いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第三十一巻_周浚(子嵩・謨・従父弟馥)・成公簡・苟晞・華軼・劉喬(孫耽・耽子柳)

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。
この巻は、永嘉の乱の最中にあって、州刺史として東方に割拠した群雄である、周馥(揚州)、苟晞(兗州・青州)、華軼(江州)、劉喬(豫州)と、オマケで周馥の関係者たち(周浚・周嵩・周謨・成公簡)を集めた列伝になります。これらの群雄は、三国志で言うなら曹操や陶謙・袁術・呂布・劉繇などに相当するようなポジションの人物たちです。彼らは、八王の乱の最後の権力者である司馬越に最終的には対抗することとなり、司馬越や司馬睿(東晋の元帝)・石勒などに敗れて散っていきました。

周浚 子嵩・謨・従父弟馥

原文

周浚、字開林、汝南安成人也。父裴、少府卿。浚性果烈、以才理見知、有人倫鑒識。郷人史曜素微賤、眾所未知、浚獨引之爲友、遂以妹妻之、曜竟有名於世。
浚初不應州郡之辟、後仕魏爲尚書郎。累遷御史中丞、拜折衝將軍・揚州刺史、封射陽侯。隨王渾伐吳、攻破江西屯戍、與孫晧中軍大戰、斬偽丞相張悌等首級數千、俘馘萬計、進軍屯于橫江。
時聞龍驤將軍王濬既破上方、別駕何惲説浚曰「張悌率精銳之卒、悉吳國之眾、殄滅於此、吳之朝野莫不震懾。今王龍驤既破武昌、兵威甚盛、順流而下、所向輒剋、土崩之勢見矣。竊謂宜速渡江、直指建鄴。大軍卒至、奪其膽氣、可不戰而擒。」浚善其謀、便使白渾。惲曰「渾闇於事機、而欲慎己免咎、必不我從。」浚固使白之、渾果曰「受詔但令江北抗衡吳軍、不使輕進。貴州雖武、豈能獨平江東。今者違命、勝不足多、若其不勝、爲罪已重。且詔令龍驤受我節度、但當具君舟楫、一時俱濟耳。」惲曰「龍驤剋萬里之寇、以既濟之功來受節度、未之聞也。且握兵之要、可則奪之。所謂『受命不受辭』也。今渡江必全剋獲、將有何慮。若疑於不濟、不可謂智、知而不行、不可謂忠、實鄙州上下所以恨恨也。」渾執不聽。居無何而濬至、渾召之不來、乃直指三山、孫晧遂降於濬。渾深恨之、而欲與濬爭功。惲牋與浚曰「書貴克讓、易大謙光、斯古文所詠、道家所崇。前破張悌、吳人失氣、龍驤因之、陷其區宇。論其前後、我實緩師、動則爲傷、事則不及。而今方競其功。彼既不吞聲、將虧雍穆之弘、興矜爭之鄙、斯愚情之所不取也。」浚得牋、即諫止渾、渾不能納、遂相表奏。
浚既濟江、與渾共行吳城壘、綏撫新附、以功進封成武侯、食邑六千戸、賜絹六千匹。明年、移鎮秣陵。時吳初平、屢有逃亡者、頻討平之。賓禮故老、搜求俊乂、甚有威德、吳人悅服。
初、吳之未平也、浚在弋陽、南北爲互市、而諸將多相襲奪以爲功。吳將蔡敏守于沔中、其兄珪爲將在秣陵、與敏書曰「古者兵交、使在其閒、軍國固當舉信義以相高。而聞疆埸之上、往往有襲奪互市。甚不可行。弟慎無爲小利而忘大備也。」候者得珪書以呈浚、浚曰「君子也。」及渡江、求珪、得之、問其本、曰「汝南人也。」浚戲之曰「吾固疑吳無君子、而卿果吾郷人。」
遷侍中。武帝問浚「卿宗後生、稱誰爲可。」荅曰「臣叔父子恢、稱重臣宗;從父子馥、稱清臣宗。」帝並召用。浚轉少府、以本官領將作大匠。改營宗廟訖、增邑五百戸。後代王渾爲使持節・都督揚州諸軍事・安東將軍、卒于位。三子顗・嵩・謨。顗嗣爵、別有傳云。

訓読

周浚、字は開林、汝南安成の人なり。父の裴、少府卿たり。浚、性は果烈にして、才理を以て知られ、人倫の鑒識有り。郷人の史曜は素より微賤にして、眾の未だ知らざる所なるも、浚、獨り之を引きて友と爲し、遂に妹を以て之に妻し、曜、竟に名を世に有つ。
浚、初め州郡の辟に應ぜず、後に魏に仕えて尚書郎と爲る。累りに遷りて御史中丞たり、折衝將軍・揚州刺史に拜せられ、射陽侯に封ぜらる。王渾に隨いて吳を伐ち、攻めて江西の屯戍を破り、孫晧の中軍と大いに戰い、偽丞相の張悌等の首級數千を斬り、俘馘は萬もて計え〔一〕、進軍して橫江に屯す。
時に龍驤將軍の王濬の既に上方を破るを聞くや、別駕の何惲、浚に説きて曰く「張悌は精銳の卒を率い、吳國の眾を悉くすも、此に殄滅したれば、吳の朝野は震懾せざるは莫し。今、王龍驤は既に武昌を破り、兵威は甚だ盛んにして、流れに順いて下り、向う所輒ち剋ち、土崩の勢見(あらわ)る。竊かに謂うに、宜しく速やかに江を渡り、建鄴に直指すべし。大軍卒かに至れば、其の膽氣を奪い、戰わずして擒にすべし」と。浚、其の謀を善しとし、便ち渾に白せしむ。惲曰く「渾は事機に闇く、而も己を慎しみて咎を免れんと欲すれば、必ず我に從わざらん」と。浚、固く之を白さしむるも、渾、果たして曰く「詔を受くるに但だ江北にて吳軍に抗衡せしむるのみにして、輕々しく進ましめず。貴州は武ありと雖も、豈に能く獨り江東を平げんや。今者(いま)命に違わば、勝つとも多とするに足らず、若し其れ勝たずんば、罪と爲すこと已に重し。且つ詔は龍驤をして我が節度を受けしむれば、但だ當に君の舟楫を具え、一時に俱に濟るべきのみ」と。惲曰く「龍驤は萬里の寇に剋ち、既濟の功を以て來りて節度を受くるは、未だ之を聞かざるなり。且つ兵を握るの要、可なれば則ち之を奪う。所謂(いわゆる)『命を受くるも辭を受けず』なり。今、江を渡らば必ず全く剋獲すべきに、將た何の慮か有らん。若し濟さざるを疑わば、智と謂うべからず、知りて行わずんば、忠と謂うべからず、實に鄙州の上下恨恨とする所以ならん」と。渾、執れも聽かず。居ること何も無くして濬至り、渾、之を召せども來らず、乃ち三山に直指し、孫晧、遂に濬に降る。渾、深く之を恨み、而して濬と功を爭わんと欲す。惲、牋もて浚に與えて曰く「『書』は克く讓るを貴び、『易』は謙にして光なるを大なりとするは、斯れ古文の詠ずる所にして、道家の崇ぶ所なり。前に張悌を破り、吳人は氣を失い、龍驤は之に因り、其の區宇を陷す。其の前後を論ずるに、我れ實に師を緩めたれば、動は則ち傷われ、事は則ち及ばず。而るに今、方に其の功を競わんとす。彼れ既に聲を吞まざれば、將に雍穆の弘を虧き、矜爭の鄙を興さんとするは、斯れ愚情の取らざる所なり」と。浚、牋を得るや、即ち渾を諫止するも、渾は納る能わず、遂に相い表奏す。
浚、既に江を濟り、渾と共に吳の城壘に行き、新附せしものを綏撫し、功を以て進みて成武侯に封ぜられ、食邑は六千戸、絹六千匹を賜わる。明年、鎮を秣陵に移す。時に吳は初めて平らげられ、屢々逃亡する者有れば、頻りに討ちて之を平ぐ。故老を賓禮し、俊乂を搜し求め、甚だ威德有り、吳人は悅びて服す。
初め、吳の未だ平らがざるや、浚、弋陽に在り、南北互市を爲すに、而るに諸將は多く相い襲奪して以て功と爲す。吳將の蔡敏、沔中を守し、其の兄の珪は將たりて秣陵に在り、敏に書を與えて曰く「古者、兵交わるや、使(も)し其の閒に在らば、軍國は固より當に信義を舉げて以て相い高しとすべし。而るに聞くならく、疆埸の上、往往にして互市を襲奪すること有り、と。甚だ行うべからず。弟、慎しみて小利を爲して大備を忘るること無かれ」と。候者、珪の書を得て以て浚に呈するや、浚曰く「君子なり」と。江を渡るに及び、珪を求め、之を得るや、其の本を問うに、曰く「汝南の人なり」と。浚、之に戲むれて曰く「吾、固より吳に君子無きを疑いしに、而るに卿、果たして吾が郷人なるや」と。
侍中に遷る。武帝、浚に問うらく「卿の宗の後生、稱(あ)ぐるに誰をか可と爲す」と。荅えて曰く「臣の叔父の子の恢、重臣に稱ぐるに宗たり、從父の子の馥、清臣に稱ぐるに宗たり」と。帝、並びに召して用う。浚、少府に轉じ、本官を以て將作大匠を領す。改めて宗廟を營して訖わるや、邑五百戸を增す。後に王渾に代わりて使持節〔一〕・都督揚州諸軍事・安東將軍と爲り、位に卒す。三子あり、顗・嵩・謨。顗、爵を嗣ぎ、別に傳有りと云う。

〔一〕『晋書』王濬伝の王濬の主張によれば、この数字は王渾・周浚らによる嘘であり、実際には二千人程度であったという。
〔二〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。

現代語訳

周浚(しゅうしゅん)は字を開林と言い、汝南郡・安成の人である。父の周裴(しゅうばい)は少府卿の位まで昇った。周浚は、その性格は果敢で剛毅であり、才知があることで知られ、人材の良否を見分ける能力があった。同郷人の史曜はもともと微賎の生まれで、人々にその名を知られていなかったが、周浚だけは彼を招いて友として付き合い、そのまま妹を史曜に嫁がせ、果たして史曜は最終的に世に名を著わすことになった。
周浚は、初め州郡の辟召には応じず、後に魏に仕えて尚書郎となった。何度も昇進して御史中丞となり、やがて「折衝将軍・揚州刺史」に任じられ、射陽侯に封じられた。王渾(おうこん)に従って呉を討伐し、江西に駐屯する守備兵を攻め破り、孫皓の主力の中央軍と大いに戦い、呉の偽丞相の張悌(ちょうてい)らを始めとする数千の首級を斬り、捕虜は一万人以上にも上り、さらに進軍して横江に駐屯した。
時に、龍驤将軍の王濬(おうしゅん)が長江のより上流の地域の呉軍を破ったということを聞くと、(雍州刺史の属吏の)別駕従事の何惲(かうん)が周浚に説いて言った。「張悌は精鋭の兵卒を率い、呉国の兵士をことごとく集めていましたが、すでに我らがここで滅ぼしましたので、呉の朝廷の人々も在野の人々も、みな震え恐れております。今、王龍驤(王濬)はすでに武昌を破り、軍の威勢は非常に盛んで、流れに沿って長江を下り、向かう所ことごとく勝利し、勢いとして呉はまさに瓦解しようとしています。謹んで考えますに、速やかに長江を渡り、建業に直行すべきです。大軍が突然現れれば、呉の人々は度肝を抜かれ、戦わずして捕虜にすることができましょう」と。周浚はその謀を尤もだと思い、ただちに王渾に伝えさせようとした。すると何惲は言った。「王渾は機を察するのに疎く、しかも自己の保身を図って過失を避けることばかり考えているので、きっと我々の意見には耳を貸さないでしょう」と。それでも周浚は、王渾に何としてもと伝えさせたが、王渾は果たして次のように言った。「拝受した詔には、ただ江北で呉軍に対抗せよとあるだけで、軽々しく軍を進ませないようにしている。貴州(揚州刺史の周浚)は武名高いとはいえ、どうして単独で江東を平げることができようか。今、陛下の命に背くのであれば、勝ったとしても賞賛すべきものとしては扱われず、もし勝てなければ、罪はもはや重いものとなる。それに、詔では龍驤将軍(王濬)に我が指令を受けるようにと命じているので、ただそなたらは、そなたらの乗る船舶を準備し、同時に一緒に長江を渡るべきであろう」と。何惲は言った。「龍驤将軍(王濬)は万里にわたって賊軍に勝ち、すでに成就すること間違いなしの功績が目前にあるのに、それを放棄してわざわざここに指令を受けに来るなどということは、これまで聞いたことがございません。それに、軍を握る者の枢要は、(敵の城など)奪い取れる状況にあるのであれば奪うということにあります。これはまさに、いわゆる『その役職に任命するという君主の命令には従っても、(外にあっては状況の変化に合わせて臨機応変に対応しなければならないので、)あらかじめ与えられた事細かな一つ一つの言葉には従わない』というものです。今、長江を渡れば必ず完全に勝利して敵をすべて捕虜にできるというのに、どうして憂慮することがありましょうか。もし成功しないのではないかと疑うのであれば、それは智であると言うことはできませんし、それが分かっているのにも関わらず行わないのであれば、それは忠であると言うことはできず、いずれも実に我が州の上下みなが恨んでやまないものとなってしまうことでしょう」と。王渾はいずれの意見も聞き容れなかった。その後まもなく王濬が到着し、王渾は王濬を呼び出したが、それに応じて来ることはなく、なんと王濬は三山に直行し、そのまま孫皓は王濬に降ってしまった。王渾はこのことを深く恨み、王濬と功を争おうとした。何惲は、牋(上行文の一種)を周浚に送って言った。「『尚書(書経)』では、よく遜ることを尊び、『易』では、謙遜して尊い位にあってもその徳を光らすということを立派なことだとしているのは、これはまさに(儒家の)古典が唱えていることであるだけでなく、道家が尊ぶものでもあります。以前に張悌を破った際、呉の人々は意気を喪失し、龍驤将軍(王濬)はそれによって、呉の宮殿を陥落させました。その前後のことについて論ずると、我らは実に一度進軍を見合わせた以上、(改めて建業を攻めようにも)軍の動きはすでに損なわれており、事を成すことはできなかったでしょう。ですのに、今になって未練がましくその功績を競おうとしております。あちら(王濬)が沈黙することを拒んでいる以上、(争い合って)和して睦まじくするという大いなる美徳を欠き、自ら誇って功を争うという卑しい行いを興そうとするのは、私はお勧めできません」と。周浚は牋を受け取ると、すぐに王渾を諫めて止めようとしたが、王渾は聞き容れることができず、結局、王渾・周浚らと王濬が互いに上奏して争い合うことになった。
周浚は長江を渡ると、王渾と一緒に呉の城塞に行き、新たに帰順した者たちを安んじなだめ、功績により爵位を進めて成武侯に封じられ、食邑は六千戸とされ、絹六千匹を賜わった。明年、鎮所を秣陵に移した。時に呉は平定されたばかりで、しばしば逃亡者が出たので、周浚は頻りに討伐してこれを平定した。周浚は呉の旧臣たちを客人としての礼でもてなし、才徳の傑出した者を探し求め、非常に威厳と恩徳があり、呉の人々は喜んで服した。
初め、呉がまだ平定される前、周浚は弋陽におり、南北で交易を行っていたが、(晋・呉の)諸将は多く不意に乗じて交易していた人々から物資を略奪し、それを功績としていた。呉の将であった蔡敏(さいびん)は沔中を守備しており、その兄の蔡珪(さいけい)は将として秣陵(建業)にいたところ、蔡珪は蔡敏に書を送って言った。「古では、戦争が起こった時、その両勢力の交戦する中間の地域では、軍も国も当然信義を行ってそれを尊ぶべきだとされていた。なのに聞くところによれば、辺境の地域では、往往にして交易する人々の不意に乗じて略奪を行っているとか。非常に行うべきではないことである。弟よ、けして小利を貪って大いなる備えを忘れるようなことの無いように」と。周浚の斥候が蔡珪の書を得て、それを周浚に提出すると、周浚は「君子である」と言った。後に周浚が長江を渡った際、蔡珪を探し求め、蔡珪を見つけ、その本籍を問うと、蔡珪は「汝南の人です」と答えた。周浚は蔡珪に対し冗談として言った。「私はもともと呉には君子などいないのではないかと疑っていたが、やはりそなたは我が同郷人であったか」と。
周浚はやがて侍中に昇進した。武帝は周浚に問うた。「そなたの一族の年下の子弟で、任用すべき人物として誰が適切であるか」と。周浚は答えて言った。「私の叔父の子の周恢(しゅうかい)は、重臣として任用するのに最もふさわしく、従父の子の周馥(しゅうふく)は、清臣として任用するのに最もふさわしい人物です」と。武帝は二人とも召し出して任用した。周浚はさらに少府卿に転任し、少府卿を本官として将作大匠を兼任した。宗廟を建造し直してそれが完成すると、邑五百戸を追加で与えられた。後に王渾の後任として「使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍」となり、在位中に亡くなった。周浚には周顗(しゅうぎ)・周嵩(しゅうすう)・周謨(しゅうぼ)の三人の子がいた。周顗が周浚の爵を嗣いだが、周顗については独立した伝が別に立てられている。

原文

嵩、字仲智。狷直果俠、毎以才氣陵物。元帝作相、引爲參軍。及帝爲晉王、又拜奉朝請。嵩上疏曰「臣聞取天下者、常以無事、及其有事、不足以取天下、故古之王者、必應天順時、義全而後取、讓成而後得、是以享世長久、重光萬載也。今議者以殿下化流江漢、澤被六州、功濟蒼生、欲推崇尊號。臣謂今梓宮未反、舊京未清、義夫泣血、士女震動、宜深明周公之道、先雪社稷大恥、盡忠言嘉謀之助、以時濟弘仁之功、崇謙謙之美、推後己之誠。然後揖讓以謝天下、誰敢不應、誰敢不從。」由是忤旨、出爲新安太守。
嵩怏怏不悅、臨發、與散騎郎張嶷在侍中戴邈坐、褒貶朝士、又詆毀邈、邈密表之。帝召嵩入、面責之曰「卿矜豪傲慢、敢輕忽朝廷、由吾不德故耳。」嵩跪謝曰「昔唐虞至聖、四凶在朝。陛下雖聖明御世、亦安能無碌碌之臣乎。」帝怒、收付廷尉。廷尉華恒以嵩大不敬棄市論、嶷以扇和減罪除名。時顗方貴重、帝隱忍。久之、補廬陵太守、不之職、更拜御史中丞。
是時帝以王敦勢盛、漸疏忌王導等。嵩上疏曰、

臣聞明君思隆其道、故賢智之士樂在其朝、忠臣將明其節、故量時而後仕。樂在其朝、故無過任之譏、將明其節、故無過寵之謗。是以君臣並隆、功格天地。近代以來、德廢道衰、君懷術以御臣、臣挾利以事君、君臣交利而禍亂相尋、故得失之迹難可詳言。臣請較而明之。
夫傅説之相高宗、申召之輔宣王、管仲之佐齊桓、衰范之翼晉文、或宗師其道、垂拱受成、委以權重、終致匡主、未有憂其逼己還爲國蠹者也。始田氏擅齊、王莽篡漢、皆藉封土之彊、假累世之寵、因闇弱之主、資母后之權、樹比周之黨、階絕滅之勢、然後乃能行其私謀、以成篡奪之禍耳。豈遇立功之主、爲天人所相、而能運其姦計、以濟其不軌者哉。光武以王族奮於閭閻、因時之望、收攬英奇、遂續漢業、以美中興之功。及天下既定、頗廢黜功臣者、何哉。武力之士不達國體、以立一時之功、不可久假以權勢、其興廢之事、亦可見矣。近者三國鼎峙、並以雄略之才、命世之能、皆委賴俊哲、終成功業、貽之後嗣、未有愆失遺方來之恨者也。
今王導・王廙等、方之前賢、猶有所後。至於忠素竭誠、義以輔上、共隆洪基、翼成大業、亦昔之亮也。雖陛下乘奕世之德、有天人之會、割據江東、奄有南極、龍飛海嵎、興復舊物、此亦羣才之明、豈獨陛下之力也。今王業雖建、羯寇未梟、天下蕩蕩、不賓者眾、公私匱竭、倉庾未充、梓宮沈淪、妃后不反、正委賢任能推轂之日也。功業垂就、晉祚方隆、而一旦聽孤臣之言、惑疑似之説、乃更以危爲安、以疏易親、放逐舊德、以佞伍賢、遠虧既往之明、顧傷伊管之交、傾巍巍之望、喪如山之功、將令賢智杜心、義士喪志、近招當時之患、遠遺來世之笑。夫安危在號令、存亡在寄任、以古推今、豈可不寒心而哀歎哉。
臣兄弟受遇、無彼此之嫌、而臣干犯時諱、觸忤龍鱗者何。誠念社稷之憂、欲報之於陛下也。古之明王、思聞其過、悟逆旅之言、以明成敗之由、故採納愚言、以考虛實、上爲宗廟無窮之計、下收億兆元元之命。臣不勝憂憤、竭愚以聞。

疏奏、帝感悟、故導等獲全。
王敦既害顗而使人弔嵩、嵩曰「亡兄天下人、爲天下人所殺、復何所弔。」敦甚銜之、懼失人情、故未加害、用爲從事中郎。嵩、王應嫂父也、以顗橫遇禍、意恒憤憤、嘗眾中云「應不宜統兵。」敦密使妖人李脱誣嵩及周莚潛相署置、遂害之。嵩精於事佛、臨刑猶於市誦經云。

