東掖門。尋守尚書令。遷司空、加侍中、令如故。4.(咸寧)〔元康〕元康六年薨、追贈太傅。二子、裒・綽。裒早卒、綽有篤疾、別封良城縣王、以太原王輔第三子5.韡為嗣。官至侍中・尚書、早薨、子韶立。

1.「弘」は、恵帝紀では「泓」に作る。
2.「祐」は、武帝紀では「玷」に作る。「立」は、「出」字の誤りが疑われるという。
3.中華書局本に従い、文を改める。
4.中華書局本に従い、文を改める。
5.「韡」を「韓」に作る版本がある。

訓読

太原成王輔、魏末 野王太守と為る。武帝 受禪し、渤海王に封じ、邑は五千三百七十九戶なり、泰始二年 國に之く。後に衞尉と為り、出でて東中郎將と為り、南中郎將に轉ず。咸寧三年、徙りて太原王と為り、并州諸軍事を監す。太康四年 入朝し、五年 薨ず、鎮北將軍を追贈す。永平元年、更めて衞將軍・開府儀同三司を贈る。子の弘 立ち、元康中 散騎常侍と為り、後に徙りて中丘王に封ず。三年 薨じ、子の鑠 立つ。
翼 字は子世、少くして顯位を歷し、官は武賁中郎將に至る。武帝 未だ受禪せずして卒し、兄の邕の支子たる承を以て嗣と為し、南宮縣王に封ず。薨じ、子の祐 嗣立し、承 遂に後無し。
下邳獻王晃 字は子明、魏 武始亭侯に封じ、黃門侍郎を拜し、改めて西安男に封じ、出でて東莞太守と為る。武帝 受禪し、下邳王に封じ、邑は五千一百七十六戶なり、泰始二年 國に就く。晃は孝友にして貞廉、下士に謙虛たりて、甚だ宗室の稱を得。後に長水校尉・南中郎將と為る。九年、詔して曰く、「南中郎將下邳王晃 清亮にして中正なり、體は明潔を行ひ、才は政理を周り、文武の策識有り。其れ晃を以て使持節・都督寧益二州諸軍事・安西將軍、領益州刺史と為せ」と。晃 疾を以て行かず、更めて尚書を拜し、右僕射に遷る。久之、出でて鎮東將軍・都督青徐二州諸軍事と為る。惠帝 即位し、入りて車騎將軍と為り、散騎常侍を加ふ。將に楊駿を誅せんとし、晃を以て護軍を領せしめ、東掖門に屯す。尋いで守尚書令たり。司空に遷り、侍中を加へ、令 故の如し。元康六年 薨じ、太傅を追贈す。二子あり、裒・綽なり。裒 早く卒し、綽 篤疾有り、別に良城縣王に封じ、太原王輔の第三子韡を以て嗣と為す。官 侍中・尚書に至り、早く薨じ、子の韶 立つ。

現代語訳

(司馬孚の第三子)太原成王輔(司馬輔)は、魏末(-二六五)に野王太守となった。武帝が受禅すると、渤海王に封じられ、邑は五千三百七十九戸であり、泰始二(二六六)年に国に行った。後に衛尉となり、転出して東中郎将となり、南中郎将に転じた。咸寧三(二七七)年、移って太原王となり、并州諸軍事を監した。太康四(二八三)年に入朝し、太康五(二八四)年に薨じ、鎮北将軍を追贈された。永平元(二九一)年、改めて衛将軍・開府儀同三司を贈った。子の司馬弘が立ち、元康中(二九一-)散騎常侍となり、後に移って中丘王に封建された。元康三(二九三)年に薨じると、子の司馬鑠が立った。
(司馬孚の第四子)司馬翼は字を子世といい、若くして高官を経て、官は武賁中郎将に至った。武帝が受禅する前に卒し、兄の司馬邕の支系の子である司馬承を継嗣とし、南宮県王に封建した。薨じると、子の司馬祐が嗣いで立って(出て)おり、けっきょく司馬承は後嗣はいなかった。
(司馬孚の第五子)下邳献王晃(司馬晃)は字を子明といい、魏王朝は武始亭侯に封じ、黄門侍郎を拝し、改めて西安男に封じられ、転出して東莞太守となった。武帝が受禅すると、下邳王に封じ、邑は五千一百七十六戸であり、泰始二(二六六)年に国に行った。司馬晃は親兄弟に尽くして清廉であり、目下のものに謙虚であったので、宗室のなかで誉れを得た。後に長水校尉・南中郎将となった。泰始九(二七三)年、詔して曰く、「南中郎将の下邳王晃は清らかで公正であり、明るくて廉潔さを体現し、才能は政治の理に通じ、文武の見識を備えている。そこで司馬晃を使持節・都督寧益二州諸軍事・安西将軍、領益州刺史とせよ」と言った。司馬晃は病気を理由に赴任せず、改めて尚書を拝し、右僕射に遷った。しばらくして、転出して鎮東将軍・都督青徐二州諸軍事となった。恵帝が即位すると、入って車騎将軍となり、散騎常侍を加えた。楊駿を誅殺するときには、司馬晃に護軍を領させ、東掖門の守りを固めさせた。ほどなく守尚書令となった。司空に遷り、侍中を加え、尚書令は従来どおりとした。元康六(二九六)年に薨じ、太傅を追贈した。二子がおり、裒・綽である。司馬裒が早くに卒し、綽に重病があったので、分家として良城県王に封建し、太原王輔(司馬輔)の第三子である司馬韡を継嗣とした。官位は侍中・尚書に至り、早くに薨じ、子の司馬韶が立った。

原文

太原烈王瓌字子泉、魏長樂亭侯、改封貴壽鄉侯。歷振威將軍・祕書監、封固始子。武帝受禪、封太原王、邑五千四百九十六戶、泰始二年就國。四年入朝、賜袞冕之服、遷東中郎將。十年薨、詔曰、瓌乃心忠篤、智器雅亮。歷位文武、有榦事之績。出臨封土、夷夏懷附、鎮守許都、思謀可紀。不幸早薨、朕甚悼之。今安厝在近、其追贈前將軍。子顒立、徙封河間王、別有傳。
高陽元王珪字子璋、少有才望、魏高陽鄉侯。歷河南令、進封湞陽子、拜給事黃門侍郎。武帝受禪、封高陽王、邑五千五百七十戶。歷北中郎將・督鄴城守諸軍事。泰始六年入朝、以父孚年高、乞留供養。拜尚書、遷右僕射。十年薨、詔遣兼大鴻臚持節監護喪事、贈車騎將軍・儀同三司。珪有美譽於世、而帝甚悼惜之。無子、詔以太原王輔子緝襲爵。緝立五年、咸寧四年薨、諡曰哀。無子、太康二年詔以太原王瓌世子顒子訟為緝後、封真定縣侯。
常山孝王衡字子平、魏封德陽鄉侯。進封汝陽子、為駙馬都尉。武帝受禪、封常山王、邑三千七百九十戶。二年薨、無子、1.以安平世子邕第四子敦為嗣
沛順王景字子文、魏樂安亭侯。歷諫議大夫。武帝受禪、封沛王、邑三千四百戶。立十一年、咸寧元年薨、子韜立。

1.中華書局本に載せる周校によると、「敦」は「殷」に作るべきである。

訓読

太原烈王瓌 字は子泉、魏の長樂亭侯なり、改めて貴壽鄉侯に封ず。振威將軍・祕書監を歷し、固始子に封ず。武帝 受禪し、太原王に封じ、邑は五千四百九十六戶なり、泰始二年 國に就く。四年 入朝し、袞冕の服を賜ひ、東中郎將に遷る。十年 薨じ、詔して曰く、「瓌 乃ち心は忠篤にして、智器 雅(もと)より亮なり。位は文武を歷し、榦事の績有り。出でて封土に臨み、夷夏 懷附し、許都を鎮守し、思謀 紀す可し。不幸にして早く薨じ、朕 甚だ之を悼む。今 安厝 近く在り、其れ前將軍を追贈す」と。子の顒 立ち、徙して河間王に封じ、別に傳有り。
高陽元王珪 字は子璋、少くして才望有り、魏の高陽鄉侯なり。河南令を歷し、進みて湞陽子に封じ、給事黃門侍郎を拜す。武帝 受禪し、高陽王に封ず、邑は五千五百七十戶なり。北中郎將・督鄴城守諸軍事を歷す。泰始六年 入朝し、父の孚 年の高きを以て、留まりて供養するを乞ふ。尚書を拜し、右僕射に遷る。十年 薨じ、詔して兼大鴻臚をして持節して喪事を監護せしめ、車騎將軍・儀同三司を贈る。珪 美譽 世に有り、帝 甚だ之を悼惜す。子無く、詔して太原王輔の子緝を以て爵を襲はしむ。緝 立つこと五年、咸寧四年 薨じ、諡して哀と曰ふ。子無く、太康二年 詔して太原王瓌の世子顒の子訟を以て緝の後と為し、真定縣侯に封ず。
常山孝王衡 字は子平、魏 德陽鄉侯に封ず。進みて汝陽子に封じ、駙馬都尉と為る。武帝 受禪し、常山王に封じ、邑は三千七百九十戶なり。二年 薨じ、子無く、安平世子邕の第四子たる敦を以て嗣と為す。
沛順王景 字は子文、魏の樂安亭侯なり。諫議大夫を歷す。武帝 受禪し、沛王に封じ、邑は三千四百戶。立つこと十一年、咸寧元年 薨じ、子の韜 立つ。

現代語訳

(司馬孚の第六子)太原烈王瓌(司馬瓌)は字を子泉といい、魏王朝の長楽亭侯、改めて貴寿郷侯に封建された。振威将軍・秘書監を歴任し、固始子に封じられた。武帝が受禅すると、太原王に封じられ、邑は五千四百九十六戸、泰始二(二六六)年に国に行った。泰始四(二六八)年に入朝し、袞冕の服を賜わり、東中郎将に遷った。泰始十(二七四)年に薨じ、詔して曰く、「司馬瓌は忠孝で篤実な心をもち、智恵と器量に優れていた。文武の官職を歴任し、政務の実績があった。転出して封国にゆき、異民族を懐かせ、許都を鎮守したが、その見識は記録に値する。不幸にして早くに薨じ、朕はとても悼ましく思う。もうすぐ埋葬に移るが、前将軍を追贈せよ」と言った。子の司馬顒が立ち、移って河間王に封建された、別に列伝(巻五十九)がある。
(司馬孚の第七子)高陽元王珪(司馬珪)は字を子璋といい、若くして才能と声望があり、魏王朝の高陽郷侯である。河南令を経て、進んで湞陽子に封じられ、給事黄門侍郎を拝した。武帝が受禅すると、高陽王に封じ、邑は五千五百七十戸であった。北中郎将・督鄴城守諸軍事を歴任した。泰始六(二七〇)年に入朝し、父の司馬孚が高齢なので、留まって世話をしたいと申請した。尚書を拝し、右僕射に遷った。泰始十(二七四)年に薨じ、詔して兼大鴻臚に持節して葬儀を取り仕切らせ、車騎将軍・儀同三司を贈った。司馬珪は世に優れた評判があり、武帝はとても惜しみ哀しんだ。子がおらず、詔して太原王輔(司馬輔)の子である司馬緝に爵位を嗣がせた。司馬緝は立って五年、咸寧四(二七九)年に薨じ、哀と謚された。子がおらず、太康二(二八一)年に詔して太原王瓌(司馬瓌)の世子である司馬顒の子の司馬訟をもって司馬緝の後嗣とし、真定県侯に封建した。
(司馬孚の第八子)常山孝王衡(司馬衡)は字を子平といい、魏王朝は徳陽郷侯に封じた。進んで汝陽子に封じ、駙馬都尉となった。武帝が受禅すると、常山王に封じ、邑は三千七百九十戸である。泰始二(二六六)年に薨じ、子がおらず、安平世子邕(司馬邕)の第四子である司馬敦を後嗣とした。
(司馬孚の第九子)沛順王景(司馬景)は字を子文といい、魏王朝の楽安亭侯である。諫議大夫を歴任した。武帝が受禅すると、沛王に封じ、邑は三千四百戸であった。立って十一年、咸寧元(二七五)年に薨じ、子の司馬韜が立った。

彭城穆王權 曾孫紘 紘子俊

原文

彭城穆王權字子輿、宣帝弟魏魯相東武城侯馗之子也、初襲封、拜宂從僕射。武帝受禪、封彭城王、邑二千九百戶。出為北中郎將・都督鄴城守諸軍事。泰始中入朝、賜袞冕之服。咸寧元年薨、子元王植立。歷位後將軍、尋拜國子祭酒・太僕卿・侍中・尚書。出為安東將軍・都督揚州諸軍事、代淮南王允鎮壽春、未發。或云植助允攻趙王倫、遂以憂薨。贈車騎將軍、增封萬五千戶。子康王釋立、官至南中郎將・持節・平南將軍、分魯國蕃・薛二縣以益其國、凡二萬三千戶。薨、子雄立、坐奔蘇峻伏誅、更以釋子紘嗣。
紘字偉德、初封1.(唐邑縣公)〔堂邑縣公〕建興末、元帝承制、以紘繼高密王據。及帝即位、拜散騎侍郎、遷翊軍校尉・前將軍。雄之誅也、紘入繼本宗。拜國子祭酒、加散騎常侍、尋遷大宗正・祕書監。有風疾、性理不恒。或欲上疏陳事、歷示公卿。又杜門讓還章印貂蟬、著杜門賦以顯其志。由是更拜光祿大夫、領大宗師、常侍如故。後疾甚、馳騁無度、或攻劫軍寺、或扞傷官屬、醜言悖詈、誹謗上下。又乘車突入端門、至太極殿前。於是御史中丞車灌奏劾、請免紘官、下其國嚴加防錄。成帝詔曰、王以明德茂親、居宗師之重、宜敷道養德、靜一其操。而頃游行煩數、冒履風塵。宜令官屬已下、各以職奉衞、不得令王復有此勞。內外職司、各慎其局。王可解常侍・光祿・宗師、先所給車牛可錄取、賜米布牀帳以養疾。咸康八年薨、贈散騎常侍・金紫光祿大夫。二子、玄・俊。
玄嗣立。會庚戌制不得藏戶、玄匿五戶、桓溫表玄犯禁、收付廷尉。既而宥之、位至中書侍郎。薨、子弘之立、位至散騎常侍。薨、2.子邵〔之〕立。薨、子崇之立。薨、子緝之立。宋受禪、國除。
恭王俊字道度、出嗣高密王略、官至散騎常侍。薨、子敬王純之立、歷臨川內史・司農少府卿・太宰右長史。薨、子恢之立。義熙末、以給事中兼太尉、修謁洛陽園陵。宋受禪、國除。

1.中華書局本に従い、字を改める。
2.中華書局本に従い、字を補う。

訓読

彭城穆王權 字は子輿、宣帝の弟たる魏の魯相 東武城侯馗の子なり、初め封を襲ひ、宂從僕射を拜す。武帝 受禪し、彭城王に封じ、邑は二千九百戶なり。出でて北中郎將・都督鄴城守諸軍事と為る。泰始中 入朝し、袞冕の服を賜る。咸寧元年 薨じ、子の元王植 立つ。位は後將軍を歷し、尋いで國子祭酒・太僕卿・侍中・尚書を拜す。出でて安東將軍・都督揚州諸軍事と為り、淮南王允に代はりて壽春に鎮するに、未だ發せず。或ひと植 允を助けて趙王倫を攻むると云ひ、遂に憂を以て薨ず。車騎將軍を贈り、封萬五千戶を增す。子の康王釋 立ち、官は南中郎將・持節・平南將軍に至り、魯國の蕃・薛二縣を分ちて以て其の國に益し、凡そ二萬三千戶なり。薨じ、子の雄 立ち、蘇峻に奔るに坐して誅に伏し、更めて釋の子紘を以て嗣がしむ。
紘 字は偉德、初め堂邑縣公に封ず。建興末、元帝 承制するや、紘を以て高密王據を繼がしむ。帝 即位するに及び、散騎侍郎を拜し、翊軍校尉・前將軍に遷る。雄の誅せらるや、紘 入りて本宗を繼ぐ。國子祭酒を拜し、散騎常侍を加へ、尋いで大宗正・祕書監に遷る。風疾有り、性理 恒ならず。或とき上疏して事を陳べんと欲し、公卿に歷示す。又 門を杜して章印貂蟬を讓還し、杜門賦を著して以て其の志を顯す。是に由り更めて光祿大夫を拜し、大宗師を領し、常侍 故の如し。後に疾 甚しく、馳騁して度無く、或ときは軍寺を攻劫し、或ときは官屬を扞傷し、醜言もて悖詈し、上下を誹謗す。又 車に乘りて入端門に突し、太極殿の前に至る。是に於て御史中丞の車灌 劾を奏し、紘の官を免ずるを請ふ、其の國に下し嚴しく防錄を加ふ。成帝 詔して曰く、「王 明德を以て親を茂んにし、宗師の重に居り、宜しく道を敷しき德を養ひ、一に其の操を靜むべし。而るに頃 游行すること煩數たりて、風塵を冒履す。宜しく官屬已下に令し、各々職を以て奉衞せしめ、王をして復た此の勞有らしむるを得ず。內外の職司、各々其の局を慎め。王 常侍・光祿・宗師を解く可し、先に給ふ所の車牛 錄取す可し、米布牀帳を賜ひて以て疾を養へ」と。咸康八年 薨じ、散騎常侍・金紫光祿大夫を贈る。二子あり、玄・俊なり。
玄 嗣立す。會 庚戌制 戶を藏すを得ず、玄 五戶を匿し、桓溫 玄 禁を犯すを表し、收めて廷尉に付す。既にして之を宥し、位は中書侍郎に至る。薨じ、子の弘之 立つ、位は散騎常侍に至る。薨じ、子の邵之 立つ。薨じ、子の崇之 立つ。薨じ、子の緝之 立つ。宋 受禪し、國 除かる。
恭王俊 字は道度、出でて高密王略を嗣ぎ、官は散騎常侍に至る。薨じ、子の敬王純之 立ち、臨川內史・司農少府卿・太宰右長史を歷す。薨じ、子の恢之 立つ。義熙末、給事中を以て太尉を兼ね、修して洛陽園陵に謁す。宋 受禪し、國 除かる。

現代語訳

彭城穆王権(司馬権)は字を子輿といい、宣帝の弟で魏王朝の魯相であった東武城侯馗(司馬馗)の子であり、はじめ父の爵位を嗣ぎ、冗従僕射を拝した。武帝が受禅すると、彭城王に封じ、邑は二千九百戸。転出して北中郎将・都督鄴城守諸軍事となった。泰始中(二六五-二七四)入朝し、袞冕の服を賜わった。咸寧元(二七五)年に薨じ、子の元王植(司馬植)が立った。位は後将軍を経て、ほどなく国子祭酒・太僕卿・侍中・尚書を拝した。転出して安東将軍・都督揚州諸軍事となり、淮南王允(司馬允)に代わって寿春に鎮することになったが、まだ出発していなかった。だれかが司馬植が司馬允を助けて趙王倫(司馬倫)を攻撃をすると言い触らしたので、これを気に病んで薨じた。車騎将軍を贈り、封戸を一万五千を増した。子の康王釈(司馬釈)が立ち、官は南中郎将・持節・平南将軍に至り、魯国の蕃・薛という二県を分けて彭城国に編入させ、全部で二万三千戸となった。薨じると、子の司馬雄が立ち、蘇峻のもとに奔ったため誅に伏し、改めて司馬釈の子の司馬紘に嗣がせた。
司馬紘は字を偉徳といい、初めに堂邑県公に封建された。建興末(-三一七)、元帝が承制すると、司馬紘に高密王拠(司馬拠)を継がせた。元帝が即位すると、散騎侍郎を拝し、翊軍校尉・前将軍に遷った。司馬雄が誅されると、司馬紘が本家に入って継いだ。国子祭酒を拝し、散騎常侍を加え、すぐに大宗正・秘書監に遷った。風疾(中風)であり、精神が安定しなかった。あるとき上疏して物事を述べようとし、公卿に回付して読ませた。門を閉ざして章印や貂蟬を返上し、杜門賦(門を閉ざす歌)を作ってその志を表現した。これにより改めて光禄大夫を拝し、大宗師を領し、常侍は従来どおりとした。のちに病が悪化し、馬に乗って暴走し、軍府に突撃したり、官属を負傷させたり、きたない言葉で罵倒したり、上下を誹謗したりした。馬車に乗って入端門に突っ込み、太極殿の前に至った。そこで御史中丞の車灌が弾劾を上奏し、司馬紘の免官を請求し、封国に行かせて保護下に置くべきですと言った。成帝は詔して、「王は明徳の持ち主で親族と睦まじく、宗室の重任におり、道徳を押し広め、節度ある行いをするべきだ。しかし近ごろはあちこちで遊び歩き、迷惑を被っている。官属以下に命じて、それぞれの職務を確実に行わせ、王には公務をさせなくてよい。内外の担当官は、持ち場を守るように。王(司馬紘)は常侍・光禄・宗師に任務を解いてよい、前に支給した車牛はそのまま与え、米布や牀帳を賜って養生をさせる」と言った。咸康八(三四二)年に薨じ、散騎常侍・金紫光禄大夫を贈った。二子がおり、玄・俊である。
司馬玄が嗣いで立った。このとき庚戌制で戸籍を整理したが、司馬玄が五戸を隠したので、桓温がその違反を上表し、廷尉に引き渡した。後に許され、位は中書侍郎に至った。薨じると、子の司馬弘之が立った、位は散騎常侍に至った。薨じると、子の司馬邵之が立った。薨じると、子の司馬崇之が立った。薨じると、子の司馬緝之が立った。宋が受禅すると、国は除かれた。
恭王俊(司馬俊は)字を道度といい、家を出て高密王略(司馬略)を嗣ぎ、官は散騎常侍に至った。薨じると、子の敬王純之(司馬純之)が立ち、臨川内史・司農少府卿・太宰右長史を歴任した。薨じると、子の司馬恢之が立った。義熙末(-四一八)、給事中として太尉を兼ね、洛陽の園陵を修繕し拝謁した。宋が受禅すると、国が除かれた。

