いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第二十九巻_汝南文成王亮・楚隠王瑋・趙王倫・斉王冏・長沙厲王乂・成都王潁・河間王顒・東海孝献王越

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
いわゆる「八王」の列伝です。この巻は、封建制のあるべき姿を「史実に語らせる」ための巻です。これ自身が、『晋書』編者による一個の論文と捉えることができます。

原文

自古帝王之臨天下也、皆欲廣樹藩屏、崇固維城。唐虞以前、憲章蓋闕、夏殷以後、遺迹可知。然而玉帛會于塗山、雖云萬國、至於分疆胙土、猶或未詳。洎乎周室、粲焉可觀、封建親賢、並為列國。當其興也、周召贊其升平。及其衰也、桓文輔其危亂。故得卜世之祚克昌、卜年之基惟永。逮王赧即世、天祿已終、虛位無主、三十餘載。爰及暴秦、并吞天下、戒衰周之削弱、忽帝業之遠圖、謂王室之陵遲、由諸侯之強大。於是罷侯置守、獨尊諸己、至乎子弟、並為匹夫、惟欲肆虐陵威、莫顧謀孫翼子。枝葉微弱、宗祏孤危、內無社稷之臣、外闕藩維之助。陳項一呼、海內沸騰、隕身於望夷、繫頸於軹道。事不師古、二世而滅。漢祖勃興、爰革斯弊。於是分王子弟、列建功臣、錫之山川、誓以帶礪。然而矯枉過直、懲羹吹齏、土地封疆、踰越往古。始則韓彭菹醢、次乃吳楚稱亂。然雖克滅權偪、猶足維翰王畿。洎成哀之後、戚藩陵替、1.君臣乘茲間隙、竊位偷安。光武雄略緯天、慷慨下國、遂能除兇靜亂、復禹配天、休祉盛於兩京、鼎祚隆於四百、宗支繼絕之力、可得而言。魏武忘經國之宏規、行忌刻之小數、功臣無立錐之地、子弟君不使之人、徒分茅社、實傳虛爵、本根無所庇廕、遂乃三葉而亡。
有晉思改覆車、復隆盤石、或出擁旄節、蒞嶽牧之榮。入踐台階、居端揆之重。然而付託失所、授任乖方、政令不恒、賞罰斯濫。或有材而不任、或無罪而見誅、朝為伊周、夕為莽卓。機權失於上、禍亂作於下。楚趙諸王、相仍構釁、徒興晉陽之甲、竟匪勤王之師。始則為身擇利、利未加而害及。初迺無心憂國、國非憂而奚拯。遂使昭陽興廢、有甚弈棊。乘輿幽縶、更同羑里。胡羯陵侮、宗廟丘墟、良可悲也。
夫為國之有藩屏、猶濟川之有舟楫、安危成敗、義實相資。舟楫且完、波濤不足稱其險。藩屏式固、禍亂何以成其階。向使八王之中、一藩繄賴、如梁王之禦大敵、若朱虛之除大憝、則外寇焉敢憑陵、內難奚由竊發。縱令天子暗劣、鼎臣奢放、雖或顛沛、未至土崩。何以言之。琅邪譬彼諸王、權輕眾寡、度長絜大、不可同年。遂能匹馬濟江、奄有吳會、2.存重宗社、百有餘年。雖曰天時、抑亦人事。豈如趙倫・齊冏之輩、河間・東海之徒、家國俱亡、身名並滅。善惡之數、此非其效歟。西晉之政亂朝危、雖由時主、然而煽其風、速其禍者、咎在八王、故序而論之、總為其傳云耳。

1.「君臣」は、文意に照らせば王莽の字であるから、「巨君」に作るべきである。
2.中華書局本に引く李校によると、「存重」は「重存」に作るべきである。

訓読

古自り帝王の天下に臨むや、皆 廣く藩屏を樹て、崇く維城を固めんと欲す。唐虞以前、憲章 蓋し闕け、夏殷以後、遺迹 知る可し。然而して玉帛 塗山に會し、萬國と云ふと雖も、疆を分け土に胙すに至りては、猶ほ或は未詳なり。周室に洎(およ)び、粲として觀る可し、親賢を封建し、並びに列國と為す。其の興に當るや、周召 其の升平を贊ず。其の衰ふるに及ぶや、桓文 其の危亂を輔す。故に卜世の祚 克昌なるを得て、卜年の基 惟れ永し。王赧 世に即くに逮び、天祿 已に終はり、位を虛しくして主無きこと、三十餘載なり。爰に暴秦に及び、天下を并吞し、衰周の削弱を戒め、忽ち帝業の遠圖あり、王室の陵遲、諸侯の強大に由ると謂ふ。是に於て侯を罷めて守を置き、獨り諸己を尊び、子弟に至るは、並びに匹夫と為し、惟だ虐を肆にし威を陵せんと欲し、孫を謀り子を翼くるを顧る莫し。枝葉 微弱にして、宗祏 孤危たり、內に社稷の臣無く、外に藩維の助を闕く。陳項 一呼し、海內 沸騰し、身を望夷に隕とし、頸を軹道に繫ぐ。事 古を師とせず、二世にして滅す。漢祖 勃興し、爰に斯の弊を革む。是に於て王の子弟を分け、列ねて功臣を建て、之に山川を錫ひ、帶礪を以て誓ふ〔一〕。然而るに過直を矯枉し、羹に懲りて齏を吹き、土地封疆、往古に踰越す。始は則ち韓彭 菹醢とし、次は乃ち吳楚 亂を稱す。然るに克く權偪を滅すると雖も、猶ほ王畿を維翰するに足る。成哀の後に洎び、戚藩 陵替し、君臣 茲の間隙に乘じ、位を竊み安を偷む。光武 雄略にして緯天し、下國に慷慨す、遂に能く兇を除き亂を靜め、禹の配天を復し、休祉 兩京に盛んにして、鼎祚 四百に隆く、宗支 繼絕の力、得て言ふ可きなり。魏武 經國の宏規を忘れ、忌刻の小數を行ひ、功臣 立錐の地無く、子弟 不使の人を君とし、徒に茅社を分け、實に虛爵を傳へ、本根 庇廕する所無く、遂に乃ち三葉にして亡ぶ。
有晉 覆車を改め、復た盤石を隆くせんと思ひ、或いは出て旄節を擁し、嶽牧の榮に蒞(つ)く。入りて台階を踐み、端揆の重に居る。然而して付託 所を失ひ、授任 方に乖き、政令 恒ならず、賞罰 斯れ濫る。或いは材有りて任ぜず、或いは罪無くして誅せられ、朝に伊周と為り、夕に莽卓と為る。機權 上を失ひ、禍亂 下に作る。楚趙の諸王、相 仍りに構釁し、徒(いたづら)に晉陽の甲を興し、竟に勤王の師に匪(あら)ず。始めは則ち身の為に利を擇び、利は未だ加へずして害 及ぶ。初めに迺ち心は憂國に無く、國に憂非らずして奚ぞ拯はん。遂に昭陽をして興廢せしめ、弈棊より甚しき有り。乘輿 幽縶して、更に羑里に同じ。胡羯 陵侮して、宗廟 丘墟たり、良(まこと)に悲しむ可きや。
夫れ國を為(をさ)むるの藩屏有るは、猶ほ川を濟るの舟楫有り、安危成敗、義は實に相 資す。舟楫 且に完なれば、波濤 其の險を稱するに足らず。藩屏 式に固ければ、禍亂 何を以て其の階と成らん。もし八王の中に、一藩 繄(ここ)に賴ることあり、梁王の大敵を禦ぐが如く、朱虛の大憝を除くが若くあれば、則ち外寇 焉ぞ敢て憑陵し、內難 奚ぞ由りて竊發せんや。縱令 天子は暗劣にして、鼎臣は奢放たれども、或いは顛沛すると雖も、未だ土崩に至らず。何を以て之を言ふか。琅邪は彼の諸王に譬ふるに、權は輕く眾は寡なく、長に度し大に絜し、年を同じくす可からず。遂に能く匹馬 江を濟り、吳會を奄有し、宗社を存重すること、百有餘年なり。天の時と曰ふと雖も、抑々亦た人事なり。豈に趙倫・齊冏の輩、河間・東海の徒が如くんば、家國 俱に亡び、身名 並びに滅せんや。善惡の數、此れ其の效に非ざるか。西晉の政亂朝危、時主に由ると雖も、然而るに其の風を煽ぎ、其の禍を速むる者、咎は八王に在り、故に序して之を論じ、總じて其の傳と為すと云へり。

〔一〕劉邦の誓約、「封爵之誓」に見える文。功臣の家を永続させるという約束。『史記』巻十八 高祖功臣侯者年表が出典。

現代語訳

古より帝王が天下を治めるとき、みな広く藩国を立て、城を連ねて防壁にしようとした。唐虞(尭舜)以前は、記録が欠けているようだが、夏殷以後は、実績を知り得る。夏王朝が群臣を塗山に集めて玉帛を賜り、万国が参列したというが、諸侯や領土の内訳は、よく分からない。周王朝より後は、はっきりと判明し、親族や賢者を封建し、並べて列国とした。周王朝が興隆すると、(藩屏である)周公旦と召公奭が太平をもたらした。周王朝が衰えると、斉桓公と晋文公がその混乱した世を補佐した。ゆえに周王の世代数を占えばとても多く、存続の年数も長かった。周の赧(たん)王が即位すると、天命が終わり、王の空位が、三十年以上続いた。秦王朝の時代に及ぶと、天下を併呑し、周の衰退を反面教師とし、王権の特性を分析したところ、かの衰退は、諸侯の強大さが原因であると考えられた。そこで侯を廃止して守を設置し、皇帝に権力を集中したので、(皇帝の)子弟に至っても、匹夫と同列とされ、ただ好き放題に(皇帝のみが)権力を行使し、子孫の存続を顧みなかった。枝葉が微弱なので、宗家は孤立して安定せず、内には社稷の臣がおらず、外には藩屏の助けを欠いていた。陳勝や項籍が一声かけると、海内は沸騰し、(二世皇帝が)望夷宮で命を落とし、首級を軹道に繫がれた。古代の教訓を生かさず、二世で滅びたのである。漢の高祖が勃興すると、その弊害を改めた。王の子弟を分封し、つらねて功臣に建国させ、彼らに山川を賜り、(藩国を)永続させると誓った。しかし(秦の)過失を修正するあまり、反対側へと触れすぎ、封地の広さは、往古(周)よりも過大であった。初めに(諸侯である)韓信や彭越を死刑とし、次いで呉楚七国の乱が起きた。大きくなりすぎた藩国を排除した後でも、王畿(首都圏)を護衛させるには十分であった。成帝や哀帝より後の時代、藩国の主は衰退や交替がすすみ、巨君(王莽)がこの間隙に乗じて、皇位を盗み取った。光武帝は雄略であり天下を治める志を持ち、下国(格式の低い藩国)に生まれて義憤を抱いた。最終的に凶乱を平定し、禹の配天を回復し(天下を統一し)、めでたき天運を二都で盛んにし、漢王朝の命運は四百年よりも長く、宗家と分家は(王莽による)断絶を克服し、その力は大きくなった。魏武曹操は国家経営の規範を忘れ、厳し過ぎる処置をおこない、功臣はわずかな土地すら与えられず、子弟は無用の人を君主とし、むやみに諸侯の領地を分割し、名前だけの爵位を伝承したので、宗家が頼りにできる藩屏がおらず、結局は三代で滅びた。
晋王朝は(魏王朝の)失敗を改め、体制を盤石にするべく、藩王に軍権を持たせ、地方長官の権限を重くした。入朝しては官位を高め、執政の重職を任せた。しかし為政は的確さを欠き、地方での振る舞いは道理に背き、命令は徹底されず、賞罰は過不足があった。あるときは人材がいるにも拘わらず任命せず、あるときは罪がないにも拘わらず誅殺され、朝に伊尹や周公旦と言われたひとが、夕には王莽や董卓とされた。権臣は上を蔑ろにし、禍乱は下から起きたのである。楚王瑋(司馬瑋)や趙王倫(司馬倫)のような王たちは、憎悪しあい、いたずらに晋陽で戦いを起こしたが、勤王の軍役ではなかった。わが身の利益を目的としながら、成果を回収する前に危害が及んだ。初めから憂国の心は無かったのだから、どうして国家を救えようか。とうとう昭陽(皇后)により王朝を興廃させられ、弈棊の無礼(司馬遹の殺害)があった。乗輿(恵帝)が捕らえられ、牢獄に繋がれているのと変わりがなかった。異民族に陵辱され、宗廟が廃墟となったが、実に悲しいことだ。
そもそも国を治めるとき藩屏が存在するのは、河を渡るときに舟があるようなもので、安全や危険と成功や失敗は、これ次第である。舟が万全ならば、高波も心配がない。藩屏が強固ならば、禍乱も脅威とならない。八王のなかに、一王でもよいから、梁王(劉武)のように大敵を防ぎ、朱虚(劉章)のように悪人を除く者がいれば、外寇があってに侵犯を受けず、内乱があろうと発生を防げた。かりに天子が暗愚であり、宰相が放逸であり、中央で政権が転覆しても、王朝の崩壊には至らない。なぜこれが言えるのか。琅邪王(司馬睿)は晋王朝の他の王に比べると、権力は軽くて軍勢は少なかったが、年長の徳のある者を頼ったので、政権の年数が(西晋よりも)長かった。ほぼ単身で江水を渡ったが、呉会を領有し、社稷を、百余年にわたり存続させた。天の時というが、人の事も重要である。もしも(江水を渡ったのが)代わりに趙王倫・斉王冏のような男や、河間王顒・東海王越のような奴であれば、(東晋を樹立できず)一族も国も滅亡し、身も名も消滅したであろう。善悪の命運は、人事の結果ではなかろうか。西晋における政治の混乱や朝廷の危機は、君主(恵帝)のせいであったが、扇いで風を送り、禍いを促進した、その責任は八王にあるので、このように巻頭で論じ、八王の列伝をまとめた云々。

汝南王亮 子粹 矩 羕 宗 熙 矩子祐

原文

汝南文成王亮字子翼、宣帝第四子也。少清警有才用、仕魏為散騎侍郎・萬歲亭侯、拜東中郎將、進封廣陽鄉侯。討諸葛誕於壽春、失利、免官。頃之、拜左將軍、加散騎常侍・假節、出監豫州諸軍事。五等建、改封祁陽伯、轉鎮西將軍。武帝踐阼、封扶風郡王、邑萬戶、置騎司馬、增參軍掾屬、持節・都督關中雍涼諸軍事。會秦州刺史胡烈為羌虜所害、亮遣將軍劉旂・騎督敬琰赴救、不進、坐是貶為平西將軍。旂當斬、亮與軍司曹冏上言、節度之咎由亮而出、乞丐旂死。詔曰、高平困急、計城中及旂足以相拔、就不能徑至、尚當深進。今奔突有投、而坐視覆敗、故加旂大戮。今若罪不在旂、當有所在。有司又奏免亮官、削爵土。詔惟免官。頃之、拜撫軍將軍。是歲、吳將步闡來降、假亮節都督諸軍事以納之。尋加侍中之服。
咸寧初、以扶風池陽四千一百戶為太妃伏氏湯沐邑、置家令丞僕、後改食南郡枝江。太妃嘗有小疾、祓於洛水、亮兄弟三人侍從、並持節鼓吹、震耀洛濱。武帝登陵雲臺望見、曰、「伏妃可謂富貴矣。」其年進號衞將軍、加侍中。時宗室殷盛、無相統攝、乃以亮為宗師、本官如故、使訓導觀察、有不遵禮法、小者正以義方、大者隨事聞奏。
三年、徙封汝南、出為鎮南大將軍・都督豫州諸軍事・開府・假節、之國、給追鋒車・皁輪犢車、錢五十萬。頃之、徵亮為侍中・撫軍大將軍、領後軍將軍、統冠軍・步兵・射聲・長水等營、給兵五百人、騎百匹。遷太尉・錄尚書事・領太子太傅、侍中如故。

訓読

汝南文成王亮 字は子翼、宣帝の第四子なり。少くして清警にして才用有り、魏に仕へて散騎侍郎・萬歲亭侯と為り、東中郎將を拜し、進みて廣陽鄉侯に封ぜらる。諸葛誕を壽春に討ち、利を失ひ、官を免ぜらる。頃之、左將軍を拜し、散騎常侍・假節を加へ、出でて豫州諸軍事を監す。五等 建つや、改めて祁陽伯に封じ、鎮西將軍に轉ず。武帝 踐阼し、扶風郡王に封ぜられ、邑萬戶、騎司馬を置き、參軍掾屬を增し、持節・都督關中雍涼諸軍事なり。會 秦州刺史胡烈 羌虜の害する所と為り、亮 將軍劉旂・騎督敬琰を遣はして赴救し、進まず、是に坐して貶して平西將軍と為る。旂 當に斬るべきを、亮 軍司曹冏と與に上言し、「節度の咎 亮由り出づ、旂の死を乞丐す」と。詔曰く、「高平 困急し、計るに城中及び旂 以て相 拔くに足り、就ち能く徑至せず、尚ほ當に深進すべし。今 奔突して投ずる有れば、覆敗を坐視し、故に旂に大戮を加ふ。今 若し罪 旂に在らざれば、當に所在に有るべし」と。有司 又 奏じて亮の官を免じ、爵土を削る。詔して惟だ官を免ずのみ。頃之、撫軍將軍を拜す。是の歲、吳將步闡 來降し、亮に節都督諸軍事を假して以て之を納れしむ。尋いで侍中の服を加ふ。
咸寧初、扶風の池陽四千一百戶を以て太妃伏氏の湯沐邑と為し、家令丞僕を置き、後に食を南郡枝江に改む。太妃 嘗て小疾有り、洛水に祓ひ、亮兄弟三人 侍從し、並びに鼓吹を持節し、洛濱を震耀す。武帝 陵雲臺に登りて望見し、曰く、「伏妃 富貴と謂ふ可し」と。其の年 號を衞將軍に進め、侍中を加ふ。時に宗室 殷盛たり、相 統攝するもの無く、乃ち亮を以て宗師と為し、本官 故の如し、訓導して觀察せしめ、禮法に遵はざる有れば、小さき者は義方を以て正し、大なる者は事に隨ひて聞奏す。
三年、徙して汝南に封じ、出でて鎮南大將軍・都督豫州諸軍事・開府・假節と為り、國に之き、追鋒車・皁輪犢車、錢五十萬を給ふ。頃之、亮を徵して侍中・撫軍大將軍と為し、後軍將軍を領し、冠軍・步兵・射聲・長水等の營を統べ、兵五百人、騎百匹を給ふ。太尉・錄尚書事・領太子太傅に遷り、侍中 故の如し。

現代語訳

汝南文成王の亮(司馬亮)は字を子翼といい、宣帝の第四子である。若いときから機知があって鋭敏で才能があり、魏王朝に仕えて散騎侍郎・万歳亭侯となり、東中郎将を拝し、進んで広陽郷侯に封建された。諸葛誕を寿春で討伐したとき、敗北し、官を免じられた。しばらくして、左将軍を拝し、散騎常侍・仮節を加えられ、転出して豫州諸軍事を監した。五等爵制を建てると、改めて祁陽伯に封じ、鎮西将軍に転じた。武帝が踐阼すると、扶風郡王に封じられ、邑は万戸とし、騎司馬を置き、参軍掾属を増し、持節・都督関中雍涼諸軍事となった。ちょうど秦州刺史の胡烈が羌虜の殺害され、司馬亮は将軍の劉旂・騎督の敬琰を遣わして救援に赴かせたが、進軍せず、この罪により、平西将軍に降格された。劉旂は斬罪に相当したが、司馬亮は軍司の曹冏とともに上言し、「節度の失敗は私から出ています、劉旂の死をお助け下さい」と言った。詔して、「高平が危機に陥り、分析したところ城中及び劉旂が連携すれば敵を打ち破れたと思われ、(劉旂は)まっすぐ救援しなかったが、本来は直進すべきであった。もし突撃した者がいたら、見殺しをしたことになり、ゆえに劉旂に大戮を加える(死刑にする)。もし劉旂の罪でないと言うなら、上官(司馬亮)の罪である」と言った。担当官が上奏して司馬亮の官職を免じ、爵土を削りなさいと言った。詔して官職を免じただけだった。しばらくして、撫軍将軍を拝した。この年、呉将の步闡が投降し、司馬亮に節都督諸軍事を仮して収容をさせた。ほどなく侍中の服を加えた。
咸寧初(二七五-)、扶風の池陽四千一百戸を太妃伏氏の湯沐邑とし、家令丞僕を置き、後に食邑を南郡枝江に改めた。伏太妃はかつて軽い病があり、洛水で祓ったが、亮の兄弟三人が侍従し、みなで鼓吹を持節し、(その偉容により)洛水沿岸が震え輝いた。武帝は陵雲台に登って望み見て、「伏妃は富貴と言うべきだ」と言った。その年に号を衛将軍に進め、侍中を加えた。このとき宗室は繁栄したが、統括する者がいないから、司馬亮を宗師とし、本職の官は従来どおりとし、(宗室の子弟を)訓導して観察させ、礼法に従わない者がいたら、小さい過ちなら道理を教え諭し、大きな過ちは内容により上奏した。
咸寧三(二七七)年、移して汝南に封じ、転出して鎮南大将軍・都督豫州諸軍事・開府・仮節とし、封国に行き、追鋒車・皁輪犢車、銭五十万を給わった。しばらくして、司馬亮を徴して侍中・撫軍大将軍とし、後軍将軍を領し、冠軍・歩兵・射声・長水らの軍営を統率し、兵五百人、騎百匹を給わった。太尉・録尚書事・領太子太傅に遷り、侍中は従来通りとした。

原文

及武帝寢疾、為楊駿所排、乃以亮為侍中・大司馬・假黃鉞・大都督・督豫州諸軍事、出鎮許昌、加軒懸之樂、六佾之舞。封子羕為西陽公。未發、帝大漸、詔留亮委以後事。楊駿聞之、從中書監華廙索詔視、遂不還。帝崩、亮懼駿疑己、辭疾不入、於大司馬門外敘哀而已、表求過葬。駿欲討亮、亮知之、問計於廷尉何勖。勖曰、今朝廷皆歸心於公、公何不討人而懼為人所討。或說亮率所領入廢駿、亮不能用、夜馳赴許昌、故得免。及駿誅、詔曰、大司馬汝南王亮體道沖粹、通識政理、宣翼之績顯於本朝、二南之風流于方夏、將憑遠猷、以康王化。其以亮為太宰・錄尚書事、入朝不趨、劍履上殿、增掾屬十人、給千兵百騎、與太保衞瓘對掌朝政。亮論賞誅楊駿之功過差、欲以苟悅眾心、由是失望。
楚王瑋有勳而好立威、亮憚之、欲奪其兵權。瑋甚憾、乃承賈后旨、誣亮與瓘有廢立之謀、矯詔遣其長史公孫宏與積弩將軍李肇夜以兵圍之。帳下督李龍白外有變、請距之、亮不聽。俄然楚兵登牆而呼、亮驚曰、吾無二心、何至於是。若有詔書、其可見乎。宏等不許、促兵攻之。長史劉準謂亮曰、觀此必是姦謀、府中俊乂如林、猶可盡力距戰。又弗聽、遂為肇所執。而歎曰、我之忠心可破示天下也、如何無道、枉殺不辜。是時大熱、兵人坐亮于車下、時人憐之、為之交扇。將及日中、無敢害者。瑋出令曰、能斬亮者、賞布千匹。遂為亂兵所害、投于北門之壁、鬢髮耳鼻皆悉毀焉。及瑋誅、追復亮爵位、給東園溫明祕器、朝服一襲、錢三百萬、布絹三百匹、喪葬之禮如安平獻王孚故事、廟設軒懸之樂。有五子、粹・矩・羕・宗・熙。

訓読

武帝 寢疾するに及び、楊駿の排する所と為り、乃ち亮を以て侍中・大司馬・假黃鉞・大都督・督豫州諸軍事と為り、出でて許昌に鎮し、軒懸の樂、六佾の舞を加へらる。子羕を封じて西陽公と為す。未だ發せずして、帝 大いに漸(すす)め、詔して亮を留めて後事を以て委ぬ。楊駿 之を聞き、中書監華廙に從ひて詔を索めて視、遂に還さず。帝 崩じ、亮 駿 己を疑ふを懼れ、疾に辭して入らず、大司馬門外に於いて哀を敘するのみ、表して葬に過るを求む。駿 亮を討たんと欲し、亮 之を知り、計を廷尉何勖に問ふ。勖曰く、「今 朝廷 皆 心を公に歸す、公 何ぞ人を討たずして人の討つ所と為るを懼るる」と。或 亮に所領を率ゐて入りて駿を廢せと說き、亮 能く用ゐず、夜に許昌に馳赴し、故に免ずるを得。駿 誅するに及び、詔して曰く、「大司馬汝南王亮 道を體し沖粹たりて、政理に通識し、宣翼の績 本朝に顯はし、二南の風 方夏に流れ、將に遠猷を憑り、以て王化を康せんとす。其れ亮を以て太宰・錄尚書事と為し、入朝不趨、劍履上殿、掾屬十人を增し、千兵百騎を給ひ、太保衞瓘と與に朝政を對掌せよ」と。亮 楊駿を誅するの功を論賞して過差し、以て苟(かりそめ)に眾心を悅ばしめんと欲し、是に由り望を失ふ。
楚王瑋 勳有りて威を立つるを好み、亮 之を憚り、其の兵權を奪はんと欲す。瑋 甚だ憾し、乃ち賈后の旨を承け、亮 瓘と與に廢立の謀有ると誣し、詔を矯めて其の長史公孫宏を遣はして積弩將軍李肇と與に夜に兵を以て之を圍む。帳下督李龍 外に變有りと白し、之を距がんと請ひ、亮 聽さず。俄然と楚兵 牆を登りて呼び、亮 驚きて曰く、「吾 二心無し、何ぞ是に至るや。若し詔書有れば、其れ見る可きか」と。宏等 許さず、兵に促して之を攻む。長史劉準 亮に謂ひて曰く、「此を觀るに必ず是れ姦謀なり、府中の俊乂 林が如し、猶ほ力を盡して距戰す可し」と。又 聽さず、遂に肇の執ふる所と為る。而して歎じて曰く、「我の忠心 破りて天下に示す可し、如何に道無く、枉げて不辜を殺さん」と。是の時 大熱たり、兵人 亮を車下に坐せしめ、時人 之を憐み、之の為み扇を交す。將に日中に及ばんとし、敢て害する者無し。瑋 令を出して曰く、「能く亮を斬る者は、布千匹を賞す」と。遂に亂兵の害する所と為り、北門の壁に投ぜられ、鬢髮耳鼻 皆 悉く毀たる。瑋 誅するに及び、追て亮の爵位を復し、東園溫明祕器、朝服一襲、錢三百萬、布絹三百匹を給ひ、喪葬の禮 安平獻王孚の故事が如くし、廟に軒懸の樂を設く。五子有り、粹・矩・羕・宗・熙なり。

現代語訳

武帝が病気に臥せると、司馬亮は楊駿に排斥され、侍中・大司馬・仮黄鉞・大都督・督豫州諸軍事として、許昌に出鎮させられ、軒懸の楽、六佾の舞を加えられた。子の司馬羕を封じて西陽公とした。まだ出発する前に、武帝の強い意向で、詔して司馬亮を留めて後事を委ねた。楊駿はこれを聞き、中書監の華廙を追跡して詔を見せろと言い、返却しなかった。武帝が崩ずると、司馬亮は楊駿に(野心を)疑われるのを懼れ、病気を理由に入室せず、大司馬門外で哀しみを述べただけで、上表して葬列に加わることを求めた。楊駿は司馬亮を討伐するつもりだったが、司馬亮はそれを察知し、廷尉の何勖に計略を質問した。荀勖は、「いま朝廷は皆があなたに心を寄せています、なぜ人を討たずに(反対に)人に討たれることを懼れているのですか」と言った。ある人が司馬亮に配下を率いて押し入って楊駿を廃位にせよと説いたが、司馬亮は採用できず、夜に許昌に馳せて赴き、ゆえに災難を免れた。楊駿が誅殺されると、詔して、「大司馬の汝南王亮は道理を体現し中立的な人物で純粋であり、政治の理に精通し、補佐の実績が朝廷に明らかであり、二南の風が方夏に流れこみ、遠き計略を頼りにし、王の教化を打ち立てようとしている。そこで司馬亮を太宰・録尚書事とし、入朝不趨、剣履上殿の特礼をあたえ、掾属十人を増し、千兵と百騎を給い、太保の衛瓘とともに朝政を管掌するように」と言った。司馬亮は楊駿誅殺の功績を論じたが過剰で公平性を欠き、小手先で世論を悦ばせようとしたから、期待を損なった。
楚王瑋(司馬瑋)は勲功があり威儀を立てることを好むので、司馬亮は憚って、彼の兵権を奪おうとした。司馬瑋はひどく怨み、賈后の意向を受け、司馬亮が衛瓘とともに廃立を企んでいると誣告し、詔を偽造して彼の長史である公孫宏を派遣して積弩將軍の李肇とともに夜に兵を使って(司馬亮の府を)包囲した。帳下督の李龍は外に異変があると報告し、防戦しましょうと願ったが、司馬亮は許さなかった。いきなり楚王の兵が壁を登って叫んだので、司馬亮は驚いて、「私には二心がない、なぜこうなるのか。もし詔書があるなら、見せろ」と言った。公孫宏らは無視して、兵に攻撃を促した。長史の劉準が、「どうやら姦謀のようです、この府中には俊英が林のように多く、力を尽くせば防ぎ切れます」と言った。これも許さず、とうとう李肇に捕らわれた。悲歎して、「わが忠誠心は胸を破って天下に示せる、なぜ道理をまげ、無罪の者を殺すのか」と言った。このとき猛暑であり、兵は司馬亮を馬車の下に座らせ、彼を憐れんで、扇で風を送った。真昼が近づいたが、敢えて誰も殺害しようとしなかった。司馬瑋は命令して、「司馬亮を斬れたら、布千匹の褒賞をやる」と言った。とうとう乱兵に殺害され、北門の壁に投げつけられ、鬢髪耳鼻は全部が破損された。司馬瑋が誅されると、亮の爵位を回復し、東園温明の秘器、朝服一襲、銭三百万、布絹三百匹を給わり、喪葬の礼は安平献王孚(司馬孚)の前例に従い、廟に軒懸の楽を設けた。五人の子がおり、粋・矩・羕・宗・熙である。

原文

粹字茂弘。早卒。
矩字延明。拜世子、為屯騎校尉、與父亮同被害。追贈典軍將軍、諡懷王。子祐立、是為威王。祐字永猷。永安中、從惠帝北征。帝遷長安、祐反國。及帝還洛、以征南兵八百人給之、特置四部牙門。永興初、率眾依東海王越、討劉喬有功、拜揚武將軍、以江夏雲杜益封、幷前二萬五千戶。越征汲桑、表留祐領兵三千守許昌、加鼓吹・麾旗。越還、祐歸國。永嘉末、以寇賊充斥、遂南渡江、元帝命為軍諮祭酒。建武初、為鎮軍將軍。太興末、領左軍將軍。太寧中、進號衞將軍、加散騎常侍。咸和元年、薨、贈侍中・特進。子恭王統立、以南頓王宗謀反、被廢。其後成帝哀亮一門殄絕、詔統復封、累遷祕書監・侍中。薨、追贈光祿勳。子1.義立、官至散騎常侍。薨、子遵之立。義熙初、梁州刺史劉稚謀反、推遵之為主、事泄、伏誅。弟楷之子蓮扶立。宋受禪、國除。
羕字延年。太康末、封西陽縣公、拜散騎常侍。亮之被害也、羕時年八歲、鎮南將軍裴楷與之親婣、竊之以逃、一夜八遷、故得免。及瑋誅、進爵為王、歷步兵校尉・左軍驍騎將軍。元康初、進封郡王。永興初、拜侍中。以長沙王乂黨、廢為庶人。惠帝還洛、復羕封、為撫軍將軍、又以汝南期思・西陵益其國。永嘉初、拜鎮軍將軍、加散騎常侍、領後軍將軍、復以邾・蘄春益之、幷前三萬五千戶。隨東海王越東出鄄城、遂南渡江。元帝承制、更拜撫軍大將軍・開府、給千兵百騎。詔與南頓王宗統流人以實中州、江西荒梗、復還。及元帝踐阼、進位侍中・太保。以羕屬尊、元會特為設牀。太興初、錄尚書事、尋領大宗師、加羽葆・斧鉞、班劍六十人、進位太宰。及王敦平、領太尉。明帝即位、以羕宗室元老、特為之拜。羕放縱兵士劫鈔、所司奏免羕官、詔不問。及帝寢疾、羕與王導同受顧命輔成帝。時帝幼沖、詔羕依安平獻王孚故事、設牀帳於殿上、帝親迎拜。咸和初、坐弟南頓王宗免官、降為弋陽縣王。及蘇峻作亂、羕詣峻稱述其勳、峻大悅、矯詔復羕爵位。峻平、賜死。世子播・播弟充及息崧並伏誅、國除。咸康初、復其屬籍、以羕孫珉為奉車都尉・奉朝請。
宗字延祚。元康中、封南頓縣侯、尋進爵為公。討劉喬有功、進封王、增邑五千、幷前萬戶、為征虜將軍。與兄羕俱過江。元帝承制、拜散騎常侍。愍帝之在西都、以宗為平東將軍。元帝即位、拜撫軍將軍、領左將軍。明帝踐阼、加長水校尉、轉左衞將軍。與虞胤俱為帝所昵、委以禁旅。宗與王導・庾亮志趣不同、連結輕俠、以為腹心、導・亮並以為言。帝以宗戚屬、每容之。及帝疾篤、宗・胤密謀為亂、亮排闥入、升御牀、流涕言之、帝始悟。轉為驃騎將軍。胤為大宗正。宗遂怨望形於辭色。咸和初、御史中丞鍾雅劾宗謀反、庾亮使右衞將軍趙胤收之。宗以兵距戰、為胤所殺、貶其族為馬氏、徙妻子于晉安、既而原之。三子、綽・超・演、廢為庶人。咸康中、復其屬籍。綽為奉車都尉・奉朝請。
熙初封汝陽公、討劉喬有功、進爵為王。永嘉末、沒於石勒。

