翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。
温嶠は、魏の温恢の曾孫であり、郗鑒は、魏の郗慮の玄孫です。
溫嶠字太真、司徒羨弟之子也。父憺、河東太守。嶠性聰敏、有識量、博學能屬文、少以孝悌稱於邦族。風儀秀整、美於談論、見者皆愛悅之。年十七、州郡辟召、皆不就。司隸命為都官從事。散騎常侍庾敳有重名、而頗聚斂、嶠舉奏之、京都振肅。後舉秀才・灼然。司徒辟東閤祭酒、補上黨潞令。
平北大將軍劉琨妻、嶠之從母也。琨深禮之、請為參軍。琨遷大將軍、嶠為從事中郎・上黨太守、加建威將軍・督護前鋒軍事。將兵討石勒、屢有戰功。琨遷司空、以嶠為右司馬。于時并土荒殘、寇盜羣起、石勒・劉聰跨帶疆埸、嶠為之謀主、琨所憑恃焉。
屬二都傾覆、社稷絕祀、元帝初鎮江左、琨誠繫王室、謂嶠曰、「昔班彪識劉氏之復興、馬援知漢光之可輔。今晉祚雖衰、天命未改、吾欲立功河朔、使卿延譽江南、子其行乎」。對曰、「嶠雖無管張之才、而明公有桓文之志、欲建匡合之功、豈敢辭命」。乃以為左長史、檄告華夷、奉表勸進。嶠既至、引見、具陳琨忠誠、志在效節、因說社稷無主、天人係望、辭旨慷慨。舉朝屬目、帝器而嘉焉。王導・周顗・謝1.(琨)〔鯤〕・庾亮・桓彝等並與親善。于時江左草創、綱維未舉、嶠殊以為憂。及見王導共談、歡然曰、「江左自有管夷吾、吾復何慮」。屢求反命、不許。會琨為段匹磾所害、嶠表琨忠誠、雖勳業不遂、然家破身亡、宜在褒崇、以慰海內之望。帝然之。
除散騎侍郎。初、嶠欲將命、其母崔氏固止之、嶠絕裾而去。其後母亡、嶠阻亂不獲歸葬、由是固讓不拜、苦請北歸。詔三司・八坐議其事、皆曰、「昔伍員志復私讎、先假諸侯之力、東奔闔閭、位為上將、然後鞭荊王之尸。若嶠以母未葬沒在胡虜者、乃應竭其智謀、仰憑皇靈、使逆寇冰消。反哀墓次、豈可稍以乖嫌廢其遠圖哉」。嶠不得已、乃受命。
後歷驃騎王導長史、遷太子中庶子。及在東宮、深見寵遇、太子與為布衣之交。數陳規諷、又獻侍臣箴、甚有弘益。時太子起西池樓觀、頗為勞費、嶠上疏以為朝廷草創、巨寇未滅、宜應儉以率下、務農重兵、太子納焉。王敦舉兵內向、六軍敗績、太子將自出戰、嶠執鞚諫曰、「臣聞善戰者不怒、善勝者不武、如何萬乘儲副而以身輕天下」。太子乃止。
1.『晋書』謝鯤伝に従って改める。
溫嶠 字は太真、司徒羨が弟の子なり。父の憺は、河東太守なり。嶠の性は聰敏にして、識量有り、博學にして屬文を能くし、少くして孝悌を以て邦族に稱せらる。風儀は秀整にして、談論を美(よ)くし、見る者 皆 之を愛悅す。年十七にして、州郡 辟召するも、皆 就かず。司隸 命じて都官從事と為す。散騎常侍の庾敳 重名有り、而れども頗る聚斂すれば、嶠 之を舉奏し、京都 振肅たり。後に秀才・灼然に舉げらる。司徒 東閤祭酒に辟し、上黨の潞令に補せらる。
平北大將軍の劉琨の妻は、嶠の從母なり。琨 深く之を禮し、參軍と為らんことを請ふ。琨 大將軍に遷るや、嶠 從事中郎・上黨太守と為り、建威將軍・督護前鋒軍事を加へらる。兵を將ゐて石勒を討ち、屢々戰功有り。琨 司空に遷るや、嶠を以て右司馬と為す。時に于て并土 荒殘し、寇盜 羣起したれば、石勒・劉聰 疆埸に跨帶し、嶠 之が謀主と為り、琨の憑恃する所なり。
