翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。
羅憲、字令則、襄陽人也。父蒙蜀廣漢太守。憲年十三能屬文、早知名。師事譙周、周門人稱爲子貢。性方亮嚴整、待士無倦、輕財好施、不營產業。仕蜀爲太子舍人、宣信校尉、再使於吳、吳人稱焉。
時黃皓預政、衆多附之、憲獨介然。皓恚之、左遷巴東太守。時大將軍閻宇都督巴東。拜憲領軍、爲宇副貳。魏之伐蜀、召宇西還、憲守永安城。及成都敗、城中擾動、邊江長吏皆棄城走。憲斬亂者一人、百姓乃安。知劉禪降、乃率所統臨于都亭三日。吳聞蜀敗、遣將軍盛憲西上、外託救援、内欲襲憲。憲曰「本朝傾覆、吳爲脣齒、不恤我難而邀其利。吾寧當爲降虜乎。」乃歸順。於是繕甲完聚、厲以節義、士皆用命。
及鍾會・鄧艾死百城無主、吳又使歩協西征、憲大破其軍。孫休怒、又遣陸抗助協。憲距守經年、救援不至、城中疾疫太半。或勸南出牂柯、北奔上庸、可以保全。憲曰「夫爲人主、百姓所仰、既不能存、急而棄之、君子不爲也。畢命於此矣。」會荊州刺史胡烈等救之、抗退。加陵江將軍・監巴東軍事・使持節、領武陵太守。
泰始初、入朝、詔曰「憲忠烈果毅、有才策器幹。可給鼓吹。」又賜山玄玉佩劍。泰始六年卒、贈使持節・安南將軍・武陵太守、追封西鄂侯、諡曰烈。
初、憲侍讌華林園、詔問蜀大臣子弟。後問先輩宜時敘用者、憲薦蜀人常忌・杜軫等。皆西國之良器、武帝並召而任之。
子襲、歴給事中・陵江將軍、統其父部曲、至廣漢太守。兄子尚。
尚、字敬之、一名仲。父式、牂柯太守。尚少孤、依叔父憲。善屬文。荊州刺史王戎以尚及劉喬爲參軍、並委任之。太康末、爲梁州刺史。
及趙廞反于蜀、尚表曰「廞非雄才、必無所成。計日聽其敗耳。」乃假尚節[二]、爲平西將軍・益州刺史・西戎校尉。性貪、少斷、蜀人言曰「尚之所愛、非邪則佞。尚之所憎、非忠則正。富擬魯衞、家成市里。貪如豺狼、無復極已。」又曰「蜀賊尚可、羅尚殺我。平西將軍、反更爲禍。」
時李特亦起於蜀、攻蜀、殺趙廞。又攻尚於成都、尚退保江陽。初、尚乞師方嶽、荊州刺史宗岱率建平太守孫阜救之、次于江州。岱・阜兵盛、諸爲寇所逼者、人有奮志。尚乃使兵曹從事任鋭偽降、因出密宣告于外、剋日俱擊、遂大破之、斬李特、傳首洛陽。特子雄僭號、都于郫城。尚遣將軍隗伯攻之、不剋。俄而尚卒、雄遂據有蜀土。
羅憲、字は令則、襄陽の人なり。父の蒙は蜀の廣漢太守。憲は年十三にして能く文を屬(つづ)り、早くに名を知らる。譙周に師事するや、周の門人は稱して子貢と爲す。性は方亮にして嚴整、士を待するに倦(う)むこと無く、財を輕んじ施を好み、產業を營まず。蜀に仕えて太子舍人と爲り、宣信校尉たり、再び吳に使し、吳人焉(これ)を稱す。
時に黃皓 政に預(あずか)り、衆は多く之に附くも、憲のみ獨り介然たり。皓 之を恚(いか)り、巴東太守に左遷せらる。時に大將軍の閻宇は巴東に都督たり。憲を領軍に拜し、宇の副貳と爲す。魏の蜀を伐つや、宇を召して西のかた還らしめ、憲は永安城を守る。成都の敗るるに及び、城中擾動し、邊江の長吏は皆な城を棄てて走る。憲 亂者一人を斬り、百姓乃ち安んず。劉禪の降りしを知るや、乃ち統ぶる所を率いて都亭に臨すること三日。吳は蜀の敗るるを聞き、將軍の盛憲を遣わして西のかた上らしめ、外は救援に託すも、内は憲を襲わんと欲す。憲曰く「本朝の傾覆するや、吳は脣齒たるも、我が難を恤(すく)わずして其の利を邀(もと)む。吾 寧んぞ當に降虜と爲るべけんや」と。乃ち歸順す。是に於いて甲を繕いて聚を完(まった)くし、厲(はげ)ますに節義を以てしたれば、士は皆な命を用う。
鍾會・鄧艾の死するに及び、百城主無ければ、吳は又た歩協をして西のかた征(う)たしむるも、憲 大いに其の軍を破る。孫休 怒り、又た陸抗を遣わして協を助けしむ。憲 距守すること經年、救援至らず、城中の疾疫するもの太半。或るひと勸むらく、南のかた牂柯に出で、北のかた上庸に奔らば、以て保全すべし、と。憲曰く「夫れ人主と爲り、百姓の仰ぐ所たるに、既に存する能わずとて、急にして之を棄つるは、君子の爲さざるところなり。命を此に畢(つく)さん」と。會々(たまたま)荊州刺史の胡烈等 之を救いたれば、抗は退けり。陵江將軍・監巴東軍事・使持節〔一〕を加え、武陵太守を領せしむ。
泰始の初め、入朝するや、詔して曰く「憲は忠烈・果毅にして、才策・器幹有り。鼓吹を給すべし」と。又た山玄玉〔二〕・佩劍を賜う。泰始六年卒するや、使持節・安南將軍・武陵太守を贈り、追いて西鄂侯に封じ、諡して烈と曰う。
初め、憲の華林園に侍讌するや、詔して蜀の大臣の子弟を問う。後に先輩の宜しく時に敘用すべき者を問うや、憲は蜀人の常忌・杜軫(としん)等を薦む。皆な西國の良器にして、武帝 並びに召して之を任ず。
子の襲は給事中・陵江將軍を歴(へ)、其の父の部曲を統べ、廣漢太守に至る。兄の子の尚。
尚、字は敬之、一名は仲。父の式、牂柯太守たり。尚は少くして孤、叔父の憲に依る。善く文を屬る。荊州刺史の王戎 尚及び劉喬を以て參軍と爲し、並びに之に委任す。太康の末、梁州刺史と爲る。
趙廞(ちょうきん)の蜀に反するに及び、尚 表して曰く「廞は雄才に非ざれば、必ず成す所無からん。日を計えて其の敗るるを聽くのみ」と。乃ち尚に節を假し、平西將軍・益州刺史・西戎校尉と爲す。性は貪にして、斷ずること少なければ、蜀人言いて曰く「尚の愛する所、邪に非ずんば則ち佞。尚の憎む所、忠に非ずんば則ち正。富は魯衞に擬し、家は市里を成す。貪なること豺狼の如く、復た極已すること無し」と。又た曰く「蜀賊は尚お可なるも、羅尚 我を殺さん。平西將軍、反(かえ)って更に禍を爲す」と。
時に李特も亦た蜀に起ち、蜀を攻め、趙廞を殺す。又た尚を成都に攻むるや、尚 退きて江陽に保(とりで)す。初め、尚の師を方嶽に乞うや、荊州刺史の宗岱は建平太守の孫阜を率いて之を救わんとし、江州に次(やど)る。岱・阜の兵は盛んなれば、諸々の寇の逼る所と爲る者、人ごとに奮志有り。尚 乃ち兵曹從事の任鋭(じんえい)をして偽りて降らしめ、因りて出でて密かに外に宣告せしめ、日を剋(き)めて俱(とも)に擊ち、遂に大いに之を破り、李特を斬り、首を洛陽に傳う。特の子の雄 僭號し、郫(ひ)城に都(みやこ)す。尚 將軍の隗伯を遣わして之を攻めしむるも、剋たず。俄(にわ)かにして尚は卒したれば、雄は遂に據りて蜀土を有(たも)つ。
〔一〕節:皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔二〕山玄玉:『礼記』玉藻篇に記されている周代の服飾の規定のうち、諸侯が身に着けるものとされている玉。
羅憲は字を令則と言い、襄陽郡の人である。父の羅蒙は蜀の広漢太守であった。羅憲は十三歳ですでに文章がとても上手く、早くに名を知られた。譙周に師事していたときには、譙周の門弟たちは羅憲を子貢になぞらえた。性格は正直・誠実でかつ厳格、士大夫に対しては怠惰な姿勢は見せずに丁重に接し、財産に拘泥せず他人に施しをすることを好み、財産を増やそうとあくせくすることはなかった。蜀に仕えて太子舍人となり、ついで宣信校尉になって、呉に使者として二回派遣されたが、呉の人は羅憲を称えた。
時に黄皓が政治に参与し、人々は多く黄皓に追従したが、羅憲だけは堅固として己を曲げなかった。それに対して黄皓は怒り、羅憲は巴東太守に左遷されてしまった。時に大将軍の閻宇は巴東都督を務めていたが、巴東太守に任命された羅憲は領軍を兼任することとなり、同時に閻宇の副官たる巴東副弐都督となった。魏が蜀を滅ぼそうと攻めてくると、蜀の朝廷は閻宇を召して西に帰らせ、羅憲は永安城を守備することとなった。成都の蜀朝廷が敗れると、永安城中は混乱して騒ぎになり、巴東周辺の長江沿い地域の長吏(勅任官)たちはみな城を捨てて逃げてしまった。羅憲が乱れ騒ぐ者を一人斬って戒めたところ、人々はそこでようやく落ち着いた。羅憲は劉禅が降ったことを知ると、そこで管轄下の将兵を率いて三日のあいだ都亭(県の治所が置かれている地域の亭)において皆で哭礼を行って泣き悲しんだ。そこに蜀が敗れたことを聞いた呉が、上辺は救援だと取り繕いながらも、内心としては羅憲を襲撃しようと、将軍の盛憲を派遣して西上させた。羅憲は言った。「我が国が転覆しようとしているというのに、唇と歯の関係のように密接に互いを助け合うべき存在である呉は、我が国の危難を救わずに漁夫の利を得ようとしている。私はどうして呉の捕虜となることができようか」と。よって魏に帰順した。そこで羅憲は武具を修繕し、糧食を蓄えて城郭を整え、節義を示して兵士を激励したので、兵士たちはみな命令を忠実に聞いた。
(蜀討伐軍の司令官であった鍾会と鄧艾の二人のうち、反乱を起こして失敗した)鍾会が殺され、(鍾会の乱に関わる政治的抗争の中で)鄧艾も殺されると、旧蜀地域の諸城は指導者不在の状態となってしまったので、呉はまた歩協を派遣して西征して羅憲を攻撃させたが、羅憲は歩協軍を大いに破った。当時の呉の皇帝であった孫休は怒り、さらに陸抗を派遣して歩協を援助させた。羅憲は一年以上それを防いだが、救援は至らず、城中で疫病が流行って大半の人がそれにかかった。ある人が羅憲に勧めるには「城を出て南の牂柯郡に行き、そこから北上して上庸郡に逃げれば、身を保全することができます」と。それに対して羅憲は言った。「そもそも人の上に立つ者は、人々の頼みとする存在であるのに、このままでは生きながらえないからと言って人々を急に見捨てるのは、君子が行うべきことではない。ここで命を尽くすまでよ」と。ちょうど荊州刺史の胡烈らの救援が到着すると、陸抗は退却した。魏の朝廷は羅憲に「陵江将軍・監巴東軍事・使持節」の肩書きを与え、武陵太守を兼任させた。
(魏が晋に取って代わられた後)西晋・武帝の泰始年間の初め、羅憲が洛陽に赴いて武帝に謁見すると、武帝は以下のような詔を下した。「羅憲は忠誠篤く勇猛果敢で、智略・才能に溢れている。鼓吹(楽隊)を授けるのが良かろう」と。また山玄玉・佩剣を賜わった。泰始六年(二七〇)に羅憲が死ぬと、「使持節・安南将軍・武陵太守」の肩書きを追贈し、西鄂侯に追封し、「烈侯」という諡号を与えた。
かつて、羅憲が華林園で武帝の宴に侍従していたとき、詔を下して旧蜀の大臣の子弟について尋ねたことがあった。後になって、前に羅憲が話した蜀の人物たちのうち、タイミングからして任用するのにちょうど良い人物について武帝が問うと、羅憲は蜀人の常忌・杜軫らを薦めたが、すべて西国の良才であり、武帝はみな召して任用した。
羅憲の子の羅襲は給事中、陵江将軍を歴任し、父の羅憲の部下の将兵たちを代わりに統括し、最終的に広漢太守にまで昇進した。羅憲の兄の子に羅尚がいた。
羅尚は字を敬之と言ったが、一名を仲と言った。父の羅式は牂柯(しょうか)太守であった。羅尚は若くして父を失い、叔父である羅憲を頼った。文章が得意であった。ゆえに荊州刺史の王戎は羅尚と劉喬を参軍に任じたが、事務をこの二人に任せっきりにしていた。西晋の太康年間の末に梁州刺史となった。
趙廞(ちょうきん)が蜀の地で反乱を起こすと、羅尚は上表して言った。「趙廞は飛びぬけた才能はないため、何も成し遂げられずに終わるに違いありません。敗れたという知らせがまもなく聞けるでしょう」と。そこで羅尚に「仮節」の権限で節を授け、「平西将軍・益州刺史・西戎校尉」に任じた。性格は貪婪で、渋ってばかりで思い切りがないので、蜀地域の人々はこのように言い合った。「羅尚が愛するのは邪悪な者でなければ奸佞な者である。羅尚が憎むのは忠良な者でなければ正直な者である。富はまるで子貢が魯や衞で蓄財したのになぞらえられるくらい多く、家の周りに市街ができるほどである。貪欲さは豺狼(山犬や狼)のようであり、まったく際限がない」と。さらにこのように言った。「蜀の地域の賊徒はまだマシな方で、羅尚はまさに我々を死に追いやるような存在である。平西将軍(羅尚)は却ってさらなる禍をもたらしている」と。
時に李特もまた蜀で起兵し、蜀の地を攻め、趙廞を殺した。さらに羅尚を成都に攻めると、羅尚は退却して江陽郡を守った。初め、羅尚が救援の出兵を付近の州郡に要請した際、荊州刺史の宗岱は建平太守の孫阜を率いて羅尚の救援に向かい、江州に駐屯した。宗岱・孫阜の兵は盛んであったので、賊の攻撃に遭っている者たちはみなひとりひとり奮志を抱いた。羅尚はそこで兵曹従事の任鋭(じんえい)に偽りの降伏をさせ、それによって外に出して内密に宗岱らと連絡を取らせ、日を定めて一緒に李特を攻撃し、それで大いに敵を打ち破って李特を斬り、その首を洛陽に送った。李特の子の李雄は(初め成都王、後に皇帝の)尊号を僭称し、郫(ひ)城に都を置い(て成漢を建国し)た。羅尚は将軍の隗伯を派遣して李雄を攻めさせたが勝てなかった。その後、にわかに羅尚が死んでしまったので、李雄はそのまま蜀の地を占有した。
滕脩、字顯先、南陽西鄂人也。仕吳爲將帥、封西鄂侯。
孫皓時、代熊睦爲廣州刺史、甚有威惠。徴爲執金吾。廣州部曲督郭馬等爲亂、皓以脩宿有威惠爲嶺表所伏、以爲使持節・都督廣州軍事・鎮南將軍・廣州牧、以討之。未剋而王師伐吳、脩率衆赴難。至巴丘、而皓已降、乃縞素流涕而還、與廣州刺史閭豐、蒼梧太守王毅各送印綬。詔以脩爲安南將軍、廣州牧・持節・都督如故。封武當侯、加鼓吹、委以南方事。脩在南積年、爲邊夷所附。
太康九年卒、請葬京師、帝嘉其意、賜墓田一頃、諡曰聲。脩之子並上表曰「亡父脩羈紲吳壤、爲所驅馳。幸逢開通、沐浴至化、得從俘虜握戎馬之要。未覲聖顏、委南藩之重、實由勳勞少聞天聽故也。年衰疾篤、屢乞骸骨、未蒙垂哀、奄至薨隕。臣承遺意、輿櫬還都、瞻望雲闕、實懷痛裂。竊聞博士諡脩曰聲。直彰流播、不稱行績、不勝愚情、冒昧聞訴。」帝乃賜諡曰忠。
並子含、初爲庾冰輕車長史、討蘇峻有功、封夏陽縣開國侯、邑千六百戸、授平南將軍・廣州刺史。在任積年、甚有威惠、卒諡曰戴。含弟子遯、交州刺史。
脩曾孫恬之、龍驤將軍・魏郡太守、戍黎陽、爲翟遼所執、死之。
滕脩(とうしゅう)、字は顯先、南陽西鄂(せいがく)の人なり。吳に仕えて將帥と爲り、西鄂侯に封ぜらる。
