翻訳者:谷口 建速(劉弘字和季~荊土平)
訳者コメント:劉弘の墓は、1991年に湖南省安郷県で発見、発掘され、某三国志展でも展示された「鎮南将軍」の金印をはじめ、玉製品、金製品、陶磁器など多くの貴重な文物が出土しています。7、8年前でしょうか、この劉弘墓の修復、保護とあわせて博物館(展示室?)が建設される…という情報を目にした記憶があるのですが、どうなったかご存知の方がいらっしゃれば、教えていただければ幸いです。
翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)(初、弘之退也~匪伊舟航)
谷口建速先生に最初の二段落のみ担当して頂きました。以後を引き継いで翻訳しました。
劉弘字和季、沛國相人也。祖馥、魏揚州刺史。父靖、鎭北將軍。弘有幹略政事之才。少家洛陽、與武帝同居永安里、又同年、共研席。以舊恩起家太子門大夫、累遷率更令、轉太宰長史。張華甚重之、由是爲寧朔將軍・假節・監幽州諸軍事、領烏丸校尉。甚有威惠、寇盜屏迹、爲幽朔所稱、以勲德兼茂、封宣城公。
劉弘 字は和季〔一〕、沛國相の人なり。祖の馥、魏の揚州刺史たり〔二〕。父の靖、鎭北將軍たり〔三〕。弘 幹略政事の才有り。少くして洛陽に家し、武帝と同に永安里に居し、又た同年にして、研席を共にす〔四〕。舊恩を以て太子門大夫より起家し、累ねて率更令に遷り、太宰長史に轉ず。張華 甚だ之を重んじ、是れに由りて寧朔將軍・假節・監幽州諸軍事・領烏丸校尉と爲る〔五〕。甚だ威惠有り、寇盜屏迹し、幽朔の稱うる所と爲り、勲德の兼ねて茂るを以て、宣城公に封ぜらる。
〔一〕劉弘の字について、『北堂書鈔』三十七に引く徐広(徐野民)『晉紀』では「季和」、同一百三に引く『晉陽秋』では「子季」、『三国志』魏志巻十五・劉馥伝注に引く『晉陽秋』では「叔和」に作るが、斠注はいずれも誤りとする。一方、『水経注』沔水条に引く『襄陽耆舊伝』には「和季」とあり、本伝と合致する(斠注より)。
〔二〕劉馥については、『三国志』魏志巻十五に本伝がある。
〔三〕『三国志』魏志劉馥伝によると、劉靖は嘉平六年(254年)に死去し、征北将軍を追贈され(生前は鎮北将軍)、建成郷侯(生前は広陸亭侯)に爵位を進められ、子の劉熙が後を継いだ。劉弘は熙の弟。『水経注』巻十四・鮑邱水には、劉靖が主導した水利事業の功を讃える「劉靖碑」の碑文が収められ、その冒頭に「魏使持節・都督河北道諸軍事・征北將軍・建城侯沛國劉靖、字文恭」とある(斠注より)。
〔四〕劉弘と「同年」とされる西晋の武帝司馬炎の生年は、曹魏の青龍四年(236年)。
〔五〕『水経注』鮑邱水の「劉靖碑」に「晉元康四年(294年)、君少子驍騎將軍・平郷侯宏、受命使持節・監幽州諸軍事・領護烏丸校尉・寧朔將軍」とあり、本伝の官と異同がある(斠注より)。
劉弘は字を和季といい、沛国相県の人である。祖父の劉馥は、魏の揚州刺史であった。父の劉靖は、鎮北將軍であった。劉弘は、才幹と智謀を備え、政務を処理する才能に優れていた。幼い頃は洛陽で暮らし、晋の武帝司馬炎とは同じ永安里に住み、また同い年で、机を並べて学ぶ間柄であった。この旧恩から、太子門大夫より起家し、昇進を重ねて太子率更令となり、さらに太宰長史に転任した。張華が彼を高く評価したため、寧朔将軍・仮節・監幽州諸軍事・領烏丸校尉に任じられた。劉弘が大いに威厳と恩恵をもって統治にあたると、寇盗どもは息をひそめ、幽朔の地の人々から称賛をうけ、また朝廷からも立派な勲功と人徳を兼ね備えているとして、宣城公に封ぜられた。
太安中、張昌作亂、轉使持節・南蠻校尉・荊州刺史、率前將軍趙驤等討昌、自方城至宛・新野、所向皆平。及新野王歆之敗也、以弘代爲鎭南將軍・都督荊州諸軍事、餘官如故。弘遣南蠻長史陶侃爲大都護、參軍蒯恒爲義軍督護、牙門將皮初爲都戰帥、進據襄陽。張昌并軍圍宛、敗趙驤軍。弘退屯梁。侃・初等累戰破昌、前後斬首數萬級。及到官、昌懼而逃、其眾悉降、荊土平。
太安中、張昌の亂を作すや、使持節・南蠻校尉・荊州刺史に轉じ、前將軍趙驤等を率いて昌を討ち、方城自り宛・新野に至るまで、向かう所皆な平らぐ。新野王歆の敗るるに及ぶや、弘を以て代わりて鎭南將軍・都督荊州諸軍事と爲し〔一〕、餘の官は故の如くす。弘 南蠻長史陶侃を遣わして大都護と爲し、參軍蒯恒もて義軍督護と爲し、牙門將皮初もて都戰帥と爲し、進みて襄陽に據らしむ。張昌 軍を并せて宛を圍み、趙驤の軍を敗る。弘 退きて梁に屯す。侃・初等 累戰して昌を破り、前後して斬首すること數萬級。官に到るに及び、昌 懼れて逃れ、其の眾悉く降り、荊土平らぐ。
〔一〕魏志劉馥伝の裴松之注に引く『晉陽秋』では、「都督荊交廣州諸軍事」に作る(斠注より)。なお、蜀志・諸葛亮伝の注に引く『蜀記』によると、永興年間(304~306年)に鎮南将軍劉弘が隆中の諸葛亮の旧宅を訪れ、顕彰の碑を立てた。『蜀記』には、このとき劉弘が太傅掾の李興に命じて作らせた碑文が収められている。
太安年間(302~303年)に張昌が反乱を起こすと、劉弘は使持節・南蛮校尉・荊州刺史に転任し、前将軍の趙驤らを率いて張昌を討伐し、方城から宛・新野に至るまで、向かうところ全てを平定した。新野王司馬歆が張昌に敗れ(て殺害され)ると、朝廷は劉弘を代わりの鎮南将軍・都督荊州諸軍事に任じ、その他の官(使持節・南蛮校尉・荊州刺史)についてはもとのままとした。劉弘は南蛮校尉長史の陶侃を大都護、参軍の蒯恒を義軍督護、牙門将の皮初を都戦帥に任じ、襄陽へと進軍させた。張昌は軍を結集して宛城を包囲し、趙驤の軍を破った。そのため劉弘は退却して梁県に駐屯した。陶侃と皮初らは、連戦して張昌を撃破し、相次いで斬首した数は数万に及んだ。劉弘が襄陽の官府に到着すると、張昌は恐れて逃亡し、その軍はことごとく降伏し、荊州の地は平定された。
初、弘之退也、范陽王虓遣長水校尉張奕領荊州。弘至、奕不受代、舉兵距弘。弘遣軍討奕、斬之、表曰、「臣以凡才、謬荷國恩、作司方州、奉辭伐罪、不能奮揚雷霆、折衝萬里、軍退於宛、分受顯戮。猥蒙含宥、被遣之職、即進達所鎮。而范陽王虓先遣前長水校尉張奕領荊州、臣至、不受節度、擅舉兵距臣。今張昌姦黨初平、昌未梟擒、益梁流人蕭條猥集、無賴之徒易相扇動、飆風駭蕩、則滄海橫波、苟患失之、無所不至。比須表上、慮失事機、輒遣軍討奕、即梟其首。奕雖貪亂、欲為荼毒、由臣劣弱、不勝其任、令奕肆心、以勞資斧、敢引覆餗之刑、甘受專輒之罪」。詔曰、「將軍文武兼資、前委方夏、宛城不守、咎由趙驤。將軍所遣諸軍、克滅羣寇、張奕貪禍、距違詔命。將軍致討、傳首闕庭、雖有不請之嫌、古人有專之之義。其恢宏奧略、鎮綏南海、以副推轂之望焉」。張昌竄于下1.(儁)〔雋〕山、弘遣軍討昌、斬之、悉降其眾。
時荊部守宰多闕、弘請補選、帝從之。弘迺敘功銓德、隨才補授、甚為論者所稱。乃表曰、「被中詔、敕臣隨資品選、補諸缺吏。夫慶賞刑威、非臣所專、且知人則哲、聖帝所難、非臣闇蔽所能斟酌。然萬事有機、豪氂宜慎、謹奉詔書、差所應用。蓋崇化莫若貴德、則所以濟屯、故太上立德、其次立功也。頃者多難、淳朴彌凋、臣輒以徵士伍朝補零陵太守、庶以懲波蕩之弊、養退讓之操。臣以不武、前退於宛、長史陶侃・參軍蒯恒・牙門皮初、勠力致討、蕩滅姦凶、侃恒各以始終軍事、初為都戰帥、忠勇冠軍、漢沔清肅、實初等之勳也。司馬法「賞不踰時」、欲人知為善之速福也。若不超報、無以勸徇功之士、慰熊羆之志。臣以初補襄陽太守、侃為府行司馬、使典論功事、恒為山都令。詔惟令臣以散補空缺、然沶鄉令虞潭忠誠烈正、首唱義舉、舉善以教、不能者勸、臣輒特轉潭補醴陵令。南郡廉吏仇勃、母老疾困、賊至守衞不移、以致拷掠、幾至隕命。尚書令史郭貞、張昌以為尚書郎、欲訪以朝議、遁逃不出、昌質其妻子、避之彌遠。勃孝篤著於臨危、貞忠厲於強暴、雖各四品、皆可以訓奬臣子、長益風教。臣輒以勃為歸鄉令、貞為信陵令。皆功行相參、循名校實、條列行狀、公文具上」。朝廷以初雖有功、襄陽又是名郡、名器宜慎、不可授初、乃以前東平太守夏侯陟為襄陽太守、餘並從之。陟、弘之壻也。弘下教曰、「夫統天下者、宜與天下一心。化一國者、宜與一國為任。若必姻親然後可用、則荊州十郡、安得十女壻然後為政哉」。乃表「陟姻親、舊制不得相監。皮初之勳宜見酬報」。詔聽之。
1.中華書局本に従い、「儁」を「雋」に改める。
初め、弘の退くや、范陽王虓 長水校尉の張奕を遣はして荊州を領せしむ。弘 至るや、奕 代はることを受けず、兵を舉げて弘を距む。弘 軍を遣はして奕を討ち、之を斬る。表して曰く、「臣 凡才を以て、謬て國恩を荷ひ、方州に司たると作り、辭を奉じて罪を伐つ。雷霆を奮揚し、萬里を折衝する能はず、軍 宛に退き、顯戮を受くるを分とす。猥りに含宥を蒙りて、遣りて職に之かしめられ、即ち進みて所鎮に達す。而るに范陽王虓 先に前の長水校尉の張奕を遣はして荊州を領せしめ、臣 至るや、節度を受けず、擅に兵を舉げて臣を距む。今 張昌の姦黨 初めて平らぐも、昌 未だ梟擒せられず、益梁の流人 蕭條として猥りに集まり、無賴の徒 相 扇動し易し。飆風 駭き蕩くときは、則ち滄海 橫に波だつ。苟に之を失ふを患へば、至らざる所無し。比に表上を須たば、事機を失ふを慮り、輒ち軍を遣はして奕を討ち、即ち其の首を梟す。奕 貪亂にして、荼毒を為さんと欲すと雖も、臣 劣弱にして、其の任に勝へざるに由りて、奕をして心を肆にせしめ、を以て資斧を勞し、敢て覆餗の刑を引く。甘んじて專輒の罪を受けん」と。詔して曰く、「將軍 文武 兼資し、前に方夏を委し、宛城 守らざるは、咎 趙驤に由る。將軍 遣はす所の諸軍、羣寇を克滅す。張奕 貪禍たりて、詔命を距違す。將軍 討つに致り、首を闕庭に傳ふ。不請の嫌有りと雖も、古人 之を專らにするの義有り。其れ奧略を恢宏し、南海を鎮綏して、以て推轂の望に副へ」と。張昌 下雋山に竄れ、弘 軍を遣はして昌を討ち、之を斬り、悉く其の眾を降す。
時に荊部の守宰 多く闕き、弘 補選を請ひ、帝 之に從ふ。弘 迺ち功を敘して德を銓し、才に隨ひて補授し、甚だ論者の稱する所と為る。乃ち表して曰く、「中詔を被り、臣をして敕して資に隨ひて品選し、諸々の缺吏を補せしむ。夫れ慶賞刑威、臣の專らにする所に非ず、且つ人を知るは則ち哲、聖帝すら難しとする所にして、臣 闇蔽にして能く斟酌する所に非ず。然して萬事 機有り、豪氂も宜しく慎しむべし。謹みて詔書を奉り、應に用ふべき所を差(えら)ぶ。蓋し崇化 德を貴ぶに若くは莫く、則ち屯を濟ふ所以なり。故に太上 德を立て、其の次は功を立つなり。頃者 多難にして、淳朴 彌々凋む。臣 輒ち徵士伍朝を以て零陵太守に補す。庶はくは以て波蕩の弊を懲し、退讓の操を養はんことを。臣 不武を以て、前に宛に退き、長史の陶侃・參軍の蒯恒・牙門の皮初、力を勠して討を致し、姦凶を蕩滅す。侃・恒 各々以て軍事を始終し、初 都戰帥と為り、忠勇 冠軍たりて、漢沔 清肅たるは、實に初らの勳なり。司馬法に「賞 時を踰えず」といふは、人 善を為すことの速に福あるを知らんことを欲せばなり。若し超報あらずんば、以て徇功の士を勸め、熊羆の志を慰むる無し。臣 初を以て襄陽太守に補し、侃もて府行司馬と為し、功を論ずる事を典ぜしめ、恒を山都令と為す。詔は惟だ臣をして以て空缺を散補せしむ。然れども沶鄉令たる虞潭は忠誠烈正にして、首めに義舉を唱へ、善を舉ぐるに教を以てし、能くせざる者をば勸む。臣 輒ち特に潭を轉じて醴陵令に補す。南郡の廉吏たる仇勃は、母老にして疾困なるも、賊 至りて守衞 移らず、以て拷掠を致し、幾ど隕命するに至る。尚書令史の郭貞は、張昌 以て尚書郎と為し、訪ぬるに朝議を以てせんと欲するも、遁逃して出でず、昌 其の妻子を質とし、之を避けて彌々遠し。勃の孝篤 臨危に著はれ、貞の忠 強暴に厲す。各々四品と雖も、皆 以て臣子を訓奬し、風教を長益す可し。臣 輒ち勃を以て歸鄉令と為し、貞もて信陵令と為す。皆 功行 相 參じ、名に循ひて實を校し、行狀を條列し、公文 具さに上す」と。朝廷 以へらく初 功有りと雖も、襄陽 又 是れ名郡たれば、名器 宜しく慎しむべく、初に授く可からざれば、乃ち前東平太守の夏侯陟を以て襄陽太守と為し、餘 並びに之に從ふ。陟は、弘の壻なり。弘 教を下して曰く、「夫れ天下を統ぶる者は、宜しく天下と與に心を一にすべし。一國を化する者は、宜しく一國と與に任を為すべし。若し必ず姻親して然る後に用ふ可ければ、則ち荊州の十郡、安んぞ十の女壻を得て然る後に政を為さんや」と。乃ち表して、「陟 姻親なり、舊制 相 監するを得ず。皮初の勳 宜しく酬報せらるべし」と。詔して之を聽す。
これよりさき、劉弘が軍を(梁県に)撤退させたとき、范陽王虓(司馬虓)は長水校尉の張奕を派遣して荊州(の長官)を領させた。劉弘が到着しても、張奕は交代を受け入れず、兵を挙げて劉弘の着任を妨害した。劉弘は軍を送って張奕を討伐し、これを斬った。上表して、「臣(わたくし)は凡才でありながら、分不相応に国恩を受け、(荊州)刺史に任命され、詔を奉って罪人を討伐する役割を与えられました。(ところが)雷鳴のように進撃し、遠方の敵を撃退することができず、軍を宛城まで撤退させたので、(その失敗は)処罰の対象です。しかし寛大な措置を受けて、赴任せよと命じられ、進んで鎮所に到着しました。しかし范陽王虓(司馬虓)がさきに前の長水校尉の張奕を送り込んで荊州を領させ、臣(わたくし)が到着しても、指揮下に入らず、ほしいままに兵を挙げて私を妨害しました。いま張昌の反乱軍は平定したものの、張昌の首をさらすに至らず、益州や梁州の流人は困窮して集まり、無頼の徒がいれば容易に扇動されます。つむじ風が吹き上がれば、海で波が荒れるように、秩序の乱れは、各地に伝播します。もしも朝廷にお伺いを立てていれば、臨機応変に対処できません。そこですぐに軍を送って張奕を討伐し、その首をさらしました。張奕は強欲であり、暴虐であった上に、わたくしが無能なので、刺史が務まらないと侮られ、張奕に野心を発露させてしまいました。公務により遠征したにも拘わらず、責務を果たせないという罪を犯しました。専断し(命令を待たずに張奕を斬っ)たことを処罰して下さい」と言った。詔して、「将軍(劉弘)は文武の才幹を兼ね備えている。はじめに荊州を失い、宛城を守れなかったことは、趙驤の責任である。将軍が送り込んだ諸軍は、盗賊たちを撃滅した。張奕は暴虐であり、詔命に違反した。将軍はこれを討伐し、首を朝廷に提出した。命令を待たなかったことは問題だが、古より戦場の将軍には専断権がある。深遠な計略を実行し、南方地域を鎮圧して、任命の期待に応えるように」と言った。張昌は下雋山に逃れ、劉弘は軍を送って張昌を討伐して、これを斬り、その配下をすべて降伏させた。
このとき荊州の官吏に欠員が多かったので、劉弘が欠員補充を求め、皇帝はこれに従った。劉弘はこれを受けて功績と徳に基づいて人材を査定し、才能に応じて任命し、(その人選が)論者から称賛された。上表して、「中詔を受け、臣(わたくし)が素質に基づいて人材を格付けし、官吏の欠員を補充しました。恩賞と刑罰の権限は、臣が専有するものではありません。しかも正しく人材を把握することは、聖帝ですら苦労したことであり、臣のような暗愚なものには荷が重い役割です。しかしすべての物事には時機というものがあり、わすかでも遅れてはいけません。そこで詔書を奉り、登用すべきものを選定しました。帝王の教化において徳よりも優先されるものはなく、苦しみを救うためのものです。ゆえに太上皇帝は徳を最優先し、その次に功績を優先しました。近ごろは国家が多難で、素朴な風潮が後退しています。そこで臣は徴士の伍朝を零陵太守としました。この人選によって混乱が鎮静し、謙譲の美徳が養われることを願っています。
