いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第十五巻_劉毅(子暾・程衛)・和嶠・武陔・任愷・崔洪・郭奕・侯史光・何攀

翻訳者:山田龍之
誤訳や誤字・脱字・衍字等、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問など、いずれも本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。
西晋初期において、三公までは至らなかったものの、それに次ぐ位の大臣として活躍した人々の伝記です。九品官人法に深く関わる劉毅が最も有名ですが、三国志との関係で言えば、伐呉の役における裏の立役者である何攀を初め、後漢の崔寔の玄孫である崔洪、後漢末から魏にかけて活躍した郭淮の甥である郭奕、同じく後漢末から魏にかけて活躍した武周の子である武陔、同じく後漢末から魏にかけて活躍した和洽の孫である和嶠など、三国志の有名人の子孫たちも見逃せません。

劉毅

原文

劉毅、字仲雄、東萊掖人。漢城陽景王章之後。父喈、丞相屬。毅幼有孝行、少厲清節、然好臧否人物、王公貴人望風憚之。僑居平陽、太守杜恕請爲功曹、沙汰郡吏百餘人。三魏稱焉、爲之語曰「但聞劉功曹、不聞杜府君。」
魏末、本郡察孝廉、辟司隸都官從事、京邑肅然。毅將彈河南尹、司隸不許曰「攫獸之犬、鼷鼠蹈其背。」毅曰「既能攫獸、又能殺鼠、何損於犬。」投傳而去。同郡王基薦毅於公府曰「毅方正亮直、介然不羣、言不苟合、行不苟容。往日僑仕平陽、爲郡股肱、正色立朝、舉綱引墨、朱紫有分、鄭衞不雜、孝弟著於邦族、忠貞效於三魏。昔孫陽取騏驥於吳坂、秦穆拔百里於商旅。毅未遇知己、無所自呈。前已口白、謹復申請。」太常鄭袤舉博士、文帝辟爲相國掾、辭疾、積年不就。時人謂毅忠於魏氏、而帝怒其顧望、將加重辟。毅懼、應命、轉主簿。
武帝受禪、爲尚書郎・駙馬都尉、遷散騎常侍・國子祭酒。帝以毅忠蹇正直、使掌諫官。轉城門校尉、遷太僕、拜尚書、坐事免官。咸寧初、復爲散騎常侍・博士祭酒。轉司隸校尉、糾正豪右、京師肅然。司部守令望風投印綬者甚眾、時人以毅方之諸葛豐・蓋寬饒。皇太子朝、鼓吹將入東掖門、毅以爲不敬、止之於門外、奏劾保傅以下。詔赦之、然後得入。
帝嘗南郊、禮畢、喟然問毅曰「卿以朕方漢何帝也。」對曰「可方桓靈。」帝曰「吾雖德不及古人、猶克己爲政。又平吳會、混一天下。方之桓靈、其已甚乎。」對曰「桓靈賣官、錢入官庫。陛下賣官、錢入私門。以此言之、殆不如也。」帝大笑曰「桓靈之世、不聞此言、今有直臣、故不同也。」散騎常侍鄒湛進曰「世談以陛下比漢文帝、人心猶不多同。昔馮唐答文帝、云不能用頗牧而文帝怒、今劉毅言犯順而陛下歡。然以此相校、聖德乃過之矣。」帝曰「我平天下而不封禪、焚雉頭裘、行布衣禮、卿初無言。今於小事、何見褒之甚。」湛曰「臣聞猛獸在田、荷戈而出、凡人能之、蜂蠆作於懷袖、勇夫爲之驚駭、出於意外故也。夫君臣有自然之尊卑、言語有自然之逆順。向劉毅始言、臣等莫不變色、陛下發不世之詔、出思慮之表、臣之喜慶、不亦宜乎。」
在職六年、遷尚書左僕射。時龍見武庫井中、帝親觀之、有喜色。百官將賀、毅獨表曰「昔龍降鄭時門之外、子產不賀。龍降夏庭、沫流不禁、卜藏其漦、至周幽王、禍釁乃發。易稱『潛龍勿用、陽在下也』。證據舊典、無賀龍之禮。」詔報曰「正德未修、誠未有以膺受嘉祥。省來示、以爲瞿然。賀慶之事、宜詳依典義、動靜數示。」尚書郎劉漢等議以爲「龍體既蒼、雜以素文、意者大晉之行、戢武興文之應也。而毅乃引衰世妖異、以疑今之吉祥。又以龍在井爲潛、皆失其意。潛之爲言、隱而不見。今龍彩質明煥、示人以物、非潛之謂也。毅應推處。」詔不聽。後陰氣解而復合、毅上言「必有阿黨之臣、姦以事君者、當誅而不誅故也。」

訓読

劉毅、字は仲雄、東萊・掖の人なり。漢の城陽景王章の後なり。父の喈は、丞相屬たり。毅、幼くして孝行有り、少くして清節を厲まし、然して人物を臧否するを好み、王公・貴人は風を望みて之を憚る。平陽に僑居するに、太守の杜恕、請きて功曹と爲し、郡吏百餘人を沙汰せしむ。三魏〔一〕は焉を稱し、之が爲に語りて曰く「但だ劉功曹を聞くのみにして、杜府君を聞かず」と。
魏の末、本郡は孝廉に察し、司隸都官從事に辟され、京邑は肅然とす。毅、將に河南尹を彈さんとするや、司隸は許さずして曰く「攫獸の犬は、鼷鼠、其の背を蹈まん」と。毅曰く「既に能く獸を攫み、又た能く鼠を殺さば、何ぞ犬を損なわんや」と。傳を投じて去る。同郡の王基、毅を公府に薦めて曰く「毅は方正にして亮直、介然として羣れず、言は苟めに合せず、行は苟めに容れず。往日、平陽に僑仕し、郡の股肱と爲り、色を正して朝に立ち、綱を舉げ墨を引き、朱紫は分有り、鄭衞は雜わらず、孝弟は邦族に著われ、忠貞は三魏〔一〕に效す。昔、孫陽は騏驥を吳坂に取り、秦穆は百里を商旅に拔くも、毅は未だ知己に遇わず、自ら呈する所無し。前に已に口ずから白せしも、謹みて復た申請す」と。太常の鄭袤、博士に舉げ、文帝、辟して相國掾と爲すも、疾と辭し、積年就かず。時人は、毅は魏氏に忠なりと謂い、而して帝は其の顧望するを怒り、將に重辟を加えんとす。毅、懼れ、命に應じ、主簿に轉ず。
武帝の禪を受くるや、尚書郎・駙馬都尉と爲り、散騎常侍・國子祭酒に遷る。帝、毅の忠蹇正直なるを以て、諫官を掌らしむ。城門校尉に轉じ、太僕に遷り、尚書を拜すも、事に坐して官を免ぜらる。咸寧の初め、復た散騎常侍・博士祭酒と爲る。司隸校尉に轉じ、豪右を糾正し、京師は肅然たり。司部の守令の風を望みて印綬を投ずる者、甚だ眾く、時人は毅を以て之を諸葛豐・蓋寬饒に方ぶ。皇太子朝するに、鼓吹の將に東掖門に入らんとするや、毅、以て不敬と爲し、之を門外に止め、奏して保傅以下を劾す。詔して之を赦し、然る後に入るを得たり。
帝、嘗て南郊するに、禮畢わるや、喟然として毅に問いて曰く「卿は朕を以て漢の何れの帝に方べんや」と。對えて曰く「桓靈に方ぶべし」と。帝曰く「吾、德は古人に及ばずと雖も、猶お己に克ちて政を爲す。又た吳會を平げ、天下を混一す。之を桓靈に方ぶるは、其れ已だ甚だしからんや」と。對えて曰く「桓靈の官を賣るや、錢は官庫に入る。陛下の官を賣るや、錢は私門に入る。此を以て之を言わば、殆ど如かざるなり」と。帝、大いに笑いて曰く「桓靈の世、此の言を聞かざるも、今、直臣有れば、故に同じからざるなり」と。散騎常侍の鄒湛、進みて曰く「世談は陛下を以て漢の文帝に比すも、人心は猶お多くは同じからず。昔、馮唐の文帝に答うるや、頗牧を用うる能わざるを云いて文帝は怒るも、今、劉毅は、言は順を犯すも陛下は歡ぶ。然れば此を以て相い校ぶれば、聖德は乃ち之に過ぐ」と。帝曰く「我、天下を平ぐるも封禪せず、雉頭の裘を焚き、布衣の禮を行うに、卿、初め言う無し。今、小事に於いて、何ぞ見(われ)を褒むることの甚しきや」と。湛曰く「臣聞くならく、猛獸の田に在るに、戈を荷いて出ずるは、凡人すら之を能くするも、蜂蠆の懷袖に作こるに、勇夫すら之が爲に驚駭するは、意外に出でしが故なり、と。夫れ君臣には自然の尊卑有り、言語には自然の逆順有り。向に劉毅の始めて言うや、臣等、色を變えざるは莫きも、陛下は不世の詔を發し、思慮の表に出でたれば、臣の喜慶すること、亦た宜ならずや」と。
職に在ること六年、尚書左僕射に遷る。時に龍、武庫の井中に見れ、帝親ら之を觀、喜色有り。百官將に賀せんとするや、毅、獨り表して曰く「昔、龍の鄭の時門の外に降るや、子產は賀せず。龍の夏庭に降るや、沫流れて禁ぜず、卜して其の漦を藏するに、周の幽王に至り、禍釁乃ち發す。易に稱すらく『「潛龍なり。用うる勿かれ。」は、陽、下に在るなり』と。舊典を證據するに、賀龍の禮無し」と。詔して報じて曰く「正德未だ修まらず、誠に未だ以て嘉祥を膺受すること有らず。來示を省みるに、以て瞿然と爲す。賀慶の事、宜しく詳らかに典義に依り、動靜は數もて示すべし」と。尚書郎の劉漢等、議して以爲えらく「龍體は既に蒼く、雜うるに素文を以てするは、意は大晉の行、武を戢め文を興すの應なり。而るに毅は乃ち衰世の妖異を引き、以て今の吉祥を疑う。又た龍の井に在るを以て潛むと爲すは、皆な其の意を失えり。潛の言たるや、隱れて見れず。今、龍、彩質は明煥にして、人に示すに物を以てすれば、潛の謂に非ざるなり。毅、應に推處すべし」と。詔して聽かず。後に陰氣解けて復た合するや、毅、上言すらく「必ず阿黨の臣にして、姦にして以て君に事うる者有り、當に誅すべくして誅せざるが故なり」と。

〔一〕「三魏」とは、漢代の魏郡を分割して設置された広平郡、陽平郡、魏郡の三郡のことである。しかし、劉毅のいる平陽は、当時は河東郡に属し、杜恕も『三国志』杜恕伝では河東太守となったとあるので、劉毅が河東郡で活躍したことにより、河東郡を含む「三河」の人々に称賛されたというのならまだしも、そこから離れた地である「三魏」の人々に称賛されたというのは文脈上おかしい。これに関しては、『晋書斠注』も指摘する通り、『太平御覧』に引く王隠『晋書』では、「劉毅、字仲雄。僑居陽平、太守杜恕逼迫舉毅爲功曹。月餘、日沙汰郡吏百餘人、三魏稱焉。」とあり、劉毅が寓居していたのが「平陽」ではなく「陽平」となっている。これであれば、三魏の人々が劉毅のことを称賛するのはつじつまが合う。しかし、杜恕が陽平太守となったとことは、『三国志』を初め、『晋書』以前に編纂された史書には記されていない。それに、後文では劉毅は司隷校尉府に辟召されたとあるが、この時期、陽平郡は冀州に属しており、司州には属していないので、その点でも陽平寓居説は疑わしい。いずれにせよ、「三魏」「平陽」のいずれかが間違っていることは確実であるが、真相は不明である。

現代語訳

劉毅は、字を仲雄と言い、東萊国・掖の人である。漢の城陽景王・劉章の後裔である。父の劉喈(りゅうかい)は、丞相府の属(官職名)にまで登った。劉毅は、幼い頃から孝行があり、若い頃から清らかな節操を奮い立たせ、人物の良否を品評するのを好み、王公や貴人たちはその噂を聞いて劉毅を憚った。劉毅は(河東郡の)平陽に寓居していたが、河東太守の杜恕(とじょ)は劉毅を招いて(人事担当の職である)功曹に任じ、郡吏百人あまりの人選を行わせた。三魏(三河?)の人々は劉毅の手腕を称え、そのため次のように語った。「ただ劉功曹(劉毅)の活躍ばかりが耳に入り、杜府君(杜恕)の話は聞こえてこない」と。
魏の末、本郡(東萊郡)により孝廉に推挙され、さらに(司隷校尉の下で百官の監察を担う)司隷校尉府の都官従事として辟召され、京師は粛然とした。劉毅が河南尹を弾劾しようとしたところ、当時の司隷校尉はそれを許さず、次のように言った。「獣をわしづかみにした犬は、その背中を毒ネズミに踏んづけられてしまうことになるぞ」と。劉毅は言った。「獣をわしづかみにして捕らえた上で、さらにネズミをも殺してしまえば、どうして犬の身が損なわれることがありましょうか」と。そこで劉毅は伝(身分証明書)を投げ捨てて去った。同郡の人である王基は、劉毅を公府に推薦して言った。「劉毅は方正かつ実直であり、高潔にして人と群れることなく、その言葉に関しては、いい加減に話の調子を他人に合わせるようなこともなく、その行いに関しては、間に合わせに他人の歓心を得るようなことはしません。昔日、劉毅は平陽郡に寓居してそこに出仕し、郡の股肱となり、色を正して郡府に勤め、網を揚げて墨縄を引き(=綱紀を正し)、朱色と紫色は分かたれ(=正邪は分かたれ)、鄭の音楽や衛の音楽は紛れ込まず(=淫靡な者が郡府の官吏として紛れ込むことなく)、孝悌の心が郡県の人々の間に顕著に広まり、忠貞の心が三魏(三河?)の人々の間で尽くされるようになりました。昔、(春秋時代の)孫陽(伯楽)は呉坂で駿馬を見出し、(春秋時代の)秦の穆公は(賢人の)百里奚を商人の一団から買い取って抜擢しましたが、劉毅はまだ知己にめぐり遇っておらず(その才能を見出されておらず)、また自分を売り込むようなこともしません。このことについては以前にすでに口頭で申し上げましたが、念を押してまた重ねてお願い申し上げた次第でございます」と。太常の鄭袤(ていぼう)は劉毅を博士として推挙し、(当時は相国であった)文帝(司馬昭)は劉毅を相国府の掾として辟召したが、いずれの場合も劉毅は病と称して辞退し、積年にわたって官職に就かなかった。時の人々は、劉毅は魏朝に忠誠を尽くしているのだと言い、そして文帝は劉毅が魏朝のことを思い慕っていることに怒り、死罪を加えようとした。劉毅はそれを恐れ、文帝の辟召に応じ、(相国府の)主簿に転任した。
武帝(司馬炎)が禅譲を受けると、劉毅は「尚書郎・駙馬都尉」となり、やがて「散騎常侍・国子祭酒」に昇進した。武帝は、劉毅が忠実で正直であるので、諫官としての職を担わせた。やがて城門校尉に転任し、さらに太僕に昇進し、そして尚書を拝命したが、公事に関して罪に問われて官を罷免された。咸寧年間の初め、また「散騎常侍・博士祭酒」となった。やがて司隷校尉に転任し、豪族たちを糾弾し、京師は粛然とした。司部(司州)の太守・県令で劉毅の評判を聞いて(弾劾されることを恐れて)印綬を手放して去った者は非常に多く、時の人々は劉毅を(前漢の)諸葛豊や蓋寛饒(こうかんじょう)になぞらえた。あるとき皇太子が朝見するに当たり、鼓吹(儀仗隊の楽隊)が東掖門に入ろうとした際、劉毅はそれを不敬であるとし、皇太子一行を門外に留め、上奏して太子太保・太子太傅以下を弾劾した。武帝は詔を下してそれを赦し、そうしてやっと皇太子一行は入ることができた。
武帝がかつて南郊の祭祀を行い、その礼が終わったときに、劉毅に対して嘆息まじりに問うて言った。「そなたは、朕は漢のどの皇帝に並ぶものであると思うか」と。劉毅は答えて言った。「桓帝や霊帝に並ぶものでございましょう」と。武帝は言った。「私は、徳は古人に及ばないものの、それでも己を律して政治を行ってきた。また、呉や会稽の地(すなわち孫呉)を平定し、天下を統一した。それを桓帝や霊帝になぞらえるとは、それはあんまりではないか」と。劉毅は答えて言った。「桓帝や霊帝は、官職を売りに出しましたが、その銭を官庫に入れました。陛下が官職を売りに出すと、その銭は権門の懐に入りました。この点から言えば、むしろ陛下は桓帝や霊帝にも及ばないくらいでございましょう」と。武帝は大いに笑って言った。「桓帝や霊帝の世には、このような言葉を聞くことも無かったろうに、今、私にはこのような直言の臣がいるので、同じではないさ」と。そこで散騎常侍の鄒湛(すうたん)が進み出て言った。「輿論では陛下を漢の文帝になぞらえておりますが、人心としてはなおそれに賛同する者はそこまで多くありません。というのも、昔、馮唐(ふうとう)が(漢の)文帝の問いに答えた際に、文帝には廉頗や李牧(のような優れた人物)を用いることができないと直言したところ、文帝は怒りましたが、今、劉毅が恭順さを犯して直言したところ、陛下はそれをお喜びになりました。ですので、その点において比較すれば、陛下の徳は文帝に勝るものでございましょう」と。武帝は言った。「私は、天下を平定しても封禅の儀は行わず、雉頭の裘(雉の頭の毛で作られた裘)が献上されたときにはそれを焼き、先帝が崩御された際には布衣の礼を行ったが、そなたは初めこれらについては何も言わなかった。それなのに、今、このような小事に関して、なぜこんなにも私を褒めるのであろうか」と。鄒湛は言った。「私が聞いたところによりますと、猛獣が田畑に現れた際に、戈をかついで追い払いに出るのは、凡人にすらできることであるのに、(毒を持つ)蜂やサソリが懐や袖に入った際には、勇士ですらそれに驚いてあわてふためくのは、意表を突かれたが故である、と言います。そもそも君臣には自然の尊卑があり、言語には自然の逆順(逆らったり従ったりすること)があります。今しがた劉毅が言ったばかりのことに対し、私たち臣下はみな血相を変えざるを得ませんでしたが、陛下はたぐい稀なる詔を発し、我らの意表をお突きになられましたので、私がそれを慶賀することは、何と適切なことではありませんか」と。
劉毅は六年間にわたって在職し、その後、尚書左僕射に昇進した。時に龍が武庫の井戸の中に現れ、武帝は自らそれを目にし、喜びの表情を見せた。百官がそれを慶賀しようとしたところ、劉毅だけは次のように上表して言った。「昔、龍が(春秋時代の)鄭の時門の外に降臨した際、(賢者として知られる宰相の)子産はそれを慶賀しませんでした。また、龍が夏王朝の朝廷に降臨した際、よだれが流れてやまず、卜占を行ってそのよだれを匱の中に収蔵しましたが、(周の厲王の時代にその匱があばかれてしまい、やがて西周の滅亡をもたらした)周の幽王の時代に至り、そこで災禍が発現して降りかかりました。『易』にはこうあります。『「潜龍である。用いてはならない。」と(『易』の本文に)あるのは、陽気が下にあるということである』(『易』乾の象伝)と。このように旧典を考証してみますと、龍の出現を慶賀する礼はございません」と。武帝は詔を下してそれに返答して言った。「私はまだ純正な徳行を修めておらず、誠に瑞祥を享受する理由がまだ無い。劉毅がくれた書状を見て、私は恐ろしくなった。慶賀すべきかどうかに関しては、旧典の義を詳細に調べてそれに依拠すべきであり、動静に関しては、筮占のめどぎの数によって示されるべきである」と。尚書郎の劉漢らが議して言うには「(このたび現れた)龍の体は青く、その上に白い文様がまざっていますのは、その意は大晋の(白色に象徴される金徳の)行が、(文様になっているということに現れている通り)武を収めて文を興したということに対応するものであります。それなのに、劉毅はなんと衰退した世の妖異を引いて、それにより現在の吉祥になぞらえてそれを疑いました。また、龍が井戸にいたことを以てそれを『潜む』と見なすのも、すべてその意を誤解しているものであります。『潜む』という言葉は、隠れてしまって姿を現さないということを指します。今、龍の彩りのある体つきは鮮明であり、人に対してその色彩を明確に見せつけているので、これを『潜む』と呼ぶことはできません。劉毅の罪状を取り調べて処分を下すべきです」と。武帝は詔を下し、それを許可しなかった。後に陰の気が解消してまた合わさるということが起こると、劉毅は上言した。「きっと、おもねりへつらって私党を組んでいるような臣下で、邪悪な心で陛下にお仕えしているような者がおり、誅殺すべきであるのにまだ誅殺していないが故(にこのような怪異が生じたの)でございましょう」と。

