いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第九巻_王沈(子浚)・荀顗・荀勖(子藩・藩子邃・闓・藩弟組・組子奕)・馮紞

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お恥ずかしい限りですが、ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。宜しくお願いいたします。巻末の「史臣曰」は未詳な点が残っているので、順次補います。
荀顗は、あの荀彧の子。荀勖は、荀爽の曾孫です。荀彧が曹操に殺され表舞台から去ったかに見える荀氏が、魏から晋にかけてどのような人物を輩出していたのかを知ることができる列伝です。

王沈 子浚

原文

王沈字處道、太原晉陽人也。祖柔、漢匈奴中郎將。父機、魏東郡太守。沈少孤、養於從叔1.司徒昶、事昶如父、奉繼母寡嫂以孝義稱。好書、善屬文。大將軍曹爽辟為掾、累遷中書門下侍郎。及爽誅、以故吏免。後起為治書侍御史、轉祕書監。正元中、遷散騎常侍・侍中、典著作。與荀顗・阮籍共撰魏書、多為時諱、未若陳壽之實錄也。
時魏高貴鄉公好學有文才、引沈及裴秀數於東堂講讌屬文、號沈為文籍先生、秀為儒林丈人。及高貴鄉公將攻文帝、召沈及王業告之、沈・業馳白帝、以功封安平侯、邑二千戶。沈既不忠於主、甚為眾論所非。
尋遷尚書、出監豫州諸軍事・奮武將軍・豫州刺史。至鎮、乃下教曰、「自古賢聖、樂聞誹謗之言、聽輿人之論、芻蕘有可錄之事、負薪有廊廟之語故也。自至鎮日、未聞逆耳之言。豈未明虛心、故令言者有疑。其宣下屬城及士庶、若能舉遺逸於林藪、黜姦佞於州國、陳長吏之可否、說百姓之所患、興利除害、損益昭然者、給穀五百斛。若達一至之言、說刺史得失、朝政寬猛、令剛柔得適者、給穀千斛。謂余不信、明如皎日」。
主簿陳廞・褚䂮曰、「奉省教旨、伏用感歎。勞謙日昃、思聞苦言。愚謂上之所好、下無不應。而近未有極諫之辭、遠無傳言之箴者。誠得失之事將未有也。今使教命班下、示以賞勸、將恐拘介之士、或憚賞而不言。貪賕之人、將慕利而妄舉。苟不合宜、賞不虛行、則遠聽者未知當否之所在、徒見言之不用、謂設有而不行。愚以告下之事、可小須後」。
沈又教曰、「夫德薄而位厚、功輕而祿重、貪夫之所徇、高士之所不處也。若陳至言於刺史、興益於本州、達幽隱之賢、去祝鮀之佞、立德於上、受分於下、斯乃君子之操。何不言之有。直言至理、忠也。惠加一州、仁也。功成辭賞、廉也。兼斯而行、仁智之事、何故懷其道而迷其國哉」。褚䂮復白曰、「堯・舜・周公所以能致忠諫者、以其款誠之心著也。冰炭不言、而冷熱之質自明者、以其有實也。若好忠直、如冰炭之自然、則諤諤之臣、將濟濟而盈庭。逆耳之言、不求而自至。若德不足以配唐虞、明不足以並周公、實不可以同冰炭、雖懸重賞、忠諫之言未可致也。昔魏絳由和戎之功、蒙女樂之賜、管仲有興齊之勳、而加上卿之禮。功勳明著、然後賞勸隨之。未聞張重賞以待諫臣、懸穀帛以求盡言也」。沈無以奪之、遂從䂮議。
沈探尋善政、案賈逵以來法制禁令、諸所施行、擇善者而從之。又教曰、「後生不聞先王之教、而望政道日興、不可得也。文武並用、長久之道也。俗化陵遲、不可不革。革俗之要、實在敦學。昔原伯魯不悅學、閔馬父知其必亡。將吏子弟、優閑家門、若不教之、必致游戲、傷毀風俗矣」。於是九郡之士、咸悅道教、移風易俗。

1.『三国志』巻二十七 王昶伝によると、「司空」につくるべきか。

訓読

王沈 字は處道、太原晉陽の人なり。祖の柔、漢の匈奴中郎將なり。父の機、魏の東郡太守なり。沈 少くして孤にして、從叔の司徒の昶に養はれ、昶に事ふること父の如し、繼母の寡嫂を奉りて孝義を以て稱せらる。書を好み、屬文を善くす。大將軍の曹爽 辟して掾と為し、累ねて中書門下侍郎に遷る。爽 誅せらるに及び、故吏を以て免ぜらる。後に起ちて治書侍御史と為り、祕書監に轉ず。正元中に、散騎常侍・侍中に遷り、著作を典す。荀顗・阮籍と與に共に魏書を撰し、多く時の為に諱めば、未だ陳壽の實錄なるに若かざるなり。
時に魏の高貴鄉公 學を好みて文才有り、沈及(と)裴秀を數々東堂に引きて講讌屬文し、沈を號して文籍先生と為し、秀を儒林丈人と為す。高貴鄉公 將に文帝を攻めんとするに及び、沈及(と)王業を召して之を告ぐるに、沈・業 馳せて帝に白せば、功を以て安平侯に封ぜられ、邑二千戶なり。沈 既に主に忠ならざれば、甚だ眾論の非とする所と為る。
尋いで尚書に遷り、出でて監豫州諸軍事・奮武將軍・豫州刺史たり。鎮に至るや、乃ち教を下して曰く、「古より賢聖、誹謗の言を聞き、輿人の論を聽くを樂しむは、芻蕘に錄す可きの事有り、負薪に廊廟の語有るが故なり。鎮に至る日より、未だ逆耳の言を聞かず。豈に未だ虛心を明らかにせず、故に言者をして疑ひ有らしむるか。其れ宣く屬城及び士庶に下し、若し能く遺逸をして林藪に舉げしめ、姦佞をして州國に黜けしめ、長吏の可否を陳べ、百姓の患ふ所を說き、利を興し害を除き、損益 昭然たる者あらば、穀五百斛を給へ。若し一至の言に達し、刺史の得失を說き、朝政の寬猛、剛柔をして適なる者を得しめば、穀千斛を給へ。余を信ぜずと謂ふは、明なること皎日が如し」と。
主簿の陳廞・褚䂮曰く、「教旨を奉省し、伏して用て感歎す。日昃まで勞謙し、苦言を聞かんと思ふ。愚 謂へらく上の好む所、下は應ぜざる無し。而れども近くは未だ極諫の辭有らず、遠くに傳言の箴無し。誠に得失の事 將た未だ有らざるなり。今 教命をして班下して、示すに賞勸を以てせしめども、將た恐らくは拘介の士、或いは賞を憚かりて言はず。貪賕の人、將た利を慕ひて妄りに舉げん。苟しくも宜しきに合はず、賞 虛行せざれば、則ち遠く聽く者 未だ當否の所在を知らず、徒だ言の用ゐられざるのみを見て、設有して行はざるを謂はん。愚 以へらく告下の事、小しく後を須つ可し」と。
沈 又 教に曰く、「夫れ德 薄けれども位 厚く、功 輕けれども祿 重きは、貪夫の徇(もと)むる所にして、高士の處らざる所なり。若し至言を刺史に陳べ、益を本州に興し、幽隱の賢に達し、祝鮀〔一〕の佞を去り、德を上に立て、分を下に受けしむは、斯れ乃ち君子の操なり。何ぞ言はざるのこと有らん。至理を直言するは、忠なり。惠 一州に加ふるは、仁なり。功 成りて賞を辭するは、廉なり。斯れを兼ねて行ふは、仁智の事なり、何ぞ故に其の道を懷きて其の國を迷はすか」と。褚䂮 復た白して曰く、「堯・舜・周公 能く忠諫を致す所以は、其の款誠の心 著はるを以てなり。冰炭 言はざるも、而れども冷熱の質 自ら明らかなるは、其の實有るを以てなり。若し忠直を好むこと、冰炭の自ら然るが如きならば、則ち諤諤の臣、將に濟濟として庭に盈ちんとす。逆耳の言、求めずして自ら至らん。若し德 足らずして以て唐虞を配し、明 足らずして以て周公に並べば、實に以て冰炭と同じなる可からず、重賞を懸くと雖も、忠諫の言 未だ致る可からざるなり。昔 魏絳 戎を和するの功に由りて〔二〕、女樂の賜を蒙り、管仲 興齊の勳有れば、而して上卿の禮を加へらる。功勳 明著たりて、然る後に賞勸 之に隨ふ。未だ重賞を張して以て諫臣を待ち、穀帛を懸けて以て盡言を求むるを聞かざるなり」と。沈 以て之を奪ふこと無く、遂に䂮の議に從ふ。
沈 善政を探尋して、賈逵以來の法制禁令を案じ、諸々の施行する所、善き者を擇びて之に從ふ。又 教に曰く、「後生 先王の教を聞かずして、政道 日に興なるを望めども、得可からざるなり。文武 並用するは、長久の道なり。俗化 陵遲せば、革めざる可からず。俗を革むるの要は、實に敦學に在り。昔 原伯魯 學ぶことを悅ばざれば、閔馬父 其の必ず亡ぶを知る〔三〕。將吏の子弟、優閑の家門、若し之に教へざれば、必ず游戲を致し、風俗を傷毀せん」と。是に於て九郡の士、咸 道教を悅び、風を移し俗を易ふ。

〔一〕祝鮀は、祝佗にもつくる。春秋時代の衛の人。孔子に佞人と称された(『論語』雍也篇・憲問篇、『春秋左氏伝』定公 伝四年)
〔二〕魏絳は、春秋時代の晋の大夫。悼公のとき、山戎(異文化の民)が和を求めると、魏絳は山戎と和する利益を説いた。このおかげで晋は覇者となった(『春秋左氏伝』成公 伝十八年他)。
〔三〕『春秋左氏伝』昭公 伝十八年に見える。原伯魯は、春秋時代の大夫であり、学問を軽んじたので、閔馬父は周王朝の混乱を予期した。

現代語訳

王沈は字を処道といい、太原郡の晋陽県の人である。祖父の王柔は、後漢の匈奴中郎将である。父の王機は、魏の東郡太守である。王沈は若くして父を失い、従叔で司徒(司空か)の王昶に養われ、王昶には父のように仕え、継母の未亡人を奉って孝義により称された。書を好み、文を綴るのを得意とした。大将軍の曹爽が辟召して掾とし、かさねて中書門下侍郎に遷った。曹爽が誅されると、故吏なので免官された。のちに就官して治書侍御史となり、秘書監に転じた。正元年間に、散騎常侍・侍中に遷り、著作(文書編纂の部署)を掌った。荀顗と阮籍とともに魏書を編纂し、多く時世に配慮して記述を避けたので、陳寿の実録よりも劣っている。
このとき魏の高貴郷公(曹髦)は学問を好んで文才があり、王沈と裴秀をしばしば東堂に招いて議論や宴会と著述をし、王沈を文籍先生と呼び、裴秀を儒林丈人と呼んだ。高貴郷公が文帝(司馬昭)を襲撃するにあたり、王沈と王業を召して(計画を)打ち明けたが、王沈と王業は文帝のもとに走って告げたので、その功績で安平侯に封建され、邑二千戸であった。王沈は主君(魏帝)に忠でないとして、群臣の世論から非難を受けた。
ほどなく尚書に遷り、(朝廷から)出て監豫州諸軍事・奮武将軍・豫州刺史となった。鎮所に到着すると、教書を下して、「古より聖賢が、批判の言葉を聞き、世間の論説を聴くことを楽しんだのは、賤しい木こりにも採るべき意見があり、薪を背負ったひとにも朝政の言葉があるからである。鎮所に到着した日から、一度も耳に逆らう言葉を聞かない。まだわが真心が明らかになっておらず、発言者に疑念を抱かせているのだろうか。そこで広く属城および士庶に下達し、もしも隠れた賢者を林や藪から見つけ出し、姦悪な侫臣を州国から立ち去らせ、長吏の可否を述べ、百姓を困りごとを説き、利得を増やして損害を除き、国家に役立つことが確かな提言ならば、穀五百斛を与えるように。もし一片の真理を言い当て、刺史の(為政の)得失を説き、朝政の寛猛や、剛柔を最適化できるような提言ならば、穀千斛を与えよ。私のことが信じられないと言うものも、日のように明るい(もっともな意見だ)」と言った。
主簿の陳廞・褚䂮は、「教書を拝読し、伏して感嘆いたしました。日暮れまで精勤し、苦言(州内からの諫言)を聞こうとしました。上位者が希望すれば、下位者は必ず応答するはずです。しかし近くから率直な諫めの言葉はなく、遠くから伝わる言葉もありません。(提出すべき)得失の事案がまだないのでしょう。いま教書で命令を下し、褒賞を与えて(諫言を)促そうとしても、恐らく節度ある人士は、褒賞に遠慮して発言をしません。強欲のものが、利益を求めて提言をひねり出すでしょう。もし不適切な提言があり、(公正に判定して)みだりに褒賞を出さなければ、これを遠くで聞いたものは内容の適否を知らず、ただ発言が不採用であったことだけを見て、告知どおり褒賞が出なかったと言うでしょう。配下への布告は、もう少し待つべきだと思います」と言った。
王沈はさらに教書で、「徳は薄いが官位が高く、功は軽いが俸禄が重ければ、強欲なものはこれを求めるが、高潔なものは仕えない。もし良き発言を刺史(わたし)に述べ、この州に利得をもたらし、世に隠れた賢者までも用い、祝鮀のような侫臣を除き、君主が徳を打ち立て、利益を配下と共有すれば、これこそ君子の振る舞いである。どうして提言が無くてよいものか。至高の理を直言するのは、忠である。恩恵を一州に加えるのは、仁である。功績があるが褒賞を辞退するのは、廉である。これらをすべて兼ねるのは、仁智の行いであり、どうしてこれを理由に道を重んじて(提言をせず)国を惑わすのか」と言った。褚䂮はまた、「尭と舜と周公に忠臣の諫言が届いたのは、君主の真心が表れていたからです。氷や炭が発信せずとも、その冷たさと暑さの性質が自ずと明らかなのは、実態があるからです。もし(刺史の王沈が)忠言や直言を好むことが、氷や炭のように本性として備わるなら、直言をする臣が、つめかけて庭に満ちるでしょう。耳に逆らう言葉は、求めずして自ずから届きます。もし(刺史の王沈に)徳が足りないにも拘わらず尭や舜になぞらえ、聡明さが足りないのに周公に自分を並べれば、それは氷や炭とまるで違うのであり、重い褒賞を設けても、忠言や諫言は届きようがありません。むかし魏絳は山戎との和睦に功績があったので、女楽の賜を賜り、管仲は斉国を興隆した功績があったので、上卿の礼を加えられました。功績や勲功が顕著であり、その後に褒賞が付いてきます。重い褒賞を設けて諫言の臣を待ち、穀帛で釣って直言を求めるという前例を聞きません」と言った。王沈はその考えを尊重し、ついに褚䂮の意見に従った。
王沈は善政を追求して、賈逵以来の法制や禁令を調査し、さまざまな施策で、よいものを選んで従った。また教書に、「後世のものが先王の教えを聞かず、それでいて政道が日ごとに盛んになることを望んでも、実現するはずがない。文武をどちらも用いるのは、(国家を)永続させる方法である。世の風俗が荒れて衰退すれば、改めなければならない。風俗の改革で重要なのは、学問を重んじることだ。むかし原伯魯は学ぶことを好まず、閔馬父は彼がきっと滅ぶと予想した。将吏の子弟や、裕福な一族は、もし教育をしなければ、必ず遊びほうけ、風俗を毀損するだろう」と言った。こうして九郡の士は、みな道と教えを大切にし、教育が行き渡った。

原文

遷征虜將軍・持節・都督江北諸軍事。五等初建、封博陵侯、班在次國。平蜀之役、吳人大出、聲為救蜀、振蕩邊境。沈鎮御有方、寇聞而退。轉鎮南將軍。武帝即王位、拜御史大夫、守尚書令、加給事中。沈以才望、顯名當世、是以創業之事、羊祜・荀勖・裴秀・賈充等、皆與沈諮謀焉。
及帝受禪、以佐命之勳、轉驃騎將軍・錄尚書事、加散騎常侍、統城外諸軍事。封博陵郡公、固讓不受、乃進爵為縣公、邑千八百戶。帝方欲委以萬機、泰始二年、薨。帝素服舉哀、賜祕器朝服一具・衣一襲・錢三十萬・布百匹・葬田一頃、諡曰元。明年、帝追思沈勳、詔曰、「夫表揚往行、所以崇賢垂訓、慎終紀遠、厚德興教也。故散騎常侍・驃騎將軍・博陵元公沈蹈禮居正、執心清粹、經綸墳典、才識通洽。入歷常伯納言之位、出榦監牧方嶽之任、內著謀猷、外宣威略。建國設官、首登公輔、兼統中朝、出納大命、實有翼亮佐世之勳。其贈沈司空公、以寵靈既往、使沒而不朽。又前以翼贊之勳、當受郡公之封、而固辭懇至。嘉其讓德、不奪其志。可以郡公官屬送葬。沈素清儉、不營產業。其使所領兵作屋五十間」。子浚嗣。後沈夫人荀氏卒、將合葬、沈棺櫬已毀、更賜東園祕器。咸寧中、復追封沈為郡公。

