いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第十二巻_王渾(子済)・王濬・唐彬

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。

王渾 子濟

原文

王渾、字玄沖、太原晉陽人也。父昶、魏司空。渾沈雅有器量。襲父爵京陵侯、辟大將軍曹爽掾。爽誅、隨例免。起爲懷令、參文帝安東軍事、累遷散騎・黃門侍郎、散騎常侍。咸熙中爲越騎校尉。
武帝受禪、加揚烈將軍、遷徐州刺史。時年荒歲饑、渾開倉振贍、百姓賴之。泰始初、増封邑千八百戸。久之、遷東中郎將・督淮北諸軍事、鎭許昌。數陳損益、多見納用。
轉征虜將軍・監豫州諸軍事・假節、領豫州刺史。渾與吳接境、宣布威信、前後降附甚多。吳將薛瑩・魯淑衆號十萬、淑向弋陽、瑩向新息。時州兵並放休息、衆裁一旅、浮淮潛濟、出其不意、瑩等不虞晉師之至。渾擊破之、以功封次子尚爲關内侯。
遷安東將軍・都督揚州諸軍事、鎭壽春。吳人大佃皖城、圖爲邊害。渾遣揚州刺史應綽督淮南諸軍攻破之、并破諸別屯、焚其積穀百八十餘萬斛・稻苗四千餘頃・船六百餘艘。渾遂陳兵東疆、視其地形險易、歴觀敵城、察攻取之勢。
及大舉伐吳、渾率師出橫江、遣參軍陳愼・都尉張喬攻尋陽瀨郷、又擊吳牙門將孔忠、皆破之、獲吳將周興等五人。又遣殄吳護軍李純據高望城、討吳將俞恭、破之、多所斬獲。吳厲武將軍陳代・平虜將軍朱明懼而來降。吳丞相張悌・大將軍孫震等率衆數萬指城陽、渾遣司馬孫疇・揚州刺史周浚擊破之、臨陣斬二將、及首虜七千八百級、吳人大震。
孫晧司徒何植・建威將軍孫晏送印節詣渾降。既而王濬破石頭、降孫晧、威名益振。明日、渾始濟江、登建鄴宮、釃酒高會。自以先據江上、破晧中軍、案甲不進、致在王濬之後。意甚愧恨、有不平之色、頻奏濬罪狀、時人譏之。帝下詔曰「使持節・都督揚州諸軍事・安東將軍・京陵侯王渾、督率所統、遂逼秣陵、令賊孫晧救死自衞、不得分兵上赴、以成西軍之功。又摧大敵、獲張悌、使晧塗窮勢盡、面縛乞降。遂平定秣陵、功勳茂著。其増封八千戸、進爵爲公、封子澄爲亭侯、弟湛爲關内侯、賜絹八千匹。」
轉征東大將軍、復鎭壽陽。渾不尚刑名、處斷明允。時吳人新附、頗懷畏懼。渾撫循羇旅、虛懷綏納、座無空席、門不停賓。於是江東之士莫不悅附。
徴拜尚書左僕射、加散騎常侍。會朝臣立議齊王攸當之藩、渾上書諫曰「伏承聖詔、憲章古典、進齊王攸爲上公、崇其禮儀、遣攸之國。昔周氏建國、大封諸姬、以藩帝室、永世作憲。至於公旦、武王之弟、左右王事、輔濟大業、不使歸藩、明至親義著、不可遠朝故也。是故周公得以聖德光弼幼主、忠誠著於金縢、光述文武仁聖之德。攸於大晉、姬旦之親也。宜贊皇朝、與聞政事、實爲陛下腹心不貳之臣。且攸爲人、修潔義信、加以懿親、志存忠貞。今陛下出攸之國、假以都督虛號、而無典戎幹方之實、去離天朝、不預王政。傷母弟至親之體、虧友于款篤之義、懼非陛下追述先帝・文明太后待攸之宿意也。若以攸望重、於事宜出者、今以汝南王亮代攸。亮、宣皇帝子、文皇帝弟。伷・駿各處方任、有内外之資。論以後慮、亦不爲輕。攸今之國、適足長異同之論、以損仁慈之美耳。而令天下窺陛下有不崇親親之情、臣竊爲陛下不取也。若以妃后外親、任以朝政、則有王氏傾漢之權、呂產專朝之禍。若以同姓至親、則有吳楚七國逆亂之殃。歴觀古今、苟事輕重、所在無不爲害也。不可事事曲設疑防、慮方來患者也。唯當任正道而求忠良。若以智計猜物、雖親見疑、至於疏遠者亦何能自保乎。人懷危懼、非爲安之理、此最有國有家者之深忌也。愚以爲太子太保缺、宜留攸居之、與太尉汝南王亮・衞將軍楊珧共爲保傅、幹理朝事。三人齊位、足相持正、進有輔納廣義之益、退無偏重相傾之勢。令陛下有篤親親之恩、使攸蒙仁覆之惠。臣同國休戚、義在盡言、心之所見、不能默已。私慕魯女存國之志、敢陳愚見、觸犯天威。欲陛下事毎盡善、冀萬分之助。臣而不言、誰當言者。」帝不納。
太熙初、遷司徒。惠帝即位、加侍中、又京陵置士官、如睢陵比。及誅楊駿、崇重舊臣、乃加渾兵。渾以司徒文官、主1.(史)〔吏〕不持兵、持兵乃吏屬絳衣、自以偶因時寵、權得持兵、非是舊典、皆令皁服。論者美其謙而識體。
楚王瑋將害汝南王亮等也、公孫宏説瑋曰「昔宣帝廢曹爽、引太尉蔣濟參乘、以増威重。大王今舉非常事、宜得宿望、鎭厭衆心。司徒王渾宿有威名、爲三軍所信服、可請同乘、使物情有憑也。」瑋從之。渾辭疾歸第、以家兵千餘人閉門距瑋。瑋不敢逼。俄而瑋以矯詔伏誅、渾乃率兵赴官。
帝嘗訪渾元會、問郡國計吏方俗之宜、渾奏曰「陛下欽明聖哲、光于遠近、明詔沖虛、詢及芻蕘、斯乃周文疇咨之求、仲尼不恥下問也。舊三朝元會前計吏詣軒下、侍中讀詔、計吏跪受。臣以詔文相承已久、無他新聲、非陛下留心方國之意也。可令中書指宣明詔、問方土異同、賢才秀異、風俗好尚、農桑本務、刑獄得無寃濫、守長得無侵虐。其勤心政化興利除害者、授以紙筆、盡意陳聞、以明聖指垂心四遠、不復因循常辭。且察其答對文義、以觀計吏人才之實。又先帝時、正會後東堂見征鎭長史司馬・諸王國卿・諸州別駕。今若不能別見、可前詣軒下、使侍中宣問、以審察方國。於事爲便。」帝然之。又詔渾錄尚書事。
渾所歴之職、前後著稱、及居台輔、聲望日減。元康七年薨。時年七十五。諡曰元。長子尚早亡、次子濟嗣。

1.『太平御覽』巻二〇八・職官部六・司徒下に引く『晉書』を始めとする諸書では、該当箇所を「史」ではなく「吏」とする。古代から近世に至るまで、史料上、「史」と「吏」はよく間違われる。今回も、文脈上ここで突然「史」(歴史、あるいは史官)が登場する意味が分からないため、「吏」の誤りであろう。

訓読

王渾(おうこん)、字は玄沖、太原晉陽の人なり。父の昶(ちょう)は、魏の司空たり。渾は沈雅にして器量有り。父の爵を襲いて京陵侯たり、大將軍の曹爽の掾に辟(め)さる。爽の誅せらるるや、例に隨(したが)いて免ぜらる。起ちて懷令と爲り、文帝の安東軍事に參じ、累(しき)りに遷りて散騎・黃門侍郎、散騎常侍たり。咸熙中に越騎校尉と爲る。
武帝の禪を受くるや、揚烈將軍を加えられ、徐州刺史に遷る。時に年ごとに荒れ歲ごとに饑(う)えたれば、渾は倉を開きて振贍し、百姓 之を賴る。泰始の初め、封邑を増すこと千八百戸。之を久しくして、東中郎將・督淮北諸軍事に遷り、許昌に鎭す。數々(しばしば)損益を陳(の)べ、多く納用せらる。
征虜將軍・監豫州諸軍事・假節〔一〕に轉じ、豫州刺史を領す。渾は吳と境を接し、威信を宣布し、前後に降附するもの甚だ多し。吳將の薛瑩(せつえい)・魯淑の衆は十萬と號し、淑は弋陽に向かい、瑩は新息に向かう。時に州兵は並びに放ちて休息せしめ、衆は裁(わず)かに一旅あるのみなるも、淮に浮かびて潛(ひそ)かに濟(わた)り、其の不意に出でたれば、瑩等は晉師の至るを虞(はか)らず。渾 擊ちて之を破り、功を以て次子の尚〔二〕を封じて關内侯と爲す。
安東將軍・都督揚州諸軍事に遷り、壽春に鎭す。吳人 大いに皖城に佃づくり、邊害を爲さんと圖る。渾 揚州刺史の應綽(おうしゃく)を遣わして淮南諸軍を督して攻めしめて之を破り、并(なら)びに諸々の別屯を破り、其の積穀百八十餘萬斛・稻苗四千餘頃・船六百餘艘を焚(や)く。渾 遂に兵を東疆に陳し、其の地形の險易を視、歴(ことごと)く敵の城を觀、攻取の勢を察す。
大舉して吳を伐つに及び、渾は師を率いて橫江に出で、參軍の陳愼・都尉の張喬(ちょうきょう)を遣わして尋陽の瀨郷を攻めしめ、又た吳の牙門將の孔忠を擊たしめ、皆な之を破り、吳將の周興等五人を獲たり。又た殄吳護軍の李純を遣わして高望城に據り、吳將の俞恭(ゆきょう)を討たしめ、之を破り、斬獲する所多し。吳の厲武將軍の陳代・平虜將軍の朱明は懼れて來降す。吳の丞相の張悌(ちょうてい)・大將軍の孫震等 衆數萬を率いて城陽を指したれば、渾 司馬の孫疇(そんちゅう)・揚州刺史の周浚(しゅうしゅん)を遣わして擊たしめて之を破り、陣に臨みて二將を斬り、及び首虜は七千八百級、吳人は大いに震う。
孫晧の司徒の何植・建威將軍の孫晏(そんあん)は印・節を送りて渾に詣(いた)らしめて降る。既にして王濬 石頭を破り、孫晧を降し、威名 益々振う。明日、渾 始めて江を濟り、建鄴宮に登り、酒を釃(く)みて高會す。自ら以(おも)うに、先に江上に據り、晧の中軍を破るも、甲を案じて進まざれば、王濬の後に在るを致せり、と。意は甚だ愧恨あり、不平の色有り、頻(しき)りに濬の罪狀を奏したれば、時人 之を譏る。帝 詔を下して曰く「使持節・都督揚州諸軍事・安東將軍・京陵侯の王渾、統ぶる所を督率し、遂に秣陵に逼(せま)り、賊の孫晧をして救死して自衞し、兵を分かちて上赴するを得ざらしめ、以て西軍の功を成す。又た大敵を摧(くじ)き、張悌を獲え、晧をして窮に塗(まみ)れ勢い盡き、面縛して降を乞わしむ。遂に秣陵を平定し、功勳は茂著たり。其れ封を増すこと八千戸、爵を進めて公と爲し、子の澄を封じて亭侯と爲し、弟の湛もて關内侯と爲し、絹八千匹を賜わん」と。
征東大將軍に轉じ、復た壽陽に鎭す。渾は刑名を尚(とうと)ばず、處斷は明允。時に吳人の新たに附くもの、頗る畏懼を懷く。渾 羇旅を撫循し、懷を虛しくして綏納し、座に空席無く、門に賓を停(とど)めず。是に於いて江東の士 悅(よろこ)びて附かざるは莫し。
徴されて尚書左僕射を拜し、散騎常侍を加えらる。會々(たまたま)朝臣は齊王攸は當に藩に之(ゆ)くべしと立議したれば、渾 上書して諫めて曰く「伏して聖詔を承くに〔三〕、古典を憲章し、齊王攸を進めて上公と爲し〔四〕、其の禮儀を崇(とうと)び、攸をして國に之かしむ、と。昔、周氏の國を建つるや、大いに諸姬を封じ、以て帝室に藩たらしめ、永世 憲と作す。公旦に至るや、武王の弟にして、王事を左右し、大業を輔濟し、藩に歸らしめざるは、至親にして義 著われたれば、朝より遠ざくべからざることを明らかにせんとせしが故なり。是の故に周公は聖德を以て幼主を光弼するを得、忠誠は金縢に著われ、光(あまね)く文武の仁聖の德を述(つ)ぐ。攸は大晉に於いて、姬旦の親なり。宜しく皇朝を贊(たす)け、政事に與聞せしめ、實に陛下の腹心にして不貳の臣と爲すべし。且つ攸の爲人(ひととなり)、修潔にして義信、加うるに懿親にして、志は忠貞に存(あ)るを以てす。今、陛下は攸を出だして國に之かしめんとし、假するに都督の虛號を以てするも、而れども戎を典(つかさど)り方を幹(つかさど)るの實無く、去りて天朝より離れ、王政に預らざらしめんとす。母弟至親の體を傷(そこな)い、友于款篤の義を虧(か)くは、懼(おそ)らくは陛下の先帝・文明太后の攸を待するの宿意を追述するに非ざらん。若し攸の望の重きを以て、事に於いて宜しく出だすべくんば、今、汝南王亮を以て攸に代えられよ。亮は宣皇帝の子にして、文皇帝の弟なり。伷(ちゅう)・駿は各々方任に處(お)り、内外の資有り。論ずるに後慮を以てするも、亦た輕しと爲さず。攸、今 國に之かば、適(た)だ異同の論を長じ、以て仁慈の美を損うに足るのみならん。而して天下をして陛下に親親を崇ばざるの情有りと窺わしめんとすれば、臣 竊かに陛下の爲に取らざるなり。若し妃后の外親を以て、任ずるに朝政を以てせば、則ち王氏の漢を傾けるの權、呂產の朝を專らにするの禍有り。若し同姓の至親を以てせば、則ち吳楚七國の逆亂の殃有り。古今を歴觀するに、苟(まこと)に事の輕重あるも、所在に害を爲さざる無きなり。事事に曲(つぶさ)に疑防を設け、方來の患者を慮るべからざるなり。唯だ當に正道を任じて忠良を求むべし。若し智計を以て物を猜(うたが)わば、親と雖も疑われ、疏遠なる者に至りては亦た何ぞ能く自ら保たんや。人の危懼を懷くは、安を爲すの理に非ず、此れ最も國を有(たも)ち家を有つ者の深忌に非ざるなり。愚 以爲(おも)えらく、太子太保の缺(か)けたれば、宜しく攸を留めて之に居らしめ、太尉の汝南王亮・衞將軍の楊珧(ようよう)と共に保傅と爲し、朝事を幹理せしむべし。三人 位を齊(ひと)しくせば、相い持正するに足り、進みては輔納して義を廣むの益有り、退きては偏重して相い傾くの勢無し。陛下をして親親の恩を篤くすること有らしめ、攸をして仁覆の惠を蒙(こうむ)らしむ。臣 國と休戚を同じくし、義は言を盡くすことに在れば、心の見る所、默して已(や)む能わず。私(ひそ)かに魯女の國を存(おも)うの志〔五〕を慕いたれば、敢えて愚見を陳(の)べ、天威を觸犯せん。陛下の事に毎(つね)に善を盡くさんことを欲し、萬分の助を冀(こいねが)う。臣にして言わずんば、誰か當に言うべき者あらんや」と。帝 納れず。
太熙の初め、司徒に遷る。惠帝の即位するや、侍中を加えられ、又た京陵に士官を置き、睢陵の如く比す〔六〕。楊駿を誅し、舊臣を崇重するに及び、乃ち渾に兵を加う。渾 司徒は文官にして、吏を主(つかさど)りて兵を持たず、兵を持てば乃ち吏屬は絳衣するも、自ら以(おも)うに偶々(たまたま)時寵に因り、權(かり)に兵を持つことを得たれば、是れ舊典に非ずと以(おも)い、皆(み)な皁服せしむ。論者は其の謙にして體を識るを美とす。
楚王瑋(い)の將に汝南王亮等を害せんとするや、公孫宏 瑋に説きて曰く「昔、宣帝の曹爽を廢するや、太尉の蔣濟(しょうせい)を引(まね)きて參乘せしめ、以て威重を増せり。大王は今、非常の事を舉げんとせば、宜しく宿望を得、衆心を鎭厭すべし。司徒の王渾は宿(もと)より威名有り、三軍の信服する所と爲れば、請(まね)きて同乘せしめ、物情をして憑有らしむべきなり」と。瑋 之に從う。渾は疾と辭して第に歸り、家兵千餘人を以て門を閉ざして瑋を距(ふせ)ぐ。瑋 敢えて逼らず。俄かにして瑋は矯詔を以て誅に伏したれば、渾 乃ち兵を率いて官に赴く。
帝の嘗て渾に元會に郡國の計吏に方俗の宜を問うことを訪(たず)ぬるや、渾 奏して曰く「陛下の欽明聖哲たるや、遠近を光(かがや)かすも、明詔は沖虛にして、詢(はか)るに芻蕘に及ぶは、斯(こ)れ乃ち周文の疇咨の求、仲尼の下問を恥じざるものなり。舊(も)と三朝〔七〕の元會、計吏を前(すす)めて軒下に詣(いた)らしめ、侍中 詔を讀み、計吏は跪きて受く。臣 詔文を以て相い承くること已に久しきも、他の新聲無きは、陛下の心を方國に留むるの意に非ざるなり。中書をして明詔を指宣せしめ、方土の異同、賢才の秀異、風俗の好尚、農桑の本務、刑獄の寃濫無きを得たるか、守長の侵虐無きを得たるかを問わしむべし。其の心を政化に勤めて利を興し害を除く者あれば、授くるに紙筆を以てし、意を盡くして陳聞せしめ、以て聖指を明らかにして心を四遠に垂れ、復た常辭に因循せざれ。且つ其の答對の文義を察し、以て計吏の人才の實を觀よ。又た先帝の時、正會の後に東堂にて征鎭の長史・司馬、諸王國の卿、諸州の別駕に見(あ)う。今、若し別に見う能わずんば、前めて軒下に詣らしめ、侍中をして宣問せしめ、以て審(つまび)らかに方國を察すべし。事に於いて便ならん」と。帝 之を然りとす。又た渾に詔して錄尚書事たらしむ。
渾の歴(ふ)る所の職、前後 稱を著すも、台輔に居るに及び、聲望は日ごとに減ず。元康七年薨ず。時に年七十五。諡して元と曰う。長子の尚は早くに亡せたれば、次子の濟 嗣ぐ。

〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔二〕ここでは王尚は王渾の次子であるとされているが、『晉書斠注』の本伝でも引かれる『十七史商榷』に指摘されている通り、後文では王尚は長子であるとされており、同じ伝の中で食い違いがある。
〔三〕このときの詔は、『晋書』巻三十八・齊王攸伝に太康三年(二八二)のこととして載っている。
〔四〕『晋書』巻三・世祖武帝紀・太康三年十二月の条によれば、このとき司馬攸は「大司馬・督青州諸軍事・鎭東大將軍」に、巻三十八・齊王攸伝によれば「大司馬・假節・都督青州諸軍事・侍中」に任じられ、ここに上公とあるのは大司馬の位のことを指すことが分かる。
〔五〕『列女傳』仁智・魯漆室女伝には以下のような話を載せる。魯の穆公のとき、漆室女という婦人が柱に寄りかかって声を長く引いて悲しそうに歌っていた。隣家の婦人がその理由を問うと、漆室女は、国君は年老いて耄碌し、太子は幼くて愚かで、両者の暗愚さは日ごとに増し、やがて魯国は乱れて禍が庶民に及ぶであろうから、これを非常に憂いているのであると答えた。果たして三年後に魯国は乱れて斉国や楚国に攻め込まれ、男子は戦争に駆り出され、婦女は物資の輸送に動員され、休息の暇も無かったという。王渾は、この漆室女を自身に擬えているのであろう。
〔六〕『晉書』巻三十三・王祥伝によると、魏晋革命後、王祥は睢陵公となり、その公国には七官が置かれたという。ゆえに、王渾伝における「又京陵置士官」の「士官」は、あるいは「七官」の誤りであるかもしれない。
〔七〕三朝とは元旦のこと。その朝は、その年、その月、その日の三つの点から見て最初の朝であるので、そのように言う。

