翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
『晋書』の皇族の列伝は、巻三十七 宗室伝、巻三十八 宣五王・文六王伝、巻五十三 愍懐太子伝、巻五十九 司馬亮らの列伝(いわゆる八王)と、そしてこの巻六十四 武十三王・元四王・簡文三王があります。
武帝二十六男、楊元后生毗陵悼王軌・惠帝・秦獻王柬。審美人生城陽懷王景・楚隱王瑋・長沙厲王乂。徐才人生城陽殤王憲。匱才人生東海沖王祗。趙才人生始平哀王裕。趙美人生代哀王演。李夫人生淮南忠壯王允・吳孝王晏。嚴保林生新都懷王該。陳美人生清河康王遐。諸姬生汝陰哀王謨。程才人生成都王穎。王才人生孝懷帝。楊悼后生渤海殤王恢。餘八子不顯母氏、並早夭、又無封國及追諡、今並略之。其瑋・乂・穎自有傳。
毗陵悼王軌字正則、初拜騎都尉、年二歲而夭。太康十年、追加封諡、以楚王瑋子1.義嗣。
秦獻王柬字弘度、沈敏有識量。泰始六年、封汝南王。咸寧初、徙封南陽王、拜左將軍・領右軍將軍・散騎常侍。武帝嘗幸宣武場、以三十六軍兵簿令柬料校之、柬一省便擿脫謬、帝異之、於諸子中尤見寵愛。以左將軍居齊獻王故府、甚貴寵、為天下所屬目。性仁訥、無機辯之譽。太康十年、徙封於秦、邑八萬戶。于時諸王封中土者皆五萬戶、以柬與太子同產、故特加之。轉鎮西將軍・西戎校尉・假節、與楚・淮南王俱之國。及惠帝即位、來朝、拜驃騎將軍・開府儀同三司、加侍中・錄尚書事、進位大將軍。時楊駿伏誅、柬既痛舅氏覆滅、甚有憂危之慮、屢述武帝旨、請還藩、而汝南王亮留柬輔政。及亮與楚王瑋被誅、時人謂柬有先識。元康元年薨、時年三十、朝野痛惜之。葬禮如齊獻2.文王攸故事、廟設軒懸之樂。無子、以淮南王允子郁為嗣、與允俱被害。永寧二年、追諡曰悼。又以吳王晏子鄴嗣。懷帝崩、鄴入纂帝位、國絕。
城陽懷王景字景度、出繼叔父城陽哀王兆後。泰始五年受封、六年薨。
東海沖王祗字敬度、泰始九年五月受封。殤王薨、復以祗繼兆、其年薨、時年三歲。
始平哀王裕字濬度、咸寧三年受封、其年薨、年七歲。無子、以淮南王允子迪為嗣。太康十年、改封漢王、為趙王倫所害。
1.「義」は、武帝紀は「儀」に作り、「義」であれば扶風王の司馬義と同名になるので、「儀」が正しいと推測されるという。
2.「文」は、中華書局本に引く周校によると、衍字であるという。
武帝に二十六男あり、楊元后 毗陵悼王軌・惠帝・秦獻王柬を生む。審美人 城陽懷王景・楚隱王瑋・長沙厲王乂を生む。徐才人 城陽殤王憲を生む。匱才人 東海沖王祗を生む。趙才人 始平哀王裕を生む。趙美人 代哀王演を生む。李夫人 淮南忠壯王允・吳孝王晏を生む。嚴保林 新都懷王該を生む。陳美人 清河康王遐を生む。諸姬 汝陰哀王謨を生む。程才人 成都王穎を生む。王才人 孝懷帝を生む。楊悼后 渤海殤王恢を生む。餘八子 母氏顯らかならず、並びに早夭し、又 封國及び追諡無く、今 並びに之を略す。其の瑋・乂・穎 自ら傳有り。
毗陵悼王軌 字は正則、初め騎都尉を拜し、年二歲にして夭す。太康十年、追ひて封諡を加へ、楚王瑋の子たる義を以て嗣がしむ。
秦獻王柬 字は弘度、沈敏にして識量有り。泰始六年、汝南王に封ず。咸寧初、徙して南陽王に封じ、左將軍・領右軍將軍・散騎常侍を拜す。武帝 嘗て宣武場に幸し、三十六軍の兵簿を以て柬をして之を料校せしめ、柬 一省して便ち脫謬を擿し、帝 之を異とし、諸子の中に於て尤も寵愛せらる。左將軍を以て齊獻王の故府に居り、甚だ貴寵せられ、天下の屬目する所と為る。性は仁訥にして、機辯の譽無し。太康十年、徙して秦に封じ、邑は八萬戶。時に諸王 中土に封ずる者は皆 五萬戶、柬の太子と同產なる以て、故に特に之に加ふ。鎮西將軍・西戎校尉・假節に轉じ、楚・淮南王と俱に國に之く。惠帝 即位するに及び、來朝し、驃騎將軍・開府儀同三司を拜し、侍中・錄尚書事を加へ、位を大將軍に進む。時に楊駿 誅に伏し、柬 既に舅氏の覆滅するを痛み、甚だ憂危の慮有り、屢々武帝の旨を述べ、藩に還らんと請ひ、而れども汝南王亮 柬を留めて輔政せしむ。亮 楚王瑋と與に誅せらるに及び、時人 柬に先識有ると謂ふ。元康元年 薨じ、時に年は三十、朝野 之を痛惜す。葬禮 齊獻文王攸の故事が如くし、廟に軒懸の樂を設く。子無く、淮南王允の子たる郁を以て嗣と為し、允と俱に害せらる。永寧二年、追諡して悼と曰ふ。又 吳王晏の子たる鄴を以て嗣がしむ。懷帝 崩じ、鄴 入りて帝位を纂し、國 絕ゆ。
城陽懷王景 字は景度、出でて叔父の城陽哀王兆の後を繼ぐ。泰始五年 封を受け、六年 薨ず。
東海沖王祗 字は敬度、泰始九年五月 封を受く。殤王 薨じ、復た祗を以て兆を繼がしめ、其の年に薨じ、時に年三歲なり。
始平哀王裕 字は濬度、咸寧三年 封を受け、其の年 薨じ、年七歲なり。子無く、淮南王允の子たる迪を以て嗣と為す。太康十年、改めて漢王に封じ、趙王倫の害する所と為る。
武帝に二十六人の男子がおり、楊元后は毗陵悼王軌・恵帝・秦献王柬を生んだ。審美人は城陽懐王景・楚隠王瑋・長沙厲王乂を生んだ。徐才人は城陽殤王憲を生んだ。匱才人は東海沖王祗を生んだ。趙才人は始平哀王裕を生んだ。趙美人は代哀王演を生んだ。李夫人は淮南忠壮王允・呉孝王晏を生んだ。厳保林は新都懐王該を生んだ。陳美人は清河康王遐を生んだ。諸姫は汝陰哀王謨を生んだ。程才人は成都王穎を生んだ。王才人は孝懐帝を生んだ。楊悼后は渤海殤王恢を生んだ。これ以外の八子は母の姓が明らかでなく、夭折したので、封国と追諡がないので、今は省略する。瑋・乂・穎は専伝がある(巻五十九)。
毗陵悼王軌(司馬軌)は字を正則といい、はじめ騎都尉を拝し、二歳で夭折した。太康十(二八九)年、追って封諡を加え、楚王瑋(司馬瑋)の子である司馬義(司馬儀)に嗣がせた。
秦献王柬(司馬柬)は字を弘度といい、落ち着きがあり聡明で見識があった。泰始六(二七〇)年、汝南王に封じた。咸寧初(二七五)、移して南陽王に封じ、左将軍・領右軍将軍・散騎常侍を拝した。かつて武帝が宣武場にゆき、三十六軍の兵の名簿を司馬柬にチェックさせると、司馬柬は一回見るだけで脱落や誤謬を指摘したので、武帝はとても感心し、子供たちのなかで最も寵愛された。左将軍として斉献王(司馬攸)の故府に居し、はなはだ厚遇され、天下から着目された。性格は仁愛があり朴訥であり、機知に富んだ受け答えは得意でなかった。太康十(二八九)年、移して秦に封建し、邑は八万戸とされた。このとき諸王のうち中原に封じた者は五万戸であったが、司馬柬は太子(恵帝)と同母兄弟なので、特別に戸数を追加されたのである。鎮西将軍・西戎校尉・仮節に転じ、楚王・淮南王とともに国に行った。恵帝が即位すると、来朝し、驃騎将軍・開府儀同三司を拝し、侍中・録尚書事を加え、位を大将軍に進めた。楊駿が誅に伏すと、司馬柬は外戚を破滅させたことを痛み、憂慮して危機感をもち、しばしば武帝の生前の考えを述べ、藩国に帰りたいと願い、しかし汝南王亮(司馬亮)が司馬柬を留めて輔政させた。司馬亮が楚王瑋(司馬瑋)とともに誅殺されると、当時の人々は司馬柬に先見の明があるといった。元康元(二九一)年に薨じ、このとき年は三十で、朝野は痛み惜しんだ。葬礼は斉献王攸(司馬攸)の前例どおりとし、廟に軒懸の楽を設けた。子がおらず、淮南王允(司馬允)の子である司馬郁を継嗣としたが、司馬允とともに殺害された。永寧二(三〇二)年、悼と追諡された。さらに呉王晏(司馬晏)の子である司馬鄴に嗣がせた。懐帝が崩じると、司馬鄴が入って帝位を嗣いだので、国は絶えた。
城陽懐王景(司馬景)は字を景度といい、家を出て叔父の城陽哀王兆(司馬兆)の後を継いだ。泰始五(二六九)年に封爵を受け、泰始六(二七〇)年に薨じた。
東海沖王祗(司馬祗)は字を敬度といい、泰始九(二七三)年五月に封爵を受けた。殤王が薨じると、こんどは司馬祗に司馬兆を継がせたが、同年に薨じ、三歳であった。
始平哀王裕(司馬裕)は字を濬度といい、咸寧三(二七七)年に封爵を受け、同年に薨じ、七歳であった。子が無く、淮南王允(司馬允)の子である司馬迪を継嗣とした。太康十(二八九)年、改めて漢王に封建され、趙王倫(司馬倫)に殺害された。
淮南忠壯王允字欽度、咸寧三年、封濮陽王、拜越騎校尉。太康十年、徙封淮南、仍之國、都督揚江二州諸軍事・鎮東大將軍・假節。元康九年入朝。初、愍懷之廢、議者將立允為太弟。會趙王倫廢賈后、詔遂以允為驃騎將軍・開府儀同三司・侍中、都督如故、領中護軍。允性沈毅、宿衞將士皆敬服之。
倫既有篡逆志、允陰知之、稱疾不朝、密養死士、潛謀誅倫。倫甚憚之、轉為太尉、外示優崇、實奪其兵也。允稱疾不拜。倫遣御史逼允、收官屬以下、劾以大逆。允恚、視詔、乃孫秀手書也。大怒、便收御史、將斬之、御史走而獲免、斬其令史二人。厲色謂左右曰、「趙王欲破我家」遂率國兵及帳下七百人直出、大呼曰、「趙王反、我將攻之、佐淮南王者左袒。」於是歸之者甚眾。允將赴宮、尚書左丞王輿閉東掖門、允不得入、遂圍相府。允所將兵、皆淮南奇才劍客也。與戰、頻敗之、倫兵死者千餘人。太子左率陳徽勒東宮兵鼓譟於內以應、允結陳於承華門前、弓弩齊發、射倫、飛矢雨下。主書司馬1.畦祕以身蔽倫、箭中其背而死。倫官屬皆隱樹而立、每樹輒中數百箭、自辰至未。徽2.兄淮時為中書令、遣麾騶虞幡以解鬭。倫子虔為侍中、在門下省、密要壯士、約以富貴。於是遣司馬督護伏胤領騎四百從宮中出、舉空版、詐言有詔助淮南王允。允不之覺、開陳納之、下車受詔、為胤所害、時年二十九。初、倫兵敗、皆相傳曰、「已擒倫矣。」百姓大悅。既而聞允死、莫不歎息。允三子皆被害、坐允夷滅者數千人。
及倫誅、齊王冏上表理允曰、故淮南王允忠孝篤誠、憂國忘身、討亂奮發、幾於克捷。遭天凶運、奄至隕沒、逆黨遘惡、并害三子、冤魂酷毒、莫不悲酸。洎興義兵、淮南國人自相率領、眾過萬人、人懷慷愾、愍國統滅絕、發言流涕。臣輒以息超繼允後、以慰存亡。有詔改葬、賜以殊禮、追贈司徒。冏敗、超被幽金墉城。後更以吳王晏子祥為嗣、拜散騎常侍。洛京傾覆、為劉聰所害。
1.『晋書斠注』に引く説によれば「畦」は、宋本及び『資治通鑑』巻八十三では「眭」に作る。
2.中華書局本に引く勞校によれば、「淮」は「準」に作るべきである。廣陵公の陳準のこと。
淮南忠壯王允 字は欽度、咸寧三年、濮陽王に封じ、越騎校尉を拜す。太康十年、徙して淮南に封じ、仍て國に之き、都督揚江二州諸軍事・鎮東大將軍・假節たり。元康九年 入朝す。初め、愍懷の廢せらるや、議者 將に允を立てて太弟と為さんとす。會 趙王倫 賈后を廢し、詔して遂に允を以て驃騎將軍・開府儀同三司・侍中と為し、都督 故の如し、中護軍を領す。允の性 沈毅にして、宿衞の將士 皆 之に敬服す。
倫 既に篡逆の志有り、允 陰かに之を知り、疾と稱して朝せず、密かに死士を養ひ、潛かに倫を誅せんと謀る。倫 甚だ之を憚り、轉じて太尉と為し、外に優崇と示し、實は其の兵を奪ふなり。允 疾と稱して拜せず。倫 御史を遣はして允に逼り、官屬以下を收め、大逆を以て劾む。允 恚り、詔を視るに、乃ち孫秀の手書なり。大いに怒り、便ち御史を收め、將に之を斬らんとし、御史 走りて免るるを獲、其の令史二人を斬る。色を厲まして左右に謂ひて曰く、「趙王 我が家を破らんと欲す」と。遂に國兵及び帳下七百人を率ゐて直ちに出で、大呼して曰く、「趙王 反す、我 將に之を攻めんとす、淮南王を佐くる者は左袒せよ」と。是に於て之に歸する者 甚だ眾し。允 將に宮に赴かんとし、尚書左丞の王輿 東掖門を閉め、允 入るを得ず、遂に相府を圍む。允 將ゐる所の兵、皆 淮南の奇才劍客なり。與に戰ひ、頻りに之を敗り、倫の兵 死する者千餘人なり。太子左率の陳徽 東宮の兵を勒して鼓譟して內に於て以て應じ、允 陳を承華門前に結び、弓弩 齊發し、倫を射、飛矢 雨下す。主書司馬の畦祕 身を以て倫を蔽ひ、箭 其の背に中りて死す。倫の官屬 皆 樹に隱れて立ち、樹每に輒ち數百箭を中たり、辰自り未に至る。徽の兄たる淮 時に中書令為り、騶虞幡を麾かしめて以て鬭を解く。倫の子たる虔 侍中為り、門下省に在り、密かに壯士を要し、富貴を以て約す。是に於て司馬督護の伏胤を遣はして騎四百を領して宮中從り出で、空版を舉げ、言を詐りて詔有りて淮南王允を助くといふ。允 之を覺らず、陳を開きて之を納れ、下車して詔を受け、胤の害する所と為る、時に年二十九なり。初め、倫の兵 敗れ、皆 相 傳へて曰く、「已に倫を擒とせり」と。百姓 大悅す。既にして允の死するを聞き、歎息せざる莫し。允の三子 皆 害せられ、允に坐して夷滅せらる者 數千人なり。
倫 誅するに及び、齊王冏 上表して允を理めて曰く、「故の淮南王允 忠孝にして篤誠、國を憂ひて身を忘れ、亂を討ちて奮發し、克捷するに幾し。天の凶運に遭ひ、奄かに隕沒に至り、逆黨 遘惡し、并せて三子を害し、冤魂 酷毒し、悲酸せざる莫し。義兵を興すに洎び、淮南國人 自ら相 率領し、眾 萬人を過ぎ、人 慷愾を懷き、國統の滅絕するを愍み、言を發して流涕す。臣 輒ち息の超を以て允の後を繼がしめ、以て存亡を慰めよ」と。詔有りて改葬し、殊禮を以て賜ひ、司徒を追贈す。冏 敗れ、超 金墉城に幽せらる。後に更めて吳王晏の子たる祥を以て嗣と為し、散騎常侍を拜す。洛京 傾覆し、劉聰の害する所と為る。
淮南忠壮王允(司馬允)は字を欽度といい、咸寧三(二七七)年、濮陽王に封じられ、越騎校尉を拝した。太康十(二八九)年、移って淮南に封じられ、ここで国に行き、都督揚江二州諸軍事・鎮東大将軍・仮節であった。元康九(二九九)年に入朝した。これより先、愍懐太子が廃されると、議者は司馬允を皇太弟にせよという意見があった。ちょうど趙王倫(司馬倫)が賈后を廃し、詔して司馬允を驃騎将軍・開府儀同三司・侍中としてしまい、都督は従来通りで、中護軍を領した。司馬允は落ち着きがあって物怖じせず、宿衛の将士は皆が彼に敬服していた。
司馬倫が簒逆の志を抱くと、司馬允はこれを察知し、病気と称して入朝せず、こっそり死士を養い、秘密裏に司馬倫の誅殺を計画した。司馬倫はひどく彼を憚り、転じて太尉としたのであるが、表面的には優遇をしながら、実態は兵を奪うための任命であった。司馬允は病気と称して拝命しなかった。司馬倫は御史を派遣して司馬允に(拝命を)逼り、官属以下を捕らえて、大逆罪だと言って咎めた。司馬允は怒り、詔を見ると、孫秀の手書きであった。大いに怒り、御史を捕らえ、斬ろうとしたが、御史が走って逃げ切り、その令史二人を斬った。声を励まして、「趙王が我が家(武帝の家)を破ろうとしている」と左右に告げた。淮南の国兵及び帳下の七百人を率いて直ちに出撃し、叫んで、「趙王が反した、攻撃を仕掛ける、淮南王に味方する者は左袒せよ(肌脱ぎになれ)」と言った。司馬允に味方する者は大変多かった。宮殿に向かったが、尚書左丞の王輿が東掖門を閉ざしているため、司馬允は入れず、相府(司馬倫の役所)を囲んだ。司馬允の率いる兵は、みな淮南の特殊技能を持った剣客であった。交戦すると、たびたび破り、司馬倫の兵は千余人が死んだ。太子左率の陳徽が東宮の兵を指揮して軍鼓を叩いて内応し、司馬允は承華門前に陣を張り、弓弩を一斉に発射し、司馬倫を射ると、飛矢が雨のように降った。主書司馬の畦秘(眭秘)は身を以て司馬倫にかぶさり、矢を背中に受けて死んだ。司馬倫の官属はみな樹木に隠れて立ち、樹木一本に数百の矢が突き立ち、辰から未の刻まで戦闘が続いた。陳徽の兄である陳淮(陳準)はこのとき中書令であったが、騶虞幡をなびかせ停戦させた。司馬倫の子である司馬虔は侍中として、門下省におり、ひそかに壮士を集め、(成功を条件に)富貴を約束した。司馬督護の伏胤を派遣して騎四百を領して宮中から出し、空白の板を掲げ、詔があって淮南王允(司馬允)を助けるぞと嘘をついた。司馬允は詐術が分からず、布陣を開いて招き入れ、下車して詔を受けたところを、伏胤に殺害された、二十九歳であった。これより先、司馬倫の兵が敗れると、皆が噂して「もう司馬倫が捕らえられたぞ」と伝聞があった。百姓は大いに悦んだ。やがて司馬允が死んだと聞き、歎息せぬ者はなかった。司馬允の三子は全員が殺害され、連坐して皆殺しにあった者は数千人であった。