臣は軍務を得意とせず、かつて宛城に後退しましたが、長史の陶侃・参軍の蒯恒・牙門の皮初は、力を尽くして(張昌の軍を)討伐し、凶悪な賊を平定しました。陶侃・蒯恒はそれぞれ軍務の全般をつかさどり、皮初は都戦帥となり、忠勇は軍中第一であり、漢水や沔水の一帯が平穏になったのは、まことに皮初らの勲功です。『司馬法』に「賞は時を踰えない」とあるのは、すばやく善事をなせば褒賞があることを人々に示すためです。もし(褒賞として)抜擢しなければ、功績をあげた、勇敢な人物らに報いられません。
臣は皮初を襄陽太守に任命し、陶侃を府行司馬とし、功績の査定を司らせ、蒯恒を山都令としました。詔が臣に命じたのは欠員補充のみでした。しかし(欠員補充以外の提案として)沶鄉令である虞潭は忠誠で正義をつらぬき、最初に義挙(張昌への不服従)を唱え、良き行動を示して、迷うものを教え諭しました。特別に虞潭を醴陵令に転任させたいと思います。南郡の廉吏である仇勃は、老母が病気ですが、賊がきても持ち場を離れず、襲撃を受けて、落命の寸前でした。尚書令史の郭貞は、張昌が彼を尚書郎とし、朝議(勢力の方針)を相談しようとしましたが、逃げ失せて協力せず、そのために張昌が郭貞の妻子を人質に取りましたが、郭貞はますます遠くに逃げました。仇勃の孝篤は危機のときこそ発揮され、郭貞の忠は脅迫を受けたときにこそ発揮されました。二人とも(九品中正の)四品ですが、官吏や民の模範となり、教化を広めた振る舞いをしました。そこで仇勃を帰郷令とし、郭貞を信陵令としたいと思います。すべて功績に照らして、名と実を対応させ、行動を報告し、つぶさに提出いたします」と言った。朝廷は皮初には功績があるにせよ、襄陽は名郡なので、そこを任される栄誉の重さを惜しみ、皮初には相応しくないことから、前東平太守の夏侯陟を襄陽太守とし、それ以外はすべて劉弘の提案どおりとした。夏侯陟は、劉弘の壻であった。劉弘は教書を下して、「天下を統べるならば、天下と心を一つにするべきだ。一国を治めるならば、一国をあげて任務にあたるべきだ。もし親戚しか登用できないなら、荊州の十郡は、十人のむこがいないと統治できないのか」と言った。上表して、「夏侯陟は姻戚であり、旧制では姻戚を監察することが禁じられています。皮初の勲功に報いるべきです」と言った。詔してこれを認め(皮初を襄陽太守とし)た。
弘於是勸課農桑、寬刑省賦、歲用有年、百姓愛悅。弘嘗夜起、聞城上持更者歎聲甚苦、遂呼省之。兵年過六十、羸疾無襦。弘愍之、乃讁罰主者、遂給韋袍複帽、轉以相付。舊制、峴方二山澤中不聽百姓捕魚、弘下教曰、「禮、名山大澤不封、與共其利。今公私并兼、百姓無復厝手地、當何謂邪。速改此法」。又「酒室中云齊中酒・聽事酒・猥酒、同用麴米、而優劣三品。投醪當與三軍同其薄厚、自今不得分別」。時益州刺史羅尚為李特所敗、遣使告急、請糧。弘移書贍給、而州府綱紀以運道懸遠、文武匱乏、欲以零陵一運米五千斛與尚。弘曰、「諸君未之思耳。天下一家、彼此無異、吾今給之、則無西顧之憂矣」。遂以零陵米三萬斛給之。尚賴以自固。于時流人在荊州十餘萬戶、羈旅貧乏、多為盜賊。弘乃給其田種糧食、擢其賢才、隨資敘用。時總章太樂伶人、避亂多至荊州、或勸可作樂者。弘曰、「昔劉景升以禮壞樂崩、命杜夔為天子合樂、樂成、欲庭作之。夔曰、『為天子合樂而庭作之、恐非將軍本意。』吾常為之歎息。今主上蒙塵、吾未能展效臣節、雖有家伎、猶不宜聽、況御樂哉」。乃下郡縣、使安慰之、須朝廷旋返、送還本署。論平張昌功、應封次子一人縣侯、弘上疏固讓、許之。進拜侍中・鎮南大將軍・開府儀同三司。
惠帝幸長安、河間王顒挾天子、詔弘為劉喬繼援。弘以張方殘暴、知顒必敗、遣使受東海王越節度。時天下大亂、弘專督江漢、威行南服。前廣漢太守辛冉說弘以從橫之事、[五]前廣漢太守辛冉 「辛冉」原作「羊冉」。斠注、魏志劉馥傳注引晉陽秋作「辛冉」。按、辛冉事詳華陽國志八。通鑑八六亦作「辛冉」。辛冉又見張華傳。「辛」「羊」形近易誤、今據改。弘大怒、斬之。河間王顒使張光為順陽太守、南陽太守衞展說弘曰、「彭城王前東奔、有不善之言。張光、太宰腹心、宜斬光以明向背」。弘曰、「宰輔得失、豈張光之罪。危人自安、君子弗為也」。展深恨之。
陳敏寇揚州、引兵欲西上。弘乃解南蠻、以授前北軍中候蔣超、統江夏太守陶侃・武陵太守苗光、以大眾屯于夏口。又遣治中何松領建平・宜都・襄陽三郡兵、屯巴東、為羅尚後繼。又加南平太守應詹寧遠將軍、督三郡水軍、繼蔣超。侃與敏同郡、又同歲舉吏、或有間侃者、弘不疑之。乃以侃為前鋒督護、委以討敏之任。侃遣子及兄子為質、弘遣之曰、「賢叔征行、君祖母年高、便可歸也。匹夫之交尚不負心、何況大丈夫乎」。陳敏竟不敢闚境。永興三年、詔進號車騎將軍、開府及餘官如故。
弘每有興廢、手書守相、丁寧款密、所以人皆感悅、爭赴之、咸曰、「得劉公一紙書、賢於十部從事」。及東海王越奉迎大駕、弘遣參軍劉盤為督護、率諸軍會之。盤既旋、弘自以老疾、將解州及校尉、適分授所部、未及表上、卒于襄陽。士女嗟痛、若喪所親矣。
初、成都王穎南奔、欲之本國、弘距之。及弘卒、弘司馬郭勱欲推穎為主、弘子璠追遵弘志、於是墨絰率府兵討勱、戰於濁水、斬之、襄沔肅清。初、東海王越疑弘與劉喬貳于己、雖下節度、心未能安。及弘距穎、璠又斬勱、朝廷嘉之。越手書與璠贊美之、表贈弘新城郡公、諡曰元。
以高密王略代鎮、寇盜不禁、詔起璠為順陽內史、江漢之間翕然歸心。及略薨、山簡代之。簡至、知璠得眾心、恐百姓逼以為主、表陳之、由是徵璠為越騎校尉。璠亦深慮逼迫、被書、便輕至洛陽、然後遣迎家累。僑人侯脫・路難等相率衞送至都、然後辭去。南夏遂亂。父老追思弘、雖甘棠之詠召伯、無以過也。
弘 是に於て農桑を勸課し、刑を寬し賦を省き、歲 用て有年なり、百姓 愛悅す。弘 嘗て夜に起き、城上に更を持する者 歎聲 甚だ苦なるを聞き、遂に呼びて之を省る。兵 年 六十を過ぎ、羸疾にして襦無し。弘 之を愍み、乃ち主者を讁罰し、遂に韋袍複帽を給はり、轉じて以て相付せしむ。舊制に、峴方の二山の澤中 百姓に捕魚を聽さず。弘 教を下して曰く、「禮に、名山大澤 封ぜず、其の利を與共にすと。今 公私 并兼するも、百姓 復た手を厝(まじ)ふる地無し。當に何をか謂ふべきか。速やかに此の法を改めよ」と。又「酒室中に齊中酒・聽事酒・猥酒と云ふも、同に麴米を用ひ、而れども優劣三品あり。醪を投じて當に三軍と與に其の薄厚を同じくすべし、自今 分別するを得ず」と。時に益州刺史の羅尚 李特の敗る所と為り、使を遣はして急を告げ、糧を請ふ。弘 書を移して贍給し、而して州府の綱紀は運道 懸遠にして、文武 匱乏するを以て、零陵の一運の米五千斛を以て尚に與へんと欲す。弘曰く、「諸君 未だ之れ思はざるのみ。天下は一家なり、彼此 異無く、吾 今 之に給さば、則ち西顧の憂ひ無し」と。遂に零陵の米三萬斛を以て之に給す。尚 賴りて以て自固す。時に于て流人 荊州に十餘萬戶在り、羈旅 貧乏し、多く盜賊と為る。弘 乃ち其れに田種糧食を給し、其の賢才を擢し、資に隨ひて敘用す。時に總章太樂の伶人、亂を避けて多く荊州に至り、或るひと樂を作る可しと勸む。弘曰く、「昔 劉景升 禮 壞れ樂 崩るるを以て、杜夔に命じて天子の為に合樂せしめ、樂 成るや、庭にして之を作らんと欲す。夔曰く、『天子の為に樂を合して而れども庭にして之を作すは、恐るらく將軍の本意に非ず』と。吾 常に之の為に歎息す。今 主上 蒙塵し、吾 未だ能く臣節を展效せず。家伎有りと雖も、猶ほ宜しく聽くべからず。況んや御樂をや」と。乃ち郡縣に下し、之を安慰せしめ、朝廷 旋返するを須ちて、送りて本署に還す。張昌を平らぐる功を論じ、應に次子一人を縣侯に封ずべきも、弘 上疏して固讓し、之を許す。進みて侍中・鎮南大將軍・開府儀同三司を拜す。
惠帝 長安に幸し、河間王顒 天子を挾み、弘に詔して劉喬の繼援と為す。弘 張方 殘暴なるを以て、顒 必ず敗れんことを知り、使を遣はして東海王越の節度を受く。時に天下 大いに亂れ、弘 專ら江漢を督し、威 南服に行はる。前廣漢太守の辛冉 弘に說くに從橫の事を以てす。弘 大いに怒り、之を斬る。河間王顒 張光をして順陽太守と為らしむ。南陽太守の衞展 弘に說きて曰く、「彭城王 前に東奔するに、不善の言有り〔一〕。張光、太宰の腹心なり、宜しく光を斬りて以て向背を明らかにすべし」と。弘曰く、「宰輔の得失、豈に張光の罪ならんか。人を危ふくし自ら安たるは、君子 為さざるなり」と。展 深く之を恨む。
陳敏 揚州を寇するや、兵を引きて西上せんと欲す。弘 乃ち南蠻を解き、以て前北軍中候の蔣超に授け、江夏太守の陶侃・武陵太守の苗光を統べ、大眾を以て夏口に屯せしむ。又 治中の何松を遣はして建平・宜都・襄陽三郡の兵を領して、巴東に屯し、羅尚の後繼と為らしむ。又 南平太守の應詹に寧遠將軍を加へ、三郡の水軍を督し、蔣超に繼がしむ。侃 敏と同郡にして、又 同歲に吏に舉げられたれば、或いは侃を間する者有るも、弘 之を疑はず。乃ち侃を以て前鋒督護と為し、委ぬるに敏を討つの任を以てす。侃 子及び兄子を遣はして質と為し、弘 之を遣りて曰く、「賢叔 征行す。君の祖母 年高たれば、便ち歸る可きなり。匹夫の交 尚ほ心に負かず、何ぞ況んや大丈夫をや」と。陳敏 竟に敢て境を闚(うかが)はず。永興三年、詔して號を車騎將軍に進め、開府及び餘官 故の如し。
弘 每に興廢有るや、守相に手書し、丁寧に款密し、所以に人 皆 感悅し、爭ひて之に赴き、咸 曰く、「劉公の一紙書を得るは、十部從事より賢る」と。東海王越 大駕を奉迎するに及び、弘 參軍の劉盤を遣はして督護と為し、諸軍を率ゐて之に會す。盤 既に旋るや、弘 自ら老疾なるを以て、將に州及び校尉を解き、適(まさ)に部する所に分授せんとす。未だ表上するに及ばざるに、襄陽に卒す。士女 嗟痛し、所親を喪ふが若し。
初め、成都王穎 南奔するや、本國に之かんと欲するも、弘 之を距む。弘 卒するに及び、弘の司馬の郭勱 穎を推して主と為さんと欲す。弘の子の璠 弘の志を追遵し、是に於て墨絰し府の兵を率ゐて勱を討ち、濁水に戰ひ、之を斬る。襄沔 肅清たり。初め、東海王越 弘 劉喬と與に己に貳あるを疑ひ、節度を下すと雖も、心 未だ能く安からず。弘 穎を距ぐに及び、璠 又 勱を斬り、朝廷 之を嘉す。越 手づから書きて璠に與へて之を贊美し、表して弘に新城郡公を贈り、諡して元と曰ふ。
高密王略を以て鎮に代ふるも、寇盜 禁ぜざれば、詔して璠を起して順陽內史と為す。江漢の間 翕然として歸心す。略 薨ずるに及び、山簡 之に代はる。簡 至るや、璠 眾心を得るを知り、百姓 逼りて以て主と為すことを恐れ、表して之を陳し、是に由りて璠を徵して越騎校尉と為す。璠も亦た深く逼迫せらるるを慮り、書を被るや、便ち輕に洛陽に至り、然る後に遣りて家累を迎へしむ。僑人の侯脫・路難ら相 率ゐて衞り送りて都に至り、然る後に辭去す。南夏 遂に亂る。父老 弘を追思し、甘棠の召伯を詠すと雖も〔二〕、以て過ぐる無きなり。
〔一〕『晋書』巻四 恵帝紀に、永興二(三〇五)年のこととして、車騎大将軍の劉弘が平南将軍である彭城王釈(司馬釈)を宛で追放したことが見える。経緯は未詳。
〔二〕甘棠は、『詩経』召南の篇名。人民が召伯(召公奭)の善政を称えたもの。召伯が南巡したとき、その木陰で休息をとった甘棠(やまなしの樹)を歌っている。ここでは、南巡した召伯が劉弘に重ねられている。
劉弘は農桑を盛んに興し、刑をゆるめて賦役を減らした。豊作となり、万民は(劉弘の統治を)悦んだ。劉弘がかつて夜に起きると、城壁の上の見張りの兵が苦しそうに嘆く声を聞き、呼びつけて会ってみた。兵は六十歳を過ぎ、衰弱して肌着がなかった。劉弘はこれを憐れみ、管理者を処罰し、皮ごろもと裏付きの帽子を与え、そばに仕えさせた。旧制では、峴山と方山の沢では百姓が魚を捕ることを禁じていた。劉弘は教書を下して、「礼では、豊かな山沢の立入を禁止せず、その利を共有するという。いま公私の共用であるはずが、百姓が入れる場所がない。これで良いのだろうか。速やかにこの法を改めるように」と言った。また「酒室では斉中酒・聽事酒・猥酒を分けている。すべて同じ麴米を使っているにも拘わらず、優劣の三等級を分けている。醪(濁り酒)を混ぜて均質になるまでかき混ぜ、これ以降は等級を区別することを禁止する」と言った。
このとき益州刺史の羅尚が李特に敗れ、使者を送って危機を告げ、資糧を求めた。劉弘は文書を回付して支援しようとしたが、州府の綱紀(主簿)は輸送先が遠く離れ、文武の官が欠乏していることを理由に、零陵から米五千斛だけを羅尚に送ろうと言った。劉弘は、「諸君は思慮が足りない。天下は一家であり、彼我に区別はない。益州を支援すれば、わが荊州は西の憂いがなくなる」と言った。こうして零陵から米三萬斛を送った。羅尚はおかげで持ち堪えることができた。このとき流人が荊州に十万戸以上なだれ込み、移動者たちは窮乏し、多くが盗賊となった。劉弘は彼らに種もみと食料を支給し、そのなかから賢才を抜擢し、資質に応じて登用した。このとき総章と太楽(ともに楽官の名)の演奏者が、荊州に避難してきた。あるものが楽隊を編制せよと勧めた。劉弘は、「むかし劉景升(劉表)が宮廷の礼と音楽が崩壊したことを受け、杜夔に命じて天子のために楽器と歌唱を復元し、復元が成ると、自分の政庁で演奏させようとした。杜夔は、『天子のために音楽を復元したのに、自分のために演奏することは、将軍(劉表)の本意ではないはずです』と言った。私はこの話を思い出すとため息が出る。いま主上(皇帝)が都を逐われたが、私は臣下として救援に駆けつけられない。自宅に楽人がいても、鑑賞を慎むべきだ。まして天子の楽官に演奏させてよいはずがあろうか」と言った。そこで郡県に楽官を移し、旅の疲れを慰撫し、天子が都に復帰するのを待って、もとの官庁に帰らせた。張昌を平定した功績により、次子一人を県侯に封建されることになったが、劉弘は上疏して固辞し、それが認められた。進んで侍中・鎮南大将軍・開府儀同三司を拝した。
恵帝が長安に移ると、河間王顒(司馬顒)が天子の権限を奪い、劉弘に詔して劉喬の軍の後続とした。劉弘は(司馬顒の配下の)張方が暴虐なので、きっと司馬顒が敗亡すると予想し、使者を送って東海王越(司馬越)の節度を受けた。このとき天下が大いに乱れ、劉弘は長江や漢水の一帯を独占的に管轄し、南方が彼の勢威に服した。前広漢太守の辛冉が劉弘に従横のこと(天下取り)を説いた。劉弘は大いに怒り、これを斬った。河間王顒(司馬顒)が張光を順陽太守とした。南陽太守の衛展が劉弘に、「かつて彭城王(司馬釈)が東に追放されたとき、不善の言がありました(経緯が未詳)。張光は、太宰(司馬顒)の腹心です。張光を斬ってどちらに味方するか態度を明らかにして下さい」と言った。劉弘は、「宰相(司馬顒)の政治の欠点は、張光の責任ではない。(衛展(あなた)のように)他人を危険に晒して自分の安全を確保するのは、君子の行いではない」と言った。衛展は深く劉弘を恨んだ。
陳敏が揚州を侵略すると、兵を率いて西方(荊州)に溯上しようとした。劉弘は(自分の)南蛮校尉を解き、前北軍中候の蒋超に授け、江夏太守の陶侃・武陵太守の苗光を統率して、多数の兵で夏口に駐屯させた。さらに治中の何松を派遣して建平・宜都・襄陽三郡の兵を領して、巴東に駐屯させ、羅尚の後続の軍とした。また南平太守の応詹に寧遠将軍を加え、三郡の水軍を督し、蒋超の後続の軍とした。陶侃は陳敏と同郡の出身で、しかも同年に吏に挙げられた間柄なので、陶侃が陳敏に味方すると言うひとがいたが、劉弘は陶侃を疑わなかった。すぐさま陶侃を前鋒督護とし、陳敏討伐の任務を与えた。陶侃は子と兄の子を人質に差し出したが、劉弘はこれを送り返し(陶侃の兄の子に)、「きみの賢叔(おじ)が遠征し、きみの祖母は高齢なのだから、帰るべきだ。凡夫ですら裏切らないのに、士大夫が裏切るはずがない」と言った。陳敏は揚州から荊州に侵入することはなかった。永興三(三〇六)年、詔して官号を車騎将軍に進め、開府とその他の官は現状のままとした。
