翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。いったん公開します。誤訳や誤字は随時修正していきます。
王導字茂弘、光祿大夫覽之孫也。父裁、鎮軍司馬。導少有風鑒、識量清遠。年十四、陳留高士張公見而奇之、謂其從兄敦曰、「此兒容貌志氣、將相之器也」。初襲祖爵即丘子。司空劉寔尋引為東閤祭酒、遷祕書郎・太子舍人・尚書郎、並不行。後參東海王越軍事。
時元帝為琅邪王、與導素相親善。導知天下已亂、遂傾心推奉、潛有興復之志。帝亦雅相器重、契同友執。帝之在洛陽也、導每勸令之國。會帝出鎮下邳、請導為安東司馬、軍謀密策、知無不為。及徙鎮建康、吳人不附、居月餘、士庶莫有至者、導患之。會敦來朝、導謂之曰、「琅邪王仁德雖厚、而名論猶輕。兄威風已振、宜有以匡濟者」。會三月上巳、帝親觀禊、乘肩轝、具威儀、敦・導及諸名勝皆騎從。吳人紀瞻・顧榮、皆江南之望、竊覘之、見其如此、咸驚懼、乃相率拜於道左。導因進計曰、「古之王者、莫不賓禮故老、存問風俗、虛己傾心、以招俊乂。況天下喪亂、九州分裂、大業草創、急於得人者乎。顧榮・賀循、此土之望、未若引之以結人心。二子既至、則無不來矣」。帝乃使導躬造循・榮、二人皆應命而至。由是吳會風靡、百姓歸心焉。自此之後、漸相崇奉、君臣之禮始定。
俄而洛京傾覆、中州士女避亂江左者十六七、導勸帝收其賢人君子、與之圖事。時荊揚晏安、戶口殷實、導為政務在清靜、每勸帝克己勵節、匡主寧邦。於是尤見委杖、情好日隆、朝野傾心、號為「仲父」。帝嘗從容謂導曰、「卿、吾之蕭何也」。對曰、「昔秦為無道、百姓厭亂、巨猾陵暴、人懷漢德、革命反正、易以為功。自魏氏以來、迄于太康之際、公卿世族、豪侈相高、政教陵遲、不遵法度、羣公卿士、皆饜於安息、遂使姦人乘釁、有虧至道。然否終斯泰、天道之常。大王方立命世之勳、一匡九合、管仲・樂毅、於是乎在、豈區區國臣所可擬議。願深弘神慮、廣擇良能。顧榮・賀循・紀贍・周玘、皆南土之秀、願盡優禮、則天下安矣」。帝納焉。
永嘉末、遷丹楊太守、加輔國將軍。導上牋曰、「昔魏武、達政之主也。荀文若、功臣之最也、封不過亭侯。倉舒、愛子之寵、贈不過別部司馬。以此格萬物、得不局跡乎。今者臨郡、不問賢愚豪賤、皆加重號、輒有鼓蓋、動見相準。時有不得者、或為恥辱。天官混雜、朝望穨毀。導忝荷重任、不能崇浚山海、而開導亂源、饕竊名位、取紊彝典。謹送鼓蓋加崇之物、請從導始。庶令雅俗區別、羣望無惑」。帝下令曰、「導德重勳高、孤所深倚、誠宜表彰殊禮。而更約己沖心、進思盡誠、以身率眾。宜順其雅志、式允開塞之機」。拜寧遠將軍、尋加振威將軍。愍帝即位、徵吏部郎、不拜。
王導 字は茂弘、光祿大夫の覽の孫なり。父の裁、鎮軍司馬なり。導 少くして風鑒有り、識量清遠なり。年十四にして、陳留の高士の張公 見て之を奇とし、其の從兄の敦に謂ひて曰く、「此の兒の容貌志氣、將相の器なり」と。初め祖の爵即丘子を襲ふ。司空の劉寔 尋いで引きて東閤祭酒と為し、祕書郎・太子舍人・尚書郎に遷すに、並びに行かず。後に東海王越の軍事に參ず。
時に元帝 琅邪王と為り、導と素より相 親善す。導 天下 已に亂るるを知り、遂に心を傾けて推奉し、潛かに興復の志有り。帝 亦た雅に相 器重し、契は友執に同じ。帝の洛陽に在るや、導 每に勸めて國に之かしむ。會々帝 下邳に出鎮するや、導に請ひて安東司馬と為し、軍謀密策、知りて為さざる無し。鎮を建康に徙すに及び、吳人 附かず、居ること月餘にして、士庶 至る者有る莫く、導 之を患ふ。會々敦 來朝し、導 之に謂ひて曰く、「琅邪王は仁德 厚しと雖も、名論 猶ほ輕し。兄の威風 已に振るふ、宜しく以て匡濟有るべし」と。會々三月上巳に、帝 親ら禊を觀るに、肩轝に乘り、威儀を具へ、敦・導及び諸々の名勝 皆 騎從す。吳人の紀瞻・顧榮、皆 江南の望なり、竊かに之を覘て、其の此の如くあるを見、咸 驚懼し、乃ち相 率ゐて道左に拜す。導 因りて計を進めて曰く、「古の王者は、故老を賓禮して、風俗を存問し、己を虛くし心を傾け、以て俊乂を招かざる莫し。況んや天下 喪亂し、九州 分裂す、大業 草創し、人を得るに急なるか。顧榮・賀循、此の土の望なり、未だ之を引きて以て人心を結ぶに若かず。二子 既に至らば、則ち來らざる無し」と。帝 乃ち導をして躬ら循・榮に造らしめ、二人 皆 命に應じて至る。是に由り吳會 風靡し、百姓 心を歸す。此の後より、漸く相 崇奉し、君臣の禮 始めて定まる。
俄かに洛京 傾覆し、中州の士女 亂を避け江左する者は十に六七、導 帝に勸めて其の賢人君子を收め、之と與に事を圖る。時に荊揚 晏安にして、戶口 殷實なり、導 政を為すに務めて清靜に在り、每に帝に克己勵節し、主を匡し邦を寧んずるを勸む。是に於て尤も委杖せられ、情好 日に隆く、朝野 心を傾け、號して「仲父」と為す。帝 嘗て從容として導に謂ひて曰く、「卿、吾の蕭何なり」と。對へて曰く、「昔 秦 無道を為すや、百姓 亂に厭き、巨猾 陵暴せば、人 漢德に懷き、革命し正に反り、以て功を為し易し。魏氏より以來、太康の際に迄るまで、公卿世族、豪侈 相々高く、政教 陵遲し、法度に遵はず、羣公卿士、皆 安息に饜き、遂に姦人をして釁に乘ぜしめ、至道を虧く有り。然否は終に斯れ泰きは、天道の常なり。大王 方に命世の勳を立て、一に九合を匡ふ、管仲・樂毅、是に於てや在る、豈に區區たる國臣 擬議す可き所や。願はくは深く神慮を弘くし、廣く良能を擇べ。顧榮・賀循・紀贍・周玘、皆 南土の秀なり、願はくは盡く優禮せば、則ち天下 安からん」と。帝 焉を納る。
永嘉の末に、丹楊太守に遷り、輔國將軍を加へらる。導 牋を上りて曰く、「昔 魏武は、達政の主なり。荀文若は、功臣の最なり、封は亭侯に過ぎず。倉舒は、愛子の寵なり、贈は別部司馬に過ぎず。此を以て萬物に格するに、得て跡を局(わ)けざるや。今 郡に臨み、賢愚豪賤を問はず、皆 重號を加へ、輒ち鼓蓋有らば、動や相 準せらる。時に得ざる者有らば、或いは恥辱と為す。天官 混雜し、朝望 穨毀す。導 忝なくも重任を荷ひ、山海を崇浚する能はず、而るに亂源を開導し、名位を饕竊し、彝典を取紊す。謹みて鼓蓋加崇の物を送りて、導より始むるを請ふ。庶は雅俗もて區別し、羣望 惑ふこと無からしめよ」と。帝 令を下して曰く、「導 德は重く勳は高し、孤 深く倚る所なり、誠に宜しく表彰して禮を殊にす。而れども更めて己を約し心を沖し、進みて盡誠を思ひ、身を以て眾に率す。宜しく其の雅志に順ひ、式て開塞の機を允せよ」と。寧遠將軍を拜し、尋いで振威將軍を加ふ。愍帝 即位するや、吏部郎に徵するも、拜せず。
王導は字を茂弘といい、光禄大夫の王覧の孫である。父の王裁は、鎮軍司馬である。王導は若いころから人を見る目があり、見識にすぐれ清らかで遠望があった。年十四で、陳留の高士の張公がかれと会うと奇とし、その従兄の王敦に、「この子の容貌と志は、将軍や宰相の器である」と言った。はじめ祖父の爵位である即丘子を襲った。司空の劉寔がまねいて東閤祭酒とし、秘書郎・太子舎人・尚書郎に遷したが、いずれも行かなかった。のちに東海王越の軍事に参じた。
このとき元帝は琅邪王となり、王導とは以前より仲が良かった。王導は天下がすでに乱れたと悟り、心を傾けて推戴し、ひそかに復興の志を持った。元帝もまた王導を尊重し、共通の志を持つ友人のようであった。元帝が洛陽にいるとき、王導はいつも封国への赴任を勧めていた。元帝が下邳に出鎮するとき、王導に頼んで(配下の)安東司馬とし、軍謀や密策は、すべて王導に考え実行させた。鎮所を建康に移すと、呉人が懐かず、一ヵ月あまり居ても、士庶はだれも来訪せず、王導はこれを心配した。たまたま王敦が来朝し、王導はかれに、「琅邪王は仁徳が厚いが、名論がまだ軽い。兄(王敦)の威風はすでに振るっている、どうか手を貸してくれ」と言った。たまたま三月上巳(三日)に、元帝がみずから禊を見物したが、肩輿に乗り、威儀をそなえ、王敦と王導および高官らが騎馬で随従した。呉人の紀瞻と顧栄は、どちらも江南の名望家であるが、ひそかに様子を窺い、立派だったので、みな驚き懼れ、連れだって道路の左に拝した。これを踏まえて王導は計略を進め、「古の王者は、故老を賓客として礼遇し、当地の風俗を質問し、己を虚しくし心を傾け、賢俊を招かぬことがありませんでした。まして天下が喪乱し、九州は分裂しています、大いなる事業を始めるにあたり、人材獲得は最優先です。顧栄と賀循は、この土地の名望家です、かれらを招き人心をつかむのが良いでしょう。二子が来たなら、もう来ないものはおりません」と言った。元帝は王導に賀循と顧栄を訪問させ、二人は命令に応じてやって来た。これにより呉会の地域は風になびくように、万民が心を寄せた。この後から、ようやく祭り上げられ、君臣の礼が初めて定まった。
にわかに洛京が傾覆し、中原の士女は乱を避けて江左するものが十人のうち六七であり、王導は元帝に勧めて賢人君子を収容し、かれらと事業を図った。このとき荊州や揚州は平穏であり、戸数が豊かで、王導は清廉な政務に努め、つねに元帝に克己勉励し、主を正し国を安寧にするように勧めた。ここにおいて第一に頼られ、信頼が日ごとに高まり、朝野は心を傾け、王導を「仲父」と呼んだ。元帝はかつて従容として王導に、「卿は、わが蕭何だ」と言った。王導は答え、「むかし秦が無道をなすと、万民は乱に苦しみ、巨悪が暴れ回ったので、人々は漢帝国の徳に懐き、天命を改めて正常への回復を願ったので、功績を立てるのが容易でした。魏帝国より以来、太康年間まで、公卿や世族は、奢侈を競いあい、政治と教化は廃れ、法規に従わず、群公や卿士は、みな安息にうんざりし、姦人が隙に付け込み、正しい道を失いました。ことの有無がこのように落ち着くのは、天道の常です。大王はまさに命世の勲を立て、ひたすら万民を救済し、管仲や楽毅ですら、及ぶものではありません、どうして私のような下らぬ人臣が(蕭何に)準えられるでしょうか。どうか思慮を深くし、広く有能な人材を登用しなさい。顧栄・賀循・紀贍・周玘は、みな南土の優秀な人士です、かれらを礼遇すれば、天下は安定するでしょう」と言った。元帝はこれを聞き入れた。
永嘉年間(三〇七~三一三)の末に、丹楊太守に遷り、輔国将軍を加えられた。王導は書簡を提出し、「むかし魏武(曹操)は、政治に通達した主でした。荀文若(荀彧)は、功臣の第一でしたが、封爵は亭侯を超えませんでした。倉舒は、寵愛を受けた子ですが、死後に別部司馬を贈られただけです。これを万物に比べると、(私のために)領地を分けることは過大です。いま私を太守に任命し、賢愚や豪賤を問わず、みなに重い官号を加え、鼓や蓋を持たせれば、それが参照の基準となります。これを与えられぬものは、恥辱を感じます。天朝の官位が混雑し、朝廷の声望が毀損します。私は忝くも重い任務を担いましたが、(領地の)山海を高められず、しかし乱の根源を作り、名誉ある位を盗みとり、法規を混乱させています。謹んで鼓や蓋など特別に給わったものを返上し、私が(名誉の高騰を防ぐ)先例になりたいと思います。万民は正しさと卑しさによって区別し、人々の期待を不当に煽らないで下さい」と言った。元帝は王令を下し、「王導は徳が重く勲が高く、私が頼りにしているから、顕彰して殊礼を与えたのだ。しかし改めて己を貶めて謙虚にし、進んで誠を尽くし、率先したいという。かれの考えを尊重し、(官号や礼の)高低を適切に調整するように」と言った。寧遠将軍を拝し、ついで振威将軍を加えた。愍帝が即位すると吏部郎に徴召されたが、拝さなかった。