訓読

嵩、字は仲智。狷直にして果俠、毎に才氣を以て物を陵ぐ。元帝、相と作るや、引きて參軍と爲す。帝の晉王と爲るに及び、又た奉朝請を拜す。嵩、上疏して曰く「臣聞くならく、天下を取る者は、常に無事を以てし、其の有事なるに及ぶや、以て天下を取るに足らざれば、故に古の王者は、必ず天に應じ時に順い、義全くして後に取り、讓成りて後に得、是を以て世を享くること長久、重光は萬載、と。今、議者は殿下の化は江漢に流れ、澤は六州を被い、功は蒼生を濟(すく)うを以て、尊號を推崇せんと欲す。臣謂うに、今、梓宮は未だ反らず、舊京は未だ清まらず、義夫は泣血し、士女は震動したれば、宜しく深く周公の道を明らかにし、先ず社稷の大恥を雪ぎ、忠言・嘉謀の助を盡くし、時を以て弘仁の功を濟し、謙謙の美を崇び、己を後にするの誠を推すべし。然る後に揖讓して以て天下に謝せば、誰か敢えて應ぜざらん、誰か敢えて從わざらん」と。是に由りて旨に忤いたれば、出でて新安太守と爲る。
嵩、怏怏として悅ばず、發するに臨み、散騎郎の張嶷と與に侍中の戴邈の坐に在り、朝士を褒貶し、又た邈を詆毀したれば、邈は密かに之を表す。帝、嵩を召して入らしめ、之を面責して曰く「卿は矜豪・傲慢にして、敢えて輕々しく朝廷を忽せにするは、吾の不德なるが故に由るのみ」と。嵩、跪きて謝して曰く「昔、唐虞は至聖なるも、四凶、朝に在り。陛下は聖明もて世を御すと雖も、亦た安くんぞ能く碌碌の臣無からんや」と。帝、怒り、收めて廷尉に付す。廷尉の華恒、嵩の大不敬なるを以て棄市もて論じ、嶷は扇和せるを以て罪を減じて除名せんとす。時に顗、方に貴重せられたれば、帝は隱忍す。之を久しくして、廬陵太守に補せらるるも、職に之(ゆ)かずして、更めて御史中丞に拜せらる。
是の時、帝は王敦の勢盛んなるを以て、漸く王導等を疏忌す。嵩、上疏して曰く、

臣聞くならく、明君は其の道を隆(さか)んにせんと思えば、故に賢智の士は樂しみて其の朝に在り、忠臣は將に其の節を明らかにせんとすれば、故に時を量りて後に仕う。樂しみて其の朝に在れば、故に過任の譏り無く、將に其の節を明らかにせんとすれば、故に過寵の謗り無し。是を以て君臣並びに隆んにして、功は天地に格る、と。近代以來、德は廢れ道は衰え、君は術を懷きて以て臣を御し、臣は利を挾みて以て君に事え、君臣利を交えて禍亂相い尋ぎたれば、故に得失の迹は詳言すべきに難し。臣請うらくは、較べて之を明らかにせんことを。
夫れ傅説の高宗に相たり、申・召〔一〕の宣王に輔たり、管仲の齊桓に佐たり、衰・范〔二〕の晉文に翼たるや、或いは其の道を宗師し、垂拱して成を受け、委ぬるに權重を以てし、終に主を匡くるを致し、未だ其の己に逼りて還って國の蠹と爲るを憂うる者有らざるなり。始め田氏の齊を擅にし、王莽の漢を篡うや、皆な封土の彊に藉り、累世の寵を假り、闇弱の主に因り、母后の權に資り、比周の黨を樹て、絕滅の勢を階し、然る後に乃ち能く其の私謀を行い、以て篡奪の禍を成すのみ。豈に立功の主に遇い、天人の相くる所と爲るに、而るに能く其の姦計を運(めぐ)らし、以て其の不軌を濟す者ならんや。光武は王族なるを以て閭閻に奮い、時の望に因り、英奇を收攬し、遂に漢業を續ぎ、以て中興の功を美くす。天下既に定まるに及び、頗る功臣を廢黜せしは、何ぞや。武力の士は國體に達せず、一時の功を立つるを以て、久しく假するに權勢を以てすべからず、其の興廢の事、亦た見るべければなり。近者、三國鼎峙し、並びに雄略の才、命世の能を以て、皆な俊哲に委賴し、終に功業を成し、之を後嗣に貽し、未だ愆失もて方來の恨を遺せし者有らざるなり。
今、王導・王廙等、之を前賢に方(くら)ぶるに、猶お後るる所有り。素忠・竭誠、義にして以て上を輔け、共に洪基を隆んにし、大業を翼成するに至りては、亦た昔の亮なり。陛下は奕世の德に乘じ、天人の會有り、江東に割據し、南極を奄有し、海嵎に龍飛し、舊物を興復すと雖も、此れも亦た羣才の明にして、豈に獨り陛下の力ならんや。今、王業は建つと雖も、羯寇は未だ梟さず、天下蕩蕩として、賓わざる者眾く、公私匱竭して、倉庾未だ充たず、梓宮は沈淪し、妃后は反らず、正に賢に委ね能に任じ推轂するの日なり。功業就るに垂んとし、晉祚方に隆んならんとするに、而るに一旦にして孤臣の言を聽き、疑似の説に惑い、乃ち更めて危を以て安と爲し、疏を以て親に易え、舊德を放逐し、佞を以て賢に伍さば、遠きは既往の明を虧き、顧って伊・管の交を傷い、巍巍の望を傾け、山の如きの功を喪い、將に賢智をして心を杜ざさしめ、義士をして志を喪わしめんとし、近きは當時の患を招き、遠く來世の笑を遺さん。夫れ安危は號令に在り、存亡は寄任に在れば、古を以て今を推すに、豈に寒心して哀歎せざるべけんや。
臣の兄弟は遇を受け、彼此の嫌無きも、而れども臣の時諱を干犯し、龍鱗に觸忤するは何ぞや。誠に社稷の憂を念い、之に陛下に報いんと欲すればなり。古の明王、其の過を聞くを思い、逆旅の言に悟り〔三〕、成敗の由に明るきを以て、故に愚言を採納し、以て虛實を考し、上は宗廟無窮の計を爲し、下は億兆元元の命を收む。臣、憂憤に勝えず、愚を竭くして以て聞す。

と。疏、奏せらるるや、帝、感悟し、故に導等は全きを獲たり。
王敦の既に顗を害して人をして嵩を弔わしむるや、嵩曰く「亡兄は天下人にして、天下人の殺す所と爲れば、復た何の弔う所かあらん」と。敦、甚だ之を銜むも、人情を失わんことを懼れたれば、故に未だ害を加えず、用いて從事中郎と爲す。嵩は、王應の嫂の父なれば、顗の橫に禍に遇いしを以て、意は恒に憤憤として、嘗て眾中にて云く「應は宜しく兵を統ぶべからず」と。敦、密かに妖人の李脱をして嵩及び周莚は潛かに相い署置せりと誣せしめ、遂に之を害す。嵩、佛に事うるに精なれば、刑に臨むに猶お市に於いて經を誦(とな)うと云う。

〔一〕『史記』を始めとする種々の史料によれば、周の宣王の輔政を担ったのは、周公・召公(召の穆公)の二人である。『晋書』のこの箇所で「申・召」となっているのは、何らかの誤りがあるものと疑われる。一方で、周の宣王の名臣として申伯・召虎(召の穆公)・仲山甫の三人、もしくは申伯・召虎・尹吉甫の三人が挙げられる場合もあり、もしかしたら周嵩自身か、あるいは『晋書』が基づいた原史料の作者か、または『晋書』の担当者か、もしくは後世これを伝写した人物のいずれかが、これと混同して誤ったのかもしれない。
〔二〕「衰」は趙衰で間違いないが、趙衰とともに晋の文公を補佐したのは孤偃である。孤偃は字を子犯と言い、「舅犯」あるいは「咎犯」とも呼ばれた。「咎」は「舅」の音通である。『晋書』のこの箇所で「衰・范」とある「范」は、「犯」の音通か、もしくは伝写の誤りであると思われる。
〔三〕『説苑』権謀篇には、春秋時代の鄭の桓公に関する次のような話が記載されている。【鄭の桓公、東のかた鄭に會封せられ、暮に宋東の逆旅に舍るや、逆旅の叟、外より來たりて曰く「客、將に焉くにか之かんとす」と。曰く「鄭に會封せらる」と。逆旅の叟曰く「吾之を聞くならく、時は得難くして失い易し、と。今、客の寢ねて安んずること、殆ど封に就く者には非ざるなり」と。鄭の桓公、之を聞き、轡を援きて自ら駕り、其の僕、淅を接いて之に載り、行くこと十日夜にして至る。釐何、之と封を爭う。故に鄭の桓公の賢なるを以てするも、逆旅の叟微かりせば、以て幾ど會封せられざるなり。】(鄭の桓公は、東方の鄭に封じられ、暮に宋の東の旅館に宿泊したところ、旅館の老主人が外から来て言った。「客人はどこに行かれようとしているのですか」と。桓公は言った。「鄭に封じられたのだ」と。旅館の老主人は言った。「私が聞くところによりますと、時は得がたく失いやすいと言います。今、客人の寝て安らかにしている様子を見ると、とうてい封国に赴く者の態度には見えません」と。鄭の桓公はこれを聞くと、ただちにたづなを引いて自ら馬車を御し、その下僕は急いでその馬車に乗り、昼夜兼行して十日かけて鄭に到着した。おりしも釐何が封地を奪おうと侵略してきていた。故に、いくら鄭の桓公が賢明であったとはいえ、もし旅館の老主人がいなかったら、危うく封地を失うところであった。)『史記』には太公望が斉国に封じられた際の話として、類似の記事が見える。なお、『晋書』のテクストによっては、「逆旅」を「逆耳」とするものもあるが、「逆旅」でも意味は通じるので、ここではそのまま訳した。

現代語訳

周嵩(しゅうすう)は字を仲智と言った。その性格は狷介で剛直、果敢で侠気を有し、いつも自らの才気を誇って他人を蔑んでいた。元帝(司馬睿)が丞相となったとき、招かれてその参軍となった。司馬睿が晋王となると、さらに奉朝請に任じられた。周嵩は上奏して言った。「私の聞くところによりますと、天下を取る者は、常に無為によってそれを成し、もしことさらに事を成そうと試みるのであれば、天下を取ることはできませんので、それ故に古の王者は、必ず天に応じ時に従い、それが完全に義にかなうものである場合に初めて天下を取り、謙譲に謙譲を重ねた後にやっと天下を得、それによって長きにわたって代々世を伝え、輝かしいうえにも輝かしい徳は万年に及ぶのであると言います。今、議者は、殿下の教化が長江・漢水地域に広く伝わり、恩沢は六州を覆い、功は民草を救うものであるがゆえに、皇帝の尊号を奉じ推戴しようとしております。私が思いますに、今、先帝の棺は賊の手にわたって帰ることなく、旧都(洛陽)はまだ平定して賊から取り戻すことができておらず、義夫は涙も尽きて血を流し、人々は男女とも震え動揺している状況ですので、深く周公の道を明らかにし、まず社稷の大いなる恥を雪ぎ、臣下の忠言や良策による補佐をすべて取り入れ、時機を逃さずに大いに仁を広める功績を成し遂げ、謙譲の美を重んじ、自分のことは後回しにして人々のことを真っ先に考えるという誠を尊ぶべきです。そうして後に謙遜して天下に謝罪の意を示せば、どうして応じない者、従わない者がおりましょうか」と。こうして周嵩は司馬睿の意向に逆らったので、地方に出されて新安太守となった。
周嵩は鬱々として喜ばず、出発するに当たり、散騎郎の張嶷(ちょうぎょく)とともに侍中の戴邈(たいばく)と一緒にいた際に、朝廷の士人たちについて褒めたり貶したりし、さらに戴邈を誹謗したので、戴邈は密かにこのことを上奏した。元帝は周嵩を呼び出して参内させ、面と向かって周嵩を責めて言った。「そなたが尊大かつ傲慢で、進んで軽々しく朝廷をないがしろにするようになってしまったのは、私の不徳の致すところである」と。周嵩は跪いて謝罪して言った。「昔、尭・舜はこのうえなく聖明でございましたが、朝廷には四凶がおりました。陛下はその聖明さによって天下を統御なさっているとはいっても、やはりどうして無能の臣がまったくいないようにさせることができましょうか」と。元帝は怒り、周嵩を捕えて廷尉の管轄下に置いた。すると、廷尉の華恒(かこう)は、周嵩は大不敬に当たるので棄市(公開処刑)の刑に処し、張嶷は声高らかに周嵩に付和したので、死罪よりは罪の等級を下げて除名(無期限の任官権剥奪)処分にすべきだとした。時に(周嵩の兄の)周顗がちょうど尊重されて高い位に就いていたので、元帝は周嵩をそのような刑に処すことを我慢した。しばらくして周嵩は廬陵太守に任じられたが、任地に赴く前に、改めて御史中丞に任じられた。
この時、元帝は、王敦の権勢が盛んになってきたことにより、だんだん(王敦の従弟の)王導らを嫌って遠ざけるようになった。周嵩は上奏して言った。

私は次のようなことを聞いております。明君というものは、自らの道を盛んにしようと思っているので、それ故に賢智の士は楽しんでその朝廷に仕え、忠臣というものは自らの節義を明らかにしようとしているので、それ故に時機を見計らって後に仕える。賢智の士が楽しんでその朝廷に仕えているので、それ故に誰かが身の程以上の地位に任用されていると誹謗するような声も無く、忠臣が自らの節義を明らかにしようとしているので、故に過分な恩寵を受けているという誹謗も生じない。こうして君臣ともに盛んになり、功は天地に達する、と。近代(後漢末)以来、徳は廃れ道は衰え、君主は心に術数を抱いて臣下を統御し、臣下は利を貪って君主に仕え、君臣が互いに利を図って禍乱が相次いだので、故にその得失の事跡は(平和な時代とは状況が異なるので)つまびらかに述べるのは難しいことです。ですので、このたび私は、古今の様々な君臣の事跡を比べることで、これを明らかにさせていただこうと思います。
そもそも傅説(ふえつ)が(殷の)高宗の宰相となり、申伯(周公?)・召公が(周の)宣王の輔政を担い、管仲が(春秋時代の霸者である)斉の桓公を補佐し、趙衰・狐偃(こえん)が(春秋時代の霸者である)晋の文公を補翼した際には、それらの君主たちはいずれも、それらの補佐役の道を尊んで手本とし、自らは進んで何もせず成案を受けるだけで、彼らに大権を委ね、そのためそれらの補佐役は最後まで君主を補佐することになり、いずれの君主もそれらの補佐役が自分を脅かして却って国の害となるのではないかと憂慮すことはありませんでした。初め田氏が斉を牛耳り(後には玉座を奪って代々継承し)、王莽(おうもう)が漢を簒奪したのは、いずれも封土が強大であることに頼り、何代にもわたる恩寵を利用し、君主が暗弱であることにつけこんで、母后の権力を恃みにし、私利を図って結託して徒党を組み、だんだんと国を滅ぼす勢いを増していき、そうした後にやっと自分勝手な策謀を実行することができ、それによって簒奪の禍いをもたらしたのです。どうして、(王導らのように)その下で功績を立てるべきだと思った君主にめぐり合い、天と人々の助けを受け(王業を立て)たのにも関わらず、その邪悪な計略をめぐらせ、それにより叛逆を犯すような者が存在し得ましょうか。(後漢の)光武帝は皇族の身でありながら巷間に奮い立ち、一世を風靡した声望により、英傑や奇才を招き集め、遂に漢の帝業を継承し、中興の功を立派に成し遂げました。しかし、天下平定後、光武帝が大半の功臣たちを大権を有する地位から下ろしたのは何故でしょうか。それは、武力で身を立てた士は治国の法について熟知しているわけではなく、一時の功を立てたからといって、長きにわたって権勢を与えるわけにはいかず、その興廃がはっきりと目に見えていたからです。近ごろ三国が鼎立した際、三国の君主たちはみな雄大なる計略の才知や、当時の世に傑出した能力を有していましたが、それでもみな俊傑・英哲な臣下に頼って委任し、それにより最終的に功業を成し、その功業を後嗣に残したのであり、過失により将来の禍根を残した者はいませんでした。
今、王導・王廙(おうよく)(王導や王敦の従弟)らは、前の賢人たちと比較すると、その才徳には劣るものがあります。しかし、真心をこめて忠誠を尽くし、信義により陛下を補佐し、ともに先代より受け継がれてきた帝業を盛んにし、大業を助け達成したということにかけては、前代の輔政者にも匹敵します。陛下は晋朝の歴代の徳に乗じ、天と人が調和するめぐりあわせを有し、江東に割拠し、南方の極遠の地を占有し、海辺の地域で龍のごとく飛び立ち、先代の典章などの遺物を復興できたとは言いましても、これもやはり諸々の才能ある臣下たちの賢明さによるものであり、どうして陛下の力だけによるものでありましょうか。今、王業は立てられたとはいえ、羯賊(後趙の石勒)の首をさらすこともできておらず、天下は動揺し、帰服しない者も多く、公私ともに窮乏し、食糧庫は満たされず、先帝の棺はどこぞにあるとも分からず、先帝の后妃たちは連れ去られたまま帰らず、今はまさに、賢明なる臣下に委ね、才能ある者を任用し、推轂の礼(臣下に大権を委任する際の礼)を行うべき時期であります。功業がまさに成就しようとしており、晋の皇統がまさに盛んになろうとしていますのに、ある日突然に浅はかで無知な臣下の意見を聞き、本当かどうかも疑わしい説に惑い、改めて危険なことを安全なことと取り違え、疎遠にしていた者を一転して親しく信頼するようになり、徳高き旧臣を放逐し、佞者を賢臣たちと一緒に並べるようなことをしてしまいますと、遠くは過去の賢明さを欠き、伊尹(いいん)が殷の湯王を補佐し、管仲が斉の桓公を補佐したような君臣の交わりを却って損ない、高大な声望を傾け、山のように高い功を失い、賢者・智者に心を閉ざさせ、義士に志を失わせることになり、近くはまもなく禍を招くことになり、遠く後世にわたる笑いぐさを残すことになります。そもそも安泰をもたらすか危険をもたらすかは陛下の号令次第であり、存続するか滅亡するかは誰に重任を委ねるか次第でありますので、古の事例をもとに現代のことを考えますと、どうして失望して嘆き悲しまないでいられましょうか。
私の兄弟は厚遇を受け、あちらにもこちらにも怨恨はないにも関わらず、私が敢えて時の禁忌を犯し、陛下の逆鱗に触れるようなことをするのは何故でしょうか。それは、誠に社稷の憂いを思い、厚遇された恩に対して陛下に報いようとしているからでございます。古の明王は、自らの過ちについての諫言を聞くことを望み、あるいは旅館の老主人の言葉にも悟ることがあり、成敗の原因について明るいが故に、愚直な言葉をも採用し、それによって虚実を考察し、上は宗廟が無窮に安泰となるような計をめぐらし、下は億兆の民草の命を安んじました。私は、憂いと憤りをこらえきれず、愚見を尽くして申し上げさせていただいた次第でございます。

と。この上奏文が上奏されると、元帝は感じて悟り、故に王導らは何の咎めも受けずに身を保全することができた。
王敦が周顗を殺した後、人を派遣して周嵩を弔わせると、周嵩は言った。「亡き兄は天下人でありましたが、同じく天下人であるあなたに権力争いで敗れて殺されたのですから、何を弔うことがありましょうか」と。王敦は非常にこれを恨んだが、人情を失うことを恐れ、そのため周嵩に危害を加えることはせず、任用して自らの大将軍府の従事中郎にした。周嵩は、(王敦の兄の子で、王敦の養子となった)王応の兄嫁の父に当たるので、周顗が思いがけず禍いに遭うと、心中つねに憤りを抱き、かつて人々が大勢いる前で「王応は兵を統率する地位にいるべきではない」と言い放った。そこで王敦は、密かに妖人の李脱に命じ、周嵩と周莚(しゅうえん)(周嵩らとは同姓だが別の一族)はこっそりと官吏を勝手に任用したと誣告させ、それにより周嵩らを殺してしまった。周嵩は仏教の信仰に篤かったので、処刑に臨んで、(処刑場である)市においてもなお、お経を唱えていたのであった。

原文

謨以顗故、頻居顯職。王敦死後、詔贈戴若思・譙王承等、而未及顗。時謨爲後軍將軍、上疏曰、

臣亡兄顗、昔蒙先帝顧眄之施、特垂表啓、以參戎佐、顯居上列、遂管朝政、並與羣后共隆中興、仍典選曹、重蒙寵授、忝位師傅、得與陛下揖讓抗禮、恩結特隆。加以鄙族結婚帝室、義深任重、庶竭股肱、以報所受。凶逆所忌、惡直醜正、身陷極禍、忠不忘君、守死善道、有隕無二。顗之云亡、誰不痛心。況臣同生、能不哀結。
王敦無君、由來實久、元惡之甚、古今無二。幸賴陛下聖聰神武、故能摧破凶強、撥亂反正、以寧區宇。前軍事之際、聖恩不遺、取顗息閔、得充近侍。臣時面啓、欲令閔還襲臣亡父侯爵。時卞壼・庾亮並侍御坐、壼云「事了當論顯贈。」時未淹久、言猶在耳。至於譙王承・甘卓、已蒙清復、王澄久遠、猶在論議。況顗忠以衞主、身死王事、雖嵇紹之不違難、何以過之。至今不聞復封加贈褒顯之言、不知顗有餘責、獨負殊恩、爲朝廷急於時務、不暇論及。此臣所以痛心疾首、重用哀歎者也。不勝辛酸、冒陳愚款。

疏奏、不報。謨復重表、然後追贈顗官。
謨歴少府・丹楊尹・侍中・中護軍、封西平侯。卒贈金紫光祿大夫、諡曰貞。

訓読

謨は顗の故を以て、頻りに顯職に居る。王敦の死して後、詔して戴若思・譙王承等に贈るも、而れども未だ顗に及ばず。時に謨は後軍將軍たり、上疏して曰く、

臣の亡兄の顗、昔、先帝の顧眄の施しを蒙り、特に表啓を垂れ、以て戎佐に參じ、顯らかに上列に居り、遂に朝政を管し、並びに羣后と共に中興を隆んにし、仍りて選曹を典り、重ねて寵授を蒙り、位を師傅に忝くし、陛下と揖讓抗禮するを得、恩の結ばるること特に隆んなり。加うるに鄙族なるを以て婚を帝室に結び、義は深く任は重く、股肱を竭くし、以て受くる所に報いんことを庶う。凶逆の忌む所となり、直を惡み正を醜めば、身は極禍に陷るも、忠にして君を忘れず、善道を守死し、隕有るも二無し。顗の云亡、誰か心を痛めざらん。況んや臣は同生なれば、能(あ)に哀結せざらんや。
王敦の君を無(なみ)すること、由來實に久しく、元惡の甚しきこと、古今に二無し。幸いにも陛下の聖聰神武に賴り、故に能く凶強を摧破し、亂を撥め正に反し、以て區宇を寧んず。前に軍事の際、聖恩遺てず、顗の息の閔を取り、近侍に充つるを得たり。臣、時に面啓し、閔をして還りて臣の亡父の侯爵を襲わしめんと欲す。時に卞壼・庾亮、並びに御坐に侍し、壼云わく「事了らば當に顯贈を論ずべし」と。時に未だ淹久ならざれば、言は猶お耳に在り。譙王承・甘卓に至りては、已に清復を蒙り、王澄は久遠にして、猶お論議に在り。況んや顗は忠にして以て主を衞り、身は王事に死し、嵇紹の違難せざると雖も、何を以てか之に過ぎん。今に至るまで封を復し贈を加えて褒顯するの言を聞かざるは、顗に餘責有り、獨り殊恩に負けるか、爲(は)た朝廷の時務に急なれば、論及するに暇あらざるかを知らず。此れ臣の心を痛め首を疾み、重だ用て哀歎する所以の者なり。辛酸に勝えざれば、愚款を冒陳す。