孫皓の時、熊睦(ゆうぼく)に代わりて廣州刺史と爲り、甚だ威惠有り。徴(め)されて執金吾と爲る。廣州の部曲督の郭馬等の亂を爲すや、皓は脩の宿(もと)より威惠有りて嶺表の伏す所と爲るを以て、以て使持節〔一〕・都督廣州軍事・鎮南將軍・廣州牧と爲し、以て之を討たしむ。未だ剋たずして王師吳を伐(う)ちたれば、脩 衆を率いて難に赴く。巴丘に至るも、而れども皓は已に降りたれば、乃ち縞素して流涕して還り、廣州刺史の閭豐(りょほう)、蒼梧(そうご)太守の王毅と與(とも)に各々印綬を送る。詔して脩を以て安南將軍と爲し、廣州牧・持節・都督たること故の如くせしむ。武當侯に封じ、鼓吹を加え、委ぬるに南方の事を以てす。脩 南に在ること積年、邊夷の附く所と爲る。
太康九年に卒するや、京師に葬せんことを請う。帝 其の意を嘉(よみ)し、墓田一頃を賜い、諡して聲と曰う。脩の子の並 上表して曰く「亡父の脩は吳壤を羈紲(きせつ)し、驅馳する所と爲る。幸いに開通に逢い、沐浴して化に至り、俘虜より戎馬の要を握るを得たり。未だ聖顏に覲(まみ)えずして、南藩の重を委ねられしは、實に勳勞少なきも天聽に聞こえしが故に由るなり。年は衰え疾は篤く、屢々(しばしば)骸骨を乞うも、未だ哀を垂るるを蒙らずして、奄(たちま)ちにして薨隕(こういん)するに至る。臣は遺意を承け、櫬(ひつぎ)を輿(の)せて都に還り、雲闕を瞻望するに、實に痛裂を懷けり。竊(ひそ)かに聞くならく、博士は脩を諡して聲と曰う、と。直(た)だ流播せしを彰(あら)わすのみにして、行績を稱せず。愚情に勝(た)えざれば、冒昧して聞訴す」と。帝 乃ち諡を賜いて忠と曰う。
並の子の含、初め庾冰(ゆひょう)の輕車長史と爲り、蘇峻を討ちて功有り、夏陽縣開國侯に封ぜられ、邑は千六百戸、平南將軍・廣州刺史を授けらる。任に在ること積年、甚だ威惠有り、卒するや諡して戴と曰う。含の弟の子の遯(とん)、交州刺史たり。
脩の曾孫の恬之(てんし)、龍驤將軍・魏郡太守たり、黎陽を戍(まも)るも、翟遼(てきりょう)の執うる所と爲り、之に死す。
〔一〕節:皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有したが、呉では詳細は不明。
滕脩(とうしゅう)は字を顕先と言い、南陽郡(南陽国)・西鄂(せいがく)の人である。呉に仕えて将帥となり、西鄂侯に封ぜられた。
孫皓の時、熊睦(ゆうぼく)に代わって広州刺史となり、統治には非常に威厳と恵愛があった。やがて徴召されて執金吾となった。広州の部曲督の郭馬らが反乱を起こすと、孫皓は、滕脩にはもともと威厳と恵愛があり、嶺南地域の人々がよく懐いているという理由から、滕脩を「使持節・都督広州軍事・鎮南将軍・広州牧」に任命し、そして郭馬らを討たせた。しかし、まだ討伐が終わらないうちに晋軍が呉に南征したので、滕脩は兵衆を率いて危険を顧みず救いに赴いた。巴丘まで来たが、孫皓はもうすでに降伏してしまったので、そこで喪服を着て涙を流して戻り、広州刺史の閭豐(りょほう)、蒼梧(そうご)太守の王毅と一緒にそれぞれ印綬を晋の朝廷に送って帰順した。西晋の武帝は詔を下し、滕脩を安南将軍とし、その他の「広州牧・持節・都督(広州軍事)」の肩書きは元通りに与えた。さらに武当侯に封ぜられ、鼓吹(楽隊)を与えられ、南方の事を委任された。滕脩は長年に渡って南に在り、辺境の蛮夷にも懐かれた。
太康九年(二八八)に死ぬ際、(息子たちに遺言を託して)京師(首都)に葬ってほしいということを願い出た。武帝はその意志を良しとし、一頃の墓田を賜い、「声侯」という諡号を与えた。滕脩の子の滕並は上表して言った。「亡き父の滕脩は呉の地を統治し、かけずり回されました。幸いにも(晋の天下統一による呉の地の)開通に逢い、父は沐浴して陛下の教化を受け、捕虜(のような身分)から一転して軍事の要を握る地位を授けられました。まだ(朝見して)陛下のご尊顔を仰ぎませぬその前に、南の藩国の重任を委ねられたのは、実に功労が少ないにも関わらず陛下のお耳に名が聞こえたが故の恩恵でございます。年老いて病も重く、しばしば辞任を願い出ましたが、まだ哀れみを賜る前に、突然薨去してしまいました。私は父の遺志を受け、棺を車に載せて都に戻り、宮廷を仰ぎ見ましたが、実に痛裂な気持ちでございます。というのも、ひそかに聞きましたところ、博士(官職名)は私の父に『声侯』という諡号を与えたとか。これはただ南土に流離したことを明らかにするのみであり、父の行った業績を称えるものではありません。愚かな私めはその無念さに堪えることができませぬゆえ、愚かにもこうして申し上げた次第でございます」と。武帝はそこで改めて「忠侯」という諡号を賜った。
滕並の子の滕含は、初め庾冰(ゆひょう)の軽車長史となり、(東晋の成帝の時代に反乱を起こした)蘇峻の討伐に功績があり、夏陽県開国侯に封ぜられ、封邑は千六百戸、「平南将軍・広州刺史」の官職を授けられた。長年に渡って在任し、統治には非常に威厳と恵愛があり、死後に「戴侯」という諡号を与えられた。滕含の弟の子の滕遯(とうとん)は交州刺史となった。
滕脩の曽孫の滕恬之(とうてんし)は「龍驤将軍・魏郡太守」となり、黎陽を守備していたが、(五胡十六国時代の翟魏の建国者である)翟遼(てきりょう)に捕らえられ、それによって死んでしまった。
馬隆、字孝興、東平平陸人。少而智勇、好立名節。魏兖州刺史令狐愚坐事伏誅、舉州無敢收者。隆以武吏託稱愚客、以私財殯葬、服喪三年、列植松柏、禮畢乃還、一州以爲美談。署武猛從事。
泰始中、將興伐吳之役、下詔曰「吳會未平、宜得猛士以濟武功。雖舊有薦舉之法、未足以盡殊才。其普告州郡。有壯勇秀異才力傑出者、皆以名聞。將簡其尤異、擢而用之。苟有其人、勿限所取。」兖州舉隆才堪良將。稍遷司馬督。
初、涼州刺史楊欣失羌戎之和、隆陳其必敗。俄而欣爲虜所沒、河西斷絕、帝毎有西顧之憂、臨朝而歎曰「誰能爲我討此虜通涼州者乎。」朝臣莫對。隆進曰「陛下若能任臣、臣能平之。」帝曰「必能滅賊、何爲不任、顧卿方略何如耳。」隆曰「陛下若能任臣、當聽臣自任。」帝曰「云何。」隆曰「臣請募勇士三千人、無問所從來、率之鼓行而西。稟陛下威德、醜虜何足滅哉。」帝許之、乃以隆爲武威太守。公卿僉曰「六軍既衆、州郡兵多、但當用之。不宜橫設賞募以亂常兵。隆小將妄説、不可從也。」帝弗納。隆募限腰引弩三十六鈞、弓四鈞、立標簡試。自旦至中、得三千五百人。隆曰「足矣。」因請自至武庫選杖。武庫令與隆忿爭、御史中丞奏劾隆。隆曰「臣當亡命戰場、以報所受、武庫令乃以魏時朽杖見給、不可復用、非陛下使臣滅賊意也。」帝從之、又給其三年軍資。
隆於是西渡温水。虜樹機能等以衆萬計、或乘險以遏隆前、或設伏以截隆後。隆依八陣圖作偏箱車、地廣則鹿角車營、路狹則爲木屋施於車上、且戰且前、弓矢所及、應弦而倒。奇謀間發、出敵不意。或夾道累磁石、賊負鐵鎧、行不得前、隆卒悉被犀甲、無所留礙、賊咸以爲神。轉戰千里、殺傷以千數。自隆之西、音問斷絕、朝廷憂之、或謂已沒。後隆使夜到、帝撫掌歡笑。詰朝、召羣臣謂曰「若從諸卿言、是無秦涼也。」乃詔曰「隆以偏師寡衆、奮不顧難、冒險能濟。其假節・宣威將軍、加赤幢・曲蓋・鼓吹。」隆到武威、虜大人猝跋韓、且萬能等率萬餘落歸降、前後誅殺及降附者以萬計。又率善戎沒骨能等與樹機能大戰、斬之、涼州遂平。
朝議將加隆將士勳賞、有司奏隆將士皆先加顯爵、不應更授。衞將軍楊珧駁曰「前精募將士、少加爵命者、此適所以爲誘引。今隆全軍獨剋、西土獲安、不得便以前授塞此後功、宜皆聽許、以明要信。」乃從珧議、賜爵加秩各有差。
太康初、朝廷以西平荒毀、宜時興復、以隆爲平虜護軍・西平太守、將所領精兵、又給牙門一軍、屯據西平。時南虜成奚毎爲邊患、隆至、帥軍討之。虜據險距守、隆令軍士皆負農器、將若田者。虜以隆無征討意、御衆稍怠。隆因其無備、進兵擊破之。畢隆之政不敢爲寇。
太熙初、封奉高縣侯、加授東羌校尉。積十餘年、威信震於隴右。時略陽太守馮翊嚴舒與楊駿通親、密圖代隆、毀隆年老謬耄、不宜服戎。於是徴隆、以舒代鎮。氐羌聚結、百姓驚懼。朝廷恐關隴復擾、乃免舒、遣隆復職、竟卒于官。
子咸嗣、亦驍勇。成都王穎攻長沙王乂、以咸爲鷹揚將軍、率兵屯河橋中渚、爲乂將王瑚所敗、沒於陣。
馬隆、字は孝興、東平平陸の人。少くして智勇あり、名節を立つるを好む。魏の兖州刺史の令狐愚の事に坐して誅に伏するや、州を舉げて敢えて收むる者無し。隆 武吏を以て託して愚の客と稱し、私財を以て殯葬し、服喪すること三年、列(なら)べて松柏を植え、禮畢(お)わりて乃ち還り、一州以て美談と爲す。武猛從事に署せらる。
泰始中、將に伐吳の役を興さんとするや、詔を下して曰く「吳會未だ平がざれば、宜しく猛士を得て以て武功を濟(と)ぐべし。舊(も)と薦舉の法有りと雖も、未だ以て殊才を盡(つ)くすに足らず。其れ普(あまね)く州郡に告ぐ。壯勇秀異にして才力傑出せる者有らば、皆な名を以て聞せ。將に其の尤異を簡(えら)びて、擢きて之を用いんとす。苟くも其の人有らば、取る所を限る勿れ」と。兖州は隆の才は良將に堪うと舉ぐ。稍々(やや)遷りて司馬督たり。
初め、涼州刺史の楊欣の羌戎の和を失うや、隆は其の必ず敗れんことを陳(の)ぶ。俄かにして欣は虜の沒する所と爲り、河西斷絕し、帝 西顧の憂有る毎に、朝に臨んで歎きて曰く「誰か能く我が爲に此の虜を討ちて涼州を通ずる者あらんや」と。朝臣對うるもの莫し。隆 進みて曰く「陛下若し能く臣を任ぜば、臣能く之を平げん」と。帝曰く「必ず能く賊を滅ぼさば、何爲れぞ任ぜざらん。卿の方略を顧みるに何如」と。隆曰く「陛下若し能く臣を任ぜば、當に臣の自ら任ずるを聽(ゆる)すべし」と。帝曰く「云何(いかん)」と。隆曰く「臣請う、勇士三千人を募り、從來する所を問うこと無く、之を率いて鼓行して西せん。陛下の威德を稟(もたら)さば、醜虜何ぞ滅ぼすに足らんや」と。帝 之を許し、乃ち隆を以て武威太守と爲す。公卿 僉(み)な曰く「六軍は既に衆(おお)く、州郡は兵多ければ、但だ當に之を用うべし。宜しく橫(ほしいまま)に賞募を設けて以て常兵を亂すべからず。隆は小將にして妄りに説きたれば、從うべからざるなり」と。帝 納(い)れず。隆 募るに腰引弩三十六鈞・弓四鈞に限り、標を立てて簡試す。旦より中に至るまで、三千五百人を得たり。隆曰く「足れり」と。因りて自ら武庫に至りて杖を選ばんことを請う。武庫令 隆と忿爭し、御史中丞 奏して隆を劾す。隆曰く「臣 當に命を戰場に亡(す)て、以て受くる所に報ゆべきに、武庫令は乃ち魏時の朽杖を以て見(われ)に給したれば、復た用うべからず。陛下の臣をして賊を滅せしむるの意に非ざるなり」と。帝 之に從い、又た其の三年の軍資を給す。
隆 是に於いて西のかた温水を渡る。虜の樹機能等 衆は萬を以て計え、或いは險に乘じて以て隆の前を遏(ふさ)ぎ、或いは伏を設けて以て隆の後を截(た)つ。隆 八陣圖に依りて偏箱車を作り、地 廣ければ則ち鹿角車もて營(めぐ)らし、路 狹ければ則ち木屋を為(つく)りて車上に施し、且つ戰い且つ前(すす)み、弓矢の及ぶ所、弦に應じて倒る。奇謀は間に發し、敵の不意に出ず。或いは道を夾(はさ)みて磁石を累(つ)み、賊は鐵鎧を負いたれば、行くも前むを得ざるに、隆の卒は悉く犀甲を被(つ)けたれば、留礙する所無く、賊は咸な以て神と爲す。轉戰すること千里、殺傷すること千を以て數う。隆の西してより、音問斷絕したれば、朝廷は之を憂い、或いは已に沒せるかと謂う。後に隆の使の夜に到るや、帝は掌を撫(たた)きて歡笑す。詰朝、羣臣を召して謂いて曰く「若し諸卿の言に從わば、是れ秦涼無きなり」と。乃ち詔して曰く「隆は偏師寡衆を以て、奮いて難を顧みず、險を冒して能く濟(と)げり。其れ假節〔一〕・宣威將軍たらしめ、赤幢・曲蓋・鼓吹を加えん」と。隆の武威に到るや、虜の大人の猝跋韓(そつばつかん)・且萬能等 萬餘落を率いて歸降し、前後に誅殺し及び降附する者は萬を以て計う。又た率善戎の沒骨能等 樹機能と大いに戰い、之を斬り、涼州遂に平ぐ。
朝議して將に隆の將士に勳賞を加えんとするや、有司奏すらく、隆の將士は皆な先に顯爵を加えたれば、應に更(さら)に授くべからず、と。衞將軍の楊珧(ようよう) 駁して曰く「前に將士を精募するに、少しく爵命を加えしは、此れ適(た)だ誘引を爲す所以なるのみ。今、隆は軍を全うして獨り剋ち、西土は安きを獲たれば、便(すなわ)ち前に授けしを以て此の後の功を塞(ふさ)ぐを得ず。宜しく皆な聽許し、以て信を要(もと)むるを明らかにすべし」と。乃ち珧の議に從い、爵を賜い秩を加うること各々差有り。
太康の初め、朝廷 西平は荒毀したれば、宜しく時に興復すべしと以(おも)い、隆を以て平虜護軍・西平太守と爲し、領する所の精兵を將いしめ、又た牙門一軍を給し、西平に屯據せしむ。時に南虜の成奚(せいけい) 毎(つね)に邊患を爲すに、隆至るや、軍を帥(ひき)いて之を討つ。虜 險に據(よ)りて距守したれば、隆 軍士をして皆な農器を負わしめ、將(ほとん)ど田者の若し。虜は隆に征討の意無しと以(おも)い、衆を御するに稍々(やや)怠なり。隆 其の備え無きに因り、兵を進めて擊ちて之を破る。隆の政を畢(つ)くして敢えて寇を爲さず。
太熙の初め、奉高縣侯に封ぜられ、加えて東羌校尉を授けらる。積むこと十餘年、威信は隴右に震う。時に略陽太守の馮翊の嚴舒(げんじょ) 楊駿と親を通じ、密かに隆に代わらんことを圖り、隆は年老いて謬耄、宜しく戎に服せしむるべからずと毀(そし)る。是に於いて隆を徴(め)し、舒を以て代わりに鎮せしむ。氐羌は聚結し、百姓は驚懼す。朝廷は關隴の復た擾(みだ)るるを恐れ、乃ち舒を免じ、隆を遣わして職に復せしめ、竟に官に卒す。
子の咸(かん) 嗣ぎ、亦た驍勇あり。成都王穎(えい)の長沙王乂(がい)を攻むるや、咸を以て鷹揚將軍と爲し、兵を率いて河橋中の渚に屯せしむるも、乂の將の王瑚(おうこ)の敗る所と爲り、陣に沒す。
〔一〕節:皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