晉國既建、以導為丞相軍諮祭酒。桓彝初過江、見朝廷微弱、謂周顗曰、「我以中州多故、來此欲求全活。而寡弱如此、將何以濟。」憂懼不樂。往見導、極談世事、還、謂顗曰、「向見管夷吾、無復憂矣」。過江人士、每至暇日、相要出新亭飲宴。周顗中坐而歎曰、「風景不殊、舉目有江河之異」。皆相視流涕。惟導愀然變色曰、「當共勠力王室、克復神州。何至作楚囚相對泣邪。」眾收淚而謝之。俄拜右將軍・揚州刺史・監江南諸軍事、遷驃騎將軍、加散騎常侍・都督中外諸軍・領中書監・錄尚書事・假節、刺史如故。導以敦統六州、固辭中外都督。後坐事除節。
于時軍旅不息、學校未修。導上書曰、
夫風化之本在於正人倫、人倫之正存乎設庠序。庠序設、五教明、德禮洽通、彝倫攸敘、而有恥且格、父子兄弟夫婦長幼之序順、而君臣之義固矣。易所謂、「正家而天下定」者也。故聖王蒙以養正、少而教之、使化霑肌骨、習以成性、遷善遠罪而不自知、行成德立、然後裁之以位。雖王之世子、猶與國子齒、使知道而後貴。其取才用士、咸先本之於學。故周禮鄉大夫、獻賢能之書于王、王拜而受之、所以尊道而貴士也。人知士之貴由道存、則退而修其身以及家、正其家以及鄉、學於鄉以登朝、反本復始、各求諸己、敦樸之業著、浮偽之競息、教使然也。故以之事君則忠、用之莅下則仁。孟軻所謂「未有仁而遺其親、義而後其君者也」。
自頃皇綱失統、頌聲不興、于今將二紀矣。傳曰「三年不為禮、禮必壞。三年不為樂、樂必崩」。而況如此之久乎。先進忘揖讓之容、後生惟金鼓是聞、干戈日尋、俎豆不設、先王之道彌遠、華偽之俗遂滋、非所以端本靖末之謂也。殿下以命世之資、屬陽九之運、禮樂征伐、翼成中興。誠宜經綸稽古、建明學業、以訓後生、漸之教義、使文武之道墜而復興、俎豆之儀幽而更彰。方今戎虜扇熾、國恥未雪、忠臣義夫所以扼腕拊心。苟禮儀膠固、淳風漸著、則化之所感者深而德之所被者大。使帝典闕而復補、皇綱弛而更張、獸心革面、饕餮檢情、揖讓而服四夷、緩帶而天下從。得乎其道、豈難也哉。故有虞舞干戚而化三苗、魯僖作泮宮而服淮夷。桓文之霸、皆先教而後戰。今若聿遵前典、興復道教、擇朝之子弟並入于學、選明博修禮之士而為之師。化成俗定、莫尚於斯。
帝甚納之。
晉國 既に建つや、導を以て丞相軍諮祭酒と為す。桓彝 初めて江を過り、朝廷の微弱なるを見て、周顗に謂ひて曰く、「我 中州の多故なるを以て、此に來たりて全活を求めんと欲す。而れども寡弱たること此の如し、將た何を以て濟はんか」と。憂懼して樂まず。往きて導に見え、世事を談するを極め、還りて、顗に謂ひて曰く、「向し管夷吾を見れば、復た憂ひ無からん」と。江を過るの人士、暇日に至る每に、相 要(あつ)まりて新亭に出でて飲宴す。周顗 中坐にして歎じて曰く、「風景 殊ならず、目を舉ぐれば江河の異有り」と。皆 相 視て流涕す。惟だ導のみ愀然として色を變じて曰く、「當に共に力を王室に勠し、克く神州を復すべし。何ぞ至りて楚囚と作りて相 對ひて泣くか」と。眾 淚を收めて之に謝す。俄かに右將軍・揚州刺史・監江南諸軍事を拜し、驃騎將軍に遷り、散騎常侍・都督中外諸軍・領中書監・錄尚書事・假節を加へ、刺史たること故の如し。導 敦を以て六州を統べしめ、中外都督を固辭す。後に事に坐して節を除かる。
時に于て軍旅 息まず、學校 未だ修めず。導 上書して曰く、
夫れ風化の本は人倫を正すに在り、人倫の正は庠序を設くるに存り。庠序 設くれば、五教 明らかにして、德禮 洽く通じ、彝倫 敘する攸にして、而して恥有り且つ格(のり)あれば、父子兄弟夫婦長幼の序順ありて、君臣の義 固まる。易に謂ふ所の、「家を正して天下 定まる」なり。故に聖王 蒙にありて以て正を養ひ、少くして之を教へ、化は肌骨を霑ほし、習は以て性を成し、善を遷して罪を遠ざけて自ら知らざらしめ、行は成り德は立ち、然る後に之を裁するに位を以てす。王の世子と雖も、猶ほ國子と與に齒す、道を知りて而る後に貴からしむ。其の才を取りて士を用ゐ、咸 先づ之を學に本にす。故に周禮 鄉大夫に、「賢能の書を王に獻じ、王 拜して之を受くる」といふ、道を尊びて士を貴ぶ所以なり。人 士の貴は道 存るに由ると知らば、則ち退きて其の身を修めて以て家に及ぼし、其の家を正して以て鄉に及ぼし、鄉に學びて以て朝に登り、本に反り始に復し、各々諸己に求め、敦樸の業 著はれ、浮偽の競 息み、教は然らしむなり。故に之を以て君に事ふれば則ち忠なり、之を用ゐるに下に莅(のぞ)まば則ち仁なり。孟軻 謂ふ所の、「未だ仁にして其の親を遺(す)て、義にして其の君を後(あなど)るもの有らず」と。
自頃 皇綱 統を失ひ、頌聲 興らず、今に于て將に二紀ならんとす。傳に曰ふ、「三年 禮を為さざれば、禮 必ず壞る。三年 樂を為さざれば、樂 必ず崩る」と〔二〕。而して況んや此の如くの久しきや。先進 揖讓の容を忘れ、後生 惟だ金鼓 是れ聞き、干戈 日に尋ぎ、俎豆 設けず、先王の道 彌々遠く、華偽の俗 遂に滋く、本を端とし末を靖とする所以の謂ひに非ざるや。殿下 命世の資を以て、陽九の運に屬ひ、禮樂征伐、中興を翼成す。誠に宜しく稽古を經綸し、學業を建明して、以て後生に訓へ、之の教義を漸(すす)め、文武の道をして墜ちて復興し、俎豆の儀をして幽にして更彰せしむべし。方今 戎虜 扇熾し、國恥 未だ雪がず、忠臣義夫 扼腕し拊心する所以なり。苟し禮儀 膠固にして、淳風 漸く著はるれば、則ち化の感ずる所の者 深くして德の被る所の者は大なり。帝典をして闕けて復た補ひ、皇綱をして弛みて更めて張せしめば、獸心 面を革め、饕餮 情を檢め、揖讓して四夷を服し、緩帶して天下 從ふ。其の道を得るや、豈に難からんや。故に虞 干戚を舞ひて三苗を化し、魯僖 泮宮を作りて淮夷を服す。桓文の霸は、皆 教を先にして戰を後にす。今 若し聿に前典に遵ひ、道教を興復せば、朝の子弟を擇びて並びに學に入れ、明博修禮の士を選びて之に師と為せ。化は成り俗は定まる、斯より尚きこと莫しと。
帝 甚だ之を納る。
〔一〕『周礼』郷大夫に、「獻賢能之書于王。王再拜受之」とある。
〔二〕『論語』陽貨篇に、「宰我問三年之喪。期已久矣。君子三年不為禮。禮必壞。三年不為樂。樂必崩」とある。
晋国(東晋)が建つと、王導を丞相軍諮祭酒とした。桓彝が長江を渡った直後、朝廷が微弱であるのを見て、周顗に、「私は中原が多難なので、ここに来て生き残ろうと思った。しかし政権はこのように弱々しい、どうしたものか」と言った。憂い懼れて不安であった。王導を訪問し、とことん時論を話してから、帰ると、周顗に、「管夷吾(管仲)を見たら、もう心配はいらない」と言った。長江を渡った人士は、暇な日があるといつも、集まって新亭に出て酒宴をした。周顗は座中で歎じ、「風景は同じだが、目を上げれば長江と黄河という違いがある」と言った。みな向きあって涙を流した。ただ王導のみが容貌を正して顔色を変え、「ともに力を王室のために尽くし、神州を奪回しよう。なぜ楚の囚人となって泣いているのか」と言った。みな涙を止めて王導に謝った。にわかに右将軍・揚州刺史・監江南諸軍事を拝し、驃騎将軍に遷り、散騎常侍・都督中外諸軍・領中書監・録尚書事・仮節を加え、刺史は従来どおりとした。王導は王敦に六州を統括させ、中外都督を固辞した。のちに事案により節を除かれた。
このとき軍役が連続し、学校は未開設であった。王導が上書し、
そもそも風化の根本は人倫を正すことにあり、人倫の正しさは学校を設けることにあります。学校を設ければ、五教が明らかとなり、徳と礼があまねく通じ、人倫が整うのであり、恥と規範があれば、父子と兄弟と夫婦と長幼の序列が生まれ、君臣の義が固まります。『易』(家人の卦)にいう、「家を正して天下が定まる」です。ゆえに聖王は幼いころから正を養い、若くしてこれに教え、教化は肌に染みこみ、習慣が性格となり、善を引きよせ罪を遠ざけて自然と理解でき、行いが完成して徳が立ち、その後に判定して官位の差を付けるのです。王の世子であっても、國子(公卿大夫の子弟)と一緒に年齢を重ね、道を知った後に貴人として区別します。その才能を見出して士人を登用するには、まず教育を根本とします。ゆえに『周礼』郷大夫篇に、「賢能の書を王に献じると、王は頭を下げてこれを受ける」とあるのは、道義を尊び士人を貴ぶためです。士人が貴いのは道義を適うからであると分かれば、退いて身を修めて家に(教化を)及ぼし、家を正して郷に及ぼし、郷で学んで朝廷に登り、本来の正しさを回復し、それぞれ反省し、(加工する前の)荒木の性質が表れ、浮華の競争が止みますが、教化のおかげです。かくして君主に仕えれば忠となり、配下に接すれば仁となります。孟軻が(梁恵王章句篇で)、「いまだ仁でありながら親を捨て、義でありながら君主を侮ったものがいない」と述べる通りです。
このごろ天子の統治は秩序を失い、功徳を称える声は起こらず、二紀(二十四年)が経とうとしています。伝に言います、「三年のあいだ礼を行わねば、礼は必ず壊れる。三年のあいだ楽を行わなければ、楽は必ず崩れる」と(『論語』陽貨篇)。ましてこれほど長い時間が空いたらどうなりますか。先進が揖讓(拱手)の動作を忘れると、後生はただ軍鼓の鳴るのを聞き、武力抗争が日々くり返され、俎豆(祭祀の供物)を用意せず、先王の道はますます遠ざかり、華美な習俗が盛んになります、本末転倒とはこのことです。殿下は世を救う素質を備え、天命の分岐点にあい、礼楽と征伐により、中興を成し遂げました。先古に学んで統治し、学業を盛んとし、後生に伝え、教義を浸透させ、文武の道を再興し、俎豆の儀(祭祀)を復興なさいませ。いま異民族が暴れ、国の恥はまだ雪がず、忠臣や義夫が悔しがっております。もし礼義が強固となり、淳風が起これば、教化に感応して徳になびくものは多いでしょう。帝国の秩序を補い、支配を張り詰めれば、獣心も面貌を改め、蛮夷も心を入れ替え、拱手して四夷が屈服し、帯をゆるく結び(心を安らげて)天下は従うでしょう。その道を得ることは、難しくありません。ゆえに虞舜は干戚の舞いで(反逆した)三苗を平定し、魯の僖公は泮宮(国学)を作って淮夷を服従させました。桓公や文公の覇業は、どちらも教化を先にし戦争を後にしました。いまもし先例に従い、道の教えを復興するなら、朝臣の子弟を入学させ、明博修礼の士を選んで教師として下さい。教育が完成すれば習俗は安定します、これより尊いことはありませんと。
元帝は深く同意した。
及帝登尊號、百官陪列。命導升御牀共坐。導固辭、至于三四、曰、「若太陽下同萬物、蒼生何由仰照。」帝乃止。進驃騎大將軍・儀同三司。以討華軼功、封武岡侯。進位侍中・司空・假節・錄尚書、領中書監。會太山太守徐龕反、帝訪可以鎮撫河南者、導舉太子左衞率羊鑒。既而鑒敗、抵罪。導上疏曰、「徐龕叛戾、久稽天誅、臣創議征討、調舉羊鑒。鑒闇懦覆師、有司極法。聖恩降天地之施、全其首領。然臣受重任、總錄機衡、使三軍挫衄、臣之責也。乞自貶黜、以穆朝倫」。詔不許。尋代賀循領太子太傅。時中興草創、未置史官。導始啟立、於是典籍頗具。時孝懷太子為胡所害、始奉諱、有司奏、天子三朝舉哀、羣臣一哭而已。導以為、皇太子副貳宸極、普天有情、宜同三朝之哀。從之。及劉隗用事、導漸見疏遠、任真推分、澹如也。有識咸稱導善處興廢焉。
王敦之反也、劉隗勸帝悉誅王氏、論者為之危心。導率羣從昆弟子姪二十餘人、每旦詣臺待罪。帝以導忠節有素、特還朝服、召見之。導稽首謝曰、「逆臣賊子、何世無之、豈意今者近出臣族。」帝跣而執之曰、「茂弘、方託百里之命於卿、是何言邪。」乃詔曰、「導以大義滅親、可以吾為安東時節假之」。及敦得志、加導守尚書令。初、西都覆沒、海內思主、羣臣及四方並勸進於帝。時王氏強盛、有專天下之心。敦憚帝賢明、欲更議所立。導固爭乃止。及此役也、敦謂導曰、「不從吾言、幾致覆族」。導猶執正議、敦無以能奪。
自漢魏已來、賜諡多由封爵、雖位通德重、先無爵者、例不加諡。導乃上疏、稱、「武官有爵必諡、卿校常伯無爵不諡、甚失制度之本意也」。從之。自後公卿無爵而諡、導所議也。
