いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第二十三巻_愍懐太子(子虨・臧・尚)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。愍懐太子と賈皇后の、政争の顛末のみを描いた巻と言えましょう。福原啓郎先生の『西晋の武帝 司馬炎』で、愍懐太子の受けた仕打ちに興味を持ちました。悲劇の太子であり、「もしも彼が恵帝を継いでいれば、西晋は滅亡を防げたのではないか」と十年来、太子のために悔やみ、好印象を持っていました。しかし『晋書』の筆致は、喧嘩両成敗のようです。対立の原因を作り、対抗心を燃やした愍懐太子にも原因があったことが分かります。巻末の「史臣曰く」「賛に曰く」は、太子に批判的ですらあります。太子の態度の良否と、招き寄せた運命について、この翻訳でお確かめ下さい。

愍懐太子(司馬遹)

原文

愍懷太子遹字熙祖、惠帝長子、母曰謝才人。幼而聰慧、武帝愛之、恒在左右。嘗與諸皇子共戲殿上、惠帝來朝、執諸皇子手、次至太子、帝曰、是汝兒也。惠帝乃止。宮中嘗夜失火、武帝登樓望之。太子時年五歲、牽帝裾入闇中。帝問其故、太子曰、暮夜倉卒、宜備非常、不宜令照見人君也。由是奇之。嘗從帝觀豕牢、言於帝曰、豕甚肥、何不殺以享士、而使久費五穀。帝嘉其意、即使烹之。因撫其背、謂廷尉傅祗曰、此兒當興我家。嘗對羣臣稱太子似宣帝、於是令譽流於天下。
時望氣者言廣陵有天子氣、故封為廣陵王、邑五萬戶。以劉寔為師、孟珩為友、楊準・馮蓀為文學。惠帝即位、立為皇太子。盛選德望以為師傅、以何劭為太師、王戎為太傅、楊濟為太保、裴楷為少師、張華為少傅、和嶠為少保。元康元年、出就東宮、又詔曰、遹尚幼蒙、今出東宮、惟當賴師傅羣賢之訓。其游處左右、宜得正人使共周旋、能相長益者。於是使太保衞瓘息庭・司空泰息略・太子太傅楊濟息毖・太子少師裴楷息憲・太子少傅張華息禕・尚書令華廙息恒與太子游處、以相輔導焉。

訓読

愍懷太子遹 字は熙祖、惠帝の長子なり、母は謝才人と曰ふ。幼くして聰慧、武帝 之を愛し、恒に左右に在り。嘗て諸皇子と共に殿上に戲び、惠帝 來朝し、諸皇子の手を執り、次いで太子に至り、帝曰く、「是 汝の兒なるや」と。惠帝 乃ち止む。宮中 嘗て夜に失火し、武帝 樓に登りて之を望む。太子 時に年五歲、帝の裾を牽きて闇中に入る。帝 其の故を問ふに、太子曰く、「暮夜の倉卒、宜しく非常に備ふべし、宜しく人君をして照見せしむべからず」と。是に由りて之を奇とす。嘗て帝に從ひて豕牢を觀、帝に言ひて曰く、「豕 甚だ肥ゆ、何ぞ殺して以て士に享せず、而るに久しく五穀を費せしむ」と。帝 其の意を嘉し、即ち之を烹しむ。因りて其の背を撫で、廷尉傅祗に謂ひて曰く、「此の兒 當に我が家を興すべし」と。嘗て羣臣に對ひて太子を宣帝に似ると稱し、是に於いて令譽 天下に流る。
時に望氣者 廣陵に天子の氣有りと言ひ、故に封じて廣陵王と為し、邑五萬戶なり。劉寔を以て師と為し、孟珩もて友と為し、楊準・馮蓀もて文學と為す。惠帝 即位し、立ちて皇太子と為る。德望を盛選して以て師傅と為し、何劭を以て太師と為し、王戎もて太傅と為し、楊濟もて太保と為し、裴楷もて少師と為し、張華もて少傅と為し、和嶠もて少保と為す。元康元年、出でて東宮に就き、又 詔して曰く、「遹 尚ほ幼蒙なり、今 東宮に出で、惟だ當に師傅 羣賢の訓に賴るべし。其の左右に游處するは、宜しく正人を得て共に周旋せしめ、能く相 長益せしむべし」と。是に於て太保衞瓘が息庭・司空泰が息略・太子太傅楊濟が息毖・太子少師裴楷が息憲・太子少傅張華が息禕・尚書令華廙が息恒をして太子と與に游處せしめ、以て相 輔導す。

現代語訳

愍懐太子遹(司馬遹)は字は熙祖といい、恵帝の長子であり、母は謝才人である。幼いときから聡明であり、武帝に愛されて、つねに左右に置かれた。かつて皇子たちと殿上で遊んでいると、恵帝が来朝し、順に皇子たちの手をとってゆき、愍懐太子の番になったが、武帝は、「これはお前(恵帝)の子なのか」と言った。恵帝はやめてしまった。宮中でかつて夜に失火があり、武帝が高楼に登って眺めた。太子はこのとき五歳であったが、武帝の裾をひっぱって暗がりに連れ戻した。武帝がその理由を聞くと、太子は、「暗夜の突然の事件です、非常時に備えて下さい、人君が照らされて明るい場所にいてはいけません」と言った。この出来事によって(武帝は)太子を特別に評価した。かつて武帝に従って家畜の豕(いのこ)の牢を見ると、太子は武帝に、「豕はとても肥えています、なぜ殺して人士に振る舞わず、長いこと五穀を(餌として)費やしているのですか」と言った。武帝はその意見をほめ、殺して調理させた。そして太子の背を撫でて、廷尉の傅祗に、「この子はきっとわが家を興隆させるだろう」と言った。かつて群臣と会ったとき(武帝は)太子が宣帝(司馬懿)に似ていると褒め、このために美名が天下に知られた。
このとき望気者が広陵に天子の気があるといい、ゆえに広陵王に封建し、邑五万戸とした。劉寔を師とし、孟珩を友とし、楊準・馮蓀を文学とした。恵帝が即位すると、皇太子に立てられた。徳望のあるひとを厳選して師傅とし、何劭を太師とし、王戎を太傅とし、楊済を太保とし、裴楷を少師とし、張華を少傅とし、和嶠を少保とした。元康元(二九一)年、出て東宮にゆき、また詔して、「司馬遹はまだ幼く蒙昧であるが、いま東宮に出た、師傅や郡賢の教えに従うように。彼の学友は、正しい人を選んで供をさせ、互いに成長を促すように」と言った。そこで太保の衛瓘の子である衛庭・司空の泰(司馬泰)の子である司馬略・太子太傅の楊済の子である楊毖・太子少師の裴楷の子である裴憲・太子少傅の張華の子である張禕・尚書令の華廙の子である華恒を太子と交友させ、互いに助けあい成長させた。