司馬倫を誅殺すると、斉王冏(司馬冏)が上表して司馬允の名誉回復し、「もと淮南王の允は忠孝で篤実な人物であり、国を憂いて身を忘れ、(司馬倫の)乱を討って奮戦し、勝利が間近であった。ところが天の凶運に遭遇し、にわかに死去し、逆賊の党が憎悪を抱き、三人の子を殺害し、罪なき魂が毒に侵され、悲痛に思わぬ者はいない。義兵を起こすと、淮南の国人が自発的に駆けつけ、軍勢は一万を超え、人々は義憤を抱き、武帝の血統の断絶を惜しみ、言葉をはなって流涕した。わが子の司馬超を司馬允の後嗣とし、せめてもの慰めとする」と言った。詔があって(司馬允を)改葬し、殊礼を賜り、司徒を追贈した。司馬冏が敗れると、司馬超は金墉城に幽閉された。後に改めて呉王晏(司馬晏)の子である司馬祥を後嗣とし、散騎常侍を拝した。洛陽が傾覆すると、劉聡に殺害された。
代哀王演字宏度、太康十年受封。少有廢疾、不之國、演常止于宮中。薨、無子、以成都王穎子廓為嗣、改封中都王、後與穎俱死。
新都王該字玄度、咸寧三年受封、太康四年薨、時年十二。無子、國除。
清河康王遐字深度、美容儀、有精彩、武帝愛之。既受封、出繼叔父城陽哀王兆。太康十年、增封渤海郡、歷右將軍・散騎常侍・前將軍。元康初、進撫軍將軍、加侍中。遐長而懦弱、無所是非。性好內、不能接士大夫。及楚王瑋之舉兵也、使遐收衞瓘、而瓘故吏榮晦遂盡殺瓘子孫、遐不能禁、為世所尤。永康元年薨、時年二十八。四子、覃・籥・1.銓・端。覃嗣立。
及沖太孫薨、齊王冏表曰、東宮曠然、冢嗣莫繼。天下大業、帝王神器、必建儲副、以固洪基。今者後宮未有孕育、不可庶幸將來而虛天緒、非祖宗之遺志、社稷之長計也。禮、兄弟之子猶子、故漢成無嗣、繼由定陶。孝和之絕、安以紹興。此先王之令典、往代之成式也。清河王覃神姿岐嶷、慧智早成、康王正妃周氏所生、先帝眾孫之中、於今為嫡。昔薄姬賢明、文則承位。覃外祖恢世載名德、覃宜奉宗廟之重、統無窮之祚、以寧四海顒顒之望。覃兄弟雖並出紹、可簡令淑還為國胤、不替其嗣。輒諮大將軍穎及羣公卿士、咸同大願。請具禮儀、擇日迎拜。遂立覃為皇太子。既而河間王顒脅遷大駕、表成都王穎為皇太弟、廢覃復為清河王。初、覃為清河世子、所佩金鈴欻生隱起如麻粟、祖母陳太妃以為不祥、毀而賣之。占者以金是晉行大興之祥、覃為皇胤、是其瑞也。毀而賣之、象覃見廢不終之驗也。永嘉初、前北軍中候任城呂雍・度支校尉陳顏等謀立覃為太子、事覺、幽於金墉城。未幾、被害、時年十四、葬以庶人禮。
籥初封新蔡王、覃薨、還封清河王。銓初封上庸王、懷帝即位、更封豫章王。二年、立為皇太子。洛京傾覆、沒于劉聰。端初封廣川王、銓之為皇太子也、轉封豫章、禮秩如皇子、拜散騎常侍・平南將軍・都督江州諸軍事・假節。當之國、會洛陽陷沒、端東奔苟晞於蒙。晞立為皇太子、七十日、為石勒所沒。
1.「銓」は、「詮」に作る巻もある。
代哀王演 字は宏度、太康十年 封を受く。少くして廢疾有り、國に之かず、演 常に宮中に止まる。薨じ、子無く、成都王穎の子たる廓を以て嗣と為し、改めて中都王に封じ、後に穎と俱に死す。
新都王該 字は玄度、咸寧三年 封を受け、太康四年 薨じ、時に年十二なり。子無く、國 除かる。
清河康王遐 字は深度、容儀美しく、精彩有り、武帝 之を愛す。既に封を受け、出でて叔父の城陽哀王兆を繼ぐ。太康十年、增して渤海郡を封じ、右將軍・散騎常侍・前將軍を歷す。元康初、撫軍將軍に進み、侍中を加ふ。遐 長じて懦弱たり、是非とする所無し。性は內を好み、能く士大夫と接さず。楚王瑋の兵を舉ぐるに及ぶや、遐をして衞瓘を收めしめ、而して瓘の故吏たる榮晦 遂に盡く瓘の子孫を殺し、遐 禁ずる能はず、世の尤(とが)むる所と為る。永康元年 薨じ、時に年二十八。四子あり、覃・籥・1.銓・端なり。覃 嗣立す。
沖太孫 薨ずるに及び、齊王冏 表して曰く、「東宮 曠然たり、冢嗣 繼ぐ莫し。天下の大業、帝王の神器、必ず儲副を建て、以て洪基を固む。今者 後宮 未だ孕育有らず、將來を幸庶して天緒を虛とす可からず、祖宗の遺志にして、社稷の長計に非ず。禮に、兄弟の子は猶ほ子なり、故に漢成 嗣無く、繼は定陶由りす。孝和の絕ゆるに、安 以て紹興す。此れ先王の令典にして、往代の成式なり。清河王覃 神姿は岐嶷たり、慧智 早く成り、康王の正妃たる周氏の生む所、先帝の眾孫の中、今に於て嫡と為す。昔 薄姬 賢明にして、文 則ち位を承く。覃 外祖 恢いに世に名德を載し、覃 宜しく宗廟の重を奉り、無窮の祚を統め、以て四海の顒顒の望を寧んずべし。覃の兄弟 並びに出て紹ぐと雖も、令淑を簡びて還りて國胤と為し、其の嗣を替へざる可し。輒ち大將軍穎及び羣公卿士に諮るに、咸 大願を同にす。請ふ禮儀を具へ、日を擇びて迎拜せよ」と。遂に覃を立てて皇太子と為す。既にして河間王顒 脅して大駕を遷し、表して成都王穎もて皇太弟と為し、覃を廢して復た清河王と為す。初め、覃 清河世子為りしに、佩く所の金鈴 欻ち隱起を生じて麻粟が如く、祖母の陳太妃 以て不祥と為し、毀して之を賣る。占者 金を以て是れ晉行の大いに興るの祥とし、覃もて皇胤と為すは、是れ其の瑞なり。毀ちて之を賣るは、覃の廢せられ終らざるの驗を象るなり。永嘉初、前北軍中候たる任城の呂雍・度支校尉たる陳顏等 覃を立てて太子と為すを謀り、事 覺し、金墉城に幽せらる。未だ幾くもなく、害せられ、時に年十四なり、庶人の禮を以て葬る。
籥 初め新蔡王に封じ、覃 薨ずるや、還りて清河王に封ぜらる。銓 初め上庸王に封じ、懷帝 即位するや、更めて豫章王に封ず。二年、立ちて皇太子と為る。洛京 傾覆し、劉聰に沒す。端 初め廣川王に封じ、銓の皇太子と為るや、轉じて豫章に封じ、禮秩は皇子が如く、散騎常侍・平南將軍・都督江州諸軍事・假節を拜す。當に國に之くべきに、會 洛陽 陷沒し、端 東のかた苟晞に蒙に於て奔る。晞 立てて皇太子と為し、七十日にして、石勒の沒する所と為る。
代哀王演(司馬演)は字を宏度といい、太康十(二八九)年に封爵を受けた。若くして不治の病があり、国に行かず、つねに宮中に残った。薨じて、子が無く、成都王穎(司馬穎)の子である司馬廓を後嗣とし、改めて中都王に封じたが、のちに司馬穎とともに死んだ。
新都王該(司馬該)は字を玄度といい、咸寧三(二七七)年に封爵を受け、太康四(二八三)年に薨じ、時に年十二であった。子が無く、国は除かれた。
清河康王遐(司馬遐)は字を深度といい、容姿と立ち居振る舞いが美しく、いきいきとして精彩があり、武帝に愛された。封爵を受けると、家を出て叔父の城陽哀王兆(司馬兆)を継いだ。太康十(二八九)年、封土に渤海郡を追加し、右将軍・散騎常侍・前将軍を歴任した。元康初(二九一-)、撫軍将軍に進み、侍中を加えられた。司馬遐は成長してからは懦弱であり、際立った特徴がなかった。引きこもりで、士大夫と交際しなかった。楚王瑋(司馬瑋)が兵を挙げると、司馬遐に衛瓘を捕らえに行かせたが、衛瓘の故吏である榮晦が衛瓘の子や孫を殺し尽くし、司馬遐は制止できず、世間から批判を受けた。永康元(三〇〇)年に薨じ、年は二十八だった。四子がおり、覃・籥・銓(詮)・端である。司馬覃が嗣いだ。
沖太孫(司馬尚)が薨じると、斉王冏(司馬冏)は上表し、「東宮は広々とし、嫡長子がいない。天下の大業と、帝王の神器は、必ず後嗣を立てて、大いなる事業を安定させるものだ。いま後宮は妊娠しておらず、将来のためには皇統を空虚としてはならない、これは祖先に遺志でないし、社稷の長期的な計画でもない。礼に、兄弟の子は実子のようなものだとあり、ゆえに前漢の成帝は後嗣がいないと、定陶王家から後嗣を迎えた。後漢の和帝の血統が絶えると、安帝が王朝を継承した。これは先王の規定であり、前代の模範であった。清河王覃は神のように立派な容姿をそなえ、早くから叡智が完成され、康王(司馬遐)の正妃である周氏が生んだ子であり、先帝(武帝)のあまたの孫のなかで、いまは嫡流といえる。むかし前漢の薄姫が賢明なので、文帝が皇位を受けた。司馬覃の外祖父は大いに名徳を表すので、司馬覃に宗廟を奉らせ、無窮の天命をおさめ、四海の期待に応えさせるべきである。司馬覃の兄弟はいずれも家を出て(他家を)継いでいるが、優れた者を選んで(生家に)戻して国を継がせ、その後嗣は変えぬように。大将軍穎(司馬穎)及び群公卿士に意見を求めたが、皆が同じ考えであった。礼儀を備え、吉日を選んで奉迎せよ」と言った。こうして司馬覃を立てて皇太子とした。河間王顒(司馬顒)が脅迫して恵帝を(長安に)移すと、上表して成都王穎を皇太弟とし、司馬覃を廃して清河王に戻した。これより前、司馬覃が清河王の世子であったとき、身に着けていた金鈴が突如として盛り上がって麻粟に似ており、祖母の陳太妃が不吉な前兆とし、壊して売り払った。占者によると金徳の晋王朝が勃興する吉祥であり、司馬覃が皇帝の継嗣となる、予兆だとした。壊して売り払ったのは、司馬覃が廃位されて寿命を終えないことに対応すると解釈した。永嘉初(三〇七-)、前北軍中候である任城の呂雍・度支校尉の陳顔らが司馬覃を立てて皇太子にしようと謀ったが、計画が発覚し、金墉城に幽閉された。ほどなく、殺害され、このとき十四歳であり、庶人の礼で葬られた。
司馬籥は初めに新蔡王に封じらえ、司馬覃が薨じると、(生家に)還って清河王に封じられた。司馬銓(司馬詮)は初めに上庸王に封じられ、懐帝が即位すると、改めて豫章王に封じられた。永嘉二(三〇八)年、皇太子に立てられた。洛陽が傾覆すると、劉聡に捕らわれた。司馬端は初めに広川王に封じられ、司馬銓が皇太子になると、転じて豫章に封じられ、礼秩は皇子と同等とし、散騎常侍・平南将軍・都督江州諸軍事・仮節を拝した。国に赴くとき、ちょうど洛陽が陥落し、司馬端は東のかた苟晞のもとに蒙県で逃げ込んだ。荀晞は皇太子に立てたが、七十日で、石勒に捕らわれた。
汝陰哀王謨字令度、太康七年薨、時年十一。無後、國除。
吳1.敬王晏字平度、太康十年受封、食丹楊・吳興并吳三郡、歷射聲校尉・後軍將軍。與兄淮南王允共攻趙王倫、允敗、收晏付廷尉、欲殺之。傅祗於朝堂正色而爭、於是羣官並諫、倫乃貶為賓徒縣王。後徙封代王。倫誅、詔復晏本封、拜上軍大將軍・開府、加侍中。長沙王乂・成都王穎之相攻也、乂以晏為前鋒都督、數交戰。永嘉中、為太尉・大將軍。晏為人恭愿、才不及中人、於武帝諸子中最劣。又少有風疾、視瞻不端、後轉增劇、不堪朝覲。及洛京傾覆、晏亦遇害、時年三十一。愍帝即位、追贈太保。五子、長子不顯名、與晏同沒。餘四子、祥・鄴・固・衍。祥嗣淮南王允。鄴即愍帝。固初封漢王、改封濟南。衍初封新都王、改封濟陰、為散騎常侍。皆沒于賊。
渤海殤王恢字思度、太康五年薨、時年二歲、追加封諡。
1.この巻の上文で「吳孝王晏」とあり、愍帝紀は「孝王」とするが、ここでは「敬王」に作る。恐らく「孝王」が正しいという。
2.「固」は、恵帝紀では「國」に作る。
汝陰哀王謨 字は令度、太康七年 薨ず、時に年十一。後無く、國 除かる。
吳敬王晏 字は平度、太康十年 封を受け、丹楊・吳興 吳を并せて三郡を食む、射聲校尉・後軍將軍を歷す。兄の淮南王允と共に趙王倫を攻め、允 敗れ、晏を收めて廷尉に付し、之を殺さんと欲す。傅祗 朝堂に於て色を正して爭ひ、是に於て羣官 並びに諫め、倫 乃ち貶めて賓徒縣王と為す。後に徙して代王に封ず。倫 誅せられ、詔して晏を本封に復し、上軍大將軍・開府を拜し、侍中を加ふ。長沙王乂・成都王穎の相 攻むるや、乂 晏を以て前鋒都督と為し、數々交戰す。永嘉中、太尉・大將軍と為る。晏の人と為りは恭愿にして、才は中人に及ばず、武帝の諸子中に於て最も劣る。又 少くして風疾有り、視瞻 端ならず、後に轉じて增劇して、朝覲に堪へず。洛京 傾覆するに及び、晏 亦 害に遇ひ、時に年三十一なり。愍帝 即位し、太保を追贈す。五子あり、長子 名を顯たらず、晏と同に沒す。餘の四子、祥・鄴・固・衍なり。祥 淮南王允を嗣ぐ。鄴 即ち愍帝なり。固 初め漢王に封じ、改めて濟南に封ず。衍 初め新都王に封じ、改めて濟陰に封じ、散騎常侍と為る。皆 賊に沒す。
渤海殤王恢 字は思度、太康五年 薨じ、時に年二歲なり、追ひて封諡を加ふ。
汝陰哀王謨(司馬謨)は字を令度といい、太康七(二八六)年に薨じた、十一歳だった。後嗣がなく、国が除かれた。
呉敬王(孝王)晏(司馬晏)は字を平度といい、太康十(二八九)年に封爵を受け、丹楊・呉興に呉郡を合わせて三郡を食邑とし、射声校尉・後軍将軍を歴任した。兄の淮南王允(司馬允)とともに趙王倫(司馬倫)を攻め、司馬允が敗れると、司馬晏は捕らわれて廷尉に引き渡され、殺されそうになった。傅祗が朝堂で態度を改めて争い、群官が一緒に諫めたので、司馬倫は賓徒県王に貶めた。後に移して代王に封じた。司馬倫が誅されると、詔して司馬晏をもとの封国(呉)の戻し、上軍大将軍・開府を拝し、侍中を加えた。長沙王乂・成都王穎が抗争すると、司馬乂は司馬晏を前鋒都督とし、しばしば交戦した。永嘉中(三〇七-三一三)、太尉・大将軍となった。司馬晏の人となりは恭順で誠実であったが、才能は平均にも及ばず、武帝の諸子のなかで最も劣った。また若いとき風疾をわずらい、見てくれが悪く、後に病気が悪化して、朝議に出られなくなった。洛陽が傾覆すると、司馬晏も殺害され、三十一歳であった。愍帝が即位すると、太保を追贈された。五子がおり、長子の名は未詳で、司馬晏と同時に殺された。他の四子は、祥・鄴・固(国)・衍である。司馬祥は淮南王允(司馬允)を嗣いだ。司馬鄴は愍帝である。司馬固は初め漢王に封じられ、改めて済南に封じられた。司馬衍は初め新都王に封じられ、改めて済陰に封じられ、散騎常侍となった。全員が賊に捕らわれた。
渤海殤王恢(司馬恢)は字を思度といい、太康五(二八四)年に薨じ、二歳であった、追って封諡を加えられた。
元帝六男、宮人荀氏生明帝及琅邪孝王裒。石婕妤生東海哀王沖。王才人生武陵威王晞。鄭夫人生琅邪悼王煥及簡文帝。
琅邪孝王裒字道成、母荀氏、以微賤入宮、元帝命虞妃養之。裒初繼叔父長樂亭侯渾、後徙封宣城郡公、拜後將軍。及帝為晉王、有司奏立太子、帝以裒有成人之量、過於明帝、從容謂王導曰、「立子以德不以年。」導曰、「世子・宣城俱有朗儁之目、固當以年。」於是太子位遂定。更封裒琅邪、嗣恭王後、改食會稽・宣城邑五萬二千戶、拜散騎常侍・使持節・都督青徐兗三州諸軍事・車騎將軍、徵還京師。建武元年薨、年十八、贈車騎大將軍、加侍中。及妃山氏薨、祔葬、穆帝更贈裒太保。子哀王安國立、未踰年薨。
東海哀王沖字道讓。元帝以東海王越世子毗沒于石勒、不知存亡、乃以沖繼毗後、稱東海世子、以毗陵郡增本封邑萬戶、又改食下邳・蘭陵、以越妃裴氏為太妃、拜長水校尉。高選僚佐、以沛國劉耽為司馬、潁川庾懌為功曹、吳郡顧和為主簿。永昌初、遷中軍將軍、加散騎常侍。及東海太妃薨、因發毗喪。沖即王位、以滎陽益東海國、轉車騎將軍、徙驃騎將軍。咸康七年薨、年三十一、贈侍中・驃騎大將軍・儀同三司、無子。
成帝臨崩、詔曰、哀王無嗣、國統將絕、朕所哀怛。其以小晚生弈繼哀王為東海王。以道遠、罷滎陽、更以臨川郡益東海。及哀帝以琅邪王即尊位、徙弈為琅邪王、東海國闕、無嗣。弈後入纂大業、桓溫廢之、復為東海王、既而貶為海西公、東海國又闕嗣。隆安三年、安帝詔以會稽忠王次子1.彥璋為東海王、繼哀王為曾孫、改食吳興郡。為桓玄所害、國除。
1.「彥璋」は、何無忌傳・『魏書』司馬叡傳では「彥章」に作る。
