翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お恥ずかしい限りですが、ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。とくに引用された文や作品、「史臣曰」は翻訳が難しいので、一定期間をおいて見直す予定です。宜しくお願いいたします。
校正について、Ukon @konkon_ukon さまにご協力を頂きました。ありがとうございました。※誤字等が残っている場合は、翻訳者の佐藤による誤りです。
阮籍字嗣宗、陳留尉氏人也。父瑀、魏丞相掾、知名於世。籍容貌瓌傑、志氣宏放、傲然獨得、任性不羈、而喜怒不形於色。或閉戶視書、累月不出。或登臨山水、經日忘歸。博覽羣籍、尤好莊老。嗜酒能嘯、善彈琴。當其得意、忽忘形骸。時人多謂之癡、惟族兄文業每歎服之、以為勝己、由是咸共稱異。
籍嘗隨叔父至東郡、兗州刺史王昶請與相見、終日不開一言、自以不能測。太尉蔣濟聞其有雋才而辟之、籍詣都亭奏記曰、「伏惟、明公以含一之德、據上台之位。英豪翹首、俊賢抗足。開府之日、人人自以為掾屬。辟書始下、而下走為首。昔子夏在於西河之上、而文侯擁篲。鄒子處於黍谷之陰、而昭王陪乘。夫布衣韋帶之士、孤居特立。王公大人所以禮下之者、為道存也。今籍無鄒卜之道、而有其陋、猥見採擇、無以稱當。方將耕於東皐之陽、輸黍稷之餘稅。負薪疲病、足力不強、補吏之召、非所克堪。乞迴謬恩、以光清舉」。初、濟恐籍不至、得記欣然。遣卒迎之、而籍已去。濟大怒。於是鄉親共喻之、乃就吏。後謝病歸。復為尚書郎、少時、又以病免。及曹爽輔政、召為參軍。籍因以疾辭、屏於田里。歲餘而爽誅、時人服其遠識。宣帝為太傅、命籍為從事中郎。及帝崩、復為景帝大司馬從事中郎。高貴鄉公即位、封關內侯、徙散騎常侍。
籍本有濟世志、屬魏晉之際、天下多故、名士少有全者、籍由是不與世事、遂酣飲為常。文帝初欲為武帝求婚於籍、籍醉六十日、不得言而止。鍾會數以時事問之、欲因其可否而致之罪、皆以酣醉獲免。及文帝輔政、籍嘗從容言於帝曰、「籍平生曾游東平、樂其風土」。帝大悅、即拜東平相。籍乘驢到郡、壞府舍屏鄣、使內外相望、法令清簡、旬日而還。帝引為大將軍從事中郎。有司言有子殺母者、籍曰、「嘻。殺父乃可、至殺母乎」。坐者怪其失言。帝曰、「殺父、天下之極惡、而以為可乎」。籍曰、「禽獸知母而不知父、殺父、禽獸之類也。殺母、禽獸之不若」。眾乃悅服。
籍聞步兵廚營人善釀、有貯酒三百斛、乃求為步兵校尉。遺落世事、雖去佐職、恒游府內、朝宴必與焉。會帝讓九錫、公卿將勸進、使籍為其辭。籍沈醉忘作、臨詣府、使取之、見籍方據案醉眠。使者以告、籍便書案、使寫之、無所改竄。辭甚清壯、為時所重。
阮籍 字は嗣宗、陳留尉氏の人なり。父の瑀は、魏の丞相掾にして、名を世に知らる。籍 容貌は瓌傑、志氣は宏放にして、傲然として獨り得、性に任せて不羈にして、而して喜怒 色を形(あらは)さず。或ときは戶を閉じて書を視、累月 出でず。或ときは山水に登臨し、經日 歸ることを忘る。博く羣籍を覽し、尤も莊老を好む。酒を嗜み能く嘯き、琴を彈くを善くす。其の意を得るに當たり、忽に形骸を忘る。時人 多く之を癡と謂ひ、惟だ族兄の文業〔一〕每に之に歎服し、以て己に勝ると為し、是に由り咸 共に稱異す。
籍 嘗て叔父に隨ひて東郡に至る。兗州刺史の王昶 與に相 見するを請ふに、終日 一言すら開さず、自ら以て測る能はずとす。太尉の蔣濟 其の雋才有るを聞きて之を辟するに、籍 都亭に詣りて奏記して曰く、「伏して惟るに、明公 含一の德を以て、上台の位に據る。英豪 首を翹し、俊賢 足を抗し、開府の日、人人 自ら以て掾屬と為る。辟書 始めて下り、而して下走 首と為る。昔 子夏 西河の上に在り、而して文侯 擁篲す。鄒子 黍谷の陰に處り、而して昭王 陪乘す。夫れ布衣韋帶の士は、孤居して特立す。王公大人 禮もて之に下る所以は、道 存する為ればなり。今 籍 鄒卜の道無く、而して其の陋有り、猥りに採擇せられ、以て稱當無し。方に將に東皐の陽に耕して、黍稷の餘稅を輸さんとす。負薪の疲病、足力 強からず。補吏の召は、克く堪ふる所に非ず。乞ふ謬恩を迴し、以て清舉を光かせよ」と。初め、濟 籍 至らざるを恐れ、記を得て欣然たり。卒を遣りて之を迎ふるに、而れども籍 已に去れり。濟 大いに怒る。是に於て鄉親 共に之を喻し、乃ち吏に就かしむ。後に病を謝して歸る。復た尚書郎と為り、少時、又 病を以て免ぜらる。曹爽 輔政するに及び、召して參軍と為す。籍 因りて疾を以て辭し、田里に屏る。歲餘にして爽 誅せらるれば、時人 其の遠識に服す。宣帝 太傅と為るや、籍に命じて從事中郎と為す。帝 崩ずるに及び、復た景帝の大司馬從事中郎と為る。高貴鄉公 即位し、關內侯に封ぜられ、散騎常侍に徙る。
籍 本は濟世の志有るも、魏晉の際に屬ひ、天下 多故にして、名士 全くする者有る少なし。籍 是に由り世事を與にせず、遂に酣飲もて常と為す。文帝 初め武帝の為に婚を籍に求むめんと欲するも、籍 醉ふこと六十日にして、言ふを得ずして止む。鍾會 數々時事を以て之に問ひ、其の可否に因りて之に罪を致さんと欲し、皆 酣醉を以て免るるを獲。文帝 輔政するに及び、籍 嘗て從容として帝に言ひて曰く、「籍 平生 曾て東平に游び、其の風土を樂しむ」と。帝 大いに悅び、即ち東平相に拜せしむ。籍 驢に乘りて郡に到るに、府舍の屏鄣を壞し、內外をして相 望ましめ、法令は清簡にして、旬日にして還る。帝 引きて大將軍從事中郎と為す。有司 子の母を殺す者有りと言ふ。籍曰く、「嘻(ああ)。父を殺すは乃ち可なり、母を殺すに至るか」と。坐する者 其の失言を怪しむ。帝曰く、「父を殺すは、天下の極惡なり、而れども以て可と為すか」と。籍曰く、「禽獸 母を知りて父を知らず。父を殺すは、禽獸の類なり。母を殺すは、禽獸に之れ若かず」と。眾 乃ち悅服す。
籍 步兵の廚營の人 釀を善くし、酒を貯むること三百斛有るを聞き、乃ち求めて步兵校尉と為る。世事を遺落し、佐職を去ると雖も、恒に府內に游し、朝宴あらば必ず焉を與にす。會々帝 九錫を讓し、公卿 將に勸進せんとし、籍をして其の辭を為らしむ。籍 沈醉して作るを忘れ、臨みて府に詣り、之を取らしむるに、籍 方に案に據りて醉ひて眠るを見る。使者 以て告げ、籍 便ち案を書し、之を寫さしむるに、改竄する所無し。辭 甚だ清壯にして、時の重ずる所と為る。
〔一〕『三国志』巻十六 杜畿伝附杜恕伝注引『杜氏新書』に「武字文業」とあるように、阮武のこと。Ukon @konkon_ukon さまのご指摘に基づいて補います。
阮籍は字を嗣宗といい、陳留尉氏の人である。父の阮瑀は、魏の丞相掾であり、名を世に知られた。阮籍の容姿は稀有にすぐれ、意志は開放的で、傲然として思うままで、希望に任せて縛られず、しかし喜怒の感情を表に出さなかった。あるときは戸を閉じて書物を読み、数ヵ月出てこなかった。あるときは山に登り川に臨み、数日間帰ることを忘れた。さまざまな広く本を読み、もっとも荘老を好んだ。酒を嗜み吟じ、琴を弾くのが上手かった。おのれの満足がいくと、もはや外貌に気を懸けなかった。同時代のひとは気狂いだと言ったが、ただ族兄の文業(阮武)だけがつねに感服し、自分に勝ると言ったので、みな阮籍を特別な人物と認めた。
阮籍はかつて叔父に随って東郡に至った。兗州刺史の王昶はかれと面会することを求めたが、一日じゅう一言も発さなかったので、(王昶は阮籍が)自分には計り知れない人物だと言った。太尉の蒋済は阮籍に優れた才覚があると聞いて辟召したところ、阮籍は都亭に至って書簡をつくり、「伏して思いますに、明公(蒋済)は純一の徳により、上台の位(三公)でおられます。英雄や豪傑は顔をあげ、俊英や賢者は駆けつけ、開府した日には、人々が自発的に掾属となりました。辟召の文書が下されるのは、下走(私)が最初です。むかし(孔子の弟子の)子夏が西河のほとりにいると、(魏の)文侯は掃き清めて迎えました。鄒子(鄒衍)が黍谷のかげにいると、(燕の)昭王は馬車に同乗させました。そもそも無位無官の貧賤の士は、ひとり立ちして生きています。王公や大人が礼によって遜る理由は、かれらが道の体現者だからです。いま私は鄒(衍)や卜(子夏)ほどの道がなく、卑しいにも拘わらず、みだりに辟召を受けましたが、その資格はありません。東方の水田を耕し、穀物の租税を納めれば十分な人間です。薪を背負って体をこわし、脚力が強くありません。吏に任命されても、役割を果たせません。どうか筋違いな恩を撤回し、適正な登用をなさって下さい」と言った。これよりさき、蒋済は阮籍が来てくれないことを恐れ、(阮籍から)書簡が届くと喜んだ。下級役人を派遣してかれを迎えたが、阮籍は立ち去った後だった。蒋済はとても怒った。このことがあって郷里の指導者はみなで阮籍に諭し、(蒋済の府の)吏に就かせた。のちに病を理由に帰郷した。また尚書郎となったが、しばらくして、ふたたび病気によって職を解かれた。曹爽が輔政すると、辟召して参軍とした。阮籍は病気であるとして辞退し、郷里に籠もった。一年あまりで曹爽が誅殺されたので、当時の人々はその見通しの正しさに感服した。宣帝(司馬懿)が太傅となると、阮籍に命じて従事中郎とした。宣帝が崩御すると、また景帝(司馬師)のもとで大司馬従事中郎となった。高貴郷公(曹髦)が即位し、関内侯に封建され、散騎常侍に移った。
阮籍はもとは世を正そうという志があったが、魏晋の交替期にあり、天下に政変が多く、寿命を全うできる名士は少なかった。阮籍はこれを踏まえて政事に関与せず、いつも酔い潰れていた。文帝(司馬昭)がはじめ武帝(司馬炎)のために阮籍と婚姻を結びたいと考えたが、阮籍は六十日間も酔ったままで、(司馬昭は)言い出せずに中止した。鍾会がしばしば時事について質問し、揚げ足を取って罪を与えようとしたが、いつも酔っていたので回避できた。文帝が輔政すると、阮籍はくつろいで、「私はかつて東平に旅行し、その地の風土を楽しみました」と言った。文帝はとても喜び、すぐに東平相を拝命させた。阮籍は驢馬に乗って東平に到着すると、政庁の垣根を壊し、内外から見えるようにして、法令の運用は公平で簡潔で、十日ほどで帰った。文帝は(阮籍を)配下の大将軍従事中郎とした。(あるとき)担当官が母を殺した人物がいると言った。阮籍は、「ああ。父を殺してもよいが、母を殺すなんて」と言った。同席者は不適切ではないかと怪しんだ。文帝は、「父を殺すのは、天下で極めて悪いことだ、なぜ良しとするのか」と言った。阮籍は、「禽獣は母を知っていますが父を知りません。父を殺すのは、禽獣の所業です。母を殺すのは、禽獣にも劣るからです」と言った。人々は感服した。
阮籍は歩兵校尉の営舎の料理係が酒の醸造が上手く、三百斛の酒を蓄えていると聞き、希望して歩兵校尉となった。時事に背を向け、輔佐の職を去ったが、つねに役所のなかにおり、朝の宴があれば必ず出席した。このとき文帝は九錫を辞退したが、公卿が勧進したので、阮籍に辞退の文を作らせた。阮籍は酔い潰れて作るのを忘れていた。執務室にゆき、文の回収にいくと、阮籍は机につっぷして酔って寝ていた。使者が用件を告げると、阮籍はすぐに草稿を作り、これを書き写させたが、修正すべき箇所がなかった。文は清らかで勇壮で、当時において重んじられた。
籍雖不拘禮教、然發言玄遠、口不臧否人物。性至孝、母終、正與人圍棊、對者求止、籍留與決賭。既而飲酒二斗、舉聲一號、吐血數升。及將葬、食一蒸肫、飲二斗酒、然後臨訣、直言窮矣、舉聲一號、因又吐血數升。毀瘠骨立、殆致滅性。裴楷往弔之、籍散髮箕踞、醉而直視、楷弔喭畢便去。或問楷、「凡弔者、主哭、客乃為禮。籍既不哭、君何為哭」。楷曰、「阮籍既方外之士、故不崇禮典。我俗中之士、故以軌儀自居」。時人歎為兩得。籍又能為青白眼、見禮俗之士、以白眼對之。及嵇喜來弔、籍作白眼、喜不懌而退。喜弟康聞之、乃齎酒挾琴造焉、籍大悅、乃見青眼。由是禮法之士疾之若讐、而帝每保護之。
籍嫂嘗歸寧、籍相見與別。或譏之、籍曰、「禮豈為我設邪」。鄰家少婦有美色、當壚沽酒。籍嘗詣飲、醉、便臥其側。籍既不自嫌、其夫察之、亦不疑也。兵家女有才色、未嫁而死。籍不識其父兄、徑往哭之、盡哀而還。其外坦蕩而內淳至、皆此類也。時率意獨駕、不由徑路、車迹所窮、輒慟哭而反。嘗登廣武、觀楚漢戰處、嘆曰、「時無英雄、使豎子成名」。登武牢山、望京邑而嘆、於是賦豪傑詩。景元四年冬卒、時年五十四。籍能屬文、初不留思。作詠懷詩八十餘篇、為世所重。著達莊論、敘無為之貴。文多不錄。
籍嘗於蘇門山遇孫登、與商略終古及栖神導氣之術、登皆不應、籍因長嘯而退。至半嶺、聞有聲若鸞鳳之音、響乎巖谷、乃登之嘯也。遂歸著大人先生傳、其略曰、「世人所謂君子、惟法是修、惟禮是克。手執圭璧、足履繩墨。行欲為目前檢、言欲為無窮則。少稱鄉黨、長聞鄰國。上欲圖三公、下不失九州牧。獨不見羣蝨之處褌中、逃乎深縫、匿乎壞絮、自以為吉宅也。行不敢離縫際、動不敢出褌襠、自以為得繩墨也。然炎丘火流、焦邑滅都、羣蝨處於褌中而不能出也。君子之處域內、何異夫蝨之處褌中乎」。此亦籍之胸懷本趣也。
子渾、字長成、有父風。少慕通達、不飾小節。籍謂曰、「仲容已豫吾此流、汝不得復爾」。太康中、為太子庶子。
籍 禮教に拘はらざると雖も、然れども發言は玄遠にして、口に人物を臧否せず。性は至孝にして、母の終に、正に人と棊を圍むに、對ふ者 止むることを求むれども、籍 留めて與に決賭す。既にして酒二斗を飲み、聲一號を舉げ、數升を吐血す。將に葬せんとするに及び、一蒸の肫を食べ、二斗の酒を飲み、然る後に訣に臨み、直だ窮まれると言ひ、聲一號を舉げ、因りて又 吐血すること數升。毀瘠して骨立し、殆ど性を滅するに致る。裴楷 往きて之を弔し、籍 髮を散して箕踞し、醉ひて直視す。楷 弔喭し畢はりて便ち去る。或ひと楷に問ふ、「凡そ弔ふ者は、主は哭し、客は乃ち禮を為す。籍 既に哭さず、君 何為れぞ哭くか」と。楷曰く、「阮籍 既に方外の士にして、故に禮典を崇ばず。我 俗中の士して、故に軌儀を以て自ら居る」と。時人 歎じて兩りもて得たりと為す。籍 又 能く青白眼を為し、禮俗の士を見るに、白眼を以て之に對ふ。嵇喜 來たりて弔するに及び、籍 白眼を作し、喜 懌ばずして退く。喜の弟の康 之を聞き、乃ち酒を齎し琴を挾して焉に造るに、籍 大いに悅び、乃ち青眼を見す。是に由り禮法の士 之を疾むこと讐が若く、而して帝 每に之を保護す。
籍の嫂 嘗て歸寧し、籍 相 見て與に別る。或ひと之を譏るに、籍曰く、「禮 豈に我が為に設くるや」と。鄰家に少婦の美色なる有り、壚に當たり酒を沽す。籍 嘗て詣たりて飲み、醉ひ、便ち其の側に臥す。籍 既にして自ら嫌はず、其の夫 之を察し、亦た疑はざるなり。兵家の女の才色なる有り、未だ嫁がずして死す。籍 其の父兄を識らざるに、徑往して之に哭し、哀を盡して還る。其の外は坦蕩して內は淳至なること、皆 此の類なり。時に意に率して獨り駕し、徑路に由らず、車迹 窮くる所に、輒ち慟哭して反る。嘗て廣武に登り、楚漢の戰處を觀て、嘆じて曰く、「時に英雄無くんば、豎子をして名を成さしむ」と。武牢山に登り、京邑を望みて嘆き、是に於て豪傑詩を賦す。景元四年冬に卒す、時に年五十四なり。籍 能く文を屬り、初め思を留めず。詠懷詩八十餘篇を作り、世の重ずる所と為る。著は莊論に達し、無為の貴を敘す。文 多ければ錄せず。
籍 嘗て蘇門山に於て孫登と遇ひ、與に終古及び栖神の導氣の術を商略するに、登 皆 應ぜず、籍 因りて長嘯して退く。半嶺に至り、聲の鸞鳳の音が若き有るを聞き、巖谷に響き、乃ち登の嘯なり。遂に歸りて大人先生傳を著す。其の略に曰く、「世人 謂ふ所の君子は、惟だ法のみ是れ修め、惟だ禮のみ是れ克くす。手に圭璧を執り、足に繩墨を履む。行は目前の檢を為さんと欲し、言は無窮の則を為さんと欲す。少くして鄉黨に稱せられ、長じて鄰國に聞こゆ。上は三公を圖らんと欲し、下は九州の牧を失はず。獨り羣蝨の褌中に處るを見ざるや。深縫に逃げ、壞絮に匿れ、自ら以て吉宅なりと為す。行は敢て縫際を離れず、動は敢て褌襠を出でず、自ら以て繩墨を得るなりと為す。然して炎丘火流、邑を焦し都を滅し、羣蝨 褌中に處りて出る能はざるなり。君子の域內に處るや、何ぞ夫の蝨の褌中に處ると異なるや」と。此れ亦た籍の胸懷の本趣なり。
子の渾、字は長成、父の風有り。少くして通達を慕ひ、小節を飾らず。籍 謂ひて曰く、「仲容 已に吾が此の流を豫しむ、汝 復た爾るを不ず」と。太康中に、太子庶子と為る。
阮籍は礼教にこだわらなかったが、発言は深遠で、人物の良し悪しを口にしなかった。きわめて孝であり、母が亡くなると、人と囲碁を指していたが、相手が中止しようと言っても、阮籍は勝敗を決着させた。対局を終えると酒二斗を飲み、いちど叫び声をあげ、数升の血を吐いた。母を埋葬するとき、獣のすね肉を食べ、二斗の酒を飲んだが、その後に告別のとき、もうだめだと言って、泣き声を発し、数升を吐血した。痩せ衰えて、ほとんど死にそうだった。裴楷が訪れて弔問すると、阮籍は髪の毛を結ばず足を投げ出し、酔って直視した。裴楷は弔いを終えて去った。あるひとが裴楷に、「一般的に弔いとは、主(遺族)が哭し、客は礼を為します。阮籍は哭さず、しかしあなた(客の裴楷)がなぜ哭するのですか」と言った。裴楷は、「阮籍は礼の枠組みを外れた人士で、礼典を尊ばない。私は世俗の人士だから、規範をこちらが守ったのだ」と言った。当時の人は感歎して二人とも礼を心得ているとした。阮籍は白眼と青眼を使い分けた。世俗的で礼を守る人には、白眼で向き合った。嵇喜がきて弔問すると、阮籍は白眼になり、嵇喜は不愉快になって帰った。嵇喜の弟の嵇康がこれを聞き、酒をたずさえ琴を持って訪問すると、阮籍はとても喜び、青眼で会った。このことから礼法の士はまるで仇敵のように阮籍を憎んだが、文帝はいつも阮籍を見逃した。
阮籍の兄嫁がかつて父母の家に帰るとき、阮籍は直接会って別れを告げた。これを批判されると、阮籍は、「礼というものは私のために設けられたのか」と反論した。隣家に若くて美しい女がおり、いろりに当たり買った酒を飲んでいた。阮籍も行って一緒に飲み、酔って、そばで横になった。阮籍は悪いと思っておらず、その夫が知っても、密通を疑わなかった。兵家に才色のある娘がいたが、嫁ぐ前に死んだ。阮籍は彼女の父や兄と知り合いではないが、駆けつけて哭し、哀を尽くして帰った。表面はさっぱりして素っ気ないが、内面が篤実であることは、このようであった。あるとき意に任せて一人で遠出し、道路に沿わず、車の軌道の行き止まりで、慟哭して帰った。かつて広武山に登り、楚漢の古戦場を見て、「時代に英雄がいなければ、豎子に名を成させる」と嘆じた。武牢山に登り、京邑を望んで嘆き、そこで豪傑詩を賦した。景元四(二六三)年の冬に亡くなり、五十四歳だった。阮籍は文を綴るのを得意とし、思いを(内に)留めなかった。詠懐詩の八十篇あまりを作り、世に重んじられた。著作は荘子の論に達し、無為の貴さを記述した。文が多いので採録しない。
