いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第十三巻_山濤(子簡・簡子遐)・王戎(従弟衍・衍弟澄・郭舒)・楽広

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お恥ずかしい限りですが、ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。山濤伝の翻訳として、鷹橋明久「『晋書』山濤伝訳注」(『言語文化』三、二〇〇五年)があり(子の山簡伝以降は採録されず)、王戎伝の翻訳として、小松英生「『晋書』王戎伝訳注」(『中国中世文学研究』二〇、一九九一年)があります。これらに基づいて翻訳した場合、注釈に明記しました。なお、王戎伝には、鷹橋明久「『晋書』王戎伝(巻四十三)訳注」(『尾道大学芸術文化学部紀要』七、二〇〇七年)もありますが、現状では未見です。
校正について、Ukon @konkon_ukon さまと、深山 @miyama__akira さまにご協力を頂きました。ありがとうございました。※誤字等が残っている場合は、翻訳者の佐藤による誤りです。

山濤 子簡 簡子遐

原文

山濤字巨源、河內懷人也。父曜、1.宛句令。濤早孤、居貧、少有器量、介然不羣。性好莊老、每隱身自晦。與嵇康・呂安善、後遇阮籍、便為竹林之交、著忘言之契。康後坐事、臨誅、謂子紹曰、「巨源在、汝不孤矣」。
濤年四十、始為郡主簿、功曹、上計掾。舉孝廉、州辟部河南從事。與石鑒共宿、濤夜起蹴鑒曰、「今為何等時而眠邪。知太傅臥何意」。鑒曰、「宰相三不朝、與尺一令歸第、卿何慮也」。濤曰、「咄。石生無事馬蹄間邪」。投傳而去。未二年、果有曹爽之事、遂隱身不交世務。
與宣穆后有中表親、是以見景帝。帝曰、「呂望欲仕邪」。命司隸舉秀才、除郎中。轉驃騎將軍王昶從事中郎。久之、拜趙國相、遷尚書吏部郎。文帝與濤書曰、「足下在事清明、雅操邁時。念多所乏、今致錢二十萬・穀二百斛」。魏帝嘗賜景帝春服、帝以賜濤。又以母老、並賜藜杖一枚。
晚與尚書和逌交、又與鍾會・裴秀並申款昵。以二人居勢爭權、濤平心處中、各得其所、而俱無恨焉。遷大將軍從事中郎。鍾會作亂於蜀、而文帝將西征。時魏氏諸王公並在鄴、帝謂濤曰、「西偏吾自了之、後事深以委卿」。以本官行軍司馬、給親兵五百人、鎮鄴。
咸熙初、封新沓子。轉相國左長史、典統別營。時帝以濤鄉閭宿望、命太子拜之。帝以齊王攸繼景帝後、素又重攸、嘗問裴秀曰、「大將軍開建未遂、吾但承奉後事耳。故立攸、將歸功於兄、何如」。秀以為不可。又以問濤。濤對曰、「廢長立少、違禮不祥。國之安危、恒必由之」。太子位於是乃定。太子親拜謝濤。及武帝受禪、以濤守大鴻臚、護送陳留王詣鄴。泰始初、加奉車都尉、進爵新沓伯。
及羊祜執政、時人欲危裴秀、濤正色保持之。由是失權臣意、出為冀州刺史、加寧遠將軍。冀州俗薄、無相推轂。濤甄拔隱屈、搜訪賢才、旌命三十餘人、皆顯名當時。人懷慕尚、風俗頗革。轉北中郎將、督鄴城守事。入為侍中、遷尚書。以母老辭職。詔曰、「君雖乃心在於色養、然職有上下。旦夕不廢醫藥、且當割情、以隆在公」。濤心求退、表疏數十上、久乃見聽。除議郎、帝以濤清儉無以供養、特給日契、加賜牀帳茵褥。禮秩崇重、時莫為比。
後除太常卿、以疾不就。會遭母喪、歸鄉里。濤年踰耳順、居喪過禮、負土成墳、手植松柏。詔曰、「吾所共致化者、官人之職是也。方今風俗陵遲、人心進動。宜崇明好惡、2.〔豈宜〕鎮以退讓。山太常雖尚居諒闇、情在難奪、方今務殷、何得遂其志邪。其以濤為吏部尚書」。濤辭以喪病、章表懇切。會元皇后崩、遂扶輿還洛。逼迫詔命、自力就職。前後選舉、周徧內外、而並得其才。

1.『世説新語』政事篇注引 虞豫『晋書』は「冤句」に作る。 2.『晋書斠注』に指摘に従い、「豈宜」二字を補う。

訓読

山濤 字は巨源、河內懷の人なり。父の曜は、宛句令なり。濤 早くに孤にして、貧に居り、少くして器量有り、介然として羣れず。性は莊老を好み、每に身を隱して自晦す。嵇康・呂安と善く、後に阮籍に遇ひ、便ち竹林の交を為し、忘言の契を著す。康 後に事に坐し、誅に臨み、子の紹に謂ひて曰く、「巨源 在り、汝 孤ならず」と。
濤 年四十にして、始めて郡の主簿、功曹、上計掾と為る。孝廉に舉げられ、州 辟して部河南從事とす。石鑒と宿を共にし、濤 夜に起きて鑒を蹴りて曰く、「今 何等の時と為て眠るか。太傅 臥するは何の意と知るか」と。鑒曰く、「宰相 三たび朝せざれば、尺一を與へて歸第せしむ、卿 何をか慮るや」と。濤曰く、「咄。石生 事 馬蹄の間に無からんや」と。傳を投じて去る。未だ二年ならずして、果たして曹爽の事有り、遂に身を隱して世務に交はらず。
宣穆后と與に中表の親有り、是を以て景帝に見ゆ。帝曰く、「呂望 仕へんと欲するか」と。司隸に命じて秀才に舉げしめ、郎中に除す。驃騎將軍の王昶の從事中郎に轉ず。久之、趙國相を拜し、尚書吏部郎に遷る。文帝 濤に書を與へて曰く、「足下 事に在りて清明なり、雅操 時に邁ふ。念に乏しき所多し。今 錢二十萬・穀二百斛を致す」と。魏帝 嘗て景帝に春服を賜はるに、帝 以て濤に賜ふ。又 母の老なるを以て、並びに藜杖一枚を賜ふ。
晚きに尚書の和逌と交はり、又 鍾會・裴秀と並びに款昵に申る。二人の勢に居り權を爭ふを以て、濤 心を平にして中に處る。各々其の所を得て、而れども俱に焉を恨む無し。大將軍從事中郎に遷る。鍾會 亂を蜀に作し、而して文帝 將に西征せんとす。時に魏氏の諸王公 並びに鄴に在り、帝 濤に謂ひて曰く、「西偏は吾 自ら之を了へん、後事 深く以て卿に委ぬ」と。本官を以て軍司馬を行し、親兵五百人を給ひ、鄴に鎮す。
咸熙の初に、新沓子に封ぜらる。相國左長史に轉じ、別營を典統す。時に帝 濤 鄉閭の宿望なるを以て、太子に命じて之に拜せしむ。帝 齊王攸の景帝の後を繼ぎ、素より又 攸を重んずるを以て、嘗て裴秀に問ひて曰く、「大將軍 開建するに未だ遂げず、吾 但だ後事を承奉するのみ。故に攸を立て、將に功を兄に歸せんとす、何如」と。秀 以て不可と為す。又 以て濤に問ふ。濤 對へて曰く、「長を廢して少を立つは、禮に違ひて不祥なり。國の安危は、恒に必ず之に由る」と。太子の位 是に於て乃ち定まる。太子 親ら拜して濤に謝す。武帝 受禪するに及び、濤を以て大鴻臚を守せしめ、陳留王の鄴に詣るを護送せしむ。泰始の初に、奉車都尉を加へ、爵を新沓伯に進む。
羊祜 執政するに及び、時人 裴秀を危ふくせんと欲するに、濤 色を正して之を保持す。是に由り權臣の意を失ひ、出でて冀州刺史と為り、寧遠將軍を加へらる。冀州の俗 薄く、相 推轂する無し。濤 隱屈を甄拔し、賢才を搜訪し、旌命すること三十餘人、皆 名を當時に顯はす。人 慕尚を懷き、風俗 頗る革まる。北中郎將に轉じ、鄴城守事を督す。入りて侍中と為り、尚書に遷る。母の老を以て職を辭す。詔して曰く、「君 乃ち心は色養に在ると雖も、然れども職に上下有り。旦夕に醫藥を廢せず、且に當に情を割きて、以て在公を隆くすべし」と。濤 心に退かんことを求め、表疏すること數十上、久しくして乃ち聽さる。議郎に除せられ、帝 濤の清儉にして以て供養する無きを以て、特に日契を給ひ、加へて牀帳茵褥を賜ふ。禮秩 崇重なること、時に比為る莫し。
後に太常卿に除せらるるも、疾を以て就かず。會々母の喪に遭ひ、鄉里に歸る。濤 年は耳順を踰え、喪に居るに禮を過ぎ、土を負ひ墳を成し、手づから松柏を植う。詔して曰く、「吾 共に致化する所の者は、官人の職 是れなり。方今の風俗 陵遲し、人心 進動す。宜しく好惡を崇明すべし、豈に宜しく鎮するに退讓を以てすべきか。山太常 尚ほ諒闇に居り、情は奪ひ難きに在ると雖も、方今 務は殷なれば、何ぞ得て其の志を遂げしめんや。其れ濤を以て吏部尚書と為せ」と。濤 辭するに喪病を以てし、章表 懇切たり。會々元皇后 崩じ、遂に扶けて輿もて洛に還る。詔命に逼迫せられ、自ら力めて職に就く。前後の選舉、內外に周徧し、而して並びに其の才を得たり。

現代語訳

山濤は字を巨源といい、河内懐県の人である。父の山曜は、宛句令である。山濤は早くに父を失い、貧しく暮らしたが、若くして器量にすぐれ、確固として他人と群れなかった。荘子や老子を好み、いつも身を隠して才能を伏せた。嵇康や呂安と仲が良く、のちに阮籍に会い、竹林で交友し、忘言の契りを結んだ。嵇康がのちに事案で罪を受け、誅殺される直前に、子の嵇紹に、「巨源(山濤)がいる、お前は孤児(父なし子)ではない」と言った。
山濤は四十歳のとき、はじめて郡の主簿、功曹、上計掾となった。孝廉に挙げられ、州は辟して部河南従事とした。石鑒と宿をともにし、山濤は夜に起きて石鑒を蹴り、「いまは眠っている場合か。太傅(司馬懿)が雌伏しているのはどんな意図があるか分かるか」と言った。石鑒は、「宰相が三たび朝見しなければ、尺一(詔書)を与えて邸宅に帰らせる(までのこと)、きみは何を心配しているのか」と言った。山濤は、「おい。石生(おまえ)は馬蹄の間(戦場)に用心しろよ」と言った。官符を投じて(辞職し)去った。二年も経たず、果たして曹爽の事件があり(正史の変)、かくして身を隠して時務に関与しなかった。
(山濤は)宣穆后(司馬懿の妻)と中表(いとこ)なので、景帝(司馬師)に謁見した。景帝は、「呂望(太公望)が私に仕えようというのか」と言った。(景帝が)司隷に命じて(山濤を)秀才に挙げさせ、郎中に任命した。驃騎将軍の王昶の従事中郎に転じた。しばらくして、趙国相を拝し、尚書吏部郎に遷った。文帝(司馬昭)は山濤に文書を送って、「あなたは政務を公平にさばき、正しい節義は時代の要請にかなう。しかし貧乏である。いま銭二十万と穀二百斛を与える」と言った。魏帝がかつて景帝に春服を賜わったが、景帝はこれを山濤に与えた。また母が老齢なので、藜杖(あかざの杖)一本を賜った。
晩年に尚書の和逌(和嶠の父)と交友し、また鍾会や裴秀とも昵懇となった。両者は高位で権勢を争っていたが、山濤は心を平らかにして中立であった。それぞれ勘所を得ており、どちらからも怨まれなかった。大将軍従事中郎に遷った。鍾会が蜀で乱を起こすと、文帝は西征しようとした。このとき魏帝国の諸王公はみな鄴にいたので、文帝は山濤に、「西の端のことは私が片付ける、後方(鄴)のことはあなたに一切を委任する」と言った。本官のまま軍司馬を代行し、親兵の五百人を支給され、鄴に鎮した。
咸熙年間の初め(二六四年~)、新沓子に封建された。相国左長史に転じ、別営を掌り統括した。このとき文帝は山濤が郷里の名望家であったため、太子(司馬炎)に命じて挨拶をさせた。文帝は斉王攸(司馬攸)が景帝の後を継ぎ、またかねて司馬攸を重んじていたので、あるとき裴秀に意見を聞き、「大将軍(司馬師)は国家の基礎を築いたが完成に至らず、私はただ遺業を継承し奉っているだけだ。ゆえに司馬攸を(晋王の位)立て、功業を兄(司馬師)に戻そうと思うが、どうか」と言った。裴秀は反対した。(司馬昭は)さらに山濤にも意見を聞いた。山濤は答えて、「年長者を廃して年少者を立てるのは、礼の規定に反しており不吉です。国家が傾く原因は、いつもこれです」と言った。太子の位がこれにより(司馬炎に)定まった。太子みずから拝謁して山濤に感謝した。武帝が受禅すると、山濤に大鴻臚を守させ、陳留王(曹奐)を鄴に護送させた。泰始年間の初め(二六五年~)、奉車都尉を加え、爵を新沓伯に進めた。
羊祜が執政するに及び、当時の人々は裴秀を危険に陥れようとしたが、山濤は態度を正して裴秀を擁護した。これにより権臣から疎まれ、出て冀州刺史となり、寧遠将軍を加えられた。冀州の風俗は希薄で、推薦しあう風俗がなかった。山濤は隠者を発掘し、賢才を探索し、任用すること三十人あまりで、全員が同時代に名声を表した。人々は山濤を慕い尊び、風俗が大きく改善された。北中郎将に転じ、鄴城守事を督した。入って侍中となり、尚書に遷った。母の老齢を理由に職を辭した。詔して、「きみは親のご機嫌を伺い養いたいと考えているが、職務には上下(の序列)がある。朝夕に医薬を欠かさず、気持ちを割いて、公務を怠ることがないように」と言った。山濤は本心では引退を願い、上表や上疏を数十回おこない、久しくして許可された。(定常的な職務のない)議郎に任命され、武帝は山濤が清廉で倹約し生活費が足りないため、特別に日給を与え、加えて特に日契を給ひ、加へて帳や布団を賜った。礼遇と恩給の手厚さは、同時代に類例がなかった。
のちに太常卿に任命されたが、病気を理由に就官しなかった。ちょうど母が亡くなり、郷里に帰った。山濤は耳順(六十歳)を超えていたが、服喪は礼の規定を上回り、土を背負って墳墓を作り、手ずから松柏を植えた。詔して、「私が(山濤と)ともに教化を成し遂げたいことは、官僚の任命問題である。現在は風俗が衰退し、人々の心は揺れ動いている。善悪を見極めるべきで、落ち着いて隠居されても困る。山太常はなお服喪の期間中で、感情を侵害することは忍びないが、今日は仕事が山積みであり、かれの志を叶えてやることはできない。山濤を吏部尚書とするように」と言った。山濤は服喪による体調不良を理由に辞退し、請願は切実であった。たまたま元皇后(一人目の楊皇后)が崩御し、かくして助け起こして輿に載せられ洛陽に帰ってきた。詔命によって督促され、力を振り絞り(吏部尚書の)官職に就いた。(山濤が担当した)数回の官僚の登用で、内外の人材を網羅し、(晋帝国は)才能の持ち主を獲得した。

原文

咸寧初、轉太子少傅、加散騎常侍。除尚書僕射、加侍中、領吏部。固辭以老疾、上表陳情。章表數十上、久不攝職、為左丞白1.(裒)〔褒〕所奏。帝曰、「濤以病自聞、但不聽之耳。使濤坐執銓衡則可、何必上下邪。不得有所問」。濤不自安、表謝曰、「古之王道、正直而已。陛下不可以一老臣為加曲私、臣亦何心屢陳日月。乞如所表、以章典刑」。帝再手詔曰、「白褒奏君甚妄、所以不即推、直不喜凶赫耳。君之明度、豈當介意邪。便當攝職、令斷章表也」。濤志必欲退、因發從弟2.婦喪、輒還外舍。詔曰、「山僕射近日暫出、遂以微苦未還、豈吾側席之意。其遣丞掾奉詔諭旨、若體力故未平康者、便以輿車輿還寺舍」。濤辭不獲已、乃起視事。
濤再居選職十有餘年、每一官缺、輒啟擬數人、詔旨有所向、然後顯奏、隨帝意所欲為先。故帝之所用、或非舉首。眾情不察、以濤輕重任意。或譖之於帝、故帝手詔戒濤曰、「夫用人惟才、不遺疏遠・單賤、天下便化矣」。而濤行之自若、一年之後眾情乃寢。濤所奏甄拔人物、各為題目、時稱山公啟事。
濤中立於朝、晚值后黨專權、不欲任楊氏。多有諷諫、帝雖悟而不能改。後以年衰疾篤、上疏告退曰、「臣年垂八十、救命旦夕。若有毫末之益、豈遺力於聖時。迫以老耄、不復任事。今四海休息、天下思化、從而靜之、百姓自正。但當崇風尚教以敦之耳、陛下亦復何事。臣耳目聾瞑、不能自勵。君臣父子、其間無文、是以直陳愚情、乞聽所請」。乃免冠徒跣、上還印綬。詔曰、「天下事廣、加吳土初平、凡百草創、當共盡意化之。君不深識往心而以小疾求退、豈所望於君邪。朕猶側席、未得垂拱、君亦何得高尚其事乎。當崇至公、勿復為虛飾之煩」。
濤苦表請退、詔又不許。尚書令衞瓘奏、「濤以微苦、久不視職。手詔頻煩、猶未順旨。參議以為無專節之尚、違3.(至公)〔在公〕之義。若實沈篤、亦不宜居位。可免濤官」。中詔瓘曰、「濤以德素為朝之望、而常深退讓、至于懇切。故比有詔、欲必奪其志、以匡輔不逮。主者既不思明詔旨、而反深加詆案。虧崇賢之風、以重吾不德、何以示遠近邪」。濤不得已、又起視事。
太康初、遷右僕射、加光祿大夫、侍中・掌選如故。濤以老疾固辭、手詔曰、「君以道德為世模表、況自先帝識君遠意。吾將倚君以穆風俗、何乃欲舍遠朝政、獨高其志耶。吾之至懷故不足以喻乎、何來言至懇切也。且當以時自力、深副至望。君不降志、朕不安席」。濤又上表固讓、不許。

1.中華書局本の校勘記に従い、「裒」を「褒」に改める。
2.中華書局本の校勘記は、「婦」を衍字ではないかとしている。
3.中華書局本の校勘記に従い、『毛詩』国風 召南の「夙夜在公」を出典と考え、「至公」を「在公」に改める。

訓読

咸寧の初に、太子少傅に轉じ、散騎常侍を加へらる。尚書僕射に除せられ、侍中を加へ、吏部を領す。固辭するに老疾を以てし、上表して情を陳ぶ。章表すること數十上、久しく職を攝らず、左丞たる白褒の奏する所と為る。帝曰く、「濤 病を以て自ら聞し、但だ之を聽さざるのみ。濤をして坐して銓衡を執らしむれば則ち可なり、何ぞ必しも上下あらんや。問ふ所有るを得ず」と。濤 自ら安ぜず、表して謝して曰く、「古の王道は、正直なるのみ。陛下 一老臣を以て為に曲私を加ふ可からず、臣も亦た何の心ありて屢々日月を陳べんか。表する所が如きを乞ひ、章典を以て刑せよ」と。帝 再び手づから詔して曰く、「白褒の君を奏するは甚だ妄なり、以て即ち推さざる所は、直だ凶赫を喜ばざるのみ。君の明度もて、豈に當に意に介すべけんや。便ち當に職を攝り、章表を斷たしむべし」と。濤の志 必ず退かんと欲し、從弟婦の喪を發するに因り、輒ち外舍に還る。詔して曰く、「山僕射 近日に暫く出づ、遂に微苦を以て未だ還らず、豈に吾が側席の意ならんか。其れ丞掾を遣はして詔を奉じて旨を諭し、若し體力の故より未だ平康ならざれば、便ち輿車を以て輿して寺舍に還せ」と。濤 辭するも已むを獲ず、乃ち起ちて事を視る。
濤 再び選職に居ること十有餘年、每に一官 缺けば、輒ち啟して數人を擬し、詔旨 向く所有らば、然る後に顯奏し、帝の意の欲する所に隨ひて先と為す。故に帝の用ゐる所、或とき舉首に非ず。眾情 察せず、濤の輕重を以て意に任すと。或ひと之を帝に譖り、故に帝 手づから詔して濤を戒めて曰く、「夫れ人を用ひるに惟だ才のみとし、疏遠・單賤を遺らざれば、天下 便ち化さん」と。而して濤 之を行ひて自若たり、一年の後 眾情は乃ち寢ぬ。濤 奏して人物を甄拔する所、各々題目を為り、時に山公啟事と稱せらる。 濤 朝に中立し、晚に后黨の專權に值ひ、楊氏を任ずることを欲せず。多く諷諫有り、帝 悟ると雖も改むること能はず。後に年衰疾篤を以て、上疏し退を告げて曰く、「臣 年八十に垂とし、救命は旦夕なり。若し毫末の益有るとも、豈に力を聖時に遺さんや。迫るに老耄を以て、復た任事せず。今 四海は休息たりて、天下は化を思ひ、從ひて之を靜め、百姓 自ら正たり。但だ當に風を崇び教を尚ぶに之を敦くするを以てするのみ、陛下も亦た復た何事かあらん。臣の耳目 聾瞑にして、自ら勵む能はず。君臣父子、其の間に文無く、是を以て愚情を直陳す、乞ふらくは請する所を聽さん」と。乃ち冠を免じ徒跣もて、上して印綬を還す。詔して曰く、「天下の事 廣く、加へて吳土 初めて平らぎ、凡百 草創し、當に共に意を盡くして之を化すべし。君 深く往心を識らずして小疾を以て退を求ふ、豈に君に望む所なるや。朕 猶ほ側席するに、未だ垂拱するを得ず、君も亦た何ぞ得て其の事を高尚とするや。當に至公を崇び、復た虛飾の煩を為す勿れ」と。
濤 苦もて表し退を請ふも、詔 又 許さず。尚書令の衞瓘 奏すらく、「濤 微苦を以て、久しく職を視ず。手詔 頻りに煩はせども、猶ほ未だ旨に順はず。參じ議するに以為へらく專節の尚無く、在公の義に違ふ。若し實に沈篤なれば、亦た宜しく位に居らしむべからず。濤の官を免ず可し」と。瓘に中詔して曰く、「濤 德の素より朝の望為るを以て、而れども常に深く退讓し、懇切に至る。故に詔有る比に、必ず其の志を奪はんと欲するも、匡輔を以て逮ばず。主者 既に明詔の旨を思はず、而れども反りて深く詆案を加ふ。崇賢の風を虧き、以て吾が不德を重くす、何を以て遠近に示さんや」と。濤 已むを得ず、又 起ちて事を視る。
太康の初に、右僕射に遷り、光祿大夫を加へられ、侍中・掌選 故の如し。濤 老疾を以て固辭し、手詔して曰く、「君 道德を以て世の模表と為る、況んや先帝より君の遠意を識るをや。吾 將に君に倚るに以て風俗を穆す、何ぞ乃ち朝政を舍遠し、獨り其の志を高くせんと欲せんや。吾の至懷 故より以て喻すに足らざるか、何の來言あらば懇切に至るや。且つ當に時の自ら力むべきを以て、深く至望に副へ。君 志を降さずんば、朕 席を安んぜず」と。濤 又 上表して固讓するも、許されず。