劉弘は興廃(戦役や徴発)があるたび、太守や国相に直筆の書簡を送り、ていねいに名を刻んで封をしたので、人々は感激し、争って危難に駆けつけた。みな、「劉公の一通の紙書をもらうことは、十部の従事(が使者に立つこと)より勝る」と言った。東海王越(司馬越)が天子の大駕を奉迎すると、劉弘は参軍の劉盤を派遣して督護とし、諸軍を率いて帰参した。劉盤が帰ると、劉弘は自分の老齢と病気を理由に、州長官と校尉の官職を解き、部下に分け授けようとした。上表する前に、襄陽で亡くなった。(荊州の)士女は嘆き悼み、親族を失ったようであった。
これよりさき、成都王穎(司馬穎)が南方に逃げると、本国(益州)に行こうとしたが、劉弘は(途中の荊州で)道を塞いだ。劉弘が亡くなると、劉弘の司馬の郭勱は司馬穎を盟主に推戴しようとした。劉弘の子の劉璠は劉弘の生前の志を継承し、墨絰(喪服)のまま府の兵を率いて郭勱を討伐し、濁水で戦って、これを斬った。襄水や沔水の一帯は平穏になった。これ以前、東海王越(司馬越)は劉弘が劉喬と手を組んで自分(司馬越)に刃向かうのではないかと疑い、節度を下しても、警戒を解かずにいた。劉弘が司馬穎の道を塞ぎ、さらに劉璠が郭勱を斬ったのを見て、(司馬越が執政する)朝廷はこれを良しとした。司馬越は直筆の書簡を劉璠に与えて賛美し、上表して劉弘に新城郡公を贈り、元と諡した。
高密王略(司馬略)を鎮(荊州方面の都督)の後任としたが、盗賊の取り締まりが成功しないので、詔して劉璠を起家させて順陽内史とした。長江や漢水のあたりは一致団結して心を寄せた。司馬略が薨去すると、山簡がこれに代わった。山簡が着任すると、劉璠が人々の支持を得ていることを知り、百姓が劉璠に迫って盟主に担ぎ上げることを恐れ、上表して状況を報告した。これを受けて劉璠を(朝廷に)徴して越騎校尉とした。劉璠もまた強く百姓から迫られることを心配していたので、任命状を受けると、ひとり早馬で洛陽に至り、そのあとで家族を洛陽に呼び寄せた。僑人の侯脱・路難らが連れだって(家族を)護衛して洛陽に到着し、身柄を送り届けてから帰った。かくして(劉弘の親族が去り)南夏(中夏の南)が乱れた。父老は劉弘を偲んだが、『詩経』甘棠が召伯の善政をうたった詩ですら、荊州の民から劉弘への敬慕を超えるものではない。
陶侃字士行、本鄱陽人也。吳平、徙家廬江之尋陽。父丹、吳揚武將軍。侃早孤貧、為縣吏。鄱陽孝廉范逵嘗過侃、時倉卒無以待賓、其母乃截髮得雙髲、以易酒肴、樂飲極歡、雖僕從亦過所望。及逵去、侃追送百餘里。逵曰、「卿欲仕郡乎」。侃曰、「欲之、困於無津耳」。逵過廬江太守張夔、稱美之。夔召為督郵、領樅陽令。有能名、遷主簿。會州部從事之郡、欲有所按、侃閉門部勒諸吏、謂從事曰、「若鄙郡有違、自當明憲直繩、不宜相逼。若不以禮、吾能禦之」。從事即退。夔妻有疾、將迎醫於數百里。時正寒雪、諸綱紀皆難之、侃獨曰、「資於事父以事君。小君、猶母也、安有父母之疾而不盡心乎」。乃請行。眾咸服其義。長沙太守萬嗣過廬江、見侃、虛心敬悅、曰、「君終當有大名」。命其子與之結友而去。
夔察侃為孝廉、至洛陽、數詣張華。華初以遠人、不甚接遇。侃每往、神無忤色。華後與語、異之。除郎中。伏波將軍孫秀以亡國支庶、府望不顯、中華人士恥為掾屬、以侃寒宦、召為舍人。時豫章國郎中令楊晫、侃州里也、為鄉論所歸。侃詣之、晫曰、「易稱『貞固足以幹事』、陶士行是也」。與同乘見中書郎顧榮、榮甚奇之。吏部郎溫雅謂晫曰、「奈何與小人共載」。晫曰、「此人非凡器也」。尚書樂廣欲會荊揚士人、武庫令黃慶進侃於廣。人或非之、慶曰、「此子終當遠到、復何疑也」。慶後為吏部令史、舉侃補武岡令。與太守呂岳有嫌、棄官歸、為郡小中正。
會劉弘為荊州刺史、將之官、辟侃為南蠻長史、遣先向襄陽討賊張昌、破之。弘既至、謂侃曰、「吾昔為羊公參軍、謂吾其後當居身處。今相觀察、必繼老夫矣」。後以軍功封東鄉侯、邑千戶。
陶侃 字は士行、本は鄱陽の人なり。吳 平らぐや、家を廬江の尋陽に徙す。父の丹は、吳の揚武將軍なり。侃 早く孤貧にして、縣吏と為る。鄱陽の孝廉の范逵 嘗て侃を過り、時に倉卒にして以て待賓する無く、其の母 乃ち截髮して雙髲を得て、以て酒肴に易へ、樂飲 歡を極め、僕從と雖も亦た所望を過ぐ。逵 去るに及び、侃 追ひて百餘里を送る。逵曰く、「卿 郡に仕へんと欲するか」と。侃曰く、「之を欲すれども、津無きに困むのみ」と。逵 廬江太守の張夔に過り、之を稱美す。夔 召して督郵と為し、樅陽令を領せしむ。能名有り、主簿に遷る。會々州部從事の郡に之くに、按ずる所有らんと欲するに、侃 閉門して諸吏を部勒し、從事に謂ひて曰く、「若し鄙郡 違有らば、自ら當に明憲直繩し、宜しく相 逼るべからず。若し禮を以てせざれば、吾 能く之を禦ぐ」と。從事 即ち退く。夔の妻 疾有るに、將に醫を數百里に迎へんとす。時に正に寒雪たりて、諸々の綱紀 皆 之を難しとす。侃 獨り曰く、「父に事ふるを資として以て君に事ふ。小君は、猶ほ母のごとし。安ぞ父母の疾有りて心を盡くさざるか」と。乃ち行くことを請ふ。眾 咸 其の義に服す。長沙太守の萬嗣 廬江を過るに、侃に見え、虛心に敬悅し、曰く、「君 終に當に大名有るべし」と。其の子に命じて之と與に結友せしめて去る。
夔 侃を察して孝廉と為す。洛陽に至るや、數々張華に詣る。華 初め遠人なるを以て、甚だ接遇せず。侃 每に往き、神 忤色無し。華 後に與に語り、之を異とす。郎中に除す。伏波將軍の孫秀 亡國の支庶なるを以て、府の望 顯ならず、中華の人士 掾屬と為るを恥づ。侃の寒宦なるを以て、召して舍人と為す。時に豫章國の郎中令の楊晫、侃の州里にして、鄉論の歸する所と為る。侃 之に詣るに、晫曰く、「易に稱す、『貞固 以て事を幹ふるに足る』とは、陶士行 是れなり」と。與に同乘して中書郎の顧榮に見え、榮 甚だ之を奇とす。吏部郎の溫雅 晫に謂ひて曰く、「奈何ぞ小人と與に共に載るか」と。晫曰く、「此の人 凡器に非ざるなり」と。尚書の樂廣 荊揚の士人に會せんと欲するに、武庫令の黃慶 侃を廣に進む。人 或いは之を非とす。慶曰く、「此の子 終に當に遠く到るべし、復た何ぞ疑ふや」と。慶 後に吏部令史と為り、侃を舉げて武岡令と補す。太守の呂岳と嫌有り、官を棄てて歸り、郡小中正と為る。
會々劉弘 荊州刺史と為り、將に官に之かんとするに、侃を辟して南蠻長史と為し、遣はして先に襄陽に向ひて賊の張昌を討たしめ、之を破る。弘 既に至るや、侃に謂ひて曰く、「吾 昔 羊公の參軍と為り、謂へらく吾 其の後に當に身處に居るべしと〔一〕。今 相 觀察するに、必ず老夫を繼がん」と。後に軍功を以て東鄉侯に封ぜられ、邑千戶なり。
〔一〕現行『晋書』の「謂吾其後當居身處」は、劉弘が羊祜の後継者を自認した文と解せられ、そのように翻訳した(和刻本も同様の理解)。ただし、これでは「身」字をうまく読むことができない。やや無理があるが、「謂吾、其後當居身處(吾に謂へらく、其の後 當に身(わ)が處に居るべし)」と文を切れば、羊祜が「劉弘こそ後継者である」と劉弘に告げたという間接話法の文となる。
陶侃は字を士行といい、もとは鄱陽郡の人であった。孫呉が平定されると、家を廬江の尋陽に移した。父の陶丹は、呉の揚武将軍であった。陶侃は早くに父を亡くして貧しく、県吏となった。鄱陽の孝廉の范逵がかつて陶侃を訪問したが、急のことでもてなす準備がないので、母が髪を切って二束のかつらとし、これを売って酒肴とし、酒宴は歓楽をきわめ、従者も期待以上に楽しんだ。范逵が立ち去るとき、陶侃は百里あまりまで見送った。范逵は「きみは郡に仕えたくないか」と言った。陶侃は、「郡に仕えたいのですが、伝手がありません」と言った。范逵が廬江太守の張夔を訪問したとき、陶侃の名前を出して褒めた。張夔は陶侃を召して督郵とし、樅陽令を領させた。有能さを知られ、主簿に遷った。州部従事が廬江郡にきて、巡察をしたが、陶侃は閉門して部下たちを控えさせ、従事に、「もしもわが郡に違反があれば、法規に沿って処罰して頂ければよく、威圧は無用です。もし無礼な方法で迫るならば、私が抵抗いたします」と言った。陶侃の態度に押されて従事は退いた。張夔の妻が病気になり、数百里先から医者を迎えようとした。このとき寒くて雪が降り、綱紀(主簿)らは(医者を呼ぶのは)無理だと言った。陶侃だけが、「自分の父に仕えるように君主に仕えるものだ。君主(太守)の妻は、母に等しい。どうして父母が病気のとき心を尽くさないのか」と言った。行かせてくれと言った。同僚たちは陶侃の義に感服した。長沙太守の萬嗣が廬江郡に来たとき、陶侃と会い、心から敬服して、「きみはきっと高い名声を得るだろう」と言った。萬嗣は自分の子に命じて陶侃と友誼を交わさせて去った。
張夔は陶侃を孝廉に察挙した。洛陽に到着すると、なんども張華を訪問した。張華は陶侃が遠方からきた(旧呉の)人であるから、冷たくあしらった。陶侃はそれでも通い詰め、不機嫌さを表に出さなかった。張華はのちに語りあい、すぐれた人物だと気づいた。郎中に任命された。伏波将軍の孫秀は亡国(旧呉)の皇族の庶流なので、伏波将軍府に権威がなく、中原の人々はそこの掾属になることを恥じた。陶侃が寒門の出身なので、孫秀が召して舎人とした。このとき豫章国の郎中令の楊晫は、陶侃と同郷であり、郷里で認められていた。陶侃が楊晫を訪ねると、楊晫は、「『易経』(乾卦)にいう、『正道を守れば仕事を成し遂げられる』とは、まさに陶士行(陶侃)のことだ」と言った。馬車に同乗して中書郎の顧栄と会見し、顧栄も陶侃がすぐれた人物だと認めた。吏部郎の温雅は楊晫に、「なぜ身分の低いものと同乗しているのか」と聞いた。楊晫は、「この人物の器量は平凡ではない」と言った。尚書の楽広は荊州や揚州の人士たちを集めようとし、武庫令の黄慶は陶侃を楽広に推薦した。この人選を批判したひとがいた。黄慶は、「この人物はきっと出世する。なんの問題があろうか」と押し戻した。黄慶がのちに吏部令史となり、陶侃を推薦して武岡令とした。太守の呂岳と対立し、官職を棄てて帰郷し、郡小中正となった。
このころ劉弘が荊州刺史となり、着任しようとするとき、陶侃を辟召して南蛮長史とし、先行して襄陽に派遣して賊の張昌を討伐させ、これを破った。劉弘が到着すると、陶侃に、「私はむかし羊公(羊祜)の参軍となり、自分こそが後任者に相応しいと自認した。いま陶侃のことを見るに、きみこそ老夫(わたし)の後継者だろう」と言った。のちに軍功によって東郷侯に封建され、邑千戸であった。
陳敏之亂、弘以侃為江夏太守、加鷹揚將軍。侃備威儀、迎母官舍、鄉里榮之。敏遣其弟恢來寇武昌、侃出兵禦之。隨郡內史扈瓌間侃於弘曰、「侃與敏有鄉里之舊、居大郡、統強兵、脫有異志、則荊州無東門矣。」弘曰、「侃之忠能、吾得之已久、豈有是乎!」侃潛聞之、遽遣子洪及兄子臻詣弘以自固。弘引為參軍、資而遣之。又加侃為督護、使與諸軍并力距恢。侃乃以運船為戰艦、或言不可、侃曰、「用官物討官賊、但須列上有本末耳。」於是擊恢、所向必破。侃戎政齊肅、凡有虜獲、皆分士卒、身無私焉。後以母憂去職。嘗有二客來弔、不哭而退、化為雙鶴、沖天而去、時人異之。
服闋、參東海王越軍事。江州刺史華軼表侃為揚武將軍、使屯夏口、又以臻為參軍。
軼與元帝素不平、臻懼難作、託疾而歸、白侃曰、「華彥夏有憂天下之志、而才不足、且與琅邪不平、難將作矣。」侃怒、遣臻還軼。臻遂東歸於帝。帝見之、大悅、命臻為參軍、加侃奮威將軍、假赤幢曲蓋軺車、鼓吹。侃乃與華軼告絕。
頃之、遷龍驤將軍・武昌太守。時天下饑荒、山夷多斷江劫掠。侃令諸將詐作商船以誘之。劫果至、生獲數人、是西陽王羕之左右。侃即遣兵逼羕、令出向賊、侃整陣於釣臺為後繼。羕縛送帳下二十人、侃斬之。自是水陸肅清、流亡者歸之盈路、侃竭資振給焉。又立夷市於郡東、大收其利。
而帝使侃擊杜弢、令振威將軍周訪・廣武將軍趙誘受侃節度。侃令二將為前鋒、兄子輿為左甄、擊賊、破之。時周顗為荊州刺史、先鎮潯水城、賊掠其良口。侃使部將朱伺救之、賊退保泠口。侃謂諸將曰、「此賊必更步向武昌、吾宜還城、晝夜三日行可至。卿等誰能忍饑鬭邪」。部將吳寄曰、「要欲十日忍饑、晝當擊賊、夜分捕魚、足以相濟」。侃曰、「卿健將也」。賊果增兵來攻、侃使朱伺等逆擊、大破之、獲其輜重、殺傷甚眾。遣參軍王貢告捷于王敦、敦曰、「若無陶侯、便失荊州矣。伯仁方入境、便為賊所破、不知那得刺史」。貢對曰、「鄙州方有事難、非陶龍驤莫可」。敦然之、即表拜侃為使持節・寧遠將軍・南蠻校尉・荊州刺史、領西陽・江夏・武昌、鎮于沌口、又移入沔江。遣朱伺等討江夏賊、殺之。賊王沖自稱荊州刺史、據江陵。王貢還、至竟陵、矯侃命、以杜曾為前鋒大督護、進軍斬沖、悉降其眾。侃召曾不到、貢又恐矯命獲罪、遂與曾舉兵反、擊侃督護鄭攀於沌陽、破之、又敗朱伺於沔口。侃欲退入溳中、部將張奕將貳於侃、詭說曰、「賊至而動、眾必不可」。侃惑之而不進。無何、賊至、果為所敗。賊鉤侃所乘艦、侃窘急、走入小船。朱伺力戰、僅而獲免。張奕竟奔于賊。侃坐免官。王敦表以侃白衣領職。
陳敏の亂に、弘 侃を以て江夏太守と為し、鷹揚將軍を加ふ。侃 威儀を備へ、母を官舍に迎へ、鄉里 之を榮とす。敏 其の弟の恢を遣はして武昌を來寇せしめ、侃 兵を出だして之を禦ぐ。隨郡內史の扈懷 侃を弘に間して曰く、「侃 敏と鄉里の舊有り、大郡に居り、強兵を統ぶ。脫し異志有らば、則ち荊州 東門無し」と。弘曰く、「侃の忠能、吾 之を得ること已に久し。豈に是れ有らんか」と。侃 潛かに之を聞き、遽かに子の洪及び兄の子の臻を遣はして弘に詣らしめ以て自固す。弘 引きて參軍と為し、資して之を遣はす。又 侃に加へて督護と為し、諸軍と與に并力して恢を距ましむ。侃 乃ち運船を以て戰艦と為す。或ひと不可と言ふも、侃曰く、「官物を用て官賊を討つ、但だ須らく列上すること本末有るべきのみ」と。是に於て恢を擊ち、向ふ所 必ず破る。侃の戎政 齊肅たり、凡そ虜獲有らば、皆 士卒を分かち、身ら私する無し。後に母憂を以て職を去る。嘗て二客の來弔する有り、哭せずして退り、化けて雙鶴と為り、沖天に去る。時人 之を異とす。
服闋するや、東海王越の軍事に參す。江州刺史の華軼 侃を表して揚武將軍と為し、夏口に屯せしめ、又 臻を以て參軍と為す。
軼 元帝と素より平ならず、臻 難 作るを懼れ、疾に託して歸り、侃に白して曰く、「華彥夏 天下を憂ふの志有るも、而れども才 足らず、且つ琅邪と平ならず。難 將に作らんとす」と。侃 怒り、臻を遣はして軼に還らしむ。臻 遂に東して帝に歸す。帝 之に見ゆるや、大いに悅び、臻に命じて參軍と為し、侃に奮威將軍を加へ、赤幢曲蓋軺車・鼓吹を假ふ。侃 乃ち華軼に絕を告ぐ。
頃之、龍驤將軍・武昌太守に遷る。時に天下 饑荒し、山夷 多く江を斷ちて劫掠す。侃 諸將をして詐りて商船を作りて以て之を誘はしむ。劫 果たして至り、數人を生獲するに、是れ西陽王羕の左右なり。侃 即ち兵を遣して羕に逼り、出でて賊に向はしむ。侃 陣を釣臺に整して後繼と為す。羕 縛りて帳下の二十人を送り、侃 之を斬る。是より水陸 肅清たりて、流亡する者 之に歸して路を盈たし、侃 資を竭して振給す。又 夷市を郡東に立て、大いに其の利を收む。