1.「義」は、孝武帝紀では「羲」に作る。

訓読

粹 字は茂弘なり。早く卒す。
矩 字は延明なり。世子を拜し、屯騎校尉と為り、父亮と同に害せらる。典軍將軍を追贈し、懷王と諡す。子の祐 立ち、是れ威王為り。祐 字は永猷なり。永安中、惠帝に從ひ北征す。帝 長安に遷り、祐 國に反る。帝 洛に還るに及び、征南の兵八百人を以て之を給ひ、特に四部牙門を置く。永興初、眾を率ゐて東海王越に依り、劉喬を討ちて功有り、揚武將軍を拜し、江夏雲杜を以て封を益し、前と幷せて二萬五千戶なり。越 汲桑を征し、表して祐を留めて兵三千を領して許昌を守らしめ、鼓吹・麾旗を加ふ。越 還り、祐 歸國す。永嘉末、寇賊の充斥するを以て、遂に南のかた渡江し、元帝 命じて軍諮祭酒と為す。建武初、鎮軍將軍と為る。太興末、左軍將軍を領す。太寧中、號を衞將軍に進め、散騎常侍を加ふ。咸和元年、薨じ、侍中・特進を贈る。子の恭王統 立ち、南頓王宗の謀反するを以て、廢せらる。其の後 成帝 亮一門の殄絕するを哀しみ、統に詔して封を復し、累りに祕書監・侍中に遷る。薨じ、光祿勳を追贈す。子の義 立ち、官は散騎常侍に至る。薨じ、子の遵之 立つ。義熙初、梁州刺史劉稚 謀反し、遵之を推して主と為し、事 泄れ、誅に伏す。弟楷之の子 蓮扶 立つ。宋 受禪し、國 除く。
羕 字は延年なり。太康末、西陽縣公に封じ、散騎常侍を拜す。亮の害せらるや、羕 時に年八歲、鎮南將軍裴楷 之と親婣なれば、之を竊して以て逃し、一夜に八遷し、故に免るるを得。瑋 誅するに及び、爵を進めて王と為し、步兵校尉・左軍驍騎將軍を歷す。元康初、封を郡王に進む。永興初、侍中を拜す。長沙王乂の黨たるを以て、廢して庶人と為す。惠帝 洛に還り、羕の封を復し、撫軍將軍と為し、又 汝南の期思・西陵を以て其の國に益す。永嘉初、鎮軍將軍を拜し、散騎常侍を加へ、後軍將軍を領し、復た邾・蘄春を以て之に益し、前と幷せて三萬五千戶なり。東海王越に隨ひ東のかた鄄城に出で、遂に南のかた渡江す。元帝 承制し、更めて撫軍大將軍・開府を拜し、千兵百騎を給ふ。詔して南頓王宗と與に流人を統して以て中州を實たし、江西 荒梗たれば、復た還る。元帝 踐阼するに及び、位を侍中・太保に進む。羕の尊に屬するを以て、元會に特に為に牀を設く。太興初、錄尚書事、尋いで大宗師を領し、羽葆・斧鉞、班劍六十人を加へ、位を太宰に進む。王敦 平らぐに及び、太尉を領す。明帝 即位し、羕 宗室の元老なるを以て、特に之の為に拜す。羕 兵士を放縱して劫鈔し、所司 羕の官を免ずるを奏し、詔して問はず。帝 寢疾するに及び、羕 王導と同に顧命を受けて成帝を輔す。時に帝 幼沖にして、羕に詔して安平獻王孚の故事に依り、牀帳を殿上に設け、帝 親ら迎拜す。咸和初、弟の南頓王宗に坐して免官し、降して弋陽縣王と為す。蘇峻 亂を作すに及び、羕 峻に詣りて其の勳を稱述し、峻 大いに悅び、詔を矯めて羕の爵位を復す。峻 平らぎ、死を賜る。世子播・播の弟充及び息崧 並びに誅に伏し、國 除く。咸康初、其の屬籍を復し、羕の孫珉を以て奉車都尉・奉朝請と為す。
宗 字は延祚なり。元康中、南頓縣侯に封じ、尋いで爵を進めて公と為す。劉喬を討ちて功有り、封を王に進め、邑五千を增し、前と幷せて萬戶、征虜將軍と為る。兄羕と俱に過江す。元帝 承制するや、散騎常侍を拜す。愍帝の西都に在り、宗を以て平東將軍と為す。元帝 即位し、撫軍將軍を拜し、左將軍を領す。明帝 踐阼し、長水校尉を加へ、左衞將軍に轉ず。虞胤と俱に帝の昵む所と為り、禁旅を以て委ぬ。宗 王導・庾亮と志趣 同じからず、輕俠に連結し、以て腹心と為す、導・亮 並びに以て言を為す。帝 宗の戚屬たるを以て、每に之を容す。帝 疾篤するに及び、宗・胤 密かに謀りて亂を為し、亮 闥を排して入りて、御牀に升り、流涕して之を言ひ、帝 始めて悟る。轉じて驃騎將軍と為る。胤を大宗正と為す。宗 遂に怨望 辭色に形はる。咸和初、御史中丞鍾雅 宗の謀反を劾し、庾亮 右衞將軍趙胤をして之を收めしむ。宗 兵を以て距戰し、胤の殺す所と為り、其の族を貶めて馬氏と為し、妻子を晉安に徙し、既にして之を原す。三子あり、綽・超・演なり、廢して庶人と為す。咸康中、其の屬籍に復す。綽 奉車都尉・奉朝請と為る。
熙 初め汝陽公に封じ、劉喬を討ちて功有り、爵を進めて王と為る。永嘉末、石勒に沒せらる。

現代語訳

(第一子)司馬粋は字を茂弘という。早く卒した。
(第二子)司馬矩は字を延明という。世子を拝し、屯騎校尉となり、父の亮とともに殺害された。典軍将軍を追贈し、懐王と諡された。子の司馬祐が立ち、これが威王である。司馬祐は字を永猷という。永安中(三〇四)、恵帝に従い北征した。恵帝が長安に遷ると、司馬祐は国に帰った。恵帝が洛陽に還ると、征南の兵八百人を給わり、特に四部牙門を置くことを許された。永興初(三〇四-)、軍勢を率いて東海王越に味方し、劉喬を討って功績があり、揚武将軍を拝し、江夏の雲杜を増やされ、前と合わせて二万五千戸となった。司馬越が汲桑を征伐すると、上表して司馬祐を留めて兵三千を領して許昌を守らせ、鼓吹・麾旗を加えた。司馬越が帰還すると、司馬祐も帰国した。永嘉末(-三一三)、寇賊が充満し阻害するので、南下のかた渡江し、元帝が命じて軍諮祭酒とした。建武初(三一七-)、鎮軍将軍となった。太興末(-三二一)、左軍将軍を領した。太寧中(三二三-三二六)、号を衛将軍に進め、散騎常侍を加えた。咸和元(三二六)年、薨じ、侍中・特進を贈られた。子の恭王司馬統が立ち、南頓王宗(司馬宗)が謀反して、廃位された。その後に成帝が司馬亮の一門の断絶したのを哀しみ、司馬統に詔して封号を回復し、しきりに秘書監・侍中に遷った。薨じると、光禄勲を追贈した。子の司馬義が立ち、官は散騎常侍に至った。薨じて、子の司馬遵之が立った。義熙初(四〇五-)、梁州刺史の劉稚が謀反し、司馬遵之を推して盟主としたが、計画が泄れ、誅に伏した。弟の司馬楷之の子である司馬蓮扶が立った。宋が受禅すると、国が除かれた。
(第三子)司馬羕は字を延年という。太康末(-二八九)、西陽県公に封じられ、散騎常侍を拝した。司馬亮が殺害されたとき、司馬羕は八歳で、鎮南将軍の裴楷が姻戚なので、かくまって逃がし、一夜に八回も居場所を変え、生き残ることができた。司馬瑋が誅されると、爵を進めて王とし、歩兵校尉・左軍驍騎将軍を歴任した。元康初(二九一-)、封を郡王に進めた。永興初(三〇〇-)、侍中を拝した。長沙王乂(司馬乂)の一味であったから、廃して庶人とされた。恵帝が洛陽に還ると、司馬羕の封地を回復し、撫軍将軍とし、また汝南の期思・西陵を封国に増した。永嘉初(三〇七-)、鎮軍将軍を拝し、散騎常侍を加え、後軍将軍を領し、さらに邾・蘄春を増し、前と合わせて三万五千戸とした。東海王越(司馬越)に随って東のかた鄄城に出たが、結局は南下して渡江した。元帝が承制すると、更めて撫軍大将軍・開府を拝し、千兵と百騎を給わった。詔して南頓王宗(司馬宗)とともに流人を統率して中州を満たさせたが、江水の西が荒廃したので、また還った。元帝が踐阼すると、位を侍中・太保に進めた。司馬羕が宗族の名門なので、元会(新年の儀礼)のとき特別に牀を設けた。太興初(三一八-)、録尚書事となり、ほどなく大宗師を領し、羽葆・斧鉞、班剣六十人を加え、位を太宰に進めた。王敦が平定されると、太尉を領した。明帝が即位すると、司馬羕は宗室の元老なので、特別に彼に拝した。司馬羕は兵士の管理が甘くて掠奪を許したので、担当官は司馬羕の官職を免ぜよと上奏したが、詔により不問とした。明帝が病気になると、司馬羕は王導とともに顧命を受けて成帝を補佐した。このとき皇帝が幼弱なので、司馬羕に詔して安平献王孚(司馬孚)の故事に則り、牀帳を殿上に設け、皇帝が自ら迎拝した。咸和初(三二六)、弟の南頓王宗(司馬宗)に連坐して免官され、弋陽県王に降格された。蘇峻が乱を起こすと、司馬羕は蘇峻のもとを訪れてその勲功を称賛したので、蘇峻が大いに悦び、詔を偽造して司馬羕の爵位を回復した。蘇峻が平定されると、死を賜った。世子の播・播の弟である充及び息子の崧はいずれも誅に伏し、国は除かれた。咸康初(三三五-)、族譜に復帰させ、司馬羕の孫である司馬珉を奉車都尉・奉朝請とした。
(第四子)司馬宗は字を延祚という。元康中(二九一-二九九)、南頓県侯に封じ、ほどなく爵を公に進めた。劉喬討伐に功績があり、封を王に進め、邑五千を増し、前と合わせて万戸、征虜将軍となった。兄の司馬羕とともに江水を渡った。元帝が承制すると、散騎常侍を拝した。愍帝が西都におり、司馬宗を平東将軍とした。元帝が即位すると、撫軍将軍を拝し、左将軍を領した。明帝が踐阼すると、長水校尉を加え、左衛将軍に転じた。虞胤とともに明帝と親しく交際し、禁旅(天子の直属軍)を委ねられた。司馬宗は王導・庾亮と志向が異なり、軽狡な者たちと手を結んで、腹心としたので、王導・庾亮は苦言を呈した。明帝は司馬宗が宗族なので、いつも容認をした。明帝が重篤になると、司馬宗・虞胤はひそかに乱を計画したので、庾亮が人払いをして寝所に入り、流涕して報告したので、明帝は初めて(司馬宗の危険性を)悟った。転じて驃騎将軍となった。虞胤を大宗正とした。司馬宗は怨みが顔や言葉の端々ににじみ出た。咸和初(三二六-)、御史中丞の鍾雅が司馬宗の謀反を弾劾し、庾亮が(司馬宗を)右衛将軍の趙胤に捕らえさせた。司馬宗は兵を使って防戦したが、趙胤に殺され、一族を貶めて馬氏とし、妻子を晋安に徙し、後に赦された。三子がおり、綽・超・演といい、廃して庶人とされた。咸康中(三三五-三四二)、司馬氏の族譜に復帰させた。司馬綽は奉車都尉・奉朝請となった。
(第五子)司馬熙は初めに汝陽公に封ぜられ、劉喬討伐に功績があり、爵を王に進めた。永嘉末(-三一三)、石勒に捕らえられた。

楚王瑋

原文

楚隱王瑋字彥度、武帝第五子也。初封始平王、歷屯騎校尉。太康末、徙封於楚、出之國、都督荊州諸軍事・平南將軍、轉鎮南將軍。武帝崩、入為衞將軍、領北軍中候、加侍中・行太子少傅。
楊駿之誅也、瑋屯司馬門。瑋少年果銳、多立威刑、朝廷忌之。汝南王亮・太保衞瓘以瑋性很戾、不可大任、建議使與諸王之國、瑋甚忿之。長史公孫宏・舍人岐盛並薄於行、為瑋所昵。瓘等惡其為人、慮致禍亂、將收盛。盛知之、遂與宏謀、因積弩將軍李肇矯稱瑋命、譖亮・瓘於賈后。而后不之察、使惠帝為詔曰、太宰・太保欲為伊霍之事、王宜宣詔、令淮南・長沙・成都王屯宮諸門、廢二公。夜使黃門齎以授瑋。瑋欲覆奏、黃門曰、事恐漏泄、非密詔本意也。瑋乃止。遂勒本軍、復矯詔召三十六軍、手令告諸軍曰、天禍晉室、凶亂相仍。間者楊駿之難、實賴諸君克平禍亂。而二公潛圖不軌、欲廢陛下以絕武帝之祀。今輒奉詔、免二公官。吾今受詔都督中外諸軍。諸在直衞者皆嚴加警備、其在外營、便相率領、徑詣行府。助順討逆、天所福也。懸賞開封、以待忠效。皇天后土、實聞此言。又矯詔使亮・瓘上太宰太保印綬・侍中貂蟬、之國、官屬皆罷遣之。又矯詔赦亮・瓘官屬曰、二公潛謀、欲危社稷、今免還第。官屬以下、一無所問。若不奉詔、便軍法從事。能率所領先出降者、封侯受賞。朕不食言。遂收亮・瓘、殺之。
岐盛說瑋、可因兵勢誅賈模・郭彰、匡正王室、以安天下。瑋猶豫未決。會天明、帝用張華計、遣殿中將軍王宮齎騶虞幡麾眾曰、楚王矯詔。眾皆釋杖而走。瑋左右無復一人、窘迫不知所為、惟一奴年十四、駕牛車將赴秦王柬。帝遣謁者詔瑋還營、執之於武賁署、遂下廷尉。詔以瑋矯制害二公父子、又欲誅滅朝臣、謀圖不軌、遂斬之、時年二十一。其日大風、雷雨礔礰。詔曰、周公決二叔之誅、漢武斷昭平之獄、所不得已者。廷尉奏瑋已伏法、情用悲痛、吾當發哀。」瑋臨死、出其懷中青紙詔、流涕以示監刑尚書劉頌曰、「受詔而行、謂為社稷、今更為罪。託體先帝、受枉如此、幸見申列。頌亦歔欷不能仰視。公孫宏・岐盛並夷三族。瑋性開濟好施、能得眾心、及此莫不隕淚、百姓為之立祠。賈后先惡瓘・亮、又忌瑋、故以計相次誅之。永寧元年、追贈驃騎將軍、封其子範為襄陽王、拜散騎常侍、後為石勒所害。

訓読

楚隱王瑋 字は彥度、武帝の第五子なり。初め始平王に封じ、屯騎校尉を歷す。太康末、封を楚に徙し、出でて國に之き、都督荊州諸軍事・平南將軍、鎮南將軍に轉ず。武帝 崩じ、入りて衞將軍と為り、北軍中候を領し、侍中・行太子少傅を加ふ。
楊駿の誅せられるや、瑋 司馬門に屯す。瑋 年少なくして果銳、多く威刑を立て、朝廷 之を忌む。汝南王亮・太保衞瓘 瑋の性很戾なるを以て、大任に任ず可からず、建議して諸王と與に國に之かしめ、瑋 甚だ之に忿る。長史公孫宏・舍人岐盛 並びに行に薄く、瑋の昵む所と為る。瓘等 其の人と為りを惡み、禍亂を致すを慮り、將に盛を收めんとす。盛 之を知し、遂に宏と與に謀り、因りて積弩將軍李肇 矯めて瑋の命と稱し、亮・瓘を賈后に譖る。而して后 之を察せず、惠帝に詔を為らしめて曰く、「太宰・太保 伊霍の事を為さんと欲し、王 宜しく詔を宣し、淮南・長沙・成都王をして宮諸門に屯せしめ、二公を廢すべし」と。夜に黃門をして齎して以て瑋に授けしむ。瑋 覆奏せんと欲し、黃門曰く、「事 漏泄するを恐る、密詔の本意に非ず」と。瑋 乃ち止む。遂に本軍を勒し、復た詔を矯めて三十六軍を召し、手づから諸軍に告げしめて曰く、「天 晉室に禍し、凶亂 相 仍る。間者 楊駿の難、實に諸君に賴りて克く禍亂を平らぐ。而るに二公 潛かに不軌を圖り、陛下を廢して以て武帝の祀を絕たんと欲す。今 輒ち詔を奉り、二公の官を免ず。吾 今 詔を受けて中外諸軍を都督す。諸々の直衞に在る者 皆 嚴かに警備を加へ、其の外營に在るは、便ち相 率領し、徑に行府に詣れ。順を助けて逆を討つは、天の福とする所なり。賞を懸けて封を開き、以て忠效を待つ。皇天后土、實に此の言を聞け」と。又 詔を矯めて亮・瓘をして太宰太保の印綬・侍中貂蟬を上らしめ、國に之き、官屬 皆 罷めて之に遣はす。又 詔を矯めて亮・瓘の官屬を赦して曰く、「二公 潛かに謀り、社稷を危ふくせんと欲す、今 免じて第に還す。官屬以下、一も問ふ所無し。若し詔を奉らずんば、軍法に便ひて從事す。能く所領を率ゐて先に出降する者は、封侯もて賞を受けん。朕 食言せず」と。遂に亮・瓘を收め、之を殺す。
岐盛 瑋に說くらく、兵勢に因りて賈模・郭彰を誅し、王室を匡正し、以て天下を安んず可しと。瑋 猶豫して未だ決せず。天明に會ひ、帝 張華の計を用て、殿中將軍王宮を遣はして騶虞幡を齎らして眾に麾かせて曰く、「楚王 詔を矯む」と。眾 皆 杖を釋きて走る。瑋の左右 復た一人と無く、窘迫して為す所を知らず、惟だ一奴年十四、牛車に駕して將に秦王柬に赴かんとす。帝 謁者を遣はして瑋に詔して營に還らしめ、之を武賁署に執へ、遂に廷尉に下す。詔して瑋の制を矯めて二公父子を害し、又 朝臣を誅滅し、不軌を謀圖せんと欲するを以て、遂に之を斬る、時に年二十一。其の日 大風、雷雨礔礰あり。詔して曰く、「周公 二叔の誅を決し〔一〕、漢武 昭平の獄を斷ずるは〔二〕、已むを得ざる所なり。廷尉 瑋 已に法に伏すを奏し、情 用て悲痛し、吾 當に哀を發すべし」と。瑋 死に臨み、其の懷中より青紙の詔を出し、流涕して以て監刑尚書劉頌に示して曰く、「詔を受けて行ふ、社稷の為と謂ひ、今 更めて罪と為る。體を先帝より託され、枉を受くること此の如し、幸は申列に見えん」と。頌 亦 歔欷して仰視する能はず。公孫宏・岐盛 並びに三族を夷す。瑋の性 開濟にして施を好み、能く眾心を得て、此に及び隕淚せざる莫く、百姓 之の為に祠を立つ。賈后 先に瓘・亮を惡み、又 瑋を忌み、故に計を以て相 次いで之を誅す。永寧元年、驃騎將軍を追贈し、其の子範を封じて襄陽王と為し、散騎常侍を拜し、後に石勒の害する所と為る。

〔一〕周公旦は、兄弟である管叔鮮らを誅殺した。三監の乱を指す。
〔二〕昭平君は、前漢の武帝の妹の子。武帝の妹は、死の直前、昭平君が罪を犯しても見逃すように依頼したが、昭平君に罪があると、武帝は彼を処罰した。

現代語訳

楚隠王の瑋(司馬瑋)は字を彦度といい、武帝の第五子である。はじめに始平王に封建され、屯騎校尉などを歴任した。太康末(-二八九)、封地を楚に移し、転出して国に赴任させ、都督荊州諸軍事・平南将軍とし、鎮南将軍に転じた。武帝が崩じると、入って衛将軍となり、北軍中候を領し、侍中・行太子少傅を加えた。
楊駿が誅されると、司馬瑋は司馬門に屯した。司馬瑋は若いが果断で鋭く、刑法を厳格に適用して威圧する傾向があり、朝廷で忌まれた。汝南王亮(司馬亮)・太保の衛瓘は司馬瑋が捻くれており道理に逆らう性格なので、重職に任用してはならぬと考え、諸王とともに封国に行かせよと建議し、司馬瑋は激怒した。長史の公孫宏・舎人の岐盛はどちらも行動が酷薄で、司馬瑋と昵懇であった。衛瓘らは彼らの人となりを憎み、禍乱を起こすことを警戒し、岐盛を捕らえようとした。岐盛はこれを察知し、公孫宏と謀り、積弩将軍の李肇に司馬瑋の意向だと詐らせて、賈后に向けて司馬亮・衛瓘のことを讒言した。賈后はよく確かめもせず、恵帝に詔を作らせ、「太宰・太保(司馬亮・衛瓘)は伊尹と霍光の事業(廃立)を計画しているから、楚王は詔を広め、淮南王・長沙王・成都王に宮廷の諸門を固めさせ、二公を廃位せよ」と言った。夜に黄門がこの詔を司馬瑋にもたらした。司馬瑋が上奏して問い返そうとすると、黄門は、「このことは漏洩を嫌います、密詔が台無しになります」と言った。司馬瑋は止めた。とうとう本軍を統率し、また詔を偽造して三十六軍を召し、手づから諸軍に伝え、「天は晋室に禍いをもたらし、凶乱が相次いでいる。さきごろ楊駿の難は、諸君のおかげで禍乱を平定できた。しかし二公がひそかに不軌を図り、陛下を廃して武帝の祭祀を断絶させようとしている。そこで詔を奉り、二公の官職を免じよう。私は詔を受けて中外諸軍を都督する。宮殿を護衛している者は、厳戒態勢をとり、宮殿の外にいる者は、すぐに軍を引き連れ、まっすぐ役所に来るように。順を助けて逆を討てば、天に祝福されよう。封爵を褒賞とする、忠義の行いを期待する。皇天と后土は、まことにこの言を聞き届けよ」と言った。さらに詔を偽造して司馬亮・衛瓘に太宰や太保の印綬・侍中の貂蟬を返上させ、封国に赴かせ、官属は全員を罷免して(任国に)従わせるとした。またまた詔を偽造して司馬亮・衛瓘の官属を赦し、「二公はひそかに謀略をめぐらせ、社稷を危険に晒したので、いま罷免して邸宅に帰らせた。官属以下は、一切を問わない。もし詔に従わぬなら、軍法で処置する。配下を率いて投降する者がいたら、侯に封じて賞するであろう。朕は約束を守る」と言った。とうとう司馬亮・衛瓘を捕らえ、殺した。
岐盛が司馬瑋に説いて、この兵の勢いに乗って賈模・郭彰を誅し、王室を救済して補正すれば、天下を安定させられますと言った。司馬瑋は迷って決断できなかった。明け方、恵帝は張華の計略に従い、殿中将軍の王宮を遣わして騶虞幡をもたらして将兵に停戦命令を示し、「楚王は詔を偽造した」と言った。軍勢はみな武器を捨てて去った。司馬瑋の近臣は追い詰められ、一人として対処法が分からず、ただ一人の十四歳の奴隷が、牛舎に乗って秦王柬(司馬柬)のもとを頼りなさいと言った。恵帝は謁者を派遣して司馬瑋を自営に還らせ、彼を武賁署に収監し、廷尉に引き渡した。詔して司馬瑋が詔命を詐って二公の父子を殺害し、さらに朝臣までも誅滅して、不軌を計画したとして、彼を斬った、ときに二十一歳。その日は強風がふき、強烈な雷雨と稲妻が走った。詔して、「周公旦は二叔の誅殺を決断し、前漢武帝は昭平君を獄に下したが、やむを得なかったのである。廷尉はすでに司馬瑋を処刑したと上奏したが、わが心は悲痛であり、哀を発するであろう」と言った。司馬瑋は死に臨み、懐中から青紙の詔を出し、流涕して監刑尚書の劉頌に示し、「詔を受けて実行した、社稷のためと聞いたのに、一転して罪となった。先帝(武帝)の子として生まれたが、かように不当な判決を受けた。どうか陛下に申し開きをしたい」と言った。劉頌もむせび泣いて正視できなかった。公孫宏・岐盛はどちらも三族を皆殺しとした。司馬瑋の性格は開放的で施しを好み、世間の支持を得たので、死を受けて落涙せぬ者はおらず、百姓は彼のために祠を立てた。賈后は以前から衛瓘・司馬亮を憎み、また司馬瑋を忌んでいたので、計略を用いて相次いで誅殺したのである。永寧元(三〇一)年、驃騎将軍を追贈し、その子の司馬範を襄陽王に封じ、散騎常侍を拝し、後に石勒に殺害された。

趙王倫

原文

趙王倫字子彝、宣帝第九子也、母曰柏夫人。魏嘉平初、封安樂亭侯。五等建、改封東安子、拜諫議大夫。武帝受禪、封琅邪郡王。坐使散騎將劉緝買工所將盜御裘、廷尉杜友正緝棄市、倫當與緝同罪。有司奏倫爵重屬親、不可坐。諫議大夫劉毅駁曰、王法賞罰、不阿貴賤、然後可以齊禮制而明典刑也。倫知裘非常、蔽不語吏、與緝同罪、當以親貴議減、不得闕而不論。宜自於一時法中、如友所正。帝是毅駁、然以倫親親故、下詔赦之。及之國、行東中郎將・宣威將軍。咸寧中、改封於趙、遷平北將軍・督鄴城守事、進安北將軍。元康初、遷征西將軍・開府儀同三司、鎮關中。倫刑賞失中、氐羌反叛、徵還京師。尋拜車騎將軍・太子太傅。深交賈・郭、諂事中宮、大為賈后所親信。求錄尚書、張華・裴頠固執不可。又求尚書令、華・頠復不許。
愍懷太子廢、使倫領右軍將軍。時左衞司馬督司馬雅及常從督許超、並嘗給事東宮、二人傷太子無罪、與殿中中郎士猗等謀廢賈后、復太子、以華・頠不可移、難與圖權、倫執兵之要、性貪冒、可假以濟事、乃說倫嬖人孫秀曰、中宮凶妬無道、與賈謐等共廢太子。今國無嫡嗣、社稷將危、大臣將起大事。而公名奉事中宮、與賈・郭親善、太子之廢、皆云豫知、一朝事起、禍必相及。何不先謀之乎。秀許諾、言於倫、倫納焉。遂告通事令史張林及省事張衡・殿中侍御史殷渾・右衞司馬督路始、使為內應。事將起、而秀知太子聰明、若還東宮、將與賢人圖政、量己必不得志、乃更說倫曰、太子為人剛猛、不可私請。明公素事賈后、時議皆以公為賈氏之黨。今雖欲建大功於太子、太子含宿怒、必不加賞於明公矣。當謂逼百姓之望、翻覆以免罪耳。此乃所以速禍也。今且緩其事、賈后必害太子、然後廢后、為太子報讎、亦足以立功、豈徒免禍而已。倫從之。秀乃微泄其謀、使謐黨頗聞之。倫・秀因勸謐等早害太子、以絕眾望。
太子既遇害、倫・秀之謀益甚、而超・雅懼後難、欲悔其謀、乃辭疾。秀復告右衞佽飛督閭和、和從之、期四月三日丙夜一籌、以鼓聲為應。至期、乃矯詔敕三部司馬曰、中宮與賈謐等殺吾太子、今使車騎入廢中宮。汝等皆當從命、賜爵關中侯。不從、誅三族。於是眾皆從之。倫又矯詔開門夜入、陳兵道南、遣翊軍校尉齊王冏將三部司馬百人、排閤而入。華林令駱休為內應、迎帝幸東堂。遂廢賈后為庶人、幽之于建始殿。收吳太妃・趙粲及韓壽妻賈午等、付暴室考竟。詔尚書以廢后事、仍收捕賈謐等、召中書監・侍中・黃門侍郎八坐、皆夜入殿、執張華・裴頠・解結・杜斌等、於殿前殺之。尚書始疑詔有詐、郎師景露版奏請手詔。倫等以為沮眾、斬之以徇。明日、倫坐端門、屯兵北向、遣尚書和郁持節送賈庶人于金墉。誅趙粲叔父中護軍趙浚及散騎侍郎韓豫等、內外羣官多所黜免。倫尋矯詔自為使持節・大都督・督中外諸軍事・相國、侍中・王如故、一依宣文輔魏故事、置左右長史・司馬・從事中郎四人・參軍十人、掾屬二十人・兵萬人。以其世子散騎常侍荂領宂從僕射。子馥前將軍、封濟陽王。虔黃門郎、封汝陰王。詡散騎侍郎、封霸城侯。孫秀等封皆大郡、並據兵權、文武官封侯者數千人、百官總己聽於倫。

訓読

趙王倫 字は子彝、宣帝の第九子なり、母 柏夫人と曰ふ。魏の嘉平初、安樂亭侯に封ず。五等 建つや、改めて東安子に封じ、諫議大夫を拜す。武帝 受禪し、琅邪郡王に封ぜらる。散騎將劉緝をして工の將ゐる所の御裘を盜めるを買はしむに坐し、廷尉杜友 緝を正して棄市し、倫 當に緝と同罪とすべきとす。有司 奏して倫の爵 重く屬親なれば、坐す可からずと。諫議大夫劉毅 駁して曰く、「王法の賞罰、貴賤に阿らず、然る後 以て禮制を齊しくして典刑を明らかにす可し。倫 裘の非常を知り、蔽ひて吏に語らずんば、緝と同罪にして、當に親貴を以て減を議するは、闕ありて論ずるを得ず。宜しく自ら一時に法もて中て、友の正す所が如くせよ」と。帝 毅の駁を是とし、然るに倫の親親たる故を以て、詔を下して之を赦す。國に之くに及び、行東中郎將・宣威將軍たり。咸寧中、改めて趙に封じ、平北將軍・督鄴城守事に遷り、安北將軍に進む。元康初、征西將軍・開府儀同三司に遷り、關中に鎮す。倫の刑賞 中を失ひ、氐羌 反叛し、徵して京師に還す。尋いで車騎將軍・太子太傅を拜す。深く賈・郭と交はり、中宮に諂事し、大いに賈后の親信する所と為る。錄尚書を求め、張華・裴頠 固く不可を執る。又 尚書令を求め、華・頠 復た許さず。
愍懷太子 廢し、倫をして右軍將軍を領せしむ。時に左衞司馬督の司馬雅及び常從督の許超、並びに嘗て東宮に給事し、二人 太子の無罪を傷み、殿中中郎の士猗等と賈后を廢し、太子を復せんと謀り、華・頠 移す可からざるを以て、圖權を與にし難く、倫 兵を執るの要あり、性は貪冒なれば、假りて以て事を濟ふ可しとし、乃ち倫の嬖人孫秀に說きて曰く、「中宮 凶妬にして無道、賈謐等と共に太子を廢す。今 國に嫡嗣無く、社稷 將に危ふからん、大臣 將に大事を起てんとす。而るに公 名は中宮に奉事し、賈・郭と親善し、太子の廢、皆 豫め知ると云ひ、一朝に事 起らば、禍 必ず相 及ぶ。何ぞ先んじて之を謀らんか」と。秀 許諾し、倫に言ひ、倫 焉を納る。遂に通事令史の張林及び省事の張衡・殿中侍御史の殷渾・右衞司馬督の路始に告げて、為に內應せしむ。事 將に起さんとし、而るに秀 太子の聰明なるを知り、若し東宮に還らば、將に賢人と政に圖り、己の必ず志を得ざるを量り、乃ち更めて倫に說きて曰く、「太子の人と為りは剛猛、私請す可からず。明公 素より賈后に事へ、時議 皆 公を以て賈氏の黨と為す。今 大功を太子に建てんと欲すると雖も、太子 宿怒を含み、必ず明公に賞を加へず。當に百姓の望に逼ると謂ひ、翻覆して以て罪を免るるのみ。此れ乃ち禍を速むる所以なり。今 且に其の事を緩めれば、賈后 必ず太子を害し、然る後 后を廢し、太子の報讎と為せば、亦 以て功を立つるに足る、豈に徒らに禍を免るるのみや」と。倫 之に從ふ。秀 乃ち微かに其の謀を泄し、謐の黨をして頗る之を聞かしむ。倫・秀 因りて謐等に早く太子を害せよと勸め、以て眾望を絕つ。
太子 既に害に遇ひ、倫・秀の謀 益々甚しく、而るに超・雅 後難を懼れ、其の謀を悔いんと欲し、乃ち疾に辭す。秀 復た右衞佽飛督の閭和に告げ、和 之に從ひ、期すらく四月三日丙夜に一籌あり、鼓聲を以て應を為す。期に至り、乃ち詔を矯めて三部司馬に敕して曰く、「中宮 賈謐等と與に吾が太子を殺し、今 車騎をして入りて中宮を廢せしめよ。汝等 皆 當に命に從ふべし、爵關中侯を賜ふ。從はずんば、三族を誅す」と。是に於て眾 皆 之に從ふ。倫 又 詔を矯めて開門して夜に入り、兵を道南に陳し、翊軍校尉齊王冏を遣はして三部司馬百人を將ゐしめ、閤を排して入る。華林令駱休 內應を為し、帝を迎へて東堂に幸せしむ。遂に賈后を廢して庶人と為し、之を建始殿に幽す。吳太妃・趙粲及び韓壽の妻賈午等を收め、暴室に付して考竟す。尚書に詔して廢后の事を以て、仍りて賈謐を收捕し、中書監・侍中・黃門侍郎八坐を召し、皆 夜に殿に入り、張華・裴頠・解結・杜斌等を執へ、殿前に於て之を殺す。尚書 始め詔に詐有るを疑ひ、郎の師景 露版して奏して手詔を請ふ。倫等 以て眾を沮むと為し、之を斬りて以て徇ふ。明日、倫 端門に坐し、兵を屯して北向し、尚書和郁を遣はして持節して賈庶人を金墉に送る。趙粲の叔父中護軍の趙浚及び散騎侍郎の韓豫等を誅し、內外の羣官 黜免する所多し。倫 尋いで詔を矯めて自ら使持節・大都督・督中外諸軍事・相國と為り、侍中・王 故の如く、一に宣文輔魏の故事に依り、左右長史・司馬・從事中郎四人・參軍十人、掾屬二十人・兵萬人を置く。其の世子たる散騎常侍荂を以て宂從僕射を領せしむ。子の馥もて前將軍とし、濟陽王に封ず。虔もて黃門郎とし、汝陰王に封ず。詡もて散騎侍郎とし、霸城侯に封ず。孫秀等 皆 大郡に封じ、並びに兵權に據り、文武の官 侯に封ずる者は數千人、百官 總己して倫に聽く。