阮籍はかつて蘇門山で孫登と会い、太古のことや神を宿すための導気の術について討論したが、孫登はまったく答えなかった。阮籍は長く歌ってから退いた。山の半ばまで降りると、鸞鳳(瑞兆の神鳥)のような声が聞こえて、険しい谷に響いたが、孫登の歌声であった。帰ってから『大人先生伝』を著した。その概略に、「世間の人がいう君子は、ただ法を守るだけで、ただ礼を実践するだけだ。手に(祭礼に用いる)圭璧を持ち、足に(四角四面の)縄張りの墨を踏む。行動は眼前の取り締まりばかりで、発言は際限のない規則のことばかりだ。若くして郷里で人物評を得て、成長すると隣国に名声が届く。昇進したら三公になりたいと思い、昇進せずとも九州の牧にはなる。(君主にへつらうのは)多くのシラミがふんどしのなかにいるのと同じではないか。深い縫い目に逃げこみ、ほつれた繊維にかくれ、それを立派な住処だという。行くとしても縫い目の隙間から離れず、動いてもふんどしから出ず、自分では規則を遵守していると思っている。そして怒濤のような火炎が、都邑を焼き焦がしても、シラミはふんどしから出られない。君子が都邑のなかにいるのは、シラミがふんどしのなかにいるのと何が違うのか」と言った。これもまた阮籍の心からの本音であった。
子の渾は、字を長成といい、父と似ていた。若くして通達したいと願い、小さな節度にこだわらなかった。阮籍は、「仲容(一族の阮咸)がもう私と同じ生き方を楽しんでいる、お前まで同じではいけない」と言った。太康年間に、太子庶子となった。
咸字仲容。父熙、武都太守。咸任達不拘、與叔父籍為竹林之游、當世禮法者譏其所為。咸與籍居道南、諸阮居道北、北阮富而南阮貧。七月七日、北阮盛曬衣服、皆錦綺粲目。咸以竿挂大布犢鼻於庭、人或怪之、答曰、「未能免俗、聊復爾耳」。
歷仕散騎侍郎。山濤舉咸典選、曰、「阮咸貞素寡欲、深識清濁、萬物不能移。若在官人之職、必絕於時」。武帝以咸耽酒浮虛、遂不用。太原郭奕高爽有識量、知名於時、少所推先、見咸心醉、不覺歎焉。而居母喪、縱情越禮。素幸姑之婢、姑當歸于夫家、初云留婢、既而自從去。時方有客、咸聞之、遽借客馬追婢、既及、與婢累騎而還、論者甚非之。
咸妙解音律、善彈琵琶。雖處世不交人事、惟共親知絃歌酣宴而已。與從子脩特相善、每以得意為歡。諸阮皆飲酒、咸至、宗人間共集、不復用杯觴斟酌、以大盆盛酒、圓坐相向、大酌更飲。時有羣豕來飲其酒、咸直接去其上、便共飲之。羣從昆弟莫不以放達為行、籍弗之許。荀勖每與咸論音律、自以為遠不及也、疾之、出補始平太守。以壽終。二子、瞻・孚。
咸 字は仲容なり。父の熙は、武都太守なり。咸 任達にして拘らず、叔父の籍と與に竹林の游を為し、當世の禮法の者 其の為す所を譏る。咸 籍と與に道南に居し、諸阮 道北に居す。北阮は富たり南阮は貧たり。七月七日、北阮 盛んに衣服を曬し、皆 錦綺もて目を粲せしむ。咸 竿を以て大布の犢鼻を庭に挂く。人 或いは之を怪しむに、答へて曰く、「未だ能く俗を免れず、聊か復た爾るのみ」と。
散騎侍郎を歷仕す。山濤 咸を舉げて選を典りて、曰く、「阮咸 貞素にして寡欲なり、深く清濁を識り、萬物 移す能はず。若し官人の職に在らば、必ず時に絕たらん」と。武帝 咸の耽酒して浮虛なるを以て、遂に用ひず。太原の郭奕 高爽にして識量有り、名を時に知られ、少くして推先する所なり。咸を見て心醉し、覺えずして歎ず。而れども母の喪に居りて、情を縱にして禮を越ゆ。素より姑の婢を幸し、姑 當に夫の家に歸るに、初め云ひて婢を留め、既にして自ら從ひて去る。時に方に客有り、咸 之を聞き、遽かに客の馬を借りて婢を追ひ、既に及ぶや、婢と與に騎を累ねて還る。論者は甚だ之を非る。
咸 音律に妙解し、善く琵琶を彈く。世に處りて人事に交はらざると雖も、惟だ共に親しく絃歌を知りて酣宴するのみ。從子の脩と與に特に相 善く、每に意を得る以て歡を為す。諸阮 皆 飲酒し、咸 至るや、宗人の間 共に集ひ、復た杯觴を用て斟酌せず、大盆を以て酒を盛んにし、圓坐して相 向ひ、大いに酌み更に飲む。時に羣豕 來たりて其の酒を飲む有り、咸 直接に其の上に去り、便ち共に之を飲む。羣從昆弟 放達を以て行を為さざる莫く、籍 之をば許さず。荀勖 每に咸と與に音律を論じ、自ら以て遠く及ばざるなりと為し、之を疾む。出でて始平太守に補せらる。壽を以て終はる。二子あり、瞻・孚なり。
阮咸は字を仲容という。父の阮熙は、武都太守である。阮咸は自分勝手で拘りがなく、叔父の阮籍とともに竹林で遊んだ。同時代の礼法を重んじるものは、かれの行動を批判した。阮咸は阮籍とともに道の南に住み、それ以外の阮氏の人々は道の北に住んだ。北の阮氏は富裕だが南の阮氏は貧乏であった。七月七日、北の阮氏は盛んに衣服を晒し、みな錦の刺繍で目を眩ませた。阮咸は大きな布のふんどしを庭で竿に掛けた。人がその行動を不審がると、答えて、「まだきちんと世俗から離れていない、だからこうする(視線を遮る)だけだ」と言った。
散騎侍郎に就官した。山濤が阮咸を推薦した文に、「阮咸は正しくて飾り気がなく寡欲であり、深く清濁を知り尽くし、どんなものでも心変わりしない。もし官職に就けば、必ず当世第一になるでしょう」と言った。武帝は阮咸が酒好きで浮薄なので、けっきょく用いなかった。太原の郭奕は高潔で知識があり、名を当時に知られ、若くして抜擢された。阮咸と会って心酔し、うっかり感歎がもれた。ところが(阮咸は)母の喪中に、感情にまかせて礼節を超えた。ふだんから姑の婢(女奴隷)を可愛がり、姑が夫の家に帰るとき、言い含んで婢を家に留めておいたが、(姑が出かけると婢は)自分で姑を追って家から出た。このとき客が来ていたが、阮咸は婢が出ていったと聞くと、客の馬を借りて遠くまで婢を追いかけ、追い付くと婢を尻馬に乗せて連れ帰った。論者から厳しく批判された。
阮咸は音律をたくみに理解し、琵琶を弾くのが上手かった。世俗で人と交わらないが、演奏と歌を通じて親しく酒宴に出た。従子の阮脩ととくに気が合い、嬉しいことがあると歓待した。阮氏の人々はみな飲酒が好きで、阮咸が到着すると、一族がともに集まって、もう酒杯を使わず、大盆に酒を満たし、車座で向き合い、大量に酌んで飲みあった。あるとき豚がきてその酒を飲んだが、阮咸はその背中に直接乗り、一緒に酒を飲んだ。一族の子弟らが放漫すぎたので、阮籍はこれを禁じた。荀勖はいつも阮咸と音律について論じ、自分が遠く敵わないと思うと、(阮咸を)疎んじた。朝廷から出て始平太守に任命された。寿命で亡くなった。二人の子がおり、阮瞻と阮孚である。
瞻字千里。性清虛寡欲、自得於懷。讀書不甚研求、而默識其要、遇理而辯、辭不足而旨有餘。善彈琴、人聞其能、多往求聽、不問貴賤長幼、皆為彈之。神氣沖和、而不知向人所在。內兄潘岳每令鼓琴、終日達夜、無忤色。由是識者歎其恬澹、不可榮辱矣。舉止灼然。見司徒王戎、戎問曰、「聖人貴名教、老莊明自然、其旨同異」。瞻曰、「將無同」。戎咨嗟良久、即命辟之。時人謂之「三語掾」。太尉王衍亦雅重之。瞻嘗羣行、冒熱渴甚、逆旅有井、眾人競趨之、瞻獨逡巡在後、須飲者畢乃進、其夷退無競如此。
東海王越鎮許昌、以瞻為記室參軍、與王承・謝鯤・鄧攸俱在越府。越與瞻等書曰、「禮、年八歲出就外傅、明始可以加師訓之則。十年曰幼學、明可漸先王之教也。然學之所入淺、體之所安深。是以閑習禮容、不如式瞻儀度。諷誦遺言、不若親承音旨。小兒毗既無令淑之質、不聞道德之風、望諸君時以閑豫、周旋誨接」。
永嘉中、為太子舍人。瞻素執無鬼論、物莫能難、每自謂此理足可以辯正幽明。忽有一客通名詣瞻、寒溫畢、聊談名理。客甚有才辯、瞻與之言、良久及鬼神之事、反覆甚苦。客遂屈、乃作色曰、「鬼神、古今聖賢所共傳、君何得獨言無。即僕便是鬼」。於是變為異形、須臾消滅。瞻默然、意色大惡。後歲餘、病卒於倉垣、時年三十。
瞻 字は千里なり。性は清虛にして寡欲、懷を自得す。讀書するも甚だしくは研求せず、而れども其の要を默識し、理に遇へば辯じ、辭は足らずして旨は餘有り。善く琴を彈じ、人 其の能を聞き、多く往きて聽かんことを求む。貴賤長幼を問はず、皆 為に之を彈く。神氣は沖和にして、而れども向人の所在を知らず。內兄の潘岳 每に琴を鼓かしめ、終日達夜なるとも、忤色無し。是に由り識者 其の恬澹を歎じ、榮辱す可からずとす。舉止は灼然たり〔一〕。司徒の王戎に見え、戎 問ひて曰く、「聖人 名教を貴ぶ、老莊 自然を明らかにす、其の旨 同か異か」と。瞻曰く、「將た同無からんや」と。戎 咨嗟すること良に久しく、即ち命して之を辟す。時人 之を「三語掾」と謂ふ。太尉の王衍も亦た雅に之を重んず。瞻 嘗て羣行し、熱を冒して渴甚し、逆旅に井有り、眾人 競ひて之に趨る、瞻 獨り逡巡して後に在り、飲む者を須ち畢りて乃ち進み、其の夷退 競ふこと無きは此の如し。
東海王越 許昌に鎮し、瞻を以て記室參軍と為し、王承・謝鯤・鄧攸と與に俱に越の府に在り。越 瞻らと與に書して曰く、「禮、年八歲にして出でて外傅に就くは、始めて以て師訓の則を加ふ可きを明らかにす。十年にして幼學と曰ふは、先王の教を漸くす可きを明らかにするなり。然して學の入る所は淺く、體の安くする所は深し。是を以て禮容を閑習し、式て儀度を瞻るに如かず。遺言を諷誦するは、親ら音旨を承くるに若かず。小兒毗 既に令淑の質無く、道德の風を聞かず、望むらくは諸君 時々に閑豫を以て、周旋し誨接せよ」と。
永嘉中に、太子舍人と為る。瞻 素より無鬼論を執り、物として能く難ずること莫く、每に自ら此の理 以て幽明を辯正す可きに足ると謂ふ。忽ち一客の名を通し瞻に詣るもの有り、寒溫 畢はりて、名理を聊談す。客 甚だ才辯有り、瞻 之と與に言ひ、良に久しくして鬼神の事に及び、反覆して甚だ苦し。客 遂に屈し、乃ち色を作して曰く、「鬼神は、古今の聖賢の共に傳ふる所なり、君 何ぞ得て獨り無しと言ふか。即ち僕 便ち是れ鬼なり」と。是に於て變はりて異形と為り、須臾にして消滅す。瞻 默然とし、意色 大惡たり。後に歲餘にして、病もて倉垣に卒す、時に年三十なり。
〔一〕中華書局本に載せる校勘記によると、「止」を衍字とする。「止」一字を削れば、「灼然に舉せらる」と読めば、灼然という科目により官僚に登用されたという文になる。ここでは底本のとおり読んだ。
阮瞻は字を千里という。性格は清らかで虚無的で寡欲で、自分で満たされていた。読書しても激しく探究することなく、しかし要点を黙ったまま理解し、理に触れれば論じ、言葉は少ないが内容は余りあった。琴の演奏が上手く、人々がその腕前を聞き、大勢が来て聞きたいと言った。貴賤や長幼を問わず、皆のために演奏した。精神は穏やかで和らぎ、しかし人の好意を解さなかった。内兄の潘岳がずっと琴を演奏させ、昼夜を通して続けさせられても、反抗しなかった。これにより識者は静かでさっぱりした様子に感心し、栄辱(の批評)を加えるべきでないとした。挙止は明らかであった。司徒の王戎が面会し、「聖人は名教を貴んだ、老荘は自然を明らかにした、その教えは同じか違うのか」と言った。阮瞻は、「将無同(さて同じで無かろうか)」と言った。王充は長く感歎して、彼を辟召した。当時の人は彼を「三語掾」と読んだ。太尉の王衍もまた彼を重んじていた。かつて阮瞻は人々と歩いており、暑いのでのどが渇いた。旅館に井戸があり、人々が競って井戸に走ったが、阮瞻だけはゆっくりと遅れて行き、皆が飲み終わるのを待った。穏やかで身を退いて競わないのはこのようであった。
東海王越(司馬越)が許昌に出鎮し、阮瞻を記室参軍とし、王承・謝鯤・鄧攸とともに司馬越の府にいた。司馬越が阮瞻らと文書を作っていると、「礼に、八歳で家を出て外傅に習うのは、師から教えを受けるべきことを明らかにしている。十歳で幼学というのは、先王の教えを習うべきことを明らかにしている(『礼記』内則)。学問が入るところは浅く、体に染みつくことは深い。だから礼について暗記するより、実際の振る舞いを見るほうがよい。先王の言葉を暗誦するより、教師から意味を聞くほうがよい。わが幼子の司馬毗は、まだ上品な素質がなく、道徳の風を聞かない。どうか諸君らが落ち着いたとき、直接指導をしてくれ」と言った。
永嘉年間に、太子舎人となった。阮瞻はもとより無鬼論を支持し、いかなる物でも阮瞻の考えを覆すことがなく、つねに自分の考えに基づき不確かなものを弁別し正せると言っていた。あるとき一人の客が名乗って阮瞻を訪れ、時候の挨拶が終わり、名理について話した。客はとても弁が立ち、阮瞻と言いあって、やがて鬼神の話題に及んだが、論破され苦しんだ。客はついに屈服し、顔色を変えて、「鬼神は、古今の聖賢がともに伝えてきたものだ、どうして君だけが存在しないと唱えるのか。他ならぬ私が鬼であるのに」と言った。こうして異形へと変わり、たちまち消滅した。阮瞻は黙然とし、気分がとても悪くなった。のちに一年あまりで、病気で倉垣で亡くなった、このとき三十歳だった。
孚字遙集。其母、即胡婢也。孚之初生、其姑取王延壽魯靈光殿賦曰、「胡人遙集於上楹」而以字焉。初辟太傅府、遷騎兵屬。避亂渡江、元帝以為安東參軍。蓬髮飲酒、不以王務嬰心。時帝既用申韓以救世、而孚之徒未能棄也。雖然、不以事任處之。轉丞相從事中郎。終日酣縱、恒為有司所按、帝每優容之。
琅邪王裒為車騎將軍、鎮廣陵、高選綱佐、以孚為長史。帝謂曰、「卿既統軍府、郊壘多事、宜節飲也」。孚答曰、「陛下不以臣不才、委之以戎旅之重。臣僶勉從事、不敢有言者、竊以今王莅鎮、威風赫然、皇澤遐被、賊寇斂迹、氛祲既澄、日月自朗、臣亦何可爝火不息。正應端拱嘯詠、以樂當年耳」。遷黃門侍郎・散騎常侍。嘗以金貂換酒、復為所司彈劾、帝宥之。轉太子中庶子・左衞率、領屯騎校尉。
明帝即位、遷侍中。從平王敦、賜爵南安縣侯。轉吏部尚書、領東海王師、稱疾不拜。詔就家用之、尚書令郗鑒以為非禮。帝曰、「就用之誠不快、不爾便廢才」。及帝疾大漸、溫嶠入受顧命、過孚、要與同行。升車、乃告之曰、「主上遂大漸、江左危弱、實資羣賢、共康世務。卿時望所歸、今欲屈卿同受顧託」。孚不答、固求下車、嶠不許。垂至臺門、告嶠內迫、求暫下、便徒步還家。
初、祖約性好財、孚性好屐、同是累而未判其得失。有詣約、見正料財物、客至、屏當不盡、餘兩小簏、以著背後、傾身障之、意未能平。或有詣阮、正見自蠟屐、因自嘆曰、「未知一生當著幾量屐」。神色甚閑暢。於是勝負始分。
咸和初、拜丹楊尹。時太后臨朝、政出舅族。孚謂所親曰、「今江東雖累世、而年數實淺。主幼時艱、運終百六、而庾亮年少、德信未孚、以吾觀之、將兆亂矣」。會廣州刺史劉顗卒、遂苦求出。王導等以孚疏放、非京尹才、乃除都督交廣寧三州軍事・鎮南將軍・領平越中郎將・廣州刺史・假節。未至鎮、卒、年四十九。尋而蘇峻作逆、識者以為知幾。無子、從孫廣嗣。
孚 字は遙集なり。其の母、即ち胡婢なり。孚の初め生るるや、其の姑 王延壽の魯靈光殿賦を取りて曰く、「胡人 上楹に遙集す」と、而して以て焉を字とす。初め太傅府に辟せられ、騎兵屬に遷る。亂を避けて渡江し、元帝 以て安東參軍と為す。蓬髮にして飲酒し、王務を以て嬰心せず。時に帝 既に申韓を用ひて世を救はんとするを以てし、而れども孚の徒 未だ能く棄てざるなり。然りと雖も、事任を以て之を處かず。丞相從事中郎に轉ず。終日 酣縱し、恒に有司の按ずる所と為るも、帝 每に之を優容す。
琅邪王裒 車騎將軍と為り、廣陵に鎮し、綱佐を高選し、孚を以て長史と為す。帝 謂ひて曰く、「卿 既に軍府を統べ、郊壘 事多し、宜しく飲を節すべきなり」と。孚 答へて曰く、「陛下 臣を以て不才とせず、之を委ぬるに戎旅の重を以てす。臣 僶勉して從事し、敢て言有らざるは、竊かに今王の鎮に莅すを以て、威風 赫然たりて、皇澤 遐く被ひ、賊寇 迹を斂め、氛祲 既に澄み、日月 自ら朗るければなり。臣 亦た何ぞ爝火して息まざる可きか。正に端に應じて拱きて嘯詠し、以て當年を樂しむのみ」と。黃門侍郎・散騎常侍に遷る。嘗て金貂を以て酒に換へ、復た所司に彈劾せらるるも、帝 之を宥す。太子中庶子・左衞率に轉じ、屯騎校尉を領す。
明帝 即位するや、侍中に遷る。王敦を平らぐに從ひ、爵南安縣侯を賜ふ。吏部尚書に轉じ、東海王師を領するも、疾と稱して拜せず。詔して家に就きて之を用ひ、尚書令の郗鑒 以て非禮と為す。帝曰く、「就用の誠 快ならざれど、爾らずんば便ち才を廢す」と。帝の疾 大漸なるに及び、溫嶠 入りて顧命を受け、孚を過り、與に同行するを要む。車に升り、乃ち之に告げて曰く、「主上 遂に大漸し、江左 危弱たり。實に羣賢を資け、共に世務を康んず。卿 時望の歸する所、今 卿に屈して同に顧託を受けんと欲す」と。孚 答へず、固く下車を求むるも、嶠 許さず。臺門に至るに垂とし、嶠に內迫を告げ、暫らく下るを求め、便ち徒步もて家に還る。
初め、祖約 性は財を好み、孚 性は屐を好み、同に是れ累ねて未だ其の得失を判ぜず。約に詣るもの有り、正に財物を料るを見て、客 至るや、屏當して盡くさず、餘兩の小簏、以て背後に著はれ、身を傾けて之を障り、意 未だ能く平らかならず。或ひと阮に詣る有り、正に自ら屐を蠟するを見て、因りて自ら嘆きて曰く、「未だ知らず一生に當に幾量の屐に著くべきかを」と。神色 甚だ閑暢たり。是に於て勝負 始めて分かつ。
咸和の初め、丹楊尹を拜す。時に太后 臨朝し、政は舅族に出づ。孚 親しむ所に謂ひて曰く、「今 江東 世を累ぬと雖も、而れども年數 實に淺し。主 幼にして時艱あり、運は百六に終はる、而して庾亮 年少にして、德信 未だ孚(まこと)ならず、以て吾 之を觀るに、將に亂を兆さん」と。會々廣州刺史の劉顗 卒し、遂に苦もて出づるを求む。王導ら孚の疏放なるを以て、京尹の才に非ざれば、乃ち都督交廣寧三州軍事・鎮南將軍・領平越中郎將・廣州刺史・假節に除す。未だ鎮に至らざるに、卒し、年は四十九なり。尋いで蘇峻 逆を作し、識者 以為へらく幾ど知ると。子無く、從孫の廣 嗣ぐ。
阮孚は字を遙集という。その母は、胡族の婢である。阮孚が誕生したとき、彼の姑が王延寿の魯霊光殿賦に、「胡人が上楹に遙集する」とあるのを引き、これを字とした。はじめ太傅府に辟召され、騎兵属に遷った。乱を避けて渡江し、元帝は阮孚を安東参軍とした。髪を乱して酒を飲み、政務に熱心でなかった。元帝は申韓(法家)を採用して世を救おうとしたが、しかし阮孚のような連中もまだ排除しなかった。ただし、実務を割り当てなかった。丞相従事中郎に転じた。終日酔いつぶれ、つねに担当官に取り締まられたが、元帝は寛容に黙認した。
琅邪王裒(司馬裒)が車騎将軍となり、広陵に鎮すると、将軍府の高官を選出し、阮孚を長史とした。元帝は、「卿はすでに軍府を統括し、郊外の城塁は事案が多いのだから、節酒をせよ」と言った。阮孚は、「陛下は私を不才とせず、軍事の重職を与えました。私が励み勤めて従事し、敢えて発言しないのは、瑯邪王が鎮所に臨んで、威風が輝き、皇帝の恩沢が遠くを被い、賊寇は行動をひそめ、悪気が澄み渡り、日月が明るいからです。どうして(軍の)灯火が止まないでしょうか。(私は)ただ末席に座って何もせずに詠唱し、当年を楽しむだけです」と言った。黄門侍郎・散騎常侍に遷った。かつて金貂を酒と交換し、担当官に弾劾されたが、元帝はこれを見逃した。太子中庶子・左衛率に転じ、屯騎校尉を領した。
明帝が即位すると、侍中に遷った。王敦の平定に従軍し、南安県侯の爵位を賜った。吏部尚書に転じ、東海王師を領したが、病気を理由に拝命しなかった。詔により在宅での執務を認めたが、尚書令の郗鑒がこれを非礼とした。明帝は、「在宅の執務を認めることは歓迎されないが、さもなくば才能を捨てることになる」と言った。明帝の病気が重篤になると、温嶠は朝廷に入って顧命(遺命)を受けることになったが、阮孚の家の前を通過し、同行を求めた。馬車に乗ると、彼に告げ、「主上は病気が重篤で、江南政権は存亡の危機である。まことに賢者らを助け、当代の政事を安定させたい。あなたは時望を集めているので、特別に顧命に同席してほしい」と言った。阮孚は答えず、下車したいと強く願ったが、温嶠が許さなかった。台門に到着する直前で、温嶠に体調不良を訴え、いちど下車したいと求め、徒歩で家に帰った。
