翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。
この巻は、八王の乱に巻き込まれて散っていった人物たち(解系・解結・孫旂・孟観・牽秀・繆播・繆胤・皇甫重・張輔・李含・張方・索靖)と、その後の永嘉の乱の最中にあって西晋最後の愍帝政権において争いの中で散っていった人物たち(閻鼎・索綝・賈疋)を集めた列伝になります。三国時代の魏の賈詡の曽孫や牽招の孫、後漢の皇甫嵩の一族の子孫や張衡の子孫など、少なからず三国時代の名残があると思います。
解系、字少連、濟南著人也。父脩、魏琅邪太守・梁州刺史、考績爲天下第一。武帝受禪、封梁鄒侯。
系及二弟結・育並清身絜己、甚得聲譽。時荀勖門宗彊盛、朝野畏憚之。勖諸子謂系等曰「我與卿爲友、應向我公拜。」勖又曰「我與尊先使君親厚。」系曰「不奉先君遺教。公若與先君厚、往日哀頓、當垂書問。親厚之誨、非所敢承。」勖父子大慙、當世壯之。後辟公府掾、歴中書・黃門侍郎、散騎常侍、豫州刺史、遷尚書、出爲雍州刺史・揚烈將軍・西戎校尉・假節。
會氐羌叛、與征西將軍趙王倫討之。倫信用佞人孫秀、與系爭軍事、更相表奏。朝廷知系守正不撓、而召倫還。系表殺秀以謝氐羌、不從。倫・秀譖之、系坐免官、以白衣還第、闔門自守。及張華・裴頠之被誅也、倫・秀以宿憾收系兄弟。梁王肜救系等、倫怒曰「我於水中見蟹且惡之。況此人兄弟輕我邪。此而可忍、孰不可忍。」肜苦爭之不得、遂害之、并戮其妻子。
後齊王冏起義時、以裴・解爲冤首。倫・秀既誅、冏乃奏曰「臣聞興微繼絕、聖主之高政、貶惡嘉善、春秋之美談。是以武王封比干之墓、表商容之閭、誠幽明之故有以相通也。孫秀逆亂、滅佐命之國、誅骨鯁之臣、以斵喪王室、肆其虐戾、功臣之後、多見泯滅。至如張華・裴頠、各以見憚取誅於時、系・結同以羔羊被害、歐陽建等無罪而死、百姓憐之。陛下更日月之光照、布惟新之明命、然此等未蒙恩理。昔欒郤降在皁隸、而春秋傳其人、幽王絕功臣之後、棄賢者子孫、而詩人以爲刺。臣備忝右職、思竭股肱、獻納愚誠。若合聖意、可羣官通議。」八坐議以「系等清公正直、爲姦邪所疾、無罪橫戮、冤痛已甚。如大司馬所啟、彰明枉直、顯宣當否、使冤魂無愧無恨、爲恩大矣。」永寧二年、追贈光祿大夫、改葬、加弔祭焉。
解系、字は少連、濟南著の人なり。父の脩は、魏の琅邪太守・梁州刺史たり、考績は天下第一と爲る。武帝の禪を受くるや、梁鄒侯に封ぜらる。
系及び二弟の結・育、並びに身を清くし己を絜くし、甚だ聲譽を得たり。時に荀勖の門宗は彊盛にして、朝野之を畏憚す。勖の諸子、系等に謂いて曰く「我、卿と友たれば、應に我が公に向いて拜すべし」と。勖、又た曰く「我、尊先使君と親厚たり」と。系曰く「先君の遺教を奉ぜず。公、若し先君と厚くんば、往日哀頓あるに、當に書問を垂るべし。親厚の誨え、敢えて承くる所に非ず」と。勖の父子は大いに慙じ、當世、之を壯とす。後に公府掾に辟され、中書・黃門侍郎、散騎常侍、豫州刺史を歴、尚書に遷り、出でて雍州刺史・揚烈將軍・西戎校尉・假節〔一〕と爲る。
會々氐羌の叛するや、征西將軍の趙王倫と與に之を討つ。倫、佞人の孫秀を信用し、系と軍事を爭い、更々相い表奏す。朝廷は系の正を守りて撓まざるを知り、而して倫を召して還す。系、秀を殺して以て氐羌に謝せんことを表すも、從われず。倫・秀、之を譖り、系、坐して官を免ぜられ、白衣を以て第に還り、門を闔ざして自守す。張華・裴頠の誅を被くるに及ぶや、倫・秀、宿憾を以て系の兄弟を收えんとす。梁王肜の系等を救わんとするや、倫、怒りて曰く「我、水中に蟹を見るすら且つ之を惡む。況んや此の人の兄弟の我を輕んずるをや。此くして忍ぶべくんば、孰れか忍ぶべからざらんや」と。肜、苦(はなは)だ之を爭うも得ず、遂に之を害し、并びに其の妻子を戮す。
後に齊王冏の起義せし時、裴・解を以て冤首と爲す。倫・秀の既に誅せらるるや、冏、乃ち奏して曰く「臣聞くならく、微えしを興し絕えしを繼がしむるは、聖主の高政にして、惡を貶め善を嘉するは、春秋の美談なり、と。是こを以て武王は比干の墓を封じ、商容の閭を表し、誠に幽明の故の以て相い通ずること有るなり。孫秀は逆亂し、佐命の國を滅ぼし、骨鯁の臣を誅し、以て王室を斵喪し、其の虐戾を肆にし、功臣の後、多く泯滅せらる。張華・裴頠の如きに至りては、各々憚らるるを以て誅を時に取り、系・結は同に羔羊なるを以て害を被け、歐陽建等は罪無くして死し、百姓は之を憐れむ。陛下は日月の光照を更め、惟新の明命を布くも、然るに此等は未だ恩理を蒙らず。昔、欒・郤は降りて皁隸に在るも、而れども春秋は其の人を傳え、幽王は功臣の後を絕ち、賢者の子孫を棄つるも、而れども詩人は以て刺と爲す。臣は備えらるるに右職を忝くしたれば、股肱を竭くさんことを思い、愚誠を獻納す。若し聖意に合さば、羣官をして通議せしむべし」と〔二〕。八坐、議して以えらく「系等は清公にして正直なるも、姦邪の疾む所と爲り、罪無くして橫に戮せられ、冤痛は已に甚し。大司馬の啟する所の如く、枉直を彰明し、顯らかに當否を宣べ、冤魂をして愧無く恨無くせしめば、恩大なりと爲さん」と。永寧二年、光祿大夫を追贈し、改葬し、弔祭を焉に加う。
〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔二〕『晋書斠注』も指摘するように、この上奏文は、張華伝にも収録されている。
解系は字を少連と言い、済南郡・著県の人である。父の解脩(かいしゅう)は、魏の琅邪太守・梁州刺史となり、政績評定は天下第一となった。(西晋の)武帝が禅譲を受けると、梁鄒侯に封じられた。
解系および二人の弟の解結・解育は、いずれも身を清くして行いを慎み、非常に高い声望と名誉を得ていた。時に荀勖(じゅんきょく)の一族は強盛であり、朝廷の人も在野の人も彼らを恐れ憚った。荀勖の息子たちは、解系らに言った。「私たちは君たちとは友人であるので、君たちは私たちの父に対して拝礼を行うべきである」と。荀勖もまた言った。「私は、刺史であった君たちの御尊父とは親しく懇意にしていた」と。解系は言った。「亡き父の言葉を思い返しますと、そのように言い残したことはございません。あなたがもし亡父と親交が厚かったのであれば、先日、父が亡くなった際に、弔問の書信があって然るべきです。あなたが亡父と親しく懇意にしていたというご教示は、了承しかねます」と。すると、荀勖の父子は大いに恥じ入り、当時の人々はこの応対を立派なものだと感心した。解系は後に公府の掾(公府の部局の長)に辟召され、中書侍郎、黄門侍郎、散騎常侍、豫州刺史を歴任し、さらに尚書に昇進し、やがて地方に出て「雍州刺史・揚烈将軍・西戎校尉・仮節」となった。
ちょうど氐や羌が叛乱を起こすと、征西将軍であった趙王・司馬倫(しばりん)と一緒にこれを討伐した。司馬倫は、佞人の孫秀を信用し、解系と軍事をめぐって争い、互いに上奏することになった。朝廷は、解系が真っすぐ正道を守っているのを知り、そこで司馬倫を召し返した。解系は、孫秀を殺して氐・羌に謝罪すべきであると上表したが、受け容れられなかった。やがて司馬倫と孫秀の讒言により解系は官を罷免され、白衣(罷免処分を受けたもと官吏)の身で屋敷に帰り、門を閉ざして自らの節操を守った。(司馬倫・孫秀らが政権を握り)張華・裴頠(はいぎ)が誅殺されると、司馬倫と孫秀は、積年の恨みから解系兄弟を捕えようとした。梁王・司馬肜(しばゆう)が解系らを救おうとすると、司馬倫は怒って言った。「私は、水中に蟹を見るのですら(「蟹」は「解」と同音であるので解系兄弟を連想して)嫌気がさすというのに、ましてやこいつら兄弟が私を軽んずるのを見るのはなおさらである。これに堪えられるのであれば、他に何か堪えられないものがあろうか(=これこそが一番堪えがたいことである)」と。司馬肜は、これについて食い下がって争ったが叶わず、遂に解系らは殺され、その妻子も死刑に処された。
後に斉王・司馬冏(しばけい)が打倒司馬倫の義兵を興したとき、冤罪によって殺された代表的人物として裴頠と解系を挙げた。まもなく司馬倫と孫秀が誅殺されると、司馬冏はそこで上奏して言った。「私の聞くところによりますと、衰えた家を復興し、後嗣の絶えてしまった家系を継続させるというのは、聖なる君主の高大な政務であり、悪を貶め善を高く評価するのは、『春秋』の美談である、と言います。それゆえ周の武王は、殷の紂王に殺された比干の墓を土盛りし、紂王に退けられた商容の住んでいた村落を表彰したのであり、実に陰による無形の象と陽による有形の象が相通じるようにさせました。孫秀は叛逆を犯し、武帝の創業を補佐した功臣の国(賈充(かじゅう)が封じられ賈謐(かひつ)が継いだ魯公国)を滅ぼし、気骨のある臣下を誅殺し、それによって王室を破壊し、暴虐の限りを尽くし、功臣の子孫は多く滅ぼされました。張華・裴頠らは、各々憚られていたことにより時に誅され、解系・解結はともに清白なる徳操を有していたがゆえに殺され、欧陽建(おうようけん)らは罪も無いのに死ぬことになり、人々はみなこのことを憐れんでいます。陛下は日月の光の輝きを取り戻され、維新せんとのご命令を宣布されましたが、しかし、これらの人物は聖恩による名誉の回復を蒙っておりません。昔、春秋時代の晋の欒(らん)氏・郤(げき)氏は、貴族から小役人の家柄へと没落しましたが、『春秋』は彼らの事績を記録に残して伝え、周の幽王は功臣の子孫を絶やし、賢者の子孫を見捨てましたが、詩人はそれを諷刺しました。私はもったいなくも顕職に備えられましたので、股肱としての力を尽くそうと思い、愚かな誠心を申し上げさせていただきました。もしこれが陛下のご意向に合致するものであれば、諸官に命じて共同して議論させるべきです」と。(詔が下されて)八坐(尚書令・尚書僕射および諸曹の尚書)が議して言うには、「解系らは清く公正で正直でありましたが、邪悪な者たちに憎まれ、罪も無いのに不当にも殺され、冤罪による痛ましさは非常にひどいものです。大司馬(司馬冏)の申し上げた通り、是非を明らかにし、当否を明らかにして宣布し、冤罪により散った魂を恥も恨みも無いようにさせれば、まさに恩は遠大なものとなりましょう」と。永寧二年(302)、解系に光禄大夫の官位を追贈し、改めて葬り、加えて弔祭を行った。
結、字叔連、少與系齊名。辟公府掾、累遷黃門侍郎、歴散騎常侍、豫州刺史、魏郡太守、御史中丞。時孫秀亂關中、結在都、坐議秀罪應誅、秀由是致憾。及系被害、結亦同戮。女適裴氏、明日當嫁、而禍起、裴氏欲認活之、女曰「家既若此、我何活爲。」亦坐死。朝廷遂議革舊制、女不從坐、由結女始也。後贈結光祿大夫、改葬、加弔祭。
結弟育、字稚連、名亞二兄。歴公府掾、太子洗馬、尚書郎、衞軍長史、弘農太守、與二兄俱被害、妻子徙邊。
結、字は叔連、少くして系と名を齊しくす。公府掾に辟され、累りに遷りて黃門侍郎たり、散騎常侍、豫州刺史、魏郡太守、御史中丞を歴たり。時に孫秀は關中を亂したれば、結は都に在り、秀の罪は應に誅すべしと坐議し、秀、是に由りて憾みを致す。系の害せらるるに及び、結も亦た同に戮せらる。女は裴氏に適ぎ、明日當に嫁ぐべきなるも、而れども禍起こり、裴氏は認めて之を活かさんと欲するも、女曰く「家は既に此くの若きなれば、我何ぞ活きんや」と。亦た坐して死す。朝廷は遂に議して舊制を革め、女は坐するに從わざるは、結の女より始まるなり。後に結に光祿大夫を贈り、改葬し、弔祭を加う。
結の弟の育、字は稚連、名は二兄に亞ぐ。公府掾、太子洗馬、尚書郎、衞軍長史、弘農太守を歴、二兄と俱に害せられ、妻子は邊に徙さる。
解結は字を叔連と言い、若くして解系と同等の名望を得ていた。公府の掾(公府の部局の長)に辟召され、何度も昇進して黄門侍郎となり、次いで散騎常侍、豫州刺史、魏郡太守、御史中丞を歴任した。時に孫秀は(「征西大将軍・都督雍梁二州諸軍事」の司馬倫(しばりん)の下で)関中を乱していたので、解結は都(洛陽)において座上で議論し、孫秀の罪はまさに誅殺すべきものであると述べ、孫秀はこれにより解結を恨むようになった。解系が殺されると、解結もまた一緒に死刑に処された。解結の娘は裴氏に嫁ぐことになっており、ちょうど明日嫁ぐ予定であるというときにその禍が起こってしまい、裴氏はまだ結婚が完全には成立していないものの、その娘を自分の嫁であると認識し、何とかしてこれを生かそうとしたが、その娘は言った。「実家がこうなってしまった以上、私はどうして生き永らえることができましょうか」と。やはりその娘も連座して死ぬことになった。朝廷はそこで議論して旧来の制度を改め、娘は連座させないことになったが、それは解結の娘のこの事件に由来して始まったのである。朝廷は後に解結に光禄大夫の官位を追贈し、改めて葬り、加えて弔祭を行った。
解結の弟の解育は字を稚連と言い、名望は二人の兄に次ぐものであった。公府の掾、太子洗馬、尚書郎、衛軍長史(衛将軍府の長史)、弘農太守を歴任し、二人の兄と一緒に殺され、妻子は辺境への徙刑に処された。
孫旂、字伯旗、樂安人也。父歴、魏晉際爲幽州刺史・右將軍。旂絜靜、少自脩立。察孝廉、累遷黃門侍郎、出爲荊州刺史、名位與二解相亞。永熙中、徴拜太子詹事、轉衞尉、坐武庫火免官。歲餘、出爲兗州刺史、遷平南將軍・假節。
旂子弼及弟子髦・輔・琰四人、並有吏材、稱於當世、遂與孫秀合族。及趙王倫起事、夜從秀開神武門下觀閱器械。兄弟旬月相次爲公府掾・尚書郎。弼又爲中堅將軍、領尚書左丞、轉爲上將軍、領射聲校尉。髦爲武衞將軍、領太子詹事。琰爲武威將軍、領太子左率。皆賜爵開國郡侯。推崇旂爲車騎將軍・開府。
初、旂以弼等受署偽朝、遣小息回責讓弼等以過差之事、必爲家禍。弼等終不從、旂制之不可、但慟哭而已。及齊王冏起義、四子皆伏誅。襄陽太守宗岱承冏檄斬旂、夷三族。
弟尹、字文旗、歴陳留・陽平太守、早卒。
孫旂、字は伯旗、樂安の人なり。父の歴は、魏晉の際に幽州刺史・右將軍たり。旂は絜靜にして、少くして自ら脩めて立つ。孝廉に察せられ、累りに遷りて黃門侍郎たり、出でて荊州刺史と爲り、名位は二解に相い亞ぐ。永熙中、徴されて太子詹事に拜せられ、衞尉に轉じ、武庫に火あるに坐して官を免ぜらる。歲餘、出でて兗州刺史と爲り、平南將軍・假節〔一〕に遷る。
旂の子の弼及び弟の子の髦・輔・琰の四人、並びに吏材有り、當世に稱せられ、遂に孫秀と族を合す。趙王倫の事を起こすに及び、夜に秀に從いて神武門下の觀を開きて器械を閱す。兄弟、旬月にして相い次いで公府掾・尚書郎と爲る。弼は又た中堅將軍と爲り、尚書左丞を領し、轉じて上將軍と爲り、射聲校尉を領す。髦は武衞將軍と爲り、太子詹事を領す。琰は武威將軍と爲り、太子左率を領す。皆な爵開國郡侯を賜わる。旂を推崇して車騎將軍・開府と爲す。
初め、旂は弼等の署を偽朝に受けしを以て、小息の回を遣わして弼等を責讓せしめて以えらく、過差の事、必ず家の禍と爲らん、と。弼等、終に從わず、旂、之を制するに可ならざれば、但だ慟哭するのみ。齊王冏の起義するに及び、四子は皆な誅に伏す。襄陽太守の宗岱、冏の檄を承けて旂を斬り、三族を夷ぐ。
弟の尹、字は文旗、陳留・陽平太守を歴るも、早くに卒す。
〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
孫旂(そんき)は字を伯旗と言い、楽安国の人である。父の孫歴は、魏晋革命にまたがる時期に「幽州刺史・右将軍」を務めていた。孫旂は清く物静かで、若くして身を修めて自立していた。孝廉に察せられ、何度も昇進して黄門侍郎となり、地方に出て荊州刺史となり、名望や位は解系・解結兄弟に次ぐものとなった。恵帝の永熙年間(290)に、徴召されて太子詹事に任じられ、やがて衞尉に転任したが、武庫が火事に遭った責任により官を罷免された。一年余り後、また地方に出て兗州刺史となり、後に「平南将軍・仮節」〔一〕を加えられた。
孫旂の子の孫弼(そんひつ)と、孫旂の弟の子である孫髦(そんぼう)・孫輔・孫琰(そんえん)の四人は、いずれも官吏としての才幹があり、当時の世において称賛され、やがて(近隣の地域の同姓といういうことで趙王・司馬倫(しばりん)の腹心である)孫秀の一族と合体して同宗集団となった。趙王・司馬倫がクーデタを起こした際には、彼らは夜に孫秀に従って神武門のそばにある高楼を開いて武器を点検した。孫弼や孫髦らの兄弟は、十日から一ヶ月のわずかな間に、相い次いで公府の掾(部局の長)や尚書郎となった。孫弼はさらに中堅将軍となり、尚書左丞を兼任し、やがて上将軍に転任し、射声校尉を兼任した。孫髦は武衛将軍となり、太子詹事を兼任した。孫琰は武威将軍となり、太子左率を兼任した。そしてみな開国郡侯の爵を賜わった。さらに彼らは孫旂を尊崇して「車騎将軍・開府」の地位に据えた。
初め、孫旂は、孫弼らが司馬倫の偽朝廷の官職を受けたということを(赴任先の兗州の地で)聞くと、幼い息子の孫回を洛陽に派遣して、このような誤りを犯せば、必ず我が家に禍いをもたらすことになるだろう、と孫弼らをとがめさせた。孫弼らは結局その言葉に従わず、孫旂は彼らを制御することができないと分かると、ただただ慟哭するしかなかった。斉王・司馬冏(しばけい)が打倒司馬倫の義兵を興すと、孫弼ら四子はみな誅殺された。襄陽太守の宗岱(そうたい)は、司馬冏の檄文を受けて孫旂を斬り、三族を皆殺しにした。
孫旂の弟の孫尹(そんいん)は、字を文旗と言い、陳留太守・陽平太守を歴任したが、早くに亡くなった。
孟觀、字叔時、渤海東光人也。少好讀書、解天文。惠帝即位、稍遷殿中中郎。賈后悖婦姑之禮、陰欲誅楊駿而廢太后、因駿專權、數言之於帝、又使人諷觀。會楚王瑋將討駿、觀受賈后旨宣詔、頗加誣其事。及駿誅、以觀爲黃門侍郎、特給親信四十人。遷積弩將軍、封上谷郡公。
氐帥齊萬年反於關中、眾數十萬、諸將覆敗相繼。中書令陳準・監張華、以趙・梁諸王在關中、雍容貴戚、進不貪功、退不懼罪、士卒雖眾、不爲之用、周處喪敗、職此之由、上下離心、難以勝敵。以觀沈毅、有文武材用、乃啟觀討之。觀所領宿衞兵、皆趫捷勇悍、并統關中士卒、身當矢石、大戰十數、皆破之、生擒萬年、威慴氐羌。轉東羌校尉、徴拜右將軍。
趙王倫篡位、以觀所在著績、署爲安南將軍・監1(河)〔沔〕北諸軍事・假節、屯宛。觀子平爲淮南王允前鋒將軍、討倫、戰死。孫秀以觀杖兵在外、假言平爲允兵所害、贈積弩將軍以安觀。義軍既起、多勸觀應齊王冏、觀以紫宮帝坐無他變、謂倫應之、遂不從眾議而爲倫守。及帝反正、永饒冶令空桐機斬觀首、傳于洛陽、遂夷三族。
1.労格『晋書校勘記』に基づき、「河」を「沔」に改める。