高密文獻王泰 子孝王略 略兄新蔡武哀王騰 騰子莊王確 略弟南陽王模 模子保

原文

高密文獻王泰字子舒、彭城穆王權之弟、魏陽亭侯、補陽翟令、遷扶風太守。武帝受禪、封隴西王、邑三千二百戶、拜游擊將軍。出為兗州刺史、加鷹揚將軍。遷使持節・都督寧益二州諸軍事・安西將軍、領益州刺史、稱疾不行。轉安北將軍、代兄權督鄴城守事。遷安西將軍・1.都督關中事
太康初、入為散騎常侍・前將軍、領鄴城門校尉、以疾去官。後代下邳王晃為尚書左僕射。出為鎮西將軍、領護西戎校尉・假節、代扶風王駿都督關中軍事、以疾還京師。永熙初、代石鑒為司空、尋領太子太保。及楊駿誅、泰領駿營、加侍中、給步兵二千五百人、騎五百匹。泰固辭、乃給千兵百騎。楚王瑋之被收、泰嚴兵將救之、祭酒丁綏諫曰、公為宰相、不可輕動。且夜中倉卒、宜遣人參審定問。泰從之。瑋既誅、乃以泰錄尚書事、遷太尉、守尚書令、改封高密王、邑萬戶。元康九年薨、追贈太傅。
泰性廉靜、不近聲色。雖為宰輔、食大國之租、服飾肴膳如布衣寒士。任真簡率、每朝會、不識者不知其王公也。事親恭謹、居喪哀戚、謙虛下物、為宗室儀表。當時諸王、惟泰及下邳王晃以節制見稱。雖並不能振施、其餘莫得比焉。泰四子、越・騰・略・模。越自有傳。騰出後叔父、弟略立。

1.「都督關中軍事」に作るべきか。また、下文に「代扶風王駿都督關中軍事」とあり、重複している。

訓読

高密文獻王泰 字は子舒、彭城穆王權の弟にして、魏の陽亭侯、陽翟令に補せられ、扶風太守に遷る。武帝 受禪し、隴西王に封じ、邑三千二百戶、游擊將軍を拜す。出でて兗州刺史と為り、鷹揚將軍を加ふ。使持節・都督寧益二州諸軍事・安西將軍に遷り、益州刺史を領し、疾と稱して行かず。安北將軍に轉じ、兄の權に代はりて鄴城守事を督す。安西將軍・都督關中事に遷る。
太康初、入りて散騎常侍・前將軍と為り、鄴城門校尉を領し、疾を以て官を去る。後に下邳王晃に代はりて尚書左僕射と為る。出でて鎮西將軍に為し、領護西戎校尉・假節たり、扶風王駿に代はりて關中軍事を都督し、疾を以て京師に還る。永熙初、石鑒に代はりて司空と為り、尋いで太子太保を領す。楊駿 誅せらるに及び、泰 駿の營を領し、侍中を加へ、步兵二千五百人、騎五百匹を給ふ。泰 固辭し、乃ち千兵百騎を給ふ。楚王瑋の收めらるや、泰 兵を嚴にして將に之を救はんとし、祭酒の丁綏 諫めて曰く、「公 宰相為り、輕動す可からず。且つ夜中に倉卒たり、宜しく人を遣はして參審して定問すべし」と。泰 之に從ふ。瑋 既に誅せられ、乃ち泰を以て錄尚書事とし、太尉に遷り、守尚書令、改めて高密王に封じ、邑は萬戶。元康九年 薨じ、太傅を追贈す。
泰の性 廉靜にして、聲色を近づけず。宰輔と為り、大國の租を食むと雖も、服飾肴膳 布衣の寒士が如し。真に任じて簡率なり、每に朝會に、識らざる者は其の王公たるを知らず。親に事へて恭謹たり、喪に居りて哀戚たり、下物に謙虛たりて、宗室の儀表と為る。當時の諸王、惟だ泰及び下邳王晃のみ節制を以て稱せらる。並びに能く振施せざると雖も、其の餘 得て比ぶる莫し。泰に四子あり、越・騰・略・模なり。越 自ら傳有り。騰 出でて叔父に後たり、弟の略 立つ。

現代語訳

高密文献王泰(司馬泰)は字を子舒といい、彭城穆王権(司馬権)の弟、魏王朝の陽亭侯となり、陽翟令に任命され、扶風太守に遷った。武帝が受禅すると、隴西王に封じられ、邑は三千二百戸、游撃将軍を拝した。出て兗州刺史となり、鷹揚将軍を加えられた。使持節・都督寧益二州諸軍事・安西将軍に遷り、益州刺史を領したが、病気と称して赴任しなかった。安北将軍に転じ、兄の司馬権に代わって鄴城守事を督した。安西将軍・都督関中事に遷った。
太康初(二八〇-)、入朝して散騎常侍・前将軍となり、鄴城門校尉を領し、病気で官を去った。後に下邳王晃(司馬晃)に代わり尚書左僕射となった。転出して鎮西将軍、領護西戎校尉・假節となり、扶風王駿(司馬駿)に代わり関中軍事を都督し、病気で京師に還った。永熙初(二九〇-)、石鑑に代わり司空となり、ほどなく太子太保を領した。楊駿が誅されると、司馬泰は楊駿の軍営を領し、侍中を加え、歩兵二千五百人、騎五百匹を給わった。司馬泰は故事し、乃ち千兵百騎だけを給わった。楚王瑋(司馬瑋)が捕らえられると、司馬泰は兵を臨戦態勢として救出に向かおうとしたが、祭酒の丁綏が諫め、「あなたは宰相です、軽々しく行動してはいけません。夜中の突然のことです、人を使わして調査して実態を究明すべきです」と言った。司馬泰はこれに従った。司馬瑋が誅されると、司馬泰を録尚書事とし、太尉に遷り、尚書令を守し、改めて高密王に封じ、邑は万戸である。元康九(二九九)年に薨じ、太傅を追贈された。
司馬泰の性格は慎み深くて、顔色や口調が穏やかだった。宰輔となり、大きな藩国の収入があったが、服飾や食膳のようすは無位無官の人のようだった。素朴で率直であり、いつも朝廷の集まりでは、面識のない人は王公だと分からなかった。親に仕えると恭しく謹み、服喪では哀しみを表し、下位者に謙虚であり、宗室の模範となった。当時の諸王のなかで、司馬泰と下邳王晃(司馬晃)のみが節制ぶりを称賛された。(資産がないので)それほど賑恤はしなかったが、誰よりも余財を持たなかった。司馬泰に四子がおり、越・騰・略・模である。司馬越は専伝がある(巻五十九)。司馬騰は家を出て叔父の後嗣となり、弟の司馬略が立った。

原文

孝王略字元簡、孝敬慈順、小心下士、少有父風。元康初、愍懷太子在東宮、選大臣子弟有名稱者以為賓友、略與華恒等並侍左右。歷散騎黃門侍郎・散騎常侍・祕書監、出為安南將軍・持節・都督沔南諸軍事、遷安北將軍・都督青州諸軍事。略逼青州刺史程牧、牧避之、略自領州。永興初、1.(惤)〔㡉〕令劉根起兵東萊、誑惑百姓、眾以萬數、攻略於臨淄、略不能距、走保聊城。懷帝即位、遷使持節・都督荊州諸軍事・征南大將軍・2.開府儀同三司。京兆流人王逌與叟人郝洛聚眾數千、屯于冠軍。略遣參軍崔曠率將軍皮初・張洛等討逌、為逌所譎、戰敗。略更遣左司馬曹攄統曠等進逼逌。將大戰、曠在後密自退走、攄軍無繼、戰敗、死之。略乃赦曠罪、復遣部將韓松又督曠攻逌、逌降。尋進開府、加散騎常侍。永嘉三年薨、追贈侍中・太尉。子據立。薨、無子、以彭城康王子紘為嗣。其後紘歸本宗、立紘子俊以奉其祀。
新蔡武哀王騰字元邁、少拜宂從僕射、封東嬴公、歷南陽・魏郡太守、所在稱職。徵為宗正、遷太常、轉持節・寧北將軍・都督并州諸軍事・并州刺史。惠帝討成都王穎、六軍敗績。騰與安北將軍王浚共殺穎所署幽州刺史和演、率眾討穎。穎遣北中郎將王斌距戰、浚率鮮卑騎擊斌、騰為後係、大破之。穎懼、挾帝歸洛陽、進騰位安北將軍。永嘉初、遷車騎將軍・都督鄴城守諸軍事、鎮鄴。又以迎駕之勳、改封新蔡王。
初、騰發并州、次于真定。值大雪、平地數尺、營門前方數丈雪融不積、騰怪而掘之、得玉馬、高尺許、表獻之。其後公師藩與平陽人汲桑等為羣盜、起於清河鄃縣、眾千餘人、寇頓丘。3.以葬成都王穎為辭、載穎主而行、與張泓故將李豐等將攻鄴。騰曰、「孤在并州七年、胡圍城不能克。汲桑小賊、何足憂也。」及豐等至、騰不能守、率輕騎而走、為豐所害。四子、虞・矯・紹・確。

1.中華書局本に従い、字を改める。「劉根」は、恵帝紀・王彌傳では「劉柏根」に作る。
2.この六字は、衍字が疑われるという。下文に「逌降、尋進開府」とあり、また恵帝紀にも見えない。
3.このとき公師藩はすでに死んでいるため、「以葬」の上に「桑」一字を補い、主語を汲桑にするべきか。

訓読

孝王略 字は元簡、孝敬にして慈順、下士に小心し、少くして父の風有り。元康初、愍懷太子 東宮に在り、大臣の子弟の名稱有る者を選びて以て賓友と為し、略 華恒等らと並びに左右に侍す。散騎黃門侍郎・散騎常侍・祕書監を歷し、出でて安南將軍・持節・都督沔南諸軍事と為り、安北將軍・都督青州諸軍事に遷る。略 青州刺史の程牧に逼り、牧 之を避け、略 自ら州を領す。永興初、㡉令の劉根 兵を東萊に起こし、百姓を誑惑し、眾 萬を以て數へ、臨淄を攻略し、略 距ぐ能はず、走りて聊城を保つ。懷帝 即位し、使持節・都督荊州諸軍事・征南大將軍・開府儀同三司に遷る。京兆の流人たる王逌 叟人の郝洛と眾數千を聚め、冠軍に屯す。略 參軍崔曠を遣はして將軍の皮初・張洛等を率ゐて逌を討ち、逌の譎す所と為り、戰敗す。略 更めて左司馬の曹攄を遣はして曠等を統め進みて逌に逼る。將に大戰せんとするに、曠 後に在り密かに自ら退走し、攄の軍 繼無く、戰敗し、之に死す。略 乃ち曠の罪を赦し、復た部將の韓松を遣はして又 曠を督して逌を攻め、逌 降る。尋いで開府に進み、散騎常侍を加ふ。永嘉三年 薨じ、侍中・太尉を追贈す。子の據 立つ。薨じ、子無く、彭城康王の子たる紘を以て嗣と為す。其の後 紘 本宗に歸し、紘の子俊を立てて以て其の祀を奉ぜしむ。
新蔡武哀王騰 字は元邁、少くして宂從僕射を拜し、東嬴公に封じ、南陽・魏郡太守を歷し、所在に職を稱ふ。徵して宗正と為り、太常に遷り、持節・寧北將軍・都督并州諸軍事・并州刺史に轉ず。惠帝 成都王穎を討ち、六軍 敗績す。騰 安北將軍の王浚と共に穎の署する所の幽州刺史の和演を殺し、眾を率ゐて穎を討つ。穎 北中郎將の王斌を遣はして距戰し、浚 鮮卑騎を率ゐて斌を擊ち、騰 後係と為り、大いに之を破る。穎 懼れ、帝を挾んで洛陽に歸り、騰の位を安北將軍に進む。永嘉初、車騎將軍・都督鄴城守諸軍事に遷り、鄴に鎮す。又 迎駕の勳を以て、改めて新蔡王に封ず。
初め、騰 并州を發し、真定に次る。大雪に值ひ、平地に數尺、營門の前方のみ數丈の雪 融けて積らず、騰 怪みて之を掘り、玉馬を得て、高さ尺許、表して之を獻ず。其の後 公師藩 平陽の人汲桑等と羣盜と為り、清河の鄃縣に起ち、眾千餘人、頓丘を寇す。成都王穎を葬るを以て辭を為り、穎の主を載せて行き、張泓の故將たる李豐等と與に將に鄴を攻めんとす。騰曰く、「孤 并州に在ること七年、胡 城を圍みて克つ能はず。汲桑は小賊なり、何ぞ憂ふに足らん」と。豐等 至るに及び、騰 守る能はず、輕騎を率ゐて走り、豐の害する所と為る。四子あり、虞・矯・紹・確なり。

現代語訳

孝王略(司馬略)字は元簡、孝を尽くし目上のひとを敬愛して従順であり、目下のものを大切にし、若いときから父に似ていた。元康初(二九〇-)、愍懐太子が東宮におり、大臣の子弟から名望のある者を選んで賓友としたとき、司馬略は華恒らとともに左右に侍した。散騎黄門侍郎・散騎常侍・秘書監を歴任し、転出して安南将軍・持節・都督沔南諸軍事となり、安北将軍・都督青州諸軍事に遷った。司馬略が青州刺史の程牧に逼ったので、程牧はこれを避け、司馬略は自ら州を領した。永興初(三〇四)、㡉令の劉根(劉伯根)が兵を東萊で起こし、百姓をたぶらかして惑わせ、軍勢が一万を数え、臨淄を攻略したところ、司馬略は防ぎ切れず、逃げて聊城を拠点とした。懐帝が即位すると、使持節・都督荊州諸軍事・征南大将軍(・開府儀同三司)に遷った。京兆の流人の王逌は叟人の郝洛とともに数千の軍勢を集め、冠軍に屯した。司馬略は参軍の崔曠を遣わして将軍の皮初・張洛らを率いて王逌を討伐させたが、王逌にだまされて、敗戦した。司馬略は改めて左司馬の曹攄を遣わして崔曠らを統率させ王逌に逼った。大決戦を目前にし、後方にいた崔曠がひそかに撤退してしまい、曹攄の軍は後続を失い、対戦して、死んでしまった。司馬略は崔曠の罪を赦し、さらに部将の韓松を投入して崔曠を督して王逌を攻撃したところ、王逌が降服した。ほどなく昇進して開府し、散騎常侍を加えられた。永嘉三(三〇九)年に薨じ、侍中・太尉を追贈された。子の司馬拠が立った。薨じて、子がおらず、彭城康王の子である司馬紘を後嗣とした。その後に司馬紘が生家に帰ったので、司馬紘の子である司馬俊を立てて祭祀を継続させた。
新蔡武哀王騰(司馬騰)は字を元邁といい、若くして冗従僕射を拝し、東嬴公に封じられ、南陽・魏郡太守を歴任し、在職において称えられた。徴して宗正となり、太常に遷り、持節・寧北將軍・都督并州諸軍事・并州刺史に転じた。恵帝が成都王穎(司馬穎)を討伐したが、天子の六軍は敗北した。司馬騰は安北将軍の王浚とともに司馬穎が任命した幽州刺史の和演を殺し、軍勢を率いて司馬穎を討った。司馬穎は北中郎将の王斌を遣わして防戦し、王浚は鮮卑の騎馬軍を率いて王斌を撃ち、司馬騰は後詰めとなり、大いにこれを撃破した。司馬穎は懼れ、恵帝を連れて洛陽に帰ったので、司馬騰の位が安北将軍に進められた。永嘉初(三〇七-)、車騎将軍・都督鄴城守諸軍事に遷り、鄴に出鎮した。さらに天子を迎えた功績により、改めて新蔡王に封建した。
これより先、司馬騰が并州から出発し、真定に停泊した。大雪に降られ、平地でも数尺が積もり、軍営の前だけ数丈の雪が溶けて積もらないので、司馬騰が怪しんでそこを掘ると、玉製の馬を得、高さは一尺ばかりで、上表して献上した。その後に公師藩が平陽の人である汲桑らと羣盜となり、清河の鄃県で決起し、軍勢は千余人となり、頓丘を侵略した。(汲桑は)成都王穎(司馬穎)を葬って悼辞をつくり、司馬穎の神主を載せて進み、張泓の故将である李豊らとともに鄴を攻撃しようとした。司馬騰は、「私は并州に七年間いたが、胡族に城を囲まれても負けたことがない。汲桑は小勢力の賊である、まったく脅威に感じない」と言った。李豊らが到来すると、司馬騰は守り切れず、軽騎を率いて逃げたが、李豊らに殺害された。四人の子がおり、虞・矯・紹・確である。

原文

虞有勇力、騰之被害、虞逐豐、豐投水而死。是日、虞及矯・紹并鉅鹿太守崔曼・車騎長史1.(羊桓)〔羊恒〕・從事中郎2.(蔡充)〔蔡克〕等又為豐餘黨所害、及諸名家流移依鄴者、死亡並盡。初、鄴中雖府庫虛竭、而騰資用甚饒。性儉嗇、無所振惠、臨急、乃賜將士米可數升、帛各丈尺、是以人不為用、遂致於禍。及苟晞救鄴、桑還平陽。于時盛夏、尸爛壞不可復識、騰及三子骸骨不獲。庶子確立。
莊王確字嗣安、歷東中郎將・都督豫州諸軍事、鎮許昌。永嘉末、為石勒所害。無子、初以章武王混子滔奉其祀、其後復以汝南威王祐子弼為確後。太興元年薨、無子、又以弼弟邈嗣確、位至侍中。薨、子晃立、拜散騎侍郎。桓溫廢武陵王、免晃為庶人、徙衡陽。孝武帝立晃弟崇繼邈後、為奴所害、子惠立。宋受禪、國除。

1.中華書局本に従い、改める。
2.中華書局本に従い、改める。

訓読

虞 勇力有り、騰の害せらるるや、虞 豐を逐ひ、豐 水に投じて死す。是の日、虞及び矯・紹并びに鉅鹿太守の崔曼・車騎長史の羊恒・從事中郎の蔡克等 又 豐の餘黨の害する所と為り、及び諸々の名家 流移して鄴に依る者は、死亡して並びに盡く。初め、鄴中 府庫 虛竭たると雖も、而るに騰の資用 甚だ饒たり。性 儉嗇にして、振惠する所無く、急に臨み、乃ち將士に米 數升賜り、帛各々丈尺を賜ひ、是を以て人の用を為さず、遂に禍に致る。苟晞 鄴を救ふに及び、桑 平陽に還る。時に盛夏なり、尸 爛壞して復た識る可からず、騰及び三子の骸骨 獲ず。庶子の確 立つ。
莊王確 字は嗣安、東中郎將・都督豫州諸軍事を歷し、許昌に鎮す。永嘉末、石勒の害する所と為る。子無く、初め章武王混の子滔を以て其の祀を奉ぜしめ、其の後 復た汝南威王祐の子弼を以て確の後と為す。太興元年 薨じ、子無く、又 弼の弟邈を以て確を嗣がしめ、位は侍中に至る。薨じ、子の晃 立ち、散騎侍郎を拜す。桓溫 武陵王を廢するや、晃を免じて庶人と為し、衡陽に徙す。孝武帝 晃の弟崇を立てて邈の後を繼がしめ、奴の害する所と為り、子の惠 立つ。宋 受禪し、國 除かる。

