いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第三十三巻_邵續・李矩・段匹磾・魏浚(族子該)・郭黙

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

邵續

原文

邵續字嗣祖、魏郡安陽人也。父乘、散騎侍郎。續朴素有志烈、博覽經史、善談理義、妙解天文。初為成都王穎參軍、穎將討長沙王乂、續諫曰、「續聞兄弟如左右手、今明公當天下之敵、而欲去一手乎。續竊惑之」。穎不納。後為苟晞參軍、除沁水令。
時天下漸亂、續去縣還家、糾合亡命、得數百人。王浚假續綏集將軍・樂陵太守、屯厭次、以續子乂為督護。續綏懷流散、多歸附之。石勒既破浚、遣乂還招續、續以孤危無援、權附於勒、勒亦以乂為督護。既而段匹磾在薊、遣書要續俱歸元帝、續從之。其下諫曰、「今棄勒歸匹磾、任子危矣」。續垂泣曰、「我出身為國、豈得顧子而為叛臣哉」。遂絕於勒、勒乃害乂。續懼勒攻、先求救於匹磾、匹磾遣弟文鴦救續。文鴦未至、勒已率八千騎圍續。勒素畏鮮卑、及聞文鴦至、乃棄攻具東走。續與文鴦追勒至安陵、不及、虜勒所署官、并驅三千餘家、又遣騎入散勒北邊、掠常山、亦二千家而還。
匹磾既殺劉琨、夷晉多怨叛、遂率其徒依續。勒南和令趙領等率廣川・渤海千餘家背勒歸續。而帝以續為平原樂安太守・右將軍・冀州刺史、進平北將軍・假節、封祝阿子。續遣兄子武邑內史存與文鴦率匹磾眾就食平原、為石季龍所破。續先與曹嶷亟相侵掠、嶷因存等敗、乃破續屯田、又抄其戶口。續首尾相救、疲於奔命。太興初、續遣存及文鴦屯濟南黃巾固、因以逼嶷、嶷懼、求和。俄而匹磾率眾攻段末杯、石勒知續孤危、遣季龍乘虛圍續。季龍騎至城下、掠其居人、續率眾出救、季龍伏騎斷其後、遂為季龍所得、使續降其城。續呼其兄子竺等曰、「吾志雪國難、以報所受、不幸至此。汝等努力自勉、便奉匹磾為主、勿有二心」。
時帝既聞續沒、下詔曰、「邵續忠烈在公、義誠慷慨、綏集荒餘、憂國亡身。功勳未遂、不幸陷沒、朕用悼恨于懷。所統任重、宜時有代。其部曲文武、已共推其息緝為營主。續之忠誠、著于公私、今立其子、足以安眾、一以續本位即授緝、使總率所統、效節國難、雪其家仇」。
季龍遣使送續於勒、勒使使徐光讓之曰、「國家應符撥亂、八表宅心、遺晉怖威、遠竄揚越。而續蟻封海阿、跋扈王命、以夷狄不足為君邪。何無上之甚也。國有常刑、於分甘乎」。續對曰、「晉末饑亂、奔控無所、保合鄉宗、庶全老幼。屬大王龍飛之始、委命納質、精誠無感、不蒙慈恕。言歸遺晉、仍荷寵授、誓盡忠節、實無二心。且受彼厚榮、而復二三其趣者、恐亦不容於明朝矣。周文生于東夷、大禹出於西羌、帝王之興、蓋惟天命所屬、德之所招、當何常邪。伏惟大王聖武自天、道隆虞夏、凡在含生、孰不延首神化、恥隔皇風、而況囚乎。使囚去真即偽、不得早叩天門者、大王負囚、囚不負大王也。釁鼓之刑、囚之恒分、但恨天實為之、謂之何哉」。勒曰、「其言慨至、孤愧之多矣。夫忠于其君者、乃吾所求也」。命張賓延之于館、厚撫之、尋以為從事中郎。令自後諸克敵擒俊、皆送之、不得輒害、冀獲如續之流。
初、季龍之攻續也、朝廷有王敦之逼、不遑救恤。續既為勒所執、身灌園鬻菜、以供衣食。勒屢遣察之、歎曰、「此真高人矣。不如是、安足貴乎」。嘉其清苦、數賜穀帛。每臨朝嗟歎、以勵羣官。
續被獲之後、存及竺・緝等與匹磾嬰城距寇、而帝又假存揚武將軍・武邑太守。勒屢遣季龍攻之、戰守疲苦、不能自立。久之、匹磾及其弟文鴦與竺・緝等悉見獲、惟存得潰圍南奔、在道為賊所殺。續竟亦遇害。

訓読

邵續 字は嗣祖、魏郡安陽の人なり。父の乘は、散騎侍郎なり。續は朴にして素より志烈有り、博く經史を覽じ、善く理義を談じ、天文を妙解す。初め成都王穎の參軍と為り、穎 將に長沙王乂を討たんとするに、續 諫めて曰く、「續 聞くに兄弟は左右の手が如し。今 明公 天下の敵に當たるに、而れども一手を去らんと欲するか。續 竊かに之に惑ふ」と。穎 納れず。後に苟晞の參軍と為り、沁水令に除せらる。
時に天下 漸く亂れ、續 縣を去りて家に還り、亡命せしを糾合し、數百人を得たり。王浚 續を綏集將軍・樂陵太守に假し、厭次に屯せしめ、續が子の乂を以て督護と為す。續 流散せしを綏懷し、多く之に歸附す。石勒 既に浚を破り、乂を遣はして還りて續を招かしめ、續 孤危の無援なるを以て、權に勒に附き、勒も亦た乂を以て督護と為す。既にして段匹磾 薊に在り、書を遣はして續に要めて俱に元帝に歸せしめんとし、續 之に從ふ。其の下 諫めて曰く、「今 勒を棄てて匹磾に歸せば、任子 危ふからん」と。續 垂泣して曰く、「我 身を出すは國の為にす、豈に得て子を顧みて叛臣と為らんや」と。遂に勒と絕ち、勒 乃ち乂を害す。續 勒の攻むるを懼れ、先に救を匹磾に求め、匹磾 弟の文鴦を遣はして續を救はしむ。文鴦 未だ至らざるに、勒 已に八千騎を率ゐて續を圍む。勒 素より鮮卑を畏れ、文鴦の至るを聞くに及び、乃ち攻具を棄てて東して走る。續 文鴦と與に勒を追ひて安陵に至る。及ばずして、勒の署する所の官を虜とし、并せて三千餘家を驅り、又 騎を遣はして入りて勒を北邊に散じ、常山を掠め、亦た二千家もて還る。
匹磾 既に劉琨を殺し、夷晉 多く怨みて叛し、遂に其の徒を率ゐて續に依る。勒が南和令の趙領ら廣川・渤海の千餘家を率ゐて勒に背きて續に歸す。而して帝 續を以て平原樂安太守・右將軍・冀州刺史と為し、平北將軍・假節に進め、祝阿子に封ず。續は兄子の武邑內史の存を遣はして文鴦と與に匹磾の眾を率ゐて食を平原に就き、石季龍の破る所と為る。續 先に曹嶷と與に亟々相 侵掠し、嶷 存らの敗るるに因り、乃ち續の屯田を破り、又 其の戶口を抄む。續 首尾に相 救ひ、奔命に疲る。太興の初に、續 存及び文鴦を遣はして濟南の黃巾固に屯せしめ、因りて以て嶷に逼る。嶷 懼れ、和を求む。俄かにして匹磾 眾を率ゐて段末杯を攻め、石勒 續の孤危なるを知り、季龍を遣はして虛に乘じて續を圍ましむ。季龍の騎 城下に至り、其の居人を掠め、續 眾を率ゐて出でて救ひ、季龍 騎を伏せて其の後を斷ち、遂に季龍の得る所と為り、續をして其の城を降らしむ。續 其の兄子の竺らに呼びて曰く、「吾が志は國の難を雪ぎ、以て受くる所に報ずることなるに、不幸にして此に至る。汝ら努力して自ら勉め、便ち匹磾を奉じて主と為せ。二心有る勿れ」と。
時に帝 既に續 沒すと聞き、詔を下して曰く、「邵續 忠烈にして公在り、義誠もて慷慨し、荒餘を綏集し、國を憂ひ身を亡す。功勳 未だ遂げず、不幸にも陷沒し、朕 用て懷に悼恨す。統ぶる所 任は重く、宜しく時に代有るべし。其の部曲の文武、已に共に其の息が緝を推して營主と為す。續の忠誠、公私に著はるれば、今 其の子を立つれば、以て眾を安んずるに足る。一に續の本位を以て即ち緝に授け、總て統ぶる所を率ゐ、節を國難に效し、其の家仇を雪がしめよ」と。
季龍 使を遣はして續を勒に送り、勒の使 徐光をして之を讓しめて曰く、「國家 符に應じて亂を撥し、八表 心を宅し、晉の怖威を遺し、遠く揚越うを竄ましむ。而れども續が蟻封 海に阿り、王命を跋扈す。夷狄を以て君為るに足らざるか。何ぞ上無きことの甚しきや。國に常刑有り、分に甘んずるか」と。續 對へて曰く、「晉末に饑亂し、奔控 所無く、鄉宗を保合し、老幼を全せんと庶ふ。大王の龍飛の始に屬ひ、命を委ね質を納れ、誠を精しくして感無く、慈恕を蒙らず。遺晉に歸らんことを言ひ、仍りて寵授を荷ひ、忠節を盡さんことを誓ひ、實に二心無し。且つ彼の厚榮を受け、而れども復た其の趣を二三とする者は、亦た明朝に容れられざるを恐る。周文 東夷に生まれ、大禹 西羌に出づ。帝王の興、蓋し惟れ天命の屬する所、德の招く所にして、當に何ぞ常あるべきや。伏して惟るに大王の聖武 天よりし、道は虞夏より隆く、凡そ含生に在り、孰ぞ首を神化に延ばし、皇風を隔たるを恥ぢざるや。而して況んや囚はるをや。囚をして真を去り偽に即かしむれば、早く天門を叩くを得ざれば、大王 囚に負くとも、囚 大王に負かざるなり。釁鼓の刑は、囚の恒分なり、但だ天の實に之を為すを恨む、謂ふらく之を何ぞや」と。勒曰く、「其の言 慨至なりて、孤 之を愧づること多し。夫れ其の君に忠なる者は、乃ち吾の求むる所なり」と。張賓に命じて之を館に延き、厚く之を撫せしめ、尋で以て從事中郎と為す。自後は諸々の敵に克ち俊を擒ふるに、皆 之を送らしめ、輒ち害するを得ざるは、續の流が如きを獲んことを冀へばなり。
初め、季龍の續を攻むるや、朝廷 王敦の逼有り、救恤を遑くせず。續 既に勒の執ふる所と為り、身ら園を灌し菜を鬻ぎ、以て衣食を供す。勒 屢々之を察せしめ、歎じて曰く、「此れ真に高人なり。是が如きにあらざれば、安んぞ貴ぶに足るか」と。其の清苦を嘉し、數々穀帛を賜ふ。每に朝に臨みて嗟歎し、以て羣官を勵す。
續 獲はるるの後、存及び竺・緝ら匹磾と與に城を嬰りて寇を距み、而して帝 又 存に揚武將軍・武邑太守を假す。勒 屢々季龍を遣はして之を攻めしめ、戰守して疲苦たりて、自立する能はず。久之、匹磾及び其の弟文鴦 竺・緝らと與に悉く獲はれ、惟だ存のみ圍を潰して南のかた奔るを得、道に在りて賊の殺す所と為る。續 竟に亦た害に遇ふ。