孟觀、字は叔時、渤海東光の人なり。少くして讀書を好み、天文を解す。惠帝の即位するや、稍々遷りて殿中中郎たり。賈后は婦姑の禮に悖り、陰かに楊駿を誅して太后を廢せんと欲し、駿の專權するに因り、數々之を帝に言し、又た人をして觀に諷せしむ。會々楚王瑋の將に駿を討たんとするや、觀、賈后の旨を受けて宣詔し、頗る誣を其の事に加う。駿の誅せらるるに及び、觀を以て黃門侍郎と爲し、特に親信四十人を給す。積弩將軍に遷り、上谷郡公に封ぜらる。
氐帥の齊萬年の關中に反するや、眾は數十萬、諸將の覆敗すること相い繼ぐ。中書令の陳準・監の張華、以えらく、趙・梁諸王は關中に在り、雍容たる貴戚にして、進みては功を貪ぼらず、退きては罪を懼れず、士卒は眾しと雖も、之が用を爲さず、周處の喪敗せるは、職ら此れに之れ由り、上下は離心し、以て敵に勝つに難し、と。觀の沈毅にして、文武の材用有るを以て、乃ち啟して觀をして之を討たしむ。觀の領する所の宿衞兵は、皆な趫捷・勇悍にして、并びに關中の士卒を統べ、身ら矢石に當たり、大戰すること十數、皆な之を破り、生きながらに萬年を擒え、氐羌を威慴す。東羌校尉に轉じ、徴されて右將軍に拜せらる。
趙王倫の位を篡うや、觀の所在に績を著わせるを以て、署して安南將軍・監沔北諸軍事・假節〔一〕と爲し、宛に屯せしむ。觀の子の平、淮南王允の前鋒將軍と爲り、倫を討ち、戰死す。孫秀、觀の兵を在外に杖つを以て、平は允の兵の害する所と爲ると假言し、積弩將軍を贈りて以て觀を安んず。義軍既に起ち、多く觀に齊王冏に應ぜんことを勸むるも、觀、紫宮の帝坐に他變無きを以て、倫之に應ずと謂い、遂に眾議に從わずして倫の爲に守る。帝の正に反るに及び、永饒冶令の空桐機〔二〕、觀の首を斬り、洛陽に傳え、遂に三族を夷ぐ。
〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔二〕空桐が姓、機が名。空桐氏は漢代から存在する複姓。
孟観は字を叔時と言い、渤海郡・東光の人である。若くして読書を好み、天文に詳しかった。恵帝が即位すると、何度か昇進して殿中中郎となった。賈后は嫁と姑の礼に背き、こっそりと楊駿(ようしゅん)を誅殺して楊太后を廃そうと企み、楊駿が専権していることにかこつけて何度も恵帝にそのことを吹き込み、また人を遣わして孟観をそれとなくそそのかした。ちょうど楚王・司馬瑋(しばい)が楊駿を討伐しようとすると、孟観は賈后の意向を受けて詔を宣下し、頗るそのことについて有ること無いこと言い立てた。楊駿が誅殺されると、孟観は黄門侍郎に任じられ、特別に親信(近侍の者)四十人を給付された。やがて積弩将軍に昇進し、上谷郡公に封じられた。
氐族の統帥である斉万年(せいばんねん)が関中で反乱を起こすと、その兵は数十万にも上り、官軍の諸将は相次いで敗れたり戦死したりした。中書令の陳準と中書監の張華は、(反乱の鎮圧に当たっていた)趙王・司馬倫(しばりん)、梁王・司馬肜(しばゆう)らの諸王は関中に在って、温雅なる皇族として、積極的に功を貪って勇敢に戦うこともしなければ、消極的に罪を恐れて必死に戦うこともせず、士卒は多いとはいえ、それを有効に活用できず、周処が戦死して敗れたのは、専らそのせいであり、上下の心は離れ、故に敵に勝つことは難しい、と考えた。一方で、孟観は沈着かつ剛毅であり、文武の才能があったので、そこで陳準らは孟観を推薦し、孟観にこれを討伐させることにした。孟観の統率している宿衛兵はみな敏捷で勇猛であり、観はさらに関中の士卒をも統率し、自ら前線で矢石に当たりながら大戦すること十数回、いずれも敵軍を破り、斉万年を生け捕りにし、氐族・羌族を恐れ震えあがらせた。孟観はやがて東羌校尉に転任し、徴召されて右将軍に任じられた。
趙王・司馬倫が帝位を簒奪すると、孟観が赴任した先々で顕著な功績を挙げていたことから、「安南将軍・監沔北諸軍事・仮節」に任命し、宛に駐屯させた。孟観の子の孟平は、淮南王・司馬允(しばいん)の前鋒将軍となり、司馬倫を討伐しようとして戦死した。(司馬倫の側近の)孫秀は、孟観が在外で兵を率いていることを考慮し、孟平は司馬允の兵に殺されたのだと虚言を弄し、孟平に積弩将軍の官位を追贈し、孟観を安心させた。斉王・司馬冏(しばけい)らによる打倒司馬倫の義軍が蜂起すると、多くの者が孟観に対して司馬冏に応ずるべきだと勧めたが、孟観は、紫宮(北極星を中心とする星座名)の帝座に特別な異変が無いのを見て、それは司馬倫(の帝位が安泰であること)に応じているものであると考え、そうして人々の提案に従わず、司馬倫側に就いて守った。恵帝が正当な位に復帰すると、永饒冶令の空桐機(くうとうき)は、孟観の首を斬り、洛陽に送り、そのまま三族を滅ぼした。
牽秀、字成叔、武邑觀津人也。祖招、魏雁門太守。秀博辯有文才、性豪俠、弱冠得美名、爲太保衞瓘・尚書崔洪所知。太康中、調補新安令、累遷司空從事中郎。與帝舅王愷素相輕侮、愷諷司隸荀愷奏秀夜在道中載高平國守士田興妻。秀即表訴被誣、論愷穢行、文辭亢厲、以譏抵外戚。于時朝臣雖多證明其行、而秀盛名美譽由是而損、遂坐免官。後司空張華請爲長史。
秀任氣、好爲將帥。張昌作亂、長沙王乂遣秀討昌、秀出關、因奔成都王穎。穎伐乂、以秀爲冠軍將軍、與陸機・王粹等共爲河橋之役。機戰敗、秀證成其罪、又諂事黃門孟玖、故見親於穎。惠帝西幸長安、以秀爲尚書。秀少在京輦、見司隸劉毅奏事而扼腕慷慨、自謂居司直之任、當能激濁揚清、處鼓鞞之閒、必建將帥之勳。及在常伯納言、亦未曾有規獻弼違之奇也。
河閒王顒甚親任之。關東諸軍奉迎大駕、以秀爲平北將軍、鎮馮翊。秀與顒將馬瞻等將輔顒以守關中、顒密遣使就東海王越求迎、越遣將麋晃等迎顒。時秀擁眾在馮翊、晃不敢進。顒長史楊騰前不應越軍、懼越討之、欲取秀以自效、與馮翊大姓諸嚴詐稱顒命、使秀罷兵、秀信之、騰遂殺秀於萬年。
牽秀、字は成叔、武邑觀津の人なり。祖の招は、魏の雁門太守たり。秀、博辯にして文才有り、性は豪俠、弱冠にして美名を得、太保の衞瓘・尚書の崔洪の知る所と爲る。太康中、新安令に調補せられ、累りに遷りて司空從事中郎たり。帝の舅の王愷と素より相い輕侮したれば、愷、司隸の荀愷に諷して秀は夜に道中に在りて高平國の守士の田興の妻を載すと奏せしむ。秀、即ち表して誣を被けりと訴え、愷の穢行を論じ、文辭亢厲にして、以て外戚を譏抵す。時に朝臣は多く其の行いを證明すると雖も、而れども秀の盛名・美譽は是に由りて損われ、遂に坐して官を免ぜらる。後に司空の張華、請いて長史と爲す。
秀は任氣あり、將帥と爲るを好む。張昌の亂を作すや、長沙王乂、秀を遣わして昌を討たしめんとするも、秀、關より出で、因りて成都王穎に奔る。穎の乂を伐たんとするや、秀を以て冠軍將軍と爲し、陸機・王粹等と共に河橋の役を爲さしむ。機の戰いて敗るるや、秀、證して其の罪を成し、又た黃門の孟玖に諂事したれば、故に穎に親しまる。惠帝の西のかた長安に幸するや、秀を以て尚書と爲す。秀、少くして京輦に在り、司隸の劉毅の奏事を見て腕を扼えて慷慨し、自ら謂えらく、司直の任に居らば、當に能く濁れるを激し清きを揚ぐべく、鼓鞞の閒に處らば、必ず將帥の勳を建てん、と。常伯・納言に在るに及び、亦た未だ曾て規獻して違えるを弼すの奇有らざるなり。
河閒王顒、甚だ之を親任す。關東の諸軍の大駕を奉迎せんとするや、秀を以て平北將軍と爲し、馮翊に鎮せしむ。秀、顒の將の馬瞻等と與に將に顒を輔けて以て關中を守せんとするに、顒、密かに使を遣わして東海王越に就きて迎えんことを求めしめたれば、越、將の麋晃等を遣わして顒を迎えしむ。時に秀は眾を擁して馮翊に在れば、晃、敢えて進まず。顒の長史の楊騰、前に越の軍に應ぜざれば、越の之を討つを懼れ、秀を取りて以て自ら效さんと欲し、馮翊の大姓の諸嚴と與に詐りて顒の命と稱し、秀をして兵を罷めしめんとするや、秀、之を信じ、騰、遂に秀を萬年に殺す。
牽秀(けんしゅう)は字を成叔と言い、武邑国・観津の人である。祖父の牽招は、魏の雁門太守にまで昇った。牽秀は、雄弁で文才があり、性格は豪快で侠気があり、わずか二十歳頃ですでに素晴らしき名声を獲得し、太保の衛瓘(えいかん)、尚書の崔洪(さいこう)に知られるようになった。それによって武帝の太康年間に新安令に任じられ、何度も昇進して司空府の従事中郎となった。牽秀はもともと、武帝の舅の王愷(おうがい)(武帝の母の文明皇后・王元姫の弟)と互いに見下し合っていたので、王愷は、司隷校尉の荀愷(じゅんがい)をそれとなくそそのかし、牽秀は夜に道中で高平国の守士である田興の妻を車に載せた、と上奏させた。牽秀は、ただちに上表してそれは誣告であると訴え、王愷の悪行について論じ、激烈な言葉で外戚を謗り、逆らった。時に多くの朝臣が牽秀の行いについて証明したが、しかし牽秀の盛んな名声・美しい名誉はこれによって損なわれ、結局そのせいで官を罷免された。後に司空の張華は牽秀を奏請して司空府の長史に任じた。
牽秀は血気盛んで、将帥になることを望んでいた。張昌が反乱を起こすと、(政権を握っていた)長沙王・司馬乂(しばがい)は、牽秀を派遣して張昌を討伐させようとしたが、牽秀は関を出て逃れ、そこで成都王・司馬穎(しばえい)のもとに身を寄せた。司馬穎は、司馬乂を討伐するに当たって、牽秀を冠軍将軍に任じ、陸機・王粹(おうすい)らと一緒に河橋の役(河橋の戦い)に従事させた。陸機が戦って敗れると、牽秀は証言して陸機を罪に伏させ、また黄門(宦官)の孟玖(もうきゅう)におべっかを使ったので、司馬穎に親しまれた。恵帝が(河間王・司馬顒(しばぎょう)らに連れられて)西行して長安に行幸すると、牽秀は尚書に任じられた。牽秀は、若い頃に京都(洛陽)で司隷校尉の劉毅(りゅうき)がとある件について上奏したのを見て、腕を強く握りしめて慷慨の念に駆られ、次のような志を抱いた。もし自分が他人の過ちを正す任に就いたら、ひたすら悪人を除き善人を顕彰するようにし、軍鼓の中に身を置く(=将帥となる)ことになれば、必ず将帥としての勲功を立てよう、と。しかし、いざ牽秀が常伯(侍中などの近侍の官)・納言(尚書)の地位に就くと、忠言を呈して諫め、誤りを正すというような優れた行いはまったく見られなかった。
河間王・司馬顒は、牽秀に非常に親しみ、信任した。(東海王・司馬越らの)関東の諸軍が恵帝を洛陽に奉迎して連れ戻そうとすると、司馬顒は牽秀を平北将軍に任じ、馮翊を鎮守させた。牽秀は、司馬顒の将である馬瞻(ばせん)らと一緒に司馬顒を助けて関中を守ろうとしていたが、司馬顒は密使を派遣し、東海王・司馬越に自分を迎えるよう要請させたので、司馬越は、配下の将の麋晃(びこう)らを派遣して司馬顒を迎えに行かせた。時に牽秀は衆を擁して馮翊にいたので、麋晃は進むことができなかった。司馬顒の長史の楊騰(ようとう)は、以前、司馬越の軍に応じなかったので、司馬越が自分を討伐するのではないかと恐れ、牽秀の首を取ってそれを司馬越のための手土産にしようとし、馮翊の大姓(影響力の大きい在地の一族)である厳氏たちと一緒に偽って司馬顒の命と称し、牽秀に停戦させようとしたところ、牽秀はそれを信じ、楊騰はそれにつけこんで牽秀を万年の地で殺した。
繆播、字宣則、蘭陵人也。父悅、光祿大夫。播才思清辯、有意義。高密王泰爲司空、以播爲祭酒、累遷太弟中庶子。
惠帝幸長安、河間王顒欲挾天子令諸侯。東海王越將起兵奉迎天子、以播父時故吏、委以心膂。播從弟右衞率胤、顒前妃之弟也。越遣播・胤詣長安説顒、令奉帝還洛、約與顒分陝爲伯。播・胤素爲顒所敬信、既相見、虛懷從之。顒將張方自以罪重、懼爲誅首、謂顒曰「今據形勝之地、國富兵彊、奉天子以號令、誰敢不服。」顒惑方所謀、猶豫不決。方惡播・胤爲越游説、陰欲殺之。播等亦慮方爲難、不敢復言。時越兵鋒甚盛、顒深憂之、播・胤乃復説顒、急斬方以謝、可不勞而安。顒從之、於是斬方以謝山東諸侯。顒後悔之、又以兵距越、屢爲越所敗。帝反舊都、播亦從太弟還洛、契闊艱難、深相親狎。
及帝崩、太弟即帝位。是爲懷帝。以播爲給事黃門侍郎。俄轉侍中、徙中書令、任遇日隆、專管詔命。時越威權自己、帝力不能討、心甚惡之。以播・胤等有公輔之量、又盡忠於國、故委以心膂。越懼爲己害、因入朝、以兵入宮、執播等於帝側。帝歎曰「姦臣賊子無世無之、不自我先、不自我後。哀哉。」起執播等手、涕泗歔欷不能自禁。越遂害之。朝野憤惋、咸曰「善人、國之紀也。加虐焉、其能終乎。」及越薨、帝贈播衞尉、祠以少牢。
繆播、字は宣則、蘭陵の人なり。父の悅は、光祿大夫たり。播、才思は清辯にして、意義有り。高密王泰の司空と爲るや、播を以て祭酒と爲し、累りに遷りて太弟中庶子たり。
惠帝の長安に幸するや、河間王顒、天子を挾みて諸侯に令せんと欲す。東海王越の將に兵を起こして天子を奉迎せんとするや、播の父の時に故吏なるを以て、委ぬるに心膂を以てす。播の從弟の右衞率の胤は、顒の前の妃の弟なり。越、播・胤を遣わして長安に詣りて顒に説かしめ、帝を奉じて洛に還らしめんとし、顒と陝に分かちて伯と爲さんことを約す。播・胤、素より顒の敬信する所と爲れば、既に相い見うや、懷を虛ろにして之に從う。顒の將の張方、自ら罪の重きを以て、誅首と爲らんことを懼れ、顒に謂いて曰く「今、形勝の地に據り、國は富み兵は彊く、天子を奉じて以て號令したれば、誰か敢えて服さざらん」と。顒、方の謀る所に惑い、猶豫して決せず。方、播・胤の越の爲に游説するを惡み、陰かに之を殺さんと欲す。播等も亦た方の難を爲すを慮り、敢えて復た言わず。時に越の兵鋒は甚だ盛んにして、顒、深く之を憂えたれば、播・胤、乃ち復た顒に説くらく、急ぎ方を斬りて以て謝せば、勞せずして安んずべし、と。顒、之に從い、是に於いて方を斬りて以て山東諸侯に謝す。顒、後に之を悔い、又た兵を以て越を距ぐも、屢々越の敗る所と爲る。帝の舊都に反るや、播も亦た太弟に從いて洛に還り、契闊艱難ありて、深く相い親狎す。
帝の崩ずるに及び、太弟、帝位に即く。是れ懷帝たり。播を以て給事黃門侍郎と爲す。俄にして侍中に轉じ、中書令に徙り、任遇日ごとに隆んにして、專ら詔命を管る。時に越は威權己よりし、帝、力は討つ能わざれば、心に甚だ之を惡む。播・胤等は公輔の量有り、又た忠を國に盡くすを以て、故に委ぬるに心膂を以てす。越、己が害と爲らんことを懼れ、入朝するに因り、兵を以て宮に入らしめ、播等を帝側に執う。帝、歎きて曰く「姦臣賊子、世として之無きは無けれども、我より先ならず、我より後ならず〔一〕。哀しきかな」と。起ちて播等の手を執り、涕泗歔欷すること自ら禁む能わず。越、遂に之を害す。朝野憤惋し、咸な曰く「善人は、國の紀なり。而るに虐を焉に加えたれば、其れ終わりを能くせんや」と。越の薨ずるに及び、帝、播に衞尉を贈り、祠るに少牢を以てす。
〔一〕「不自我先、不自我後。」は、『詩』小雅・正月および大雅・瞻卬に出てくる言葉である。いずれも滅亡に瀕した国の惨状を嘆き憤る詩である。
繆播(びゅうはん)は字を宣則と言い、蘭陵郡の人である。父の繆悅(びゅうえつ)は、光禄大夫にまで昇った。繆播は、才能や思慮が明晰でかつ明弁であり、優れた名声があった。高密王・司馬泰が司空になると、繆播を祭酒に任じ、その後、何度も昇進して(当時は太弟であった後の懐帝・司馬熾(しばし)の)太弟中庶子となった。
恵帝が(河間王・司馬顒(しばぎょう)らに連れられて)長安に行幸すると、河間王・司馬顒は、天子を擁して諸侯に号令しようと図った。東海王・司馬越が兵を起こして天子(恵帝)を洛陽に奉迎しようとするに当たり、繆播の父が司馬越の故吏であったがために、司馬越は繆播を自分の右腕として委任した。繆播の従弟である右衛率の繆胤(びゅういん)は、司馬顒の以前の妃の弟であった。そこで司馬越は、繆播・繆胤を派遣して長安に赴いて司馬顒を訪れさせ、恵帝を奉じて洛陽に帰そうとし、司馬越と司馬顒とで陝の地を境に東西に分割し、それぞれその地の伯となることを約束しようとした。繆播と繆胤は、もともと司馬顒に尊敬・信用されていたので、会見したところ、司馬顒は虚心でこれに従った。しかし、司馬顒の将である張方は、自分は(司馬越に対する)罪が重く、誅殺すべき人物の筆頭とされるのではないかと恐れ、そこで司馬顒に言った。「今、我々は険要で有利な土地を恃みにし、国は富み兵は強く、天子を奉じて天下に号令している状況ですので、どうして服属しない者がおりましょうか」と。司馬顒は、張方の策謀に迷い、ぐずぐずして決心しかねていた。張方は、繆播と繆胤が司馬越のために遊説しているのを憎み、こっそり彼らを殺そうとしていた。繆播らもまた、張方に目の敵にされて危害を加えられるのではないかと憂慮し、それ以上言おうとはしなかった。時に司馬越の軍勢は非常に盛んであり、司馬顒がそれを深く憂える様子を見せたので、繆播・繆胤はそこでまた司馬顒に説き、急いで張方を斬って謝罪すれば、苦労せずに身を安んじることができましょう、と述べた。司馬顒はこれに従い、そこで張方を斬って山東の諸侯たちに謝罪した。ところが司馬顒はそれを後悔し、また兵を挙げて司馬越を拒んで防いだが、しばしば司馬越に敗れた。恵帝が旧都(洛陽)に帰還すると、繆播もまた太弟(司馬熾)に従って洛陽に帰り、ともに苦労して困難を乗り越える中で、二人は非常に仲を深めた。
恵帝が崩御すると、太弟が帝位に即いた。すなわち懐帝である。懐帝は繆播を給事黄門侍郎に任じた。そしてすぐに侍中に転任し、中書令に昇進し、その地位や待遇は日に日に盛んになり、専ら詔命についてつかさどることになった。時に司馬越は思いのままに威権を振るい、懐帝の力ではこれを討伐することができず、心中、非常に司馬越を憎んでいた。懐帝は、繆播・繆胤らには宰相としての器量があり、また国に忠誠を尽くしていることから、彼らを自分の右腕として委任していた。司馬越は、彼らが自分の害となるのを恐れ、ある日、入朝した折に、兵を伴って皇宮に侵入させ、繆播らをむりやり懐帝のそばで取り押さえた。懐帝は嘆いて言った。「姦臣や賊子はいずれの世にも必ずいるものであるが、しかし亡国の困難に直面しているのは私よりも前の時代でもなく、私よりも後の時代でもなく、私が生きている今まさにこの時代である。哀しいことよ」と。懐帝は立ち上がって繆播らの手を取り、むせび泣いて涙や鼻水が流れるのを止めることができなかった。司馬越は、そのまま彼らを殺した。朝廷の人も在野の人もこれに対して恨み憤り、みな言った。「善人は国のかなめである。それなのに、それを虐げるというのであれば、どうして良い死に目を迎えられようか」と。司馬越が薨去すると、懐帝は、繆播に衛尉の官位を追贈し、少牢(羊と豚を犠牲に捧げる礼)で祭った。