現代語訳

趙王倫(司馬倫)は字を子彝といい、宣帝の第九子であり、母は柏夫人という。魏の嘉平初(二四九-)、安楽亭侯に封じられた。五等爵制が建つと、改めて東安子に封じ、諫議大夫を拝した。武帝が受禅すると、琅邪郡王に封じられた。(司馬倫が)散騎将の劉緝に命じて工人の配下が盗んだ御裘を購入させた罪で、廷尉の杜友は劉緝を裁いて棄市とし、司馬倫も劉緝と同罪だと主張した。担当官が上奏して司馬倫の爵位が重く皇族であるから、罪が及ばぬと言った。諫議大夫の劉毅は反駁し、「王法の賞罰は、貴賤におもねらず、礼制を等しく適用して刑法を明らかにすべきである。司馬倫は御裘の盗品と知りながら、隠して吏に証言しなかったから、劉緝と同罪であり、親貴だから減刑せよというのは、不適切な意見である。例外なく法を適用し、杜友の判決の通りとしなさい」と言った。武帝は劉毅の意見を支持しながら、しかし司馬倫は親族(叔父)なので詔を下して赦した。国に行き、行東中郎将・宣威将軍となった。咸寧中(二七五-二八〇)、改めて趙に封建し、平北将軍・督鄴城守事に遷り、安北将軍に進んだ。元康初(二九一-)、征西将軍・開府儀同三司に遷り、関中に出鎮した。司馬倫の刑罰と報賞はでたらめで、氐羌が反乱したので、徴して京師に還した。ほどなく車騎将軍・太子太傅を拝した。深く賈氏・郭氏と交際し、中宮(賈后)にへつらい、大いに賈后に親しみ信用された。録尚書の役割を求めたが、張華・裴頠が強く反対した。尚書令を求めたが、張華・裴頠がこれも認めなかった。
愍懐太子(司馬遹)が廃位され、司馬倫が右軍将軍を領した。このとき左衛司馬督の司馬雅及び常従督の許超は、かつて東宮に給事した人物で、二人は太子の無罪を痛ましく思い、殿中中郎の士猗らとともに賈后を廃位し、太子を復位させようと計画したが、張華・裴頠は説得が難しく、権力闘争に利用しづらいが、司馬倫ならば兵権を握っており、性格が貪欲で野心的なので、計画に巻き込みやすいと考え、司馬倫の嬖人(側近)である孫秀に説いて、「中宮(賈后)は凶悪で嫉妬ぶかく道理に欠き、賈謐らと共に太子を廃位した。いま国に後継者がおらず、社稷は傾きそうで、大臣は決起を予定している。しかし公(司馬倫)は名目上は中宮に仕え、賈氏・郭氏と親しく、太子の廃位を、予め知らされていたと皆に噂されているから、一旦決起があれば、禍いは必ず及ぶ。なぜ先手を打たないか」と言った。孫秀は合意し、司馬倫に言い、司馬倫も同意した。通事令史の張林及び省事の張衡・殿中侍御史の殷渾・右衛司馬督の路始に告げて、彼らに内応させた。決起の直前、孫秀は太子が聡明であることを勘案し、もし彼が東宮(皇太子)に復帰すれば、賢人とともに政権を執り、自分に活躍の場がないと考え、意見を変更して司馬倫に説いて、「太子の人となりは剛直であり、私的な口利きを受け付けません。明公は普段から賈后に仕え、世論ではみな賈氏の一味と見ています。いま太子のために大功を建てようとしていますが、太子は宿怨を忘れず、きっとあなたに褒賞を加えないでしょう。万民からの要請だと言い、態度を翻して往年の罪を見逃すのが精々です。これは禍いを招き寄せるやり方です。いま決起を遅らせれば、賈后は必ずや太子を殺害します、その後に賈后を廃位し、太子の報復だと唱えれば、功績を立てられます、禍いを免れるだけよりもお得です」と言った。司馬倫はこれに従った。孫秀はこっそり計画を漏らし、賈謐の一味にしっかりと聞かせた。司馬倫・孫秀はこうして賈謐らに太子の殺害を促し、世論の希望を絶った。
太子が殺害されると、司馬倫・孫秀の謀略はますます勢いづき、許超・司馬雅は後難を懼れ、彼らを巻き込んだことを後悔し、病気を理由に辞職した。孫秀は右衞佽飛督の閭和に協力を持ちかけ、閭和はこれに従い、四月三日丙夜(深夜)を刻限とした計画を授け、鼓の音に呼応せよと言った。約束の時間に、詔を矯めて三部司馬に命じ、「中宮(賈后)は賈謐らとともに我らが太子を殺した、いま車騎が突入して中宮を廃位せよ。命令に従えば、関中侯の爵位を賜る。従わねば、三族を誅する」と言った。人々はこれに従った。司馬倫は詔を偽造して開門して夜に押し入り、兵を道の南に整列させ、翊軍校尉の斉王冏(司馬冏)を派遣して三部司馬百人を率いさせ、門を破って入った。華林令の駱休が内応し、恵帝を迎へて東堂に移動させた。とうとう賈后を廃位して庶人とし彼女を建始殿に幽閉した。呉太妃・趙粲及び韓寿の妻である賈午らを収容し、暴室に移して訊問した。尚書に詔して皇后廃位の手続をさせ、これに伴い賈謐を収監し、中書監・侍中・黄門侍郎八坐を召し、いずれも夜に宮殿に入り、張華・裴頠・解結・杜斌らを捕らえ、殿前で彼らを殺した。はじめ尚書は詔の偽造を疑い、尚書郎の師景は露版で(公開文書で)上奏して恵帝直筆の詔を要請した。司馬倫は士気を損なうから、彼を斬って見せしめにした。翌日、司馬倫は端門に座り、兵を駐屯させて北を向かせ、尚書の和郁に持節をさせて賈庶人を金墉城に送らせた。趙粲の叔父である中護軍の趙浚及び散騎侍郎の韓豫らを誅殺し、内外の群官は多くを罷免し排除した。司馬倫はつづけて詔を偽造して自らを使持節・大都督・督中外諸軍事・相国とし、侍中・王は従来通りとし、もっぱら宣文輔魏の故事に依り、左右長史・司馬・従事中郎四人・参軍十人、掾属二十人・兵万人を設置した。その世子である散騎常侍荂(司馬荂)に冗従僕射を領させた。子の司馬馥を前将軍とし、済陽王に封じた。司馬虔を黄門郎とし、汝陰王に封じた。司馬詡を散騎侍郎とし、霸城侯に封じた。孫秀らを大きな郡に封建し、みな兵権を握らせ、文武の官で侯爵に封じられた者は数千人おり、百官は司馬倫が総覧した。

原文

倫素庸下、無智策、復受制於秀、秀之威權振於朝廷、天下皆事秀而無求於倫。秀起自琅邪小史、累官於趙國、以諂媚自達。既執機衡、遂恣其姦謀、多殺忠良、以逞私欲。司隸從事游顥與殷渾有隙、渾誘顥奴晉興、偽告顥有異志。秀不詳察、即收顥及襄陽中正李邁、殺之、厚待晉興、以為己部曲督。前衞尉石崇・黃門郎潘岳皆與秀有嫌、並見誅。於是京邑君子不樂其生矣。
淮南王允・齊王冏以倫・秀驕僭、內懷不平。秀等亦深忌焉、乃出冏鎮許、奪允護軍。允發憤、起兵討倫。允既敗滅、倫加九錫、增封五萬戶。倫偽為飾讓、詔遣百官詣府敦勸、侍中宣詔、然後受之。加荂撫軍將軍・領軍將軍、馥鎮軍將軍・領護軍將軍、虔中軍將軍・領右衞將軍、詡為侍中。又以孫秀為侍中・輔國將軍・相國司馬、右率如故。張林等並居顯要。增相府兵為二萬人、與宿衞同、又隱匿兵士、眾過三萬。起東宮三門四角華櫓、斷宮東西道為外徼。或謂秀曰、散騎常侍楊準・黃門侍郎劉逵欲奉梁王肜以誅倫。會有星變、乃徙肜為丞相、居司徒府、轉準・逵為外官。
倫無學、不知書。秀亦以狡黠小才、貪淫昧利。所共立事者、皆邪佞之徒、惟競榮利、無深謀遠略。荂淺薄鄙陋、馥・虔闇很強戾、詡愚嚚輕訬、而各乖異、互相憎毀。秀子會、年二十、為射聲校尉、尚帝女河東公主。公主母喪未朞、便納聘禮。會形貌短陋、奴僕之下者、初與富室兒於城西販馬、百姓忽聞其尚主、莫不駭愕。

訓読

倫 素より庸下にして、智策無く、復た制を秀に受け、秀の威權 朝廷に振ひ、天下 皆 秀に事へて倫に求むる無し。秀 琅邪小史自り起ち、官を趙國に累ね、諂媚を以て自達す。既に機衡を執り、遂に其の姦謀を恣にし、多く忠良を殺し、以て私欲を逞くす。司隸從事游顥 殷渾と隙有り、渾 顥の奴たる晉興に誘ひて、偽りて顥に異志有りと告げしむ。秀 詳察せず、即ち顥及び襄陽中正李邁を收めて、之を殺し、厚く晉興を待し、以て己の部曲督と為す。前衞尉の石崇・黃門郎の潘岳 皆 秀と嫌有り、並びに誅せらる。是に於て京邑の君子 其の生を樂しまず。
淮南王允・齊王冏 倫・秀の驕僭たるを以て、內に不平を懷く。秀等 亦 深く焉を忌み、乃ち冏を出して許に鎮せしめ、允の護軍を奪ふ。允 發憤し、起兵して倫を討つ。允 既に敗滅し、倫 九錫を加へ、封五萬戶を增す。倫 偽りて飾讓を為し、詔して百官をして府に詣りて敦く勸めしめ、侍中 詔を宣し、然る後に之を受く。荂に撫軍將軍・領軍將軍を加へ、馥もて鎮軍將軍・領護軍將軍、虔もて中軍將軍・領右衞將軍、詡もて侍中と為す。又 孫秀を以て侍中・輔國將軍・相國司馬と為し、右率 故の如し。張林等 並びに顯要に居る。相府兵を增して二萬人と為し、宿衞と同じく、又 兵士を隱匿し、眾 三萬を過ぐ。東宮三門の四角に華櫓を起ち、宮の東西道を斷ちて外徼と為す。或ひと秀に謂ひて曰く、「散騎常侍楊準・黃門侍郎劉逵 梁王肜を奉じて以て倫を誅せんと欲す」と。會 星變有り、乃ち肜を徙して丞相と為し、司徒府に居らしめ、準・逵を轉じて外官と為す。
倫 無學にして、書を知らず。秀 亦 狡黠の小才を以て、淫を貪り利に昧し。共に事を立つる所の者、皆 邪佞の徒にして、惟だ榮利を競ひ、深謀遠略無し。荂 淺薄にして鄙陋たり、馥・虔 闇很にして強戾たり、詡 愚嚚にして輕訬たり、而るに各々乖異し、互いに相 憎毀す。秀の子會、年は二十、射聲校尉と為り、帝の女河東公主を尚ぶ。公主の母 喪して未だ朞せず、便ち聘禮を納る。會(かい) 形貌 短陋なれば、奴僕の下なる者、初め富室の兒に城西に於て馬を販し、百姓 忽ち其の尚主を聞き、駭愕せざる莫し。

現代語訳

司馬倫は以前から凡庸であり、智恵や計策がなく、また孫秀に主導権を取られたので、孫秀の威権が朝廷に振るい、天下はみな孫秀に仕えて司馬倫を無視した。孫秀は琅邪の小史から官途を開始し、趙国で官職をどんどん上げてゆき、媚び諂うことで出世の道を切り開いた。政権の中枢を握ると、その姦謀をほしいままにし、多くの忠良な人々を殺し、私欲を逞しくした。司隸従事の游顥は殷渾と不仲であったが、殷渾は游顥の奴隷である晋興をそそのかし、偽って游顥に異志があると(孫秀に)報告させた。孫秀はよく調べもせず、游顥及び襄陽中正の李邁を捕らえて、彼らを殺し、密告した晋興を厚遇し、己の部曲督とした。前衛尉の石崇・黄門郎の潘岳は二人とも孫秀を嫌ったから、誅殺された。こうして京邑の君子は生きづらくなった。
淮南王允(司馬允)・斉王冏(司馬冏)は司馬倫・孫秀が驕慢で僭越であるから、胸中に不平を抱いた。孫秀らも対抗して深く忌み、司馬冏を許に出鎮させ、司馬允の護軍を奪った。司馬允は発憤し、起兵して司馬倫を討伐した。司馬允が敗れて滅ぶと、司馬倫に九錫を加え、封五万戸を増した。司馬倫は偽って上辺だけ辞退し、詔して百官に府に来させて懇ろに勧進させ、侍中が詔を広く示し、その後に受納した。司馬荂に撫軍将軍・領軍将軍を加え、司馬馥を鎮軍将軍・領護軍将軍、司馬虔を中軍将軍・領右衛将軍、司馬詡を侍中とした。さらに孫秀を侍中・輔國将軍・相国司馬とし、右率は従来通りとした。張林らは要職についた。相府の兵を増やして二万人とし、天子の宿衛と同数とし、さらに兵士を隠匿し、合計で三万を超えた。東宮三門の四隅に華櫓を建て、宮の東西の道を断ち切って外郭とした。あるひとが孫秀に「散騎常侍の楊準・黄門侍郎の劉逵は梁王肜(司馬肜)を奉って司馬倫を誅殺しようとしています」と言った。ちょうど星に異変があったので、司馬肜を丞相に移して、司徒府に居らせ、楊準・劉逵を転出させ外官とした。
司馬倫は無学であり、読み書きができなかった。孫秀もまた狡賢い小才の持ち主で、欲望に忠実であり利益をむさぼった。政権に協力しているのは、みな邪悪なへつらった連中であり、ただ栄利を競うだけで、深謀や遠略はなかった。(司馬倫の子)司馬荂は浅薄で下品であり、司馬馥・司馬虔は愚昧で剛腹であり、司馬詡は無知で軽率であり、しかし彼ら兄弟は(馬鹿同士で)対立し、互いに憎んで妨げあっていた。孫秀の子の孫会は、年は二十、射声校尉となり、恵帝の娘である河東公主を娶った。公主の母の喪がまだ明けぬのに、聘礼を納れた。孫会は背が低くて見窄らしく、奴僕の下位の者は、富家の子供に城西で馬を販売したが、その子供が公主の嫁ぎ先だと聞いて、驚愕せぬ者はなかった。

原文

倫・秀並惑巫鬼、聽妖邪之說。秀使牙門趙奉詐為宣帝神語、命倫早入西宮。又言宣帝於北芒為趙王佐助、於是別立宣帝廟於芒山、謂逆謀可成。以太子詹事裴劭・左軍將軍卞粹等二十人為從事中郎、掾屬又二十人。秀等部分諸軍、分布腹心、使散騎常侍・義陽王威兼侍中、出納詔命、矯作禪讓之詔、使使持節・尚書令滿奮、僕射崔隨為副、奉皇帝璽綬以禪位于倫。倫偽讓不受。於是宗室諸王・羣公卿士咸假稱符瑞天文以勸進、倫乃許之。左衞王輿與前軍司馬雅等率甲士入殿、譬喻三部司馬、示以威賞、皆莫敢違。其夜、使張林等屯守諸門。義陽王威及駱休等逼奪天子璽綬。夜漏未盡、內外百官以乘輿法駕迎倫。惠帝乘雲母車、鹵簿數百人、自華林西門出居金墉城。尚書和郁、兼侍中・散騎常侍琅邪王睿、中書侍郎陸機從、到城下而反。使張衡衞帝、實幽之也。
倫從兵五千人、入自端門、登太極殿、滿奮・崔隨・樂廣進璽綬於倫、乃僭即帝位、大赦、改元建始。是歲、賢良方正直言・秀才・孝廉・良將皆不試。計吏及四方使命之在京邑者、太學生年十六以上及在學二十年、皆署吏。郡縣二千石令長赦日在職者、皆封侯。郡綱紀並為孝廉、縣綱紀為廉吏。以世子荂為太子、馥為侍中・大司農・領護軍・京兆王、虔為侍中・大將軍領軍・廣平王、詡為侍中・撫軍將軍・霸城王、孫秀為侍中・中書監・驃騎將軍・儀同三司、張林等諸黨皆登卿將、並列大封。其餘同謀者咸超階越次、不可勝紀、至於奴卒厮役亦加以爵位。每朝會、貂蟬盈坐、時人為之諺曰、「貂不足、狗尾續。」而以苟且之惠取悅人情、府庫之儲不充於賜、金銀冶鑄不給於印、故有白版之侯、君子恥服其章、百姓亦知其不終矣。
倫親祠太廟、還、遇大風、飄折麾蓋。孫秀既立非常之事、倫敬重焉。秀住文帝為相國時所居內府、事無巨細、必諮而後行。倫之詔令、秀輒改革、有所與奪、自書青紙為詔、或朝行夕改者數四、百官轉易如流矣。時有雉入殿中、自太極東階上殿、驅之、更飛西鍾下、有頃、飛去。又倫於殿上得異鳥、問皆不知名、累日向夕、宮西有素衣小兒言是服劉鳥。倫使錄小兒并鳥閉置牢室、明旦開視、戶如故、並失人鳥所在。倫目上有瘤、時以為妖焉。
時齊王冏・河間王顒・成都王穎並擁強兵、各據一方。秀知冏等必有異圖、乃選親黨及倫故吏為三王參佐及郡守。秀本與張林有隙、雖外相推崇、內實忌之。及林為衞將軍、深怨不得開府、潛與荂牋、具說秀專權、動違眾心、而功臣皆小人、撓亂朝廷、可一時誅之。荂以書白倫、倫以示秀。秀勸倫誅林、倫從之。於是倫請宗室會於華林園、召林・秀及王輿入、因收林、殺之、誅三族。

訓読

倫・秀 並びに巫鬼に惑ひ、妖邪の說を聽く。秀 牙門趙奉をして詐りて宣帝の神語を為らしめ、倫に命じて早く西宮に入る。又 宣帝 北芒に於て趙王の為に佐助すと言ひ、是に於て別に宣帝廟を芒山に立て、逆謀 成る可しと謂ふ。太子詹事裴劭・左軍將軍卞粹等二十人を以て從事中郎と為し、掾屬 又 二十人なり。秀等 諸軍を部分し、腹心を分布し、散騎常侍・義陽王威もて侍中を兼ね、詔命を出納せしめ、矯めて禪讓の詔を作り、使持節・尚書令滿奮、僕射崔隨をして副と為し、皇帝璽綬を奉じて以て位を倫に禪る。倫 偽りて讓りて受けず。是に於て宗室諸王・羣公卿士 咸 符瑞天文を假稱して以て勸進し、倫 乃ち之を許す。左衞王輿 前軍司馬雅等と與に甲士を率ゐて入殿し、三部司馬を譬喻し、威賞を以て示し、皆 敢て違ふもの莫し。其の夜、張林等をして諸門を屯守せしむ。義陽王威及び駱休等 逼りて天子の璽綬を奪ふ。夜漏 未だ盡さず、內外百官 乘輿法駕を以て倫を迎ふ。惠帝 雲母車に乘り、鹵簿は數百人、華林西門自り出でて金墉城に居す。尚書和郁、兼侍中・散騎常侍琅邪王睿、中書侍郎陸機 從ひ、城下に到りて反る。張衡をして帝を衞らしめ、實に之を幽するなり。
倫 兵五千人を從へ、端門自り入り、太極殿に登り、滿奮・崔隨・樂廣 璽綬を倫に進め、乃ち僭して帝位に即き、大赦し、建始と改元す。是の歲、賢良方正 直言・秀才・孝廉・良將 皆 試さず。計吏及び四方使命の京邑に在る者、太學生 年十六以上及び在學二十年、皆 署吏とす。郡縣二千石令長 赦日に職者に在るは、皆 侯に封ず。郡の綱紀 並びに孝廉と為り、縣の綱紀 廉吏と為す。世子荂を以て太子と為し、馥もて侍中・大司農・領護軍・京兆王と為し、虔もて侍中・大將軍領軍・廣平王と為し、詡もて侍中・撫軍將軍・霸城王と為し、孫秀もて侍中・中書監・驃騎將軍・儀同三司と為し、張林等 諸黨 皆 卿將に登り、並びに大封に列す。其餘の謀を同にする者 咸 階を超え次を越し、勝げて紀す可からず、奴卒厮役に至りて亦 爵位を以て加ふ。朝會ごとに、貂蟬 坐に盈ち、時人 之の為に諺して曰く、「貂 足らず、狗尾 續く」と。而るに苟且の惠を以て悅を人情に取り、府庫の儲 賜に充たず、金銀冶鑄 印に給せず、故に白版の侯有り、君子 其の章を服するを恥じ、百姓 亦 其の終らざるを知る。
倫 親ら太廟を祠り、還るに、大風に遇ひ、麾蓋を飄折す。孫秀 既に非常の事を立て、倫 焉を敬重す。秀 文帝 相國為りし時の居する所の內府に住まり、事 巨細と無く、必ず諮りて後に行ふ。倫の詔令、秀 輒ち改革し、與奪する所有り、自ら青紙を書きて詔と為し、或いは朝に行ひ夕に改むる者は數四、百官の轉易 流るるが如し。時に雉の殿中に入る有り、太極の東階自り殿に上り、之を驅け、更に西鍾下に飛び、頃有りて、飛び去る。又 倫 殿上に於て異鳥を得、問ふに皆 名を知らず、日を累ねて夕に向ひ、宮西に素衣の小兒有りて是れ服劉鳥なりと言ふ。倫 小兒并びに鳥を錄して牢室に閉置せしめ、明旦 開き視るに、戶 故の如く、並びに人鳥の所在を失ふ。倫 目上に瘤有り、時に以て妖と為す。
時に齊王冏・河間王顒・成都王穎 並びに強兵を擁し、各々一方に據る。秀 冏等 必ず異圖有るを知り、乃ち親黨及び倫の故吏を選びて三王の參佐及び郡守と為す。秀 本は張林と隙有り、外は相 推崇すると雖も、內は實に之を忌む。林 衞將軍と為るに及び、深く怨みて開府するを得ず、潛かに荂に牋を與へ、具さに秀の專權を說き、眾心を動違し、而して功臣 皆 小人なれば、朝廷を撓亂し、一時に之を誅す可しと。荂 書を以て倫に白し、倫 以て秀に示す。秀 倫に林を誅するを勸め、倫 之に從ふ。是に於て倫 宗室に請ひて華林園に會し、林・秀及び王輿を召して入れ、因りて林を收め、之を殺し、三族を誅す。

現代語訳

司馬倫・孫秀は二人とも巫鬼を盲信し、妖邪の説を参考にした。孫秀が牙門の趙奉に宣帝(司馬懿)の神語を捏造させ、司馬倫を急かして西宮に入らせた。さらに宣帝が北芒で趙王の助けになると言い、新しく宣帝廟を北芒山に建て、逆謀が成就すると言った。太子詹事の裴劭・左軍将軍の卞粋ら二十人を従事中郎とし、掾属もまた二十人とした。孫秀らは諸軍を再編成し、腹心を配属して、散騎常侍・義陽王威(司馬威)に侍中を兼ねさせて、詔命の出し入れを任せ、禅譲の詔を偽造し、使持節・尚書令の満奮、僕射の崔随を副使とし、皇帝の璽綬を奉じて帝位を司馬倫に譲った。司馬倫は本心を偽って辞退し受けなかった。ここにおいて宗室や諸王・群公や卿士は皆が符瑞や天文があったと偽証して勧進し、司馬倫はこれを受諾した。左衛の王輿は前軍の司馬雅らとともに甲士を率いて入殿し、三部司馬に呼びかけ、武威と賞賜を示したので、逆らう者はなかった。その夜、張林らに諸門を護衛させた。義陽王威(司馬威)及び駱休らは(恵帝に)逼って天子の璽綬を奪った。夜が明ける前に、内外の百官は乗輿と法駕を用意して司馬倫を迎えた。恵帝は雲母車に乗り、鹵簿の数百人を従え、華林西門から出て金墉城に移った。尚書の和郁、兼侍中・散騎常侍である琅邪王睿(司馬睿)、中書侍郎の陸機が恵帝に従い、金墉城下に到着してから帰った。張衡に恵帝を守らせたが、その実態は幽閉であった。
司馬倫は兵五千人を従え、端門から入り、太極殿に登り、満奮・崔随・楽広が璽綬を司馬倫に進め、僭上して帝位に即き、大赦し、建始と改元した。この年、賢良方正と直言・秀才・孝廉・良将は全て試験が行われなかった。計吏及び四方から命令を受けて京邑にいる者と、太学生の十六歳以上及び在学二十年以上の者は、全員を署吏とした。郡県の二千石と令長のうちで大赦の日に在職であった者は、全員を侯に封じた。郡の綱紀を孝廉とし、県の綱紀を廉吏とした。世子の司馬荂を太子とし、司馬馥を侍中・大司農・領護軍・京兆王とし、司馬虔を侍中・大将軍領軍・広平王とし、司馬詡を侍中・撫軍将軍・霸城王とし、孫秀を侍中・中書監・驃騎将軍・儀同三司とし、張林らの一味は漏れなく卿や将に登り、大きな封地をもらった。これ以外の協力者も皆が官階や序列を飛び越してたが、書き切れぬほどで、奴卒や厮役にまで爵位を加えた。朝廷ではいつも、貂蟬が座席に満ち、当時の人は、「貂が足らず、狗尾が続く」と噂した。かりそめの恩恵によって歓心を買い、府庫の貯蓄は賜与に追い付かず、金属加工は印綬の支給に追い付かず、侯のなかには白版(木製)の印綬を授かるものがおり、君子はそれを身に着けることを恥じたので、百姓は司馬倫の王朝が短命であると悟った。
司馬倫が自ら太廟を祠り、帰るとき、大風に吹かれ、麾蓋がへし折られた。孫秀は常ならぬことを成し遂げ、司馬倫から敬い尊重されていた。孫秀は文帝(司馬昭)が魏王朝の相国だったときの内府に住み、事案はその大小に拘わらず、必ず孫秀の意見を聞いてから実行された。司馬倫の詔令は、孫秀が変更を加え、追加や削除をして、自ら青紙を書いて詔とし、朝に命じて夕に撤回することは四件にのぼり、百官の人事が流れるように変動した。あるとき雉が殿中に入り、太極殿の東階から殿中に上り、なかを駆け、さらに西鍾のもとに飛び、しばらくして、飛び去った。また司馬倫は殿上で怪異な鳥を見つけたが、誰も名を知らず、日が傾いて、宮殿の西に白服の小児がいて服劉鳥だと言った。司馬倫は小児と鳥とを捕まえて牢室に閉じ込めたが、翌朝に開いてみると、戸が開いた形跡はないが、人も鳥も消えていた。司馬倫は目の上にこぶがあり、これを妖孽(凶兆)と考えた。
このとき斉王冏(司馬冏)・河間王顒(司馬顒)・成都王穎(司馬穎)は強兵を擁し、それぞれ一方面に割拠していた。孫秀は司馬冏らがきっと体制を脅かすと思い、親党及び司馬倫の故吏を選んで三王の参謀や補佐官としたり(三王の領土を抑える)郡の太守としたりした。孫秀は以前から張林と仲が悪く、外では尊重しあっているが、内では忌み嫌っていた。張林が衛将軍となったが、深く怨んで(孫秀が張林に)開府を許さなかったので、ひそかに(張林が世子)司馬荂に書簡を送り、孫秀の専権を説いて、世論を惑乱し、功臣はつまらぬ人物であるから、朝廷を混乱に陥れれば、簡単に(孫秀を)誅殺できますと言った。司馬荂はこの書簡を司馬倫に報告し、司馬倫は孫秀に示した。孫秀は張林の誅殺を勧め、司馬倫は同意した。そこで司馬倫は宗室を華林園に集め、張林・孫秀及び王輿を召し入れ、この場で張林を捕らえて、彼を殺し、三族を誅した。

原文

及三王起兵討倫檄至、倫・秀始大懼、遣其中堅孫輔為上軍將軍、積弩李嚴為折衝將軍、率兵七千自延壽關出、征虜張泓・左軍蔡璜・前軍閭和等率九千人自堮坂關出、鎮軍司馬雅・揚威莫原等率八千人自成臯關出。召東平王楙為使持節・衞將軍、都督諸軍以距義師。使楊珍晝夜詣宣帝別廟祈請、輒言宣帝謝陛下、某日當破賊。拜道士胡沃為太平將軍、以招福祐。秀家日為淫祀、作厭勝之文、使巫祝選擇戰日。又令近親於嵩山著羽衣、詐稱仙人王喬、作神仙書、述倫祚長久以惑眾。秀欲遣馥・虔領兵助諸軍戰、馥・虔不肯。虔素親愛劉輿、秀乃使輿說虔、虔然後率眾八千為三軍繼援。而泓・雅等連戰雖勝、義軍散而輒合、雅等不得前。許超等與成都王穎軍戰于黃橋、殺傷萬餘人。泓徑造陽翟、又於城南破齊王冏輜重、殺數千人、遂據城保邸閣。而冏軍已在潁陰、去陽翟四十里。冏分軍渡潁、攻泓等不利。泓乘勝至于潁上、夜臨潁而陣。冏縱輕兵擊之、諸軍不動、而孫輔・徐建軍夜亂、徑歸洛自首。輔・建之走也、不知諸軍督尚存、乃云、齊王兵盛、不可當、泓等已沒。倫大震、祕之、而召虔及超還。會泓敗冏露布至、倫大喜、乃復遣超、而虔還已至庾倉。超還濟河、將士疑阻、銳氣內挫。泓等悉其諸軍濟潁、進攻冏營、冏出兵擊其別率孫髦・司馬譚・孫輔、皆破之、士卒散歸洛陽、泓等收眾還營。秀等知三方日急、詐傳破冏營、執得冏、以誑惑其眾、令百官皆賀、而士猗・伏胤・孫會皆杖節各不相從。倫復授太子詹事劉琨節、督河北將軍、率步騎千人催諸軍戰。會等與義軍戰于1.激水、大敗、退保河上、劉琨燒斷河橋。
自義兵之起、百官將士咸欲誅倫・秀以謝天下。秀知眾怒難犯、不敢出省。及聞河北軍悉敗、憂懣不知所為。義陽王威勸秀至尚書省與八坐議征戰之備、秀從之。使京城四品以下子弟年十五以上、皆詣司隸、從倫出戰。內外諸軍悉欲劫殺秀、威懼、自崇禮闥走還下舍。許超・士猗・孫會等軍既並還、乃與秀謀、或欲收餘卒出戰、或欲焚燒宮室、誅殺不附己者、挾倫南就孫旂・孟觀等、或欲乘船東走入海、計未決。王輿反之、率營兵七百餘人自南掖門入、敕宮中兵各守衞諸門、三部司馬為應於內。輿自往攻秀、秀閉中書南門。輿放兵登牆燒屋、秀及超・猗遽走出、左衞將軍趙泉斬秀等以徇。收2.孫奇於右衞營、付廷尉誅之。執前將軍謝惔・黃門令駱休・司馬督王潛、皆於殿中斬之。三部司馬兵於宣化闥中斬孫弼以徇。時司馬馥在秀坐、輿使將士囚之于散騎省、以大戟守省閤。八坐皆入殿中、坐東除樹下。王輿屯雲龍門、使倫為詔曰、吾為孫秀等所誤、以怒三王。今已誅秀、其迎太上復位、吾歸老于農畝。傳詔以騶虞幡敕將士解兵。文武官皆奔走、莫敢有居者。黃門將倫自華林東門出、及荂皆還汶陽里第。於是以甲士數千迎天子于金墉、百姓咸稱萬歲。帝自端門入、升殿、御廣室、送倫及荂等付金墉城。
初、秀懼西軍至、復召虔還。是日宿九曲、詔遣使者免虔官、虔懼、棄軍將數十人歸于汶陽里。梁王肜表倫父子凶逆、宜伏誅。百官會議于朝堂、皆如肜表。遣尚書袁敞持節賜倫死、飲以金屑苦酒。倫慚、以巾覆面、曰、「孫秀誤我。孫秀誤我。」於是收荂・馥・虔・詡付廷尉獄、考竟。馥臨死謂虔曰、「坐爾破家也。」百官是倫所用者、皆斥免之、臺省府衞僅有存者。自兵興六十餘日、戰所殺害僅十萬人。凡與倫為逆豫謀大事者、張林為秀所殺。許超・士猗・孫弼・謝惔・殷渾與秀為王輿所誅。張衡・閭和・孫髦・高越自陽翟還、伏胤戰敗還洛陽、皆斬于東市。蔡璜自陽翟降齊王冏、還洛自殺。王輿以功免誅、後與東萊王蕤謀殺冏、又伏法。

1.「激水」は、恵帝紀は「湨水」に作り、『資治通鑑』巻八十四も「湨水」に作る。
2.中華書局本によると、「孫奇」は「孫會」に作るべきである。孫秀の子の名。

訓読

三王 起兵して倫を討つの檄 至るに及び、倫・秀 始めて大いに懼れ、其の中堅孫輔をして上軍將軍と為し、積弩李嚴もて折衝將軍と為し、兵七千を率ゐて延壽關自り出で、征虜張泓・左軍蔡璜・前軍閭和等 九千人を率ゐて堮坂關自り出で、鎮軍司馬雅・揚威莫原等 八千人を率ゐて成臯關自り出づ。東平王楙を召して使持節・衞將軍と為し、諸軍を都督して以て義師を距がしむ。楊珍をして晝夜に宣帝の別廟に詣りて祈請せしめ、輒ち宣帝 陛下に謝し、某日 當に賊を破るべしと言ふ。道士胡沃を拜して太平將軍と為し、以て福祐を招く。秀の家 日に淫祀を為り、厭勝の文を作り、巫祝をして戰日を選擇せしむ。又 近親をして嵩山に於て羽衣を著け、詐りて仙人王喬と稱し、神仙書を作り、倫の祚 長久たると述べしめて以て眾を惑はす。秀 馥・虔を遣はして兵を領して諸軍の戰を助けしめんと欲し、馥・虔 肯ぜず。虔 素より劉輿を親愛し、秀 乃ち輿をして虔を說かしめ、虔 然る後に眾八千を率ゐて三軍の繼援と為る。而るに泓・雅等 連戰して勝つ雖も、義軍 散じて輒ち合し、雅等 前むを得ず。許超等 成都王穎の軍と黃橋に戰ひ、萬餘人を殺傷す。泓 徑ちに陽翟に造り、又 城南に於て齊王冏の輜重を破り、數千人を殺し、遂に城に據り邸閣を保つ。而るに冏の軍 已に潁陰に在り、陽翟を去ること四十里。冏 軍を分けて潁を渡り、泓等を攻めて利あらず。泓 勝に乘じて潁上に至り、夜に潁に臨みて陣す。冏 輕兵を縱にして之を擊ち、諸軍 動かず、而るに孫輔・徐建の軍 夜に亂れ、徑ちに洛に歸り自首す。輔・建の走るや、諸軍の督 尚ほ存するを知らず、乃ち云ふ、「齊王の兵は盛なり、當る可からず、泓等 已に沒す」と。倫 大いに震へ、之を祕して、虔及び超を召して還る。會 泓 冏を敗るの露布 至り、倫 大いに喜び、乃ち復た超を遣はし、而るに虔 還りて已に庾倉に至る。超 還りて河を濟り、將士 阻を疑ひ、銳氣 內に挫く。泓等 悉く其の諸軍をして潁を濟らしめ、進みて冏の營を攻め、冏 兵を出して其の別率孫髦・司馬譚・孫輔を擊ち、皆 之を破り、士卒 散じて洛陽に歸り、泓等 眾を收めて營に還る。秀等 三方 日に急なるを知り、詐りて冏の營を破り、執へて冏を得たりと傳へ、以て其の眾を誑惑し、百官をして皆 賀せしめ、而るに士猗・伏胤・孫會 皆 節を杖つきて各々相 從はず。倫 復た太子詹事劉琨に節を授け、河北の將軍を督し、步騎千人を率ゐて諸軍の戰を催せしむ。會等 義軍と激水に戰ひ、大敗し、退きて河上を保ち、劉琨 河橋を燒斷す。
義兵の起ちて自り、百官將士 咸 倫・秀を誅して以て天下に謝せんと欲す。秀 眾の怒りて犯し難きを知り、敢て省を出ず。河北軍の悉く敗るるを聞くに及び、憂懣して為す所を知らず。義陽王威 秀に尚書省に至り八坐と與に征戰の備を議するを勸め、秀 之に從ふ。京城の四品以下の子弟 年十五以上をして、皆 司隸に詣り、倫に從ひて出戰せしむ。內外諸軍 悉く秀を劫殺せんと欲し、威 懼れ、崇禮闥自り走りて下舍に還る。許超・士猗・孫會等の軍 既に並びに還り、乃ち秀と謀り、或は餘卒を收めて出戰せんと欲し、或は宮室を焚燒せんと欲し、己に附かざるを誅殺して、倫を挾んで南のかた孫旂・孟觀等に就き、或は船に乘て東のかた走りて海に入らんと欲し、計 未だ決せず。王輿 之に反し、營兵七百餘人を率ゐて南掖門自り入り、宮中の兵に敕して各々諸門を守衞し、三部司馬 應を內に為さしむ。輿 自ら往きて秀を攻め、秀 中書の南門を閉づ。輿 兵を放ちて牆を登り屋を燒き、秀及び超・猗 遽やかに走り出で、左衞將軍趙泉 秀等を斬て以て徇ふ。孫奇を右衞營に收め、廷尉に付して之を誅す。前將軍謝惔・黃門令駱休・司馬督王潛を執へ、皆 殿中に之を斬る。三部司馬の兵 宣化闥中に於て孫弼を斬りて以て徇ふ。時に司馬馥 秀の坐に在り、輿 將士をして之を散騎省に囚へしめ、大戟を以て省閤を守る。八坐 皆 殿中に入り、東除樹の下に坐す。王輿 雲龍門に屯し、倫をして詔を為らしめて曰く、「吾 孫秀等の為に誤る所、以て三王を怒らしむ。今 已に秀を誅し、其れ太上を迎へて復位す、吾 農畝に歸老せん」と。詔を傳へて騶虞幡を以て將士に敕して兵を解かしむ。文武の官 皆 奔走し、敢て居に有る者莫し。黃門 倫を將ゐて華林の東門自り出で、及び荂 皆 汶陽里第に還る。是に於て甲士數千を以て天子を金墉に迎へ、百姓 咸 萬歲を稱す。帝 端門自り入り、升殿し、廣室に御し、倫及び荂等を送りて金墉城に付す。
初め、秀 西軍の至るを懼れ、復た虔を召して還す。是の日 九曲に宿し、詔して使者を遣はして虔の官を免じ、虔 懼れ、軍を棄てて數十人を將ゐて汶陽里に歸る。 梁王肜 倫の父子が凶逆にして、宜しく誅に伏すべしと表す。百官 朝堂に會議し、皆 肜の表が如し。尚書袁敞を遣はして持節して倫に死を賜はり、金屑苦酒を以て飲む。倫 慚ぢ、巾を以て面を覆ひ、曰く、「孫秀 我を誤らしむ。孫秀 我を誤らしむ」と。是に於て荂・馥・虔・詡を收めて廷尉の獄に付し、考竟す。馥 死に臨みて虔に謂ひて曰く、「爾に坐して家を破るなり」と。百官 是れ倫の用ゐる所の者、皆 斥けて之を免じ、臺省府衞 僅かに存する者有り。兵 興して自り六十餘日、戰ひて殺害する所 僅(わづ)かに十萬人なり。 凡そ倫と與に逆を為して大事に豫謀する者、張林は秀の殺す所と為る。許超・士猗・孫弼・謝惔・殷渾は秀と與に王輿の誅する所と為る。張衡・閭和・孫髦・高越は陽翟自り還り、伏胤は戰ひ敗れて洛陽に還り、皆 東市に斬らる。蔡璜は陽翟自り齊王冏に降り、洛に還りて自殺す。王輿は功を以て誅を免かれ、後に東萊王蕤と與に冏を殺さんと謀り、又 法に伏す。

