翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。
郤詵字廣基、濟陰單父人也。父晞、尚書左丞。詵博學多才、瓌偉倜儻、不拘細行、州郡禮命並不應。
泰始中、詔天下舉賢良直言之士、太守文立舉詵應選。
詔曰、「蓋太上以德撫時、易簡無文。至于三代、禮樂大備、制度彌繁。文質之變、其理何由。虞夏之際、聖明係踵、而損益不同。周道既衰、仲尼猶曰從周。因革之宜、又何殊也。聖王既沒、遺制猶存、霸者迭興而翼輔之、王道之缺、其無補乎。何陵遲之不反也。豈霸德之淺歟。期運不可致歟。且夷吾之智、而功止於霸、何哉。夫昔人之為政、革亂亡之弊、建不刊之統、移風易俗、刑措不用、豈非化之盛歟。何修而嚮茲。朕獲承祖宗之休烈、于茲七載、而人未服訓、政道罔述。以古況今、何不相逮之遠也。雖明之弗及、猶思與羣賢慮之、將何以辨所聞之疑昧、獲至論於讜言乎。加自頃戎狄內侵、災害屢作、邊甿流離、征夫苦役、豈政刑之謬、將有司非其任歟。各悉乃心、究而論之。上明古制、下切當今。朕之失德、所宜振補。其正議無隱、將敬聽之」。
詵對曰、
伏惟陛下以聖德君臨、猶垂意於博採、故招賢正之士、而臣等薄陋、不足以降大問也。是以竊有自疑之心、雖致身於闕庭、亦僶俛矣。伏讀聖策、乃知下問之旨篤焉。
臣聞上古推賢讓位、教同德一、故易簡而人化。三代世及、季末相承、故文繁而後整。虞夏之相因、而損益不同、非帝王之道異、救弊之路殊也。周當二代之流、承彫偽之極、盡禮樂之致、窮制度之理、其文詳備、仲尼因時宜而曰從周、非殊論也。臣聞聖王之化先禮樂、五霸之興勤政刑。禮樂之化深、政刑之用淺。勤之則可以小安、墮之則遂陵遲。所由之路本近、故所補之功不侔也。而齊桓失之葵丘、夷吾淪于小器、功止于霸、不亦宜乎。
策曰、「建不刊之統、移風易俗、使天下洽和、何修而嚮茲」。臣以為莫大於擇人而官之也。今之典刑、匪無一統、宰牧之才、優劣異績、或以之興、或以之替、此蓋人能弘政、非政弘人也。舍人務政、雖勤何益。臣竊觀乎古今、而考其美惡、古人相與求賢、今人相與求爵。古之官人、君責之於上、臣舉之於下、得其人有賞、失其人有罰、安得不求賢乎。今之官者、父兄營之、親戚助之、有人事則通、無人事則塞、安得不求爵乎。賢苟求達、達在修道、窮在失義、故靜以待之也。爵苟可求、得在進取、失在後時、故動以要之也。動則爭競、爭競則朋黨、朋黨則誣誷、誣誷則臧否失實、真偽相冒、主聽用惑、姦之所會也。靜則貞固、貞固則正直、正直則信讓、信讓則推賢、推賢不伐、相下無饜、主聽用察、德之所趣也。故能使之靜、雖日高枕而人自正。不能禁動、雖復夙夜、俗不一也。且人無愚智、咸慕名宦、莫不飾正於外、藏邪於內、故邪正之人難得而知也。任得其正、則眾正益至。若得其邪、則眾邪亦集。物繁其類、誰能止之。故亡國失世者、未嘗不為眾邪所積也。方其初作、必始於微、微而不絕、其終乃著。天地不能頓為寒暑、人主亦不能頓為隆替。故寒暑漸於春秋、隆替起於得失。當今之世、宦者無關梁、邪門啟矣。朝廷不責賢、正路塞矣。得失之源、何以甚此。所謂責賢、使之相舉也。所謂關梁、使之相保也。賢不舉則有咎、保不信則有罰。故古者諸侯必貢士、不貢者削、貢而不適亦削。夫士者、難知也。不適者、薄過也。不得不責、強其所不知也。罰其所不適、深其薄過、非恕也。且天子於諸侯、有不純臣之義、斯責之矣。施行之道、寧縱不濫之矣。今皆反是、何也。夫賢者天地之紀、品物之宗、其急之也、故寧濫以得之、無縱以失之也。今則不然、世之悠悠者、各自取辨耳。故其材行並不可必、於公則政事紛亂、於私則汙穢狼籍。自頃長吏特多此累、有亡命而被購懸者矣、有縛束而絞戮者矣。貪鄙竊位、不知誰升之者。獸兕出檻、不知誰可咎者。漏網吞舟、何以過此。人之於利、如蹈水火焉。前人雖敗、後人復起、如彼此無已、誰止之者。風流日競、誰憂之者。雖今聖思勞於夙夜、所使為政、恒得此屬、欲聖世化美俗平、亦俟河之清耳。若欲善之、宜創舉賢之典、峻關梁之防。其制既立、則人慎其舉而不苟、則賢者可知。知賢而試、則官得其人矣。官得其人、則事得其序。事得其序、則物得其宜。物得其宜、則生生豐植、人用資給、和樂興焉。是故寡過而遠刑、知恥以近禮、此所以建不刊之統、移風易俗、刑措而不用也。
策曰、「自頃夷狄內侵、災眚屢降、將所任非其人乎。何由而至此」。臣聞蠻夷猾夏、則臯陶作士、此欲善其末、則先其本也。夫任賢則政惠、使能則刑恕。政惠則下仰其施、刑恕則人懷其勇。施以殖其財、勇以結其心。故人居則資贍而知方、動則親上而志勇。苟思其利而除其害、以生道利之者、雖死不貳。以逸道勞之者、雖勤不怨。故其命可授、其力可竭、以戰則克、以攻則拔。是以善者慕德而安服、惡者畏懼而削迹。
止戈而武、義實在文、唯任賢然後無患耳。若夫水旱之災、自然理也。故古者三十年耕必有十年之儲、堯湯遭之而人不困、有備故也。自頃風雨雖頗不時、考之萬國、或境土相接、而豐約不同。或頃畝相連、而成敗異流、固非天之必害於人、人實不能均其勞苦。失之於人、而求之於天、則有司惰職而不勸、百姓殆業而咎時、非所以定人志、致豐年也。宜勤人事而已。
臣誠愚鄙不足以奉對聖朝、猶進之於廷者、將使取諸其懷而獻之乎、臣懼不足也。若收不知言以致知言、臣則可矣、是以辭鄙不隱也。
以對策上第、拜議郎。母憂去職。
詵母病、苦無車、及亡、不欲車載柩、家貧無以巿馬、乃於所住堂北壁外假葬、開戶、朝夕拜哭。養雞種蒜、竭其方術。喪過三年、得馬八匹、輿柩至冢、負土成墳。未畢、召為征東參軍。徙尚書郎、轉車騎從事中郎。
吏部尚書崔洪薦詵為左丞。及在職、嘗以事劾洪、洪怨詵、詵以公正距之、語在洪傳。洪聞而慚服。
累遷雍州刺史。武帝於東堂會送、問詵曰、「卿自以為何如」。詵對曰、「臣舉賢良對策、為天下第一、猶桂林之一枝、崑山之片玉」。帝笑。侍中奏免詵官、帝曰、「吾與之戲耳、不足怪也」。詵在任威嚴明斷、甚得四方聲譽。卒於官。子延登為州別駕。
郤詵 字は廣基、濟陰單父の人なり。父の晞は、尚書左丞なり。詵は博學多才、瓌偉倜儻にして、細行に拘はらず、州郡 禮もて命ずるも並びに應ぜず。
泰始中に、天下に詔して賢良直言の士を舉げしむ、太守の文立 詵を舉げて選に應ず。
詔して曰く、「蓋し太上は德を以て時を撫し、易簡にして文無し。三代に至り、禮樂 大いに備はり、制度 彌々繁し。文質の變、其の理 何にか由る。虞夏の際に、聖明 踵を係(つ)ぎて、而れども損益 同じからず。周道 既に衰ふるや、仲尼 猶ほ周に從ふと曰ふ。因革の宜は、又 何ぞ殊なるや。聖王 既に沒するも、遺制 猶ほ存し、霸者 迭々に興こりて之を翼輔するも、王道の缺、其れ補ふ無きや。何ぞ陵遲の反らざるや。豈に霸德の淺はかなりしか。期運 致る可からざるか。且つ夷吾の智なるとも、而れども功は霸なるに止まりしは、何ぞや。夫れ昔人の為政に、亂亡の弊を革め、不刊の統を建て、風を移し俗を易へ、刑 措きて用ひざるは、豈に化の盛に非ざるか。何を修めてか茲に嚮ふか。朕 祖宗の休烈を承くるを獲て、茲に于て七載にして、而れども人 未だ訓に服せず、政道 述すべき罔し。古を以て今に況るに、何ぞ相 之に逮ばざること遠きか。明なることの及ばざると雖も、猶ほ羣賢と之を慮らんことを思ひ、將た何を以て聞する所の疑昧を辨じ、至論を讜言に獲んや。加(ま)た自頃 戎狄 內侵し、災害 屢々作こり、邊甿は流離し、征夫は役に苦しむ。豈に政刑の謬り、將(は)た有司 其の任に非ざるか。各々乃(なんぢ)の心を悉(つ)くし、究めて之を論ぜよ。上は古制を明らかにし、下は當今に切にせよ。朕の失德、宜しく振補すべき所なり。其れ正議して隱す無く、將に之を敬聽せんとす」と。
詵 對へて曰く、
伏して惟ふに陛下 聖德を以て君臨し、猶ほ意を博採に垂る。故に賢正の士を招き、而して臣ら薄陋にして、以て大問を降すに足らざるなり。是を以て竊かに自疑の心有り、身を闕庭に致すと雖も、亦た僶俛せり。伏して聖策を讀みて、乃ち下問の旨 篤きことを知るなり。
臣 聞くらく上古は賢を推し位を讓り、教は同じく德は一なり。故に易簡にして人(たみ) 化す。三代の世 及び、季末に相 承ぐ。故に文は繁にして而して後に整ふ。虞夏の相 因りて、而れども損益 同じからざるは、帝王の道 異なるに非ず、救弊の路 殊なるなり。周 二代の流(すえ)に當たり、彫偽の極を承け、禮樂の致を盡くし、制度の理を窮むれば、其の文 詳備たり。仲尼 時宜に因りて周に從ふと曰ふは、殊論には非ざるなり。臣 聞くならく聖王の化は禮樂を先にし、五霸の興るや政刑に勤むと。禮樂の化は深く、政刑の用は淺し。之に勤むれば則ち以て小安なる可く、之に墮すれば則ち遂に陵遲す。由る所の路 本より近ければ、故に補ふ所の功 侔しからざるなり。而して齊桓 之を葵丘に失ひ、夷吾 小器に淪み、功は霸に止まるは、亦た宜ならざるや。
策に曰く、「不刊の統を建て、風を移し俗を易へ、天下をして洽和せしめ、何を修めて茲に嚮はん」と。臣 以為へらく人を擇びて之を官とするより大なるは莫きなり。今の典刑は、一統無きには匪ざるも、宰牧の才、優劣ありて績に異にし、或いは之を以て興り、或いは之を以て替たる。此れ蓋し人 能く政を弘むるも、政 人を弘むるに非ざるなり。人を舍いて政に務むれば、勤むと雖も何の益からん。臣 竊かに古今に觀て、而して其の美惡を考ふるに、古人 相 與に賢を求むるも、今人 相 與に爵を求む。古の人を官とするに、君は之に上に責(もと)め、臣 之を下に舉げ、其の人を得れば賞有り、其の人を失せば罰有り。安ぞ賢を求めざるを得ざるか。今の官とする者、父兄 之を營み、親戚 之を助け、人事有るときは則ち通じ、人事無きときは則ち塞ぐ。安ぞ爵を求めざるを得ざるか。賢 苟し達を求むれば、達は道を修むる在り、窮は義を失ふ在り、故に靜かに以て之を待つなり。爵 苟し求む可ければ、得は進み取る在り、失は時に後(おく)るる在り、故に動じて以て之を要(もと)むるなり。動くときは則ち爭競し、爭競せば則ち朋黨あり、朋黨あれば則ち誣誷あり、誣誷あれば則ち臧否は實を失ひ、真偽は相 冒し、主聽 用て惑ひ、姦の會する所なり。靜なるときは則ち貞固あり、貞固あれば則ち正直あり、正直あれば則ち信讓あり、信讓あれば則ち賢を推すあり、賢を推して伐せざれば、相 下りて饜くこと無く、主聽 用て察し、德の趣く所なり。故に之を靜かならしむ能はば、日に枕を高くすと雖も而れども人 自ら正し。動くを禁ずる能はざれば、復た夙夜にすと雖も、俗 一ならざるなり。且つ人 愚智と無く、咸 名宦を慕ひ、正を外に飾り、邪を內に藏さざる莫くく、故に邪正の人 得て知り難きなり。任 其の正を得れば、則ち眾正 益々至らん。若し其の邪を得れば、則ち眾邪 亦た集はん。物 其の類を繁くすれば、誰ぞ能く之を止むるか。故に國を亡ひ世を失ふ者は、未だ嘗て眾邪 積する所と為らざるなり。其の初めて作るに方りて、必ず微より始まり、微なるも絕えず、其の終は乃ち著はなり。天地 寒暑と為るを頓する能はず、人主も亦た隆替と為るを頓する能はず。故に寒暑 春秋に漸し、隆替は得失に起こる。當今の世、宦となる者は關梁無く、邪門 啟けり。朝廷 賢を責めず、正路 塞がる。得失の源は、何を以て此より甚しきか。謂ふ所の賢を責むとは、之をして相 舉げしむなり。謂ふ所の關梁とは、之をして相 保とするなり。賢 舉げざれば則ち咎有り、保ちて信ぜざれば則ち罰有り。故に古者の諸侯 必ず士を貢すに、貢さざれば削り、貢して不適なれば亦た削る。夫れ士たる者は、知り難きなり。不適なる者は、薄き過なり。得ずんば責めず、其の知らざる所を強(し)ふ。其の不適なる所を罰するは、其の薄き過を深くし、恕に非ざるなり。且つ天子の諸侯に於けるや、純臣ならざるの義有れば、斯に之を責む。施行の道は、寧ろ縱にすとも之を濫にせず。今 皆 是に反するは、何ぞや。夫れ賢者は天地の紀、品物の宗にして、其の之を急にするなり。故に寧ろ濫にして以て之を得るとも、縱に以て之を失ふこと無きや。今 則ち然らず、世の悠悠たる者、各々自ら辨(そな)ふるを取るのみ。故に其の材行 並びに必とす可からず、公に於ては則ち政事 紛亂たりて、私に於ては則ち汙穢狼籍なり。自頃 長吏 特に此の累多く、亡命して購懸せらる者有り、縛束して絞戮せらる者有り。貪鄙にして位を竊み、誰か之に升す者かを知らず。獸兕 檻を出で、誰か咎む可き者かを知らず。網も吞舟を漏らし、何を以て此を過とせん。人の利に於けるや、水火を蹈むが如し。前人 敗ると雖も、後人 復た起ち、彼此 已む無きが如く、誰か之を止むる者か。風流 日々競ひ、誰か之を憂ふ者か。今 聖思 夙夜に勞し、為政せしむる所と雖も、恒に此の屬を得て、聖世の化美に俗 平なるを欲し、亦た河の清かるを俟つのみ。若し之を善くせんと欲さば、宜しく舉賢の典を創り、關梁の防を峻しくすべし。其の制 既に立たば、則ち人 其の舉を慎みて苟にせず。則ち賢者 知る可し。賢を知らば而して試さば、則ち官 其の人を得るなり。官 其の人を得ねば、則ち事 其の序を得ん。事 其の序を得れば、則ち物 其の宜を得ん。物 其の宜を得ねば、則ち生生 豐植し、人 用て資給し、和樂 焉に興らん。是の故に過を寡なくして刑を遠ざけ、恥を知りて以て禮を近くす。此れ不刊の統を建て、風を移し俗を易へ、刑 措きて用ひざる所以なり。