原文

毅以魏立九品、權時之制、未見得人、而有八損、乃上疏曰

臣聞立政者、以官才爲本。官才有三難、而興替之所由也。人物難知、一也。愛憎難防、二也。情偽難明、三也。今立中正、定九品、高下任意、榮辱在手。操人主之威福、奪天朝之權勢。愛憎決於心、情偽由於己。公無考校之負、私無告訐之忌。用心百態、求者萬端。廉讓之風滅、苟且之俗成。天下訩訩、但爭品位、不聞推讓、竊爲聖朝恥之。
夫名狀以當才爲清、品輩以得實爲平、安危之要、不可不明。清平者、政化之美也、枉濫者、亂敗之惡也、不可不察。然人才異能、備體者寡。器有大小、達有早晚。前鄙後修、宜受日新之報。抱正違時、宜有質直之稱。度遠闕小、宜得殊俗之狀。任直不飾、宜得清實之譽。行寡才優、宜獲器任之用。是以三仁殊塗而同歸、四子異行而均義。陳平・韓信笑侮於邑里、而收功於帝王、屈原・伍胥不容於人主、而顯名於竹帛、是篤論之所明也。
今之中正、不精才實、務依黨利、不均稱尺、務隨愛憎。所欲與者、獲虛以成譽、所欲下者、吹毛以求疵。高下逐強弱、是非由愛憎。隨世興衰、不顧才實、衰則削下、興則扶上、一人之身、旬日異狀。或以貨賂自通、或以計協登進、附託者必達、守道者困悴。無報於身、必見割奪、有私於己、必得其欲。是以上品無寒門、下品無勢族。暨時有之、皆曲有故。慢主罔時、實爲亂源。損政之道一也。
置州都者、取州里清議、咸所歸服、將以鎮異同、一言議。不謂一人之身、了一州之才、一人不審便坐之。若然、自仲尼以上、至于庖犧、莫不有失、則皆不堪、何獨責于中人者哉。若殊不修、自可更選。今重其任而輕其人、所立品格、還訪刁攸。攸非州里之所歸、非職分之所置。今訪之、歸正於所不服、決事於所不職、以長讒構之源、以生乖爭之兆、似非立都之本旨、理俗之深防也。主者既善刁攸、攸之所下而復選以二千石、已有數人。劉良上攸之所下、石公罪攸之所行、駁違之論橫於州里、嫌讎之隙結於大臣。夫桑妾之訟、禍及吳楚;鬭雞之變、難興魯邦。況乃人倫交爭而部黨興、刑獄滋生而禍根結。損政之道二也。
本立格之體、將謂人倫有序、若貫魚成次也。爲九品者、取下者爲格、謂才德有優劣、倫輩有首尾。今之中正、務自遠者、則抑割一國、使無上人、穢劣下比、則拔舉非次、幷容其身。公以爲格、坐成其私。君子無大小之怨、官政無繩姦之防。使得上欺明主、下亂人倫。乃使優劣易地、首尾倒錯。推貴異之器、使在凡品之下、負戴不肖、越在成人之首。損政之道三也。
陛下踐阼、開天地之德、弘不諱之詔、納忠直之言、以覽天下之情、太平之基、不世之法也。然賞罰、自王公以至於庶人、無不加法。置中正、委以一國之重、無賞罰之防。人心多故、清平者寡、故怨訟者眾。聽之則告訐無已、禁絕則侵枉無極、與其理訟之煩、猶愈侵枉之害。今禁訟訴、則杜一國之口、培一人之勢、使得縱橫、無所顧憚。諸受枉者抱怨積直、獨不蒙天地無私之德、而長壅蔽于邪人之銓。使上明不下照、下情不上聞。損政之道四也。
昔在前聖之世、欲敦風俗、鎮靜百姓、隆鄉黨之義、崇六親之行、禮教庠序以相率、賢不肖於是見矣。然鄉老書其善以獻天子、司馬論其能以官於職、有司考績以明黜陟。故天下之人退而修本、州黨有德義、朝廷有公正、浮華邪佞無所容厝。今一國之士多者千數、或流徙異邦、或取給殊方、面猶不識、況盡其才力。而中正知與不知、其當品狀、采譽於臺府、納毀於流言。任己則有不識之蔽、聽受則有彼此之偏。所知者以愛憎奪其平、所不知者以人事亂其度、既無鄉老紀行之譽、又非朝廷考績之課、遂使進官之人、棄近求遠、背本逐末。位以求成、不由行立、品不校功、黨譽虛妄。損政五也。
凡所以立品設狀者、求人才以理物也、非虛飾名譽、相爲好醜。雖孝悌之行、不施朝廷、故門外之事、以義斷恩。既以在官、職有大小、事有劇易、各有功報、此人才之實效、功分之所得也。今則反之、於限當報、雖職之高、還附卑品、無績於官、而獲高敘、是爲抑功實而隆虛名也。上奪天朝考績之分、下長浮華朋黨之士。損政六也。
凡官不同事、人不同能、得其能則成、失其能則敗。今品不狀才能之所宜、而以九等爲例。以品取人、或非才能之所長;以狀取人、則爲本品之所限。若狀得其實、猶品狀相妨、繫縶選舉、使不得精於才宜。況今九品、所疏則削其長、所親則飾其短。徒結白論、以爲虛譽、則品不料能。百揆何以得理、萬機何以得修。損政七也。
前九品詔書、善惡必書、以爲褒貶、當時天下、少有所忌。今之九品、所下不彰其罪、所上不列其善、廢褒貶之義、任愛憎之斷、清濁同流、以植其私。故反違前品、大其形勢、以驅動眾人、使必歸己。進者無功以表勸、退者無惡以成懲。懲勸不明、則風俗污濁。天下人焉得不解德行而銳人事。損政八也。
由此論之、選中正而非其人、授權勢而無賞罰、或缺中正而無禁檢、故邪黨得肆、枉濫縱橫。雖職名中正、實爲姦府;事名九品、而有八損。或恨結於親親、猜生於骨肉、當身困于敵讎、子孫離其殃咎。斯乃歷世之患、非徒當今之害也。是以時主觀時立法、防姦消亂、靡有常制、故周因於殷、有所損益。至于中正九品、上聖古賢皆所不爲、豈蔽於此事而有不周哉、將以政化之宜無取於此也。自魏立以來、未見其得人之功、而生讎薄之累。毀風敗俗、無益於化、古今之失、莫大於此。愚臣以爲宜罷中正、除九品、棄魏氏之弊法、立一代之美制。

疏奏、優詔答之。後司空衞瓘等亦共表宜省九品、復古鄉議里選、帝竟不施行。

訓読

毅、魏の九品を立つるは、權時の制にして、未だ人を得るを見ず、而して八損有るを以て、乃ち上疏して曰く

臣聞くならく、政を立つる者は、才を官するを以て本と爲す、と。才を官するに三難有り、而して興替の由る所なり。人物の知り難きは、一なり。愛憎の防ぎ難きは、二なり。情偽の明らかにし難きは、三なり。今、中正を立て、九品を定めしめ、高下は意に任せ、榮辱は手に在る。人主の威福を操り、天朝の權勢を奪う。愛憎は心に決し、情偽は己に由る。公には考校の負無く、私には告訐の忌無し。心を百態に用い、求むる者は萬端。廉讓の風、滅び、苟且の俗、成る。天下は訩訩として、但だ品位を爭い、推讓を聞かざるは、竊かに聖朝の爲に之を恥ず。
夫れ名狀は才に當たるを以て清と爲し、品輩は實を得るを以て平と爲し、安危の要なれば、明らかにせざるべからず。清平なる者は、政化の美にして、枉濫なる者は、亂敗の惡なれば、察せざるべからず。然して人才は能を異にし、備體する者は寡し。器に大小有り、達に早晚有り。前に鄙しく後に修むれば、宜しく日新の報を受くべし。正を抱き時に違えば、宜しく質直の稱有るべし。度は遠にして闕は小なれば、宜しく殊俗の狀を得べし。直に任じて飾らず、宜しく清實の譽を得べし。行は寡くとも才は優るれば、宜しく器任の用を獲べし。是を以て三仁は塗を殊にするも歸を同じくし、四子は行いを異にするも義は均し〔一〕。陳平・韓信は邑里に笑侮せらるるも、而れども功を帝王に收め、屈原・伍胥は人主に容れられざるも、而れども名を竹帛に顯すは、是れ篤論の明らかにする所なり。
今の中正、才實に精しからず、務めて黨利に依り、稱尺を均しくせず、務めて愛憎に隨う。與えんと欲する所の者は、虛を獲て以て譽を成し、下さんと欲する所の者は、毛を吹いて以て疵を求む。高下は強弱に逐い、是非は愛憎に由る。世の興衰に隨い、才實を顧みず、衰うれば則ち削下し、興れば則ち扶上し、一人の身、旬日にして狀を異にす。或いは貨賂を以て自ら通じ、或いは協を計るを以て登進し、附託する者は必ず達し、道を守る者は困悴す。身に報ゆる無ければ、必ず割奪せられ、己に私する有れば、必ず其の欲するを得ん。是を以て上品に寒門無く、下品に勢族無し。時に暨びて之有るは、皆な曲さに故有り。主を慢り時を罔い、實に亂源と爲る。政を損うの道の一なり。
州都を置くは、州里の清議を取り、咸な歸服する所にして、將に以て異同を鎮め、言議を一にせんとすればなり。一人の身にして、一州の才を了ると謂わざるに、一人審らかにせざれば便ち之に坐す。若し然らば、仲尼より以上、庖犧に至るまで、失有らざるは莫く、則ち皆な堪えざれば、何ぞ獨り中人なる者のみを責めんや。若し殊に修めずんば、自ら更めて選ぶべし。今、其の任を重んずるも其の人を輕んじ、立つる所の品格、還た刁攸に訪う。攸は州里の歸する所に非ず、職分の置く所に非ず。今、之に訪うは、正を服せざる所に歸し、事を職とせざる所に決し、以て讒構の源を長じ、以て乖爭の兆を生じ、都を立つるの本旨、俗を理むるの深防に非ざるに似るなり。主者、既に刁攸と善く、攸の下す所にして復た選ぶに二千石を以てすること、已に數人有り。劉良の上むは攸の下す所、石公の罪せらるるは攸の行う所にして、駁違の論は州里に橫たわり、嫌讎の隙は大臣に結ばる。夫れ桑妾の訟、禍は吳楚に及び、鬭雞の變、難は魯邦に興る。況んや乃ち人倫交々爭いて部黨興り、刑獄滋々生じて禍根結ばるるをや。政を損うの道の二なり。
本と格の體を立つるは、將て人倫に序有ること、貫魚次を成すが若きを謂えばなり。九品を爲す者、下者を取りて格を爲すは、才德に優劣有り、倫輩に首尾有るを謂えばなり。今の中正、自ら遠ざくる者を務りては、則ち一國に抑割し、上人無からしめ、穢劣の下比せられては、則ち拔舉すること次に非ず、幷びに其の身を容る。公にして以て格を爲すに、坐ろに其の私を成す。君子に大小の怨無く、官政に繩姦の防無し。上は明主を欺き、下は人倫を亂すを得しむ。乃ち優劣をして地を易え、首尾をして倒錯せしむ。貴異の器を推すに、凡品の下に在らしめ、不肖を負戴するものもて、越く成人の首に在らしむ。政を損うの道の三なり。
陛下の踐阼するや、天地の德を開き、不諱の詔を弘め、忠直の言を納れ、以て天下の情、太平の基、不世の法を覽んとするなり。然して賞罰は、王公よりして以て庶人に至るまで、法を加えざる無し。中正を置き、委ぬるに一國の重を以てするも、賞罰の防無し。人心には故多く、清平なる者は寡く、故に怨訟する者は眾し。之を聽せば則ち告訐已む無く、禁絕すれば則ち侵枉は極まる無きに、其の理訟の煩よりは、猶お侵枉の害に愈る。今、訟訴を禁ずれば、則ち一國の口を杜ざし、一人の勢を培い、縱橫にして、顧憚する所無きを得しめん。諸そ枉を受けし者は怨を抱き直を積むも、獨り天地の無私の德を蒙らず、而して邪人に壅蔽せらるるの銓を長ず。上は明をして下照せざらしめ、下は情をして上聞せざらしめん。政を損うの道の四なり。
昔、前聖の世に在り、風俗を敦くし、百姓を鎮靜せんと欲するや、鄉黨の義を隆び、六親〔二〕の行を崇び、禮もて庠序に教えて以て相い率わしめ、賢不肖、是に於いて見る。然して鄉老は其の善を書して以て天子に獻じ、司馬は其の能を論じて以て職に官し、有司は績を考じて以て黜陟を明らかにす。故に天下の人、退きて本を修むれば、州黨に德義有り、朝廷に公正有り、浮華・邪佞は容厝する所無し。今、一國の士は多き者は千もて數え、或いは異邦に流徙し、或いは殊方に取給し、面すら猶お識らざるに、況んや其の才力を盡くすをや。而るに中正は知るとも知らざるとも、其の品狀するに當たり、譽を臺府より采り、毀を流言より納る。己に任ずれば則ち不識の蔽有り、聽受すれば則ち彼此の偏有り。知る所の者は愛憎を以て其の平を奪い、知らざる所の者は人事を以て其の度を亂し、既に鄉老の紀行の譽無く、又た朝廷の考績の課に非ず、遂に進官の人をして、近きを棄て遠きを求め、本に背き末を逐わしむ。位は求を以て成り、行に由りて立たず、品は功を校えず、黨譽は虛妄なり。政を損うの五なり。
凡そ品を立て狀を設くる所以の者は、人才を求めて以て物を理むればにして、虛しく名譽を飾り、相い好醜を爲すに非ず。孝悌の行ありと雖も、朝廷に施さざれば、故に門外の事、義を以て恩を斷ず。既に以て官に在るに、職に大小有り、事に劇易有れば、各々功報有るは、此れ人才の實效にして、功分の得る所なり。今、則ち之に反し、限に於いて報に當たるに、職の高しと雖も、還って卑品を附し、官に績無きも、而れども高敘を獲るは、是れ功實を抑えて虛名を隆ぶと爲すなり。上は天朝の考績の分を奪い、下は浮華・朋黨の士を長ず。政を損うの六なり。
凡そ官は事を同じくせず、人は能を同じくせず、其の能を得れば則ち成り、其の能を失えば則ち敗る。今、品は才能の宜とする所を狀らず、而して九等を以て例と爲す。品を以て人を取れば、或いは才能の長ずる所に非ず、狀を以て人を取れば、則ち本品の限る所と爲る。若し狀の其の實を得るも、猶お品狀相い妨げ、選舉を繫縶し、才宜に精なるを得ざらしむ。況んや今の九品、疏んずる所は則ち其の長を削り、親しくする所は則ち其の短を飾る。徒らに白論を結び、以て虛譽を爲せば、則ち品は能を料らず。百揆は何を以てか理むるを得、萬機は何を以てか修むるを得んや。政を損うの七なり。
前の九品の詔書、善惡は必ず書し、以て褒貶を爲すに、當時の天下、少しく忌む所有り。今の九品、下す所は其の罪を彰らかにせず、上す所は其の善を列ねず、褒貶の義を廢し、愛憎の斷に任じ、清濁は流を同にし、以て其の私を植つ。故に前品に反違し、其の形勢を大いにし、以て眾人を驅動し、必ず己に歸せしむ。進む者は功無くして以て勸を表せられ、退く者は惡無くして以て懲を成す。懲勸明らかならざれば、則ち風俗は污濁す。天下の人、焉くんぞ德行を解りて人事に銳ならざるを得んや。政を損うの八なり。
此に由りて之を論ずれば、中正を選びて其の人に非ず、權勢を授けて賞罰無く、或いは中正を缺くるも禁檢無ければ、故に邪黨は肆にするを得、枉濫縱橫たり。職は中正と名づくと雖も、實は姦府たり、事は九品を名づくるも、而れども八損有り。或いは恨、親親に結ばれ、猜、骨肉に生じ、當身は敵讎に困しみ、子孫は其の殃咎に離る。斯れ乃ち歷世の患にして、徒だに當今の害に非ざるなり。是を以て時主は時を觀て法を立て、姦を防ぎ亂を消し、常制有る靡ければ、故に周は殷に因り、損益する所有り。中正九品に至りては、上聖・古賢の皆な爲さざる所なれば、豈に此の事を蔽いて不周なるを有たんや。將た政化の宜を以て此を取る無からんや。魏の立ちてより以來、未だ其の人を得るの功を見ず、而して讎薄の累を生ず。風を毀り俗を敗り、化に益無く、古今の失、此より大なるは莫し。愚臣以爲えらく、宜しく中正を罷め、九品を除き、魏氏の弊法を棄て、一代の美制を立つべし。

疏奏せらるるや、優詔もて之に答う。後に司空の衞瓘等も亦た共に宜しく九品を省き、古の鄉議里選を復すべしと表すも、帝、竟に施行せず。

〔一〕「四子」については明確ではない。ただ、この部分は、『漢書』巻一百上・叙伝上所収の班固「幽通之賦」に「三仁殊而一致兮、夷・惠舛而齊聲。」とあるのを典拠としている。このうち、「夷」「恵」は、顔師古注にも述べられているように「伯夷」と「柳下恵」のことであり、これはさらに『論語』微子篇に「逸民、伯夷・叔齊・虞仲・夷逸・朱張・柳下惠・少連。子曰『不降其志、不辱其身、伯夷・叔齊與。』謂柳下惠・少連、『降志辱身矣。言中倫、行中慮、其斯而已矣。』謂虞仲・夷逸、『隱居放言。身中清、廢中權。』『我則異於是、無可無不可。』」とあるのを典拠としている。「幽通之賦」では伯夷と柳下恵が名声を等しくしたとあるので、伯夷と並ぶ叔斉、柳下恵と並ぶ少連もまた名声が等しいということになり、合計で四人となる。そこでここでは、「四子」は伯夷・叔斉・柳下恵・少連の四人であると解釈した。
〔二〕「六親」は、文献によってその具体的に指す内容が異なる。大まかには父子兄弟などの親族や、その間の関係のことを示す。

現代語訳

劉毅は、魏が九品を立てたのは一時的な仮の制度であり、しかも適切に人材を得ることができているとは見えず、そして(政道を損なう)八つの損害があるとして、そこで上疏して言った。