現代語訳

咸寧年間の初め(二七五年~)、太子少傅に転じ、散騎常侍を加えられた。尚書僕射に任命され、侍中を加え、吏部尚書を領した。老病を理由に固辞し、上表して心情を述べた。文書を提出すること数十回、長く職務を行わず、左丞である白褒に(怠慢であると)上奏された。武帝は、「山濤は病気であると申告し、私が(辞職を)許していないだけだ。山濤を着席させて銓衡(吏部の任務)を行わせれば済むことだ、どうして処罰する必要があろうか。追及してはならない」と言った。山濤は不安になり、上表して陳謝し、「古の王道は、ただ正しくまっすぐで(あることを重んじま)した。陛下は一人の老臣を依怙贔屓すべきでなく、私もまた特別の意図があって(職務を怠って)日数を稼ぐのでもありません。(私を糾弾した)上表のとおり、法令に基づいて処罰して下さい」と言った。武帝は再び直筆の詔で、「白褒が君を糾弾したのはひどい誤りである、ただちに処罰しなかったのは、ただ凶悪な方法で(山濤に働けと)脅迫したくなかったからだ。君の聡明な見識において、意に介す必要があろうか。すぐに職務を遂行し、(糾弾の)意見書に歯止めを掛ければよい」と言った。山濤の本心では絶対に引退したいと思っており、従弟の婦の喪に服するとし、外舎に帰還した。詔して、「山僕射は近日に出勤するはずだ、少しの不調のために帰還していないが、この状況は私の側席の(賢者を待遇する)本意であろうか。丞掾を派遣して詔を報じてわが意思を伝え諭し、もし健康が安定していなければ、輿車に載せて官舎に連れ戻せ」と言った。山濤は辞退を押し通せず、立ち上がって職務に就いた。
山濤は再び官僚選抜を十年あまり務め、ひとり官僚に欠員が生じるたび、すぐに上啓して数人の候補をあげ、武帝の意向に沿う者がいれば、その後に公的に上奏し、武帝の意思に従うことを優先した。ゆえに(山濤が選抜し)武帝が登用したものは、(事前の)名簿の筆頭でないこともあった。群臣は機微を察せず、山濤が恣意的に操作したと言った。ある人が武帝に告げ口したので、武帝は直筆の詔で山濤を戒め、「人材の登用はただ才能のみを基準とし、人脈から阻害されたり卑賤の出身であったりする者を遠ざけなければ、天下が教化されるだろう」と言った。しかし山濤は涼しい顔で(武帝の意向を反映した)選抜を続け、一年たつと群臣は(機微を悟って)騒ぐのを止めた。山濤が上奏して人材を選抜するとき、それぞれ題目を作り、当時において山公啓事と呼ばれた。
山濤は朝廷で中庸の立場をとり、晩年に皇后一族が専権すると、(外戚)楊氏を任命したがらなかった。(山濤は)何度も遠回しに諫め、武帝は理解はしても状況を改善できなかった。のちに老齢と病気により、上疏して引退を告げ、「私は八十歳に近づき、寿命は旦夕に迫っています。もし僅かでも余力でもあれば、聖なる晋帝国のために出し惜しみしましょうか。老齢に抵抗できず、もはや任務に堪えません。いま四海は穏やかで、天下は教化を望み、服従して静まり、万民は自ずと正しい道に進んでいます。ただ風教を尊重するには現状を保てば十分です、陛下ももう心配は要りません。私の耳目は塞がり、職務に励めません。君臣や父子には、あいだに虚飾がないもので、だから本心を直言しました、どうか聞き届けて下さい」と言った。(山濤は)冠を脱いで裸足になり、奉って印綬を返上した。(武帝は)詔して、「天下の事業は広大で、しかも呉の地域は平定直後で、万事は端緒に就いたところだ、ぜひ一緒に粉骨砕身して教化をしよう。君は私からの深い思いを理解せず僅かな不調によって引退を願い、私の期待を裏切っている。朕は座席を用意し(賢才を招い)ても、まだ手を拱き放任するに至らない、きみのわがままは通るまいぞ。至公(国家)を大切にし、虚飾で煩わせてはならない」と言った。
山濤は(老病を)苦にして上表し引退を申請したが、詔してまたもや許さなかった。尚書令の衛瓘は上奏し、「山濤はわずかな苦により、長く職務を放棄しています。直筆の詔により何度もお手を煩わせても、御意に従いません。考えてみますに節義に専心し重んじることがなく、公職にある者としての道に背きます。もし本当に老病が重篤ならば、官位に留めてはいけません。山濤の官職を罷免なさいませ」と言った。衛瓘に内々に詔し、「山濤の徳は朝廷で威望があり、ずっと引退を願い、極めて慎み深い。だから詔を出すたび、かれを押し切ろうとするが、輔佐に(復帰させるに)は至らない。担当官がわが詔の本旨を理解せず、反対に山濤を批判して罪に陥れようとする。賢者を尊崇する風潮を欠き、私の不徳を重くしている、これで遠近に手本を示せようか」と言った。山濤はやむを得ず、また立って職務を執った。
太康年間の初め(二八〇年~)、右僕射に遷り、光禄大夫を加えられ、侍中と人材選抜の職には留任した。山濤は老病により固辞したが、(武帝は)直筆の詔で、「きみは道徳によって世の規範となり、まして先帝の時代から(私はきみの)遠大な見識を知っている。きみには風俗を和らげることを期待しているのに、どうして朝政を投げ捨て、自分の希望だけを叶えようとするのか。私の誠心では説得をされてくれないのか、何を伝えれば真心が通じるのか。当世は(政務に)努めるべき時代である、わが期待に応えてくれ。きみが翻意してくれなければ、朕は落ち着いて居られない」と言った。山濤はまた上表して固辞したが、許されなかった。

原文

吳平之後、帝詔天下罷軍役、示海內大安、州郡悉去兵、大郡置武吏百人、小郡五十人。帝嘗講武于宣武場、濤時有疾、詔乘步輦從。因與盧欽論用兵之本、以為不宜去州郡武備、其論甚精。于時咸以濤不學孫吳、而闇與之合。帝稱之曰、「天下名言也」。而不能用。及永寧之後、屢有變難、寇賊猋起、郡國皆以無備不能制、天下遂以大亂、如濤言焉。
後拜司徒、濤復固讓。詔曰、「君年耆德茂、朝之碩老、是以授君台輔之位。而遠崇克讓、至于反覆、良用於邑。君當終始朝政、翼輔朕躬」。濤又表曰、「臣事天朝三十餘年、卒無毫釐以崇大化。陛下私臣無已、猥授三司。臣聞德薄位高、力少任重、上有折足之凶、下有廟門之咎。願陛下垂累世之恩、乞臣骸骨」。詔曰、「君翼贊朝政、保乂皇家、匡佐之勳、朕所倚賴。司徒之職、實掌邦教、故用敬授、以答羣望。豈宜沖讓以自抑損邪」。已敕斷章表、使者乃臥加章綬。濤曰、「垂沒之人、豈可污官府乎」。輿疾歸家。以太康四年薨、時年七十九。詔賜東園祕器・朝服一具・衣一襲・錢五十萬・布百匹、以供喪事、策贈司徒、蜜印紫綬、侍中貂蟬、新沓伯蜜印青朱綬、祭以太牢、諡曰康。將葬、賜錢四十萬・布百匹。左長史范晷等上言、「濤舊第屋十間、子孫不相容」。帝為之立室。
初、濤布衣家貧、謂妻韓氏曰、「忍饑寒、我後當作三公。但不知卿堪公夫人不耳」。及居榮貴、貞慎儉約、雖爵同千乘、而無嬪媵。祿賜俸秩、散之親故。初、陳郡袁毅嘗為鬲令、貪濁而賂遺公卿、以求虛譽、亦遺濤絲百斤、濤不欲異於時、受而藏於閣上。後毅事露、檻車送廷尉、凡所受賂、皆見推檢。濤乃取絲付吏、積年塵埃、印封如初。
濤飲酒至八斗方醉。帝欲試之、乃以酒八斗飲濤、而密益其酒、濤極本量而止。有五子、該・淳・允・謨・簡。

訓読

吳 平らぐの後、帝 天下に詔して軍役を罷めしめ、海內に大安なるを示し、州郡 悉く兵を去り、大郡は武吏百人、小郡は五十人を置く。帝 嘗て武を宣武場に講じ、濤 時に疾有り、詔して步輦に乘りて從はしむ。因りて盧欽と與に用兵の本を論ずるに、以為へらく宜しく州郡の武備を去るべからずとし、其の論 甚だ精し。時に咸 濤の孫吳を學ばざるを以て、闇に之と與に合す。帝 之を稱して曰く、「天下の名言なり」と。而れども用ふる能はず。永寧の後に及び、屢々變難有り、寇賊 猋起し、郡國 皆 無備を以て制する能はず、天下 遂に以て大亂し、濤が言の如きなり。
後に司徒を拜し、濤 復た固讓す。詔して曰く、「君 年は耆にして德は茂なり、朝の碩老なり、是を以て君に台輔の位を授く。而れども崇を遠ざけ讓を克くし、反覆するに至り、良に用て於邑す。君 當に終始に朝政し、朕が躬を翼輔すべし」と。濤 又 表して曰く、「臣 天朝に事ふること三十餘年、卒に毫釐も無く以て大化を崇くす。陛下 臣を私して已むこと無く、猥りに三司を授く。臣 聞くに德は薄く位は高く、力は少なく任は重ければ、上は折足の凶有り、下は廟門の咎有り。願はくは陛下 累世の恩を垂れ、臣に骸骨を乞ふ」と。詔して曰く、「君 朝政を翼贊し、皇家を保乂し、匡佐の勳は、朕の倚賴する所なり。司徒の職は、實に邦教を掌り、故に敬授を用て、以て羣望に答へよ。豈に宜しく沖讓して以て自ら抑損すべきや」と。已に敕 斷じて章表し、使者 乃ち臥に章綬を加ふ。濤曰く、「垂沒の人、豈に官府を污す可きや」と。疾を輿して家に歸る。太康四年を以て薨じ、時に年七十九なり。詔して東園祕器・朝服一具・衣一襲・錢五十萬・布百匹を賜はり、以て喪事に供し、策して司徒の蜜印紫綬、侍中の貂蟬、新沓伯の蜜印青朱綬を贈り、祭るに太牢を以てし、諡して康と曰ふ。將に葬らんとするに、錢四十萬・布百匹を賜ふ。左長史の范晷ら上言し、「濤 舊の第屋は十間なり、子孫 相 容れず」と。帝 之が為に室を立つ。
初め、濤 布衣にして家は貧しく、妻の韓氏に謂ひて曰く、「饑寒を忍べ、我 後に當に三公と作るべし。但だ卿 公夫人に堪ふるや不やを知らざるのみ」と。榮貴に居るに及び、貞慎にして儉約し、爵 千乘と同じと雖も、而れども嬪媵無し。祿賜俸秩、之を親故に散ず。初め、陳郡の袁毅 嘗て鬲令と為り、貪濁にして公卿に賂遺し、以て虛譽を求め、亦た濤に絲百斤を遺るに、濤 時に異となるを欲せず、受けて閣上に藏す。後に毅の事 露はれ、檻車もて廷尉に送られ、凡そ賂を受くる所、皆 推檢せらる。濤 乃ち絲を取りて吏に付し、積年 塵埃し、印封すること初の如し。
濤 酒を飲むこと八斗に至りて方に醉ふ。帝 之を試さんと欲し、乃ち酒八斗を以て濤に飲ましめ、而して密かに其の酒を益すに、濤 本の量を極めて止む。五子有り、該・淳・允・謨・簡なり。

現代語訳

呉を平定した後、武帝は天下に詔して軍役を撤廃させ、海内に太平であることを示し、州郡はすべて兵を除き、大郡は武吏を百人、小郡は五十人だけを置いた。武帝はかつて宣武場で武を講じたが、このとき山濤は病気なので、詔して歩輦に乗せて随行させた。その場で盧欽と用兵の根本について論じたが、(山濤は)州郡から武備を除いてはならないと言い、その意見はとても精緻であった。山濤は孫子や呉子(兵法)を学んでいないにも拘わらず、すべての発言が(孫子や呉子と)整合していた。武帝はかれを称え、「天下の名言である」と言った。しかし(再軍備を)実行できなかった。永寧年間(三〇一年)の後、しばしば事変や政難があり、寇賊が沸き起こったが、郡国に兵備がないので制圧できず、天下は大いに乱れたが、山濤の言った通りであった。
のちに司徒を拝し、山濤はまた固辞した。詔して、「きみは耆(七十歳)で徳が盛んで、朝廷の碩老であるから、台輔(三公)の位を授けた。しかし高位を遠ざけ謙譲をなし、くり返すとは、まことに恐るべきことだ。きみは死ぬまで朝政に参加し、朕の身を輔佐するように」と言った。山濤はまた上表し、「臣は天朝に仕えること三十年あまり、わずかな功績もないが(晋帝国の)偉大な教化は盛んです。陛下は私を特別扱いし、みだりに三司(三公)を授けました。聞きますに徳が薄いが位が高く、力は少ないが任が重ければ、上は(鼎の)足が折れて不吉であり、下は宗廟の門で罪を受けます。どうか陛下は累世の恩を垂れ、私の引退を認めて下さい」と言った。詔して、「きみは朝政を翼賛し、皇室を安定させ、輔佐の勲功があり、朕は頼りにしてきた。司徒の職は、国の教化を掌るのだから、謹んで任命を受け、群臣の期待に応えよ。謙譲し辞任してよかろうか」と言った。勅命で決定されると文書が発行され、使者は横たわった山濤に章綬を付けた。山濤は、「死にかけの人間が、官府を汚して良かろうか」と言った。病を起こし家に帰った。太康四(二八三)年に薨じ、七十九歳だった。詔して東園秘器・朝服一具・衣一襲・銭五十万・布百匹を賜わり、葬礼の費用とし、策命して司徒の蜜印紫綬、侍中の貂蟬、新沓伯の蜜印青朱綬を贈り、太牢で祭り、諡して康とした。埋葬にあたり、銭四十万・布百匹を賜わった。左長史の范晷らが上言し、「山濤の旧来の邸宅は十間しかなく、子孫には手狭です」と言った。武帝は子孫のために邸宅を建てた。
これよりさき、山濤は布衣(無位無官)で家が貧しく、妻の韓氏に、「飢えや寒さを我慢しろ、私は後に三公になるだろう。しかしあなたが三公の夫人として相応しいかは分からない」と言った。高位高官となっても、慎み深く倹約し、爵位は千乗(諸侯)と同じであっても、側女を置かなかった。賜与や俸給は、親類や縁者にばら撒いた。これよりさき、陳郡の袁毅が鬲令となり、強欲で汚職をして公卿に賄賂をおくり、虚誉を得ようとし、山濤にも生糸百斤を贈ったが、山濤は時勢に逆らうまいとし、受け取って閣上に収蔵した。のちに袁毅の罪があばかれ、檻車で廷尉に送られ、賄賂を受けたものは、全員が調査を受けた。山濤は生糸を取り出して吏に提出したが、数年で塵が積もり、封印を解いた形跡がなかった。
山濤は酒を八斗飲んだところで酔った。武帝はこれを試そうとし、酒八斗を山濤に飲ませたが、ひそかに酒量を増やしてあったが、山濤はもとの分量(八斗)で飲むのを止めた。五人の子がおり、山該・山淳・山允・山謨・山簡である。

原文

該字伯倫、嗣父爵、仕至并州刺史・太子左率、贈長水校尉。該子瑋字彥祖、翊軍校尉。次子世回、吏部郎・散騎常侍。淳字子玄、不仕。允字叔真、奉車都尉、並少尩病、形甚短小、而聰敏過人。武帝聞而欲見之、濤不敢辭、以問於允。允自以尩陋、不肯行。濤以為勝己、乃表曰、「臣二子尩病、宜絕人事、不敢受詔」。謨字季長、明惠有才智、官至司空掾。
簡字季倫。性溫雅、有父風、年二十餘、濤不之知也。簡歎曰、「吾年幾三十、而不為家公所知」。後與譙國嵇紹・沛郡劉謨・弘農1.(楊淮)〔楊準〕齊名。初為太子舍人、累遷太子庶子・黃門郎、出為青州刺史。徵拜侍中、頃之、轉尚書。歷鎮軍將軍・荊州刺史、領南蠻校尉、不行、復拜尚書。光熙初、轉吏部尚書。永嘉初、出為雍州刺史・鎮西將軍。徵為尚書左僕射、領吏部。
簡欲令朝臣各舉所知、以廣得才之路。上疏曰、「臣以為自古興替、實在官人。苟得其才、則無物不理。書言、知人則哲、惟帝難之。唐虞之盛、元愷登庸。周室之隆、濟濟多士。秦漢已來、風雅漸喪。至於後漢、女君臨朝、尊官・大位、出於阿保、斯亂之始也。是以郭泰・許劭之倫、明清議於草野。陳蕃・李固之徒、守忠節於朝廷。然後君臣名節、古今遺典、可得而言。自初平之元、訖於建安之末、三十年中、萬姓流散、死亡略盡、斯亂之極也。世祖武皇帝應天順人、受禪于魏。泰始之初、躬親萬機、佐命之臣、咸皆率職。時黃門侍郎王恂・庾純始於太極東堂聽政、評尚書奏事、多論刑獄、不論選舉。臣以為不先所難、而辨其所易。陛下初臨萬國、人思盡誠。每於聽政之日、命公卿大臣先議選舉、各言所見後進儁才・鄉邑尤異・才堪任用者、皆以名奏、主者隨缺先敘。是爵人於朝、與眾共之之義也」。朝廷從之。
永嘉三年、出為征南將軍・都督荊湘交廣四州諸軍事・假節、鎮襄陽。于時四方寇亂、天下分崩、王威不振、朝野危懼。簡優游卒歲、唯酒是耽。諸習氏、荊土豪族、有佳園池。簡每出嬉遊、多之池上、置酒輒醉、名之曰高陽池。時有童兒歌曰、「山公出何許、往至高陽池。日夕倒載歸、茗艼無所知。時時能騎馬、倒著白接䍦。舉鞭向葛疆、何如并州兒」。疆家在并州、簡愛將也。
尋加督寧・益軍事。時劉聰入寇、京師危逼。簡遣督護王萬率師赴難、次于湼陽、為宛城賊王如所破、遂嬰城自守。及洛陽陷沒、簡又為賊嚴嶷所逼、乃遷于夏口。招納流亡、江漢歸附。時華軼以江州作難、或勸簡討之。簡曰、「與彥夏舊友、為之惆悵。簡豈利人之機、以為功伐乎」。其篤厚如此。時樂府伶人避難、多奔沔漢。讌會之日、僚佐或勸奏之。簡曰、「社稷傾覆、不能匡救、有晉之罪人也、何作樂之有」。因流涕慷慨、坐者咸愧焉。年六十卒、追贈征南大將軍・儀同三司。子遐。

