いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第十巻_賈充(孫謐・充弟混・族子模・郭彰)・楊駿(弟珧・済)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。西晋がどのように成立し、どのように躓いたかが凝縮されている巻です。書かれている事柄が多岐にわたります。不適切な訳が判明次第、修正していく予定です。

賈充

原文

賈充字公閭、平陽襄陵人也。父逵、魏豫州刺史・陽里亭侯。逵晚始生充、言後當有充閭之慶、故以為名字焉。充少孤、居喪以孝聞。襲父爵為侯。拜尚書郎、典定科令、兼度支考課。辯章節度、事皆施用。累遷黃門侍郎・汲郡典農中郎將。參大將軍軍事、從景帝討毋丘儉・文欽於樂嘉。帝疾篤、還許昌、留充監諸軍事、以勞增邑三百五十戶。
後為文帝大將軍司馬、轉右長史。帝新執朝權、恐方鎮有異議、使充詣諸葛誕、圖欲伐吳、陰察其變。充既論說時事、因謂誕曰、天下皆願禪代、君以為如何。誕厲聲曰、卿非賈豫州子乎、世受魏恩、豈可欲以社稷輸人乎。若洛中有難、吾當死之。充默然。及還、白帝曰、誕再在揚州、威名夙著、能得人死力。觀其規略、為反必也。今徵之、反速而事小。不徵、事遲而禍大。帝乃徵誕為司空、而誕果叛。復從征誕、充進計曰、楚兵輕而銳、若深溝高壘以逼賊城、可不戰而克也。」帝從之。城陷、帝登壘以勞充。帝先歸洛陽、使充統後事。進爵宣陽鄉侯、增邑千戶。遷廷尉、充雅長法理、有平反之稱。
轉中護軍、高貴鄉公之攻相府也、充率眾距戰於南闕。軍將敗、騎督成倅弟太子舍人濟謂充曰、今日之事如何。充曰、1.公等養汝、正擬今日、復何疑。濟於是抽戈犯蹕。及常道鄉公即位、進封安陽鄉侯、增邑千二百戶、統城外諸軍、加散騎常侍。鍾會謀反於蜀、帝假充節、以本官都督關中・隴右諸軍事、西據漢中、未至而會死。時軍國多事、朝廷機密、皆與籌之。帝甚信重充、與裴秀・王沈・羊祜・荀勖同受腹心之任。帝又命充定法律。假金章、賜甲第一區。五等初建、封臨沂侯、為晉元勳、深見寵異、祿賜常優於羣官。
充有刀筆才、能觀察上旨。初、文帝以景帝恢贊王業、方傳位於舞陽侯攸。充稱武帝寬仁、且又居長、有人君之德、宜奉社稷。及文帝寢疾、武帝請問後事。文帝曰、知汝者賈公閭也。帝襲王位、拜充晉國衞將軍・儀同三司・給事中、改封臨潁侯。及受禪、充以建明大命、轉車騎將軍・散騎常侍・尚書僕射、更封魯郡公、母柳氏為魯國太夫人。

1.中華書局本によると、「公等養汝」は、「公養汝等」にしないと文意が通らない。『三国志』高貴郷公紀 注引『漢晋春秋』は「公養汝等」に作る。

訓読

賈充 字は公閭、平陽襄陵の人なり。父逵、魏の豫州刺史・陽里亭侯なり。逵 晚に始めて充を生み、後に當に充閭の慶有るべし〔一〕と言ひ、故に以て名字と為す。充 少くして孤、喪に居りて孝を以て聞こゆ。父の爵を襲ひて侯と為る。尚書郎を拜し、科令を定むるを典り、兼ねて考課を度支す。節度を辯章し、事 皆 施用す。累りに黃門侍郎・汲郡典農中郎將に遷る。大將軍の軍事に參じ、景帝に從ひて毋丘儉・文欽を樂嘉に討つ。帝 疾 篤く、許昌に還り、充を留めて諸軍事を監せしめ、勞を以て邑三百五十戶を增す。
後に文帝の大將軍司馬と為り、右長史に轉ず。帝 新たに朝權を執り、方鎮 異議有るを恐れ、充をして諸葛誕に詣らしめ、伐吳せんと欲すと圖り、陰かに其の變を察す。充 既に時事を論說し、因りて誕に謂ひて曰く、「天下 皆 禪代を願ひ、君 以て如何と為す」と。誕 聲を厲まして曰く、「卿 賈豫州の子に非ずや、世々魏の恩を受け、豈に社稷を以て人に輸(いた)さんと欲する可きか。若し洛中に難有れば、吾 當に之に死すべし」と。充 默然とす。還るに及び、帝に白して曰く、「誕 再び揚州に在り、威名 夙に著はれ、能く人の死力を得。其の規略を觀るに、反を為すは必なり。今 之を徵し、反 速やかにして事 小さし。徵さざれば、事 遲くして禍 大なり」と。帝 乃ち誕を徵して司空と為し、而して誕 果たして叛す。復た誕を征するに從ひ、充 計を進めて曰く、「楚兵 輕にして銳、若し溝を深くし壘を高くして以て賊の城に逼れば、戰はずして克つ可し」と。帝 之に從ふ。城 陷ち、帝 壘に登りて以て充を勞ふ。帝 先に洛陽に歸り、充をして後事を統(をさ)めしむ。爵を宣陽鄉侯に進め、邑千戶を增す。廷尉に遷り、充 雅より法理に長じ、平反の稱有り〔二〕。
中護軍に轉じ、高貴鄉公の相府を攻むるや、充 眾を率ひて距みて南闕に戰ふ。軍 將に敗れんとするや、騎督成倅の弟たる太子舍人濟 充に謂ひて曰く、「今日の事 如何せん」と。充曰く、「公等 汝を養ふは、正に今日を擬(はか)る、復た何をか疑はん」と。濟 是に於いて戈を抽きて蹕を犯す。常道鄉公 即位するに及び、進みて安陽鄉侯に封じ、邑千二百戶を增し、城外の諸軍を統め、散騎常侍を加ふ。鍾會 蜀に謀反するや、帝 充に節を假し、本官を以て關中・隴右諸軍事を都督せしめ、西のかた漢中に據り、未だ至らずして會 死す。時に軍國 多事なり、朝廷の機密、皆 與に之を籌す。帝 甚だ充を信重し、裴秀・王沈・羊祜・荀勖と同に腹心の任を受く。帝 又 充に法律を定むるを命ず。金章を假し、甲第一區を賜ふ。五等 初めて建て、臨沂侯に封じ、晉の元勳為れば、深く寵異せられ、祿賜 常に羣官より優る。
充 刀筆の才有り、能く上旨を觀察す。初め、文帝 景帝の王業を恢(おほ)いに贊(たす)くるを以て、方に位を舞陽侯攸に傳へんとす。充 武帝の寬仁を稱へ、且つ又 長に居り、人君の德有れば、宜しく社稷を奉ずべしとす。文帝 寢疾するに及び、武帝 請ひて後事を問ふ。文帝曰く、「汝を知る者は賈公閭なり」と。帝 王位を襲ふや、充に晉國衞將軍・儀同三司・給事中を拜し、改めて臨潁侯に封ず。受禪に及び、充 大命を建明するを以て、車騎將軍・散騎常侍・尚書僕射に轉じ、更めて魯郡公に封じ、母柳氏もて魯國太夫人と為す。

〔一〕充閭は、広大な(拡充の「充」)な門庭(門「閭」)の意味で、大きな屋敷を構えて繁栄しているさま。
〔二〕平反は、誤った判決を洗い直して訂正すること。冤罪を防ぐこと。『漢書』巻三十六 楚元王列伝に「每行京兆尹事、多所平反罪人」とある。賈充の娘は、愍懐太子に冤罪を着せた。

現代語訳

賈充は字を公閭といい、平陽襄陵の人である。父の賈逵は、魏王朝の豫州刺史・陽里亭侯である。賈逵は晩年になって初めて男子が生まれ、後に充閭の(広大な門庭を持つ)繁栄を願って、ゆえに名と字(あざな)を決めた。賈充は早くに父を失い、喪にあって孝が評判になった。父の爵位を嗣いで侯となった。尚書郎を拝し、法令の制定を担当し、あわせて人事考課も管理した。節度について論証し、提案はみな施行された。しきりに黄門侍郎・汲郡典農中郎将に遷った。大将軍の軍事に参画し、景帝(司馬師)に従って毋丘倹・文欽を楽嘉で討伐した。景帝の病気が重く、許昌に還ると、賈充を留めて諸軍事を監察させ、功労により邑三百五十戸を増やされた。
後に文帝(司馬昭)の大将軍司馬となり、右長史に転じた。文帝が新たに朝廷で権力を握ると、方鎮に不支持者がいることを恐れ、賈充に諸葛誕を訪問させ、伐呉の計画を話し合いつつ、異変がないかこっそり観察させた。賈充は時論を語り終わり、諸葛誕に、「天下はみな禅代を願っているが、君はどう思うか」と言った。諸葛誕は声を荒げて、「きみは賈豫州の子ではないのか、代々魏王朝の恩を受けたにも拘わらず、なぜ社稷を他家に献上してよいと思うのか。もし洛陽で政難があれば、私は魏王朝のために死ぬ覚悟だ」と言った。賈充は黙りこくった。帰還して、文帝に、「諸葛誕は再び揚州に着任し、威名は早くから表れ、人々から死力を引き出しています。彼の規略を観察するに、反対するのは必定です。いま彼を中央に徴せば、すぐ反乱に踏み切るため小さく終わらせることができます。徴さなければ、決起が遅れて禍いが大きくなります」と報告した。文帝はすぐに諸葛誕を徴して司空とし、果たして諸葛誕は叛乱を起こした。賈充は諸葛誕の征伐にも従軍し、計略を進言して、「楚兵は軽鋭です、もし溝を深くし塁を高くして賊の城に逼れば、戦わずに勝てます」と言った。文帝は従った。城が陥落すると、文帝は土塁に登って賈充を慰労した。文帝は先に洛陽に帰り、賈充を残して後処理を統括させた。爵を宣陽郷侯に進め、邑千戸を増した。廷尉に遷り、賈充はかねて法理を得意としていたので、平反(冤罪の回避)を称賛された。
中護軍に転じ、高貴郷公が相府を攻めると、賈充は軍勢を率いて防ぎ止めて南闕で戦った。軍が今にも敗走しそうになると、騎督の成倅の弟である太子舍人の成済が賈充に、「今日の事態をどうしたら」と言った。賈充は、「公らがお前を養うのは、まさに今日を想定してのこと、何を戸惑うのだ」と言った。成済は戈を引いて天子を犯した。常道郷公(曹奐)が即位するに及び、進んで安陽郷侯に封建され、邑千二百戸を増やし、城外の諸軍を統括し、散騎常侍を加えた。鍾会が蜀で謀反すると、文帝は賈充に節を仮し、もとの官職のまま関中・隴右諸軍事を都督し、西のかた漢中に拠らせたが、到着する前に鍾会が死んだ。このとき軍事と国政は多難であったが、朝廷の機密は、全て賈充が関与した。文帝は賈充をとても信頼して重用し、裴秀・王沈・羊祜・荀勖とともに腹心の任を受けた。文帝はさらに賈充に法律制定を命じた。金章を仮し、甲第一区を賜った。五等爵を初めて建てると、臨沂侯に封じ、晋王朝の元勲であるから、深く寵用して特別扱いされ、俸禄と賞賜はつねに群官よりも優れた。
賈充は刀筆(書記官、訴訟の事務官)の才能があり、上司の考えを観察するのが得意だった。これより先、文帝は景帝が王業を大いに守り立てたから、位を舞陽侯攸(司馬攸)に継承させようとした。賈充は(文帝の真意を推察して)武帝の寛仁ぶりを称賛し、しかも(司馬攸より)年長であり、人君としての徳を備えているから、武帝に社稷を祭らせなさいと言った。文帝が病気になると、武帝が後のことを質問した。文帝は、「汝を知る者は賈公閭である」と言った。武帝が晋王を継承すると、賈充に晋国の衛将軍・儀同三司・給事中を拝し、改めて臨潁侯に封じた。受禅に及び、賈充は大いなる天命を立てて明らかにしたとして、車騎将軍・散騎常侍・尚書僕射に転じ、改めて魯郡公に封じ、母の柳氏を魯国太夫人とした。

原文

充所定新律既班于天下、百姓便之。詔曰、漢氏以來、法令嚴峻。故自元成之世、及建安・嘉平之間、咸欲辯章舊典、刪革刑書。述作體大、歷年無成。先帝愍元元之命陷於密網、親發德音、釐正名實。車騎將軍賈充、奬明聖意、諮詢善道。太傅鄭沖、又與司空荀顗・中書監荀勖・中軍將軍羊祜・中護軍王業、及廷尉杜友・守河南尹杜預・散騎侍郎裴楷・潁川太守周雄・齊相郭頎・騎都尉成公綏・1.荀煇・尚書郎柳軌等、典正其事。朕每鑒其用心、常慨然嘉之。今法律既成、始班天下、刑寬禁簡、足以克當先旨。昔蕭何以定律受封、叔孫通以制儀為奉常、賜金五百斤、弟子皆為郎。夫立功立事、古之所重。自太傅・車騎以下、皆加祿賞、其詳依故典。於是賜充子弟一人關內侯、絹五百匹。固讓、不許。
後代裴秀為尚書令、常侍・車騎將軍如故。尋改常侍為侍中、賜絹七百匹。以母憂去職、詔遣黃門侍郎慰問。又以東南有事、遣典軍將軍楊囂宣諭、使六旬還內。
充為政、務農節用、并官省職、帝善之。又以文武異容、求罷所領兵。及羊祜等出鎮、充復上表欲立勳邊境、帝並不許。從容任職、褒貶在己、頗好進士、每有所薦達、必終始經緯之、是以士多歸焉。帝舅王恂嘗毀充、而充更進恂。或有背充以要權貴者、充皆陽以素意待之。而充無公方之操、不能正身率下、專以諂媚取容。

1.『晋書』刑法志の新律を定めた十四人のなかに、荀煇は見えない。『三国志』荀彧伝に引く『荀氏家傳』は、荀煇がかつて賈充と音律を定めたとしている。

訓読

充 定むる所の新律 既に天下に班(わ)かたれ、百姓 之を便とす。詔して曰く、「漢氏以來、法令 嚴峻たり。故に元成の世自り、建安・嘉平の間に及ぶまで、咸 舊典を辯章し、刑書を刪革せんと欲す。述作 體大なれば、歷年 成る無し。先帝 元元の命 密網に陷るを愍れみ、親ら德音を發し、釐(あらた)めて名實を正す。車騎將軍賈充、聖意を奬明し、善道を諮詢す。太傅鄭沖、又 司空荀顗・中書監荀勖・中軍將軍羊祜・中護軍王業、及び廷尉杜友・守河南尹杜預・散騎侍郎裴楷・潁川太守周雄・齊相郭頎・騎都尉成公綏・荀煇・尚書郎柳軌等と與に、其の事を典正す。朕 每に其の用心に鑒み、常に慨然として之を嘉す。今 法律 既に成り、始めて天下に班(わ)かち、刑は寬にして禁は簡たり、以て克く先旨に當るに足る。昔 蕭何 律を定むるを以て封を受け、叔孫通 儀を制むるを以て奉常と為り、金五百斤を賜り、弟子 皆 郎と為る。夫れ功を立て事を立つるは、古の重ずる所。太傅・車騎自り以下、皆 祿賞を加へ、其れ詳らかに故典に依れ」と。是に於いて充の子弟一人に關內侯、絹五百匹を賜ふ。固讓すれども、許さず。
後に裴秀に代はりて尚書令と為り、常侍・車騎將軍 故の如し。尋いで常侍を改めて侍中と為し、絹七百匹を賜ふ。母の憂を以て職を去り、詔して黃門侍郎を遣はして慰問せしむ。又 東南に事有るを以て、典軍將軍楊囂を遣はして宣諭せしめ、六旬にして內に還らしむ。
充 政を為し、農を務めは用を節し、官を并せ職を省き、帝 之を善とす。又 文武に容を異にするを以て、領する所の兵を罷むるを求む。羊祜等 出鎮するに及び、充 復た上表して勳を邊境に立てんと欲し、帝 並びに許さず。從容として職に任じ、褒貶 己に在り、頗る士を進むるを好み、每に薦達する所有れば、必ず終始 之を經緯し、是を以て士 多く焉に歸す。帝の舅王恂 嘗て充を毀(そし)り、而るに充 更に恂を進む。或ひと充に背きて以て權貴を要する者有れば、充 皆 陽(あら)はに素意を以て之を待す。而るに充 公方の操無く、身を正し下を率ゐること能はず、專ら諂媚を以て容を取る。