二都 傾覆し、社稷 絕祀するに屬ひ、元帝 初め江左に鎮し、琨 誠もて王室に繫ぎ、嶠に謂ひて曰く、「昔 班彪 劉氏の復た興るを識り、馬援 漢光の輔く可きを知る。今 晉祚 衰ふと雖も、天命 未だ改めず、吾 功を河朔に立て、卿をして譽を江南に延べしめんと欲す、子 其れ行かんか」と。對へて曰く、「嶠 管張の才無しと雖も、而れども明公 桓文の志有り、匡合の功を建てんと欲す。豈に敢て命を辭せんや」と。乃ち以て左長史と為し、檄もて華夷に告げ、表を奉りて勸進す。嶠 既に至るや、引見し、具さに琨の忠誠、志 效節に在るを陳べ、因りて社稷に主無く、天人 係望するを說く。辭旨 慷慨たり。朝を舉げて屬目し、帝 器として焉を嘉す。王導・周顗・謝鯤・庾亮・桓彝ら並びに與に親善たり。時は江左の草創に于て、綱維 未だ舉がらず、嶠 殊に以て憂と為す。王導に見て共に談ずるに及び、歡然として曰く、「江左 自ら管夷吾有り、吾 復た何をか慮らん」と。屢々反命を求むるも、許されず。會々琨 段匹磾の害する所と為り、嶠 琨の忠誠を表し、勳業 遂げざると雖も、然れども家 破れて身 亡べば、宜しく褒崇在りて、以て海內の望を慰さむべしとす。帝 之を然りとす。
散騎侍郎に除せらる。初め、嶠 命を將(おこな)はんと欲するや、其の母の崔氏 固く之を止め、嶠 裾を絕ちて去る。其の後 母 亡く、嶠 亂に阻られて歸葬するを獲ず、是に由りて固く讓して拜せず、北歸を苦請す。三司・八坐に詔して其の事を議せしむるに、皆 曰く、「昔 伍員 志は私の讎に復せんとし、先に諸侯の力を假り、東のかた闔閭に奔り、位は上將と為り、然る後に荊王の尸を鞭うつ。若し嶠 母の未だ葬らず沒して胡虜に在るを以て、乃ち應に其の智謀を竭し、皇靈を仰憑し、逆寇をして冰のごとく消し、反りて墓次に哀せしめよ。豈に稍く乖嫌を以て其の遠圖を廢す可けんや」と。嶠 已むを得ず、乃ち命を受く。
後に驃騎の王導の長史を歷て、太子中庶子に遷る。東宮に在るに及び、深く寵遇せられ、太子 與に布衣の交を為す。數々規諷を陳べ、又 侍臣の箴を獻じ、甚だ弘益有り。時に太子 西池に樓觀を起て、頗る勞費を為し、嶠 上疏して以為へらく、朝廷は草創にして、巨寇は未だ滅びざれば、宜しく應に儉もて以て率下し、農に務め兵を重んずべしと。太子 焉を納る。王敦 兵を舉げて內向し、六軍 敗績するや、太子 將に自ら出でて戰はんとす。嶠 鞚を執りて諫めて曰く、「臣 聞くならく善く戰ふ者は怒らず、善く勝つ者は武あらず、如何ぞ萬乘の儲副にして身を以て天下を輕んぜんや」と。太子 乃ち止む。
温嶠は字を太真といい、司徒の温羨の弟の子である。父の温憺は、河東太守である。温嶠は生まれつき聡明で英敏で、見識があり、博学で文を綴るのがうまく、若くして孝悌であるとして郷里の人々に称賛された。立ち居振る舞いが優れて整い、談論を得意とし、会ったものは皆が好み親しんだ。十七歳で、州郡に辟召されたが、いずれも就かなかった。司隷校尉は都官従事に任命した。散騎常侍の庾敳は名声が高かったが、重税を課したので、温嶠はこれを上奏して指摘し、首都(の役人)は恐れて厳粛となった。のちに秀才・灼然(の科目)に推挙された。司徒は(温嶠を)東閤祭酒に辟召し、上党の潞令に任命された。