現代語訳

三王が起兵して司馬倫討伐の檄が回付されると、司馬倫・孫秀は大いに懼れ始め、その中堅の孫輔を上軍将軍とし、積弩の李厳を折衝将軍とし、兵七千を率いて延寿関から出撃させ、征虜の張泓・左軍の蔡璜・前軍の閭和らには九千人を率いて堮坂関から出撃させ、鎮軍の司馬雅・揚威の莫原らには八千人を率いて成臯関から出撃させた。東平王楙(司馬楙)を召して使持節・衛将軍とし、諸軍を都督して義師(三王の軍)を防がせた。楊珍に昼夜に宣帝の別廟に行って祈祷をさせ、宣帝が陛下(司馬倫)に感謝し、某日に賊軍を破ることができると(いう神託があったと)言った。道士の胡沃を太平将軍とし、祝福と援助を得ようとした。孫秀の家には日ごとに淫祀の祠を作り、勝利の祈願文を作り、巫祝に戦いの日を占わせた。また身近な者に嵩山で羽衣を着けさせ、仙人の王喬に扮して、神仙の書を作り、司馬倫の命運は永遠だと述べさせて人々を惑わした。孫秀は(倫の子である)司馬馥・司馬虔を遣わして兵を領して諸軍を援護させようとしたが、馥・虔は断った。司馬虔はもとより劉輿を親愛するので、孫秀は劉輿に司馬虔を説得させ、こうして司馬虔は兵八千を率いて三軍の後詰めとなった。他方で張泓・司馬雅らは連戦して勝ったが、義軍は蹴散らしてもすぐに集まるので、司馬雅らは進めなかった。許超らは成都王穎の軍と黄橋で戦い、万余人を殺傷した。張泓はまっすぐ陽翟に至り、さらに城南で斉王冏の輜重を破壊し、数千人を殺し、ついに城に拠って邸閣を確保した。ところが司馬冏の軍はすでに潁陰におり、陽翟から四十里にまで迫っていた。司馬冏は軍を分けて潁水を渡り、張泓らを攻めたが勝てなかった。張泓は勝ちに乗じて潁上に至り、夜に潁水に臨んで布陣した。司馬冏は軽兵を自在に操ってこれを攻撃し、(張泓の)諸軍は動かなかったが、孫輔・徐建の軍が夜に乱れ、さっさと洛陽に帰って敗北を報告した。孫輔・徐建が逃げると、諸軍の督が健在であることを知らず、人々は、「斉王の兵は盛んだ、対抗できない、張泓らはもう敗退した」と言った。司馬倫は大いに震え、これを秘密にし、司馬虔及び許超を召して連れ戻した。ちょうど張泓が司馬冏を破ったという露布が到着すると、司馬倫は大いに喜び、再び許超を遣わしたが、司馬虔は前線を引いて庾倉にいた。許超は(戦線に)復帰して黄河を渡ったが、将士は進軍を困難だと思い、鋭気が内側から挫けた。張泓らは配下の全軍に潁水を渡らせ、進んで司馬冏の軍営を攻めると、司馬冏が兵を出してその別率である孫髦・司馬譚・孫輔を攻撃し、これらを打ち破ったので、士卒が散じて洛陽に帰り、張泓らは敗兵を収容して自陣に還った。孫秀らは三方が日ごとに切迫するので、偽報を流して司馬冏の軍営を破り、司馬冏を捕縛したと言い触らし、配下の軍勢を誑かして惑わし、百官に祝賀させたが、士猗・伏胤・孫会らは(在外の指揮権に基づいて)君命を受けなかった。司馬倫はさらに太子詹事の劉琨に節を授け、河北の将軍を督し、歩騎千人を率いて諸軍に戦いを促した。孫会らは義軍と激水(正しくは湨水)で戦い、大敗し、退いて河上を保ち、劉琨が(退路を断つため)河橋を焼き落とした。
(三王の)義兵が決起すると、百官将士は皆が司馬倫・孫秀を誅して天下に謝りたいと考えた。孫秀は衆論が怒り狂って逆らえないので、役所に引き籠もった。河北の軍が全敗したと聞き、憂慮をして憤懣して万策が尽きた。義陽王威(司馬威)が孫秀に尚書省に行って八坐とともに征戦の備えを議論しなさいと勧め、孫秀はこれに従った。京城の四品以下の子弟のうち年十五以上を総動員し、司隷に集めて、司馬倫に従って出撃をさせようとした。(動員命令が反発を買い)内外の諸軍はことごとく孫秀を捕らえて殺そうとし、司馬威は懼れ、崇礼闥から走って下舍に還った。許超・士猗・孫会らの軍は帰還し、孫秀と謀り、残軍をまとめて出撃しようとしたり、宮室を焼き払おうとしたり、自分たちに服従しない者を誅殺し、司馬倫を連れて南のかた孫旂・孟観らに合流するか、あるいは船で東海に行こうとしたりで、意見はまとまらなかった。王輿が(司馬倫を)裏切って、営兵七百余人を率いて南掖門から入り、宮中の兵に命じて各門を守備で固め、三部司馬に内応させた。王輿が自ら孫秀の攻撃に向かうと、孫秀は中書の南門を閉じた。王輿は兵をはなって壁を登らせ建物を焼いたので、孫秀及び許超・士猗は急いで逃げ出し、左衛将軍の趙泉が孫秀らを斬って知らせた。孫奇(孫会)を右衛営で捕らえ、廷尉に引き渡して誅した。前将軍の謝惔・黄門令の駱休・司馬督の王潜を捕らえ、いずれも殿中で斬った。三部司馬の兵が宣化闥中で孫弼を斬って知らせた。ときに司馬馥(倫の子)は孫秀の座席におり、王輿が将士に彼を散騎省で捕らえさせ、大戟を持った兵が役所の門を守った。八坐は皆が殿中に入り、東除樹のもとに座った。王輿は雲龍門に陣取り、司馬倫に詔を作らせて、「私は孫秀らのせいで誤って、三王を怒らせた。今すでに孫秀を誅した、太上(恵帝)を迎えて復位させる、私は農畝で老後を過ごそう」と言った。詔を伝えて騶虞幡で将士に停戦を命じた。文武の官は皆が逃走し、あえて持ち場に残る者はなかった。黄門が司馬倫を連れて華林の東門から出て、司馬荂らは汶陽里の邸宅に帰した。ここにおいて甲士数千で天子を金墉城に迎え、百姓はみな万歳を称した。恵帝は端門から入り、昇殿し、広室に御し、司馬倫及び司馬荂らを送って金墉城に移した。
これより先、孫秀は西軍の到来を懼れ、司馬虔を召して(前線から)還らせた。この日(司馬虔は)九曲に宿していたが、詔により使者がきて司馬虔の官職を免じると、司馬虔は懼れ、軍を棄てて数十人を率いて汶陽里に帰った。梁王肜(司馬肜)は司馬倫の父子が凶逆なので、誅に伏すべきだと上表した。百官が朝堂で会議し、全員が司馬肜に同意した。尚書の袁敞が持節して司馬倫に死を賜わり、金屑の苦酒を飲ませた。司馬倫は恥じて、頭巾で顔を覆い、「孫秀が私を誤らせた。孫秀が私を誤らせた」と言った。ここにおいて(倫の息子たち)荂・馥・虔・詡を捕らえて廷尉の獄に引き渡し、取り調べをした。司馬馥が死に臨んで司馬虔に、「あなた(兄)のせいで家が滅びた」と言った。百官のうち司馬倫に登用された者は、全員を斥けて罷免したので、台省や府衛はほとんど人が居なくなった。軍事行動が始まって六十余日で、戦いで殺害されたのは僅かに十万人であった。司馬倫に協力して大逆に参画した者は(末路を列挙すると)、張林は孫秀に殺された。許超・士猗・孫弼・謝惔・殷渾は孫秀とともに王輿に誅された。張衡・閭和・孫髦・高越は陽翟から還り、伏胤は戦い敗れて洛陽に還り、みな東市で斬られた。蔡璜は陽翟から斉王冏に降り、洛陽に還って自殺した。王輿は功績により誅殺を免れ、後に東萊王蕤(司馬蕤)とともに司馬冏を殺そうとし、やはり法に伏した。

齊王冏 鄭方

原文

齊武閔王冏字景治、獻王攸之子也。少稱仁惠、好振施、有父風。初、攸有疾、武帝不信、遣太醫診候、皆言無病。及攸薨、帝往臨喪、冏號踊訴父病為醫所誣、詔即誅醫。由是見稱、遂得為嗣。元康中、拜散騎常侍、領左軍將軍・翊軍校尉。趙王倫密與相結、廢賈后、以功轉游擊將軍。冏以位不滿意、有恨色。孫秀微覺之、且憚其在內、出為平東將軍・假節、鎮許昌。倫篡、遷鎮東大將軍・開府儀同三司、欲以寵安之。
冏因眾心怨望、潛與離狐王盛・潁川王處穆謀起兵誅倫。倫遣腹心張烏覘之、烏反、曰、齊無異志。冏既有成謀未發、恐事泄、乃與軍司管襲殺處穆、送首於倫、以安其意。謀定、乃收襲殺之。遂與豫州刺史何勖・龍驤將軍董艾等起軍、遣使告成都・河間・常山・新野四王、移檄天下征鎮・州郡縣國、咸使聞知。揚州刺史郗隆承檄、猶豫未決、參軍王邃斬之、送首于冏。冏屯軍陽翟、倫遣其將閭和・張泓・孫輔出堮坂、與冏交戰。冏軍失利、堅壘自守。會成都軍破倫眾於黃橋、冏乃出軍攻和等、大破之。及王輿廢倫、惠帝反正、冏誅討賊黨既畢、率眾入洛、頓軍通章署、甲士數十萬、旌旗器械之盛、震於京都。天子就拜大司馬、加九錫之命、備物典策、如宣・景・文・武輔魏故事。

訓読

齊武閔王冏 字は景治、獻王攸の子なり。少くして仁惠を稱せられ、振施を好み、父風有り。初め、攸 疾有り、武帝 信ぜず、太醫をして診候せしめ、皆 病無しと言ふ。攸 薨ずるに及び、帝 往きて喪に臨み、冏 號踊して父の病 醫の誣する所と為るを訴へ、詔して即ち醫を誅す。是に由り稱せられ、遂に嗣と為るを得。元康中、散騎常侍を拜し、左軍將軍・翊軍校尉を領す。趙王倫 密かに相 結び、賈后を廢し、功を以て游擊將軍に轉ず。冏 位の意に滿たざるを以て、恨色有り。孫秀 微して之を覺し、且つ其の內に在るを憚り、出して平東將軍・假節と為し、許昌に鎮す。倫 篡し、鎮東大將軍・開府儀同三司に遷り、寵を以て之を安ぜんと欲す。
冏 眾心 怨望するに因りて、潛かに離狐の王盛・潁川の王處穆と與に兵を起し倫を誅するを謀る。倫 腹心の張烏を遣はして之を覘ひ、烏 反し、曰く、「齊 異志無し」と。冏 既に謀を成す有りて未だ發せず、事 泄るるを恐れ、乃ち軍司の管襲と與に處穆を殺し、首を倫に送り、以て其の意を安んず。謀 定まり、乃ち襲を收めて之を殺す。遂に豫州刺史何勖・龍驤將軍董艾等と與に軍を起こし、使を遣して成都・河間・常山・新野四王に告げしめ、檄を天下の征鎮・州郡縣國に移し、咸 聞知せしむ。揚州刺史郗隆 檄を承け、猶豫して未だ決せず、參軍王邃 之を斬り、首を冏に送る。冏 軍を陽翟に屯し、倫 其將の閭和・張泓・孫輔を遣はして堮坂を出で、冏と交戰す。冏の軍 利を失ひ、壘を堅め自守す。會 成都軍 倫の眾を黃橋に破り、冏 乃ち軍を出して和等を攻め、大いに之を破る。王輿 倫を廢するに及び、惠帝 正に反り、冏 賊黨を誅討して既に畢はり、眾を率ゐて洛に入り、軍を通章署に頓し、甲士數十萬、旌旗器械の盛、京都を震はす。天子 就ち大司馬を拜し、九錫の命を加へ、備物典策、宣・景・文・武輔魏の故事が如くす。

現代語訳

斉武閔王冏(司馬冏)は字を景治といい、献王攸(司馬攸)の子である。若くして仁恵によって称賛され、振給や施しを好み、父に似ていた。これより先、司馬攸が病気になったが、武帝は信じず、太医に診察させたが、皆が病気ではないと言った。司馬攸が薨ずると、武帝は行って遺体に臨んだが、司馬冏は号泣して足踏みし父の病は医者に陥れられたものだと訴え、詔して医者を誅した。これにより評価され、父の継嗣になることができた。元康中(二九一-二九九)、散騎常侍を拝し、左軍将軍・翊軍校尉を領した。趙王倫(司馬倫)と密かに通好し、賈后を廃し、功績により遊撃将軍に転じた。司馬冏は位の低さが不満で、恨んでいる様子があった。孫秀が微してこれを悟り、また彼が朝廷内にいることを憚り、転出させて平東将軍・仮節とし、許昌を鎮守させた。司馬倫が簒奪すると、鎮東大将軍・開府儀同三司に遷り、高い位を与えて落ち着かせようとした。
司馬冏は衆論が(司馬倫を)怨んでいるから、離狐の王盛・潁川の王処穆とともに兵を起こし司馬倫を誅殺しようと密謀した。司馬倫は腹心の張烏に偵察をさせたが、張烏が(司馬倫を)裏切って、「斉王に異志はありません」と嘘の報告した。司馬冏は実行に移すにあたり、計画の漏洩を恐れ、軍司の管襲とともに王処穆を殺し、彼の首を司馬倫に送り、安心させた。謀略が完成すると、管襲を捕らえて殺した。ついに豫州刺史の何勖・龍驤将軍の董艾らとともに軍を起こし、使者を送って成都・河間・常山・新野の四王に告げ、檄を天下の征鎮・州郡や県国に回付し、皆に呼びかけた。揚州刺史の郗隆は檄を受けたが、迷って決断できず、(部下の)参軍の王邃が郗隆を斬り、首を司馬冏に届けた。司馬冏が軍を陽翟に駐屯させ、司馬倫は将の閭和・張泓・孫輔を遣わして堮坂から出撃し、交戦した。司馬冏は敗北し、防塁を堅めて守った。このとき成都軍が司馬倫軍を黄橋で破ったので、司馬冏は出陣して閭和らを攻め、大いに破った。王輿が司馬倫を廃し、恵帝が正位を回復すると、司馬冏は賊の残党を掃討してから、軍勢を率いて洛陽に入り、通章署に駐屯し、甲士は数十万、旌旗や器械は盛んで、京都を震わせた。天子は司馬冏に大司馬を拝し、九錫の命を加え、備物や典策は、宣・景・文・武輔魏の故事の通りとした。

原文

冏於是輔政、居攸故宮、置掾屬四十人。大築第館、北取五穀市、南開諸署、毀壞廬舍以百數、使大匠營制、與西宮等。鑿千秋門牆以通西閣、後房施鍾懸、前庭舞八佾、沈于酒色、不入朝見。坐拜百官、符敕三臺、選舉不均、惟寵親昵。以車騎將軍何勖領中領軍。封葛旟為牟平公、1.路秀小黃公2.衞毅陰平公、劉真安鄉公、韓泰封丘公、號曰五公、委以心膂。殿中御史桓豹奏事、不先經冏府、即考竟之。於是朝廷側目、海內失望矣。南陽處士鄭方露版極諫、主簿王豹屢有箴規、冏並不能用、遂奏豹殺之。有白頭公入大司馬府大呼、言有兵起、不出甲子旬。即收殺之。
冏驕恣日甚、終無悛志。前賊曹屬孫惠復上諫曰、惠聞天下五難、四不可、而明公皆以居之矣。捐宗廟之主、忽千乘之重、躬貫甲冑、犯冒鋒刃、此一難也。奮三百之卒、決全勝之策、集四方之眾、致英豪之士、此二難也。舍殿堂之尊、居單幕之陋、安囂塵之慘、同將士之勞、此三難也。驅烏合之眾、當凶強之敵、任神武之略、無疑阻之懼、此四難也。檄六合之內、著盟信之誓、升幽宮之帝、復皇祚之業、此五難也。大名不可久荷、大功不可久任、大權不可久執、大威不可久居。未有行其五難而不以為難、遺其不可而謂之為可。惠竊所不安也。自永熙以來、3.十有一載、人不見德、惟戮是聞。公族構篡奪之禍、骨肉遭梟夷之刑、羣王被囚檻之困、妃主有離絕之哀。歷觀前代、國家之禍、至親之亂、未有今日之甚者也。良史書過、後嗣何觀。天下所以不去於晉、符命長存於世者、主無嚴虐之暴、朝無酷烈之政、武帝餘恩、獻王遺愛、聖慈惠和、4.尚經人心、四海所係、實在於茲。
今明公建不世之義、而未為不世之讓、天下惑之、思求所悟。長沙・成都、魯衞之密、國之親親、與明公計功受賞、尚不自先。今公宜放桓文之勳、邁臧札之風、芻狗萬物、不仁其化、崇親推近、功遂身退、委萬機於二王、命方嶽於羣后、燿義讓之旗、鳴思歸之鑾、宅大齊之墟、振泱泱之風、垂拱青徐之域、高枕營丘之藩。金石不足以銘高、八音不足以贊美、姬文不得專聖於前、太伯不得獨賢於後。今明公忘亢極之悔、忽窮高之凶、棄五嶽之安、居累卵之危、外以權勢受疑、內以百揆損神。雖處高臺之上、逍遙重仞之墉、及其危亡之憂、過於潁翟之慮。羣下竦戰、莫之敢言。惠以衰亡之餘、遭陽九之運、甘矢石之禍、赴大王之義、脫褐冠冑、從戎于許。契闊戰陣、功無可記、當隨風塵、待罪初服。屈原放斥、心存南郢。樂毅適趙、志戀北燕。況惠受恩、偏蒙識養、雖復暫違、情隆二臣、是以披露血誠、冒昧干迕。言入身戮、義讓功舉、退就鈇鑕、此惠之死賢於生也。 冏不納、亦不加罪。

1.「路秀」は、恵帝紀は「路季」に作り、『資治通鑑』巻八十四は「路秀」に作る。
2.「陰平」は、恵帝紀は「平陰」に作り、平陰県が河南郡に属するため、恵帝紀が正しい。
3.「十有一載」とあるが、正しくは十三年である。
4.「尚經人心」とあるが、『冊府元亀』巻七百二十三は「尚結人心」に作る。

訓読

冏 是に於て輔政し、攸の故宮に居し、掾屬四十人を置く。大いに第館を築き、北に五穀市を取り、南に諸署を開き、廬舍を毀壞するは百を以て數へ、大匠をして營制せしめ、西宮等を與ふ。千秋門の牆を鑿ちて以て西閣に通じ、後房に鍾懸を施し、前庭に八佾を舞はしめ、酒色に沈み、入朝して見えず。坐して百官を拜し、三臺に符敕し、選舉 均からず、惟だ親昵を寵す。車騎將軍何勖を以て中領軍を領せしむ。葛旟を封じて牟平公と為し、路秀もて小黃公、衞毅もて陰平公、劉真もて安鄉公、韓泰もて封丘公とし、號して五公と曰ひ、心膂を以て委ぬ。殿中御史の桓豹 奏事し、先に冏の府を經ず、即ち之を考竟す。是に於て朝廷 目を側し、海內 失望す。南陽處士の鄭方 露版もて極諫し、主簿の王豹 屢々箴規有り、冏 並びに能く用ひず、遂に豹を奏して之を殺す。白頭公の大司馬府に入りて大呼する有り、「兵の起る有り、甲子の旬を出ず」と言ふ。即ち收めて之を殺す。
冏の驕恣 日に甚しく、終に悛志無し。前賊曹屬孫惠 復た上諫して曰く、「惠 天下の五難、四不可を聞くに、明公 皆 以て之に居る。宗廟の主を捐て、千乘の重を忽せにし、躬ら甲冑を貫き、鋒刃を犯冒す、此れ一難なり。三百の卒を奮ひ、全勝の策を決し、四方の眾を集め、英豪の士を致す、此れ二難なり。殿堂の尊に舍し、單幕の陋に居り、囂塵の慘を安んじ、將士の勞を同にす、此れ三難なり。烏合の眾を驅り、凶強の敵に當たり、神武の略を任じ、疑阻の懼無し、此れ四難なり。六合の內に檄し、盟信の誓を著はし、幽宮の帝に升り、皇祚の業を復す、此れ五難なり。大名 久しく荷ふ可からず、大功 久しく任ず可からず、大權 久しく執る可からず、大威 久しく居る可からず。未だ其の五難を行ふに有りて以て難と為さず、其の不可を遺して之を可為りと謂ふ。惠 竊かに安ぜざる所なり。永熙自り以來、十有一載、人 德を見ず、惟だ戮 是れ聞く。公族 篡奪の禍を構へ、骨肉 梟夷の刑に遭ひ、羣王 囚檻の困を被り、妃主 離絕の哀有り。前代を歷觀するに、國家の禍、至親の亂、未だ今日の甚しき者有らず。良史 過を書き、後嗣 何ぞ觀ん。天下 晉を去らず、符命 長く世に存する所以は、主に嚴虐の暴無く、朝に酷烈の政無く、武帝の餘恩、獻王の遺愛、聖慈惠和、尚ほ人心を經(むす)び、四海の係る所、實に茲に在り。
今 明公 不世の義を建て、而るに未だ不世の讓を為さず、天下 之に惑ひ、悟る所を思求す。長沙・成都、魯衞の密〔一〕、國の親親にして、明公と與に功を計へ賞を受け、尚 自ら先んぜず。今 公 宜しく桓文の勳に放(なら)ひ、臧札が風に邁(おこな)ひ〔二〕、萬物を芻狗とし、其の化を仁とせず、親を崇び近を推し、功 遂げて身 退け、萬機を二王に委ね、方嶽を羣后に命じ、義讓の旗を燿かせ、思歸の鑾を鳴し、大齊の墟に宅し、泱泱の風を振ひ、拱を青徐の域に垂れ、枕を營丘の藩に高くせよ。金石 以て高を銘するに足らず、八音 以て美を贊ずるに足らず、姬文 專ら前に聖たるを得ず、太伯 獨り後に賢たるを得ず。今 明公 亢極の悔を忘れ、窮高の凶を忽せにし、五嶽の安を棄て、累卵の危に居り、外は權勢を以て疑を受け、內は百揆を以て神を損ず。高臺の上に處り、重仞の墉に逍遙すと雖も、其の危亡の憂に及び、潁翟の慮に過ぐ。羣下 竦戰し、之を敢て言ふ莫し。惠 衰亡の餘を以て、陽九の運に遭ひ、矢石の禍に甘んじ、大王の義に赴き、褐を脫ぎ冑を冠り、許に于いて戎に從ふ。戰陣に契闊して、功 記す可き無く、當に風塵に隨ひて、罪を初服に待つべし。屈原 放斥し、心は南郢に存す。樂毅 趙に適き、志は北燕を戀ふ。況んや惠 恩を受け、偏く識養に蒙く、復た暫違なると雖も、情は二臣に隆く、是を以て血誠を披露し、冒昧して干迕す。言 入りて身 戮し、義 讓りて功 舉げ、退きて鈇鑕に就く、此れ惠の死して生くるに賢きなり」と。冏 納れず、亦 罪を加へず。

〔一〕『論語』子路に「子曰、魯衛之政、兄弟也」とある。
〔二〕「臧」は、Archer @Archer12521163 さんによると、曹の子臧。「季」は呉の季札。曹の宣公が亡くなると、子臧が曹の主に推戴されたが、辞退して宋に移った(『春秋左氏伝』成公 傳十五年)。季札はこの前例に言及し、呉の主になることを辞退した(『春秋左氏伝』襄公 傳十四年)

現代語訳

こうして司馬冏は輔政し、司馬攸の故宮に居し、掾属四十人を置いた。大規模に屋敷を建築し、北に五穀の市を取り、南に諸署を開き、(土地確保のため)破壊した廬舍は百を数え、大匠を編成して、西宮などを与えた。千秋門の壁を破って西閣への通路を設け、後房に鍾を懸け、前庭に八佾を舞わせ、酒色に沈み、入朝して天子に謁見しなくなった。居館にいて百官に会い、三台に命令し、人事は不公平で、親しい者だけを昇進させた。車騎将軍の何勖に中領軍を領させた。葛旟を封じて牟平公とし、路秀を小黄公、衛毅を陰平公(平陰公)、劉真を安郷公、韓泰を封丘公とし、五公と呼び、信頼できる仲間に政治を任せた。殿中御史の桓豹が上奏するとき、先に司馬冏の役所を通さなかったので、彼を訊問した。ここにおいて朝廷は目を側だて、海内は失望した。南陽処士の鄭方が露版で極諫し、主簿の王豹もしばしば真心から諫めたが、司馬冏は聞き入れられず、王豹を殺した。白頭公(椋鳥)が大司馬府に入りて、「兵乱が起こる、甲子の旬より手前に」と鳴いた。捕まえて殺した。
司馬冏の驕慢は日ごとにひどくなり、改める意思がなかった。前賊曹属の孫恵が再び上諫して、「私は天下には五難(五つの難しい立場)、四不可(四つのしてはならぬこと)があると聞きますが、明公は全て該当します。宗廟の主(君主)を捨て、諸侯を軽んじ、自ら武装し、戦闘に赴く、これが一難です。三百の兵を奮わせ、必勝の作戦を行い、四方の兵を集め、英雄豪傑を招く、これが二難です。朝廷の最高位を、単独で務め、乱世を安んじ、将士と苦労を共にする、これが三難です。烏合の衆を使い、凶悪な敵に当たり、神の軍略を用い、敗退の心配がない、これが四難です。天下に檄を飛ばし、盟約が明らかで、幽閉された皇帝を助け、王朝を回復する、これが五難です。大きな名誉は長く担いではならず、大きな功績は長く任じてはならず、大きな権力は長く握ってはならず、大きな権威に久しく居座ってはいけません。まだ五難の難しさを理解せず、しかし(四つの)してはならぬことを実行して危険さを自覚していません。私はひそかに心配しています。永熙の年(二九一)から、十一年(正しくは十三年)、人は徳行を見ず、殺戮ばかり聞いてきました。公族は位を簒奪し、骨肉は刑罰にあい、諸王は監獄に入り、后妃は離別の哀しみがあります。歴史を参照しても、国家の禍い、親族の乱れは、今日ほど悪い前例がありません。史家が過失を記録し、子孫たちは何を見るのでしょう。天下が晋王朝から去らず、天命がこの世に残存するには、君主が残虐でなく、朝廷に苛政がないことが必要ですが(当代は要件を満たさず)、武帝の余恩、献王(司馬孚)の遺愛、聖明と仁和が、人々の心を結び、天下を繋ぎ止めているだけです。
いま明公は不世出の義を立て(司馬倫を除いて恵帝を復位させ)ましたが、不世出の謙譲をせず、天下はこれに惑い、あなたが悟ることを期待しています。長沙王・成都王は、(兄弟として)魯衛の密謀を行い、国家の近親者として、明公とともに功績があり褒賞を受けましたが、頂点に立っていません。いまあなたは桓公や文公のような勲功を手本とし、子臧や季札のように地位を惜しまず、万物を無用とすべきですが、これを美徳とせず、身近な人を優遇しているので、政治を二王に委任し、地方を諸侯に預け、謙譲の旗を輝かせ、返上の鈴を鳴らし、(藩国に帰って)大斉の地に住み、東海の風を浴び、青州や徐州で手をこまねき、營丘で枕を高く暮らしなさい。そうすれば金石の文もこの高邁さを書き切れず、優れた音楽もその美徳を讃え切れず、周文王ですら前代で唯一の聖人でなくなり、太伯ですら後代の唯一の賢者でなくなります。いま明公は高位にある憂いを忘れ、孤高の不吉さを顧みず、五嶽の安全さを棄て、累卵の危うきに居り、外は権勢のせいで疑いを受け、内は百官の心を損ねています。高い台におり、城壁に囲まれていますが、潁翟のとき(司馬倫との戦闘)よりも危険です。群下は戦慄し、敢えて口にしません。私は衰亡の末、天の禍いに遭ひ、戦闘をくぐり、大王の義に赴き、鎧に着がえ、許で軍に参加しました。戦場で努力しても、めぼしい功績はなく、風塵をこうむり、罪を最初に受けます。屈原は放浪しても、心は(故郷)南郢にありました。楽毅は趙に赴任しても、志は(祖国)北燕を恋いました。まして私は(晋王朝の)恩を受け、知識と教養はなく、発言は的はずれでも、心は二臣より高く、血の誠意を披露し、敢えて諫言をします。命がけの進言し、正しさを実現すれば、腰斬に処されても、私は構いません」と言った。司馬冏は聞き入れず、しかし罪を加えなかった。

原文

翊軍校尉李含奔于長安、詐云受密詔、使河間王顒誅冏、因導以利謀。顒從之、上表曰、王室多故、禍難罔已。大司馬冏雖唱義有興復皇位之功、而定都邑、克寧社稷、實成都王之勳力也。而冏不能固守臣節、實協異望。在許昌營有東西掖門、官置治書侍御史、長史・司馬直立左右、如侍臣之儀。京城大清、篡逆誅夷、而率百萬之眾來繞洛城。阻兵經年、不一朝覲、百官拜伏、晏然南面。壞樂官市署、用自增廣。輒取武庫秘杖、嚴列不解。故東萊王蕤知其逆節、表陳事狀、而見誣陷、加罪黜徙。以樹私黨、僭立官屬。幸妻嬖妾、名號比之中宮。沈湎酒色、不恤羣黎。董艾放縱、無所畏忌、中丞按奏、而取退免。張偉愡恫、擁停詔可。葛旟小豎、維持國命。操弄王爵、貨賂公行。羣姦聚黨、擅斷殺生。密署腹心、實為貨謀。斥罪忠良、伺闚神器。 臣受重任、蕃衞方嶽、見冏所行、實懷激憤。即日翊軍校尉李含乘驛密至、宣騰詔旨。臣伏讀感切、五情若灼。春秋之義、君親無將。冏擁強兵、樹置私黨、權官要職、莫非腹心。雖復重責之誅、恐不義服。今輒勒兵、精卒十萬、與州征並協忠義、共會洛陽。驃騎將軍長沙王乂、同奮忠誠、廢冏還第。有不順命、軍法從事。成都王穎明德茂親、功高勳重、往歲去就、允合眾望、宜為宰輔、代冏阿衡之任。
顒表既至、冏大懼、會百僚曰、昔孫秀作逆、篡逼帝王、社稷傾覆、莫能禦難。孤糾合義眾、掃除元惡、臣子之節、信著神明。二王今日聽信讒言、造構大難。當賴忠謀以和不協耳。司徒王戎・司空東海王越說冏委權崇讓。冏從事中郎葛旟怒曰、趙庶人聽任孫秀、移天易日、當時喋喋、莫敢先唱。公蒙犯矢石、躬貫甲冑、攻圍陷陣、得濟今日。計功行封、事殷未徧。三臺納言不恤王事、賞報稽緩、責不在府。讒言僭逆、當共誅討、虛承偽書、令公就第。漢魏以來、王侯就第寧有得保妻子者乎。議者可斬。」於是百官震悚、無不失色。
長沙王乂徑入宮、發兵攻冏府。冏遣董艾陳兵宮西。乂又遣宋洪等放火燒諸觀閣及千秋・神武門。冏令黃門令王湖悉盜騶虞幡、唱云、長沙王矯詔。乂又稱、大司馬謀反、助者誅五族。是夕、城內大戰、飛矢雨集、火光屬天。帝幸上東門、矢集御前。羣臣救火、死者相枕。明日、冏敗、乂擒冏至殿前、帝惻然、欲活之。乂叱左右促牽出、冏猶再顧、遂斬於閶闔門外、徇首六軍。諸黨屬皆夷三族。幽其子淮陵王超・樂安王冰・濟陽王英于金墉。暴冏尸於西明亭、三日而莫敢收斂。冏故掾屬荀闓等表乞殯葬、許之。