私が聞くところによりますと、為政者は、才能に応じて官職を授けることを本幹とする、と言います。ただ、才能に応じて官職を授けることには三つの困難があり、そしてそれが興廃の原因となります。人物を見極めるのが難しいというのがその一つ目です。(担当者が)愛憎に基づいて選任してしまうのを防ぎ難いというのがその二つ目です。真情であるのか虚偽であるのかを明らかにし難いというのがその三つ目です。今、中正の職を立て、彼らに九品を定めさせ、品を高くつけるも低くつけるも中正の思い通りであり、栄光を受けるも屈辱を受けるもその決定権は中正の手に握られています。それは君主のものであるはずの賞罰の権限を操り、朝廷の権勢を奪うものでございます。愛憎は中正の心の中で決定され、真情であるか虚偽であるかの判断は中正次第です。公的には(その品評が適切なものであったかどうかに基づいて)考課を受けるという責任もなく、私的には(その品評が誤っていたことにより)告発される心配もありません。彼らは多方面に気を配らなければならず、一方で位を求める者も様々に溢れています。そして清廉・謙譲の風潮は滅び、礼法に従わない風俗がそこに成立します。天下は言い争いで溢れ、ただ品位を争うばかりで、他人を推挙して位を譲ったなどという話を耳にすることはありませんが、私は陛下のために内心それを恥じております。
そもそも、名状というのは、その才能を適確に表していることで「清」であると言うことができ、品等というのは、その実態と合致していることで「平」であると言うことができ、安危の要であるため、明確にせざるを得ないものでございます。その両者が清であり平であるというのは、政化の美点であり、枉(正しくない)であり濫(誤り)であるというのは、混乱の汚点であるので、明察しないわけにはいかないものであります。ところで、人の才能というのはそれぞれ異なるものであり、あらゆる才能を兼ね備えている者というのはほとんどおりません。器が大きい者もいれば小さい者もおり、明達するのが早い者もいれば遅い者もおります。以前には見識が狭くとも、後に才徳を修めたというような者であれば、日々進歩したということに対する報酬を受けるべきでございます。正道を堅持し、時俗に流されないような者であれば、質直(質朴で正直)であるとの称誉を有するべきでございます。度量が遠大で、欠点が少ないような者であれば、俗を超越しているという評価を得るべきでございます。正直であることを心掛け、飾り立てることをしないような者であれば、清実(清廉で朴実)であるとの名誉を得るべきでございます。善行は少なくとも、才能が優れているような者であれば、高い評価を受けて信任されるという抜擢をこうむるべきでございます。だからこそ、三仁(殷の微子・箕子・比干)は、その歩んだ道は異なっていても、行き着いた先は同じであった(=その三人は行いこそ異なっていたものの、みな仁であることで称えられた)のであり、四子(伯夷・叔斉・柳下恵・少連)は行いこそ異なっていたものの、その義はいずれも同じであったのです。(前漢の)陳平・韓信は郷里で笑われ馬鹿にされたものの、しかし帝王に対して功績を収め、(春秋戦国時代の)屈原・伍子胥(ごししょ)は時の君主に受け容れられなかったものの、しかし史書に名声を顕著に残しましたが、それらは適確な評論によって明らかにされたものでございます。
今の中正は、本当の才能というものに精通しようとせず、党派の利益に基づいてばかりで、その秤や尺は公平ではなく、愛憎に従ってばかりいます。(高い品を)与えようとしている相手に対しては、虚構を創り上げて名誉を成し、品を下げようとしている相手に対しては、毛を吹いて傷を探すように欠点をあら捜しします。(授けられる品の)高低は対象者の強弱に基づいて決められ、(対象者の品格の)是非は中正の愛憎によって判断されます。中正は世の興衰(=情勢)に従うばかりで本当の才能というものを顧みず、対象者をめぐる情勢が衰えていれば、その者の品を削減して下げ、その情勢が盛んであれば、その者の品を助け起こして上げ、そうして同じ人物であっても、十日程度の短い期間の中で品評が変わってしまうというような具合です。ある者は賄賂によって自分の身を高位に通じさせ、ある者は計算高く胡麻をすって昇進し、請託する者は必ず栄達し、正道を守る者は困窮して憔悴するというような有り様です。中正に見返りを与えなければ、必ず品を落とされるという一方、中正に賄賂を贈れば、必ず思い通りの結果を得られます。そうして、上品には寒門の出自の者はおらず、下品には権勢ある一族の者はいないということになってしまうのです。時々、そのようなことがある(=上品に寒門の出自の者が、下品に権勢ある一族の者がいる)のは、いずれも個別に理由があるのです。(以上のような有り様は)君主を侮り、時世を欺くものであり、実に混乱の源でございます。これが、政道を損なう道の一点目です。
州都(州都大中正)を置いたのは、州里の清議(輿論)を採取し、それらの輿論をみな州都のもとに帰服させ、そうしてそれぞれの人物に対する評判の差異を無くし、言論を統一しようとしたためでございます。しかし、たった一人の身で、一州すべての人材について知悉できるなどとは誰も思いませんが、(しかし実際には)一人でも知り得ていない者がいれば、それだけで州都はそれについて罪に問われるという有り様です。もしそのような理屈がまかり通ってしまえば、仲尼(孔子)以上、庖犧(伏羲)に至るまでの聖人たちにも、過失は必ずあるものであり、そうなれば誰もがその職任を完遂することができないことになってしまいますので、どうして常人だけを責めることができましょうか。もしその州都がまったくその職任を尽くしていないという場合であれば、もちろん改めて別の州都を選任すべきではございます。ですが、今、その任務を重んじておきながら、それを担う人物を軽んじ、州都が定めた品の格付けについて、それが適切かどうかをさらに刁攸(ちょうゆう)に尋ねていらっしゃいます。刁攸は、州里の輿論が彼のもとに集まっているというわけでもなければ、その職分を担うべき立場にもありません。それなのに今、刁攸にそれを問うというのは、州里の輿論が帰服していない者の判断を正しいものであるとし、その職分に無い者にそれを決定させることになり、それにより讒言を生む源を助長し、互いに蹴落とし合う兆を生じさせ、それは州都を立てた本旨でもなければ、俗を治めるための慎重な防備の策でもないように思われます。担当者が刁攸と仲が良く、それにより刁攸の下した判断に基づき、さらに(本来つけられたものよりも高い品をつけられて)二千石の位に選任された者というのも、すでに数人おります。劉良の位が進められたのは刁攸の下した判断に基づくものであり、石公(石苞)が謂われなき罪に問われたのも刁攸のしわざであり、そのせいで、意見が食い違って対立し合うような議論が州里に満ち溢れ、互いに恨んでいがみ合うというような不和が大臣たちの間に結ばれています。(春秋時代には)呉と楚の国境を挟んだ二つの邑の女子たちが桑の取り合いをし、それが原因となって国同士の戦争という禍に発展し、また(春秋時代の魯国の)季氏と郈氏が闘鶏の遊戯を行い、その際に生じた不和に端を発する変事が、やがて魯国を二分する内乱を引き起こしました。(そのような些細な対立からでも大変な事態を招くものであるのに)ましてや人物評価に関して互いに争い合って党派が生じ、刑獄がますます発生して禍根が結ばれるようになるなどという事態であればなおさらです。これが、政道を損なう道の二点目です。
もともと(後漢末に陳群たちが)格付けの体制を立てたのは、それにより(それまでは人によって基準が異なってまちまちであった)人物評価に秩序があるようにし、まるで(串焼きにするために)頭を揃えて串に貫かれた魚たちがきっちり並んでいるが如き状態にしようと考えたからでございます。九品の制度を作った者たち(=陳群たち)が、(才徳のある人物のみを推挙する漢代の察挙とは異なり)才徳に劣る者も含めて格付けを行うようにしたのは、才徳には優劣があり、人々の性質には首尾(ピンとキリ)があると考えたからでございます。しかし、今の中正たちは、自分と親しくしない者を軽く見ては、一国(一郡)の中に抑え込み(=勅任官として官界に参入するのを妨害し)、才徳の高い人物が九品の列にいないようにさせ、また穢濁で才徳の劣る人物であっても(その家門の権勢を恐れて)そのことを見て見ぬふりをしておもねっては、抜擢・推挙して破格の待遇を与え、そうしてみな保身に走っているという有り様です。公事において格付けを行うはずが、ひとりでにその権限が私物化されてしまっております。君子たちは(自分たちが不当な扱いを受けても)大小の怨みを抱くことなく(その境遇を甘んじて受け容れ)、官政の側ではそのような姦悪なる者たちを正す防備がございません。その結果、上は名君を欺き、下は人物評価を乱すという事態を許してしまっております。そうして優劣が互い違いになり、首尾が倒錯するようにさせてしまっています。そのため尊重すべき優れた器の人物は、推挙されても凡人の下に位置づけられ、不肖の名を負う者が推挙されると、才徳を完備した人物たちをはるかにしのいで首位に据えられてしまうというような有り様です。これが、政道を損なう道の三点目です。
陛下が即位されてより、天地の如き徳をお開きになり、忌憚なく諫言するようにとの詔を広められ、忠実で正直な者の意見を採用され、それによって天下の情や、太平の基礎、世にも傑出した法をご覧になろうとなされています。そして賞罰に関しては、王公から庶人に至るまで、あらゆる者に法を適用されるようになさっております。しかし、中正を置くに当たっては、一国の人材評価の重任を委ねているにもかかわらず、その実績に応じて賞罰を行うことにより職権濫用を防ぐというような措置を講じられておりません。人心には偽りが多く、「清」であり「平」である者は少ないため、故に恨みを抱き訴訟しようとする者は多くおります。それを許せば、互いに罪をあばいて詰り合うことがやむことなく、それを禁止すれば、濡れ衣を着せられて泣きを見る者が際限なく生じますが、その訴訟を裁く繁雑さよりも、濡れ衣を着せられて泣きを見る者が生じることの害の方が甚大です。今、訴訟を禁じてしまえば、一国(一郡)の口を封じ、中正一人の権勢を培うことになり、それにより中正が思いのままに振る舞い、忌憚することが無いというような状態を許してしまうことになりましょう。そうなれば、濡れ衣を着せられたあらゆる人々は、怨みを抱き、直情を募らせ、彼らにだけ天地の無私の徳をこうむることが許されないことになり、そして邪悪な人々に抑圧されるという選抜の法を助長させてしまうことになりましょう。そうして、上は陛下の恩恵の光明が下々の者を照らすことがなくなり、下は民情が上聞されることがなくなるというような事態を招いてしまいましょう。これが、政道を損なう道の四点目です。
昔、前代の聖人たちの世にあって、風俗を素朴で誠実なものにし、人々に平穏をもたらそうとした際には、郷里の人々の間の義を貴び、六親の間の行いを貴び、礼に基づいて庠・序(地方の教育機関)で教育を施してそれを守り従わせ、人々が賢明であるのか不肖であるのかが、そうしてはっきりと分かるようになりました。そして郷老はその者の善行を書に記してそれを天子に献上し、司馬はその能力を論じてそれにより官職を授け、担当官は実績に基づいて考課を行ってそれにより昇進させたり左遷したりすることを明確にしました。故に天下の人が退いて本幹を修めれば、州里の人々には徳義があり、朝廷には公正さがあるようになり、上辺だけ飾って内実が伴わないのに無駄に栄誉を得ているような者や邪佞な者は、身の置き所が無くなりましょう。今、一国(一郡)の士人は、多い場合には何千人もおり、あるいは異郷に流れて移住し、あるいは異郷に出稼ぎに行き、中正はそのような人々の顔すら知らないのに、ましてやそのような人々の才力について知り尽くすことなどできましょうか。そこで中正は、その人物を知っているか知らないかにかかわらず、その品状を作成するに当たり、中央政府の人々の評価の中からその人物の美誉に関わる内容を採用し、流言の中からその人物の誹謗に関わる内容を採用しております。もし自分の思うままに品状を作成すれば、その人物を知らないことの弊害が生じ、もし中央政府の人々の評価や流言から聴取すれば、あちらに偏ったりこちらに偏ったりして公平さを欠くことになります。知っている者に関しては愛憎に基づいてその「平」を失い、知らない者に関しては請託に基づいてその節度を乱し、古の郷老がその者の善行を記してその美誉を天子に献じたというようなことが行われなくなっただけでなく、それに加えて中正は朝廷による実績に基づく考課の対象にもならず、それにより、位を進めて官を授けることを担当する者は、対象者に近しい人物の意見を捨て、対象者のことをよく知らない遠い人物の意見を求め、本幹に背き、末節に従うようになってしまいました。位は請託によって成り、行いによって立てられることなく、品は功績を踏まえて考定されるものではなくなり、仲間内の褒め合いは虚妄のものと成り果てました。これが政道を損なう道の五点目です。
そもそも品を立て、品状を設けるのは、人才を求めてそれによって民を治めるためであり、無駄に名誉を飾り、美醜を定めるためではありません。孝悌の善行があっても、それは朝廷で施すべきものではないので、故に「門外のこと(=おおやけのこと)に関しては、公義によって私恩を断つ(=私恩よりも公義が優先される)」(『礼記』喪服四制篇)と言われるのです。すでに官にあれば、そこには大きな職もあれば小さな職もあり、難しい事務もあれば易しい事務もあるので、それぞれの状況に応じてその立てた功績に対して報いを受けるのは、これは本人の人才に基づいて得られる実際の効用であり、本人の功績に応じて得られるべきものでございます。しかし、今はそれに反し、期限が来て(中正により)報酬が授けられるに当たり、職能が高くとも却って低い品を付与され、在官中に大した実績が無くとも高い地位を得られるようになっており、これでは実際に功績を立てた者を抑え込み、虚名のある者を尊ぶということになってしまいます。そうして中正は、上は朝廷による功績に基づく考課の権限を奪い、下は上辺だけ飾って内実が伴わないのに無駄に栄誉を得て、しかも私利のために徒党を組んでいるような悪しき者たちを助長することになってしまっております。これが政道を損なう道の六点目です。
そもそも官の職務はそれぞれ異なり、人の能力もそれぞれ異なり、適任な能力のある人物を得ればその事業は成功し、適任な能力の無い人物を据えてしまえばその事業は失敗するものです。今、品というものは、その人物の才能がどの点において秀でているのかということを表わすものではなく、ただ九等に分類して上下を表わしているに過ぎません。そうすると、品に基づいて人を採用すれば、あるいはその才能の得意分野ではない種類の官職に就けてしまうことになり、一方で、その人物の才能が適任であるからとして人を採用しようにも、本品の制限によりそれがかなわないということも生じてしまいます。もし名状がその人物の実態を適確に反映していたとしても、そのように品と名状とが互いに妨げ合い、選挙を束縛することになり、適材適所を精密に行えないようにさせてしまっています。ましてや今の九品の制度では、中正たちは自分が疎んずる相手に対しては、その長所を覆い隠し、自分と親しい相手に対しては、その短所をかばって飾り立てております。無駄に空言を並べ、そうして虚誉をでっちあげているので、品はその才能を計るための指標たり得なくなってしまいました。そうなってしまえば、諸々の政務はどうして治まり、国政における諸々の重大事はどうして修められるというのでしょうか。これが政道を損なう道の七点目です。
以前、九品の制度を定めた際の詔書によれば、(品状においては)対象者の善悪について必ず書き記し、それによって褒貶を行うということでありましたが、当時の天下においても、少しそれを嫌う風潮がございました。今の九品の制度に至っては、中正たちは品を下げる際にはその者の罪を明らかに記すことはせず、品を上げる際にもその善行を書き連ねることをせず、褒貶の義を廃れさせ、愛憎に基づく判断に委ね、清流と濁流とが一緒くたに混ざり、そうして中正たちはその私党を立てているのです。故に、(自分の都合に合わせて)以前に付された品とはまったく異なるような品を新たに付し、自分の勢力を拡大させ、そうして多くの人々を駆使し、必ず自分の言いなりになるようにさせるのです。それにより、位を進められる者は功績も無いのに表彰を受けることになり、位を下げられる者は悪行も無いのに懲罰を受けることになるというような事態を招いております。何が懲罰の対象となり、何が表彰の対象となるのかが明らかでなければ、風俗は汚濁にまみれることになります。そうなれば、天下の人々は、どうして徳行を怠って請託に気を注ぐようなことがないようにできましょうか。これが政道を損なう道の八点目です。
以上のことから論じれば、中正を選任しても不適切な人物ばかりで、彼らに権勢を授けてもその責任に対する賞罰は設けられず、それによってあるいは中正さが損なわれてもそれを禁制することも無いので、故に邪悪な者どもが徒党を組んで好き勝手にすることを許し、思うままに人に濡れ衣を着せたり、身内の名誉を濫りに飾り立てたりさせてしまっているのです。その職は中正と名づけられていますが、実態は姦府でしかなく、その制度は九品と名づけられていますが、しかし八つの損害があります。あるいは恨みが親族の間に結ばれ、猜疑が親子や兄弟の間に生じ、自身は仇敵に苦しめられ、子孫はその災禍にかかるという具合でございます。これは歴代にわたる問題でございまして、ただ現在のみの害ではございません。だからこそ、その時々の君主は、時世を見て法を立て、姦悪を防ぎ、混乱を除き、常なる制度など無いのでございまして、故に周は殷の制度を踏襲しながらも、一部を廃止したり部分的に新制を立てたりしたのです。中正や九品の制度に関しては、上古の聖賢たちがいずれも行わなかった制度でございますれば、どうしてこのことに目をつむり、不完全なものを維持するべきでございましょうか。どうして政化の事宜を求めないでいらっしゃるのでございましょうか。魏が建立されて以来、未だ(九品の制度によって)ふさわしい人物を得たという功能が見られず、しかも互いに恨んで軽んじ合うという弊害を生じております。風俗を損ない、教化にとって益は無く、古今の失策の中でも、これよりひどいものはございません。私が思いますに、どうか中正の制度をやめ、九品を廃止し、魏朝の害多き法を捨て、我が大晋一代の素晴らしき制度を改めて立てるべきです。

その疏文が上奏されると、武帝は劉毅を褒める詔を下してそれに答えた。後に司空の衛瓘(えいかん)らもまた共同で上表し、九品を廃止し、古の郷議里選を復活させるべきだと述べたが、武帝は結局、それを施行することはなかった。

原文

毅夙夜在公、坐而待旦、言議切直、無所曲撓、爲朝野之所式瞻。嘗散齋而疾、其妻省之、毅便奏加妻罪而請解齋。妻子有過、立加杖捶。其公正如此。然以峭直、故不至公輔。帝以毅清貧、賜錢三十萬、日給米肉。年七十、告老。久之、見許、以光祿大夫歸第、門施行馬、復賜錢百萬。
後司徒舉毅爲青州大中正、尚書以毅懸車致仕、不宜勞以碎務。陳留相樂安孫尹表曰「禮、凡卑者執勞、尊者居逸、是順敘之宜也。司徒魏舒・司隸校尉嚴詢與毅年齒相近、往者同爲散騎常侍、後分授外內之職、資塗所經、出處一致。今詢管四十萬戶州、兼董司百僚、總攝機要、舒所統殷廣、兼執九品、銓十六州論議、主者不以爲劇。毅但以知一州、便謂不宜累以碎事、於毅太優、詢・舒太劣。若以前聽致仕、不宜復與遷授位者、故光祿大夫鄭袤爲司空是也。夫知人則哲、惟帝難之。尚可復委以宰輔之任、不可諮以人倫之論、臣竊所未安。昔鄭武公年過八十、入爲周司徒、雖過懸車之年、必有可用。毅前爲司隸、直法不撓、當朝之臣、多所按劾。諺曰『受堯之誅、不能稱堯。』直臣無黨、古今所悉。是以汲黯死於淮陽、董仲舒裁爲諸侯之相。而毅獨遭聖明、不離輦轂、當世之士咸以爲榮。毅雖身偏有風疾、而志氣聰明、一州品第、不足勞其思慮。毅疾惡之心小過、主者必疑其論議傷物、故高其優禮、令去事實、此爲几閣毅、使絕人倫之路也。臣州茂德惟毅、越毅不用、則清談倒錯矣。」
於是青州自二品已上光祿勳石鑒等共奏曰「謹按陳留相孫尹表及與臣等書如左。『臣州履境海岱、而參風齊魯、故人俗務本、而世敦德讓、今雖不充於舊、而遺訓猶存、是以人倫歸行、士識所守也。前被司徒符、當參舉州大中正。僉以光祿大夫毅、純孝至素、著在鄉閭、忠允亮直、竭於事上、仕不爲榮、惟期盡節、正身率道、崇公忘私、行高義明、出處同揆、故能令義士宗其風景、州閭歸其清流、雖年耆偏疾、而神明克壯、實臣州人士所思準繫者矣。誠以毅之明格、能不言而信、風之所動、清濁必偃、以稱一州咸同之望故也。竊以爲禮賢尚德、教之大典、王制奪與、動爲開塞、而士之所歸、人倫爲大。』臣等虛劣、雖言廢於前、今承尹書、敢不列啓。按尹所執、非惟惜名議於毅之身、亦通陳朝宜奪與大準。以爲尹言當否、應蒙評議。」
由是毅遂爲州都、銓正人流、清濁區別、其所彈貶、自親貴者始。太康六年卒、武帝撫机驚曰「失吾名臣。不得生作三公。」即贈儀同三司、使者監護喪事。羽林左監北海王宮上疏曰「中詔以毅忠允匪躬、贈班台司、斯誠聖朝考績以毅著勳之美事也。臣謹按、諡者行之迹、而號者功之表。今毅功德並立、而有號無諡、於義不體。臣竊以春秋之事求之、諡法主於行而不繫爵。然漢魏相承、爵非列侯、則皆沒而高行、不加之諡、至使三事之賢臣、不如野戰之將。銘跡所殊、臣願聖世舉春秋之遠制、改列爵之舊限。使夫功行之實不相掩替、則莫不率賴。若以革舊毀制、非所倉卒、則毅之忠益、雖不攻城略地、論德進爵、亦應在例。臣敢惟行甫請周之義、謹牒毅功行如右。」帝出其表使八坐議之、多同宮議。奏寢不報。
二子暾・總。

訓読

毅、夙夜公に在り、坐して旦を待ち、言議は切直にして、曲撓する所無く、朝野の式瞻する所と爲る。嘗て散齋して疾み、其の妻、之を省るや、毅、便ち妻に罪を加えんことを奏して齋を解かんことを請う〔一〕。妻子に過ち有れば、立ちどころに杖捶を加う。其の公正なること此くの如し。然るに峭直なるを以て、故に公輔に至らず。帝、毅の清貧なるを以て、錢三十萬を賜い、日ごとに米肉を給す。年七十にして、老を告ぐ。之を久しくして、許され、光祿大夫を以て第に歸り、門は行馬を施し、復た錢百萬を賜わる。
後に司徒は毅を舉げて青州大中正と爲すも、尚書は以えらく、毅は懸車して致仕したれば、宜しく勞するに碎務を以てすべからず、と。陳留相の樂安の孫尹、表して曰く「禮、凡そ卑き者は勞を執り、尊き者は逸に居るは、是れ順敘の宜なり。司徒の魏舒・司隸校尉の嚴詢は毅と年齒相い近く、往者同に散騎常侍と爲り、後に外內の職を分授せらるるも、資塗の經る所、出處は一致す。今、詢は四十萬戶の州を管り、兼ねて百僚を董司し、機要を總攝し、舒は統ぶる所は殷廣にして、兼ねて九品を執り、十六州の論議を銓るに、主者は以て劇と爲さず。毅、但だ一州を知るを以て、便ち宜しく累わすに碎事を以てすべからずと謂うは、毅に於いて太だ優にして、詢・舒において太だ劣る。若し前に致仕するを聽すを以て、宜しく復た遷を與え位を授くべからずとせば、故の光祿大夫の鄭袤の司空と爲るは是なり。夫れ人を知れば則ち哲、惟れ帝も之を難しとす。尚お復た委ぬるに宰輔の任を以てすべきも、諮るに人倫の論を以てすべからざるは、臣の竊かに未だ安んぜざる所なり。昔、鄭の武公は年八十を過ぎ、入りて周の司徒と爲りたれば、懸車の年を過ぐと雖も、必ず用うべきこと有り。毅は前に司隸と爲り、法を直くして撓めず、當朝の臣、按劾する所多し。諺に曰く『堯の誅を受くれば、堯を稱する能わず』と。直臣の黨する無きは、古今の悉くす所なり。是を以て汲黯は淮陽に死し、董仲舒は裁かに諸侯の相と爲る。而るに毅は獨り聖明に遭い、輦轂を離れず、當世の士は咸な以て榮と爲す。毅、身偏に風疾有りと雖も、而れども志氣は聰明なれば、一州の品第、其の思慮を勞するに足らず。毅、疾惡の心小々過ぎ、主者は必ず其の論議の物を傷わんことを疑い、故に其の優禮を高くし、事實を去らしめ、此の爲に毅を几閣し、人倫の路を絕たしむるなり。臣の州の茂德は惟だ毅のみにして、毅を越えて用いずんば、則ち清談は倒錯せん」と。
是に於いて青州の二品より已上、光祿勳の石鑒等、共に奏して曰く〔二〕「謹んで按ずるに、陳留相の孫尹の表及び臣等に與えし書は左の如し〔三〕。『臣の州は境を海岱に履み、而して風を齊魯に參じ、故に人俗は本に務め、而して世々德讓を敦くし、今、舊に充たずと雖も、而れども遺訓は猶お存す。是を以て人倫は行に歸し、士は守る所を識るなり。前に司徒の符を被るに、當に州大中正を舉ぐるに參ずべし、とあり。僉な以えらく、光祿大夫の毅は、純孝至素にして、著は鄉閭に在り、忠允亮直にして、上に事うるに竭くし、仕うるに榮を爲さず、惟だ節を盡くさんことを期し、身を正し道に率い、公を崇び私を忘れ、行は高く義は明らかにして、出處揆を同じくし、故に能く義士をして其の風景を宗とし、州閭をして其の清流に歸せしめ、年耆にして偏疾ありと雖も、而れども神明は克壯なれば、實に臣州の人士の準繫せんと思う所の者なり、と。誠に毅の明格を以てすれば、能く言わずして信ぜられ、風の動く所、清濁必ず偃すは、一州咸同の望に稱うを以ての故なり。竊かに以爲えらく、賢を禮し德を尚ぶは、教の大典にして、王制の奪與、動れば開塞を爲し、而して士の歸する所、人倫もて大と爲す』と。臣等は虛劣にして、言は前に廢せらると雖も、今、尹の書を承け、敢えて列啓せず。尹の執る所を按ずるに、惟だに名議を毅の身に惜しむのみに非ず、亦た朝宜を奪與の大準に通陳す。以爲うに、尹の言の當否、應に評議を蒙るべし」と。
是に由りて毅は遂に州都と爲り、人流を銓正し、清濁は區別せられ、其の彈貶する所、親貴なる者より始む。太康六年に卒するに、武帝は机を撫して驚きて曰く「吾が名臣を失えり。生きながらにして三公と作るを得ざらしむ」と。即ち儀同三司を贈り、使者をして喪事を監護せしむ。羽林左監の北海王宮、上疏して曰く「中詔、毅の忠允にして躬に匪ざるを以て、班台司を贈るは、斯れ誠に聖朝の考績するに毅の著勳の美事を以てするなり。臣、謹んで按ずるに、諡なる者は行の迹にして、而して號なる者は功の表なり、とあり。今、毅は功德並びに立つも、而れども號有りて諡無きは、義に於いて體せず。臣竊かに春秋の事を以て之を求むるに、諡法は行を主として爵に繫らず。然るに漢魏相い承け、爵列侯に非ざれば、則ち皆な沒して高行ありとも、之に諡を加えず、三事の賢臣をして、野戰の將に如からざらしむるに至る。銘跡の殊なる所、臣願わくば聖世の春秋の遠制を舉げ、列爵の舊限を改められんことを。夫の功行の實をして相い掩替せしめざれば、則ち率賴せざるは莫し。若し舊を革め制を毀るを以て、倉卒する所に非ずとせば、則ち毅の忠益、城を攻め地を略せずと雖も、德を論じて爵を進め、亦た應に例に在らしむべし。臣、敢えて行甫の周に請いしの義を惟い、謹んで毅の功行を牒すること右の如し」と。帝、其の表を出だして八坐をして之を議せしむるに、多く宮の議に同ず。奏寢めて報ぜず。
二子の暾・總。