原文

及長、不好學、惟與左右嬉戲、不能尊敬保傅。賈后素忌太子有令譽、因此密敕黃門閹宦媚諛於太子曰、殿下誠可及壯時極意所欲、何為恒自拘束。每見喜怒之際、輒歎曰、殿下不知用威刑、天下豈得畏服。太子所幸蔣美人生男、又言宜隆其賞賜、多為皇孫造玩弄之器、太子從之。於是慢弛益彰、或廢朝侍、恒在後園游戲。愛埤車小馬、令左右馳騎、斷其鞅勒、使墮地為樂。或有犯忤者、手自捶擊之。性拘小忌、不許繕壁修牆、正瓦動屋。而於宮中為市、使人屠酤、手揣斤兩、輕重不差。其母本屠家女也、故太子好之。又令西園賣葵菜・藍子・雞・麪之屬、而收其利。東宮舊制、月請錢五十萬、備於眾用、太子恒探取二月、以供嬖寵。洗馬江統陳五事以諫之、太子不納、語在統傳中。舍人杜錫以太子非賈后所生、而后性兇暴、深以為憂、每盡忠規勸太子修德進善、遠於讒謗。太子怒、使人以針著錫常所坐氊中而刺之。
太子性剛、知賈謐恃后之貴、不能假借之。謐至東宮、或捨之而於後庭游戲。詹事裴權諫曰、賈謐甚有寵於中宮、而有不順之色、若一旦交構、大事去矣。宜深自謙屈、以防其變、廣延賢士、用自輔翼。太子不能從。初、賈后母郭槐欲以韓壽女為太子妃、太子亦欲婚韓氏以自固。而壽妻賈午及后皆不聽、而為太子聘王衍小女惠風。太子聞衍長女美、而賈后為謐聘之、心不能平、頗以為言。謐嘗與太子圍棊、爭道、成都王穎見而訶謐、謐意愈不平、因此譖太子於后曰、太子廣買田業、多畜私財以結小人者、為賈氏故也。密聞其言云、皇后萬歲後、吾當魚肉之。非但如是也、若宮車晏駕、彼居大位、依楊氏故事、誅臣等而廢后於金墉、如反手耳。不如早為之所、更立慈順者以自防衞。后納其言、又宣揚太子之短、布諸遠近。于時朝野咸知賈后有害太子意。1.中護軍趙俊請太子廢后、太子不聽。

1.中華書局本によると、「趙俊」は、趙王倫伝では「趙浚」に作る。

訓読

長ずるに及び、學を好まず、惟だ左右と嬉戲し、能く保傅を尊敬せず。賈后 素より太子に令譽有るを忌み、此に因りて密かに黃門閹宦に敕して太子に媚諛して曰く、「殿下 誠に壯時に及び意の欲する所を極む可し、何為れぞ恒に自ら拘束する」と。每に喜怒の際を見、輒ち歎じて曰く、「殿下 威刑を用ゐるを知らずんば、天下 豈に得て畏服せんや」と。太子 幸する所の蔣美人 男を生み、又 言ひて宜しく其の賞賜を隆にし、多く皇孫の為に玩弄の器を造るべしと、太子 之に從ふ。是に於て慢弛 益々彰はれ、或 朝侍を廢し、恒に後園に在りて游戲す。埤車小馬を愛し、左右をして馳騎せしめ、其の鞅勒を斷ち、地に墮としめて樂と為す。或 犯忤する者有り、手づから自ら之を捶擊す。性は小忌に拘はり、壁を繕ひ牆を修め、瓦を正し屋を動すことを許さず。而して宮中に於いて市を為し、使人をして屠酤せしめ、手づから斤兩を揣(はか)り、輕重 差(たが)はず。其の母 本は屠家の女なり、故に太子 之を好む。又 西園をして葵菜・藍子・雞・麪の屬を賣らしめ、其の利を收む。東宮の舊制、月ごとに錢五十萬を請ひ、眾用に備ふ、太子 恒に二月を探取し、以て嬖寵に供す。洗馬江統 五事を陳べて以て之を諫め、太子 納れず、語は統傳中に在り。舍人杜錫 太子の賈后の所生に非ずして、而して后の性 兇暴たるを以て、深く以て憂を為し、每に忠規を盡して太子に德を修め善を進し、讒謗を遠ざくるを勸む。太子 怒り、人をして針を以て錫の常に坐する所の氊中に著して之を刺す。
太子の性は剛、賈謐 后の貴を恃むを知り、能く之に假借せず。謐 東宮に至るも、或 之を捨てて後庭に游戲す。詹事裴權 諫めて曰く、「賈謐 甚だ中宮に寵有り、而るに不順の色有れば、若し一旦 交構せば、大事 去らん。宜しく深く自ら謙屈し、以て其の變を防ぎ、廣く賢士を延き、用て自らの輔翼とすべし」と。太子 從ふ能はず。初め、賈后の母郭槐 韓壽の女を以て太子妃と為さんと欲し、太子 亦 韓氏と婚して以て自ら固めんと欲す。而るに壽の妻賈午及び后 皆 聽さず、而して太子の為に王衍の小女惠風を聘す。太子 衍の長女 美なるを聞き、而るに賈后 謐の為に之を聘せば、心 能く平らかならず、頗る以て言を為す。謐 嘗て太子と與に圍棊し、道を爭ひ、成都王穎 見て謐を訶し、謐の意 愈々不平たり、此に因り太子を后に譖りて曰く、「太子 廣く田業を買ひ、多く私財を畜ひて以て小人と結ぶは、賈氏の為の故なり。密かに其の言を聞くに云ふらく、皇后 萬歲の後、吾 當に之を魚肉にせんと。但だ是が如きのみに非ず、若し宮車 晏駕すれば、彼 大位に居り、楊氏の故事に依り、臣等を誅して后を金墉に廢すこと、手を反すが如きのみ。早く之が所を為すに如かず、更へて慈順なる者を立ちて以て自ら防衞せよ」と。后 其の言を納れ、又 太子の短を宣揚し、諸々遠近に布す。時に朝野 咸 賈后に太子を害するの意有るを知る。中護軍趙俊 太子に廢后を請ひ、太子 聽さず。

現代語訳

太子が成長すると、学問を好まず、ただ左右のものと遊びまくり、保傅(指導係)を尊敬しなかった。賈皇后は以前から太子の評判が高いのを嫌い、密かに黄門の宦官に命じて媚びへつらわせ、「殿下はもう大人ですから好きなことを極めたら宜しい、どうしていつも自制しているのですか」と言わせた。いつも喜怒の感情が高まったときを見計らい、(宦官が)歎いてみせ、「殿下が威刑を用いることを知らなければ、天下は畏服しましょうや(舐められますよ)」と言った。太子が愛する蒋美人が男子を生むと、(宦官は)もっと賞賜を厚くし、皇孫のために玩具を造ってやりなさいと言い、太子は従った。 こうして太子の驕慢と弛緩はますます表にあらわれ、あるときは(気まぐれに)朝廷の侍官を廃し、つねに後宮の庭園にいて遊戯した。小さな車と馬を愛し、左右のものに騎乗させ、その馬の留め具を切って、地に落として楽しんだ。あるものが規則を破ると、自らの手で鞭打った。性格は些細なことに拘り、壁を繕って垣根を直し、瓦を正して屋根を動かすことを許さなかった(こだわりを押し通した)。そして宮中に市場をひらき、従者に肉を裁いて酒を販売させ、自分の手で重さをはかり、寸分も狂いがなかった。彼の母はもとは屠家(肉屋)の娘であり、だから太子はこれを好んだのである。西園で葵菜・藍子・雞・麪といった商品を販売させ、利益をあげた。東宮の旧制どおり、月ごとに銭五十万を支給するよう求め、それをさまざまな用途に使い、太子はつねに二ヵ月分を前借りし、寵愛するものに与えた。洗馬の江統が五つの事柄を述べて諫めたが、太子は聞き入れず、江統伝に記述がある。舍人の杜錫は太子が賈皇后の実子ではなく、皇后の性質が凶暴であるから、深く心配をして、いつも忠義を尽くして規範を示し徳を修めて善行を進め、讒言される弱みを作らぬよう指導した。太子は怒り、杜錫の座る敷物のなかに針を仕込ませて彼を刺した。
太子の性格は剛直で、賈謐(かひつ)が(親族である)賈皇后の地位を利用していると知り、折り合いが付けられなかった。賈謐が東宮に来ても、あるときは捨ておいて後庭で遊んでいた。詹事の裴権が諫めて、「賈謐はとても中宮に可愛がられており、しかし(賈謐に)従順でない素振りを見せれば、ひとたび抗争が勃発すれば、重大な事業(太子の皇帝即位)が失敗してしまいます。こちらから深く譲歩して屈し、さような政変を防ぎ、広く賢者をまねき、あなたの輔翼としなさい」と言った。太子は聞き入れられなかった。これより先、賈皇后の母である郭槐は韓寿の娘を太子妃にしたいと考え、太子もまた韓氏と婚姻して自分の地位を固めたいと考えた。しかし韓寿の妻である賈午及び賈皇后が二人して反対し、太子には王衍の末娘である王恵風を嫁がせた。 太子は王衍の長女が美しいと聞き、しかし賈皇后が彼女を賈謐の嫁にしてしまったので、心のなかは不服であり、これについて頻繁に文句を言った。賈謐がかつて太子とともに圍棊をして、(盤上で)道を争ったが、成都王穎(司馬穎)がそれを見て賈謐を叱り、賈謐はますます面白くなく、ゆえに賈皇后に向けて太子を譏って、「太子が広く農地を買い、多く私財を蓄えて小人と交際しているのは、賈氏に対抗するためです。密かに彼の発言を聞くに、皇后の万歳の後(賈皇后が崩御したら)、私はきっと魚の餌にしてやるぞと言っています。それだけでなく、もし宮車が晏駕すれば(恵帝が崩御したら)、彼は帝位につき、楊氏(楊駿・楊悼太后)の前例に則り、私たちを誅殺して賈皇后を金墉城に押し込めることは、手のひらを返すようなもの。早く対処するほうがよく、(太子を)交替させて慈しみがあり従順な者を立てて自衛しなさい」と言った。賈皇后はその意見を入れ、さらに太子の短所を宣揚し、悪評を遠近に広めた。このとき朝廷も在野もみな賈皇后に太子への害意があると知っていた。中護軍の趙俊が太子に賈皇后を廃せよと要請したが、太子は許さなかった。