策に曰く、「自頃 夷狄 內に侵し、災眚 屢々降る。將た任ずる所 其の人に非ざるか。何に由りて此に至る」と。臣 聞くらく蠻夷 夏を猾するときは、則ち臯陶 士と作ると。此れ其の末を善くせんと欲するときは、則ち其の本を先とするなり。夫れ賢を任ずれば則ち政は惠あり、能を使へば則ち刑は恕たり。政 惠あれば則ち下は其の施を仰ぎ、刑 恕たれば則ち人は其の勇を懷く。施して以て其の財を殖し、勇にして以て其の心を結ぶ。故に人 居るときは則ち資 贍なりて方を知り、動くときは則ち上に親みて勇に志す。苟し其の利を思ひて其の害を除かば、生道を以て之を利する者には、死すと雖も貳あらず。逸道を以て之を勞する者には、勤むと雖も怨みず。故に其の命 授く可く、其の力 竭す可く、以て戰ふときは則ち克ち、以て攻むるときは則ち拔く。是を以て善き者は德を慕ひて安服し、惡き者は畏懼して迹を削る。
戈を止めて而て武なるは、義の實は文に在り、唯だ賢を任じて然る後に患ひ無きのみ。夫の水旱の災が若きは、自然の理なり。故に古者に三十年 耕さば必ず十年の儲有り。堯湯 之に遭ふも而れども人は困せざるは、備へ有るが故なり。自頃 風雨 頗る不時なると雖も、之を萬國に考ふるに、或いは境土 相 接するも、而れども豐約 同じからず。或いは頃畝 相 連なるも、而れども成敗 流を異にす。固に天の必ず人を害あるには非ず、人 實に其の勞苦を均しくする能はざればなり。之を人に失ふも、而れども之を天に求むれば、則ち有司 職を惰して勸めず、百姓 業を殆くして時を咎むるは、人の志を定めて、豐年を致す所以に非ざるなり。宜しく人事に勤むべきのみ。
臣 誠に愚鄙にして以て聖朝に奉對するに足らざるに、猶ほ之を廷に進むるは、將に諸々の其の懷くを取りて而して之を獻ずるも、臣 足らざるを懼るなり。若し不知の言を收て以て知言と致せらるれば、臣 則ち可なり、是を以て辭鄙 隱さざるなりと。
對策を以て第に上り、議郎を拜す。母の憂もて職を去る。
詵の母 病み、車無きに苦しむ。亡するに及び、車に柩を載するを欲せず、家 貧ければ以て馬を巿ふ無く、乃ち住む所の堂の北壁の外に於て假に葬り、戶を開くや、朝夕に拜哭す。雞を養ひ蒜を種え、其の方術を竭す。喪 三年を過ぎ、馬八匹を得て、柩を輿して冢に至り、土を負ひて墳を成す。未だ畢はらざるに、召せられて征東參軍と為る。尚書郎に徙り、車騎從事中郎に轉ず。
吏部尚書の崔洪 詵を薦めて左丞と為す。職に在るに及び、嘗て事を以て洪を劾し、洪 詵を怨む。詵 公正を以て之を距む、語は洪傳に在り。洪 聞きて慚服す。
累りに雍州刺史に遷る。武帝 東堂に於て會して送り、詵に問ひて曰く、「卿 自ら以為へらく何如と」。詵 對へて曰く、「臣が賢良を舉ぐるの對策、天下第一と為るも、猶ほ桂林の一枝、崑山の片玉なるのみ」と。帝 笑ふ。侍中 詵の官を免ずるを奏するに、帝曰く、「吾 之と戲むるるのみ、怪しむに足らざるなり」と。詵 任に在りて威嚴にして明斷、甚だ四方の聲譽を得たり。官に卒す。子の延登 州別駕と為る。
郤詵は字を広基といい、濟陰単父の人である。父の郤晞は、尚書左丞である。郤詵は博学で才能が多く、優れて偉大で抜群であり、細かな行動に拘らず、州郡が礼によって召命したがいずれも応じなかった。
泰始年間に、天下に詔して賢良直言の士を挙げさせ、太守の文立は郤詵を推薦してこれに応じた。
詔して、「思うに太古の帝王は徳によって時々の政治を整え、簡素であり煩雑さがなかった。三代に至り、礼学が十分に整備されると、制度がだんだんと煩雑になった。簡素さと複雑さの変化は、どのような理に基づくのか。虞夏(舜禹)のとき、聖明な君主が交替し、(制度が)増減して同じではなかった。周王国の道が衰えたが、仲尼(孔子)はそれでも周に従うと言った。変化するべきか否かは、どうして場合により異なったのか。聖王がすでに没しても、その制度は依然として残り、(一方で)霸者が代わる代わる勃興して(周王を)輔翼したが、(周の)王道の欠落を、なぜ補うことがなく、衰退を復元しなかったのか。これは覇王の徳が浅はかであったためか、時節が巡り遭わなかったためか。また夷吾(管仲)は智者であったが、功績が(君主の斉の桓公を)覇王にすることに留まったのは、なぜであったのか。さて昔の人の為政では、乱れ失われたことの弊害を改め、不磨の教えを立て、良俗を浸透させ、刑罰を中止したのは、教化の盛んなものではなかったか。どのようにすれば古人に準拠できるのか。朕は祖先から君位を継承し、即位して七年が経つが、まだ教化に従わない人々がおり、めぼしい治績が上がっていない。古い時代と今日とを比べると、なんと遠く及ばないことか。(君主の)聡明さが及ばずとも、賢者たちに意見を求めたいと思う。上聞されたことの疑問点について話し合い、公平な議論を実現させたいものだ。しかも近年は戎狄が国内に侵入し、災害がしばしば発生し、辺境の人々は流離し、兵士や人夫は苦しんでいる。いったい政治や刑罰を誤ったのか、あるいは担当官が不適任であるのか。臣下たちは心を尽くして、しっかり議論するように。遡っては古代の制度をあきらかにし、下っては現在の問題に取り組むように。朕の徳が至らない点を、補ってほしい。本心で議論して隠すことがないように、謹んで耳を傾けよう」と言った。
郤詵は対(こた)えて、
「私が思いますに陛下は聖徳によって君臨され、さらに広く意見を募っておられます。賢正の士をお招きになりましたが、私は卑賤の身ですから、偉大なるご下問に応じる資格はございません。そこで不安な心を抱き、身を宮廷に置きながら、精勤しておりました。聖なる策文を読み、強く意見をお求めであると知りました。
私が聞きますに古代は賢者を推薦して位を禅譲し、教えは同じで徳も同一でした。ゆえに簡素な政治により民を教化できました。三代の世になり、(古代の本来の)教えが後世へと継承されました。ゆえに法制は煩雑となり後に整備されたのです。虞夏(舜禹)が前代を踏まえながら、制度が増減して同じでなかったのは、帝王の道が異なるのではなく、困窮したものを救済する方法が異なっただけです。周王朝は二代の末にあたり、極限にまで乱れ歪んだ状況で、礼楽の整備に尽力し、制度の筋道を通したので、その文は詳しく入念なものとなりました。仲尼(孔子)が生きた時代に周に従うと言ったのは、特段に別の考えに基づくものではありません。私が聞きますに聖王の教化とは礼楽を先にしましたが、(春秋の)五霸が勃興すると政治や刑罰に努めたそうです。礼楽による教化は奥深く、政治や刑罰による統制は浅く表面的です。政治や刑罰に努めればかりそめの安定はしますが、(刑罰らに)頼り過ぎると荒廃し衰退します。(基本方針が違えば)依拠した方法が近くとも、補佐の功績が等しくなりません。ですから斉の桓公は(徳を)葵丘で失い、夷吾(管仲)は小人物に沈み、(桓公の)功績が覇王となるに留まったのは、十分に理由のあることです。
(陛下の)策文に、「不磨の教えを立て、良俗を浸透させ、天下を和合させるため、どのようにすれば古人に準拠できるのか」とありました。私が思いますに人材を選んで官僚にするよりも重大なことはありません。今日の政治や刑罰の運用は、統一した方針が無いわけではありませんが、宰相や州牧の才能に、優劣があって治績がばらつき、ある部分は栄え、ある部分は廃れてします。このことは人材が政治を広めることがあるが、政治が人材を引き上げないことを示します。人材(登用)を優先せずに政治に励んでも、努力したところで効果が出るでしょうか。私なりの古今を観察し、成功と失敗の例を考えますに、古代の人は賢者を求めあい、現代の人は爵位を求めあっています。古代は人を官僚にするとき、君主は上位者に賢者を挙げるように要請し、臣下は下位者を推薦し、適性のある人材を得れば褒賞され、適性のない人材を得れば処罰されました。これならばどうして賢者を求めないことがありましょうか。(ところが)今日に官僚となったものは、父兄に配慮し、親族を推薦しあい、自分の都合がいいときは推薦し、都合が悪いときは推薦しません。これならばどうして爵位を求めないことがありましょうか。もし賢者が昇進を求めるなら、道を修めることが大切で、出世が閉ざされるのは義を失ったからであるため、ゆえに静かに(道と義を養って昇進を)待ちました。爵位を求めるならば、積極的に動けば(爵位を)得られ、時流に乗り遅れれば得られず、ゆえに動き回って求めるのです。(今日のように)動き回れば競争が激化し、競争をすれば朋党が生まれ(派閥を形成し)、朋党が生ずれば讒言が行われ、讒言が行われれば評価は実態から乖離し、真偽が入り乱れ、君主への報告は事実を伝えず、姦悪なものが群れ集まります。(古代のように)静かにしていれば正しく安定し、安定すれば人々は正直となり、正直になれば譲り合いをし、賢者の推薦が行われ、賢者を攻撃しなければ、足を引っ張りあうことがなく、君主は実情を把握でき、徳政が実現されます。ですから(古代のように)官僚を静かに落ち着かせることができなければ、安眠し手をこまねいていても人材は自然と正しく振る舞います。(今日のように)官僚が動き回るのを抑制できなければ、睡眠を削って働いても、風俗は統一されません。人材たちは賢者も愚者も区別なく、みな官爵を高めることに執着し、外には正義を飾りつけ、内には邪悪な心を隠さないものがなく、正邪を判定することが難しくなります。正しい人材を任命できれば、正しい人々がますます集まるでしょう。邪悪な人材を任命すれば、邪悪な人々がますます集まるでしょう。同類がますます集中すれば、その傾向を制止できません。ゆえに国家を失い滅びたものは、邪悪な人材を群れ集めてしまったものです。すべての国家は、もれなく微弱な勢力から始まり、微弱であっても途絶えず、その過程で拡大しています。天地が気温の変化を止めることができないように、君主もまた国家の隆盛と衰退を制御できません。気温の変化は季節の変遷により、隆盛と衰退は(政治の)得失により起こります。現在の世は、人材登用に(適切な)関所と橋梁がなく、邪悪な人に門戸を開いています。朝廷は賢者を求めず、正しい人材は道が塞がれています。(国家の衰退を招く)得失の原因で、これより重篤なことはあるでしょうか。賢者を求めるというのは、たがいに推挙させることです。関所と橋梁とは、たがいに保証して請け合うことです。賢者を推挙しなければ咎められ、請け合った人材が不適任ならば罰せられます。ゆえに古代の諸侯が人士を推薦するとき、推薦しなければ(爵位を)削られ、推薦したが不適任であっても(爵位を)削られました。そもそも人材というのは(賢者であるか否かを)知りがたいものです。不適任なものを推薦するのは、軽い過失です。(過失を)責めざるを得ないのは、彼らが(人材を)理解していないことを強調するためです。(しかし)不適任であった場合に処罰すれば、軽いはずの過失に重い罰を課することとなり、厳しすぎます。まして天子は諸侯に対し、純粋な忠臣としての務めがないときに、はじめてこれを追及しました。刑罰の実施は、意のままであっても濫用すべきではありません。今日において全般が(正しいあり方から)乖離しているのは、なぜでしょうか。そもそも賢者は天地の道であり、万物の根本ですから、尊重されます。賢者の獲得に積極的すぎることはあっても、立ち去るがままにさせてはいけません。今日はそうではなく、当世は平凡で手持ちぶさたの人が、自薦しているだけです。ゆえに才能や行動は頼りにならず、公において政治が紛々と乱れ、私において意地きたなく乱雑です。近年は長吏(地方長官)はとくにこの弊害が大きく、(悪政を嫌って)亡命し懸賞金を掛けられるものや、捕縛され絞首刑になるものがいます。強欲にして地位を盗み、(保証人がおらず)だれが昇進させた人材か分かりません。凶悪な獣が檻から出ても、誰の責任であるか分かりません。(刑罰の)網が粗すぎて巨悪を見逃しても、だれの過失であったのか分かりません。(長吏が不適任なので)民の生活にとって、水火を踏むも同然です。前任者が失脚しても、後任がまた赴任し、着任者は等しく悪政をおこないますが、誰が制止するのでしょうか。日ごとに私利の追及が激しくなりますが、誰が憂慮しておりますか。いま陛下は朝晩に苦労なさり、政治に取り組んでいますが、この教化が地方にも行き渡り、黄河が清くなるのを待つだけです。もし状況を改善するならば、賢者を推挙する法制を整備し、関梁の防を険しく(推薦者の責任を明確に)すべきです。法制が整備されれば、人は推挙を慎重にするでしょう。賢者を探し当てられます。賢者を探し当てられれば、官位に適任者が就きます。適任者が就けば、政治は秩序を得るでしょう。秩序を得れば、万物が適正化されます。万物が適正化されれば、万民は耕作に成功し、備蓄ができるようになり、和らぎ楽しむ世が興るでしょう。さすれば犯罪が減って刑罰を遠ざけ、恥を知って礼を近づけることとなります。これが不磨の教えを立て、良俗を浸透させ、刑罰を停止させられる方法です。