訓読

翊軍校尉李含 長安に奔り、詐りて密詔を受くと云ひ、河間王顒をして冏を誅せしめ、因りて導くに利謀を以てす。顒 之に從ひ、上表して曰く、「王室 多故なり、禍難 已に罔し。大司馬冏 義を唱へて皇位を興復するの功有ると雖も、而るに都邑を定め、克く社稷を寧んずるは、實に成都王の勳力なり。而るに冏 能く臣節を固守せず、實に異望を協(かな)ふ。許昌營に在りて東西掖門有り、官 治書侍御史、長史・司馬を置き、左右に直立し、侍臣の儀が如し。京城 大清し、篡逆 誅夷し、而るに百萬の眾を率ゐ來りて洛城を繞む。兵に阻(よ)りて經年、一も朝覲せず、百官 拜伏し、晏然として南面す。樂官市署を壞し、用て自ら增廣す。輒ち武庫の秘杖を取り、嚴列 解かず。故に東萊王蕤 其の逆節を知り、表して事狀を陳べ、而るに誣陷せられ、罪を加へて黜徙す。私黨を樹つるを以て、官屬を僭立す。幸妻嬖妾、名號は之を中宮に比す。酒色に沈湎し、羣黎を恤まず。董艾 放縱にして、畏忌する所無く、中丞 奏を按じて、退免を取る。張偉 愡恫たれば、詔可を擁停す。葛旟 小豎たり、國命を維持す。王爵を操弄し、貨賂 公行す。羣姦 黨を聚め、擅に殺生を斷ず。密かに腹心に署し、實に貨謀を為す。罪もて忠良を斥け、神器を伺闚す。 臣 重任を受け、方嶽を蕃衞し、冏の所行を見るに、實に激憤を懷く。即日 翊軍校尉李含 驛に乘りて密かに至り、詔旨を宣騰す。臣 伏して讀みて感切し、五情 灼くるが若し。春秋の義、君親 將無し〔一〕。冏 強兵を擁し、私黨を樹置し、權官の要職、腹心に非ざる莫し。復た重責の誅と雖も、不義もて服するを恐る。今 輒ち兵を勒し、精卒十萬、州征と與に忠義を並び協へ、共に洛陽に會せん。驃騎將軍の長沙王乂、同に忠誠を奮ひ、冏を廢して第に還らしむ。命に順はざる有らば、軍法もて從事す。成都王穎 明德にして茂親なり、功は高く勳は重く、往歲の去就、允に眾望に合ふ、宜しく宰輔と為し、冏に代へて阿衡の任とすべし」と。
顒の表 既に至り、冏 大いに懼れ、百僚に會して曰く、「昔 孫秀 逆を作し、帝王を篡逼し、社稷 傾覆し、能く難を禦するもの莫し。孤 義眾を糾合し、元惡を掃除し、臣子の節、信は神明に著はる。二王 今日 讒言を聽信し、大難を造構す。當に忠謀を賴りて以て不協を和するべし」と。司徒王戎・司空東海王越 冏に權を委ね崇讓するを說く。冏の從事中郎葛旟 怒りて曰く、「趙庶人 任を孫秀に聽し、天を移して日に易へ、當時 喋喋たりて、敢て先に唱ふる莫し。公 蒙に矢石を犯し、躬ら甲冑を貫き、圍を攻めて陣を陷し、得て今日を濟ふ。功を計り封を行ひ、事 殷に未だ徧らず。三臺納言 不恤王事、賞報 稽緩し、責は府に在らず。讒言僭逆、當に共に誅討すべし、虛に偽書を承け、公をして第に就かしめんとす。漢魏以來、王侯 第に就きて寧ぞ妻子を保つを得る者有らんか。議者 斬る可し」と。是に於て百官 震悚し、色を失はざる無し。
長沙王乂 徑ちに宮に入り、兵を發して冏の府を攻む。冏 董艾を遣はして兵を宮西に陳す。乂 又 宋洪等を遣はして火を放ちて諸觀閣及び千秋・神武門を燒く。冏 黃門令の王湖をして悉く騶虞幡を盜み、唱へて、「長沙王 詔を矯む」と云ふ。乂 又、「大司馬 謀反す、助くる者 五族を誅す」と稱す。是の夕、城內に大戰し、飛矢 雨集し、火光 天に屬す。帝 上東門に幸し、矢 御前に集まる。羣臣 火を救ひ、死者 相 枕す。明日、冏 敗れ、乂 冏を擒へて殿前に至り、帝 惻然として、之を活かさんと欲す。乂 左右を叱りて促して牽出し、冏 猶ほ再顧し、遂に閶闔門外に斬り、首を六軍に徇ふ。諸々の黨屬 皆 三族を夷す。其の子たる淮陵王超・樂安王冰・濟陽王英を金墉に幽す。冏の尸を西明亭に暴し、三日にして敢て收斂する莫し。冏の故掾屬の荀闓等 表して殯葬を乞ひ、之を許す。

〔一〕『春秋公羊伝』荘公三十二年に「君親無將、將而誅焉」とある。

現代語訳

翊軍校尉の李含が長安に走り、密詔を受けたと詐り、河間王顒(司馬顒)に司馬冏を討伐させようと、謀略を授けて利益誘導した。司馬顒はこれに従い、上表して、「王室は多難であり、禍難が已みません。大司馬冏には義を唱えて皇位を回復した功績がありますが、洛陽を平定し、社稷を安定させたのは、実際は成都王(司馬穎)の勲功です。しかし司馬冏は、臣としての節度を守らず、野心に忠実です。許昌の営所で東西掖門を作り、官属として治書侍御史、長史・司馬を置き、左右に直立させ、侍臣のようです。(司馬穎が)京城を大いに清め、簒逆した者を誅殺した後、(司馬冏は)百万の軍勢で洛城を取り囲みました。兵力を頼りにして年を越し、一度も朝見せず、百官を拝復させ、ゆったりと南面しています。楽官や市署を破壊し、己の敷地を拡大しました。武庫から秘杖を取り出し、軍備を解きません。ゆえに東萊王蕤(司馬蕤)が彼の逆節を知り、上表して陳情しましたが、讒言により陥れ、罪を加えて排斥されました。私党を立て、官属を独占させています。寵愛する妻妾は、名号を中宮(後宮)に準えています。酒色に惑溺し、百姓に賑恤をしません。董艾は放縦であり、恐れを知らず、中丞は上奏を管理し、勝手に却下しています。張偉は無知ですが、裁可を握り潰しています。葛旟は小役人のくせに、国家の命令を掌握しています。王爵をもてあそび、賄賂が横行しています。姦悪な連中が仲間を集め、気ままに生死を決めています。密かに腹心を任命し、収賄しています。忠良な者を罪人として斥け、帝位を付け狙っています。 私は重い任務を受け、地方で藩屏となっていますが、司馬冏の所行を見て、激憤を懐いています。先日に翊軍校尉の李含が駅伝を使って都を出奔し、詔旨を届けて宣揚しました。拝読すると感極まり、五情が焼かれるようです。春秋の義に、君親には謀反の心がないと言います。司馬冏は強兵を擁し、私党を配置し、高位の要職を、腹心だけで固めています。重大な決断である死刑ですら、不義に基づいて履行されているようです。そこで兵をまとめ、精兵十万で、州軍とともに忠義を実現するべく、洛陽に集合しましょう。驃騎将軍の長沙王乂(司馬乂)は、ともに忠誠を奮い、司馬冏の官位を没収して邸宅に帰らせます。命令に従わねば、軍法で裁きます。成都王穎(司馬穎)は明徳の近親であり、勲功が高く、先年の進退は、世論から支持されています、彼を宰相とし、司馬冏に代えて阿衡の任となさいませ」と言った。
司馬顒の上表が至ると、司馬冏は大いに懼れ、百官群僚を集めて謁見し、「むかし孫秀が反逆し、(司馬倫が)帝位に逼って奪い、社稷は傾き、困難を防げなかった。私は義兵を集め、元凶を排除し、臣や子としての節度、真心は神明に表れた。二王が今日のように讒言し、大難を起こそうとしている。忠良な謀臣を頼りにして調和を取り戻したいと思う」と言った。司徒の王戎・司空の東海王越(司馬越)は司馬冏に職権を返上して引退せよと説いた。司馬冏の従事中郎である葛旟が怒って、「趙庶人(司馬倫)が孫秀に全権委任し、彼らの権勢は天下を傾け、当時は批判者は多かったが、率先して(討伐を)唱える者がいなかった。公(司馬冏)は戦塵をかぶって矢石に身をさらし、甲冑をつけて、包囲軍を攻めて陣地を陥落させ、今日の平和をもたらした。功績を査定して封爵したが、まだ恩賞が行き渡っていない。三台や納言はきちんと政治に取り組まず、褒賞が遅滞しているが、その責任はわが政権にはない。言われなき批判や反逆をする者は、誅殺し討伐すべきだ。みだりに偽物の詔書を受けたと言い、公(司馬冏)を邸宅に帰らせようとしている。漢魏より以来、王侯が(官職を辞し)邸宅に帰った後に妻子を保てた者がいただろうか。まだ言うならば斬るぞ」と言った。百官は震え恐れ、顔色を失った。
長沙王乂(司馬乂)がただちに宮城に入り、兵を動員して司馬冏の府を攻めた。司馬冏は董艾を遣わして兵を宮城の西に陣取らせた。司馬乂はまた宋洪らを遣わして火を放って諸々の観閣及び千秋・神武門を焼いた。司馬は黄門令の王湖に騶虞幡を全部盗ませ、「長沙王が詔を偽作した」と唱えた。司馬乂は対抗し、「大司馬が謀反した、助ける者は五族を誅する」と叫んだ。その夕方、城内で大いに戦い、飛矢が雨のように集まり、篝火が天を焦がした。恵帝は上東門に行幸したが、矢が御前に集まった。群臣は火を消そうとし、死体が折り重なった。翌日、司馬冏が敗れ、司馬乂は冏を捕らえて殿前に連れてきたが、恵帝は心を痛め、助命しようと考えた。司馬乂は左右を叱って急かして連れ出し、司馬冏は何度も(恵帝を)振り返り、とうとう閶闔門外で斬られ、首が六軍に示された。諸々の(司馬冏の)党属は全てが三族を皆殺しにされた。司馬冏の子である淮陵王超・楽安王冰・済陽王英を金墉城に幽閉した。司馬冏の死体を西明亭にさらし、三日経っても収容する者がいなかった。司馬冏のもとの掾属である荀闓らが上表して埋葬を願い、許された。

原文

初、冏之盛也、有一婦人詣大司馬府求寄產。吏詰之、婦人曰、我截齊便去耳。識者聞而惡之。時又謠曰、著布袙腹、為齊持服。俄而冏誅。
永興初、詔以冏輕陷重刑、前勳不宜堙沒、乃赦其三子超・冰・英還第、封超為縣王、以繼冏祀、歷員外散騎常侍。光熙初、追冊冏曰、咨故大司馬齊王冏、王昔以宗藩穆胤紹世、緒于東國、作翰許京、允鎮靜我王室。誕率義徒、同盟觸澤、克成元勳、大濟潁東。朕用應嘉茂績、謂篤爾勞、俾式先典、以疇茲顯懿。廓土殊分、跨兼吳楚、崇禮備物、寵侔蕭霍、庶憑翼戴之重、永隆邦家之望。而恭德不建、取侮二方、有司過舉、致王于戮。古人有言曰、用其法、猶思其人。況王功濟朕身、勳存社稷、追惟既往、有悼於厥心哉。今復王本封、命嗣子還紹厥緒、禮秩典度、一如舊制。使使持節・大鴻臚即墓賜策、祠以太牢。魂而有靈、祗服朕命、肆寧爾心、嘉茲寵榮。子超嗣爵。
永嘉中、懷帝下詔、重述冏唱義元勳、還贈大司馬、加侍中・假節、追諡。及洛陽傾覆、超兄弟皆沒于劉聰、冏遂無後。太元中、詔以故南頓1.王宗子柔之襲封齊王、紹攸・冏之祀、歷散騎常侍。元興初、會稽王道子將討桓玄、詔柔之兼侍中、以騶虞幡宣告江・荊二州、至姑孰、為玄前鋒所害。贈光祿勳。子建之立。宋受禪、國除。

1.中華書局本は、『南史』孝義司馬嵩傳に基づき、「子」を「孫」に改めるべきとする。

訓読

初め、冏の盛なるや、一婦人の大司馬府に詣りて寄產を求むる有り。吏 之を詰るに、婦人曰く、「我 齊を截ちて便ち去るのみ〔一〕」と。識者 聞きて之を惡む。時に又 謠して曰く、「布袙を腹に著け、齊の為に服を持す〔二〕」と。俄かにして冏 誅せらる。
永興初、詔して冏の重刑に陷るを輕くし、前勳 不宜しく堙沒すべからざるを以て、乃ち其の三子超・冰・英を赦して第に還らしめ、超を封じて縣王と為し、以て冏の祀を繼がしめ、員外散騎常侍を歷す。光熙初、追ひて冏に冊して曰く、「咨 故大司馬たる齊王冏、王 昔 宗藩を以て胤を穆(やはら)げ世を紹ぎ、東國に緒ありて、翰を許京に作し、允に我が王室を鎮靜す。誕(おほ)いに義徒を率ゐ、同に觸澤に盟ひ、克く元勳を成し、大いに潁東を濟ふ。朕 應に茂績を嘉して以て、爾の勞を篤と謂(おも)ひ、先典に式(のつと)らしめ、以て茲の顯懿を疇す。廓土 殊に分け、吳楚を跨兼し、崇禮備物、寵は蕭霍に侔しく、翼戴の重に憑り、永く邦家の望を隆くせんと庶ふ。而るに恭德 建たず、侮を二方に取り、有司 舉を過し、王に戮を致す。古人 言有りて曰く、其の法を用ふるは、猶ほ其の人を思へと。況んや王の功 朕が身を濟ひ、勳は社稷に存す、惟の既往を追ひ、厥の心を悼む有り。今 王の本封を復し、嗣子に命じて還りて厥の緒を紹がしめ、禮秩典度、一に舊制が如くせよ。使持節・大鴻臚をして墓に即きて策を賜ひ、太牢を以て祠らしむ。魂ありて靈有らば、祗みて朕が命に服し、肆に爾の心を寧んじ、茲の寵榮を嘉せ」と。子の超 爵を嗣ぐ。
永嘉中、懷帝 詔を下し、重ねて冏の義を唱ふる元勳を述し、還りて大司馬を贈り、侍中・假節を加へ、追諡す。洛陽 傾覆するに及び、超の兄弟 皆 劉聰に沒し、冏 遂に後無し。太元中、詔して故南頓王宗の子柔之を以て襲ひて齊王に封じ、攸・冏の祀を紹(つ)ぎ、散騎常侍を歷す。元興初、會稽王道子 將に桓玄を討たんとし、柔之に詔して侍中を兼ね、騶虞幡を以て江・荊二州に宣告し、姑孰に至り、玄の前鋒の害する所と為る。光祿勳を贈る。子建之 立つ。宋 受禪し、國 除かる。

〔一〕「齊」は、へその意味があり、臍の緒の切断と、斉王司馬冏の処刑がかかっているか。
〔二〕「持服」は、喪に服すること。

現代語訳

これより先、まだ司馬冏が盛んだったころ、一人の婦人が大司馬府にきて出産をさせてくれと頼んだ。役人がこれを断ると、婦人は、「私は斉(へそ)を切ったらすぐに立ち去ります」と言った。識者はこれを聞いて不吉だとした。また謠言に、「布袙を腹につけ、斉(へそ)のために服を持する(準備する)」と言った。間もなく司馬冏が誅殺された。
永興初(三〇〇-)、詔して司馬冏に課した重刑に軽くし、前日の勲功を消滅させぬように、彼の三子である司馬超・司馬冰・司馬英を赦して邸宅に帰らせ、司馬超を封じて県王とし、司馬冏の祭祀を継がせ、員外散騎常侍などを歴任させた。光熙初(三〇六-)、追って司馬冏に冊書を与え、「ああ故大司馬の斉王冏よ、王はむかし藩屏の筆頭を継承し、東国(斉)から事業を始め、(打倒司馬倫の)文書を許昌や洛陽で作り、まことにわが王室を鎮静化してくれた。大規模に義兵を率い、触沢で盟約し、第一の功績を立て、潁水の東を救った。朕は盛んなる実績を評価し、きみの功労に感謝し、前例にのっとり、顕彰したいと思う。土地を分割して、(前漢の)呉王や楚王のように領有し、礼儀や備物は、蕭何や霍光と等しく、皇帝を奉戴した手柄により、国家の声望を高めようとした。しかし徳政が行われず、二王が批判を行い、配下は過ちを犯し、斉王を誅戮してしまった。古人が言うように、その法を用いるなら、その人を思うべきである。ましてや斉王の功は朕の身を救い、勲は社稷を存続させたのだから、過日を追悼し、その心を痛ましく思う。いま王には元来の封地(斉国)を回復し、嗣子に命じてその家を継がせ、秩禄や制度は、もっぱら旧制に戻そう。使持節・大鴻臚を派遣して墓前で策書を賜い、太牢を祭ろう。魂があり霊があるなら、慎んで命令に服し、わが心を安寧とし、その繁栄を喜ぶように」と言った。子の司馬超が爵位(斉王)を嗣いだ。
永嘉中(三〇七-三一三)、懐帝が詔を下し、重ねて司馬冏が義を唱えたという功勲を確認し、もとどおり大司馬を贈り、侍中・仮節を加え、追諡した。洛陽が傾覆すると、司馬超の兄弟は皆が劉聡に捕らわれ、とうとう司馬冏は後嗣が断絶した。 太元中(三七六-三九六)、詔して故の南頓王の司馬宗の子(正しくは孫)の司馬柔之に斉王の封を襲わせ、司馬攸・司馬冏の祭祀を嗣がせて、散騎常侍を歴任した。元興初(四〇二)、会稽王道子(司馬道子)が桓玄を討とうとすると、司馬柔之に詔して侍中を兼ねさせ、騶虞幡を持って江・荊二州に広く(停戦を)告げて回ったが、姑孰に至ると、桓玄の前鋒に殺害された。光禄勲を贈った。子の司馬建之を立てた。宋が受禅すると、国が除かれた。

原文

鄭方者、字子回。慷慨有志節、博涉史傳、卓犖不常、鄉閭有識者歎其奇、而未能薦達。
及冏輔政專恣、方發憤步詣洛陽、自稱荊楚逸民、獻書於冏曰、方聞聖明輔世、夙夜祗懼、泰而不驕、所以長守貴也。今大王安不慮危、耽于酒色、燕樂過度、其失一也。大王檄命、當使天下穆如清風、宗室骨肉永無纖介、今則不然、其失二也。四夷交侵、邊境不靜、大王自以功業興隆、不以為念、其失三也。大王興義、羣庶競赴、天下雖寧、人勞窮苦、不聞大王振救之令、其失四也。又與義兵歃血而盟、事定之後、賞不踰時、自清泰已來、論功未分、此則食言、其失五也。大王建非常之功、居宰相之任、謗聲盈塗、人懷忿怨、方以狂愚、冒死陳誠。冏含忍答之云、孤不能致五闕、若無子、則不聞其過矣。未幾而敗焉。

訓読

鄭方なる者は、字は子回。慷慨にして志節有り、博く史傳を涉り、卓犖 常ならず、鄉閭に識者の其の奇を歎ずる有り、而るに未だ能く薦達せず。
冏 輔政し專恣するに及び、方 發憤して步きて洛陽に詣り、荊楚の逸民を自稱し、書を冏に獻じて曰く、「方 聞く聖明の輔世、夙夜に祗懼し、泰にして驕らざるは、長く貴を守る所以なり。今 大王 安にして危を慮らず、酒色に耽り、燕樂は過度、其の一を失ふなり。大王の檄命、當に天下をして穆として清風が如く、宗室骨肉 永く纖介無からしむべし、今 則ち然らず、其の二を失ふ。四夷 交侵し、邊境 靜ならず、大王 自ら功業の興隆を以て、以て念を為さず、其の三を失ふなり。大王 義を興し、羣庶 競ひて赴き、天下 寧と雖も、人 窮苦に勞し、大王の振救の令を聞かず、其の四を失ふ。又 義兵と與に血を歃りて、事 定まるの後、賞 時を踰えずと盟ふも、清泰たりて自り已來、論功 未だ分たず、此れ則ち食言す、其の五を失ふなり。大王 非常の功を建て、宰相の任に居り、謗聲 塗に盈ち、人 忿怨を懷く、方 狂愚を以て、死を冒して誠を陳べん」と。冏 忍を含みて之に答へて云く、「孤 能く五闕を致さず、若し子無くんば、則ち其の過を聞かず」と。未だ幾ばくもなく敗る。

現代語訳

鄭方という者は、字を子回という。不正が許せない志操と節度のある人で、ひろく歴史書を読み、優秀さが尋常でなく、故郷の識者は特別さを高く買っていたが、官途に推薦されずにいた。
司馬冏が輔政して専横すると、鄭方は発憤して歩いて洛陽にいたり、荊楚の逸民と自称し、文書を司馬冏に献じて、「私が聞きますに理想的な世の輔政者は、朝晩に慎み懼れ、安泰であっても驕らず、おかげで長く高位を守れたそうです。いま大王は安泰であり危機を想定せず、酒色に耽り、遊興は度を過ぎており、これが一つめの過失です。大王が檄文で命令を発すると、(百姓は)清らかな風を受けたように靡き、宗室は些細な対立すら抱えぬことが期待されましたが、現在そうなっておらず、二つめの過失です。四方の異民族が侵入し、辺境が騒がしいにも拘わらず、大王は自分の功績が大きいから、警戒を怠っています、三つめの過失です。大王が義挙を起こし、群僚や庶民は競って協力し、天下が安寧になりましたが、人々は疲弊し困窮しており、大王から救済の命令が出ていません、四つめの過失です。(決戦に先立ち)義兵とともに血をすすって、勝利のあかつきには、すぐに賞賜を給わると約束しましたが、平定した後も、功を論じて配分がなされず、前言を破っています、五つ目の過失です。大王は常ならぬ功績により、宰相の地位に居ますが、批判の声は道路に満ちあふれ、人々は怒りと怨みを抱いています。私は狂った愚者として、死を覚悟して本当のことを述べました」と言った。司馬冏は不快感を抑え、返答して、「私は五つの点で及ばなかった、もしあなたが言ってくれなければ、わが過失に気づかなかった」と言った。ほどなく司馬冏は敗れた。

長沙王乂

原文

長沙厲王乂字士度、武帝第六子也。太康十年受封、拜員外散騎常侍。及武帝崩、乂時年十五、孺慕過禮。會楚王瑋奔喪、諸王皆近路迎之、乂獨至陵所、號慟以俟瑋。拜步兵校尉。及瑋之誅二公也、乂守東掖門。會騶虞幡出、乂投弓流涕曰、楚王被詔、是以從之、安知其非。瑋既誅、乂以同母、貶為常山王、之國。
乂身長七尺五寸、開朗果斷、才力絕人、虛心下士、甚有名譽。三王之舉義也、乂率國兵應之、過趙國、房子令距守、乂殺之、進軍為成都後係。常山內史程恢將貳於乂、乂到鄴、斬恢及其五子。至洛、拜撫軍大將軍、領左軍將軍。頃之、遷驃騎將軍・開府、復本國。乂見齊王冏漸專權、嘗與成都王穎俱拜陵、因謂穎曰、天下者、先帝之業也、王宜維之。時聞其言者皆憚之。及河間王顒將誅冏、傳檄以乂為內主。冏遣其將董艾襲乂、乂將左右百餘人、手斫車幰、露乘馳赴宮、閉諸門、奉天子與冏相攻、起火燒冏府。連戰三日、冏敗、斬之、并誅諸黨與二千餘人。
顒本以乂弱冏強、冀乂為冏所擒、然後以乂為辭、宣告四方共討之、因廢帝立成都王、己為宰相、專制天下。既而乂殺冏、其計不果、乃潛使侍中馮蓀・河南尹李含・中書令卞粹等襲乂。乂並誅之。顒遂與穎同伐京都。穎遣刺客圖乂、時長沙國左常侍王矩侍直、見客色動、遂殺之。詔以乂為大都督以距顒。連戰自八月至十月、朝議以乂・穎兄弟、可以辭說而釋、乃使中書令王衍行太尉、光祿勳石陋行司徒、使說穎、令與乂分陝而居、穎不從。
乂因致書於穎曰、先帝應乾撫運、統攝四海、勤身苦己、克成帝業、六合清泰、慶流子孫。孫秀作逆、反易天常、卿興義眾、還復帝位。齊王恃功、肆行非法、上無宰相之心、下無忠臣之行、遂其讒惡、離逖骨肉、主上怨傷、尋已蕩除。吾之與卿、友于十人、同產皇室、受封外都、各不能闡敷王教、經濟遠略。今卿復與太尉共起大眾、阻兵百萬、重圍宮城。羣臣同忿、聊即命將、示宣國威、未擬摧殄。自投溝澗、蕩平山谷、死者日萬、酷痛無罪。豈國恩之不慈、則用刑之有常。卿所遣陸機不樂受卿節鉞、將其所領、私通國家。想來逆者、當前行一尺、卻行一丈。卿宜還鎮、以寧四海、令宗族無羞、子孫之福也。如其不然、念骨肉分裂之痛、故復遣書。

訓読

長沙厲王乂 字は士度、武帝の第六子なり。太康十年 封を受け、員外散騎常侍を拜す。武帝 崩ずるに及び、乂 時に年十五、孺慕 禮に過ぐ〔一〕。會 楚王瑋 喪に奔り、諸王 皆 路に近づきて之を迎へ、乂 獨り陵所に至り、號慟して以て瑋を俟つ。步兵校尉を拜す。瑋の二公を誅するに及ぶや、乂 東掖門を守る。會 騶虞幡 出で、乂 弓を投じて流涕して曰く、「楚王 詔を被り、是を以て之に從ふ、安にか其の非を知らん」と。瑋 既に誅せられ、乂 同母たるを以て、貶めて常山王と為り、國に之く。
乂 身長七尺五寸、開朗にして果斷、才力 人に絕え、心を下士に虛にし、甚だ名譽有り。三王の義を舉ぐるや、乂 國兵を率ゐて之に應じ、趙國を過り、房子令 距守し、乂 之を殺し、進軍して成都の後係と為る。常山內史程恢 將に乂に貳せんとし、乂 鄴に到り、恢及び其の五子を斬る。洛に至り、撫軍大將軍を拜し、左軍將軍を領す。頃之、驃騎將軍・開府に遷り、本國を復す。乂 齊王冏の漸く專權するを見て、嘗て成都王穎と俱に陵に拜し、因りて穎に謂ひて曰く、「天下は、先帝の業なり、王 宜しく之を維(おも)へ」と。時に其の言を聞く者 皆 之を憚る。河間王顒 將に冏を誅せんとするに及び、檄を傳へて乂を以て內主と為す。冏 其の將董艾を遣はして乂を襲ひ、乂 左右百餘人を將ゐ、手づから車幰を斫り、露乘して馳せ宮に赴き、諸門を閉じ、天子を奉じて冏と相 攻め、火を起して冏の府を燒く。連戰すること三日、冏 敗れ、之を斬り、并せて諸黨と二千餘人を誅す。
顒 本より乂は弱く冏は強きを以て、乂 冏の擒ふる所と為るを冀ひ、然る後 乂を以て辭を為り、四方に共に之を討てと宣告し、因りて帝を廢して成都王を立て、己は宰相と為り、天下に專制す。既にして乂 冏を殺し、其の計 果さず、乃ち潛かに侍中馮蓀・河南尹李含・中書令卞粹等をして乂を襲はしむ。乂 並びに之を誅す。顒 遂に穎と同に京都を伐つ。穎 刺客を遣りて乂を圖り、時に長沙國左常侍王矩 侍直し、客の色 動くを見、遂に之を殺す。詔して乂を以て大都督と為し以て顒を距がしむ。連戰して八月自り十月に至り、朝議 乂・穎の兄弟を以て、辭を以て說きて釋す可く、乃ち中書令王衍をして太尉を行し、光祿勳石陋を司徒を行せしめ、穎を說かしめ、乂と與に陝を分けて居せしめ、穎 從はず。
乂 因りて書を穎に致して曰く、「先帝 乾に應じて運を撫し、四海に統攝し、身に勤め己を苦しめ、克く帝業を成し、六合 清泰し、慶 子孫に流す。孫秀 逆を作し、天常を反易するや、卿 義眾を興し、帝位を還復す。齊王 功に恃み、肆に非法を行ひ、上は宰相の心無く、下は忠臣の行無く、遂に其の讒惡、骨肉を離逖し、主上 怨傷し、尋いで已に蕩除す。吾の卿と與にありては、十人に友于し〔二〕、同に皇室に產まれ、封を外都に受け、各々能く王教を闡敷し、遠略を經濟せず。今 卿 復た太尉と共に大眾を起し、兵は百萬を阻み、重ねて宮城を圍む。羣臣 忿を同にし、聊(たよ)りて即ち將に命じ、國威を示宣し、未だ摧殄に擬へず。自ら溝澗に投じ、山谷を蕩平し、死者は日に萬、酷痛して罪無し。豈に國恩の慈まざれば、則ち刑を用ひるの常有り。卿 遣る所の陸機 卿の節鉞を受くるを樂まず、其の所領を將て、私に國家に通ず。逆者を想來するに、前行一尺、卻行一丈に當る。卿 宜しく鎮に還り、以て四海を寧すべし、宗族をして羞無からしめば、子孫の福なり。如し其の然らずんば、骨肉分裂の痛を念じ、故に復た書を遣る」と。

〔一〕孺慕は、『礼記』檀弓下に見える。父母に対する孝と敬愛の思い。
〔一〕友于は、『尚書』君陳に「惟孝、友于兄弟、克施有政」とある。

現代語訳

長沙厲王の乂(司馬乂)は字を士度といい、武帝の第六子である。太康十(二八九)年に封建され、員外散騎常侍を拝した。武帝が崩御したとき、司馬乂は十五歳で、父への追慕は礼の規定を超えた。このとき楚王瑋(司馬瑋)が喪に走り寄り、諸王はみな墓道に近づいてこれを迎え、司馬乂だけが陵所まで付いてゆき、号泣し慟哭して司馬瑋を待った。歩兵校尉を拝した。司馬瑋が二公(衛瓘・司馬亮)を誅したとき、司馬乂は東掖門を守った。ちょうど騶虞幡(停戦を命ずる旗)が持ち出されると、司馬乂は弓を投げ捨てて流涕し、「楚王(司馬瑋)詔を受け、それに従ったのだ、どうしてその(二公を殺すことの)非が分かるものか」と言った。司馬瑋が誅殺されると、司馬乂は同母弟なので、常山王に降格され、国に赴いた。
司馬乂は身長が七尺五寸、明るい性格で決断力があり、才能と力がずば抜けて、すなおに下士と付き合い、名誉と賞賛を受けた。三王の義挙のときは、司馬乂は国兵を率いて呼応し、趙国を通過したとき、房子県の令が反抗したので、司馬乂はこれを殺し、進軍して成都王の後続の軍となった。常山内史の程恢が司馬乂を裏切ろうとすると、司馬乂は鄴に到着したとき、程恢及びその五子を斬った。洛陽に至り、撫軍大将軍を拝し、左軍将軍を領した。しばらくして、驃騎将軍・開府に遷り、(常山から長沙に)本国をもどした。司馬乂は斉王冏(司馬冏)が徐々に権力を独占してゆくのを見て、かつて成都王穎(司馬穎)とともに陵墓に賛拝し、司馬穎に「天下は、先帝(われらの父武帝)のものである、成都王はこのことを思いなさい」と言った。この発言を聞いた者は、みな畏れ憚った。河間王顒(司馬顒)が司馬冏を誅殺しようとし、檄文を届けて司馬乂を内主(首謀者)にしようとした。司馬冏はその将である董艾を遣わして司馬乂を襲ったが、司馬乂は左右百余人をひきい、手ずから車の幕を切り落とし、むき出しで馬車に乗って宮殿に赴き、諸門を閉じ、天子を奉じて司馬冏と戦い、火を起こして司馬冏の府(政庁)を焼いた。三日間連戦し、司馬冏が敗れ、これを斬り、党与らと二千余人を誅殺した。
司馬顒は元来は司馬乂が弱く司馬冏が強かったため、司馬乂が司馬冏に捕まることを期待し、(予想が的中したら)その後に司馬乂の名義で声明を作り、四方に共に(司馬冏を)討てと発信し、これにより恵帝を廃して成都王(司馬穎)を立て、己は宰相となり、天下を独占しようと考えた。しかし司馬乂が司馬冏を殺してしまったので、計画のあてが外れ、ひそかに侍中の馮蓀・河南尹の李含・中書令の卞粋らに司馬乂を襲わせた。司馬乂は全員を返り討ちにした。司馬顒はとうとう司馬穎とともに(司馬乂が治める)洛陽を攻撃した。司馬穎は刺客を送って司馬乂を殺そうとしたが、ときに長沙国左常侍の王矩が侍直しており、刺客が挙動不審なのを察知し、これを殺した。詔して司馬乂を大都督とし司馬顒を防がせた。連戦をして八月から十月に至り、朝議は司馬乂・司馬穎が兄弟(どちらも武帝の子)であるから、言葉で説得して停戦させようと、中書令の王衍を行太尉、光禄勲石陋を行司徒とし、司馬穎を説得させ、司馬乂と陜を境界として分割統治するよう提案したが、司馬穎は拒否した。
司馬乂は(弟の)司馬穎に文書を送って、「先帝(われらの父武帝)は天意に応えて運を味方にし、四海を統率し、身を削って苦労して、帝業を成し遂げ、万物が清らかに安定させ、子孫に幸いを伝えた。孫秀が反逆し、天の道理に背くと、あなたは義兵を起こし、帝位を回復させた。斉王(司馬冏)が功績を頼みに、非法を行い、上には宰相の心がなく、下には忠臣の行いがなく、醜い讒言をして、親族を離叛させたので、主上は怨み傷ついたが、すでに排除が完了した。私とあなたは、親しい友であり、ともに皇室に生まれ、封土を地方都市に受けたが、それぞれ王の教化を伝播し、遠大な計略を実践できなかった。今あなたは再び太尉とともに大軍を起こし、百万の兵で対抗し、洛陽宮を幾重にも囲んでいる。群臣は怒りを共有し、将を頼って命令し、国威を広く示しているが、まだ滅亡や破綻までは意識されていない。みずから谷川に投げ込み、山谷を平らにし、死者は日に万にのぼるが、痛み哀しんで罪はない。国恩に慈愛がなければ、刑を用いるのが常道ではなかろうか。あなたが派遣した陸機はあなたから節鉞を受けるのを嫌がり、その配下を利用して、ひそかに国家(恵帝、司馬乂の側)に内通している。反逆について考えるに、進むのは一尺、退くのは一丈というのに当たる。あなたは鎮所に還り、四海を安寧とするように、宗族から恥を除けば、子孫の福である。さもなくば血縁者が分裂する痛みを味わうであろうことを懸念し、この文書を送った」と言った。

原文

穎復書曰、文景受圖、武皇乘運、庶幾堯舜、共康政道、恩隆洪業、本枝百世。豈期骨肉豫禍、后族專權、楊賈縱毒、齊趙內篡。幸以誅夷、而未靜息。每憂王室、心悸肝爛。羊玄之・皇甫商等恃寵作禍、能不興慨。於是征西羽檄、四海雲應。本謂仁兄同其所懷、便當內擒商等、收級遠送。如何迷惑、自為戎首。上矯君詔、下離愛弟、推移輦轂、妄動兵威、還任豺狼、棄戮親善。行惡求福、如何自勉。前遣陸機董督節鉞、雖黃橋之退、而溫南收勝、一彼一此、未足增慶也。今武士百萬、良將銳猛、要當與兄整頓海內。若能從太尉之命、斬商等首、投戈退讓、自求多福、穎亦自歸鄴都、與兄同之。奉覽來告、緬然慷慨。慎哉大兄、深思進退也。
乂前後破穎軍、斬獲六七萬人。戰久糧乏、城中大饑、雖曰疲弊、將士同心、皆願效死。而乂奉上之禮未有虧失、張方以為未可克、欲還長安。而東海王越慮事不濟、潛與殿中將收乂送金墉城。乂表曰、「陛下篤睦、委臣朝事。臣小心忠孝、神祇所鑒。諸王承謬、率眾見責、朝臣無正、各慮私困、收臣別省、送臣幽宮。臣不惜軀命、但念大晉衰微、枝黨欲盡、陛下孤危。若臣死國寧、亦家之利。但恐快凶人之志、無益於陛下耳。」
殿中左右恨乂功垂成而敗、謀劫出之、更以距穎。越懼難作、欲遂誅乂。黃門郎潘滔勸越密告張方、方遣部將郅輔勒兵三千、就金墉收乂、至營、炙而殺之。乂寃痛之聲達於左右、三軍莫不為之垂涕。時年二十八。乂將殯於城東、官屬莫敢往、故掾劉佑獨送之、步持喪車、悲號斷絕、哀感路人。張方以其義士、不之問也。初、乂執權之始、洛下謠曰、「草木萌牙殺長沙。」乂以正月二十五日廢、二十七日死、如謠言焉。永嘉中、懷帝以乂子碩嗣、拜散騎常侍、後沒于劉聰。

