いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第八巻_宣五王文六王伝_平原王幹・琅邪王伷(子覲・澹・繇・漼)・清恵亭侯京・扶風王駿(子暢・歆)・梁王肜・斉王攸(子蕤・賛・寔)・城陽王兆・遼東王定国・広漢王広徳・楽安王鑒・楽平王延祚

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

宣五王

原文

宣帝九男、穆張皇后生景帝・文帝・平原王榦、伏夫人生汝南文成王亮・琅邪武王伷・清惠亭侯京・扶風武王駿、張夫人生梁王肜、柏夫人生趙王倫。亮及倫別有傳。

訓読

宣帝の九男、穆張皇后 景帝・文帝・平原王榦を生み、伏夫人 汝南文成王亮・琅邪武王伷・清惠亭侯京・扶風武王駿を生み、張夫人 梁王肜を生み、柏夫人 趙王倫を生む。亮及び倫 別に傳有り。

現代語訳

宣帝(司馬懿)の九人の男子は、穆張皇后が景帝・文帝・平原王榦を生み、伏夫人が汝南文成王亮・琅邪武王伷・清惠亭侯京・扶風武王駿を生み、張夫人が梁王肜を生み、柏夫人が趙王倫を生んだ。司馬亮及び司馬倫は別に列伝がある。

平原王榦

原文

平原王榦字子良。少以公子魏時封安陽亭侯、稍遷撫軍中郎將、進爵平陽鄉侯。五等建、改封定陶伯。武帝踐阼、封平原王、邑萬一千三百戶、給鼓吹・駙馬二匹、加侍中之服。咸寧初、遣諸王之國、榦有篤疾、性理不恒、而頗清虛靜退、簡於情欲、故特詔留之。太康末、拜光祿大夫、加侍中、特假金章紫綬、班次三司。惠帝即位、進左光祿大夫、侍中如故、劍履上殿、入朝不趨。
榦雖王大國、不事其務、有所調補、必以才能。雖有爵祿、若不在己、秩奉布帛、皆露積腐爛。陰雨則出犢車而內露車、或問其故、對曰、「露者宜內也」。朝士造之、雖通姓名、必令立車馬於門外、或終夕不見。時有得覲、與人物酬接、亦恂恂恭遜、初無闕失。前後愛妾死、既斂、輒不釘棺、置後空室中、數日一發視、或行淫穢、須其尸壞乃葬之。
趙王倫輔政、以榦為衞將軍。惠帝反正、復為侍中、加太保。齊王冏之平趙王倫也、宗室朝士皆以牛酒勞冏、榦獨懷百錢、見冏出之、曰、「趙王逆亂、汝能義舉、是汝之功、今以百錢賀汝。雖然、大勢難居、不可不慎」。冏既輔政、榦詣之、冏出迎拜。榦入、踞其牀、不命冏坐、語之曰、「汝勿效白女兒」。其意指倫也。及冏誅、榦哭之慟、謂左右曰、「宗室日衰、唯此兒最可、而復害之、從今殆矣」。
東海王越興義、至洛陽、往視榦、榦閉門不通。越駐車良久、榦乃使人謝遣、而自於門間闚之。當時莫能測其意、或謂之有疾、或以為晦迹焉。永嘉五年薨、時年八十。會劉聰寇洛、不遑贈謚。有二子、世子廣早卒、次子永以太熙中封安德縣公、散騎常侍、皆為善士。遇難、合門堙滅。

訓読

平原王榦 字は子良なり。少くして公子を以て魏の時に安陽亭侯に封ぜられ、稍く撫軍中郎將に遷り、爵を平陽鄉侯に進む。五等 建つや、改めて定陶伯に封ぜらる。武帝 踐阼するや、平原王に封ぜられ、邑は萬一千三百戶、鼓吹・駙馬二匹を給ひ、侍中の服を加ふ。咸寧の初め、諸王をして國に之かしぬるに、榦 篤疾有り、性理 恒ならず、而れども頗る清虛にして靜退、情欲に簡たれば、故に特に詔して之を留む。太康の末に、光祿大夫を拜し、侍中を加へられ、特に金章紫綬を假し、班は三司に次ぐ。惠帝 即位するや、左光祿大夫に進み、侍中たること故の如く、劍履上殿、入朝不趨とす。
榦 大國に王たると雖も、其の務に事へず、調補する所有らば、必ず才能を以てす。爵祿有ると雖も、己に在らざるが若く、秩奉の布帛、皆 露積して腐爛す。陰雨あれば則ち犢車を出だし露車を內る。或ひと其の故を問ふ。對へて曰く、「露なる者は宜しく內るべきなり」と。朝士 之に造るに、姓名を通ずと雖も、必ず車馬を門外に立てしめ、或いは終夕 見えず。時に覲るを得るもの有り、人物と與に酬接し、亦た恂恂として恭遜、初め闕失無し。前後に愛妾 死し、既に斂むれば、輒ち棺を釘うたず、後の空室の中に置き、數日に一たび發して視て、或いは淫穢を行ひ、其の尸の壞るるを須ちて乃ち之を葬る。
趙王倫 輔政するや、榦を以て衞將軍と為す。惠帝 反正するや、復た侍中と為り、太保を加ふ。齊王冏の趙王倫を平ぐるや、宗室朝士 皆 牛酒を以て冏を勞ふに、榦のみ獨り百錢を懷きて、冏に見えて之を出だして、曰く、「趙王 逆亂し、汝 能く義舉す。是れ汝の功なり。今 百錢を以て汝を賀せん。然りと雖も、大勢 居り難く、慎まざる可からず」と。冏 既に輔政するや、榦 之に詣り、冏 出でて迎拜す。榦 入り、其の牀に踞し、冏に坐するを命ぜず、之に語りて曰く、「汝 白女が兒に效ふ勿れ」と。其の意は倫を指すなり。冏 誅せらるに及び、榦 之に哭して慟し、左右に謂ひて曰く、「宗室 日々衰へ、唯だ此の兒のみ最も可なり。而れども復た之を害せば、今より殆からん」と。
東海王越 義を興し、洛陽に至るや、往きて榦を視るに、榦 閉門して通ぜず。越 車を駐むること良に久しく、榦 乃ち人をして謝遣せしめ、而れども自ら門間に於て之を闚ふ。當時に能く其の意を測るもの莫く、或ひと之を疾有りと謂ひ、或ひと以為へらく晦迹なりと。永嘉五年に薨じ、時に年八十なり。會々劉聰 洛を寇し、贈謚すること遑あらず。二子有り、世子の廣 早くに卒し、次子の永 太熙中を以て安德縣公に封ぜられ、散騎常侍、皆 善士為り。難に遇ひ、門を合して堙滅す。

現代語訳

平原王榦(司馬榦)は字を子良という。若いとき公子として魏の時代に安陽亭侯に封建され、しばらくして撫軍中郎将に遷り、爵位を平陽郷侯に進めた。五等爵制が設けられると、改めて定陶伯に封建された。武帝が即位すると、平原王に封建され、邑は一万一千三百戸で、鼓吹と駙馬二匹を給わり、侍中の服を加えられた。咸寧年間の初め、諸王を藩国に赴任させたが、司馬榦は病気持ちで、精神が普通でなく、しかし清廉で謙虚であり、欲望にあっさりしていたので、特別に詔して(洛陽に)留めた。太康年間の末、光禄大夫を拝し、侍中を加えられ、特別に金章紫綬を仮せられ、席次は三司に次いだ。恵帝が即位すると、左光禄大夫に進み、侍中は現状のままで、剣履上殿、入朝不趨とされた。
司馬榦は大国(平原)の王であるが、統治を行わず、人材登用を、(配下の)才能に基づいて行った。爵禄を受けても、他人ごとのようで、支給された布帛は、すべて野積みして腐敗させた。雨が降れば犢車を(屋外に)出して露車を入れた。あるひとが理由をたずねた。司馬榦は答えて、「露(雨ざらし)のものなら入れるべきだ」と言った。朝廷の人士が訪問すると、姓名を申し入れても、必ず車馬を門外に立てさせ、終日面会しなかった。あるとき面会できたものがおり、(司馬榦は)すぐれた人物とともに接遇し、誠意があって恭謙で、当初は失敗がなかった。前後して愛妾が亡くなり、棺に収めたが、釘を打たず、奥の空き部屋に安置し、数日に一度ふたを開けて見て、あるいは死体と交わり、損壊するまで埋葬しなかった。
趙王倫(司馬倫)が輔政すると、司馬榦を衛将軍とした。恵帝が復位すると、また侍中となり、太保を加えた。斉王冏(司馬冏)が趙王倫(司馬倫)を平定すると、宗室や朝士はみな牛酒で司馬冏を労ったが、司馬榦だけは百銭を懐に入れ、司馬冏に会ってこれを取り出し、「趙王が反逆し、きみは義挙を成し遂げた。きみの功績だ。いま百銭で祝福しよう。しかし、政局を保つのは難しく、慎重にせねばならない」と言った。司馬冏が輔政すると、司馬榦はかれを訪問し、司馬冏は出迎えて拝礼した。司馬榦は入室し、寝台に腰かけたが、司馬冏に着席を許さず、語りかけて、「きみは白女の二の舞を演じるな」と言った。(白女とは)司馬倫のことを指す。司馬冏が誅殺されると、司馬榦は慟哭し、左右のものに、「宗室は日ごとに衰えたが、この子だけは優秀であった。しかし殺害してしまえば、以後は危うくなるばかりだ」と言った。
東海王越(司馬越)が義兵を興し、洛陽に到着すると、司馬榦を訪問したが、司馬榦は門を閉ざして面会しなかった。司馬越が長く馬車を止めていると、司馬榦は使者を送って挨拶させ、自分は門の隙間から覗いた。このとき司馬榦の意図が分かるものがおらず、あるひとは病気だといい、あるひとは隠居(司馬越の拒絶)だと言った。永嘉五年に薨去し、このとき八十歳だった。たまたま劉聡が洛陽を侵略し、謚号を濫発した。二人の子がおり、世子の司馬広は早くに亡くなり、次子の司馬永は太熙年間に安徳県公に封建され、散騎常侍となったが、みな良き人材であった。(劉聡による)兵難にあい、門を閉ざして滅亡した。

琅邪王伷 子覲 澹 繇 漼

原文

琅邪武王伷字子將、正始初封南安亭侯。早有才望、起家為寧朔將軍、監守鄴城、有綏懷之稱。累遷散騎常侍、進封東武鄉侯、拜右將軍・監兗州諸軍事・兗州刺史。五等初建、封南皮伯。轉征虜將軍・假節。武帝踐阼、封東莞郡王、邑萬六百戶。始置二1.(郷)〔卿〕、特詔諸王自選令長。伷表讓、不許。入為尚書右僕射・撫軍將軍、出為鎮東大將軍・假節・徐州諸軍事、代衞瓘鎮下邳。伷鎮御有方、得將士死力、吳人憚之。加開府儀同三司、改封琅邪王、以東莞益其國。
平吳之役、率眾數萬出涂中、孫晧奉箋送璽綬、詣伷請降。詔曰、「琅邪王伷督率所統、連據涂中、使賊不得相救。又使琅邪相劉弘等進軍逼江、賊震懼、遣使奉偽璽綬。又使長史王恆率諸軍渡江、破賊邊守、獲督蔡機、斬首降附五六萬計、諸葛靚・孫奕等皆歸命請死。功勳茂著、其封子二人為亭侯、各三千戶、賜絹六千匹」。頃之、并督青州諸軍事、加侍中之服。進拜大將軍・開府儀同三司。
伷既戚屬尊重、加有平吳之功、克己恭儉、無矜滿之色、僚吏盡力、百姓懷化。疾篤、賜牀帳・衣服・錢帛・秔粱等物、遣侍中問焉。太康四年薨、時年五十七。臨終表求葬母太妃陵次、并乞分國封四子、帝許之。子恭王覲立。又封次子澹為武陵王、繇為東安王、漼為淮陵王。

1.中華書局本の校勘記に基づき、「郷」を「卿」に改める。

訓読

琅邪武王伷 字は子將、正始初に南安亭侯に封ぜらる。早より才望有り、起家して寧朔將軍と為り、鄴城を監守し、綏懷の稱有り。累りに散騎常侍に遷り、封を東武鄉侯に進め、右將軍・監兗州諸軍事・兗州刺史を拜す。五等 初めて建つや、南皮伯に封ぜらる。征虜將軍・假節に轉ず。武帝 踐阼するや、東莞郡王に封ぜられ、邑は萬六百戶なり。始めて二卿を置くに、特に詔して諸王をして令長を自選せしむ。伷 讓を表するに、許さず。入りて尚書右僕射・撫軍將軍と為り、出でて鎮東大將軍・假節・徐州諸軍事と為り、衞瓘に代はりて下邳に鎮す。伷 鎮御して方有り、將士の死力を得て、吳人 之を憚る。開府儀同三司を加へ、封を琅邪王に改め、東莞を以て其の國に益す。
平吳の役に、眾數萬を率ゐて涂中を出で、孫晧 箋を奉りて璽綬を送り、伷に詣りて降らんことを請ふ。詔して曰く、「琅邪王伷 督率して統ぶる所、連ねて涂中に據り、賊をして相 救ふを得しめず。又 琅邪相の劉弘らをして軍を進めて江に逼らしむ。賊 震懼し、使を遣はして偽璽綬を奉ず。又 長史の王恆をして諸軍を率ゐて江を渡らしめ、賊の邊守を破り、督の蔡機を獲て、斬首し降附するもの五六萬もて計へ、諸葛靚・孫奕ら皆 歸命して死を請ふ。功勳 茂著なれば、其れ子二人を封じて亭侯と為し、各々三千戶、絹六千匹を賜へ」と。頃之、督青州諸軍事を并はせ、侍中の服を加ふ。進みて大將軍・開府儀同三司を拜す。
伷 既に戚屬の尊重にして、加へて平吳の功有れども、克己し恭儉たりて、矜滿の色無く、僚吏 力を盡し、百姓 化に懷く。疾 篤く、牀帳・衣服・錢帛・秔粱らの物を賜はり、侍中を遣はして焉に問はしむ。太康四年 薨じ、時に年五十七なり。臨終に表して母の太妃の陵次に葬ることを求め、并せて國を分けて四子を封ずることを乞ひ、帝 之を許す。子の恭王覲 立つ。又 次子の澹を封じて武陵王と為し、繇を東安王と為し、漼を淮陵王と為す。

現代語訳

琅邪武王伷(司馬伷)は字を子将といい、正始年間の初めに南安亭侯に封建された。早くより才能と名望があり、起家して寧朔将軍となり、鄴城を監守し、(城下を)安んじ懐ける手腕を称えられた。しきりに散騎常侍に遷り、封号を東武郷侯に進め、右将軍・監兗州諸軍事・兗州刺史を拝した。五等爵制が設けられると、南皮伯に封建された。征虜将軍・仮節に転じた。武帝が即位すると、東莞郡王に封建され、食邑は一万六百戸であった。はじめて二卿が設置されると、特別に詔して諸王に長官を自薦させた。司馬伷は辞退を上表したが、許さなかった。(朝廷に)入って尚書右僕射・撫軍将軍となり、出て鎮東大将軍・仮節・徐州諸軍事となり、衛瓘に代わって下邳に鎮した。司馬伷の統治は常道にかない、将士から死力を引きだし、呉人は憚った。開府儀同三司を加え、封号を琅邪王に改め、東莞をその国に追加した。
呉の平定戦で、数万の軍を率いて涂中を出て、孫晧は書簡を奉って璽綬を送り、司馬伷を訪れて降服を願い出た。詔して、「琅邪王伷(司馬伷)の統御する軍は、連なって涂中を拠点とし、賊が相互に救うのを防止した。また琅邪相の劉弘らに軍を進めて長江に逼らせた。賊は震え恐れ、使者を派遣して偽の璽綬を提出した。また長史の王恒に諸軍を率いて長江を渡らせ、賊軍の辺境の守りを破り、督の蔡機を捕らえ、斬首し降服させたものは五六万を数え、諸葛靚・孫奕らはみな帰順して死刑を求めた。勲功が顕著であるため、二人の子を封建して亭侯とし、それぞれ三千戸、絹六千匹を与えよ」と言った。しばらくして、督青州諸軍事をあわせ、侍中の服を加えた。昇進して大将軍・開府儀同三司を拝した。
司馬伷は皇族の重鎮であり、しかも呉を平定した功績があったが、己を慎んで恭謙であり、傲慢な様子がなく、配下の僚吏は力を尽くし、百姓は教化に懐いた。病気が重くなると、牀帳・衣服・銭帛・秔粱らを下賜され、侍中に見舞いをさせた。太康四年に薨去し、このとき五十七歳であった。死に際に上表して母の太妃の陵のそばに葬ることを求め、さらに国を分割して四人の子を封建することを願い、武帝は承認した。子の恭王覲(司馬覲)が立った。また次子の司馬澹を武陵王に封建し、司馬繇を東安王とし、司馬漼を淮陵王とした。

