翻訳者:山田龍之
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魏舒、字陽元、任城樊人也。少孤、爲外家甯氏所養。甯氏起宅、相宅者云「當出貴甥。」外祖母以魏氏甥小而慧、意謂應之。舒曰「當爲外氏成此宅相。」久乃別居。身長八尺二寸、姿望秀偉、飲酒石餘、而遲鈍質朴、不爲鄉親所重。從叔父吏部郎衡、有名當世、亦不之知、使守水碓、每歎曰「舒堪數百戶長、我願畢矣。」舒亦不以介意。不修常人之節、不爲皎厲之事、每欲容才長物、終不顯人之短。性好騎射、著韋衣、入山澤、以漁獵爲事。唯太原王乂謂舒曰「卿終當爲台輔。然今未能令妻子免飢寒。吾當助卿營之。」常振其匱乏、舒受而不辭。
舒嘗詣野王、主人妻夜產、俄而聞車馬之聲。相問曰「男也、女也。」曰「男。」書之「十五以兵死。」復問「寢者爲誰。」曰「魏公舒。」後十五載、詣主人、問「所生兒何在」、曰「因條桑爲斧傷而死。」舒自知當爲公矣。
年四十餘、郡上計掾察孝廉。宗黨以舒無學業、勸令不就、可以爲高耳。舒曰「若試而不中、其負在我。安可虛竊不就之高以爲己榮乎。」於是自課、百日習一經、因而對策升第、除澠池長、遷浚儀令、入爲尚書郎。時欲沙汰郎官、非其才者罷之。舒曰「吾即其人也。」襆被而出。同僚素無清論者、咸有愧色、談者稱之。
累遷後將軍鍾毓長史。毓每與參佐射、舒常爲畫籌而已。後遇朋人不足、以舒滿數。毓初不知其善射。舒容範閑雅、發無不中、舉坐愕然、莫有敵者。毓歎而謝曰「吾之不足以盡卿才、有如此射矣、豈一事哉。」
轉相國參軍、封劇陽子。府朝碎務、未嘗見是非、至於廢興大事、眾人莫能斷者、舒徐爲籌之、多出眾議之表。文帝深器重之、每朝會坐罷、目送之曰「魏舒堂堂、人之領袖也。」
遷宜陽・滎陽二郡太守、甚有聲稱。徵拜散騎常侍、出爲冀州刺史、在州三年、以簡惠稱。入爲侍中。武帝以舒清素、特賜絹百匹。遷尚書、以公事當免官、詔以贖論。舒三娶妻皆亡、是歲自表乞假還本郡葬妻、詔賜葬地一頃、錢五十萬。
太康初、拜右僕射。舒與衞瓘・山濤・張華等以六合混一、宜用古典封禪東嶽、前後累陳其事、帝謙讓不許。以舒爲左僕射、領吏部。舒上言「今選六宮、聘以玉帛、而舊使御府丞奉聘、宣成嘉禮、贄重使輕。以爲拜三夫人宜使卿、九嬪使五官中郎將、美人・良人使謁者、於典制爲弘。」有詔詳之、眾議異同、遂寢。加右光祿大夫・儀同三司。
及山濤薨、以舒領司徒、有頃即真。舒有威重德望、祿賜散之九族、家無餘財。陳留周震累爲諸府所辟、辟書既下、公輒喪亡、僉號震爲殺公掾、莫有辟者。舒乃命之、而竟無患、識者以此稱其達命。
以年老、每稱疾遜位。中復暫起、署兗州中正、尋又稱疾。尚書左丞郤詵與舒書曰「公久疾小差、視事是也。唯上所念、何意起訖還臥、曲身迴法、甚失具瞻之望。公少立巍巍、一旦棄之、可不惜哉。」舒稱疾如初。
後以災異遜位、帝不聽。後因正旦朝罷還第、表送章綬。帝手詔敦勉、而舒執意彌固、乃下詔曰「司徒・劇陽子舒、體道弘粹、思量經遠、忠肅居正、在公盡規。入管銓衡、官人允敘、出贊袞職、敷弘五教。惠訓播流、德聲茂著、可謂朝之俊乂者也。而屢執沖讓、辭旨懇誠、申覽反覆、省用憮然。蓋成人之美、先典所與、難違至情。今聽其所執、以劇陽子就第、位同三司、祿賜如前。几杖・不朝、賜錢百萬、牀帳簟褥自副。以舍人四人爲劇陽子舍人、置官騎十人。使光祿勳奉策。主者詳案典禮、令皆如舊制。」於是賜安車駟馬、門施行馬。舒爲事必先行而後言、遜位之際、莫有知者。時論以爲晉興以來、三公能辭榮善終者、未之有也。司空衞瓘與舒書曰「每與足下共論此事、日日未果、可謂瞻之在前、忽焉在後矣。」太熙元年薨、時年八十二。帝甚傷悼、賵賻優厚、諡曰康。
子混、字延廣、清惠有才行、爲太子舍人。年二十七、先舒卒、朝野咸爲舒悲惜。舒每哀慟、退而歎曰「吾不及莊生遠矣。豈以無益自損乎。」於是終服不復哭。詔曰「舒惟一子、薄命短折。舒告老之年、處窮獨之苦、每念怛然、爲之嗟悼。思所以散愁養氣、可更增滋味品物。仍給賜陽燧四望繐牎戶皁輪車牛一乘、庶出入觀望、或足散憂也。」以庶孫融嗣、又早卒、從孫晃嗣。
魏舒、字は陽元、任城・樊の人なり。少くして孤にして、外家の甯氏の養う所と爲る。甯氏、宅を起つるに、相宅者云わく「當に貴甥を出だすべし」と。外祖母、魏氏の甥の小にして慧なるを以て、意に之に應ずと謂う。舒曰く「當に外氏の爲に此の宅相を成すべし」と。久しくして乃ち別居す。身長は八尺二寸、姿望は秀偉にして、酒を飲むこと石餘なるも、而れども遲鈍・質朴なれば、鄉親の重んずる所と爲らず。從叔父の吏部郎の衡、當世に名有るも、亦た之を知らず、水碓を守らしめ、每に歎じて曰く「舒、數百戶の長に堪えなば、我が願いは畢く」と。舒、亦た以て意に介さず。常人の節を修めず、皎厲の事を爲さず、每に才を容れ物を長ぜんと欲し、終に人の短を顯らかにせず。性、騎射を好み、韋衣を著、山澤に入り、漁獵を以て事と爲す。唯だ太原の王乂のみ、舒に謂いて曰く「卿、終に當に台輔と爲るべし。然るに今、未だ妻子をして飢寒を免れしむる能わず。吾、當に卿の之を營むを助くべし」と。常に其の匱乏を振い、舒、受けて辭せず。
舒、嘗て野王に詣るや、主人の妻、夜に產むに、俄かにして車馬の聲を聞く。相い問いて曰く「男なるか、女なるか」と。曰く「男なり」と。之に「十五にして兵を以て死す」と書す。復た問うらく「寢者は誰ならんや」と。曰く「魏公舒なり」〔一〕と。後十五載にして、主人に詣り、「生む所の兒は何に在りや」と問うに、曰く「條桑に因りて斧傷を爲して死す」と。舒、自ら當に公と爲るべきを知る〔二〕。
年四十餘にして、郡の上計掾、孝廉に察す。宗黨は舒に學業無きを以て、勸むらく、もし就かずんば、以て高しと爲すべきのみ、と。舒曰く「若し試して中らずんば、其の負は我に在り。安くんぞ虛しく不就の高を竊みて以て己が榮と爲さんや」と。是に於いて自ら課し、百日にして一經を習い、因りて對策して第に升り、澠池長に除せられ、浚儀令に遷り、入りて尚書郎と爲る。時に郎官を沙汰し、其の才に非ざる者は之を罷めんと欲す。舒曰く「吾、即ち其の人なり」と。被を襆みて出ず。同僚は素より清論ある者無ければ、咸な愧色有り、談者は之を稱す。
累りに遷りて後將軍の鍾毓の長史たり。毓、每に參佐と與に射するに、舒、常に畫籌を爲すのみ。後に遇々朋人足らず、舒を以て數を滿たす。毓、初め其の射を善くするを知らず。舒、容範は閑雅にして、發するに中らざる無く、舉坐は愕然とし、敵する者有る莫し。毓、歎じて謝して曰く「吾の以て卿の才を盡くすに足らず、此くの如きの射を有せるは、豈に一事ならんや」と。
相國參軍に轉じ、劇陽子に封ぜらる。府朝の碎務、未だ嘗つて是非を見さざるも、廢興の大事に至りては、眾人は能く斷ずる者莫きも、舒、徐ろに爲に之を籌り、多く眾議の表に出ず。文帝、深く之を器重し、朝會の坐の罷むる每に、之を目送して曰く「魏舒の堂堂たること、人の領袖なり」と。
遷りて宜陽・滎陽二郡太守たり、甚だ聲稱有り。徵されて散騎常侍を拜し、出でて冀州刺史と爲り、州に在ること三年、簡惠を以て稱せらる。入りて侍中と爲る。武帝、舒の清素なるを以て、特に絹百匹を賜う。尚書に遷り、公事を以て當に官を免ぜらるべきも、詔して贖を以て論ず。舒、三たび妻を娶るも皆な亡せ、是の歲、自ら假を乞いて本郡に還りて妻を葬せんことを表するに、詔して葬地一頃、錢五十萬を賜う。
太康の初め、右僕射を拜す。舒、衞瓘・山濤・張華等と與に、六合混一したれば、宜しく古典を用いて東嶽に封禪すべしと以い、前後累りに其の事を陳ぶるも、帝、謙讓して許さず。舒を以て左僕射と爲し、吏部を領せしむ。舒、上言すらく「今、六宮を選ぶに、聘するに玉帛を以てし、而して舊と御府丞を使わして聘を奉ぜしむるも、宣く嘉禮を成すに、贄は重く使は輕し。以爲えらく、三夫人を拜するに宜しく卿を使わし、九嬪は五官中郎將を使わし、美人・良人は謁者を使わし、典制に於いて弘と爲すべし」と。詔有りて之を詳らかにするに、眾議異同あれば、遂に寢む。右光祿大夫・儀同三司を加う。
山濤の薨ずるに及び、舒を以て司徒を領せしめ、頃く有りて真に即く。舒、威重德望有り、祿賜は之を九族に散じ、家に餘財無し。陳留の周震、累りに諸府の辟す所と爲るも、辟書既に下るや、公輒ち喪亡すれば、僉な震を號して殺公掾と爲し、辟す者有る莫し。舒、乃ち之に命じ、而るに竟に患無ければ、識者は此を以て其の達命を稱す。
年老いたるを以て、每に疾と稱して位を遜る。中に復た暫く起ち、兗州中正に署さるるや、尋いで又た疾と稱す。尚書左丞の郤詵、舒に書を與えて曰く「公は久しく疾みて小々差え、事を視るは是なり。唯だ上の念う所のままなるに、何ぞ意わんや、起ちて訖らば還りて臥し、身を曲げ法を迴げ、甚だ具瞻の望を失わんとは。公、少くして立つこと巍巍たるも、一旦にして之を棄つるは、惜しからざるべけんや」と。舒、疾と稱すること初めの如し。
後に災異を以て位を遜かんとするも、帝、聽さず。後に正旦の朝の罷むに因りて第に還り、表して章綬を送る。帝、手詔もて敦く勉ますも、而れども舒は意を執ること彌々固ければ、乃ち詔を下して曰く「司徒・劇陽子の舒、道を體し粹を弘め、思量は遠きを經め、忠肅にして正に居り、公に在りて規を盡くす。入りては銓衡を管り、官人は允敘せられ、出でては袞職を贊け、敷く五教を弘む。惠訓は播流し、德聲は茂著たり、朝の俊乂なる者と謂うべきなり。而して屢々沖讓を執り、辭旨は懇誠にして、申ねて覽ること反覆し、省るに用て憮然とす。蓋し人の美を成すは、先典の與する所にして、至情に違い難し。今、其の執る所を聽し、劇陽子を以て第に就かしめ、位は三司に同くし、祿賜は前の如し。几杖ありて朝せず、錢百萬、牀帳・簟褥を賜いて自ら副わしむ。舍人四人を以て劇陽子舍人と爲し、官騎十人を置く。光祿勳をして策を奉ぜしむ。主者は詳かに典禮を案じ、皆な舊制の如くせしめよ」と。是に於いて安車駟馬を賜い、門は行馬を施す。舒、事を爲すに必ず行を先にし言を後にすれば、位を遜るの際、知る者有る莫し。時論以爲えらく、晉の興りて以來、三公の能く榮を辭して終わりを善くする者、未だ之れ有らざるなり、と。司空の衞瓘、舒に書を與えて曰く「每に足下と共に此の事を論じ、日日未だ果たさざるに、之を瞻るに前に在り、忽焉として後に在ると謂うべし」と。太熙元年、薨ず。時に年は八十二。帝、甚だ傷悼し、賵賻すること優厚にして、諡して康と曰う。
子の混、字は延廣、清惠にして才行有り、太子舍人と爲る。年二十七にして、舒に先んじて卒し、朝野は咸な舒の爲に悲惜す。舒、哀慟する每に、退きて歎じて曰く「吾、莊生の遠に及ばず〔三〕。豈に無益を以て自ら損わんや」と。是に於いて服を終うれば復た哭せず。詔して曰く「舒は惟だ一子あるのみなるも、薄命にして短折す。舒の老を告ぐるの年、窮獨の苦に處り、每に念うに怛然たり、之が爲に嗟悼す。愁いを散じ氣を養う所以を思い、更に滋味の品物を增すべし。仍お陽燧・四望・繐牎戶・皁輪の車牛一乘を給賜す。出入して觀望すれば、或いは憂いを散ずるに足るに庶からん」と。庶孫の融を以て嗣がしむるも、又た早くに卒したれば、從孫の晃嗣ぐ。
〔一〕この場合の「公」は、三公などの諸公の位にある者に対する尊称である。また、人の名前を示す際に、たとえば豫州牧の劉備を「劉豫州備」のように呼ぶ場合があった。要するに「魏公舒」というのは、まるで魏舒が諸公の位にあるかのような物言いであったということである。
〔二〕先の予言では、その息子は「十五にして兵を以て死す」とあった。「兵」には、兵士や軍隊、戦争という意味のほかに、兵器や武器という意味もある。十五年後、その息子が武器としても使われる斧によってケガをし、それにより死んだというのは、まさに予言に合致している。つまり、例の車馬の人々が魏舒を諸公扱いした、すなわち魏舒が諸公の位に登るということも、同様に実現するものであると確信したということである。なお、このエピソードについては、孫盛『晋陽秋』などにも見える。
〔三〕『荘子』外篇・至楽に、妻が死んだ際の荘子について、次のような話が見える。恵子が弔いにやってくると、荘子は盆を打って歌っていた。長く連れ添ってきた妻が死んだのに、泣かないだけならまだしも、盆を打って歌うなどとはあんまりではないかとたしなめた恵子に対し、荘子は次のように語った。すなわち、荘子も最初は悲しくて泣いていたが、ただよくよく考えてみると、生物が生まれて死に、有と無の間を行き来するのは、春夏秋冬の循環と同じであり、そもそも天地という巨大な部屋の中で安らかに眠ろうとしている者に対し、哭礼を行って大声で泣きわめくようなことをするのは、天命に通達しているとは言えないから、そこで泣くのをやめた、と。