1.中華書局本の校勘記に従い、「楊淮」を「楊準」に改める。以下同じ。

訓読

該 字は伯倫、父の爵を嗣ぎ、仕へて并州刺史・太子左率に至り、長水校尉を贈らる。該の子の瑋 字は彥祖、翊軍校尉なり。次子の世回、吏部郎・散騎常侍なり。淳 字は子玄、仕へず。允 字は叔真、奉車都尉なり、並びに少くして尩病あり、形は甚だ短小にして、而れども聰敏たること人に過ぐ。武帝 聞きて之を見んと欲し、濤 敢て辭せず、以て允に問ふ。允 自ら尩陋なるを以て、行くを肯ぜず。濤 以て己に勝ると為し、乃ち表して曰く、「臣の二子 尩病なり、宜しく人事を絕つべし、敢て詔を受けず」と。謨 字は季長、明惠にして才智有り、官は司空掾に至る。
簡 字は季倫なり。性は溫雅にして、父の風有り、年二十餘なれども、濤 之れ知らざるなり。簡 歎じて曰く、「吾が年 幾ど三十なり、而れども家公の知る所と為らず」と。後に譙國の嵇紹・沛郡の劉謨・弘農の楊準と與に名を齊しくす。初め太子舍人と為り、累ねて太子庶子・黃門郎に遷り、出でて青州刺史と為る。徵せられて侍中を拜し、頃之、尚書に轉ず。鎮軍將軍・荊州刺史、領南蠻校尉を歷するも、行かず、復た尚書を拜す。光熙の初に、吏部尚書に轉ず。永嘉の初に、出でて雍州刺史・鎮西將軍と為る。徵せられて尚書左僕射と為り、吏部を領す。
簡 朝臣をして各々知る所を舉げしめ、以て才を得るの路を廣げんと欲す。上疏して曰く、「臣 以為へらく古より興替するは、實に人を官にするに在り。苟し其の才を得れば、則ち物として理めざるは無し。書に言ふ、『人を知るは則ち哲にして、帝と惟(いへど)も之を難しとす』と〔一〕。唐虞の盛ふるや、元愷 登庸せらる。周室の隆なるや、濟濟たる多士あり。秦漢より已來、風雅 漸く喪はる。後漢に至り、女君 臨朝し、尊官・大位、阿保より出で、斯れ亂の始なり。是を以て郭泰・許劭の倫、清議を草野に明らかにす。陳蕃・李固の徒、忠節を朝廷に守す。然る後に君臣の名節あらば、古今の遺典、得て言ふ可からん。初平の元より、建安の末に訖るまで、三十年中に、萬姓 流散し、死亡 略ぼ盡き、斯れ亂の極みなり。世祖武皇帝 天に應じ人に順ひ、禪を魏に受く。泰始の初に、萬機を躬親し、佐命の臣、咸皆 職に率ふ。時に黃門侍郎の王恂・庾純 始めて太極東堂に於て聽政し、尚書の奏事を評し、多く刑獄を論ずれども、選舉を論ぜず。臣 以為へらく難き所を先とせず、而れども其の易き所を辨ず。陛下 初めて萬國に臨み、人思は盡誠なり。每に聽政するの日に於て、公卿大臣に命じて先に選舉を議せしめ、各々見る所の後進の儁才・鄉邑の尤異・才の任用に堪ふる者を言はしめ、皆 名を以て奏し、主者 缺に隨ひて敘を先にせしめよ。是 人を朝に爵し、眾と與に之を共にする義なり」と。朝廷 之に從ふ。
永嘉三年に、出でて征南將軍・都督荊湘交廣四州諸軍事・假節と為り、襄陽に鎮す。時に四方 寇亂し、天下 分崩し、王威 振はず、朝野 危懼す。簡 優游すること卒歲、唯だ酒のみ是れ耽る。諸々の習氏、荊土の豪族にして、佳き園池有り。簡 每に出でて嬉遊し、多く池上に之き、置酒すれば輒ち醉ひ、之を名づけて高陽池と曰ふ。時に童兒の歌ふ有りて曰く、「山公 何の許にか出でん、往きて高陽池に至る。日夕 倒載して歸り、茗艼して知る所無し。時時に騎馬を能くし、倒に白接䍦を著く。鞭を舉げて葛疆に向ひ、并州の兒に何如といふ」と。疆の家は并州に在り、簡の愛將なり〔二〕。
尋いで督寧・益軍事を加へらる。時に劉聰 入寇し、京師 危逼す。簡 督護の王萬を遣はして師を率ゐて難に赴かしめ、湼陽に次る。宛城の賊の王如の破る所と為り、遂に嬰城して自守す。洛陽 陷沒するに及び、簡も又 賊の嚴嶷の逼る所と為り、乃ち夏口に遷る。流亡を招納し、江漢 歸附す。時に華軼 江州の難を作(な)すを以て、或いは簡に之を討たんことを勸む。簡曰く、「彥夏と舊友にして、之が為に惆悵す。簡 豈に人の機を利として、以て功伐と為さんや」と。其の篤厚たること此の如し。時に樂府の伶人 難を避け、多く沔漢に奔る。讌會の日に、僚佐 或いは之を奏(かな)でんことを勸む。簡曰く、「社稷 傾覆し、匡救する能はざるは、有晉の罪人なり、何ぞ樂を作すこと之れ有らんか」と。因りて流涕して慷慨し、坐する者 咸 焉を愧づ。年六十にして卒し、征南大將軍・儀同三司を追贈せらる。子は遐なり。

〔一〕『尚書』臯陶謨に、「惟帝其難之、知人則哲」とあり、字句が異なる。新釈漢文大系『書経』上に基づいて訓読した。
〔二〕『世説新語』任誕篇に類似の逸話があり、新釈漢文大系を翻訳の参考にした。

現代語訳

(山濤の長子)山該は字を伯倫といい、父の爵を嗣ぎ、仕官して并州刺史・太子左率に至り、長水校尉を贈られた。山該の子の山瑋は字を彦祖といい、翊軍校尉である。(山該の)次子の世回は、吏部郎・散騎常侍である。(山濤の次子)山淳は字を子玄といい、仕官しなかった。(山濤の三子)山允は字を叔真といい、奉車都尉であるが、みな若くして虚弱体質であり、体格も小さく、しかし聡明さは人より優れたいた。武帝はこれを聞いて謁見させたいと思い、山濤はあえて断らず、山允の意向を聞いた。山允は自分が虚弱で見栄えがしないので、行くことを拒否した。山濤は(山允が)自分より優れているとし、上表して、「臣の二子は虚弱です、世俗の仕事から遠ざけるのがよく、詔をお断りしました」と言った。(山濤の四子)山謨は字を季長といい、明敏で知恵と才智があり、官位は司空掾に至った。
(山濤の五子)山簡は字を季倫という。性は穏やかで奥ゆかしく、父の気風があったが、二十歳あまりでも、(父の)山濤から認知されなかった。山簡は歎じて、「私は三十歳が近いのに、家公(父)から認知されない」と言った。のちに譙国の嵇紹・沛郡の劉謨・弘農の楊準と名声を等しくした。はじめ太子舎人となり、累遷して太子庶子・黄門郎となり、(朝廷を)出て青州刺史となった。徴召されて侍中を拝し、しばらくして、尚書に転じた。鎮軍将軍・荊州刺史、領南蛮校尉を経たが、赴任せず、また尚書を拝した。光熙年間(三〇六年)のはじめ、吏部尚書に転じた。永嘉の初め、出て雍州刺史・鎮西将軍となった。徴召されて尚書左僕射となり、吏部尚書を領した。
山簡は朝臣にそれぞれが知る人材を推挙させ、(朝廷が)才能を獲得する道を広げようとした。上疏して、「私が考えますに先古より(帝王の)隆盛は、まことに人材の登用によります。もし才能を得れば、治まらないものはありません。『尚書』臯陶謨に、『官吏の人物を知るのは、哲(明智)であり、帝王でも難しいことだ』とあります。尭舜が栄え、八元八愷(賢人賢才)が登用されました。周室が盛んになり、多彩な人士がおりました。秦漢より以来、この気風は失われました。後漢に至ると、皇太后が臨朝し、高位や高官は、守り役や近臣から出て、これが乱の始まりでした。そこで郭泰と許劭といった人々は、清らかな意見を在野で打ち出しました。陳蕃や李固といった人々は、忠節を朝廷で守り(殺され)ました。その後に(後漢で)君臣に正しい節度がもたらされれば、古今の記録について、論じられたでしょう。初平の初め(一九〇年~)から、建安の末(~二二〇年)まで、三十年の間に、万姓は流散し、ほぼ死に絶え、これが乱の極まりでした。世祖武皇帝(司馬炎)は天に応じ人(の支持)を受け、魏帝国から禅譲を受けました。泰始の初め(二六五年)に、万機を親政し、佐命の臣は、みな公職に努めました。このとき黄門侍郎の王恂と庾純がはじめて太極東堂で政治を聴き、尚書の上奏を審議し、刑獄について盛んに論じましたが、人材選抜を論じませんでした。私が思いますに難しいことを優先せず、易しいことから着手したのです。陛下は万国に臨むようになり、人心は忠を尽くしています。いつも朝政では、公卿や大臣に命じて優先して人材登用について議論させ、それぞれの知る後進の俊才や、郷里の優秀なものや、官務に堪える才覚の持ち主を挙げさせて、名前を上奏し、担当官に欠員が出るたび登用させますように。これこそ人臣が朝廷で爵位を受け、君主が衆論とともに実行すべき事案です」と言った。朝廷はこれに従った。
永嘉三(三〇九)年、(山簡は)朝廷を出て征南将軍・都督荊湘交広四州諸軍事・仮節となり、襄陽に鎮した。このとき四方で寇賊が反乱し、天下は分裂して乱れ、晋帝の威信は振るわず、朝野は危ぶみ懼れた。山簡は一年中ゆったりと遊び、ただ酒に耽るだけだった。諸々の習氏は、荊州の在地豪族で、よい園池を所有していた。山簡はいつも出かけて楽しく遊び、よく池に浮かんで、酒盛りをして酔い、これを高陽池と名づけた。このとき童子の歌謡に、「山公はどこに行った、高陽池に出かけた。日が暮れると車にひっくり返って帰り、酩酊して前後不覚だ。時には駿馬にまたがり、さかさに白頭巾をかぶる。手を挙げて葛疆に向かい、(私は)并州の子と比べてどうだと問う」と言った。葛疆の家は并州にあり、かれは山簡のお気に入りの部将である。
ほどなく督寧・益(州)軍事を加えられた。このとき劉聡が入寇し、京師(洛陽)は危機に陥った。山簡は督護の王万を派遣し軍を率いて救援させた。(途中で)湼陽に駐屯すると、宛城の賊の王如に破られ、籠城してわが身を守った。洛陽が陥落すると、山簡もまた賊の厳嶷に脅かされ、夏口に遷った。流亡した人々を招いて収容し、江漢の一帯は(山簡に)帰服して頼りにした。このとき華軼が江州で兵難を起こしたので、あるものが山簡に討伐せよと勧めた。山簡は、「彦夏(華軼)は旧友だ、かれのために嘆き悲しむ。どうして他人を利用して、討伐の功績を上げようか」と言った。山簡の篤実さはこのようであった。このとき宮廷の楽府の演奏者が避難し、多くが沔水と漢水の一帯に逃げてきた。酒盛りの日、部下たちが演奏させましょうと勧めた。山簡は、「社稷が傾覆し、救援できなかった私は、晋国の罪人である、どうして音楽を鳴らすだろうか」と言った。涙を流して慷慨し、同席者たちは一様に恥じた。六十歳で亡くなり、征南大将軍・儀同三司を追贈された。子は山遐である。

原文

遐字彥林、為餘姚令。時江左初基、法禁寬弛、豪族多挾藏戶口、以為私附。遐繩以峻法、到縣八旬、出口萬餘。縣人虞喜以藏戶當棄市、遐欲繩喜。諸豪強莫不切齒於遐、言於執事、以喜有高節、不宜屈辱。又以遐輒造縣舍、遂陷其罪。遐與會稽內史何充牋、「乞留百日、窮翦逋逃。退而就罪、無恨也」。充申理、不能得、竟坐免官。後為東陽太守、為政嚴猛。康帝詔曰、「東陽頃來竟囚、每多入重。豈郡多罪人、將捶楚所求、莫能自固邪」。遐處之自若、郡境肅然。卒于官。
史臣曰、若夫居官以潔其務、欲以啟天下之方、事親以終其身、將以勸天下之俗。非山公之具美、其孰能與於此者哉。自東京喪亂、吏曹湮滅、西園有三公之錢、蒲陶有一州之任、貪饕方駕、寺署斯滿。時移三代、世歷九王、拜謝私庭、此焉成俗。若乃餘風稍殄、理或可言。委以銓綜、則羣情自抑。通乎魚水、則專用生疑。將矯前失、歸諸後正。惠絕臣名、恩馳天口。世稱山公啟事者、豈斯之謂歟。若盧子家之前代、何足算也。

訓読

遐 字は彥林、餘姚令と為る。時に江左 初めて基し、法禁 寬弛たりて、豪族 多く戶口を挾藏し、以て私附と為す。遐 繩するに峻法を以てし、縣に到りて八旬にして、口萬餘を出ださしむ。縣人の虞喜 藏戶を以て棄市に當し、遐 喜を繩せんと欲す。諸々の豪強 遐を切齒せざるは莫く、執事に言ふに、喜の高節有るを以て、宜しく辱に屈せしむべからずと。又 遐の輒ち縣舍を造るを以て、遂に其の罪に陷す。遐 會稽內史の何充に牋を與りて、「留まること百日にして、逋逃を窮翦せんことを乞ふ。退きて罪に就きても、恨み無きなり」と。充 申理すれども、得ること能はず、竟に坐して免官せらる。後に東陽太守と為り、為政は嚴猛なり。康帝 詔して曰く、「東陽 頃來 囚を竟し、每に多く重に入る。豈に郡に罪人多きか、將た捶楚の求むる所、能く自固たること莫きか」と。遐 之に處りて自若たりて、郡境 肅然とす。官に卒す。
史臣曰く、若し夫れ官に居りて以て其の務を潔くするは、以て天下の方を啟せんと欲すればなり。親に事へて以て其の身を終ふるは、將に以て天下の俗を勸めんとすればなり。山公の美を具ふるに非ざれば、其れ孰か能く此に與かるの者ならんか。東京 喪亂してより、吏曹 湮滅し、西園に三公の錢有り、蒲陶 一州の任に有り、貪饕 駕を方(なら)べ、寺署 斯れ滿つ。時 移ること三代、世 歷ること九王、私庭に拜謝するは、此に焉ぞ俗と成らん。若乃(も)し餘風 稍々殄して、理 或いは言ふ可きか。委つるに銓綜を以てせば、則ち羣情 自ら抑へんか。魚水に通ずれば、則ち專ら用て疑を生ず。將に前の失を矯し、諸後の正に歸す。惠 臣の名を絕たば、恩は天口より馳す。世に山公の啟事と稱するは、豈に斯の謂ひか。盧子家の前代なる若きは、何ぞ算ふるにるか。

現代語訳

山遐は字を彦林といい、餘姚令となった。このとき東晋政権の成立直後で、禁令が弛緩し、豪族は多く人口を隠蔽し、私有化していた。山遐は厳しい法令によって取り締まり、県に着任して八十日で、一万人あまりを吐き出させ(戸籍に登録し)た。県人の虞喜は戸数を秘匿していたので棄市の罪に相当し、山遐は虞喜を捕縛しようとした。諸々の豪族らは山遐の為政に切歯しないものがおらず、事務官に、虞喜は高い節義をそなえた人物だから、屈辱を与えてはいけませんと言った。さらに(豪族は)山遐が県舎を修築したとして、山遐を罪に陥れた。山遐は会稽内史の何充に書簡を送り、「百日のあいだ在任し、刑罰から逃れた人を極刑に処したいと思います。(百日の経過後)任務を解かれ処罰されても、恨みに思いません」と言った。何充は聞き届けようとしたが、実現できず、ついに罪により(山遐は)免官された。のちに東陽太守となり、そこでも厳格な猛政をした。康帝が詔して、「東陽(太守の山遐)がこのごろ罪人を捕らえ、いつも多くが重罪となる。この郡に罪人が多いのだろうか、もしくは罪人を打つむちが、自制できない(刑罰が過剰である)のか」と言った。山遐はそれでも(詔で牽制されても)自若とし、郡内は粛然とした。在官で亡くなった。
史臣はいう、そもそも官職にあって勤めを清らかにするのは、天下各地を啓発しようとするためだ。親に仕えてその身を全うするのは、天下の習俗を善導しようとするためだ。山公のように美徳を備えたものでなければ、だれがこの役割を果たせるだろうか。後漢が傾いて乱れてから、吏曹(人事登用の官)は消滅し、西園で三公の位が売買され、葡萄酒の賄賂で一州の長官に任命され、強欲なものが馬車を並べ、役所に充満した。三つの時代が変遷し、九人の君主が経過し、私邸で口利きを頼むことが、習俗として定着しないことがあろうか。もし先古の遺風が徐々に衰亡すれば、道理を論じられようか。人事考課を放棄すれば、群臣の心を抑えられようか。魚と水が通じれば、かならず不平不満が生まれるものだ。前代の過失を糾し、後世の公正なものに委ねられた。(君主の)恵みが臣の名を絶てば、(代わりに)恩がよき論者から発せられる。世に「山公の啓事」と呼ぶのは、これを指したものか。盧子家(盧毓)の前代のようなもの(何晏との冀州論)は数に入れるに足りようかと。

王戎

原文

王戎字濬沖、琅邪臨沂人也。祖雄、幽州刺史。父渾、涼州刺史・貞陵亭侯。戎幼而穎悟、神彩秀徹。視日不眩、裴楷見而目之曰、「戎眼爛爛、如巖下電」。年六七歲、於宣武場觀戲。猛獸在檻中虓吼震地、眾皆奔走、戎獨立不動、神色自若。魏明帝於閣上見而奇之。又嘗與羣兒嬉於道側、見李樹多實、等輩競趣之、戎獨不往。或問其故。戎曰、「樹在道邊而多子、必苦李也」。取之信然。
阮籍與渾為友。戎年十五、隨渾在郎舍。戎少籍二十歲、而籍與之交。籍每適渾、俄頃輒去、過視戎、良久然後出。謂渾曰、「濬沖清賞、非卿倫也。共卿言、不如共阿戎談」。及渾卒於涼州、故吏賻贈數百萬、戎辭而不受、由是顯名。為人短小、任率不修威儀、善發談端、賞其要會。朝賢嘗上巳禊洛、或問王濟曰、「昨游有何言談」。濟曰、「張華善說史漢、裴頠論前言往行、袞袞可聽。王戎談子房・季札之間、超然玄著」。其為識鑒者所賞如此。
戎嘗與阮籍飲、時兗州刺史劉昶、字公榮在坐、籍以酒少、酌不及昶、昶無恨色。戎異之、他日問籍曰、「彼何如人也」。答曰、「勝公榮、不可不與飲。若減公榮、則不敢不共飲。惟公榮可不與飲」。戎每與籍為竹林之游、戎嘗後至。籍曰、「俗物已復來敗人意」。戎笑曰、「卿輩意亦復易敗耳」。
鍾會伐蜀、過與戎別、問計將安出。戎曰、「道家有言、『為而不恃』。非成功難、保之難也」。及會敗、議者以為知言。
襲父爵、辟相國掾、歷吏部黃門郎・散騎常侍・河東太守・荊州刺史。坐遣吏修園宅、應免官、詔以贖論。遷豫州刺史、加建威將軍、受詔伐吳。戎遣參軍羅尚・劉喬領前鋒、進攻武昌、吳將楊雍・孫述・江夏太守劉朗各率眾詣戎降。戎督大軍臨江、吳牙門將孟泰以蘄春・邾二縣降。吳平、進爵安豐縣侯、增邑六千戶、賜絹六千匹。
戎渡江、綏慰新附、宣揚威惠。吳光祿勳石偉方直、不容晧朝、稱疾歸家。戎嘉其清節、表薦之。詔拜偉為議郎、以二千石祿終其身。荊土悅服。徵為侍中。南郡太守劉肇賂戎1.(筒巾)〔筒中〕細布五十端、為司隸所糾、以知而未納、故得不坐、然議者尤之。帝謂朝臣曰、「戎之為行、豈懷私苟得。正當不欲為異耳」。帝雖以是言釋之、然為清慎者所鄙、由是損名。
戎在職雖無殊能、而庶績修理。後遷光祿勳・吏部尚書、以母憂去職。性至孝、不拘禮制、飲酒食肉、或觀奕棊、而容貌毀悴、杖然後起。裴頠往弔之、謂人曰、「若使一慟能傷人。濬沖不免滅性之譏也」。時和嶠亦居父喪、以禮法自持、量米而食、哀毀不踰於戎。帝謂劉毅曰、「和嶠毀頓過禮、使人憂之」。毅曰、「嶠雖寢苫食粥、乃生孝耳。至於王戎、所謂死孝。陛下當先憂之」。戎先有吐疾、居喪增甚。帝遣醫療之、并賜藥物、又斷賓客。
楊駿執政、拜太子太傅。駿誅之後、東安公繇專斷刑賞、威震外內。戎誡繇曰、「大事之後、宜深遠之」。繇不從、果得罪。轉中書令、加光祿大夫、給恩信五十人。遷尚書左僕射、領吏部。
戎始為甲午制、凡選舉皆先治百姓、然後授用。司隸傅咸奏戎、曰、「書稱『三載考績、三考黜陟幽明』。今內外羣官、居職未朞而戎奏還、既未定其優劣、且送故迎新、相望道路、巧詐由生、傷農害政。戎不仰依堯舜典謨、而驅動浮華、虧敗風俗。非徒無益、乃有大損。宜免戎官、以敦風俗」。戎與賈・郭通親、竟得不坐。尋轉司徒。以王政將圮、苟媚取容、屬愍懷太子之廢、竟無一言匡諫。
裴頠、戎之壻也。頠誅、戎坐免官。齊王冏起義、孫秀錄戎於城內、趙王倫子欲取戎為軍司。博士王繇曰、「濬沖譎詐多端、安肯為少年用」。乃止。惠帝反宮、以戎為尚書令。既而河間王顒遣使就說成都王穎、將誅齊王冏。檄書至、冏謂戎曰、「孫秀作逆、天子幽逼。孤糾合義兵、掃除元惡。臣子之節、信著神明。二王聽讒、造構大難。當賴忠謀、以和不協。卿其善為我籌之」。戎曰、「公首舉義眾、匡定大業。開闢以來、未始有也。然論功報賞、不及有勞、朝野失望、人懷貳志。今二王帶甲百萬、其鋒不可當。若以王就第、不失故爵。委權崇讓、此求安之計也」。冏謀臣葛旟怒曰、「漢魏以來、王公就第、寧有得保妻子乎。議者可斬」。於是百官震悚、戎偽藥發墮廁、得不及禍。
戎以晉室方亂、慕蘧伯玉之為人、與時舒卷、無蹇諤之節。自經典選、未嘗進寒素、退虛名、但與時浮沈、戶調門選而已。尋拜司徒、雖位總鼎司、而委事僚寀。間乘小馬、從便門而出游、見者不知其三公也。故吏多至大官、道路相遇輒避之。性好興利、廣收八方、園田・水碓、周徧天下。積實聚錢、不知紀極、每自執牙籌、晝夜算計、恒若不足。而又儉嗇、不自奉養、天下人謂之膏肓之疾。女適裴頠、貸錢數萬、久而未還。女後歸寧、戎色不悅、女遽還直、然後乃歡。從子將婚、戎遺其一單衣、婚訖而更責取。家有好李、常出貨之、恐人得種、恒鑽其核。以此獲譏於世。
其後從帝北伐、王師敗績於蕩陰、戎復詣鄴、隨帝還洛陽。車駕之西遷也、戎出奔于郟。在危難之間、親接鋒刃、談笑自若、未嘗有懼容。時召親賓、歡娛永日。永興二年、薨于郟縣、時年七十二、諡曰元。
戎有人倫鑒識、嘗目山濤如璞玉渾金、人皆欽其寶、莫知名其器。王衍神姿高徹、如瑤林瓊樹、自然是風塵表物。謂裴頠拙於用長、荀勖工於用短。陳道寧𦃩𦃩如束長竿。族弟敦有高名、戎惡之。敦每候戎、輒託疾不見。敦後果為逆亂。其鑒賞・先見如此。嘗經黃公酒壚下過、顧謂後車客曰、「吾昔與嵇叔夜・阮嗣宗酣暢於此、竹林之游亦預其末。自嵇・阮云亡、吾便為時之所羈紲。今日視之雖近、邈若山河」。初、孫秀為琅邪郡吏、求品於鄉議。戎從弟衍將不許、戎勸品之。及秀得志、朝士有宿怨者皆被誅、而戎・衍獲濟焉。
子萬、有美名。少而大肥、戎令食穅而肥愈甚。年十九卒。有庶子興、戎所不齒。以從弟陽平太守愔子為嗣。