平北大將軍の劉琨の妻は、温嶠の従母であった。劉琨は深く温嶠を礼遇し、参軍になれと要請した。劉琨が大将軍に遷ると、温嶠は従事中郎・上党太守となり、建威将軍・督護前鋒軍事を加えられた。兵をひきいて石勒を討ち、しばしば戦功があった。劉琨が司空に遷ると、温嶠を右司馬とした。このとき并州の地は荒廃し、盗賊が蜂起し、石勒・劉聡が域内で勢力持ったので、温嶠はこの地の謀主となり(群盗や石勒らに対抗し)、劉琨に頼りにされた。
二都(洛陽と長安)が破滅し、(晋帝国の)社稷の祭りが絶えるたとき、元帝(司馬叡)は江左に出鎮していたが、劉琨は誠意をもって王室(元帝)と連携しようと考え、温嶠に、「むかし班彪は劉氏の復興を知り、馬援は後漢の光武帝を輔けるべきだと弁えていた。いま晋の国運は衰えたが、天命はまだ改まらない。私は功績を河朔(黄河以北)で立てているが、あなた(温嶠)にはこの栄誉を江南で広めてほしい。行ってくれないか」と言った。温嶠は答えて、「私には管張(管仲や張良)のような才能はありませんが、あなたには桓文(斉桓公や晋文公)のような志があり、国家を支えて正す功績を立てようとしています。どうして命令を辞退しましょうか」と言った。そこで(劉琨は温嶠を)左長史とし、檄文で華族にも夷族にも告げ、上表を奉って(元帝に帝位を)勧進した。温嶠が(建康に)到着すると、招かれて謁見し、つぶさに劉琨の誠意と、忠節ぶりを伝えた。そして社稷に当主がおらず、天も人も(即位を)待望していることを説いた。言葉は意気盛んであった。朝廷をあげて注目し、元帝は(温嶠を)立派な人物であると褒めた。王導・周顗・謝鯤・庾亮・桓彝らも親交を結んだ。このとき江左(東晋)は草創期で、政治体制が整わず、温嶠はことさら憂慮していた。王導と会って談話すると、(温嶠は)歓喜して、「江左にはとっくに管夷吾(管仲)がいた、私が心配することはなかった」と言った。しばしば(華北への)帰命を求めたが、許されなかった。折しも劉琨が段匹磾に殺害された。温嶠は劉琨の忠誠を上表で示し、(劉琨は)勲業を成せなかったが、一族が敗れて身が滅べば、堂々と褒め称えて、天下の功労者を慰めて下さいと言った。元帝は同意した。
(東晋の)散騎侍郎に任命された。これよりさき、温嶠が(劉琨の)命令を実行して(南下し)ようとしたとき、母の崔氏が強く制止したので、温嶠は(つかまれた)裾を断ち切って去った。のちに母が亡くなり、温嶠は戦乱に妨げられて(故郷に)帰って葬れずにいたので、強く辞退して拝命せず、華北への帰還を強く求めた。三司と八坐に詔してこのことを議論させたが、みな、「むかし伍員(伍子胥)は私的な報復を志したが、先に諸侯の力を借りようと、東のかた(呉王の)闔閭を頼り、(呉国で)上将の地位につき、その後に荊王(楚王)の死体に鞭うった(呉軍を使って報復を果たした)。もし温嶠が母を故郷で葬れず(その原因が)胡族の華北支配になるのならば、智謀を尽くして、皇帝の威信に頼り、反逆者(胡族)を氷のように消滅させ、葬儀を実現させればよい。どうして一時の感情で遠大な計画を捨てるのか」と言った。温嶠はやむを得ず、(散騎侍郎を)拝命した。