原文

九年六月、有桑生于宮西廂、日長尺餘、數日而枯。十二月、賈后將廢太子、詐稱上不和、呼太子入朝。既至、后不見、置于別室、遣婢陳舞賜以酒棗、逼飲醉之。使黃門侍郎潘岳作書草、若禱神之文、有如太子素意、因醉而書之、令小婢承福以紙筆及書草使太子書之。文曰、陛下宜自了。不自了、吾當入了之。中宮又宜速自了。不了、吾當手了之。并謝妃共要剋期而兩發、勿疑猶豫、致後患。茹毛飲血於三辰之下、皇天許當掃除患害、立道文為王、蔣為內主。願成、當三牲祠北君、大赦天下。要疏如律令。太子醉迷不覺、遂依而寫之、其字半不成。既而補成之、后以呈帝。
帝幸式乾殿、召公卿入、使黃門令董猛以太子書及青紙詔曰、遹書如此、今賜死。徧示諸公王、莫有言者、惟張華・裴頠證明太子。賈后使董猛矯以長廣公主辭白帝曰、事宜速決、而羣臣各有不同、若有不從詔、宜以軍法從事。議至日西不決。后懼事變、乃表免太子為庶人、詔許之。於是使尚書和郁持節、解結為副、及大將軍梁王肜・鎮東將軍淮南王允・前將軍東武公澹・趙王倫・太保何劭詣東宮、廢太子為庶人。是日太子游玄圃、聞有使者至、改服出崇賢門、再拜受詔、步出承華門、乘粗犢車。澹以兵仗送太子妃王氏・三皇孫于金墉城、考竟謝淑妃及太子保林蔣俊。
明年正月、賈后又使黃門自首、欲與太子為逆。詔以黃門首辭班示公卿。又遣澹以千兵防送太子、更幽于許昌宮之別坊、令治書御史劉振持節守之。先是、有童謠曰、東宮馬子莫聾空、前至臘月纏汝鬉。又曰、南風起兮吹白沙、遙望魯國鬱嵯峨、千歲髑髏生齒牙。南風、后名。沙門、太子小字也。

訓読

九年六月、桑 宮の西廂に生ふる有り、日に長さ尺餘、數日にして枯る。十二月、賈后 將に太子を廢せんとし、詐りて上 不和たると稱し、太子を呼びて入朝せしむ。既に至り、后 見えず、別室に置き、婢の陳舞を遣はして酒棗を以て賜ひ、逼り飲ましめて之を醉はしむ。黃門侍郎潘岳をして書草を作り、禱神の文の若くし、太子の素意の如く有らしめ、醉に因りて之を書き、小婢承福をして紙筆及び書草を以て太子をして之を書かしむ。文に曰く、「陛下 宜しく自了すべし。自了せずんば、吾 當に入りて之を了すべし。中宮 又 宜しく速かに自了すべし。了せずんば、吾 當に手づから之を了すべし。謝妃と并せて共に期を剋して兩發せんと要す、疑ふ勿れ猶豫せば、後患を致さん。毛を茹(くら)ひ血を三辰の下に飲み〔一〕、皇天 當に患害を掃除するを許すべし、道文を立てて王と為し、蔣もて內主と為す。願 成れば、當に三牲もて北君を祠り、天下に大赦すべし。要疏如律令」と。太子 醉迷して覺えず、遂に依りて之を寫し、其の字 半ば成らず。既にして補ひて之を成し、后 以て帝に呈す。
帝 式乾殿に幸し、公卿を召して入れ、黃門令董猛をして太子の書及び青紙の詔〔二〕を以て曰く、「遹の書 此の如し、今 死を賜ふ」と。徧く諸公王に示し、言有る者莫く、惟だ張華・裴頠 太子を證明す。賈后 董猛をして矯むるに長廣公主の辭を以てし帝に白して曰く、「事 宜しく速決すべし、而るに羣臣 各々不同有り、若し詔に從はざる有れば、宜しく軍法を以て從事せよ」と。議 日西に至りて決せず。后 事變を懼れ、乃ち太子を免じて庶人と為すを表し、詔して之を許す。是に於いて尚書和郁をして持節し、解結もて副と為し、及び大將軍の梁王肜・鎮東將軍の淮南王允・前將軍の東武公澹・趙王倫・太保の何劭 東宮に詣り、太子を廢して庶人と為す。是の日 太子 玄圃に游し、使者の至る有るを聞き、服を改めて崇賢門を出で、再び拜して詔を受け、步きて承華門を出で、粗犢車に乘る。澹 兵仗を以て太子妃王氏・三皇孫を金墉城に送り、謝淑妃及び太子保林の蔣俊を考竟す。
明年正月、賈后 又 黃門をして自首せしめ、太子と與に逆を為さんと欲とす。詔して黃門の首辭を以て公卿に班示す。又 澹を遣はして千兵を以て太子を防送し、更めて許昌宮の別坊に幽し、治書御史劉振をして持節して之を守らしむ。是より先、童謠有りて曰く、「東宮の馬子 聾空すること莫く、前(すす)みて臘月に至らば汝が鬉(たてがみ)を纏めん」と。又 曰く、「南風 起ちて白沙を吹き、遙かに魯國を望みて鬱として嵯峨たり、千歲の髑髏 齒牙を生やす」と。南風、后名なり。沙門、太子の小字なり。

〔一〕『礼記』礼運に「鳥獸之肉、飲其血、茹其毛」とあり、火を使う以前の生活を述べたもの。鳥獣の毛を十分に取り除くことがなく、毛を食べてしまう。
〔二〕説明がなく唐突に「青紙」が現れるが、本巻の後ろに、太子の弁明文のなかに「一白紙、一青紙有り」とある。