現代語訳

賈充が定めた新律が天下に公布されると、百姓はこれを便利だと受け入れた。詔して、「漢王朝以来、法令は厳格であった。ゆえに(前漢の)元帝や成帝の時代から、建安・嘉平の間(一九六-二五四)に及ぶまで、みな旧典を検討して解き明かし、刑法を削減しようとした。ところが関連情報が膨大すぎて、何年かかっても完成しなかった。先帝は過密な網の目に百姓の命を引っかけて陥れることを憐れみ、みずから徳のある掛け声を発し、改めて名実を明らかにせよと命じられた。車騎将軍の賈充は、聖意を受けて努力し、善き政道について諮問を受けた。太傅の鄭沖、また司空の荀顗・中書監の荀勖・中軍将軍の羊祜・中護軍の王業、及び廷尉の杜友・守河南尹の杜預・散騎侍郎の裴楷・潁川太守の周雄・斉相の郭頎・騎都尉の成公綏・荀煇・尚書郎の柳軌らとともに、その事案について詳らかにした。朕はつねにその努力を思い返し、いつも感銘を受けている。いま法律が完成し、初めて天下に公布されたが、刑罰は寛大となり禁令は簡素となり、先帝の意図に答えることができた。むかし蕭何は法律を定めたことで封建され、叔孫通は儀礼を決めたことで奉常となり、金五百斤を賜り、弟や子は皆が郎となった。そもそも功績を立てた者に地位を与えるというのは、昔から重んじられたことである。太傅・車騎より以下、みなに禄賞を加え、(支給内容は)詳らかに旧典に依るように」と言った。ここにおいて賈充の子弟一人に関内侯、絹五百匹を賜わった。固辞したが、許されなかった。
のちに裴秀に代わって尚書令となり、常侍・車騎将軍は従来どおりとした。ほどなく常侍を改めて侍中とし、絹七百匹を賜わった。母の喪に服するために職を去ると、詔して黄門侍郎を遣わして慰問をした。また東南で(呉との)戦争があると、典軍将軍の楊囂を派遣して命令を宣布させ、六十日で内地に帰還させた。
賈充の政治は、勧農をして支出を抑え、官職を統廃合したので、武帝に感心された。また文官と武官とでは役割が異なるから、領する兵の廃止を求めた。羊祜らが出鎮すると、賈充はまた上表して辺境で功績を立てたいと述べたが、武帝はどちらも許さなかった。賈充は落ち着いて部下を任命し、自らの判断で褒貶し、人士を推薦することを好み、推薦した者は、必ず最後まで面倒を見たので、多くの士人が彼に帰服した。武帝の舅の王恂はかつて賈充を批判したが、それでも賈充は王恂を推薦し続けた。あるひとが賈充に背いて権貴な人のもとに走っても、つねに平常心を前面に出して付き合った。ただし公正で方直な節操はなく、身を正して部下を率いることができず、専ら媚び諂うものを可愛がった。

原文

侍中任愷・中書令庾純等剛直守正、咸共疾之。又以充女為齊王妃、懼後益盛。及氐羌反叛、時帝深以為慮、愷因進說、請充鎮關中。乃下詔曰、秦涼二境、比年屢敗、胡虜縱暴、百姓荼毒。遂使異類扇動、害及中州。雖復吳蜀之寇、未嘗至此。誠由所任不足以內撫夷夏、外鎮醜逆、輕用其眾而不能盡其力。非得腹心之重、推轂委成、大匡其弊、恐為患未已。每慮斯難、忘寢與食。侍中・守尚書令・車騎將軍賈充、雅量弘高、達見明遠、武有折衝之威、文懷經國之慮、信結人心、名震域外。使權統方任、綏靜西夏、則吾無西顧之念、而遠近獲安矣。其以充為使持節・都督秦涼二州諸軍事、侍中・車騎將軍如故、假羽葆・鼓吹、給第一駙馬。朝之賢良欲進忠規獻替者、皆幸充此舉、望隆惟新之化。
充既外出、自以為失職、深銜任愷、計無所從。將之鎮、百僚餞于夕陽亭、荀勖私焉。充以憂告、勖曰、公國之宰輔、而為一夫所制、不亦鄙乎。然是行也、辭之實難。獨有結婚太子、不頓駕而自留矣。充曰、然。孰可寄懷。對曰、勖請言之。俄而侍宴、論太子婚姻事、勖因言充女才質令淑、宜配儲宮。而楊皇后及荀顗亦並稱之。帝納其言。會京師大雪、平地二尺、軍不得發。既而皇儲當婚、遂不西行。詔充居本職。先是羊祜密啟留充、及是、帝以語充。充謝祜曰、始知君長者。
時吳將孫秀降、拜為驃騎大將軍。帝以充舊臣、欲改班、使車騎居驃騎之右。充固讓、見聽。尋遷司空、侍中・尚書令・領兵如故。

訓読

侍中任愷・中書令庾純等 剛直守正にして、咸 共に之を疾む。又 充の女を以て齊王妃と為り、後に益々盛なるを懼る。氐羌 反叛するに及び、時に帝 深く以て慮と為し、愷 因りて進みて說き、充を請ひて關中に鎮せしむ。乃ち詔を下して曰く、「秦涼二境、比年 屢々敗れ、胡虜 縱に暴れ、百姓 荼毒す。遂に異類をして扇動せしめ、害は中州に及ぶ。復た吳蜀の寇あると雖も、未だ嘗て此に至らず。誠に任ずる所 以て內に夷夏を撫し、外に醜逆を鎮するに足らず、輕く其の眾を用て能く其の力を盡さざるに由る。腹心の重を得、轂を推し成を委ね、大いに其の弊を匡ふに非ずんば、恐らくは患を為して未だ已まず。每に斯の難を慮り、寢と食とを忘る。侍中・守尚書令・車騎將軍賈充、雅量弘高、達見明遠、武は折衝の威有り、文は經國の慮を懷き、信は人心を結び、名は域外を震ふ。權を方任に統め、西夏を綏靜せしめなば、則ち吾 西顧の念無く、而して遠近 安を獲ん。其れ充を以て使持節・都督秦涼二州諸軍事と為し、侍中・車騎將軍 故の如し、羽葆・鼓吹を假し、第一駙馬を給へ」と。朝の賢良 忠規獻替を進めんと欲する者、皆 充の此の舉を幸とし、惟新の化を隆にせんことを望む。
充 既に外に出づれば、自ら職を失ふと為すを以て、深く任愷を銜み、計 從ふ所無し。將に鎮に之かんとし、百僚 夕陽亭に餞け、荀勖 焉を私にす。充 憂を以て告げ、勖曰く、「公は國の宰輔、而るに一夫の制する所と為る、亦た鄙ならずや。然るに是れ行はるるや、之を辭すること實に難し。獨り太子に結婚する有れば、駕を頓めずして自ら留まらん」と。充曰く、「然り。孰れか懷を寄す可き」と。對へて曰く、「勖 請ふ之を言はん」と。俄かにして宴に侍りて、太子の婚姻の事を論じ、勖 因りて充の女 才質令淑たれば、宜しく儲宮に配すべしと言ふ。而も楊皇后及び荀顗 亦 並びに之を稱ふ。帝 其の言を納る。會 京師 大いに雪ふり、平地に二尺、軍 發するを得ず。既にして皇儲 婚に當り、遂に西行せず。詔して充をして本職に居らしむ。是より先 羊祜 密かに充を留めよと啟き、是に及び、帝 以て充に語る。充 祜に謝して曰く、「始めて君の長者たるを知る」と。
時に吳將孫秀 降り、拜して驃騎大將軍と為る。帝 充の舊臣たるを以て、班を改めんと欲し、車騎をして驃騎の右に居らしむ。充 固讓し、聽さる。尋いで司空に遷り、侍中・尚書令・領兵は故の如し。

現代語訳

侍中の任愷・中書令の庾純らは剛直で公正さを重んじるから、みな賈充を嫌った。さらに賈充の娘が斉王(司馬攸)の妃となったので、後年にますます盛んになるのを警戒した。氐族や羌族が叛乱すると、武帝は深く憂慮したので、これを受けて任愷は、賈充を関中に出鎮させなさいと進言した。詔を下して、「秦州と涼州の二州のあたりは、連年にわたり官軍が破られ、胡虜がほしいままに暴れ、百姓の害毒となっている。異民族間で煽動しあい、被害が中原に及んでいる。呉や蜀からの侵略も、これほどではなかった。従来の赴任者は国内では異民族を慰撫し、国外では反逆者を鎮圧するには能力不足であり、軍勢の力を十分に活用できなかったのが問題である。腹心の重臣を選び、推薦して成功を期待し、大いにその弊害を回復させねば、恐らくは事態が悪化するばかりである。つねにその困難を思い、寝食を忘れるほどである。侍中・守尚書令・車騎将軍の賈充は、広大な度量と、遠くを見通す見識をもち、武官としては駆け引きを優位に運ぶことができ、文官としては統治への配慮ができ、信頼感により民衆の心を団結させ、名望は域外を震わせている。方面軍の指揮を委任し、中原の西部を安寧にして静めさせれば、私には西方への懸念がなく、遠近は安泰となるであろう。そこで賈充を使持節・都督秦涼二州諸軍事とし、侍中・車騎将軍は従来どおりとし、羽葆・鼓吹を仮し、第一の駙馬を給うように」と言った。朝廷の賢良のうち忠正であり悪事を諫めて善事を進めようとする者たちは、みな賈充への任命を幸いとし、(西方への)教化が刷新されることを期待した。
賈充にとって地方への転出は、希望しない役職であったので、深く任愷を恨んだが、対処法がなかった。まさに鎮所へ出発するとき、百僚は夕陽亭で餞をおこない、荀勖がこっそりやって来た。賈充が不本意だと告げると、荀勖は、「公は国の宰相でありながら、たかが一人の男(任愷)に動きを封じられて、失策でしたね。しかし命令が出てしまえば、辞退することは困難です。唯一太子と婚姻すれば、馬車を止めずとも自ずと中央に残ることができます」と言った。賈充は、「そうだな。誰を頼ったらよいか」と言った。荀勖は、「私にやらせて下さい」と答えた。にわかに(武帝の)宴席に侍り、太子の婚姻のことを論じ、荀勖は賈充の娘が才色兼備なので、太子に嫁がせるべきですと言った。しかも楊皇后及び荀顗もまた彼女を称えた。武帝はこの提案を受け入れた。ちょうど京師で大雪が降り、平地に二尺積もったので、軍は出発できなかった。太子が成婚すると、結局西に行かずにすんだ。詔して賈充を現職に留めた。これより先に羊祜が密かに(武帝に)賈充を中央に留めるよう提案しており、ここに及び、武帝はこれを賈充に語った。賈充は羊祜に礼を述べて、「はじめて君が立派な人物だと分かった」と言った。
このとき呉将の孫秀が投降し、拝して驃騎大将軍となった。武帝は賈充が旧臣なので、席次を改めようと考え、車騎(将軍)を驃騎(将軍)の上位にしようとした。賈充は固辞し、認められた。ほどなく司空に遷り、侍中・尚書令・領兵は従来通りとした。

原文

會帝寢疾、充及齊王攸・荀勖參醫藥。及疾愈、賜絹各五百匹。初、帝疾篤、朝廷屬意於攸。河南尹夏侯和謂充曰、卿二女壻、親疏等耳、立人當立德。充不答。及是、帝聞之、徙和光祿勳、乃奪充兵權、而位遇無替。尋轉太尉・行太子太保・錄尚書事。咸寧三年、日蝕於三朝、充請遜位、不許。更以沛國之公丘益其封、寵倖愈甚、朝臣咸側目焉。
河南尹王恂上言、弘訓太后入廟、合食於景皇帝、齊王攸不得行其子禮。充議以為、禮諸侯不得祖天子、公子不得禰先君〔一〕、皆謂奉統承祀、非謂不得復其父祖也。攸身宜服三年喪事、自如臣制。有司奏、若如充議、服子服、行臣制、未有前比。宜如恂表、攸喪服從諸侯之例。帝從充議。
伐吳之役、詔充為使持節・假黃鉞・大都督、總統六師、給羽葆・鼓吹・緹幢・兵萬人・騎二千、置左右長史・司馬・從事中郎、增參軍・騎司馬各十人、帳下司馬二十人、大車・官騎各三十人。充慮大功不捷、表陳、西有昆夷之患、北有幽并之戍、天下勞擾、年穀不登、興軍致討、懼非其時。又臣老邁、非所克堪。詔曰、君不行、吾便自出。充不得已、乃受節鉞、將中軍、為諸軍節度、以冠軍將軍楊濟為副、南屯襄陽。吳江陵諸守皆降、充乃徙屯項。
王濬之克武昌也、充遣使表曰、吳未可悉定、方夏、江淮下溼、疾疫必起、宜召諸軍、以為後圖。雖腰斬張華、不足以謝天下。華豫平吳之策、故充以為言。中書監荀勖奏、宜如充表。帝不從。杜預聞充有奏、馳表固爭、言平在旦夕。使及至轘轅、而孫晧已降。吳平、軍罷。帝遣侍中程咸犒勞、賜充帛八千匹、增邑八千戶。分封從孫暢新城亭侯、蓋安陽亭侯。弟陽里亭侯混・從孫關內侯眾增戶邑。
充本無南伐之謀、固諫不見用。及師出而吳平、大慚懼、議欲請罪。帝聞充當詣闕、豫幸東堂以待之。罷節鉞・僚佐、仍假鼓吹・麾幢。充與羣臣上告成之禮、請有司具其事。帝謙讓不許。

訓読

會 帝 寢疾し、充及び齊王攸・荀勖 醫藥を參ず。疾 愈ゆるに及び、絹各五百匹を賜ふ。初め、帝 疾 篤く、朝廷 意を攸に屬す。河南尹夏侯和 充に謂ひて曰く、「卿の二女 壻たり、親疏 等しきのみ、人を立つるには當に德を立つべし」と。充 答へず。是に及び、帝 之を聞き、和を光祿勳に徙し、乃ち充が兵權を奪ひ、而るに位遇 替はること無し。尋いで太尉・行太子太保・錄尚書事に轉ず。咸寧三年、日の三朝に蝕し、充 遜位を請ひ、許さず。更めて沛國の公丘を以て其の封に益し、寵倖 愈々甚し、朝臣 咸 目を側(そば)む。
河南尹王恂 上言すらく、「弘訓太后 廟に入れ、景皇帝に合食すれば、齊王攸 其の子の禮を行ふを得ず」と。充 議して以為へらく、「禮に諸侯は天子を祖とすることを得ず、公子は先君を禰とすることを得ざるは、皆 統を奉じ祀を承くるを謂ひ、復た其の父祖を得ざると謂ふには非ず。攸 身に宜しく三年の喪事に服すべし、自ら臣制が如し」と。有司 奏すらく、「若し充の議が如くんば、子の服を服し、臣の制を行ふは、未だ前比有らず。宜しく恂の表が如くし、攸の喪服 諸侯の例に從へ」と。帝 充が議に從ふ。
伐吳の役に、充に詔して使持節・假黃鉞・大都督と為し、六師を總統し、羽葆・鼓吹・緹幢・兵萬人・騎二千を給ひ、左右長史・司馬・從事中郎を置き、參軍・騎司馬各十人、帳下司馬二十人、大車・官騎各三十人を增す。充 大功の捷たざるを慮り、表して陳べ、「西に昆夷の患有り、北に幽并の戍有り、天下 擾に勞し、年穀 登らず、軍を興して討を致すは、其の時に非ざるを懼る。又 臣は老邁にして、克く堪へる所に非ず」と。詔して曰く、「君 行かずんば、吾 便ち自ら出でん」と。充 已むを得ず、乃ち節鉞を受け、中軍を將ゐ、諸軍の節度を為し、冠軍將軍楊濟を以て副と為し、南のかた襄陽に屯す。吳の江陵の諸守 皆 降り、充 乃ち徙りて項に屯す。
王濬の武昌に克つや、充 使を遣はして表して曰く、「吳 未だ悉く定む可からず、夏に方りて、江淮は下溼たり、疾疫 必ず起きん、宜しく諸軍を召し、以て後圖と為すべし。張華を腰斬すると雖も、以て天下に謝すに足らず」と。華 平吳の策に豫り、故に充 以て言を為す。中書監荀勖、宜しく充が表の如くせよと奏す。帝 從はず。杜預 充に奏有るを聞き、表を馳して固く爭ひ、平は旦夕に在りと言ふ。使 轘轅に至るに及びて、孫晧 已に降る。吳 平らぎ、軍 罷む。帝 侍中程咸を遣して犒勞し、充に帛八千匹を賜ひ、邑八千戶を增す。封を分けて從孫暢もて新城亭侯とす、蓋し安陽亭侯なり。弟の陽里亭侯混・從孫の關內侯眾もて戶邑を增す。
充 本より南伐の謀無く、固く諫むるも用ひられず。師 出でて吳 平らぐに及び、大いに慚懼し、議して罪を請はんと欲す。帝 充の闕に詣るに當るを聞き、豫め東堂に幸して以て之を待つ。節鉞・僚佐を罷め、仍て鼓吹・麾幢を假す。充 羣臣と告成の禮を上し、有司をして其の事を具はしむを請ふ。帝 謙讓して許さず。