訓読

征虜將軍・持節・都督江北諸軍事に遷る。五等 初めて建つや、博陵侯に封ぜられ、班は次國に在り。平蜀の役に、吳人 大いに出で、聲して蜀を救ふと為し、邊境を振蕩せしむ。沈 鎮御して方有り、寇 聞きて退く。鎮南將軍に轉ず。武帝 王位に即くや、御史大夫を拜し、尚書令を守し、給事中を加へらる。沈 才望を以て、名を當世に顯はし、是を以て創業の事、羊祜・荀勖・裴秀・賈充等、皆 沈と謀を諮れり。
帝 受禪するに及び、佐命の勳を以て、驃騎將軍・錄尚書事に轉じ、散騎常侍を加へ、統城外諸軍事とす。博陵郡公に封ぜらるるも、固く讓して受けず、乃ち爵を進めて縣公と為し、邑は千八百戶なり。帝 方に委ぬるに萬機を以てせんと欲するに、泰始二年に、薨ず。帝 素服もて哀を舉げ、祕器朝服一具・衣一襲・錢三十萬・布百匹・葬田一頃を賜ひ、諡して元と曰ふ。明年に、帝 沈の勳を追思し、詔して曰く、「夫れ往行を表揚するは、賢を崇び訓を垂れ、終を慎しみ遠を紀し、德を厚くし教を興す所以なり。故散騎常侍・驃騎將軍・博陵元公の沈 禮を蹈み正に居り、心を執りて清粹たり、墳典を經綸し、才識は通洽す。入りて常伯納言の位を歷し、出でて監牧方嶽の任を榦し、內に謀猷を著はし、外に威略を宣ぶ。國を建て官を設くるに、首めに公輔に登り、中朝を兼統し、出でて大命を納る、實に翼亮佐世の勳有り。其れ沈に司空公を贈り、寵靈 既に往くを以て、沒すとも不朽とせしめよ。又 前に翼贊の勳を以て、當に郡公の封を受くるべきも、而れども固辭すること懇至たり。其の讓德を嘉し、其の志を奪はず。郡公の官屬を以て送葬す可し。沈 素より清儉にして、產業を營まず。其れ領する所の兵をして屋五十間を作らしめよ」と。子の浚 嗣ぐ。後に沈の夫人の荀氏 卒し、將に合葬せんとするに、沈の棺櫬 已に毀るれば、更めて東園祕器を賜はる。咸寧中に、復た沈を追封して郡公と為す。

現代語訳

征虜将軍・持節・都督江北諸軍事に遷った。五等爵制が初めて設けられると、博陵侯に封建され、序列は次国であった。平蜀の役のとき、呉人が大軍を出し、蜀を救うと喧伝して、国境付近を動揺させた。王沈は混乱を鎮めて秩序を保ち、賊軍(呉)はこれを聞いて退いた。鎮南将軍に転じた。武帝が王位に即くと、御史大夫を拝し、尚書令を守し、給事中を加えられた。王沈は才望により、名声が当世に顕れ、これにより建国の事業に関し、羊祜・荀勖・裴秀・賈充らは、みな王沈に計画を相談した。
武帝が受禅すると、佐命の勲功により、(王沈は)驃騎将軍・録尚書事に転じ、散騎常侍を加え、統城外諸軍事とした。博陵郡公に封建されたが、固辞して受けないので、爵位を進めて県公とし、邑は千八百戸とした。武帝が政務全般を委ねようとしたが、泰始二(二六六)年、薨じた。武帝は素服で哀悼し、秘器や朝服一式と衣一着と銭三十万と布百匹と葬田一頃を賜わり、諡して元とした。翌年、武帝は王沈の勲功を追って考慮し、詔して、「過去の行動を称揚するのは、賢者を尊び教えを垂れ、終わりを慎しみ遠きを記し、徳を厚くして教えを起こすためである。もと散騎常侍・驃騎将軍・博陵元公の王沈は礼を実践して正しく振る舞い、心持ちは清らかで美しく、典籍を詳しく学び、才識はあまねく広かった。朝廷に入れば常伯(三公)や納言(尚書)の官位を歴任し、朝廷を出れば監牧(州牧)や方嶽(諸侯)の任務を果たし、内に計略を立て、外に勢威を広げた。晋国を建てて官制を設けると、最初に公輔(三公)に昇り、朝廷のなかを統括し、地方を出ると大いなる命令を実行した、これぞ当世を輔政した偉大な功績である。そこで王沈に司空公を贈って、寵臣の霊が去ろうとも、死後も不朽とするように。また以前の翼賛の功績により、(王沈は)郡公の封爵を受けるべきであったが、ねんごろに固辞した。謙譲の美徳を尊重し、彼の遺志を覆さない。郡公の規定の人員で葬送するように。王沈はふだんから質素で、事業を営まなかった。配下の兵に五十間の屋敷を作らせよ」と言った。子の王浚が嗣いだ。のちに王沈の夫人の荀氏が亡くなり、合葬しようとしたが、すでに王沈の棺が壊れていたので、改めて東園の秘器を賜った。咸寧年間(二七五~二八〇年)、さらに王沈に追封して郡公とした。

原文

浚字彭祖。母趙氏婦、良家女也。貧賤、出入沈家、遂生浚、沈初不齒之。年十五、沈薨、無子、親戚共立浚為嗣、拜駙馬都尉。太康初、與諸王侯俱就國。三年來朝、除員外散騎侍郎。元康初、轉員外常侍、遷越騎校尉・右軍將軍。出補河內太守、以郡公不得為二千石、轉東中郎將、鎮許昌。
及愍懷太子幽于許昌、浚承賈后旨、與黃門孫慮共害太子。遷寧北將軍・青州刺史。尋徙寧朔將軍・持節・都督幽州諸軍事。于時朝廷昏亂、盜賊蠭起、浚為自安之計、結好夷狄、以女妻鮮卑務勿塵、又以一女妻蘇恕延。
及趙王倫篡位、三王起義兵、浚擁眾挾兩端、遏絕檄書。使其境內士庶不得赴義、成都王穎欲討之而未暇也。倫誅、進號安北將軍。及河間王顒・成都王穎興兵內向、害長沙王乂、而浚有不平之心。穎表請幽州刺史石堪為右司馬、以右司馬和演代堪、密使演殺浚、并其眾。演與烏丸單于審登謀之、於是與浚期游薊城南清泉水上。薊城內西行有二道、演・浚各從一道。演與浚欲合鹵簿、因而圖之。值天暴雨、兵器霑溼、不果而還。單于由是與其種人謀曰、「演圖殺浚、事垂克而天卒雨、使不得果。是天助浚也。違天不祥、我不可久與演同」。乃以謀告浚。浚密嚴兵、與單于圍演。演持白幡詣浚降、遂斬之、自領幽州。大營器械、召務勿塵、率胡晉合二萬人、進軍討穎。以主簿祁弘為前鋒、遇穎將石超於平棘、擊敗之。浚乘勝遂克鄴城、士眾暴掠、死者甚多。鮮卑大略婦女。浚命敢有挾藏者斬、於是沈於易水者八千人。黔庶荼毒、自此始也。
浚還薊、聲實益盛。東海王越將迎大駕、浚遣祁弘率烏丸突騎為先驅。惠帝旋洛陽、轉浚驃騎大將軍・都督東夷河北諸軍事、領幽州刺史、以燕國增博陵之封。懷帝即位、以浚為司空、領烏丸校尉、務勿塵為大單于。浚又表封務勿塵遼西郡公、其別部大飄滑及其弟渴末別部大屠瓮等皆為親晉王。
永嘉中、石勒寇冀州、浚遣鮮卑文鴦討勒、勒走南陽。明年、勒復寇冀州、刺史王斌為勒所害、浚又領冀州。詔進浚為大司馬、加侍中・大都督・督幽冀諸軍事。使者未及發、會洛京傾覆、浚大樹威令、專征伐、遣督護王昌・中山太守阮豹等、率諸軍及務勿塵世子疾陸眷、并弟文鴦・從弟末柸、攻石勒於襄國。勒率眾來距、昌逆擊敗之。末柸逐北入其壘門、為勒所獲。勒質末柸、遣間使求和、疾陸眷遂以鎧馬二百五十匹・金銀各一簏贖末柸、結盟而退。
其後浚布告天下、稱受中詔承制、乃以司空荀藩為太尉、光祿大夫荀組為司隸、大司農華薈為太常、中書令1.李𣈶為河南尹。又遣祁弘討勒、及於廣宗。時大霧、弘引軍就道、卒與勒遇、為勒所殺。由是劉琨與浚爭冀州。琨使宗人劉希還中山合眾、代郡・上谷・廣寗三郡人皆歸于琨。浚患之、遂輟討勒之師、而與琨相距。浚遣燕相胡矩督護諸軍、與疾陸眷并力攻破希。驅略三郡士女出塞、琨不復能爭。
浚還、欲討勒、使棗嵩督諸軍屯易水、召疾陸眷、將與之俱攻襄國。浚為政苛暴、將吏又貪殘、並廣占山澤、引水灌田、漬陷冢墓、調發殷煩、下不堪命、多叛入鮮卑。從事韓咸切諫、浚怒、殺之。疾陸眷自以前後違命、恐浚誅之。勒亦遣使厚賂、疾陸眷等由是不應召。浚怒、以重幣誘單于猗盧子右賢王日律孫、令攻疾陸眷、反為所破。

1.中華書局本は「李絙」につくり、『晋書』愍帝紀では、中書郎の李昕とする。

訓読

浚 字は彭祖なり。母の趙氏の婦は、良家の女なり。貧賤たれば、出でて沈の家に入り、遂に浚を生むも、沈 初め之を齒(かぞ)へず。年十五にして、沈 薨じ、子無く、親戚 共に浚を立てて嗣と為し、駙馬都尉を拜す。太康初、諸王侯と與に俱に國に就く。三年にして來朝し、員外散騎侍郎に除せらる。元康初、員外常侍に轉じ、越騎校尉・右軍將軍に遷る。出でて河內太守に補せらるるも、郡公を以て二千石と為るを得ざれば、東中郎將に轉じ、許昌に鎮す。
愍懷太子 許昌に幽せらるに及び、浚 賈后の旨を承け、黃門の孫慮と與に共に太子を害す。寧北將軍・青州刺史に遷る。尋いで寧朔將軍・持節・都督幽州諸軍事に徙る。時に朝廷 昏亂し、盜賊 蠭起せば、浚 自安の計を為し、好を夷狄と結び、女を以て鮮卑の務勿塵に妻はし、又 一女を以て蘇恕延に妻す。
趙王倫 篡位し、三王 義兵を起こすに及び、浚 眾を擁して兩端を挾む。檄書を遏絕し、其の境內の士庶をして義に赴くを得ざらしめ、成都王穎 之を討たんと欲すれども未だ暇あらざるなり。倫 誅せらるるや、號を安北將軍に進む。河間王顒・成都王穎 兵を興こして內に向け、長沙王乂を害するに及び、而して浚 不平の心有り。穎 表して幽州刺史の石堪を右司馬と為し、右司馬の和演を以て堪に代へんことを請ひ、密かに演をして浚を殺さしめ、其の眾を并さんとす。演 烏丸單于の審登と與に之を謀り、是に於て浚と與に期して薊城の南の清泉水上に游ぶ。薊城の內に西行に二道有り、演・浚 各々一道よりす。演 浚と與に鹵簿を合せんと欲し、因りて之を圖る。天 暴かに雨ふるに值ひ、兵器 霑溼し、果たさずして還る。單于 是に由りて其の種人と與に謀りて曰く、「演 浚を殺さんと圖るに、事 垂ど克たんとするに天 卒かに雨ふり、果たすことを得しめず。是れ天の浚を助くるなり。天に違ふは不祥なり、我 久しく演と與に同にす可からず」と。乃ち謀を以て浚に告ぐ。浚 密かに兵を嚴し、單于と與に演を圍む。演 白幡を持して浚に詣りて降るに、遂に之を斬り、自ら幽州を領す。大いに器械を營し、務勿塵を召し、胡晉を率ゐて合して二萬人、軍を進めて穎を討つ。主簿の祁弘を以て前鋒と為し、穎の將の石超と平棘に遇ひ、之を擊敗す。浚 勝に乘じて遂に鄴城に克ち、士眾 暴掠し、死者 甚だ多し。鮮卑 大いに婦女を略す。浚 敢て挾藏する者有らば斬ると命じ、是に於て易水に沈むるもの八千人なり。黔庶の荼毒、此より始まるなり。
浚 薊に還り、聲實 益々盛なり。東海王越 將に大駕を迎へんとするに、浚 祁弘を遣はし烏丸突騎を率ゐて先驅と為す。惠帝 洛陽に旋し、浚を驃騎大將軍・都督東夷河北諸軍事に轉ぜしめ、幽州刺史を領し、燕國を以て博陵の封に增す。懷帝 即位するや、浚を以て司空と為し、烏丸校尉を領し、務勿塵もて大單于と為す。浚 又 表して務勿塵を遼西郡公に封じ、其の別部の大飄滑及び其の弟の渴末別部の大屠瓮らもて皆 親晉王と為す。
永嘉中に、石勒 冀州を寇し、浚 鮮卑の文鴦を遣はして勒を討たしめ、勒 南陽に走る。明年に、勒 復た冀州を寇し、刺史の王斌 勒の害する所と為り、浚 又 冀州を領す。詔して浚を進めて大司馬と為し、侍中・大都督・督幽冀諸軍事を加ふ。使者 未だ發するに及ばざるに、會々洛京 傾覆せば、浚 大いに威令を樹て、征伐を專らにし、督護の王昌・中山太守の阮豹らを遣はし、諸軍及び務勿塵の世子の疾陸眷を率ゐ、弟の文鴦・從弟の末柸を并せ、石勒を襄國に攻む。勒 眾を率ゐて來たりて距み、昌 逆擊して之を敗る。末柸 逐ひて北のかた其の壘門に入るに、勒の獲ふる所と為る。勒 末柸を質とし、間を遣はして和を求めしめ、疾陸眷 遂に鎧馬二百五十匹・金銀各一簏を以て末柸を贖ひ、盟を結びて退く。
其の後 浚 天下に布告し、中詔を受くと稱して承制し、乃ち司空の荀藩を以て太尉と為し、光祿大夫の荀組もて司隸と為し、大司農の華薈もて太常と為し、中書令の李𣈶もて河南尹と為す。又 祁弘を遣はして勒を討たしめ、廣宗に及ぶ。時に大いに霧あり、弘 軍を引きて道に就き、卒かに勒と遇ひ、勒の殺す所と為る。是に由り劉琨 浚と冀州を爭ふ。琨 宗人の劉希をして中山に還りて眾を合せしめ、代郡・上谷・廣寗の三郡の人 皆 琨に歸す。浚 之を患ひ、遂に輟(とど)まりて勒の師を討ち、而して琨と相 距む。浚 燕相の胡矩を遣はして諸軍を督護せしめ、疾陸眷と力を并はせて攻めて希を破る。三郡の士女を驅略して塞を出で、琨 復た能く爭はず。
浚 還り、勒を討たんと欲し、棗嵩をして諸軍を督して易水に屯せしめ、疾陸眷を召し、將に之と與に俱に襄國を攻めんとす。浚の為政 苛暴にして、將吏も又 貪殘たり、並はせて廣く山澤を占し、水を引きて灌田するに、冢墓を漬陷し、調發は殷煩たりて、下は命に堪へず、多く叛して鮮卑に入る。從事の韓咸 切諫するに、浚 怒り、之を殺す。疾陸眷 自ら前後に違命せしを以て、浚 之を誅すを恐る。勒も亦た使を遣はして厚く賂し、疾陸眷ら是に由り召に應ぜず。浚 怒り、重幣を以て單于の猗盧の子たる右賢王の日律孫を誘ひ、疾陸眷を攻めしむるに、反りて破る所と為る。

現代語訳

王浚は字を彭祖という。母の趙氏の女性は、良家の娘であった。貧賤となったので、生家を出て王沈の家に入り、そこで王浚を生んだが、王沈は子の数に入れなかった。年十五のとき、王沈が薨じ、子がおらず、親族はともに王浚を立てて後嗣とし、駙馬都尉を拝した。太康年間(二八〇年~)の初め、諸王侯とともに封国に着任した。三年で来朝し、員外散騎侍郎に任命された。元康年間(二九一年~)の初め、員外常侍に転じ、越騎校尉・右軍将軍に遷った。朝廷を出て河内太守に任命されたが、郡公なので二千石になれないため、東中郎将に転じ、許昌に鎮した。
愍懐太子が許昌に幽閉されると、王浚は賈后の意向を受け、黄門の孫慮とともに太子を殺害した。寧北将軍・青州刺史に遷った。ほどなく寧朔将軍・持節・都督幽州諸軍事に移った。このとき朝廷は混乱し、盗賊が蜂起していたので、王浚は生き残りの方策を立て、夷狄とよしみを結び、娘を鮮卑の務勿塵に嫁がせ、べつの娘を蘇恕延に嫁がせた。
趙王倫(司馬倫)が皇位を奪い、三王が義兵を起こすと、王浚は兵を擁して両方と通じあった。檄書を遮断し、領内の士庶が義兵に参加することを防ぎ、成都王穎(司馬穎)は彼を討伐しようとしたが余裕がなかった。趙王倫が誅されると、号を安北将軍に進めた。河間王顒(司馬顒)と成都王穎が兵を起こして朝廷内に向け、長沙王乂(司馬乂)を殺害しても、王浚は(司馬穎に)服従しなかった。司馬穎は上表して幽州刺史の石堪を右司馬とし、右司馬の和演を石堪と交代させるように請い、ひそかに和演に王浚を殺させ、配下の兵を吸収しようとした。和演は烏丸単于の審登とともに計画し、王浚と落ちあい薊城の南の清泉水上に出かけることとした。薊城のなかに西に向かう道が二つあり、和演と王浚はそれぞれ別の道から向かった。和演は王浚と行列が合流する際に、殺害を試みた。(ところが)突然に雨が降り出し、武具が濡れてしまい、実行せずに帰還した。単于はこれを受けて種族と相談し、「和演が王浚を殺そうとし、成功するはずのところで天がにわかに雨を降らせ、実行を妨げた。これは天が王浚を助けたのだ。天の意思にそむくのは不吉だ、長く和演の味方ではいられない」と言った。そこで(暗殺の)謀略を王浚に告げた。王浚はひそかに兵を準備し、単于とともに和演を包囲した。和演は白旗を持って王浚に投降したが、これを斬り、王沈みずから幽州を領した。大いに兵器を修築し、務勿塵を召し、胡族と漢族を率いて合計で二万人で、軍を進めて司馬穎を討った。主簿の祁弘を前鋒とし、司馬穎の将の石超と平棘で遭遇し、これを撃ち破った。王浚は勝ちに乗じて鄴城を陥落させ、兵士は強奪し、死者がとても多かった。鮮卑は大いに婦女を辱めた。王浚は(財物や女を)隠し持つものがいれば斬ると命じ、そのため易水に(軍令違反の)八千人を沈めた。万民の苦難は、ここから始まったのである。
王浚は薊に還り、声望も実力もますます盛んであった。東海王越(司馬越)が大駕を迎えようとすると、王浚は祁弘を遣わして烏丸突騎を率いて先駆とした。恵帝が洛陽に帰還すると、王浚を驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事に転じさせ、幽州刺史を領し、燕国を博陵の封土に増やした。懐帝が即位すると、王浚を司空とし、烏丸校尉を領し、務勿塵を大単于とした。王浚はさらに上表して務勿塵を遼西郡公に封建し、その別部の大飄滑及びその弟の渴末別部の大屠瓮らをみな親晋王とした。
永嘉年間(三〇七~三一三年)、石勒が冀州を侵略したが、王浚は鮮卑の文鴦を派遣して石勒を討たせ、石勒は南陽に逃げた。翌年、石勒はふたたび冀州に侵略し、刺史の王斌は石勒に殺害され、王浚はまた冀州を領した。詔して王浚を進めて大司馬とし、侍中・大都督・督幽冀諸軍事を加えた。(朝廷の)使者がまだ出発する前に、たまたま洛陽が傾覆したので、王浚は大いに威令を打ち立て、征伐の権限を独占し、督護の王昌・中山太守の阮豹らを遣わし、諸軍及び務勿塵の世子の疾陸眷を率い、弟の文鴦と従弟の末柸を合わせ、石勒を襄国で攻めた。石勒は兵を率いて来て防いだが、王昌が迎え撃ってこれを破った。末柸が追って北のかたその塁門に入ったところで、石勒に捕らえられた。石勒は末柸を人質とし、使者を送って和親を求め、疾陸眷はかくして鎧馬二百五十匹と金銀各一簏で末柸を買い戻し、盟約を結んで退いた。
その後に王浚は天下に布告し、中詔を受けたと称して承制(朝廷を代行)し、司空の荀藩を太尉とし、光禄大夫の荀組を司隷校尉とし、大司農の華薈を太常とし、中書令の李𣈶を河南尹とした。また祁弘を派遣して石勒を討伐し、広宗に及んだ。このとき大いに霧が発生し、祁弘は軍を率いて道に沿って進むと、突然石勒と遭遇し、石勒に殺された。これを受けて劉琨は王浚と冀州を争うようになった。劉琨は宗人の劉希を派遣して中山に還って兵を集めさせ、代郡・上谷・広寗の三郡の人々はみな劉琨に味方した。王浚はこれを懸念し、留まって石勒の軍を討伐し、さらに劉琨とも対峙した。王浚は燕相の胡矩を派遣して諸軍を督護させ、疾陸眷と力を合わせて劉希を攻めて破った。三郡の男女を連れ去って塞を出たので、劉琨は対抗する力を失った。
王浚は還り、石勒を討とうとし、棗嵩に諸軍を督して易水に駐屯させ、疾陸眷を召し、これとともに襄国を攻撃しようとした。(ところで)王浚の為政は苛烈であり、将吏も強欲であり、山沢を広く占拠し、水を引いて耕地を灌漑するとき、墳墓を沈めて破壊し、徴発は多く頻繁で、配下は命令に答えられず、多くが叛して鮮卑に入った。従事の韓咸が切諫すると、王浚は怒り、彼を殺した。疾陸眷は自分が前後にわたり命令に背いたため、王浚に誅殺されることを恐れた。石勒もまた(疾陸眷に)使者を送って厚く金品を贈り、疾陸眷らはこれにより(王浚の)召集に応じなかった。王浚は怒り、ねんごろな贈物で単于の猗盧の子である右賢王の日律孫を誘い、疾陸眷を攻撃させたが、反対に破られた。