現代語訳

邵続は字を嗣祖といい、魏郡安陽の人である。父の邵乗は、散騎侍郎である。邵続は質朴で高い志があり、広く経書や史書を読み、理や義の議論を得意とし、天文を精緻に理解した。はじめ成都王穎(司馬穎)の参軍となったが、司馬穎が長沙王乂(司馬乂)を討伐しようとすると、邵続は諫めて、「私が聞きますに兄弟は左右の手のようなもの。いまあなたさまは天下の敵に対処すべきなのに、腕一本を除こうというのですか。私は困惑しています」と言った。司馬穎は聞き入れなかった。のちに苟晞の参軍となり、沁水令に任命された。
このとき天下は乱れつつあり、邵続は(任地の)県を去って故郷の家に帰り、亡命者を糾合して、数百人を集めた。王浚は邵続を綏集将軍・楽陵太守に仮し、厭次に駐屯させ、邵続の子の邵乂を督護とした。邵続は(故郷から)流散した人々を綏撫し、多くが邵続のもとを頼った。石勒が王浚を破ると、邵乂を使者にして(父のもとに)帰還させて邵続を招いたが、邵続は孤立無援なので、かりそめに石勒に味方し、石勒もまた邵乂を(人質として)督護とした。このとき段匹磾が薊におり、文書をよこして邵続に(段匹磾を通じ)元帝に帰順せよと要請し、邵続はこれに従った。邵続の部下が諫めて、「いま石勒を棄てて段匹磾に味方すれば、人質の子(邵乂)の命が危ない」と言った。邵続は涙を流して、「私は国家のために身の振り方を決める、どうしてわが子を顧みて叛臣となるものか」と言った。かくして石勒と絶縁し、これにより石勒は邵乂を殺害した。邵続は石勒の攻撃を懼れ、さきに段匹磾に救援を求めており、段匹磾は弟の文鴦を派遣して邵続を救援した。文鴦が到着する前に、石勒は八千騎を率いて邵続を包囲した。かねてから石勒は鮮卑を畏れており、文鴦の接近を聞くと、攻城兵器を棄てて東に逃げた。邵続は文鴦とともに石勒を追って安陵に至った。追い付けなかったが、石勒の任命した官僚を捕虜とし、三千家あまりを駆逐し、また騎兵を派遣して石勒を北辺に追って(軍勢を)離散させ、常山を襲撃し、さらに二千家を捕らえて帰還した。
段匹磾が劉琨を殺すと、(段匹磾のもとにいる)晋人も夷人も(漢族も胡族も)多くが段匹磾を怨んで叛き、配下を連れて邵続のもとを頼った。石勒が任命した南和令の趙領らが広川や渤海の千家あまりを率いて石勒に背いて邵続に帰順した。これを受けて元帝は邵続を平原楽安太守・右将軍・冀州刺史とし、平北将軍・仮節に進め、祝阿子に封建した。邵続は兄の子の武邑内史の邵存を派遣して文鴦とともに段匹磾の兵を率いて平原で食糧を調達しようとしたが、石季龍(石虎)に敗れた。邵続はこれまで曹嶷としばしば侵掠しあっていたが、曹嶷は邵存らの敗北を知ると、邵続の屯田を破却し、さらにその耕作民を略奪した。邵続は前へ後ろへと慌ただしく救援し、奔走して疲弊した。太興年間のはじめ、邵続は邵存及び文鴦を派遣して済南の黄巾固に駐屯させ、(地勢を制して)曹嶷を圧迫した。曹嶷は懼れて、和睦を求めた。ほどなく段匹磾が兵を率いて段末杯を攻めると、石勒は邵続が孤立して危ういことを知り、石季龍を派遣して虚に乗じて邵続を包囲させた。石季龍の騎兵が城下に至り、その住民から略奪したので、邵続は兵を率いて城から出て救援した。石季龍は騎兵を伏せてその後方を分断したので、ついに(邵続は)石季龍に捕らえられ、(石季龍は)邵続に城ごと降服させた。邵続は兄の子の邵竺らに大声で呼びかけ、「わが志は国家の苦難を立て直し、受けた恩に報いることであったが、不幸にしてこの状況となった。お前たちは努力して自ら勉め、段匹磾を奉って盟主とせよ。二心を抱いてはならない」と言った。
このとき元帝は(捕らえられた)邵続がもう死んだと聞いて、詔を下し、「邵続は忠烈して公務にあたり、義と誠によって(苦難に)慷慨し、荒廃し流浪した人々を慰めて集め、国を憂い身を滅ぼした。功績に報いる前に、不幸にも戦没したので、朕は胸を痛めて悔恨する。彼が統治したのは重要拠点であり、後任者が必要である。彼の部曲であった文官と武官は、すでに彼の息子の邵緝を推戴して営主としている。邵続の忠誠は、公私ともに表れているから、彼の子を立てれば、安定を得られよう。すべて邵続のもとの官を邵緝に授け、配下の全員を率いさせ、節義を国難にふるい、邵氏の家の仇を雪がせよ」と言った。
石季龍は使者を派遣して邵続を石勒に送り届けた。石勒は使者の徐光にとがめさせ、「国家(後趙)が符命に応じて乱をしずめ、天下の全土は(石氏に)心を寄せるが、晋への畏怖が残り、遠く揚越の地を盗ませた(東晋の建国)。邵続は蟻塚(小さな抵抗の拠点)を作って海沿いの国(東晋)におもねり、王命を振りかざした。夷狄を君主として仰ぐには不足だというが、これほど上位者(石氏)への侮辱はない。国家には定められた刑罰がある、処分を甘んじて受けるか」と言った。邵続は答えて、「晋末に飢饉と戦乱があり、逃げ隠れする場所がないので、同郷の人々をまとめあげ、老人や幼児を守ろうとした。大王(石勒)が龍のように飛躍する時期に遭遇し、命を委ねて人質(邵乂)を入れたが、誠意が尽くされず、慈しみや憐れみを受けられなかった。そこで亡国の晋への帰順を唱え、そこで恩寵と官職を賜ったので、忠節を尽くそうと誓ったのだ、まことに二心はない。しかもこれほどの厚遇と栄誉を(晋から)受けながら、他国に心が揺れては、朝廷で容認されないだろう。周文は東夷に生まれ、大禹は西羌から出た。帝王の勃興は、天命が決めることで、徳が招くものであり、どうして一定の法則があるだろう。伏して思うに大王(石勒)の聖なる武は天に与えられ、道は虞夏(舜や禹)よりも高く、生きるもののなかで、だれが首を延ばして感化を期待し、帝王の教化から排除されることを恥じないものがいようか。囚われの身ならば尚更である。囚人を真(の帝王)から隔絶して偽(の帝王)に服従させ、天子の門を叩くことを遅延させるならば、大王が囚人に背こうとも、囚人が大王に背くことはない。釁鼓(血祭り)の刑は、囚人の定められた運命だ。天がこれを実行に移すのは残念だが、どうとも思わない」と言った。石勒は、「この言葉は悲憤が極まったものであり、わたしは彼の言葉に恥じる点が多い。そもそも君主に対して忠である者は、わたしが求める人材である」と言った。張賓に命じて邵続を館にまねき、厚くもてなし、ほどなくして従事中郎とした。これ以降(後趙が)さまざまな敵に勝って賢者を捕らえると、すべてここに送らせ、すぐに殺害することを禁じたのは、邵続のようなものを得ようと願ったからである。
これよりさき、石季龍が邵続を攻めたとき、朝廷は王敦から圧迫を受けており、十分な救援ができなかった。邵続は石勒に捕らえられると、みずから畑に水をやって野菜を売り、衣食を自給した。石勒がしばしば様子を見に行かせ、感歎して、「彼こそ高潔な人物だ。これほどでなければ、尊重するに値しないだろう」と言った。その清貧と苦心を称え、しばしば穀物や布を賜った。つねに朝廷に臨んで悲歎し、群臣を感動させた。
邵続が(石氏に)捕らえられた後、邵存及び邵竺と邵緝らは段匹磾とともに城を守って寇賊を防いだので、元帝は邵存に揚武将軍・武邑太守を仮した。石勒はしばしば石季龍を派遣してこれを攻撃させ、(邵氏は)防戦に疲弊して苦しみ、自立を維持できなくなった。しばらくして、段匹磾及びその弟の文鴦は邵竺と邵緝らとともに全員が捕らえられ、ただ邵存だけが囲みを突破して南に逃げることができたが、道中で賊に殺された。邵続もまた結局は殺害された。

李矩

原文

李矩字世迴、平陽人也。童齔時、與羣兒聚戲、便為其率、計畫指授、有成人之量。及長、為吏、送故縣令於長安、征西將軍梁王肜以為牙門。伐氐齊萬年有殊功、封東明亭侯。還為本郡督護。太守宋冑欲以所親吳畿代之、矩謝病去。畿恐矩復還、陰使人刺矩、會有人救之、故得免。屬劉元海攻平陽、百姓奔走、矩素為鄉人所愛、乃推為塢主、東屯滎陽、後移新鄭。
矩勇毅多權略、志在立功、東海王越以為汝陰太守。永嘉初、使矩與汝南太守袁孚率眾修洛陽千金堨、以利運漕。及洛陽不守、太尉荀藩奔陽城、衞將軍華薈奔成皋。時大饑、賊帥侯都等每略人而食之、藩・薈部曲多為所啖。矩討都等滅之、乃營護藩・薈、各為立屋宇、輸穀以給之。及藩承制、建行臺、假矩滎陽太守。矩招懷離散、遠近多附之。
石勒親率大眾襲矩、矩遣老弱入山、令所在散牛馬、因設伏以待之。賊爭取牛馬、伏發、齊呼、聲動山谷、遂大破之、斬獲甚眾、勒乃退。藩表元帝、加矩冠軍將軍、軺車幢蓋、進封陽武縣侯、領河東・平陽太守。時饑饉相仍、又多疫癘、矩垂心撫恤、百姓賴焉。會長安羣盜東下、所在多虜掠、矩遣部將擊破之、盡得賊所略婦女千餘人。諸將以非矩所部、欲遂留之。矩曰、「俱是國家臣妾、焉有彼此」。乃一時遣之。
時劉琨所假河內太守郭默為1.劉元海所逼、乞歸於矩、矩將使其甥郭誦迎致之、而不敢進。會劉琨遣參軍張肇、率鮮卑范勝等五百餘騎往長安、屬默被圍、道路不通、將還依邵續。行至矩營、矩謂肇曰、「默是劉公所授、公家之事、知無不為」。屠各舊畏鮮卑、遂邀肇為聲援、肇許之。賊望見鮮卑、不戰而走。誦潛遣輕舟濟河、使勇士夜襲懷城、掩賊留營、又大破之。默遂率其屬歸于矩。後劉聰遣從弟暢步騎三萬討矩、屯于韓王故壘、相去七里、遣使招矩。時暢卒至、矩未暇為備、遣使奉牛酒詐降于暢、潛匿精勇、見其老弱。暢不以為虞、大饗渠帥、人皆醉飽。矩謀夜襲之、兵士以賊眾、皆有懼色。矩令郭誦禱鄭子產祠曰、「君昔相鄭、惡鳥不鳴。凶胡臭羯、何得過庭」。使巫揚言、「東里有教、當遣神兵相助」。將士聞之、皆踴躍爭進。乃使誦及督護楊璋等選勇敢千人、夜掩暢營、獲鎧馬甚多、斬首數千級、暢僅以身免。
先是、郭默聞矩被攻、遣弟芝率眾援之。既而聞破暢、芝復馳來赴矩。矩乃與芝馬五百匹、分軍為三道、夜追賊、復大獲而旋。
先是、聰使其將趙固鎮洛陽、長史周振與固不協、密陳固罪。矩之破暢也、帳中得聰書、敕暢平矩訖、過洛陽、收固斬之、便以振代固。矩送以示固、固即斬振父子、遂率騎一千來降、矩還令守洛。後數月、聰遣其太子粲率2.劉雅生等步騎十萬屯孟津北岸、分遣雅生攻趙固於洛。固奔陽城山、遣弟告急、矩遣郭誦屯洛口以救之。誦使將張皮簡精卒千人夜渡河。粲候者告有兵至、粲恃其眾、不以為虞。既而誦等奄至、十道俱攻、粲眾驚擾、一時奔潰、殺傷太半、因據其營、獲其器械軍資不可勝數。及旦、粲見皮等人少、更與雅生悉餘眾攻之、苦戰二十餘日不能下。矩進救之、使壯士三千泛舟迎皮。賊臨河列陣、作長鉤以鉤船、連戰數日不得渡。矩夜遣部將格增潛濟入皮壘、與皮選精騎千餘、而殺所獲牛馬、焚燒器械、夜突圍而出、奔武牢。聰追之、不及而退。聰因憤恚、發病而死。帝嘉其功、除矩都督河南三郡軍事・安西將軍・滎陽太守、封脩武縣侯。
及劉粲嗣位、昏虐日甚、其將靳準乃起兵殺粲、并其宗族、發聰冢、斬其尸、遣使歸矩、稱「劉元海屠各小醜、因大晉事故之際、作亂幽并、矯稱天命、至令二帝幽沒虜庭。輒率眾扶侍梓宮、因請上聞」。矩馳表于帝、帝遣太常韓胤等奉迎梓宮、未至而準已為石勒・劉曜所沒。矩以眾少不足立功、每慷慨憤歎。及帝踐阼、以為都督司州諸軍事・司州刺史、改封平陽縣侯、將軍如故。時弘農太守尹安・振威將軍宋始等四軍並屯洛陽、各相疑阻、莫有固志。矩・默各遣千騎至洛以鎮之。安等乃同謀告石勒、勒遣石生率騎五千至洛陽、矩・默軍皆退還。俄而四將復背勒、遣使乞迎、默又遣步卒五百人入洛。石生以四將相謀、不能自安、乃虜宋始一軍、渡河而南。百姓相率歸矩、於是洛中遂空。矩乃表郭誦為揚武將軍・陽翟令、阻水築壘、且耕且守、為滅賊之計。屬趙固死、石生遣騎襲誦、誦多計略、賊至、輒設伏破之、虜掠無所得。生怒、又自率四千餘騎暴掠諸縣、因攻誦壘、接戰須臾、退軍堮坂。誦率勁勇五百追及生於磐脂故亭、又大破之。矩以誦功多、表加赤幢曲蓋、封吉陽亭侯。
郭默欲侵祖約、矩禁之不可、遂為約所破。石勒遣其養子3.□襲默、默懼後患未已、將降於劉曜、遣參軍鄭雄詣矩謀之、矩距而不許。後勒遣其將石良率精兵五千襲矩、矩逆擊不利。郭誦弟元復為賊所執、賊遣元以書說矩曰、「去年東平曹嶷、西賓猗盧、矩如牛角、何不歸命」。矩以示誦、誦曰、「昔王陵母在賊、猶不改意、弟當何論」。勒復遺誦麈尾馬鞭、以示殷勤、誦不答。勒將石生屯洛陽、大掠河南、矩・默大饑、默因復說矩降曜。矩既為石良所破、遂從默計、遣使於曜。曜遣從弟岳軍于河陰、欲與矩謀攻石生。勒遣將圍岳、岳閉門不敢出。默後為石4.□所敗、自密南奔建康。矩聞之大怒、遣其將郭誦等齎書與默、又敕誦曰、「汝識脣亡之談不。迎接郭默、皆由於卿、臨難逃走、其必留之」。誦追及襄城、默自知負矩、棄妻子而遁。誦擁其餘眾而歸、矩待其妻子如初。劉岳以外援不至、降于石季龍。
矩所統將士有陰欲歸勒者、矩知之而不能討、乃率眾南走、將歸朝廷、眾皆道亡、惟郭誦及參軍郭方、功曹張景、主簿苟遠、將軍騫韜・江霸・梁志・司馬尚・季弘・李瓌・段秀等百餘人棄家送矩。至於魯陽縣、矩墜馬卒、葬襄陽之峴山。