初、帝愛琅邪王裒、將有奪嫡之議。以問導。導曰、「夫立子以長、且紹又賢、不宜改革」。帝猶疑之。導日夕陳諫、故太子卒定。
帝 尊號に登るに及び、百官 陪列す。導に命じて御牀に升りて共に坐せしむ。導 固辭し、三四に至り、曰く、「若し太陽 下りて萬物と同ずれば、蒼生 何に由り照を仰がん」と。帝 乃ち止む。驃騎大將軍・儀同三司に進む。華軼を討つの功を以て、武岡侯に封ぜらる。位を侍中・司空・假節・錄尚書に進め、中書監を領す。會々太山太守の徐龕 反するや、帝 以て河南を鎮撫す可き者を訪ね、導 太子左衞率の羊鑒を舉ぐ。既にして鑒 敗れ、罪に抵たる。導 上疏して曰く、「徐龕 叛戾し、久しく天誅を稽め、臣 議して征討を創むるに、羊鑒を調舉す。鑒 闇懦にして師を覆し、有司 法を極む。聖恩 天地の施を降し、其の首領を全す。然るに臣 重任を受け、機衡を總錄し、三軍をして挫衄せしむるは、臣の責なり。乞ふ自ら貶黜し、以て朝倫を穆せよ」と。詔して許さず。尋いで賀循に代はり太子太傅を領す。時に中興 草創し、未だ史官を置かず。導 始めて立つることを啟し、是に於て典籍 頗る具はる。時に孝懷太子 胡の害する所と為り、始め諱を奉るに、有司 奏すらく、天子 三朝に哀を舉げ、羣臣一哭するのみ。導 以為へらく、皇太子は宸極に副貳し、普天に情有れば、宜しく三朝の哀と同じくせよと。之に從ふ。劉隗 用事するに及び、導 漸く疏遠とせられ、真を任じ分を推し、澹如たるなり。有識 咸 導の善く興廢に處すを稱せり。
王敦の反するや、劉隗 帝に悉く王氏を誅せんことを勸め、論者 之の為に心を危ふくす。導 羣從昆弟子姪二十餘人を率ゐ、每旦に臺に詣り罪を待つ。帝 導の忠節 素より有るを以て、特に朝服を還し、召して之に見ゆ。導 稽首し謝して曰く、「逆臣賊子、何の世にか之無からん、豈に意(おも)はん今は近く臣が族に出づるとは」と。帝 跣にて之を執りて曰く、「茂弘、方に百里の命を卿に託す、是れ何の言ひや」と。乃ち詔して曰く、「導 大義を以て親を滅す、吾が安東と為る時の節を以て之に假す可きか」と。敦 志を得るに及び、導に守尚書令を加ふ。初め、西都 覆沒するに、海內 主を思ひ、羣臣及(と)四方 並びに帝に勸進す。時に王氏 強盛にして、天下を專らにするの心有り。敦 帝の賢明なるを憚り、更めて立つる所を議せんと欲す。導 固爭して乃ち止む。此の役に及ぶや、敦 導に謂ひて曰く、「吾が言に從はずんば、幾ど覆族に致らん」と。導 猶ほ正議を執り、敦 以て能く奪ふこと無し。
漢魏より已來、諡を賜ふに多くは封爵に由り、位は通じ德は重しと雖も、先に爵無き者は、例に諡を加へず。導 乃ち上疏し、稱す、「武官に爵有らば必ず諡あり、卿校常伯は爵無くして諡せず、甚だ制度の本意を失ふなり」と。之に從ふ。自後 公卿 爵無くも諡あるは、導の議する所なり。
初め、帝 琅邪王裒を愛し、將に奪嫡の議有らんとす。以て導に問ふ。導曰く、「夫れ子を立つるに長を以てし、且つ紹は又 賢なり、宜しく改革すべからず」と。帝 猶ほ之を疑ふ。導 日夕に陳諫し、故に太子 卒に定まる。
元帝が尊号(帝位)に登ると、百官は侍って整列した。王導に命じて元帝の腰かけに登って同席させようとした。王導は固辞して、三四回に至り、「もし太陽が(地上に)下りて万物と並べば、万民はどの光を仰げばよいか分かりません」と言った。元帝は止めた。驃騎大将軍・儀同三司に進んだ。華軼を討伐した功績で、武岡侯に封建された。官位を侍中・司空・仮節・録尚書に進め、中書監を領した。たまたま太山太守の徐龕が反乱すると、元帝は河南方面を鎮撫できるものを質問し、王導は太子左衛率の羊鑒を推薦した。羊鑒は敗北し、罪を得た。王導は上疏して、「徐龕が反逆し、久しく天誅が遅れ、私に征討できる人材をお訪ねになり、羊鑒を推薦しました。羊鑒は暗懦であり軍を覆し、担当官は極刑にせよと判決を出しました。聖恩が天地のような恩情で、その命だけは助けました。さて私は重要な任務にあり、政治全般を担当しており、三軍を挫折させたのは、私の責任です。どうか降格し、朝廷を公平にしたいと思います」と言った。詔して許さなかった。ほどなく(王導は)賀循に代わって太子太傅を領した。このとき中興(東晋)は草創したばかりで、まだ史官を設置していなかった。王導が初めてその設置を提案し、ここにおいて官文書が整理された。このとき孝懐太子(西晋の懐帝)が胡族に殺害され、その訃報が伝えられると、担当官は、天子(の崩御)には三朝に哀を挙げますが、(今回のように)群臣(の死去)には一哭で十分ですと言った。王導は、皇太子は天子に次ぐものであり、天下に情があるなら、三朝の哀(天子)と同様となさいませと言った。これに従った。劉隗が政務を執ると、王導は徐々に遠ざけられたが、本来の職務をして分限をわきまえ、あっさりとして執着しなかった。見識者は王導が興廃への対処がうまいと称した。
王敦が反乱すると、劉隗は元帝にことごとく王氏を誅殺するよう勧め、論者はどう転ぶのか不安であった。王導は従昆弟子姪たち二十人あまりを連れ、毎日朝廷に出向いて罪の裁きを待った。元帝は王導の忠節を前から知っていたので、特別に朝服を返還し、召して面会をした。王導は稽首して謝り、「逆臣や賊子は、いつの世にも居りますが、まさが身内から出るとは思いませんでした」と言った。元帝は裸足で王導を迎え、「茂弘(王導の字)よ、百里の命(諸侯の権限)を卿に託そう、なぜそんなことを言うのだ」と言った。そこで詔して、「王導は大義によりを親族を討滅する、私が安東将軍となったときの節鉞をかれに仮してもよかろうか」と言った。王敦が志を得ると、王導に守尚書令を加えた。これよりさき、西都(長安)が覆滅したとき、天下は主君を探し求め、群臣と四方(の諸族)はみな元帝を勧進した。このとき(琅邪)王氏は強盛であり、天下を専有しようという思惑があった。王敦は元帝が賢明であるのを憚り、候補者の変更を提起した。王導が鋭く争って取り下げさせた。この軍役に及び、王敦は王導に、「私の言うとおりにせねば、わが一族は皆殺しにされるぞ」と言った。王導はそれでも正しい議論を守り、王敦は志を奪うことができなかった。
漢魏より以来、諡号を賜わる(か否か)は多くは封爵(の有無)で決まり、官位が高く徳が重くとも、さきに封爵がなければ、例として諡号を加えなかった。王導は上疏し、「武官に封爵があれば必ず諡号があり、卿校常伯(文官)は封爵がなければ諡号がありません、これは制度の本義から外れています」と言った。これに従った。これより公卿に封爵がなくとも諡号があるのは、王導が建議したことに依るのである。
これよりさき、元帝は琅邪王裒を愛し、正嫡を交代させようという提案があった。(元帝は)王導に質問した。王導は、「子を立てるのは年齢順とし、しかも司馬紹は賢いひとです、交代させてはなりません」と言った。元帝はまだ決めかねた。王導が日夕に諫めたので、ゆえに太子の人選が定まった。
及明帝即位、導受遺詔輔政、解揚州、遷司徒、一依陳羣輔魏故事。王敦又舉兵內向。時敦始寢疾、導便率子弟發哀。眾聞、謂敦死、咸有奮志。及帝伐敦、假導節、都督諸軍、領揚州刺史。敦平、進封始興郡公、邑三千戶、賜絹九千匹、進位太保、司徒如故。劍履上殿、入朝不趨、讚拜不名。固讓。帝崩、導復與庾亮等同受遺詔、共輔幼主、是為成帝。加羽葆鼓吹、班劍二十人。及石勒侵阜陵、詔加導大司馬・假黃鉞、出討之。軍次江寧、帝親餞于郊。俄而賊退、解大司馬。
庾亮將徵蘇峻、訪之於導。導曰、「峻猜險、必不奉詔。且山藪藏疾、宜包容之」。固爭不從。亮遂召峻。既而難作、六軍敗績、導入宮侍帝。峻以導德望、不敢加害、猶以本官居己之右。峻又逼乘輿幸石頭、導爭之不得。峻日來帝前肆醜言、導深懼有不測之禍。時路永・匡術・賈寧並說峻、令殺導、盡誅大臣、更樹腹心。峻敬導、不納、故永等貳於峻。導使參軍袁耽潛諷誘永等、謀奉帝出奔義軍。而峻衞御甚嚴、事遂不果。導乃攜二子隨永奔于白石。
及賊平、宗廟宮室並為灰燼、溫嶠議遷都豫章、三吳之豪請都會稽、二論紛紜、未有所適。導曰、「建康、古之金陵、舊為帝里、又孫仲謀・劉玄德俱言王者之宅。古之帝王不必以豐儉移都、苟弘衞文大帛之冠、則無往不可。若不績其麻、則樂土為虛矣。且北寇游魂、伺我之隙、一旦示弱、竄於蠻越、求之望實、懼非良計。今特宜鎮之以靜、羣情自安」。由是嶠等謀並不行。
導善於因事、雖無日用之益、而歲計有餘。時帑藏空竭、庫中惟有綀數千端、鬻之不售、而國用不給。導患之、乃與朝賢俱制綀布單衣。於是士人翕然競服之、綀遂踴貴。乃令主者出賣、端至一金。其為時所慕如此。
六年冬、蒸、詔歸胙於導、曰、「無下拜」。導辭疾不敢當。初、帝幼沖、見導、每拜。又嘗與導書手詔、則云「惶恐言」、中書作詔、則曰「敬問」、於是以為定制。自後元正、導入、帝猶為之興焉。
明帝 即位するに及び、導は遺詔を受けて輔政し、揚州を解き、司徒に遷るは、一に陳羣輔魏の故事に依る。王敦 又 兵を舉げて內向す。時に敦 始めて寢疾し、導 便ち子弟を率ゐて哀を發す。眾 聞き、敦 死せりと謂ひ、咸 志を奮ふ有り。帝 敦を伐すに及び、導に節を假し、諸軍を都督し、揚州刺史を領せしむ。敦 平らぐや、封を始興郡公に進め、邑は三千戶、絹九千匹を賜はり、位を太保に進め、司徒なること故の如し。劍履上殿、入朝不趨、讚拜不名とす。固讓す。帝 崩ずるや、導 復た庾亮らと與に同に遺詔を受け、共に幼主を輔く、是れ成帝為り。羽葆鼓吹、班劍二十人を加ふ。石勒 阜陵を侵すに及び、詔して導に大司馬・假黃鉞を加へ、出でて之を討たしむ。軍 江寧に次り、帝 親ら郊に餞す。俄かにして賊 退き、大司馬を解く。
庾亮 將に蘇峻を徵せんとし、之を導に訪ぬ。導曰く、「峻は猜險なり、必ず詔を奉らず。且つ山藪 疾を藏す〔一〕、宜しく之を包容すべし」と。固く爭ひて從はず。亮 遂に峻を召す。既にして難 作こり、六軍 敗績し、導 宮に入りて帝に侍る。峻 導の德望あるを以て、敢て害を加へず、猶ほ本官を以て己の右に居らしむ。峻 又 乘輿に逼りて石頭に幸せしめんとし、導 之を爭ひて得ず。峻 日に帝の前に來りて醜言を肆にし、導 深く不測の禍有らんことを懼る。時に路永・匡術・賈寧 並びに峻に說き、導を殺し、盡く大臣を誅し、更めて腹心を樹たしむ。峻 導を敬へば、納れず、故に永ら峻に貳あり。導 參軍の袁耽を使はして潛諷して永らを誘ひ、帝を奉りて義軍に出奔するを謀る。而して峻 御を衞すること甚だ嚴なり、事 遂に果たさず。導 乃ち二子を攜へて永に隨ひ白石に奔る。
賊 平らぐるに及び、宗廟宮室 並びに灰燼と為り、溫嶠 豫章に遷都するを議し、三吳の豪 會稽に都することを請ひ、二論 紛紜とし、未だ適く所有らず。導曰く、「建康は、古の金陵なり、舊く帝里と為り、又 孫仲謀・劉玄德 俱に王者の宅と言ふ。古の帝王 必ずしも豐儉を以て都を移さず、苟も衞文の大帛の冠を弘むれば〔二〕、則ち往くこと可からざる無し。若し其の麻を績がざれば、則ち樂土 虛と為らん。且つ北寇は游魂し、我の隙を伺ふ、一旦に弱を示せば、蠻越に竄れ、之を望實に求むるは、懼らくは良計に非ず。今 特に宜しく之に鎮するに靜を以てし、羣情 自ら安んぜん」と。是に由り嶠らの謀 並びに行かず。
導 事に因るに善く、日用の益無しと雖も、而れども歲計 餘有り。時に帑藏 空竭たりて、庫中に惟だ綀の數千端のみ有り、之を鬻すとも售せず、而して國用 給せず。導 之を患ひ、乃ち朝賢と與に俱に綀布の單衣を制む。是に於て士人 翕然として競ひて之を服し、綀 遂に踴貴す。乃ち主者に出賣せしめ、端ごとに一金に至る。其の時の為に慕ふ所 此の如し。