原文

覲字思祖、拜宂從僕射。太熙元年薨、時年三十五。子睿立、是為元帝。中興初、以皇子裒為琅邪王、奉恭王祀。裒早薨、更以皇子煥為琅邪王。其日薨、復以皇子昱為琅邪王。咸和之初、既徙封會稽、成帝又以康帝為琅邪王。康帝即位、封成帝長子哀帝為琅邪王。哀帝即位、以廢帝為琅邪王。廢帝即位、以會稽王攝行琅邪國祀。簡文帝登阼、琅邪王無嗣。及帝臨崩、封少子道子為琅邪王。道子後為會稽王、更以恭帝為琅邪王。帝既即位、琅邪國除。
武陵莊王澹字思弘。初為宂從僕射、後封東武公、邑五千二百戶。轉前將軍・中護軍。性忌害、無孝友之行。弟東安王繇有令名、為父母所愛、澹惡之如讐、遂譖繇於汝南王亮、亮素與繇有隙、奏廢徙之。趙王倫作亂、以澹為領軍將軍。澹素與河內郭俶・俶弟侃親善。酒酣、俶等言張華之冤、澹性酗酒、因並殺之、送首于倫、其酗虐如此。
澹妻郭氏、賈后內妹也。初恃勢、無禮於澹母。齊王冏輔政、澹母諸葛太妃表澹不孝、乞還繇、由是澹與妻子徙遼東。其子禧年五歲、不肯隨去、曰、「要當為父求還、無為俱徙」。陳訴歷年、太妃薨、繇被害、然後得還。拜光祿大夫・尚書・太子太傅、改封武陵王。永嘉末為石勒所害、子哀王喆立。喆字景林、拜散騎常侍、亦為勒所害。無子、其後元帝立皇子晞為武陵王、以奉澹祀焉。
東安王繇字思玄。初拜東安公、歷散騎黃門侍郎、遷散騎常侍。美鬚髯、性剛毅、有威望、博學多才、事親孝、居喪盡禮。誅楊駿之際、繇屯雲龍門、兼統諸軍、以功拜右衞將軍、領射聲校尉、進封郡王、邑二萬戶、加侍中、兼典軍大將軍、領右衞如故。遷尚書右僕射、加散騎常侍。是日誅賞三百餘人、皆自繇出。東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺、繇慮俶為舅家之患、是日亦以非罪誅俶。
繇兄澹屢構繇於汝南王亮、亮不納。至是以繇專行誅賞、澹因隙譖之、亮惑其說、遂免繇官、以公就第、坐有悖言、廢徙帶方。永康初、徵繇、復封、拜宗正卿、遷尚書、轉左僕射。惠帝之討成都王穎、時繇遭母喪在鄴、勸穎解兵而降。及王師敗績、穎怨繇、乃害之。後立琅邪王覲子長樂亭侯渾為東安王、以奉繇祀。尋薨、國除。
淮陵元王漼字思沖。初封廣陵公、食邑二千九百戶。歷左將軍・散騎常侍。趙王倫之篡也、三王起義、漼與左衞將軍王輿攻殺孫秀、因而廢倫。以功進封淮陵王、入為尚書、加侍中、轉宗正・光祿大夫。薨、子貞王融立。薨、無子、安帝時立武陵威王孫蘊為淮陵王、以奉元王之祀、位至散騎常侍。薨、無子、以臨川王寶子安之為嗣。宋受禪、國除。

訓読

覲 字は思祖、宂從僕射を拜す。太熙元年に薨じ、時に年三十五なり。子の睿 立ち、是れ元帝為り。中興の初に、皇子の裒を以て琅邪王と為し、恭王の祀を奉る。裒 早くに薨じ、更めて皇子の煥を以て琅邪王と為る。其の日に薨じ、復た皇子の昱を以て琅邪王と為す。咸和の初に、既に封を會稽に徙し、成帝 又 康帝を以て琅邪王と為す。康帝 即位するや、成帝の長子の哀帝を封じて琅邪王と為す。哀帝 即位するや、廢帝を以て琅邪王と為す。廢帝 即位するや、會稽王を以て琅邪の國祀を攝行せしむ。簡文帝 登阼するや、琅邪王 嗣無し。帝 崩に臨むに及び、少子の道子を封じて琅邪王と為す。道子は後に會稽王と為るや、更めて恭帝を以て琅邪王と為す。帝 既に即位するや、琅邪國 除かる。
武陵莊王澹 字は思弘なり。初め宂從僕射と為り、後に東武公に封じ、邑は五千二百戶なり。前將軍・中護軍に轉ず。性は忌害にして、孝友の行ひ無し。弟の東安王繇 令名有れば、父母の愛する所と為り、澹 之を惡むこと讐が如く、遂に繇を汝南王亮に譖る。亮 素より繇と隙有れば、奏して之を廢徙す。趙王倫 亂を作すや、澹を以て領軍將軍と為す。澹 素より河內の郭俶・俶が弟の侃と與に親善たり。酒酣に、俶ら張華の冤を言ひ、澹の性 酗酒なれば、因りて並びに之を殺し、首を倫に送る。其の酗虐 此の如し。
澹が妻の郭氏、賈后の內妹なり。初め勢を恃み、澹が母に禮無し。齊王冏 輔政するや、澹が母の諸葛太妃 澹が不孝を表して、繇に還らんと乞ふ。是に由り澹 妻子と與に遼東に徙さる。其の子の禧 年五歲にして、隨ひて去ることを肯ぜず、曰く、「要に當に父の為に還さんことを求むべし、為に俱に徙る無し」と。陳訴すること歷年にして、太妃 薨じ、繇 害せられ、然る後に還るを得たり。光祿大夫・尚書・太子太傅を拜し、改めて武陵王に封ぜらる。永嘉末に石勒の害する所と為り、子の哀王喆 立つ。喆 字は景林、散騎常侍を拜し、亦た勒の害する所と為る。子無く、其の後 元帝 皇子の晞を立てて武陵王と為し、以て澹が祀を奉ぜしむ。
東安王繇 字は思玄なり。初め東安公を拜し、散騎黃門侍郎を歷し、散騎常侍に遷る。鬚髯美しく、性は剛毅にして、威望有り。博學多才にして、親に事へれば孝、喪に居りては禮を盡す。楊駿を誅する際、繇 雲龍門に屯し、兼せて諸軍を統べ、功を以て右衞將軍を拜し、射聲校尉を領し、封を郡王に進め、邑は二萬戶、侍中を加へ、典軍大將軍を兼ね、右衞を領すること故の如し。尚書右僕射に遷り、散騎常侍を加ふ。是の日 三百餘人を誅賞するに、皆 繇より出づ。東夷校尉の文俶が父の欽 繇が外祖の諸葛誕の殺す所と為れば、繇 俶を慮ひて舅家の患と為し、是の日 亦た罪に非ざるを以て俶を誅す。
繇が兄の澹 屢々繇を汝南王亮に構するも、亮 納れず。是に至り繇の誅賞を專行するを以て、澹 隙に因り之を譖り、亮 其の說に惑ひ、遂に繇が官を免じ、公を以て第に就かしむ。悖言有るに坐し、廢して帶方に徙す。永康の初に、繇を徵し、封を復し、宗正卿を拜し、尚書に遷し、左僕射に轉ず。惠帝の成都王穎を討つや、時に繇 母の喪に遭ひて鄴に在り、穎に兵を解きて降らんことを勸む。王師 敗績するに及び、穎 繇を怨み、乃ち之を害す。後に琅邪王覲が子の長樂亭侯渾を立てて東安王と為し、以て繇の祀を奉ぜしむ。尋いで薨じ、國 除かる。
淮陵元王漼 字は思沖なり。初め廣陵公に封じ、食邑二千九百戶なり。左將軍・散騎常侍を歷す。趙王倫の篡するや、三王 起義し、漼 左衞將軍の王輿と與に攻めて孫秀を殺し、因りて倫を廢す。功を以て封を淮陵王に進め、入りて尚書と為り、侍中を加へ、宗正・光祿大夫に轉ず。薨じ、子の貞王融 立つ。薨じ、子無く、安帝の時に武陵威王が孫の蘊を立てて淮陵王と為し、以て元王の祀を奉ぜしめ、位は散騎常侍に至る。薨じ、子無く、臨川王寶が子の安之を以て嗣と為す。宋 受禪し、國 除かる。

現代語訳

司馬覲は字は思祖といい、冗従僕射を拝した。太熙元年に薨去し、このとき三十五歳であった。子の司馬睿が立ち、これが元帝である。中興(東晋建国)の初め、皇子の司馬裒を琅邪王とし、恭王の祭祀を奉じさせた。司馬裒が早くに薨じ、あらためて皇子の司馬煥を琅邪王とした。その日に薨じ、また皇子の司馬昱を琅邪王とした。咸和年間の初め、封地を会稽に移し、成帝はさらに康帝を琅邪王とした。康帝が即位すると、成帝の長子の哀帝を封建して琅邪王とした。哀帝が即位すると、廃帝を琅邪王とした。廃帝が即位すると、会稽王に琅邪の国の祭祀を代行させた。簡文帝が即位すると、琅邪王に後嗣がいなかった。簡文帝が崩御に際し、末子の司馬道子を琅邪王に封建した。司馬道子がのちに会稽王となると、あらためて恭帝を琅邪王とした。恭帝が即位すると、琅邪国は除かれた。
武陵荘王澹(司馬澹)は字を思弘という。はじめ冗従僕射となり、のちに東武公に封建され、邑は五千二百戸であった。前将軍・中護軍に転じた。ひとを憎んで危害を加え、孝や友の行いがなかった。弟の東安王繇(司馬繇)に名声があり、父母に愛されたので、司馬澹は司馬繇を仇敵のように憎み、司馬繇のことを汝南王亮に向けて讒言した。司馬亮はもとから司馬繇と不仲なので、上奏して廃位し(封地を)移した。趙王倫(司馬倫)が乱を起こすと、司馬澹を領軍将軍とした。司馬澹はふだんから河内の郭俶とその弟の郭侃と親友であった。酒宴で、郭俶らが張華の冤罪について発言すると、司馬澹は酒癖が悪く、酔った勢いで二人を殺し、首を司馬倫に送った。酒癖の悪さはこのようであった。
司馬澹の妻の郭氏は、賈后の内妹(親族)であった。はじめ(賈后の)権勢を頼みにし、司馬澹の母に対して(嫁として)礼を行わなかった。斉王冏(司馬冏)が輔政すると、司馬澹の母の諸葛太妃は司馬澹の不孝ぶりを上表し、司馬繇のもとに還りたいと申し出た。これにより司馬澹は妻子とともに遼東に移された。子の司馬禧は五歳であったが、(司馬澹に)従って遼東に行くのを拒み、「父のために(中央への)帰還を要請しよう、一緒に行かない」と言った。訴え続けて年をこえ、太妃(諸葛氏)が薨じ、司馬繇が殺害され、その後に(司馬澹は)帰還できた。光禄大夫・尚書・太子太傅を拝し、改めて武陵王に封建された。永嘉年間の末に石勒に殺害され、子の哀王喆(司馬喆)が立った。司馬喆は字を景林といい、散騎常侍を拝したが、同様に石勒に殺害された。子がおらず、その後に元帝は皇子の司馬晞を立てて武陵王とし、司馬澹の祭祀を奉じさせた。
東安王繇(司馬繇)は字を思玄という。はじめ東安公を拝し、散騎黄門侍郎を経て、散騎常侍に遷った。鬚髯が美しく、性格は剛毅で、威望があった。博学多才で、親につかれば孝であり、喪の服しては礼を尽くした。楊駿を誅殺するとき、司馬繇は雲龍門に駐屯し、あわせて諸軍を統率し、その功績で右衛将軍を拝し、射声校尉を領し、封号を郡王に進め、食邑は二万戸で、侍中を加え、典軍大将軍を兼ね、右衛を領することは現状のままとした。尚書右僕射に遷り、散騎常侍を加えた。この日に三百人あまりの誅殺や褒賞を行ったが、すべて司馬繇が決定した。東夷校尉の文俶の父の文欽が(魏の時代に)司馬繇の外祖の諸葛誕に殺されたので、司馬繇は文俶が母方の仇敵となることを懸念し、この日に罪なき文俶をまとめて誅殺した。
司馬繇の兄の司馬澹はしばしば汝南王亮(司馬亮)に向けて司馬繇を批判したが、司馬亮は聞き入れなかった。やがて司馬繇が誅伐と褒賞を独断専行すると、司馬澹は隙を突いて批難し、司馬亮はその意見に惑わされ、ついに司馬繇の官位を罷免し、公の爵のまま邸宅に帰した。暴言があったとし、爵位を廃して帯方に移された。永康年間の初め、司馬繇を徴召し、封号を回復し、宗正卿を拝命させ、尚書に遷り、左僕射に転じた。恵帝が成都王穎(司馬穎)を討伐すると、このとき司馬繇は母が亡くなって鄴にいたが、司馬穎に兵を解散して降服するように勧めた。王師(恵帝の軍)が敗北すると、司馬穎は司馬繇を怨み、殺害した。のちに琅邪王覲(司馬覲)の子の長楽亭侯渾(司馬渾)を立てて東安王とし、司馬繇の祭祀を奉じさせた。ほどなく薨じ、国は除かれた。
淮陵元王漼(司馬漼)は字を思沖という。はじめ広陵公に封建され、食邑は二千九百戸であった。左将軍・散騎常侍を歴任した。趙王倫(司馬倫)が簒奪すると、三王が義兵を起こし、司馬漼は左衛将軍の王輿とともに攻めて孫秀を殺し、そのため司馬倫は廃位された。功績により封号を淮陵王に進め、(朝廷に)入って尚書となり、侍中を加え、宗正・光禄大夫に転じた。薨去し、子の貞王融(司馬融)が立った。薨去し、子がなく、安帝のときに武陵威王の孫の司馬蘊を立てて淮陵王とし、元王の祭祀を奉じさせ、官位は散騎常侍に至った。薨去し、子がおらず、臨川王宝(司馬宝)の子の司馬安之を後嗣とした。宋が受禅し、国は除かれた。

清惠亭侯京

原文

清惠亭侯京字子佐、魏末以公子賜爵。年二十四薨、追贈射聲校尉、以文帝子機、字太玄為嗣。泰始元年、封燕王、邑六千六百六十三戶。機之國、咸寧初徵為步兵校尉、以漁陽郡益其國、加侍中之服。拜青州都督・鎮東將軍・假節、以北平・上谷・廣寗郡一萬三百三十七戶增燕國為二萬戶。薨、無子、齊王冏表以子幾嗣。後冏敗、國除。

訓読

清惠亭侯京 字は子佐、魏末に公子を以て爵を賜ふ。年二十四にして薨じ、追ひて射聲校尉を贈らる。文帝の子の機、字は太玄を以て嗣と為す。泰始元年に、燕王に封じ、邑六千六百六十三戶なり。機 國に之き、咸寧初に徵して步兵校尉と為し、漁陽郡を以て其の國に益し、侍中の服を加ふ。青州都督・鎮東將軍・假節を拜し、北平・上谷・廣寗郡一萬三百三十七戶を以て燕國に增して二萬戶と為す。薨じ、子無く、齊王冏 表して子の幾を以て嗣がしむ。後に冏 敗れ、國 除かる。

現代語訳

清恵亭侯京(司馬京)は字を子佐といい、魏の末期に公子として爵位を賜った。二十四歳で薨じ、追って射声校尉を贈られた。文帝の子である司馬機、字は太玄を後嗣とした。泰始元年、燕王に封建し、邑は六千六百六十三戸であった。司馬機は国に赴き、咸寧年間の初めに徴召されて歩兵校尉となり、漁陽郡をその国に増し、侍中の服を加えた。青州都督・鎮東将軍・仮節を拝し、北平・上谷・広寗郡の一万三百三十七戸を燕国に加えて二万戸とした。薨去し、子がおらず、斉王冏(司馬冏)は上表して子の司馬幾に嗣がせた。のちに司馬冏が敗れると、国は除かれた。