魏舒(ぎじょ)は、字を陽元と言い、任城国・樊の人である。子どもの頃に父を失い、母方の甯氏の家で養われた。甯氏が家宅を建てた際、相宅者(家相を見る相者)が言った。「この家からは貴甥(高貴な身になる異姓の甥)が輩出されるでしょう」と。外祖母は、魏氏の甥が幼少でありながら智慧があるので、心の中でその予言は魏舒のことを指しているのだと考えた。そこで魏舒は言った。「外氏(母方の一族)のために、この家宅に関する予言を実現してみせましょう」と。しばらくすると別居するようになった。身長は八尺二寸(約198㎝)になり、その優美な容貌は抜きんでて秀でており、一度に一石余り(一石は約26㎏)の酒を飲むことができたが、しかしのろまでかつ純朴であったので、郷里の人々や親戚たちに重んじられなかった。従叔父である吏部郎の魏衡(ぎこう)は、当時有名であったが、彼もまた魏舒のことを理解しておらず、水碓(水力を利用して穀物を挽く臼)の管理を魏舒に任せ、常に嘆いて言った。「魏舒が数百戸の県長の任を果たせれば、私はそれ以上願うことはない」と。魏舒は、それもまた意に介さなかった。魏舒は常人の節義を修めることをせず、高潔であることを心掛けることもせず、いつも才人に寛容で、人々の長所を伸ばそうとし、生涯を通じて他人の短所をあばくようなことをしなかった。性格としては、騎射を好み、韋衣(なめし皮の衣)を着て山沢に入っては、漁や猟をして生計を立てていた。ただ太原の王乂(おうがい)のみが、(魏舒の才徳を見抜いて)次のように魏舒に言った。「そなたは、きっと最終的に三公になるであろう。しかし、今は寒さや飢えから妻子を守ることすらもできていない。そこで私が、そなたが妻子を養って暮らしを立てるのを援助しよう」と。そうして常に魏舒の家の困窮を救うようになり、魏舒の方でもそれを断ることなく受け取った。
魏舒がかつて(河内郡の)野王の地を訪れた際、泊まった先の宿の主人の妻がちょうどその夜に子どもを出産したが、その後まもなく(夜であるにもかかわらず)車馬が通り掛かる音が聞こえた。(その車馬の人たちの会話を聞くと)片方の人物がもう片方の者に問うて言うには「(生まれた子どもは)男か、女か」と。もう片方の者は答えた。「男です」と。するともう片方の人物は「十五歳になったら『兵』によって死ぬ」と書きとめた。その人物がさらに問うには「あちらで寝ている者は誰か」と。もう片方の者は答えた。「魏公、諱は舒です」と。その十五年後、魏舒がその宿を訪れた際に、「あのとき生まれた息子はどこにいるのか」と問うと、宿の主人は「採桑している際に誤って斧でケガをしてしまい、それにより死んでしまいました」と答えた。そこで魏舒は、自分がきっと諸公の位に登るということを確信した。
四十数歳で、任城郡の上計掾が魏舒を孝廉に推挙した。親戚たちや郷里の仲間たちは、魏舒は学業を修めていないからとして、もし孝廉の察挙に応じなければ、それによって高潔であることを示すことができる、と魏舒に勧めた。魏舒は言った。「もし試験を受けて合格できなければ、その責任は私にあります。どうして察挙に応じないことが高潔だとして無駄に名声をかすめ取るようなまねをし、そうして自分の栄誉とするようなことができましょうか」と。そこで自ら課題を定め、百日でとにかく一経について習得し、それによって試験を受け、策問に答えて及第し、澠池県の県長に任命され、やがて浚儀県の県令に昇進し、さらに中央に入って尚書郎に任じられた。時に尚書郎のリストラが行われ、その才能にふさわしくない者を罷免することとなった。魏舒は言った。「私こそがそのような(リストラされるべき)人物でありましょう」と。そこで衣服をふろしきに包んで出て行った。同僚たちには、もとから高潔な評判のある者がおらず、そのためみな魏舒のこの行いに対して自らを恥じ、世の論者は魏舒のことを称えた。
何度も昇進して後将軍の鍾毓(しょういく)の長史となった。鍾毓はいつも属僚たちと一緒に射の競技を行っていたが、そのたびに魏舒はいつも得点の計算をするだけで参加しなかった。後にたまたま仲間内の参加人数が足りなくなり、魏舒を参加させてその数を満たした。鍾毓は初め、魏舒が射を得意としていることを知らなかった。魏舒は上品で優雅な姿勢を保ち、放った矢はすべて命中し、その場にいる者はみな驚愕し、かなう者はいなかった。鍾毓は、賛嘆して謝って言った。「私は、そなたの才能を知り尽くすことができておらず、まさかこのような射の腕前があるなどとは思わなかったが、このようなこと(=私の知らないそなたの才能)はきっとこの一事のみではあるまい」と。
やがて(司馬昭の)相国府の参軍に転任し、劇陽子(劇陽県を封邑とする子爵)に封ぜられた。相国府や晋王国府の些事に関しては、魏舒はその是非について意見を示さなかったが、興廃に関わる大事に関しては、多くの人々が判断しかねることであっても、魏舒はおもむろに司馬昭のために計策を練り、その多くは人々の議論の意表を突くものであった。文帝(司馬昭)は魏舒を高く評価して深く重んじ、朝(朝儀・朝議)や会(元会などの諸会)がお開きになった際には、いつも魏舒の退出する様子をじっと見届け、そして言った。「魏舒の堂々としている様子は、まさに人々の領袖であると言うべきものである」と。
また昇進して宜陽太守、滎陽太守を歴任し、非常に評判が高かった。やがて徴召されて散騎常侍を拝命し、地方に出て冀州刺史となり、冀州に在ること三年、寛大で恩恵深い政治によって称賛された。さらに中央に入って侍中となった。(西晋時代に入って)武帝(司馬炎)は、魏舒が清廉であるからとして、特別に百匹の絹を賜わった。尚書に昇進し、その後、公務に関して罪に問われ、官職を罷免されることになったが、武帝は詔を下して(罷免の代わりに)贖罪に当てることにした。魏舒は、(妻が亡くなってはまた娶るということを繰り返し、)三人の妻を娶ったが、この年、三人目の妻も亡くなり、自ら休暇を乞うて本郡に帰って妻の葬儀を行いたいと上表したところ、詔が下されて一頃の葬地と、五十万銭を賜わった。
太康年間の初め、尚書右僕射を拝命した。魏舒は、衛瓘(えいかん)・山涛(さんとう)・張華らと一緒に、天下が統一されたため、古典を用いて東岳(泰山)で封禅の儀式を行うべきだと考え、前後何度もその事を述べたが、武帝は謙遜してそれを許可しなかった。やがて武帝は魏舒を尚書左僕射とし、吏部尚書を兼任させた。その頃、魏舒は次のように上言した。「今、後宮の宮女を選ぶに当たっては、玉帛を贈り物とし、そして旧来は御府丞を使者としてその贈り物を奉じて迎えに行かせておりましたが、これではあまねく嘉礼を成就するにしては、進物の価値が重く、使者の価値が軽く、釣り合いが取れていません。思いますに、三夫人(貴人・夫人・貴嬪)を拝命するに当たっては卿を使者とし、九嬪(淑妃・淑媛・淑儀・修華・修容・修儀・婕妤・容華・充華)の場合には五官中郎将を使者とし、美人・良人の場合は謁者を使者とし、そうして制度の中に組み込んで盛大なものとするべきでございます」と。詔が下されてこのことについて慎重に検討させたところ、多くの意見が出て異同が錯綜したので、そこでその議論をやめにした。その後、魏舒は右光禄大夫・儀同三司の位を加えられた。
山涛が薨去すると、魏舒に司徒を兼任させ、しばらくして後に本官としての真正の司徒に任じた。魏舒は、威厳と徳望があり、俸禄や賜与品は九族に分け与え、自分の家には余分な財産を残さなかった。ところで、陳留の人である周震は、これまで何度も諸公府に辟召されたが、辟召の書が下るたびに、その後まもなくその辟召の書を発した諸公が死去したので、(その縁起の悪さから)みな周震を「殺公掾」と呼ぶようになり、それ以来、周震を辟召する者はいなかった。魏舒が司徒になると、そこでようやく周震はその辟召を受けて任用されることとなったが、結局魏舒には何の害も無かったので、それにより有識者たちは、魏舒は天命を知っているとして称賛した。
やがて魏舒は年老いたからとして、常に病と称し、位を退きたいと申し出るようになった。しかし、途中でまたしばらく病床から起き上がり、兗州中正を兼任することになると、まもなくまた病と称して病床に臥した。尚書左丞の郤詵(げきしん)は、魏舒に書を送って言った。「公は久しく病に臥せ、ただ少しその病状が回復したために職務を自ら執り行ったというのは、良いことでございます。あとのことはただ陛下のお心次第でございますのに、どうして思い至りましょうか、病床から起き上がって用事が済んだらまた病床に戻り(すなわち仮病を使い、都合のいい時だけ病が治ったことにして政務を行うというようなことをし)、身も法も曲げ、公を仰ぎ慕う人々の心をひどく失うようなことをされるとは。公は若い頃より高大な徳望をお立てになってきましたのに、それをある日突然こうも容易く放棄されるとは、何と惜しいことでございましょうか」と。しかし、魏舒は元通り病と称し続けた。
後に災異にかこつけて位を退こうとしたが、武帝は許さなかった。さらに後に、正月元旦の朝儀が終わるとそのまま私邸に帰り、上表して印綬を送付して返上した。武帝は、手詔(中書省や尚書台などを経由する通常の詔とは異なって皇帝直々に下す詔)により懇ろに励ましたが、しかし魏舒の意志はますます固くなっていったので、そこで詔を下して言った。「司徒・劇陽子の魏舒は、道を踏み行って純粋さを押し広め、その思慮により遠大な謀略を立て、忠実・恭敬で正道を踏み行い、公務に臨んで計策を尽くした。内では官員の人事をつかさどり、官人たちは適切な評価を受けて位を授かり、外では三公の職を担って政治を補佐し、あまねく五教を広大なものにした。その恵み深き教訓は天下に広まり、その徳望は顕著であり、まさに朝廷の中でも特に才徳の傑出した人物であると言うべきであろう。しかもしばしば謙譲の姿勢を示し、その言葉は懇切かつ誠実で、魏舒が上奏するたびに朕はその上奏文を何度も読み返し、そういうことを何度も繰り返し、今でもそれを省みるたびにはっとさせられる。思うに、人の美徳を達成させるというのは、上古の典籍でも称えられていることであり、(魏舒の引退したいという)真心に違うのは難しいものである。今、その要望を許し、劇陽子の位で洛陽の私邸に身を置かせることとし、位は三公と同等とし、俸禄や賜与品はこれまで通り(=司徒であったときと同じように)給付する。几(ひじかけ)と杖を賜与し、また、朝見しなくとも良いという特権を与え、さらに牀帳(カーテン付きのベッド)とそこに敷く敷物を賜与し、自らの生活の助けとさせることにする。その国には舎人を四人置いて劇陽子舍人とし、また官騎を十人置くこととする。そして光禄勲にその策文を奉じさせることとする。担当者は礼の制度をよく調べ、(その他の賜与品・優待の礼など)いずれも旧制に沿うようにせよ」と。そこで四頭立ての安車(座って乗る車)を賜い、その門には行馬(人馬通行止めのための木の柵)が施されることとなった。魏舒は、事を行う際には必ずまず行動し、言葉にするのは後回しにしたので、位を退いた際には、周囲の者は誰もそのことを知らなかった。当時の世論では、晋が建国されて以来、三公の中でもこのように栄誉を辞退して終わりを良くすることができた者は、これまでいなかった、と評された。司空の衛瓘は、魏舒に書を送って言った。「いつも足下とともにこのこと(=引退の時機)を論じておりながら、日々それを実行に移すことができずにいたが、まさに『前にいたかと思えば、いつの間にか後ろにいる(というように感じるほど、その徳の高みは捉えがたいものである)』(『論語』子罕篇)と言うべきものである」と。太熙元年(二九〇)、魏舒は薨去した。時に八十二歳であった。武帝は非常に哀しみ悼み、非常に手厚く葬送品を贈り、「康子」という諡号を授けた。
息子の魏混は字を延広と言い、清廉で智慧があり、才智と徳行を兼ね備え、太子舍人に任じられた。二十七歳で魏舒に先立って死去し、朝廷の人々も在野の人々もみな魏舒のために悲しみ惜しんだ。魏舒は、魏混のために哀悼・慟哭の礼を行うたびに、退出してから嘆いて言った。「私は、荘生(荘子)の深遠さには及ばない。どうして無益なことをして自らを損なうようなまねをすべきであろうか」と。そうして、喪服の期間が終わったらもう哭礼を行うのをやめた。その後、武帝は詔を下して言った。「魏舒には息子が一人しかいなかったが、薄命で夭折してしまった。魏舒が年老いて引退した年、彼はまさに孤独の苦しみの中に身を置いており、朕はそのことを思い起こすたびに心が痛み、魏舒のために悲しみ嘆いた。憂さを晴らし、英気を養うためにはどうすればよいかと考え、美味な品物をさらに増やして賜与するのが良いという考えに至った。それに加え、陽燧車・四望車・繐牎戸車・皁輪車などの牛車を一乗ずつ賜与する。様々なところに出入りし、景色を眺望すれば、あるいは憂さを晴らすことができるかもしれない」と。庶孫(庶出の孫)の魏融に爵位を嗣がせたが、彼もまた早くに死去してしまったので、魏舒の従孫の魏晃(ぎこう)が爵位を嗣いだ。
李憙、字季和、上黨銅鞮人也。父佺、漢大鴻臚。憙少有高行、博學研精、與北海管寧以賢良徵、不行。累辟三府、不就。宣帝復辟憙爲太傅屬、固辭疾、郡縣扶輿上道。時憙母疾篤、乃竊踰泫氏城而徒還、遂遭母喪、論者嘉其志節。後爲并州別駕。時驍騎將軍秦朗過并州、州將畢軌敬焉、令乘車至閤。憙固諫以爲不可、軌不得已從之。
景帝輔政、命憙爲大將軍從事中郎、憙到、引見、謂憙曰「昔先公辟君而君不應、今孤命君而君至、何也。」對曰「先君以禮見待、憙得以禮進退。明公以法見繩、憙畏法而至。」帝甚重之。轉司馬、尋拜右長史。從討毋丘儉還、遷御史中丞。當官正色、不憚強禦、百僚震肅焉。薦樂安孫璞、亦以道德顯、時人稱爲知人。尋遷大司馬、以公事免。
司馬伷爲寧北將軍、鎮鄴、以憙爲軍司。頃之、除涼州刺史、加揚威將軍、假節、領護羌校尉、綏御華夷、甚有聲績。羌虜犯塞、憙因其隙會、不及啓聞、輒以便宜出軍深入、遂大克獲、以功重免譴、時人比之漢朝馮・甘焉。於是請還、許之。居家月餘、拜冀州刺史、累遷司隸校尉。
及魏帝告禪于晉、憙以本官行司徒事、副太尉鄭沖奉策。泰始初、封祁侯。