元帝に六男あり、宮人荀氏 明帝及び琅邪孝王裒を生む。石婕妤 東海哀王沖を生む。王才人 武陵威王晞を生む。鄭夫人 琅邪悼王煥及び簡文帝を生む。
琅邪孝王裒 字は道成、母の荀氏、微賤を以て宮に入り、元帝 虞妃に命じて之を養はしむ。裒 初め叔父の長樂亭侯渾を繼ぎ、後に封を宣城郡公に徙し、後將軍を拜す。帝 晉王と為るに及び、有司 太子を立つることを奏し、帝 裒を成人の量有りて、明帝に過ぐるを以て、從容として王導に謂ひて曰く、「子を立つるに德を以てし年を以てせず」と。導曰く、「世子・宣城 俱に朗儁の目有り、固に當に年を以てすべし」と。是に於て太子の位 遂に定まる。更めて裒を琅邪に封じ、恭王の後を嗣がしめ、改めて會稽・宣城の邑五萬二千戶を食み、散騎常侍・使持節・都督青徐兗三州諸軍事・車騎將軍を拜し、徵して京師に還す。建武元年 薨じ、年は十八、車騎大將軍を贈り、侍中を加ふ。妃の山氏 薨ずるに及び、祔葬し、穆帝 更めて裒に太保を贈る。子の哀王安國 立ち、未だ年を踰えずして薨ず。
東海哀王沖 字は道讓なり。元帝 東海王越の世子たる毗 石勒に沒し、存亡を知らざるを以て、乃ち沖を以て毗の後を繼がしめ、東海世子と稱し、毗陵郡を以て本封の邑萬戶に增し、又 食を下邳・蘭陵に改め、越の妃たる裴氏を以て太妃と為し、長水校尉を拜す。僚佐を高選し、沛國の劉耽を以て司馬と為し、潁川の庾懌もて功曹と為し、吳郡の顧和もて主簿と為す。永昌初、中軍將軍に遷り、散騎常侍を加ふ。東海太妃 薨ずるに及び、因りて毗の喪を發す。沖 王位に即くや、滎陽を以て東海國に益し、車騎將軍に轉じ、驃騎將軍に徙る。咸康七年 薨じ、年三十一、侍中・驃騎大將軍・儀同三司を贈り、子無し。
成帝 崩に臨み、詔して曰く、「哀王 嗣無く、國統 將に絕えんとし、朕 哀怛する所なり。其れ小晚生の弈を以て哀王を繼ぎて東海王と為せ」と。道の遠きを以て、滎陽を罷め、更めて臨川郡を以て東海に益す。哀帝 琅邪王を以て尊位に即くに及び、弈を徙して琅邪王と為し、東海國 闕け、嗣無し。弈 後に入りて大業を纂ぐも、桓溫 之を廢す、復た東海王と為る、既にして貶めて海西公と為し、東海國 又 嗣を闕く。隆安三年、安帝 詔して會稽忠王の次子たる彥璋を以て東海王と為し、哀王を繼ぎて曾孫と為し、食を吳興郡に改む。桓玄の害する所と為り、國 除かる。
元帝に六人の男子がおり、宮人の荀氏が明帝及び琅邪孝王裒を生んだ。石婕妤が東海哀王沖を生んだ。王才人が武陵威王晞を生んだ。鄭夫人が琅邪悼王煥及び簡文帝を生んだ。
琅邪孝王裒(司馬裒)は字を道成といい、母の荀氏は、微賤の身分から後宮に入ったので、元帝は虞妃に命じて司馬裒を養育させた。司馬裒は初めに叔父の長楽亭侯渾(司馬渾)を継いだが、後に封爵を宣城郡公に移し、後将軍を拝した。元帝が晋王になると、担当官は王太子を立てることを上奏し、元帝は司馬裒に大人並みの度量があり、明帝よりも優れているから、ゆったりと王導に、「年齢でなく徳の有無によって太子を選ぼうと思うが」と言った。王導は「世子・宣城公はどちらも俊英さが期待できます、年齢によって選びなさい」と言った。こうして太子の位は(明帝に)定まった。改めて司馬裒を琅邪に封じ、恭王の後を嗣がせ、改めて会稽・宣城の五万二千戸を食邑とし、散騎常侍・使持節・都督青徐兗三州諸軍事・車騎将軍を拝し、徴して京師に還らせた。建武元(三一七)年に薨じ、年は十八であった、車騎大将軍を贈り、侍中を加えた。妃の山氏が薨じると、祔葬し、穆帝はさらに司馬裒に太保を贈った。子の哀王安国(司馬安国)が立ち、年を越さずに薨じた。
東海哀王沖(司馬沖)は字を道譲という。元帝は東海王越(司馬越)の世子である司馬毗が石勒に捕らわれ、生死不明なので、司馬沖に司馬毗の後を継がせ、東海世子と称して、毗陵郡をもとの(東海国の)邑万戸に増やし、さらに食邑を下邳・蘭陵に改め、司馬越の妃である裴氏を太妃とし、(司馬沖が)長水校尉を拝した。配下を厳選し、沛国の劉耽を司馬とし、潁川の庾懌を功曹とし、呉郡の顧和を主簿とした。永昌初(三二二-)、中軍将軍に遷り、散騎常侍を加えた。東海太妃(裴氏)が薨じると、司馬毗の喪を発した。司馬沖が王位に即くと、滎陽を国に追加し、車騎将軍に転じ、驃騎将軍に移った。咸康七(三四一)年に薨じ、年は三十一、侍中・驃騎大将軍・儀同三司を贈り、子が無かった。
成帝の崩御の際、詔して、「東海哀王は後嗣がおらず、国統が絶えかかり、朕は残念に思う。そこでわが幼い末子の司馬弈に哀王を継がせ東海王とする」と言った。距離があるので、滎陽を国土から除外し、更めて臨川郡を国に追加した。哀帝は琅邪王から帝位に即いたので、司馬弈を琅邪王に移し、東海王が欠員し、子が無かった。司馬弈は後に帝位を継いだが、桓温に廃され、再び東海王に戻ったが、海西公に降格され、東海国はまたもや王を欠いた。隆安三(三九九)年、安帝が詔して会稽忠王の次子である司馬彦璋(彦章)を東海王とし、哀王の曾孫として継承させ、食邑を呉興郡に改めた。桓玄に殺害され、国が除かれた。
武陵威王晞字道叔、出繼武陵王喆後、太興元年受封。咸和初、拜散騎常侍。後以湘東增武陵國、除左將軍、遷鎮軍將軍、加散騎常侍。康帝即位、加侍中・特進。建元初、領祕書監。穆帝即位、轉鎮軍大將軍、遷太宰。太和初、加羽葆鼓吹、入朝不趨、贊拜不名、劍履上殿。固讓。
晞無學術而有武幹、為桓溫所忌。及簡文帝即位、溫乃表晞曰、晞體自皇極、故寵靈光世、不能率由王度、修己慎行、而聚納輕剽、苞藏亡命。又1.息綜矜忍、虐加于人。袁真叛逆、事相連染。頃自猜懼、將成亂階。請免晞官、以王歸藩、免其世子綜官、解子㻱散騎常侍。㻱以梁王隨晞、晞既見黜、送馬八十五匹・三百人杖以歸溫。溫又逼新蔡王晃使自誣與晞・綜及著作郎殷涓・太宰長史2.(庾藉)〔庾倩〕・掾曹秀・舍人劉彊等謀逆、遂收付廷尉、請誅之。簡文帝不許、溫於是奏徙新安郡、家屬悉從之、而族誅殷涓等、廢晃徙衡陽郡。
太元六年、晞卒于新安、時年六十六。孝武帝三日臨于西堂、詔曰、感惟摧慟、便奉迎靈柩、并改移妃應氏及故世子・梁王諸喪、家屬悉還。復下詔曰、故前武陵王體自皇極、克己思愆。仰惟先朝仁宥之旨、豈可情禮靡寄。其追封新寧郡王、邑千戶。晞三子、綜・㻱・遵。以遵嗣。追贈綜給事中、㻱散騎郎。十二年、追復晞武陵國、綜・㻱各復先官、㻱還繼梁國。
梁王㻱字賢明、出繼梁王翹、官至永安太僕、與父晞俱廢。薨、子龢嗣。太元中復國。薨、子珍之嗣。桓玄篡位、3.國人孔樸奉珍之奔于壽陽。桓玄敗、珍之歸朝廷。大將軍武陵王令曰、梁王珍之理悟貞立、蒙險違難、撫義懷順、載奔闕庭。值壽陽擾亂、在危克固、且可通直散騎郎。累遷游擊將軍・左衞・太常。劉裕伐姚泓、請為諮議參軍。裕將弱王室、誣其罪害之。
忠敬王遵字茂遠。初襲封新寧、時年十二、受拜流涕、哀感左右。右將軍桓伊嘗詣遵、遵曰、門何為通桓氏。左右曰、伊與桓溫疏宗、相見無嫌。遵曰、我聞人姓木邊、便欲殺之、況諸桓乎。由是少稱聰慧。
及晞追復封武陵王、以遵嗣、歷位散騎常侍・祕書監・太常・中領軍。桓玄用事、拜金紫光祿大夫。玄篡、貶為彭澤侯、遣之國。行次石頭、夜濤水入淮、船破、未得發。會義旗興、復還國第。朝廷稱受密詔、使遵總攝萬機、加侍中・大將軍、移入東宮、內外畢敬。遷轉百官、稱制書。又教稱令書。安帝反正、更拜太保、加班劍二十人。義熙四年薨、時年三十五、詔賜東園溫明祕器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹、策贈太傅、葬加殊禮。子定王季度立、拜散騎侍郎。薨、子球之立。宋興、國除。
1.「息綜」は、簡文帝紀は「息總」に作る。『世説新語』黜免篇に引く司馬晞傳は「息琮」に作る。
2.中華書局本に従い、「庾藉」を「庾倩」に改める。
3.「國人孔樸」は、梁王彤傳では「國臣孔璞」に作り、『世説新語』豪爽篇に引く中興書も「孔璞」に作るという。
武陵威王晞 字は道叔、出でて武陵王喆の後を繼ぎ、太興元年 封を受く。咸和初、散騎常侍を拜す。後に湘東を以て武陵國に增し、左將軍に除し、鎮軍將軍に遷り、散騎常侍を加ふ。康帝 即位し、侍中・特進を加ふ。建元初、祕書監を領す。穆帝 即位し、鎮軍大將軍に轉じ、太宰に遷る。太和初、羽葆鼓吹、入朝不趨、贊拜不名、劍履上殿を加ふ。固讓す。
晞 學術無くして武幹有り、桓溫の忌む所と為る。簡文帝 即位するに及び、溫 乃ち晞に表して曰く、「晞 體は皇極自りし、故に寵靈 世に光きく、能く王度を率由して、己を修めて行を慎まず、而して輕剽なるを聚納し、亡命を苞藏す。又 息の綜 矜忍たり、虐を人に加ふ。袁真 叛逆し、事は相 連染す。頃自 猜懼し、將に亂階と成らんとす。晞の官を免じ、王を以て歸藩し、其の世子たる綜の官を免じ、子の㻱もて散騎常侍を解かんことを請ふ」と。㻱 梁王を以て晞に隨ひ、晞 既に黜せられ、馬八十五匹・三百人杖を送りて以て溫に歸す。溫 又 新蔡王晃に逼りて自ら誣して晞・綜及び著作郎の殷涓・太宰長史庾倩・掾の曹秀・舍人の劉彊等と與に謀逆し、遂に廷尉に收付し、之を誅さんと請はしむ。簡文帝 許さず、溫 是の奏に於て新安郡に徙し、家屬 悉く之に從ひ、而して殷涓等を族誅し、晃を廢して衡陽郡に徙す。
太元六年、晞 新安に卒し、時に年六十六。孝武帝 三日 西堂に臨み、詔して曰く、「感 惟れ摧慟す、便ち靈柩を奉迎し、并せて改めて妃の應氏及び故世子・梁王の諸喪を移して、家屬 悉く還せ」と。復た詔を下して曰く、「故前武陵王 體は皇極自りし、克己し思愆す。仰ぎて先朝の仁宥の旨を惟ふに、豈に情禮 寄すること靡くある可きか。其れ新寧郡王に追封し、邑千戶とす」と。晞 三子あり、綜・㻱・遵なり。遵を以て嗣がしむ。綜に給事中を、㻱に散騎郎を追贈す。十二年、追ひて晞を武陵國に復し、綜・㻱 各々先官に復し、㻱 還りて梁國を繼ぐ。
梁王㻱 字は賢明、出でて梁王翹を繼ぎ、官は永安太僕に至り、父の晞と俱に廢せらる。薨じ、子の龢 嗣ぐ。太元中 國を復す。薨じ、子の珍之 嗣ぐ。桓玄 篡位し、國人の孔樸 珍之を奉じて壽陽に奔る。桓玄 敗れ、珍之 朝廷に歸る。大將軍武陵王 令して曰く、「梁王珍之は理悟 貞立し、險を蒙し難に違ひ、義を撫し順を懷き、闕庭に載奔す。壽陽 擾亂するに值り、危に在りて克く固め、且に通直散騎郎とす可し」と。累りに游擊將軍・左衞・太常に遷る。劉裕 姚泓を伐つに、請ひて諮議參軍と為る。裕の將に王室を弱めんとし、其の罪を誣して之を害す。
忠敬王遵 字は茂遠なり。初め封を新寧に襲ひ、時に年十二、拜を受けて流涕し、哀は左右を感ぜしむ。右將軍の桓伊 嘗て遵に詣り、遵曰く、「門 何の為に桓氏に通すや」と。左右曰く、「伊 桓溫と疏宗たり、相 見えて嫌ふ無かれ」と。遵曰く、「我 人に姓の木邊と聞けば、便ち之を殺さんと欲す、況んや諸桓をや」と。是に由りて少くして聰慧を稱せらる。
晞 追ひて封を武陵王に復するに及び、遵を以て嗣がしめ、位を散騎常侍・祕書監・太常・中領軍を歷す。桓玄 用事し、金紫光祿大夫を拜す。玄 篡し、貶めて彭澤侯と為し、國に之かしむ。行きて石頭に次るに、夜に濤水 淮に入り、船 破れ、未だ發するを得ず。會 義旗 興り、復た國第に還る。朝廷 密詔を受くると稱し、遵をして萬機を總攝せしめ、侍中・大將軍を加へ、移りて東宮に入り、內外 敬を畢す。百官を遷轉し、制書と稱す。又 令書と稱せしむ。安帝 正に反り、更めて太保を拜し、班劍二十人を加ふ。義熙四年 薨じ、時に年三十五、詔して東園溫明祕器、朝服一具、衣一襲、錢百萬、布千匹を賜ひ、策して太傅を贈り、葬は殊禮を加ふ。子の定王季度 立ち、散騎侍郎を拜す。薨じ、子の球之 立つ。宋 興り、國 除かる。
武陵威王晞(司馬晞)は字を道叔といい、家を出て武陵王喆(司馬喆)の後を継ぎ、太興元(三一八)年に封爵を受けた。咸和初(三二六-)、散騎常侍を拝した。後に湘東を武陵国に増し、左将軍に除せられ、鎮軍将軍に遷り、散騎常侍を加えた。康帝が即位すると、侍中・特進を加えられた。建元初(三四三-)、秘書監を領した。穆帝が即位すると、鎮軍大将軍に転じ、太宰に遷った。太和初(三六六)、羽葆鼓吹、入朝不趨、賛拝不名、剣履上殿の特礼を加えた。固辞した。
司馬晞は学問はないが武勇があり、桓温に疎まれた。簡文帝が即位すると、桓温は司馬晞について上表し、「司馬晞は皇帝の子であり、寵愛や威光が当世に大きいにも拘わらず、王の規範を遵守せず、自制して行動を慎まず、軽狡な者どもを集め、身分の不確かな連中を囲っています。また息子の司馬綜は傲慢で残酷であり、人を虐待しています。袁真は叛逆しましたが、仲間内で影響を与えあっています。近ごろ、王朝に政乱をもたらすのではないかと疑い懼れています。そこで司馬晞の官職を免じ、王として帰藩させ、世子である司馬綜の官職を免じ、子の司馬㻱も散騎常侍を解任なさいますよう」と言った。司馬㻱は梁王として司馬晞に随っていたが、司馬晞が免官されると、馬八十五匹・三百人杖を贈って桓温のもとを頼った。桓温はさらに新蔡王晃(司馬晃)に仕向けて自ら司馬晞・司馬綜(の父子)及び著作郎の殷涓・太宰長史の庾倩・掾の曹秀・舍人の劉彊らとともに反逆を計画しましたと詐りの自白をさせ、(司馬晞を)廷尉に引き渡し、彼らの誅殺を申請した。簡文帝は許さず、桓温はこの上奏に基づいて(司馬晞を)新安郡に移住させ、家属が皆が同行し、一方で殷涓らを族誅し、司馬晃を廃して衡陽郡に移住させた。
太元六(三八一)年、司馬晞は新安で卒し、六十六歳であった。孝武帝は三日間西堂に臨み、詔して、「大変悲しく思う、(司馬晞の)霊柩を奉迎し、改めて妃の応氏及び故(もと)世子・梁王(司馬綜・司馬㻱)らの遺体を移して、家属をみな帰還させよ」と言った。さらに詔を下し、「故前武陵王(司馬晞)は元帝の息子であり、克己し罪を反省した。先代王朝の寛大な処置を考えるに、情状酌量せずにおくべきか。新寧郡王に追封し、邑千戸とせよ」と言った。司馬晞に三子がおり、綜・㻱・遵である。司馬遵に嗣がせた。司馬綜に給事中を、司馬㻱に散騎郎を追贈した。太元十二(三八七)年、追って司馬晞を武陵国に復帰させ、綜・㻱はそれぞれ生前の官職に戻し、司馬㻱には梁国を継がせた。
梁王㻱(司馬㻱)は字を賢明といい、家を出て梁王翹(司馬翹)を継ぎ、官位は永安太僕に至ったが、父の司馬晞とともに廃位された。薨じると、子の司馬龢が嗣いだ。太元中(三七六-三九六)国を回復した。薨じると、子の司馬珍之が嗣いだ。桓玄が簒奪すると、国人の孔樸(孔璞)が司馬珍之をかついで寿陽に逃げ込んだ。桓玄が敗れると、司馬珍之は朝廷に帰った。大将軍の武陵王が令して、「梁王の珍之は道理を正しく身に着け、困難をかいくぐり、道義を実践し、宮殿に帰ってきた。寿陽が擾乱すると、危難にあっても持ち堪えたので、通直散騎郎とせよ」と言った。しきりに游撃将軍・左衛・太常に遷った。劉裕が姚泓を伐つとき、請われて諮議参軍となった。劉裕が晋王朝を弱体化させようと、罪をでっち上げて司馬珍之を殺害した。
忠敬王遵(司馬遵)は字を茂遠という。初めに(亡父の司馬晞の)新寧郡王を嗣いで、このとき年は十二、封建されると(亡父のために)流涕し、哀しみは左右の者を感動させた。右将軍の桓伊はかつて司馬遵を訪問したが、司馬遵は、「門番はなぜ桓氏を通したのか」と質問した。左右の者が、「桓伊は桓温と血縁が遠いので、ご機嫌を直して下さい」と言った。司馬遵は、「人の姓が木偏(の文字)だというだけで、殺したいと思う、まして桓氏などは(殺意が抑え切れぬ)」と言った。これにより幼いときから聡明さを称賛された。