扶風王駿 子暢 歆

原文

扶風武王駿字子臧。幼聰惠、年五六歲能書疏、諷誦經籍、見者奇之。及長、清貞守道、宗室之中最為儁望。魏景初中、封平陽亭侯。齊王芳立、駿年八歲、為散騎常侍侍講焉。尋遷步兵・屯騎校尉、常侍如故。進爵鄉侯、出為平南將軍・假節・都督淮北諸軍事、改封平壽侯、轉安東將軍。咸熙初、徙封東牟侯、轉安東大將軍、鎮許昌。
武帝踐阼、進封汝陰王、邑萬戶、都督豫州諸軍事。吳將丁奉寇芍陂、駿督諸軍距退之。遷使持節・都督揚州諸軍事、代石苞鎮壽春。尋復都督豫州、還鎮許昌。遷鎮西大將軍・使持節・都督雍涼等州諸軍事、代汝南王亮鎮關中、加袞冕侍中之服。
駿善撫御、有威恩、勸督農桑、與士卒分役、己及僚佐并將帥兵士等人限田十畝、具以表聞。詔遣普下州縣、使各務農事。
咸寧初、羌虜樹機能等叛、遣眾討之、斬三千餘級。進位征西大將軍、開府辟召、儀同三司、持節・都督如故。又詔駿遣七千人代涼州守兵。樹機能・侯彈勃等欲先劫佃兵、駿命平虜護軍文俶督涼・秦・雍諸軍各進屯以威之。機能乃遣所領二十部及彈勃面縛軍門、各遣入質子。安定・北地・金城諸胡吉軻羅・侯金多及北虜熱冏等二十萬口又來降。其年入朝、徙封扶風王、以氐戶在國界者增封、給羽葆・鼓吹。太康初、進拜驃騎將軍、開府・持節・都督如故。
駿有孝行、母伏太妃隨兄亮在官、駿常涕泣思慕、若聞有疾、輒憂懼不食、或時委官定省。少好學、能著論、與荀顗論仁孝先後、文有可稱。及齊王攸出鎮、駿表諫懇切、以帝不從、遂發病薨。追贈大司馬、加侍中・假黃鉞。西土聞其薨也、泣者盈路、百姓為之樹碑、長老見碑無不下拜、其遺愛如此。有子十人、暢・歆最知名。

訓読

扶風武王駿 字は子臧。幼くして聰惠、年五六歲にして能く疏を書し、經籍を諷誦し、見る者 之を奇とす。長ずるに及び、清貞にして道を守り、宗室の中に最も儁望為り。魏の景初中、平陽亭侯に封ぜらる。齊王芳 立ち、駿 年八歲にして、散騎常侍と為りて焉に侍講す。尋いで步兵・屯騎校尉に遷り、常侍たること故の如し。爵を鄉侯に進め、出でて平南將軍・假節・都督淮北諸軍事と為り、封を平壽侯に改め、安東將軍に轉ず。咸熙の初に、封を東牟侯に徙し、安東大將軍に轉じ、許昌に鎮す。
武帝 踐阼するや、封を汝陰王に進め、邑は萬戶、都督豫州諸軍事なり。吳將の丁奉 芍陂を寇するや、駿 諸軍を督して距して之を退く。使持節・都督揚州諸軍事に遷り、石苞に代はりて壽春に鎮す。尋いで都督豫州に復し、還りて許昌に鎮す。鎮西大將軍・使持節・都督雍涼等州諸軍事に遷り、汝南王亮に代はりて關中に鎮し、袞冕侍中の服を加ふ。
駿 撫御に善く、威恩有り、農桑を勸督し、士卒と與に役を分け、己れ及び僚佐 并びに將帥兵士ら人ごとに田十畝を限り、具さに以て表聞す。詔して普く州縣に下さしめ、各々農事に務めしむ。
咸寧の初に、羌虜の樹機能ら叛するや、眾を遣はして之を討ち、三千餘級を斬る。位を征西大將軍に進め、開府辟召、儀同三司、持節・都督なること故の如し。又 駿に詔して七千人を遣はして涼州の守兵に代はらしむ。樹機能・侯彈勃ら先に佃兵を劫せんと欲するに、駿 平虜護軍の文俶に命じて涼・秦・雍の諸軍を督して各々屯を進めて以て之を威さしむ。機能 乃ち領する所の二十部及び彈勃を遣はして軍門に面縛し、各々質子を入れしむ。安定・北地・金城の諸胡の吉軻羅・侯金多及び北虜の熱冏ら二十萬口も又 來降す。其の年に入朝し、封を扶風王に徙し、氐戶の國界に在る者を以て封を增し、羽葆・鼓吹を給ふ。太康の初に、進みて驃騎將軍を拜し、開府・持節・都督なること故の如し。
駿 孝行有り、母の伏太妃 兄の亮の官に在るに隨ひ、駿 常に涕泣して思慕し、若し疾有りと聞かば、輒ち憂懼して食はず、或る時に官を委てて定省す。少くして學を好み、著論を能くし、荀顗と與に仁孝の先後を論じ、文は稱す可きもの有り。齊王攸 出鎮するに及び、駿 表して諫すること懇切たりて、帝の從はざるを以て、遂に病を發して薨ず。大司馬を追贈し、侍中・假黃鉞を加ふ。西土 其の薨ずるを聞くや、泣く者 路に盈ち、百姓 之の為に碑を樹て、長老 碑を見て下拜せざる無く、其の遺愛 此の如し。子十人有り、暢・歆 最も名を知らる。

現代語訳

扶風武王駿(司馬駿)は字を子臧という。幼くして才智にすぐれ、五六歳で疏を書くことができ、経籍を暗誦し、彼を見たものは格別だと認めた。成長すると、清く正しく道を守り、宗室のなかで最も優秀で名声があった。魏の景初年間、平陽亭侯に封建された。斉王芳(曹芳)が即位すると、司馬駿は八歳であったが、散騎常侍となり(天子に)侍講した。ほどなく歩兵・屯騎校尉に遷り、常侍は現状のままとした。爵位を郷侯に進め、(朝廷を)出て平南将軍・仮節・都督淮北諸軍事となり、封号を平寿侯に改め、安東将軍に転じた。咸熙年間の初め、封号を東牟侯に移し、安東大将軍に転じ、許昌に鎮した。
武帝が即位すると、封号を汝陰王に進め、食邑は一万戸、都督豫州諸軍事となった。呉将の丁奉が芍陂を侵略すると、司馬駿は諸軍を督して防衛し(呉軍を)退けた。使持節・都督揚州諸軍事に遷り、石苞に代わって寿春に鎮した。すぐに都督豫州にもどり、還って許昌に鎮した。鎮西大将軍・使持節・都督雍涼等州諸軍事に遷り、汝南王亮に代わって関中に鎮し、袞冕と侍中の服を加えられた。
司馬駿は統率を得意とし、威も恩もあり、農桑を勧めて監督し、士卒とも役割を分担し、自分と部下の官僚ならびに将帥や兵士にも一人あたり田十畝を担当させ、実情を詳しく報告させた。詔して広く州県に下し、それぞれ農事に務めさせた。
咸寧年間の初め、羌虜の樹機能らが叛乱すると、(司馬駿は)軍を派遣して討伐し、三千級あまりを斬った。官位を征西大将軍に進め、開府辟召、儀同三司、持節・都督は現状のままとした。また司馬駿に詔して七千人を派遣して涼州の守兵と交替させた。樹機能と侯弾勃らがさきに屯田の兵を襲撃しようとすると、司馬駿は平虜護軍の文俶に命じて涼・秦・雍州の諸軍を督してそれぞれ屯営を前進させ(樹機能を)威圧した。樹機能は率いている二十部の兵と侯弾勃を送って(司馬駿に降服して)軍門で面縛し、それぞれ人質を入れた。安定・北地・金城の諸胡の吉軻羅・侯金多及び北虜の熱冏ら二十万口もまたやって来て降服した。(司馬駿は)同年に朝廷に入り、封号を扶風王に移し、国内にいる氐族の戸数を食邑に加算し、羽葆と鼓吹を給わった。太康年間の初め、進んで驃騎将軍を拝し、開府・持節・都督は現状のままとした。
司馬駿は孝行であり、母の伏太妃がいる兄の司馬亮の官舎をおとずれ、司馬駿はつねに落涙して思慕し、もし母が病気と聞けば、そのたびに憂い懼れて食事をせず、あるときは公務を捨てて朝晩に世話をした。若くして学問を好み、著作が巧みで、荀顗とともに仁と孝とはどちらが先か後かを論じ、文は称賛に値するものであった。斉王攸(司馬攸)が出鎮すると、司馬駿は上表して懇切に諫めたが、武帝が聞き入れないので、とうとう病気になって薨去した。大司馬を追贈し、侍中・仮黄鉞を加えた。西土(関中)では彼の薨去を聞くと、泣く者が道路に満ちあふれ、万民は彼のために碑を立て、長老は碑を見て拝礼せぬものがなく、(かつての任地に)残した恩愛はこのようであった。子が十人おり、暢・歆が最も名を知られた。

原文

暢字玄舒。改封順陽王、拜給事中・屯騎校尉・游擊將軍。永嘉末、劉聰入洛、不知所終。
新野莊王歆字弘舒。武王薨後、兄暢推恩請分國封歆。太康中、詔封新野縣公、邑千八百戶、儀比縣王。歆雖少貴、而謹身履道。母臧太妃薨、居喪過禮、以孝聞。拜散騎常侍。
趙王倫篡位、以為南中郎將。齊王冏舉義兵、移檄天下、歆未知所從。嬖人王綏曰、「趙親而強、齊疏而弱、公宜從趙」。參軍孫洵大言於眾曰、「趙王凶逆、天下當共討之、大義滅親、古之明典」。歆從之。乃使洵詣冏、冏迎執其手曰、「使我得成大節者、新野公也」。冏入洛、歆躬貫甲冑、率所領導冏。以勳進封新野郡王、邑二萬戶。遷使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大將軍・開府儀同三司。
歆將之鎮、與冏同乘謁陵、因說冏曰、「成都至親、同建大勳、今宜留之與輔政。若不能爾、當奪其兵權」。冏不從。俄而冏敗、歆懼、自結於成都王穎。
歆為政嚴刻、蠻夷並怨。及張昌作亂於江夏、歆表請討之。時長沙王乂執政、與成都王穎有隙、疑歆與穎連謀、不聽歆出兵、昌眾日盛。時孫洵為從事中郎、謂歆曰、「古人有言、一日縱敵、數世之患。公荷藩屏之任、居推轂之重、拜表輒行、有何不可。而使姦凶滋蔓、禍釁不測、豈維翰王室、鎮靜方夏之謂乎」。歆將出軍、王綏又曰、「昌等小賊、偏裨自足制之、不煩違帝命、親矢石也」。乃止。昌至樊城、歆出距之、眾潰、為昌所害。追贈驃騎將軍。無子、以兄子劭為後、永嘉末沒於石勒。

訓読

暢 字は玄舒。封を順陽王に改め、給事中・屯騎校尉・游擊將軍を拜す。永嘉の末に、劉聰 洛に入り、終はる所を知らず。
新野莊王歆 字は弘舒なり。武王 薨ずる後、兄の暢 推恩して國を分けて歆を封ぜんことを請ふ。太康中に、詔して新野縣公に封じ、邑は千八百戶、儀は縣王に比ふ。歆 少くして貴なると雖も、而れども身を謹しみ道を履む。母の臧太妃 薨じ、喪に居るに禮を過し、孝を以て聞こゆ。散騎常侍を拜す。
趙王倫 位を篡するや、以て南中郎將と為す。齊王冏 義兵を舉げ、檄を天下に移すに、歆 未だ從ふ所を知らず。嬖人の王綏曰く、「趙 親にして強、齊 疏にして弱し。公 宜しく趙に從ふべし」と。參軍の孫洵 眾に大言して曰く、「趙王 凶逆なれば、天下 當に共に之を討つべし。大義 親を滅するは、古の明典なり」と。歆 之に從ふ。乃ち洵をして冏に詣らしめ、冏 迎へて其の手を執りて曰く、「我をして得て大節を成さしむる者は、新野公なり」と。冏 洛に入るや、歆 躬ら甲冑を貫き、領する所を率ゐて冏を導く。勳を以て封を新野郡王に進め、邑は二萬戶なり。使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大將軍・開府儀同三司に遷る。
歆 將に鎮に之かんとするに、冏と與に同乘して陵に謁し、因りて冏に說きて曰く、「成都 至親にして、同に大勳を建つ。今 宜しく之を留めて與に輔政すべし。若し爾る能はずんば、當に其の兵權を奪ふべし」と。冏 從はず。俄かにして冏 敗れ、歆 懼れ、自ら成都王穎に結ぶ。
歆の為政 嚴刻にして、蠻夷 並びに怨む。張昌 亂を江夏に作すに及び、歆 表して之を討たんことを請ふ。時に長沙王乂 執政し、成都王穎と隙有り。歆 穎と謀を連ぬるを疑ひ、歆に兵を出すことを聽さず、昌の眾 日ごとに盛なり。時に孫洵 從事中郎と為り、歆に謂ひて曰く、「古人に言有り、一日 敵を縱にせば、數世の患なりと。公 藩屏の任を荷ひ、推轂の重に居り。表を拜して輒ち行くに、何ぞ可ならざること有らん。而れども姦凶をして滋蔓せしめば、禍釁 測らず、豈に維れ王室に翰たりて、方夏を鎮靜するの謂ひか」と。歆 將に軍を出ださんとするに、王綏 又 曰く、「昌ら小賊なり、偏裨あれば自ら之を制するに足る。帝命に違ひて、矢石に親らするを煩はざるなり」と。乃ち止む。昌 樊城に至り、歆 出でて之を距ぐ。眾 潰し、昌の害する所と為る。驃騎將軍を追贈す。子無く、兄の子の劭を以て後と為し、永嘉の末に石勒に沒す。

現代語訳

司馬暢は字を玄舒という。封号を順陽王に改め、給事中・屯騎校尉・游撃将軍を拝した。永嘉の末期、劉聡が洛陽に入り、最期は不明である。
新野荘王歆(司馬歆)は字を弘舒という。武王が薨去した後、兄の司馬暢は恩恵によって国を分割して司馬歆を封建するように求めた。太康年間、詔して新野県公に封建され、食邑は千八百戸で、儀礼は県王に準えた。司馬歆は若くして高貴となったが、身を謹んで道を実践した。母の臧太妃が薨去すると、服喪が礼の規定を超え、孝によって評判を得た。散騎常侍を拝した。
趙王倫(司馬倫)が帝位を簒奪すると、南中郎将とした。斉王冏(司馬冏)が義兵を挙げ、檄文を天下に回付すると、司馬歆はどちらに従えばよいか分からなかった。嬖人(寵愛する臣)の王綏は、「趙(王の司馬倫)は近親で強く、斉(王の司馬冏)は疎遠で弱い。あなたさまは趙に従うべきです」と言った。参軍の孫洵は部下らに、「趙王は凶逆である、天下はともに討伐すべきだ。大義が親しさに優先するのは、古の典籍が明らかにしている」と宣言した。司馬歆はこちらに従った。孫洵を司馬冏のもとに派遣すると、司馬冏は迎えて孫洵の手を執り、「私に大いなる節義を達成させるのは、新野公(司馬歆)である」と言った。司馬冏が洛陽に入ると、司馬歆は自ら甲胄を身につけ、配下を率いて司馬冏を先導した。勲功により封号を新野郡王に進め、食邑は二万戸であった。使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大将軍・開府儀同三司に遷った。
司馬歆が鎮所に赴任しようとすると、司馬冏は馬車に同乗して陵墓を参り、そこで(司馬歆は)司馬冏に説いて、「成都王(司馬穎)は最も親しく、ともに大きな功績を立てた。彼を留めて一緒に輔政すべきだ。もしそうしないならば、彼から兵権を奪うべきだ」と言った。司馬冏は従わなかった。直後に司馬冏が敗れると、司馬歆は懼れ、みずから成都王穎(司馬穎)と結んだ。
司馬歆の為政は厳しく刻薄で、蛮夷はみな彼を怨んだ。張昌が乱を江夏で起こすと、司馬歆は上表して討伐を要請した。このとき長沙王乂(司馬乂)が執政し、成都王穎(司馬穎)と対立していた。(司馬乂は)司馬歆が司馬穎と謀略を結ぶことを疑い、司馬歆に兵の動員を許さなかった。張昌の軍勢は日ごとに盛んになった。このとき孫洵は従事中郎であり、司馬歆に、「古人に格言があります、一日でも敵を自由にすれば、数世代にわたり脅威となると。あなたは藩屏の任務を預かり、天子を輔佐する重任にあります。上表して出陣することに、なんの問題があるのですか。もしも姦悪なもの(張昌)を伸張させれば、禍難が計り知れず、これでは王室の柱石として、中華を鎮静化していると言えましょうか」と言った。司馬歆が兵を動員しようとすると、かたや王綏は、「張昌らは小規模な賊で、一部隊があれば十分に制圧できます。皇帝の命令に背き、自ら戦場に出るまでもありません」と言った。そこで中止した。張昌が樊城に至ると、司馬歆は城を出て防いだ。軍勢が崩壊し、張昌に殺害された。驃騎将軍を追贈した。子がおらず、兄の子の司馬劭を後嗣としたが、永嘉年間の末に石勒に捕らわれた。