1.中華書局本の校勘記によると、「劉元海」は「劉曜」に作るべきである。
2.劉雅生は、劉聡・劉粲・劉曜載記は「劉雅」に作り、「生」字がない。
3.「□」は、「聰」の旁の部分(「耳」がないもの)。石勒載記は「聰」に作る。
4.「□」は、「聰」の旁の部分(「耳」がないもの)。石勒載記は「聰」に作る。

訓読

李矩 字は世迴、平陽の人なり。童齔の時、羣兒と聚戲し、便ち其の率と為り、計畫し指授し、成人の量有り。長ずるに及び、吏と為り、故の縣令を長安に送るに、征西將軍の梁王肜 以て牙門と為す。氐の齊萬年を伐ちて殊功有り、東明亭侯に封ぜらる。還りて本郡の督護と為る。太守の宋冑 親しむ所の吳畿を以て之に代へんと欲し、矩 病を謝して去る。畿 矩の復た還るを恐れ、陰かに人をして矩を刺さしむるに、會々人の之を救ふもの有りて、故に免るるを得たり。劉元海の平陽を攻むるに屬ひ、百姓 奔走す。矩 素より鄉人の愛する所為れば、乃ち推せられて塢主と為り、東して滎陽に屯し、後に新鄭に移る。
矩 勇毅にして權略多く、志は功を立つるに在り。東海王越 以て汝陰太守と為す。永嘉の初めに、矩をして汝南太守の袁孚と與に眾を率ゐて洛陽の千金堨を修せしめ、以て運漕を利せんとす。洛陽 守らざるに及び、太尉の荀藩 陽城に奔り、衞將軍の華薈 成皋に奔る。時に大いに饑え、賊帥の侯都ら每に人を略して之を食らひ、藩・薈の部曲 多く啖らふ所と為る。矩 都らを討ちて之を滅し、乃ち藩・薈を營護し、各々為に屋宇を立て、穀を輸して以て之に給す。藩 承制し、行臺を建つるに及び、矩を滎陽太守に假す。矩 離散せしを招懷し、遠近 多く之に附く。
石勒 親ら大眾を率ゐて矩を襲ひ、矩 老弱をして山に入らしめ、所在をして牛馬を散らしめ、因りて伏を設けて以て之を待つ。賊 爭ひて牛馬を取るや、伏 發し、呼を齊しくし、聲は山谷を動かし、遂に大いに之を破り、斬獲するもの甚だ眾し。勒 乃ち退く。藩 元帝に表し、矩に冠軍將軍、軺車幢蓋を加へ、封を陽武縣侯に進め、河東・平陽太守を領せしむ。時に饑饉 相 仍りにして、又 疫癘多く、矩 心を垂れて撫恤し、百姓 焉を賴る。會々長安の羣盜 東下し、所在に虜掠多く、矩 部將を遣はして之を擊破せしめ、盡く賊の略する所の婦女千餘人を得たり。諸將 矩の部する所に非ざるを以て、遂に之を留めんと欲す。矩曰く、「俱に是れ國家の臣妾なり、焉んぞ彼此有らんか」と。乃ち一時に之を遣はす。
時に劉琨の假する所の河內太守の郭默 劉元海の逼る所と為り、矩に歸せんことを乞ひ、矩 將に其の甥の郭誦をして迎へて之を致さしめんとするに、而れども敢て進まず。會々劉琨 參軍の張肇を遣はして、鮮卑の范勝ら五百餘騎を率はして長安に往かしめ、默の圍はるに屬ひ、道路 通ぜず、將に還りて邵續に依らんとす。行きて矩の營に至る。矩 肇に謂ひて曰く、「默 是れ劉公の授くる所なり、公家の事、為さざること無きを知る」と。屠各舊 鮮卑を畏れ、遂に肇を邀へて聲援と為し、肇 之を許す。賊 鮮卑を望見し、戰はずして走る。誦 潛かに輕舟をして河を濟らしめ、勇士をして懷城を夜襲せしめ、賊の留營を掩し、又 大いに之を破る。默 遂に其の屬を率ゐて矩に歸す。後に劉聰 從弟の暢を遣はして步騎三萬もて矩を討たしめ、韓王の故壘に屯し、相 去ること七里。使を遣はして矩を招く。時に暢 卒かに至り、矩 未だ備を為すに暇あらず、使を遣はして牛酒を奉りて詐りて暢に降り、潛かに精勇を匿し、其の老弱を見しむ。暢 以て虞と為さず、大いに渠帥を饗し、人 皆 醉飽す。矩 之を夜襲せんと謀るに、兵士は賊の眾きを以て、皆 懼色有り。矩 郭誦をして鄭子產の祠を禱らしめて曰く、「君 昔 鄭に相たりて、惡鳥 鳴かず。凶胡・臭羯、何ぞ庭を過ぎるを得ん」と。巫をして揚言せしめ、「東里に教有り、當に神兵をして相 助けしむ」と。將士 之を聞き、皆 踴躍して爭ひて進む。乃ち誦及び督護の楊璋らをして勇敢なるもの千人を選び、夜に暢が營を掩はしめ、鎧馬を獲ること甚だ多く、斬首すること數千級、暢 僅かに身を以て免る。
是より先、郭默 矩の攻めらるを聞き、弟の芝をして眾を率ゐて之を援けしむ。既にして暢を破るを聞き、芝 復た馳來して矩に赴く。矩 乃ち芝に馬五百匹を與へ、軍を分けて三道と為し、夜に賊を追ひ、復た大いに獲へて旋る。
是より先、聰 其の將の趙固をして洛陽に鎮せしめ、長史の周振 固と協ならず、密かに固が罪を陳ぶ。矩の暢を破るや、帳中 聰が書を得て、暢に敕すらく、矩を平らがしめ訖はり、洛陽を過り、固を收めて之を斬り、便ち振を以て固に代ふ。矩 送るに固を示すを以てし、固 即ち振の父子を斬り、遂に騎一千を率ゐて來降するに、矩 還りて洛を守らしむ。後數月にして、聰 其の太子の粲を遣はして劉雅生ら步騎十萬を率ゐて孟津の北岸に屯せしめ、分けて雅生を遣はして趙固を洛に攻めしむ。固 陽城山に奔り、弟を遣はして急を告げしめ、矩 郭誦を遣はして洛口に屯して以て之を救はしむ。誦 將の張皮をして精卒千人を簡びて夜に渡河せしむ。粲の候者 兵の至る有るを告ぐるに、粲 其の眾きを恃み、以て虞と為さず。既にして誦ら奄至し、十道もて俱に攻め、粲の眾 驚き擾れ、一時に奔潰し、殺傷すること太半、因りて其の營に據り、其の器械軍資を獲ること勝げて數ふ可からず。旦に及び、粲 皮らの人の少なきを見て、更めて雅生と與に餘眾を悉くして之を攻め、苦戰すること二十餘日なるも下す能はず。矩 進みて之を救ひ、壯士三千をして舟を泛べて皮を迎へしむ。賊 河に臨みて陣を列ね、長鉤を作りて以て船を鉤し、連戰すること數日なれば渡るを得ず。矩 夜に部將の格增を遣はして潛かに濟りて皮壘に入らしめ、皮と與に精騎千餘を選びて、而して獲る所の牛馬を殺し、器械を焚燒し、夜に圍を突きて出で、武牢に奔る。聰 之を追ひ、及ばずして退る。聰 因りて憤恚し、病を發して死す。帝 其の功を嘉し、矩を都督河南三郡軍事・安西將軍・滎陽太守に除し、脩武縣侯に封ず。
劉粲 位を嗣ぐに及び、昏虐たること日に甚しく、其の將の靳準 乃ち兵を起こして粲を殺し、其の宗族を并せ、聰が冢を發し、其の尸を斬り、使を遣はして矩に歸し、稱すらく、「劉元海 各々の小醜を屠り、大晉が事故の際に因り、亂を幽并に作し、矯めて天命と稱し、二帝をして虜庭に幽沒せしむるに至る。輒ち眾を率ゐて梓宮を扶侍し、因りて上聞を請はん」と。矩 表を帝に馳せ、帝 太常の韓胤らをして梓宮を奉迎し、未だ至らずして準 已に石勒・劉曜の沒する所と為る。矩 眾の少なく功を立るに足らざるを以て、每に慷慨し憤歎す。帝 踐阼するに及び、以て都督司州諸軍事・司州刺史と為し、改めて平陽縣侯に封じ、將軍たること故の如し。時に弘農太守の尹安・振威將軍の宋始ら四軍 並びに洛陽に屯し、各々相 疑阻し、固志有る莫し。矩・默 各々千騎を遣はして洛に至りて以て之に鎮す。安ら乃ち謀を同じくして石勒に告げ、勒 石生を遣はして騎五千を率ゐて洛陽に至らしめ、矩・默の軍 皆 退き還る。俄かにして四將 復た勒に背き、使を遣はして迎へんことを乞ひ、默 又 步卒五百人を遣はして洛に入らしむ。石生 四將の相 謀るを以て、自ら安ずること能はず、乃ち宋始の一軍を虜へて、河を渡りて南す。百姓 相 率ゐて矩に歸し、是に於て洛中 遂に空なり。矩 乃ち郭誦を表して揚武將軍・陽翟令と為し、水を阻みて壘を築き、且つ耕し且つ守り、賊を滅すの計を為す。趙固の死に屬ひ、石生 騎を遣はして誦を襲はして、誦 計略多ければ、賊 至るや、輒ち伏をして之を破り、虜掠 得る所無し。生 怒り、又 自ら四千餘騎を率ゐて暴かに諸縣を掠し、因りて誦が壘を攻め、接戰すること須臾にして、軍を堮坂に退く。誦 勁勇五百を率ゐて追ひて生に磐脂故亭に及び、又 大いに之を破る。矩 誦の功 多きを以て、表して赤幢曲蓋を加へ、吉陽亭侯に封ず。
郭默 祖約を侵さんと欲するに、矩 之を禁じて不可とし、遂に約の破る所と為る。石勒 其の養子の□を遣はして默を襲はして、默 後患の未だ已まざるを懼れ、將に劉曜に降らんとし、參軍の鄭雄を遣はして矩に詣りて之に謀るに、矩 距みて許さず。後に勒 其の將の石良を遣はして精兵五千を率ゐて矩を襲はしめ、矩 逆擊すれども利あらず。郭誦が弟の元 復た賊の執ふる所と為り、賊 元を遣はして書を以て矩に說きて曰く、「去年 東は曹嶷を平らげ、西は猗盧を賓せしめ、矩 牛角が如し。何ぞ歸命せざる」と。矩 以て誦に示すに、誦 曰く、「昔 王陵の母 賊に在り、猶ほ意を改めず。弟は當に何をか論ぜん」と。勒 復た誦を遺はして麈尾馬鞭して、以て示すこと殷勤なるに、誦 答へず。勒の將の石生 洛陽に屯し、大いに河南を掠め、矩・默 大いに饑え、默 因りて復た矩に曜に降らんことを說く。矩 既にして石良の破る所と為れば、遂に默が計に從ひ、使を曜に遣る。曜 從弟の岳を遣はして河陰に軍せしめ、矩と謀りて石生を攻めんと欲す。勒 將を遣はして岳を圍はしめ、岳 門を閉ぢて敢て出ず。默 後に石の敗る所と為り、密より南して建康に奔る。矩 之を聞きて大いに怒り、其の將の郭誦らを遣はして書を齎らして默に與へ、又 誦に敕して曰く、「汝 脣亡の談を識るや不や。郭默に迎接するは、皆 卿に由る。難に臨みて逃走せば、其れ必ず之を留めよ」と。誦 追ひて襄城に及び、默 自ら矩に負くを知り、妻子を棄てて遁る。誦 其の餘眾を擁して歸り、矩 其の妻子を待すること初の如し。劉岳 外援の至らざるを以て、石季龍に降る。
矩 統ぶる所の將士 陰かに勒に歸せんと欲する者有り、矩 之を知れども討つ能はず、乃ち眾を率ゐて南して走り、將に朝廷に歸せんとするに、眾 皆 道に亡し、惟だ郭誦及び參軍の郭方、功曹の張景、主簿の苟遠、將軍の騫韜・江霸・梁志・司馬尚・季弘・李瓌・段秀ら百餘人のみ家を棄てて矩を送る。魯陽縣に至り、矩 馬より墜ちて卒し、襄陽の峴山に葬る。