現代語訳

元康九(二九九)年六月、桑の木が東宮の西のひさしに生え、日ごとに一尺余り成長し、数日たって枯れた。十二月、賈皇后は太子を廃位にしようと、詐って恵帝がお怒りだと称し、太子を呼んで入朝させた。到着しても、恵帝はおらず、太子は別室に置かれ、(賈皇后は)婢の陳舞を使わして酒棗を賜り、飲むことを強制して酔わせた。黄門侍郎の潘岳に草稿を作らせ、神への祈祷文に見えて、実は太子の本心であるかのような文で、酔いに任せて書いてしまったような内容とし、小婢の承福に紙筆及び(潘岳の作った)草稿を運ばせて太子に書き写させた。文に、「陛下は自ら悟るべきだ。悟らぬなら、私が教えてやろう。中宮(賈皇后)も速やかに悟るべきだ。悟らぬなら、私がこの手で教えてやろう。(わが実母)謝妃とともに時期を区切って二人を廃位しようと思います、疑うなかれ先延ばしにすれば、後に災いとなるでしょう。毛を食らい血を三辰の下に飲んで誓います、皇天は害悪を排除することをお許し下さい、(わが子)道文を立てて王とし、(わが妻)蒋氏を内主(諸侯夫人)とします。願いが成就したら、三種の犠牲を北君を祭り、天下に大赦するでしょう。確かに履行しますよう」とあった。太子は酩酊して不覚となり、草稿どおり書き写したが、文字は半分も形を成さなかった。書き終えると(賈氏の側が)補って完成させ、賈皇后は恵帝に提出した。
恵帝は式乾殿にお出ましになり、公卿を召し入れ、黄門令の董猛に太子の文書及び青紙の詔を提示させ、「司馬遹(太子)の文書はこの通りだ、すぐに死を賜う」と言った。あまねく諸公王に示したが、発言者はおらず、ただ張華・裴頠だけが太子のために証言をした。 賈皇后は董猛に長広公主の言葉であると偽って恵帝に報告させ、「本件は速やかに決定すべきです、群臣に反対意見がありますが、もし詔に従わねば、軍法によって処断なさい」と言った。議論は夕方になっても決まらなかった。賈皇后は事態の変化を懼れ、ただちに太子を免じて庶人とするよう上表し、詔があってこれを許した。ここにおいて尚書の和郁に持節させ、解結を副使とし、大将軍の梁王肜(司馬肜)・鎮東将軍の淮南王允(司馬允)・前将軍の東武公澹(司馬澹)・趙王倫(司馬倫)・太保の何劭がいっしょに東宮に到来し、太子を廃位して庶人とした。この日は太子は玄圃(の庭園)で遊んでおり、使者が到着したと聞き、服を着替えて崇賢門を出で、二回拝して詔を受け、歩いて承華門を出て、粗犢車(粗末な子牛の車)に乗った。司馬澹は武装して太子妃の王氏・三人の皇孫を金墉城に送り、謝淑妃及び太子保林の蒋俊を考竟(死刑)にした。
翌年正月、賈皇后はさらに黄門に(嘘をついて)自首をさせ、太子とともに反逆をしようとしたと言わせた。詔して黄門の自白文を公卿に広く示した。また司馬澹を派遣して千人の兵で太子を護送し、場所を移して許昌宮の別坊に幽閉し、治書御史の劉振に持節してここを守らせた。これより先、童謡があって、「東宮の馬子(馬の飼育係)は聞こえない振りはせず、進んで臘月(十二月)になったら汝のたてがみをに纏めよう」と言った。また、「南風が起こって白沙(白砂)を吹き飛ばし、遥かに魯国を望んで鬱蒼として山が高く、千歳の髑髏が歯牙を生やす」と言った。南風は、賈皇后の名である。沙門が、太子の小字であった。

原文

初、太子之廢也、妃父王衍表請離婚。太子至許、遺妃書曰、鄙雖頑愚、心念為善、欲盡忠孝之節、無有惡逆之心。雖非中宮所生、奉事有如親母。自為太子以來、敕見禁檢、不得見母。自宜城君亡、不見存恤、恒在空室中坐。去年十二月、道文疾病困篤、父子之情、實相憐愍。于時表國家乞加徽號、不見聽許。疾病既篤、為之求請恩福、無有惡心。自道文病、中宮三遣左右來視、云、天教呼汝。到二十八日暮、有短函來、題言東宮發、疏云、言天教欲見汝。即便作表求入。二十九日早入見國家、須臾遣至中宮。中宮左右陳舞見語、中宮旦來吐不快、使住空屋中坐。須臾中宮遣陳舞見語、聞汝表陛下為道文乞王、不得王是成國耳。中宮遙呼陳舞、昨天教與太子酒棗。便持三升酒・大盤棗來見與、使飲酒噉棗盡。鄙素不飲酒、即便遣舞啟說不堪三升之意。中宮遙呼曰、汝常陛下前持酒可喜、何以不飲。天與汝酒、當使道文差也。便答中宮、陛下會同一日見賜、故不敢辭、通日不飲三升酒也。且實未食、恐不堪。又未見殿下、飲此或至顛倒。陳舞復傳語云、不孝那。天與汝酒飲、不肯飲、中有惡物邪。遂可飲二升、餘有一升、求持還東宮飲盡。逼迫不得已、更飲一升。飲已、體中荒迷、不復自覺。須臾有一小婢持封箱來、云、詔使寫此文書。鄙便驚起、視之、有一白紙、一青紙。催促云、陛下停待。又小婢承福持筆研墨黃紙來、使寫。急疾不容復視、實不覺紙上語輕重。父母至親、實不相疑、事理如此、實為見誣、想眾人見明也。

訓読

初め、太子の廢せらるるや、妃の父王衍 表して離婚を請ふ。太子 許に至り、妃に書を遺りて曰く、「鄙は頑愚と雖も、心に善を為さんと念じ、忠孝の節を盡くさんと欲し、惡逆の心有る無し。中宮の所生に非ざると雖も、奉事すること親母が如く有り。太子と為りて自り以來、敕して禁檢せられ、母に見ゆるを得ず。宜城君 亡して自り、存恤せられず、恒に空室の中に坐する在り。去年十二月、道文 疾病ありて困篤たり、父子の情、實に相 憐愍す。時に表して國家に徽號を加ふるを乞ふも、聽許せられず。疾病 既に篤く、之の為に恩福を求請するは、惡心有る無し。道文 病みて自り、中宮 三たび左右を遣はして來視し、云はく、『天教 汝を呼ぶ』と。二十八日の暮に到り、短函の來る有り、題して東宮 發(ひら)けと言ひ、疏に云はく、『天教 汝と見えんと欲すと言ふ』と。即便ち表を作りて入るを求む。二十九日 早くに入りて國家に見え、須臾にして中宮に至らしむ。中宮の左右たる陳舞 語られ、『中宮 旦に吐を來して不快なり』と、空屋の中坐に住らしむ。須臾にして中宮 陳舞を遣はして語られ、『聞くに汝 陛下に表して道文が為に王を乞ひ、王たるに是に國を成すを得ざるのみ』と〔一〕。中宮 遙かに陳舞を呼ぶらく、『昨 天教 太子に酒棗を與ふ』と。便ち三升の酒・大盤の棗を持ちて來り與へられ、酒を飲み棗を噉(くら)ひて盡せしむ。鄙 素より酒を飲まず、即便ち舞をして三升に堪へざるの意を啟說せしむ。中宮 遙かに呼びて曰く、『汝 常に陛下の前にして酒を持することを喜ぶ可し、何を以て飲まざる。天 汝に酒を與へ、當に道文をして差(い)えしむべきなり』と。便ち中宮に答へて、『陛下 會同して一日に賜はり、故に敢て辭せざれども、通日に三升の酒を飲まざるなり。且つ實に未だ食せず、堪へざるを恐る。又 未だ殿下に見えず、此を飲めば或いは顛倒に至らん』と。陳舞 復た語を傳へて云はく、『不孝なるや。天 汝に酒飲を與へ、飲むを肯んぜざるは、中に惡物有るや』と。遂に二升を飲む可し、餘 一升有り、持ちて東宮に還りて飲み盡すを求む。逼迫して已むを得ず、更めて一升を飲む。飲み已み、體中 荒迷し、復た自覺せず。須臾に一小婢の封箱を持して來る有り、云はく、『詔ありて此の文書を寫さしむ』と。鄙 便ち驚き起ち、之を視、一白紙、一青紙有り。催促して云く、『陛下 停まりて待つ』と。又 小婢たる承福 筆を持ち墨を研ち黃紙もて來り、寫さしむ。急疾ありて復た視るを容れず、實に紙上の語の輕重を覺えず。父母は至親なり、實に相 疑はず、事理 此の如し、實に誣せらると為す、眾人の見明を想ふなり」と。