梁王肜

原文

梁孝王肜字子徽。清修恭慎、無他才能、以公子封平樂亭侯。及五等建、改封開平子。武帝踐阼、封梁王、邑五千三百五十八戶。及之國、遷北中郎將、督鄴城守事。
時諸王自選官屬、肜以汝陰上計吏張蕃為中大夫。蕃素無行、本名雄、妻劉氏解音樂、為曹爽教伎。蕃又往來何晏所、而恣為姦淫。晏誅、徙河間、乃變名自結於肜。為有司所奏、詔削一縣。咸寧中、復以陳國・汝南南頓增封為次國。太康中、代孔洵監豫州軍事、加平東將軍、鎮許昌。頃之、又以本官代下邳王晃監青徐州軍事、進號安東將軍。
元康初、轉征西將軍、代秦王柬都督關中軍事、領護西戎校尉。加侍中、進督梁州。尋徵為衞將軍・錄尚書事、行太子太保、給千兵百騎。久之、復為征西大將軍、代趙王倫鎮關中、都督涼・雍諸軍事、置左右長史・司馬。又領西戎校尉、屯好畤、督建威將軍周處・振威將軍盧播等伐氐賊齊萬年於六陌。肜與處有隙、促令進軍而絕其後、播又不救之、故處見害。朝廷尤之。尋徵拜大將軍・尚書令・領軍將軍・錄尚書事。
肜嘗大會、謂參軍王銓曰、「我從兄為尚書令、不能啖大臠。大臠故難」。銓曰、「公在此獨嚼、尚難矣」。肜曰、「長史大臠為誰」。曰、「盧播是也」。肜曰、「是家吏、隱之耳」。銓曰、「天下咸是家吏、便恐王法不可復行」。肜又曰、「我在長安、作何等不善」。因指單衣補幰以為清。銓答曰、「朝野望公舉薦賢才、使不仁者遠。而位居公輔、以衣補幰、以此為清、無足稱也」。肜有慚色。
永康初、共趙王倫廢賈后、詔以肜為太宰・守尚書令、增封二萬戶。趙王倫輔政、有星變、占曰「不利上相」。孫秀懼倫受災、乃省司徒為丞相、以授肜、猥加崇進、欲以應之。或曰、「肜無權、不益也」。肜固讓不受。及倫篡位、以肜為阿衡、給武賁百人、軒懸之樂十人。倫滅、詔以肜為太宰、領司徒、又代高密王泰為宗師。
1.永康二年薨、喪葬依汝南文成王亮故事。博士陳留蔡克議諡曰、「肜位為宰相、責深任重、屬尊親近、且為宗師、朝所仰望、下所具瞻。而臨大節、無不可奪之志。當危事、不能舍生取義。愍懷之廢、不聞一言之諫。淮南之難、不能因勢輔義。趙王倫篡逆、不能引身去朝。宋有蕩氏之亂、華元自以不能居官、曰、君臣之訓、我所司也。公室卑而不正、吾罪大矣。夫以區區之宋、猶有不素餐之臣、而況帝王之朝、而有苟容之相、此而不貶、法將何施。謹案諡法、不勤成名曰靈、肜見義不為、不可謂勤、宜諡曰靈」。梁國常侍孫霖及肜親黨稱枉、臺乃下符曰、「賈氏專權、趙王倫篡逆、皆力制朝野、肜勢不得去、而責其不能引身去朝、義何所據」。克重議曰、「肜為宗臣、而國亂不能匡、主顛不能扶、非所以為相。故春秋譏華元・樂舉、謂之不臣。且賈氏之酷烈、不甚於呂后、而王陵猶得杜門。趙王倫之無道、不甚於殷紂、而微子猶得去之。近者太尉陳準、異姓之人、加弟徽有射鉤之隙、亦得託疾辭位、不涉偽朝。何至於肜親倫之兄、而獨不得去乎。趙盾入諫不從、出亡不遠、猶不免於責、況肜不能去位、北面事偽主乎。宜如前議、加其貶責、以廣為臣之節、明事君之道」。於是朝廷從克議。肜故吏復追訴不已、故改焉。
無子、以武陵王澹子禧為後、是為懷王。拜征虜將軍、與澹俱沒於石勒。元帝時、以西陽王羕子悝為肜嗣、早薨、是為殤王。至是懷王子翹自石氏歸國得立、是為聲王、官至散騎常侍。薨、無子、詔以武陵威王子㻱為翹嗣、歷永安太僕、與父晞俱廢徙新安。薨、太元中復國、子龢立。薨、子珍之立。桓玄篡位、國臣孔璞奉珍之奔于壽陽、義熙初乃歸、累遷左衞將軍・太常卿。劉裕伐姚泓、請為諮議參軍、為裕所害、國除。

1.中華書局本の校勘記によると、「永康」は「永寧」に作るべきである。

訓読

梁孝王肜 字は子徽なり。清修にして恭慎なるに、他の才能無く、公子なるを以て平樂亭侯に封ぜらる。五等 建つに及び、封を開平子に改む。武帝 踐阼するや、梁王に封ぜられ、邑は五千三百五十八戶なり。國に之くに及び、北中郎將に遷り、鄴城守事を督す。
時に諸王 自ら官屬を選ぶに、肜 汝陰の上計吏の張蕃を以て中大夫と為す。蕃 素より行無く、本の名は雄にして、妻の劉氏 音樂を解し、曹爽の教伎と為る。蕃 又 何晏の所に往來し、而して恣に姦淫を為す。晏 誅せらるるや、河間に徙り、乃ち名を變へて自ら肜に結ぶ。有司の奏する所と為り、詔して一縣を削る。咸寧中に、復た陳國・汝南の南頓を以て封を增して次國と為す。太康中に、孔洵に代はりて豫州の軍事を監し、平東將軍を加へ、許昌に鎮す。頃之、又 本官を以て下邳王晃に代はりて青徐州軍事を監し、號を安東將軍に進む。
元康の初に、征西將軍に轉じ、秦王柬に代はりて關中の軍事を都督し、護西戎校尉を領す。侍中を加へ、督梁州に進む。尋いで徵せられて衞將軍・錄尚書事と為り、太子太保を行し、千兵百騎を給ふ。久之、復た征西大將軍と為り、趙王倫に代はりて關中に鎮し、涼・雍諸軍事を都督し、左右長史・司馬を置く。又 西戎校尉を領し、好畤に屯し、建威將軍の周處・振威將軍の盧播らを督し氐賊の齊萬年を六陌に伐つ。肜 處と隙有り、促りて進軍せしめて其の後を絕ち、播 又 之を救はず、故に處 害せらる。朝廷 之を尤(とが)む。尋いで徵せられて大將軍・尚書令・領軍將軍・錄尚書事を拜す。
肜 嘗て大會し、參軍の王銓に謂ひて曰く、「我が從兄 尚書令と為り、大臠を啖ふ能はず。大臠 故より難し」と。銓曰く、「公 此れ在りて獨嚼するは、尚ほ難し」と。肜曰、「長史 大臠 誰が為なるか」と。曰、「盧播 是なり」と。肜曰く、「是れ家吏なり、之を隱すのみ」と。銓曰く、「天下 咸 是れ家吏なり、便ち王法の復た行ふ可からざるを恐る」と。肜 又 曰く、「我 長安に在り、何等の善からざるを作さん」と。因りて單衣の幰(ほろ)を補するを指して以て清と為す。銓 答へて曰く、「朝野 公の賢才を舉薦げ、不仁なる者をして遠ざからしむ望む。而れども位 公輔に居りて、衣を以て幰を補し、此を以て清と為すは、稱するに足ること無きなり」と。肜 慚色有り。
永康の初に、趙王倫と共に賈后を廢し、詔して肜を以て太宰・守尚書令と為し、封二萬戶を增す。趙王倫 輔政するや、星變有り、占に曰く「上相に利あらず」と。孫秀 倫の災を受くるを懼れ、乃ち司徒を省きて丞相と為し、以て肜に授け、猥りに崇進を加へ、以て之に應ぜしめんと欲す。或ひと曰く、「肜 權無く、益あらざるなり」と。肜 固讓して受けず。倫 篡位するに及び、肜を以て阿衡と為し、武賁百人、軒懸の樂十人を給はる。倫 滅ぶや、詔して肜を以て太宰と為し、司徒を領し、又 高密王泰に代はりて宗師と為す。
永康二年 薨じ、喪葬は汝南文成王亮の故事に依る。博士の陳留の蔡克 諡を議して曰く、「肜 位は宰相と為り、責は深く任は重く、屬して親近を尊び、且つ宗師と為り、朝の仰望する所、下の具瞻する所なり。而れども大節に臨み、奪ふ可からざるの志無し。危事に當たり、生を舍てて義を取る能はず。愍懷の廢せらるるや、一言の諫だに聞かず。淮南の難に、勢に因り義を輔くる能はず。趙王倫 篡逆するに、身を引き朝を去る能はず。宋に蕩氏の亂有るや、華元 自ら官に居る能はざるを以て、君臣の訓、我 司る所なり。公室 卑にして正さざれば、吾が罪 大なり、と曰ふ。夫れ區區の宋を以て、猶ほ素餐せざるの臣有り、而るに況んや帝王の朝にして、苟容の相有り、此にして貶めざれば、法 將た何にか施さん。謹みて諡法を案ずるに、勤めて名を成さざるを靈と曰ふと。肜 義の為さざるを見て、勤と謂ふ可からず、宜しく諡して靈と曰ふべし」と。梁國の常侍の孫霖及び肜の親黨 枉と稱す。臺乃ち符を下して曰く、「賈氏 專權し、趙王倫 篡逆し、皆 力もて朝野を制し、肜の勢 去るを得ず、而れども其の能く身を引き朝を去らざるを責むるは、義として何に據る所なるか」と。克 議を重ねて曰く、「肜 宗臣と為て、而れども國 亂るるに匡す能はず、主 顛ずるに扶くる能はず、以て相と為す所に非ず。故に春秋は華元・樂舉を譏り、之を不臣と謂ふ。且つ賈氏の酷烈、呂后より甚からざるに、而るに王陵 猶ほ門を杜すを得たり。趙王倫の無道、殷紂より甚からざるに、而れども微子 猶ほ之を去るを得たり。近者 太尉の陳準、異姓の人にして、加るに弟の徽 射鉤の隙有るに、亦た疾に託して位を辭し、偽朝に涉せざるを得たり。何ぞ肜は親しく倫の兄なるに至り、而れども獨り去るを得ざるや。趙盾 入諫 從はざれば、出亡 遠からず、猶ほ責を免れず、況んや肜 位を去る能はず、北面して偽主に事ふるをや。宜しく前議が如くし、其の貶責を加へ、以て臣為るの節を廣め、君に事ふるの道を明らかにせよ」と。是に於て朝廷 克が議に從ふ。肜の故吏 復た追ひて訴へて已まず、故に焉を改む。
子無く、武陵王澹が子の禧を以て後と為し、是れ懷王為り。征虜將軍を拜し、澹と與に俱に石勒に沒す。元帝の時、西陽王羕が子の悝を以て肜の嗣と為すも、早くに薨じ、是れ殤王為り。是に至り懷王が子の翹 石氏より歸國して立つを得、是れ聲王為り、官は散騎常侍に至る。薨じ、子無く、詔して武陵威王が子の㻱を以て翹の嗣と為し、永安太僕を歷し、父の晞と與に俱に廢せられて新安に徙さる。薨じ、太元中に國を復し、子の龢 立つ。薨じ、子の珍之 立つ。桓玄 位を篡するや、國臣の孔璞 珍之を奉じて壽陽に奔る、義熙の初に乃ち歸り、累りに左衞將軍・太常卿に遷る。劉裕 姚泓を伐つや、請ひて諮議參軍と為るに、裕の害する所と為り、國 除かる。

現代語訳

梁孝王肜(司馬肜)は字を子徽という。清らかで身を修めて慎み深いが、それ以外に才覚がなく、公子であるため平楽亭侯に封建された。五等爵制が設けられると、封号を開平子に改めた。武帝が即位すると。梁王に封建され、食邑は五千三百五十八戸であった。藩国に赴任すると、北中郎将に遷り、鄴城守事を督した。
このとき諸王が自分で官属を選んだが、司馬肜は汝陰の上計吏の張蕃を中大夫とした。張蕃は素行が悪く、もとの名を張雄といい、その妻の劉氏は音楽に明るく、(魏の)曹爽の教伎であった。張蕃もまた何晏のところに往来し、好き放題に姦淫をした。何晏が誅殺されると、河間に移り、名を変えて司馬肜と結びついた。担当官は(司馬肜が不適任者を任命したことを)上奏し、詔して一県を削った。咸寧年間、また陳国と汝南の南頓を封邑に加えて次国とした。太康年間、孔洵に代わって豫州の軍事を監し、平東将軍を加え、許昌に鎮した。しばらくして、さらに本官のまま下邳王晃(司馬晃)に代わって青徐州軍事を監し、官号を安東将軍に進めた。
元康年間の初め、征西将軍に転じ、秦王柬(司馬柬)に代わって関中の軍事を都督し、護西戎校尉を領した。侍中を加え、督梁州に進んだ。すぐに徴召されて衛将軍・録尚書事となり、太子太保を代行し、千兵と百騎を給わった。しばらくして、また征西大将軍となり、趙王倫(司馬倫)に代わって関中に鎮し、涼・雍諸軍事を都督し、左右長史・司馬を置いた。また西戎校尉を領し、好畤に駐屯し、建威将軍の周処・振威将軍の盧播らを督して氐族の賊の斉万年を六陌で討伐した。司馬肜は周処と仲が悪く、急かして進軍させて後方を絶ち、盧播もまた周処を救わなかったので、周処は(氐族に)殺害された。朝廷はこれを咎めた。すぐに徴召されて大将軍・尚書令・領軍将軍・録尚書事を拝した。
司馬肜はかつて大きな酒宴を開き、参軍の王銓に、「わが従兄は尚書令であるが、大きな肉塊を食べられない。大きな肉塊(権力)は扱いが難しい」と言った。王銓は、「あなたがここで一人で食べる(関中の権力を掌握する)のも、難しいことですよ」と言った。司馬肜は、「長史で肉塊を持つのは誰か」と言った。「盧播です」と言った。司馬肜は、「彼は家吏である、肉塊を隠すように」と言った。王銓は、「天下はすべてが家吏です、(権力が制御を失い)王法が行われなくなることが心配です」と言った。司馬肜はまた、「私が長安にいるのだ、いかなる悪事が起きようか」と言った。そこで一枚の衣でほろを繕って清廉であることを示した。王銓は答えて、「朝廷も在野もあなたが賢才を推挙し、不仁なものを遠ざけることを期待しています。宰相の位にいるにも拘わらず、衣でほろを繕い、清廉さを示しても、称賛されるには足りません」と言った。司馬肜は恥じ入った。
永康年間の初め、趙王倫(司馬倫)とともに賈后を廃位した。詔して司馬肜を太宰・守尚書令とし、封邑二万戸を増した。趙王倫(司馬倫)が輔政すると、星に異変があり、占者は「上相に利がない」と言った。孫秀は司馬倫が災厄を受けることを懼れ、司徒を省いて丞相とし、司馬肜に(丞相の位を)授け、みだりに地位を引き上げ、星の異変に対応させようとした。あるひとが、「司馬肜には実権がなく、(丞相になる)意味がない」と言った。司馬肜は固く辞退して受けなかった。司馬倫が帝位を簒奪すると、司馬肜を阿衡とし、武賁の百人と、軒懸の楽十人を給わった。司馬倫が滅ぶと、詔して司馬肜を太宰とし、司徒を領し、また高密王泰(司馬泰)に代わって宗師とした。
永康二年に(司馬肜は)薨去し、葬礼は汝南文成王亮(司馬亮)の故事に準拠した。博士の陳留の蔡克が諡について議論し、「司馬肜は位は宰相となり、責務は深く権限は重く、近しい皇族を尊重し、宗師にもなり、朝臣に仰ぎ見られ、万民から期待されました。しかし大いなる権限を前にして、奪えない(正しい)志がありませんでした。危険に直面し、命を捨てて義を選び取ることができませんでした。愍懐(太子の司馬遹)が廃位されると、一言の諫止すらしませんでした。淮南王の政難では、権勢を用いて義を支えることができませんでした。趙王倫(司馬倫)が簒逆すると、身を退いて朝廷から去ることができませんでした。(春秋時代の)宋で蕩氏の乱が起こると、華元はみずから官位に留まらず、君臣の教えは、私が責任を持ちます、(宋の)公室が卑しく道を外れれば、わが罪が大きいのです、と言いました。そもそも小国の宋ですら、官禄をむだに食まない臣がいました、ましてや晋帝国の朝廷で、情勢に迎合するだけの宰相(司馬肜)がいて、彼を貶めなければ、正しい法はどうして実行されるでしょうか。謹んで諡法を確認しますに、勤めて名を成さないものを霊というとあります。司馬肜は義が損なわれたとき、(是正のために)勤めたとは言えません、ですから霊と諡をなさいませ」と言った。梁国の常侍の孫霖及び司馬肜の親党たちは不当な意見だと唱えた。(尚書)台は書簡を下して、「賈氏が権力を独占にし、趙王倫(司馬倫)が帝位を簒奪し、どちらも力で朝野を制圧したとき、司馬肜はその状況で去ることができなかった。しかし身を退いて朝廷から去ることができなかったことを追及するのは、どのような義に基づいた判断であろうか」と言った。蔡克は建議を重ねて、「司馬肜は宗室の臣であるにも拘わらず、国が乱れたとき正すことができず、君主が転覆しても助けることができず、宰相の役割を果たしませんでした。ゆえに『春秋』は華元と楽挙(の過剰な葬儀)を批判し、彼らを不臣と評しました。しかも賈氏の酷烈さは、(前漢の)呂后よりひどくないが、王陵はそれでも門を閉ざすことができました。趙王倫の無道は、殷の紂王よりひどくないが、微子はそれでも朝廷から去ることができました。近ごろ(西晋の)太尉の陳準は、異姓の人であり、しかも弟の陳徽とは武力抗争をした不仲でありましたが、病気を理由に官位を辞退し、偽の王朝から去ることができました。どうして司馬肜だけが司馬倫の兄にあたるのに、偽の朝廷から去ることができなかったのでしょうか。(春秋時代の晋で)趙盾は諫言をして聞き入れられず、出奔しても遠くに行かず、(君主を殺したとして董狐からの)追及を免れませんでした。どうして司馬肜は官位を去ることができず、北面して偽主に仕えたのでしょうか(直接手を下さずとも朝廷を荒廃させた責任があります)。先日のわが建議のように、司馬肜の責任を追及し、臣としての節度を広め、君主に仕える道を明らかにすべきです」と言った。ここにおいて朝廷は蔡克の意見に従った。司馬肜の故吏がその後も訴え続け、ゆえに諡号を改めた。
子がおらず、武陵王澹(司馬澹)の子の司馬禧を後嗣とし、これが懐王である。征虜将軍を拝し、司馬澹とともに石勒に捕らえられた。元帝のとき、西陽王羕(司馬羕)の子の司馬悝を司馬肜の後嗣としたが、早くに薨じ、これが殤王である。このときに懐王の子の司馬翹が石氏(後趙)から帰国して立つことができ、これが声王あり、官位は散騎常侍に至った。薨じ、子がおらず、詔して武陵威王の子の司馬㻱を司馬翹の後嗣とし、永安太僕となったが、父の司馬晞とともに廃位されて新安に移された。薨じてから、太元年間に国を復興し、子の司馬龢が立った。薨じると、子の司馬珍之が立った。桓玄が帝位を簒奪すると、国臣の孔璞は司馬珍之を奉じて寿陽に逃げ、義熙年間の初めに帰還し、しきりに左衛将軍・太常卿に遷った。劉裕が姚泓を討伐すると、要請して(司馬珍之を)諮議参軍としたが、劉裕に殺害され、国は除かれた。