六年の冬に、蒸あり、詔して胙を導に歸し、曰ふ、「下拜する無かれ」と。導 辭疾して敢て當たらず。初め、帝 幼沖にして、導を見るに、每に拜す。又 嘗て導と與に手詔を書し、則ち云はく「惶恐して言ふ」と、中書 詔を作り、則ち「敬問す」と曰ひ、是に於て以て定制と為す。自後 元正に、導 入り、帝 猶ほ之の為に興きる。
〔一〕『春秋左氏伝』宣公 伝十五年に、「川澤納汙、山藪藏疾」とある。
〔二〕『春秋左氏伝』閔公 伝二年に、「衞文公大布之衣、大帛之冠」とある。衛の文公は、楚丘に本拠地を移し、大帛(あらぎぬ)の冠を着けて、産業を立て直した。
明帝が即位すると、王導は遺詔を受けて輔政し、揚州(刺史)を解任され、司徒に遷ったが、もっぱら陳羣が魏を輔けた故事に依った。王敦がまた兵を挙げて内に向かってきた。このとき王敦は初めて病気で寝込み、王導は子弟を率いて哀を発した。みなはこれを聞き、王敦が死んだと思い、みな戦意を高揚させた。明帝が王敦を征伐するに及び、王導に、節を仮し、諸軍を都督し、揚州刺史を領させた。王敦を平定すると、封爵を始興郡公に進め、食邑は三千戸、絹九千匹を賜わり、位を太保に進め、司徒は従来どおりとした。剣履上殿、入朝不趨、讚拝不名の特権を与えた。固辞した。明帝が崩御すると、また王導は庾亮とともに遺詔を受け、ともに幼主を輔けたが、これが成帝である。羽葆鼓吹、班剣二十人を加えた。石勒が阜陵に侵攻すると、詔して王導に大司馬・仮黄鉞を加え、出撃して討伐させた。軍が江寧に停泊すると、成帝はみずから郊外で餞して見送った。にわかに賊が撤退し、大司馬を解いた。
庾亮が蘇峻を徴召しようとし、これを王導に相談した。王導は、「蘇峻は猜疑心があり陰険である、必ず詔に背くだろう。山の茂みは毒虫を隠す、(大徳で)包み込むのがよい」と言った。強く反対を続けた。とうとう庾亮が蘇峻を徴召した。やはり政難が起こり、六軍は敗績し、王導は宮殿に入って成帝のそばに付いた。蘇峻は王導に徳望あるため、あえて危害を加えず、もとの官職のまま自分の上位に留めた。蘇峻はさらに乗輿(天子)に逼って石頭に行幸させようとし、王導が抵抗して中止させた。蘇峻は毎日成帝の前で醜言をほしいままに吐き、王導は不測の禍(弑殺)が起きないかと懼れた。このとき路永や匡術や賈寧はみな蘇峻を説得し、王導を殺し、尽く大臣を誅し、代わりに腹心を高位に就けようと言った。蘇峻は王導を敬っているので、聞き入れず、ゆえに路永は蘇峻に二心を持った。王導は参軍の袁耽を派遣して秘かに路永らを籠絡し、成帝を奉って義軍のなかに逃げ込もうと計画した。しかし蘇峻の警戒が厳しく、成功しなかった。王導は二子を携えて路永に随って白石に逃げた。
賊を平定すると、宗廟や宮室はいずれも灰燼となり、温嶠は豫章郡への遷都を建議し、三呉の豪族は会稽郡に都を置くよう要請し、二つの論が揉めて、決着しなかった。王導は、「建康は、古の金陵である、昔から帝里であり、また孫仲謀・劉玄徳も王者の住処と言った。古の帝王は必ずしも土地の豊かさや険しさによって都を遷したのではない、衛文公はあらぎぬの冠を広めたので、遷都が成功したのである(『春秋左氏伝』閔公 伝二年)。もし(衛の文公が)あらぎぬを着け産業を振興せねば、楽土ですら廃墟となっただろう。しかも今日は北方異民族がうろつき、わが隙を窺っている、いちど弱みを見せれば、蛮越のなかに逃れることになり、(遷都により)国力の充実を求めるのは、恐らく良計ではない。いま都を(建康で)立て直して安全性を優先せよ、世情はおのずと落ち着くだろう」と言った。これにより温嶠らの計画はどちらも退けられた。
王導は臨機応変の政策を得意とし、日々の細かな利益を生まなかったが、年間では剰余を出した。あるとき国庫が空っぽで、倉庫のなかに綀布(くずぬの)数千端だけがあり、これを販売しても買い手が付かず、歳入の足しにならなかった。王導はこれに困り、朝廷の賢者とともに綀布製の単衣の着用を定めた。すると士人は一斉に競ってこれを着用し、綀布の価格が暴騰した。そこで担当官に売りさばかせ、端ごとに一金に値がついた。このように時勢に応じるのが上手かった。
六年の冬に、蒸(冬の祭り)があり、詔して胙(供物の肉)を王導に送り、「下りて拝受しなくてよい」と言った。王導は辞退して敢えて受け取らなかった。これよりさき、成帝は幼弱であったので、王導と会うと、いつも頭を下げた。かつて王導と二人で手詔を書き、「惶恐して言う」と書いてしまい、中書が詔を作り、「敬問する」としたが、これが慣例となった。のちに元旦に、王導が入室すると、成帝は立ち上がった。
時大旱、導上疏遜位。詔曰、「夫聖王御世、動合至道、運無不周、故能人倫攸敘、萬物獲宜。朕荷祖宗之重、託於王公之上、不能仰陶玄風、俯洽宇宙、亢陽踰時、兆庶胥怨、邦之不臧、惟予一人。公體道明哲、弘猶深遠、勳格四海、翼亮三世、國典之不墜、實仲山甫補之。而猥崇謙光、引咎克讓。元首之愆、寄責宰輔、祇增其闕。博綜萬機、不可一日有曠。公宜遺履謙之近節、遵經國之遠略。門下速遣侍中以下敦喻」。導固讓。詔累逼之、然後視事。
導簡素寡欲、倉無儲穀、衣不重帛。帝知之、給布萬匹、以供私費。導有羸疾、不堪朝會。帝幸其府、縱酒作樂、後令輿車入殿。其見敬如此。
石季龍掠騎至歷陽、導請出討之。加大司馬・假黃鉞・1.中外諸軍事、置左右長史・司馬、給布萬匹。俄而賊退、解大司馬、復轉中外大都督、進位太傅、又拜丞相、依漢制罷司徒官以并之。冊曰、「朕夙罹不造、肆陟帝位、未堪多難、禍亂旁興。公文貫九功、武經七德、外緝四海、內齊八政、天地以平、人神以和、業同伊尹、道隆姬旦。仰思唐虞、登庸雋乂、申命羣官、允釐庶績。朕思憑高謨、弘濟遠猷、維稽古建爾于上公、永為晉輔。往踐厥職、敬敷道訓、以亮天工。不亦休哉。公其戒之。」
1.「中外諸軍事」は、上に「都督」二字を補い、「都督中外諸軍事」に作るべきか。
時に大旱あり、導 上疏して位を遜る。詔して曰く、「夫れ聖王の御世に、動けば至道に合ひ、運は周らざる無く、故に能く人倫の敘する攸、萬物 宜を獲たり。朕 祖宗の重を荷ひ、王公の上に託するに、仰ぎて玄風に陶(やは)らぎ、俯きて宇宙を洽(うるほ)すこと能はず、亢陽 時を踰え、兆庶 胥怨し、邦の臧(よ)からざるは、惟れ予一人なり。公 道を體し明哲にして、弘は猶ほ深遠なり、勳は四海に格しく、三世を翼亮し、國典の墜せざるは、實に仲山甫とて之を補はん。而るに猥に謙光を崇び、咎を引き克讓す。元首の愆もて、責を宰輔に寄するは、祇に其の闕を增さん。萬機を博綜し、一日も曠有る可からず。公 宜しく履謙の近節を遺し、經國の遠略に遵ふべし。門下 速やかに侍中より以下を遣はして敦く喻せ」と。導 固讓す。詔 累りに之に逼り、然る後 視事す。
導 簡素にして寡欲なり、倉に儲穀無く、衣は帛を重ねず。帝 之を知り、布萬匹を給ひて、以て私費に供す。導 羸疾有りて、朝會に堪へず。帝 其の府に幸き、酒を縱にして樂を作し、後に輿車もて入殿せしむ。其の敬はるること此の如し。
石季龍の掠騎 歷陽に至り、導 出で之を討たんことを請ふ。大司馬・假黃鉞・中外諸軍事を加へ、左右の長史・司馬を置き、布萬匹を給ふ。俄かにして賊 退き、大司馬を解き、復た中外大都督に轉じ、位太傅に進め、又 丞相を拜し、漢制に依りて司徒の官を罷めて以て之に并はす。冊に曰く、「朕 夙に不造に罹り、肆に帝位を陟み、未だ多難に堪へず、禍亂 旁に興る。公 文は九功を貫き、武は七德を經て、外は四海を緝め、內は八政に齊しく、天地 以て平らげ、人神 以て和し、業は伊尹に同じく、道は姬旦より隆し。仰ぎて唐虞を思ひ、雋乂を登庸し、羣官を申命し、允に庶績を釐(をさ)めよ。朕 高謨に憑き、遠猷を弘濟せんと思ひ、維れ古を稽し爾を上公に建つ、永く晉輔と為れ。往きて厥の職を踐み、敬ひて道訓を敷きて、以て天工を亮けよ。亦た休ならずや。公 其れ之を戒めよ」と。
このとき旱魃があり、王導は上疏して官位を返上した。詔して、「聖王の御世には、行動すれば至高の道にかない、運は巡らぬことがなく、ゆえに人倫は広がり、万物は秩序があった。朕は祖先から重任を嗣ぎ、王公の上に身を置いているが、仰いで教化を行い、俯いて天下を潤すことができず、日照りが常軌を逸し、万民は怨嗟し、国土が荒れているが、予一人の責任である。王導は道を体現した賢者であり、深遠な道に則り、勲功は四海に行き渡り、三代を輔佐し、国政を維持した、まことに(周を中興した)仲山甫に等しい。ところがみだりに謙譲し、責任を取って辞退した、天子に帰するべき罪を、宰相になすり付けるのは、過失の上塗りとなる。政務全般を統括せよ、一日も空白を作ってはならぬ。王導は目先の謙譲を取り下げ、国家経営の遠謀を優先せよ。門下は速やかに侍中より以下を派遣して説得せよ」と言った。王導はそれでも辞退した。詔が何度も届き、ようやく政務に復帰した。
王導は質素で寡欲で、蔵に備蓄の穀物がなく、衣服は布を重ねなかった。成帝はこれを知り、布一万匹を給わり、私用に使わせた。王導は持病があり、朝廷の会議が耐えられなかった。成帝はかれの役所にゆき、酒を飲ませ音楽を演奏し、のちに輿車で入殿させた。このように敬意が払われた。
石季龍の掠奪の騎兵が歴陽に至り、王導は出撃して討伐したいと申し出た。大司馬・仮黄鉞・〔都督〕中外諸軍事を加え、左右の長史・司馬を置き、布一万匹を給わった。にわかに賊が撤退したので、大司馬を解任し、また中外大都督に転じ、太傅の位に進め、さらに丞相を拝し、漢制に依って司徒の官を廃して丞相に併せた。冊書に、「朕はつとに不幸にあい、いきなり帝位を踏み、まだ多難に堪えず、禍乱が次々と起きた。公は文は九功を貫き、武は七徳を経て、外は四海を治め、内は八政に等しく、天地を平らげ、人神を和し、事業は伊尹と同じで、道義は姫旦(周公旦)より高い。仰いで唐虞(尭舜)を思い、賢臣を登用し、群官に命令し、政治を統括せよ。朕は優れた計画に基づき、遠謀を広めようと願い、古例に準えてきみを上公に建てる、永遠に晋帝国の輔佐となれ。進んでその職に就き、敬って道訓を延べ、天の働きを助けよ。めでたいことだ。きみは努めよ」と言った。
是歲、妻曹氏卒、贈金章紫綬。初、曹氏性妬、導甚憚之、乃密營別館、以處眾妾。曹氏知、將往焉。導恐妾被辱、遽令命駕、猶恐遲之、以所執麈尾柄驅牛而進。司徒蔡謨聞之、戲導曰、「朝廷欲加公九錫」。導弗之覺、但謙退而已。謨曰、「不聞餘物、惟有短轅犢車、長柄麈尾」。導大怒、謂人曰、「吾往與羣賢共游洛中、何曾聞有蔡克兒也」。
于時庾亮以望重地逼、出鎮於外。南蠻校尉陶稱間說、亮當舉兵內向、或勸導密為之防。導曰、「吾與元規休慼是同、悠悠之談、宜絕智者之口。則如君言、元規若來、吾便角巾還第、復何懼哉。」又與稱書、以為、庾公帝之元舅、宜善事之。於是讒間遂息。時亮雖居外鎮、而執朝廷之權、既據上流、擁強兵、趣向者多歸之。導內不能平、常遇西風塵起、舉扇自蔽、徐曰、「元規塵汚人」。
自漢魏以來、羣臣不拜山陵。導以、元帝睠同布衣、匪惟君臣而已。每一崇進、皆就拜、不勝哀戚。由是詔百官拜陵、自導始也。
1.(咸和)〔咸康〕五年薨、時年六十四。帝舉哀於朝堂三日、遣大鴻臚持節監護喪事、賵襚之禮、一依漢博陸侯及安平獻王故事。及葬、給九游轀輬車・黃屋左纛・前後羽葆鼓吹・武賁班劍百人、中興名臣莫與為比。冊曰、「蓋高位以酬明德、厚爵以答懋勳。至乎闔棺標跡、莫尚號諡、風流百代、於是乎在。惟公邁達沖虛、玄鑒劭邈。夷淡以約其心、體仁以流其惠。棲遲務外、則名雋中夏、應期濯纓、則潛算獨運。昔我中宗・肅祖之基中興也、下帷委誠而策定江左、拱己宅心而庶績咸熙。故能威之所振、寇虐改心、化之所鼓、檮杌易質。調陰陽之和、通彝倫之紀、遼隴承風、丹穴景附。隆高世之功、復宣武之績、舊物不失、公協其猷。若乃荷負顧命、保朕沖人、遭遇艱圮、夷險委順。拯其淪墜而濟之以道、扶其顛傾而弘之以仁、經緯三朝而蘊道彌曠。方賴高謨、以穆四海、昊天不弔、奄忽薨殂、朕用震慟于心。雖有殷之殞保衡、有周之喪二南、曷諭茲懷。今遣使持節・謁者僕射任瞻錫諡曰文獻、祠以太牢。魂而有靈、嘉茲榮寵。」