現代語訳

王渾(おうこん)は字を玄沖といい、太原郡(太原国)・晋陽の人である。父の王昶(おうちょう)は、魏の司空であった。渾は落ち着いていて典雅であり、器量があった。父の爵を継いで京陵侯となり、大将軍の曹爽のその大将軍府の掾に辟召された。曹爽が誅殺されると、例にならって罷免された。やがて起家して懐令に任ぜられ、次いで安東将軍であった文帝(司馬昭)つきの参軍事となり、何度も昇進してさらに散騎侍郎、黄門侍郎、散騎常侍と官位を昇っていった。そして(魏の元帝・曹奐の)咸熙年間に越騎校尉となった。
(西晋の)武帝が禅譲を受けると、王渾は揚烈將軍を加えられ、やがて徐州刺史に昇進した。時に年々耕作地が放棄されて荒れ地が増え、飢餓が広まっていたので、王渾は倉を開いて人々を救い、人々は王渾を頼りにした。武帝の泰始年間の初め、王渾は封邑千八百戸を追加された。しばらくして後、「東中郎将・督淮北諸軍事」に昇進し、許昌を鎮守した。しばしば国の損益を述べて政策を献じ、その多くが採用された。
やがて「征虜将軍・監豫州諸軍事・仮節」に転任し、豫州刺史を兼任した。王渾の任地は呉と境を接しており、王渾は威信を宣布し、それによって呉から降伏して来る者は前後して非常に多くの数に上った。呉の将である薛瑩(せつえい)・魯淑の兵数は十万と称しており、魯淑は(弋陽郡の)弋陽に、薛瑩は(汝南郡の)新息に出兵した。時に王渾配下の豫州の兵はちょうどみな解放して休息させていたところであり、兵力はわずかに一旅しかなかったが、淮水を船でこっそりと渡り、敵の不意を突いたので、薛瑩らは晋軍がやってきたとは予想だにしなかった。王渾は薛瑩らの軍を攻撃して破り、その功により次子の王尚は関内侯に封ぜられた。
やがて「安東将軍・都督揚州諸軍事」に昇進し、寿春を鎮守した。折しも呉の人は皖城で大々的に耕作を行って軍糧を準備し、晋の辺境に攻撃を加えようとしていた。王渾は揚州刺史の応綽(おうしやく)を遣わして淮南の諸軍を監督させて攻撃させて呉軍を破り、それに加えて諸々の別屯をも破り、呉の集積していた穀物を百八十万斛余り、稲苗を四千頃余り、船を六百艘余り焼き払った。王渾はそのまま兵を東の境に陣列し、その地形の険しさ平易さを視察し、逐一敵の城を観察し、隙を見て攻め取れないか機を窺った。
大挙して呉を討伐することになると、王渾は軍を率いて横江に出兵し、参軍の陳慎と都尉の張喬(ちょうきょう)を派遣して尋陽の瀬郷を攻めさせ、さらに呉の牙門将の孔忠を攻撃させ、いずれも敵を破り、呉の将の周興ら五人を捕虜にした。さらに殄呉護軍の李純を派遣して高望城に駐屯させ、呉の将の俞恭(ゆきょう)を討たせて破り、斬首・捕虜の数は非常に多かった。呉の厲武将軍の陳代・平虜将軍の朱明は恐れて降伏してきた。呉の丞相の張悌(ちょうてい)・大将軍の孫震らが数万の兵を率いて城陽に向かったので、王渾は司馬の孫疇(そんちゅう)・揚州刺史の周浚(しゅうしゅん)を派遣して攻撃させて破り、戦闘中に敵の将を二人斬り、その他、斬首したり捕虜にした数は七千八百級に上り、呉の人は大いに震えた。
孫皓の司徒の何植・建威将軍の孫晏(そんあん)は印や節を王渾に送り届けて降った。まもなく王濬が石頭を破り、孫皓を降し、その武威と名声はますます高まった。翌日になってやっと王渾は長江を渡り、建鄴の宮に登り、大宴会を開いて酒を酌み交わした。王渾は、自分は王濬よりも先に長江のほとりに駐屯し、孫皓の中軍(中央軍)を破ったが、同じ場所に留まって進軍しなかったために、王濬に先を越されてしまったと思った。そして、心のうちに非常に恥じ恨み、不平の様子を露わにし、しきりに王濬の罪状を上奏したので、当時の人々は王渾を非難した。武帝は詔を下して言った。「使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍・京陵侯の王渾は、管轄下の軍を統率し、そのまま秣陵に迫り、賊の孫皓に何とか命を永らえるために固く守るという態勢を取らせ、呉軍が多方面から兵を進めて攻め上がることを封じ、それによって(王濬らの)西軍が功を遂げることに貢献した。さらに大敵をくじき、張悌を捕え、孫皓を窮地に陥れてその勢いを尽きさせ、自ら後ろ手に縛って降伏を乞わせることを導いた。とうとう秣陵を平定し、その勲功は顕著である。八千戸の封を増し、爵を進めて公とし、子の王澄を亭侯に封じ、弟の王湛を関内侯に封じ、絹八千匹を賜え」と。
やがて征東大将軍に転任し、また寿陽を鎮守した。王渾は刑罰の名分にこだわることなく、処断は明解で順当であった。時に新たに晋の民となった呉の人々は、王渾に対して畏怖を懐いた。王渾は、戦乱のために他郷に寄寓している者を安撫し、虚心かつ謙虚に迎え入れ、いつもその座には空席が無く、しかも賓客を門で待たせることも無かった。こうして江東の士人たちは喜んでみな晋に降伏したのであった。
やがて徴召されて尚書左僕射に任じられ、散騎常侍の官位を加えられた。ちょうど朝臣たちが斉王の司馬攸を藩国(封国)に赴かせるべきではないかと立議すると、王渾は上書して諫めて言った。「謹んで聖詔をお受けしましたところ、古典に倣い、斉王の司馬攸の官位を進めて上公とし、その礼儀を尊重し、司馬攸を藩国に赴かせるとか。昔、周王朝は建国すると、大いに王室の姫氏の者たちを各地に封じ、それによって王室の藩屏とし、永年に則るべき制度としました。周公旦は、武王の弟という身で、王事を左右し、大業を補佐して成し遂げ、武王は彼を藩国には帰らせませんでしたが、それは王の近親でかつその信義が顕著であるので、朝廷より遠ざけるべきではないということを明らかにしようとしたが故のことでした。そのため周公旦はその聖徳を発揮して武王亡き後の幼主(成王)をあまねく輔弼することができ、その忠誠は(『尚書』周書・金縢篇に記されているように)金でしばった匱に封印された文書にはっきりと著わされており、あまねく文王・武王の仁聖の徳を受け継いだのです。(武帝の弟である)司馬攸は大晋において、周公旦に相当する近親です。司馬攸に皇朝を補佐させ、政事に参与させ、実に陛下の腹心・不二の臣となすべきです。また司馬攸の為人(ひととなり)は、純潔でかつ義や信を備え、しかも近親であり、忠貞であろうと心がけています。今、陛下は司馬攸を藩国に赴かせようとし、都督としての虚号を授けなさいましたが、実際に軍事をつかさどって服従しない者を取り締まるという仕事は無く、ただ朝廷から遠ざけ、政治に参与させないようになさろうとしています。このように同母弟を近親として尊重するという本質を損ない、兄弟の友愛と忠実を守るという義を欠いてしまえば、先帝や文明太后の司馬攸を厚遇しようとのかねてからの願いに従うものではなくなってしまいます。もし司馬攸の輿望が大きいために、その輿望に応じて藩国に行かせて人々を慰撫させるべきだというのでしたら、それなら汝南王の司馬亮を司馬攸の代わりに行かせるべきです。司馬亮は宣皇帝(司馬懿)の子であり、文皇帝(司馬昭)の弟です。(司馬亮の弟の)司馬伷(しばちゅう)・司馬駿はそれぞれ都督として地方の鎮撫を担っており、内外の助けもあります。また、後者の輿望の問題を考えてみても、司馬亮が司馬攸に劣るということはございません。司馬攸が今、藩国に赴けば、ただ世の中の賛成と反対の論争を助長し、仁慈の美を損なうだけです。それによって天下の人々が、陛下は親族を尊重しないという情を持つ人物であるということを察するようになってしまいかねませんので、私は陛下のためにもそれを行うことをお勧めしません。もし外戚に朝政を任せるのであれば、かつて(前漢の王莽らの)王氏による漢を傾けるほどの権勢が現出し、(前漢初期に)呂産が朝政をもっぱらにしたという禍がありました。もし同姓の近親を信任するのであれば、(前漢前期の)呉楚七国の逆乱による禍がありました。古今を総じて眺めると、ただ程度の重い軽いがあるだけで、その時その場所ごとにみな害をなしました。ゆえに、何でもかんでも一つ一つ疑って防ごうというように、将来の心配事を憂慮するべきではありません。ただ正道を行く者を任用して忠良なる者を求め採用するべきです。もしその智謀によって物事を疑いなさるのでしたら、親族であっても疑いの目を向けられ、疎遠な者に至ってはやはり身の置き所が無くなってしまいます。人が危惧を抱くようになるのは、人々を安んじるための理ではありません。これは、(『論語』季氏篇に記載されている、政治が公平でなく、人々が安心して暮らせないことを心配するという)国や家を運営する者の持つべき深い憂慮とは程遠いものです。私が思いますに、太子太保の位が現在欠員となっているので、司馬攸を都に留めて太子太保の地位に据え、太尉の汝南王・司馬亮、衛将軍の楊珧(ようよう)と共に保傅(太保・太傅などの上公の位)に任じ、朝政をつかさどらせるべきです。三人が同等の位にあれば、互いに身を正しくするに充分であり、上手くいけば三人で天子を補佐し、良い意見を採用して帝命を宣布し、義を広げるという利益があり、悪くとも一人に権力が集中して国を傾けるという情勢に陥る心配はありません。そして陛下にとっては近親に対する恩に厚いという美名を受けることになり、司馬攸にとっては陛下の仁に覆われるという恩恵を受けることになります。私は国と喜びや憂いをともにし、義は言を尽くすことに在りますので、心に思ったことを示さずに黙ったままでいることはできません。私は心のうちに魯女が国を憂慮したという故事を慕っていますので、敢えて愚見を申し述べ、天威を犯すようなことをさせていただきます。私は陛下が万事いつも善を尽くされることを願い、一万分の一ほどのわずかな助けでもできればと切に願います。私のような立場の者が言い出さなければ、誰がこれについて言うことができましょうか」と。武帝は聞き容れなかった。
太熙年間の初め、王渾は司徒に昇進した。恵帝が即位すると、侍中を加えられ、また王祥の睢陵公国に倣って京陵公国にも士官が置かれた。楊駿が誅殺され、旧臣が尊重されるようになると、そこで王渾に兵が与えられた。王渾は、司徒は文官であり、普通であれば官吏をつかさどる立場にあって兵は従えず、もし兵を授けられた場合には属吏は絳衣を着ることとなっていたが、自分は思いがけず時の恩寵を受け、仮の処置として兵を持つことになったに過ぎないと見なし、よってこれは旧典通りのことではないと考え、みな絳衣ではなく皁衣(小吏が着るものとされていた黒い衣服)を着用させた。論者はその謙虚で本質を理解している様を称えた。
楚王の司馬瑋(しばい)が汝南王の司馬亮らを殺そうとすると、公孫宏は司馬瑋に説いて言った。「昔、宣帝(司馬懿)が曹爽を打倒して退けたとき、太尉の蒋済(しょうせい)を招いて同乗させ、それにより威勢を重くしました。大王が今、常ならぬ事を起こそうとなさるのでしたら、かねてより声望高き者を味方につけ、人々の心を鎮めるべきです。司徒の王渾はもともと威光と名声があり、三軍の人々に信服されていますので、招いて同乗させ、人々の心の拠り所とすべきです」と。司馬瑋はこれに従った。しかし、王渾は病であるからと断って屋敷に帰り、家兵千人余りを率いて門を閉ざして司馬瑋を拒んで防がせた。よって司馬瑋は無理強いすることができなかった。まもなく司馬瑋が矯詔(詔を偽る罪)の罪に問われて誅殺されたので、王渾はそこで兵を率いて官に復帰した。
恵帝がかつて王渾に元会(元旦に行う朝会)の際に郡国の計吏に地方の風俗の在り方を問う行事のやり方について相談すると、王渾は上奏して言った。「陛下は欽明聖哲であらせられ、それは遠近を輝かすほどでございますのに、それだけに留まらず心にわだかまり無く英明なる詔を下され、草刈りや木こりのような身分の低い者にまでご諮問なさるとは、これは、周の文王が政治を任せるのに適任な賢者が誰かいないかと訪問し、また、孔文子が「文」という謚を得た理由を問われた孔子が、目下の者に教えを乞うことを恥じなかったからだと答えた、まさにそのような行いです。もともと元旦の元会には、郡国の計吏を殿前の軒下に進め至らせ、そこで侍中が詔を読み上げ、計吏は跪いてこれを受けます。(司徒が本官であるが侍中を加えられている)私はこれまで長年に渡って詔文を拝受して読み上げさせていただいておりますが、毎年私ばかりが担って他の人物がこの一年の新声を発することが無いのは、陛下がその御心を天下に尽くされようとするご意志にはそぐいません。そこで、中書に命じて明詔を読み上げさせ、それぞれの土地の異同、賢才の特に秀でた者、それぞれの風俗において好まれているもの、耕作や桑業などの農業などについて、そして刑獄において冤罪やみだりに罰を加えるというようなことがないかどうか、太守や県長などの地方官が人々を侵し虐げていないかどうか、それらを計吏に対して問わせるべきです。そして、地方官の中に、心を尽くして政化に励み、人々に利益をもたらし害を除くことができている者がいれば、その者に紙筆を授け、意を尽くして上聞して述べさせることにし、それによって聖旨を明らかにして心を四方にお注ぎになり、さらに日頃の言葉に拘泥せずに彼らの意見をご採用ください。かつ計吏の受け答えの文義を察し、それによってその計吏の実際の才能がどれほどであるかを見定めなさってください。また、先帝の時には、正会の後に東堂にて四征将軍や四鎮将軍などに任じられて都督の任を担っている方鎮の属下の長史・司馬や、諸王国の卿、諸州の別駕従事(つまり主要な地方官の次官・補佐官)と面会していました。今、もし正会とは別に面会することが難しい場合には、彼らを殿前の軒下に進め至らせ、侍中に詔を読み上げさせて問い、それによって詳しく州郡の実情について察するべきです。そうすれば万事よろしいでしょう」と。恵帝はこれを尤もだと思った。また王渾に詔を下して録尚書事の任を担わせた。
王渾は歴任したそれぞれの官職において前後に名声を博したが、三公たる司徒となってからは、その声望は日ごとに衰えていった。恵帝の元康七年(二九七)に薨去した。七十五歳であった。「元公」という諡号を与えられた。長子の王尚は早くに亡くなっていたので、次子の王済が後を嗣いだ。

原文

濟、字武子。少有逸才、風姿英爽、氣蓋一時。好弓馬、勇力絕人、善易及莊老、文詞俊茂、伎藝過人、有名當世、與姊夫和嶠及裴楷齊名。尚常山公主。年二十、起家拜中書郎、以母憂去官。起爲驍騎將軍、累遷侍中、與侍中孔恂・王恂・楊濟同列、爲一時秀彥。武帝嘗會公卿藩牧於式乾殿、顧濟・恂而謂諸公曰「朕左右可謂恂恂濟濟矣。」毎侍見、未嘗不諮論人物及萬機得失。濟善於清言、修飾辭令、諷議將順、朝臣莫能尚焉、帝益親貴之。仕進雖速、論者不以主壻之故、咸謂才能致之。然外雖弘雅、而内多忌刻、好以言傷物、儕類以此少之。以其父之故、毎排王濬、時議譏焉。
齊王攸當之藩、濟既陳請、又累使公主與甄德妻長廣公主俱入、稽顙泣請帝留攸。帝怒謂侍中王戎曰「兄弟至親、今出齊王、自是朕家事。而甄德・王濟連遣婦來生哭人。」以忤旨、左遷國子祭酒、常侍如故。
數年、入爲侍中。時渾爲僕射、主者處事或不當、濟性峻厲、明法繩之。素與從兄佑不平、佑黨頗謂濟不能顧其父、由是長同異之言。出爲河南尹、未拜、坐鞭王官吏免官、而王佑始見委任。而濟遂被斥外、於是乃移第北芒山下。
性豪侈、麗服玉食。時洛京地甚貴、濟買地爲馬埒、編錢滿之、時人謂爲「金溝」。王愷以帝舅奢豪、有牛名「八百里駁」、常瑩其蹄角。濟請以錢千萬與牛對射而賭之。愷亦自恃其能、令濟先射。一發破的、因據胡牀、叱左右速探牛心來、須臾而至、一割便去。
和嶠性至儉、家有好李、帝求之、不過數十。濟候其上直、率少年詣園、共啖畢、伐樹而去。
帝嘗幸其宅、供饌甚豐、悉貯琉璃器中。蒸肫甚美、帝問其故、荅曰「以人乳蒸之。」帝色甚不平、食未畢而去。
濟善解馬性、嘗乘一馬、著連乾鄣泥、前有水、終不肯渡。濟云「此必是惜鄣泥。」使人解去、便渡。故杜預謂濟有馬癖。
帝嘗謂和嶠曰「我將罵濟而後官爵之、何如。」嶠曰「濟俊爽、恐不可屈。」帝因召濟、切讓之、既而曰「知愧不。」濟荅曰「尺布・斗粟之謠、常爲陛下恥之。他人能令親疏、臣不能使親親、以此愧陛下耳。」帝默然。
帝嘗與濟奕棊、而孫晧在側、謂晧曰「何以好剝人面皮。」晧曰「見無禮於君者則剝之。」濟時伸腳局下、而晧譏焉。
尋使白衣領太僕。年四十六、先渾卒、追贈驃騎將軍。及其將葬、時賢無不畢至。孫楚雅敬濟、而後來、哭之甚悲、賓客莫不垂涕。哭畢、向靈牀曰「卿常好我作驢鳴、我爲卿作之。」體似聲真、賓客皆笑。楚顧曰「諸君不死、而令王濟死乎。」
初、濟尚主、主兩目失明、而妬忌尤甚、然終無子、有庶子二人。卓、字文宣、嗣渾爵、拜給事中。次聿、字茂宣、襲公主封敏陽侯。濟二弟、澄、字道深、汶、字茂深、皆辯慧有才藻、並歴清顯。

訓読

濟(せい)、字は武子。少(わか)くして逸才有り、風姿は英爽、氣は一時を蓋(おお)う。弓馬を好み、勇力は人に絕し、易及び莊老に善く、文詞は俊茂、伎藝は人に過ぎ、名を當世に有(たも)ち、姊夫の和嶠(かきょう)及び裴楷(はいかい)と名を齊(ひと)しくす。常山公主を尚(めと)る。年二十にして、起家して中書郎を拜し、母憂を以て官を去る。起ちて驍騎將軍と爲り、累(しき)りに遷りて侍中たり、侍中の孔恂(こうじゅん)・王恂・楊濟(ようせい)と列を同じくし、一時の秀彥たり。武帝の嘗て公卿藩牧を式乾殿に會するや、濟・恂を顧みて諸公に謂いて曰く「朕の左右 恂恂濟濟と謂うべし」と。侍見する毎に、未だ嘗て人物及び萬機の得失を諮論せず。濟は清言を善くし、辭令を修飾し、諷議するに將順なれば、朝臣は能く焉(これ)を尚(たっと)ぶ莫きも、帝は益々(ますます)之を親貴す。仕進すること速しと雖も、論者は主壻の故を以てせず、咸(み)な才能 之を致せりと謂う。然れども外は弘雅なりと雖も、而れども内は忌刻多く、好んで言を以て物を傷(そこな)いたれば、儕類は此を以て之を少とす。其の父の故を以て、毎(つね)に王濬(おうしゅん)を排したれば、時議 焉を譏(そし)る。
齊王攸(ゆう)の當に藩に之(ゆ)かんとするや、濟 既に陳請し、又た累りに公主をして甄德(しんとく)の妻の長廣公主と俱に入らしめ、稽顙して泣きて帝に攸を留めんことを請わしむ。帝 怒りて侍中の王戎に謂いて曰く「兄弟は至親なれば、今、齊王を出だすは、自(もとよ)り是れ朕の家事なり。而れども甄德・王濟は連(しき)りに婦を遣わして來りて生きながらに人を哭せしむ」と。旨に忤(さから)うを以て、國子祭酒に左遷し、常侍すること故の如し。
數年にして、入りて侍中と爲る。時に渾は僕射たり、主者の事を處するや或いは當ならず、濟は性 峻厲なれば、法を明らかにして之を繩(ただ)す。素より從兄の佑と平らかならず、佑の黨は頗る濟は其の父を顧みる能わずと謂いたれば、是に由りて同異の言を長ぜしむ。出でて河南尹と爲り、未だ拜せざるに、王官吏を鞭うつに坐して官を免ぜられ、而して王佑 始めて委任せらる。而して濟 遂に斥外を被り、是に於いて乃ち第を北芒山下に移す。
性 豪侈にして、麗服玉食す。時に洛京の地は甚だ貴(たか)けれども、濟は地を買いて馬埒を爲すに、錢を編(と)じて之を滿たしたれば、時人は謂いて「金溝」と爲す。王愷(おうがい)は帝の舅なるを以て奢豪にして、牛有りて「八百里駁」と名づけ、常に其の蹄角を瑩(みが)く。濟 錢千萬を以て牛に對して射して之を賭けんことを請う。愷も亦た自ら其の能を恃み、濟に先ず射せしむ。一發にして的を破り、因りて胡牀に據り、左右に叱して速やかに牛心を探し來らせ、須臾にして至るや、一割して便ち去る。
和嶠は性 至儉にして、家に好李有り、帝 之を求むるや、數十に過ぎず。濟 其の上直するを候(ま)ち、少年を率いて園に詣(いた)り、共に啖(く)い畢(お)わるや、樹を伐りて去る。
帝の嘗て其の宅に幸(みゆき)するや、饌を供すること甚だ豐かにして、悉(ことごと)く琉璃の器の中に貯(たくわ)う。蒸肫 甚だ美(うま)く、帝 其の故を問うや、荅えて曰く「人の乳を以て之を蒸す」と。帝は色 甚だ不平にしして、食 未だ畢わらずして去る。
濟は善く馬性を解き、嘗て一馬に乘るや、連乾の鄣泥を著(つ)くるに、前に水有り、終に肯(あ)えて渡らず。濟云わく「此れ必ず是れ鄣泥を惜しむなり」と。人をして解きて去らしむるや、便ち渡る。故に杜預は濟は馬癖有りと謂う。
帝 嘗て和嶠に謂いて曰く「我 將に濟を罵りて後に之を官爵せんとするに、何如」と。嶠曰く「濟は俊爽なれば、恐らくは屈するべからず」と。帝 因りて濟を召し、切に之を讓(せ)め、既にして曰く「愧を知るや不(いな)や」と。濟荅えて曰く「尺布・斗粟の謠〔一〕、常に陛下の爲に之を恥ず。他人は能く親をして疏(うと)んぜしむるに、臣は親をして親ましむ能わず、此を以て陛下を愧(はずかし)むるのみ」と。帝 默然たり。
帝 嘗て濟と奕棊し、而して孫晧 側に在り、晧に謂いて曰く「何を以てか人の面皮を剝ぐを好む」と。晧曰く「君に禮無き者を見れば則ち之を剝ぐ」と。濟 時に腳を局下に伸ばしたれば、而して晧 焉を譏る。
尋いで白衣をして太僕を領せしむ。年四十六にして、渾に先だちて卒し、驃騎將軍を追贈せらる。其の將に葬せんとするに及び、時賢 畢(ことごと)く至らざるは無し。孫楚 雅(もと)より濟を敬いたれば、而して後に來たり、之に哭すること甚だ悲たり、賓客 涕を垂れざるは莫し。哭畢(お)わるや、靈牀に向かいて曰く「卿 常に我の驢鳴を作すを好めば、我 卿の爲に之を作さん」と。體似て聲真なれば、賓客 皆な笑う。楚 顧みて曰く「諸君 死せずして、而して王濟をして死せしむるか」と〔二〕。
初め、濟の主を尚るや、主は兩目をば失明し、而して妬忌 尤も甚だしく、然れば終に子無く、庶子二人有り。卓、字は文宣、渾の爵を嗣ぎ、給事中に拜せらる。次の聿(いつ)、字は茂宣、公主の封を襲いて敏陽侯たり。濟の二弟、澄、字は道深、汶、字は茂深、皆な辯慧にして才藻有り、並びに清顯を歴(へ)たり。