訓読

穎 書を復して曰く、「文景 圖を受け、武皇 運に乘じ、堯舜を庶幾して、政道を共康し、恩は洪業に隆く、本枝 百世ならん。豈に骨肉 豫禍し、后族 專權し、楊賈 毒を縱にし、齊趙 內篡するを期せんや。幸にも誅夷を以て、而るに未だ靜息ならず。每に王室を憂ひ、心は悸し肝は爛す。羊玄之・皇甫商等 寵を恃みて禍を作し、能く興慨せず。是に於て征西 羽檄し、四海 雲應す。本は仁兄 其の所懷を同にすると謂ひ、便ち當に內に商等を擒へ、收級して遠送すべし。如何に迷惑して、自ら戎首と為らん。上は君詔を矯め、下は愛弟を離し、輦轂を推移し、妄りに兵威を動し、豺狼を還任し、親善を棄戮す。行 惡にして福を求むれば、如何に自勉す。前に陸機を遣はして節鉞を董督せしめ、黃橋の退あると雖も、而るに溫南に勝を收め、一彼一此、未だ慶を增すに足らず。今 武士が百萬、良將銳猛、要めて當に兄と與に海內を整頓すべし。若し能く太尉の命に從はば、商等の首を斬り、戈を投げて退讓し、自ら多福を求めよ、穎 亦 自ら鄴都に歸り、兄と之を同にせん。來告を奉覽し、緬然と慷慨す。慎なるかな大兄、深く進退を思ふなり」と。
乂 前後に穎の軍を破り、六七萬人を斬獲す。戰 久しく糧 乏しく、城中 大いに饑え、疲弊を曰ふと雖も、將士 同心し、皆 效死を願ふ。而るに乂 奉上之禮 未だ虧失有り、張方 以為へらく未だ克つ可からず、長安に還らんと欲す。而して東海王越 事の不濟を慮り、潛かに殿中將と與に乂を收めて金墉城に送る。乂 表して曰く、「陛下 篤睦にして、臣に朝事を委ぬ。臣 小心忠孝、神祇 鑒る所なり。諸王 謬を承け、眾を率ゐて責められ、朝臣 正無く、各々私困を慮り、臣を別省に收め、臣を幽宮に送る。臣 軀命を惜まず、但だ大晉の衰微し、枝黨 盡きんと欲し、陛下 孤危たるを念ず。若し臣 死して國 寧たれば、亦た家の利なり。但だ恐るるは凶人の志に快く、陛下に無益なるのみ」と。
殿中の左右 乂の功 垂成するとも敗るるを恨み、謀りて之を劫出せんとし、更めて以て穎を距む。越 難の作るを懼れ、遂に乂を誅せんと欲す。黃門郎潘滔 越に勸めて密かに張方に告げ、方 部將郅輔を遣はして兵三千を勒し、金墉に就きて乂を收め、營に至り、炙りて之を殺す。乂 寃痛の聲 左右に達し、三軍 之が為に垂涕せざる莫し。時に年二十八なり。乂の將に城東に殯せられんとし、官屬 敢て往くもの莫く、故掾の劉佑 獨り之を送り、步きて喪車を持し、悲號 斷絕し、哀 路人を感ぜしむ。張方 其の義士たるを以て、之きて問はず。初め、乂 執權するの始め、洛下の謠に曰く、「草木 牙を萌して長沙を殺す」と。乂 正月二十五日を以て廢せられ、二十七日に死す、謠言が如し。永嘉中、懷帝 乂の子碩を以て嗣とし、散騎常侍を拜し、後に劉聰に沒せらる。

現代語訳

司馬穎は(兄の司馬乂に)返信して、「文帝と景帝は河図を受け、武皇帝が機運に乗り、尭舜を目標として政道を適切に行い、大いなる事業を行ったから恩は高く、本家と分家は百世にわたり栄えるはずです。どうして骨肉が抗争し、外戚が専権し、楊氏や賈氏が害毒を垂れ流し、斉王冏や趙王倫が体制内の簒奪することを予期したでしょう。幸いにも彼らを誅戮しましたが、まだ静穏は訪れていません。いつも王室のために憂い、心臓は動悸し肝臓は焼けそうです。羊玄之・皇甫商らは寵愛を後ろだてに禍いをなしたが、義憤を発揮できませんでした。そこで征西(将軍)が羽檄を発すると、四海は雲のように呼応したのです。仁兄(司馬乂)は同じ志を抱いていたはずであり、内に皇甫商らを捕らえ、収監して遠くに送って下さい。どうして迷い惑って、自ら(王朝を乱す)首魁になるのですか。上は君詔を矯め、下は愛弟を離し、輦轂(天子の乗物)を押して移し、みだりに兵威を動かし、豺狼を公職に復帰させ、親しき善人と棄てて殺すのですか。悪い行動をして幸福を求めても、政権は成り立ちません。前に陸機を派遣して節鉞を董督させると、黄橋で撤退しましたが、温県の南では勝利を収めており、一勝一敗なので、まだ褒賞を加えるには不足です。いま兵士が百万、良将は鋭猛なので、兄とともに海内の秩序を回復したいと思います。もし太尉の命に従ってくれるなら、皇甫商らの首を斬り、戈を投げて戦闘から退き、多くの福を求めなさい、穎(わたし)もまた鄴に帰還し、兄(あなた)と行動を共にします。頂戴した文書を見て、遥かに慨嘆しました。慎み深き大兄よ、深く進退について考えております」と言った。
司馬乂は前後にわたり(何回も)司馬穎の軍を破り、六七万人を斬り獲えた。戦が長期化すると糧食は乏しくなり、城中は大いに餓えて、疲弊を訴えたが、将士は心を一つにし、みな勝利に命を賭けた。しかし司馬乂の奉上の礼(恵帝への態度)は欠陥があるから、張方は(司馬乂が)最終的には成功しないと考え、長安に帰ろうとした。さらに東海王越(司馬越)は(司馬乂の)事業の失敗を心配し、ひそかに殿中将とともに司馬乂を拘束して金墉城に送った。司馬乂は上表して、「陛下は篤実で淳朴であり、私に朝政を委ねられた。私の畏れ多き忠孝は、神祇も見ております。諸王が誤った判断をし、軍勢を率いて私を追及しました、朝臣に正義はなく、それぞれ私的な都合を心配し、私を別の建物(金墉城)に入れ、幽閉してしまいました。私は身命を惜しまず、ただ大いなる晋王朝が衰微し、親族が絶滅に向かい、陛下が孤立して危険となることを懸念してきました。もし私が死んで国が安寧となるなら、わが司馬家の利益です。しかし凶人の志にだけ利益をもたらし、陛下にとって無益であることを恐れます」と言った。
殿中の近侍者は司馬乂が功績を成し遂げたが敗れたのを恨み、彼を締め出そうと謀り、その上で司馬穎の攻撃を防いだ。司馬越は政難が起こることを懼れ、司馬乂を誅殺しようと考えた。黄門郎の潘滔は司馬越に密かに張方に向けて指示を出すよう勧め、張方は部将の郅輔に兵三千を統率させ、金墉城に行って司馬乂を捕らえ、軍営に連れてくると、炙って殺した。司馬乂の無罪を訴える悲痛な声は周囲にとどき、三軍は彼のために垂涕せぬ者がなかった。このとき年は二十八。司馬乂が城の東に死体を殯せられたが、官属は駆けつける者がなく、もと掾の劉佑だけが葬送し、歩いて遺体を乗せた車を引いたが、悲号は(感極まって)絶えて起こらず、哀しみが道ゆくひとに伝染した。張方はその義士ぶりを見て、いちいち罪に問わなかった。これより先、司馬乂が執政を始めたころ、洛下に歌謡があって、「草木が芽を出して長沙を殺す」と言った。司馬乂は正月二十五日に廃位され、二十七日に死んだから、謠言の通りとなった。永嘉中(三〇七-三一三)、懐帝は司馬乂の子である司馬碩を継嗣とし、散騎常侍を拝したが、後に劉聡に捕らわれた。

成都王穎

原文

成都王穎字章度、武帝第十六子也。太康末受封、邑十萬戶。後拜越騎校尉、加散騎常侍・車騎將軍。賈謐嘗與皇太子博、爭道。穎在坐、厲聲呵謐曰、皇太子、國之儲君、賈謐何得無禮。謐懼、由此出穎為平北將軍、鎮鄴。轉鎮北大將軍。
趙王倫之篡也、進征北大將軍、加開府儀同三司。及齊王冏舉義、穎發兵應冏、以鄴令盧志為左長史、頓丘太守1.鄭琰為右長史、黃門郎程牧為左司馬、陽平太守和演為右司馬。使兗州刺史王彥・冀州刺史李毅・督護趙驤・石超等為前鋒。羽檄所及、莫不響應。至朝歌、眾二十餘萬。趙驤至黃橋、為倫將士猗・許超所敗、死者八千餘人、士眾震駭。穎欲退保朝歌、用盧志・王彥策、又使趙驤率眾八萬、與王彥俱進。倫復遣孫會・劉琨等率三萬人、與猗・超合兵距驤等、精甲耀日、鐵騎前驅。猗既戰勝、有輕驤之心。未及溫十餘里、復大戰、猗等奔潰。穎遂過河、乘勝長驅。2.左將軍王輿殺孫秀、幽趙王倫、迎天子反正。及穎入京都、誅倫。使趙驤・石超等助齊王冏攻張泓於陽翟、泓等遂降。冏始率眾入洛、自以首建大謀、遂擅威權。穎營于太學、及入朝、天子親勞焉。穎拜謝曰、此大司馬臣冏之勳、臣無豫焉。見訖、即辭出、不復還營、便謁太廟、出自東陽城門、遂歸鄴。遣信與冏別、冏大驚、馳出送穎、至七里澗及之。穎住車言別、流涕、不及時事、惟以太妃疾苦形於顏色、百姓觀者莫不傾心。
至鄴、詔遣兼太尉王粹加九錫殊禮、進位大將軍・都督中外諸軍事・假節・加黃鉞・錄尚書事、入朝不趨、劍履上殿。穎拜受徽號、讓殊禮九錫。表論興義功臣盧志・和演・董洪・王彥・趙驤等五人、皆封開國公侯。又表稱、大司馬前在陽翟、與強賊相持既久、百姓創痍、饑餓凍餒、宜急振救。乞差發郡縣車、一時運河北邸閣米十五萬斛、以振陽翟饑人。盧志言於穎曰、黃橋戰亡者有八千餘人、既經夏暑、露骨中野、可為傷惻。昔周王葬枯骨、故詩云行有死人、尚或墐之。況此等致死王事乎。穎乃造棺八千餘枚、以成都國秩為衣服、斂祭、葬於黃橋北、樹枳籬為之塋域。又立都祭堂、刊石立碑、紀其赴義之功、使亡者之家四時祭祀有所。仍表其門閭、加常戰亡二等。又命河內溫縣埋藏3.趙倫戰死士卒萬四千餘人。穎形美而神昏、不知書、然器性敦厚、委事於志、故得成其美焉。

1.「鄭琰」は、鄭袤傳では「鄭球」に作る。
2.王輿の官職は、「左將軍」ではなく「左衞將軍」が正しい。
3.「趙倫」は「趙王倫」に作るべきである。

訓読

成都王穎 字は章度、武帝の第十六子なり。太康末 封を受け、邑は十萬戶。後に越騎校尉を拜し、散騎常侍・車騎將軍を加へらる。賈謐 嘗て皇太子と博し、道を爭ふ。穎 坐に在り、聲を厲して謐を呵りて曰く、「皇太子、國の儲君なり、賈謐 何ぞ得て無禮なる」と。謐 懼れ、此に由り穎を出して平北將軍と為し、鄴に鎮せしむ。鎮北大將軍に轉ず。
趙王倫の篡するや、征北大將軍に進み、開府儀同三司を加ふ。齊王冏 舉義するに及び、穎 兵を發して冏に應じ、鄴令盧志を以て左長史と為し、頓丘太守鄭琰もて右長史と為し、黃門郎程牧もて左司馬と為し、陽平太守和演もて右司馬と為す。兗州刺史王彥・冀州刺史李毅・督護趙驤・石超等をして前鋒と為らしむ。羽檄 及ぶ所、響應せざる莫し。朝歌に至り、眾は二十餘萬。趙驤 黃橋に至り、倫將の士猗・許超 敗る所と為り、死者八千餘人、士眾 震駭す。穎 退きて朝歌に保せんと欲し、盧志・王彥の策を用ゐ、又 趙驤をして眾八萬を率ゐ、王彥と俱に進ましむ。倫 復た孫會・劉琨等を遣はして三萬人を率ゐしめ、猗・超と兵を合はせて驤等を距み、精甲 日に耀き、鐵騎 前驅す。 猗 既に戰勝し、輕驤の心有り。未だ溫十餘里に及ばずして、復た大戰し、猗等 奔潰す。穎 遂に過河し、勝に乘じて長驅す。左將軍王輿 孫秀を殺し、趙王倫を幽し、天子を迎へて正に反す。穎 京都に入るに及び、倫を誅す。趙驤・石超等をして齊王冏を助けて張泓を陽翟に於て攻めしめ、泓等 遂に降る。冏 始めて眾を率ゐて入洛し、自ら首めに大謀を建つるを以て、遂に威權を擅にす。穎 太學に營し、入朝するに及び、天子 親ら焉を勞ふ。穎 拜謝して曰く、「此れ大司馬臣冏の勳なり、臣 焉に豫ること無し」と。見訖はり、即ち辭出し、復た營に還らず、便ち太廟に謁し、東陽城門自り出で、遂に鄴に歸る。信を遣はして冏に與へて別れ、冏 大いに驚き、馳出して穎を送り、七里澗に至りて之に及ぶ。穎 車を住めて別を言ひ、流涕するとも、時事に及ばず、惟だ太妃の疾を以て苦 顏色に形はるのみとし、百姓 觀る者 傾心せざる莫し。
鄴に至り、詔して兼太尉王粹を遣はして九錫殊禮を加へ、位を大將軍・都督中外諸軍事・假節・加黃鉞・錄尚書事に進め、入朝不趨、劍履上殿とす。穎 徽號を拜受し、殊禮九錫を讓る。表して義を興したる功臣盧志・和演・董洪・王彥・趙驤等五人を論じ、皆 封じて開國し公侯とす。又 表して稱すらく、「大司馬 前に陽翟に在り、強賊と相 持して既に久しく、百姓 創痍し、饑餓凍餒、宜しく急ぎ振救すべし。乞ふ郡縣の車を差發し、一時に河北邸閣の米十五萬斛を運び、以て陽翟の饑人に振へ」と。盧志 穎に言ひて曰く、「黃橋の戰亡者 八千餘人有り、既に夏暑を經て、骨を中野に露し、傷惻を為す可し。昔 周王 枯骨を葬り、故に詩に云く『行(みち)に死人有れば、尚ほ之を墐(う)むる或り』と〔一〕。況んや此等 王事に致死するをや」と。穎 乃ち棺八千餘枚を造り、成都の國秩を以て衣服を為り、祭を斂め、黃橋北に葬り、枳籬を樹てて之を塋域と為す。又 都祭堂を立て、石を刊りて碑を立て、其の赴義の功を紀し、亡者の家をして四時の祭祀 所有らしむ。仍て其の門閭を表して、常に戰亡に二等を加へしむ。又 河內溫縣に命じて趙倫の戰死する士卒萬四千餘人を埋藏せしむ。穎 形は美なるも神は昏く、書を知らず、然るに器性は敦厚にして、事を志に委ね、故に其の美を成すを得たり。

〔一〕『毛詩』小雅 節南山之什 小弁に「行有死人。尚或墐之」とある。

現代語訳

成都王穎(司馬穎)は、字を章度といい、武帝の第十六子である。太康末(-二八九)封建され、邑は十万戸。後に越騎校尉を拝し、散騎常侍・車騎将軍を加えられた。賈謐がかつて皇太子と博(すごろく)をし、道を争った。司馬穎は同席しており、声を荒げて賈謐を叱り、「皇太子は、国の儲君である、賈謐はなぜ無礼を働くのか」と言った。賈謐は懼れ、このために司馬穎を転出させて平北将軍とし、鄴に出鎮させた。鎮北大将軍に転じた。
趙王倫(司馬倫)が簒奪すると、征北大将軍に進み、開府儀同三司を加えられた。斉王冏が義兵を挙げると、司馬穎は兵を動員して司馬冏に応じ、鄴令の盧志を左長史とし、頓丘太守の鄭琰(鄭球)を右長史とし、黄門郎の程牧を左司馬とし、陽平太守の和演を右司馬とした。兗州刺史の王彦・冀州刺史の李毅・督護の趙驤・石超らに前鋒を務めさせた。羽檄が及ぶところ、響応せぬ者はなかった。朝歌に至り、軍勢は二十余万となった。趙驤が黄橋に至り、司馬倫の将の士猗・許超に敗れ、死者は八千余人、将兵は驚き震えた。司馬穎は退いて朝歌を保とうとし、盧志・王彦の策を用い、さらに趙驤に兵八万を率い、王彦とともに進ませた。司馬倫はふたたび孫会・劉琨らを遣って三万人を率いさせ、士猗・許超と兵を合わせて趙驤らを防ぎとめ、精甲は日を反射し、鉄騎が先駆した。 士猗が戦いに勝つと、油断して傲慢な心が生じた。温県の十余里の手前で、再び大戦し、士猗らは潰走した。司馬穎はとうとう渡河し、勝ちに乗じて長駆した。左将軍(左衛将軍)の王輿が孫秀を殺し、趙王倫(司馬倫)を幽閉し、天子を迎えて正位に返した。司馬穎が京都に入ると、司馬倫を誅殺した。趙驤・石超らに斉王冏(司馬冏)の援軍となり張泓を陽翟で攻めさせ、張泓らは投降した。司馬冏が軍勢を率いて入洛すると、自分が大謀の首謀者であったから、威権をほしいままにした。司馬穎は大学を軍営としたが、入朝すると、天子が直接労ってくれた。司馬穎は拝謝して、「これは大司馬臣冏(司馬冏)の勲功です、私のおかげではありません」と言った。謁見が終わり、退出すると、軍営に還らず、太廟に謁し、東陽城門から出て、鄴に帰った。書簡を送って司馬冏に別れを告げると、司馬冏が大いに驚き、馳せて来て司馬穎を見送り、七里澗で追い付いた。司馬穎は馬車を止めて別れを言い、流涕したが、時事を話題にせず、ただ太妃の顔に病いの苦しみが表れていることだけを話し、これを見ていた人は司馬穎に心を寄せぬ者がなかった。
鄴に到着すると、詔して兼太尉王粋を遣わして九錫殊礼を加へ、位を大将軍・都督中外諸軍事・仮節・加黄鉞・録尚書事に進め、入朝不趨、剣履上殿とした。司馬穎は官号を受け取ったが、殊礼九錫を辞退した。上表して義挙を興した盧志・和演・董洪・王彦・趙驤ら五人を論功行賞し、みな封建して開国させ公侯とした。さらに上表し、「大司馬(司馬冏)が前に陽翟にいたとき、強い賊と長く対峙したので、万民は傷つき、飢えて凍えたため、急ぎ振給して下さい。郡県から車を手配し、一斉に河北の邸閣の米十五万斛を運び、陽翟の飢人に支給なさいませ」と言った。盧志は司馬穎に、「黄橋の戦死者は八千余人おり、夏の暑さを経て、遺骨が原野に晒され、痛ましい状況です。むかし周王は枯ちた骨を葬り、詩に『道に行き倒れがいれば、これを埋めてやる者がいる』と歌われました。ましてや彼らは王の事業のために死に到ったのです」と言った。司馬穎は棺を八千余つくり、成都国の資金を使って(死者の)衣服を作り、祭りを行い、黄橋の北に葬り、枳籬を飢えて墓域とした。また都祭堂を立て、石を削って碑を立て、彼らの義に赴いた功績を記し、死者の家族が四時の祭祀をする場所とした。彼らの故郷を報告し、戦士者は全て爵二等を加えた。さらに河内の温県に命じて趙倫(司馬倫)の軍の戦死者である一万四千余人を埋葬させた。司馬穎は外見が麗しかったが頭はにぶく、読み書きができず、しかし性格は敦厚であり、諸事を盧志に委ねたから、このような美事を成せたのである。

原文

及齊王冏驕侈無禮、於是眾望歸之。詔遣侍中馮蓀・中書令卞粹喻穎入輔政、并使受九錫。穎猶讓不拜。尋加太子太保。穎嬖人孟玖不欲還洛、又程太妃愛戀鄴都、以此議久不決。留義募將士既久、咸怨曠思歸、或有輒去者、乃題鄴城門云、大事解散蠶欲遽。請且歸、赴時務。昔以義來、今以義去。若復有急更相語。穎知不可留、因遣之、百姓乃安。及冏敗、穎懸執朝政、事無巨細、皆就鄴諮之。後張昌擾亂荊土、穎拜表南征、所在響赴。既恃功驕奢、百度弛廢、甚於冏時。
穎方恣其欲、而憚長沙王乂在內、遂與河間王顒表請誅后父羊玄之・左將軍皇甫商等、檄乂使就第。乃與顒將張方伐京都、以平原內史陸機為前鋒都督・前將軍・假節。穎次朝歌、每夜矛戟有光若火、其壘井中皆有龍象。進軍屯河南、阻清水為壘、造浮橋以通河北、以大木函盛石、沈之以繫橋、名曰石鼈。陸機戰敗、死者甚眾、機又為孟玖所譖、穎收機斬之、夷其三族、語在機傳。於是進攻京城。時常山人王輿合眾萬餘、欲襲穎。會乂被執、其黨斬輿降。穎既入京師、復旋鎮于鄴、增封二十郡、拜丞相。河間王顒表穎宜為儲副、遂廢太子覃、立穎為皇太弟、丞相如故、制度一依魏武故事、乘輿服御皆遷于鄴。表罷宿衞兵屬相府、更以王官宿衞。僭侈日甚、有無君之心、委任孟玖等、大失眾望。

訓読

齊王冏 驕侈して禮無きに及び、是に於て眾望 之に歸す。詔して侍中馮蓀・中書令卞粹をして遣して穎に入りて輔政するを喻さしめ、并せて九錫を受けしむ。穎 猶ほ讓して拜せず。尋いで太子太保を加ふ。穎が嬖人孟玖 洛に還るを欲せず、又 程太妃 鄴都を愛戀し、此の議を以て久しく決せず。義募の將士を留めて既に久しく、咸 曠(むな)しきを怨みて歸を思ひ、或いは輒ち去る者有り、乃ち鄴の城門に題して云はく、「大事 解散して蠶(かいこ) 遽(せま)らんと欲す。請ふ且に歸り、時務に赴く。昔 義を以て來り、今 義を以て去る。若し復た急有れば更に相 語れ」と。穎 留む可からざるを知り、因りて之を遣り、百姓 乃ち安ず。冏 敗るるに及び、穎 朝政を懸執し、事 巨細と無く、皆 鄴に就きて之を諮る。後に張昌 荊土を擾亂し、穎 表を拜して南征し、所在 響赴す。既に功を恃みて驕奢たりて、百度 弛廢し、冏の時より甚し。
穎 方に其の欲を恣にし、而るに長沙王乂 內に在るを憚り、遂に河間王顒と與に表して后父羊玄之・左將軍皇甫商等を誅するを請ひ、乂に檄して第に就かしむ。乃ち顒將張方と與に京都を伐ち、平原內史陸機を以て前鋒都督・前將軍・假節と為す。穎 朝歌に次り、每夜 矛戟 光り有りて火の若く、其の壘の井中 皆 龍象有り。進軍して河南に屯し、清水を阻みて壘を為り、浮橋を造りて以て河北に通じ、大木を以て盛石を函し、之を沈めて以て橋を繫ぎ、名づけて石鼈と曰ふ。陸機 戰敗し、死者 甚だ眾く、機 又 孟玖の譖る所と為り、穎 機を收めて之を斬り、其の三族を夷す、語は機傳に在り。是に於て進みて京城を攻む。時に常山人王輿 眾萬餘を合せ、穎を襲はんと欲す。會 乂 執へられ、其の黨 輿を斬りて降る。穎 既に京師に入り、復た旋して鄴に鎮し、封二十郡を增し、丞相を拜す。河間王顒 穎もて宜しく儲副と為るべしと表し、遂に太子覃を廢し、穎を立てて皇太弟と為し、丞相 故の如く、制度 一に魏武故事に依り、乘輿服御 皆 鄴に遷す。表して宿衞兵 相府に屬するを罷め、更めて王官を以て宿衞とす。僭侈 日に甚く、無君の心有り、孟玖等に委任し、大いに眾望を失ふ。

現代語訳

斉王冏(司馬冏)が驕慢で奢侈となり礼を失うと、衆望はこちら(司馬穎)に集まった。詔して侍中の馮蓀・中書令の卞粋を使者として司馬穎に(洛陽に)入って輔政せよと説得させ、あわせて九錫を与えた。司馬穎は辞退した。ほどなく太子太保を加えられた。司馬穎の嬖人(側近)の孟玖は洛陽に還るのを嫌がり、程太妃も鄴都を気に入っており、この議論は長く結論が出なかった。義の掛け声で募った将士を(鄴に)長く留めると、みな活躍の場がないことを怨んで(中央への)帰還を望み、ある者が立ち去るとき、鄴の城門に落書きし、「大いなる事業が解散し、蚕が迫ろうとしている。洛陽に帰って、時務のために働きたい。むかし義のために(司馬穎のもとに)来たが、いまは義のために去るのだ。もしも再び重大事があれば召集をかけてくれ」とあった。司馬穎は留められぬと知り、送り出したから、百姓は安心した。司馬冏が敗れると、司馬穎が朝政に関与し、事案の大小に拘わらず、すべて鄴に問い合わせがきた。のちに張昌が荊土で擾乱すると、司馬穎が命令を受けて南征し、各地で響くように兵が集まった。功績を立てると驕慢で豪奢となり、秩序や自制心が緩み、司馬冏よりもひどかった。
司馬穎はその欲望を解放し、しかし長沙王乂(司馬乂)が朝廷内にいるのを憚り、河間王顒(司馬顒)とともに上表して皇后の父である羊玄之・左将軍の皇甫商らの誅殺を要請し、司馬乂に檄を送って邸宅に行かせた。司馬顒の将の張方とともに洛陽を攻撃し、平原内史の陸機を前鋒都督・前将軍・仮節とした。司馬穎が朝歌に停泊し、夜ごと矛戟が光って火のようで、その基地の井戸に龍の象が現れた。進軍して河南に駐屯し、清水をせき止めて防塁を作り、浮橋を造って河北からの運送路とし、大木で盛石をブロック状に囲み、これを沈めて橋を繋ぎ、石鼈と名付けた。陸機が敗戦し、死者はとても多く、さらに陸機は孟玖に譏られ、司馬穎は陸機を捕らえて斬り、夷三族としたが、これは陸機伝を参照のこと。ここにおいて進んで(洛陽の)京城を攻めた。このとき常山の人である王輿が一万余の軍勢を合わせ、司馬穎を襲おうとした。司馬乂が捕らわれると、仲間が王輿を斬って降った。司馬穎が京師に入ったが、ほどなく引き返して鄴を鎮守し、封二十郡を増やし、丞相を拝した。河間王顒(司馬顒)を儲副とすべきと上表し、ついに太子覃(司馬覃)を廃位し、司馬穎を皇太弟に立て、丞相は従来通りとし、制度はもっぱら魏武故事(曹操の前例)に依り、乗輿や服御のような器物は全て鄴に移した。上表して宿衛の兵は相府の所属ではなく、王官(王国の所属)とした。奢侈が日ごとに甚だしく、君主を蔑ろにする心があり、孟玖らに政治を丸投げし、大いに世論の期待を裏切った。

原文

永興初、左衞將軍陳眕・殿中中郎逯苞・成輔及長沙故將上官巳等、奉大駕討穎、馳檄四方、赴者雲集。軍次安陽、眾十餘萬、鄴中震懼。穎欲走、其掾步熊有道術、曰、勿動。南軍必敗。穎會其眾問計、東安王繇乃曰、天子親征、宜罷甲、縞素出迎請罪。司馬王混・參軍崔曠勸穎距戰、穎從之、乃遣奮武將軍石超率眾五萬、次于蕩陰。眕二弟匡・規自鄴赴王師、云、鄴中皆已離散。由是不甚設備。超眾奄至、王師敗績、矢及乘輿、侍中嵇紹死於帝側、左右皆奔散、乃棄天子於藳中。超遂奉帝幸鄴。穎改元建武、害東安王繇、署置百官、殺生自己、立郊於鄴南。
1.(平北)〔安北〕將軍王浚・寧北將軍東嬴公騰殺穎所置幽州刺史和演、穎徵浚、浚屯冀州不進、與騰及烏丸・2.羯朱襲穎。候騎至鄴、穎遣幽州刺史王斌及石超・李毅等距浚、為羯朱等所敗。鄴中大震、百僚奔走、士卒分散。穎懼、將帳下數十騎、擁天子、與中書監盧志單車而走、五日至洛。羯朱追至朝歌、不及而還。河間王顒遣張方率甲卒二萬救穎、至洛、方乃挾帝、擁穎及豫章王并高光・盧志等歸于長安。顒廢穎歸藩、以豫章王為皇太弟。
穎既廢、河北思之、鄴中故將公師藩・汲桑等起兵以迎穎、眾情翕然。顒復拜穎鎮軍大將軍・都督河北諸軍事、給兵千人、鎮鄴。穎至洛、而東海王越率眾迎大駕、所在鋒起。穎以北方盛強、懼不可進、自洛陽奔關中。值大駕還洛、穎自華陰趨武關、出新野。帝詔鎮南將軍劉弘・南中郎將劉陶收捕穎、於是棄母妻、單車與二子廬江王普・中都王廓渡河赴朝歌、收合故將士數百人、欲就公師藩。頓丘太守馮嵩執穎及普・廓送鄴、范陽王虓幽之、而無他意。屬虓暴薨、虓長史劉輿見穎為鄴都所服、慮為後患、祕不發喪、偽令人為臺使、稱詔夜賜穎死。穎謂守者田徽曰、范陽王亡乎。徽曰、不知。穎曰、卿年幾。徽曰、五十。穎曰、知天命不。徽曰、不知。穎曰、我死之後、天下安乎不安乎。我自放逐、於今三年、身體手足不見洗沐、取數斗湯來。其二子號泣、穎敕人將去。乃散髮東首臥、命徽縊之、時年二十八。二子亦死。鄴中哀之。
穎之敗也、官屬並奔散、惟盧志隨從不怠、論者稱之。其後汲桑害東嬴公騰、稱為穎報讎、遂出穎棺、載之於軍中、每事啟靈、以行軍令。桑敗、棄棺於故井中。穎故臣收之、改葬於洛陽、懷帝加以縣王禮。 穎死後數年、開封間有傳穎子年十餘歲、流離百姓家、東海王越遣人殺之。永嘉中、立東萊王蕤子遵為穎嗣、封華容縣王。後沒於賊、國除。

1.中華書局本に従い、改める。
2.『水経注』濁漳水は「渴末」に作る。『晋書』王浚傳は「渴末」に作る。

訓読

永興初、左衞將軍陳眕・殿中中郎逯苞・成輔及び長沙故將上官巳等、大駕を奉じて穎を討ち、檄を四方に馳せ、赴く者 雲集す。軍 安陽に次り、眾は十餘萬、鄴中 震懼す。穎 走らんと欲し、其の掾步熊 道術有り、曰く、「動く勿れ。南軍 必ず敗れん」と。穎 其の眾に會して計を問ふに、東安王繇 乃ち曰く、「天子 親征す、宜しく甲を罷め、縞素に出迎して罪を請ふべし」と。司馬王混・參軍崔曠 穎に距戰を勸め、穎 之に從はず、乃ち奮武將軍石超を遣はして眾五萬を率ゐ、蕩陰に次る。眕の二弟匡・規 鄴自り王師に赴き、云はく、「鄴中 皆 已に離散す」と。是に由り甚だしくは設備せず。超の眾 奄(には)かに至り、王師 敗績し、矢 乘輿に及び、侍中嵇紹 帝の側に死し、左右 皆 奔散し、乃ち天子を藳中に棄つ。超 遂に帝を奉じて鄴に幸す。穎 建武と改元し、東安王繇を害し、百官を署置し、殺生 己自りし、郊を鄴南に立つ。
安北將軍王浚・寧北將軍東嬴公騰 穎の置く所の幽州刺史和演を殺し、穎 浚を徵し、浚 冀州に屯して進まず、騰及び烏丸・羯朱と與に穎を襲ふ。候騎 鄴に至り、穎 幽州刺史王斌及び石超・李毅等を遣はして浚を距ぎ、羯朱等の敗る所と為る。鄴中 大いに震へ、百僚 奔走し、士卒 分散す。穎 懼れ、帳下數十騎を將ゐ、天子を擁し、中書監盧志と與に單車もて走り、五日にして洛に至る。羯朱 追ひて朝歌に至り、及ばずして還る。河間王顒 張方を遣はして甲卒二萬を率ゐて穎を救ひ、洛に至り、方 乃ち帝を挾み、穎及び豫章王并びに高光・盧志等を擁して長安に歸る。顒 穎を廢して歸藩せしめ、豫章王を以て皇太弟と為す。
穎 既に廢せられ、河北 之を思ひ、鄴中の故將公師藩・汲桑等 兵を起して以て穎を迎へ、眾情 翕然とす。顒 復た穎に鎮軍大將軍・都督河北諸軍事を拜し、兵千人を給ひ、鄴に鎮せしむ。穎 洛に至り、而るに東海王越 眾を率ゐて大駕を迎へ、所在に鋒起す。穎 北方の盛強たるを以て、懼れて進む可からず、洛陽自り關中に奔る。大駕 洛に還るに值り、穎 華陰自り武關に趨り、新野に出づ。帝 鎮南將軍劉弘・南中郎將劉陶に詔して穎を收捕せしめ、是に於て母妻を棄て、單車もて二子の廬江王普・中都王廓と與に渡河して朝歌に赴き、故將士數百人を收合し、公師藩に就かんと欲す。頓丘太守馮嵩 穎及び普・廓を執へて鄴に送り、范陽王虓 之を幽し、而るに他意無し。屬(つづ)きて虓 暴かに薨じ、虓の長史たる劉輿 穎 鄴都の服する所為るを見、後患と為るを慮り、祕して喪を發せず、偽りて人をして臺使と為らしめ、詔と稱して夜に穎に死を賜ふ。穎 守者田徽に謂ひて曰く、「范陽王 亡きか」と。徽曰く、「知らず」と。穎曰く、「卿の年 幾ぞ」と。徽曰く、「五十なり」と。穎曰く、「天命を知るや不や」と。徽曰く、「知らず」と。穎曰く、「我 死するの後、天下 安なるか安ぜざるか。我 放逐自り、今まで三年、身體手足 洗沐せられず、數斗の湯を取りて來れ」と。其の二子 號泣し、穎 人に敕して將て去らしむ。乃ち散髮し東首して臥し、命じて徽もて之を縊り、時に年二十八。二子 亦 死す。鄴中 之を哀しむ。
穎の敗るるや、官屬 並びに奔散し、惟だ盧志のみ隨從して怠らず、論者 之を稱ふ。其の後 汲桑 東嬴公騰を害するに、穎の為に報讎すと稱し、遂に穎の棺を出し、之を軍中に載せ、每事 靈に啟するに、以て軍令を行ふ。桑 敗れ、棺を故井中に棄つ。穎の故臣 之を收め、改めて洛陽に葬り、懷帝 加ふるに縣王の禮を以てす。 穎 死して後の數年、開封間に傳有りて穎の子にして年十餘歲、百姓の家を流離し、東海王越 人を遣りて之を殺す。永嘉中、東萊王蕤の子遵を立てて穎の嗣と為し、華容縣王に封ず。後に賊に沒し、國 除かる。