二弟、穎・敞、少與導俱知名、時人以穎方溫太真、以敞比鄧伯道。並早卒。導六子、悅・恬・洽・協・劭・薈。
1.中華書局本に従い、「咸和」を「咸康」に改める。
是の歲、妻の曹氏 卒し、金章紫綬を贈る。初め、曹氏の性 妬なり、導 甚だ之を憚り、乃ち密かに別館を營み、以て眾妾を處らしむ。曹氏 知り、將に焉に往かんとす。導 妾の辱めらるを恐れ、遽かに駕を命ぜしめ、猶ほ之に遲るるを恐れ、執る所の麈尾の柄を以て牛を驅りて進む。司徒の蔡謨 之を聞き、導に戲れて曰く、「朝廷 公に九錫を加へんと欲す」と。導 之を覺らず、但だ謙退するのみ。謨曰く、「餘物を聞かず、惟だ短轅犢車、長柄麈尾有り」と。導 大いに怒り、人に謂ひて曰く、「吾 往きて羣賢と與に共に洛中に游ぶ、何ぞ曾て蔡克の兒有るを聞かざるなり」と。
時に庾亮 望の重く地の逼るを以て、外に出鎮す。南蠻校尉の陶稱 間說し、亮 當に兵を舉げて內向すべしといひ、或ひと導に密かに之の防を為せと勸む。導曰く、「吾 元規と與に休慼 是れ同じ、悠悠の談、宜しく智者の口に絕つべし。則ち君の言が如く、元規 若し來らば、吾 便ち角巾もて第に還らん、復た何ぞ懼れんや」と。又 稱に書を與へて、以為へらく、「庾公は帝の元舅なり、宜しく善く之に事ふべし」と。是に於て讒間 遂に息む。時に亮 外鎮に居ると雖も、而るに朝廷の權を執り、既に上流に據り、強兵を擁し、趣向する者 多く之に歸す。導 內に平らく能はず、常に西風に遇ひて塵 起てば、扇を舉げて自ら蔽ひ、徐ろに曰く、「元規 塵もて人を汚すなり」と。
漢魏より以來、羣臣 山陵を拜せず。導 以へらく、元帝の睠(ねむ)るとき布衣と同じにして、惟だ君臣なるのみに匪ず。一たび崇進する每に、皆 拜に就きて、哀戚に勝へず。是に由り百官に詔して陵を拜せしめ、導より始むるなり。
咸康五年 薨ず、時に年六十四なり。帝 哀を朝堂に舉すること三日、大鴻臚を遣はして持節し喪事を監護せしめ、賵襚の禮、一に漢の博陸侯及(と)安平獻王の故事に依る。葬に及び、九游の轀輬車・黃屋の左纛・前後の羽葆鼓吹・武賁班劍百人を給ひ、中興の名臣 與に比と為すもの莫し。冊に曰く、「蓋し位を高して以て明德に酬い、爵を厚くして以て懋勳に答ふ。闔棺し標跡するに至るや、號諡を尚ばざる莫く、風流の百代、是に於てや在る。惟だ公 邁達にして沖虛なり、玄鑒にして劭邈なり。夷淡 以て其の心を約し、體仁 以て其の惠を流す。務外に棲遲するときは、則ち名は中夏に雋たり、期に應じて纓を濯し、則ち潛算 獨り運ぶ。昔 我が中宗・肅祖の 中興を基するや、帷を下にし誠を委ねて策して江左を定め、己を拱きて心を宅せて庶績 咸 熙なり。故に能く威の振ふ所あり、寇虐 心を改め、化の鼓する所、檮杌 質を易ふ。陰陽の和を調へ、彝倫の紀に通じ、遼隴に承風し、丹穴に景附す。高世の功を隆くし、宣武の績を復し、舊物 失はず、公 其の猷に協ふ。若乃 顧命を荷負し、朕沖人を保てば、艱圮に遭遇するに、夷險 順に委ぬ。其の淪墜を拯ひて之を濟ふに道を以てし、其の顛傾を扶けて之を弘むるに仁を以てし、三朝に經緯して蘊道 彌々曠し。方に高謨に賴り、以て四海を穆するに、昊天 弔せず、奄忽として薨殂す、朕 用て心に震慟す。殷の保衡を殞ふこと有り、周の二南を喪ふ有ると雖も、曷ぞ茲の懷に諭(たと)へん。今 使持節・謁者僕射の任瞻を遣はして諡を錫ひて文獻と曰ひ、祠るに太牢を以てす。魂ありて靈有らば、茲の榮寵を嘉せ」と。
二弟は、穎・敞なり、少くして導と與に俱に名を知られ、時人 穎を以て溫太真に方べ、敞を以て鄧伯道に比す。並びに早く卒す。導の六子は、悅・恬・洽・協・劭・薈なり。
この年、妻の曹氏が卒し、金章紫綬を贈った。これよりさき、曹氏は嫉妬深く、王導は彼女をとても憚り、ひそかに別邸を営み、妾たちを住まわせた。曹氏が知り、そこに行こうとした。王導は妾が辱められることを恐れ、ひそかに牛車を回させ、なおも間に合わぬことを恐れ、持っている麈尾(払子(ほっす))の柄の部分で牛を駆り立てた。司徒の蔡謨がこれを聞き、王導に冗談で、「朝廷で公に九錫を加えようとしている」と言った。王導は真意が分からず、ただ謙遜し辞退した。蔡謨は、「何かを聞いたのではない、ただ短轅の犢車に、長柄の麈尾があるらしいな」と言った(九錫の備物に準えたもの)。王導は大いに怒り、ひとに、「私は長年賢者たちと洛中で交友してきたが、かつて蔡克に子がいると聞いたことがない」と言った。
このとき庾亮は名望が高く地理的に接近し、(都の)外に出鎮していた。南蛮校尉の陶称はそのころ、庾亮が兵を挙げて内に向かってくると言い、あるひとは王導に密かに防備を整えよと勧めた。王導は、「私は元規(庾亮)と喜びも悲しみも共有している、無責任な噂話は、智者の口から絶つべきだ。もしもきみの言うように、元規が来攻したなら、私は角巾をかぶり私邸に帰ろう、なにを懼れることがある」と言った。また陶称に書簡を送り、「庾公は皇帝の元舅(母方のおじ)であるから、きちんとかれに仕えるように」と言った。おかげで讒言は終息した。このとき庾亮は外の鎮所にいたが、朝廷の権限を握り、しかも上流に位置どり、強兵を擁し、多くのものが心を寄せていた。王導は政権内で対処しきれず、つねに西風にあって塵が舞うと、扇をあげて自分を蔽い、おもむろに、「元規が塵で人を汚したぞ」と言った。
漢魏より以来、群臣は山陵(皇帝の陵墓)に参拝しなかった。王導は元帝と布衣の交わりをして一緒に眠り、ただ君臣としての関係に留まらなかった。ひとたび昇進するごとに、もれなく参拝し、哀惜を抑えられなかった。これにより百官に詔して山陵に参拝させたが、これは王導から始まったことである。
咸康五(三三九)年に(王導は)薨じた、六十四歳だった。成帝は朝堂で哀悼すること三日、大鴻臚を派遣して持節して葬儀を営ませ、賵襚(死者への贈り物)の礼は、もっぱら博陸侯(霍光)と安平献王(司馬孚)の故事に依った。埋葬のとき、九游の轀輬車・黄屋の左纛・前後の羽葆鼓吹・武賁班剣百人を給わり、中興(東晋)の名臣で並ぶものがなかった。冊書に、「そもそも官位を高くして明徳に報い、爵位を厚くして盛んな勲功に答える。棺を閉じて墓標を立てるとき、号諡を尊いものにし、永遠の遺風が、ここで定まる。公(王導)は優れて謙虚であり、見識があり麗しい。恬淡として心が清らかで、仁を体現して恩恵を広めた。公職になく在野にあるとき、名声は中夏の雄であり、時期に応じて世俗を超越し、ひそかに計画を巡らせた。むかし中宗と粛祖(元帝と明帝)が中興の基礎を築くとき、読書に専心して江左(東晋)の土台を定め、手を下さずとも万民から支持されて政務が実績をあげた。ゆえに(王導が)権威を振るえば、叛逆者は心を改め、教化の太鼓を叩けば、檮杌(南蛮)は気質を変わった。陰陽の和を調え、人の常道に通じ、遼隴(北西)で風を受け、丹穴(東南)で懐かれた。世に功績を高くし、宣帝や武帝の事業を回復し、古きものを失わず、公(王導)はその計略を実現したのである。顧命を受け、幼かった朕を補佐し、艱難に遭遇しても、敵対者は理に従った。衰退したものを道によって救い、転覆したものを仁によって救い、三代の朝廷を経験して道義はますます蓄えられた。まさに優れた見識に依り、四海を和らげたが、昊天は無惨にも、突然に(王導を)薨去させ、朕は心が懼れ震えている。殷が保衡(伊尹)を失い、周が二南(召南と周南)を失った場合でも、この思いに例えられようか。いま使持節・謁者僕射の任瞻を派遣して諡を賜って文献とし、太牢で祭るように。魂があり霊があるなら、この栄寵を喜んでくれ」と言った。
二弟は、穎・敞である、若くして王導とともに名を知られ、当時のひとは王穎を温太真(温嶠)に比べ、王敞を鄧伯道(鄧攸)に比した。どちらも早くに亡くなった。王導の六子は、悦・恬・洽・協・劭・薈である。
悅字長豫、弱冠有高名、事親色養、導甚愛之。導嘗共悅弈棊、爭道。導笑曰、「相與有瓜葛、𨚗得為爾邪。」導性儉節、帳下甘果爛敗、令棄之、云、「勿使大郎知」。
悅少侍講東宮、歷吳王友・中書侍郎。先導卒、諡貞世子。先是、導夢、人以百萬錢買悅、潛為祈禱者備矣。尋掘地、得錢百萬、意甚惡之、一皆藏閉。及悅疾篤、導憂念特至、不食積日。忽見一人形狀甚偉、被甲持刀。導問、「君是何人。」曰、「僕是蔣侯也。公兒不佳、欲為請命、故來耳。公勿復憂」。因求食、遂噉數升。食畢、勃然謂導曰、「中書患、非可救者」。言訖不見、悅亦殞絕。悅與導語、恒以慎密為端。導還臺、及行、悅未嘗不送至車後。又恒為母曹氏襞斂箱篋中物。悅亡後、導還臺、自悅常所送處哭至臺門、其母長封作篋、不忍復開。
悅無子、以弟恬子琨為嗣、襲導爵丹楊尹。卒、贈太常。子嘏嗣、尚鄱陽公主、歷中領軍・尚書。卒、子恢嗣、義熙末、為游擊將軍。
恬字敬豫。少好武、不為公門所重。導見悅輒喜、見恬便有怒色。州辟別駕、不行、襲爵即丘子。
性慠誕、不拘禮法。謝萬嘗造恬、既坐。少頃、恬便入內。萬以為必厚待己、殊有喜色。恬久之乃沐頭散髮而出、據胡牀於庭中曬髮。神氣慠邁、竟無賓主之禮。萬悵然而歸。晚節更好士、多技藝、善弈棊、為中興第一。
遷中書郎。帝欲以為中書令、導固讓、從之。除後將軍・魏郡太守、加給事中、領兵鎮石頭。導薨、去官。俄起為後將軍、復鎮石頭。轉吳國・會稽內史、加散騎常侍。卒、贈中軍將軍、諡曰憲。
洽字敬和、導諸子中最知名、與荀羨俱有美稱。弱冠、歷散騎・中書郎・中軍長史・司徒左長史・建武將軍・吳郡內史。徵拜1.領軍、尋加中書令、固讓。表疏十上。穆帝詔曰、「敬和清裁貴令、昔為中書郎、吾時尚小、數呼見、意甚親之。今所以用為令、既機任須才、且欲時時相見、共講文章、待以友臣之義。而累表固讓、甚違本懷。其催洽令拜」。苦讓、遂不受。升平二年卒於官、年三十六。二子、珣・珉。
1.「領軍」は、「中領軍」に作るべきか。『世説新語』賞誉篇注引『中興書』は、「中領軍」につくる。
悅 字は長豫、弱冠にして高名有り、親に事へて色養し、導 甚だ之を愛す。導 嘗て悅と共に弈棊し、道を爭ふ。導 笑ひて曰く、「相 與に瓜葛有り、𨚗(なんぞ)ぞ得て爾(なんぢ)為(な)るや」と。導の性は儉節にして、帳下に甘果 爛敗せば、之を棄てしめ、云ふ、「大郎に知らしむ勿かれ」と。
悅 少くして東宮に侍講し、吳王友・中書侍郎を歷し、導に先んじて卒す。貞世子と諡す。是より先、導 夢みる、人の百萬錢を以て悅を買ひ、潛かに為に祈禱して備ふ。尋いで地を掘り、錢百萬を得て、意は甚だ之を惡み、一に皆 藏閉す。悅の疾 篤かるに及び、導の憂念 特に至り、食らはざること積日なり。忽かに一人の形狀 甚だ偉にして、甲を被て刀を持するもの見はる。導 問ふ、「君 是れ何なる人か」と。曰く、「僕 是れ蔣侯なり。公の兒 佳ならず、為に命を請はんと欲し、故に來たるのみ。公 復た憂ふる勿れ」と。因りて食を求め、遂に噉すること數升。食 畢はり、勃然として導に謂ひて曰く、「中書の患ひ、救ふ可き者に非ず」と。言 訖はりて見えず、悅 亦た殞絕す。悅 導に語り、恒に慎密を以て端と為すと。導 臺に還るに、及行し、悅 未だ嘗て送りて車後に至らざることあらず。又 恒に母の曹氏の為に箱篋中の物を襞斂す。悅 亡する後、導 臺に還るに、悅 常に送る所の處より哭して臺門に至り、其の母 長く作篋を封じ、復た開くこと忍びず。
悅 子無く、弟の恬の子の琨を以て嗣と為し、導の爵丹楊尹を襲はしむ。卒するや、太常を贈る。子の嘏 嗣ぎ、鄱陽公主を尚し、中領軍・尚書を歷る。卒し、子の恢 嗣ぎ、義熙末に、游擊將軍と為る。