と。疏、奏せらるるも、報ぜず。謨、復た重ねて表したれば、然る後に追いて顗に官を贈る。
謨、少府・丹楊尹・侍中・中護軍を歴、西平侯に封ぜらる。卒するや金紫光祿大夫を贈られ、諡して貞と曰う。

現代語訳

周謨(しゅうぼ)は兄の周顗(しゅうぎ)との縁故により、しきりに顕職にあった。王敦の死後、詔が下されて(王敦に殺された)戴若思(たいじゃくし)や譙王・司馬承らに(官爵等を)追贈したが、周顗にはまだ何の沙汰も無かった。時に周謨は後軍将軍であったが、上奏して言った。

私の亡き兄の周顗は、昔、先帝(元帝)により重用されるという施しを受け、(元帝がまだ帝位に即いていない頃)特に先帝の上表を蒙って官位を授かり、(軍諮祭酒や右長史として)軍府の補佐官となって事に参じ、名誉なことに上位に列せられ、そのまま朝政をつかさどることになり、さらに公卿や州郡の長官たちと共に中興を盛んにし、そこで(吏部尚書として)官吏を選任する部局を管轄することになり、一度罷免されたものの再び官位をいただき、(太子少傅に任じられて)陛下(明帝)の師傅としての任をもったいなくも授かり、陛下と抗礼(対等の関係を示す礼)を行って謙譲し合うという立場を得て、特別に盛んな恩寵を頂戴いたしました。さらには卑賎な家柄であるにも関わらず帝室と婚姻関係を結ばせていただき、恩義は深く任は重く、股肱としての力を尽くし、それにより、受けた恩に報いようと願っておりました。しかし、兄は凶逆なる者(王敦)に疎まれ、その者は正直な者を憎んでいたので、兄は過剰な禍いに陥れられましたが、忠実にも我が君のことを忘れることなく、死ぬまで善道を守り、死んでも二心はありませんでした。兄・周顗の死に対して、心を痛めない者がおりましょうか。ましてや私は兄弟ですので、どうして悲しみが積もらないことがありましょうか。
王敦が君主をないがしろにし始めてから実に長い時が経ち、その大悪の甚しさは、古今に類を見ません。幸いにも陛下の聖明さや神のごとき武により、強暴な悪人をくじき破り、乱を治め正道を取り戻し、それにより天下を安んずることができました。先日の軍事(王敦との戦い)の際、聖恩は兄・周顗を見捨てず、周顗の息子の周閔(しゅうびん)を任用し、近侍の任に当てるという恩寵を得ました。私はそのとき面と向かって陛下に申し上げ、周閔を郷里に帰して我が亡き父(周浚(しゅうしゅん))の侯爵を継がせるようにお願いしました。時に卞壷(べんこ)・庾亮(ゆりょう)の二人が御坐に侍っておりましたが、卞壷が言いました。「事が終わったら、周顗に対する顕彰・追贈について論ずるべきです」と。それはまだ遠い昔の出来事ではございませんので、その言葉はなおはっきりと耳に残っております。譙王の司馬承や(やはり王敦に殺された)甘卓については、すでに名誉の回復を授かり、(同じく王敦に殺された)王澄(おうちょう)は、長きにわたって官爵などの追贈についてなお論議が重ねられています。ましてや周顗は忠実にも主をお守りし、身は帝王の大事業のために死ぬこととなったのであり、(西晋の)嵇紹(けいしょう)が避難せずに身を犠牲にして恵帝を守ったというのも、どうして周顗に勝ることがありましょうか。周顗の封爵を復活させ、追贈を加えて顕彰しようという話を今に至るまで聞くことが無いのは、周顗に私の知らない罪があり、他の者と違って周顗だけが格別な恩寵に背く行いをしたからでしょうか、それとも朝廷が時務に対応するのに忙しく、周顗について論及する余裕がまだ無いからなのでしょうか。これこそが、私が心を痛め頭を苦しめ、非常に嘆き悲しんでいる原因であります。辛酸に耐えきれず、冒昧にも私の誠心を述べさせていただいた次第でございます。

と。この上奏文が上奏されても、一向に返事は無かった。周謨がさらに重ねて上表したところ、やっと周顗に官位が追贈された。
周謨は、少府・丹楊尹・侍中・中護軍を歴任し、西平侯に封じられた。周謨が亡くなると、金紫光禄大夫の官位を追贈され、「貞侯」という諡号を授かった。

原文

馥、字祖宣、浚從父弟也。父蕤、安平太守。馥少與友人成公簡齊名、俱起家爲諸王文學、累遷司徒左西屬。司徒王渾表「馥理識清正、兼有才幹、主定九品、檢括精詳。臣委任責成、褒貶允當、請補尚書郎。」許之。稍遷司徒左長史・吏部郎、選舉精密、論望益美。轉御史中丞・侍中、拜徐州刺史、加冠軍將軍・假節。徴爲廷尉。
惠帝幸鄴、成都王穎以馥守河南尹。陳眕・上官巳等奉清河王覃爲太子、加馥衞將軍・錄尚書、馥辭不受。覃令馥與上官巳合軍、馥以巳小人縱暴、終爲國賊、乃共司隸滿奮等謀共除之、謀泄、爲巳所襲、奮被害、馥走得免。及巳爲張方所敗、召馥還攝河南尹。暨東海王越迎大駕、以馥爲中領軍、未就、遷司隸校尉、加散騎常侍・假節、都督諸軍事於澠池。帝還宮、出爲平東將軍・都督揚州諸軍事、代劉準爲鎮東將軍、與周玘等討陳敏、滅之、以功封永寧伯。
馥自經世故、毎欲維正朝廷、忠情懇至。以東海王越不盡臣節、毎言論厲然、越深憚之。馥覩羣賊孔熾、洛陽孤危、乃建策迎天子遷都壽春。永嘉四年、與長史吳思・司馬殷識上書曰「不圖厄運遂至於此。戎狄交侵、畿甸危逼。臣輒與祖納・裴憲・華譚・孫惠等三十人伏思大計、僉以殷人有屢遷之事、周王有岐山之徙、方今王都罄乏、不可久居、河朔蕭條、崤函險澀、宛都屢敗、江漢多虞、於今平夷、東南爲愈。淮揚之地、北阻塗山、南抗靈嶽、名川四帶、有重險之固。是以楚人東遷、遂宅壽春、徐・邳・東海、亦足戍禦。且運漕四通、無患空乏。雖聖上神聰、元輔賢明、居儉守約、用保宗廟、未若相土遷宅、以享永祚。臣謹選精卒三萬、奉迎皇駕。輒檄前北中郎將裴憲行使持節・監豫州諸軍事・東中郎將、風馳即路。荊・湘・江・揚各先運四年米租十五萬斛、布絹各十四萬匹、以供大駕。令王浚・苟晞共平河朔、臣等勠力以啓南路。遷都弭寇、其計並得。皇輿來巡、臣宜轉據江州、以恢王略。知無不爲、古人所務、敢竭忠誠、庶報萬分。朝遂夕隕、猶生之願。」
越與苟晞不協、馥不先白於越而直上書、越大怒。先是、越召馥及淮南太守裴碩、馥不肯行、而令碩率兵先進。碩貳於馥、乃舉兵稱馥擅命、已奉越密旨圖馥、遂襲之、爲馥所敗。碩退保東城、求救於元帝。帝遣揚威將軍甘卓・建威將軍郭逸攻馥于壽春。安豐太守孫惠帥眾應之、使謝摛爲檄。摛、馥之故將也。馥見檄、流涕曰「必謝摛之辭。」摛聞之、遂毀草。旬日而馥眾潰、奔于項、爲新蔡王確所拘、憂憤發病卒。
初、華譚之失廬江也、往壽春依馥、及馥軍敗、歸于元帝。帝問曰「周祖宣何至於反。」譚對曰「周馥雖死、天下尚有直言之士。馥見寇賊滋蔓、王威不振、故欲移都以紓國難、方伯不同、遂致其伐。曾不踰時而京都淪沒。若使從馥之謀、或可後亡也。原情求實、何得爲反。」帝曰「馥位爲征鎮、握兵方隅、召而不入、危而不持、亦天下之罪人也。」譚曰「然。馥振纓中朝、素有俊彦之稱、出據方嶽、實有偏任之重、而高略不舉、往往失和、危而不持、當與天下共受其責。然謂之反、不亦誣乎。」帝意始解。
馥有二子、密・矯。密、字泰玄、性虛簡、時人稱爲清士、位至尚書郎。矯、字正玄、亦有才幹。

訓読

馥、字は祖宣、浚の從父弟なり。父の蕤は、安平太守たり。馥、少くして友人の成公簡と名を齊しくし、俱に起家して諸王の文學と爲り、累りに遷りて司徒左西屬たり。司徒の王渾、表すらく「馥、理識は清正、兼ねて才幹有り、九品を主定するに、檢括は精詳。臣、委任して責成するに、褒貶允當たれば、請うらくは尚書郎に補せんことを」と。之を許す。稍々遷りて司徒左長史・吏部郎たり、選舉すること精密、望を論ずるに益々美なり。御史中丞・侍中に轉じ、徐州刺史を拜し、冠軍將軍・假節〔一〕を加えらる。徴されて廷尉と爲る。
惠帝の鄴に幸するや、成都王穎は馥を以て河南尹を守せしむ。陳眕・上官巳等、清河王覃を奉じて太子と爲し、馥に衞將軍・錄尚書を加えんとするも、馥、辭して受けず。覃、馥と上官巳をして軍を合せしめんとするも、馥は巳の小人にして縱暴たり、終に國賊と爲るを以て、乃ち司隸の滿奮等と共に謀りて共に之を除かんとするも、謀泄れ、巳の襲う所と爲り、奮は害せられ、馥は走りて免るるを得たり。巳の張方の敗る所と爲るに及び、馥を召して還りて河南尹に攝わらしむ。東海王越の大駕を迎うるに暨び、馥を以て中領軍と爲すも、未だ就かずして、司隸校尉に遷し、散騎常侍・假節を加え、諸軍事を澠池に都督せしむ。帝の宮に還るや、出でて平東將軍・都督揚州諸軍事と爲り、劉準に代わりて鎮東將軍と爲り、周玘等と與に陳敏を討ち、之を滅ぼし〔二〕、功を以て永寧伯に封ぜらる。
馥、世故を經てより、毎に朝廷を維正せんと欲し、忠情は懇至たり。東海王越の臣節を盡さざるを以て、毎に言論は厲然たれば、越は深く之を憚る。馥、羣賊の孔だ熾んにして、洛陽の孤危なるを覩るや、乃ち策を建てて天子を迎えて都を壽春に遷さんとす。永嘉四年、長史の吳思・司馬の殷識と與に上書して曰く「圖らざりき、厄運、遂に此に至るとは。戎狄は交々侵し、畿甸は危逼せらる。臣、輒ち祖納・裴憲・華譚・孫惠等三十人と與に伏して大計を思い、僉な以えらく、殷人に屢々遷るの事有り、周王に岐山の徙有り、方今、王都は罄乏し、久しく居るべからず、河朔は蕭條たり、崤函は險澀、宛都は屢々敗れ、江漢は多虞なれば、今、平夷なるに於いては、東南愈れりと爲す、と。淮揚の地、北は塗山に阻み、南は靈嶽に抗たり、名川四帶し、重險の固有り。是を以て楚人の東遷するや、遂に壽春に宅(お)り、徐・邳・東海も、亦た戍禦するに足る。且つ運漕四通し、空乏を患うること無し。聖上は神聰にして、元輔は賢明、儉に居りて約を守り、用て宗廟を保つと雖も、未だ相土の宅を遷し、以て永祚を享くには若かず。臣、謹んで精卒三萬を選び、皇駕を奉迎せん。輒ち檄して前の北中郎將の裴憲をして使持節・監豫州諸軍事・東中郎將を行せしめ、風馳して路に即かしめん。荊・湘・江・揚をして各々先んじて四年の米租十五萬斛、布絹各々十四萬匹を運ばしめ、以て大駕に供せん。王浚・苟晞をして共に河朔を平げしめ、臣等は力を勠わせて以て南路を啓かん。遷都して寇を弭むは、其の計並びに得ん。皇輿來巡せば、臣、宜しく轉じて江州に據り、以て王略を恢むべし。知らば爲さざる無きは、古人の務めとする所にして、敢えて忠誠を竭くし、萬分に報いんことを庶う。朝に遂げて夕に隕すとも、猶お生くるの願いなり〔三〕」と。
越、苟晞と協わざるも、馥は先に越に白さずして直ちに上書したれば、越、大いに怒る。是より先、越は馥及び淮南太守の裴碩を召すも、馥、肯えて行かず、而して碩をして兵を率いて先に進ましめんとす。碩、馥に貳き、乃ち兵を舉げて馥は擅命せりと稱し、已に越の密旨を奉じて馥を圖らんとし、遂に之を襲い、馥の敗る所と爲る。碩、退きて東城に保し、救を元帝に求む。帝、揚威將軍の甘卓・建威將軍の郭逸を遣わして馥を壽春に攻めしむ。安豐太守の孫惠、眾を帥いて之に應じ、謝摛をして檄を爲らしむ。摛、馥の故將なり。馥、檄を見るや、流涕して曰く「必ず謝摛の辭なり」と。摛、之を聞き、遂に草を毀る。旬日にして馥の眾は潰え、項に奔り、新蔡王確の拘うる所と爲り、憂憤して病を發して卒す。
初め、華譚の廬江を失うや、壽春に往きて馥に依り、馥の軍の敗るるに及び、元帝に歸す。帝、問いて曰く「周祖宣、何ぞ反するに至れるや」と。譚、對えて曰く「周馥は死すと雖も、天下には尚お直言の士有り。馥、寇賊の滋蔓し、王威の振わざるを見たれば、故に都を移して以て國難を紓(のぞ)かんと欲するも、方伯は同ぜず、遂に其の伐を致す。曾ち時を踰えずして京都は淪沒す。若使(も)し馥の謀に從わば、或いは亡ぶを後らすべきならまし。情を原ねて實を求むるに、何ぞ反せりと爲すを得んや」と。帝曰く「馥、位は征鎮たり、兵を方隅に握るに、召されて入らず、危うくして持せざれば、亦た天下の罪人なり」と。譚曰く「然り。馥は纓を中朝に振すや、素より俊彦の稱有り、出でて方嶽に據るや、實に偏任の重有るも、而れども高略は舉げず、往往にして和を失い、危うくして持せざれば、當に天下と共に其の責を受くべし。然れども之を反せりと謂うは、亦た誣ならざらんや」と。帝の意、始めて解く。
馥に二子有り、密・矯。密、字は泰玄、性、虛簡にして、時人は稱して清士と爲し、位は尚書郎に至る。矯、字は正玄、亦た才幹有り。

〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔二〕『晋書』巻六十一・劉喬伝や巻百・陳敏伝によれば、以前より劉準が「征東大将軍・都督揚州諸軍事」を担っており、周馥が「平東将軍・都督揚州諸軍事」になった後も、劉準が引き続き周玘らと連携して陳敏軍と戦っていることが記されている。つまり、同時期に「〇東将軍・都督揚州諸軍事」が二人いて、その両者が周玘らと一緒に陳敏軍と戦っていることになり、一見するとおかしい。ただ、当時、劉準は司馬顒側の都督であり、周馥は司馬越側の都督であり、要するに対立する両政権がそれぞれ「〇東将軍・都督揚州諸軍事」として別の人物を任命していたというだけのことである。つまり、初めは劉準が揚州の軍事を実効支配しており、周馥は名ばかりの「平東将軍・都督揚州諸軍事」であったが、まもなく司馬顒が完全に滅ぶと、周馥が劉準に変わって揚州の軍事を実効支配することになり、その段階で周馥は鎮東将軍に昇進し、劉準が周玘らとともに担っていた陳敏討伐を引き継いで、そのまま周玘らと一緒に陳敏を滅ぼしたということだと思われる。
〔三〕よく見られる定型句として「雖死之日、猶生之年。(死するの日と雖も、猶お生くるの年なり。)」というものがある。「雖死之日」の部分は様々なヴァリエーションがあるが、いずれも自分が死ぬことになるという旨の句が入る。その趣旨は「たとえそれで死ぬことになっても、それは本当の死ではないので、本望である。」「たとえそれで死ぬことになっても、思い残すことや悔い・恨みは無いので、魂までは死ぬことなく、生きているかのように安らかである。」というもの。今回の「朝遂夕隕、猶生之願。」はその応用的な表現。

現代語訳

周馥(しゅうふく)は字を祖宣と言い、周浚(しゅうしゅん)の従弟である。父の周蕤(しゅうずい)は安平太守にまで昇った。周馥は、若くして友人の成公簡と同等の名望を著わし、一緒に起家して諸王の文学(官職名)となり、何度も昇進して司徒府の左西曹(郷品の評定をつかさどる部局)の属(部局の長の補佐官)となった。司徒の王渾(おうこん)は周馥について次のように上表した。「周馥は、治政の見識は清廉かつ公正で、しかも才幹があり、官吏候補者の九品の郷品を決定するに当たり、その査定は精細で周密です。私はただ委任して仕事の完遂を督促するだけでしたが、各人に対する彼の評価や批判は適切なものでしたので、どうか彼を尚書郎に任命していただきますように」と。この上表は許可された。その後、周馥は何度か昇進して司徒府の左長史(左西曹の官吏と一緒に郷品の評定をつかさどるその元締め)、尚書吏部郎(官吏の任用をつかさどる尚書吏部の属吏)となり、郷品の決定や官吏の任用は精密で、周馥の声望はますます優れたものとして論じられるようになった。御史中丞、侍中に転任し、その後、徐州刺史に任じられ、「冠軍将軍・仮節」の位を加えられた。やがて徴召されて廷尉となった。
恵帝が(八王の乱の最中、成都王・司馬穎(しばえい)によって連れ去られて)鄴に行幸すると、成都王の司馬穎は周馥に河南尹の地位を兼任させた。陳眕(ちんしん)・上官巳(じょうかんし)らは(司馬穎に対抗して河南尹に属する洛陽の地で)清河王・司馬覃(しばたん)を奉じて皇太子とし、周馥に「衛将軍・録尚書事」の位を加えようとしたが、周馥は辞退して受けなかった。司馬覃は、周馥と上官巳の軍を合わせようとしたが、周馥は、上官巳が小人でありかつ縦横・暴虐で、終いには(勝手に皇太子を立てて)国賊となったことから、そこで司隷校尉(河南尹を含む司州の長官)の満奮らと一緒に謀り、上官巳らを一緒に廃除しようとしたものの、計画が漏れ、上官巳に襲撃され、満奮は殺され、周馥は何とか逃れて死を免れた。上官巳が(河間王・司馬顒(しばぎょう)麾下の)張方に敗れると、周馥は召されてまた戻って河南尹を代行することになった。東海王・司馬越は(河間王・司馬顒らによって長安に連れ去られていた)恵帝を洛陽に迎えるに当たり、周馥を中領軍に任じたが、まだ就任しないうちに司隷校尉に昇進し、「散騎常侍・仮節」の位を加えられ、澠池において都督諸軍事の役目を担った。恵帝が洛陽の宮殿に帰還すると、周馥は地方に出されて「平東将軍・都督揚州諸軍事」に任じられ、さらに劉準の後任として鎮東将軍となり、周玘(しゅうき)らと一緒に陳敏を討伐して滅ぼし、功績によって永寧伯(永寧を封地とする伯爵)に封じられた。
周馥は、世の変乱を経験してからずっと、常に朝廷を支え守って匡正しようと望み、その忠義の心は非常に懇切であった。東海王・司馬越が臣下としての節義を尽くさないために、周馥はいつも司馬越に対して激しい言論を浴びせたので、司馬越は周馥を深く憚った。周馥は、(八王の乱・永嘉の乱を経て)諸々の賊が非常に盛んで、洛陽が孤立して危険な状況にあることを察知すると、そこで策を立てて(当時の天子である)懐帝を迎えて(自らの膝元である)寿春に遷都させようと図った。永嘉四年(310)、周馥は長史の呉思・司馬の殷識と一緒に上書して言った。「災禍が遂にここまでになるとは思いもよりませんでした。戎狄が一斉に中華の地を侵略し、京都(洛陽)とその周辺五百里以内の地は危険にさらされています。私は、そこでただちに祖納・裴憲(はいけん)・華譚(かたん)・孫恵ら三十人と一緒に謹んで大計を思い、みな以下のように考えております。殷の人々はしばしば都を遷し、周の大王亶父(たんぽ)は狄人の侵略を受けると、土地よりも人命を重んじて岐山の麓に遷都しましたが、今、まさに王都は窮乏し、長居はできない状況であり、河北は寂寞として落ちぶれ、崤山・函谷関地方は険しく交通に不便で、南陽地域はしばしば賊に敗れて荒廃し、長江・漢水地域は災難が多く、現在平和であるという点では、東南の地方が一番です、と。淮水・揚州の地域は、北は当塗山の険阻さによって敵を阻むことができ、南は霊妙な山岳地帯によって抵抗することができ、大河が四方を囲み、何重にもめぐらされた険固さがあります。それゆえ(戦国時代に)楚の人々が東遷した際には、寿春を都としたのであり、また、(淮水地域の)徐県・下邳・東海の地域もまた防御するには充分です。しかも水運は四方に通じ、困窮の心配もありません。陛下は神妙・聡明で、輔政の大臣たちも賢明で、倹約に務め、それによって宗廟を保全しようとしても、それでも(殷の王室の祖先である)相土(しょうど)が商丘に住居を移し、その結果、子孫が長く王統を授かったということには及びません。私は謹んで精鋭の兵士三万を選抜し、陛下を奉迎したいと思います。そこでただちに檄文を発して、前の北中郎将の裴憲に『使持節・監豫州諸軍事・東中郎将』を代行させ、速やかに出発させましょう。荊州・湘州・江州・揚州の州郡にはそれぞれ前もって四年分の米租十五万斛と、布・絹各々十四万匹を運ばせ、それを陛下に提供させましょう。そして王浚(おうしゅん)・苟晞(こうき)に命じて協力して河北を平定させ、一方で私たちは力を合わせて南路を開拓しましょう。遷都して賊を平定するというこの計略は、みなきっと上手くいきます。陛下がご到着されたら、私は転任して江州を拠点とし、そこで帝業を広めるようにするべきでございましょう。国家の利益となると分かれば何事でも行うというのは、古人が務めとしていたものであり、進んで忠誠を尽くし、微力ながら受けた御恩の一万分の一でも報いられることを願うばかりです。朝に成し遂げて夕べに死ぬことになっても、何も思い残すことはない、これはまさにそのような願いです」と。
司馬越は、苟晞とは反りが合わず協力するつもりはなかったが、周馥が前もって司馬越に知らせずにすぐさま上書したので、司馬越は大いに怒った。以前に、司馬越は周馥と淮南太守の裴碩(はいせき)を召し出したが、周馥は行こうとせず、裴碩に兵を率いさせて先に行かせようとしていた。ところが裴碩は周馥に背き、なんと挙兵して、周馥は法令にしたがわず自分勝手に命令を下したと言い張り、やがて司馬越の密書を受けてその意向を奉じて周馥を滅ぼそうと図り、そこで周馥を襲撃したが、周馥に敗れた。裴碩は退いて東城を占拠し、琅邪王・司馬睿(しばえい)(後の東晋の元帝)に救援を求めた。司馬睿は、揚威将軍の甘卓と建威将軍の郭逸を派遣して、周馥を寿春の地で攻撃させた。安豊太守の孫恵は、兵を率いてこれに呼応し、謝摛(しゃきん)に檄文を作成させた。謝摛は周馥のもと配下の将であった。周馥はその檄文を見ると、涙を流して言った。「これはきっと謝摛の文章に違いない」と。謝摛はこれを聞くと、檄文の草稿を破り捨てた。十日ほどで周馥の軍は潰滅し、項県に逃げたが、新蔡王・司馬確に捕らえられ、憂いと憤りのあまり病を発して亡くなった。
初め、(廬江の長官であった)華譚は廬江を失うと、寿春に行って周馥を頼り、周馥の軍が敗れると、元帝に帰順した。元帝は華譚に質問して言った。「周祖宣(周馥)は、どうして反逆することになったのだ」と。華譚は答えて言った。「周馥は死んだとはいえ、天下にはなお直言の士(=私)がおります。周馥は、賊がはびこり、天子の威信が振るわないのを目にし、故に都を移して、それによって国難を除こうとしましたが、地方長官たちはそれに同調せず、なんと征伐を受けることになってしまいました。しかしどうでしょうか、(周馥の言った通り)まもなく京都(洛陽)は陥落してしまいました。もし周馥の謀に従っていれば、ひょっとしたら滅亡を遅らせることができたかもしれません。その心情を推し量り、そして現実を見てみると、どうして『反逆した』と言うことができましょうか」と。元帝は言った。「周馥は、位は四征・四鎮将軍となり、一地方で兵権を握る立場にあったが、徴召されたのにも関わらず参内せず、危うい時に朝廷を支えることをしなかったということからしても、やはり天下の罪人である」と。華譚は言った。「その通りです。周馥は冠のひもを正して中朝(西晋)に仕官するに当たり、もともと俊才であるとの評判があり、地方に出て州郡をつかさどることになるに当たっては、格別に重い信任を受けましたが、高大な計略は成し遂げられず、往々にして周囲との和を失い、危うい時に朝廷を支えられませんでしたので、その点はまさに天下の人々と同様、責められるべきでございます。しかし、これを『反逆した』と見なすのは、言いがかりというものではありませんか」と。元帝の気持ちはそこでようやく解けた。
周馥には二人の子がおり、周密・周矯(しゅうきょう)と言った。周密は字を泰玄と言い、その性格は寡欲で簡素であり、当時の人は彼を清士であると称し、位は尚書郎に至った。周矯は字を正玄と言い、やはり才幹があった。