司馬晞が(没後に)追って武陵王を回復すると、司馬遵に嗣がせ、散騎常侍・秘書監・太常・中領軍を歴任した。桓玄が執政すると、金紫光禄大夫を拝した。桓玄が簒奪すると、貶めて彭沢侯となり、国に赴任した。行って石頭を通過し、夜に濤水から淮水に入るところで、船が壊れて、出発できなかった。ちょうど義旗(打倒桓玄)が起こり、国王の邸宅に帰った。朝廷は密詔を受けたと称し、司馬遵に政務全般を統括させ、侍中・大将軍を加え、東宮に移し、内外から尊重された。百官を異動させ、(司馬遵の発する文書を)制書と称した。また令書とも言わせた。安帝が皇位に戻ると、改めて太保を拝し、班剣二十人を加えた。義熙四(四〇八)年に薨じ、三十五歳、詔して東園温明の秘器、朝服一具、衣一襲、銭百万、布千匹を賜わり、策書により太傅を贈り、葬儀には殊礼を加えた。子の定王季度(司馬季度)が立ち、散騎侍郎を拝した。薨じると、子の司馬球之が立った。宋が興ると、国は除かれた。
琅邪悼王煥字耀祖。母有寵、元帝特所鍾愛。初繼帝弟長樂亭侯渾、後封顯義亭侯。尚書令刁協奏、昔魏臨淄侯以邢顒為家丞、劉楨為庶子。今侯幼弱、宜選明德。帝令曰、臨淄萬戶封、又植少有美才、能同遊田蘇者。今晚生矇弱、何論於此。間封此兒、不以寵稚子也。亡弟當應繼嗣、不獲已耳。家丞・庶子、足以攝祠祭而已、豈宜屈賢才以受無用乎。及煥疾篤、帝為之徹膳、乃下詔封為琅邪王、嗣恭王後。俄而薨、年二歲。
帝悼念無已、將葬、以煥既封列國、加以成人之禮、詔立凶門柏歷、備吉凶儀服、營起陵園、功役甚眾。琅邪國右常侍會稽孫霄上疏諫曰、
臣聞法度典制、先王所重、吉凶之禮、事貴不過。是以世豐不使奢放、凶荒必務約殺。朝聘嘉會、足以展庠序之儀。殯葬送終、務以稱哀榮之情。上無奢泰之謬、下無匱竭之困。故華元厚葬、君子謂之不臣。嬴博至儉、仲尼稱其合禮。明傷財害時、古人之所譏。節省簡約、聖賢之所嘉也。語曰、上之化下、如風靡草。京邑翼翼、四方所則、明教化法制、不可不慎也。陛下龍飛踐阼、興微濟弊、聖懷勞謙、務從簡儉、憲章舊制、猶欲節省、禮典所無、而反尚飾、此臣愚情竊所不安也。棺槨輿服、旒翣之屬、禮典舊制、不可廢闕。凶門柏歷、禮典所無、天晴可不用、遇雨則無益、此至宜節省者也。若琅邪一國一時所用、不為大費、臣在機近、義所不言。今天臺所居、王公百僚聚在都輦、凡有喪事、皆當供給材木百數・竹薄千計、凶門兩表、衣以細竹及材、價直既貴、又非表凶哀之宜、如此過飾、宜從粗簡。
又案禮記、國君之葬、棺槨之間容柷、大夫容壺、士容甒。以壺甒為差、則柷財大於壺明矣。槨周於棺、槨不甚大也。語曰、葬者藏也、藏欲其深而固也。槨大則難為堅固、無益於送終、而有損於財力。凶荒殺禮、經國常典、既減殺而猶過舊、此為國之所厚惜也。又禮、將葬、遷柩于廟祖而行、及墓即窆、葬之日即反哭而虞。如此、則柩不宿於墓上也。聖人非不哀親之在土而無情於丘墓、蓋以墓非安神之所、故修虞於殯宮。始則營草宮於山陵、遷神柩於墓側、又非典也。非禮之事、不可以訓萬國。
臣至愚至賤、忽求革前之非、可謂狂瞽不知忌諱。然今天下至弊、自古所希、宗廟社稷、遠託江表半州之地、凋殘以甚。加之荒旱、百姓困瘁、非但不足、死亡是懼。此乃陛下至仁之所矜愍、可憂之至重也。正是匡矯末俗、改張易調之時、而猶當竭已罷之人、營無益之事、殫已困之財、修無用之費、此固臣之所不敢安也。今琅邪之於天下、國之最大、若割損非禮之事、務遵古典、上以彰聖朝簡易之至化、下以表萬世無窮之規則、此芻蕘之言有補萬一、塵露之微有增山海。表寢不報。
永昌元年、立煥母弟昱為琅邪王、即簡文帝也。咸和二年、徙封會稽、以康帝為琅邪王。康帝即位、哀帝為琅邪王。哀帝即位、廢帝為琅邪王。廢帝即位、又以簡文帝攝行琅邪王國祀。簡文登阼、國遂無嗣。帝臨崩、封少子道子為琅邪王。太元十七年、道子為會稽王、更以恭帝為琅邪王。恭帝即位、於是琅邪國除。
琅邪悼王煥 字は耀祖なり。母 寵有り、元帝 特に鍾愛する所なり。初め帝の弟たる長樂亭侯渾を繼ぎ、後に顯義亭侯に封ず。尚書令の刁協 奏し、「昔 魏の臨淄侯 邢顒を以て家丞と為し、劉楨もて庶子と為す。今 侯は幼弱にして、宜しく明德を選ぶべし」と。帝 令して曰く、「臨淄 萬戶もて封じ、又 植 少くして美才有り、能く同に田蘇と遊ぶ者なり〔一〕。今 晚生 矇弱にして、何ぞ此に論ぜんか。間(さきごろ) 此の兒を封じ、寵を以て稚子とせざるなり。亡弟たる當に應に繼嗣あるべきなれば、已むを獲ざるのみ。家丞・庶子、以て祠祭に攝するに足るのみ、豈に宜しく賢才を屈して以て無用を受けんや」と。煥 疾 篤かるに及び、帝 之の為に徹膳し、乃ち詔を下して封じて琅邪王と為し、恭王の後を嗣がしむ。俄かにして薨じ、年二歲なり。
帝 悼念して已む無く、將に葬らんとし、煥を以て既に列國に封じたれば、成人の禮を以て加へ、詔して凶門に柏歷を立て、吉凶の儀服を備へ、陵園を營起し、功役 甚だ眾し。琅邪國右常侍たる會稽の孫霄 上疏して諫めて曰く、「臣 聞くに法度典制、先王 重ずる所にして、吉凶の禮、事 過ぎざるを貴ぶ。是を以て世 豐かにして奢放せしめず、凶荒にして必ず約殺に務む。
朝聘嘉會、以て庠序の儀を展ぶるに足る。殯葬送終、以て哀榮の情を稱ふに務む。上に奢泰の謬無く、下に匱竭の困無し。故に華元 厚葬し、君子 之を不臣と謂ふ。嬴博 至儉たり、仲尼 其の禮に合ふを稱ふ。明らけし財を傷つけ時を害するは、古人の譏る所なり。節省簡約は、聖賢の嘉する所なり。
語に曰く、上の下を化するは、風が草を靡く如し。京邑 翼翼とし、四方 則る所、明らけし教化して法制し、慎まざる可からず。陛下 龍飛して踐阼し、微を興し弊を濟ひ、聖懷して勞謙し、務めて簡儉に從ひ、憲章舊制、猶ほ節省せんと欲するに、禮典 無き所、反りて尚ほ飾る、此れ臣の愚情 竊かに安ぜざる所なり。棺槨輿服、旒翣の屬、禮典舊制、廢闕す可からず。凶門の柏歷、禮典に無き所にして、天 晴れて用ふ可からず、雨に遇ひて則ち益無く、此に至りて宜しく節省すべきものなり。若し琅邪一國に一時に用ゐる所、大費と為らざれば、臣 機近に在り、義 言はざる所なり。今 天臺 居る所、王公百僚 聚まりて都輦に在り、凡そ喪事有らば、皆 當に材木百もて數へ、竹薄 千もて計へて供給すべからず、凶門の兩表、衣するに細竹及び材を以て、價直 既に貴く、又 凶哀の宜を表すに非ず、此の如き過飾、宜しく粗簡に從ふべし。
又 禮記を案ずるに、國君の葬、棺槨の間 柷を容れ、大夫は壺を容れ、士は甒を容る〔二〕。壺甒を以て差と為せば、則ち柷の財 壺より大なること明なり。槨もて棺を周らせ、槨 甚だ大ならざるなり。語に曰く、葬は藏なり、藏は其れ深くして固めんと欲するなり。槨 大なれば則ち堅固と為すこと難く、送終に無益にして、財力を損する有り。凶荒に禮を殺ぐは、經國の常典にして、既に減殺すれども猶ほ舊に過ぎ、此れ國の厚惜する所と為る。又 禮に、將に葬らんとし、柩を廟に遷して祖して行き、墓に及びて即ち窆(はふむ)り、葬の日 即ち反哭して虞(ぐ)す。此の如くんば、則ち柩 墓上に宿めず。聖人 親の土に在るを哀しまざるに非ざるに、丘墓に情ある無きは、蓋し墓を以て神を安んずるの所に非ず、故に虞を殯宮に修む。始めて則ち草宮を山陵に營み、神柩を墓側に遷すは、又 典に非ざるなり。禮に非ざるの事、以て萬國に訓たる可からず。
臣 至愚至賤にして、忽ち前の非を革むるを求め、狂瞽にして忌諱を知らざると謂ふ可し。然れども今 天下 至弊たり、古自りの希なる所、宗廟社稷、遠く江表半州の地に託し、凋殘すること以て甚し。加之 荒旱し、百姓 困瘁し、但だ足らざるに非ず、死亡 是れ懼る。此れ乃ち陛下 至仁の矜愍する所、憂の至重たる可きなり。正に是れ末俗を匡矯し、張を改め調を易するの時なり、而るに猶ほ當に已に罷るの人に竭し、無益の事を營み、已に困するの財を殫し、無用の費を修むべし、此れ固より臣の敢て安ぜざる所なり。今 琅邪の天下に於て、國の最大なり、若し非禮の事を割損し、古典に務遵すれば、上は以て聖朝の簡易の至化を彰し、下は以て萬世無窮の規則を表し、此れ芻蕘の言 萬一を補ふ有り、塵露の微 山海を增す有り」と。表 寢して報ゐず。
永昌元年、煥の母弟たる昱を立てて琅邪王と為す、即ち簡文帝なり。咸和二年、封を會稽に徙し、康帝を以て琅邪王と為す。康帝 即位し、哀帝 琅邪王と為る。哀帝 即位し、廢帝 琅邪王と為る。廢帝 即位し、又 簡文帝を以て琅邪王の國祀を攝行せしむ。簡文 登阼し、國 遂に嗣無し。帝 崩に臨み、少子道子を封じて琅邪王と為す。太元十七年、道子もて會稽王と為し、更めて恭帝を以て琅邪王と為す。恭帝 即位し、是に於て琅邪國 除かる。
〔一〕田蘇は、『春秋左氏伝』襄公 伝七年に「與田蘇游」とあり、晋の賢者の名。
〔二〕『礼記』喪服大記に「棺椁之間、君容柷、大夫容壺、士容甒」とある。「棺椁の間に、君には柷(しゆく)を容る、大夫には壺(こ)を容る、士には甒(ぶ)を容る」と訓読でき、棺と椁の間には、君公には楽器を入れ、大夫には壺(酒器)を入れ、士には甒(酒器)を入れるという。
琅邪悼王煥(司馬煥)は字を耀祖という。母が寵愛されたので、元帝から特別に愛情を注がれた。初めに元帝の弟である長楽亭侯渾(司馬渾)を継ぎ、後に顕義亭侯に封じられた。尚書令の刁協が上奏し、「むかし魏の臨淄侯(曹植)は邢顒を家丞とし、劉楨を庶子としました。いま侯(司馬煥)は幼弱です、明徳な人材を付けなさい」と言った。元帝は令して、「臨淄侯は万戸に封建され、しかも幼少期から特別な才能があり、田蘇と付き合える人物であった。わが末子は蒙昧であるから、同列に論じてはならぬ。先日この子を封建したが、可愛いからではない。亡き弟の後継者が必要だったからで、やむを得ないことである。家丞・庶子は、祭祀を取り仕切れる人材ならば十分であり、賢才を無駄遣いすべきではない」と言った。司馬煥の病気が重くなると、元帝は息子のために食事を減らし、詔を下して琅邪王とし、恭王(司馬覲)の後を嗣がせた。にわかに薨じ、二歳であった。
元帝は哀悼の念が込み上げ、葬るとき、司馬煥はすでに列国に封建しているから、成人の礼を加へ、詔して凶門に柏歴を立て、吉凶の儀服を備え、陵園を造営したので、労役がとても多くなった。琅邪国右常侍である会稽の孫霄が上疏して諫め、「私が聞きますに礼制は、先王が尊重し、吉凶の礼は、過剰を戒めました。ですから世が豊かでも豪奢にせず、凶作の年は必ず倹約に努めたのです。
諸侯の謁見は、慶賀を伝えれば十分です。葬儀は、哀悼を表せば十分です。上に奢侈の誤りがなければ、下が枯渇の苦しみがありません。ゆえに(春秋宋の)華元は厚葬して、君子は彼を臣下として不適切だと言いました。(春秋斉の)嬴と博では倹約が行われ、孔子から礼に合致すると称えられました。財産を損なって時世を害するのは、明らかに古人が批判してきたことです。節約して簡素にするのは、聖賢が称賛してきたことです。
上が下を教化するのは、風が草を靡かせるようなものと言います。京邑が慎み深くし、四方の手本となり、規範を提示し、留意せねばなりません。陛下は雄飛して皇位に即き、衰退した王朝を立て直し、善政のために努力し、むだな出費を防いで来られ、前代の経典もまた、節約を説いているにも拘わらず、(司馬煥の葬儀にだけ)礼典に定めのない、過度な浪費をしているので、これが私が不安に感じている点です。棺槨や輿服、葬礼の旗飾りの類いは、礼典や旧制から、逸脱してはいけません。凶門に立てる柏歴は、礼典に定めがなく、晴れの日には無用であり、雨の日にも役に立たず、省くべきものです。もし琅邪一国の今回限りのことで、大きな出費でなければ、私は側近として、このようなことは言いません。しかし現在は皇帝として、王公百僚を集めて皇居におり、葬儀があるたび、毎回のように材木は百単位、竹のすだれは千単位で供給することはできず、凶門の両面を、細竹や材木で囲ったら、価格が高騰し、哀しみの表現として不適切であり、このような過剰な装飾は、簡素に改めるべきです。
また『礼記』を見ますに、国君の葬では、棺と槨の間に柷(楽器)を入れ、大夫は壺を容れ、士は甒(酒器)を入れます。壺や甒と差を付けるのは、柷のほうが壺よりも高価なことが明らかだからです。槨で棺を囲みますが、槨がそれほど大きくありません。〔なぜならば〕葬という字は藏のことであり、藏とは深めて固めることです。槨が大きければ堅固にしづらく、葬送の用を為さず、財力を浪費するだけです。凶作の年に礼を省くのは、国家経営の原則ですが、(司馬煥の場合)簡素にしたつもりがまだ前代より過剰ですから、国家にとって遺憾なことです。また礼の規定では、葬るとき、柩を廟に遷して祖先を祭り、墓に着いたらすぐ埋葬して、その日に神主を持ち帰って哭礼をして虞(弔いの祭り)をします。ですから、柩を墓上に留めないのです。聖人であっても親しい者が土中にあることを哀しんでいますが、丘墓に特別な感情を持たないのは、墓所は精神を安置する場所ではないからで、ゆえに(すぐに墓から引き上げて)虞を殯宮で行うのです。草木で作った宮殿を山陵に造営し、神主や柩を陵墓のそばに遷すのは、礼典に違反します。礼典と異なることは、万国の手本になりません。
私は極めて愚かですので、(元帝が)以前の失敗を改めることを期待し、気が狂って直言をしております。今日の天下は疲弊し、まれに見るひどさで、宗廟と社稷は、江東で天下の半分に偏り、はなはだ凋落しています。しかも不作と日照りにより、百姓は困窮し、余裕がないどころか、餓死や流亡が起きかねません。今こそ陛下が仁愛の憐みをおこなう時期であり、憂慮して頂くべき事態です。歪んだ習俗を改正し、華美をやめて負担を減らすべき時であり、すでに死んでしまった人のために、無益な労役を行い、すでに困窮した人に財産を吐き出させ、無用な出費をさせており、これは私が強く反対を申し述べたい点です。いま琅邪国は天下で、最大の国です、もし礼制に反した浪費を削り、努めて古典を遵守すれば、上は聖なる御世の倹約の教化が行き渡り、下は万世不変の規範が表れ、これこそ草刈りや木こりのような下賎の者の言葉が万に一つを補い、塵や露のような僅かなものが山海を満たすのです」と言った。上表は伏せて返答がなかった。
永昌元(三二二)年、司馬煥の同母弟である司馬昱を立てて琅邪王としたが、これが簡文帝である。咸和二(三二七)年、封地を会稽に移し、康帝を琅邪王とした。康帝が即位すると、哀帝が琅邪王となった。哀帝が即位すると、廃帝が琅邪王となった。廃帝が即位すると、また簡文帝に琅邪王の国祀を代行させた。簡文帝が即位すると、とうとう国に後嗣がいなくなった。簡文帝は崩御に際し、少子の司馬道子を封じて琅邪王とした。太元十七(三九二)年、司馬道子を会稽王とし、改めて恭帝を琅邪王とした。恭帝が即位すると、琅邪国は除かれた。
簡文帝七子、王皇后生會稽思世子道生・皇子俞生。胡淑儀生臨川獻王郁・皇子朱生。王淑儀生皇子天流。李夫人生孝武帝・會稽文孝王道子。俞生・朱生・天流並早夭、今並略之。
會稽思世子道生字延長。帝為會稽王、立道生為世子、拜散騎侍郎・給事中。性疏躁、不修行業、多失禮度、竟以幽廢而卒、時年二十四、無後。及孝武帝即位、嘗晝日見道生及臨川獻王郁、郁曰、大郎饑乏辛苦。言竟不見。帝傷感、因以西陽王羕玄孫珣之為後。珣之歷吳興太守。劉裕之伐關中、以為諮議參軍。時帝道方謝、珣之為宗室之美、與梁王珍之俱被害。
臨川獻王郁字深仁、幼而敏慧。道生初以無禮失旨、郁數勸以敬慎之道。道生不納、郁為之流涕、簡文帝深器異之。年十七而薨。久之、追諡獻世子。寧康初、贈左將軍、加散騎常侍、追封郡王、以1.武陵威王曾孫寶為嗣、追尊其母胡淑儀為臨川太妃。寶字弘文、歷祕書監・太常・左將軍・散騎常侍・護軍將軍。宋興、以為金紫光祿大夫、降為西豐侯、食邑千戶。
1.中華書局本に引く周校によると、孝武帝紀は「武陵王孫寶」に作り、こちらが正しいため、「曾」は衍字が疑われる。