現代語訳

司馬虞は勇気と力量があり、父の司馬騰が殺害されると、司馬虞は李豊を追い、李豊は川に投身して死んだ。この日、司馬虞及び矯・紹(弟たち)並びに鉅鹿太守の崔曼・車騎長史の羊恒・従事中郎の蔡克らもまた李豊の残党に殺害され、諸々の名家出身者のうち流れ着いて鄴に避難していた者は死亡し全滅した。これより先、鄴の城中の官庫は欠乏していたが、司馬騰の軍事物資だけが潤沢であった。性格が吝嗇であり、城中に振給することなく、非常時となり、将士に米を数升ずつ、帛を丈尺ずつ給わったが、必要な量には足りず、このような敗北の禍いを招いたのである。苟晞が鄴を救うと、汲桑は平陽に還った。このとき盛夏で、死体は腐敗して誰だか特定できず、司馬騰及び三子の遺骸は収容できなかった。庶子の司馬確が立った。
荘王確(司馬確)は字を嗣安といい、東中郎将・都督豫州諸軍事を歴任し、許昌に出鎮した。永嘉末(-三一三)、石勒に殺害された。子がおらず、初めは章武王混の子滔(司馬滔)に祭祀を継がせ、その後に汝南威王祐の子弼(司馬弼)を司馬確の後嗣とした。太興元(三一八)年に薨じ、子がおらず、さらに司馬弼の弟の司馬邈に司馬確を嗣がせ、位は侍中に至った。薨じると、子の司馬晃が立ち、散騎侍郎を拝した。桓温が武陵王を廃すると、司馬晃を免じて庶人とし、衡陽に移した。孝武帝は司馬晃の弟の司馬崇を立てて司馬邈の後を継がせ、奴隷に殺害され、子の司馬恵が立った。宋が受禅すると、国は除かれた。

原文

南陽王模字元表、少好學、與元帝及范陽王虓俱有稱於宗室。初封平昌公。惠帝末、拜宂從僕射、累遷太子庶子・員外散騎常侍。成都王穎奔長安、東海王越以模為北中郎將、鎮鄴。永興初、成都王穎故帳下督公師藩・樓權・郝昌等攻鄴、模左右謀應之。廣平太守1.丁邵率眾救模、范陽王虓又遣兗州刺史苟晞援之、藩等散走。遷鎮東大將軍、鎮許昌。進爵南陽王。永嘉初、轉征西大將軍・開府・都督秦雍梁益諸軍事、代河間王顒鎮關中。模感丁邵之德、敕國人為邵生立碑。
時關中饑荒、百姓相噉、加以疾癘、盜賊公行。模力不能制、乃鑄銅人鐘鼎為釜器以易穀、議者非之。東海王越表徵模為司空、遣中書監傅祗代之。模謀臣淳于定說模曰、關中天府之國、霸王之地。今以不能綏撫而還、既於聲望有虧。又公兄弟唱起大事、而並在朝廷、若自強則有專權之罪、弱則受制於人、非公之利也。模納其言、不就徵。表遣世子保為西中郎將・東羌校尉、鎮上邽、秦州刺史裴苞距之。模使帳下都尉陳安率眾攻苞、苞奔安定。太守賈疋以郡迎苞、模遣軍司謝班伐疋、疋退奔盧水。其年、進位太尉・大都督。
洛京傾覆、模使牙門2.趙染戍蒲坂、染求馮翊太守不得、怒、率眾降于劉聰。聰使其子粲及染攻長安、模使淳于定距之、為染所敗。士眾離叛、倉庫虛竭、軍祭酒韋輔曰、事急矣、早降可以免。模從之、遂降于染。染箕踞攘袂數模之罪、送詣粲。粲殺之、以模妃劉氏賜胡張本為妻。子保立。

1.「丁邵」は、他の版本及び巻では「丁劭」や「丁紹」にも作る。
2.「趙染」は、愍帝紀及び劉琨傳では「趙冉」に作る。

訓読

南陽王模 字は元表、少くして學を好み、元帝及び范陽王虓と俱に宗室に稱有り。初め平昌公に封ず。惠帝末、宂從僕射を拜し、累りに太子庶子・員外散騎常侍に遷る。成都王穎 長安に奔り、東海王越 模を以て北中郎將と為し、鄴に鎮す。永興初、成都王穎の故帳下督たる公師藩・樓權・郝昌等 鄴を攻め、模の左右 謀りて之に應ぜんとす。廣平太守の丁邵 眾を率ゐて模を救ひ、范陽王虓 又 兗州刺史苟晞を遣はして之を援ひ、藩等 散走す。鎮東大將軍に遷り、許昌に鎮す。爵を南陽王に進む。永嘉初、征西大將軍・開府・都督秦雍梁益諸軍事に轉じ、河間王顒に代はりて關中に鎮す。模 丁邵の德に感じ、國人に敕して邵の為に生きながら碑を立てしむ。
時に關中 饑荒し、百姓 相 噉ひ、加へて疾癘を以て、盜賊 公行す。模 力もて制する能はず、乃ち銅人鐘鼎を鑄して釜器と為して以て穀に易へ、議者 之を非とす。東海王越 表して模を徵して司空と為し、中書監の傅祗を遣はして之に代ふ。模の謀臣の淳于定 模に說きて曰く、「關中は天府の國、霸王の地なり。今 以て綏撫して還る能はず、既に聲望に虧有り。又 公の兄弟 唱へて大事を起す、並びに朝廷に在り、若し自ら強ければ則ち專權の罪有り、弱ければ則ち制を人に受け、公の利に非ざるなり」と。模 其の言を納れ、徵に就かず。表して世子保を遣はして西中郎將・東羌校尉と為して、上邽に鎮せしむるも、秦州刺史の裴苞 之を距む。模 帳下都尉の陳安をして眾を率ゐて苞を攻め、苞 安定に奔る。太守の賈疋 郡を以て苞を迎へ、模 軍司の謝班を遣はして疋を伐ち、疋 退きて盧水に奔る。其の年、位を太尉・大都督に進む。
洛京 傾覆し、模 牙門の趙染をして蒲坂を戍らしめ、染 馮翊太守を求めて得ず、怒りて、眾を率ゐて劉聰に降る。聰 其の子粲及び染をして長安を攻めしめ、模 淳于定をして之を距がしめ、染の敗る所と為る。士眾 離叛し、倉庫 虛竭たりて、軍祭酒の韋輔曰く、「事は急なり、早く降れば以て免るる可し」と。模 之に從ふ、遂 染に降る。染 箕踞の袂を攘き模の罪を數(せ)め、送りて粲に詣らしむ。粲 之を殺し、模の妃劉氏を以て胡張本に賜ひて妻と為す。子の保 立つ。

現代語訳

南陽王模(司馬模)は字を元表といい、若いときから学を好み、元帝及び范陽王虓(司馬虓)とともに宗室で称えられた。初め平昌公に封建された。恵帝末(-三〇六)、冗従僕射を拝し、しきりに太子庶子・員外散騎常侍に遷った。成都王穎(司馬穎)が長安に走ると、東海王越(司馬越)は司馬模を北中郎将とし、鄴に出鎮させた。永興初(三〇四-)、成都王穎の故の帳下督であった公師藩・楼権・郝昌らが鄴を攻め、司馬模の左右はこれに呼応しようと考えた。広平太守の丁邵は軍勢を率いて司馬模を救い、范陽王虓(司馬虓)もまた兗州刺史の苟晞を遣わして救援し、公師藩らは散って逃げた。鎮東大将軍に遷り、許昌に出鎮した。爵を南陽王に進められた。永嘉初(三〇七-)、征西大将軍・開府・都督秦雍梁益諸軍事に転じ、河間王顒(司馬顒)に代わって関中に鎮した。司馬模は丁邵の徳に感動し、国人に命じて存命の丁邵のために碑を立てさせた。
このとき関中は飢えて荒廃し、百姓は食らいあい、しかも疫病が流行し、盗賊が横行した。司馬模は力尽くでは抑えきれず、銅人や鐘鼎を鋳つぶして釜器を作って穀物の購入代金にあてたので、議者はこれを非難した。東海王越(司馬越)が上表して司馬模を徴して司空とし、中書監の傅祗を代理で送った。司馬模の謀臣の淳于定が説いて、「関中は天府の国であり、霸王の地です。いま慰撫しても治安が戻らず、もう声望に傷が付きました。またあなたの兄弟は大きな事業を提唱しましたが、みなが朝廷に入れば、強ければ専政を罪とされ、弱ければ他人から掣肘され、(どう転んでも)あなたの利益になりません」と言った。司馬模はその意見を入れ、徴しに応じなかった。上表して世子の司馬保を西中郎将・東羌校尉として、上邽に出鎮させたが、秦州刺史の裴苞が拒絶した。司馬模は帳下都尉の陳安に軍勢を率いて裴苞を攻撃させ、裴苞は安定に逃げた。安定太守の賈疋が郡をあげて裴苞を迎え入れたので、司馬模は軍司の謝班に賈疋を征伐させ、賈疋は退いて盧水に奔った。その年、位を太尉・大都督に進められた。
洛陽が傾覆すると、司馬模は牙門の趙染に蒲坂を守らせ、趙染は馮翊太守の位を求めたが認められず、怒って、軍勢を率いて劉聡に降った。劉聡は子の劉燦及び趙染に長安を攻撃させ、司馬模は淳于定に食い止めさせたが、趙染に敗れた。士衆が離叛し、備蓄が枯渇したので、軍祭酒の韋輔が、「緊急事態です、早く投降すれば助かります」と言った。司馬模はこれに従い、とうとう趙染に降った。趙染は箕踞し(脚を投げ出して座り)たもとを叩いて司馬模の罪を責め、劉燦のもとに送った。劉燦は彼を殺し、司馬模の妃の劉氏を胡族の張本に与えて妻とした。子の司馬保が立った。

原文

保字景度、少有文義、好述作。初拜南陽國世子。模遇害、保在上邽。其後賈疋死、裴苞又為張軌所殺、保全有秦州之地、自號大司馬、承制置百官。隴右氐羌並從之、涼州刺史張寔遣使貢獻。及愍帝即位、以保為右丞相、加侍中・都督陝西諸軍事。尋進位相國。模之敗也、都尉陳安歸於保、保命統精勇千餘人以討羌、寵遇甚厚。保將張春等疾之、譖安有異志、請除之、保不許。春等輒伏刺客以刺安、安被創、馳還隴城、遣使詣保、貢獻不絕。
愍帝之蒙塵也、保自稱晉王。時上邽大饑、士眾窘困、張春奉保之南安。陳安自號秦州刺史、稱藩於劉曜。春復奉保奔桑城、將投于張寔。寔使兵迎保、實禦之也。是歲、保病薨、時年二十七。保體質豐偉、嘗自稱重八百斤。喜睡、痿疾、不能御婦人。無子、張春立宗室司馬瞻奉保後。陳安舉兵攻春、春走、瞻降于安、安送詣劉曜、曜殺之。安迎保喪、以天子禮葬于上邽、諡曰元。

訓読

保 字は景度、少くして文義有り、述作を好む。初め南陽國世子を拜す。模 害に遇ふとき、保 上邽に在り。其の後 賈疋 死し、裴苞 又 張軌の殺す所と為り、保 秦州の地を全有し、自ら大司馬を號し、承制して百官を置く。隴右の氐羌 並びに之に從ひ、涼州刺史の張寔 使を遣りて貢獻す。愍帝 即位するに及び、保を以て右丞相と為し、侍中・都督陝西諸軍事を加ふ。尋いで位を相國に進む。模の敗るるや、都尉の陳安 保に歸し、保 命じて精勇千餘人を統べて以て羌を討たしめ、寵遇 甚だ厚し。保の將たる張春等をて之を疾とし、安 異志有りと譖り、之を除くことを請ひ、保 許さず。春等 輒ち刺客に伏せて以て安を刺し、安 創を被り、馳せて隴城に還り、使を遣りて保に詣り、貢獻 絕えず。
愍帝の蒙塵するや、保 自ら晉王を稱す。時に上邽 大いに饑え、士眾 窘困し、張春 保を奉じて南安に之く。陳安 自ら秦州刺史を號し、劉曜に稱藩す。春 復た保を奉りて桑城に奔り、將に張寔に投ぜんとす。寔 兵を使はして保を迎ふるも、實は之を禦ぐなり。是の歲、保 病に薨じ、時に年二十七。保 體質は豐偉にして、嘗て重八百斤を自稱す。睡を喜び、痿疾ありて、能く婦人を御せず。子無く、張春 宗室の司馬瞻を立てて保の後を奉ぜしむ。陳安 兵を舉げて春を攻め、春 走り、瞻 安に降り、安 送りて劉曜に詣り、曜 之を殺す。安 保の喪を迎へ、天子の禮を以て上邽に葬り、諡して元と曰ふ。

現代語訳

司馬保は字を景度といい、若いときから文才があり、著作を好んだ。初め南陽国の世子を拝した。司馬模が殺害されたとき、司馬保は上邽にいた。その後に賈疋が死に、裴苞も張軌に殺され、司馬保は秦州の全域を領有し、自ら大司馬を号し、承制して百官を置いた。隴右の氐羌はみな彼に従い、涼州刺史の張寔が使者を送って貢物を献上した。愍帝が即位すると、司馬保を右丞相とし、侍中・都督陝西諸軍事を加えた。ほどなく位は相国に進んだ。司馬模が敗れると、都尉の陳安が司馬保に帰順し、司馬保は(陳安に)命じて精勇千余人を統率して羌族を討たせ、とても厚遇した。司馬保の将である張春らが陳安を疎ましく思い、陳安には野心があると譖り、彼の排除を願ったが、司馬保は許さなかった。張春らは刺客に待ち伏せさせて陳安を刺し、陳安は傷を受けたが、馳せて隴城に還り、使者を司馬保のもとに送って、貢物の献上を絶やさなかった。
愍帝が北方に連れ去られると、司馬保は自ら晋王を称した。このとき上邽は大いに飢え、士衆は困窮していたが、張春は司馬保を奉って南安に行った。陳安は自ら秦州刺史を号し、(司馬保から離叛し)劉曜の藩屏を称した。張春はさらに司馬保を奉って桑城に奔り、張寔のもとを頼ろうとした。張寔は兵を派遣して司馬保を迎えようとしたが、実態は接触を拒んだのである。この年、司馬保は病没し、時に年二十七であった。司馬保の体格は立派で大きく、かつて体重が八百斤あると言った。睡眠が好きで、しびれの病があり、うまく婦人と交われなかった。子がおらず、張春は宗室の司馬瞻を立てて司馬保の後継者とした。陳安が兵を挙げて張春を攻め、張春は逃げ出し、司馬瞻は陳安に降ったが、陳安は彼を劉曜のもとに送り付け、劉曜は彼を殺した。陳安は司馬保の遺体を迎え、天子の礼によって上邽で葬り、元と諡した。

范陽康王綏 子虓

原文

范陽康王綏字子都、彭城王權季弟也。初為諫議大夫。泰始元年受封、在位十五年。咸寧五年薨、子虓立焉。虓字武會、少好學馳譽、研考經記、清辯能言論。以宗室選拜散騎常侍、累遷尚書。出為安南將軍・都督豫州諸軍事・持節、鎮許昌、進位征南將軍。
河間王顒表立成都王穎為太弟、為王浚所破、挾天子還洛陽。虓與東平王楙・鎮東將軍周馥等上言曰、自愍懷被害、皇儲不建、委重前相、輒失臣節。是以前年太宰與臣、永惟社稷之貳、不可久空、所以共啟成都王穎、以為國副。受重之後、而弗克負荷。小人勿用、而以為腹心。骨肉宜敦、而猜佻荐至。險詖宜遠、而讒說殄行。此皆臣等不聰不明、失所宗賴。遂令陛下謬於降授、雖戮臣等、不足以謝天下。今大駕還宮、文武空曠、制度荒破、靡有孑遺。臣等雖劣、足匡王室。而道路之言、謂張方與臣等不同。既惜所在興異、又以太宰惇德允元、著於具瞻、每當義節、輒為社稷宗盟之先。張方受其指教、為國效節。昔年之舉、有死無貳。此即太宰之良將、陛下之忠臣。但以受性強毅、不達變通、遂守前志、已致紛紜。然退思惟、既是其不易之節、且慮事翻之後、為天下所罪、故不即西還耳。原其本事、實無深責。臣聞先代明主、未嘗不全護功臣、令福流子孫。自中間以來、陛下功臣初無全者、非獨人才皆劣、其於取禍、實由朝廷策之失宜、不相容恕。以一旦之咎、喪其積年之勳、既違周禮議功之典、且使天下之人莫敢復為陛下致節者。臣等此言、豈獨為一張方、實為社稷遠計、欲令功臣長守富貴。臣愚以為宜委太宰以關右之任、一方事重、及自州郡已下、選舉授任、一皆仰成。若朝之大事、廢興損益、每輒疇諮。此則二伯述職、周召分陝之義、陛下復行於今時。遣方還郡、令羣后申志、時定王室。所加方官、請悉如舊。此則忠臣義士有勸、功臣必全矣。司徒戎、異姓之賢。司空越、公族之望、並忠國愛主、小心翼翼、宜榦機事、委以朝政。安北將軍王浚佐命之胤、率身履道、忠亮清正、遠近所推。如今日之大舉、實有定社稷之勳、此是臣等所以嘆息歸高也。浚宜特崇重之、以副羣望、遂撫幽朔、長為北藩。臣等竭力扞城、藩屏皇家、陛下垂拱、而四海自正。則四祖之業、必隆於今、日月之暉、昧而復曜。乞垂三思、察臣所言。又可以臣表西示太宰。

訓読

范陽康王綏 字は子都、彭城王權の季弟なり。初め諫議大夫と為る。泰始元年 封を受け、位に在ること十五年。咸寧五年 薨じ、子の虓 立つ。虓 字は武會、少しくて學を好み譽を馳せ、經記を研考し、清辯たりて言論を能くす。宗室を以て選びて散騎常侍を拜し、累りに尚書に遷る。出でて安南將軍・都督豫州諸軍事・持節と為り、許昌に鎮し、位を征南將軍に進む。
河間王顒 表して成都王穎を立てて太弟と為し、王浚の破る所と為り、天子を挾みて洛陽に還る。虓 東平王楙・鎮東將軍の周馥等と與に上言して曰く、「愍懷 害せられて自り、皇儲 建たず、委重の前相、輒ち臣節を失ふ。是を以て前年 太宰 臣と與に、永く社稷の貳を惟ひ、久しく空しくす可からず、共に成都王穎に啟して、以て國副と為す所以なり。受重の後、克く負荷せず。『小人 用ふる勿れ』、而れども以て腹心と為す。骨肉 宜しく敦かるべし、而れども猜佻 荐りに至る。險詖は宜しく遠ざくべし、而れども讒說 行を殄(た)つ。此れ皆 臣等の不聰不明にして、宗とし賴る所を失ふなり。遂に陛下をして降授を謬らしめ、臣等を戮すると雖も、以て天下に謝るに足らず。今 大駕 宮に還り、文武 空曠たり、制度 荒破し、孑遺有る靡し。臣等 劣ると雖も、王室を匡すに足る。而るに道路の言、張方を臣等と同じからざると謂ふ。既に惜むらくは所在 異を興して、又 太宰の惇德允元たるを以て、具瞻に著はる、每に義節に當りて、輒ち社稷宗盟の先為り。張方 其の指教を受け、國の為に節を效す。 昔年の舉、死有りて貳無し。此れ即ち太宰の良將、陛下の忠臣なり。但だ性を受くること強毅、變通に達せざるを以て、遂に前志を守り、已に紛紜を致す。然れども退きて思惟するに、既に其の不易の節を是とし、且に事翻の後、天下の罪とする所と為るを慮り、故に西に還るに即かざるのみ。其の本事を原するに、實に深責無し。臣 先代の明主を聞くに、未だ嘗て全て功臣を護りて、福を子孫を流さしめずんばあらず。中間自り以來、陛下の功臣 初め全き者無きは、獨り人才 皆 劣るのみに非ず、其の禍を取るは、實に朝廷の策の宜しきを失ひ、相 容恕せざるに由る。一旦の咎を以て、其の積年の勳を喪ふは、既に周禮 議功の典に違ひ、且つ天下の人をして敢て復た陛下の為に節を致す者莫からしむ。臣等 此の言、豈に獨り一張方の為なるや、實に社稷の為に遠計し、功臣をして長く富貴を守らしめんと欲す。臣 愚に以為へらく宜しく太宰に關右の任、一方の事重を以て委ね、州郡自り已下に及ぶまで、選舉して任を授ければ、一に皆 成を仰ぐべし。朝の大事、廢興損益の若くも、每に輒ち疇諮せよ。此れ則ち二伯 職を述べ、周召 分陝の義、陛下 復た今時に行へ。方をして郡に還さしめ、羣后をして志を申さしめば、時に王室を定めん。方の官を加ふる所、悉く舊が如くするを請ふ。此れ則ち忠臣義士は勸有り、功臣 必ず全うす。司徒戎、異姓の賢なり。司空の越、公族の望なり、並びに國に忠たりて主を愛し、小心たりて翼翼とし、宜しく機事を榦し、以て朝政を委ぬべし。安北將軍の王浚 佐命の胤なり、身を率ゐて道を履み、忠亮にして清正たり、遠近の推す所なり。如し今日の大舉あらば、實に社稷を定むる勳有り、此れ是の臣等 嘆息して高に歸する所以なり。浚 宜しく特に崇して之を重んじ、以て羣望に副ふべし、遂に幽朔を撫し、長く北藩と為ならん。臣等 力を竭して城を扞し、皇家に藩屏たれば、陛下 垂拱して、四海 自ら正たり。則ち四祖の業、必ず今に隆く、日月の暉、昧たれども復た曜かん。三思を垂れんことを乞ふ、臣の言ふ所を察せよ。又 臣の表を以て西のかた太宰に示す可し」と。