〔一〕諸々の祭祀を行う際には、必ず皇帝を初め、それに参加する官吏たちは斎戒をして身を清めることとなっており、祭祀の種類に応じてその日数が決まっていた。もし斎戒中に汚染があれば、斎戒を解き、「副倅」と呼ばれる補佐役が代わりに礼を行うこととされていた。
〔二〕殿本では「於是青州自二品已上憑毅取正光祿勳石鑒等共奏曰」とある。そうすると、「是に於いて青州の二品より已上は毅に憑りて正を取り、光祿勳の石鑒等、共に奏して曰く」と訓読でき、「そこで、青州の二品以上の者たちは劉毅を頼みとして師表とし、光禄勲の石鑑らは、共同で上奏して言った。」という意味になる。
〔三〕本来の上奏文には、おそらく前文に掲載されている孫尹の上表文も下文に引用されていたと思われるが、『晋書』の記事の配列の都合上、二重の記載になってしまうため、この上奏文における孫尹の上表文の引用はカットされたものと思われる。

現代語訳

劉毅は、日夜公事に務め、座ったまま夜明けを待ち、言論は切実かつ正直であり、曲がったところが無く、朝廷の人々にも在野の人々にも敬い慕われた。劉毅はかつて散斎の礼を行っている最中に病気にかかり、その妻が様子を見に行ったところ、劉毅は(妻が斎戒に穢れを持ち込んだとして)妻を処罰するようにと即座に上奏し、そして斎戒を解くことを請うた。また、妻子に過ちがあれば、そのたびにすぐに杖でむち打つ罰を与えた。その公正さはこのような具合である。しかし、厳格で剛正であったので、そのため宰相の位には至らなかった。武帝は、劉毅が清貧であることから、三十万銭を賜与し、毎日、(脱穀済みの)穀物と肉を給付した。劉毅は七十歳で引退を申し出た。それからしばらくして、それが許され、光禄大夫の位で洛陽の私邸に帰ってそこに身を置き、その門には行馬(人馬通行止めのための木の柵)が施されることになり、さらに百万銭を賜与された。
後に司徒は劉毅を推挙して青州大中正に任じたが、それに対して尚書が、劉毅は車を懸けて致仕したのであるから、もう煩瑣な事務を任せてわずらわせるようなことはすべきではない、という意見を提出した。すると、楽安の人である陳留相の孫尹が上表して言った。「礼では、およそ位の低い者はあくせく働き、位の高い者は安逸を享受するものとされておりまして、これはまさに秩序に則った事宜でございます。司徒の魏舒(ぎじょ)、司隷校尉の厳詢(げんじゅん)は、劉毅と年齢が近く、昔日には一緒に散騎常侍に任じられ、後にそれぞれ別に内外の職を授けられることになりましたが、それぞれ異なる経歴(キャリア)を歩むに当たり、その出発点はみな同じでありました。今、厳詢は(司隷校尉として)四十万戸の州を管轄し、それに加えて百官の監察も担い、天下の枢要について総裁しており、一方で魏舒は(宰相として)非常に雑多で広大な範囲を統括し、(司徒の職務である)九品の制度をつかさどり、十六州の輿論を推しはかって人材を選抜しておりますが、担当者は彼らに対しては激務によりその老体をわずらわせているなどとは言いませんでした。それなのに劉毅の場合には、わずかに一州の品評を担当させるというだけで、それで煩瑣な事務を任せてわずらわせるべきではないなどと言うのは、劉毅に対して甘すぎ、厳詢・魏舒に対して厳しすぎます。もし以前に致仕を許可したのに、また官を進めて位を授けるのはいけないと言うのであれば、(すでに致仕した)もと光禄大夫の鄭袤を司空に任じたという前例があります。そもそも『人を知ることができれば、それはまことの哲人であり、尭帝ですらそれを難しいことであるとされた』(『尚書』皋陶謨)とある通りでございます。(鄭袤のように)再び起用して宰相の職任を委ねるのは良いのに、(劉毅のように)人事に関する論説について諮るのは良くないとするのは、これについては私も心中穏やかなりません。昔、鄭の武公が八十歳を過ぎてから、中央に入って司徒となったという例もありますので、車を懸けて致仕する年(すなわち七十歳)を過ぎたとしても、どうしてもその者を用いなければならないという場合もございます。劉毅は以前に司隷校尉となり、法を真っすぐにして曲げずに適用し、当時の朝臣たちは、多く取り調べを受けて弾劾されることになりました。次のような諺があります。『たとえ尭ほどの聖人であっても、その誅罰を受けてしまえば、もはや尭を称えることなどできなくなる(=たとえ公正・順当な裁きであっても、必ず恨みが生じる)』と。また、直臣はけしておもねったりしないとうのは、古今を通じて変わらないことでございます。だからこそ、(前漢の直臣である)汲黯は淮陽太守として地方に追いやられたまま死に、(同じく前漢の直臣である)董仲舒はかろうじて諸侯王の相となったに過ぎないという待遇を受けたのです。しかし、劉毅だけは聖明なる陛下にめぐり遭うことができ、陛下の左右から遠ざけられることもなく、当代の士人たちはみなそれを輝かしいことであるとしました。劉毅には、その身体の一部に中風の病があるものの、精神の方は明晰でございますので、一州の人物たちに対する品評くらいでは、その思慮をすり減らすというほどのことはないでしょう。劉毅には、悪事を嫌悪する心がやや過剰なところがあり、担当者はきっと劉毅の論議が人々を損なうのではないかと疑ったので、そこで劉毅に対して高い優待の礼遇を与え、実務から遠ざけ、そのため文書を机に積んだり棚にしまっておいたりするかのように劉毅を用いずに置きっぱなしにし、人物評価に参与する道を絶たせたのでございます。我が州の盛徳ある人物は劉毅しかおらず、劉毅を差し置いて用いないというのであれば、清談(輿論)は倒錯してしまいます」と。
そこで、青州の二品以上の者たちや、光禄勲の石鑑らは、共同で上奏して言った。「つつしんで参照いたしますに、陳留相の孫尹の上表および孫尹が私たちに与えた書は次の通りでございます。『我が州は、海や泰山にまたがる地帯を境域とし、斉や魯の風俗を備え、故に人々の風俗としては礼法に励みつとめ、そして代々謙譲を尊重し、今は昔にこそ及ばないものの、それでも遺訓はなお存続しています。だからこそ、人物評価では徳行を尊ぶこととされ、士人たちは何を守るべきかをわきまえているのです。先日、司徒の符を承りましたところ、州大中正を推挙することに参与せよとのことでございました。青州の人はみな次のように考えております。光禄大夫の劉毅は、孝の極み、質朴の至りでございまして、郷里に名を著し、忠誠かつ正直であり、力を尽くして陛下にお仕えし、出仕しても栄華を求めることなく、ただ節義を尽くそうと心掛け、身を正して正道に従い、公を尊び私を忘れ、徳行は高く義は顕著であり、出仕していたときも引退した後も変わらぬ道理を貫いており、故に義士たちにその風格を仰ぎ慕わせ、州里の人たちにその清流に帰服させることができているのでございまして、七十歳を越えて体の一部に病があるものの、なお精神は強盛でありますので、実に我が州の士人たちが帰服して師表にしようと思う対象となっています、と。誠に劉毅の光明なる風格を以てすれば、何も言わずとも信頼されるというほどであり、風が動くところであっても、清い者も濁った者も必ず争いをやめて安らかになるほどでありますのは、一州がみな心を同じくして帰服するというにふさわしい声望を有しているからでございます。心に思いますに、賢人を礼遇し徳を尊ぶというのは、教化の大典であり、王朝の制度における官爵の与奪というものは、ともすれば人材の取捨に関わるものであり、だからこそ士人たちが心を寄せる関心事と言えば、人物評価こそがその最大のものとなります』と。私たちは中身が無く愚劣でございまして、以前に意見を提出して退けられたものの、今、孫尹の書を受け取り、(改めてそのことを上聞いたしとうございますが、)ただ、重ねて申し述べることは敢えていたしません。孫尹の見解を参照いたしますと、ただ劉毅の名望とその品評の実力を惜しんでいるのみに留まらず、官爵の与奪についての大いなる準則に関して朝廷の事宜を申し述べております。思いますに、孫尹の意見の当否については、まさに評議にかけるべきものでございましょう」と。
それによって劉毅は州都(州都大中正)となり、人々の品流を推し量って正し、清濁は区別され、その弾劾し品を落とす対象は、武帝の親近の高貴な人物たちから始まった。劉毅が太康六年(二八五)に死去すると、武帝は机を叩いて驚いて言った。「我が名臣を失ってしまった。生前に三公の位に就かせることができなかった」と。そこで即座に儀同三司の位を追贈し、使者を派遣して葬儀の監督を行わせた。羽林左監の北海王・司馬宮が上疏して言った。「中詔(通常の詔とは異なって宮中から直接出される詔)によれば、劉毅が忠誠で我が身を顧みなかったことから、三公(と同等)の位を追贈されるとのことですが、これは誠に劉毅が顕著な勲功を立てたという美事に基づいて、陛下がその功績を適切に考察したものでございます。私がつつしんで調べましたところ、(『逸周書』謚法解では)謚というのは徳行の跡を示すものであり、号というのは功を表わすものであると言います。今、劉毅は功績と徳行の両者を並びに立てましたが、それなのに号だけ授けて謚が無いのは、その義に沿うものではありません。私がひそかに『春秋』の事例からこのことを求め調べたところ、諡法についてはその徳行を重視し、爵位の如何にかかわらず授けられておりました。しかし、漢や魏が天命を継承すると、その爵位が列侯以上でなければ、いずれも死去した際にたとえ高尚な徳行があったとしても、謚が授けられることはなく、三公を担ったような賢臣ですら、野戦で功績を上げただけの将にも及ばないという状況を招いてしまいました。その刻み記すべき事跡が特に優れているという場合につきましては、どうか陛下の世におかれましては春秋時代の遠い制度を実行され、(漢魏における)爵位の授与に関する古い制限を改められますようお願い申し上げます。そうして、彼の実際の功績と徳行が覆い隠されたり切り捨てられたりするようなことが無くなれば、みなが彼の事跡に従い頼ることになりましょう。もし旧制を廃止して改めるなどというのはそんな急に行えることではないとお考えになるのでしたら、次のようにされると良いでしょう。すなわち、劉毅が忠誠を尽くして築き上げた国益というのは、城を攻め取ったり、敵地を攻略したりするようなたぐいのものではございませんでしたが、代わりにその徳を論じて爵位を進め、それもまた爵位の授与の例として今後は含めるようにすべきでございましょう。私は、僭越にも(春秋時代の魯国の)季孫行父が周に対して(魯国の頌を作ることを許可する)命を請うた義を思い、つつしんで以上の如く劉毅の功績と徳行について牒に記させていただきました次第でございます」と。武帝がその上表文を取り出して尚書八坐にそのことについて議論させたところ、多くの者が司馬宮の議に賛同した。しかし、そのまま上奏は黙殺されて返事は下されなかった。
劉毅には、劉暾(りゅうとん)・劉総という二人の息子がいた。

(劉毅)子暾・程衛

原文

暾、字長升、正直有父風。太康初爲博士、會議齊王攸之國、加崇典禮、暾與諸博士坐議迕旨。武帝大怒、收暾等付廷尉。會赦得出、免官。初、暾父毅疾馮紞姦佞、欲奏其罪、未果而卒。至是、紞位宦日隆、暾慨然曰「使先人在、不令紞得無患。」
後爲酸棗令、轉侍御史。會司徒王渾主簿劉輿獄辭連暾、將收付廷尉。渾不欲使府有過、欲距劾自舉之。與暾更相曲直、渾怒、便遜位還第。暾乃奏渾曰「謹按司徒王渾、蒙國厚恩、備位鼎司、不能上佐天子、調和陰陽、下遂萬物之宜、使卿大夫各得其所。敢因劉輿拒扞詔使、私欲大府興長獄訟。昔陳平不答漢文之問、邴吉不問死人之變、誠得宰相之體也。既興刑獄、怨懟而退、舉動輕速、無大臣之節。請免渾官。右長史・楊丘亭侯劉肇、便辟善柔、苟於阿順。請大鴻臚削爵土。」諸聞暾此奏者、皆歎美之。
其後武庫火、尚書郭彰率百人自衞而不救火、暾正色詰之。彰怒曰「我能截君角也。」暾勃然謂彰曰「君何敢恃寵作威作福、天子法冠而欲截角乎。」求紙筆奏之、彰伏不敢言、眾人解釋、乃止。彰久貴豪侈、每出輒從百餘人、自此之後、務從簡素。
暾遷太原內史、趙王倫篡位、假征虜將軍、不受、與三王共舉義。惠帝復阼、暾爲左丞、正色立朝、三臺清肅。尋兼御史中丞、奏免尚書僕射・東安公繇及王粹・董艾等十餘人。朝廷嘉之、遂即真。遷中庶子・左衞將軍・司隸校尉、奏免武陵王澹及何綏・劉坦・溫畿・李晅等。長沙王乂討齊王冏、暾豫謀、封朱虛縣公、千八百戶。乂死、坐免。頃之、復爲司隸。
及惠帝之幸長安也、留暾守洛陽。河間王顒遣使鴆羊皇后、暾乃與留臺僕射荀藩・河南尹周馥等上表、理后無罪。語在后傳。顒見表、大怒、遣陳顏・呂朗率騎五千收暾、暾東奔高密王略。會劉根作逆、略以暾爲大都督、加鎮軍將軍討根。暾戰失利、還洛。至酸棗、值東海王越奉迎大駕。及帝還洛、羊后反宮。后遣使謝暾曰「賴劉司隸忠誠之志、得有今日。」以舊勳復封爵、加光祿大夫。
暾妻前卒、先陪陵葬。子更生初婚、家法、婦當拜墓、攜賓客親屬數十乘、載酒食而行。先是、洛陽令王棱爲越所信、而輕暾、暾每欲繩之、棱以爲怨。時劉聰・王彌屯河北、京邑危懼。棱告越、云暾與彌鄉親而欲投之。越嚴騎將追暾、右長史傅宣明暾不然。暾聞之、未至墓而反、以正義責越、越甚慚。
及劉曜寇京師、以暾爲撫軍將軍・假節・都督城守諸軍事。曜退、遷尚書僕射。越憚暾久居監司、又爲眾情所歸、乃以爲右光祿大夫、領太子少傅、加散騎常侍。外示崇進、實奪其權。懷帝又詔暾領衞尉、加特進。後復以暾爲司隸、加侍中。暾五爲司隸、允協物情故也。
王彌入洛、百官殲焉。彌以暾鄉里宿望、故免於難。暾因說彌曰「今英雄競起、九州幅裂、有不世之功者、宇內不容。將軍自興兵已來、何攻不克、何戰不勝、而復與劉曜不協、宜思文種之禍、以范蠡爲師。且將軍可無帝王之意。東王本州、以觀時勢、上可以混一天下、下可以成鼎峙之事、豈失孫劉乎。蒯通有言、將軍宜圖之。」彌以爲然、使暾于青州、與曹嶷謀、且徵之。暾至東阿、爲石勒游騎所獲、見彌與嶷書而大怒、乃殺之。暾有二子、佑・白。

佑、爲太傅屬、白太子舍人。白果烈有才用、東海王越忌之、竊遣上軍何倫率百餘人入暾第、爲劫取財物、殺白而去。

總、字弘紀、好學直亮、後叔父彪、位至北軍中候。

訓読

暾、字は長升、正直にして父の風有り。太康の初めに博士と爲り、會々齊王攸の國に之くに、典禮を加崇せんことを議するや、暾、諸博士と與に坐議して旨に迕う。武帝、大いに怒り、暾等を收めて廷尉に付す。赦に會いて出ずるを得るも、官を免ぜらる。初め、暾の父の毅、馮紞の姦佞を疾み、其の罪を奏せんと欲するも、未だ果たさずして卒す。是に至り、紞の位宦は日ごとに隆んなれば、暾、慨然として曰く「使し先人在らせば、紞をして患無きを得ざらしめましを」と。
後に酸棗令と爲り、侍御史に轉ず。會々司徒の王渾の主簿の劉輿の獄辭、暾に連なり、將に收めて廷尉に付さんとす。渾、府をして過ち有らしむるを欲せず、劾を距みて自ら之を舉げんと欲す。暾と更々相い曲直するや、渾怒り、便ち位を遜りて第に還る。暾、乃ち渾を奏して曰く「謹んで按ずるに、司徒の王渾、國の厚恩を蒙り、位を鼎司に備うるも、上は天子を佐け、陰陽を調和し、下は萬物の宜を遂げ、卿大夫をして各々其の所を得しむること能わず。敢えて劉輿に因りて詔使を拒扞し、私かに大府の獄訟を興長せんことを欲す。昔、陳平は漢文の問に答えず、邴吉は死人の變に問わざるに、誠に宰相の體を得るなり。既に刑獄を興すや、怨懟して退き、舉動は輕速にして、大臣の節無し。請うらくは渾の官を免ぜられんことを。右長史・楊丘亭侯の劉肇、便辟善柔にして、阿順を苟にす。請うらくは大鴻臚、爵土を削らんことを」と。諸そ暾の此の奏を聞く者は、皆な之を歎美す。
其の後、武庫に火あるや、尚書の郭彰、百人を率いて自ら衞りて火を救わざれば、暾、色を正して之を詰る。彰、怒りて曰く「我、能く君の角を截つなり」と。暾、勃然として彰に謂いて曰く「君、何ぞ敢えて寵を恃みて威を作し福を作すに、天子の法冠にして角を截たんと欲せんや」と。紙筆を求めて之を奏するに、彰、伏して敢えて言わず、眾人解釋したれば、乃ち止む。彰、久しく貴にして豪侈、出ずる每に輒ち百餘人を從うも、此よりの後、務めて簡素に從う。
暾、太原內史に遷り、趙王倫の位を篡うや、征虜將軍を假さるるも、受けず、三王と共に義を舉ぐ。惠帝の阼に復するや、暾は左丞と爲り、色を正して朝に立ち、三臺清肅たり。尋いで御史中丞を兼ね、奏して尚書僕射の東安公繇及び王粹・董艾等十餘人を免ず。朝廷は之を嘉し、遂に真に即く。遷りて中庶子・左衞將軍・司隸校尉たり、奏して武陵王澹及び何綏・劉坦・溫畿・李晅等を免ず。長沙王乂の齊王冏を討つや、暾、謀に豫り、朱虛縣公、千八百戶に封ぜらる。乂の死するや、坐して免ぜらる。之を頃くして、復た司隸と爲る。
惠帝の長安に幸するに及ぶや、暾を留めて洛陽を守らしむ。河間王顒の使を遣わして羊皇后を鴆せしめんとするや、暾、乃ち留臺〔一〕の僕射の荀藩・河南尹の周馥等と與に上表し、后の罪無きを理む。語は后の傳に在り。顒、表を見、大いに怒り、陳顏・呂朗を遣わして騎五千を率いて暾を收えしめんとしたれば、暾、東のかた高密王略に奔る。會々劉根、逆を作し、略は暾を以て大都督と爲し、鎮軍將軍を加えて根を討たしむ。暾、戰うも利を失い、洛に還る。酸棗に至り、東海王越の大駕を奉迎するに值う。帝の洛に還るに及び、羊后、宮に反る。后、使を遣わして暾に謝して曰く「劉司隸の忠誠の志に賴り、今日有るを得たり」と。舊勳を以て復た封爵せられ、光祿大夫を加えらる。
暾の妻は前に卒し、先んじて陵に陪いて葬る。子の更生、初めて婚するや、家法、婦は當に墓に拜し、賓客親屬數十乘を攜え、酒食を載せて行くべしとす。是より先、洛陽令の王棱、越の信ずる所と爲り、而して暾を輕んじたれば、暾、每に之を繩さんと欲し、棱は以て怨を爲す。時に劉聰・王彌、河北に屯し、京邑危懼す。棱、越に告げ、暾は彌と鄉親にして之に投ぜんと欲すと云う。越、騎を嚴えて將に暾を追わんとするや、右長史の傅宣、暾の然らざるを明らかにす。暾、之を聞き、未だ墓に至らずして反り、正義を以て越を責め、越、甚だ慚ず。
劉曜の京師に寇するに及び、暾を以て撫軍將軍・假節・都督城守諸軍事と爲す。曜の退くや、尚書僕射に遷る。越、暾の久しく監司に居り、又た眾情の歸する所と爲るを憚り、乃ち以て右光祿大夫と爲し、太子少傅を領せしめ、散騎常侍を加う。外は崇進を示すも、實は其の權を奪う。懷帝は又た暾に詔して衞尉を領せしめ、特進を加う。後に復た暾を以て司隸と爲し、侍中を加う。暾、五たび司隸と爲るは、物情に允協せるが故なり。
王彌の洛に入るや、百官は焉に殲く。彌、暾の鄉里の宿望なるを以い、故に難を免る。暾、因りて彌に說きて曰く「今、英雄は競いて起ち、九州は幅裂し、不世の功有る者、宇內容れず。將軍は兵を興してより已來、何ぞ攻めて克たず、何ぞ戰いて勝たず、而して復た劉曜と協わざれば、宜しく文種の禍を思い、范蠡を以て師と爲すべし。且つ將軍、可に帝王の意無からんや。東のかた本州に王たり、以て時勢を觀わば、上は以て天下を混一すべく、下は以て鼎峙の事を成すべく、豈に孫劉に失せんや。蒯通に言有り、將軍、宜しく之を圖るべし」と。彌、以て然りと爲し、暾を青州に使せしめ、曹嶷と與に謀らしめ、且に之を徵さんとす。暾、東阿に至るや、石勒の游騎の獲うる所と爲り、彌の嶷に與えし書を見て大いに怒り、乃ち之を殺す。暾に二子有り、佑・白。