而して帝 侃をして杜弢を擊たしめ、振威將軍の周訪・廣武將軍の趙誘をして侃の節度を受けしむ。侃 二將をして前鋒と為し、兄子の輿もて左甄と為し、賊を擊ち、之を破る。時に周顗 荊州刺史と為るに、先に潯水城に鎮し、賊 其の良口を掠む。侃 部將の朱伺をして之を救はしめ、賊 退きて泠口を保つ。侃 諸將に謂ひて曰く、「此の賊 必ず步を更めて武昌に向はん。吾 宜しく城に還るべし。晝夜三日 行きて至る可し。卿ら誰か能く饑を忍びて鬭ふか」と。部將の吳寄曰く、「十日 饑を忍ぶを要欲せば、晝に當に賊を擊つべし、夜に分かれて魚を捕り、以て相 濟ふに足る」と。侃曰く、「卿 健將なり」と。賊 果たして兵を增して來攻し、侃 朱伺らをして逆擊せしめ、大いに之を破り、其の輜重を獲て、殺傷すること甚だ眾し。參軍の王貢を遣はして捷を王敦に告げしむ。敦曰く、「若し陶侯無くば、便ち荊州を失はん。伯仁 方に境に入り、便ち賊の破る所と為り、那(いか)に刺史たるを得るを知らず」と。貢 對へて曰く、「鄙州 方に事難有らんとす、陶龍驤非ずんば可なる莫からんか」と。敦 之を然りとし、即ち表して侃に拜して使持節・寧遠將軍・南蠻校尉・荊州刺史、領西陽・江夏・武昌と為し、沌口に鎮し、又 沔江に移入す。朱伺らを遣はして江夏の賊を討ち、之を殺す。賊の王沖 自ら荊州刺史を稱し、江陵に據る。王貢 還るや、竟陵に至り、侃の命を矯め、杜曾を以て前鋒大督護と為し、軍を進めて沖を斬り、悉く其の眾を降す。侃 曾を召すも到らず、貢 又 命を矯めて罪を獲るを恐れ、遂に曾と與に兵を舉げて反し、侃の督護の鄭攀を沌陽に擊ち、之を破り、又 朱伺を沔口に敗る。侃 退きて溳中に入らんと欲し、部將の張奕 將に侃に貳せんとし、詭きて說きて曰く、「賊 至りて動かば、眾 必ず可ならず」と。侃 之に惑ひて進まず。何ばくも無くして、賊 至り、果たして敗る所と為る。賊 侃の乘る所の艦を鉤し、侃 窘急し、走りて小船に入る。朱伺 力戰し、僅かにして免るるを獲たり。張奕 竟に賊に奔る。侃 坐して免官せらる。王敦 表して侃を以て白衣領職とす。
陳敏が乱を起こすと、劉弘は陶侃を江夏太守とし、鷹揚将軍を加えた。陶侃は威容をそなえた作法により、母を官舎に迎え入れたので、郷里ではこれを栄誉とした。陳敏が彼の弟の陳恢に武昌を侵略させると、陶侃は兵を出してこれを防いだ。隨郡内史の扈懐は陶侃と劉弘を仲違いさせようと、「陶侃は陳敏と同郷の旧知であり、大きな郡を統治し、強い兵を統率しています。 もし(陶侃に)野心があれば、荊州は東の門(東方の重要拠点である江夏郡)を失います」と言った。劉弘は、「陶侃が忠正で有能であることは、長い働きで分かっている。どうして野心などあろうか」と言った。陶侃はひそかにこれを聞き、あわてて子の陶洪と兄の子の陶臻を劉弘のもとに(人質として)送って忠正を強調した。劉弘は彼らを参軍に任命し、物資を持たせて(陶侃のもとに)帰らせた。さらに陶侃に督護の官位を加え、諸軍と力を合わせて陳恢を防がせた。陶侃は輸送船を戦艦に転用した。これに反対する人もいたが、陶侃は、「国家の物を使って国家の敵を討つのだ(転用に問題はない)、ただ状況を正しく報告することだけが重要だ」と言った。ここにおいて陳恢を攻撃し、戦うたびに必ず破った。陶侃の軍政は整然としており、獲得したものは、すべて士卒に分け与え、私有しなかった。のちに母の死を理由に官職を去った。二人の弔問客がきて、哭せずに立ち去り、二匹の鶴に化けて、天に飛び去った(髪をかつらにして売った逸話の帰結か)。人々は不思議なことだと言った。
喪が明けると、東海王越(司馬越)の軍事に参じた。江州刺史の華軼は陶侃を上表して揚武将軍とし、夏口に駐屯させ、さらに(兄の子の)陶臻を参軍とした。
華軼は元帝と不仲であり、陶臻は政変が起こることを恐れ、病気を理由に帰郷し、陶侃に報告して、「華彦夏(華軼)は天下のことを憂える志がありますが、才能が足りない上に、琅邪王(司馬睿)と不仲です。今にも政変が起こるでしょう」と言った。陶侃は怒り、陶臻を華軼のもとに帰らせた。陶臻はけっきょく(華軼と折り合わず)東に下って元帝に仕えた。元帝が陶臻に会うと、大いに悦び、陶臻を参軍に任命し、陶侃に奮威将軍を加え、赤幢曲蓋軺車と鼓吹を賜った。陶侃は華軼に絶交を告げた。
しばらくして、(陶侃は)龍驤将軍・武昌太守に遷った。このとき天下は飢饉で荒廃し、多くの山夷が長江を封鎖して略奪をした。陶侃は諸将に命じて偽物の商船を作らせて山夷をつり出した。狙いどおり盗賊が襲撃し、その数人を生け捕ったが、果たして西陽王羕(司馬羕)の手下であった。陶侃はすぐに兵を送って司馬羕に迫り、(責任をとって)賊の討伐に向かわせた。陶侃は陣を釣台で整えて後続の軍となった。司馬羕は帳下の二十人を縛って身柄を送り、陶侃はこれを斬った。これ以後は水上も陸上も治安が良くなり、流浪して(陶侃を)頼るものが道路を満たし、陶侃は財産を尽くして振給した。また夷市を郡の東に立て、大いに利潤をあげた。
そして元帝は陶侃に杜弢を攻撃させ、振威将軍の周訪・広武将軍の趙誘に命じて陶侃の節度を受けさせた。陶侃は二将を前鋒とし、兄の子の陶輿を左甄(左方の陣)とし、賊を攻撃し、これを破った。このとき周顗が荊州刺史になり、さきに潯水城を鎮所としていたが、賊が荊州の良民をさらっていた。陶侃は部将の朱伺に救援させ、賊は退いて泠口を拠点とした。陶侃は諸将に、「この賊(杜弢)はきっと目標を変えて武昌に向かうだろう。私は城(武昌)に帰るべきだ。昼夜兼行すれば三日で到着できるだろう。諸君のなかで飢えを我慢して戦えるものはいるか」と聞いた、部将の呉寄は、「もしも十日間、飢えを我慢する必要があれば、昼に賊を攻撃し、夜に分かれて魚を捕れば、持ち堪えられます(三日など楽勝です)」と言った。陶侃は「きみは健将だ」と言った。賊は果たして兵を増やして(武昌に)攻め寄せた。陶侃は朱伺らに迎撃させ、大いにこれを破り、賊の物資を没収し、多くを殺傷した。参軍の王貢を使者にして勝報を王敦に伝えさせた。王敦は、「もし陶侯がいなけば、荊州を失陥しただろう。伯仁(周顗)が荊州に入ったが、すぐに賊に破られ、まるで刺史の職責を果たしていない」と言った。王貢は答えて、「わが荊州は危機が接近しており、陶龍驤(龍驤将軍の陶侃)でなければ(刺史が)務まらないのではないでしょうか」と言った。王敦は同意し、すぐに上表して陶侃に使持節・寧遠将軍・南蛮校尉・荊州刺史を拝させ、西陽・江夏・武昌(太守)を領し、沌口を鎮所とし、また沔水や江水に移り入った。朱伺らに江夏の賊を討伐させ、これを殺した。賊の王沖が荊州刺史を自称し、江陵を拠点とした。王貢が(王敦への使者の任から)帰ると、竟陵に至り、陶侃の命令だと偽り、杜曾を前鋒大督護とし、軍を進めて王沖を斬り、配下の兵すべてを降伏させた。陶侃が召還したが杜曾は応じなかった。王貢もまた命令を偽った罪で罰せられることを恐れ、かくして杜曾とともに兵を挙げて反乱した。陶侃の督護の鄭攀を沌陽で攻撃して、これを破り、さらに朱伺を沔口で破った。陶侃は退いて溳中に入ろうとしたが、部将の張奕が陶侃を裏切ろうとして、跪いて説得し、「賊軍が来てから動けば、兵たちに不利です」と言った。陶侃はこれに惑わされて進軍しなかった。ほどなく、賊軍が到着し、果たして陶侃は敗れた。賊が陶侃の乗る船に鉤をひっかけ、陶侃は追い詰められたが、小船に逃げ移った。朱伺が必死に戦い、辛うじて逃げることができた。けっきょく張奕は賊の側についた。陶侃は敗戦の罪で免官された。王敦が上表して陶侃を白衣領職(免官だが留任)とした。
侃復率周訪等進軍入湘、使都尉楊舉為先驅、擊杜弢、大破之、屯兵于城西。侃之佐史辭詣王敦曰、「州將陶使君孤根特立、從微至著、忠允之功、所在有效。出佐南夏、輔翼劉征南、前遇張昌、後屬陳敏、侃以偏旅、獨當大寇、無征不克、羣醜破滅。近者王如亂北、杜弢跨南、二征奔走、一州星馳、其餘郡縣、所在土崩。侃招攜以禮、懷遠以德、子來之眾、前後累至。奉承指授、獨守危阨、人往不動、人離不散。往年董督、徑造湘城、志陵雲霄、神機獨斷。徒以軍少糧懸、不果獻捷。然杜弢慴懼、來還夏口、未經信宿、建平流人迎賊俱叛。侃即迴軍遡流、芟夷醜類、至使西門不鍵、華圻無虞者、侃之功也。明將軍愍此荊楚、救命塗炭、使侃統領窮殘之餘、寒者衣之、饑者食之、比屋相慶、有若挾纊。江濱孤危、地非重險、非可單軍獨能保固、故移就高莋、以避其衝。賊輕易先至、大眾在後、侃距戰經日、殺其名帥。賊尋犬羊相結、并力來攻、侃以忠臣之節、義無退顧、被堅執銳、身當戎行、將士奮擊、莫不用命。當時死者不可勝數。賊眾參伍、更息更戰。侃以孤軍一隊、力不獨禦、量宜取全、以俟後舉。而主者責侃、重加黜削。侃性謙沖、功成身退、今奉還所受、唯恐稽遲。然某等區區、實恐理失於內、事敗於外、豪氂之差、將致千里、使荊蠻乖離、西嵎不守、脣亡齒寒、侵逼無限也」。敦於是奏復侃官。
弢將王真精卒三千、出武陵江、誘五谿夷、以舟師斷官運、徑向武昌。侃使鄭攀及伏波將軍陶延夜趣巴陵、潛師掩其不備、大破之、斬千餘級、降萬餘口。真遁還湘城。賊中離阻、杜弢遂疑張奕而殺之、眾情益懼、降者滋多。王真復挑戰、侃遙謂之曰、「杜弢為益州吏、盜用庫錢、父死不奔喪。卿本佳人、何為隨之也。天下寧有白頭賊乎」。真初橫腳馬上、侃言訖、真斂容下腳、辭色甚順。侃知其可動、復令諭之、截髮為信、真遂來降。而弢敗走。進克長沙、獲其將毛寶・高寶・梁堪而還。
王敦深忌侃功。將還江陵、欲詣敦別、皇甫方回及朱伺等諫、以為不可。侃不從。敦果留侃不遣、左轉廣州刺史・平越中郎將、以王廙為荊州。侃之佐吏將士詣敦請留侃。敦怒、不許。侃將鄭攀・蘇溫・馬儁等不欲南行、遂西迎杜曾以距廙。敦意攀承侃風旨、被甲持矛、將殺侃、出而復迴者數四。侃正色曰、「使君之雄斷、當裁天下、何此不決乎」。因起如廁。諮議參軍梅陶・長史陳頒言於敦曰、「周訪與侃親姻、如左右手、安有斷人左手而右手不應者乎」。敦意遂解、於是設盛饌以餞之。侃便夜發。敦引其子瞻為參軍。侃既達豫章、見周訪、流涕曰、「非卿外援、我殆不免」。侃因進至始興。
先是、廣州人背刺史郭訥、迎長沙人王機為刺史。機復遣使詣王敦、乞為交州。敦從之、而機未發。會杜弘據臨賀、因機乞降、勸弘取廣州、弘遂與溫邵及交州秀才劉沈俱謀反。或勸侃且住始興、觀察形勢。侃不聽、直至廣州。弘遣使偽降。侃知其詐、先於封口起發石車。俄而弘率輕兵而至、知侃有備、乃退。侃追擊破之、執劉沈於小桂。又遣部將許高討機、斬之、傳首京都。諸將皆請乘勝擊溫邵、侃笑曰、「吾威名已著、何事遣兵、但一函紙自足耳」。於是下書諭之。邵懼而走、追獲於始興。以功封柴桑侯、食邑四千戶。
侃在州無事、輒朝運百甓於齋外、暮運於齋內。人問其故、答曰、「吾方致力中原、過爾優逸、恐不堪事」。其勵志勤力、皆此類也。
太興初、進號平南將軍、尋加都督交州軍事。及王敦舉兵反、詔侃以本官領江州刺史、尋轉都督・湘州刺史。敦得志、上侃復本職、加散騎常侍。時交州刺史王諒為賊梁碩所陷、侃遣將高寶進擊平之。以侃領交州刺史。錄前後功、封次子夏為都亭侯、進號征南大將軍・開府儀同三司。及王敦平、遷都督荊・雍・益・梁州諸軍事、領護南蠻校尉・征西大將軍・荊州刺史、餘如故。楚郢士女莫不相慶。
侃 復た周訪らを率ゐて軍を進めて湘に入り、都尉の楊舉をして先驅と為し、杜弢を擊たしめ、大いに之を破り、兵を城西に屯む。侃の佐史 王敦に辭詣して曰く、「州將の陶使君 孤根特立し、微より著に至り、忠允の功、所在に效有り。出でて南夏に佐として、劉征南を輔翼し、前は張昌に遇ひ、後は陳敏に屬ひ、侃 偏旅を以て、獨り大寇に當る。征して克たざる無く、羣醜 破滅す。近者 王如 北を亂し、杜弢 南に跨し、二征 奔走し、一州 星馳し、其の餘の郡縣、所在に土崩す。侃 攜(はな)れたるを招くに禮を以てし、遠きを懷けるに德を以てし、子來の眾、前後に累りに至る。指授を奉承して、獨り危阨を守り、人 往くも動ぜず、人 離るるも散らず。往年 董督して、徑ちに湘城に造る。志 雲霄を陵くし、神機 獨斷たり。徒に軍 少なく糧 懸なるを以て、捷を獻ずるを果たさず。然れども杜弢 慴懼し、夏口に來還して、未だ信宿を經ず、建平の流人 賊を迎へて俱に叛す。侃 即ち軍を迴して流を遡り、醜類を芟夷す。西門をして鍵しめず、華圻 虞れ無き者に至るは、侃の功なり。明將軍 此の荊楚を愍み、命を塗炭に救ひ、侃をして窮殘の餘を統領せしめよ。寒き者 之を衣し、饑うる者 之を食はせ、比屋 相 慶して、纊を挾むが若き有らん。江濱 孤危たりて、地 重險に非ず、單軍 獨り能く保固す可きに非ず、故に移りて高莋に就きて、以て其の衝を避く。賊 輕易して先に至り、大眾 後に在り。侃 距戰すること經日、其の名帥を殺す。賊 尋いで犬羊 相 結び、并力して來攻す。侃 忠臣の節を以て、義は退顧する無く、堅を被て銳を執り、身は戎行に當り、將士 奮擊し、用命せざる莫し。時に當たりて死者 勝げて數ふ可からず。賊眾の參伍、更々息み更々戰ふ。侃 孤軍の一隊を以て、力は獨り禦がず、宜を量り全を取り、以て後舉を俟つ。而れども主者 侃を責め、重く黜削を加ふ。侃 性は謙沖にして、功 成るも身 退く。今 受くる所を奉還し、唯だ稽遲ならんことを恐る。然して某ら區區にして、實に理を內に失ひ、事を外に敗るを恐る。豪氂の差、將に千里を致さんとす。使し荊蠻 乖離せば、西嵎 守らず、脣 亡ひて齒 寒く、侵逼 限り無きなり」と。敦 是に於て侃の官を復することを奏す。
弢 王真の精卒三千を將ゐて、武陵江に出で、五谿夷を誘ひ、舟師を以て官運を斷ち、徑ちに武昌に向ふ。侃 鄭攀及び伏波將軍の陶延をして夜に巴陵に趣き、師を潛めて其の不備を掩ひ、大いに之を破り、千餘級を斬り、萬餘口を降す。真 遁げて湘城に還る。賊中 離阻し、杜弢 遂に張奕を疑ひて之を殺し、眾情 益々懼れ、降る者 滋々多し。王真 復た戰ひを挑み、侃 遙かに之に謂ひて曰く、「杜弢 益州の吏と為て、庫錢を盜用し、父 死すれども喪に奔らず。卿 本は佳人なり、何為れぞ之に隨ふか。天下に寧ぞ白頭の賊有らんや」と。真 初め腳を馬上に橫にす。侃 言ひ訖はるや、真 容を斂め腳を下ろし、辭色 甚だ順なり。侃 其の動ず可きを知り、復た之を諭さしむ。髮を截ちて信と為し、真 遂に來降す。而して弢 敗走す。進みて長沙に克ち、其の將の毛寶・高寶・梁堪を獲りて還る。
王敦 深く侃の功を忌む。將に江陵に還らんとするに、敦に詣りて別せんと欲し、皇甫方回及び朱伺ら諫め、以て不可と為す。侃 從はず。敦 果たして侃を留めて遣はさず、廣州刺史・平越中郎將に左轉し、王廙を以て荊州と為す。侃の佐吏將士 敦に詣りて侃を留めんことを請ふ。敦 怒り、許さず。侃の將の鄭攀・蘇溫・馬儁ら南行するを欲せず、遂に西して杜曾を迎へて以て廙を距む。敦 攀は侃の風旨を承くと意ひ、甲を被て矛を持し、將に侃を殺さんとし、出でて復た迴る者 數四なり。侃 正色して曰く、「使君の雄斷、當に天下すら裁つべし。何ぞ此れ決せざるか」と。因りて起ちて廁に如く。諮議參軍の梅陶・長史の陳頒 敦に言ひて曰く、「周訪 侃と親姻にして、左右の手の如し。安ぞ人の左手を斷ちて右手 應ぜざる者有らんか」と。敦が意 遂に解し、是に於て盛饌を設けて以て之を餞く。侃 便ち夜に發す。敦 其の子の瞻を引きて參軍と為す。侃 既に豫章に達するや、周訪に見え、流涕して曰く、「卿の外援非ざれば、我 殆ど免れざる」と。侃 因りて進みて始興に至る。
是より先、廣州の人 刺史の郭訥に背き、長沙の人の王機を迎へて刺史と為す。機 復た使を遣はして王敦に詣らしめ、交州と為すことを乞ふ。敦 之に從ふも、而れども機 未だ發せず。會々杜弘 臨賀に據り、機に因りて降を乞ひ、弘に廣州を取ることを勸む。弘 遂に溫邵及び交州の秀才の劉沈と與に俱に謀反す。或ひと侃に勸むらく且に始興に住まり、形勢を觀察せよと。侃 聽かず、直ちに廣州に至る。弘 使を遣はして偽降す。侃 其の詐を知り、先に封口に於て發石車を起つ。俄かにして弘 輕兵を率ゐて至り、侃 備有るを知り、乃ち退く。侃 追擊して之を破り、劉沈を小桂に執ふ。又 部將の許高を遣はして機を討たしめ、之を斬り、首を京都に傳ふ。諸將 皆 勝に乘じて溫邵を擊つを請ふ。侃 笑ひて曰く、「吾が威名 已に著はれ、何ぞ遣兵を事とせん。但だ一函紙のみあれば自ら足るのみ」と。是に於て書を下して之を諭す。邵 懼れて走り、追ひて始興に獲ふ。功を以て柴桑侯に封ぜられ、食邑四千戶なり。
侃 州に在りて事無くんば、輒ち朝に百甓を齋外に運びて、暮に齋內に運ぶ。人 其の故を問ふに、答へて曰く、「吾 方に力を中原に致さんとす。過爾として優逸たれば、事に堪へざるを恐る」と。其の勵志勤力は、皆 此の類ひなり。