現代語訳

范陽康王綏(司馬綏)は字を子都といい、彭城王権(司馬権)の末弟である。初めに諫議大夫となった。泰始元(二六五)年に封建され、位にあること十五年。咸寧五(二七九)年に薨じ、子の司馬虓が立った。司馬虓は字を武会といい、若くして学問を好んで称賛が響きわたり、経書を研究して考証し、清談をして弁舌が優れていた。宗室の一員として選ばれて散騎常侍を拝し、しきりに尚書に遷った。転出して安南将軍・都督豫州諸軍事・持節となり、許昌に出鎮し、位を征南将軍に進めた。
河間王顒(司馬顒)が上表して成都王穎(司馬穎)を立てて皇太弟としたが、王浚に破られ、天子を連れて洛陽に還った。司馬虓は東平王楙(司馬楙)・鎮東将軍の周馥らと上言し、「愍懐太子が殺害されてから、皇太子が立てられず、執政した前任の宰相は、臣下としての節度を失いました。そこで前年に太宰(司馬顒)が私とともに、社稷の後継者を、長く空位にしてはならぬと考え、ともに成都王穎を説得し、皇太弟にしました。重要な役割を担って以降、任務に堪えられておりません。『小人を用いてはならぬ』と言いますが、小人を腹心としています。親族は睦まじくあるべきですが、不信と対立が頻繁に起きています。邪悪で不正な者は遠ざけるべきですが、讒言が行動を制約しています。これらは全て私たちが聡明でないことが原因で、信頼を損なうべき失敗です。陛下に人事政策を誤らせたことは、私たちを殺しても、天下に謝り切れないでしょう。いま陛下が宮殿に帰還されましたが、文武の官僚が空席となり、制度は荒廃して、欠片も残っていません。私たちは劣悪ではありますが、きっと王室を立て直します。しかし世間では、(司馬顒の部下)張方が私たちに協力的でないと言われています。残念ながら各地で異論が出ていますが、太宰(司馬顒)の純粋な篤実さは、仰ぎ見られ、忠義の行動を起こすとき、社稷のための盟約の先駆けとなりました。張方はその指導を受け、国家のために節度のある行動をしています。 昔の行いは、死を覚悟した二心なきものでした。張方は太宰配下の優れた将であり、陛下の忠臣であります。ただ生まれつきの強引な性格で、頑固で意見を変えられず、以前からの考えを貫き、事態をこじれさせています。しかし一歩引いて冷静に考えれば、意見を変えないことは誤りとは限らず、事態が変化した後、(評価が反転して)天下の罪と見なされぬよう、西への帰還に同行しませんでした。その本質を吟味するに、深い罪と責任はありません。前代の明君は、かつて功臣の身を守り、子孫を繁栄させなかった者はおりません。近ごろ、陛下の功臣のなかで身を全うした者がいないのは、彼らの才能が劣るからだけではなく、けっきょく失脚して禍いを被るのは、朝廷の政策が適切さに欠き、寛容でないからです。一時の失敗により、昔年の勲功を失うのは、『周礼』の功績を定める文に違反し、陛下のために忠節を尽くす者が天下から居なくなってしまいます。ただ張方を弁護するためではなく、社稷の遠い未来のため、功臣を長く富貴な立場に留めておこうと、この上言をしています。私たちが考えますに太宰(司馬顒)には関中の任務、一方面の重責を委ね、州郡以下に及ぶまで、選考して適任者を登用すれば、もっぱら成果を上げるでしょう。朝廷の重要事や、官僚の昇進や俸禄の増減のようなことも、全て(司馬顒に)諮問なさいませ。二伯に職務を預けて、周公旦と召公奭が陜を境界にして並び立った前例を、陛下は今日に再現しなさい。張方を故郷の郡に帰還させ、諸侯に志を述べさせれば、王室は安定するでしょう。張方の官職は、すべて旧来のままとなさいませ。そうすれば忠臣や義士には励みの材料となり、功臣は立場を全うできます。司徒の王充は、異姓の賢者です。司空の司馬越は、公族の名望家です、どちらも国家に忠であり主君を愛し、身を慎んで恭しい人物なので、重要な政策を担わせ、朝政を委ねて下さい。安北将軍の王浚は天命を補佐した者(王沈)の子孫であり、道理を体現し、忠正で清らかですから、遠近の人士が推戴しています。もし一大事が起きれば、社稷安定のために功績を立てる人々でしょう、だから私たちは感心して彼らを推薦するのです。王浚を特別に尊重して、官僚たちの期待に応えなさい、きっと北方異民族を慰撫し、長く北部の防壁となるでしょう。私たちは力を尽くして城を守り、皇室の藩屏であります、陛下が何もなさらずとも、四海はおのずと正常化されてゆきます。四祖の王業は、必ず当代に高まり、日月の光は、輝きを取り戻すでしょう。再三お考えになり、私たちの意見を聞き届け下さい。この上表を西のかた太宰に(長安の司馬顒に)も見せて下さい」と言った。

原文

又表曰、成都王失道、為姦邪所誤、論王之身、不宜深責。且先帝遺體、陛下羣弟、自元康以來、罪戮相尋、實海內所為匈匈、而臣等所以痛心。今廢成都、更封一邑、宜其必許。若廢黜尋有禍害、既傷陛下矜慈之恩、又令遠近恒謂公族無復骨肉之情、此實臣等內省悲慚、無顏於四海也。乞陛下察臣忠款。於是虓先率眾自許屯於滎陽。
會惠帝西遷、虓與從兄平昌公模・長史馮嵩等刑白馬喢血而盟、推東海王越為盟主、虓都督河北諸軍事・驃騎將軍・持節、領豫州刺史。劉喬不受越等節度、乘虛破許。虓自拔渡河、王浚表虓領冀州刺史、資以兵馬。虓入冀州發兵、又南濟河、破喬等。河間王顒聞喬敗、斬張方、傳首於越。越與虓西迎帝、而顒出奔。於是奉天子還都、拜虓為司徒。永興三年暴疾薨、時年三十七。無子、養模子黎為嗣。黎隨模就國、於長安遇害。

訓読

又 表して曰く、「成都王 道を失ひ、姦邪の誤る所と為り、王の身を論ずるに、宜しく深く責むべからず。且ち先帝の遺體、陛下の羣弟にして、元康自り以來、罪戮 相い尋ぎ、實に海內 匈匈と為る所にして、臣等 心を痛むる所以なり。今 成都を廢し、更めて一邑に封じ、宜しく其れ必ず許せ。若し廢黜して尋いで禍害有れば、既に陛下の矜慈の恩を傷つけ、又 遠近をして恒に公族に復た骨肉の情無きと謂はしめ、此れ實に臣等の內省し悲慚し、顏に四海無きなり。陛下に乞ふ臣の忠款を察せよ」と。是に於て虓 先んじて眾を率ゐて許自り滎陽に屯す。
會 惠帝 西遷し、虓 從兄の平昌公模・長史馮嵩等と與に白馬を刑して血を喢りて盟ひ、東海王越を推して盟主と為し、虓もて都督河北諸軍事・驃騎將軍・持節、領豫州刺史とす。劉喬 越等の節度を受けず、虛に乘じて許を破る。虓 自拔して渡河し、王浚 虓を表して冀州刺史を領せしめ、資くるに兵馬を以てす。虓 冀州に入りて兵を發し、又 南のかた河を濟り、喬等を破る。河間王顒 喬の敗るるを聞き、張方を斬り、首を越に傳ふ。越 虓と與に西のかた帝を迎へ、而して顒 出奔す。是に於て天子を奉じて都に還り、虓を拜して司徒と為す。永興三年 暴かに疾もて薨し、時に年三十七。子無く、模の子黎を養ひて嗣と為す。黎 模に隨ひて國に就き、長安に於て害に遇ふ。

現代語訳

さらに司馬虓が上表して、「成都王は道理を失い、姦邪な連中に誤らされましたが、王の身を論じますに、深く責めてはいけません。彼は先帝(武帝)の息子であり、陛下の弟の一人でありますし、元康(二九一-二九九)より以来、罪や殺戮が相次ぎ、まことに海内は騒がしくなっており、私たちが心を痛めている所以です。いま成都王を廃位し、改めて一邑に封建し、必ず罪を許して下さい。もし排斥した上に殺害まですれば、陛下の慈悲ぶかい恩を傷つけ、さらに遠近の人々に皇族はいつも肉親で対立していると言われ、これは私たちが内心に悲しみ恥じていることであり、四海に向ける顔がありません。陛下は私の真心を聞き届けて下さいますように」と言った。ここにおいて司馬虓は先んじて軍勢を率いて許昌から榮陽に移って駐屯した。
ちょうど恵帝が(長安に)西遷し、司馬虓は従兄の平昌公模(司馬模)・長史の馮嵩らとともに白馬を殺して血をすすって盟約し、東海王越(司馬越)を推して盟主とし、司馬虓は都督河北諸軍事・驃騎将軍・持節、領豫州刺史となった。劉喬は司馬越らの節度を受けず、虚に乗じて許昌を破った。司馬虓は自ら抜け出して渡河し、王浚は司馬虓を上表して冀州刺史を領させ、兵馬を支給して味方した。司馬虓が冀州に入って兵を徴発し、さらに南下して河水を渡り、劉喬らを破った。河間王顒(司馬顒)は劉喬の敗北を聞き、張方を斬り、首を司馬越に提出した。司馬越は司馬虓とともに西のかた恵帝を迎え、司馬顒は出奔した。ここにおいて天子を奉じて洛陽に還り、司馬虓を拝して司徒とした。永興三(三〇六)年に突然病死し、時に年三十七であった。子が無く、司馬模の子の司馬黎を養子として後嗣にした。司馬黎は司馬模に随って国にゆき、長安で殺害された。

濟南惠王遂 曾孫勳

原文

濟南惠王遂字子伯、宣帝弟魏鴻臚丞恂之子也。仕魏關內侯。進封平昌亭侯、歷典軍郎將。景元二年、轉封武城鄉侯、督鄴城守諸軍事・北中郎將。五等建、封祝阿伯、累遷冠軍將軍。武帝受禪、封濟南王。泰始二年薨。二子、耽・緝。耽嗣立、咸寧三年徙為中山王。是年薨、無子、緝繼。成都王穎以緝為建威將軍、與石熙等率眾距王浚、沒於陣、薨。無子、國除。
後遂之曾孫勳字偉長、年十餘歲、愍帝末、長安陷、劉曜將令狐泥養為子。及壯、便弓馬、能左右射。咸和六年、自關右還、自列云、是大長秋恂之玄孫、冠軍將軍濟南惠王遂之曾孫、略陽太守瓘之子、遂拜謁者僕射、以勇聞。
庾翼之鎮襄陽、1.以梁州刺史援桓宣卒、請勳代之。初屯西城、退守武當。時石季龍死、中國亂、雍州諸豪帥馳告勳。勳率眾出駱谷、壁于懸鉤、去長安二百里、遣部將劉煥攻長安、又拔賀城。於是關中皆殺季龍太守令長以應勳。勳兵少、未能自固、復還梁州。永和中、張琚據隴東、遣使招勳、勳復入長安。初、京兆人杜洪以豪族陵琚、琚以勇俠侮洪、洪知勳憚琚兵強、因說勳曰、不殺張琚、關中非國家有也。勳乃偽請琚、於坐殺之。琚弟走池陽、合眾攻勳、頻戰不利、請和、歸梁州。後桓溫伐關中、命勳出子午道、而為苻雄所敗、退屯于女媧堡。
俄遷征虜將軍、監關中軍事、領西戎校尉、賜爵通吉亭侯。為政暴酷、至於治中別駕及州之豪右、言語忤意、即於坐梟斬之、或引弓自射。西土患其凶虐。在州常懷據蜀、有僭偽之意。桓溫聞之、務相綏懷、以其子康為漢中太守。勳逆謀已成、憚益州刺史周撫、未發。及撫卒、遂擁眾入劍閣。梁州別駕雍端・西戎司馬隗粹並切諫、勳皆誅之、自號梁益二州牧・成都王。桓溫遣朱序討勳、勳兵潰、為序所獲、及息龍子・長史梁憚・司馬金壹等送于溫、並斬之、傳首京師。

1.中華書局本に引く周校によると、「援」は衍字である。

訓読

濟南惠王遂 字は子伯、宣帝の弟にして魏の鴻臚丞たる恂の子なり。魏に仕へて關內侯たり。進みて平昌亭侯に封ぜられ、典軍郎將を歷す。景元二年、轉じて武城鄉侯に封じ、督鄴城守諸軍事・北中郎將なり。五等 建つるや、祝阿伯に封じ、累りに冠軍將軍に遷る。武帝 受禪し、濟南王に封ず。泰始二年 薨ず。二子あり、耽・緝なり。耽 嗣立し、咸寧三年 徙りて中山王と為る。是の年 薨じ、子無く、緝 繼ぐ。成都王穎 緝を以て建威將軍と為し、石熙等と與に眾を率ゐて王浚を距がしめ、陣に沒し、薨ず。子無く、國 除かる。
後に遂の曾孫たる勳 字は偉長、年十餘歲にして、愍帝末、長安 陷し、劉曜 令狐泥を將て養ひて子と為さしむ。壯に及び、弓馬に便し、左右射を能くす。咸和六年、關右自り還り、自ら列して、「是れ大長秋恂の玄孫にして、冠軍將軍たる濟南惠王遂の曾孫なり、略陽太守たる瓘の子なり」と云ひ、遂に謁者僕射を拜し、勇を以て聞こゆ。
庾翼の襄陽に鎮するや、梁州刺史の援桓宣 卒するを以て、請ひて勳もて之に代ふ。初め西城に屯し、退きて武當を守る。時に石季龍 死し、中國 亂れ、雍州の諸豪帥 馳せて勳に告ぐ。勳 眾を率ゐて駱谷を出で、懸鉤に壁し、長安を去ること二百里なり、部將劉煥を遣はして長安を攻めしめ、又 賀城を拔く。是に於て關中 皆 季龍の太守令長を殺して以て勳に應ず。勳の兵 少なく、未だ能く自固せず、復た梁州に還る。永和中、張琚 隴東に據り、使を遣はして勳を招き、勳 復た長安に入る。初め、京兆人の杜洪 豪族たるを以て琚を陵(しの)ぎ、琚 勇俠を以て洪を侮り、洪 勳の琚が兵の強きを憚るを知り、因りて勳に說きて曰く、「張琚を殺さずんば、關中 國家の有に非ざるなり」と。勳 乃ち偽りて琚に請ひ、坐に於て之を殺す。琚の弟 池陽に走り、眾を合せて勳を攻め、頻りに戰ひて利あらず、和を請ひ、梁州に歸る。後に桓溫 關中を伐つに、勳に命じて子午道を出で、而るに苻雄の敗る所と為り、退きて女媧堡に屯す。
俄かに征虜將軍に遷り、關中軍事を監し、西戎校尉を領し、爵通吉亭侯を賜ふ。為政 暴酷たれば、治中別駕及び州の豪右に至るまで、言語 意に忤へば、坐に即きて之を梟斬し、或いは弓を引きて自ら射る。西土 其の凶虐を患ふ。州に在りて常に蜀に據らんと懷ひ、僭偽の意有り。桓溫 之を聞き、務めて相 綏懷し、其の子康を以て漢中太守と為す。勳の逆謀 已に成るも、益州刺史周撫を憚り、未だ發せず。撫の卒するに及び、遂に眾を擁して劍閣に入る。梁州別駕雍端・西戎司馬隗粹 並びに切諫し、勳 皆 之を誅し、自ら梁益二州牧・成都王を號す。桓溫 朱序を遣はして勳を討ち、勳の兵 潰し、序の獲ふる所と為り、息の龍子・長史梁憚・司馬金壹等に及び溫に送り、並びに之を斬り、首を京師に傳ふ。

現代語訳

済南恵王遂(司馬遂)は字を子伯といい、宣帝の弟にして魏王朝の鴻臚丞であった司馬恂の子である。魏に仕えて関内侯となった。昇格して平昌亭侯に封じられ、典軍郎将を歴任した。景元二(二六一)年、転じて武城郷侯に封じられ、督鄴城守諸軍事・北中郎将となった。五等爵が建てられると、祝阿伯に封じられ、しきりに冠軍将軍に遷った。武帝が受禅すると、済南王に封じられた。泰始二(二六六)年に薨じた。二人の子がおり、耽・緝である。司馬耽が嗣いで立ち、咸寧三(二七七)年に中山王に移った。同年に薨じ、子がおらず、司馬緝が継いだ。成都王穎(司馬穎)は司馬緝を建威将軍とし、石熙らとともに軍勢を率いて王浚を食い止めさせたが、戦場で敗れ、陣没した。子がおらず、国が除かれた。
後に司馬遂の曾孫である司馬勲は字を偉長といったが、十余歳のとき、愍帝末(-三一七)に長安が陥落し、劉曜は令狐泥に彼を養育をさせた。壮年になり、弓馬がうまく、左右射を得意とした。咸和六(三三一)年、関右から(東晋に)還り、自ら申し述べて、「この私は大長秋恂(司馬恂)の玄孫であり、冠軍将軍であった済南恵王遂(司馬遂)の曾孫であり、略陽太守であった司馬瓘の子です」と紹介し、謁者僕射を拝し、勇力によって評判が高かった。
庾翼が襄陽に鎮守したとき、梁州刺史の桓宣が卒したので、司馬勲を後任にするよう求めた。初めは西城に駐屯し、退いて武当を守った。このとき石季龍が死に、中原が乱れ、雍州の諸々の豪帥たちは馳せて司馬勲に事態を告げた。司馬勲は軍勢を率いて駱谷を出で、懸鉤に防壁を作り、長安から二百里の距離に迫り、部将の劉煥を派遣して長安を攻撃させ、さらに賀城を抜いた。ここにおいて関中では皆が石季龍が設置した太守や令長を殺して司馬勲に呼応した。司馬勲は兵が少なく、城を維持できず、梁州に帰還した。永和中(三四五-三五六)、張琚が隴東を本拠地とし、使者を遣わして司馬勲を招いたので、司馬勲はふたたび長安に入城した。これより先、京兆の人である杜洪が豪族として張琚をしのぎ、一方で張琚は勇俠さにより杜洪を侮っていたが、杜洪は司馬勲が張琚の兵の強さを憚っているのを知り、司馬勲に説いて、「張琚を殺さねば、関中は国家の領土でなくなってしまう」と言った。司馬勲は偽って張琚に和解をもちかけ、その席で殺してしまった。張琚の弟が池陽に走り、軍勢をまとめて司馬勲を攻め、何度も戦ったが勝てず、和睦を請い、梁州に帰った。後に桓温が関中を伐つと、司馬勲に命じて子午道から出撃させたが、苻雄の敗れて、退いて女媧堡に駐屯した。
にわかに征虜将軍に遷り、関中軍事を監し、西戎校尉を領し、通吉亭侯の爵位を賜った。(司馬勲の)為政は暴虐で酷薄であり、治中別駕及び州の豪族であろうと、発言が意に沿わねば、その席で斬って首を晒し、あるいは弓を引いて自ら射た。西土は彼の凶虐ぶりを憂いた。梁州にいたが常に蜀地を本拠にしたいと思っており、僭逆や偽称の意志があった。桓温はこれを聞き、穏便に付き合って懐柔に努め、その子である司馬康を漢中太守とした。司馬勲の逆謀は意志が固まったが、益州刺史の周撫を憚り、まだ実行しなかった。周撫が卒すると、いよいよ軍勢を擁して剣閣に入った。梁州別駕の雍端・西戎司馬の隗粋は厳しく諫めたが、司馬勲は二人を誅し、自ら梁益二州牧・成都王を号した。桓温は朱序を遣わして司馬勲を討伐し、司馬勲の兵は潰走し、朱序に捕らわれ、子の司馬龍子・長史の梁憚・司馬の金壱らを桓温のもとに引き渡され、全員を斬り、首を京師に送り届けた。