(陛下の)策文に、「近年は戎狄が国内に侵入し、災害がしばしば発生した。担当官が不適任であるのか。なぜこうなったのか」とありました。私が聞きますに蛮夷が中夏を乱すと、皋陶(舜の臣)が士となりました(『孟子』尽心章句上)。これは末端を改善したければ、まず根本から正すべきであるという教訓です。賢者を任用すれば政治に恵みが生じ、有能なものを使えば刑罰は緩みます。政治に恵みがあれば民は施しを頼り、刑罰が緩やかならば民は勇気を持ちます。施しにより財産を増やし、勇気を持って団結します。ゆえに民は十分な資産があれば行いが正しく、行動するときは国家のために勇気を奮います。民に利を与えて害を除き、生きる道を与えてやれば、死んでも二心を抱きません。安逸によって労ってやれば、苦労しても怨みません。ゆえに命令を下すことができ、力を尽くさせることができ、戦えば必ず勝利でき、攻めれば必ず突破できます。こうして善人は(国家の)徳を慕って安んじて服従し、悪人は畏懼して勢力を削ります。
『戈』を『止』めると『武』となるのは、意味の実態が文字となっていますが、賢者を任命さえすれば憂患がなくなるものです。水害や干害のようなものは、自然の理です。ゆえに古代は耕作を三十年すれば十年分の備蓄ができました。尭や湯王のとき水害や干害にあっても民が困窮しなかったのは、備蓄があったためです。近頃は風雨は異常気象でありますが、これを天下全体で考えますと、領域が互いに接していても、収穫量は同じではありません。あるいは耕地が隣接していても、収穫の成否は異なります。まことに天は必ずしも人を傷つけるものではなく、(飢饉は)人が労苦を等しく配分できていないだけです。人の失敗の原因を、天に求めるのならば、担当官は職務怠慢となり、万民は生業を脅かされます。これは人民の志を安定させ、豊作に導く方法ではありません。(天に原因を求めず)人が職務に励むべきです。
私は愚昧でありまして朝廷に意見具申する価値はありませんが、それでも提出しましたのは、考えを求められたからであり、不足点がないかと懼れています。浅はかな考えでも十分として頂けるならば、まだ救いがあり、賤しい言葉でも包み隠しませんでした」といった。
この対策が上第(優秀である)と認められ、議郎を拝した。母の病気により職を去った。
郤詵の母が病気になり、車がないことに困った。亡くなると、車に柩を載せたくないと考え、家が貧しいので馬を買う資金がなく、住んでいる堂の北側の壁にかりに葬り、戸を開くたびに、朝夕に拝哭した。鶏を飼って蒜を植え、喪礼を尽くした。服喪が三年を過ぎると、馬八匹を手に入れて、柩を運んで塚に運び、土を背負って墳を作った。作り終える前に、徴召されて征東参軍となった。尚書郎に移り、車騎従事中郎に転じた。
吏部尚書の崔洪が郤詵を推薦して左丞とした。官職に就いたが、事案によって崔洪を弾劾したため、崔洪は郤詵を怨んだことがあった。郤詵は公正さによってこれに対抗したことは、崔洪伝に記述がある。崔洪はこれを聞いて恥じて感服した。
しきりに雍州刺史に遷った。武帝は東堂で酒宴を開いてから見送り、郤詵に、「きみの自己評価はどのようなものか」と聞いた。郤詵は答えて、「私の賢良の推挙についての対策は、天下第一とされましたが、せいぜい桂林の一枝、崑山の片玉のようなものに過ぎません」と言った。武帝は笑った。侍中が(無礼であるとして)郤詵の罷免について上奏すると、武帝は笑って、「私に冗談を言っただけだ。気にしなくてよい」と言った。郤詵は任務にあって威厳があって決断力があり、四方から声望を得た。在官で亡くなった。子の郤延登は州別駕となった。
阮种字德猷、陳留尉氏人、漢侍中胥卿八世孫也。弱冠有殊操、為嵇康所重。康著養生論、所稱阮生、即种也。察孝廉、為公府掾。
是時西虜內侵、災眚屢見、百姓饑饉、詔三公・卿尹・常伯・牧守各舉賢良方正直言之士。於是太保何曾舉种賢良。
策曰、「在昔哲王、承天之序、光宅宇宙、咸用規矩乾坤、惠康品類、休風流衍、彌于千載。朕應踐洪運統位、七載於今矣。惟德弗嗣、不明于政、宵興惕厲、未燭厥猷。子大夫韞韥道術、儼然而進、朕甚嘉焉。其各悉乃心、以闡喻朕志、深陳王道之本、勿有所隱、朕虛心以覽焉」。种對曰、「夫天地設位、聖人成能、王道至深、所以行化至遠。故能開物成務、而功業不匱、近無不聽、遠無不服、德逮羣生、澤被區宇、聲施無窮、而典垂百代。故經曰、『聖人久於其道、而天下化成。』宜師蹤往代、襲迹三五、矯世更俗、以從人望。令率士遷義、下知所適、播醇美之化、杜邪枉之路、斯誠羣黎之所欣想盛德而幸望休風也」。
又 政刑不宣、禮樂不立。對曰、「政刑之宣、故由乎禮樂之用。昔之明王、唯此之務、所以防遏暴慢、感動心術、制節生靈、而陶化萬姓也。禮以體德、樂以詠功、樂本於和、而禮師於敬矣」。
又問戎蠻猾夏。對曰、「戎蠻猾夏、侵敗王略、雖古盛世、猶有此虞。故詩稱『獫狁孔熾』、書歎『蠻夷帥服』。自魏氏以來、夷虜內附、鮮有桀悍侵漁之患。由是邊守遂怠、鄣塞不設。而今醜虜內居、與百姓雜處、邊吏擾習、人又忘戰。受方任者、又非其材、或以狙詐、侵侮邊夷。或干賞啗利、妄加討戮。夫以微羈而御悍馬、又乃操以煩策、其不制者、固其理也。是以羣醜蕩駭、緣間而動。雖三州覆敗、牧守不反、此非胡虜之甚勁、蓋用之者過也。臣聞王者之伐、有征無戰、懷遠以德、不聞以兵。夫兵凶器、而戰危事也。丘興則傷農、眾集則費積。農傷則人匱、積費則國虛。昔漢武之世、承文帝之業、資海內之富、役其材臣、以甘心匈奴、競戰勝之功、貪攻取之利、良將勁卒、屈於沙漠、勝敗相若、克不過當、夭百姓之命、填餓狼之口。及其以眾制寡、令匈奴遠迹、收功祁連、飲馬瀚海、天下之秏、已過太半矣。夫虛中國以事夷狄、誠非計之得者也。是以盜賊蜂起、山東不振。暨宣元之時、趙充國征西零、馮奉世征南羌、皆兵不血刃、摧抑強暴、擒其首惡、此則折衝厭難、勝敗相辨、中世之明效也」。
又問咎徵作見。對曰、「陰陽否泰、六沴之災、則人主修政以禦之、思患而防之、建皇極之首、詳庶徵之用。詩曰『敬之敬之、天惟顯思』、天聰明自我人聰明、是以人主祖承天命、日慎一日也。故能應受多福而永世克祚、此先王之所以退災消眚也」。
又問經化之務。對曰、「夫王道之本、經國之務、必先之以禮義、而致人於廉恥。禮義立、則君子軌道而讓於善。廉恥立、則小人謹行而不淫於制度。賞以勸其能、威以懲其廢。此先王所以保乂定功、化洽黎元、而勳業長世也。故上有克讓之風、則下有不爭之俗。朝有矜節之士、則野無貪冒之人。夫廉恥之於政、猶樹藝之有豐壤、良歲之有膏澤、其生物必油然茂矣。若廉恥不存、而惟刑是御、則風俗彫弊、人失其性、錐刀之末、皆有爭心、雖峻刑嚴辟、猶不勝矣。其於政也、如農者之殖磽野、旱年之望豐穡、必不幾矣。此三代所以享德長久、風醇俗美、皆數百年保天之祿。而秦二世而弊者、蓋其所由之塗殊也」。
又問、「將使武成七德、文濟九功、何路而臻于茲。凡厥庶事、曷後曷先」。對曰、「夫文武經德、所以成功丕業、咸熙庶績者、莫先於選建明哲、授方任能。令才當其官而功稱其職、則萬機咸理、庶僚不曠。書曰、『天工人其代之。』然則繼天理物、寧國安家、非賢無以成也。夫賢才之畜於國、由良工之須利器、巧匠之待繩墨也。器用利、則斵削易而材不病。繩墨設、則曲直正而眾形得矣。是以人主必勤求賢、而佚以任之也。賢臣之於主、進則忠國愛人、退則砥節潔志、營職不干私義、出心必由公塗、明度量以呈其能、審經制以效其功。此昔之聖王所以恭己南面而化於陶鈞之上者、以其所任之賢與所賢之信也。方今海內之士皆傾望休光、希心紫極、唯明主之所趣舍。若開四聰之聽、廣疇咨之求、抽羣英、延俊乂、考工授職、呈能制官、朝無素餐之士、如此化流罔極、樹功不朽矣」。
時种與郤詵及東平王康俱居上第、即除尚書郎。然毀譽之徒、或言對者因緣假託、帝乃更延羣士、庭以問之。詔曰、「前者對策、各指答所問、未盡子大夫所欲言、故復延見、其具陳所懷。又比年連有水旱災眚、雖戰戰兢兢、未能究天人之理、當何修以應其變。人遇水旱饑饉者、何以救之。中間多事、未得寧靜、思以省息煩務、令百姓不失其所。若人有所患苦者、有宜損益、使公私兩濟者、委曲陳之。又政在得人、而知之至難、唯有因人視聽耳。若有文武隱逸之士、各舉所知、雖幽賤負俗、勿有所限。故虛心思聞事實、勿務華辭、莫有所諱也」。
种對曰、「伏惟陛下以聖哲玄覽、降卹黎蒸、將濟元元、同之三代、旁求俊乂、以輔至化、此誠堯舜之用心也。臣猥以頑魯之質、應清明之舉、前者對策、不足以疇塞聖詔、所陳不究、臣誠蒙昧、所以為罪。臣聞天生蒸庶、樹君以司牧之、人君道洽、則彝倫攸序、五福來備。若政有愆失、刑理頗僻、則庶徵不應、而淫亢為災。此則天人之理、而興廢之由也。昔之聖王、政道備而制先具、軌人以務、致之於本、是以雖有水旱之眚、而無饑饉之患也。自頃陰陽隔并、水旱為災、亦猶期運之致。不然、則亦有司之不帥、不能宣承聖德、以贊揚大化、故和氣未降而人事未敘也。方今百姓凋弊、公私無儲、誠在於休役靜人、勸嗇務分、此其救也。人之所患、由於役煩網密而信道未孚也。役煩則百姓失業、網密則下背其誠、信道未孚則人無固志。此則損益之至務、安危之大端也。傳曰、『始與善、善進、則不善蔑由至。』孔子曰、『視其所以、觀其所由、人焉廋哉。』若夫文武隱逸之士、幽賤負俗之才、故非愚臣之所能識。謹竭愚以對」。
策奏、帝親覽焉、又擢為第一。轉中書郎。進止有方、正己率下、朝廷咸憚其威容。每為駁議、事皆施用、遂為楷則。
遷平原相。時襄邑衞京自南陽太守遷于河內、與种俱拜、帝望而歎曰、「二千石皆若此、朕何憂乎」。种為政簡惠、百姓稱之、卒于郡。
阮种 字は德猷、陳留尉氏の人にして、漢の侍中の胥卿が八世孫なり。弱冠にして殊操有り、嵇康の重んずる所と為。康 養生論を著はし、稱する所の阮生とは、即ち种なり。孝廉に察せられ、公府掾と為る。
是の時 西虜 內侵し、災眚 屢々見はれ、百姓 饑饉す。三公・卿尹・常伯・牧守に詔して各々賢良方正直言の士を舉げしむ。是に於て太保の何曾 种を賢良に舉ぐ。
策に曰く、「在昔の哲王は、天の序を承けて、宇宙に光宅す。咸 用て乾坤に規矩し、品類を惠康す。休風 流衍し、千載に彌(わた)る。朕 洪運に應踐して位を統べ、今に於て七載なり。惟ふに德は嗣ぐ弗く、政に明ならず、宵に興き惕厲するも、未だ厥の猷を燭さず。子大夫は道術を韞韥して、儼然として進めよ。朕 甚だ焉を嘉せん。其れ各々乃(なんぢ)の心を悉(つ)くし、以て朕が志を闡喻し、深く王道の本を陳べ、隱す所有る勿れ。朕 虛心に以て焉を覽ぜん」と。种 對へて曰く、「夫れ天地 位を設け、聖人 能を成すは、王道の至深にして、化を至遠に行ふ所以なり。故に能く物を開き務を成し、而して功業 匱(とぼし)からず、近くは聽かざる無く、遠くは服せざる無し。德は羣生に逮び、澤は區宇を被ひ、聲は無窮に施し、而して典は百代に垂る。故に經に曰く、『聖人 其の道に久しくして、而して天下 化成す』と〔一〕。宜しく師として往代を蹤み、迹を三五に襲ひ、世を矯し俗を更め、以て人が望に從へ。率士をして義に遷らしめ、下をして適く所を知らしめよ。醇美の化を播し、邪枉の路を杜げ。斯れ誠に羣黎の盛德を欣想して而して休風を幸望する所なり」と。
又 政刑 宣ならず、禮樂 立たず。對して曰く、「政刑の宣は、故に禮樂の用に由るか。昔の明王、唯だ此れを務むるは、暴慢を防遏し、心術を感動し、生靈を制節し、而して萬姓を陶化する所以なり。禮は以て德を體し、樂は以て功を詠し、樂は和に本づきて、而して禮は敬に師(のつと)る」と。
又 戎蠻 夏を猾するを問ふ。對へて曰く、「戎蠻 夏を猾し、王略を侵敗す。古の盛世と雖も、猶ほ此の虞れ有り。故に詩は『獫狁 孔だ熾んなり』と稱し〔二〕、書は『蠻夷帥服』と歎ず〔三〕。魏氏より以來、夷虜 內附し、桀悍侵漁の患有ること鮮し。是に由り邊守 遂に怠り、鄣塞 設けず。而れども今 醜虜 內居し、百姓と雜處す。邊吏 擾習し、人 又 戰を忘る。方任を受くる者は、又 其の材に非ず、或いは狙詐を以て、邊夷を侵し侮る。或いは賞を干して利を啗し、妄りに討戮を加ふ。夫れ微羈を以て悍馬を御すは、又 乃ち操るに煩策を以てし、其の制せざるは、固より其れ理なり。是を以て羣醜 蕩駭し、間に緣りて動ず。三州 覆敗し、牧守 反らざると雖も、此れ胡虜の甚だ勁きに非ず、蓋し之を用ふる者の過(とが)なり。臣 聞くらく王者の伐とは、征有りて戰無く、遠きを懷けるに德を以てす、兵を以てするを聞かず。夫れ兵は凶器なり、而して戰ひは危事なり。丘 興さば則ち農を傷つけ、眾 集むれば則ち費 積む。農 傷つければ則ち人 匱(とぼ)しく、費を積めば則ち國は虛なり。昔 漢武の世に、文帝の業を承け、海內の富を資し、其の材臣を役し、以て匈奴に甘心し、戰勝の功を競ひ、攻取の利を貪る。良將勁卒、沙漠に屈し、勝敗 相 若り、克つも當たるに過ぎず、百姓の命を夭し、餓狼の口に填(つ)む。其れ眾を以て寡を制するに及び、匈奴をして迹を遠からしむ。功を祁連に收め、馬を瀚海に飲ましむるに、天下の秏、已に太半を過ぐ。夫れ中國を虛しくして以て夷狄を事とするは、誠に計の得なる者に非ざるなり也。是を以て盜賊 蜂起し、山東 振はず。宣元の時に暨び、趙充國 西零を征し、馮奉世 南羌を征し、皆 兵 刃に血(ちぬ)らず、強暴を摧抑し、其の首惡を擒ふ。此れ則ち衝を折き難を厭し、勝敗 相 辨じ、中世の明效なり」と。