恬 字は敬豫なり。少くして武を好み、公門の重ずる所と為らず。導 悅を見て輒ち喜び、恬を見て便ち怒色有り。州は別駕に辟し、行かず、爵即丘子を襲ふ。
性は慠誕にして、禮法に拘らず。謝萬 嘗て恬に造り、既に坐す。少頃、恬 便ち內に入る。萬 以為へらく必ず己を厚待すとし、殊に喜色有り。恬 久之 乃ち沐頭散髮して出で、胡牀に據りて庭中に於て曬髮す。神氣 慠邁にして、竟に賓主の禮無し。萬 悵然として歸る。晚節に更めて士を好み、技藝を多くし、弈棊を善くし、中興の第一と為る。
中書郎に遷る。帝 以て中書令と為さんと欲するに、導 固讓し、之に從ふ。後將軍・魏郡太守に除せられ、給事中を加へ、兵を領し石頭に鎮す。導 薨ずるや、官を去る。俄かに起ちて後將軍と為り、復た石頭に鎮す。吳國・會稽內史に轉じ、散騎常侍を加ふ。卒し、中軍將軍を贈り、諡して憲と曰ふ。
洽 字は敬和なり、導の諸子中に最も名を知られ、荀羨と與に俱に美稱有り。弱冠にして、散騎・中書郎・中軍長史・司徒左長史・建武將軍・吳郡內史を歷す。徵せられ領軍を拜し、尋いで中書令を加へられ、固讓す。表疏 十たび上る。穆帝 詔して曰く、「敬和は清裁貴令にして、昔 中書郎と為るに、吾 時に尚ほ小さく、數々呼見し、意 甚だ之に親しむ。今 用て令と為す所以は、既にして機任 才を須ち、且つ時時に相 見えんと欲し、共に文章を講じ、待するに友臣の義を以てす。而るに累りに表して固讓し、甚だ本懷に違ふ。其れ洽を催して拜せしめよ」と。苦讓し、遂に受けず。升平二年 官に卒す、年は三十六なり。二子あり、珣・珉なり。
王悦は字を長豫といい、弱冠で高名があり、親の心を察して仕え、王導からとても愛された。王導はかつて王悦と弈棊で遊び、道を争った。王導は笑って、「たがいに瓜葛(そっくりの親類)がいるというが、(私と)お前のことだな」と言った。王導はつつましく倹約し、帳下で甘い果物が熟れると、これを捨てさせ、「大郎(長男の王悦)に知られるな」と言った。
王悦は若くして東宮に侍講し、呉王友・中書侍郎を歴任した。王導より先に亡くなり、貞世子と諡した。これより先、王導は夢をみて、ひとが百万銭で王悦を買い取ったので、ひそかに(王悦の延命を)祈祷させた。ほどなく地を掘ると、銭百万を得たので、とても嫌がり、すべて仕舞い込んだ。王悦の病が重くなると、王導の心配は極まり、数日間食べなかった。にわかに偉丈夫があらわれ、甲をつけ剣を持っていた。王導が、「きみはだれか」と聞いた。「私は蒋侯だ。あなたの子が危ない、かれの命を救おうと思い、来たのである。あなたは心配するな」と言った。食事を求め、数升を平らげた。食べ終わり、勃然として王導に、「中書(侍郎の王悦)の病気は、救えるものではなかった」と言った。言い終えて消滅し、王悦も落命した。王悦は王導に、つねに慎み深さを心掛けていますと言った。王導が役所にに還るとき、駆けつけ、王悦はいまだかつて馬車の後ろで見送りをしないことがなかった。またつねに母の曹氏のために箱に物を保管していた。王悦の死後、王導が役所に帰るとき、いつも王悦が見送ってくれた場所から泣き始めて役所の門まで行き、かれの母は長く箱を封印し、二度と開けられなかった。
王悦には子がおらず、弟の王恬の子の王琨を継嗣とし、王導の爵丹楊尹を襲わせた。卒すると、太常を贈った。子の嘏が嗣ぎ、鄱陽公主をめとり、中領軍・尚書を歴した。卒すると、子の王恢が嗣ぎ、義熙年間(四〇五~四一八年)の末に、游撃将軍となった。
王恬は字を敬豫という。若くして武を好み、公門(高官の家)から軽んじられた。王導は王悦を見るたびに喜び、王恬を見るたびに怒りを見せた。州は別駕に辟したが、行かず、爵即丘子を襲った。
王恬の心がおごり大言し、礼法に拘らなかった。謝萬がかつて王恬を訪れ、さきに座っていた。しばらくして王恬が入室した。謝萬は手厚く接待されるものと期待し、喜色を浮かべた。王恬はしばらくして頭を洗い髪を振り乱して現れ、胡牀に寄りかかって庭で髪を乾かした。傲慢な態度で、けっきょく賓客をもてなす礼がなかった。謝萬は恨めしそうに帰った。晩年に改めて士を好むようになり、技芸をたしなみ、弈棊を得意とし、中興(東晋)で第一となった。
中書郎に遷った。皇帝はかれを中書令にしようとしたが、王導がきつく断り、これに従った。後将軍・魏郡太守に除せられ、給事中を加え、兵を領し石頭に鎮した。王導が薨じると、官職を去った。にわかに就官して後将軍となり、また石頭に鎮した。呉国・会稽内史に転じ、散騎常侍を加えた。亡くなり、中軍将軍を贈り、諡して憲とした。
王洽は字を敬和といい、王導の諸子のうちで最も名を知られ、荀羨とともに美名があり称賛された。弱冠にして、散騎・中書郎・中軍長史・司徒左長史・建武将軍・呉郡内史を歴任した。徴召されて領軍を拝し、ついで中書令を加えられたが、固辞した。(辞退の)上表や上疏が十回に及んだ。穆帝は詔して、「敬和(王洽)は清明で決断力があって、むかし中書郎になったとき、私はまだ幼かったが、しばしば面会し、とても親しみを感じた。いまかれを中書令とする理由は、枢要の任がかれの才能を必要とし、折に触れて会いたいと思い、ともに文章について論じ、友臣の義で付き合いたいからである。しかし何度も上表して固辞し、私の期待に沿わない。王洽を促して拝命させるように」と言った。(王洽は)苦心して断り、結局受けなかった。升平二(三五八)年に在官で亡くなった、三十六歳であった。二子がおり、珣・珉である。
珣字元琳。弱冠與陳郡謝玄為桓溫掾、俱為溫所敬重。嘗謂之曰、「謝掾年四十、必擁旄杖節。王掾當作黑頭公。皆未易才也」。珣轉主簿。時溫經略中夏、竟無寧歲、軍中機務並委珣焉。文武數萬人、悉識其面。從討袁真、封東亭侯、轉大司馬參軍・琅邪王友・中軍長史・給事黃門侍郎。
珣兄弟皆謝氏壻、以猜嫌致隙。太傅安既與珣絕婚、又離珉妻、由是二族遂成仇釁。時希安旨、乃出珣為豫章太守、不之官。除散騎常侍、不拜。遷祕書監。安卒後、遷侍中、孝武深杖之。轉輔國將軍・吳國內史、在郡為士庶所悅。徵為尚書右僕射、領吏部、轉左僕射、加征虞將軍、復領太子詹事。
時帝雅好典籍、珣與殷仲堪・徐邈・王恭・郗恢等並以才學文章見昵於帝。及王國寶自媚於會稽王道子、而與珣等不協。帝慮晏駕後怨隙必生、故出恭・恢為方伯、而委珣端右。珣夢、人以大筆如椽與之。既覺、語人云、「此當有大手筆事」。俄而帝崩、哀冊諡議、皆珣所草。
隆安初、國寶用事、謀黜舊臣、遷珣尚書令。王恭赴山陵、欲殺國寶。珣止之曰、「國寶雖終為禍亂、要罪逆未彰。今便先事而發、必大失朝野之望。況擁強兵、竊發於京輦、誰謂非逆。國寶若遂不改、惡布天下、然後順時望除之。亦無憂不濟也」。恭迺止。既而謂珣曰、「比來視君、一似胡廣」。珣曰、「王陵廷爭、陳平慎默、但問歲終何如耳」。恭尋起兵、國寶將殺珣等、僅而得免。語在國寶傳。二年、恭復舉兵、假珣節、進衞將軍・都督琅邪水陸軍事。事平、上所假節、加散騎常侍。
四年、以疾解職。歲餘、卒、時年五十二。追贈車騎將軍・開府、諡曰獻穆。桓玄與會稽王道子書曰、「珣神情朗悟、經史明徹、風流之美、公私所寄。雖逼嫌謗、才用不盡、然君子在朝、弘益自多。時事艱難、忽爾喪失、歎懼之深、豈但風流相悼而已。其崎嶇九折、風霜備經、雖賴明公神鑒、亦識會居之故也。卒以壽終、殆無所哀。但情發去來、置之未易耳」。玄輔政、改贈司徒。
初、珣既與謝安有隙、在東聞安薨、便出京師、詣族弟獻之、曰、「吾欲哭謝公」。獻之驚曰、「所望於法護」。於是直前哭之甚慟。法護、珣小字也。珣五子、弘・虞・1.柳・孺・曇首、宋世並有高名。
珉字季琰。少有才藝、善行書、名出珣右。時人為之語曰、「法護非不佳、僧彌難為兄」。僧彌、珉小字也。時有外國沙門、名提婆、妙解法理、為珣兄弟講毗曇經。珉時尚幼、講未半、便云已解、即於別室與沙門法綱等數人自講。法綱歎曰、「大義皆是、但小未精耳」。辟州主簿、舉秀才、不行。後歷著作・散騎郎・國子博士・黃門侍郎・侍中、代王獻之為長兼中書令。二人素齊名、世謂獻之為「大令」、珉為「小令」。太元十三年卒、時年三十八。追贈太常。二子、朗・練。義熙中、並歷侍中。
1.『宋書』王弘伝は、「抑」につくる。
珣 字は元琳なり。弱冠にして陳郡の謝玄と與に桓溫の掾と為り、俱に溫の敬重する所と為る。嘗て之に謂ひて曰く、「謝掾 年は四十なれば、必ず旄を擁し節を杖かん。王掾 當に黑頭公と作るべし。皆 未だ易(やす)からざるの才なり」。珣 主簿に轉ず。時に溫 中夏を經略し、竟に寧歲無く、軍中の機務 並びに珣に委ぬ。文武の數萬人、悉く其の面を識る。從ひて袁真を討ち、東亭侯に封ぜらる、大司馬參軍・琅邪王友・中軍長史・給事黃門侍郎に轉ず。
珣の兄弟 皆 謝氏の壻なるに、猜嫌を以て致隙あり。太傅の安 既に珣と婚を絕ち、又 珉の妻を離し、是に由り二族 遂に仇釁と成る。時に安の旨を希(ほどこ)し、乃ち珣を出して豫章太守と為すに、官に之かず。散騎常侍に除せられ、拜せず。祕書監に遷る。安 卒するの後、侍中に遷り、孝武 深く之に杖る。輔國將軍・吳國內史に轉じ、郡に在りて士庶の悅ぶ所と為る。徵せられ尚書右僕射と為り、吏部を領し、左僕射に轉じ、征虞將軍を加へ、復た太子詹事を領す。
時に帝 雅に典籍を好み、珣 殷仲堪・徐邈・王恭・郗恢らと與に並びに才學文章を以て帝に昵(した)しまる。王國寶 自ら會稽王道子に媚びるに及び、而して珣らと協ならず。帝 晏駕の後に怨隙 必ず生ずるを慮り、故に恭・恢を出して方伯と為し、而して珣に委ねて端右とす。珣 夢みる、人の大筆の椽が如きを以て之に與ふるを。既に覺むや、人に語りて云く、「此れ當に大手筆の事有るべし」と。俄かにして帝 崩じ、哀冊と諡議は、皆 珣の草す所なり。
隆安の初め、國寶 用事し、謀りて舊臣を黜し、珣を尚書令に遷す。王恭 山陵に赴き、國寶を殺さんと欲す。珣 之を止めて曰く、「國寶 終に禍亂を為すと雖も、要するに罪逆 未だ彰はれず。今 便ち事に先んじて發さば、必ず大いに朝野の望を失はん。況んや強兵を擁し、竊かに京輦に發さば、誰か逆に非ざると謂ふや。國寶 若し遂に改めず、惡もて天下に布さば、然る後に時望に順ひて之を除け。亦た憂ひて濟はざる無きなり」と。恭 迺ち止む。既にして珣に謂ひて曰く、「比來 君を視れば、一に胡廣に似る」と。珣曰く、「王陵は廷爭し、陳平は慎默す、但だ歲の終の何如と問ふのみ〔一〕」と。恭 尋いで起兵し、國寶 將に珣らを殺さんとす、僅かにして免るるを得たり。語は國寶傳に在り。二年、恭 復た舉兵し、珣に節を假し、衞將軍・都督琅邪水陸軍事に進む。事 平らぐや、假節する所を上し、散騎常侍を加ふ。
四年、疾を以て職を解かる。歲餘にして、卒し、時に年五十二なり。車騎將軍・開府を追贈し、諡して獻穆と曰ふ。桓玄 會稽王道子に書を與へて曰く、「珣は神情は朗悟なり、經史に明徹す、風流の美、公私 寄る所なり。嫌謗に逼られ、才用 盡くせざると雖も、然るに君子 朝に在り、弘益 自ら多し。時事の艱難に、忽爾として喪失し、歎懼の深きは、豈に但だ風流にして相 悼むのみや。其れ崎嶇の九折、風霜 備經し、明公の神鑒に賴ると雖も、亦た會々居る故を識るなり。卒かに壽を以て終り、殆ど哀する所無し。但だ情に去來を發し、之を置くこと未だ易からざるのみ」と。玄 輔政するや、改めて司徒を贈る。
初め、珣 既にして謝安と隙有れば、東に安の薨ずるを聞くに在り、便ち京師を出で、族弟の獻之に詣りて、曰く、「吾 謝公に哭せんと欲す」と。獻之 驚きて曰く、「法護に望む所なり」と。是に於て直ちに前み之に哭して甚だ慟す。法護は、珣の小字なり。珣の五子、弘・虞・1.柳・孺・曇首なり、宋の世に並びに高名有り。