原文

時劉琨大為劉聰所迫、諸避亂游士多歸于浚。浚日以強盛、乃設壇告類、建立皇太子、備置眾官。浚自領尚書令、以棗嵩・裴憲並為尚書、使其子居王宮、持節、領護匈奴中郎將、以妻舅崔毖為東夷校尉。又使嵩監司冀并兗諸軍事・行安北將軍、以田徽為兗州、李惲為青州。惲為石勒所殺、以薄盛代之。
浚以父字處道、為「當塗高」應王者之讖、謀將僭號。胡矩諫浚、盛陳其不可。浚忿之、出矩為魏郡守。前渤海太守劉亮・從子北海太守搏・司空掾高柔並切諫、浚怒、誅之。浚素不平長史燕國王悌、遂因他事殺之。時童謠曰、「十囊五囊入棗郎」。棗嵩、浚之子壻也。浚聞、責嵩而不能罪之也。又謠曰、「幽州城門似藏戶、中有伏尸王彭祖」。有狐踞府門、翟雉入聽事。時燕國霍原、北州名賢、浚以僭位事示之、原不答、浚遂害之。由是士人憤怨、內外無親。以矜豪日甚、不親為政、所任多苛刻。加亢旱災蝗、士卒衰弱。
浚之承制也、參佐皆內敘、唯司馬游統外出。統怨、密與石勒通謀。勒乃詐降於浚、許奉浚為主。時百姓內叛、疾陸眷等侵逼。浚喜勒之附己、勒遂為卑辭以事之、獻遺珍寶、使驛相繼。浚以勒為誠、不復設備。勒乃遣使剋日上尊號於浚、浚許之。
勒屯兵易水、督護孫緯疑其詐、馳白浚、而引軍逆勒。浚不聽、使勒直前。眾議皆曰、「胡貪而無信、必有詐、請距之」。浚怒、欲斬諸言者、眾遂不敢復諫。盛張設以待勒。勒至城、便縱兵大掠。浚左右復請討之、不許。及勒登聽事、浚乃走出堂皇、勒眾執以見勒。勒遂與浚妻並坐、立浚于前。浚罵曰、「胡奴調汝公、何凶逆如此」。勒數浚不忠於晉、并責以百姓餒乏、積粟五十萬斛而不振給。遂遣五百騎先送浚于襄國、收浚麾下精兵萬人、盡殺之。停二日而還、孫緯遮擊之、勒僅而得免。勒至襄國、斬浚。而浚竟不為之屈、大罵而死。無子。
太元二年、詔興滅繼絕、封沈從孫道素為博陵公。卒、子崇之嗣。義熙十一年、改封東莞郡公。宋受禪、國除。

訓読

時に劉琨 大いに劉聰の迫る所と為り、諸々の亂を避くる游士 多く浚に歸す。浚 日ごとに強盛なるを以て、乃ち壇を設けて告類し、皇太子を建立し、眾官を備置す。浚 自ら尚書令を領し、棗嵩・裴憲を以て並びに尚書と為し、其の子をして王宮に居らしめ、持節し、護匈奴中郎將を領せしめ、妻舅の崔毖を以て東夷校尉と為す。又 嵩をして司冀并兗諸軍事・行安北將軍を監せしめ、田徽を以て兗州と為し、李惲もて青州と為す。惲 石勒の殺す所と為り、薄盛を以て之に代ふ。
浚 父の字 處道なるを以て、「當塗高」なる王者の讖に應ずと為し、謀りて將に僭號せんとす。胡矩 浚を諫め、盛んに其の不可なるを陳ぶ。浚 之に忿り、矩を出だして魏郡守と為す。前の渤海太守の劉亮・從子の北海太守の搏・司空掾の高柔 並びに切諫すれば、浚 怒り、之を誅す。浚 素より長史たる燕國の王悌と平らかならず、遂に他事に因りて之を殺す。時に童謠に曰く、「十囊五囊 棗郎に入る」と。棗嵩は、浚の子壻なり。浚 聞き、嵩を責むれども之を罪する能はざるなり。又 謠に曰く、「幽州の城門 藏戶に似て、中に伏尸の王彭祖有り」と。狐の府門に踞して、翟雉 聽事に入る有り。時に燕國の霍原、北州の名賢にして、浚 僭位の事を以て之を示すに、原 答へず、浚 遂に之を害す。是に由り士人 憤怨し、內外 親しむ無し。矜豪 日に甚なるを以て、親ら政を為さず、任ずる所 苛刻多し。加へて亢旱災蝗あり、士卒 衰弱す。
浚の承制するや、參佐 皆 內に敘せられ、唯だ司馬の游統のみ外に出ださる。統 怨み、密かに石勒と通謀す。勒 乃ち詐りて浚に降り、浚を奉りて主と為すを許す。時に百姓 內に叛し、疾陸眷ら侵逼す。浚 勒の己に附するを喜び、勒 遂に卑辭を為して以て之に事へ、珍寶を獻遺し、驛をして相 繼がしむ。浚 勒の誠為るを以て、復た備へを設けず。勒 乃ち使を遣はして日を剋して尊號を浚に上らんとし、浚 之を許す。
勒 兵を易水に屯し、督護の孫緯 其の詐なるを疑ひ、馳せて浚に白し、而して軍を引きて勒を逆へよといふ。浚 聽さず、勒をして直だ前めしむ。眾議 皆 曰く、「胡は貪にして信無し、必ず詐有らん、之を距まんことを請ふ」と。浚 怒り、諸々の言ふ者を斬らんと欲せば、眾 遂に敢て復た諫せず。盛んに設を張りて以て勒を待つ。勒 城に至るや、便ち兵を縱にして大いに掠す。浚の左右 復た之を討たんことを請ふに、許さず。勒 聽事に登るに及び、浚 乃ち走りて堂皇に出で、勒の眾 執らへて以て勒に見しむ。勒 遂に浚の妻と與に坐を並にし、浚を前に立たしむ。浚 罵りて曰く、「胡奴よ汝が公を調せざるに、何ぞ凶逆たること此の如きか」。勒 浚の晉に忠ならざるを數め、并びに責むるに百姓の餒乏するに、粟五十萬斛を積めども振給せざるを以てす。遂に五百騎を遣はして先に浚を襄國に送り、浚の麾下の精兵萬人を收め、盡く之を殺す。停まること二日にして還り、孫緯 之を遮擊し、勒 僅かにして免るるを得たり。勒 襄國に至るや、浚を斬る。而れども浚 竟に之の為めに屈せず、大いに罵りて死す。子無し。
太元二年に、詔して滅を興こし絕を繼がしめ、沈の從孫の道素を封じて博陵公と為す。卒し、子の崇之 嗣ぐ。義熙十一年、封を東莞郡公に改む。宋 受禪し、國 除かる。

現代語訳

このとき劉琨は大いに劉聡に押され、乱を避けた士人たちは多くが王浚に帰着した。王浚は日ごとに強盛となったので、壇を設けて天を祭って報告し、皇太子を立て、多くの官員を設置した。王浚は自ら尚書令を領し、棗嵩と裴憲を並びに尚書とし、その子を王宮に居らせ、持節し、護匈奴中郎將を領させ、妻の舅の崔毖を東夷校尉とした。また棗嵩に司冀并兗諸軍事・行安北将軍を監させ、田徽を兗州(の長官)とし、李惲を青州とした。李惲が石勒に殺されると、薄盛に交代させた。
王浚は父のあざなが処道であり、「当塗高」という王者の讖に応じると見なし、皇帝を僭号しようとした。胡矩は王浚を諫め、盛んに反対意見を述べた。王浚は怒り、胡矩を出して魏郡太守とした。前の渤海太守の劉亮と従子の北海太守の劉搏と司空掾の高柔はいずれも厳しく諫めたので、王浚は怒り、彼らを誅した。王浚は普段から長史である燕国の王悌と不仲であり、他の理由をつけて殺した。このとき童謡に、「十囊や五囊が棗郎に入る」とあった。棗嵩は、王浚の娘婿である。王浚はこれを聞き、棗嵩を咎めたが有罪にはできなかった。また童謡に、「幽州の城門は倉庫の出入口に似て、なかに死骸の王彭祖(王浚)がいる」とあった。狐が府門にしゃがみ、きじが役所に入り込んだ。このとき燕国の霍原は、北州の名賢で、王浚が僭位のことに意見を求めたが、霍原は答えず、王浚は彼を殺害した。これにより士人は憤り怨み、内外に賛同者がいなくなった。傲慢さが日ごとに高まり、自分で政治をせず、任命した部下は刻薄であった。しかも日照りや蝗害があり、士卒は衰弱した。
王浚が承制すると、参謀はみな政府の内に官位を得たが、ただ司馬の游統だけが外に出された。游統は怨み、ひそかに石勒と通謀した。石勒は詐って王浚に降り、王浚を奉って君主とすることを認めた。このとき万民は内で叛き、疾陸眷らは侵攻し迫っていた。王浚は石勒が自分に帰付したことに喜び、石勒はへりくだって臣従し、珍宝を献納し、駅伝で相次いで運ばせた。王浚は石勒に誠意があるので、もう警戒をしなかった。石勒は使者を送り日を決めて尊号を王浚に奉りますと言い、王浚はこれを納れた。
石勒は兵を易水に駐屯させ、督護の孫緯は石勒(の帰付)が詐りであることを疑い、馳せて王浚を説得し、軍を率いて石勒を迎え撃ちなさいと言った。王浚は許さず、石勒をそのまま前進させた。衆議は、「胡族は貪欲で信用できない、必ず詐りがあります、彼を防ぎ止めなさい」と言った。王浚は怒り、発言者らを斬ろうとしたので、群臣はもう諫めなかった。盛大に宴席を設けて石勒を待った。石勒が城に至ると、その場で兵を放って大いに略奪した。王浚の側近は討伐しましょうと言ったが、王浚は許さなかった。石勒が政庁に登ると、王浚は逃げて堂皇に出たが、石勒の兵が(王浚を)捕らえて石勒に会わせた。石勒は王浚の妻とともに座席を並べ、王浚を前に立たせた。王浚は罵って、「胡奴めお前の父を調発しなかったが、どうしてかように凶逆をなすのか」と言った。石勒は王浚が晋帝国に忠でないことを責め、さらに百姓が飢えて困窮しても、粟五十万斛を積んだまま給付しなかったことを咎めた。こうして五百騎を派遣して先に王浚を襄国に送り、王浚の麾下の精兵一万人を収容し、すべてを殺した。留まること二日で還り、孫緯が道を塞いで攻撃したが、石勒は辛うじて難を逃れた。石勒が襄国に至ると、王浚を斬った。しかし王浚は最後まで石勒に屈服せず、大いに罵って死んだ。子が無かった。
太元二(三七七)年、詔をして滅びた家を再興して後を継がせ、王沈の従孫の王道素を封建して博陵公とした。亡くなると、子の崇之が嗣いだ。義熙十一(四一五)年、封土を東莞郡公に改めた。宋が受禅し、国は除かれた。

荀顗

原文

荀顗字景倩、潁川人、魏太尉彧之第六子也。幼為姊壻陳羣所賞。性至孝、總角知名、博學洽聞、理思周密。魏時以父勳除中郎。宣帝輔政、見顗奇之、曰「荀令君之子也」。擢拜散騎侍郎、累遷侍中。為魏少帝執經、拜騎都尉、賜爵關內侯。難鍾會易無互體、又與扶風王駿論仁孝孰先、見稱於世。
時曹爽專權、何晏等欲害太常傅嘏、顗營救得免。及高貴鄉公立、顗言於景帝曰、「今上踐阼、權道非常、宜速遣使宣德四方、且察外志」。毋丘儉・文欽果不服、舉兵反。顗預討儉等有功、進爵萬歲亭侯、邑四百戶。文帝輔政、遷尚書。帝征諸葛誕、留顗鎮守。顗甥陳泰卒、顗代泰為僕射、領吏部。四辭而後就職。顗承泰後、加之淑慎、綜核名實、風俗澄正。咸熙中、遷司空、進爵鄉侯。
顗年踰耳順、孝養蒸蒸、以母憂去職、毀幾滅性、海內稱之。文帝奏、宜依漢太傅胡廣喪母故事、給司空吉凶導從。及蜀平、興復五等、命顗定禮儀。顗上請羊祜・任愷・庾峻・應貞・孔顥共刪改舊文、撰定晉禮。
咸熙初、封臨淮侯。武帝踐阼、進爵為公、食邑一千八百戶。又詔曰、「昔禹命九官、契敷五教、所以弘崇王化、示人軌儀也。朕承洪業、昧于大道、思訓五品、以康四海。侍中・司空顗、明允篤誠、思心通遠、翼亮先皇、遂輔朕躬。實有佐命弼導之勳。宜掌教典、以隆時雍。其以顗為司徒」。尋加侍中、遷太尉・都督城外牙門諸軍事、置司馬親兵百人。頃之、又詔曰、「侍中・太尉顗、溫恭忠允、至行純備、博古洽聞、耆艾不殆。其以公行太子太傅、侍中・太尉如故」。
時以正德・1.(大序)〔大豫〕雅頌未合、命顗定樂。事未終、以泰始十年薨。帝為舉哀、皇太子臨喪、二宮賻贈、禮秩有加。詔曰、「侍中・太尉・行太子太傅・臨淮公顗、清純體道、忠允立朝、歷司外內、茂績既崇、訓傅東宮、徽猷弘著。可謂行歸于周。有始有卒者矣。不幸薨殂、朕甚痛之。其賜溫明祕器・朝服一具・衣一襲。諡曰康」。又詔曰、「太尉不恤私門、居無館宇、素絲之志、沒而彌顯。其賜家錢二百萬、使立宅舍」。咸寧初、詔論次功臣、將配饗宗廟。所司奏顗等十二人銘功太常、配饗清廟。
顗明三禮、知朝廷大儀、而無質直之操、唯阿意苟合於荀勖・賈充之間。初、皇太子將納妃、顗上言賈充女姿德淑茂、可以參選、以此獲譏於世。
顗無子、以從孫徽嗣。中興初、以顗兄玄孫序為顗後、封臨淮公。序卒、又絕、孝武帝又封序子恒繼顗後。恒卒、子龍符嗣。宋受禪、國除。