又 咎徵 作見するを問ふ。對へて曰く、「陰陽の否泰、六沴の災あらば、則ち人主 政を修めて以て之を禦ぎ、患を思ひて之を防ぎ、皇極の首を建て、庶徵の用を詳らかにするなり。詩に曰く、『之を敬し之を敬し、天 惟れ顯思す』と〔四〕、天の聰明は我が人(たみ)の聰明よりす。是を以て人主 天命を祖承して、日々一日より慎むなり。故に能く多福を應受して永世に祚を克くする。此れ先王の災を退け眚を消す所以なり」と。
又 經化の務を問ふ。對へて曰く、「夫れ王道の本、經國の務は、必ず之れ禮義を以て先とし、而して人に廉恥を致す。禮義 立たば、則ち君子 道に軌りて善に讓る。廉恥 立たば、則ち小人 行を謹みて制度を淫せず。賞して以て其の能くするを勸め、威ありて以て其の廢るるを懲らしむ。此れ先王 保乂し定功して、黎元を化洽して、而して勳業 世に長き所以なり。故に上は克讓の風有り、則ち下は不爭の俗有り。朝に矜節の士有らば、則ち野に貪冒の人無し。夫れ廉恥の政に於けるや、猶ほ樹藝の豐壤有り、良歲の膏澤有るがごとく、其れ生物 必ず油然と茂なり。若し廉恥 存せず、而も惟だ刑もて是れ御すれば、則ち風俗 彫弊し、人は其の性を失ひ、錐刀の末に、皆 爭心有り。刑を峻にし辟を嚴にすると雖も、猶ほ勝たず。其れ政に於けるや、農者の磽野に殖し、旱年の豐穡を望むが如く、必ず幾せず。此れ三代 德を享くること長久、風醇 俗美にして、皆 數百年に天の祿を保つ所以なり。而れども秦 二世にして弊るるは、蓋し其の由る所の塗 殊なるなり」と。
又 問ふ、「將に武をして七德を成し、文をして九功を濟しめんとするに、何の路にして茲に臻るか。凡そ厥の庶事は、曷をか後にして曷をか先にする」と。對へて曰く、「夫れ文武 德を經とし、功を成し業を丕いにし、咸 庶績を熙むる所以の者は、明哲を選建し、方を授け能を任ずるより先は莫し。才をして其の官に當てて功をして其の職を稱せしむれば、則ち萬機 咸 理あり、庶僚 曠(むなし)からず。書に曰く、『天工に人 其れ之に代はる』と。然らば則ち天を繼ぎ物を理め、國を寧にし家を安んずるは、賢に非ずんば以て成す無きなり。夫れ賢才の國を畜ひ、良工の利器を須ち、巧匠の繩墨を待つに由るなり。器用 利あるときは、則ち斵削 易くして材 病まず。繩墨 設くるときは、則ち曲直 正しくして眾形 得るなり。是を以て人主 必ず求賢に勤め、而して以て之を任ずるに佚す。賢臣の主に於けるや、進みては則ち國に忠たりて人を愛し、退きては則ち節を砥ぎ志を潔くす。職を營して私義を干さず、心より出すこと必ず公塗に由り、度量に明にして以て其の能を呈しくし、經制を審らかにして以て其の功を效ふ。此れ昔の聖王 己を恭しくし南面して陶鈞の上に化する所以の者にして、以て其の任ずる所の賢と賢とする所の信なるを與にするなり。方今 海內の士 皆 望みを休光を傾け、心に紫極を希ひ、唯だ明主の趣舍する所のみなり。若し四聰の聽を開き、疇咨の求を廣くし、羣英を抽し、俊乂を延き、工を考へて職を授け、能を呈(はか)り官を制むれば、朝に素餐の士無し。此の如くんば化流 極まる罔く、功を不朽に樹てん」と。
時に种 郤詵及び東平の王康と與に俱に上第に居り、即ち尚書郎に除せらる。然るに毀譽の徒、或いは對ふる者は緣に因りて假託すと言ふ。帝 乃ち更めて羣士を延き、庭に以て之を問ふ。詔して曰く、「前者の對策は、各々問ふ所に指答するも、未だ子ら大夫の言はんと欲する所を盡くさず。故に復た延き見え、其れ具さに懷く所を陳べよ。又 比年 連りに水旱災眚有り。戰戰兢兢と雖も、未だ能く天人の理を究めず。當に何を修めて以て其の變に應ずべきか。人 水旱饑饉に遇ふ者は、何を以て之を救ふか。中間に事多く、未だ寧靜を得ず、思ふに煩務を省息するを以てし、百姓をして其の所を失はしめざらんと。若し人 患苦する所の者有らば、宜しく損益有るべし。公私をして兩濟せしむる者は、委曲して之を陳べよ。又 政は人を得るに在り、而れども之れ至難なるを知る。唯だ人に因りて視聽すること有るのみ。若し文武の隱逸の士有らば、各々知る所を舉げよ。幽賤にして俗に負くものと雖も、限る所有る勿れ。故に虛心に事實を聞かんと思ふ。華辭に務むる勿れ。諱む所有る莫れ」と。
种 對へて曰く、「伏して惟るに陛下 聖哲を以て玄覽し、卹みを黎蒸に降れ、將に元元を濟ひ、之を同にすること三代なり。旁らに俊乂を求め、以て至化を輔けしむ。此れ誠に堯舜の用心なり。臣 猥りに頑魯の質を以て、清明の舉に應じ、前者に對策するも、以て聖詔を疇塞するに足らず、陳ぶる所究めず。臣 誠に蒙昧にして、罪と為らる所以なり。臣 聞くらく天は蒸庶を生じ、君を樹てて以て之を司牧せしむ。人君の道 洽なれば、則ち彝倫 序する攸、五福 來備す。若し政に愆失有らば、刑理 頗る僻にして、則ち庶徵 應ぜず、而して淫亢 災を為す。此れ則ち天人の理にして、而も興廢の由なり。昔の聖王は、政道 備ふるに制 先に具はり、人を軌するに務を以てし、之を本に致す。是を以て水旱の眚有ると雖も、而れども饑饉の患無し。自頃 陰陽 隔り并はせ、水旱 災と為る。亦た猶ほ期運の致なり。然らずんば、則ち亦た有司の不帥にして、聖德を宣承して、以て大化を贊揚する能はず。故に和氣 未だ降らずして人事 未だ敘せざるなり。方今に百姓は凋弊し、公私は儲へ無し。誠に役を休め人を靜め、嗇を勸め分かつに務むるに在り、此れ其の救なり。人の患ふ所、役の煩にして網密にして信道 未だ孚あらざるに由るなり。役 煩なれば則ち百姓 業を失ひ、網密なれば則ち下は其の誠に背き、信道 未だ孚あらざれば則ち人 固志に無し。此れ則ち損益の至務にして、安危の大端なり。傳に曰く、『善に與するに始まり、善 進むときは、則ち不善 至るに由る蔑し』と〔五〕。孔子曰、『其の以(もち)ふる所を視て、其の由る所を觀よ、人 焉(いづく)んぞ廋さんや』と〔六〕。若し夫の文武隱逸の士、幽賤にして俗に負くの才なれば、故(こと)に愚臣の能く識る所に非ず。謹みて愚を竭くして以て對ふ」。
策 奏するや、帝 親ら焉を覽じ、又 擢して第一と為す。中書郎に轉ず。進止に方有り、己を正して下を率ゐ、朝廷 咸 其の威容に憚る。每に駁議を為すや、事 皆 施用せられ、遂に楷則と為る。
平原相に遷る。時に襄邑の衞京 南陽太守より河內に遷り、种と與に俱に拜す。帝 望いて歎じて曰く、「二千石 皆 此の若くんば、朕 何を憂はんや」と。种の為政 簡惠たりて、百姓 之を稱ふ、郡に卒す。
〔一〕『周易』恆卦に、「聖人久於其道、而天下化成」とある。
〔二〕『毛詩』小雅 南有嘉魚之什 六月に、「玁狁孔熾」とある。
〔三〕『左伝』襄公 伝三十一年に、「蠻夷帥服、可謂畏之」とあるが、現行『尚書』では該当する文は未詳。
〔四〕『毛詩』周頌 閔予小子之什 敬之に、「敬之敬之、天維顯思、命不易哉」とある。
〔五〕出典は未詳。
〔六〕『論語』為政篇に、「視其所以、觀其所由、察其所安、人焉廋哉、人焉廋哉」とあり出典。
阮种は字を徳猷といい、陳留尉氏の人で、漢の侍中の阮胥卿の八世孫である。弱冠のときにすぐれた操があり、嵇康に重んじられた。嵇康は『養生論』を著したが、文中に出てくる「阮生」とは、阮种のことである。孝廉に察挙され、公府掾となった。
このとき西方異民族が侵入し、災異がしばしば出現し、百姓は飢饉にみまわれた。三公・卿尹・常伯・牧守に詔してそれぞれ賢良・方正・直言の士を挙げされた。ここにおいて太保の何曾が阮种を賢良に挙げた。
(武帝の)策文に、「古代の聖賢の王は、天のめぐりを受け、天地を輝かせた。みな乾坤の道に準拠し、万物を安定させた。美風が吹きわたり、(国統は)千年にいたった。朕は大いなる命運に応えて帝位につき、今年で七年が経った。しかし徳を嗣ぐことがなく、政治に暗く、早起きをして励んでいるが、まだ治国の計略が立たない。諸臣は国政の方策を考えて、厳粛に提出するように。朕はそれを歓迎するだろう。各々の心を尽くし、朕の志に見通しを与え、王道の本筋について述べ、憚ってはならない。朕は虚心で読むだろう」と言った。阮种は対を提出し、「天地が地位を定め、聖人がそれを務めるのは、王道の深い真理であり、遠方まで徳化をする所以です。これにより万物を開き、功業が満ち足り、近くに命令を聞かないものがなく、遠くに服従しないものがおりません。徳が万民に及び、恩沢が全土を覆い、名声が無限に届き、国統が万代となります。ゆえに経書に、『聖人はその道を久しくして、天下が立派となる』とあります(『易経』恒下)。これに基づいて政治を行い、三五(三正五行、革命のこと)を継承し、世を正して風俗を改め、民の期待に応えてください。全土を義のもとに帰順させ、民に行く先を示してください。純粋な教化をひろめ、邪悪な道を塞いでください。これが万人に聖徳を思慕させて統治を安定させる方法です」と言った。
また政治と刑罰が明らかでなく、礼楽が立っていなかった。阮种は対策し、「政治と刑罰が明らかとなるのは、礼楽の実現によるものでしょうか。昔の明王が、もっぱら取り組んだことは、暴虐や軽侮を防ぎ、民の心を感動させ、人々を統制することで、これが万民を陶冶した方法でした。礼制によって徳を実現させ、詩は功績を歌いあげ、音楽を調和させれば、礼は慎み深いものとなります」と言った。
また西戎や南蛮による中夏の侵略について下問があった。対策して、「西戎や南蛮が中夏を侵略し、王の統治を妨害しています。古代の盛世であっても、異民族の脅威はありました。ゆえに『詩』に『犬戎がとても盛んだ』という文があり(小雅 南有嘉魚之什 六月)、『書』に『蛮夷が帰順した』と感歎しています。魏の時代より以来、異民族が服従し、深刻な侵略の脅威は減りました。そのために辺境の守りを怠り、要塞を修繕していません。しかも現在は異民族が内地に住み、万民と入り交じって住んでいます。辺境の役人は訓練を嫌がり、人々は戦い方を忘れました。地方を任されたものは、適切な人材でなく、あるものは詐りによって、周辺の異民族を侮辱しています。あるいは褒賞を求めて、不必要な討伐を行っています。弱い手綱により強い馬を制御するには、手間ばかり煩雑となり、制御に失敗するのは、当然のことです。ですから醜悪な異民族たちは勢力を蓄え、少しの隙があれば乱を起こします。三州が覆滅し、牧守が帰任しなかったのは、異民族が強いからではなく、任命の失敗が原因です。私が聞きますに王者の伐とは、征はあるが戦がなく、遠きものを徳によって懐かせるもので、武器を用いるものではありません。そもそも武器は不吉なものであり、戦いは危険なことです。兵を起こせば農業を妨げ、人数を集めれば費用がかさみます。農業を妨げれば人口が減り、費用がかさめば国は空虚となります。むかし前漢の武帝の時代、文帝の事業を継承し、海内の富を集積し、臣下を将軍に登用し、匈奴の討伐を願い、戦勝を競って、攻撃の利をむさぼりました。良将と強兵は、砂漠で死に絶え、勝敗は拮抗し、勝ちも幸運に過ぎず、大量の命を失い、餓狼の口に飛びこんだようなものでした。多数で少数を制圧しようとすれば、匈奴は遠方に移ります。祁連で功績を立て、瀚海の水を馬に飲ませるならば、天下の損耗は、すでに過半となります。中夏を空虚にして夷狄と戦うのは、良い計略とは言えません。(中夏が空虚となれば)盗賊が蜂起し、山東は衰退しました。宣帝と元帝の時代になると、趙充国が西零を征伐し、馮奉世が南羌を征伐しましたが、どちらも武器が血で汚れず、凶暴なものを制圧し、敵方の首領を捕らえました。これこそ勢いを挫いて難局を抑え、勝敗を明らかにした、前代のよい事例です」と言った。
また咎徴(凶兆)の発生について下問した。対策して、「陰陽が乱れ、六気が調わなければ、君主は政治に努めてこれを防ぎ、災害に備えます。国政において最優先なのは、凶兆の原因を明らかにすることです。『詩』に、『これを戒めて慎み、天道を明らかにする』とあります。上天の聡明(な見解)は万民に由来します。ですから君主が天命を継承し、日々に戒め慎めば、多くの福を受けて国運が永遠となります。これが先王が災禍を解消した方法です」と言った。
また教化の方法についても下問があった。対策して、「王道の根本、統治の務めは、必ず礼義を先とし、人々が廉恥を持つように導くことです。礼義が立てば、君子は道に則って賢者に譲ります。廉恥が立てば、小人は行いを謹んで制度を乱しません。褒賞によって(礼を修めるように)勧奨し、威刑によって蔑ろにするものを懲罰します。これが先王が功績を立てて安寧を維持し、万民を教化して、国家の事業を長く保った方法です。ゆえに上には謙譲の美風があり、下は争わない習俗が生まれます。朝廷に気節を尊ぶ人士がいれば、在野に百姓を侵害する人物はいなくなります。政治における廉恥とは、たねには豊穣な大地が必要で、豊作の年に水土が必要なことに似ており、このように条件が整えば自然と植物は生長します。もし廉恥がなく、ただ刑罰によって民を統御しようとすれば、風俗は衰廃し、人々は生まれながらの本性を失い、武器による威圧のもと、みなが闘争の心を持ちます。いかに刑罰を厳格にしようと、阻止できません。政治に当てはめると、農民が痩せた土地を耕し、旱魃の年に豊作を望むようなもので、絶対に成功しません。これが三代が天から長く祝福され、風俗が麗しく、数百年の天命を維持した理由です。かたや秦が二世で崩壊したのは、採用した方法が異なったからであります」と言った。