これよりさき、祖約は財物を好み、阮孚は履物を好み、長らく優劣の決着が付かなかった。祖約を訪問したものが、財物を数えているのを目にしたが、客が到着すると、祖約は隠しても隠し切れず、あふれた二つの箱が背後から見え、祖約は身を傾けてこれを隠したが、そわそわと落ち着かなかった。あるひとが阮孚を訪問すると、履物に蝋を塗っていたが、ひとりで嘆き、「一生かけてもどれだけ履けるか分からない」と言っていた。とても落ち着いた様子であった。優劣が初めて明らかになった。
咸和年間の初め、丹楊尹を拝した。このとき太后が臨朝し、政治は外戚が握っていた。阮孚は親しい人に、「いま江東(東晋)は代数を重ねたが、実際の年数は短い。皇帝は幼くして政局は困難で、運は百六(厄災)に終わるだろう。そして庾亮は年少で、徳信がまだ表れていない、私の見立てでは乱の兆しである」と言った。ちょうど広州刺史の劉顗が亡くなり、(阮孚は)朝廷から転出を求めた。王導らは阮孚は疎略で奔放なので、京尹(首都圏の長)の才覚がないとし、都督交広寧三州軍事・鎮南将軍・領平越中郎将・広州刺史・仮節に任命した。まだ鎮所に到着する前に、亡くなり、四十九歳であった。すぐに蘇峻が反逆し、識者は阮孚が予知していたと考えた。子がおらず、従孫の阮広が嗣いだ。
脩字宣子。好易老、善清言。嘗有論鬼神有無者、皆以人死者有鬼、脩獨以為無、曰、「今見鬼者云著生時衣服、若人死有鬼、衣服有鬼邪」。論者服焉。後遂伐社樹、或止之、脩曰、「若社而為樹、伐樹則社移。樹而為社、伐樹則社亡矣」。
性簡任、不修人事。絕不喜見俗人、遇便舍去。意有所思、率爾褰裳、不避晨夕、至或無言、但欣然相對。常步行、以百錢挂杖頭、至酒店、便獨酣暢。雖當世富貴而不肯顧、家無儋石之儲、宴如也。與兄弟同志、常自得於林阜之間。
王衍當時談宗、自以論易略盡、然有所未了、研之終莫悟、每云、「不知比沒當見能通之者不」。衍族子敦謂衍曰、「阮宣子可與言」。衍曰、「吾亦聞之、但未知其亹亹之處定何如耳」。及與脩談、言寡而旨暢、衍乃歎服焉。
梁國張偉志趣不常、自隱於屠釣、脩愛其才美、而知其不真。偉後為黃門郎・陳留內史、果以世事受累。脩居貧、年四十餘未有室、王敦等斂錢為婚、皆名士也、時慕之者求入錢而不得。
脩所著述甚寡、嘗作大鵬贊曰、「蒼蒼大鵬、誕自北溟。假精靈鱗、神化以生。如雲之翼、如山之形。海運水擊、扶搖上征。翕然層舉、背負太清。志存天地、不屑唐庭。鷽鳩仰笑、尺鷃所輕。超世高逝、莫知其情」。
王敦時為鴻臚卿、謂脩曰、「卿常無食、鴻臚丞差有祿、能作不」。脩曰、「亦復可爾耳」。遂為之。轉太傅行參軍・太子洗馬。避亂南行、至西陽期思縣、為賊所害、時年四十二。
脩 字は宣子なり。易老を好み、清言を善くす。嘗て鬼神の有無を論ずる者有り、皆 人の死する者は鬼有りと以ふに、脩 獨り無き為りと以ひ、曰く、「今 鬼を見る者は生時の衣服を著すと云ふ、若し人 死にて鬼有らば、衣服も鬼有るや」と。論者 焉に服す。後に遂に社樹を伐り、或ひと之を止むるに、脩曰く、「若し社ありて樹為れば、樹を伐らば則ち社は移らん。樹ありて社と為せば、樹を伐らば則ち社 亡びん」と。
性は簡任にして、人事を修めず。絕えて俗人と見ゆるを喜ばず、遇はば便ち舍去す。意に思ふ所有らば、率爾に裳を褰し、晨夕を避けず、或いは言無く、但だ欣然として相 對ふに至る。常に步行し、百錢を以て杖頭に挂け、酒店に至り、便ち獨り酣暢す。當世の富貴と雖も顧るを肯ぜず、家に儋石の儲無なくも、宴如たり。兄弟と與に志を同じくし、常に林阜の間に自得す。
王衍 當時の談宗にして、自ら以て易を論じて略ぼ盡くし、然るに未だ了らざる所有り、之を研ぎて終に悟る莫く、每に云ふ、「沒する比 當に能く通ずるの者を見るや不やを知らず」と。衍の族子の敦 衍に謂ひて曰く、「阮宣の子 與に言ふ可し」と。衍曰く、「吾も亦た之を聞き、但だ未だ其の亹亹〔一〕の處定 何如なるやを知らざるのみ」と。脩と與に談ずるに及び、言 寡なけれども旨は暢にして、衍 乃ち歎服せり。
梁國の張偉 志趣は常ならず、自ら屠釣に隱れ、脩 其の才美を愛し、而れども其の不真なるを知る。偉 後に黃門郎・陳留內史と為り、果たして世事を以て累を受く。脩 貧に居り、年四十餘にして未だ室有らず、王敦ら錢を斂めて婚を為さしめ、皆 名士なり。時に之を慕ふ者 錢を入るるを求むるとも得ず。
脩 著述する所は甚だ寡なく、嘗て大鵬贊を作りて曰く、「蒼蒼の大鵬、自ら北溟に誕まる。精を靈鱗に假り、神化 以て生ず。雲が如きの翼、山が如きの形。海運 水に擊ち、扶搖して上征す。翕然として層舉し、背に太清を負ふ。志は天地に存し、唐庭に屑(つと)めず。鷽鳩 仰笑し、尺鷃 輕ずる所なり。世を超へ高逝し、其の情を知る莫し」と。
王敦 時に鴻臚卿と為り、脩に謂ひて曰く、「卿 常に食らふ無く、鴻臚丞 差や祿有り、能く作るや不や」と。脩曰く、「亦た復た爾る可きのみ」と。遂に之と為る。太傅行參軍・太子洗馬に轉ず。亂を避けて南行し、西陽の期思縣に至り、賊の害する所と為る、時に年四十二なり。
〔一〕亹亹は、努めて倦まないさま。ここでは、『周易』繋辞上伝が出典。
阮脩は字を宣子という。周易と老子を好み、発言は清らかであった。かつて鬼神の有無を論じる者がおり、みな人が死ねば鬼になると言うが、阮脩だけは違うとし、「いま鬼を見たものは生前の服装を着ているという、もし人が死んで鬼になるなら、衣服も鬼になるのか」と言った。相手は論破された。のちに阮脩が社の樹を伐採し、ある人が制止すると、阮脩は、「社のよりしろが樹ならば、樹を切れば社は移るだろう。樹があってそれを社としているなら、樹を切れば社は消えるだろう」と言った。
性格はさっぱりして、世俗のことに務めなかった。絶えて俗人と会うことを嫌い、会えばすぐに立ち去った。(相手によって)思うところがあれば、慌ただしく服を身に着け、朝晩であろうと、あるときは一言も発せず、ただ嬉しそうに向き合うこともあった。いつも歩き回り、百銭を杖頭にひっかけ、酒店に至り、一人で酒を飲んでのんびりした。当世の富貴であっても取りあわず、家にわずかな貯蓄がなくても、安らいでいた。兄弟と志を共有し、つねに谷や林のなかで満足していた。
王衍は当時の論の主導者であり、自ら周易をほぼ論じ尽くしたが、一部だけが解明できず、研究しても理解ができず、つねに、「私が死ぬまでにここに精通した者と会えるかどうか」と言っていた。王衍の族子の王敦は王衍に、「阮宣の子と話すとよいでしょう」と言った。王衍は、「私も彼のことは聞いている、しかしまだどれほど熱心に研究しているか分からない」と言った。阮脩と会話すると、口数は少ないが内容が通じており、王衍は感歎して服した。
梁国の張偉は心の動きが不安定で、自ら漁労に身を隠していた。阮脩は彼の才能を愛し、しかし本物ではないと知っていた。張偉はのちに黄門郎・陳留内史となったが、果たして当世の事案に巻き込まれた。阮脩は貧しい生活で、四十歳あまりでも結婚せず、王敦らは銭を与えて婚姻の世話をし、(相手は)みな名士であった。ときに阮脩を慕うものが銭を贈りたいといったが断られた。
阮脩が著作はとても少ないが、かつて大鵬賛を作って、「蒼蒼の大鵬は、北溟に生まれた。精は霊鱗を仮り、神化して生じた。雲のような翼、山のような姿をもつ。海上を水を撃って飛び、旋風で上昇する。羽ばたいて飛翔し、背に太清を負う。志は天地にあり、朝廷に縛られない。小鳥が見上げて笑い、小雀が軽蔑する。世を超えて高く進み、その考えを知る者はいない」と言った。
王敦はこのとき鴻臚卿となり、阮脩に、「あなたはいつも食べていない、鴻臚丞にはいささか俸禄がある、なってみないか」と言った。阮脩は、「それもまたなるようになる」と言った。こうして鴻臚丞となった。太傅行参軍・太子洗馬に転じた。乱を避けて南に行き、西陽の期思県に至り、賊に殺害された、四十二歳だった。
放字思度。祖略、齊郡太守。父顗、淮南內史。放少與孚並知名。中興、除太學博士・太子中舍人・庶子。時雖戎車屢駕、而放侍太子、常說老莊、不及軍國。明帝甚友愛之。轉黃門侍郎、遷吏部郎、在銓管之任、甚有稱績。
時成帝幼沖、庾氏執政、放求為交州、乃除監交州軍事・揚威將軍・交州刺史。行達寧浦、逢陶侃將高寶平梁碩自交州還、放設饌請寶、伏兵殺之。寶眾擊放、敗走、保簡陽城、得免。到州少時、暴發渴、見寶為祟、遂卒、朝廷甚悼惜之、年四十四。追贈廷尉。
放素知名、而性清約、不營產業、為吏部郎、不免饑寒。王導・庾亮以其名士、常供給衣食。子晞之、南頓太守。
裕字思曠。宏遠不及放、而以德業知名。弱冠辟太宰掾。大將軍王敦命為主簿、甚被知遇。裕以敦有不臣之心、乃終日酣觴、以酒廢職。敦謂裕非當世實才、徒有虛譽而已、出為溧陽令、復以公事免官。由是得違敦難、論者以此貴之。
咸和初、除尚書郎。時事故之後、公私弛廢、裕遂去職還家、居會稽剡縣。司徒王導引為從事中郎、固辭不就。朝廷將欲徵之、裕知不得已、乃求為王舒撫軍長史。舒薨、除吏部郎、不就。即家拜臨海太守、少時去職。司空郗鑒請為長史、詔徵祕書監、皆以疾辭。復除東陽太守。尋徵侍中、不就。還剡山、有肥遁之志。有以問王羲之、羲之曰、「此公近不驚寵辱、雖古之沈冥、何以過此」。又云、裕骨氣不及逸少、簡秀不如真長、韶潤不如仲祖、思致不如殷浩、而兼有諸人之美。成帝崩、裕赴山陵、事畢便還。諸人相與追之、裕亦審時流必當逐己、而疾去、至方山不相及。劉惔歎曰、「我入東、正當泊安石渚下耳、不敢復近思曠傍」。
裕雖不博學、論難甚精。嘗問謝萬云、「未見四本論、君試為言之」。萬敘說既畢、裕以傅嘏為長、於是構辭數百言、精義入微、聞者皆嗟味之。裕嘗以人不須廣學、正應以禮讓為先、故終日靜默、無所修綜、而物自宗焉。在剡曾有好車、借無不給。有人葬母、意欲借而不敢言。後裕聞之、乃歎曰、「吾有車而使人不敢借、何以車為」。遂命焚之。
在東山久之、復徵散騎常侍、領國子祭酒。俄而復以為金紫光祿大夫、領琅邪王師。經年敦逼、並無所就。御史中丞周閔奏裕及謝安違詔累載、並應有罪、禁錮終身、詔書貰之。或問裕曰、「子屢辭徵聘、而宰二郡、何邪」。裕曰、「雖屢辭王命、非敢為高也。吾少無宦情、兼拙於人間、既不能躬耕自活、必有所資、故曲躬二郡。豈以騁能、私計故耳」。年六十二卒。三子、傭・寧・普。
傭、早卒。寧、鄱陽太守。普、驃騎諮議參軍。傭子歆之、中領軍。寧子腆、祕書監。腆弟萬齡及歆之子彌之、元熙中並列顯位。
放 字は思度なり。祖の略は、齊郡太守なり。父の顗は、淮南內史なり。放 少くして孚と與に並びに名を知らる。中興に、太學博士・太子中舍人・庶子に除せらる。時に戎車 屢々駕すると雖も、而れども放 太子に侍り、常に老莊を說き、軍國に及ばず。明帝 甚だ之を友愛す。黃門侍郎に轉じ、吏部郎に遷り、銓管の任に在り、甚だ稱績有り。
時に成帝 幼沖にして、庾氏 執政し、放 交州と為るを求め、乃ち監交州軍事・揚威將軍・交州刺史に除せらる。行きて寧浦に達し、陶侃の將の高寶 梁碩を平らげて交州より還るに逢ひ、放 饌を設けて寶に請ひ、伏兵もて之を殺す。寶の眾 放を擊ち、敗走し、簡陽城に保し、免るるを得たり。州に到りて少時に、暴かに渴を發し、寶 祟を為すを見て、遂に卒し、朝廷 甚だ之を悼惜す、年に四十四なり。廷尉を追贈す。
放 素より名を知られ、而れども性は清約にして、產業を營まず。吏部郎と為るに、饑寒を免れず。王導・庾亮 其の名士たるを以て、常に衣食を供給す。子の晞之、南頓太守なり。
裕 字は思曠なり。宏遠なるは放に及ばず、而れども德業を以て名を知らる。弱冠にして太宰掾に辟せらる。大將軍の王敦 命じて主簿と為し、甚だ知遇せらる。裕 敦の不臣の心有るを以て、乃ち終日に酣觴し、酒を以て職を廢す。敦 裕 當世の實才に非ず、徒らに虛譽有るのみと謂ひ、出でて溧陽令と為し、復た公事を以て免官せらる。是に由り敦の難に違ふを得て、論者 此を以て之を貴ぶ。
咸和の初に、尚書郎に除せらる。時に事故の後にして、公私 弛廢し、裕 遂に職を去りて家に還り、會稽の剡縣に居す。司徒の王導 引きて從事中郎と為すも、固辭して就かず。朝廷 將に之を徵さんと欲し、裕 已むを得ざるを知り、乃ち王舒の撫軍長史と為るを求む。舒 薨じ、吏部郎に除せらるるも、就かず。即ち家に臨海太守を拜し、少時にして職を去る。司空の郗鑒 長史と為ることを請ひ、詔して祕書監に徵し、皆 疾を以て辭す。復た東陽太守に除せらる。尋いで侍中に徵せられ、就かず。剡山に還り、肥遁の志有り。以て王羲之に問ふもの有り、羲之曰く、「此の公 近く寵辱に驚かざるは、古の沈冥と雖も、何を以て此を過ぐるか」と。又 云ふ、裕 骨氣は逸少に及ばず、簡秀 真長に如かず、韶潤は仲祖に如かず、思致は殷浩に如かず、而れども諸人の美を兼有す。成帝 崩じ、裕 山陵に赴き、事 畢はりて便ち還る。諸人 相 與に之を追ふ。裕も亦た時流を審らかにして必ず當に己を逐ふべしとし、而して疾もて去り、方山に至るも相 及ばず。劉惔 歎じて曰く、「我 東に入らば、正に當に安石渚の下に泊まるべきのみ、敢て復た思曠の傍に近づかず」と。
裕 博く學ばざると雖も、論難は甚だ精し。嘗て謝萬に問ひて云く、「未だ四本論を見ず、君 試みに為に之を言へ」と。萬 說を敘して既に畢はり、裕 傅嘏を以て長と為し、是に於て辭の數百言を構へ、精義 微に入り、聞く者 皆 之を嗟味す。裕 嘗て人を以て須らく學を廣くべからず、正に應に禮讓を以て先と為すべしとし、故に終日 靜默たりて、修綜する所無く、而して物として自ら焉が宗とす。剡に在りて曾て好車有り、借りて給せざる無し。人の母を葬る有り、意は借りんと欲すれども敢て言はず。後に裕 之を聞き、乃ち歎じて曰く、「吾 車有ありて人をして敢て借さしめず、何を以て車 為るか」と。遂に命じて之を焚す。
東山に在ること久之、復た散騎常侍に徵せられ、國子祭酒を領す。俄かにして復た以て金紫光祿大夫と為り、琅邪王師を領す。年を經て敦く逼るも、並びに就く所無し。御史中丞の周閔 裕及び謝安 詔を違ふこと累載にして、並びに應に罪有り、終身に禁錮すべしと奏するに、詔書もて之を貰(ゆる)す。或ひと裕に問ひて曰く、「子 屢々徵聘を辭し、而して二郡を宰す、何ぞや」と。裕曰く、「屢々王命を辭すと雖も、敢て高を為すに非ざるなり。吾 少きとき宦情無く、兼せて人間に拙く、既にして躬ら耕して自活する能はず、必ず資する所有らば、故に躬らをて二郡に曲ぐ。豈に騁を以て能くせんや、私計の故なるのみ」と。年六十二にして卒す。三子あり、傭・寧・普なり。
傭は、早くに卒す。寧は、鄱陽太守なり。普は、驃騎諮議參軍なり。傭が子の歆之は、中領軍なり。寧が子の腆、祕書監なり。腆が弟の萬齡及び歆之が子の彌之は、元熙中に並びに顯位に列す。
阮放は字を思度という。祖父の阮略は、斉郡太守である。父の阮顗は、淮南内史である。阮放は若くして阮孚とともに名を知られた。東晋で、太学博士・太子中舎人・庶子に任命された。このとき軍事行動が頻繁に起こされたが、阮放は太子に侍り、つねに老荘を説き、軍国のことを話題にしなかった。明帝は友として親愛した。黄門侍郎に転じ、吏部郎に遷り、人材の選抜と管理の任務にあたり、実績を称賛された。
このとき成帝は幼少であり、庾氏が執政していた。阮放は交州の官職を求め、監交州軍事・揚威将軍・交州刺史に任命された。赴任の途中に寧浦に到着すると、陶侃の将の高宝が梁碩を平定して交州から帰ってくるのに遭遇した。阮放は宴席を設けて高宝を招待し、伏兵によりかれを殺した。高宝の軍勢が阮放を攻撃し、敗走したが、簡陽城をとりでとし、生き残ることができた。交州に到着してすぐ、突如として渇きを訴え、高宝が祟りをなすのを見て、亡くなった。朝廷はかれを悼み惜しんだ。四十四歳だった。廷尉を追贈した。
阮放はもとより名を知られたが、性格は清らかで倹約し、家産を営まなかった。吏部郎となったが、飢えと寒さに苦しんだ。王導と庾亮はかれが名士なので、つねに衣食を供給した。子の阮晞之は、南頓太守である。
阮裕は字を思曠という。阮放ほど宏遠ではないが、徳業によって名を知られた。弱冠にして太宰掾に辟召された。大将軍の王敦が命じて主簿とし、とても厚遇された。阮裕は王敦に不臣の心があるため、終日酒を飲み、酔って職務を放棄した。王敦は阮裕が当世において才能の実態がなく、ただ虚名の栄誉だけがあると見なし、出して溧陽令とした。また公事により罷免された。おかげで王敦の難に巻き込まれず、論者はこのことで阮裕を貴んだ。
咸和年間の初め、尚書郎に任命された。このとき政乱の直後で、公も私も弛緩して廃れていたので、阮裕は職を捨てて家に還り、会稽の剡県に住んだ。司徒の王導が招いて従事中郎としたが、固辞して就かなかった。朝廷がかれの徴召を試み、阮裕はやむを得ないを知り、王舒の撫軍長史となることを求めた。王舒が薨じると、吏部郎に任命されたが、就かなかった。家にいて臨海太守を拝したが、すぐに職を去った。司空の郗鑒が長史としたいと請い、詔して秘書監に徴したが、どちらも病気を理由に辞退した。また東陽太守に任命された。すぐに侍中に徴召されたが、就かなかった。剡山に還り、世から逃げ隠れする志を持っていた。王羲之に(阮裕のことを)質問するものがおり、王羲之は、「あのかたが目先の寵遇と恥辱に振り回されないのは、古の沈冥であっても、かれほどではない」と言った。また(あるひと)が、阮裕の筆勢は逸少(王羲之)に及ばず、さっぱりとして優秀なことは真長(劉惔)に敵わず、美しく潤うさまは仲祖(王濛)に敵わず、思考の深みは殷浩に敵わないが、諸人の美点をあわせ持っていると論評した。成帝が崩御すると、阮裕は山陵に赴き、参詣が終わると帰り、諸人が追いかけた。阮裕なりに時流を分析すると自分は放逐されると考え、病気として去り、方山に向かったが到達しなかった。劉惔は歎じて、「私が東に入ったときは、安石渚の下に泊まるべきで、わざわざ思曠のそばに近づかない」と言った。
阮裕は広く学ばなかったが、論難は的を射ていた。かつて謝萬に、「まだ四本論を見たことがない、君が試みに論じてくれ」と言った。謝萬が自説を展開し終えると、阮裕は傅嘏のほうが優れていたと言い、そこで(阮裕が)数百字の文を書いた。精緻な議論が細部に入り、聞くものは感心して味読した。阮裕はかつて人は学問を広げるべきでなく、礼と謙譲を優先すべきだといい、終日黙ったままで、横断的に学問をせず、自分なりの考えを持っていた。剡県にかつて良い車があったが、貸し出していなかった。あるひとが母を葬るとき、車を借りたいと思ったが言い出さなかった。のちに阮裕はこれを聞き、嘆いて、「車があるのに人に貸さない、車として役立たずである」と言った。命令してこれを焼いた。
東山にしばらくおり、また散騎常侍に徴召され、国子祭酒を領した。すぐにまた金紫光禄大夫となり、琅邪王師を領した。年を超えて丁寧に(着任を)迫られたが、いずれにも就官しなかった。御史中丞の周閔は阮裕および謝安が連年にわたって詔に違反しているので、有罪であり、終身に禁錮にすべきですと上奏したが、詔書で二人を許容した。あるひとが阮裕に質問し、「あなたは何度も任命を辞退したが、二郡の太守は引き受けた。なぜか」と言った。阮裕は、「しばしば天子の命令を辞退したが、高く気取っているのではない。私は若いとき官僚になる志がなく、世俗のことに拙いが、耕作して自活できないので、生計を立てるため、方針を曲げて二郡に着任しただけだ。着任のえり好みではなく、私的な都合なのだ」と言った。六十二歳で亡くなった。三子がおり、阮傭・阮寧・阮普である。