現代語訳

李矩は字を世迴といい、平陽の人である。童子のころ、子供たちと集まって遊ぶと、他の子を従え、はかりごとを立てて指図し、大人のような器量があった。成長すると、吏となり、前任の県令を長安に見送ったとき、征西将軍の梁王肜(司馬肜)が彼を牙門とした。氐族の斉万年を討伐して特段の功績があり、東明亭侯に封建された。故郷に帰って出身郡(平陽)の督護となった。太守の宋冑が親しい呉畿を彼と交代させようとすると、李矩は病気を理由に立ち去った。呉畿は李矩が帰ってくるのを恐れ、ひそかに人に暗殺をさせたが、たまたま李矩を救出するものがおり、殺されずにすんだ。劉元海(劉淵)が平陽を攻撃すると、万民は逃げ惑った。李矩はかねて郷里の人々に慕われていたので、推戴されて塢主となり、東に行って滎陽に駐屯し、のちに新鄭に移った。
李矩は勇敢で強くて謀略が多く、功績を立てることを志とした。東海王越(司馬越)が彼を汝陰太守とした。永嘉年間の初め、李矩に汝南太守の袁孚とともに兵を率いて洛陽の千金堨を修築させ、水運を便利にしようとした。洛陽の防衛が破られると、太尉の荀藩は陽城に逃げ、衛将軍の華薈は成皋に逃げた。このときひどい飢饉で、賊帥の侯都らはいつも人を連れ去って食べ、荀藩と華薈の部曲は多くが食われた。李矩は侯都らを討伐して滅ぼし、荀藩と華薈を軍営を築いて守り、それぞれ家屋を建て、穀物を支給した。荀藩が承制して、行台を建てると、李矩を滎陽太守に仮した。李矩は離散したものを招いて労り、遠近から多くの人々が従った。
石勒がみずから大軍を率いて李矩を襲撃すると、李矩は老人や幼児を山に入れ、あたりに牛馬を散開させて、伏兵を設けて待った。賊が争って牛馬を奪うと、伏兵を放ち、一斉に叫んで、声が山谷を震わせた。かくして大いに石勒軍を破り、多くを斬獲した。石勒は撤退した。荀藩が元帝に上表し、李矩に冠軍将軍、軺車と幢蓋を加え、封号を陽武県侯に進め、河東・平陽太守を領させた。このとき飢饉がよく起こり、さらに疫病が多いので、李矩は心を尽くして慈み恵んだため、万民は彼を頼りにした。このとき長安の群盗が東に下ってきて、各地で盛んに略奪が行われた。李矩は部将を派遣して撃破し、賊に捕らわれていた婦女の千人あまりを得た。諸将は(彼女らの郷里が)李矩の統治下ではないから、そこに置き去りにしようとした。李矩は、「みなが国家の臣民である、どうして区別があろうか」と言った。まとめて連れていった。
このとき劉琨が仮した(独自に任命した)河内太守の郭黙は劉元海(劉淵)に迫られ、李矩への帰属を求めた。李矩は甥の郭誦を迎えに出して受け入れようとしたが、(郭黙は)なかなか進まなかった。たまたま劉琨が参軍の張肇を派遣し、鮮卑の范勝らに五百騎あまりを率いさせて長安に向かっていたが、郭黙が包囲を受けているところに遭遇し、道路が遮断されていたので、引き返した邵続を頼ろうとした。(張肇は)進んで李矩の軍営にきた。李矩は張肇に、「郭黙は劉公(劉琨)が任命した太守であり、国家の任命が、機能していないことが分かった」と言った。屠各はかねて鮮卑を畏れていたから、(鮮卑の五百騎を率いる)張肇を迎えて援軍になろうとし、張肇はこれを許した。賊は(張肇配下の)鮮卑を遠くから眺め、戦わずに逃げた。(包囲を受けている)郭誦はひそかに小型船に黄河を渡らせ、勇士に懐城を夜襲させ、賊の留営を奪って、大いに破った。郭黙はその配下を率いて李矩に帰属した。のちに劉聡は従弟の劉暢を派遣して歩騎三万で劉矩を攻撃し、韓王の故塁に駐屯して、七里の距離で(李矩と)対峙した。(劉暢は)使者をやって李矩を招いた。このとき劉暢がにわかに到着したので、李矩には防備を固める時間がなかったので、使者を送って牛酒を奉って詐って劉暢に降服しつつ、ひそかに精鋭の勇士を隠し、老兵や弱兵に見せかけた。劉暢は(李矩を)恐れるに足らないと思い、おおいに渠帥を饗応し、人々はみな酔い潰れた。李矩は夜襲を計画したが、兵士たちは賊軍の数が多いので、みな懼れた様子であった。李矩は郭誦に命じて鄭の子産の祠を祭らせ、「あなたはむかし鄭国の宰相となり、悪鳥が鳴かなくなった。凶悪な胡族や穢れた羯族が、どうして(鄭国の)領土を通過するのを許すのですか」と言った。巫者に(子産の)言葉を述べさせ、「東里に教化が残っていれば、神兵に助けさせるだろう」と言わせた。将士はこれを聞いて、みな勇躍して争って進んだ。そして郭誦及び督護の楊璋らに勇敢なもの千人を選抜させ、夜に劉暢の軍営を襲撃させた。鎧や馬を大量に得て、数千を斬首し、劉暢だけは辛うじて逃げた。
これより先、郭黙は李矩が(劉暢に)攻撃を受けていると聞き、弟の郭芝に兵を率いて救援させた。すでに(李矩が)劉暢を破ったと聞いても、郭芝は馳せて李矩のもとに赴いた。李矩は郭芝に五百匹の馬を与え、軍を三道に分けて進ませ、夜に賊を襲い、大勢を捕らえて帰った。
これよりさき、劉聡は将の趙固に洛陽を鎮護させたが、長史の周振は趙固と折りあわず、趙固の罪を密告した。李矩が劉暢を破ると、幕営のなかで劉聡の書簡を手に入れ、劉暢への命令書であり、「李矩を平定した後、洛陽に向かい、趙固を捕らえて斬り、周振を趙固と交代させよ」とあった。李矩がこれを趙固に送って見せると、趙固はただちに周振の父子を斬り、かくして一千騎を率いて投降しに来たが、李矩は(趙固を)還して洛陽を守らせた。数ヵ月後、劉聡はその太子の劉粲を派遣して劉雅生ら歩騎の十万を率いて孟津の北岸に駐屯させ、軍を分けて劉雅生に趙固が守る洛陽を攻撃させた。趙固は陽城山に逃げ込み、弟を派遣して(李矩に)危急を報告した。李矩は郭誦を遣わして洛口に駐屯し援軍とした。郭誦は将の張皮に精兵千人を選んで夜に黄河を渡らせた。劉粲の斥候が敵軍の到着を告げたが、劉粲は自軍の兵数が多いので油断をして、警戒しなかった。郭誦らが急速に到来し、十道から同時に攻撃すると、劉粲の軍は驚いて乱れ、一瞬で崩壊した。大半を殺傷し、(郭誦は劉粲の)軍営を奪って自軍の拠点とし、そこで獲得した兵器や物資は数え切れなかった。明け方、劉粲は張皮軍の人数の少なさを見て、あらためて劉雅生とともに残兵をすべて集めて攻撃し、二十日あまり厳しい戦いをしたが(張皮を)攻略できなかった。李矩は進軍してこれを救い、壮士三千人に船を浮かべて張皮を迎えさせた。賊は黄河に臨んで戦陣をつらね、長鉤を作って船をひっかけ、数日にわたり連戦したので(張皮は黄河を)渡ることができなかった。李矩は夜に部将の格増を派遣してひそかに黄河を渡って張皮の防塁に入らせ、張皮とともに精騎の千人あまりを選んで、獲得した牛馬を殺し、兵器を焼き捨て、夜に包囲を突破して脱出し、武牢に逃げた。劉聡がこれを追ったが、追い付けずに撤退した。劉聡はこれにより憤激し、病気になって死んだ。元帝はその功績を称え、李矩を都督河南三郡軍事・安西将軍・滎陽太守に任命し、脩武県侯に封建した。
劉粲が(前趙の)位を嗣ぐと、日ごとに暗愚と残虐さがひどくなり、その将の靳準が兵を起こして劉粲を殺し、劉氏の宗族をすべて殺し、劉聡の墓をあばき、その遺体を斬り、使者を送って李矩に帰順し、「劉元海(劉淵)は各地の小さな族長を殺し、大いなる晋の混乱に乗じて、幽州や并州で乱を起こし、天命を偽称し、(西晋の)二帝を匈奴の地に幽閉して殺した。兵を率いて(二帝の)棺を捧げ持ち、ご指示を賜りたい」と言った。李矩は元帝に上表し、元帝は太常の韓胤らに棺を奉迎させたが、到着する前に靳準が石勒や劉曜に捕らえられた。李矩は兵が少なく功績を立てるには足りないため、つねに慷慨して怒り嘆いていた。元帝が帝位につくと、李矩を都督司州諸軍事・司州刺史とし、改めて平陽県侯に封じ、将軍は現状のままとした。このとき弘農太守の尹安や振威将軍の宋始らの四軍が並んで洛陽に駐屯したが、それぞれで疑い妨げあって、定まった意志がなかった。李矩と郭黙はそれぞれ千騎を派遣して洛陽に至ってそこを鎮護した。尹安らは共謀して石勒に連絡し、石勒は石生に五千騎を率いて洛陽に向かわせたので、李矩と郭黙の軍は撤退して帰還した。すぐにまた四将が石勒から離叛し、使者を送って(李矩に)来てほしいと言ったので、郭黙が歩兵の五百人を率いて洛陽に入った。石生は四将のだまされたので、安心できず、そこで宋始の一軍を捕らえて、黄河を渡って南下した。万民は連れだって劉矩を頼り、ここにおいて洛中は空虚になった。李矩は郭誦を上表して揚武将軍・陽翟令とし、水を堰きとめて土塁を築き、(屯田を)耕したり守ったりして、賊を滅ぼす計略をねった。趙固が死ぬと、石生は騎兵に郭誦を襲撃させたが、郭誦には計略が多く、賊軍が到着すると、ただちに伏兵によって撃破し、賊による略奪は失敗した。石生は怒り、また自ら四千騎あまりを率いてにわかに諸県を略奪し、その勢いで郭誦の防塁を攻め、しばらく交戦したが、軍を堮坂に退けた。郭誦は強く勇敢な五百人を率いて追って石生に磐脂の故亭で追いつき、また大いに破った。李矩は郭誦の功績が大きいので、上表して赤幢曲蓋を加え、吉陽亭侯に封建した。
郭黙が祖約を侵攻しようとしたが、李矩はこれを禁じて制止し、結局は祖約に敗れることになった。石勒は養子の石□に郭黙を襲撃させ、郭黙は後方の脅威がなくならないことを懼れて、劉曜に投降しようと思い、参軍の鄭雄を派遣して李矩に相談を持ちかけたが、李矩は拒否して許さなかった。のちに石勒は将の石良を派遣して精兵五千を率いて李矩を襲わせ、李矩は迎え撃ったが勝てなかった。郭誦の弟の郭元もまた賊に捕らえられ、賊は郭元を使者に書簡を送り届けさせて李矩を説得し、「(石氏は)去年は東は曹嶷を平定し、西は猗盧を服属させたが、彼らは李矩と牛角(同格)の勢力であった。どうして(李矩だけが)命令に服属しないのか」と言った。李矩がこれを郭誦に示すと、郭誦は、「むかし王陵の母が賊に捕まったが、それでも態度を変えなかった。弟が捕まっても論じることがあろうか」と言った。石勒はまた郭誦を使者にして麈尾や馬鞭を送って、手厚く説得を試みたが、郭誦は応答しなかった。石勒の将の石生は洛陽に駐屯し、大いに河南で略奪したので、李矩と郭黙はひどく食糧が不足した。郭黙はふたたび李矩に劉曜への降服を説得した。李矩は石良に敗れたところで、郭黙の考えに従い、使者を劉曜に送った。劉曜は従弟の劉岳を派遣して河陰に進軍させ、李矩と計画して石生を攻撃しようとした。石勒は将を派遣して劉岳を包囲させたところ、劉岳は門を閉じて出なかった。郭黙はのちに石氏に敗れ、密県から南下して建康に逃げた。李矩はこれを聞いて大いに怒り、その将の郭誦らを派遣して書簡をもたらして郭黙にあたえ、また郭誦に命じて、「きみは唇がなくなれば歯が寒いという言葉を知らないのか。郭黙と向きあうことが、きみの役目であった。苦難にあって逃走するなら、必ず彼を留めておけ」と言った。郭誦が追って襄城まで来ると、郭黙は李矩と意見が違っていることを知り、妻子を棄てて逃れた。郭誦は郭黙の残兵をまとめて帰り、李矩は郭黙の妻子を従来どおり待遇した。劉岳は外からの救援が来ないので、石季龍に降服した。
李矩の統率下の将士にひそかに石勒に帰順しようとするものがおり、李矩はそれを知っていたが討伐できなかった。兵を率いて南下して逃げ、朝廷に帰順しようとしたが、兵士が道中で失われ、ただ郭誦及び参軍の郭方、功曹の張景、主簿の苟遠、将軍の騫韜・江霸・梁志・司馬尚・季弘・李瓌・段秀ら百人あまりのみが家族を棄てて李矩を(建康に)送り届けた。魯陽県に至り、李矩は馬から落ちて亡くなり、襄陽の峴山に葬られた。