1.『世説新語』雅量篇に従い、「筒巾」を「筒中」に改める。

訓読

王戎 字は濬沖、琅邪臨沂の人なり。祖の雄は、幽州刺史なり。父の渾、涼州刺史・貞陵亭侯なり。戎 幼くして穎悟、神彩にして秀徹なり。日を視るに眩まず、裴楷 見て之を目して曰く、「戎の眼は爛爛たり、巖下の電が如し」。年六七歲にして、宣武場に戲を觀る。猛獸〔一〕檻中に在りて虓吼して地を震はし、眾 皆 奔走す。戎 獨り立ちて動かず、神色 自若たり。魏の明帝 閣上に於て見て之を奇とす。又 嘗て羣兒と與に道側に嬉(たはむ)れ、李樹 多く實るを見て、等輩 競ひて之に趣くも、戎 獨り往かず。或 其の故を問ふ。戎曰く、「樹 道邊に在りて子多し、必ず苦李ならん」と。之を取るに信に然り。
阮籍 渾と與に友為り。戎 年十五にして、渾に隨ひて郎舍に在り。戎 籍より少きこと二十歲、而れども籍 之と與に交はる。籍 每に渾に適き、俄頃にして輒ち去り、過りて戎を視て、良(まこと)に久しくして然る後に出づ。渾に謂ひて曰く、「濬沖 清賞にして、卿の倫に非ざるなり。卿と共に言ふは、阿戎と共に談ずるに如かず」と。渾 涼州に卒するに及び、故吏 賻贈すること數百萬、戎 辭して受けず、是に由り名を顯はす。人と為りは短小にして、任率にして威儀を修めず、善く談端を發し、其の要會を賞(め)でらる〔二〕。朝賢 嘗て上巳に洛に禊し、或ひと王濟に問ひて曰く、「昨に游ぶに何の言談有らん」。濟曰く、「張華 善く史漢を說き、裴頠 前言往行を論じ、袞袞として聽く可し。王戎 子房・季札の間を談ずるに、超然として玄著たり」。其の識鑒の者の為に賞せらる所 此の如し。
戎 嘗て阮籍と與に飲み、時に兗州刺史の劉昶、字は公榮 坐に在り、籍 酒の少なきを以て、酌 昶に及ばず、昶 恨色無し。戎 之を異とし、他日 籍に問ひて曰く、「彼 何如なる人ぞ」と。答へて曰く、「公榮に勝らば、與に飲まざる可からず。若し公榮に減らば、則ち敢て共に飲まずんばあらず。惟だ公榮 與に飲まざる可し」と〔三〕。戎 每に籍と與に竹林の游を為し、戎 嘗て後れて至る。籍曰く、「俗物 已に復た來て人の意を敗るか」。戎 笑ひて曰く、「卿が輩の意も亦た復た敗り易きのみ」と。
鍾會 蜀を伐つに、過りて戎と別れ、計の將(は)た安づくにか出んと問ふ。戎曰く、「道家に言有り、『為して恃(ほこ)らず』と〔四〕。功を成すこと難きに非ず、之を保つこと難きなり」と。會 敗るるに及び、議者 以て知言と為す。
父の爵を襲ひ、相國掾に辟せられ、吏部黃門郎・散騎常侍・河東太守・荊州刺史を歷す。吏をして園宅を修むるに坐して、應に官を免ずべきに、詔して贖を以て論ぜしむ。豫州刺史に遷り、建威將軍を加へられ、詔を受けて吳を伐つ。戎 參軍の羅尚・劉喬を遣はして前鋒を領せしめ、進みて武昌を攻め、吳將の楊雍・孫述・江夏太守の劉朗 各々眾を率ゐて戎に詣りて降る。戎 大軍を督して江に臨み、吳の牙門將の孟泰 蘄春・邾の二縣を以て降る。吳 平らぐや、爵を安豐縣侯に進め、邑六千戶を增し、絹六千匹を賜ふ。
戎 江を渡るや、新附を綏慰し、威惠を宣揚す。吳の光祿勳の石偉 方直にして、晧の朝を容れず、疾と稱して家に歸る。戎 其の清節に嘉し、表して之を薦む。詔して偉に拜して議郎と為し、二千石の祿を以て其の身を終へしむ。荊土 悅服す。徵せられて侍中と為る。南郡太守の劉肇 戎に筒中細布五十端を賂り、司隸の糾す所と為るに、知りて未だ納れざるを以て、故に坐せざるを得て、然して議者 之を尤(あや)しむ。帝 朝臣に謂ひて曰く、「戎の行を為すこと、豈に私を懷き苟得せんや。正に當に異を為さんことを欲せざるべきのみ」と。帝 是の言を以て之を釋すと雖も、然れども清慎たる者の鄙する所と為り、是に由り名を損ふ。
戎 職に在りて殊能無しと雖も、而れども庶績 修理たり。後に光祿勳・吏部尚書に遷り、母の憂を以て職を去る。性は至孝なるも、禮制に拘らず、酒を飲み肉を食らひ、或ひと奕棊するを觀て、而れども容貌 毀悴し、杖して然して後に起つ。裴頠 往きて之を弔ひ、人に謂ひて曰く、「若し一たび慟せしめば能く人を傷つけん。濬沖は性を滅するの譏り〔五〕を免れざるなり」と。時に和嶠も亦た父の喪に居り、禮法を以て自ら持し、米を量りて食らひ、哀毀 戎を踰えず。帝 劉毅に謂ひて曰く、「和嶠の毀頓は禮に過ぎ、人をして之を憂へしむ」と。毅曰く、「嶠 苫に寢ね粥を食らふと雖も、乃ち生孝なるのみ。王戎に至りては、所謂 死孝なり。陛下 當に先に之を憂ふべし」と。戎 先に吐疾有りて、喪に居りて增々甚だし。帝 醫を遣はして之を療し、并せて藥物を賜ひ、又 賓客を斷ぜしむ。
楊駿 政を執るや、太子太傅を拜す。駿 誅せらるの後、東安公繇 刑賞を專斷し、威は外內を震はす。戎 繇を誡めて曰く、「大事の後なれば、宜しく深く之を遠ざくべし」と。繇 從はず、果たして罪を得たり。中書令に轉り、光祿大夫を加へられ、恩信五十人を給はる。尚書左僕射に遷じ、吏部を領す。
戎 始めて甲午制を為(つく)り、凡そ選舉は皆 先に百姓を治めしめ、然る後に授用す。司隸の傅咸 戎を奏して、曰く、「書に『三載に績を考へ、三たび考して幽明を黜陟す』と稱す〔六〕。今 內外の羣官、職に居りて未だ朞ならずして戎 還を奏し、既にして未だ其の優劣を定めず、且つ故を送りて新を迎へ、相 道路に望めば、巧詐 由りて生じ、農を傷ひ政を害す。戎 堯舜の典謨に仰依せず、而れども浮華を驅動し、風俗を虧敗す。徒だ益無きのみに非ず、乃ち大損有り。宜しく戎の官を免じ、以て風俗を敦くせよ」と。戎 賈・郭と與に親を通じ、竟に坐せざるを得たり。尋いで司徒に轉ず。王政の將に圮(やぶ)れんとするを以て、媚を苟して容を取り、愍懷太子の廢せらるに屬ひ、竟に一言とて匡諫無し。
裴頠は、戎の壻なり。頠 誅せられるるや、戎 坐して免官せらる。齊王冏 起義するや、孫秀 戎を城內に錄し、趙王倫が子 戎を取りて軍司を為さんと欲す。博士の王繇曰く、「濬沖は譎詐多端なり、安ぞ肯て少年の用と為らん」と。乃ち止む。惠帝 宮に反り、戎を以て尚書令と為す。既にして河間王顒 遣はして就きて成都王穎を說かしめ、將に齊王冏を誅せんとす。檄書 至り、冏 戎に謂ひて曰く、「孫秀 逆を作し、天子 幽逼せらる。孤 義兵を糾合し、元惡を掃除す。臣子の節、信に神明に著はる。二王 讒を聽き、大難を構ふるに造る。當に忠謀を賴りて、以て不協を和するべし。卿 其れ善く我が為に之を籌せ」と。戎曰く、「公 首めに義眾を舉し、大業を匡定す。開闢より以來、未だ始めて有らざるなり。然れども論功報賞、勞有るに及ばず、朝野 失望し、人 貳志を懷く。今 二王の帶甲百萬、其の鋒 當たる可からず。若し王を以て第に就かば、故の爵を失はず。權を委ねて崇讓す、此れ安を求むるの計なり」と。冏の謀臣の葛旟 怒りて曰く、「漢魏より以來、王公 第に就きて、寧ぞ得て妻子を保つもの有るや。議者 斬る可しといふ」と。是に於て百官 震悚し、戎 藥發もて廁に墮つと偽りて〔七〕、禍に及ばざるを得たり。
戎 晉室の方に亂れんとするを以て、蘧伯玉の人と為りを慕へども、時と與に舒卷して、蹇諤の節無し。典選を經てより、未だ嘗て寒素を進め、虛名を退けず、但だ時と與に浮沈し、戶ごとに調し門ごとに選ぶのみ。尋いで司徒を拜し、位 鼎司を總ぶと雖も、而れども僚寀に委事す。間に小馬に乘りて、便門より出でて游び、見る者 其の三公なりと知らず。故吏 多く大官に至り、道路に相 遇はば輒ち之を避く。性は利を興すを好み、廣く八方を收め、園田・水碓、天下に周徧す。實を積み錢を聚め、紀極を知らず〔八〕、每に自ら牙籌を執り、晝夜に算計し、恒に足らざるが若し。而も又 儉嗇たりて、自ら奉養せず、天下の人 之を膏肓の疾と謂ふ。女 裴頠に適き、錢を貸すこと數萬、久しくして未だ還らず。女 後に歸寧するに、戎の色 悅ばず、女 遽かに直を還し、然る後に乃ち歡ぶ。從子 將に婚せんとし、戎 其に一單衣を遺り、婚 訖はりて更めて責めて取る。家に好李有り、常に出だして之を貨(う)り、人の種を得るを恐れ、恒に其の核を鑽つ。此を以て譏を世に獲たり。
其の後 帝に從ひて北伐し、王師 蕩陰に敗績し、戎 復た鄴に詣り、帝に隨ひて洛陽に還る。車駕の西遷するや、戎 出でて郟に奔る。危難の間に在りて、親ら鋒刃に接するも、談笑して自若とし、未だ嘗て懼容有し。時に親賓を召して、歡娛すること永日なり。永興二年、郟縣に薨ず、時に年七十二なり、諡して元と曰ふ。
戎 人倫の鑒識有り、嘗て山濤を目して璞玉渾金の如しとし、人 皆 其の寶なるを欽みて、其の器を名づくることを知る莫し。王衍の神姿 高徹にして、瑤林瓊樹の如く、自然に是れ風塵の表物なり。裴頠を謂(い)ふらく長なるを用ひるに拙く、荀勖を短なるを用ふるに工なり。陳道寧 𦃩𦃩たること長竿を束るが如し〔九〕。族弟の敦 高名有り、戎 之を惡む。敦 每に戎に候ふに、輒ち疾に託して見えず。敦 後に果たして逆亂を為す。其の鑒賞・先見 此の如し。嘗て黃公が酒壚を經て下り過ぎ、顧みて後車の客に謂ひて曰く、「吾 昔 嵇叔夜・阮嗣宗と與に此に於て酣暢す、竹林の游も亦た其の末に預る。嵇・阮 亡を云ひてより、吾 便ち時の羈紲する所と為る。今日 之を視るに近しと雖も、邈(はる)かなることこと山河が若し」と。初め、孫秀 琅邪の郡吏と為るに、品を鄉議を求む。戎の從弟の衍 將に許さざらんとするに、戎 之を品するを勸む。秀 志を得るに及び、朝士の宿怨有る者 皆 誅せらるるも、而れども戎・衍のみ濟ふを獲たり。
子の萬、美名有り。少くして大肥なりて、戎 穅を食はしむるも肥 愈々甚だし。年十九にして卒す。庶子の興有り、戎の齒(かぞ)へざる所なり。從弟の陽平太守の愔の子を以て嗣と為す。

〔一〕同じ逸話が『世説新語』雅量篇に見え、「魏明帝於宣武塲上、斷虎爪牙……」とある。『晋書』本伝は「虎」を避諱して「猛獸」に改めたと考えられるため、現代語訳で補う。この注釈は、深山 @miyama__akira さまのご指摘に拠ります。
〔二〕「善發談端、賞其要會」は、小松英生「『晋書』王戎伝訳注」(『中国中世文学研究』二〇、一九九一年)に基づいて解釈した。
〔三〕『世説新語』簡傲篇及び同注引『晋陽秋』と『竹林七賢論』にこの逸話が見え、それに基づいて解釈する。
〔四〕『老子』第二章に、「為而不恃、功成而弗居」とある。
〔五〕『礼記』曲礼篇上に基づいた表現。悲しみのために性命を損なうことが、「不慈不孝」とされている。
〔六〕『尚書』舜典に基づいた文。
〔七〕「於是」以下を、小松英生「『晋書』王戎伝訳注」(『中国中世文学研究』二〇、一九九一年)に基づいて解釈した。
〔八〕『春秋左氏伝』文公 伝十八年に、「聚斂積實、不知紀極」とあり、出典。
〔九〕この文は未詳。追加調査が必要。小松〈一九九一〉も、「陳道寧」「𦃩𦃩」を未詳とする。

現代語訳

王戎は字を濬沖といい、琅邪臨沂の人である。祖父の王雄は、幽州刺史である。父の王渾は、涼州刺史・貞陵亭侯である。王戎は幼くして才智がすぐれ、風采がよく秀でていた。太陽を見ても目が眩まず(瞬かず)、裴楷はこれを目にし、「王戎の眼はきらきらと輝き、(薄暗い)がけの下で輝く雷光のようだ」と言った。六歳か七歳のころ、宣武場で遊戯(闘戯)を見た。猛獣(虎)が檻のなかで咆哮して地を震わせ、皆は逃げ散った。王戎のみが立ったまま動かず、顔色は平生のままだった。魏の明帝は閣上でこれを見て格別だと思った。またかつて子供たちと道ばたで戯れ、李(すもも)の樹が多く実を付けているのを見て、みな競って駆け寄ったが、王戎だけが行かなかった。あるひとがその理由を質問した。王戎は、「樹が道のそばにあって子供は多い、(それでも実が残っているということは)必ず苦い李であろう」と言った。これを取ると果たしてその通りであった。
阮籍は(王戎の父の)王渾と友人であった。王戎が十五歳のとき、王渾に随って郎舎(官舎)にいた。王戎は阮籍より二十歳若いが、それでも阮籍は彼と交友した。阮籍はいつも王渾を訪ねるたび、すぐに立ち去り、王戎を見つけると、とても長い時間を過ごしてから(郎舎)を出た。王渾に、「濬沖(王戎)は清く優秀で、きみと同類ではない。きみと話をするよりも、阿戎(王戎)と談義したほうがよい」と。王渾が涼州で亡くなると、故吏は喪のために数百万の贈り物をしたが、王戎は辞退して受け取らず、これによって名が顕れた。体は小さく、言動が自然で飾らず威儀を修めず、話し好きで話題に事欠かなかったが、話のつづまりはきちんとつけていて聞く人を唸らせていた。朝賢はかつて上巳(三月三日)に洛水に禊し、あるひとが王済に質問し、「昨日出かけたとき何の話をしていたのか」と言った。王済は、「張華は史記や漢書について説き、裴頠は先古の言動を論じ、蕩蕩として絶えず聞くのが楽しかった。王戎は子房(張良)と(呉の)季札のような人々を談じて、超然として玄妙(な話しぶり)であった」と言った。その人物の鑑識眼のある人々から賞賛されるのはこのようであった。
王戎はかつて阮籍とともに酒を飲み、このとき兗州刺史の劉昶、字は公栄が同席していたが、阮籍は(手持ちの)酒の量が少なく、劉昶に酌をしなかったが、劉昶は不機嫌にはならなかった。王戎はこれを不思議に思い、別の日に阮籍に質問して、「彼(劉昶)はどのような人物ですか」と言った。(阮籍は)答えて、「公栄よりも(人物として)勝るならば、一緒に酒を飲まないことがない。もし公栄よりも(人物として)劣るならば、あえて一緒に飲まないことがない。ただ公栄とだけは一緒に飲まない」と言った。王戎はつねに阮籍とともに竹林で遊び、王戎が遅れて到着したことがあった。阮籍は、「俗物がわざわざ来て私たちの興を削ぐのか」と言った。王戎は笑って、「あなたたちの楽しみはそんなに簡単に壊れるのか」と言った。
鍾会が蜀を討伐するとき、訪問して王戎に別れを告げ、どのような計略を用いるべきか質問した。王戎は、「道家に教えがあり、『為して恃(ほこ)まず』と言います。功績を成すことが難しいのではなく、これを保つことが難しいのです」と言った。鍾会が敗北すると、議者は(王戎のことを)知言と評した。
父の爵位をつぎ、相国掾に辟召され、吏部黄門郎・散騎常侍・河東太守・荊州刺史を歴任した。吏に園宅を修繕させた罪により、免官されるべきであったが、詔して(金銭で)償わせた。豫州刺史に遷り、建威将軍を加えられ、詔を受けて呉を討伐した。王戎は参軍の羅尚と劉喬に前鋒を領させ、進んで武昌を攻め、呉将の楊雍と孫述と江夏太守の劉朗はおのおの軍勢を率いて王戎のもとを訪れて降服した。王戎は大軍を督して長江に臨み、呉の牙門将の孟泰は蘄春と邾の二県をもって降服した。呉が平定されると、爵位を安豊県侯に進め、邑六千戸を増やし、絹六千匹を賜わった。
王戎が長江を渡ると、新たに(西晋に)臣従したものを慰撫し、威恵を広めて打ち立てた。呉の光禄勲の石偉は方正であり、孫晧の朝廷に仕えることを潔しとせず、病気と称して(官職を離れ)家に帰っていた。王戎はその清節を高く評価し、上表して彼を推薦した。詔して石偉に拝して議郎とし、二千石の秩禄を終身で与えた。荊州の地は歓迎し感服した。(王戎は)徴召されて侍中となった。南郡太守の劉肇は王戎に筒中細布の五十端を賄賂として贈り、司隷校尉に糾弾されたが、(王戎は)知っておりまだ受けとっておらず、刑罰を免れることができ、議者らはこの処置を怪しんだ。武帝は朝臣に、「王戎の行いは、私心を抱いて貪り得たものであっただろうか。ただ不実を避けようとするはずだ」と言った。武帝はこの発言により(王戎を)見逃したが、しかし潔癖で慎み深いものに批難され、これにより名声を損なった。
王戎は官職にあって特別な能力はなかったが、しかし事績は及第点であった。のちに光禄勲・吏部尚書に遷り、母の死により官職を去った。性格は至孝であるが、礼の規定に拘らず、酒を飲み肉を食い、あるひとは(王戎が)博弈や囲碁をするのを見たが、しかし容貌は憔悴しきっており、杖があってようやく立てた。裴頠は赴いてかれを弔ったが、人に、「ひとたび慟哭させれば人(王戎)を傷つけてしまうだろう。濬沖(王戎)は生命を消耗させた譏りを免れないのだ」と言った。このとき和嶠もまた父の喪に服しており、礼の規定を忠実に守り、米を計って食べたが、悲しんで健康を損なうさまは王戎ほどではなかった。武帝は劉毅に、「和嶠が悲しみ健康を損なうさまは礼の規定を過ごし、人々の心配を誘う」と言った。劉毅は、「和嶠は草で編んだ布団に寝て粥を食べていますが、これは生孝に過ぎません。王戎に至っては、いわゆる死孝です。陛下は先に王戎を気遣うべきです」と言った。王戎は以前から嘔吐の病があり、喪に服してますます悪化した。武帝は医者を派遣して治療し、あわせて薬品を賜り、また賓客を絶たせた。
楊駿が執政すると、(王戎は)太子太傅を拝した。楊駿が誅殺された後、東安公繇(司馬繇)は刑罰と恩賞を専断し、威勢が内外を震わせた。王戎は司馬繇を戒めて、「重大なことの直後ですから、慎重に威権を遠ざけるべきです」と言った。司馬繇は従わず、果たして罪を得た。中書令に転じ、光禄大夫を加えられ、恩信五十人を給わった。尚書左僕射に遷り、吏部(尚書)を領した。
王戎が甲午の制を創設し、すべての(中央官僚の)人材選抜はさきに(地方官として)民を統治させてから、その後に(中央に)登用し官職を授けるものとした。司隷の傅咸は王戎について上奏し、「尚書に『三年で考課し、三回考課をしてから昇進か降格かを決める』とあります。いま内外の群官は、官職に就いて一年も経たずに王戎が(中央への)復帰を上奏し、(地方では)まだ治績の優劣が定まる前から、前任を見送って後任を迎え、道路で送迎をするので、巧妙な不正(取り繕い)が生じ、農業を妨げて政治を害しています。王戎は尭舜の典謨(遺教)に依拠せず、しかし浮華な人物を(地方の官に)駆けめぐらせ、風俗を毀損しています。ただ利得がないだけでなく、大きな損失を生んでいます。そこで王戎の官職を罷免し、風俗を正し回復させて下さい」と言った。王戎は(外戚の)賈氏や郭氏と親しかったので、結局は罰せられなかった。ほどなく司徒に転じた。王政が傾き破れそうであっても、媚を売って取り入り、愍懐太子(司馬遹)が廃位される際も、一言も正して諫めることがなかった。
裴頠は、王戎の壻である。裴頠が誅殺されると、王戎は連坐して免官された。斉王冏(司馬冏)が(趙王倫を討伐する)義兵を起こすと、孫秀は王戎を城内に留めて、趙王倫(司馬倫)の子は王戎を手元におき軍司(軍師)にしようとした。博士の王繇は、「濬沖(王戎)は詐りが多いので、どうして少年に使いこなせましょうか」と言った。こうして中止になった。恵帝が宮殿に還ると、王戎を尚書令とした。(そのころ)河間王顒(司馬顒)は使者を派遣して成都王穎(司馬穎)を説得し、斉王冏(司馬冏)を誅殺しようと持ちかけた。檄文を手に入れると、司馬冏は王戎に、「孫秀が反逆し、天子は逼られて幽閉された。孤(わたし)が義兵を糾合し、元凶を排除した。(私の)臣下や子としての節度は、神明に照らして明らかだ。二王(司馬顒と司馬穎)が讒言を聞いて、大きな難事を構えるに至った。忠臣の謀を頼りにし、仲違いしたものを宥めるべきである。あなたは私のために策謀を練ってくれ」と言った。王戎は、「あなたが最初に義兵を挙げ、(恵帝の復位という)大業を正して定めました。開闢より以来、前例のないほど大きな功績です。しかし論功行賞が、功労のあった者に届かず、朝野は失望し、人々は二心を抱きました。いま二王の武装兵は百万であり、その攻撃力に対抗できません。もし斉王として私邸に帰れば、現状の爵位を失いません。権限をすてて委譲することが、安全を求めるための計略です」と言った。司馬冏の謀臣である葛旟は怒って、「漢魏より以来、王公が(官職を手放して)私邸に帰り、妻子の命を全うできたものがおりましょうか。人々は(王戎を)斬るべきと言っています」と言った。ここにおいて百官は震え恐れ、王戎は薬の発作で厠所に落ちたと偽って、禍いを受けずに済んだ。
王戎は晋帝国がまさに乱れようとしているので、(春秋時代の衛の)蘧伯玉の人となりを慕ったが、(にも拘わらず)時局に沿って進退し、直言をして憚らないほどの節義はなかった。典選(人事の官)であったときから、いまだかつて寒門の士を推薦することも、虚名の持ち主を退けることもなく、ただ時流とともに浮き沈みし、家柄ごとに選抜し一族ごとに抜擢するだけであった。ほどなく司徒を拝し、官位は三公の府を統括したが、しかし属僚に職務を委任した。ひまなとき小さな馬に乗って、通用門から外出し、見る者はかれが三公だとは気づかなかった。故吏は多くが高官となり、街中で遭遇すれば道を譲った。性格は利殖を好み、広く八方から収入をあげ、園田と水車を所有し、天下に遍在していた。財物を積んで金銭を集め、飽くことがなく、つねに自分で牙籌(計算機)を使い、昼夜に計算し、つねに満足しない様子であった。しかも吝嗇であり、みずから生活もおざなりで、天下の人はこれを不治の病だと言った。娘が裴頠に嫁ぎ、数万の銭を貸していたが、長らく返済がなかった。娘が後に安否をたずねて帰省しても、王戎は喜ばず、娘があわてて借金を返すと、その後にようやく喜んだ。従子が結婚するとき、王戎は一着の衣を贈ったが、婚礼が終わると取り上げた。家に美味しい李のなる木があり、いつも出荷してこれを売り、人がたねを手に入れることを恐れ、つねに中心部に穴を開けた。これによって世間から謗りを受けた。
そののち恵帝に従って(司馬穎を鄴に)北伐し、天子の軍が蕩陰で敗北し、王戎もまた鄴に至り、恵帝に従って洛陽に還った。車駕が(長安に)西遷すると、王戎は(朝廷を)出て郟に逃げた。苦難にあって、鋒や刃に脅かされても、談笑して落ち着いて、いちども懼れる様子がなかった。ときに親しい賓客を招いて、一日中歓待をした。永興二(三〇五)年、郟県で薨じた、七十二歳だった、元と諡した。
王戎は人物の鑑識眼があり、かつて山濤を目にして璞玉(あらたま)や渾金(あらがね)(のような素質)であるとし、人々はその資質が宝であることを尊ぶが、その器量を形容できる者はいなかった。王衍は精神のありようが高潔で、玉のごとく美しい樹林のようで、おのずと風塵から表れてくるものだと言った。裴頠を批評して長所を用いることが下手で、荀勖を批評して短所を用いることが上手だと言った。陳道寧が𦃩𦃩と人材を集めるさまは長竿を束ねるようだと言った。族弟の王敦は高い名声があり、王戎は彼を嫌っていた。王敦が王戎に挨拶するとき、いつも病気のせいにして会わなかった。王敦は後に果たして反逆を起こした。かれの鑑識眼と先見の明は以上のようであった。かつて黄公の酒屋を通過したとき、振り返って後続の車の客に、「私はむかし嵇叔夜(嵇康)と阮嗣宗(阮籍)とともにこの店で酒をのんびりと飲み明かし、竹林の遊びで末席に参加した。嵇康と阮籍が亡くなってから、私は現政権に縛り付けられている。今日この酒屋を見ると近くにあるが、(嵇康らとの日々は)遥か遠いことは山河のようだ」と言った。これよりさき、孫秀が琅邪の郡吏であったとき、郷品の決定を求めた。王戎の従弟の王衍はこれを拒否しようとしたが、王戎は孫秀に郷品を与えるように勧めた。孫秀が志を得ると、朝廷の士人で(孫秀に)宿怨のあるものは全員が誅殺されたが、しかし王戎と王衍のみは危害が及ばなかった。
子の王万は、美名があった。若くして肥満し、王戎が糠を食わせたがますます太った。十九歳で亡くなった。庶子に王興がいたが、王戎は一族の数に入れなかった。従弟の陽平太守の王愔の子を継嗣とした。