〔一〕前漢の文帝が、弟である淮南王・劉長を廃して護送中に死なせた際に、「一尺の布も縫えばまた使えるし、一斗の籾も舂けば食える(からいずれも捨てることはしない)のに、兄弟二人はなぜこうも相容れない(で弟が捨てられてしまった)のか」と歌われたことを踏まえている。
〔二〕以上、馬場の「金溝」の話、賭けに勝って王愷の牛の心臓を食らった話、和嶠のスモモの話、武帝に人の乳を使った料理をふるまった話、馬の障泥の話、武帝の説教を王済が言いこめた話、死んだときに孫楚がロバの声真似をした話は、みな『世説新語』にも収められているが、文字の異同がある。

現代語訳

王済(おうせい)は字を武子と言う。若い頃から秀逸な才能があり、風貌は凛々しくさっぱりしていて、気概は当代を覆うほどに盛んであった。弓馬を好み、勇力は他人より格段に優れ、『易』や『荘子』『老子』を好み、文章に秀で、技芸は他人に勝り、名声は当代に広まり、姉の夫の和嶠(かきょう)および裴楷(はいかい)と並ぶほどであった。常山公主を娶った。二十歳で起家して中書郎に任じられ、やがて母の喪に服すために辞職した。また起家して驍騎将軍となり、何度も昇進して侍中となり、侍中の孔恂(こうじゅん)・王恂・楊済(ようせい)と同列になるなど、当代きっての秀才であった。武帝がかつて公卿や王侯、そして刺史などの地方官を式乾殿に集めて会したとき、済・恂たち(王済・楊済・孔恂・王恂)を顧みて諸公に言った。「朕の左右の者たちは恂恂済済(慎しみ深くかつ厳かで恭しい様、二人の恂と二人の済を掛けた言葉)であると言えようぞ」と。王済は謁見して侍ってはいたが、いまだかつて人物や万機の得失について議論したことは無かった。王済は清談を好み、言辞を飾り、諷諫・議論する立場にありながらも君主の美善に従って行うだけであったので、朝臣は王済を尊敬することが無かったが、武帝はますます彼に親しみ貴んだ。王済は若くして仕官して急激に出世したとはいっても、論者はそれを公主を娶って帝室の婿となったからであるとは見なさず、みな王済は才能によってこの位を得たのだと言った。ただ、王済は外は高雅であるが、内心は嫉妬深くて自尊心が高く、言葉で何かと貶めてばかりいたので、仲間はそのせいで王済を軽視した。父の王渾のことが原因で、いつも王濬(おうしゅん)を排撃していたので、世論は王済を非難した。
(武帝の弟の)斉王の司馬攸(しばゆう)が藩国に赴かせられることになると、王済はそのことに反対して理由を述べて上請した上で、さらに何度も妻の公主に甄徳(しんとく)の妻の長広公主と一緒に宮中に入らせ、稽顙(ひたいを地面につける敬礼)して泣きながらに武帝に司馬攸を留めるようにと請わせた。武帝は怒って侍中の王戎に言った。「兄弟は近親であるからして、今、斉王を地方に出すのは、そもそも朕の家内の事情である。しかし、甄徳と王済はしきりに婦人を派遣して来させ、死んでもいない人のために(死者に対する礼である)哭礼をさせている」と。聖旨に逆らったということで、国子祭酒に左遷されたが、侍中のときと同様に側仕えさせた。
数年後、宮中に入って侍中となった。時に父の王渾は(人事をつかさどる吏部尚書の上司である)尚書僕射であり、当時の人事担当者の処置は(上司である王渾の機嫌を窺って)けして妥当なものではなく、また王済は厳しく容赦がない性格であったので、法を明らかにしてこのことを正した。王済はもともと従兄の王佑と折り合いが悪く、そのため王佑の仲間は今回の件に関して、王済は父のことを気にかけることができないやつだ、とやたらと言い立てたので、そのせいで賛否両論を巻き起こした。やがて宮中より出て河南尹に任ぜられたが、まだ就任しないうちに、王渾の封国の官吏を鞭うったことで罪に問われて官を罷免され、そこでようやく王佑が委任された。そしてそのまま王済は都外に追いやられ、そこで屋敷を北芒山の麓に移した。
王済は豪奢な性格で、華麗な服を着ていつもごちそうを食べていた。時に洛陽の地価は非常に高かったが、王済は土地を買って馬場を作り、その周囲の垣根を、銭の穴にひもを通してとじたもので満たしたので、当時の人々はそれを「金溝」と呼んだ。武帝の舅の王愷(おうがい)もその地位を笠に豪奢であり、「八百里駁」と名づけた牛を飼っており、いつもその蹄と角を磨いていた。王済はその牛に対して一千万銭を賭けて射を競うことを申し出た。王愷もまた自分の腕を恃みにし、王済に先に射させた。すると、王済は一発で的を破り(賭けに勝利し)、そこで胡牀(背もたれのある折り畳み式の腰かけ)に座り、左右の者に叱りつけて速やかにその牛の心臓を取り出して来させ、しばらくして(調理して)差し出されると、一きれ切り分けて(食べて)そのまま立ち去った。
和嶠は非常に倹約家であり、家によくできたスモモが実ったということで、武帝がそれを所望すると、和嶠は数十個しか差し出さなかった。王済は、和嶠が当直したときを窺い、少年たちを率いて和嶠の家園を訪れ、みなでそれを食い尽くすと、樹を伐採して立ち去った。
武帝がかつて王済の宅に行幸したとき、王済はごちそうをふんだんにふるまったが、それらはみな瑠璃の器の中に盛ってあった。中でも蒸した砂肝が非常においしく、武帝がその理由を問うと、王済は答えて言った。「人の乳で蒸したのです」と。武帝は非常に不快な様子を見せ、食事がまだ終わらないうちに去った。
王済は馬の心情を理解することができ、かつてある一頭の馬に乗っていたとき、その馬に綺麗な紋様を施した障泥(あおり)を着させていたが、川に行き当たると、ずっと渡ろうとしなかった。王済は言った。「これはきっと障泥が汚れることを惜しんでいるのであろう」と。人に命じてその障泥を取り外させると、そこでやっと渡った。故に杜預は、王済には馬癖があると言った。
武帝はかつて和嶠に言った。「私は、(王佑と争って官位を逐われたことについて)王済をとがめた上で、その後に官爵を授けようと思うのだが、どうだろうか」と。和嶠は言った。「王済は才能高く豪放な人物であるので、恐らくは屈させることはできないでしょう」と。武帝はそこで王済を召し出し、厳しく責め立て、その後まもなく言った。「どうだ、恥を知ったか」と。王済は答えて言った。「(武帝が弟の司馬攸を邪険に扱ったことで)尺布・斗粟の謠が歌われるようになったことを、私は常に陛下のために恥じております。私は(陛下を補佐する侍中の身でありながら)他人(武帝)には近親を遠ざけさせるようなことをさせてしまい、私自身は近親(王佑)に対して親しませることができず、それによって陛下のことを辱めてしまいました」と。武帝は黙然として答えなかった。
武帝がかつて王済と棊を打っていたとき、側には孫皓が控えており、武帝は孫皓に言った。「そなたは、(呉の帝位にあったとき)どんな理由で好んで人の顔の皮を剥いでいたのか」と。孫皓は言った。「君主に対して礼がなっていない者がいると、そのたびに剥いでいたのです」と。王済はそのとき脚を碁盤の下に伸ばしていたので、孫皓はそれを非難したのである。
王済はまもなく無官の身から太僕を兼任することになった。やがて四十六歳で、父の王渾に先だって死に、驃騎将軍の位を追贈された。王済の葬儀を行うに当たっては、当時の賢者たちがことごとくその葬儀に参列した。孫楚は兼ねてより王済のことを敬っていたので、後に葬儀に参列し、その哭礼を行う様は非常に悲しみに満ち溢れ、賓客たちはみな涙を流した。哭礼が終わると、孫楚は霊牀(遺体を置いてある台)に向かって言った。「あなたはいつも、私がロバの鳴きまねをするのを喜んでいましたので、私はあなたのためにここでまた披露しましょう」と。その声真似の様子があまりにも本物に似ていたので、賓客たちはみな笑った。孫楚は顧みて言った。「諸君らのような輩が死なずに、なんと天は王済を死なせてしまったのか」と。
初め、王済が公主を娶ったとき、公主は両目とも失明しており、また非常に嫉妬深かったので、そのため最後まで子を儲けることも無く、王済には庶子が二人いるだけだった。長子の王卓は字を文宣と言い、王渾の爵を継ぎ、給事中に任ぜられた。次子の王聿(おういつ)は字を茂宣と言い、公主の封邑を継いで敏陽侯となった。王済には二人の弟がいて、その一人の王澄は字を道深と言い、もう一人の王汶は字を茂深と言い、二人とも聡明でかつ能弁、さらに優れた文才があり、両者とも顕要な清官を歴任した。

王濬

原文

王濬、字士治、弘農湖人也。家世二千石。濬博涉墳典、美姿貌、不修名行、不爲郷曲所稱。晚乃變節、疏通亮達、恢廓有大志。嘗起宅、開門前路廣數十步。人或謂之何太過、濬曰「吾欲使容長戟幡旗。」眾咸笑之、濬曰「陳勝有言、燕雀安知鴻鵠之志。」
州郡辟河東從事。守令有不廉絜者、皆望風自引而去。刺史燕國徐邈有女才淑、擇夫未嫁。邈乃大會佐吏、令女於内觀之。女指濬告母、邈遂妻之。後參征南軍事、羊祜深知待之。祜兄子暨白祜「濬爲人志太、奢侈不節、不可專任、宜有以裁之。」祜曰「濬有大才、將欲濟其所欲、必可用也。」轉車騎從事中郎、識者謂祜可謂能舉善焉。
除巴郡太守。郡邊吳境、兵士苦役、生男多不養。濬乃嚴其科條、寬其傜課、其産育者皆與休復、所全活者數千人。轉廣漢太守、垂惠布政、百姓賴之。濬夜夢懸三刀於臥屋梁上、須臾又益一刀。濬驚覺、意甚惡之。主簿李毅再拜賀曰「三刀爲州字、又益一者、明府其臨益州乎。」及賊張弘殺益州刺史皇甫晏、果遷濬爲益州刺史。濬設方略、悉誅弘等、以勳封關内侯。懷輯殊俗、待以威信、蠻夷徼外多來歸降。徴拜右衞將軍、除大司農。車騎將軍羊祜雅知濬有奇略、乃密表留濬、於是重拜益州刺史。
武帝謀伐吳、詔濬修舟艦。濬乃作大船連舫、方百二十步、受二千餘人。以木爲城、起樓櫓、開四出門、其上皆得馳馬來往。又畫鷁首怪獸於船首、以懼江神。舟楫之盛、自古未有。濬造船於蜀、其木柿蔽江而下。吳建平太守吾彦取流柿以呈孫晧曰「晉必有攻吳之計、宜增建平兵。建平不下、終不敢渡。」晧不從。尋以謠言拜濬爲龍驤將軍・監梁益諸軍事。語在羊祜傳。
時朝議咸諫伐吳、濬乃上疏曰「臣數參訪吳楚同異、孫晧荒淫凶逆、荊揚賢愚無不嗟怨。且觀時運、宜速征伐。若今不伐、天變難預。令晧卒死、更立賢主、文武各得其所、則強敵也。臣作船七年、日有朽敗。又臣年已七十、死亡無日。三者一乖、則難圖也。誠願陛下無失事機。」帝深納焉。賈充・荀勖陳諫以爲不可、唯張華固勸。又杜預表請、帝乃發詔、分命諸方節度。濬於是統兵。先在巴郡之所全育者、皆堪傜役供軍、其父母戒之曰「王府君生爾、爾必勉之。無愛死也。」
太康元年正月、濬發自成都、率巴東監軍・廣武將軍唐彬攻吳丹楊、剋之、擒其丹楊監盛紀。吳人於江險磧要害之處、並以鐵鎖橫截之、又作鐵錐長丈餘、暗置江中、以逆距船。先是、羊祜獲吳閒諜、具知情狀。濬乃作大筏數十、亦方百餘步、縛草爲人、被甲持杖、令善水者以筏先行、筏遇鐵錐、錐輒著筏去。又作火炬、長十餘丈、大數十圍、灌以麻油、在船前、遇鎖、然炬燒之、須臾融液斷絶、於是船無所礙。二月庚申、剋吳西陵、獲其鎮南將軍留憲・征南將軍成據・宜都太守虞忠。壬戌、剋荊門・夷道二城、獲監軍陸晏。乙丑、剋樂郷、獲水軍督陸景、平西將軍施洪等來降。乙亥、詔進濬爲平東將軍・假節・都督益梁諸軍事。
濬自發蜀、兵不血刃、攻無堅城、夏口・武昌、無相支抗。於是順流鼓棹、徑造三山。晧遣游擊將軍張象率舟軍萬人禦濬、象軍望旗而降。晧聞濬軍旌旗器甲、屬天滿江、威勢甚盛、莫不破膽。用光祿勳薛瑩・中書令胡沖計、送降文於濬曰「吳郡孫晧叩頭死罪。昔漢室失御、九州幅裂、先人因時略有江南、遂阻山河、與魏乖隔。大晉龍興、德覆四海、闇劣偷安、未喻天命。至于今者、猥煩六軍、衡蓋露次、遠臨江渚。舉國震惶、假息漏刻、敢緣天朝、含弘光大。謹遣私署太常張夔等奉所佩璽綬、委質請命。」壬寅、濬入于石頭。晧乃備亡國之禮、素車白馬、肉袒面縛、銜璧牽羊、大夫衰服、士輿櫬、率其偽太子瑾・瑾弟魯王虔等二十一人、造于壘門。濬躬解其縛、受璧焚櫬、送于京師。收其圖籍、封其府庫、軍無私焉。帝遣使者犒濬軍。
初、詔書使濬下建平、受杜預節度、至秣陵、受王渾節度。預至江陵、謂諸將帥曰「若濬得下建平、則順流長驅、威名已著、不宜令受制於我。若不能剋、則無緣得施節度。」濬至西陵、預與之書曰「足下既摧其西藩、便當徑取秣陵、討累世之逋寇、釋吳人於塗炭。自江入淮、逾于泗汴、泝河而上、振旅還都、亦曠世一事也。」濬大悅、表呈預書。
及濬將至秣陵、王渾遣信要、令暫過論事、濬舉帆直指、報曰「風利、不得泊也。」王渾久破晧中軍、斬張悌等、頓兵不敢進。而濬乘勝納降、渾恥而且忿、乃表濬違詔不受節度、誣罪狀之。有司遂按濬檻車徴、帝弗許、詔讓濬曰「伐國事重、宜令有一。前詔使將軍受安東將軍渾節度、渾思謀深重、案甲以待將軍。云何徑前、不從渾命、違制昧利、甚失大義。將軍功勳、簡在朕心、當率由詔書、崇成王法、而於事終恃功肆意、朕將何以令天下。」濬上書自理曰

臣前被庚戌詔書、曰「軍人乘勝、猛氣益壯、便當順流長騖、直造秣陵。」臣被詔之日、即便東下。又前被詔書、云「太尉賈充總統諸方、自鎮東大將軍伷及渾・濬・彬等皆受充節度。」無令臣別受渾節度之文。
臣自達巴丘、所向風靡、知孫晧窮踧、勢無所至。十四日至牛渚、去秣陵二百里、宿設部分、爲攻取節度。前至三山、見渾軍在北岸、遣書與臣、可暫來過、共有所議、亦不語臣當受節度之意。臣水軍風發、乘勢造賊城、加宿設部分行有次第、無緣得於長流之中迴船過渾、令首尾斷絶。須臾之閒、晧遣使歸命。臣即報渾書、幷寫晧牋、具以示渾、使速來、當於石頭相待。軍以日中至秣陵、暮乃被渾所下當受節度之符、欲令臣明十六日悉將所領、還圍石頭、備晧越逸。又索蜀兵及鎮南諸軍人名定見。臣以爲晧已來首都亭、無緣共合空圍、又兵人定見、不可倉卒、皆非當今之急、不可承用。中詔謂臣忽棄明制、專擅自由。伏讀嚴詔、驚怖悚慄、不知軀命當所投厝。豈惟老臣獨懷戰灼。三軍上下咸盡喪氣。臣受國恩、任重事大、常恐託付不效、孤負聖朝。故投身死地、轉戰萬里、被蒙寬恕之恩、得從臨履之宜。是以憑賴威靈、幸而能濟、皆是陛下神策廟算。臣承指授、效鷹犬之用耳、有何勳勞而恃功肆意。寧敢昧利而違聖詔。
臣以十五日至秣陵、而詔書以十六日起洛陽、其閒懸闊、不相赴接、則臣之罪責宜蒙察恕。假令孫晧猶有螳蜋舉斧之勢、而臣輕軍單入、有所虧喪、罪之可也。臣所統八萬餘人、乘勝席卷。晧以眾叛親離、無復羽翼、匹夫獨立、不能庇其妻子、雀鼠貪生、苟乞一活耳。而江北諸軍不知其虛實、不早縛取、自爲小誤。臣至便得、更見怨恚、並云守賊百日而令他人得之、言語噂1.𠴲、不可聽聞。
案春秋之義、大夫出疆、由有專輒。臣雖愚蠢、以爲事君之道、唯當竭節盡忠、奮不顧身、量力受任、臨事制宜、苟利社稷、死生以之。若其顧護嫌疑、以避咎責、此是人臣不忠之利、實非明主社稷之福也。臣不自料、忘其鄙劣、披布丹心、輸寫肝腦、欲竭股肱之力、加之以忠貞、庶必掃除兇逆、清一宇宙、願令聖世與唐虞比隆。陛下粗察臣之愚款、而識其欲自效之誠、是以授臣以方牧之任、委臣以征討之事。雖燕主之信樂毅、漢祖之任蕭何、無以加焉。受恩深重、死且不報、而以頑疏、舉錯失宜。陛下弘恩、財加切讓、惶怖怔營、無地自厝。願陛下明臣赤心而已。