段匹磾

原文

段匹磾、東部鮮卑人也。種類勁健、世為大人。父務勿塵、遣軍助東海王越征討有功、王浚表為親晉王、封遼西公、嫁女與務勿塵、以結鄰援。懷帝即位、以務勿塵為大單于、匹磾為左賢王、率眾助國征討、假撫軍大將軍。務勿塵死、弟涉復辰以務勿塵子疾陸眷襲號。
劉曜逼洛陽、王浚遣督護王昌等率疾陸眷及弟文鴦・從弟末杯攻石勒於襄國。勒敗還壘、末杯追入壘門、為勒所獲。勒質末杯、遣使求和於疾陸眷。疾陸眷將許之、文鴦諫曰、「受命討勒、寧以末杯一人、故縱成擒之寇。既失浚意、且有後憂、必不可許」。疾陸眷不聽、以鎧馬二百五十匹・金銀各一簏贖末杯。勒歸之、又厚以金寶綵絹報疾陸眷。疾陸眷令文鴦與石季龍同盟、約為兄弟、遂引騎還。昌等不能獨守、亦還。
建武初、匹磾推劉琨為大都督、結盟討勒、并檄涉復辰・疾陸眷・末杯等三面俱集襄國、琨・匹磾進屯固安、以候眾軍。勒懼、遣間使厚賂末杯。然末杯既思報其舊恩、且因匹磾在外、欲襲奪其國、乃間匹磾於涉復辰・疾陸眷曰、「以父兄而從子弟邪。雖一旦有功、匹磾獨收之矣」。涉復辰等以為然、引軍而還。匹磾亦止。會疾陸眷病死、匹磾自薊奔喪、至於右北平。末杯宣言匹磾將篡、出軍擊敗之。末杯遂害涉復辰及其子弟黨與二百餘人、自立為單于。
及王浚敗、匹磾領幽州刺史、劉琨自并州依之、復與匹磾結盟、俱討石勒。匹磾復為末杯所敗、士眾離散、懼琨圖己、遂害之、於是晉人離散矣。匹磾不能自固、北依邵續、末杯又攻敗之。匹磾被瘡、謂續曰、「吾夷狄慕義、以至破家、君若不忘舊要、與吾進討、君之惠也」。續曰、「賴公威德、續得效節。今公有難、豈敢不俱」。遂并力追末杯、斬獲略盡。又令文鴦北討末杯弟於薊城、及還、去城八十里、聞續已沒、眾懼而散、復為石季龍所遮、文鴦以其親兵數百人力戰破之、始得入城。季龍復抄城下、文鴦登城臨見、欲出擊之、匹磾不許。文鴦曰、「我以勇聞、故百姓杖我。見人被略而不救、非丈夫也。令眾失望、誰復為我致死乎」。遂將壯士數十騎出戰、殺胡甚多。遇馬乏、伏不能起。季龍呼曰、「大兄與我俱是戎狄、久望共同。天不違願、今日相見、何故復戰。請釋杖」。文鴦罵曰、「汝為寇虐、久應合死。吾兄不用吾計、故令汝得至此。吾寧死、不為汝擒」。遂下馬苦戰、槊折、執刀力戰不已。季龍軍四面解馬羅披自鄣、前捉文鴦。文鴦戰自辰至申、力極而後被執。城內大懼。
匹磾欲單騎歸朝、續弟樂安內史洎勒兵不許。洎復欲執臺使王英送於季龍、匹磾正色責之曰、「卿不能遵兄之志、逼吾不得歸朝、亦以甚矣、復欲執天子使者、我雖胡夷、所未聞也」。因謂英曰、「匹磾世受重恩、不忘忠孝。今日事逼、欲歸罪朝廷、而見逼迫、忠款不遂。若得假息、未死之日、心不忘本」。遂渡黃河南。匹磾著朝服、持節、賓從出見季龍曰、「我受國恩、志在滅汝。不幸吾國自亂、以至於此。既不能死、又不能為汝敬也」。勒及季龍素與匹磾結為兄弟、季龍起而拜之。匹磾到襄國、又不為勒禮、常著朝服、持晉節。經年、國中謀推匹磾為主、事露、被害。文鴦亦遇鴆而死、惟末波存焉。及死、弟牙立。牙死、其後從祖就陸眷之孫遼立。
自務勿塵已後、值晉喪亂、自稱位號、據有遼西之地、而臣御晉人。其地西盡幽州、東界遼水。然所統胡晉可三萬餘家、控弦可四五萬騎、而與石季龍遞相侵掠、連兵不息、竟為季龍所破、徙其遺黎數萬家於司雍之地。其子蘭復聚兵、與季龍為患久之。及石氏之亡、末波之子勤鳩集胡羯得萬餘人、保枉人山、自稱趙王、附于慕容儁。俄為冉閔所敗、徙于繹幕、僭即尊號。儁遣慕容恪擊之、勤懼而降。

訓読

段匹磾は、東部の鮮卑人なり。種類は勁健にして、世々大人為り。父の務勿塵、軍を遣はして東海王越を助けて征討して功有り、王浚 表して親晉王と為し、遼西公に封じ、女を嫁して務勿塵に與へ、以て鄰援を結ぶ。懷帝 即位するや、務勿塵を以て大單于と為し、匹磾もて左賢王と為し、眾を率ゐて國を助けて征討し、撫軍大將軍を假す。務勿塵 死するや、弟の涉復辰 務勿塵が子の疾陸眷を以て號を襲はしむ。
劉曜 洛陽に逼るや、王浚 督護の王昌らを遣はして疾陸眷及び弟の文鴦・從弟の末杯を率ゐて石勒を襄國に攻む。勒 敗れて壘に還り、末杯 追ひて壘門に入り、勒の獲ふる所と為る。勒 末杯を質とし、使を遣はして和を疾陸眷に求む。疾陸眷 將に之を許さんとするに、文鴦 諫めて曰く、「命を受けて勒を討つ、寧ぞ末杯一人を以て、故に成擒の寇を縱にせんか。既に浚の意を失ひ、且つ後憂有れば、必ず許す可からず」と。疾陸眷 聽さず、鎧馬二百五十匹・金銀各一簏を以て末杯を贖ふ。勒 之に歸し、又 厚く金寶綵絹を以て疾陸眷に報ゆ。疾陸眷 文鴦をして石季龍と同盟せしめ、約して兄弟と為し、遂に騎を引きて還る。昌ら獨り守る能はず、亦た還る。
建武の初に、匹磾 劉琨を推して大都督と為し、盟を結びて勒を討ち、并せて涉復辰・疾陸眷・末杯らに檄して三面もて俱に襄國に集はしめ、琨・匹磾 進みて固安に屯し、以て眾軍を候つ。勒 懼れ、間使をして厚く末杯に賂せしむ。然るに末杯 既に其の舊恩に報いんことを思ひ、且つ匹磾 外に在るに因り、襲ひて其の國を奪はんと欲し、乃ち匹磾を涉復辰・疾陸眷に間して曰く、「父兄を以て子弟に從ふや。一旦 功有りと雖も、匹磾 獨り之を收めん」と。涉復辰ら以て然りと為し、軍を引きて還る。匹磾も亦た止まる。會々疾陸眷 病もて死し、匹磾 薊より喪に奔り、右北平に至る。末杯 宣く匹磾 將に篡せんとすと言ひ、軍を出だして擊ちて之を敗る。末杯 遂に涉復辰及び其の子弟黨與の二百餘人を害し、自立して單于と為る。
王浚 敗るるに及び、匹磾 幽州刺史を領し、劉琨 并州より之に依り、復た匹磾と盟を結び、俱に石勒を討つ。匹磾 復た末杯の敗る所と為り、士眾 離散し、琨 己を圖るを懼れ、遂に之を害す。是に於て晉人 離散す。匹磾 自ら固むる能はず、北のかた邵續に依り、末杯も又 攻めて之を敗る。匹磾 瘡を被り、續に謂ひて曰く、「吾 夷狄にして義に慕ひ、以て家を破るに至る。君 若し舊要を忘れずんば、吾と與に進討せよ。君の惠なり」と。續曰く、「公の威德に賴り、續 效節を得たり。今 公 難有り、豈に敢て俱にせざる」と。遂に力を并せて末杯を追ひ、斬獲すること略々盡くなり。又 文鴦をして北して末杯の弟を薊城に討たしめ、還るに及び、城を去ること八十里、續の已に沒せるを聞き、眾 懼れて散じ、復た石季龍の遮る所と為り、文鴦 其の親兵の數百人を以て力戰して之を破り、始めて城に入るを得たり。季龍 復た城下を抄し、文鴦 城に登りて臨見し、出でて之を擊たんと欲するも、匹磾 許さず。文鴦曰く、「我 勇を以て聞こえ、故に百姓 我を杖る。人の略せらるるを見て救はざれば、丈夫に非ざるなり。眾をして失望せしむれば、誰か復た我が為に死を致さんや」と。遂に壯士數十騎を將ゐて出でて戰ひ、胡を殺すこと甚だ多し。馬の乏なるに遇ひて、伏して起つ能はず。季龍 呼びて曰く、「大兄 我と與に俱に是れ戎狄なり、久しく共同せんことを望む。天は願ひに違はず、今日 相 見ゆ。何故に復た戰ふや。請ふ杖を釋け」と。文鴦 罵りて曰く、「汝 寇虐を為し、久しく應に死に合すべし。吾が兄 吾が計を用ゐず、故に汝をして得せしむること此に至る。吾 寧ろ死すとも、汝が擒と為らず」と。遂に馬を下りて苦戰し、槊は折れ、刀を執りて力戰して已まず。季龍 四面に軍して馬羅披を解きて自鄣し、前みて文鴦に捉す。文鴦 戰ふこと辰より申にまで至り、力 極はりて後に執へらる。城內 大いに懼る。
匹磾 單騎もて朝に歸せんと欲するに、續が弟の樂安內史たる洎 兵を勒して許さず。洎 復た臺使の王英を執へて季龍に送らんと欲するに、匹磾 色を正して之を責めて曰く、「卿 兄の志に遵ふ能はず、吾に逼まりて歸朝を得しめず、亦た以て甚し。復た天子の使者を執らへんと欲す。我 胡夷と雖も、未だ聞く所にあらざるなり」と。因りて英に謂ひて曰く、「匹磾 世々重恩を受け、忠孝を忘れず。今日の事 逼り、罪を朝廷に歸せんと欲するに、而れども逼迫せられ、忠款 遂げず。若し假息を得なば、未だ死せざるの日に、心は本を忘れず」と。遂に黃河を渡りて南す。匹磾 朝服を著し、持節し、賓從 出でて季龍に見えて曰く、「我 國の恩を受け、志は汝を滅するに在り。不幸にして吾が國 自ら亂れ、以て此に至れり。既に死する能はず、又 汝の為に敬ふ能はざるなり」と。勒及び季龍 素より匹磾と結びて兄弟為れば、季龍 起ちて之に拜す。匹磾 襄國に到り、又 勒の禮を為さず、常に朝服を著し、晉節を持す。年を經て、國中 匹磾を推して主に為さんと謀り、事 露はれ、害せらる。文鴦も亦た鴆に遇ひて死し、惟だ末波のみ存す。死するに及び、弟の牙 立つ。牙 死し、其の後 從祖の就陸眷の孫の遼 立つ。
務勿塵より已後、晉の喪亂に值ひ、位號を自稱し、據りて遼西の地を有し、而れども晉人に臣御す。其の地 西は幽州に盡き、東界は遼水なり。然して統ぶる所の胡晉 三萬餘家可り、控弦は四五萬騎可り、而して石季龍と與に遞して相 侵掠し、兵を連ねて息まず、竟に季龍の破る所と為り、其の遺黎の數萬家を司雍の地に徙す。其の子の蘭 復た兵を聚め、季龍と與に患為ること久之なり。石氏の亡びに及び、末波の子の勤 胡羯を鳩集して萬餘人を得て、枉人山を保ち、自ら趙王を稱し、慕容儁に附す。俄かにして冉閔の敗る所と為り、繹幕に徙り、僭して尊號に即く。儁 慕容恪を遣はして之を擊たしめ、勤 懼れて降る。