〔一〕『儀礼』喪服 子夏傳に「諸侯之子稱公子、公子不得禰先君」とあり、出典。「諸侯不得祖天子」は、『続漢志』祭祀下に引く如淳の説に同じ文が見える。

現代語訳

折りしも武帝が病となり、賈充及び斉王攸(司馬攸)・荀勖が医薬を献上した。病が癒えると、絹をそれぞれ五百匹ずつ賜った。これより先、武帝の病が重くなると、朝廷は司馬攸に心を寄せた。河南尹の夏侯和が賈充に、「あなたの二人の娘は(斉王と太子に)嫁いでいるから、血縁の近さは等しい、人君を立てるならば徳があるほうを選びなさい」と言った。賈充は答えなかった。治ってから、武帝はこれを聞き、夏侯和を光禄勲に移し、賈充の兵権を奪ったが、厚遇ぶりは変化がなかった。ほどなく太尉・行太子太保・録尚書事に転じた。咸寧三(二七七)年、元日に日食があり、賈充は辞職を願い出たが、許されなかった。改めて沛国の公丘を彼の封地に追加し、いよいよ特別扱いがひどくなり、朝臣はみな(不快感から)目を逸らした。
河南尹の王恂が上言し、「弘訓太后を廟に入れ、景皇帝に合祀すれば、斉王攸が子としての礼を行うことができません」と言った。賈充が建議して、「礼の規定によれば(分家である)諸侯は天子を祖として祭ることができず、公子は先君を廟内で父として祭れませんが、これらは(嫡子のみが)正統を奉じて祭祀を嗣ぐことを言うのであり、父祖との関係が切れることを言ったのではありません。司馬攸は三年の喪に服し、臣としての礼制に従えば宜しい」と言った。担当官が上奏し、「もし賈充の建議に従えば、子として喪に服し、かつ臣下の礼制にも従うこととなり、前例のないことです。王恂の上表に従い、司馬攸の服喪は諸侯の例に従わせますように」と言った。武帝は賈充の意見に従った。
呉を征伐する軍役のとき、賈充に詔して使持節・仮黄鉞・大都督とし、天子の六軍を総統し、羽葆・鼓吹・緹幢・兵一万人・騎二千を給わり、左右長史・司馬・従事中郎を設置し、参軍・騎司馬を十人ずつ、帳下司馬を二十人、大車・官騎を三十人ずつ増員した。賈充は大いなる責務を果たせぬことを心配し、上表して、「西には昆夷(南蛮)の患いがあり、北には幽州や并州の守りが必要で、天下は擾乱によって疲弊し、収穫が上がらぬうちに、軍を興して討伐をするのは、時期が不適切であることを懼れます。また私は耄碌しており、任務に堪えません」と言った。詔して、「きみが行かぬなら、私が自ら出よう」と言った。賈充はやむなく、節鉞を受け、中軍を率い、諸軍の監督をおこない、冠軍将軍の楊済を副官とし、南のかた襄陽に駐屯した。呉の江陵周辺の太守たちは皆が降服し、賈充は移って項県に駐屯した。
王濬が武昌を突破すると、賈充は使者を(武帝に)遣わして上表し、「呉はまだ完全には平定できず、季節は夏になり、江水や淮水のあたりは低湿地ですから、疫病が必ず発生します、諸軍を召し、後日を期するべきです。張華を腰斬しても、まだ天下に謝るには足りません」と言った。張華は平呉の策にあずかり、ゆえに賈充はこう言ったのである。中書監の荀勖は、賈充の上表に従いなさいと上奏した。武帝は従わなかった。杜預は賈充が上奏したことを聞き、上表して使者を駆けさせて反対意見を提出し、呉の平定は旦夕に迫っていますと言った。使者が轘轅に至ったとき、すでに孫晧は降服していた。呉が平定されると、軍役を停止した。武帝は侍中の程咸を派遣して功労し、賈充に帛八千匹を賜わり、邑八千戸を増した。封地を分けて従孫の賈暢を新城亭侯としたが、恐らく安陽亭侯のことであろう。弟の陽里亭侯である賈混・従孫の関内侯である賈衆の戸邑を増した。
賈充は当初から南方征伐の考えがなく、強く中止を求めたが用いられなかった。軍隊が出発して呉が平定されると、大いに恥じて懼れ、処罰して下さいと申し出た。武帝は賈充が宮殿に向かっていると聞き、あらかじめ東堂に行幸して待ち受けた。賈充の節鉞・僚佐を廃止し、鼓吹・麾幢を仮した。賈充は群臣とともに告成の礼(天下統一を天に告げる儀礼)を提案し、担当官に方法の具体化を求めた。武帝は謙譲して許さなかった。

原文

及疾篤、上印綬遜位。帝遣侍臣諭旨問疾、殿中太醫致湯藥、賜牀帳錢帛、自皇太子宗室躬省起居。太康三年四月薨、時年六十六。帝為之慟、使使持節・太常奉策追贈太宰、加袞冕之服・綠綟綬・御劍、賜東園祕器・朝服一具・衣一襲、大鴻臚護喪事、假節鉞・前後部羽葆・鼓吹・緹麾、大路・鑾路・轀輬車・帳下司馬大車、椎斧文衣武賁・輕車介士。葬禮依霍光及安平獻王故事、給塋田一頃。與石苞等為王功配饗廟庭、諡曰武。追贈充子黎民為魯殤公。
充婦廣城君郭槐、性妬忌。初、黎民年三歲、乳母抱之當閤。黎民見充入、喜笑、充就而拊之。槐望見、謂充私乳母、即鞭殺之。黎民戀念、發病而死。後又生男、過朞、復為乳母所抱、充以手摩其頭。郭疑乳母、又殺之、兒亦思慕而死。充遂無胤嗣。
及薨、槐輒以外孫韓謐為黎民子、奉充後。郎中令韓咸・中尉曹軫諫槐曰、禮、大宗無後、以小宗支子後之、無異姓為後之文。無令先公懷腆后土、良史書過、豈不痛心。槐不從。咸等上書求改立嗣、事寢不報。槐遂表陳是充遺意。帝乃詔曰、太宰・魯公充、崇德立勳、勤勞佐命、背世殂隕、每用悼心。又胤子早終、世嗣未立。古者列國無嗣、取始封支庶、以紹其統、而近代更除其國。至於周之公旦、漢之蕭何、或豫建元子、或封爵元妃、蓋尊顯勳庸、不同常例。太宰素取外孫韓謐為世子黎民後。吾退而斷之、外孫骨肉至近、推恩計情、合於人心。其以謐為魯公世孫、以嗣其國。自非功如太宰、始封無後如太宰、1.所取必以己自出不如太宰、皆不得以為比。
及下禮官議充諡、博士秦秀議諡曰荒、帝不納。博士段暢希旨、建議諡曰武、帝乃從之。自充薨至葬、賻賜二千萬。惠帝即位、賈后擅權、加充廟備六佾之樂、母郭為宜城君。及郭氏亡、諡曰宣、特加殊禮。時人譏之、而莫敢言者。

1.中華書局本によると、「不」は衍字が疑われる。同じ文脈の秦秀伝では「不」の字がなく、傍証となるという。賈充は特別に異姓からの継嗣をゆるすが、賈充ほどの功績がない限り、これを適用しない(継嗣は同姓のみとする)という文。

訓読

疾 篤かるに及び、印綬を上して位を遜る。帝 侍臣を遣はして諭旨して疾を問ひ、殿中太醫 湯藥を致し、牀帳錢帛を賜ひ、皇太子自り宗室まで躬ら起居を省る。太康三年四月 薨じ、時に年六十六。帝 之が為に慟し、使持節・太常をして奉策せしめ太宰を追贈し、袞冕の服・綠綟綬・御劍を加へ、東園祕器・朝服一具・衣一襲を賜ひ、大鴻臚 喪事を護し、節鉞・前後部羽葆・鼓吹・緹麾を假し、大路・鑾路・轀輬車・帳下司馬大車、椎斧文衣武賁・輕車介士あり。葬禮は霍光及び安平獻王の故事に依り、塋田一頃を給ふ。石苞等と與に王功あるが為に廟庭にし、諡して武と曰ふ。充の子黎民に追贈して魯殤公と為す。
充の婦たる廣城君郭槐、性は妬忌なり。初め、黎民 年三歲にして、乳母 之を抱きて閤に當る。黎民 充 入るを見、喜び笑ひ、充 就きて之を拊(な)づ。槐 望見し、充 乳母に私すと謂ひ、即ち鞭もて之を殺す。黎民 戀念し、病を發して死す。後に又 男を生み、朞を過ぎ、復た乳母の抱く所と為り、充 手を以て其の頭を摩(さす)る。郭 乳母を疑ひ、又 之を殺し、兒 亦 思慕して死す。充 遂に胤嗣無し。
薨ずるに及び、槐 輒ち外孫韓謐を以て黎民の子と為し、充の後を奉ぜしむ。郎中令韓咸・中尉曹軫 槐を諫めて曰く、「禮に、大宗 後無くんば、小宗の支子を以て之に後とし、異姓もて後と為すの文無し。先公 腆(あつ)きを后土を懷くこと無からしむ、良史 過を書さば、豈に心を痛めんや」と。槐 從はず。咸等 上書して立嗣を改めんことを求め、事 寢て報ぜず。槐 遂に表して是れ充の遺意なりと陳す。帝 乃ち詔して曰く、「太宰・魯公充、德を崇くし勳を立て、佐命に勤勞するに、世に背きて殂隕し、每に用て心を悼む。又 胤子 早く終はり、世嗣 未だ立たず。古者の列國 嗣無くんば、始封の支庶を取り、以て其の統を紹(つ)がしめ、而るに近代 更めて其の國を除く。周の公旦、漢の蕭何に至り、或いは豫め元子を建て、或いは元妃を封爵す、蓋し勳庸を尊顯し、常例に同じからず。太宰 素より外孫韓謐を取りて世子黎民の後と為す。吾 退きて之を斷じ、外孫は骨肉 至近たれば、恩を推し情を計るに、人心に合ふ。其れ謐を以て魯公の世孫と為し、以て其の國を嗣がしめよ。自ら功 太宰が如きに非ずんば、始封 後無きこと太宰の如くあれば、取る所は必ず己が自出を以てすること太宰が如くせず、皆 以て比と為すを得ず」と。
禮官に下して充の諡を議するに及び、博士秦秀 諡を議して荒と曰ひ、帝 納れず。博士段暢 希旨し、諡を建議して武と曰ひ、帝 乃ち之に從ふ。充 薨じて自り葬に至るまで、二千萬を賻賜す。惠帝 即位し、賈后 權を擅にし、充の廟に加へて六佾之樂を備へ、母郭もて宜城君と為す。郭氏 亡するに及び、諡して宣と曰ひ、特に殊禮を加ふ。時人 之を譏り、而るに敢て言ふ者莫し。

現代語訳

賈充の病気が重くなると、印綬を返上して官職を引退した。武帝は侍臣を遣わして(返上は不要との)意思を伝えて病状を聞き、殿中太医が湯薬を届け、寝台と銭帛を賜わり、皇太子から宗室までが直接賈充を見舞った。太康三(二八二)年四月に薨じ、このとき年は六十六だった。武帝は彼のために慟哭し、使持節・太常に策書を奉じさせて太宰を追贈し、袞冕の服・緑綟綬・御剣を加え、東園の秘器・朝服一具・衣一襲を賜わり、大鴻臚が喪事を取りしきり、節鉞・前後部羽葆・鼓吹・緹麾を仮し、大路・鑾路・轀輬車・帳下司馬大車、椎斧文衣武賁・軽車介士をそなえた。葬礼は霍光及び安平献王の故事に依拠し、塋田一頃を給わった。石苞らとともに王業への功績があるとして廟庭に配饗し、武と諡した。賈充の子の賈黎民に追贈して魯殤公とした。
賈充の妻である広城君の郭槐は、嫉妬により人を怨む性格であった。これより先、賈黎民が三歳のとき、乳母に抱かれて門の近くにいた。賈黎民は父賈充が入ってくるのを見て、喜んで笑い、賈充にくっついて撫でてもらった。郭槐は遠くからこれを見て、賈充が乳母と私通していると考え、鞭で叩き殺した。賈黎民は乳母を恋しがり、病気になって死んだ。後にまた男子を生んだが、十ヵ月を過ぎ(誕生後)、また乳母に抱かせていたが、賈充がその頭を手でさすった。郭槐は乳母を疑い、また殺し、子供は乳母を思慕して死んだ。けっきょく賈充は男子の後嗣がいなかった。
賈充が薨ずると、郭槐は外孫の韓謐を賈黎民の子とし、賈充の後嗣にしようとした。郎中令の韓咸・中尉の曹軫は郭槐を諫めて、「礼に、宗家に後嗣がいなければ、分家の子を後嗣とするとあるが、異姓を後嗣とするという文はありません。先公(賈充)は封土に執着しませんでしたが、史官に過失を記されることに、心を痛めたからではありませんか」と言った。郭槐は従わなかった。韓咸らは上書して後嗣を改めることを求めたが、事案は伏せられて返答がなかった。郭槐は上表して(韓謐に嗣がせることこそ)賈充の遺志でしたと述べた。武帝は詔して、「太宰・魯公の賈充は、高い徳をもち勲功を立て、王佐に奮闘したが、世に背いて亡くなり、いつも心を痛めていた。また後嗣が早死にし、世嗣がまだ立っていない。いにしえの列国は後嗣が無ければ、初代の血を引く支流や庶流から子を選び、その系統を継承させたが、近年はその国を除くようになった。周の公旦、漢の蕭何に至っては、あらかじめ(生前に)太子を立てたり、后妃を封爵したりしたが、おそらく勲功を顕彰するためであり、特例扱いである。太宰(賈充)は生前から外孫の韓謐を世子黎民の後嗣としていた。一歩引いて考え直してみても、外孫は極めて近しい血縁者であるから、賈充の恩を推しはかり世情に勘案しても、人々の意見に合うだろう。韓謐を魯公の世孫とし、その国を嗣がせよ。功績が太宰ほど大きくなく、初代の男系子孫が太宰のように居なければ、後嗣は太宰のように同族以外から選ぶことを許さず、他の前例としてはならない(賈充ほどの功績がない限り、異姓の継嗣は認めない)」と言った。
礼官に命じて賈充の諡を議論させると、博士の秦秀が荒と諡しなさいと言ったが、武帝は納れなかった。博士の段暢が迎合して、武と謚しなさいと建議すると、武帝はこれに従った。賈充が薨じてから埋葬されるまで、二千万銭を賜与した。恵帝が即位し、賈后が専権すると、賈充の廟に六佾の楽を追加し、母の郭氏を宜城君とした。郭氏が亡くなると、宣と諡し、殊礼を加えた。当時の人はこれを批判したが、敢えて(賈后に)物言う者はいなかった。