馬隆は字を孝興といい、東平郡(東平国)・平陸の人である。若い頃から智勇があり、名誉や節操を立てることを好んだ。魏の兗州刺史の令狐愚が(王淩の反乱に関わって)誅殺されると、(東平が属する)兗州の人々はみな敢えて令狐愚の遺体を引き取るようなことはしなかった。ただ、当時州の武吏であった馬隆は、自分を令狐愚の門客であると偽って、私財を投じて葬儀を行い、三年間喪に服し、その墓に松柏をならべて植え、服喪の礼が終わってからやっと郷里に帰ったが、兗州の人々はこれを美談とした。やがて兗州によって州の武猛従事に任命された。
西晋の武帝の泰始年間に、呉を滅ぼすための南征の軍を起こそうとしたとき、武帝は詔を下して言った。「呉郡や会稽郡の地域(つまり呉国)はまだ平定されていないので、勇猛な士を得て、それによって滅呉の武功を成し遂げるべきである。もともと推挙の法があるとはいえ、それだけではまだ傑出した人材を集めつくすには足りない。よってすべての州郡に告ぐ。壮勇であること特に優れ、才能が傑出している者がいれば、みなその名を記して報告せよ。その中でもとりわけ優秀な者を精選し、抜擢して用いよう。もし前記の該当者がいれば、人数を制限することなく取れ」と。兗州は、馬隆の才能はまさに良将となるに充分なものであるとして推挙した。馬隆は(中央に仕えて)何度か昇進して司馬督となった。
初め、涼州刺史の楊欣が羌族たちと不和になっ(て羌族が反乱を起こし)たとき、馬隆は楊欣が必ず敗れるであろうということを述べた。まもなく楊欣は賊に殺され、河西(涼州一帯)の地域との連絡は遮断され、武帝は西方の憂い事があるたびに、朝議に臨んで嘆いて言った。「誰か私のためにこの賊を討って涼州との連絡を通じさせることができる者はいないか」と。朝臣はみな答えることができなかった。馬隆はそこで進み出て言った。「陛下がもし私を任用してくださいましたら、私はこれを平定することができましょう」と。武帝は言った。「必ず賊を滅ぼすことができるのであれば、どうして任用しないことがあろうか。そなたの方策はいかなるものか」と。馬隆は言った。「陛下がもし本当に私を任用されるのでしたら、私に将兵を自ら選抜して任用することをお許しください」と。武帝は言った。「どうするのか」と。馬隆は言った。「お願い申し上げます。三千人の勇士を出自を問うことなく募り、彼らを率いて鼓を打って西進させてください。そうして陛下の威光と仁徳を及ぼせば、賊たちを滅ぼすまでもなく平定することができるでしょう」と。武帝はこれを許可し、そして馬隆を武威太守に任じた。しかし、三公・九卿たちはみな言った。「(都の)六軍の兵員は既に多く、州郡の兵員もまた多く、ただこれらの兵のみを用いるべきです。むやみに賞金をかかげて兵を募集し、それによって(中央の六軍や州郡所属の兵などの)常備軍の活動を乱してはなりません。馬隆は下級の将帥でありながら妄説を垂れているにすぎませんので、従うべきではありません」と。武帝はそれを聞きいれなかった。馬隆は三十六鈞の腰引弩と四鈞の弓を扱える者に限って募集をかけ、標的を立てかけて射させてその腕を試験し、選抜した。そして朝早くから正午まで実施したところ、三千五百人の合格者を得た。馬隆は言った。「これで充分である」と。そこで、自ら武器を選びに武庫に赴きたいということを願い出た。しかし、武庫令と馬隆は互いに怒号を発して争い合い、(官僚の非礼・非法を糾弾するのが職務である)御史中丞は馬隆を劾奏した。馬隆は言った。「私は命を戦場に投げ捨て、それで陛下より受けた厚恩に報いなければなりませぬというに、武庫令はなんと魏の時代に造られたオンボロの武器を支給しましたので、もはや使い物になりません。これは陛下が私に賊を殲滅させようとされるご意志に沿うものではありません」と。武帝は馬隆の言い分に従い、さらに三年分の軍資を与えた。
馬隆はそこで西行して温水を渡った。賊の樹機能らはそれぞれ何万もの軍勢を擁し、険阻な土地を利用して馬隆軍の前方を塞いだり、伏兵を設けて馬隆軍の後方を絶ったりした。馬隆は(諸葛亮が作ったとされる)八陣図に従って偏箱車を作り、地が広ければ鹿角車をめぐらして敵を防ぎ、道が狭ければ車上を木で囲って小部屋のような構造を施して矢石を防ぎ、戦っては進みを繰り返し、馬隆軍の兵の弓矢が及ぶ範囲内では、矢が放たれるのに応じて敵が倒れ(狙い通り必中し)た。奇策がかわるがわる発せられ、そのたびに敵の不意を突いた。たとえば道の両脇に磁石を積んで、賊は鉄の鎧を身に着けていたから進もうとしても思い通りいかない一方で、馬隆の兵士はみな犀牛の皮でできた甲冑を身に着けていたから磁石に妨げられることなく、賊はみなまさに神智であると称えた。千里に渡って転戦し、何千もの敵を殺傷した。他方で、西に出征して以来、馬隆の音信が途絶えてしまったので、朝廷は憂慮し、馬隆はすでに戦死したのではないかと言う者もいた。後に馬隆の使いが夜に到ると、武帝は手を打って喜んで笑った。そして、明朝、群臣を召集して言った。「もし諸卿の言に従って(馬隆の任用を却下して)いたら、秦州・涼州は失われていたことであろう」と。そこで詔して言った。「馬隆はわずかな軍勢であるにも関わらず、奮戦して苦難を顧みず、危険を冒して見事に目的を成し遂げた。よって、『仮節・宣威将軍』の官職を授け、赤幢・曲蓋・鼓吹を与えよう」と。馬隆が武威郡に到着すると、賊の大人(酋長)の猝跋韓(そつばつかん)・且萬能らは一万余りの落を率いて降伏・帰順し、前後に誅殺したり降伏した者は何万人にも上った。また(晋に帰順している)率善戎の没骨能らは樹機能と大いに戦って、樹機能を斬り、涼州はかくして平定された。
朝議を行って馬隆指揮下の将や兵士に勲賞を与えようとしたとき、担当官は上奏し、馬隆の将や兵士はすでにみな前もって相当の爵位を与えているので、改めて授けるべきではないと述べた。衛将軍の楊珧(ようよう)は駁議(反駁の議文)を提出して言った。 「前に将や兵士を募集して精選したとき、少し爵位と官職を授けたのは、これはただ人を集めるための手段としてのものでした。今、馬隆だけが軍を損なうことなく勝利し、そのために西土は安定を得たのですから、それを踏まえれば、前に爵位を授けたからといって、その後の功績に報いないというのはいけません。みな爵を増すことを許可し、それによって信を大事にしているということを明らかにすべきです」と。そこで楊珧の駁議に従い、それぞれの功績や立場に応じて将や兵士たちに爵を賜い俸禄を加えた。
武帝の太康年間の初め、西平郡は荒廃してしまったので、この機に復興すべきだという理由から、朝廷は馬隆を「平虜護軍・西平太守」に任命し、直属の精兵を率いるのに加えて、さらに牙門将の軍を一つ指揮下に加えさせ、西平郡に駐屯させた。時に南虜の成奚(せいけい)がたびたび辺境を侵略して人々の憂いとなっていたが、馬隆は赴任して早速、軍を率いて成奚の征討を行った。賊は険阻な土地を利用して防ぎに入ったので、馬隆はすべての軍士に農器を負わせ、耕作者のような身なりをさせた。賊は馬隆に征討の意志がもう無いと見て、軍の統率にやや油断が生じた。馬隆は敵の備えが無いのにつけこみ、兵を進めて攻撃して破った。その後、成奚らは馬隆の在任期間中は敢えて境を侵そうとはしなかった。
武帝の太熙年間の初め、馬隆は奉高県侯に封ぜられ、さらに東羌校尉の官職を授けられた。十年余りの間、馬隆の威信は隴右地域に轟いた。時に略陽太守であった馮翊郡の人である厳舒は(皇后家の領袖である外戚の)楊駿と姻戚関係にあり、ひそかに馬隆に代わってその地位につこうと画策し、馬隆は年老いて耄碌しているから軍事に従事させるべきではないと中傷した。そこで朝廷は馬隆を徴召し、代わりに厳舒を鎮守させた。すると、氐や羌は互いに集結し出し、人々はうろたえ怯えた。朝廷は関中・隴西地域がまた乱れるのを恐れ、そこで厳舒を罷免し、馬隆を派遣して復職させ、馬隆はついにその在任中に死んだ。
馬隆の子の馬咸(ばかん)が爵位を嗣いだが、彼もまた勇猛であった。(後の八王の乱の際に)成都王の司馬穎(しばえい)が長沙王の司馬乂(しばがい)を攻めたとき、司馬穎は馬咸を鷹揚将軍に任じ、兵を率いて河橋中の渚に駐屯させたが、司馬乂の将である王瑚(おうこ)に敗れて戦死した。
胡奮、字玄威、安定臨涇人也。魏車騎將軍陰密侯遵之子也。奮性開朗有籌略、少好武事。宣帝之伐遼東也、以白衣侍從左右、甚見接待。還爲校尉、稍遷徐州刺史、封夏陽子。匈奴中部帥劉猛叛、使驍騎路蕃討之、以奮爲監軍・假節、頓軍硜北、爲蕃後繼。擊猛破之、猛帳下將李恪斬猛而降。以功累遷征南將軍・假節・都督荊州諸軍事、遷護軍、加散騎常侍。奮家世將門、晚乃好學、有刀筆之用、所在有聲績、居邊特有威惠。
泰始末、武帝怠政事而耽於色、大採擇公卿女以充六宮、奮女選入爲貴人。奮唯有一子、爲南陽王友、早亡。及聞女爲貴人、哭曰「老奴不死、唯有二兒。男入九地之下、女上九天之上。」奮既舊臣、兼有椒房之助、甚見寵待。遷左僕射、加鎮軍大將軍、開府儀同三司。時楊駿以后父驕傲自得、奮謂駿曰「卿恃女更益豪邪。歴觀前代、與天家婚、未有不滅門者。但早晚事耳。觀卿舉措、適所以速禍。」駿曰「卿女不在天家乎。」奮曰「我女與卿女作婢耳。何能損益。」時人皆爲之懼。駿雖銜之、而不能害。後卒於官、贈車騎將軍、諡曰壯。奮兄弟六人、兄廣・弟烈、並知名。
廣、字宣祖、位至散騎常侍・少府。廣子喜、字林甫、亦以開濟爲稱、仕至涼州刺史・建武將軍・假節・護羌校尉。
烈、字武玄、爲將伐蜀。鍾會之反也、烈與諸將皆被閉。烈子世元、時年十八、爲士卒先、攻殺會、名馳遠近。烈爲秦州刺史、及涼州叛、烈屯於萬㪶塠、爲虜所圍、無援、遇害。
胡奮、字は玄威、安定臨涇の人なり。魏の車騎將軍の陰密侯遵の子なり。奮は性 開朗にして籌略有り、少(わか)くして武事を好む。宣帝の遼東を伐つや、白衣〔一〕を以て左右に侍從し、甚だ接待せらる。還りて校尉と爲り、稍々(やや)遷りて徐州刺史たり、夏陽子に封ぜらる。匈奴中部帥の劉猛の叛するや、驍騎の路蕃をして之を討たしめ、奮を以て監軍・假節〔二〕と爲し、軍を硜北(こうほく)に頓せしめ〔三〕、蕃の後繼と爲す。猛を擊ちて之を破るや、猛の帳下將の李恪(りかく) 猛を斬りて降る。功を以て累遷して征南將軍・假節・都督荊州諸軍事たり、護軍に遷り、散騎常侍を加えらる。奮 家は世々將門たり、晚に乃ち學を好み、刀筆の用有り、所在に聲績有り、邊に居りては特に威惠有り。
泰始の末、武帝は政事を怠けて色に耽り、大いに公卿の女を採擇して以て六宮に充て、奮の女は選せられて入りて貴人と爲る。奮は唯だ一子有るのみにして、南陽王の友と爲るも、早くに亡(し)す。女の貴人と爲るを聞くに及び、哭して曰く「老奴死せずして、唯だ二兒有るのみ。男は九地の下に入り、女は九天の上に上れり」と。奮は既に舊臣たり、兼ねて椒房の助有り、甚だ寵待せらる。左僕射に遷り、鎮軍大將軍・開府儀同三司を加えらる。時に楊駿は后の父を以て驕傲にして自得なれば、奮 駿に謂いて曰く「卿は女を恃みて更々(いよいよ)豪を益(ま)すか。前代を歴觀するに、天家と婚すれば、未だ門を滅せざる者あらず。但だ早晚の事なるのみ。卿の舉措を觀るに、適(まさ)に禍を速(まね)く所以なり」と。駿曰く「卿の女は天家に在らずや」と。奮曰く「我が女は卿の女の與(ため)に婢と作(な)るのみ。何ぞ能く損益せんや」と。時人皆な之が爲に懼る。駿 之を銜(うら)むと雖も、而れども害する能わず。後に官に卒し、車騎將軍を贈られ、諡して壯と曰う。奮の兄弟六人、兄の廣・弟の烈、並びに名を知らる。
廣、字は宣祖、位は散騎常侍・少府に至る。廣の子の喜、字は林甫、亦た開濟を以て稱せられ、仕えて涼州刺史・建武將軍・假節・護羌校尉に至る。
烈、字は武玄、將と爲りて蜀を伐つ。鍾會の反するや、烈 諸將と與に皆な閉(おさ)めらる。烈の子の世元〔四〕、時に年十八、士卒の先と爲り、攻めて會を殺し、名は遠近に馳す。烈 秦州刺史と爲り、涼州の叛するに及び、烈は萬㪶塠(ばんこくたい)に屯し、虜の圍む所と爲り、援無く、害に遇う。
〔一〕白衣:下働きの小吏、あるいは官僚が処分を受けたことによってついた特殊な身分のこと。
〔二〕節:皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔三〕硜北:『晉書音義』巻之中・列伝上および『晉書斠注』本伝によれば、「硜」は「陘」に作るべきで冀州・常山郡・井陘の北のことだという。
〔四〕世元:『三國志』巻二十八・鍾會伝に引く『晉諸公贊』によれば、名は淵、字が世元。
胡奮は字を玄威といい、安定郡・臨涇の人である。そして、魏の車騎将軍であった陰密侯の胡遵の子である。胡奮の性格は開放的で朗らかであり、謀略に長け、若い頃から武事を好んだ。(魏の時代に)宣帝(司馬懿)が遼東の公孫氏を征伐した際、胡奮は白衣の身でその側に侍従し、非常に良い待遇を受けた。遠征から還ると校尉に任命され、何回か昇進して徐州刺史となり、夏陽子(夏陽県を封邑とする子爵)に封ぜられた。匈奴の五部のうちの中部の帥(匈奴の貴人が据えられることとされた長官)であった劉猛が反乱を起こすと、晋朝は驍騎将軍の路蕃にこれを討伐させることとしたが、このとき胡奮を「監軍・仮節」に任じ、軍を硜北に駐屯させ、路蕃の後続とした。やがて劉猛を攻めて破ると、劉猛の帳下将であった李恪が劉猛を斬って降伏した。その後、胡奮は功績により何度も昇進して「征南将軍・仮節・都督荊州諸軍事」となり、やがて護軍将軍に昇進し、そこに散騎常侍の官職を加えられた。胡奮の家は代々将帥として活躍した家柄で、胡奮はある程度の歳を取ってから学問を好むようになり、しっかりとした文章も書けるようになって、赴任した先々で名声・業績を立て、辺境にあっては特に威厳と恵愛があった。