1.中華書局本に従い、「大序」を「大豫」に改める。

訓読

荀顗 字は景倩、潁川の人にして、魏の太尉たる彧の第六子なり。幼くして姊壻の陳羣の賞する所と為る。性は至孝にして、總角にして名を知られ、博學にして洽聞、理思は周密なり。魏の時 父の勳を以て中郎に除せらる。宣帝 輔政するや、顗を見て之を奇とし、「荀令君の子なり」と曰ふ。擢んでて散騎侍郎を拜し、侍中に累遷す。魏の少帝の執經と為り、騎都尉を拜し、爵關內侯を賜ふ。鍾會が易の互體無きを難じ、又 扶風王駿と與に仁孝の孰れか先なるを論じ、世に稱せらる。
時に曹爽 專權し、何晏ら太常の傅嘏を害せんと欲し、顗 營救して免かるるを得たり。高貴鄉公 立つに及び、顗 景帝に言ひて曰く、「今上 踐阼し、權道 常に非ず、宜しく速やかに使を遣はして德を四方に宣べ、且つ外志を察せよ」と。毋丘儉・文欽 果たして服せず、兵を舉げて反す。顗 儉らを討つに預りて功有り、爵を萬歲亭侯に進め、邑は四百戶なり。文帝 輔政するや、尚書に遷る。帝 諸葛誕を征するに、顗を留めて鎮守せしむ。顗の甥の陳泰 卒するや、顗 泰に代はりて僕射と為り、吏部を領す。四たび辭して後に職に就く。顗 泰の後を承け、加之 淑慎たりて、名實を綜核し、風俗 澄正たり。咸熙中に、司空に遷り、爵鄉侯に進む。
顗 年は耳順を踰え、孝養たること蒸蒸たりて、母の憂を以て職を去り、毀して幾ど性を滅せんとし、海內 之を稱す。文帝 奏し、宜しく漢の太傅の胡廣が喪母の故事に依り、司空吉凶の導從を給ふ。蜀 平らぐに及び、五等を興復し、顗に命じて禮儀を定めしむ。顗 上して羊祜・任愷・庾峻・應貞・孔顥に請ひて共に舊文を刪改し、晉禮を撰定す。
咸熙の初め、臨淮侯に封ぜらる。武帝 踐阼するや、爵を進めて公と為し、食邑は一千八百戶なり。又 詔して曰く、「昔 禹 九官を命じ、契 五教を敷くは、王化を弘崇し、人に軌儀を示す所以なり。朕 洪業を承くるに、大道に昧く、五品を訓へて、以て四海を康んぜんと思ふ。侍中・司空の顗、明允篤誠にして、思心は通遠なり、先皇を翼亮し、遂に朕が躬を輔す。實に佐命弼導の勳有り。宜しく教典を掌り、以て時雍を隆くすべし。其れ顗を以て司徒と為せ」と。尋いで侍中を加へ、太尉・都督城外牙門諸軍事に遷し、司馬親兵百人を置く。頃之、又 詔して曰く、「侍中・太尉の顗、溫恭忠允にして、至行は純備なり、博古洽聞にして、耆艾なるも殆からず。其れ公を以て太子太傅を行せしめ、侍中・太尉たること故の如くせよ」と。
時に正德・大豫の雅頌 未だ合はざるを以て、顗に命じて樂を定めしむ。事 未だ終らざるに、泰始十年を以て薨ず。帝 為に哀を舉げ、皇太子 喪に臨み、二宮 賻贈し、禮秩 加ふる有り。詔して曰く、「侍中・太尉・行太子太傅・臨淮公の顗、清純にして道を體し、忠允にして朝に立ち、外內を歷司し、茂績 既に崇く、東宮を訓傅し、徽猷は弘著なり。行は周に歸すると謂ふ可し。始め有らば卒り有る者なり。不幸にして薨殂す、朕 甚だ之を痛む。其れ溫明祕器・朝服一具・衣一襲を賜へ。諡して康と曰へ」と。又 詔して曰く、「太尉 私門を恤まず、居は館宇無く、素絲の志、沒して彌々顯なり。其れ家に錢二百萬を賜ひ、宅舍を立てしめよ」と。咸寧の初め、詔して功臣を論次し、將に宗廟に配饗せんとす。所司 顗ら十二人の銘功を太常に奏し、清廟に配饗す。
顗 三禮に明るく、朝廷の大儀を知り、而れども質直の操無く、唯だ意に阿ねりて荀勖・賈充の間に苟合す。初め、皇太子 將に妃を納れんとするに、顗 賈充の女 姿德は淑茂なれば、以て參選す可しと上言し、此を以て世に譏りを獲たり。
顗 子無く、從孫の徽を以て嗣がしむ。中興の初め、顗の兄の玄孫たる序を以て顗の後と為し、臨淮公に封ず。序 卒し、又 絕え、孝武帝 又 序が子の恒を封じて顗の後を繼がしむ。恒 卒し、子の龍符 嗣ぐ。宋 受禪し、國 除かる。

現代語訳

荀顗は字を景倩といい、潁川の人で、魏の太尉である荀彧の第六子である。幼くして姉婿の陳羣に賞賛された。性格は至孝で、総角(幼児)のころから名を知られ、博学で見聞がひろく、思考は緻密であった。魏の時代に父に勲功によって中郎に任命された。宣帝(司馬懿)が輔政すると、荀顗と会って格別だと認め、「さすが荀令君の子だ」と言った。抜擢され散騎侍郎を拝し、侍中に累遷した。魏の少帝の執経(教育係)となり、騎都尉を拝し、爵関内侯を賜わった。鍾会の易に互体が無いことを批難し、また扶風王駿(司馬駿)とともに仁と孝とではどちらが先なのかを論じ、世に称えられた。
このとき曹爽が専権し、何晏らが太常の傅嘏を殺害しようとしたが、荀顗が擁護したので免れることができた。高貴郷公が立つと、荀顗は景帝(司馬師)に、「今上が践阼し、権道は常ではありません、速やかに使者を派遣して徳を四方に広め、地方の情勢を調べなさい」と言った。毌丘倹と文欽が果たして帰服せず、兵を挙げて反乱した。荀顗は毌丘倹らの討伐にあずかった功績により、爵を万歳亭侯に進め、邑は四百戸であった。文帝(司馬昭)が輔政すると、尚書に遷った。文帝が諸葛誕を征伐するとき、荀顗に留守を任せた。荀顗の甥の陳泰が亡くなると、荀顗は陳泰の代わりに尚書僕射となり、吏部尚書を領した。四たび辞退してから職に就いた。荀顗は陳泰の後を承け(人事を担当し)、それだけでなく清く慎みがあり、名声と実力をすべて明らかにし、風俗は澄んで正された。咸熙年間、司空に遷り、爵郷侯に進んだ。
荀顗は耳順(六十歳)を踰えたが、孝養を尽くし、母が死ぬと官職を去り、体調を損ねて死にかけたので、海内は彼を称えた。文帝は上奏し、後漢の太傅の胡広が母の喪に服したときの前例に則り、司空の吉凶の従者を賜った。蜀を平定すると、五等爵制を復興し、荀顗に命じて礼制や儀礼を定めさせた。荀顗は上表して羊祜・任愷・庾峻・応貞・孔顥に要請してともに古い文献を筆削し、晋礼を撰定した。
咸熙年間(二六四年~)の初め、臨淮侯に封建された。武帝が践阼すると、爵を進めて公とし、食邑は一千八百戸であった。また詔して、「むかし禹が九官を任命し、契が五教を敷いたのは、王化を広げて高め、人に模範を示すためであった。朕は大いなる事業を継いだが、大道に明るくなく、五品を教え導き、四海を平穏にしたいと思う。侍中・司空の荀顗は、聡明で誠意があり、思慮は遠く通じており、先皇(文帝)を輔佐し、朕を支えている。まことに佐命し補弼した勲功がある。教典を掌り、太平を盛んにせよ。荀顗を司徒とせよ」と言った。ほどなく侍中を加え、太尉・都督城外牙門諸軍事に遷し、司馬親兵の百人を置いた。しばらくして、また詔し、「侍中・太尉の荀顗は、温厚で忠正であり、行動は純然とし、古今の知識が広く、老年だが衰えがない。公(荀顗)に太子太傅を代行させ、侍中・太尉は従来どおりとせよ」と言った。
このとき正徳と大豫(詩の篇名)の雅頌が合わないので、荀顗に命じて楽を定めさせた。この事業が終わる前に、泰始十(二七四)年に薨じた。武帝は哀悼を捧げ、皇太子は喪に臨み、二宮は贈り物をし、礼秩を加えた。詔して、「侍中・太尉・行太子太傅・臨淮公の荀顗は、清純であり道を体現し、忠正で朝廷に仕え、内外の官位を歴任し、豊富な功績があり、東宮を教育し、幅広い良策を立てた。行跡は周公に並ぶと言えよう。始めがあれば終わりがある。不幸にして薨去した、朕はひどく悼む。温明の秘器と朝服ひと揃えと衣一着を与えよ。諡して康とせよ」と言った。また詔して、「太尉は私財を顧みず、居館を設けず、白糸のような志は、死後にますます明らかになった。家族に銭二百万を賜わり、邸宅を建てさせよ」と言った。咸寧年間(二七五年~)の初め、詔して功臣の序列を論じ、宗廟に配祀しようとした。担当官は荀顗ら十二人の功績を太常に伝え、清廟に配饗した。
荀顗は三礼(儀礼・礼記・周礼)に精通し、朝廷の大儀を知っていたが、正しく直言する節操はなく、ただ意向におもねって荀勖や賈充の仲間に迎合するだけだった。かつて、皇太子(のちの恵帝)が妃を娶るとき、荀顗は賈充の女(賈南風)は徳がすぐれて麗しいので、選択すべきですと上言し、このせいで世から譏りを買った。
荀顗には子が無く、従孫の荀徽に嗣がせた。中興(東晋)の初め、荀顗の兄の玄孫である荀序を荀顗の後嗣とし、臨淮公に封建した。荀序が亡くなると、また家が絶えたが、孝武帝が荀序の子の荀恒を封建して荀顗の後を継がせた。荀恒が亡くなると、子の荀龍符が嗣いだ。宋が受禅すると、国が除かれた。

荀勖 子藩 藩子邃 闓 藩弟組 組子奕

原文

荀勖字公曾、潁川潁陰人、漢司空爽曾孫也。祖棐、射聲校尉。父肸、早亡。勖依于舅氏。岐嶷夙成、年十餘歲能屬文。從外祖魏太傅鍾繇曰、「此兒當及其曾祖」。既長、遂博學、達於從政。仕魏、辟大將軍曹爽掾、遷中書通事郎。爽誅、門生故吏無敢往者、勖獨臨赴、眾乃從之。為安陽令、轉驃騎從事中郎。勖有遺愛安陽、生為立祠。遷廷尉正、參文帝大將軍軍事、賜爵關內侯、轉從事中郎、領記室。
高貴鄉公欲為變時、大將軍掾孫佑等守閶闔門。帝弟安陽侯榦聞難欲入、佑謂榦曰、「未有入者、可從東掖門」。及榦至、帝遲之、榦以狀白、帝欲族誅佑。勖諫曰、「孫佑不納安陽、誠宜深責。然事有逆順、用刑不可以喜怒為輕重。今成倅刑止其身、佑乃族誅、恐義士私議」。乃免佑為庶人。
時官騎路遺求為刺客入蜀、勖言於帝曰、「明公以至公宰天下、宜杖正義以伐違貳。而名以刺客除賊、非所謂刑于四海、以德服遠也」。帝稱善。
及鍾會謀反、審問未至、而外人先告之。帝待會素厚、未之信也。勖曰、「會雖受恩、然其性未可許以見得思義、不可不速為之備」。帝即出鎮長安。主簿郭奕・參軍王深以勖是會從甥、少長舅氏、勸帝斥出之。帝不納、而使勖陪乘、待之如初。先是、勖啟「伐蜀、宜以衞瓘為監軍」。及蜀中亂、賴瓘以濟。會平、還洛、與裴秀・羊祜共管機密。
時將發使聘吳、並遣當時文士作書與孫晧、帝用勖所作。晧既報命和親、帝謂勖曰、「君前作書、使吳思順、勝十萬之眾也」。帝即晉王位、以勖為侍中、封安陽子、邑千戶。武帝受禪、改封濟北郡公。勖以羊祜讓、乃固辭為侯。拜中書監、加侍中、領著作、與賈充共定律令。
充將鎮關右也、勖謂馮紞曰、「賈公遠放、吾等失勢。太子婚尚未定、若使充女得為妃、則不留而自停矣」。勖與紞伺帝間並稱、「充女才色絕世、若納東宮、必能輔佐君子、有關雎后妃之德」。遂成婚。當時甚為正直者所疾、而獲佞媚之譏焉。久之、進位光祿大夫。
既掌樂事、又修律呂、並行於世。初、勖於路逢趙賈人牛鐸、識其聲。及掌樂、音韵未調、乃曰、「得趙之牛鐸則諧矣」。遂下郡國、悉送牛鐸、果得諧者。又嘗在帝坐進飯、謂在坐人曰、「此是勞薪所炊」。咸未之信。帝遣問膳夫、乃云、「實用故車脚」。舉世伏其明識。
俄領祕書監、與中書令張華依劉向別錄、整理記籍。又立書博士、置弟子教習、以鍾・胡為法。
咸寧初、與石苞等並為佐命功臣、列於銘饗。及王濬表請伐吳、勖與賈充固諫不可、帝不從、而吳果滅。以專典詔命、論功封子一人為亭侯、邑一千戶、賜絹千匹。又封孫顯為潁陽亭侯。
及得汲郡冢中古文竹書、詔勖撰次之、以為中經、列在祕書。

訓読

荀勖 字は公曾、潁川潁陰の人にして、漢の司空の爽の曾孫なり。祖の棐は、射聲校尉なり。父の肸は、早く亡す。勖 舅氏に依る。岐嶷にして夙成、年十餘歲にして能く文を屬す。從外祖たる魏の太傅の鍾繇曰く、「此の兒 當に其の曾祖に及ぶべし」と。既に長じ、遂に博學たりて、從政に達す。魏に仕へ、大將軍の曹爽の掾に辟せられ、中書通事郎に遷る。爽 誅せらるるや、門生故吏 敢て往まる者無く、勖のみ獨り臨赴し、眾 乃ち之に從ふ。安陽令と為り、驃騎從事中郎に轉ず。勖 安陽に遺愛有り、生きながらに為に祠を立つ。廷尉正に遷り、文帝の大將軍軍事に參じ、爵關內侯を賜はり、從事中郎に轉じ、記室を領す。
高貴鄉公 變時を為さんと欲せしとき、大將軍掾の孫佑ら閶闔門を守る。帝の弟の安陽侯榦 難を聞きて入らんと欲するに、佑 榦に謂ひて曰く、「未だ入る者有らざれば、東掖門よりす可し」と。榦 至るに及び、帝 之を遲しとし、榦 狀を以て白し、帝 佑を族誅せんと欲す。勖 諫めて曰く、「孫佑 安陽を納れざるは、誠に宜しく深く責むべし。然るに事に逆順有り、刑を用ふるに喜怒を以て輕重を為す可からず。今 成倅 刑は其の身に止まるに、佑 乃ち族誅せば、義士 議を私かにするを恐る」と。乃ち佑を免じて庶人と為す。
時に官騎の路遺 刺客と為りて蜀に入ることを求め、勖 帝に言ひて曰く、「明公 至公を以て天下に宰たり、宜しく正義に杖りて以て違貳を伐つべし。而れども名に刺客を以て賊を除くは、所謂 四海を刑し、德を以て遠を服するに非ざるなり」と。帝 善を稱す。
鍾會 謀反するに及び、審問 未だ至らざるに、而れども外人 先に之を告ぐ。帝 會を待すること素より厚く、未だ之を信せざるなり。勖曰く、「會 恩を受くと雖も、然るに其の性 未だ許に得を見て義を思ふを以てす可からず、速やかに之の為に備へざる可からず」と。帝 即ち出でて長安に鎮す。主簿の郭奕・參軍の王深 勖の是れ會が從甥にして、少きとき舅氏に長ずるを以て、帝に之を斥出するを勸む。帝 納れず、而して勖をして陪乘せしめ、之を待すること初が如し。是より先、勖は「蜀を伐つに、宜しく衞瓘を以て監軍と為すべし」と啟す。蜀中 亂るるに及び、瓘に賴りて以て濟ふ。會 平らぐや、洛に還り、裴秀・羊祜と與に共に機密に管す。
時に將に使を發して吳に聘し、並びに當時の文士をして書を作りて孫晧に與へしめんとし、帝 勖の作る所を用ふ。晧 既に和親を報命し、帝 勖に謂ひて曰く、「君 前に書を作り、吳をして順を思はしむ、十萬の眾に勝るなり」と。帝 晉王の位に即くに、勖を以て侍中と為し、安陽子に封じ、邑千戶なり。武帝 受禪するに、封を濟北郡公に改む。勖 羊祜を以て讓り、乃ち侯と為るを固辭す。中書監を拜し、侍中を加へ、著作を領し、賈充と與に共に律令を定む。
充 將に關右に鎮せんとするや、勖 馮紞に謂ひて曰く、「賈公 遠放せば、吾ら勢を失はん。太子の婚尚 未だ定まらず、若し充の女をして妃と為すを得しめば、則ち留めずして自ら停らん」と。勖 紞と與に帝に伺間してに並びに稱し、「充の女 才色は絕世なり、若し東宮に納るれば、必ず能く君子を輔佐し、關雎の后妃の德有らん」と。遂に婚を成す。當時 甚だ正直なる者の疾む所と為り、而して佞媚の譏を獲たり。久之、位を光祿大夫に進む。
既に樂事を掌り、又 律呂を修め、並びに世に行はる。初め、勖 路に於て趙の賈人の牛鐸と逢ひ、其の聲を識る。樂を掌るに及び、音韵 未だ調はず、乃ち曰く、「趙の牛鐸を得れば則ち諧はん」と。遂に郡國に下し、悉く牛鐸を送らしめ、果たして諧なるを得たり。又 嘗て帝の坐に在りて飯を進め、坐に在る人に謂ひて曰く、「此に是れ勞薪の炊す所なり」と。咸 未だ信を之ぜず。帝 膳夫に問はしむに、乃ち云ふ、「實に故車の脚を用ふ」と。世を舉げて其の明識に伏す。
俄かに祕書監を領し、中書令の張華と與に劉向の別錄に依り、記籍を整理す。又 書博士を立て、弟子の教習を置き、鍾・胡を以て法と為す。
咸寧の初め、石苞らと與に並びに佐命の功臣と為て、銘饗に列せらる。王濬 表して伐吳を請ふに及び、勖 賈充と與に固く諫めて不可とするも、帝 從はず、而して吳 果たして滅ぶ。詔命を專典するを以て、功を論じて子一人を封じて亭侯と為し、邑は一千戶なり、絹千匹を賜ふ。又 孫の顯を封じて潁陽亭侯と為す。
汲郡冢中に古文竹書を得るに及び、勖に詔して之を撰次せしめ、以て中經と為し、列して祕書に在らしむ。