珉 字は季琰なり。少くして才藝有り、行書を善くし、名は珣の右に出づ。時人 之の為に語りて曰く、「法護 佳からざるに非ず、僧彌に兄為(た)り難し」と。僧彌は、珉の小字なり。時に外國の沙門有り、名は提婆、法理を妙解し、珣の兄弟の為に毗曇經を講ず。珉 時に尚ほ幼く、講 未だ半ばなるに、便ち已に解せりと云ひ、即ち別室に於て沙門の法綱ら數人に自ら講ず。法綱 歎じて曰く、「大義 皆 是なり、但だ小 未だ精ならざるのみ」と。州主簿に辟せられ、秀才に舉げられるるも、行かず。後に著作・散騎郎・國子博士・黃門侍郎・侍中を歷て、王獻之に代はりて長と為り中書令を兼はす。二人 素より名を齊しくし、世に獻之を謂ひて「大令」と為し、珉を「小令」と為す。太元十三年 卒す、時に年三十八。追ひて太常を贈る。二子あり、朗・練なり。義熙中に、並びに侍中を歷す。
〔一〕前漢の宰相の周勃は、文帝から一年間の裁判や財政などについて質問されたが、回答できなかった。陳平は周勃を弁護し、各分野には責任者がおり、丞相が細かく把握している必要はない、と述べた(『史記』巻五十六 王陵伝)。
王珣は字を元琳という。弱冠にして陳郡の謝玄とともに桓温の掾となり、どちらも桓温から敬い重んじられた。かつてかれに、「謝掾(謝玄)は四十歳で、旄を持ち節を杖つく(都督となる)だろう。王掾(王珣)はきっと黒頭公(若くて頭髪が黒い三公)となるだろう。どちらも代えがたい才能だ」と言った。王珣は主簿に転じた。このとき桓温は中原を攻略しており、休まる年がなく、軍中の要務はすべて王珣に委ねた。文武の官や兵の数万人は、すべてその顔を覚えていた。袁真の討伐に従い、東亭侯に封建され、大司馬参軍・琅邪王友・中軍長史・給事黄門侍郎に転じた。
王珣の兄弟はいずれも謝氏の壻であったが、忌み嫌って不仲となった。太傅の謝安は王珣との婚姻を解消し、王珉は妻と離縁し、これにより二族は敵対した。このとき謝安の考えを受け、王珣を出して豫章太守としたが、赴任しなかった。散騎常侍に除されたが、拝さなかった。秘書監に遷った。謝安が死ぬと、侍中に遷り、孝武帝からとても頼られた。輔国将軍・呉国内史に転じ、郡にあって士庶から慕われた。徴召されて尚書右僕射となり、吏部を領し、左僕射に転じ、征虞将軍を加え、また太子詹事を領した。
このとき孝武帝はとても典籍を好み、王珣は殷仲堪・徐邈・王恭・郗恢らとともに才学や文章のうまさにより孝武帝に親しまれた。王国宝が会稽王道子(司馬道子)に媚びるようになると、王珣らと疎遠になった。孝武帝は(自分が)崩御したあと怨恨や対立が必ず起こると心配し、ゆえに王恭と郗恢を出して方伯(地方長官)とし、王珣に委任して端右(尚書の長官)とした。王珣は夢をみて、ひとから椽(垂木)のような大きな筆を与えられた。目覚めると、ひとに語り、「大きな筆を手に取るようなことが起こるぞ」と言った。ほどなく孝武帝が崩御し、哀悼の文や諡の策定は、みな王珣が起草した。
隆安年間(三九七~四〇一年)の初め、王国宝が執政すると、旧臣の排除を計画し、王珣を尚書令に遷した。王恭が山陵に赴き、王国宝を殺す計画を打ち明けた。王珣はこれを止め、「王国宝は最後には禍乱を起こすだろうが、まだ罪逆が顕在化していない。いますぐに先手を取れば、必ず大いに朝野の支持を失うだろう。ましてや強兵を擁し、ひそかに京師で動かせば、だれが反逆でないと弁護できようか。王国宝がもし(態度を)改めず、悪を天下に振りまくならば、その後に世論の支持を受けて排除すればよい。憂いて味方せぬものがいない」と言った。王恭は思い止まった。しばらくして王珣に、「このごろきみは、もっぱら(後漢の)胡広に似て(実務に精通して)いる」と言った。王珣は、「(前漢の)王陵は朝廷で公然と議論したが、(前漢の)陳平は慎んで黙り、年末に概況を質問するだけだった」と言った。王恭がほどなく起兵し、王国宝は王珣らを殺そうとしたが、辛うじて逃れることができた。記述は王国宝伝にある。隆安二(三九八)年、王恭がまた挙兵し、王珣に節を仮し、衛将軍・都督琅邪水陸軍事に昇進させた。平定が終わると、仮した節を返上し、散騎常侍を加えた。
隆安四(四〇〇)年、病気で職を解かれた。一年あまりで、死去し、五十二歳だった。車騎将軍・開府を追贈し、諡して献穆とした。桓玄は会稽王道子(司馬道子)に書を与え、「王珣の精神は聡明で、経史に詳しく、風流の美は、公私に慕われた。敵対者に逼られ、才能を活用できなかったが、しかし君子が朝廷にいたおかげで、広く皆のためになった。時事の艱難にあい、にわかに死去した、歎き懼れの深さは、ただ風流な人を失っただけのものか。険しく曲がりくねった道に、多くの年月が経過し、あなたの見識のおかげだが、また居合わせる理由が分かるのだ。にわかに寿命で亡くなり、ほとんど哀しむものがいない。ただ情に任せて往来に発し、これを措くことは簡単ではない」と言った。桓玄が輔政すると、改めて司徒を贈った。
これよりさき、王珣は謝安と仲が悪かったが、東で謝安が薨去したと聞くと、京師に出てきて、族弟の献之のもとを訪れ、「私は謝公のために哭したい」と言った。献之は驚いて、「法護にはそうしてほしい」と言った。ただちに進んで激しく慟哭した。法護は、王珣の小字である。王珣の五子は、弘・虞・柳(抑)・孺・曇首であり、宋の時代にいずれも高い名声があった。
王珉は字を季琰という。若くして才芸があり、行書を得意とし、名は王珣の右に出た。当時のひとは、かれら兄弟を語り、「法護(王珣)が優れていないのではないが、僧弥(王珉)の兄とは捉えがたい」と言った。僧弥は、王珉の小字である。このとき外国の沙門がおり、名は提婆といったが、(仏教の)法理を巧みに理解し、王珣の兄弟のために毗曇経を講釈した。王珉はこのときまだ幼かったが、講釈がまだ半分であるのに、すでに理解したといい、別室で沙門の法綱ら数人に対して自ら講釈をした。法綱は歎じて、「大筋は全部が正しい、細部が少し違うだけだ」と言った。州主簿に辟され、秀才に挙げられたが、行かなかった。のちに著作・散騎郎・国子博士・黄門侍郎・侍中を歴任し、王献之に代わって長官となり中書令を兼ねた。二人はもとより名声が等しく、世間では王献之を「大令」といい、王珉を「小令」とした。太元十三(三八八)年に卒した、三十八歳だった。追って太常を贈った。二子がおり、朗・練である。義熙年間に、どちらも侍中を歴した。
協字敬祖、1.元帝撫軍參軍、襲爵武岡侯。早卒、無子、以弟劭子謐為嗣。
謐字稚遠。少有美譽、與譙國桓胤・太原王綏齊名。拜祕書郎、襲父爵、遷祕書丞、歷中軍長史・黃門郎・侍中。及桓玄舉兵、詔謐銜命詣玄、玄深敬昵焉。拜建威將軍・吳國內史、未至郡、玄以為中書令・領軍將軍・吏部尚書、遷中書監、加散騎常侍、領司徒。及玄將篡、以謐兼太保、奉璽冊詣玄。玄篡、封武昌縣開國公、加班劍二十人。
初、劉裕為布衣、眾未之識也、惟謐獨奇貴之、嘗謂裕曰、「卿當為一代英雄」。及裕破桓玄、謐以本官加侍中、領揚州刺史・錄尚書事。謐既受寵桓氏、常不自安。護軍將軍劉毅嘗問謐曰、「璽綬何在。」謐益懼。會王綏以桓氏甥自疑、謀反、父子兄弟皆伏誅。謐從弟諶、少驍果輕俠、欲誘謐還吳、起兵為亂、乃說謐曰、「王綏無罪、而義旗誅之、是除時望也。兄少立名譽、加位地如此、欲不危、得乎。」謐懼而出奔。劉裕牋詣大將軍。武陵王遵、遣人追躡。謐既還、委任如先、加謐班劍二十人。義熙三年卒、時年四十八。追贈侍中・司徒、諡曰文恭。三子、瓘・球・琇。入宋、皆至大官。
1.「元帝」は、「簡文」の誤りが疑われる。
協 字は敬祖なり、元帝の撫軍參軍となり、爵武岡侯を襲ふ。早くに卒し、子無く、弟の劭の子の謐を以て嗣を為す。
謐 字は稚遠なり。少くして美譽有り、譙國の桓胤・太原の王綏と名を齊しくす。祕書郎を拜して、父の爵を襲ひ、祕書丞に遷り、中軍長史・黃門郎・侍中を歷す。桓玄 舉兵するに及び、謐に詔して命を銜みて玄に詣り、玄 深く焉を敬昵す。建威將軍・吳國內史を拜し、未だ郡に至らざるに、玄 以て中書令・領軍將軍・吏部尚書と為し、中書監に遷り、散騎常侍を加へ、司徒を領す。玄 將に篡せんとするに及び、謐を以て太保を兼ねしめ、璽冊を奉りて玄に詣る。玄 篡するや、武昌縣開國公に封じ、班劍二十人を加ふ。
初め、劉裕 布衣為り、眾 未だ之をば識らざるや、惟だ謐のみ獨り之を奇貴とし、嘗て裕に謂ひて曰く、「卿 當に一代の英雄と為るべし」と。裕 桓玄を破るに及び、謐 本官を以て侍中を加へ、揚州刺史・錄尚書事を領す。謐 既に寵を桓氏に受くれば、常に自安せず。護軍將軍の劉毅 嘗て謐に問ひて曰く、「璽綬 何にか在る」と。謐 益々懼る。會々王綏 桓氏の甥を以て自疑し、謀反し、父子兄弟 皆 誅に伏す。謐の從弟の諶、少くして驍果輕俠なり、謐を誘ひて吳に還り、起兵して亂を為さんと欲し、乃ち謐に說きて曰く、「王綏 罪無く、而れども義旗もて之を誅す、是れ時望を除くなり。兄 少くして名譽を立て、位地を加ふること此の如くば、危からざらんと欲して、得んや」と。謐 懼れて出奔す。劉裕 牋もて大將軍に詣す。武陵王遵、人を遣はして追躡す。謐 既に還り、委任すること先の如く、謐に班劍二十人を加ふ。義熙三年に卒し、時に年四十八なり。追ひて侍中・司徒を贈り、諡して文恭と曰ふ。三子あり、瓘・球・琇なり。宋に入り、皆 大官に至る。
王協は字を敬祖といい、元帝(簡文帝か)の撫軍参軍となり、武岡侯の爵位を襲った。早くに亡くなり、子がおらず、弟の王劭の子の王謐を継嗣とした。
王謐は字を稚遠という。若くして美名の誉れがあり、譙国の桓胤や太原の王綏と名声が等しかった。秘書郎を拝して、父の爵位を襲い、秘書丞に遷り、中軍長史・黄門郎・侍中を歴任した。桓玄が挙兵すると、王謐に詔し君命を奉じて桓玄のもとに赴かせ、桓玄は王謐を敬愛し親しんだ。建威将軍・呉国内史を拝し、まだ郡に着任する前に、桓玄は(王謐を)中書令・領軍将軍・吏部尚書とし、中書監に遷し、散騎常侍を加え、司徒を領させた。桓玄が簒奪に取り掛かると、王謐に太保を兼ねさせ、璽冊を奉って桓玄のもとに赴かせた。桓玄が簒奪すると、武昌県開国公に封建し、班剣(剣を執る従者)二十人を加えた。
これよりさき、劉裕は布衣で、まだ誰も認めていなかったが、ただ王謐だけがかれを奇貴とし、かつて劉裕に、「きみは一代の英雄となるだろう」と言った。劉裕が桓玄を破ると、王謐はもとの官位に侍中を加えられ、揚州刺史・録尚書事を領した。王謐はかつて桓氏に尊重されたので、いつも不安であった。護軍将軍の劉毅はかつて王謐に質問し、「(桓氏からもらった)璽綬はどこにある」と言った。王謐はますます懼れた。たまたま王綏は桓氏の甥として不安に苛まれ、謀反して、父子兄弟の全員が誅に伏した。王謐の従弟の王諶は、若くして勇猛果敢で軽侠であり、王謐を誘って呉郡に還り、起兵して乱を起こそうとし、王謐を口説いて、「王綏に罪はなく、しかし義を名分として誅されました、これは時望(当世の名望家)を除くものです。兄(王謐)は若くして名声と誉れを打ち立て、ここまで地位を加えてきました、危険を避けるのは、不可能ではありませんか」と言った。王謐は懼れて出奔した。劉裕は書簡を大将軍府に届けた。武陵王遵は、ひとを派遣してかれを追跡させた。王謐が還ると、権限は以前と同様とし、王謐に班剣二十人を加えた。義熙三(四〇七)年に亡くなり、四十八歳であった。追って侍中・司徒を贈り、諡して文恭とした。三子がおり、瓘・球・琇である。宋に入り、三人とも高官に至った。
劭字敬倫、歷東陽太守・吏部郎・司徒左長史・丹陽尹。劭美姿容、有風操、雖家人近習、未嘗見其墮替之容。桓溫甚器之。遷吏部尚書・尚書僕射、領中領軍、出為建威將軍・吳國內史。卒、贈車騎將軍、諡曰簡。三子、穆・默・恢。穆、臨海太守。默、吳國內史、加二千石。恢、右衞將軍。穆三子、簡・智・超。默二子、鑒・惠。義熙中、並歷顯職。