佑は、太傅屬と爲り、白は太子舍人たり。白、果烈にして才用有るに、東海王越は之を忌み、竊かに上軍の何倫を遣わして百餘人を率いて暾の第に入らしめ、爲に財物を劫取し、白を殺して去る。

總、字は弘紀、學を好みて直亮、叔父の彪に後たり、位は北軍中候に至る。

〔一〕一般的な意味での留台とは、皇帝が都に不在の間、その留守中の政務を任されて留め置かれた政府の機構のこと。恵帝が張方によって長安に連行された際、尚書僕射の荀藩を筆頭とする大臣たちは恵帝に従って長安に赴くことはせず、半ば独立してそのまま洛陽に留まり、旧来の政府を維持した。その勢力は「留台」と呼ばれ、あるいは恵帝のいる長安の政府が「西台」と呼ばれたのに対して「東台」とも呼ばれた。

現代語訳

劉暾(りゅうとん)は、字を長升と言い、正直であり、父と同様の風格があった。太康年間の初めに博士となり、ちょうど斉王・司馬攸(しばゆう)が封国に赴くに当たり、司馬攸に対して典礼を加えて尊ぶことに関して議論が起こったところ、劉暾は諸々の博士と一緒に同席して議論し、武帝の意向に逆らった。武帝は大いに怒り、劉暾らを捕らえて廷尉に下した。恩赦に遭って獄から出ることができたが、官は罷免された。初め、劉暾の父の劉毅は、馮紞(ふうたん)の姦佞さを憎み、その罪を劾奏しようとしたが、果たせないうちに死去した。このときに至り、馮紞の官位は日に日に盛んになっていったので、劉暾は慨然として言った。「もし父上がご存命でいらっしゃったならば、馮紞を憂いの無いような境遇にいさせなかったであろうに」と。
後に酸棗令となり、侍御史に転任した。ちょうど、司徒の王渾の主簿である劉輿(りゅうよ)に関する訴訟案件が劉暾の担当となり、劉暾は劉輿を捕らえて廷尉に下そうとした。すると王渾は、自らの司徒府に過ちがあったという傷を作るのを欲せず、劉暾の弾劾を拒んで自ら劉輿を検挙しようとした。そして劉暾と互いに是非を争ったところ、王渾は怒り、そのまま位を退いて私邸に帰ってしまった。劉暾は、そこで王渾を劾奏して言った。「つつしんで考えますに、司徒の王渾は、国の厚恩をこうむり、三公の位に備えられているにもかかわらず、上は天子を補佐して陰陽を調和し、下は万物の事宜を伸ばし育んで卿大夫たちにそれぞれ適切な職務を全うさせることができておりません。そして僭越にも劉輿のことに関して詔によって派遣された使者に反抗し、私的な理由から公府が訴訟を起こすことを望みました。昔、(前漢の左丞相であった)陳平は(決獄の数や国の収支に関する)漢の文帝の問いに答えず(それは廷尉や治粟内史の職責であり、あくまで宰相の職責は陰陽の調和や万物の事宜を伸ばし育むことにあると述べ)、(同じく前漢の丞相であった)邴吉は(皇帝のために先払いが行われた道で乱闘騒ぎが起こって)死人が出るに至った変事に遭遇しても(それに関しては長安令や京兆尹の職責であり、あくまで宰相の職責は陰陽の調和にあるとして)何も問おうとはしませんでしたが、彼らは誠に宰相としての本質を心得ておりました。王渾は自ら刑獄を起こしておきながら、怨みを抱いて位を退き、その挙動は軽率で自分勝手であり、そこには大臣としての節義がありません。どうか王渾の官を罷免なさいますようお願い申し上げます。また、(司徒府の)右長史・楊丘亭侯の劉肇(りゅうちょう)は、人に媚び諂うだけの邪佞な人物であり、間に合わせに阿り従ってばかりいます。どうか大鴻臚に命じてその爵位と封土を削られますようお願い申し上げます」と。劉暾のこの劾奏を聞いた者は、みなそれを讃嘆した。
その後、武庫で火事が発生したとき、尚書の郭彰は、百人の人物を率いていながら自分の身を守るだけで火消しを行わなかったので、劉暾は色を正して郭彰を非難した。郭彰は怒って言った。「私は君の(その冠の)角を断つこともできるのだぞ」と。暾はムッとして顔色を変えて郭彰に言った。「君はどうして僭越にも恩寵を頼みとして賞罰を思いのままにしているにもかかわらず、(その恩寵の源である)天子の法冠に対してその角を断とうなどと言うのか」と。劉暾がその場で紙と筆を持って来させて郭彰を劾奏しようとしたところ、郭彰はひれ伏して何も言うことができなかったが、周囲の人々が郭彰のために釈明したので、そこで劉暾は劾奏することをやめた。郭彰は、長きにわたって高貴な位にあり、奢侈を極め、出かけるたびにいつも百人あまりを従えていたが、このことがあってからというもの、簡素であることを心掛けるようになった。
劉暾は太原内史に昇進し、やがて趙王・司馬倫が帝位を簒奪すると、征虜将軍の位を授けられたが、それを受け取らず、三王(斉王・司馬冏、成都王・司馬穎、河間王・司馬顒)と一緒に義兵を挙げた。恵帝が復位すると、劉暾は尚書左丞となり、色を正して朝廷に立ち、三台(尚書台・御史台・都水台)は清く静粛となった。まもなく御史中丞を兼任することになり、尚書僕射の東安公・司馬繇(しばよう)および王粋、董艾(とうがい)ら十数人を劾奏して罷免させた。朝廷はそれを褒め、そのまま(「尚書左丞・兼御史中丞」の位から昇進して)真官としての御史中丞の位に就いた。さらに昇進して太子中庶子、左衛将軍、司隷校尉を歴任し、武陵王・司馬澹(しばたん)および何綏(かすい)・劉坦・温畿・李晅(りけん)らを劾奏して罷免させた。長沙王・司馬乂(しばがい)が斉王・司馬冏(しばけい)を討った際には、劉暾はその謀議に参与し、封邑千八百戸の朱虚県公に封ぜられた。司馬乂が死去すると、連座して罷免された。しばらくして、また司隷校尉となった。
恵帝が(司馬顒配下の張方に連行されて)長安に行幸した際には、劉暾を洛陽に留めてそこを守らせた。河間王・司馬顒(しばぎょう)が使者を派遣して羊皇后を鴆毒により殺害しようとすると、劉暾はそこで留台の尚書僕射の荀藩、河南尹の周馥らと一緒に上表し、羊皇后には何の罪も無いことを訴えた。その内容については羊后の伝に載せてある。司馬顒は、その上表を見ると大いに怒り、陳顔・呂朗を派遣して五千騎を率いて劉暾を捕らえさせようとしたので、劉暾は東のかた高密王・司馬略のもとに逃れた。ちょうど劉根が(青州で)叛逆したので、司馬略は劉暾を大都督に任じ、鎮軍将軍の位を加えて劉根を討たせた。劉暾は戦って敗れ、洛陽に引き返した。酸棗に到着したところで、東海王・司馬越が恵帝を奉迎するのに遭遇した。恵帝が洛陽に帰還すると、(監禁されていた)羊皇后も宮に戻された。羊皇后は、使者を派遣して劉暾に感謝して言った。「劉司隷(劉暾)の忠誠の志のおかげで、今日のこの身があるのです」と。劉暾はかつての勲功によりまた封爵を受け、光禄大夫の位を加えられた。
劉暾の妻はすでに死去しており、先立って武帝の陵墓のそば(に賜与された劉家の墓地)に陪葬されていた。劉暾の息子の劉更生は結婚したばかりで、その家法では、新婦は劉家の墓に参拝し、賓客や親族たちを乗せた車を数十乗引き連れ、酒食を載せて行くこととされていた。これより以前、洛陽令の王棱(おうりょう)は、東海王・司馬越に信任され、そして劉暾を軽んじていたので、劉暾はいつも王棱の罪を正そうとしており、王棱はそれにより怨みを抱いていた。時に(匈奴漢の)劉聡・王弥が黄河の北岸に駐屯し、京師の人々はそれを憂え恐れた。そこで王棱は司馬越に告げ口し、劉暾は王弥と同郷であるため王弥に投降しようとしていると言った。司馬越は、騎兵を整えて劉暾を追わせようとしたが、右長史の傅宣が、劉暾はそのようなことをしようとはしていないということを明らかにした。劉暾はそれを聞き、まだ墓に到着しないうちに引き返し、その本来の目的を説明して司馬越を責め、司馬越は非常に恥じた。
(匈奴漢の)劉曜が京師に侵攻すると、朝廷は劉暾を「撫軍将軍・仮節・都督城守諸軍事」に任じた。劉曜が撤退すると、劉暾は尚書僕射に昇進した。司馬越は、劉暾が長きにわたり司隷校尉の地位におり、さらに人々に心を寄せられているということを憚り、そこで劉暾を(名誉職である)右光禄大夫に任じ、太子少傅を兼任させ、散騎常侍の位を加えた。外面では劉暾を尊んで位を進めたように見せかけたが、実際にはその権力を奪ったのであった。懐帝はさらに劉暾に詔を下して衛尉を兼任させ、特進の位を加えた。後にまた劉暾を司隷校尉に任じ、侍中の位を加えた。劉暾が五回も司隷校尉となったのは、劉暾が民心に添う人物であったからである。
王弥が洛陽に攻め入ると、百官は皆殺しとなった。王弥は、劉暾は郷里の名望家であるからとして、そのため劉暾は難を免れた。劉暾はそこで王弥に説いて言った。「今、英雄は競って立ち上がり、九州は分裂し、世に傑出した功績を上げた人物を、天下の英雄たちは受け容れることはしないでしょう。将軍は、兵を起こしてからというもの、攻めれば必ず勝ち、戦えば必ず勝ち、しかもさらに劉曜とそりが合わないという状況ですので、どうか(春秋時代の越国において功績を上げながら王に疑われて死を賜わった)文種の禍について思いを巡らし、(同時期の越国で功績を上げて早々に身を引いて天寿をまっとうした)范蠡(はんれい)を師とするべきでございましょう。そもそも将軍は、どうして帝王になろうとの意志をお持ちにならないのでしょうか。東のかた本州(青州)において王として君臨し、そうして時勢を窺えば、上手くいけば天下を統一することも夢ではなく、下手しても鼎立の形勢を成すことができ、そうなればどうして孫権や劉備のような立場を得られないなどということがありましょうか。(楚漢戦争期に劉邦から独立して天下を三分することを韓信に対して勧めた)蒯通(かいとう)も語っていたではありませんか。将軍よ、どうかそのことを図るべきでございましょう」と。王弥は、それを尤もであると考え、劉暾を使者として青州に派遣し、(もともと王弥の部下で青州に派遣されていた)曹嶷(そうぎょく)と謀議させ、そうして曹嶷を召し返そうとした。しかし劉暾は、東阿に到着した際に石勒の游騎(見回りの騎兵)に捕らえられてしまい、石勒は、王弥が曹嶷に与えた書を見て大いに怒り、そこで劉暾を殺した。劉暾には、劉佑・劉白という二人の子がいた。

劉佑は、太傅府の属(官職名)となり、劉白は太子舍人となった。劉白は果敢でかつ剛毅であり、才幹があったが、東海王・司馬越は劉白を忌み嫌い、こっそりと東海国上軍将軍の何倫を派遣して百人あまりを率いて劉暾の私邸に侵入させ、何倫は司馬越のために劉暾邸の財物を略奪し、劉白を殺して去った。

(劉暾の弟の)劉総は、字を弘紀と言い、学問を好み、正直で誠実な性格で、叔父の劉彪(りゅうひょう)の養子となってその跡取りとなり、位は北軍中候にまで登った。

原文

程衞、字長玄、廣平曲周人也。少立操行、強正方嚴。劉毅聞其名、辟爲都官從事。毅奏中護軍羊琇犯憲應死。武帝與琇有舊、乃遣齊王攸喻毅、毅許之。衞正色以爲不可、徑自馳車入護軍營、收琇屬吏、考問陰私、先奏琇所犯狼藉、然後言於毅。由是名振遐邇、百官厲行。遂辟公府掾、遷尚書郎・侍御史、在職皆以事幹顯。補洛陽令、歷安定・頓丘太守、所涖著績。卒于官。

訓読

程衞、字は長玄、廣平曲周の人なり。少くして操行を立て、強正にして方嚴たり。劉毅、其の名を聞き、辟して都官從事と爲す。毅、中護軍の羊琇は憲を犯せば應に死すべしと奏す。武帝、琇と舊有れば、乃ち齊王攸を遣わして毅を喻さしめ、毅、之を許す。衞、色を正して以て不可と爲し、徑ちに自ら車を馳せて護軍營に入り、琇の屬吏を收め、陰私を考問し、先ず琇の犯す所の狼藉を奏し、然る後に毅に言う。是に由りて名は遐邇を振わし、百官は行を厲しくす。遂に公府掾に辟され、尚書郎・侍御史に遷り、職に在りては皆な事幹を以て顯る。洛陽令に補せられ、安定・頓丘太守を歷、涖む所に績を著す。官に卒す。

現代語訳

程衛は、字を長玄と言い、広平郡・曲周の人である。若い頃から品行を立て、剛正かつ方正で厳粛であった。(司隷校尉であった)劉毅は、その名を聞き、辟召して都官従事に任じた。あるとき劉毅は、中護軍の羊琇(ようしゅう)は法を犯したので死罪に当てるべきであると上奏した。武帝は羊琇と旧知の仲であったので、そこで斉王・司馬攸(しばゆう)を派遣して劉毅を諭させ、劉毅は羊琇を許した。しかし、程衛は色を正し、それはならないとして、ただちに自ら車を馳せて護軍営に入り、羊琇の屬吏を捕らえ、隠し立てしていることを拷問して聞き出し、まず羊琇が犯した狼藉について上奏してから、その後で劉毅に報告した。これにより程衛の名は遠近を震わせ、百官は行いを厳粛にした。そこで程衛は公府の掾として辟召され、尚書郎、次いで侍御史へと昇進し、職にあってはその事務処理の才幹により評判を得た。洛陽令に補任され、さらに安定太守・頓丘太守を歴任し、赴任した先で顕著な政績を上げた。そのまま在官中に死去した。

和嶠

原文

和嶠、字長輿、汝南西平人也。祖洽、魏尚書令。父逌、魏吏部尚書。嶠少有風格、慕舅夏侯玄之爲人、厚自崇重。有盛名于世、朝野許其能整風俗、理人倫。襲父爵上蔡伯、起家太子舍人。累遷潁川太守、爲政清簡、甚得百姓歡心。太傅從事中郎庾顗見而歎曰「嶠森森如千丈松、雖磥砢多節目、施之大廈、有棟梁之用。」賈充亦重之、稱於武帝、入爲給事黃門侍郎、遷中書令、帝深器遇之。舊監令共車入朝、時荀勖爲監、嶠鄙勖爲人、以意氣加之、每同乘、高抗專車而坐。乃使監令異車、自嶠始也。
吳平、以參謀議功、賜弟郁爵汝南亭侯。嶠轉侍中、愈被親禮、與任1.(顗)〔愷〕・張華相善。嶠見太子不令、因侍坐曰「皇太子有淳古之風、而季世多偽、恐不了陛下家事。」帝默然不答。後與荀顗・荀勖同侍、帝曰「太子近入朝、差長進、卿可俱詣之。粗及世事。」既奉詔而還、顗・勖並稱太子明識弘雅、誠如明詔。嶠曰「聖質如初耳。」帝不悅而起。嶠退居、恒懷慨歎、知不見用、猶不能已。在御坐言及社稷、未嘗不以儲君爲憂。帝知其言忠、每不酬和。後與嶠語、不及來事。或以告賈妃、妃銜之。太康末、爲尚書、以母憂去職。 及惠帝即位、拜太子太傅、加散騎常侍・光祿大夫。太子朝西宮、嶠從入。賈后使帝問嶠曰「卿昔謂我不了家事、今日定云何。」嶠曰「臣昔事先帝、曾有斯言。言之不效、國之福也。臣敢逃其罪乎。」元康二年卒、贈金紫光祿大夫、加金章紫綬、本位如前。永平初、策諡曰簡。嶠家產豐富、擬于王者、然性至吝、以是獲譏於世、杜預以爲嶠有錢癖。以弟郁子濟嗣、位至中書郎。

郁、字仲輿、才望不及嶠、而以清幹稱、歷尚書左右僕射・中書令・尚書令。洛陽傾沒、奔于苟晞、疾卒。

1.周家禄『晋書校勘記』に従い、「顗」を「愷」に改める。

訓読

和嶠、字は長輿、汝南・西平の人なり。祖の洽、魏の尚書令たり。父の逌、魏の吏部尚書たり。嶠、少くして風格有り、舅の夏侯玄の爲人を慕い、厚く自ら崇重す。世に盛名あり、朝野は其の能く風俗を整え、人倫を理むるを許す。父の爵の上蔡伯を襲い、起家して太子舍人たり。累りに遷りて潁川太守たり、政を爲むるに清簡、甚だ百姓の歡心を得たり。太傅從事中郎の庾顗、見て歎じて曰く「嶠は森森たること千丈の松の如く、磥砢として節目多しと雖も、之を大廈に施せば、棟梁の用有り」〔一〕と。賈充も亦た之を重んじ、武帝に稱したれば、入りて給事黃門侍郎と爲り、中書令に遷り、帝、深く之を器遇す。舊と監・令は車を共にして入朝するに、時に荀勖、監たり、嶠は勖の爲人を鄙みたれば、意氣を以て之に加え、同乘する每に、高抗にして車を專らにして坐る。乃ち監・令をして車を異にせしむるは、嶠より始まるなり。
吳平ぐや、謀議に參ずるの功を以て、弟の郁に爵汝南亭侯を賜う。嶠、侍中に轉じ、愈々親禮を被り、任愷・張華と相い善くす。嶠、太子の不令なるを見、坐に侍するに因りて曰く「皇太子は淳古の風有るも、而れども季世は偽多ければ、恐らくは陛下の家の事を了えざらん」と。帝、默然として答えず。後に荀顗・荀勖と同に侍するや、帝曰く「太子、近く入朝し、差や長進すれば、卿は俱に之に詣るべし。粗ぼ世事に及ばん」と。既に詔を奉じて還るや、顗・勖は並びに稱すらく、太子の明識・弘雅なること、誠に明詔の如し、と。嶠曰く「聖質は初めの如きのみ」と〔二〕。帝、悅ばずして起つ。嶠、退居するに、恒に慨歎を懷き、用いられざるを知るも、猶お已む能わず。御坐に在りて言社稷に及ぶに、未だ嘗て儲君を以て憂いと爲さずんばあらず。帝、其の言の忠なるを知るも、每に酬和せず。後に嶠と與に語るに、來事に及ばず。或るひと以て賈妃に告ぐや、妃、之を銜む。太康の末、尚書と爲り、母の憂を以て職を去る。
惠帝の即位するに及び、太子太傅を拜し〔三〕、散騎常侍・光祿大夫を加えらる。太子の西宮に朝するや、嶠、從いて入る。賈后、帝をして嶠に問わしめて曰く「卿は昔、我は家事を了えずと謂うも、今日、定めて云何」と。嶠曰く「臣は昔、先帝に事え、曾て斯の言有り。言の效あらずんば、國の福なり。臣、敢えて其の罪を逃れんや」と。元康二年に卒し、金紫光祿大夫を贈られ、金章紫綬を加えられ、本位は前の如し。永平の初め〔四〕、策して諡して簡と曰う。嶠の家產は豐富にして、王者に擬うるも、然るに性は至吝にして、是を以て譏りを世に獲、杜預は以て嶠に錢癖有りと爲す。弟の郁の子の濟を以て嗣がしめ、位は中書郎に至る。