阮傭は、早くに亡くなった。阮寧は、鄱陽太守である。阮普は、驃騎諮議参軍である。阮傭の子の阮歆之は、中領軍である。阮寧の子の阮腆は、秘書監である。阮腆の弟の阮萬齢および阮歆之の子の阮弥之は、元熙年間に並びに高位高官に列した。
嵇康字叔夜、譙國銍人也。其先姓奚、會稽上虞人。以避怨、徙焉。銍有嵇山、家于其側、因而命氏。兄喜、有當世才、歷太僕・宗正。
康早孤、有奇才、遠邁不羣。身長七尺八寸、美詞氣、有風儀、而土木形骸、不自藻飾、人以為龍章鳳姿、天質自然。恬靜寡欲、含垢匿瑕、寬簡有大量。學不師受、博覽無不該通、長好老莊。與魏宗室婚、拜中散大夫。常修養性服食之事、彈琴詠詩、自足於懷。以為神仙稟之自然、非積學所得、至於導養得理、則安期・彭祖之倫可及、乃著養生論。又以為君子無私、其論曰、
「夫稱君子者、心不措乎是非、而行不違乎道者也。何以言之。夫氣靜神虛者、心不存於矜尚。體亮心達者、情不繫於所欲。矜尚不存乎心、故能越名教而任自然。情不繫於所欲、故能審貴賤而通物情。物情順通、故大道無違。越名任心、故是非無措也。是故言君子則以無措為主、以通物為美。言小人則以匿情為非、以違道為闕。何者。匿情矜吝、小人之至惡。虛心無措、君子之篤行也。是以大道言、及吾無身、吾又何患。無以生為貴者、是賢於貴生也。由斯而言、夫至人之用心、固不存有措矣。故曰、君子行道、忘其為身、斯言是矣。君子之行賢也、不察於有度而後行也。任心無邪、不議於善而後正也。顯情無措、不論於是而後為也。是故傲然忘賢、而賢與度會。忽然任心、而心與善遇。儻然無措、而事與是俱也」。其略如此。蓋其胸懷所寄、以高契難期、每思郢質。所與神交者惟陳留阮籍・河內山濤、豫其流者河內向秀・沛國劉伶・籍兄子咸・琅邪王戎、遂為竹林之游、世所謂竹林七賢也。戎自言與康居山陽二十年、未嘗見其喜慍之色。
康嘗採藥游山澤、會其得意、忽焉忘反。時有樵蘇者遇之、咸謂為神。至汲郡山中見孫登、康遂從之遊。登沈默自守、無所言說。康臨去、登曰、「君性烈而才雋、其能免乎」。康又遇王烈、共入山、烈嘗得石髓如飴、即自服半、餘半與康、皆凝而為石。又於石室中見一卷素書、遽呼康往取、輒不復見。烈乃歎曰、「叔夜志趣非常而輒不遇、命也」。其神心所感、每遇幽逸如此。
嵇康 字は叔夜、譙國銍の人なり。其の先 姓は奚にして、會稽上虞の人なり。怨を避くるを以て、焉に徙れり。銍に嵇山有り、其の側に家し、因りて氏を命ず。兄の喜、當世の才有り、太僕・宗正を歷す。
康 早くに孤たりて、奇才有り、遠邁にして羣れず。身長は七尺八寸、詞氣美しく、風儀有り、而るに土木の形骸、自ら藻飾せず、人 以て龍章鳳姿と為し、天質 自然たり。恬靜として寡欲、垢を含み瑕を匿し、寬簡にして大量有り。學ぶに師受せず、博覽にして該通せざる無く、長じて老莊を好む。魏の宗室と婚し、中散大夫を拜す。常に養性服食の事を修め、琴を彈し詩を詠し、懷を自足す。以為へらく神仙の之 自然を稟け、積學して得る所に非ず、導養して理を得るに至れば、則ち安期・彭祖の倫すら及ぶ可しとし、乃ち養生論を著す。又 以為へらく君子 無私にして、其の論に曰く、
「夫れ君子と稱する者は、心は是非を措かず、而して行は道に違はざる者なり。何を以て之を言ふか。夫れ氣靜に神虛なる者は、心は矜尚に存せず。體 亮にして心 達する者は、情は所欲に繫せず。矜尚 心に存せず、故に能く名教を越えて自然に任す。情 所欲に繫せざれば、故に能く貴賤を審らかにして物情に通ずと。物情 順通せば、故に大道 違ふ無し。名を越え心に任せれば、故に是非 措く無きなり。是が故に君子を言はば則ち措くこと無きを以て主と為し、物に通ずるを以て美と為す。小人を言はば則ち情を匿すを以て非と為し、以て道に違ふを闕と為す。何者ぞや。情を匿し吝を矜するは、小人の至惡なり。心を虛にし措く無きは、君子の篤行なり。是を以て大道 言ふらく、「吾 身無きに及び、吾 又 何をか患はん」と〔一〕。生を以て貴と為す者無く、是れ生を貴ぶより賢たるなり。斯に由りて言はば、夫れ至人の用心は、固より措有るに存せず。故に曰く、「君子 道を行はば、其の身為るを忘ると」と〔二〕、斯の言 是なり。君子の賢を行ふや、度有るを察せずして後に行ふなり。心に任せて邪無く、善を議せずして後に正しきなり。情を顯らかにして措く無く、是を論ぜすして後に為すなり。是が故に傲然として賢を忘れ、而れども賢 度と與に會す。忽然として心に任せ、而れども心 善と與に遇ふ。儻然として措く無く、而れども事 是と與に俱にするなり」と。
其の略 此の如し。蓋し其の胸懷に寄する所、高契 期し難きを以て、每に郢質を思ふ。與に神交する所の者は惟だ陳留の阮籍・河內の山濤のみ、其の流に豫る者は河內の向秀・沛國の劉伶・籍が兄の子の咸・琅邪の王戎なり。遂に竹林の游を為し、世に謂ふ所の竹林の七賢なり。戎 自ら康と與に山陽に居すること二十年なるに、未だ嘗て其の喜慍の色を見さずと言ふ。
康 嘗て藥を採りて山澤に游び、會々其れ意を得て、忽焉として忘れて反る。時に樵蘇の者有りて之に遇ひ、咸 謂ひて神と為す。汲郡の山中に至りて孫登と見え、康 遂に之に從ひて遊ぶ。登 沈默して自守し、言說する所無し。康 去るに臨み、登曰く、「君の性は烈にして才は雋なり、其れ能く免れんか」と。康 又 王烈に遇ひ、共に山に入る。烈 嘗て石髓の飴が如きを得て、即ち自ら半を服し、餘の半 康に與ふ。皆 凝りて石と為る。又 石室中に於て一卷の素書を見、遽かに康を呼びて往きて取らしめ、輒ち復た見えず。烈 乃ち歎じて曰く、「叔夜の志趣 非常なれども輒ち遇はず、命なり」と。其の神心 感ずる所、每に幽逸に遇ふこと此の如し。
〔一〕『老子』第十三章が出典。
〔二〕出典を調査中。
嵇康は字を叔夜といい、譙国銍県の人である。その祖先は姓を奚といい、会稽上虞の人である。怨みを避けるため、ここに移り住んだ。銍県に嵇山があり、その側に家を構えたので、これに因んで姓とした。兄の嵇喜は、当世に抜きんでた才能があり、太僕と宗正を歴任した。
嵇康は早くに父を失い、突出した才があり、遠く高邁で他人と群れなかった。身長は七尺八寸で、語気は美しく、風格があったが、武骨で粗野で、身を飾らず、人は龍や鳳のように風采が立派とし、天賦の素質そのままだった。恬淡として寡欲で、恥や欠点をおおい、寛大でさっぱりとして度量が大きかった。特定の師に学ばず、広く学んで精通しないものがなく、大人になって老荘を好んだ。魏の宗室と婚姻し、中散大夫を拝した。つねに性を養うため衣食について学び、琴を弾いて詩を吟じ、自ら満足していた。かれの考えでは神仙とはその性質を自然に授かるものであり、学びを重ねて体得するものでなく、気を養って理に到達すれば、安期生や彭祖すら超えられるとし、養生論を著した。また君子とは無私なものであると考え、その論に、
「そもそも君子とは、心は正しさを損なわず、行いは道から外れない者のことである。なぜそう言えるのか。気が静かで精神に虚がある者は、心が驕慢に拘らない。体が明らかで心が達する者は、感情が欲望に捕らわれない。驕慢の感情がないので、(儒教の)名教を越えて(老荘の)自然に委ねられる。感情が欲望に捕らわれないから、貴賤を区別して万物の実情を把握できる。実情を把握できれば、大道から外れない。名教を越えて自然のままにすれば、正しさを損なうことがない。だからこそ君子について言うならば(正しさを)損なわないことを主な点とし、万物に精通することを美点とする。(君子ならざる)小人の場合は感情を隠すのが正しくない点であり、道から外れることが欠点である。なぜか。感情を隠してを驕慢を抑えるのは、小人がおこなう最も悪いことである。心に虚を持って(正しさを)損なわないのは、君子の良い行いである。大道(『老子』)は、「自分に身体が無いことまで考え及ぶから、(世俗で)何の心配があろうか」という。生を貴ばず、それは生を貴ぶよりも賢である。以上を踏まえると、至高の人の心の作用は、もとより(正しさを)損なわない。ゆえに、「君子が道を実践すれば、自分の身体を忘れる」と言うのは、これを指すのである。君子は賢であるから、規則を考えずとも実践できる。心に任せても過ちがなく、善について議論せずとも正しく行動できる。感情のままでも(是非を)誤らず、議論せずとも実行する。だから驕り高ぶって賢を忘れても、賢さは規則と一致する。考えずに心に任せても、心は善と一致する。志を失って誤ることがなく、事績は(正しさに)一致するのである」と言った。
その概略は以上である。恐らく嵇康の本心では、高潔さを期待するのが難しいと考え、(せめて)いつも郢(楚の都)の誠実さを期待した。心を通わせた相手は、ただ陳留の阮籍・河内の山濤のみで、流れに連なるものは河内の向秀・沛国の劉伶・阮籍の兄の子の阮咸・琅邪の王戎である。こうして竹林で遊び、世にいう竹林の七賢である。王戎は嵇康とともに山陽で二十年間生活し、かつて(嵇康が)喜怒の感情を表に出したことがなかったと言った。
嵇康はかつて薬草を採るため山沢に遊び、たまたま思うことがあって、うっかり置き忘れて帰った。木こりと草刈りがこれを見つけ、神秘的なものとした。汲郡の山中に行って孫登と出会い、嵇康はかれに従って遊んだ。孫登は沈黙して態度を硬くし、何も話さなかった。嵇康の去り際に、孫登は、「君の性質は激しくて才覚が優秀である、(災難を)免れられないだろう」と言った。嵇康はまた王烈と出会い、ともに山に入った。王烈はかつて石髓(石の乳、仙薬の一種)の飴状ものを手に入れ、自分で半分を服用し、残り半分を嵇康に与えた。途端にどちらも凝固して石になった。また石室で一巻の書簡を見つけ、急いで嵇康を呼んで取りに行かせたが、消滅していた。王烈は残念がって、「叔夜(嵇康)の志と行動は特別なものあるが(書物を)手にできなかった、天命なのだ」と言った。嵇康が神秘的なものに感応し、神仙に遭遇するのはこのようであった。
山濤將去選官、舉康自代。康乃與濤書告絕、曰、聞足下欲以吾自代、雖事不行、知足下故不知之也。恐足下羞庖人之獨割、引尸祝以自助、故為足下陳其可否。
老子・莊周、吾之師也、親居賤職。柳下惠・東方朔、達人也、安乎卑位。吾豈敢短之哉。又仲尼兼愛、不羞執鞭。子文無欲卿相、而三為令尹、是乃君子思濟物之意也。所謂達能兼善而不渝、窮則自得而無悶。以此觀之、故知堯舜之居世、許由之巖棲、子房之佐漢、接輿之行歌、其揆一也。仰瞻數君、可謂能遂其志者也。故君子百行、殊塗同致、循性而動、各附所安。故有處朝廷而不出、入山林而不反之論。且延陵高子臧之風、長卿慕相如之節、意氣所先、亦不可奪也。
吾每讀尚子平・臺孝威傳、慨然慕之、想其為人。加少孤露、母兄驕恣、不涉經學、又讀老莊、重增其放、故使榮進之心日穨、任逸之情轉篤。阮嗣宗口不論人過、吾每師之、而未能及。至性過人、與物無傷、惟飲酒過差耳、至為禮法之士所繩、疾之如仇、幸賴大將軍保持之耳。吾以不如嗣宗之資、而有慢弛之闕。又不識物情、闇於機宜。無萬石之慎、而有好盡之累。久與事接、疵釁日興、雖欲無患、其可得乎。
又聞道士遺言、餌朮黃精、令人久壽、意甚信之。游山澤、觀魚鳥、心甚樂之。一行作吏、此事便廢、安能舍其所樂、而從其所懼哉。
夫人之相知、貴識其天性、因而濟之。禹不逼伯成子高、全其長也。仲尼不假蓋於子夏、護其短也。近諸葛孔明不迫元直以入蜀、華子魚不強幼安以卿相、此可謂能相終始、真相知者也。自卜已審、若道盡塗殫則已耳、足下無事寃之令轉於溝壑也。
吾新失母兄之歡、意常悽切。女年十三、男年八歲、未及成人、況復多疾、顧此悢悢、如何可言。今但欲守陋巷、教養子孫、時時與親舊敘離闊、陳說平生、濁酒一杯、彈琴一曲、志意畢矣、豈可見黃門而稱貞哉。若趣欲共登王塗、期於相致、時為歡益、一旦迫之、必發狂疾。自非重讐、不至此也。既以解足下、并以為別。
此書既行、知其不可羈屈也。
山濤 將に選官を去ろうとするに、康を自らの代に舉ぐ。康 乃ち濤に書を與て絕を告げて、曰く〔一〕、聞くに足下 吾を以て自ら代へんと欲す。事 行はれずと雖も、足下の故より之を知らざるを知る。恐らくは足下 庖人の獨割するを羞ぢ、尸祝を引きて以て自ら助く。故に足下の為に其の可否を陳べん。
老子・莊周は、吾の師なり。親ら賤職に居る。柳下惠・東方朔は、達人なり。卑位に安んず。吾 豈に敢て之を短(そし)らんや。又 仲尼は兼愛して、執鞭を羞ぢず。子文は卿相たるを欲する無く、而れども三たび令尹と為る。是れ乃ち君子 物を濟はんと思ふの意なり。所謂 達しては能く兼ねて善にして渝(か)はらず、窮しては則ち自得して悶ゆる無し。此を以て之を觀るに、故に堯舜の世に居るや、許由の巖棲するや、子房の漢に佐たるや、接輿の行歌するや、其の揆は一なりと知る。仰ぎて數君を瞻るに、能く其の志を遂ぐる者と謂ふ可きなり。故に君子の百行、殊塗にして同致、性に循ひて動き、各々安ずる所に附く。故に朝廷に處りて出でず、山林に入りて反らずの論有り。且つ延陵は子臧の風を高しとし、長卿は相如の節を慕ふ。意氣の先んずる所、亦た奪ふ可からざるなり。
吾 每に尚子平・臺孝威の傳を讀むに、慨然として之を慕ひ、其の人と為りを想ふ。少くして孤露を加へられ、母兄に驕恣とせられ、經學を涉らず、又 老莊を讀み、重ねて其の放を增し、故に榮進の心 日ごとに穨れ、任逸の情 轉た篤からしむ。阮嗣宗は口に人の過を論ぜず、吾 每に之を師とするも、而れども未だ及ぶ能はず。至性 人に過ぐるも、物と傷なふ無く、惟だ飲酒 過差あるのみ。禮法の士の繩(ただ)す所と為り、之を疾むこと仇が如くに至る。幸ひに大將軍に賴りて之を保持するのみ。吾 嗣宗の資に如かざるを以て、而して慢弛の闕有り。又 物情を識らず、機宜に闇し。萬石の慎無くして、好盡の累有り。久しく事と接すれば、疵釁 日々興る。患無からんと欲すと雖も、其れ得可けんや。
又 道士の遺言に、朮と黃精を餌すれば、人をして久壽ならしめ、意に甚だ之を信ず。山澤に游び、魚鳥を觀るは、心に甚だ之を樂しむ。一たび行きて吏と作れば、此の事 便ち廢せん。安んぞ能く其の樂しむ所を舍てて、而して其の懼るる所に從はんや。
夫れ人の相 知るや、其の天性を識り、因りて之を濟(な)すを貴ぶ。禹の伯成子高に逼らざるは、其の長を全うせばなり。仲尼の蓋を子夏に假らざるは、其の短を護ればなり。近ごろ諸葛孔明 元直に迫るに蜀に入るを以てせず。華子魚は幼安に強ふるに卿相を以てせず。此れ能く相 終始し、真に相 知る者と謂ふ可きなり。自ら卜して已に審らかなり。若し道 盡き塗(みち) 殫きれば則ち已むのみ、足下 之を寃げて溝壑に轉ぜしむるを事とする無かれ。
吾 新たに母兄の歡を失ひ、意は常に悽切たり。女は年十三、男は年八歲、未だ成人に及ばず。況んや復た疾多く、此を顧れば悢悢たり。如何んぞ言ふ可けんや。今 但だ陋巷を守り、子孫を教養せんと欲し、時時に親舊と離闊を敘し、平生を陳說し、濁酒一杯、彈琴一曲、志意 畢く。豈に黃門を見て貞と稱す可けんや。若し趣(すみ)やかに共に王塗に登り、相 致すを期し、時に歡益を為さんと欲し、一旦 之に迫らば、必ず狂疾を發せん。重讐に非ざるよりは、此に至らざらん。既に以て足下を解き、并せて以て別れと為す。
此の書 既に行はれ、其の羈屈す可からざるを知るなり。
〔一〕新釈漢文大系『文選(文章篇)中』(明治書院)を参照した。ここに採録されているのは、「與山巨源絶交書」を大幅に節略したもの。
山濤が選官(吏部郎)を去ろうとし、嵇康を自らの後任に挙げた。嵇康は山濤に文書を送って絶交を告げ、その文書に、聞けば足下は私を自分の後任にしようとした。これは実行されなかったが、足下が私の心を知らないことが分かった。恐らくは足下は料理人が(本来の職務であるにも拘わらず)ひとりで肉を切ることを恥じ、(職務に不適任な)尸祝を連れてきて(肉を切るのを)手伝わせようとした。ゆえに足下にそのことの可否を申し述べよう。
老子・荘子は、私の師だ。彼らは自ら卑しい職にあった。柳下恵と東方朔は、達人だ。彼らは低い官位に満足した。私はどうして彼らを非難しようか。また仲尼はひろく仁愛を伝え、執鞭(の賤職)を厭わなかった。子文は卿相になる希望はないのに、三度も令尹となった。これは君子が万物を救済しようした意向の働きだ。いわゆる、栄達したら人を善によって教化して自分を見失わず、困窮しても自己のあり方を見出して不満に思わないというものだ。以上に照らせば、堯舜が君臨したこと、許由が隠棲したこと、子房(張良)が漢を輔佐したこと、接輿が放浪して(孔子に)歌いかけたことは、究極のところで、一致している。仰いで数人の君子を見れば、各々の志を遂げたといえる。ゆえに君子の行いはさまざまだが、道は違っても目的地は同じで、本性を拠りどころに、それぞれ落ち着くがある。ゆえに、生涯を官僚として終えたり、生涯を山林で過ごして帰らないという論がある。しかも延陵(の季子)は子臧の節義を尊敬し、(司馬)長卿は(藺)相如の節義に心惹かれた。心が優先するところは、誰にも妨げられない。
私はいつも尚子平や台孝威の伝記を読むと、深く心を引かれ、人物像を思い浮かべる。若くして父を失い、母や兄に甘やかされ、経学を身に着けず、さらに老荘を読み、ますます放逸となり、栄進を願う気持ちは日ごとに失われ、心のままに生きたいという思いが強くなった。阮嗣宗(阮籍)は人の過ちを口に出して議論せず、私はかれを手本にするが、とても及ばない。生まれつきの美質が人に勝り、他者と傷つけあわず、ただ飲酒の欠点があるだけだ。礼法の士に糾弾され、まるで仇のように憎まれた。幸いに大将軍に助けられて事なきを得た。私は阮嗣宗ほどの資質がないが、放逸という欠点がある。また世間の実情に疎く、時宜も分からない。万石君のような慎重さもなく、全部を口に出すという悪癖がある。長く世間と関与すれば、物議は日々に激しくなる。憂患をなくすことを望んでも、どうして実現できようか。
また道士の残した言葉によると、朮や黄精を食べると、寿命を延ばせるとされ、深く信じている。山沢を歩き回り、魚や鳥を眺めるのは、とても楽しい。ひとたび官吏になると、これらのことが出来なくなる。どうして楽しみを捨てて、辛く苦しいことに従事するものか。
そもそも人物が互いを知るのは、天性を知り、その実現を尊重することだ。禹は伯成子高に無理強いをせず、その長所(節義)を成し遂げさせた。仲尼は子夏から蓋を借り受けず、その欠点を伏せた。近年では諸葛孔明が元直(徐庶)を無理に蜀に同行させなかった。華子魚(華歆)は幼安(管寧)に卿相の位を押し付けなかった。これらは全体を見て、本当にその人物を理解するものと言える。自ら決断したことは明白である。もしあらゆる道が行き止まれば物事は終わってしまう、足下は私を谷や溝で野垂れ死にさせることのないように。
私は母と兄を亡くしたばかりで、悲しみに暮れている。娘は十三歳、子は八歳で、まだ成人していない。まして病気がちで、これらを思うと心配ばかりだ。憂鬱を言い表せようか。いま片隅の陋屋を守り、子孫を教育し、時々に知人と旧交を温め、日常の会話をして、濁酒を一杯を飲み、琴で一曲の演奏ができれば、希望は充足する。どうして黄門(宮廷の門)を見て正しさを称えられようか。もし速やかに官途について、職務を果たせと期待され、好ましい利得を出そうにも、いちど強要されれば、発狂するだろう。よほどの怨恨でもない限り、こんなこと(吏部郎への推薦)をしないはずだ。あなた(山濤)との関係を解消し、別れの言葉とすると。
この文書が提出され、嵇康が屈服しないことが明らかになった。
性絕巧而好鍛。宅中有一柳樹甚茂、乃激水圜之、每夏月、居其下以鍛。東平呂安服康高致、每一相思、輒千里命駕、康友而善之。後安為兄所枉訴、以事繫獄、辭相證引、遂復收康。康性慎言行、一旦縲紲、乃作幽憤詩、曰、