原文

初、充前妻李氏淑美有才行、生二女褒・裕、褒一名荃、裕一名濬。父豐誅、李氏坐流徙。後娶城陽太守郭配女、即廣城君也。武帝踐阼、李以大赦得還、帝特詔充置左右夫人、充母亦敕充迎李氏。郭槐怒、攘袂數充曰、刊定律令、為佐命之功、我有其分。李那得與我並。充乃答詔、託以謙沖、不敢當兩夫人盛禮、實畏槐也。而荃為齊王攸妃、欲令充遣郭而還其母。時沛國劉含母、及帝舅羽林監王虔前妻、皆毋丘儉孫女。此例既多、質之禮官、俱不能決。雖不遣後妻、多異居私通。充自以宰相為海內準則、乃為李築室於永年里而不往來。荃・濬每號泣請充、充竟不往。會充當鎮關右、公卿供帳祖道、荃・濬懼充遂去、乃排幔出於坐中、叩頭流血、向充及羣僚陳母應還之意。眾以荃王妃、皆驚起而散。充甚愧愕、遣黃門將宮人扶去。既而郭槐女為皇太子妃、帝乃下詔斷如李比皆不得還、後荃恚憤而薨。
初、槐欲省李氏、充曰、彼有才氣、卿往不如不往。及女為妃、槐乃盛威儀而去。既入戶、李氏出迎、槐不覺腳屈、因遂再拜。自是充每出行、槐輒使人尋之、恐其過李也。初、充母柳見古今重節義、竟不知充與成濟事、以濟不忠、數追罵之。侍者聞之、無不竊笑。及將亡、充問所欲言、柳曰、我教汝迎李新婦尚不肯、安問他事。遂無言。及充薨後、1.(李郭)〔李氏〕二女乃欲令其母祔葬、賈后弗之許也。及后廢、李氏乃得合葬。李氏作女訓行於世。

1.中華書局本に従い、「李郭」を「李氏」に改める。

訓読

初め、充の前妻李氏 淑美にして才行有り、二女褒・裕を生み、褒の一名は荃、裕の一名は濬なり。父豐 誅せられ、李氏 坐して流徙せらる。後に城陽太守郭配の女を娶り、即ち廣城君なり。武帝 踐阼し、李 大赦を以て還るを得、帝 特に詔して充に左右夫人を置き、充の母 亦 充に敕して李氏に迎へしむ。郭槐 怒り、袂を攘ちて充を數(せ)めて曰く、「律令を刊(けず)り定めて、佐命の功を為すは、我 其の分有る。李 那ぞ我と並ぶを得ん」と。充 乃ち詔に答へ、託するに謙沖を以てし、敢て兩夫人の盛禮に當たらず、實は槐を畏る。而して荃 齊王攸妃と為り、充をして郭を遣はして其の母を還さしめんと欲す。時に沛國劉含の母、及び帝舅たる羽林監王虔の前妻、皆 毋丘儉の孫女なり。此の例 既に多く、之を禮官に質(ただ)し、俱に決する能はず。後妻を遣らずと雖も、多く居を異にして私通す。充 自ら宰相にして海內の準則為るを以て、乃ち李の為に室を永年里に築きて往來せず。荃・濬 每に號泣して充に請ひ、充 竟に往かず。會 充 關右に鎮するに當り、公卿 供帳して祖道し、荃・濬 充の遂に去るを懼れ、乃ち幔を排して坐中に出で、叩頭して流血し、充及び羣僚に向ひて母 應に還すべきの意を陳ぶ。眾 荃の王妃たるを以て、皆 驚き起ちて散ず。充 甚だ愧愕し、黃門をして宮人を將ゐて扶け去らしむ。既にして郭槐の女 皇太子妃と為り、帝 乃ち詔を下して李が如き比の皆 還るを得ずと斷じ、後に荃 恚憤して薨ず。
初め、槐 李氏に省せんと欲し、充曰く、「彼 才氣有り、卿 往くは往かざらんに如かず」と。女もて妃と為るに及び、槐 乃ち威儀を盛んにして去る。既に戶に入り、李氏 出迎へ、槐 覺えずして腳屈し、因りて遂に再拜す。是自り充 每に出行し、槐 輒ち人をして之を尋ねしめ、其の李に過すことを恐る。初め、充が母柳 古今の節義を重じるを見、竟に充 成濟と與にする事を知らず、濟の不忠を以て、數々追ひて之を罵る。侍者 之を聞き、竊笑せざる無し。將に亡せんとするに及び、充 言はんと欲する所を問ひ、柳曰く、「我 汝をして李の新婦を迎へしめども尚ほ肯ぜず、安んぞ他事を問ふか」と。遂に言無し。充 薨ずる後に及び、李氏の二女 乃ち其の母をして祔葬せしめんと欲し、賈后 之を許さず。后 廢せらるに及び、李氏 乃ち合葬せらるを得。李氏 女訓を作りて世に行はる。

現代語訳

これより先、賈充の前妻である李氏は賢淑かつ美麗であって才能と優れた行いがあり、二人の娘の褒・裕を生み、褒の一名は荃、裕の一名は濬といった。父の李豊が(司馬師に)誅殺されると、前妻李氏は連座して強制移住させられた。のちに賈充は城陽太守の郭配の娘をもらったが、これが広城君(郭槐)である。武帝が践阼すると、李氏は大赦されて帰還を許され、武帝は特別に詔して賈充に左右夫人(二人の正妻)を置くことを認め、賈充の母もまた息子に命じて李氏に迎えに行かせた。後妻郭槐が怒り、袂を打って賈充を責め、「律令を整理し、佐命の功をなしたのは、私のおかげでもある。李氏をどうして私と並べるのですか」と言った。賈充は詔に返答し、謙譲にかこつけ、二人の夫人を立てるほどの特別な待遇は受けられませんと言ったが、実際は郭槐を畏れたのである。賈荃が斉王攸(司馬攸)の妃になると、(賈荃は父賈充に)後妻郭槐を派遣してその実母(前妻李氏)を迎えに行かせて下さいと頼んだ。このとき沛国の劉含の母、及び帝の舅である羽林監の王虔の前妻は、いずれも毋丘倹の孫娘であった。こういった例がとても多く、礼官に吟味させたが、結論を出せなかった。後妻を派遣せずとも、多く(の夫)は住居を別にしたままこっそりと(前妻のところに)通った。賈充は自ら宰相の地位にあって海内の手本となるので、前妻李氏のために邸宅を永年里に築いたが訪問はしなかった。荃・濬はいつも号泣して賈充に(実母の復帰を)懇請したが、最後まで行かなかった。ちょうど賈充が関右に出鎮することになり、公卿は幕を巡らせて道中の無事を祈っていたが、荃・濬は賈充が行ったきりになることを懼れ、幕をめくり上げて座中に飛び込み、叩頭して流血し、賈充及び群僚に向かって実母を連れ戻して下さいと意見を述べた。群官は荃が王妃である(にも拘わらず姿を晒した)から、みな驚いて立ち上がって散った。賈充はひどく恥じて驚き、黄門に宮人を率いさせて(二人の娘を)助け起こして帰らせた。郭槐の娘が皇太子妃となると、武帝は詔を下して李氏のような例には帰還を許さないと決断し、後に賈荃は激憤して薨じた。
これより先、郭槐は李氏に会ってみようと思ったが、賈充は、「彼女は才気があり(惨めな思いをするから)、あなたは行かないほうがよい」と行った。娘が(太子)妃になったとき、郭槐は威儀を盛んにして出かけた。郭槐が入室すると、李氏が出迎えたが、郭槐は不覚にも膝を屈し、頭を二度下げてしまった。これ以降は賈充が外出するたび、郭槐はいつも行く先を偵察させ、李氏のところに行くことを警戒した。これ以前、賈充の母の柳氏が古今において節義を重んじた人物のことを参照し、まだ賈充が成済と釣るんでいることを知らなかったので、成済の不忠を指摘し、しばしばきつく罵った。 侍者はこれを聞いて、隠れて笑わぬ者はいなかった。(柳氏の)死に際、言い遺すことはないかと賈充が聞くと、柳氏は、「私は李氏を連れ戻しなさいと言ってきたがお前は渋っている、これ以外に言うことはない」と行った。結局何も言ってくれなかった。賈充が薨ずると、李氏の二人の娘は実母を(賈充に)祔葬したいと願ったが、賈后が許さなかった。賈后が廃位されると、李氏は合葬をしてもらえた。李氏は女訓を著して世間で広く受け入れられた。

(賈充) 孫謐 充弟混 族子模 郭彰

原文

謐字1.長深。母賈午、充少女也。父韓壽、字德真、南陽堵陽人、魏司徒暨曾孫。美姿貌、善容止、賈充辟為司空掾。充每讌賓僚、其女輒於青璅中窺之、見壽而悅焉。問其左右識此人不、有一婢說壽姓字、云是故主人。女大感想、發於寤寐。婢後往壽家、具說女意、并言其女光麗艷逸、端美絕倫。壽聞而心動、便令為通殷勤。婢以白女、女遂潛修音好、厚相贈結、呼壽夕入。壽勁捷過人、踰垣而至、家中莫知、惟充覺其女悅暢異於常日。時西域有貢奇香、一著人則經月不歇、帝甚貴之、惟以賜充及大司馬陳騫。其女密盜以遺壽、充僚屬與壽燕處、聞其芬馥、稱之於充。自是充意知女與壽通、而其門閤嚴峻、不知所由得入。乃夜中陽驚、託言有盜、因使循牆以觀其變。左右白曰、無餘異、惟東北角如狐狸行處。充乃考問女之左右、具以狀對。充祕之、遂以女妻壽。壽官至散騎常侍・河南尹。元康初卒、贈驃騎將軍。
謐好學、有才思。既為充嗣、繼佐命之後、又賈后專恣、謐權過人主、至乃鏁繫黃門侍郎、其為威福如此。負其驕寵、奢侈踰度、室宇崇僭、器服珍麗、歌僮舞女、選極一時。開閤延賓、海內輻湊、貴游豪戚及浮競之徒、莫不盡禮事之。或著文章稱美謐、以方賈誼。渤海石崇・歐陽建・滎陽潘岳・吳國陸機・陸雲・蘭陵2.繆徵・京兆杜斌・摯虞・琅邪3.諸葛詮・弘農王粹・襄城杜育・南陽鄒捷・齊國左思・清河崔基・沛國劉瓌・汝南和郁・周恢・安平4.(索秀)〔牽秀〕・潁川陳眕・太原郭彰・高陽許猛・彭城劉訥・中山劉輿・劉琨皆傅會於謐、號曰二十四友、其餘不得預焉。

1.中華書局本によると、実際の字は「長淵」であり、唐代の避諱。
2.張軌傳には「祕書監繆世徵」が見えるが、唐代の避諱により「世」を省かれ、「繆徵」とのみ記された。
3.諸葛詮の名は、懷帝紀・諸葛夫人傳では「銓」に作る。
4.中華書局本に従い、「索秀」を「牽秀」に改める。

訓読

謐 字は長深なり。母の賈午、充の少女なり。父の韓壽、字は德真、南陽堵陽の人にして、魏の司徒暨の曾孫なり。姿貌美(うるは)しく、容止を善くし、賈充 辟して司空掾と為す。充 每に賓僚と讌し、其の女 輒ち青璅中に之を窺ひ、壽を見て焉を悅す。其の左右に此の人を識るや不(いな)やと問ひ、一婢 壽の姓字を說く有り、是れは故の主人なりと云ふ。女 大いに感想し、寤寐に發す。婢 後に壽の家に往き、具さに女の意を說き、并せて其の女 光麗艷逸、端美絕倫なるを言ふ。壽 聞きて心 動き、便ち為に殷勤を通ぜしむ。婢 以て女に白し、女 遂に潛かに音好を修め、厚く相 贈結し、壽を呼びて夕に入る。壽の勁捷 人に過ぎ、垣を踰えて至り、家中 知る莫く、惟だ充のみ其の女 悅暢にして常日と異なるを覺る。時に西域に奇香を貢する有り、一たび人に著くれば則ち月を經ても歇けず、帝 甚だ之を貴とし、惟だ以て充及び大司馬陳騫に賜ふ。其の女 密かに盜みて以て壽に遺り、充の僚屬 壽と與に燕する處、其の芬馥を聞き、之を充に稱す。是自り充の意 女 壽と通ずるを知り、而るに其の門閤 嚴峻にして、由りて入を得る所を知らず。乃ち夜中に陽りて驚き、盜有りと言ふに託し、因りて牆を循りて以て其の變を觀しむ。左右 白して曰く、「餘異無く、惟だ東北の角に狐狸の行處が如きあり」と。充 乃ち女の左右を考問するに、具さに狀を以て對ふ。充 之を祕し、遂に女を以て壽が妻とす。壽 官は散騎常侍・河南尹に至る。元康初 卒し、驃騎將軍を贈る。
謐 學を好み、才思有り。既に充の嗣と為り、佐命の後を繼ぎ、又 賈后 專恣し、謐の權 人主に過ぎ、乃ち黃門侍郎を鏁繫するに至り、其の威福を為すこと此の如し。其の驕寵を負ひて、奢侈 度を踰え、室宇は崇僭にして、器服は珍麗なり、歌僮の舞女、一時を選び極む。閤を開きて賓を延き、海內 輻湊し、貴游豪戚及び浮競の徒、之に禮事を盡さざる莫し。或いは文章を著して謐を稱美し、以て賈誼に方(くら)ぶ。渤海の石崇・歐陽建・滎陽の潘岳・吳國の陸機・陸雲・蘭陵の繆徵・京兆の杜斌・摯虞・琅邪の諸葛詮・弘農の王粹・襄城の杜育・南陽の鄒捷・齊國の左思・清河の崔基・沛國の劉瓌・汝南の和郁・周恢・安平の牽秀・潁川の陳眕・太原の郭彰・高陽の許猛・彭城の劉訥・中山の劉輿・劉琨 皆 謐に傅會し、號して二十四友と曰ひ、其の餘 預るを得ず。

現代語訳

賈謐は字を長深(長淵)という。母の賈午は、賈充の末娘である。父の韓寿は、字を徳真といい、南陽堵陽の人、魏の司徒である韓暨の曾孫である。見栄えが麗しく、身のこなしが優れたので、賈充が辟して司空掾とした。賈充はいつも賓客や属僚と宴飲したが、彼の末娘が青璅からのぞき見て、韓寿に一目惚れした。左右の者にあれは誰かと訊ねると、ある婢が韓寿の名前を教え、あれは以前の主人ですと言った。末娘はおおいに感動し、寝ても覚めても忘れられなかった。婢はのちに韓寿の家にゆき、末娘を思いを伝え、また末娘が美貌をそなえ、器量があると言った。韓寿はこれを聞いて心を動かし、まんざらでもないと伝えた。婢が末娘に報告すると、末娘は密かに恋文を作り、文通をして親交を深め、韓寿を夜に呼び入れた。韓寿は身体能力が人より優れ、垣を飛びこえて、賈氏の家中には気づかれず、ただ賈充だけは末娘がいつもよりご機嫌だと気づいた。このとき西域から珍しいお香が献じられ、一度つければ一ヵ月たっても匂いが消えず、武帝はこれを珍重し、賈充及び大司馬の陳騫だけに賜った。末娘はこっそり盗んで韓寿に贈ったが、賈充の属僚たちが韓寿と宴飲していると、その珍しい香りに気がつき、賈充に伝えた。この一件から賈充は末娘と韓寿の関係に気づいたが、邸宅の門は警備が厳しいので、どこから入ったのか分からなかった。夜中に驚いたふりをし、盗賊がいると騒ぎ、塀に異常がないかを探索させた。左右の者が、「特段の異常はありませんが、ただ東北の角に狐狸の通った後があります」と言った。賈充が末娘の周囲を取り調べ、詳しく白状させた。賈充は秘したまま、末娘を韓寿の妻にしてやった。韓寿の官位は散騎常侍・河南尹に至った。元康初(二九一-)に卒し、驃騎将軍を贈られた。
賈謐は学を好み、才覚と思索があった。彼が賈充の継嗣となると、佐命の臣の後継者であり、また(親族の)賈后が専政したので、賈謐の権力は人主(恵帝)を上回り、黄門侍郎を鎖で拘束するほどであり、威福はそれほどに発揮された。その驕慢と寵愛を背景とし、奢侈は限度を超え、屋敷は(人臣としては)不相応に豪勢で、器物や衣服は珍しく綺麗なものを用い、歌僮の舞女は、最高の者を厳選した。邸宅を解放して賓客を招待し、海内の人士が馬車を連ねて押し寄せ、貴游や豪戚及び浮競の徒は、礼を尽くして仕えぬ者がなかった。あるものは文章を著して賈謐を賛美し、(前漢の)賈誼に準えた。渤海の石崇・歐陽建・滎陽の潘岳・呉国の陸機・陸雲・蘭陵の繆徴・京兆の杜斌・摯虞・琅邪の諸葛詮・弘農の王粋・襄城の杜育・南陽の鄒捷・斉国の左思・清河の崔基・沛国の劉瓌・汝南の和郁・周恢・安平の牽秀・潁川の陳眕・太原の郭彰・高陽の許猛・彭城の劉訥・中山の劉輿・劉琨はみな賈謐に追従し、号して二十四友と呼ばれ、それ以外の者は書き切れない。