胤、字休祖、安平獻王外孫也。與播名譽略齊。初爲尚書郎、後遷太弟左衞率、轉魏郡太守。及王浚軍逼鄴、石超等大敗、胤奔東海王越於徐州。越使胤與播俱入關、而所説得行、大駕東還。越以胤爲冠軍將軍・南陽太守。胤從藍田出武關、之南陽、前守衞展距胤不受、胤乃還洛。懷帝即位、拜胤左衞將軍、轉散騎常侍・太僕卿。既而與播及帝舅王延・尚書何綏・太史令高堂沖並參機密、爲東海王越所害。
胤、字は休祖、安平獻王の外孫なり。播と名譽略(あらま)し齊し。初め尚書郎と爲り、後に太弟左衞率に遷り、魏郡太守に轉ず。王浚の軍の鄴に逼り、石超等大いに敗るるに及び、胤、東海王越に徐州に奔る。越、胤をして播と俱に關に入らしめ、而して説きし所は行わるるを得、大駕、東のかた還る。越、胤を以て冠軍將軍・南陽太守と爲す。胤、藍田より武關に出で、南陽に之くも、前守の衞展は胤を距みて受けざれば、胤、乃ち洛に還る。懷帝の即位するや、胤を左衞將軍に拜し、散騎常侍・太僕卿に轉ず。既にして播及び帝の舅の王延・尚書の何綏・太史令の高堂沖と並びに機密に參じ、東海王越の害する所と爲る。
繆胤(びゅういん)は字を休祖と言い、安平献王・司馬孚(しばふ)の外孫である。名誉は繆播とほとんど等しかった。初め尚書郎となり、後に(当時は太弟であった後の懐帝・司馬熾(しばし)の)太弟左衛率に昇進し、魏郡太守に転任した。王浚(おうしゅん)の軍が鄴に迫り、石超らが大敗すると、繆胤は逃走して徐州の東海王・司馬越に身を寄せた。司馬越は、繆胤に繆播(びゅうはん)と一緒に関中に入らせ、そして司馬顒の説得に成功して計画が実行され、(長安に連れ去られていた)恵帝は東行して洛陽に帰還した。やがて司馬越は、繆胤を冠軍将軍・南陽太守に任じた。繆胤は、藍田から武関に出て南陽に赴いたが、前任の太守である衛展が繆胤を拒んで交代を受け容れなかったので、繆胤はそこで洛陽に帰った。懐帝が即位すると、繆胤は左衛将軍に任じられ、やがて散騎常侍・太僕卿に転任した。まもなく繆播や懐帝の舅の王延、尚書の何綏(かすい)、太史令の高堂沖(こうどうちゅう)らと一緒に機密に参与するようになったが、東海王・司馬越に殺された。
皇甫重、字倫叔、安定朝那人也。性沈果、有才用、爲司空張華所知、稍遷新平太守。元康中、華版爲秦州刺史。
齊王冏輔政、以重弟商爲參軍、冏誅、長沙王乂又以爲參軍。時河閒王顒鎮關中、其將李含先與商・重有隙、毎銜之、及此、説顒曰「商爲乂所任、重終不爲人用、宜急除之、以去一方之患。可表遷重爲内職、因其經長安、乃執之。」重知其謀、乃露檄上尚書、以顒信任李含、將欲爲亂、召集隴上士眾、以討含爲名。乂以兵革累興、今始寧息、表請遣使詔重罷兵、徴含爲河南尹。含既就徴、重不奉詔、顒遣金城太守游楷・隴西太守韓稚等四郡兵攻之。
頃之、成都王穎與顒起兵共攻乂、以討后父尚書僕射羊玄之及商爲名。乂以商爲左將軍・河東太守、領萬餘人於闕門距張方、爲方所破、顒軍遂進。乂既屢敗、乃使商閒行齎帝手詔、使游楷盡罷兵、令重進軍討顒。商行過長安、至新平、遇其從甥。從甥素憎商、以告顒、顒捕得商、殺之。
乂既敗、重猶堅守、閉塞外門、城内莫知。而四郡兵築土山攻城、重輒以連弩射之。所在爲地窟以防外攻、權變百端、外軍不得近城、將士爲之死戰。顒知不可拔、乃上表求遣御史宣詔喻之令降。重知非朝廷本意、不奉詔。獲御史騶人問曰「我弟將兵來、欲至未。」騶云「已爲河閒王所害。」重失色、立殺騶。於是城内知無外救、遂共殺重。
先是、重被圍急、遣養子昌請救於東海王越、越以顒新廢成都王穎、與山東連和、不肯出兵。昌乃與故殿中人楊篇詐稱越命、迎羊后於金墉城入宮、以后令發兵討張方、奉迎大駕。事起倉卒、百官初皆從之、俄而又共誅昌。
皇甫重、字は倫叔、安定朝那の人なり。性は沈果にして、才用有り、司空の張華の知る所と爲り、稍々遷りて新平太守たり。元康中、華、版して秦州刺史と爲す。
齊王冏の輔政するや、重の弟の商を以て參軍と爲し、冏の誅せらるるや、長沙王乂、又た以て參軍と爲す。時に河閒王顒は關中に鎮し、其の將の李含は先に商・重と隙有り、毎に之を銜みたるに、此に及ぶや、顒に説きて曰く「商は乂の任ずる所と爲るも、重は終に人の用と爲らざれば、宜しく急ぎ之を除き、以て一方の患を去るべし〔一〕。表して重を遷して内職と爲し、其の長安を經るに因り、乃ち之を執うべし」と。重、其の謀を知り、乃ち露檄もて尚書に上し、顒は李含を信任し、將に亂を爲さんと欲すと以い、隴上の士眾を召集し、含を討つを以て名と爲す。乂、兵革累りに興るも、今始めて寧息せしを以て、表請して使を遣わして重に詔して兵を罷めしめ、含を徴して河南尹と爲さんとす。含、既に徴に就くも、重は詔を奉ぜざれば、顒、金城太守の游楷・隴西太守の韓稚等四郡の兵を遣わして之を攻めしむ。
之を頃くして、成都王穎、顒と與に兵を起こして共に乂を攻め、后の父の尚書僕射の羊玄之及び商を討つを以て名と爲す。乂、商を以て左將軍・河東太守と爲し、萬餘人を闕門に領して張方を距がしむるも、方の破る所と爲り、顒の軍、遂に進む。乂、既に屢々敗れたれば、乃ち商をして閒行して帝の手詔を齎らしめ、游楷をして盡く兵を罷めしめ、重をして軍を進めて顒を討たしむ。商、行きて長安を過ぎ、新平に至るや、其の從甥に遇う。從甥は素より商を憎みたれば、以て顒に告げ、顒、商を捕得し、之を殺す。
乂は既に敗れしも、重は猶お堅守し、外門を閉塞したれば、城内知る莫し。而して四郡の兵は土山を築きて城を攻むるも、重、輒ち連弩を以て之を射る。所在に地窟を爲して以て外攻を防ぎ、權變百端、外軍は城に近づくを得ず、將士は之が爲に死戰す。顒、拔くべからざるを知るや、乃ち上表して求めて御史を遣わして宣詔して之を喻して降らしめんとす。重、朝廷の本意に非ざるを知り、詔を奉ぜず。御史の騶人を獲えて問いて曰く「我が弟は兵を將いて來るに、至らんと欲するや未だしや」と。騶云く「已に河閒王の害する所と爲る」と。重、色を失い、立ちどころに騶を殺す。是に於いて城内は外救無きを知り、遂に共に重を殺す。
是より先、重、圍を被くること急なれば、養子の昌を遣わして救いを東海王越に請うも、越は顒の新たに成都王穎を廢し、山東と連和せしを以て、肯えて兵を出さず。昌、乃ち故の殿中人の楊篇と與に詐りて越の命と稱し、羊后を金墉城より迎えて宮に入らしめ、后の令を以て兵を發して張方を討ち、大駕を奉迎せんとす。事起こること倉卒なれば、百官は初め皆な之に從うも、俄かにして又た共に昌を誅す。
〔一〕当時、司馬顒・李含らは地勢上、洛陽の司馬乂・皇甫商らと、秦州の皇甫重に挟まれる形となっていた。
皇甫重は字を倫叔と言い、安定郡・朝那の人である。性格は沈着・果断で、才幹があり、司空の張華に知られ、何度か昇進して新平太守となった。恵帝の元康年間、張華は板授して皇甫重を秦州刺史に任じた。
斉王・司馬冏(しばけい)が輔政の任に就くと、皇甫重の弟の皇甫商を自らの参軍に任じ、司馬冏が誅殺されて長沙王・司馬乂(しばがい)が政権を握ると、司馬乂もまた皇甫商を自らの参軍に任じた。時に河間王・司馬顒(しばぎょう)は関中を鎮守しており、その将の李含は以前から皇甫商・皇甫重らとわだかまりがあり、常に彼らを恨んでいたが、このときになって司馬顒に説いて言った。「皇甫商は司馬乂に信任されましたが、皇甫重は結局信任されませんでしたので、急いで皇甫重を除き、一方の患いを無くすべきです。上表して皇甫重を中央官に昇進させ、皇甫重が(洛陽へ行く途中)長安を通ったところで一挙に捕えるのがよいでしょう」と。皇甫重はその策謀を察知し、そこで露檄(密封せずに衆目にさらすことを目的とした公文書の形式の一つ)を尚書に上書し、司馬顒は李含を信任し、乱を起こそうとしていると述べ、李含を討つということを名分に、隴山周辺の地域の兵士を招集した。司馬乂は、これまで幾度となく戦争が繰り返され、今やっと落ち着いたところであるので、表請して使者を派遣して皇甫重に詔を下して軍を解散させ、李含を徴召して河南尹に任じようとした。李含はその徴召に応じたが、皇甫重の方は詔を奉じなかったので、司馬顒は、金城太守の游楷(ゆうかい)・隴西太守の韓稚(かんち)ら四郡の兵を派遣して皇甫重を攻めさせた。
しばらくして、成都王・司馬穎(しばえい)が、司馬顒と一緒に兵を起こして共に司馬乂を攻め、羊皇后の父である尚書僕射の羊玄之(ようげんし)と皇甫商を討つということを大義名分にした。司馬乂は、皇甫商を左将軍・河東太守に任じ、一万人あまりを率いて闕門で(司馬顒の将である)張方を防がせたが、張方に敗れ、司馬顒の軍はそのまま進んでいった。司馬乂の軍がしばしば敗れると、司馬乂はそこで皇甫商に恵帝の自筆の詔を持たせて間行させ、游楷に軍をすべて解散させ、皇甫重に命じて進軍して司馬顒を討たせようとした。皇甫商が間行して長安を過ぎ、やがて新平に到着すると、そこで従甥(姉妹の子)にばったりと遭遇した。その従甥はもともと皇甫商を憎んでいたので、そのことを司馬顒に告げ、司馬顒は皇甫商を捕らえて殺した。
結局、司馬乂は敗れて殺されてしまったが、皇甫重はなお城を堅守して外門を閉ざしていたので、城内では誰もそのことを知らなかった。そして、四郡の兵は土山を築いて城を攻めたが、皇甫重はそのたびに連弩で射かけた。そしてあちこちにトンネルを掘り、城外から地下を抜けて侵攻するのを防ぎ、その他にも臨機応変に様々な手を尽くしたので、城外の敵軍は城に近づくことができず、将兵は皇甫重のために死にもの狂いで戦った。司馬顒は、城を抜くことができないと分かると、そこで上表して要請し、御史を派遣して詔を宣下して皇甫重を喻して降伏させようとした。しかし皇甫重は、それが朝廷の本意ではないと分かっていたので、詔を奉じなかった。そこで皇甫重はその御史の御者を捕えて問うて言った。「我が弟(皇甫商)が兵を率いてやってくるはずだが、もうすぐ到着するのか、それともまだもう少しかかりそうか」と。その御者は言った。「もうすでに河間王(司馬顒)に殺されました」と。皇甫重は顔が真っ青になり、すぐさまその御者を殺した。こうして城内の人々は外からの救援が来ないことを知り、そこで一緒に皇甫重を殺した。
これに先立って、皇甫重は包囲を受けて非常に切迫していたので、養子の皇甫昌を派遣して東海王・司馬越に救援を要請させたが、司馬越は、司馬顒が(司馬越と対立していた)成都王・司馬穎を廃して(司馬越ら)山東の諸軍と連合したばかりであるので、兵を出そうとはしなかった。皇甫昌はそこで、もと殿中人の楊篇(ようへん)と一緒に偽って司馬越の命令であると称し、羊皇后を金墉城から皇宮に迎え入れ、皇后の令によって兵を発して張方を討ち、恵帝を奉迎しようとした。あまりに唐突に事が起こったので、百官はみな初めはこれに従っていたが、まもなく一緒になって皇甫昌を誅殺した。
張輔、字世偉、南陽西鄂人、漢河閒相衡之後也。少有幹局、與從母兄劉喬齊名。
初、補藍田令、不爲豪彊所屈。時彊弩將軍龐宗、西州大姓、護軍趙浚、宗婦族也、故僮僕放縱、爲百姓所患。輔繩之、殺其二奴、又奪其宗田二百餘頃以給貧戸、一縣稱之。轉山陽令、太尉陳準家僮亦暴橫、輔復擊殺之。累遷尚書郎、封宜昌亭侯。
轉御史中丞。時積弩將軍孟觀與明威將軍郝彦不協、而觀因軍事害彦、又賈謐・潘岳・石崇等共相引重、及義陽王威有詐冒事、輔並糾劾之。梁州刺史楊欣有姊喪、未經旬、車騎長史韓預彊聘其女爲妻。輔爲中正、貶預以清風俗、論者稱之。及孫秀執權、威構輔於秀、秀惑之、將繩輔以法。輔與秀牋曰「輔徒知希慕古人、當官而行、不復自知小爲身計。今義陽王誠弘恕、不以介意。然輔母年七十六、常見憂慮、恐輔將以怨疾獲罪。願明公留神省察輔前後行事。是國之愚臣而已。」秀雖凶狡、知輔雅正、爲威所誣、乃止。
後遷馮翊太守。是時長沙王乂以河閒王顒專制關中、有不臣之迹、言於惠帝、密詔雍州刺史劉沈・秦州刺史皇甫重使討顒。於是沈等與顒戰於長安、輔遂將兵救顒、沈等敗績。顒德之、乃以輔代重爲秦州刺史。當赴顒之難、金城太守游楷亦皆有功、轉梁州刺史、不之官。楷聞輔之還、不時迎輔、陰圖之。又殺天水太守封尚、欲揚威西土。召隴西太守韓稚會議、未決。稚子朴有武幹、斬異議者、即收兵伐輔。輔與稚戰於遮多谷口、輔軍敗績、爲天水故帳下督富整所殺。
初、輔嘗著論云「管仲不若鮑叔。鮑叔知所奉、知所投。管仲奉主而不能濟、所奔又非濟事之國。三歸反坫、皆鮑不爲。」又論班固・司馬遷云「遷之著述、辭約而事舉、敘三千年事唯五十萬言、班固敘二百年事乃八十萬言、煩省不同、不如遷一也。良史述事、善足以奬勸、惡足以監誡、人道之常。中流小事、亦無取焉、而班皆書之、不如二也。毀貶晁錯、傷忠臣之道、不如三也。遷既造創、固又因循、難易益不同矣。又遷爲蘇秦・張儀・范睢・蔡澤作傳、逞辭流離、亦足以明其大才。故述辯士則辭藻華靡、敘實錄則隱核名檢、此所以遷稱良史也。」又論魏武帝不及劉備、樂毅減於諸葛亮、詞多不載。
張輔、字は世偉、南陽西鄂の人にして、漢の河閒相衡の後なり。少くして幹局有り、從母兄の劉喬と名を齊しくす。
初め、藍田令に補せられ、豪彊の屈する所と爲らず。時に彊弩將軍の龐宗は、西州の大姓にして、護軍の趙浚は、宗の婦の族なれば、故に僮僕は放縱にして、百姓の患う所と爲る。輔、之を繩(ただ)し、其の二奴を殺し、又た其の宗田二百餘頃を奪いて以て貧戸に給したれば、一縣之を稱す。山陽令に轉ずるや、太尉の陳準の家僮も亦た暴橫なれば、輔、復た擊ちて之を殺す。累りに遷りて尚書郎たり、宜昌亭侯に封ぜらる。
御史中丞に轉ず。時に積弩將軍の孟觀は明威將軍の郝彦と協わず、而して觀は軍事に因りて彦を害し、又た賈謐・潘岳・石崇等は共に相い引重し、及び義陽王威に詐冒の事有るや、輔、並びに之を糾劾す。梁州刺史の楊欣に姊の喪有り、未だ旬を經ざるに、車騎長史の韓預、彊いて其の女を聘りて妻と爲す。輔、中正と爲るや、預を貶として以て風俗を清めたれば、論者、之を稱す〔一〕。孫秀の權を執るに及び、威、輔を秀に構えたれば、秀、之に惑い、將に輔を繩すに法を以てせんとす。輔、秀に牋を與えて曰く「輔は徒だ古人を希慕するを知るのみにして、官に當たりて行うに、復た自ら小を知りて身計を爲さず。今、義陽王は誠に弘恕なれば、以て意に介せず。然れども輔の母は年七十六なるに、常に見(われ)を憂慮し、輔の將に怨疾を以て罪を獲んとするを恐る。願わくは明公、留神して輔の前後の行事を省察せられんことを。是れ國の愚臣なるのみ」と。秀は凶狡なりと雖も、輔の雅正にして、威の誣する所と爲るを知りたれば、乃ち止む。
後に馮翊太守に遷る。是の時、長沙王乂は河閒王顒の關中に專制し、不臣の迹有るを以て、惠帝に言し、密かに雍州刺史の劉沈・秦州刺史の皇甫重に詔して顒を討たしむ。是に於いて沈等は顒と長安に戰い、輔、遂に兵を將いて顒を救い、沈等は敗績す。顒、之を德とし、乃ち輔を以て重に代わりて秦州刺史と爲す。當に顒の難に赴かんとするに、金城太守の游楷も亦た皆な功有り、梁州刺史に轉ずるも、官に之かず。楷、輔の還るを聞き、時にして輔を迎えず、陰かに之を圖らんとす。又た天水太守の封尚を殺し、威を西土に揚げんと欲す。隴西太守の韓稚を召して會して議するも、未だ決せず。稚の子の朴は武幹有り、議を異にする者を斬り、即ち兵を收めて輔を伐つ。輔、稚と遮多谷口に戰い、輔の軍は敗績し、天水の故の帳下督の富整の殺す所と爲る〔二〕。
初め、輔、嘗て論を著わして云く「管仲は鮑叔に若かず。鮑叔は奉ずる所を知り、投ずる所を知る。管仲は主を奉じて濟す能わず、奔る所も又た濟事の國に非ず。三歸〔三〕・反坫、皆な鮑は爲さず」と。又た班固・司馬遷を論じて云く「遷の著述、辭は約にして事は舉げ、三千年の事を敘するに唯だ五十萬言なるのみなれど、班固は二百年の事を敘するに乃ち八十萬言、煩省同じからざるは、遷に如かざるの一なり。良史の述事、善は以て奬勸するに足り、惡は以て監誡するに足るは、人道の常なり。中流の小事は、亦た焉を取る無きも、而れども班は皆な之を書きたるは、如かざるの二なり。晁錯を毀貶し、忠臣の道を傷うは、如かざるの三なり。遷は既に造創し、固は又た因循したれば、難易は益々同じからず。又た遷は蘇秦・張儀・范睢・蔡澤の爲に傳を作すに、辭を流離に逞しくしたるは、亦た以て其の大才を明らかにするに足る。故に辯士を述ぶれば則ち辭藻は華靡にして、實錄を敘ぶれば則ち隱核は名檢なるは、此れ遷の良史と稱せらるる所以なり」と。又た魏の武帝の劉備に及ばず、樂毅の諸葛亮に減(ゆず)るを論ずるも、詞多ければ載せず。
〔一〕『晋書斠注』も指摘する通り、『通典』巻六十・礼典二十には、南陽中正の張輔により韓預の郷品が二品から四品に下げられたということが記されている。
〔二〕ちなみに、『晋書』巻八十六・張軌伝によれば、韓稚らはこの後、張軌らの前涼政権に降伏したという。
〔三〕「三帰」が何を指すのかは、千年以上前からすでに見解が分かれ、「三つの邸宅」「台の名前」「三家の娘を妻にすること」など、諸説ある。管仲が「三帰」を有していたことについては、『史記』や『論語』などに記されている。
張輔(ちょうほ)は字を世偉と言い、南陽国・西鄂の人で、漢(後漢)の河間相・張衡(ちょうこう)の子孫である。若くして才幹があり、母方の従兄の劉喬(りゅうきょう)と同等の名声を得ていた。
初め、藍田令に任じられたが、有力氏族や豪族に屈服させられることは無かった。時に彊弩将軍の龐宗(ほうそう)は西州の大姓(影響力の大きい在地の一族)であったが、(藍田の人である)護軍の趙浚(ちょうしゅん)は龐宗の嫁の親族であったことから、その僮僕たちは好き放題しており、人々の憂いの種となっていた。張輔はこれを法によって正し、その二人の奴僕を殺し、またその宗田(趙氏一族の所有している田)二百頃余りを奪って貧窮している家に給付したので、県全体がこれを称賛した。張輔が山陽令に転任すると、太尉の陳準の家僮もまた横暴であったので、張輔は、またその者をむち打って殺した。その後、何度も昇進して尚書郎となり、宜昌亭侯に封じられた。