現代語訳

荀勖は字を公曾といい、潁川郡潁陰県の人で、後漢の司空の荀爽の曾孫である。祖父の荀棐は、射声校尉である。父の荀肸は、早くに亡くなった。荀勖はおじを頼った。幼少から能力が高く、十歳あまりで巧みに文を綴った。従外祖父である魏の太傅の鍾繇は、「この子は彼の曾祖父(荀爽)に及ぶだろう」と言った。成人すると、すでに博学で、政治に関与するほどだった。魏に仕え、大将軍の曹爽の掾に辟召され、中書通事郎に遷った。曹爽が誅されると、門生故吏で敢えて留まるものがなかったが、荀勖だけが遺体に駆けつけ、皆もこれに従った。安陽令となり、驃騎従事中郎に転じた。安陽県を離れたあとも慕われ、生前から彼のために祠が立てられた。廷尉正に遷り、文帝(司馬昭)の大将軍軍事に参じ、爵関内侯を賜わり、従事中郎に転じ、記室を領した。
高貴郷公が事変を起こそうとしたとき、大将軍掾の孫佑らは閶闔門を守っていた。文帝(司馬昭)の弟の安陽侯榦(司馬榦)が難を聞いて入城しようとしたが、孫佑は(通行を許さず)司馬榦に、「まだ入城していない者は、東掖門から入ることができます」と言った。司馬榦が到着すると、文帝は彼に(到着が)遅いと言い、司馬榦が状況を報告すると、文帝は孫佑を族誅しようとした。荀勖は諫めて、「孫佑が安陽侯を入城させなかったのは、深く追及すべきでしょう。しかし物事には順逆があり、刑を用いるときに喜怒で軽重を決めてはいけません。いま(高貴郷公を殺した)成倅の刑が彼自身に留まったにも拘わらず、孫佑を族誅にすれば、心ある士人は判決の恣意性を疑います」と言った。孫佑を罷免して庶人とした。
このとき官軍の騎兵である路遺は(劉禅を殺す)刺客となり蜀に入ることを求めたが、荀勖は文帝に、「明公は至公によって天下の宰相であられ、正義に基づいて叛逆者を討伐すべきです。しかし名分において刺客を使って賊を除くことは、いわゆる四海に刑罰を振るい、徳により遠方を帰服させることと異なります」と言った。文帝はこの意見を称えた。
鍾会が謀反すると、調査結果が到着する前に、外部の人から先に報告が入った。文帝は鍾会を普段から厚遇しており、まだ(謀叛を)信じなかった。荀勖は、「鍾会は恩を受けましたが、彼の性格は利得に釣られて道義を忘れます、速やかに備えなさい」と言った。そこで文帝は長安に出鎮した。主簿の郭奕と参軍の王深は荀勖が鍾会の従甥であり、若いとき舅氏(鍾氏の家)で養育されたので、文帝に彼を排斥するよう勧めた。文帝は聞き入れず、それどころか荀勖を馬車に同乗させ、従来どおり待遇した。これより先、荀勖は「蜀を伐つなら、衛瓘を監軍にしなさい」と提案した。蜀地方が乱れると、衛瓘のおかげで片付いた。鍾会が平定されると、洛陽に帰り、裴秀と羊祜とともに機密をあずかった。
このとき使者を呉に派遣し、当世の文士に書簡を作らせて孫晧に与えることになったが、文帝は荀勖の著した文を用いた。孫晧が和親の返答をよこすと、文帝は荀勖に、「きみは前に文を作り、呉を恭順にさせた、十万の軍に勝る」と言った。文帝が晋王の位に即くと、荀勖を侍中とし、安陽子に封建し、邑は千戸であった。武帝が受禅すると、封爵を済北郡公に改めた。荀勖は羊祜に(爵位を)譲り、侯となることを辞退した。中書監を拝し、侍中を加え、著作を領し、賈充ともに律令を定めた。
賈充が関右に出鎮することになり、荀勖は馮紞に、「賈公が遠くに飛ばされれば、われらは権勢を失うだろう。太子の婚姻がまだ決まっていない、もし賈充の娘を妃にできれば、引き止めずとも自ずと(賈充が朝廷に)留まるだろう」と言った。荀勖は馮紞とともに武帝を訪問して二人で、「賈充の娘は才色が絶世です、もし東宮の妻とすれば、必ず君子を輔佐することができ、関雎の后妃の徳(毛詩 関雎篇)があるでしょう」と言った。かくして婚姻を成立させた。このとき忠正な者に憎まれ、媚び諂いの譏りを受けた。しばらくして、位を光禄大夫に進めた。
(音)楽のことを管掌し、また律呂を修め、どちらも世に受容された。はじめ、荀勖は道路で趙の商人の牛鐸(牛の鈴)を耳にし、その音色を聞き知った。楽を管掌することになり、音階が整わないとき、「趙の牛鐸を得れば整うのだが」と言った。かくして郡国に命令し、すべての牛鐸を送らせ、果たして調和した音階ができた。またかつて武帝と同席して飯を進め、その場のひとに、「くたびれた木材で炊いたものだ」と言った。みなこれを信じなかった。武帝が調理係に確認させると、「確かに古い車輪の脚を(薪に)使いました」と言った。世を挙げて荀勖の感性に感心した。
にわかに秘書監を領し、中書令の張華とともに(前漢の)劉向の『別録』を手本に、記録や書籍を整理した。また書博士を立て、弟子への教育を設け、鍾氏や胡氏を手本とした。
咸寧年間(二七五年~)の初め、石苞らとともに佐命の功臣として、銘饗に並んだ。王濬が上表して伐呉を申し出ると、荀勖は賈充とともに強く諫めて反対したが、武帝は従わず、呉は果たして滅んだ。詔命を専らに管轄したので、功を論じて子一人を封建して亭侯とし、邑は一千戸で、絹千匹を賜わった。また孫の荀顕を封建して潁陽亭侯とした。
汲郡冢中で古文竹書を得ると、荀勖に詔してこれを整理して編纂させ、『中経』とし、並べて秘書に収蔵させた。

原文

時議遣王公之國、帝以問勖。勖對曰、「諸王公已為都督、而使之國、則廢方任。又分割郡縣、人心戀本、必用嗷嗷。國皆置軍、官兵還當給國、而闕邊守」。帝重使勖思之、勖又陳曰、「如詔準古方伯選才、使軍國各隨方面為都督、誠如明旨。至於割正封疆、使親疏不同、誠為佳矣。然分裂舊土、猶懼多所搖動、必使人心悤擾、思惟竊宜如前。若於事不得不時有所轉封、而不至分割土域、有所損奪者、可隨宜節度。其五等體國經遠、實不成制度。然但虛名、其於實事、略與舊郡縣鄉亭無異。若造次改奪、恐不能不以為恨。今方了其大者、以為五等可須後裁度。凡事雖有久而益善者、若臨時或有不解、亦不可忽」。帝以勖言為允、多從其意。
時又議省州郡縣半吏以赴農功、勖議以為、「省吏不如省官、省官不如省事、省事不如清心。昔蕭曹相漢、載其清靜、致畫一之歌、此清心之本也。漢文垂拱、幾致刑措、此省事也。光武并合吏員、縣官國邑裁置十一、此省官也。魏太和中、遣王人四出、減天下吏員、正始中亦并合郡縣、此省吏也。今必欲求之於本、則宜以省事為先。凡居位者、使務思蕭曹之心、以翼佐大化。篤義行、崇敦睦、使昧寵忘本者不得容、而偽行自息、浮華者懼矣。重敬讓、尚止足、令賤不妨貴、少不陵長、遠不間親、新不間舊、小不加大、淫不破義、則上下相安、遠近相信矣。位不可以進趣得、譽不可以朋黨求、則是非不妄而明、官人不惑於聽矣。去奇技、抑異說、好變舊以徼非常之利者必加其誅、則官業有常、人心不遷矣。事留則政稽、政稽則功廢。處位者而孜孜不怠、奉職司者而夙夜不懈、則雖在挈瓶而守不假器矣。使信若金石、小失不害大政、忍忿悁以容之。簡文案、略細苛、令之所施、必使人易視聽。願之如陽春、畏之如雷震。勿使微文煩撓、為百吏所黷、二三之命、為百姓所饜、則吏竭其誠、下悅上命矣。設官分職、委事責成。君子心競而不力爭、量能受任、思不出位、則官無異業、政典不奸矣。凡此皆愚心謂省事之本也。苟無此愆、雖不省吏、天下必謂之省矣。若欲省官、私謂九寺可并於尚書、蘭臺宜省付三府。然施行歷代、世之所習、是以久抱愚懷而不敢言。至於省事、實以為善。若直作大例、皆減其半、恐文武眾官・郡國職業、及事之興廢、不得皆同。凡發號施令、典而當則安、儻有駁者、或致壅否。凡職所臨履、先精其得失。使忠信之官、明察之長、各裁其中、先條上言之。然後混齊大體、詳宜所省、則令下必行、不可搖動。如其不爾、恐適惑人聽。比前行所省、皆須臾輒復、或激而滋繁、亦不可不重」。勖論議損益多此類。
太康中詔曰、「勖明哲聰達、經識天序、有佐命之功、兼博洽之才。久典內任、著勳弘茂、詢事考言、謀猷允誠。宜登大位、毗贊朝政。今以勖為光祿大夫・儀同三司・開府辟召、守中書監・侍中・侯如故」。時太尉賈充・司徒李胤並薨、太子太傅又缺。勖表陳、「三公保傅、宜得其人。若使楊珧參輔東宮、必當仰稱聖意。尚書令衞瓘・吏部尚書山濤皆可為司徒。若以瓘新為令未出者、濤即其人」。帝並從之。
明年秋、諸州郡大水、兗土尤甚。勖陳宜立都水使者。其後門下啟通事令史伊羨・趙咸為舍人、對掌文法。詔以問勖、勖曰、「今天下幸賴陛下聖德、六合為一、望道化隆洽、垂之將來。而門下上稱程咸・張惲、下稱此等、欲以文法為政、皆愚臣所未達者。昔張釋之諫漢文、謂獸圈嗇夫不宜見用。邴吉住車、明調和陰陽之本。此二人豈不知小吏之惠、誠重惜大化也。昔魏武帝使中軍司荀攸典刑獄、明帝時猶以付內常侍。以臣所聞、明帝時唯有通事劉泰等官、不過與殿中同號耳。又頃言論者皆云省官減事、而求益吏者相尋矣。多云尚書郎・太令史不親文書、乃委付書令史及榦、誠吏多則相倚也。增置文法之職、適恐更耗擾臺閣、臣竊謂不可」。
時帝素知太子闇弱、恐後亂國、遣勖及和嶠往觀之。勖還盛稱太子之德、而嶠云太子如初。於是天下貴嶠而賤勖。帝將廢賈妃、勖與馮紞等諫請、故得不廢。時議以勖傾國害時、孫資・劉放之匹。然性慎密、每有詔令大事、雖已宣布、然終不言、不欲使人知己豫聞也。族弟良曾勸勖曰、「公大失物情、有所進益者自可語之、則懷恩多矣」。其壻武統亦說勖、「宜有所營置、令有歸戴者」。勖並默然不應、退而語諸子曰、「人臣不密則失身、樹私則背公、是大戒也。汝等亦當宦達人間、宜識吾此意」。久之、以勖守尚書令。
勖久在中書、專管機事。及失之、甚罔罔悵恨。或有賀之者、勖曰、「奪我鳳皇池、諸君賀我邪」。及在尚書、課試令史以下、覈其才能、有闇於文法、不能決疑處事者、即時遣出。帝嘗謂曰、「魏武帝言、『荀文若之進善、不進不止。荀公達之退惡、不退不休。』二令君之美、亦望於君也」。居職月餘、以母憂上還印綬、帝不許。遣常侍周恢喻旨、勖乃奉詔視職。
勖久管機密、有才思、探得人主微旨、不犯顏迕爭、故得始終全其寵祿。太康十年卒、詔贈司徒、賜東園祕器・朝服一具・錢五十萬・布百匹。遣兼御史持節護喪、諡曰成。勖有十子、其達者輯・藩・組。

1.「悤」は「忽」に通じ、あわてる、いそぐの意味。

訓読

時に王公をして國に之かしむるを議し、帝 以て勖に問ふ。勖 對へて曰く、「諸々の王公 已に都督と為り、而も國に之かしめば、則ち方任を廢せん。又 郡縣を分割せば、人心 本を戀ひ、必ず用て嗷嗷たらん。國 皆 軍を置かば、官兵 還りて當に國に給すべし、而らば邊守を闕く」と。帝 重ねて勖をして之を思はしめ、勖 又 陳べて曰く、「詔の如く古の方伯に準へて才を選び、軍國をして各々方面に隨ひて都督を為さしむるは、誠に明旨の如し。封疆を割正し、親疏をして同じならざらしむるに至りては、誠に佳き為り。然るに舊土を分裂せば、猶ほ多く搖動する所を懼れ、必ず人心をして1.悤擾せしめ、思ふに惟だ竊かに宜しく前が如くすべし。若し事に於て時に轉封する所有あらざるを得ず、而して土域を分割し、損奪する所有る者に至りては、宜に隨ひて節度す可し。其れ五等の體は國の經遠なるも、實に制度を成さず。然るに但だ虛名のみあり、其れ實事に於て、略ぼ舊き郡縣鄉亭と異なる無し。若し造次に改奪せば、恐らく以て恨と為らざること能はず。今 方に其の大を了し、以為へらく五等は後の裁度を須つ可し。凡そ事 有久にして善を益す者と雖も、若し臨時に或いは解せざる有らば、亦た忽に可べからず」と。帝 勖の言を以て允と為し、多く其の意に從ふ。
時に又 州郡縣の半吏を省きて以て農功に赴かしむるを議し、勖 議して以為へらく、「吏を省くは官を省くに如かず、官を省くは事を省くに如かず、事を省くは心を清むるに如かず。昔 蕭曹 漢に相たりて、其の清靜を載き、畫一の歌〔一〕を致し、此れ心を清むるの本なり。漢文 垂拱し、幾ど刑 措くを致し、此れ事を省くなり。光武 吏員を并合し、縣官國邑 裁かに十に一を置き、此れ官を省くなり。魏の太和中に、王人をして四出せしめ、天下の吏員を減じ、正始中にも亦た郡縣を并合す、此れ吏を省くなり。今 必ず之を本に求めんと欲すれば、則ず宜しく事を省くを以て先と為すべし。凡そ位に居る者、務めて蕭曹の心を思ひ、以て大化を翼佐せしむべし。義行を篤くし、敦睦を崇くし、寵を昧(むさぼ)り本を忘るる者は容るるを得ざらしめ、而らば偽行 自ら息み、浮華なる者 懼れん。敬讓を重くし、止足を尚び、賤をして貴を妨げず、少をして長を陵せず、遠をして親を間せず、新をして舊を間せず、小をして大を加へず、淫をして義を破らざらしめば、則ち上下 相 安んじ、遠近 相 信あらん。 位は進趣を以て得可からず、譽は朋黨を以て求む可からざれば、則ち是非 妄らならずして明らかなり、官人 聽に惑はず。奇技を去り、異說を抑へ、舊を變ひて以て非常の利に徼ふを好む者は必ず其に誅を加ふれば、則ち官業 常有り、人心 遷らず。事 留むれば則ち政は稽(とど)まり、政 稽まれば則ち功 廢る。位に處る者は而して孜孜として怠らず、職司を奉る者は而して夙夜に懈らざれば、則ち挈瓶在ると雖も而して守りて器を假らず。信をして金石が若くあらしめば、小失 大政を害せず、忿悁を忍びて以て之を容る。文案を簡し、細苛を略し、令の施す所、必ず人をして視聽を易からしむ。之を願ふこと陽春が如く、之を畏るること雷震が如し。微文 煩撓たりて、百吏の黷す所と為り、二三の命、百姓の饜く所と為ること勿くば、則ち吏は其の誠を竭くし、下は上命を悅ぶ。官を設け職を分け、事を委ね成を責む。君子 心に競ひて力もて爭はず、能を量りて任を受け、位を出でざるを思へば、則ち官に異業無く、政典に奸せず。凡そ此れ皆 愚心もて省事の本を謂ふなり。苟し此に愆無くんば、吏を省かざると雖も、天下 必ず之を省と謂はん。若し官を省かんと欲し、私に謂ふに九寺をば尚書に并はせ、蘭臺をば宜しく三府に省付す可し。然るに歷代に施行し、世の習ふ所なれば、是を以て久しく愚懷を抱きて敢て言はず。事を省くに至りては、實に以て善為り。若し直だ大例を作り、皆 其の半を減ずれば、恐らく文武の眾官・郡國の職業、事の興廢に及び、皆 同じなるを得ず。 凡そ號を發し令を施し、典にして當たるときは則ち安んじ、儻し駁有る者は、或いは壅否を致す。凡そ職の臨履する所、先に其の得失を精しくせよ。忠信の官、明察の長をして、各々其の中を裁き、先づ條し之を上言せしめよ。然る後に大體を混齊し、詳に宜しく省くべき所あらば、則ち令下して必ず行ひ、搖動す可からず。如し其れ爾らずんば、恐らくは適に人聽を惑はさん。前行の省く所の比に、皆 須臾に輒ち復せば、或いは激して滋繁し、亦た重んぜる可からず」と。勖が損益を論議ずること多く此の類なり。
太康中に詔して曰く、「勖 明哲にして聰達、天序を經識し、佐命の功有り、博洽の才を兼す。久しく內任を典り、著勳 弘茂にして、事に詢し言を考し、謀猷 允誠たり。宜しく大位に登り、朝政を毗贊すべし。今 勖を以て光祿大夫・儀同三司・開府辟召と為し、守中書監・侍中・侯は故の如し」と。時に太尉の賈充・司徒の李胤 並びに薨じ、太子太傅 又 缺く。勖 表して陳し、「三公保傅は、宜しく其の人を得べし。若し楊珧をして東宮に參輔せしめば、必ず當に聖意を仰稱すべし。尚書令の衞瓘・吏部尚書の山濤 皆 司徒と為す可し。若し瓘を以て新たに令と為て未だ出す者ならざれば、濤 即ち其の人なり」と。帝 並びに之に從ふ。
明年の秋に、諸々の州郡 大水あり、兗土 尤も甚し。勖 宜しく都水使者を立つべしと陳ぶ。其の後に門下 啟して通事令史の伊羨・趙咸を舍人と為し、對して文法を掌らしむ。詔して以て勖に問ふに、勖曰く、「今 天下 幸いに陛下の聖德に賴り、六合は一と為り、道化 隆洽なるを望み、之を將來に垂とす。而れども門下 上は程咸・張惲を稱し、下は此らを稱し、文法を以て政を為さんと欲す、皆 愚臣 未だ達せざる所なり。昔 張釋之 漢文を諫むるに、獸圈の嗇夫 宜しく用ひらるべからずと謂ふ。邴吉 車を住め、陰陽の本を調和するを明らかにす。此の二人 豈に小吏の惠を知らざるや、誠に大化を重惜すればなり。昔 魏の武帝 中軍司の荀攸をして刑獄を典らしむるに、明帝の時に猶ほ以て內常侍を付す。臣 聞く所を以てすれば、明帝の時に唯だ通事の劉泰らの官のみ有り、殿中と號を同じくするに過ぎざるのみ。又 頃 言論する者 皆 官を省き事を減ずることを云ひ、而れども吏を益すことを求むる者 相 尋ぐ。多く云ふに尚書郎・太令史 文書に親しまず、乃ち書を令史及び榦に委付し、誠に吏 多ければ則ち相 倚るなり。文法の職を增置せば、適だ更に臺閣を耗擾するを恐る、臣 竊かに不可なりと謂ふ」と。
時に帝 素より太子の闇弱を知り、後に國を亂すを恐れ、勖及び和嶠をして往きて之を觀しむ。勖 還りて盛んに太子の德を稱へ、而れども嶠 太子 初の如しと云ふ。是に於て天下 嶠を貴びて勖を賤しむ。帝 將に賈妃を廢せんとするに、勖 馮紞らと諫請し、故に廢せざるを得たり。時議 勖 國を傾け時を害することを、孫資・劉放の匹なりと以ふ。然るに性は慎密にして、每に詔令の大事有らば、已に宣布すと雖も、然るに終に言はず、人をして己の豫め聞くを知らしむるを欲せざるなり。族弟の良 曾て勖に勸めて曰く、「公 大いに物情を失ふ、進益する所有らば自ら之を語る可し、則ち恩を懷かること多からん」と。其の壻の武統も亦た勖に說き、「宜しく營置する所有らば、歸戴有らしむべし」と。勖 並びに默然として應ぜず、退きて諸子に語りて曰く、「人臣 密ならざれば則ち身を失ふ、私を樹つれば則ち公に背く、是れ大戒なり。汝ら亦た當に宦たりて人間に達さば、宜しく吾が此の意を識るべし」と。久之、勖を以て守尚書令とす。
勖 久しく中書に在り、機事を專管す。之を失ふに及び、甚だ罔罔悵恨たり。或いは之を賀する者有り、勖曰く、「我が鳳皇の池を奪ひ、諸君 我を賀するか」と。尚書に在るに及び、令史以下を課試し、其の才能を覈するに、文法に闇く、能く決疑し處事せざる者有らば、即ち時に出ださしむ。帝 嘗て謂ひて曰く、「魏武帝 言ふ、『荀文若の善を進め、進めずんば止めず。荀公達の惡を退け、退けずんば休めず』と。二令君の美、亦た君に望むなり」と。職に居ること月餘にして、母の憂を以て印綬を上還し、帝 許さず。常侍の周恢をして喻旨せしめ、勖 乃ち詔を奉じて職を視る。
勖 久しく機密を管し、才思有り、探して人主の微旨を得て、顏を犯して迕爭せず、故に始終 其の寵祿を全するを得たり。太康十年に卒し、詔して司徒を贈り、東園の祕器・朝服一具・錢五十萬・布百匹を賜ふ。兼御史を遣りて節を持して喪を護らしめ、諡して成と曰ふ。勖に十子有り、其の達する者は輯・藩・組なり。