のちに驃騎将軍の王導の長史を経て、太子中庶子に遷った。東宮にいるとき、深く寵遇され、太子と布衣の交(身分を超えた交わり)を結んだ。しばしば諫言を述べ、また侍臣の戒めを提出し、広く役立った。このとき太子は西池に楼観を建造し、労力と費用を浪費したので、温嶠は上疏して、「朝廷は創業したばかりで、巨悪がまだ滅びていないので、率先して倹約を示し、農業と軍事を重んじるべきです」と言った。太子は聞き入れた。王敦が兵を挙げて首都に向かい、六軍が敗績すると、太子は自ら出陣しようとした。温嶠はくつわを捕まえて諫め、「聞きますに戦争がうまいものは怒らず、勝利をもたらすのは武力ではありません。どうして万乗の儲副(太子)でありながら軽率に突撃するのですか」と言った。太子は思い止まった。
明帝即位、拜侍中、機密大謀皆所參綜、詔命文翰亦悉豫焉。俄轉中書令。嶠有棟梁之任、帝親而倚之、甚為王敦所忌、因請為左司馬。敦阻兵不朝、多行陵縱、嶠諫敦曰、「昔周公之相成王、勞謙吐握、豈好勤而惡逸哉。誠由處大任者不可不爾。而公自還輦轂、入輔朝政、闕拜覲之禮、簡人臣之儀、不達聖心者莫不於邑。昔帝舜服事唐堯、伯禹竭身虞庭、文王雖盛、臣節不諐。故有庇人之大德、必有事君之小心、俾芳烈奮乎百世、休風流乎萬祀。至聖遺軌、所不宜忽。願思舜・禹・文王服事之勤、惟公旦吐握之事、則天下幸甚」。敦不納。
嶠知其終不悟、於是謬為設敬、綜其府事、干說密謀、以附其欲。深結錢鳳、為之聲譽、每曰、「錢世儀精神滿腹」。嶠素有知人之稱、鳳聞而悅之、深結好於嶠。會丹楊尹缺、嶠說敦曰、「京尹輦轂喉舌、宜得文武兼能、公宜自選其才。若朝廷用人、或不盡理」。敦然之、問嶠誰可作者。嶠曰、「愚謂錢鳳可用」。鳳亦推嶠、嶠偽辭之。敦不從、表補丹楊尹。嶠猶懼錢鳳為之姦謀、因敦餞別、嶠起行酒、至鳳前、鳳未及飲、嶠因偽醉、以手版擊鳳幘墜、作色曰、「錢鳳何人、溫太真行酒而敢不飲」。敦以為醉、兩釋之。臨去言別、涕泗橫流、出閤復入、如是再三、然後即路。及發後、鳳入說敦曰、「嶠於朝廷甚密、而與庾亮深交、未必可信」。敦曰、「太真昨醉、小加聲色、豈得以此便相讒貳」。由是鳳謀不行、而嶠得還都、乃具奏敦之逆謀、請先為之備。
及敦構逆、加嶠中壘將軍・持節・都督東安北部諸軍事。敦與王導書曰、「太真別來幾日、作如此事」。表誅姦臣、以嶠為首。募生得嶠者、當自拔其舌。及王含・錢鳳奄至都下、嶠燒朱雀桁以挫其鋒、帝怒之、嶠曰、「今宿衞寡弱、徵兵未至、若賊豕突、危及社稷、陛下何惜一橋」。賊果不得渡。嶠自率眾與賊夾水戰、擊王含、敗之、復督劉遐追錢鳳於江寧。事平、封建寧縣開國公、賜絹五千四百匹、進號前將軍。
時制王敦綱紀除名、參佐禁固、嶠上疏曰、「王敦剛愎不仁、忍行殺戮、親任小人、疏遠君子、朝廷所不能抑、骨肉所不能間。處其朝者恒懼危亡、故人士結舌、道路以目、誠賢人君子道窮數盡、遵養時晦之辰也。且敦為大逆之日、拘錄人士、自免無路、原其私心、豈遑晏處、如陸玩・羊曼・劉胤・蔡謨・郭璞常與臣言、備知之矣。必其凶悖、自可罪人斯得。如其枉入姦黨、宜施之以寬。加以玩等之誠、聞於聖聽、當受同賊之責、實負其心。陛下仁聖含弘、思求允中。臣階緣博納、干非其事、誠在愛才、不忘忠益」。帝從之。