西晋の泰始年間の末、武帝は政治を怠けて女色に耽り、大々的に大臣たちの娘を選び取っては後宮に入れたが、その際に胡奮の娘(胡芳)は選ばれて後宮入りして貴人(貴嬪)となった。胡奮は、息子は一人だけしかおらず、南陽王の友となったが、早くに死んでしまっていた。そして今、娘が貴人となったのを聞くと、号泣して言った。「この老いぼれは死ぬことなく生きながらえたが、ただ二人の子どもしかいない。男の方はすでに九地の下(大地の最深部)に行ってしまい、女の方は九天の上(天の最上階)に上ってしまった」と。胡奮は晋の旧臣であるのに加えて今や後宮の助けもあり、非常に武帝の恩恵を受けた。やがて尚書左僕射に昇進し、さらに「鎮軍大将軍・開府儀同三司」の肩書きを加えられた。時に楊駿は皇后の父であるからと傲慢に振る舞って付け上がっていたので、胡奮は楊駿に対してこう言った。「あなたは皇后である娘を頼りにしてますます豪勢になられるというのですか。歴代の例を見渡しますと、帝王の家と通婚し、一門を滅亡させなかった者は未だございません。ただその破滅が早いか晚いかということに過ぎません。あなたの振る舞いを見ますに、まさに禍を招くことになるでしょう」と。楊駿は言った。「そなたの娘も帝王の家に嫁いだのではなかったのか(娘を頼りにして思い上がっているのはそなたも同じであろう)」と。胡奮は言った。「貴嬪である私の娘は、まさに皇后であるあなたの娘の婢に過ぎません。どうしてそのような身分で、私の身を左右するだけの力がありましょうか(そのような非力な娘を頼って思い上がるなんてことがありましょうか)」と。当時の人々はみなこのために恐れたが、楊駿は胡奮を恨んだものの、害を加えることはできなかった。胡奮は後に在官のまま死に、車騎将軍の官位を追贈され、「壮侯」という諡号を与えられた。胡奮の兄弟は六人いて、兄の胡広・弟の胡烈は二人とも有名になった。
胡広は字を宣祖といい、位は「散騎常侍・少府」にまで至った。胡広の子の胡喜は字を林甫といい、彼もまた開放的で良い人柄だと称えられ、仕えて「涼州刺史・建武将軍・仮節・護羌校尉」に至った。
胡烈は字を武玄といい、将帥となって伐蜀の役に従軍した。そこで鍾会が反乱を起こすと、胡烈は他の諸将たちと一緒に幽閉された。胡烈の子の胡世元(胡淵)は時に十八歳で、士卒の先頭に立って鍾会を攻め殺し、その名は遠近に馳せた。やがて胡烈は秦州刺史となり、涼州で大規模な反乱が起こると、胡烈は萬㪶塠(ばんこくたい)に駐屯し、賊に囲まれ、救援も無く、殺されてしまった。
陶璜、字世英、丹楊秣陵人也。父基、吳交州刺史。璜仕吳歴顯位。
孫皓時、交阯太守孫諝貪暴、爲百姓所患。會察戰鄧荀至、擅調孔雀三千頭、遣送秣陵、既苦遠役、咸思爲亂。郡吏呂興殺諝及荀、以郡内附。武帝拜興安南將軍・交阯太守。尋爲其功曹李統所殺、帝更以建寧爨谷爲交阯太守。谷又死、更遣巴西馬融代之。融病卒、南中監軍霍弋又遣犍爲楊稷代融、與將軍毛炅、九眞太守董元、牙門孟幹・孟通・李松・王業・爨能等自蜀出交阯、破吳軍於古城、斬大都督脩則・交州刺史劉俊。
吳遣虞汜爲監軍、薛珝爲威南將軍・大都督、璜爲蒼梧太守、距稷。戰于分水、璜敗、退保合浦、亡其二將。珝怒、謂璜曰「若自表討賊、而喪二帥。其責安在。」璜曰「下官不得行意、諸軍不相順、故致敗耳。」珝怒、欲引軍還。璜夜以數百兵襲董元、獲其寶物、船載而歸。珝乃謝之、以璜領交州、爲前部督。璜從海道出於不意、徑至交阯、元距之。諸將將戰、璜疑斷牆内有伏兵、列長戟於其後。兵纔接、元偽退。璜追之、伏兵果出、長戟逆之、大破元等。以前所得寶船上錦物數千匹遺扶嚴賊帥梁奇、奇將萬餘人助璜。元有勇將解系、同在城内。璜誘其弟象、使爲書與系、又使象乘璜軺車、鼓吹・導從而行。元等曰「象尚若此。系必有去志。」乃就殺之。珝・璜遂陷交阯。吳因用璜爲交州刺史。
璜有謀策、周窮好施、能得人心。滕脩數討南賊、不能制。璜曰「南岸仰吾鹽鐵、斷勿與市、皆壞爲田器。如此二年、可一戰而滅也。」脩從之、果破賊。
初、霍弋之遣稷・炅等、與之誓曰「若賊圍城未百日而降者、家屬誅。若過百日救兵不至、吾受其罪。」稷等守未百日、糧盡、乞降。璜不許、給其糧使守。諸將並諫、璜曰「霍弋已死、不能救稷等必矣。可須其日滿、然後受降。使彼得無罪、我受有義、内訓百姓、外懷鄰國、不亦可乎。」稷等期訖糧盡、救兵不至、乃納之。脩則既爲毛炅所殺、則子允隨璜南征。城既降、允求復讐、璜不許。炅密謀襲璜、事覺、收炅、呵曰「晉賊。」炅厲聲曰「吳狗、何等爲賊。」允剖其腹曰「復能作賊不。」炅猶罵曰「吾志殺汝孫皓。汝父何死狗也。」璜既擒稷等、並送之。稷至合浦、發病死。孟幹・爨能・李松等至建鄴、皓將殺之。或勸皓、幹等忠於所事、宜宥之以勸邊將。皓從其言、將徙之臨海。幹等志欲北歸、慮東徙轉遠、以吳人愛蜀側竹弩、言能作之、皓留付作部。後幹逃至京都、松・能爲皓所殺。幹陳伐吳之計、帝乃厚加賞賜、以爲日南太守。先是、以楊稷爲交州刺史、毛炅爲交阯太守、印綬未至而敗、即贈稷交州、炅及松・能子並關内侯。
九眞郡功曹李祚保郡内附、璜遣將攻之、不剋。祚舅黎晃隨軍、勸祚令降。祚荅曰「舅自吳將、祚自晉臣、唯力是視耳。」踰時乃拔。皓以璜爲使持節・都督交州諸軍事・前將軍・交州牧。武平・九德・新昌土地阻險、夷獠勁悍歴世不賓。璜征討、開置三郡及九眞屬國三十餘縣。徴璜爲武昌都督、以合浦太守脩允代之。交土人請留璜以千數、於是遣還。
皓既降晉、手書遣璜息融敕璜歸順。璜流涕數日、遣使送印綬詣洛陽。帝詔復其本職、封宛陵侯、改爲冠軍將軍。
吳既平、普減州郡兵。璜上言曰「交土荒裔、斗絕一方、或重譯而言、連帶山海。又南郡去州海行千有餘里、外距林邑纔七百里。夷帥范熊世爲逋寇、自稱爲王、數攻百姓。且連接扶南、種類猥多、朋黨相倚、負險不賓。往隸吳時、數作寇逆、攻破郡縣、殺害長吏。臣以尩駑、昔爲故國所採、偏戍在南十有餘年。雖前後征討、翦其魁桀、深山僻穴、尚有逋竄。又臣所統之卒本七千餘人、南土溫溼、多有氣毒、加累年征討、死亡減秏、其見在者二千四百二十人。今四海混同、無思不服、當卷甲消刃、禮樂是務。而此州之人、識義者寡、厭其安樂、好爲禍亂。又廣州南岸、周旋六千餘里、不賓屬者乃五萬餘戸。及桂林不羈之輩、復當萬戸。至於服從官役、纔五千餘家。二州脣齒、唯兵是鎭。又寧州興古接據上流、去交阯郡千六百里、水陸並通、互相維衞。州兵未宜約損、以示單虛。夫風塵之變、出於非常。臣亡國之餘、議不足採、聖恩廣厚、猥垂飾擢、蠲其罪釁、改授方任、去辱即寵、拭目更視、誓念投命、以報所受、臨履所見、謹冒瞽陳。」又以「合浦郡土地磽确、無有田農、百姓唯以采珠爲業、商賈去來以珠貿米。而吳時珠禁甚嚴、慮百姓私散好珠、禁絕來去、人以饑困。又所調猥多、限毎不充。今請上珠三分輸二、次者輸一、麤者蠲除、自十月訖二月、非採上珠之時、聽商旅往來如舊。」並從之。
在南三十年、威恩著于殊俗。及卒、舉州號哭、如喪慈親。朝廷乃以員外散騎常侍吾彦代璜。彦卒、又以員外散騎常侍顧祕代彦。祕卒、州人逼祕子參領州事。參尋卒、參弟壽求領州、州人不聽、固求之、遂領州。壽乃殺長史胡肇等、又將殺帳下督梁碩、碩走得免、起兵討壽、禽之、付壽母、令鴆殺之。碩乃迎璜子蒼梧太守威領刺史。在職甚得百姓心、三年卒。威弟淑、子綏、後並爲交州。自基至綏四世、爲交州者五人。
璜弟濬、吳鎭南大將軍・荊州牧。濬弟抗、太子中庶子。濬子湮、字恭之、湮弟猷、字恭豫、並有名。湮至臨海太守・黃門侍郎、猷宣城内史、王導右軍長史。湮子馥、于湖令、爲韓晃所殺、追贈廬江太守。抗子囘、自有傳。
陶璜(とうこう)、字は世英、丹楊秣陵の人なり。父の基、吳の交州刺史たり。璜は吳に仕えて顯位を歴(へ)たり。
孫皓の時、交阯太守の孫諝(そんしょ)は貪暴にして、百姓の患(うれ)うる所と爲る。會々(たまたま)察戰の鄧荀(とうじゅん)至り、擅(ほしいまま)に孔雀三千頭を調し、遣(や)りて秣陵に送るも、既に遠役に苦しみたれば、咸(み)な亂を爲さんことを思う。郡吏の呂興 諝及び荀を殺し、郡を以て内附す。武帝 興を安南將軍・交阯太守に拜す。尋いで其の功曹の李統の殺す所と爲り、帝は更(あらた)めて建寧の爨谷(さんこく)を以て交阯太守と爲す。谷の又た死するや、更めて巴西の馬融を遣わして之に代らしむ。融の病みて卒するや、南中監軍の霍弋(かくよく)は又た犍為(けんい)の楊稷を遣わして融に代わらしめ、將軍の毛炅(もうけい)、九眞太守の董元、牙門の孟幹・孟通・李松・王業・爨能等と與(とも)に蜀より交阯に出で、吳軍を古城に破り、大都督の脩則・交州刺史の劉俊を斬る。
吳は虞汜(ぐし)を遣わして監軍と爲し、薛珝(せっく)もて威南將軍・大都督と爲し、璜もて蒼梧太守と爲し、稷を距(ふせ)がしむ。分水に戰うも、璜 敗れ、退きて合浦に保し、其の二將を亡(うしな)う。珝 怒りて璜に謂いて曰く「若(なんじ)自ら表して賊を討つも、而(しか)れども二帥を喪えり。其の責は安(いず)くにか在らん」と。璜曰く「下官は意を行うを得ず、諸軍は相い順わず、故に敗るるを致すのみ」と。珝 怒り、軍を引きて還らんと欲す。璜 夜に數百の兵を以て董元を襲い、其の寶物を獲、船載して歸る。珝 乃ち之を謝し、璜を以て交州を領せしめ、前部督と爲す。璜 海道より不意に出で、徑(ただ)ちに交阯に到るや、元 之を距ぐ。諸將の將に戰わんとするや、璜 斷牆の内に伏兵有るかと疑い、長戟を其の後に列(つら)ぬ。兵纔(わず)かに接するや、元は偽りて退く。璜の之を追うや、伏兵果たして出ずれば、長戟もて之を逆(むか)え、大いに元等を破る。前に得る所の寶船上の錦物數千匹を以て扶嚴の賊帥の梁奇に遺(おく)るや、奇は萬餘人を將いて璜を助く。元に勇將の解系なるもの有り、同(とも)に城内に在り。璜 其の弟の象を誘い、書を為(つく)りて系に與えしめ、又た象をして璜の軺車に乘らしめ、鼓吹・導從もてして行かしむ。元等曰く「象すら尚お此(か)くの若し。系必ず去志有らん」と。乃ち就きて之を殺す。珝・璜 遂に交阯を陷す。吳は因りて璜を用(もっ)て交州刺史と爲す。
璜は謀策有り、窮を周(すく)い施を好み、能く人心を得たり。滕脩 數々(しばしば)南賊を討つも、制する能わず。璜曰く「南岸は吾が鹽鐵を仰ぎたれば、斷ちて與(とも)に市する勿くんば、皆な壞して田器と爲さん。此くの如くすること二年、一戰にして滅すべきなり」と。脩は之に從い、果たして賊を破る。
初め、霍弋の稷・炅等を遣わすや、之と與(とも)に誓いて曰く「若し賊の城を圍みて未だ百日ならずして降らば、家屬をば誅す。若し百日を過ぐとも救兵至らずんば、吾 其の罪を受けん」と。稷等 守ること未だ百日ならざるに、糧盡きたれば、降らんことを乞う。璜 許さず、其の糧を給して守らしむ。諸將 並びに諫むるや、璜曰く「霍弋已に死したれば、稷等を救う能わざるは必なり。其の日の滿つるを須(ま)ち、然る後に降を受くべし。彼をして罪無きを得しめ、我をして義有るを受けしめ、内は百姓を訓(さと)し、外は鄰國を懷く、亦た可ならざらんや」と。稷等 期訖(お)わりて糧盡くも、救兵は至らず、乃ち之を納る。脩則は既に毛炅の殺す所と爲り、則の子の允は璜に隨(したが)いて南征す。城既に降るや、允は復讐せんことを求むるも、璜 許さず。炅は密かに謀りて璜を襲わんとするも、事覺(あらわ)れたれば、炅を収め、呵(いか)りて曰く「晉賊」と。炅 聲を厲(はげま)まして曰く「吳狗、何等(なん)ぞ賊と爲さんや」と。允 其の腹を剖(さ)きて曰く「復た能く賊を作(な)すや不(いな)や」と。炅 猶お罵りて曰く「吾は汝が孫皓を殺さんことを志す。汝が父は何の死狗なるか」と。璜 既に稷等を擒(とりこ)にし、並びに之を送る。稷は合浦に至るや、病を發して死す。孟幹・爨能・李松等の建鄴に至るや、皓 將に之を殺さんとす。或るひと皓に勸むらく、幹等は事(つか)うる所に忠なれば、宜しく之を宥(ゆる)して以て邊將に勸むべし、と。皓 其の言に從い、將に之を臨海に徙(うつ)さんとす。幹等 北のかた歸らんと志欲し、東のかた徙りて遠きに轉ずるを慮れば、吳人の蜀の側竹弩を愛するを以て、能く之を作ると言い、皓は留めて作部に付す。後に幹は逃れて京都に至り、松・能は皓の殺す所と爲る。幹 伐吳の計を陳(の)べたれば、帝 乃ち厚く賞賜を加え、以て日南太守と爲す。是より先、楊稷を以て交州刺史と爲し、毛炅もて交阯太守と爲すや、印綬未だ至らずして敗れたれば、即ち稷に交州を贈り、炅及び松・能の子は並びに關内侯たり。
九眞郡の功曹の李祚の郡を保ちて内附するや、璜 將を遣わして之を攻むるも、剋たず。祚の舅の黎晃は軍に隨い、祚に勸めて降らしめんとす。祚 荅えて曰く「舅は自(もとよ)り吳將、祚は自り晉臣、唯だ力のみ是れ視(くら)ぶるのみ」と。踰時にして乃ち拔く。皓 璜を以て使持節〔一〕・都督交州諸軍事・前將軍・交州牧と爲す。武平・九德・新昌 土地は阻險、夷獠は勁悍にして歴世賓(したが)わず。璜 征討し、三郡及び九眞屬國三十餘縣を開置す。璜を徴(め)して武昌都督と爲し、合浦太守の脩允を以て之に代う。交土の人 璜を留めんことを請うもの千を以て數うれば、是に於いて遣(や)りて還す。
皓 既に晉に降るや、手書して璜の息の融を遣わして璜に敕して歸順せしむ。璜 流涕すること數日、使を遣わして印綬を贈りて洛陽に詣らしむ。帝 詔して其の本職に復せしめ、宛陵侯に封じ、改めて冠軍將軍と爲す。