嗟余薄祜、少遭不造、哀煢靡識、越在襁緥。母兄鞠育、有慈無威、恃愛肆姐、不訓不師。爰及冠帶、憑寵自放、抗心希古、任其所尚。託好莊老、賤物貴身、志在守樸、養素全真。
曰予不敏、好善闇人、子玉之敗、屢增惟塵。大人含弘、藏垢懷恥。人之多僻、政不由己。惟此褊心、顯明臧否。感悟思愆、怛若創痏。欲寡其過、謗議沸騰、性不傷物、頻致怨憎。昔慚柳惠、今愧孫登、內負宿心、外恧良朋。仰慕嚴鄭、樂道閑居、與世無營、神氣晏如。
咨予不淑、嬰累多虞。匪降自天、實由頑疏、理弊患結、卒致囹圄。對答鄙訊、縶此幽阻、實恥訟寃、時不我與。雖曰義直、神辱志沮、澡身滄浪、曷云能補。雍雍鳴雁、厲翼北游、順時而動、得意忘憂。嗟我憤歎、曾莫能疇。事與願違、遘茲淹留、窮達有命、亦又何求。
古人有言、善莫近名。奉時恭默、咎悔不生。萬石周慎、安親保榮。世務紛紜、祇攪余情、安樂必誡、乃終利貞。煌煌靈芝、一年三秀。予獨何為、有志不就。懲難思復、心焉內疚、庶勖將來、無馨無臭。採薇山阿、散髮巖岫、永嘯長吟、頤神養壽。
性は絕巧にして鍛を好む。宅中に一柳樹の甚だ茂る有り、乃ち水を激へて之を圜し、夏の月每に、其の下に居りて以て鍛す。東平の呂安 康の高致に服し、每に一ら相 思し、輒ち千里に駕を命じ、康 友たりて之を善くす。後に安 兄の枉訴する所と為り、事を以て繫獄せらる。辭 相 證引すれば、遂に復た康を收む。康 性は言行を慎しみ、一旦に縲紲し、乃ち幽憤詩を作りて、曰く〔一〕、
嗟(ああ) 余 薄祜にして、少くして不造に遭ひ、哀煢にして識靡く、越(ここ)に襁緥に在り。母兄 鞠育し、慈有りて威無し。愛を恃みて姐(おごり)を肆にし、訓へられず師にあらず。爰に冠帶に及ぶも、寵を憑みて自ら放(ほしいまま)にし、心を抗(あ)げて古を希ひ、其の尚(こひねが)ふ所に任す。好みを莊老に託し、物を賤しんで身を貴び、志は樸を守るに在り、素を養ひて真を全せんとす。
曰(ここ)に予 不敏にして、善を好むも人に闇(くら)し。子玉の敗るる、屢々惟塵を增す。大人は含弘して、垢を藏し恥を懷(をさ)む。人の僻(よこしま)多きは、政 己に由らざればなり。惟れ此の褊心、臧否を顯明し、感悟して愆(あやまち)を思ひ、怛(だつ)として創痏の若し。其の過ちを寡なくせんと欲すれども、謗議 沸騰す。性は物を傷(やぶ)らざるに、頻りに怨憎を致す。昔 柳惠に慚ぢ、今は孫登に愧づ。內は宿心に負(そむ)き、外は良朋に恧(は)づ。仰ぎて嚴鄭を慕ひ、道を樂しみて閑居し、世と營なむこと無く、神氣 晏如たるを。
咨(ああ) 予 淑(よ)からず、嬰累 虞(はか)ること多し。天より降すに匪ず、實に頑疏に由る。理 弊れて患 結び、卒に囹圄を致す。對答 訊を鄙にして、此の幽阻に縶がる。實に訟寃なるを恥づるも、時は我に與せず。義は直なりと曰ふと雖も、神は辱められ志は沮む。身を滄浪に澡ぐも、曷に云(ここ)に能く補あらんや。雍雍たる鳴雁、翼を厲して北に游び、時に順ひて動き、意を得て憂を忘る。嗟 我 憤歎し、曾て能く疇しきこと莫し。事は願と違ひ、茲の淹留に遘ふ。窮達 命有り、亦た又 何をか求めん。
古人 言有り、善も名に近づく莫かれと。時を奉じて恭默すれば、咎悔は生ぜず。萬石は周慎にして、親を安んじ榮を保てり。世務 紛紜して、祇(まさ)に余が情を攪す。安樂 必ず誡しむれば、乃ち利貞を終らん。煌煌たる靈芝、一年に三たび秀づ。予 獨り何をか為せる、志有れども就らず。難に懲りて復せんことを思へば、心 焉に內に疚む。庶はくは將來を勖(つと)め、馨も無く臭も無けん。薇を山阿に採り、髮を巖岫に散ず。永嘯し長吟して、神を頤(やしな)ひ壽を養はん、と。
〔一〕新釈漢文大系『文選(詩篇)』上(明治書院、一九八五年)を参考にした。
嵇康はとても器用で鍛冶仕事を好んだ。自宅に一本の柳があって枝振りが広がっており、水を引いて柳を囲み、その下で鍛冶をした。東平の呂安は嵇康の高尚さに感服し、いつも一方的に慕い、千里の道を訪問したので、嵇康は友として付き合った。のちに呂安が兄のせいで冤罪にかけられ、獄に繋がれた。嵇康は呂安のために証言したので、嵇康もまた捕らわれた。嵇康は言行を慎んできたが、獄に繋がれると、幽憤詩を作って、
ああ私は幸が薄く、若いとき父を失い、孤独となって何も知らず、襁褓のなかにいた。母と兄に養育され、慈愛を受けたが威厳に触れなかった。甘やかされてわがままで、訓戒を受けず師に学ばなかった。元服しても、母らの愛情を頼って身勝手で、心を高くして古人の道を願ったが、好き放題であった。老荘の教えに身を託し、物を賤しんで身を大切にし、あらきを守って、天性のままを全うしようとした。
わたしは明敏でなく、善道を好むが世俗に不案内だ。(楚の)子玉は(小人の言葉を聞き)、しばしば失敗を招いた。大人(天子)は寛大であり、けがれも恥も受け入れている。人臣に邪悪な行動が多いのは、政治判断が天子自身から出ていないからである。私の狭い心から、善悪を弁別するにも、深く過ちを反省し、身を切られる痛みがある。過失を少なくしようにも、あらぬ讒言が湧き起こる。わたしは他者を傷つけようとしないが、しきりに怨みや憎しみを招く。むかしの柳下恵に恥じ、いまの孫登に愧じる。内ではわが本心に背き、外では良友に申し訳がない。仰いで厳君平や鄭子真にあこがれ、道を楽しんで閑居し、世事を営まず、精神を平穏としたい。
ああ私は不善なので、あらぬ嫌疑を受けた。天から下されたのではなく、私の頑固さと疎さが招いた災難だ。道理がやぶれ患害に巻き込まれ、ついに囚われた。審理の受け答えがうまくできず、牢獄に繋がれた。無実の罪を恥じても、時世は味方しない。義であり曲がっていないと言っても、辱められて意気が下がった。身を滄浪で洗っても、今さら何になろう。春の雁は鳴いて、羽を震って北に飛び、時節にかなって移動し、心安らかに憂いを知らない。ああ私は憤慨し、雁のようでいられない。現状は願いと異なり、このように拘留された。困窮も栄達も天命なのだ、もはや何を求めようか。
古人(荘子)は、善をなしても名利に近づくなと言った。運命に従い自粛すれば、悔いや咎めは起こらない。萬石(石奮)は謹慎して、親を安心させ栄位を保った。当世の政治は乱れ、私の感情を乱す。安楽のときに警戒すれば、物事は成就した。かがやく霊芝(長生きの仙薬)は、一年に三回も花をつける。私はどうにもならず、(長生きの)志は達成されない。患難に懲りて前に戻りたいと思っても、気に病むばかりだ。どうか将来を戒めて、好評も悪評も無くしたい。わらびを山かげで採り、岩窟で髪を散らしたい。声を伸ばして吟じ、本性を養って寿命を全うしたい、と言った。
初、康居貧、嘗與向秀共鍛於大樹之下、以自贍給。潁川鍾會、貴公子也、精練有才辯、故往造焉。康不為之禮、而鍛不輟。良久會去、康謂曰、「何所聞而來。何所見而去」。會曰、「聞所聞而來、見所見而去」。會以此憾之。及是、言於文帝曰、「嵇康、臥龍也、不可起。公無憂天下、顧以康為慮耳」。因譖、「康欲助毋丘儉、賴山濤不聽。昔齊戮華士、魯誅少正卯、誠以害時亂教、故聖賢去之。康・安等言論放蕩、非毀典謨、帝王者所不宜容。宜因釁除之、以淳風俗」。帝既昵聽信會、遂并害之。
康將刑東市、太學生三千人請以為師、弗許。康顧視日影、索琴彈之、曰、「昔袁孝尼嘗從吾學廣陵散、吾每靳固之、廣陵散於今絕矣」。時年四十。海內之士、莫不痛之。帝尋悟而恨焉。初、康嘗游于洛西、暮宿華陽亭、引琴而彈。夜分、忽有客詣之、稱是古人、與康共談音律、辭致清辯、因索琴彈之、而為廣陵散、聲調絕倫、遂以授康、仍誓不傳人、亦不言其姓字。
康善談理、又能屬文、其高情遠趣、率然玄遠。撰上古以來高士為之傳贊、欲友其人於千載也。又作太師箴、亦足以明帝王之道焉。復作聲無哀樂論、甚有條理。子紹、別有傳。
初め、康 貧に居り、嘗て向秀と與に共に大樹の下に鍛へ、以て自ら贍給す。潁川の鍾會、貴公子なり、精練にして才辯有り、故に往きて焉に造る。康 之が為に禮せず、而して鍛して輟まず。良に久しくして會 去る。康 謂ひて曰く、「何の聞く所ありて來たり、何の見る所あらば去るか」と。會曰く、「聞く所を聞かんとして來たり、見る所を見れば去る」。會 此を以て之を憾む。是に及び、文帝に言ひて曰く、「嵇康は、臥龍なり。起つ可からず。公 天下に憂ひ無く、顧みるに康を以て慮と為すのみ」。因りて譖るらく、「康 毋丘儉を助けんと欲し、山濤に賴れども聽されず。昔 齊は華士を戮し、魯は少正卯を誅す。誠に時を害し教を亂すを以て、故に聖賢 之を去る。康・安ら言論 放蕩にして、典謨を非毀し、帝王は宜しく容るべからざる所なり。宜しく釁に因りて之を除き、以て風俗を淳くせよ」と。帝 既に昵聽して會を信じ、遂に并せて之を害す。
康 將に東市に刑せられんとするや、太學生三千人 師為るを以て請ひ、許さず。康 日影を顧視し、琴を索めて之を彈ぜんとして曰く、「昔 袁孝尼 嘗て吾より廣陵散を學び、吾 每に之を靳固す。廣陵散 今に於て絕へり」と。時に年四十なり。海內の士、之を痛せざる莫し。帝 尋いで悟りて焉を恨む。初め、康 嘗て洛西に游び、華陽亭に暮宿し、琴を引きて彈ず。夜分に、忽に客 之に詣る有り、是れ古人なりと稱し、康と與に共に音律を談じ、辭は清辯に致る。因りて琴を索めて之を彈じ、而して廣陵散を為り、聲調 絕倫なり。遂に以て康に授く。仍て人に傳へざるを誓はしめ、亦た其の姓字を言はず。
康 談理を善くし、又 能く屬文し、其の高情 遠趣にして、率然として玄遠なり。上古より以來の高士を撰して之に傳贊を為るは、其の人を千載に友とせんと欲すればなり。又 太師箴を作り、亦た以て帝王の道を明らかにするに足る。復た聲無哀樂論を作り、甚だ條理有り。子の紹、別に傳有り。
これよりさき嵇康は貧しく暮らし、向秀とともに大樹のもとで鍛冶仕事をして、自給自足をした。潁川の鍾会は、貴公子であり、鍛錬を怠らずに弁舌の才能があり、嵇康のところに訪れた。嵇康は鍾会に挨拶せず、鍛冶仕事を止めなかった。長く経ってから鍾会が去った。嵇康は(鍾会に)、「何を聞いて来たのか、何を見たら帰ってくれるか」と言った。鍾会は、「聞きたいことを聞こうと思って来たが、見たいものは見たので帰る」と言った。鍾会はこのことがあって嵇康を怨んだ。ここに及び、(鍾会が)文帝に、「嵇康は、臥龍です。飛び立たせてはいけません。公(あなたさま)は天下に脅威となるものがいませんが、顧みますに嵇康のことを警戒すべきです」と言った。さらに(事実無根のことで)譏って、「嵇康は毌丘倹を助けようとし、山濤に持ちかけたが拒否されました。むかし斉国は華士を殺し、魯国は少正卯を誅しました。時望を殺害して教えを乱したので、聖賢はかの国から去りました。嵇康と呂安の言論は放蕩であり、儒教の伝統を毀損しており、帝王が容認してはならぬものです。過失に基づいて彼らを排除し、風俗を豊かになさいませ」と言った。文帝は鍾会の言葉を信じ込んで、彼ら二人を殺害した。
嵇康が東市で刑殺されそうになると、太学生の三千人が(嵇康を)師として助命を願ったが、許されなかった。嵇康は影を顧みて眺め、琴を求めて弾きたいといい、「むかし袁孝尼が私から広陵散を学びたいと言ったが、断った。広陵散は今ここに絶える」と言った。このとき四十歳であった。海内の士は、悲しまないものがなかった。文帝はすぐに(嵇康の無実を)悟って後悔した。かつて、嵇康は洛西に旅行し、華陽亭に宿泊して、琴を演奏していた。夜半に、突然の客が訪れ、自分は古の人間だと言い、嵇康とともに音律について談論したが、言説ははっきりしていた。さらに琴を所望し、広陵散を演奏し、歌声は抜群であった。こうして嵇康に方法を授けた。他人に教えてはならぬと誓わせ、その姓名を名乗らなかった。
嵇康は理を談ずることを得意とし、また文を綴るのが上手く、高邁な感情と遠大な思想があり、性急で奥深かった。上古より以来の高潔の士を選んで伝賛を作ったのは、彼らを千年の友としたかったからである。さらに太師箴を作り、帝王の道を明らかにするのに十分であった。また声無哀楽論を作り、とても道理が通っていた。子の嵇紹は、別に列伝がある。
向秀字子期、河內懷人也。清悟有遠識、少為山濤所知、雅好老莊之學。莊周著內外數十篇、歷世才士雖有觀者、莫適論其旨統也。秀乃為之隱解、發明奇趣、振起玄風、讀之者超然心悟、莫不自足一時也。惠帝之世、郭象又述而廣之、儒墨之迹見鄙、道家之言遂盛焉。始、秀欲注、嵇康曰、「此書詎復須注、正是妨人作樂耳」。及成、示康曰、「殊復勝不」。又與康論養生、辭難往復、蓋欲發康高致也。
康善鍛、秀為之佐、相對欣然、傍若無人。又共呂安灌園於山陽。康既被誅、秀應本郡計入洛。文帝問曰、「聞有箕山之志、何以在此」。秀曰、「以為巢許狷介之士、未達堯心、豈足多慕」。帝甚悅。秀乃自此役、作思舊賦云、
余與嵇康・呂安居止接近、其人並有不羈之才。嵇意遠而疏、呂心曠而放、其後並以事見法。嵇博綜伎藝、於絲竹特妙。臨當就命、顧視日影、索琴而彈之。逝將西邁、經其舊廬。于時日薄虞泉、寒冰凄然。鄰人有吹笛者、發聲寥亮。追想曩昔游宴之好、感音而歎、故作賦曰、
將命適於遠京兮、遂旋反以北徂。濟黃河以汎舟兮、經山陽之舊居。瞻曠野之蕭條兮、息余駕乎城隅。踐二子之遺迹兮、歷窮巷之空廬。歎黍離之愍周兮、悲麥秀於殷墟。惟追昔以懷今兮、心徘徊以躊躇。棟宇在而弗毀兮、形神逝其焉如。昔李斯之受罪兮、歎黃犬而長吟。悼嵇生之永辭兮、顧日影而彈琴。託運遇於領會兮、寄餘命於寸陰。聽鳴笛之慷慨兮、妙聲絕而復尋。佇駕言其將邁兮、故援翰以寫心。
後為散騎侍郎、轉黃門侍郎・散騎常侍、在朝不任職、容迹而已。卒於位。二子、純・悌。
向秀 字は子期、河內懷の人なり。清悟にして遠識有り、少くして山濤の知る所と為り、雅より老莊の學を好む。莊周 內外數十篇を著し、歷世の才士 觀る者有ると雖も、適ひて其の旨統を論ずる莫きなり。秀 乃ち之に隱解を為し、奇趣を發明し、玄風を振起す。之を讀む者は超然として心に悟り、一時に自足せざる莫し。惠帝の世に、郭象 又 述して之を廣め、儒墨の迹 鄙せられ、道家の言 遂に盛んなり。始め、秀 注せんと欲するに、嵇康曰く、「此の書 詎(あ)に復た注を須たん、正に是れ人の樂を作すを妨ぐるのみ」と。成るに及び、康に示して曰く、「殊に復た勝るや不や」と。又 康と與に養生を論じ、辭難 往復す。蓋し康の高致を發せんと欲すればなり。
康 鍛を善くし、秀は之の佐と為り、相 對ひて欣然として、傍若無人たり。又 呂安と共に山陽に園を灌す。康 既に誅せられ、秀 本郡の計に應じて入洛す。文帝 問ひて曰く、「箕山の志有ると聞くに、何を以て此に在るか」と。秀曰く、「以為へらく巢許は狷介の士にして、未だ堯の心に達せず、豈に多く慕ふに足るか」と。帝 甚だ悅ぶ。秀 乃ち此の役より、思舊賦を作りて云く、
余 嵇康・呂安と與に居止して接近し、其の人 並びに不羈の才有り。嵇の意 遠けれども疏なり。呂の心 曠(あき)らかなれど放なり。其の後 並びに事を以て法せらる。嵇 博く伎藝に綜し、絲竹に於て特に妙たり。當に臨みて命に就くに、顧りみて日影を視て、琴もて之を彈くを索む。逝きて將に西に邁まんとし、其の舊廬を經たり。時に日は虞泉に薄り、寒冰は凄然たり。鄰人 笛を吹く者有り、聲を發すること寥亮たり。曩昔の游宴の好を追想し、音に感じて歎じ、故に賦を作りて曰く、
將に命ありて遠き京に適き、遂に旋して北徂を以て反る。黃河を濟るに汎舟を以てし、山陽の舊居に經る。曠野の蕭條たるを瞻て、余駕を城隅に息む。二子の遺迹を踐み、窮巷の空廬を歷る。黍離の愍周を歎き、麥秀の殷墟を悲む。惟だを追ひて以て今を懷ひ、心に徘徊して以て躊躇す。棟宇 在りて毀たず、形神 逝きて其れ焉んぞ如かん。昔 李斯の罪を受くるや、黃犬の長吟するを歎ず。嵇生の永く辭するを悼み、日影を顧みて琴を彈ず。運遇を領會に託し、餘命を寸陰に寄す。鳴笛に慷慨を聽き、妙聲 絕へて復た尋ぬ。駕に佇みて其の將に邁まんすると言ひ、故に翰を援して以て心を寫すと。
後に散騎侍郎と為り、黃門侍郎・散騎常侍に轉じ、朝に在りて職に任ぜず、迹を容るるのみ。位に卒す。二子あり、純・悌なり。
向秀は字を子期といい、河内懐県の人である。清らかで悟り遠い見識があり、若くして山濤に知られ、もとより老荘の学問を好んだ。荘周(荘子)な内外数十篇を著し、歴代の人士はこれを読んできたが、うまく意味や流れを論じられるものがいなかった。向秀はこれに奥深い注解をつけて、奇妙な文意を明らかにし、道学の気風を振るい起こした。これを読んだものは(従来を)高く超えて心で悟り、いちどで満足しないものがなかった。恵帝の時代に、郭象もまた(『荘子』注を)記述してこれを広め、儒学の伝統が軽んじられ、道家の言葉が盛んになった。はじめ、向秀が注釈を付けようとすると、嵇康は、「この書物は注釈を付けられるものではない、他人の読書の楽しみを妨害するだけだ」と言った。完成すると、(向秀は)嵇康に示して、「思っていたものより優れていませんか」と言った。嵇康とともに養生(ようせい)を論じ、難詰の書簡が往来した。おそらく嵇康の気高さを刺激したためであろう。
嵇康は鍛冶を得意とし、向秀は手伝いをし、向かい合って楽しそうに作業し、そばに人(鍾会)がいても無視をした。また呂安と一緒に山陽で庭に水を引いた。嵇康が(司馬昭に)誅殺されると、向秀は本郡の会計報告について上洛した。文帝が質問し、「箕山の志(隠遁の志)があると聞いたが、なぜここに来たのか」と言った。向秀は、「思いますに(箕山に隠棲した)巣父や許由は他人と折りあえない人物で、(彼らに位を譲ろうとした)尭の心を理解していません、思慕するに値しません」と言った。文帝はとても喜んだ。向秀はこの上洛のときから、思旧賦を作って、
私は嵇康と呂安と同居して親密で、二人とも非凡な才能があった。嵇康は意思は遠大だが疎略であった。呂安は心が澄み明らかだが放漫であった。のちに二人とも事案によって処罰された。嵇康は広く技芸に通じ、なかでも音楽を得意とした。判決を受けて出頭を命じられると、振り返って日影を見て、琴を取り寄せて弾きたいと言った。西に向かう途中で、むかし住んだ草盧を通過した。このとき日は暮れて虞泉(地平線)に迫り、寒さは厳しかった。隣人の笛を吹く者がおり、発する声は寂しげである。かつての酒宴を思い出し、音に触れて悲歎し、そこで賦を作って、
命令を受けて遠い洛陽にゆき、引き返して北に向かう。黄河を船で渡り、山陽の旧居を通過した。寂しい広野を見て、車駕を城の隅に止める。二子(嵇康と呂安)の旧居を訪れ、さびれた町並みの廬をめぐる。(『毛経』では)黍離の詩が周王朝の衰亡を嘆き、麦秀の詩が殷の旧跡を悲しんだ。ただ思い出して追想し、心をめぐらせて落ち着かない。建物は壊れず残っているが、二人の心と体はどこに行ったのか(司馬昭に殺された)。むかし(秦の)李斯が罪を受けると、黄色い犬のことを歌って嘆いた。嵇生(嵇康)は永遠に帰って来られぬことを悼み、日暮れを顧みて琴を弾いた。運命をめぐり合わせに託し、余命がわずかなことに委ねた。笛の音から(死者の)憤りと嘆きを聴き取り、美しい音色は途切れてもまた始まる。馬車のそばにおり去り際に、言葉で心を写し取った(と賦に綴った)。
のちに散騎侍郎となり、黄門侍郎・散騎常侍に転じ、朝廷にいて職務に任命されず、肩書きを置いただけであった。在位で卒した。二人の子があり、向純と向悌である。