成公簡

原文

成公簡、字宗舒、東郡人也。家世二千石。性朴素、不求榮利、潛心味道、罔有干其志者。默識過人。張茂先毎言「簡清靜比楊子雲、默識擬張安世。」
後爲中書郎。時馥已爲司隸校尉、遷鎮東將軍。簡自以才高、而在馥之下、謂馥曰「楊雄爲郎、三世不徙、而王莽・董賢位列三司、古今一揆耳。」馥甚慚之。官至太子中庶子・散騎常侍。永嘉末、奔苟晞、與晞同沒。

訓読

成公簡、字は宗舒、東郡の人なり。家は世々二千石。性は朴素にして、榮利を求めず、心を潛めて道を味わい、其の志を干す者有る罔し。默して識ること人に過ぐ。張茂先、毎に言わく「簡の清靜たること楊子雲に比し、默して識ること張安世に擬す」と。
後に中書郎と爲る。時に馥、已に司隸校尉と爲り、鎮東將軍に遷る。簡、自ら才高しと以うも、而れども馥の下に在れば、馥に謂いて曰く「楊雄は郎と爲り、三世徙らざるも、而して王莽・董賢は位三司に列するは、古今揆を一にするのみ」と。馥、甚だ之を慚ず。官は太子中庶子・散騎常侍に至る。永嘉の末、苟晞に奔り、晞と同に沒す。

〔一〕本巻・周馥伝にある通り、周馥と成公簡は友人同士で、二人とも若くして同等の名望を著わしていた。

現代語訳

成公簡は字を宗舒と言い、東郡の人である。家は代々二千石を輩出した。その性格は素朴で、栄利を求めず、道を悟ることに没頭し、その志を侵し乱せる者はいなかった。理解したことを黙って心に刻んで記憶するということにかけては、他の人よりも優れていた。張華は常に次のように言っていた。「成公簡の清く物静かな様子は(前漢の)楊雄に比肩し、理解したことを黙って心に刻んで記憶するということにかけては(前漢の)張安世に匹敵する」と。
後に中書郎となった。時に周馥(しゅうふく)〔一〕はすでに司隷校尉となり、やがて鎮東将軍に昇進した。成公簡は、自分は才能が高いと自負していたが、しかし官位は周馥よりも下であったので、周馥に次のように言った。「(才能高き)楊雄は、郎官となってからというもの、成帝・哀帝・平帝の三代にわたり昇進することがなく、その一方で(同じ時期には、朝廷を乱した)王莽(おうもう)・董賢(とうけん)らが三公の位に列していたが、このようなことはまさに今も昔も変わらないのだな」と。周馥は非常にこのことを恥じた。成公簡の官位は最終的に「太子中庶子・散騎常侍」にまで至った。永嘉年間の末、成公簡は苟晞(こうき)のもとに逃れたが、苟晞と命運を共にして亡くなった。

苟晞

原文

苟晞、字道將、河内山陽人也。少爲司隸部從事、校尉石鑒深器之。東海王越爲侍中、引爲通事令史、累遷陽平太守。齊王冏輔政、晞參冏軍事、拜尚書右丞、轉左丞、廉察諸曹、八坐以下皆側目憚之。及冏誅、晞亦坐免。長沙王乂爲驃騎將軍、以晞爲從事中郎。惠帝征成都王穎、以爲北軍中候。及帝還洛陽、晞奔范陽王虓、虓承制用晞行兗州刺史。
汲桑之破鄴也、東海王越出次官渡以討之、命晞爲前鋒。桑素憚之、於城外爲柵以自守。晞將至、頓軍休士、先遣單騎示以禍福。桑眾大震、棄柵宵遁、嬰城固守。晞陷其九壘、遂定鄴而還。西討呂朗等、滅之。1.(後高密王泰討青州賊劉根、破汲桑故將公師藩、敗石勒於河北、威名甚盛、時人擬之韓白)〔後從高密王略討青州賊劉根餘黨、破汲桑及成都王穎故將公師藩、敗石勒於河北、威名甚盛、時人擬之韓白〕。進位撫軍將軍・假節・都督青兗諸軍事、封東平郡侯、邑萬戸。
晞練於官事、文簿盈積、斷決如流、人不敢欺。其從母依之、奉養甚厚。從母子求爲將、晞距之曰「吾不以王法貸人、將無後悔邪。」固欲之、晞乃以爲督護。後犯法、晞杖節斬之。從母叩頭請救、不聽。既而素服哭之、流涕曰「殺卿者兗州刺史。哭弟者苟道將。」其杖法如此。
晞見朝政日亂、懼禍及己、而多所交結、毎得珍物、即貽都下親貴。兗州去洛五百里、恐不鮮美、募得千里牛、毎遣信、旦發暮還。
初、東海王越以晞復其讎恥、甚德之、引升堂、結爲兄弟。越司馬潘滔等説曰「兗州要衝、魏武以之輔相漢室。苟晞有大志、非純臣、久令處之、則患生心腹矣。若遷于青州、厚其名號、晞必悅。公自牧兗州、經緯諸夏、藩衞本朝、此所謂『謀之於未有、爲之於未亂』也。」越以爲然、乃遷晞征東大將軍・開府儀同三司、加侍中・假節・都督青州諸軍事、領青州刺史、進爲郡公。晞乃多置參佐、轉易守令、以嚴刻立功、日加斬戮、流血成川、人不堪命、號曰「屠伯」。
頓丘太守魏植爲流人所逼、眾五六萬、大掠兗州。晞出屯無鹽、以弟純領青州、刑殺更甚於晞、百姓號「小苟酷於大苟」。晞尋破植。
時潘滔及尚書劉望等共誣陷晞、晞怒、表求滔等首、又請越從事中郎劉洽爲軍司、越皆不許。晞於是昌言曰「司馬元超爲宰相不平、使天下淆亂、苟道將豈可以不義使之。韓信不忍衣食之惠、死於婦人之手。今將誅國賊、尊王室。桓文豈遠哉。」乃移告諸州、稱己功伐、陳越罪狀。
時懷帝惡越專權、乃詔晞曰「朕以不德、戎車屢興、上懼宗廟之累、下愍兆庶之困、當賴方嶽、爲國藩翰。公威震赫然、梟斬藩・桑、走降喬・朗、魏植之徒復以誅除、豈非高識明斷。朕用委成。加王彌・石勒爲社稷之憂、故有詔委統六州。而公謙分小節、稽違大命、非所謂『與國同憂』也。今復遣詔。便施檄六州、協同大舉、翦除國難、稱朕意焉。」晞復移諸征鎮州郡曰「天步艱險、禍難殷流、劉元海造逆於汾陰、石世龍階亂於三魏、荐食畿甸、覆喪鄴都、結壘近郊、仍震兗豫、害三刺史、殺二都督、郡守官長、堙沒數十、百姓流離、肝腦塗地。晞以虛薄、負荷國重、是以弭節海隅、援枹曹衞。猥被中詔、委以關東、督統諸軍、欽承詔命。剋今月二日、當西經濟黎陽、即日得滎陽太守丁嶷白事、李惲・陳午等救懷諸軍與羯大戰、皆見破散、懷城已陷、河内太守裴整爲賊所執、宿衞闕乏、天子蒙難、宗廟之危、甚於累卵。承問之日、憂歎累息。晞以爲先王選建明德、庸以服章、所以藩固王室、無俾城壞。是以舟檝不固、齊桓責楚、襄王逼狄、晉文致討。夫翼奬皇家、宣力本朝、雖陷湯火、大義所甘。加諸方牧俱受榮寵、義同畢力、以報國恩。晞雖不武、首啓戎行、秣馬裹糧、以俟方鎮。凡我同盟、宜同赴救。顯立名節、在此行矣。」
會王彌遣曹嶷破琅邪、北攻齊地。苟純城守、嶷眾轉盛、連營數十里。晞還、登城望之、有懼色、與賊連戰、輒破之。後簡精鋭、與賊大戰、會大風揚塵、晞遂敗績、棄城夜走。嶷追至東山、部眾皆降嶷。晞單騎奔高平、收邸閣、募得數千人。
帝又密詔晞討越、晞復上表曰「殿中校尉李初至、奉被手詔、肝心若裂。東海王越得以宗臣遂執朝政、委任邪佞、寵樹姦黨、至使前長史潘滔・從事中郎畢邈・主簿郭象等操弄天權、刑賞由己。尚書何綏・中書令繆播・太僕繆胤・黃門侍郎應紹、皆是聖詔親所抽拔、而滔等妄構、陷以重戮。帶甲臨宮、誅討后弟、翦除宿衞、私樹國人。崇奬魏植、招誘逋亡、覆喪州郡。王塗圮隔、方貢乖絕、宗廟闕蒸嘗之饗、聖上有約食之匱。鎮東將軍周馥・豫州刺史馮嵩・前北中郎將裴憲、並以天朝空曠、權臣專制、事難之興、慮在旦夕、各率士馬、奉迎皇輿、思隆王室、以盡臣禮。而滔・邈等劫越出關、矯立行臺、逼徙公卿、擅爲詔令、縱兵寇抄、茹食居人、交尸塞路、暴骨盈野。遂令方鎮失職、城邑蕭條、淮豫之萌、陷離塗炭。臣雖憤懣、守局東嵎、自奉明詔、三軍奮厲、卷甲長驅、次于倉垣。即日承司空・博陵公浚書、稱殿中中郎劉權齎詔、敕浚與臣共剋大舉。輒遣前鋒征虜將軍王讚徑至項城、使越稽首歸政、斬送滔等。伏願陛下寬宥宗臣、聽越還國。其餘逼迫、宜蒙曠蕩。輒寫詔宣示征鎮、顯明義舉。遣揚烈將軍閻弘步騎五千、鎮衞宗廟。」
五年、帝復詔晞曰「太傅信用姦佞、阻兵專權、内不遵奉皇憲、外不協比方州、遂令戎狄充斥、所在犯暴。留軍何倫抄掠宮寺、劫剝公主、殺害賢士、悖亂天下、不可忍聞。雖惟親親、宜明九伐。詔至之日、其宣告天下、率齊大舉。桓文之績、一以委公。其思盡諸宜、善建弘略。道澀、故練寫副、手筆示意。」晞表曰「奉被手詔、委臣征討、喻以桓文、紙練兼備、伏讀跪歎、五情惶怛。自頃宰臣專制、委杖佞邪、内擅朝威、外殘兆庶、矯詔專征、遂圖不軌、縱兵寇掠、陵踐宮寺。前司隸校尉劉暾・御史中丞溫畿・右將軍杜育、並見攻劫。廣平・武安公主、先帝遺體、咸被逼辱。逆節虐亂、莫此之甚。輒祗奉前詔、部分諸軍、遣王讚率陳午等將兵詣項、龔行天罰。」
初、越疑晞與帝有謀、使遊騎於成臯間、獲晞使、果得詔令及朝廷書、遂大構疑隙。越出牧豫州以討晞、復下檄説晞罪惡、遣從事中郎楊瑁爲兗州、與徐州刺史裴盾共討晞。晞使騎收河南尹潘滔、滔夜遁。乃執尚書劉曾・侍中程延、斬之。會越薨、盾敗、詔晞爲大將軍・大都督・督青徐兗豫荊揚六州諸軍事、增邑二萬戸、加黃鉞、先官如故。
晞以京邑荒饉日甚、寇難交至、表請遷都、遣從事中郎劉會領船數十艘、宿衞五百人、獻穀千斛以迎帝。朝臣多有異同。俄而京師陷、晞與王讚屯倉垣。豫章王端及和郁等東奔晞、晞率羣官尊端爲皇太子、置行臺。端承制以晞領太子太傅・都督中外諸軍・錄尚書、自倉垣徙屯蒙城、讚屯陽夏。
晞出於孤微、位至上將、志頗盈滿、奴婢將千人、侍妾數十、終日累夜不出戸庭、刑政苛虐、縱情肆欲。遼西閻亨以書固諫、晞怒、殺之。晞從事中郎明預有疾居家、聞之、乃轝病諫晞曰「皇晉遭百六之數、當危難之機、明公親稟廟算、將爲國家除暴。閻亨美士、奈何無罪一旦殺之。」晞怒曰「我自殺閻亨、何關人事、而轝病來罵我。」左右爲之戰慄、預曰「以明公以禮見進、預欲以禮自盡。今明公怒預、其若遠近怒明公何。昔堯舜之在上也、以和理而興、桀紂之在上也、以惡逆而滅。天子且猶如此。況人臣乎。願明公且置其怒而思預之言。」晞有慚色。由是眾心稍離、莫爲致用、加以疾疫饑饉、其將溫畿・傅宣皆叛之。石勒攻陽夏、滅王讚、馳襲蒙城、執晞、署爲司馬、月餘乃殺之。晞無子、弟純亦遇害。

1.この一文は非常に問題のある一文であり、諸々の先学が指摘するように明らかに多くの誤りを含んでいる。たとえば、このとき高密王・司馬泰はすでに亡くなっており、『晋書』司馬略伝によると劉根討伐は司馬泰を継いだ息子の司馬略が担っているので、これはおそらく司馬略の誤りである。しかも司馬略による劉根討伐と、苟晞の事跡との関係性が無く、なぜここで司馬略による劉根討伐の話が出てくるのか不可解である。そこで『晋書斠注』や周家禄『晋書校勘記』では、この箇所には「従」もしくは「助」の字が抜けており、ここは苟晞が司馬略を助けて征討に従事したことを記しているのだとする。ただ、そうだとしても、劉根が斬られるのは汲桑が反乱を起こす前の出来事であり、苟晞伝の記述だと時系列が明らかにおかしくなる。そこで周家禄は、苟晞が従事したのは劉根自身の討伐ではなく、その余党の討伐であると見なす。また、公師藩は汲桑の元部下ではなく、むしろ汲桑が公師藩の配下になっているので、これもおかしい。公師藩はもと司馬穎の部将であったので、この箇所は「汲桑及成都王穎故將公師藩」とするのが妥当だと周家禄は主張する。よって、本稿では、『晋書斠注』や周家禄『晋書校勘記』の修正案と、修正前のものとの両方を載せ、修正案は〔 〕でくくって示すことにした。