渾又騰周浚書、云濬軍得吳寶物。濬復表曰

被壬戌詔書、下安東將軍所上揚州刺史周浚書謂臣諸軍得孫晧寶物。又謂牙門將李高放火燒晧偽宮、輒公文上尚書、具列本末。又聞渾案陷上臣。臣受性愚忠、行事舉動、信心而前、期於不負神明而已。秣陵之事、皆如前所表、而惡直醜正、實繁有徒、欲構南箕、成此貝錦、公於聖世、反白爲黑。
夫佞邪害國、自古而然。故無極破楚、宰嚭滅吳、及至石顯、傾亂漢朝、皆載在典籍、爲世所戒。昔樂毅伐齊、下城七十、而卒被讒閒、脱身出奔、樂羊既反、謗書盈篋。況臣頑疏、能免讒慝之口。然所望全其首領者、實賴陛下聖哲欽明、使浸潤之譖不得行焉。然臣孤根獨立、朝無黨援、久棄遐外、人道斷絶、而結恨強宗、取怨豪族。以累卵之身、處雷霆之衝、繭栗之質、當豺狼之路、其見吞噬、豈抗脣齒。
夫犯上干主、其罪可救、乖忤貴臣、則禍在不測。故朱雲折檻、嬰逆鱗之怒、慶忌救之、成帝不問、望之・周堪違忤石顯、雖闔朝嗟歎、而死不旋踵。此臣之所大怖也。今渾之支黨姻族、内外皆根據磐牙、並處世位。聞遣人在洛中、專共交構、盜言孔甘、疑惑觀聽。夫曾參之不殺人、亦以明矣、然三人傳之、其母投杼。今臣之信行、未若曾參之著、而讒構沸騰、非徒三夫之對、外内扇助、爲二五之應。夫猛獸當塗、麒麟恐懼。況臣脆弱、敢不悚慄。
偽吳君臣、今皆生在、便可驗問、以明虛實。前偽中郎將孔攄説、去二月武昌失守、水軍行至、晧案行石頭、還、左右人皆跳刀大呼云「要當爲陛下一死戰決之。」晧意大喜、謂必能然、便盡出金寶、以賜與之。小人無狀、得便持走、晧懼、乃圖降首。降使適去、左右劫奪財物、略取妻妾、放火燒宮。晧逃身竄首、恐不脱死、臣至、遣參軍主者救斷其火耳。周浚以十六日前入晧宮、臣時遣記室吏往視書籍、浚使收縛。若有遺寶、則浚前得。不應移蹤後人、欲求苟免也。
臣前在三山得浚書、云「晧散寶貨以賜將士、府庫略虛。」而今復言「金銀篋笥、動有萬計」、疑臣軍得之。言語反覆、無復本末。臣復與軍司張牧・汝南相馮紞等共入觀晧宮、乃無席可坐。後日又與牧等共視晧舟船、渾又先臣一日上其船。船上之物、皆渾所知見。臣之案行、皆出其後、若有寶貨、渾應得之。
又臣將軍素嚴、兵人不得妄離部陣閒。在秣陵諸軍、凡二十萬眾。臣軍先至、爲土地之主。百姓之心、皆歸仰臣、臣切敕所領、秋毫不犯。諸有市易、皆有伍任證左、明從券契、有違犯者、凡斬十三人、皆吳人所知也。餘軍縱橫、詐稱臣軍、而臣軍類皆蜀人、幸以此自別耳。豈獨浚之將士皆是夷齊、而臣諸軍悉聚盜跖耶。時有八百餘人、緣石頭城劫取布帛。臣牙門將軍馬潛即收得二十餘人、幷疏其督將姓名、移以付浚、使得自科結、而寂無反報、疑皆縱遣、絶其端緒也。
又聞吳人、前張悌戰時、所殺財有二千人、而渾・浚露布言以萬計。以吳剛子爲主簿、而遣剛至洛、欲令剛增斬級之數。可具問孫晧及其諸臣、則知其定審。若信如所聞、浚等虛詐、尚欺陛下、豈惜於臣。云臣屯聚蜀人、不時送晧、欲有反狀。又恐動吳人、言臣皆當誅殺、取其妻子、冀其作亂、得騁私忿。謀反大逆、尚以見加、其餘謗2.𠴲、故其宜耳。
渾案臣「瓶磬小器、蒙國厚恩、頻繁擢敘、遂過其任」。渾此言最信、内省慚懼。今年平吳、誠爲大慶、於臣之身、更受咎累。既無孟側策馬之好、而令濟濟之朝有讒邪之人、虧穆穆之風、損皇代之美。由臣頑疏、使致於此、拜表流汗、言不識次。

濬至京都、有司奏「濬表既不列前後所被七詔月日、又赦後違詔不受渾節度、大不敬、付廷尉科罪。」詔曰「濬前受詔徑造秣陵、後乃下受渾節度。詔書稽留、所下不至、便令與不受詔同責、未爲經通。濬不即表上被渾宣詔、此可責也。濬有征伐之勞、不足以一眚掩之。」有司又奏「濬赦後燒賊船百三十五艘、輒敕付廷尉禁推。」詔曰「勿推。」拜濬輔國大將軍、領步兵校尉。舊校唯五、置此營自濬始也。有司又奏「輔國依比、未爲達官、不置司馬、不給官騎。」詔依征鎮給五百大車、增兵五百人爲輔國營、給親騎百人・官騎十人、置司馬。封爲襄陽縣侯、邑萬戸。封子彝楊郷亭侯、邑千五百戸、賜絹萬匹、又賜衣一襲・錢三十萬及食物。
濬自以功大、而爲渾父子及豪強所抑、屢爲有司所奏、毎進見、陳其攻伐之勞、及見枉之狀、或不勝忿憤、徑出不辭。帝毎容恕之。益州護軍范通、濬之外親也、謂濬曰「卿功則美矣。然恨所以居美者、未盡善也。」濬曰「何謂也。」通曰「卿旋旆之日、角巾私第、口不言平吳之事。若有問者、輒曰『聖主之德、羣帥之力、老夫何力之有焉。』如斯、顏老之不伐、龔遂之雅對、將何以過之。藺生所以屈廉頗、王渾能無愧乎。」濬曰「吾始懼鄧艾之事、畏禍及、不得無言、亦不能遣諸胸中、是吾褊也。」
時人咸以濬功重報輕、博士秦秀・太子洗馬孟康・前溫令李密等並表訟濬之屈。帝乃遷濬鎮軍大將軍、加散騎常侍、領後軍將軍。王渾詣濬、濬嚴設備衞然後見之。其相猜防如此。
濬平吳之後、以勳高位重、不復素業自居、乃玉食錦服、縱奢侈以自逸。其有辟引、多是蜀人、示不遺故舊也。後又轉濬撫軍大將軍・開府儀同三司、加特進、散騎常侍・後軍將軍如故。太康六年卒。時年八十、諡曰武。葬柏谷山、大營塋域、葬垣周四十五里、面別開一門、松柏茂盛。子矩嗣。
矩弟暢、散騎郎。暢子粹、太康十年、武帝詔粹尚潁川公主、仕至魏郡太守。
濬有二孫、過江不見齒錄。安西將軍桓溫鎮江陵、表言之曰「臣聞『崇德賞功、爲政之所先、興滅繼絶、百王之所務。故德參時雍、則奕世承祀、功烈一代、則永錫祚胤。』案故撫軍王濬歴職内外、任兼文武、料敵制勝、明勇獨斷、義存社稷之利、不顧專輒之罪。荷戈長騖、席卷萬里、僭號之吳、面縛象魏。今皇澤被於九州、玄風洽於區外。襄陽之封、廢而莫續、恩寵之號、墜於近嗣。遐邇酸懷、臣竊悼之。濬今有二孫、年出六十、室如懸磬、餬口江濱、四節蒸嘗、菜羹不給。昔漢高定業、求樂毅之嗣、世祖旌賢、建葛亮之胤。夫效忠異代、立功異國、尚通天下之善、使不泯棄。況濬建元勳於當年、著嘉慶於身後。靈基託根於南垂、皇祚中興於江左、舊物克彰、神器重耀、豈不由伊人之功力也哉。誠宜加恩、少垂矜憫、追錄舊勳、纂錫茅土。則聖朝之恩、宣暢於上、忠臣之志、不墜于地矣。」卒不見省。

1.𠴲は、「口+沓」(正しく表示できない環境があるため、念のために示す)。
2.𠴲は、「口+沓」(同上)。

訓読

王濬、字は士治、弘農湖の人なり。家は世々二千石。濬、墳典を博涉し、姿貌は美しきも、名行を修めず、郷曲の稱する所と爲らず。晚に乃ち節を變じ、疏通・亮達し、恢廓して大志有り。嘗て宅を起こすに、門前の路を開くこと廣數十步。人、或いは之れ何ぞ太だ過ぎたるやと謂うや、濬曰く「吾、長戟・幡旗を容れしめんと欲す」と。眾、咸な之を笑うも、濬曰く「陳勝に言有り、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」と。
州郡辟して河東從事たり。守令に廉絜ならざる者有り、皆な風を望みて自ら引きて去る。刺史の燕國の徐邈に女の才淑なるもの有り、夫を擇びて未だ嫁がず。邈、乃ち大いに佐吏を會し、女をして内より之を觀わしむ。女、濬を指して母に告げたれば、邈、遂に之に妻す。後に征南軍事に參じ〔一〕、羊祜は深く之を知待す。祜の兄の子の暨、祜に白すらく「濬の爲人は志太だしく、奢侈にして節せざれば、專ら任ずべからず。宜しく以て之を裁くこと有るべし」と。祜曰く「濬には大才有り、將に其の欲する所を濟げんと欲せんとすれば、必ず用うべきなり」と。車騎從事中郎に轉ずるに、識者謂えらく、祜は能く善を舉ぐと謂うべし、と。
巴郡太守に除せらる。郡邊は吳境なれば、兵士は役に苦しみ、男を生めば多く養わず。濬、乃ち其の科條を嚴しくし、其の傜課を寬(ゆる)め、其の産育する者には皆な休復を與え、全活する所の者は數千人。廣漢太守に轉じ、惠を垂れて政を布き、百姓は之を賴る。濬、夜に夢むらく、三刀を臥屋の梁上に懸け、須臾にして又た一刀を益す。濬、驚きて覺め、意に甚だ之を惡む。主簿の李毅、再拜して賀して曰く「三刀は州の字たり〔二〕、又た一を益すは、明府、其れ益州に臨まんや」と。賊の張弘の益州刺史の皇甫晏を殺すに及び、果たして濬を遷して益州刺史と爲す。濬、方略を設け、悉く弘等を誅し、勳を以て關内侯に封ぜらる。殊俗を懷輯し、待するに威信を以てし、蠻夷は徼外より多く來りて歸降す。徴されて右衞將軍に拜せられ、大司農に除せらる。車騎將軍の羊祜は雅(もと)より濬に奇略有るを知りたれば、乃ち密かに表して濬を留め、是に於いて重ねて益州刺史に拜せらる。
武帝、謀りて吳を伐たんとし、濬に詔して舟艦を修めしむ。濬、乃ち大船の連舫を作り、方百二十步、二千餘人を受く。木を以て城と爲し、樓櫓を起こし、四出の門を開き、其の上は皆な馬を馳せて來往するを得たり。又た鷁首の怪獸を船首に畫き、以て江神を懼(おど)す。舟楫の盛、古より未だ有らず。濬、船を蜀に造るや、其の木柿は江を蔽いて下る。吳の建平太守の吾彦、流柿を取りて以て孫晧に呈して曰く「晉、必ず吳を攻むるの計有れば、宜しく建平の兵を增すべし。建平下らずんば、終に敢えて渡らざらん」と。晧、從わず。尋いで謠言を以て濬を拜して龍驤將軍・監梁益諸軍事と爲す。語は羊祜傳に在り。
時に朝議は咸な吳を伐つを諫むるも、濬、乃ち上疏して曰く「臣、數々吳楚の同異を參訪するに、孫晧は荒淫・凶逆なれば、荊揚の賢愚は嗟怨せざる無し。且つ時運を觀うに、宜しく速やかに征伐すべし。若し今伐たずんば、天變預り難し。令(も)し晧、卒かに死し、更めて賢主を立て、文武各々其の所を得ば、則ち強敵ならん。臣、船を作ること七年、日ごとに朽敗有り。又た臣の年は已に七十にして、死亡すること日無からん。三者一つなりとも乖けば、則ち圖り難かるなり。誠に願わくば、陛下、事機を失うこと無からんことを」と。帝、深く焉(これ)を納る。賈充・荀勖、陳諫して以て不可と爲すも、唯だ張華のみ固く勸む。又た杜預も表請したれば、帝、乃ち詔を發し、諸方に分命して節度せしむ。濬、是に於いて兵を統ぶ。先に巴郡に在りしときの全育せし所の者、皆な傜役・供軍に堪うれば、其の父母、之に戒めて曰く「王府君は爾を生かしたれば、爾は必ず之に勉めよ。死を愛しむこと無かれ」と。
太康元年正月、濬、發すること成都よりし、巴東監軍・廣武將軍の唐彬を率いて吳の丹楊を攻め、之に剋ち、其の丹楊監の盛紀を擒にす。吳人、江の險磧・要害の處に於いて、並びに鐵鎖を以て之を橫截し、又た鐵錐の長丈餘なるを作り、暗に江中に置き、以て船を逆え距ぐ。是より先、羊祜は吳の閒諜を獲、具に情狀を知る。濬、乃ち大筏を作ること數十、亦た方百餘步、草を縛りて人と爲し、甲を被け杖を持たしめ、水を善くする者をして筏を以て先行せしめ、筏の鐵錐に遇うや、錐は輒ち筏に著きて去る。又た火炬を作ること長十餘丈、大數十圍、灌ぐに麻油を以てし、船の前に在らしめ、鎖に遇うや、炬を然(も)やして之を燒き、須臾にして融液して斷絶し、是に於いて船は礙ぐる所無し。二月庚申、吳に西陵に剋ち、其の鎮南將軍の留憲・征南將軍の成據・宜都太守の虞忠を獲たり。壬戌、荊門・夷道の二城に剋ち、監軍の陸晏を獲たり。乙丑、樂郷に剋ち、水軍督の陸景を獲、平西將軍の施洪等來降す。乙亥、詔して濬を進めて平東將軍・假節〔三〕・都督益梁諸軍事と爲す。
濬、蜀を發してより、兵は刃を血ぬらず、攻むるに堅城無く、夏口・武昌、相い支抗する無し。是に於いて流れに順いて棹を鼓し、徑ちに三山〔四〕に造る。晧、游擊將軍の張象を遣わして舟軍萬人を率いて濬を禦がしむるも、象の軍、旗を望みて降る。晧、濬の軍は旌旗・器甲、天に屬(つづ)き江に滿ち、威勢は甚だ盛んなるを聞き、破膽せざるは莫し。光祿勳の薛瑩・中書令の胡沖の計を用い、降文を濬に送りて曰く「吳郡の孫晧、叩頭死罪〔五〕。昔、漢室の御を失い、九州の幅裂するや、先人は時略に因りて江南を有(たも)ち、遂に山河に阻り、魏と乖隔す。大晉龍興し、德は四海を覆うも、闇劣にして安きを偷み、未だ天命を喻らず。今者に至り、猥りに六軍を煩わせ、衡蓋は露次し、遠く江渚に臨む。國を舉げて震惶し、假息すること漏刻、敢えて天朝の含弘光大なるに緣る。謹んで私署せる太常の張夔等を遣わして佩ぶる所の璽綬を奉ぜしめ、委質して命を請わん」と。壬寅、濬、石頭に入る。晧、乃ち亡國の禮を備え、素車白馬もて、肉袒して面縛し、璧を銜えて羊を牽き、大夫は衰服し、士は櫬を輿し、其の偽太子の瑾・瑾の弟の魯王の虔等二十一人を率い、壘門に造る。濬、躬ら其の縛を解き、璧を受け櫬を焚き、京師に送る。其の圖籍を收め、其の府庫を封じ、軍は焉を私すること無し。帝、使者を遣わして濬の軍を犒(ねぎら)わしむ。
初め、詔書もて濬をして建平を下すや、杜預の節度を受けしめ、秣陵に至るや、王渾の節度を受けしむ。預、江陵に至るや、諸將帥に謂いて曰く「若し濬、建平を下すを得ば、則ち流れに順いて長驅し、威名已に著われたれば、宜しく我に制を受けしむべからず。若し剋つ能わずんば、則ち緣りて節度を施すを得る無し」と。濬の西陵に至るや、預、之に書を與えて曰く「足下は既に其の西藩を摧きたれば、便ち當に徑ちに秣陵を取り、累世の逋寇を討ち、吳人を塗炭より釋くべし。江より淮に入り、泗汴を逾え、河を泝りて上り、振旅して都に還るは、亦た曠世の一事なり」と。濬、大いに悅び、預の書を表呈す。
濬の將に秣陵に至らんとするに及び、王渾、信を遣りて要め、暫く過りて事を論ぜしめんとするも、濬は帆を舉げて直指し、報じて曰く「風利なれば、泊まるを得ざるなり」と。王渾、久しくして晧の中軍を破り、張悌等を斬り、兵を頓(とど)めて敢えて進まず。而るに濬は勝ちに乘じて降を納れたれば、渾、恥じて且つ忿り、乃ち濬は詔に違いて節度を受けずと表し、罪を誣して之を狀(の)ぶ。有司、遂に濬を按じて檻車もて徴さんとするも、帝は許さず、詔して濬を讓めて曰く「國を伐つは事重ければ、宜しく令もて一有るべし。前に詔して將軍をして安東將軍渾の節度を受けしむれば、渾は思謀深重にして、甲を案じて以て將軍を待つ。云何ぞ徑ちに前み、渾の命に從わず、制に違い利を昧(むさぼ)り、甚だ大義を失せしや。將軍の功勳、簡ぶこと朕の心に在れば、當に詔書に率由し、王法を崇成すべきに、而れども事の終わりに於いて功を恃みて意を肆にしたれば、朕、將た何を以てか天下に令せんや」と。濬、上書して自ら理めて曰く

臣、前に庚戌詔書を被けたるに、曰く「軍人勝ちに乘じ、猛氣益々壯んならば、便ち當に流れに順いて長騖し、直ちに秣陵に造るべし」と。臣、詔を被くるの日、即ち便ち東のかた下る。又た前に詔書を被けたるに、云く「太尉の賈充は諸方を總統し、鎮東大將軍の伷より渾・濬・彬等に及ぶまで皆な充の節度を受けよ」と。臣をして別に渾の節度を受けしむるの文無し。
臣、巴丘に達してより、向かう所は風靡き、孫晧の窮踧し、勢いとして至る所無きを知る。十四日に牛渚に至り、秣陵を去ること二百里、宿設部分し、攻取の節度を爲す。前みて三山に至り、渾の軍の北岸に在るを見、書を遣りて臣に與え、暫く來りて過り、共に議する所有るべしというも、亦た臣の當に節度を受くべきの意を語らず。臣の水軍は風のごとく發ち、勢いに乘じて賊城に造り、加うるに宿設部分して行に次第有れば、緣りて長流の中に於いて船を迴らして渾を過り、首尾をして斷絶せしむるを得ること無し。須臾の閒、晧、使を遣わして歸命す。臣、即ち渾の書に報じ、幷びに晧の牋を寫し、具に以て渾に示し、使(も)し速やかに來らば、當に石頭に於いて相い待つべし。軍、日中を以て秣陵に至り、暮に乃ち渾の下す所の當に節度を受くべきの符を被け、臣をして明十六日に悉く領する所を將い、還りて石頭を圍み、晧の越逸するに備えしめんと欲す。又た蜀兵及び鎮南諸軍の人名・定見を索む。臣以爲えらく、晧は已に來りて都亭に首したれば、緣りて共に合して空しく圍む無く、又た兵人の定見、倉卒にすべからず、皆な當今の急に非ざれば、承用すべからず、と。中詔、臣は明制を忽棄し、專擅して自ら由れりと謂う。伏して嚴詔を讀むに、驚怖・悚慄し、軀命の當に投厝する所なるべきかを知らず。豈に惟だ老臣のみ獨り戰灼を懷かんや。三軍上下咸な盡く氣を喪わん。臣は國恩を受け、任重く事大なれば、常に託付するに效さず、聖朝に孤負するを恐る。故に身を死地に投じ、轉戰すること萬里、寬恕の恩を被蒙し、臨履の宜に從うことを得たり。是を以て威靈に憑賴し、幸いにして能く濟げしは、皆な是れ陛下の神策廟算なり。臣は指授を承け、鷹犬の用を效すのみなれば、何の勳勞有りて功を恃み意を肆にせんや。寧くんぞ敢えて利を昧りて聖詔に違わんや。
臣、十五日を以て秣陵に至り、而して詔書は十六日を以て洛陽を起ち、其の閒懸闊し、相い赴接せざれば、則ち臣の罪責、宜しく察恕を蒙るべし。假令(も)し孫晧に猶お螳蜋の斧を舉ぐるの勢有り、而して臣、軍を輕くして單入し、虧喪する所有らば、之を罪すとも可なり。臣の統ぶる所の八萬餘人、勝ちに乘じて席卷す。晧、眾叛き親離れ、復た羽翼無く、匹夫獨り立つも、其の妻子を庇う能わざるを以て、雀鼠の生を貪るがごとく、苟くも一活を乞いしのみ。而るに江北の諸軍は其の虛實を知らず、早く縛取せざれば、自ら小誤と爲す。臣の便ち得るに至り、更に怨恚を見し、並びに賊を守ること百日にして他人をして之を得しむと云いたれば、言語噂𠴲、聽聞すべからず。
春秋の義を案ずるに、大夫疆を出でたれば、由お專輒すること有り。臣、愚蠢なりと雖も、以爲えらく、君に事うるの道、唯だ當に節を竭くし忠を盡くし、奮いて身を顧みず、力を量りて任を受け、苟くも社稷を利すれば、死生之を以てすべきのみ。若し其の嫌疑を顧護し、以て咎責を避けば、此れ是れ人臣の不忠の利にして、實に明主の社稷の福には非ざるなり。臣、自ら料らず、其の鄙劣なることを忘れ、丹心を披布し、肝腦を輸寫し、股肱の力を竭し、之に加うるに忠貞を以てせんことを欲し、必ず兇逆を掃除し、宇宙を清一せんことを庶い、聖世をして唐虞と比隆せしめんことを願う。陛下、粗(あらま)し臣の愚款を察し、而して其の自效せんと欲するの誠を識り、是を以て臣に授くるに方牧の任を以てし、臣に委ぬるに征討の事を以てす。燕主の樂毅を信じ、漢祖の蕭何を任ずと雖も、以て焉に加うる無し。受けし恩の深重なること、死すとも且(な)お報いず、而るに頑疏を以て、舉錯は宜を失わん。陛下は弘恩にして、財かに切讓を加うるのみなるも、惶怖怔營して、地として自ら厝く無し。陛下の臣が赤心を明らかにせられんことを願うのみ。