又 問ふ、「武功は七徳を成し、文治は休功に達するというが、いかなる方法で実現されるのか。諸事について、何を優先とし何を後回しにするか」と言った。対策し、「文武が徳を中心とし、功業を大いにし、善政を行うには、賢者を抜擢し、官職を授けて能力を発揮させるより優先すべきことはありません。才能あるものに官職を与えて職務において功績を立てさせれば、政務に筋道が立ち、百官にむだがありません。『尚書』(皋陶謨)に、『天の職務を人が代行する』とあります。ですから天を継いで万物を治め、国家を安寧にするのは、賢者でなければ達成できません。賢才が国を守り立てるのは、よい工人が鋭い道具を必要とし、よい大工が墨縄を必要とするのと同じです。道具が鋭ければ、切りやすく削りやすいので材料を痛めません。墨縄を設ければ、曲直が正しくなり良い形を作れます。ですから君主はかならず賢者を求める努力をし、任命できれば安逸となります。君主にとって賢臣とは、進んでは国に忠であり民を愛し、退いては志節を研いで潔くするものです。職務にあたって私情を優先せず、必ず公の立場から発想し、正しい考えを持って能力を発揮し、規準を詳らかにして功績を立てます。これこそ昔の聖王が身を慎んで君臨して万物を教化した方法であり、任命した賢者とその賢者が信頼するものを任用しました。今日は海内の士がみな陛下を仰ぎ、心を皇業に寄せて、明君からの命令を待っています。もし四方の賢者に耳を傾け、賢者を広く求め、すぐれた人材を抜擢し、俊英を招いて、適性に応じて官職を授け、能力ごとに役割を与えれば、朝廷から俸禄どろぼうが消えます。そうすれば教化の風は果てしなく、不朽の功業が樹立されるでしょう」と言った。
このとき阮种は郤詵と東平の王康とともに上第(対策が優秀)とされ、尚書郎に任命された。しかし毀誉褒貶をする連中は、対策は縁者に頼んで代筆させたものだと噂した。武帝は改めて士人らを招き、宮庭で下問した。詔して、「先日の対策は、それぞれ下問に応答していたが、きみたちの意見を言い尽くしていない。ゆえに再び招待してまみえ、つぶさに考えを述べるように。また近年は水害と干害や災禍が起こっている。戦々恐々としているが、天人の理が究明されていない。どのように災異に応じるべきか。民で水害と干害で飢饉にみまわれたものは、どのように救うべきか。なかごろに事案が多く、まだ安寧ではなく、煩雑な役務を省略して、百姓の之氏の妨げにならないようにしている。(それでも)民が患い苦しんでいることがあるならば、分量を調整しよう。公私の両方を成り立たせる方法があれば、詳細に述べるように。また政治は人材の獲得が大切であるが、それが至難であることは分かっている。ただ人を頼って(人材の所在を)見聞しているだけだ。もし文武の隠逸の士がいるならば、それぞれ知っている人物を推挙せよ。幽賤で世俗に背くものでも、制限しなくてよい。ことさらに虚心に事実を聞こう。言葉を飾る必要はない。忌み憚ることもない」と言った。
阮种は対策して、「伏して思いますに陛下は聖明であらせられ、天下に憐れみを垂れ、万民を救済し、すでに三代が経過しています。かたわらに俊英を求め、教化を補佐させています。これはまことに尭舜の心使いです。私は頑迷で魯鈍でありますが、清らかな推挙に応じ、先日に対策を提出しましたが、詔の求めを満足せず、内容が不十分でした。私はまことに蒙昧であり、罪にあたります。私が聞きますに天は万民を生じ、君主を立ててこれを統治させます。君主の道が潤えば、人倫がととのい、五福がきて備わります。もし政治に過失があれば、刑罰はかたより、天は予兆を示さず、惑乱して災害を起こします。これこそが天人の理であり、興廃の原因です。むかしの聖王は、政道を整えるときに先に制度をつくり、人を役割に応じて統御し、これを原則としました。ですから水害や干害があっても、飢饉の心配はありませんでした。近年は陰陽の気が調和を失い、水害や干害が起きています。これもまた時期の巡りあわせです。さもなくば、担当官の力不足であり、聖徳を広めて継承し、大いにある教化を讃え広げることができません。ゆえに吉祥の気がまだ降らずに人事はまだ秩序が調わないのです。今日は百姓は疲弊し、公私は備蓄がありません。役務を減らして人を休息させ、控えて分業させるのが、救済措置です。人民が苦しんでいるのは、役務が煩雑で(刑罰の)網が細かすぎて信義が成り立たないためです。役務が煩雑なれば百姓は生業を失い、(刑罰の)網が細かすぎれば下位者は誠に背き、信義が成り立たなければ民は確固たる志を持てません。これこそ優先して調節すべきことで、安全と危険の分岐点です。『伝』に、『善にくみするものに始まり、善が進むときは、不善は寄りつかない』とあります。孔子は、『人物の行動を見て、動機を見よ、人(の情)はどうして隠せるだろうか』と言いました(『論語』為政篇)。もし文武隠逸の士が、幽賤で世俗に背くものならば、私は存じ上げません。謹んで私の本心をお答えします」と言った。
策を上奏すると、皇帝は自らこれを閲読し、抜擢して第一とした。中書郎に転じた。進退に節度があり、わが身を正して部下を率い、朝廷はみな彼の立派なさまを憚った。討議をおこなうと、すべて採択され、判断の基準とされた。
平原相に遷った。このとき襄邑の衛京が南陽太守から河内に遷るときで、阮种とともに皇帝に拝した。皇帝な二人を見て感歎し、「二千石がすべて二人のようならば、朕は何の心配があるだろうか」と言った。阮种の為政は大まかで恵みがあり、百姓は彼を称えた。郡で亡くなった。
華譚字令思、廣陵人也。祖融、吳左將軍・錄尚書事。父諝、吳黃門郎。譚朞歲而孤、母年十八、便守節鞠養、勤勞備至。及長、好學不倦、爽慧有口辯、為鄰里所重。揚州刺史周浚引為從事史、愛其才器、待以賓友之禮。
太康中、刺史嵇紹舉譚秀才、將行、別駕陳總餞之、因問曰、「思賢之主以求才為務、進取之士以功名為先、何仲舒不仕武帝之朝、賈誼失分漢文之時。此吳晉之滯論、可辨此理而後別」。譚曰、「夫聖人在上、物無不理、百揆之職、非賢不居。故山林無匿景、衡門不棲遲。至承統之王、或是中才、或復凡人、居聖人之器、處兆庶之上、是以其教日穨、風俗漸弊。又中才之君、所資者偏、物以類感、必於其黨、黨言雖非、彼以為是。以所授有顏冉之賢、所用有廊廟之器、居官者日冀元凱之功、在上者日庶堯舜之義、彼豈知其政漸毀哉。朝雖有求賢之名、而無知才之實。言雖當、彼以為誣。策雖奇、彼以為妄。誣則毀己之言入、妄則不忠之責生。豈故為哉。淺明不見深理、近才不覩遠體也。是以言不用、計不施、恐死亡之不暇、何論功名之立哉。故上官昵而屈原放、宰嚭寵而伍員戮、豈不哀哉。若仲舒抑於孝武、賈誼失於漢文、蓋復是其輕者耳。故白起有云、『非得賢之難、用之難。非用之難、信之難。』得賢而不能用、用而不能信、功業豈可得而成哉」。
譚至洛陽、武帝親策之曰、「今四海一統、萬里同風、天下有道、莫斯之盛。然北有未羈之虜、西有醜施之氐、故謀夫未得高枕、邊人未獲晏然、將何以長弭斯患、混清六合」。對曰、「臣聞聖人之臨天下也、祖乾綱以流化、順谷風以興仁、兼三才以御物、開四聰以招賢。故勞謙日昃、務在擇才、宣明巖穴、垂光隱滯。俊乂龍躍、帝道以光。清德鳳翔、王化克舉。是以臯陶見舉、不仁者遠。陸賈重漢、遠夷折節。今聖朝德音發於帷幄、清風翔乎無外、戎旗南指、江漢席卷。干戈西征、羌蠻慕化、誠闡四門之秋、興禮教之日也。故髦俊聞聲而響赴、殊才望險而雲集。虛高館以俟賢、設重爵以待士、急善過於饑渴、用人疾於影響、杜佞諂之門、廢鄭聲之樂、混清六合、實由乎此。雖西北有未羈之寇、殊漠有不朝之虜、征之則勞師、得之則無益、故班固云、『有其地不可耕而食、得其人不可臣而畜、來則懲而禦之、去則備而守之。』蓋安邊之術也」。
又策曰、「吳蜀恃險、今既蕩平。蜀人服化、無攜貳之心。而吳人趑雎、屢作妖寇。豈蜀人敦樸、易可化誘。吳人輕銳、難安易動乎。今將欲綏靜新附、何以為先」。對曰、「臣聞漢末分崩、英雄鼎峙、蜀棲岷隴、吳據江表。至大晉龍興、應期受命、文皇運籌、安樂順軌。聖上潛謀、歸命向化。蜀染化日久、風教遂成。吳始初附、未改其化、非為蜀人敦慤而吳人易動也。然殊俗遠境、風土不同、吳阻長江、舊俗輕悍。所安之計、當先籌其人士、使雲翔閶闔、進其賢才、待以異禮。明選牧伯、致以威風。輕其賦斂、將順咸悅、可以永保無窮、長為人臣者也」。
又策曰、「聖人稱如有王者、必世而後仁。今天成地平、大化無外、雖匈奴未羈、羌氐驕黠、將修文德以綏之、舞干戚以來之、故兵戈載戢、武夫寢息。如此、已可消鋒刃為佃器、罷尚方武庫之用未邪」。對曰、「夫唐堯歷載、頌聲乃作。文武相承、禮樂大同。清一八紘、綏盪無外、萬國順軌、海內斐然。雖復被髮之鄉、徒跣之國、皆習章甫而入朝、要衣裳以磬折。夫大舜之德、猶有三苗之征。以周之盛、獫狁為寇。雖有文德、又須武備。備預不虞、古之善教。安不忘危、聖人常誡。無為罷武庫之常職、鑠鋒刃為佃器。自可倒戢干戈、苞以獸皮、將帥之士、使為諸侯、於散樂休風、未為不泰也」。
又策曰、「夫法令之設、所以隨時制也。時險則峻法以取平、時泰則寬網以將化。今天下太平、四方無事、百姓承德、將就無為而乂。至於律令、應有所損益不」。對曰、「臣聞五帝殊禮、三王異教、故或禪讓以光政、或干戈以攻取。至於興禮樂以和人、流清風以寧俗、其歸一也。今誠風教大同、四海無虞、人皆感化、去邪從正。夫以堯舜之盛、而猶設象刑。殷周之隆、而甫侯制律。律令之存、何妨於政。若乃大道四達、禮樂交通、凡人修行、黎庶勵節、刑罰懸而不用、律令存而無施、適足以隆太平之雅化、飛仁風乎無外矣」。
又策曰、「昔帝舜以二八成功、文王以多士興周。夫制化在於得人、而賢才難得。今大統始同、宜搜才實。州郡有貢薦之舉、猶未獲出羣卓越之倫。將時無其人。有而致之未得其理也」。對曰、「臣聞興化立法、非賢無以光其道。平世理亂、非才無以宣其業。上自皇羲、下及帝王、莫不張皇綱以羅遠、飛仁風以被物。故得賢則教興、失人則政廢。今四海一統、萬里同風、州郡貢秀孝、臺府簡良才、以八紘之廣、兆庶之眾、豈當無卓越儁逸之才乎。譬猶南海不少明月之寶、大宛不乏千里之駒也。異哲難見、遠數難覩、故堯舜太平之化、二八由舜而甫顯。殷湯革王之命、伊尹負鼎而方用。當今聖朝禮亡國之士、接遐裔之人、或貂蟬於帷幄、或剖符於千里、巡狩必有呂公之遇、宵夢必有巖穴之感。賢儁之出、可企踵而待也」。
時九州秀孝策無逮譚者。譚素以才學為東土所推。同郡劉頌時為廷尉、見之歎息曰、「不悟鄉里乃有如此才也」。博士王濟於眾中嘲之曰、「五府初開、羣公辟命、採英奇於仄陋、拔賢儁於巖穴。君吳楚之人、亡國之餘、有何秀異而應斯舉」。譚答曰、「秀異固產於方外、不出於中域也。是以明珠文貝、生於江鬱之濱。夜光之璞、出乎荊藍之下。故以人求之、文王生於東夷、大禹生於西羌。子弗聞乎。昔武王克商、遷殷頑民於洛邑、諸君得非其苗裔乎」。濟又曰、「夫危而不持、顛而不扶、至於君臣失位、國亡無主、凡在冠帶、將何所取哉」。答曰、「吁。存亡有運、興衰有期、天之所廢、人不能支。徐偃修仁義而失國、仲尼逐魯而逼齊、段干偃息而成名、諒否泰有時、曷人力之所能哉」。濟甚禮之。
尋除郎中、遷太子舍人・本國中正。以母憂去職。服闋、為鄄城令、過濮水、作莊子贊以示功曹。而廷掾張延為作答教、其文甚美。譚異而薦之、遂見升擢。及譚為廬江、延已為淮陵太守。又舉寒族周訪為孝廉、訪果立功名、時以譚為知人。以父墓毀去官。尋除尚書郎。
永寧初、出為郟令。于時兵亂之後、境內饑饉、譚傾心撫卹。司徒王戎聞而善之、出穀三百斛以助之。譚甚有政績、再遷廬江內史、加綏遠將軍。時石冰之黨陸珪等屯據諸縣、譚遣司馬褚敦討平之。又遣別軍擊冰都督孟徐、獲其驍率。以功封都亭侯、食邑千戶、賜絹千匹。
陳敏之亂、吳士多為其所逼。顧榮先受敏官、而潛謀圖之。譚不悟榮旨、露檄遠近、極言其非、由此為榮所怨。又在郡政嚴、而與上司多忤。揚州刺史劉陶素與譚不善、因法收譚、下壽陽獄。鎮東將軍周馥與譚素相親善、理而出之。及甘卓討馥、百姓奔散、馥謂譚已去、遣人視之、而更移近馥。馥歎曰、「吾嘗謂華令思是臧子源之疇、今果效矣」。甘卓嘗為東海王越所捕、下令敢有匿者誅之、卓投譚而免。及此役也、卓遣人求之曰、「華侯安在。吾甘揚威使也」。譚答不知、遺絹二匹以遣之。使反、告卓。卓曰、「此華侯也」。復求之、譚已亡矣。後為紀瞻所薦、而為顧榮所止遏、遂數年不得調。
建興初、元帝命為鎮東軍諮祭酒。譚博學多通、在府無事、乃著書三十卷、名曰辨道、上牋進之、帝親自覽焉。轉丞相軍諮祭酒、領郡大中正。譚薦干寶・范珧於朝、乃上牋求退曰、「譚聞霸主遠聽、以求才為務。僚屬量身、以審己為分。故疎廣告老、漢宣不違其志。干木偃息、文侯就式其廬。譚無古人之賢、竊有懷遠之慕。自登清顯、出入二載、執筆無贊事之功、拾遺無補闕之績。過在納言、闇於舉善。狂寇未賓、復乏謀策。年向七十、志力日衰、素餐無勞、實宜辭退。謹奉還所假左丞相軍諮祭酒版」。不聽。