訓読

苟晞、字は道將、河内山陽の人なり。少くして司隸部の從事と爲り、校尉の石鑒、深く之を器とす。東海王越、侍中と爲るや、引きて通事令史と爲し、累りに遷りて陽平太守たり。齊王冏の輔政するや、晞は冏の軍事に參じ、尚書右丞に拜せられ、左丞に轉じ、諸曹を廉察し、八坐以下皆な目を側めて之を憚る。冏の誅せらるるに及び、晞も亦た坐して免ぜらる。長沙王乂の驃騎將軍と爲るや、晞を以て從事中郎と爲す。惠帝の成都王穎を征つや、以て北軍中候と爲す。帝の洛陽に還るに及び、晞、范陽王虓に奔り、虓は承制して晞を用て兗州刺史を行せしむ。
汲桑の鄴を破るや、東海王越、出でて官渡に次し以て之を討ち、晞に命じて前鋒と爲す。桑、素より之を憚かりたれば、城外に於いて柵を爲りて以て自守す。晞の將に至らんとするや、軍を頓めて士を休ませ、先に單騎を遣わして示すに禍福を以てせしむ。桑の眾は大いに震え、柵を棄てて宵に遁れたれば、城を嬰りて固守す。晞、其の九壘を陷し、遂に鄴を定めて還る。西のかた呂朗等を討ち、之を滅ぼす。1.(後に高密王泰の青州の賊の劉根を討つや、汲桑の故將の公師藩を破り、石勒を河北に敗り、威名は甚だ盛んにして、時人、之を韓・白に擬う)〔後に高密王略に從いて青州の賊の劉根の餘黨を討ち、汲桑及び成都王穎の故將の公師藩を破り、石勒を河北に敗り、威名は甚だ盛んにして、時人、之を韓・白に擬う〕〔一〕。位を撫軍將軍・假節〔二〕・都督青兗諸軍事に進められ、東平郡侯に封ぜられ、邑は萬戸。
晞、官事に練したれば、文簿盈積するも、斷決すること流るるが如く、人、敢えて欺かず。其の從母は之に依るに、奉養すること甚だ厚し。從母の子の將と爲らんことを求むるや、晞、之を距みて曰く「吾、王法を以て人を貸さざれば、將に後悔すること無からんや」と。固く之を欲したれば、晞、乃ち以て督護と爲す。後に法を犯したれば、晞、節を杖きて之を斬らんとす。從母、叩頭して救わんことを請うも、聽かず。既にして素服して之に哭し、流涕して曰く「卿を殺せし者は兗州刺史なり。弟に哭する者は苟道將なり」と。其の法に杖ること此くの如し。
晞、朝政の日ごと亂るるを見、禍の己に及ばんことを懼れ、而して交結する所を多(ま)し、珍物を得る毎に、即ち都下の親貴に貽る。兗州は洛を去ること五百里なれば、鮮美ならざるを恐れ、募りて千里牛を得、毎に信を遣るに、旦に發して暮に還る。
初め、東海王越は晞の其の讎恥に復いしを以て、甚だ之を德とし、引きて堂に升らしめ、結びて兄弟と爲る。越の司馬の潘滔等、説きて曰く「兗州は要衝にして、魏武は之を以て漢室を輔相す。苟晞には大志有り、純臣に非ざれば、久しく之に處らしめば、則ち患心腹に生ぜん。若し青州に遷し、其の名號を厚くせば、晞は必ず悅ばん。公、自ら兗州に牧たり、諸夏を經緯し、本朝を藩衞するは、此れ所謂『之を未だ有らざるに謀り、之を未だ亂れざるに爲す』なり」と。越、以て然りと爲し、乃ち晞を征東大將軍・開府儀同三司に遷し、侍中・假節・都督青州諸軍事を加え、青州刺史を領せしめ、進めて郡公と爲す。晞、乃ち多く參佐を置き、守令を轉易し、嚴刻を以て功を立て、日ごとに斬戮を加えたれば、流血は川を成し、人は命に堪えず、號して「屠伯」と曰う。
頓丘太守の魏植、流人の逼る所と爲り、眾五六萬もて、大いに兗州を掠む。晞、出でて無鹽に屯し、弟の純を以て青州を領せしむるに、刑殺すること更に晞より甚しければ、百姓は「小苟、大苟より酷なり」と號す。晞、尋いで植を破る。
時に潘滔及び尚書の劉望等、共に晞を誣陷したれば、晞、怒り、表して滔等の首を求め、又た越の從事中郎の劉洽を請いて軍司と爲さんとするも、越、皆な許さず。晞、是に於いて昌言して曰く「司馬元超は宰相たるも平らかならず、天下をして淆亂せしめたれば、苟道將、豈に不義を以て之を使うべけんや。韓信は衣食の惠に忍びず、婦人の手に死す。今、將に國賊を誅し、王室を尊ばんとす。桓文豈に遠しとせんや」と。乃ち諸州に移告し、己の功伐を稱し、越の罪狀を陳ぶ。
時に懷帝は越の權を專らにするを惡みたれば、乃ち晞に詔して曰く「朕、不德なるを以て、戎車屢々興り、上は宗廟の累を懼れ、下は兆庶の困を愍れみ、當に方嶽を賴み、國の藩翰と爲すべし。公、威震うこと赫然、藩・桑を梟斬し、喬・朗を走降せしめ、魏植の徒、復た以て誅除したれば、豈に高識・明斷に非ざらんや。朕、用て委成す。加うるに王彌・石勒、社稷の憂と爲れば、故に詔有りて委ねて六州を統べしむ。而るに公、謙にして小節を分とし、大命に稽違せしは、所謂『國と同に憂う』に非ざらんや。今、復た詔を遣る。便ち檄を六州に施し、協同して大舉し、國難を翦除し、朕の意に稱え」と。晞、復た諸征鎮州郡に移して曰く「天步は艱險、禍難は殷流し、劉元海は逆を汾陰に造(はじ)め、石世龍は亂を三魏に階し、荐りに畿甸を食し、鄴都を覆喪し、壘を近郊に結び、仍りに兗豫を震わし、三刺史を害し、二都督を殺し、郡守官長、堙沒すること數十、百姓は流離し、肝腦は地に塗る。晞、虛薄なるを以て、國重を負荷し、是こを以て節を海隅に弭(ひか)え、枹を曹・衞に援く。猥りに中詔を被け、委ぬるに關東を以てし、諸軍を督統せしむれば、欽んで詔命を承く。今月二日を剋め、當に西のかた黎陽を經濟せんとするや、即日、滎陽太守の丁嶷の白事を得たるに、李惲・陳午等、懷の諸軍を救わんとして羯と大いに戰い、皆な破散せられ、懷城は已に陷ち、河内太守の裴整は賊の執うる所と爲り、宿衞は闕乏し、天子は難を蒙り、宗廟の危、累卵より甚し、と。承問の日、憂歎累息す。晞、以爲えらく、先王の選びて明德を建て、庸(もち)うるに服章を以てするは、藩もて王室を固め、城をして壞たしむること無かる所以なり、と。是こを以て舟檝の固ならざるや、齊桓は楚を責め、襄王の狄に逼らるるや、晉文は討を致す。夫れ皇家を翼奬し、力を本朝に宣(つ)くし、湯火に陷ると雖も、大義の甘んずる所なり。加うるに諸々の方牧は俱に榮寵を受けたれば、義として同に力を畢くし、以て國恩に報ゆべし。晞は武あらずと雖も、戎行を首啓し、馬に秣し糧を裹み、以て方鎮を俟たん。凡そ我が同盟、宜しく同に救に赴くべし。顯らかに名節を立つるは、此の行に在り」と。
會々王彌は曹嶷を遣わして琅邪を破り、北のかた齊地を攻めしむ。苟純、城守するも、嶷の眾は轉た盛んにして、營を連ぬること數十里。晞、還るや、城に登りて之を望むに、懼色有れば、賊と連戰して、輒ち之を破る。後に精鋭を簡び、賊と大いに戰うや、會々大風塵を揚げたれば、晞、遂に敗績し、城を棄てて夜に走る。嶷、追いて東山に至り、部眾は皆な嶷に降る。晞、單騎にて高平に奔り、邸閣を收め、募りて數千人を得たり。
帝、又た密かに晞に詔して越を討たしめんとするや、晞、復た上表して曰く「殿中校尉の李初至り、奉じて手詔を被くるに、肝心は裂けんが若し。東海王越、宗臣なるを以て遂に朝政を執るを得たるも、邪佞に委任し、姦黨を寵樹し、前の長史の潘滔・從事中郎の畢邈・主簿の郭象等をして天權を操弄し、刑賞己に由らしむるに至る。尚書の何綏・中書令の繆播・太僕の繆胤・黃門侍郎の應紹は、皆な是れ聖詔もて親ら抽拔する所なるも、而れども滔等は妄りに構え、陷るるに重戮を以てす。帶甲して宮に臨み、后弟を誅討し、宿衞を翦除し、私かに國人を樹つ。魏植を崇奬するも、逋亡せるを招誘し、州郡を覆喪す。王塗は圮隔、方貢は乖絕し、宗廟は蒸嘗の饗を闕き、聖上には約食の匱有り。鎮東將軍の周馥・豫州刺史の馮嵩・前の北中郎將の裴憲は、並びに天朝の空曠し、權臣の專制し、事は之を興し難く、慮は旦夕に在るを以て、各々士馬を率い、皇輿を奉迎せんとし、王室を隆んにせんことを思い、以て臣禮を盡くす。而るに滔・邈等は越を劫して出關せしめ、矯りて行臺を立て、逼りて公卿を徙し、擅に詔令を爲り、兵を縱にして寇抄せしめ、居人を茹食し、交尸は路を塞ぎ、暴骨は野に盈つ。遂に方鎮をして職を失わしめ、城邑をして蕭條たらしめ、淮豫の萌、塗炭に陷離す。臣、憤懣すると雖も、局を東嵎に守りしに、明詔を奉じてより、三軍は奮厲し、甲を卷きて長驅し、倉垣に次る。即日、司空・博陵公の浚の書を承けたるに、稱すらく、殿中中郎の劉權、詔を齎らし、浚に敕して臣と共に大舉を剋めしむ、と。輒ち前鋒征虜將軍の王讚を遣わして徑ちに項城に至らしめ、越をして稽首して政を歸さしめ、滔等を斬送せん。伏して願わくは、陛下、宗臣を寬宥し、越の國に還るを聽されんことを。其の餘は逼迫せられたれば、宜しく曠蕩を蒙るべし。輒ち詔を寫して征鎮に宣示し、義舉を顯明にせん。揚烈將軍の閻弘を遣わして步騎五千もて、宗廟を鎮衞せしめん」と。
五年、帝、復た晞に詔して曰く「太傅は姦佞を信用し、兵を阻みて權を專らにし、内は皇憲を遵奉せず、外は方州と協比せず、遂に戎狄をして充斥し、所在に犯暴せしむ。留軍の何倫の宮寺を抄掠し、公主を劫剝し、賢士を殺害し、天下を悖亂せしめしは、聞くに忍ぶべからず。親を親しむを惟うと雖も、宜しく九伐を明らかにすべし。詔至るの日、其れ宣しく天下に告げ、率齊に大舉すべし。桓文の績、一ら以て公に委ねん。其れ諸宜を盡くさんことを思い、善く弘略を建てよ。道澀なれば、故に練もて副を寫し、手筆して意を示す」と。晞、表して曰く「手詔を奉じ被けたるに、臣に征討を委ね、喻うるに桓文を以てし、紙練兼ねて備え、伏して讀むに跪きて歎じ、五情は惶怛す。頃(ちかごろ)より宰臣專制し、佞邪に委杖し、内は朝威を擅らにし、外は兆庶を殘い、矯詔して征を專らにし、遂に不軌を圖り、兵を縱にして寇掠せしめ、宮寺を陵踐せしむ。前の司隸校尉の劉暾・御史中丞の溫畿・右將軍の杜育は、並びに攻劫せらる。廣平・武安公主、先帝の遺體なるも、咸な逼辱を被る。逆節虐亂なること、此れより之れ甚しきは莫し。輒ち祗んで前詔を奉じ、諸軍を部分し、王讚を遣わして陳午等の將兵を率いて項に詣らしめ、龔んで天罰を行わん」と。
初め、越、晞の帝と與に謀有らんことを疑い、遊騎をして成臯の間に於いて、晞の使を獲えしむるや、果たして詔令及び朝廷の書を得たれば、遂に大いに疑隙を構う。越、出でて豫州に牧たりて以て晞を討たんとし、復た檄を下して晞の罪惡を説き、從事中郎の楊瑁を遣わして兗州と爲し、徐州刺史の裴盾と共に晞を討たしむ。晞、騎をして河南尹の潘滔を收えしむるも、滔、夜に遁る。乃ち尚書の劉曾・侍中の程延を執え、之を斬る。會々越は薨じ、盾は敗れたれば、晞に詔して大將軍・大都督・督青徐兗豫荊揚六州諸軍事と爲し、邑を增すこと二萬戸、黃鉞を加え、先官は故の如し。
晞、京邑の荒饉すること日ごとに甚だしく、寇難の交々至るを以て、表して遷都せんことを請い、從事中郎の劉會を遣わして船數十艘、宿衞五百人を領せしめ、穀千斛を獻じて以て帝を迎えんとす。朝臣は多く異同有り。俄にして京師の陷つるや、晞、王讚と與に倉垣に屯す。豫章王の端及び和郁等、東のかた晞に奔り、晞、羣官を率いて端を尊びて皇太子と爲し、行臺を置く。端、承制して晞を以て太子太傅・都督中外諸軍・錄尚書を領せしめ、倉垣より徙りて蒙城に屯せしめ、讚もて陽夏に屯せしむ。
晞、孤微より出で、位は上將に至り、志は頗る盈滿し、奴婢は將に千人、侍妾は數十ならんとし、終日累夜、戸庭を出でず、刑政は苛虐、情を縱にし欲を肆にす。遼西の閻亨の書を以て固く諫むるや、晞、怒り、之を殺す。晞の從事中郎の明預、疾有りて家に居るや、之を聞き、乃ち病を轝いて晞を諫めて曰く「皇晉は百六の數に遭い、危難の機に當たれば、明公は親ら廟算を稟け、將に國家の爲に暴を除かんとす。閻亨は美士なるに、奈何ぞ罪無くして一旦にして之を殺せしや」と。晞、怒りて曰く「我、自ら閻亨を殺すは、何ぞ人事に關わらんや、而るに病を轝いて來りて我を罵るとは」と。左右、之が爲に戰慄するも、預曰く「明公は禮を以て見(われ)を進めしを以て、預は禮を以て自ら盡さんと欲す。今、明公は預に怒るも、其れ遠近の明公に怒るを若何せん。昔、堯舜の上に在るや、和理を以てして興り、桀紂の上に在るや、惡逆を以てして滅ぶ。天子すら且つ猶お此くの如し。況んや人臣をや。願わくは明公、且らく其の怒りを置いて預の言を思われんことを」と。晞、慚色有り。是に由りて眾心、稍く離れ、爲に用を致す莫く、加うるに疾疫饑饉を以てすれば、其の將の溫畿・傅宣は皆な之に叛く。石勒、陽夏を攻め、王讚を滅ぼし、馳せて蒙城を襲い、晞を執え、署して司馬と爲し、月餘にして乃ち之を殺す。晞に子無く、弟の純も亦た害に遇う。

〔一〕この箇所の本来の記述が誤りだらけで問題があるのは校勘の部分で示した通りであるが、それだとしても不可解な点が残る。苟晞伝では、苟晞が汲桑や石勒を破った後に「撫軍将軍・仮節・都督青兗諸軍事」に位を進められたとしているが、労格『晋書校勘記』は、『晋書』懐帝紀に基づき、苟晞が撫軍将軍となったのは汲桑を破る前の出来事だとしている。ただ、これに関しては、労格の述べる通り苟晞が撫軍将軍となったのは汲桑らを破る前のことであるが、「仮節・都督青兗諸軍事」を加えられ、「撫軍将軍」→「撫軍将軍・仮節・都督青兗諸軍事」と位が進められたのは汲桑らを破った後のことであるとも考えられる。苟晞伝では、苟晞がそれ以前に撫軍将軍となっていたということを述べなかったがために、このような記述になってしまったのではないかと思われる。
〔二〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。