やがて御史中丞に転任した。時に積弩将軍の孟観は明威将軍の郝彦(かくげん)と反りが合わず、孟観が軍事にことよせて郝彦を殺すという事件があり、また賈謐(かひつ)・潘岳(はんがく)・石崇らは互いにへつらってむやみに称賛し合っており、その他にも義陽王・司馬威が欺瞞を弄して悪事を働いたので、張輔はいずれも弾劾した。また、梁州刺史の楊欣(ようきん)の姉が亡くなり(喪中であり)、まだ十日も経っていないのに、車騎将軍府の長史の韓預は、強引にその娘を娶って妻とした。張輔は、南陽中正に任じられると、韓預の郷品を下げ、それにより風俗を清めたので、論者はこれを称賛した。孫秀が朝廷の実権を握ると、司馬威が張輔を陥れようとして孫秀に対して誣告したので、孫秀はこれに惑い、張輔を法で取り締まろうとした。張輔は、孫秀に牋(公文書の一種)を送って言った。「私はただ古人を仰ぎ慕うことしか知らず、官に在って職務を果たすに当たり、細々とした機微を察して自分の身の保全を図り、それによって職務を粗末にするようなことはしてきませんでした。今、義陽王(司馬威)は実にお心が広いので、私はまったく意に介していません。しかし、私の七十六歳の母は、いつも私の事を心配し、私が怨恨により罪を着せられるのではないかと恐れています。どうかあなたには、注意して私の前後の行いをご審察していただきますようお願い申し上げます。私はただ国家の愚臣であるに過ぎません」と。孫秀は凶悪で狡猾な人物であるものの、張輔が正直者で、司馬威によって誣告されたに過ぎないということが分かっていたので、そこで張輔を罪に問うのをやめた。
張輔は後に馮翊太守に昇進した。この時、(朝廷の実権を握っていた)長沙王・司馬乂(しばがい)は、河間王・司馬顒(しばぎょう)が関中で専制し、臣下としてあるまじき行いをしていることから、恵帝に申し上げ、密かに雍州刺史の劉沈・秦州刺史の皇甫重に詔を下して司馬顒を討たせた。こうして劉沈らは司馬顒と長安で戦うことになり、そこで張輔は兵を率いて司馬顒を救援しに行き、劉沈らは敗れた。司馬顒はこれに恩を感じ、そこで張輔を皇甫重の代わりとして秦州刺史に任じた。司馬顒の危難を救おうと赴いた人物としては、他に金城太守の游楷(ゆうかい)にも功績があり、游楷はそれによって(昇進して)梁州刺史に転任することになったが、赴任せずに金城に留まった。游楷は、張輔が軍を還そうとしているのを聞き、張輔の送迎のときにそこに参加せず、こっそりとその地位を奪おうと図った。游楷はさらに天水太守の封尚を殺し、威名を西土に轟かせ(て独自の勢力を築き上げ)ようとした。そこで游楷は隴西太守の韓稚(かんち)を呼んで金城や隴西の官吏たちと会議したが、賛否両論で意見がまとまらなかった。韓稚の子の韓朴(かんぼく)は軍事の才幹があり、異議を唱える者を斬り、ただちに兵を集めて張輔を攻撃した。張輔は韓稚と遮多谷の入口で戦い、張輔の軍は敗れ、天水の人であるもと帳下督の富整によって殺された。
かつて、張輔は論を著わして言った。「管仲は鮑叔には及ばない。鮑叔は奉じるべき主が誰かも(すなわち公子小白、後の桓公)、身を寄せるべき国がどこかも(すなわち莒国)知っていた。一方の管仲は主(公子糾)を奉じながら事を成し遂げることができず、一緒に亡命した先(魯国)もまた事を成し遂げるのに十分な国ではなかった。管仲は三帰や反坫(献酬用の盃台)などの富貴を誇ったが、鮑叔は(謙虚にも)そんなものはいずれも有さなかった」と。また、班固・司馬遷(の『漢書』と『史記』)について論じて言った。「司馬遷の著述は、言葉は簡約であるが取り上げるべき事跡については尽くされていて、三千年の事を叙述するのにただ五十万言を費やすだけであったが、班固は二百年の事を叙述するのに何と八十万言も費やしており、詳細に記したところ、省略して記したところが異なるのは、班固が司馬遷に及ばない点の一つ目である。また、優れた史家が事跡を叙述する際には、推奨するのに十分なものを善として取り上げ、鑑として戒めとするのに十分なものを悪として取り上げるのが、人道の常である。大して善でも悪でもないような中途半端な小さなことは、これを取り上げるべきではないにも関わらず、班固がこのようなことまでをもみな書いたのは、司馬遷に及ばない点の二つ目である。さらに、班固が(前漢の)晁錯(ちょうそ)を貶め、忠臣の道を損なったのは、司馬遷に及ばない点の三つ目である。司馬遷は(『史記』を)一から書き興したが、班固はその記述を基に改変しただけなので、その難易度はいっそう異なる。また、司馬遷が蘇秦・張儀・范睢(はんしょ)・蔡沢のために伝を書くに当たり、彼らが流離したことについて述べたのは、やはり司馬遷の大才を十分に明確に示していよう。故に司馬遷が雄弁な遊説者について叙述する場合には文章の彩りは華麗であり、事実を叙述する際にはその評定には優れた道理があるのであり、これこそまさに司馬遷が優れた史家であると称される理由である」と。また、魏の武帝(曹操)は劉備には及ばないということについてや、楽毅は諸葛亮には及ばないということについても論じたが、字数が多くなるのでここには載せない。
李含、字世容、隴西狄道人也。僑居始平。少有才幹、兩郡並舉孝廉。安定皇甫商州里年少、少恃豪族、以含門寒微、欲與結交、含距而不納、商恨焉、遂諷州以短檄召含爲門亭長。會州刺史郭奕素聞其賢、下車擢含爲別駕、遂處羣僚之右。尋舉秀才、薦之公府、自太保掾轉秦國郎中令。司徒選含領始平中正。秦王柬薨、含依臺儀、葬訖除喪。尚書趙浚有内寵、疾含不事己、遂奏含不應除喪。本州大中正傅祗以名義貶含。中丞傅咸上表理含曰、
臣州秦國郎中令始平李含、忠公清正、才經世務、實有史魚秉直之風。雖以此不能協和流俗、然其名行峻厲、不可得掩、二郡並舉孝廉・異行。尚書郭奕臨州、含寒門少年、而奕超爲別駕。太保衞瓘辟含爲掾、毎語臣曰「李世容當爲晉匪躬之臣。」
秦王之薨、悲慟感人、百僚會喪、皆所目見。而今以含俯就王制、謂之背戚居榮、奪其中正。天王之朝、既葬不除、藩國之喪、既葬而除、藩國欲同不除、乃當責「引尊準卑、非所宜言。」耳。今天朝告于上、欲令藩國服于下、此爲藩國之義隆、而天朝之禮薄也。又云「諸王公皆終喪禮、寧盡乃敘、明以喪制宜隆、務在敦重也。」夫寧盡乃敘、明以哀其病耳。異於天朝、制使終喪、未見斯文。國制既葬而除、既除而祔、爰自漢魏迄于聖晉。文皇升遐、武帝崩殂、世祖過哀、陛下毀頓、銜疚諒闇、以終三年、率土臣妾豈無攀慕遂服之心。實以國制不可而踰、故於既葬不敢不除。天王之喪、釋除於上、藩國之臣、獨遂于下、此不可安。
復以秦王無後、含應爲喪主、而王喪既除而祔、則應吉祭。因曰「王未有廟主、不應除服。」秦王始封、無所連祔、靈主所居、即便爲廟。不問國制云何、而以無廟爲貶。以含今日之所行、移博士使案禮文、必也放勳之殂、遏密三載、世祖之崩、數旬即吉、引古繩今、闔世有貶、何但李含不應除服。今也無貶、王制故也。聖上諒闇、哀聲不輟、股肱近侍、猶宜心喪、不宜便行婚娶歡樂之事、而莫云者、豈不以大制不可而曲邪。
且前以含有王喪、上爲差代。尚書敕王葬日在近、葬訖、含應攝職、不聽差代。葬訖、含猶躊躇、司徒屢罰訪問、踧含攝職、而隨擊之、此爲臺敕府符陷含於惡。若謂臺府爲傷教義、則當據正。不正符敕、唯含是貶、含之困躓尚足惜乎、國制不可偏耳。
又含自以隴西人、雖戸屬始平、非所綜悉。自初見使爲中正、反覆言辭、説非始平國人、不宜爲中正。後爲郎中令、又自以選官引臺府爲比、以讓常山太守蘇韶、辭意懇切、形于文墨。含之固讓、乃在王未薨之前、葬後躊躇、窮於對罰而攝職耳。臣從弟祗爲州都1.(督)、意在欲隆風教、議含已過、不良之人遂相扇動、冀挾名義、法外致案、足有所邀、中正龐騰便割含品。臣雖無祁大夫之德、見含爲騰所侮、謹表以聞、乞朝廷以時博議、無令騰得妄弄刀尺。
帝不從、含遂被貶、退割爲五品。歸長安、歲餘、光祿差含爲壽城邸閣督。司徒王戎表含曾爲大臣、雖見割削、不應降爲此職。詔停。後爲始平令。
及趙王倫篡位、或謂孫秀曰「李含有文武大才、無以資人。」秀以爲東武陽令。河閒王顒表請含爲征西司馬、甚見信任。頃之、轉爲長史。顒誅夏侯奭、送齊王冏使與趙王倫、遣張方率眾赴倫、皆含謀也。後顒聞三王兵盛、乃加含龍驤將軍、統席薳等鐵騎、迴遣張方軍以應義師。天子反正、含至潼關而還。
初、梁州刺史皇甫商爲趙王倫所任、倫敗、去職詣顒、顒慰撫之甚厚。含諫顒曰「商、倫之信臣、懼罪至此、不宜數與相見。」商知而恨之。及商當還都、顒置酒餞行、商因與含忿爭、顒和釋之。後含被徴爲翊軍校尉。時商參齊王冏軍事、而夏侯奭兄在冏府、稱奭立義、被西藩枉害。含心不自安。冏右司馬趙驤又與含有隙、冏將閲武、含懼驤因兵討之、乃單馬出奔于顒、矯稱受密詔。顒即夜見之、乃説顒曰「成都王至親、有大功、還藩、甚得眾心。齊王越親而專執威權、朝廷側目。今檄長沙王令討齊、使先聞於齊、齊必誅長沙。因傳檄以加齊罪、則冏可擒也。既去齊、立成都、除逼建親、以安社稷、大勳也。」顒從之、遂表請討冏、拜含爲都督、統張方等率諸軍以向洛陽。含屯陰盤、而長沙王乂誅冏、含等旋師。
初、含之本謀欲并去乂・冏、使權歸於顒、含因得肆其宿志。既長沙勝齊、顒・穎猶各守藩、志望未允。顒表含爲河南尹。時商復被乂任遇、商兄重時爲秦州刺史、含疾商滋甚、復與重構隙。顒自含奔還之後、委以心膂、復慮重襲己、乃使兵圍之、更相表罪。侍中馮蓀黨顒、請召重還。商説乂曰「河閒之奏、皆李含所交構也。若不早圖、禍將至矣。且河閒前舉、由含之謀。」乂乃殺含。
1.中華書局本の校勘記に従い、「督」を削除する。版本によっては「督」の字が無く、おそらくは後世、「州都」が州大中正のことを指すのを知らない者が、「州都督」と取り違えて伝写してしまったのだろう。
李含、字は世容、隴西狄道の人なり。始平に僑居す。少くして才幹有り、兩郡並びに孝廉に舉ぐ。安定の皇甫商は州里の年少にして、少くして豪族なるを恃み、含の門の寒微なるを以て、與に交を結ばんと欲するも、含、距みて納れざれば、商は焉を恨み、遂に州に諷して短檄を以て含を召して門亭長と爲さしむ。會々州刺史の郭奕は素より其の賢なるを聞きたれば、下車するや含を擢んでて別駕と爲し、遂に羣僚の右に處らしむ。尋いで秀才に舉げ、之を公府に薦め、太保掾より秦國郎中令に轉ず。司徒は含を選びて始平中正を領せしむ。秦王柬の薨ずるや、含は臺儀に依り、葬訖るや喪を除く。尚書の趙浚は内寵有り、含の己に事えざるを疾み、遂に奏すらく、含は應に喪を除くべからず、と。本州大中正の傅祗、名義を以て含を貶す。中丞の傅咸、上表して含を理めて曰く、
臣州の秦國郎中令の始平の李含は、忠公清正にして、才は世務を經め、實に史魚の秉直の風有り。此を以て流俗と協和する能わずと雖も、然れども其の名行は峻厲なれば、得て掩うべからず、二郡並びに孝廉・異行に舉ぐ。尚書の郭奕の州に臨むや、含は寒門の少年なるも、而れども奕は超えて別駕と爲す。太保の衞瓘の含を辟して掾と爲すや、毎に臣に語りて曰く「李世容は當に晉の躬に匪ざるの臣と爲るべし」と。
秦王の薨ずるや、悲慟すること人を感ぜしめ、百僚の喪に會するに、皆な目見する所なり。而るに今、含の王制に俯就するを以て、之を戚に背き榮に居ると謂い、其の中正を奪う。天王の朝、既に葬して除かず、藩國の喪、既に葬して除くに、藩國、同に除かざるを欲せば、乃ち當に「尊を引きて卑に準えば、宜しく言うべき所に非ず」と責むべきのみ。今、天朝は上に告げ、藩國をして下に服せしめんと欲せば、此れ藩國の義は隆んにして、而して天朝の禮は薄しと爲すなり。又た云く「諸王公の皆な喪禮を終え、寧盡きて乃ち敘すは、喪制を以て宜しく隆んにして、務めて敦重に在るべきを明らかにするなり」と。夫れ寧盡きて乃ち敘すは、哀を以て其の病むを明らかにするのみ。天朝と異なり、制して喪を終えしむるは、未だ斯の文を見ざるなり。國制既に葬りて除し、既に除して祔すは、爰に漢魏より聖晉に迄るまであり。文皇升遐し、武帝崩殂するや、世祖は哀に過ぎ、陛下は毀頓し、疚を銜みて諒闇し、以て三年を終えたれば、率土の臣妾、豈に攀慕・遂服の心無からんや。實に國制の而(もっ)て踰ゆべからざるを以て、故に既に葬するに於いて敢えて除かずんばあらず。天王の喪、除くを上に釋し、藩國の臣のみ、獨り下に遂ぐは、此れ安からず。
復た秦王に後無きを以て、含は應に喪主と爲るべきも、而れども王の喪既に除きて祔すれば、則ち應に吉祭すべし。因りて曰く「王に未だ廟主有らざれば、應に服を除くべからず」と。。秦王は始めて封ぜられたれば、連祔する所無く、靈主の居る所、即ち便ち廟と爲す。國制の云何を問わず、而して廟無きを以て貶と爲す。含の今日の行いし所を以て、博士に移して禮文を案ぜしめば、必ずや放勳の殂するや、遏密すること三載とあるも、世祖の崩ずるや、數旬にして吉に即きたれば、古を引きて今を繩すに、闔世貶有れば、何ぞ但だ李含のみ應に服を除くべからざらんや。今や貶無きは、王制なるが故なり。聖上の諒闇するに、哀聲輟まざれば、股肱・近侍、猶お宜しく心喪すべく、宜しく便ち婚娶・歡樂の事を行うべからざるに、而れども云う者莫きは、豈に大制を以て而て曲ぐるべからざればなるにあらざらんや。
且つ前に含に王喪有るを以て、差代を爲さんことを上す。尚書は王の葬日は近きに在れば、葬訖わらば、含、應に職を攝(か)ぬべしと敕し、差代を聽さず。葬訖わるも、含は猶お躊躇したれば、司徒は屢々訪問を罰し、含を踧めて職を攝ねしめたるに、而るに隨いで之を擊つは、此れ臺敕・府符の含を惡に陷ると爲す。若し臺府は教義を傷なうを爲すと謂わば、則ち當に正に據らしむべし。符・敕を正さず、唯だ含のみ是れ貶さば、含の困躓すること尚お惜しむに足り、國制、偏るべからざるのみ。
又た含は自ら隴西の人なれば、戸は始平に屬すと雖も、綜悉する所に非ざるを以て、自ら初めて中正と爲らしめらるるや、言辭を反覆し、始平の國人に非ざれば、宜しく中正と爲すべからずと説く。後に郎中令と爲るや、又た自ら選官なるを以て臺府を引きて比と爲し、以て常山太守の蘇韶に讓るに、辭意の懇切なること、文墨に形る。含の固く讓りしは、乃ち王の未だ薨ぜざるの前に在り、葬して後に躊躇し、罰に對うるに窮して職を攝ぬのみ。臣の從弟の祗の州都と爲るや、意は風教を隆んにせんと欲するに在るも、含を議するに已に過ち、不良の人は遂に相い扇動し、名義を挾まんと冀い、法外に案を致し、足(す)ぎて邀むる所有り、中正の龐騰は便ち含の品を割く。臣、祁大夫の德無しと雖も、含の騰の侮る所と爲るを見、謹んで表して以て聞し、朝廷の時を以て博議し、騰をして妄りに刀尺を弄ぶを得しむること無からんことを乞う。
と。帝、從わず、含、遂に貶を被け、退割せられて五品と爲る。長安に歸り、歲餘にして、光祿は含を差して壽城邸閣督と爲す。司徒の王戎表すらく、含は曾て大臣と爲れば、割削せらると雖も、應に降して此の職と爲すべからず、と。詔して停む。後に始平令と爲る。
趙王倫の位を篡うに及び、或るひと孫秀に謂いて曰く「李含は文武の大才有れば、以て人を資けしむ無かれ」と。秀、以て東武陽令と爲す。河閒王顒、表して含を請いて征西司馬と爲し、甚だ信任せらる。之を頃くして、轉じて長史と爲る。顒の夏侯奭を誅し、齊王冏の使を送りて趙王倫に與え、張方を遣わして眾を率いて倫に赴かしむは、皆な含の謀なり。後に顒は三王〔一〕の兵の盛んなるを聞き、乃ち含に龍驤將軍を加え、席薳等の鐵騎を統べしめ、張方の軍を迴遣せしめて以て義師に應ず。天子の正に反るや、含、潼關に至りて還る。
初め、梁州刺史の皇甫商は趙王倫の任ずる所と爲り、倫の敗るるや、職を去りて顒に詣り、顒は之を慰撫すること甚だ厚し。含、顒を諫めて曰く「商は、倫の信臣にして、罪を懼れて此に至れば、宜しく數々與に相い見うべからず」と。商、知りて之を恨む。商の當に都に還らんとするに及び、顒は置酒して餞行するも、商、因りて含と忿爭したれば、顒、之を和釋せしむ。後に含は徴されて翊軍校尉と爲る。時に商は齊王冏の軍事に參じ、而して夏侯奭の兄も冏の府に在り、稱すらく、奭は義を立つるも、西藩の枉害を被れり、と。含、心に自ら安んぜず。冏の右司馬の趙驤も又た含と隙有り、冏の將に閲武せんとするや、含、驤の兵に因りて之を討たんことを懼れ、乃ち單馬にて顒に出奔し、矯りて密詔を受けりと稱す。顒の即夜に之に見うや、乃ち顒に説きて曰く「成都王は至親にして、大功有り、藩に還るや、甚だ眾心を得たり。齊王は親を越えて專ら威權を執り、朝廷は目を側む。今、長沙王に檄して齊を討たしめ、先に齊に聞えしめば、齊は必ず長沙を誅せん。因りて檄を傳えて以て齊の罪を加えば、則ち冏は擒とすべきなり。既に齊を去り、成都を立て、逼を除き親を建て、以て社稷を安んずるは、大勳なり」と。顒、之に從い、遂に表請して冏を討たんとし、含を拜して都督と爲し、張方等を統べて諸軍を率いしめて以て洛陽に向かわしむ。含、陰盤に屯し、而して長沙王乂の冏を誅するや、含等は師を旋らす。
初め、含の本謀、并びに乂・冏を去り、權をして顒に歸せしめ、含、因りて其の宿志を肆にするを得んことを欲す。既に長沙は齊に勝ち、顒・穎、猶お各々藩を守りたれば、志望は未だ允わず。顒、含を表して河南尹と爲す。時に商は復た乂の任遇を被け、商の兄の重は時に秦州刺史たれば、含、商を疾むこと滋々甚しく、復た重と隙を構う。顒、含の奔りて還るの後、委ぬるに心膂を以てしたれば、復た〔二〕重の己を襲うを慮れ、乃ち兵をして之を圍ましめ、更々相い罪を表す。侍中の馮蓀は顒に黨し、重を召して還さんことを請う。商、乂に説きて曰く「河閒の奏、皆な李含の交構する所なり。若し早く圖らずんば、禍將に至らんとす。且つ河閒の前舉は、含の謀に由る」と。乂、乃ち含を殺す。
〔一〕周家禄『晋書校勘記』によれば、これは「三王」ではなく「二王」が正しいという。もしそれが正しければ、二王とは斉王・司馬冏、成都王・司馬穎のことを指す。
〔二〕これ以前、李含が河南尹となる前に一度、皇甫重による司馬顒襲撃未遂があったことは、同巻・皇甫重伝に見える。
李含は字を世容と言い、隴西郡・狄道の人であるが、始平郡に移って仮住まいしていた。若くして才幹があり、隴西郡と始平郡の両方から孝廉に推挙された。安定郡の人である皇甫商は同じ雍州出身の年少の人物であったが、若くして自らが豪族の家柄であることを恃みにし、一方で李含が寒微な家柄であるのを見て、(恩に着せて)一緒に交友を結んでやろうとしたが、李含はそれを拒んで受け容れなかったので、皇甫商はこのことを恨み、そこで州府に対してそれとなくそそのかし、州府はそれによって短檄により李含を召して(下役である)門亭長に任じた。ちょうど新任の州刺史である郭奕(かくえき)は、かねてより李含が賢人であることを聞いていたので、赴任すると李含を抜擢して別駕従事に任じ、そうして諸々の属僚たちの上に据えたのである。郭奕はまもなく李含を秀才に推挙し、公府に推薦し、そうして李含は衞瓘(えいかん)の太保府の掾(部局の長)となり、さらに秦王国の郎中令に転任することとなった。また、司徒は李含を選んで始平中正(始平郡の郡中正)を兼任させた。秦王・司馬柬(しばかん)が薨去すると、李含は朝廷の儀に依拠し、葬礼が終わるとそれ以上は喪に服さずに除服した。恵帝の寵愛を受けていた尚書の趙浚(ちょうしゅん)は、李含が自分に従わないのをかねがね憎んでおり、そこで、李含はまだ除服すべきではないと上奏した。そして雍州大中正の傅祗(ふし)は、名義に悖るということで李含の郷品を下げた。すると、御史中丞の傅咸(ふかん)は上表して李含を弁護して言った。