文六王

原文

文帝九男、文明王皇后生武帝・齊獻王攸・城陽哀王兆・遼東悼惠王定國・廣漢殤王廣德、其樂安平王鑒・燕王機・皇子永祚・樂平王延祚不知母氏。燕王機繼清惠亭侯、別有傳。永祚早亡、無傳。

訓読

文帝の九男、文明王皇后 武帝・齊獻王攸・城陽哀王兆・遼東悼惠王定國・廣漢殤王廣德を生み、其の樂安平王鑒・燕王機・皇子永祚・樂平王延祚 母氏を知らず。燕王機 清惠亭侯を繼げば、別に傳有り。永祚 早くに亡く、傳無し。

現代語訳

文帝の九人の男子は、文明王皇后が武帝・斉献王攸・城陽哀王兆・遼東悼恵王定国・広漢殤王広徳を生み、残りの楽安平王鑒・燕王機・皇子永祚・楽平王延祚は母が分からない。燕王機は清恵亭侯を継いだので、別に列伝がある。永祚は早くに亡くなり、列伝がない。

齊王攸 子蕤 贊 寔

原文

齊獻王攸字大猷。少而岐嶷。及長、清和平允、親賢好施、愛經籍、能屬文、善尺牘、為世所楷。才望出武帝之右、宣帝每器之。景帝無子、命攸為嗣。從征王淩、封長樂亭侯。及景帝崩、攸年十歲、哀動左右、大見稱歎。襲封1.(武陽)〔舞陽〕侯。奉景獻羊后於別第、事后以孝聞。復歷散騎常侍・步兵校尉、時年十八、綏撫營部、甚有威惠。五等建、改封安昌侯、遷衞將軍。
居文帝喪、哀毀過禮、杖而後起。左右以稻米乾飯雜理中丸進之、攸泣而不受。太后自往勉喻曰、「若萬一加以他疾、將復如何。宜遠慮深計、不可專守一志」。常遣人逼進飲食、司馬嵇喜又諫曰、「毀不滅性、聖人之教。且大王地即密親、任惟元輔。匹夫猶惜其命、以為祖宗、況荷天下之大業、輔帝室之重任、而可盡無極之哀、與顏閔爭孝。不可令賢人笑、愚人幸也」。喜躬自進食、攸不得已、為之強飯。喜退、攸謂左右曰、「嵇司馬將令我不忘居喪之節、得存區區之身耳」。
武帝踐阼、封齊王。時朝廷草創、而攸總統軍事、撫寧內外、莫不景附焉。詔議藩王令自選國內長吏、攸奏議曰、「昔聖王封建萬國、以親諸侯、軌跡相承、莫之能改。誠以君不世居、則人心偷幸。人無常主、則風俗偽薄。是以先帝深覽經遠之統、思復先哲之軌、分土畫疆、建爵五等、或以進德、或以酬功。伏惟陛下應期創業、樹建親戚、聽使藩國自除長吏。而今草創、制度初立、雖庸蜀順軌、吳猶未賓、宜俟清泰、乃議復古之制」。書比三上、輒報不許。其後國相上長吏缺、典書令請求差選。攸下令曰、「忝受恩禮、不稱惟憂。至於官人敘才、皆朝廷之事、非國所宜裁也。其令自上請之」。時王家人衣食皆出御府、攸表租秩足以自供、求絕之。前後十餘上、帝又不許。攸雖未之國、文武官屬、下至士卒、分租賦以給之、疾病死喪賜與之。而時有水旱、國內百姓則加振貸、須豐年乃責、十減其二、國內賴之。
遷驃騎將軍、開府辟召、禮同三司。降身虛己、待物以信。常歎公府不案吏、然以董御戎政、復有威克之宜、乃下教曰、「夫先王馭世、明罰敕法、鞭扑作教、以正逋慢。且唐虞之朝、猶須督責。前欲撰次其事、使粗有常。懼煩簡之宜、未審其要、故令劉・程二君詳定。然思惟之、鄭鑄刑書、叔向不韙。范宣議制、仲尼譏之。令皆如舊、無所增損。其常節度所不及者、隨事處決。諸吏各竭乃心、思同在公古人之節。如有所闕、以賴股肱匡救之規、庶以免負」。於是內外祗肅。時驃騎當罷營兵、兵士數千人戀攸恩德、不肯去、遮京兆主言之、帝乃還攸兵。
攸每朝政大議、悉心陳之。詔以比年饑饉、議所節省。攸奏議曰、「臣聞先王之教、莫不先正其本。務農重本、國之大綱。當今方隅清穆、武夫釋甲、廣分休假、以就農業。然守相不能勤心恤公、以盡地利。昔漢宣歎曰、『與朕理天下者、惟良二千石乎。』勤加賞罰、黜陟幽明、于時翕然、用多名守。計今地有餘羨、而不農者眾、加附業之人復有虛假、通天下謀之、則飢者必不少矣。今宜嚴敕州郡、檢諸虛詐害農之事、督實南畝、上下同奉所務。則天下之穀可復古政、豈患於暫一水旱、便憂飢餒哉。考績黜陟、畢使嚴明、畏威懷惠、莫不自厲。又都邑之內、游食滋多、巧伎末業、服飾奢麗、富人兼美、猶有魏之遺弊、染化日淺、靡財害穀、動復萬計。宜申明舊法、必禁絕之。使去奢即儉、不奪農時、畢力稼穡、以實倉廩。則榮辱禮節、由之而生、興化反本、於茲為盛」。
轉鎮軍大將軍、加侍中、羽葆・鼓吹、行太子少傅。數年、授太子太傅、獻箴於太子曰、「伊昔上皇、建國立君、仰觀天文、俯察地理、創業恢道、以安人承祀、祚延統重、故援立太子。尊以弘道、固以貳己、儲德既立、邦有所恃。夫親仁者功成、邇佞者國傾、故保相之材、必擇賢明。昔在周成、旦奭作傅、外以明德自輔、內以親親立固、德以義濟、親則自然。嬴廢公族、其崩如山。劉建子弟、漢祚永傳。楚以無極作亂、宋以伊戾興難。張禹佞給、卒危強漢。輔弼不忠、禍及乃躬。匪徒乃躬、乃喪乃邦。無曰父子不間、昔有江充。無曰至親匪貳、或容潘崇。諛言亂真、譖潤離親、驪姬之讒、晉侯疑申。固親以道、勿固以恩。修身以敬、勿託以尊。自損者有餘、自益者彌昏。庶事不可以不恤、大本不可以不敦。見亡戒危、覩安思存。冢子司義、敢告在閽」。世以為工。
咸寧二年、代賈充為司空、侍中・太傅如故。初、攸特為文帝所寵愛、每見攸、輒撫牀呼其小字曰「此桃符座也」、幾為太子者數矣。及帝寢疾、慮攸不安、為武帝敘漢淮南王・魏陳思故事而泣。臨崩、執攸手以授帝。先是太后有疾、既瘳、帝與攸奉觴上壽、攸以太后前疾危篤、因歔欷流涕、帝有愧焉。攸嘗侍帝疾、恒有憂戚之容、時人以此稱歎之。及太后臨崩、亦流涕謂帝曰、「桃符性急、而汝為兄不慈、我若遂不起、恐必不能相容。以是屬汝、勿忘我言」。
及帝晚年、諸子並弱、而太子不令、朝臣內外、皆屬意於攸。中書監荀勖・侍中馮紞皆諂諛自進、攸素疾之。勖等以朝望在攸、恐其為嗣、禍必及己、乃從容言於帝曰、「陛下萬歲之後、太子不得立也」。帝曰、「何故」。勖曰、「百僚內外皆歸心於齊王、太子焉得立乎。陛下試詔齊王之國、必舉朝以為不可、則臣言有徵矣」。紞又言曰、「陛下遣諸侯之國、成五等之制者、宜先從親始。親莫若齊王」。
帝既信勖言、又納紞說、太康三年乃下詔曰、「古者九命作伯、或入毗朝政、或出御方嶽。周之呂望、五侯九伯、實得征之。侍中・司空・齊王攸、明德清暢、忠允篤誠。以母弟之親、受台輔之任、佐命立勳、劬勞王室、宜登顯位、以稱具瞻。其以為大司馬・都督青州諸軍事、侍中如故、假節、將本營千人、親騎帳下司馬大車皆如舊、增鼓吹一部、官騎滿二十人、置騎司馬五人。餘主者詳案舊制施行」。攸不悅、主簿丁頤曰、「昔太公封齊、猶表東海。桓公九合、以長五伯。況殿下誕德欽明、恢弼大藩、穆然東軫、莫不得所。何必絳闕、乃弘帝載」。攸曰、「吾無匡時之用、卿言何多」。
明年、策攸曰、「於戲。惟命不于常、天既遷有魏之祚。我有晉既受順天明命、光建羣后、越造王國于東土、錫茲青社、用藩翼我邦家。茂哉無怠、以永保宗廟」。又詔下太常、議崇錫之物、以濟南郡益齊國。又以攸子寔為北海王。於是備物典策、設軒懸之樂・六佾之舞、黃鉞朝車乘輿之副從焉。
攸知勖・紞構己、憤怨發疾、乞守先后陵、不許。帝遣御醫診視、諸醫希旨、皆言無疾。疾轉篤、猶催上道。攸自強入辭、素持容儀、疾雖困、尚自整厲、舉止如常、帝益疑無疾。辭出信宿、歐血而薨、時年三十六。帝哭之慟、馮紞侍側曰、「齊王名過其實、而天下歸之。今自薨隕、社稷之福也、陛下何哀之過」。帝收淚而止。詔喪禮依安平王孚故事、廟設軒懸之樂、配饗太廟。子冏立、別有傳。
攸以禮自拘、鮮有過事。就人借書、必手刊其謬、然後反之。加以至性過人、有觸其諱者、輒泫然流涕。雖武帝亦敬憚之、每引之同處、必擇言而後發。三子、蕤・贊・寔。