〔一〕王の爵位を許され、封地を国にすることが許可されなかったならば、県王に封建されたか。

現代語訳

これより先、太子が廃位されると、妃の父の王衍が上表して離婚を求めた。太子が許昌に至ると、妃に文書を送って(無罪を訴えて)言うには、「私は頑迷ですが、善行を心がけ、忠孝の節を尽くそうとし、悪逆の心などありません。中宮(賈皇后)の実子でなくとも、実母のように仕えてきました。太子となってからは、行動を制限され、実母に会うことを禁じられました。宜城君(賈皇后の母)が亡くなってから、慰め憐れんでもらえず、つねに一人ぼっちでした。去年十二月、(わが子の)道文が病気になって重く、父として子を思い、憐れんで(死ぬ前に)良い目に会わせてやりたいと思いました。そこで上表して国家へ(道文に)特別な称号を加えることを願いましたが、許可されませんでした。病死のまぎわに、恩情を期待しただけで、反逆の心があったのではありません。道文の闘病中に、中宮は三回も左右のものを派遣し、『天子があなたを呼んでいる』と言いました。二十八日の暮に、小箱が到着し、標題に東宮が開けよとあり、なかの書簡に、『天子が会いたいと言っている』と(督促が)ありました。そこで上表文を作って入朝を求めました。二十九日の早朝に天子に会いにゆくと、しばらく中宮で待たされました。中宮の近侍である陳舞に、『中宮は明け方に吐き気があって体調が悪い』と言われ、誰もいない部屋に残されました。しばらくして中宮が陳舞を遣わして言うには、『聞くにあなたは陛下に上表して(子の)道文のために王号をねだり、(封地を)国とすることだけが許されなかったそうですね』と言いました。中宮が遠くから(別室にいて姿を見せぬまま)陳舞に、『昨日天子が太子に酒棗を与えましたね』と言いました。そこで三升の酒・大皿に盛った棗を持ってきて、酒と棗を平らげさせようとしました。私は普段から酒を飲まないので、陳舞に三升も飲めませんと説明しました。中宮は遠くから、『あなたはいつも陛下の前で楽しそうに酒を飲んでいるのに、なぜ飲まないのですか。天子があなたに酒を与え、道文の平癒を願って下さっているのですよ』と言った。そこで私は中宮に、『陛下と面会してその場で酒を頂いたならば、あえて辞退はしませんが、一日を通しても三升もまとめて飲んだことがありません。しかも空腹ですから、酔いの回りが早いでしょう。それにまだ殿下(賈皇后)に会っていないのに、これを飲めば酔い潰れてしまいます』と答えました。陳舞はさらに言葉を伝えて、『不孝者め。これは天子があなたに与えた酒である、飲むのを拒否するのは、毒物の混入でも疑っているのか』と言いました。とうとう二升までは飲み干せましたが、残りが一升あり、東宮に持ち返って飲みたいと言いました。しかし強制されて仕方がなく、残りの一升も飲みました。飲み終わると、体中が荒み乱れ、訳が分からなくなりました。やがて一人の小婢が封をした箱を持ってきて、『詔命ですこの文書を書き写しなさい』と言いました。私は驚いて体を起こし、それを見ると、一枚の白い紙と、一枚の青い紙でした。催促して、『陛下がわざわざ完成を待っておいでです』と言われました。また小婢の承福が筆を持ち墨をすって黄色い紙を持ってきて、筆写をさせました。急速に酔いが回って見ることができず、紙面に何が書いてあったのかも理解できませんでした。父母は最も親しい存在です、決して(賈皇后を)疑うことはしませんが、ことの真相はこの通りであり、事実と異なる咎めを受けております、衆人の賢明な判断を願っています」と言った。

原文

太子既廢非其罪、眾情憤怨。右衞督司馬雅、宗室之疏屬也、與常從督許超並有寵於太子、二人深傷之、說趙王倫謀臣孫秀曰、國無適嗣、社稷將危、大臣之禍必起。而公奉事中宮、與賈后親密、太子之廢、皆云豫知、一旦事起、禍必及矣。何不先謀之。秀言於趙王倫、倫深納焉。計既定、而秀說倫曰、太子為人剛猛、若得志之日、必肆其情性矣。明公素事賈后、街談巷議、皆以公為賈氏之黨。今雖欲建大功於太子、太子雖將含忍宿忿、必不能加賞於公、當謂公逼百姓之望、翻覆以免罪耳。若有瑕釁、猶不免誅。不若遷延却期、賈后必害太子、然後廢賈后、為太子報讐、猶足以為功、乃可以得志。倫然之。秀因使反間、言殿中人欲廢賈后、迎太子。賈后聞之憂怖、乃使太醫令程據合巴豆杏子丸。
三月、矯詔使黃門孫慮齎至許昌以害太子。初、太子恐見酖、恒自煮食於前。慮以告劉振、振乃徙太子於小坊中、絕不與食、宮中猶於牆壁上過食與太子。慮乃逼太子以藥、太子不肯服、因如廁、慮以藥杵椎殺之、太子大呼、聲聞于外。時年二十三。將以庶人禮葬之、賈后表曰、遹不幸喪亡、傷其迷悖、又早短折、悲痛之懷、不能自已。妾私心冀其刻肌刻骨、更思孝道、規為稽顙、正其名號。此志不遂、重以酸恨。遹雖罪在莫大、猶王者子孫、便以匹庶送終、情實憐愍、特乞天恩、賜以王禮。妾誠闇淺不識禮義、不勝至情、冒昧陳聞。詔以廣陵王禮葬之。

訓読

太子 既に廢せられ其の罪に非ずして、眾情 憤怨す。右衞督司馬雅、宗室の疏屬なり、常從督許超と與に並びに太子に寵有り、二人 深く之に傷つき、趙王倫の謀臣たる孫秀に說きて曰く、「國に適嗣無くんば、社稷 將に危ふし、大臣の禍 必ず起きん。而るに公 中宮に奉事し、賈后と親密にして、太子の廢、皆 豫め知ると云ひ、一旦に事 起くれば、禍必ず及ばん。何ぞ先んじて之を謀らざる」と。秀 趙王倫に言ひ、倫 深く焉を納る。計 既に定まり、而るに秀 倫に說きて曰く、「太子の人と為りは剛猛、若し志を得るの日、必ず其の情性を肆にせん。明公 素より賈后に事へ、街談巷議、皆 公を以て賈氏の黨と為す。今 大功を太子に建てんと欲すと雖も、太子 將に宿忿を含忍せんとすと雖も、必ず能く賞を公に加へず、當に公 百姓の望に逼り、翻覆して以て罪を免ずのみと謂ふべし。若し瑕釁有れば、猶ほ誅を免れず。遷延して期を却けんには若かず、賈后 必ず太子を害し、然の後 賈后を廢し、太子の為に報讐し、猶ほ以て功を為すに足り、乃ち以て志を得る可し」と。倫 之を然りとす。秀 因りて反間せしめ、殿中人 賈后を廢して、太子を迎へんと欲すと言ふ。賈后 之を聞きて憂怖し、乃ち太醫令程據をして巴豆杏子丸を合せしむ。
三月、詔を矯めて黃門孫慮をして齎して許昌に至りて以て太子を害せしむ。初め、太子 酖せらるを恐れ、恒に自ら食を前に煮せしむ。慮 以て劉振に告げて、振 乃ち太子を小坊中に徙し、絕えて食を與へず、宮中 猶ほ牆壁上より食を過して太子に與ふ。慮 乃ち太子に藥を以て逼り、太子 服するを肯ぜず、因りて廁に如き、慮 藥杵を以て之を椎(う)ち殺し、太子 大呼し、聲 外に聞こゆ。時に年二十三。將に庶人の禮を以て之を葬らんとし、賈后 表して曰く、「遹 不幸にして喪亡し、其の迷悖を傷(いた)むに、又 早く短折せり、悲痛の懷、自ら已む能はず。妾 私心に冀くは其の肌に刻み骨み刻み、更めて孝道を思ひ、規(のつと)りて為に稽顙して、其の名號を正さん。此の志 遂げざれば、重ねて以て酸恨す。遹 罪は莫大に在ると雖も、猶ほ王者の子孫、便ち匹庶を以て送終せば、情 實に憐愍し、特に天恩を乞ひ、王禮を以て賜へ。妾 誠に闇淺にして禮義を識らず、至情に勝へず、冒昧にして陳聞す」と。詔して廣陵王の禮を以て之を葬る。