明帝 即位するや、侍中を拜し、機密大謀 皆 參綜する所にして、詔命文翰も亦た悉く焉に豫る。俄かに中書令に轉ず。嶠 棟梁の任有りて、帝 親ら之を倚り、甚だ王敦の忌む所と為り、因りて左司馬と為さんと請ふ。敦 兵を阻みて朝せず、多く陵縱を行ひ、嶠 敦を諫めて曰く、「昔 周公の成王に相たるや、勞謙し吐握す。豈に勤を好みて逸を惡むや。誠に大任に處る者は爾らずんばある可からざるに由るなり。而れども公 自ら輦轂に還り、入りて朝政に輔するに、拜覲の禮に闕き、人臣の儀を簡(おこた)り、聖心に達せざるは於邑せざる莫し。昔 帝舜 唐堯に服事するや、伯禹 身を虞庭に竭し、文王 盛なると雖も、臣節に諐(あやま)たず。故に庇人の大德有らば、必ず事君の小心有り、芳烈をして百世に奮はしめ、休風をして萬祀に流れしむ。至聖の遺軌、宜しく忽せにすべからざる所なり。願はくは舜・禹・文王の服事の勤を思ひ、公旦の吐握の事を惟へば、則ち天下 幸甚なり」と。敦 納れず。
嶠 其の終に悟らざるを知り、是に於て謬(あざむ)きて設敬を為し、其の府事を綜べ、密謀を干說して、以て其の欲に附す。深く錢鳳と結び、之に聲譽を為し、每に曰く、「錢世儀の精神 滿腹なり」と。嶠 素より知人の稱有り、鳳 聞きて之を悅び、深く好を嶠に結ぶ。會々丹楊尹 缺くるや、嶠 敦に說きて曰く、「京尹は輦轂の喉舌なり、宜しく文武の兼能を得べし。公 宜しく自ら其の才を選ぶべし。若し朝廷 人を用ひれば、或いは理を盡くさず」と。敦 之を然りとし、嶠に誰か作(な)る可き者かを問ふ。嶠曰く、「愚 謂へらく錢鳳 用ふ可し」と。鳳も亦た嶠を推し、嶠 偽はりて之を辭す。敦 從はず、表して丹楊尹に補す。嶠 猶ほ錢鳳 之が為に姦謀するを懼れ、敦の餞別に因り、嶠 起ちて行酒し、鳳の前に至り、鳳 未だ飲むに及ばざるに、嶠 因りて偽はりて醉ひ、手版を以て鳳の幘を擊ちて墜とし、色を作して曰く、「錢鳳 何する人ぞ、溫太真 行酒すれども敢て飲まず」と。敦 以て醉へると為し、兩りとも之を釋く。去るに臨みて別を言ひ、涕泗し橫流たりて、閤を出でて復た入り、是の如きこと再三にして、然る後に路に即く。發する後に及びて、鳳 入りて敦に說きて曰く、「嶠 朝廷に於て甚だ密にして、而も庾亮と深く交はれば、未だ必ずしも信ず可からず」と。敦曰く、「太真 昨に醉ひ、小しく聲色を加ふ。豈に此を以て便ち相 讒貳するを得んや」と。是に由りて鳳の謀 行はれず、而して嶠 都に還るを得たり、乃ち具さに敦の逆謀を奏し、先んじて之に備を為さんことを請ふ。
敦 構逆するに及び、嶠に中壘將軍・持節・都督東安北部諸軍事を加ふ。敦 王導に書を與へて曰く、「太真 別來して幾日ぞ、此の如き事を作す」と。姦臣を誅せんことを表し、嶠を以て首と為す。生きながら嶠を得ん者を募り、當に自ら其の舌を拔くべしと。王含・錢鳳 奄かに都下に至るに及び、嶠 朱雀桁を燒きて以て其の鋒を挫く。帝 之に怒るや、嶠曰く、「今 宿衞は寡弱にして、徵兵は未だ至らず。若し賊 豕突せば、危は社稷に及ぶ。陛下 何ぞ一橋を惜むや」と。賊 果たして渡たるを得ず。嶠 自ら眾を率ゐ賊と水を夾みて戰ひ、王含を擊ちて、之を敗り、復た劉遐を督して錢鳳を江寧に追ふ。事 平らぐや、建寧縣開國公に封じ、絹五千四百匹を賜ひ、號を前將軍に進む。