建武初、授祕書監、固讓不拜。太興初、拜前軍、以疾復轉祕書監。自負宿名、恒怏怏不得志。時晉陵朱鳳・吳郡吳震並學行清修、老而未調、譚皆薦為著作佐郎。
或問譚曰、「諺言人之相去、如九牛毛、寧有此理乎」。譚對曰、「昔許由・巢父讓天子之貴、市道小人爭半錢之利、此之相去、何啻九牛毛也」。聞者稱善。
戴若思弟邈、則譚女壻也。譚平生時常抑若思而進邈、若思每銜之。殆用事、恒毀譚於帝、由是官塗不至。譚每懷觖望、嘗從容言於帝曰、「臣已老矣、將待死祕閣。汲黯之言、復存於今」。帝不懌。久之、加散騎常侍、屢以疾辭。及王敦作逆、譚疾甚、不能入省、坐免。卒於家。贈光祿大夫、金章紫綬、加散騎常侍、諡曰胡。二子、化・茂。
化字長風、為征虜司馬、討汲桑、戰沒。茂嗣爵。
華譚 字は令思、廣陵の人なり。祖の融は、吳の左將軍・錄尚書事なり。父の諝は、吳の黃門郎なり。譚は朞歲にして孤たり、母は年十八なるも、便ち節を守りて鞠養し、勤勞して備至たり。長ずるに及び、學を好みて倦まず、爽慧にして口辯有り、鄰里の重んずる所と為る。揚州刺史の周浚 引きて從事史と為し、其の才器を愛し、待するに賓友の禮を以てす。
太康中に、刺史の嵇紹 譚を秀才に舉げ、將に行かんとするに、別駕の陳總 之を餞し、因りて問ひて曰く、「思賢の主 才を求むるを以て務と為し、進取之の功名を以て先と為す。何ぞ仲舒 武帝の朝に仕へず、賈誼 分を漢文の時に失ふか。此れ吳晉の滯論にして、此の理を辨じて而して後に別くる可し」。譚曰、「夫れ聖人 上に在らば、物 理めざる無く、百揆の職、賢に非ざれば居らず。故に山林にも景を匿す無く、衡門にも棲遲せず。承統の王に至り、或いは是れ中才、或いは復た凡人なるに、聖人の器に居り、兆庶の上に處る。是を以て其の教 日々穨し、風俗 漸く弊す。又 中才の君は、資する所の者は偏なり、物 類を以て感せば、必ず其の黨に於てす。黨言 非と雖も、彼は以て是と為す。授くる所顏冉の賢有り、用ふる所 廊廟の器有るを以て、官に居る者 日々元凱の功を冀ひ、上に在る者 日々堯舜の義を庶ふ。彼 豈に其の政 漸く毀するを知るや。朝 求賢の名有ると雖も、而れども知才の實無し。言 當れりと雖も、彼は以て誣と為す。策 奇なると雖も、彼は以て妄と為す。誣なれば則ち己を毀すの言 入り、妄なれば則ち不忠の責 生ず。豈に故(ことさら)に為さんや。淺明にして深理を見ず、近才にして遠體を覩ざるなり。是を以て言 用ひられず、計 施されず、死亡を恐るるだも暇あらざるに、何ぞ功名の立つるを論ずるか。故に上官 昵して屈原 放たれ、宰嚭 寵して伍員 戮せらる。豈に哀しからざるか。仲舒 孝武に抑せられ、賈誼 漢文に失ふが若きは、蓋し復た是れ其の輕き者なるのみ。故に白起 云ふ有り、『賢を得るの難き非ず、之を用ふること難し。之を用ふるの難き非ず、之を信ずること難し』と。賢を得て用ふる能はず、用ひて信ずる能はずんば、功業 豈に得て成る可きか」と。
譚 洛陽に至り、武帝 親ら之に策して曰く、「今 四海は一統し、萬里は同風す。天下 道有りて、斯より盛なるは莫し。然れども北は未羈の虜有り、西は醜施の氐有り。故に謀夫 未だ枕を高くするを得ず、邊人 未だ晏然を獲ず。將た何を以て長く斯の患を弭め、六合を混清するか」と。對へて曰く、「臣 聞くならく聖人の天下に臨むや、乾綱に祖(もと)づきて以て化を流し、谷風に順ひて以て仁を興し、三才を兼せて以て物を御し、四聰を開きて以て賢を招く。故に日昃に勞謙して、務むるは擇才に在り。巖穴を宣明し、光を隱滯に垂れん。俊乂 龍のごとく躍り、帝道 以て光かん。清德 鳳のごとく翔り、王化 克く舉げん。是を以て臯陶 舉せられ、不仁なる者 遠のく。陸賈 漢に重たりて、遠夷 節を折す。今 聖朝の德音 帷幄に發し、清風 無外に翔くるや、戎旗 南のかた指し、江漢 席卷す。干戈 西征せば、羌蠻 化を慕ひ、誠に四門の秋を闡き、禮教の日を興すなり。故に髦俊 聲を聞きて響くごとく赴き、殊才 險に望みて雲のごとく集ふ。高館を虛しくして以て賢を俟ち、重爵を設けて以て士を待つ。善に急なること饑渴より過ぎ、人を用ふること影響より疾し。佞諂の門を杜ぎ、鄭聲の樂を廢す。六合を混清するは、實に此に由るか。西北に未羈の寇有り、殊漠に不朝の虜有ると雖も、之を征せば則ち師を勞し、之を得るも則ち益無し。故に班固 云ふらく、『其の地有るとも耕して食らふ可からず、其の人を得るとも臣として畜ふ可からず。來たれば則ち懲して之を禦ぎ、去れば則ち備へて之を守れ』と。蓋し安邊の術なり」と。
又 策して曰く、「吳蜀 險を恃むも、今 既に蕩平せらる。蜀人 服化し、攜貳の心無し。而れども吳人 趑雎し、屢々妖寇を作す。豈に蜀人 敦樸にして、化誘す可きに易きか。吳人 輕銳にして、安んじ難く動じ易きか。今 將に新附を綏靜せんと欲す。何を以て先と為すか」と。對へて曰く、「臣 聞くに漢末 分崩し、英雄 鼎峙するや、蜀は岷隴に棲み、吳は江表に據る。大晉 龍興し、期に應じ命を受くるに至り、文皇 籌を運らせ、安樂 軌に順ふ。聖上 謀を潛かにし、歸命 化に向ふ。蜀 染化して日は久しく、風教 遂に成る。吳は始めて初附し、未だ其の化を改めず。蜀人 敦慤にして吳人 動き易しと為すは非なり。然れども俗は殊なり境を遠くし、風土 同じからざれば、吳は長江を阻み、舊俗 輕悍なり。安んずる所の計、當に先に其の人士に籌(はか)りて、閶闔に雲翔せしめ、其の賢才を進めて、待するに異禮を以てすべし。明らかに牧伯を選び、致すに威風を以てせよ。其の賦斂を輕くせば、將に順ひて咸 悅び、以て永く無窮を保ち、長じて人臣と為る可き者なり」と。
又 策に曰く、「聖人の稱すらく如し王者有らば、必ず世々にして後に仁あり。今 天は成り地は平らぎ、大化に外無し。匈奴 未だ羈せず、羌氐 驕黠すると雖も、將に文德を修めて以て之を綏にし、干戚を舞ひて以て之に來らんとす。故に兵戈は載ち戢め、武夫は寢息す。此の如くんば、已に鋒刃を消して佃器と為し、尚方武庫の用を罷める可きか未しか」と。對へて曰く、「夫れ唐堯 載を歷て、頌聲 乃ち作る。文武 相 承ぎ、禮樂 大同たり。八紘を清一にして、無外を綏盪し、萬國 順軌たりて、海內 斐然たり。復た被髮の鄉、徒跣の國と雖も、皆 章甫を習ひて入朝し、衣裳を要て以て磬折す。夫れ大舜の德すら、猶ほ三苗の征有り。周の盛を以てすら、獫狁 寇を為す。文德有ると雖も、又 須らく武備すべし。備預ありて虞れざるは、古の善教なり。安にして危を忘れざるは、聖人が常なる誡めなり。武庫の常職を罷し、鋒刃を鑠して佃器を為(つく)るを為(な)す無れ。自ら干戈を倒戢にして、苞むに獸皮を以てす可し。將帥の士、諸侯と為らしめ、散樂の休風に於ても、未だ泰ならずとは為さざるなり」。
又 策して曰く、「夫れ法令の設くるは、時制に隨ふ所以なり。時に險なれば則ち法を峻にして以て平を取り、時に泰まれば則と網を寬めて以て將に化せんとす。今 天下は太平、四方は無事なりて、百姓 德を承け、將に無為にして乂に就かんとす。律令に至りては、應に損益する所有るべきや不や」と。對へて曰く、「臣 聞くならく五帝 禮を殊にし、三王 教を異にす。故に或いは禪讓して以て政を光かせ、或いは干戈もて以て攻取す。禮樂を興して以て人に和すに至りては、清風を流して以て俗を寧にし、其れ一に歸するなり。今 誠に風教 大いに同じく、四海に虞れ無く、人 皆 感化せられ、邪を去り正に從ふ。夫れ堯舜の盛を以てすら、猶ほ象刑を設く。殷周の隆もてすら、甫侯 律を制む。律令の存するは、何ぞ政を妨ぐるや。若し乃ち大道 四達し、禮樂 交通し、凡そ人 行を修め、黎庶 節を勵ませば、刑罰 懸けて用ひず、律令 存するも施す無し。適だ以て太平の雅化を隆くし、仁風を無外に飛するに足る」と。
又 策して曰く、「昔 帝舜は二八を以て功を成し、文王は多士を以て周を興す。夫れ制化は人を得るに在り、而れども賢才 得難し。今 大統 始めて同じければ、宜しく才實を搜すべし。州郡に貢薦の舉有るも、猶ほ未だ出羣の卓越の倫を獲ず。將た時に其の人無きか。有るも之を致すこと未だ其の理を得ざるか」と。對へて曰く、「臣 聞くらく化を興し法を立つるに、賢に非ざれば以て其の道を光す無し。世を平らげ亂を理むるに、才に非ざれば以て其の業を宣する無し。上は皇羲より、下は帝王に及び、皇綱を張りて以て遠を羅し、仁風を飛して以て物を被はざる莫し。故に賢を得れば則ち教へ興り、人を失はば則ち政 廢る。今 四海は一統せられ、萬里は同風なり。州郡 秀孝を貢し、臺府 良才を簡ぶ。八紘の廣く、兆庶の眾きを以て、豈に當に卓越儁逸の才無かるべきや。譬へば猶ほ南海に明月の寶少からず、大宛に千里の駒乏しからざるがごとし。異哲 見難く、遠數 覩難し。故に堯舜が太平の化に、二八あるも舜に由りて甫(はじ)めて顯はる。殷湯が革王の命に、伊尹 鼎を負ひて方に用ひらる。當今 聖朝 亡國の士を禮し、遐裔の人に接す。或いは帷幄に貂蟬たり、或いは千里に符を剖く。巡狩に必ず呂公の遇有り、宵夢に必ず巖穴の感有り。賢儁の出づるは、企踵して待つ可きなり」と。
時に九州の秀孝の策 譚に逮ぶ者無し。譚 素より才學を以て東土の推す所と為る。同郡の劉頌 時に廷尉と為り、之に見えて歎息して曰く、「鄉里に乃ち此の如き才有るを悟らざるなり」と。博士の王濟 眾中に於て之を嘲りて曰く、「五府 初めて開き、羣公 辟命するに、英奇を仄陋に採り、賢儁を巖穴に拔る。君は吳楚の人にして、亡國の餘なり。何なる秀異有りて斯の舉に應ずるか」と。譚 答へて曰く、「秀異は固より方外に產し、中域に出でざるなり。是を以て明珠文貝、江鬱の濱に生す。夜光の璞、荊藍の下に出づ。故に人を以て之を求むるに、文王 東夷に生まれ、大禹 西羌に生まる。子 聞かざるか。昔 武王 商に克ち、殷の頑民を洛邑に遷す、諸君 其の苗裔に非ざるを得るや」と。濟 又 曰く、「夫れ危ふくして持せず、顛がりて扶けざれば、君臣 位を失ひ、國は亡び主無きに至る。凡そ冠帶に在りて、將た何ぞ取る所あるか」と。答へて曰く、「吁。存亡に運有り、興衰に期有り。天の廢する所は、人 支ふる能はず。徐偃は仁義を修めて國を失ひ、仲尼は魯を逐ひて齊に逼り、段干は偃息して名を成し、諒(まこと)に否泰に時有り、曷ぞ人力の能くする所なるや」と。濟 甚だ之を禮す。
尋いで郎中に除せられ、太子舍人・本國中正に遷る。母の憂を以て職を去る。服闋するや、鄄城令と為り、濮水を過るに、莊子贊を作りて以て功曹に示す。而して廷掾の張延 為に答教を作り、其の文 甚だ美し。譚 異として之を薦め、遂に升擢せらる。譚 廬江と為るに及び、延 已に淮陵太守為り。又 寒族の周訪を舉げて孝廉と為し、訪 果たして功名を立て、時に譚を以て人を知るものと為す。父の墓 毀るるを以て官を去る。尋いで尚書郎に除せらる。
永寧の初め、出でて郟令と為る。時に兵亂の後なれば、境內 饑饉たりて、譚 心を傾けて撫卹す。司徒の王戎 聞きて之を善とし、穀三百斛を出だして以て之を助く。譚 甚だ政績有り、再び廬江內史に遷り、綏遠將軍を加へらる。時に石冰の黨の陸珪ら諸縣に屯據し、譚 司馬の褚敦を遣はして之を討平せしむ。又 別軍を遣はして冰が都督の孟徐を擊ち、其の驍率を獲たり。功を以て都亭侯に封ぜられ、食邑は千戶、絹千匹を賜ふ。
陳敏の亂に、吳士 多く其の逼る所と為る。顧榮 先に敏が官を受け、而して潛かに之を圖らんと謀る。譚 榮が旨を悟らず、遠近に露檄し、其の非を極言し、此に由りて榮の怨む所と為る。又 郡に在りて政は嚴たりて、而れば上司と多く忤ふ。揚州刺史の劉陶 素より譚と善ならず、法に因りて譚を收め、壽陽の獄に下す。鎮東將軍の周馥 譚と素より相 親善たりて、理して之を出でしむ。甘卓 馥を討ち、百姓 奔散するに及び、馥 譚 已に去ると謂ひ、人を遣りて之を視るに、而れども更に移り馥に近づく。馥 歎じて曰く、「吾 嘗て華令思は是れ臧子源の疇なると謂ふに、今 果たして效あり」と。甘卓 嘗て東海王越の捕ふる所と為り、令を下して敢て匿ふ者有らば之を誅すとし、卓 譚を投じて免かる。此の役に及ぶや、卓 人を遣はして之を求めて曰く、「華侯 安くにか在る。吾 甘揚威が使なり」と。譚 知らずと答へ、絹二匹を遺りて以て之を遣はす。使 反るや、卓に告ぐ。卓曰く、「此れ華侯なり」と。復た之を求むるも、譚 已に亡せり。後に紀瞻の薦むる所と為り、而れども顧榮の止遏する所と為り、遂に數年 調を得ず。