現代語訳

太子が冤罪によって廃位されると、世論は憤って怨んだ。右衛督の司馬雅は、宗室の傍流であるが、常従督の許超とともに太子に可愛がられたので、二人は深く気に病み、趙王倫(司馬倫)の謀臣である孫秀に説いて、「国に嫡子がいなければ、社稷は危うくなり、高位高官にも必ず禍いがありましょう。しかし公(司馬倫)は中宮を奉って協力し、賈皇后と親密であり、太子の廃位は、予め全て知っていたと言います、ひとたび事件が起これば、必ず禍いが及ぶでしょう。どうして先取りして対処しないのですか」と言った。孫秀が趙王倫に伝えると、司馬倫は深く同意した。計画が完成したが、孫秀は司馬倫に、「太子の人となりは剛直で猛々しく、もし志を得たら、必ず本性が剥き出しになります。明公はかねて賈皇后に協力し、街角の評判では、みなあなたを賈皇后の仲間と捉えています。いま太子のために大きな功績を立てれば、太子は旧怨を押し殺しはしても、あなたに褒賞を加えるまでは行かず、 あなたが世論に迫られ、態度を翻して罪を免れただけと捉えるでしょう。もし少しでも過失が認定されれば、(復位を斡旋しても)なお誅殺を免れません。だらだらと時期を先延ばしにするのがよく、賈皇后はきっと太子を殺害しますから、その後に賈皇后を廃位し、太子のために報復したと言えば、(あなたの)功績とすることができ、しかも主導権を得られるでしょう」と言った。司馬倫はその通りだと考えた。孫秀は(世論の)対立をあおり、殿中の人々は賈皇后を廃位して、太子を迎えようと言い出した。賈皇后はこれを聞いて憂い怖れ、太医令の程拠に巴豆杏子丸を調合させた。
三月、詔を偽造して黄門の孫慮に頂かせて許昌に至り太子を殺害することにした。これより先、太子は毒殺を恐れ、つねに自ら食べる前に加熱をさせた。孫慮が劉振に(殺害命令を)告げると、劉振は太子を小坊のなかに移し、一切の食料を与えなかったが、許昌宮では高垣をまたいで食料を投げ入れて太子に差し入れをした。孫慮は太子に薬を飲めと逼ったが、太子は服用に同意せず、厠所に行ったので、孫慮は(追いかけて)薬杵で彼を打ち殺し、太子の叫び声は、外まで聞こえた。時に年は二十三。庶人の礼で葬ろうとしたが、賈皇后が上表して、「司馬遹は不幸にして亡くなり、その迷乱ぶりを残念に思うが、早くに短命を終え、悲痛な気持ちは、私の胸を抑えきれない。私なりには肌に刻み骨に刻み、改めて彼の孝行ぶりを思い、規定どおり拝礼し、その名号を正してやりたい。彼は志を遂げられなかった、重ねて痛恨に思う。司馬遹の罪は莫大であるが、一応は王者の子孫であるから、匹庶(匹夫や庶人)の礼で葬送するのは、感情と折り合わないので、特別に天恩を乞い、王の礼によって葬送をして下さい。私は浅薄な人間なので礼の規定を知りませんが、激情を堪えきれず、愚かにも申し上げました」と言った。詔して広陵王の礼によって葬った。

原文

及賈庶人死、乃誅劉振・孫慮・程據等、冊復太子曰、皇帝使使持節・兼司空・衞尉伊策故皇太子之靈曰、嗚呼、維爾少資岐嶷之質、荷先帝殊異之寵、大啟土宇、奄有淮陵。朕奉遵遺旨、越建爾儲副、以光顯我祖宗。祗爾德行、以從保傅、事親孝敬、禮無違者。而朕昧于凶構、致爾于非命之禍、俾申生・孝己復見于今。賴宰相賢明、人神憤怨、用啟朕心、討厥有罪、咸伏其辜。何補於荼毒冤魂酷痛哉。是用忉怛悼恨、震動於五內。今追復皇太子喪禮、反葬京畿、祠以太牢。魂而有靈、尚獲爾心。帝為太子服長子斬衰、羣臣齊衰、使尚書和郁率東宮官屬具吉凶之制、迎太子喪於許昌。
喪之發也、大風雷電、幃蓋飛裂。又為哀策曰、皇帝臨軒、使洗馬劉務告于皇太子之殯曰、咨爾遹。幼稟英挺、芬馨誕茂。既表髫齔、高明逸秀。昔爾聖祖、嘉爾淑美。顯詔仍崇、名振同軌。是用建爾儲副、永統皇基。如何凶戾潛構、禍害如茲。哀感和氣、痛貫四時。嗚呼哀哉。爾之降廢、實我不明。牝亂沈烖、釁結禍成。爾之逝矣、誰百其形。昔之申生、含枉莫訟。今爾之負、抱冤于東。悠悠有識、孰不哀慟。壺關干主、千秋悟己。異世同規、古今一理。皇孫啟建、隆祚爾子。雖悴前終、庶榮後始。窀穸既營、將寧爾神。華髦電逝、戎車雷震。芒芒羽蓋、翼翼縉紳。同悲等痛、孰不酸辛。庶光來葉、永世不泯。
諡曰愍懷。1.六月己卯、葬于顯平陵。帝感閻纘之言、立思子臺、故臣江統・陸機並作誄頌焉。太子三子、虨・臧・尚、並與父同幽金墉。