〔一〕「畫一」は、一の字を書いたように整理され明らかなさま。

現代語訳

このとき王公を藩国に行かせることを議論し、武帝は荀勖に意見を求めた。荀勖は、「諸々の王公が都督となり、しかも国に行かせるなら、方任(州牧ら)を廃止することになるでしょう。また郡県を分割すれば、人民は旧来の地名を恋しがり、騒いで抵抗するでしょう。国ごとに軍を置くならば、官兵は帰郷させ出身国に配備すべきですが、さすれば辺境の守りが手薄になります」と言った。武帝は重ねて荀勖に検討させ、荀勖はさらに述べ、「詔のように上古の方伯に準えて(各国の域内で)才能あるものを選び、軍や国に各方面を都督させるならば、詔の通りで良いでしょう。封地を解体して整理し、親疏の序列を設けることは、とても良い計画です。しかし旧来の区画を分割すれば、大いに動揺することが懸念され、必ず人心は慌てふためくので、私は現状どおりが宜しいと思います。もしも状況により転封せざるを得ず、それに伴い区域を分割し、切り取らざるを得ない場合は、個別に調整すれば良いのです。そもそも(この西晋の)五等爵制は国の基本設計にすぎず、実際の運用は行われていません。虚名だけがあり、その現実において、ほぼ旧来の郡県郷亭の区分から変更がありません。もしも短期間で再編成を急げば、必ず不平不満を招きます。いまは大枠だけを掲げ、五等爵制は後年の適切な運用を待つべきです。長期的には良い方策でも、短期的に馴染まないならば、軽々しく断行してはいけません」と言った。武帝は荀勖の発言を適正とし、多くその意見に従った。
このときまた州郡県の吏員の半分を省いて農耕に従事させることを議論し、荀勖は提議して、「吏員を省くことは官員を省くより効果が薄く、官員を省くことは業務を省くことより効果が薄く、業務を省くことは心を清くするより効果が薄い。むかし蕭何と曹参が前漢の宰相となり、清く静かな政治をして、一の字を書くような簡素さを歌われたが、これが心を清めることの本来のあり方である。前漢の文帝は政務を委任し、ほとんど刑罰の執行がなく、これが業務を省くということである。後漢の光武帝が吏員を併合し、県官や国邑はわずかに十に一つだけを残したが、これが官員を省くということである。魏の太和年間、皇族を(洛陽から)四方に出向かせ、天下の吏員を減らし、正始年間にもまた郡県を統合したが、これが吏員を省くということである。いま本来のあり方を求めるなら、業務の削減を優先すべきである。すべての官位にあるものは、努めて蕭何や曹参の心を思い、大いなる教化を輔佐するように。正しい行いを励行し、親切さと睦まじさを重んじ、寵愛をむさぼり本務を忘れたものが混じる余地をなくせば、偽りの行為はおのずと止み、浮華なものは懼れるだろう。敬意を厚くし、節度を守り、低位のものが高位を妨げず、年少のものが年長に逆らわず、疎遠なものが親近の関係を裂かず、新参ものが古参に割り込まず、弱小なものが強大なものを頼らず、淫乱なものが正義を破らなければ、上下は安定し、遠近は信頼で結ばれるだろう。 官位を先走って獲得せず、名声を朋党を頼って求めなければ、是非が正しく区別され、官人は評判に惑わない。奇をてらった特技を排除し、でたらめな意見を抑え、上古を慕って(時代錯誤な)利益を掠めようとするものに必ず誅を加えれば、公務は正常となり、人心は移ろわない。業務を止めれば政治は停滞し、政治が停滞すれば功績が廃れる。官位にあるものは真面目に働いて怠らず、職務の担当者は朝晩に励めば、提げた瓶があっても守って器を借りない(未詳)。信頼が金石のように堅ければ、小さな欠点が政治の大局を傷つけず、憤怒を忍んで我慢ができる。文書を簡略にし、細かな咎めを省けば、命令の内容が、必ず人に受け入れられる。これらを願うことは春の日差しのようで、畏れることは雷鳴のようだ。細かな文が繁雑で、百吏に汚され、二三の命令が、万民に疎まれなければ、吏は誠意を尽くし、部下は上司の命令を歓迎する。官位を設けて役割を分け、業務を委ねて成果を求める。君子は心で競うが力尽くでは争わず、能力を査定して適した任務を授け、職掌をはみ出さなければ、官員は余計な仕事をせず、政治の規則に抵触しない。以上が私なりに業務の省略に関する本来のあり方について思うことである。もし誤りがなければ、吏員を省かずとも(同じ効果が出て)天下は吏員を省いたと見なすだろう。もし官員を省くとすれば、九寺(九卿)を尚書に統合し、蘭台を三府(三公)に従属させるのがよい。しかし歴代に運用され、世に慣れているので、再編のことは長く胸の内に留めて言わずにいた。業務を省くことは、現実に効果がある。しかし大方針に沿って、一律に半分を削れば、恐らく文武の百官や郡国の職掌において、業務の増減に影響が出るので、容易には変更できない。 号令や命令が出て、適切であるときは安んじ、もし反対意見があれば、あるいは抗弁をする。職務の履行では、さきにその得失を精査するように。忠誠で信頼できる官員と、聡明で洞察力のある長官は、それぞれ適切に処置し、列挙して上言させるように。その後に全体を見て調節し、もし省くべき点があれば、命令を下して必ず実行し、動揺してはならない。もしこの通りにせねば、恐らく人々の耳を惑わすだろう。いちど省略しておきながら、すぐに従前にもどせば、慌ててますます煩瑣となるから、慎重にせねばならない」と言った。荀勖が利得と損失を論じることは多くがこのよう(に周到)であった。
太康年間(二八〇~二八九年)に詔して、「荀勖は明哲で見識が通じ、天の秩序を知り尽くし、佐命の功があり、広い才幹を備えている。久しく内朝の任務を管掌し、勲功は顕著で豊かであり、事案を検討して意見を述べ、謀計は適正である。高い位に登り、朝政を翼賛するように。いま荀勖を光禄大夫・儀同三司・開府辟召とし、守中書監・侍中・侯は現状どおりとする」と言った。このとき太尉の賈充と司徒の李胤が同時に薨じ、太子太傅も空位であった。荀勖は上表して、「三公や教育係は、適任者を迎えるべきです。もし楊珧に東宮を輔佐させれば、必ずや聖意に応えるでしょう。尚書令の衞瓘と吏部尚書の山濤はどちらも司徒に相応しい。もし衛瓘を尚書令として留任させるならば、山濤こそが司徒に最適です」と言った。武帝はすべて従った。
翌年の秋、諸々の州郡で洪水があり、兗州の被害がもっとも甚大であった。荀勖は都水使者を立てるよう提言した。その後に門下(省)が通事令史の伊羨・趙咸を舎人とし、彼らに法令の条文を管掌させるよう提案した。詔して荀勖の意見を求め、荀勖は、「いま天下は幸いにも陛下の聖徳のおかげで、六合が統一され、道化は興隆しつつあり、継承されそうです。しかし門下(省)で上は程咸・張惲を称え、下はこれら(伊羨・趙咸)を称え、法令の条文について執務させようとしており、すべて私は不適切だと思います。むかし張釈之が前漢の文帝を諫めるとき、獣の檻の下級役人を用いてはならないと言いました。邴吉が車を止め、陰陽の根本を調和させることを説明しました。この二人は(君主に迎合することで得られる)小吏の恩恵を知らなかったのでしょうか、まことに大いなる教化を重んじ惜しんだのです。むかし魏の武帝は中軍司の荀攸に刑獄を管轄させ、明帝の時代もまだ内常侍に担当させました。私が聞くところでは、明帝の時代はただ通事の劉泰らだけが役割をこなし、殿中と同じ称号があるだけでした。また近ごろの発言者はみな官位を省き業務を減らすことを唱えますが、そのわりに吏員を増やすことを求める者が相次いでいます。多くの場合に尚書郎・太令史は政治文書に疎く、文書を令史及び幹に丸投げし、吏員を増やせば頼り切りになります。条文を管理する担当を増員すれば、ただ台閣を消耗させ騒がしくなることが懸念されます、私は賛成いたしません」と言った。
このとき武帝はかねて太子の闇弱を知っており、後代に国を乱すことを恐れ、荀勖と和嶠に行って視察させた。荀勖は戻ると盛んに太子の徳を称えたが、和嶠は太子に成長は見られないと言った。こうして天下は和嶠を尊んで荀勖を賤しんだ。武帝が賈妃を廃そうとすると、荀勖は馮紞らとともに諫めて陳情し、そのせいで廃位されなかった。世論では荀勖が国家を傾けて当世に害悪を流すさまは、(曹魏の)孫資や劉放と同類だと言った。しかし性格が慎み深く控えめで、つねに詔令で重大事が発せられると、すでに宣布された後でも、その内容について発言せず、自分が関与したことを知られまいとした。族弟の荀良はかつて荀勖に、「あなたは評判が低いです、採択された良い意見があれば自分で語るべきです、そうすれば思慕されます」と言った。彼の壻の武統もまた荀勖に、「仕事をする上で、贈り物の授受をすべきです」と言った。荀勖は黙ってどちらにも応ぜず、退いて諸子に語り、「人臣は秘密を保たねば身を失い、私党を形成すれば公益に背く、これは重要な戒めだ。お前たちも官僚として渡世するのだから、私の考えを理解せよ」と言った。しばらくして、荀勖を守尚書令とした。
荀勖は久しく中書の官にあり、機密を専管した。この職を失うと、ひどく落胆し恨みがましかった。退任を祝う者がいると、荀勖は、「わが鳳皇の池を奪われたのに、諸君は私を祝うのか」と言った。尚書に就いたとき、令史以下に試験をして、才能を調べ、文書や法令の知識が足りず、事案を決し処理ができない者がいれば、すぐに追い出した。武帝はかつて、「魏の武帝が、『荀文若(荀彧)は善を進め、進めなければ止めなかった。荀公達(荀攸)は悪を退け、退けなければ止めなかった』と言った。二令君の美点を、君にも期待する」と言った。職にあること一ヵ月あまりで、母が死んで印綬を返上したが、武帝は許さなかった。常侍の周恢を連絡役とし、荀勖は詔を奉じて政務を見た。
荀勖は久しく機密を管理し、才能と思慮があり、君主の微かな意思を読み取り、面と向かって言い争わず、生涯にわたり寵愛を受け続けることができた。太康十(二八九)年に亡くなり、詔して司徒を贈り、東園の秘器と朝服ひと揃えと銭五十万と布百匹を賜わった。兼御史に節を持して喪を護らせ、諡して成とした。荀勖に十人の子がおり、世に出たのは荀輯と荀藩と荀組である。

原文

輯嗣、官至衞尉。卒、諡曰簡。子畯嗣。卒、諡曰烈。無適子、以弟息識為嗣。輯子綽。綽字彥舒、博學有才能、撰晉後書1.〔十〕五篇、傳於世。永嘉末、為司空從事中郎、沒於石勒、為勒參軍。
藩字大堅。元康中、為黃門侍郎、受詔成父所治鍾磬。以從駕討齊王冏勳、封西華縣公。累遷尚書令。永嘉末、轉司空、未拜而洛陽陷沒、藩出奔密。王浚承制、奉藩為留臺太尉。及愍帝為太子、委藩督攝遠近。建興元年薨於開封、年六十九、因葬亡所。諡曰成、追贈太保。藩二子、邃・闓。
邃字道玄、解音樂、善談論。弱冠辟趙王倫相國掾、遷太子洗馬。長沙王乂以為參軍。乂敗、成都王為皇太弟、精選僚屬、以邃為中舍人。鄴城不守、隨藩在密。元帝召為丞相從事中郎、以道險不就。愍帝就加左將軍・陳留相。父憂去職、服闋、襲封。愍帝欲納邃女、先徵為散騎常侍。邃懼西都危逼、故不應命、而東渡江、元帝以為軍諮祭酒。太興初、拜侍中。邃與刁協婚親、時協執權、欲以邃為吏部尚書、邃深距之。尋而王敦討協、協黨與並及於難、唯邃以疏協獲免。敦表為廷尉、以疾不拜。遷太常、轉尚書。蘇峻作亂、邃與王導・荀崧並侍天子於石頭。峻平後卒、贈金紫光祿大夫、諡曰靖。子汪嗣。
闓字道明、亦有名稱、京都為之語曰、「洛中英英荀道明」。大司馬・齊王冏辟為掾。冏敗、暴尸已三日、莫敢收葬。闓與冏故吏李述・嵇含等露板請葬、朝議聽之、論者稱焉。為太傅主簿・中書郎。與邃俱渡江、拜丞相軍諮祭酒。中興建、遷右軍將軍、轉少府。明帝嘗從容問王廙曰、「二荀兄弟孰賢」。廙答、以闓才明過邃。帝以語庾亮、亮曰、「邃真粹之地、亦闓所不及」。由是議者莫能定其兄弟優劣。歷御史中丞・侍中・尚書、封射陽公。太寧二年卒、追贈衞尉、諡曰定。子達嗣。

1.中華書局本に従い、「十」一字を補う。

訓読

輯 嗣ぎ、官は衞尉に至る。卒し、諡して簡と曰ふ。子の畯 嗣ぐ。卒し、諡して烈と曰ふ。適子無く、弟の息の識を以て嗣と為す。輯の子は綽なり。綽 字は彥舒なり、博學にして才能有り、晉後書十五篇を撰し、世に傳はる。永嘉の末に、司空從事中郎と為り、石勒に沒し、勒の參軍と為る。
藩 字は大堅なり。元康中に、黃門侍郎と為り、詔を受けて父の治むる所の鍾磬を成す。從駕するを以て齊王冏を討ちし勳ありて、西華縣公に封ぜらる。尚書令に累遷す。永嘉の末に、司空に轉じ、未だ拜せざるに洛陽 陷沒し、藩 密に出奔す。王浚 承制するや、藩を奉りて留臺太尉と為す。愍帝 太子と為るに及び、藩に委ねて遠近を督攝せしむ。建興元年に開封に薨じ、年は六十九、因りて亡所に葬る。諡して成と曰ひ、太保を追贈す。藩に二子あり、邃・闓なり。 邃 字は道玄、音樂を解し、談論を善くす。弱冠にして趙王倫の相國掾に辟せられ、太子洗馬に遷る。長沙王乂 以て參軍と為す。乂 敗れ、成都王 皇太弟と為るや、僚屬を精選し、邃を以て中舍人と為す。鄴城 守せず、藩に隨ひて密に在り。元帝 召して丞相從事中郎と為すも、道 險しきを以て就かず。愍帝 就ち左將軍・陳留相を加ふ。父の憂もて職を去り、服闋し、封を襲ふ。愍帝 邃の女を納れんと欲し、先に徵して散騎常侍と為す。邃 西都 危逼するを懼れ、故に命に應ぜず、而して東のかた江を渡り、元帝 以て軍諮祭酒と為す。太興の初、侍中を拜す。邃 刁協と婚親し、時に協 執權し、邃を以て吏部尚書と為さんと欲し、邃 深く之を距つ。尋いで王敦 協を討ち、協の黨與 並びに難に及び、唯だ邃のみ協に疏たるを以て免るるを獲たり。敦 表して廷尉と為し、疾を以て拜せず。太常に遷り、尚書に轉ず。蘇峻 亂を作し、邃 王導・荀崧と與に並びに天子を石頭に侍る。峻 平らぐ後に卒し、金紫光祿大夫を贈り、諡して靖と曰ふ。子の汪 嗣ぐ。
闓 字は道明、亦た名稱有り、京都 之が為に語りて曰く、「洛中に英英たる荀道明」と。大司馬・齊王冏 辟して掾と為す。冏 敗れ、尸を暴すこと已に三日にして、敢て收葬するもの莫し。闓 冏の故吏の李述・嵇含らと與に露板し葬らんことを請ひ、朝議 之を聽し、論者 焉を稱ふ。太傅主簿・中書郎と為る。邃と與に俱に渡江し、丞相軍諮祭酒を拜す。中興 建つや、右軍將軍に遷り、少府に轉ず。明帝 嘗て從容として王廙に問ひて曰く、「二荀の兄弟 孰れか賢こき」と。廙 答ふるに、闓の才は明にして邃に過ぐと以ふ。帝 以て庾亮に語るに、亮曰く、「邃 真粹の地なり、亦た闓すら及ばざる所なり」と。是に由り議者 能く其の兄弟の優劣を定むるもの莫し。御史中丞・侍中・尚書を歷し、射陽公に封ぜらる。太寧二年に卒し、衞尉を追贈し、諡して定と曰ふ。子の達 嗣ぐ。