譙剛王遜 子閔王承 承子烈王無忌 無忌子敬王恬 恬子忠王尚之 尚之弟恢之 休之 允之 韓延之 恬弟愔

原文

譙剛王遜字子悌、宣帝弟魏中郎進之子也。仕魏關內侯、改封城陽亭侯、參鎮東軍事、拜輕車將軍・羽林左監。五等建、徙封涇陽男。武帝受禪、封譙王、邑四千四百戶。泰始二年薨。二子、隨・承。定王隨立。薨、子邃立、沒于石勒、元帝以承嗣遜。
閔王承字敬才、少篤厚有志行。拜奉車都尉・奉朝請、稍遷廣威將軍・安夷護軍、鎮安定。從惠帝還洛陽、拜游擊將軍。永嘉中、天下漸亂、間行依征南將軍山簡、會簡卒、進至武昌。元帝初鎮揚州、承歸建康、補軍諮祭酒。愍帝徵為龍驤將軍、不行。元帝為晉王、承制更封承為譙王。太興初、拜屯騎校尉、加輔國將軍、領左軍將軍。
承居官儉約、家無別室。尋加散騎常侍、輔國・左軍如故。王敦有無君之心、表疏輕慢。帝夜召承、以敦表示之、曰、王敦頃年位任足矣、而所求不已、言至於此、將若之何。承曰、陛下不早裁之、難將作矣。帝欲樹藩屏、會敦表以宣城內史沈充為湘州、帝謂承曰、湘州南楚險固、在上流之要、控三州之會、是用武之國也。今以叔父居之、何如。承曰、臣幸託末屬、身當宿衞、未有驅馳之勞、頻受過厚之遇、夙夜自厲、思報天德。君之所命、惟力是視、敢有辭焉。然湘州蜀寇之餘、人物彫盡、若上憑天威、得之所莅、比及三年、請從戎役。若未及此、雖復灰身、亦無益也。於是詔曰、夫王者體天理物、非羣才不足濟其務。外建賢哲、以樹風聲、內睦親親、以廣藩屏。是以太公封齊、伯禽居魯、此先王之令典、古今之通義也。我晉開基、列國相望、乃授琅邪武王、鎮統東夏。汝南文成、總一淮許。扶風・梁王、迭據關右。爰暨東嬴、作司并州。今公族雖寡、不逮曩時、豈得替舊章乎。散騎常侍・左將軍・譙王承貞素款亮、志存忠恪、便蕃左右、恭肅彌著。今以承監湘州諸軍事・南中郎將・湘州刺史。

訓読

譙剛王遜 字は子悌、宣帝の弟たる魏中郎進の子なり。魏に仕へて關內侯たり、改めて城陽亭侯に封じ、鎮東軍事に參じ、輕車將軍・羽林左監を拜す。五等 建つや、徙して涇陽男に封ず。武帝 受禪し、譙王に封じ、邑は四千四百戶。泰始二年 薨ず。二子あり、隨・承なり。定王隨 立つ。薨じ、子の邃 立ち、石勒に沒し、元帝 承を以て遜を嗣がしむ。
閔王承 字は敬才、少くして篤厚にして志行有り。奉車都尉・奉朝請を拜し、稍く廣威將軍・安夷護軍に遷り、安定に鎮す。惠帝に從ひて洛陽に還り、游擊將軍を拜す。永嘉中、天下 漸く亂れ、間行して征南將軍の山簡に依り、會 簡 卒し、進みて武昌に至る。元帝 初め揚州に鎮するや、承 建康に歸し、軍諮祭酒に補せらる。愍帝 徵して龍驤將軍と為すも、行かず。元帝 晉王と為るや、承制して更めて承を封じて譙王と為す。太興初、屯騎校尉を拜し、輔國將軍を加へ、左軍將軍を領す。
承 官に居りて儉約、家に別室無し。尋いで散騎常侍を加へ、輔國・左軍 故の如し。王敦 無君の心有り、表疏 輕慢たり。帝 夜に承を召し、敦の表を以て之に示し、曰く、「王敦 頃年 位任は足れり、而れども求むる所 已まず、言 此に至る、將て之を若何せん」と。承曰く、「陛下 早く之を裁たずんば、難 將に作らん」と。帝 藩屏を樹てんと欲し、會 敦 宣城內史の沈充を以て湘州と為せと表し、帝 承に謂ひて曰く、「湘州は南楚の險固にして、上流の要に在り、三州の會を控し、是れ用武の國なり。今 叔父を以て之に居らしむ、何如」と。承曰く、「臣 幸にも末屬に託し、身は宿衞に當たるも、未だ驅馳の勞有らず、頻りに過厚の遇を受け、夙夜 自厲し、天德に報ゐんと思ふ。君の命ずる所、惟だ力もて是れ視て、敢て辭すること有らんか。然も湘州 蜀寇の餘、人物は彫盡し、若し上は天威を憑り、得て之に莅(のぞ)む所とせば、三年に及ぶ比、戎役に從はんと請ふ。若し未だ此に及ばざれば、復た身を灰とすると雖も、亦 益する無し」と。是に於て詔して曰く、「夫れ王者は天に體し物を理(をさ)め、羣才に非ずんば其の務を濟ふに足らず。外に賢哲を建て、以て風聲を樹て、內に親親を睦とし、以て藩屏を廣くす。是を以て太公 齊に封じ、伯禽 魯に居し、此れ先王の令典、古今の通義なり。我が晉 開基し、列國 相 望み、乃ち琅邪武王に授け、東夏を鎮統す。汝南文成、淮許を總一す。扶風・梁王、關右に迭據す。爰に東嬴に暨び、并州を作司す。今 公族 寡なく、曩時に逮ばざると雖も、豈に得て舊章に替へんや。散騎常侍・左將軍・譙王承 貞素にして款亮、志は忠恪に存し、便ち左右に蕃たり、恭肅にして彌々著はる。今 承を以て監湘州諸軍事・南中郎將・湘州刺史とす」と。

現代語訳

譙剛王遜(司馬遜)は字を子悌といい、宣帝の弟である魏中郎の司馬進の子である。魏に仕えて関内侯となり、改めて城陽亭侯に封じられ、鎮東軍事に参画し、軽車将軍・羽林左監を拝した。五等爵が建てられると、涇陽男に移った。武帝が受禅すると、譙王に封じ、邑は四千四百戸である。泰始二(二六六)年に薨じた。二子がおり、隨・承である。定王随(司馬随)が立った。薨じ、子の司馬邃が立ち、石勒に捕らえられ、元帝は司馬承に司馬遜を嗣がせた。
閔王承(司馬承)は字を敬才といい、若くして篤厚で志と行動力があった。奉車都尉・奉朝請を拝し、ようやく広威将軍・安夷護軍に遷り、安定に出鎮した。恵帝に従って洛陽に還り、游撃将軍を拝した。永嘉中(三〇七-三一三)、天下が乱れると、こっそり征南将軍の山簡を頼ったが、ちょうど山簡が卒し、進んで武昌に至った。元帝が揚州に鎮すると、司馬承は建康をたより、軍諮祭酒に補された。愍帝が徴して龍驤将軍に任命したが、赴任しなかった。元帝が晋王となると、承制して改めて司馬承を譙王に封建した。太興初(三一八-)、屯騎校尉を拝し、輔国将軍を加え、左軍将軍を領した。
司馬承は官職にあって倹約であり、私的な別宅はなかった。ほどなく散騎常侍を加え、輔国・左軍は従来通りとした。王敦は君主を蔑ろにする心をもち、上表や上疏は傲慢であった。元帝は夜に司馬承を召し、王敦の上表を司馬承に見せて、「近年の王敦は位官が十分に高いが、それでも要求は已まず、発言はこのように無礼である、どうしたものか」と言った。司馬承は、「陛下は早く処置をせねば、危難が起きます」と言った。元帝は有力な藩屏を立てようと考えたが、ちょうど王敦が宣城内史の沈充を湘州の長官にせよと上表したので、元帝は司馬承に、「湘州は荊州南部の防衛の要衝であり、江水の上流の重要拠点であり、三州の結節点であり、用武の国である。いま(王敦の提案を却下して)叔父(司馬承)にここを任せたいが、どうだろうか」と言った。司馬承は、「私は幸いにも皇族の端くれとして、宿衛の役割を与えられても、軍功がありませんが、しきりに厚遇のお話を頂戴し、朝夕に自分を励まし、天の徳に報いねばならぬと思っていました。君主の命令とあらば、力を尽くして職務を果たし、辞退などいたしません。しかも湘州は蜀にいる寇賊(成漢の李氏)の脅威があり、人々は疲弊しており、もし天の威光を頼りにし、この地に赴任するなら、三年後には、(蜀への)遠征に従軍したいと思います。もし間に合わなければ、わが身を灰にしても、功績の薄さを償いきれません」と言った。ここにおいて詔して、「王者は天を体現して万物を統括するが、(配下に)優れた才能がなければ務めを果たせない。外に賢者を任命して、教化を打ち立て、内に親族を睦まじくし、藩屏を広く配置するのだ。ゆえに太公望は斉に封建され、伯禽は魯に配置されたが、これは古代の王者の前例であり、古今の変わらぬ方法である。わが晋王朝が基礎を立て、列国は王朝を助け、琅邪武王(司馬伷)に東夏を管轄させた。汝南文成(司馬亮)に淮水流域を統括させた。扶風(司馬駿)・梁王(司馬肜)は、関中を交替で統治した。東嬴公(司馬騰)に及び、并州を統治した。いま皇族は少なく、往時に及ばないが、どうして旧来のやり方を変えようか。散騎常侍・左将軍・譙王の司馬承は貞順して素朴であり真心をそなえ、志は忠誠と恭謙であるから、左右で補佐を任せたが、恭順と厳粛さを発揮してきた。いま司馬承を監湘州諸軍事・南中郎将・湘州刺史とする」と言った。

原文

初、劉隗以王敦威權太盛、終不可制、勸帝出諸心腹、以鎮方隅。故先以承為湘州、續用隗及戴若思等、並為州牧。承行達武昌、釋戎備見王敦。敦與之宴、欲觀其意、謂承曰、大王雅素佳士、恐非將帥才也。承曰、公未見知耳、鉛刀豈不能一割乎。承以敦欲測其情、故發此言。敦果謂錢鳳曰、彼不知懼而學壯語、此之不武、何能為也。聽承之鎮。時湘土荒殘、公私困弊、承躬自儉約、乘葦茭車、而傾心綏撫、甚有能名。敦恐其為己患、詐稱北伐、悉召承境內船乘。承知其姦計、分半與之。
敦尋構難、遣參軍桓羆說承、以劉隗專寵、今便討擊、請承以為軍司、以軍期上道。承歎曰、吾其死矣。地荒人鮮、勢孤援絕。赴君難、忠也。死王事、義也。惟忠與義、夫復何求。便欲唱義、而眾心疑惑。承曰、吾受國恩、義無有貳。府長史虞悝慷慨有志節、謂承曰、王敦居分陝之任、而一旦作逆、天地所不容、人神所痛疾。大王宗室藩屏、寧可從其偽邪。便宜電奮、存亡以之。於是與悝及弟前丞相掾望・建昌太守長沙王循・衡陽太守淮陵劉翼等共盟誓、囚桓羆、馳檄湘州、指期至巴陵。零陵太守尹奉首同義謀、出軍營陽。於是一州之內、皆同義舉。乃使虞望討諸不服、斬湘東太守鄭澹。澹、敦姊夫也。敦遣南蠻校尉魏乂・將軍李恒・田嵩等甲卒二萬以攻承。承且戰且守、待救於尹奉・虞望、而城池不固、人情震恐。或勸承南投陶侃、又云可退據零桂。承曰、吾舉義眾、志在死節、寧偷生苟免、為奔敗之將乎。事之不濟、其令百姓知吾心耳。
初、安南將軍甘卓與承書、勸使固守、當以兵出沔口、斷敦歸路、則湘圍自解。承答書曰、季思足下、勞於王事。天綱暫圮、中原丘墟。四海義士、方謀克復、中興江左、草創始爾、豈圖惡逆萌自寵臣。吾以闇短、託宗皇屬。仰豫密命、作鎮南夏、親奉中詔、成規在心。伯仁諸賢、扼腕歧路、至止尚淺、凡百茫然。豺狼易驚、遂肆醜毒、聞知駭踊、神氣衝越。子來之義、人思自百、不命而至、眾過數千。誠足以決一旦之機、攄山海之憤矣。然迫於倉卒、舟檝未備、魏乂・李恒、尋見圍逼、是故事與意違、志力未展。猥辱來使、深同大趣。嘉謀英算、發自深衷。執讀周復、欣無以量。足下若能卷甲電赴、猶或有濟。若其狐疑、求我枯魚之肆矣。兵聞拙速、未覩工遲。季思足下、勉之勉之。書不盡意、絕筆而已。
卓軍次䐗口、聞王師敗績、停師不進。乂等攻戰日逼、敦又送所得臺中人書疏、令乂射以示承。城內知朝廷不守、莫不悵惋。劉翼戰死、相持百餘日、城遂沒。乂檻送承荊州、刺史王廙承敦旨於道中害之、時年五十九。敦平、詔贈車騎將軍。子無忌立。

訓読

初め、劉隗 王敦の威權 太盛たるを以て、終に制す可からざれば、帝に諸々の心腹を出し、以て方隅に鎮せしむを勸む。故に先に承を以て湘州と為し、續けて隗及び戴若思等を用て、並びに州牧と為す。承 行きて武昌に達し、戎を釋きて備へて王敦を見る。敦 之と與に宴し、其の意を觀んと欲し、承に謂ひて曰く、「大王 雅素は佳士なり、將帥の才非ざるを恐る」と。承曰く、「公 未だ見知せざるのみ、鉛刀 豈に一割すること能はざるや」と。承 敦の其の情を測らんと欲するを以て、故に此の言を發す。敦 果して錢鳳に謂ひて曰く、「彼 懼れを知らずして壯語を學び、此の武ならざる、何ぞ能く為すや」と。承の鎮するを聽す。時に湘土 荒殘し、公私 困弊し、承 躬自ら儉約し、葦茭車に乘り、心を傾けて綏撫し、甚だ能名有り。敦 其の己の患と為るを恐れ、詐りて北伐すると稱し、悉く承を境內の船乘を召さしむ。承 其の姦計を知り、半を分けて之と與にす。
敦 尋いで難を構へ、參軍桓羆を遣はして承に說かしめ、劉隗 寵を專らにするを以て、今 便ち討擊す、承に以て軍司と為り、軍期を以て道に上らしむを請ふ。承 歎じて曰く、「吾 其れ死せん。地は荒れ人は鮮なく、勢は孤にして援は絕ゆ。君の難に赴くは、忠なり。王事に死するは、義なり。惟だ忠と義ありて、夫れ復た何をか求めん」と。便ち義を唱へんと欲し、而れども眾心 疑惑す。承曰く、「吾 國恩を受け、義 貳有る無し」と。府長史の虞悝 慷慨して志節有り、承に謂ひて曰く、「王敦 分陝の任に居り、而るに一旦に逆を作し、天地 容れざる所、人神の痛疾する所なり。大王は宗室の藩屏、寧んぞ其の偽に從ふ可きや。便ち宜しく電奮し、存亡 之を以てすべし」と。是に於て悝及び弟の前丞相掾の望・建昌太守たる長沙の王循・衡陽太守たる淮陵の劉翼等と共に盟誓し、桓羆を囚へ、檄を湘州に馳せ、指期して巴陵に至る。零陵太守の尹奉 首めて義謀を同にし、軍を營陽に出す。是に於て一州の內、皆 義舉を同にす。乃ち虞望をして諸々の服せざるを討ち、湘東太守の鄭澹を斬る。澹、敦の姊夫なり。敦 南蠻校尉の魏乂・將軍の李恒・田嵩等 甲卒二萬を遣はして以て承を攻む。承 且つ戰ひ且つ守り、救ひを尹奉・虞望に待ち、而れども城池 固ならず、人情 震恐す。或は承に南のかた陶侃に投ずるを勸め、又 退きて零桂に據る可しと云ふ。承曰く、「吾 義眾を舉げ、志は死節に在り、寧ろ生を偷みて苟に免ずるよりは、奔敗の將と為らん。事の濟はざれば、其れ百姓をして吾が心を知らしめよ」と。
初め、安南將軍の甘卓 承に書を與へ、勸めて固守して、當に兵を以て沔口に出でしめ、敦の歸路を斷てば、則ち湘の圍 自ら解けんと。承 書に答へて曰く、「季思足下、王事に勞れり。天綱 暫く圮(やぶ)れ、中原 丘墟たり。四海の義士、方に克く復さんと謀り、江左に中興し、草創 爾に始まる、豈に圖らんや惡逆を寵臣自り萌(めば)えんとは。吾 闇短を以て、皇屬に宗たるを託さる。仰ぎて密命に豫り、鎮を南夏に作し、親ら中詔を奉り、成規 心に在り。伯仁の諸賢、腕を歧路に扼し、至止 尚ほ淺く、凡百 茫然たり。豺狼 驚き易く、遂に醜毒を肆にし、聞知して駭踊し、神氣 衝越せり。子來の義〔一〕、人々自百にせんことを思ひ、命あらずして至り、眾 數千を過ぐ。誠に以て一旦の機を決し、山海の憤を攄(の)べるに足る。然るに倉卒に迫り、舟檝 未だ備はらず、魏乂・李恒、尋いで圍み逼られ、是れ故に事は意と違ひ、志力 未だ展べず。猥りに來使を辱め、深く大趣を同にす。嘉謀英算、深衷自り發す。執讀 周復して、欣 以て量る無し。足下 若し能く卷甲して電赴せば、猶ほ或いは濟有らん。若し其れ狐疑せば、我に枯魚の肆を求む〔二〕。兵 拙速を聞き、未だ工遲を覩ず。季思足下、之に勉めよ之に勉めよ。書 意を盡さず、絕筆して已む」と。
卓の軍 䐗口に次り、王師 敗績するを聞き、師を停めて進まず。乂等 攻戰して日に逼り、敦 又 得る所の臺中の人の書疏を送り、乂を射て以て承に示さしむ。城內 朝廷 守らざるを知り、悵惋せざる莫し。劉翼 戰死し、相 持すること百餘日、城 遂に沒す。乂 承を荊州に檻送し、刺史王廙 敦の旨を承けて道中に之を害し、時に年五十九。敦 平らぎ、詔して車騎將軍を贈る。子の無忌 立つ。

〔一〕子來は、『毛詩』大雅 霊台篇が出典。子が親を慕って来るように、徳の高い人には万民が喜んで集まってくること。
〔二〕『荘子』外物に「吾得鬥升之水然活耳、君乃此言、曾不如早索我於枯魚之肆矣」とあり、出典。救出が絶望的な状態。