1.中華書局本によると、「己卯」は、本紀に従って「壬寅」に作るべきである。六月庚寅朔なので、六月に己卯は巡ってこないという。

訓読

賈庶人 死するに及び、乃ち劉振・孫慮・程據等を誅し、冊して太子に復して曰く、「皇帝 使持節・兼司空・衞尉伊をして故皇太子の靈に策して曰く、嗚呼、維れ爾(なんぢ) 少くして岐嶷の質に資(よ)り、先帝の殊異の寵を荷ひ、大いに土宇を啟き、奄に淮陵を有つ。朕 遺旨に奉遵し、越して爾を儲副に建て、以て我が祖宗を光顯す。爾の德行に祗(つつし)み、以て保傅に從ひ、親に事ふること孝敬、禮は違ふ者無し。而るに朕 凶構に昧く、爾に非命の禍を致す、申生・孝己をして復た今に見しむ〔一〕。賴(さいは)いに宰相の賢明、人神の憤怨、用て朕が心を啟き、厥の有罪を討ち、咸 其の辜に伏す。何ぞ荼毒に於いて冤魂の酷痛に補ふや。是を用て忉怛に悼恨し、五內を震動す。今 追ひて皇太子の喪禮を復し、反して京畿に葬り、太牢を以て祠る。魂ありて靈有らば、尚ほ爾が心を獲んことを」と。帝 太子の為に長子斬衰を服し、羣臣 齊衰し、尚書和郁をして東宮の官屬を率ひて吉凶の制を具へ、太子の喪を許昌に迎へしむ。
喪の發するや、大風雷電あり、幃蓋 飛裂す。又 哀策を為りて曰く、「皇帝 軒に臨み、洗馬劉務をして皇太子の殯に告げて曰く、咨爾 遹よ。幼くして英挺を稟け、芬馨 誕いに茂し。既に髫齔に表るるは、高明逸秀なり。昔 爾の聖祖、爾の淑美を嘉す。顯詔 仍(しき)りに崇び、名は同軌に振ふ。是を用て爾を儲副に建て、統を皇基に永くせんとす。如何ぞ凶戾 潛に構へて、禍害 茲に如き。和氣を哀感せしめ、痛 四時を貫けり。嗚呼 哀しいかな。爾が降廢、實に我が不明なり。牝亂 沈烖し、釁 結し禍 成れり。爾が逝けること、誰か其の形に百にせん。昔の申生、枉を含みて訟へ莫し。今 爾の負、冤を東に抱く。悠悠たる有識、孰れか哀慟せざる。壺關 主を干し、千秋 己を悟らしむ〔二〕。異世 規を同じくし、古今 理を一にす。皇孫 啟建して、祚を爾の子に隆す。前終に悴(おとろ)へたりと雖も、庶くは後始に榮えんことを。窀穸 既に營む、將に爾が神を寧んぜんとす。華髦 電逝し、戎車 雷震す。芒芒たる羽蓋、翼翼たる縉紳。悲を同じくし痛を等しくし、孰か酸辛せん。庶はくは來葉を光り、永世に泯びざることを」と。
諡して愍懷と曰ふ。六月己卯、顯平陵に葬る。帝 閻纘の言に感じ、思子臺を立て、故臣の江統・陸機 並びに焉に誄頌を作る。太子三子あり、虨・臧・尚、並びに父と同に金墉に幽せらる。

〔一〕申生は、春秋時代の晉の献公の長子。献公が後妻である驪姫の子を太子にしようとする画策に対して、国内に留まり殺害された(『史記』巻三十九 晋世家)。孝己は、殷の高宗の子。後妻の讒言によって殺害された。
〔二〕「壺関」と「千秋」は、深山 @miyama__akira さまによれば、『漢書』巻六十三 武五子 戾太子據傳の「壺關三老茂上書……」と、巻六十六 車千秋(田千秋)傳の「千秋上急變訟太子冤……」を踏まえたもの。

現代語訳

賈庶人が死ぬと、(協力者である)劉振・孫慮・程拠らを誅し、冊書により太子に復位させて、「皇帝が使持節・兼司空・衛尉の伊から故皇太子の霊に策命を告げる、ああ、君は若くして優れた素質があったおかげで、先帝が特別に目をかけ、おおいに領土を開き、淮陵を領有した(広陵王となった)。朕は(先帝の)遺志に従い、君を儲副に建て(太子とし)、わが祖先を輝かせようとした。君は徳行を大切にし、保傅(指導係)に従い、親には孝敬を尽くし、礼を踏み外すことがなかった。しかし朕は凶行に気づかず、君に禍いが及んで命を失わせ、申生・孝己の悲劇を現代にくり返してしまった。幸いにも賢明な宰相や、人や神霊の怒りと怨みが、朕に気づきを与え、罪のある者を討伐し、みな相応の罰を与えた。しかし害毒(な連中を処罰したこと)が冤罪で死んだ(太子の)悲痛を補うものであろうか。しきりに悼んで後悔し、全身が震えている。いま追って皇太子としての葬礼を取り戻し、京師に連れ戻して葬り、太牢を祭ろう。魂に霊があるなら、少しでも慰めになれば嬉しい」と言った。恵帝は太子のために長子斬衰の喪に、群臣は斉衰の喪に服し、尚書の和郁に東宮の官属を率いて吉凶の制を具備させ、太子の遺体を許昌に迎えに行かせた。
遺体が出発すると、強風と落雷が起こり、棺の覆いが砕け散った。さらに哀策を作って、「皇帝が軒に臨み、洗馬の劉務から皇太子の殯に告げる、ああ(司馬)遹よ。幼くして抜群の英才を授かり、声望がおおいに盛んであった。髫齔(七、八歳)になり、聡明さと優秀さが発現していた。むかし君の聖なる祖父(武帝)は、君の賢淑な美徳を称えた。明らかなる詔でしきりに褒められ、名が天下に轟いた。こうして君を儲副(太子)に立て、皇統を永遠のものにしようとした。〔だが〕何ということだ凶悪なものが謀略をめぐらせ、このような禍いが及んでしまうとは。和気を哀しませ、痛みは四季を通じて緩まない。ああ悲しいかな。君が廃位されたのは、本当に私の失敗である。皇后の悪意が沈殿し、対立が生まれて禍いが生じた。君の逝去は、誰がこれを語り切れようか。むかし申生は、不当な嫌疑を受けたが弁明しなかった。いま君も不当に、冤罪を東宮で課せられた。落ち着きのある有識者は、だれが哀しみ慟哭しないものか。壺関(三老の令狐茂)が主君(武帝)に意見し、車千秋は(武帝に)己(の誤り)を悟らせた。時代が異なっても規範は同じく、古今においても道理は同一である。皇太孫を立てて、祭祀を君の子の代で盛んにしよう。不幸な死に方をしたが、子孫は栄えることを願う。陵墓はすでに完成した、君の精神を安らかにしよう。華やかな飾りは雷で消し飛び、棺を運ぶ馬車は雷で震えた。広々とした羽蓋と、伸び伸びとした大帯よ(諸侯たちよ)。悲痛を共有し、なんと苦しいことか。どうか子孫が繁栄し、永久に滅びることがないように」と言った。
諡して愍懐とした。六月己卯、顕平陵に葬った。恵帝は閻纘の提言に感じるものがあり、思子台(子を追慕する建物)を立て、旧臣の江統・陸機が太子のために誄頌を作った。太子に三子がおり、虨・臧・尚といい、全員が父とともに金墉城に幽閉された。

子虨・臧・尚

原文

虨字道文、永康元年正月、薨。四月、追封南陽王。
臧字敬文。1.永康元年四月、封臨淮王。己巳、詔曰、咎徵數發、姦回作變、遹既逼廢、非命而沒。今立臧為皇太孫。還妃王氏以母之、稱太孫太妃。太子官屬即轉為太孫官屬。趙王倫行太孫太傅。五月、倫與太孫俱之東宮、太孫自西掖門出、車服侍從皆愍懷之舊也。到銅駝街、宮人哭、侍從者皆哽咽、路人抆淚焉。桑復生于西廂、太孫廢、乃枯。永寧元年正月、趙王倫篡位、廢為濮陽王、與帝俱遷金墉、尋被害。太安初、追諡曰哀。
尚字敬仁。永康元年四月、封為襄陽王。永寧元年八月、立為皇太孫。太安元年三月癸卯、薨、帝服齊衰朞、諡曰沖太孫。