現代語訳

荀輯が嗣ぎ、官位は衛尉に至った。亡くなり、諡して簡とした。子の荀畯が嗣いだ。亡くなり、諡して烈とした。嫡子がなく、弟の子の荀識を継嗣とした。荀輯の子は荀綽である。荀綽は字を彦舒といい、博学で才能があり、『晋後書』十五篇を撰述し、世に伝えられた。永嘉年間の末に、司空従事中郎となり、石勒に捕らえられ、石勒の参軍となった。
荀藩は字を大堅という。元康年間に、黄門侍郎となり、詔を受けて父が着手していた鍾磬を完成させた。車駕に従って斉王冏(司馬冏)を討伐した勲功により、西華県公に封建された。尚書令に累遷した。永嘉の末に、司空に転じ、拝命する前に洛陽が陥落し、荀藩は密県に出奔した。王浚が承制すると、荀藩を奉って留台太尉とした。愍帝が太子となると、荀藩に委任して遠近を統括させた。建興元年に開封で薨去し、六十九歳で、亡くなった場所で葬られた。諡して成とし、太保を追贈した。荀藩の二子があり、荀邃と荀闓である。
荀邃は字を道玄といい、音楽を聞き分け、談論を得意とした。弱冠で趙王倫(司馬倫)の相国掾に辟召され、太子洗馬に遷った。長沙王乂(司馬乂)は彼を参軍とした。司馬乂が敗れ、成都王(司馬穎)が皇太弟となると、属僚を厳選し、荀邃を中舎人とした。鄴城の守りが破られ、荀藩に随って密県に行った。元帝が召して丞相従事中郎としたが、道が険しいので着任しなかった。そこで愍帝は左将軍・陳留相を加えた。父の死で職を去り、三年喪が明け、封爵を襲った。愍帝は荀邃の娘を娶ろうとし、先に徴召して散騎常侍とした。荀邃は西都(長安)に危機が迫っていることを懼れ、ゆえに召命に応じず、東のかた長江を渡り、元帝は彼を軍諮祭酒とした。太興の初め、侍中を拝した。荀邃は刁協と姻戚関係にあり、このとき刁協が権限を握り、荀邃を吏部尚書としようとしたが、荀邃は遠く距離を取った。ほどなく王敦が刁協を討伐し、刁協の党与には危難が及んだが、ただ荀邃だけが刁協と距離をおいたので免れることができた。王敦が上表して廷尉としたが、病気を理由に拝命しなかった。太常に遷り、尚書に転じた。蘇峻が乱を起こし、荀邃は王導と荀崧とともに天子に石頭で侍った。蘇峻の平定後に亡くなり、金紫光禄大夫を贈り、諡して靖とした。子の荀汪が嗣いだ。
荀闓は字を道明といい、彼もまた名声があり、洛陽では、「洛中に英英たる荀道明」と語られた。大司馬・斉王冏(司馬冏)が辟召して掾とした。司馬冏が敗れ、死体が三日さらされたが、だれも収容し葬らなかった。荀闓は司馬冏の故吏の李述と嵇含らとともに露板(封をしない上書)で埋葬を願い出て、朝議はこれを許し、論者はこの行動を称えた。太傅主簿・中書郎となった。荀邃とともに長江を渡り、丞相軍諮祭酒を拝した。東晋が建国されると、右軍将軍に遷り、少府に転じた。明帝がかつて従容として王廙に、「二荀の兄弟はどちらが賢いか」と質問した。王廙は、荀闓は才が明晰であり荀邃より優れていますと言った。明帝がこれを庾亮に語ると、庾亮は、「荀邃は純粋な資質があり、荀闓ですら及びません」と言った。これにより議者はだれも彼ら兄弟の優劣を確定させられなかった。御史中丞・侍中・尚書を歴任し、射陽公に封建された。太寧二(三二四)年に亡くなり、衛尉を追贈し、諡して定とした。子の荀達が嗣いだ。

原文

組字大章。弱冠、太尉王衍見而稱之曰、「夷雅有才識」。初為司徒左西屬、補太子舍人。司徒王渾請為從事中郎、轉左長史、歷太子中庶子・滎陽太守。
趙王倫為相國、欲收大名、選海內德望之士、以江夏李重及組為左右長史、東平王堪・沛國劉謨為左右司馬。倫篡、以組為侍中。及長沙王乂敗、惠帝遣組及散騎常侍閭丘沖詣成都王穎、慰勞其軍。帝西幸長安、以組為河南尹。遷尚書、轉衞尉、賜爵成陽縣男、加散騎常侍・中書監。轉司隸校尉、加特進・光祿大夫、常侍如故。于時天下已亂、組兄弟貴盛、懼不容於世、雖居大官、並諷議而已。
永嘉末、復以組為侍中、領太子太保。未拜、會劉曜・王彌逼洛陽、組與藩俱出奔。懷帝蒙塵、司空王浚以組為司隸校尉。組與藩移檄天下、以琅邪王為盟主。
愍帝稱皇太子、組即太子之舅、又領司隸校尉、行豫州刺史事、與藩並保滎陽之開封。建興初、詔藩行留臺事。俄而藩薨、帝更以組為司空、領尚書左僕射、又兼司隸、復行留臺事、州征郡守皆承制行焉。進封臨潁縣公、加太夫人・世子印綬。明年、進位太尉、領豫州牧・假節。
元帝承制、以組都督司州諸軍、加散騎常侍、餘如故。頃之、又除尚書令、表讓不拜。及西都不守、組乃遣使移檄天下共勸進。帝欲以組為司徒、以問太常賀循。循曰、「組舊望清重、忠勤顯著、遷訓五品、實允眾望」。於是拜組為司徒。
組逼於石勒、不能自立。太興初、自許昌率其屬數百人渡江、給千兵百騎、組先所領仍皆統攝。頃之、詔組與太保・西陽王羕並錄尚書事、各加班劍六十人。永昌初、遷太尉、領太子太保。未拜、薨、年六十五。諡曰元。子奕嗣。

訓読

組 字は大章なり。弱冠にして、太尉の王衍 見て之を稱して曰く、「夷雅にして才識有り」と。初め司徒左西屬と為り、太子舍人に補せらる。司徒の王渾 從事中郎と為さんことを請ひ、左長史に轉じ、太子中庶子・滎陽太守を歷す。
趙王倫 相國と為るや、大名を收めんと欲し、海內の德望の士を選び、江夏の李重及び組を以て左右長史と為し、東平の王堪・沛國の劉謨もて左右司馬と為す。倫 篡するや、組を以て侍中と為す。長沙王乂 敗るるに及び、惠帝 組及び散騎常侍の閭丘沖を遣はして成都王穎に詣り、其の軍を慰勞す。帝 西のかた長安に幸し、組を以て河南尹と為す。尚書に遷り、衞尉に轉じ、爵成陽縣男を賜はり、散騎常侍・中書監を加ふ。司隸校尉に轉じ、特進・光祿大夫を加へ、常侍たること故の如し。時に天下 已に亂れ、組の兄弟 貴盛なれば、世に容れざるを懼れ、大官に居ると雖も、並びに諷議するのみ。
永嘉の末に、復た組を以て侍中と為し、太子太保を領す。未だ拜せざるに、會々劉曜・王彌 洛陽に逼り、組 藩と與に俱に出奔す。懷帝 蒙塵し、司空の王浚 組を以て司隸校尉と為す。組 藩と與に檄を天下に移し、琅邪王を以て盟主と為す。
愍帝 皇太子を稱し、組 即ち太子の舅なれば、又 司隸校尉を領し、豫州刺史の事を行し、藩と與に並びに滎陽の開封を保つ。建興の初め、藩に詔し留臺事を行せしむ。俄かにして藩 薨じ、帝 更めて組を以て司空と為し、尚書左僕射を領し、又 司隸を兼ね、復た留臺事を行し、州 郡守を征して皆 承制し行せしむ。封を臨潁縣公に進め、太夫人・世子に印綬を加ふ。明年、位を太尉に進め、豫州牧・假節を領す。
元帝 承制するに、組を以て司州諸軍を都督せしめ、散騎常侍を加へ、餘は故の如し。頃之、又 尚書令に除せられ、表し讓して拜せず。西都 守らざるに及び、組 乃ち使を遣はして檄を天下に移して共に勸進す。帝 組を以て司徒と為さんと欲し、以て太常の賀循に問ふ。循曰く、「組は舊望にして清重なり、忠勤は顯著にして、遷りて五品を訓へ、實に眾望に允(あ)たる」と。是に於て組を拜して司徒と為す。
組 石勒に逼られ、自立する能はず。太興の初、許昌より其の屬たる數百人を率ゐて江を渡り、千兵百騎を給ひ、組 先に領する所 仍りて皆 統攝す。頃之、組に詔して太保・西陽王羕と與に並びに錄尚書事し、各々班劍六十人を加ふ。永昌の初、太尉に遷り、太子太保を領す。未だ拜せざるに、薨じ、年六十五なり。諡して元と曰ふ。子の奕 嗣ぐ。

現代語訳

荀組は字を大章という。弱冠のとき、太尉の王衍が会って、「公正で才識がある」と称えた。はじめ司徒左西属となり、太子舎人に任命された。司徒の王渾は従事中郎にしたいと願い、左長史に転じ、太子中庶子・滎陽太守を歴任した。
趙王倫(司馬倫)が相国となると、名声と支持を得ようと、海内の徳望の士を選び、江夏の李重及び荀組を左右長史とし、東平の王堪と沛国の劉謨を左右司馬とした。司馬倫が簒奪すると、荀組を侍中とした。長沙王乂(司馬乂)が敗れると、恵帝は荀組及び散騎常侍の閭丘沖を成都王穎(司馬穎)のところに派遣し、その軍を慰労した。恵帝が西のかた長安に行幸し、荀組を河南尹とした。尚書に遷り、衛尉に転じ、爵成陽県男を賜わり、散騎常侍・中書監を加えた。司隷校尉に転じ、特進・光禄大夫を加え、常侍は現状どおりとした。このとき天下がすでに乱れ、荀組の兄弟は高貴な勢族なので、各時点の政権と相容れないことを懼れ、高位高官にあっても、評論するだけであった。
永嘉の末に、また荀組を侍中とし、太子太保を領した。拝命する前に、たまたま劉曜と王弥が洛陽に逼ったので、荀組は荀藩とともに出奔した。懐帝が都から出ると、司空の王浚は荀組を司隷校尉とした。荀組は荀藩とともに檄文を天下に回付し、琅邪王(司馬睿)を盟主とした。
愍帝が皇太子を称し、荀組は太子の舅なので、また司隷校尉を領し、豫州刺史の事を代行し、荀藩とともに滎陽の開封を守った。建興の初め、荀藩に詔して留台事を代行させた。にわかに荀藩が薨去し、愍帝は改めて荀組を司空とし、尚書左僕射を領し、また司隷を兼ね、また留台事を代行し、州は郡守を徴してみなに承制し代行させた。封爵を臨潁県公に進め、太夫人と世子に印綬を加えた。翌年、位を太尉に進め、豫州牧・仮節を領した。
元帝が承制すると、荀組に司州諸軍を都督させ、散騎常侍を加え、それ以外は現状どおりとした。しばらくして、また尚書令に任命されたが、上表して辞退し拝命しなかった。西都(長安)の守りが危うくなると、荀組は使者を派遣して檄文を天下に回付してともに(元帝を)勧進した。元帝は荀組を司徒にしようとし、太常の賀循に意見を求めた。駕循は、「荀組は旧来からの名望家で清らな重鎮です、忠勤ぶりは顕著であり、移って五品を教導し、まことに衆望に適います」と言った。そこで荀組を拝して司徒とした。
荀組は石勒に逼られ、自力では存立できなかった。太興の初め、許昌からその配下の数百人を率いて長江を渡り、千人の兵と百騎を給わり、荀組のこれまでの配下がこれを統括した。しばらくして、荀組に詔して太保・西陽王羕(司馬羕)とともに録尚書事し、おのおの剣を持った従者六十人を加えた。永昌の初め、太尉に遷り、太子太保を領した。拝命する前に、薨去し、六十五歳だった。諡して元とした。子の荀奕が嗣いだ。

原文

奕字玄欣。少拜太子舍人・駙馬都尉、侍講東宮。出為鎮東參軍、行揚武將軍・新汲令。愍帝為皇太子、召為中舍人、尋拜散騎侍郎、皆不就。隨父渡江。元帝踐阼、拜中庶子、遷給事黃門郎。父憂去職、服闋、補散騎常侍・侍中。
時將繕宮城、尚書符下陳留王、使出城夫。奕駁曰、「昔虞賓在位、書稱其美。詩詠有客、載在雅頌。今陳留王位在三公之上、坐在太子之右、故答表曰書、賜物曰與。此古今之所崇、體國之高義也。謂宜除夫・役」。時尚書張闓・僕射孔愉難奕、以為、「昔宋不城周、陽秋所譏。特蠲非體、宜應減夫」。奕重駁、以為、「陽秋之末、文武之道將墜于地、新有子朝之亂、于時諸侯逋替、莫肯率職。宋之于周、實有列國之權。且同已勤王而主之者晉、客而辭役、責之可也。今之陳留、無列國之勢、此之作否、何益有無。臣以為宜除、於國職為全」。詔從之。
時又通議元會日、帝應敬司徒王導不。博士郭熙・杜援等以為禮無拜臣之文、謂宜除敬。侍中馮懷議曰、「天子修禮、莫盛於辟雍。當爾之日、猶拜三老、況今先帝師傅。謂宜盡敬」。事下門下、奕議曰、「三朝之首、宜明君臣之體、則不應敬。若他日小會、自可盡禮。又至尊與公書手詔則曰『頓首言』、中書為詔則云『敬問』、散騎優冊則曰『制命』。今詔文尚異、況大會之與小會、理豈得同」。詔從之。咸和七年卒、追贈太僕、諡曰定。

訓読

奕 字は玄欣なり。少くして太子舍人・駙馬都尉を拜し、東宮に侍講す。出でて鎮東參軍、行揚武將軍・新汲令と為る。愍帝 皇太子と為るや、召して中舍人と為し、尋いで散騎侍郎を拜すも、皆 就かず。父に隨ひて江を渡る。元帝 踐阼するや、中庶子を拜し、給事黃門郎に遷る。父の憂もて職を去り、服闋するや、散騎常侍・侍中に補せらる。
時に將に宮城を繕はんとし、尚書 符もて陳留王に下し、城夫を出だしむ。奕 駁して曰く、「昔 虞 賓して位に在り、書は其の美を稱ふ。詩は有客を詠し、載して雅頌に在り〔一〕。今 陳留王 位は三公の上に在り、坐は太子の右に在り、故に表に答ふるを書と曰ひ、物を賜ふるを與と曰ふ。此れ古今の崇ぶ所、體國の高義なり。謂ふに宜しく夫役を除くべし」と。時に尚書の張闓・僕射の孔愉 奕を難じ、以為へらく、「昔 宋 周を城かざるは、陽秋の譏る所なり。特に蠲(のぞ)くは體非ず、宜しく應に夫を減ずべし」と。奕 重ねて駁し、以為へらく、「陽秋の末、文武の道 將に地に墜ちんとし、新たに子朝の亂有り、時に于て諸侯 逋替し、肯て率職する莫し。宋の周に于けるや、實に列國の權有り。且に同に已に勤王にして之に主たる者は晉にして、客にして役を辭せば、之を責むるは可なり。今の陳留は、列國の勢無く、此の作否は、何ぞ有無益あらん。臣 以為へらく宜しく除くべし、國職に於て全為らん」と。詔して之に從ふ。
時に又 通議ありて元會の日に、帝 應に司徒の王導を敬すべきや不やといふ。博士の郭熙・杜援ら以為へらく禮に拜臣の文無く、宜しく敬を除くべしと謂ふ。侍中の馮懷 議して曰く、「天子 禮を修むるは、辟雍より盛なるは莫し。爾の日に當たり、猶ほ三老を拜す、況んや今 先帝の師傅なり。宜しく敬を盡くすべしと謂ふ」と。事 門下に下し、奕 議して曰く、「三朝の首に、宜しく君臣の體を明らかにすべし、則しく應に敬すべからず。若し他日に小會せば、自ら禮を盡くす可し。又 至尊 公に書して手づから詔すれば則ち『頓首して言ふ』と曰ふ、中書 詔を為らば則ち『敬問す』と云ひ、散騎の優冊には則ち『制命』と曰ふ。今 詔文 尚ほ異なれり、況んや大會と小會とは、理 豈に同じかるを得ん」と。詔して之に從ふ。咸和七年に卒し、太僕を追贈し、諡して定と曰ふ。