私と同州で、始平郡の人である秦国郎中令の李含は、清く忠実で公正、世事を治める才能があり、実に(春秋時代の衛の)史魚が死ぬまで直言して君主の過ちを諫めたのと同様の風格があります。故に世間と協和することは不得手であるとはいえ、しかしその品行は激烈であるため、覆い隠して埋もれさせることはできず、隴西・始平の二郡は両方とも孝廉や異行の科目で推挙しました。尚書の郭奕が雍州刺史であったとき、李含は寒門出身の若者でございましたが、郭奕は特別に抜擢して別駕従事に任じました。太保の衞瓘が李含を辟召して掾に任じてからというもの、いつも私に対してこう語っていました。「李世容(李含)は晋にとっての匪躬の臣(自分個人のためではなく君主のために国難に当たることのできる臣下)となるであろう」と。
秦王が薨去すると、李含は人の心を打つほどに悲しみ慟哭し、葬儀に参列した官吏たちはみな自らの目でそれを見ました。そうであるにも関わらず、今、李含が朝廷の制度に準拠して取り計らったことをして、哀悼の道理に背き、栄華に驕るものであると見なし、李含から中正の職を奪いました。もし、天子が崩御した際には葬礼が終わっても除服せず、藩国の王公が薨去した際には葬礼が終わったら除服するというような状況の中で、藩国も天子の場合と同様に除服しないということを求めるのであれば、それはまさに(李含を陥れた人物たちが言うように)「尊貴な存在の場合を引き合いに出して卑賎な者に当てはめるようなことであるから、それは口にすべきものではない」と責めるべきものでございます。しかし、今、天朝が上から命じて、下なる藩国の場合には規定の期間の喪に服させようとするのでしたら、これでは藩国の礼の義が盛んになり、天朝の礼が薄いということになってしまいます(ので、むしろそれを是認する方が陛下に対して不敬であり、藩国の場合にも除服するのが妥当であります)。また彼らは「諸王公が薨去した際、みな葬礼を終え、服喪の期間が終わってからやっと官職に就くというのは、喪制を隆んにして、務めて喪制を厚く尊重するように心がけているということを明らかにするためである」と言っております。そもそも服喪の期間が終わってからやっと官職に就くのは、哀しみによって苦しみ悼んでいるのを明らかにするためであります。そして、天朝と異なり、藩国に命じて服喪の期間を終えさせようとしたなどということは、そのような文は見たことがありません。国制にて葬礼が終われば除服し、除服してから宗廟に合わせ祭るのは、漢・魏から我が聖晋に至るまでみなそうであります。文帝が昇天したとき、世祖(武帝)は非常に悲しみ、武帝が崩御したとき、陛下は悲しみの余りやつれてしまい、(わずかな期間ながらも)喪に服したその様子は(本来喪に服すべき期間である)三年を終えたも同然のものでありましたので、全土の男女で哀悼し喪に服そうと思う心を抱かない者がおりましょうか。実に国制に違反すべきではないため、除服しないわけにはいかないというだけです。上は天子の喪に際しては除服することにし、下は藩国の臣だけ最後まで喪に服させるというのは、妥当なものではありません。
また、秦王には後嗣がいないので、李含は喪主となるべきですが、しかし王の葬礼が終わって除服して宗廟に合わせ祭ったら、もう吉服を着て祭祀を行うべきです。そこで彼らは「王を宗廟に合わせ祭って位牌をそこに移すまでは、除服すべきではない」と言いました。しかし、秦王は封国の始祖である(故にそもそも封国の先祖の廟が無い)ので、合わせ祭るべき場所は無く、秦王の位牌のある場所がそのまま宗廟になります。しかし彼らは、国制の如何を問うことなく、宗廟が無いのを李含の落ち度と見なしました。李含が今日行ったことについて、博士に公文書を送って礼典の文章を参照させれば、必ずや尭が崩御した際、三年の間、音楽を鳴らすことが無かったということを引き合いに出しましょうが、世祖(武帝)が崩御した際、(恵帝は)数十日で除服したので、古の事を引き合いにして現在のことを正そうとすれば、世の中全体に落ち度があることになりますので、どうして李含だけが除服すべきでないと言えましょうか。今や誰にも落ち度が無いのは、それが王制であるからです。陛下が喪に服されていたとき、悲しみの声がやまないほどであった以上、股肱の臣や近侍の臣は(たとえまもなく除服することになっても)その後も心喪(喪服を着ないで心の中で喪に服すこと)をすべきであり、その間は婚姻や歓楽に関することを行うべきではありませんが、しかし、そのことを誰も言わないのは、国の大制を曲げるわけにはいかないからであります。
しかも以前、李含は王の喪が有るために、代役を派遣することを上請しておりました。ところが尚書は、王の葬礼の日が近いので、葬礼が終わったら、李含がまた中正の職を兼務すべきであると命じ、代役の派遣を許しませんでした。葬礼が終わった後も、李含はなお躊躇していたので、司徒はしばしば訪問(中正の部下の役職)を罰し、李含を恐れちぢこませて無理やり中正の職を兼務させたのにも関わらず、まもなく李含を弾劾して責めるというのは、これはまさに尚書台の勅による命令と司徒府の符による命令が、李含を罠にはめて悪へと陥れたのです。もし(意図的にそうしたのではなく)尚書台と司徒府が誤って教義を損なってしまったというのであれば、まさに正しい教義に依拠させるべきです。司徒府の符や尚書台の敕を正さず、ただ李含のみ落ち度があるとして郷品を下げるのは、李含の困窮が痛ましく思われるのみならず、それによって国制を不公平なものにすることも許されることではありません。
また、李含は、自分は隴西の人であり、戸は始平に属しているとはいえ、始平のことに精通しているわけではないという理由から、初めて中正に任命されたとき、何度も繰り返し、自分は始平郡の地元民ではないから中正に任じるべきではないと述べました。後に郎中令となった際にもまた、選官である自分を尚書台や司徒府の他の選官たちと比較し(遜って自分のことを低く評価し)、その地位には常山太守の蘇韶(そしょう)こそがふさわしいと謙遜し、その言葉の懇切さは、彼の書いた文章に現れています。李含がこのように固辞したのは、王が薨去する前のことであり、葬礼が終わった後に躊躇し、それにより司徒が訪問をしばしば罰したということへの対応に窮したために、中正の職を兼務することにしたのです。私の従弟の傅祗が雍州大中正となると、その意気は風俗の教化を盛んにしようとすることに在りましたが、李含のことを議するに当たっては過ちを犯し、それにより良からぬ者たちが煽動し、(法ではなく)名義によって李含を陥れようと望み、法に抵触するわけではない案件を取り上げ、過剰に李含への処分を求め、郡中正の龐騰(ほうとう)はそこですぐさま李含の品を削減しました。私には(陥れられた人を救った)祁大夫(春秋時代の晋国の大夫・祁奚(きけい))のような徳は無いものの、李含が龐騰に貶められるのを見て居ても立ってもいられず、謹んで上表して申し上げ、朝廷ですぐさま広く議論を行い、龐騰にむやみに刀や尺を弄ぶ(自分勝手に評定を行う)ことのできないようにさせることをお願い申し上げます。
恵帝はこれに従わず、李含は結局、郷品を下げられて五品にされた。長安に帰って一年余り後、光禄勲は李含を派遣して寿城邸閣督(寿城の食糧庫の監督者)に任じた。すると、司徒の王戎は、李含はかつて大臣となった人物であるので、郷品を下げられたとはいえ、官位まで下げてこのような職に就かせるべきではない、と上表した。そこで詔が下されてその任命を取りやめた。後に李含は始平令となった。
趙王・司馬倫(しばりん)が帝位を簒奪すると、ある人が(司馬倫の側近である)孫秀に言った。「李含は文武の大才を有しているので、その才を政敵の助けとして用いさせてはなりません」と。そこで孫秀は、李含を東武陽令に任じさせた。やがて河間王・司馬顒(しばぎょう)は、上表して李含を請うて自らの征西将軍府の司馬に任じ、非常に李含を信任した。しばらくして、李含は征西将軍府の長史に転任した。司馬顒が(斉王・司馬冏(しばけい)の挙兵に呼応した)夏侯奭(かこうせき)を誅殺し、斉王・司馬冏の使者を捕えて趙王・司馬倫に差し出し、張方を派遣して兵を率いて司馬倫の救援に向かわせたのは、みな李含の策謀であった。後に司馬顒は三王(斉王・司馬冏、成都王・司馬穎(しばえい)、常山王・司馬乂(しばがい))の兵が盛んであることを聞くと、そこで李含に龍驤将軍の位を加え、席薳(せきえん)らの鉄騎兵を統率させ、張方の軍を引き返させて司馬冏らの義兵に応じた。天子(恵帝)が正しい位に復帰すると、李含は潼関まで来て帰っていった。
初め、梁州刺史の皇甫商は趙王・司馬倫に任用され、司馬倫が敗れると、職を去って司馬顒のもとを訪れていたが、司馬顒は非常に皇甫商を慰撫した。李含は司馬顒を諫めて言った。「皇甫商は、司馬倫に信任された臣下であり、罪を恐れてここに来たのでありますから、あまりお会いにならない方が良いと思います」と。皇甫商はそれを知って李含を恨んだ。皇甫商が都に帰ろうとしたとき、司馬顒は宴会を開いて送別し、皇甫商はその宴席で李含と罵り合いの言い争いをしたので、司馬顒は二人の間を取り持った。後に李含は徴召されて翊軍校尉となった。時に皇甫商は(朝廷の実権を握っていた)斉王・司馬冏の参軍事となり、さらに夏侯奭の兄も司馬冏の公府の属僚となっており、彼は、弟の夏侯奭は義兵を挙げたのにも関わらず、西の藩国(司馬顒)に不当にも殺されてしまった、と語っていた。そのため、李含は心中、不安で仕方がなかった。司馬冏の右司馬の趙驤(ちょうじょう)もまた李含と軋轢があり、司馬冏が講武を行おうとしたとき、李含は、趙驤がその機に乗じて兵を動員して自分を攻撃するのではないかと恐れ、そこで単騎で司馬顒のもとへ出奔し、密詔を受けたのだと偽った。司馬顒は、その日の夜に李含と会い、李含はそこで司馬顒に説いて言った。「成都王(司馬穎)は(恵帝の弟であるので)陛下と最も近親の人物であり、しかも大功があり、藩国に帰ってからも、非常に人々の心を得ています。斉王(司馬冏)は親等の序列を越えて専権を握り、朝廷の官僚たちは恐れの余り斉王を正視できず、横目で見ているというような有り様です。今、長沙王(司馬乂)に檄を発して斉王討伐の兵を挙げさせ、さらにそのことをあらかじめ斉王に漏らしておけば、斉王は必ず長沙王の軍を破って誅殺することでしょう。そこで檄を各地に伝えて(長沙王を殺したという)斉王の罪状を加えて決起すれば、司馬冏は簡単に捕えることができましょう。斉王を廃除して成都王を立てることで、朝廷の脅威を除いて陛下の近親を立て、それによって社稷を安んじることができれば、それはまさに大勲でありましょう」と。司馬顒はそれに従い、そこで表請して司馬冏を討とうとし、李含を都督に任じ、張方らを統率させ、諸軍を率いて洛陽に向かわせた。李含は陰盤に駐屯し、まもなく長沙王・司馬乂が司馬冏を破って誅殺すると、李含らは軍を返した。
初め、李含のもともとの計略としては、司馬乂と司馬冏の両方を排除し、政権を司馬顒の手に握らせ、李含はそれによってかねてからの志を思うがままに振るうことができるようになるはずであった。しかし長沙王は斉王に勝って政権を握ってしまい、司馬顒も司馬穎も引き続きそれぞれ藩国を守るというような状況になり、まだ李含の思惑には合致していなかった。まもなく司馬顒は上表して李含を河南尹に任じた。時に皇甫商はまた司馬乂の任用と厚遇を受け、皇甫商の兄の皇甫重は時に秦州刺史であったので、李含はますます激しく皇甫商を憎み、さらに皇甫重とも軋轢を生むことになった。司馬顒は、かつて李含が洛陽から司馬顒のもとへ逃げ帰ってきたとき以来、李含を自分の右腕として委任していたので、また皇甫重が自分を襲撃するのではないかと恐れ、そこで兵を発して皇甫重を包囲させ、互いに互いの罪を上表し合った。侍中の馮蓀(ふうそん)は司馬顒におもねり、皇甫重を召し返すよう上請した。皇甫商は司馬乂に説いて言った。「河間王の上奏は、すべて李含が裏で糸を引いております。もし早く李含を除こうと図らなければ、禍いがまもなく到来することになりましょう。それに、(長沙王を使い捨てのコマにしようとした)河間王の先日の行いは、李含の策謀によるものです」と。司馬乂は、そこで李含を殺した。
張方、河閒人也。世貧賤、以材勇得幸於河閒王顒、累遷兼振武將軍。永寧中、顒表討齊王冏、遣方領兵二萬爲前鋒。及冏被長沙王乂所殺、顒及成都王穎復表討乂、遣方率眾自函谷入屯河南。惠帝遣左將軍皇甫商距之、方以潛軍破商之眾、遂入城。乂奉帝討方于城内、方軍望見乘輿、於是小退、方止之不得、眾遂大敗、殺傷滿于衢巷。方退壁于十三里橋、人情挫衄、無復固志、多勸方夜遯。方曰「兵之利鈍是常、貴因敗以爲成耳。我更前作壘、出其不意、此用兵之奇也。」乃夜潛進逼洛城七里。乂既新捷、不以爲意、忽聞方壘成、乃出戰、敗績。東海王越等執乂、送于金墉城。方使郅輔取乂還營、炙殺之。於是大掠洛中官私奴婢萬餘人、而西還長安。顒加方右將軍・馮翊太守。
蕩陰之役、顒又遣方鎮洛陽、上官巳・苗願等距之、大敗而退。清河王覃夜襲巳・願、巳・願出奔、方乃入洛陽。覃於廣陽門迎方而拜、方馳下車扶止之。於是復廢皇后羊氏。及帝自鄴還洛、方遣息羆以三千騎奉迎。將渡河橋、方又以所乘陽燧車・青蓋素1.(升)〔弁〕三百人爲小鹵簿、迎帝至芒山下。方自帥萬餘騎奉雲母輿及旌旗之飾、衞帝而進。初、方見帝將拜、帝下車自止之。
方在洛既久、兵士暴掠、發哀獻皇女墓。軍人喧喧、無復留意、議欲西遷、尚匿其跡、欲須天子出、因劫移都。乃請帝謁廟、帝不許。方遂悉引兵入殿迎帝、帝見兵至、避之於竹林中、軍人引帝出、方於馬上稽首曰「胡賊縱逸、宿衞單少、陛下今日幸臣壘、臣當捍禦寇難、致死無二。」於是軍人便亂入宮閤、爭割流蘇武帳而爲馬帴。方奉帝至弘農、顒遣司馬周弼報方、欲廢太弟、方以爲不可。
帝至長安、以方爲中領軍・錄尚書事、領京兆太守。時豫州刺史劉喬檄稱潁川太守劉輿迫脅范陽王虓距逆詔命、及東海王越等起兵於山東、乃遣方率步騎十萬往討之。方屯兵霸上、而劉喬爲虓等所破。顒聞喬敗、大懼、將罷兵、恐方不從、遲疑未決。
初、方從山東來、甚微賤、長安富人郅輔厚相供給。及貴、以輔爲帳下督、甚昵之。顒參軍畢垣、河閒冠族、爲方所侮、忿而説顒曰「張方久屯霸上、聞山東賊盛、盤桓不進、宜防其未萌。其親信郅輔具知其謀矣。」而繆播等先亦構之、顒因使召輔、垣迎説輔曰「張方欲反、人謂卿知之。王若問卿、何辭以對。」輔驚曰「實不聞方反、爲之若何。」垣曰「王若問卿、但言爾爾。不然、必不免禍。」輔既入、顒問之曰「張方反、卿知之乎。」輔曰「爾。」顒曰「遣卿取之可乎。」又曰「爾。」顒於是使輔送書於方、因令殺之。輔既昵於方、持刀而入、守閤者不疑、因火下發函、便斬方頭。顒以輔爲安定太守。初、繆播等議斬方、送首與越、冀東軍可罷、及聞方死、更爭入關、顒頗恨之、又使人殺輔。
1.周家禄『晋書校勘記』に従い、「弁」字に改める。
張方、河閒の人なり。世々貧賤にして、材勇を以て河閒王顒に幸せらるるを得、累りに遷りて振武將軍を兼ぬ。永寧中、顒の表して齊王冏を討たんとするや、方を遣わして兵二萬を領せしめて前鋒と爲す。冏の長沙王乂に殺さるるに及び、顒及び成都王穎、復た表して乂を討たんとし、方を遣わして眾を率いて函谷より入りて河南に屯せしむ。惠帝、左將軍の皇甫商を遣わして之を距がしむるも、方、潛軍を以て商の眾を破り、遂に城に入る。乂、帝を奉じて方を城内に討ち、方の軍は乘輿を望見するや、是に於いて小々退き、方、之を止むるも得ざれば、眾は遂に大敗し、殺傷せられしものは衢巷に滿つ。方、退きて十三里橋に壁するも、人情は挫衄し、復た固志無ければ、多く方に夜に遯れんことを勸む。方曰く「兵の利鈍は是れ常にして、敗に因りて以て成を爲すを貴ぶのみ。我、更に前みて壘を作し、其の不意に出ずるは、此れ用兵の奇なり」と。乃ち夜に潛かに進みて洛城に逼ること七里。乂、既に新たに捷ちたれば、以て意と爲さざるも、忽ちにして方の壘の成るを聞き、乃ち出でて戰い、敗績す。東海王越等、乂を執え、金墉城に送る。方、郅輔をして乂を取りて營に還らしめ、炙りて之を殺す。是に於いて大いに洛中の官私の奴婢を掠むること萬餘人、而して西のかた長安に還る。顒、方に右將軍・馮翊太守を加う。
蕩陰の役あるや、顒、又た方を遣わして洛陽に鎮せしめ、上官巳・苗願等、之を距むも、大敗して退く。清河王覃の夜に巳・願を襲うや、巳・願は出奔し、方、乃ち洛陽に入る。覃、廣陽門に於いて方を迎えて拜し、方、馳せて下車して扶けて之を止む。是に於いて復た皇后の羊氏を廢す。帝の鄴より洛に還るに及び、方、息の羆を遣わして三千騎を以て奉迎せしむ。將に河橋を渡らんとするに、方、又た乘る所の陽燧車・青蓋・素弁三百人を以て小鹵簿と爲し、帝を迎えて芒山の下に至る。方、自ら萬餘騎を帥いて雲母輿及び旌旗の飾を奉り、帝を衞りて進む。初め、方、帝に見えて將に拜せんとするや、帝、下車して自ら之を止む。
方、洛に在ること既に久しく、兵士は暴掠し、哀獻皇女の墓を發く。軍人は喧喧とし、復た留むるの意無く、議して西遷せんと欲し、尚お其の跡を匿し、天子の出づるを須ち、因りて劫して都を移さしめんと欲す。乃ち帝に謁廟せんことを請うも、帝は許さず。方、遂に悉く兵を引きて殿に入りて帝を迎え、帝、兵の至るを見、之を竹林中に避くるも、軍人は帝を引きて出し、方、馬上に於いて稽首して曰く「胡賊は縱逸なれども、宿衞は單少なれば、陛下、今日、臣の壘に幸せば、臣、當に寇難を捍禦するに、死を致して二無かるべし」と。是に於いて軍人、便ち宮閤に亂入し、爭いて流蘇の武帳を割きて馬帴と爲す。方の帝を奉じて弘農に至るや、顒、司馬の周弼を遣わして方に報じ、太弟を廢さんと欲するも、方、以て不可と爲す。
帝、長安に至るや、方を以て中領軍・錄尚書事と爲し、京兆太守を領せしむ。時に豫州刺史の劉喬、檄して潁川太守の劉輿は范陽王虓を迫脅して詔命に距逆せしめ、及び東海王越等は兵を山東に起こせりと稱したれば、乃ち方を遣わして步騎十萬を率いて往きて之を討たしむ。方、兵を霸上に屯せしむるも、而れども劉喬は虓等の破る所と爲る。顒、喬の敗るるを聞くや、大いに懼れ、將に兵を罷めんとするも、方の從わざるを恐れ、遲疑して未だ決せず。