(王戎)從弟衍 衍弟澄 郭舒

原文

衍字夷甫、神情明秀、風姿詳雅。總角嘗造山濤、濤嗟歎良久。既去、目而送之曰、「何物老嫗、生寧馨兒。然誤天下蒼生者、未必非此人也」。父乂、為平北將軍、常有公事、使行人列上、不時報。衍年十四、時在京師、造僕射羊祜、申陳事狀、辭甚清辯。祜名德貴重、而衍幼年無屈下之色、眾咸異之。楊駿欲以女妻焉。衍恥之、遂陽狂自免。武帝聞其名、問戎曰、「夷甫當世誰比」。戎曰、「未見其比、當從古人中求之」。
泰始八年、詔舉奇才可以安邊者、衍初好論從橫之術、故尚書盧欽舉為遼東太守。不就、於是口不論世事、唯雅詠玄虛而已。嘗因宴集、為族人所怒、舉樏擲其面。衍初無言、引王導共載而去。然心不能平、在車中攬鏡自照、謂導曰、「爾看吾目光、乃在牛背上矣」。父卒於北平、送故甚厚、為親識之所借貸、因以捨之。數年之間、家資罄盡、出就洛城西田園而居焉。後為太子舍人、遷尚書郎。出補元城令、終日清談、而縣務亦理。入為中庶子・黃門侍郎。
魏正始中、何晏・王弼等祖述老莊、立論以為、「天地萬物皆以無為本。無也者、開物成務、無往不存者也。陰陽恃以化生、萬物恃以成形、賢者恃以成德、不肖恃以免身。故無之為用、無爵而貴矣」。衍甚重之。惟裴頠以為非、著論以譏之、而衍處之自若。衍既有盛才美貌、明悟若神、常自比子貢。兼聲名藉甚、傾動當世。妙善玄言、唯談老莊為事。每捉玉柄麈尾、與手同色。義理有所不安、隨即改更、世號「口中雌黃」。朝野翕然、謂之「一世龍門」矣。累居顯職、後進之士、莫不景慕放效。選舉登朝、皆以為稱首。矜高浮誕、遂成風俗焉。衍嘗喪幼子、山簡弔之。衍悲不自勝、簡曰、「孩抱中物、何至於此」。衍曰、「聖人忘情、最下不及於情。然則情之所鍾、正在我輩」。簡服其言、更為之慟。
衍妻郭氏、賈后之親、藉中宮之勢、剛愎貪戾、聚斂無厭、好干預人事、衍患之而不能禁。時有鄉人幽州刺史李陽、京師大俠也、郭氏素憚之。衍謂郭曰、「非但我言卿不可、李陽亦謂不可」。郭氏為之小損。衍疾郭之貪鄙、故口未嘗言錢。郭欲試之、令婢以錢繞牀、使不得行。衍晨起見錢、謂婢曰、「舉阿堵物却」。其措意如此。
後歷北軍中候・中領軍・尚書令。女為愍懷太子妃、太子為賈后所誣、衍懼禍、自表離婚。賈后既廢、有司奏衍、曰、「衍與司徒梁王肜書、寫呈皇太子手與妃及衍書、陳見誣之狀。肜等伏讀、辭旨懇惻。衍備位大臣、應以義責也。太子被誣得罪、衍不能守死善道、即求離婚。得太子手書、隱蔽不出。志在苟免、無忠蹇之操。宜加顯責、以厲臣節。可禁錮終身」。從之。
衍素輕趙王倫之為人。及倫篡位、衍陽狂斫婢以自免。及倫誅、拜河南尹、轉尚書、又為中書令。時齊王冏有匡復之功、而專權自恣、公卿皆為之拜、衍獨長揖焉。以病去官。成都王穎以衍為中軍師、累遷尚書僕射、領吏部、後拜尚書令・司空・司徒。衍雖居宰輔之重、不以經國為念、而思自全之計。說東海王越曰、「中國已亂、當賴方伯、宜得文武兼資以任之」。乃以弟澄為荊州、族弟敦為青州。因謂澄・敦曰、「荊州有江漢之固、青州有負海之險、卿二人在外、而吾留此、足以為三窟矣」。識者鄙之。
及石勒・王彌寇京師、以衍都督征討諸軍事・持節・假黃鉞以距之。衍使前將軍曹武・左衞將軍1.王景等擊賊、退之、獲其輜重。遷太尉、尚書令如故。封武陵侯、辭封不受。時洛陽危逼、多欲遷都以避其難、而衍獨賣車牛以安眾心。
越之討苟晞也、衍以太尉為太傅軍司。及越薨、眾共推為元帥。衍以賊寇鋒起、懼不敢當。辭曰、「吾少無宦情、隨牒推移、遂至於此。今日之事、安可以非才處之」。俄而舉軍為石勒所破、勒呼王公、與之相見、問衍以晉故。衍為陳禍敗之由、云計不在己。勒甚悅之、與語移日。衍自說少不豫事、欲求自免、因勸勒稱尊號。勒怒曰、「君名蓋四海、身居重任、少壯登朝、至於白首、何得言不豫世事邪。破壞天下、正是君罪」。使左右扶出。謂其黨孔萇曰、「吾行天下多矣、未嘗見如此人、當可活不」。萇曰、「彼晉之三公、必不為我盡力、又何足貴乎」。勒曰、「要不可加以鋒刃也」。使人夜排牆填殺之。衍將死、顧而言曰、「嗚呼。吾曹雖不如古人、向若不祖尚浮虛、勠力以匡天下、猶可不至今日」。時年五十六。
衍儁秀有令望、希心玄遠、未嘗語利。王敦過江、常稱之曰、「夷甫處眾中、如珠玉在瓦石間」。顧愷之作畫贊、亦稱衍巖巖清峙、壁立千仞。其為人所尚如此。
子玄、字眉子、少慕簡曠、亦有俊才、與衞玠齊名。荀藩用為陳留太守、屯尉氏。玄素名家、有豪氣、荒弊之時、人情不附、將赴祖逖、為盜所害焉。

1.『資治通鑑』巻八十九は、「王秉」につくるが、唐代の避諱による。

訓読

衍 字は夷甫、神情は明秀にして、風姿 詳雅なり。總角のとき嘗て山濤に造り、濤 嗟歎すること良に久し。既に去るに、目して之を送りて曰く、「何物の老嫗、寧馨の兒を生む。然れども天下の蒼生を誤らしむ者は、未だ必しも此の人に非ざるか」と。父の乂、平北將軍と為り、常(かつ)て公事に有りて、行人をして列上せしめ、時に報あらず。衍 年十四のとき、時に京師に在り、僕射の羊祜に造り、事狀を申陳し、辭は甚だ清辯なり。祜 名德の貴重にして、而れども衍 幼年にして屈下の色無く、眾 咸 之を異とす。楊駿 女を以て焉に妻さんと欲す。衍 之を恥ぢ、遂に陽狂して自ら免る。武帝 其の名を聞き、戎に問ひて曰く、「夷甫 當世の誰にか比せん」と。戎曰く、「未だ其の比を見ず、當に古人の中より之を求むべし」と。
泰始八年に、詔して奇才の以て邊を安んずる可き者を舉げしめ、衍 初め從橫の術を論ずるを好み、故に尚書の盧欽 舉げて遼東太守と為す。就かず、是に於て口に世事を論ぜず、唯だ玄虛を雅詠するのみ。嘗て宴集に因り、族人の怒る所と為り、樏を舉げて其の面を擲つ。衍 初め言無く、王導を引きて共に載りて去る。然れども心は平なる能はず、車中に在りて鏡を攬て自ら照らし、導に謂ひて曰く、「爾 吾が目光を看よ、乃ち牛背の上に在り」と。父 北平に卒し、送故すること甚だ厚く、親識の借貸する所と為り、因りて以て之を捨つ。數年の間に、家資 罄盡し、出でて洛城の西の田園に就きて焉に居す。後に太子舍人と為り、尚書郎に遷る。出でて元城令に補せられ、終日に清談し、而して縣務も亦た理(をさ)まる。入りて中庶子・黃門侍郎と為る。
魏の正始中に、何晏・王弼ら老莊を祖述し、論を立てて以為へらく、「天地萬物 皆 無を以て本と為す。無なる者は、物を開き務を成し、往きて存せざる者は無きなり。陰陽は以て生を化すに恃(よ)り、萬物は以て形を成すに恃り、賢者は以て德を成すに恃り、不肖は以て身を免かるに恃る。故に無の用を為すは、爵無くして貴し」と。衍 甚だ之を重んず。惟だ裴頠 以て非と為し、論を著はして以て之を譏り、而して衍 之に處りて自若たり。衍 既に盛才美貌有り、明悟たること神が若く、常に自ら子貢に比す。兼せて聲名 藉甚なりて、當世を傾動す。妙に玄言を善くし、唯だ老莊を談ずるを事と為す。每に玉柄の麈尾を捉(と)り、手と色を同じくす。義理に安ぜざる所有れば、隨ひて即ち改更し、世に「口中の雌黃」と號す。朝野 翕然し、之を「一世の龍門」と謂ふ。累りに顯職に居り、後進の士、景慕し放效せざる莫し。選舉して朝に登るに、皆 以て稱首と為す。矜高浮誕にして、遂に風俗を成す。衍 嘗て幼子を喪ひ、山簡 之を弔す。衍 悲しみて自ら勝へず、簡曰く、「孩抱中の物なり、何ぞ此に至る」と。衍曰く、「聖人 情を忘れ、最下は情に及ばず。然らば則ち情の鍾(あつ)まる所、正に我が輩に在り」と。簡 其の言に服し、更めて之の為に慟す。
衍の妻の郭氏、賈后の親にして、中宮の勢を藉り、剛愎にして貪戾なり、聚斂して厭く無く、人事に干預するを好み、衍 之を患ふとも禁ずる能はず。時に鄉人たる幽州刺史の李陽有り、京師の大俠なり、郭氏 素より之を憚る。衍 郭に謂ひて曰く、「但だ我のみ卿を不可と言ふのみに非ず、李陽も亦た不可なりと謂ふ」と。郭氏 之の為に小損す。衍 郭の貪鄙を疾とし、故に口に未だ嘗て錢を言はず。郭 之を試さんと欲し、婢をして錢を以て牀を繞はしめ、行くを得ざらしむ。衍 晨に起きて錢を見て、婢に謂ひて曰く、「阿堵の物を舉げて却(しりぞ)けよ」と。其の意を措くこと此の如し。
後に北軍中候・中領軍・尚書令を歷す。女 愍懷太子の妃と為り、太子 賈后の誣ふる所と為り、衍 禍を懼れ、自ら離婚を表す。賈后 既に廢せられ、有司 衍を奏して、曰く、「衍 司徒の梁王肜に書を與へ、皇太子の手の妃及び衍に與ふる書を寫呈し、誣ひらるの狀を陳ぶ。肜ら伏して讀むに、辭旨は懇惻なり。衍 位を大臣に備へ、應に義を以て責むべきなり。太子 誣せられて罪を得て、衍 善道を守死すること能はず、即ち離婚を求む。太子の手書を得るに、隱蔽して出ださず。志は苟免に在り、忠蹇の操無し。宜しく顯責を加へ、以て臣節を厲すべし。禁錮すること終身なる可し」と。之に從ふ。
衍 素より趙王倫の為人を輕んず。倫 篡位するに及び、衍 陽狂して婢を斫りて以て自ら免かる。倫 誅せらるに及び、河南尹を拜し、尚書に轉じ、又 中書令と為る。時に齊王冏 匡復の功有り、而れども專權して自恣し、公卿 皆 之の為に拜するに、衍 獨り長揖するのみ。病を以て官を去る。成都王穎 衍を以て中軍師と為し、累りに尚書僕射に遷り、吏部を領し、後に尚書令・司空・司徒を拜す。衍 宰輔の重に居ると雖も、經國を以て念と為さず、而して自全の計を思ふ。東海王越に說きて曰く、「中國 已に亂れ、當に方伯を賴るべし。宜しく文武の兼資を得て以て之を任ずべし」と。乃ち弟の澄を以て荊州と為し、族弟の敦もて青州と為す。因りて澄・敦に謂ひて曰く、「荊州は江漢の固有り、青州は負海の險有り。卿二人 外に在り、而して吾 此に留まれば、以て三窟を為すに足る」と。識者 之を鄙とす。
石勒・王彌 京師を寇するに及び、衍 都督征討諸軍事・持節・假黃鉞を以て以て之を距む。衍 前將軍の曹武・左衞將軍の王景らをして賊を擊たしめ、之を退け、其の輜重を獲たり。太尉に遷り、尚書令たること故の如し。武陵侯に封ぜられ、封を辭して受けず。時に洛陽 危逼し、多く遷都して以て其の難を避けんと欲し、而れども衍は獨り車牛を賣りて以て眾心を安んず。
越の苟晞を討つや、衍 太尉を以て太傅軍司と為る。越 薨ずるに及び、眾 共に推して元帥と為す。衍 賊寇の鋒起するを以て、懼れて敢て當たらず。辭して曰く、「吾 少きより宦情無く、牒に隨ひて推移し、遂に此に至る。今日の事、安んぞ非才を以て之に處す可きか」と。俄かにして軍を舉げて石勒の破る所と為る。勒 王公と呼び、之と與に相 見え、衍に晉の故を以て問ふ。衍 為に禍敗の由を陳べ、計は己に在らずと云ふ。勒 甚だ之を悅び、與に語りて日を移す。衍 自ら說くに少しだに事に豫らず、求めて自ら免れんと欲し、因りて勒に尊號を稱するを勸む。勒 怒りて曰く、「君 名は四海を蓋ひ、身は重任に居り、少壯にして登朝し、白首に至る。何ぞ得て世事に豫らずと言ふか。天下を破壞するは、正に是れ君の罪なり」と。左右をして扶け出でしむ。其の黨の孔萇に謂ひて曰く、「吾 天下に行くこと多く、未だ嘗て此の如き人を見ず、當に活かす可きや不や」と。萇曰く、「彼 晉の三公なり。必ず我の為に力を盡さず、又 何ぞ貴ぶに足るや」と。勒曰く、「要す加ふるに鋒刃を以てす可からず」と。人をして夜に牆を排して之を填殺せしむ。衍 將に死せんすとするや、顧みて言ひて曰く、「嗚呼。吾曹 古人に如かずと雖も、向若し浮虛を祖尚せずんば、力を勠はせて以て天下を匡し、猶ほ今日に至る可からざるを」と。時に年は五十六なり。
衍 儁秀にして令望有り、心を玄遠に希ひ、未だ嘗て利を語らず。王敦 江を過ぎ、常に之を稱して曰く、「夷甫 眾中に處り、珠玉の瓦石の間に在るが如し」。顧愷之 畫贊を作り、亦た衍の巖巖として清く峙ち、壁立千仞と稱す。其の為人 尚ぶ所此の如し。 子の玄、字は眉子、少くして簡曠を慕はれ、亦た俊才有り、衞玠と與に名を齊しくす。荀藩 用て陳留太守と為し、尉氏に屯す。玄 素より名家にして、豪氣有り、荒弊の時、人情 附かず、將に祖逖に赴かんとし、盜の害する所と為る。