原文

歷位散騎常侍・後軍將軍。廣城君薨、去職。喪未終、起為祕書監、掌國史。先是、朝廷議立晉書限斷、中書監荀勖謂宜以魏正始起年、著作郎王瓚欲引嘉平已下朝臣盡入晉史、于時依違未有所決。惠帝立、更使議之。謐上議、請從泰始為斷。於是事下三府、司徒王戎・司空張華・領軍將軍王衍・侍中樂廣・黃門侍郎嵇紹・國子博士謝衡皆從謐議。騎都尉濟北侯荀畯・侍中荀藩・黃門侍郎華混以為宜用正始開元。博士荀熙・刁協謂宜嘉平起年。謐重執奏戎・華之議、事遂施行。
尋轉侍中、領祕書監如故。謐時從帝幸宣武觀校獵、諷尚書於會中召謐受拜、誡左右勿使人知、於是眾疑其有異志矣。謐既親貴、數入二宮、共愍懷太子遊處、無屈降心。常與太子弈棊爭道、成都王穎在坐、正色曰、皇太子、國之儲君、賈謐何得無禮。謐懼、言之於后、遂出穎為平北將軍、鎮鄴。
及為常侍、侍講東宮、太子意有不悅、謐患之。而其家數有妖異、飄風吹其朝服飛上數百丈、墜於中丞臺、又蛇出其被中、夜暴雷震其室、柱陷入地、壓毀牀帳、謐益恐。及遷侍中、專掌禁內、遂與后成謀、誣陷太子。及趙王倫廢后、以詔召謐於殿前、將戮之。走入西鍾下、呼曰、阿后救我。乃就斬之。韓壽少弟蔚有器望、及壽兄鞏令保・弟散騎侍郎預・吳王友鑒・謐母賈午皆伏誅。

訓読

位散騎常侍・後軍將軍を歷す。廣城君 薨じ、職を去る。喪 未だ終らず、起ちて祕書監と為り、國史を掌す。是より先、朝廷 晉書の限斷を立つるを議し、中書監荀勖 宜しく魏の正始を以て起年すべしと謂ひ、著作郎王瓚 嘉平より已下の朝臣を引きて盡く晉史に入れんと欲し、時に違に依りて未だ決する所有らず。惠帝 立ち、更めて之を議せしむ。謐 上議し、泰始に從(よ)りて斷と為さんことを請ふ。是に於て事 三府に下し、司徒王戎・司空張華・領軍將軍王衍・侍中樂廣・黃門侍郎嵇紹・國子博士謝衡 皆 謐の議に從ふ。騎都尉濟北侯荀畯・侍中荀藩・黃門侍郎華混 以為へらく宜しく正始を用て開元とすべしと。博士荀熙・刁協 宜しく嘉平もて起年とすべしと謂ふ。謐 重ねて戎・華の議を執奏し、事 遂に施行せらる。
尋いで侍中に轉じ、祕書監を領すること故の如し。謐 時に帝の宣武觀の校獵に幸するに從ひて、尚書に諷して會中に於いて謐を召して拜を受けしめ、左右に人をして知らしむ勿かれと誡め、是に於て眾 其の異志有るを疑ふ。謐 既に親貴たれば、數 二宮に入り、愍懷太子と共に遊處し、屈降の心無し。常に太子と與に弈棊して道を爭ひ、成都王穎 坐に在りて、色を正して曰く、「皇太子は、國の儲君なり、賈謐 何ぞ得て無禮なるや」と。謐 懼れ、之を后に言ひ、遂に穎を出して平北將軍と為し、鄴に鎮せしむ。
常侍と為り、東宮に侍講するに及び、太子の意 悅ばざる有り、謐 之を患ふ。而して其の家に數 妖異有り、飄風ありて其の朝服を吹きて數百丈に飛上し、中丞臺に墜ち、又 蛇 其の被中より出で、夜に暴かに其の室を雷震し、柱 陷りて地に入り、牀帳を壓毀し、謐 益々恐る。侍中に遷るに及び、專ら禁內を掌り、遂に后と與に謀を成し、太子を誣陷す。趙王倫 后を廢するに及び、詔を以て謐を殿前に召し、將に之を戮せんとす。走りて西鍾の下に入り、呼びて曰く、「阿后 我を救へ」と。乃ち就きて之を斬る。韓壽が少弟蔚 器望有り、及び壽が兄鞏令たる保・弟の散騎侍郎たる預・吳王の友たる鑒・謐の母たる賈午 皆 誅に伏す。

現代語訳

官位は散騎常侍・後軍将軍を歴任した。広城君が薨ずると、官職を去った。喪を終える前に、官途にもどり秘書監となり、国史編纂を掌監した。これより先、朝廷では晋書の区切りを議論しており、中書監の荀勖は魏代の正始期を始まりにすべきと言い、著作郎の王瓚は嘉平期より後ろに活躍した朝臣を晋の史書に含めるべきとし、見解に相違があるため結論が出なかった。恵帝が立つと、議論が再開された。賈謐が意見をたてまつり、泰始期を区切りにすることを求めた。ここにおいて議案が三府に下され、司徒の王戎・司空の張華・領軍将軍の王衍・侍中の楽広・黄門侍郎の嵇紹・国子博士の謝衡はみな賈謐の意見に従った。〔ところが〕騎都尉である済北侯の荀畯・侍中の荀藩・黄門侍郎の華混は正始期を晋王朝の始まりとすべきと主張した。博士の荀熙・刁協は嘉平期を始まりの年にせよと述べた。賈謐はくり返し王戎・張華の意見を上奏し、これが採用された。
ほどなく侍中に転じ、秘書監を領することは従来通りであった。賈謐はあるとき恵帝の宣武観への校猟に従ったが、尚書を唆してその場で賈謐を召して拝命させ、左右の人には他言無用と戒めたが、これにより皆は賈謐の異志を疑うようになった。賈謐は外戚の高官なので、しばしば二宮に入り、愍懐太子(司馬遹)とともに遊び、全く遠慮がなかった。いつも太子と弈棊をして(盤上で)道を争い、同席した成都王穎(司馬穎)が、顔色を改めて、「皇太子は、国の儲君である、賈謐はなぜ無礼を働くのか」と叱った。賈謐は懼れ、これを賈后に告げ口し、とうとう司馬穎を転出させて平北将軍とし、鄴に鎮守させた。
常侍となり、東宮に侍講するようになると、太子(司馬遹)とわだかまりがあり、賈謐はこれを不快に思った。さらに彼の家にはしばしば妖異が起こり、風が飄然として朝服を数百丈も吹き飛ばし、中丞台に落下すると、その中から蛇が出てきて、夜に突然の落雷があり、柱が地面に陥没し、寝台を圧殺したので、賈謐はますます恐れた。侍中に遷ると、もっぱら禁中の内部に籠もって政治をとり、とうとう賈后とともに謀略を成し、太子を誣告して陥れた。趙王倫(司馬倫)が賈后を廃位すると、詔により賈謐を殿前に召し、彼を殺戮しようとした。走って西鍾のもとに逃げ込み、「阿后よ救ってくれ」と叫んだ。捕まって斬られた。韓寿の少弟である韓蔚は器量と声望があり、韓寿の兄の鞏令である韓保・弟の散騎侍郎である韓預・呉王の友である韓鑑・賈謐の母である賈午は全員が誅に伏した。

原文

初、充伐吳時、嘗屯項城、軍中忽失充所在。充帳下都督周勤時晝寢、夢見百餘人錄充、引入一逕。勤驚覺、聞失充、乃出尋索、忽覩所夢之道、遂往求之。果見充行至一府舍、侍衞甚盛。府公南面坐、聲色甚厲、謂充曰、將亂吾家事、必爾與荀勖、既惑吾子、又亂吾孫。間使任愷黜汝而不去、又使庾純詈汝而不改。今吳寇當平、汝方表斬張華。汝之闇戇、皆此類也。若不悛慎、當旦夕加罪。充因叩頭流血。公曰、汝所以延日月而名器如此者、是衞府之勳耳。終當使係嗣死於鍾虡之間、大子斃於金酒之中、小子困於枯木之下。荀勖亦宜同、然其先德小濃、故在汝後、數世之外、國嗣亦替。言畢、命去。充忽然得還營、顏色憔悴、性理昏喪、經日乃復。及是、謐死於鍾下、賈后服金酒而死、賈午考竟用大杖、終皆如所言。
趙王倫之敗、朝廷追述充勳、議立其後。欲以充從孫散騎侍郎眾為嗣、眾陽狂自免。以子禿後充、封魯公、又病死。永興中、立充從曾孫湛為魯公、奉充後、遭亂死、國除。泰始中、人為充等謠曰:「賈・裴・王、亂紀綱。王・裴・賈、濟天下。」言亡魏而成晉也。

訓読

初め、充 吳を伐つの時、嘗て項城に屯し、軍中に忽ち充の所在を失ふ。充の帳下都督たる周勤 時に晝寢し、夢に見て百餘人ありて充を錄し、一逕に引き入る。勤 驚きて覺し、充を失ふと聞き、乃ち出でて尋索し、忽ち夢みる所の道を覩、遂に往きて之を求む。果して充を見て行きて一府舍に至り、侍衞 甚だ盛なり。府公 南面して坐り、聲色 甚だ厲まし、充に謂ひて曰く、「將に吾が家事を亂さんとす、必ず爾 荀勖と與に、既に吾が子を惑はし、又 吾が孫を亂す。間(このごろ)任愷をして汝を黜けしむとも去らず、又 庾純をして汝を詈らしむとも改めず〔一〕。今 吳寇 當に平らぐべし、汝 方に表して張華を斬らんとす。汝の闇戇、皆 此の類なり。若し悛慎せずんば、當に旦夕に罪を加ふべし」と。充 因りて叩頭して流血す。公曰く、「汝 日月を延して名器たること此の如き所以は、是れ衞府の勳のみ。終に當に係嗣をして鍾虡の間に死し、大子をして金酒の中に斃し、小子をして枯木の下に困らしむべし。荀勖 亦 宜しく同かるべし、然るに其の先德 小濃たり、故に汝の後在り、數世の外、國嗣 亦 替らん」と。言 畢はり、命 去る。充 忽然と營に還るを得、顏色は憔悴し、性理は昏喪し、日を經て乃ち復す。是に及び、謐 鍾下に死し、賈后 金酒を服して死し、賈午 考竟は大杖を用てし、終に皆 言ふ所が如し。
趙王倫の敗るるや、朝廷 追ひて充の勳を述し、其の後を立てんことを議す。充の從孫たる散騎侍郎眾を以て嗣と為さんと欲するに、眾 陽狂して自ら免ず。子の禿を以て充の後とし、魯公に封じ、又 病死す。永興中、充の從曾孫湛を立てて魯公と為し、充の後を奉ぜしめ、亂に遭ひて死し、國 除かる。泰始中、人 充等の為に謠して曰く、「賈・裴・王、紀綱を亂す。王・裴・賈、天下を濟ふ」と。言ふこころは魏を亡して晉を成すなり。

〔一〕この巻の上文に「侍中任愷・中書令庾純等 剛直守正にして、咸 共に之を疾む」とある段落を参照。

現代語訳

これより先、賈充が呉を征伐するとき、かつて項城に駐屯したが、軍中で忽然と賈充の居場所が分からなくなった。賈充の帳下都督である周勤はこのとき昼寝しており、夢のなかで百余人が賈充を拘束し、小道に引き込むのを見た。周勤は驚いて目を覚まし、賈充が消えたと聞いて、出て捜索すると、夢に見た小道を発見し、そこに行って賈充を探した。果たして賈充を見つけて追跡すると一つの府舍に至り、侍衛の兵が盛大に並んでいた。府公が南面して座り、激しい声色で、賈充に、「お前はわが家の事業を乱そうとしている、お前は荀勖とともに、もうわが子を惑わしたが、必ず孫をも乱すだろう。近ごろ任愷にお前を退けさせようとしたが去らず、また庾純にお前を罵らせたが(振る舞いを)改めなかった。いま呉寇が平定され掛かっているのに、お前は張華を斬れと上表している。お前の愚昧さは、全てこの類いだ。もし改悛しなければ、旦夕にも罪を加えるであろう」と言った。賈充はこれを受けて叩頭して流血した。府公は、「お前が寿命を長らえて名臣でいられるのは、ただ衛府の勲があったからである。最終的には継嗣を鍾虡の間で死なせ、年長の子を金酒の中に倒れさせ、年少の子を枯木の下で追い詰めてやろう。荀勖もまた同じ運命である、しかし活動初期の徳行はそれなりに濃いため、子孫を存続させてやり、数世代の後には、国の継嗣はまた交替するだろう」と言った。発言が終わると、意識が飛んだ。賈充は忽然と軍営に帰還できており、顔色は憔悴し、精神は喪失していたが、数日で回復した。ここに及び、賈謐は鍾下で死に、賈后は金酒を飲んで死に、賈午は大杖の刑罰を受け、結局は全て言われた通りとなった。
趙王倫(司馬倫)が敗北すると、朝廷は追って賈充の勲功を述べ、その後嗣を立てることを議論した。賈充の従孫である散騎侍郎の賈衆を嗣にしようとしたが、賈衆は狂ったふりをして自ら免れた。子の賈禿を賈充の後嗣とし、魯公に封建したが、また病死した。永興中(三〇四-三〇六)、賈充の従曾孫の賈湛を立てて魯公とし、賈充の祭祀を継承させたが、乱に遭遇して死に、国は除かれた。泰始中(二六五-二七四)、ひとは賈充らのために謡言して、「賈・裴・王は、国家の秩序を乱す。王・裴・賈は、天下を救済する」と歌った。これは魏王朝を滅亡させて晋王朝を完成させるという意味であった。

原文

充弟混字宮奇、篤厚自守、無殊才能。太康中、為宗正卿。歷鎮軍將軍、領城門校尉、加侍中、封永平侯。卒、贈中軍大將軍・儀同三司。充從子彝・遵並有鑒裁、俱為黃門郎。遵弟模最知名。
模字思範、少有志尚。頗覽載籍、而沈深有智算、確然難奪。深為充所信愛、每事籌之焉。充年衰疾劇、恒憂己諡傳、模曰、是非久自見、不可掩也。
起家為邵陵令、遂歷事二宮尚書吏部郎、以公事免、起為車騎司馬。豫誅楊駿、封平陽鄉侯、邑千戶。及楚王瑋矯詔害汝南王亮・太保衞瓘、詔使模將中騶二百人救之。
是時賈后既豫朝政、欲委信親黨、拜模散騎常侍、二日擢為侍中。模乃盡心匡弼、推張華・裴頠同心輔政。數年之中、朝野寧靜、模之力也。乃加授光祿大夫。然模潛執權勢、外形欲遠之、每有啟奏賈后事、入輒取急、或託疾以避之。至於素有嫌忿、多所中陷、朝廷甚憚之。加貪冒聚斂、富擬王公。但賈后性甚強暴、模每盡言為陳禍福、后不能從、反謂模毀己。於是委任之情日衰、而讒間之徒遂進。模不得志、憂憤成疾。卒、追贈車騎將軍・開府儀同三司、諡曰成。子遊字彥將嗣、歷官太子侍講・員外散騎侍郎。