と。
渾、又た周浚の書を騰(つた)え、濬の軍は吳の寶物を得たりと云う。濬、復た表して曰く

壬戌詔書を被けたるに、下したる安東將軍の上せし所の揚州刺史の周浚の書に謂わく、臣の諸軍は孫晧の寶物を得たり、と。又た謂わく、牙門將の李高、火を放ちて晧の偽宮を燒きたれば、輒ち公文もて尚書に上し、本末を具列す、と。又た聞くならく、渾、案陷して臣を上す、と。臣、受性は愚忠にして、行事舉動、心を信にして前み、神明に負かざるを期すのみ。秣陵の事、皆な前に表せし所の如きなれども、而るに直を惡み正を醜(にく)み、實に繁く徒有り、南箕を構えんと欲し、此の貝錦を成し、聖世に公にし、白を反して黑と爲す。
夫れ佞邪の國を害するや、古よりして然り。故に無極は楚を破り、宰嚭は吳を滅ぼし、石顯に至るに及び、漢朝を傾亂せしは、皆な載せて典籍に在り、世の戒むる所と爲る。昔、樂毅は齊を伐ち、城を下すこと七十なるも、而れども卒かに讒閒を被け、身を脱して出奔し、樂羊は既に反るや、謗書篋に盈つ。況んや臣は頑疏なれば、能く讒慝の口を免れんや。然れども其の首領を全うせんと望む所の者は、實に陛下の聖哲欽明に賴り、浸潤の譖をして行わるるを得ざらしむればなり。然れども臣は孤根獨立にして、朝に黨援無く、久しく遐外に棄てられ、人道斷絶し、而して恨みを強宗に結び、怨みを豪族に取る。累卵の身を以て、雷霆の衝に處り、繭栗の質もて、豺狼の路に當たれば、其の吞噬せらるるに、豈に脣齒に抗せんや。
夫れ上を犯し主を干すは、其の罪は救うべきも、貴臣に乖忤すれば、則ち禍は不測に在り。故に朱雲の檻を折り、逆鱗の怒に嬰るるや、慶忌は之を救い、成帝は不問とし、望之・周堪の石顯に違忤するや、闔朝嗟歎すと雖も、而れども死すること踵を旋さず。此れ臣の大いに怖るる所なり。今、渾の支黨・姻族、内外皆な磐牙するに根據し、並びに世位に處る。聞くならく、人を遣わして洛中に在らしめ、專ら共に交構し、盜言孔だ甘ければ、觀聽を疑惑す。夫れ曾參の人を殺さざるは、亦た以て明らかなるも、然れども三人之を傳うれば、其の母は杼を投ず。今、臣の信行、未だ曾參の著に若かず、而も讒構沸騰すること、徒だに三夫の對に非ざれば、外内扇助し、二五の應を爲す。夫れ猛獸の塗に當たれば、麒麟すら恐懼す。況んや臣は脆弱なれば、敢えて悚慄せざらんや。
偽吳の君臣、今皆な生きて在れば、便ち驗問し、以て虛實を明らかにすべし。前の偽中郎將の孔攄説わく、去二月、武昌は守を失い、水軍行々至らんとすれば、晧は石頭を案行し、還るや、左右の人は皆な跳刀して大いに呼びて云く「要ず當に陛下の爲に一たび死戰して之を決すべし」と。晧、意に大いに喜び、必ず能く然りと謂い、便ち盡く金寶を出し、以て之に賜與す。小人は無狀にして、得るや便ち持ちて走りたれば、晧、懼れ、乃ち降首を圖る。降使の適に去るや、左右は財物を劫奪し、妻妾を略取し、火を放ちて宮を燒く。晧、身を逃れ首を竄し、死を脱せざらんことを恐れしも、臣至り、參軍主者を遣わして救いて其の火を斷ぜしめしのみ、と。周浚、十六日を以て前に晧の宮に入り、臣、時に記室吏を遣わして往きて書籍を視しめたるに、浚、收縛せしむ。若し遺寶有らば、則ち浚、前に得けん。應に蹤を後人に移し、苟免を求めんと欲すべからざるなり。
臣、前に三山に在りて浚の書を得たるに、云く「晧、寶貨を散じて以て將士に賜い、府庫は略し虛し」と。而るに今復た「金銀篋笥、動もすれば萬もて計うる有り」と言い、臣の軍の之を得たるを疑う。言語反覆し、復た本末無し。臣も復た軍司の張牧・汝南相の馮紞等と共に入りて晧の宮を觀るも、乃ち席の坐するべきもの無し。後日、又た牧等と共に晧の舟船を視るも、渾も又た臣に先んずること一日にして其の船に上る。船上の物、皆な渾の知見する所なり。臣の案行するや、皆な其の後に出でたれば、若し寶貨有らば、渾、應に之を得たるべし。
又た臣、軍を將いること素より嚴なれば、兵人は妄りに部陣の閒を離るるを得ず。秣陵に在る諸軍は、凡そ二十萬眾。臣の軍、先に至り、土地の主と爲る。百姓の心、皆な歸して臣を仰ぎたれば、臣は切に領する所に敕し、秋毫も犯さず。諸そ市易すること有れば、皆な伍任の證左有らしめ、明らかに券契に從わしむるも、違犯する者有れば、凡そ斬ること十三人、皆な吳人の知る所なり。餘軍は縱橫にして、詐りて臣の軍と稱するも、而れども臣の軍は類(おおむ)ね皆な蜀人なれば、幸いにも此を以て自ら別つのみ。豈に獨り浚の將士のみ皆な是れ夷・齊にして、而して臣の諸軍は悉く盜跖を聚めしならんや。時に八百餘人有り、石頭城に緣りて布帛を劫取す。臣の牙門將軍の馬潛、即ち收めて二十餘人を得、幷びに其の督將の姓名を疏し、移して以て浚に付し、自ら科結するを得しむるも、而れども寂として反報する無く、疑うらくは皆な縱遣し、其の端緒を絶てしならん。
又た聞くならく、吳人は、前に張悌の戰いし時、殺す所は財かに二千人有るのみなれども、而れども渾・浚は露布して萬を以て計うと言う。吳剛の子を以て主簿と爲し、而して剛を遣わして洛に至らしめ、剛をして斬級の數を增さしめんと欲す。具に孫晧及び其の諸臣に問うべければ、則ち其の定めて審らかなるを知る。若し信に聞く所の如くんば、浚等の虛詐すること、尚お陛下を欺くに、豈に臣を惜しまんや。云わく、臣は蜀人を屯聚し、不時に晧に送り、反狀有らんと欲す、と。又た吳人を恐動せしめ、臣は皆な當に誅殺し、其の妻子を取るべしと言い、其の亂を作し、私忿を騁するを得んことを冀う。謀反・大逆、尚お以て加えらるるに、其の餘の謗𠴲、故より其れ宜なるのみ。
渾、臣を案ずらく「瓶磬の小器、國の厚恩を蒙り、頻繁に擢敘せられ、遂に其の任を過てり」と。渾の此の言は最も信にして、内省するに慚懼す。今年、吳を平げ、誠に大慶たるも、臣の身に於いては、更々咎累を受く。既に孟側の策馬の好無く、而も濟濟の朝をして讒邪の人有らしめ、穆穆の風を虧き、皇代の美を損ず。臣の頑疏なるに由り、此に致さしめたれば、拜表するに流汗し、言は次を識らず。

と。
濬の京都に至るや、有司奏すらく「濬の表、既に前後に被けし所の七詔の月日を列べず、又た赦後に詔に違いて渾の節度を受けず、大不敬なれば、廷尉に付して科罪せしめられよ」と。詔して曰く「濬、前に詔を受けて徑ちに秣陵に造り、後に乃ち下して渾の節度を受けしむ。詔書稽留し、下す所に至らざれば、便ち令(も)し詔を受けざると同じく責めば、未だ經通たらず。濬、即ち表上して渾の宣詔を被けざるは、此れ責むべきなり。濬には征伐の勞有れば、一眚を以て之を掩うに足らず」と。有司又た奏すらく「濬は赦後に賊船百三十五艘を燒きたれば、輒ち敕して廷尉に付して禁推せしめられよ」と。詔して曰く「推す勿れ」と。濬を輔國大將軍に拜し、步兵校尉を領せしむ。舊と校は唯だ五のみなるも、此の營を置くこと濬より始まるなり〔六〕。有司又た奏すらく「輔國は比に依るに、未だ達官たらざれば、司馬を置かず、官騎を給せざれ」と。詔して征鎮の五百・大車を給するに依り、兵五百人を增して輔國營と爲し、親騎百人・官騎十人を給し、司馬を置く。封じて襄陽縣侯と爲し、邑は萬戸。子の彝(い)を楊郷亭侯に封じ、邑は千五百戸、絹萬匹を賜い、又た衣一襲・錢三十萬及び食物を賜う。
濬、自ら功は大なりと以(おも)い、而して渾父子及び豪強の抑うる所と爲り、屢々有司の奏する所と爲れば、進見する毎に、其の攻伐の勞を陳べ、枉げらるるの狀に及ぶや、或いは忿憤に勝えず、徑ちに出でて辭せず。帝、毎に之を容恕す。益州護軍の范通、濬の外親なりしが、濬に謂いて曰く「卿の功は則ち美なり。然れども恨むらくは、以て美に居る所の者は、未だ盡くは善からざるなり」と。濬曰く「何の謂ぞ」と。通曰く「卿の旋旆の日、私第に角巾し、口に平吳の事を言わず、若し問う者有れば、輒ち曰く『聖主の德、羣帥の力なれば、老夫、何の力か之れ有らんや』と。斯くの如くんば、顏・老の不伐、龔遂の雅對、將た何を以てか之に過ぎん。藺生の廉頗に屈する所以、王渾、能(あ)に愧ずること無からんや」と。濬曰く「吾、始め鄧艾の事を懼れ、禍の及ばんことを畏れたれば、言無かるを得ず、亦た諸を胸中に遣る能わず。是れ吾れ褊なればなり」と。
時人は咸な濬の功は重けれども報は輕しと以い、博士の秦秀・太子洗馬の孟康・前の溫令の李密等、並びに表して濬の屈を訟う。帝、乃ち濬を鎮軍大將軍に遷し、散騎常侍を加え、後軍將軍を領せしむ。王渾の濬に詣るや、濬、嚴しく備衞を設けて然る後に之に見う。其の相い猜防すること此くの如し。
濬、平吳の後、勳高く位重きを以て、復た素業もて自ら居らず、乃ち玉食・錦服し、縱に奢侈して以て自逸す。其の辟引有るや、多く是れ蜀人なるは、故舊を遺れざることを示すなり。後に又た濬を撫軍大將軍・開府儀同三司に轉じ、特進を加え、散騎常侍・後軍將軍は故の如し。太康六年卒す。時に年八十、諡して武と曰う。柏谷山に葬し、大いに塋域を營み、葬垣は周四十五里、面に別に一門を開き、松柏茂盛なり。子の矩、嗣ぐ。
矩の弟の暢、散騎郎たり。暢の子の粹、太康十年、武帝、粹に詔して潁川公主を尚らしめ、仕えて魏郡太守に至る。
濬に二孫有り、江を過ぐるも齒錄せられず。安西將軍の桓溫の江陵に鎮するや、表して之を言いて曰く「臣聞くならく『德を崇び功を賞すは、政の先にする所と爲り、滅びしを興し絶えしを繼ぐは、百王の務めとする所なり。故に德の時雍に參ずれば、則ち奕世に祀を承け、功の一代に烈たれば、則ち永く祚胤を錫う』と。案ずるに故の撫軍の王濬は職を内外に歴、任は文武を兼ね、敵を料りて勝ちを制し、明勇にして獨斷するも、義は社稷の利に存り、專輒の罪を顧みず。戈を荷いて長騖し、萬里を席卷し、僭號の吳、象魏に面縛す。今、皇澤は九州を被い、玄風は區外に洽し。襄陽の封、廢れて續ぐもの莫く、恩寵の號、近嗣に墜(うしな)う。遐邇酸懷し、臣、竊かに之を悼む。濬、今、二孫有り、年は六十を出で、室は懸磬の如く、口を江濱に餬し、四節の蒸嘗、菜羹給せず。昔、漢高の業を定むるや、樂毅の嗣を求め、世祖の賢を旌すや、葛亮の胤を建つ。夫れ忠を異代に效し、功を異國に立つるものすら、尚お天下の善を通じ、泯棄せざらしむ。況んや濬は元勳を當年に建て、嘉慶を身後に著わす。靈基は根を南垂に託せ、皇祚は江左に中興し、舊物克く彰らかにし、神器重ねて耀かすは、豈に伊の人の功力に由らざらんや。誠に宜しく恩を加え、少しく矜憫を垂れ、追いて舊勳を錄し、纂ぎて茅土を錫うべし。則ち聖朝の恩、上に宣暢し、忠臣の志、地に墜ちざらん」と。卒に省られず。

〔一〕『晋書斠注』では、本紀を見ると羊祜が征南将軍となったのは咸寧二年(276)十月のことであり、王濬が益州刺史となったのは泰始八年(272)六月頃のことであるので、時系列がおかしくなるとする『読史挙正』の説を紹介している。そもそも『晋書』の本紀でも羊祜伝でも、羊祜は「(泰始初)中軍将軍→(泰始四年二月)衛将軍→(泰始五年、都督荊州諸軍事として荊州に赴任)→(泰始八年七月頃)車騎将軍→(泰始八年十二月の歩闡の役での失態後)平南将軍→(咸寧二年十月)征南大将軍」の順番で歴任しており、「征南将軍→車騎将軍」の順番で記す王濬伝とは矛盾する。『読史挙正』では、「參征南軍事」の「征南」が誤っているのだとするが、「車騎從事中郎」についても、そもそも王濬が益州刺史となったのが泰始八年六月頃で、羊祜が車騎将軍となったのが泰始八年七月頃である以上、王濬が巴郡太守・広漢太守・益州刺史を歴任する前に羊祜の「車騎從事中郎」となったこともあり得ないことになる。何らかの記述の誤りがあるのは閒違いないが、正確なことは判然としない。
〔二〕「州」の異体字に「刕」というものがある。
〔三〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔四〕呉の首都・建業の南西方面すぐそばの長江東岸(現在の南京市雨花台区)の山。
〔五〕公文書(上行文)の書き出しや締めで用いられる定型表現。
〔六〕歩兵校尉は前漢の武帝が初めて設置したものであり、後漢代にはすでに「五校」の一つとして存在していたため、ここで五校以外の新たな校尉として歩兵校尉が新設され、王濬がその初代任官者となったとあるのはおかしい。『晋書斠注』では、「歩兵校尉」ではなく「翊軍校尉」が正しいのではないかとする『資治通鑑考異』の推論を紹介している。さらに、『太平御覧』に引かれている王隱『晋書』には、このとき朝廷は王濬を五営校尉(五校)に任じようとしたが、ポストの空きが無かったために歩兵校尉と同位の翊軍校尉を新設して王濬をその地位に据えた、ということが記されていることを指摘し、『資治通鑑考異』の推論を支持している。