現代語訳

これより先、劉隗は王敦の威権がはなはだ盛んであり、制御不能になるため、元帝に腹心を、方鎮の要所に配置するよう勧めた。ゆえに先に司馬承を湘州の長官とし、続けて劉隗及び戴若思らを、州牧にした。司馬承は武昌に到達し、兵装を解いて王敦と会見した。王敦は酒宴に招き、司馬承の意図を観察しようと、司馬承に、「大王の素質は名士であり、将帥の才覚が無いのが心配ですね」と言った。司馬承は、「あなたが知らないだけで、この鉛刀の一振りで切れないとお思いか」と言った。司馬承は王敦に心情を探られていると察知し、この発言をしたのである。王敦銭鳳に、「司馬承は懼れを知らぬくせに威勢のいい言葉だけを学び、武官の素質がない、何ができようか」と言った。司馬承の出鎮を見逃した。このとき湘州の地域は荒廃し、官民ともに困窮し、司馬承は自ら倹約し、葦茭車(粗末な馬車)に乗り、心を傾けて復興し、成果が上がった。王敦は自分の脅威になると考え、北伐すると詐り、役所内の水夫を召した。司馬承はその姦計を見抜き、半分だけを王敦のもとに送った。
王敦はほどなく政難を起こし、参軍の桓羆を派遣して司馬承を誘い、劉隗は寵用されて専権している、いま彼を討伐するから、軍師となり、連携して道を遡ってくれと説得した。司馬承は歎じて、「私は死を覚悟する。地は荒れて人口は少なく、兵勢は孤立して援軍は絶えている。しかし君主の難に赴くのが、忠である。王業のために死ぬのが、義である。ただ忠と義だけがあり、それ以外に何を求めようか」と言った。そこで義を唱え(王敦を拒絶し)ようとしたが、人々は惑い疑った。司馬承は、「私は国恩を受け、義には二心がない」と言った。府長史の虞悝は志節のある人物であるが慷慨し、司馬承に、「王敦は分陝(輔政の諸侯)の任にあるにも拘わらず、一朝に反逆を起こしたが、天地に容認されず、人と神に忌み嫌われる行動です。大王は宗室の藩屏です、どうしてその偽言に従って良いのでしょう。速やかに奮い立ち、生死を決するべきです」と言った。虞悝及び弟の前丞相掾の虞望・建昌太守である長沙の王循・衡陽太守である淮陵の劉翼らとともに盟約して誓い、(使者の参軍)桓羆を捕らえ、檄を湘州に回付し、期日を示して巴陵に至った。零陵太守の尹奉が最初にこの義挙に賛同し、軍を営陽に出した。一州の内は、全員が同調した。虞望は不服従の人々を討ち、湘東太守の鄭澹を斬った。鄭澹は、王敦の姉の夫であった。王敦は南蛮校尉の魏乂・将軍の李恒・田嵩らの甲卒二万を派遣して司馬承を攻めた。司馬承は戦いつつ守りつつ、尹奉・虞望の救援を待ったが、城壁や堀は堅固でなく、人々は震え恐れた。ある人は司馬承に南のかた陶侃のもとに逃げ込めと勧め、また退いて零桂を本拠地とせよと言った。司馬承は、「私は義兵を挙げ、志は死節にあるから、だらしなく生き延びるより、決戦して敗れよう。助からねば、万民にわが心を告げよ」と言った。
これより先、安南将軍の甘卓は司馬承に書簡を送り、城の固守を勧め、兵を沔口に出撃させて、王敦の帰路を絶てば、湘州の包囲は自ずと解けるだろうと言った。司馬承は返信して、「季思(甘卓の字)よ、王の事業は悩ましい状況だ。天下の支配が破綻し、中原は廃墟になってしまった。四海の義士は、王朝を回復するため、江東で中興し、政権が創建されたが、まさか重臣から悪逆をなす者が出るとは。私は暗愚であるが、皇族の指導者となることを期待された。元帝の密命を受け、南部(湘州)に出鎮し、直接の詔を奉り、成算を立てた。伯仁(周顗)のような賢者が、要路で腕を扼して意気込むが、結束はまだまだ弱く、平凡な者たちは茫然としている。豺狼は落ち着きがなく、害毒をまき散らし、(兵乱を)聞いて小躍りし、精神を高揚させている。徳を慕って集まる人々が、百を超えることを望んだが、命令を受けずとも集まり、軍勢は数千を超えた。一大決心をして、各地の憤激を表すのに十分な人数である。しかし急ごしらえなので、軍艦が整っておらず、魏乂・李恒は、すぐに包囲され、事態は想定通りでなく、志と力を発揮できない。(王敦からの)使者を辱め、われらの意思を団結させた。優れた謀略や計画は、深い真心から出たものである。頂いた書簡をくり返し読んだが、喜びは計り知れない。あなたが軍備を整えて駆けつけてくれたら、助かるかも知れない。もしも成功を疑うならば、私たちは取り返しのつかぬ絶望に陥るだろう。兵とは拙速を聞くが、巧遅を見ないものだ。季思よ、早く来てくれ。私の気持ちは、まだまだ書き切れないが」と言った。
甘卓の軍は䐗口まで進んだが、天子の軍が敗北したと聞き、軍勢を停止させた。魏乂らは交戦して日ごとに激化したが、王敦は宮中の人からの書簡を入手して送り、魏乂に射込んで司馬承に読ませた。城内では朝廷が味方してくれないと分かり、悲観して絶望した。劉翼が戦死し、百余日の攻防があったが、(湘州)城が陥落した。魏乂は司馬承を檻車に入れて荊州に送ったが、刺史の王廙は王敦の指図を受けて道中で司馬承を殺害した、年は五十九であった。王敦が平定されると、詔して車騎将軍を贈った。子の司馬無忌が立った。

原文

烈王無忌字公壽、承之難、以年小獲免。咸和中、拜散騎侍郎、累遷屯騎校尉・中書・黃門侍郎。江州刺史褚裒當之鎮、無忌及丹楊尹桓景等餞於版橋。時王廙子丹楊丞耆之在坐、無忌志欲復讎、拔刀將手刃之、裒・景命左右救捍獲免。御史中丞車灌奏無忌欲專殺人、付廷尉科罪。成帝詔曰、王敦作亂、閔王遇禍、尋事原情、今王何責。然公私憲制、亦已有斷、王當以體國為大、豈可尋繹由來、以亂朝憲。主者其申明法令、自今已往、有犯必誅。於是聽以贖論。
建元初遷散騎常侍、轉御史中丞、出為輔國將軍・長沙相、又領江夏相、尋轉南郡・河東二郡太守、將軍如故。隨桓溫伐蜀、以勳賜少子愔爵廣晉伯、進號前將軍。永和六年薨、贈衞將軍。二子、恬・愔。恬立。
敬王恬字元愉、少拜散騎侍郎、累遷散騎常侍・黃門郎・御史中丞。值海西廢、簡文帝登阼、未解嚴、大司馬桓溫屯中堂、吹警角、恬奏劾溫大不敬、請科罪。溫視奏歎曰、此兒乃敢彈我、真可畏也。恬忠正有幹局、在朝憚之。遷右衞將軍・司雍秦梁四州大中正、拜尚書、轉侍中、領左衞將軍、補吳國內史、又領太子詹事。恬既宗室勳望、有才用、孝武帝時深杖之、以為都督兗・青・冀・幽并揚州之晉陵・徐州之南北郡軍事、領鎮北將軍・兗青二州刺史・假節。太元十五年薨、追贈車騎將軍。四子、尚之・恢之・允之・休之。尚之立。

訓読

烈王無忌 字は公壽、承の難に、年小を以て免るるを獲。咸和中、散騎侍郎を拜し、累りに屯騎校尉・中書・黃門侍郎に遷る。江州刺史の褚裒 鎮に之くに當たり、無忌及び丹楊尹桓景等 版橋に餞す。時に王廙の子たる丹楊丞の耆之 坐に在り、無忌の志は復讎せんと欲し、刀を拔きて將に之を手刃せんとし、裒・景 左右に命じて救捍し免るるを獲。御史中丞の車灌 無忌 專ら殺人せんと欲するを奏し、廷尉に付して罪を科す。成帝 詔して曰く、「王敦 亂を作すや、閔王 禍に遇ひ、尋いで事 情に原す、今 王 何ぞ責めん。然るに公私の憲制、亦 已に斷有り、王 當に國に體するを以て大と為すべし、豈に尋いで由來を繹し、以て朝憲を亂す可きか。主者 其れ法令を申明し、今自り已に往かば、犯すもの有らば必ず誅せ」と。是に於て贖論を以て聽す。
建元初 散騎常侍に遷り、御史中丞に轉じ、出でて輔國將軍・長沙相と為り、又 江夏相を領し、尋いで南郡・河東二郡太守に轉じ、將軍 故の如し。桓溫に隨ゐて蜀を伐ち、勳を以て少子愔に爵廣晉伯を賜ひ、號を前將軍に進む。永和六年 薨じ、衞將軍を贈る。二子あり、恬・愔なり。恬 立つ。
敬王恬 字は元愉、少くして散騎侍郎を拜し、累りに散騎常侍・黃門郎・御史中丞に遷る。海西 廢せられ、簡文帝 登阼するに值り、未だ嚴を解かず、大司馬桓溫 中堂に屯し、警角を吹き、恬 奏して溫の大なる不敬を劾し、罪を科するを請ふ。溫 奏を視て歎じて曰く、「此の兒 乃ち敢て我を彈す、真に畏る可きなり」と。恬 忠正にして幹局有り、朝に在りて之を憚る。右衞將軍・司雍秦梁四州大中正に遷り、尚書を拜し、侍中に轉じ、左衞將軍を領し、吳國內史に補し、又 太子詹事を領す。恬 既に宗室の勳望にして、才用有れば、孝武帝 時に深く之に杖り、以て都督兗・青・冀・幽并びに揚州の晉陵・徐州の南北郡軍事と為し、鎮北將軍・兗青二州刺史・假節を領す。太元十五年 薨じ、車騎將軍を追贈す。四子あり、尚之・恢之・允之・休之なり。尚之 立つ。

現代語訳

烈王無忌(司馬無忌)は字を公寿といい、父の司馬承が王敦に殺されたとき、年少だったので生き残れた。咸和中(三二六-三三四)、散騎侍郎を拝し、しきりに屯騎校尉・中書・黄門侍郎に遷った。江州刺史の褚裒が任地に行くとき、司馬無忌及び丹楊尹の桓景らが版橋で餞して見送った。ときに(もと荊州刺史)王廙の子である丹楊丞の王耆之が同席していたが、司馬無忌は復讐を念じ、刀を抜いて手ずから切りつけようとし、褚裒・桓景が左右に命じて止めたので殺害に至らなかった。御史中丞の車灌は司馬無忌が一方的に殺そうとしたと上奏し、廷尉に渡して裁判をした。成帝は詔して、「王敦が乱をなすと、閔王(司馬承)は禍いに遇った、特別な事情があるから赦し、今回は無忌を責めない。しかし公私の区別は、規則で定められ、国家の公的規範が優先されるので、あの行いを黙認し、規則を蔑ろにはできない。担当官は法令を明らかにし、これ以降は、違反者を必ず誅殺せよ」と言った。こうして考慮して赦された。
建元初(三四三)に散騎常侍に遷り、御史中丞に転じ、転出して輔国将軍・長沙相となり、さらに江夏相を領し、ほどなく南郡・河東二郡太守に転じ、将軍は従来通りとした。桓温に随って蜀を討伐し、勲功により末子の司馬愔に広晋伯の爵を賜り、号を前将軍に進めた。永和六(三五〇)年に薨じ、衛将軍を贈られた。二人の子がおり、恬・愔である。恬が立った。
敬王恬(司馬恬)は字を元愉といい、若くして散騎侍郎を拝し、しきりに散騎常侍・黄門郎・御史中丞に遷った。海西公が廃され、簡文帝が登位する際、まだ厳戒態勢を解かず、大司馬の桓温が中堂を固め、警角(軍中で使う笛)を吹いていたが、司馬恬は上奏して桓温の大いなる不敬を弾劾し、罪として裁くよう申請した。桓温は上奏を見て歎じ、「このがきは私を弾劾しおった、本当に畏るべきやつだ」と言った。司馬恬は忠実で公正であり才幹があり、朝廷で憚られた。右衛将軍・司雍秦梁四州大中正に遷り、尚書を拝し、侍中に転じ、左衛将軍を領し、呉国内史に補され、また太子詹事を領した。司馬恬は宗室に勲功を立てて輿望があり、才能があったので、孝武帝は深く頼り、都督兗・青・冀・幽并びに揚州の晋陵・徐州の南北郡軍事とし、鎮北将軍・兗青二州刺史・仮節を領させた。太元十五(三九〇)年に薨じ、車騎将軍を追贈された。四人の子がおり、尚之・恢之・允之・休之である。尚之が立った。

原文

忠王尚之字伯道、初拜祕書郎、遷散騎侍郎。恬鎮京口、尚之為振威將軍・廣陵相、父憂去職。服闋、為驃騎諮議參軍。宗室之內、世有人物。王國寶之誅也、散騎常侍劉鎮之・彭城內史劉涓子・徐州別駕徐放並以同黨被收、將加大辟。尚之言於會稽王道子曰、刑獄不可廣、宜釋鎮之等。道子以尚之昆季並居列職、每事仗焉、乃從之。
兗州刺史王恭忌其盛也、與豫州刺史庾楷並稱兵、以討尚之為名、南連荊州刺史殷仲堪・南郡公桓玄等。道子命前將軍王珣・右將軍謝琰討恭、尚之距楷。允之與楷子鴻戰於當利、鴻敗走、斬楷將段方、楷單馬奔于桓玄。道子以尚之為建威將軍・豫州刺史・假節、一依楷故事、尋進號前將軍。允之為吳國內史。恢之驃騎司馬・丹楊尹。休之襄城太守。各擁兵馬、勢傾朝廷。後將軍元顯執政、亦倚以為援。
元顯寵倖張法順、每宴會、坐起無別。尚之入朝、正色謂元顯曰、張法順驅走小人、有何才異、而暴被拔擢。當今聖世、不宜如此。元顯默然。尚之又曰、宗室雖多、匡諫者少、王者尚納芻蕘之言、況下官與使君骨肉不遠、蒙眷累世、何可坐視得失而不盡言。因叱法順令下。舉坐失色、尚之言笑自若、元顯深銜之。後符下西府、令出勇力二千人。尚之不與、曰、西藩濱接荒餘、寇虜無常、兵止數千、不足戍衞、無復可分徹者。元顯尤怒。會欲伐桓玄、故無他。
及元顯稱詔西伐、命尚之為前鋒、尚之子文仲為寧遠將軍・宣城內史。桓玄至姑熟、遣馮該等攻歷陽、斷洞浦、焚尚之舟艦。尚之率步卒九千陣於浦上、先遣武都太守楊秋屯橫江。秋奔于玄軍、尚之眾潰、逃于涂中十餘日。譙國人韓連・丁元等以告玄、玄害之於建康市。玄上疏以閔王不宜絕嗣、乃更封尚之從弟康之為譙縣王。安帝反正、追贈尚之衞將軍、以休之長子文思為尚之嗣、襲封譙郡王。
文思性凶暴、每違軌度、多殺弗辜。好田獵、燒人墳墓、數為有司所糾、遂與羣小謀逆。劉裕聞之、誅其黨與、送文思付父休之、令自訓厲。後與休之同怨望稱兵、為裕所敗而死、國除。

訓読

忠王尚之 字は伯道、初め祕書郎を拜し、散騎侍郎に遷る。恬 京口に鎮するや、尚之 振威將軍・廣陵相と為り、父の憂に職を去る。服闋に、驃騎諮議參軍と為る。宗室の內、世々人物有り。王國寶の誅せらるや、散騎常侍の劉鎮之・彭城內史の劉涓子・徐州別駕の徐放 並びに同黨たるを以て收められ、將に大辟を加へんとす。尚之 會稽王道子に言ひて曰く、「刑獄 廣ぐる可からず、宜しく鎮之等を釋せ」と。道子 尚之の昆季 並びに列職に居るを以て〔一〕、每事 焉に仗り、乃ち之に從ふ。
兗州刺史王恭 其の盛なるを忌むや、豫州刺史の庾楷と與に並びに兵を稱へ、尚之を討つを以て名と為し、南のかた荊州刺史殷仲堪・南郡公桓玄等と連なる。道子 前將軍の王珣・右將軍の謝琰に命じて恭を討ち、尚之 楷を距ぐ。允之 楷の子たる鴻と當利に戰ひ、鴻 敗走し、楷の將たる段方を斬り、楷 單馬にて桓玄に奔る。道子 尚之を以て建威將軍・豫州刺史・假節と為し、一に楷の故事に依り、尋いで號を前將軍に進む。允之 吳國內史と為る。恢之もて驃騎司馬・丹楊尹とす。休之もて襄城太守とす。各々兵馬を擁し、勢は朝廷を傾く。後將軍の元顯 執政するや、亦 倚りて以て援と為す。
元顕の寵倖たる張法順、宴會每に、坐起 別無し。尚之 入朝し、色を正して元顯に謂ひて曰く、「張法順 小人を驅走し、何の才異有りて、暴かに拔擢せらる。當今の聖世、宜しく此の如くあるべからず」と。元顯 默然とす。尚之 又 曰く、「宗室 多しと雖も、匡諫する者は少なく、王者は芻蕘の言すら尚納す、況んや下官 使君と骨肉 遠からず、眷を累世に蒙る、何ぞ得失を坐視して言を盡さざる可けんや」と。因りて法順を叱りて下らしむ。坐を舉げて色を失ひ、尚之 言ひ笑ひて自若たり、元顯 深く之を銜む。後に符もて西府に下し、勇力二千人を出でしむ。尚之 與へず、曰く、「西藩 荒餘に濱接し、寇虜 常無く、兵 數千に止まり、戍衞するに足らず、復た分徹す可きもの無し」と。元顯 尤も怒る。會 桓玄を伐んと欲し、故に他無し。
元顯 詔と稱して西伐するに及び、尚之に命じて前鋒と為し、尚之の子たる文仲もて寧遠將軍・宣城內史と為す。桓玄 姑熟に至り、馮該等を遣はして歷陽を攻め、洞浦を斷ち、尚之の舟艦を焚かしむ。尚之 步卒九千を率ゐて浦上に陣し、先に武都太守楊秋を遣はして橫江に屯せしむ。秋 玄の軍に奔り、尚之の眾 潰し、涂中に逃ぐること十餘日。譙國の人たる韓連・丁元等 以て玄に告げ、玄 之を建康市に害す。玄 上疏して閔王の宜しく嗣を絕つべからざるを以て、乃ち更めて尚之の從弟たる康之を封じて譙縣王と為す。安帝 正に反り、尚之に衞將軍を追贈し、休之の長子たる文思を以て尚之の嗣と為し、譙郡王を襲封せしむ。
文思 性は凶暴にして、每に軌度に違ひ、多く弗辜を殺す。田獵を好み、人の墳墓を燒き、數々有司の糾す所と為り、遂に羣小と謀逆す。劉裕 之を聞き、其の黨與を誅し、文思を送りて父の休之に付し、自ら訓厲せしむ。後に休之と同に怨望して兵を稱へ、裕の敗る所と為りて死し、國 除かる。

〔一〕深山 @miyama__akira さまのご指摘に基づき、「道子 尚之の昆季にして並びに列職に居るを以て」を、「道子 尚之の昆季 並びに列職に居るを以て」に訓読を改めます。これに伴い、現代語訳を訂正しました。201024

現代語訳

忠王尚之(司馬尚之)は字を伯道といい、初めに秘書郎を拝し、散騎侍郎に遷った。父の司馬恬が京口に出鎮すると、尚之は振威将軍・広陵相となり、父が亡くなると職を去った。服喪が明け、驃騎諮議参軍となった。宗室の内に、譙王家は優れた人物を代々輩出した。王国宝が誅されると、散騎常侍の劉鎮之・彭城内史の劉涓子・徐州別駕の徐放は仲間だったので捕らわれ、死刑を加えられようとした。司馬尚之は会稽王道子(司馬道子)に、「刑獄は広げてはならない、劉鎮之らを釈放せよ」と言った。司馬道子は司馬尚之の兄弟(尚之・恢之・休之・允之)がいずれも高い官位にあるので、事あるごとに頼っており、これに従った。
兗州刺史の王恭は尚之の影響力を嫌い、豫州刺史の庾楷とともに兵を集め、尚之を討つという名目を掲げ、南のかた荊州刺史の殷仲堪・南郡公の桓玄らと連携した。司馬道子は前将軍の王珣・右将軍の謝琰に命じて王恭を討伐し、尚之は庾楷を防いだ。司馬允之は庾楷の子である庾鴻と当利で戦い、庾鴻が敗走し、庾楷の将である段方を斬り、庾楷は単騎で桓玄のもとに駆けこんだ。司馬道子は司馬尚之を建威将軍・豫州刺史・仮節とし、もっぱら庾楷の故事を踏まえ、すぐに号を前将軍に進めた。(尚之の弟たちは)司馬允之を呉国内史とした。司馬恢之を驃騎司馬・丹楊尹とした。司馬休之を襄城太守とした。それぞれ兵馬を擁し、権勢が朝廷を傾けた。後将軍の司馬元顕が執政すると、また司馬尚之を頼って助けとした。
司馬元顕の佞幸である張法順は、いつも酒宴の席で、立ち居振る舞いが自由であった。司馬尚之は入朝し、態度を改めて元顕に、「張法順のような下らぬ男が走り周っているが、なんの才覚があって、いきなり抜擢されたのか。聖なる御世が、こうであってはならぬ」と言った。元顕は押し黙った。尚之はさらに、「宗室は人数が多いが、諫めて正せる者は少なく、王者であれば芻蕘(草刈りや木こり)の言葉ですら尊重して聞く、ましてや私はあなたと血縁が近く、藩国を累世に預かっている、どうして失敗を見逃して黙っていられようか」と言った。張法順を叱って下がらせた。同席者たちは顔色を失ったが、司馬尚之は笑って平然とし、元顕は深く根に持った。のちに命令書を西府に下し、勇力二千人を供出させた。司馬尚之は断って、「西藩は荒れ地に隣接し、異民族の襲撃が続くが、兵は数千しかおらず、防衛には足りない、さらに分散させてはならぬ」と言った。元顕は激怒した。しかし桓玄の征伐を控え、対立が表面化しなかった。
元顕が詔と称して西方を征伐すると、司馬尚之に前鋒を命じ、尚之の子である司馬文仲を寧遠将軍・宣城内史とした。桓玄が姑熟に至ると、馮該らを遣わして歴陽を攻め、洞浦をを封鎖し、尚之の戦艦を焼かせた。尚之は歩兵九千を率いて浦上に布陣し、先に武都太守の楊秋を遣わして横江に駐屯させた。楊秋は桓玄の軍のもとに逃げ込み、尚之の軍勢は潰乱し、十余日かけて涂中に逃げた。譙国の人である韓連・丁元らは桓玄に報告し、桓玄は司馬尚之を建康の市場で殺害した。桓玄が上疏して閔王(司馬承)の後嗣を断絶させてはならぬので、改めて尚之の従弟である司馬康之を封じて譙県王とした。安帝が帝位に返ると、尚之に衛将軍を追贈し、休之の長子である文思を尚之の後嗣とし、譙郡王の爵位を嗣がせた。
文思の性格は凶暴であり、いつも限度を破って行動し、多くの無罪の人を殺した。田猟を好み、人の墳墓を焼き、しばしば担当官に糾弾されたので、つまらぬ連中と一緒に謀逆した。劉裕がこれを聞いて、彼の仲間たちを誅して、文思を父の休之に引き渡し、(親子の間で)訓導をさせた。のちに休之も怨みを抱いて兵を集めたが、劉裕に敗れて死に、国が除かれた。