建興の初に、元帝 命じて鎮東軍諮祭酒と為す。譚 博學多通にして、府に在りて事無くんば、乃ち書三十卷を著し、名づけて辨道と曰ひ、牋を上りて之を進め、帝 親自ら焉を覽ず。丞相軍諮祭酒に轉じ、郡大中正を領す。譚 干寶・范珧を朝に薦め、乃ち牋を上りて退かんことを求めて曰く、「譚 聞くに霸主の遠聽、才を求むるを以て務と為す。僚屬 身を量り、己を審らかにするを以てて分と為す。故に疎廣 老を告げ、漢宣 其の志に違はず。干木 偃息し、文侯 就ち其の廬に式す。譚 古人の賢無けれども、竊かに懷遠の慕有り。清顯に登りて自り、出入すること二載、執筆して贊事の功無く、拾遺して補闕の績無し。過は納言にして、善を舉ぐるに闇きに在り。狂寇 未だ賓せざるに、復た謀策乏し。年 七十に向(なんなん)とし、志力 日々衰へ、素餐 勞無く、實に宜しく辭退すべし。謹みて假る所の左丞相軍諮祭酒の版を奉還す」と。聽さず。
建武の初に、祕書監を授けらるるも、固讓して拜せず。太興の初に、前軍を拜すも、疾を以て復た祕書監に轉ず。自ら宿名を負ひ、恒に怏怏として志を得ず。時に晉陵の朱鳳・吳郡の吳震 並びに學行 清修たりて、老なるも未だ調せられず、譚 皆 薦めて著作佐郎と為す。
或ひと譚に問ひて曰く、「諺言に人の相 去るは、九牛の毛が如し。寧んぞ此の理有るか」と。譚 對へて曰く、「昔 許由・巢父 天子の貴を讓るも、市道の小人 半錢の利を爭ふ。此れの相 去ること、何ぞ啻(た)だ九牛の毛のみならんか」と。聞く者 善を稱ふ。
戴若思の弟の邈は、則ち譚の女壻なり。譚 平生の時 常に若思を抑へて邈を進め、若思 每に之を銜む。殆ど事を用て、恒に譚を帝に毀し、是に由り官塗 至らず。譚 每に觖望を懷き、嘗て從容として帝に言ひて曰く、「臣 已に老ゆ。將に死を祕閣に待つ。汲黯の言、復た今に存す」と。帝 懌(よろこ)ばず。久之、散騎常侍を加ふるも、屢々疾を以て辭す。王敦 逆を作すに及び、譚 疾 甚だしく、入省する能はず、坐免せらる。家に卒す。光祿大夫、金章紫綬を贈り、散騎常侍を加へ、諡して胡と曰ふ。二子あり、化・茂なり。
化 字は長風、征虜司馬と為り、汲桑を討ち、戰沒す。茂 爵を嗣ぐ。
華譚は字を令思といい、広陵の人である。祖父の華融は、呉の左将軍・録尚書事である。父の華諝は、呉の黄門郎である。華譚は一歳で孤児となり、母は(まだ)十八歳であったが、(亡き夫への)節を守って(華譚を)養育し、献身的に尽くした。成長すると、学問を好んで倦まず、聡明で弁舌に優れ、郷里で重んじられた。揚州刺史の周浚が招いて従事史とし、その才覚を愛し、賓友の礼で待遇した。
太康年間に、刺史の嵇紹が華譚を秀才に挙げ、これに(応じて)行こうとすると、別駕の陳総が華譚をはなむけし、そこで問いかけ、「賢者を思う君主は才能を求めることを務めとし、進取の士は功名を得ることを先とする。(しかし前漢で)なぜ董仲舒は武帝の朝廷に仕えず、賈誼は文帝のとき地位を失ったのか。これは呉でも晋でも明らかになっていない問題で、これについて議論してから別れたい」と言った。華譚は、「そもそも聖人が上にいれば、万物は理にかない、百官の地位は、賢者でなければ占めなくなる。すると山林は隠士をかくまわず、茅屋に隠棲するものが居なくなる。(ところが)皇統が継承されると、(世襲により)才覚が中ぐらい、あるいは凡人の王が登場し、聖人(皇帝)の地位について、万民の上に君臨する。(君主の資質が劣化すると)教化が日ごとに衰退し、風俗は凋落する。そして才覚が中ぐらいの君主は、頼りにする人材が偏り、同類ばかりが集まって、必ず党派を形成する。朋党の言葉は正しくないが、君主はそれを正しいと思う。自己認識としては任命した人材は顔回や冉求のような賢者で、宰相の器量の持ち主を登用しており、官僚は日ごとに元凱(八元八凱)のような功績を立てようと願い、君主は日ごとに尭舜の徳義に近づいていると思い込む。そのような(中ぐらいの才覚の)君主がどうして政治が徐々に毀損していることに気づくだろうか。朝廷は賢者を求めるという目標を掲げるが、才能を見抜くという実態がない。正しい進言があっても、誣告だと決めつける。新しく優れた対策があっても、妄言だと退ける。誣告と決めつけて他人を陥れる言葉と見なされ、妄言と決めつけて不忠の追及が行われる。このような状況であえて発言をするだろうか。浅はかで深い道理を見ず、卑近で遠い展望がない(発言だけであふれる)。発言が採用されず、計略が施行されず、自分の命の心配ばかりに忙しければ、どうして功名を立てる(国家のための)計略を論じるだろうか。ゆえに上官(大夫)は君主に取り入って屈原は放逐され、宰嚭は寵愛を受けて伍員は殺戮された。なんと哀しいことか。董仲舒は武帝に抑圧され、賈誼は文帝のとき立場を失ったのは、まだましな事例である。ゆえに白起は、『賢者を得るのが難しいのではない、賢者を用いるのが難しい。用いるのが難しいのではない、信頼するのが難しい』と言った。賢者を得ても用いられず、用いても信じられなければ、功業はどうして実現されようか」と言った。
華譚が洛陽に至ると、武帝が策文を直接与え、「いま四海は統一され、万里は風俗が同じになった。天下に道があり、これより盛んなものはない。しかし北に不服従の胡族がおり、西には醜悪な氐族がいる。ゆえに参謀は枕を高くして寝られず、辺境の人々は安心できない。どのようにして長く外患を鎮め、天下万物を混ぜ清めたらよいか」と言った。華譚が答えて、「私が聞きますに聖人が天下に臨むと、天の綱紀にもどういて教化を広げ、(ものを育む)谷風に従って仁を興し、三才をあわせて万物を統御し、四方を開いて賢者を招くものです。そして日夜に精勤して、才能の抜擢に務めます。巌穴を照らして、光を隠者を広く召し、見落としがありません。俊英が龍のように踊り出て、帝道が輝くでしょう。清徳が鳳のように飛び上がり、王化を興すでしょう。ですから皋陶が推挙されると、不仁なる者は遠ざかりました。陸賈が漢朝で要職につくと、遠方の夷が屈服しました。いま聖朝の徳音が朝廷から発信され、清風が果てなく吹き、軍旗が南をめざすと、江漢(孫呉)を席巻しました。干戈が西征すると、羌蛮は教化を慕い、四方から門を叩いて朝貢し、礼教が振興されました。賢者は声を聞けば反響するように集まり、才能の持ち主は高らかと雲のように集いました。客を迎える館を空けて賢者を待ち、重い爵位を設けて人士を待ちます。飢えや渇き(水や食料)よりも善を求め、音の反響よりもすばやく人材を登用します。阿諛追従の人物の入口を塞ぎ、(淫猥な)鄭声の音楽を廃します。天下万物を混ぜ清める方法は、まことにこの方策によるのではないでしょうか。西北に不服従の異民族がおり、砂漠に朝貢しない異民族がおりますが、これを征伐すれば軍隊が消耗し、勝ったところで利益がありません。ゆえに班固は、『その地を領有しても耕作して食料が取れず、その人を捕獲しても養えない。攻めてきたら懲らしめて防ぎ、立ち去れば防備を整えて守るのだ』と言いました。これが辺境を安定させる方法です」と言った。
また(武帝の)策文に、「呉と蜀は険阻な地形を利用したが、結局は平定された。蜀人は帰服し、二心を抱いていない。しかし呉人は抵抗し、しばしば妖賊の反乱を起こす。いったい蜀人は淳朴で、教化し懐かせやすいのか。呉人は軽狡で、安定せず動揺しやすいのか。いま新たに併合した地域を沈静化させたい。何が優先であろうか」と言った。対策に、「私が聞きますに漢末に天下が分裂し、英雄が鼎立すると、蜀は険しい山に籠もり、呉は江表に拠りました。大晋が龍のごとく興ると、天命に答えて、文皇帝(司馬昭)が戦略をねり、安楽(劉禅)が帰順しました。聖上(司馬炎)は秘かに計画し、帰命(孫晧)が教化を受け入れました。蜀は(晋に)染められて日が久しく、風教が完成しました。呉は併合されたばかりで、まだ風俗が改まりません。蜀人が淳朴であり呉人が動揺しやすいというのは誤りです。しかし習俗が異なり領土が遠く、風土は同じではありません。呉は長江を防衛線とし、旧来の習俗は軽狡であります。安定のためには、現地の人士に意見を求め、朝廷の門に駆けつけさせ、その賢才を昇進させ、特別に礼遇すべきです。すぐれた地方官を選び、威圧と風化を並用すべきです。その租税を軽くすれば、みな歓迎し、長く国家を支え、人臣として合流するでしょう」と言った。
また策文に、「聖人が言うには王者がいれば、必ず世代を経て仁が生じるという。いま天下は平定され、教化は全土に及ぶ。しかし匈奴はまだ帰順せず、羌氐は狡猾であるが、文徳を修めて綏撫し、干戈の舞によって招きよせたい。武力を中止し、兵士を休息させよう。そうすれば、武器を農機具に造りかえ、軍事費をなくしてよいだろうか」と言った。対策に、「唐尭は(即位し)年をまたいでから、頌声(功徳をほめる声)が興りました。文王から武王へと継承することで、礼楽が和同するに至りました。天下を清めて統一し、遠方まで征伐し、万国の軌道が揃い、海内は美しい模様となりました。また(文化水準の低い)被髪の郷、徒跣の国であっても、みな章甫(殷代の礼冠)をかぶって入朝し、礼服をまとって節を折り入朝しました。(ただし)大舜の徳政ですら、三苗の征伐がありました。周王の盛徳があっても、獫狁は侵略をしました。(ゆえに)文徳があっても、武備は必要であります。備えあれば憂いがないのが、古代の教訓です。安逸であっても危険を忘れないのは、聖人の不変の戒めです。常任の武庫の管理者を罷免し、武器をつぶして農耕具にしてはいけません。干戈をさかさまにして、獣皮に包んでおきなさい。軍の指揮官たちは諸侯としておき、平和の美風があろうとも、油断してはいけません」と言った。
また策文に、「そもそも法令の設定は、各時点の状況に応じるものだ。形勢が険悪ならば法令を厳格にして鎮圧し、形勢が穏便であれば法令を緩和して教化をめざす。いま天下は太平で、四方に懸案はなく、万民は徳を受け、無為にして自然と治まる。律令について、増減するべきか」と言った。対策に、「私が聞きますに五帝は礼を異にし、三王は教えを異にしました。ゆえに禅譲して政治を輝かせたり、放伐で攻め取ったりしました。(ただし)礼楽を興して人を和するには、風俗を清らかにして安らかにし、一致させるものです。いま風教は一致し、四海に脅威がなく、人はみな感化され、邪を除いて正に従っています。しかし尭舜の徳治のもとでも、(罪人を衣服の区別のみによって罰する)象刑がありました。殷周の隆盛した時代でも、甫侯(『尚書』呂刑篇の篇者)は律を定めました。律令があることは、どうして政治の妨げになりましょうか。もし大いなる道が四方に達し、礼楽が通じあい、人々が行動を修め、万民が節に励むならば、刑罰を中断して用いず、律令は存在しても実施しません。これだけで太平の美しい教化を高め、仁風を無限に吹かせることができます」と言った。
また策文に、「むかし帝舜は二八(十六人の名臣)によって功を成し、文王は多くの士人を抱えて周王朝を興した。政治の要諦は人を得ることだが、しかし賢才は得がたい。いま天下を統一した直後であり、才能の持ち主を探すべきだ。州郡に貢薦の挙があるが、まだ抜群の卓越した人材を得ていない。現代には人材が存在しないのか。あるいは登用の方法が不十分なのか」と言った。対策に、「聞きますに教化し法制を設けるとき、賢者でなければその道を輝かせることができません。世を平定して乱を鎮めるとき、才能がなければその事業を広めることができません。上は皇羲から、下は歴代の帝王の代まで、皇綱をあげて遠くの賢者を招致し、仁風を行き渡らせて万物を覆わなかったものはいません。ゆえに賢者を得れば教えが盛んになり、人材を失えば政治は衰退します。いま四海が統一され、万里の風俗が揃いました。州郡は秀孝を貢し、台府は良才を選んでいます。これほど国土が広く、人口が多いにも拘わらず、どうして卓越した俊才がいないのでしょうか。たとえば南海に明月の宝が少なくなく、大宛に千里の駒が少なくないのと同じです。聖哲の人物は見つけがたく、遠方の気運は見づらいものです。ゆえに尭舜の太平の時代ですら、二八(十六人の名臣)が舜によって初めて発見されました。殷の湯王が革命するときに、伊尹は鼎を背負って(料理人を経て)登用されました。現在は聖朝が亡国の士(もと蜀臣と呉臣)を礼遇し、遠方の人を歓迎しています。あるものは朝廷で高官となり、あるものは千里先で一軍を任せられるでしょう。巡狩すれば必ず呂公のような人物と出会い、夢のなかでは隠逸の士と通じ合うでしょう。賢俊の出現は、じっくりと待てばよいのです」と言った。
このとき九州の秀孝の策で華譚に及ぶものがいなかった。華譚はかねて才学によって東土で推薦されていた。同郡の劉頌がこのとき廷尉となり、華譚に会って歎息して、「同郷にこれほどの才能の持ち主がいるとは知らなかった」と言った。博士の王済は大勢のまえで華譚をあざけって、「五府が初めて設けられ、公たちが人材を辟召し、逸材を下賤から取りたて、賢儁を岩窟から抜擢した。きみは呉楚の出身であり、亡国の生き残りである。どのような長所があってこの推挙に応じたのか」と言った。華譚は答えて、「逸材はもとより地方が輩出するもので、中原からは輩出されない。だから明珠や文貝は、長江沿いから産出した。夜光の璞は、荊藍のもとから産出した。人材について確認しても、文王は東夷に生まれ、大禹は西羌に生まれた。あなたはご存知ないか。むかし武王が商に勝ち、殷の頑迷な民を洛邑に遷したという。諸君はその末裔でない保証があるのか」と言った。王済はまた、「(三国呉が)危険なのに保たず、逃げ出して支えなかったので、君臣は地位を失い、国家が滅んで主君を失うこととなった。(西晋で)官僚となって、やれることがあるのか」と言った。華譚は答えて、「ああ、国家の存亡は運命であり、興廃は時の巡りあわせである。天が見捨てたものを、人が支えることができない。徐偃は仁義を修めたが国を失い、仲尼は魯を逐われて斉に移らざるを得ず、段干は何もせずに名を成したが、すべて幸運と不運は時によるもので、人力で覆せるものではない」と言った。王済は華譚を尊重して接した。