憙上言「故立進令劉友・前尚書山濤・中山王睦・故尚書僕射武陔各占官三更稻田、請免濤・睦等官。陔已亡、請貶諡。」詔曰「法者、天下取正、不避親貴、然後行耳。吾豈將枉縱其間哉。然案此事皆是友所作、侵剝百姓、以繆惑朝士。姦吏乃敢作此、其考竟友以懲邪佞。濤等不貳其過者、皆勿有所問。易稱『王臣蹇蹇、匪躬之故』。今憙亢志在公、當官而行、可謂『邦之司直』者矣。光武有云『貴戚且斂手以避二鮑』、豈其然乎。其申敕羣僚、各慎所司、寬宥之恩、不可數遇也。」憙爲二代司隸、朝野稱之。以公事免。
其年、皇太子立、以憙爲太子太傅。自魏明帝以後、久曠東宮、制度廢闕、官司不具、詹事・左右率・庶子・中舍人諸官並未置、唯置衞率令典兵、二傅幷攝眾事。憙在位累年、訓道盡規。
遷尚書僕射、拜特進・光祿大夫、以年老遜位。詔曰「光祿大夫・特進李憙、杖德居義、當升台司、毗亮朕躬、而以年尊致仕。雖優游無爲、可以頤神、而虛心之望、能不憮然。其因光祿之號、改假金紫、置官騎十人、賜錢五十萬、祿賜班禮、一如三司、門施行馬。」
初、憙爲僕射時、涼州虜寇邊、憙唱義遣軍討之。朝士謂出兵不易、虜未足爲患、竟不從之。後虜果大縱逸、涼州覆沒、朝廷深悔焉。以憙清素貧儉、賜絹百匹。及齊王攸出鎮、憙上疏諫爭、辭甚懇切。
憙自歷仕、雖清非異眾、而家無儲積、親舊故人乃至、分衣共食、未嘗私以王官。及卒、追贈太保、諡曰成。子贊嗣。
少子儉、字仲約、歷左積弩將軍・屯騎校尉。儉子弘、字世彥、少有清節、永嘉末、歷給事黃門侍郎・散騎常侍。
李憙、字は季和、上黨・銅鞮の人なり。父の佺、漢の大鴻臚なり。憙、少くして高行有り、博學にして研精し、北海の管寧と與に賢良を以て徵さるるも、行かず。累りに三府に辟さるるも、就かず。宣帝、復た憙を辟して太傅屬と爲すに、疾と固辭するも、郡縣は輿に扶りて上道せしむ。時に憙の母は疾篤ければ、乃ち竊かに泫氏城を踰ゆるに徒にて還り、遂に母の喪に遭えば、論者は其の志節を嘉す。後に并州別駕と爲る。時に驍騎將軍の秦朗は并州を過り、州將の畢軌、焉を敬い、車に乘せて閤に至らしめんとす。憙、固く諫めて以て不可と爲せば、軌は已むを得ずして之に從う。
景帝、輔政するや、憙を命じて大將軍從事中郎と爲し、憙到るや、引見し、憙に謂いて曰く「昔、先公は君を辟すも君は應ぜざるに、今、孤、君を命ずるに君至るは、何ぞや」と。對えて曰く「先君は禮を以て見(われ)を待すれば、憙は禮を以て進退するを得たり。明公は法を以て見を繩すれば、憙は法を畏れて至る」と。帝、甚だ之を重んず。司馬に轉じ、尋いで右長史を拜す。毋丘儉を討つに從いて還り、御史中丞に遷る。官に當たりて色を正し、強禦を憚らず、百僚は震肅たり。樂安の孫璞を薦むるに、亦た道德を以て顯るれば、時人は稱して人を知ると爲す。尋いで大司馬に遷るも〔一〕、公事を以て免ぜらる。
司馬伷の寧北將軍と爲り、鄴に鎮するや、憙を以て軍司と爲す。之を頃くして、涼州刺史に除せられ、揚威將軍を加えられ、節を假され、護羌校尉を領し、華夷を綏御し、甚だ聲績有り。羌虜の塞を犯すや、憙、其の隙會に因り、啓聞するに及ばず、輒りに便宜を以て軍を出だして深く入り、遂に大いに克獲し、功の重きを以て譴を免れ、時人は之を漢朝の馮・甘に比す。是に於いて還らんことを請い、之を許さる。家に居ること月餘にして、冀州刺史を拜し、累りに遷りて司隸校尉たり。
魏帝の禪を晉に告ぐるに及び、憙は本官を以て司徒の事を行し、太尉の鄭沖に副たりて策を奉ず。泰始の初め、祁侯に封ぜらる。
憙、上言すらく「故の立進令の劉友、前の尚書の山濤、中山王の睦、故の尚書僕射の武陔は、各々官の三更の稻田を占したれば、請うらくは濤・睦等の官を免じ、陔は已に亡せたれば、請うらくは諡を貶されんことを」と。詔して曰く「法なる者は、天下正しきを取れば、親貴を避けず、然る後に行うのみ。吾、豈に將に其の間に枉縱せんとせんや。然るに此の事を案ずるに皆な是れ友の作す所にして、百姓を侵剝し、以て朝士を繆惑す。姦吏乃ち敢えて此を作せば、其れ友を考竟して以て邪佞を懲らさん。濤等は其の過ちを貳びせざる者なれば、皆な問う所有る勿かれ。易に稱すらく『王臣蹇蹇として、躬の故に匪ず』と。今、憙は志を亢げて公に在り、官に當たりて行えば、『邦の司直なり』なる者と謂うべし。光武に『貴戚は且く斂手して以て二鮑を避けよ』と云える有るは、豈に其れ然らんや。其れ羣僚に申敕し、各々司る所を慎ましめ、寬宥の恩、數々は遇すべからざるなり」と。憙、二代の司隸と爲り、朝野は之を稱す。公事を以て免ず。
其の年、皇太子立つや、憙を以て太子太傅と爲す。魏の明帝より以後、久しく東宮を曠しくしたれば、制度は廢闕し、官司は具わらず、詹事・左右率・庶子・中舍人の諸官は並びに未だ置かれず、唯だ衞率令を置きて兵を典らしめ、二傅もて幷びに眾事を攝めしむるのみ。憙、位に在ること累年、訓道して規を盡くす。
尚書僕射に遷り、特進・光祿大夫を拜し、年老いたるを以て位を遜る。詔して曰く「光祿大夫・特進の李憙、德に杖り義に居り、當に台司に升り、朕の躬を毗亮すべきに、而るに年尊なるを以て致仕す。無爲に優游し、以て神を頤うべしと雖も、而れども虛心の望、能に憮然たらざらんや。其れ光祿の號に因りて、改めて金紫を假し、官騎十人を置き、錢五十萬を賜い、祿賜班禮は、一に三司の如くし、門は行馬を施せ」と。
初め、憙の僕射たりし時、涼州の虜、邊に寇したれば、憙、義を唱えて軍を遣わして之を討たんとす。朝士は出兵は易からず、虜は未だ患と爲に足らずと謂い、竟に之に從わず。後に虜は果たして大いに縱逸たり、涼州は覆沒し、朝廷は深く焉を悔ゆ。憙の清素貧儉なるを以て、絹百匹を賜う。齊王攸の鎮に出ずるに及び、憙は上疏して諫爭し、辭は甚だ懇切たり。
憙、仕を歷てより、清きこと眾と異なるに非ずと雖も、而れども家に儲積無く、親舊故人の乃ち至らば、衣を分け食を共にし、未だ嘗て私するに王官を以てせず。卒するに及び、太保を追贈し、諡して成と曰う。子の贊、嗣ぐ。
少子の儉、字は仲約、左積弩將軍・屯騎校尉を歷たり。儉の子の弘、字は世彥、少くして清節有り、永嘉の末、給事黃門侍郎・散騎常侍を歷たり。
〔一〕ここで李憙が大司馬となったというのは、状況からしておかしい。そもそも李憙にはそのようなキャリアはまだ無いし、大司馬というと司馬師・司馬昭よりも上位に立つことになってしまう。そこで労格『晋書校勘記』では、「大司馬」の字の下に脱文があると見なしている。ただ、そもそも当時、大司馬に就任していた人物はおらず、真相は不明である。あるいは再び「大将軍司馬」、すなわち大将軍府の司馬となったと記されていたのが、そのうちの「将軍」の字が脱落したのかもしれない。
李憙(りき)は、字を季和と言い、上党郡・銅鞮の人である。父の李佺(りせん)は、漢の大鴻臚にまで登った。李憙は、若い頃から高尚な品行があり、博学で精義を究め、北海の人である管寧と一緒に賢良(察挙の科目の一つ)に推挙されて徴召されたが、それには応じなかった。その後も、三公たちの公府に何度も辟召されたが、就任しようとしなかった。(当時は太傅であった)宣帝(司馬懿)もまた、李憙を辟召して太傅属に任命しようとし、そのときも李憙は病と称して固辞したが、郡県の官吏たちは病を押してでもと無理やり李憙を輿に乗せて出発させた。時に李憙の母は病が重かったので、そこで李憙は(同じく上党郡の)泫氏城を過ぎた辺りでこっそり抜け出して徒歩で帰り、そうして母の臨終に立ち会うことができたので、世の論者はその志節を高く評価した。後に并州の別駕従事となった。時に驍騎将軍の秦朗が并州に立ち寄ったところ、州将(并州刺史)の畢軌(ひっき)は彼を敬い、車に乗せて閤まで招こうとした。しかし、李憙がそれはならないと固く諫めたので、畢軌はやむをえずそれに従った。
(当時は大将軍であった)景帝(司馬師)が輔政するようになると、李憙をその大将軍府の従事中郎に任じ、李憙が到着すると招き入れて面会し、次のように李憙に言った。「昔、我が父上は君を辟召したが、君は応じなかった。それなのに、今、私が任用したらやってきたのは、どういうことか」と。李憙は答えて言った。「父君は礼に従って私を待遇したので、私は礼に従って進退を決めることができました。ところが、あなたは法により私を束縛されようとしているので、私は法を畏れてやってきたのです」と。景帝は非常に李憙を重んじた。李憙はやがて(大将軍府の)司馬に転任し、まもなく(大将軍府の)右長史を拝命した。毋丘倹(ぶきゅうけん)を討伐する軍に従い、帰還すると御史中丞に昇進した。その官職を担うに当たっては厳粛な態度で臨み、権勢のある人物に対しても憚ることなく容赦をせず、百官はそれによって畏れ震えて粛然とした。さらに楽安の人である孫璞(そんはく)を推薦したところ、孫璞もまた道徳によって評判を得たので、時の人々は、李憙には人を見る目があると称賛した。まもなく大司馬(?)に昇進したが、公事に関することで罪を得て罷免された。
司馬伷(しばちゅう)が寧北将軍と爲り、鄴に鎮守すると、李憙を軍司に任じた。しばらくして、李憙は涼州刺史に任じられ、揚威将軍の官位を加えられ、節を授けられ、護羌校尉を兼任し、華人と夷人の双方をなだめ統御し、非常に高い評判と功績を上げた。羌賊が辺境の砦を侵犯すると、李憙はその機会を利用し、朝廷の指示を仰がず、独断専行して便宜的に出軍して深入りし、そのまま大いに勝利して首級や捕虜を獲得し、功績が大きいために(指示を仰がなかったことに対する)譴責を免れ、時の人々は李憙を漢朝の馮奉世(ふうほうせい)・甘延寿になぞらえた。そこで李憙は官職を返上して帰郷することを請い、朝廷はそれを許可した。一ヶ月あまり家にいた後、冀州刺史を拝命し、何度も昇進して司隷校尉となった。
魏帝(曹奐)が晋に禅譲することを告げる際には、李憙は本官(司隷校尉)の位にありながら司徒の任務を代行し、(正使である)太尉の鄭沖の副使として、策文を奉じた。(西晋の武帝の)泰始年間の初め、祁侯に封ぜられた。
李憙は上言した。「もと立進令の劉友、先の尚書の山涛(さんとう)、中山王睦(中山王の司馬睦)、もと尚書僕射の武陔(ぶがい)は、それぞれ官有の三更の稲田(三年に一度休耕させる稲田)を偽って申告して自分のものとしたので、どうか山涛および中山王睦の官職を罷免し、武陔はすでに死去しているので、代わりに諡号を貶めるようお願い申し上げます」と。すると次のような詔が下された。「法というものは、天下の人々がそれを規範とするものであるから、皇帝の親戚や親任している者が対象であってもその適用を避けるようなことはしてはならず、そうしてこそ施行されるべきものである。私はどうして、そのような者たちの間にだけ法を曲げて手心を加えるようなことをしようか。ただ、今回の事を調査してみると、これらはいずれも劉友のしわざであり(=劉友が山涛らの名を騙って行ったことであり)、人々を侵害して搾取し、そうして朝廷の士人たちを欺き惑わすことになってしまった。これは姦吏ならではの大それた悪業であるから、劉友を拷問してその罪を徹底的に追究し、そうして邪佞なる者どもを懲らしめ戒めよう。山涛らは、二度と同じ過ちを繰り返さない者であるので(今後はそのように利用されることはないであろうから)、いずれも罪に問うようなことはしてはならない。『易』には『王臣は忠義・中正を尽くし、自分のことではなく王室のことを考えて直言を呈する』(『易』蹇)とある。今、李憙は志を高く堅持して公務に勤め、その官に臨んで果たすべき職務を遂行しているので、まさに『邦の司直(直言して過ちを正す者)である』(『詩』鄭風・羔裘)というような者であると言うべきであろう。(後漢の光武帝の時代、司隷校尉の鮑永と、その部下の都官従事の鮑恢が、諸王や権力者を憚ることなく不正を検挙したことを踏まえて)光武帝は『貴戚(皇族や外戚)はしばらく何もせず、そうして二人の鮑氏を避けるが良い』と言ったが、まさにそれである。そこで官僚たちに勅命を下して戒め、それぞれ担当する職務を慎んで遂行させることにし、そして寛大な宥免の恩は、そう何回も下すことはならないものとする」と。李憙は、二代にわたって司隷校尉を務め、朝廷の人も在野の人も李憙のことを称賛した。やがて、公務に関して罪を得て、官を罷免された。
その年、皇太子が立てられると、李憙を太子太傅に任じた。魏の明帝以降、久しく東宮(皇太子)が置かれなかったので、制度は廃絶してしまい、そのときにはまだ官庁は完備されず、太子詹事・太子左衛率・太子右衛率・太子庶子・太子中舍人などの諸官はいずれもまだ置かれず、ただ衛率令を置いて兵士を管轄させ、太子太傅・太子少傅の二傅を置いて諸々の事務について兼務させるのみであった。李憙は、位にあること積年、太子を訓導して力を尽くして諫言した。
後に尚書僕射に昇進し、やがて特進・光禄大夫を拝命したが、年老いたからとして引退した。すると次のような詔が下された。「光禄大夫・特進の李憙は、徳に従い義を行い、まさに三公の位に登って朕の身を補佐するはずであったのに、その前に年老いたために引退してしまった。無為の日々を送ってのんびりと療養し、そうして精神を養うべきであるからとはいえ、その謙虚な願いを見るに及び、どうしてはっとさせられないことがあろうか。そこで、光禄大夫の号はそのままに、(通常の光禄大夫に授けられる銀印・青綬ではなく)改めて金印・紫綬を授け、官騎を十人置き、五十万銭を賜与し、俸禄や諸々の賜与品、班位や礼遇は、すべて三公と同様にし、その門には行馬(人馬通行止めのための木の柵)を施すこととせよ」と。