時に制ありて王敦が綱紀をば除名し、參佐をば禁固せよと。嶠 上疏して曰く、「王敦 剛愎不仁にして、忍びて殺戮を行ひ、小人を親任し、君子を疏遠す。朝廷 能く抑へざる所、骨肉 能く間たざる所なり。其の朝に處る者は恒に危亡を懼れ、故に人士 舌を結び、道路 以て目す。誠に賢人君子 道は窮まり數は盡き、遵養して時晦するの辰なり。且つ敦は大逆を為す日、人士を拘錄し、自ら免るるに路無し。其の私心を原するに、豈に晏處するに遑あらんか。陸玩・羊曼・劉胤・蔡謨・郭璞が如きものは常に臣と言ひ、備に之を知る。必ず其の凶悖なるをば、自ら罪人 斯れ得可し。如し其の枉げて姦黨に入るは、宜しく之に施すに寬を以てすべし。加へて以みるに玩等の誠、聖聽に聞せり。當に同賊の責を受くべくんば、實に其の心に負けり。陛下 仁聖含弘なれば、允中を思求せよ。臣 博く納るるに階緣(よ)りて、其の事に非ざるを干すは、誠に才を愛しみ、忠益を忘れざるに在り」と。帝 之に從ふ。
明帝が即位すると、侍中を拝し、機密や大謀にすべて関与し、詔命や書簡もすべて作成に参加した。にわかに中書令に転じた。温嶠は棟梁の任(諸臣の統括者)であり、明帝みずから彼を頼ったので、ひどく王敦は忌み嫌い、(温嶠を)左司馬にしようとした。王敦は兵を擁して朝見せず、越権行為が多かったので、温嶠は王敦を諫めて、「むかし周公が成王を補佐すると、へりくだって賢者を求めました。これは多忙を好んで安逸を嫌ってのことでしょうか。まことに大任についた人物にとって不可欠な行動であったためです。しかしあなたは自ら輦轂(天子のもと)に還り、朝廷に入って政治を補佐するべきを、謁見の礼を欠いて、人臣の務めをおこたり、天子の意に沿わないので(諸臣は)憂悶しないものがいません。むかし帝舜(舜)は唐尭(帝)に仕え、伯禹(禹)は虞庭(舜の朝廷)で尽力しました。周の文王は権勢が盛んでも、(殷の)臣節を踏み外しませんでした。ゆえに人を統治する大徳があるものは、必ず(前代の)君主に仕える細やかな心があったので、芳しい功績を百世にわたって震わせ、美風を万代の祭祀に伝えたのです。聖の極みである前例を、ゆるがせにしてはいけません。どうか舜・禹・文王が(即位する前に)君主に勤勉に仕えたことを思い、周公旦が吐握し(熱心に人材を求め)た故事を考えて頂けたら、天下にとって幸甚です」と言った。王敦は聞き入れなかった。