簡文帝 七子あり、王皇后 會稽思世子道生・皇子俞生を生む。胡淑儀 臨川獻王郁・皇子朱生を生む。王淑儀 皇子天流を生む。李夫人 孝武帝・會稽文孝王道子を生む。俞生・朱生・天流 並びに早夭し、今 並びに之を略す。
會稽思世子道生 字は延長なり。帝 會稽王と為るや、道生を立てて世子と為し、散騎侍郎・給事中を拜す。性は疏躁にして、行業を修めず、多く禮度を失ひ、竟に幽廢せらるを以て卒し、時に年二十四、後無し。孝武帝 即位するに及び、嘗て晝日に道生及び臨川獻王郁に見え、郁曰く、「大郎 饑乏して辛苦なり」と。言 竟はりて見えず。帝 傷感し、因りて西陽王羕の玄孫たる珣之を以て後と為す。珣之 吳興太守を歷す。劉裕の關中を伐つや、以て諮議參軍と為す。時に帝道 方に謝(しぼ)み、珣之もて宗室の美と為し、梁王珍之と俱に害せらる。
臨川獻王郁 字は深仁、幼くして敏慧たり。道生 初め無禮を以て旨を失ひ、郁 數々敬慎の道を以て勸む。道生 納れず、郁 之が為に流涕し、簡文帝 深く之を器異とす。年十七にして薨ず。久之、獻世子と追諡す。寧康初、左將軍を贈り、散騎常侍を加へ、追ひて郡王に封じ、武陵威王の曾孫たる寶を以て嗣と為し、其の母胡淑儀を追尊して臨川太妃と為す。寶 字は弘文、祕書監・太常・左將軍・散騎常侍・護軍將軍を歷す。宋 興り、以て金紫光祿大夫と為し、降して西豐侯と為し、食邑千戶なり。
簡文帝に七人の子がおり、王皇后は会稽思世子道生・皇子の俞生を生んだ。胡淑儀は臨川献王郁・皇子朱生を生んだ。王淑儀は皇子天流を生んだ。李夫人は孝武帝・会稽文孝王道子を生んだ。俞生・朱生・天流は夭折したので、今は彼らを省略する。
会稽思世子道生(司馬道生)は字を延長という。簡文帝が会稽王になると、道生を世子に立て、散騎侍郎・給事中を拝した。性格は浮き沈みが激しく、行動が枠を外れ、礼儀や節度を失うことが多く、幽閉して廃されて亡くなり、年は二十四、後嗣がいなかった。孝武帝が即位すると、昼間に司馬道生及び臨川献王郁(の幽霊)が現れて、司馬郁が、「大郎(兄の道生)が(祭祀が絶えて)餓えと貧しさで苦しんでいる」と言った。言い終わると消滅した。孝武帝は痛ましく思い、西陽王羕(司馬羕)の玄孫である司馬珣之を後嗣とした。司馬珣之は呉興太守を歴任した。劉裕が関中を討伐するとき、諮議参軍とした。このとき帝王の政道は衰え、司馬珣之は宗室の有徳者であったので、梁王の司馬珍之とともに殺害された。
臨川献王郁(司馬郁)は字を深仁といい、幼くして明敏であった。司馬道生が礼を失って(簡文帝の)期待を損なったから、司馬郁はしばしば敬意を持って慎むように助言した。道生が聞き入れず、司馬郁はこの兄のために流涕したから、簡文帝はその器量を認めた。年十七にして薨じた。しばらくして、献世子と追諡された。寧康初(三七三-)、左将軍を贈り、散騎常侍を加え、追って郡王に封じ、武陵威王の曾孫(正しくは孫)である司馬宝を継嗣とし、司馬郁の母である胡淑儀を追尊して臨川太妃とした。司馬宝は字を弘文といい、秘書監・太常・左将軍・散騎常侍・護軍将軍を歴任した。宋が興ると、金紫光禄大夫とし、西豊侯に降格し、食邑は千戸であった。
會稽文孝王道子字道子。出後琅邪孝王、少以清澹為謝安所稱。年十歲、封琅邪王、食邑一萬七千六百五十一戶、攝會稽國五萬九千一百四十戶。太元初、拜散騎常侍・中軍將軍、進驃騎將軍。後公卿奏、道子親賢莫二、宜正位司徒。固讓不拜。使錄尚書六條事、尋加開府、領司徒。及謝安薨、詔曰、新喪哲輔、華戎未一、自非明賢懋德、莫能綏御內外。司徒・琅邪王道子體道自然、神識穎遠、實當旦奭之重、宜總二南之任、可領揚州刺史・錄尚書・假節・都督中外諸軍事。衞府文武、一以配驃騎府。讓不受。數年、領徐州刺史・太子太傅。公卿又奏、宜進位丞相・揚州牧・假黃鉞、羽葆鼓吹。並讓不受。
于時孝武帝不親萬機、但與道子酣歌為務、姏姆尼僧、尤為親暱、並竊弄其權。凡所幸接、皆出自小豎。郡守長吏、多為道子所樹立。既為揚州總錄、勢傾天下、由是朝野奔湊。中書令王國寶性卑佞、特為道子所寵昵。官以賄遷、政刑謬亂。又崇信浮屠之學、用度奢侈、下不堪命。太元以後、為長夜之宴、蓬首昏目、政事多闕。桓玄嘗候道子、正遇其醉、賓客滿坐、道子張目謂人曰、桓溫晚塗欲作賊、云何。玄伏地流汗不得起。長史謝重舉板答曰、故宣武公黜昏登聖、功超伊霍、紛紜之議、宜裁之聽覽。道子頷曰、儂知儂知。因舉酒屬玄、玄乃得起。由是玄益不自安、切齒於道子。
于時朝政既紊、左衞領營將軍會稽許榮上疏曰、今臺府局吏・直衞武官及僕隸婢兒取母之姓者、本臧獲之徒、無鄉邑品第、皆得命議、用為郡守縣令、並帶職在內、委事於小吏手中。僧尼乳母、競進親黨、又受貨賂、輒臨官領眾。無衞霍之才、而比方古人、為患一也。臣聞佛者清遠玄虛之神、以五誡為教、絕酒不淫。而今之奉者、穢慢阿尼、酒色是耽、其違二矣。夫致人于死、未必手刃害之。若政教不均、暴濫無罪、必夭天命、其違三矣。盜者未必躬竊人財、江乙母失布、罪由令尹。今禁令不明、劫盜公行、其違四矣。在上化下、必信為本。昔年下書、敕使盡規、而眾議兼集、無所採用、其違五矣。尼僧成羣、依傍法服。五誡粗法、尚不能遵、況精妙乎。而流惑之徒、競加敬事、又侵漁百姓、取財為惠、亦未合布施之道也。又陳、太子宜出臨東宮、克奬德業。疏奏、並不省。
中書郎范甯亦深陳得失、帝由是漸不平於道子、然外每優崇之。國寶即甯之甥、以諂事道子、甯奏請黜之。國寶懼、使陳郡袁悅之因尼1.妙音致書與太子母陳淑媛、說國寶忠謹、宜見親信。帝因發怒、斬悅之。國寶甚懼、復譖甯於帝。帝不獲已、流涕出甯為豫章太守。道子由是專恣。
1.「妙音」は、王國寶傳では「支妙音」に作る。
會稽文孝王道子 字は道子。出でて琅邪孝王に後たり、少くして清澹を以て謝安の稱する所と為る。年十歲にして、琅邪王に封じ、食邑一萬七千六百五十一戶、會稽國の五萬九千一百四十戶を攝る。太元初、散騎常侍・中軍將軍を拜し、驃騎將軍に進む。後に公卿 奏すらく、「道子 親賢にして二莫く、宜しく位を司徒に正すべし」と。固讓して拜せず。尚書六條事を錄せしめ、尋いで開府を加へ、司徒を領す。謝安 薨ずるに及び、詔して曰く、「新たに哲輔を喪ひ、華戎 未だ一ならず、自ら明賢懋德に非らざれば、能く內外を綏御する莫し。司徒・琅邪王道子 體道は自ら然し、神識 穎遠にして、實に旦奭の重に當り、宜しく二南の任を總ぶべし、領揚州刺史・錄尚書・假節・都督中外諸軍事とす可し。衞府の文武、一に以て驃騎府に配せ」と。讓りて受けず。數年、徐州刺史・太子太傅を領す。公卿 又 奏すらく、「宜しく位を丞相・揚州牧・假黃鉞に進め、羽葆鼓吹あるべし」と。並びに讓りて受けず。
時に孝武帝 萬機を親せず、但だ道子と酣歌するを務と為し、姏姆尼僧、尤も親暱と為り、並びに竊かに其の權を弄す。凡そ幸接する所、皆 小豎自り出づ。郡守長吏、多く道子の樹立する所為り。既にして揚州の總錄と為り、勢は天下を傾け、是に由り朝野 奔湊す。中書令王國寶 性は卑佞にして、特に道子の為に寵昵せらる。官は賄を以て遷り、政刑 謬亂す。又 浮屠の學を崇信し、用度 奢侈にして、下は命に堪へず。太元以後、長夜の宴を為し、蓬首昏目し、政事 闕多し。桓玄 嘗て道子に候し、正に其の醉へるに遇ひ、賓客 坐に滿ち、道子 目を張して人に謂ひて曰く、「桓溫 晚塗 賊と作らんと欲す、云何(いかん)」と。玄 地に伏して流汗して起つを得ず。長史謝重 板を舉げて答へて曰く、「故宣武公 昏を黜けて聖を登し、功は伊霍を超ゆ、紛紜の議、宜しく之を裁きて聽覽すべし」と。道子 頷きて曰く、「儂 知る儂 知る」と。因りて酒屬を玄に舉げ、玄 乃ち起つを得。是に由り玄 益々自安せず、道子に切齒す。
時に朝政 既に紊れ、左衞領營將軍たる會稽の許榮 上疏して曰く、「今 臺府局吏・直衞武官及び僕隸婢兒 母の姓を取る者は、本は臧獲の徒にして、鄉邑の品第無く、皆 命議を得て、用て郡守縣令と為り、並びに職を在內に帶び、事を小吏の手中に委ぬ。僧尼乳母、競ひて親黨を進め、又 貨賂を受け、輒ち官に臨みて眾を領す。衞霍の才無く、而るに古人に比方す、患の一為り。臣 聞くに佛なるは清遠玄虛の神にして、五誡を以て教と為し、酒を絕ち淫せず。而るに今の奉る者は、穢慢にして尼に阿り、酒色 是れ耽り、其れ違の二なり。夫れ人を死に致すは、未だ必ずしも手刃もて之を害せず。若し政教 均からず、暴かに無罪を濫し、必ず天命を夭す、其れ違の三なり。盜者は未だ必ず躬ら人の財を竊まず、江乙が母 布を失ひ、罪 令尹に由る。今 禁令 明らかならず、劫盜 公行す、其れ違の四なり。
上に在りて下を化し、必信 本と為る。昔年 書を下して、敕して規を盡せしめ、而して眾議 兼集し、採用する所無く、其れ違の五なり。尼僧 羣を成し、法服に依傍す。五誡の粗法すら、尚ほ能く遵せず、況んや精妙をや。而れども流惑の徒、競ひて敬事を加へ、又 百姓を侵漁し、財を取りて惠と為し、亦た布施の道に合はざるなり」と。又 陳べて「太子 宜しく出でて東宮に臨み、克く德業を奬むべし」と。疏 奏し、並びに省ず。
中書郎の范甯 亦 深く得失を陳べ、帝 是に由りて漸く道子に不平たり、然るに外は每に之を優崇す。國寶 即ち甯の甥にして、以て道子に諂事し、甯 奏して之を黜けんことを請ふ。國寶 懼れ、陳郡の袁悅之をして尼妙音に因りて書を致して太子母の陳淑媛に與へしめ、國寶の忠謹を說き、宜しく親信せらるべしとす。帝 因りて怒を發し、悅之を斬る。國寶 甚だ懼れ、復た甯を帝に譖る。帝 已むを獲ず、流涕して甯を出して豫章太守と為す。道子 是に由り專恣す。
会稽文孝王道子(司馬道子)は字を道子という。家を出て琅邪孝王に後嗣となり、幼いときから清くさっぱりしているので謝安から称賛された。十歳のとき、琅邪王に封じられ、食邑は一万七千六百五十一戸であり、会稽国の五万九千一百四十戸を受け取った。太元初(三七六-)、散騎常侍・中軍将軍を拝し、驃騎将軍に進んだ。後に公卿が上奏し、「司馬道子は皇族の賢者として無二の存在であり、司徒を務めなさい」と言った。固辞をして拝さなかった。尚書六條事を管轄し、ほどなく開府を加え、司徒を領した。謝安が薨じると、詔して、「優れた宰相を失ったばかりだが、異民族がまだ統一されていない、有徳の賢者でなければ、内外を統率できまい。司徒・琅邪王の司馬道子は自ずと道理を体現し、神がかった見識は深遠である、周公旦や召公奭のような重任に当たり、二南の任を統括すべきであるから、領揚州刺史・録尚書・仮節・都督中外諸軍事としよう。衛府の文武の官は、すべて驃騎将軍府に配置するように」と言った。辞退して受けなかった。数年後、徐州刺史・太子太傅を領した。公卿はさらに上奏し、「官位を丞相・揚州牧・仮黄鉞に進め、羽葆鼓吹を備えるように」と言った。いずれも辞退した。
ときに孝武帝は親政をせず、道子と酒宴をするばかりで、下女や尼僧が、とくに昵懇であり、彼女らが政権を弄んだ。寵臣は、低い身分の出身者が占めた。郡守や長吏は、多くが道子が任命した。道子が揚州の統括者となると、権勢は天下を傾け、朝廷も在野も(道子のもとに)押し寄せた。中書令の王国宝は卑しい侫臣であるが、道子のお気に入りだった。官職は賄賂によって遷り、政治と刑罰が混乱した。浮屠の学を崇拝し、公金を浪費し、下官は命令に堪えられなかった。太元(三七六-三九六)以後、深夜まで宴会を開き、髪が乱れ目が回り、政事は欠陥が多かった。桓玄はかつて司馬道子に同行したが、道子が泥酔し、大勢の賓客の前で、目を見張って、「桓温は晩年に賊になろうとした、どうだ」と言った。桓玄は地に伏して汗を流して顔を上げられなかった。長史の謝重が手板を上げて答え、「もと宣武公(桓温)は暗愚を退けて聖人を登用したので、彼の功績は伊尹や霍光を超えます、複雑な議論は、これで決着を付けましょう」と言った。道子は頷いて、「分かっている分かっている」と言った。酒の杯を桓玄に向けたので、桓玄は顔を上げることができた。この出来事により桓玄はますます不安になり、道子に向けて無念を抱いた。
このとき朝政が乱れたので、左衛領営将軍である会稽の許栄が上疏し、「いま中央政府の各署・宿衛の武官や宮殿にいる従者のうち母方の姓を用いている者は、もとは(父方が)奴隷の子であり、郷邑の品第(官人制度の評価)を持たず、しかし任命状を受け、郡守や県令となり、宮廷内で職務につき、これら小役人に政治が丸投げされています。僧尼や乳母は、競って親族や仲間を推薦し、賄賂を受け取り、官職に就いて徒党を組んでいます。(前漢の)衛青や霍去病のような才能がないにも関わらず、自分たちを前代の偉人に準えており、これが弊害の第一です。聞きますに仏教とは清くて玄遠な宗教であり、五つの戒めがあり、酒や荒淫を禁じています。しかし今日の仏教徒は、穢れて驕慢であり尼におもねり、酒色に耽っています、これが弊害の第二です。人を死に至らしめるのは、手で直接切りつける以外にも方法があります。政治判断が公平でなく、にわかに冤罪を着せ、天命を蔑ろにしており、これが弊害の第三です。盗むには人の財物に直接手を出す以外にも方法があり、江乙(人名)の母が布を失ったとき、統治官の罪としました。いま禁令が明らかでなく、強盗が横行しています、これが弊害の第四です。
上位者が下位者を教化すれば、信義が大切にされます。むかし命令を下し、必死に検討させ、議論を巻き起こしておきながら、一切を採用しませんでした、これが弊害の第五です。尼僧が群れをなし、法服をつけて集まっています。五つの戒めですら、ろくに守れず、ましてや精緻な仏の教えを守れるのでしょうか。ところが政治を乱す連中は、競って尼僧の機嫌を取り、さらに百姓を侵害し、財産を奪ってまで寄付をしていますが、これは本来の布施のあり方ではありません」と言った。さらに述べて、「太子は外に出て東宮に臨み、徳業を推奨なさるべきです」と言った。上疏が提出されたが、どちらも顧みられなかった。
中書郎の范甯(范寧)もまた切実に得失を述べたので、孝武帝はようやく道子のやり方に疑問を感じたが、表面的には道子の優遇を続けた。(中書令の)王国宝は范寧の甥であるが、道子に追従しているので、范寧は上奏して彼を退けるように求めた。王国宝は懼れ、陳郡の袁悦之に仕向けて尼妙音から太子の母の陳淑媛に送らせ、王国法の忠謹ぶりを説いて、信任すべきですと吹き込んだ。孝武帝はこれに怒り、袁悦之を斬った。王国法はとても懼れ、さらに范寧を孝文帝に向けて譏った。孝武帝はやむを得ず、涙を流して范寧を豫章太守として転出させた。道子はこれにより専横した。
嬖人趙牙出自優倡、茹千秋本錢塘捕賊吏、因賂諂進、道子以牙為魏郡太守、千秋驃騎諮議參軍。牙為道子開東第、築山穿池、列樹竹木、功用鉅萬。道子使宮人為酒肆、沽賣於水側、與親昵乘船就之飲宴、以為笑樂。帝嘗幸其宅、謂道子曰、府內有山、因得遊矚、甚善也。然修飾太過、非示天下以儉。道子無以對、唯唯而已、左右侍臣莫敢有言。帝還宮、道子謂牙曰、上若知山是板築所作、爾必死矣。牙曰、公在、牙何敢死。營造彌甚。千秋賣官販爵、聚資貨累億。
又道子既為皇太妃所愛、親遇同家人之禮、遂恃寵乘酒、時失禮敬。帝益不能平、然以太妃之故、加崇禮秩。博平令吳興聞人奭上疏曰、驃騎諮議參軍茹千秋協輔宰相、起自微賤、竊弄威權、衒賣天官。其子壽齡為樂安令、贓私狼藉、畏法奔逃、竟無罪罰、傲然還縣。又尼姏屬類、傾動亂時。穀賤人饑、流殣不絕、由百姓單貧、役調深刻。又振武將軍庾恒鳴角京邑、主簿戴良夫苦諫被囚、殆至沒命。而恒以醉酒見怒、良夫以執忠廢棄。又權寵之臣、各開小府、施置吏佐、無益於官、有損於國。疏奏、帝益不平、而逼於太妃、無所廢黜、乃出王恭為兗州、殷仲堪為荊州、王珣為僕射、王雅為太子少傅、以張王室、而潛制道子也。道子復委任王緒、由是朋黨競扇、友愛道盡。太妃每和解之、而道子不能改。