吳既に平らぎ、普(あまね)く州郡兵を減ず。璜 上言して曰く「交土は荒裔にして、一方に斗絕し、或いは重譯して言い、山海に連帶す。又た南郡は州を去ること海行して千有餘里、外は林邑を距(へだ)つこと纔(わず)かに七百里。夷帥の范熊(はんゆう)は世々逋寇を爲し、自ら稱して王と爲し、數々(しばしば)百姓を攻む。且つ扶南と連接し、種類は猥(みだ)りに多く、朋黨は相い倚(たの)み、險を負(お)いて賓わず。往(さきごろ)吳に隸(したが)いたる時、數々寇逆を作し、攻めて郡縣を破り、長吏を殺害す。臣は尩駑(おうど)を以て、昔、故國の採る所と爲り、偏戍して南に在ること十有餘年。前後征討し、其の魁桀を翦(ほろぼ)すと雖も、深山僻穴、尚お逋竄(ほざん)するもの有り。又た臣の統ぶる所の卒は本と七千餘人なるも、南土は溫溼(おんしつ)にして、多く氣毒有り、加うるに累年征討し、死亡して減秏し、其の見(げん)に在る者二千四百二十人なるのみ。今、四海は混同、服せざるを思うは無く、當に甲を卷(おさ)めて刃を消(へ)らし、禮樂を是れ務とすべし。而れども此の州の人、義を識る者寡(すくな)く、其の安樂を厭い、好みて禍亂を爲す。又た廣州の南岸、周旋すること六千餘里、賓屬せざる者は乃ち五萬餘戸。及び桂林の不羈(ふき)の輩、復た當に萬戸なるべし。官役に服從するに至りては、纔かに五千餘家。二州は脣齒にして、唯だ兵のみ是れ鎭む。又た寧州の興古は上流に接據し、交阯郡を去ること千六百里、水陸並びに通じ、互いに相い維(つな)ぎ衞(まも)る。州兵未だ宜しく約損し、以て單虛を示すべからず。夫れ風塵の變は、非常に出ず。臣は亡國の餘なれば、議は採るに足らざれども、聖恩廣厚にして、猥(みだ)りに飾擢を垂れ、其の罪釁を蠲(のぞ)き、改めて方任を授け、辱を去り寵に即けられたれば、目を拭いて視を更め、誓いて命を投ぜんことを念(おも)い、以て受くる所に報じ、臨履して見る所、謹みて瞽(こ)を冒して陳ぶ」と。又た以(い)えらく「合浦郡は土地磽确(こうかく)にして、田農有る無く、百姓は唯だ珠を采るを以て業と爲し、商賈は去來して珠を以て米に貿(か)う。而れども吳の時、珠をば禁ずること甚だ嚴しく、百姓の私(ひそ)かに好珠を散ずるを慮り、禁絕來去し、人は以て饑困す。又た調する所は猥りに多く、限は毎(つね)に充たず。今請うらくは、上珠は三分に二を輸し、次なる者は一を輸し、麤なる者は蠲除し、十月より二月に訖(いた)るまで、上珠を採るの時に非ざれば、商旅の往來すること舊の如くせしむるを聽(ゆる)されんことを」と。並びに之に從う。
南に在ること三十年、威恩は殊俗に著(あらわ)る。卒するに及び、州を舉げて號哭し、慈親を喪(うしな)うが如し。朝廷乃ち員外散騎常侍の吾彦を以て璜に代う。彦の卒するや、又た員外散騎常侍の顧祕を以て彦に代う。祕の卒するや、州人は祕の子の參に逼(せま)りて州事を領せしむ。參の尋いで卒するや、參の弟の壽 州を領せんことを求むるも、州人聽かず、固く之を求むるや、遂に州を領す。壽 乃ち長史の胡肇(こちょう)等を殺し、又た將に帳下督の梁碩(りょうせき)を殺さんとするも、碩 走りて免るるを得、兵を起して壽を討ち、之を禽にし、壽の母に付し、之を鴆殺せしむ。碩 乃ち璜の子の蒼梧太守の威を迎えて刺史を領せしむ。職に在りて甚だ百姓の心を得るも、三年にして卒す。威の弟の淑、子の綏(すい)、後に並びに交州と爲る。基より綏に至るまで四世、交州と爲りし者は五人。
璜の弟の濬(しゅん)、吳の鎭南大將軍・荊州牧たり。濬の弟の抗、太子中庶子たり。濬の子の湮、字は恭之、湮の弟の猷(ゆう)、字は恭豫、並びに名有り。湮は臨海太守・黃門侍郎に至り、猷は宣城内史、王導の右軍長史たり。湮の子の馥(ふく)、于湖令たり、韓晃の殺す所と爲り、追いて廬江太守を贈らる。抗の子の囘(かい)、自ら傳有り。
〔一〕節:皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有したが、呉では詳細は不明。
陶璜(とうこう)は字を世英といい、丹楊郡・秣陵の人である。父の陶基は呉の交州刺史であった。陶璜は呉に仕えて高位の官職を歴任した。
孫皓の時、交阯太守の孫諝(そんしょ)は貪婪・暴虐で、人々の悩みの種となっていた。ちょうど察戦(官職名)の鄧荀が中央より派遣され、勝手に孔雀三千頭を徴発し、秣陵に輸送したが、人々はその遠役に苦しみ、みな反乱を起こそうと思った。そこで交阯郡の郡吏の呂興は、孫諝と鄧荀を殺し、郡ごと晋に服属した。西晋の武帝は呂興を「安南将軍・交阯太守」に任命した。しかし、まもなく呂興はその功曹の李統によって殺され、武帝は改めて建寧の人である爨谷(さんこく)を交阯太守に任じた。爨谷が死ぬとまた、改めて巴西の人である馬融を派遣して後任とした。馬融が病気で死ぬと、南中監軍の霍弋(かくよく)はさらに犍為(けんい)の人である楊稷を派遣して馬融の後任とし、楊稷は将軍の毛炅(もうけい)、九真太守の董元、牙門将の孟幹・孟通・李松・王業・爨能らと一緒に蜀の地から交阯に出て、呉軍を古城で破り、呉の大都督の脩則・交州刺史の劉俊を斬った。
そこで呉は虞汜(ぐし)を監軍として派遣し、また薛珝(せっく)を「威南将軍・大都督」とし、陶璜を蒼梧太守に任じて、楊稷を防がせた。そして分水で戦うも、陶璜は敗れ、退いて合浦郡に拠点を置いたが、このとき指揮下の二人の将帥を失った。薛珝は怒って陶璜に言った。「お前は自ら上表して賊を討ちに行ったのに、二人の将帥を失った。その失態の原因はどこにあったのか」と。陶璜は言った。「下官は思い通りに軍を動かせず、諸軍は命令に従わず、その故に敗れてしまったのです」と。薛珝は怒り、軍を引き上げて帰ろうとした。すると陶璜は、夜に百人の兵を率いて董元を襲い、その宝物を獲得し、船に載せて帰ってきた。薛珝はそこで陶璜に謝り、陶璜に交州刺史の事務を任せ、前部督に任じた。陶璜は海道から不意を突いて進撃し、ただちに交阯郡に到り、董元がこれに対峙した。諸将がまさに開戦しようとしているとき、陶璜は敵の垣の内側に伏兵がいるかもしれないと疑い、長戟の兵を自軍の後方に並べた。兵がわずかに交戦すると、董元は偽って退いた。陶璜がこれを追うと、果たして伏兵が出て襲ってきたので、陶璜は長戟部隊を出して迎え撃ち、大いに董元らを破った。また、陶璜が前に獲得した宝船上の数千匹の錦物を、扶厳の賊帥である梁奇に贈ると、梁奇は一万人余りを率いて陶璜を援助した。一方で、董元の下には勇将の解系なる者がいて、董元と一緒に城内にいた。陶璜はその弟の解象を誘い、書をしたためて解系に与えさせ、さらに解象を陶璜の軺車に乗せ、鼓吹(楽隊)や導従(前駆者・随従者たち)をつけて行かせた。董元らは言った。「解象すらこの様子なのだから、解系も必ず去ろうと思うに違いない」と。そこで解系のもとに赴いて彼を殺してしまった。薛珝・陶璜はやがて交阯郡を陥落させた。そして呉は陶璜を交州刺史に任じた。
陶璜は謀略に長け、困窮する者を救い、施しをすることを好み、よく人心を得た。広州刺史(あるいは広州牧)の滕脩はしばしば南方の賊を討ったが、制圧することができなかった。陶璜は言った。「南岸(現在の海南島)の人々は我らの産物である塩と鉄に依存しているので、交易を絶てば、みな(農耕のために武器を含む鉄器を)壊して農具を造ることでしょう。このようにして二年続ければ、一戦するだけで滅ぼすことができましょう」と。滕脩はこの意見に従い、果たして賊を破ることができた。
初め、霍弋が楊稷・毛炅らを派遣したとき、彼らと誓約して言った。「もし賊が城を囲んで百日経たずにそなたらが降伏したなら、こちらにいる家族を誅殺する。もし百日を過ぎても救兵が来ない場合には、私がその罪を受けよう」と。楊稷らは城を守って百日経たずに糧食が尽きてしまったので、降伏することを願い出た。しかし、陶璜はそれを許さず、敵方である彼らに糧食を与えて戦を継続させた。諸将がみな諫めると、陶璜は言った。「霍弋はすでに死んでいるので、晋が楊稷らを救うことができないのは必定である。だからこそ、城を囲んで百日という期限が満ちるのを待ち、その後に降伏を受け入れるべきである。そうすれば、彼らが罪を負(って家族を失)うこともなく、我らは義を立てたという名分を得て、内には我が民を諭し、外には鄰国の人々を手懐けることができ、なんと良いことではなかろうか」と。楊稷らは百日という期限が過ぎてまた糧食が尽き、救援も来なかったので、そこでやっと陶璜は彼らの降伏を受け入れた。先に戦死した大都督の脩則は毛炅によって殺されており、脩則の子の脩允は陶璜の南征に従軍していた。楊稷らが城ごと降ると、脩允は復讐したいと求めたが、陶璜は許さなかった。その後、毛炅は密かに謀って陶璜を襲おうとしたが、事が発覚したので、陶璜は毛炅を捕らえ、怒りを露わにして言った。「晋賊め」と。毛炅は声を激しくして言った。「呉の狗め、私がなぜ賊であろうか」と。脩允はその腹を割いて(はらわたを抉って)言った。「これでもまだ悪事を働けるか、どうだ」と。毛炅はなお罵って言った。「我が志はお前らの主・孫皓を殺すことにある。お前の父なんぞ、どこの馬の骨か知らん」と。陶璜は楊稷らも捕らえ、みな孫皓のもとへ護送した。ただ、楊稷はその途中で合浦に至ったときに、病を発して死んでしまった。孟幹・爨能・李松らが建鄴(建業)に到着すると、孫皓は彼らを殺そうとした。しかし、ある人が孫皓に勧めて言った。「孟幹らは彼らの仕えた主に忠節を尽くしたのでありますから、彼らを許すことによって我が国の辺境の将帥たちにもそのような忠節を奨励するべきです」と。孫皓はその言に従い、彼らを臨海郡に連れて行って軟禁するに留めようとした。孟幹らは北(晋国)に帰りたいと強く願い、東(臨海郡)に移されて遠く離れてしまうことを憂慮し、呉の人が蜀の側竹弩を非常に好んでいるということを利用し、自分たちはそれを作ることができると言い、そこで孫皓は彼らを臨海郡に移さずに建業に留めて作部(兵器の製作部署)に配置した。後に孟幹は上手く逃れて晋の京都(洛陽)に帰り着き、李松・爨能は孫皓に殺された。孟幹は(経験を活かして)伐呉の計策を述べたので、武帝はそこで厚く賞賜を加え、日南太守に任じた。これに先立って、(霍弋が)楊稷を交州刺史に任じ、毛炅を交阯太守に任じたとき、(朝廷がそれを認めて後から送った)印綬がまだ到着しないうちに二人が敗れてしまったので、そこで楊稷に交州刺史の肩書きを追贈し、毛炅・李松・爨能の子にみな関内侯の爵位を与えた。
九真郡の功曹の李祚が郡の実権を掌握して晋に内属すると、陶璜は将帥を派遣してこれを攻めたが破れなかった。李祚の舅の黎晃は討伐軍に従軍しており、李祚に降伏を勧めた。李祚は答えて言った。「舅は呉将、李祚は晋臣、ただ力比べあるのみです」と。(降伏を許す)期限を過ぎると、そこで討伐軍は城を攻め、陥落させた。孫皓は陶璜を「使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧」とした。武平・九徳・新昌郡の土地は険阻で、夷獠(西南夷の一種)は力強く、代々中国に従わなかった。陶璜はこれを征討し、武平・九徳・新昌の三郡および九真属国の三十県余りを新設した。やがて陶璜は徴召されて武昌都督となり、合浦太守の脩允が陶璜の後任となった。しかし、何千人もの交州の人々が陶璜を留めるよう願い出たので、そこで陶璜を交州に戻した。
孫皓は晋に降ると、手書きの令書を陶璜の息子の陶融に持たせて陶璜のもとへ派遣し、帰順を促した。陶璜は涙を流すこと数日、使者を派遣して印綬を洛陽に届けて降った。武帝は詔を下して陶璜を元の地位に据え置いたが、さらに宛陵侯に封じ、(呉のときの前将軍から)改めて冠軍将軍に任じた。
こうして呉が平定されて天下統一が達成されると、武帝は全国の州郡の兵を削減しようとした。陶璜は上表して言った。「交州は辺縁の土地で、(四方のうちの南の)一方に隔絶し、通訳がいないと言葉が通じない者もおり、広く山中や海上に分布しております。また南方の郡は州の治所から海行して千里余り、外に林邑国と隔たることその距離はわずかに七百里しかありません。林邑の夷人の統帥である范熊は呉の頃より侵略しては逃げてを繰り返し、王を自称し、しばしば中国の人々を攻めました。しかも扶南国と隣接し、種族はやたらと多く、仲間同士で手を取り合い、険阻な地を背景に中国に従いません。かつて彼らが呉に従っていたときも、何度も侵略・反逆を繰り返し、郡県を攻め破り、長吏(勅任官)を殺害しました。私は愚図でございますが、かつて故国(呉)に採用され、辺境に鎮守して南に在ること十年余り、前後に何度も征討しましたが、その首領を滅ぼしたとしても、山奥や遠くの洞窟にはまだ逃れて隠れ住む者もいました。また、私が統べていた兵はもと七千人余りいましたが、南土は高温多湿で、風土病も多く、それに加えて年々征討を行ったことにより、兵士は多く死亡して数が減り、現在に至っては二千四百二十人しか残っておりません。今や四海は統一され、みなが服従していますので、確かに防具を収めて武器を減らし(兵力を削減し)、礼楽を務めとするべきときではあります。しかし、この交州の人は、義を知る者は少なく、その(礼や義による)安楽を嫌い、好んで禍乱を起こします。また広州の南岸(現在の海南島)は、その海岸線を一周すると六千里余りに渡るほどの大きさで、我が中国に従わない者は五万戸余り。そして、(広州の内陸の)桂林郡において教化に従わない輩はさらに万戸に及びましょう。それに対して、戸籍に登録されて官役に服従する者はわずかに五千家余りに過ぎません。交州・広州の二州は唇と歯の関係のように密接に互いを助け合うべき存在であり、兵によってのみ鎮めることができます。また、寧州の興古郡は交州に流れる川の上流に隣接し、交阯郡を去ること千六百里、水路も陸路も通じており、互いに繋がって守り合う地勢です。ゆえに、交州の兵を削減し、それによって手薄で空虚であることを示すべきではありません。そもそも変乱というのは予期せぬときに起こるものです。私は亡国の遺民に過ぎませんので、私めの議は採用するに足りないものではありますが、陛下の聖恩は広く厚く、私のくだらない言葉をやたらと飾り立ててお褒めいただいて抜擢してくださり、(呉に仕えて晋に反旗を翻した)我が罪過をお許しいただき、改めて方鎮としての任を授け、我が恥辱を取り去って寵を賜われましたので、目を拭って視界を新たにし(心を改め)、誓って命を捧げようと思い、それによって授かった厚恩に報いようと、実際に現地にあって経験した上での見解を、愚かながら謹んで述べさせていただきました」と。またこう言った。「合浦郡は土地は痩せており、農耕ができず、人々はただ真珠を取って生業とし、商人が行き来してその真珠を米と交換しております。しかし、呉の時代、真珠を個人的に採取することを非常に厳しく禁じ、人々がこっそりと上質の真珠を売って各地に散じてしまうことを憂慮し、何度も禁令を出して徹底的に禁じたので、人々はそれによって困窮し飢餓するようになりました。さらに物資の徴発がやたら多く、人々はノルマをいつも満たせませんでした。今、お願い申し上げます。上質の真珠は三分の二を役所に提出し、次に質の良いものは三分の一を提出し、粗雑なものは提出しなくても良いこととし、十月より二月までは上質の真珠が取れる時期ではないので、遠隔地商人が従来通り往来できるようにするということをお許しください」と。いずれも陶璜の意見に従った。