1.中華書局本の校勘記に従い、「武陽」を「舞陽」に改める。

訓読

齊獻王攸 字は大猷なり。少くして岐嶷たり。長ずるに及び、清和平允にして、賢に親しみ施しを好み、經籍を愛し、屬文を能くし、尺牘に善く、世の楷する所と為る。才望 武帝の右に出で、宣帝 每に之を器とす。景帝 子無く、攸に命じて嗣と為す。王淩を征するに從ひ、長樂亭侯に封ぜらる。景帝 崩ずるに及び、攸 年十歲にして、哀は左右を動し、大いに稱歎せらる。封の舞陽侯を襲ふ。景獻羊后を別第に奉じ、后に事ふるに孝を以て聞こゆ。復た散騎常侍・步兵校尉を歷し、時に年十八、營部を綏撫し、甚だ威惠有り。五等 建つや、封を安昌侯に改め、衞將軍に遷る。
文帝の喪に居り、哀毀 禮を過ぎ、杖つきて後に起つ。左右 稻米乾飯を以て理中丸に雜ぜて之を進むるに、攸 泣きて受けず。太后 自ら往きて勉喻して曰く、「若し萬一に加ふるに他疾を以てせば、將た復た如何せん。宜しく遠慮深計し、專ら一志を守る可からず」と。常に人を遣はして逼りて飲食を進めしむ。司馬の嵇喜 又 諫めて曰く、「毀ちて性を滅さざるは、聖人の教なり。且つ大王 地は即ち密親にして、任は惟れ元輔なり。匹夫だに猶ほ其の命を惜むは、以て祖宗の為なり。況んや天下の大業を荷ひ、帝室の重任を輔くるに、而れども無極の哀を盡くし、顏閔と孝を爭ふ可きか。賢人をして笑はしめ、愚人をして幸ならしむ可からざるなり」と。喜 躬ら自ら食を進め、攸 已むを得ず、之の為ひ強ひて飯ふ。喜 退き、攸 左右に謂ひて曰く、「嵇司馬 將に我をして居喪の節を忘れず、區區の身を存するを得しめんとす」と。
武帝 踐阼するや、齊王に封ぜらる。時に朝廷 草創にして、而して攸 軍事を總統し、內外を撫寧し、景附せざる莫し。詔して藩王をして自ら國內の長吏を選ばしむるを議せしむ。攸 議を奏して曰く、「昔 聖王 萬國に封建し、以て諸侯に親しみ、軌跡は相 承ぎ、之を能く改むる莫し。誠に君の世々居らざるを以て、則ち人心 幸を偷む。人は常主無くば、則ち風俗 偽薄たり。是を以て先帝 深く經遠の統を覽じ、先哲の軌を復せんと思ひ、土を分け疆を畫し、爵五等を建て、或いは以て德を進め、或いは以て功に酬ゆ。伏して惟るに陛下 期に應じて創業し、親戚を樹建し、藩國をして自ら長吏を除せしむるを聽す。而今は草創にして、制度 初めて立ち、庸蜀 軌に順ふと雖も、吳 猶ほ未だ賓せず。宜しく清泰を俟ち、乃ち古に復するの制を議せよ」と。書 三たび上る比に、輒ち報ありて許さず。其の後 國相は長吏 缺くるを上し、典書令 請ひて差選を求む。攸 令を下して曰く、「忝くも恩禮を受け、惟憂を稱せず。官人 才を敘するに至るは、皆 朝廷の事にして、國の宜しく裁する所に非ざるなり。其れ自ら上して之を請はしめよ」と。時に王家の人 衣食 皆御府より出で、攸 表して租秩 足るに自ら供する以てし、之を絕たんことを求む。前後に十餘たび上し、帝 又 許さず。攸 未だ國に之かざると雖も、文武の官屬、下は士卒に至るまで、租賦を分けて以て之に給し、疾病死喪あらば之に賜與す。而れども時に水旱有らば、國內の百姓 則ち振貸を加へ、豐年を須ちて乃ち責め、十に其の二を減じ、國內 之を賴る。
驃騎將軍に遷り、開府辟召、禮同三司なり。身を降して己を虛にし、物に待するに信を以てす。常に歎ずらく公府は吏を案ぜず、然して戎政を董御し、復た威克の宜有るを以て、乃ち教を下して曰く、「夫れ先王 世を馭するに、罰を明らかにし法を敕し、鞭扑して教を作し、以て逋慢を正す。且つ唐虞の朝に、猶ほ督責を須つ。前に其の事を撰次し、粗に常有らしめんと欲す。煩簡の宜を懼れ、未だ其の要を審らかにせず、故に劉・程の二君をして詳らかに定めしめよ。然も之を思惟するに、鄭 刑書を鑄るや、叔向 韙せず。范宣 制を議するや、仲尼 之を譏る。皆をして舊が如くし、增損する所無からしめよ。其の常の節度 及ばざる所の者は、事に隨ひて處決せよ。諸吏 各々乃の心を竭くし、同に公に在りて古人の節思へ。如し闕く所有あらば、以て股肱匡救の規を賴り、庶はくは以て負を免ぜよ」と。是に於て內外 祗肅す。時に驃騎 當に營兵を罷むべきに、兵士の數千人 攸の恩德を戀ひ、去るを肯ぜず、京兆の主を遮りて之を言ひ、帝 乃ち攸の兵を還す。
攸 每に朝政の大いに議するに、心を悉くして之を陳ぶ。詔して比年の饑饉を以て、節省する所を議す。攸 奏議して曰く、「臣 聞くらく先王の教として、先に其の本を正さざる莫し。農に務め本を重んずるは、國の大綱なり。當今 方隅は清穆たれば、武夫は甲を釋き、廣く休假を分け、以て農業に就けよ。然れども守相 心を勤し公を恤み、以て地の利を盡すこと能はず。昔 漢宣 歎じて曰く、朕と與に天下を理むる者は、惟れ良二千石のみと。勤めて賞罰を加へ、幽明を黜陟し、時に翕然として、用て名守多し。計るに今 地に餘羨有り、而れども農せざる者 眾く、加へて業に附する人 復た虛假有り、天下に通じて之を謀らば、則ち飢うる者 必ず少からざらん。今 宜しく州郡に嚴敕し、諸々の虛詐して農を害するの事を檢め、督して南畝を實たせば、上下 同に務むる所に奉ぜん。則ち天下の穀 古政を復す可く、豈に暫一の水旱に患ひて、便ち飢餒を憂はんや。考績黜陟、畢く嚴明ならしめば、威を畏れて惠を懷きて、自ら厲まざる莫し。又 都邑の內に、游食 滋々多く、巧伎の末業、服飾の奢麗、富人 美を兼ね、猶ほ魏の遺弊有り、染化 日に淺く、財を靡くし穀を害ね、動やすれば復た萬もて計ふ。宜しく舊法を申明し、必ず之を禁絕せしむべし。奢を去り儉に即かしめば、農時を奪はず、力を稼穡に畢し、以て倉廩を實たさん。則ち榮辱禮節、之に由りて生じ、興化 本に反り、茲に於て盛為らん」と。
鎮軍大將軍に轉じ、侍中を加へ、羽葆・鼓吹、太子少傅を行す。數年にして、太子太傅を授け、箴を太子に獻じて曰く、「伊昔 上皇は、國を建て君を立て、天文を仰觀し、地理を俯察し、業を創め道を恢き、以て人を安んじ祀を承け、祚は延し統は重く、故に太子を援立す。尊ぶに道を弘むるを以てするは、固より己を貳とするを以てす、儲德 既に立ち、邦 恃む所有り。夫れ親仁なる者は功 成り、邇佞なる者は國 傾く。故に保相の材、必ず賢明を擇べ。昔 周成在り、旦奭 傅と作り、外は明德を以て自ら輔け、內は親親を以て立ちて固たり、德 義を以て濟ひ、親は則ち自ら然り。嬴は公族を廢し、其の崩るること山の如し。劉は子弟を建て、漢祚 永く傳はる。楚 無極を以て亂を作し、宋 伊戾を以て難を興す。張禹 佞給にして、卒かに強き漢を危ふくす。輔弼 忠ならざれば、禍は乃の躬に及ぶ。徒だ乃の躬のみに匪ざれば、乃ち乃の邦を喪はん。父子 間せざると曰ふ無きは、昔 江充有り。至親 貳匪ずと曰ふ無きは、或いは潘崇を容る。諛言 真を亂し、譖潤 親を離し、驪姬の讒ありて、晉侯 申を疑ふ。親を固するに道を以てし、固するに恩を以てする勿れ。身を修むるに敬を以てし、託するに尊を以てする勿れ。自ら損ずる者は餘有り、自ら益す者は彌々昏し。庶事 以て恤まざる可からず、大本 以て敦からざる可からず。亡を見て危を戒め、安を覩て存を思へ。冢子 義を司り、敢て告げ閽に在り」と。世 以て工と為す。
咸寧二年に、賈充に代はりて司空と為り、侍中・太傅たること故の如し。初め、攸 特に文帝の寵愛する所と為り、每に攸を見れば、輒ち牀を撫でて其の小字を呼びて曰く「此れ桃符の座なり」と、幾ど太子と為らんこと數々なり。帝 寢疾する及び、攸 安んぜざるを慮ひ、武帝の為に漢の淮南王・魏の陳思の故事を敘して泣く。崩ずるに臨び、攸の手を執りて以て帝を授く。是より先 太后 疾有り、既に瘳にして、帝 攸と與に觴を奉りて壽を上り、攸 太后の前疾 危篤せしを以て、因りて歔欷して流涕し、帝 愧づる有り。攸 嘗て帝の疾に侍し、恒に憂戚の容有り、時人 此を以て之を稱歎す。太后 崩に臨むに及び、亦た流涕して帝に謂ひて曰く、「桃符 性急なり、而れども汝 兄と為して不慈なり。我 若し遂に起たざれば、必ず能く相 容れざるを恐る。是を以て汝に屬す、我が言を忘るる勿れ」と。
帝の晚年に及び、諸子 並びに弱く、而も太子 不令なり。朝臣の內外、皆 意を攸に屬す。中書監の荀勖・侍中の馮紞の皆 諂諛して自ら進み、攸 素より之を疾む。勖ら朝望の攸に在るを以て、其の嗣と為り、禍 必ず己に及ぶを恐る。乃ち從容として帝に言ひて曰く、「陛下 萬歲の後、太子 立つを得ざるなり」と。帝曰く、「何の故ぞ」と。勖曰く、「百僚の內外 皆 心を齊王に歸し、太子 焉んぞ立つを得んや。陛下 試みに齊王に詔して國に之かしめよ、必ず朝を舉げて不可と以為へば、則ち臣の言 徵有らん」と。紞 又 言ひて曰く、「陛下 諸侯をして國に之かしめ、五等の制を成さば、宜しく先に親より始めよ。親なるは齊王に若くは莫し」と。
帝 既に勖の言を信じ、又 紞の說を納れ、太康三年 乃ち詔を下して曰く、「古者に九命して伯と作し、或いは入りて朝政を毗け、或いは出でて方嶽を御す。周の呂望、五侯九伯にして、實に之を征するを得たり。侍中・司空・齊王攸、明德にして清暢、忠允にして篤誠なり。母弟の親を以て、台輔の任を受け、佐命の立勳あり、王室に劬勞し、宜しく顯位に登るべく、以て具瞻を稱ふ。其れ以て大司馬・都督青州諸軍事と為し、侍中たること故の如く、假節、本營千人を將ゐ、親騎帳下司馬大車 皆 舊の如く、鼓吹一部、官騎滿二十人を增し、騎司馬五人を置け。餘主者は詳らかに舊制を案じて施行すべし」と。攸 悅ばず、主簿の丁頤曰く、「昔 太公 齊に封ぜられ、猶ほ東海に表たり。桓公 九合し、以て五伯に長たり。況んや殿下 誕德にして欽明、恢く大藩を弼け、穆然と東軫するに、得ざる所莫し。何ぞ必ずしも闕を絳くし、乃ち帝載を弘めんか」と。攸曰く、「吾 匡時の用無し、卿の言 何と多きか」と。
明年に、攸に策して曰く、「於戲、惟れ命 常にあらず、天 既に有魏の祚を遷る。我 有晉の既に天の明命に受順し、羣后を光建し、越に王國を東土に造り、茲の青社を錫ひ、用て我が邦家を藩翼す。茂めんや怠る無く、以て永く宗廟を保たん」と。又 詔して太常に下し、崇錫の物を議せしめ、濟南郡を以て齊國に益す。又 攸の子の寔を以て北海王と為す。是に於て備物典策、軒懸の樂・六佾の舞を設け、黃鉞朝車乘輿の副は焉に從ふ。
攸 勖・紞の己に構ふるを知り、憤怨して疾を發し、先后の陵を守らんことを乞ふに、許さず。帝 御醫をして遣はして診視せしめ、諸醫 希旨し、皆 疾無しと言ふ。疾 轉た篤く、猶ほ上道を催す。攸 自ら強ひて入辭し、素より容儀を持し、疾 困なると雖も、尚ほ自ら整厲し、舉止は常の如く、帝 益々疾無きを疑ふ。辭して出でて信宿し、歐血して薨じ、時に年三十六なり。帝 之に哭して慟す。馮紞 侍側して曰く、「齊王 名は其の實に過ぎ、而れども天下 之に歸す。今 自ら薨隕せしは、社稷の福なり。陛下 何ぞ之を哀みて過ぐるか」と。帝 淚を收めて止む。詔して喪禮は安平王孚の故事に依り、廟に軒懸の樂を設け、太廟に配饗す。子の冏 立ち、別に傳有り。
攸 禮を以て自ら拘し、過事有ること鮮し。人に就きて書を借るれば、必ず手づから其の謬を刊り、然る後に之を反す。加へて至性は人に過ぐるを以て、其の諱に觸る者有らば、輒ち泫然と流涕す。武帝も亦た之を敬憚すと雖も、每に之を引きて同に處り、必ず言を擇びて後に發す。三子あり、蕤・贊・寔なり。