初め、李憙が尚書僕射であったとき、涼州の賊が辺境に侵攻したので、李憙は大義を首唱し、軍を派遣して討伐すべきであると主張した。朝廷の士人たちは、出兵はそうやすやすと行えるものではなく、賊はまだそこまで憂慮すべきものではないと言い、結局、李憙の意見に従わなかった。後に、賊は果たして大いに好き勝手に暴れ回り、涼州は潰滅し、朝廷は深くそのことを後悔した。また、李憙が清貧で質素倹約であるからとして、百匹の絹が賜与された。後に斉王・司馬攸(しばゆう)が出鎮することになると、李憙は上疏してそのことを直言して諫め、その言葉は非常に懇切であった。
李憙は、諸々の官職を歴任して以来、その清廉である様は多くの人々と特に異なることはなかったが、しかし、家には貯蓄がなく、昔馴染みや旧友がやってきた際には、衣服を分け与え、食事をともにし、一方で、一度も祁侯国の官吏(王官)を個人的に利用することは無かった。李憙が死去すると、太保の位が追贈され、「成侯」という諡号が授けられた。そして息子の李賛が爵位を嗣いだ。
李憙の少子の李倹は、字を仲約と言い、左積弩将軍、屯騎校尉を歴任した。李倹の子の李弘は、字を世彦と言い、若い頃から清らかな貞節があり、永嘉年間の末、給事黄門侍郎、散騎常侍を歴任した。
劉寔、字子真、平原高唐人也。漢濟北惠王壽之後也、父廣、斥丘令。寔少貧苦、賣牛衣以自給。然好學、手約繩、口誦書、博通古今。清身潔己、行無瑕玷。郡察孝廉、州舉秀才、皆不行。以計吏入洛、調爲河南尹丞、遷尚書郎・廷尉正。後歷吏部郎、參文帝相國軍事、封循陽子。
鍾會・鄧艾之伐蜀也、有客問寔曰「二將其平蜀乎。」寔曰「破蜀必矣、而皆不還。」客問其故、笑而不答、竟如其言。寔之先見、皆此類也。
以世多進趣、廉遜道闕、乃著崇讓論以矯之。其辭曰
古之聖王之化天下、所以貴讓者、欲以出賢才、息爭競也。夫人情莫不欲己之賢也、故勸令讓賢以自明賢也。豈假讓不賢哉。故讓道興、賢能之人不求而自出矣、至公之舉自立矣、百官之副亦豫具矣。一官缺、擇眾官所讓最多者而用之、審之道也。在朝之士相讓於上、草廬之人咸皆化之、推賢讓能之風從此生矣。爲一國所讓、則一國士也。天下所共推、則天下士也。推讓之風行、則賢與不肖灼然殊矣。此道之行、在上者無所用其心、因成清議、隨之而已。故曰「蕩蕩乎、堯之爲君、莫之能名。」言天下自安矣、不見堯所以化之、故不能名也。又曰「舜禹之有天下、而不與焉。」「無爲而化者其舜也歟。」賢人相讓於朝、大才之人恒在大官、小人不爭於野、天下無事矣。以賢才化無事、至道興矣。已仰其成、復何與焉。故可以歌南風之詩、彈五弦之琴也。成此功者非有他、崇讓之所致耳。孔子曰、能以禮讓爲國、則不難也。
在朝之人不務相讓久矣、天下化之。自魏代以來、登進辟命之士、及在職之吏、臨見受敘、雖自辭不能、終莫肯讓有勝己者。夫推讓之風息、爭競之心生。孔子曰「上興讓則下不爭」、明讓不興下必爭也。推讓之道興、則賢能之人日見推舉、爭競之心生、則賢能之人日見謗毀。夫爭者之欲自先、甚惡能者之先、不能無毀也。故孔墨不能免世之謗己、況不及孔墨者乎。議者僉然言、世少高名之才、朝廷不有大才之人可以爲大官者。山澤人・小官吏亦復云、朝廷之士雖有大官名德、皆不及往時人也。余以爲此二言皆失之矣。非時獨乏賢也、時不貴讓。一人有先眾之譽、毀必隨之、名不得成使之然也。雖令稷契復存、亦不復能全其名矣。能否混雜、優劣不分、士無素定之價、官職有缺、主選之吏不知所用、但案官次而舉之。同才之人先用者、非勢家之子、則必爲有勢者之所念也。非能獨賢、因其先用之資、而復遷之無已。遷之無已、不勝其任之病發矣。觀在官之人、政績無聞、自非勢家之子、率多因資次而進也。
向令天下貴讓、士必由於見讓而後名成、名成而官乃得用之。諸名行不立之人、在官無政績之稱、讓之者必矣、官無因得而用之也。所以見用不息者、由讓道廢、因資用人之有失久矣。故自漢魏以來、時開大舉、令眾官各舉所知、唯才所任、不限階次、如此者甚數矣。其所舉必有當者、不聞時有擢用、不知何誰最賢故也。所舉必有不當、而罪不加、不知何誰最不肖也。所以不可得知、由當時之人莫肯相推、賢愚之名不別、令其如此、舉者知在上者察不能審、故敢漫舉而進之。或舉所賢、因及所念、一頓而至、人數猥多、各言所舉者賢;加之高狀、相似如一、難得而分矣。參錯相亂、真偽同貫、更復由此而甚。雖舉者不能盡忠之罪、亦由上開聽察之路濫、令其爾也。昔齊王好聽竽聲、必令三百人合吹而後聽之、廩以數人之俸。南郭先生不知吹竽者也、以三百人合吹可以容其不知、因請爲王吹竽、虛食數人之俸。嗣王覺而改之、難彰先王之過、乃下令曰「吾之好聞竽聲有甚於先王、欲一一列而聽之。」先生於此逃矣。推賢之風不立、濫舉之法不改、則南郭先生之徒盈於朝矣。才高守道之士日退、馳走有勢之門日多矣。雖國有典刑、弗能禁矣。
夫讓道不興之弊、非徒賢人在下位、不得時進也、國之良臣荷重任者、亦將以漸受罪退矣。何以知其然也。孔子以爲顏氏之子不貳過耳、明非聖人皆有過。寵貴之地欲之者多矣、惡賢能者塞其路、其過而毀之者亦多矣。夫謗毀之生、非徒空設、必因人之微過而甚之者也。毀謗之言數聞、在上者雖欲弗納、不能不杖所聞、因事之來而微察之也、無以、其驗至矣。得其驗、安得不理其罪。若知而縱之、王之威日衰、令之不行自此始矣。知而皆理之、受罪退者稍多、大臣有不自固之心。夫賢才不進、貴臣日疏、此有國者之深憂也。詩曰「受祿不讓、至于已斯亡。」不讓之人憂亡不暇、而望其益國朝、不亦難乎。
竊以爲改此俗甚易耳。何以知之。夫一時在官之人、雖雜有凡猥之才、其中賢明者亦多矣、豈可謂皆不知讓賢爲貴邪。直以其時皆不讓、習以成俗、故遂不爲耳。人臣初除、皆通表上聞、名之謝章、所由來尚矣。原謝章之本意、欲進賢能以謝國恩也。昔舜以禹爲司空、禹拜稽首、讓于稷・契及咎繇、使益爲虞官、讓于朱虎・熊・羆、使伯夷典三禮、讓于夔・龍。唐虞之時、眾官初除、莫不皆讓也。謝章之義、蓋取於此。書記之者、欲以永世作則。季世所用、不賢不能讓賢、虛謝見用之恩而已。相承不變、習俗之失也。
夫敘用之官得通章表者、其讓賢推能乃通、其不能有所讓徒費簡紙者、皆絕不通。人臣初除、各思推賢能而讓之矣、讓之文付主者掌之。三司有缺、擇三司所讓最多者而用之。此爲一公缺、三公已豫選之矣。且主選之吏、不必任公而選三公、不如令三公自共選一公爲詳也。四征缺、擇四征所讓最多者而用之。此爲一征缺、四征已豫選之矣、必詳於停缺而令主者選四征也。尚書缺、擇尚書所讓最多者而用之。此爲八尚書共選一尚書、詳於臨缺令主者選八尚書也。郡守缺、擇眾郡所讓最多者而用之、詳於任主者令選百郡守也。
夫以眾官百郡之讓、與主者共相比、不可同歲而論也。雖復令三府參舉官、本不委以舉選之任、各不能以根其心也。其所用心者裁之不二三、但令主者案官次而舉之、不用精也。賢愚皆讓、百姓耳目盡爲國耳目。夫人情爭則欲毀己所不1.(知)〔如〕、讓則競推於勝己。故世爭則毀譽交錯、優劣不分、難得而讓也、時讓則賢智顯出、能否之美歷歷相次、不可得而亂也。當此時也、能退身修己者、讓之者多矣、雖欲守貧賤、不可得也。馳騖進趣而欲人見讓、猶卻行而求前也。夫如此、愚智咸知進身求通、非修之於己則無由矣。游外求者、於此相隨而歸矣。浮聲虛論、不禁而自息矣。人人無所用其心、任眾人之議、而天下自化矣。不言之化行、巍巍之美於此著矣。讓可以致此、豈可不務之哉。
春秋傳曰「范宣子之讓、其下皆讓。欒黶雖汰、弗敢違也。晉國以平、數世賴之。」上世之化也、君子尚能而讓其下、小人力農以事其上、上下有禮、讒慝遠黜、由不爭也。及其亂也、國家之弊、恒必由之。篤論了了如此。在朝君子・典選大官、能不以人廢言、舉而行之、各以讓賢舉能爲先務、則羣才猥出、能否殊別、蓋世之功、莫大於此。
泰始初、進爵爲伯、累遷少府。咸寧中爲太常、轉尚書。杜預之伐吳也、寔以本官行鎮南軍司。
初、寔妻盧氏生子躋而卒、華氏將以女妻之。寔弟智諫曰「華家類貪、必破門戶。」辭之不得、竟婚華氏而生子夏。寔竟坐夏受賂、免官。頃之爲大司農、又以夏罪免。
寔每還州里、鄉人載酒肉以候之。寔難逆其意、輒共啖而返其餘。或謂寔曰「君行高一世、而諸子不能遵。何不旦夕切磋、使知過而自改邪。」寔曰「吾之所行、是所聞見、不相祖習、豈復教誨之所得乎。」世以寔言爲當。
後起爲國子祭酒・散騎常侍。愍懷太子初封廣陵王、高選師・友、以寔爲師。元康初、進爵爲侯、累遷太子太保、加侍中・特進・右光祿大夫・開府儀同三司、領冀州都督。九年、策拜司空、遷太保、轉太傅。
太安初、寔以老病遜位、賜安車駟馬・錢百萬、以侯就第。及長沙・成都之相攻也、寔爲軍人所掠、潛歸鄉里。
惠帝崩、寔赴山陵。懷帝即位、復授太尉。寔自陳年老、固辭、不許。左丞劉坦上言曰「夫堂高級遠、主尊相貴。是以古之哲王莫不師其元臣、崇養老之教、訓示四海、使少長有禮。七十致仕、亦所以優異舊德、厲廉高之風。太尉寔體清素之操、執不渝之潔、懸車告老、二十餘年、浩然之志、老而彌篤。可謂國之碩老、邦之宗模。臣聞老者不以筋力爲禮。寔年踰九十、命在日制、遂自扶輿、冒險而至、展哀山陵、致敬闕庭、大臣之節備矣。聖詔殷勤、必使寔正位上台、光飪鼎實、斷章敦喻、經涉二年。而寔頻上露板、辭旨懇誠。臣以爲古之養老、以不事爲優、不以吏之爲重。謂宜聽寔所守。」
三年、詔曰「昔虞任五臣、致垂拱之化、漢相蕭何、興寧一之譽、故能光隆於當時、垂裕于百代。朕紹天明命、臨御萬邦、所以崇顯政道者、亦賴之於元臣庶尹、畢力股肱、以副至望。而君年耆告老、確然難違。今聽君以侯就第、位居三司之上、秩祿準舊、賜几杖・不朝及宅一區。國之大政、將就諮于君、副朕意焉。」歲餘薨。時年九十一。諡曰元。
寔少貧窶、杖策徒行、每所憩止、不累主人、薪水之事、皆自營給。及位望通顯、每崇儉素、不尚華麗。嘗詣石崇家、如廁、見有絳紋帳、裍褥甚麗、兩婢持香囊。寔便退、笑謂崇曰「誤入卿內。」崇曰「是廁耳。」寔曰「貧士未嘗得此。」乃更如他廁。雖處榮寵、居無第宅、所得俸祿、贍卹親故。雖禮教陵遲、而行己以正。喪妻爲廬杖之制、終喪不御內。輕薄者笑之、寔不以介意。自少及老、篤學不倦、雖居職務、卷弗離手。尤精三傳、辨正公羊、以爲衞輒不應辭以王父命、祭仲失爲臣之節、舉此二端以明臣子之體、遂行於世。又撰春秋條例二十卷。
有二子、躋・夏。躋、字景雲、官至散騎常侍。夏、以貪污棄放於世。
弟智、字子房、貞素有兄風。少貧窶、每負薪自給、讀誦不輟、竟以儒行稱。歷中書・黃門・吏部郎、出爲潁川太守。平原管輅嘗謂人曰「吾與劉潁川兄弟語、使人神思清發、昏不假寐。自此之外、殆白日欲寢矣。」入爲秘書監、領南陽王師、加散騎常侍、遷侍中・尚書・太常。著喪服釋疑論、多所辨明。太康末卒、諡曰成。
1.中華書局本の校勘記にもある通り、『資治通鑑』では「知」ではなく「如」とされている。また、『群書治要』巻二十九・晋書上・劉寔伝でも「如」となっている。「知」よりも「如」の方が明らかに文脈に沿うものであるので、ここでは「知」を「如」に改める。
劉寔、字は子真、平原・高唐の人なり。漢の濟北惠王壽の後なり。父の廣、斥丘令たり。寔、少くして貧苦にして、牛衣を賣りて以て自給す。然るに學を好み、手に繩を約い、口に書を誦じ、博く古今に通ず。身を清くし己を潔くし、行に瑕玷無し。郡は孝廉に察し、州は秀才に舉ぐるも、皆な行かず。計吏を以て洛に入り、調せられて河南尹丞と爲り、遷りて尚書郎、廷尉正たり。後に吏部郎を歷、文帝の相國軍事に參じ、循陽子に封ぜらる。
鍾會・鄧艾の蜀を伐つや、客有りて寔に問いて曰く「二將、其れ蜀を平げんや」と。寔曰く「蜀を破るは必なるも、而れども皆な還らざらん」と。客、其の故を問うも、笑いて答えず、竟に其の言の如し。寔の先見、皆な此の類いなり。
世の多く進趣し、廉遜の道の闕けたるを以て、乃ち崇讓論を著して以て之を矯む。其の辭に曰く
古の聖王の天下を化するに、讓を貴ぶ所以の者は、以て賢才を出だし、爭競を息ましめんと欲すればなり。夫れ人情は己の賢なるを欲せざるは莫ければ、故に勸めて賢に讓りて以て自ら賢なるを明らかにせしむるなり。豈に讓を不賢に假さんや。故に讓道興れば、賢能の人は求めずして自ら出で、至公の舉は自ら立ち、百官の副も亦た豫め具わる。一官缺くれば、眾官の讓る所の最も多き者を擇びて之を用うるは、之が道を審かにすればなり。在朝の士、上に相い讓り、草廬の人、咸な皆な之に化すれば、賢を推し能に讓るの風、此より生ず。一國の讓る所と爲れば、則ち一國のなり。天下の共に推す所なれば、則ち天下の士なり。推讓の風行わるれば、則ち賢と不肖とは灼然として殊なる。此の道の行わるれば、上に在る者は其の心を用うる所無く、清議を成すに因り、之に隨うのみ。故に曰く「蕩蕩乎たり、堯の君たるや、之を能く名づくる莫し」と。言うこころは、天下自ら安んじ、堯の之を化す所以を見ざれば、故に名づくる能わざるなり。又た曰く「舜禹の天下を有つや、而して與らず」「無爲にして化する者は、其れ舜なるか」と。賢人、朝に相い讓れば、大才の人は恒に大官に在り、小人、野に爭わざれば、天下は事無し。賢才の化を以て事無ければ、至道興る。已に其の成を仰げば、復た何にか與らん。故に以て南風の詩を歌い、五弦の琴を彈くべきなり。此の功を成す者は他有るに非ず、崇讓の致す所なるのみ。孔子曰く「能く禮讓を以て國を爲せば、則ち難からざるなり」〔一〕と。