陶璜が南に在ること三十年、その威厳・恩恵は異なる習俗の地にも知れ渡った。陶璜が死ぬと、交州の人はみな号泣し、まるで慈愛ある親を失ったかのようであった。朝廷はそこで員外散騎常侍の吾彦を陶璜の後任とした。吾彦が死ぬと、また員外散騎常侍の顧祕をその後任とした。顧祕が死ぬと、州の人々は顧祕の子の顧参を脅して州の事を任せた。顧参が間もなく死ぬと、顧参の弟の顧寿が交州を統括したいと申し出たが、州の人々は許さず、顧寿が固く求めると、(州の人々が折れて)それにより顧寿が州を統括することとなった。顧寿がその地位につくと、さっそく長史の胡肇(こちょう)らを殺し、また帳下督の梁碩(りょうせき)を殺そうとしたが、梁碩は逃げて免れ、兵を起こして顧寿を討って捕らえ、顧寿の母に命じて顧寿を毒殺させた。梁碩はそこで、陶璜の子であり、当時は蒼梧太守であった陶威を迎えて交州刺史を兼任させた。陶威は職に在って非常によく人々の心を得たが、三年で死んでしまった。陶威の弟の陶淑と、陶威の子の陶綏(とうすい)は、二人とも後に交州刺史となった。(陶璜の父の)陶基から陶綏に至るまで四世、交州刺史となった者は五人であった。
陶璜の弟の陶濬(とうしゅん)は呉の「鎮南大将軍・荊州牧」であった。陶濬の弟の陶抗は太子中庶子にまで昇った。陶濬の子の陶湮は字を恭之といい、陶湮の弟の陶猷(とうゆう)は字を恭豫といい、両方とも有名になった。陶湮は臨海太守・黄門侍郎に至り、陶猷は宣城内史、そして王導の右軍長史となった。陶湮の子の陶馥(とうふく)は于湖令となったが、(東晋・成帝期に反乱を起こした蘇峻の将である)韓晃によって殺され、廬江太守の肩書きを追贈された。陶抗の子の陶回は別に(『晋書』巻七十八に)専伝を設けてある。
吾彦、字士則、吳郡吳人也。出自寒微、有文武才幹。身長八尺、手格猛獸、旅力絕羣。仕吳爲通江吏。時將軍薛珝杖節南征、軍容甚盛。彦觀之、慨然而歎。有善相者劉札謂之曰「以君之相、後當至此。不足慕也。」
初爲小將、給吳大司馬陸抗。抗奇其勇略、將拔用之、患衆情不允。乃會諸將、密使人陽狂、拔刀跳躍而來、坐上諸將皆懼而走、唯彦不動、舉几禦之、衆服其勇、乃擢用焉。
稍遷建平太守。時王濬將伐吳、造船於蜀。彦覺之、請增兵爲備、皓不從、彦乃輒爲鐵鎖、橫斷江路。及師臨境、緣江諸城皆望風降附、或見攻而拔、唯彦堅守、大衆攻之不能剋、乃退舍禮之。
吳亡、彦始歸降、武帝以爲金城太守。帝嘗從容問薛瑩曰「孫皓所以亡國者何也。」瑩對曰「歸命侯臣皓之君吳、昵近小人、刑罰妄加、大臣・大將無所親信、人人憂恐、各不自安、敗亡之釁、由此而作矣。」其後帝又問彦、對曰「吳主英俊、宰輔賢明。」帝笑曰「君明臣賢、何爲亡國。」彦曰「天祿永終、曆數有屬、所以爲陛下擒。此蓋天時、豈人事也。」張華時在坐、謂彦曰「君爲吳將、積有歲年、蔑爾無聞、竊所惑矣。」彦厲聲曰「陛下知我、而卿不聞乎。」帝甚嘉之。
轉在敦煌、威恩甚著。遷雁門太守。時順陽王暢驕縱、前後内史皆誣之以罪。及彦爲順陽内史、彦清身率下、威刑嚴肅、衆皆畏懼。暢不能誣、乃更薦之、冀其去職。
遷員外散騎常侍。帝嘗問彦「陸喜・陸抗二人誰多也。」彦對曰「道德・名望、抗不及喜。立功・立事、喜不及抗。」會交州刺史陶璜卒、以彦爲南中都督・交州刺史。重餉陸機兄弟、機將受之、雲曰「彦本微賤、爲先公所拔、而荅詔不善、安可受之。」機乃止。因此毎毀之。長沙孝廉尹虞謂機等曰「自古由賤而興者、乃有帝王、何但公卿。若何元幹・侯孝明・唐儒宗・張義允等、並起自寒微、皆内侍外鎭、人無譏者。卿以士則荅詔小有不善、毀之無已。吾恐南人皆將去卿、卿便獨坐也。」於是機等意始解、毀言漸息矣。
初、陶璜之死也、九眞戍兵作亂、逐其太守、九眞賊帥趙祉圍郡城、彦悉討平之。在鎭二十餘年、威恩宣著、南州寧靖。自表求代、徴爲大長秋、卒於官。
吾彦、字は士則、吳郡吳の人なり。出ずるに寒微よりするも、文武の才幹有り。身長八尺、手ずから猛獸を格(う)ち、旅力は羣を絕す。吳に仕えて通江の吏と爲る。時に將軍の薛珝は節を杖(つ)きて〔一〕南のかた征し、軍容甚だ盛んなり。彦 之を觀、慨然として歎ず。善相者の劉札なるもの有りて之に謂いて曰く「以(おも)うに君の相、後に當に之に至るべし。慕うに足らざるなり」と。
初め小將と爲り、吳の大司馬の陸抗に給す。抗 其の勇略を奇とし、將に拔きて之を用いんとするも、衆情の允とせざるを患(うれ)う。乃ち諸將と會すに、密かに人をして狂える陽(まね)せしめ、刀を拔きて跳躍して來たれば、坐上の諸將は皆な懼(おそ)れて走るも、唯だ彦のみ動かず、几を舉げて之を禦(ふせ)ぎたれば、衆は其の勇に服し、乃ち擢きて焉(これ)を用う。
稍々(やや)遷りて建平太守たり。時に王濬 將に吳を伐たんとし、船を蜀に造る。彦 之を覺(さと)り、兵を增して備えと爲さんことを請うも、皓は從わざれば、彦 乃ち輒(みだ)りに鐵鎖を為(つく)り、江路に橫斷せしむ。師の境に臨むに及び、緣江の諸城は皆な風を望みて降附し、或いは攻められて拔かるるも、唯だ彦のみ堅守し、大衆之を攻むるも剋つ能わず、乃ち退舍して之を禮す。
吳亡ぶや、彦 始めて歸降し、武帝 以て金城太守と爲す。帝 嘗て從容として薛瑩(せつえい)に問いて曰く「孫皓の國を亡(うしな)いし所以の者は何ぞや」と。瑩 對(こた)えて曰く「歸命侯の臣皓の吳に君たるや、小人に昵近し、刑罰をば妄りに加え、大臣・大將 親信する所無く、人人憂恐し、各々自ら安んぜず、敗亡の釁、此に由りて作(おこ)れり」と。其の後、帝の又た彦に問うや、對えて曰く「吳主は英俊にして、宰輔は賢明なりき」と。帝 笑いて曰く「君は明にして臣は賢ならば、何爲れぞ國を亡いたる」と。彦曰く「天祿は永終にして、曆數は屬する有れば、所以(ゆえ)に陛下の擒と爲れり。此れ蓋し天の時なれば、豈に人事ならんや」と。張華 時に坐に在り、彦に謂いて曰く「君は吳將と爲り、積むこと歲年有るも、蔑爾(べつじ)として聞く無ければ、竊(ひそ)かに惑う所なり」と。彦 聲を厲(はげ)まして曰く「陛下は我を知るに、而れども卿は聞かざりしや」と。帝 甚だ之を嘉(よみ)す。
轉じて敦煌に在り、威恩甚だ著(あらわ)る。雁門太守に遷る。時に順陽王の暢は驕縱にして、前後の内史は皆な之を誣して以て罪す。彦の順陽内史と爲るに及び、彦は身を清らかにして下を率い、威刑は嚴肅、衆は皆な畏懼す。暢 誣する能わず、乃ち更(あらた)めて之を薦め、其の職を去らんことを冀(ねが)う。
員外散騎常侍に遷る。帝 嘗て彦に問うらく「陸喜・陸抗の二人は誰(いず)れか多ならん」と。彦 對えて曰く「道德・名望は、抗 喜に及ばず。立功・立事は、喜 抗に及ばず」と。會々交州刺史の陶璜の卒するや、彦を以て南中都督・交州刺史と爲す。重く陸機兄弟に餉(おく)り、機 將に之を受けんとするも、雲曰く「彦は本(も)と微賤にして、先公の拔く所と爲るも、而れども詔に荅うるに善からざれば、安くんぞ之を受くべけんや」と。機 乃ち止む。此に因りて毎(つね)に之を毀(そし)る。長沙の孝廉の尹虞(いんぐ) 機等に謂いて曰く「古より、賤に由りて興る者は、乃ち帝王有り、何ぞ但だに公卿のみならんや。何元幹(何楨)・侯孝明(侯史光)・唐儒宗(唐彬)・張義允(張惲)等の若(ごと)きは、並びに起つに寒微よりし、皆な内に侍して外に鎭し、人譏る者無し。卿は士則の詔に荅うるに小(わず)かに善からざること有りしを以て、之を毀ること已む無し。吾 南人皆な將に卿を去り、卿便ち獨坐せんとするを恐るるなり」と。是に於いて機等の意 始めて解け、毀言漸(ようや)く息(や)む。
初め、陶璜の死するや、九眞の戍兵は亂を作(な)し、其の太守を逐い、九眞の賊帥の趙祉は郡城を圍むも、彦 悉く討ちて之を平らぐ。鎭に在ること二十餘年、威恩は宣著たり、南州は寧靖す。自ら表して代わらんことを求め、徴されて大長秋と爲り、官に卒す。
〔一〕節:皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有したが、呉では詳細は不明。節は旗に似て長い棒の先に房状のものがついており、抱えて持ち、杖のように地をついて威儀を正した。
吾彦は字を士則といい、呉郡・呉の人である。低い家格の出身であったが、文武の才能があった。身長は八尺、素手で猛獣と格闘し、腕っぷしは群を抜いていた。呉に仕えて通江の吏(運河の土木・漕運に携わる役人のことか?)となった。時に将軍の薛珝は節をついて南征し、その軍容は非常に盛んであった。吾彦はこれを見て、感慨のあまり嘆息をもらした。腕の良い人相見の劉札という人物がいたが、彼は吾彦に言った。「あなた様の相を見ますに、きっと後にこれと同じ位につくでしょう。ことさらに慕う必要はございません」と。
吾彦は初め下級の将帥となり、呉の大司馬の陸抗の下に配置された。陸抗は吾彦の勇略を優れたものだと思い、抜擢して任用しようとしたが、人々がそれを認めないであろうことを憂慮した。そこで諸将と会合していた際に、あらかじめ密かにある人に依頼しておいてその場で狂ったふりをさせ、その人が刀を抜いて跳びあがって襲い掛かると、会合の席にいた諸将はみな怖がって逃げたが、吾彦のみは動かず、ひじかけをかかげて狂ったふりをしたその人を防いだので、人々はその武勇に感服し、そこでやっと陸抗は吾彦を抜擢して任用することができた。
何度か昇進して(巴蜀地域への入口たる)建平郡の太守となった。時に晋の王濬が呉を征伐しようとし、(すでに晋領となっていた)蜀の地で船を製造していた。吾彦はこの情報を掴むと、兵を増員して備えとするべきであると願い出たが、孫皓はこれに従わなかったので、そこで吾彦は勝手に鉄の鎖を造り、長江の航路上にそれを張った。晋軍が国境地帯に臨むと、長江沿いの諸城はみな動静を察して晋に降伏するか、あるいは攻められて城を陥落させられたが、吾彦のみは堅く守り、晋の大軍が攻めよせても吾彦を破ることができず、そこで晋軍は軍をやや退けて吾彦に敬意を払った。
呉が滅ぶと、そこではじめて吾彦は晋に降伏し、西晋の武帝は吾彦を金城太守に任じた。武帝はかつてゆったりと構えて薛瑩(せつえい)にこう質問した。「孫皓が国を失った原因とは何か」と。薛瑩は答えて言った。「今や帰順して帰命侯となった孫皓は、呉の君主であったときは小人を近づけて、やたらと人々に刑罰を加え、親しく信任する大臣や将軍たちも無く、人々は憂え恐れ、みな心安らかではなく、敗亡の原因はこれによって生じました」と。その後、また武帝が吾彦に問うと、吾彦は答えて言った。「呉主(孫皓)は英俊であり、宰相・大臣は賢明でした」と。武帝は笑って言った。「君主が英明で臣下が賢明ならば、どうして国を失ったのか」と。吾彦は言った。「天の福禄はとこしえでありますが、天によって与えられるその命運が属するところは一ヶ所しかございませんので、ゆえに天命の帰する陛下の捕虜となったのです。これはそもそも天の時によるものですから、どうして人がどうのという類のものでございましょうか」と。張華は時に座上にあり、吾彦に言った。「あなたが呉の将となって何年も経つというのに少しも名声を耳にしたことがありませぬゆえ、心ひそかに疑問に思っております」と。吾彦は声を激しくして言った。「陛下は私のことをご存知でいらっしゃったというに、あなたは聞いたことがないというのですか」と。武帝はこれを非常に善しとした。
敦煌太守に転任し、その威厳と恩恵は非常に知れ渡った。やがて雁門太守に昇進した。時に順陽王の司馬暢(しばちょう)は傲慢で好き勝手しており、前後に赴任した順陽内史たちをみな誣告して罪に陥れていた。やがて吾彦が順陽内史に任ぜられると、吾彦は身を清らかにして下僚を統括し、刑罰を用いること厳粛であったので、人々はみな恐れた。司馬暢は吾彦を誣告することができず、そこで却って吾彦を推薦して、それで吾彦が栄転して居なくなることを願った。
やがて吾彦は員外散騎常侍に昇進した。武帝はかつて吾彦にこう問うた。「陸喜・陸抗の二人ではいずれが優っているか」と。吾彦は答えて言った。「道徳・名望に関しては、陸抗は陸喜に及びません。功を立て、業績を成すことに関しては、陸喜は陸抗に及びません」と。その後、交州刺史の陶璜が死ぬと、吾彦が「南中都督・交州刺史」に任じられた。吾彦は礼を踏まえて手厚く(かつての上司であった陸抗の息子の)陸機兄弟に贈り物をし、陸機はそれを受け取ろうとしたが、その弟の陸雲が言った。「吾彦はもともと家柄も低く、父上に抜擢されたのにも関わらず、それなのに詔に対して父上にとって良いように答えませんでしたのに、どうしてこの贈り物を受け取れましょうか」と。陸機はそこで受け取るのをやめ、根に持っていつも吾彦のことを悪く言った。長沙郡の孝廉の尹虞は陸機らに言った。「古より、微賎から身を立てた者の中には帝王もおり、どうして大臣たちに限ったことでございましょうか(ですので、家柄が良くないからと見下すべきではりません)。また、何元幹(何楨)・侯孝明(侯史光)・唐儒宗(唐彬)・張義允(張惲)のような者たちは、すべて低い家柄の出自ですが、みな陛下のお側近くにお仕えしたり、あるいは外に出て四方を鎮守したりしておりますに、彼らを悪く言う者はございません。あなたがたは士則(吾彦)が詔に答えた際にほんのわずかに良くないことがあったからと言って、彼を誹謗してやみません。私は、南方の人々がみなあなたがたを見限って、あなたがたが孤立してしまうのではないかと危惧しております」と。そこでやっと陸機らは怒りを鎮めて、罵倒の言葉はだんだんなくなっていった。
初め陶璜が死んだとき、九真郡の戍兵が反乱を起こし、時の九真太守を駆逐し、九真郡の賊帥の趙祉は郡城を囲んだが、吾彦が赴任するとこれらをことごとく討伐して平定した。鎮守すること二十年余り、威厳・恩恵は知れ渡り、南州は安寧であった。やがて吾彦は自ら上表して職を交代してもらうことを求め、徴召されて大長秋となって、まもなく在任中に死んだ。