原文

恢之字季明、歷官驃騎司馬・丹楊尹。尚之為桓玄所害、徙恢之等於廣州、而於道中害之。安帝反正、追贈撫軍將軍。
休之字季預。少仕清塗、以平王恭・庾楷功、拜龍驤將軍・襄城太守、鎮歷陽。桓玄攻歷陽、休之嬰城固守。及尚之戰敗、休之以五百人出城力戰、不捷、乃還城、攜子姪奔于慕容超。聞義軍起、復還京師。大將軍武陵王令曰、前龍驤將軍休之、才榦貞審、功業既成。歷陽之戰、事在機捷。及至勢乖力屈、奉身出奔、猶鳩集義徒、崎嶇險阻。既應親賢之舉、宜委分陝之重。可監荊益梁寧秦雍六州軍事・領護南蠻校尉・荊州刺史・假節。到鎮無幾、桓振復襲江陵、休之戰敗、出奔襄陽。寧朔將軍張暢之・高平相劉懷肅自沔攻振、走之。休之還鎮、御史中丞王楨之奏休之失戍、免官。朝廷以豫州刺史魏詠之代之、徵休之還京師、拜後將軍・會稽內史。御史中丞阮歆之奏休之與尚書虞嘯父犯禁嬉戲、降號征虜將軍、尋復為後將軍。
及盧循作逆、加督浙江東五郡軍事、坐公事免。劉毅誅、復以休之都督荊雍梁秦寧益六州軍事・平西將軍・荊州刺史・假節。以子文思為亂、上疏謝曰、文思不能聿修、自貽罪戾、憂懼震惶、惋愧交集。臣御家無方、威訓不振、致使子姪愆法、仰負聖朝。悚赧兼懷、胡顏自處、請解所任、歸罪闕庭。不許。

訓読

恢之 字は季明、官は驃騎司馬・丹楊尹を歷す。尚之 桓玄の害する所と為り、恢之等を廣州に徙すに、道中に之を害す。安帝 正にり、撫軍將軍を追贈す。
休之 字は季預。少くして清塗に仕へ、王恭・庾楷を平らぐの功を以て、龍驤將軍・襄城太守を拜し、歷陽に鎮す。桓玄 歷陽を攻め、休之 城を嬰りて固守す。尚之 戰敗するに及び、休之 五百人を以て城を出て力戰し、捷たず、乃ち城に還り、子姪を攜へて慕容超に奔る。義軍 起るを聞き、復た京師に還る。大將軍武陵王 令して曰く、「前の龍驤將軍休之、才榦は貞審にして、功業 既に成る。歷陽の戰に、事 機捷に在り。勢は乖き力は屈するに至るに及び、身を奉じて出奔すれども、猶ほ義徒を鳩集し、險阻に崎嶇す。既に親賢の舉に應じ、宜しく分陝の重を委ぬべし。監荊益梁寧秦雍六州軍事・領護南蠻校尉・荊州刺史・假節とす可し」と。鎮に到りて幾と無く、桓振 復た江陵を襲ひ、休之 戰敗し、出でて襄陽に奔る。寧朔將軍の張暢之・高平相の劉懷肅 沔自り振を攻め、之を走らす。休之 鎮に還り、御史中丞の王楨之 休之を奏じて戍を失へば、官を免ず。朝廷 豫州刺史の魏詠之を以て之に代へ、休之を徵して京師に還し、後將軍・會稽內史を拜す。御史中丞阮歆之 休之 尚書の虞嘯父と與に禁を犯して嬉戲するを奏し、號を征虜將軍に降し、尋いで復た後將軍と為す。
盧循 逆を作すに及び、督浙江東五郡軍事を加へ、公事に坐して免ぜらる。劉毅 誅せられ、復た休之を以て都督荊雍梁秦寧益六州軍事・平西將軍・荊州刺史・假節とす。子の文思 亂を為すを以て、上疏して謝して曰く、「文思 聿修する能はず、自ら罪戾を貽(のこ)し、憂懼して震惶し、惋愧 交集す。臣 家を御して方無く、威訓 振はず、子姪をして愆法せしむるに致り、仰ぎて聖朝に負く。悚赧 兼せて懷き、胡ぞ顏ありて自ら處らん、所任を解くことを請ふ、罪を闕庭に歸せん」と。許さず。

現代語訳

司馬恢之は字を季明といい、驃騎司馬・丹楊尹を歴任した。司馬尚之が桓玄に殺害されると、司馬恢之らを広州に移したが、道中で殺害した。安帝が皇位に返ると、撫軍将軍を追贈した。
司馬休之は字を季預という。若くして清廉の道に仕え、王恭・庾楷を平定した功績で、龍驤将軍・襄城太守を拝し、歴陽に出鎮した。桓玄が歴陽を攻めたが、休之が城をかためて防衛した。兄の司馬尚之が敗北すると、休之は五百人を連れて城から出て奮戦したが、勝つことができず、城に撤退し、子や姪を連れて慕容超のもとに奔った。義軍の決起を聞きつけ、再び京師に還った。大将軍の武陵王が令して、「前の龍驤将軍である司馬休之は、意志が強く細やかで、功業を立てた実績がある。歴陽の戦いでは、機知と敏捷さを発揮した。劣勢になり力が及ばず、北朝に出奔したが、それでも忠義の兵を集め、険阻な地で耐えていた。今回の義挙に呼応したので、諸侯として一方面を委ねるべきだ。監荊益梁寧秦雍六州軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史・仮節とする」と言った。鎮所に到着してすぐに、桓振がふたたび江陵を襲い、休之は敗北し、出て襄陽に奔った。寧朔将軍の張暢之・高平相の劉懐粛が沔水から桓振を攻撃し、これを敗走させた。司馬休之は鎮所に還って、御史中丞の王楨之は休之を頂いておきながら防衛拠点を失ったので、官職を免じた。朝廷は豫州刺史の魏詠之に交替をさせ、休之を徴して京師に還らせ、後将軍・会稽内史を拝させた。御史中丞の阮歆之は休之が尚書の虞嘯父とともに禁令を犯して遊びふけっていると上奏し、官号を征虜将軍に降格したが、ほどなく後将軍を回復した。
盧循が反逆すると、督浙江東五郡軍事を加えられたが、公事により免ぜられた。劉毅が誅されると、ふたたび司馬休之を都督荊雍梁秦寧益六州軍事・平西将軍・荊州刺史・仮節とした。子の司馬文思が乱を起こしたので、上疏して謝り、「文思は先人の徳を修められず、自ら罪過を残したため、憂懼して震え、後悔の念が押し寄せています。私は家族の統率に失敗し、厳しい教えが機能せず、子や甥に違法行為をさせ、聖なる王朝を裏切りました。恥と恐れを抱き、向けるべき顔がありません、官職を解き、宮廷で罪を裁いて下さい」と言った。認可されなかった。

原文

後以文思事怨望、遂結雍州刺史魯宗之、將共誅執政。時休之次子文寶及兄子文祖並在都、收付廷尉賜死。劉裕親自征之、密使遺休之治中韓延之書曰、文思事意、遠近所知。去秋遣康之送還司馬君者、推至公之極也。而了無愧心、久絕表疏、此是天地所不容。吾受命西征、止其父子而已。彼土僑舊、為之驅逼、一無所問。往年郗僧施・謝劭・任集之等交構積歲、專為劉毅規謀、所以至此。今卿諸人一時逼迫、本無纖釁。吾虛懷期物、自有由來、今在近路、是諸賢濟身之日。若大軍相臨、交鋒接刃、蘭艾雜揉、或恐不分。故白此意、并可示同懷諸人。
延之報曰、聞親率戎馬、遠履西畿、闔境士庶、莫不恇駭。何者。莫知師出之名故也。辱來疏、始委以譙王前事、良增歎息。司馬平西體國忠貞、款懷待物。以君有匡復之勳、家國蒙賴、推德委誠、每事詢仰。譙王往以微事見劾、猶自遜位、況以大過、而當默然也。但康之前言、有所不盡、故重使胡道、申白所懷。道未及反、已表奏廢之、所不盡者命耳。推寄相與、正當如此、有何不可、便及兵戈。自義旗以來、方伯誰敢不先相諮疇、而徑表天子、可謂欲加之罪、其無辭乎。劉裕足下、海內之人、誰不見足下此心。而復欲誑國士、天地所不容、在彼不在此矣。來言虛懷期物、自有由來。今伐人之君、啗人以利、真可謂虛懷期物、自有由來矣。劉藩死於閶闔之門、諸葛弊於左右之手。甘言詫1.(語)方伯、襲之以輕兵、遂使席上靡款懷之士、閫外無自信諸侯。以是為得算、良可恥也。吾誠鄙劣、嘗聞道於君子。以平西之至德、寧可無授命之臣乎。假令天長喪亂、九流渾濁、當與臧洪游於地下耳。裕得書歎息、以示諸佐曰、事人當應如此。
宗之聞裕向荊州、自襄陽就休之共屯江陵。使文思及宗之子軌以兵距裕、戰于江津。休之大敗、遂與宗之俱奔于姚興。裕平姚泓、休之將奔于魏、未至、道死。

1.中華書局本に従い、一字を削る。

訓読

後に文思の事を以て怨望し、遂に雍州刺史の魯宗之と結びて、將に共に執政を誅せんとす。時に休之の次子たる文寶及び兄の子たる文祖 並びに都に在り、廷尉に收付して死を賜ふ。劉裕 親自ら之を征し、密かに休之が治中たる韓延之に書を遣りて曰く、「文思の事意、遠近 知る所なり。去る秋 康之を遣はして司馬君に送還するは、至公の極を推すなり。而れども了りて愧心無く、久しく表疏を絕つ、此に是れ天地の容れざる所なり。吾 受命して西征するは、其の父子に止まるのみ。彼の土の僑舊、之の為に驅逼し、一に問ふ所無し。往年 郗僧施・謝劭・任集之等 交構すること積歲、專ら劉毅が為に規謀するは、此に至る所以なり。今 卿諸人 一時に逼迫せられ、本は纖釁無し。吾 虛懷に物を期(ま)たん、自ら由來有り、今 近路に在り、是れ諸賢 身を濟ふの日なり。若し大軍 相 臨まば、鋒を交へ刃を接し、蘭艾 雜揉し、或いは分たざるを恐る。故に此の意を白す、并せて同懷の諸人に示す可し」と。
延之 報へて曰く、「親ら戎馬を率ゐ、遠く西畿を履むと聞き、闔境の士庶、恇駭せざる莫し。何ぞや。師出の名を知ること莫きが故なり。來疏を辱しふし、始め譙王の前事を以て委て、良に歎息を增す。司馬平西 國を體する忠貞にして、款懷し物を待つ。君に匡復の勳有るを以て、家國 蒙賴し、德を推し誠を委ね、事ある每に詢仰す。譙王 往に微事を以て劾せられ、猶ほ自ら位を遜る、況んや大過を以て、而れども當に默然とすべきや。但だ康之が前言、盡きざる所有り、故に重ねて胡道をして、懷く所を申白せしむ。道 未だ反る及ばず、已に表奏して之を廢し、盡さざる所の者は命のみ。推寄して相與するは、正して當に此の如くあるべし、何の不可有りて、便ち兵戈に及ぶや。義旗自り以來、方伯 誰ぞ敢て先んじて相 諮疇し、徑に天子に表せざる、之に罪を加へんと欲すと謂ふべし、其れ辭無からんか。劉裕足下、海內の人、誰ぞ足下に此の心を見ざる。而るに復た國士を誑かさんと欲し、『天地の容れざる所』といひ、彼に在り此に在らざるなり。言を來し『虛懷に物を期たん、自ら由來有り』といふ。今 人の君を伐つに、人を啗すに利を以てし、真に『虛懷期物、自有由來』と謂ふ可きか。劉藩 閶闔の門に死し、諸葛 左右の手に弊る〔一〕。甘言もて方伯に詫び、之を襲ふに輕兵を以てし、遂に席上をして款懷の士靡(な)く、閫外に自信するの諸侯無し。是を以て算を得ると為すは、良に恥ず可きなり。吾 誠に鄙劣なれども、嘗て道を君子に聞く。平西の至德を以て、寧ぞ授命の臣無きとす可きか。假令 天長は喪亂し、九流は渾濁するとも、當に臧洪と地下に游ぶべきのみ」と。裕 書を得て歎息し、以て諸佐に示して曰く、「人に事ふるは當に應に此の如くあるべし」と。
宗之 裕の荊州に向ふを聞き、襄陽自り休之に就きて共に江陵に屯す。文思及び宗之の子たる軌をして兵を以て裕を距ぎ、江津に戰ふ。休之 大敗し、遂に宗之と俱に姚興に奔る。裕 姚泓を平らげ、休之 將に魏に奔らんとし、未だ至らず、道に死す。

〔一〕劉藩は、東晋の劉毅の従弟。諸葛は、諸葛長民。どちらも劉裕によって殺された。同時代、当事者による前例。

現代語訳

後に司馬文思の事件で(司馬休之は)怨みを抱くようになり、ついに雍州刺史の魯宗之と結び、ともに執政者を誅殺しようとした。このとき休之の次子である司馬文宝及び兄の子である司馬文祖はどちらも都におり、廷尉に引き渡され死を賜った。劉裕が自ら(休之を)征伐したが、ひそかに休之の治中である韓延之に書簡を送って、「文思の案件は、遠近の皆が知っている。去年秋に司馬康之を遣はして司馬君に送還したのは、公的な正義にかなう処置であった。しかしそれ以降は(休之に)反省がなく、久しく上表が絶えており、天地が容認せぬことである。私は命令を受けて征西しているが、(討伐対象は)休之の父子に限定されている。かの土地の移民は、休之に強制動員され、逸脱が許されない。以前に郗僧施・謝劭・任集之らが積年にわたり睦みあい、劉毅のためだけに策略を練ったのは、同じような拘束があったためだ。今きみたちは一時に(休之に)脅迫されただけで、本来は反乱の意思がなかった。私が虚心に人に接するのは、理由があるのだ、遠征軍の接近は、きみたち諸賢が(休之から)脱出する好機である。もし大軍が衝突し、戦闘が始まれば、香草と雑草の区別がつかぬように、まとめて殺してしまう。ゆえにこれを伝える、同じ思いの人と共有せよ」と言った。
韓延之は返書を送り、「(劉裕が)自ら戎馬を率い、遠く西方の国に踏み込んできたと聞き、辺境の士庶は、驚嘆して恐れている。なぜか。遠征の名分が分からないからである。上疏を辱め、譙王の実績を台無しにされ、ますます歎息した。司馬平西(平西将軍の司馬休之)は藩国を預かる忠臣であり、真心を抱いて人と接している。君主(司馬休之)に王朝を回復し正す勲功があったから、皇帝が信頼をして、有徳と誠意に期待し、ことあるごとに諮問をなさった。譙王(司馬休之)は過去に些細なことで弾劾され、自ら地位を返上したことがある、ましてや大きな過ちがあって、開き直るだろうか(今回は大きな過ちなどない)。ただし康之の前言が十分でなかったので、重ねて胡道を使者とし、考えを説明した。道中にあり帰還する前に、早くも(劉裕が司馬休之)を廃位せよという上表をし、命だけは助けるとした。真心を持って人に対処する、というように(弁明を聞く)べきであり、どんな問題があっても、出し抜けに武力に訴えてはいけない。義の旗を掲げるとき、どの方鎮が先んじて計画を練り、天子に上表せず、敵対者に罪を加え、説明を省略するものか。劉裕どのは、天下に影響力を持つ人であり、だれがあなたの意見を聞かぬものか。しかし国の人々を誑かして、『天地が容認しない』と脅すのは、公正なやり方ではない。書簡を届けて『私が虚心に人に接するのは、理由がある』と述べた。いま人の君主(司馬休之)を討伐しようと、部下を利益で誘っておきながら、本当に『私が虚心に人に接するのは、理由がある』と言えるのか。劉藩は閶闔の門で死に、諸葛(長民)は左右の手により倒れた。甘言によって地方長官に詫びながら、いきなり軽兵で襲撃をしたら、東晋の朝廷に誠意ある人士がおらず、地方に信望を集める諸侯がいなくなる。これをうまい計略と考えるのは、まことに恥ずべきことだ。私は下劣な人間であるが、かつて君子から道理を教わった。有徳者である平西将軍(司馬休之)のもとに、彼の命令を聞かぬ臣がおらぬものか。もし天地が喪乱し、九流が混濁しても、地下で臧洪と志を共にするだけである」と言った。劉裕は返書を受け取って歎息し、軍僚たちに見せて、「人に仕えるならばこうでなくては」と言った。
司馬宗之は劉裕が荊州に向かったと聞き、襄陽から司馬休之に合流して共に江陵に駐屯した。文思及び宗之の子である司馬軌に兵を率いて劉裕を食い止めさせ、江津で戦った。休之が大敗し、とうとう宗之とともに姚興のもとに奔った。劉裕が姚泓を平定すると、北魏に奔ろうとしたが、到着する前に、道中で死んだ。

原文

允之字季度、出後叔父愔、襲爵廣晉伯、歷位輔國將軍・吳國宣城譙梁內史。王恭・庾楷・桓玄等內伐也、會稽王道子命允之兄弟距楷、破之。元興初、與兄恢之同徙廣州、於道被害。義軍起、追贈太常卿。從弟康之以子文惠襲爵。宋受禪、國除。
韓延之字顯宗、南陽赭陽人、魏司徒暨之後也。少以分義稱。安帝時為建威將軍・荊州治中、轉平西府錄事參軍。以劉裕父名翹字顯宗、延之遂字顯宗、名兒為翹、以示不臣劉氏。與休之俱奔姚興。劉裕入關、又奔于魏。
愔字敬王、初封廣晉伯。早卒、無子、兄恬以子允之嗣。

訓読

允之 字は季度、出でて叔父の愔に後たり、爵廣晉伯を襲ひ、位は輔國將軍・吳國宣城譙梁內史を歷す。王恭・庾楷・桓玄等 內伐するや、會稽王道子 允之兄弟に命じて楷を距がしめ、之を破る。元興初、兄恢之と同に廣州に徙り、道に害せらる。義軍 起ち、太常卿を追贈す。從弟の康之 子の文惠を以て爵を襲はしむ。宋 受禪し、國 除かる。
韓延之 字は顯宗、南陽赭陽の人なり、魏の司徒暨の後なり。少くして分義を以て稱せらる。安帝の時 建威將軍・荊州治中と為り、平西府錄事參軍に轉ず。劉裕の父 名は翹にして字は顯宗たるを以て、延之 遂に顯宗を字とし、兒を名づけて翹と為し、以て劉氏に臣たらざるを示す。休之と俱に姚興に奔る。劉裕 入關し、又 魏に奔る。
愔 字は敬王、初め廣晉伯に封ぜらる。早 卒し、子無く、兄の恬 子の允之を以て嗣ぐ。