劭 字は敬倫、東陽太守・吏部郎・司徒左長史・丹陽尹を歷す。劭 姿容を美くし、風操有り、家人近習と雖も、未だ嘗て其の墮替の容を見ず。桓溫 甚だ之を器とす。吏部尚書・尚書僕射に遷り、中領軍を領し、出でて建威將軍・吳國內史と為る。卒し、車騎將軍を贈られ、諡して簡と曰ふ。
三子あり、穆・默・恢なり。穆は、臨海太守なり。默は、吳國內史にして、二千石を加ふ。恢は、右衞將軍。穆の三子は、簡・智・超なり。默の二子は、鑒・惠なり。義熙中に、並びに顯職を歷す。
王劭は字を敬倫といい、東陽太守・吏部郎・司徒左長史・丹陽尹を歴任した。王劭は姿かたちが美しく、気高い操があり、家人や近習であっても、だらしがない様子を見たことがなかった。桓温がかれの器量を認めた。吏部尚書・尚書僕射に遷り、中領軍を領し、出て建威将軍・呉国内史となった。亡くなると、車騎将軍を贈られ、諡して簡とした。
三子がおり、穆・黙・恢である。王穆は、臨海太守である。王黙は、呉国内史であり、二千石を加えた。王恢は、右衛将軍である。王穆の三子は、簡・智・超である。王黙の二子は、鑒・恵である。義熙年間に、いずれも高位高官を歴任した。
薈字敬文。恬虛守靖、不競榮利、少歷清官、除吏部郎・侍中・建威將軍・吳國內史。時年饑粟貴、人多餓死。薈以私米作饘粥、以飴餓者、所濟活甚眾。徵補中領軍、不拜。徙尚書、領中護軍、復為征虜將軍・吳國內史。頃之、桓沖表請薈為江州刺史、固辭不拜。轉督浙江東五郡・左將軍・會稽內史、進號鎮軍將軍、加散騎常侍。卒於官、贈衞將軍。
子廞、歷太子中庶子・司徒左長史。以母喪、居于吳。王恭舉兵、假廞建武將軍・吳國內史、令起軍、助為聲援。廞即墨絰合眾、誅殺異己、仍遣前吳國內史虞嘯父等入吳興・義興聚兵、輕俠赴者萬計。廞自謂、義兵一動、勢必未寧、可乘間而取富貴。而曾不旬日、國寶賜死、恭罷兵、符廞去職。廞大怒、迴眾討恭。恭遣司馬劉牢之距戰于曲阿、廞眾潰奔走、遂不知所在。長子泰為恭所殺、少子華以不知廞存亡、憂毀布衣蔬食。後從兄謐言其死所、華始發喪、入仕。
初、導渡淮、使郭璞筮之。卦成、璞曰、「吉、無不利。淮水絕、王氏滅」。其後子孫繁衍、竟如璞言。
薈 字は敬文。恬虛として靖を守り、榮利を競はず、少くして清官を歷し、吏部郎・侍中・建威將軍・吳國內史に除せらる。時に年は饑えて粟は貴く、人 多く餓死す。薈 私米を以て饘粥を作り、以て餓うる者に飴(おく)り、濟活する所 甚だ眾し。徵して中領軍に補せられ、拜せず。尚書に徙り、中護軍を領し、復た征虜將軍・吳國內史と為る。頃之、桓沖 表して薈に請ひて江州刺史と為し、固辭して拜せず。督浙江東五郡・左將軍・會稽內史に轉じ、號を鎮軍將軍に進め、散騎常侍を加ふ。官に卒し、衞將軍を贈らる。
子の廞、太子中庶子・司徒左長史を歷す。母の喪を以て、吳に居る。王恭 兵を舉ぐるや、廞に建武將軍・吳國內史を假し、軍を起たしめ、助けて聲援と為す。廞 墨絰を即けて眾を合はせ、己に異なるを誅殺し、仍(かさ)ねて前吳國內史の虞嘯父らを遣はして吳興・義興に入りて兵を聚めしめ、輕俠 赴く者 萬を計ふ。廞 自ら謂ふ、「義兵 一たび動かば、勢 必ず未だ寧からず、間に乘じて富貴を取る可し」と。而るに曾(すなは)ち旬日あらずして、國寶 死を賜ひ、恭 兵を罷め、符して廞をして職を去らしむ。廞 大いに怒り、眾を迴して恭を討つ。恭 司馬の劉牢之を遣はして曲阿に距戰せしめ、廞の眾 潰して奔走し、遂に在る所を知らず。長子の泰 恭の殺す所と為り、少子の華 廞の存亡を知らざるを以て、憂毀して布衣蔬食す。後に從兄の謐 其の死する所を言ひ、華 始めて喪を發し、入仕す。
初め、導 淮を渡るに、郭璞をして之を筮はしむ。卦 成り、璞曰く、「吉なり、利あらざる無し。淮水 絕ゆれば、王氏 滅す」と。其の後 子孫 繁衍し、竟に璞が言の如し。
王薈は字を敬文という。恬淡とし無欲で心静かであり、栄利を競わず、若くして清官を歴任し、吏部郎・侍中・建威将軍・呉国内史に除された。飢饉の年に穀物価格が上がり、餓死者が多かった。王薈は私蔵の米で粥を作り、飢えたものに施し、救われて生き残ったものはとても多かった。徴して中領軍に補せられたが、拝さなかった。尚書に移り、中護軍を領し、また征虜将軍・呉国内史となった。しばらくして、桓沖が上表して王薈に江州刺史となるよう要請したが、固辞して拝さなかった。督浙江東五郡・左将軍・会稽内史に転じ、号を鎮軍将軍に進め、散騎常侍を加えた。在官で亡くなり、衛将軍を贈られた。
子の王廞は、太子中庶子・司徒左長史を歴任した。母を亡くし、呉郡に居住した。王恭が兵を挙げると、王廞に建武将軍・呉国内史を仮し、軍を起こさせ、友軍とした。王廞は墨絰を着けて兵を集め、敵対者を誅殺し、かさねて前呉国内史の虞嘯父らを派遣して呉興郡と義興郡に入って兵を集めさせ、軽狡なものが集まって一万を数えた。王廞が自ら、「義兵がいちど動けば、形勢が必ず不安定になる、隙に乗じて富貴を取れ」と言った。十数日も経たずに、国宝が死を賜わり、王恭は兵を収め、命令書で王廞の官位を解いた。王廞はとても怒り、軍を反転して王恭を討伐した。王恭が司馬の劉牢之を派遣して曲阿で防戦させ、王廞の軍は潰走し、所在が不明となった。長子の王泰は王恭の殺され、少子の王華は王廞の生死が分からないので、心配をして布衣をつけ食事が質素になった。のちに従兄の王謐が王廞の死を伝えると、王華は初めて喪を発し、仕官した。
これよりさき、王導が淮水を渡るとき、郭璞にこれを占わせた。卦が成り、郭璞は、「吉です、利がないことがありません。淮水が絶えれば、王氏は滅びます」と言った。そののちに子孫は繁栄し、結局は郭璞の言う通りであった。
史臣曰、飛龍御天、故資雲雨之勢。帝王興運、必俟股肱之力。軒轅、聖人也、杖師臣而授圖。商湯、哲后也、託負鼎而成業。自斯已降、罔不由之。原夫典午發蹤、本于陵寡、金行撫運、無德在時。九土未宅其心、四夷已承其弊。既而中原蕩覆、江左嗣興、兆著玄石之圖、乖少康之祀夏。時無思晉之士、異文叔之興劉。輔佐中宗、艱哉甚矣。茂弘策名枝屏、叶情交好、負其才智、恃彼江湖、思建克復之功、用成翌宣之道。於是王敦內侮、憑天邑而狼顧。蘇峻連兵、指宸居而隼擊。實賴元宰、固懷匪石之心。潛運忠謨、竟翦吞沙之寇。乃誠貫日、主垂餌以終全。貞志陵霜、國綴旒而不滅。觀其開設學校、存乎沸鼎之中、爰立章程、在乎櫛風之際。雖則世道多故、而規模弘遠矣。比夫蕭曹弼漢、六合為家、奭望匡周、萬方同軌、功未半古、不足為儔。至若夷吾體仁、能相小國。孔明踐義、善翊新邦、撫事論情、抑斯之類也。提挈三世、終始一心、稱為「仲父」、蓋其宜矣。恬珣踵德、副呂虔之贈刀。謐乃隤聲、慚劉毅之徵璽。語曰、「深山大澤、有龍有蛇」。實斯之謂也。
贊曰、贙嘯猋馳、龍升雲映。武岡矯矯、匡時緝政。懿績克宣、忠規靡競。契叶三主、榮逾九命。貽刀表祥、筮水流慶。赫矣門族、重光斯盛。
史臣曰く、飛龍 天を御(をさ)め、故に雲雨の勢を資く。帝王 運を興し、必ず股肱の力を俟つ。軒轅は、聖人なり、師臣に杖りて圖を授く。商湯は、哲后なり、負鼎に託して業を成す。斯より已降、之に由らざるは罔し。原に夫れ典午 蹤を發するに、陵寡を本にし、金行 運を撫し、德の時に在ること無し。九土 未だ其の心に宅(を)らず、四夷 已に其の弊を承く。既にして中原 蕩覆し、江左 嗣興し、兆は玄石の圖に著はれ、少康の夏を祀るに乖る。時に晉を思ふの士無く、文叔の劉を興すに異なる。中宗を輔佐す、艱きこと甚しきかな。茂弘 名を枝屏に策し、情を交好に叶へ、其の才智を負ひ、彼の江湖に恃み、克復の功を建て、用て翌宣の道を成さんことを思ふ。是に於て王敦 內に侮し、天邑に憑りて狼のごとく顧みる。蘇峻 兵を連ね、宸居を指して隼のごとく擊つ。實に元宰に賴り、固に匪石の心を懷く。潛かに忠謨を運し、竟に吞沙の寇を翦す。乃ち誠は日を貫き、主は餌に垂れて以て終に全す。貞志 陵霜し、國は綴旒して滅せず。其の學校を開設するを觀るに、沸鼎の中に存り、爰に章程を立つるに、櫛風の際に在り。則ち世道の多故なると雖も、而れども規模 弘遠なり。夫の蕭曹の漢を弼け、六合 家と為すに比し、奭望 周を匡け、萬方 軌を同じくするには、功 未だ古に半ばならず、儔と為すに足らず。至若 夷吾 仁を體し、能く小國に相たり。孔明 義を踐み、善く新邦を翊し、事を撫して情を論ずるは、抑も斯の類なり。三世に提挈し、一心を終始し、稱して「仲父」と為すは、蓋し其れ宜しきかな。恬珣 德を踵み、呂虔の刀を贈るに副ふ〔一〕。謐 乃ち聲を隤し、劉毅の徵璽に慚づ。語りて曰く、「深山大澤に、龍有り蛇有り」と。實に斯れ之の謂ひなりと。
贊に曰く、贙(けん)は嘯き猋馳し、龍は升り雲映す。武岡 矯矯として、時を匡ひ政を緝(をさ)む。懿績 克く宣く、忠規 競ふ靡し。契は三主に叶し、榮は九命を逾ゆ。刀を貽し祥を表し、筮水 慶に流る。赫なるかな門族、重光 斯れ盛なりと。
〔一〕『晋書』巻三十三 王覧伝を参照。
史臣はいう、飛龍が天を治めることで、雲雨の勢を助ける(『周易』乾卦より)。帝王が建国すると、必ず股肱の力に期待する。軒轅(黄帝)は、聖人であり、師と仰ぐ臣に頼って河図を授けた。商湯(殷の湯王)は、賢王であり、負鼎(伊尹)を頼って成功した。これより以降、これに依らぬものはない。ところが典午(司馬氏)は発端において、残虐な寡婦(賈后か)から始まり、金徳の天運を手なずけたが、徳に巡り逢ったのではない。九土(天下全域)がまだ心を寄せず、四方の異民族はその疲弊に付け込んだ。すでに中原(西晋)が傾覆し、江左(東晋)が嗣いで興ると、予兆が玄石の図に表れたが、少康が夏王朝を中興したときより劣る。このとき晋帝国を思慕する士人はおらず、文叔(光武帝)が漢帝国を再興したときと異なる。中宗(東晋の元帝)を補佐するのは、とても困難であったのだ。茂弘(王導)は名前を良臣として記され、心情は友好的で、その才智に拠り、江湖で頼られ、秩序回復の功績を立て、輔翼を成功させようとした。ところが王敦が身内から反乱し、都邑で狼のように野心を現した。蘇峻が兵を連ね、天子の住居を目指して隼のように攻め寄せた。そこで宰相(王導)に頼り、石のように強固な心を懐いていた。ひそかに忠謀を用い、ついに凶悪な逆賊を斬った。(王導の)忠誠は日を貫き、君主はおかげで生き延びた。正義の志が霜を解かし、国家は臣下に実権を委ねて存続した。かれが学校を開設したのは、混乱の最中であり、法律を整備したのは、戦闘の合間であった。当時は困難の連続であったが、しかし体制が整って行き渡った。かつて蕭何や曹参が漢(劉邦)をたすけ、天下を併合し、召公奭や太公望が周をたすけ、天下を統括したことと比べると、功績は半分に及ばず、同類とは言えない。しかし夷吾(管仲)が仁を体現し、小国の宰相となり、孔明(諸葛亮)が義を実践し、新しい国を支え、事態を収めて国情を論じたことに比べれば、やっと同類と言えよう。三世を補佐し、一貫した心を持ち、「仲父」と称したのは、適切なことである。王恬や王珣は(王導の)徳を継承し、(三国魏の)呂虔の刀を贈ったことに適った。王謐は声望を損ない、劉毅から璽綬のありかを質問されて恥じた。「深い山や大きな沢には、龍もいるが蛇もいる」と語られる。まさにこの(王導一族の)ことを言ったのであると。
贙(犬に似た獣)が鳴いて疾走し、龍は昇り雲に映える。武岡(侯の王導)は武勇があり、時難を救い政治を整えた。善美な功績は広大で、忠謀は並ぶものがない。契(舜の司徒)は三代の主に仕え、栄誉は九命を超えた。刀をおくり吉祥を出現させ、筮水はめでたい方角に流れた。華麗なる一門の出身者は、相次いで功績があり盛んであったと。