在朝の人の相い讓るに務めざること久しく、天下は之に化す。魏代より以來、登進辟命の士、及び在職の吏、敘を受(さず)けらるるに臨み、自ら不能と辭すと雖も、終に肯えて己に勝ること有る者に讓る莫し。夫れ推讓の風息めば、爭競の心生ず。孔子の「上、讓を興せば則ち下は爭わず」と曰うは、明らけし、讓興らずんば下は必ず爭うなり。推讓の道興れば、則ち賢能の人は日ごとに推舉せられ、爭競の心生ずれば、則ち賢能の人は日ごとに謗毀せらる。夫れ爭者の自ら先んぜんと欲するや、甚だ能者の先んずるを惡みたれば、毀ること無かる能わず。故に孔墨すら世の己を謗るを免るること能わざるに、況んや孔墨に及ばざる者をや。議者、僉然として言わく、世に高名の才少なく、朝廷に大才の人の以て大官と爲すべき者有らず、と。山澤の人・小官吏も亦た復た云く、朝廷の士に大官の名德あるもの有りと雖も、皆な往時の人に及ばざるなり、と。余以爲えらく、此の二言は皆な之を失せり、と。時に獨り賢に乏しきに非ず、時に讓を貴ばざればなり。一人眾に先んずるの譽有れば、毀ること必ず之に隨い、名は之を然らしむるを成すを得ざるなり。稷・契をして復た存らしむと雖も、亦た復た能く其の名を全うせざらん。能否混雜し、優劣分かたれず、士に素定の價無く、官職に缺有れば、主選の吏は用うる所を知らず、但だ官次を案じて之を舉ぐのみ。同才の人の先に用いらるる者は、勢家の子に非ずんば、則ち必ず勢有る者の念う所と爲るなり。能く獨り賢なるに非ざれば、其の先用の資に因り、而して復た之を遷すこと已む無し。之を遷すこと已む無ければ、其の任に勝えざるの病發す。在官の人を觀るに、政績聞ゆる無きは、勢家の子に非ざるよりは、率ね多く資次に因りて進めらるるなり。
向令し天下讓を貴べば、士は必ず讓らるるに由りて後に名成り、名成りて官乃ち之を用うるを得ん。諸そ名行立たざるの人、官に在りて政績の稱無ければ、之に讓ること必にして、官は因りて得て之を用うること無きなり。用いらるること息まざる所以の者は、讓道の廢るるに由り、資に因りて人を用うることの失有ること久し。故に漢魏より以來、時に大舉を開き、眾官をして各々知る所を舉げしめ、唯だ才の任ずる所なれば、階次を限らず、此くの如きこと甚だ數々なり。其の舉ぐる所に必ず當なる者有るも、時に擢用せらるる有るを聞かざるは、何誰か最も賢なるかを知らざるが故なり。舉ぐる所に必ず不當なるもの有るも、而るに罪加えられざるは、何誰か最も不肖なるかを知らざればなり。得て知るべからざる所以は、當時の人の肯えて相い推すこと莫く、賢愚の名別たれざるに由り、其れをして此くの如くせしめ、舉者は上に在る者の察するに審かにする能わざるを知り、故に敢えて漫りに舉げて之を進む。或いは賢とする所を舉ぐも、念う所に及ぶに因り、一頓にして至り、人數猥りに多く、各々舉ぐる所の者は賢なりと言い、之に高狀を加うるも、相い似たること一なるが如く、得て分かつに難し。參錯して相い亂れ、真偽は貫を同じくし、更に復た此に由りて甚し。舉者に忠を盡くす能わざるの罪ありと雖も、亦た上の聽察の路を開くこと濫なるに由り、其れをして爾らしむるなり。昔、齊王は竽聲を聽くを好み、必ず三百人をして合吹せしめて後に之を聽き、廩うるに數人の俸を以てす。南郭先生は竽を吹くを知らざる者なるに、三百人合吹すれば以て其の知らざるを容るべきを以て、因りて王の爲に竽を吹かんと請い、虛しく數人の俸を食む。嗣王、覺りて之を改めんとするも、先王の過ちを彰らかにし難ければ、乃ち令を下して曰く「吾の竽聲を聞くことを好むは先王より甚しきこと有り、一一列して之を聽かんと欲す」と。先生、此に於いて逃ぐ。賢を推すの風立たず、濫りに舉ぐるの法改めざれば、則ち南郭先生の徒、朝に盈つ。才高く道を守るの士は日ごとに退き、馳走有勢の門は日ごとに多し。國に典刑有りと雖も、禁ずる能わず。
夫れ讓道興らざるの弊、徒だに賢人の下位に在り、時に進むを得ざるのみに非ず、國之良臣の重任を荷う者も、亦た將に漸く罪を受くるを以て退かんとす。何を以て其の然るを知らんや。孔子の以て顏氏の子は過ちを貳びせずと爲すは、明らけし、聖人に非ずんば皆な過ち有り。寵貴の地は之を欲する者多く、賢能を惡む者は其の路を塞ぎ、其の過ちありて之を毀る者も亦た多し。夫れ謗毀の生ずるは、徒らに空設するに非ず、必ず人の微過に因りて之を甚しくするなり。毀謗の言數々聞くに、上に在る者は納れざらんと欲すと雖も、聞く所に杖らざること能わず、事の來るに因りて之を微察するや、以(や)む無く、其の驗至る。其の驗を得れば、安くんぞ其の罪を理めざるを得んや。若し知りて之を縱せば、王の威は日ごとに衰え、令の行われざること此より始まらん。知りて皆な之を理むれば、罪を受けて退く者は稍だ多く、大臣に自ら固しとせざるの心有らん。夫れ賢才進められず、貴臣日ごとに疏んぜらるるは、此れ國を有つ者の深憂なり。詩に曰く「祿を受けて讓らず、已に斯に亡ぶるに至る」〔二〕と。不讓の人、亡ぶるを憂うるに暇あらざるに、而して其の國朝を益さんことを望むは、亦た難からずや。
竊かに以爲えらく、此の俗を改むるは甚だ易きのみ。何を以てか之を知る。夫れ一時の在官の人、雜に凡猥の才有りと雖も、其の中に賢明なる者も亦た多ければ、豈に皆な賢に讓るをば貴しと爲すを知らずと謂うべけんや。直だ其の時に皆な讓らず、習いて以て俗と成すを以て、故に遂に爲さざるのみ。人臣初め除せらるるに、皆な表を通じて上聞し、之を謝章と名づけ、由來する所は尚し。原より謝章の本意、賢能を進めて以て國恩に謝せんと欲するなり。昔、舜の禹を以て司空と爲すや、禹は拜して稽首し、稷・契及び咎繇に讓り、益をして虞官と爲らしむるや、朱虎・熊・羆に讓り、伯夷をして三禮を典らしむるや、夔・龍に讓る。唐虞の時、眾官初め除せらるるや、皆な讓らざるは莫きなり。謝章の義、蓋し此に取る。書記の者、以て永世則と作さんと欲す。季世の用うる所、賢ならずんば賢に讓る能わず、虛しく用いらるるの恩を謝すのみ。相い承けて變わらざるは、習俗の失なり。
夫れ敘用の官、章表を通ずるを得れば、其の賢に讓り能を推せば乃ち通じ、其の讓る所有る能わずして徒らに簡紙を費せる者は、皆な絕えて通ぜず。人臣初め除せらるるに、各々賢能を推して之に讓るを思えば、讓の文は主者に付して之を掌らしむ。三司に缺くる有れば、三司の讓る所の最も多き者を擇びて之を用いる。此れ一公缺くるに、三公已に豫め之を選ぶと爲す。且つ主選の吏、必ずしも公に任ぜられずして三公を選ぶは、三公をして自ら共に一公を選ばしむることの詳と爲すに如かざるなり。四征缺くれば、四征の讓る所の最も多者きを擇びて之を用う。此れ一征缺くるに、四征已に豫め之を選ぶと爲し、必ず缺に停まりて主者をして四征を選ばしむるより詳らかなり。尚書缺くれば、尚書の讓る所の最も多き者を擇びて之を用う。此れ八尚書共に一尚書を選ぶと爲し、缺に臨みて主者をして八尚書を選ばしむるより詳らかなり。郡守缺くれば、眾郡の讓る所の最も多き者を擇びて之に用うれば、主者に任じて百郡の守を選ばしむるより詳らかなり。
夫れ眾官・百郡の讓を以て、主者と共に相い比ぶれば、同歲にして論ずるべからざるなり。復た三府をして官を舉ぐるに參ぜしむと雖も、本より委ぬるに舉選の任を以てせざれば、各々以て其の心に根ざすこと能わざるなり。其の心を用うる所の者は之を裁つこと二三ならず、但だ主者をして官次を案じて之を舉げしむるのみならば、用て精ならざるなり。賢愚皆な讓れば、百姓の耳目は盡く國の耳目と爲る。夫れ人情は爭えば則ち己の如かざる所を毀らんと欲し、讓れば則ち競いて己に勝るを推す。故に世爭えば則ち毀譽は交錯し、優劣は分かたれず、得て讓り難きも、時に讓れば則ち賢智は顯出し、能否の美は歷歷として相い次ぎ、得て亂るべからざるなり。此の時に當たるや、能く身を退き己を修むる者は、之に讓る者多く、貧賤を守らんと欲すと雖も、得べからざるなり。馳騖・進趣して人に讓られんことを欲するは、猶な卻行して前を求むるがごときなり。夫れ此くの如くんば、愚智は咸な身を進め通を求むるに、之を己に修むるに非ざれば則ち由る無きを知らん。外に游びて求むる者、此に於いて相い隨いて歸らん。浮聲虛論、禁ぜずして自ら息まん。人人、其の心を用うる所無く、眾人の議に任ずとも、而して天下自ら化す。不言の化行わるれば、巍巍の美、此に於いて著わる。讓は以て此を致すべければ、豈に之に務めざるべけんや。
春秋傳に曰く「范宣子の讓るや、其の下は皆な讓る。欒黶は汰なりと雖も、敢えて違わざるなり。晉國は以て平らかにして、數世之に賴る」と。上世の化するや、君子は能を尚びて其の下に讓り、小人は農に力めて以て其の上に事え、上下禮有り、讒慝は遠く黜けらるるは、爭わざるに由るなり。其の亂るるに及ぶや、國家の弊、恒に必ず之に由る。篤論の了了たること此くの如し。在朝の君子・典選の大官、能く人を以て言を廢せず、舉げて之を行い、各々賢に讓り能を舉ぐるを以て先務と爲せば、則ち羣才は猥りに出で、能否は殊別され、蓋世の功、此より大なるは莫し。
泰始の初め、爵を進められて伯と爲り、累りに遷りて少府たり。咸寧中、太常と爲り、尚書に轉ず。杜預の吳を伐つや、寔、本官を以て鎮南軍司を行す。
初め、寔の妻の盧氏は子の躋を生みて卒したれば、華氏、將に女を以て之に妻さんとす。寔の弟の智、諫めて曰く「華家は類ね貪なれば、必ず門戶を破らん」と。之を辭するも得ず、竟に華氏と婚して子の夏を生む。寔、竟に夏の賂を受くるに坐し、官を免ぜらる。之を頃くして大司農と爲るも、又た夏の罪を以て免ぜらる。
寔、州里に還る每に、鄉人は酒肉を載けて以て之を候つ。寔、其の意に逆き難ければ、輒ち共に啖らいて其の餘を返す。或るひと寔に謂いて曰く「君、行は一世に高きも、而るに諸子は遵う能わず。何ぞ旦夕に切磋し、過ちを知りて自ら改めしめざるか」と。寔曰く「吾の行う所は、是れ聞見する所にして、相い祖習せざれば、豈に復た教誨の得る所ならんや」と。世は寔の言を以て當と爲す。
後に起ちて國子祭酒・散騎常侍と爲る。愍懷太子の初め廣陵王に封ぜらるるや、師・友を高選し、寔を以て師と爲す。元康の初め、爵を進められて侯と爲り、累りに遷りて太子太保たり、侍中・特進・右光祿大夫・開府儀同三司を加えられ、冀州都督を領す。九年、策せられて司空を拜し、太保に遷り、太傅に轉ず。
太安の初め、寔、老病を以て位を遜り、安車駟馬・錢百萬を賜り、侯を以て第に就く。長沙・成都の相い攻むるに及ぶや、寔、軍人の掠む所と爲るも、潛かに鄉里に歸る。
惠帝崩ずるや、寔、山陵に赴く。懷帝の即位するや、復た太尉を授かる。寔、自ら年老いたりと陳べ、固辭するも、許さず。左丞の劉坦、上言して曰く「夫れ堂高ければ級は遠く、主尊ければ相は貴し。是を以て古の哲王、其の元臣を師とし、養老の教を崇び、四海に訓示し、少長をして禮有らしめざるは莫し。七十にして致仕するは、亦た舊德を優異し、廉高の風を厲ます所以なり。太尉の寔は清素の操を體し、不渝の潔を執り、懸車・告老より、二十餘年、浩然の志、老いて彌々篤し。國の碩老、邦の宗模と謂うべし。臣聞くならく、老者は筋力を以て禮を爲さず、と。寔、年は九十を踰え、命は日制に在るも、遂に自ら輿に扶り、險を冒して至り、山陵を展哀し、敬を闕庭に致せるは、大臣の節備われり。聖詔は殷勤にして、必ず寔をして位を上台に正さしめ、光く鼎實を飪しめ、章を斷じて敦喻し、經涉すること二年。而るに寔は頻りに露板を上し、辭旨は懇誠なり。臣以爲えらく、古の養老、事えざるを以て優と爲し、之を吏とするを以て重と爲さず。謂うに宜しく寔の守る所を聽すべし」と。
三年、詔して曰く「昔、虞は五臣に任じ、垂拱の化を致し、漢は蕭何を相とし、寧一の譽を興し、故に能く當時に光隆し、裕を百代に垂る。朕、天の明命を紹ぎ、臨みて萬邦を御するに、政道を崇顯する所以の者は、亦た之を元臣・庶尹に賴り、力を畢くして股肱し、以て至望に副うなり。而るに君は年耆いて老を告げ、確然として違い難し。今、君の侯を以て第に就くを聽し、位は三司の上に居らしめ、秩祿は舊に準え、几杖・不朝及び宅一區を賜う。國の大政は、將に就きて君に諮らんとすれば、朕の意に副え」と。歲餘にして薨ず。時に年は九十一。諡して元と曰う。
寔は少くして貧窶にして、杖策して徒行するも、每に憩止する所、主人を累わさず、薪水の事、皆な自ら營給す。位望の通顯するに及び、每に儉素を崇び、華麗を尚ばず。嘗て石崇の家に詣り、廁に如くに、絳紋帳有り、裍褥は甚だ麗にして、兩婢の香囊を持つを見たり。寔、便ち退き、笑いて崇に謂いて曰く「誤りて卿の內に入れり」と。崇曰く「是れ廁なるのみ」と。寔曰く「貧士、未だ嘗て此を得ず」と。乃ち更めて他の廁に如く。榮寵に處ると雖も、居は第宅無く、得し所の俸祿は、親故に贍卹す。禮教陵遲すと雖も、而れども己を行いて以て正す。妻を喪うや廬杖の制を爲し、喪を終うるも內に御せず。輕薄なる者は之を笑うも、寔、以て意に介さず。少より老に及ぶまで、篤學にして倦まず、職務に居ると雖も、卷は手より離さず。尤も三傳に精しく、公羊を辨正し、以て衞輒は應に辭するに王父の命を以てすべからず、祭仲は臣たるの節を失えりと爲し、此の二端を舉げて以て臣子の體を明らかにし、遂に世に行わる。又た『春秋條例』二十卷を撰す。
二子有り、躋・夏。躋、字は景雲、官は散騎常侍に至る。夏は、貪污なるを以て世に棄放せらる。
弟の智〔三〕、字は子房、貞素たること兄の風有り。少くして貧窶にして、每に薪を負いて自給し、讀誦すること輟まず、竟に儒行を以て稱せらる。中書・黃門・吏部郎を歷、出でて潁川太守と爲る。平原の管輅、嘗て人に謂いて曰く「吾、劉潁川の兄弟と與に語るや、人をして神思清發せしめ、昏も假寐せず。此よりの外、殆ど白日にして寢ねんと欲す」と。入りて秘書監と爲り、南陽王の師を領し、散騎常侍を加えられ、遷りて侍中・尚書・太常たり。「喪服釋疑論」を著し、辨明する所多し。太康の末に卒し、諡して成と曰う。