現代語訳

王衍は字を夷甫といい、心持ちは明るく優れ、風采は落ち着いて雅やかであった。総角(少年)のとき山濤を訪問すると、山濤はしきりに感嘆した。帰るときに、目配せして、「あのばあさんが、このような麒麟児を生んだ。しかし天下の万民を誤らせるのは、必ずしもこの子でないことがあろうか」と言った。父の王乂は、平北将軍となり、あるとき公的な用件で、使者に報告に行かせたが、連絡が途絶えた。王衍は十四歳で、このとき京師にいた。僕射の羊祜を訪問し、事情を説明したが、言葉は清らかで明晰であった。羊祜は名徳の要人であったが、王衍は少年ながら卑屈な様子がなく、人々はすごいと評価した。楊駿は娘を娶せようとした。王衍はこれを恥じ、狂ったふりをして免れた。武帝はその名を聞き、王戎に、「夷甫(王衍)は現代の誰に匹敵するか」と聞いた。王戎は、「匹敵する人物はおりません、いにしえの人物から探すべきです」と言った。
泰始八(二七二)年、(武帝が)詔して優れた才能の持ち主で辺境を安定させられるものを推挙させた。王衍は縦横の術を論ずることを好んだため、尚書の盧欽は王衍を遼東太守に推薦した。着任せず、このことがあってから時事を論じることをやめ、ただ玄虚(老荘思想)を日常的に嘯くだけになった。あるとき酒宴の席で、一族の機嫌を損ね、樏(はち)を持ち上げて顔面を叩かれた。王衍は言い返さず、王導を連れて退席した。しかし心は収まらず、(牛車の)車中で鏡を見て、王導に、「きみはわが目の光を見よ、(視線はまっすぐ)牛の背の上にある」と言った。父が北平で亡くなると、とても手厚く葬送し、親しいものと貸し借りがあったが、これを放棄した。数年のあいだに、家財を蕩尽し、洛城外の西の田園で暮らした。のちに太子舎人となり、尚書郎に遷った。出て元城令に任命され、一日じゅう清談をしたが、県の仕事は滞らなかった。入って中庶子・黄門侍郎となった。
魏の正始年間に、何晏や王弼らが老子や荘子を祖述し、論を立てて言うには、「天地万物は、すべて無を根本とする。無は、あらゆる物を生み出して事を成し遂げさせるが、去って存在しない。陰陽は変化と発生に依り、賢者は徳をなすことに依り、不肖なものは身を免れることに依る。ゆえに無の効用は、地位はないが尊いのである」と言った。王衍はこれを重んじた。裴頠がこれを批判し、論を表して反論したが、王衍は自論を変えずに平然としていた。王衍は盛んな才能と美しい容姿があり、明晰な頭脳は神がかって、いつも自分を子貢(孔子の弟子)に準えた。しかも名声の評判が高く、当時の世論を傾け動かした。たくみに玄学の言説を操り、ただ老荘の論議だけをした。いつも玉柄の麈尾(ほっす)を手に持ち、手の延長のようであった。意味や筋道が通らないところがあれば、すぐに改変したので、世間では「口中の雌黄(言説を頻繁に変える人)」と言った。朝野の人々は寄り集まり、これを「一世の龍門」と言った。しきりに高官を歴任し、後進の士は、敬慕して模倣しないものはいなかった。選任され朝廷の官に上ると、いつも筆頭と称された。誇り高く浮薄で大げさで、その風潮が流行となった。王衍はかつて幼子を失い、山簡が弔問した。王衍は悲しみに堪えきれず、山簡は、「おくるみから出る前の子だった、どうしてそれほど悲しむのか」と言った。王衍は、「聖人は情を忘れ、愚民は情に及ばない。ならば情の集まるのは、まさに(聖人と愚民の間の)私のような者だ」と言った。山簡はその言葉に感服し、改めてその幼子のために慟哭した。
王衍の妻の郭氏は、賈皇后の親類であった。中宮の権勢をかさに、頑固で強欲であり、蓄財に際限がなく、他人の事に干渉することを好んだ。王衍はこれを不快に思ったが制止できなかった。このとき同郷人の幽州刺史の李陽がおり、京師の大侠で、郭氏はかれのことを憚っていた。王衍は郭氏に、「ただ私だけがお前のやり方が良くないと言うのではない、李陽もまた良くないと言っている」と言った。郭氏は少し慎むようになった。王衍は郭氏が強欲で卑しいことを気に病み、一度も銭と(いう語を)口にしなかった。郭氏はかれを試そうと、婢に命じて銭で寝台を囲わせ、出られなくした。王衍が朝に起きて銭を見て、婢に、「囲いを撤去せよ」と言った。銭への嫌悪感はこのようであった。
のちに北軍中候・中領軍・尚書令を歴任した。娘が愍懐太子(司馬遹)の妃となった。太子が賈皇后に陥れられると、王衍は禍いを懼れ、自分から(娘を)離婚させますと上表した。賈皇后が廃位されると、担当官は王衍について上奏し、「王衍は司徒の梁王肜(司馬肜)に書簡を送り、皇太子が直筆で太子妃及び王衍に送った文書を写して提出し、誣告の事実を報告しました。司馬肜らが伏して読みますと、(太子の文書の)内容は至誠でした。王衍は大臣の位におりましたから、義に基づいて責任追及すべきです。太子が誣告され罪を着せられたにも拘わらず、王衍は善道を死守できず、(反対に)離婚したいと言いました。太子の直筆の弁明を受け取っていたのに、隠蔽して出しませんでした。保身しか考えておらず、忠直の操がありません。公然と叱責し、臣下の節度を明らかにするべきです。終身に禁錮となさいませ」と言った。これに従った。
王衍は普段から趙王倫(司馬倫)の人となりを軽んじていた。司馬倫が皇位簒奪すると、王衍は狂ったふりをして婢を斬って禍いを回避した。司馬倫が誅殺されると、河南尹を拝し、尚書に転じ、また中書令となった。このとき斉王冏(司馬冏)には恵帝を復位させた功績があったが、専権して自儘であり、公卿は全員が司馬冏に拝伏したが、王衍は長揖するだけだった。病気により官職を去った。成都王穎(司馬穎)が王衍を中軍師とした。しきりに尚書僕射に遷り、吏部を領し、のちに尚書令・司空・司徒を拝した。王衍は宰相の重任にあったが、国家運営を目指さず、自己保身に心を砕いた。東海王越(司馬越)に、「中国が乱れたため、方伯(地方長官)を頼るべきです。文武の資質を兼ね備えた人物を任命すべきです」と言った。そこで弟の王澄を荊州(長官)とし、族弟の王敦を青州(長官)とした。このとき王澄と王敦に、「荊州は長江と漢水があって強固で、青州は海を背にした要地である。お前たち二人は外におり、私が朝廷に留まれば、三窟(三つの隠れ穴)とするに十分だ」と言った。識者は(王氏を)見下した。
石勒と王弥が京師を侵略すると、王衍は都督征討諸軍事・持節・仮黄鉞として防戦をした。王衍は前将軍の曹武と左衛将軍の王景らに賊を攻撃させた。賊を退け、輜重を獲得した。太尉に遷り、尚書令は従来どおりであった。武陵侯に封建されたが、辞退して受けなかった。このとき洛陽は危機に脅かされ、多くの人々が遷都して難を避けようとしたが、王衍だけは車と牛を売り払って世情を安定させた。
司馬越が苟晞を討伐すると、王衍は太尉として太傅軍司となった。司馬越が薨去すると、人々はともに(王衍を)元帥に担ぎあげた。寇賊が蜂起しているため、王衍は懼れて引き受けなかった。辞退して、「私は若いときから官僚になるつもりがなく、任命状に翻弄されて、現在の地位となった。今日の事態は、非才なものに対処できようか」と言った。直後に軍を挙げたが石勒に敗れた。石勒は王公と呼び、かれと会見し、王衍に晋の事情をたずねた。王衍は禍いと敗北の理由を述べ、私の立てた計略ではないと言った。石勒は面白がり、終日にわたり語り合った。王衍は自分が少しも関与していないと言い、命を助かろうとし、石勒に尊号を称しなさいと勧めた。石勒は怒って、「あなたは名望が四海をおおい、重要な役職にある身で、若いころから朝廷に登り、老人になった。どうして当世のことが無関係と言えるのか。天下を破壊したのは、あなた自身の罪だ」と言った。左右のものに(王衍を)抱えて退席させた。石勒は配下の孔萇に、「私は天下でいろいろな経験をしたが、かれのような(無責任な)人物を見たことがない、生かしておくべきであろうか」と言った。孔萇は、「かれは晋の三公です。われら(石勒軍)のために尽力しないでしょう、どうして尊重する価値がありましょうか」と言った。石勒は、「鋒刃で直接殺してはならない」と言った。夜に垣根をくずさせて塞いで(餓死をさせて)殺した。王衍は死の直前に、顧みて、「ああ。わたしは古人に敵わないにせよ、もしも浮薄や虚無に熱中しなければ、力を結集して天下を正し、今日のようにはならなかったのに」と言った。このとき五十六歳だった。
王衍は俊才で名望があり、玄遠を好み、利得を語ることがなかった。王敦が長江を渡ってから、つねに王衍を称賛し、「夷甫が群衆のなかにいると、珠玉が瓦石のなかにあるようだった」と言った。顧愷之が画賛をつくり、さらに王衍は高く険しく清らかにそびえ、千仞の切り立った壁のようだと称えた。その人となりはこのように慕われた。
子の王玄は、字を眉子といい、若いときから質素で拘らないところを慕われ、優秀な才能があり、衛玠と名声を等しくした。荀藩が王玄を陳留太守とし、尉氏に駐屯した。王玄は名家の出身で、豪気であったが、荒廃し疲弊した時代にあり、民の支持を得られず、祖逖のところに行こうとして、盗賊に殺害された。

原文

澄字平子。生而警悟、雖未能言、見人舉動、便識其意。衍妻郭性貪鄙、欲令婢路上擔糞。澄年十四、諫郭以為不可。郭大怒、謂澄曰、「昔夫人臨終、以小郎屬新婦、不以新婦屬小郎」。因捉其衣裾、將杖之。澄爭得脫、踰窗而走。
衍有重名於世、時人許以人倫之鑒、尤重澄及王敦・庾敳。嘗為天下人士目曰、「阿平第一、子嵩第二、處仲第三」。澄嘗謂衍曰、「兄形似道、而神鋒太儁」。衍曰、「誠不如卿落落穆穆然也」。澄由是顯名。有經澄所題目者、衍不復有言、輒云「已經平子矣」。
少歷顯位、累遷成都王穎從事中郎。穎嬖豎孟玖譖殺陸機兄弟、天下切齒。澄發玖私姦、勸穎殺玖、穎乃誅之、士庶莫不稱善。及穎敗、東海王越請為司空長史。以迎大駕勳、封南鄉侯。遷建威將軍・雍州刺史、不之職。時王敦・謝鯤・庾敳・阮修皆為衍所親善、號為四友、而亦與澄狎、又有光逸・胡毋輔之等亦豫焉。酣讌縱誕、窮歡極娛。
惠帝末、衍白越以澄為荊州刺史・持節・都督、領南蠻校尉、敦為青州。衍因問以方略、敦曰、「當臨事制變、不可豫論」。澄辭義鋒出、算略無方、一坐嗟服。澄將之鎮、送者傾朝。澄見樹上鵲巢、便脫衣上樹、探𪆪而弄之、神氣蕭然、傍若無人。劉琨謂澄曰、「卿形雖散朗、而內實動俠、以此處世、難得其死」。澄默然不答。
澄既至鎮、日夜縱酒、不親庶事、雖寇戎急務、亦不以在懷。擢順陽人郭舒於寒悴之中、以為別駕、委以州府。時京師危逼、澄率眾軍、將赴國難、而飄風折其節柱。會王如寇襄陽、澄前鋒至宜城、遣使詣山簡、為如黨嚴嶷所獲。嶷偽使人從襄陽來而問之曰、「襄陽拔未」。答云、「昨旦破城、已獲山簡」。乃陰緩澄使、令得亡去。澄聞襄陽陷、以為信然、散眾而還。既而恥之、託糧運不贍、委罪長史蔣俊而斬之、竟不能進。
巴蜀流人散在荊湘者、與土人忿爭、遂殺縣令、屯聚樂鄉。澄使成都內史王機討之。賊請降、澄偽許之、既而襲之於寵洲、以其妻子為賞、沈八千餘人於江中。於是益梁流人四五萬家一時俱反、推杜弢為主、南破零桂、東掠武昌、敗王機于巴陵。澄亦無憂懼之意、但與機日夜縱酒、投壺博戲、數十局俱起。殺富人李才、取其家資以賜郭舒。南平太守應詹驟諫、不納。於是上下離心、內外怨叛。澄望實雖損、猶傲然自得。後出軍擊杜弢、次于作塘。山簡參軍王沖叛于豫州、自稱荊州刺史。澄懼、使杜蕤守江陵。澄遷于孱陵、尋奔沓中。郭舒諫曰、「使君臨州、雖無異政、未失眾心。今西收華容向義之兵、足以擒此小醜、奈何自棄」。澄不能從。
初、澄命武陵諸郡同討杜弢、天門太守扈瓌次于益陽。武陵內史武察為其郡夷所害、瓌以孤軍引還。澄怒、以杜曾代瓌。夷袁遂、瓌故吏也、託為瓌報仇、遂舉兵逐曾、自稱平晉將軍。澄使司馬毋丘邈討之、為遂所敗。會元帝徵澄為軍諮祭酒、於是赴召。
時王敦為江州、鎮豫章、澄過詣敦。澄夙有盛名、出於敦右、士庶莫不傾慕之。兼勇力絕人、素為敦所憚、澄猶以舊意侮敦。敦益忿怒、請澄入宿、陰欲殺之。而澄左右有二十人、持鐵馬鞭為衞、澄手嘗捉玉枕以自防、故敦未之得發。後敦賜澄左右酒、皆醉、借玉枕觀之。因下牀而謂澄曰、「何與杜弢通信」。澄曰、「事自可驗」。敦欲入內、澄手引敦衣、至于絕帶。乃登于梁、因罵敦曰、「行事如此、殃將及焉」。敦令力士路戎搤殺之、時年四十四、載尸還其家。劉琨聞澄之死、歎曰、「澄自取之」。及敦平、澄故吏佐著作郎桓稚上表理澄、請加贈諡。詔復澄本官、諡曰憲。長子詹、早卒。次子徽、右軍司馬。

訓読

澄 字は平子なり。生まれて警悟たりて、未だ能く言はざると雖も、人の舉動を見て、便ち其の意を識る。衍の妻の郭 性は貪鄙にして、婢をして路上に糞を擔はしめんと欲す。澄は年十四にして、郭を諫めて以て不可と為す。郭 大いに怒り、澄に謂ひて曰く、「昔 夫人 臨終するに、小郎を以て新婦に屬せしむるも、新婦を以て小郎に屬せしめず」と。因りて其の衣裾を捉りて、將に之を杖せんとす。澄 爭ひて脫するを得、窗を踰えて走る〔一〕。
衍 世に重名有り、時人 許すに人倫の鑒を以てし、尤も澄及び王敦・庾敳を重んず。嘗て天下の人士の目を為りて曰く、「阿平は第一、子嵩は第二、處仲は第三なり」と。澄 嘗て衍に謂ひて曰く、「兄 形は道に似て、而して神鋒は太儁なり」と。衍曰く、「誠に卿の落落穆穆然たるに如かざるなり」と。澄 是に由り名を顯はす。澄が題目する所を經る者有り、衍 復た言有らざるに、輒ち「已に平子を經たり」と云ふ〔二〕。
少くして顯位を歷し、累りに成都王穎の從事中郎に遷る。穎の嬖豎たる孟玖 譖りて陸機の兄弟を殺し、天下 切齒す。澄 玖の私姦を發し、穎に玖を殺すことを勸め、穎 乃ち之を誅し、士庶 稱善せざる莫し。穎 敗るるに及び、東海王越 請ひて司空長史と為す。大駕を迎ふるの勳を以て、南鄉侯に封ぜらる。建威將軍・雍州刺史に遷るも、職に之かず。時に王敦・謝鯤・庾敳・阮修 皆 衍の親善する所と為り、號して四友と為し、而も亦た澄と與に狎し、又 光逸・胡毋輔之らも亦た焉に豫る有り。酣讌すること縱誕にして、歡を窮めて娛を極む。
惠帝の末に、衍 越に白して澄を以て荊州刺史・持節・都督、領南蠻校尉と為し、敦もて青州と為す。衍 因りて問ふに方略を以てす。敦曰く、「當に事に臨みて變を制すべし、豫め論ず可からず」と。澄 辭義 鋒出して、算略 無方にして、一坐 嗟服す。澄 將に鎮に之かんとし、送る者 朝を傾く。澄 樹上の鵲巢を見て、便ち衣を脫ぎて樹に上り、𪆪を探して之を弄び、神氣 蕭然として、傍若無人なり。劉琨 澄に謂ひて曰く、「卿 形は散朗と雖も、而れども內實は動俠なり。此の處世を以て、其の死を得難し」と。澄 默然として答へず〔三〕。
澄 既に鎮に至るや、日夜に酒を縱にし、庶事を親らにせず、寇戎は急務なると雖も、亦た以て懷に在らず。順陽の人たる郭舒を寒悴の中より擢し、以て別駕と為し、委ぬるに州府を以てす。時に京師 危逼するや、澄 眾軍を率ゐて、將に國難に赴かんとし、而れども飄風 其の節柱を折る。會々王如 襄陽を寇し、澄の前鋒 宜城に至るとき、使を遣はして山簡に詣らしめ、如の黨たる嚴嶷の獲ふる所と為る。嶷 人をして襄陽より來たると偽らしめ之に問ひて曰く、「襄陽 拔くや未や」と。答へて云はく、「昨旦 城を破り、已に山簡を獲らふ」と。乃ち陰かに澄の使を緩め、得て亡去せしむ。澄 襄陽の陷つるを聞き、以て信に然りと為し、眾を散じて還る。既にして之を恥ぢ、糧運の贍ならざるに託し、罪の長史の蔣俊に委して之を斬り、竟に進む能はず。
巴蜀の流人の荊湘に散在する者は、土人と忿爭し、遂に縣令を殺し、樂鄉に屯聚す。澄 成都內史の王機を使はして之を討たしむ。賊 降らんことを請ひ、澄 偽はりて之を許し、既にして之を寵洲に襲ひ、其の妻子を以て賞と為し、八千餘人を江中に沈む。是に於て益梁の流人の四五萬家 一時に俱に反し、杜弢を推して主と為し、南のかた零桂を破り、東のかた武昌を掠め、王機を巴陵に敗る。澄も亦た憂懼の意無く、但だ機と與に日夜 酒を縱にし、投壺し博戲して、數十局して俱に起つ。富人の李才を殺し、其の家資を取りて以て郭舒に賜ふ。南平太守の應詹 驟々諫むるも、納れず。是に於て上下 離心し、內外 怨叛す。澄 實を望みて損ずと雖も、猶ほ傲然として自得たり。後に軍を出だして杜弢と擊ち、作塘に次る。山簡の參軍の王沖 豫州に叛し、自ら荊州刺史と稱す。澄 懼れ、杜蕤をして江陵を守らしむ。澄 孱陵に遷り、尋いで沓中に奔る。郭舒 諫めて曰く、「使君 州に臨み、異政無しと雖も、未だ眾心を失はず。今 西のかた華容の向義の兵を收むれば、以て此の小醜を擒とするに足る、奈何ぞ自ら棄つるか」と。澄 從ふ能はず。
初め、澄 武陵の諸郡に命じて同に杜弢を討ち、天門太守の扈瓌 益陽に次る。武陵內史の武察 其の郡の夷の害する所と為り、瓌 孤軍を以て引還す。澄 怒り、杜曾を以て瓌に代ふ。夷の袁遂、瓌の故吏にして、瓌の為に報仇するに託し、遂に兵を舉げて曾を逐ひ、自ら平晉將軍を稱す。澄 司馬の毋丘邈をして之を討たしめ、遂の敗る所と為る。會々元帝 澄を徵して軍諮祭酒と為し、是に於て召に赴く。 時に王敦 江州と為り、豫章に鎮し、澄 過りて敦に詣る。澄 夙に盛名有り、敦の右に出で、士庶 之を傾慕せざる莫し。兼せて勇力 人に絕たり。素より敦の憚る所と為り、澄 猶ほ舊意を以て敦を侮る。敦 益々忿怒し、澄に宿に入ることを請ひ、陰かに之を殺さんと欲す。而れども澄の左右に二十人有り、鐵馬鞭を持て衞と為し、澄 手づから嘗(つと)に玉枕を捉りて以て自ら防げば、故に敦 未だ之れを發するを得ず。後に敦 澄の左右に酒を賜はり、皆 醉ひ、玉枕を借りて之を觀る。因りて牀を下りて澄に謂ひて曰く、「何ぞ杜弢と與に通信せざる」と。澄曰く、「事 自ら驗す可し」と。敦 內に入らんと欲し、澄 手づから敦の衣を引き、帶を絕つに至る。乃ち梁に登り、因りて敦を罵りて曰く、「行事 此の如くんば、殃 將に及ばんとす」と。敦 力士の路戎をして之を搤殺せしめ、時に年四十四なり。尸を載せて其の家に還す。劉琨 澄の死するを聞き、歎じて曰く、「澄 自ら之を取れり」と。敦 平らぐに及び、澄の故吏の佐著作郎の桓稚 上表して澄を理め、贈諡を加ふることを請ふ。詔して澄に本官を復し、諡して憲と曰ふ。長子の詹、早くに卒す。次子の徽、右軍司馬なり。

〔一〕『世説新語』規箴篇にみえる逸話。新釈漢文大系『世説新語』中712pを参照した。
〔二〕この文にある、二回の「經」の意味は不明。
〔三〕『世説新語』讒険にみえる逸話。同注引として見える鄧璨『晋紀』が出典。