訓読

充が弟混 字は宮奇、篤厚にして自守し、殊なる才能無し。太康中、宗正卿と為る。鎮軍將軍、領城門校尉を歷し、侍中を加へ、永平侯に封ぜらる。卒し、中軍大將軍・儀同三司を贈る。充が從子彝・遵 並びに鑒裁有り、俱に黃門郎と為る。遵が弟模 最も名を知らる。
模 字は思範、少くして志尚有り。頗る載籍を覽じ、而して沈深して智算有り、確然として奪ひ難し。深く充が信愛する所と為り、事每に之に籌す。充 年 衰へて疾 劇し、恒に己が諡傳を憂ひ、模に曰く、「是非 久しく自ら見よ、掩(おほ)ふ可からず」と。
起家して邵陵令と為り、遂に二宮尚書吏部郎を歷事し、公事を以て免じ、起ちて車騎司馬と為る。楊駿を誅するに豫り、平陽鄉侯に封ぜられ、邑千戶。楚王瑋 詔を矯めて汝南王亮・太保衞瓘を害するに及び、詔して模をして中騶二百人を將ゐて之を救はしむ。
是の時 賈后 既に朝政に豫り、親黨に委信せんと欲し、模に散騎常侍を拜し、二日にして擢でて侍中と為す。模 乃ち心を匡弼に盡し、張華・裴頠を推して心を同にして輔政す。數年の中、朝野 寧靜たるは、模の力なり。乃ち加へて光祿大夫を授く。然るに模 潛かに權勢を執り、外形に之を遠ざけんと欲し、賈后に啟奏する事有る每に、入りて輒ち急を取り、或いは疾に託して以て之を避く。素より嫌忿有らば、多く中陷する所に至り、朝廷 甚だ之を憚る。加へて貪冒して聚斂し、富は王公に擬ふ。但だ賈后の性 甚だ強暴にして、模 每に言を盡して為に禍福を陳べ、后 能く從はず、反りて模 己を毀すと謂ふ。是に於て委任の情 日に衰へ、而して讒間の徒 遂に進む。模 志を得ず、憂憤して疾を成す。卒し、車騎將軍・開府儀同三司を追贈し、諡して成と曰ふ。子の遊 字は彥將 嗣ぎ、官は太子侍講・員外散騎侍郎を歷す。

現代語訳

賈充の弟の賈混は字を宮奇といい、篤実で温厚であったが自らの身を守り、特別な才能はなかった。太康期(二八〇-二八九)、宗正卿となった。鎮軍将軍、領城門校尉を歴任し、侍中を加え、永平侯に封建された。卒すると、中軍大将軍・儀同三司を贈られた。賈充の従子である賈彝・賈遵はどちらも人物を見る目があり、黄門郎となった。賈遵の弟である賈模が最も名を知られた。
賈模は字を思範といい、若いときから志操があり高尚であった。典籍に精通し、落ち着きがあって深い思考をもち智恵と計略に優れ、確固として信念を貫いた。賈充に深く信頼されて可愛がられ、事案があるごとに相談を受けた。賈充が老齢により衰えて病気がひどくなると、つねに(高貴郷公を殺したので)己の謚号と列伝を気にかけ、賈模に、「私の死後に是非を見極めてくれ、目を伏せてはいけない」と言った。
起家して邵陵令となり、二宮尚書吏部郎を歴任し、公事によって免官され、官途にもどって車騎司馬となった。楊駿の誅殺に参預し、平陽郷侯に封建され、邑は千戸であった。楚王瑋(司馬瑋)が詔を偽造して汝南王亮(司馬亮)・太保の衛瓘を殺害すると、(本物の)詔により賈模に中騶二百人を率いて救援をさせた。
このとき賈后は朝政をつかさどり、親しい党与を信頼して委任したいと考え、賈模に散騎常侍を拝し、二日で抜擢して侍中とした。賈模は公正のために心を尽くし、張華・裴頠を推薦して心をひとつにして輔政をした。数年の内に、朝野が安寧となり静まったのは、賈模の力である。加えて光禄大夫を授けられた。しかし賈模は裏方として権勢にあずかり、外見的には(権勢を)遠ざけようと振る舞い、賈后に上奏する事案があるたびに、朝廷に入るが私用で暇を取ったり、病気にかこつけて距離を措いたりした。普段から嫌忌している相手には、ひどい中傷をしたので、朝臣たちはひどく彼を憚った。さらに暴利を貪って財産を蓄え、富は王公に匹敵した。賈后の性格はとても強暴であり、賈模はいつも言葉を尽くして事案の長短を述べたので、賈后は従うことができず、却って賈模から批判を受けていると感じるようになった。そこで委任する気持ちが日ごとに衰え、讒言によって関係を割くような連中が活躍をした。賈模は志を得ず、憂い憤って病気になった。卒すると、車騎将軍・開府儀同三司を追贈し、成と諡した。子の賈遊は字を彦将といい(父を)嗣いで、官位は太子侍講・員外散騎侍郎を歴任した。

郭彰

原文

郭彰字叔武、太原人、賈后從舅也。與賈充素相親遇、充妻待彰若同生。歷散騎常侍・尚書・衞將軍、封冠軍縣侯。及賈后專朝、彰豫參權勢、物情歸附、賓客盈門。世人稱為賈郭、謂謐及彰也。卒、諡曰烈。

訓読

郭彰 字は叔武、太原の人、賈后の從舅なり。賈充と素より相 親遇し、充の妻 彰を待すること同生が若し。散騎常侍・尚書・衞將軍を歷し、冠軍縣侯に封ず。賈后 專朝するに及び、彰 權勢に豫參し、物情 歸附し、賓客 門に盈つ。世人 稱して賈郭と為すは、謐及び彰を謂ふなり。卒し、諡して烈と曰ふ。

現代語訳

郭彰は字を叔武といい、太原の人、賈后の従舅である。賈充と互いに親しみあい、賈充の妻は郭彰を同腹のように可愛がった。散騎常侍・尚書・衛将軍を歴任し、冠軍県侯に封建された。賈后が朝政を専断すると、郭彰は権勢に参預して、世間の人々は郭彰に心を寄せて従い、賓客が門にごった返した。当時のひとが賈郭と言ったのは、賈謐と郭彰のことである。亡くなると、烈と諡された。

楊駿 弟珧 濟

原文

楊駿字文長、弘農華陰人也。少以王官為高陸令・驍騎鎮軍二府司馬。後以后父超居重位、自鎮軍將軍遷車騎將軍、封臨晉侯。識者議之曰、夫封建諸侯、所以藩屏王室也。后妃、所以供粢盛、弘內教也。后父始封而以臨晉為侯、兆於亂矣。尚書褚䂮・郭奕並表駿小器、不可以任社稷之重。武帝不從。帝自太康以後、天下無事、不復留心萬機、惟耽酒色、始寵后黨、請謁公行。而駿及珧・濟勢傾天下、時人有三楊之號。
及帝疾篤、未有顧命、佐命功臣、皆已沒矣、朝臣惶惑、計無所從。而駿盡斥羣公、親侍左右、因輒改易公卿、樹其心腹。會帝小間、見所用者非、乃正色謂駿曰、何得便爾。乃詔中書、以汝南王亮與駿夾輔王室。駿恐失權寵、從中書借詔觀之、得便藏匿。中書監華廙恐懼、自往索之、終不肯與。信宿之間、上疾遂篤、后乃奏帝以駿輔政、帝頷之。便召中書監華廙・令何劭、口宣帝旨使作遺詔、曰、昔伊望作佐、勳垂不朽。周霍拜命、名冠往代。侍中・車騎將軍・行太子太保・領前將軍楊駿、經德履喆、鑒識明遠、毗翼二宮、忠肅茂著、宜正位上台、擬跡阿衡。其以駿為太尉・太子太傅・假節・都督中外諸軍事、侍中・錄尚書・領前將軍如故。置參軍六人・步兵三千人・騎千人、移止前衞將軍珧故府。若止宿殿中宜有翼衞。其差左右衞三部司馬各二十人・殿中都尉司馬十人給駿、令得持兵仗出入。」詔成、后對廙・劭以呈帝、帝親視而無言。自是二日而崩、駿遂當寄託之重、居太極殿。梓宮將殯、六宮出辭、而駿不下殿、以武賁百人自衞。不恭之迹、自此而始。

訓読

楊駿 字は文長、弘農華陰の人なり。少くして王官を以て高陸令・驍騎鎮軍二府司馬と為る。後に后父たるを以て超えて重位に居り、鎮軍將軍自り車騎將軍に遷り、臨晉侯に封ぜらる。識者 之に議して曰く、「夫れ諸侯を封建するは、王室に藩屏たる所以なり。后妃たるは、粢盛を供し、內教を弘むる所以なり。后父 始めて封ぜらるるに臨晉を以て侯と為すは、亂を兆すなり〔一〕」と。尚書褚䂮・郭奕 並びに駿 小器なれば、以て社稷の重に任ず可からずと表す。武帝 從はず。帝 太康自り以後、天下 事無く、復た心を萬機に留めず、惟だ酒色に耽り、始めて后黨を寵し、請謁 公行す。而して駿及び珧・濟の勢 天下を傾け、時人に三楊の號有り。
帝 疾 篤かるに及び、未だ顧命有らず、佐命の功臣、皆 已 沒にし、朝臣 惶惑し、計 從ふ所無し。而して駿 盡く羣公を斥け、親侍の左右、因りて輒ち公卿に改易し、其の心腹を樹つ。會 帝 小間あり、用ゐる所の者 非なるを見て、乃ち色を正して駿に謂ひて曰く、「何ぞ便ち爾(しか)るを得ん」と。乃ち中書に詔し、汝南王亮を以て駿と與に王室を夾輔せしむ。駿 權寵を失ふを恐れ、中書に從ひて詔を借りて之を觀、得て便ち藏匿す。中書監華廙 恐懼し、自ら往きて之を索め、終に與ふるを肯ぜず。信宿の間、上の疾 遂に篤く、后 乃ち帝に奏して駿を以て輔政せしめ、帝 之に頷く。便ち中書監華廙・令何劭を召して、帝旨を口宣して遺詔を作らしめ、曰く、「昔 伊望 佐を作し、勳 不朽に垂る。周霍 命を拜し、名は往代に冠す。侍中・車騎將軍・行太子太保・領前將軍楊駿、德を經し喆を履み、鑒識は明遠、二宮を毗翼し、忠肅 茂著たり、宜しく位を上台に正し、跡を阿衡に擬へよ。其れ駿を以て太尉・太子太傅・假節・都督中外諸軍事と為し、侍中・錄尚書・領前將軍は故の如し。參軍六人・步兵三千人・騎千人を置き、移して前衞將軍珧の故府に止めよ。若し宿殿中に止むれば宜しく翼衞有るべし。其の左右の衞三部司馬各二十人・殿中都尉司馬十人を差(えら)びて駿に給ひ、兵仗を持して出入するを得しめよ」と。詔 成り、后 廙・劭に對ひて以て帝に呈し、帝 親ら視みて言無し。是自り二日にして崩じ、駿 遂に寄託の重に當り、太極殿に居す。梓宮 將に殯せんとし、六宮 辭を出し、而るに駿 殿を下らず、武賁百人を以て自衞す。恭まざるの迹、此自り始まる。

〔一〕皇后の父を封建したことと、その封地が臨晋(晋に臨むの意)の両方を批判しているのであろうか。

現代語訳

楊駿は字を文長といい、弘農華陰の人である。若いときから王の官属として高陸令・驍騎鎮軍二府司馬となった。後に皇后の父として(分限を)超えて重い位につき、鎮軍将軍から車騎将軍に遷り、臨晋侯に封建された。識者はこれについて議論し、「そもそも諸侯を封建するのは、王室の藩屏にするためである。后妃を立てるのは、(祖先に)供物を捧げ、家庭内に教えを広めるためである。皇后の父が初めて封建されて臨晋の侯となったのは、乱の前兆である」と言った。尚書の褚䂮・郭奕はどちらも楊駿は器量が小さいから、社稷の重職に任命してはならぬと上表した。武帝は従わなかった。武帝は太康期(二八〇-二八九)より以後、天下に問題がないので、心を政治に留めなくなり、ただ酒色に耽り、皇后の党与を寵愛するようになり、謁見の口利きが横行した。そして楊駿及び楊珧・楊済の権勢が天下を傾け、当時の人は三楊と呼び習わした。
武帝は病が重くなったが、まだ遺命がなく、佐命の功臣は、皆がすでに死没し、朝臣は恐れて惑い、どうしてよいか分からなかった。そこで楊駿は尽く公たちを退け、自分に近しい者だけを、公卿たちと交替させ、自派閥を要職に立てた。あるとき武帝が小康状態になり、登用された者が適切でないのを見て、顔色を変えて楊駿に、「これで良いはずがない」と言った。中書に詔し、汝南王亮(司馬亮)に楊駿とともに王室を夾輔させた。楊駿は権力を失うことを恐れ、中書に付いていって詔を借りて読み、取り上げて隠してしまった。中書監の華廙が恐懼し、自ら足を運んで返却を求めたが、楊駿は拒絶した。二晩がたち、武帝の病がいよいよ重くなり、皇后は武帝に上奏して楊駿に輔政をさせて下さいと述べると、武帝は頷いた。そこで中書監の華廙・中書令の何劭を召して、武帝の意思を口頭で述べてもらい遺詔を作らせ、「むかし伊尹と太公望が補佐し、勲功は永遠のものとなった。周公旦と霍光は遺命を受け、名は前代の筆頭となった。侍中・車騎将軍・行太子太保・領前将軍の楊駿は、徳を実践し道理をわきまえ、見識は遠くまで見通し、二宮を輔翼し、とても忠正で慎み深いため、高位に就いて、阿衡(伊尹)の事績を踏襲せよ。そこで楊駿を太尉・太子太傅・仮節・都督中外諸軍事とし、侍中・録尚書・領前将軍は従来通りとする。参軍六人・歩兵三千人・騎千人を設置し、移して前衛将軍の楊珧の故府にとどめよ。もし宿殿のなかに留まるならば護衛とするように。その左右の衛三部の司馬を二十人ずつ・殿中都尉司馬十人を選んで楊駿に給わり、兵仗(武器)を持ったまま出入することを許す」と言った。詔が完成し、楊皇后が華廙・何劭と向きあって武帝に提示し、武帝はご覧になったが何も言わなかった。これより二日で崩御し、楊駿はとうとう全権を有する重職につき、太極殿に居した。梓宮で殯をするとき、六宮は告別したが、楊駿は宮殿から出てこず、武賁百人に護衛をさせた。恭謙でない振る舞いは、ここから始まった。

原文

惠帝即位、進駿為太傅・大都督・假黃鉞、錄朝政、百官總己。慮左右間己、乃以其甥段廣・張劭為近侍之職。凡有詔命、帝省訖、入呈太后、然後乃出。駿知賈后情性難制、甚畏憚之。又多樹親黨、皆領禁兵。於是公室怨望、天下憤然矣。駿弟珧・濟並有儁才、數相諫止、駿不能用、因廢於家。駿闇於古義、動違舊典。武帝崩未踰年而改元、議者咸以為違春秋踰年書即位之義。朝廷惜於前失、令史官沒之、故明年正月復改年焉。
駿自知素無美望、懼不能輯和遠近、乃依魏明帝即位故事、遂大開封賞、欲以悅眾。為政嚴碎、愎諫自用、不允眾心。馮翊太守孫楚素與駿厚、說之曰、公以外戚、居伊霍之重、握大權、輔弱主、當仰思古人至公至誠謙順之道。於周則周召為宰、在漢則朱虛・東牟、未有庶姓專朝、而克終慶祚者也。今宗室親重、藩王方壯、而公不與共參萬機、內懷猜忌、外樹私昵、禍至無日矣。駿不能從。弘訓少府蒯欽、駿之姑子、少而相昵、直亮不回、屢以正言犯駿、珧・濟為之寒心。欽曰、楊文長雖闇、猶知人之無罪、不可妄殺、必當疏我。我得疏外、可以不與俱死。不然、傾宗覆族、其能久乎。