現代語訳

斉献王攸(司馬攸)は字を大猷という。幼くして優秀であった。成長すると、清らかで調和して公平であり、賢者に親しみ施しを好み、経籍を大切にし、文を綴るのが巧みで、書簡(を書くの)が上手く、世間の手本となった。才能と名望が武帝の右に出て、宣帝(司馬懿)はいつも評価していた。景帝に子がいないので、司馬攸に命じて後嗣とした。王淩の征伐に従軍し、長楽亭侯に封建された。景帝が崩御すると、司馬攸は十歳であったが、哀しむさまが左右を感動させ、大いに称えて感歎された。舞陽侯の封号を継承した。(司馬師の妻の)景献羊后を別邸に住まわせ、羊后に仕えて孝行ぶりが評判となった。また散騎常侍・歩兵校尉を歴任し、このとき十八歳であったが、軍営の部下を慰労し、威も恵も備えていた。五等爵制が設けられると、封号を安昌侯に改め、衛将軍に遷った。
文帝(司馬昭)の喪に服すると、哀んで体調を損ねるさまが礼を過ぎ、杖をついてやっと立てるほどだった。左右のものは米を干したものを理中丸にまぜて進めたが、司馬攸は泣いて受け付けなかった。太后が自ら赴いて励まして説得し、「もし万が一にも他の病気にかかれば、いったいどうするのか。先々のことまで熟慮し、一つの思いに固執し過ぎてはいけない」と言った。(太后は)いつも人を派遣して強引に飲食を進めさせた。司馬の嵇喜(嵆喜)もまた諫めて、「(喪に服しても)生命を傷つけないのは、聖人の教えです。しかも大王は封地が帝国の中枢であり、任務は皇帝の第一の輔佐です。匹夫ですら命を惜しむのは、祖先や一族のためです。ましてや天下の大業を担い、帝室の事業を助けるべきなのに、際限なく哀しみを尽くし、(孔子の弟子の)顔回や閔子騫と孝を争ってはなりません。賢人を笑わせ、愚人を喜ばせてはいけません」と言った。嵇喜はみずから食物を進め、司馬攸はやむを得ず、無理をして食べた。嵇喜が退出すると、司馬攸は左右に、「嵇司馬は私に服喪の節度を忘れさせたのではなく、ちっぽけなこの身を生かそうとしてくれたのだ」と言った。
武帝が即位すると、斉王に封建された。このとき朝廷は草創期であり、司馬攸は軍事を総統し、内外を慰撫し、彼を思慕しないものはいなかった。詔して藩王が国内の長吏を自選すること(の可否)について議論させた。司馬攸は意見を提出し、「むかし聖王が万国を封建すると、(聖王は)諸侯と親しみ、血統が世襲され、改められませんでした。君位の継承が中断すれば、人々はその隙を突いて利益を得ます。定まった君主がいなければ、風俗は荒廃して軽薄となります。ですから先帝は深く遠大な計画をもって、先哲の方法を復興しようと、土地を分けて境界を区切り、五等爵制を設け、あるいは徳を奨励し、あるいは功績に報いたのです。伏して思いますに陛下は時節にあたり創業し、親族を封建して、藩国が自ら長吏を任命することを許そうとしています。(ただし)現在は草創期であり、国制が定まったばかりで、庸蜀(蜀漢)は帰順しても、呉がまだ服従していません。天下が清められ安定するのを待ってから、古の制度にもどすことを議論なさいませ」と言った。意見書を三回提出したが、(武帝は)回答し却下した。これ以後は国相が長吏の欠員を報告し、典書令に報告して(藩国で選んだ人材を)選出した。司馬攸は(斉国に)令を下し、「忝くも恩礼を受けており、制度が不備とは言うまい。だが官人を才能に基づいてに任命するのは、朝廷の権限であって、藩国が決裁すべきことではない。自ら上表し(朝廷に人選を)要請するように」と言った。このとき藩王の家の人々は衣食がすべて(中央の)御府から支出されていたが、司馬攸は税収や秩禄で十分に自足できるとし、支給の中止を求めた。前後十回あまり上表したが、武帝はこれも許さなかった。司馬攸はまだ国に赴任していなかったが、文官と武官には、下は士卒に至るまで、租税の財源を分けて用い、病気や死亡のあった家に賜与した。そして水害や旱害があれば、国内の百姓に貸し与え、豊作の年を待ってから返済させ、十分の二を減らし、斉国の人々は司馬攸を頼りにした。
驃騎将軍に遷り、開府辟召(の権限)と、儀同三司を許された。へりくだって己を虚ろにし、信義に基づいて万事に対処した。つねに公府は吏を把握せず、それでも軍政を統括し、威厳を行使していることを嘆き、教書を下して、「そもそも先王が世を治めるとき、罰を明らかにし法を定め、むちの刑罰で教導し、命令違反を正した。そして尭や舜の朝廷でも、取り締まりが行われた。以前に刑罰を制定し、安定させようとした。繁雑さが偏ることを懼れ、まだ詳細に定めていないから、劉氏と程氏の二君に細部を定めさせよ。法制について考えるに、(春秋時代の)鄭で刑法の文を鋳ると、叔向が良しとしなかった。范宣が制度を議論すると、仲尼(孔子)が批判した。すべて旧来どおりとし、増減をさせることがないように。通常の規則が届かないところは、事案ごとに決裁せよ。諸吏はそれぞれ心を尽くし、公職にあって古人の節度を思うように。もし不足があれば、近臣を頼りにして政治を正して救い、失敗がないようにせよ」と言った。かくして内外(の吏)は慎み深くなった。このとき軍営の兵を解散すべきであったが、兵士の数千人が司馬攸の恩徳を慕い、去ることを拒み、京兆の主を遮って訴えたので、武帝は司馬攸に兵を還した。
司馬攸はいつも朝廷で大いに政治の議論が起こると、心を尽くして意見を述べた。詔があって近年の飢饉を踏まえ、節約することを議論させた。司馬攸は上奏し、「私が聞きますに先王の教えとして、さきに根本を正さないことはありません。農業に務めて根本を重んじるのは、国家の基本方針です。現在は辺境が平穏なので、兵士に武装を解かせ、広い範囲で交替で休暇を与え、農業に従事させなさい。しかし守相(地方長官)が国家のために心をくだき、地の利を活かしてはいません。むかし前漢の宣帝は、朕とともに天下を治めるものは、良二千石だけだと言いました。(長官の)賞罰を厳密にし、査定を徹底すれば、一致団結し、すぐれた太守が増えるでしょう。推算しますに農地は余っていますが、農業をしない者が多く、虚業に携わるひとがいます。天下全体で調整すれば、飢えるものは減るでしょう。いま州郡に厳命し、各地で虚業や詐欺で農業を妨げるものを取り締まり、農地に配置すれば、上下ともに本業に励むでしょう。天下の穀物の生産量を回復でき、いちどの水害や旱害で飢饉が起こる心配はなくなります。人事考課をすべて厳密に行えば、処罰を畏れて恩恵に懐き、自ら励まないものはおりません。また都邑のなかには、生産に従事しないものが多く、小手先の技芸が流行り、服飾が奢侈で、富豪が美しさを求めており、まだ魏代の悪弊が残っています。(晋帝国の)教化は日が浅く、財産を失い穀物を傷つけ、ややすれば万の単位となります。旧法を明らかにして運用し、奢侈を根絶なさいますように。奢侈を除いて倹約をさせれば、農務の時期を奪わず、力を生産活動に尽くし、備蓄倉庫が満ちるでしょう。栄辱と礼節が、その上で生じ、国家の興隆と教化が本来の姿を取り戻し、盛んになるでしょう」と言った。
鎮軍大将軍に転じ、侍中を加え、羽葆・鼓吹を贈られ、太子少傅を代行した。数年で、太子太傅を授け、太子に戒めを献上し、「むかし天上の王は、国を建てて君を立て、天文を仰ぎ見て、地理を見下ろし、事業を始めて道を開き、人を安定させて祭りを継承し、王朝が続いて血統を重んじ、太子を擁立しました。道を広めることを尊重するのは、自分を二の次にするためで、太子が立ったならば、国家は頼みに思います。親近で仁のあるものは功績を成し遂げ、疎遠で邪悪なものは国を傾けます。ですから輔佐の人材は、賢明なものをお選び下さい。むかし周の成王が即位すると、周公旦と召公奭が守り役となり、外は徳に明るいものが助け、内は血縁の近しいもので固め、徳は義によって行われ、親しさは自ずと表れました。(秦の)嬴氏は公族を廃したので、山のように崩壊しました。劉氏は子弟を封建したので、漢帝国は長く続きました。(春秋時代に)楚は無極(費無忌)が叛乱し、宋は伊戻が政難を起こしました。張禹は口が達者でへつらい、強い漢ですら危うくなり(王莽に奪われ)ました。輔佐の大臣が忠でなければ、禍乱は自分の身に及びます。自分の身だけでなく、国家を失わせることもあります。父子が対立しないと言わなかったのは、むかし(前漢)の江充です。至親に二心がないと言わなかったのは、(春秋楚の)潘崇でした。へつらいの言葉が真実を乱し、対立をあおる言葉が親族を背かせ、(春秋晋では)驪姫の讒言のせいで、晋侯が申生を疑いました。親族を固めるには道に基づき、恩に基づいてはなりません。身を修めるには敬意に基づき、位の高さに基づいてはなりません。自分を削るものは余裕があり、自分を増やすものは昏迷します。万事を大切にすべきで、根本を丁寧に扱うべきです。滅亡を見て危機を戒め、安泰を見て存立を思いなさい。冢子(太子)は義を司るものです、あえて門前から申し上げます」と言った。世間はこれを名文だと言った。
咸寧二年、賈充に代わって司空となり、侍中・太傅は現状のままとした。これよりさき、司馬攸はとくに文帝(司馬昭)から寵愛され、(文帝は)司馬攸と会うたび、腰かけを撫でて彼を小字で呼び「ここは桃符(司馬攸)の席だ」と言い、太子に選ばれかけることが何回もあった。文帝が病気に臥せると、司馬攸の立場が安定しないことを心配し、(兄の)武帝(司馬炎)に漢の淮南王と魏の陳思王の故事を伝えて泣いた。文帝が崩御すると、武帝は司馬攸の手をとって帝位を授けた。これよりさき(生母の)太后が病気となり、小康状態になると、武帝と司馬攸はともに觴を奉って回復を祝ったが、司馬攸は太后が以前の病気で危篤になったことを忘れず、むせび泣いて落涙した。武帝は(生母への孝行ぶりで負けたため)恥じた。司馬攸がかつて文帝の看病すると、つねに父のために心を痛めたので、当時の人々は司馬攸の孝行さを称賛した。太后が崩御する際、また落涙して武帝に、「桃符は気忙しい、しかしお前は兄として慈しみがない。私が死ねば、きっと衝突することが心配だ。これをお前への戒めとする、わが言葉を忘れることがないように」と言った。
武帝の晩年となり、諸子はみな才覚に乏しく、しかも太子(司馬衷)は暗愚であった。朝臣の内外は、みな司馬攸を望んだ。中書監の荀勖と侍中の馮紞は(武帝に)へつらって昇進したので、司馬攸は二人を嫌っていた。荀勖は朝廷の世論が司馬攸にあるので、彼が次の皇帝となれば、禍いがきっと自分に及ぶことを恐れた。そこで穏やかに武帝に、「陛下が崩御した後、太子は(帝位に)立てません」と言った。武帝は、「なぜだ」と言った。荀勖は、「百僚の内外はみな心を斉王(司馬攸)に寄せています、太子がどうして立てましょうか。陛下は試みに斉王に詔して藩国に赴任させて下さい。もし朝廷をあげて反対意見が出るなら、私の発言の証明となりましょう」と言った。馮紞はさらに、「陛下が諸侯を藩国に行かせ、五等爵制を整備するならば、先に近親から始めるべきです。(同母弟の)斉王よりも近しい親族はいません」と言った。
武帝は荀勖の発言を信じ、また馮紞の意見を聞き入れ、太康三年に詔を下して、「古に(天子が)九等の命令を出して(諸侯を)伯とし、あるものは入って朝政を助け、あるものは出て地方を統括した。周の呂望は、五侯九伯であり、これを徴すことができた。侍中・司空・斉王の攸(司馬攸)は、徳が明らかで清らかで和らぎ、忠正であり篤実である。同母弟という親しさにより、三公の任務を受け、朝廷を支えた功績があり、王室のために力を尽くし、高貴な位に昇るべきで、仰ぎ見られている。そこで彼を大司馬・都督青州諸軍事とし、侍中は現状のままとし、仮節とし、本営千人を率い、親騎帳下司馬大車は従来のままとし、鼓吹一部と、官騎満二十人を増し、騎司馬五人を置くように。それ以外は旧来の制度に基づいて実行せよ」と言った。司馬攸は悦ばなかったが、主簿の丁頤が、「むかし太公望(呂望)が斉に封建され、東海で第一となりました。桓公は諸侯を取りまとめ、五伯の長となりました。ましてや殿下は大いに徳を備えて聡明で、広い藩国を擁しており、静かに東方を動かせば、得られないものはありません。どうして宮門を赤く塗り(天子となり)、天子の事業を広めないのですか」と言った。司馬攸は、「私は(朝廷で)当世を救うことに役立たずだったのだ、きみは喋り過ぎている」と言った。
翌年、(武帝が)司馬攸に策命し、「ああ、天命は同じところに留まらず、天はすでに魏帝国からは去った。わが晋帝国は天の明らかなる命令を受けて従い、諸侯を大いに立て、遠く王国を東方の地に設け、そこの青き社稷を給わり、わが皇室の藩屏とした。努めて怠ることなく、長く宗廟を保つように」と言った。また詔して太常に命じ、礼の格式を上げるものを議論させ、済南郡を斉国に加えた。さらに司馬攸の子の司馬寔を北海王とした。ここにおいて高い格式のものを賜与し、軒懸の楽と六佾の舞を設け、黄鉞や朝車や乗輿は水準を揃えた。
司馬攸は荀勖と馮紞が自分を批判したことを知り、憤激して病気になり、(洛陽に留まって)先后の陵墓を守りたいと願ったが、(武帝は)許さなかった。武帝は医師を派遣して診察させたが、医師たちは武帝に忖度し、いずれも病気ではないと言った。病気がいっそう悪化しても、(斉国に)出発せよと督促した。司馬攸は不調を押して別れの挨拶にゆき、容儀を正して、病気がひどくても、自らを励まし、振る舞いは平常どおりで、武帝はますます仮病を疑った。別れて道中の二泊目に、血を吐いて薨去し、このとき三十六歳であった。武帝は彼のために慟哭した。馮紞は武帝のそばに侍っており、「斉王は名声が実態を超え、天下から過剰に慕われていました。いま彼が薨去したのは、社稷の幸福です。陛下はどうしてそれほど哀しむのですか」と言った。武帝は泣き止んだ。詔して葬礼は安平王孚(司馬孚)の故事に準拠し、廟に軒懸の楽を設け、太廟に配饗した。子の司馬冏が立ち、別に列伝がある。
司馬攸は礼によって自らを律し、失敗が少なかった。ひとから書物を借りたら、必ず手ずから誤字を削り、その後に返却した。そして善良さが人を上回り、諱を犯されるたび、はらはらと涙を流した。武帝もまた司馬攸を敬い憚ったが、いつも招いて一緒に過ごし、必ず言葉を選んでから口に出した。三人の子がおり、蕤・賛・寔である。

原文

蕤字景回、出繼遼東王定國。太康初、徙封東萊王。元康中、歷步兵・屯騎校尉。蕤性強暴、使酒、數陵侮弟冏、冏以兄故容之。冏起義兵、趙王倫收蕤及弟北海王寔繫廷尉、當誅。倫太子中庶子祖納上疏諫曰、「罪不相及、惡止其身、此先哲之弘謨、百王之達制也。是故鯀既殛死、禹乃嗣興。二叔誅放、而邢衞無責。逮乎戰國、及至秦漢、明恕之道寢、猜嫌之情用、乃立質任以御眾、設從罪以發姦。其所由來、蓋三代之弊法耳。蕤・寔、獻王之子、明德之胤、宜蒙特宥、以全穆親之典」。會孫秀死、蕤等悉得免。冏擁眾入洛、蕤於路迎之。冏不即見、須符付前頓。蕤恚曰、「吾坐爾殆死、曾無友于之情」。
及冏輔政、詔以蕤為散騎常侍、1.加大將軍、領後軍・侍中・特進、增邑滿二萬戶。又從冏求開府、冏曰、「武帝子吳・豫章尚未開府、宜且須後」。蕤以是益怨、密表冏專權、與左衞將軍王輿謀共廢冏。事覺、免為庶人。尋詔曰、「大司馬以經識明斷、高謀遠略、猥率同盟、安復社稷。自書契所載、周召之美未足比勳、故授公上宰。東萊王蕤潛懷忌妬、包藏禍心、與王輿密謀、圖欲譖害。收輿之日、蕤與青衣共載、微服奔走、經宿乃還。姦凶赫然、妖惑外內。又前表冏所言深重、雖管蔡失道、牙慶亂宗、不復過也。春秋之典、大義滅親、其徙蕤上庸」。後封微陽侯。永寧初、上庸內史陳鍾承冏旨害蕤。冏死、詔誅鍾、復蕤封、改葬以王禮。
贊字景期、繼廣漢殤王廣德後。年六歲、太康元年薨、諡沖王。
寔字景深、初為長樂亭侯。攸以贊薨、又以寔繼廣漢殤王後、改封北海王。永寧初為平東將軍・假節、加散騎常侍、代齊王冏鎮許昌。尋進安南將軍・都督豫州軍事、增邑滿二萬戶。未發、留為侍中・上軍將軍、給千兵百騎。

1.中華書局本の校勘記によると、大将軍は開府の権限があるが、下に開府を求めたという文があり、整合しない。大将軍ではなく、「○○大将軍」という官号であり表記が漏れている可能性がある。

訓読

蕤 字は景回、出でて遼東王の定國を繼ぐ。太康初に、徙りて東萊王に封ぜらる。元康中に、步兵・屯騎校尉を歷す。蕤 性は強暴にして、酒を使ひ、數々弟の冏を陵侮し、冏 兄なるを以て故に之を容る。冏 義兵を起こすや、趙王倫 蕤及び弟の北海王寔を收めて廷尉に繫ぎ、當に誅すべしとす。倫の太子中庶子の祖納 上疏し諫めて曰く、「罪は相 及ばず、惡は其の身に止む。此れ先哲の弘謨にして、百王の達制なり。是の故に鯀 既に殛死すれども、禹 乃ち嗣ぎて興る。二叔 誅放せらるとも、而れども邢衞 責無し。戰國に逮び、及びて秦漢に至るや、明恕の道 寢ね、猜嫌の情 用ひ、乃ち質任を立てて以て眾を御し、從罪を設けて以て姦を發す。其の由來する所は、蓋し三代の弊法なるのみ。蕤・寔は、獻王の子にして、明德の胤なり。宜しく特宥を蒙り、以て穆親の典を全せよ」と。會々孫秀 死し、蕤ら悉く免ぜらるを得たり。冏 眾を擁して洛に入り、蕤 路に於て之を迎ふ。冏 即ち見えず、符を須ちて付して前みて頓す。蕤 恚りて曰く、「吾 爾に坐して殆んど死せんとす、曾ち友于の情無し」と。
冏 輔政するに及び、詔して蕤を以て散騎常侍と為し、大將軍を加へ、後軍・侍中・特進を領せしめ、邑を增して滿二萬戶とす。又 冏に從ひて開府を求む。冏曰く、「武帝の子の吳・豫章 尚ほ未だ開府せず。宜しく且く後を須つべし」と。蕤 是を以て益々怨み、密かに冏が專權を表し、左衞將軍の王輿と與に共に冏を廢せんと謀す。事 覺し、免じて庶人と為らる。尋いで詔して曰く、「大司馬 經識の明斷、高謀の遠略を以て、猥りに同盟を率ゐ、社稷を安復す。書契の載する所より、周召の美だに未だ勳を比するに足らず。故に公に上宰を授く。東萊王蕤 潛かに忌妬を懷き、禍心を包藏し、王輿と與に密謀し、圖りて譖害せんと欲す。輿を收むるの日、蕤 青衣と與に共載し、微服して奔走し、宿を經て乃ち還る。姦凶 赫然として、外內を妖惑す。又 前に表すらく冏の言ふ所 深重にして、管蔡 道を失ひ、牙慶 宗を亂すと雖も、復た過ぎざるなりと。春秋の典に、大義 親を滅すと〔一〕。其れ蕤を上庸に徙す」と。後に微陽侯に封ぜらる。永寧初に、上庸內史の陳鍾 冏の旨を承けて蕤を害す。冏 死するや、詔して鍾を誅し、蕤の封を復し、改めて葬むるに王禮を以てせしむ。
贊 字は景期、廣漢殤王廣德の後を繼ぐ。年六歲にして、太康元年に薨じ、沖王と諡せらる。
寔 字は景深、初め長樂亭侯と為る。攸 贊の薨ずるを以て、又 寔を以て廣漢殤王の後を繼がしめ、改めて北海王に封ず。永寧初に平東將軍・假節と為り、散騎常侍を加へられ、齊王冏に代はりて許昌に鎮す。尋いで安南將軍・都督豫州軍事に進み、邑を增し滿二萬戶とす。未だ發せざるに、留まりて侍中・上軍將軍と為り、千兵百騎を給はる。