現代語訳

王澄は字を平子という。生まれつき智恵がよく回り、まだ言葉を話せないときから、人の挙動を見て、その意思を悟った。王衍の妻の郭氏は強欲で賤しく、婢に路上で肥桶を担がせようとした。王澄は十四歳であったが、郭氏を諫めて制止した。郭氏は大いに怒り、王澄に、「むかし夫人(王澄の母)が臨終のとき、小郎(王澄)のことを新婦(私)に託したが、新婦(私)のことを小郎(王澄)に頼みはしなかった」と言った。着物の裾をつかみ、杖で王澄を打とうとした。王澄は力づくで脱出し、窓を越えて逃げた。
王衍は当世に重き名声があり、人材の鑑定家として認められたが、(王衍は)とくに王澄と王敦と庾敳を重んじた。天下の人士を品評して、「阿平(王澄)は第一、子嵩(庾敳)は第二、処仲(王敦)は第三」と言った。王澄はかつて王衍に、「兄は外見は道のようだが、気性はとくに優秀だ」と言った。王衍は、「きみの落落穆穆とした(心が大きくて清い)さまには劣る」と言った。王澄はこれにより名を知られた。王澄が評価したものを経した者がおり、王衍は何も言わなかったが、「すでに平子(王澄)を経した」と言った。
若くして高官を歴任し、しきりに成都王穎(司馬穎)の従事中郎に遷った。司馬穎のお気に入りの内臣である孟玖が陸機の兄弟を譏って殺し、天下は悔しがった。王澄は孟玖の私的な悪事をあばき、司馬穎に孟玖を殺すよう勧めた。司馬穎が孟玖を殺し、士庶で(王澄を)称賛しないものはいなかった。司馬穎が敗退すると、東海王越(司馬越)が(王澄に)要請して司空長史とした。大駕(恵帝)を迎えた勲功により、南郷侯に封建された。建威将軍・雍州刺史に遷ったが、赴任しなかった。このとき王敦・謝鯤・庾敳・阮修はみな王衍の親友で、四友と呼ばれ、しかもまた王澄とも慣れ親しみ、光逸・胡毋輔之らもまた仲間であった。好き放題に宴会をして、歓飲して娯楽を極めた。
恵帝の末期、王衍は司馬越に持ちかけて王澄を荊州刺史・持節・都督、領南蛮校尉とし、王敦を青州(刺史)とした。王衍はこのとき方略を尋ねた。王敦は、「臨機応変にすべきで、事前に論じることはできない」と言った。(王敦とは対照的に)王澄は雄弁に語り、戦略は尽きることがなく、一同は嗟嘆し感服した。王澄が赴任しようとすると、見送る者が多くて朝廷が傾いた。王澄は樹上で鵲の巣を見つけ、衣を脱いで木に登り、孵化した鳥を探して玩び、忙しなくて、自分一人だけのようであった。劉琨は王澄に、「あなたは外見はさっぱりしているが、中身は強固な心の持ち主だ。そのまま世を渡るなら、まともな死に方はできない」と言った。王澄は黙然として答えなかった。
王澄が任地の鎮所に到着すると、日夜に酒を飲みまくり、政務を自分で執らず、盗賊や異民族への対処は急務であったが、気に掛けなかった。順陽の人である郭舒を貧困のなかから抜擢し、別駕に任命し、州府の仕事を委任した。このとき京師に危機が迫ったため、王澄は軍勢を率いて、国難に赴こうとしたが、強風で節の柱が折られた。同じころ王如が(山簡の守る)襄陽を攻撃した。王澄の前鋒が宜城に到着したとき、(王澄は)使者を山簡のもとに向かわせたが、王如の部下の厳嶷に捕らえられた。厳嶷は(王澄の派遣した使者の前で)ある人に襄陽から来たと嘘をつかせ、「襄陽はもう抜かれたか」と質問した。「昨朝に城を破り、すでに山簡を捕らえました」と(偽って)答えさせた。ひそかに王澄の使者の拘束を緩め、逃亡をさせた。王澄は(逃げ還った使者から)襄陽が陥落したと聞かされ、本当のことだと思い込み、軍勢を解散して帰還した。のちにこれを恥じ、補給が安定しなかったと理由をつけ、罪の長史の蔣俊になすりつけて斬り、結局は(山簡の救援に)行けなかった。
巴蜀からの流民で荊州や湘州に散在しているものが、現地の人と紛争を起こし、ついに県令を殺し、樂郷に屯集した。王澄は成都内史の王機を派遣してこれを討伐した。賊が降服を願い出ると、王澄は偽ってこれを認め、降服後にその流民を寵洲で襲い、彼らの妻子を褒賞とし、八千人あまりを長江に沈めた。かくして益州と梁州の流民の四五万家は一斉に反乱し、杜弢を盟主に推戴し、南のかた零桂を破り、東のかた武昌を掠め、(王澄が派遣した)王機を巴陵で破った。それでも王澄は憂い懼れず、日夜ただ王機とともに酒にふけり、投壺をして博弈で遊び、数十局を終えるまで立たなかった。富人の李才を殺し、その家財を没取して(別駕の)郭舒に賜わった。南平太守の應詹がしばしば諫めたが、聞き入れなかった。ここにおいて上下は心が離れ、内外は怨んで叛した。王澄は(州の支配の)充実を望んで却って損ねたが、それでも傲然として自信たっぷりであった。のちに軍を出して杜弢を攻撃し、作塘に駐屯した。山簡の参軍の王沖が豫州で叛し、自ら荊州刺史と称した。王澄は懼れ、杜蕤に江陵を守らせた。王澄は孱陵に遷り、ほどなく沓中に逃れようとした。郭舒が諫めて、「あなたが荊州に着任され、特別な政治はなかったが、まだ人々の支持を失っていません。いま西のかた華容に正義の兵を差し向ければ、かの小醜(王沖)を捕らえることができます、どうして自分から投げ出すのですか」と言った。王澄は従うことができなかった。
これよりさき、王澄は武陵の諸郡に命じて一緒に杜弢を討伐し、天門太守の扈瓌は益陽に駐屯した。武陵内史の武察がその郡の蛮夷に殺害され、扈瓌は軍が孤立して引き返した。王澄は怒り、杜曾を扈瓌に交代させた。蛮夷の袁遂は、扈瓌の故吏であり、扈瓌のために仇を討つことを口実に、兵を挙げて杜曾を追い払い、平晋将軍を自称した。王澄は司馬の毋丘邈にこれを討伐させたが、破られた。このとき元帝が王澄を徴召して軍諮祭酒とし、それに応じて都に向かった。
このとき王敦は江州刺史となり、豫章に鎮しており、王澄は(都への)道中に王敦を訪問した。王澄はかねて名声が盛んで、王敦を上回り、士庶は敬慕しないものがなかった。しかも勇力が人に勝っていた。ずっと王敦から警戒されたが、王澄は従来どおり王敦を侮った。王敦はますます怒り、王澄に宿舎に入ることを求め、暗殺しようとした。ところが王澄の左右には二十人がおり、鉄馬鞭を持って身を守り、王澄はつねに手に玉枕(玉で飾った枕)を持って自分で攻撃を防ぐので、王敦は暗殺を決行できなかった。のちに王敦は王澄の左右に酒を賜わり、みなが酔うと、玉枕を借りてこれを眺めた。寝台を降りて王澄に、「どうして(叛逆者の)杜弢と連絡を取らなかったのか」と言った。王澄は、「事情はおのずと明らかになる」と言った。王敦が(暗殺実行のため)奥に入ろうとすると、王澄は手で王敦の衣を引っぱり、帯が断ち切れた。王澄は梁に登り、王敦を罵って、「このようなことをすれば、禍いがすぐに身に及ぶぞ」と言った。王敦は勇力の士である路戎に王澄をくびり殺させた、このとき四十四歳であった。死体を載せて家に帰した。劉琨は王澄が死んだと聞き、悲歎して、「王澄が自分で招いたことだ」と言った。王敦が平定されると、王澄の故吏である佐著作郎の桓稚が上表して王澄のために弁明し、官位と諡号を贈ることを願った。詔して王澄を旧来の官職に戻し、諡して憲とした。長子の王詹は、早くに亡くなっていた。次子の王徽は、右軍司馬である。

原文

郭舒字稚行。幼請其母從師、歲餘便歸、粗識大義。鄉人少府范晷・宗人武陵太守郭景、咸稱舒當為後來之秀、終成國器。始為領軍校尉、坐擅放司馬彪、繫廷尉、世多義之。刺史夏侯含辟為西曹、轉主簿。含坐事、舒自繫理含、事得釋。刺史1.宗岱命為治中、喪母去職。劉弘牧荊州、引為治中。弘卒、舒率將士推弘子璠為主、討逆賊郭勱、滅之、保全一州。
王澄聞其名、引為別駕。澄終日酣飲、不以眾務在意、舒常切諫之。及天下大亂、又勸澄修德養威、保完州境。澄以為亂自京都起、非復一州所能匡禦、雖不能從、然重其忠亮。荊土士人宗廞嘗因酒忤澄、澄怒、叱左右棒廞。舒厲色謂左右曰、「使君過醉、汝輩何敢妄動」。澄恚曰、「別駕狂邪、誑言我醉」。因遣掐其鼻、灸其眉頭、舒跪而受之。澄意少釋、而廞遂得免。
澄之奔敗也、以舒領南郡。澄又欲將舒東下、舒曰、「舒為萬里紀綱、不能匡正、令使君奔亡、不忍渡江」。乃留屯沌口、採稆湖澤以自給。鄉人盜食舒牛、事覺、來謝。舒曰、「卿飢、所以食牛耳、餘肉可共啖之」。世以此服其弘量。舒少與杜曾厚、曾嘗召之、不往、曾銜之。至是、澄又轉舒為順陽太守、曾密遣兵襲舒、遁逃得免。
王敦召為參軍、轉從事中郎。襄陽都督周訪卒、敦遣舒監襄陽軍。甘卓至、乃還。朝廷徵舒為右丞、敦留不遣。敦謀為逆、舒諫不從、使守武昌。荊州別駕宗澹忌舒才能、數譖之於王廙。廙疑舒與甘卓同謀、密以白敦、敦不受。高官督護繆坦嘗請武昌城西地為營、太守樂凱言於敦曰、「百姓久買此地、種菜自贍、不宜奪之」。敦大怒曰、「王處仲不來江湖、當有武昌地不、而人云是我地邪」。凱懼、不敢言。舒曰、「公聽舒一言」。敦曰、「平子以卿病狂、故掐鼻灸眉頭、舊疢復發邪」。舒曰、「古之狂也直、周昌・汲黯・朱雲不狂也。昔堯立誹謗之木、舜置敢諫之鼓、然後事無枉縱。公為勝堯舜邪。乃逆折舒、使不得言、何與古人相遠」。敦曰、「卿欲何言」。舒曰、「繆坦可謂小人、疑誤視聽、奪人私地、以強陵弱。晏子稱、君曰其可、臣獻其否、以成其可。是以舒等不敢不言」。敦即使還地、眾咸壯之。敦重舒公亮、給賜轉豐、數詣其家。表為梁州刺史。病卒。

1.「宗岱」は、恵帝紀・李特載記では「宋岱」に作る。

訓読

郭舒 字は稚行なり。幼くして其の母に請ひて師に從ふ。歲餘にして便ち歸り、粗々大義を識る。鄉人たる少府の范晷・宗人たる武陵太守の郭景、咸 舒は當に後來の秀と為り、終に國器と成らんと稱す。始め領軍校尉と為り、擅に司馬彪を放つに坐し、廷尉に繫がれ、世は多く之を義とす。刺史の夏侯含 辟して西曹と為し、主簿に轉ず。含 事に坐し、舒 自繫して含を理とし、事 釋つを得たり。刺史の宗岱 命じて治中と為し、母を喪ひて職を去る。劉弘 荊州に牧するに、引きて治中と為す。弘 卒し、舒 將士を率ゐて弘の子の璠を推して主と為し、逆賊の郭勱を討ち、之を滅し、一州を保全す。
王澄 其の名を聞き、引きて別駕と為す。澄 終日に酣飲し、眾務を以て意に在らず、舒 常に之を切諫す。天下 大いに亂るるに及び、又 澄に德を修め威を養ふことを勸め、州境を保完せしむ。澄 以為へらく亂は京都より起こり、復た一州 能く匡禦する所に非ず、能く從はざると雖も、然れども其の忠亮を重んず。荊土の士人の宗廞 嘗て酒に因りて澄に忤ひ、澄 怒り、左右に叱りて廞を棒せしむ。舒 色を厲まして左右に謂ひて曰く、「使君 醉ひを過ごす、汝輩 何ぞ敢て妄りに動くか」と。澄 恚りて曰く、「別駕 狂ふか、我が醉ひを誑言す」と。因りて其の鼻を掐ち、其の眉頭に灸せしむ。舒 跪きて之を受く。澄の意 少しく釋け、而して廞 遂に免るるを得たり。
澄の奔敗するや、舒を以て南郡を領せしむ。澄 又 舒を將ゐて東下せんと欲す。舒曰く、「舒 萬里の紀綱と為り、匡正する能はず。使君をして奔亡せしめ、渡江するに忍びず」と。乃ち留まりて沌口に屯し、稆を湖澤に採りて以て自給す。鄉人 盜みて舒の牛を食らひ、事 覺し、來たりて謝す。舒曰く、「卿 飢うるは、牛を食らふ所以なるのみ。餘肉もて共に之を啖らふ可し」と。世に此を以て其の弘量に服す。舒 少きとき杜曾と厚く、曾 嘗て之を召すに、往かず、曾 之を銜む。是に至り、澄 又 舒を轉じて順陽太守と為し、曾 密かに兵を遣はして舒を襲はしめ、遁逃して免るるを得たり。
王敦 召して參軍と為し、從事中郎に轉ず。襄陽都督の周訪 卒し、敦 舒を遣はして襄陽の軍を監せしむ。甘卓 至るや、乃ち還る。朝廷 舒を徵して右丞と為し、敦 留めて遣はさず。敦 逆を為さんと謀り、舒 諫むれども從はず、武昌を守らしむ。荊州別駕の宗澹 舒の才能を忌み、數々之を王廙に譖る。廙 舒の甘卓と與に謀を同じくするを疑ひ、密かに以て敦に白し、敦 受けず。高官督護の繆坦 嘗て武昌城西の地を營と為さんことを請ふ。太守の樂凱 敦に言ひて曰く、「百姓 久しく此の地を買ひ、菜を種えて自贍す、宜しく之を奪ふべからず」と。敦 大いに怒りて曰く、「王處仲 江湖に來たらずんば、當に武昌の地を有つべきや不や。而れども人 是れ我が地なりと云ふか」と。凱 懼れ、敢て言はず。舒曰く、「公 舒の一言を聽け」と。敦曰く、「平子 卿の病狂を以て、故に鼻を掐ち眉頭に灸し、舊疢 復た發するや」と。舒曰く、「古の狂なるは直なり。周昌・汲黯・朱雲は狂ならず。昔 堯は誹謗の木を立て、舜は敢諫の鼓を置き、然る後に事として枉縱する無し。公 堯舜に勝ると為すか。乃ち逆しまに舒を折し、言ふを得しめず、何ぞ古人より相 遠きか」と。敦曰く、「卿 何をか言はんと欲す」と。舒曰く、「繆坦は小人と謂ふ可し、視聽を疑誤し、人の私地を奪ふは、強を以て弱を陵すなり。晏子 稱す、君 其れ可なりと曰へば、臣 其の否を獻して、以て其の可を成すと〔一〕。是を以て舒ら敢て言はざることあらず」と。敦 即ち地を還さしめ、眾 咸 之を壯とす。敦 舒の公亮なるを重し、給賜は轉た豐なりて、數々其の家に詣る。表して梁州刺史と為す。病もて卒す。

〔一〕『春秋左氏伝』昭公 伝二十年が出典。

現代語訳

郭舒は字を稚行という。幼いとき母に頼んで師について学んだ。一年あまりで帰り、学問の概略を理解していた。同郷である少府の范晷・宗人である武陵太守の郭景は、どちらも郭舒こそ遅咲きの俊才であり、国家級の器量を備えるだろうと称えた。はじめ領軍校尉となり、司馬彪を放任した罪により、廷尉に繫がれ、世の多くの人はこれを義とした。刺史の夏侯含が辟召して西曹とし、主簿に転じた。夏侯含が事案に服すると、郭舒は自分を拘束して夏侯含を弁護し、事案は不問とされた。刺史の宗岱が召命して治中とし、母の死により官職を去った。劉弘が荊州の牧となると、招いて治中とした。劉弘が亡くなると、郭舒は将士を率いて劉弘の子の劉璠を推して盟主とし、逆賊の郭勱を討伐して、これを滅ぼし、一州を保全した。
王澄はその名を聞き、招いて別駕とした。王澄は終日飲んだくれ、職務を意に介さず、郭舒はいつもこれを厳しく諫めた。天下が大いに乱れると、さらに(郭舒は)王澄に徳を修めて威を養うことを勧め、州域を保全させようとした。王澄は、「乱は洛陽から起こり、また一州だけでは防衛ができない」と言い、(郭舒の諫言に)従うことはなかったが、かれの忠信を重んじた。荊土の士人である宗廞はかつて酒に酔って王澄に逆らい、王澄は怒って、左右に命じて宗廞を棒で打たせた。郭舒は顔色を変えて左右に、「使君(王澄)は酔って間違えたのだ、きみたちは軽率に動いてはならない」と言った。王澄は激怒し、「別駕は狂ったか、私が酔って判断力を失ったと決めつけた」と言った。郭舒の鼻を打ち、眉頭に灸をすえた。郭舒は跪いて仕打ちを受けた。王澄の機嫌が少し治り、こうして宗廞は助かった。
王澄が敗走すると、郭舒に南郡を領させた。王澄はさらに郭舒を連れて東に下ろうとした。郭舒は、「私は万里の紀綱(州の別駕)となっても、統治を矯正できませんでした。使君に敗走させておきながら、長江を渡るのは忍びません」と言った。そこで留まって沌口に駐屯し、稆(ひづちばえ)を湖や沢で採って自給した。郷人が郭舒の牛を盗んで食べ、ことが発覚し、謝りに来た。郭舒は、「あなたが飢えたことが、牛を食べた理由である。まだ肉があるから一緒に食べよう」と言った。世間ではかれの度量の広さに感服した。郭舒は若いとき杜曾と仲が良かったが、かつて杜曾が郭舒を召し、郭舒は赴かなかったので、杜曾は敵意を持った。このとき、王澄がまた郭舒を転じて順陽太守とすると、杜曾はひそかに兵を派遣して郭舒を襲わせた。(郭舒は)辛うじて逃れることができた。
王敦が(郭舒を)召して参軍とし、従事中郎に転じた。襄陽都督の周訪が亡くなると、王敦は郭舒を派遣して襄陽の軍を監させた。甘卓が到着すると、(軍を引き継いで)帰還した。朝廷は郭舒を徴召して右丞としたが、王敦が留めて(都に)行かせなかった。王敦は反逆を計画し、郭舒が諫めたが従わず、(郭舒に)武昌を守らせた。荊州別駕の宗澹は郭舒の才能をねたみ、しばしば郭舒の批判を王廙に吹き込んだ。王廙は郭舒が甘卓とともに謀略を練っていることを疑い、ひそかに王敦に伝えたが、王敦は信用しなかった。高官督護の繆坦はかつて武昌の城西の地を軍営を作りたいと申請した。武昌太守の楽凱が王敦に、「民草が長くこの地を所有し、作物を植えて自給してきました、取り上げてはいけません」と言った。王敦は大いに怒って、「この王処仲(王敦)が江湖に来なければ、武昌の地を保てただろうか。そのくせに人々は武昌を自分の土地と言い張るのか」と言った。楽凱は懼れ、これ以上は言わなかった。郭舒は、「公(王敦)は私の一言を聞いて下さい」と言った。王敦は、「平子(王澄)はきみが気狂いなので、鼻を叩いて眉頭に灸をすえた、持病の発作(諫言の癖)がまた起きたのか」と言った。郭舒は、「いにしえの狂人は正しくまっすぐでした。周昌や汲黯や朱雲は狂人ではありません。むかし尭は誹謗の木を立て、舜は敢諫の鼓を置いて(諫言の機会を作り)、ようやく政治に過失がなくなりました。あなたは自分が尭や舜よりも勝るとお思いですか。あべこべに私を挫いて、発言の機会を奪うなど、いにしえの人よりも遥かに劣ります」と言った。王敦は、「では何を言いたいのだ」と言った。郭舒は、「繆坦はつまらぬ人物だと言えます、耳目を疑い誤らせ、他人の土地を奪うのは、強者が弱者を虐げる行為です。晏子は言いました、君主が良しとしたことがあれば、臣下はその欠点を指摘し、その良きことを完成させると。ですから私は敢えて言わずに居られません」と言った。王敦は土地を返却させ、人々はみな(郭舒の発言を)立派とした。王敦は郭舒の公正さを重んじ、賜与は一転して手厚くなり、しばしば家を訪れた。上表して梁州刺史とした。病気で亡くなった。

樂廣

原文

樂廣字彥輔、南陽淯陽人也。父方、參魏征西將軍夏侯玄軍事。廣時年八歲、玄常見廣在路、因呼與語、還謂方曰、「向見廣神姿朗徹、當為名士。卿家雖貧、可令專學、必能興卿門戶也」。方早卒。廣孤貧、僑居山陽、寒素為業、人無知者。性沖約、有遠識、寡嗜慾、與物無競。尤善談論、每以約言析理、以厭人之心、其所不知、默如也。
裴楷嘗引廣共談、自夕申旦、雅相欽挹、歎曰、「我所不如也」。王戎為荊州刺史、聞廣為夏侯玄所賞、乃舉為秀才。楷又薦廣於賈充、遂辟太尉掾、轉太子舍人。尚書令衞瓘、朝之耆舊、逮與魏正始中諸名士談論、見廣而奇之、曰、「自昔諸賢既沒、常恐微言將絕、而今乃復聞斯言於君矣」。命諸子造焉、曰、「此人之水鏡、見之瑩然、若披雲霧而覩青天也」。王衍自言、「與人語甚簡至、及見廣、便覺己之煩」。其為識者所歎美如此。
出補元城令、遷中書侍郎、轉太子中庶子、累遷侍中・河南尹。廣善清言而不長於筆、將讓尹、請潘岳為表。岳曰、「當得君意」。廣乃作二百句語、述己之志。岳因取次比、便成名筆。時人咸云、「若廣不假岳之筆、岳不取廣之旨、無以成斯美也」。
嘗有親客、久闊不復來、廣問其故、答曰、「前在坐、蒙賜酒、方欲飲、見杯中有蛇、意甚惡之、既飲而疾」。于時河南聽事壁上有角、漆畫作蛇、廣意杯中蛇即角影也。復置酒於前處、謂客曰、「酒中復有所見不」。答曰、「所見如初」。廣乃告其所以、客豁然意解、沈痾頓愈。
廣所在為政、無當時功譽、然每去職、遺愛為人所思。凡所論人、必先稱其所長、則所短不言而自見矣。人有過、先盡弘恕、然後善惡自彰矣。廣與王衍俱宅心事外、名重於時。故天下言風流者、謂王・樂為稱首焉。
少與弘農楊準相善。準之二子曰喬曰髦、皆知名於世。準使先詣裴頠、頠性弘方、愛喬有高韵。謂準曰、「喬當及卿、髦少減也」。又使詣廣、廣性清淳、愛髦有神檢。謂準曰、「喬自及卿、然髦亦清出」。準笑曰、「我二兒之優劣、乃裴・樂之優劣也」。論者以為、喬雖有高韵、而神檢不足、樂為得之矣。
是時王澄・胡毋輔之等、皆亦任放為達、或至裸體者。廣聞而笑曰、「名教內自有樂地、何必乃爾」。其居才愛物、動有理中、皆此類也。值世道多虞、朝章紊亂、清己中立、任誠保素而已。時人莫有見其際焉。
先是河南官舍多妖怪、前尹多不敢處正寢、廣居之不疑。嘗外戶自閉、左右皆驚、廣獨自若。顧見牆有孔、使人掘牆、得狸而殺之、其怪亦絕。
愍懷太子之廢也、詔故臣不得辭送、眾官不勝憤歎、皆冒禁拜辭。司隸校尉滿奮敕河南中部收縛拜者送獄、廣即便解遣。眾人代廣危懼。孫琰說賈謐曰、「前以太子罪惡、有斯廢黜、其臣不懼嚴詔、冒罪而送。今若繫之、是彰太子之善、不如釋去」。謐然其言、廣故得不坐。
遷吏部尚書左僕射、後東安王繇當為僕射、轉廣為右僕射、領吏部、代王戎為尚書令。始戎薦廣、而終踐其位、時人美之。
成都王穎、廣之壻也、及與長沙王乂遘難、而廣既處朝望、羣小讒謗之。乂以問廣、廣神色不變、徐答曰、「廣豈以五男易一女」。乂猶以為疑、廣竟以憂卒。荀藩聞廣之不免也、為之流涕。三子、凱・肇・謨。
凱字弘緒、大司馬齊王掾、參驃騎軍事。肇字弘茂、太傅東海王掾。洛陽陷、兄弟相攜南渡江。謨字弘範、征虜將軍・吳郡內史。