温嶠は王敦の理解を得られないことを悟り、そこで欺いて敬意を示し、王敦の(部下となって)府の政務を統括し、(革命の)密謀を勧めて、王敦の欲望に迎合した。銭鳳と関係を深めるため、銭鳳のよい評判を流し、つねに、「銭世儀の精神は腹に満ちている」と褒めた。温嶠はかねて目利きとして知られていたので、銭鳳はこれを聞いて悦び、温嶠に強い好意を抱いた。ちょうど丹楊尹に欠員が出たので、温嶠は王敦に、「京尹(丹陽尹)は輦轂の喉舌(天子の口舌)です、文武の能力を合わせ持つ人材を充てるべきです。どうか自ら才能の持ち主を選びなさい。朝廷に人選を委ねると、道理から外れるかも知れません」と言った。王敦はこれに同意し、適任者をたずねた。温嶠は、「私見ですが銭鳳がよいでしょう」と言った。銭鳳もまた(互いに)温嶠を推薦したが、温嶠は偽って辞退した。王敦はこれを認めず、上表して温嶠を丹楊尹に任命させた。温嶠はなお銭鳳が自分を陥れる策謀を練ることを懼れた。王敦が設けた(温嶠を丹陽に見送る)餞別の席で、温嶠は立って酒をついで回り、銭鳳の前にきて、銭鳳がまだ飲み干していないので、温嶠は酔ったふりをして、手板で銭鳳のかぶりものを叩き落とし、怒鳴りつけて、「銭鳳のくせに、この温太真(温嶠)の酒が飲めないのか」と言った。王敦は(温嶠が)悪酔いしたと考え、二人を引き離した。立ち去るとき別れを告げ、たっぷりと涙を流し、小門を出ては入り、再三くり返し、その後で帰路についた。出発するとき、銭鳳は王敦に、「温嶠は朝廷(明帝)と親密であり、しかも庾亮と緊密ですから、信用してはいけません」と説いた。王敦は、「太真(温嶠)は酔い潰れ、声色を荒げた。もはや(私への)裏切りの心などあるものか」と言った。こうして銭鳳の(温嶠を警戒すべきという)考えは採用されず、温嶠は都に帰ることができた。つぶさに(明帝に)王敦の反逆の計画を上奏し、先手を打って備えることを提案した。
王敦が反逆すると、温嶠に中塁将軍・持節・都督東安北部諸軍事を加えた。王敦は王導に書簡を送って、「太真(温嶠)を見送って何日も経たぬのに、恩を仇で返された」と言った。姦臣を誅殺せよと上表し、温嶠を(姦臣の)筆頭にあげた。温嶠を生け捕りにせよと募り、自ら温嶠の舌を抜いてやると言った。王含と銭鳳がにわかに建康に接近すると、温嶠は朱雀桁(橋)を焼いて進軍の勢いを削いだ。明帝がこれに怒ると、温嶠は、「いま宿衛の兵は少数で弱く、徴兵はまだ到着していません。もし賊軍が突撃すれば、社稷まで危険に晒されます。陛下はどうして一つの橋を惜しむのですか」と言った。賊は果たして川を渡れなかった。温嶠は自ら軍を率いて川を挟んで賊軍と戦い、王含を攻撃して、これを破り、また劉遐を督して銭鳳を江寧へと追撃した。戦いが収束すると、建寧県開国公に封建し、絹五千四百匹を賜わり、号を前将軍に進めた。
このとき制書が下されて王敦の綱紀(主簿)となったものを(東晋の官僚から)除名し、参佐(属僚や参謀)となったものを禁固にせよと言った。温嶠は上疏して、「王敦は強情にして不仁であり、殺戮を敢行し、くだらない人物を親任し、君子を遠ざけました。朝廷が抑止できず、親族でも制止できませんでした。王敦の配下はつねに身の危険を感じ、ゆえに人士は口をつぐみ、道路で目配せしました。賢人や君子は進退窮まって、わが身を守って能力を隠しました。しかも王敦が大逆を実行した日、人士を拘束して動員し、離脱の方法がありませんでした。王敦配下となったものの本心を吟味すれば、安息の余地があったでしょうか。陸玩・羊曼・劉胤・蔡謨・郭璞といったものはつねに(王敦に)臣従したと言いつつ、つぶさに野心を見抜いていました。