太興の初め、號を平南將軍に進め、尋いで都督交州軍事を加ふ。王敦 兵を舉げて反するに及び、侃に詔して本官を以て江州刺史を領せしめ、尋いで都督・湘州刺史に轉ず。敦 志を得るや、侃を上して本職に復せしめ、散騎常侍を加ふ。時に交州刺史の王諒 賊の梁碩の陷する所と為り、侃 將の高寶を遣はして進擊して之を平らがしむ。侃を以て交州刺史を領せしむ。前後の功を錄し、次子の夏を封じて都亭侯と為し、號を征南大將軍・開府儀同三司に進む。王敦 平らぐに及び、都督荊・雍・益・梁州諸軍事に遷り、護南蠻校尉・征西大將軍・荊州刺史を領し、餘は故の如し。楚郢の士女 相 慶せざる莫し。
陶侃はふたたび周訪らを率いて軍を進めて湘水に入り、都尉の楊挙を先駆とし、杜弢を攻撃した。大いに杜弢を破り、(陶侃は)兵を城の西に駐屯させた。陶侃の佐史が王敦に申し開きにゆき、「州将(荊州刺史)の陶使君は親を失ったところから身を立て、低い地位から高い官職に登り、忠正の功績は、各署で現れています。中原から南方に転出し、劉征南(劉弘)を輔佐し、はじめに張昌の乱、つぎに陳敏の乱に遭遇しましたが、陶侃は偏旅(少数の一部隊)だけで、多数の敵と戦いました。征伐すれば勝たないことがなく、醜悪な賊たちは破滅しました。近ごろは王如が北方で反乱し、杜弢が南方で割拠し、両方に征伐の軍が向かい、一州の軍が急行しましたが、(州軍が来ない)その他の郡県は、各地で崩壊しました。陶侃は離叛したものを礼によって招き、遠方にいるものを徳によって懐柔したので、まるで子が親を慕うように、前後に続いて帰順するものがありました。(陶侃は)国家の命令を奉り、単独で危険な地を守り、(配下の)人が去っても動揺せず、人が離れても解散しませんでした。前年に軍を統括して、まっすぐ湘城に向かいました。志は天空より高く、判断力に優れています。ただ兵員が少なく兵糧が足りないので、今回は敗北しただけです。ところが杜弢が疑心暗鬼になって、夏口に戻るや、まだ二日と経たないうちに、建平の流人が賊を迎えて結託して反乱しました。陶侃は軍を反転させて流れを遡り、賊たちを平定しました。荊州の西方の防備が不要になり、中夏の四方から脅威を消したのは、陶侃の功績です。明将軍(王敦)はこのような荊楚の地をあわれみ、民を苦しみから救うため、陶侃に生き残りたちを統治させて下さいますように。そうすれば凍えた者に服を着せ、飢えた者を食わせ、家々は慶賀して、厚い恩恵に感謝するでしょう。長江流域は孤立して危うく、険しい地形ではないので、単独の軍では治安を維持できません。そこで(いま陶侃は)高所に陣取って、敵軍の脅威を避けています。賊はこちらを侮って先発隊をよこし、大軍を後方に置いてきました。陶侃は数日にわたり防戦し、敵軍の指導者を殺しました。敗北を受けて賊たちは団結し、攻め寄せています。陶侃は忠臣の節をもち、国家のために絶対に後退せず、みずから鎧を着て武器を持ち、戦場に身をさらすので、将士は激励され、命を投げ出しています。これまで死者は数えきれません。賊軍の部隊は(数が多いので)、交替で休憩をとって戦っていますが、陶侃は孤立した一部隊のみで、賊軍を防ぐには力不足で、機会をはかって生き残り、味方を待っています。しかし担当官が陶侃を責め、厳しく官職を没収しました。陶侃は慎み深い性格なので、これまでの功績を主張せずに身を引きました。いま支給されたものを返却し、返却が遅れることだけを恐れています。しかし愚かな私は、(陶侃の免官という措置が)内には道理にあわず、外には敗北を招くことを恐れています。僅かな判断の誤りが、千里に影響を及ぼすでしょう。もし荊州の蛮族が離叛すれば、西方(長江上流)の守りが崩れれば、唇が滅びて歯が寒いように、国家(陶臻)にとって脅威が極めて大きくなるでしょう」と言った。ここにおいて王敦は陶侃の官職の回復を上奏した。
杜弢が王真の精兵三千を率いて、武陵江に進出し、五谿夷を誘い、水軍を使って国家の輸送網を断ち切り、まっすぐ武昌に向かった。陶侃は鄭攀と伏波将軍の陶延に夜に巴陵に行かせ、兵を伏せて敵軍の裏をかいて襲撃し、大いにこれを破り、千人あまりを斬り、一万人あまりを降伏させた。王真は逃げて湘城に還った。賊が仲間割れして、杜弢は張奕のことを疑って殺した。賊たちはますます恐れ、降伏するものが増えた。王真がまた戦いを挑むと、陶侃は遠くから呼びかけて、「杜弢は益州の吏であったが、官庫の銭を盗んで使い、父が死んでも葬儀に行かなかった。あなたは本来は佳人(立派な人物)であるのに、どうして杜弢などに従うのか。天下に白髪あたまの(長生きできた)盗賊がいようか」と言った。王真ははじめは馬上に足を横たえていたが、陶侃が言い終えると、居住まいを正して足をおろし、恭順な面持ちになった。陶侃は王真を懐柔できると考え、説得を重ねた。髪を切って保証とし、王真はついに投降した。杜弢も敗走した。(陶侃は)進軍して長沙を破り、その将の毛宝・高宝・梁堪を捕縛して還った。
王敦は陶侃の功績の大きさを邪魔だと感じた。陶侃が江陵に帰るとき、王敦に訪問して別れを告げようとしたが、皇甫方回と朱伺らは諫め、訪問に反対した。陶侃は従わなかった。王敦は果たして陶侃を留めて(江陵に)行かせず、広州刺史・平越中郎将に左遷し、王廙を荊州刺史とした。陶侃の佐吏や将士は王敦を訪れて陶侃を(荊州に)留めるよう頼んだ。王敦は怒り、許さなかった。陶侃の将の鄭攀・蘇温・馬儁らは南方(広州)に行くことを嫌がり、西に行き杜曾を迎えて王廙の着任を防いだ。王敦は鄭攀が陶侃の意向を受けていると思い、鎧をきて矛を持ち、陶侃を殺そうとしたが、何度も行ったり来たりし(殺さずにい)た。陶侃は顔色を変えず、「使君(王敦)の雄壮な決断は、天下すら切り分けます。それなのに決断できないことがあるのですか」と言って、立ち上がって厠所に行った。諮議参軍の梅陶・長史の陳頒は王敦に、「周訪は陶侃と姻戚関係にあり、人間の左右の手のように一対です。左手を断ち切れば必ずや右手が襲いかかります」と言った。王敦はやっと殺害をあきらめ、盛んな酒席を設けて見送った。陶侃は夜に出発した。王敦は陶侃の子の陶瞻を招いて参軍とした。陶侃が豫章に到着すると、周訪に会って、流涕して、「あなたが外から牽制してくれなければ、私は確実に死んでいた」と言った。陶侃はさらに進んで始興に到着した。
陶侃が任地の広州で仕事がないときは、朝に百枚の瓦を齋(居室)の外に運び出し、夕方に齋の中に運び入れた。あるひとが行動の理由を聞くと、陶侃は、「中原で力を発揮するための準備だ。ゆったりと過ごせば、(中原で兵を率いる)激務に体が耐えられなくなる」と答えた。陶侃の高い志と詭弁さは、このようであった。
これよりさき、広州の人が広州刺史の郭訥に背き、長沙の人の王機を迎えて広州刺史にしようとした。王機もまた(王敦から広州討伐を受けることを恐れ)使者を王敦に送り、交州刺史になりたいと要請した。王敦はこれに従ったが、王機はまだ赴任せずにいた。そのころ杜弘が臨賀を拠点としていたが、(杜弘が)王機に降伏を申し出たので、(王機は)杜弘に広州を取ることを勧めた。杜弘はこうして温邵及び交州の秀才の劉沈とともに謀反した。あるひとが陶侃に「始興に留まって、形勢を観望しなさい」と勧めた。陶侃はこれに従わず、すぐに広州に至った。杜弘は使者をよこして偽って降伏した。陶侃は偽りに気づいて、先に封口で発石車を建造した。にわかに杜弘が軽兵を率いて到来したが、陶侃に防備があることを知って、撤退した。陶侃は追撃してこれを破り、劉沈を小桂で捕らえた。また部将の許高を派遣して王機を討伐し、これを斬り、首を京都に送った。諸将はみな勝ちに乗じて温邵を攻撃しましょうと言った。陶侃は笑って、「わが威名はすでに顕著なので、なぜ派兵の必要があろうか。ただ一通の書箱と紙があれば事足りる」と言った。こうして書簡を下して説諭した。温邵は懼れて逃げ、追って始興で捕らえた。この功績により柴桑侯に封建され、食邑は四千戸であった。
太興年間の初め、官号を平南将軍に進め、ほどなく都督交州軍事を加えた。王敦が兵を挙げて反すると、陶侃に詔して本官のまま江州刺史を領させ、すぐに都督・湘州刺史に転じた。王敦が志を得ると、陶侃を昇格して本職にもどし、散騎常侍を加えた。このとき交州刺史の王諒が賊の梁碩に囚われた。陶侃は将の高宝を遣わして進撃してこれを平定させた。陶侃に交州刺史を領させた。前後の功績を評価し、次子の陶夏を都亭侯に封建し、官号を征南大将軍・開府儀同三司に進めた。王敦が平定されると、都督荊・雍・益・梁州諸軍事に遷り、護南蛮校尉・征西大将軍・荊州刺史を領し、それ以外は現状のままとした。楚郢(荊州)の士女は慶賀しないものがなかった。
侃性聰敏、勤於吏職、恭而近禮、愛好人倫。終日斂膝危坐、閫外多事、千緒萬端、罔有遺漏。遠近書疏、莫不手答、筆翰如流、未嘗壅滯。引接疏遠、門無停客。常語人曰、「大禹聖者、乃惜寸陰、至於眾人、當惜分陰、豈可逸遊荒醉、生無益於時、死無聞於後、是自棄也」。諸參佐或以談戲廢事者、乃命取其酒器・蒱博之具、悉投之于江、吏將則加鞭扑、曰、「樗蒱者、牧䐗奴戲耳。老莊浮華、非先王之法言、不可行也。君子當正其衣冠、攝其威儀、何有亂頭養望自謂宏達邪」。有奉饋者、皆問其所由。若力作所致、雖微必喜、慰賜參倍。若非理得之、則切厲訶辱、還其所饋。嘗出遊、見人持一把未熟稻、侃問、「用此何為」。人云、「行道所見、聊取之耳」。侃大怒曰、「汝既不田、而戲賊人稻」。執而鞭之。是以百姓勤於農殖、家給人足。時造船、木屑及竹頭悉令舉掌之、咸不解所以。後正會、積雪始晴、聽事前餘雪猶溼、於是以屑布地。及桓溫伐蜀、又以侃所貯竹頭作丁裝船。其綜理微密、皆此類也。
暨蘇峻作逆、京都不守、侃子瞻為賊所害、平南將軍溫嶠要侃同赴朝廷。初、明帝崩、侃不在顧命之列、深以為恨、答嶠曰、「吾疆埸外將、不敢越局」。嶠固請之、因推為盟主。侃乃遣督護龔登率眾赴嶠、而又追迴。嶠以峻殺其子、重遣書以激怒之。侃妻龔氏亦固勸自行。於是便戎服登舟、星言兼邁、瞻喪至不臨。五月、與溫嶠・庾亮等俱會石頭。諸軍即欲決戰、侃以賊盛、不可爭鋒、當以歲月智計擒之。累戰無功、諸將請於查浦築壘。監軍部將李根建議、請立白石壘。侃不從、曰、「若壘不成、卿當坐之」。根曰、「查浦地下、又在水南、唯白石峻極險固、可容數千人、賊來攻不便、滅賊之術也」。侃笑曰、「卿良將也」。乃從根謀、夜修曉訖。賊見壘大驚。賊攻大業壘、侃將救之、長史殷羨曰、「若遣救大業、步戰不如峻、則大事去矣。但當急攻石頭、峻必救之、而大業自解」。侃又從羨言。峻果棄大業而救石頭。諸軍與峻戰陳陵東、侃督護竟陵太守李陽部將彭世斬峻於陣、賊眾大潰。峻弟逸復聚眾。侃與諸軍斬逸於石頭。
初、庾亮少有高名、以明穆皇后之兄受顧命之重、蘇峻之禍、職亮是由。及石頭平、懼侃致討、亮用溫嶠謀、詣侃拜謝。侃遽止之、曰、「庾元規乃拜陶士行邪」。王導入石頭城、令取故節、侃笑曰、「蘇武節似不如是」。導有慚色、使人屏之。
侃旋江陵、尋以為侍中・太尉、加羽葆鼓吹、改封長沙郡公、邑三千戶、賜絹八千匹、加都督交・廣・寧七州軍事。以江陵偏遠、移鎮巴陵。遣諮議參軍張誕討五谿夷、降之。
屬後將軍郭默矯詔襲殺平南將軍劉胤、輒領江州。侃聞之曰、「此必詐也」。遣將軍宋夏・陳脩率兵據湓口、侃以大軍繼進。默遣使送妓婢絹百匹、寫中詔呈侃。參佐多諫曰、「默不被詔、豈敢為此事。若進軍、宜待詔報」。侃厲色曰、「國家年小、不出胸懷。且劉胤為朝廷所禮、雖方任非才、何緣猥加極刑。郭默虓勇、所在暴掠、以大難新除、威網寬簡、欲因隙會騁其從橫耳」。發使上表討默。與王導書曰、「郭默殺方州、即用為方州。害宰相、便為宰相乎」。導答曰、「默居上流之勢、加有船艦成資、故苞含隱忍、使其有地。一月潛嚴、足下軍到、是以得風發相赴、豈非遵養時晦以定大事者邪」。侃省書笑曰、「是乃遵養時賊也」。侃既至、默將宗侯縛默父子五人及默將張丑詣侃降、侃斬默等。默在中原、數與石勒等戰、賊畏其勇、聞侃討之、兵不血刃而擒也、益畏侃。蘇峻將馮鐵殺侃子奔于石勒、勒以為戍將。侃告勒以故、勒召而殺之。詔侃都督江州、領刺史、增置左右長史・司馬・從事中郎四人、掾屬十二人。侃旋于巴陵、因移鎮武昌。
侃命張夔子隱為參軍、范逵子珧為湘東太守、辟劉弘曾孫安為掾屬、表論梅陶、凡微時所荷、一餐咸報。
遣子斌與南中郎將桓宣西伐樊城、走石勒將郭敬。使兄子臻・竟陵太守李陽等共破新野、遂平襄陽。拜大將軍、劍履上殿、入朝不趨、讚拜不名。上表固讓、曰、「臣非貪榮於疇昔、而虛讓於今日。事有合於時宜、臣豈敢與陛下有違。理有益於聖世、臣豈與朝廷作異。臣常欲除諸浮長之事、遣諸虛假之用、非獨臣身而已。若臣杖國威靈、梟雄斬勒、則又何以加」。
侃の性 聰敏にして、吏職に勤め、恭にして禮に近く、人倫を愛好す。終日 膝を斂めて危坐し、閫外 多事にして、千緒 萬端なるも、遺漏有る罔し。遠近の書疏、手答せざる莫く、筆翰は流るるが如く、未だ嘗て壅滯せず。疏遠を引接し、門に停客無し。常に人に語りて曰く、「大禹は聖者なり、乃ち寸陰を惜む。眾人に至りては、當に分陰すら惜むべし。豈に逸遊し荒醉す可きか。生きて時に益無く、死して後に聞く無きは、是れ自ら棄つるなり」と。諸々の參佐 或もの談戲を以て事を廢する者ありて、乃ち命じて其の酒器・蒱博の具を取り、悉く之を江に投ず。吏將 則ち鞭扑を加へて、曰く、「樗蒱は、牧䐗奴の戲なり。老莊の浮華は、先王の法言に非ず。行ふ可からざるなり。君子 當に其の衣冠を正して、其の威儀を攝るべし。何ぞ亂頭養望にして自ら宏達を謂ふもの有らんか」と。饋を奉る者有らば、皆 其の由る所を問ふ。若し力作の致す所なれば、微と雖も必ず喜び、慰賜すること參倍なり。若し理に非ずして之を得れば、則ち切厲し訶辱して、其の饋る所を還す。嘗て出遊するに、人の一把の未だ熟せざる稻を持つを見、侃 問ひ、「此を用て何に為すと」。人 云はく、「行道の見る所なれば、聊(いささ)か之を取るのみ」と。侃 大いに怒りて曰く、「汝 既に田さず、而れども戲らに人の稻を賊(ぬす)む」と。執らへて之を鞭す。是を以て百姓 農殖に勤め、家は給し人は足る。時に船を造り、木屑及び竹頭 悉く舉げて之を掌らしむるも、咸 所以を解かず。後に正會に、積雪して始めて晴るるや、聽事の前に餘雪 猶ほ溼し、是に於て屑を以て地に布く。桓溫 蜀を伐つに及び、又 侃の貯ふる所の竹頭を以て丁(くぎ)を作りて船を裝す。其の綜理微密たること、皆 此の類なり。
蘇峻 逆を作すに暨びて、京都 守らず、侃の子の瞻 賊の害する所と為り、平南將軍の溫嶠 侃を要して同に朝廷に赴く。初め、明帝 崩ずるや、侃 顧命の列に在らず、深く以て恨と為す。嶠に答へて曰く、「吾 疆埸の外將にして、敢て局を越えず」と。嶠 固く之に請ひ、因りて推して盟主と為す。侃 乃ち督護の龔登を遣はして眾を率ゐて嶠に赴かしめ、而して又 追迴す。嶠 峻 其の子を殺すを以て、重ねて書を遣はして以て之を激怒せしむ。侃の妻の龔氏も亦た固く勸めて自ら行かしむ。是に於て便ち戎服して舟に登り、星言 兼邁し、瞻の喪 至るも臨まず。五月、溫嶠・庾亮らと與に俱に石頭に會す。諸軍 即ち決戰せんと欲するも、侃 以へらく賊 盛にして、爭鋒す可からず、當に歲月を以て智計もて之を擒にすべしと。累戰して功無く、諸將 查浦に壘を築かんと請ふ。監軍部將の李根 建議し、白石壘を立てんと請ふ。侃 從はず、曰く、「若し壘 成らずんば、卿 當に之に坐すべし」と。根曰く、「查浦の地は下(ひく)く、又 水の南に在り、唯だ白石のみ峻にして極めて險固、數千人を容る可し。賊 來攻するも便ならず、滅賊の術なり」と。侃 笑ひて曰く、「卿 良將なり」と。乃ち根の謀に從ひ、夜に修め曉に訖はる。賊 壘を見て大いに驚く。賊 大業壘を攻め、侃 將に之を救はんとするに、長史の殷羨曰く、「若し遣して大業を救はば、步戰 峻に如かざれば、則ち大事 去らん。但だ當に急ぎ石頭を攻むべし。峻 必ず之を救ひ、而して大業 自づから解けん」と。侃 又 羨の言に從ふ。峻 果たして大業を棄てて石頭を救ふ。諸軍 峻と戰ひて陵東に陳し、侃の督護たる竟陵太守の李陽が部將の彭世 峻を陣に於て斬り、賊眾 大いに潰す。峻の弟の逸 復た眾を聚む。侃 諸軍と與に逸を石頭に於て斬る。