〔一〕『春秋左氏伝』隠公 伝四年に、「大義滅親」とあり出典 。

現代語訳

司馬蕤は字を景回といい、(司馬攸の家を)出て遼東王の司馬定国を継いだ。太康年間の初め、移って東萊王に封建された。元康年間、歩兵校尉や屯騎校尉を歴任した。司馬蕤は気性が荒々しく、酒に酔うと、しばしば弟の司馬冏を侮辱したが、司馬冏は(司馬蕤が)兄なので容認した。司馬冏が義兵を起こすと、趙王倫(司馬倫)は司馬蕤及び(司馬蕤の)弟の北海王寔(司馬寔)を捕らえて廷尉で捕らえ、誅殺しようとした。司馬倫のもとの太子中庶子の祖納が上疏して諫め、「罪は(親族に)波及させず、悪事は当人の身にとどめるもの。これが先賢の規範であり、百王の制度です。ですから鯀が死刑にされても、禹は家を嗣いで盛り立てました。二叔(管叔と蔡叔)が誅殺や追放をされても、(弟の)邢と衛は追及されませんでした。戦国時代となり、秦漢時代に下ると、真心の道が廃れ、猜疑心を行使し、質任(人質)を立てて軍を統御し、連坐の罪を設けることで摘発するようになりました。このようになったのは、三代の法が荒廃したためです。司馬蕤と司馬寔は、献王(司馬攸)の子であり、明徳な人物の血統です。特別に赦し、親族を慈しむ方策を採ってください」と言った。たまたま孫秀が死に、司馬蕤らはみな(死刑を)免れることができた。司馬冏が軍勢を擁して洛陽に入ると、司馬蕤は道路で出迎えた。司馬冏は面会せず、(司馬蕤は)任命状を待って進み頭を地につけて敬礼した。司馬蕤は怒って、「私はきみに連坐して死にかけたのに、思いやりの心がないのか」と言った。
司馬冏が輔政すると、詔して司馬蕤を散騎常侍とし、大将軍を加え、後軍・侍中・特進を領させ、封邑を増して満二万戸とした。さらに(司馬蕤は)司馬冏に開府をしたいと要請した。司馬冏は、「武帝の子の呉王と豫章王ですらまだ開府していない。しばらく待つように」と言った。このことがあって司馬蕤はますます怨み、ひそかに司馬冏の専横を上表し、左衛将軍の王輿とともに司馬冏の失脚を画策した。発覚し、罷免されて庶人なった。すぐに詔があり、「大司馬(司馬冏)は見識を備えた判断力、遠大な見通しを持ち、(司馬倫を討伐する)同盟の軍を率い、社稷を安定させ回復させた。典籍を参照するに、周公旦や召公奭の事業ですら比較するに足りない。ゆえに公(司馬冏)に上宰の位を授けたのだ。東萊王蕤(司馬蕤)はひそかに嫉妬心を持ち、危害を加えようと、王輿とともに密謀し、批判をして失脚させようと計画した。王輿を捕らえたとき、司馬蕤は青衣(奴隷)と同乗して(紛れ込み)、微服で逃げ回り、一夜をすごして帰った。姦悪さは歴然とし、内外を惑乱している。しかも司馬蕤はかつて看過できない上表をし、(司馬冏は)管叔と蔡叔よりも道を踏み外し、牙と慶(の父子)が宗族を乱したことも、司馬冏ほどではなかったと述べた。『春秋』の経典に、大義は親族(の親しさ)よりも優先するとある。そこで司馬蕤を上庸に徙刑とする」と言った。のちに微陽侯に封建された。永寧年間のはじめ、上庸内史の陳鍾は司馬冏の意向を受けて司馬蕤を殺害した。司馬冏が死ぬと、詔して陳鍾を誅殺し、司馬蕤の封号を回復し、改めて王礼で葬った。
司馬賛は字を景期といい、広漢殤王の司馬広徳の後を継いだ。六歳のとき、太康元年に薨去し、沖王と諡された。
司馬寔は字を景深といい、はじめ長楽亭侯となった。司馬攸は司馬賛が薨去したので、また(司馬賛の弟の)司馬寔に広漢殤王の後を継がせ、改めて北海王に封建した。永寧年間のはじめ、平東将軍・仮節となり、散騎常侍を加えられ、斉王冏(司馬冏)に代わって許昌に出鎮した。ほどなく安南将軍・都督豫州軍事に進み、封邑を増して満二万戸とした。(許昌に)出発する前に、留まって侍中・上軍将軍となり、歩兵千人と百騎を給わった。

城陽王兆

原文

城陽哀王兆字千秋、年十歲而夭。武帝踐阼、詔曰、「亡弟千秋少聰慧、有夙成之質。不幸早亡、先帝・先后特所哀愍。先后欲紹立其後、而竟未遂、每追遺意、情懷感傷。其以皇子景度為千秋後、雖非典禮、亦近世之所行、且以述先后本旨也」。於是追加兆封諡。景度以泰始六年薨、復以第五子憲繼哀王後。薨、復以第六子祗為東海王、繼哀王後。薨、咸寧初又封第十三子遐為清河王、以繼兆後。

訓読

城陽哀王兆 字は千秋、年十歲にして夭す。武帝 踐阼するや、詔して曰く、「亡弟の千秋 少くして聰慧、夙成の質有り。不幸にして早くに亡し、先帝・先后 特に哀愍する所なり。先后 紹ぎて其の後を立てんと欲するに、而れども竟に未だ遂げず。每に遺意を追ひ、情は感傷を懷く。其れ皇子の景度を以て千秋の後と為せ。典禮に非ざると雖も、亦た近世の行ふ所なり。且つ以て先后の本旨を述すなり」と。是に於て追ひて兆に封諡を加ふ。景度 泰始六年を以て薨じ、復た第五子憲を以て哀王の後を繼がしむ。薨じ、復た第六子祗を以て東海王と為し、哀王の後を繼がしむ。薨じ、咸寧初に又 第十三子遐を封じて清河王と為し、以て兆の後を繼がしむ。

現代語訳

城陽哀王兆(司馬兆)は字を千秋といい、十歳で夭折した。武帝が即位すると、詔して、「亡弟の千秋は若くして聡明で、早成する資質があった。不幸にして早くに亡くなり、先帝(司馬昭)と先后(王氏)はとくに哀しみ憐れんだ。先后はかれの後嗣を立てたいと考えていたが、結局は実行されなかった。いつも(亡き先后の)遺思を追憶し、感傷を抱いている。そこで皇子の景度を千秋の後嗣とせよ。礼の基準と異なるが、近年では行われてきたことだ。これにより先后の思いを遂げられる」と言った。かくして追って司馬兆に封号と諡号を加えた。司馬景度が泰始六年に薨じると、また第五子の司馬憲に哀王の後を継がせた。薨じると、また第六子の司馬祗を東海王とし、哀王の後を継がせた。薨じると、咸寧年間の初めにまた第十三子の司馬遐を清河王に封建し、司馬兆の後を継がせた。

遼東王定國

原文

遼東悼惠王定國、年三歲薨。咸寧初追加封諡、齊王攸以長子蕤為嗣。蕤薨、子遵嗣。

訓読

遼東悼惠王の定國、年三歲にして薨ず。咸寧初に追ひて封諡を加へ、齊王攸 長子蕤を以て嗣と為す。蕤 薨ずるや、子の遵 嗣ぐ。

現代語訳

遼東悼恵王の司馬定国は、三歳で薨去した。咸寧年間の初めに追って封号と諡号を加え、斉王攸(司馬攸)は長子の司馬蕤を後嗣とした。司馬蕤が薨去すると、子の司馬遵が嗣いだ。

廣漢王廣德

原文

廣漢殤王廣德、年二歲薨。咸寧初追加封諡、齊王攸以第五子贊紹封。薨、攸更以第二子寔嗣廣德。

訓読

廣漢殤王廣德、年二歲にして薨ず。咸寧初に追ひて封諡を加へ、齊王攸 第五子贊を以て封を紹がしむ。薨じ、攸 更めて第二子寔を以て廣德を嗣がしむ。

現代語訳

広漢殤王の司馬広徳は、二歳で薨去した。咸寧年間の初めに追って(司馬広徳に)封号と諡号を加え、斉王攸(司馬攸)は第五子の司馬賛に封号を継がせた。薨じると、司馬攸はあらためて第二子の司馬寔に司馬広徳を嗣がせた。

樂安王鑒

原文

樂安平王鑒字大明、初封臨泗亭侯。武帝踐阼、封樂安王。帝為鑒及燕王機高選師友、下詔曰、「樂安王鑒・燕王機並以長大、宜得輔導師友、取明經儒學、有行義節儉、使足嚴憚。昔韓起與田蘇遊而好善、宜必得其人」。
泰始中、拜越騎校尉。咸寧初、以齊之梁鄒益封、因之國、服侍中之服。元康初、徵為散騎常侍・上軍大將軍、領射聲校尉。尋遷使持節・都督豫州軍事・安南將軍、代清河王遐鎮許昌、以疾不行。七年薨、子殤王籍立。薨、無子、齊王冏以子冰紹鑒後。以濟陰萬一千二百一十九戶改為廣陽國、立冰為廣陽王。冏敗、廢。

訓読

樂安平王鑒 字は大明、初め臨泗亭侯に封ぜらる。武帝 踐阼するや、樂安王に封ぜらる。帝 鑒及び燕王機の為に師友を高選し、詔を下して曰く、「樂安王鑒・燕王機 並びに長大なるを以て、宜しく輔導の師友を得て、明經の儒學を取り、行義に節儉有らば、嚴憚を足らしむ。昔 韓起 田蘇と與に遊びて好善す。宜しく必ず其の人を得べし」と。
泰始中に、越騎校尉を拜す。咸寧の初に、齊の梁鄒を以て封を益し、因りて國に之き、侍中の服を服す。元康の初に、徵して散騎常侍・上軍大將軍と為り、射聲校尉を領す。尋いで使持節・都督豫州軍事・安南將軍に遷り、清河王遐に代はりて許昌に鎮するに、疾を以て行かず。七年に薨じ、子の殤王籍 立つ。薨じ、子無く、齊王冏 子の冰を以て鑒が後を紹がしむ。濟陰萬一千二百一十九戶を以て改めて廣陽國と為し、冰を立てて廣陽王と為す。冏 敗るるや、廢せらる。

現代語訳

楽安平王の司馬鑒は字を大明といい、はじめ臨泗亭侯に封建された。武帝が即位すると、楽安王に封建された。武帝は司馬鑒及び燕王機(司馬機)のために師友を厳選し、詔を下して、「楽安王の司馬鑒と燕王の司馬機は成人しているが、教え導いてくれる師友をつけ、儒学に明るい人物を選んで、行動に節度を持たせれば、十分に慎み深くなるだろう。むかし韓起は田蘇と交際して優れた人物となった。彼らを善導する人物を見つけよ」と言った。
泰始年間、越騎校尉を拝した。咸寧年間の初め、斉の梁鄒を封邑に増し、国に赴任し、侍中の服をつけた。元康年間の初め、徴召して散騎常侍・上軍大将軍とし、射声校尉を領した。すぐに使持節・都督豫州軍事・安南将軍に遷り、清河王遐(司馬遐)に代わって許昌への出鎮を命じたが、病気で赴任しなかった。元康七年に薨去し、子の殤王籍(司馬籍)が立った。薨去し、子がおらず、斉王冏(司馬冏)の子の司馬冰に司馬鑒の後を継がせた。済陰一万一千二百一十九戸を広陽国に改め、司馬冰を立てて広陽王とした。司馬冏が敗れると、廃位された。

樂平王延祚

原文

樂平王延祚字大思、少有篤疾、不任封爵。太康初、詔曰、「弟祚早孤無識、情所哀愍。幼得篤疾、日冀其差、今遂廢痼、無復後望、意甚傷之。其封為樂平王、使有名號、以慰吾心」。尋薨、無子。

訓読

樂平王延祚 字は大思、少くして篤疾有り、封爵に任ぜず。太康の初に、詔して曰く、「弟の祚 早く孤にして識無く、情として哀愍する所なり。幼くして篤疾を得て、日に其の差を冀ふに、今 遂に廢痼して、復た後望無く、意として甚だ之を傷む。其れ封じて樂平王と為し、名號有らしめ、以て吾が心を慰めよ」と。尋いで薨じ、子無し。

現代語訳

楽平王の司馬延祚は字を大思といい、若くして重い病気があり、封爵を与えられなかった。太康年間の初め、詔して、「弟の延祚は早くに父を失って覚えておらず、憐憫の情がわいてくる。幼くして重病にかかり、日々に治癒を願ったが、いま不治となり、回復の見込みがなく、とても傷ましい。そこで楽平王に封建し、名号を持たせ、わが心を慰めるように」と言った。ほどなく薨去し、子がなかった。

原文

史臣曰、平原性理不恒、世莫之測。及其處亂離之際、屬交爭之秋、而能遠害全身、享茲介福、其愚不可及已。琅邪武功既暢、飾之以溫恭、扶風文教克宣、加之以孝行、抑宗室之可稱者也。齊王以兩獻之親、弘二南之化、道光雅俗、望重台衡、百辟具瞻、萬方屬意。既而地疑致逼、文雅見疵、紞・勖陳蔓草之邪謀、武皇深翼子之滯愛。遂乃褫龍章於袞職、徙侯服於下藩、未及戒塗、終於憤恚、惜哉。若使天假之年而除其害、奉綴衣之命、膺負圖之託、光輔嗣君、允釐邦政、求諸冥兆、或廢興之有期、徵之人事、庶勝殘之可及、何八王之敢力爭、五胡之能競逐哉。詩云、「人之云亡、邦國殄瘁」、攸實有之。「讒人罔極、交亂四國」、其荀・馮之謂也。
贊曰、文・宣孫子、或賢或鄙。扶風遺愛、琅邪克己。澹諂凶魁、肜參釁始。榦雖靜退、性乖恒理。彼美齊獻、卓爾不羣。自家刑國、緯武經文。木摧於秀、蘭燒以薰。

訓読

史臣曰く、平原は性理 恒ならず、世は之れ測る莫し。其の亂離の際に處り、交爭の秋に屬ふに及び、而るに能く害を遠ざけ身を全し、茲の介福を享く。其の愚 及ぶ可からざるのみ。琅邪は武功 既に暢び、之を飾るに溫恭を以てし、扶風は文教 克く宣し、之に加ふるに孝行を以てし、抑々宗室の稱す可き者なり。齊王 兩獻の親を以て、二南の化を弘め、道は雅俗を光かせ、望は台衡に重く、百辟は具瞻し、萬方は意に屬す。既にして地疑 逼るに致り、文雅 疵せられ、紞・勖 蔓草の邪謀を陳べ、武皇 翼子の滯愛を深む。遂に乃ち龍章を袞職に褫がしめ、侯服を下藩に徙し、未だ戒塗に及ばざるに、憤恚に終はる、惜しきかな。若し天をして之の年を假して其の害を除かしめ、綴衣の命を奉り、負圖の託に膺し、嗣君を光輔し、邦政を允釐し、諸々の冥兆を求め、或いは廢興の期有らば、之れ人事を徵し、庶くは殘に勝るの及ぶ可く、何ぞ八王の敢て力爭し、五胡の能く競逐するや。詩に云く、「人 之れ云(ここ)に亡び、邦國 殄瘁す」とは〔一〕、攸 實に之有り。「讒人は罔極にして、交(とも)に四國を亂す」とは、其れ荀・馮の謂ひなり。
贊に曰く、文・宣の孫子、或いは賢 或いは鄙なり。扶風は愛を遺し、琅邪は己に克つ。澹 凶の魁に諂り、肜 釁の始に參ず。榦 靜退なると雖も、性は恒理に乖る。彼の美なる齊獻、卓爾として羣れず。家より國を刑し、武を緯し文を經す。木は秀を摧ち、蘭燒くに薰を以てす。

〔一〕『詩経』大雅 蕩之什 瞻卬に、「人之云亡。邦國殄瘁」とある。
〔二〕『詩経』小雅 甫田之什 青蠅に、「讒人罔極。交亂四國」とある。

現代語訳

史臣はいう、平原王(司馬榦)は精神が普通でなく、世の人は真意を計りかねた。政治の混乱や、戦闘が起きた状況でも、危害を遠ざけて身を全うし、大きな幸福を得た。その愚かさには及ぶことができない。琅邪王(司馬伷)は武功を伸張させ、それでいて温和で恭しく、扶風王(司馬亮)は礼法による教化を広め、しかも孝行であり、宗室で称賛すべき人物である。斉王(司馬攸)は二人の献王(河間献王の劉徳と沛献王の劉輔)と同じ親しさがあり、二つの南(『詩経』召南と周南)の教化を広げ、道義は上も下も輝かせ、輿望は宮廷で重く、百官から注目され、天下全土から頼られた。地位にまつわる疑惑に逼られ、雅さが傷つけられ、馮紞と荀勖がつる草のような邪悪な謀略をねり、武皇帝はわが子(司馬衷)への溺愛にこだわった。(司馬攸から)天子の服を剥ぎ取って、諸侯の服を着せて藩国に移し、旅行の準備をする前に、憤激して死去した、惜しいことである。もし天が寿命を貸し与えて弊害を除き、衣服係の命令を奉り、後事を託して、嗣君(恵帝)を輔佐させて、国家を正しく治め、さまざまな予兆を感知し、あるいは興廃の時期を見極めれば、すぐれた人材を徴して、凶悪なものを圧倒できたはずで、どうして八王が暴力的に争い、五胡が競って蹂躙しただろうか。『詩経』に、「上に立つものが滅び、国中は病み苦しむ」とあるのは、まさに司馬攸のことを言っている。「讒言するものはでたらめで、四方の国も乱す」とあるのは、まさに荀勖と馮紞のことを言っている。
賛にいう、文帝と宣帝(司馬昭と司馬懿)の子や孫は、あるものは賢く、あるものは愚かであった。扶風(司馬亮)は(任地に)愛をのこし、琅邪(司馬伷)は己に克った。司馬澹は悪逆なことを始め(司馬繇を陥れ)、司馬肜は(司馬倫による)国家の転覆に立ち会った。司馬榦は穏やかで政治から離れたが、精神が正常ではなかった。なかでも斉献(司馬攸)は、一人だけ飛び抜けていた。王の立場で国家を正し、文武を兼ね備えた。飛び出した木は(風に)折られ、蘭は香りの良いものが焼かれると。