現代語訳

段匹磾は、東部の鮮卑である。その種族は壮健で、代々の大人(族長)であった。父の務勿塵は、軍を送って東海王越(司馬越)を助けて征討の功績があった。王浚は上表して親晋王とし、遼西公に封建し、娘を務勿塵に嫁がせ、隣接した同盟者となった。懐帝が即位すると、務勿塵を大単于とし、段匹磾を左賢王とし、兵を率いて国家を助けて征討し、撫軍大将軍を仮した。務勿塵が死ぬと、弟の渉復辰が務勿塵の子の疾陸眷に称号を継がせた。
劉曜が洛陽に逼ると、王浚は督護の王昌らを派遣して疾陸眷及び弟の文鴦・従弟の末杯を率いて石勒を襄国で攻撃した。石勒が敗れて塁に還ると、末杯は追撃して塁の門に入り、(逆に)石勒に捕らわれた。石勒は末杯を人質とし、使者を送って疾陸眷に和睦を求めた。疾陸眷は受け入れようとしたが、文鴦が諫めて、「命令を受けて石勒を討伐した、どうして末杯の一人を惜しみ、捕虜をとった敵軍を野放しにするのか。すでに王浚の期待にそむき、かつ後の憂いを残すことになる、和睦を受け入れてはならない」と言った。疾陸眷は聞き入れず、鎧馬の二百五十匹と金銀一簏ずつで末杯を買い取った。石勒はこれを返還し、また厚く金宝や綵絹を贈って疾陸眷に報いた。疾陸眷は文鴦に石季龍と同盟をさせ、兄弟の契りを結び、騎兵を引いて帰った。王昌らは単独で守り切れず、彼も帰還した。
建武年間の初め、段匹磾は劉琨を推して大都督とし、盟約を結んで石勒を討伐し、あわせて渉復辰・疾陸眷・末杯らに檄文を送って三面から同時に襄国に集め、劉琨と段匹磾は進軍して固安に駐屯し、大軍の到着を待った。石勒は懼れ、こっそり使者をやって末杯に厚く賄賂をした。末杯は石勒の旧恩に報いようと思い、さらに段匹磾が外征中なので、その国を襲撃して奪おうとした。(末杯は)段匹磾と渉復辰・疾陸眷の仲を裂くために、「父や兄なのに子や弟に従うのか。もし功績があっても、段匹磾が独り占めするぞ」と言った。渉復辰らはその通りだと考え、軍を引いて帰還した。段匹磾もまた進軍を止めた。たまたま疾陸眷が病死すると、段匹磾は薊から遺体のもとに駆けつけ、右北平に至った。末杯は段匹磾が簒奪するつもりだと公言し、軍を出して攻め破った。末杯は渉復辰及びその子弟と党与の二百人あまりを殺害し、自立して単于となった。
王浚が敗れると、段匹磾は幽州刺史を領し、劉琨は并州からこれを頼り、また段匹磾と盟約を結び、ともに石勒を討伐した。段匹磾はまた末杯に敗れて、兵や民が離散した。(段匹磾は)劉琨から命を狙われることを懼れ、劉琨を殺害した。こうして晋人が離散した。段匹磾は勢力を固められず、北のかた邵続を頼ったが、末杯がまたこれを攻め破った。段匹磾は傷を受け、邵続に、「吾は夷狄であり(晋人の)義を慕ったが、家族が破綻した。きみがもし過去の偉人を忘れないなら、ともに進撃してくれ。それがきみから私への恵となる」と言った。邵続は、「あなたの威徳を頼って、私は節義を実現できた。いまあなたが苦難に追い込まれた、どうして協力しないものか」と言った。かくして力を合わせて末杯を追い、ほぼすべてを斬獲した。また文鴦が北上して末杯の弟を薊城で討伐したが、帰還するとき、城から八十里の地点で、邵続がすでに(石氏に)捕らわれた聞き、兵士は懼れて散り、しかも石季龍に遮られた。文鴦はその親兵の数百人で力戦して破り、ようやく城に入ることができた。石季龍はさらに城下で略奪し、文鴦は城壁に登って臨み、出撃しようとしたが、段匹磾が許さなかった。文鴦は、「私は勇猛さで評判をあげ、ゆえに万民は私を頼った。略奪を見過ごせば、一廉の人物とは言えない。人々の期待を失えば、だれが私に命を預けようか」と言った。壮士の数十騎を率いて出て戦い、胡賊を大量に殺した。馬が疲弊して、伏せて立てなくなった。石季龍が呼びかけ、「大兄(文鴦)は私と同じ戎狄の出身で、長く協調したいと思っていた。天は願いを聞き届け、今日このように会えた。なぜ戦いを続けるのか。どうか武装を解いてくれ」と言った。文鴦は罵って、「お前は残虐な侵掠をし、長く殺したいと思っていた。わが兄が私の考えを用いず、ゆえにお前の残暴を許してきた。私は死んでも、お前の捕虜にならない」と言った。馬を下りて苦闘し、矛が折れると、刀を持って力戦を続けた。石季龍は四面を軍で囲んで泥よけを外して封鎖し、進んで文鴦を閉じ込めた。文鴦は辰から申の刻まで戦い続け、力尽きて捕らえられた。城内はおおいに懼れた。
段匹磾は単騎で朝廷(建康)に帰順しようとしたが、邵続の弟の楽安内史である邵洎が兵を抑えて許さなかった。さらに邵洎が台使(晋の使者)の王英を執えて石季龍に送ろうとしたが、段匹磾は態度を正して責め、「あなたは兄の志に従うことができず、私の朝廷への帰順を許さず、どちらも目に余ることだ。加えて天子の使者まで捕らえようとしている。私は胡夷であるが、これほどのことは聞いたことがない」と言った。王英に、「この段匹磾は代々(晋国から)大きな恩を受け、忠孝を忘れません。今日は事態が切迫し、朝廷で罪の裁きを受けようにも、(石氏に)追い詰められ、忠誠を貫けません。もし少しでも息をつければ、生きている限り、心はおおもとを忘れません」と言った。かくて黄河を渡って南下した。段匹磾は朝服をつけ、持節した。賓客らが出て石季龍と面会し、「私は国家の恩を受け、志はお前を滅ぼすことであった。不幸にしてわが国が内部から乱れ、今日の事態に至った。死に損ねたが、お前に敬意を払うこともない」と言った。石勒及び石季龍はかねて段匹磾と兄弟の契りを結んでいたので、石季龍は立って拝礼した。段匹磾は襄国に到り、ここでも石勒に頭を下げず、つねに朝服をつけ、晋の節を持っていた。年をまたぎ、国内では段匹磾を推戴して盟主にしようと考えたが、計画が露見し、(段匹磾は)殺害された。文鴦もまた鴆毒で死に、ただ末波だけが生き残った。死亡すると、弟の牙が立った。牙が死ぬと、その後に従祖父の就陸眷の孫の遼が立った。
務勿塵より以後、晋国の喪乱にあたり、位号を自称して、遼西の地に割拠し、しかし晋人に臣従していた。その領土は西は幽州まで、東は遼水までである。統率する胡人と晋人は三万家あまりで、弓兵は四五万騎ばかり、石季龍と侵略しあい、戦闘は延々と続き、最後は石季龍に敗れて、その遺民の数万家は司雍の地に移された。子の蘭はまた兵を集め、石季龍にとって長く脅威となった。石氏が滅びると、末波の子の勤が胡人と羯人を鳩合して一万人あまりを得て、枉人山を保ち、自ら趙王を称し、慕容儁に服属した。にわかに冉閔に敗れ、繹幕に移り、尊号を僭称した。慕容儁は慕容恪にこれを攻撃させ、勤は懼れて降服した。

魏浚 族子該

原文

魏浚、東郡東阿人也、寓居關中。初為雍州小吏、河間王顒敗亂之後、以為武威將軍。後為度支校尉、有幹用。永嘉末、與流人數百家東保河陰之硤石。時京邑荒儉、浚劫掠得穀麥、獻之懷帝、帝以為揚威將軍・平陽太守、度支如故。以亂不之官。
及洛陽陷、屯于洛北石梁塢、撫養遺眾、漸修軍器。其附賊者、皆先解喻、說大晉運數靈長、行已建立、歸之者甚眾。其有恃遠不從命者、遣將討之、服從而已、不加侵暴。於是遠近感悅、襁負至者甚眾。
劉琨承制、假浚河南尹。時太尉荀藩建行臺在密縣、浚詣藩諮謀軍事、藩甚悅、要李矩同會。矩將夜赴之、矩官屬以浚不可信、不宜夜往。矩曰、「忠臣同心、將何疑乎」。及會、客主盡歡、浚因與矩相結而去。
劉曜忌浚得眾、率眾軍圍之。劉演・郭默遣軍來救、曜分兵逆于河北、乃伏兵深隱處、以邀演・默軍、大破之、盡虜演等騎。浚夜遁走、為曜所得、遂死之。追贈平西將軍。族子該領其眾。

訓読

魏浚は、東郡東阿の人なり、關中に寓居す。初め雍州の小吏と為り、河間王顒 敗亂せしの後に、以て武威將軍と為る。後に度支校尉と為り、幹用有り。永嘉の末に、流人の數百家と與に東して河陰の硤石を保つ。時に京邑 荒儉し、浚 劫掠して穀麥を得て、之を懷帝に獻じ、帝 以て揚威將軍・平陽太守と為し、度支たること故の如し。亂を以て官に之かず。
洛陽 陷つるに及び、洛北の石梁塢に屯し、遺眾を撫養し、漸く軍器を修む。其の賊に附く者は、皆 先に解喻し、大晉の運數 靈長にして、行 已に建立するを說きて、之に歸する者 甚だ眾し。其の遠きを恃みて命に從はざる者有らば、將を遣はして之を討ち、服從せしむるのみにして、侵暴を加へず。是に於て遠近 感悅し、襁負して至る者 甚だ眾し。
劉琨 承制するや、浚に河南尹を假す。時に太尉の荀藩 行臺を建てて密縣に在り、浚 藩に詣りて軍事を諮謀し、藩 甚だ悅び、李矩を要めて同に會す。矩 將に夜に之に赴かんとするに、矩の官屬 浚の信ず可からざるを以て、宜しく夜に往くべからざるとす。矩曰く、「忠臣は心を同じくす、將た何をか疑はんや」。會するに及び、客主 歡を盡し、浚 因りて矩と相 結びて去る。
劉曜 浚の眾を得るを忌み、眾軍を率ゐて之を圍む。劉演・郭默 軍を遣はして來たりて救ひ、曜 兵を分けて河北に逆へ、乃ち兵を伏せて深く隱處して、以て演・默の軍を邀へ、大いに之を破り、盡く演らの騎を虜ふ。浚 夜に遁走し、曜の得る所と為り、遂に之に死す。平西將軍を追贈す。族子の該 其の眾を領す。

現代語訳

魏浚は、東郡東阿の人であり、関中に仮住まいした。はじめ雍州の小吏となり、河間王顒(司馬顒)が敗れて乱れた後、武威将軍となった。のちに度支校尉となり、才幹があった。永嘉年間の末、流人の数百家とともに東にゆき河陰の硤石を拠点とした。このとき京邑は荒廃して物資が足りず、魏浚は穀物を奪って手に入れ、これを懐帝に献上し、懐帝は彼を揚威将軍・平陽太守とし、度支は現状のままとした。乱を理由に赴任しなかった。
洛陽が陥落すると、洛北の石梁塢に駐屯し、生き残った民を労って養い、徐々に兵器を整備した。賊に味方する者がいれば、まず解放して説得し、大晋の暦数は神秘的で永続し、すでに再建の巡り合わせがあることを説いたので、彼の帰順するものはとても多かった。遠いことを頼みに命令に従わない者がいれば、将を派遣して討伐し、服従させるだけで、侵略や乱暴をしなかった。こうして遠近は感服して悦び、赤子を背負って至るものが非常に多かった。
劉琨が承制すると、魏浚に河南尹を仮した。このとき太尉の荀藩は行台を建てて密県においたが、魏浚は荀藩のもとに至って軍事の参謀をつとめ、荀藩から歓迎され、李矩に面会するように言われた。李矩が夜に(魏浚を)訪問しようとすると、李矩の官属は魏浚が信用できないとして、夜に行ってはならないと言った。李矩は、「忠臣は心を同じくする、なんの疑いがあろう」と言った。面会すると、主客ともに歓びを尽くし、魏浚は李矩と親交を結んで去った。
劉曜は魏浚が兵民を擁しているのを嫌い、大軍を率いて包囲した。劉演と郭黙が援軍にきて救ったが、劉曜は兵を分けて河北で迎撃した。(劉曜は)兵を伏せて深みに隠し、劉演と郭黙の軍を待ち受け、大いにこれを破り、劉演らの騎兵をすべて捕らえた。魏浚は夜に逃走したが、劉曜に捕らえられ、ここで死んだ。平西将軍を追贈した。族子の魏該がその兵を領した。

原文

該一名亥、本僑居京兆陰磐。河間王顒之伐趙王倫、以該為將兵都尉。及劉曜攻洛陽、隨浚赴難、先領兵守金墉城、故得無他。曜引去、餘眾依之。
時杜預子尹為弘農太守、屯宜陽界一泉塢、數為諸賊所抄掠。尹要該共距之、該遣其將馬瞻將三百人赴尹。瞻知其無備、夜襲尹殺之、迎該據塢。塢人震懼、並服從之。乃與李矩・郭默相結以距賊。荀藩即以該為武威將軍、統城西雍涼人、使討劉曜。元帝承制、加冠軍將軍・河東太守、督護河東・河南・平陽三郡。
曜嘗攻李矩、該破之。及矩將迎郭默、該遣軍助之、又與河南尹任愔相連結。後漸饑弊、曜寇日至、欲率眾南徙、眾不從、該遂單騎走至南陽。帝又以為前鋒都督・平北將軍・雍州刺史。馬瞻率該餘眾降曜。曜徵發既苦、瞻又驕虐、部曲遣使呼該、該密往赴之、其眾殺瞻而納該。該遷於新野、率眾助周訪討平杜曾、詔以該為順陽太守。
王敦之反也、梁州刺史甘卓不從、欲觀該去就、試以敦旨動之。該曰、「我本去賊、惟忠於國。今王公舉兵向天子、非吾所宜與也」。遂距而不應。及蘇峻反、率眾救臺、軍次石頭、受陶侃節度。峻未平、該病篤還屯、卒於道、葬于武陵。從子雄統其眾。

訓読

該 一名は亥、本は京兆の陰磐に僑居す。河間王顒の趙王倫を伐つや、該を以て將兵都尉と為す。劉曜 洛陽を攻むるに及び、浚に隨ひて難に赴き、先んじて兵を領して金墉城を守り、故に他無きを得たり。曜 引き去り、餘眾 之に依る。
時に杜預の子の尹 弘農太守と為り、宜陽界の一泉塢に屯し、數々諸賊の抄掠する所と為る。尹 該に共に之を距まんことを要め、該 其の將の馬瞻を遣はして三百人を將ゐて尹に赴かしむ。瞻 其の備へ無きを知り、夜に尹を襲ひて之を殺し、該を迎へて塢に據る。塢人 震懼し、並びに之に服從す。乃ち李矩・郭默と相 結びて以て賊を距ぐ。荀藩 即ち該を以て武威將軍と為し、城西の雍涼の人を統べて、劉曜を討たしむ。元帝 承制するや、冠軍將軍・河東太守を加へ、河東・河南・平陽三郡を督護せしむ。
曜 嘗て李矩を攻め、該 之を破る。矩 將に郭默を迎へんとするに及び、該 軍を遣はして之を助け、又 河南尹の任愔と與に相 連結す。後に漸く饑弊し、曜の寇 日々に至り、眾を率ゐて南徙せんと欲するに、眾 從はず、該 遂に單騎もて走りて南陽に至る。帝 又 以て前鋒都督・平北將軍・雍州刺史と為す。馬瞻 該の餘眾を率ゐて曜に降る。曜の徵發 既に苦しく、瞻も又 驕虐なれば、部曲 使を遣はして該を呼び、該 密かに往きて之に赴き、其の眾 瞻を殺して該を納る。該 新野に遷り、眾を率ゐて周訪を助けて討ちて杜曾を平らげ、詔して該を以て順陽太守と為す。
王敦の反するや、梁州刺史の甘卓 從はず、該の去就を觀んと欲し、試みに敦の旨を以て之を動ぜしむ。該曰く、「我 本は賊を去り、惟だ國に忠なるのみ。今 王公 兵を舉げて天子に向ふ。吾の宜しく與する所に非ざるなり」と。遂に距みて應ぜず。蘇峻 反するに及び、眾を率ゐて臺を救ひ、軍して石頭に次り、陶侃の節度を受く。峻 未だ平らがざるに、該 病 篤くして屯に還り、道に卒し、武陵に葬る。從子の雄 其の眾を統ぶ。