劉伶字伯倫、沛國人也。身長六尺、容貌甚陋。放情肆志、常以細宇宙齊萬物為心。澹默少言、不妄交游、與阮籍・嵇康相遇、欣然神解、攜手入林。初不以家產有無介意。常乘鹿車、攜一壺酒、使人荷鍤而隨之、謂曰、「死便埋我」。其遺形骸如此。嘗渴甚、求酒於其妻。妻捐酒毀器、涕泣諫曰、「君酒太過、非攝生之道、必宜斷之」。伶曰、「善。吾不能自禁、惟當祝鬼神自誓耳。便可具酒肉」。妻從之。伶跪祝曰、「天生劉伶、以酒為名。一飲一斛、五斗解酲。婦兒之言、慎不可聽」。仍引酒御肉、隗然復醉。嘗醉與俗人相忤、其人攘袂奮拳而往。伶徐曰、「雞肋不足以安尊拳」。其人笑而止。
伶雖陶兀昏放、而機應不差。未嘗厝意文翰、惟著酒德頌一篇。其辭曰、「有大人先生、以天地為一朝、萬期為須臾、日月為扃牖、八荒為庭衢。行無轍迹、居無室廬、幕天席地、縱意所如。止則操卮執觚、動則挈榼提壺、惟酒是務、焉知其餘。有貴介公子・搢紳處士、聞吾風聲、議其所以、乃奮袂攘襟、怒目切齒、陳說禮法、是非蜂起。先生於是方捧甖承槽、銜杯漱醪、奮髯箕踞、枕麴藉糟、無思無慮、其樂陶陶。兀然而醉、怳爾而醒。靜聽不聞雷霆之聲、熟視不睹泰山之形。不覺寒暑之切肌、利欲之感情。俯觀萬物、擾擾焉若江海之載浮萍。二豪侍側焉、如蜾蠃之與螟蛉」。
嘗為建威參軍。泰始初對策、盛言無為之化。時輩皆以高第得調、伶獨以無用罷。竟以壽終。q
劉伶 字は伯倫、沛國の人なり。身長は六尺、容貌は甚だ陋なり。情を放ち志を肆にし、常に宇宙に細(くは)しく萬物を齊しくするを以て心と為す。澹默にして言少なく、妄りに交游せざるに、阮籍・嵇康と與に相 遇ふや、欣然として神 解き、手を攜へて林に入る。初め家產の有無を以て意に介せず。常に鹿車に乘り、一壺の酒を攜を攜へ、人をして鍤を荷ひて之に隨はしめ、謂ひて曰く、「死すれば便ち我を埋めよ」と。其の形骸を遺つること此の如し。嘗て渴すこと甚しく、酒を其の妻に求む。妻 酒を捐てて器を毀ち、涕泣して諫めて曰く、「君の酒 太いに過ぐるは、攝生の道に非ず、必ず宜しく之を斷つべし」と。伶曰く、「善し。吾 自ら禁ずる能はざれば、惟だ當に鬼神に祝して自ら誓ふべきのみ。便ち酒肉を具ふ可し」と。妻 之に從ふ。伶 跪きて祝りて曰く、「天は劉伶を生み、酒を以て名と為す。一たび一斛を飲まば、五斗にして酲を解く。婦兒の言、慎みて聽す可からず」と。仍りて酒を引き肉を御し、隗然として復た醉ふ。嘗て醉ひて俗人と相 忤ひ、其の人 袂を攘ちて拳を奮ひて往く。伶 徐ろに曰く、「雞肋 以て尊拳を安んずるに足らず」と。其の人 笑ひて止む。
伶 陶兀し昏放すと雖も、而れども機應 差はず。未だ嘗て意を文翰に厝かず、惟だ酒德頌の一篇のみを著す。其の辭に曰く、「大人先生有り、天地を以て一朝と為し、萬期もて須臾と為し、日月もて扃牖と為し、八荒もて庭衢と為す。行くに轍迹無く、居るに室廬無く、天を幕とし地を席とし、意の如く所を縱にす。止まれば則ち卮を操り觚を執り、動けば則ち榼を挈り壺を提げ、惟だ酒のみ是れ務め、焉んぞ其の餘を知らんや。貴介公子・搢紳處士有りて、吾が風聲を聞き、其の所以を議すれば、乃ち袂を奮ひ襟を攘(かか)げて、目を怒らせ齒を切し、禮法を陳說して、是非 蜂起す。先生 是に於て方に甖を捧げて槽を承け、杯を銜み醪を漱ひ、髯を奮ひて箕踞し、麴を枕とし糟を藉き、思ふ無く慮る無く、其の樂 陶陶たり。兀然として醉ひ、怳爾として醒む。靜聽すれども雷霆の聲を聞かず、熟視すれども泰山の形を睹ず。寒暑の切肌、利欲の感情を覺えず。俯して萬物を觀るに、擾擾焉たること江海の浮萍を載するが若し。二豪 焉に侍側するは、蜾蠃の螟蛉と與にするが如し」と。
嘗て建威參軍と為る。泰始の初に對策し、盛んに無為の化を言ふ。時輩 皆 高第にして調を得るを以てするも、伶 獨り無用なるを以て罷む。竟に壽を以て終はる。
劉伶は字を伯倫といい、沛国の人である。身長は六尺、外見はまったく風采が上がらなかった。感情を表して思うままで、つねに宇宙を思い万物斉同を考えていた。物静かで口数が少なく、みだりに交友しないが、阮籍・嵇康と会うと、嬉しそうに打ち解け、手を携えて林に入った。当初から家産の有無を意に介さなかった。いつも鹿車に乗り、ひと壺の酒を提げ、人をして鋤を担いで付いて来させ、「私が死んだらすぐに埋めろ」と言っていた。形式に拘らないのはこのようであった。かつてのどが渇き、妻に酒を求めた。妻は酒を棄てて器を壊し、泣いて諫めて、「あなたの飲み方は、生命を損ないます、断酒してください」と言った。劉伶は、「分かった。自分では断酒ができないから、鬼神に祈って誓いを立てよう。(お供えの)酒と肉を準備せよ」と言った。妻はこれに従った。劉伶は跪いて祈り、「天は私を生み、酒を本分としました。一斛を飲んでも、五斗(の迎え酒で)で二日酔いが治ります。婦人を言葉は、お聞きになる必要はありません」と言った。そこで酒を引き寄せて肉を調理し、高らかに酔った。かつて酔って世間の人と喧嘩になり、相手が襟元を叩いて拳を振るった。劉伶はおもむろに、「鶏肋(私の貧相な体)はひとさまの拳骨を受け止めるには不足だ」と言った。その人は笑って止めた。
劉伶は泥酔して昏倒しても、いつもどおり機転がきいた。思いを文書に綴ることはないが、ただ酒徳頌の一篇だけを著した。その言葉に、「大人先生と称するひとがおり、天地(開闢以来を)一日とし、一万年を一瞬のこととし、日や月を窓の明かりとし、天下の外域までもわが庭とする。どこに行くにも軌跡を残さず、居住するにも屋敷を構えず、天空を幕として地面を座席とし、思うままである。立ち止まれば盃を取って飲み続け、動き出せば酒樽をひっさげ、つねに酒を欠かさず、それ以外のことを顧みない。貴介の公子や搢紳の儒者がおり、先生の評判を聞きつけ、その生き方に批評すれば、たもとを振るい襟を掲げて、目を怒らせて歯を食いしばり、礼法について説教し、激しく議論を吹っかける。先生はかめを捧げて樽から注ぎ、杯を口をつけて啜り飲み、ひげを震わせて足を投げだし、麴を枕として酒粕を敷いて、思慮することなく、ただ楽しんで陶然としている。落ち着いて酔い、恍惚として目を覚ます。耳を澄ましても雷の音すら聞こえず、目を凝らしても泰山の形すら見えない。暑さ寒さが身に迫ることも、利害の欲を出すこともない。俯いて万物を見れば、(世俗が)騒がしいのは長江や海の浮き草のようだ。貴人や賢者がそばにいても、ハチや青虫がいるのと変わりがない」と言った。
かつて建威参軍となった。泰始年間の初めに対策(下問への回答)をして、さかんに無為の教化について述べた。同時期の人々の答案は秀でて時宜にかなうと言われたが、劉伶のものだけが無用として却下された。寿命により亡くなった。
謝鯤字幼輿、陳國陽夏人也。祖纘、典農中郎將。父衡、以儒素顯、仕至國子祭酒。鯤少知名、通簡有高識、不修威儀、好老易、能歌善鼓琴、王衍・嵇紹並奇之。
1.(永興)〔太安〕中、長沙王乂入輔政、時有疾鯤者、言其將出奔。乂欲鞭之、鯤解衣就罰、曾無忤容。既舍之、又無喜色。太傅東海王越聞其名、辟為掾、任達不拘、尋坐家僮取官稾除名。于時名士王玄・阮脩之徒、並以鯤初登宰府、便至黜辱、為之歎恨。鯤聞之、方清歌鼓琴、不以屑意、莫不服其遠暢、而恬於榮辱。鄰家高氏女有美色、鯤嘗挑之、女投梭、折其兩齒。時人為之語曰、「任達不已、幼輿折齒」。鯤聞之、慠然長嘯曰、「猶不廢我嘯歌」。
越尋更辟之、轉參軍事。鯤以時方多故、乃謝病去職、避地于豫章。嘗行經空亭中夜宿、此亭舊每殺人。將曉、有黃衣人呼鯤字令開戶、鯤憺然無懼色、便於窗中度手牽之、胛斷、視之、鹿也、尋血獲焉。爾後此亭無復妖怪。
左將軍王敦引為長史、以討杜弢功封咸亭侯。母憂去職、服闋、遷敦大將軍長史。時王澄在敦坐、見鯤談話無勌、惟歎謝長史可與言、都不眄敦、其為人所慕如此。鯤不徇功名、無砥礪行、居身於可否之間、雖自處若穢、而動不累高。敦有不臣之迹、顯於朝野。鯤知不可以道匡弼、乃優游寄遇、不屑政事、從容諷議、卒歲而已。每與畢卓・王尼・阮放・羊曼・桓彝・阮孚等縱酒、敦以其名高、雅相賓禮。
嘗使至都、明帝在東宮見之、甚相親重。問曰、「論者以君方庾亮、自謂何如」。答曰、「端委廟堂、使百僚準則、鯤不如亮。一丘一壑、自謂過之」。溫嶠嘗謂鯤子尚曰、「尊大君、豈惟識量淹遠。至於神鑒沈深、雖諸葛瑾之喻孫權不過也」。
1.中華書局本に従い、永興を太安に改める。
謝鯤 字は幼輿、陳國陽夏の人なり。祖の纘は、典農中郎將なり。父の衡、儒を以て素より顯たり、仕へて國子祭酒に至る。鯤 少くして名を知られ、通簡にして高識有り、威儀を修めず、老易を好み、能く歌ひ鼓琴を善くし、王衍・嵇紹 並びに之を奇とす。
>太安中に、長沙王乂 入りて輔政し、時に鯤を疾む者有り、其れ將に出奔せんとすと言ふ。乂 之を鞭せんと欲す。鯤 衣を解きて罰に就き、曾て忤容無し。既に之を舍き、又 喜色無し。太傅の東海王越 其の名を聞き、辟して掾と為す。任達にして拘らず、尋いで家僮の官稾を取るに坐して除名せらる。時に名士の王玄・阮脩の徒、並びに鯤の初めて宰府に登り、便ち黜辱に至るを以て、之が為に歎恨す。鯤 之を聞き、方に清歌鼓琴もて、以て意を屑にせず、其の遠暢に服せざるは莫く、而して榮辱を恬す。鄰家の高氏の女 美色有り、鯤 嘗て之に挑み、女 梭を投じ、其の兩齒を折る。時人 之が為に語りて曰く、「任達にして已まず、幼輿 齒を折る」と。鯤 之を聞き、慠然として長嘯して曰く、「猶ほ我が嘯歌を廢せず」と。
越 尋いで更めて之を辟し、參軍事に轉ず。鯤 時 方に多故なるを以て、乃ち病を謝して職を去り、地を豫章に避く。嘗て行きて空の亭中を經て夜宿し、此の亭 舊く每に殺人あり。將に曉せんとし、黃衣の人 鯤の字を呼びて戶を開かしむる有り。鯤 憺然として懼色無く、便ち窗中に於て手を度して之を牽き、胛斷して之を視れば、鹿なり。血を尋ねて焉を獲たり。爾後 此の亭 復た妖怪無し。
左將軍の王敦 引きて長史と為し、杜弢を討つ功を以て咸亭侯に封ぜらる。母の憂もて職を去り、服闋し、敦の大將軍長史に遷る。時に王澄 敦が坐に在り、鯤を見て談話して勌むこと無く、惟だ謝長史 與に言ふ可きを歎じ、都て敦を眄せず、其の為人の慕はるる所 此の如し。鯤 功名を徇へず、砥礪の行無く、身を可否の間に居り、自ら穢が若きに處ると雖も、而れども動やも高を累ねず。敦 不臣の迹有り、朝野に顯たり。鯤 道を以て匡弼す可からざるを知り、乃ち優游して寄遇し、政事に屑せず、從容として諷議し、歲に卒するのみ。每に畢卓・王尼・阮放・羊曼・桓彝・阮孚らと與に酒を縱にす。敦 其の名 高きを以て、雅より相 賓禮す。
嘗て都に至らしめ、明帝 東宮に在りて之を見て、甚だ相 親重す。問ひて曰く、「論者 君を以て庾亮に方ぶ、自ら何如と謂ふか」と。答へて曰く、「廟堂に端委し、百僚をして則に準はしむは、鯤 亮に如かず。一丘一壑するは、自ら之より過ぐと謂ふ」と。溫嶠 嘗て鯤が子の尚に謂ひて曰く、「大君を尊ぶこと、豈に惟だ識量 淹遠なるのみならんや。神鑒 沈深に至るは、諸葛瑾の孫權を喻すと雖も過ぎざるなり」と。
謝鯤は字を幼輿といい、陳国陽夏の人である。祖父の謝纘は、典農中郎将である。父の謝衡は、儒学によって著名であり、仕官して国子祭酒に至った。謝鯤は若くして名を知られ、(諸子百家に)広く通じて見識が高く、威儀を整えず、『老子』や『周易』を好み、歌と琴を弾くことを得意とし、王衍と嵇紹から高く評価された。
太安年間に、長沙王乂(司馬乂)が朝廷に入って輔政したが、当時は謝鯤をにくむ者がおり、謝鯤が出奔しそうだと讒言した。司馬乂は謝鯤を鞭で打とうとした。衣を脱いで罰に甘んじ、まったく逆らう様子がなかった。(鞭を打たず)解放されても、喜んだ様子もなかった。太傅の東海王越(司馬越)が名声を聞き、辟召して掾とした。気ままでこだわらず、すぐに家僮が官庫のわらを盗んだことに連坐し除名された。このとき名士の王玄や阮脩といった連中は、みな謝鯤が宰相(司馬越)の府に登ったが、辱められ罷免されたのを見て、歎き恨んだ。謝鯤はこれを聞き、清らな歌声で琴を演奏し、遺恨を残さなかった。かれの遠く伸びやかな姿勢に感服しないものはなく、栄誉も屈辱もあっさりと受け流した。隣家の高氏の娘は容姿が美しく、かつて謝鯤は彼女に迫ったが、娘が梭を投げつけ、かれの二本の歯を折った。当時のひとはこの逸話を、「奔放すぎるから、幼輿(謝鯤の字)は歯を折った」と語った。謝鯤はこれを聞き、誇りたかく長吟し、「それでも私の歌声は健在である」と言った
司馬越はすぐに改めてかれを辟召し、参軍事に転じた。謝鯤は時世が多難なので、病気を理由に職を去り、豫章の地に避難した。旅の道中で無人の亭のなかに宿泊したが、この亭ではずっと殺人が起きていた。夜明けに、黄色い衣のひとが謝鯤の字を呼んで戸を開けてくれと言った。謝鯤は落ち着いており懼れる様子がなく、窓のなかから手を伸ばしてこれを引きよせ、腕の付け根で切断して見れば、鹿であった。血痕を伝って正体を確認した。これ以後、二度と怪異は起きなかった。
左将軍の王敦が(謝鯤を)招いて長史とし、杜弢を討伐した功績で咸亭侯に封建された。母の死を理由に職を去り、喪に服してから、王敦の大将軍長史に遷った。このとき王澄は王敦と同席していたが、謝鯤と談話して飽きることなく、ただ謝長史とだけ話ができればいいのにと歎じ、まったく王敦のほうを見なかった。謝鯤の人となりはこれほど慕われた。謝鯤は功名を触れ回らず、勉励に努めず、身を善悪のあいだに置き、穢れのなかにいようとも、高みに抜けようとしなかった。王敦は臣下を逸脱した行為があって、それは朝野で明らかであった。謝鯤は道義によって正して導けないと知ると、ゆったりと生活し、政事に関与せず、落ち着いて論評をして、一年中を過ごした。つねに畢卓・王尼・阮放・羊曼・桓彝・阮孚らとともに酒に飲んだくれた。王敦はかれの名声が高いので、いつも賓礼で接した。
かつて都に来させると、明帝は東宮にいて謝鯤を見て、とても親しみ尊敬した。質問して、「論者はきみを庾亮に匹敵すると言うが、自分ではどう思うか」と言った。謝鯤は答えて、「礼服を着けて廟堂におり、百僚を命令に従わせるなら、私は庾亮に及びません。一つの丘や一つの谷で漫喫することなら、私はかれより勝ると思います」と言った。温嶠はかつて謝鯤の子の謝尚に、「大君(父の謝鯤)を尊ぶのは、ただ知識が広大であることだけによるだろうか。神のような判断力は、諸葛瑾が孫権を諭したことよりも勝るのだ」と言った。
及敦將為逆、謂鯤曰、「劉隗姦邪、將危社稷。吾欲除君側之惡、匡主濟時、何如」。對曰、「隗誠始禍、然城狐社鼠也」。敦怒曰、「君庸才、豈達大理」。出鯤為豫章太守、又留不遣、藉其才望、逼與俱下。
敦至石頭、歎曰、「吾不復得為盛德事矣」。鯤曰、「何為其然。但使自今以往、日忘日去耳」。初、敦謂鯤曰、「吾當以周伯仁為尚書令、戴若思為僕射」。及至都、復曰、「近來人情何如」。鯤對曰、「明公之舉、雖欲大存社稷、然悠悠之言、實未達高義。周顗・戴若思、南北人士之望、明公舉而用之、羣情帖然矣」。是日、敦遣兵收周・戴、而鯤弗知、敦怒曰、「君粗疏邪。二子不相當、吾已收之矣」。鯤與顗素相親重、聞之愕然、若喪諸己。參軍王嶠以敦誅顗、諫之甚切、敦大怒、命斬嶠、時人士畏懼、莫敢言者。鯤曰、「明公舉大事、不戮一人。嶠以獻替忤旨、便以釁鼓、不亦過乎」。敦乃止。
敦既誅害忠賢、而稱疾不朝、將還武昌。鯤喻敦曰、「公大存社稷、建不世之勳、然天下之心實有未達。若能朝天子、使君臣釋然、萬物之心於是乃服。杖眾望以順羣情、盡沖退以奉主上、如斯則勳侔一匡、名垂千載矣」。敦曰、「君能保無變乎」。對曰、「鯤近日入覲、主上側席、遲得見公、宮省穆然、必無虞矣。公若入朝、鯤請侍從」。敦勃然曰、「正復殺君等數百人、亦復何損於時」。竟不朝而去。
是時朝望被害、皆為其憂。而鯤推理安常、時進正言。敦既不能用、內亦不悅。軍還、使之郡、涖政清肅、百姓愛之。尋卒官、時年四十三。敦死後、追贈太常、諡曰康。子尚嗣、別有傳。
敦 將に逆を為さんとするに及び、鯤に謂ひて曰く、「劉隗 姦邪なり。將に社稷を危ふくせんとす。吾 君側の惡を除き、主を匡ひ時を濟はんと欲す。何如」と。對へて曰く、「隗 誠に禍を始め、然れども城の狐にして社の鼠なり」と。敦 怒りて曰く、「君 庸才なり、豈に大理に達せんか」と。鯤を出して豫章太守と為しも、又 留めて遣はず、其の才望を藉み、逼りて與に俱に下らしむ。
敦 石頭に至り、歎じて曰く、「吾 復た盛德の事を為すを得ず」と。鯤曰く、「何為れぞ其れ然るか。但だ今より以往、日 忘れ日 去らしむのみ」と。初め、敦 鯤に謂ひて曰く、「吾 當に周伯仁を以て尚書令と為し、戴若思もて僕射と為すべし」と。都に至るに及び、復た曰く、「近來の人の情 何如」と。鯤 對へて曰く、「明公の舉、大いに社稷を存せんと欲すと雖も、然れども悠悠の言、實に未だ高義に達せず。周顗・戴若思は、南北の人士の望なり。明公 舉げて之を用ふれば、羣情 帖然たらん」と。是の日、敦 兵を遣はして周・戴を收め、而して鯤 知らず。敦 怒りて曰く、「君 粗疏なるか。二子 相 當らず、吾 已に之を收む」と。鯤 顗と素より相 親重たりて、之を聞きて愕然とし、諸己を喪ふが若し。參軍の王嶠 敦 顗を誅するを以て、之を諫むること甚だ切なり。敦 大いに怒り、嶠を斬ることを命ず。時の人士 畏懼し、敢て言ふ者莫し。鯤曰く、「明公 大事を舉げ、一人とて戮せず。嶠 獻替にして旨に忤ふを以て、便ち以て鼓を釁す。亦た過ならざるか」と。敦 乃ち止む。
敦 既に忠賢を誅害し、而して疾と稱して朝せず、將に武昌に還らんとす。鯤 敦に喻して曰く、「公 大いに社稷に存し、不世の勳を建つ。然れども天下の心 實に未だ達せざる有り。若し能く天子に朝し、君臣をして釋然たらしむれば、萬物の心 是に於て乃ち服さん。眾望に杖りて以て羣情に順ひ、沖退を盡して以て主上を奉り、斯の如くんば則ち勳は一匡に侔しく、名は千載に垂れん」と。敦曰く、「君 能く變はること無きを保つか」と。對へて曰く、「鯤 近日に入覲するに、主上 席を側し、公に見るを得るを遲(ま)つ。宮省 穆然たりて、必ず虞れ無し。公 若し入朝せば、鯤 侍從せんことを請ふ」。敦 勃然として曰く、「正に復た君ら數百人を殺すとも、亦た復た何ぞ時を損するか」と。竟に朝せずして去る。
是の時 朝望 害せられ、皆 其の為に憂す。而して鯤 理を推し常を安んじ、時に正言を進む。敦 既に用ふる能はず、內に亦た悅ばず。軍 還り、郡に之かしめ、涖政は清肅にして、百姓 之を愛す。尋いで官に卒し、時に年四十三なり。敦 死する後、太常を追贈し、諡して康と曰ふ。子の尚 嗣ぐ、別に傳有り。
王敦が反逆を試みて、謝鯤に、「劉隗は姦邪である。かれが社稷を危険に晒している。私は君側の悪を除き、主君を正して時世を救おうと思うが、どうだろうか」と言った。謝鯤は、「劉隗は実際に禍いを始めましたが、しかし城の狐や社の鼠です(討伐するほどではありません)」と答えた。王敦は怒り、「君は平凡な才能しかない、大きな道理が分からないのか」と言った。謝鯤を転出させ豫章太守としたが、留めて出発させず、その才能の名望を惜しみ、強引に手元に残した。