現代語訳

司馬允之は字を季度といい、家を出て叔父の司馬愔の後嗣となり、広晋伯の爵位を嗣ぎ、官位は輔国将軍・呉国宣城譙梁内史を歴任した。王恭・庾楷・桓玄らが内部抗争すると、会稽王の道子(司馬道子)は司馬允之の兄弟に命じて庾楷を防がせ、これを撃破した。元興初(四〇二-)、兄の司馬恢之とともに広州に移ろうとし、道中で殺害された。義軍が起つと、太常卿を追贈した。従弟の司馬康之は子の司馬文恵に爵位を嗣がせた。宋が受禅すると、国は除かれた。
韓延之は字を顕宗といい、南陽赭陽の人であり、魏王朝の司徒である韓暨の後裔である。若いときから節義によって称された。安帝のとき建威将軍・荊州治中となり、平西府録事参軍に転じた。劉裕の父は名を翹といい字を顕宗といったが、韓延之は自分の字を顕宗とし、子に韓翹と名付け、劉氏の臣下にならないことを示した。司馬休之とともに姚興のもとに出奔した。劉裕が関中に入ると、さらに北魏に出奔した。
司馬愔は字を敬王といい、初め広晋伯に封建された。早くに卒し、子がおらず、兄の司馬恬は子の允之に嗣がせた。

高陽王睦

原文

高陽王睦字子友、譙王遜之弟也。魏安平亭侯、歷侍御史。武帝受禪、封中山王、邑五千二百戶。睦自表乞依六蓼祀臯陶、鄫𣏌祀相立廟。事下太常、依禮典平議。博士祭酒劉憙等議、「禮記王制、諸侯五廟、二昭二穆、與太祖而五。是則立始祖之廟、謂嫡統承重、一人得立耳。假令支弟並為諸侯、始封之君不得立廟也。今睦非為正統、若立祖廟、中山不得並也。後世中山乃得為睦立廟、為後世子孫之始祖耳。詔曰、禮文不明、此制度大事、宜令詳審、可下禮官博議、乃處當之。
咸寧三年、睦遣使募徙國內八縣受逋逃、私占及變易姓名、詐冒復除者七百餘戶。冀州刺史杜友奏睦招誘逋亡、不宜君國。有司奏、事在赦前、應原。詔曰、「中山王所行何乃至此、覽奏甚用憮然。廣樹親戚、將以上輔王室、下惠百姓也。豈徒榮崇其身、而使民踰典憲乎!此事當大論得失、正臧否所在耳。苟不宜君國、何論於赦令之間耶。其貶睦為縣侯。」乃封丹水縣侯。
及吳平、太康初詔復爵。有司奏封江陽王、帝曰、睦退靜思愆、改修其德、今有爵土、不但以赦。江陽險遠、其以高陽郡封之。乃封為高陽王。元康元年、為宗正。薨於位、世子蔚早卒、孫毅立。拜散騎侍郎、永嘉中沒于石勒。隆安元年、詔以譙敬王恬次子恢之子文深繼毅後。立五年、薨、無嗣、復以高密王純之子法蓮繼之。宋受禪、國除。

訓読

高陽王睦 字は子友、譙王遜の弟なり。魏の安平亭侯にして、侍御史を歷す。武帝 受禪し、中山王に封じ、邑は五千二百戶なり。睦 自ら表して六蓼 臯陶を祀り、鄫𣏌 相を祀るに依りて廟を立つるを乞ふ。事 太常に下し、禮典に依りて平議せしむ。博士祭酒の劉憙等 議すらく、「禮記の王制に、諸侯は五廟、二昭二穆あり、太祖と與にして五なり。是れ則ち始祖の廟を立て、嫡統の重を承くるを謂ひ、一人 得て立つのみ。假令 支弟並びに諸侯と為るも、始封の君 廟を立つるを得ざるなり。今 睦 正統為るに非らず、若し祖廟を立つれば、中山 並ぶを得ざるなり。後世に中山 乃ち得て睦の為に廟を立て、後世の子孫の始祖と為るのみ」と。詔して曰く、「禮の文 明らかならず、此れ制度の大事なり、宜しく詳らかに審せしむべし、禮官に下し博く議す可し、乃ち處して之を當とす」と。
咸寧三年、睦 使を遣りて募り國內に八縣を徙し逋逃、私占及び姓名を變易・復除を詐冒する者七百餘戶を受く。冀州刺史の杜友 睦 逋亡を招誘し、宜しく國に君たるべからずと奏す。有司 奏し、事 赦の前に在れば、應に原すべしと。詔して曰く、「中山王の所行 何ぞ乃ち此に至る、奏を覽じて甚だ用て憮然とす。廣く親戚を樹つるは、將に上に王室を輔け、下に百姓に惠まんとす。豈に徒らに其の身を榮崇し、民をして典憲を踰えしめんか。此の事 當に大いに得失を論じ、臧否を所在に正すべし。苟しくも宜しく國に君たらざれば、何ぞ赦令の間を論ぜんや。其れ睦を貶めて縣侯を為す」と。乃ち丹水縣侯に封ず。
吳 平らぐに及び、太康初 詔して爵を復す。有司 江陽王に封ずるを奏し、帝曰く、「睦の退靜して愆を思ひ、改めて其の德を修め、今 爵土を有つは、但だ以て赦すのみにあらず。江陽 險遠なり、其れ高陽郡を以て之を封ぜよ」と。乃ち封じて高陽王と為す。元康元年、宗正と為る。位に薨じ、世子の蔚 早く卒し、孫の毅 立つ。散騎侍郎を拜し、永嘉中 石勒に沒す。隆安元年、詔して譙敬王恬の次子恢之の子文深を以て毅の後を繼がしむ。立つること五年、薨じ、嗣無く、復た高密王純之の子法蓮を以て之を繼がしむ。宋 受禪し、國 除かる。

現代語訳

高陽王睦(司馬睦)は字を子友といい、譙王遜(司馬遜)の弟である。魏王朝の安平亭侯であり、侍御史などを歴任した。武帝が受禅すると、中山王に封建され、邑は五千二百戸であった。司馬睦が自ら上表して六国と蓼国が(始祖の)臯陶を祭り、鄫国と𣏌国が(始祖の)相を祭ったように(中山国内に司馬氏の始祖を)祭る廟を立てたいと申請した。議事が太常に下され、礼の経典に基づいて議論をさせた。博士祭酒の劉憙らが、「礼記の王制篇に、諸侯は五廟を立て、二昭と二穆があり、太祖と合わせて五つとするとあります。始祖の廟を立てるのは、正統を継承していることを示し、(始祖の廟は)一人だけが立てられるのです。分家や弟が諸侯となっても、始祖の廟を立てることはできません。いま司馬睦は(皇帝家の)正統ではありません、もし始祖の廟を立てれば、中山国内で並列の問題が起きます。つまり後世の中山国では司馬睦の廟を立て、これを始祖として扱ってゆくのが正しいのです」と言った。詔して、「礼記の文意が不分明であり、これは礼制の重要事項であるから、詳らかに審議させ、礼官に下して広く議論をさせよ、結論が出たらそれを公式見解とする」と言った。
咸寧三(二七七)年、司馬睦が国内の八県に使者を送って(犯罪等により)逃げ隠れるか、横領したり姓名を変えて納税をごまかしている七百余戸を受け入れた。冀州刺史の杜友は司馬睦が逃亡者を誘い込むので、国の君主として不適格ですと上奏した。担当官が上奏し、この行動は大赦より前のことなので、赦すべきですと述べた。詔して、「中山王の所行はなんとひどいことか、上奏をみて憮然とさせられた。広く親族を藩王として立てるのは、上は王室を助け、下は百姓に恵みを施そうと思うからだ。どうして無闇にわが身を立派にし、民に法典を破らせるためであろうか。この事案は大いに得失を論じ、良否を明らかにせよ。もしも君主として不適格ならば、大赦の時期との先後は関係がない。司馬睦を県侯に降格せよ」と言った。こうして丹水県侯に封じられた。
呉が平定されると、太康初(二八〇-)に詔して爵位を復した。担当官は江陽王への封建を上奏したが、武帝は、「司馬睦の退いて静かに暮らして罪を反省し、改めてその徳を修めた、いま爵土を回復するのは、ただ赦すからではない。江陽は険阻な遠隔地なので、高陽郡に封建せよ」と言った。高陽王となった。元康元(二九一)年、宗正となった。在位のまま薨じ、世子の司馬蔚は早く卒していたので、孫の司馬毅が立った。散騎侍郎を拝し、永嘉中(三〇七-三一三)石勒に捕らわれた。隆安元(三九七)年、詔して譙敬王恬(司馬恬)の次子である司馬恢之の子の司馬文深に司馬毅の後を継がせた。立ってから五年で、薨じ、後嗣がおらず、また高密王純之(司馬純之)の子の司馬法蓮に継がせた。宋が受禅すると、国は除かれた。

任城景王陵 弟順・斌

原文

任城景王陵字子山、宣帝弟魏司隸從事安城亭侯通之子也。初拜議郎。泰始元年、封北海王、邑四千七百戶。三年、轉封任城王、之國。咸寧五年薨、子濟立。拜散騎侍郎・給事中・散騎常侍・輔國將軍。隨東海王越在項、為石勒所害、二子俱沒。有二弟、順・斌。
順字子思、初封習陽亭侯。及武帝受禪、順歎曰、事乖唐虞、而假為禪名。遂悲泣。由是廢黜、徙武威姑臧縣。雖受罪流放、守意不移而卒。西河繆王斌字子政、魏中郎。武帝受禪、封陳王、邑千七百一十戶。三年、改封西河。咸寧四年薨、子隱立。薨、子1.喜立。

1.「喜」は、石勒載記及び『資治通鑑』巻八十七は「孴」に作る。

訓読

任城景王陵 字は子山、宣帝の弟にして魏司隸從事たる安城亭侯通の子なり。初め議郎を拜す。泰始元年、北海王に封じ、邑四千七百戶なり。三年、轉じて任城王に封じ、國に之く。咸寧五年 薨じ、子の濟 立つ。散騎侍郎・給事中・散騎常侍・輔國將軍を拜す。東海王越に隨ひて項に在り、石勒の害する所と為る、二子 俱に沒す。二弟有り、順・斌なり。
順 字は子思、初め習陽亭侯に封ず。武帝 受禪するに及び、順 歎じて曰く、「事は唐虞に乖(そむ)き、而して假りて禪名と為すと」。遂に悲泣す。是に由り廢黜せられ、武威姑臧縣に徙さる。罪を受け流放せらると雖も、意を守りて移さずして卒す。西河繆王斌 字は子政、魏の中郎なり。武帝 受禪し、陳王に封じ、邑千七百一十戶なり。三年、改めて西河に封ず。咸寧四年 薨じ、子の隱 立つ。薨じ、子の喜 立つ。

現代語訳

任城景王陵(司馬陵)は字を子山といい、宣帝の弟であり魏王朝の司隸従事であった安城亭侯通(司馬通)の子である。初め議郎を拝した。泰始元(二六五)年、北海王に封建され、邑は四千七百戸である。泰始三(二六七)年、転じて任城王に封じられ、国に行った。咸寧五(二七九)年 薨じ、子の司馬済が立った。散騎侍郎・給事中・散騎常侍・輔国将軍を拝した。東海王越(司馬越)に随って項県におり、石勒に殺害され、二子はともに戦没した。二人の弟がおり、順・斌である。
司馬順は字を子思といい、初め習陽亭侯に封建された。武帝が受禅すると、司馬順は歎じて、「行いは唐尭と虞舜から乖離し、禅譲の名目を仮りている」と言った。ついに悲泣した。これより排斥され、武威の姑臧県に移住させられた。罪を受けて放り出されたが、意思を守って考えを変えぬまま卒した。西河繆王の司馬斌は字を子政といい、魏王朝の中郎である。武帝が受禅すると、陳王に封建され、邑は千七百一十戸であった。泰始三(二六七)年、改めて西河に封じられた。咸寧四(二七八)年に薨じ、子の司馬隠が立った。薨じると、子の司馬喜が立った。

原文

史臣曰、泰始之初、天下少事、革魏餘弊、遵周舊典、並建宗室、以為藩翰。諸父同虞虢之尊、兄弟受魯衞之祉、以為歷紀長久、本支百世。安平風度宏邈、器宇高雅、內弘道義、外闡忠貞。洎高貴薨殂、則枕尸流慟。陳留就國、則拜辭隕涕。語曰疾風彰勁草、獻王其有焉。故能位班上列、享年眉壽、清徽至範、為晉宗英、子孫遵業、世篤其慶。高密風監清遠、簡素寡欲、孝以承親、忠以奉上、方諸枝庶、實謂國楨。新蔡・南陽、俱莅方嶽。值王室多難、中原蕪梗、表義甄節、效績艱危。于時醜類實繁、凶威日逞、勢懸眾寡、相繼淪亡、悲夫。譙閔沈雄壯勇、作鎮南服。屬姦回肆亂、稱兵內侮。懷忠憤發、建義湘州、荊沔響應、羣才致力。雖元勳不立、而誠節克彰、垂裕後昆、奕世貞烈、豈不休哉。勳託末屬、稟性凶暴。仍荷朝寄、推轂梁岷、遂棄親背主、負恩放命。憑庸蜀之饒、苞藏不逞。恃江山之固、姦謀日深。是以搢紳切齒、攄積憤之志。義士思奮、厲忘身之節。天道禍淫、應時蕩定。昔汲黯猶在、淮南寢謀、周撫若存、凶渠未發、以邪忌正、異代同規。詩云自貽伊戚、其勳之謂矣。習陽憑慶枝葉、守約懷逸、棲情塵外、希蹤物表、顧匹夫之獨善、貴達節之弘規、言出身播、猶為幸也。
贊曰、安平立節、雅性貞亮。高密含和、宗室之望。新蔡遇禍、忠全元喪。譙1.(門)〔閔〕徇義、力屈志揚。勳自貽戚、名隕身亡。順不恤忌、流播遐方。

1.中華書局本に従い、「門」を「閔」に改める。

訓読

史臣曰く、泰始の初、天下 事少なし、魏の餘弊を革め、周の舊典に遵ひ、並びに宗室を建て、以て藩翰と為す。諸父 虞虢の尊を同(とも)にし〔一〕、兄弟 魯衞の祉を受け〔二〕、以て歷紀は長久、本支は百世と為る。安平の風度は宏邈にして、器宇は高雅、內に道義を弘め、外に忠貞を闡(ひろ)む。高貴 薨殂するに洎び、則ち尸に枕して流慟す。陳留 國に就けば、則ち拜辭して隕涕す。語に曰く「疾風 勁草を彰す」は、獻王 其れ有るなり。故に能く位は上列に班し、享年 眉壽、清徽にして至範、晉の宗英と為り、子孫 業に遵ひ、世々其の慶を篤くす。 高密 風監は清遠、簡素にして寡欲なり、孝は以て親を承け、忠は以て上を奉り、方諸の枝庶、實に國楨と謂ふ。新蔡・南陽、俱に方嶽に莅(のぞ)む。王室の多難に值ひ、中原 蕪梗するに、義を表し節を甄するも、效績 艱危なり。時に醜類 實に繁たり、凶威 日に逞しく、勢 眾寡を懸にし、相 繼いで淪亡す、悲しきかな。 譙閔 沈雄にして壯勇、南服に鎮と作る。姦回 亂を肆にし、兵を稱げて內に侮るに屬ふ。忠を懷き憤發し、義を湘州に建て、荊沔 響應し、羣才 力を致す。元勳 立たざると雖も、誠節 克く彰はし、裕く後昆を垂れ、奕世に貞烈、豈に休ならざるか。勳 末屬に託し、稟性 凶暴たり。仍りに朝寄を荷ひ、梁岷を推轂せられ、遂に親を棄て主に背き、恩に負き命を放つ。庸蜀の饒なるを憑り、不逞を苞藏す。江山の固に恃み、姦謀 日に深し。是を以て搢紳 切齒し、積憤の志を攄(の)ぶ。義士 奮を思ひ、忘身の節を厲す。天道 淫に禍ひし、時に應じて蕩定す。昔 汲黯 猶ほ在れば、淮南 謀を寢し、周撫 若し存せば、凶渠 未だ發せず、邪を以て正を忌み、代をに異し規を同じくす。詩に「自ら伊(こ)の戚(うれ)ひを貽(のこ)す〔三〕」と云ふは、其れ勳の謂ひなり。習陽 慶を枝葉に憑り、約を守り逸を懷き、情を塵外に棲して、蹤を物表に希ふは、匹夫の獨善を顧み、達節の弘規を貴び、言 出て身 播し、猶ほ幸と為すなり。
贊に曰く、安平 節を立て、雅性は貞亮なり。高密 和を含み、宗室の望たり。新蔡 禍に遇ひ、忠は全して元(かうべ)は喪ふ。譙閔 義を徇へ、力は屈し志は揚ぐ。勳は自ら戚ひを貽し、名は隕ち身は亡ぶ。順 恤忌せず、遐方に流播す。

〔一〕虞と虢は、どちらも春秋時代の国名。いずれも晋に滅ぼされた。
〔二〕魯と衛は、どちらも春秋時代の国名。国の始祖が兄弟の関係にある。
〔三〕『詩経』小雅 小明に「心之憂矣、自詒伊戚」とある。

現代語訳

史臣が言うには、泰始の初(二六五-)、天下に藩屏は少なかったが、魏王朝の失敗を改め、周王朝の旧典に従い、宗室を封建し、藩国とした。武帝のおじは虞虢と同じように尊く、兄弟は魯衛と同じく扱われ、晋王朝は長く存続し、本家と分家は百代となった。安平(司馬孚)の度量は広く、器量は高く、内に道義を広め、外に忠貞を広めた。高貴(曹髦)が亡くなると、死体を膝枕して泣いた。陳留(曹奐)が国に行くとき、別れを告げて落涙をした。「突風は強い草を目立たせる」とは、献王(司馬孚)を言ったものである。立場を上位に置かれ、長寿をもち、精美な模範となり、晋の宗室の優れた人物であり、子孫はこれを守って、何代も余禄を受けた。 高密(司馬泰)は風貌や見識が清遠であり、素朴で寡欲であり、孝により親を受け、忠により主君を奉ったので、彼の子孫の諸家は、国家の支柱であったと言える。新蔡(司馬騰)・南陽(司馬模)は、二人とも方鎮として派遣された。王室が多難にあい、中原が荒廃したので、義を表して節を通そうとしたが、事績は危難に満ちていた。ときに醜悪な者たちが多く、凶逆な者たちが日ごとに逞しくなり、少数では対抗できず、相次いで滅亡した、悲しいことである。 譙閔(司馬承)は落ち着きがあって勇敢であり、南方で藩鎮となった。姦悪な者(王敦)が乱をほしいままにし、兵を挙げて朝廷を脅かした。司馬承が忠を抱いて発憤し、義を湘州で立てたところ、荊沔の地域が呼応し、才能ある人々が協力した。(王敦に敗れて)筆頭の勲功こそなかったが、誠と節度をしっかりと表し、広く子孫らに伝播し、世代を超えて忠烈であった、素晴らしいことではないか。司馬勲は皇族の末端に生まれたが、性格が凶暴であった。しきりに朝廷の重役を担ったが、梁岷(梁州刺史)に推薦されると、親を捨てて主君に背き、恩に背いて命を投げ出した。庸蜀(益州)が豊穣な地なので、併合する野心を抱いた。江山の険阻さを頼りに、姦悪な計画を日ごとに練り上げた。良識ある人は残念に思い、積りに積もった憤怒を述べた。義士は奮激して(司馬勲を討伐し)、身の安全を顧みなかった。天罰が下り、時に応じて平定された。 もし(前漢の)汲黯が生きていれば、淮南の謀略を防いだように、(東晋の)周撫が死なねば、(司馬勲は)凶悪な行動を起こさなかったはずであり、邪により正をねじ伏せてしまったのは、時代が異なっても同じである。詩に「この憂いは自ら作り出したものだ」とあるが、これは司馬勲を言ったものである。習陽(司馬順)は宗室の余慶を受け、分限を守って隠逸を願い、領土の辺境に住み、世俗から離れようとし、匹夫の独善(晋宋革命の欺瞞)を顧み、卓越した節度や規範を尊んで、発言した後に流浪した、まだ幸いであったか。
贊に曰く、安平(司馬孚)は節義を立てて性格は忠貞であった。高密(司馬泰)は対立せず(軽々しく司馬瑋を救出せず)、宗室のなかの名望であった。新蔡(司馬騰)は禍いに遇ひ(汲桑らに殺害され)、忠を全うしたが首を失った。譙閔(司馬承)は義を唱えたが、力不足であったが志だけは宣揚した。司馬勲は自ら破滅の原因を作り、名は失墜し身は滅亡した。司馬順は(禅譲革命の批判を)口籠もらず、遠方に流浪した。