現代語訳

魏該は一名を亥といい、もとは京兆の陰磐に僑居(移住)していた。河間王顒(司馬顒)が趙王倫(司馬倫)を討伐すると、魏該を将兵都尉とした。劉曜が洛陽を攻めると、魏浚に従って危難に赴き、先んじて兵を領して金墉城を守り、ゆえに事変を防いだ。劉曜が撤退し、残兵はここに拠った。
このとき杜預の子の杜尹が弘農太守となり、宜陽県内の一泉塢に駐屯し、しばしば諸賊に略奪を受けた。杜尹は魏該とともに防戦したいと要請し、魏該はその将の馬瞻に三百人を率いさせて杜尹のところに向かった。馬瞻はその城に防備がないことを知り、夜に杜尹を襲って殺し、魏該を迎えて塢に拠った。塢の人は震え懼れつつも、彼に服従した。ここで李矩と郭黙と結んで賊を防いだ。荀藩は魏該を武威将軍とし、城西の雍涼の人を統率し、劉曜を討たせた。元帝が承制すると、冠軍将軍・河東太守を加え、河東・河南・平陽三郡を督護させた。
劉曜がかつて李矩を攻めたが、魏該はこれを破った。李矩が郭黙を迎えようとすると、魏該は軍を派遣してこれを助け、また河南尹の任愔と連携を結んだ。のちに徐々に饑えて疲弊し、劉曜の侵略を日々受けたので、民を連れて南に移ろうとしたが、民は従わず、けっきょく魏該は単騎で逃げて南陽に至った。元帝は彼を前鋒都督・平北将軍・雍州刺史とした。馬瞻は魏該の残兵を率いて劉曜に降服した。劉曜からの徴発が厳しくなり、馬瞻もまた驕慢で悪逆だったので、部曲は使者を送って魏該を呼び、魏該はひそかにやって来た。兵が馬瞻を殺して魏該を受け入れた。魏該は新野に遷り、兵を率いて周訪を助けて杜曾を討って平定し、詔により魏該を順陽太守とした。
王敦が反乱すると、梁州刺史の甘卓は(王敦に)従わず、魏該の去就を見てから態度を決めようと、試みに王敦の意志を告げて揺さぶった。魏該は、「もとより私が賊から去ったのは、国に忠であるためだ。いま王公(王敦)が兵を挙げて天子に向けている。私は同調すべきだと思わない」と言った。そこで拒んで呼応しなかった。蘇峻が反乱すると、兵を率いて台(拠点)を救い、進軍して石頭に駐屯し、陶侃の節度を受けた。蘇峻が平定される前に、魏該は病気が重くなり屯所に帰還し、道中に亡くなり、武陵に葬られた。従子の魏雄がその兵を統率した。

郭默

原文

郭默、河內懷人。少微賤、以壯勇事太守裴整、為督將。永嘉之亂、默率遺眾自為塢主、以漁舟抄東歸行旅、積年遂致巨富、流人依附者漸眾。撫循將士、甚得其歡心。
默婦兄同郡陸嘉取官米數石餉妹、默以為違制、將殺嘉、嘉懼、奔石勒。默乃自射殺婦、以明無私。遣使謁劉琨、琨加默河內太守。劉元海遣從子曜討默、曜列三屯圍之、欲使餓死。默送妻子為質、并請糴焉。糴畢、設守。曜怒、沈默妻子于河而攻之。默遣弟芝求救于劉琨、琨知默狡猾、留之而緩其救。默更遣人告急。會芝出城浴馬、使強與俱歸。默乃遣芝質於石勒、勒以默多詐、封默書與劉曜。默使人伺得勒書、便突圍投李矩。後與矩并力距劉・石、事見矩傳。
太興初、除潁川太守。默與石1□戰敗、矩轉蹙弱、默深憂懼、解印授其參軍殷嶠、謂之曰、「李使君遇吾甚厚、今遂棄去、無顏謝之、三日可白吾去也」。乃奔陽翟。矩聞之、大怒、遣其將郭誦追默、至襄城、及之。默棄家人、單馬馳去。默至京都、明帝授征虜將軍。劉遐卒、以默為北中郎將・監淮北軍事・假節。遐故部曲李龍等謀反、詔默與右衞將軍趙胤討平之。
朝廷將徵蘇峻、懼其為亂、召默拜後將軍、領屯騎校尉。初戰有功、及六軍敗績、南奔。郗鑒議於曲阿北大業里作壘、以分賊勢、使默守之。峻遣韓晃等攻默甚急、壘中頗乏水、默懼、分人馬出外、乃潛從南門盪出、留人堅守。會峻死、圍解、徵為右軍將軍。
默樂為邊將、不願宿衞、及赴召、謂平南將軍劉胤曰、「我能禦胡而不見用。右軍主禁兵、若疆埸有虞、被使出征、方始配給、將卒無素、恩信不著、以此臨敵、少有不敗矣。時當為官擇才、若人臣自擇官、安得不亂乎」。胤曰、「所論事雖然、非小人所及也」。當發、求資於胤。時胤被詔免官、不即歸罪、方自申理、而驕侈更甚、遠近怪之。
初、默之被徵距蘇峻也、下次尋陽、見胤、胤參佐張滿等輕默、倮露視之、默常切齒。至是、胤臘日餉默酒一器、肫一頭、默對信投之水中、忿憤益甚。又僑人蓋肫先略取祖煥所殺孔煒女為妻、煒家求之、張滿等使還其家、肫不與、因與胤・滿有隙。至是、肫謂默曰、「劉江州不受免、密有異圖、與長史司馬張滿・荀楷等日夜計謀、反逆已形、惟忌郭侯一人、云當先除郭侯而後起事。禍將至矣、宜深備之」。默既懷恨、便率其徒候旦門開襲胤。胤將吏欲距默、默呴之曰、「我被詔有所討、動者誅及三族」。遂入至內寢。胤尚與妾臥、默牽下斬之。出取胤僚佐張滿・荀楷等、誣以大逆。傳胤首于京師、詐作詔書、宣視內外。掠胤女及諸妾、并金寶還船。初云下都、俄而還、停胤故府、招桓宣・王愆期。愆期懼逼、勸默為平南・江州、默從之。愆期因逃廬山、桓宣固守不應。
司徒王導懼不可制、乃大赦天下、梟胤首于大航、以默為西中郎將・豫州刺史。武昌太守鄧嶽馳白太尉陶侃、侃聞之、投袂起曰、「此必詐也」。即日率眾討默、上疏陳默罪惡。導聞之、乃收胤首、詔庾亮助侃討默。默欲南據豫章、而侃已至城下、築土山以臨之。諸軍大集、圍之數重。侃惜默驍勇、欲活之、遣郭誦見默、默許降、而默將張丑・宋侯等恐為侃所殺、故致進退、不時得出。攻之轉急、宋侯遂縛默求降、即斬于軍門、同黨死者四十人、傳首京師。

1.「□」は、「聰」の旁の部分(「耳」がないもの)。石勒載記は「聰」に作る。

訓読

郭默、河內懷の人なり。少きとき微賤にして、壯勇を以て太守の裴整に事へ、督將と為る。永嘉の亂に、默 遺眾を率ゐて自ら塢主と為り、漁舟を以て抄して東歸して行旅し、積年にして遂に巨富を致し、流人の依附する者 漸く眾し。將士を撫循し、甚だ其の歡心を得たり。
默の婦の兄の同郡の陸嘉 官米の數石を取りて妹に餉り、默 以て制に違へりと為し、將に嘉を殺さんとするに、嘉 懼れ、石勒に奔る。默 乃ち自ら射て婦を殺し、以て無私なるを明らかにす。使を遣はして劉琨に謁せしめ、琨 默に河內太守を加ふ。劉元海 從子の曜を遣はして默を討たしめ、曜 三屯を列して之を圍ひ、餓死せしめんと欲す。默 妻子を送りて質と為し、并せて糴せんことを請ふ。糴し畢はり、守を設く。曜 怒り、默の妻子を河に沈めて之を攻む。默 弟の芝を遣りて救ひを劉琨に求め、琨 默の狡猾なるを知れば、之を留めて其の救を緩くす。默 更めて人を遣りて急を告ぐ。會々芝 城を出でて馬を浴し、強ひて與に俱に歸らしむ。默 乃ち芝を遣りて石勒に質とし、勒 默の詐り多きを以て、默の書を封じて劉曜に與ふ。默 人をして伺ひて勒の書を得しめ、便ち圍を突して李矩に投ず。後に矩と與に力を并はせて劉・石を距ぐ、事は矩傳に見ゆ。
太興の初に、潁川太守に除せらる。默 石□と戰ひて敗れ、矩 轉た蹙弱たりて、默 深く憂懼し、印授を其の參軍の殷嶠に解きて、之に謂ひて曰く、「李使君 吾を遇すること甚だ厚く、今 遂に棄去す。顏して之に謝する無く、三日にして吾の去るを白す可きなり」と。乃ち陽翟に奔る。矩 之を聞き、大いに怒り、其の將の郭誦を遣はして默を追はしめ、襄城に至り、之に及ぶ。默 家人を棄て、單馬もて馳去す。默 京都に至り、明帝 征虜將軍を授く。劉遐 卒するや、默を以て北中郎將・監淮北軍事・假節と為す。遐が故の部曲の李龍ら謀反し、默に詔して右衞將軍の趙胤と與に之を討平せしむ。
朝廷 將に蘇峻を徵せんとするに、其の亂を為すを懼れ、默を召して後將軍を拜し、屯騎校尉を領せしむ。初戰は功有るに、六軍 敗績するに及び、南奔す。郗鑒 曲阿の北の大業里に壘を作し、以て賊の勢を分けて、默をして之を守らしめんことを議す。峻 韓晃らを遣はして默を攻むると甚だ急にして、壘中 頗る水に乏しく、默 懼れ、人馬を分けて外に出だし、乃ち潛かに南門より盪出し、人を留めて堅守せしむ。會々峻 死し、圍は解け、徵せられて右軍將軍と為る。
默は邊將為ることを樂しみ、宿衞なるを願はず、召に赴くに及び、平南將軍の劉胤に謂ひて曰く、「我 能く胡を禦ぎて而れども用ひられず。右軍は禁兵を主る、若し疆埸に虞れ有らば、出征せられ、方に配給を始むるに、將卒は素無く、恩信は著はれず、此を以て敵に臨まば、少しく敗れざること有らん。時に當に官の為に才を擇ぶべし、若し人臣 自ら官を擇ばば、安にか亂れざるを得んや」と。胤曰く、「論ずる所の事 然りと雖も、小人の及ぶ所に非ざるなり」と。當に發すべきに、資を胤に求む。時に胤 詔を被りて免官せられ、即きて罪に歸せず、方に自ら申理し、而れども驕侈たること更に甚しく、遠近 之を怪しむ。
初め、默の徵せられて蘇峻を距むや、下りて尋陽に次ぢ、胤に見ゆるに、胤の參佐たる張滿ら默を輕んじ、倮露して之を視れば、默 常に切齒す。是に至り、胤 臘日に默を酒一器、肫一頭もて餉し、默 信に對ひて之を水中に投じ、忿憤すること益々甚だし。又 僑人の蓋肫 先に祖煥を略取して殺す所の孔煒が女もて妻と為し、煒の家 之を求むるに、張滿ら其の家に還らしめ、肫 與へず、因りて胤・滿と隙有り。是に至り、肫 默に謂ひて曰く、「劉江州 免を受けず、密かに異圖有り、長史の司馬張滿・荀楷らと與に日夜に計謀し、反逆は已に形はれ、惟だ郭侯一人を忌み、當に先に郭侯を除きて而して後に起事すべしと云ふ。禍 將に至らんとす、宜しく深く之に備ふべし」と。默 既に恨みを懷けば、便ち其徒のを率ゐて旦に門の開けるを候ちて胤を襲ふ。胤の將吏 默を距がんと欲するに、默 之に呴して曰く、「我 詔を被りて討つ所有り、動く者あらば誅は三族に及ばん」と。遂に入りて內寢に至る。胤 尚ほ妾と臥し、默 牽下して之を斬る。出でて胤の僚佐たる張滿・荀楷らを取り、誣するに大逆を以てす。胤の首を京師に傳へ、詐りて詔書を作りて、宣く內外に視しむ。胤の女及び諸妾を掠め、金寶を并せて船に還る。初め都を下ると云ひ、俄かにして還り、胤の故府に停まりて、桓宣・王愆期を招く。愆期 逼らるを懼れ、默に平南・江州と為るを勸め、默 之に從ふ。愆期 因りて廬山に逃げ、桓宣 固守して應ぜず。
司徒の王導 制す可からざるを懼れ、乃ち天下を大赦し、胤の首を大航に梟し、默を以て西中郎將・豫州刺史と為す。侃 之を聞き、袂を投じて起ちて曰く、「此れ必ず詐なり」と。即日に眾を率ゐて默を討ち、上疏して默の罪惡を陳ぶ。導 之を聞き、乃ち胤の首を收め、庾亮に詔して侃を助けて默を討たしむ。默 南のかた豫章に據らんと欲し、而れども侃 已に城下に至り、土山を築きて以て之に臨む。諸軍 大いに集ひ、之を圍むこと數重なり。侃 默の驍勇を惜み、之を活さんと欲し、郭誦を遣はして默に見えしめむ。默 降ることを許し、而れども默の將たる張丑・宋侯ら侃の殺す所と為るを恐れ、故に進退を致し、時ならずして出づるを得たり。之を攻むること轉た急にして、宋侯 遂に默を縛して降らんことを求め、即ち軍門に斬り、同黨の死者は四十人、首を京師に傳ふ。