現代語訳

王濬(おうしゅん)は字を士治と言い、弘農郡・湖県の人である。家は代々二千石を輩出した。王濬は、古の典籍を博覧し、容貌は美しかったが、名声や品行を修めず、郷里の人々には賞賛されなかった。後年になってやっと節操を改め、事理に通達するようになり、心も大きくなって大志を抱くようになった。かつて家宅を建てた際、門前の道を数十歩の広さにこしらえた。いくら何でも広すぎだと言う者がいたが、王濬が言うには「私は、長戟や幡旗を持った人が通れるようにと思ってそうしたのだ」と。人々はみなそれを笑ったが、王濬は言った。「陳勝の言葉に『燕や雀のような小鳥が、どうして鴻鵠のような大鳥の志が理解できようか』というものがある」と。
やがて郡吏となり、さらに州に辟召されて部河東従事(河東郡の官吏の監察を担当する州の属吏)となった。河東太守や属県の県令たちの中には廉潔ではない者もいたが、彼らはみな王濬が部河東従事になったということを知ると、(弾劾されるのを恐れて)自ら辞任して去っていった。その当時、刺史(司隷校尉)であった燕国出身の徐邈(じょばく)には、才能がありかつ淑やかな娘がいたが、夫を誰にするかと選んでいる最中で、まだ嫁いでいなかった。徐邈はそこで属吏を集め、そしてその娘に部屋の内から彼らの様子をうかがわせ(夫にしたい人物を選ばせ)た。すると、その娘が王濬を指さして母に告げたので、徐邈はそこで王濬のもとに嫁がせることにした。王濬は後に征南将軍つきの参軍事となり〔一〕、征南将軍の羊祜(ようこ)は、王濬を深く知遇した。羊祜の兄の子である羊暨は、羊祜に言った。「王濬の為人(ひととなり)を見ると、志は過大で、しかも奢侈を好んで節制しないような人物であるので、丸っきり王濬を信任するべきではありません。何かにかこつけて王濬を裁くべきです」と。羊祜は言った。「王濬には大きな才能があり、その欲望を叶えてやるように仕向ければ、必ず有用な存在となろう」と。王濬が羊祜の車騎将軍府の従事中郎に転任すると、有識者は、羊祜は善人を登用できる人物であると言えると考えた。
やがて王濬は巴郡太守に任じられた。巴郡の縁辺は孫呉との国境地帯に属しており、兵士は役に苦しみ、巴郡の人々は男の子を生むと、多くの場合その子どもを養育せずに殺してしまった。王濬はそこで、子どもを養育しないで殺してしまうことを禁ずる法令を厳しくし、その一方で徭役の課税をゆるめ、子を産んでちゃんと育てる者にはみな休暇を与えたり、免税・免役を行うなどの措置を講じ、それによって死から救われた男の子は数千人にも上った。王濬はさらに広漢太守に転任し、恵みを施して政令を宣布し、人々は王濬を頼りに思った。王濬はある日の夜に夢を見た。寝室の梁の上に三本の刀が掛かっており、しばらくしてさらにもう一本増えた、というものである。王濬は驚いて目覚め、心中とても嫌な感じがした。ところが、主簿の李毅(りき)は再拝して祝賀して言った。「三本の刀というのは『州(刕)』の字のことです。そこにさらに一本『増えた(益)』というのは、あなたが益州刺史になるということですよ」と。その後、賊の張弘が益州刺史の皇甫晏(こうほあん)を殺すと、果たして王濬はその後任として益州刺史に昇進した。王濬は周到な計略を設け、張弘らの賊をことごとく誅殺し、その勲功により関内侯に封じられた。(異民族など)風俗の異なる者たちを招き懐け、威厳と信義によって待遇し、そのため多くの蛮夷が晋の領域外から来て帰服した。やがて王濬は徴召されて右衛将軍に任じられ、さらに大司農に任じられた。車騎将軍の羊祜はもともと王濬に奇策を考えつく才略があるのを知っていたので、そこで密奏して王濬を益州に留めさせ、そうして王濬はまた改めて益州刺史に任じられた。
武帝は呉を討伐しようと謀り、王濬に詔を下して戦艦を造らせた。王濬はそこで大船を連結させた戦艦を作り、百二十歩四方の大きさで、二千人余りを乗せることができた。その戦艦の上には木で作った城壁をめぐらし、高楼や櫓を建て、四方に門を開き、その城壁の上ではどこでも馬を馳せて行き来することができた。またアオサギの姿の怪獣を船首に描き、それによって江神(長江の水神)を威圧した。このような盛大な船容は、いまだかつて無かった。王濬が蜀の地で船を造っていると、その木くずが長江に流れ出て水面を覆って下っていった。呉の建平太守の吾彦(ごげん)は、流れてきた木くずを拾い、それを孫皓に送って言った。「晋はきっと呉を攻めようと画策しているに違いありませんので、建平郡の兵を増やすべきです。建平郡を落とすことができなければ、それより下流に渡ることは遂にできないでしょう」と。しかし孫皓はそれに従わなかった。まもなく謠言により王濬は「龍驤将軍・監梁益諸軍事」に任じられた。その詳細については羊祜伝に記してある。
時に朝議ではみな呉を討伐することに対して諫言を呈しており、そこで王濬は上奏して言った。「呉や楚の地方(孫呉領)の人々の心の靡きについて私がしばしば調査したところによりますと、孫皓は酒色に貪婪でかつ凶逆でありますので、荊州や揚州(孫呉領)の人々は賢者・愚者の区別なくみな怨嗟の声を上げています。しかも時運をうかがいますに、速やかに呉を征伐するべきであります。もし今のうちに征伐しなければ、天意の変化は我々の与り得るところではありません。もし孫皓が急死して、呉の人々が改めて賢主を擁立し、文武の官僚がそれぞれ適材適所を得るようなことになれば、呉は強敵となってしまいます。私が船を造り始めてから七年が経ち、船は日々老朽化しています。また、私の年齢はすでに七十を越えており、死亡するまでそう遠くないでしょう。この三者(呉の内情、船の耐久、王濬の働ける限界)の一つでも駄目になれば、事を遂げるのは難しくなります。誠にどうか陛下におかれましては、好機を失うことのございませぬように」と。武帝は深くこれに納得した。賈充(かじゅう)や荀勖(じゅんきょく)は、呉を攻めるのはいけないと諫言したが、ただ張華のみは固く呉の討伐を勧めた。また杜預も(荊州の地から)上表して呉を討伐することを請うたので、武帝はそこで詔を発し、各地の都督や将軍・刺史にそれぞれ命を下し、諸軍を指揮させた。そうして、王濬は伐呉の軍の一翼を統率することになった。王濬が先に巴郡太守であったときに殺されずに養育されることになった男子たちは、このときにはみな徭役や兵役に適した年齢になっており、父母たちはその息子たちに戒めて言った。「王府君(王濬)はお前を生かしてくださったのだから、お前は必ず王府君のためにこの伐呉の役に励めよ。死を惜しんではならぬ」と。
太康元年(280)正月、王濬は成都を出発し、「巴東監軍・広武将軍」の唐彬(とうひん)を率いて呉の丹楊城を攻めて勝利し、呉の丹楊監の盛紀を捕虜にした。呉の人々は、長江の険阨な河原や要害の地に、ことごとく鉄の鎖を渡して遮断し、また一丈余りの長さの鉄の錐を作り、気付かれないように長江の中に設置し、それによって晋の船団を待ち受けて防ごうとした。しかし以前に、(今は亡き)羊祜が呉の間諜を捕らえ、それにより詳細に(呉が晋の侵攻に備えて昔からそのような準備をしていたという)内情を知ることができた。そこで王濬は、数十個の大きな筏を作り、やはり百余歩四方の大きさで、その上に、草を縛って人の形としたものを載せ、甲冑を着せて武器を持たせ、河川に手慣れた者にその筏を引かせて先行させたところ、鉄の錐が仕込まれている場所にその筏が至ると、錐はみな筏に刺さって筏と一緒に流れていった。また、長さ十丈余り、大きさ数十囲の巨大な松明を作り、そこに麻油をそそいで船の前方に設置し、鎖が渡してあるところに船が至ると、松明に点火してその鎖を焼き、しばらくすると鎖は熔けて切断され、そうして船は妨げられることなく進むことができた。二月の庚申の日、西陵で呉軍に勝利し、呉の鎮南将軍の留憲、征南将軍の成據(せいきょ)、宜都太守の虞忠(ぐちゅう)を捕虜にした。壬戌の日、荊門城・夷道城の二城を落とし、監軍の陸晏(りくあん)を捕虜にした。乙丑の日、楽郷で勝利し、水軍督の陸景を捕虜にし、平西将軍の施洪らが降伏した。乙亥の日、詔が下されて王濬は「平東将軍・仮節〔三〕・都督益梁諸軍事」に昇進した。
王濬が蜀を出発してからというもの、軍は刃を血で汚すこともほぼ無く、攻めた先には堅城は無く、夏口や武昌も、抵抗することなく降伏した。そうして王濬軍は流れに沿って櫂を動かし、ただたちに三山まで進軍した。孫皓は游撃将軍の張象を派遣して水軍一万人を率いて王濬を防がせたが、張象の軍は、王濬軍の旗を見るや降伏した。孫皓は、王濬軍の旗や武器や甲冑が、水平線を越えて天に届くかのごとく長江を覆いつくし、威勢も非常に盛んであるということを聞き、恐怖にうちひしがれてしまった。そこで、光禄勲の薛瑩(せつえい)と中書令の胡沖(こちゅう)の計を用い、降伏を告げる文書を王濬に送った。そこには以下のように述べられていた。「呉郡の孫皓、叩頭死罪。昔、漢王朝が天下を統御する力を失い、九州(天下)が引き裂かれると、先人(孫権たち)は時宜にかなった策略によって江南を領有し、そのまま山河を恃みにして魏と対立しました。大晋が龍のごとく興隆し、その徳は四海(天下)を覆いましたが、我らは愚昧にもかりそめの安逸をむさぼり、まだ天命を悟ることはありませんでした。今に至り、むやみに陛下の六軍を煩わせ、兵車は野外に宿り、遠く長江の渚に臨むという事態を招いてしまいました。我が国全体が震え恐れ、一息つく暇もなく、敢えて陛下の度量の広大であることを頼りにしようと思いました。謹んで私的に任命した太常の張夔(ちょうき)らを遣わし、佩びておりました璽綬を奉らせ、陛下に帰服してご命令を仰ぎたいと思います」と。壬寅の日、王濬は石頭城に入った。孫皓はそこで亡国の礼を備え、白塗りの車と白馬を用い、肌脱ぎになって両手を後ろ手に縛り、璧を口にくわえて羊を牽き、高官には喪服を着せ、下級官僚には棺を載せて従えさせ、その偽太子の孫瑾(そんきん)、孫瑾の弟の魯王の孫虔(そんけん)ら二十一人を率い、王濬の軍門に赴いた。王濬は自らの手で孫皓の縄を解き、璧を受け取って棺を焼き、みな京師に送った。さらに呉の地図や戸籍を回収し、国庫を封印し、そのため軍人たちは財物を勝手に略奪することは無かった。武帝は使者を派遣して王濬の軍を労わせた。
初め、王濬に詔書を下し、建平を落とす際には杜預の指揮を受けさせ、秣陵に至った際には王渾(おうこん)の指揮を受けさせた。杜預は、江陵に至ると、諸々の将帥に言った。「もし王濬が建平を落とすことができれば、そのまま流れに沿って長躯することになり、威勢や名声が顕著になった以上、私の統制下に置き続けるべきではなかろう。逆に、もし勝つことができなければ、負けたからにはそれ以上王濬に軍を任せて指令を下すことはあるまい」と。王濬が西陵に到着すると、杜預は王濬に書を与えて言った。「そなたは、今や呉の西にはだかる堅壁を突き崩した以上、そのままただちに秣陵を取り、長年はびこってきた流賊(呉)を討ち、呉の人々を塗炭の苦しみから解放すべきである。(事が済んだ後)長江から北上して淮水に入り、泗水・汴水を渡り、黄河を遡上し、凱旋して都に帰還するというのは、まさに空前の一大事ではないだろうか」と。王濬は大喜びし、杜預の書を引用した上でそのことを上表した。
王濬が今まさに秣陵に到着しようとするときになって、王渾は知らせを送り、ひとまず王渾のもとに来て今後の事を一緒に論じようと求めたが、王濬は帆を挙げて直進を続け、王渾には次のように返答した。「風の勢いがすさまじいので、船を泊めることができません」と。王渾はその後しばらくして孫皓の主力の中央軍を破り、張悌(ちょうてい)らを斬ったが、その後は兵を留めて進軍しなかった。ところが王濬が勝ちに乗じてそのまま孫皓の降伏を受け容れてしまったので、王渾は恥じ忿り、そこで王濬が詔に背いて自分の指揮を無視したと上表し、その他の罪を誣告して述べた。そのため有司は王濬を検挙して檻車により王濬を徴し返そうとしたが、武帝はそれを許さず、詔を下して王濬をとがめて言った。「国を討伐するというのは重大事であるため、命令系統を一本化する必要がある。前に詔を下して将軍(王濬)には安東将軍の王渾の指揮を受けるようにと命じ、王渾は思謀が深く慎重であるため、軍を留めて将軍の到着を待っていた。なのに、どうして直進を続けて王渾の命令に従わず、我が命に背いて利を貪り、大義を大きく損なうようなことをしたのか。将軍の勲功については、その鑑別は私の心のままに在るので、まさに我が詔書に従い、王法を尊び遵守すべきであるのに、最後の最後で功を恃んで好き勝手な行動をしてしまうのでは、私はどうして天下に号令することができようか」と。王濬は上書して弁解して言った。

私が以前に拝受した庚戌詔書には次のようにありました。「軍人たちが勝ちに乗じ、猛々しい意気がますます盛んになっているのであれば、すぐに流れに沿って長躯し、まっすぐ秣陵に向かうべきである」と。私は、その詔を拝受した日に、すぐに東のかた長江を下りました。また、その前に拝受した詔書には次のようにありました。「太尉の賈充は各地の都督・将軍たちをすべて統率し、鎮東大将軍の司馬伷(しばちゅう)から王渾・王濬・唐彬らに至るまで、みな賈充の指揮に従うように」と。そこには、それとは別に私に対して王渾の指揮に従うようにとの文はありませんでした。
私が巴丘に到着してからというもの、向かう所みな我が軍に降伏し、孫皓は困窮してどうしようもできなくなっていることが分かっていました。十四日に牛渚に到着し、秣陵まであと二百里というところで、翌日の攻撃に備えて配下の兵を各所に配置し、秣陵を攻め取るための指令を下しました。(翌朝、)進軍して三山に到着し、そこで王渾の軍が北岸にいるのが見えました。王渾は書を送って私に与え、しばらく自分のところに赴き、一緒に今後の事を議するべきであるということを言ってきましたが、やはり私が王渾の指揮に従うべきであるという旨は述べられていませんでした。私の水軍は風のように奮い立ち、勢いに乗じて賊の城に迫り、しかもすでに行軍の段取りを決めて作戦を開始していたので、そこで長流の中でわざわざ船を反転させて王渾のもとへ赴き、事の首尾を断絶させるようなことはできませんでした。しばらくして、孫皓は使者を派遣して帰順しました。そこで私はすぐに王渾の書に返答し、さらに孫皓の降伏の文書を写し、詳細にそれを王渾に示し、もし速やかに来るようであれば、石頭城で待つつもりでした。我が軍は正午になって秣陵に到着し、暮になってやっと、王渾の指令に従うべきであるとの命令書が、王渾づてにもたらされました。王渾は、私に命令し、翌十六日に配下の兵をすべて率いて戻って石頭城を囲み、孫皓が逃亡するのに備えさせようとしました。また、(もともと率いてきた)蜀地方の兵と、(杜預から借り受けてきた)鎮南諸軍の人名・定見(人名リストと各人に対する評定)を要求しました。そこで私は思いました。孫皓はすでに(秣陵の)都亭にやってきて服しており、故に一緒に軍を合わせて無駄に(孫皓のいない)石頭城を囲んでも仕方が無く、また兵士たちの定見(評定)はあわてて行うべきものではなく、いずれも当面の急務ではないので、従うべきではないだろう、と。陛下の詔では、私は陛下の御命令・制度をないがしろにし、自分勝手に事を行ったとおっしゃっていました。謹んで荘厳なる詔を拝読いたしましたところ、恐怖・戦慄し、我が生命が失われるのではないかと不安になっております。ですが、どうしてこの老いぼれた私だけが不安や恐れを抱きましょうか。我が軍全体が、上から下までみなことごとく気を削がれてしまうでしょう。私は国恩を受け、重大な任務を授かりましたので、委任されたにも関わらず実績を上げられず、陛下の御恩に違背することになってしまうのではないかということを常に恐れておりました。故に身を死地に投じて、万里にわたって転戦しながらも、ご寬恕の恩をいただき、失敗せぬよう慎重に事を進めることができました。そうして陛下のご威光に頼り、幸いにして事を成すことができましたのは、みな陛下のあらかじめ練られた神妙な計策によるものです。臣はただ指図を受け、鷹や犬のような使い走りの働きをしたにすぎませんので、何の勲労があって功を恃んで好き勝手することがありましょうか。どうして利を貪って聖詔に違うというようなことをしましょうか。
私は十五日に秣陵に到着し、一方で詔書は十六日に洛陽から発せられ、その時間差により行き違いが生じてしまったので、私の罪責については事情をお察しいただき、ご了解願えればと思います。もし孫皓にまだ蟷螂の斧の勢いがあり、しかも私が軽々しく護衛の数を減らして少数で行動しているところを襲われ、それにより多大な損失をもたらすようなことがあれば、お咎めを受けるのも致し方がありません。ただ、私の統率している八万人余りの兵は勝ちに乗じて席巻し、孫皓は、人々が叛き、親しい者も離れ、もう補佐してくれる者もなく、匹夫が一人孤立していても妻子を庇うことすらできないと思い、雀や鼠が生を貪るように、かりそめにわずかな生を乞うたのです。しかし、江北の諸軍は呉の実態を知らず、(私のように)速やかに行動して孫皓を捕縛することができなかったので、自らちょっとした誤りをしでかしたと後悔していました。そして、私が速やかに孫皓の身柄を得ると、さらに恨みと怒りを示し、みな自分たちは百日にわたって賊と対峙していたのに、他人に手柄を横取りされてしまったと言っているような始末ですので、その陰口を真に受けてはなりません。
春秋の義によれば、大夫は国都の境を出れば、やはり独断専行する場合があるとあります。私は愚鈍であるとはいえ、思いますに、主君に仕える道というのは、節義と忠誠を尽くし、奮い立って我が身を顧みず、自分の力量を正確に見定めて任務を受け、臨機応変に便宜を講じ、社稷に利益があるのであれば、我が身の生死すらもそのために用いる、ただこれあるのみです。もしその嫌疑をかばい立て、それによって彼らが受けるべき責めを回避するようなことになれば、それは不忠なる人臣の利になるだけであって、実に明主が社稷にもたらすべき福にはなりません。私は自らの力量もわきまえず、自分が愚劣であることを忘れ、まごころを打ち明け、腹の内、頭の中を洗いざらいさらけだし、股肱としての力を尽くし、さらに加えて忠貞を尽くそうと心がけ、必ず悪逆なる者どもを廃除し、天下を一掃して清め、陛下の御代をして尭や舜に比肩するものとすることを願っております。陛下は私の愚かな誠意をおおむね察していただき、全身全霊を尽くしたいとの私の誠心をご理解いただき、そのため私に都督や刺史の任を授け、征討の任務を委ねられました。(戦国時代の)燕の昭王が楽毅を信じ、漢の高祖が蕭何を信任したというのですら、これに勝るものではありません。蒙った恩の深さ・重さは、死んでも報いることができないほどであり、しかも私は愚劣であるので、それに見合った適切な行いをすることができません。陛下はご寛大であらせられるので、ただおとがめなさるだけに留めてくださいましたが、それだけでも恐怖と不安のあまり、身の置き所がありません。陛下が私の赤裸々な誠心を明らかになさってくださることを願うばかりです。