中書郎徐邈以國之至親、唯道子而已、宜在敦穆、從容言於帝曰、昔漢文明主、猶悔淮南。世祖聰達、負愧齊王。兄弟之際、實宜深慎。帝納之、復委任道子如初。
時有人為雲中詩以指斥朝廷曰、相王沈醉、輕出教命。捕賊千秋、干豫朝政。王愷守常、國寶馳競。荊州大度、散誕難名。盛德之流、法護・王甯。仲堪・仙民、特有言詠。東山安道、執操高抗、何不徵之、以為朝匠。荊州、謂王忱也。法護、即王珣。甯、即王恭。仙民、即徐邈字。安道、戴逵字也。
嬖人の趙牙 優倡自り出で、茹千秋 本は錢塘の捕賊吏にして、賂諂に因りて進み、道子 牙を以て魏郡太守と為し、千秋もて驃騎諮議參軍とす。牙 道子の東第を開き、山を築き池を穿ち、竹木を列樹するを以て、功用 鉅萬なり。道子 宮人をして酒肆と為り、水側に沽賣し、親昵と與に船に乘りて之に就きて飲宴し、以て笑樂と為す。帝 嘗て其の宅に幸し、道子に謂ひて曰く、「府內に山有り、因りて遊矚を得、甚だ善きなり。然るに修飾は太過にして、天下に示すに儉を以てするに非ず」と。道子 以て對ふる無く、唯唯するのみ、左右の侍臣 敢て言有る莫し。帝 宮に還り、道子 牙に謂ひて曰く、「上 若し山は是れ板築して作る所なるを知れば、爾 必ず死せん」と。牙曰く、「公 在れば、牙 何ぞ敢て死せんか」と。營造 彌々甚し。千秋 官を賣りて爵を販し、資貨を聚むること億を累ぬ。
又 道子 既に皇太妃の愛する所と為り、親ら遇すること家人の禮に同じく、遂に寵を恃みて酒に乘じ、時に禮敬を失ふ。帝 益々能く平らかならず、然るに太妃の故を以て、禮秩を加崇す。博平令たる吳興の聞人奭 上疏して曰く、「驃騎諮議參軍の茹千秋 宰相に協輔し、微賤自り起ち、竊かに威權を弄し、天官を衒賣す。其の子たる壽齡 樂安令と為り、贓私して狼藉し、法を畏れて奔逃し、竟に罪罰無く、傲然として縣に還る。又 尼姏の屬類、亂時を傾動す。穀は賤しく人は饑え、流殣 絕えず、由りて百姓 單貧たり、役調 深刻なり。又 振武將軍の庾恒 京邑に鳴角し、主簿の戴良夫 苦諫して囚はれ、殆ど沒命に至る。而るに恒 酒に醉ふを以て怒りを見し、良夫 忠を執るを以て廢棄せらる。又 權寵の臣、各々小府を開き、吏佐を施置し、官に益する無く、國を損ずる有り」と。疏 奏し、帝 益々平らかならず、而して太妃に逼れども、廢黜する所無く、乃ち王恭を出して兗州と為し、殷仲堪もて荊州と為し、王珣もて僕射と為し、王雅もて太子少傅と為し、以て王室を張して、潛かに道子を制すなり。道子 復た王緒を委任せられ、是に由りて朋黨 競扇し、友愛 道に盡く。太妃 每に之に和解し、而れども道子 改むる能はず。
中書郎の徐邈 國の至親、唯だ道子なるのみを以て、宜しく敦穆に在るべし、從容として帝に言ひて曰く、「昔 漢文は明主なれども、猶ほ淮南を悔ゆ。世祖 聰達なれども、負ひて齊王を愧づ。兄弟の際、實に宜しく深く慎しむべし」と。帝 之を納れ、復た道子に委任すること初の如し。
時に人の雲中詩を為る有りて以て朝廷を指斥して曰く、「相王 沈醉し、輕々しく教命を出す。捕賊の千秋、朝政を干豫す。王愷 常を守り、國寶 馳競す。荊州の大度、散誕 名し難し。盛德の流は、法護・王甯なり。仲堪・仙民は、特に言詠有り。東山の安道、操を執りて抗を高くし、何ぞ之を徵して、以て朝匠と為さざるや」と。荊州、王忱を謂ふなり。法護は、即ち王珣なり。甯は、即ち王恭なり。仙民は、即ち徐邈の字なり。安道は、戴逵の字なり。
可愛がられている趙牙は俳優の出身で、茹千秋はもとは銭塘の捕賊吏であり、賄賂と阿諛によって昇進し、道子は趙牙を魏郡太守とし、茹千秋を驃騎諮議参軍とした。趙牙は道子の東の屋敷を開拓し、山を築き池を掘り、竹や木を並べて植え、費用や労役は巨万であった。道子は宮人に酒屋をやらせ、川のそばで販売させ、昵懇な人々と船に乗って酒宴をおこない、歓楽とした。かつて孝武帝が邸宅に行幸し、道子に、「敷地のなかに山があり、景観を楽しめるのは、とても良いことだ。しかし装飾が度を過ぎており、天下に倹約の手本を示すことができない」と言った。道子は答えられず、頷くだけで、左右の侍臣も口を挟まなかった。孝武帝が宮殿に帰った後、道子は趙牙に、「もし皇帝に山を人工的に作ったと知られたら、お前は殺されるだろう」と言った。趙牙は、「あなたさえ健在なら、私が死ぬことはありません」と言った。造営工事はますます盛んになった。茹千秋は官爵を販売し、億の資産を集積した。
また道子は皇太妃の親愛され、家人の礼で付き合ったので、(道子は)寵愛をいいことに酒の勢いにより、礼節と敬意を失った。孝文帝はいよいよ我慢ならず、しかし太妃との繋がりがあるので、道子に礼秩を加増した。博平令である呉興の聞人奭は上疏して、
「驃騎諮議参軍の茹千秋は宰相を補佐し、微賤の出身でありながら、ひそかに威権を壟断し、官職を売買しています。その子である寿齢(人名)は楽安令となり、盗難をして狼藉すると、法を畏れて逃走し、刑罰を加えられず、堂々と故郷の県に帰ってきました。尼僧や下女の類いが、時世を傾覆させています。穀物が値崩れして人は餓え、流浪して餓死者が絶えず、万民は窮迫し、労役や税の負担が深刻となっています。また振武将軍の庾恒が京邑で角笛を吹くと、主簿の戴良夫は(庾恒を)切諫したために囚われ、殺されかけました。庾恒は酒に酔って怒りをまき散らし、戴良夫は忠良なことをして排除されたのです。寵愛を受けている権臣は、それぞれ小さな府を開き、部下を任命していますが、王朝にとって無益なことで、国家を毀損しています」と言った。上疏が提出され、孝武帝はますます不平に感じ、太妃に是正を要求したが、権臣は全く罷免されず、そこで(孝武帝は)王恭を転出させて兗州長官とし、殷仲堪を荊州長官とし、王珣を僕射とし、王雅を太子少傅とし、王室の良識者を配備し、ひそかに道子を牽制した。道子は王政を委任され、朋党と投扇遊びを競い、友愛は世間から消え去った。太妃は道子をなだめて反省を求めたが、改めなかった。
中書郎の徐邈は頼れる皇族が、司馬道子だけなので、対立を激化させるべきでないと考え、落ち着いたときに孝武帝に、「むかし前漢の文帝は明君でしたが、淮南王の処置を後悔しました。西晋の世祖武帝は聡明でしたが、斉王(司馬攸)のことで失敗しました。兄弟の関係は、慎重になさるべきです」と言った。孝武帝はこれを聞き入れ、道子への委任を継続した。
このころ雲中詩を作って朝廷を批判した者がおり、「相王(道子)は泥酔し、軽々しく命令を出す。捕賊吏の茹千秋が、朝政を牛耳っている。王愷(王坦之の子)が道理を守るが、王国宝は名誉を競っている。荊州(王忱)の大物は、放埒さを形容しがたい。仁徳が盛んなのは、法護(王珣)・王甯(王恭)である。殷仲堪・仙民(徐邈)は、歌詠を得意とする。東山の安道(戴逵)は、節操を高く持っており、彼を徴して、朝臣としないのであろうか」と言った。荊州は、王忱のこと。法護は、王珣である。甯は、王恭である。仙民は、徐邈の字である。安道は、戴逵の字である。
及恭帝為琅邪王、道子受封會稽國、并宣城為五萬九千戶。安帝踐阼、有司奏、道子宜進位太傅・揚州牧・中書監・假黃鉞、備殊禮。固辭不拜、又解徐州。詔內外眾事、動靜諮之。帝既冠、道子稽首歸政、王國寶始總國權、勢傾朝廷。王恭乃舉兵討之。道子懼、收國寶付廷尉、并其從弟琅邪內史緒悉斬之、以謝於恭、恭即罷兵。道子乞解中外都督・錄尚書以謝方岳、詔不許。
道子世子元顯、時年十六、為侍中、心惡恭、請道子討之。乃拜元顯為征虜將軍、其先衞府及徐州文武悉配之。屬道子妃薨、帝下詔曰、會稽王妃尊賢莫二、朕義同所親。今葬加殊禮、一依琅邪穆太妃故事。元顯夙令光懋、乃心所寄、誠孝性蒸蒸、至痛難奪。然不以家事辭王事、陽秋之明義;不以私限違公制、中代之變禮。故閔子腰絰、山王逼屈。良以至慼由中、軌容1.(者)〔著〕外、有禮無時、賢哲斯順。須妃葬畢、可居職如故。
于時王恭威振內外、道子甚懼、復引譙王尚之以為腹心。尚之說道子曰、藩伯強盛、宰相權輕、宜密樹置、以自藩衞。道子深以為然、乃以其司馬王愉為江州刺史以備恭、與尚之等日夜謀議、以伺四方之隙。王恭知之、復舉兵以討尚之為名。荊州刺史殷仲堪・豫州刺史庾楷・廣州刺史桓玄並應之。道子使人說楷曰、本情相與、可謂斷金。往年帳中之飲、結帶之言、寧可忘邪。卿今棄舊交、結新援、忘王恭疇昔陵侮之恥乎、若乃欲委體而臣之。若恭得志、以卿為反覆之人、必不相信、何富貴可保、禍敗亦旋及矣。楷怒曰、王恭昔赴山陵、相王憂懼無計、我知事急、即勒兵而至。去年之事、亦俟命而奮。我事相王、無相負者。既不能距恭、反殺國寶。自爾已來、誰復敢攘袂於君之事乎。庾楷實不能以百口助人屠滅、當與天下同舉、誅鉏姦臣、何憂府不開、爵不至乎。時楷已應恭檄、正徵士馬。信反、朝廷憂懼、於是內外戒嚴。元顯攘袂慷慨謂道子曰、去年不討王恭、致有今役。今若復從其欲、則太宰之禍至矣。道子日飲醇酒、而委事於元顯。元顯雖年少、而聰明多涉、志氣果銳、以安危為己任。尚之為之羽翼。時相傅會者、皆謂元顯有明帝神武之風。於是以為征討都督・假節、統前將軍2.(王恂)〔王珣〕・左將軍謝琰及將軍3.桓之才・毛泰・高素等伐恭、滅之。
既而楊佺期・桓玄・殷仲堪等復至石頭、元顯於竹里馳還京師、遣丹楊尹王愷・鄱陽太守桓放之・新蔡內史何嗣・潁川太守溫詳・新安太守孫泰等、發京邑士庶數萬人、據石頭以距之。道子將出頓中堂、忽有驚馬蹂藉軍中、因而擾亂、赴江而死者甚眾。仲堪既知王恭敗死、狼狽西走、與桓玄屯于尋陽。朝廷嚴兵相距、內外騷然。詔元顯甲杖百人入殿、尋加散騎常侍・中書令、又領中領軍、持節・都督如故。
1.中華書局本に従い、「者」を「著」に改める。
2.中華書局本に従い、「王恂」を「王珣」に改める。
3.「桓之才」は「桓不才」の誤りが疑われるという。桓不才であれば、朱序傳や『資治通鑑』巻百十一に見えるという。
恭帝 琅邪王と為るに及び、道子 封を會稽國に受け、宣城と并せて五萬九千戶と為す。安帝 踐阼し、有司 奏すらく、「道子 宜しく位を太傅・揚州牧・中書監・假黃鉞に進め、殊禮を備ふべし」と。固辭して拜せず、又 徐州を解く。內外に眾事を詔するに、動靜 之に諮る。帝 既に冠し、道子 稽首して政を歸し、王國寶 始めて國權を總べ、勢は朝廷を傾く。王恭 乃ち兵を舉げて之を討つ。道子 懼れ、國寶を收めて廷尉に付し、其の從弟たる琅邪內史緒と并せて悉く之を斬り、以て恭に謝し、恭 即ち兵を罷む。道子 中外都督・錄尚書を解きて以て方岳に謝せんと乞ひ、詔して許さず。
道子の世子たる元顯、時に年十六、侍中と為り、心に恭を惡み、道子に之を討たんと請ふ。乃ち元顯を拜して征虜將軍と為り、其の先に衞府及び徐州の文武 悉く之に配す。道子の妃 薨ずるに屬ひて、帝 詔を下して曰く、「會稽王妃 尊賢にして二莫く、朕 義は所親に同じ。今 葬りて殊禮を加へ、一に琅邪穆太妃の故事に依れ。元顯 夙に光懋に令し、乃ち心 寄する所、誠に孝性 蒸蒸たり、至痛 奪ひ難し。然るに家事を以て王事を辭するは、陽秋の明義なり。私限を以て公制に違はざるは、中代の變禮。故に閔子 腰絰し、山王 逼屈す〔一〕。良に至慼を以て中に由り、軌容もて外に著し、有禮に時無く、賢哲 斯れ順ふ〔二〕。妃の葬り畢はるを須(ま)ち、職に居ること故の如くある可し」と。
時に王恭 威は內外に振ひ、道子 甚だ懼れ、復た譙王尚之を引きて以て腹心と為す。尚之 道子に說きて曰く、「藩伯 強盛にして、宰相 權輕たり、宜しく密かに樹置し、以て自ら藩衞たるべし」と。道子 深く以て然りと為し、乃ち其の司馬たる王愉を以て江州刺史と為して以て恭に備へ、尚之等と與に日夜 謀議し、以て四方の隙を伺ふ。王恭 之を知り、復た兵を舉げて以て尚之を討つを名と為す。荊州刺史の殷仲堪・豫州刺史の庾楷・廣州刺史の桓玄 並びに之に應ず。道子 人をして楷に說かしめて曰く、「本情は相 與にし、斷金と謂ふ可し。往年 帳中の飲、結帶の言、寧んぞ忘るる可きや。卿 今 舊交を棄て、新援を結び、王恭の疇に昔 陵侮せらるの恥を忘れ、乃ち體を委てて之に臣たらんと欲するが若し。若し恭 志を得れば、卿を以て反覆の人と為し、必ず相 信ぜず、何ぞ富貴 保つ可き、禍敗 亦 旋りて及ばん」と。
楷 怒りて曰く、「王恭 昔 山陵に赴き、相王 憂懼して計無く、我 事の急なるを知り、即ち兵を勒して至る。去年の事、亦 命を俟ちて奮ふ。我 相王に事へれば、相 負ける者無し。既にして恭を距ぐ能はず、反りて國寶を殺す。爾自り已來、誰か復た敢て君に攘袂するの事あらんや。庾楷 實に百口を以て人を助けて屠滅する能はず、當に天下と與に同舉し、姦臣を誅鉏せば、何ぞ府の開かず、爵の至らざるを憂はんや」と。時に楷 已に恭の檄に應じ、正に士馬を徵す。信 反し、朝廷 憂懼し、是に於て內外 戒嚴す。元顯 攘袂して慷慨して道子に謂ひて曰く、「去年 王恭を討たずして、今の役有るに致る。今 若し復た其の欲に從へば、則ち太宰の禍 至らん」と。道子 日に醇酒を飲み、而して事を元顯に委ぬ。元顯 年少たると雖も、聰明にして多涉たり、志氣 果銳なり、安危を以て己が任と為す。尚之 之を羽翼と為す。時に相 傅會する者は、皆 元顯に明帝神武の風有りと謂ふ。是に於て以て征討都督・假節と為り、前將軍の王珣・左將軍の謝琰及び將軍の桓之才・毛泰・高素等を統べ恭を伐ち、之を滅す。
既にして楊佺期・桓玄・殷仲堪等 復た石頭に至り、元顯 竹里に於て馳せて京師に還り、丹楊尹の王愷・鄱陽太守の桓放之・新蔡內史の何嗣・潁川太守の溫詳・新安太守の孫泰等を遣はし、京邑の士庶數萬人を發し、石頭に據りて以て之を距ぐ。道子 將に出でて中堂に頓せんとし、忽に驚馬の軍中を蹂藉する有り、因りて擾亂し、江に赴きて死する者 甚だ眾し。仲堪 既に王恭の敗死するを知り、狼狽して西のかた走り、桓玄と與に尋陽に屯す。朝廷 兵を嚴にして相 距み、內外 騷然とす。元顯に詔して甲杖百人もて殿に入り、尋いで散騎常侍・中書令を加へ、又 中領軍を領し、持節・都督 故の如し。
〔一〕深山 @miyama__akira さまによると、「故閔子腰絰」は、『春秋公羊伝』宣公元年の「閔子要絰而服事」云々に基づいており、『後漢書』巻四十六 陳忠伝にも出典を同じくする文が見える。「山王逼屈」は、山濤・王戎(『晋書』巻43)のことか。なお、吉川忠夫訓注『後漢書』第六冊 列伝三十六 陳忠伝の注釈に、『公羊伝』宣公元年に「閔子は要絰して事に服す」とあるとし、閔氏は孔子の弟子である閔子騫。要絰は喪服を着けるときの腰帯。閔子騫は要絰をつけて喪に服しながら軍役に従ったが、役目が終わると辞任したという。君主が喪中のひとを使役するのは非であるが、臣下が君命に従うのは礼であるという文。
〔二〕文意が不明。
恭帝が琅邪王になると、司馬道子は会稽国の封地を受け取り、宣城と合計で五万九千戸となった。安帝が即位すると、担当官は上奏し、「道子の位を太傅・揚州牧・中書監・仮黄鉞に進め、殊礼を備えますように」と言った。道子は固辞して拝せず、また徐州刺史を解任した。内外に詔するときは全て、道子の意見を聞いた。安帝が成人すると、道子は稽首して政治を返還したが、王国宝が国政を総覧するようになり、その権勢が朝廷を傾けた。王恭が兵を挙げて王国法を討伐した。道子は懼れ、王国宝を捕らえて廷尉に突き出し、その従弟である琅邪内史の王緒と合わせて斬り、王恭に謝ったので、王恭は兵を解除した。道子は中外都督・録尚書を解任して諸侯に謝ろうとしたが、詔して(解任を)許可しなかった。