訓読

樂廣 字は彥輔、南陽淯陽の人なり。父の方は、魏の征西將軍の夏侯玄が軍事に參ず。廣 時に年八歲にして、玄 常に廣を路に在るに見て、因りて呼びて與に語り、還りて方に謂ひて曰く、「向に廣の神姿 朗徹なるを見る。當に名士為るべし。卿が家 貧と雖も、專ら學ばしむ可し。必ず能く卿が門戶を興すなり」と。方 早く卒す。廣 孤貧にして、僑して山陽に居し、寒素もて業を為し、人 知る者無し。性は沖約にして、遠識有り、嗜慾寡なく、物と競ふ無し。尤も談論を善くし、每に約言を以て析理し、以て人の心を厭し、其の知らざる所は、默如たり。
裴楷 嘗て廣を引きて共に談じ、夕より旦に申(いた)るまで、雅より相 欽挹し、歎じて曰く、「我 如かざる所なり」と。王戎 荊州刺史と為るや、廣 夏侯玄の賞する所と為るを聞き、乃ち舉げて秀才と為す。楷 又 廣を賈充に薦め、遂に太尉掾に辟せられ、太子舍人に轉ず。尚書令の衞瓘、朝の耆舊にして、魏の正始中に諸々の名士と談論するに逮び、廣を見て之を奇とし、曰く、「昔より諸賢 既に沒し、常に微言 將に絕えんとするを恐る。而れども今 乃ち復た斯の言を君に聞く」と。諸子に命じて焉に造らしめ、曰く、「此の人の水鏡は、之を見れば瑩然たりて、雲霧を披ひて青天を覩るが若きなり」と。王衍 自ら言ふ、「人と語りて甚だ簡至たり。廣を見るに及び、便ち己の煩たるを覺る」と。其の識者の歎美する所と為るは此の如し。
出でて元城令に補せられ、中書侍郎に遷り、太子中庶子に轉じ、累りに侍中・河南尹に遷る。廣 清言を善くすれども筆に長ぜず、將に尹を讓らんとし、潘岳に請ひて表を為らしむ。岳曰く、「當に君の意を得るべし」と。廣 乃ち二百句語を作り、己の志を述す。岳 因りて取りて次比し、便ち名筆を成す。時人 咸 云ふ、「若し廣 岳の筆を假りずんば、岳 廣の旨を取らず。以て斯の美を成す無きなり」と。
嘗て親客有り、久闊して復た來たらず、廣 其の故を問ふ。答へて曰く、「前に坐に在り、賜酒を蒙り、方に飲まんと欲するに、杯中に蛇有るを見て、意 甚だ之を惡む。既に飲みて疾あり」と。時に河南の聽事の壁上に角有り、漆畫して蛇を作す。廣 意ふに杯中の蛇は即ち角の影なりと。復た酒を前處に置き、客に謂ひて曰く、「酒中に復た見る所有るや不や」と。答へて曰く、「見る所 初が如し」と。廣 乃ち其の所以を告げ、客 豁然として意 解し、沈痾 頓に愈ゆ。
廣 所在の為政は、當時の功譽無きも、然れども職を去る每に、遺愛 人の思ふ所と為る。凡そ人を論ずる所、必ず先に其の長ずる所を稱せば、則ち短なる所 言はずして自づから見はる。人 過有らば、先に弘恕を盡くせば、然る後に善惡 自ら彰はる。廣 王衍と與に俱に心を事外に宅き、名 時に重し。故に天下 風流なる者を言ふに、王・樂を謂ひて稱首と為す。
少きとき弘農の楊準と相 善し。準の二子 喬と曰ひ髦と曰ひ、皆 名を世に知らる。準 先に裴頠に詣らしめ、頠 性は弘方にして、喬が高韵有るを愛す。準に謂ひて曰く、「喬 當に卿に及ぶべし。髦 少しく減ずるなり」と。又 廣に詣らしめ、廣 性は清淳なれば、髦の神檢有るを愛す。準に謂ひて曰く、「喬 自づから卿に及ばん、然れども髦も亦た清出せん」と。準 笑ひて曰く、「我が二兒の優劣は、乃ち裴・樂の優劣なり」と。論者 以為へらく、喬 高韵有ると雖も、而れども神檢 足らず、樂 之を得たりと為す。
是の時 王澄・胡毋輔之ら、皆 亦た任放にして達を為し、或とき裸體するに至る。廣 聞きて笑ひて曰く、「名教 內に自ら樂地有り、何ぞ必しも乃ち爾らんか」と。其の才に居りて物を愛し、動もして理 中たること有り、皆 此の類なり。世道の虞れ多きに值たり、朝章 紊亂するに、己を清くして中立し、誠に任せて素を保つのみ。時人 其の際を見るもの有る莫し。
是より先 河南の官舍に妖怪多く、前尹 多く敢て正寢に處らず、廣 之に居りて疑せず。嘗て外戶 自づから閉ぢ、左右 皆 驚くに、廣のみ獨り自若たり。顧みて牆に孔有るを見て、人をして牆を掘らしむるに、狸を得て之を殺し、其の怪 亦た絕ゆ。
愍懷太子の廢せられるや、故臣に詔して辭送するを得しめず、眾官 憤歎に勝えず、皆 禁を冒して拜辭す。司隸校尉の滿奮 河南中部に敕して拜する者を收縛して獄に送らしめ、廣 即便ち解遣す。眾人 廣に代はりて危懼す。孫琰 賈謐に說きて曰く、「前に太子の罪惡を以て、斯に廢黜する有り、其の臣 嚴詔を懼れず、罪を冒かして送す。今 若し之を繫がば、是れ太子の善を彰らかにす、釋きて去らしむるに如かず」と。謐 其の言を然りとし、廣 故に坐せざるを得たり。
吏部尚書左僕射に遷り、後に東安王繇 僕射と為るに當たり、廣を轉じて右僕射と為し、吏部を領し、王戎に代へて尚書令と為す。始め戎 廣を薦め、而して終に其の位を踐むや、時人 之を美す。
成都王穎、廣の壻なり、長沙王乂と與に遘難するに及び、而れども廣 既に朝望に處れば、羣小 之を讒謗す。乂 以て廣に問ふに、廣 神色 變はらず、徐ろに答へて曰く、「廣 豈に五男を以て一女に易ふるや」と。乂 猶ほ以て疑と為し、廣 竟に憂を以て卒す。荀藩 廣の免ぜざるを聞くや、之の為に流涕す。三子あり、凱・肇・謨なり。
凱 字は弘緒、大司馬齊王掾、參驃騎軍事なり。肇 字は弘茂、太傅東海王掾。洛陽 陷するや、兄弟 相 攜へて南して渡江す。謨 字は弘範、征虜將軍・吳郡內史なり。

現代語訳

楽広は字を彦輔といい、南陽淯陽の人である。父の楽方は、魏の征西将軍の夏侯玄の軍事に参じた。楽広はこのとき八歳で、夏侯玄はいつも楽広を道路で見て、呼びよせて語りあい、帰って楽広に、「途中で楽広の気高い姿が透き通るほど清いのを見た。きっと名士となるだろう。きみの家は貧しくとも、学問に専念させよ。きっときみの一族を興隆させる」と言った。楽方は早くに亡くなった。楽広は父がなく貧しく、山陽に移住し、倹約して家産をおこない、誰からも知られなかった。寡欲で、遠い見識があり、欲望が少なく、他人と競わなかった。もっとも談論を得意とし、いつも最小限の言葉で理を説き、人の心を圧倒したが、自分が知らないことは、黙っていた。
裴楷はかつて楽広を招いて談論し、夕方から朝に至るまで、たがいに相手を敬い自分は遜り、「私は敵わない」と感歎した。王戎が荊州刺史となると、(過去に)楽広が夏侯玄に賞賛されたと聞いて、秀才に挙した。裴楷はまた楽広を賈充に推薦し、かくて太尉掾に辟され、太子舎人に転じた。尚書令の衛瓘は、朝廷の古くからの重鎮で、魏の正始年間に諸々の名士と談論したが、楽広を見て格別に評価し、「昔からの諸賢がすでに死没し、いつも微言(孔子の教え)が途絶えることを恐れていた。しかし再び楽広からその教えを聞ける」と言った。諸子に命じて楽広を訪問させ、「かれの水鏡は、見れば明るく輝き、雲霧を払って青天を見るようだ」と言った。王衍は自ら、「(私は)人と語れば簡潔に意見を言える。(だが)楽広と会ってみると、自分が繁雑だと悟った」と言った。識者が感歎し賛美するさまは以上のようであった。
出て元城令に任命され、中書侍郎に遷り、太子中庶子に転じ、かさねて侍中・河南尹に遷った。楽広は清らかな発言を得意としたが筆が上手くなかった。河南尹を辞退しようとし、潘岳に頼んで(辞退の)上表を作らせた。潘岳は、「きみの考えを聞かせてくれ」と言った。楽広は二百語ほどで、自分の考えを述べた。潘岳がこれを受けて配列を整え、すぐれた文書が完成した。当時の人はみな、「もし楽広が潘岳の筆を借りなければ、潘岳は楽広の考えを写し取れず、この美文が生まれることはなかった」と言った。
かつて親しい客がおり、久しく再訪問がないので、楽広が理由を聞いた。客は、「以前に座って、酒をもらい、飲もうとすると、杯中に蛇があるのを見て、気持ちが悪くなった。飲むと体調がくずれた」と言った。このとき河南の役所の壁上に角があり、漆で蛇を描いていた。楽広が思うに杯中の蛇は角が映ったものである。前回と同じ場所で酒を振る舞い、客に、「酒のなかに今回も蛇が見えるか」と聞いた。客は、「前回と同じだ」と言った。楽広は理由を告げると、客は疑問が解けて、体調がすぐに治った。
楽広の任地での政治は、その期間は成果を称賛されないが、職を去るときはいつも、かれの残した恩愛が人々に慕われた。他人を論評するとき、必ず先に長所をほめたので、短所は言わずもがな浮かび上がった。他人に過失があれば、先に寛容に許し、その後に善悪がおのずと明らかになった。楽広は王衍とともに世俗の外に心をおき、同時代に名声が重かった。ゆえに天下で風流なものを論ずれば、王衍と楽広が筆頭とされた。
若いとき弘農の楊準と仲が良かった。楊準の二子は楊喬と楊髦といい、どちらも名を世に知られた。楊準はさきに(二子に)裴頠を訪問させた。裴頠は見通しが広い性格で、楊喬の高邁さと趣きを愛した。楊準に、「(兄の)楊喬は卿となるだろう。(弟の)楊髦はそれよりも少し兄より劣る」と言った。さらに楽広を訪問させると、楽広は清らかで情け深い性格で、楊髦が心に抑えが利くことを愛した。楊準に、「楊喬はおのずと卿となるだろう、しかし楊髦もまた静かに出世するだろう」と言った。楊準は笑って、「わが二子の優劣は、そのまま裴氏と楽氏の優劣である」と言った。論者は、楊喬は高邁で趣きがあるが、しかし心に抑えが利かず、楽氏がこれを見抜いたと言った。
このとき王澄や胡毋輔之らも、気ままで奔放であり、裸になったときがあった。楽広はこれを聞いて笑い、「名教は自己の内部に安楽の場所がある、どうして裸になる必要があろうか」と言った。才能があって万物を大切にし、ふとしたとき適正な理を言い当てるのは、このようであった。世間の風俗が脅かされ、朝廷の秩序が乱れても、自己を清くして中立であり、誠を保って自然体であった。当時の人でその境地を見るものはいなかった。
これよりさき河南の官舎に怪異が多く、前任の河南尹たちは多くが正寝に泊まらなかったが、楽広は平然と寝泊まりした。かつて外の戸がかってに閉じ、左右のものは驚いたが、楽広だけは落ち着いていた。顧みると壁に穴があるのを見つけ、人に壁を掘らせると、狸を捕まえたので殺し、そこでの怪異はぱったりと止んだ。
愍懐太子(司馬遹)が廃位されると、太子の旧臣に詔して見送りを禁じたが、官吏たちは憤り歎いて堪えきれず、みな禁令を振り切って拝して見送った。司隷校尉の満奮は河南中部に命じて拝したものを捕縛して官獄に送らせたが、楽広が解放した。みな楽広の代わりに危ぶみ懼れた。孫琰が賈謐に説いて、「前に太子に罪悪があったとして、このように廃黜しましたが、その臣下は厳格な詔を懼れず、罪を犯してまで見送りました。いまもし旧臣らを獄に繋げば(慕う臣下の存在により)、太子の善行が際立ちます、釈放するほうが宜しい」と言った。賈謐はその通りだと思い、楽広は罰せられなかった。
吏部尚書左僕射に遷り、のちに東安王繇(司馬繇)が僕射となるにあたり、楽広を転じて右僕射とし、吏部を領し、王戎に代えて尚書令とした。はじめ王戎が楽広を推薦し、最終的に王戎の位を継承したので、当時の人々は美事とした。
成都王穎(司馬穎)は、楽広の壻であり、(司馬穎が)長沙王乂(司馬乂)と深刻に対立しても、楽広が朝廷の高官として留まっているため、地位の低い人々は楽広を誹謗中傷した。司馬乂がこのことを楽広に問い合わせたが、楽広の態度は変わらず、おもむろに、「五人の息子を一人の娘と交換するでしょうか(司馬穎と内通する理由がありません)」と言った。司馬乂はそれでも疑念を解かず、楽広は憂悶して亡くなった。荀藩は楽広が助からなかったと聞き、かれのために流涕した。三人の子があり、楽凱と楽肇と楽謨である。
楽凱は字を弘緒といい、大司馬の斉王(司馬冏)の掾となり、驃騎の軍事に参じた。楽肇は字を弘茂といい、太傅の東海王(司馬越)の掾となった。洛陽が陥落すると、兄弟で引き連れて南下して長江を渡った。楽謨は字を弘範といい、征虜将軍・呉郡内史である。

原文

史臣曰、漢相清靜、見機於曠務。周史清虛、不嫌於尸祿。豈台揆之任、有異於常班者歟。濬沖善發談端、夷甫仰希方外、登槐庭之顯列、顧漆園而高視。彼既憑虛、朝章已亂。戎則取容於世、旁委貨財。衍則自保其身、寧論宗稷。及三方搆亂、六戎藉手、犬羊之侶、鋒鏑如雲。夷甫區區焉、佞彼兇渠、以求容貸、穨牆之隕、猶有禮也。平子肆情傲物、對鏡難堪、終失厥生、自貽伊敗。且夫衣服表容、珪璋範德、聲移宮羽、彩照山華、布武有章、立言成訓。澄之箕踞、不已甚矣。若乃解衵登枝、裸形捫鵲、以此為達、謂之高致、輕薄是效、風流詎及。道睽將聖、事乖跰指、操情獨往、自夭其生者焉。昔晏嬰哭莊公之尸、樂令解愍懷之客、豈聞伯夷之風歟、懦夫能立志者也。
贊曰、晉家求士、乃構仙臺、陵雲切漢、山叟知材。濬沖居鼎、談優務劣。夷甫兩顧、退求三穴。神亂當年、忠乖曩列。平子陵侮、多於用拙。樂令披雲、高天澄澈。

訓読

史臣曰く、漢の相 清靜にして、曠務を機す。周の史 清虛にして、尸祿を嫌はず。豈に台揆の任、常班に異なること有るか。濬沖 善く談端を發し、夷甫 仰ぎて方外を希ひ、槐庭の顯列に登れども、漆園を顧みて高く視る。彼 既に虛に憑き、朝章 已に亂る。戎 則ち容を世に取り、旁に貨財を委(つ)む。衍 則ち自ら其の身を保ち、寧ろ宗稷を論ぜんや。三方 搆亂するに及び、六戎 手を藉すに、犬羊の侶、鋒鏑 雲の如し。夷甫 區區焉として、彼の兇渠に佞して、以て容貸を求め、穨牆の隕は、猶ほ禮有るがごときなり。平子 情を肆にし物に傲り、鏡に對ひて堪へ難く、終に厥の生を失ひ、自ら伊の敗を貽(のこ)す。且夫 衣服は容を表はし、珪璋は德を範として、聲 宮羽に移り、山華に彩照し、武を布して章有り、言を立てて訓と成す。澄の箕踞するは、已に甚からざるか。若乃し解衵にして枝に登り、裸形にして鵲を捫せば、此を以て達と為し、之を高致と謂へば、輕薄は是れに效ひ、風流 詎(あ)に及ぶか。道 將聖に睽き、事 跰指に乖れ、情を操りて獨り往き、自ら其の生を夭する者なり。昔 晏嬰 莊公の尸に哭し、樂令 愍懷の客を解く。豈に伯夷の風を聞くか、懦夫 能く志を立つる者かと。
贊に曰く、晉家 士を求め、乃ち仙臺を構へ、陵雲 漢に切し、山叟 材を知る。濬沖 鼎に居りて、談は優るるも務は劣る〔一〕。夷甫 兩顧して、退きて三穴を求む。神 當年を亂し、忠 曩列に乖く。平子 陵侮して、拙を用ひるに多なり。樂令 雲を披りて、高天 澄澈す。

〔一〕当初、訓読を「優を談じて劣を務めしむ」、現代語訳を「優秀なものを談じて劣後したものを励ました」としていました。吏部尚書の官歴があり、列伝に「人倫の鑒識有り」とあったためです。ですが、深山 @miyama__akira さまに、「清談にはすぐれていたが、政務はダメだった」の意味ではないかとご指摘に頂きましたので、訓読を改めました。これに伴い、現代語訳を修正しました。220101

現代語訳

史臣はいう、漢代の宰相は清静で、実務に携わらなかった。周代の史官は清虚で、尸録(俸禄どろぼう)を嫌わなかった。いったい台揆(宰相)の任務は、それ以下の官職と異なるのだろうか。濬沖(王戎)は議論を起こすことを得意とし、夷甫(王衍)は天を仰いで地方への転出を願い、槐庭の顕列(三公という高い地位)に登りながらも、漆園(荘子の生き方)を顧みて高く見た。かれらは虚(玄学)に熱中し、朝廷の政治は乱れた。王戎は世俗の権力者(外戚の賈氏ら)に迎合し、傍らに財貨を積み上げた。王衍は保身を優先し、社稷を論じることがあっただろうか。三方で混乱が起こり、六種の異民族が手を貸すと、犬や羊のような連中は、雲のように(大量に)戦争を仕掛けた。夷甫(王衍)はせかせかと、かれらの凶悪な領袖(石勒)にへつらい、命を助けてもらおうとし(称帝を勧め)たが、(石勒が)壁を壊して殺したのは、なお礼に沿った方法であった。平子(王澄)は感情に任せて傲慢で、(顔を殴られたとき)鏡を見て我慢ができず、最後にはその生命を損ない、あのような最期(王敦による暗殺)に迎えた。そもそも衣服はすがたを表し、珪璋は徳を模範とし、歌声は宮羽(の音階)に移り、山の華を彩り照らし、武を広げて秩序があり、言葉を立てて訓戒とする。王澄が箕踞する(飲酒にふける)ことは、著しく逸脱しているのではないか。衣服をくずして枝に登り、裸で鵲をつかんだが、これを通達であるとか、高致であるとすれば、軽薄な連中はこれを真似し、風教がどうして及ぶだろう。道は聖人に近いものから背き、事はひづめの指を離れ、情を操って独善となり、生命を毀損することになる。むかし晏嬰は(斉の)荘公の遺体のために哭し、楽令は愍懐の旧臣を釈放した。(西晋において)伯夷の気風を聞いただろうか、気弱なものが志を立てただろうか。
賛にいう、晋帝国は人士を求めて、仙台を構え、雲をしのぐ意志は漢帝国に迫って、山叟(山濤)は人材を熟知した。濬沖(王戎)は鼎(三公)の位にあって、談義には優れていたが実務では劣った。夷甫(王衍)は二方を顧みて、退いて三つの穴を求め(地方に逃亡先を確保し)た。神意がこの時代を乱し、忠臣は朝廷の列から離れた。平子(王澄)は(荊州の民を)侵害して、拙劣な人材を多く用いた。楽令(楽広)は雲を裂いて、高天は澄み渡ったと。