郁、字は仲輿、才望は嶠に及ばざるも、而れども清幹を以て稱せられ、尚書左右僕射・中書令・尚書令を歷たり。洛陽の傾沒するや、苟晞に奔り、疾みて卒す。

〔一〕このエピソードは庾顗伝にも載せられているが、そこではそのとき庾顗が評したのは和嶠ではなく温嶠であった。『晋書斠注』や、そこに載せる諸学が述べる通り、この庾顗の品評は、その世代・年齢からして、和嶠に対する言葉としては無理があり、温嶠であるとする方が適切である。すなわち、同じく名前が「嶠」であるために、「温嶠」とすべきところを「和嶠」と取り違えられたという可能性が高い。ただその一方で、そもそも庾顗が語った言葉であるというのが間違いである可能性も考えられ、その場合はむしろ庾顗伝の方が誤りであるということも考えられるが、真相は不明である。いずれにせよ、和嶠伝におけるこのエピソードのどこかに誤りがあることは確実である。
〔二〕『晋書斠注』や裴松之が述べる通り、荀顗はこのときすでに亡くなっているので、ここで荀顗が登場するのはおかしく、おそらくは同じ一族の別人である「荀愷」と取り違えている可能性が高い。校勘にも示した通り、「任愷」とすべきところを「任顗」としていたりもするので、この箇所も同様に取り違えたのであろう。なお、これが『晋書』編纂時の不備なのか、後世の誤写であるのかは不明である。
〔三〕『晋書斠注』が指摘する通り、この当時は王戎が太子太傅となっており、また他の史料では、当時和嶠は太子少保であったとする記述が多く、おそらくは太子少保の誤りである可能性が高い。
〔四〕『晋書斠注』が指摘する通り、永平年間の次が元康年間なので、元康二年に死去して永平年間に諡号が付与されるというのは、時系列が逆になってしまう。元康年間の次は永康年間となるので、中華書局本の校勘記の述べる通り、この「永平」は「永康」の誤りである可能性がある。

現代語訳

和嶠(かきょう)は、字を長輿と言い、汝南郡・西平の人である。祖父の和洽(かこう)は、魏の尚書令にまで登った。父の和逌(かゆう)は、魏の吏部尚書にまで登った。和嶠は、若い頃から風格があり、舅の夏侯玄の為人(ひととなり)を慕い、自分の身を非常に大切にした。盛んな名声を世に立て、朝廷の人も在野の人も、和嶠は風俗を整え、人倫を治めることのできる人物であると認めていた。父の上蔡伯の爵位を継承し、起家して太子舍人に任じられた。何度も昇進して潁川太守となり、その為政は清廉で簡素であり、非常に人々の歓心を得た。太傅府の従事中郎の庾顗(ゆぎ)は、和嶠に会うと嘆息して言った。「和嶠は高くそびえたつこと千丈の松のようであり、ごつごつとして節の多い木のようである(=頑固である)とはいえ、これを大きな家に施せば、棟や梁としての働きが期待できる」と。賈充もまた和嶠を重んじ、武帝に対して称賛したので、和嶠は中央に入って給事黄門侍郎となり、やがて中書令に昇進し、武帝は和嶠のことを非常に高く評価して厚遇した。もともと中書監・中書令は一緒の車に乗って入朝していたが、時に荀勖(じゅんきょく)が中書監の座にあり、和嶠は荀勖の為人を見下していたので、敵愾心を荀勖に向け、同乗するたびに、剛毅な態度で車を独り占めして座った。そこで中書監・中書令は別々の車に乗ることになったが、それは和嶠のときから始まったのである。
呉が平定されると、その謀議に参与した功により、弟の和郁(かいく)に汝南亭侯の爵位が賜与された。和嶠は侍中に転任し、ますます親しい礼遇をこうむり、任愷(じんがい)・張華と互いに仲が良かった。和嶠は、太子(後の恵帝)が不肖であると見ると、(侍中として)坐に侍った機会を利用して言った。「皇太子には古風で純朴な風格がありますが、しかしこの教化の衰退した末世では偽事が多いので、おそらくは陛下の家の事業をまっとうする(=皇帝の務めを果たす)ことはできないでしょう」と。武帝は黙りこくって答えなかった。後に和嶠が荀顗(荀愷?)・荀勖とともに側に侍っていたとき、武帝は言った。「太子が近々入朝するが、やや進歩しているであろうから、そなたらは一緒に太子のもとを訪れてみるとよい。きっと世の中のことに関しても知り及んでいるだろう」と。そこで詔を奉じて太子のもとを訪れて戻ってくると、荀顗(荀愷?)・荀勖はいずれも、太子が明識で高雅である様子は、誠に陛下の詔の通りであると称賛した。和嶠は言った。「太子の気質は当初とまったく変わりありません」と。武帝は不快な様子で立ち上がった。和嶠は、退出して家に帰ると、常に慨嘆の心を抱くようになり、その意見が用いられないと分かっていながらも、それでも反対することをやめるわけにはいかなかった。そして、御座にあって国家のことについて説き及ぶたびに、太子のことを憂慮しないことはなかった。武帝は、それが忠言であることを理解していたが、毎回、明確な言葉でもってそれに答えることは無かった。後に武帝は、和嶠と一緒に語る際には、将来のことについては言及しないようになった。ある人が一連のことを(皇太子妃である)賈妃(後の賈后)に告げると、賈妃は和嶠のことを恨むようになった。太康年間の末、和嶠は尚書となったが、母が亡くなったので職を去った。
恵帝が即位すると、和嶠は太子少傅を拝命し、散騎常侍・光禄大夫の位を加えられた。太子が西宮に朝見することになると、和嶠はそれに従って入朝した。賈后は、恵帝を諭して和嶠に問わせた。「そなたは昔、私には我が家の事業をまっとうすることはできないと言ったが、今日の有り様を見て、果たしてどうであろうか」と。和嶠は言った。「私は昔、先帝に仕え、かつてそのようなことを申し上げました。その言葉が実現しないのであれば、国の福でございます。私はどうしてその罪から逃れようなどと思いましょうか」と。元康二年(二九二)に死去し、金紫光禄大夫の位を追贈され、金章・紫綬を加えられ、本位(太子少傅の位)は元のままとした。永平年間の初め、策書が下されて「簡伯」という諡号が授けられた。和嶠の家の財産は豊富であり、王者に匹敵するものであったが、しかし和嶠は至って吝嗇な性格で、それにより世の非難を受け、そのため杜預は「和嶠には銭癖がある」と評した。弟の和郁の子である和済に和嶠の爵位を嗣がせ、和済は中書郎の位にまで登った。

和郁は、字を仲輿と言い、才望は和嶠に及ばなかったが、しかし清廉で才幹があることによって称えられ、尚書右僕射、尚書左僕射、中書令、尚書令を歴任した。(匈奴漢の軍勢によって)洛陽が陥落すると、苟晞(こうき)のもとに逃げ延び、そのまま病没した。

武陔

原文

武陔、字元夏、沛國竹邑人也。父周、魏衞尉。陔沈敏有器量、早獲時譽、與二弟韶叔夏・茂季夏並總角知名、雖諸父兄弟及鄉閭宿望、莫能覺其優劣。同郡劉公榮有知人之鑒、常造周、周見其三子焉。公榮曰「皆國士也。元夏最優、有輔佐之才、陳力就列、可爲亞公。叔夏・季夏不減常伯・納言也。」
陔少好人倫、與潁川陳泰友善。魏明帝世、累遷下邳太守。景帝爲大將軍、引爲從事中郎、累遷司隸校尉、轉太僕卿。初封亭侯、五等建、改封薛縣侯。文帝甚親重之、數與詮論時人。嘗問陳泰孰若其父羣、陔各稱其所長、以爲羣・泰略無優劣、帝然之。
泰始初、拜尚書、掌吏部、遷左僕射・左光祿大夫・開府儀同三司。陔以宿齒舊臣、名位隆重、自以無佐命之功、又在魏已爲大臣、不得已而居位、深懷遜讓、終始全潔、當世以爲美談。卒于位、諡曰定。子輔嗣。

韶、歷吏部郎・太子右衞率・散騎常侍。

茂、以德素稱、名亞于陔、爲上洛太守・散騎常侍・侍中・尚書。潁川荀愷年少于茂、即武帝姑子、自負貴戚、欲與茂交、距而不答、由是致怨。及楊駿誅、愷時爲僕射、以茂駿之姨弟、陷爲逆黨、遂見害。茂清正方直、聞於朝野、一旦枉酷、天下傷焉。侍中傅祗上表申明之、後追贈光祿勳。

訓読

武陔、字は元夏、沛國・竹邑の人なり。父の周、魏の衞尉たり。陔、沈敏にして器量有り、早くに時譽を獲、二弟の韶叔夏・茂季夏と並びに總角にして名を知られ、諸父兄弟及び鄉閭の宿望と雖も、能く其の優劣を覺る莫し。同郡の劉公榮、知人の鑒有り、常て周に造るに、周は其の三子を焉に見す。公榮曰く「皆な國士なり。元夏は最も優れ、輔佐の才有り、力を陳べて列に就かば、亞公と爲るべし。叔夏・季夏は常伯・納言に減らざるなり」と。
陔、少くして人倫を好み、潁川の陳泰と友善す。魏の明帝の世、累りに遷りて下邳太守たり。景帝の大將軍と爲るや、引きて從事中郎と爲し、累りに遷りて司隸校尉たり、太僕卿に轉ず。初め亭侯に封ぜらるるに、五等の建つるや、改めて薛縣侯に封ぜらる。文帝、甚だ之を親重し、數々與に時人を詮論す。嘗て陳泰は其の父の羣に孰若ぞと問うに、陔、各々其の長ずる所を稱し、以て羣・泰は略し優劣無しと爲し、帝、之を然りとす。
泰始の初め、尚書を拜し、吏部を掌り、遷りて左僕射、左光祿大夫・開府儀同三司たり。陔、宿齒の舊臣なるを以て、名位は隆重なるも、自ら佐命の功無く、又た魏に在りて已に大臣と爲るを以て、已むを得ずして位に居り、深く遜讓を懷き、終始全潔たり、當世以て美談と爲す。位に卒し、諡して定と曰う。子の輔、嗣ぐ。

韶、吏部郎・太子右衞率・散騎常侍を歷たり。

茂、德素を以て稱せられ、名は陔に亞ぎ、上洛太守・散騎常侍・侍中・尚書と爲る。潁川の荀愷、年は茂より少くして、即ち武帝の姑の子、自ら貴戚なることを負み、茂と交わらんと欲するも、距みて答えざれば、是に由りて怨を致す。楊駿の誅せらるるに及び、愷、時に僕射たり、茂は駿の姨弟なるを以て、陷れて逆黨と爲し、遂に害せらる。茂、清正・方直にして、朝野に聞ゆるも、一旦にして枉酷せられたれば、天下は焉を傷む。侍中の傅祗、上表して之を申明したれば、後に光祿勳を追贈せらる。

現代語訳

武陔(ぶがい)は、字を元夏と言い、沛国・竹邑の人である。父の武周は、魏の衛尉にまで登った。武陔は、沈着かつ俊敏で、器量があり、早くから世に名誉を立て、武韶(ぶしょう)、字は叔夏、武茂(ぶぼ)、字は季夏という二人の弟と並んで子どもの頃から名を知られ、叔父たちや従兄弟たち、および郷里の古くからの名望家であっても、その三人の優劣をはっきりと見抜ける者はいなかった。同郡の人である劉公栄(劉昶、字は公栄)は、人を見る目があり、かつて武周の家を訪れた際に、武周はこの三人の子を劉昶に会わせた。劉公栄は言った。「いずれも国士でございます。中でも元夏が最も優れており、帝王を補佐する才能があり、力を尽くしてその位にあって職任に務めれば、三公に次ぐ位となることができましょう。叔夏・季夏は、(その最終官位は)常伯(侍中・散騎常侍)・納言(尚書)を下ることはないでしょう」と。
武陔は、若い頃から人物評価を好み、潁川の人である陳泰と友好を結んで仲が良かった。魏の明帝の時代に、何度も昇進して下邳太守となった。景帝(司馬師)が大将軍となると、武陔を招いて従事中郎に任じ、武陔はまた何度も昇進して司隷校尉となり、さらに太僕卿に転任した。武陔は初め亭侯に封ぜられていたが、五等爵の制度が建立されると、改めて薛県侯に封ぜられた。文帝(司馬昭)は非常に武陔に親しみ尊重し、しばしば一緒に当時の人々に関して人物評価を行った。かつて文帝が、陳泰とその父の陳群とではやはり陳群の方が勝っていようかと問うたところ、武陔は、それぞれに関してその勝っている点を称え、陳群と陳泰とではほとんど優劣の差が無いとし、文帝はそれに納得した。
(西晋の武帝の)泰始年間の初め、尚書を拝命し、吏部をつかさどり(=吏部尚書となり)、昇進して尚書左僕射となり、さらに左光禄大夫・開府儀同三司となった。武陔は、高年の旧臣であるということから、位や名声は重く盛んなものとなったが、自分には晋の創業を補佐したという功績は無く(=晋の創業の功臣として名を連ねられず)、また魏の時代にすでに大臣であった(が故に本来ならば魏臣としての節義により政界を去るべきである)と思いつつも、やむを得ず位におり、深く謙遜の心を抱き、終始高潔さを失わず、当時の世の人々はそれを美談とした。その位のまま死去し、「定侯」という諡号を授けられた。息子の武輔が、その爵位を嗣いだ。

武韶は、吏部郎・太子右衛率・散騎常侍を歴任した。

武茂は、徳と素行によって称えられ、名声は武陔に次ぐものとなり、上洛太守・散騎常侍・侍中・尚書を歴任した。潁川の人である荀愷(じゅんがい)は、武茂よりも年少であり、武帝の父方の叔母の子に相当し、皇室の親戚であることを自負しており、武茂と親交を結ぼうとしたが、武茂は拒絶して返答しなかったので、これによって荀愷に恨まれることになった。楊駿が誅殺された際、荀愷は時に尚書僕射であったが、武茂が楊駿の母方の叔母の子であったことから、陥れて逆賊の一味であるとし、そこで武茂は殺されてしまった。武茂は、清廉・公正でかつ方正・誠直であり、朝廷の人々にも在野の人々にもその名が知られていたが、ある日突然、無実の罪で殺されてしまったので、天下の人々は武茂のことを悼んだ。侍中の傅祗(ふし)が上表して釈明したので、武茂は後に光禄勲の位を追贈された。

任愷

原文

任愷、字元褒、樂安博昌人也。父昊、魏太常。愷少有識量、尚魏明帝女、累遷中書侍郎・員外散騎常侍。晉國建、爲侍中、封昌國縣侯。
愷有經國之幹、萬機大小多管綜之。性忠正、以社稷爲己任、帝器而昵之、政事多諮焉。泰始初、鄭沖・王祥・何曾・荀顗・裴秀等各以老疾歸第。帝優寵大臣、不欲勞以筋力、數遣愷諭旨於諸公、諮以當世大政、參議得失。愷惡賈充之爲人也、不欲令久執朝政、每裁抑焉。充病之、不知所爲。後承間言愷忠貞局正、宜在東宮、使護太子。帝從之、以爲太子少傅、而侍中如故、充計畫不行。會秦雍寇擾、天子以爲憂。愷因曰「秦涼覆敗、關右騷動、此誠國家之所深慮。宜速鎮撫、使人心有庇。自非威望重臣有計略者、無以康西土也。」帝曰「誰可任者。」愷曰「賈充其人也。」中書令庾純亦言之、於是詔充西鎮長安。充用荀勖計得留。
充既爲帝所遇、欲專名勢、而庾純・張華・溫顒・向秀・和嶠之徒皆與愷善、楊珧・王恂・華廙等充所親敬、于是朋黨紛然。帝知之、召充・愷宴于式乾殿、而謂充等曰「朝廷宜一、大臣當和。」充・愷各拜謝而罷。既而充・愷等以帝已知之而不責、結怨愈深、外相崇重、內甚不平。或爲充謀曰「愷總門下樞要、得與上親接、宜啓令典選。便得漸疏、此一都令史事耳。且九流難精、間隙易乘。」充因稱愷才能、宜在官人之職。帝不之疑、謂充舉得其才。即日以愷爲吏部尚書、加奉車都尉。
愷既在尚書、選舉公平、盡心所職、然侍覲轉希。充與荀勖・馮紞承間浸潤、謂愷豪侈、用御食器。充遣尚書右僕射高陽王珪奏愷、遂免官。有司收太官宰人檢覈、是愷妻齊長公主得賜魏時御器也。愷既免而毀謗益至、帝漸薄之。然山濤明愷爲人通敏有智局、舉爲河南尹。坐賊發不獲、又免官。復遷光祿勳。
愷素有識鑒、加以在公勤恪、甚得朝野稱譽。而賈充朋黨又諷有司奏愷與立進令劉友交關。事下尚書、愷對不伏。尚書杜友・廷尉劉良並忠公士也、知愷爲充所抑、欲申理之、故遲留而未斷、以是愷及友・良皆免官。愷既失職、乃縱酒耽樂、極滋味以自奉養。初、何劭以公子奢侈、每食必盡四方珍饌、愷乃踰之、一食萬錢、猶云無可下筯處。愷時因朝請、帝或慰諭之、愷初無復言、惟泣而已。後起爲太僕、轉太常。
初、魏舒雖歷位郡守、而未被任遇、愷爲侍中、薦舒爲散騎常侍。至是舒爲右光祿・開府、領司徒、帝臨軒使愷拜授。舒雖以弘量寬簡爲稱、時以愷有佐世器局、而舒登三公、愷止守散卿、莫不爲之憤歎也。愷不得志、竟以憂卒。時年六十一。諡曰元。子罕嗣。

罕、字子倫、幼有門風、才望不及愷、以淑行致稱、爲清平佳士。歷黃門侍郎・散騎常侍・兗州刺史・大鴻臚。

訓読

任愷、字は元褒、樂安・博昌の人なり。父の昊、魏の太常たり。愷、少くして識量有り、魏の明帝の女を尚り、累りに遷りて中書侍郎・員外散騎常侍たり。晉國建つるや、侍中と爲り、昌國縣侯に封ぜらる。
愷、經國の幹有り、萬機の大小、多く之を管綜す。性は忠正にして、社稷を以て己が任と爲し、帝、器として之に昵み、政事は多く焉に諮る。泰始の初め、鄭沖・王祥・何曾・荀顗・裴秀等、各々老疾を以て第に歸す。帝、大臣を優寵し、勞するに筋力を以てするを欲せず、數々愷を遣わして諸公に諭旨せしめ、諮るに當世の大政を以てし、得失に參議せしむ。愷、賈充の爲人を惡むや、久しく朝政を執らしむるを欲せず、每に焉を裁抑す。充、之を病むも、爲す所を知らず。後に間を承けて、愷は忠貞局正なれば、宜しく東宮に在り、太子を護せしむべしと言う。帝、之に從い、以て太子少傅と爲すも、而れども侍中は故の如くし、充の計畫は行われず。會々秦雍は寇擾し、天子、以て憂いと爲す。愷、因りて曰く「秦涼の覆敗し、關右の騷動するは、此れ誠に國家の深く慮る所なり。宜しく速やかに鎮撫し、人心をして庇有らしむべし。威望の重臣にして計略有る者に非ざるよりは、以て西土を康んずる無きなり」と。帝曰く「誰か任ずべき者ぞ」と。愷曰く「賈充、其の人なり」と。中書令の庾純も亦た之を言したれば、是に於いて充に詔して西のかた長安に鎮せしむ。充、荀勖の計を用いて留まるを得たり。
充、既に帝の遇する所と爲れば、名勢を專らにせんと欲するも、而れども庾純・張華・溫顒・向秀・和嶠の徒は皆な愷と善く、楊珧・王恂・華廙等は充の親敬する所なれば、是に于いて朋黨紛然たり。帝、之を知り、充・愷を召して式乾殿に宴し、而して充等に謂いて曰く「朝廷は宜しく一なるべく、大臣は當に和すべし」と。充・愷、各々拜して謝して罷む。既にして充・愷等、帝の已に之を知りて責めざるを以て、怨を結ぶこと愈々深く、外は相い崇重するも、內は甚だ平らかならず。或るひと充の爲に謀りて曰く「愷は門下の樞要を總べ、上と親接するを得たれば、宜しく啓して選を典らしむべし。便ち漸く疏んずるを得れば、此れ一都令史の事なるのみ。且つ九流は精なり難ければ、間隙乘じ易し」と。充、因りて愷の才能、宜しく人に官するの職に在らしむべしと稱す。帝、之を疑わず、充の舉は其の才を得たりと謂う。即日、愷を以て吏部尚書と爲し、奉車都尉を加う。
愷、既に尚書に在るや、選舉は公平にして、心を職とする所に盡くし、然して侍覲すること轉た希なり。充、荀勖・馮紞と與に間を承けて浸潤し、愷は豪侈にして、御食の器を用うと謂う。充、尚書右僕射の高陽王珪をして愷を奏せしめ、遂に官を免ぜらる。有司、太官の宰人を收めて檢覈するや、是れ愷の妻の齊長公主の賜わるを得し魏時の御器なり。愷、既に免ぜられて毀謗益々至り、帝、漸く之を薄んず。然るに山濤、愷の爲人の通敏にして智局有るを明らかにし、舉げて河南尹と爲す。賊の發するに獲ざるに坐し、又た官を免ぜらる。復た光祿勳に遷る。
愷、素より識鑒有り、加うるに公に在りて勤恪なるを以て、甚だ朝野の稱譽を得たり。而るに賈充の朋黨は又た有司に諷して愷は立進令の劉友と交關すと奏せしむ。事は尚書に下さるるも、愷、對うるに伏さず。尚書の杜友・廷尉の劉良は並びに忠公の士にして、愷の充の抑うる所と爲るを知り、之を申理せんと欲し、故に遲留して未だ斷ぜざれば、是を以て愷及び友・良は皆な官を免ぜらる。愷、既に職を失うや、乃ち酒を縱にし樂に耽り、滋味を極めて以て自ら奉養す。初め、何劭は公子は奢侈にして、每食必ず四方の珍饌を盡くせりと以うも、愷は乃ち之を踰え、一食ごとに萬錢、猶お筯を下すべき處無しと云う。愷、時に朝請に因り、帝、或いは之を慰諭するに、愷、初め復た言う無く、惟だ泣くのみ。後に起ちて太僕と爲り、太常に轉ず。
初め、魏舒は位を郡守に歷ると雖も、而れども未だ任遇を被らざるに、愷の侍中と爲るや、舒を薦めて散騎常侍と爲す。是に至り舒は右光祿・開府たり、司徒を領し、帝は臨軒して愷をして拜授せしむ。舒、弘量にして寬簡なるを以て稱せらると雖も、時に愷に佐世の器局有るも、而れども舒は三公に登り、愷は止だ散卿を守すのみなるを以て、之が爲に憤歎せざるは莫きなり。愷、志を得ず、竟に憂いを以て卒す。時に年は六十一。諡して元と曰う。子の罕、嗣ぐ。