1.中華書局本によると、恵帝紀は司馬臧を皇太孫に立てたのを五月とする。当年は四月辛卯朔なので、四月に己巳はなく、五月に己巳には巡ってくる。

訓読

虨 字は道文なり、永康元年正月、薨ず。四月、追ひて南陽王に封ぜらる。
臧 字は敬文なり。永康元年四月、臨淮王に封ず。己巳、詔して曰く、「咎徵 數々發し、姦回 變を作し、遹 既に逼り廢せられ、非命にして沒す。今 臧を立てて皇太孫と為す。妃王氏を還へて以て之に母たらしめ、太孫太妃と稱す。太子官屬 即ち轉じて太孫官屬と為す。趙王倫 太孫太傅を行す」と。五月、倫 太孫と俱に東宮に之き、太孫 西掖門自り出で、車服侍從 皆 愍懷の舊なり。銅駝街に到り、宮人 哭し、侍從する者 皆 哽咽し、路人 淚を抆(ぬぐ)ふ。桑 復た西廂に生え、太孫 廢し、乃ち枯る。永寧元年正月、趙王倫 篡位し、廢して濮陽王と為り、帝と俱に金墉に遷り、尋いで害せらる。太安初、追ひて諡して哀と曰ふ。
尚 字は敬仁なり。永康元年四月、封じて襄陽王と為る。永寧元年八月、立ちて皇太孫と為る。太安元年三月癸卯、薨ず、帝 齊衰の朞を服し、諡して沖太孫と曰ふ。

現代語訳

司馬虨は字を道文といい、永康元(三〇〇)年正月、薨じた。四月、追って南陽王に封ぜられた。
司馬臧は字を敬文という。永康元(三〇〇)年四月、臨淮王に封ぜられた。己巳、詔して、「悪い予兆がしばしば発せられ、邪悪なものが変事を起こし、司馬遹はすでに迫って廃位され、寿命を終え死亡してしまった。いま司馬臧を立てて皇太孫とする。妃王氏を代えて彼の母とし、太孫太妃と称する。太子の官属はそのまま太孫の官属に転任させる。趙王倫(司馬倫)が太孫太傅を行する」と言った。五月、司馬倫は太孫とともに東宮に行き、太孫は西掖門から出て、車服や侍従は全て愍懐太子のものを引き継いだ。銅駝街に到り、宮人が哭し、侍従する者が皆むせび泣き、路ゆく人は涙を拭った。桑の木がふたたび西廂に生えたが、太孫が廃されると、すぐに枯れた。永寧元(三〇一)年正月、趙王倫が皇位を簒奪し、(太孫を)廃して濮陽王となり、恵帝とともに金墉城に移され、ほどなく殺害された。太安初(三〇二-)、追って哀と諡された。
司馬尚は字を敬仁という。永康元(三〇〇)年四月、襄陽王に封建された。永寧元(三〇一)年八月、皇太孫に立てられた。太安元年三月癸卯、薨じ、恵帝は(喪は)斉衰の期に服し、沖太孫と諡した。

原文

史臣曰、愍懷挺岐嶷之姿、表夙成之質。武皇鍾愛、既深詒厥之謀。天下歸心、頗有后來之望。及于繼明宸極、守器春坊、四教不勤、三朝或闕、豹姿未變、鳳德已衰、信惑姦邪、疏斥正士、好屠酤之賤役、耽苑囿之佚遊、可謂靡不有初、鮮克有終者也。既而中宮凶忍、久懷危害之心、外戚諂諛、競進讒邪之說。坎牲之謀已搆、斃犬之譖遂行。一人乏探隱之聰、百辟無爭臣之節。遂使冤逾楚建、酷甚戾園。雖復禮備哀榮、情深憫慟、亦何補於荼毒者哉。
贊曰、愍懷聰穎、諒惟天挺。皇祖鍾心、庶僚引領。震宮肇建、儲德不恢。掇蜂搆隙、歸胙生災。既罹凶忍、徒望歸來。

訓読

史臣曰く、愍懷 岐嶷の姿に挺(ぬきん)で、夙成の質を表す。武皇 鍾愛し、既に詒厥(いけつ)の謀に深し〔一〕。天下 心を歸し、頗る后來の望有り。明を宸極に繼ぎ、器を春坊に守るに及び、四教 勤めず、三朝 或は闕き、豹姿 未だ變ぜず、鳳德 已に衰へ、姦邪に信じ惑ひ、正士を疏んじ斥け、屠酤の賤役を好み、苑囿の佚遊に耽り、初め有らざること靡きに、克く終り有ること鮮(すく)なしと謂ふ可し〔二〕。既にして中宮は凶忍にして、久しく危害の心を懷き、外戚 諂諛し、競ひて讒邪の說を進む。牲を坎にするの謀 已に搆へ、犬を斃すの譖 遂に行ふ〔三〕。一人 隱たるを探すの聰に乏しく、百辟 爭臣の節無し。遂に冤をして楚建を逾え〔四〕、酷は戾園より甚からしむ〔五〕。復た禮は哀榮を備へ、情は憫慟を深くすと雖も、亦 何ぞ荼毒に補ふ者なるをや。
贊に曰く、愍懷の聰穎、諒とに惟れ天挺なり。皇祖 心を鍾め、庶僚 領(うなぢ)を引く〔六〕。震宮 肇めて建て、儲德 恢からず。蜂を掇て隙を搆へ、胙を歸(をく)りて災を生ず。既にして凶忍に罹(かか)りて、徒(いたづら)に歸來を望む。

〔一〕詒厥は、『毛詩』大雅 文王有聲に「詒厥孫謀、以燕翼子」とあり、新釈漢文大系は「厥(そ)の孫謀(くんぼう)を詒(のこ)し、以て燕(やす)んじ翼子す(よくし)す」と訓読する。周武王が訓戒を遺し、民を安んじ助け慈しんだという。
〔二〕『毛詩』大駕 蕩に「靡不有初、鮮克有終」とある。(その命は)初めから不善であったのではなく、(悪政が天命を)長続きさせないものにしている、という文。
〔三〕「坎牲」と「斃犬」は出典が未詳。
〔四〕楚建は、楚の太子。しかし、父の平王が太子のために娶った妻を奪ったため、宋に亡命した(『春秋左氏伝』昭公 伝二十年)。
〔五〕戻園は、戻太子のこと。戻太子は、前漢武帝の皇太子の劉拠。母は衛皇后。巫蠱の乱により、子の劉進をはじめとする一族はことごく誅殺された(『漢書』巻八 宣帝紀、同巻六十三 武五子伝)。
〔六〕『春秋左氏伝』成公 伝十三年に「我君景公引領西望」とある。

現代語訳

史臣が言うには、愍懐太子は幼少のころから飛び抜けて立派であり、早熟の性質が表れていた。武皇帝が特別に愛情を注ぎ、すでに遺訓があった(三代皇帝に期待した)。天下が心を帰順させ、後代への絶大な希望を抱いていた。明らかなる位を継承し(太子となり)、春坊(東宮の坊)で教育を受けると、四教に勤めなかったから、あるいは三朝(元日の礼か)は欠け、まだ(君子に)豹変することはなく、(祖父から継承した)鳳皇の徳はすでに衰え、姦悪なものが信頼されて幅を利かせ、正義の人士を疎んじて遠ざけ、酒や肉の販売のような賤業を好み、庭園で遊び耽ってしまったが、初めから不善があったのではなく、(悪い行いが)命運を長続きしないものに変えたと言うことができる。中宮(賈皇后)は凶悪で残忍であり、ずっと危害を加えてやろうと付け狙い、外戚は媚びへつらい、競って邪悪な讒言を耳に入れた。犠牲を陥れる謀略が立案され、政敵を倒すための偽装が実行された。一人の隠者を探すための聡明さに欠き、百官は(主意に)逆らうような節度を持たなかった。こうして楚建よりもひどい冤罪をこうむり、戻太子よりも酷薄な措置がなされた。死後に葬礼の格式は取り戻され、憐憫の情は深かったが、害毒を補填する程のものであったのか。
賛にいう、愍懐太子の聡明さと鋭敏さは、まことに天賦のものである。祖父武帝が心を留め、群僚は顔を向け(注目して支持し)た。震宮(太子の宮)を初めて建てたが、儲徳(太子の徳)は大きくなかった。蜂を突いて対立を起こし、供物(棗と酒)を贈られて災難が生じた。凶悪で残忍な者に陥れられた後、弁明と地位回復を望んだが無駄な努力であった(対立発生の予防をすべきであった)と。