訓読

惠帝 即位し、駿を進めて太傅・大都督・假黃鉞と為し、朝政を錄し、百官 己を總ぶ。左右の己を間せんことを慮り、乃ち其の甥段廣・張劭を以て近侍の職と為す。凡そ詔命有れば、帝 省訖はり、入りて太后に呈し、然る後に乃ち出づ。駿 賈后の情性 制し難きを知り、甚だ之を畏憚す。又 多く親黨を樹て、皆 禁兵を領す。是に於て公室 怨望し、天下 憤然とす。駿の弟珧・濟 並びに儁才有り、數々相 諫止し、駿 能く用ひず、因りて家に廢す。駿 古義に闇く、動すれば舊典に違ふ。武帝 崩じて未だ年を踰えざるに改元し、議者 咸 以為へらく春秋 踰年して即位を書すの義に違ふ。朝廷 前失を惜み、史官をして之を沒せしめ、故に明年正月 復た改年す。
駿 自ら素より美望無きを知り、能く遠近を輯和せざるを懼れ、乃ち魏明帝即位の故事に依り、遂に大いに封賞を開き、以て眾を悅せんと欲す。為政 嚴碎たりて、諫に愎(もと)りて自ら用ひ、眾心を允(まこと)にせず。馮翊太守孫楚 素より駿と厚く、之に說きて曰く、「公 外戚たるを以て、伊霍の重に居り、大權を握り、弱主を輔く、當に古人を仰思して至公至誠もて謙順の道あるべし。周に於いて則ち周召 宰と為り、漢に在れば則ち朱虛・東牟あり〔一〕、未だ庶姓 朝を專らにし、而して克く慶祚を終はる者有らず。今 宗室 親重、藩王たりて方に壯ん、而るに公 共に萬機を參ぜず、內に猜忌を懷き、外に私昵を樹つ、禍 無日に至らん」と。駿 能く從はず。弘訓少府蒯欽は、駿の姑子なり、少くして相 昵み、直亮不回にして、屢々正言を以て駿を犯し、珧・濟 之が為に心を寒からしむ。欽曰く、「楊文長 闇たると雖も、猶ほ人の無罪を知り、妄りに殺す可からず、必ず當に我を疏むべし。我 疏外せらるを得れば、以て俱に死す可からず。然らずんば、宗を傾け族を覆け、其れ能く久しからんや」と。

〔一〕ここに列挙された宰相たちは、いずれも君主の親族。

現代語訳

恵帝が即位すると、楊駿を昇進させて太傅・大都督・仮黄鉞とし、朝政を主管し、百官を統括させた。側近が自分を裏切ることを心配し、自分の甥の段広・張劭を近侍の職とした。詔命が出されるときは常に、恵帝が確認を終えると、楊太后に提出し、その後に発令された。楊駿は賈后の性格が制御しづらいことを知り、ひどく畏れ憚った。また多くの親党を立て、みな配下に禁兵を従えさせた。ここにおいて公室(皇族)は怨みを寄せ、天下は憤然とした。楊駿の弟である楊珧・楊済はどちらも俊才があり、しばしば諫止したが、楊駿は聞き入れることができず、家に追い返した。楊駿は古典や前例に詳しくなく、ともすれば旧典を破った。武帝が崩じるとまだ年をまたいでいないにも拘わらず改元し、議者はみな『春秋』の記す踰年改元の規則と異なると指摘した。朝廷は失敗を押し隠し、史官に記録を削除させ、翌年正月に改元をやり直した。
楊駿は声望がないことを自覚しており、遠近を融和させられないことを懼れ、魏の明帝が即位したときの前例に従い、おおいに封建や賞賜を行い、歓心を買おうとした。為政は独断的であり、諫められても拒否をして自分の意見を用い、世論と調和しなかった。馮翊太守の孫楚は楊駿と親しく、彼を説得して、「公は外戚として、伊尹や霍光のような重任におり、大権を握り、幼弱な君主を助けているから、古人に学んで公正と誠実を心がけて謙譲して道理にかなった政治をするべきだ。周王朝においては周公旦と召公奭が宰相となり、漢王朝にあっては朱虚侯(劉章)と東牟侯(劉興居)がいたが、まだ皇族以外が朝政を専らにし、子孫まで存続し栄えた例はない。いま宗室の近親や重鎮は、藩王として勢いが盛んであり、しかし公は共同して政治をすることがなく、内に猜疑心を抱き、外に私的な知人ばかりを立てているから、禍いが目前に迫っている」と言った。楊駿は従うことができなかった。弘訓少府の蒯欽は、楊駿の姑の子であり、若いときから気心が知れ、まっすぐな性格で自説を曲げない人であり、しばしば正論によって楊駿に反対し、楊珧・楊済は彼のために肝を冷やした。蒯欽は、「楊文長(楊駿)は知恵が暗いが、罪の有無くらいは区別がつくので、みだりに私を殺すことはなく、遠ざけるだけだろう。もし私が遠ざけられたら、楊駿と一緒に死ぬことはない。遠ざけられねば、宗族が傾覆し、生き残ることはできまい」と言った。

原文

殿中中郎孟觀・李肇、素不為駿所禮、陰搆駿將圖社稷。賈后欲預政事、而憚駿未得逞其所欲、又不肯以婦道事皇太后。黃門董猛、始自帝之為太子即為寺人監、在東宮給事於賈后。后密通消息於猛、謀廢太后。猛乃與肇・觀潛相結託。賈后又令肇報大司馬・汝南王亮、使連兵討駿。亮曰、駿之凶暴、死亡無日、不足憂也。肇報楚王瑋、瑋然之、於是求入朝。駿素憚瑋、先欲召入、防其為變、因遂聽之。 及瑋至、觀・肇乃啟帝、夜作詔、中外戒嚴、遣使奉詔廢駿、以侯就第。東安公繇率殿中四百人隨其後以討駿。段廣跪而言於帝曰、楊駿受恩先帝、竭心輔政。且孤公無子、豈有反理。願陛下審之。帝不答。
時駿居曹爽故府、在武庫南、聞內有變、召眾官議之。太傅主簿朱振說駿曰、今內有變、其趣可知、必是閹豎為賈后設謀、不利於公。宜燒雲龍門以示威、索造事者首、開萬春門、引東宮及外營兵、公自擁翼皇太子、入宮取姦人。殿內震懼、必斬送之、可以免難。駿素怯懦、不決、乃曰、魏明帝造此大功、奈何燒之。侍中傅祗夜白駿、請與武茂俱入雲龍門觀察事勢。祗因謂羣僚、宮中不宜空、便起揖、於是皆走。 尋而殿中兵出、燒駿府、又令弩士於閣上臨駿府而射之、駿兵皆不得出。駿逃于馬廐、以戟殺之。觀等受賈后密旨、誅駿親黨、皆夷三族、死者數千人。又令李肇焚駿家私書、賈后不欲令武帝顧命手詔聞于四海也。駿既誅、莫敢收者、惟太傅舍人巴西1.閻纂殯斂之。
初、駿徵高士孫登、遺以布被。登截被於門、大呼曰、斫斫刺刺。旬日託疾詐死、及是、其言果驗。永熙中、溫縣有人如狂、造書曰、光光文長、大戟為牆。毒藥雖行、戟還自傷。及駿居內府、以戟為衞焉。永寧初、詔曰、舅氏失道、宗族隕墜、渭陽之思、孔懷感傷。其以蓩亭侯楊超為奉朝請・騎都尉、以慰蓼莪之思焉。

1.「閻纂」は、『晋書』巻四十八の本人の列伝では「閻纘」に作る。

訓読

殿中中郎孟觀・李肇、素より駿に禮せられず、陰かに駿 將に社稷を圖らんとするを搆ふ。賈后 政事に預らんと欲し、而るに駿を憚りて未だ得て其の欲する所を逞しくせず、又 婦道を以て皇太后に事ふるを肯ぜず。黃門董猛、始め帝の太子と為る自り即ち寺人監と為り、東宮に在りて賈后に給事す。后 密かに消息を猛に通じ、太后を廢せんと謀る。猛 乃ち肇・觀と潛かに相 結託す。賈后 又 肇をして大司馬・汝南王亮に報ぜしめ、兵を連ねて駿を討たしむ。亮曰く、「駿の凶暴、死亡 日無く、憂ふるに足らず」と。肇 楚王瑋に報じ、瑋 之を然りとし、是に於て入朝を求む。駿 素より瑋を憚り、先に召入し、其の變を為すを防がんと欲し、因りて遂に之を聽す。
瑋 至るに及び、觀・肇 乃ち帝に啟き、夜に詔を作し、中外 戒嚴し、使を遣じて詔を奉じて駿を廢し、以て就第に侯たしむ。東安公繇 殿中四百人を率ゐて其の後に隨ひて以て駿を討つ。段廣 跪きて帝に言ひて曰く、「楊駿 恩を先帝に受け、心を竭して輔政す。且つ孤公 子無し、豈に反理有らん。願はくは陛下 之を審らかにせよ」と。帝 答へず。
時に駿 曹爽の故府に居り、武庫の南に在り、內に變有るを聞き、眾官を召して之を議す。太傅主簿朱振 駿に說きて曰く、「今 內に變有るは、其れ趣けば知る可し、必ず是れ閹豎 賈后の為に謀を設け、公に利らず。宜しく雲龍門を燒いて以て威を示し、造事する者の首を索め、萬春門を開き、東宮及び外營の兵を引き、公 自ら皇太子を擁翼し、宮に入りて姦人を取れ。殿內 震懼し、必ず斬りて之を送り、以て難を免ず可し」と。駿 素より怯懦なり、決せず、乃ち曰く、「魏明帝 此の大功を造る、奈何れぞ之を燒かん」と。侍中傅祗 夜に駿に白し、武茂と俱に雲龍門に入りて事勢を觀察するを請ふ。祗 因りて羣僚に、「宮中 宜しく空しくすべからず」と謂ひ、便ち起揖し、是に於て皆 走る。
尋いで殿中の兵 出で、駿の府を燒き、又 弩士をして閣上に於て駿の府に臨みて之を射、駿の兵 皆 出るを得ず。駿 馬廐に逃げ、戟を以て之を殺す。觀等 賈后の密旨を受け、駿の親黨を誅し、皆 三族を夷し、死者數千人なり。又 李肇をして駿の家の私書を焚かしめ、賈后 武帝の顧命の手詔をして四海に聞こしめざらんと欲す。駿 既に誅せられ、敢て收むる者莫く、惟だ太傅舍人たる巴西の閻纂のみ之を殯斂す。
初め、駿 高士孫登を徵し、布被を以て遺る。登 被を門に截(き)りて、大呼して曰く、「斫れ斫れ刺せ刺せ」と。旬日 疾に託して詐死し、是に及び、其の言 果して驗はる。永熙中、溫縣に人の狂ふが如き有り、書を造りて曰く、「光光たる文長、大戟もて牆を為(つく)る。毒藥 行ふと雖も、戟 還りて自傷す」と。駿 內府に居るに及び、戟を以て衞と為す。永寧初、詔して曰く、「舅氏 道を失ひ、宗族 隕墜し、渭陽の思〔一〕、孔いに感傷を懷く。其れ蓩亭侯の楊超を以て奉朝請・騎都尉と為し、以て蓼莪の思〔二〕を慰めよ」と。

〔一〕渭陽は、『毛詩』秦風 渭陽に「我送舅氏、曰至渭陽」とあり出典。周の文王の嫁取りを指しており、理想的な婚姻とされる。
〔二〕蓼莪は、『毛詩』小雅の篇名。子女が親を追慕する感情を歌ったもの。

現代語訳

殿中中郎の孟観・李肇は、普段から楊駿に礼遇されず、ひそかに楊駿が社稷を危うくしようとしていると言い募った。賈后は執政をしたいと考え、しかし楊駿を憚ってまだ希望を前面に出せず、また婦人の道徳にしたがって楊皇太后に仕えることを嫌がった。黄門の董猛は、かつて恵帝が太子となったときから寺人監となり、東宮にいて賈后に側仕えした。賈后はひそかに董猛と示し合わせ、楊太后の廃位を計画した。董猛は孟観・李肇とこっそり結託した。賈后はまた李肇を遣って大司馬・汝南王亮(司馬亮)に連絡し、兵を連携して楊駿を討とうと持ちかけた。司馬亮は、「楊駿は凶暴であり、死と滅亡は時間の問題だから、心配いらぬ」と言った。李肇は楚王瑋(司馬瑋)に連絡し、司馬瑋も同意し、ここにおいて(楊駿に)入朝せよと求めた。楊駿はいつも司馬瑋を憚っていたから、先に召されて入朝し、その事変を予防しようと考え、これを受諾した。
司馬瑋が至ると、孟観・李肇は恵帝に説明し、夜に詔を作り、中外を戒厳体制とし、使者を送って詔を奉じて楊駿の官位を剥奪し、邸宅での待機を命じた。東安公繇(司馬繇)は殿中の四百人を率いてその後ろに随って楊駿討伐の兵を挙げた。段広が跪いて恵帝に、「楊駿は先帝から恩を受け、心を尽くして輔政しています。しかも彼には子がおらず、(社稷の簒奪という)反乱をする理由がありません。どうか陛下は再考なさりませ」と言った。恵帝は答えなかった。
このとき楊駿は曹爽の故府におり、武庫の南であったが、廷内で変事があると聞き、衆官を召して議論した。太傅主簿の朱振は楊駿に説いて、「いま廷内で変事があるかは、赴けば知ることができます、きっと宦官が賈后とともに謀略を設けたのであり、あなたは不利な状況です。雲龍門を焼いて威勢を示し、謀反を企んだ者の首を要求し、万春門を開き、東宮及び外営の兵を率いて、あなた自ら皇太子を担ぎあげ、宮殿に入って姦人を捕らえなさい。宮殿内は震え懼れ、きっと首を斬って送ってきますから、この危難を乗り切ることができるでしょう」と言った。楊駿はもともと怯懦なので、決断せず、「魏の明帝が大動員して建てたものを、どうして焼いてよいものか」と言った。侍中の傅祗は夜に楊駿に提言し、武茂とともに雲龍門に入って事勢を観察してきますと言った。傅祗は群僚に、「宮中を手薄にしてはいけません」と言い、立って礼をして、こうして皆が逃げてしまった。
ほどなく殿中の兵が出撃し、楊駿の府(役所)を焼き、弩士を閣上に配備して楊駿の府を狙って射撃したので、楊駿の兵は誰も出られなくなった。楊駿は馬廐に逃げたところを、戟で殺された。孟観らは賈后の密旨を受け、楊駿に親しい連中を誅殺し、すべて夷三族とし、死者は数千人にのぼった。さらに李肇に楊駿の家の私書を焼かせて、賈后は武帝の顧命の手詔が四海に知られぬようにした。楊駿が誅殺されると、あえて(遺骸を)収容する者はいなかったが、ただ太傅舍人である巴西の閻纂だけが収容した。
これより先、楊駿は高士の孫登を徴し、質素な衣服を贈った。孫登はこれを切って宮門にひっかけ、大声で、「切れ切れ刺せ刺せ」と叫んだ。十日ほどで(孫登は)病死したことにし(身を隠し)たが、楊駿が死んで、その呼び掛けは果たして現実のものとなった。永熙中(二九〇)、温県に狂ったような人がおり、文書を作って、「光光たる文長(楊駿)、大戟を連ねて壁を作った。毒薬を用いたが、戟が返って自分を傷つける」と言った。楊駿は内府に居するようになると、戟の兵を護衛とした。永寧初(三〇一-)、詔して曰く、「舅の家は道理を失い、宗族が失墜し、渭陽の思いは、とても悲しいことになった。そこで蓩亭侯の楊超を奉朝請・騎都尉とし、これにて蓼莪の思いを慰めよ」と言った。

原文

珧字文琚、歷位尚書令・衞將軍。素有名稱、得幸於武帝、時望在駿前。以兄貴盛、知權寵不可居、自乞遜位、前後懇至、終不獲許。初、聘后、珧表曰、歷觀古今、一族二后、未嘗以全、而受覆宗之禍。乞以表事藏之宗廟、若如臣之言、得以免禍。從之。右軍督趙休上書陳、王莽五公、兄弟相代。今楊氏三公、並在大位、而天變屢見、臣竊為陛下憂之。由此珧益懼、固求遜位、聽之、賜錢百萬・絹五千匹。
珧初以退讓稱、晚乃合朋黨、搆出齊王攸。中護軍羊琇與北軍中候成粲謀欲因見珧而手刃之。珧知而辭疾不出、諷有司奏琇、轉為太僕。自是舉朝莫敢枝梧、而素論盡矣。珧臨刑稱寃、云、事在石函、可問張華。當時皆謂宜為申理、合依1.(鍾繇)〔鍾毓〕事例。而賈氏族黨待諸楊如讎、促行刑者遂斬之、時人莫不嗟歎焉。