罕、字は子倫、幼くして門風有り、才望は愷に及ばざるも、淑行を以て稱を致し、清平の佳士と爲る。黃門侍郎・散騎常侍・兗州刺史・大鴻臚を歷たり。

現代語訳

任愷(じんがい)は、字を元褒と言い、楽安国・博昌の人である。父の任昊(じんこう)は、魏の太常にまで登った。任愷は、若い頃から見識と度量があり、魏の明帝の娘を娶り、何度も昇進して中書侍郎・員外散騎常侍となった。(魏の藩国としての)晋国が創建されると、任愷は晋国の侍中となり、昌国県侯に封ぜられた。
任愷には国家を経理する才幹があり、万機にわたって事の大小を問わずそれらを統括することが多かった。忠実で正直な性格であり、国家のことを己の任務であると心得ており、武帝は任愷を高く評価して親任し、政事に関して任愷に諮問することが多かった。(西晋の時代に入って)泰始年間の初め、鄭沖・王祥・何曽・荀顗(じゅんぎ)・裴秀らは、それぞれ老いて病がちになったことにより(引退して)洛陽の私邸に身を置くことになった。武帝は大臣を優待・寵遇し、無理に(老体の)筋力を使って足を運ばせることを欲せず、しばしば任愷を派遣して諸公に聖旨を伝えさせ、当世の大政について諮問させ、その得失について参議させた。任愷は、賈充の為人(ひととなり)を憎んでおり、長く朝政を担わせることを欲せず、いつも賈充を掣肘して抑え込んだ。賈充はそれに対して不満に思っていたが、なすすべを知らなかった。賈充は後に機会を窺い、任愷は忠義と貞節を守り、器量があって正直であるので、どうか東宮に備えて太子の教護を行わせるべきであると武帝に述べた。武帝はそれに従い、任愷を太子少傅に任じたが、しかし侍中は引き続き担わせることにしたので、(任愷を侍中の座から降ろして武帝から遠ざけようとする)賈充の思惑は外れた。ちょうど秦州・雍州が賊の侵攻により混乱に陥り、天子(武帝)はそれを憂慮した。任愷はそこで言った。「秦州・涼州が壊滅し、関西(雍州)が騒ぎ乱れてしまったのは、これは誠に国家にとっての深い憂慮の種であります。どうか速やかに鎮撫し、人々に庇護を与えて安心させるべきでございます。ただ、威信と名望のある重臣で、かつ計略に長けた者でなければ、西土を安んじることはできないでしょう」と。武帝は言った。「それを任せるべき者は誰であろうか」と。任愷は言った。「賈充こそが適任でしょう」と。中書令の庾純(ゆじゅん)もまたそのことを述べたので、そこで賈充に詔を下して西に赴いて長安に鎮守させることにした。しかし賈充は、荀勖(じゅんきょく)の計を用いて何とか都に留まることになった。
賈充は、武帝の厚遇を受けていたことから、名声と権勢を専らにしたいと望むようになったが、しかし庾純(ゆじゅん)・張華・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)らはいずれも任愷と仲が良く、一方で、楊珧(ようよう)・王恂(おうじゅん)・華廙(かよく)らは賈充が親しみ敬っていた者たちであったので、そうして党派の対立が紛然として生じた。武帝はそれを知り、賈充と任愷を召して式乾殿で宴を開き、そして賈充らに言った。「朝廷ではみな一丸となるべきであり、大臣たちは和合すべきである」と。賈充と任愷は、それぞれ拝礼を行って謝罪し、そこでお開きになった。まもなく賈充・任愷らは、武帝がすでにこのことを知りながら相手方を責めなかったために、ますます深く互いに恨みを募らせ、外面では互いに尊重し合ったが、内心では非常に不仲であった。ある人物が賈充のために謀略を立てて言った。「任愷は(侍中として)門下の枢要を統べ、陛下と親しく接することができる状態にありますので、どうか啓文を上奏して任愷に(吏部尚書として)選挙をつかさどらせるようにさせるべきです。そうして次第に遠ざけることができれば、もはや一介の尚書都令史の摘発によってでさえ排除することができましょう。それに九品の官僚たちの選任を完璧にこなすのは難しいことでありますので、粗を探してその間隙に乗じるのはたやすいことです」と。賈充はそこで、任愷の才能は、まさに人々に官位を授ける職に据えるべきものであると称えた。武帝はそれを疑うことなく、賈充は実に適切な人材を推挙したものであると述べた。即日、任愷を吏部尚書に任じ、奉車都尉の位を加えた。
任愷がまもなく尚書の職務を担うようになると、選挙は公平なものになり、任愷はその職務に心を尽くし、そのため武帝に朝見して側に侍ることもますます稀になった。賈充は、荀勖・馮紞(ふうたん)と一緒に機会を窺って讒言を行い、任愷は豪奢であり、御膳の食器を用いていると告発した。さらに賈充は、尚書右僕射の高陽王・司馬珪に任愷を劾奏させ、そこで任愷は官を罷免されてしまった。しかし、担当官が太官署の宰人(御膳担当者)を捕らえて調査したところ、それは任愷の妻の斉長公主がかつて賜わった魏の時代の御膳の器であった。任愷は、罷免されたことによりますます誹謗を受けるようになり、武帝は次第に任愷を軽んじるようになった。しかし、山涛は、任愷の為人は道理に通じ、俊敏で、知恵と器量があることを明らかにし、任愷を推挙して河南尹の位に据えた。やがて、賊が発生したのに捕らえることができなかったという罪に問われ、また官を罷免された。また光禄勲に昇進した。
任愷にはもともと人を見る目があり、加えて公事において謹直であったので、朝廷の人からも在野の人からも、大きな称賛と名誉を得ていた。しかし、賈充の党派の者たちは、また担当官を遠回しにそそのかし、任愷は(悪事を行っていた)立進令の劉友と親しく交流していたと劾奏させた。事は尚書に下されたが、任愷の返答はそれを否認するものであった。尚書の杜友、廷尉の劉良はいずれも忠実で公正な人物であり、任愷が賈充により不当に罪を着せられようとしているということを察知すると、その嫌疑を解こうとし、裁判を長引かせて判決を遅らせたので、そこで任愷・杜友・劉良はいずれも官を罷免された。任愷は、職を失うと、そこで酒びたりになって享楽に耽るようになり、美味な食事を極め、そうして自らを慰め養った。初め、何劭(かしょう)は、諸公の子たちは奢侈であり、毎食、必ず四方の珍味を揃えて贅沢を尽くしていると非難したが、任愷の場合はそれさえをも越えるものであり、一食ごとに一万銭を費やしながら、それでもなお箸をつけるべきものが無いと言っていた。任愷が、時に朝見する機会に遭うたびに、武帝はいつも任愷を慰撫したが、任愷は初め何も言葉を発することなく、ただ泣くだけであった。後にまた起家して太僕となり、やがて太常に転任した。
初め、魏舒(ぎじょ)は諸郡の太守の位を歴任していたものの、まだ重用されることはなかったが、任愷が侍中になると、魏舒を推薦して散騎常侍の位に抜擢させた。そしてこのときに至り、魏舒はすでに右光禄大夫・開府儀同三司となり、新たに司徒を兼任することとなり、武帝が直々に軒(御殿の前方のテラス)に臨み、任愷にその拝授の礼を行わせた。魏舒は、度量が広く寛大であることで称えられていたが、時に任愷には時世を補佐する器量がありながら、魏舒が三公に登る一方で、任愷はただ散職の九卿の位に据えられているだけであったため、魏舒はそのことに憤慨し、嘆息せざるを得なかった。任愷は、志を得られず、とうとう憂いのうちに死去した。時に六十一歳であった。「元侯」という諡号が授けられた。そして息子の任罕(じんかん)がその爵位を嗣いだ。

任罕は、字を子倫と言い、幼い頃から家風を受け継ぎ、才望は任愷には及ばなかったものの、素晴らしい品行によって称えられ、清廉で公正な良士となった。黄門侍郎・散騎常侍・兗州刺史・大鴻臚を歴任した。

崔洪

原文

崔洪、字良伯、博陵安平人也。高祖寔、著名漢代。父讚、魏吏部尚書・左僕射、以雅量見稱。洪少以清厲顯名、骨鯁不同於物、人之有過、輒面折之、而退無後言。
武帝世、爲御史治書。時長樂馮恢父爲弘農太守、愛少子淑、欲以爵傳之。恢父終、服闋、乃還鄉里、結草爲廬、陽瘖不能言、淑得襲爵。恢始仕爲博士祭酒、散騎常侍翟嬰薦恢高行邁俗、侔繼古烈。洪奏恢不敦儒素、令學生番直左右、雖有讓侯微善、不得稱無倫輩、嬰爲浮華之目。遂免嬰官、朝廷憚之。尋爲尚書左丞、時人爲之語曰「叢生棘刺、來自博陵。在南爲鷂、在北爲鷹。」
選吏部尚書、舉用甄明、門無私謁。薦雍州刺史郤詵代己爲左丞。詵後糾洪、洪謂人曰「我舉郤丞而還奏我、是挽弩自射也。」詵聞曰「昔趙宣子任韓厥爲司馬、以軍法戮宣子之僕。宣子謂諸大夫曰『可賀我矣。我選厥也、任其事。』崔侯爲國舉才、我以才見舉、惟官是視、各明至公、何故私言乃至此。」洪聞其言而重之。
洪口不言貨財、手不執珠玉。汝南王亮常讌公卿、以瑠璃鍾行酒。酒及洪、洪不執。亮問其故、對曰「慮有執玉不趨之義故爾」。然實乖其常性、故爲詭說。楊駿誅、洪與都水使者王佑親、坐見黜。後爲大司農、卒于官。
子廓、散騎侍郎、亦以正直稱。

訓読

崔洪、字は良伯、博陵・安平の人なり。高祖の寔、名を漢代に著わす。父の讚、魏の吏部尚書・左僕射たり、雅量を以て稱せらる。洪、少くして清厲を以て名を顯わし、骨鯁にして物に同ぜず、人の過ち有るや、輒ち之を面折し、而して退くや後言無し。
武帝の世、御史の治書と爲る。時に長樂の馮恢、父は弘農太守たり、少子の淑を愛し、爵を以て之に傳えんと欲す。恢の父終わり、服闋するや、乃ち鄉里に還り、草を結びて廬を爲り、瘖にして言う能わざるを陽り、淑、爵を襲うを得たり。恢、始めて仕えて博士祭酒と爲り、散騎常侍の翟嬰、恢は高行にして俗を邁え、古烈を繼ぐに侔しと薦む。洪、恢は儒素に敦からず、學生をして左右に番直せしめ、侯を讓るの微善有りと雖も、無倫の輩と稱するを得ず、嬰は浮華の目たりと奏す。遂に嬰の官を免じ、朝廷、之を憚る。尋いで尚書左丞と爲り、時人、之が爲に語りて曰く「叢生の棘刺、來ること博陵よりす。南に在りては鷂と爲り、北に在りては鷹と爲る」と。
吏部尚書に選ばれ、舉用は甄明、門に私謁するもの無し。雍州刺史の郤詵を薦めて己に代わりて左丞と爲す〔一〕。詵、後に洪を糾するに、洪、人に謂いて曰く「我、郤丞を舉げて還って我を奏すは、是れ弩を挽きて自ら射るなり」と。詵聞きて曰く「昔、趙宣子、韓厥を任じて司馬と爲すに、軍法を以て宣子の僕を戮す。宣子、諸大夫に謂いて曰く『我を賀すべし。我、厥を選ぶや、其の事に任う』と。崔侯は國の爲に才を舉げ、我は才を以て舉げられ、惟だ官のみ是れ視、各々至公なるを明らかにするに、何の故にか私言すること乃ち此に至らん」と。洪、其の言を聞きて之を重んず。
洪、口に貨財を言わず、手に珠玉を執らず。汝南王亮、常て公卿と讌するに、瑠璃の鍾を以て行酒す。酒、洪に及ぶや、洪は執らず。亮、其の故を問うに、對えて曰く「執玉不趨の義有るを慮るが故なるのみ」と。然るに實は其の常性に乖きたれば、故に詭說を爲す。楊駿の誅せらるるや、洪、都水使者の王佑と親しければ、坐して黜けらる。後に大司農と爲り、官に卒す。
子の廓、散騎侍郎たり、亦た正直なるを以て稱せらる。

〔一〕『晋書斠注』も指摘する通り、郤詵伝の記載と比べると、郤詵が雍州刺史になったのと尚書左丞になったのとで、その順番が逆であるように見える。

現代語訳

崔洪(さいこう)は、字を良伯と言い、博陵郡・安平の人である。高祖父の崔寔(さいしょく)は、漢代で著名だった。父の崔讃は、魏の吏部尚書・尚書左僕射にまで登り、その広大な度量により称えられた。崔洪は、若い頃から清廉で気骨があることによって名声を立て、剛直で付和雷同せず、人に過ちがあれば、そのたびに面と向かって非難し、退いた後にはもうそれについてくどくど掘り起こして言うことは無かった。
武帝の時代に、治書侍御史となった。時に長楽の人である馮恢(ふうかい)は、父が弘農太守であり、その父は少子の馮淑(ふうしゅく)を愛し、爵位を馮淑に伝えることを望んでいた。馮恢の父が亡くなり、服喪の期間が終わると、そこで郷里に帰り、草ぶきの廬を建て、声が出ない病気にかかって何もしゃべれなくなったというふりをし、それにより馮淑が爵位を継承することができた。馮恢は、その後になってやっと出仕して博士祭酒となり、散騎常侍の翟嬰(てきえい)は、馮恢には高尚な品行があり、超然として俗事に振り回されることなく、古の烈士の遺風を継いでいるかのようであるとして推薦した。崔洪は、馮恢には(博士祭酒でありながら)儒学の素質があまりなく、学生を交替で左右に当直させ(てそれをごまかし)、確かに侯の位を譲ったという微細な善行はあるものの、比類無き優れた人物であると称することはできず、そして翟嬰の目は節穴であるとして劾奏した。そこで翟嬰の官を罷免し、朝廷の人々は崔洪のことを憚った。まもなく尚書左丞となり、時の人々は、そのために語って言った。「生い茂った棘のとげ(のような鋭い刺察の担い手)が、博陵からやってきた。南にあってはハイタカとなり、北にあってはタカとな(り、獲物を狙って目を光らせ)る」と。
やがて吏部尚書に選任され、その挙用の手腕は明察と言えるものであり、その門には私的に請託を行うような者は現れなかった。崔洪は雍州刺史の郤詵(げきしん)を推薦し、自分の後任として尚書左丞に据えた。ところが郤詵は後に崔洪を糾弾し、そこで崔洪はある人に対して言った。「私が郤丞(郤詵)を推挙してやったというのに、却って私を劾奏するとは、これではまるで弩を引いて自分を射るようなものではないか」と。郤詵はそれを聞いて言った。「昔、(春秋時代の晋国の)趙宣子は、韓厥(かんけつ)を取り立てて司馬に任じましたが、韓厥は軍法に従って趙宣子の僕を殺しました。そこで趙宣子は諸大夫に言いました。『私を慶賀するが良い。私が韓厥を選用したところ、まさにその任務にふさわしい人物であった』と。崔侯(崔洪)は国のために才人を挙用し、私は才能を認められて挙用され、お互いにただ官の職任のみに務めてそれを遂行し、それぞれ至高の公正さを明らかにしようとしているだけでありますのに、なぜこのように私事について述べられるのでしょうか」と。崔洪は、その言葉を聞いて郤詵のことを重んじた。
崔洪は、財貨のことは口にせず、珠玉を手に取ろうとしなかった。汝南王・司馬亮がかつて公卿たちと宴会を開いた際、瑠璃の酒杯を用いて酌を行った。酒が崔洪のもとに回って来ると、崔洪はその酒杯を手に取らなかった。司馬亮がその理由を問うと、崔洪は答えて言った。「『玉を持つ者は(それを慎重に取り扱って)小走りしないものである』(『礼記』曲礼上篇)という義があるのを考慮したからでございます」と。しかし、その実は、それが(珠玉を手に取らないという)平常の主義に反するものであるため、故に詭弁を弄したに過ぎない。楊駿が誅殺されると、崔洪は都水使者の王佑と親しかったので、連座して退けられた。後に大司農となり、在官中に死去した。
息子の崔廓(さいかく)は、散騎侍郎にまで登り、彼もまた正直であることにより称えられた。

郭奕

原文

郭奕、字大業、太原陽曲人也。少有重名、山濤稱其高簡有雅量。初爲野王令、羊祜常過之、奕歎曰「羊叔子何必減郭大業。」少選復往、又歎曰「羊叔子去人遠矣。」遂送祜出界數百里、坐此免官。咸熙末、爲文帝相國主簿。時鍾會反於蜀、荀勖即會之從甥、少長會家、勖爲文帝掾、奕啓出之。帝雖不用、然知其雅正。
武帝踐阼、初建東宮、以奕及鄭默並爲中庶子。遷右衞率・驍騎將軍、封平陵男。咸寧初、遷雍州刺史・鷹揚將軍、尋假赤幢曲蓋・鼓吹。奕有寡姊、隨奕之官、姊下僮僕多有姦犯、而爲人所糾。奕省按畢、曰「大丈夫豈當以老姊求名。」遂遣而不問。時亭長李含有俊才、而門寒爲豪族所排、奕用爲別駕、含後果有名位、時以奕爲知人。
太康中、徵爲尚書。奕有重名、當世朝臣皆出其下。時帝委任楊駿、奕表駿小器、不可任以社稷。帝不聽、駿後果誅。及奕疾病、詔賜錢二十萬、日給酒米。太康八年卒、太常上諡爲景。有司議以「貴賤不同號、諡與景皇同、不可、請諡曰穆。」詔曰「諡所以旌德表行。按諡法『一德不懈爲簡』。奕忠毅清直、立德不渝。」於是遂賜諡曰簡。

訓読

郭奕、字は大業、太原・陽曲の人なり。少くして重名有り、山濤、其の高簡にして雅量有るを稱す。初め野王令と爲り、羊祜、常て之を過るに、奕、歎じて曰く「羊叔子、何ぞ必ずしも郭大業に減らんや」と。少選して復た往くに、又た歎じて曰く「羊叔子、人を去ること遠し」と。遂に祜を送りて界を出ずること數百里、此に坐して官を免ぜらる。咸熙の末、文帝の相國主簿と爲る。時に鍾會、蜀に反するに、荀勖は即ち會の從甥にして、少くして會の家に長じ、勖、文帝の掾たるに、奕は之を出ださんことを啓す。帝、用いずと雖も、然るに其の雅正なるを知る。
武帝踐阼し、初めて東宮を建つるや、奕及び鄭默を以て並びに中庶子と爲す。遷りて右衞率、驍騎將軍たり、平陵男に封ぜらる。咸寧の初め、雍州刺史・鷹揚將軍に遷り、尋いで赤幢・曲蓋・鼓吹を假せらる。奕に寡姊有り、奕の官に之くに隨うに、姊下の僮僕に多く姦犯有れば、而して人の糾する所と爲る。奕、省按畢わるに、曰く「大丈夫、豈に當に老姊を以て名を求むべけんや」と。遂に遣りて問わず。時に亭長の李含、俊才有り、而るに門は寒にして豪族の排する所と爲るに、奕、用いて別駕と爲し、含は後に果たして名位有り、時に奕を以て人を知ると爲す。
太康中、徵されて尚書と爲る。奕、重名有り、當世の朝臣は皆な其の下に出ず。時に帝は楊駿に委任するに、奕、駿は小器にして、任ずるに社稷を以てすべからずと表す。帝、聽かざるに、駿は後に果たして誅せらる。奕の疾病るに及び、詔して錢二十萬を賜い、日ごとに酒米を給す。太康八年に卒し、太常は諡を上りて景と爲す。有司、議して以えらく「貴賤は號を同じくせず、諡の景皇と同じきは、不可なれば、請う、諡して穆と曰わん」と。詔して曰く「諡は德を旌わし行を表わす所以なり。諡法を按ずるに『一德にして懈らざるを簡と爲す』とあり。。奕は忠毅にして清直、德を立つること渝わらず」と。是に於いて遂に諡を賜いて簡と曰う。