初め、庾亮 少くして高名有り、明穆皇后の兄なるを以て顧命の重を受く。蘇峻の禍に、亮に職(もと)とするは是の由なり。石頭 平らぐに及び、侃 討を致すを懼れ、亮 溫嶠の謀を用ひ、侃に詣りて拜謝す。侃 遽かに之を止めて、曰く、「庾元規 乃ち陶士行に拜するか」と。王導 石頭城に入り、故節を取らしむ。侃 笑ひて曰く、「蘇武の節 是の如くあらざるに似たり」と。導 慚色有り、人をして之を屏(さへぎ)らしむ。
侃 江陵に旋し、尋いで以て侍中・太尉と為し、羽葆鼓吹を加へ、改めて長沙郡公に封じ、邑三千戶、絹八千匹を賜ひ、都督交・廣・寧七州軍事を加ふ。江陵 偏遠なるを以て、鎮を巴陵に移す。諮議參軍の張誕を遣はして五谿夷を討ち、之を降す。
後將軍の郭默 詔を矯めて平南將軍の劉胤を襲殺するに屬ひ、輒ち江州を領す。侃 之を聞きて曰く、「此れ必ず詐なり」と。將軍の宋夏・陳脩を遣はして兵を率ゐて湓口に據らしめ、侃 大軍を以て繼進す。默 使を遣はして妓婢絹百匹を送り、中詔を寫して侃に呈す。參佐 多く諫めて曰く、「默 詔を被らずんば、豈に敢て此の事を為すか。若し進軍すらば、宜しく詔報を待つべし」と。侃 色を厲して曰く、「國家 年小なり、胸懷より出でず。且つ劉胤 朝廷の禮する所と為り、方任に非才と雖も、何に緣りて猥りに極刑を加ふるか。郭默 虓勇にして、所在に暴掠なり。大難 新たに除かれ、威網 寬簡なるを以て、隙會に因りて其の從橫を騁せんと欲するのみ」と。使を發して上表して默を討つ。王導に書を與へて曰く、「郭默 方州を殺し、即ち用て方州と為る。宰相を害さば、便ち宰相と為るか」と。導 答へて曰く、「默 上流の勢に居りて、加へて船艦成資有れば、故に隱忍を苞含し、其の地を有(たも)たしむ。一月 潛かに嚴にして、足下の軍 到らば、是を以て風發して相 赴くを得たり。豈に時晦を遵養して以て大事を定むる者に非ざるや」と。侃 書を省みて笑ひて曰く、「是れ乃ち時賊を遵養するなり」と。侃 既に至るや、默の將の宗侯 默の父子五人及び默の將の張丑を縛して侃に詣りて降り、侃 默らを斬る。默 中原に在り、數々石勒らと戰ひ、賊 其の勇を畏る。侃 之を討ち、兵 刃を血らずして擒とすると聞き、益々侃を畏る。蘇峻の將の馮鐵 侃の子を殺して石勒に奔り、勒 以て戍將と為す。侃 勒に告ぐるに故を以てし、勒 召して之を殺す。侃に詔して江州を都督せしめ、刺史を領し、左右長史・司馬・從事中郎四人、掾屬十二人を增置す。侃 巴陵に旋るや、因りて鎮を武昌に移す。
侃 張夔の子の隱に命じて參軍と為し、范逵の子の珧もて湘東太守と為し、劉弘の曾孫の安を辟して掾屬と為し、表して梅陶を論じ、凡そ微なる時に荷ふ所をば、一餐して咸 報ゆ。
子の斌を遣はして南中郎將の桓宣と與に樊城を西伐し、石勒の將の郭敬を走らす。兄の子の臻・竟陵太守の李陽らをして共に新野を破り、遂に襄陽を平らぐ。大將軍を拜し、劍履上殿、入朝不趨、讚拜不名とす。上表して固讓して、曰く、「臣 榮を疇昔に貪りて、而して今日に虛讓するに非ず。事として時宜に合する有らば、臣 豈に敢て陛下と違有らんや。理として聖世に益有らば、臣 豈に朝廷と異を作すや。臣 常に諸々の浮長の事を除き、諸々の虛假の用を遣さんと欲す。獨り臣が身のみに非ず。若し臣 國の威靈に杖り、雄を梟し勒を斬らば、則ち又 何を以て加へん」と。
陶侃の性質は鋭敏で、職務に勤勉で、恭しく礼に則り、人倫の道(伝統的な儒教)を好んだ。つねに正しい姿勢で腰掛けて、地方の政務が忙しく、職務は全般にわたったが、まったく遺漏がなかった。遠近に送る書状は、すべて直筆をして、筆跡は流れるようで、遅滞することがなかった。疎遠なものを招待し、門前に列の滞留がなかった。つねにひとに、「大禹は聖人であり、寸陰を惜しんだ。聖人ならざる我らは、(より細かく)分陰すらも惜しむべきだ。ゆったりと酒を飲んでいる時間などあろうか。生きて当世の役に立たず、死んで後世に名を遺さないのは、自分を捨てたも同然だ」と言っていた。談笑して仕事を怠る部下がいると、酒器や樗蒲(賭博の遊具)を没収し、すべて長江に投げ入れた。部下を鞭で叩いて、「樗蒲は、賤しき牧童の遊びである。老荘のように軽薄な議論に興じるのは、先王の教えに背くことである。博打や議論に耽ってはならない。君子は衣冠を正して、威儀を正すべきである。頭髪を振り乱して(儒教から逸脱し)名声を稼ごうとしてはならない」と言った。贈り物があると、その由来を聞いた。もし苦労して得たものならば、少しの贈り物でも必ず喜び、三倍のお返しをした。もし道理に反して得たものなら、叱りつけて罵倒し、贈り物を突き返した。
かつて外出すると、まだ実らない稲穂を持つ人がいたので、陶侃は、「それをどうするのか」と聞いた。聞かれた人は、「道に落ちていたので、ちょっと拾っただけです」と言った。陶侃は大いに怒って、「お前は自分で耕さず、いたずらに他人の稲を盗んだ」と言い、捕らえて鞭で打った。これにより百姓は農耕に励み、家計は充足した。あるとき船を作り、木くずと竹の切れ端をすべて集めさせたが、みな理由が分からなかった。のちに元旦の儀式のとき、雪が降り止んだが、朝廷の前には雪が残って湿っており、陶侃はそこに木くずを敷いた。桓温が蜀(成漢)を討伐するとき、陶侃が貯めていた竹の切れ端で釘をつくって船の装甲を作った。陶侃が目端が利いて緻密であることは、この類いであった。
蘇峻が反逆すると、建康を守り切れず、陶侃の子の陶瞻は賊に殺害され、平南将軍の温嶠は陶侃に皇帝のもとに行こうと要請した。これよりさき、明帝が崩御したとき、陶侃は遺命を託する臣のなかに名がなく、これを根に持っていた。温嶠に答えて、「私は地方を守る指揮官に過ぎず、分限を越えて朝廷に行くなんてとんでもない」と言った。温嶠が強く要請して、陶侃を盟主に推薦した。陶侃は督護の龔登に兵を率いて温嶠のもとに行かせたが、後方で戦闘を避けた。蘇峻が陶侃の子を殺すと、温嶠は書状を重ねて送って陶侃が蘇峻に怒るように仕向けた。陶侃の妻の龔氏もまた陶侃に出陣を焚きつけた。ここにおいてようやく軍装して船に乗り、昼夜兼行し、子の陶瞻の遺体が届いても面会しなかった。五月に、温嶠と庾亮らと石頭で合流した。諸軍はすぐに戦いを挑もうとしたが、陶侃は賊軍(蘇峻)の勢いが盛んで、戦闘を避けるべきであり、時間をかけて智謀を用いて捕獲すべきだと言った。何度も戦っても成果がなかった。諸将は查浦に防塁を築くことを提案した。監軍部将の李根が建議して、白石に防塁を築きましょうと言った。陶侃は却下して、「もし防塁が完成しなければ、あなたの責任だ」と言った。李根は、「查浦の地は低く、しかも川の南にあります。ただ白石だけが高みにあって極めて堅固な地形で、数千人を収容できます。賊が攻め寄せても自軍が有利に戦えます。これこそ賊を滅ぼす方法です」と言った。陶侃は笑って、「きみは良将だ」と言った。そこで李根の計画に従い、夜に着工して明け方には完成した。賊は完成した塁を見てとても驚いた。賊が大業の塁を攻め、陶侃がここを救おうとすると、長史の殷羨が、「もし兵を送って大業を救援すれば、歩兵戦では蘇峻のほうが有利なので、わが軍は負けるでしょう。ただ急ぎ石頭を攻めなさい。蘇峻は必ず石頭の救援にもどり、大業の包囲は自然と解けるでしょう」と言った。陶侃は殷羨の発言に従った。蘇峻は果たして大業を棄てて石頭を救った。諸軍は蘇峻と戦って陵東に布陣した。陶侃の督護である竟陵太守の李陽の部将の彭世が蘇峻を戦陣で斬り、賊軍はおおいに潰乱した。蘇峻の弟の蘇逸も兵数を集めた。陶侃は諸将とともに蘇逸を石頭で斬った。
これよりさき、庾亮は若くして高い名声があり、明穆皇后の兄として遺命を受ける重臣に名を連ねた。蘇峻の禍の原因は、庾亮が作ったものである。石頭が平定されると、(庾亮は)陶侃から討伐を受けることを恐れ、温嶠が考えた計略を用い、陶侃のもとを訪れて(機先を制して)拝謝した。陶侃はにわかに制止し、「庾元規(庾亮)ともあろうものが、どうして陶士行(わたし)に頭を下げるのか」と毒気を抜かれた。王導が石頭城に入ると、陶侃が持っている節(指揮権の象徴)を回収させた。陶侃は笑って、「(前漢の)蘇武ならばこれほど簡単に節を手放さなかっただろうな」と(自身の兵権の強さをにじませて)言った。王導は恥じ入って、回収を中止させた。
陶侃は江陵に凱旋し、ほどなく侍中・太尉となり、羽葆鼓吹を加え、改めて長沙郡公に封建された。邑三千戸、絹八千匹を賜わり、都督交・広・寧七州軍事を加えた。江陵の位置が偏って(建康から)遠いので、鎮所を巴陵に移した。諮議参軍の張誕を派遣して五谿夷を討伐し、これを降した。
後将軍の郭黙が詔があったと偽って平南将軍の劉胤を襲って殺し、郭黙が江州刺史を領した。陶侃はこれを聞いて、「これは必ず(郭黙の)が嘘をついている」と言った。将軍の宋夏・陳脩を派遣して兵を率いて湓口を守らせ、陶侃は大軍を進めて後に続いた。郭黙は使者を送って妓婢と絹百匹を送り、内密の詔を書き写して陶侃に示した。部下たちは多くが(郭黙討伐を)諫めて、「もしも郭黙が詔を受けていなければ、どうして劉胤を殺害するでしょうか。もし進軍するならば、朝廷に問い合わせてからです」と言った。陶侃は血相を変えて、「国家(皇帝)は年少であり、自ら(劉胤を殺せと)判断したとは思えない。しかも劉胤は朝廷から尊敬を受けており、地方長官としては才覚がなくとも、どうしてみだりに死刑になるものか。郭黙は虎のように勇猛で、任地で暴虐を働いている。国家の大きな危機が去り、統治方針が緩められたので、その隙を突いて野心を剥き出しにしたに違いない」と言った。使者を送って上表してから郭黙を討伐した。
陶侃は王導に書簡を送り、「郭黙が刺史(劉胤)を殺して、刺史となりました。宰相(王導)を殺害したら、宰相になれるということですか」と言った。王導は答えて、「郭黙は長江の上流を抑え、船舶と物資を蓄えているので、暴挙を黙認して江州を任せました。一ヵ月かけてひそかに軍備と整え、あなたの軍が到着したら合流し、風のように激しく一斉に郭黙を攻める予定でした。これこそ自軍の実力を隠して養い、大きな事業(郭黙の討伐)をなす方法ではありませんか」と言った。陶侃はこの返書を見て笑い、「これは(悠長すぎて)今日の賊(郭黙)を守り育てるようなやり方だ」と言った。陶侃が到着すると、郭黙の将の宗侯が郭黙の父子五人と郭黙の将の張丑を縛って陶侃のもとに出頭し、陶侃は郭黙らを斬った。郭黙は中原において、しばしば石勒らと戦い、胡族は郭黙の勇猛さを畏れていた。陶侃がこれを討ち、戦わずに捕縛したと聞き、胡族はますます陶侃を畏れた。蘇峻の将の馮鉄が陶侃の子を殺して石勒のもとに逃げると、石勒はこれを戍将(守将)とした。陶侃が石勒に経緯を説明すると、石勒は馮鉄を召して殺し(陶侃の意向に従っ)た。陶侃に詔して江州を都督させ、刺史を領し、左右長史・司馬・従事中郎四人、掾属十二人を増員した。陶侃が巴陵に凱旋すると、鎮所を武昌に移した。
陶侃は張夔の子の張隠を参軍に任命し、范逵の子の范珧を湘東太守とし、劉弘の曾孫の劉安を掾属に辟召し、上表して梅陶の功績を論じた。微賤のときに恩があったひとは、夕食に招待して報いた。
子の陶斌を派遣して南中郎将の桓宣とともに西にゆき樊城を攻撃し、石勒の将の郭敬を敗走させた。兄の子の陶臻と竟陵太守の李陽らに新野を攻撃させてこれを破り、襄陽を平定した。大将軍を拝し、剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の特権を与えられた。上表して固辞して、「臣はこれまで十分に栄誉を貪ってきました。この辞退は空言ではありません。時宜にあった政策ならば、どうして陛下に逆らうでしょうか。国家に利益があることなら、どうして朝廷の判断に背くでしょうか。臣はつねに浮薄なことを除き、虚礼をやめたいと考えてきました。これは私のことだけではありません。もしも国家の威霊によって、李雄と石勒を斬ったならば、これらの特権を頂きたいと思います」と言った。
咸和七年六月疾篤、又上表遜位曰、臣少長孤寒、始願有限。過蒙聖朝歷世殊恩・陛下睿鑒、寵靈彌泰。有始必終、自古而然。臣年垂八十、位極人臣、啟手啟足、當復何恨。但以陛下春秋尚富、餘寇不誅、山陵未反、所以憤愾兼懷、不能已已。臣雖不知命、年時已邁、國恩殊特、賜封長沙、隕越之日、當歸骨國土。臣父母舊葬、今在尋陽、緣存處亡、無心分違、已勒國臣修遷改之事、刻以來秋、奉迎窀穸、葬事訖、乃告老下藩。不圖所患、遂爾綿篤、伏枕感結、情不自勝。臣間者猶為犬馬之齒尚可小延、欲為陛下西平李雄、北吞石季龍、是以遣毋丘奧於巴東、授桓宣於襄陽。良圖未敘、於此長乖。此方之任、內外之要、願陛下速選臣代使、必得良才、奉宣王猷、遵成臣志、則臣死之日猶生之年。
陛下雖聖姿天縱、英奇日新、方事之殷、當賴羣儁。司徒導鑒識經遠、光輔三世。司空鑒簡素貞正、內外惟允。平西將軍亮雅量詳明、器用周時、即陛下之周召也。獻替疇諮、敷融政道、地平天成、四海幸賴。謹遣左長史殷羨奉送所假節麾・幢曲蓋・侍中貂蟬・太尉章・荊江州刺史印傳棨戟。仰戀天恩、悲酸感結。
以後事付右司馬王愆期、加督護、統領文武。
侃輿車出臨津就船、明日、薨于樊谿、時年七十六。成帝下詔曰、「故使持節・侍中・太尉・都督荊江雍梁交廣益寧八州諸軍事・荊江二州刺史・長沙郡公經德蘊哲、謀猷弘遠。作藩于外、八州肅清。勤王于內、皇家以寧。乃者桓文之勳、伯舅是憑。方賴大猷、俾屏予一人。前進位大司馬、禮秩策命、未及加崇。昊天不弔、奄忽薨殂、朕用震悼于厥心。今遣兼鴻臚追贈大司馬、假蜜章、祠以太牢。魂而有靈、嘉茲寵榮」。又策諡曰桓、祠以太牢。侃遺令葬國南二十里、故吏刊石立碑畫像於武昌西。
侃在軍四十一載、雄毅有權、明悟善決斷。自南陵迄于白帝數千里中、路不拾遺。蘇峻之役、庾亮輕進失利。亮司馬殷融詣侃謝曰、「將軍為此、非融等所裁」。將軍王章至、曰、「章自為之、將軍不知也」。侃曰、「昔殷融為君子、王章為小人。今王章為君子、殷融為小人」。侃性纖密好問、頗類趙廣漢。嘗課諸營種柳、都尉夏施盜官柳植之於己門。侃後見、駐車問曰、「此是武昌西門前柳、何因盜來此種」。施惶怖謝罪。時武昌號為多士、殷浩・庾翼等皆為佐吏。侃每飲酒有定限、常歡有餘而限已竭、浩等勸更少進、侃悽懷良久曰、「年少曾有酒失、亡親見約、故不敢踰」。議者以武昌北岸有邾城、宜分兵鎮之。侃每不答、而言者不已、侃迺渡水獵、引將佐語之曰、「我所以設險而禦寇、正以長江耳。邾城隔在江北、內無所倚、外接羣夷。夷中利深、晉人貪利、夷不堪命、必引寇虜、迺致禍之由、非禦寇也。且吳時此城乃三萬兵守、今縱有兵守之、亦無益於江南。若羯虜有可乘之會、此又非所資也」。後庾亮戍之、果大敗。季年懷止足之分、不與朝權。未亡一年、欲遜位歸國、佐吏等苦留之。及疾篤、將歸長沙、軍資器仗牛馬舟船皆有定簿、封印倉庫、自加管鑰、以付王愆期、然後登舟、朝野以為美談。將出府門、顧謂愆期曰、「老子婆娑、正坐諸君輩」。尚書梅陶與親人曹識書曰、「陶公機神明鑒似魏武、忠順勤勞似孔明、陸抗諸人不能及也」。謝安每言「陶公雖用法、而恒得法外意」。其為世所重如此。然媵妾數十、家僮千餘、珍奇寶貨富於天府。或云「侃少時漁於雷澤、網得一織梭、以挂于壁。有頃雷雨、自化為龍而去」。又夢生八翼、飛而上天、見天門九重、已登其八、唯一門不得入。閽者以杖擊之、因墜地、折其左翼。及寤、左腋猶痛。又嘗如廁、見一人朱衣介幘、斂板曰、「以君長者、故來相報。君後當為公、位至八州都督」。有善相者師圭謂侃曰、「君左手中指有豎理、當為公。若徹於上、貴不可言」。侃以針決之見血、灑壁而為「公」字、以紙裛手、「公」字愈明。及都督八州、據上流、握強兵、潛有窺窬之志、每思折翼之祥、自抑而止。