〔一〕『論語』里仁篇では、末尾の部分が「則不難也」ではなく「何有」とあるが、何晏の注では「何有者、言不難。」とあり、それゆえ「何有」を「則不難也」と言い換えたのであろう。
〔二〕現行の『詩』小雅・角弓では、「祿」が「爵」、「已」が「己」となっているが、ここではとりあえず原文を尊重して訳した。
〔三〕『晋書斠注』も指摘する通り、「劉世智」とされる場合もあるため、あるいは「劉世智」が本名であり、唐の太宗・李世民の諱を避けて、ここでは「世智」ではなくただ「智」とされているのかもしれない。
劉寔(りゅうしょく)は、字を子真と言い、平原国・高唐の人である。漢の済北恵王・劉寿の後裔である。父の劉広は、斥丘令にまで登った。劉寔は、若い頃から貧乏で生活が苦しく、牛衣(牛用のかけ布)を売って生計を立てていた。しかし、学問を好み、手には縄をまとい、口では書を暗誦し、広く古今のことに通暁していた。自己を清廉潔白に保ち、行いには欠点が無かった。平原郡は劉寔を孝廉に推挙し、冀州は劉寔を秀才に推挙したが、いずれにも応じて行くことはしなかった。やがて計吏となって洛陽に入り、そこで抜擢されて河南尹丞に任じられ、やがて尚書郎、次いで廷尉正へと昇進していった。後に尚書吏部郎を経て、当時は相国であった文帝(司馬昭)つきの参軍事となり、循陽子(循陽県を封邑とする子爵)に封ぜられた。
鍾会(しょうかい)と鄧艾(とうがい)が蜀を討伐することになった際、ある客が劉寔に問うた。「その二人の将軍は、果たして蜀を平定することができましょうか」と。劉寔は言った。「蜀を滅ぼすことになるのは確実であるが、しかし二人とも帰還することはないであろう」と。その客はその理由を問うたが、劉寔は笑うだけで答えず、結局その言葉の通りになった。劉寔の先見の明は、いずれもこのような具合であった。
また、世の人々が多く栄達を求め、清廉・謙遜の道が損なわれてしまっていることから、劉寔はそこで「崇譲論」を著わし、そうしてそれを矯正しようとした。その内容は次の通りである。
古の聖王が天下を教化するに当たって、譲ることを貴ぶ理由は、それによって賢才を表舞台に出し、また争いや競い合いをやめさせようとしているからである。そもそも人情として、自分が賢であることを欲しない者はおらず、故に聖王は人々に対し、賢者に譲ることで却って自分が賢であることを明らかにするよう勧めるのである。どうして他人に譲ることで不賢であると見なされるようなことがあろうか。それ故、謙譲の道が興隆すれば、賢能な人はこちらから求めなくともひとりでに出てくるし、至って公正なる推挙がひとりでに行われ、百官の控え(次期候補)もまたあらかじめ備わることになる。ある官が欠員となった際、諸々の官吏たちが譲りの対象とした人物のうち、最も多く譲りを受けている人物を選んでそれに任用するのは、その道をはっきりと理解しているからである。朝廷にいる士人たちが上にあって譲り合い、草廬で暮らす在野の人たちがみなその教化を受ければ、賢者に譲り、能力ある人物に譲る風潮が、これにより生じることとなる。一国中の人々の譲りを受けるような者は、一国の士である。天下の人々が一緒になって譲るような者は、天下の士である。謙譲する風潮が広まれば、賢者と不肖の人は、はっきりと区別されるようになる。この道が広く行われれば、上に立つ者は、自らの心を労することなく、人々が輿論を成すのを受け、それに従うだけでよくなる。故に(孔子は)「広大なものであるよ、尭が君臨する有り様は、これを言い表しようがない」(『論語』泰伯篇)と言ったのである。その意味するところはすなわち、天下がひとりでに安寧になっており、尭がどうやって教化を施しているのかが見えないので、それ故、言い表すことができないというのである。またこうも言う。「舜や禹が天下を治める有り様は、(すべてを賢臣に委ね)自ら手を下すことはなかった」(『論語』泰伯篇)、「自分からは何もせずに教化を成せた人物と言えば、舜であろうよ」(『論語』衛霊公篇)と。賢人が朝廷に於いて譲り合えば、大才の人がいつも大官に据えられるようになり、小人が野で争うことが無くなれば、天下は事無きを得られるようになる。賢才たちの教化によって天下が事無き状態になれば、至高の道が興隆する。すでにそれが実現し、その道に仰ぎ従っていれば、それ以上、何も手を加える必要はない。故に(舜の治世のように、徳のある諸侯が民を教化し、それによって五穀が実り、そのためそれらの諸侯を賞賛するべく)「南風」の詩を歌い、五弦の琴を弾くことができるのである。この功を成せるのは他でもなく、謙譲を貴ぶ風潮こそがそれをもたらすことができるのである。孔子は言った。「礼を尽くして譲り合うという心によって国を治められれば、何の困難もあるまい」(『論語』里仁篇)と。
朝廷にいる人々が譲り合うことに務めなくなってからすでに久しく、天下はその悪しき風潮に慣れてしまった。魏の時代以降、官吏として新たに登用されたり、辟召されたりする士人たち、および在職の官吏たちは、叙任を受けるに当たり、自分には能力が無くその職にふさわしくないと辞退することはあっても、結局、自分より優れている点がある人物にその地位を譲ろうとする者はいない。そもそも、謙譲する風潮が無くなってしまえば、争い競い合う心が生じる。孔子が「上に立つ者が謙譲の風潮を興せば、下々の者は争い合うことはしない」(『孝経』三才篇)と言っているのは、要するに謙譲の風潮が興隆しなければ、下々の者は必ず争い合うようになるということであるのは明白である。謙譲の道が興隆すれば、賢能な人は日々推挙され、争い競い合う心が生じれば、賢能な人は日々誹謗を受ける。他人と争う者が、自分が抜きんでることを欲する場合には、能力ある人物が抜きんでるのをひどく憎むので、誹謗せずにはいられないのである。それ故、孔子や墨子ですら世の誹謗を免れることはできなかったのであり、ましてや孔子や墨子に及ばない者であればなおさらである。議者はみな口をそろえて言う、今の世の中には高名の才人が少なく、朝廷には大官となるにふさわしい大才の人物がいない、と。山沢に暮らす人々や小役人たちもまた言う、朝廷の士人たちの中には名望や徳のある大官もいるとはいえ、いずれも昔の人々には及ばない、と。私が思うに、この二つの言説は、いずれも的外れである。今の世の中にだけ賢者が乏しいのではなく、今の世の中が謙譲を貴んでいないから(賢者が表舞台に出てこないの)である。もしある者が人々より抜きんでているとの評判が立てば、誹謗が必ずそれに伴って浴びせられ、その才徳を映し出すという名声の働きを妨げてしまうのである(=才徳があってもそれに見合う名声が得られないのである)。(古の賢臣である)稷(しょく)や契が今の時代に再来したとしても、やはりもうその名声を保全することはできないであろう。能力の有る無しが錯綜し、優劣を区別できず、士人たちにはもとから定まった評判が無く、官職に欠員が生じれば、担当官は誰を採用すれば良いのか分からず、ただ官次(官階やキャリア)を調べて推挙するだけである。才能が同等な者の中でも優先して採用されるのは、権勢のある家の子でなければ、必ず権勢のある者の思惑にかなう人物である。(候補者のうち)明らかにある者だけが賢人であるというような場合でなければ、(候補者のうち)先に任用されたというだけのことに基づいてその者を昇進させ、そしてそのようなことをずっと繰り返している。そのような者を昇進させ続けてばかりいれば、やがてその能力がその職任に見合わなくなるという弊害が発生することになる。在任の官人たちを見ると、政績が良いとの評判が無い者は、権勢のある家の子ではないという場合を除けば、おおむねその資次(権勢ある家の子であったり、権勢ある者に目を掛けてもらったりしたために早くに任用されたということにより得ることになった上記のようなアドバンテージ)により推薦され昇進した者たちが多い。
もし天下の人々が謙譲を貴べば、士人たちは必ず譲りを受けてそれによって名声が立ち、そのように名声が立つからこそ、お上は官吏として彼らを任用することができるのである。名声や行いの評判が立たない人は、官職に就いても政績の評判が立つこともなく、必ずや賢人たちに譲ることになるので、そのような具合で、彼らはそれ以上、官に任用されることはかなわなくなるのである。それなのにそのような人物たちが任用され続けてやまない理由は、謙譲の道が廃れてしまっているからであり、そうして資次により人を任用することの弊害が生じてからすでに久しい。それゆえ漢魏以来、しばしば大いに推挙の道を開き、諸官にそれぞれ自分の知っている賢人を推挙させ、ただ任用するにふさわしい才能でありさえすれば、官階・官次に制限を設けず採用したが、このようなことは非常にしばしば行われた。そのようにして推挙された人物たちの中には必ず順当な人物がいたはずであるが、当時抜擢されたというような話を聞かないのは、誰が最も賢明であるのかが分からなかったためである。そのようにして推挙された人物たちの中には必ず不当な人物がいたはずであるが、しかし罰が下されることが無かったのは、誰が最も不肖であるかが分からなかったためである。それらが分からなかった原因は、当時の人々が互いに譲り合おうとせず、賢愚の名声の区別がつかなかったからであり、それによってそのような事態に陥り、推挙した者は、上に立つ者が推挙された人物の賢愚を推察しようにも、それを明らかにすることができないということを知り、それ故、いい加減に推挙してふさわしくない人物を推薦して昇進させるようになったのである。あるいは賢人を推挙したとしても、その一方で自分の思惑にかなう人物も推挙したいと思い至り、そうして一度に何人も推挙されて来て、人数がやたらと多く、それでいて各々自分の推挙した人物は賢人であると言い張り、彼らには高大な才徳があると言い添えるが、その内容は、同じものかと見紛うほどにどれも似通っていて、区別するのは難しいものであった。もうごちゃごちゃで乱れに乱れ、真偽が同列に並べられ、さらにそれによってまたひどくなっていった。推挙を担っている人物にも、忠節を尽くそうとしないという罪があるとは言え、それに加えて上に立つ者の方でも、人材を審察して推挙する道をみだりに開き過ぎてしまっているということもあって、そのような事態を招いてしまっているのである。昔、斉王(宣王)は竽(笛の一種)の音を聴くのを好み、必ず三百人に合奏させて聴き、それぞれに数人分の俸禄を授けた。南郭先生は竽の吹き方を知らないような者であったが、三百人で合奏すれば一人くらい竽の吹き方を知らない者が紛れていても気づかれないだろうと考え、そこで王のために竽を吹くことを請い、むだに数人分の俸禄を授かった。(宣王が崩御して)位を継いだ王(湣王)は、それを察知し、その制度を改めようとしたが、先王の過ちを明るみに出すのは憚られたので、そこで令を下して言った。「私には、先王よりもはるかに竽の音を聴くのを好む節があり、よって一人一人並べて個別にその演奏を聴きたいと思う」と。南郭先生はそこで逃げ出した。賢人に譲るという風潮が立たず、みだりに推挙するという法が改められなければ、南郭先生のようなやからが朝廷に満ち溢れることになる。そして、才能が高く正道を守る士人たちは日に日に退けられ、官界を駆け抜ける権勢ある家門の人々ばかりが日に日に多くなっていくことになる。そうなれば国に法刑があったとしても、禁じることができなくなってしまう。
そもそも謙譲の道が興隆しないことによる弊害は、ただ賢人が下位に置かれ、次々に推薦され昇進するというような境遇を得られないということだけにとどまらず、重任を担う国の良臣もまた、次第に罪を受けて退けられるようになってしまうのである。どうしてそのようなことが分かるのか。孔子は、顔氏の子(顔回)は二度と同じ過ちを繰り返さないと述べたが、このことからも、聖人でなければみな過ち犯すことはあるのだということは明らかである。寵栄・尊貴の地位を欲する者は多く、賢能な人を憎む者は道端に溢れ、そのような賢能な人に何か過ちがあればそれを誹謗したがる者もまた多い。そもそも誹謗というのは、何もないところに何かをでっちあげることによって生じるものではなく、必ず他人の小さな過失につけこんで、それをさもひどい過ちであるかのように誇張することで生じるものである。そのような誹謗の言葉はしばしば耳に入り、上に立つ者はそれを聞き容れないようにしようとしても、(すべてのことに実際に立ち会うことはできないから結局は)耳にしたことに基づいて判断せざるを得ず、事が起こるのに従ってそこからわずかに真相を窺い察するしかないが、そのようなことを繰り返すうちに、その証拠がもたらされる。その証拠を得てしまえば、どうしてその罪を裁かないというわけにいこうか。もしその過失を知っていながらそれを見逃せば、王の威信は日に日に衰え、それがきっかけで命令に従われなくなってしまうことにもなろう。逆にもしその過失を知ってそれをすべて裁けば、罪を受けて退けられる者は非常に多くなり、自分の身が安全ではないとの不安を大臣たちに抱かせてしまうことになろう。そもそも賢才が推薦されて昇進することもなく、尊貴な大臣たちが日に日に疎んじられるようになるのは、これは国を治める者にとっての深い憂いである。『詩』にはこうある。「爵禄を受けても譲ることをしなければ、やがてここに滅びがもたらされよう」(『詩』小雅・角弓)と。謙譲しない人々は、我が身が滅びることを憂えるゆとりさえないのに、ましてや国家・朝廷に益をもたらそうと望むのは、何と難しいことであろうか。