と。
王渾はさらに、周浚の書を伝え、王濬の軍は呉の宝物を自分のものとしたと上表した。王濬はまた上表して言った。

壬戌詔書を拝受したところ、下された安東将軍(王渾)の上表文の中に揚州刺史の周浚の書の内容が記されていましたが、そこには私の麾下の諸軍が孫皓の宝物を自分のものとしたと述べられていました。さらに、牙門将の李高が火を放って孫皓の偽宮を焼いたので、ただちに公文書を尚書に上し、本末をつぶさに列挙して述べた、ともありました。また、聞くところによれば、王渾は私を誣告して上表したと言います。私は、天性、愚かなほど忠実でありまして、何事をなす場合にも、誠実な心で進み、天地神霊に背くことのないようにと願ってきました。秣陵の事は、すべて以前に上表した通りでございますが、しかし、正直な者を憎む輩が非常に多く、まさに『詩』小雅・巷伯に「南箕の口のように」「貝の錦を織りなすように」とあるがごとく讒言して私を陥れようとし、聖世に公言して、白をひっくり返して黒にしようとしております。
そもそも佞邪な者が国に害をもたらすというのは、昔からそうであります。故に、(春秋時代の楚の奸臣である)費無極(費無忌)のせいで楚国は伍子胥の率いる呉軍に都を落とされる事態に陥り、(春秋時代の呉の奸臣である)宰嚭(伯嚭)のせいで呉は越に滅ぼされ、石顕が現れて前漢王朝を傾け乱したということは、みな典籍に記載され、世の戒めとなりました。昔、(戦国時代の燕の)楽毅は、斉を伐って七十の城を下しましたが、突然、讒言により王との仲を引き裂かれ、身を脱して出奔する羽目になり、また、(楽毅の先祖である魏の)楽羊は、中山国を滅ぼして帰還した際、魏の文侯に箱いっぱいの誹謗の上書が届けられていたことを知りました。ましてや私は愚劣でありますので、讒言を免れることができましょうか。しかし、私が(斬首されずに)自分の首を保全することを望むことができるのは、実に陛下が品徳に優れ、ご明察なさるのに頼り、水がしみ込むようにもっともらしい讒言が世にはびこるのをお防ぎになるお力に期待させていただいているからでございます。しかし、私は朝廷で一人孤立しておりまして、仲間の助けもなく、長く遠方に放っておかれましたので人との付き合いも断絶し、しかも強勢を誇る大族・豪族の恨みを買うことになってしまいました。積み上げた卵のように危うい身で、雷鳴の轟くかなめの場所におり、角が生えたてでまるで繭や栗の実のようである子牛のごとき体つきで、ヤマイヌやオオカミの通る路に置かれておりますので、食べられそうになっても、どうしてその口や牙に対抗することができましょうか。
そもそも君主に逆らったとしても、その罪を救うことはできますが、貴臣に逆らえば、その禍いについてはどうなるか分かりません。故に前漢の朱雲が成帝の逆鱗に触れ、引きずり出される際に御殿の欄干にしがみついてその欄干を折ったとき、辛慶忌は朱雲を擁護して救い、結果、成帝はそれを不問に付しましたが、一方で、蕭望之(しょうぼうし)・周堪(しゅうかん)が石顕に逆らうと、朝廷中が賛嘆したものの、まもなく死ぬこととなりました。これこそ私が大いに怖れていることです。今、王渾の仲間や姻戚たちは、内外みな結託することにより、ことごとく爵位を代々伝えるような位におります。聞くところによれば、彼らは人を遣わして洛陽中にちりばめ、専ら皆でぐるになって、『詩』小雅・巧言に「ぬすっとの言葉は非常に甘いので」とあるがごとく、人々の耳目を惑わせています。そもそも(孝行者で知られる)曾参(曾子)が人を殺すような人物でないのは非常に明白であるのにも関わらず、しかし三人続けて誤った情報を伝えれば、曾参の母ですらそれを信じて驚いて杼を投げ出しました。今、私の信の行いは、曾参のそれにははるか及ばず、しかも私を讒言して陥れようとする者たちが湯の沸騰するように湧き出る様は、曾参の場合と異なり三夫どころではありませんので、内外が結託して助け合い、まさに『易』に九二(剛)と六五(柔)が相応じ、父子師弟が応じ助け合ってよろし、とあるような状態を形作っています。そもそも猛獣の通る道に置かれれば、麒麟ですら恐怖します。ましてや私は脆弱であるので、どうして戦慄しないことがありましょうか。
偽呉の君臣は今もみな生存しているので、彼らに調査・質問すれば、虚実を明らかにできましょう。かつての呉の偽中郎将であった孔攄(こうちょ)によれば、(数か月前に当たる)去る二月、武昌が呉の朝廷の手を離れ、我が水軍がまもなく秣陵に到着しようとしていましたので、そこで孫皓は石頭城に巡行し、そして戻ると、左右の者はみな刀を振るって大声で叫んで言いました。「必ず陛下のために一たび命がけで戦い、雌雄を決しましょうぞ」と。孫皓は、心中とても喜び、きっとそのようになるだろうと思い、そこでことごとく金宝を出し、彼らに賜与しました。しかし小人は不埒にも、それを手に入れた途端に持って逃げ去ったので、孫皓は恐れ、そこで降伏しようと図ったのです。さらに、降伏を伝える使者が出発するや否や、左右の者は財物を強奪し、孫皓の妻妾(宮女)を略奪し、火を放って宮を焼きました。孫皓は身を隠し、死を逃れることができないのではないかと危惧しましたが、そこに私がやってきて、軍に参じていた責任者を派遣して孫皓を救い、宮に放たれた火を消火させたのです(以上、孔攄に聞いた話の内容)。周浚は十六日に私よりも先に孫皓の宮に入り、私はその時、記室吏を遣わして書籍を見させていましたが、周浚はその記室吏を捕えさせました。もし遺された財宝があったのであれば、先に入った周浚がそれを自分のものとしたのでしょう。ですのに、その悪行を後からやってきた人になすりつけ、自らは罪を免れようと図るとは、けしからんことです。
私がそれに先立って三山にて周浚の書を受け取った際には、「孫皓は、宝貨をばらまいて将士に与えたので、国庫はほとんど空です」と言っておりました。ですのに今度は「金銀や篋笥(物を入れるための箱)は、ともすれば一万点以上にも上ります」と言い、我が軍がこれを自分のものにしたのだと疑っております。まさに言っていることがちぐはぐで、まったく首尾一貫しておりません。私もまた軍司の張牧・汝南相の馮紞らと共に孫皓の宮に入って見ましたが、そこには座ることのできる席すらもありませんでした。後日、さらに張牧らと一緒に孫皓の舟船を見ましたが、王渾もまた私よりも一日前にその船に上っていました。つまり、王渾は船上の物をみな見知っております。私が調査しに行ったのは、いずれの場所も王渾が訪れた後のことなので、もし宝貨があったのであれば、王渾が自分のものとしたのでしょう。
また、私はもともと厳しく軍を運用していたので、兵士は勝手に部隊や陣を離れることができません。今、秣陵にいる諸軍は合計で二十万に上ります。その中でも我が軍が一番最初に到着し、この地の主幹者となりました。人々の心は、みな私に帰して注目しているので、私は部下たちに厳しく命じ、少しも違犯することを許しませんでした。買い物をする場合には必ず、伍の中の他の者を任じて証人とすることを義務づけ、確実に(領収書のような)証拠書類を取らせ、それに違犯した十三人はみな斬首しましたが、いずれも呉の人々が知っていることでございます。他の軍の兵士が、自分勝手に我が軍の兵士だと偽って悪さをすることもありましたが、我が軍の兵士はほぼ全員が蜀人であるので、幸いにもこれによって見分けがつきます。どうして周浚の将兵だけがみな伯夷・叔斉のような清廉潔白な人物で、我が諸軍の将兵はみな盗跖のような悪人を集めたものであるということがありましょうか。時に八百人余りの者が悪さを行い、石頭城で布帛の略奪を行いました。そこで私の部下の牙門将軍である馬潜がただちに二十人余りを捕らえ、その兵士たちの所属している部隊の上司の督将(部曲督や部曲将などの中下級武官)の姓名を書き連ね、(その中に周浚に属する者がいたので)公文書を送って周浚にその身柄を委ね、自分で裁けるようにしてやりましたが、周浚からはそれに対して何の返事もなく、おそらくは全員釈放し、手がかりをすべて断ち切ったのでしょう。
また聞くところによれば、呉人が言うには、王渾たちが前に呉の張悌と戦った時、殺した敵兵はわずか二千人程度であったにも関わらず、王渾と周浚は文書を公布して一万人以上であると吹聴したとか。さらに、呉剛の子を主簿に任じて(恩を売っておいて)、呉剛を洛陽に派遣し、斬った首級の数を水増しして報告させようとしました。孫皓やその諸臣に詳細に問うことができますので、そうすればこれが間違いないということが分かりましょう。もし本当に聞いた話の通りであれば、周浚らの嘘偽りは、陛下すらを欺こうとしたものであり、ましてやどうして私のごとき者を気にかけたりなどしましょうか。彼らが言うには、私は蜀人を集めさせ、随時、孫皓のもとに送り、まさに反乱を企んでいる、と。さらに彼らは呉人をおどかして動揺させ、私がきっと呉人をみな誅殺し、妻子を奪い取るに違いないと言いふらし、呉の人々が反乱を起こし、私的な怒りを思いきり振るうようになることを願っております。謀反・大逆の罪すらもこのようにやすやすとでっちあげられてしまっていますので、そもそもその他の誹謗中傷がやすやすとなされるのも当然のことです。
王渾が私について述べた中に、「瓶や磬のような小さな器の者が、国の厚恩を蒙り、頻繁に抜擢され、その結果、誤って大任を委ねられることとなったのです」というものがありました。王渾のこの言葉はこのうえなく本当のことで、心の内を省みると恥じや恐れの念に堪えません。今年、呉を平げ、誠に大きな慶事でございますが、私の身にとっては、代わる代わるに度重なるとがめを受けました。(春秋時代、魯の哀公の時代に魯が斉と戦った際、敗軍の殿を進み担った)孟側は、その功績を誇らず、帰還した際に馬を馬鞭で叩いて「馬が進まなかっただけです」と答えましたが、私にはそのような善行もなく、しかもうるわしき朝廷において他人を陥れるような邪悪な人物を生じさせてしまい、和らぎの風を損ない、国朝の美を傷つけてしまいました。私が愚劣であるために、このような事態を引き起こしてしまい、拝して上表させていただくにも汗が流れるような思いであり、言葉はちぐはぐとして整然さを欠いてしまう有り様です。

と。
王濬が京都(洛陽)に到着すると、有司が上奏して言った。「王濬の上表の中では、前後に拝受した七つの詔の月日を述べておらず、また大赦の後のこととして、詔に背いて王渾の指令に従わず、いずれも大不敬に当たりますので、廷尉の管轄下に置いて罪を定めさせるべきです」と。すると次のような詔が下された。「王濬は、前に詔を受けた後すぐに秣陵に向かい、その後になってやっと王渾の指令を受けさせるという詔を下した。しかしその詔書は届くのが遅れ、下ったときにはすでに王濬はそこにはいなかったので、もし詔に従わなかったのと同じく罪を問うのであれば、それは常に則るべき普遍的な措置とは言えまい。ただ、王濬がそこですぐさま上表して王渾による詔の宣下を受けなかったことについては、これは責めるべきことである。しかし、王濬には征伐の功労があるので、ちょっとした過ちがあったからとて、それを無下にするには及ばない」と。有司はさらに上奏して言った。「王濬は、大赦の後のこととして、賊船百三十五艘を焼いたので、速やかに命令を下して廷尉の管轄下に置かせ、拘禁して取り調べさせるべきです」と。詔が下され、そこには「取り調べを行うことは許さぬ」とあった。やがて王濬を輔国大将軍に任じ、歩兵校尉(翊軍校尉?)を兼任させた。もともと校尉は五営しか置かれていなかったが、この営が置かれたのは、まさに王濬の事例がその端緒である。有司はまた上奏した。「輔国将軍は前例によりますと、顕職の大官ではないので、司馬を置かず、官騎を給するべきではありません」と。しかし、詔が下され、四征・四鎮将軍に五百人の兵と大車を給する規則に依拠し、王濬に兵五百人を追加して与え、それを輔国営とし、さらに親騎百人・官騎十人を給し、司馬を置くこととなった。また、王濬を襄陽県侯に封じ、邑は万戸とした。そして、子の王彝(おうい)を楊郷亭侯に封じ、邑は千五百戸とし、王濬に絹万匹を賜い、さらに衣一襲・銭三十万および食物を賜わった。
王濬は、自分の功績は大きいと自負し、それなのに王渾父子や権勢のある人物たちに圧力をかけられ、しばしば有司の上奏により糾弾されたので、武帝に謁見するたびに、自らの呉討伐の労を述べていたが、対立者によって不当に事実を捻じ曲げられたという話になると、憤慨のあまり、挨拶も無しにすぐに出て行ってしまうこともあった。武帝はこれについていつも大目に見ていた。益州護軍の范通は王濬の女系の親族であったが、王濬に次のように言った。「あなたの功は非常に優れたものです。しかし惜しまれるのは、その優れた功の上に立つに当たってのふるまいが、あまりよろしくないということです」と。王濬は言った。「何が言いたいのか」と。范通は言った。「あなたは、凱旋したときに辞任し、自分の屋敷で角巾(隠者がかぶる頭巾)をつけ、呉の平定の事については口にせず、もし問う者がいれば、そのつど『聖主の徳、群帥の力によるものであって、この老いぼれに何の力があろうか』と答えるべきであったのです。このようにすれば、顔回や老子が善を誇らなかったことも、(前漢の)龔遂が勃海郡をよく治めた際に宣帝にその方法を問われて『すべては陛下の徳によるものであって、小臣の力によるものではありません』と答えたことも、どうしてこれに勝るものでありましょうか。(戦国時代の趙の)藺相如が廉頗に屈した理由を考えれば、王渾はどうして恥じないことがありましょうか」と。王濬は言った。「私は最初、鄧艾が蜀を滅ぼしてまもなく誅殺された事を恐れ、禍いが我が身に降りかかるのを恐れていたので、自分の成したことについて何も言わないわけにもいかず、また、事実を胸中にしまっておくこともできなかったのだ。これは私の度量が狭かったからである」と。
当時の人々はみな王濬は、その功績の大きさに対して報奨が軽いと考えており、博士の秦秀、太子洗馬の孟康、前の温令の李密らは、みな上表して王濬の扱いの不当さを訴えた。武帝はそこで王濬を鎮軍大将軍に昇進させ、散騎常侍の位を加え、後軍将軍を兼任させた。王渾が王濬のもとを訪れる際には、王濬は厳重に衛兵を配備し、そうしてからやっと王渾と面会した。かくも疑い深く警戒して備えたのである。
王濬は呉を平定した後、勲功が大きく、位が高いのに対して鼻を高くし、もはや清白な品行を修めることもなく、豪華な食事、華美な服装で、思うがままに奢侈にふけり、それによって放縦になっていった。辟召・推薦を行う場合には、その多くが蜀人であったが、それは旧交を忘れていないということを示すためであった。後に、さらに王濬を「撫軍大将軍・開府儀同三司」に転任させ、特進の位を加え、散騎常侍・後軍将軍の位は元通りとした。やがて太康六年(285)に亡くなった。時に年は八十歳で、「武侯」という諡を授かった。柏谷山に葬られ、大々的に墓地を建造し、その垣は全周四十五里に及び、おもてに別に一門を開き、松柏が生い茂っていた。子の王矩(おうく)が後を嗣いだ。
王矩の弟の王暢(おうちょう)は散騎郎となった。王暢の子は王粹(おうすい)と言ったが、太康十年(289)、武帝は王粹に詔を下して潁川公主を娶らせ、王粹は仕官して魏郡太守にまで昇った。
王濬に二人の孫がおり、(八王の乱・永嘉の乱の混乱の末に)長江を渡った(東晋政権に帰属した)が登用されなかった。安西将軍の桓温が江陵に鎮守すると、上表してこれについて言及して述べた。「私が聞くところによると、『徳を尊び功を賞すというのは、政治において第一とされるものであり、滅びた家を再興し、後嗣が絶えてしまったのを継がせるのは、歴代の帝王の務めである。故に徳が太平の世に与れば、代々祭祀を継ぐ(爵位を継ぐ)ことができ、王朝に対して鮮烈な功績を立てれば、永代、後嗣を授かることができる』と言います。調査したところ、もとの撫軍大将軍の王濬は内外の職を歴任し、その任務は文武を兼ね、敵情を見定めて勝利を制し、聡明にして勇敢であり、独自の判断を行いましたが、その義は社稷に利益をもたらすことにあり、専断の罪を顧みませんでした。武器を背負って長躯し、万里を席巻し、皇帝を僭号した呉は、両手を後ろ手に縛って我が朝廷に対し投降の意を示しました。今、陛下の恩沢は九州を覆い、陛下の教化の風は域外にも広まっています。しかし、襄陽県侯の封爵は、絶えてしまって継ぐ者もおらず、恩寵の名は、王濬の直近の子孫の時点で失われてしまいました。遠き者も近き者もそのために心を痛め、私も心にこれを悲しんでいます。今、王濬の孫が二人おり、年は六十を越え、家は壁に掛けた磬(楽器)のように中が空っぽで、長江のほとりで他人を頼って何とか食いつなぎ、四季の節日に行う祭祀にも、菜羹(野菜スープ)を供えることができません。昔、漢の高祖が帝業を定めると、楽毅の末裔を探し求め、世祖(西晋の武帝)が賢人を表彰したときには、諸葛亮の後裔を抜擢しました。このように、異なる時代において君主に忠誠を尽くした者や、異国で功績を立てた人物に対してさえ、天下の善業を通じさせ、その家が廃絶しないようにはからったのです。ましてや王濬は大功を現代において立て、死後にも後人たちに対して盛大な喜ばしき恩恵を残したのです。我が朝廷が南辺に拠って王業を継ぎ、皇統を江左(江東)において再興し、典章などの旧時の遺物を明らかにすることができ、改めて神器をよりいっそう輝かせることができたのも、まさに王濬が呉を滅ぼしてこの江南の地を領有した功績によるものです。誠に恩を加え、少しだけでも憐れみを賜わり、追って昔日の勲功を取り上げ、引き続き封爵を授けるべきです。そうすれば聖朝の恩は上に向かって伝播し、忠臣の志も地に墜ちることはありますまい」と。しかし、結局この意見は省みられなかった。

唐彬

原文

唐彬、字儒宗、魯國鄒人也。父臺、太山太守。彬有經國大度、而不拘行檢。少便弓馬、好游獵、身長八尺、走及奔鹿、強力兼人。晚乃敦悅經史、尤明易經、隨師受業、還家教授、恒數百人。初爲郡門下掾、轉主簿。刺史王沈集諸參佐、盛論距吳之策、以問九郡吏。彬與譙郡主簿張惲俱陳吳有可兼之勢、沈善其對。又使彬難言吳未可伐者、而辭理皆屈。還遷功曹、舉孝廉、州辟主簿、累遷別駕。
彬忠肅公亮、盡規匡救、不顯諫以自彰。又奉使詣相府計事、于時僚佐皆當世英彦、見彬莫不欽悅、稱之於文帝、薦爲掾屬。帝以問其參軍孔顥、顥忌其能、良久不荅。陳騫在坐、斂板而稱曰「彬之爲人、勝騫甚遠。」帝笑曰「但能如卿、固未易得、何論於勝。」因辟彬爲鎧曹屬。帝問曰「卿何以致辟。」對曰「修業陋巷、觀古人之遺迹、言滿天下無口過、行滿天下無怨惡。」帝顧四坐曰「名不虛行。」他日、謂孔顥曰「近見唐彬、卿受蔽賢之責矣。」
初、鄧艾之誅也、文帝以艾久在隴右、素得士心、一旦夷滅、恐邊情搔動、使彬密察之。彬還、白帝曰「鄧艾忌克詭狹、矜能負才、順從者謂爲見事、直言者謂之觸迕。雖長史・司馬、參佐・牙門、荅對失指、輒見罵辱。處身無禮、大失人心。又好施行事役、數勞眾力。隴右甚患苦之、喜聞其禍、不肯爲用。今諸軍已至、足以鎮壓内外、願無以爲慮。」
俄除尚書水部郎。泰始初、賜爵關内侯。出補鄴令、彬道德齊禮、朞月化成。遷弋陽太守、明設禁防、百姓安之。以母喪去官。益州東接吳寇、監軍位缺、朝議用武陵太守楊宗及彬。武帝以問散騎常侍文立、立曰「宗・彬俱不可失。然彬多財欲、而宗好酒。惟陛下裁之。」帝曰「財欲可足、酒者難改。」遂用彬。尋又詔彬監巴東諸軍事、加廣武將軍。上征吳之策、甚合帝意。
後與王濬共伐吳、彬屯據衝要、爲眾軍前驅。毎設疑兵、應機制勝。陷西陵・樂郷、多所擒獲。自巴陵・沔口以東、諸賊所聚、莫不震懼、倒戈肉袒。彬知賊寇已殄、孫晧將降、未至建鄴二百里、稱疾遲留、以示不競。果有先到者爭物、後到者爭功、于時有識莫不高彬此舉。吳平、詔曰「廣武將軍唐彬受任方隅、東禦吳寇、南臨蠻越、撫寧疆埸、有綏禦之績。又毎忼慨、志在立功。頃者征討、扶疾奉命、首啓戎行、獻俘授馘、勳效顯著。其以彬爲右將軍・都督巴東諸軍事。」徴拜翊軍校尉、改封上庸縣侯、食邑六千戸、賜絹六千匹。朝有疑議、毎參預焉。
北虜侵掠北平、以彬爲使持節・監幽州諸軍事・領護烏丸校尉・右將軍。彬既至鎮、訓卒利兵、廣農重稼、震威耀武、宣喻國命、示以恩信。於是鮮卑二部大莫廆・擿何等並遣侍子入貢。兼修學校、誨誘無倦、仁惠廣被。遂開拓舊境、卻地千里。復秦長城塞、自溫城洎于碣石、緜亙山谷且三千里、分軍屯守、烽堠相望。由是邊境獲安、無犬吠之警、自漢魏征鎮莫之比焉。鮮卑諸種畏懼、遂殺大莫廆。彬欲討之、恐列上俟報、虜必逃散、乃發幽冀車牛。參軍許祗密奏之、詔遣御史檻車徴彬付廷尉、以事直見釋。百姓追慕彬功德、生爲立碑作頌。
彬初受學於東海閻德、門徒甚多、獨目彬有廊廟才。及彬官成、而德已卒、乃爲之立碑。
元康初、拜使持節・前將軍・領西戎校尉・雍州刺史。下教曰「此州名都、士人林藪。處士皇甫申叔・嚴舒龍・姜茂時・梁子遠等、並志節清妙、履行高絜。踐境望風、虛心饑渴、思加延致、待以不臣之典、幅巾相見、論道而已。豈以吏職、屈染高規。郡國備禮發遣、以副於邑之望。」於是四人皆到、彬敬而待之。元康四年卒官。時年六十、諡曰襄、賜絹二百匹・錢二十萬。長子嗣、官至廣陵太守。少子岐、征虜司馬。