現代語訳

永興初(三〇〇-)、左衛将軍の陳眕・殿中中郎の逯苞・成輔及び長沙故将の上官巳らは、大駕(恵帝)を奉って司馬穎を討とうと、檄を四方に送り、賛同者が雲のように集まった。軍が安陽に停泊し、軍勢は十余万にのぼり、鄴の城中は震え懼れた。司馬穎は逃亡を考えたが、彼の掾である歩熊が道術を使い、「動いてはいけません。南軍は必ず敗れます」と言った。司馬穎はその配下を集めて計略を問い、東安王繇(司馬繇)は、「天子が親征するのです、武装解除し、縞素(喪服)で出迎えて罪を請いなさい」と言った。司馬の王混・参軍の崔曠は司馬穎に防戦を勧めたが、司馬穎はこれに従わず(攻勢に出て)、奮武将軍の石超を派遣して兵五万萬を率い、、蕩陰に駐屯させた。陳眕の二人の弟である陳匡・陳規は、鄴から天子の軍に赴き、「鄴の城中は皆がすでに離散しました」と告げた。そこで油断が生じた。石超の軍勢は突然襲来し、天子の軍は敗れ、矢が乗輿に及び、侍中の嵇紹が恵帝のそばで死に、近習らはみな逃げ散り、天子をわらの中に棄てた。石超は皇帝を奉って鄴に行幸させた。司馬穎は建武と改元し、東安王繇(司馬繇)を殺害し、百官を設置し、生殺与奪を握り、郊を鄴城の南に立てた。
安北将軍の王浚・寧北将軍の東嬴公騰(司馬騰)は司馬穎が任命した幽州刺史の和演を殺し、司馬穎が王浚を徴すと、王浚は冀州に留まって進まず、司馬騰及び烏丸・羯朱とともに司馬穎を襲撃した。候騎が鄴に至り、司馬穎は幽州刺史の王斌及び石超・李毅らを遣わして王浚を防ぎ、羯朱らに敗れた。鄴の城中は大いに震え、百僚は奔走し、士卒は分散した。司馬穎は懼れ、帳下の数十騎を率い、天子を連れて、中書監の盧志とともに馬車一台で走り、五日で洛陽に至った。羯朱が追って朝歌に至ったが、追いつけずに還った。河間王顒(司馬顒)が張方を遣わして甲卒二万を率いて司馬穎を救い、洛陽に至ると、張方は恵帝を手ばさみ、司馬穎及び豫章王(懐帝)と高光・盧志らを連れて長安に帰った。司馬顒は司馬穎を廃して帰藩させ、豫章王を皇太弟とした。
司馬穎は(皇太弟を)廃位されると、河北は彼を慕い、鄴中の故将である公師藩・汲桑らが兵を起こして司馬穎を迎え、人々は一致団結した。司馬顒は再び司馬穎に鎮軍大将軍・都督河北諸軍事を拝させて、兵千人を給い、鄴に出鎮させた。司馬穎が洛陽に至ったころ、東海王越(司馬越)が軍を率いて大駕を迎えようとし、各地が鋒起した。司馬穎は北方(の司馬越派)が盛強であるから、懼れて進めず、洛陽から関中に逃げた。大駕が洛陽に還ったとき、司馬穎は華陰から武関に走り、新野に出た。恵帝は鎮南将軍の劉弘・南中郎将の劉陶に詔して司馬穎を指名手配とし、そこで(司馬穎は)母と妻を棄て、馬車一台で二子の廬江王普(司馬普)・中都王廓(司馬廓)とともに渡河して朝歌に赴き、もと配下の将士数百人をかき集め、公師藩を頼ろうとした。頓丘太守の馮嵩は司馬穎及び普・廓を捕らえて鄴に送り、范陽王虓(司馬虓)がこれを幽閉したが、危害を加えるつもりはなかった。この直後に司馬虓が突然薨じ、司馬虓の長史である劉輿は司馬穎が鄴都(の住民)から帰服されているのを見て、後の脅威となることを心配し、(司馬虓の)死を隠して喪を発せず、偽って人を台使(宮殿からの使者)に仕立て、詔と称して夜に司馬穎に死を賜った。司馬穎は守り役の田徽に、「范陽王が死んだか」と聞いた。田徽は、「分かりません」。司馬穎、「あなたは何歳になったか」。田徽、「五十です」。司馬穎、「天命を知ったか否か」。田徽、「知りません」。司馬穎は、「私が死んだ後、天下は安定するか不安定になるか。私は放逐されてから、今日まで三年、身体と手足はを洗い清めたことがない、数斗の湯を持ってこい」と言った。彼の二子が号泣するので、司馬穎は人に命じて遠ざけた。散髪して東に向いて横たわり、命じて徽(ひも)を持って首を縛らせ、時に年は二十八。二子もまた死んだ。鄴中はこれを哀しんだ。
司馬穎が敗れると、官属は逃げ散ったが、ただ盧志のみが随従して態度を変えず、論者はこれを称賛した。その後に汲桑が東嬴公騰(司馬騰)を殺害するとき、司馬穎のために報讎すると唱え、とうとう司馬穎の棺を担ぎ出し、これを軍中に運びこみ、事あるごとに霊に報告し、(司馬穎の名義で)軍令を行った。汲桑が敗れると、棺は古井戸に捨てられた。司馬穎の旧臣はこれを収容し、改めて洛陽に葬り、懐帝は県王の礼を加えた。 司馬穎が死んでから数年後、開封あたりに風聞があって司馬穎の子という十余歳の子がおり、いろいろな家をたらい回しにされたが、東海王越(司馬越)は人を遣わして殺した。永嘉中(三〇七-三一三)、東萊王蕤(司馬蕤)の子である司馬遵を立てて司馬穎の継嗣とし、華容県王に封建した。後に賊に捕らわれ、国は除かれた。

河間王顒

原文

河間王顒字文載、安平獻王孚孫、太原烈王瓌之子也。初襲父爵、咸寧二年就國。三年、改封河間。少有清名、輕財愛士。與諸王俱來朝、武帝歎顒可以為諸國儀表。元康初、為北中郎將、監鄴城。九年、代梁王肜為平西將軍、鎮關中。石函之制、非親親不得都督關中、顒於諸王為疎、特以賢舉。
及趙王倫篡位、齊王冏謀討之。前安西參軍夏侯奭自稱侍御史、在始平合眾、得數千人、以應冏、遣信要顒。顒遣主簿房陽・河間國人張方討擒奭、及其黨十數人、於長安市腰斬之。及冏檄至、顒執冏使、送之於倫。倫徵兵於顒、顒遣方率關右健將赴之。方至華陰、顒聞二王兵盛、乃加長史李含龍驤將軍、領督護席薳等追方軍迴、以應二王。義兵至潼關、而倫・秀已誅、天子反正、含・方各率眾還。及冏論功、雖怒顒初不同、而終能濟義、進位侍中・太尉、加三賜之禮。
後含為翊軍校尉、與冏參軍皇甫商・司馬趙驤等有憾、遂奔顒、詭稱受密詔伐冏、因說利害。顒納之、便發兵、遣使邀成都王穎。以含為都督、率諸軍屯陰盤、前鋒次于新安、去洛百二十里。檄長沙王乂討冏。及冏敗、顒以含為河南尹、使與馮蓀・卞粹等潛圖害乂。商知含前矯妄及與顒陰謀、具以告乂。乂乃誅含等。顒聞含死、即起兵以討商為名、使張方為都督、領精卒七萬向洛。方攻商、商距戰而潰、方遂進攻西明門。乂率中軍左右衞擊之、方眾大敗、死者五千餘人。方初於駃水橋西為營、於是築壘數重、外引廩穀、以足軍資。乂復從天子出攻方、戰輒不利。及乂死、方還長安。詔以顒為太宰・大都督・雍州牧。顒廢皇太子覃、立成都王穎為太弟、改年、大赦。

訓読

河間王顒 字は文載、安平獻王孚の孫にして、太原烈王瓌の子なり。初め父の爵を襲ひ、咸寧二年 國に就く。三年、改めて河間に封ぜらる。少くして清名有り、財を輕んじ士を愛す。諸王と俱に來朝し、武帝 顒 以て諸國の儀表と為る可きを歎ず。元康初、北中郎將と為り、鄴城を監す。九年、梁王肜に代はりて平西將軍と為り、關中に鎮す。石函の制に、親親に非ずんば關中を都督するを得ず、顒 諸王よりも疎為れば、特に賢を以て舉げらる。
趙王倫 篡位するに及び、齊王冏 之を討たんと謀る。前安西參軍夏侯奭 自ら侍御史を稱し、始平に在りて眾を合し、數千人を得て、以て冏に應じ、信を遣はして顒を要む。顒 主簿房陽・河間國人張方を遣はして奭を討ち、及び其の黨十數人を擒へ、長安の市に於て之を腰斬す。冏の檄 至るに及び、顒 冏の使を執へ、之を倫に送る。倫 兵を顒に徵し、顒 方を遣はして關右の健將を率ゐて之に赴かしむ。方 華陰に至り、顒 二王の兵 盛なるを聞き、乃ち長史李含に龍驤將軍を加へ、領督護席薳等 方を追ひて軍 迴し、以て二王に應ず。義兵 潼關に至り、而して倫・秀 已に誅せられ、天子 正に反り、含・方 各々眾を率ゐて還る。冏 功を論ずるに及び、顒 初め同せざるに怒ると雖も、而るに終に能く義を濟はば、位を侍中・太尉に進め、三賜の禮を加ふ。
後に含 翊軍校尉と為り、冏の參軍皇甫商・司馬趙驤等と與に憾有り、遂に顒に奔り、詭(いつは)りて密詔を受くると稱して冏を伐ち、因りて利害を說く。顒 之を納れ、便ち兵を發し、使を遣はして成都王穎を邀ふ。含を以て都督と為し、諸軍を率ゐて陰盤に屯し、前鋒 新安に次り、洛を去ること百二十里。長沙王乂に檄して冏を討つ。冏 敗るるに及び、顒 含を以て河南尹と為し、馮蓀・卞粹等と與に潛かに乂を害するを圖らしむ。商 含の前に矯妄もて顒と陰かに謀るに及ぶを知り、具さに以て乂に告ぐ。乂 乃ち含等を誅す。顒 含の死するを聞き、即ち起兵して以て商を討つを名と為し、張方をして都督と為し、精卒七萬を領して洛に向はしむ。方 商を攻め、商 距戰するとも潰し、方 遂に進みて西明門を攻む。乂 中軍の左右衞を率ゐて之を擊ち、方の眾 大敗し、死者五千餘人なり。方 初め駃水橋の西に於いて營を為し、是に於て壘を築くこと數重、外に廩穀を引き、以て軍資に足す。乂 復た天子に從ひて出でて方を攻め、戰ふとも輒ち利あらず。乂 死するに及び、方 長安に還る。詔して顒を以て太宰・大都督・雍州牧と為す。顒 皇太子覃を廢し、成都王穎を立てて太弟と為し、改年し、大赦す。

現代語訳

河間王顒(司馬顒)は字を文載といい、安平献王孚(司馬孚)の孫であり、太原烈王瓌(司馬瓌)の子である。はじめ父の爵位を襲い、咸寧二(二七六)年に国に行った。咸寧三(二七七)年、改めて河間王に封建された。若いときから精美という名声があり、財を軽んじて士を愛した。諸王とともに来朝し、武帝が司馬顒は諸国の手本となれると感嘆した。元康初(二九一-)、北中郎将となり、鄴城を監した。元康九(二九九)年、梁王肜(司馬肜)に代わって平西将軍となり、関中に鎮した。石函の制に、皇帝に極めて血縁が近い者しか関中を都督できないとあり、司馬顒は諸王よりも血縁が遠いが、特別に賢さによって抜擢されたのである。
趙王倫(司馬倫)が帝位を簒奪すると、斉王冏(司馬冏)はこの討伐を計画した。前安西参軍の夏侯奭は自ら侍御史を称し、始平で軍勢を集め、数千人を得て、司馬冏に呼応し、書簡を司馬顒に送って(盟主になれと)求めた。司馬顒は主簿の房陽・河間国人の張方を遣わして夏侯奭を討ち、彼の党与の十数人を捕らえ、長安の市場で腰斬にした。司馬冏の檄文が至ると、司馬顒は司馬冏の使者を捕らえ、司馬倫に送った。司馬倫が司馬顒から兵を徴し、司馬顒は(司馬倫の命令に従い)張方を遣わして関右の健将を率いて赴かせた。張方が華陰に至ると、司馬顒は二王(司馬冏ら)の兵が盛んであると聞き、長史の李含に龍驤将軍を加え、領督護の席薳らに張方を追わせて軍を引き返させ、(裏切って)二王に呼応した。義兵が潼関に至ると、司馬倫・孫秀はすでに誅殺され、天子は正位に復し(恵帝が帝位に戻り)、李含・張方はそれぞれの軍勢を率いて(長安に)帰還した。司馬冏が功績を論じるとき、司馬顒が当初は敵対していたことに怒ったが、結局は味方をしたので、位を侍中・太尉に進め、三賜の礼を加えた。
のちに李含が翊軍校尉となったが、司馬冏の参軍である皇甫商・司馬の趙驤らと対立して怨みが生じ、とうとう司馬顒のもとに走り、司馬冏を討伐せよという密詔を受けたと詐り、その利害を説いた。司馬顒はこれを聞き入れ、すぐに兵を発し、使者を遣わして成都王穎(司馬穎)を味方にしようとした。李含を都督とし、諸軍を率いて陰盤に駐屯し、前鋒が新安に停泊して、洛陽から百二十里に接近した。長沙王乂(司馬乂)に司馬冏を討てと檄文を送った。司馬冏が敗れると、司馬顒は李含を河南尹とし、馮蓀・卞粋らとともに司馬乂の殺害を計画させた。(司馬冏の部下であった)皇甫商は李含が以前にも偽装をして司馬顒とともに陰謀をめぐらせたことを知り、つぶさに司馬乂に告げた。司馬乂は李含らを誅殺した。司馬顒は李含が死んだと聞き、すぐに起兵して皇甫商を討つことを名分とし、張方を都督とし、精兵七万を領して洛陽に向かわせた。張方が皇甫商を攻め、皇甫商は防戦したが潰走し、張方はさらに進んで西明門を攻めた。司馬乂は中軍の左右衛を率いてこれを撃ち、張方の軍は大敗し、死者は五千余人であった。張方は初め駃水橋の西において軍営を作り、ここにおいて防塁を数重に築き、外から備蓄の穀物を運びこみ、軍資に足した。司馬乂はまた天子に従って張方を攻めたが、戦うたびに敗れた。司馬乂が死ぬと、張方は長安に還った。詔して司馬顒を太宰・大都督・雍州牧とした。司馬顒は皇太子覃を廃位し、成都王穎を立てて太弟とし、年号を改め、大赦した。

原文

左衞將軍陳眕奉天子伐穎、顒又遣方率兵二萬救鄴。天子已幸鄴。方屯兵洛陽。及王浚等伐穎、穎挾天子歸洛陽。方將兵入殿中、逼帝幸其壘、掠府庫、將焚宮廟以絕眾心。盧志諫、乃止。方又逼天子幸長安。顒乃選置百官、改秦州為定州。及東海王越起兵徐州、西迎大駕、關中大懼、方謂顒曰、方所領猶有十餘萬眾、奉送大駕還洛宮、使成都王反鄴、公自留鎮關中、方北討博陵。如此、天下可小安、無復舉手者。顒慮事大難濟、不許。乃假劉喬節、進位鎮東大將軍、遣成都王穎總統1.樓褒・王闡等諸軍、據河橋以距越。王浚遣督護劉根、將三百騎至河上。闡出戰、為根所殺。穎頓軍張方故壘、范陽王虓遣鮮卑騎與平昌・博陵眾襲河橋、樓褒西走、追騎至新安、道路死者不可勝數。
初、越以張方劫遷車駕、天下怨憤、唱義與山東諸侯剋期奉迎、先遣說顒、令送帝還都、與顒分陝而居。顒欲從之、而方不同。及東軍大捷、成都等敗、顒乃令方親信將郅輔夜斬方、送首以示東軍。尋變計、更遣刁默守潼關、乃咎輔殺方、又斬輔。顒先遣將呂朗等據滎陽、范陽王虓司馬劉琨以方首示朗、於是朗降。時東軍既盛、破刁默以入關、顒懼、又遣馬瞻・郭偉於霸水禦之、瞻等戰敗散走。顒乘單馬、逃于太白山。東軍入長安、大駕旋、以太弟太保梁柳為鎮西將軍、守關中。馬瞻等出詣柳、因共殺柳於城內。瞻等與始平太守梁邁合從、迎顒於南山。顒初不肯入府、長安令蘇眾・記室督朱永勸顒表稱柳病卒、輒知方事。弘農太守裴廙・秦國內史賈龕・安定太守賈疋等起義討顒、斬馬瞻・梁邁等。東海王越遣督護麋晃率國兵伐顒。至鄭、顒將牽秀距晃、晃斬秀、并其二子。義軍據有關中、顒保城而已。
永嘉初、詔書以顒為司徒、乃就徵。南陽王模遣將梁臣於新安雍谷車上扼殺之、并其三子。詔以彭城元王植子融為顒嗣、改封樂成縣王。薨、無子。建興中、元帝又以彭城康王釋子欽為融嗣。

1.「樓褒」は、恵帝紀は「樓裒」に作る。

訓読

左衞將軍陳眕 天子を奉じて穎を伐ち、顒 又 方をして兵二萬を率ゐて鄴を救はしむ。天子 已に鄴に幸す。方 兵を洛陽に屯す。王浚等 穎を伐つに及び、穎 天子を挾みて洛陽に歸る。方 兵を將ゐて殿中に入り、帝に其の壘に幸するを逼り、府庫を掠め、將に宮廟を焚さんとして以て眾心を絕つ。盧志 諫め、乃ち止む。方 又 天子に長安に幸するを逼る。顒 乃ち選びて百官を置き、秦州を改めて定州と為す。東海王越 徐州に起兵し、西のかた大駕を迎ふるに及び、關中 大いに懼れ、方 顒に謂ひて曰く、「方の領する所 猶ほ十餘萬の眾有り、奉りて大駕を送りて洛宮に還り、成都王をして鄴に反らしめ、公 自ら留まりて關中に鎮し、方 北のかた博陵を討つ。此の如くんば、天下 小安す可し、復た手を舉ぐる者無し」と。顒 事の大にして濟ひ難きを慮り、許さず。乃ち劉喬に節を假し、位を鎮東大將軍に進め、成都王穎を遣はして樓褒・王闡等の諸軍を總統し、河橋に據りて以て越を距ぐ。王浚 督護劉根を遣はし、三百騎を將ゐて河上に至る。闡 出でて戰ひ、根の殺す所と為る。穎 軍を張方の故壘に頓し、范陽王虓 鮮卑騎を遣はして平昌・博陵の眾と與に河橋を襲ひ、樓褒 西のかた走り、追騎 新安に至り、道路に死する者 勝げて數ふ可からず。
初め、越 張方の車駕を劫遷するを以て、天下 怨憤し、義を唱へて山東の諸侯と與に剋期して奉迎せんとし、先に遣はして顒に說くに、帝を送りて都に還らしめ、顒と陝を分けて居さんとす。顒 之に從はんと欲し、而るに方 同せず。東軍 大捷し、成都等 敗るるに及び、顒 乃ち方の親信たる將郅輔をして夜に方を斬らしめ、首を送りて以て東軍に示す。尋いで計を變じ、更めて刁默を遣はして潼關を守り、乃ち輔の方を殺すを咎め、又 輔を斬る。顒 先に將呂朗等を遣はして滎陽に據らしめ、范陽王虓の司馬劉琨 方の首を以て朗に示し、是に於て朗 降る。時に東軍 既に盛んにして、刁默を破りて以て關に入り、顒 懼れ、又 馬瞻・郭偉を霸水に遣はして之を禦ぎ、瞻等 戰ひ敗れて散走す。顒 單馬に乘り、太白山に逃ぐ。東軍 長安に入り、大駕 旋し、太弟太保たる梁柳を以て鎮西將軍と為し、關中を守らしむ。馬瞻等 出でて柳に詣り、因りて共に柳を城內に於て殺す。瞻等 始平太守梁邁と合從し、顒を南山に迎ふ。顒 初め入府を肯ぜず、長安令の蘇眾・記室督の朱永 顒に表して柳 病卒すと稱するを勸め、輒ち方の事を知る。弘農太守裴廙・秦國內史賈龕・安定太守賈疋等 起義して顒を討ち、馬瞻・梁邁等を斬る。東海王越 督護麋晃を遣はして國兵を率ゐて顒を伐つ。鄭に至り、顒將の牽秀 晃を距み、晃 秀を斬り、其の二子を并す。義軍 據りて關中を有ち、顒 城を保つのみ。
永嘉初、詔書に顒を以て司徒と為し、乃ち就徵せしむ。南陽王模 將梁臣を新安雍谷に遣はして車上に之を扼殺し、其の三子を并す。詔に彭城元王植の子融を以て顒の嗣と為し、改めて樂成縣王に封ず。薨じ、子無し。建興中、元帝 又 彭城康王釋子の欽を以て融の嗣と為す。

現代語訳

左衛将軍の陳眕は天子を奉じて司馬穎を伐ち、司馬顒はまた張方に兵二万を率いて鄴を救援させた。天子はすでに鄴に行幸していた。張方は兵を洛陽に駐屯させた。王浚らが司馬穎を伐つと、司馬穎は天子を手挟んで洛陽に帰った。張方は兵を率いて殿中に入り、恵帝に自分の防塁に来るように逼り、府庫を掠奪し、宮廟を焼き払って人々の(洛陽への)期待を断とうとした。盧志が諫め、中止した。張方は天子に長安へ来るよう逼った。司馬顒は人員を選別して百官を置き、秦州を改めて定州とした。東海王越(司馬越)が徐州で起兵し、西のかた大駕を迎えると宣言したので、関中は大いに懼れ、張方は司馬顒に、「私が領する兵はまだ十余万おります、天子の大駕を奉戴して洛陽宮に帰り、成都王(司馬穎)を鄴に帰らせ、あなたが関中に留まって鎮守し、私が北のかた博陵を討ちましょう。そうすれば、天下は小康状態となり、決起する者は出ません」と言った。司馬顒は内容が壮大であり成功確率が低いことを心配し、許さなかった。劉喬に節を仮し、位を鎮東大将軍に進め、成都王穎を派遣して楼褒・王闡らの諸軍を総統させ、河橋を防衛拠点にして司馬越を防がせた。王浚は督護の劉根を遣わし、三百騎を率いて河上に至った。王闡が出て戦ったが、劉根に殺された。司馬穎は張方が以前使っていた防塁に駐屯し、范陽王虓(司馬虓)は鮮卑の騎兵を遣わして平昌・博陵の軍勢とともに河橋を襲い、楼褒は西のほうに逃げ、追撃の騎兵が新安に至り、道中で死する者は数え切れなかった。
これより先、司馬越は張方が車駕を連れ去ったので、天下が怨み憤り、義を唱えて山東の諸侯とともに時期を約束して奉迎しようといい、先に使者を送って(司馬顒に)を説得し、恵帝を送って洛陽に還し、司馬顒とは陝を境界線として割拠しようと言った。司馬顒はこれに従おうとしたが、張方が反対した。東軍(司馬越)が大勝し、成都王らが敗れると、司馬顒は張方が信任している将である郅輔に夜に張方を斬らせ、首を東軍に送って(抵抗の意思がないことを)示した。すぐに計画を変更し、改めて刁黙を遣わ潼関を守り、郅輔が張方を殺したことを咎め、郅輔も斬ってしまった。司馬顒は先に将の呂朗らを遣わして滎陽を拠点としたが、范陽王虓(司馬虓)の司馬である劉琨が張方の首を呂朗に示し、これにより呂朗は降服した。このとき東軍は勢いが盛んなので、刁默を破って潼関に入ると、司馬顒は懼れ、さらに馬瞻・郭偉を霸水に遣わしてこれを防いだが、馬瞻らは敗戦して逃げ散った。司馬顒は単騎で、太白山に逃げた。東軍が長安に入り、大駕(恵帝)は洛陽に還り、太弟太保である梁柳を鎮西将軍とし、関中を守らせた。馬瞻らが梁柳のもとに出頭したが、梁柳を城内で殺した。馬瞻らは始平太守の梁邁と連携し、司馬顒を南山に迎えた。司馬顒は初めは入府を渋ったが、長安令の蘇衆・記室督の朱永が司馬顒をそそのかして梁柳は病死したと上表すればよいと勧め、張方のことを知った。弘農太守の裴廙・秦国内史の賈龕・安定太守の賈疋らは起義して司馬顒を討ち、馬瞻・梁邁らを斬った。東海王越は督護の麋晃を遣わして国兵を率いて司馬顒を討伐した。鄭に至り、司馬顒の将である牽秀が麋晃を防いだが、麋晃が牽秀を斬り、その二子も同様とした。義軍が関中に拠って領有し、司馬顒は一城を保つだけであった。
永嘉初(三〇七-)、詔書によって司馬顒を司徒とし、中央に就官させ徴した。南陽王模(司馬模)は将の梁臣を新安の雍谷に遣わして車上で彼を扼殺し、その三子も同様とした。詔によって彭城元王植(司馬植)の子である司馬融を司馬顒の継嗣とし、改めて楽成県王に封建した。薨じると、子が無かった。建興中(三一三-三一七)、元帝はまた彭城康王釈(司馬釈)の子である司馬欽を司馬融の継嗣とした。

東海王越

原文

東海孝獻王越字元超、1.高密王泰之次子也。少有令名、謙虛持布衣之操、為中外所宗。初以世子為騎都尉、與駙馬都尉楊邈及琅邪王伷子繇俱侍講東宮、拜散騎侍郎、歷左衞將軍、加侍中。討楊駿有功、封五千戶侯。遷散騎常侍・輔國將軍・尚書右僕射、領游擊將軍。復為侍中、加奉車都尉、2.給溫信五十人、別封東海王、食六縣。永康初、為中書令、徙侍中、遷司空、領中書監。
成都王穎攻長沙王乂、乂固守洛陽、殿中諸將及三部司馬疲於戰守、密與左衞將軍朱默夜收乂別省、逼越為主、啟惠帝免乂官。事定、越稱疾遜位。帝不許、加守尚書令。3.太安初、帝北征鄴、以越為大都督。六軍敗、越奔下邳、徐州都督・東平王楙不納、越徑還東海。成都王穎以越兄弟宗室之美、下寬令招之、越不應命。帝西幸、以越為太傅、與太宰顒夾輔朝政、讓不受。東海中尉劉洽勸越發兵以備穎、越以洽為左司馬、尚書曹馥為軍司。既起兵、楙懼、乃以州與越。越以司空領徐州都督、以楙領兗州刺史。越三弟並據方任征伐、輒選刺史守相、朝士多赴越。而河間王顒挾天子、發詔罷越等、皆令就國。越唱義奉迎大駕、還復舊都、率甲卒三萬、西次蕭縣。豫州刺史劉喬不受越命、4.遣子祐距之、越軍敗。范陽王虓遣督護田徽以突騎八百迎越、遇祐於譙、祐眾潰、越進屯陽武。山東兵盛、關中大懼、顒斬送張方首求和、尋變計距越。越率諸侯及鮮卑許扶歷・駒次宿歸等步騎迎惠帝反洛陽。詔越以太傅錄尚書、以下邳・濟陽二郡增封。

1.「次子」は恐らく誤り。司馬泰傳によると、「越・騰・略・模」という四子がおり、司馬越は長子。下文に司馬越が「世子」とあり、やはり長子。
2.「溫信」は「恩信」に作るべきという。王戎傳に「給恩信五十人」とあり、同じ事柄を指す文。
3.「太安初」(三〇二-)は、「永安初」(三〇四-)に作るべきだという。文意から、永興元年(三〇四)と同年であるためである。
4.「遣子祐距之」とあるが、司馬越の子に「祐」という名の者は確認できない。この巻の司馬亮傳に、汝南威王の司馬祐が見える。「子」は衍字であり、汝南王家の司馬祐のことか。

訓読

東海孝獻王越 字は元超、高密王泰の次子なり。少くして令名有り、謙虛にして布衣の操を持し、中外の宗する所と為る。初め世子を以て騎都尉と為り、駙馬都尉楊邈及び琅邪王伷の子繇と俱に東宮に侍講し、散騎侍郎を拜し、左衞將軍を歷し、侍中を加ふ。楊駿を討ちて功有り、五千戶侯に封ぜらる。散騎常侍・輔國將軍・尚書右僕射に遷り、游擊將軍を領す。復た侍中と為り、奉車都尉を加へ、溫信五十人を給ひ、別に東海王に封じ、六縣を食む。永康初、中書令と為り、侍中に徙り、司空に遷り、中書監を領す。
成都王穎 長沙王乂を攻むるに、乂 洛陽を固守し、殿中の諸將及び三部司馬 戰守に疲れ、密かに左衞將軍朱默と與に夜に乂を別省に收め、越に逼りて主と為し、惠帝に啟して乂の官を免ぜしむ。事 定まり、越 疾と稱して位を遜る。帝 許さず、守尚書令を加ふ。太安初、帝 北のかた鄴を征し、越を以て大都督と為す。六軍 敗れ、越 下邳に奔れども、徐州都督東平王楙 納れず、越 徑に東海に還る。成都王穎 越の兄弟 宗室の美たるを以て、寬令を下して之を招くとも、越 命に應ぜず。帝 西のかた幸するや、越を以て太傅と為し、太宰顒と與に朝政を夾輔せしめ、讓りて受けず。東海中尉劉洽 越に兵を發して以て穎に備ふるを勸め、越 洽を以て左司馬と為し、尚書曹馥もて軍司と為す。既に起兵するや、楙 懼れ、乃ち州を以て越に與ふ。越 司空を以て徐州都督を領し、楙を以て兗州刺史を領せしむ。越の三弟 並びに方任に據りて征伐し、輒ち刺史守相を選し、朝士 多く越に赴く。而るに河間王顒 天子を挾み、詔を發して越等を罷めしめ、皆 國に就かしむ。越 義を唱へて大駕を奉迎し、還りて舊都に復し、甲卒三萬を率ひ、西のかた蕭縣に次る。豫州刺史劉喬 越の命を受けず、子祐を遣はして之を距ぐ、越の軍 敗る。范陽王虓 督護田徽を遣はして突騎八百を以て越を迎へ、祐に譙に於て遇ひ、祐の眾 潰し、越 進みて陽武に屯す。山東の兵 盛たり、關中 大いに懼れ、顒 斬りて張方の首を送りて和を求め、尋いで計を變じて越を距ぐ。越 諸侯及び鮮卑許扶歷・駒次宿歸等を率ゐて步騎もて惠帝を迎へて洛陽に反る。越に詔して太傅を以て尚書を錄し、下邳・濟陽二郡を以て增封す。

現代語訳

東海孝献王越(司馬越)は字を元超といい、高密王泰(司馬泰)の次子(正しくは長子)である。若いときから美名があり、謙虚であり布衣の節操を持ち、中外から第一人者と目された。はじめに世子として騎都尉となり、駙馬都尉の楊邈及び琅邪王伷(司馬伷)の子である司馬繇とともに東宮に侍講し、散騎侍郎を拝み、左衛将軍を歴し、侍中を加えられた。楊駿を討つとき功績があり、五千戸侯に封建された。散騎常侍・輔国将軍・尚書右僕射に遷り、游擊将軍を領した。また侍中となり、奉車都尉を加え、温信(恩信)五十人を給わり、(高密王家から)分かれて東海王に封じられ、六県を食んだ。永康初(三〇〇-)、中書令となり、侍中に徙り、司空に遷り、中書監を領した。
成都王穎(司馬穎)が長沙王乂(司馬乂)を攻めると、司馬乂は洛陽を堅守したが、殿中の諸将及び三部司馬は防戦に疲れ、ひそかに左衛将軍朱黙とともに夜に司馬乂を別館に収容し、司馬越に逼って指導者として祭りあげ、恵帝に申し出て司馬乂の官職を罷免した。事が収束すると、司馬越は病気と称して位を返上した。恵帝は許さず、守尚書令を加えた。太安初(正しくは永安初、三〇四)に恵帝が北のかた鄴を征伐し、司馬越を大都督とした。六軍が敗れると、司馬越は下邳に逃げ込んだが、徐州都督の東平王楙(司馬楙)が受け入れず、司馬越はまっすぐ(封地の)東海に還った。成都王穎は司馬越の兄弟が宗室の誉れであるから、処置を緩和する命令を下して招いたが、司馬越は応じなかった。恵帝が西のかた(長安に)行幸すると、司馬越を太傅とし、太宰顒(司馬顒)とともに朝政を二人で補佐させようとしたが、辞退して受けなかった。東海中尉の劉洽は司馬越に兵を動員して司馬穎に備えなさいと勧めたので、司馬越は劉洽を左司馬とし、尚書の曹馥を軍司とした。いざ起兵すると、司馬楙は懼れ、州を司馬越に明けわたした。司馬越は司空を以て徐州都督を領し、司馬楙に兗州刺史を領させた。司馬越の三弟はいずれも地方の重要拠点にあって征伐を行い、(占領地で)刺史や守相を選出したので、朝廷の人士は多くが司馬越のものに赴いた。しかし河間王顒は天子を手ばさみ、詔を発して司馬越らを罷免し、みなを就国させようとした。司馬越は正義を唱えて大駕(恵帝)をお迎えし、旧都洛陽に復帰させようと、甲卒三万を率い、西のかた蕭県に駐屯した。豫州刺史の劉喬は司馬越の命令を聞かないので、子の司馬祐(正しくは子ではない)を派遣して劉喬に対抗したが、司馬越の軍は敗れた。范陽王虓(司馬虓)は督護の田徽を遣わして突騎八百で司馬越を迎えようとし、司馬祐と譙で遭遇したが、司馬祐の軍勢は潰走しており、司馬越は進んで陽武に駐屯した。山東の兵は盛んであり、関中は大いに懼れ、司馬顒は張方の首を斬って送り和睦を求めたが、すぐに計画を変更して司馬越に対抗した。司馬越は諸侯及び鮮卑の許扶歴・駒次宿帰らを率いて歩騎を動員して恵帝を迎えて洛陽に帰らせた。司馬越に詔を下し太傅でありつつ尚書事を録し、下邳・済陽の二郡を増封した。

原文

及懷帝即位、委政於越。吏部郎周穆、清河王覃舅、越之姑子也、與其妹夫諸葛玫共說越曰、「主上之為太弟、張方意也。清河王本太子、為羣凶所廢。先帝暴崩、多疑東宮。公盍思伊霍之舉、以寧社稷乎?」言未卒、越曰、「此豈宜言邪。」遂叱左右斬之。以玫・穆世家、罪止其身、因此表除三族之法。帝始親萬機、留心庶事、越不悅、求出藩、帝不許。越遂出鎮許昌。
永嘉初、自許昌率苟晞及冀州刺史1.丁劭討汲桑、破之。越還于許、長史潘滔說之曰、「兗州天下樞要、公宜自牧。」乃轉苟晞為青州刺史、由是與晞有隙。尋詔越為丞相、領兗州牧、督兗・豫・司・冀・幽・并六州。越辭丞相不受、自許遷于鄄城。越恐清河王覃終為儲副、矯詔收付金墉城、尋害之。
王彌入許、越遣左司馬王斌率甲士五千人入衞京都。鄄城自壞、越惡之、移屯濮陽、又遷于滎陽。召2.田甄等六率、甄不受命、越遣監軍劉望討甄。初、東嬴公騰之鎮鄴也、攜并州將田甄・甄弟蘭・任祉・祁濟・李惲・薄盛等部眾萬餘人至鄴、遣就穀冀州、號為乞活。及騰敗、甄等邀破汲桑於赤橋、越以甄為汲郡、蘭為鉅鹿太守。甄求魏郡、越不許、甄怒、故召不至。望既渡河、甄退。李惲・薄盛斬田蘭、率其眾降、甄・祉・濟棄軍奔上黨。
越自滎陽還洛陽、以太學為府。疑朝臣貳己、乃誣帝舅王延等為亂、遣王景率甲士三千人入宮收延等、付廷尉殺之。越解兗州牧、領司徒。越既與苟晞構怨、又以頃興事多由殿省、乃奏宿衞有侯爵者皆罷之。時殿中武官並封侯、由是出者略盡、皆泣涕而去。乃以東海國上軍將軍何倫為右衞將軍、王景為左衞將軍、領國兵數百人宿衞。

