いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第三十六巻_劉弘・陶侃(子洪・瞻・夏・琦・旗・斌・称・範・岱・兄子臻・臻弟輿)

翻訳者:谷口 建速
訳者コメント:劉弘の墓は、1991年に湖南省安郷県で発見、発掘され、某三国志展でも展示された「鎮南将軍」の金印をはじめ、玉製品、金製品、陶磁器など多くの貴重な文物が出土しています。7、8年前でしょうか、この劉弘墓の修復、保護とあわせて博物館(展示室?)が建設される…という情報を目にした記憶があるのですが、どうなったかご存知の方がいらっしゃれば、教えていただければ幸いです。

劉弘

原文

劉弘字和季、沛國相人也。祖馥、魏揚州刺史。父靖、鎭北將軍。弘有幹略政事之才。少家洛陽、與武帝同居永安里、又同年、共研席。以舊恩起家太子門大夫、累遷率更令、轉太宰長史。張華甚重之、由是爲寧朔將軍・假節・監幽州諸軍事、領烏丸校尉。甚有威惠、寇盜屏迹、爲幽朔所稱、以勲德兼茂、封宣城公。

訓読

劉弘 字は和季〔一〕、沛國相の人なり。祖の馥、魏の揚州刺史たり〔二〕。父の靖、鎭北將軍たり〔三〕。弘 幹略政事の才有り。少くして洛陽に家し、武帝と同に永安里に居し、又た同年にして、研席を共にす〔四〕。舊恩を以て太子門大夫より起家し、累ねて率更令に遷り、太宰長史に轉ず。張華 甚だ之を重んじ、是れに由りて寧朔將軍・假節・監幽州諸軍事・領烏丸校尉と爲る〔五〕。甚だ威惠有り、寇盜屏迹し、幽朔の稱うる所と爲り、勲德の兼ねて茂るを以て、宣城公に封ぜらる。

〔一〕劉弘の字について、『北堂書鈔』三十七に引く徐広(徐野民)『晉紀』では「季和」、同一百三に引く『晉陽秋』では「子季」、『三国志』魏志巻十五・劉馥伝注に引く『晉陽秋』では「叔和」に作るが、斠注はいずれも誤りとする。一方、『水経注』沔水条に引く『襄陽耆舊伝』には「和季」とあり、本伝と合致する(斠注より)。
〔二〕劉馥については、『三国志』魏志巻十五に本伝がある。
〔三〕『三国志』魏志劉馥伝によると、劉靖は嘉平六年(254年)に死去し、征北将軍を追贈され(生前は鎮北将軍)、建成郷侯(生前は広陸亭侯)に爵位を進められ、子の劉熙が後を継いだ。劉弘は熙の弟。『水経注』巻十四・鮑邱水には、劉靖が主導した水利事業の功を讃える「劉靖碑」の碑文が収められ、その冒頭に「魏使持節・都督河北道諸軍事・征北將軍・建城侯沛國劉靖、字文恭」とある(斠注より)。
〔四〕劉弘と「同年」とされる西晋の武帝司馬炎の生年は、曹魏の青龍四年(236年)。
〔五〕『水経注』鮑邱水の「劉靖碑」に「晉元康四年(294年)、君少子驍騎將軍・平郷侯宏、受命使持節・監幽州諸軍事・領護烏丸校尉・寧朔將軍」とあり、本伝の官と異同がある(斠注より)。

現代語訳

劉弘は字を和季といい、沛国相県の人である。祖父の劉馥は、魏の揚州刺史であった。父の劉靖は、鎮北將軍であった。劉弘は、才幹と智謀を備え、政務を処理する才能に優れていた。幼い頃は洛陽で暮らし、晋の武帝司馬炎とは同じ永安里に住み、また同い年で、机を並べて学ぶ間柄であった。この旧恩から、太子門大夫より起家し、昇進を重ねて太子率更令となり、さらに太宰長史に転任した。張華が彼を高く評価したため、寧朔将軍・仮節・監幽州諸軍事・領烏丸校尉に任じられた。劉弘が大いに威厳と恩恵をもって統治にあたると、寇盗どもは息をひそめ、幽朔の地の人々から称賛をうけ、また朝廷からも立派な勲功と人徳を兼ね備えているとして、宣城公に封ぜられた。

原文

太安中、張昌作亂、轉使持節・南蠻校尉・荊州刺史、率前將軍趙驤等討昌、自方城至宛・新野、所向皆平。及新野王歆之敗也、以弘代爲鎭南將軍・都督荊州諸軍事、餘官如故。弘遣南蠻長史陶侃爲大都護、參軍蒯恒爲義軍督護、牙門將皮初爲都戰帥、進據襄陽。張昌并軍圍宛、敗趙驤軍。弘退屯梁。侃・初等累戰破昌、前後斬首數萬級。及到官、昌懼而逃、其眾悉降、荊土平。

訓読

太安中、張昌の亂を作すや、使持節・南蠻校尉・荊州刺史に轉じ、前將軍趙驤等を率いて昌を討ち、方城自り宛・新野に至るまで、向かう所皆な平らぐ。新野王歆の敗るるに及ぶや、弘を以て代わりて鎭南將軍・都督荊州諸軍事と爲し〔一〕、餘の官は故の如くす。弘 南蠻長史陶侃を遣わして大都護と爲し、參軍蒯恒もて義軍督護と爲し、牙門將皮初もて都戰帥と爲し、進みて襄陽に據らしむ。張昌 軍を并せて宛を圍み、趙驤の軍を敗る。弘 退きて梁に屯す。侃・初等 累戰して昌を破り、前後して斬首すること數萬級。官に到るに及び、昌 懼れて逃れ、其の眾悉く降り、荊土平らぐ。

〔一〕魏志劉馥伝の裴松之注に引く『晉陽秋』では、「都督荊交廣州諸軍事」に作る(斠注より)。なお、蜀志・諸葛亮伝の注に引く『蜀記』によると、永興年間(304~306年)に鎮南将軍劉弘が隆中の諸葛亮の旧宅を訪れ、顕彰の碑を立てた。『蜀記』には、このとき劉弘が太傅掾の李興に命じて作らせた碑文が収められている。

現代語訳

太安年間(302~303年)に張昌が反乱を起こすと、劉弘は使持節・南蛮校尉・荊州刺史に転任し、前将軍の趙驤らを率いて張昌を討伐し、方城から宛・新野に至るまで、向かうところ全てを平定した。新野王司馬歆が張昌に敗れ(て殺害され)ると、朝廷は劉弘を代わりの鎮南将軍・都督荊州諸軍事に任じ、その他の官(使持節・南蛮校尉・荊州刺史)についてはもとのままとした。劉弘は南蛮校尉長史の陶侃を大都護、参軍の蒯恒を義軍督護、牙門将の皮初を都戦帥に任じ、襄陽へと進軍させた。張昌は軍を結集して宛城を包囲し、趙驤の軍を破った。そのため劉弘は退却して梁県に駐屯した。陶侃と皮初らは、連戦して張昌を撃破し、相次いで斬首した数は数万に及んだ。劉弘が襄陽の官府に到着すると、張昌は恐れて逃亡し、その軍はことごとく降伏し、荊州の地は平定された。