ひそかに思うに、この習俗を改めるのは非常に簡単である。どうしてそのようなことが分かるのか。そもそもある一時期における在任の官人たちを見渡せば、その中には平凡な才能の人物も一緒に混ざっているとはいえ、その中には賢明な者も多くいるので、どうしてすべての人物が、賢人に譲ることが貴いものであるということを理解していないなどと言うことができようか。ただ、その時代にはみな譲るということをせず、それが当たり前になって習俗となってしまったため、それゆえ、その習俗に従うがまま、譲るということをことさらに実践することがないというだけである。人臣が官職に任命された当初、みな表文を提出して上聞するものであるが、これを「謝章」と言い、遠い昔から続いている風習である。もともと謝章の本意というのは、賢能な人を推薦し、それによって国恩に感謝しようというものである。昔、舜が禹を司空に任じた際、禹は拝礼をして稽首の礼を行い、稷・契および咎繇(きゅうよう)の三人に譲り、また舜が益を虞官に任じた際には、益は朱虎・熊・羆の三人に譲り、さらに舜が伯夷に(天事・地事・人事の)三礼をつかさどらせた際には、伯夷は夔(き)・龍の二人に譲った。尭や舜の時代には、諸々の官職に任命された者は当初、みな必ず謙譲したのである。謝章の意義というのは、思うにここから取られたものであろう。記録者は、それによって永代にわたってそれを準則とさせようとしたのである。しかし、末世における謝章の使い方と言えば、賢人以外の者は他の賢人に譲ろうとすることはなく、ほとんどの場合には、任用された恩に対して無駄に感謝の意を示すだけである。前に倣うばかりで変わることがないのは、習俗というものの欠点である。
そもそも、叙任を行う人事担当官に、そのように上がってきた謝章を君主のもとまで通すかどうかを決めるという裁量があるのであれば、それが賢能な人に譲るという内容のものであれば通し、それが他人に譲ることをせずに無駄に簡や紙を浪費しているだけのものであれば、いずれもまったく通さないものである。人臣が任命を受けた当初、それぞれ賢能な人物を推薦してその者に譲ろうと考えている場合には、その他人に譲ることを記した文書は担当者に下してそれを保管させるようにする。そして三公に欠員が生じれば、(その他人に譲ることを記した文書を参照して)三公に任じられた他の人物たちが譲りの対象とした人物のうち、最も多く譲りを受けている人物を選んでその位に任用するようにする。これはすなわち、三公が一人欠員となった際には、その位はすでにあらかじめ他の三公によって選ばれているということになる。それに、選任担当の官吏は、必ずしも三公に任じられていないにもかかわらず三公を選ぶことになっているが、それよりは、このように他の三公たちに自分たちの手で共同で欠員の一公を選ばせ、より精密で良い人選を行わせるのが一番である。(同様にして)四征将軍(征東将軍・征西将軍・征南将軍・征北将軍)に欠員が生じれば、四征将軍に任じられた他の人物たちが譲りの対象とした人物のうち、最も多く譲りを受けている人物を選んでその位に任用するようにする。これはすなわち、四征将軍が一人欠員となった際には、その位はすでにあらかじめ他の四征将軍によって選ばれているということであり、必ずや欠員の発生に臨んで場当たり的に人事担当官に四征将軍を選ばせるよりも、精密で良い人選ができよう。尚書に欠員が生じれば、尚書に任じられた他の人物たちが譲りの対象とした人物のうち、最も多く譲りを受けている人物を選んでその位に任用するようにする。これはすなわち、欠員となった一尚書の位は、他の八尚書によって共同で選ばれているということであり、欠員の発生に臨んで場当たり的に人事担当官に八尚書を選ばせるよりも、精密で良い人選ができよう。郡の太守に欠員が生じた際にも、諸郡の太守に任じられた他の人物たちが譲りの対象とした人物のうち、最も多く譲りを受けている人物を選んでその位に任用するようにすれば、人事担当官に任せて百郡の太守を一々選ばせるよりも、精密で良い人選ができよう。
さて、そのような諸官や百郡の太守による譲りに基づく選任と、人事担当官による選任とを一緒に比較してみれば、両者は同列には論じられない(=譲りに基づく選任の方が圧倒的に優れている)のである。たとえ、そこへさらに三公府の官吏たちを官人の推挙に参与させるにしても、もともと推挙・選用の職任を専門として委ねているわけではないから、それぞれその業務に心の底から専念することはできない。よって、その業務に注ぐことのできる心の余裕はせいぜい二~三割ほどしかなく、かといって、ただ人事担当官に任せて官次を調べて推挙させるだけであれば、それは精密な人選にはならない。それよりも、賢者も愚者もみな譲るようになれば、人々の耳目はそのまますべて国の耳目となる。そもそも人情として、争うことになれば、自分ではとうてい及ばないような人物を誹謗しようとするものであり、譲り合うことになれば、競うようにして自分より勝っている人物に譲るものである。故に、世の人々が争えば、毀誉褒貶は錯綜し、人物の優劣は区別できず、譲るのも難しくなるが、一方で、時の人々が譲り合えば、賢智な人物は顕出し、能力があるかどうかの美名ははっきりと相次いで明らかになり、混乱することもなくなる。そのような時世になれば、身を退き己を修養することができるような人物は、多くの者から譲りを受けるようになり、たとえ貧賎を堅持しようと望んでも、それもかなわないことになろう。一方で、あちこち駆けずり回って栄達を求め、そうして人に譲られることを望むのは、まるで後ずさりしながら前を歩く人に追いつこうとするようなものである。そして、もしそのようになれば、愚者も智者もみな、身を進めて仕官し、栄達することを求めるためには、自己を修養する以外に手立ては無いのだということを知ることになろう。外を渡り歩いて官職を得ようと求める者たちは、その時に当たり、ぞろぞろと郷里に帰ることになろう。上っ面だけの名声や、内実の伴わない議論は、禁止せずともひとりでに無くなるであろう。担当者一人一人がわざわざその心を労することなく、ただ民衆の輿論に任せるだけで、それで天下はひとりでに治まることになる。不言の教化が広く行われれば、そこで高大な美政が顕著になる。謙譲というものは、このような結果をもたらすことができるものであるので、どうしてそれに励まないでいられようか。
『春秋』の伝(『春秋左氏伝』)にはこうある。「(晋の大臣である)范宣子が譲ると、その下位の者たちもみな譲り合うようになった。欒黶(らんえん)は傲慢な人物であったが、それでも(同様に他の者に譲って)その風潮に逆らうようなことはしなかった。晋国はそれによって穏やかになり、数代にわたってその風潮を頼みにした」と。上世の聖君たちが教化を行えば、君子は能力を貴んでその下位の者に譲り、小人は農業に励んでその上位の者に仕え、上下の者がともに礼を備え、邪悪なる者は遠くに退けられるようになるが、それは争い合うことが無くなることによりもたらされるものである。その風潮が乱れてしまうと、国家の弊害は、いつも必ずそれによって生じるのである。この論が確実であることは、この通り明白である。朝廷にある君子たちや、官人の選任をつかさどる大官たちが、私に徳が無いからとして私の言葉を切り捨てず、取り上げてこのことを広く行い、それぞれが賢人に譲り能力ある者を推挙することを最優先の務めとすれば、多くの才人たちが湧いて出てくるように現れ、能力あるものとそうでないものがはっきりと区別されるようになるのであり、まさしくこれに勝るほどの世に傑出した功は無いであろう。
(西晋の武帝の)泰始年間の初め、爵位を進められて伯となり、何度も昇進して少府となった。咸寧年間、太常となり、やがて尚書に転任した。杜預が呉の討伐に参加することになると、劉寔は本官(尚書)の位にありながら、鎮南軍司(鎮南大将軍・杜預つきの軍司)の職務を代行した。
初め、劉寔の妻の盧氏は、子の劉躋(りゅうせい)を生んで死去してしまったので、華氏がその娘を劉寔に嫁がせようとした。劉寔の弟の劉智は、それを諫めて言った。「華家の者たちはみな貪婪であるので、必ずや我が門戸を滅ぼすことになりましょうぞ」と。そこで劉寔はそれを辞退したが断り切れず、結局華氏と結婚して息子の劉夏を生んだ。(そしてこのときに至り)劉寔は、結局、劉夏が賄賂を受け取ったということに連座し、尚書の官を罷免された。しばらくして大司農となったが、また劉夏の罪に連座して罷免された。
劉寔が郷里に帰るたびに、故郷の人々は酒や肉を用意して劉寔を迎えた。劉寔は、彼らの好意を無碍にし難かったので、そのたびにいつも一緒に食事をして、残りのものはすべて返した。また、ある人が劉寔に言った。「君は、その行いは世にも高きものであるにもかかわらず、息子たちはそれにならうことができていない。どうして息子たちを朝な夕な教導して励まし、過ちを悟って自ら改めるようにさせないのか」と。劉寔は言った。「私の行いは、私自身が見聞きしたことに基づいて行っているものであり、父祖の教えを奉じて身に付けたものではないため、どうして教導によって得られるものであろうか」と。世の人々は、劉寔の言葉は妥当であると考えた。
後にまた起家して国子祭酒・散騎常侍となった。愍懐太子(司馬遹)が初め広陵王に封ぜられたとき、師・友(いずれも王国に設置された官職名)を厳選し、そこで劉寔を師に任じた。(恵帝の)元康年間の初め、爵を進められて侯となり、何度も昇進して太子太保となり、やがて侍中・特進・右光禄大夫・開府儀同三司を加えられ、さらに冀州都督を兼任した。元康九年(二九九)、策書が下されて司空を拝命し、やがて太保に昇進し、さらに太傅に転任した。
太安年間の初め、劉寔は年老いて病気がちになったので引退し、四頭立ての安車(座って乗る車)と百万銭を賜与され、循陽侯の位で洛陽の私邸に身を置くことになった。長沙王・司馬乂(しばがい)と成都王・司馬穎(しばえい)が争い合って互いに攻撃し合うようになると、劉寔は軍人に拉致されたが、こっそり抜け出して郷里に帰った。
恵帝が崩御すると、劉寔は(哀悼のために)その陵墓まで赴いた。懐帝が即位すると、また太尉の位を授かった。劉寔は、自分は年老いたからと述べ、固辞したが、懐帝は許さなかった。尚書左丞の劉坦(りゅうたん)は、上言して言った。「そもそも、堂が高いのは、そこへ至る陛が何段にもわたっているためでございまして、それと同様に、君主が尊いのは、宰相が貴いからでございます。だからこそ古の哲王はみな、その元老たる重臣を師とし、養老の教えを尊び、四海に訓示し、子どもも大人もその礼に従うようにさせたのです。(古の礼では)七十歳で致仕するというのも、これもまた徳望高き老臣を優遇して尊重し、清廉・高潔の風教を奨励するためのものでございます。太尉の劉寔は、清廉で質素な節操を保ち、不変の潔白さを心掛け、年老いたとして引退を告げて車を懸けて致仕すべき年齢(すなわち七十歳)になって以来、二十年余りが経ちましたが、その大いなる志は、老いてますます篤くなっていきました。まさに国の碩老(碩学の老臣)、邦の宗模(尊ぶべき模範)と言うべき存在です。私が聞くところによりますと、老人は無理に筋力を用いて礼を行わなくても良いと言います(『礼記』曲礼上篇)。劉寔は、年は九十歳を越え、余命は短く、日々葬儀のための品々を修理すべき年齢(すなわち九十歳)になったにもかかわらず、なんと自ら病を押して輿に寄りかかりながらも、危険を冒してやって来て、先帝の山陵にお見舞い申し上げて哀悼を捧げ、そして宮廷に表敬いたしましたのは、まさに大臣としての節義が備わっているものであります。聖詔では慇懃にも、必ず劉寔を三公の位に就かせ、あまねく鼎の中身を煮こませ(=あまねく三公の職務を果たさせ)ようとされ、一句一句古典の言葉を引いて励まし諭し、そうして二年の月日が経ちました。しかし、劉寔は何度も上奏し(て固辞し)、その言葉の内容は非常に懇切かつ誠実でございます。私が考えますに、古の養老の礼では、その者を出仕させないことで優遇したのでございまして、その者を官吏として任用することで尊重したわけではございません。思いますに、どうか劉寔が堅持しているその要望を許可されるべきでございます」と。
永嘉三年(三〇九)、劉寔に対して次のような詔が下された。「昔、舜は五人の大臣(禹・稷・契・皋陶・伯益)に委任し、自らは何も手を下さなくとも天下が上手く治まるというような教化をもたらし、漢は蕭何を宰相とし、天下を統一して安寧をもたらすという名誉を興し、それ故、いずれも当時において繁栄し、しかも百代の後に模範となる道を遺すことができた。朕は、聖明なる天命を継承し、君臨して全国を統御することになったが、政道を高大で輝かしいものにするために必要なのは、まず朕が元老たる重臣や百官の長たちを頼り、そして彼らが力を尽くして朕を補佐し、そうして人々の至誠の希望に応えることである。ところが君は年老いたために引退を望み、その意志は確固として違い難いものである。今、君が循陽侯の位にて洛陽の私邸に身を置くことを許し、位は三公の上とし、俸禄は従来通りに与え、几(ひじかけ)や杖、朝見しなくとも良いという特権、および一軒の邸宅を賜与する。国の大政に関しては、君のもとに使者を派遣して諮問させるようにするので、そのときはどうか朕の意に応えて意見を述べるように」と。その後、一年あまりで劉寔は薨去した。時に九十一歳であった。「元侯」という諡号が与えられた。