現代語訳

郭奕(かくえき)は、字を大業と言い、太原国・陽曲の人である。若い頃から盛大な名声があり、山涛は、郭奕が高潔かつ簡素であり、広大な度量があることを称えた。郭奕は初め野王令となり、羊祜(ようこ)がかつて野王県を通りがかった際に、郭奕は賛嘆して言った。「羊叔子(羊祜)は、どうして必ずしもこの郭大業に劣ることがあろうか」と。しばらくしてまた羊祜が野王を去ろうとしたとき、郭奕はまた賛嘆して言った。「羊叔子は、常人とはかけ離れた人物である」と。そのまま羊祜を見送り、野王県の県境を数百里(百里は約44㎞)も越えてしまい、(県令は特別な事情が無い限り県外に出てはいけないので)そのことで罪に問われて官を罷免された。(魏の元帝・曹奐の)咸熙年間の末、(当時は相国であった)文帝(司馬昭)の相国府の主簿となった。時に鍾会(しょうかい)が蜀で反乱を起こしたが、荀勖(じゅんきょく)はその従甥(父の兄弟の娘の子)に当たり、子どもの頃は鍾会の家で育てられて成長し、当時は文帝の相国府の掾となっていたが、郭奕は啓文を提出し、荀勖を相国府から追い出すよう述べた。文帝は、その意見を用いなかったものの、しかし郭奕が方正であることを理解していた。
武帝(司馬炎)が皇帝に即位し、初めて東宮(皇太子)を立てると、郭奕および鄭黙を一緒に太子中庶子に任じた。郭奕はやがて昇進して太子右衛率となり、さらに驍騎将軍となり、平陵男(平陵県を封邑とする男爵)に封ぜられた。咸寧年間の初め、「雍州刺史・鷹揚将軍」に昇進し、まもなく赤幢・曲蓋・鼓吹を授けられた。郭奕には未亡人の姉がおり、郭奕が雍州に赴任するのに付き従ったが、その姉の僮僕は法を犯すことが多かったので、人に糾弾された。郭奕は、僮僕に対する取り調べが終わると次のように言った。「大丈夫たるもの、どうして老姉を利用して名誉を求めるべきであろうか」と。そのまま僮僕を釈放して不問にした。時に亭長の李含には俊才があり、しかし寒門の出自であったので、豪族により排斥されていたが、郭奕は李含を抜擢して別駕従事に任用し、李含は後に果たして高い名声と官位を得たので、当時の人々は、郭奕には人を見る目があると考えた。
太康年間に、徴召されて尚書となった。郭奕には盛大な名声があったので、当時の朝臣たちはみな郭奕に対して下手に出た。時に武帝は楊駿に国政を委任していたが、郭奕は、楊駿は器が小さく、国家のことを任せてはならないと上表した。武帝はそれを聞き容れなかったが、楊駿は後に果たして誅殺された。郭奕の病が重くなると、武帝は詔を下して二十万銭を賜与し、毎日、酒と(脱穀済みの)穀物を給付した。太康八年(二八七)に死去し、太常は「景(景男)」という諡号を授けるよう上表した。それに対して担当官が議して言うには「貴賤の者たちは号を一緒にしてはならず、諡号が景皇帝(司馬師)と同じであるのは不適切でありますので、どうか『穆(穆男)』という諡号を授けられますように」と。武帝は詔を下して言った。「諡号というのは、生前の徳や行いを表彰するためのものである。諡法(『逸周書』諡法解)を参照すると、『終始その徳を貫徹し、怠ることがないのを「簡」という』とある。郭奕は忠実かつ剛毅、清廉かつ正直であり、終始変わらず徳を立てていた」と。そこで結局、「簡(簡男)」という諡号を賜与した。

侯史光

原文

侯史光、字孝明、東萊掖人也。幼有才悟、受學於同縣劉夏。舉孝廉、州辟別駕。咸熙初、爲洛陽典農中郎將、封關中侯。
泰始初、拜散騎常侍、尋兼侍中。與皇甫陶・荀廙持節循省風俗、及還、奏事稱旨、轉城門校尉、進爵臨海侯。其年詔曰「光忠亮篤素、有居正執義之心、歷職內外、恪勤在公、其以光爲御史中丞。雖屈其列校之位、亦所以伸其司直之才。」光在職寬而不縱。太保王祥久疾廢朝、光奏請免之、詔優祥而寢光奏。
後遷少府、卒官、詔賜朝服一具・衣一襲・錢三十萬・布百匹。及葬、又詔曰「光厲志守約、有清忠之節。家極貧儉、其賜錢五十萬。」光儒學博古、歷官著績、文筆奏議皆有條理。
長子玄嗣、官至玄菟太守。卒、子施嗣、東莞太守。

訓読

侯史光、字は孝明、東萊・掖の人なり。幼くして才悟有り、學を同縣の劉夏に受く。孝廉に舉げられ、州は別駕に辟す。咸熙の初め、洛陽典農中郎將と爲り、關中侯に封ぜらる。
泰始の初め、散騎常侍を拜し、尋いで侍中を兼ぬ。皇甫陶・荀廙と與に節を持ちて風俗を循省し、還るに及び、事を奏して旨に稱い、城門校尉に轉じ、爵を臨海侯に進めらる。其の年、詔して曰く「光は忠亮篤素にして、正に居り義を執るの心有り、職を內外に歷、恪勤にして公に在れば、其れ光を以て御史中丞と爲す。其の列校の位に屈すと雖も、亦た其の司直の才を伸ぶる所以なり」と。光、職に在りては寬にして縱ならず。太保の王祥、久しく疾みて朝を廢せば、光、奏して之を免ぜんことを請うも、詔して祥を優して光の奏を寢む。
後に少府に遷り、官に卒し、詔して朝服一具・衣一襲・錢三十萬・布百匹を賜う。葬するに及び、又た詔して曰く「光は志を厲まし約を守り、清忠の節有り。家は貧儉を極めたれば、其れ錢五十萬を賜わん」と。光、儒學は古に博く、官を歷るに績を著わし、文筆奏議は皆な條理有り。
長子の玄嗣ぎ、官は玄菟太守に至る。卒するや、子の施嗣ぎ、東莞太守たり。

現代語訳

侯史光は、字を孝明と言い、東萊国・掖の人である。幼い頃から才智があり、同県の人である劉夏に学問を教わった。孝廉に推挙され、青州府により別駕従事として辟召された。(魏の元帝・曹奐の)咸熙年間の初め、洛陽典農中郎将となり、関中侯に封ぜられた。
(西晋の武帝の)泰始年間の初め、散騎常侍を拝命し、まもなく侍中を兼任した。そして皇甫陶・荀廙(じゅんよく)と一緒に節を持って風俗を視察して回り、事を上奏して武帝の期待に応え、城門校尉に転任し、爵位を臨海侯に進められた。その年、次のような詔が下された。「侯史光は忠誠で篤実であり、正道や義挙を踏み行う心があり、内外の職を歴任し、公事にあっては真面目で謹直であるので、そこで侯史光を御史中丞に任じる。もともとのその列校(諸校尉)の位よりも少し低い位にはなってしまうが、それも人の過ちを正すその才能を伸ばすためである」と。侯史光は、御史中丞の職にあっては寛大であったが、それでいて心に任せて手心を加えるというようなことはしなかった。太保の王祥は長いこと病床に臥し、そのせいで朝儀がやめになることが続いたので、侯史光は上奏して王祥を罷免することを請うたが、武帝は詔を下して王祥を優待し、侯史光の上奏を退けた。
後に少府に昇進し、在任中に死去し、詔が下されて一式の朝服、一襲の衣、三十万銭、百匹の布が賜与された。葬儀を行うに当たり、また次のような詔が下された。「侯史光は、志を高くして励みつとめ、倹約なる徳を守り、清廉かつ忠実な節義があった。その家は貧窮を極めているので、五十万銭を賜与する」と。侯史光は、儒学に篤く古のことに広く通暁し、官職を歴任して顕著な功績を上げ、その文章や、上奏・議文に関してはいずれも筋道が通っていた。
長子の侯史玄が爵位を嗣ぎ、その官は玄菟太守に至った。侯史玄が死去すると、その息子の侯史施が嗣ぎ、東莞太守にまで登った。

何攀

原文

何攀、字惠興、蜀郡郫人也。仕州爲主簿。屬刺史皇甫晏爲牙門張弘所害、誣以大逆。時攀適丁母喪、遂詣梁州拜表、證晏不反、故晏冤理得申。王濬爲益州、辟爲別駕。濬謀伐吳、遣攀奉表詣臺、口陳事機、詔再引見、乃令張華與攀籌量進討之宜。濬兼遣攀過羊祜、面陳伐吳之策。攀善于將命、帝善之、詔攀參濬軍事。及孫晧降於濬、而王渾恚於後機、欲攻濬、攀勸濬送晧與渾、由是事解。以攀爲濬輔國司馬、封關內侯。
轉滎陽令、上便宜十事、甚得名稱。除廷尉平、時廷尉卿諸葛沖以攀蜀士、輕之、及共斷疑獄、沖始歎服。遷宣城太守、不行、轉散騎侍郎。楊駿執政、多樹親屬、大開封賞、欲以恩澤自衞。攀以爲非、乃與石崇共立議奏之。語在崇傳。帝不納。以豫誅駿功、封西城侯、邑萬戶、賜絹萬匹、弟逢平鄉侯、兄子逵關中侯。攀固讓所封戶及絹之半、餘所受者分給中外宗親、略不入己。遷翊軍校尉、頃之、出爲東羌校尉。徵爲揚州刺史、在任三年、遷大司農。轉兗州刺史、加鷹揚將軍、固讓不就。太常成粲・左將軍卞粹勸攀涖職、中詔又加切厲、攀竟稱疾不起。
及趙王倫篡位、遣使召攀、更稱疾篤。倫怒、將誅之、攀不得已、扶疾赴召。卒于洛陽。時年五十八。
攀居心平允、涖官整肅、愛樂人物、敦儒貴才。爲梁・益二州中正、引致遺滯。巴西陳壽・閻乂、犍爲費立皆西州名士、並被鄉閭所謗、清議十餘年。攀申明曲直、咸免冤濫。攀雖居顯職、家甚貧素、無妾媵伎樂、惟以周窮濟乏爲事。子璋嗣、亦有父風。

訓読

何攀、字は惠興、蜀郡・郫の人なり。州に仕えて主簿と爲る。屬々刺史の皇甫晏、牙門の張弘の害する所と爲り、誣するに大逆を以てす。時に攀は適々母の喪に丁い、遂に梁州に詣りて表を拜し、晏の反せざることを證したれば、故に晏の冤理は申するを得たり。王濬の益州と爲るや、辟されて別駕と爲る。濬、吳を伐たんことを謀り、攀を遣わして表を奉じて臺に詣らしめ、口ずから事機を陳ぶるや、詔して再び引見し、乃ち張華をして攀と與に進討の宜を籌量せしむ。濬、兼ねて攀を遣わして羊祜を過り、伐吳の策を面陳せしむ。攀、將命を善くしたれば、帝、之を善しとし、攀に詔して濬の軍事に參ぜしむ。孫晧、濬に降り、而して王渾、機に後れしを恚り、濬を攻めんと欲するに及び、攀、濬に晧を送りて渾に與えんことを勸め、是に由りて事は解く。攀を以て濬の輔國司馬と爲し、關內侯に封ず。
滎陽令に轉じ、便宜十事を上り、甚だ名稱を得たり。廷尉平に除せらるるに、時に廷尉卿の諸葛沖、攀の蜀士なるを以て、之を輕んぜしも、共に疑獄を斷ずるに及び、沖、始めて歎服す。宣城太守に遷るも、行かずして、散騎侍郎に轉ず。楊駿、政を執るや、多く親屬を樹て、大いに封賞を開き、恩澤を以て自ら衞らんと欲す。攀、以て非と爲し、乃ち石崇と共に議を立てて之を奏す。語は崇の傳に在り。帝、納れず。駿を誅するに豫るの功を以て、西城侯に封ぜられ、邑は萬戶、絹萬匹を賜わり、弟の逢は平鄉侯たり、兄の子の逵は關中侯たり。攀、固く封ずる所の戶及び絹の半を讓り、餘の受くる所の者は中外の宗親に分給し、略ぼ己に入れず。翊軍校尉に遷り、之を頃くして、出でて東羌校尉と爲る。徵されて揚州刺史と爲り、任に在ること三年、大司農に遷る。兗州刺史に轉じ、鷹揚將軍を加えらるるも、固く讓りて就かず。太常の成粲・左將軍の卞粹、攀に職に涖まんことを勸め、中詔も又た切厲を加うるも、攀、竟に疾と稱して起たず。
趙王倫の位を篡うに及び、使を遣わして攀を召すも、更に疾篤しと稱す。倫、怒り、將に之を誅さんとすれば、攀、已むを得ず、疾を扶けて召に赴く。洛陽に卒す。時に年は五十八。
攀、心を平允に居き、官に涖みて整肅、人物を愛樂し、儒を敦くし才を貴ぶ。梁・益二州中正と爲るや、遺滯を引致す。巴西の陳壽・閻乂、犍爲の費立は皆な西州の名士にして、並びに鄉閭の謗る所を被り、清議すること十餘年。攀、曲直を申明し、咸な冤濫を免る。攀、顯職に居ると雖も、家は甚だ貧素にして、妾媵・伎樂無く、惟だ窮を周い乏を濟うを以て事と爲す。子の璋嗣ぎ、亦た父の風有り。

現代語訳

何攀(かはん)は、字を恵興と言い、蜀郡・郫の人である。益州府に仕えて主簿に任じられた。ちょうどそのとき益州刺史の皇甫晏(こうほあん)がその牙門将の張弘に殺害され、張弘は、皇甫晏が大逆罪を犯したのだと誣告した。時に何攀はちょうど母の喪に服して帰郷しており、そこで梁州刺史のもとを訪れて上表し、皇甫晏は反していないのだということを証明したので、故に皇甫晏の冤罪は晴らされたのであった。王濬が益州刺史となると、何攀は辟召されて別駕従事となった。王濬は、呉を討伐することを謀り、何攀を派遣して上表文を奉じて朝廷まで赴かせ、何攀が武帝に対して口頭でその時機について述べると、武帝は再び何攀を招いて謁見させ、そこで張華に命じて何攀と一緒に進攻・討伐の算段を練らせた。王濬は、さらに何攀を派遣して羊祜のもとを訪れさせ、呉を討伐するための策を面と向かって述べさせた。何攀は、命を奉じて意志を伝達するのに長けており、武帝はそれを善しとして、何攀に詔を下して王濬の参軍事に任じた。やがて孫皓が王濬に降り、そして王渾が(王濬に先手を取られて)機に遅れてしまったことを怒り恨んで王濬を攻めようとした際、何攀は王濬に対し、孫皓の身柄を王渾に送って与えるよう勧め、それにより事態は収まった。まもなく何攀は王濬の輔国大将軍府の司馬に任じられ、関内侯に封ぜられた。
さらに滎陽令に転任し、十の事に関する便宜について上表し、非常に名声を得た。やがて廷尉平に任命されたところ、時に廷尉卿の諸葛沖は、何攀が蜀の士であることから彼を軽んじていたが、一緒に疑獄を裁決するようになると、そこで初めて諸葛沖は何攀に対して賛嘆して感服するようになった。何攀は宣城太守に昇進したが、赴任しないうちに、散騎常侍に転任した。楊駿が国政を取り仕切るようになると、楊駿は自分の親族ばかりを高官に立て、大いに封建や賞与を行うことで自分の身を守ろうとした。何攀は、それは良くないことであると考え、そこで石崇と一緒に議を立ててそのことを上奏した。その内容については石崇伝に載せてある。恵帝はそれを聞き容れなかった。やがて楊駿の誅殺に参与した功により、西城侯に封ぜられ、邑は一万戸とされ、一万匹の絹を賜わり、弟の何逢は平郷侯に封ぜられ、兄の子である何逵は関中侯に封ぜられた。何攀は、封邑として授けられた一万戸と、絹の半分の五千匹について固く譲って受け取らず、授かった残りの分の絹(五千匹)は内外(父方と母方)の宗族に分け与え、ほとんど自分の手元に残さなかった。やがて翊軍校尉に昇進し、しばらくして地方に出て東羌校尉となった。また徴召されて揚州刺史と爲り、三年間在任し、その後、大司農に昇進した。やがて兗州刺史に転任し、鷹揚将軍の位を加えられたが、固く譲って就任しなかった。太常の成粲(せいさん)と左将軍の卞粋(べんすい)は、何攀にその職に就くよう勧め、中詔(中書・尚書を経由する通常の詔とは異なって宮中から直接発せられる詔)でもまた厳しく言いつけたが、何攀は結局、病と称して寝床から起き上がらなかった。
趙王・司馬倫が帝位を簒奪すると、使者を派遣して何攀を召したが、さらに病が重くなったと称した。司馬倫は怒り、何攀を誅殺すると脅したので、何攀はやむを得ず、病を押して召しに応じた。そのまま洛陽で死去した。時に五十八歳であった。
何攀は公平で妥当であることを心掛け、官職に臨んでは整粛であり、才徳ある人物を愛し、儒学を尊重して才能を貴んだ。梁州・益州の二州の中正となった際には、捨て置かれた人材たちを招致した。巴西の人である陳寿や閻乂(えんがい)、犍為の人である費立らは、みな西州の名士であったが、いずれも郷里の人々に誹謗され、そのような清議(郷里の輿論)が十年あまりも続いていた(ため、これまでの中正たちにより推挙されることはなかった)。何攀はその是非を厳正に明らかにし、彼らはみな謂れ無き濡れ衣・不名誉を免れることができた。何攀は、顕職にあったものの、家は非常に貧しく質素で、妾や侍女、歌い女などはおらず、ただ窮乏している人々を救うことだけを心掛けていた。息子の何璋(かしょう)が爵位を嗣ぎ、彼もまた父と同じ風格があった。

原文

史臣曰
幽厲不君、上德猶懷進善、共驩在位、大聖之所不堪。況乎志士仁人、寧求苟合。懷其寵秩、所以繫其存亡者也。雖復自口銷金、投光撫劍、馳書北闕、敗車猶踐、而諫主不易、譏臣實難。劉毅一遇寬容、任和兩遭膚受、詳觀餘烈、亦各其心焉。若夫武陔懷魏臣之志、崔洪愛郤詵之道、長升勸王彌之尊、何攀從趙倫之命、君子之人、觀乎臨事者也。

贊曰
仲雄初令、忠謇揚庭。身方諸葛、帝擬桓靈。大業非楊、元褒誚賈。和氏條暢、堪施大廈。崔門不謁、聲飛朝野。侯史・武陔、輔佐之才。何攀平允、冤濫多迴。

訓読

史臣曰く
幽厲は君たらざるも、上德は猶お善を進むるを懷き、共驩の位に在らば、大聖の堪えざる所なり。況んや志士・仁人、寧くんぞ苟合するを求めんや。其の寵秩を懷うは、其の存亡に繫る所以の者なればなり。復た自ら銷金を口にし、光を投じ劍を撫で、書を北闕に馳せ、車を敗るも猶お踐むと雖も、而れども主を諫むるは易からず、臣を譏るは實に難し。劉毅は一ら寬容に遇い、任和は兩つながら膚受に遭い、詳らかに餘烈を觀るに、亦た各々其の心あり。夫の武陔の魏臣の志を懷き、崔洪の郤詵の道を愛し、長升の王彌の尊を勸め、何攀の趙倫の命に從うが若きは、君子の人にして、臨事を觀る者なり。

贊に曰く
仲雄初めて令せらるるや、忠謇庭に揚ぐ。身は諸葛に方べられ、帝は桓靈に擬えらる。大業は楊を非り、元褒は賈を誚む。和氏は條暢たり、大廈に施すに堪う。崔門は謁せず、聲は朝野に飛ぶ。侯史・武陔、輔佐の才なり。何攀は平允にして、冤濫は多く迴く。

現代語訳

史臣の評
(暗君として知られる周の)幽王や厲王は君主にふさわしくない者であったが、上徳の者たちはそれでもなお善を提言する心を懐き、(四罪として知られる)共工や驩兜がもし君主の位にあったならば、大聖なる人物であってもそれには堪えられない(が故に、諫言を呈した)であろう。ましてや志や仁を備える者が君主であったならば、(上徳や大聖なる者は)どうして間に合わせに迎合することを求めようか。君主の恩寵や官爵の授与について考えをめぐらせるのは、それがその君主(ひいては国家)の存亡に関わるものであるからである。自ら金言を発し、光を放って剣を撫で、書を朝廷に馳せ、車を破棄しても(=官を去っても)なおそれを実行し続けるものの、君主を諫めるのは容易ではなく、大臣たちを非難するのは実に難しいことである。(同じく剛正でしばしば諫言を呈する立場にあっても)劉毅だけが寛容な待遇を受け、任愷・和嶠は両者とも肌身に感じられるような誹謗を受けたが、その他の烈士たちを詳しく見ていっても、やはりそれぞれ同様の心を有していた。武陔が(晋に仕えながらも)魏臣としての志を懐き、崔洪が郤詵の道を愛し、長升(劉暾)が王弥に尊号を称することを勧め、何攀が趙王・司馬倫の命に従ったというようなことから見れば、彼らは君子でありながら、時勢を窺って臨機応変に行動した人々であったと言うことができよう。


仲雄(劉毅)は勅任官となったばかりの頃から、その忠誠・正直さを朝廷で発揮した。自身は諸葛豊になぞらえられ、武帝は(後漢の)桓帝・霊帝になぞらえられた。大業(郭奕)は楊駿を非難し、元褒(任愷)は賈充を非難した。和嶠は物事に達観しており、棟や梁として大きな家に施すに相応しい堅木のような人材であった。(吏部尚書であったとき)崔洪の家の門には私的に請託を行うような者はおらず、その名声は朝廷の人々の間にも、在野の人々の間にも広まった。侯史光と武陔は、帝王を補佐することのできる人材であった。何攀は公平で妥当な判断をし、謂れ無き濡れ衣・不名誉は多く回避された。