張光、字景武、江夏鍾武人也。身長八尺、明眉目、美音聲。少爲郡吏、家世有部曲、以牙門將伐吳有功、遷江夏西部都尉、轉北地都尉。
初、趙王倫爲關中都督、氐羌反叛、太守張損戰没、郡縣吏士少有全者。光以百餘人戍馬蘭山北、賊圍之百餘日、光撫厲將士、屢出奇兵擊賊、破之。光以兵少路遠、自分敗没。會梁王肜遣司馬索靖將兵迎光、舉軍悲泣、遂還長安。肜表光「處絶圍之地、有耿恭之忠、宜加甄賞、以明奬勸。」於是擢授新平太守、加鼓吹。
屬雍州刺史劉忱被密詔討河間王顒、光起兵助忱。忱時委任秦州刺史皇甫重、重自以關西大族、心毎輕光、謀多不用。及二州軍潰、爲顒所擒。顒謂光曰「前起兵欲作何策。」光正色荅曰「但劉雍州不用鄙計、故令大王得有今日也。」顒壯之、引與歡宴彌日、表爲右衞司馬。
陳敏作亂、除光順陽太守、加陵江將軍、率歩騎五千詣荊州討之。刺史劉弘雅敬重光、稱爲南楚之秀。時江夏太守陶侃與敏大將錢端相距於長岐、將戰、襄陽太守皮初爲步軍、使光設伏以待之、武陵太守苗光爲水軍、藏舟艦於沔水。皮初等與賊交戰、光發伏兵應之、水陸同奮、賊衆大敗。弘表光有殊勳、遷材官將軍・梁州刺史。
先是、秦州人鄧定等二千餘家、饑餓流入漢中、保于城固、漸爲抄盜。梁州刺史張殷遣巴西太守張燕討之。定窘急、偽乞降于燕、并餽燕金銀、燕喜、爲之緩師。定密結李雄、雄遣衆救定、燕退、定遂進逼漢中。太守杜正沖東奔魏興、殷亦棄官而遁。光不得赴州、止於魏興、乃結諸郡守共謀進取。燕唱言曰「漢中荒敗、迫近大賊。剋復之事、當俟英雄。」正沖曰「張燕受賊金銀、不時進討、阻兵緩寇、致喪漢中。寔燕之罪也。」光於是發怒、呵燕令出、斬之以徇。綏撫荒殘、百姓悅服。光於是卻鎭漢中。
時逆賊王如餘黨李運・楊武等、自襄陽將三千餘家入漢中、光遣參軍晉邈率衆於黃金距之。邈受運重賂、勸光納運。光從邈言、使居城固。既而邈以運多珍貨、又欲奪之、復言於光曰「運之徒屬不事佃農、但營器杖、意在難測。可掩而取之。」光又信焉、遣邈衆討運、不剋。光乞師於氐王楊茂搜、茂搜遣子難敵助之。難敵求貨於光、光不與。楊武乃厚賂難敵、謂之曰「流人寶物悉在光處、今伐我、不如伐光。」難敵大喜、聲言助光、内與運同。光弗之知也、遣息援率衆助邈。運與難敵夾攻邈等、援爲流矢所中死、賊遂大盛。光嬰城固守、自夏迄冬、憤激成疾。佐吏及百姓咸勸光退據魏興、光按劍曰「吾受國厚恩、不能翦除寇賊、今得自死便如登仙、何得退還也。」聲絶而卒。時年五十五。百姓悲泣、遠近傷惜之。有二子、炅・邁。
炅少辟太宰掾。邁多才略、有父風。州人推邁權領州事、與賊戰没。別駕范曠及督護王喬奉光妻息、率其遺衆、還據魏興。其後義陽太守任愔爲梁州、光妻子歸本郡。南平太守應詹白都督王敦、稱「光在梁州能興微繼絶、威振巴漢。値中原傾覆、征鎭失守、外無救助、内闕資儲、以寡敵衆、經年抗禦、厲節不撓、宜應追論顯贈、以慰存亡。」敦不能從。
張光、字は景武、江夏鍾武の人なり。身長は八尺、眉目明らかにして、音聲美(よ)し。少くして郡吏と爲り、家は世々部曲有り、牙門將を以て吳を伐ちて功有り、江夏西部都尉に遷り、北地都尉に轉ず。
初め、趙王倫の關中都督たるや、氐羌は反叛し、太守の張損は戰没し、郡縣の吏士に全き者有るは少なし。光は百餘人を以て馬蘭山の北を戍(まも)りしに、賊の之を圍むこと百餘日、光 將士を撫厲し、屢々(しばしば)奇兵を出だして賊を擊ち、之を破る。光以(おも)えらく、兵は少なく路は遠ければ、自ら分(はか)るに敗没せん、と。會々(たまたま)梁王肜(ゆう)は司馬の索靖を遣わして兵を將いて光を迎えしめたれば、軍を舉げて悲泣し、遂に長安に還る。肜 光を表すらく「絶圍の地に處(お)り、耿恭の忠有り。宜しく甄賞を加え、以て奬勸を明らかにすべし」と。是に於いて擢きて新平太守を授け、鼓吹を加う。
屬々(たまたま)雍州刺史の劉忱(りゅうしん)の密詔を被(う)けて河間王顒(ぎょう)を討つや、光は起兵して忱を助く。忱は時に秦州刺史の皇甫重に委任するも、重は自ら關西の大族なるを以て、心に毎に光を輕んじたれば、謀は多く用いられず。二州の軍の潰ゆるに及び、顒の擒(とら)うる所と爲る。顒 光に謂いて曰く「前に起兵するに何の策をか作(な)さんと欲せしや」と。光 色を正して荅えて曰く「但だ劉雍州は鄙計を用いず、故に大王をして今日有るを得しむるのみ」と。顒 之を壯とし、引(まね)きて與(とも)に歡宴すること彌日、表して右衞司馬と爲す。
陳敏の亂を作すや、光を順陽太守に除し、陵江將軍を加え、歩騎五千を率いて荊州に詣(いた)りて之を討たしむ。刺史の劉弘は雅(もと)より光を敬重したれば、稱して南楚の秀と爲す。時に江夏太守の陶侃(とうかん)は敏の大將の錢端と長岐に相い距(ふせ)ぎ、將に戰わんとするや、襄陽太守の皮初もて歩軍と爲し、光をして伏を設けて以て之を待たしめ、武陵太守の苗光(びょうこう)もて水軍と爲し、舟艦を沔水(べんすい)に藏(かく)さしむ。皮初等の賊と交戰するや、光は伏兵を發して之に應じ、水陸同(とも)に奮いたれば、賊衆は大いに敗る。弘 光に殊勳有りと表し、材官將軍・梁州刺史に遷る。
是より先、秦州の人の鄧定(とうてい)等の二千餘家、饑餓して漢中に流入し、城固に保(とりで)し、漸(ようや)く抄盜を爲す。梁州刺史の張殷 巴西太守の張燕を遣わして之を討たしむ。定 窘急(きんきゅう)し、偽りて燕に降らんことを乞い、并(なら)びに燕に金銀を餽(おく)りたれば、燕は喜び、之が爲に師を緩む。定 密かに李雄と結び、雄は衆を遣わして定を救わしめたれば、燕は退き、定 遂に進みて漢中に逼(せま)る。太守の杜正沖は東のかた魏興に奔(はし)り、殷も亦た官を棄てて遁(のが)る。光 州に赴くを得ざれば、魏興に止(とど)まり、乃ち諸郡守と結びて謀を共にして進取す。燕 唱言して曰く「漢中は荒敗し、大賊に迫近す。剋復の事、當に英雄を俟(ま)つべし」と。正沖曰く「張燕は賊の金銀を受け、進討するに時ならず、兵を阻(たの)みて寇を緩め、漢中を喪うを致す。寔(まこと)に燕の罪なり」と。光 是に於いて怒りを發し、燕を呵(しか)りて出でしめ、之を斬りて以て徇(とな)う。荒殘を綏撫し、百姓は悅びて服す。光 是に於いて卻(しりぞ)けて漢中に鎭す。
時に逆賊の王如の餘黨の李運・楊武等、襄陽より三千餘家を將いて漢中に入りたれば、光は參軍の晉邈(しんばく)を遣わして衆を黃金に率いて之を距がしむ。邈 運の重賂を受け、光に運を納(い)れんことを勸む。光 邈の言に從い、城固に居らしむ。既にして邈は運の珍貨多きを以て、又た之を奪わんと欲し、復た光に言いて曰く「運の徒屬は佃農を事とせず、但だ器杖のみ營みたれば、意 測り難きに在り。掩(おそ)いて之を取るべし」と。光 又た焉(これ)を信じ、邈の衆を遣わして運を討たしむるも、剋たず。光 師を氐王の楊茂搜に乞うや、茂搜は子の難敵を遣わして之を助けしむ。難敵は貨を光に求むるも、光 與えず。楊武 乃ち厚く難敵に賂(まいな)い、之に謂いて曰く「流人の寶物は悉(ことごと)く光の處に在れば、今我を伐つは、光を伐つに如かず」と。難敵 大いに喜び、光を助くと聲言するも、内は運と同(とも)にす。光 之を知らず、息の援を遣わして衆を率いて邈を助けしむ。運 難敵と與に邈等を夾攻し、援は流矢の中(あ)たる所と爲りて死し、賊は遂に大いに盛んなり。光 城を嬰(めぐ)らして固守し、夏より冬に迄(いた)り、憤激して疾(やまい)を成す。佐吏及び百姓は咸な光に魏興に退據せんことを勸めしも、光 劍を按じて曰く「吾 國の厚恩を受くるも、寇賊を翦除する能わざれば、今、自ら死すること便(すなわ)ち登仙するが如きを得とも、何ぞ退還するを得んや」と。聲絶えて卒す。時に年五十五。百姓悲泣し、遠近之を傷惜す。二子有り、炅(けい)と邁(まい)。
炅は少くして太宰掾に辟さる。邁は才略多く、父の風有り。州人は邁を推して權(かり)に州の事を領せしめしも、賊と戰いて没す。別駕の范曠(はんこう)及び督護の王喬は光の妻息を奉じ、其の遺衆を率い、還りて魏興に據る。其の後、義陽太守の任愔(じんいん) 梁州と爲り、光の妻子は本郡に歸る。南平太守の應詹(おうせん) 都督の王敦に白(もう)して稱すらく「光は梁州に在りて能く微(おとろ)えしを興して絶えしを繼ぎ、威は巴漢に振るう。中原の傾覆するに値(あ)い、征鎭〔一〕守を失い、外は救助無く、内は資儲を闕(か)き、寡を以て衆に敵し、經年抗禦し、節を厲(はげ)まして撓(ま)げず、宜しく應に追いて顯贈を論じ、以て存亡を慰むべし」と。敦 從う能わず。
〔一〕征鎭:直接的には征西将軍・征南将軍などの四征将軍と、鎮東将軍・鎮北将軍などの四鎮将軍のこと。これらの将軍は、地方の軍政長官たる都督の役目を担う一般的な将軍職であったが、ここではそのような地方に鎮守する方鎮のことを指す。
張光は字を景武といい、江夏郡・鍾武の人である。身長は八尺、眉目ははっきりとしていて、美声であった。若い頃から郡吏となり、家には代々家兵がいたが、牙門将の官職で伐呉の役に従軍して功績があり、江夏西部都尉に昇進し、やがて北地都尉に昇進した。
初め、趙王の司馬倫が(北地郡を含む地域を管轄する)関中都督であったとき、氐羌は反乱を起こし、北地太守の張損は戦死し、北地郡や属下の諸県の官吏や兵士で無事だった者はほとんどいなかった。張光は百人余りを率いて馬蘭山の北を守っていたが、賊に包囲されること百日余り、張光は将帥や兵士たちをなだめ励まし、しばしば敵の意表を突いた用兵でこれを破った。しかし張光は思った。兵は少なく(安全な場所までの)路も遠いので、この状況を考えればまさに自分たちは戦死するであろう、と。ところが、ちょうどよく梁王の司馬肜(しばゆう)が司馬の索靖を遣わして救援の兵を率いて張光を迎えに来たので、軍中の者たちはみな泣きに泣き、そのまま長安に還ることができた。司馬肜は張光のことについて上表して言った。「張光は連絡が遮断されて敵に囲まれた状況の中で、まさに(西域に孤立しながらもその地を守り抜いた後漢・章帝期の)耿恭のような忠勇を見せました。顕賞を加え、このような忠勇を奨励することを明らかに示すべきです」と。そこで張光を抜擢して新平太守の官職を授け、鼓吹(楽隊)を与えた。
その後、(八王の乱が起こり、新平郡の属する)雍州刺史の劉忱(りゅうしん)が密詔を授かって河間王の司馬顒(しばぎょう)を討つことになると、張光は起兵して劉忱を助けた。劉忱は時に秦州刺史の皇甫重を信頼して事を委ねていたが、皇甫重は自分が関西の大族の出自であることを誇って、内心いつも張光を軽んじていたので、張光の謀はほとんど用いられなかった。雍州・秦州の二州の軍が壊滅すると、張光は司馬顒の捕虜となった。司馬顒は張光に言った。「前に起兵するに当たり、どのような策をなそうと提言したのか」と。張光は顔色を正して答えた。「ただ劉雍州(劉忱)が私の計を用いなかったからこそ、大王は今日の地位を得ることができたのです」と。司馬顒は張光を壮士であると思い、宴に招いて楽しく飲むこと終日、上表して右衛将軍の司馬に任じた。
陳敏が反乱を起こすと、朝廷は張光を順陽太守に任じ、陵江将軍の官職を加え、歩兵・騎兵合わせて五千を率いて荊州に派遣して討伐に当たらせた。荊州刺史の劉弘はもともと張光を敬い重んじており、「南楚の秀」であると称えた。時に(劉弘の命令で諸軍を率いることになった)江夏太守の陶(とう)侃(かん)は陳敏の大将の銭端と長岐の地にて対峙していたが、開戦するに当たって、襄陽太守の皮初に歩兵を率いさせ、張光に伏兵の任務を与えて待機させ、武陵太守の苗光に水軍を率いさせ、艦船を沔水(べんすい)に隠し置かせた。皮初らが賊と交戦すると、張光は伏兵を発して応じ、水軍・陸軍ともに奮戦したので、賊軍は大敗した。劉弘は張光に優れた功績があったと上表し、それによって張光は「材官将軍・梁州刺史」に昇進した。
これに先立って、秦州の人である鄧定(とうてい)ら二千家余りは、饑餓して(梁州に属する)漢中郡に流入し、城固(地名)に拠点を置き、だんだん周囲の地域で略奪を働くようになった。梁州刺史の張殷は、巴西太守の張燕を派遣してこれを討伐させた。鄧定は切羽詰まり、偽って張燕に降伏しようと願い出て、それと同時に張燕に金銀を贈ったので、張燕は喜び、そのために進軍を遅らせた。鄧定はその一方で密かに(成漢の建国者である)李雄と結び、李雄が兵を派遣して鄧定を救援したので、張燕は退き、鄧定はそのまま進んで漢中に迫った。漢中太守の杜正沖は東の魏興郡に逃げ、梁州刺史の張殷もまた官を棄てて逃げた。そのような状況であったので、張光は梁州に赴くことができず、手前の魏興郡に留まり、そこで諸郡の太守と力を合わせ一緒に策略を練って進軍することとした。張燕が声高らかに言った。「漢中は荒れ果て、大賊に接近しています。これを奪回するには、英雄の出現を待つべきです」と。杜正沖は言った。「張燕は賊の金銀を受け、取り決め通りに進軍せず、軍を擁していることを恃んで敵に対して手を緩め、それで漢中を失うことになってしまいました。これは実に張燕の罪です」と。これを聞いて張光は怒りを露わにし、張燕を叱責して外に出させ、その首を斬ってさらして人々に知らしめた。張光は荒れ果てた地域を慰め労わり、よって人々は喜んで服従した。張光はこうして賊を退けて漢中に鎮守した。