咸和七年六月、疾篤なりて、又 上表して位を遜して曰く、「臣 少きより孤寒に長じ、始め願ひ限り有り。聖朝の歷世の殊恩・陛下の睿鑒を過蒙し、寵靈 彌々泰なり。始め有れば必ず終はるは、古より然り。臣 年 八十に垂として、位 人臣を極め、手を啟き足を啟くとも、當に復た何の恨みあるべき。但だ以ふに陛下 春秋 尚ほ富み、餘寇 誅せず、山陵 未だ反らず、所以に憤愾 兼て懷ひ、已む能はざるのみ。臣 命を知らざると雖も、年時 已に邁し、國恩 殊に特にして、封を長沙を賜はり、隕越の日に、當に骨を國土に歸すべし。臣の父母 舊葬し、今 尋陽に在り、存に緣りて亡を處するに、分違に心無く、已に國臣に修遷して之を改むる事を勒し、刻するに來秋を以てし、窀穸を奉迎せしむ。葬事 訖はらば、乃ち告老して下藩す。圖らざりき患ふ所、遂に爾れ綿篤たり、枕を伏伏せ感結し、情 自ら勝えず。臣 間者 猶ほ為ち犬馬の齒 尚ほ小延す可くんば、陛下の為に西は李雄を平らげ、北は石季龍を吞し、是を以て毋丘奧を巴東に遣はし、桓宣に襄陽を授けんと欲す。良圖 未だ敘せず、此に於て長く乖けり。此の方の任は、內外の要なり、願くは陛下 速やかに臣が代使を選び、必ず良才を得て、王猷を奉宣し、臣が志を遵成せば、則ち臣 死するの日すら猶ほ生くるの年なり。
陛下 聖姿 天縱にして、英奇 日々新しと雖も、事の殷に方たりては、當に羣儁を賴るべし。司徒の導は鑒識經遠にして、光輔すること三世なり。司空の鑒は簡素貞正にして、內外 惟允なり。平西將軍の亮 雅量詳明にして、器用 時に周し、即ち陛下の周召なり。獻替疇諮して、政道を敷融にせしめ、地 平らぎ天 成り、四海 幸とし賴らん。謹みて左長史の殷羨を遣して假する所の節麾・幢曲蓋・侍中貂蟬・太尉章・荊江州刺史印傳棨戟を奉送す。仰ぎて天恩を戀ひ、悲酸 感結す」と。
後事を以て右司馬の王愆期に付し、督護を加へて、文武を統領せしむ。
侃 輿車もて臨津に出でて船に就き、明日、樊谿に薨ず。時に年七十六なり。成帝 詔を下して曰く、「故使持節・侍中・太尉・都督荊江雍梁交廣益寧八州諸軍事・荊江二州刺史・長沙郡公は德を經にし哲を蘊み、謀猷 弘遠なり。外に于て藩と作りて、八州 肅清たり。內に于て王に勤たり、皇家 以て寧たり。乃者 桓文の勳、伯舅に是れ憑る。方に大猷に賴り、予一人に屏たらしめんとす。前に位を大司馬に進め、禮秩策命、未だ加崇に及ばず。昊天 弔ず、奄忽として薨殂す。朕 用て厥の心を震悼す。今 兼鴻臚を遣はして大司馬を追贈し、蜜章を假し、祠るに太牢を以てす。魂 而(も)し靈有らば、茲の寵榮を嘉せよ」と。又 策して諡して桓と曰ひ、祠るに太牢を以てす。侃 遺令して國の南二十里に葬り、故吏 石を刊りて碑を立て像を畫くに武昌西に於てす。
侃 軍に在ること四十一載、雄毅にして權有り、明悟にして善く決斷す。南陵より白帝に迄るまでの數千里中、路は遺を拾はず。蘇峻の役に、庾亮 輕々しく進みて利を失ふ。亮の司馬の殷融 侃に詣りて謝して曰く、「將軍 此を為す、融らの裁する所に非ず」と。將軍の王章 至りて、曰く、「章 自ら之を為す、將軍 知らず」と。侃曰く、「昔 殷融は君子為り、王章は小人為り。今 王章は君子為り、殷融は小人為り」と。侃 性は纖密にして問を好み、頗る趙廣漢に類たり。嘗て諸營に柳を種うるを課し、都尉の夏施 官柳を盜みて之を己の門に植う。侃 後に見て、車を駐めて問ひて曰く、「此れ是れ武昌の西門前の柳なり、何に因りて此の種を盜み來たる」と。施 惶怖して謝罪す。時に武昌 號して多士為りと。殷浩・庾翼ら皆 佐吏と為る。侃 每に飲酒して定限有り、常に歡みて餘有りて限 已に竭くるや、浩ら更に少進を勸むるに、侃 悽懷すること良久して曰く、「年少のとき曾て酒失有り、亡親 約せられ、故に敢て踰えず」と。議者 以へらく武昌の北岸に邾城有り、宜しく兵を分けて之に鎮すべしと。侃 每に答へず、而れば言ふ者 已まず、侃 迺ち水を渡りて獵し、將佐を引きて之に語りて曰く、「我 險を設けて寇を禦ぐ所以は、正に長江を以てするのみ。邾城 隔して江北に在り、內は倚る所無く、外は羣夷に接す。夷中は利 深く、晉人 利を貪らば、夷 命に堪へず、必ず寇虜を引き、迺ち禍を致すの由にして、寇を禦するに非ざるなり。且つ吳の時 此の城 乃ち三萬の兵もて守り、今 縱ひ兵 之を守る有るも、亦た江南に益無し。若し羯虜 可乘の會有あらば、此れ又 資する所非ざるなり」と。後に庾亮 之を戍するに、果たして大敗す。季年に止足の分を懷き、朝權に與らず。未だ亡せざるの一年に、位を遜して國に歸らんと欲し、佐吏ら之を苦留す。疾篤に及び、將に長沙に歸らんとし、軍資・器仗・牛馬・舟船 皆 定簿有り、倉庫を封印し、自ら管鑰を加へ、以て王愆期に付し、然る後に舟に登り、朝野 以て美談と為す。將に府門を出でんとするに、顧みて愆期に謂ひて曰く、「老子 婆娑なり、正に諸君輩に坐(を)る」と。尚書の梅陶 親人の曹識に書を與へて曰く、「陶公 機神明鑒たること魏武に似て、忠順勤勞たること孔明に似たり、陸抗の諸人 及ぶ能はざるなり」と。謝安 每に言ふ、「陶公 法を用ふと雖も、而れども恒に法外の意を得たり」と。其の世の為に重しとする所 此の如し。然も媵妾數十あり、家僮千餘あり、珍奇寶貨 天府よりも富む。或ひと云はく、「侃 少き時 雷澤に漁し、網の一織梭を得て、以て壁に挂ぐ。有頃して雷雨あり、自ら化して龍と為りて去る」と。又 夢みらく八翼を生やし、飛びて天に上り、天門の九重を見て、已に其の八を登るに、唯だ一門のみ入るを得ず。閽者 杖を以て之を擊ち、因りて地に墜ち、其の左翼を折る。寤むるに及び、左腋 猶ほ痛し。又 嘗て廁に如き、一人の朱衣の介幘を見るに、板を斂めて曰く、「君が長者なるを以て、故に來たりて相 報す。君 後に當に公と為り、位は八州都督に至るべし」と。善く相する者の師圭なる有り、侃に謂ひて曰く、「君 左手の中指に豎理有り、當に公と為るべし。若し上に徹らば、貴きこと言ふ可からず」と。侃 針を以て之を決して血を見て、壁に灑(そそ)ぎて「公」の字と為り、紙を以て手を裛(つつ)むに、「公」の字 愈々明なり。八州を都督するに及び、上流に據りて、強兵を握り、潛かに窺窬の志有るも、每に折翼の祥を思ひ、自ら抑して止む。
咸和七年六月、病気が重くなり、重ねて上表して官位を返上し、「臣は若いときに父を失って貧しく、身の程をわきまえていました。(ところが)晋朝の歴代と陛下から特別の恩寵を被り、立場が定まりました。始めがあれば必ず終わるのは、古からの定理です。臣は八十歳になろうとして、位は人臣を極め、手足の傷を見ても(『論語』泰伯編、臨終の床のこと)、もう思い残しがありません。ただ思いますに陛下はまだ若く、賊の残党の誅殺がまだで、山陵(洛陽周辺の西晋の陵墓)を取り戻しておらず、ゆえに無念さと憤りで胸が一杯で、堪えきれません。臣は天からの使命を知覚していませんが、すでに年齢を重ね、特別な恩を受けて、長沙国に封建されました。死んだならば、わが骨を藩国に埋めて下さい。臣の父母を、かつて尋陽に葬りましたが、死後も離ればなれなのは、とても辛いことですので、わが藩国の臣下に改葬を命じて、来秋に亡き父母の埋葬地を移し、長沙に墓を迎えたいと思います。改葬の段取りが終われば、老齢により引退して藩国に帰ります。思わぬ病気になり、日ごとに悪化するので、枕を伏せて泣き、堪えきれません。臣がもう少しむだに長生きができましたら、陛下のために西方で李雄を平定し、北方で石季龍を併呑して、毋丘奧を巴東に派遣し、桓宣に襄陽を授けたいと思います。良い計画をまだ実行に移せず、長く放置してしまいました。荊州長官の地位は、内外の要ですから、陛下は速やかに後任者を選び、すぐれた才能を得て、王業を押し広げて下さい。私の遺志が継承されるならば、死後も生きているのと同じです。
陛下は生まれながらに聡明であられ、日々成長していますが、多忙な政務については、優秀な臣下たちを頼って下さい。司徒の王導は遠大な見識をもち、三代にわたり宰相を務めています。司空の温鑒は質素で正しく、内外に忠誠があります。平西将軍の庾亮はゆったりしながら細やかで、当世の政治家として第一であり、陛下にとって(西周の)召公奭にあたります。宰相たちに意見をはかり、政治の道を調和させ、天地を正しく治めれば、四海にとって幸いとなりましょう。謹んで左長史の殷羨を使わしてお預かりしている節麾・幢曲蓋・侍中の貂蟬・太尉の章・荊江州刺史の印伝と棨戟を返却いたします。天恩を恋い慕い、哀しみが極まっております」と言った。
後事を右司馬の王愆期に託し、督護を加えて、文武の官を統括させた。
陶侃は輿車(小輿)で臨津に出て船に乗ったが、その翌日に樊谿で薨去した。七十六歳であった。成帝は詔を下し、「もと使持節・侍中・太尉・都督荊江雍梁交広益寧八州諸軍事・荊江二州刺史・長沙郡公(の陶侃)は徳を備え知恵を蓄え、謀略は高遠であった。地方に出て藩屏となり、八州は静穏に治まった。朝廷において勤勉に仕え、皇帝の家は安寧となった。斉の桓公や晋の文公のようや勲功があり、伯舅(異姓諸侯の呼称)が頼りであった。大きな政道は、すべて彼に委任しようと思っていた。かつて位を大司馬に進め、礼制上の特別な恩典を与えたが、まだ受け取っていなかった。高い空のもと、(陶侃は)突然に薨去した。朕の心は震え悼んでいる。いま兼鴻臚を派遣して大司馬を追贈し、蜜章を仮し、太牢で祠るように。もし霊魂があるなら、この栄誉を嘉納してほしい」と言った。また策して桓と諡し、太牢で祠った。陶侃の遺令のとおり藩国の南二十里に葬り、故吏は石を削って碑を立てて武昌の西にすがたを描いた。
陶侃は軍務を四十一年間つとめ、雄々しくて強く権謀があり、頭脳明晰で決断力があった。南陵から白帝に至るまでの数千里の(陶侃が管轄した)地域は、道の落とし物さえ拾われないほど治安が良かった。蘇峻との戦役のとき、庾亮は軽率に進んで敗北した。庾亮の司馬の殷融が陶侃のもとにきて弁明し、「庾亮将軍の失敗です、融(わたし)たちの失敗ではありません」と言った。将軍の王章がきて、陶侃に、「章(わたし)自身の失敗です。庾亮将軍は関知していません」と言った。陶侃は、「むかし殷融は君子であり、王章はつまらぬ人物だと言われた。いまや王章は君子であり、殷融はつまらぬ人物になった」と言った。
陶侃は緻密な思考をして問答を好み、(前漢の)趙広漢と同類であった。かつて各軍営に柳を植えよと命じると、都尉の夏施は官の柳を盗んで自家の門に植えた。陶侃は後にこれを見て、車を止めて質問し、「これは武昌の西門前の柳である、どうして官有の種を盗んできたのか」と言った。夏施は恐れて謝罪した。このとき武昌は人材が豊かと言われていた。殷浩と庾翼らはどちらも(陶侃の)佐吏となった。陶侃は飲酒をしても節度を守り、殷浩らが深酒を勧めても、陶侃は悲しそうに声を詰まらせて、「若いときに酒で失敗した。亡き親と節酒を約束したので、飲み過ぎないのだ」と言った。
武昌の北岸に邾城があり、兵を分けてそこに配備せよという意見があった。陶侃がいつも返答しなかったので、提案者はこれを言い続けた。これを受けて陶侃は長江を北に渡って猟をして、将佐を率いて語り、「私は険しい地形を利用して敵軍を防ぐつもりで、長江こそが防壁である。邾城は長江の北側に隔たり、内側から支えられず、外側は夷狄たちの国(五胡十六国)に接している。夷狄の国のなかに有利な拠点があり、われら晋人がその利点を確保すれば、夷狄は堪らず、襲撃を招くため、禍いの原因となるのであり、国家の防衛には役立たない。しかも三国呉ではこの城を三万の兵で守っていた(が最後は魏に敗れた)。もし兵を配備して守っても、江南には利益がない。胡族が隙に乗じて攻めてこれば、この城は防衛の役に立たない」と言った。のちに庾亮がこの城を守ったが、果たして大敗した。
晩年は分限を越えないように気をつけ、朝廷の政治に介入しなかった。死ぬ一年前に、官位を返上して藩国(長沙)に帰りたいといい、佐吏たちが必死に慰留した。病気になって、長沙に帰るときに、軍資・器仗・牛馬・舟船はすべて数量を帳簿につけ、倉庫を封印し、自分で鍵をかけて、王愆期に託し、その後に船に乗っ(て都を去っ)たので、朝野はこれを美談とした。自分の役所の門を出るとき、振り返って王愆期に、「肩の荷が下りた、きみたちがいるから」と言った。
尚書の梅陶は親しい曹識に書簡を送り、「陶公(陶侃)は機転が利いて聡明であることが魏武(曹操)のようで、忠実で勤勉であることが孔明(諸葛亮)のようだ。陸抗のような者たちは陶侃に及ぶべくもない」と言った。謝安はつねに、「陶公が法を運用するとき、つねに法に収まらない意を込めた」と言った。陶侃が当世に重んじられたのはこのようであった。しかも側室が数十人、召使いが千人あまりいて、珍品や財物は国庫よりも豊かだった。あるひとは、「陶侃が若いときに雷沢で魚をとり、漁網に織機の梭(ひ)が一つ掛かり、これを壁にかけた。しばらくして雷雨があり、梭(ひ)が龍に変化して飛び去った」と言った。また陶侃は夢のなかで八枚の翼を生やし、飛んで天に昇り、九重の天門を見て、その八つまでを登ったが、一つだけ入ることができなかった。門番が杖で陶侃を打ち、地に叩き落とされ、左翼が折れた。陶侃が目を覚ますと、まだ左わきが痛かったという。かつて厠所にいき、朱衣と頭巾をつけた人物と会ったが、板をしまって、「きみが立派な人物なので、知らせに来た。きみはきっと三公になり、八州都督の位に至るだろう」と言われた。また人相見の師圭というものが、陶侃に、「きみの左手の中指にたての筋があり、三公になる予兆である。もし指の先まで筋が突き抜ければ、尊さは言えないほどだ(皇帝になれる)」と言った。陶侃が針で筋を切り裂くと出血し、壁に血が飛んで「公」の字となり、紙で手を包んで血をぬぐうと、「公」の字がますます鮮明だった。(陶侃が実際に)八州を都督すると、国家の上流の地を抑え、強兵を握り、ひそかに簒奪の志を抱いたが、翼が折れた夢のことを忘れず、野心を抑制した。
侃有子十七人、唯洪・瞻・夏・琦・旗・斌・稱・範・岱見舊史、餘者並不顯。
洪辟丞相掾、早卒。
瞻字道真、少有才器、歷廣陵相、廬江・建昌二郡太守、遷散騎常侍・都亭侯。為蘇峻所害、追贈大鴻臚、諡愍悼世子。以夏為世子。及送侃喪還長沙、夏與斌及稱各擁兵數千以相圖。既而解散、斌先往長沙、悉取國中器仗財物。夏至、殺斌。庾亮上疏曰、「斌雖醜惡、罪在難忍、然王憲有制、骨肉至親、親運刀鋸以刑同體、傷父母之恩、無惻隱之心、應加放黜、以懲暴虐」。亮表未至都、而夏病卒。詔復以瞻息弘襲侃爵、仕至光祿勳。卒、子綽之嗣。綽之卒、子延壽嗣。宋受禪、降為吳昌侯、五百戶。
琦司空掾。
旗歷位散騎常侍・郴縣開國伯。咸和末、為散騎侍郎。性甚凶暴。卒、子定嗣。卒、子襲之嗣。卒、子謙之嗣。宋受禪、國除。
斌尚書郎。
稱東中郎將・南平太守・南蠻校尉・假節。性虓勇不倫、與諸弟不協。後加建威將軍。咸康五年、庾亮以稱為監江夏隨義陽三郡軍事・南中郎將・江夏相、以本所領二千人自隨。到夏口、1.(輕)〔徑〕將二百人下見亮。亮大會吏佐、責稱前後罪惡、稱拜謝、因罷出。亮使人於閤外收之、棄市。亮上疏曰、「案稱、大司馬侃之孼子、父亡不居喪位、荒耽于酒、昧利偷榮、擅攝五郡、自謂監軍、輒召王官、聚之軍府。故車騎將軍劉弘曾孫安寓居江夏、及將楊恭・趙韶、並以言色有忤、稱放聲當殺、安・恭懼、自赴水而死、韶於獄自盡。將軍郭開從稱往長沙赴喪、稱疑開附其兄弟、乃反縛懸頭於帆檣、仰而彈之、鼓棹渡江二十餘里、觀者數千、莫不震駭。又多藏匿府兵、收坐應死。臣猶未忍直上、且免其司馬。稱肆縱醜言、無所顧忌、要結諸將、欲阻兵構難。諸將惶懼、莫敢酬答、由是姦謀未即發露。臣以侃勳勞王室、是以依違容掩、故表為南中郎將、與臣相近、思欲有以匡救之。而稱豺狼愈甚、發言激切、不忠不孝、莫此之甚。苟利社稷、義有專斷、輒收稱伏法」。
範最知名、太元初、為光祿勳。
岱散騎侍郎。
1.『冊府元亀』巻四百一に従い、「輕」を「徑」に改める。
侃 子十七人有り、唯だ洪・瞻・夏・琦・旗・斌・稱・範・岱のみ舊史に見え、餘者 並びに顯ならず。