初め、方は山東より來り、甚だ微賤にして、長安の富人の郅輔、厚く相い供給す。貴たるに及び、輔を以て帳下督と爲し、甚だ之に昵む。顒の參軍の畢垣、河閒の冠族なるも、方の侮る所と爲れば、忿りて顒に説きて曰く「張方は久しく霸上に屯するも、山東の賊の盛んなるを聞き、盤桓として進まざれば、宜しく其の未だ萌さざるに防ぐべし。其の親信の郅輔は具に其の謀を知らん」と。而して繆播等、先に亦た之を構えたれば、顒、因りて輔を召さしめ、垣、迎うるに輔に説きて曰く「張方は反せんと欲するに、人謂わく、卿は之を知る、と。王、若し卿に問わば、何の辭か以て對えん」と。輔、驚きて曰く「實に方の反せんとするを聞かざれば、之を爲すこと若何せん」と。垣曰く「王、若し卿に問わば、但だ爾爾と言え。然らずんば、必ず禍を免れざらん」と。輔、既に入り、顒、之に問いて曰く「張方、反せんとするに、卿、之を知るか」と。輔曰く「爾り」と。顒曰く「卿を遣わして之を取らしむるは可なるか」と。又た曰く「爾り」と。顒、是に於いて輔をして書を方に送らしめ、因りて之を殺さしめんとす。輔、既に方に昵みたれば、刀を持ちて入るも、守閤者は疑わず、火下に函を發するに因り、便ち方の頭を斬る。顒、輔を以て安定太守と爲す。初め、繆播等、方を斬り、首を送りて越に與えば、冀わくは東軍は罷むべきならんと議するも、方の死せしことを聞くに及び、更々爭いて關に入りたれば、顒、頗る之を恨み、又た人をして輔を殺さしむ。
張方は河間国の人である。代々貧賎の家柄で、才幹と武勇によって河間王・司馬顒(しばぎょう)に取り立てられ、何度も昇進して振武将軍を兼任した。恵帝の永寧年間、司馬顒が上表して斉王・司馬冏(しばけい)を討とうとすると、司馬顒は張方を派遣して二万の兵を属下として率いさせて前鋒とした。司馬冏が長沙王・司馬乂(しばがい)に殺されると、司馬顒と成都王・司馬穎(しばえい)は、また上表して司馬乂を討とうとし、張方を派遣して兵衆を率いて函谷関より入って河南に駐屯させた。恵帝は、左将軍の皇甫商を派遣して張方軍を防がせたが、張方は奇襲によって皇甫商の軍を破り、そのまま洛陽城に入った。司馬乂は、恵帝を奉じて張方を洛陽城内で迎え撃ち、張方の軍は恵帝を遠くに目にすると(怖気づいて)やや退き、張方はそれを止めたが制御できず、張方の兵はそのまま大敗を喫し、殺されたり深手を負ったりした者が街路中に溢れた。張方は退却して十三里橋に砦を築いたが、軍中の人々の心は挫かれ、もはや固い志は無い状態であったので、夜のうちに逃げるよう張方に勧める者が多かった。しかし、張方は言った。「兵の意気が盛んであったり消沈したりするのは常なることであるが、失敗を利用して成功を収めることこそが貴いのである。私はさらに進軍して塁を築き、敵の不意を突こうと思うが、これこそ用兵の奇策というものである」と。そこで夜にこっそりと進軍して洛陽城から七里のところまで迫った。司馬乂は、勝利したばかりなので何ら気にも留めていなかったが、張方の塁がたちまちにして完成したことを聞くと、そこでやっと出撃して戦い、張方軍に敗れた。東海王・司馬越らは、司馬乂を捕らえ、金墉城に送った。張方は、郅輔(しつほ)に命じて司馬乂を捕らえて張方の軍営に連れて来させ、司馬乂を炙り殺した。そうして張方軍は洛陽中の奴婢一万人余りを官私を問わず大いに略奪し、そして西行して長安に帰った。司馬顒は、張方に「右将軍・馮翊太守」の官位を加えた。
(恵帝の親征軍と司馬穎軍が戦った)蕩陰の役が起こった際、司馬顒はまた張方を派遣して洛陽を鎮守させ、それに対して上官巳(じょうかんし)・苗願らは張方軍を防いだが、大敗して退却した。清河王・司馬覃(しばたん)が夜に上官巳・苗願を襲撃すると、上官巳・苗願は出奔し、張方はそこで洛陽城に入った。司馬覃が広陽門で張方を迎えて拝礼を行うと、張方は馳せて下車して扶け起こしてそれをとめた。このとき、また皇后の羊氏を廃した。恵帝が鄴から洛陽に帰還すると、張方は息子の張羆(ちょうひ)を派遣して三千騎を率いて奉迎させた。河橋を渡ろうとするときになって、張方はさらに、乗っていた陽燧車と、青色の車蓋、素弁(白い冠)の武人三百人により小さな儀仗隊を用意し、恵帝を迎えて芒山の麓まで赴いた。張方は、自ら一万騎余りを率いて雲母の輿と旌旗の飾りを奉献し、恵帝を護衛して進んだ。初め、張方は恵帝に見える際に拝礼を行おうとしたが、恵帝は下車して自らそれをとめた。
張方が長く洛陽に駐屯している間、兵士たちは略奪を行い、哀献皇女の墓を盗掘した。張方軍の人々は口やかましく騒ぎ立て、もうこれ以上洛陽に留まるつもりはなく、西に遷都しようと議論したが、ただそのことはまだ秘密にしておいて、天子がお出ましになる時期を見計らい、その機会に乗じて無理やり遷都を強要しようとした。そこで張方は、恵帝に謁廟するのはどうかと請うたが、恵帝は許さなかった。張方はそこで、ことごとく兵を率いて宮殿に入って恵帝を迎え、恵帝は兵がやってきたのを見ると、竹林中に隠れて避けたが、張方軍の人々は恵帝を引っぱり出し、張方は馬上で稽首の礼を行って言った。「胡賊は放縦に暴れ回っていますが、我が方の宿衛は弱小ですので、もし陛下が今日、わが軍の塁に行幸されれば、私は死を惜しまず二心も無く賊の侵攻を防ぎましょうぞ」と。そこで張方軍の人々は、ただちに宮殿に乱入し、争って流蘇を取り付けたとばりを割いて下鞍にした。張方が恵帝を奉じて弘農に到着すると、司馬顒は司馬の周弼(しゅうひつ)を派遣して張方に知らせ、太弟(司馬穎)を廃そうとしたが、張方は、それはなりませんと答えた。
恵帝が長安に到着すると、張方を「中領軍・録尚書事」に任命し、京兆太守を兼任させた。時に豫州刺史の劉喬(りゅうきょう)が檄文を発し、潁川太守の劉輿(りゅうよ)が范陽王・司馬虓(しばこう)を脅迫して詔命に違反させ、さらに(司馬虓らの盟主である)東海王・司馬越らが山東(関東)で蜂起したと言ってきたので、そこで朝廷は張方を派遣して歩兵・騎兵合わせて十万を率い、(劉喬を助けて)司馬越らを討伐しに行かせた。張方は軍を霸上に駐屯させたが、まもなく劉喬は司馬虓らに敗れてしまった。司馬顒は、劉喬が敗れたのを聞くと、非常に恐れ、停戦しようとしたが、張方がそれに従わないのではないかと憂慮し、ぐずぐずして決断できずにいた。
初め、張方はもともと山東(関東)からやってきて、非常に微賎の身であったが、長安の富豪である郅輔が手厚く様々な物資を提供してくれた。張方が出世すると、郅輔を自分の帳下督に任じ、非常に親密にしていた。司馬顒の参軍である畢垣(ひつえん)は、河間国の名門であるにも関わらず、張方に侮られていたので、怒って司馬顒に説いて言った。「張方は長らく霸上に駐屯していますが、山東の賊(司馬越ら)が盛んであるのを聞き、ぐずぐずして進軍しようとしないという有様なので、悪いことが萌さないうちに未然に防いでおくべきです。張方が親しく信任している郅輔は、きっとその謀略について詳しく知っているでしょう」と。それに加え、繆播(びゅうは)らもこれに先立って張方について讒言していたので、それにより司馬顒は郅輔を呼び出すよう命じ、畢垣は迎えに行った際に郅輔に説いて言った。「張方は反乱を起こそうとしているが、聞いた話だと、そなたはそのことを知っているそうな。王がもしそなたに質問したら、どう答えるつもりか」と。郅輔は驚いて言った。「張方の反乱については本当に何も聞いておりませんので、どうお答えすれば良いでしょうか」と。畢垣は言った。「王がもしそなたに質問したら、ただ『はい、その通りです』と言え。そうしなければ、必ず禍を免れることはできまい」と。郅輔が司馬顒のもとに出向くと、司馬顒は郅輔に質問して言った。「張方は反乱を起こそうとしているが、そなたはそれを知っているか」と。郅輔は「はい」と答えた。司馬顒は言った。「そなたを派遣すれば、張方を始末することができるか」と。郅輔はまた「はい」と答えた。そこで司馬顒は郅輔に命じて張方に書を送らせ、その機会に張方を殺させようとした。郅輔は普段から張方と親しくしていたので、郅輔が刀を持って軍営に入っても、門番は疑うことなく、郅輔は灯火のそばで書が入った箱を開けようとかこつけて近づき、そこでただちに張方の頭を斬った。それにより司馬顒は、郅輔を安定太守に任じた。初め、繆播らは、張方を斬って首を司馬越のもとに送れば、関東の軍に矛を収めさせることができましょうと論じていたが、関東の諸軍は張方が死んだということを聞くと、互いに争って関中に侵入したので、司馬顒は非常にこのことを後悔し、また人を派遣して郅輔を殺させた。
史臣曰。
晉氏之禍難荐臻、實始藩翰。解系等以干時之用、處危亂之辰、並託迹府朝、參謀王室。或抗忠盡節、或飾詐懷姦。雖邪正殊途、而咸至誅戮、豈非時艱政紊、利深禍速者乎。古人所以危邦不入、亂邦不居、戒懼於此也。
史臣曰く。
晉氏の禍難の荐りに臻るは、實に藩翰より始まる。解系等、干時の用を以て、危亂の辰に處り、並びに迹を府朝に託し、謀を王室に參ず。或いは忠を抗(あ)げ節を盡くし、或いは詐を飾りて姦を懷く。邪正途を殊にすと雖も、而れども咸な誅戮に至るは、豈に時は艱(くる)しく政は紊れ、利は深く禍は速やかなればに非ざらんや。古人の危邦には入らず、亂邦には居らざる所以は、此を戒懼すればなり。
史臣の評
晋朝には禍難が何度も訪れたが、それらは実に藩国に端を発するものであった。解系らは、時勢に逆らう働きによって、危乱の時運に際し、みな官府に身を捧げ、王室に関して謀に参画した。ある者は忠節を尽くし、ある者は姦詐を弄した。邪悪であるか正直であるかは人によって異なっていたが、しかし(善悪の区別なく)みな揃って誅殺されてしまったのは、どうして時勢が困難を極めて政治が乱れ、利を求める風潮が高まって禍が早急に降りかかるようになったためでないことがあろうか。古人が、今まさに乱れようとしている国には入らず、すでに乱れている国にはそのまま居続けずに去るものだと言った理由は、まさにこれを危惧してのことである。
閻鼎、字台臣、天水人也。初爲太傅東海王越參軍、轉卷令、行豫州刺史事、屯許昌。遭母喪、乃於密縣閒鳩聚西州流人數千、欲還郷里。値京師失守、秦王出奔密中、司空荀藩、藩弟司隸校尉組、及中領軍華恒、河南尹華薈、在密縣建立行臺、以密近賊、南趣許潁。司徒左長史劉疇在密爲塢主、中書令李暅、太傅參軍騶捷・劉蔚、鎮軍長史周顗、司馬李述、皆來赴疇。僉以鼎有才用、且手握彊兵、勸藩假鼎冠軍將軍・豫州刺史、蔚等爲參佐。
鼎少有大志、因西土人思歸、欲立功郷里、乃與撫軍長史王毗・司馬傅遜懷翼戴秦王之計、謂疇・捷等曰「山東非霸王處、不如關中。」河陽令傅暢遺鼎書、勸奉秦王過洛陽、謁拜山陵、徑據長安、綏合夷晉、興起義眾、剋復宗廟、雪社稷之恥。鼎得書、便欲詣洛、流人謂北道近河、懼有抄截、欲南自武關向長安。疇等皆山東人、咸不願西入、荀藩及疇・捷等並逃散。鼎追藩不及、暅等見殺、唯顗・述走得免。遂奉秦王行、止上洛、爲山賊所襲、殺百餘人、率餘眾西至藍田。時劉聰向長安、爲雍州刺史賈疋所逐、走還平陽。疋遣人奉迎秦王、遂至長安。而與大司馬南陽王保・衞將軍梁芬・京兆尹梁綜等並同心推戴、立王爲皇太子、登壇告天、立社稷宗廟、以鼎爲太子詹事、總攝百揆。
梁綜與鼎爭權、鼎殺綜、以王毗爲京兆尹。鼎首建大謀、立功天下。始平太守麴允・撫夷護軍索綝、並害其功、且欲專權、馮翊太守梁緯・北地太守梁肅、並綜母弟綝之婣也、謀欲除鼎、乃證其有無君之心、專戮大臣、請討之、遂攻鼎。鼎出奔雍、爲氐竇首所殺、傳首長安。
閻鼎、字は台臣、天水の人なり。初め太傅の東海王越の參軍と爲り、卷令に轉じ、豫州刺史の事を行し、許昌に屯す。母の喪に遭うや、乃ち密縣の閒に於いて西州の流人數千を鳩聚し、郷里に還らんと欲す。京師の守を失うに値うや、秦王は密中に出奔し、司空の荀藩、藩の弟の司隸校尉の組、及び中領軍の華恒、河南尹の華薈、密縣に在りて行臺を建立するも、密の賊に近きを以て、南のかた許潁に趣く。司徒左長史の劉疇、密に在りて塢主と爲り、中書令の李暅〔一〕、太傅參軍の騶捷・劉蔚、鎮軍長史の周顗、司馬の李述は、皆な來りて疇に赴く。僉な鼎は才用有り、且つ手ずから彊兵を握るを以て、藩に勸めて鼎に冠軍將軍・豫州刺史を假せしめ、蔚等は參佐と爲る。
鼎、少くして大志有り、西土の人の歸らんことを思うに因りて、功を郷里に立てんと欲し、乃ち撫軍長史の王毗・司馬の傅遜と與に秦王を翼戴するの計を懷き、疇・捷等に謂いて曰く「山東は霸王の處に非ず、關中に如かず」と。河陽令の傅暢、鼎に書を遺り、秦王を奉じて洛陽を過り、山陵に謁拜し、徑ちに長安に據り、夷晉を綏合し、義眾を興起し、宗廟を剋復し、社稷の恥を雪がんことを勸む。鼎、書を得るや、便ち洛に詣らんと欲するも、流人、北道は河に近く、抄截有らんことを懼ると謂いたれば、南のかた武關より長安に向かわんと欲す。疇等は皆な山東の人なれば、咸な西のかた入るを願わず、荀藩及び疇・捷等、並びに逃散す。鼎、藩を追うも及ばず、暅等は殺され、唯だ顗・述のみ走りて免るるを得たり。遂に秦王を奉じて行き、上洛に止まるや、山賊の襲う所とと爲り、殺さるること百餘人、餘眾を率いて西のかた藍田に至る。時に劉聰は長安に向かうも、雍州刺史の賈疋の逐う所と爲り、走りて平陽に還る。疋、人を遣わして秦王を奉迎せしめ、遂に長安に至る。而して大司馬の南陽王保・衞將軍の梁芬・京兆尹の梁綜等と並びに心を同じくして推戴し、王を立てて皇太子と爲し、壇に登りて天に告げ、社稷・宗廟を立て、鼎を以て太子詹事と爲し、百揆を總攝せしむ。
梁綜、鼎と權を爭いたれば、鼎、綜を殺し、王毗を以て京兆尹と爲す。鼎、大謀を首建し、功を天下に立つ。始平太守の麴允・撫夷護軍の索綝は、並びに其の功を害(にく)み、且つ權を專らにせんと欲し、馮翊太守の梁緯・北地太守の梁肅は、並びに綜の母弟にして綝の婣(姻戚)なれば、謀りて鼎を除かんと欲し、乃ち其の君を無するの心有れば、專ら大臣を戮するなりと證し、之を討たんことを請い、遂に鼎を攻む。鼎、雍に出奔するも、氐の竇首の殺す所と爲り、首を長安に傳う。
〔一〕『晋書斠注』では、愍帝紀に基づけばこのとき李暅は中書令ではなく中書郎であり、ここで中書令としているのは誤りであるとする『読史挙正』の説を引用している。
〔二〕『晋書斠注』では、「騶」と「鄒」は音通するため、この「太傅参軍騶捷」は、文苑伝に立伝されている鄒湛の子である太傅参軍・鄒捷と同一人物であると見なす。
閻鼎(えんてい)は字を台臣と言い、天水郡の人である。初め、太傅であった東海王・司馬越つきの参軍となり、やがて巻令に転任し、豫州刺史の事務を代行し、許昌に駐屯した。母が亡くなって喪に服すことになると(官を辞し)、そこで密県一帯で西方の州からの流人たち数千人を糾合し、一緒に郷里に帰ろうとした。まもなく京師(洛陽)が陥落して朝廷の統制力が失われると、秦王・司馬鄴は密県に出奔し、司空の荀藩(じゅんはん)、荀藩の弟の司隷校尉の荀組、および中領軍の華恒(かこう)、河南尹の華薈(かわい)は、密県で行台(臨時的に首都外に設置した政府代行機関)を建立したが、密県が賊軍に近いという理由から、南の許昌・潁川地方に移動した。司徒府の左長史の劉疇(りゅうちゅう)は、密県で塢主となり、中書令の李暅(りかん)、太傅つきの参軍の騶捷(すうしょう)〔二〕・劉蔚(りゅううつ)、鎮軍将軍府の長史の周顗(しゅうぎ)、同じく鎮軍将軍府の司馬の李述は、みな劉疇のもとにやって来た。彼らはみな、閻鼎には才幹があり、しかも手勢として強兵を握っているので、荀藩に勧めて閻鼎に冠軍将軍・豫州刺史の位を仮に与えさせ、劉蔚らはその属官となった。
閻鼎は、若くして大志を抱き、西土の人たちが帰郷したがっていることから、郷里で功績を立てようと思い、そこで撫軍将軍府の長史の王毗(おうび)、同じく撫軍将軍府の司馬の傅遜(ふそん)と一緒に秦王・司馬鄴を輔翼・推戴する計略を立て、劉疇・騶捷らに言った。「山東(中原地域)は覇王の地ではなく、(今、本拠地とすべき場所としては)関中には及ばない」と。河陽令の傅暢(ふちょう)は、閻鼎に書を送り、秦王を奉じて洛陽を訪れ、先帝の山陵に拝謁し、そこから直接長安に赴いて本拠地とし、異民族と晋人(漢族)を安んじて糾合し、義兵を興し、宗廟を復活させ、社稷の恥を雪ぐべきであるということを勧めた。閻鼎は、その書を受け取ると、すぐに洛陽に赴こうとしたが、流人たちが、北道は黄河に近いため、賊軍に回り込まれて進路を断たれる恐れがあると述べたので、(荊州とつながる)南の武関から長安に向かうことにした。劉疇らはみな山東の人であったので、西行して関中に入ることを願わず、荀藩・劉疇・騶捷らはみな逃げ散じた。閻鼎は、荀藩を追ったが追いつけず、李暅らは殺され、ただ周顗・李述だけは逃げ切ることができた。閻鼎はそうして秦王を奉じて長安に向かったが、途中で上洛に留まっていたとき、山賊に襲われて百人余りが殺されてしまい、閻鼎は残りの兵衆を率いてさらに西方の藍田に到着した。時に劉聡は長安に向かっていたが、雍州刺史の賈疋(かひつ)に駆逐され、逃れて平陽に帰った。賈疋は人を遣わして秦王を奉迎させ、そこで閻鼎らは長安にたどり着くことができた。そして大司馬の南陽王・司馬保、衛将軍の梁芬(りょうふん)、京兆尹の梁綜(りょうそう)らと一緒に心を一つにして秦王・司馬鄴を推戴して皇太子として立て、司馬鄴は壇に登って天に告げ、社稷・宗廟を立て、閻鼎を太子詹事に任じ、国政を総領させた。
梁綜が閻鼎と権力を争ったので、閻鼎は梁綜を殺し、王毗を代わりに京兆尹に任じた。閻鼎はこのようにして大謀を首唱して建て、天下に対して勲功を立てた。始平太守の麹允(きくいん)・撫夷護軍の索綝(さくちん)の二人は、その功を妬み、しかも専権しようと狙っており、馮翊太守の梁緯(りょうい)・北地太守の梁粛は、二人とも殺された梁綜の同母弟であり、索綝の姻戚でもあったので、みなで謀って閻鼎を除こうとし、そこで、閻鼎には君主をないがしろにする心があるので、自分勝手に大臣を殺したのだということを証だて、閻鼎を討つことを請い、そうして閻鼎を攻撃した。閻鼎は雍県に出奔したが、氐人の竇首によって殺され、その首は長安に送られた。
索靖、字幼安、敦煌人也。累世官族、父湛、北地太守。靖少有逸羣之量、與鄉人氾衷・張甝・索紾・索永俱詣太學、馳名海内、號稱「敦煌五龍」。四人並早亡、唯靖該博經史、兼通内緯。州辟別駕、郡舉賢良方正、對策高第。傅玄・張華與靖一面、皆厚與之相結。
拜駙馬都尉、出爲西域戊己校尉長史。太子僕同郡張勃特表、以靖才藝絶人、宜在臺閣、不宜遠出邊塞。武帝納之、擢爲尚書郎。與襄陽羅尚・河南潘岳・吳郡顧榮同官、咸器服焉。靖與尚書令衞瓘俱以善草書知名、帝愛之。瓘筆勝靖、然有楷法、遠不能及靖。靖在臺積年、除雁門太守、遷魯相、又拜酒泉太守。惠帝即位、賜爵關内侯。靖有先識遠量、知天下將亂、指洛陽宮門銅駝、歎曰「會見汝在荊棘中耳。」