劉寔は若い頃から貧困で、(老年になっても車もなく)杖で体を支えながら徒歩で移動し、宿を借りる際にはいつも、その家の主人に面倒をかけることはせず、柴刈りや水汲みなどのことは、すべて自分でまかなった。官位や名望が高大になるに及んでも、いつも質素・倹約であることを貴び、華麗であることを貴ばなかった。かつて石崇の家を訪れ、その厠に行ったところ、絳色の紋様の帳があり、敷物は非常に華麗で、二人の婢が香料の入った袋を持っているのを目にした。劉寔はすぐさま引き返し、笑って石崇に言った。「誤ってそなたの奥座敷に入ってしまったよ」と。すると石崇は言った。「それが厠です」と。劉寔は言った。「貧乏者である私は、このような厠は使ったことが無い」と。そこで改めて他の厠に行った。寵栄の位にあったとはいえ、住居には邸宅はなく、受け取った俸禄は親戚や昔なじみに恵み与えた。世の中では礼教が日に日に廃れていったが、劉寔は自らの振る舞いによりそれを正そうとした。妻を失った際には廬杖の制(喪中は喪屋にて誰も付き添わせず一人で過ごして基本的に母屋には入らず、また喪中の杖をつくという礼儀)を実施し、喪が明けても母屋に入ろうとはしなかった。軽薄な者たちはそれを笑ったが、劉寔はそれを意に介さなかった。若い頃から老年に至るまで、篤学で飽きることがなく、職務中であっても、書巻を手から離さなかった。特に春秋三伝(『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』)に精通し、『春秋公羊伝』の是非を明らかにし、(『春秋公羊伝』では、衛の出公・姫輒が、祖父の霊公の遺命に基づき、追放されていた父の蒯聵を差し置いて即位し、蒯聵と内乱を起こしたことについて、「(姫輒が)父の命に基づいて祖父の命を拒絶することをせず、祖父の命に基づいて父の命を拒絶したのは、父(霊公)が子(蒯聵)にそのように命じたからである」として姫輒を正当化しているが)衛の姫輒は祖父の命に従って父の命を拒絶するようなことはすべきではなかったと考え、また(『春秋公羊伝』では、鄭の宰相である祭仲が宋の国に捕らえられ、その脅しに屈して鄭の昭公を廃し、宋人を母に持つその弟の厲公を立てたことに対し、「その(宋人の)言葉に従わなければ君主は必ず死に、国は必ず滅亡することになったであろう」として擁護しているが)祭仲は臣下としての節義を欠いたと考え、この二つの事例を手掛かりとして挙げて、それにより臣下・子としての本質について明らかにし、その言説はそのまま世に広まった。また、『春秋條例』二十巻を著した。
劉寔には、劉躋・劉夏という二人の子がいた。劉躋は、字を景雲と言い、官は散騎常侍にまで登った。劉夏は、貪穢であったために世間から見捨てられた。
劉寔の弟の劉智(劉世智?)は、字を子房と言い、貞実で質素であることにかけては、兄と同様の風格があった。若い頃から貧困であり、いつも木こりをして薪を背負って生計を立て、絶えず書を読んで暗誦し、遂には儒学に基づく言行により称賛された。中書郎、黄門郎、尚書吏部郎を歴任し、地方に出て潁川太守となった。平原の人である管輅(かんろ)は、かつてある人に言った。「私は、劉潁川(劉智)の兄弟と語っていると、精神を清らかに研ぎ澄まされて活発にさせられ、暮れになっても服を着たまま眠る(=うたた寝する)余裕もないほどである。これ以外の人物と話していると、白日の下でも眠たくなる」と。やがて劉智は中央に入って秘書監となり、南陽王・司馬柬(しばかん)の師を兼任し、散騎常侍の官位を加えられ、さらに昇進して侍中、尚書、太常を歴任した。「喪服釈疑論」を著し、多くの是非を明らかにした。太康年間の末に死去し、「成」という諡号を与えられた。
高光、字宣茂、陳留圉城人、魏太尉柔之子也。光少習家業、明練刑理。初以太子舍人累遷尚書郎、出爲幽州刺史・潁州太守。是時武帝置黃沙獄、以典詔囚。以光歷世明法、用爲黃沙御史、秩與中丞同。遷廷尉。
元康中、拜尚書、典三公曹。時趙王倫篡逆、光於其際、守道1.(貞全)〔全貞〕。及倫賜死、齊王冏輔政、復以光爲廷尉、遷尚書、加奉車都尉。後從駕討成都王穎有勳、封延陵縣公、邑千八百戶。于時朝廷咸推光明於用法、故頻典理官。惠帝爲張方所逼、幸長安、朝臣奔散、莫有從者、光獨侍帝而西。遷尚書左僕射、加散騎常侍。
光兄誕爲上官巳等所用、歷徐・雍二州刺史。誕性任放無倫次、而決烈過人、與光異操。常謂光小節、恒輕侮之、光事誕愈謹。
帝既還洛陽、時太弟新立、重選傅訓、以光爲少傅、加光祿大夫、常侍如故。及懷帝即位、加光祿大夫金章紫綬、與傅祗並見推崇。尋爲尚書令、本官如故。以疾卒、贈司空・侍中。屬京洛傾覆、竟未加諡。
子韜、字子遠、放佚無檢。光爲廷尉時、韜受貨賕、有司奏案之、而光不知。時人雖非光不能防閑其子、以其用心有素、不以爲累。初、光詣長安、留臺以韜兼右衞將軍。韜與殿省小人交通、及光卒、仍於喪中往來不絕。時東海王越輔政、不朝覲。韜知人心有望、密與太傅參軍姜賾・京兆杜概等謀討越、事泄伏誅。
1.周家禄『晋書校勘記』および中華書局本の校勘記に基づき、殿本に従って「貞全」を「全貞」に改める。
高光、字は宣茂、陳留・圉城の人にして、魏の太尉の柔の子なり。光、少くして家業を習い、刑理に明練す。初め太子舍人を以て累りに遷りて尚書郎たり、出でて幽州刺史・潁州太守と爲る。是の時、武帝は黃沙獄を置き、以て詔囚を典らしむ。光の歷世法に明るきを以て、用いて黃沙御史と爲し、秩は中丞と同じくす。廷尉に遷る。
元康中、尚書を拜し、三公曹を典る。時に趙王倫、篡逆するに、光は其の際に於いて、道を守り貞を全うす。倫の死を賜い、齊王冏の輔政するに及び、復た光を以て廷尉と爲し、尚書に遷し、奉車都尉を加う。後に駕に從いて成都王穎を討つに勳有り、延陵縣公に封ぜられ、邑は千八百戶。時に朝廷は咸な光は法を用うるに明るしと推したれば、故に頻りに理官を典る。惠帝、張方の逼る所と爲り、長安に幸するや、朝臣は奔散し、從う者有る莫きも、光、獨り帝に侍りて西す。尚書左僕射に遷り、散騎常侍を加えらる。
光の兄の誕、上官巳等の用うる所と爲り、徐・雍二州刺史を歷たり。誕、性は任放にして倫次無く、而して決烈なること人に過ぎたれば、光と操を異にす。常に光の小節なるを謂い、恒に之を輕侮するも、光は誕に事うるに愈々謹たり。
帝、既に洛陽に還り、時に太弟新たに立てば、重く傅訓を選び、光を以て少傅と爲し、光祿大夫を加え、常侍は故の如し。懷帝の即位するに及び、光祿大夫の金章・紫綬なるを加えられ、傅祗と並びに推崇せらる。尋いで尚書令と爲り、本官は故の如し。疾を以て卒し、司空・侍中を贈らる。屬々京洛は傾覆すれば、竟に未だ諡を加えられず。
子の韜、字は子遠、放佚にして檢無し。光の廷尉たりし時、韜は貨賕を受け、有司は之を奏案するも、而れども光、知らず。時人、光の其の子を防閑すること能わざるを非ると雖も、其の用心の素有るを以て、以て累を爲さず。初め、光の長安に詣るや、留臺〔一〕は韜を以て右衞將軍を兼ねしむ。韜、殿省の小人と交通し、光の卒するに及び、仍お喪中に於いて往來すること絕えず。時に東海王越は輔政するも、朝覲せず。韜、人心に望有るを知り、密かに太傅參軍の姜賾・京兆の杜概等と與に越を討たんことを謀るも、事は泄れて誅に伏す。
〔一〕一般的な意味での留台とは、皇帝が都に不在の間、その留守中の政務を任されて留め置かれた政府の機構のこと。恵帝が張方によって長安に連行された際、尚書僕射の荀藩を筆頭とする大臣たちは恵帝に従って長安に赴くことはせず、半ば独立してそのまま洛陽に留まり、旧来の政府を維持した。その勢力は「留台」と呼ばれ、あるいは恵帝のいる長安の政府が「西台」と呼ばれたのに対して「東台」とも呼ばれた。
高光は、字を宣茂と言い、陳留国・圉城の人で、魏の太尉の高柔の子である。高光は若い頃から家学を習い、法治に通暁していた。初め、太子舍人に任命され、何度も昇進して尚書郎となり、地方に出て幽州刺史、潁州太守を歴任した。このとき、武帝は黄沙獄を置き、そうして(一般の囚徒ではなく)詔勅によって特別に獄に下された囚徒たちについて管轄させた。そこで、高光の家が代々法に明るく、高光もそれを受け継いでいるということから、高光を黄沙御史に任命し、秩は御史中丞と同等とした。やがて廷尉に昇進した。
(恵帝の)元康年間、尚書を拝命し、三公曹を管轄した。時に趙王・司馬倫が帝位を簒奪するという大逆を犯したが、その際に当たって、高光は道を守り貞操を貫徹した。司馬倫が死を賜わり、斉王・司馬冏(しばけい)が輔政を担うようになると、また高光を廷尉に任じ、やがて尚書に昇進させ、奉車都尉の位を加えた。後に恵帝に従って成都王・司馬穎を討伐した際に功績があり、延陵県公に封ぜられ、邑は千八百戸とされた。時に朝廷の官僚たちはみな、高光は法を用いることに通暁していると推薦したので、そのため高光は頻繁に法務を担当する官職に就いた。恵帝が(河間王・司馬顒(しばぎょう)の麾下である)張方に無理強いされて長安に連れて行かれることになると、朝廷の大臣たちは逃げ散り、一緒に長安まで従う者はいなかったが、高光だけは恵帝の側に侍って西行した。そして尚書左僕射に昇進し、散騎常侍の位を加えられた。
高光の兄の高誕は、(司馬穎・司馬顒らと対立していた)上官巳(じょうかんし)らに任用され、徐州刺史、雍州刺史を歴任していた。高誕は、その性格は勝手気ままでかつ放縦で、言動に筋道が立っておらず、しかも果断で剛毅であることにかけては人一倍であったので、高光とは節操がまったく異なっていた。高誕はいつも、高光はちっぽけな節操を守っているだけだとして、常に高光のことを軽蔑していたが、高光はますます謹直に高誕に兄事した。
恵帝が洛陽に帰り、新たに(後の懐帝)司馬熾(しばし)が皇太弟に立てられたので、その訓導を担う傅が慎重に選ばれ、そこで高光を太弟少傅に任じ、光禄大夫の位を加え、散騎常侍は引き続き担うこととされた。懐帝が即位すると、(通常の銀章・青綬の光禄大夫の地位からランクアップして)金章・紫綬の光禄大夫の官位を加えられ、傅祗(ふし)と並んで尊重された。まもなく尚書令となり、それ以外のもとの官職(金紫光禄大夫・散騎常侍)は引き続き担うこととされた。やがて病気により死去し、司空・侍中の位を追贈された。しかし、ちょうど都・洛陽が陥落してしまったので、結局、諡号は授けられないままになってしまった。
息子の高韜(こうとう)は、字を子遠と言い、放縦かつ淫逸で、礼法については気にも留めなかった。高光が廷尉だったとき、高韜は賄賂を受け、担当官はそれを劾奏し、取り調べが行われたが、高光は何も知らなかった。時の人々は、高光が息子を取り締まることができなかったことを非難したが、その心持ちについてはもとから充分に理解していたので、息子の罪の巻き添えにすることはしなかった。初め、高光が(恵帝に従って)長安に赴いたとき、留台は高韜に右衛将軍を兼任させた。高韜は宮中の小人たちと交流し、高光が死んだ後も、なお喪中にありながら交流をやめなかった。時に東海王・司馬越が輔政していたが、司馬越は(自分の本拠地から遠隔で朝廷を主導しており)朝覲はしていなかった。高韜は、人々が司馬越に対して恨みの心を抱いていることを知り、密かに(司馬越の)太傅府の参軍の姜賾(きょうさく)や、京兆の人である杜概らと協力して司馬越を討とうとしたが、謀略が漏洩して誅殺された。
史臣曰
下士競而文、中庸靜而質、不若進不足而退有餘也。魏舒・劉寔發慮精華、結綬登槐、覽止成務。季和切問近對、當官正色。詩云「貪人敗類」、豈劉夏之謂歟。
贊曰
舒言不矜、憙對千乘。子真、宣茂、雅志難陵。進忠能舉、退讓攸興。皎皎瑚器、來光玉繩。
史臣曰く
下士は競にして文、中庸は靜にして質なるも、足らざるを進めて餘り有るを退くるに若かざるなり。魏舒・劉寔は慮を發すること精華、綬を結びて槐に登り、止を覽て務めを成す。季和は切問するに近對し、官に當たりて色を正す。詩に「貪人類を敗る」と云うは、豈に劉夏の謂ならんや。
贊に曰く
舒は言矜らず、憙は千乘に對う。子真、宣茂、雅志は陵ぎ難し。忠を進め能く舉ぐるは、退讓の興る攸なり。皎皎たる瑚器、光を玉繩に來す。
史臣の評
才徳の劣る者は競い合って華やかであろうとし、中庸な人物は清静で質素であろうとするものであるが、不足しているものを高め、余分なものを減らす(すなわち中庸である)のが一番である。魏舒(ぎじょ)・劉寔(りゅうしょく)は、思慮は精華であり、綬を結んで仕官し、三公に登り、自らの身の程をわきまえてとどまることを知り、天下の務めを成就した。季和(李憙)は、(景帝・司馬師に辟召された際に)突発的な質問に目の前できっぱり答え、(司隷校尉として)官にあっては色を正した。『詩』に「貪悪な者が仲間を破滅させる」(『詩』大雅・桑柔)とあるのは、まさに劉夏のことであろう。
賛
魏舒はその言葉に驕りが無く、李憙は千乗の諸侯(司馬師)の問いに答えて物申した。子真(劉寔)、宣茂(高光)は、その雅志は馬鹿にできないものであった。忠良な者を薦めてきちんと推挙できるというのは、謙譲の道が興隆する所以である。純白に輝く清らかな瑚器(祭祀用の穀物を盛る器)が、その光を玉縄の星に煌めかせた(=高潔な治国の逸材が、公位に登って才徳を発揮した)。