道子の世子である元顕は、このとき年は十六、侍中となり、内心では王恭を憎み、道子に討伐をしたいと願い出た。元顕に征虜将軍を拝させ、先立って衛府及び徐州の文武を全て彼の配下に付けた。道子の妃が薨じると、安帝は詔して、「会稽王妃は尊さと賢さが無二であり、朕は実母のように思っている。いま葬るときは殊礼を加え、もっぱら琅邪穆太妃の故事のようにせよ。元顕は早くから重職にあり、人心を得ているが、まことに孝の心が盛んであり、痛恨の情は奪えない。私事によって公務を辞退するのが、春秋の規則である。私事よりも公的な規則を優先するのは、近代の改変である。ゆえに閔子は腰絰(喪服)をつけ(て軍役に従い)、山王(山濤・王戎か)は逼って屈した。至親を中により、儀礼を外に表し、儀礼は時になく、賢哲が従うものである。王妃の葬儀が終わるのを待ち、官位を留任させよ」と言った。
ときに王恭の威信が内外に振るったので、道子がひどく懼れ、また譙王尚之(司馬尚之)を招いて腹心とした。尚之が道子に説いて、「地方長官は強盛であり、宰相の権力は軽いので、ひそかに地方長官を配置し、自らの防壁としなさい」と言った。道子はその通りだと思い、司馬である王愉を江州刺史として王恭に備え、尚之らとともに日夜謀議し、四方の隙を点検した。王恭はこれを知り、再び兵を挙げ尚之討伐を名分とした。荊州刺史の殷仲堪・豫州刺史の庾楷・広州刺史の桓玄がいずれも呼応した。道子は人を送って庾楷に説き、「昔から思いは通じあい、断金の間柄と言える。先年に同室で飲み、結束したときの言葉を、どうして忘れよう。あなたは旧交を棄て、新しい相手を結んだが、むかし王恭の野郎に侮辱された恥を忘れ、自尊心を捨てて彼の臣下になり下がるのか。もし王恭が志を得れば、きみは裏切り者とされ、信用されないから、富貴を保てず、却って禍いが及んで失脚するだろう」と言った。
庾楷は怒って、「むかし王恭が山陵に行ったとき、相王(あなた)は憂懼するだけで計略がなく、私は追い詰められていると悟り、兵を率いて(王恭のもとに)至ったのだ。去年、あなたが命令を出してくれたら奮闘できた。私があなたに仕えれば、負けることがなかったのだ。ところが王恭に勝てぬと考え、(腰が砕けて)王国法を殺した。あれ以降、誰があなたのために肌脱ぎになって奮起するものか。庾楷(わたし)は僅か百人だけで(孤立した)人を助けて滅亡に向かうことは出来ない、天下とともに決起し、奸臣を誅殺できれば、開府の特権が与えられず、高い爵位を受けられなくても構わない」と言った。このとき庾楷はすでに王恭の檄文に応え、兵馬を召集していた。返信が(道子に)到着すると、朝廷は憂懼し、内外を戒厳体制とした。元顕は肌脱ぎになって慷慨して(父の)道子に、「去年王恭を討たなかったから、こたびの軍役が発生しました。今回も王恭を見逃せば、太宰に禍が至るでしょう」と言った。道子は日々大量飲酒するだけで、元顕に全てを委任した。元顕は年少であったが、聡明で教養が広く、士気は果断で気鋭なので、危機への対処を己が任務とした。尚之が補佐についた。このとき群れ集まっている者は、みな元顕は明帝のような神がかりの武の持ち主だと言った。こうして元顕は征討都督・仮節となり、前将軍の王珣・左将軍の謝琰及び将軍の桓之才(桓不才)・毛泰・高素らを統括して王恭を討伐し、これを滅ぼした。
この時点ですでに(王恭に味方した)楊佺期・桓玄・殷仲堪らが石頭に到着しており、元顕は竹里から馳せて京師に還り、丹楊尹の王愷・鄱陽太守の桓放之・新蔡内史の何嗣・潁川太守の温詳・新安太守の孫泰らを派遣して、京邑に住む士庶の数万人を徴発し、石頭を拠点として敵軍(楊佺期ら)を食い止めさせた。道子は出撃して中堂に駐屯しようとしたが、驚いた馬が軍中を踏み荒らし、このために騒ぎ乱れ、江水に向かって走り死亡する者がとても多かった。殷仲堪は王恭が敗死したと知り、狼狽して西に逃げ、桓玄とともに尋陽に駐屯した。朝廷は兵を固めてこれに対抗し、内外は騒然とした。元顕に詔して甲杖百人を連れて宮殿に入り、ほどなく散騎常侍・中書令を加え、さらに中領軍を領させ、持節・都督は従来どおりとした。
會道子有疾、加以昏醉、元顯知朝望去之、謀奪其權、諷天子解道子揚州・司徒、而道子不之覺。元顯自以少年頓居權重、慮有譏議、於是以琅邪王領司徒、元顯自為揚州刺史。既而道子酒醒、方知去職、於是大怒、而無如之何。廬江太守會稽張法順以刀筆之才、為元顯謀主、交結朋援、多樹親黨、自桓謙以下、諸貴遊皆斂衽請交。元顯性苛刻、生殺自己、法順屢諫、不納。又發東土諸郡免奴為客者、號曰樂屬、移置京師、以充兵役、東土囂然、人不堪命、天下苦之矣。既而孫恩乘釁作亂、加道子黃鉞、元顯為中軍以討之。又加元顯錄尚書事。然道子更為長夜之飲、政無大小、一委元顯。時謂道子為東錄、元顯為西錄。西府車騎填湊、東第門下可設雀羅矣。元顯無良師友、正言弗聞、諂譽日至、或以為一時英傑、或謂為風流名士、由是自謂無敵天下、故驕侈日增。帝又以元顯有翼亮之功、加其所生母劉氏為會稽王夫人、金章紫綬。會洛陽覆沒、道子以山陵幽辱、上疏送章綬、請歸藩、不許。及太皇太后崩、詔道子乘輿入殿。元顯因諷禮官下議、稱己德隆望重、既錄百揆、內外羣僚皆應盡敬。於是公卿皆拜。于時軍旅荐興、國用虛竭、自司徒已下、日廪七升、而元顯聚斂不已、富過帝室。及謝琰為孫恩所害、元顯求領徐州刺史、加侍中・後將軍・開府儀同三司・都督十六州諸軍事、封其子彥璋為東海王。尋以星變、元顯解錄、復加尚書令。
會孫恩至京口、元顯柵斷石頭、率兵距戰、頻不利。道子無他謀略、唯日禱蔣侯廟為厭勝之術。既而孫恩遁于北海、桓玄復據上流、致牋於道子曰、賊造近郊、以風不得進、以雨不致火、食盡故去耳、非力屈也。昔國寶卒後、王恭不乘此威入統朝政、足見其心非侮於明公也、而謂之非忠。今之貴要腹心、有時流清望者誰乎。豈可云無佳勝、直是不能信之耳。用理之人、然後可以信義相期、求利之徒、豈有所惜而更委信邪。爾來一朝一夕、遂成今日之禍矣。阿衡之重、言何容易、求福則立至、干忤或致禍。在朝君子、豈不有懷、但懼害及身耳。玄忝任在遠、是以披寫事實。元顯覽而大懼。張法順謂之曰、桓玄承籍門資、素有豪氣、既并殷・楊、專有荊楚。然桓氏世在西藩、人或為用、而第下之所控引、止三吳耳。孫恩為亂、東土塗地、編戶饑饉、公私不贍、玄必乘此縱其姦兇、竊用憂之。元顯曰、為之柰何。法順曰、玄始據荊州、人情未輯、方就綏撫、未遑他計。及其如此、發兵誅之、使劉牢之為前鋒、而第下以大軍繼進、桓玄之首必懸於麾下矣。元顯以為然、遣法順至京口、謀於牢之、而牢之有疑色。法順還、說元顯曰、觀牢之顏色、必貳於我、未若召入殺之。不爾、敗人大事。元顯不從。
會 道子 疾有り、加へて昏醉するを以て、元顯 朝望の之を去るを知り、其の權を奪はんと謀り、天子に諷して道子の揚州・司徒を解き、而れども道子 之を覺らず。元顯 自ら少年にして權重に頓居するを以て、譏議有るを慮り、是に於て琅邪王を以て司徒を領せしめ、元顯 自ら揚州刺史と為る。既にして道子 酒 醒め、方に職を去るを知り、是に於て大怒し、而れども之を如何ともする無し。廬江太守たる會稽の張法順 刀筆の才を以て、元顯の謀主と為り、朋援と交結し、多く親黨を樹て、桓謙自り以下、諸々の貴遊 皆 衽を斂めて交はるを請ふ。元顯の性 苛刻にして、生殺 己に自り、法順 屢々諫むるとも、納れず。又 東土の諸郡を發して奴を免じて客と為す者は、號して樂屬と曰ひ、移して京師に置き、以て兵役に充たし、東土 囂然とし、人 命に堪へず、天下 之を苦とす。既にして孫恩 釁に乘じて亂を作し、道子に黃鉞を加へ、元顯 中軍を為りて以て之を討つ。又 元顯に錄尚書事を加ふ。然るに道子 更めて長夜の飲を為し、政は大小と無く、一に元顯に委ぬ。時に道子もて東錄と為し、元顯もて西錄為りと謂ふ。
西府に車騎 湊を填め、東第門下に雀羅を設くるを可とす。元顯 良き師友無く、正言 聞かず、諂譽 日に至り、或いは以て一時の英傑と為し、或いは風流の名士為りと謂ひ、是に由り自ら天下に無敵と謂ひ、故に驕侈 日に增す。帝 又 元顯の翼亮の功有るを以て、其の所生の母劉氏に加へて會稽王夫人と為し、金章紫綬とす。會 洛陽覆沒し、道子 山陵の幽辱せらるを以て、上疏して章綬を送り、歸藩を請ひ、許さず。太皇太后 崩ずるに及び、道子に詔して輿に乘りて殿に入らしむ。元顯 因りて禮官に諷して議を下し、己の德は隆く望は重く、既に百揆を錄し、內外の羣僚 皆 應に敬を盡すべしと稱す。是に於て公卿 皆 拜す。時に軍旅 荐りに興り、國用 虛竭し、司徒自り已下、日に七升を廪し、而れども元顯 聚斂して已まず、富 帝室に過ぐ。謝琰 孫恩の害する所と為るに及び、元顯 求めて徐州刺史を領し、侍中・後將軍・開府儀同三司・都督十六州諸軍事を加へ、其の子たる彥璋を封じて東海王と為す。尋いで星變を以て、元顯 錄を解き、復た尚書令を加ふ。
會 孫恩 京口に至り、元顯 石頭を柵斷し、兵を率ゐて距戰し、頻りに利あらず。道子 他に謀略無く、唯だ日に蔣侯廟に禱りて厭勝の術を為す。既にして孫恩 北海に遁げ、桓玄 復た上流に據り、牋を道子に致して曰く、「賊 近郊を造し、風を以て進むを得ず、雨を以て火を致さず、食 盡きて故に去るのみ、力もて屈するに非ず。昔 國寶 卒する後、王恭 此の威に乘じて入りて朝政を統べず、其の心を見るに明公を侮る非ざるも、而るに之を忠に非ざると謂ふに足る。今の貴要の腹心、時流に清望有る者は誰なるや。豈に佳勝無く、直だ是れ能く之を信ぜずと云ふ可きのみ。理を用ゐるの人、然る後に信義を以て相 期する可し、利の徒を求め、豈に惜む所有りて更めて信を委ぬるや。爾來 一朝一夕、遂に今日の禍を成す。阿衡の重、言ふは何ぞ容易なる、福を求めれば則ち立ちどころに至り、忤を干し或いは禍を致す。朝に在りて君子たるは、豈に懷く有らず、但だ害の身に及ぶを懼れるるのみ。玄 任を在遠に忝くし、是を以て事實を披寫す」と。元顯 覽じて大いに懼る。張法順 之に謂ひて曰く、「桓玄 籍を門資に承け、素より豪氣有り、既に殷・楊を并せ、專ら荊楚を有つ。然して桓氏 世々西藩に在り、人 或いは用と為し、而るに第下の控引する所、三吳に止まるのみ。孫恩の亂を為すや、東土 地に塗れ、編戶 饑饉し、公私 贍(すく)はず、玄 必ず此に乘じて其の姦兇を縱にし、竊かに用て之を憂ふ」と。元顯曰く、「之を為すは柰何」と。
法順曰、「玄 始め荊州に據り、人情 未だ輯まらず、方に綏撫に就き、未だ他計に遑あらず。其の此の如きに及び、兵を發して之を誅し、劉牢之をして前鋒と為し、而して第下に大軍を以て繼進せしめば、桓玄の首 必ず麾下に懸けん」と。元顯 以て然りと為し、法順を遣はして京口に至らしめ、牢之と謀り、而るに牢之 疑色有り。法順 還り、元顯に說きて曰く、「牢の顏色を觀るに、必ず我に貳あり、未だ召し入れて之を殺すに若かず。爾らずんば、人の大事に敗れん」と。元顯 從はず。
道子が病気になり、しかも常に泥酔しているので、元顕は朝廷の名望が彼(父)から去ったことを知り、権力を奪おうと謀り、天子に仕向けて道子を揚州牧・司徒から解任したが、道子はそのことを認識しなかった。元顕は自分が年若く重い権限を有して、批判を受けることを心配し、琅邪王に司徒を領させ、元顕自身は揚州刺史となった。道子は酔いから覚めたとき、官職を失ったと知り、大いに怒ったが、どうしようもなかった。廬江太守である会稽の張法順は刀筆の才(法制官の資質)があり、元顕の参謀となり、朋友と結んで助けとし、親しい連中を登用したから、桓謙より以下、名家の子弟たちは表敬して交際を申し出た。元顕の性格は苛烈であり、生殺を思い通りとし、張法順がしばしば諫めたが、聞き入れなかった。東方(揚州)の諸郡から徴発した奴隷を解放して食客とし、彼らは楽属と呼ばれたが、京師に移住させ、兵員に補充したので、東土は騒然とし、人命が保証されず、天下は苦しめられた。孫恩が隙に乗じて乱を起こすと、司馬道子に黄鉞を加え、元顕は中軍を指揮して討伐した。さらに元顕に録尚書事を加えた。しかし道子はこんな状況でも夜通し酒宴を設け、政事は大小となく、もっぱら元顕に委任した。司馬道子を東録とし、元顕を西録と呼んだ。
西府(元顕)には車馬がごった返し、東の邸宅(道子)の門下は閑散とした。元顕のもとには優れた師や友がおらず、正しい助言を聞かず、おべんちゃらが押し寄せ、一時の英傑だの、風流の名士だのと持て囃されたので、自らを天下に無敵だと言い、驕慢や奢侈は日ごとに加速した。皇帝は元顕には補佐の功績があるから、彼の生母の劉氏に会稽王夫人の称号を加え、金章紫綬とした。洛陽が覆没したとき、道子は山陵の幽閉されて辱められ、上疏して章綬を返上し、帰藩を願い出たが、許されなかった。太皇太后が崩御すると、道子に詔して輿に乗って宮殿に入らせた。元顕は礼官に指図して議案を下し、元顕の徳が高くて声望は重く、すでに政務全般を管轄しているから、内外の群僚一同が敬意を尽くすようにと言わせた。公卿は皆が(元顕に)拝謁した。軍役が頻発し、国庫が枯渇したので、司徒より以下、日に七升を公庫に入れたが、元顕は蓄財を慎まず、財富は帝室を超えた。謝琰が孫恩に殺害されると、元顕は徐州刺史を領することを求め、侍中・後将軍・開府儀同三司・都督十六州諸軍事を加え、その子である司馬彦璋を封じて東海王とした。ほどなく星の異常があり、元顕は録尚書事を解いたが、また尚書令を加えた。
孫恩が京口に至ると、司馬元顕は石頭を封鎖し、兵を率いて防戦したが、たびたび敗北した。司馬道子はいかなる謀略もなく、ただ蒋侯廟に勝利を祈願するだけだった。孫恩が北海に逃げると、桓玄の軍が(江水の)上流を抑えたまま、道子に文書を送り、「賊(孫恩)は都の近郊に迫りましたが、風向きのせいで進めず、雨が降って火を使えず、食料が尽きて撤退しただけです、力により退けたのではありません。むかし王国宝が死んだとき、王恭はその威勢を利用して朝廷で執政しませんでしたが、彼の心情を推測しればあなた(道子)を侮ったわけではないが、忠実でもありませんでした。いまあなたの中心的な部下のうち、当世に清らかな名望があるのは誰ですか。好人物がおらず、信用できぬものばかりではないですか。道理に基づいて行動する人は、その後に信義を期待できます、しかし利益に基づいて行動する者は、損得を計算するだけで信頼できましょうか。だから一朝一夕(近日)、災禍が発生したのです。阿衡(執政者)の重い職務は、言うのは容易かも知れず、福を求めればすぐに手に入る一方、道を外せば禍いを招きます。朝廷における君子は、支持を集めるのではなく、ただ自分に害が及ぶことを警戒するのです。私(桓玄)は遠くに任地をいただく者として、真実を申し述べました」と言った。元顕はこれを見て大いに懼れた。張法順は元顕に、「桓玄は高官の家に生まれ、もとより豪気があり、すでに殷仲堪・楊佺期の勢力を吸収し、荊楚の地を領有しています。しかも桓氏は数世代にわたり西方の長官であり、人々を登用しています、(一方で)あなたが掌握しているのは、三呉の地だけです。孫恩が乱を起こし、東方の土地(揚州)は衰退し、域内の人民は飢饉に苦しみ、公私とも救済が追い付きません、桓玄がこの隙に乗じて凶悪な野心を表すのではありませんか、それが心配です」と言った。元顕は、「どうしたらよい」と言った。
張法順は、「桓玄は荊州に赴任した当初、人心が集まらず、懐柔に手間を取られ、他のことをする余裕がありませんでした。現在の状況となったからには、兵を向けて誅殺すべきです、劉牢之を前鋒とし、あなたが大軍で後詰めとなれば、桓玄の首を旗竿に掛けるのは時間の問題です」と言った。元顕は賛同し、張法順を京口に行かせ、劉牢之を説得したが、劉牢之の迷いが見えた。張法順が帰還し、元顕に「劉牢之の顔色を見るに、きっと私たちに二心を抱いています、召し寄せて殺すのが最善です。さもなくば私たちが敗北します」と言った。元顕は従わなかった。