王敦は石頭に至り、歎じて、「私はまた徳を盛んにする事業ができない」と言った。謝鯤は、「なぜそんなことがありますか。これまでのことは、日数を忘れ時間が経つに任せるだけです」と言った。これよりさき、王敦は謝鯤に、「私は周伯仁(周顗)を尚書令とし、戴若思(戴淵)を尚書僕射としたいものだ」と言った。都に到着すると、ふたたび、「近ごろの世論はどうだ」と聞いた。謝鯤は、「明公の行動は、大いに社稷を存続させようとするものですが、しかし遠方からの評判は、まだ(王敦が)高邁な義に達したと認めていません。周顗と戴若思は、南北の人士の名望です。明公が彼らを登用すれば、人々の思いは落ち着くでしょう」と言った。この日、王敦は兵を派遣して周顗と戴淵を捕らえたが、謝鯤は知らなかった。王敦は怒って、「きみは疎略であった。二子が(登用に)応じないので、私はすでに彼らを捕らえたぞ」と言った。謝鯤は周顗とふだんから親密だったので、これを聞いて愕然とし、自分が損なわれた気持ちであった。参軍の王嶠は王敦が周顗を誅殺することについて、これを痛切に諫めた。王敦は大いに怒り、王嶠を斬れと命じた。当時の人士は畏懼し、あえて反論する者がいなかった。謝鯤は、「明公は大事業に着手し、一人として殺戮しませんでした。王嶠は輔佐であるのに意向に逆らったとして、血祭りになさるという。これも過ちではありませんか」と言った。王敦は思い止まった。
王敦が忠賢を殺害し、しかし病気と称して朝見せず、武昌に帰ろうとした。謝鯤は王敦に、諭して、「公は大いに社稷を存続させ、不世出の勲功を立てました。しかし天下の心はそれを正しく理解していません。もし天子に朝見し、君臣の疑念を解いたならば、万物の心はようやく(王敦に)感服するでしょう。衆望に従って世論に寄り添い、謙譲を尽くして主上を奉り、さすれば勲功は天下を正して統一するにも等しく、名は千年先に伝わるでしょう」と言った。王敦は、「きみは異変を防ぐことができるか」と聞いた。謝鯤は答えて、「私が近日入朝すると、主上は鯤 近日に入覲するに、主上は座席を設け、公に会うのを待っていました。宮廷内は静まりかえり、きっと危険はありません。公がもし入朝するなら、私は随従したいと思います」と言った。王敦は顔色を変えて、「きみら数百人を殺すことはあろうと、もはや(朝見して)時間をむだにするものか」と言った。結局は朝見せずに去った。
このとき朝廷では名望家が殺害され、みなそのせいで憂えていた。しかし謝鯤は理を推し進めて通常どおり安らかで、時期に適した正しい発言をした。王敦はこれを採用できず、内心では疎ましく思っていた。軍が帰還すると、郡に着任させた。(郡において謝鯤の)為政は清らかで正しく、万民は彼を慕った。ほどなく在官で亡くなり、このとき四十三歳だった。王敦が死去した後、太常を追贈し、諡して康とした。子の謝尚が嗣いだが、別に列伝がある。
胡毋輔之字彥國、泰山奉高人也。高祖班、漢執金吾。父原、練習兵馬、山濤稱其才堪邊任、舉為太尉長史、終河南令。輔之少擅高名、有知人之鑒。性嗜酒、任縱不拘小節。與王澄・王敦・庾敳俱為太尉王衍所昵、號曰四友。澄嘗與人書曰、「彥國吐佳言如鋸木屑、霏霏不絕、誠為後進領袖也」。
辟別駕・太尉掾、並不就。以家貧、求試守繁昌令、始節酒自厲、甚有能名。遷尚書郎。豫討齊王冏、賜爵陰平男。累轉司徒左長史。復求外出、為建武將軍・樂安太守。與郡人光逸晝夜酣飲、不視郡事。成都王穎為太弟、召為中庶子、遂與謝鯤・王澄・阮脩・王尼・畢卓俱為放達。
嘗過河南門下飲、河南騶王子博箕坐其傍、輔之叱使取火。子博曰、「我卒也、惟不乏吾事則已、安復為人使」。輔之因就與語、歎曰、「吾不及也」。薦之河南尹樂廣、廣召見、甚悅之、擢為功曹。其甄拔人物若此。
東海王越聞輔之名、引為從事中郎、復補振威將軍・陳留太守。王彌經其郡、輔之不能討、坐免官。尋除寧遠將軍・揚州刺史、不之職、越復以為右司馬・本州大中正。越薨、避亂渡江、元帝以為安東將軍諮議祭酒、遷揚武將軍・湘州刺史・假節。到州未幾卒、時年四十九。子謙之。
謙之字子光。才學不及父、而傲縱過之。至酣醉、常呼其父字、輔之亦不以介意、談者以為狂。輔之正酣飲、謙之闚而厲聲曰、「彥國年老、不得為爾。將令我尻背東壁」。輔之歡笑、呼入與共飲。其所為如此。年未三十卒。
胡毋輔之 字は彥國、泰山奉高の人なり。高祖の班、漢の執金吾なり。父の原、兵馬に練習し、山濤 其の才 邊任に堪ふと稱し、舉して太尉長史と為し、河南令に終はる。輔之 少くして高名を擅にし、知人の鑒有り。性は酒を嗜み、任縱にして小節に拘らず。王澄・王敦・庾敳と與に俱に太尉の王衍の昵む所と為り、號して四友と曰ふ。澄 嘗て人に書を與へて曰く、「彥國 佳言を吐くこと木屑を鋸(ひ)くが如し、霏霏として絕えず。誠に後進の領袖為らん」と。
別駕・太尉掾に辟せらるるも、並びに就かず。家 貧なるを以て、試みに繁昌令を守するを求め、始めて酒を節して自ら厲み、甚だ能名有り。尚書郎に遷る。齊王冏を討つに豫り、爵陰平男を賜る。累ねて司徒左長史に轉ず。復た外に出づるを求め、建武將軍・樂安太守と為る。郡人の光逸と與に晝夜に酣飲し、郡事を視ず。成都王穎 太弟と為るや、召して中庶子と為し、遂に謝鯤・王澄・阮脩・王尼・畢卓と與に俱に放達を為す。
嘗て河南の門下を過りて飲むに、河南の騶王子博 其の傍に箕坐す。輔之 叱りて火を取らしむ。子博曰く、「我 卒なり。惟だ吾が事に乏しからざれば則ち已む。安ぞ復た人の使と為らん」と。輔之 因りて就きて與に語り、歎じて曰く、「吾 及ばざるなり」と。之を河南尹の樂廣に薦む。廣 召して見るに、甚だ之を悅び、擢して功曹と為す。其の人物を甄拔すること此の若し。
東海王越 輔之の名を聞き、引きて從事中郎と為し、復た振威將軍・陳留太守に補す。王彌 其の郡を經るに、輔之 討つ能はず、坐して官を免ぜらる。尋いで寧遠將軍・揚州刺史に除せらるるに、職に之かず、越 復た以て右司馬・本州大中正と為す。越 薨ずるや、亂を避けて江を渡り、元帝 以て安東將軍諮議祭酒と為し、揚武將軍・湘州刺史・假節に遷る。州に到りて未だ幾もなく卒す。時に年は四十九。子は謙之なり。
謙之 字は子光なり。才學 父に及ばず、而れども傲縱 之に過ぐ。酣醉するに至り、常に其の父の字を呼び、輔之も亦た以て意に介せず、談者 以て狂と為す。輔之 正に酣飲するに、謙之 闚ひて聲を厲して曰く、「彥國 年老なり、爾を為すを得ず。將に我が尻背をして東壁せしむ」と。輔之 歡笑し、呼びて入れ與に共に飲む。其の為す所は此の如し。年 未だ三十ならずして卒す。
胡毋輔之は字を彦国といい、泰山奉高の人である。高祖の胡毋班は、後漢の執金吾である。父の胡毋原は、兵馬に習熟し、山濤が「かれの才ならば辺境の任務が務まる」と称し、推挙して太尉長史とし、河南令まで昇進した。胡毋輔之は若くして高い名声をほしいままにし、人材の見定める見識があった。酒をたしなみ、気ままで小さな節度に拘らなかった。王澄・王敦・庾敳とともに太尉の王衍に親しまれ、四友と呼ばれた。王澄はかつてひとに文書を送り、「彦国(胡毋輔之)が美しい言葉を放つのは木くずを鋸でひくようなもので、ぱらぱらと飛び散って絶えない。まことに後進の指導者になるだろう」と言った。
別駕・太尉掾に辟召されたが、どちらも就かなかった。家が貧しいので、試みに繁昌令を守することを求め、はじめて酒を節制して自ら励み、とても有能であるという評判を得た。尚書郎に遷った。斉王冏(司馬冏)の討伐に参加し、陰平男の爵位を賜った。かさねて司徒左長史に転じた。また都から出ることを求め、建武将軍・楽安太守となった。郡人の光逸とともに昼夜を通じて飲みびたり、郡の政務を見なかった。成都王穎(司馬穎)が皇太弟となると、召して中庶子とし、こうして謝鯤・王澄・阮脩・王尼・畢卓とともに放漫に過ごした。
かつて河南の門下を通って酒を飲んでいると、河南の騶(馬飼い)の王子博が隣で足を投げ出して座った。胡毋輔之は(無礼を)叱って火を取れと命じた。子博は、「私は兵卒だ。職務の範囲内で働けば十分である。どうして指図を受けねばならんのか」と言った。胡毋輔之はかれと語りあい、感歎して、「私は及ばない」と言った。かれを河南尹の楽広に推薦した。楽広が召して会い、とても喜んで、抜擢して功曹とした。胡毋輔之が人物を選抜するさまはこのようであった。
東海王越(司馬越)が胡毋輔之の名を聞き、招いて従事中郎とし、また振威将軍・陳留太守に補した。王弥がその郡を通過したが、胡毋輔之は討伐できず、この失敗のために官を免じられた。ついで寧遠将軍・揚州刺史に除せられたが、着任せず、司馬越はまたかれを右司馬・本州大中正とした。司馬越が薨じると、乱を避けて長江を渡り、元帝はかれを安東将軍諮議祭酒とし、揚武将軍・湘州刺史・仮節に遷った。州に到って間もなく卒した。このとき四十九歳だった。子は謙之である。
胡毋謙之は字を子光という。才能と学問は父に及ばず、しかし放縦ぶりは父よりもひどかった。泥酔すると、つねに自分の父のあざなを呼び、(父の)輔之もまたこれを意に介さなかった。論者はかれらを気狂いとした。胡毋輔之が酒を飲んでいると、謙之は様子をうかがって声を張り上げ、「彦国(父のあざな)は年老いた、こんなこともできない。私の尻や背中を東壁に向けさせている」と言った。輔之はにっこり笑い、呼び入れて一緒に酒を飲んだ。かれの振る舞いはこのようであった。三十歳になる前に亡くなった。
畢卓字茂世、新蔡鮦陽人也。父諶、中書郎。卓少希放達、為胡毋輔之所知。太興末、為吏部郎、常飲酒廢職。比舍郎釀熟、卓因醉夜至其甕間盜飲之、為掌酒者所縛、明旦視之、乃畢吏部也、遽釋其縛。卓遂引主人宴於甕側、致醉而去。
卓嘗謂人曰、「得酒滿數百斛船、四時甘味置兩頭、右手持酒杯、左手持蟹螯、拍浮酒船中、便足了一生矣」。及過江、為溫嶠平南長史、卒官。
畢卓 字は茂世、新蔡鮦陽の人なり。父の諶、中書郎なり。卓 少くして放達を希み、胡毋輔之の知る所と為る。太興の末に、吏部郎と為り、常に酒を飲みて職を廢す。比舍の郎 釀熟するに、卓 因りて醉ひ夜に其の甕間に至りて盜みて之を飲み、酒を掌る者の縛る所と為る。明旦 之を視て、乃ち畢吏部なり。遽ち其の縛を釋く。卓 遂に主る人を引きて甕側に宴し、醉に致りて去る。
卓 嘗て人に謂ひて曰く、「酒を得て數百斛船を滿たし、四時の甘味 兩頭に置き、右手に酒杯を持ち、左手に蟹螯を持ち、酒船の中に拍浮せば、便ち一生を了ふるに足る」と。江を過るに及び、溫嶠の平南長史と為り、官に卒す。
畢卓は字を茂世といい、新蔡鮦陽の人である。父の畢諶は、中書郎である。畢卓は若くして大胆であろうとし、胡毋輔之に知られた。太興年間の末、吏部郎となり、つねに酒を飲んで職務をおざなりにした。比舎(隣の建物)の郎が酒を醸造しており、畢卓は酔っ払って夜に酒甕の部屋に忍び込んで盗み飲みをし、酒の管理者に捕縛された。翌朝に見てみると、畢吏部(吏部郎の畢卓)であった。すぐに縛めを解いた。畢卓は管理者を招いて酒甕のわきで宴会し、泥酔して帰った。
畢卓はかつて人に、「酒を手に入れて数百斛船を満たし、四季の甘味を両端に置いて、右手に酒杯を持ち、左手に蟹の足を持ち、酒船のなかで遊泳すれば、もう死んでもよい」と言った。長江を渡ってから、温嶠の平南長史となり、在官で亡くなった。
王尼字孝孫、城陽人也、或云河內人。本兵家子、寓居洛陽、卓犖不羈。初為護軍府軍士、胡毋輔之與琅邪王澄・北地傅暢・中山劉輿・潁川荀邃・河東裴遐迭屬河南功曹甄述及洛陽令曹攄、請解之。攄等以制旨所及、不敢。輔之等齎羊酒詣護軍門、門吏疏名呈護軍。護軍歎曰、「諸名士持羊酒來、將有以也」。尼時以給府養馬、輔之等入、遂坐馬廄下、與尼炙羊飲酒。醉飽而去、竟不見護軍。護軍大驚、即與尼長假、因免為兵。
東嬴公騰辟為車騎府舍人、不就。時尚書何綏奢侈過度、尼謂人曰、「綏居亂世、矜豪乃爾。將死不久」。人曰、「伯蔚聞言、必相危害」。尼曰、「伯蔚比聞我語、已死矣」。未幾、綏果為東海王越所殺。初入洛、尼詣越不拜。越問其故、尼曰、「公無宰相之能、是以不拜」。因數之、言甚切。又云、「公負尼物」。越大驚曰、「寧有是也」。尼曰、「昔楚人亡布、謂令尹盜之。今尼屋舍資財、悉為公軍人所略、尼今飢凍。是亦明公之負也」。越大笑、即賜絹五十匹。諸貴人聞、競往餉之。
洛陽陷、避亂江夏。時王澄為荊州刺史、遇之甚厚。尼早喪婦、止有一子。無居宅、惟畜露車、有牛一頭、每行、輒使子御之、暮則共宿車上。常歎曰、「滄海橫流、處處不安也」。俄而澄卒、荊土饑荒、尼不得食、乃殺牛壞車、煑肉噉之。既盡、父子俱餓死。
王尼 字は孝孫、城陽の人なり、或いは河內の人と云ふ。本は兵家の子にして、洛陽に寓居し、卓犖にして不羈なり。初め護軍府の軍士と為るに、胡毋輔之 琅邪の王澄・北地の傅暢・中山の劉輿・潁川の荀邃・河東の裴遐と與に迭々河南功曹の甄述及び洛陽令の曹攄に屬きて、之を解くことを請ふ。攄ら制旨の及ぶ所を以て、敢てせず。輔之ら羊酒を齎して護軍の門に詣り、門吏 名を疏して護軍に呈す。護軍 歎じて曰く、「諸々の名士 羊酒を持ちて來たる、將た以(ゆゑ)有るなり」と。尼 時に以て府の養馬に給し、輔之ら入るに、遂に馬廄の下に坐し、尼と與に羊を炙りて酒を飲む。醉飽して去り、竟に護軍を見ず。護軍 大いに驚き、即ち尼に長假を與へ、因りて兵為るを免ず。
東嬴公騰 辟して車騎府舍人と為すも、就かず。時に尚書の何綏 奢侈は度を過ぐ。尼 人に謂ひて曰く、「綏 亂世に居り、矜豪 乃爾なり。將に死せんとし久しからず」。人曰、「伯蔚 言を聞かば、必ず相 危害せん」と。尼曰く、「伯蔚 我が語を聞く比は、已に死せん」と。未だ幾もなく、綏 果して東海王越の殺す所と為る。初め洛に入り、尼 越に詣りて拜せず。越 其の故を問ふに、尼曰く、「公 宰相の能無し、是を以て拜せず」と。因りて之を數め、言 甚だ切なり。又 云はく、「公 尼が物を負ふ」と。越 大いに驚きて曰く、「寧ぞ是有るや」と。尼曰く、「昔 楚人 布を亡ふに、令尹 之を盜むと謂ふ〔一〕。今 尼の屋舍の資財、悉く公の軍人の略する所と為り、尼 今 飢凍す。是も亦た明公の負なり」と。越 大いに笑ひ、即ち絹五十匹を賜ふ。諸々の貴人 聞き、競ひて往きて之に餉す。
洛陽 陷し、亂を江夏に避く。時に王澄 荊州刺史と為り、之を遇すること甚だ厚し。尼 早くに婦を喪ひ、一子有るに止まる。居宅無く、惟だ露車を畜へ、牛一頭有り、行く每に、輒ち子をして之を御せしめ、暮るれば則ち共に車上に宿す。常に歎じて曰く、「滄海 橫流し、處處に安ぜざるなり」と。俄かにして澄 卒し、荊土 饑荒し、尼 食らふを得ず、乃ち牛を殺し車を壞し、肉を煑して之を噉ふ。既に盡き、父子 俱に餓死す。
〔一〕深山 @miyama__akira さまのご指摘より、『列女伝』辯通 楚江乙母が出典(翻訳者も追って確認しました。『列女伝』の翻訳には、牧角悦子『列女伝 伝説になった女性たち』明治書院、二〇〇一年があり、楚江乙母も採録されています)。
王尼は字を孝孫といい、城陽の人、あるいは河内の人であるともいう。もとは兵家の子であり、洛陽に仮住まいしたが、権謀があり才気にすぐれて非凡であった。はじめ護軍府の軍士となったが、胡毋輔之が琅邪の王澄・北地の傅暢・中山の劉輿・潁川の荀邃・河東の裴遐とともに代わる代わる河南功曹の甄述及び洛陽令の曹攄に申し入れ、王尼を(兵士の職から)解放するように求めた。曹攄らは法制の定めに従って、解放をしなかった。胡毋輔之らは羊肉と酒をもって護軍の門をおとずれ、門吏は(訪問者の)名前を一覧にして護軍に提出した。護軍は驚き嘆いて、「諸々の名士が羊と酒を持ってやって来る、理由のあることなのだろう」と言った。王尼はこのとき護軍府の馬の世話をしていたが、胡毋輔之らは入ってきて、馬小屋のもとに座り、王尼とともに羊肉を炙って酒を飲んだ。酔って腹がふくれると立ち去り、けっきょく護軍と面会しなかった。護軍は大いに驚き、すぐに王尼に長い休暇をあたえ、兵の職から解放した。
東嬴公騰(司馬騰)が辟召して車騎府舎人としたが、就かなかった。このとき尚書の何綏は奢侈が度を超えていた。王尼はひとに、「何綏は乱れた世にあって、驕傲ぶりがこれほどだ。今すぐにでも死ぬだろう」と言った。(聞かされた)ひとは、「伯蔚(何綏)がこの言葉を聞けば、きっと危害を加えるぞ」と言った。王尼は、「伯蔚が私の言葉を聞く頃には、もう(伯蔚は)死んでいるよ」と言った。ほどなく、果たして何綏は東海王越(司馬越)に殺害された。これよりさき(王尼が)洛陽に入ったとき、司馬越を訪れて挨拶をしなかった。司馬越がその理由を問うと、王尼は、「公(あなた)には宰相の能がないから、挨拶をしなかった」と言った。その場で(司馬越を)批判し、その言葉はとても厳しかった。また、「公は私に借りがある」と言った。司馬越は大いに驚いて、「まさかそれはあるまい」と言った。王尼は、「むかし楚人が布を失うと、令尹はこれを盗んだと言いました。いま私の邸宅の資財は、すべて公の軍に略奪され、私は飢えて凍えています。これもまた明公への貸しです」と言った。司馬越は大いに笑い、絹五十匹を賜わった。諸々の貴人はこれを聞き、競って赴きかれに贈り物をした。
洛陽が陥落し、戦乱を江夏に避けた。このとき王澄が荊州刺史となり、かれをとても厚遇した。王尼は早くに妻を失い、子が一人しかいなかった。住居がなく、覆いのない車と、牛一頭だけを持ち、移動するときはいつも、子に牛を御させ、日が暮れれば二人で車上で泊まった。いつも嘆じて、「滄海は広く流れているが、どこにいても落ち着かない」と言った。にわかに(刺史の)王澄が亡くなり、荊州の地が荒廃して飢えた。王尼は食べ物がなくなり、牛を殺して車を壊し(木材を燃料とし)、牛の肉を焼いて食らった。食べ尽くすと、父子ともに餓死した。
羊曼字祖延、太傅祜兄孫也。父暨、陽平太守。曼少知名、本州禮命、太傅辟、皆不就。避難渡江、元帝以為鎮東參軍、轉丞相主簿、委以機密。歷黃門侍郎・尚書吏部郎・晉陵太守、以公事免。曼任達穨縱、好飲酒。溫嶠・庾亮・阮放・桓彝同志友善、並為中興名士。時州里稱陳留阮放為宏伯、高平郗鑒為方伯、泰山胡毋輔之為達伯、濟陰卞壼為裁伯、陳留蔡謨為朗伯、阮孚為誕伯、高平劉綏為1.(秀伯)〔委伯〕、而曼為濌伯、凡八人、號兗州八伯、蓋擬古之八雋也。
王敦既與朝廷乖貳、羈錄朝士、曼為右長史。曼知敦不臣、終日酣醉、諷議而已。敦以其士望、厚加禮遇、不委以事、故得不涉其難。敦敗、代阮孚為丹楊尹。時朝士過江初拜官、相飾供饌。曼拜丹楊、客來早者得佳設、日宴則漸罄、不復及精、隨客早晚而不問貴賤。有羊固拜臨海太守、竟日皆美、雖晚至者猶獲盛饌。論者以固之豐腆、乃不如曼之真率。
蘇峻作亂、加前將軍、率文武守雲龍門。王師不振、或勸曼避峻。曼曰、「朝廷破敗、吾安所求生」。勒眾不動、為峻所害、年五十五。峻平、追贈太常。子賁嗣、少知名、尚明帝女南郡悼公主、除祕書郎、早卒。弟聃。
聃字彭祖。少不經學、時論皆鄙其凡庸。先是、兗州有八伯之號、其後更有四伯。大鴻臚陳留江泉以能食為穀伯、豫章太守史疇以大肥為笨伯、散騎郎高平張嶷以狡妄為猾伯、而聃以狼戾為瑣伯、蓋擬古之四凶。
聃初辟元帝丞相府、累遷廬陵太守。剛克粗暴、恃國戚、縱恣尤甚、睚眦之嫌輒加刑殺。疑郡人簡良等為賊、殺二百餘人、誅及嬰孩、所髠鎖復百餘。庾亮執之、歸于京都。有司奏聃罪當死、以景獻皇后是其祖姑、應八議。成帝詔曰、「此事古今所無、何八議之有。猶未忍肆之市朝、其賜命獄所」。兄子賁尚公主、自表求解婚。詔曰、「罪不相及、古今之令典也。聃雖極法、於賁何有。其特不聽離婚」。琅邪太妃山氏、聃之甥也、入殿叩頭請命。王導又啟、「聃罪不容恕、宜極重法。山太妃憂戚成疾、陛下罔極之恩、宜蒙生全之宥」。於是詔下曰、「太妃惟此一舅、發言摧咽、乃至吐血、情慮深重。朕往丁荼毒、受太妃撫育之恩、同於慈親。若不堪難忍之痛、以致頓弊、朕亦何顏以寄。今便原聃生命、以慰太妃渭陽之思」。於是除名。頃之、遇疾、恒見簡良等為祟、旬日而死。
1.中華書局本に従い、「秀伯」を「委伯」に改める。