現代語訳

苟晞(こうき)は字を道将と言い、河内郡・山陽の人である。若くして司隷校尉部(司州の旧名)の従事となり、司隷校尉の石鑒(せきかん)は苟晞を非常に高く評価した。東海王・司馬越が侍中となると、司馬越は苟晞を引き立てて門下通事令史とし、苟晞は何度も昇進して陽平太守となった。斉王・司馬冏(しばけい)が輔政の任に就くと、苟晞は司馬冏の参軍事となり、やがて尚書右丞に任じられ、尚書左丞に転任し、尚書の諸曹(諸々の部局)を監察し、八坐(尚書令・尚書僕射および尚書たち)以下はみな目をそらして苟晞を憚った。司馬冏が誅殺されると、苟晞もまた連座して罷免された。長沙王・司馬乂(しばがい)が驃騎将軍となると、苟晞を驃騎将軍府の従事中郎に任じた。恵帝が成都王・司馬穎(しばえい)を征伐した際には、北軍中候に任じられた。恵帝が(鄴から)洛陽に帰還すると、苟晞は范陽王・司馬虓(しばこう)のもとに身を寄せ、司馬虓は承制して苟晞に兗州刺史を代行させた。
群雄の汲桑(きゅうそう)が鄴を陥落させると、東海王・司馬越は出軍して官渡に駐屯して汲桑を討伐し、そのとき苟晞に命じて前鋒を担わせた。汲桑はもともと苟晞を憚っていたので、城外に柵を設けて自衛した。苟晞は、もうすぐ到着するというところで、進軍をやめて兵士を休ませ、先に単騎を派遣して禍福について説かせた。汲桑の兵たちは非常に動揺し、柵を捨てて宵に逃げ去ったので、汲桑は城の周りを囲むように兵を布陣させて固守した。苟晞は汲桑軍の九つの砦を陥落させ、そのまま鄴を平定して帰還した。その後、西行して(河間王・司馬顒(しばぎょう)の残党の)呂朗らを討って滅ぼした。1.(後に高密王・司馬泰が青州の賊の劉根を討ったとき、苟晞は汲桑のもと部将である公師藩(こうしはん)を破り、次いで石勒を河北で敗り、威名は非常に轟き、当時の人は苟晞を韓信・白起になぞらえた)〔後に苟晞は高密王・司馬略に従って青州の賊の劉根の残党を討ち、汲桑および成都王・司馬穎のもと部将の公師藩を破り、次いで石勒を河北で敗り、威名は非常に轟き、当時の人は苟晞を韓信・白起になぞらえた〕。それにより、苟晞は位を「撫軍将軍・仮節・都督青兗諸軍事」に進められ、東平郡侯に封じられ、邑は一万戸とされた。
苟晞は訴訟関連の事務に熟練していたので、山積みになるほどの関係書類が送られてきても、水の流れるように素早く処理し、裁判中、(嘘をついても絶対にバレるので)人々はけして欺瞞を弄することはなかった。苟晞の母方の叔母は苟晞のもとに身を寄せており、苟晞はその叔母を非常に手厚く養った。その叔母の子が、将となることを苟晞に要求すると、苟晞はこれを拒んで言った。「私は、王法にかこつけて人を寛大に許すことはしないが、後悔はないだろうか」と。それでも叔母の子は頑なに将となることを欲したので、苟晞はそこで彼を督護に任じた。後に叔母の子は法を犯したので、苟晞は節を地について彼を斬ろうとした。叔母は叩頭して救ってくれるよう願い出たが、苟晞は聞き容れなかった。刑を執行した後、苟晞は喪服を着て叔母の子に対して哭礼を行い、涙を流して言った。「そなたを殺したのは兗州刺史としての私である。従弟に哭礼を行うのは従兄としての苟道将である」と。苟晞の法を遵守する態度は、このようなものであった。
苟晞は、朝政が日に日に乱れていくのを見て、禍いが自分の身に及ぶことを恐れ、あえて交際する人物を増やし、珍奇な物品を手に入れるたびに、すぐに京都(洛陽)の皇帝の寵臣や権力者に贈った。また、兗州は洛陽から五百里も離れているので、その珍物が新鮮な状態で提供できないことを憂慮し、募って千里牛(一日に千里を走る牛)を手に入れ、書簡を送るときにもいつも、早朝に出発させたら暮には帰ってきた。
初め、東海王・司馬越は苟晞が自分の代わりに雪辱を果たしてくれたことから、非常に苟晞に対して恩を感じ、招いて堂に上らせ、兄弟の契りを結んだ。司馬越の司馬の潘滔(はんとう)らは司馬越に説いて言った。「兗州は要衝であり、魏の武帝(曹操)は初め兗州を拠点として漢室の宰相となりました。苟晞には大志があり、忠純な臣下ではないので、長く兗州刺史の地位に置いておけば、邪心を腹の中に抱くことになりましょう。もし昇進させて青州刺史に移し、厚い名号を与えれば、苟晞はきっと喜ぶことでしょう。そしてあなたが自ら兗州牧となり、諸地方の長官たちを統治し、藩屏として朝廷を守るようにすれば、それは所謂(いわゆる)『まだ問題が生じないうちにそれを処理し、まだ乱れが生じないうちにそれを治める』というものです」と。司馬越はそれに納得し、そこで苟晞を「征東大将軍・開府儀同三司」に昇進させ、「侍中・仮節・都督青州諸軍事」の位を加え、青州刺史を兼任させ、爵位を進めて郡公に封じた。苟晞はそこで多くの属官を置き、管轄下の太守・県令を新しい人物にすげ替え、厳しく苛酷であることによって功を立て、日に日に死刑を執行したので、流血は川のようになり、人々はその命令に堪えきれず、苟晞を「屠伯(人を好んで屠る地方長官)」と呼んだ。
頓丘太守の魏植は、流民に迫られ、五、六万の兵で、大いに兗州を侵略した。苟晞は出撃して(兗州の)無塩に駐屯し、そのため代わりに弟の苟純に青州刺史を兼任させたところ、苟晞にも増して多く死刑を執行したので、人々は「小苟(苟純)は、大苟(苟晞)よりも酷である」と言った。苟晞はまもなく魏植を破った。
時に潘滔や尚書の劉望らは、一緒になって苟晞を誣告して陥れようとしたので、苟晞は怒り、上表して潘滔らの首を求め、また司馬越の従事中郎の劉洽(りゅうこう)を請うて軍司としようとしたが、司馬越はいずれも許さなかった。苟晞はそこで憚らずに言った。「司馬元超(司馬越)は宰相でありながら公正さを欠き、天下を混乱させたのに、私はどうして不義を犯してこれを野放しにできようか。韓信は漢の高祖に衣食を与えられた恵みを思って漢から独立するに忍びず、その結果、婦人(呂后)の手によって殺された。今、私は国賊を誅殺し、王室を尊ぼうぞ。(春秋時代の覇者である)斉の桓公や晋の文公はどうして遠い存在であろうか」と。そこで苟晞は諸州に文書を送って告げ、自分の功績を自賛し、司馬越の罪状を述べた。
時に懐帝は司馬越の専権を快く思っていなかったので、そこで苟晞に詔を下して言った。「朕は不徳であるから、戦争が頻繁に起こり、上は宗廟に禍いが降りかかるのを恐れ、下は民衆が困窮することを憐れみ、まさに地方長官たちを頼りにし、国の垣根や柱としようと思う。そなたは、威信は赫然として奮い、公師藩・汲桑を斬ってさらし首にし、劉喬・呂朗を潰走・降伏させ、さらに魏植の輩をも誅殺して廃除したので、どうして高識・明断でないことがあろうか。朕はそこでそなたに委任して事の達成を督促したのである。しかも(漢趙の将である)王弥(おうび)や石勒(せきろく)が社稷に憂いをもたらしたので、故に詔を下してそなたに六州を委ねて統べさせたのである。なのにそなたは、謙遜して小さな節義を尊び、大命をぐずぐずとして奉じないが、それは所謂(いわゆる)『国と一緒に憂う』というものではない。今、また詔を下す。ただちに檄を六州に発し、協同して大挙し、国難を除き、朕の意にかなえ」と。苟晞はまた諸々の四征・四鎮将軍および州郡に文書を送って言った。「国運は艱難に見舞われ、禍難は盛んになり、劉元海(劉淵)は汾陰(汾水の北方)で造反し、石世龍(石勒)は三魏(後漢末の魏郡が分割されてできた広平郡・陽平郡・魏郡の三郡の地域)で反乱を起こし、京都(洛陽)近辺の地を次々に侵略し、鄴都を陥落させ、砦を首都圏の近郊に築き、しきりに兗州・豫州を脅かし、三人の刺史(幽州刺史の石尟(せきせん)、冀州刺史の王斌(おうひん)、兗州刺史の袁孚(えんふ))を殺し、二人の都督(都督司冀二州諸軍事の司馬騰(しばとう)、都督豫州諸軍事の司馬確)を殺し、郡の太守やその他の官長も、殺されたり捕虜になった者は数十に上り、人々は流離し、肝臓や脳が地に塗れる(ように人々が惨死する)ことになった。私は、中身が無く浅はかではあるが、国の重任を担い、それにより海辺で車を御し(青州の軍事を担い)、軍鼓を打つためのばちを曹・衛の地で握る(兗州の軍事を担う)ことになった。そして、恐れ多くも陛下の詔を受け、関東の地を委ねられ、諸軍を統率せよと仰せられたので、その詔命を謹んで拝受した。今月の二日に期を定めて、まさに西行して黎陽を救援しようとしていたが、即日受け取った滎陽太守の丁嶷(ていぎょく)の報告によると、李惲(りうん)・陳午らが懐県の諸軍を救おうとして羯(石勒軍)と大いに戦ったが、みな破れて散じ、懐城はやがて陥落し、河内太守の裴整(はいせい)は賊に捕らえられ、宿衛は失われ、天子は難を蒙り、宗廟の危うさは積み重ねられた卵よりも甚だしいという。報告を聞いた日、私は憂いのあまり長嘆した。私が思うに、先王が明徳な人物を選んで分封し、服章を与えて官僚として用いたということこそ、まさに藩国が王室を固め、城が敗れるようなことが無いようにさせられた理由である。だからこそ、周の昭王が南巡した際に船が転覆して川に落ちて崩御したことについて、斉の桓公は楚を責め、周の襄王が狄に攻められて放逐され、狄人に呼応した弟の叔帯が王位を奪うと、晋の文公は叔帯らを討伐して襄王を復位させた。そもそも皇室を補佐し、本朝に力を尽くし、それによって煮えたぎった湯や火の中に陥るとしても、それは大義のもと甘んじて受けるべきものである。しかも諸々の地方長官はみな栄えある恩寵を受けているので、義として一緒に力を尽くし、そうして国恩に報いるべきである。私には武勇が無いとはいえ、この義挙を首唱し、馬にエサを与え、食糧を用意し、そうして各地の都督や将軍たちの到来を待とう。我が同盟に加わる者はみな、一緒に救援に赴くべきである。諸君らが明らかに名節を立てるべき機会は、この大挙にこそあろうぞ」と。
折しも(漢趙の将である)王弥が曹嶷(そうぎょく)を派遣して琅邪国を破り、北行して斉の地(青州)を攻めさせた。苟純は籠城して守ったが、曹嶷の兵はますます盛んで、陣営は数十里にわたって続いていた。苟晞は兗州から戻ると、城壁に登って曹嶷軍を眺めたが、苟晞の軍を恐れる様子が見えたので、曹嶷の賊軍と連戦して、そのたびに賊軍を破った。後に精鋭を選抜し、賊軍と大いに戦ったが、折り悪く大風が砂塵を巻き上げたせいで苟晞は敗れ、城を捨てて夜に遁走した。曹嶷が追撃して東山まで来ると、苟晞の配下の兵はみな曹嶷に降った。苟晞は単騎で高平に逃れ、食糧庫を確保し、募兵して数千人を集めた。
懐帝は再度、苟晞に密詔を下して司馬越を討たせようとし、それに対して苟晞はまた上表して言った。「殿中校尉の李初がやってきて、陛下の自筆の詔を拝受しましたところ、肝臓や心臓が張り裂けそうな思いです。東海王・司馬越は、宗臣(皇族の身分の臣下)であることによって朝政を握る地位を得ましたが、佞者たちに委任し、邪悪な者どもに恩をかけて徒党を育み、前の長史の潘滔、従事中郎の畢邈(ひつばく)、主簿の郭象らに陛下の行使すべき大権を代わりに握って弄び、刑罰・褒賞を自らの思うがままにすることを許してしまいました。尚書の何綏(かすい)、中書令の繆播(びゅうはん)、太僕の繆胤(びゅういん)、黄門侍郎の応紹は、いずれも陛下の詔によって陛下自ら抜擢した人物たちであったにも関わらず、潘滔らはむやみに彼らを陥れ、厳しい殺戮を加えました。そして武装して皇宮に臨み、皇后の弟を誅殺し、宿衛を廃除し、自分勝手に同郷の人物たちを任用しました。魏植を尊重して取り立てましたが、魏植は流民たちを招き入れたがために、他の州郡を襲撃して陥落させるような事態を招きました。王道は隔絶し、地方からの貢物の献納も絶えてしまい、宗廟における祭祀の供え物も欠乏し、陛下も食事を節約しなければならないというほどの窮乏の事態を招いております。鎮東将軍の周馥(しゅうふく)、豫州刺史の馮嵩(ふうすう)、前の北中郎将の裴憲(はいけん)はみな、朝廷が空虚になり、権臣が専制し、このままでは再興しがたく、日夜憂慮が絶えない状況であることを懸念し、それぞれ軍を率い、(遷都を請うて)陛下を奉迎しようとし、王室を盛んにしようと思い、そうして臣下としての礼を尽くしました。しかし潘滔・畢邈らは、司馬越を脅して函谷関を出て東征させ、陛下の命令だと偽って行台(臨時的に首都外に設置した政府代行機関)を設け、強制的に公卿を司馬越に随行させ、勝手に詔令を作り、兵を放任して略奪を働かせ、兵士たちは居民から搾取し、そのため、折り重なった屍が道を塞ぎ、野ざらしになった骨が野に広がっています。さらには(周馥ら)地方の都督や将軍たちから職を奪って駆逐し、地方の城邑を寂れ廃れさせ、淮水・豫州地域の民は塗炭の苦しみに陥りました。私はこれに憤慨せずにはいられませんでしたが、東の辺地で職分を守ることしかできませんでした。しかし、陛下の詔を奉じてからというもの、我が全軍が奮起し、軽装になって長躯し、倉垣に駐屯しました。即日、司空・博陵公の王浚(おうしゅん)の書を受け取りましたところ、そこには、殿中中郎の劉権が王浚に詔をもたらし、王浚に対して、私と一緒に期日を定めて大挙せよとの命令が下った、とありました。そこでただちに前鋒征虜将軍の王讃を派遣して速やかに(司馬越の駐屯する)項城に向かわせ、司馬越に稽首して(謝罪させて)政を陛下の手に返還させ、さらに潘滔らを斬ってその首を送るつもりでございます。そこで謹んでお願い申し上げます。陛下はぜひとも宗臣にご寛恕を賜い、司馬越が封国に帰ることをお許しください。その他の人物たちは脅し迫られて彼らに協力させられたにすぎませんので、ご寛大な処置を蒙るべきでございましょう。ただちに拝受した詔を写して四征・四鎮将軍たちに宣示し、義挙を明らかにするつもりです。また、揚烈将軍の閻弘(えんこう)を派遣して歩兵・騎兵合わせて五千人を率いさせ、宗廟を護衛させます」と。
永嘉五年(311)、懐帝はまた苟晞に詔を下して言った。「太傅(司馬越)は姦悪で邪佞なる者どもを信用し、兵力を恃んで専権し、内は皇帝の法令を遵奉せず、外は地方長官たちと協力せず、とうとう戎狄を内地に充満させ、各地で暴虐を働かせることになってしまった。留軍の何倫(かりん)が皇宮や官府で略奪し、公主(皇帝の娘)たちを連れ去り、賢士を殺害し、天下を混乱させたことは、聞くに堪えないことである。親族に親しむべきであるという古訓に従い(司馬越を許し)たいところではあるが、九伐(討伐を致すべき九つの罪)に相当することを明らかにすべきである。詔が手元に届いたら即日、天下に告げ、一斉に大挙すべきである。斉の桓公や晋の文公の事績を、専らそなたに委ねよう。為すべきことをすべて尽くすことを思い、よくよく大いなる計略を建てよ。道が断絶しているため紙が充分に入手できないので、副本はねりぎぬに写し、自筆で我が意を示した」と。苟晞はそれに対して上表して言った。「陛下の自筆の詔を拝受しましたところ、私に征討を委ね、斉の桓公・晋の文公に喩えられ、紙の正本とねりぎぬの副本の詔書を兼ねていただき、謹んで拝読させていただきましたところ、跪いて嘆息せざるを得ず、私の五臓は恐れ多くてまさに痛み入ります。近ごろは宰相が専制し、佞邪な者どもを頼って事を委ね、内は朝威を自分勝手にし、外は民に危害を加え、詔と偽って征討を思うがままに行い、遂には反逆を企て、兵を放任して略奪を働かせ、皇宮や官府を無茶苦茶にしました。前の司隷校尉の劉暾(りゅうとん)、御史中丞の温畿(おんき)、右将軍の杜育(といく)は、みな攻撃や略奪を受けました。広平公主・武安公主は、先帝の御息女でございますが、いすれもむりやり迫られ辱めを受けました。節義に悖り凶逆・暴乱である様は、これより甚しいものはございません。ただちに謹んで前の詔を奉じ、諸軍を各地に配備し、王讃を派遣して陳午らの将兵を率いて(司馬越の駐屯する)項に赴かせ、謹んで天罰を行いましょう」と。  初め、司馬越は、苟晞が懐帝と一緒に策謀をめぐらしているのではないかと疑い、遊騎を成皐との境の地域に派遣し、そこで苟晞の使いを捕えたところ、果たして詔令と朝廷の書を入手したので、そこで猜疑と怨恨を苟晞に対して抱いた。司馬越は、出軍して自ら豫州牧となり、苟晞を討とうとし、また檄を下して苟晞の罪悪について説き、従事中郎の楊瑁(ようぼう)を派遣して兗州刺史に任じ、徐州刺史の裴盾(はいとん)と共に苟晞を討伐させた。苟晞は、騎兵を派遣して河南尹の潘滔を捕えさせたが、潘滔は夜のうちに逃げた。さらに苟晞軍は尚書の劉曽(りゅうそう)・侍中の程延を捕虜にし、その首を斬った。折しも司馬越は薨去し、裴盾は(漢趙の将である王桑に)敗れたので、懐帝は苟晞に詔を下して「大将軍・大都督・督青徐兗豫荊揚六州諸軍事」に任じ、二万戸の封邑を増し、黄鉞を授け、それ以外のもともとの官職はそのまま引き続き任じさせた。
苟晞は、洛陽が日に日に荒廃を増して飢餓が蔓延し、賊の侵攻が次々に行われていたことから、上表して遷都することを請い、従事中郎の劉会を派遣して数十艘の船と、五百人の宿衛を率いさせ、穀千斛を献上し、そうして懐帝を迎えようとした。しかし、朝臣は賛成派と反対派に大きく別れて意見が一致しなかった。そうこうしている間にまもなく京師(洛陽)が(漢趙軍によって)陥落させられると、苟晞は王讃と一緒に倉垣に駐屯した。豫章王・司馬端や和郁(かいく)らは、東行して苟晞のもとへ逃げ延び、そこで苟晞は、諸々の官僚を率いて司馬端を尊んで皇太子に奉じ、行台を置いた。司馬端は承制して苟晞に「太子太傅・都督中外諸軍事・録尚書事」を兼任させ、倉垣から蒙城に移って駐屯させ、王讃を陽夏に駐屯させた。
苟晞は微賎の家柄の出身でありながら、位は上将に至り、志は頗る満たされ、奴婢は千人、侍妾は数十人に達しようとするほどであり、終日毎晩、自分の邸宅から出てこず、刑罰や政治は苛酷で残虐、自らの情や欲に任せて行った。遼西の人である閻亨(えんこう)が書を送って固く諫めると、苟晞は怒り、閻亨を殺してしまった。苟晞の従事中郎の明預は、病により家に居たが、これを聞くと、そこで病をおして苟晞を訪れて諫めて言った。「皇晋は『百六の会』の厄運に遭い、危難の時期に直面し、故にあなたは陛下直々の謀を受け、国家のために暴虐なる者を除こうとしました。閻亨は善徳の士であるのに、どうして罪も無いのに突然殺してしまったのですか」と。苟晞は怒って言った。「私自身の問題として閻亨を殺したのであって、別に他人には関係なかろうに、どうして病をおしてまでわざわざ私のところまで罵りに来たのか」と。左右の者は閻亨の身を案じて戦慄したが、明預は言った。「あなたは礼を以て私を取り立ててくださったので、私も礼を以て我が力を尽くそうとしているのです。今、あなたは私に怒りを向けられていますが、遠近の人々があなたに怒りを向けていることに対しては如何なされるおつもりですか。昔、尭や舜が君臨していた際には、和を尊び適切な処置を行うことで興隆し、夏の桀王や殷の紂王が君臨していた際には、その悪逆さによって身も国も滅ぼしました。天子ですらそうなのです。ましてや人臣であればなおさらでしょう。どうかしばらくその怒りを置いて私の言葉についてよくよくお考えいただきますようお願い申し上げます」と。それを聞いた苟晞には恥じる様子が見られた。このようなことが続き、人々の心は次第に苟晞のもとから離れ、苟晞のために力となろうとする者は無く、しかも疫病や飢餓が蔓延したので、苟晞の将であった温畿や傅宣(ふせん)らはみな苟晞に叛いた。まもなく石勒が陽夏を攻めて王讃を滅ぼし、次いで馳せて蒙城を襲撃して苟晞を捕虜にし、苟晞を自らの将軍府の司馬に任じ、一ヶ月余り後になってやっと苟晞を殺した。苟晞には子が無く、弟の苟純もまた殺された。

華軼

原文

華軼、字彦夏、平原人、魏太尉歆之曾孫也。祖表、太中大夫。父澹、河南尹。軼少有才氣、聞於當世、汎愛博納、眾論美之。初爲博士、累遷散騎常侍。東海王越牧兗州、引爲留府長史。永嘉中、歷振威將軍・江州刺史。雖逢喪亂、毎崇典禮、置儒林祭酒以弘道訓、乃下教曰「今大義穨替、禮典無宗、朝廷滯議、莫能攸正、常以慨然、宜特立此官、以弘其事。軍諮祭酒杜夷、棲情玄遠、確然絕俗、才學精博、道行優備、其以爲儒林祭酒。」俄被越檄使助討諸賊、軼遣前江夏太守陶侃爲揚武將軍、率兵三千屯夏口、以爲聲援。軼在州甚有威惠、州之豪士接以友道、得江表之歡心、流亡之士赴之如歸。
時天子孤危、四方瓦解、軼有匡天下之志、毎遣貢獻入洛、不失臣節。謂使者曰「若洛都道斷、可輸之琅邪王、以明吾之爲司馬氏也。」軼自以受洛京所遣、而爲壽春所督、時洛京尚存、不能祗承元帝教命、郡縣多諫之、軼不納曰「吾欲見詔書耳。」時帝遣揚烈將軍周訪率眾屯彭澤以備軼。訪過姑孰、著作郎干寶見而問之、訪曰「大府受分、令屯彭澤。彭澤、江州西門也。華彦夏有憂天下之誠、而不欲碌碌受人控御、頃來紛紜、粗有嫌隙。今又無故以兵守其門、將成其釁。吾當屯尋陽故縣。既在江西、可以扞禦北方、又無嫌於相逼也。」尋洛都不守、司空荀藩移檄、而以帝爲盟主。既而帝承制改易長吏、軼又不從命、於是遣左將軍王敦都督甘卓・周訪・宋典・趙誘等討之。軼遣別駕陳雄屯彭澤以距敦、自爲舟軍以爲外援。武昌太守馮逸次于湓口、訪擊逸、破之。前江州刺史衞展不爲軼所禮、心常怏怏。至是、與豫章太守周廣爲内應、潛軍襲軼、軼眾潰、奔于安城、追斬之及其五子、傳首建鄴。
初、廣陵高悝寓居江州、軼辟爲西曹掾、尋而軼敗、悝藏匿軼二子及妻、崎嶇經年。既而遇赦、悝攜之出首、帝嘉而宥之。

訓読

華軼、字は彦夏、平原の人にして、魏の太尉の歆の曾孫なり。祖の表は、太中大夫たり。父の澹は、河南尹たり。軼、少くして才氣有り、當世に聞こえ、汎く愛し博く納れたれば、眾論は之を美とす。初め博士と爲り、累りに遷りて散騎常侍たり。東海王の越の兗州に牧たるや、引きて留府長史と爲す。永嘉中、振威將軍・江州刺史を歴たり。喪亂に逢うと雖も、毎に典禮を崇びたれば、儒林祭酒を置きて以て道訓を弘めんとし、乃ち教を下して曰く「今、大義は穨替し、禮典は宗ばるること無く、朝廷は議を滯らしめ、能く正す攸莫く、常に以て慨然としたれば、宜しく特に此の官を立て、以て其の事を弘むべし。軍諮祭酒の杜夷、棲情は玄遠にして、確然として俗に絕し、才學は精博、道行は優備なれば、其れ以て儒林祭酒と爲す」と。俄にして越の檄を被くるに諸賊を討つを助けしめんとすれば、軼、前の江夏太守の陶侃を遣わして揚武將軍と爲し、兵三千を率いて夏口に屯せしめ、以て聲援と爲す。軼、州に在りては甚だ威惠有り、州の豪士は接わるに友道を以てし、江表の歡心を得、流亡の士は之に赴くこと歸るが如し。
時に天子は孤危し、四方は瓦解したれば、軼、天下を匡すの志有り、毎に貢獻を遣りて洛に入らしめ、臣節を失わず。使者に謂いて曰く「若し洛都の道斷たれば、之を琅邪王に輸し、以て吾の司馬氏の爲にするを明らかにすべきなり」と。軼、自ら洛京の遣わす所を受け、而して壽春の督する所と爲ると以い、時に洛京は尚お存したれば、祗んで元帝の教命を承く能わず、郡縣は多く之を諫しむるも、軼、納れずして曰く「吾、詔書を見んと欲するのみ」と。時に帝は揚烈將軍の周訪を遣わして眾を率いて彭澤に屯せしめて以て軼に備えしめんとす。訪の姑孰に過るや、著作郎の干寶、見て之を問いたるに、訪曰く「大府は分を受(さず)け、彭澤に屯せしむ。彭澤は、江州の西門なり。華彦夏は天下を憂うるの誠有り、而して碌碌として人の控御を受くるを欲せず、頃來紛紜し、粗(あらま)し嫌隙有り。今、又た故無くして兵を以て其の門を守り、將に其の釁を成さんとす。吾、當に尋陽故縣に屯すべし。既に江西に在れば、以て北方を扞禦すべく、又た嫌を相い逼るに無からしむるなり」と。尋いで洛都守せず、司空の荀藩、檄を移し、而して帝を以て盟主と爲す。既にして帝、承制して長吏を改易するも、軼は又た命に從わざれば、是に於いて左將軍の王敦を遣わして甘卓・周訪・宋典・趙誘等を都督して之を討たしむ。軼、別駕の陳雄を遣わして彭澤に屯せしめて以て敦を距ぎ、自ら舟軍を爲めて以て外援と爲す。武昌太守の馮逸、湓口に次するも、訪、逸を擊ち、之を破る。前の江州刺史の衞展、軼の禮する所と爲らざれば、心は常に怏怏たり。是に至り、豫章太守の周廣と與に内應を爲し、軍を潛めて軼を襲いたれば、軼の眾は潰え、安城に奔るも、追いて之及び其の五子を斬り、首を建鄴に傳う。
初め、廣陵の高悝の江州に寓居するや、軼、辟して西曹掾と爲し、尋いで軼敗るるや、悝、軼の二子及び妻を藏匿し、崎嶇すること經年。既にして赦に遇うや、悝、之を攜えて出首したれば、帝、嘉して之を宥す。

現代語訳

華軼(かいつ)は字を彦夏と言い、平原の人であり、魏の太尉の華歆(かきん)の曽孫である。祖父の華表は、太中大夫にまで昇った。父の華澹(かせん)は、河南尹にまで昇った。華軼は、若くして才気があり、当時の世に名が知られ、博愛で広く交友を結んだので、人々は華軼を立派な人物として高く評価した。華軼は初め博士となり、何度も昇進して散騎常侍となった。東海王・司馬越は兗州牧になると、華軼を招いて留府長史とした。永嘉年間、華軼は「振威将軍・江州刺史」となった。人が大勢死ぬような禍乱の時代になったが、華軼はいつも典礼を尊重していたので、儒林祭酒の官職を設置し、則るべき道の教訓を広めようとし、そこで教令を下して言った。「今、大義は崩れ廃れ、礼典は尊重されることなく、朝廷ではこれについて議論をすることをやめ、その内容を正すことができずにおり、私はそれに対して常に慨然とし、そこで特別にこの官職を設けて、それにより礼事を大いに広めるべきであると考えた。軍諮祭酒の杜夷は、心の有り様は玄妙で深遠であり、確固として常人よりも抜きんでており、その才能と学問は精密で博識、品行は優れて大いに備わっているゆえ、杜夷をこの儒林祭酒に任ずる」と。まもなく司馬越の檄を受け、そこには諸賊の討伐に助力せよとあったので、華軼は前の江夏太守の陶侃(とうかん)を派遣して揚武将軍とし、兵三千を率いて夏口に駐屯させ、それにより支援を行った。華軼は、江州刺史として非常に威信と恩恵があり、江州の豪士たちは友道を以て華軼と交際し、華軼は江表(江南)の歓心を得、流亡の士が華軼に身を寄せる様子は、まるで郷里に帰ってきたかのように安らかであった。
時に天子(懐帝)は孤立して危険な状態にあり、四方は瓦解していたので、華軼は、天下を正そうとする志を抱き、常に貢物を献納して洛陽に送り、臣下としての節を失わなかった。華軼は使者に言った。「もし洛陽への道が断絶していたら、この貢物は琅邪王(司馬睿)のもとに運び、それにより私が司馬氏のために尽くしているということを明らかにすべきである」と。華軼は、自分は洛陽の朝廷の命を受けて派遣されて寿春に駐屯する都督(周馥(しゅうふく))の管轄下に置かれたのであると考え、それに当時はまだ洛陽の朝廷はまだ健在であったので、(当時はまだ琅邪王であった)元帝(司馬睿)の教命を謹んで受けることができず、管轄下の郡県は多くこのこと諫めたが、華軼は聞き容れずに言った。「私はただ詔書が見たい(のであって琅邪王の指図を受けるべきではない)のだ」と。時に司馬睿は揚烈将軍の周訪を派遣し、兵を率いて彭沢に駐屯させて華軼に備えさせようとした。周訪が姑孰に立ち寄り、そこで著作郎の干宝が、周訪が来たのを見て機嫌を窺いにやってきたところ、周訪は言った。「琅邪王は私に職分を授け、彭沢に駐屯するようお命じになった。彭沢はまさに江州の西門である。華彦夏(華軼)は天下を憂える忠誠心があり、そして他人に頼るしかない凡人のように他人の制御を甘んじて受けるようなことを望まず、そのため近ごろ揉め事が起こり、ほとんど我々とは仲たがいを起こしている。今、また理由も無く兵を率いてその入り口を固めるようなことをして、その亀裂をさらに広げようとしている。私は本来、尋陽故県に駐屯すべきであったのだ。そうなれば江西にいる以上、それによってただ北方を防御すればよく、またさらに華軼に迫ろうとしているというような疑いを持たれずに済んだのに」と。まもなく洛陽が陥落し、司空の荀藩(じゅんはん)は檄文を各地に発し、司馬睿を盟主とした。まもなく司馬睿が承制して長吏(地方の勅任官)の任免・配置換えを行ったが、華軼はまた命に従わなかったので、そこで司馬睿は左将軍の王敦を派遣して甘卓・周訪・宋典・趙誘らを都督させて華軼を討伐させようとした。華軼は、別駕従事の陳雄を派遣して彭沢に駐屯させて王敦軍を防ぎ、自らは水軍を統率して外援を担った。さらに(華軼麾下の)武昌太守の馮逸(ふういつ)が湓口に駐屯したが、周訪が馮逸を撃破した。前の江州刺史の衛展は、華軼に礼遇されなかったので、心中つねに不満を抱いていた。そしてここに至り、豫章太守の周広と一緒に司馬睿に内応し、軍を潜ませて華軼の不意を突いて襲撃したので、華軼の兵は潰滅し、華軼は安城に逃れたが、衛展らは追撃して華軼とその五人の子を斬り、それらの首を建業に送った。
初め、広陵の人である高悝(こうかい)が(難を避けて)江州に仮住まいしていたとき、華軼は高悝を辟召して西曹掾に任じており、まもなく華軼が敗れると、高悝は華軼の二人の子と妻を匿い、数年の間、苦労しながらあちこちを巡り歩いた。まもなく皇帝に即位した司馬睿(元帝)により大赦が行われると、高悝は彼らを連れて出頭したため、元帝はこれを善しとして許した。