道子尋拜侍中・太傅、置左右長史・司馬・從事中郎四人、崇異之儀、備盡盛典。其驃騎將軍僚佐文武、即配太傅府。加元顯侍中・驃騎大將軍・開府・征討大都督・1.十八州諸軍事・儀同三司、加黃鉞、班劍二十人、以伐桓玄、竟以牢之為前鋒。法順又言於元顯曰、自舉大事、未有威斷、桓謙兄弟每為上流耳目、斬之、以孤荊楚之望。且事之濟不、繼在前軍、而牢之反覆、萬一有變、則禍敗立至。可令牢之殺謙兄弟、以示不貳。若不受命、當逆為其所。元顯曰、非牢之無以當桓玄。且始事而誅大將、人情必動、二三不可。于時揚土饑虛、運漕不繼、玄斷江路、商旅遂絕。於是公私匱乏、士卒唯給粰橡。
大軍將發、玄從兄驃騎長史石生馳使告玄。玄進次尋陽、傳檄京師、罪狀元顯。俄而玄至西陽、帝戎服餞元顯于西池、始登舟而玄至新亭。元顯棄船退屯國子學堂。明日、列陣于宣陽門外、元顯佐吏多散走。或言玄已至大桁、劉牢之遂降于玄。元顯迴入宣陽門、牢之參軍張暢之率眾逐之、眾潰。元顯奔入相府、唯張法順隨之。問計於道子、道子對之泣。玄遣太傅從事中郎毛泰收元顯送于新亭、縛於舫前而數之。元顯答曰、為王誕・張法順所誤。於是送付廷尉、并其六子皆害之。玄又奏、道子酣縱不孝、當棄市。詔徙安成郡、使御史杜竹林防衞、竟承玄旨酖殺之、時年三十九。帝三日哭於西堂。
及玄敗、大將軍・武陵王遵承旨下令曰、故太傅公阿衡二世、契闊皇家、親賢之重、地無與二。驃騎大將軍內總朝維、外宣威略、志蕩世難、以寧國祚。天未靜亂、禍酷備鍾、悲動區宇、痛貫人鬼、感惟永往、心情崩隕。今皇祚反正、幽顯式敘、宜崇明國體、以述舊典。便可追崇太傅為丞相、加殊禮、一依安平獻王故事。追贈驃騎為太尉、加羽葆鼓吹。丞相墳塋翳然、飄薄非所、須南道清通、便奉迎神柩。太尉宜便遷改。可下太史詳吉日、定宅兆。於是遣通直常侍司馬珣之迎道子柩于安成。時寇賊未平、喪不時達。義熙元年、合葬於王妃陵。追諡元顯曰忠。以臨川王寶子脩之為道子嗣、尊妃王氏為太妃。義熙中、有稱元顯子秀熙避難蠻中而至者、太妃請以為嗣、於是脩之歸于別第。劉裕意其詐而案驗之、果散騎郎滕羨奴勺藥也、竟坐棄市。太妃不悟、哭之甚慟。脩之復為嗣。薨、諡悼王、無子、國除。
1.「十八州諸軍事」は「督十八州諸軍事」に作るべきという。
道子 尋いで侍中・太傅を拜し、左右長史・司馬・從事中郎四人を置き、崇異の儀、盛典を備盡す。其の驃騎將軍の僚佐たる文武、即ち太傅府に配す。元顯に侍中・驃騎大將軍・開府・征討大都督・十八州諸軍事・儀同三司を加へ、黃鉞、班劍二十人を加へ、以て桓玄を伐たしめ、竟に牢之を以て前鋒と為す。法順 又 元顯に言ひて曰く、「大事を舉げて自り、未だ威斷有らず、桓謙の兄弟 每に上流の耳目為れば、之を斬り、以て荊楚の望に孤せしめよ。且つ事の濟不は、繼在前軍、而れども牢之 反覆し、萬一に變有らば、則ち禍敗 立ちどころに至る。牢之をして謙の兄弟を殺し、以て貳あらざるを示さしむ可し。若し命を受けざれば、當に逆 其の所と為る」と。元顯曰く、「牢之に非らずんば以て桓玄に當るもの無し。且つ事を始めて大將を誅せば、人情 必ず動き、二三 不可なり」と。時に揚土 饑虛たりて、運漕 繼がず、玄 江路を斷ち、商旅 遂に絕つ。是に於て公私 匱乏し、士卒 唯だ粰橡を給す。
大軍 將に發せんとし、玄の從兄たる驃騎長史の石生 馳せて玄に告げしむ。玄 進みて尋陽に次り、檄を京師に傳へ、元顯を罪もて狀す。俄にして玄 西陽に至り、帝 戎服して元顯を西池に餞け、始めて舟に登りて玄 新亭に至る。元顯 船を棄て退きて國子學堂に屯す。明日、陣を宣陽門外に列ね、元顯の佐吏 多く散走す。或いは玄 已に大桁に至り、劉牢之 遂に玄に降ると言ふ。元顯 迴りて宣陽門に入り、牢之の參軍たる張暢之 眾を率ゐて之を逐ひ、眾 潰す。元顯 奔りて相府に入り、唯だ張法順のみ之に隨ふ。計を道子に問ふに、道子 之に對ひて泣く。玄 太傅從事中郎毛泰を遣はして元顯を收めて新亭に送り、舫前に縛びて之を數(せ)む。元顯 答へて曰く、「王誕・張法順の誤る所と為る」と。是に於て送りて廷尉に付し、并びに其の六子 皆 之を害す。玄 又 奏すらく、「道子 酣して不孝を縱にす、當に棄市すべし」と。詔して安成郡に徙し、御史杜竹林をして防衞せしめ、竟に玄の旨を承けて之を酖殺す、時に年三十九なり。帝 三日 西堂に哭す。
玄 敗るるに及び、大將軍・武陵王遵 旨を承けて令を下して曰く、「故太傅公は阿衡たること二世、皇家を契闊し、親賢の重、地に二と無し。驃騎大將軍 內に朝維を總べ、外に威略を宣し、志は世難を蕩ひ、以て國祚を寧んず。天 未だ亂を靜めず、禍酷 備鍾し、悲は區宇を動じ、痛は人鬼を貫く、永往を感惟し、心情 崩隕す。今 皇祚 正に反り、幽顯 式敘し、宜しく國體を崇明して、以て舊典を述すべし。便ち太傅に追崇して丞相と為し、殊禮を加へ、一に安平獻王の故事に依る可し。驃騎に追贈して太尉と為し、羽葆鼓吹を加へよ。丞相の墳塋 翳然とし、飄薄して所に非ず、須らく南道もて清通し、便ち神柩を奉迎すべし。太尉 宜しく便ち遷改すべし。太史に下して吉日を詳にし、宅兆を定む可し」と。是に於て通直常侍の司馬珣之を遣はして道子の柩を安成に迎へしむ。時に寇賊 未だ平らかならず、喪 時に達せず。義熙元年、王妃の陵に合葬す。元顯に追諡して忠と曰ふ。臨川王寶の子たる脩之を以て道子の嗣と為し、妃王氏を尊びて太妃と為す。義熙中、元顯の子たる秀熙にして難を蠻中に避けて至ると稱する者有り、太妃 以て嗣と為さんと請ひ、是に於て脩之 別第に歸す。劉裕 其の詐を意(うたが)ひて之を案驗し、果して散騎郎の滕羨の奴たる勺藥なり、竟に坐して棄市す。太妃 悟らず、之に哭して甚だ慟す。脩之 復た嗣と為る。薨じ、悼王と諡し、子無く、國 除かる。
道子がほどなく侍中・太傅を拝し、左右長史・司馬・従事中郎四人を配下に置き、格段に礼儀を尊くし、威儀を盛んに整えた。驃騎将軍の僚佐であった文武の官を、太傅府に配置し直した。元顕に侍中・驃騎大将軍・開府・征討大都督・(督)十八州諸軍事・儀同三司を加え、黄鉞と、班剣二十人を加え、桓玄の討伐をさせ、けっきょく劉牢之を前鋒とした。張法順は元顕に、「大いなる事業を始めてから、まだ武断により権威を示していません、桓謙の兄弟はいつも荊州(桓玄)と内通しています、彼らを斬って、荊楚の輿望を孤立させなさい。事業の成否は、先鋒の戦いぶり次第ですが、劉牢之が裏切り、万一に異変が起こられば、瞬時に敗北が決します。劉牢之に桓謙の兄弟を殺させて、二心がないことを証明させて下さい。もし命令を受けぬようなら、劉牢之の反逆を認定できます」と言った。元顕は、「桓玄に立ち向かえるのは劉牢之だけである。遠征を始めておきながら大将を誅殺すれば、人心が動揺し、離脱者が続出する」と言った。このとき揚州は飢饉で貧しく、軍事物資の補給が続かず、桓玄が長江の水路を分断したので、商業の物流が途絶えてしまった。公私とも窮乏し、士卒には粰橡(木の実を粉にして固めた食べ物)を支給した。
(元顕の)大軍が出発するにあたり、桓玄の従兄である驃騎長史の石生が馳せて桓玄に連絡をした。桓玄は尋陽に進軍し、檄文を京師に伝え、元顕の罪を数え上げた。にわかに桓玄が西陽に至ると、皇帝は戎服(軍服)を着けて元顕を西池において送り出し、上船を始めたが(すでに)桓玄が新亭に来ていた。元顕は船を棄てて退いて国子学堂に駐屯した。翌日、宣陽門外に布陣したが、元顕の佐吏は多くが逃げ散った。桓玄がもう大桁(建興城の南の浮橋)に到来し、劉牢之が桓玄に降服したと言うものがあった。元顕は引き返して宣陽門に入ったが、劉牢之の参軍である張暢之が軍勢を率いてこれを追い、軍勢は潰走した。元顕は相府に逃げ込んだとき、張法順だけが従っていた。計略を(父の)道子に聞いたが、向きあって泣くだけであった。桓玄は太傅従事中郎の毛泰を派遣して元顕を捕らえて新亭に送らせ、船の前に結びつけて責任を追及した。元顕は答えて、「王誕・張法順のせいで誤った」と言った。そこで廷尉に引き渡し、六人の子とともに殺害した。桓玄は上奏し、「道子は飲んだくれて不孝であった、棄市にしなさい」と言った。詔して安成郡に移住させ、御史の杜竹林に護送させたが、桓玄の意思を受けて(道中で)酖殺した、時に三十九歳であった。皇帝は西堂で三日間哭した。
桓玄が敗れると、大将軍・武陵王遵(司馬遵)が皇帝の意向を受けて令を下し、「もと太傅公(道子)は二世にわたり阿衡(輔政の任)にあって、皇室のために尽力し、血縁の近さと賢さは、この地に並ぶ者がいない。驃騎大将軍(元顕)は内では朝廷を統括し、外では兵略を展開し、当世の危難を救い、国運を安定させようと志した。まだ乱が静まらず、禍いや苦難が集まり、哀しみは国土を揺るがせ、痛みは霊魂を貫き、死せる者を思い、心は瓦解している。いま皇統が正常化し、上下の秩序が回復した、国家の威信を高め、旧典に準拠しよう。太傅(道子)を追崇して丞相とし、殊礼を加え、もっぱら安平献王の前例のようにせよ。驃騎(元顕)に追贈して太尉とし、羽葆鼓吹を加えよ。丞相の墳墓は荒廃し、流離して本来の姿でないから、南道を清めて開通させ、神柩をお迎えせよ。太尉は(遺体を)移して改葬するように。太史に命令して吉日を占わせ、陵墓を作り直せ」と言った。そこで通直常侍の司馬珣之を使わして道子の柩を安成に迎えさせた。このとき寇賊が平定されておらず、遺体は(新しい墓所に)到着できなかった。義熙元(四〇五)年、王妃の陵に合葬した。元顕に追諡して忠とした。臨川王宝(司馬宝)の子である司馬脩之を道子の継嗣とし、妃の王氏を尊んで太妃とした。義熙中(四〇五-四一八)に、元顕の子を自称して司馬秀熙を名乗り蛮族のなかに避難していたという者が現れて、太妃は彼を後嗣にしたいと願い、脩之を別邸に帰らせた。劉裕が疑って真偽を調べたところ、果たして正体は散騎郎の滕羨の奴である勺薬であり、罪により棄市された。太妃は調査結果を信じず、彼のために慟哭した。脩之が再び継嗣となった。薨じると、悼王と諡し、子がおらず、国が除かれた。
史臣曰、泰始之受終也、乃憲章往昔、稽古前王、廣誓山河、大開藩屏、文昭武穆、方駕於魯・衞・應・韓。磐石犬牙、連衡於吳・楚・齊・代。然而作法於亂、付託非才、何曾歎經國之無謀、郭欽識危亡之有兆。及宮車晏駕、墳土未乾、國難荐臻、朝章弛廢。重以八王繼亂、九服沸騰、戎羯交馳、乘輿幽逼、瑤枝瓊萼、隨鋒鏑而消亡。朱芾綠車、與波塵而殄瘁。遂使茫茫禹跡、咸窟穴於豺狼。惵惵周餘、竟沈淪於塗炭。嗚呼。運極數窮、一至于此。詳觀載籍、未或前聞。
道子地則親賢、任惟元輔、耽荒麴糱、信惑讒諛。遂使尼媼竊朝權、姦邪制國命、始則彝倫攸斁、終則宗社淪亡。元顯以童丱之年、受棟梁之寄、專制朝廷、陵蔑君親、奮庸瑣之常材、抗姦凶之巨寇、喪師殄國、不亦宜乎。斯則元顯為安帝之孫強、道子實晉朝之宰嚭者也。列代之崇建維城、用藩王室。有晉之分封子弟、實樹亂階。詩云、懷德惟寧、宗子維城。無俾城壞、無獨斯畏。城既壞矣、畏也宜哉。典午之喪亂弘多、實此之由矣。
贊曰、帝子分封、嬰此鞠凶。札瘥繼及、禍難仍鍾。秦獻聰悟、清河內顧。淮南忠勇、宣城識度。道子昏凶、遂傾國祚。
史臣曰く、泰始の受終するや、乃ち往昔を憲章とし、前王を稽古し、廣く山河に誓ひ、大いに藩屏を開き、文昭武穆、魯・衞・應・韓に方駕す。磐石犬牙、吳・楚・齊・代に連衡す。然而れども法を作るに亂に於てし、付託は才に非ず、何曾 經國の無謀を歎じ、郭欽 危亡の有兆を識る。宮車 晏駕するに及び、墳土 未だ乾かず、國難 荐(しき)りに臻(いた)り、朝章 弛廢す。重ねて八王の繼亂を以て、九服 沸騰し、戎羯 交馳し、乘輿 幽逼せられ、瑤枝瓊萼、鋒鏑に隨ひて消亡す。朱芾綠車、波塵と與にありて殄瘁す。遂に茫茫たる禹跡をして、咸 豺狼をして窟穴せしむ。惵惵たる周餘、竟に塗炭に沈淪す。嗚呼、運は極まり數は窮まり、一に此に至るや。詳らかに載籍を觀るに、未だ或いは前聞せず。
道子 地は則ち親賢にして、任は惟れ元輔なるとも、麴糱に耽荒し、讒諛を信惑す。遂に尼媼をして朝權を竊み、姦邪をして國命を制さしめ、始めに則ち彝倫 攸斁し、終に則ち宗社 淪亡す。元顯 童丱の年を以て、棟梁の寄を受け、朝廷を專制し、君親を陵蔑し、庸瑣の常材を奮ひ、姦凶の巨寇に抗ふとも、師を喪ひ國を殄し、亦 宜ならざるや。斯れ則ち元顯 安帝の孫強為りて〔一〕、道子 實に晉朝の宰嚭なる者なり〔二〕。列代 維城を崇建し、用て王室に藩とす。有晉の子弟を分封するは、實に亂階を樹つ。詩に云ふ、「德を懷けば惟(こ)れ寧(やす)し、宗子は維(こ)れ城なり。城をして壞(やぶ)れ俾(し)むること無かれ、獨(ひと)りとなること無かれ斯れ畏る〔三〕」と。城 既に壞(やぶ)れ、畏ろしきは宜(むべ)なるかな。典午の喪亂 弘多たり、實に此の由なり。
贊に曰く、帝の子 分封し、此の鞠凶に嬰かる。札瘥 繼いで及び、禍難 仍りに鍾(あつ)まる。秦獻 聰悟たり、清河 內顧す。淮南 忠勇たり、宣城 識度あり。道子 昏凶にして、遂に國祚を傾く。
〔一〕孫強は、未詳。中華書局本は、固有名詞としている。深山 @miyama__akira さまによると、公孫彊(公孫強)のことか。公孫彊は、『史記』巻三十五 管蔡世家に見え、曹国の人。曹伯陽(曹国の最後の君主)は、公孫彊の進言に従って宋国を攻撃したところ、反撃をされて曹国が滅びた。
〔二〕宰嚭は、春秋楚に生まれ、楚で祖父(伯州犁)が殺されると、呉に遷って宰相となった。
〔三〕『毛詩』大雅 板に「懷德維寧、宗子維城。無俾城壞、無獨斯畏」とあり、出典。
史臣はいう、泰始(二六五-)に受禅すると、往古を規範とし、先王を手本とし、広く山河を決めて、大いに藩屏を開き、文昭武穆(多くの子孫)を、魯・衛・應・韓に並立させた。磐石犬牙(強固な基盤)を、呉・楚・斉・代に連携させた。しかし戦乱が起きることを法制を作って、才能なき者を登用したので、何曾は国家経営の無謀さを歎き、郭欽は滅亡の予兆を悟っていた。宮殿と馬車が移動し、(武帝司馬炎の)陵墓がまだ乾かぬうちに、国難がしきりに到来し、朝廷の法制は弛緩して廃れてしまった。重ねて八王の乱が起き、天下全体が沸きたち、諸々の異民族が交差し、天子の乗輿は幽閉され、金枝玉葉(皇族)は、軍事行動のなかで消滅させられた。朱芾(礼服)緑車(皇族の馬車)は、波や塵にまみれて行方不明となった。ついに禹貢の地(天下)が空っぽになり、豺狼の住処になってしまった。周王の子孫はびくびく恐れ、塗炭の苦しみのなかで埋没をした。ああ、天運が終わり命数が尽き、これほどの事態になるとは。歴史書を閲覧しても、こんな前例は見えない。
道子は皇帝に親しい賢者として生まれ、宰相の任務にあったが、飲酒して荒淫し、讒言や阿諛をする者に惑わされた。尼僧や下女に朝政を預け、邪悪な者に命令を任せ、始めに人倫を破壊し、終わりに宗廟と社稷を衰亡させた。元顕は童子の年齢から、統率官の役割を担い、朝廷を専制し、君親を侮辱し、凡庸な人材を積極登用し、凶逆な巨悪に立ち向かったところ、軍勢を失って国家が衰えたが、当然のことではないか。元顕は安帝にとって孫強(公孫彊)であり、司馬道子は晋王朝にとって宰嚭であった。世代を連ねて封建し、宗室の藩屏とするはずであった。ところが晋王朝が皇族の子弟を封建すると、乱の原因となってしまった。『詩経』に「(君主に)徳があれば(国を)安んじる、嫡子は城である。その城を壊さぬように、孤立せぬようにせよ(孤立は)恐ろしい」という。晋王朝では城が壊れたが、たしかに恐ろしい事態であった。典午(司馬氏)の争乱は広範囲に頻発したのは、こういった事情に基づくのである。
賛にいう、皇帝の子を分けて封建し、この災厄を被った。疫病が相次いで及び、禍難がしきりに集まった。秦献(司馬柬)は聡明で見識があり、清河(司馬遐・司馬覃)は国家の内部を顧みた。淮南(司馬允)は忠勇であり、宣城(司馬裒)は見識と度量をそなえた。司馬道子は昏迷にして凶悪であり、ついに国運を傾けた。