訓読

唐彬、字は儒宗、魯國〔一〕鄒の人なり。父の臺、太山太守たり。彬、經國の大度有るも、而れども行檢に拘わらず。少くして弓馬に便い、游獵を好み、身長八尺、走ること奔鹿に及び、強力は人を兼ぬ。晚に乃ち經史を敦悅し、尤も易經に明るく、師に隨いて業を受け、家に還りて教授すること、恒に數百人。初め郡の門下掾と爲り、主簿に轉ず。刺史の王沈、諸々の參佐を集め、盛んに吳を距ぐの策を論じ、以て九郡の吏に問う。彬、譙郡の主簿の張惲と俱に吳に兼ぬべきの勢有ることを陳べたれば、沈、其の對を善しとす。又た彬をして吳は未だ伐つべからずと言う者を難ぜしめ、而して辭理皆な屈す。還りて功曹に遷り、孝廉に舉げられ、州は主簿に辟し、累りに遷りて別駕たり。
彬は忠肅にして公亮、盡く規(ただ)して匡救するに、顯諫して以て自ら彰らかにせず。又た使を奉じて相府に詣りて事を計るや、時に僚佐は皆な當世の英彦なるに、彬を見て欽悅せざるは莫く、之を文帝に稱し、薦めて掾屬と爲さんとす。帝、以て其の參軍の孔顥に問うや、顥は其の能を忌み、良々久しく荅えず。陳騫、坐に在り、板を斂めて稱して曰く「彬の爲人、騫に勝ること甚だ遠し」と。帝、笑いて曰く「但(も)し能く卿の如くんば、固より未だ得易からざるに、何ぞ勝るを論ぜんや」と。因りて彬を辟して鎧曹屬と爲す。帝、問いて曰く「卿は何を以てか辟さるるを致せしや」と。對えて曰く「業を陋巷に修め、古人の遺迹を觀い、言は天下に滿つるも口過無く、行は天下に滿つるも怨惡無ければなり」と。帝、四坐を顧みて曰く「名、虛しく行われず」と。他日、孔顥に謂いて曰く「近ごろ唐彬に見うに、卿は賢を蔽うの責めを受くべきなり」と。
初め、鄧艾の誅せらるるや、文帝、艾は久しく隴右に在り、素より士心を得たれば、一旦にして夷滅せられば、恐らくは邊情搔動せんと以い、彬をして密かに之を察せしむ。彬還るや、帝に白して曰く「鄧艾は忌克にして詭狹、能を矜り才を負み、順從する者は見事たりと謂い、直言する者は之れ觸迕なりと謂う。長史・司馬、參佐・牙門と雖も、荅對するに指を失えば、輒ち罵辱せらる。身を處くに禮無く、大いに人心を失う。又た好みて事役を施行し、數々眾力を勞れしむ。隴右は甚だ之に患苦し、喜びて其の禍を聞き、肯えて用を爲さず。今、諸軍已に至り、以て内外を鎮壓するに足れば、願わくば以て慮と爲す無かれ」と。
俄にして尚書水部郎に除せらる。泰始の初め、爵關内侯を賜う。出でて鄴令に補せらるるや、彬、道くに德もてし齊うるに禮もてし、朞月にして化成る。弋陽太守に遷り、明らかに禁防を設け、百姓は之に安んず。母の喪を以て官を去る。益州は東のかた吳寇に接するも、監軍の位缺きたれば、朝議は武陵太守の楊宗及び彬を用いんとす。武帝、以て散騎常侍の文立に問うや、立曰く「宗・彬、俱に失すべからず。然るに彬は財欲多く、而して宗は酒を好む。惟だ陛下、之を裁くのみ」と。帝曰く「財欲は足らすべきなれども、酒は改め難し」と。遂に彬を用う。尋いで又た彬に詔して監巴東諸軍事たらしめ、廣武將軍を加う。征吳の策を上すに、甚だ帝意に合す。
後に王濬と共に吳を伐つや、彬、衝要に屯據し、眾軍の前驅と爲る。疑兵を設くる毎に、機に應じて勝ちを制す。西陵・樂郷を陷し、擒獲する所多し。巴陵・沔口より以東、諸賊の聚まる所、震懼せざるは莫く、戈を倒にして肉袒す。彬、賊寇の已に殄き、孫晧の將に降らんとするを知るや、未だ建鄴に至らざること二百里にして、疾と稱して遲留し、以て競わざるを示す。果たして先に到る者は物を爭い、後に到る者は功を爭うこと有れば、時に有識は彬の此の舉を高しとせざるは莫し。吳平ぐや、詔して曰く「廣武將軍の唐彬は任を方隅に受け、東のかた吳寇を禦ぎ、南のかた蠻越に臨み、疆埸を撫寧し、綏禦の績有り。又た毎に忼慨し、志は功を立つるに在り。頃者(ちかごろ)征討するに、疾を扶けて命を奉じ、戎行を首啓し、俘を獻じ馘を授(かぞ)え〔二〕、勳效は顯著たり。其れ彬を以て右將軍・都督巴東諸軍事と爲す」と。徴されて翊軍校尉に拜せられ、改めて上庸縣侯に封ぜられ、食邑は六千戸、絹六千匹を賜わる。朝に疑議有れば、毎に焉に參預す。
北虜の北平を侵掠するや、彬を以て使持節〔三〕・監幽州諸軍事・領護烏丸校尉・右將軍と爲す。彬、既に鎮に至り、卒を訓え兵を利(するど)くし、農を廣くし稼を重んじ、威を震い武を耀かし、國命を宣喻し、示すに恩信を以てす。是に於いて鮮卑の二部大の莫廆・擿何等は並びに侍子を遣わして入貢す。兼ねて學校を修め、誨誘して倦む無く、仁惠は廣被す。遂に舊境を開拓し、地を卻くこと千里。復た秦の長城の塞、溫城より碣石に洎ぶまで、緜亙たる山谷は且に三千里ならんとするに、軍を分けて屯守せしめ、烽堠相い望む。是に由りて邊境は安きを獲、犬吠の警も無く、漢魏の征鎮より之に比ぶるもの莫し。鮮卑の諸種は畏懼し、遂に大莫廆を殺す。彬、之を討たんと欲し、列上して報を俟たば、虜は必ず逃散せんと恐れ、乃ち幽冀の車牛を發す。參軍の許祗、密かに之を奏し、詔して御史を遣わして檻車もて彬を徴さしめて廷尉に付し、事の直なるを以て釋さる。百姓は彬の功德を追慕し、生きながらに爲に碑を立て頌を作る。
彬、初め學を東海の閻德に受くるや、門徒甚だ多きも、獨り彬のみ廊廟の才有りと目す。彬の官成するに及び、而るに德は已に卒したれば、乃ち之が爲に碑を立つ。
元康の初め、使持節・前將軍・領西戎校尉・雍州刺史に拜せらる。教を下して曰く「此の州は名都にして、士人の林藪なり。處士の皇甫申叔・嚴舒龍・姜茂時・梁子遠等、並びに志節は清妙、履行は高絜。境を踐み風を望むや、心を虛しくして饑渴したれば、延致を加え、待するに不臣の典を以てし、幅巾もて相い見え、道を論ぜんことを思うのみ。豈に吏職を以て、高規を屈染せんや。郡國は禮を備えて發遣し、以て邑の望に副え」と。是に於いて四人皆な到り、彬、敬いて之を待す。元康四年、官に卒す。時に年六十、諡して襄と曰い、絹二百匹・錢二十萬を賜う。長子の嗣、官は廣陵太守に至る。少子の岐、征虜司馬たり。

〔一〕具体的な時期は特定し難いが、魏晋期、魯は「魯国」であった時期と「魯郡」であった時期があるようで、少なくとも西晋の武帝の泰始年間のある時期から恵帝のある時期までは「魯国」であったようである。訳は基本的に本伝本文に従った。
〔二〕『春秋左氏伝』僖公二十八年の箇所に由来する表現。
〔三〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。

現代語訳

唐彬(とうひん)は字を儒宗と言い、魯国・鄒県の人である。父の唐台は太山太守まで昇った。唐彬には国を治められるほどの大きな気宇があったが、しかし、品行にあまりこだわらなかった。若い頃から騎射に習熟し、狩りに出ることを好み、身長は八尺、走れば駆ける鹿に追いつくほどの速さを発揮し、力の強さは人より優れていた。後年になって儒家経典や史書を好んで尊び、特に『易経』に明るく、師に従って学業を受け、郷里に帰って人々に教授し、門徒は常に数百人いた。初め(魏の時代)、魯郡の門下掾となり、やがて主簿に転任した。豫州刺史の王沈は、諸々の属吏を集め、盛んに呉の侵攻を防ぐ策を論じ、そこで豫州に属する九郡の官吏に問うた。唐彬は、譙(しょう)郡の主簿の張惲(ちょううん)と一緒に、今の魏には呉を併呑することができる勢いがあるということを述べたので、王沈はその返答をほめた。また、呉はまだ討伐してはならないと主張する者たちに対して唐彬に反論させ、すると唐彬の言葉とその道理にみな屈服した。魯郡に戻ると功曹に昇進し、孝廉に推挙され、豫州府は唐彬を辟召して主簿に任じ、何度も昇進して別駕従事となった。
唐彬は忠実で恭しく、公正で信誠な人であり、心を尽くして諫言し、救い正して補佐するに当たっては、人々がいる面前で諫めることによって自分の正しさを顕示するというようなことはしなかった。また、使者の任務を受けて司馬昭の相国府に赴いて大事について協議しに行ったところ、時に相国府の属僚たちはみな当時の世の中でも特に俊才揃いであったが、唐彬の受け答えを見て慎しみ・喜びを抱かない者はなく、(当時は相国であった)文帝・司馬昭に対してこれについて賞賛し、唐彬を推薦して相国府の掾(部局の長)もしくは属(部局の長の補佐官)にしようとした。司馬昭がそれについて相国つきの参軍の孔顥(こうこう)に問うと、孔顥は唐彬の才能を妬み、しばらくしても答えなかった。そのとき陳騫(ちんけん)が同席しており、板(笏のようなもの)を手にして礼を整えて敬いを示し、唐彬を称賛して言った。「唐彬の為人(ひととなり)は、私よりもはるかに勝っております」と。司馬昭は笑って言った。「もしそなたと同じくらいの才徳があるのだとしても、そのような人材すら得ることはそもそも容易ではないというのに、そなたよりも勝るというのであれば何を言うことがあろうか」と。よって唐彬を辟召して鎧曹属に任じた。司馬昭は唐彬に質問して言った。「そなたはどうして我が相国府に辟召されることとなったのであろうか」と。唐彬は答えて言った。「学業を陋巷で修め、古人の事跡をよく観察し、我が言論は天下に広まりましたが失言は無く、我が行いは天下に広まりましたが怨み憎まれることも無かったからでございましょう」と。司馬昭は周囲の同席者を顧みて言った。「唐彬の名声は伊達ではなかった」と。他日、司馬昭は孔顥に言った。「近ごろ唐彬に会ったが、そなたは賢人を埋もれさせようとしたという責めを受けるべきであろうな」と。
初め、(蜀を降伏させた後に悖逆の罪に問われた)鄧艾が誅殺されたとき、(当時は相国であった)文帝・司馬昭は、鄧艾は長きにわたって隴右(隴西地域)におり、もともと兵士たちの心を得ていたので、突然、家族もろとも誅殺されるとなれば、おそらくは辺境の情勢が乱れ騒動になるかもしれないと思い、唐彬にこっそりと状況を視察しに行かせた。唐彬が帰ってくると、司馬昭に告げて言った。「鄧艾は他人の才能を妬み、人の上に立ちたがる性格で、狡猾で度量の狭い人物であり、才能を恃み、自分に従順な者に対しては物事を識別する能力のある人物として評価し、直言する者に対しては自分の意に逆らう人物と見なしていました。長史・司馬、その他の幕僚・牙門将などの属下の高官であっても、鄧艾の思う通りの答えを返さなければ、そのたびに罵倒されて侮辱されるという有様です。振る舞いには礼が無く、大いに人心を失うことになりました。また好んで人々に労役させ、たびたび人々の労力を費やしました。隴右の人々は大変これに苦しんでおり、このたび鄧艾に降りかかった禍いを聞いて喜び、誰も鄧艾のために動こうとはしません。今、すでに諸軍が現地に到着し、内外を鎮圧するには十分でありますので、どうかご懸念されることのございませぬように」と。
まもなく尚書水部郎に任じられた。(魏晋革命が起こってすぐの)泰始年間の初め、関内侯の爵位を賜わった。地方に出て鄴令に任じられると、唐彬は徳によって人々を教え導き、礼によって世の中を整え、一ヶ月で教化の成果が表われた。(呉との国境に接する)弋陽太守に昇進すると、禁令や防備を明確に整え、それによって人々は安心した。やがて母の喪に服すために辞任した。益州は東に呉の侵攻を受けていたが、監軍の位が欠員であったので、朝議では武陵太守の楊宗(ようそう)か唐彬を用いようと話していた。そこで(西晋の)武帝が散騎常侍の文立(ぶんりゅう)に問うと、文立は言った。「楊宗も唐彬も、いずれも失態を犯すことはないでしょう。ただ、唐彬は財欲が深く、そして楊宗は酒を好みます。どうかこれを考慮して陛下がお決めください」と。武帝は言った。「財欲はどうにでも満たせるが、酒ぐせを改めることは難しい」と。そこで唐彬を用いることにした。まもなく唐彬に詔が下され、監巴東諸軍事に任じられ、広武将軍の位を加えられた。唐彬が呉征伐の策を上奏したところ、非常に武帝の意向にかなうものであった。
後に王濬と一緒に呉を伐つことになると、唐彬は要衝に駐屯し、諸軍の先鋒となった。疑兵(敵を欺き惑乱させるための軍)を設けるごとに、臨機応変に勝利を制した。西陵・楽郷を陥落させ、多くの捕虜を得た。巴陵・沔口以東に集まり駐屯している諸賊(呉軍)は、みな震え恐れ、武器を逆手に持って(戦意の無いことを示し)肌脱ぎになって降伏した。唐彬は、抵抗する賊軍がもうおらず、孫皓が降伏しようとしているということを知ると、建業の手前二百里のところで、病と称してそこに留まり、建業入りを競うつもりのないことを示した。果たして、建業に先に到着した者たちは財物を競って奪い、後に到着した者たちは功を争い合うことになったので、当時の有識者はみな唐彬のこの行動を高く評価した。呉が平定されると、次のような詔が下された。「広武将軍の唐彬は辺遇の地に任を受け、東は呉の侵攻を防ぎ、南は蛮越に臨み、辺境を安撫し、綏御の功績があった。また常に慷慨し、志は功を立てることにあった。近ごろ呉を征討するに当たっては、病をおして命を奉じ、伐呉の策について首唱し、捕虜および切り取った耳を数えて宗廟に献じ(戦勝の報告をし)、勲功は顕著である。そこで唐彬を『右将軍・都督巴東諸軍事』に任じる」と。やがて中央に徴召されて翊軍校尉に任じられ、改めて上庸県侯に封じられ、食邑は六千戸とされ、絹六千匹を賜わった。朝廷に何か争議があるごとに、唐彬はその議論に参与した。
北方の異民族が北平を侵略すると、唐彬を「使持節・監幽州諸軍事・領護烏丸校尉・右将軍」に任じた。唐彬が鎮所に到着すると、兵卒を訓練して武器を研ぎ澄まし、農業を重んじて広く行わせ、威を振るって武を輝かし、国命を宣喻し、恩信を示した。それにより、鮮卑の二人の部大(部族長)の莫廆(ばくかい)・擿何(てきか)らはいずれも侍子(属国の首長が天子に侍従させるために送る子)を派遣して入貢した。さらに学校を修造し、教え導いて飽きることなく、仁恵は広まった。そして放棄された旧領を開拓し、千里にわたる地を回復した。また、秦代に築かれた長城の塞(とりで)は、温城から碣石に至るまで、三千里に達しようとするくらいに山谷が長く続いており、唐彬はそこに軍を分けて駐屯させて守らせ、烽火台は互いに連なり見えた。これにより、辺境は安定し、犬が吠えて危険を知らせるような小さな事件もなく、漢魏以来の四征・四鎮将軍たちの中で、ここまでの成果を上げた者はいなかったというほどである。鮮卑の諸種は畏怖し、(晋に帰順していた)大莫廆を殺した。唐彬は大莫廆を殺した者たちを討とうとしたが、上奏して返事を待っていては、その間に賊たちは必ず逃げ散じてしまうに違いないと思い、そこで幽州・冀州の車牛を徴発した。参軍の許祗(きょし)は密かにこのことを上奏し、詔が下されて御史を派遣して檻車により唐彬を徴し返して廷尉の管轄下に置かせることになったが、事が正直な理由から行われたものであるので、罪に問われず釈放された。河北の人々は唐彬の功徳を追慕し、唐彬がまだ生きているにも関わらず、唐彬のために石碑を立てて頌を作った。
唐彬は、初め東海の人である閻徳(えんとく)に学業を受け、その門徒は非常に多かったが、閻徳は唐彬だけが朝廷で活躍できる才能を有していると目していた。果たして唐彬は仕官して大成したが、すでに閻徳は亡くなっていたので、そこで唐彬は閻徳のために石碑を立てた。
元康年間の初め、「使持節・前将軍・領西戎校尉・雍州刺史」に任命された。唐彬は教令を下して言った。「この州は名のある都会の地であり、林や藪に草木が生い茂っているように士人がたくさんいる。処士(仕官していない人)の皇甫申叔・厳舒龍(げんじょりゅう)・姜茂時(きょうぼじ)・梁子遠らは、みな志や節義は清くうるわしく、行いは高潔である。赴任して彼らの風聞を耳にしたが、私は一心に賢者を渇望しているので、ぜひともお招きして、(三老や五更のような立場にある存在として)臣下扱いせず尊重し、幅巾(隠者や一般男性のかぶる頭巾)でお会いし、道について論じたいと思うばかりである。どうして官吏の職を授けて、その高らかなる品行を損ない汚すようなことをしようか。郡国は礼を備えて担当者を派遣して出迎え、それにより郷村の期待に沿うように」と。これにより、四人ともやって来たので、唐彬は敬って四人を待遇した。元康四年(294)、在官のまま亡くなった。時に年は六十歳で、「襄侯」という諡を授かり、絹二百匹・銭二十万を賜わった。長子の唐嗣(とうし)は、広陵太守の官位にまで昇った。少子の唐岐(とうき)は、征虜将軍府の司馬となった。

原文

史臣曰。
孫氏負江山之阻隔、恃牛斗之妖氛、奄有水郷、抗衡上國。二王屬當戎旅、受律遄征、渾既獻捷橫江、濬亦剋清建鄴。于時討吳之役、將帥雖多、定吳之功、此焉爲最。向使弘范父之不伐、慕陽夏之推功、上稟廟堂、下憑將士、豈非懋勳懋德、善始善終者歟。此而不存、彼焉是務。或矜功負氣、或恃勢驕陵、競構南箕、成茲貝錦。遂乃喧黷宸扆、斁亂彝倫、既爲戒於功臣、亦致譏于清論、豈不惜哉。王濟遂驕父之褊心、乖爭子之明義。儁材雖多、亦奚以爲也。唐彬畏避交爭、屬疾遲留。退讓之風、賢於渾濬遠矣。傳云「不拘行檢」、安得長者之行哉。
贊曰。
二王總戎、淮海攸同。渾既害善、濬亦矜功。武子豪桀、夙參朝列。逞慾牛心、紆情馬埒。儒宗知退、避名全節。

訓読

史臣曰く。
孫氏は江山の阻隔を負み、牛斗の妖氛を恃み〔一〕、水郷を奄有し、上國に抗衡す。二王は屬々戎旅に當たり、律を受けて遄征し、渾は既に橫江に獻捷し、濬も亦た建鄴を剋清す。時に討吳の役、將帥多しと雖も、定吳の功、此れ焉ち最たり。向使(も)し范父の伐らざりしを弘くし、陽夏の功を推せしを慕い、上は廟堂を稟け、下は將士に憑らば、豈に勳を懋んにし德を懋んにし、始めを善くし終わりを善くする者に非ざらんや。此くして存せずとも、彼れ焉ち是れ務む。或いは功を矜り氣を負み、或いは勢を恃みて驕陵し、競いて南箕を構え、茲の貝錦を成す。遂に乃ち宸扆を喧黷し、彝倫を斁亂し、既に功臣に戒めと爲し、亦た清論を譏るを致したれば、豈に惜しまざらんや。王濟は驕父の褊心を遂げ、爭子の明義に乖く。儁材多しと雖も、亦た奚を以て爲さんや。唐彬は畏れて交爭を避け、疾に屬して遲留す。退讓の風、渾・濬より賢なること遠し。傳に「行檢に拘わらず」と云うも、安くんぞ長者の行を得んや。
贊に曰く。
二王の戎を總ぶるは、淮海の同(あつ)まる攸。渾は既に善を害い、濬も亦た功を矜る。武子は豪桀にして、夙に朝列に參ず。慾を牛心に逞しくし、情を馬埒に紆らす。儒宗は退くを知り、名を避け節を全うす。

〔一〕『晋書』巻三十六・張華伝に、「初め、吳の未だ滅びざるや、斗牛の間に常に紫氣有り、道術者は皆な以えらく、吳は方に強盛なれば、未だ圖るべからざるなり、と。」(初め、呉がまだ滅亡していない頃、斗宿と牛宿の間にいつも紫の気が漂っており、道術者はみな、呉はなお強勢であるので、まだ滅ぼすことを図るべきではない、と考えた。)とある。

現代語訳

史臣の評
孫氏は長江や山々の険阻さを頼りにし、牛宿と斗宿の妖氛を恃み、河川や湖沼の広がる地域を占有し、中原の朝廷に抵抗した。二王(王渾・王濬)はちょうど軍事を担い、命を受けて速やかに征伐し、王渾は横江で勝利して捕虜や戦利品を献上し、王濬もまた建業を平定した。時に討呉の役においては、将帥は非常に多かったが、呉を平定した功については、この二人のものが最大であった。もし、(春秋時代に越が覇者の国となった際に最も功績のあった)范蠡(はんれい)が功労を誇らずに位を退いたということにのっとってその義を広げ、(後漢建国の功臣である)陽夏侯・馮異(ふうい)が功績を他人に譲ったのを慕い、上は朝廷の命を奉じ、下は将士を頼りにするのであれば、それはまさに勲や徳を盛んにし、始めから終わりまで善くする者というものであろう。そのように上手くいかなくとも、できる限りこのことによく努めるべきである。しかし、王濬は功績を誇り意気を恃み、王渾は自らの権勢を恃んで驕慢になって他人を侮り、競って(『詩』小雅・巷伯に)「南箕の口のように」「貝の錦を織りなすように」とあるがごとく讒言して王濬を陥れようとした。そしてあろうことか、朝廷をくどくどと煩わし、人倫の道を乱し破り、功臣の悪い手本として後世の誡めとなっただけでなく、公正な世論を損なう事態をも招いてしまったことについては、どうして痛ましく思わないことがあろうか。王済は驕る父の偏狭な心を助長し、親が過ちを犯したら子は直言して諫めるべきであるという明義に背いた。王済に多くの優れた才能があったとしても、何も取るには足らない。唐彬はかしこまって争いを避け、病にかこつけて建業入りせずに留まった。その謙遜の風格は、王渾・王濬でははるかに及ばないほど賢明なものである。本伝には、唐彬は「品行にあまりこだわらなかった」とあるが、どうにかしてこのような長者の品行を得たいものよ。

二王(王渾・王濬)は、淮水や海に注ぐ長江下流が集まる江北・江南地域にて軍の指揮をとった。王渾は善を損ない、王濬もまた功を誇った。武子(王済)は豪傑であり、若くしてすでに官位を得て朝廷に参列し、牛の心臓によって心を満たし、馬場の囲いの垣根に欲をまとわりめぐらせた。儒宗(唐彬)は謙譲を心得、名を必要以上に挙げることを避け、節義をまっとうした。