劉喬 孫耽・耽子柳

原文

劉喬、字仲彦、南陽人也。其先漢宗室、封安眾侯、傳襲歴三代。祖廙、魏侍中。父阜、陳留相。喬少爲祕書郎、建威將軍王戎引爲參軍。伐吳之役、戎使喬與參軍羅尚濟江、破武昌、還授滎陽令、遷太子洗馬。以誅楊駿功、賜爵關中侯、拜尚書右丞。豫誅賈謐、封安眾男、累遷散騎常侍。
齊王冏爲大司馬、初、嵇紹爲冏所重、毎下階迎之。喬言於冏曰「裴・張之誅、朝臣畏憚孫秀、故不敢不受財物。嵇紹今何所逼忌、故畜裴家車牛・張家奴婢邪。樂彦輔來、公未嘗下牀、何獨加敬於紹。」冏乃止。紹謂喬曰「大司馬何故不復迎客。」喬曰「似有正人言以卿不足迎者。」紹曰「正人爲誰。」喬曰「其則不遠。」紹默然。
頃之、遷御史中丞。冏腹心董艾勢傾朝廷、百僚莫敢忤旨。喬二旬之中、奏劾艾罪釁者六。艾諷尚書右丞苟晞免喬官、復爲屯騎校尉。張昌之亂、喬出爲威遠將軍・豫州刺史、與荊州刺史劉弘共討昌、進左將軍。
惠帝西幸長安、喬與諸州郡舉兵迎大駕。東海王越承制轉喬安北將軍・冀州刺史、以范陽王虓領豫州刺史。喬以虓非天子命、不受代、發兵距之。潁川太守劉輿昵於虓、喬上尚書列輿罪惡。1.(河間王顒得喬所上、乃宣詔使鎮南將軍劉弘・征東大將軍劉準・平南將軍彭城王釋與喬并力攻虓於許昌。輿弟琨率眾救虓、未至而虓敗、虓乃與琨俱奔河北。未幾、琨率突騎五千濟河攻喬、喬劫琨父蕃、以檻車載之、據考城以距虓、眾不敵而潰。喬復收散卒、屯于平氏)
河間王顒進喬鎮東將軍・假節、以其長子祐爲東郡太守、又遣劉弘・劉準・彭城王釋等率兵援喬。弘與喬牋曰「適承范陽欲代明使君、明使君受命本朝列居方伯、當官而行同奬王室、橫見遷代、誠爲不允。然古人有言、『牽牛以蹊人之田、信有罪矣。而奪之牛、罰亦重矣。』明使君不忍亮直狷介之忿、甘爲戎首、竊以爲過。何者、至人之道、用行舍藏。跨下之辱、猶宜俯就。況於換代之嫌、纖介之釁哉。范陽國屬、使君庶姓、周之宗盟、疏不間親、曲直既均、責有所在。廉藺區區戰國之將、猶能升降以利社稷。況命世之士哉。今天下紛紜、主上播越、正是忠臣義士同心勠力之時。弘實闇劣、過蒙國恩、願與使君共戴盟主、雁行下風、掃除凶寇、救蒼生之倒懸、反北辰於太極。此功未立、不宜乖離。備蒙顧遇、情隆於常、披露丹誠、不敢不盡。春秋之時、諸侯相伐、復爲和親者多矣。願明使君迴既往之恨、追不二之蹤、解連環之結、修如初之好。范陽亦將悔前之失、思崇後信矣。」
東海王越將討喬、弘又與越書曰「適聞以吾州將擅舉兵逐范陽、當討之、誠明同異懲禍亂之宜。然吾竊謂不可。何者、今北辰遷居、元首移幸、羣后抗義以謀王室、吾州將荷國重恩、列位方伯、亦伐鼓即戎、勠力致命之秋也。而范陽代之、吾州將不從、由代之不允、但矯枉過正、更以爲罪耳。昔齊桓赦射鉤之讎而相管仲、晉文忘斬袪之怨而親勃鞮、方之於今、當何有哉。且君子躬自厚而薄責於人。今姦臣弄權、朝廷困逼、此四海之所危懼、宜釋私嫌、共存公義、含垢匿瑕、忍所難忍、以大逆爲先、奉迎爲急、不可思小怨忘大德也。苟崇忠恕、共明分局、連旗推鋒、各致臣節、吾州將必輸寫肝膽、以報所蒙、實不足計一朝之謬、發赫然之怒、使韓盧東郭相困而爲豺狼之擒也。吾雖庶姓、負乘過分、實願足下率齊内外、以康王室、竊恥同儕自爲蠹害。貪獻所懷。惟足下圖之。」
又上表曰「范陽王虓欲代豫州刺史喬、喬舉兵逐虓、司空・東海王越以喬不從命討之。臣以爲喬忝受殊恩、顯居州司、自欲立功於時、以徇國難、無他罪闕、而范陽代之、代之爲非。然喬亦不得以虓之非、專威輒討、誠應顯戮以懲不恪。然自頃兵戈紛亂、猜禍鋒生、恐疑隙構於羣王、災難延于宗子、權柄隆於朝廷、逆順效於成敗、今夕爲忠、明旦爲逆、翩其反而、互爲戎首、載籍以來、骨肉之禍未有如今者也。臣竊悲之、痛心疾首。今邊陲無備豫之儲、中華有杼軸之困、而股肱之臣不惟國體、職競尋常、自相楚剝、爲害轉深、積毀銷骨。萬一四夷乘虛爲變、此亦猛獸交鬭、自效於卞莊者矣。臣以爲宜速發明詔、詔越等令兩釋猜嫌、各保分局。自今以後、其有不被詔書擅興兵馬者、天下共伐之。詩云『誰能執熱、逝不以濯。』若誠濯之、必無灼爛之患、永有泰山之固矣。」
時河間王顒方距關東、倚喬爲助、不納其言。東海王越移檄天下、帥甲士三萬、將入關迎大駕、軍次于蕭、喬懼、遣子祐距越於蕭縣之靈壁。劉琨分兵向許昌、許昌人納之。琨自滎陽率兵迎越、遇祐、眾潰見殺。喬眾遂散、與五百騎奔平氏。
帝還洛陽、大赦、越復表喬爲太傅軍諮祭酒。越薨、復以喬爲都督豫州諸軍事・鎮東將軍・豫州刺史、卒於官。時年六十三。愍帝末、追贈司空。子挺、潁川太守。挺子耽。

1.労格『晋書校勘記』が指摘する通り、( )で示した部分は、後文と重複しており、同じ出来事を二箇所に記してしまったがために時系列が錯綜している。ただ、本稿ではとりあえず原文そのままに訳すことにし、記述の重複が見られるということを示すために、時系列を乱す原因となっている一度目の記述の方を( )でくくっておくことにする。

訓読

劉喬、字は仲彦、南陽の人なり。其の先は漢の宗室にして、安眾侯に封ぜられ、傳襲すること三代を歴たり。祖の廙は、魏の侍中たり。父の阜は、陳留相たり。喬、少くして祕書郎と爲り、建威將軍の王戎、引きて參軍と爲す。伐吳の役あるや、戎、喬をして參軍の羅尚と與に江を濟らしめ、武昌を破り、還りて滎陽令を授けられ、太子洗馬に遷る。楊駿を誅せしの功を以て、爵關中侯を賜わり、尚書右丞に拜せらる。賈謐を誅せしに豫り、安眾男に封ぜられ、累りに遷りて散騎常侍たり。
齊王冏の大司馬と爲るや、初め、嵇紹は冏の重んずる所と爲り、毎に階に下りて之を迎う。喬、冏に言いて曰く「裴・張の誅せらるるや、朝臣は孫秀を畏憚し、故に敢えて財物を受けずんばあらず。嵇紹は今、何の逼忌する所ありてか、故らに裴家の車牛・張家の奴婢を畜えるや。樂彦輔の來るや、公、未だ嘗て牀を下りざるに、何ぞ獨り敬を紹のみに加うるや」と。冏、乃ち止む。紹、喬に謂いて曰く「大司馬、何の故にか復た客を迎えざる」と。喬曰く「正人の卿を以て迎うるに足らずと言いし者有るに似たり」と。紹曰く「正人とは誰ならんか」と。喬曰く「其れ則ち遠からず」と。紹、默然とす。
之を頃くして、御史中丞に遷る。冏の腹心の董艾、勢は朝廷を傾け、百僚は敢えて旨に忤うもの莫し。喬、二旬の中、艾の罪釁を奏劾する者六たびあり。艾、尚書右丞の苟晞に諷して喬の官を免ずるも、復た屯騎校尉と爲る。張昌の亂あるや、喬、出でて威遠將軍・豫州刺史と爲り、荊州刺史の劉弘と共に昌を討ち、左將軍に進めらる。
惠帝の西のかた長安に幸するや、喬、諸州郡と與に舉兵して大駕を迎う。東海王越、承制して喬を安北將軍・冀州刺史に轉じ、范陽王虓を以て豫州刺史を領せしむ。喬、虓の天子の命に非ざるを以て、代を受けず、兵を發して之を距む。潁川太守の劉輿、虓に昵みたれば、喬、尚書に上して輿の罪惡を列ぶ。1.(河間王顒、喬の上す所を得るや、乃ち宣詔して鎮南將軍の劉弘・征東大將軍の劉準・平南將軍の彭城王釋をして喬と與に力を并わせて虓を許昌に攻めしむ。輿の弟の琨、眾を率いて虓を救わんとするも、未だ至らずして虓敗れ、虓、乃ち琨と俱に河北に奔る。未だ幾もあらずして、琨、突騎五千を率いて河を濟りて喬を攻め、喬、琨の父の蕃を劫し、檻車を以て之を載せ、考城に據りて以て虓を距ぐも、眾、敵せずして潰ゆ。喬、復た散卒を收め、平氏に屯す)。〔一〕
河間王顒、喬を鎮東將軍・假節〔二〕に進め、其の長子の祐を以て東郡太守と爲し、又た劉弘・劉準・彭城王釋等を遣わして兵を率いて喬を援けしむ。弘、喬に牋を與えて曰く「適々范陽の明使君に代わらんと欲するを承くるに、明使君は命を本朝に受けて列せられて方伯に居り、官に當たりて行きて同に王室を奬くるも、橫に遷代せらるるは、誠に允ならずと爲す。然るに古人に言有り、『牛を牽きて以て人の田を蹊ぐるは、信に罪有り。而れども之れが牛を奪うは、罰亦た重し』と。明使君は亮直狷介の忿を忍びず、甘んじて戎首と爲るも、竊かに以て過と爲す。何となれば、至人の道、用いらるれば行い舍てらるれば藏る。跨下の辱すら、猶お宜しく俯就すべし。況んや換代の嫌、纖介の釁をや。范陽は國の屬にして、使君は庶姓たり、周の宗盟、疏は親に間(あずか)らず、曲直既に均しければ、責は所在に有り。廉藺の區區たる戰國の將すら、猶お能く升降して以て社稷を利す。況んや命世の士をや。今、天下は紛紜し、主上は播越し、正に是れ忠臣義士の心を同じくし力を勠わすの時なり。弘は實に闇劣にして、國恩を過蒙し、使君と共に盟主を戴き、下風に雁行し、凶寇を掃除し、蒼生の倒懸せるを救い、北辰を太極に反さんことを願う。此の功未だ立たざれば、宜しく乖離すべからず。顧遇を備蒙し、情は常より隆んなれば、丹誠を披露し、敢えて盡さずんばあらず。春秋の時、諸侯は相い伐つも、復た和親を爲す者多し。願わくは明使君、既往の恨を迴し、不二の蹤を追い、連環の結を解き、初めの如きの好を修められんことを。范陽も亦た將に前の失を悔い、後の信を崇ばんことを思わんとす」と。
東海王越の將に喬を討たんとするや、弘、又た越に書を與えて曰く「適々聞くならく、吾が州將〔三〕の擅に兵を舉げて范陽を逐いしを以て、當に之を討つべし。誠に同異を明らかにし禍亂を懲らしむるの宜なり、と。然るに吾、竊かに謂うに、不可なり。何となれば、今、北辰は遷居し、元首は移幸し、羣后は義を抗げて以て王室を謀り、吾が州將は國の重恩を荷り、位を方伯に列したれば、亦た鼓を伐ち戎に即き、力を勠わせ命を致すの秋なり。而れども范陽の之に代わらんとするに、吾が州將の從わざるは、代の允ならざるに由り、但だ枉を矯めること正を過ぎ、更めて以て罪を爲すのみ。昔、齊桓は射鉤の讎を赦して管仲を相たらしめ、晉文は斬袪の怨を忘れて勃鞮に親しむに、之を今に方ぶるや、當に何か有るべけんや。且つ君子は躬自ら厚くして薄く人を責む。今、姦臣は權を弄び、朝廷は困逼し、此れ四海の危懼する所なれば、共に公義に存り、忍び難き所を忍び、大逆を以て先と爲し、奉迎するを急と爲すべくして、小怨を思いて大德を忘るべからざるなり。苟も忠恕を崇び、共に分局を明らかにし、旗を連ね鋒を推し、各々臣節を致さば、吾が州將も必ず肝膽を輸寫し、以て蒙る所に報ゆれば、實に一朝の謬を計り、赫然の怒を發し、韓盧・東郭をして相い困しみて豺狼の擒と爲らしむるに足らざるなり〔四〕。吾、庶姓にして、過分を負乘せると雖も、實に足下の内外を率齊し、以て王室を康んずるを願い、竊かに同儕の自ら蠹害を爲すを恥ず。貪りて懷く所を獻ず。惟だ足下、之を圖れ」と。
又た上表して曰く「范陽王虓は豫州刺史の喬に代わらんと欲するも、喬は兵を舉げて虓を逐い、司空の東海王越は喬の命に從わざるを以て之を討たんとす。臣以爲えらく、喬は忝じけなくも殊恩を受け、顯らかに州司に居り、自ら功を時に立て、以て國難に徇わんと欲し、他に罪闕無きも、而れども范陽は之に代わらんとすれば、之に代わるは非なり、と。然るに喬も亦た虓の非を以て、威を專らにして輒りに討つを得ざれば、誠に應に戮を顯らかにして以て不恪を懲らしむべし。然るに頃(ちかごろ)より兵戈は紛亂し、猜禍は鋒生し、疑隙を羣王に構えられ、災難を宗子に延き、權柄は朝廷より隆んにして、逆順は成敗に效し、今夕に忠たるも、明旦に逆たるを恐れ、翩として其れ反し、互いに戎首と爲し、載籍以來、骨肉の禍は未だ今の如き者有らざるなり。臣竊かに之を悲しみ、心を痛め首を疾む。今、邊陲には備豫の儲無く、中華には杼軸の困有り、而も股肱の臣は國體を惟わず、職として競うこと尋常、自ら相い楚剝し、害を爲すこと轉た深く、積毀は骨を銷かす。萬が一にも四夷の虛に乘じて變を爲さば、此れ亦た猛獸の交々鬭い、自ら卞莊を效す者なり〔五〕。臣以爲えらく、宜しく速やかに明詔を發し、越等に詔して兩つながらに猜嫌を釋き、各々分局を保たしむべし。今より以後、其の詔書を被けずして擅に兵馬を興す者有らば、天下共に之を伐たん。『詩』に云く『誰か能く熱を執り、逝に以て濯わざらん』と。若し誠に之を濯わば、必ず灼爛の患無く、永く泰山の固有らん」と。
時に河間王顒は方に關東を距がんとし、喬に倚りて助けと爲せば、其の言を納れず。東海王越、檄を天下に移し、甲士三萬を帥い、將に關に入りて大駕を迎えんとし、軍もて蕭に次しめたれば、喬は懼れ、子の祐を遣わして越を蕭縣の靈壁に距がしむ。劉琨、兵を分かちて許昌に向かわしむるや、許昌の人、之を納る。琨、滎陽より兵を率いて越を迎えんとするや、祐に遇いたれば、眾は潰えて殺さる。喬の眾は遂に散じ、五百騎と與に平氏に奔る。
帝の洛陽に還り、大赦するや、越は復た喬を表して太傅軍諮祭酒と爲す。越薨ずるや、復た喬を以て都督豫州諸軍事・鎮東將軍・豫州刺史と爲し、官に卒す。時に年は六十三。愍帝の末、司空を追贈す。子の挺は、潁川太守たり。挺の子、耽。

〔一〕校勘の部分で示した通り、( )内の部分は後文と重複している。時系列という点のみに注目するのであれば、( )内の記述を削除することで整然とする。すなわち、労格『晋書校勘記』に基づけば、正確な時系列としては、①劉喬が司馬虓に反発する→②河間王・司馬顒が劉喬を「鎮東将軍・仮節」に、劉祐を東郡太守に任じ、劉弘・劉準・司馬釈に劉喬を援助させる→③劉喬らが司馬虓・劉琨らを破って司馬虓・劉琨が河北に遁走する→④司馬越および戻ってきた司馬虓・劉琨に劉喬が敗れて平氏に遁走する、という流れであろう。
〔二〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔三〕「州将」とは州刺史のことであるが、普通は、その州に属する官吏や民に対して、その上に立つ州刺史のことを指す表現である。今回、劉弘は劉喬の属吏ではなく、劉弘は鎮南大将軍・荊州刺史、劉喬は鎮東将軍(河間王顒伝によれば「鎮東大将軍」)・豫州刺史であり、まさに劉弘自身が表現している通り「同儕」(同輩・同僚)である。よって、劉弘が劉喬のことを「吾が州将」と呼んでいるのは、一見すると不思議に感じる。ただ、劉弘は豫州・沛国の人であり、たとえ同輩であっても、戸籍上は劉弘は豫州刺史の劉喬に属するので、そのように表現しているのではないかと思われる。
〔四〕『戦国策』斉策「斉欲伐魏」に、淳于髡(じゅんうこん)が斉王に語った説話として、次のようなものがある。【韓子盧なる者は、天下の疾犬なり。東郭逡なる者は、海内の狡兔なり。韓子盧は東郭逡を逐い、山を環ること三たび、山を騰ること五たび、兔は前に極(つか)れ、犬は後に廢(たお)れ、犬・兔俱に罷(つか)れ、各々其の處に死す。田父、之を見、勞勌の苦無くして其の功を擅にす。】(韓子盧(かんしろ)というのは、天下でも有数の足の速い犬である。東郭逡(とうかくしゅん)というのは、海内でも有数のすばしこい兔である。韓子盧は東郭逡を逐いたて、山の周りをめぐること三回、山の頂上まで登ること五回、兔は前方で疲れ果て、犬は後方で倒れ、犬も兔も疲労困憊し、それぞれその場所で死んでしまった。農夫がそれを見て、何の苦労もなく犬と兎を手に入れて自分のものとした。)ここでは、司馬越らと劉喬らの争いを、韓子盧と東郭逡になぞらえ、第三者に漁夫の利を得させることを戒めているのである。
〔五〕『史記』巻七十・張儀伝附陳軫伝において陳軫(ちんしん)によって語られた説話に、次のようなものがある。【(卞)莊子、虎を刺さんと欲するや、館の豎子、之を止めて曰く「兩虎、方に且に牛を食らわんとするに、食らいて甘くんば必ず爭わん。爭わば則ち必ず鬬い、鬬わば則ち大なる者は傷つけられ、小なる者は死せん。傷つけらるるに從いて之を刺さば、一舉にして必ず雙虎の名有らん」と。卞莊子、以て然りと爲し、立ちて之を須つ。頃く有りて、兩虎、果たして鬬い、大なる者は傷つけられ、小なる者は死す。莊子、傷つけられし者に從いて之を刺し、一舉にして果たして雙虎の功有り。】(卞荘子(べんそうし)が虎を刺し殺そうとしたところ、旅館の小僧がそれを止めて言った。「二匹の虎が、今まさに牛を食べようとしており、その牛を食べて味が旨ければ、必ず自分がありつこうと互いに争うことでしょう。争えば必ず闘うことになり、闘えば体の大きい方は痛手を負い、体の小さい方は死ぬことになりましょう。そこで痛手を負ったのにつけこんでこれを刺し殺せば、あなたは一挙にして必ず二匹の虎を仕留めたという名声を得るでしょう」と。卞荘子は、それを尤もだと思い、立って様子を窺って待った。しばらくすると、果たしてその二匹の虎は闘い、体の大きい方は痛手を負い、体の小さい者は死んだ。卞荘子は、痛手を負ったのにつけこんでこれを刺し殺し、一挙にして果たして二匹の虎を仕留めるという功をものにした。)ここでは、司馬越らと劉喬らの争いを二匹の虎による争いに見立て、四夷を卞荘子になぞらえて、四夷が漁夫の利を得ることを喩えているのである。