〔一〕『毛詩』周頌 臣工之什に、有客篇がある。微子が来朝して祖廟にまみえたことを称えた詩。

現代語訳

荀奕は字を玄欣という。若くして太子舎人・駙馬都尉を拝し、東宮に侍講した。朝廷を出て鎮東参軍、行揚武将軍・新汲令となった。愍帝が皇太子となると、召して中舎人とし、ほどなく散騎侍郎を拝したが、どちらも就かなかった。父に随って長江を渡った。元帝が践阼すると、中庶子を拝し、給事黄門郎に遷った。父の死で職を去り、三年喪が明けると、散騎常侍・侍中に任命された。
このとき宮城を修繕しようとし、尚書は書簡を陳留王に下して、城夫を供出させた。荀奕は反論して、「むかし虞舜は外部から迎えられて即位し、『尚書』はその美徳を称えた。有客の詩が歌われ、『毛詩』は雅頌に採録した〔一〕。いま陳留王は官位は三公の上にあり、席次は太子の右にあり、ゆえに上表に答えることを書といい、物を賜ることを与という。これは古今に尊重されてきた、国の秩序を保つ規則である。(陳留王を特例とし)夫役を免除すべきだ」と言った。このとき尚書の張闓と尚書僕射の孔愉は荀奕に反論し、「むかし宋が周のために築城せず、『春秋』で批判された。特別に免除するという筋道はなく、(特例を認めるにせよ)人数を減らせばよい」と言った。荀奕は重ねて反駁し、「『春秋』時代の末期、文武の道が地に落ちかかり、子朝(商の墨胎初)の乱が起こり、このとき諸侯は逃走し、あえて職責を果たすものがなかった。宋は周王朝において、列国の権勢があった。ともに周王を推戴して主であったのは晋であり、(宋は)客でありながら役務を断ったのだから、これを咎めるのは当然である。(ところが)いま陳留王は、列国の権勢がなく、この役務を果たすか否かを、どうして同列に論じられようか。免除すべきであり、それで国家における役割は十分だと考える」と言った。詔してこれに従った。
このころ元日の会合で、皇帝が司徒の王導に敬拝すべきか否かが議題となった。博士の郭熙と杜援らは『礼』に臣下に拝する規定がないから、敬拝を除くべきですと言った。侍中の馮懐は、「天子が礼を修めるとき、辟雍より重要なものはない。その日ですら、天子が三老に敬拝する、ましてや王導は先帝(元帝)の師傅である。敬意を尽くすべきだ」と言った。事案が門下に諮られ、荀奕は、「一年の初めは、君臣の序列を明らかにすべきです、敬拝してはいけません。別の日に会合があれば、敬意を尽くせばよいのです。至尊(天子)が公(王導)に直筆の詔を与えるときは『頓首して言ふ』といい、中書(尚書)が詔を作れば『敬問す』といい、散騎のさまざまな冊書に『制命す』といいます。いま詔の文ですら統一がなく、まして(元日の)大きな会合と(他日の)小さな会合とで、統一がなくとも筋が通ります」と言った。詔してこれに従った。咸和七(三三二)年に亡くなり、太僕を追贈し、諡して定とした。

馮紞

原文

馮紞字少冑、安平人也。祖浮、魏司隸校尉。父員、汲郡太守。紞少博涉經史、識悟機辯。歷仕為魏郡太守、轉步兵校尉、徙越騎。得幸於武帝、稍遷左衞將軍。承顏悅色、寵愛日隆、賈充・荀勖並與之親善。充女之為皇太子妃也、紞有力焉。及妃之將廢、紞・勖乾沒救請、故得不廢。伐吳之役、紞領汝南太守、以郡兵隨王濬入秣陵。遷御史中丞、轉侍中。
帝病篤得愈、紞與勖見朝野之望、屬在齊王攸。攸素薄勖。勖以太子愚劣、恐攸得立、有害於己、乃使紞言於帝曰、「陛下前者疾若不差、太子其廢矣。齊王為百姓所歸、公卿所仰、雖欲高讓、其得免乎。宜遣還藩、以安社稷」。帝納之。及攸薨、朝野悲恨。初、帝友于之情甚篤、既納紞・勖邪說、遂為身後之慮、以固儲位。既聞攸殞、哀慟特深。紞侍立、因言曰、「齊王名過於實、今得自終。此乃大晉之福。陛下何乃過哀」。帝收淚而止。
初謀伐吳、紞與賈充・荀勖同共苦諫不可。吳平、紞內懷慚懼、疾張華如讎。及華外鎮、威德大著、朝論當徵為尚書令。紞從容侍帝、論晉魏故事、因諷帝、言華不可授以重任。帝默然而止。事具華傳。太康七年、紞疾、詔以紞為散騎常侍、賜錢二十萬・牀帳一具。尋卒。二子、播・熊。播、大長秋。熊字文羆、中書郎。紞兄恢、自有傳。

訓読

馮紞 字は少冑、安平の人なり。祖の浮、魏の司隸校尉なり。父の員、汲郡太守なり。紞 少くして經史を博涉し、機辯を識悟す。歷仕して魏郡太守と為り、步兵校尉に轉じ、越騎に徙る。幸を武帝に得て、稍く左衞將軍に遷る。承顏し色を悅ばせ、寵愛 日に隆く、賈充・荀勖 並びに之と與に親善す。充の女の皇太子妃と為るは、紞 力有り。妃の將に廢せられんとするに及び、紞・勖 乾沒し救請すれば、故に廢せざるを得たり。伐吳の役に、紞 汝南太守を領し、郡兵を以て王濬に隨ひて秣陵に入る。御史中丞に遷り、侍中に轉ず。
帝の病 篤けれど愈ゆるを得るとき、紞 勖と與に朝野の望を見るに、屬は齊王攸に在り。攸 素より勖を薄とす。勖 太子の愚劣を以て、攸の立つるを得て、己に害有るを恐れ、乃ち紞をして帝に言はしめて曰く、「陛下 前者に疾若 差ゆるに、太子 其れ廢せられんとす。齊王 百姓の歸する所、公卿の仰ぐ所と為り、高讓せんと欲すと雖も、其れ免るるを得んや。宜しく遣はして藩に還らしめば、以て社稷を安んぜん」と。帝 之を納る。攸 薨ずるに及び、朝野 悲恨す。初め、帝 友于の情 甚だ篤けれども、既に紞・勖の邪說を納るるは、遂に身後の為に慮り、以て儲位を固むればなり。既に攸の殞を聞き、哀慟 特に深し。紞 侍立し、因りて言ひて曰く、「齊王 名は實に過ぎ、今 自ら終はるを得。此れ乃ち大晉の福なり。陛下 何ぞ乃ち哀を過ごすか」と。帝 淚を收めて止む。
初め伐吳を謀るに、紞 賈充・荀勖と與に同に共に苦諫して不可とす。吳 平らぐや、紞 內に慚懼を懷き、張華を疾むこと讎の如し。華 外鎮となるに及び、威德 大いに著はれ、朝論 當に徵して尚書令と為すべきとす。紞 從容として帝に侍るに、晉魏の故事を論じ、因りて帝に諷し、華 授くるに重任を以てす可からずと言ふ。帝 默然として止む。事は華傳に具はる。太康七年、紞 疾あるや、詔して紞を以て散騎常侍と為し、錢二十萬・牀帳一具を賜る。尋いで卒す。二子あり、播・熊なり。播は、大長秋なり。熊 字は文羆、中書郎なり。紞の兄の恢、自ら傳有り〔一〕。

〔一〕現行の正史『晋書』に馮恢伝はない。

現代語訳

馮紞は字を少冑といい、安平郡の人である。祖父の馮浮は、魏の司隸校尉である。父の馮員は、汲郡太守である。馮紞は若くして経史を広く読み、機知に富んだ弁術に精通していた。歴任して魏郡太守となり、歩兵校尉に転じ、越騎(校尉)に移った。武帝から気に入られ、やがて左衛将軍に遷った。顔色を窺って機嫌を取ったので、寵愛は日に高まり、賈充や荀勖と親しく付き合った。賈充の娘が皇太子妃となったのは、馮紞のおかげである。賈妃が廃位されそうになると、馮紞と荀勖は一か八か無理を押し通し、廃位されずに済んだ。伐呉の軍役のとき、馮紞は汝南太守を領し、郡兵をひきいて王濬に従って秣陵に入った。御史中丞に遷り、侍中に転じた。
武帝の病が悪化したが快癒したとき、馮紞は荀勖とともに朝野の輿望を観察すると、支持は斉王攸(司馬攸)に集まっていた。司馬攸は以前から荀勖を疎んじていた。荀勖は太子(司馬衷)が愚劣であり、司馬攸が(二代皇帝に)立って、自分に危害が及ぶことを恐れ、馮紞から武帝に、「陛下が前に病気が癒えたとき、太子は廃位されかけました。斉王(司馬攸)は万民から尊敬され、公卿から仰ぎ見られ、辞退しようとしても、押し切られるかも知れません。ですから帰藩をさせれば、社稷が安定するでしょう」と言った。武帝はこれを認めた。司馬攸が薨去すると、朝野は悲しみ恨んだ。これよりさき、武帝は友于の情(兄弟のあいだの敬愛)がとても篤かったが、馮紞と荀勖のよこしまな意見を聞き入れたのは、自分の後の世代を心配し、太子の位を固めるためであった。司馬攸の薨去を聞いて、哀しみ慟哭するさまは深刻であった。馮紞が傍らに立ち、「斉王は名声が実態を過ぎており、いま寿命を終えられました。これは大晋帝国にとって福です。陛下はどうしてそんなに哀しむのですか」と言った。武帝は涙を収めて落ち着いた。
さきに伐呉を計画したとき、馮紞は賈充や荀勖とともに苦言し諫めて反対した。呉が平定されると、馮紞の気持ちは恥じて懼れ、張華を仇敵のように憎んだ。張華が(幽州で)外鎮となると、威徳が大いに表れ、朝論では徴召して尚書令にすべきと言われた。馮紞は何気なく武帝の側にいたとき、魏晋交替期の故事を論じ、武帝に(鍾会の反乱を)吹き込み、張華に重い任務を授けてはいけませんと言った。武帝は黙然として中止した。このことは張華伝に詳しい。太康七年、馮紞が病気となると、詔して馮紞を散騎常侍とし、銭二十万と寝台の帳の一式を賜わった。ほどなく卒した。二子がおり、馮播と馮熊である。馮播は、大長秋である。馮熊は字を文羆といい、中書郎である。馮紞の兄の馮恢は、かれの専伝がある(実際は専伝はない)。

原文

史臣曰、夫立身之道、曰仁與義。動靜既形、悔吝斯及。有莘之媵、殊北門之情。渭濱之叟、匪西山之節。湯・武有以濟其功、夏・殷不能譏其志。王沈才經文武、早尸人爵、在魏參席上之珍、居晉為幄中之士、桐宮之謀遽泄、武闈之禍遂臻。是知田光之口、豈燕丹之可絕。豫讓之形、非智氏之能變。動靜之際、有據蒺藜、仁義之方、求之彌遠矣。
彭祖謁由捧雉、孕本貿絲、因家乏主、遂登顯秩。擁北州之士馬、偶東京之糜沸、自可感召諸侯、宣力王室。而乘間伺隙、潛圖不軌、放肆獯虜、遷播乘輿。遂使漳滏蕭然、黎元塗地。縱貪夫於藏戶、戮高士於燕垂、阻越石之內難、邀世龍之外府。惡稔毒痡、坐致焚燎、假手仇敵、方申凶獷、慶封之戮、慢罵何補哉。
公曾、慈明之孫。景倩、文若之子。踐隆堂而高視、齊逸軌而長騖。孝敬足以承親、周慎足以事主、刊姬公之舊典、採蕭相之遺法。然而援朱均以貳極、煽褒閻而偶震。雖廢興有在、隆替靡常、稽之人事、乃二荀之力也。至於斗粟興謠、踰里成詠、勖之階禍、又已甚焉。 馮紞外騁戚施、內窮狙詐、斃攸安賈、交勖讎張、心滔楚費、過踰晉伍。爰絲獻壽、空取慰於仁心、紞之陳說、幸收哀於迷慮、投畀之罰無聞、青蠅之詩不作矣。
贊曰、處道文林、胡貳爾心。彭祖凶孼、自貽伊慼。臨淮翼翼、孝形于色。安陽英英、匪懈其職。傾齊附魯、是為蝥賊。紞之不臧、交亂罔極。

訓読

史臣曰く、夫れ立身の道は、仁と義と曰ふ。動靜 既に形はれ、悔吝 斯れ及ぶ。有莘の媵、北門の情と殊なり〔一〕。渭濱の叟、西山の節に匪ず〔二〕。湯・武 以て其の功を濟ふ有りて、夏・殷 其の志を譏る能はず。王沈 才は文武を經(をさ)め、早くに人爵に尸(つら)なり、魏に在り席上の珍に參し、晉に居りて幄中の士と為り、桐宮の謀 遽(には)かに泄れ〔三〕、武闈の禍 遂に臻る〔四〕。是れ田光が口を知り、豈に燕丹が絕つ可きか。豫讓の形、智氏の能く變ずるに非ず〔五〕。動靜の際、蒺藜に據る有りて、仁義の方、之を求むれど彌々遠し。
彭祖 謁して雉を捧ぐに由り、孕めて絲を貿ふを本とし、家 主に乏しきに因り、遂に顯秩に登る。北州の士馬を擁し、東京の糜沸に偶ひ、自ら感じて諸侯を召し、宣しく王室に力む可し。而れども間に乘じ隙を伺ひ、潛かに不軌を圖り、獯虜を放肆し、乘輿を遷播す。遂に漳滏をして蕭然とし、黎元をして地に塗えしむ。貪夫を藏戶に縱にし、高士を燕垂に戮し、越石の內難を阻み、世龍の外府を邀(むか)ふ。惡稔 毒痡し、坐して焚燎を致し、手を仇敵に假り、方に凶獷を申し、慶封が戮、慢罵たること何ぞ補ふあらんや。
公曾は、慈明の孫なり。景倩は、文若の子なり。隆堂を踐みて高視し、逸軌を齊しくして長騖す。孝敬 以て親を承くるに足り、周慎 以て主に事ふるに足り、姬公の舊典を刊り、蕭相の遺法を採る。然して朱均を援くれば以て極に貳あり、褒閻を煽ぎて震に偶す。廢興 在る有り、隆替 常靡しと雖も、之を人事に稽ふるに、乃ち二荀の力なり。斗粟に謠を興し、踰里 詠を成すに至り、勖の禍を階(みちび)くこと、又 已に甚だし。 馮紞 外に戚施を騁(きは)め、內に狙詐を窮め、攸を斃し賈を安んじ、勖に交はり張に讎し、心は楚費に滔(はびこ)り、晉伍に過踰す。爰絲 壽を獻じ、空しく慰を仁心に取り、紞の陳ぶる說に、幸に哀を迷慮に收め、畀を投ずるの罰 聞く無く、青蠅の詩 作らず。
贊に曰く、處道 文林にして、胡ぞ爾の心を貳にせん。彭祖 凶孼にして、自ら伊の慼(うれ)ひを貽(のこ)す。臨淮 翼翼たりて、孝は色に形はる。安陽は英英たりて、其の職を懈る匪ず。齊を傾け魯に附すは、是れ蝥賊為り。紞の臧(よ)からず、交亂 極まり罔し。

〔一〕有莘氏の娘が殷の湯王に嫁ぐとき、媵臣として供をした伊尹のこと。北門は、『毛詩』邶風の篇名で、忠臣が志を得ないこと。
〔二〕渭濱の叟は、渭水のほとりで釣りをしていた太公望のこと。西山は、ここでは首陽山。臣従を拒んだ伯夷・叔斉が籠もった地。
〔三〕桐宮は、伊尹が殷の暗君である太甲を退位させ、住まわせた宮室。
〔四〕武闈は、宮中の小門。
〔五〕燕の田光、燕の太子丹、豫譲、(豫譲を取り立てた)智氏を踏まえているが、典拠と史臣の言との関わりは未詳。

現代語訳

史臣はいう、そもそも立身の道は、仁と義であると。事変が起こると、後悔や失敗が生じる。有莘氏の媵臣(伊尹)は、不遇な忠臣とは異なる。渭水のほとりの老人(太公望)は、首陽山の(伯夷と叔斉)の節義と同じではない。殷の湯王や周の武王は功績を立てたが、(討伐された側の)夏や殷はその志を批判することはできない。王沈の才識は文武を修め、早くに人臣の爵位の列に並び、魏では格別の席次を与えられ、晋では帷幄の士となり、桐宮の謀計(高貴郷公の決起)がにわかに漏れ、宮門内で災禍が起きた。これは(燕の)田光の口を知り、どうして燕(の太子)丹の絶つものだろうか。(刺客の)豫讓の行動は、(豫譲を取り立てた)智氏でも変更できない。事変のとき、頼りになるのは蒺藜(武器)であり、仁義の正しさは、これを求めてもますます遠い。
彭祖(王浚)は(胡族に)謁見して雉を捧げ、糸を交易することを元手とし、国家に君主が不在なので、高い地位に昇った。北方地域で兵士と馬を擁し、東京(洛陽)の崩壊に遭遇し、自ら呼応して諸侯を召し、王室のために努めるべきであった。しかし混乱に乗じて隙を窺い、ひそかに不軌を計画し、狡猾な胡族を解き放ち、天子を流亡させた。遂に漳水や滏水の流域(冀州)を戦乱で騒がせ、万民を泥まみれにした。強欲な兵を倉庫に放って略奪させ、高潔な人士を燕の辺境で殺戮し、越石(劉琨)による内地での兵乱を阻み、世龍(石勒)の地方政府を歓迎した。害毒を垂れ流し、居ながらに燎原を焼き、仇敵の手を借りて、凶悪な行為を広げ、(春秋斉の)慶封の殺戮ですら、これほど傲慢で勝手であったであろうか。
公曾(荀勖)は、慈明(荀爽)の曾孫である。景倩(荀顗)は、文若(荀彧)の子である。宮廷に登って非凡で、すぐれた経歴を共有して遠くまで馳せた。孝敬さは親を養うのに十分で、異民族を従えるに足り、姫公(周公旦)の旧典を削り、丞相の蕭何の古い手法を採用した。そこで丹朱(尭の不肖の子)と商均(舜の不肖の子)を輔佐すれば君主が二分され、褒閻(褒姒)を支持すれば権勢が盛んになる。興廃があって、隆盛と衰退は目まぐるしいが、これを人為で考えるに、二荀の力である。わずかな粟で謠が起こり、距離をおいて詠を作るに至り(未詳)、荀勖がもたらす禍いは、すでに甚だしかった。 馮紞は外に醜悪さを極め、内に詐術を究め、司馬攸を倒して賈充を安んじ、荀勖と交際して張華と敵対し、心は楚と費にはびこり、晉と伍を超えていた(未詳)。爰絲(袁盎)は祝いを献じ、むなしく仁心を慰め(未詳)、馮紞の意見は、幸い哀しみを迷う考えに収め、賜わった品を投じる罰を聞かず(未詳)、(周の幽王を批判する)青蠅の詩を作らなかった。
賛にいう、処道(王沈)は文学の集まりに参加した、どうして(高貴郷公への)二心があろうか。彭祖(王浚)は謀叛の計画に参加し、自ら伊尹(のような君主の廃立)の禍根を残した。臨淮侯(荀顗)は(老母を)敬い慎み、孝が顔色に表れた。安陽侯(荀勖)は和らぎ盛んで、その職務を怠らなかった。斉を傾け魯に味方するのは、蝥賊(良民を侵害する賊)である。馮紞は不当な介入をして、混乱が極まった。