現代語訳

郭黙は、河内懐県の人である。若いときは微賤で、強く勇気があるため太守の裴整に仕え、督将となった。永嘉の乱で、郭黙は民の生き残りを率いて自ら塢主となり、漁労をして東方を移り歩き、数年で巨大な富を築き、多くの流浪者が彼を頼った。将士の面倒見がよく、よく歓心を得ていた。
郭黙の妻の兄である同郡の陸嘉は官米の数石を盗んで妹に送ったが、郭黙はこれを法制違反として、陸嘉を殺そうとした。陸嘉は懼れ、石勒に逃げ込んだ。郭黙は自分の手で妻を射殺して、私心がないことを明らかにした。使者を遣わして劉琨に謁見し、劉琨は郭黙に河内太守を加えた。劉元海が従子の劉曜を遣って郭黙を討伐し、劉曜は三屯をならべて包囲して、郭黙を餓死させようとした。郭黙は妻子を送って人質とし、あわせて穀物の買い入れを申し出た。買い入れが終わると、守備を固め直した。劉曜は怒り、郭黙の妻子を黄河に沈めて攻撃をした。郭黙は弟の郭芝を送って劉琨に救援を求めたが、劉琨は郭黙の狡猾さを知っていたので、郭芝を手元にとどめて救援を遅延させた。郭黙は別の使者を立てて急を告げ(援軍を催促し)た。たまたま郭芝が城から出て馬を洗っており、強引に連れて帰った。郭黙はただちに郭芝を石勒に送って人質としたが、石勒は郭黙には詐りが多いため、郭黙の書簡を封印したまま劉曜に送り届けた。郭黙はこっそり石勒の書状を入手し、包囲を突破して李矩のもとに身を投じた。のちに李矩とともに力を合わせて劉琨と石勒を防いだが、このことは李矩伝に見える。
太興年間の初め、潁川太守に任命された。郭黙は石□と戦って敗れ、李矩の勢力が一転して衰弱し始めたので、郭黙は憂い懼れて、印授を参軍の殷嶠にあずけ、彼に対して、「李使君は私を厚遇してくれたが、いま見捨てて去る。面と向かって謝ることができない、私が去ってから三日後に報告せよ」と言った。こうして陽翟に逃げた。李矩はこれを聞いて、大いに怒り、その将の郭誦に郭黙を追跡させ、襄城に至って、追い付いた。郭黙は家族を棄て、単馬で駆け去った。郭黙が京都(建康)に到着すると、明帝は征虜将軍を授けた。劉遐が亡くなると、郭黙を北中郎将・監淮北軍事・仮節とした。劉遐のもとの部曲の李龍らが謀反すると、郭黙に詔して右衛将軍の趙胤とともに平定させた。
朝廷が蘇峻を(中央に)徴そうとしたが、蘇峻が乱を起こすことを警戒し、郭黙を徴して後将軍に任命し、屯騎校尉を領させた。初戦は功績があったが、六軍(東晋の軍)が敗北すると、郭黙も南に逃げた。郗鑒は曲阿の北の大業里に塁をつくり、賊軍の勢を分断し、郭黙にここを守らせようと建議した。(郭黙は塁を預かったが)蘇峻が韓晃らを遣わして郭黙を厳しく攻めたので、土塁のなかで水が欠乏し、郭黙は懼れて、人と馬を分けて外に出し、ひそかに南門から抜け出し、人を留めて堅守させた。たまたま蘇峻が死に、包囲が解け、徴召されて右軍将軍となった。
郭黙は地方の将軍であることを楽しみ、(朝廷の)宿衛となることを望まず、徴召に応ずるとき、平南将軍の劉胤に、「私は胡族を立派に防いだが(高位に)用いられなかった。右軍(将軍)は禁兵をつかさどるが、もし国境に脅威があれば、出征させられ、そのとき初めて物資を支給しても、将卒には準備がなく、(将軍から配下への)恩信は現れず、この状態で敵に臨めば、ややも敗れないことがあろうか。今日こそ官職には適した才能を選ぶべきで、もし人臣が自分で官職を選ぶなら、どうして乱れないことがあろうか」と言った。劉胤は、「きみの意見はその通りだが、私ごときが関知できることではない」と言った。出発するにあたり、物資をくれと劉胤に頼んだ。このとき劉胤は詔を受けて免官されていたが、処罰を受け入れず、みずから申し開き、ますます驕慢で奢侈になったので、遠近の人々は彼のことを怪しんだ。
これよりさき、郭黙が徴召されて蘇峻を防ぐとき、(長江を)下って尋陽に停泊し、劉胤と面会したが、劉胤の参佐である張満らが郭黙を軽んじ、肌脱ぎのまま会ったので、郭黙は根に持っていた。ここに至り、劉胤は臘日に郭黙を酒一器と肫一頭で饗応したが、郭黙は接待の席上で水に投げこみ、いよいよ激怒を募らせた。(話は変わって)僑人の蓋肫はかつて祖煥が殺した孔煒の娘を自分の妻としたが、孔氏の家が娘の返還を求め、張満らは娘を実家に帰そうとしたが、蓋肫は妻を手放さず、これにより劉胤と張満は(蓋肫と)不仲となった。ここに至り、蓋肫は郭黙に、「劉江州(劉胤)は罷免を受け入れず、ひそかに異心を持っている。長史や司馬の張満と荀楷らとともに日夜計画をねり、反逆はもう明白である。彼らはただ郭侯(あなた、郭黙)一人を憚り、さきに郭侯を排除してから決起しようと言っている。禍いは間近だ、きちんと備えなさい」と言った。郭黙は劉胤を怨んでいたので、配下を率いて明け方の開門を待って劉胤を襲った。劉胤の将吏は郭黙を防ごうとしたが、郭黙は怒鳴りつけ、「私は詔を受けて討伐するのだ、動く者がいれば誅は三族に及ぶぞ」と言った。突入して寝室に至った。劉胤はまだ妾と寝ており、郭黙は引きずり出して斬った。寝室を出て劉胤の僚佐である張満と荀楷らを捕らえ、大逆の罪をでっちあげた。劉胤の首を京師に送り、詐って詔書を作り、広く内外に示した。劉胤の娘及び妾たちを捕らえ、金宝とあわせて船に積んで帰った。はじめ都に下ると言ったが、突然引き返し、劉胤の故府に留まり、桓宣と王愆期を招いた。王愆期は(協力を)強要されるのを懼れ、郭黙に平南将軍・江州刺史となることを勧め、郭黙はこれに従った。王愆期はこの隙に廬山に逃げ、桓宣は固く守って招きに応じなかった。
司徒の王導は(郭黙を)制御できないことを懼れ、天下に大赦し、劉胤の首を大航にさらし、郭黙を西中郎将・豫州刺史とした。陶侃はこれを聞き、たもとを振り払って立ち、「これ(劉胤の大逆)はきっと詐りだ」と言った。即日に兵を率いて郭黙を討伐し、上疏して郭黙の罪悪を並べた。王導はこれを聞き、劉胤の首を収容し、庾亮に詔して陶侃を助けて郭黙を討伐させた。郭黙は南方の豫章に拠ろうとし、しかし陶侃がすでに城下に到着していたので、土山を築いて陶侃軍に臨んだ。諸軍が大いに集まり、数重に包囲した。陶侃は郭黙の驍勇を惜しみ、彼の命を助けようとして、郭誦を遣わして郭黙に会わせた。郭黙は投降を受諾し、しかし郭黙の将である張丑と宋侯らは陶侃に殺されることを恐れ、ゆえに軍を進退させ、不意を突いて脱出をした。攻勢が一転して厳しくなると、宋侯は郭黙を縛りあげて降服したいと言い、軍門で郭黙を斬り、党与の四十人が殺され、首を京師に送った。

原文

史臣曰、邵・李・魏・郭等諸將、契闊喪亂之辰、驅馳戎馬之際、威懷足以容眾、勇略足以制人、乃保據危城、折衝千里、招集義勇、抗禦仇讎、雖艱阻備嘗、皆乃心王室。而矩能以少擊眾、戰勝獲多、遂使玄明憤恚、世龍挫衄。惜其寡弱、功虧一簣。方之數子、其最優乎。默既拔迹危亡、參陪朝伍、忿因眦睚、禍及誅夷、非夫狂悖、豈宜至此。段匹磾本自遐方、而係心朝廷、始則盡忠國難、終乃抗節虜廷、自蘇子卿以來、一人而已。越石之見誅段氏、實以威名。匹磾之取戮世龍、亦由眾望、禍福之應、何其速哉。詩云、「無言不酬、無德不報」、此之謂也。
贊曰、邵李諸將、實惟忠壯。蒙犯艱危、驅馳亭鄣。力小任重、功虧身喪。匹磾勁烈、隕身全節。默實凶殘、自貽罪戾。

訓読

史臣曰く、邵・李・魏・郭らの諸將は、喪亂の辰に契闊し、戎馬の際に驅馳し、威懷は以て眾を容るるに足り、勇略は以て人を制するに足る。乃ち危城を保據し、千里を折衝し、義勇を招集し、仇讎を抗禦す。艱阻 備嘗なると雖も、皆 乃ち王室に心あり。而も矩は能く少を以て眾を擊ち、戰勝して多くを獲て、遂に玄明をして憤恚し、世龍をして挫衄せしむ。惜しきかな其の寡弱にして、功は一簣に虧くを。之を數子に方ぶるに、其れ最も優なるか。默は既に迹を危亡に拔し、朝伍に參陪し、忿は眦睚に因り、禍は誅夷に及び、夫の狂悖非ずんば、豈に宜しく此に至るべきか。段匹磾 本は遐方よりし、而れども心を朝廷に係け、始めは則ち忠を國難に盡くし、終には乃ち節を虜廷に抗し、蘇子卿より以來、一人なるのみ。越石が段氏に誅せらるるは、實に威名を以てなり。匹磾の戮を世龍に取るも、亦た眾望に由るなり。禍福の應、何ぞ其れ速なるか。詩に云はく、「言として酬(こた)へざる無く、德として報いざる無し〔一〕」は、此れの謂ひなりと。
贊に曰く、邵李の諸將、實に惟れ忠壯なり。艱危を蒙犯し、亭鄣に驅馳す。力は小にして任は重く、功は虧けて身は喪ぶ。匹磾が勁烈は、身を隕として節を全くす。默 實に凶殘にして、自ら罪戾を貽すと。

〔一〕『毛詩』大雅 蕩之什 抑に、「無言不讎。無德不報」とあり出典。

現代語訳

史臣はいう、邵続・李矩・魏浚・郭黙らの諸将は、喪乱のときに精勤し、戎馬の際に駆けめぐり、威信と懐恩は民を収めるのに十分で、勇略は敵を制圧するのに十分であった。危うい城を守り保ち、千里で(胡族と)渡りあい、義勇な兵を招き集め、仇敵に対抗して防いだ。艱難にまみれても、みな王室に心を寄せた。とりわけ李矩は少数で大軍を撃ち、戦いに勝って多くを獲得し、ついに玄明(劉聡)を憤激させ、世龍(石勒)を挫折させた。惜しいことだ少数の弱兵を率い、功績がわずかな土に満たなかったことは。これを他の三人と比べれば、もっとも優れていた。郭黙は危亡のなかで頭角を現し、朝廷で高官の列に並んだが、他人(劉胤)に怒って怨みを溜めたために、禍いが誅殺に及んだ。もし狂って道に背かなければ、このような最期を迎えなかったであろう。段匹磾はもとは遠方の出身だが、心を朝廷に寄せ、はじめは忠を国難に尽くし、おわりに節義を胡族の朝廷で保ち、蘇子卿(前漢の蘇武)より以来、これほどの人物は一人しかいない。越石(劉琨)が段氏に誅されたのは、まことに彼の威名が高かったせいだ。段匹磾が世龍(石勒)から殺戮されたのも、衆望があったためだ。禍福の応は、なんとも速やかあろう。『毛詩』(大雅 蕩之什 抑)に、「発言すれば必ず返答があり、徳あれば必ず報いがある」というのは、これを言ったものであると。
賛に、邵続や李矩のような諸将は、まことに忠壮であった。艱難をくぐり抜け、亭鄣に駆けめぐった。力は小さいが任務が重く、功績に欠けて身が滅んだ。段匹磾は忠烈で、命を落としたが節義を全うした。郭黙は凶悪で残虐で、自分から罪悪を招いたと。