洪 丞相掾に辟せられ、早くに卒す。
瞻 字は道真、少くして才器有り、廣陵相、廬江・建昌二郡太守を歷し、散騎常侍・都亭侯に遷る。蘇峻の害する所と為り、大鴻臚を追贈し、愍悼世子と諡せらる。夏を以て世子と為す。侃の喪を送りて長沙に還るに及び、夏 斌及び稱と與に各々兵數千を擁して以て相 圖る。既に解散するや、斌 先に長沙に往き、悉く國中の器仗財物を取る。夏 至るや、斌を殺す。庾亮 上疏して曰く、「斌 醜惡なりと雖も、罪 忍び難きに在り。然れども王憲に制有り、骨肉は至親なり。親ら刀鋸を運びて以て同體を刑するは、父母の恩を傷つけ、惻隱の心無し。應に放黜を加へて、以て暴虐を懲すべし」と。亮の表 未だ都に至らざるに、夏 病もて卒す。詔して復た瞻の息の弘を以て侃の爵を襲はしめ、仕へて光祿勳に至る。卒するや、子の綽之 嗣ぐ。綽之 卒するや、子の延壽 嗣ぐ。宋 受禪するや、降して吳昌侯、五百戶と為す。
琦 司空掾なり。
旗 位 散騎常侍・郴縣開國伯を歷す。咸和の末に、散騎侍郎と為る。性 甚だ凶暴なり。卒するや、子の定 嗣ぐ。卒するや、子の襲之 嗣ぐ。卒するや、子の謙之 嗣ぐ。宋 受禪するや、國 除かる。
斌 尚書郎なり。
稱 東中郎將・南平太守・南蠻校尉・假節なり。性 虓勇にして倫あらず、諸弟と協ならず。後に建威將軍を加ふ。咸康五年、庾亮 稱を以て監江夏隨義陽三郡軍事・南中郎將・江夏相と為し、本の領する所の二千人を以て自ら隨はしむ。夏口に到るや、徑ちに二百人を將ゐて下りて亮に見ゆ。亮 吏佐に大會す。稱の前後の罪惡を責め、稱 拜謝し、因りて罷み出づ。亮 人をして閤外に於て之を收めしめ、棄市す。亮 上疏して曰く、「稱を案ずらく、大司馬侃の孼子にして、父 亡して喪位に居らず、酒に荒耽し、利を昧(むさぼ)り榮を偷み、擅に五郡を攝り、自ら監軍と謂ひ、輒ち王官を召し、之を軍府に聚む。故車騎將軍の劉弘の曾孫たる安 江夏に寓居し、及び將の楊恭・趙韶、並びに言色に忤らふ有るを以て、稱 聲を放ちて當に殺すべしといふ。安・恭 懼れ、自ら水に赴きて死し、韶は獄に於て自盡す。將軍の郭開 稱に從ひて長沙に往きて喪に赴く。稱 開の其の兄弟に附するを疑ひ、乃ち反縛して頭を帆檣に懸け、仰ぎて之を彈き、棹を鼓して江を渡ること二十餘里、觀る者 數千、震駭せざる莫し。又 多く府兵を藏匿す。收坐 死に應ず。臣 猶ほ未だ直に上するに忍びず、且く其の司馬を免ず。稱 醜言を肆縱にし、顧忌する所無し。諸將を要結して、兵を阻みて難を構へんと欲す。諸將 惶懼し、敢て酬答する莫し。是に由りて姦謀 未だ即ち發露せず。臣 侃の王室に勳勞あるを以て、是を以て依違し容掩して、故に表して南中郎將と為す。臣と相 近ければ、以て之を匡救すること有らんと思欲す。而れども稱 豺狼たること愈々甚しく、發言 激切にして、不忠不孝、此より甚しきもの莫し。苟し社稷に利あるときは、義 專斷に有り、輒ち稱を收めて法に伏せ」と。
範 最も名を知られ、太元の初に、光祿勳と為る。
岱 散騎侍郎なり。
陶侃には十七人の子がいたが、そのなかで陶洪・陶瞻・陶夏・陶琦・陶旗・陶斌・陶称・陶範・陶岱だけが旧史(御撰以前の晋代の史書)に見え、それ以外はめぼしい事績がない。
陶洪は丞相掾に辟され、早くに亡くなった。
陶瞻は字を道真といい、若くして才能があり、広陵相、廬江・建昌二郡太守を経て、散騎常侍・都亭侯に遷った。蘇峻に殺害され、大鴻臚を追贈され、愍悼世子と諡された。陶夏を世子とした。陶侃の遺体を送って長沙に還ったとき、陶夏は陶斌及び陶称とともに数千ずつの兵を擁して反乱を起こした。(陶夏・陶斌・陶称の反乱軍が)解散すると、陶斌はさきに長沙に行き、藩国の物資や財物をすべて自分のものとした。陶夏が到着すると、(罪を咎めて)陶斌を殺した。庾亮が上疏して、「陶斌の罪は醜悪ですが、処罰するには忍びがたいものがあります。しかし国家には法規があり、骨肉(兄弟)はもっとも近しい親族です。みずから刀鋸(刑具)を用いて兄弟を処刑したのは、父母の恩を傷つけ、惻隠(憐み)の心がない行為でした。そこで陶夏を罷免して、その暴虐さを懲らしめるべきです」と言った。庾亮の上表が都に到着する前に、陶夏は病気で亡くなった。詔して陶瞻の子の陶弘に陶侃の爵位を襲わせ、陶弘は官位が光禄勲に至った。亡くなると、子の陶綽之が嗣いだ。陶綽之が亡くなると、子の陶延寿が嗣いだ。宋が受禅すると、呉昌侯に降格し、五百戸とした。
陶琦は司空掾である。
陶旗は官位は散騎常侍・郴縣開国伯を歴任した。咸和年間の末に、散騎侍郎となった。ひどく凶暴な性格であった。亡くなると、子の陶定が嗣いだ。亡くなると、子の陶襲之が嗣いだ。亡くなると、子の陶謙之が嗣いだ。宋が受禅すると、国は除かれた。
陶斌は尚書郎である。
陶称は東中郎将・南平太守・南蛮校尉・仮節である。怒れる虎のように勇ましく、歯止めがきかず、弟たちと折り合わなかった。のちに建威将軍を加えた。咸康五年、庾亮は陶称を監江夏隨義陽三郡軍事・南中郎将・江夏相とし、もとから領する二千人を陶称に随従させた。夏口に到着すると、陶称はただちに二百人を率いて川を下って庾亮に謁見した。庾亮は陶称の属僚たちの前で会った。庾亮が陶称の前後の罪悪を責めると、陶称は拝謝し、退出した。庾亮は門を出たところで陶称の身柄を拘束し、棄市した。庾亮は上疏して、「陶称は、大司馬の陶侃の庶子であり、父が亡くなっても服喪せず、酒を飲み耽り、利益を貪って栄誉を盗み、ほしいままに五郡を統括し、自ら監軍といい、国家の官を召し寄せ、自分の配下としました。もと車騎将軍の劉弘の曾孫である劉安が江夏に仮住まいしており、また将の楊恭・趙韶もおりますが、彼らの反抗的な態度を理由に、陶称は彼らを殺すべきだと公言しました。劉安と楊恭は懼れ、自分から川に飛びこんで死に、趙韶は獄のなかで自殺しました。将軍の郭開は陶称に従って長沙に行き、(陶侃の)遺体のもとに赴きました。陶称は郭開が他の兄弟(陶夏か陶斌)に味方するのではないかと疑い、捕縛して(首を斬り)頭を帆柱にひっかけ、これを見上げて楽器をひき、棹を打ち鳴らして二十里あまり長江を進みました。これを見た数千人は、全員が震駭しました。また府兵を私物化しました。陶称の行いは死罪に当たります。私はすぐに上奏するに忍びず、彼の配下の司馬を罷免しました。ところが陶称は醜い言葉をまき散らし、反省の気配がありません。諸将と結託して、官軍と戦う準備をしています。諸将は恐れて、陶称に物を言えるものがおらず、そのため反逆の謀略が顕在化しておりません。私は陶侃が王室に勲功があったので、あえて穏便に黙認し、彼を南中郎将にするよう上表しました。(新たに陶称を配属した江夏は)私と任地が近いので、抑えが効くと思ったからです。しかし陶称の豺狼ぶりはいよいよひどく、発言が激烈であり、彼ほどの不忠と不孝は、他に例がありません。もし社稷のためになるなら、私の処置を追認し、陶称に法の裁きを与えて下さい」と言った。
陶範はもっとも名を知られ、太元年間の初めに、光禄勲となった。
陶岱は散騎侍郎である。
臻字彥遐、有勇略智謀、賜爵當陽亭侯。咸和中、為南郡太守・領南蠻校尉・假節。卒官、追贈平南將軍、諡曰肅。
臻弟輿、果烈善戰、以功累遷武威將軍。初、賊張奕本中州人、元康中被差西征、遇天下亂、遂留蜀。至是、率三百餘家欲就杜弢、為侃所獲。諸將請殺其丁壯、取其妻息、輿曰、「此本官兵、數經戰陣、可赦之以為用」。侃赦之、以配輿。及侃與杜弢戰敗、賊以桔橰打沒官軍船艦、軍中失色。輿率輕舸出其上流以擊之、所向輒克。賊又率眾將焚侃輜重、輿又擊破之。自是每戰輒克、賊望見輿軍、相謂曰、「避陶武威」。無敢當者。後與杜弢戰、輿被重創、卒。侃哭之慟、曰、「喪吾家寶」。三軍皆為之垂泣。詔贈長沙太守。
臻 字は彥遐、勇略にして智謀有り、爵當陽亭侯を賜はる。咸和中に、南郡太守・領南蠻校尉・假節と為る。官に卒し、平南將軍を追贈せられ、諡して肅と曰ふ。
臻の弟の輿、果烈にして戰を善くし、功を以て武威將軍に累遷す。初め、賊の張奕 本は中州の人なるも、元康中に西征に差はされ、天下の亂るるに遇ひ、遂に蜀に留まる。是に至り、三百餘家を率ひて杜弢に就かんと欲するも、侃の獲ふる所と為る。諸將 其の丁壯を殺し、其の妻息を取らんことを請ふ。輿曰く、「此れ本は官兵なり、數々戰陣を經たれば、之を赦して以て用と為す可し」と。侃 之を赦し、以て輿に配す。侃 杜弢と戰ひて敗るるに及び、賊 桔橰を以て打ちて官軍の船艦を沒め、軍中 色を失ふ。輿 輕舸を率ゐて其の上流に出でて以て之を擊ち、向ふ所 輒ち克つ。賊 又 眾を率ゐて將に侃の輜重を焚かんとするや、輿 又 之を擊破す。是より戰ふ每に輒ち克ち、賊 輿の軍を望見するに、相 謂ひて曰く、「陶武威を避けよ」と。敢て當たる者無し。後に杜弢と戰ひ、輿 重創を被り、卒す。侃 之に哭して慟し、曰く、「吾が家寶を喪ふ」と。三軍 皆 之の為に垂泣す。詔して長沙太守を贈る。
(陶侃の兄の子の)陶臻は字を彦遐といい、勇敢で智謀があり、当陽亭侯の爵位を賜った。咸和年間に、南郡太守・領南蛮校尉・仮節となった。在官で亡くなり、平南将軍を追贈され、粛と諡された。
陶臻の弟の陶輿は、勇猛果敢で戦いを得意とし、功績により武威将軍に累遷した。これよりさき、賊の張奕はもとは中原の人だが、元康年間に西征に派遣され、天下が乱れると、そのまま蜀の地に留まった。このときに至り、三百家あまりを率いて杜弢に味方しようとしたが、陶侃に捕らえられた。諸将は張奕配下の兵士を殺し、その妻子を奪おうとした。陶輿は、「彼らはもとは官兵であり、何回も(国家のために)戦争をしてきたのだから、赦免して用いるべきです」と言った。陶侃はこれを認め、陶輿のもとに配属した。陶侃が杜弢と戦って敗れると、賊は桔橰(はねつるべ)をぶつけて官軍の船艦を沈没させ、人々は顔色を失った。陶輿は軽舸を率いて上流に回り込んで賊軍の船を攻撃し、すべてを撃破した。さらに賊軍が陶侃の物資を焼こうとしたので、陶輿はこれも撃破した。このように百戦百勝であったので、賊は陶輿の軍を遠くに見れば、「陶武威(武威将軍の陶輿)を避けろ」と言い合って、敢えて戦いを挑むものはなかった。のちに杜弢と戦い、重傷を負って、亡くなった。陶侃は陶輿のために哭して慟し、「わが家宝を失った」と言った。三軍はみな陶輿のために涙を流した。詔して長沙太守を贈った。
史臣曰、古者明王之建國也、下料疆宇、列為九州、輔相玄功、咨于四岳。所以仰希齊政、俯寄宣風。備連率之儀、威騰閫外。總頒條之務、禮縟區中。委稱其才、甘棠以之流詠。據非其德、讎餉以是興嗟。中朝叔世、要荒多阻、分符建節、並紊天綱。和季以同里之情、申盧綰之契、居方牧之地、振吳起之風。自幽徂荊、亟斂豺狼之迹。舉賢登善、窮掇孔翠之毛。由是吏民畢力、華夷順命、一州清晏、恬波於沸海之中。百城安堵、靜祲於稽天之際。猶獨稱善政、何其寡歟。易云「貞固足以幹事」、於1.(征南)〔鎮南〕見之矣。士行望非世族、俗異諸華、拔萃陬落之間、比肩髦儁之列、超居外相、宏總上流。布澤懷邊、則嚴城靜柝。釋位匡主、則淪鼎再寧。元規以戚里之崇、挹其膺而下拜。茂弘以保衡之貴、服其言而動色。望隆分陝、理則宜然。至於時屬雲屯、富逾天府、潛有包藏之志、顧思折翼之祥、悖矣。夫子曰「人無求備」、斯言之信、於是有徵。
贊曰、和季承恩、建旟南服。威靜荊塞、化揚江澳。勠力天朝、匪忘忠肅。長沙勤王、擁旆戎場。任隆三事、功宣一匡。繄賴之重、匪伊舟航。
1.中華書局本に載せる周校に従い、「征南」を「鎮南」に改める。鎮南大将軍の劉弘を指す。
史臣曰く、「古者に明王の國を建つるや、下は疆宇を料り、列して九州と為し、輔相の玄功、四岳に咨(と)ふ。所以に仰ぎては政を齊ふるることを希ひ、俯きては風を宣ぶるを寄す。連率の儀を備へ、威 閫外に騰る。頒條の務を總べて、禮 區中に縟なり。委 其の才に稱へば、甘棠 之を以て流詠す。據りて其の德に非ざれば、讎餉 是を以て嗟を興す。中朝の叔世、要荒 阻多く、符を分ちて節を建て、並びに天綱を紊す。和季は同里の情を以て、盧綰の契を申し、方牧の地に居り、吳起の風を振ふ。幽より荊に徂るまで、亟やかに豺狼の迹を斂む。賢を舉げ善を登し、窮めて孔翠の毛を掇ふ。是に由りて吏民 畢力し、華夷 順命す。一州 清晏たりて、波を沸海の中に恬す。百城 安堵たりて、祲を稽天の際に靜にす。猶ほ獨り善政と稱するは、何ぞ其れ寡ならんや。易に云ふ、「貞固 以て幹事するに足る」と。鎮南に於て之を見る。士行は望は世族に非ず、俗は諸華に異なり、萃に陬落の間に拔き、髦儁の列に比肩し、超へて外相に居り、宏ひに上流を總ぶ。澤を布き邊を懷くるときは、則ち城を嚴めて柝を靜にす。位を釋きて主を匡すときは、則ち淪れる鼎 再び寧たり。元規 戚里の崇を以て、其の膺(むね)を挹して下拜す。茂弘 保衡の貴を以て、其の言に服して色を動かす。望は分陝に隆なり、理は則ち宜しく然るべし。時 雲屯に屬ひ、富 天府を逾ゆるに至り、潛かに包藏の志有り、顧みて折翼の祥を思ふ。悖なり。夫子曰く、「人 備を求むる無し」と。斯の言の信なること、是に於て徵有り」と。
贊に曰く、和季 恩を承け、旟を南服に建つ。威 荊塞を靜め、化 江澳に揚がる。力を天朝に勠せ、忠肅を忘るるに匪ず。長沙 王を勤め、旆を戎場に擁す。任 三事に隆にして、功 一匡に宣す。繄賴の重き、伊れ舟航のみに匪ず。
史臣はいう、いにしえに王者が建国すると、領土を把握して、九州を設置し、輔佐の名臣として、四岳(羲和ら)に諮問した。これにより上は政治が整い、下は万民が教化された。連率(地方官)は役目を果たし、威儀が地方に表れた。大量の職務をまとめあげ、礼がその地域を彩った。地方長官に才能の持ち主を任命すれば、甘棠(『詩経』召南篇、地方の民が善政を讃える詩)を歌った。不徳のものを任命すれば、それに応じて悲嘆の声が起こった。東晋の末期、異民族が多く反逆し、胡族の国が作られて、天下を乱した。和季(劉弘)は武帝と同じ土地で育ち、盧綰(前漢の劉邦の同郷者)と同じように親友となり、地方長官となると、呉起(兵法家)のような腕前を振るった。北の幽州から南の荊州に至るまで、すみやかに悪人の行動を抑制した。賢くて善良なものを推挙して、孔雀や翡翠のような人材を抜擢した。そのために吏民は力を尽くし、漢族も胡族も命令に従った。一州は静謐となり、沸き立った海のなかでも平穏だった。百城が安定し、禍いを起こす気を収めた。善政と称するだけでは、物足りないであろう。『易経』乾卦に、『正道を守れば仕事を成し遂げられる』とあるのは、鎮南将軍の劉弘のことである。
士行(陶侃)は代々の名望家でなく、旧呉の辺境出身であるが、田舎のなかで頭角を現し、中原の俊賢に肩を並べ、地方長官に転出し、長江の上流を統治した。恩沢を広めて辺境を懐かせ、防御を固めて(警報の)拍子木を静かにした。高すぎる官職を辞退して皇帝に再考を促したので、権勢は釣り合いを回復した。元規(庾亮)は外戚として高位にいたが、引き下がって陶侃に拝謝した。茂弘(王導)は天子の守り役であるが、陶侃の言葉に感服して顔色を変えた。陶侃の声望は周公旦や召公奭のように高かったので、庾亮や王導ですらそうせざるを得なかった。陶侃のもとに人が雲のように集まり、財物は国庫を超えるようになり、ひそかに簒奪の志を抱いたが、反省して翼が折れた夢を忘れなかったが、これは気の迷いである。夫子(孔子)は、「一人にすべてを求めてはいけない」(『論語』微子篇)と言ったが、この言葉が本当であることは、陶侃を見れば分かると。
賛にいう、和季(劉弘)は武帝から恩を受け、晋朝の旗を南方に立てた。彼の勢威は荊州の奥地を鎮め、教化は長江流域に広がった。晋朝のために力を尽くし、忠臣であることを忘れなかった。長沙(陶侃)は王事に努め、南蛮のなかに晋朝の旗を掲げた。三公より重い権限を持ち、功績により朝廷を支えた。国家における重要性は、水軍の司令官に留まらないと。