1.「丁劭」は、『晋書』の他の巻では、「丁紹」「丁邵」にも作る。
2.「田甄」は、石勒載記では「田禋」に作る。

訓読

懷帝 即位するに及び、政を越に委ぬ。吏部郎周穆は、清河王覃の舅にして、越の姑子なり、其の妹夫たる諸葛玫と共に越に說きて曰く、「主上の太弟と為るは、張方の意なり。清河王 本は太子なり、羣凶の廢する所と為る。先帝 暴かに崩じ、多く東宮を疑ふ。公 盍ぞ伊霍の舉を思ひ、以て社稷を寧とせんや」と。言 未だ卒らず、越曰く、「此れ豈に宜いく言ふべきか」と。遂に左右に叱りて之を斬る。玫・穆 世家たるを以て、罪は其の身に止め、此に因りて表して三族の法を除く。帝 始め萬機を親し、心を庶事に留め、越 悅ばず、出藩を求め、帝 許さず。越 遂に出でて許昌に鎮す。
永嘉初、許昌自り苟晞及び冀州刺史丁劭を率ゐて汲桑を討ち、之を破る。越 許に還るや、長史潘滔 之に說きて曰く、「兗州は天下の樞要なり、公 宜しく自ら牧すべし」と。乃ち苟晞を轉じて青州刺史と為し、是に由り晞と隙有り。尋いで詔して越もて丞相と為し、兗州牧を領し、兗・豫・司・冀・幽・并六州を督せしむ。越 丞相を辭して受けず、許自り鄄城に遷る。越 清河王覃 終に儲副と為るを恐れ、詔を矯めて金墉城に收付し、尋いで之を害す。
王彌 許に入り、越 左司馬王斌を遣はして甲士五千人を率ゐて入りて京都を衞る。鄄城 自壞し、越 之を惡み、移りて濮陽に屯し、又 滎陽に遷る。田甄等の六率を召すとも、甄 命を受けず、越 監軍劉望を遣はして甄を討つ。初め、東嬴公騰の鄴に鎮するや、并州の將田甄・甄の弟蘭・任祉・祁濟・李惲・薄盛等の部眾 萬餘人を攜(たずさ)へて鄴に至り、穀を冀州に就かしめ、號して乞活と為す。騰 敗るるに及び、甄等 邀ひて汲桑を赤橋に破り、越 甄を以て汲郡と為し、蘭もて鉅鹿太守と為す。甄 魏郡を求むれども、越 許さず、甄 怒り、故に召すとも至らず。望 既に渡河し、甄 退く。李惲・薄盛 田蘭を斬り、其の眾をゐて降り、甄・祉・濟 軍を棄てて上黨に奔る。
越 滎陽自り洛陽に還り、太學を以て府と為す。朝臣 己に貳あるを疑ひ、乃ち帝の舅たる王延等 亂を為すと誣し、王景をして甲士三千人を率ゐて宮に入りて延等を收めしめ、廷尉に付して之を殺す。越 兗州牧を解き、司徒を領す。越 既に苟晞と怨を構へ、又 頃 事を興して多く殿省に由るを以て、乃ち奏して宿衞 侯爵有る者は皆 之を罷む。時に殿中の武官並びに封侯、是に由りて出る者 略ぼ盡く、皆 泣涕して去る。乃ち東海國上軍將軍何倫を以て右衞將軍と為し、王景もて左衞將軍と為し、國兵數百人を領して宿衞せしむ。

現代語訳

懐帝が即位すると、政治を司馬越に委ねた。吏部郎の周穆は、清河王覃(司馬覃)の舅であり、司馬越の姑の子であり、その妹の夫である諸葛玫と共に司馬越に説いて、「主上(懐帝)が皇太弟となったのは、張方の意向でした。清河王は元来は皇太子であり、羣凶に廃位されたのです。先帝(恵帝)がにわかに崩じたとき、多くは東宮(懐帝)を疑いました。公はどうして伊尹や霍光の行い(君主の廃位)を思い、社稷を安寧になさらないのですか」と言った。発言が終わる前に、司馬越は、「口に出してよいことか」と言った。左右を叱って彼らを斬った。諸葛玫・周穆は代々の官僚家なので、罪は当人だけに止め、これをきっかけに上表して三族の(連坐の)法を除いた。懐帝が親政し、多くの事に口を出したので、司馬越は面白くなく、地方転出を求めたが、懐帝は許さなかった。結局は司馬越は許昌に出鎮した。
永嘉初(三〇七)、許昌から苟晞及び冀州刺史の丁劭(丁紹・丁邵)を率いて汲桑を討伐し、撃破した。司馬越が許に還ると、長史の潘滔が説いて、「兗州は天下の枢要です、公が自ら州牧になるべきです」と言った。そこで苟晞を転じて青州刺史とし、このせいで荀晞と不仲になった。ほどなく詔があり司馬越を丞相とし、兗州牧を領し、兗・豫・司・冀・幽・并六州を督させた。司馬越は丞相になることは辞退して受けず、許から鄄城に遷った。司馬越は清河王覃が結局は儲副(太子)となることを恐れ、詔を偽造して金墉城に収監し、すぐに殺害した。
王弥が許に入ると、司馬越は左司馬の王斌を遣わして甲士五千人を率いて洛陽に入って防衛をさせた。鄄城(の城壁)が自然と壊れ、司馬越はこれを不吉とし、濮陽に移って駐屯し、さらに滎陽に遷った。田甄(田禋)らの六隊を徴したが、田甄は命令に従わず、司馬越は監軍の劉望に田甄を討伐させた。これより先、東嬴公騰(司馬騰)が鄴に出鎮するとき、并州の将である田甄・田甄の弟である田蘭・任祉・祁済・李惲・薄盛らの軍勢一万余人を連れて鄴に到着し、穀物を冀州に運び込み、乞活(食料支援)と呼称した。司馬騰が敗れると、田甄らは迎え撃って汲桑を赤橋で破り、司馬越は田甄を汲郡太守とし、田蘭を鉅鹿太守とした。田甄は魏郡を希望したが、司馬越が許さなかったので、田甄は怒り、ゆえに召集に応じなかったのである。劉望が黄河を渡ると、田甄は退いた。李惲・薄盛は田蘭を斬り、軍勢を率いて(司馬越に)投降し、田甄・任祉・祁済は軍を棄てて上党に逃げ込んだ。
司馬越は滎陽から洛陽に還り、太学を府(政庁)とした。朝臣が自分に二心を抱いているのを警戒し、懐帝の舅である王延らが反乱を起こすと言い触らし、王景に甲士三千人を率いて宮殿に入って王延らを捕らえさせ、廷尉に引き渡して殺した。司馬越は兗州牧を解任され、司徒を領した。司馬越は以前から苟晞に怨みがあり、しかも近年の政変は宮殿内から起きているから、上奏して宿衛のうちで侯の爵位がある者を全員罷免した。このとき殿中の武官並びに封侯は、ほぼ全てがこの措置によって宮殿を去ることとなり、みな泣涕して出て行った。そして(代わりに)東海国上軍将軍の何倫を右衛将軍とし、王景を左衛将軍とし、東海国の兵数百人を領して宿衛とした。

原文

越自誅王延等、大失眾望、而多有猜嫌。散騎侍郎高韜有憂國之言、越誣以訕謗時政害之、而不自安。乃戎服入見、請討石勒、且鎮集兗豫以援京師。帝曰、今逆虜侵逼郊畿、王室蠢蠢、莫有固心。朝廷社稷、倚賴於公、豈可遠出以孤根本。對曰、臣今率眾邀賊、勢必滅之。賊滅則不逞消殄、已東諸州職貢流通。此所以宣暢國威、藩屏之宜也。若端坐京輦以失機會、則釁弊日滋、所憂逾重。遂行。留妃裴氏、世子・鎮軍將軍毗、及龍驤將軍李惲并何倫等守衞京都。表以行臺隨軍、率甲士四萬東屯于項、王公卿士隨從者甚眾。詔加九錫。越乃羽檄四方曰、皇綱失御、社稷多難、孤以弱才、備當大任。自頃胡寇內逼、偏裨失利、帝鄉便為戎州、冠帶奄成殊域、朝廷上下、以為憂懼。皆由諸侯蹉𧿶、遂及此難。投袂忘履、討之已晚。人情奉本、莫不義奮。當須合會之眾、以俟戰守之備。宗廟主上、相賴匡救。檄至之日、便望風奮發、忠臣戰士效誠之秋也。所徵皆不至。而苟晞又表討越、語在晞傳。越以豫州刺史馮嵩為左司馬、自領豫州牧。
越專擅威權、圖為霸業、朝賢素望、選為佐吏、名將勁卒、充于己府、不臣之迹、四海所知。而公私罄乏、所在寇亂、州郡攜貳、上下崩離、禍結釁深、遂憂懼成疾。永嘉五年、薨于項。祕不發喪。以襄陽王範為大將軍、統其眾。還葬東海。石勒追及於苦縣甯平城、將軍錢端出兵距勒、戰死、軍潰。勒命焚越柩曰、此人亂天下、吾為天下報之、故燒其骨以告天地。於是數十萬眾、勒以騎圍而射之、相踐如山。王公士庶死者十餘萬。王彌弟璋焚其餘眾、并食之。天下歸罪於越。帝發詔貶越為縣王。

訓読

越 王延等を誅して自り、大いに眾望を失ひ、而るに多く猜嫌有り。散騎侍郎高韜 憂國の言有り、越 誣して時政を訕謗するを以て之を害し、而るに自ら安ぜず。乃ち戎服にて入見し、石勒を討ち、且つ鎮して兗豫に集ひて以て京師を援くるを請ふ。帝曰く、「今 逆虜 郊畿に侵逼し、王室 蠢蠢たり、固心有る莫し。朝廷社稷、公に倚賴す、豈に遠く出て以て根本を孤とする可きや」と。對へて曰く、「臣 今 眾を率ゐて賊を邀へれば、勢 必ず之を滅す。賊 滅すれば則ち消殄を逞くせずとも、已に東の諸州に職貢 流通せん。此れ國威を宣暢する所以にして、藩屏の宜なり。若し京輦に端坐して以て機會を失せば、則ち釁弊 日に滋く、憂ふ所 逾々重し」と。遂に行く。妃裴氏、世子・鎮軍將軍毗を留め、及び龍驤將軍李惲并びに何倫等 京都を守衞す。表して行臺を以て軍に隨はしめ、甲士四萬を率ゐて東のかた項に屯し、王公卿士 隨從する者 甚だ眾し。詔して九錫を加ふ。越 乃ち四方に羽檄して曰く、「皇綱 御を失ひ、社稷 難多く、孤 弱才を以て、備へて大任に當る。自頃 胡寇 內に逼り、偏裨 利を失ひ、帝鄉 便ち戎州と為り、冠帶 奄(には)かに殊域と成り、朝廷の上下、以て憂懼を為す。皆 諸侯の蹉𧿶に由り、遂に此の難に及ぶ。袂を投じ履を忘れ、之を討つこと已に晚し。人情 本を奉ずれば、義奮せざる莫し。當に合會の眾を須ち、以て戰守の備はるを俟つべし。宗廟主上、相 賴りて匡救せん。檄 至るの日、便ち風に望みて奮發し、忠臣戰士 誠を效すの秋なり」と。徵す所 皆 至らず。而るに苟晞 又 越を討つを表し、語 晞傳に在り。越 豫州刺史馮嵩を以て左司馬と為し、自ら豫州牧を領す。
越 專ら威權を擅にし、霸業を為さんと圖り、朝賢の素望、選びて佐吏と為し、名將勁卒、己の府に充たし、不臣の迹、四海 知る所なり。而るに公私 罄乏し、所在 寇亂し、州郡 攜貳し、上下 崩離し、禍は結び釁は深く、遂に憂懼して疾を成す。永嘉五年、項に薨ず。祕して喪を發せず。襄陽王範を以て大將軍と為し、其の眾を統べしむ。還りて東海に葬る。石勒 追ひて苦縣の甯平城に及び、將軍錢端 兵を出して勒を距ぎ、戰死し、軍 潰す。勒 越の柩を焚くを命じて曰く、「此の人 天下を亂す、吾 天下の為に之に報いん、故に其の骨を燒きて以て天地に告げよ」と。是に於て數十萬の眾、勒 騎を以て圍みて之を射、相 踐むこと山の如し。王公士庶 死する者十餘萬なり。王彌の弟璋 其の餘眾を焚き、并せて之を食らふ。天下 罪を越に歸す。帝 詔を發して越を貶めて縣王と為す。

現代語訳

司馬越が王延らを誅殺してから、大いに世論から失望され、反対に猜疑や反感を買った。散騎侍郎高韜が憂国の発言をすると、司馬越は政権批判の罪をでっちあげて殺害し、しかしまだ安心できなかった。軍装で懐帝に謁見し、石勒を討ち、兗州と豫州に出鎮して洛陽の外援になりますと申し出た。懐帝は、「いま逆虜が首都圏に侵攻して逼り、王室はびくびくとして、心が安定しない。朝廷と社稷は、あなたを頼りにしている、どうして遠くに出て首都を孤立させるのか」と言った。答えて、「私がいま軍勢を率いて賊を迎撃すれば、その勢いをきっと削げます。勢いさえ削げば(賊を)絶滅させずとも、東方の諸州との交通や納税が再開します。これこそ国威を宣揚する方法であり、藩屏の務めです。もし京師に座ったままで機会を失えば、弊害は日に日にひどくなり、憂慮がますます重くなります」と言った。司馬越は出発してしまった。妃の裴氏、世子であり鎮軍将軍の司馬毗を留め、龍驤将軍の李惲ならびに何倫らが洛陽を守衛した。上表して行台を軍に随行させ、甲士四万を率いて東のかた項に駐屯し、随従する王公や卿士はとても多かった。詔して九錫を加えた。司馬越は四方に羽檄を送って、「皇室が制御を失い、社稷は困難が多く、私は非才ながら、大任に当たることになった。近ごろ胡寇が内にせまり、地方軍は利を失い、皇帝の郷里が異民族の国となり、畿内もにわかに異地となり、朝廷の上下は、憂い懼れている。いずれも諸侯の失敗のせいであり、ついにこれほどの危難が到来した。手をこまねいていたから、討伐が遅れてしまった。人の感情というものは根本(帝室)を奉じたら、義憤しないものはない。王朝の軍が集合するのを待ち、防戦体制が整うのを待て。宗廟や主上は、助け合って救済しよう。檄文を受け取ったら、風を望んで奮発せよ、忠臣や戦士が王朝のために働くのは今である」と言った。呼び掛けた者たちは一人も到来しなかった。他方で苟晞が司馬越の討伐を上表したが、荀晞伝を参照のこと。司馬越は豫州刺史の馮嵩を左司馬とし、自ら豫州牧を領した。
司馬越がもっぱら威権をほしいままにし、覇業を成すべく、朝廷の賢人の名望家たちを、選んで佐吏とし、名将や強兵で、己の府に満たし、不臣の行跡は、四海に知れわたった。しかし公私ともに物資が欠乏し、各地で寇賊が反乱し、州郡は裏切りがおき、上下ともに崩壊し、禍いが起きて仲違いは根深く、ついに(司馬越は)憂懼して病気になった。永嘉五(三一一)年、項県で薨じた。死亡を隠して喪を発さなかった。襄陽王範(司馬範)を大将軍とし、その軍勢を統率させた。藩国に還って東海に葬ろうとした。石勒が追って苦県の甯平城で追い付き、将軍の銭端が兵を出して石勒を防いだがが、戦死して、軍が潰走した。石勒は司馬越の棺を焼けと命じ、「この男が天下を乱した、吾は天下のためにこれに報いよう、骨を焼いて天地に告げるように」と言った。数十万の人々を、石勒は騎兵で囲んで狙い撃ちにし、たがいに踏みつぶして山のように折り重なった。王公や士庶の死者は十余万であった。王弥の弟の王璋は生き残りを焼き、死体を食らった。天下は罪を司馬越に帰属させた。懐帝は詔を発して県王に降格した。

原文

何倫・李惲聞越之死、祕不發喪、奉妃裴氏及毗出自京邑、從者傾城、所經暴掠。至洧倉、又為勒所敗、毗及宗室三十六王俱沒于賊。李惲殺妻子奔廣宗、何倫走下邳。裴妃為人所略、賣於吳氏、太興中、得渡江、欲招魂葬越。元帝詔有司詳議、博士傅純曰、「聖人制禮、以事緣情、設冢椁以藏形、而事之以凶。立廟祧以安神、而奉之以吉。送形而往、迎精而還。此墓廟之大分、形神之異制也。至於室廟寢廟祊祭非一處、所以廣求神之道、而獨不祭於墓、明非神之所處也。今亂形神之別、錯廟墓之宜、違禮制義、莫大於此。」於是下詔不許。裴妃不奉詔、遂葬越於廣陵。太興末、墓毀、改葬丹徒。
初、元帝鎮建鄴、裴妃之意也、帝深德之、數幸其第、以第三子沖奉越後。薨、無子、成帝以少子弈繼之。哀帝徙弈為琅邪王、而東海無嗣。隆安初、安帝更以會稽忠王次子彥璋為東海王、繼沖為曾孫。為桓玄所害、國除。

訓読

何倫・李惲 越の死するを聞き、祕して喪を發せず、妃裴氏及び毗を奉じて京邑自り出で、從者 傾城し、經る所 暴掠す。洧倉に至り、又 勒の敗る所とり、毗及び宗室三十六王 俱に賊に沒す。李惲 妻子を殺して廣宗に奔り、何倫 下邳に走る。裴妃 人の略する所と為り、吳氏に賣られ、太興中、江を渡るを得、招魂して越を葬らんと欲す。元帝 有司に詔して詳議せしめ、博士傅純曰く、「聖人 禮を制め、事を以て情に緣り、冢椁を設けて以て形を藏し、之に事ふるは以て凶なり。廟祧を立てて以て神を安んじ、而して之を奉るは以て吉なり。形を送りて往き、精を迎へて還る。此れ墓廟の大分にして、形神の異制なり。室廟寢廟に至り祊祭 一處に非ざるは、廣く神を求むるの道なり、獨り墓を祭らざるは、神の所處に非ざるを明らかにする所以なり。今 形神の別を亂し、廟墓の宜を錯(あやま)り、禮制の義に違ふは、此より大なるは莫し」と。是に於て詔を下して許さず。裴妃 詔を奉らず、遂に越を廣陵に葬る。太興末、墓 毀ち、改めて丹徒に葬る。
初め、元帝 建鄴に鎮するは、裴妃の意なり、帝 深く之を德とし、數々其の第に幸し、第三子沖を以て越の後を奉ぜしむ。薨じて、子無く、成帝 少子弈を以て之を繼がしむ。哀帝 弈を徙して琅邪王と為し、東海 嗣無し。隆安初、安帝 更めて會稽忠王の次子彥璋を以て東海王と為し、沖を繼ぎて曾孫と為す。桓玄の害する所と為り、國 除かる。

現代語訳

何倫・李惲は司馬越の死を聞き、秘して喪を発せず、妃の裴氏及び司馬毗を奉じて京邑から出たが、従者は城を傾け、通過したところで暴力や掠奪をはたらいた。洧倉に至り、彼らも石勒に敗れ、司馬毗及び宗室三十六王が賊に捕らわれた。李惲は妻子を殺して広宗に逃げ、何倫は下邳に逃げた。裴妃は人に捕らわれ、呉氏に売られたが、太興中(三一八-三一二)、江水を渡ることができ、招魂して(死体はないが)司馬越を葬ろうとした。元帝は担当官に詳しく議論させ、博士の傅純は、「聖人が礼を制定し、死者の扱いを定めたが、陵墓を作って死体をおさめ、これに仕えるのは凶事です。廟祧を立てて精神を安んじ、これを奉るのは吉事です。死体は送り出しますが、精神は呼び戻します。これが墓廟の原則であり、死体と精神は扱いが異なるのです。室廟や寝廟に至って祊祭を一箇所でやらないのは、広く精神を呼ぶためであり、陵墓だけを祭らないのは、精神がここにないことを明らかにするためです。いま物体と精神との区別を乱し、廟墓の規則を破り、礼制の義に違反するのは、一番まずいことです」と言った。そこで詔して許さなかった。だが裴妃は詔に従わず、司馬越を広陵で葬った。太興末(-三一二)、墓を壊し、改めて丹徒に葬った。
これより先、元帝が建鄴に出鎮したのは、裴妃の意向のおかげであった。元帝は深くこれに感謝し、しばしば邸宅に行幸し、第三子の司馬沖に司馬越の後を継がせた。司馬沖が薨じ、子が無かったが、成帝は少子の司馬弈に継がせた。哀帝が司馬弈を徙して琅邪王としたので、東海王は継嗣が居なくなった。隆安初(三九七-)、安帝が改めて会稽忠王の次子の司馬彦璋を東海王とし、司馬沖を継がせ(先代の)曾孫とした。桓玄に殺害され、国が除かれた。

原文

史臣曰、昔高辛撫運、釁起參商。宗周嗣曆、禍纏管蔡。詳觀曩冊、逖聽前古、亂臣賊子、昭鑒在焉。有晉鬱興、載崇藩翰、分茅錫瑞、道光恒典。儀台飾袞、禮備彝章。汝南以純和之姿、失於無斷。楚隱習果銳之性、遂成凶很。或位居朝右、或職參近禁、俱為女子所詐、相次受誅、雖曰自貽、良可哀也。倫實庸璅、見欺孫秀、潛構異圖、煽成姦慝。乃使元良遘怨酷、上宰陷誅夷、乾耀以之暫傾、皇綱於焉中圮。遂裂冠毀冕、幸百六之會。綰璽揚纛、窺九五之尊。夫神器焉可偷安、鴻名豈容妄假。而欲託茲淫祀、享彼天年、凶闇之極、未之有也。冏名父之子、唱義勤王、摧偽業於既成、拯皇輿於已墜、策勳考績、良足可稱。然而臨禍忘憂、逞心縱欲。曾不知樂不可極、盈難久持、笑古人之未工、忘己事之已拙。向若採王豹之奇策、納孫惠之嘉謀、高謝袞章、永表東海、雖古之伊霍、何以加焉。長沙材力絕人、忠概邁俗、投弓掖門、落落標壯夫之氣。馳車魏闕、懍懍懷烈士之風。雖復陽九數屯、在三之情無奪。撫其遺節、終始可觀。穎既入總大權、出居重鎮、中臺藉以成務、東夏資其宅心、乃協契河間、共圖進取。而顒任李含之狙詐、杖張方之陵虐、遂使武閔喪元、長沙授首、逞其無君之志、矜其不義之強。鑾駕北巡、異乎有征無戰。乘輿西幸、非由望秩觀風。若火燎原、猶可撲滅、矧茲安忍、能無及乎。東海糾合同盟、創為義舉、匡復之功未立、陵暴之釁已彰、罄彼車徒、固求出鎮。既而帝京寡弱、狡寇憑陵、遂令神器劫遷、宗社顛覆、數十萬眾並垂餌於豺狼、三十六王咸隕身於鋒刃。禍難之極、振古未聞。雖及焚如、猶為幸也。自惠皇失政、難起蕭牆、骨肉相殘、黎元塗炭、胡塵驚而天地閉、戎兵接而宮廟隳、支屬肇其禍端、戎羯乘其間隙、悲夫。詩所謂、誰生厲階、至今為梗、其八王之謂矣。
贊曰、亮總朝政、瑋懷職競。讒巧乘間、艷妻過聽。構怨連禍、遞遭非命。倫實下愚、敢竊龍圖、亂常奸位、遄及嚴誅。偉哉武閔。首創宏謨。德之不建、良可悲夫。長沙奉國、始終靡慝。功虧一簣、奄罹殘賊。章度勤王、效立名揚。合從關右、犯順爭強、事窮勢蹙、俱為亂亡。元超作輔、出征入撫、敗國喪師、無君震主。焚如之變、抑惟自取。

訓読

史臣曰く、昔 高辛 運を撫し、釁を參商を起す〔一〕。宗周の嗣曆、禍 管蔡に纏はる。詳らかに曩冊を觀るに、逖(とほ)く前古を聽くに、亂臣賊子、昭鑒 焉在り。有晉の鬱興、載は藩翰に崇く、茅を分ちて瑞を錫ふは、道は恒典に光る。儀は飾袞に台し、禮は彝章を備ふ。汝南 純和の姿を以て、斷無きに失ふ。楚隱 果銳の性に習ひ、遂に凶很を成す。或いは位は朝右に居り、或は職は近禁に參じ、俱に女子の詐る所と為り、相 次いで誅を受く、自貽と曰ふと雖も、良に哀む可きなり。 倫 實に庸璅にして、孫秀に欺かれ、潛かに異圖を構へ、煽りて姦慝を成す。乃ち元良をして怨酷を遘せしめ、上宰 誅夷に陷り、乾耀 之を以て暫く傾き、皇綱 焉に於て中ごろに圮(くつがえ)る。遂に冠を裂き冕を毀ち、百六の會に幸す。綰璽 揚纛し、九五の尊を窺ふ。夫れ神器 焉ぞ偷安す可し、鴻名 豈に妄假を容るべし。而るに茲の淫祀に託け、彼の天年を享けんと欲し、凶闇の極、未だ之有らず。冏は名は父の子、義を勤王に唱へ、偽業を既成に摧(くだ)き、皇輿を已に墜つるを拯ひ、勳を策し績を考へ、良に足りて稱す可し。然而して禍に臨みて憂を忘れ、心を逞くして欲を縱にす。曾て樂の極まる可からず、盈 久しく持ち難きを知らず、古人の未だ工ならざるを笑ひ、己事の已に拙きを忘る。向若し王豹の奇策を採り、孫惠の嘉謀を納れ、高く袞章を謝し、永く東海に表せば、古の伊霍と雖も、何を以て焉に加へん。長沙の材力 人に絕え、忠概 俗を邁え、弓を掖門に投じ、落落として壯夫の氣を標す。 車を魏闕に馳せ、懍懍と烈士の風を懷く。復た陽九の數 屯(ちゆん)なると雖も、三情に在りて奪ふこと無し。其の遺節を撫すは、終始 觀る可し。穎 既に入りて大權を總べ、出でて重鎮に居し、中臺 藉りて以て務を成し、東夏 其の宅心を資け、乃ち河間に協契し、共に進取を圖る。而るに顒 李含が狙詐を任じ、張方の陵虐に杖り、遂に武閔をして元を喪はしめ、長沙 首を授け、其の無君の志を逞し、其の不義の強を矜(ほこ)る。鑾駕 北のかた巡り、征有りて戰ひ無き〔二〕に異なる。乘輿 西のかた幸し、秩を望み風を觀るに由るに非ず。火は燎原の若きは、猶ほ撲滅す可きや、矧(いは)んや茲の安忍、能く及ぶもの無きをや。東海 同盟を糾合し、創めて義舉を為し、匡復の功 未だ立たず、陵暴の釁 已に彰はれ、彼の車徒を罄(むな)しくし、固く出鎮を求む。既にして帝京 寡弱たり、狡寇 憑陵し、遂に神器をして劫遷せしめ、宗社 顛覆し、數十萬眾 並びに餌を豺狼に垂れ、三十六王 咸 身を鋒刃に隕す。禍難の極、古を振て未だ聞かず。焚如に及ぶと雖も、猶ほ幸と為すなり。惠皇の政を失ひて自り、難 蕭牆に起り、骨肉 相 殘し、黎元 塗炭し、胡塵 驚きて天地 閉じ、戎兵 接して宮廟 隳(くず)れ、支屬 其の禍端を肇め、戎羯 其の間隙に乘じ、悲しいかな。詩の謂ふ所の「誰か厲階を生じて、今に至るまで梗(やまひ)を為す〔三〕」、其れ八王の謂ひなり。
贊に曰く、亮 朝政を總べ、瑋 職競を懷く〔四〕。讒巧 間に乘じ、艷妻 聽を過す。怨を構へて禍を連ね、遞(たが)ひに非命に遭ふ。倫 實に下愚たり、敢て龍圖を竊み、常を亂し位を奸し、遄(すみ)やかに嚴誅に及ぶ。偉なるかな武閔、首として宏謨を創る。德の建たざるは、良に悲しむ可きかな。長沙 國を奉り、始終 慝(よこしま)靡し。功 一簣に虧け、奄(たちま)ち殘賊に罹る。章度 勤王たり、名揚を立つを效(いた)す。關右と合從して、順を犯し強を爭ひ、事 窮まりて勢 蹙し、俱に亂亡を為す。元超 輔と作り、出でては征し入りては撫し、國を敗りて師を喪ひ、君を無からしめ主を震はす。焚如の變、抑々惟だ自ら取る。

〔一〕『春秋左氏伝』昭公 伝元年に「昔高辛氏有二子、伯曰閼伯、季曰實沈、居于曠林、不相能也、日尋干戈、以相征討。后帝不臧。遷閼伯于商丘、主辰。商人是因、故辰為商星。遷實沈于大夏、主參」とあり、高辛氏の二子が対立し、帝尭は兄を「商」丘に置き、弟には「参」星を祭らせた。
〔二〕『三国志』鍾会伝が出典という。大義のある征伐ならば、戦わずに自然と勝利して、犠牲を出すことがないこと。
〔三〕『毛詩』大雅 蕩之什 桑柔に「誰生厲階、至今為梗」とあり、出典。
〔四〕職競は、『春秋左氏伝』哀公 傳二十三年に、「敝邑有社稷之事、使肥與有職競焉」とある。職務が極めて忙しいこと。

現代語訳

史臣が言うには、むかし高辛氏が時運に乗って支配者になったが、(子の)参と商が兄弟で対立した。周王朝が正統を嗣ぐと、(武王の死後)管叔鮮と蔡叔度が兄弟が対立した。史書を閲覧し、遠く古を調べると、乱臣や賊子の所行が、確認できるのである。晋王朝の興亡について、その記載は藩王に厚いが、藩王に封地を与えて地位を向上するのは、優れた支配の常道である。諸侯の威儀は服飾に表わされ、礼儀は旧典に記されている。汝南王(司馬亮)は純朴で調和を重んじたが、決断力がなくて失敗した。楚隠王(司馬瑋)は果断で鋭敏な性質にまかせ、ついに凶悪な事態を起こした。ある者(亮)は朝廷の上位におり、ある者(瑋)は禁兵を統率したが、どちらも女子(賈后)に欺され、相次いで誅殺されたが、自業自得とはいえ、まことに哀しむべきである。 司馬倫は無能な小人であり、孫秀に欺かれ、秘かに大逆の罪を計画し、煽られて姦悪を成した。忠良な万民を苦しめ、宰相を誅戮し、王朝の威光はしばらく傾いてしまい、皇統が中断した。とうとう衣冠を破壊し、百六の災厄に遭遇した。璽を結び毛飾りを上げ、九五の尊(帝位)を窺った。どうして為政者の立場で安楽を貪り、功名を捨て置いてよいものか。邪悪な祈祷に託け、天運を受けようとし、凶闇の極みは、これほど劣悪なものはない。司馬冏は父の子であることを名分とし、勤王の正義を唱え、偽の帝業の完成をくだき、皇帝(恵帝)を失墜の底から救い、勲功を記録して褒賞したので、称賛するに足りよう。しかし(地位が高すぎるという)危険な立場にあって憂慮を忘れ、ありのままに欲望を解放してしまった。楽しみの絶頂は極められず、充足は長続きしづらいことを忘れ、古人の失敗を笑い、自分の政治が拙いことに気づかなかった。もし王豹の奇策を採用し、孫恵のよき意見を聞き入れ、美しい衣服を返上し、(封地の斉国に帰り)長く東海に向き合えば、古代の伊尹や霍光であっても、彼には及ばなかった。長沙王(司馬乂)の才能と力量は人より優れ、忠正の気概をそなえ、(司馬冏を討伐して)弓を掖門に投じ、矢を集中投下して壮士の気骨を表した。 車駕が魏闕(鄴城)に移動すると、懍懍と引き締まって烈士の風を抱いた。陽九の命数が屯(困難に行き当たる卦)であったが、三情により挫けなかった。旧主への節義を糾合し、復位をさせた過程には見るべきものがある。司馬穎は朝廷で政務を握ると、中央から去って(鄴に)出鎮し、中台を仮して政務を行い、中原の人々から(謙譲の)態度を支持され、河間王(司馬顒)と協力し、ともに政治を推進しようとした。しかし司馬顒は李含の謀略を用い、張方の悪逆さに頼ったので、武閔(斉王冏、を討伐したとき)の初心を失い、長沙王(司馬乂)の首級を斬って提出し、君主を蔑ろにする志を逞しくし、強烈な不義を前面に出した。天子の車は北方を巡ったが、大義による不戦勝は果たせなかった。天子の乗輿が西(長安)に行幸したが、秩序と教化のための移動ではなかった。燎原の火のようなものは、消すことができようか、ましてやこの残忍さに、及ぶものがあろうか。東海王(司馬越)が同盟を糾合し、義挙に着手したが、救済と回復を成し遂げられず、陵遅と暴虐の対立がひどくなり、馬車に付き従う者が減り、彼に帰国を要請した。すでに帝京は孤立して弱体化し、狡賢い盗賊が暴れ、神器を盗んで運び出し、宗廟が転覆し、数十万の人々は豺狼に遺体を食い散らかされ、三十六王はみな戦陣で落命した。禍難の極みは、古代を通じて最もひどい。戦火に襲われたほうが、まだ救いがあろう。恵皇帝が政治に失敗してから、困難が宮殿の中で起こり、骨肉が殺害しあい、万民は塗炭の苦しみを味わい、辺境地域の砂塵が巻き上がって天地を閉ざし、武装した兵が衝突して宮殿や宗廟が崩され、分家の藩王たちが禍いの端緒を作り、異民族がその隙に乗じた、悲しいことだ。『詩経』に「誰が悪の端緒を開いたのか、今に至るまで弊害が已まない」とあるが、八王を言ったものであると。
賛にいう、司馬亮は朝政を総括し、司馬瑋は職務が繁忙であった。巧みな讒言が対立を助長し、色気のある妻が政治を誤らせた。怨みを抱いて禍いが連鎖し、たがい違いに非命に遭った。司馬倫は下劣な愚者であり、あえて龍図(河図)を偽作し、つねに乱を起こして帝位を犯し、速やかに厳罰を加えられた。偉丈夫であった武閔(司馬冏)は、首班となって広大な計画を立てた。徳業が完成しなかったのは、まことに悲しいことではないか。長沙(司馬乂)が国を継承すると、終始にわたって悪意は無かった。だが功績は一つの簣(土を運ぶ竹籠)にも劣り、たちまち賊の残党の手にかかった。章度(司馬穎)は勤王であり、盛名を立てることができた。しかし関右と同盟して、道理に逆らい覇権争いをし、事態が極まると勢力は衰え、一緒になって兵乱と衰亡を行った。元超(司馬越)が宰相になると、出ては征伐し入っては慰撫をしたが、国が破れて軍勢を失い、君主を不在として朝廷権力を動揺させた。身を焼かれた(八王の)末路は、ただ自ら招き寄せたものであると。