時に逆賊の王如の残党である李運・楊武らが襄陽より三千家余りを連れて漢中に侵入したので、張光は属下の参軍の晋邈(しんばく)を派遣して兵を率いさせ、黄金(地名)の地にて李運らを迎え撃たせた。しかし晋邈は、李運の厚い賄賂を受け、却って張光に李運らを受け入れるように勧めた。張光は晋邈の言葉に従い、李運らを城固の地に置かせた。そういうことがあって、晋邈は李運が珍貨をたくさん持っていることを知り、さらにそれを奪おうとして、また張光に言った。「李運らの連れている人々は耕作を事とせず、ただ武器の扱いだけが上手く、その考えていることは予測がつきません。不意打ちして襲い、没収すべきです」と。張光はまた晋邈の言葉を信用し、晋邈の兵を派遣して李運を攻撃したものの破れなかった。張光が(前仇池の創始者である)氐王の楊茂搜に援軍を要請すると、楊茂搜は息子の楊難敵を派遣して援助させた。到着した楊難敵は張光に対して財貨を要求したが、張光は与えなかった。そこで賊軍の楊武は厚く楊難敵に賄賂を贈り、彼に言った。「流民たちの宝物はすべて没収されて張光のところにあるので、今我らを討つよりも、張光を討った方が賢明ですぞ」と。楊難敵は大喜びし、張光を助けると声高らかに言いながら、内実は李運らの側についていた。張光はそれに気づかず、息子の張援を派遣して兵を率いて晋邈を援助させた。すると李運は楊難敵と一緒に晋邈らを挟撃し、張援は賊軍の集中射撃の矢に当たって死んでしまい、賊はそれで大いに勢いづいた。張光は城壁をめぐらして固く守り、夏から冬になって、憤激して病を発してしまった。州の属吏や民たちはみな、魏興郡に退いて拠点とすることを張光に勧めたが、張光は剣のつかに手をかけて言った。「私は国の厚恩を受けておりながら、賊を殲滅することもできていない。今、自殺してまさに黄帝が登仙したように天に昇ることはできても、どうして退却しておめおめと帰ることができようか」と。そのまま声が絶えて死んでしまった。時に五十五歳。人々は悲しみ泣き、遠きも近きもこれを傷み惜しんだ。張光には張炅(ちょうけい)と張邁(ちょうまい)の二人の息子がいた。
張炅は若い頃に太宰府の掾に辟召された。張邁は才略に長け、父と同様の風格があった。張光が死んだとき、梁州の人々は張邁を推戴して仮に州の事を任せたが、賊と戦って死んでしまった。そこで別駕従事の范曠(はんこう)と督護の王喬は張光の妻と息子たちを奉じ、その遺された兵を率い、魏興郡に戻って拠点とした。その後、義陽太守だった任愔(じんいん)が梁州刺史となり、張光の妻子は本郡に帰った。後に、(東晋の)南平太守の應詹(おうせん)は都督の王敦に口頭で言った。「張光は梁州に在って荒廃してしまった地を復興し、断絶してしまった地を再びつなぎとめ、その威厳は巴や漢中の地域に震いました。中原が転覆し、それぞれ方鎮は任地の統制ができなくなってしまい、そのために張光は外には救助も無く、内には物資のたくわえも不足し、少ない兵力で多勢に対抗し、一年以上に渡ってよく防ぎ、節義を励まして屈することはありませんでした。よって官爵の追贈について論じ、それによって死んでいった者と遺された者との双方を慰めるべきです」と。しかし、王敦は聞き入れることができなかった。
趙誘、字元孫、淮南人也。世以將顯。州辟主簿。
値刺史郗隆被齊王冏檄使起兵討趙王倫。隆欲承檄舉義、而諸子姪並在洛陽。欲坐觀成敗恐爲冏所討、進退有疑、會羣吏計議。誘説隆曰「趙王篡逆、海内所病。今義兵飇起、其敗必矣。今爲明使君計、莫若自將精兵、徑赴許昌、上策也。不然、且可留後、遣猛將將兵會盟、亦中策也。若遣小軍隨形助勝、下策耳。」隆曰「我受二帝恩、無所偏助。正欲保州而已。」誘與治中留寶・主簿張褒等諫隆「若無所助、變難將生、州亦不可保也。」隆猶豫不決、遂爲其下所害。
誘還家、杜門不出。左將軍王敦以爲參軍、加廣武將軍、與甘卓・周訪共討華軼、破之。又擊杜弢於西湘。太興初、復與卓攻弢、滅之。累功賜爵平阿縣侯、代陶侃爲武昌太守。時杜曾迎第五猗於荊州作亂、敦遣誘與襄陽太守朱軌共距之。猗既愍帝所遣、加有時望、爲荊楚所歸。誘等苦戰皆沒、敦甚悼惜之、表贈征虜將軍・秦州刺史、諡曰敬。
子龔與誘俱死。元帝爲晉王、下令贈新昌太守。龔弟胤、字伯舒。王敦使周訪擊杜曾、胤請從行。訪憚曾之彊、欲先以胤餌曾、使其衆疲而後擊之。胤多梟首級。王導引爲從事中郎。南頓王宗反、胤殺宗、於是王導・庾亮並倚杖之。轉冠軍將軍、遷西豫州刺史、卒於官。
趙誘、字は元孫、淮南の人なり。世々(よよ)將を以て顯わる。州は主簿に辟(め)す。
値々(たまたま)刺史の郗隆(ちりゅう)は齊王冏(けい)の檄を被(う)けて起兵して趙王倫を討たしめらる。隆は檄を承けて義を舉げんと欲すれども、而(しか)れども諸子姪は並びに洛陽に在り。坐して成敗を觀(うかが)わんと欲すれども、冏の討つ所と爲るを恐るれば、進退疑有り、羣吏と會して計議す。誘 隆に説きて曰く「趙王の篡逆するは、海内の病む所なり。今、義兵飇起(ひょうき)せば、其の敗るること必なり。今、明使君の爲に計らば、自ら精兵を將うるに若(し)くは莫(な)く、徑(ただ)ちに許昌へ赴くは、上策なり。然らずんば、且可(しばら)く留まりて後、猛將を遣わして兵を將いて會盟せしむるは、亦た中策なり。小軍を遣わして形に隨(したが)いて勝を助くるが若きは、下策なるのみ」と。隆曰く「我 二帝の恩を受くるも、偏助する所無し。正に州を保たんと欲するのみ」と。誘 治中の留寶・主簿の張褒等と與(とも)に隆を諫むらく「若し助くる所無くんば、變難將に生じ、州も亦た保つべからざるなり」と。隆 猶豫して決せざれば、遂に其の下の害する所と爲る。
誘 家に還り、門を杜(と)ざして出でず。左將軍の王敦 以て參軍と爲し、廣武將軍を加えられ、甘卓・周訪と共に華軼を討ち、之を破る。又た杜弢(ととう)を西湘に擊つ。太興の初め、復た卓と與に弢を攻め、之を滅ぼす。功を累(かさ)ねて爵平阿縣侯を賜い、陶侃(とうかん)に代わりて武昌太守と爲る。時に杜曾は第五猗(だいごい)を荊州に迎えて亂を作(な)せば、敦は誘を遣わして襄陽太守の朱軌と共に之を距(ふせ)がしむ。猗は既に愍帝(びんてい)の遣わす所にして、加えて時望有れば、荊楚の歸する所なり。誘等は苦戰して皆な沒すれば、敦 甚だ之を悼惜し、表して征虜將軍・秦州刺史を贈り、諡して敬と曰う。
子の龔(きょう)は誘と俱(とも)に死す。元帝の晉王と爲るや、令を下して新昌太守を贈る。龔の弟の胤、字は伯舒。王敦の周訪をして杜曾を擊たしむるや、胤は請いて從いて行く。訪は曾の彊(つよ)きを憚り、先ず胤を以て曾を餌(さそ)い、其の衆の疲れて後に之を擊たんと欲す。胤 多く首級を梟(さら)す。王導 引(まね)きて從事中郎と爲す。南頓王宗の反するや、胤 宗を殺したれば、是に於いて王導・庾亮(ゆりょう)は並びに之を倚杖す。冠軍將軍に轉じ、西豫州刺史に遷り、官に卒す。
趙誘は字を元孫といい、淮南郡の人である。家は代々将帥として有名であった。揚州は趙誘を辟召して主簿に任じた。
当時の揚州刺史の郗隆(ちりゅう)は、起兵して(当時、簒奪して皇帝となっていた)趙王の司馬倫を討てという内容の檄文を斉王の司馬冏(しばけい)から受け取ると、その檄文に従って義兵を挙げようと思ったが、子どもや甥たちはみな司馬倫のお膝元の洛陽にいたために躊躇われた。また、息をひそめて成り行きをうかがおうと思っても、今度は司馬冏に攻撃されることを恐れ、進退に困ったので、属吏たちを集めて是非を議した。趙誘は郗隆に説いて言った。「趙王(司馬倫)が帝位を簒奪したのは、天下がみな憂えていることです。今、義兵が大風のごとく起これば、趙王が敗れることは必定です。今、明使君(刺史の尊称)のために謀れば、自ら精兵を率いて義兵を起こすのが一番で、ただちに(司馬冏の鎮守する)許昌へ赴いて合流するのが上策です。そうでなければ、しばらくおいてから、猛将に兵を率いさせて会盟しに行かせるのが中策です。わずかの兵を派遣して形勢に従って優勢な方を援助するというのは下策でしかありません」と。郗隆は言った。「私は武帝と恵帝の二帝の恩を受けておきながら、恵帝が簒奪に遭われるのをお救いすることができなかった。せめて州を無事に保ちたいのだ」と。趙誘は治中従事の留宝・主簿の張褒らと一緒に郗隆を諫めて言った。「もし司馬冏に味方して恵帝をお救いしようとされないのであれば、この地にも変乱が起こって、州もまた保全することができなくなりますぞ」と。郗隆はそれでも躊躇して決心しなかったので、やがて部下に殺されてしまった。
そこで趙誘は家に帰り、門を閉ざして籠もってしまった。後に東晋政権の左将軍の王敦は、趙誘を招いて自らの参軍とし、趙誘はさらに広武将軍を加えられ、東晋の元帝政権に従わなかった旧江州刺史の華軼を甘卓・周訪と一緒に討伐して破った。また、群雄の杜弢(ととう)を西湘の地に攻撃した。東晋の元帝の太興年間の初め、また甘卓と一緒に杜弢を攻め、これを滅ぼした。功績を重ねて平阿県侯の爵を賜わり、陶侃(とうかん)の後任として武昌太守となった。時に群雄の杜曾(とそう)は、愍帝(びんてい)政権の荊州刺史である第五猗(だいごい)を荊州に迎えて元帝政権に対して仇なしたので、王敦は趙誘を派遣して襄陽太守の朱軌と一緒に杜曾らを防がせた。第五猗は愍帝が派遣した人物であり、それに加えて当時の人々の間にその声望が知れ渡っていたので、荊楚地域は第五猗に服従していた。趙誘らは苦戦して皆な戦没してしまったので、王敦は非常に趙誘らを悼み惜しみ、上表して「征虜将軍・秦州刺史」の肩書きを追贈し、「敬侯」という諡号が与えられた。
趙誘の子の趙龔(ちょうきょう)は趙誘と一緒に戦死してしまった。司馬睿(しばえい)(後の元帝)が晋王となったとき、令を下して趙龔に新昌太守の肩書きを追贈した。趙龔の弟の趙胤は字を伯舒といった。王敦が周訪に杜曾を討伐させることにすると、趙胤は願い出て従軍した。周訪は杜曾軍が強いのを憚り、まず趙胤を餌にして杜曾を釣り、その兵が疲れたのを見計らってそこを自分が突こうと画策した。趙胤は奮戦して多くの首級を獲得してさらし首にした。やがて(王敦の従弟の)王導は趙胤を招いて自らの従事中郎に任じた。成帝の時代に南頓王の司馬宗が謀反すると、趙胤は司馬宗を殺し、それによって(当時の輔政の任にあった)王導・庾亮(ゆりょう)の二人は趙胤を信任し頼った。冠軍将軍に転任し、西豫州刺史に昇進し、在任中に死んだ。
史臣曰。忠爲令德、貞曰事君。徇國家而竭身、歴夷險而一節。羅憲・滕脩濯纓入仕、指巴東而受脤、出嶺嶠而揚麾。屬鼎命淪胥、本朝失守、屆巴丘而流涕、集都亭而大臨。古之忠烈、罕輩于茲。孝興之智勇、玄威之武藝、滅醜虜於河西、制凶酋於硜北、審楊欣之必敗、譏楊駿之速禍。陶璜・吾彦逸足齊驅、毛炅屈其深謀、陸抗奇其茂略。薪楢之任、清規自遠、鼙鼓之臣、厥聲彌劭。景武、南楚秀士、元孫、累葉將門、赴死喻於登仙、效誠陳於上策、竟而俱斃、貞則斯存。
贊曰。憲居玉壘、才博流譽。脩赴石門、惠政攸著。孝興・玄威、操履無違。愚墳畢禮、楊門致譏。璜謀超絕、彦材雄傑。潛師襲董、觀兵歎薛。惟趙與張、神略多方。作尉北地、立功西湘。
史臣曰く。忠は令德たり、貞は君に事うるを曰う。國家に徇(したが)いて身を竭(つく)し、夷險を歴(へ)て節を一にす。羅憲・滕脩は纓を濯(あら)いて入仕し、巴東を指して脤を受け、嶺嶠に出でて麾(さしずばた)を揚ぐ。屬々(たまたま)鼎命は淪胥(りんしょ)し、本朝は守を失い、巴丘に屆(いた)りて流涕し、都亭に集いて大いに臨す。古の忠烈、茲(これ)に輩(なら)ぶは罕(まれ)なり。孝興の智勇、玄威の武藝、醜虜を河西に滅ぼし、凶酋を硜北(こうほく)に制し、楊欣の必ず敗れんことを審(つまび)らかにし、楊駿の禍を速(まね)かんことを譏(いさ)む。陶璜・吾彦は逸足にして齊驅し、毛炅は其の深謀に屈し、陸抗は其の茂略を奇とす。薪楢の任、清規は遠きよりし、鼙鼓の臣、厥(そ)の聲彌々(いよいよ)劭(つと)む。景武は南楚の秀士、元孫は累葉將門、死に赴くに登仙に喩え、誠を效(いた)すに上策を陳べ、竟にして俱(とも)に斃れ、貞則ち斯(ここ)に存す。
贊に曰く。憲は玉壘〔一〕に居り、才博く譽を流す。脩は石門〔二〕に赴き、惠政の著わる攸(ところ)。孝興・玄威、操履して違う無し。愚墳禮を畢(つ)くし、楊門譏(そし)りを致す。璜は謀超絕、彦は材雄傑。師を潛めて董を襲い、兵を觀(み)て薛を歎ず。惟(こ)れ趙と張、神略多方。北地に尉と作(な)り、功を西湘に立てり。
〔一〕玉壘:成都の西北にある玉壘山。成都あるいは巴蜀の換喩。
〔二〕石門:『晉書』巻九十・呉隠之伝などによると、広州・南海郡には石門なる地があり、「貪泉」「貪流」などと呼ばれる、その水を飲むと貪婪になってしまうという言い伝えのある泉や、前漢代の南越王の趙佗が後に「越王井」と呼ばれるようになる井戸に酒杯を誤って落としてしまい、それが石門に流れてついて浮かんでいたがゆえに「石門通越井(石門は越井に通じている)」と詩に歌われたという伝説などで有名だったらしい。この本文における「石門」も、おそらくはその地を指し、南嶺地域の換喩として用いられているものと思われる。
史臣の評。忠とはうるわしき徳であり、貞とはよく君主に仕えることを言う。国家に身を捧げ尽くし、平安なときも危難のときも一つの節義を貫き通すのである。羅憲・滕脩は冠のひもを洗って(高潔さを守って)仕え、(羅憲は)巴東を統治し、命を受けて軍を統率し、(滕脩は)南嶺山脈の地域に出でて旗を揚げて武を振るった。ちょうど国家の命運は失われ、それぞれの本朝(蜀・呉)は統治能力を失い、(滕脩は)巴丘に至って涙を流し、(羅憲は)都亭に集まって大いに泣き悲しんだ。古の忠烈も、これに並ぶものはほとんど無い。馬隆の智勇、胡奮の武芸は、それぞれ醜悪な賊を河西に滅ぼし、凶悪な酋長を硜北(こうほく)に制し、(馬隆は)楊欣が必ず敗れるであろうことをはっきりと悟り、(胡奮は)楊駿が禍を招くであろうことを諫めた。陶璜・吾彦は、優れた駿馬が並走するように互いに才能の秀でること互角であり、毛炅は陶璜の深謀に屈し、陸抗は吾彦の立派な才略を優れたものと見なした。賢良な人材とは、その模範は遠方より現れ、陣太鼓を打つ武臣は、その音をますます激しくする。張光は南楚の秀士、趙誘は代々将帥の名門、(張光は)死に赴くに当たってそれを登仙に喩え、(趙誘は)誠を致して上策を陳べたが、結局二人とも戦に斃れ、貞はかくして行われたのである。
賛。羅憲は巴蜀に在り、博才にしてその名誉は広く知れ渡った。滕脩は南嶺の地に赴き、その恵政は顕著であった。孝興(馬隆)・玄威(胡奮)は節操を守って違うことが無かった。(馬隆は)令狐愚の墓に礼を尽くし、(胡奮は)外戚の楊氏一門の謗りを受けることとなった。陶璜の謀略は超絶、吾彦の才略は雄傑。(陶璜は)兵を潜めて董元を襲い、(吾彦は)薛珝の兵を見て賛嘆した。趙誘と張光は、方策が多彩であった。(張光は)北地の都尉となり、(趙誘は)西湘で功を立てた。