現代語訳

劉喬(りゅうきょう)は字を仲彦と言い、南陽の人である。その先祖は漢の皇族であり、安衆侯に封じられ、三代にわたって侯位を継承してきた。祖父の劉廙(りゅうよく)は、魏で侍中にまで昇った。父の劉阜(りゅうふ)は、(晋で)陳留相にまで昇った。劉喬は、若くして秘書郎となり、建威将軍の王戎(おうじゅう)は、劉喬を招いて参軍とした。伐呉の役の際、王戎は劉喬に、同じく参軍の羅尚(らしょう)と一緒に長江を渡るよう命じ、二人は武昌を破り、帰ってくると劉喬は滎陽令の官職を授けられ、やがて太子洗馬に昇進した。楊駿(ようしゅん)を誅殺した功により、劉喬は関中侯の爵位を賜わり、尚書右丞に任じられた。そして賈謐(かひつ)の誅殺に参与し、安衆男(安衆を封地とする男爵)に封じられ、何度も昇進して散騎常侍となった。
斉王・司馬冏(しばけい)が大司馬になった当初、司馬冏は嵇紹(けいしょう)を重んじ、嵇紹が訪れてきた際にはいつも階下まで降りて出迎えた。劉喬は司馬冏に言った。「(司馬倫(しばりん)・孫秀らが政権を握って)裴頠(はいぎ)と張華が誅殺されると、朝臣は孫秀を恐れ憚り、それゆえ(裴頠と張華の家から没収された財物が分配された際に)その財物を受け取らざるを得ませんでした。嵇紹は(司馬倫や孫秀がすでに誅殺された)今、何を憚ることがあって、裴家から没収されて与えられた車牛や、張家から没収されて与えられた奴婢を(返還せずに引き続き自分のものとして)ことさらに養っているのでしょうか(=嵇紹はその程度の人間であるに過ぎません)。楽彦輔(尚書令の楽広)が来たときでも、あなたはこれまで一度も牀(ベッド)を下りることすらありませんでしたのに、どうして嵇紹にだけこんなにも敬意を払うのですか」と。そう言われて、司馬冏は嵇紹を出迎えることをやめた。嵇紹は劉喬に言った。「大司馬は何故もう客(私)を出迎えないようになったのか」と。劉喬は言った。「あなたが出迎えるに足る人物ではないと言った正人がいるようです」と。嵇紹は言った。「その正人とは誰であろうか」と。劉喬は言った。「なんの、そう遠くないところにいます」と。そこで嵇紹は押し黙った。
しばらくして、劉喬は御史中丞に昇進した。司馬冏の腹心の董艾(とうがい)は、その権勢は朝廷を傾けるほどであり、百官はみなその意向に逆らおうとしなかった。しかし、劉喬は、わずか二十日間で、六回も董艾の罪過を上奏して弾劾した。董艾は、尚書右丞の苟晞(こうき)を遠回しにそそのかして劉喬を罷免させたが、やがて劉喬はまた任用されて屯騎校尉となった。張昌の乱が起こると、劉喬は地方に出されて「威遠将軍・豫州刺史」となり、荊州刺史の劉弘と一緒に張昌を討伐し、左将軍に昇進した。
恵帝が(河間王・司馬顒(しばぎょう)らに連れられて)西行して長安に行幸すると、劉喬は諸々の州郡と一緒に挙兵して恵帝(および司馬顒政権)を奉迎した。(司馬顒政権と対立している)東海王・司馬越は、承制して劉喬を「安北将軍・冀州刺史」に転任させ、范陽王・司馬虓(しばこう)に豫州刺史を兼任させようとした。しかし、劉喬は、司馬虓の赴任が天子の命によるものではないことから、交代を承認せず、兵を発して司馬虓を拒んだ。(豫州に属する)潁川太守の劉輿(りゅうよ)は、司馬虓と親しくしていたので、劉喬は尚書に上書して劉輿の罪悪について述べた。1.(河間王・司馬顒は、劉喬の上書を受け取ると、そこで鎮南将軍の劉弘、征東大将軍の劉準、平南将軍の彭城王・司馬釈に詔を宣下して、劉喬と一緒に力を合わせて司馬虓を許昌の地に攻撃させた。劉輿の弟の劉琨(りゅうこん)は、兵を率いて司馬虓を救援しようとしたが、まだ到着しないうちに司馬虓は敗れてしまい、そこで司馬虓は劉琨と一緒に河北に逃げた。まもなくして、劉琨は突騎五千を率いて黄河を渡って劉喬を攻め、そこで劉喬は劉琨の父の劉蕃(りゅうはん)を脅し、檻車に載せて、考城に籠って司馬虓を防いだが、劉喬の軍はそれに敵わず潰滅した。劉喬は、また敗残兵を集め、平氏(荊州の地名)に駐屯した)
河間王・司馬顒は、劉喬の位を「鎮東将軍・仮節」に進め、その長子の劉祐(りゅうゆう)を東郡太守とし、また劉弘、劉準、彭城王・司馬釈らを派遣して兵を率いて劉喬を援助させた。劉弘は、劉喬に牋(公文書の一種)を送って言った。「ちょうど范陽王が明使君(あなた)(刺史に対する敬称)と交代しようとやってきましたが、明使君は、本朝より命を受けて刺史となり、その官職を担って他の官僚たちと一緒に王室を助けていましたのに、このように不当にも転任させられるのは、実に妥当なことではありません。しかし、次のような古人の言葉があります。『牛を牽いて他人の田地を横切るのは確かに罪である。しかし、それに対してその者から牛まで奪ってしまうのは、あまりにも罰が重すぎる』と。明使君は誠実・正直であり、孤高で清らかであることによりこの不当さに対して怒り、その憤激をこらえきれず、甘んじてこの連合軍の統帥となりましたが、ひそかに思いますに、明使君のこのような対応は誤りでございます。といいますのも、優れた人物の道というのは、登用されれば務めに勤しみ、罷免されればすんなり引退するものであります。(前漢の韓信の故事のように)他人の股の間をくぐるような恥辱でさえ、自らを屈してでも従い行うべきなのです。ましてや転任の不満やその他の細微な不利益などはなおさらです。范陽王は皇族であり、使君は庶姓(非皇族身分)であり、周代の会盟でも、疏族は親族の列に加わることはありませんでしたので(あなたが范陽王と争うのは分を越えた誤りであり)、このように使君には正当性と同様に不当性もある以上、使君と范陽王の双方に非があります。廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)のような戦国時代の小さな国の将ですら、不満があっても自ら身を退いたり、相手を持ち上げたりして社稷に利益をもたらすことができました。ましてや、使君のように世に名の知れた士人であればなおさらです。今、天下は紛争続きで、陛下は流亡し、まさしく忠臣や義士たちが心を一つにして力を合わせるべきときです。私は実に愚劣であり、過分にも国恩を蒙りましたが、使君と一緒に盟主を戴き、謹んで下風に立ち、凶賊を廃除し、困窮に喘ぐ人々を救い、陛下を(天下の中心たる)洛陽にお帰しいたそうと願うばかりです。この功がまだ達成されていない以上、臣下同士で仲違いを起こすべきではありません。使君には広く恩顧を賜わり、使君に対する情は他の人々よりも深いものでありますので、私の誠心をさらけ出し、真心を尽くさないわけには参りません。春秋時代、諸侯は互いに攻撃し合いましたが、再び和親を結ぶ場合が多くありました。どうか明使君も、過去の恨みを水に流し、仲違いする前の関係を遡って取り戻し、連環のように繋がれた怨恨の鎖を解き、以前のような友好関係を修復なさいますようお願い申し上げます。そうすれば范陽王もまたこれまでの過失を悔い、これからの信頼関係を尊重することでしょう」と。
また、東海王・司馬越が劉喬を討伐しようとすると、劉弘は司馬越に書を送って言った。「ちょうど耳にしたことによりますと、あなたは、我が州将(劉喬)が勝手に挙兵して范陽王を駆逐したゆえ、これを討伐すべきであり、この行いは実に白黒をはっきりさせ、禍乱をなした者を懲らしめるために必要なことである、とおっしゃったとか。しかし私がひそかに思いますに、これはなりません。といいますのも、今、陛下は都の洛陽を離れ、君主が地方に行幸して都に不在の状態であり、地方の長官たちは義を挙げて王室を補佐しようと謀っており、我が州将も国の厚恩を蒙り、刺史の位に列せられたので、まさに軍鼓を打って兵を用い、ともに力を合わせて命の限りを尽くすべきときです。しかし范陽王が我が州将と交代しようとして、我が州将がそれに従わなかったのは、その交代が不当なものであったためでありまして、ただ不正を正そうとして度が過ぎ、却って罪を犯してしまったというだけです。昔、斉の桓公は、即位前にかつて敵方として自分の帯鉤を弓で射た管仲に対する恨みを赦し、即位後には彼を宰相とし、晋の文公は、即位前にかつて敵方として自分を襲ってその袖を斬った勃鞮(ぼってい)に対する恨みを忘れ、即位後には彼に親しみましたが、これと比べて現代では、そのような美談は見られません。しかも、君子は自分に対しては厳しく、他人に対しては責任を問うにも穏かにするものだと聞きます。今、邪悪な臣が権勢を弄び、朝廷は困窮して切迫しており、天下の人々はみなこれを危ぶみ恐れていますので、今は個人的な不満を抑え、一緒に公義にのっとり、恥を忍び小さな汚点には目をつぶり、我慢しづらいことをも我慢し、大逆を除いて陛下を再び洛陽に奉迎することを第一に考えるべきでありまして、小さな怨恨にこだわって大徳を忘れるべきではありません。もし忠義や真心を尊重し、ともにそれぞれの職分を明らかにし、旗を連ねて武器を取り、各人が臣下としての節義を尽くせば、我が州将も必ず誠心を打ち明け、そうして受けた御恩に報いようとするでしょうから、実に一時の過ちによって赫然と怒りを発し、韓子盧(かんしろ)と東郭逡(とうかくしゅん)が共倒れしてヤマイヌやオオカミの餌食になるようなことにはさせるべきではありません。私は庶姓でありながら過分な重任を負っておりますが、あなたが内外を整え率い、そうして王室を安んじることを心から願っておりますし、同輩が自ら害をなしたことをひそかに恥ずかしく思っております。自分勝手にも思っていることを述べさせていただきました。どうかあなたは私の言葉についてよくよくお考えになってください」と。
さらに劉弘は恵帝にも上表して言った。「范陽王・司馬虓は豫州刺史の劉喬と交代しようとしましたが、劉喬は挙兵して司馬虓を駆逐し、司空である東海王・司馬越は、劉喬が命に従わないので彼を討伐しようとしました。私が思いますに、劉喬はもったいなくも格別な恩寵を受け、誉れ高くも州刺史の位におり、この時勢において自ら功を立て、そうして国難を除くために身を投げ出そうとし、他に罪悪や過失はありませんでしたが、范陽王はこれに取って代わろうとしましたので、故に范曄王が劉喬と交代しようとしたのには非があります。しかし劉喬もまた、司馬虓に非があるからといって、威勢を思うがままに振るい、勝手に討伐を行ったのは許されるべきことではありませんので、実に刑法を明らかにして、それによって不敬なる者を懲らしめるべきです。しかし、近年では戦争が相次いで世の中が混乱し、各地で疑い合いによる禍乱が発生し、多くの者が諸王により嫌疑をかけられて陥れられ、皇族たちの争いに巻き込まれて他の者たちにも災難が及び、権力者の力は朝廷を凌ぎ、忠順と見なされるか反逆と見なされるかは事が成功するか失敗するか次第であり、今日の夕べには忠臣であるとされても、翌朝には反逆者とされることを恐れ、まるで唐棣の花弁が互いに背を向けて咲くように相互に反目し、互いに互いを戦禍の先導者だと見なし合い、有史以来、骨肉の争いが現在のように凄惨だったことはありません。私はひそかにこのことを悲しみ、心を痛め頭を苦しめています。今、辺境には予備の蓄えが無く、中華では織物が不足し、しかも股肱の大臣たちは国を治める方策について思いをやらず、専ら競って貶め合うばかりで、互いに傷つけ合い、ますます深い害をもたらし、積もり積もった謗りの言葉は骨を熔かすほどに激しいものとなっています。万が一にも四夷が我々の虚を突いて変乱を起こすようなことになれば、これはまさに猛獣が互いに闘争し、自ら卞荘子(べんそうし)を招き寄せるというようなものです。私が思いますに、速やかに陛下の詔を発し、司馬越らに詔を下して両者のいがみ合いを解消させ、それぞれの職分を守らせるべきです。そして今後、その詔書に従わずに勝手に軍を発動する者がいれば、天下が共にその者を討つべきでございましょう。『詩』(大雅・桑柔)には、『熱いものを手にしたとき、水で手を洗って冷まさない者がいるだろうか(そのような当たり前のことをし、上に立つ者たちが互いに争って罵り合うことをやめれば、乱世を治め、亡国を回避することができる)』とあります。もし誠に手を水で洗って冷ますようにすれば、絶対に手が焼けただれる心配も無く(亡国の心配も無く)、堅固なる泰山のように永久に安泰になることでしょう」と。
時に(政権を握っていた)河間王・司馬顒はちょうど(司馬越ら)関東の諸軍を防ごうとし、劉喬を頼って味方につけようとしていたので、劉弘のその言葉を聞き容れなかった。東海王・司馬越は、檄を天下に発し、三万の兵士を率い、関中に侵攻して恵帝を長安から洛陽に奉迎しようとし、軍を蕭に駐屯させたので、劉喬は恐れ、息子の劉祐を派遣して司馬越を蕭県の霊壁で防がせた。(司馬越側の)劉琨が兵を分けて(豫州の)許昌に向かわせると、許昌の人たちはその軍を迎え入れた。そして劉琨が滎陽から兵を率いて司馬越を迎えようとすると、途中でばったりと劉祐軍と遭遇したので、そこで劉祐軍は潰滅して劉祐は殺された。劉喬の兵はそのまま崩れて散り散りになり、劉喬は配下の五百騎と一緒に平氏(荊州の地名)に逃れた。
恵帝が洛陽に帰還し、大赦を行うと、(当時は太傅となっていた)司馬越はまた上表して劉喬を自らの太傅府の軍諮祭酒に任じた。司馬越が薨去すると、劉喬はまた「都督豫州諸軍事・鎮東将軍・豫州刺史」に任じられ、在官中に亡くなった。時に六十三歳であった。愍帝の末年、司空の官位を追贈された。劉喬の子の劉挺(りゅうてい)は、潁川太守にまで昇った。劉挺の子が劉耽(りゅうたん)である。

原文

耽、字敬道。少有行檢、以義尚流稱、爲宗族所推。博學、明習詩・禮・三史。歴度支尚書、加散騎常侍。在職公平廉慎、所莅著績。桓玄、耽女壻也。及玄輔政、以耽爲尚書令、加侍中、不拜、改授特進・金紫光祿大夫。尋卒、追贈左光祿大夫・開府。耽子柳。

訓読

耽、字は敬道。少くして行檢有り、義尚を以て稱を流し、宗族の推す所と爲る。博學にして、明らかに詩・禮・三史を習う。度支尚書を歴、散騎常侍を加えらる。職に在りては公平にして廉慎、莅む所に績を著わす。桓玄は、耽の女壻なり。玄の輔政するに及び、耽を以て尚書令と爲し、侍中を加うるも、拜せざれば、改めて特進・金紫光祿大夫を授く。尋いで卒し、左光祿大夫・開府を追贈す。耽の子の柳。

現代語訳

劉耽(りゅうたん)は字を敬道と言う。若くして品行を備え、信義と高尚さによって世に名聞が広まり、宗族に尊重された。博学で、『詩』・『礼』(『周礼』『儀礼』『礼記』など)・三史(『史記』『漢書』『東観漢記』)に明るく、いずれにも習熟していた。やがて官職を歴任して度支尚書となり、散騎常侍の官位を加えられた。職にあっては公平でかつ清廉で慎しみ深く、在任した所々で顕著な政績を上げた。桓玄は、劉耽の娘婿であった。桓玄が輔政の任に就くと、劉耽を尚書令に任じ、侍中の位を加えたが、劉耽がそれを辞退したので、改めて特進・金紫光禄大夫の位を授けた。まもなく亡くなり、左光禄大夫・開府の位を追贈された。劉耽の子が劉柳(りゅうりゅう)である。 

原文

柳、字叔惠、亦有名譽。少登清官、歴尚書左右僕射。時右丞傅迪好廣讀書而不解其義、柳唯讀老子而已、迪毎輕之。柳云「卿讀書雖多、而無所解、可謂書簏矣。」時人重其言。出爲徐・兗・江三州刺史。卒、贈右光祿大夫・開府儀同三司。
喬弟乂、始安太守。乂子成、丹楊尹。

訓読

柳、字は叔惠、亦た名譽有り。少くして清官に登り、尚書左右僕射を歴たり。時に右丞の傅迪は廣く書を讀むことを好むも其の義を解せず、柳は唯だ老子を讀むのみなれば、迪は毎に之を輕んず。柳云く「卿は讀書すること多しと雖も、而れども解する所無ければ、書簏と謂うべし」と。時人は其の言を重んず。出でて徐・兗・江三州刺史と爲る。卒するや、右光祿大夫・開府儀同三司を贈る。
喬の弟の乂、始安太守たり。乂の子の成、丹楊尹たり。

現代語訳

劉柳(りゅうりゅう)は、字を叔恵と言い、やはり名誉が高かった。若くして清官に登り、尚書右僕射・尚書左僕射を歴任した。時に尚書右丞の傅迪(ふてき)は広く書を読むことを好んでいたものの、それらの書に記された義について理解していなかったが、一方で劉柳はただ『老子』を読むだけであったので、傅迪はいつも劉柳を軽んじていた。劉柳は言った。「そなたはたくさん読書しているとはいっても、その要点を全然理解できていないので、まさに本箱とでも言うべきだな」と。当時の人々はその言葉を重んじた。劉柳は地方に出て徐州刺史・兗州刺史・江州刺史を歴任した。亡くなると、右光禄大夫・開府儀同三司の官位を追贈された。
劉喬(りゅうきょう)の弟の劉乂(りゅうがい)は、始安太守にまで昇った。劉乂の子の劉成は、丹楊尹にまで昇った。

原文

史臣曰。
周浚人倫鑒悟、周馥理識精詳、華軼動顧禮經、劉喬志存諒直、用能歴官内外、咸著勳庸。而祖宣獻策遷都、乖忤於東海、彦夏係心宸極、獲罪於琅邪、乃被以惡名、加其顯戮、豈不哀哉。向若違左袵於伊川、建右社於淮服、據方城之險、藉全楚之資、簡練吳越之兵、漕引淮海之粟、縱未能祈天永命、猶足以紓難緩亡。嗟乎、「不用其良、覆俾我悖」、其此之謂也。苟晞擢自庸微、位居上將、釋位之功未立、貪暴之釁已彰、假手世龍、以至屠戮、斯所謂「殺人多矣。能無及此乎。」

贊曰。
開林才理、爰登貴仕、績著折衝、化行江汜。軼既尊主、馥亦勤王、背時獲戾、違天不祥。喬爲戎首、未識行藏。道將鞠旅、威名克舉、貪虐有聞、忠勤未取。

訓読

史臣曰く。
周浚は人倫の鑒悟あり、周馥は理識精詳、華軼は動、禮經を顧み、劉喬は志、諒直に存り、能を用て官を内外に歴、咸な勳庸を著わす。而るに祖宣は策を遷都に獻じて東海に乖忤し、彦夏は心を宸極に係けて罪を琅邪に獲、乃ち被るに惡名を以てし、其の顯戮を加えらるるは、豈に哀しからざらんや。向若(も)し左袵を伊川に違え、右社を淮服に建て、方城の險に據り、全楚の資に藉り、吳越の兵を簡練し、淮海の粟を漕引せば、縱い未だ天に永命を祈ること能わずとも、猶お以て難を紓き亡を緩むるに足らまし。嗟乎、「其の良を用いず、覆って我をして悖らしむ」は、其れ此の謂いなり。苟晞は擢んでらるること庸微よりし、位は上將に居るも、釋位の功は未だ立たず、貪暴の釁は已に彰らかにして、手を世龍に假り、以て屠戮せらるるに至るは、斯れ所謂「人を殺すこと多し。能(あ)に此に及ぶこと無からんや」なり。

贊に曰く。
開林は才理あり、爰に貴仕に登り、績は折衝に著たり、化は江汜に行る。軼は既に主を尊び、馥も亦た王に勤め、時に背きて戾を獲、天に違いて祥いせず。喬は戎首と爲り、未だ行藏を識らず。道將は旅に鞠げ、威名克く舉ぐるも、貪虐もて聞有り、忠勤未だ取らず。

現代語訳

史臣の評
周浚(しゅうしゅん)は人材の良否を見分ける能力があり、周馥(しゅうふく)は治政の見識が精細・周密で、華軼(かいつ)は行動する際には礼経を顧み、劉喬(りゅうきょう)は志が誠実・正直で、いずれもその能力によって内外の官職を歴任し、みな勲功を著わした。しかし、祖宣(周馥)は遷都の策を献じて東海王・司馬越の意向に逆らい、彦夏(華軼)は心を天子に寄せたがために琅邪王・司馬睿(しばえい)に対して罪を得て、二人ともなんと悪名を着せられて殺されてしまったということについては、どうして悲しまずにはいられようか。もし(周馥の言う通りに洛陽を捨てて南に遷都して)伊水を隔てて異民族の侵攻を避け、より安泰な社稷を淮水地域に新たに建て、山川の険要さに依拠し、まだ混乱の及んでいない安寧な楚の地域の物資に頼り、呉越地域の兵を選抜して訓練し、淮水地域や海浜から取れる食糧を漕運するようにしていれば、たとえ天に永久の国運を祈ることはできずとも、当面の国難を除き、滅亡を遅らせることはできたであろうに。ああ、「(『詩』大雅・桑柔に)善良な人を用いず、却って私を理に悖る人物だと見なす」というのは、このことを言うのだ。苟晞(こうき)は微賎の身から抜擢され、位は上将にまで昇ったが、朝政を補佐する功績を立てないまま、やがて貪暴の罪が明らかになって、世龍(石勒)の手を借り(=石勒の手下となり)、結局殺されることになったのは、所謂(いわゆる)「人をたくさん殺してきたのだから、このような結末を迎えるのも当然である」というものである。


開林(周浚)には才知があり、遂に高位に上り、軍事に功績を著わし、教化は長江の周辺一帯に広まった。華軼は君主を尊び、周馥もまた君主のために尽くし、二人とも時勢に背いて罪を得て、天運に違って死ぬこととなった。劉喬は連合軍の統帥となり、「登用されれば務めに勤しみ、罷免されればすんなり引退する」という道理を理解できなかった。道将(苟晞)は軍令を発し(=軍隊を統率し)、威名を高らかにすることができたが、貪虐により名を広め、忠誠心を以て力を尽くすことができなかった。