1.中華書局本に従い、「鍾繇」を「鍾毓」に改める。

訓読

珧 字は文琚、位尚書令・衞將軍を歷す。素より名稱有り、幸を武帝に得、時望 駿の前に在り。兄の貴盛なるを以て、權寵 居る可からざるを知り、自ら遜位を乞ひ、前後に懇至し、終に許を獲ず。初め、后を聘すとき、珧 表して曰く、「古今を歷觀するに、一族に二后あるは、未だ嘗て以て全せず、而して覆宗の禍を受く。乞ふらくは表事を以て之を宗廟に藏し、若し臣の言が如くんば、以て禍を免るるを得ん」と。之に從ふ。右軍督趙休 上書して陳べ、「王莽は五公、兄弟 相ひ代はる。今 楊氏は三公、並びに大位に在り、而して天變 屢々見はれ、臣 竊かに陛下の為に之を憂ふ」と。此に由り珧 益々懼れ、固く遜位を求め、之を聽し、錢百萬・絹五千匹を賜ふ。
珧 初め退讓を以て稱せられ、晚に乃ち朋黨を合はせ、搆へて齊王攸を出す。中護軍羊琇 北軍中候成粲と與に謀りて因りて珧に見えて之を手刃せんと欲す。珧 知りて辭疾して出でず、有司に諷して琇を奏し、轉じて太僕と為る。是自り朝を舉げて敢て枝梧する莫く、而して素論 盡く。珧 刑に臨みて寃を稱へ、云はく、「事 石函に在り、張華に問ふ可し」と。當時 皆 宜しく申理を為し、鍾毓の事例に合依すべしと謂ふ。而るに賈氏の族黨 諸楊を待すること讎が如く、行刑を促して遂に之を斬り、時人 嗟歎せざる莫し。

現代語訳

楊珧は字を文琚といい、位は尚書令・衛将軍を歴任した。ふだんから名声があり、武帝の目にとまり、当世の名望は楊駿に勝った。兄が高位にあり盛んなので、権勢に身を置くべきでないと思い、自ら官位返上を願い出て、前後に懇請したが、結局許されなかった。これより先、楊悼皇后が嫁ぐとき、楊珧は上表して、「古今を見渡しますと、一族から二人の皇后を輩出すれば、親族が保全された前例がなく、滅亡の禍いを受けてきました。どうか私の上表(免官の願い)を宗廟にしまっておき、もし私の言うとおりならば、災禍から見逃して下さい」と言った。これに従った。右軍督の趙休が上書して、「王莽は一族から五人の公を輩出し、兄弟が順番に継承をしました。いま楊氏は三人の公がおり、同時に高位にいるため、天体の異変がしばしば現れています、私は陛下のために心配をしています」と言った。これを聞いて楊珧はますます懼れ、より強く解任を求めたので、これが許され、銭百万・絹五千匹を賜った。
これ以前に楊珧は位を辞譲したので称えられたが、晩年に朋党と結託して、斉王を帰藩させる運動をした。中護軍の羊琇は北軍中候の成粲とともに謀って楊珧に会って刀で切りつけようと考えた。楊珧はこれを悟って病気を理由に引きこもり、担当官に羊琇(の悪事)を吹き込んで、太璞へと転任させた。これ以降は朝廷を挙げて敢えて(帰藩問題に)抵抗する者はおらず、率直な議論はなされなくなった。〔後年〕楊珧は刑を執行されるときに無罪を訴え、言うには、「ことは石の箱(宗廟のなか)にあるから、張華に確認してほしい」と言った。当時みな審理を尽くし、鍾毓の前例に依拠すべきと言った。しかし賈氏の族党は楊氏一族を仇敵のように憎んでおり、死刑執行を促して彼を斬ったので、嗟歎せぬ者はなかった。

原文

濟字文通、歷位鎮南・征北將軍、遷太子太傅。濟有才藝、嘗從武帝校獵北芒下、與侍中王濟俱著布袴褶、騎馬執角弓在輦前。猛獸突出、帝命王濟射之、應弦而倒。須臾復一出、濟受詔又射殺之、六軍大叫稱快。帝重兵官、多授貴戚清望、濟以武藝號為稱職。與兄珧深慮盛滿、乃與諸甥李斌等共切諫。駿斥出王佑為河東太守、建立皇儲、皆濟謀也。
初、駿忌大司馬汝南王亮、催使之藩。濟與斌數諫止之、駿遂疏濟。濟謂傅咸曰、若家兄徵大司馬入、退身避之、門戶可得免耳。不爾、行當赤族。咸曰、但徵還、共崇至公、便立太平、無為避也。夫人臣不可有專、豈獨外戚。今宗室疏、因外戚之親以得安、外戚危、倚宗室之重以為援、所謂脣齒相依、計之善者。濟益懼而問石崇曰、人心云何。崇曰、賢兄執政、疏外宗室、宜與四海共之。濟曰、見兄、可及此。崇見駿、及焉、駿不納。
後與諸兄俱見害。難發之夕、東宮召濟。濟謂裴楷曰、吾將何之。楷曰、子為保傅、當至東宮。濟好施、久典兵馬、所從四百餘人皆秦中壯士、射則命中、皆欲救濟。濟已入宮、莫不歎恨。

訓読

濟 字は文通、位鎮南・征北將軍を歷し、太子太傅に遷る。濟 才藝有り、嘗て武帝の北芒の下に校獵するに從ひ、侍中王濟と俱に布袴褶を著け、馬に騎りて角弓を執りて輦前に在り。猛獸 突出し、帝 王濟に之を射るを命じ、弦に應じて倒る。須臾にして復た一 出で、濟 詔を受けて又 之を射殺し、六軍 大いに叫びて稱快す。帝 兵官を重んじ、多く貴戚清望に授け、濟 武藝の號を以て職に稱へらる。兄珧と與に深く盛滿を慮り、乃ち諸甥李斌等と共に切諫す。駿 斥けて王佑を出して河東太守と為し、皇儲に建立するは、皆 濟が謀なり。
初め、駿 大司馬の汝南王亮を忌み、催して藩に之かしむ。濟 斌と數々之を諫止し、駿 遂に濟を疏んず。濟 傅咸に謂ひて曰く、「若し家兄 大司馬を徵して入れ、身を退きて之を避くれば、門戶 免るるを得可きのみ。爾らずんば、行(ゆく)々當に赤族すべし」と。咸曰く「但だ徵して還し、共に至公を崇べば、便ち太平を立て、避を為す無きなり。夫れ人臣 專有る可からざるは、豈に獨り外戚のみなるや。今 宗室は疏たれども、外戚の親に因りて以て安を得れば、外戚 危ふければ、宗室の重に倚りて以て援を為し、所謂 脣齒 相ひ依る、之を計ること善し」と。濟 益々懼れて石崇に問ひて曰く、「人心 云ふは何ぞ」と。崇曰く、「賢兄 執政し、宗室を疏外す、宜しく四海と之を共にせよ」と。濟曰く、「兄に見え、此に及ぶ可し」と。崇 駿に見え、焉に及び、駿 納れず。
後に諸兄と俱に害せらる。難 發するの夕、東宮 濟を召す。濟 裴楷に謂ひて曰く、「吾 將(は)た之を何とせん」と。楷曰く、「子 保傅為り、當に東宮に至るべし」と。濟 施を好み、久しく兵馬を典じ、從ふ所の四百餘人 皆 秦中の壯士なり、射れば則ち命中し、皆 濟を救はんと欲す。濟 已に宮に入り、歎恨せざる莫し。

現代語訳

楊済は字を文通といい、官位は鎮南・征北将軍を歴任し、太子太傅に遷った。才芸があり、かつて武帝が北芒山のふもとで校猟をすると付き従い、侍中の王済とともに布袴褶を着け、馬に乗って角弓を手にして武帝の輿の前にいた。猛獣が突然飛び出し、武帝は王済に射よと命じると、弦の音とともに倒れた。しばらくして二匹目が飛び出し、楊済は詔を受けてこれを射殺し、六軍は大いに快哉を叫んだ。武帝は兵官を重視し、多く貴戚や清流の名望家に(兵官を)授け、楊済は武芸の号により職務で称えられた。兄の楊珧とともに深く治世の充足について考え、諸甥の李斌らとともに厳しく(武帝を)諫めた。楊駿が王佑を地方に転出させて河東太守とし、皇太子が立ったのは、全て楊済の計画のおかげである。
これより先、楊駿は大司馬の汝南王亮(司馬亮)を忌み嫌い、帰藩せよと催促した。楊済は李斌と一緒にしばしば諫止したので、楊駿は楊済を疎んじるにようになった。楊済は傅咸に、「もし家兄(楊駿)が大司馬(司馬亮)を徴して政権に参加させ、身を退いて彼を避ければ、門戸(楊氏)は辛うじて存続できる。さもなくば、ゆくゆくは一族を皆殺しにされるだろう」と言った。傅咸は、「ただ(司馬亮を)徴して政権に復帰させ、協力して公の政治を実現し、太平の世をもたらせばよく、身を避ける必要はない。そもそも人臣が専権してはいけないのは、外戚だけに言えることではない(宗室の専権も好ましくない)。いま宗室が疎外されているが、外戚の近親によって(宗室が)安定を得るようになれば、外戚が危うくなれば、宗室の重鎮に助けてもらえるため、いわゆる唇歯の依存関係となり、これを目指すのが宜しい」と言った。楊済はますます懼れて石崇に質問し、「世論はどう思っているか」と言った。石崇は「賢兄(楊駿)が執政し、宗室を疎外しているが、四海と協調すべきだ」と言った。王済は「兄に会ってくれたら、実現するかも知れない」と言った。石崇が楊駿に会い、これに言及したが、楊駿は聞き入れなかった。
後に(楊済は)諸兄とともに殺害された。政難が起きた日の夕方、東宮が楊済を召した。楊済は裴楷に、「私はどうしたらよいか」と言った。裴楷は、「あなたは保傅(指導役)であり、東宮に行くしかない」と言った。楊済は施しを好み、長く兵馬をつかさどり、彼に従う四百余人はみな秦中(関中)の優れた兵士であった。弓を射れば必ず命中し、全員が楊済を救いたいと思った。楊済が東宮に入ってしまうと、歎き怨まぬ者はいなかった。

原文

史臣曰、賈充以諂諛陋質、刀筆常材、幸屬昌辰、濫叨非據。抽戈犯順、曾無猜憚之心。杖鉞推亡、遽有知難之請、非惟魏朝之悖逆、抑亦晉室之罪人者歟。然猶身極寵光、任兼文武、存荷台衡之寄、沒有從享之榮、可謂無德而祿、殃將及矣。逮乎貽厥、乃乞丐之徒、嗣惡稔之餘基、縱姦邪之凶德。煽茲哲婦、索彼惟家、雖及誅夷、曷云塞責。昔當塗闕翦、公閭實肆其勞、典午分崩、南風亦盡其力、可謂君以此始、必以此終、信乎其然矣。楊駿階緣寵幸、遂荷棟梁之任、敬之猶恐弗逮、驕奢淫泆、庸可免乎。括母以明智全身、會昆以先言獲宥、文琚識同曩烈、而罰異昔人、悲夫。
贊曰、公閭便佞、心乖雅正。邀遇時來、遂階榮命。乞丐承緒、凶家亂政。瑣瑣文長、遂居棟梁。據非其位、乃底滅亡。珧雖先覺、亦罹禍殃。

訓読

史臣曰く、賈充 諂諛の陋質、刀筆の常材を以て、幸に昌辰に屬し、非據に濫叨す〔一〕。戈を抽き順を犯し、曾て猜憚の心無し。鉞に杖き亡を推し、遽(すみ)やかに難を知るの請有り、惟だ魏朝の悖逆のみに非ず、抑々亦 晉室の罪人なる者か。然るに猶ほ身は寵光を極め、任は文武を兼ね、存して台衡の寄を荷ひ、沒して從享の榮有り、無德にして祿あらば、殃 將に及ばんと謂ふ可し。貽厥に逮び、乃ち乞丐の徒、惡稔の餘基を嗣ぎ、姦邪の凶德を縱にす。茲の哲婦を煽ぎ、彼惟の家に索(もと)め、誅夷せらるに及ぶと雖も、曷ぞ責を塞ぐと云はん。昔 當塗の闕翦〔二〕、公閭 實に其の勞を肆にす、典午 分崩し、南風 亦 其の力を盡くし、「君 此を以て始まれば、必ず此を以て終る〔三〕」と謂ふ可し、其れ然るを信ぜんか。楊駿 寵幸に緣りて階(はしご)し、遂に棟梁の任を荷ひ、之を敬するに猶ほ逮ばざるを恐れ、驕奢して淫泆し、庸ぞ免ず可きか。括が母 明智を以て身を全し〔四〕、會が昆 先言を以て宥ることを獲〔五〕、文琚 識は曩烈に同じく、而るに罰は昔人に異なる、悲しきかな。
贊に曰く、公閭 便ち佞なり、心 雅正に乖(そむ)く。時來に邀遇して、遂に榮命を階(はしご)す。乞丐 緒を承け、家を凶し政を亂す。瑣瑣たる文長、遂に棟梁に居す。據るに其の位に非ず、乃ち滅亡に底(いた)る。珧 先覺と雖も、亦 禍殃を罹る。

〔一〕非據は、分不相応の地位を占拠すること。『易経』繋辞下に「所據而據焉、身必危」とある。
〔二〕闕翦は、撃ち砕くこと。『春秋左氏伝』成公 傳十三年に「又欲闕翦我公室、傾覆我社稷」とある。
〔三〕『春秋左氏伝』宣公 傳十二年に「君以此始。亦必以終」とあり、出典。
〔四〕括は、趙括のこと。趙括は、戦国時代の趙の将軍。趙奢の子。藺相如の反対にも拘らず将軍に抜擢された。母は敗戦しても責任を問われないことを確認し、そののち秦に敗退した(『史記』巻八十一 廉頗藺相如列伝)。【211110追記】趙括に関わる現代語訳(赤字部分)を、Ukon @konkon_ukonさまのご指摘により修正しました。
〔五〕鍾会の兄、鍾毓を指す。本巻の楊珧伝に、鍾毓への言及がある。

現代語訳

史臣が言う、賈充は卑しき阿諛の素質と、刀筆の才能により、幸いにも盛世に活躍の場を得て、分不相応な地位をみだりに占拠した。武力行使をして道理を犯したが(高貴郷公を殺害し)、忌み畏れる心を持たなかった。節鉞を持って滅亡戦を進めると(呉王朝の平定)、速やかな危難到来を告げる請託(周勤の見た夢)があり、魏王朝に反逆しただけでなく、晋王朝滅亡の罪人でもあるのか。にも拘わらず身は寵愛を受けて栄光を極め、文武の官職を兼任し、生前は帝王の座の側近を務め、死後は子孫が盛んな祭祀を継承したのであり、無徳でありながら高い俸禄をもらえば、禍いが必ず及ぶと言うことができる。地位継承の際は、物乞いのような連中が、悪事の成果の余沢を受け嗣ぎ、姦邪の凶徳をほしいままにした。かの賢婦人をまどわせ、あちらとこちら二家と婚姻したが、一族が皆殺しになっても、悪事の責任を埋め合わせたと言えようか。むかし寿春を撃破するとき、公閭(賈充)は確かに功労を尽くしたが、典午(司馬氏)が分裂して崩壊するときも、賈南風がまた権力を尽くし、「王権の始まる要因と、終わる要因は同じである」と言うが、まさにその通りではないか。楊駿は武帝の特別な寵愛によって官位を上げ、とうとう政権の首班を担ったが、相応に尊敬されぬことを恐れ、驕慢と奢侈におぼれたので、助かるはずがない。趙括の母は明智のおかげで身を全うし、鍾会の兄は先に言ったおかげで困難を緩和できた、文琚(楊珧)の見識は往時に等しいが、受けた罰は先賢と異なった、悲しいことだと。
賛にいう、公閭(賈充)は佞幸であり、心は公正から懸け離れていた。(魏晋交替の)時期に遭遇し、とうとう繁栄の階段を登った。物乞いが家を継承したが、家に凶運に傾いて政治を乱した。度量のない文長(楊駿)は、政権の首班となった。不相応な地位におり、滅亡してしまった。楊珧は先見性があったが、同じように禍いを被ったと。