元康中、西戎反叛、拜靖大將軍梁王肜左司馬、加蕩寇將軍、屯兵粟邑、擊賊、敗之。遷始平内史。及趙王倫篡位、靖應三王義舉、以左衞將軍討孫秀有功、加散騎常侍、遷後將軍。太安末、河閒王顒舉兵向洛陽、拜靖使持節・監洛城諸軍事・遊擊將軍、領雍・秦・涼義兵、與賊戰、大破之、靖亦被傷而卒、追贈太常。時年六十五。後又贈司空、進封安樂亭侯、諡曰莊。
靖著『五行三統正驗論』、辯理陰陽氣運。又撰『索子』『晉詩』各二十卷。又作『草書狀』、其辭曰、
聖皇御世、隨時之宜。倉頡既生、書契是爲。科斗鳥篆、類物象形。叡哲變通、意巧茲生。損之隸草、以崇簡易。百官畢修、事業並麗。蓋草書之爲狀也、婉若銀鉤、漂若驚鸞。舒翼未發、若舉復安。虫蛇虬蟉、或往或還。類阿那以羸形、欻奮釁而桓桓。及其逸遊肸嚮、乍正乍邪。騏驥暴怒逼其轡、海水窊隆揚其波。芝草・蒲陶還相繼、棠棣融融載其華。玄熊對踞于山嶽、飛燕相追而差池。舉而察之、又似乎和風吹林、偃草扇樹。枝條順氣、轉相比附、窈嬈廉苫、隨體散布。紛擾擾以猗靡、中持疑而猶豫。玄螭・狡獸嬉其閒、騰猨・飛鼺相奔趣。凌魚奮尾、蛟龍反據。投空自竄、張設牙距。或若登高望其類、或若既往而中顧、或若俶儻而不羣、或若自檢於常度。
於是多才之英、篤藝之彥、役心精微、耽此文憲。守道兼權、觸類生變。離析八體、靡形不判。去繁存微、大象未亂。上理開元、下周謹案。騁辭放手、雨行冰散。高音翰厲、溢越流漫。忽班班而成章、信奇妙之煥爛。體磥落而壯麗、姿光潤以粲粲。命杜度運其指、使伯英迴其腕、著絶勢於紈素、垂百世之殊觀。
先時、靖行見姑臧城南石地曰「此後當起宮殿。」至張駿、於其地立南城、起宗廟、建宮殿焉。
靖有五子、鯁・綣・璆・聿・綝、皆舉秀才。聿、安昌鄉侯、卒。少子綝最知名。
索靖、字は幼安、敦煌の人なり。累世官族にして、父の湛、北地太守たり。靖、少くして逸羣の量有り、郷人の氾衷・張甝・索紾・索永と俱に太學に詣り、名を海内に馳せ、號して「敦煌の五龍」と稱せらる。四人は並びに早くに亡せ、唯だ靖のみ經史を該博し、兼ねて内緯に通ず。州は別駕に辟し、郡は賢良方正に舉げ、對策は高第たり。傅玄・張華、靖と一たび面するや、皆な厚く之と相い結ぶ。
駙馬都尉に拜せられ、出でて西域戊己校尉長史と爲る。太子僕の同郡の張勃、特に表し、以えらく、靖は才藝、人に絶したれば、宜しく臺閣に在るべくして、宜しく遠く邊塞に出でしむべからず、と。武帝、之を納れ、擢きて尚書郎と爲す。襄陽の羅尚・河南の潘岳・吳郡の顧榮と官を同にするや、咸な焉に器服す。靖、尚書令の衞瓘と俱に草書を善くするを以て名を知られ、帝は之を愛す。瓘の筆は靖に勝るも、然れども楷法有るは、遠く靖に及ぶ能わず。靖、臺に在ること積年、雁門太守に除せられ、魯相に遷り、又た酒泉太守に拜せらる。惠帝の即位するや、爵關内侯を賜う。靖、先識遠量有り、天下の將に亂れんとするを知り、洛陽の宮門の銅駝を指し、歎じて曰く「會(かなら)ず汝の荊棘中に在るを見るのみ」と。
元康中、西戎の反叛するや、靖を大將軍の梁王肜の左司馬に拜し、蕩寇將軍を加え、兵を粟邑に屯せしめ、賊を擊ち、之を敗る。始平内史に遷る。趙王倫の位を篡うに及び、靖、三王の義舉に應じ、左衞將軍を以て孫秀を討ちて功有り、散騎常侍を加えられ、後將軍に遷る。太安の末、河閒王顒の兵を舉げて洛陽に向かうや、靖を使持節〔一〕・監洛城諸軍事・遊擊將軍に拜し、雍・秦・涼の義兵を領せしめ、賊と戰い、大いに之を破るも、靖も亦た傷を被けて卒し、太常を追贈せらる。時に年は六十五。後に又た司空を贈り、封を安樂亭侯に進め、諡して莊と曰う。
靖、『五行三統正驗論』を著し、陰陽の氣運を辯理す。又た『索子』『晉詩』各々二十卷を撰す。又た『草書狀』を作り、其の辭に曰く、
聖皇は世を御するに、時の宜に隨う。倉頡、既に生まれ、書契、是れ爲る。科斗・鳥篆、物に類いて形を象る。叡哲は變通し、意巧は茲に生ず。之を隸草に損い、以て簡易を崇ぶ。百官、畢く修むれば、事業は並びに麗ならん。蓋し草書の狀たるや、婉たること銀鉤の若く、漂たること驚鸞の若し。翼を舒べて未だ發せざること、舉して復た安んずるが若し。虫蛇、虬蟉し、或いは往き或いは還る。類ね阿那にして以て羸形、欻(たちま)ちにして奮釁して桓桓たり。其の逸遊・肸嚮するに及びては、乍ち正にして乍ち邪なり。騏驥、暴怒して其の轡に逼り、海水、窊隆して其の波を揚ぐ。芝草・蒲陶、還た相い繼ぎ、棠棣、融融として其の華を載(はぐく)む。玄熊、山嶽に對踞し、飛燕、相い追いて差池す。舉げて之を察せば、又た和風の林に吹き、草を偃せ樹を扇ぐに似たり。枝條は氣に順い、轉た相い比附し、窈嬈廉苫として、體に隨いて散布す。擾擾に紛いて以て猗靡し、持疑に中りて猶豫す。玄螭・狡獸、其の閒に嬉れ、騰猨・飛鼺、相い奔趣す。凌魚は尾を奮い、蛟龍は反って據る。空に投ずれば自ら竄れ、牙距を張設す。或いは高きに登りて其の類を望むが若く、或いは既に往きて中顧するが若く、或いは俶儻にして羣れざるが若く、或いは自ら常度に檢するが若し。
是に於いて、多才の英、篤藝の彥、心を精微に役し、此を文憲に耽る。道を守りて權を兼ね、類に觸れて變を生ず。八體を離析し、形として判ぜざるは靡し。繁を去りて微に存し、大象は未だ亂れず。上は開元を理め、下は謹案に周たり。辭を騁せ手を放ち、雨行冰散す。高音は翰厲し、溢越して流漫す。忽ちにして班班として章を成し、信に奇妙の煥爛たり。體は磥落にして壯麗、姿は光潤にして以て粲粲たり。杜度をして其の指を運ばしめ、伯英をして其の腕を迴らしめ、絶勢を紈素に著し、百世の殊觀を垂る。
と。
先時、靖、行きて姑臧城南の石地を見て曰く「此の後、當に宮殿を起つべし」と。張駿に至り、其の地に南城を立て、宗廟を起て、宮殿を建つ。
靖に五子有り、鯁・綣・璆・聿・綝、皆な秀才に舉げらる。聿、安昌郷侯たるも、卒せり。少子の綝、最も名を知らる。
〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
索靖は字を幼安と言い、敦煌郡の人である。歴代官僚を輩出した一族であり、父の索湛(さくたん)は、北地太守にまで昇った。索靖は若くして抜群の器量があり、同郷人の氾衷(はんちゅう)・張甝(ちょうかん)・索紾(さくしん)・索永と一緒に太学に入学し、海内に名を馳せ、「敦煌の五龍」と称された。しかし、他の四人はみな早くに亡くなってしまい、ただ索靖のみが経典や史書の学を広く備え、合わせて讖緯の学にも通じることができた。涼州府は索靖を辟召して別駕従事に任じ、敦煌郡府は索靖を賢良方正に推挙し、(都で皇帝の策問を受け)対策(皇帝の策問に対する答案)は高第とされた。傅玄(ふげん)や張華は、索靖と一たび面会すると、皆な厚く索靖と交流関係を結んだ。
やがて駙馬都尉に任じられ、地方に出て西域戊己校尉府の長史となった。太子僕である同郡出身の張勃(ちょうぼつ)は、特別に上表し、索靖は才知と技芸が人よりも優れているので、尚書台の官僚として置くべきであり、遠く辺境の塞に出させるべきではありません、と述べた。武帝はそれを聞き容れ、索靖を抜擢して尚書郎に任じた。襄陽の人である羅尚、河南の人である潘岳(はんがく)、呉郡の人である顧栄と同僚となったところ、みな索靖を尊重して彼に屈服した。索靖は、尚書令の衛瓘(えいかん)と並んで草書の達人として名を知られ、武帝は非常に気に入っていた。衛瓘の筆は索靖よりも勝っていたが、しかし、規範があるという点では、遠く索靖に及ばなかった。索靖は長年にわたって尚書台に勤務し、その後、雁門太守に任じられ、魯国の国相に昇進し、さらに酒泉太守に任じられた。恵帝が即位すると、関内侯の爵位を賜わった。索靖は、遠くまで見通す先見の明があり、天下がまさに乱れようとしているのを悟ると、洛陽の宮門の銅駝を指さし、嘆息して言った。「必ずお前が荊棘の中に埋もれるのを見ることになろうよ」と。
恵帝の元康年間に、西戎が反乱を起こすと、索靖は(征西)大将軍である梁王・司馬肜(しばゆう)の征西大将軍府左司馬に任じられ、蕩寇将軍の官位を加えられ、兵を粟邑に駐屯させ、賊を撃破した。やがて始平内史に昇進した。趙王・司馬倫が帝位を簒奪すると、索靖は三王(斉王・司馬冏(しばけい)、成都王・司馬穎(しばえい)、河間王・司馬顒(しばぎょう))の義挙に応じ、左衛将軍の官位を仮に授かり、孫秀を討って功績があり、散騎常侍の官位を加えられ、後将軍に昇進した。恵帝の太安年間の末、河間王・司馬顒が兵を挙げて洛陽に向かうと、司馬顒は索靖を「使持節・監洛城諸軍事・遊撃将軍」に任命し、雍州・秦州・涼州の義兵を属下として率いさせ、索靖は賊と戦ってこれを大破したが、彼もまた傷を受けてそのまま亡くなり、太常の官位を追贈された。時に六十五歳であった。後にさらに司空の官位を追贈され、封爵を安楽亭侯に進められ、「荘侯」という諡号を授けられた。
索靖は生前に『五行三統正験論』を著し、陰陽の運気の道理を弁析した。また、『索子』『晋詩』各々二十巻を著した。さらに、『草書状』を著し、その中で次のように述べた。
聖上が天下を御すに当たっては、時宜に従うものである。その昔、(伝説上の文字の発明者である)倉頡が生まれて文字を作った。科斗や鳥篆の字体は、事物に似せて形を象ったものである。叡智は常軌に囚われずに変化に応じるものであり、創意工夫はそうして生まれる。筆画を削減して隷書体・草書体が生み出され、簡易であることが尊重された。百官がみなこれを習えば、事業はみな壮麗になるであろう。思うに、草書の形状は、銀鉤の金具のようにしなやかで美しく、驚いた鸞鳥のように漂々としている。その翼を広げながらも飛び立たない様子は、まるで立ち上がってからまた安座するかのようである。虫や蛇がうねうねと行ったり来たりしているようでもある。だいたい柔らかくしなやかであり、かつ細々として弱々しく、かと思えば勢いよく跳ね上がるように力強くもある。真っすぐであったかと思えば、たちまち斜めになったりと、自由自在に線が伸び広がっていく。駿馬が怒り暴れて手綱をうねらせたり、海水が低くなったり高くなったりして波を揚げるかのようである。霊芝やブドウのように連綿とつながり、棠棣(はねず)がのびのびとその華を開いているかのようでもある。また、黒毛の熊たちが山岳で向き合ってうずくまっているようでもあり、燕が互いに追いかけあって不揃いに飛んでいるようでもある。全体的に眺めると、また、穏やかな風が林に吹き、草を吹き倒し、樹々をあおっているようにも見える。その枝は風に従って揺れ、よりいっそう寄り添い合い、か細くかすかで美しく、その形に応じてあちこちに広がる。ごたごたと入り混じってまとわりつき、かと思えば突然、躊躇したかのように勢いを減じる。玄螭(竜に似た伝説上の獣)や凶暴な獣がその間で戯れ、跳び上がった猿や飛行する鼺(るい)(ムササビやモモンガの類)が駆け巡る。凌魚(伝説上の人魚)は尾を奮い、蛟竜は体を反して自らにもたれる。筆を離す様子はまるで竜が天に昇るかのようであり、力強い筆致はまるで竜が爪牙を剥くかのようである。それは、あるいは高いところに登って仲間たちを望み見ているかのようであり、あるいは行く途中で振り返っているかのようであり、あるいは才気が抜きんでて孤高であるかのようであり、あるいは自分を常なる法度に照らして律しているかのようでもある。
そこで、才能に溢れた英傑や文芸に篤い彦士は、心を精微の境地に用い、その心を書法に溺れさせる。正道を守りつつも臨機応変さも兼ね、似たような型に接して変化を加える。八体(秦代の八つの書体)を分析し、あらゆる形を判別することができる。繁雑であることを避けて精微であることを心掛け、しかも原形を乱すことはない。上は起筆をしっかりと治め、下は筆の握り方にまで配慮が行き届いている。自由自在に言葉を紡ぎ、自由自在に筆を走らせる様子は、まるで雨が降り氷が地に溶けるかのようになめらかである。高らかなる響きが轟きわたり、常軌に囚われずに広がり巡る。たちまちはっきりと明らかに文章が成り、実に絶妙なほどの鮮やかな輝きを見せる。その形体は高大光明にして壮麗、その姿は光り潤って粲粲と鮮やかに輝いている。杜度(後漢の章帝期の草書の達人)や伯英(後漢末の草書の達人である張芝(ちょうし)、伯英は字)に指を運ばせ腕を回させ(筆を執らせ)、絶妙な筆勢を白い練り絹に著し、百代にわたる珠玉の壮観を残すことになった。
かつて、索靖は道中、姑臧県城の城南の石地を見て言った。「将来、ここには宮殿が建てられるであろう」と。果たして、張駿(五胡十六国の前涼の君主)の代に至り、この地に南城を建設し、宗廟と宮殿が建てられることになった。
索靖には五人の子がおり、索鯁(さくこう)・索綣(さくけん)・索璆(さくきゅう)・索聿(さくいつ)・索綝(さくちん)と言い、みな秀才に推挙された。索聿は、安昌郷侯に封じられたが、すでに亡くなっていた。少子の索綝が最も名を知られることになった。
綝、字巨秀。少有逸羣之量、靖毎曰「綝廊廟之才、非簡札之用、州郡吏不足汙吾兒也。」舉秀才、除郎中。嘗報兄讎、手殺三十七人、時人壯之。俄轉太宰參軍、除好畤令、入爲黃門侍郎、出參征西軍事、轉長安令、在官有稱。
及成都王穎劫遷惠帝幸鄴、穎爲王浚所破、帝遂播越。河閒王顒使張方及綝東迎乘輿、以功拜鷹揚將軍、轉南陽王模從事中郎。劉聰侵掠關東、以綝爲奮威將軍以禦之、斬聰將呂逸、又破聰黨劉豐、遷新平太守。聰將蘇鐵・劉五斗等劫掠三輔、除綝安西將軍・馮翊太守。綝有威恩、華夷嚮服、賊不敢犯。
及懷帝蒙塵、長安又陷、模被害、綝泣曰「與其俱死、寧爲伍子胥。」乃赴安定、與雍州刺史賈疋・扶風太守梁綜・安夷護軍麴允等糾合義眾、頻破賊黨、修復舊館、遷定宗廟。進救新平、小大百戰、綝手擒賊帥李羌、與閻鼎立秦王爲皇太子、及即尊位。是爲愍帝。綝遷侍中・太僕、以首迎大駕升壇授璽之功、封弋居伯。又遷前將軍・尚書右僕射・領吏部・京兆尹、加平東將軍、進號征東。尋又詔曰「朕昔遇厄運、遭家不造、播越宛楚、爰失舊京。幸宗廟寵靈、百辟宣力、得從藩衞、託乎羣公之上。社稷之不隕、實公是賴、宜贊百揆、傅弼朕躬。其授衞將軍、領太尉、位特進、軍國之事悉以委之。」
及劉曜侵逼王城、以綝爲都督・征東大將軍・持節、討之。破曜呼日逐王呼延莫、以功封上洛郡公、食邑萬戸、拜夫人荀氏爲新豐君、子石元爲世子、賜子弟二人郷亭侯。劉曜入關芟麥苗、綝又擊破之。自長安伐劉聰、聰將趙染杖其累捷、有自矜之色、帥精騎數百與綝戰、大敗之、染單馬而走。轉驃騎大將軍・尚書左僕射・錄尚書、承制行事。
劉曜復率眾入馮翊、帝累徴兵於南陽王保、保左右議曰「蝮蛇在手、壯士解其腕。且斷隴道、以觀其變。」從事中郎裴詵曰「蛇已螫頭、頭可截不。」保以胡崧行前鋒都督、須諸軍集、乃當發。麴允欲挾天子趣保、綝以保必逞私欲、乃止。自長安以西、不復奉朝廷。百官饑乏、採稆自存。時三秦人尹桓・解武等數千家、盜發漢霸・杜二陵、多獲珍寶。帝問綝曰「漢陵中物何乃多邪。」綝對曰「漢天子即位一年而爲陵、天下貢賦、三分之一供宗廟、一供賓客、一充山陵。漢武帝饗年久長、比崩而茂陵不復容物、其樹皆已可拱。赤眉取陵中物不能減半、于今猶有朽帛委積、珠玉未盡。此二陵是儉者耳、亦百世之誡也。」
後劉曜又率眾圍京城、綝與麴允固守長安小城。胡崧承檄奔命、破曜于靈臺。崧慮國家威舉、則麴・索功盛、乃案兵渭北、遂還槐里。城中饑窘、人相食、死亡逃奔不可制、唯涼州義眾千人守死不移。帝使侍中宋敞送牋降于曜。綝潛留敞、使其子説曜曰「今城中食猶足支一歳、未易可剋也。若許綝以車騎・儀同・萬戸郡公者、請以城降。」曜斬而送之曰「帝王之師、以義行也。孤將軍十五年、未嘗以譎詭敗人、必窮兵極勢、然後取之。今索綝所説如是、天下之惡一也、輒相爲戮之。若審兵食未盡者、便可勉強固守。如其糧竭兵微、亦宜早悟天命。孤恐霜威一震、玉石俱摧。」及帝出降、綝隨帝至平陽、劉聰以其不忠於本朝、戮之於東市。
綝、字は巨秀。少くして逸羣の量有り、靖、毎に曰く「綝、廊廟の才にして、簡札の用に非ざれば、州郡の吏もて吾が兒を汙すに足らざるなり」と。秀才に舉げられ、郎中に除せらる。嘗て兄の讎に報い、手ずから三十七人を殺し、時人は之を壯なりとす。俄かにして太宰參軍に轉じ、好畤令に除せられ、入りて黃門侍郎と爲り、出でて征西軍事に參じ、長安令に轉じ、官に在りて稱有り。
成都王穎の惠帝を劫遷して鄴に幸せしむるに及び、穎は王浚の破る所と爲り、帝は遂に播越す。河閒王顒、張方及び綝をして東のかた乘輿を迎えしめ、功を以て鷹揚將軍に拜せられ、南陽王模の從事中郎に轉ず。劉聰の關東を侵掠するや、綝を以て奮威將軍と爲して以て之を禦がしめ、聰の將の呂逸を斬り、又た聰の黨の劉豐を破り、新平太守に遷る。聰の將の蘇鐵・劉五斗等の三輔を劫掠するや、綝を安西將軍・馮翊太守に除す。綝、威恩有り、華夷、嚮服し、賊は敢えて犯さず。
懷帝の蒙塵するに及び、長安も又た陷ち、模は害せられたれば、綝、泣きて曰く「其れと俱に死するよりは、寧ろ伍子胥と爲らん」と。乃ち安定に赴き、雍州刺史の賈疋・扶風太守の梁綜・安夷護軍の麴允等と與に義眾を糾合し、頻りに賊黨を破り、舊館を修復し、宗廟を遷定す。進みて新平を救い、小大百戰、綝、手ずから賊帥の李羌を擒にし、閻鼎と與に秦王を立てて皇太子と爲し、及び尊位に即かしむ。是れ愍帝たり。綝、侍中・太僕に遷り、大駕を首迎して壇に升りて璽を授けしの功を以て、弋居伯に封ぜらる。又た前將軍・尚書右僕射・領吏部・京兆尹に遷り、平東將軍を加えられ、號を征東に進めらる。尋いで又た詔して曰く「朕は、昔、厄運に遇い、家の不造に遭い、宛楚に播越し、爰に舊京を失う。幸いにして宗廟は寵靈あり、百辟は力を宣(つ)くし、藩衞より、羣公の上に託せらるるを得たり。社稷の隕れざるは、實に公に是れ賴れば、宜しく百揆を贊け、朕の躬を傅弼すべし。其れ衞將軍を授け、太尉を領せしめ、位特進とし、軍國の事、悉く以て之に委ねん」と。
劉曜の王城に侵逼するに及び、綝を以て都督・征東大將軍・持節〔一〕と爲し、之を討たしむ。曜の呼日逐王の呼延莫を破り、功を以て上洛郡公に封じ、食邑は萬戸、夫人の荀氏を拜して新豐君と爲し、子の石元もて世子と爲し、子弟二人に郷亭侯を賜う。劉曜の關に入りて麥苗を芟るや、綝、又た之を擊破す。長安より劉聰を伐たんとするや、聰の將の趙染、其の累りに捷ちしに杖り、自矜の色有り、精騎數百を帥いて綝と戰うも、大いに之を敗り、染、單馬にして走る。驃騎大將軍・尚書左僕射・錄尚書に轉じ、承制して行事す。