ほどなく郎中に任命され、太子舎人・本国中正に遷った。母の死により官職を去った。喪が明けると、鄄城令となり、濮水を渡ったとき、「荘子賛」を作って功曹に示した。これを受けて廷掾の張延が(華譚のために)答教を作ると、その文はとても素晴らしかった。華譚は彼を認めて推薦し、(張延は)抜擢された。華譚が廬江太守となると、張延はさきに淮陵太守となっていた。また寒族の周訪を孝廉に推挙し、周訪はこれに応えて功名を立てたので、当時の人々は華譚が人材を熟知していると見なした。父の墓が壊れたため官職を去った。すぐに尚書郎に任命された。
永寧年間の初め、転出して郟令となった。このとき兵乱の後で、領域内は飢饉状態であったので、華譚は心血を注いで賑恤した。司徒の王戎はこれを聞いて良しとし、穀三百斛を支出してこれを援助した。華譚はとても治績があがり、ふたたび廬江内史に遷り、綏遠将軍を加えられた。このとき石冰の部下の陸珪らが諸県に拠点を持っていたので、華譚は司馬の褚敦を派遣してこれを討伐し平定した。また別軍を派遣して石冰の都督の孟徐を攻撃し、その驍率(精強な兵)を獲得した。功績により都亭侯に封建され、食邑千戸と、絹千匹を賜わった。
陳敏の乱のとき、呉の士人が多くが陳敏に(服従を)強要された。顧栄(顧榮)はさきに陳敏から官職を受けていたが、ひそかに陳敏の妥当を計画していた。華譚は顧栄の真意を悟らず、遠近に批判の文書を回付して、言葉を極めて顧栄の非を糾弾し、そのために顧栄に怨まれた。また郡において政治が厳正であり、そのために上官とたびたび衝突した。揚州刺史の劉陶は普段から華譚とそりが合わず、法に拠って華譚を捕らえ、寿陽の獄に下した。鎮東将軍の周馥は華譚とかねて親交があったので、弁明して出獄させた。甘卓が周馥を討伐し、百姓が逃げ散ると、周馥は華譚がもう立ち去ったと思い、人を遣わして確認させると、かえって(華譚が)周馥のそばに移動していた。周馥は感歎して、「私はかつて華令思(華譚)は臧子源(後漢末の臧洪)と同類であると思っていたが、やはりその通りであった」と言った。甘卓がかつて東海王越(司馬越)に捕らえられ、(司馬越が)あえて(甘卓を)かくまう者は誅殺するという令を下したが、甘卓は華譚のもと身を寄せて生き延びた。この戦役が起こると、甘卓は人を送って探し求め、「華侯はどこにいる。わたしは甘揚威(揚威将軍の甘卓)の使者だ」と告げた。華譚は(華譚の居場所を)知らないと答え、絹二匹を贈って帰らせた。使者は引き返し、甘卓に報告した。甘卓は、「それが華侯(本人)だったのだ」と言った。ふたたび使者を送って抱き込もうとしたが、華譚はすでにそこに立ち去った後だった。のちに紀瞻に推薦されたが、顧榮に妨害され、数年のあいだ徴召を受けなかった。
建興年間の初め、元帝が(華譚を)任命して鎮東軍諮祭酒とした。華譚は博学で多くのことに通じ、府にいて政務がないとき、三十巻の書物を著し、「辨道」と名づけ、書翰を提出し、元帝は自らこれを読んだ。丞相軍諮祭酒に転じ、郡大中正を領した。華譚は干宝と范珧を朝廷に進めた。そして書翰を提出して引退をしたいと告げ、「私が聞きますに霸主の臣下のうちで遠くにいるものは、才能(ある人材)を求めることが務めです。官僚たちは人材として査定し、己の素質を明らかにすることが職分です。ゆえに疎広(前漢宣帝の臣であった疏広)は老齢で引退を告げ、宣帝はその希望を聞き入れました。干木(戦国魏の段干木)は仕官を断り、(魏の)文侯はその庵に押しかけました。私は古人のような賢才はありませんが、遠い昔の賢者を慕っております。清顕(清らかな高い官職)に登ってから、出入りすること二年、執筆しても政務を助けた功績がなく、目配りして漏れを補った実績もありません。私の過失は納言(の職)にいるにも拘わらず、善事を言上できなかったことです。狂った寇賊がまだ服従しておりませんが、とくに方策も思いつきません。年齢が七十歳にせまり、志と力が日ごとに衰え、無益に官禄だけを得ているので、辞退すべきだと考えます。謹んで仮された左丞相軍諮祭酒の版(ふだ)を返上します」と言った。(引退は)許されなかった。
建武年間の初め、秘書監を授けられたが、固辞して拝さなかった。太興年間の初め、前軍を拝したが、病気を理由にまた秘書監に転じた。自ら昔からの名声を誇り、つねに怏々として志を得なかった。このとき晋陵の朱鳳と呉郡の呉震がどちらも学問と行いを清らかに治め、老齢だが召命を受けていなかったので、華譚は二人を推薦して著作佐郎にならせた。
あるひとが華譚に質問し、「ことわざに人間同士は、九牛の毛のように(ばらついて)差異があるという。どういう意味だろうか」と言った。華譚は答えて、「むかし許由や巣父は(尭舜から譲られた)天子の高貴な位を辞退したが、市井のつまらぬ人々は半銭の利得ですら争っている。彼らのばらつきは、ただ九牛の毛のみだろうか」と言った。聞いたものはその説明を称えた。
戴若思(戴淵)の弟の戴邈は、華譚の娘婿である。華譚がふだんから戴若思を抑えて戴邈を持ち上げたので、戴若思はつねに面白くなかった。ことあるごとに、つねに華譚のことを皇帝の前で批判し、そのせいで(華譚は)出世の道から外れた。華譚はつねに望みが満たされず、かつて寛いだとき皇帝に、「私はもう老いました。死を秘閣に待つという、汲黯(前漢武帝の臣)の言葉の、再現でございます」と言った。皇帝は喜ばなかった。しばらくして、散騎常侍を加えたが、しばしば(より上位を望み)病気を理由に辞退した。王敦が反逆すると、華譚の病気が悪化し、朝廷に出仕できなくなり、そのために罷免された。家で亡くなった。光禄大夫、金章紫綬を贈り、散騎常侍を加え、諡して胡とした。子が二人いて、華化と華茂である。
華化は字を長風といい、征虜司馬となり、汲桑を討伐し、戦没した。華茂が爵位を嗣いだ。
淮南袁甫字公冑、亦好學、與譚齊名、以詞辯稱。嘗詣中領軍何勖、自言能為劇縣。勖曰、「唯欲宰縣、不為臺閣職、何也」。甫曰、「人各有能有不能。譬繒中之好莫過錦、錦不可以為㡊。穀中之美莫過稻、稻不可以為齏。是以聖王使人、必先以器、苟非周材、何能悉長。黃霸馳名於州郡、而息譽於京邑。廷尉之材、不為三公、自昔然也」。勖善之、除松滋令。
轉淮南國大農・郎中令。石珩問甫曰、「卿名能辯、豈知壽陽已西何以恒旱。壽陽已東何以恒水」。甫曰、「壽陽已東皆是吳人、夫亡國之音哀以思、鼎足強邦、一朝失職、憤歎甚積、積憂成陰、陰積成雨、雨久成水、故其域恒澇也。壽陽已西皆是中國、新平強吳、美寶皆入、志盈心滿、用長歡娛。公羊有言、魯僖甚悅、故致旱京師。若能抑強扶弱、先疏後親、則天下和平、災害不生矣」。觀者歎其敏捷。年八十餘、卒於家。
淮南の袁甫 字は公冑、亦た學を好み、譚と名を齊しくし、詞辯を以て稱せらる。嘗て中領軍の何勖に詣り、自ら能く劇縣と為ると言ふ。勖曰く、「唯だ縣に宰たるを欲すのみにして、臺閣の職と為らざるは、何ぞや」と。甫曰く、「人は各々能有り不能有り。譬へば繒中の好も錦に過ぐる莫く、錦すら以て㡊と為す可からず。穀中の美も稻を過ぐる莫く、稻すら以て齏と為す可からず。是を以て聖王 人を使ふに、必ず先とするに器を以てし、苟し周材に非ずんば、何ぞ能く悉く長ぜん。黃霸 名を州郡に馳するも、而れども譽を京邑に息む。廷尉の材は、三公と為らざるは、昔より然るなり」と。勖 之を善とし、松滋令に除す。
淮南國大農・郎中令に轉ず。石珩 甫に問ひて曰く、「卿 能辯に名あり、豈に壽陽より已西 何を以て恒に旱なるやを知るか。壽陽より已東 何を以て恒に水なるか」と。甫曰く、「壽陽より已東は皆 是れ吳人なり。夫れ亡國の音は哀しくて以て思ひ、鼎足の強邦、一朝に職を失ひ、憤歎すること甚だ積もり、積もる憂 陰と成り、陰 積もりて雨と成り、雨 久しければ水と成る。故に其の域 恒に澇なり。壽陽より已西は皆 是れ中國なり。新たに強吳を平らげ、美寶 皆 入り、志は盈ち心は滿ち、用て長く歡娛す。公羊に言有り、魯僖 甚だ悅び、故に旱を京師に致すと〔一〕。若し能く強を抑へ弱を扶け、疏を先とし親を後とすれば、則ち天下 和平たりて、災害 生ぜず」と。觀る者 其の敏捷なるを歎ず。年八十餘にして、家に卒す。
〔一〕出典が未詳(発見できず)。
淮南の袁甫は字を公冑といい、彼もまた学問を好み、華譚と名を等しくし、弁舌によって称された。かつて中領軍の何勖のもとを訪れ、自分は劇県の長官になりたいと言った。何勖は、「ただ県の長官になることを希望し、臺閣(朝廷あるいは尚書)の職を希望しないのは、なぜか」と言った。袁甫は、「人にはそれぞれ能力の適否があります。たとえば繒(きぬ)のなかの良いものも錦(にしき)に過ぎることはなく、錦ですら㡊(かぶりもの)になりません。穀のなかの美味いものも稲を過ぎることはなく、稲ですら齏(あえもの)にはなりません。ですから聖王が人を使役するときは、必ず器質を優先し、もし十全な器質がないならば、必ずしも活躍させられましょうか。黃霸の名声は州郡で振るいましたが、京師では振るいませんでした。廷尉の素質の持ち主が、三公に適さないのは、昔からそうなのです」と言った。何勖は意見を認め、袁甫を松滋令に任命した。
淮南国大農・郎中令に転じた。石珩が袁甫に質問して、「あなたは弁舌が立つと評判ですが、いったい寿陽より以西がなぜつねに旱魃なのか分かりますか。寿陽より以東がなぜつねに洪水なのか分かりますか」と言った。袁甫は、「寿陽より以東はもと孫呉です。亡国者は悲しんで昔を懐かしがり、鼎立した強国でしたが、突然のことで官職を失い、憤りと嘆きが鬱積し、それが陰の気になって、その気が雨となり、雨が長く降れば洪水となります。ゆえにこの地域はいつも水浸しです。寿陽より以西はもと中国(曹魏)です。新たに強き孫呉を平定し、財宝が流入し、志と心は満たされ、長く喜び勇んでいます。『公羊伝』に、魯の僖公がとても悦んだので、旱魃を京師にもたらしたとあります。もし強きを抑えて弱きを助け、関係が薄いものを先とし濃いものを後とすれば、天下は調和し、災害が発生しないでしょう」と言った。見るものは弁舌の爽やかさに感心した。八十歳あまりで、家で亡くなった。
史臣曰、夫緝政釐俗、拔羣才以成務。振景觀光、俟明主而宣績。武皇之世、天下乂安、朝廷屬意於求賢、薖軸有懷於干祿。郤詵等並韞價州里、褏然應召、對揚天問、高步雲衢、求之前哲、亦足稱矣。令思行己徇義、志篤周甘、仁者必勇、抑斯之謂。雖才行夙章、而待終祕閣、積薪之恨、豈獨古人乎。
贊曰、郤・阮洽聞、含章體政。華生毓德、褫巾應命。鳥路曾飛、龍津派泳。素業可久、高芬斯盛。
史臣曰く、夫れ政を緝け俗を釐むるに、羣才を拔きて以て務を成す。景を振ひ光を觀るに、明主を俟ちて績を宣す。武皇の世に、天下 乂安たりて、朝廷 意を求賢に屬け、薖軸 干祿を懷く有り。郤詵ら並びに價を州里に韞み、褏然として召に應じ、天問に對揚し、雲衢に高步す。之を前哲に求るに、亦た稱するに足れり。思は己を行ひ義を徇(もと)めしめ、志は周甘より篤し。仁者は必ず勇ありとは、抑々斯れの謂ひなり。才行 夙に章ると雖も、而れども終を祕閣に待ち、積薪の恨み、豈に獨り古人のみならんやと。
贊に曰く、郤・阮は洽聞にして、含章し政を體す。華生 德を毓(やしな)ひ、巾を褫(ぬ)ぎて命に應ず。鳥路 曾飛し、龍津 派泳す。素業 久かる可し、高芬 斯こに盛なり。
史臣はいう、そもそも政治を和らげ風俗を整えるには、才能の持ち主を抜擢することを務めとした。かげを振るい光を見るに、明君の出現を待って実績を上げた。武皇帝の世に、天下が平穏となり、朝廷は賢者を求めることを重視し、薖軸(隠居しているもの)は仕官を望むようになった。郤詵のような人々は州里で礼装をつけ、着飾って召命に応じ、天子の問いかけに回答し、雲の上を歩いた(高官となった)。これを前代の賢者と比較しても、称賛するに十分である。彼らは身を修めて義を求め、その志は周馥や甘卓よりも厚い。仁者には必ず勇があるというのは、まさにこれを言ったものである。才能の行動が早くから明らかでも、結局(華譚は)秘閣(尚書)で待ちぼうけ、積薪の(後輩に追い抜かれる)恨みは、古人だけのものであろうかと。
賛に、郤詵と阮种は見聞が広く、内面に徳を含み政治を実現させた。華生(華譚)は徳を養い、巾をぬいで(隠者であることを中断して)召命に応じた。鳥のように一直線に飛び、龍のように水辺を舞い踊った。平生のなりわいは久しく続き、高く尊い香りは盛んとなった。