羊曼 字は祖延、太傅祜の兄の孫なり。父の暨、陽平太守なり。曼 少くして名を知られ、本州 禮命じ、太傅 辟するも、皆 就かず。難を避けて江を渡り、元帝 以て鎮東參軍と為し、丞相主簿に轉じ、委ぬるに機密を以てす。黃門侍郎・尚書吏部郎・晉陵太守を歷し、公事を以て免ぜらる。曼 任達にして穨縱、飲酒を好む。溫嶠・庾亮・阮放・桓彝は志を同じくし友として善く、並びに中興の名士為り。時に州里 陳留の阮放を稱して宏伯と為し、高平の郗鑒を方伯と為し、泰山の胡毋輔之を達伯と為し、濟陰の卞壼を裁伯と為し、陳留の蔡謨を朗伯と為し、阮孚を誕伯と為し、高平の劉綏を委伯と為し、而して曼をば濌伯と為し、凡そ八人、兗州八伯と號し、蓋し古の八雋に擬ふるなり。
王敦 既に朝廷と乖貳し、朝士を羈錄し、曼 右長史と為る。曼 敦 不臣なるを知り、終日 酣醉し、諷議するのみ。敦 其の士望を以て、厚く禮遇を加へ、委ぬるに事を以てせず、故に其の難に涉(およ)ばざるを得たり。敦 敗れ、阮孚に代はりて丹楊尹と為る。時に朝士 江を過りて初めて官を拜し、相 飾りて饌を供す。曼 丹楊を拜するや、客 來たりて早き者は佳設を得て、日に宴すれば則ち漸く罄(むな)く、復た精に及ばず、客の早晚に隨ひて貴賤を問はず。羊固の臨海太守を拜する有るや、竟日に皆 美し、晚く至る者と雖も猶ほ盛饌を獲たり。論者 固が豐腆を以て、乃ち曼が真率に如かずと。
蘇峻 亂を作すや、前將軍を加へ、文武を率ゐて雲龍門を守らしむ。王師 振はず、或ひと曼に峻を避くるを勸む。曼曰く、「朝廷 破敗し、吾 安んぞ生を求むる所あらん」と。眾を勒して動かず、峻の害する所と為る、年五十五なり。峻 平らぎ、太常を追贈す。子の賁 嗣ぎ、少くして名を知られ、明帝の女の南郡悼公主を尚し、祕書郎に除せられ、早くに卒す。弟は聃なり。
聃 字は彭祖なり。少くして學を經せず、時論 皆 其の凡庸なるを鄙とす。是より先、兗州に八伯の號有り、其の後に更めて四伯有り。大鴻臚の陳留の江泉 能食を以て穀伯と為し、豫章太守の史疇 大肥を以て笨伯と為し、散騎郎の高平の張嶷 狡妄を以て猾伯と為し、而して聃 狼戾を以て瑣伯と為し、蓋し古の四凶に擬ふ。
聃 初め元帝の丞相府に辟せられ、廬陵太守に累遷す。剛克 粗暴にして、國戚なるを恃み、縱恣 尤も甚しく、睚眦の嫌あらば輒ち刑殺を加ふ。郡人の簡良らをば賊為ると疑ひ、二百餘人を殺し、誅は嬰孩に及び、髠鎖する所も復た百餘なり。庾亮 之を執らへ、京都に歸せしむ。有司 聃の罪は死に當せども、景獻皇后 是れ其の祖姑を以て、八議に應ずと奏す。成帝 詔して曰く、「此の事 古今に無き所、何ぞ八議 之れ有あらん。猶ほ未だ之を市朝に肆するに忍びず、其れ命を獄所に賜へ」と。兄が子の賁 公主を尚し、自ら表して婚を解かんことを求む。詔して曰く、「罪 相 及ばざるは、古今の令典なり。聃 法を極むと雖も、賁に於て何をか有あらん。其れ特に離婚を聽さず」と。琅邪太妃の山氏は、聃の甥なり、入殿し叩頭して命を請ふ。王導 又 啟すらく、「聃の罪 容恕せず、宜しく重法を極むべし。山太妃 戚を憂ひて疾と成る。陛下に罔極の恩もて、宜しく生全の宥を蒙れ」。是に於て詔下して曰く、「太妃 惟だ此の一舅なり、發言して摧咽し、乃ち吐血するに至り、情慮 深重なり。朕 往に荼毒に丁(あ)ひ、太妃の撫育の恩を受け、慈親に同じ。若し難忍の痛に堪へず、以て頓弊に致らば、朕 亦た何の顏もて以て寄らん。今 便ち聃の生命を原し、以て太妃の渭陽の思を慰めよ」と。是に於て名を除く。頃之、疾に遇ひ、恒に簡良らに祟られ、旬日にして死す。
羊曼は字を祖延といい、太傅の羊祜の兄の孫である。父の羊暨は、陽平太守である。羊曼は若くして名を知られ、出身の州で礼をもって召され、太傅も辟召したが、どちらも就かなかった。難を避けて長江を渡り、元帝は彼を鎮東参軍とし、丞相主簿に転じ、機密を委任した。黄門侍郎・尚書吏部郎・晋陵太守を歴任し、公事によって罷免された。羊曼は勝手に振る舞って放縦で、飲酒を好んだ。温嶠・庾亮・阮放・桓彝は志を同じくする親友であり、ともに中興(東晋)の名士であった。このとき州里は陳留の阮放を称して宏伯とし、高平の郗鑒を方伯とし、泰山の胡毋輔之を達伯とし、済陰の卞壼を裁伯とし、陳留の蔡謨を朗伯とし、阮孚を誕伯とし、高平の劉綏を委伯とし、そして羊曼を濌伯とし、この八人で、兗州八伯と呼称したが、上古の八雋に擬えたのであろう。
王敦が朝廷と対立し、朝士を囲い込むと、羊曼は右長史となった。羊曼は王敦が不臣であることを知り、終日泥酔し、評論して嘯くだけであった。王敦は羊曼に人士からの声望があるので、厚く礼遇するだけで、政事を委任しなかったので、その危害から免れることができた。王敦が敗れると、阮孚に代わって丹楊尹となった。このとき朝士は長江を渡って初めて官位を拝し、(赴任先で)飾り立てて饗応をした。羊曼が丹楊尹を拝すると、早く来た客には手厚いもてなしをし、日中に宴席を設けてだんだん飲食物がなくなり、美食をせず、客の到着した順序でもてなして(出身の)貴賤を問わなかった。羊固が臨海太守を拝すと、終日にわたり美食し、遅く来たものにも豪華なもてなしをした。論者は羊固の豊かな接待よりも、羊曼の飾り気のなさを優れているとした。
蘇峻が乱を起こすと、前将軍を加え、文武の官を率いて雲龍門を守らせた。天子の軍が苦戦し、あるひとは羊曼に蘇峻から逃げることを勧めた。羊曼は、「朝廷が敗北し、私はどうして命を惜しもうか」と言った。兵を統率して動かず、蘇峻に殺害され、五十五歳であった。蘇峻が平定され、太常を追贈された。子の羊賁が嗣ぎ、若くして名を知られ、明帝の娘の南郡悼公主を娶り、秘書郎に任命されたが、早くに亡くなった。弟は羊聃である。
羊聃は字を彭祖という。若くして学を修めず、当時の評論では彼を凡庸であると疎んじた。これより先、兗州に八伯の称号があり、その後に改めて四伯の称号があった。大鴻臚の陳留の江泉は大食いなので穀伯とし、豫章太守の史疇は太っているので笨伯とし、散騎郎の高平の張嶷は狡く嘘つきなので猾伯とし、そして羊聃は貪婪なので瑣伯としたが、恐らく上古(尭の時代)の四凶に擬えたものである。
羊聃ははじめ元帝の丞相府に辟召され、廬陵太守に累遷した。剛気で粗暴であり、外戚であることを頼みに、好き放題が甚だしく、ひと睨みで気に障れば刑殺を加えた。郡人の簡良らを賊であると疑い、二百人あまりを殺し、誅殺は赤子にまで及び、髪を剃られ拘留されたものも百人あまりであった。庾亮が彼を捕らえ、建業に帰還させた。担当官が羊聃は死罪に当たるが、景献皇后が彼の祖姑(舅の母)なので、(罪を減免される恩典の)八議が適応されると上奏した。成帝は詔し、「このようなことは古今に先例がなく、なぜ八議が適用されようか。ただし彼を市中に晒すのは忍びない、獄中で命令を待て」と言った。兄の子の羊賁は公主を娶っていたが、自ら上表して婚姻の解消を求めた。詔して、「(兄の子に)罪が及ばないのは、古今の規則である。羊聃は極刑に相当したが、羊賁に何の関わりがあろうか。この離婚は認めない」と言った。琅邪太妃の山氏は、羊聃のめいで、入殿し叩頭して(羊聃の)助命を求めた。王導はまた、「羊聃の罪は容認されず、重く法で裁くべきです。しかし山太妃は親族(羊聃)を憂えて病気となりました。陛下の無窮の恩で、命だけは助けて下さい」と述べた。そこで詔を下し、「太妃は彼のおばであるが、発言するとむせび泣き、吐血するほどで、とても心配している。朕はかつて苦難にあい、太妃に養育された恩があり、慈しみある親に等しい。もし忍びがたい痛みに耐えられず、(太妃が)体調を損なうなら、朕は顔向けができない。そこで羊聃の生命を助け、太妃の渭陽の思い(『毛詩』秦風、母方の親族への情)を慰めるように」と言った。こうして名を除いた。しばらくして、(羊聃は)病気になり、つねに簡良らに祟られ、十日ほどで死んだ。
光逸字孟祖、樂安人也。初為博昌小吏、縣令使逸送客、冒寒舉體凍溼、還遇令不在、逸解衣炙之、入令被中臥。令還、大怒、將加嚴罰。逸曰、「家貧衣單、沾溼無可代。若不暫溫、勢必凍死、柰何惜一被而殺一人乎。君子仁愛、必不爾也、故寢而不疑」。令奇而釋之。
後為門亭長、迎新令至京師。胡毋輔之與荀邃共詣令家、望見逸、謂邃曰、「彼似奇才」。便呼上車、與談良久、果俊器。令怪客不入、吏白與光逸語。令大怒、除逸名、斥遣之。
後舉孝廉、為州從事、棄官投輔之。輔之時為太傅越從事中郎、薦逸於越、越以門寒而不召。越後因閑宴、責輔之無所舉薦。輔之曰、「前舉光逸、公以非世家不召、非不舉也」。越即辟焉。書到郡縣、皆以為誤、審知是逸、乃備禮遣之。
尋以世難、避亂渡江、復依輔之。初至、屬輔之與謝鯤・阮放・畢卓・羊曼・桓彝・阮孚散髮裸裎、閉室酣飲已累日。逸將排戶入、守者不聽、逸便於戶外脫衣露頭於狗竇中窺之而大叫。輔之驚曰、「他人決不能爾、必我孟祖也」。遽呼入、遂與飲、不捨晝夜。時人謂之八達。元帝以逸補軍諮祭酒。中興建、為給事中、卒官。
光逸 字は孟祖、樂安の人なり。初め博昌小吏と為り、縣令 逸をして客を送らしめ、寒を冒し體を舉げて凍溼し、還るに遇々令は不在にして、逸 衣を解きて之を炙るに、令の被中に入りて臥す。令 還り、大いに怒り、將に嚴罰を加へんとす。逸曰く、「家 貧にして衣は單なり、沾溼なれば代ふる可き無し。若し暫く溫めずんば、勢として必ず凍死せん、柰何ぞ一被を惜みて一人を殺すか。君子の仁愛あらば、必ず爾かざるや、故に寢て疑はず」と。令 奇として之を釋す。
後に門亭長と為り、新令を迎へて京師に至る。胡毋輔之 荀邃と與に共に令の家に詣り、逸を望見し、邃に謂ひて曰く、「彼 奇才が似し」と。便ち呼びて車に上らしめ、與に談ずること良に久しく、果たして俊器とす。令 客の入らざるを怪しみ、吏 光逸と語ると白す。令 大いに怒り、逸の名を除き、斥けて之を遣る。
後に孝廉に舉げられ、州從事と為り、官を棄てて輔之に投ず。輔之 時に太傅越の從事中郎と為り、逸を越に薦め、越 門 寒なるを以て召さず。越 後に閑宴に因り、輔之の舉薦する所無きを責む。輔之曰く、「前に光逸を舉げ、公 世家に非ざるを以て召さず、舉げざるに非ざるなり」と。越 即ち焉を辟す。書 郡縣に到り、皆 以て誤と為し、審らかに是れ逸なるを知り、乃ち禮を備へて之を遣はす。
尋いで世難を以て、亂を避けて江を渡り、復た輔之に依る。初めて至るに、輔之 謝鯤・阮放・畢卓・羊曼・桓彝・阮孚に屬なり散髮し裸裎し、室を閉じて酣飲すること已に日を累ぬ。逸 將に戶を排して入らんとするに、守者 聽さず、逸 便ち戶外に於て脫衣し露頭もて狗竇中に於て之を窺ひて大いに叫ぶ。輔之 驚きて曰く、「他人 決して爾を能くせず、必ず我が孟祖なり」と。遽かに呼び入れ、遂に與に飲みて、晝夜を捨かず。時人 之を八達と謂ふ。元帝 逸を以て軍諮祭酒に補す。中興 建つや、給事中と為り、官に卒す。
光逸は字を孟祖といい、楽安の人である。初め博昌小吏となり、県令は光逸に客を送らせたが、寒さにさらされ全身が凍って湿り、帰還するとたまたま県令が不在なので、光逸は衣を脱いでこれを火で乾かし、県令の布団に入って横になった。県令が帰ると、大いに怒り、厳罰を加えようとした。光逸は、「わが家は貧しくて衣が一着しかなく、びしょ濡れになれば着替えがありません。もし温めなければ、凍死しかねません、どうして布団一枚を惜しんで一人を殺すのですか。君子の仁愛があれば、きっとそんなことはしません、ゆえに寝てもいいと思いました」と言った。県令は面白がって釈放した。
のちに門亭長となり、新任の県令を迎えて京師に至った。胡毋輔之が荀邃とともに県令の家を訪問し、光逸を遠くから見て、荀邃に、「彼には格別な才があるようだ」と言った。そこで呼び寄せて馬車に乗せ、長らく会話をし、果たして優秀な器質を認めた。県令は客が入って来ないことを怪しみ、吏が(客の胡毋輔之と荀邃は)光逸と話していますと報告した。県令は大いに怒り、光逸を除籍し、退けて追い出した。
のちに孝廉に挙げられ、州従事となり、官を棄てて胡毋輔之のもとに逃げ込んだ。胡毋輔之はこのとき太傅越(司馬越)の従事中郎であり、光逸を司馬越に薦めたが、司馬越は寒門の出身なので辟召しなかった。司馬越がのちに暇でくつろいだとき、胡毋輔之が人材を推挙しないことを責めた。胡毋輔之は、「前に光逸を推挙しましたが、あなたは名門でないため辟召しませんでした、推挙しないのではありません」と言った。そこで司馬越は彼を辟召した。(司馬越の)書簡が郡県に到着すると、みな誤りと考え、しかし確かに光逸宛てだと分かると、礼を備えて送り出した。
ほどなく政難があり、乱を避けて長江を渡り、またもや胡毋輔之を頼った。訪れたとき、胡毋輔之は謝鯤・阮放・畢卓・羊曼・桓彝・阮孚とともに髪を結わず裸になり、部屋を閉ざして飲んだくれて日数を重ねていた。光逸が戸を押して入ろうとすると、門番が許さず、そこで光逸は戸外で脱衣して冠をぬぎ犬のくぐる穴から覗いて大声で叫んだ。胡毋輔之は驚いて、「こんなことをするのは、わが孟祖(光逸)しかいない」と言った。すぐに呼び入れ、昼夜を通して、一緒に酒を飲んだ。当時の人は彼らを八達といった。元帝は光逸を軍諮祭酒に任命した。中興(東晋)が建国されると、給事中となり、在官で亡くなった。
史臣曰、夫學非常道、則物靡不通。理有忘言、則在情斯遣。其進也、撫俗同塵、不居名利。其退也、餐和履順、以保天真。若乃一其本原、體無為之用、分其華葉、開寓言之道、是以伯陽垂範、鳴謙置式、欲崇諸己、先下於人、猶大樂無聲、而蹌鸞斯應者也。莊生放達其旨、而馳辯無窮。棄彼榮華、則俯輕爵位、懷其道術、則顧蔑王公。舐痔兼車、鳴鳶吞腐。以茲自口、於焉翫物、殊異虛舟、有同攘臂。嵇・阮竹林之會、劉・畢芳樽之友、馳騁莊門、排登李室。若夫儀天布憲、百官從軌、經禮之外、棄而不存。是以帝堯縱許由於埃𡏖之表、光武舍子陵於潺湲之瀨、松蘿低舉、用以優賢、巖水澄華、茲焉賜隱。臣行厥志、主有嘉名。至於嵇康遺巨源之書、阮氏創先生之傳、軍諮散髮、吏部盜樽、豈以世疾名流、茲焉自垢。臨鍛竈而不迴、登廣武而長歎、則嵇琴絕響、阮氣徒存。通其旁徑、必彫風俗。召以效官、居然尸素。軌躅之外、或有可觀者焉。咸能符契情靈、各敦終始、愴神交於晚笛、或相思而動駕。史臣是以拾其遺事、附于篇云。
贊曰、老篇爰植、孔教提衡。各存其趣、道貴無名。相彼非禮、遵乎達生。秋水揚波、春雲斂映。旨酒厥德、憑虛其性。不翫斯風、誰虧王政。
史臣曰く、夫れ學 常道に非ず、則ち物 通ぜざる靡し。理 言を忘るる有り、則ち情に在り斯れ遣る。其れ進むや、俗を撫し塵に同じ、名利に居らず。其れ退くや、和に餐し順を履み、以て天真を保つ。若し乃ち其の本原を一にし、無為の用を體せば、其の華葉を分かち、寓言の道を開く。是を以て伯陽 範を垂れ、鳴謙 式を置く。諸己を崇ばんと欲し、先に人に下る、猶ほ大樂 聲無きがごとく、而して蹌鸞 斯に應ずる者なり。莊生 其の旨を放達し、而して辯を馳せ窮無し。彼の榮華を棄つれば、則ち俯して爵位を輕んじ、其の道術を懷けば、則ち顧みて王公を蔑む。痔を舐めて車に兼り〔一〕、鳶に鳴きて腐を吞む〔二〕。茲を以て自ら口にし、焉に於て物を翫(もてあそ)ぶは、虛舟に殊異し〔三〕、臂を攘するに同じ有り〔四〕。嵇・阮は竹林の會、劉・畢は芳樽の友なり。莊門に馳騁し、排して李室に登る。若し夫れ天を儀し憲を布かば、百官 軌に從ひ、經禮の外、棄てて存せず。是を以て帝堯 許由を埃𡏖の表に縱にし、光武 子陵を潺湲の瀨に舍つ〔五〕。松蘿 低舉にして、用て以て賢を優し、巖水 澄華にして、茲に焉に隱を賜ふ。臣 厥の志を行ひ、主 嘉名有り。嵇康 巨源に遺るの書、阮氏 先生の傳を創るに至りては、軍諮 髮を散じ〔六〕、吏部 樽を盜む〔七〕。豈に世に名流を疾むを以て、茲に焉に自ら垢す。鍛竈に臨みて迴らず、廣武に登りて長歎せば、則ち嵇の琴 響を絕ち、阮の氣 徒らに存す。其の旁徑に通じ、必ず風俗を彫す。召して以て官に效すも、居然として尸素せん。軌躅の外、或いは觀る可き者有らんや。咸な能く情靈を符契し、各々終始を敦くす。神交を晚笛に愴し、或いは相 思ひて駕を動かす。史臣 是を以て其の遺事を拾ひ、篇に附すと云ふと。
贊に曰く、老篇 爰に植し、孔教 衡を提す。各々其の趣に存し、道は無名を貴ぶ。彼の非禮に相ひ、達生に遵ふ。秋水 波を揚げ、春雲 映を斂む。旨酒は厥の德、憑虛は其の性なり。斯の風を翫ばずんば、誰か王政を虧かんと。
〔一〕『荘子』列禦寇の曹商の逸話が出典。
〔二〕出典を調査中。
〔三〕『荘子』列禦寇に、「汎若不繫之舟、虛而敖遨者也」とあるのを踏まえる。
〔四〕出典を調査中。
〔五〕『後漢書』列伝七十三 逸民伝。
〔六〕深山 @miyama__akira さまのご指摘より、「脫衣し露頭」し、のちに「軍諮祭酒」となった光逸を指す(翻訳者より:現代語訳の赤字部分を修正しました)。
〔七〕深山 @miyama__akira さまのご指摘より、「吏部郎」として「甕間に至りて盜みて之を飲み」をした畢卓を指す(翻訳者より:現代語訳の赤字部分を修正しました)。
史臣はいう、そもそも学問は常道ではなく、万物に通ぜぬものがない。理が言語を離れるならば、情がこれを伝える。進めば、世俗に迎合して塵に同化し、名利が失われる。退けば、調和をたたえ筋道を踏み、天性の真を保つ。もしその本源を一とし、無為の用を体現すれば、その見せかけの枝葉を分けて、寓言(寓話、もしくは荘子の篇名)の道を開く。このようにして伯陽(老子)は模範を垂れ、謙譲の徳を手本とした。己を大切にするならば、先に他人に遜るのは、すぐれた音楽に音声がないようなもので、舞い踊る鳥がこれに応じる。荘子はその教えに精通し、言葉を操って限りがなかった。かれは栄華を捨てて、俯いて爵位を軽んじ、かれが道術を抱いて、顧みて王公を蔑んだ。(権力者の)痔を舐めて車に乗り、鳶に鳴いて腐を吞んだ。これにより自ら口に入れ、物をもてあそぶことは、空船のように彷徨うことと異なり、腕まくりをするのと同じである。嵇康と阮籍は竹林に集まり、劉伶と畢卓は芳醇な酒の飲み友達であった。荘子の教えに駆けつけ、押して李(老子)の家に登る。もし彼らが天をかたどり規則を広げれば、百官はわだちに従い、経典や礼の外に、棄てて存続しない。だから帝尭は許由を巷間に解き放ち、光武帝は子陵(厳光)を水際で手放した。松蘿(敷物)は低く広げて、賢者(許由)を優遇し、厳しい水流は澄んで華やかで、そこで隠者(厳光)に賜わった。臣下がその志を行い、主君はその美名を得る。嵇康が巨源(山濤)に送った文書や、阮氏(阮籍)の書いた(大人)先生伝に至っては、軍諮(光逸)が髪を散らし、吏部(畢卓)が樽を盜むものだ。どうして世が名流を憎むので、自らを貶めたのだろうか。(嵇康が)鍛冶のかまどに臨んで(鍾会を)顧みず、(阮籍が)広武山に登って(孫登のために)長歎し、嵇康は(死刑になり)琴の響きを絶ち、阮籍は気をいたずらに消耗した。その脇道に通じ、必ず風俗を飾った。朝廷に召して官僚としても、高位でむだに俸禄を食んだだろう。(阮籍が行き止まりになった)車の軌跡の外に、あるいは見るべきものがいるのか。みなよく(天性の)情や霊に符合し、おのおの一生をやり遂げた。(向秀は)死者と交感して哀悼の笛に悲しみ、あるいは追想して(嵇康の旧宅に)馬車を向けた。史臣が彼らの事績を拾って、列伝をまとめた。
賛に、老子はここに立ち、孔子の教えが横に並んだ。それぞれに教えがあり、道家は無名を重んじる。かれらの非礼を支え、生命の本義に従う。秋の川は波をあげ、春の雲は影をおさめる。うまい酒はその徳であり、虚に依ることはその性である。この風潮を弄ばなければ、だれが王政を欠いたであろうか。