劉曜の復た眾を率いて馮翊に入るや、帝、累りに南陽王保より徴兵したれば、保の左右は議して曰く「蝮蛇、手に在れば、壯士は其の腕を解く。且く隴道を斷ち、以て其の變を觀わん」と。從事中郎の裴詵曰く「蛇、已に頭を螫さば、頭は截つべきや不(いな)や」と。保、胡崧を以て前鋒都督を行せしめ、諸軍の集まるを須たしめ、乃ち當に發せんとす。麴允、天子を挾みて保に趣かんと欲するも、綝は、保は必ず私欲を逞しくせんと以い、乃ち止む。長安より以西、復た朝廷を奉ぜず。百官、饑乏し、稆を採りて自ら存す。時に三秦の人の尹桓・解武等の數千家、漢の霸・杜二陵を盜發し、多く珍寶を獲たり。帝、綝に問いて曰く「漢の陵中の物、何ぞ乃ち多きや」と。綝、對えて曰く「漢の天子は即位して一年にして陵を爲り、天下の貢賦、三分の一もて宗廟に供し、一もて賓客に供し、一もて山陵に充てり。漢の武帝、饗年久長なれば、崩ずるに比びて茂陵は復た物を容れず、其の樹は皆な已に拱たるべし。赤眉、陵中の物を取るも減半する能わず、今に于いて猶お朽帛の委積し、珠玉の未だ盡きざる有り。此の二陵は是れ儉なる者のみなるも、亦た百世の誡めなり」と。
後に劉曜の又た眾を率いて京城を圍むや、綝、麴允と與に長安小城を固守す。胡崧、檄を承けて奔命し、曜を靈臺に破る。崧、國家の威、舉がれば、則ち麴・索の功は盛んならんことを慮り、乃ち兵を渭北に案じ、遂に槐里に還る。城中は饑窘し、人相い食み、死亡・逃奔するもの制すべからざるも、唯だ涼州の義眾千人のみ死を守りて移らず。帝、侍中の宋敞をして牋を送らしめて曜に降らんとす。綝、潛かに敞を留め、其の子をして曜に説かしめて曰く「今、城中の食は猶お一歳を支うるに足れば、未だ剋つべきに易からざるなり。若し綝を許すに車騎・儀同・萬戸郡公を以てせば、請いて城を以て降らしめん」と。曜、斬りて之を送りて曰く「帝王の師、義行を以てするなり。孤、軍を將いること十五年、未だ嘗て譎詭を以て人を敗らず、必ず兵を窮め勢を極め、然る後に之を取る。今、索綝の説く所は是くの如く、天下の惡は一なれば、輒ち相い爲に之を戮す。若し審(まこと)に兵食未だ盡きずんば、便ち勉強して固守すべし。如し其の糧竭きて兵微くんば、亦た宜しく早く天命を悟るべし。孤、霜威の一たび震い、玉石の俱に摧けんことを恐る」と。帝の出でて降るに及び、綝、帝に隨いて平陽に至り、劉聰、其の本朝に忠ならざるを以て、之を東市に戮す。
〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
索綝(さくちん)は字を巨秀と言う。若くして抜群の器量があり、(父の)索靖は常にこう言っていた。「綝は朝廷で活躍すべき才能の持ち主であり、書記のような職務に用いるべきではないので、州郡の属吏として我が子を汚すにはもったいない」と。索綝は秀才に推挙され、郎中に任じられた。かつて兄の仇に報い、自らの手で三十七人を殺し、当時の人々はこれを立派なことだと思った。まもなく太宰つきの参軍に転任し、好畤令に任じられ、中央に仕えて黄門侍郎となり、地方に出て征西将軍つきの参軍事となり、長安令に転任し、いずれの官職にあったときも、その政績を称された。
成都王・司馬穎(しばえい)が恵帝に無理やり鄴に遷都させると、やがて司馬穎は王浚(おうしゅん)に敗れ、そこで恵帝は流亡することになってしまった。河間王・司馬顒(しばぎょう)は、張方と索綝に命じて東行して恵帝を迎えさせ、その功により索綝は鷹揚将軍に任じられ、やがて南陽王・司馬模の属下の従事中郎に転任した。劉聡が関東を侵略すると、朝廷は索綝を奮威将軍に任じて劉聡軍を防がせ、索綝は劉聡の将である呂逸を斬り、さらに劉聡の仲間である劉豊を破り、新平太守に昇進した。劉聡の将である蘇鉄・劉五斗らが三輔を侵略すると、朝廷は索綝を「安西将軍・馮翊太守」に任じた。索綝には威厳と恩恵があり、華人も夷人も従い服し、賊はこの地を侵犯することができなかった。
(洛陽が陥落して)懐帝が捕らえられて劉聡のもとに連れ去られたとき、それと同時に長安も陥落し、南陽王・司馬模が殺害されてしまったので、索綝は泣いて言った。「南陽王殿下に殉じて一緒に死ぬよりは、むしろ(春秋時代に祖国に復讐せんとしてそれを果たした)伍子胥となって復讐を果たそうぞ」と。そこで安定郡に赴き、雍州刺史の賈疋(かひつ)・扶風太守の梁綜(りょうそう)・安夷護軍の麹允(きくいん)らと一緒に義兵を糾合し、しきりに賊軍を破り、長安の官庁を修復し、秦王・司馬鄴(しばぎょう)を長安に迎えて宗廟を遷す(遷都する)という大業を定めた。索綝らは進軍して新平郡を救い、大小合わせて百たび戦い、索綝は自らの手で賊帥の李羌を捕らえ、閻鼎(えんてい)と一緒に秦王を皇太子として立て、さらに帝位に即かせた。これが愍帝(びんてい)である。索綝は「侍中・太僕」に昇進し、愍帝を奉迎するのを主導し、さらに即位式の際に壇に升って璽を授けたという功績により、弋居伯(弋居県を封邑として与えられた伯爵)に封じられた。さらに「前将軍・尚書右僕射・領吏部(尚書右僕射でありながら吏部尚書を兼任)・京兆尹」に昇進し、平東将軍を加えられ、やがて軍号を「征東」将軍に進められた。さらに、まもなく次のような詔が下された。「朕はかつて厄運に遇い、皇室の不幸に遭って宛・楚の地方に流亡し、旧都(洛陽)を失った。幸いにして宗廟には天の恩寵があり、百官は力を尽くし、朕は藩王の身から、朝臣たちの上に立つ位(皇帝位)へ即くよう委ねられるに至った。社稷が滅ばずに済んだのは、実にそなたのおかげであるので、諸々の政務を補佐し、朕を輔弼する立場に就くべきである。そこで、衛将軍の官職を授け、太尉を兼任させ、特進の位を与え、軍事・国政に関してすべてを委ねることとする」と。
劉曜軍が王城(長安)に迫ると、朝廷は索綝を「都督・征東大将軍・持節」に任じ、劉曜を討たせた。索綝は劉曜軍の呼日逐王・呼延莫(こえんばく)を破り、その功により朝廷は索綝を上洛郡公に封じ、食邑は一万戸とし、夫人の荀氏を新豊君に封じ、子の索石元を世子とし、その他の子弟二人に郷侯・亭侯の爵位を賜った。劉曜が関中に侵入して麦などの苗を刈り取ると、索綝はまた劉曜軍を撃破した。さらに、長安より劉聡を討とうと進軍したところ、劉聡の将である趙染は、何度も勝利してきたことを自負して驕りの色を見せ、精騎数百を率いて索綝と戦ったが、索綝は趙染を大いに破り、趙染は単騎で逃げ去った。索綝は「驃騎大将軍・尚書左僕射・録尚書事」に転任し、承制して軍事や国政を統べた。
劉曜がまた兵衆を率いて馮翊郡に侵入すると、愍帝はしきりに(隴西に本拠地を置く)南陽王・司馬保から徴兵したので、司馬保の左右の者は議して言った。「マムシが手に巻き付いてきたら、(毒が全身に回らないように)壮士は自らその腕を斬り落とすものです。ひとまず隴道を断ち(マムシたる索綝政権と連絡を絶ち)、そうして事の成り行きを伺いましょう」と。すると、従事中郎の裴詵(はいしん)が言った。「マムシが頭に噛みついたら、その頭を断つべきでありましょうか(索綝政権は今や愍帝を奉戴している朝廷であるので、それは腕ではなく頭に相当するものであるから、斬り落とすべきではありません)」と。そこで司馬保は、胡崧(こすう)に前鋒都督を代行させ、諸軍の集まるのを待たせ、そうしてから朝廷の救援のための軍を発しようとした。(朝廷側の)麹允は、天子を司馬保のもとに無理やり連れていこうと言い出したが、索綝は、司馬保は必ず私欲を思うがままに振るうだろうと考え、それを止めた。こうして長安以西はまた朝廷を奉じないようになった。朝廷の百官は飢餓に苦しみ、自生している植物を採集して何とか食い繋いだ。時に三秦(関中)の人である尹桓(いんかん)・解武らの数千家が、漢の覇陵(文帝陵)・杜陵(宣帝陵)の二陵を盗掘し、多くの珍宝を獲得した。愍帝は索綝に問うて言った。「漢の陵中の物は、何と多いことであろうか」と。索綝は答えて言った。「漢の天子は即位して一年で陵を建設し、天下の貢賦の三分の一を宗廟に供し、三分の一を賓客に供し、三分の一を山陵に充てました。漢の武帝は在位期間が非常に長かったので、崩御した際、(その陵墓である)茂陵はもう物が容れられないほどいっぱいであり、そこに植えられた樹はみな、ひとかかえほどの太さにまで生長していたと言います。(両漢交替期に)赤眉軍が陵中の物を盗み取りましたが半分も減らすことができず、今に至ってもまだ朽ちた帛が積み重なり、珠玉が残されています。(それに比べて)覇陵・杜陵の二陵は倹約に努めた文帝・宣帝のものでありますが、(それでもこのように多くの珍宝があるのですから、)やはり百代の戒めとすべきことです」と。
後に劉曜がまた兵衆を率いて京城(長安)を囲むと、索綝は麹允と一緒に長安小城を固守した。胡崧は、檄文を受けて命に応じて駆けつけ、劉曜を霊台で破った。胡崧は、国家(朝廷)の威勢が高まれば、麹允・索綝の功が盛んになってしまうだろうと考え、そこで兵を渭水の北に留め、そのまま槐里に帰ってしまった。長安城中は飢餓に苦しみ、人々が互いに食らい合い、死亡したり逃亡したりする者が続出するのを抑えられなかったが、ただ涼州の義兵千人のみが死んでも態度を変えようとしなかった。愍帝は、侍中の宋敞(そうしょう)に牋(公文書の一種)を持たせて劉曜に送らせて降伏しようとした。索綝はこっそり宋敞を留め、代わりに自分の子を劉曜のもとに派遣して次のように説かせた。「今、城中の食糧はまだ一年分支えられるだけ残されており、勝つのは容易ではありません。もし索綝を許して車騎将軍・開府儀同三司・万戸の郡公とすると約束してくだされば、城ごと降ることを要請しましょう」と。劉曜は、その索綝の子を斬って遺体を長安に送って言った。「帝王の軍事というものは、義によってなされるべきものである。私は、軍を率いること十五年、未だかつて詐術を用いて他人を破ったことは無く、必ず兵勢を尽くし力を出し切り、そうして敵を攻略してきた。今、索綝の説いた内容はこの通りであり、(敵も味方も関係なく)天下の人々の憎むべきものは同じであるから、そこで貴殿らのためにこやつを殺した。もし本当に兵糧がまだ尽きていないのなら、力を尽くして固守するがよい。もし兵糧も尽きて兵も残されていないのであれば、なおのこと早く天命を悟るべきである。私は、我が軍の厳しい威光が一たび震い、貴殿らが玉石(賢人・貴人と悪人・佞人)ともに砕け散ってしまうのではないかということを恐れている」と。愍帝が城を出て劉曜に降ると、索綝は愍帝に従って(劉聡の漢の都である)平陽に赴いたが、劉聡は、索綝が愍帝に対して忠を尽くさなかったという理由で、索綝を東市で処刑した。
賈疋、字彥度、武威人、魏太尉詡之曾孫也。少有志略、器望甚偉、見之者莫不悦附、特爲武夫之所瞻仰、願爲致命。初辟公府、遂歴顯職、遷安定太守。雍州刺史丁綽、貪橫失百姓心、乃譖疋于南陽王模、模以軍司謝班代之。疋奔瀘水、與胡彭蕩仲及氐竇首結爲兄弟、聚眾攻班。綽奔武都、疋復入安定、殺班。愍帝以疋爲驃騎將軍・雍州刺史、封酒泉公。
時諸郡百姓饑饉、白骨蔽野、百無一存。疋帥戎晉二萬餘人、將伐長安、西平太守竺恢亦固守。劉粲聞之、使劉曜・劉雅及趙染距疋、先攻恢、不剋、疋邀擊、大敗之、曜中流矢、退走。疋追之、至于甘泉。旋自渭橋襲蕩仲、殺之。遂迎秦王、奉爲皇太子。後蕩仲子夫護帥羣胡攻之、疋敗走、夜墮于澗、爲夫護所害。疋勇略有志節、以匡復晉室爲己任、不幸顛墜、時人咸痛惜之。
賈疋、字は彥度、武威の人にして、魏の太尉の詡の曾孫なり。少くして志略有り、器望は甚だ偉にして、之を見る者、悦びて附かざるは莫く、特に武夫の瞻仰する所と爲り、爲に命を致さんと願う。初め公府に辟され、遂に顯職を歴、安定太守に遷る。雍州刺史の丁綽、貪橫にして百姓の心を失い、乃ち疋を南陽王模に譖りたれば、模、軍司の謝班を以て之に代わらしむ。疋、瀘水に奔り、胡の彭蕩仲及び氐の竇首と與に結びて兄弟と爲り、眾を聚めて班を攻む。綽、武都に奔り、疋は復た安定に入り、班を殺す。愍帝〔一〕、疋を以て驃騎將軍・雍州刺史と爲し、酒泉公に封ず。
時に諸郡の百姓は饑饉し、白骨は野を蔽い、百に一存も無し。疋、戎晉二萬餘人を帥い、將に長安を伐たんとし、西平太守〔二〕の竺恢も亦た固守す。劉粲、之を聞き、劉曜・劉雅及び趙染をして疋を距がしめんとし、先ず恢を攻めしむるも、剋たず、疋、邀え擊ち、大いに之を敗り、曜は流矢に中り、退走す。疋、之を追い、甘泉に至る。旋(つ)いで渭橋より蕩仲を襲い、之を殺す。遂に秦王を迎え、奉じて皇太子と爲す。後に蕩仲の子の夫護、羣胡を帥いて之を攻め、疋、敗走し、夜に澗に墮ち、夫護の害する所と爲る。疋、勇略にして志節有り、晉室を匡復せんことを以て己が任と爲すも、不幸にして顛墜したれば、時人は咸な之を痛惜す。
〔一〕『晋書斠注』に引かれている諸書でも指摘されているように、これは愍帝ではなく懐帝の誤りである。
〔二〕『晋書斠注』では、これは「西平太守」ではなく「新平太守」の誤りであるとする労格『晋書校勘記』の説を引用している。
賈疋(かひつ)は字を彦度と言い、武威郡の人で、魏の太尉の賈詡(かく)の曽孫である。若くして大志があり、才器と名望は非常に卓越しており、賈疋に接した者はみな喜んで付き従い、特に武人に尊敬され、彼らは賈疋のために身命を賭して戦うことを願った。賈疋は初め公府に辟召され、そのまま顕職を歴任し、安定太守に昇進した。雍州刺史の丁綽(ていしゃく)は、貪婪・横暴であったがために人々の心を失い、なんと南陽王・司馬模に対して賈疋のことを誹謗したので、司馬模は軍司の謝班を賈疋と交代させようとした。賈疋は瀘水に逃げ、瀘水胡(盧水胡)の彭蕩仲(ほうとうちゅう)及び氐の竇首(とうしゅ)と兄弟の契りを結び、兵衆を集めて謝班を攻めた。丁綽は武都郡に逃げ、賈疋は再び安定郡に入り、謝班を殺した。愍帝(懐帝?)は、賈疋を「驃騎将軍・雍州刺史」に任じ、酒泉公に封じた。
時に諸郡の人々は飢餓に苦しみ、白骨が野を覆い、百人に一人も生き延びることができなかった。賈疋は、戎人・晋人(漢族)合わせて二万人余りを率い、(劉聡の漢軍に占拠されていた)長安を討伐しようとし、西平太守(新平太守?)の竺恢(じくかい)もまた劉聡の漢軍からその地を固守していた。(劉聡の子である)劉粲(りゅうさん)はそれを聞くと、劉曜・劉雅・趙染に命じて賈疋軍を防がせようとし、まず竺恢を攻めさせたが勝てず、やがて賈疋が迎え撃ちにやってきて、大いに劉曜らを破り、劉曜は流矢に当たって退却・敗走した。賈疋はこれを追撃し、甘泉まで至った。まもなく渭橋より進んで彭蕩仲を襲撃して殺した。やがて秦王・司馬鄴(しばぎょう)を迎え、(閻鼎や索綝らとともに)奉じて皇太子に立てた。後に彭蕩仲の子の彭夫護が諸胡を率いて賈疋を攻めると、賈疋は敗走し、夜に谷間に転落し、彭夫護に殺されてしまった。賈疋は勇敢で智謀があり、大志や節義を有し、晋室を正して復興させることを自分の任務としていたが、不幸にも滅亡してしまったので、時の人々はみなこれを痛み惜しんだ。
史臣曰。
自永嘉蕩覆、㝢内橫流、億兆靡依、人神乏主。于時武皇之胤、惟有建興、眾望攸歸、曾無與二。閻鼎等忠存社稷、志在經綸、乃契闊艱難、扶持幼孺、遂得纂堯承緒、祀夏配天、校績論功、有足稱矣。然而抗滔天之巨寇、接彫弊之餘基、威略未申、尋至傾覆。昔宗周遭犬戎而東徙、有晉違獷狄而西遷、彼既靈慶悠長、此則禍難遄及、豈愍皇地非奧主、將綝允材謝輔臣。何修短之殊途、而成敗之異數者也。
贊曰。
懷惠不競、戚藩力爭。狙詐參謀、憑凶亂政。爲惡不已、並罹非命。解繆忠肅、無聞餘慶。愍皇纂戎、實賴羣公。鼎圖福始、綝遂凶終。
史臣曰く。
永嘉の蕩覆より、㝢内は橫流し、億兆は依る靡く、人神は主乏し。時に武皇の胤、惟だ建興有るのみにして、眾望の歸する攸、曾て與に二なる無し。閻鼎等、忠は社稷に存り、志は經綸に在り、乃ち契闊艱難、幼孺を扶持し、遂に堯を纂ぎ緒を承け、夏を祀り天に配するを得たれば、績を校え功を論ずるに、稱するに足る有り。然り而して滔天の巨寇に抗するに、彫弊の餘基に接したれば、威略は未だ申びず、尋いで傾覆するに至る。昔、宗周は犬戎に遭いて東徙し、有晉は獷狄を違(さ)りて西遷するに、彼は既に靈慶悠長なるも、此は則ち禍難遄やかに及びしは、豈に愍皇の地の奧主たるに非ず、將た綝・允の材の輔臣たるに謝せればならんや。何ぞ修短の途を殊にし、而して成敗の數を異にすればならんや。
贊に曰く。
懷・惠は競わず、戚・藩は力爭す。詐を狙いて謀に參じ、凶に憑りて政を亂す。惡を爲すこと已まず、並びに非命に罹る。解・繆は忠肅なるも、餘慶を聞くこと無し。愍皇は戎を纂ぎ、實に羣公に賴る。鼎は福始を圖り、綝は凶終を遂ぐ。
史臣の評
永嘉年間の混乱と朝廷の転覆により、天下は動乱に巻き込まれ、億兆の民は頼るべきものも無く、先祖の神霊は位牌を立てて祭られることも無くなってしまった。時に武帝の子孫は、ただ秦王・司馬鄴(しばぎょう)だけが生き残り、人望の帰するところとしては、もともと並ぶものは無かった。閻鼎(えんてい)らは、忠心は社稷のためにあり、志は整然と天下の統治を回復させることにあったが、何とも苦労が多く艱難に喘ぎながらも、まだ幼い君主を助け支え、遂に尭以来の帝王の系譜を継ぎ、(漢にとっての尭、魏にとっての舜のように、晋王朝のシンボルである)夏の禹を天に配祀することができたので、功績を考え論じれば、称賛するに十分である。しかし、天に溢れみなぎるほどの巨大な賊の侵攻に抵抗するにも、凋落の残痕に臨していたので、威光や謀略は発揮できず、まもなく転覆することになってしまった。昔、周王朝は犬戎の侵攻に遭って東に遷都し、今回、晋は凶悪な夷狄を避けて西に遷都したが、周王朝の方はその後も天慶が長く続いたのにも関わらず、晋の方は禍難が速やかに及んだのは、どうして愍帝の身分が君主となるべきものではなかったからであったり、はたまた索綝(さくちん)や麹允(きくいん)の才能が輔臣として不足していたからであったりしようか。どうして周と晋とで長所と短所の種類が異なり、成功と失敗の程度が異なっていたためであろうか。(それらとは別のところに原因があったのである。)
賛
懐帝や愍帝は威信が振るわず、宗室の親戚や藩王たちは力の限り権力を争い合った。邪悪な者が隙を伺って他人を騙そうと謀略に参加し、権力者たちはそのような邪悪な者に頼って政治を乱すことになった。やむことなく悪事を続け、みな災禍に遭って非運の死を遂げた。(善行を積み重ねた家では、その福慶が子孫にも及ぶと言うが)解系・繆播(びゅうは)は忠実・恭謙であったにも関わらず、子孫にその福慶の余沢が及んだという話は聞かない。愍帝は先人の偉大な功業を継ぎ、実に朝臣たちを頼った。閻鼎は人々に福をもたらす先導者となろうと図り、索綝は良くない終わりを遂げた。