(王敦の配下で)凶悪なものは、もちろん罪人として捕らえるべきです。もし不本意ながら姦悪な連中に巻き込まれたものは、寛大な措置をすべきです。しかも陸玩らの誠意は、陛下の耳に達しています。賊に同調した責任を負わせるのは、彼らの本心に背くことです。陛下の仁徳は広大ですから、正しい判決を心がけて下さい。私は聞く耳を持って頂ける立場に拠り、陛下の意に背く意見を述べたのは、才能を惜しみ、真心を忘れないからです」と。明帝はこれに従った。
是時天下凋弊、國用不足、詔公卿以下詣都坐論時政之所先、嶠因奏軍國要務。其一曰、「祖約退舍壽陽、有將來之難。今二方守禦、為功尚易。淮泗都督、宜竭力以資之。選名重之士、配征兵五千人、又擇一偏將、將二千兵、以益壽陽、可以保固徐豫、援助司土」。其二曰、「一夫不耕、必有受其饑者。今不耕之夫、動有萬計。春廢勸課之制、冬峻出租之令、下未見施、惟賦是聞。賦不可以已、當思令百姓有以殷實。司徒置田曹掾、州一人、勸課農桑、察吏能否、今宜依舊置之。必得清恪奉公、足以宣示惠化者、則所益實弘矣」。其三曰、「諸外州郡將兵者及都督府非臨敵之軍、且田且守。又先朝使五校出田、今四軍五校有兵者、及護軍所統外軍、可分遣二軍出、并屯要處。緣江上下、皆有良田、開荒須一年之後即易。且軍人累重者在外、有樵採蔬食之人、於事為便」。其四曰、「建官以理世、不以私人也。如此則官寡而材精。周制六卿莅事、春秋之時、入作卿輔、出將三軍。後代建官漸多、誠由事有煩簡耳。然今江南六州之土、尚又荒殘、方之平日、數十分之一耳。三省軍校無兵者、九府寺署可有并相領者、可有省半者、粗計閑劇、隨事減之。荒殘之縣、或同在一城、可并合之。如此選既可精、祿俸可優、令足代耕、然後可責以清公耳」。其五曰、「古者親耕藉田以供粢盛、舊置藉田・廩犧之官。今臨時市求、既上黷至敬、下費生靈、非所以虔奉宗廟蒸嘗之旨。宜如舊制、立此二官」。其六曰、「使命愈遠、益宜得才、宣揚王化、延譽四方。人情不樂、遂取卑品之人、虧辱國命、生長患害。故宜重其選、不可減二千石見居二品者」。其七曰、「罪不相及、古之制也。近者大逆、誠由凶戾。凶戾之甚、一時權用。今遂施行、非聖朝之令典、宜如先朝除三族之制」。議奏、多納之。
帝疾篤、嶠與王導・郗鑒・庾亮・陸曄・卞壼等同受顧命。時歷陽太守蘇峻藏匿亡命、朝廷疑之。征西將軍陶侃有威名於荊楚、又以西夏為虞、故使嶠為上流形援。咸和初、代應詹為江州刺史・持節・都督・平南將軍、鎮武昌、甚有惠政、甄異行能、親祭徐孺子之墓。又陳「豫章十郡之要、宜以刺史居之。尋陽濱江、都督應鎮其地。今以州帖府、進退不便。且古鎮將多不領州、皆以文武形勢不同故也。宜選單車刺史別撫豫章、專理黎庶」。詔不許。在鎮見王敦畫像、曰、「敦大逆、宜加斲棺之戮、受崔杼之刑。古人闔棺而定諡、春秋大居正、崇王父之命、未有受戮於天子而圖形於羣下」。命削去之。
是の時 天下 凋弊し、國用 足らず、公卿より以下に詔して都に詣りて坐じて時政の先とする所を論ぜしむ。嶠 因りて軍國の要務を奏す。其の一に曰く、「祖約 舍を壽陽に退け、將來の難有らん。今 二方の守禦、功を為すこと尚ほ易し。淮泗の都督、宜しく力を竭して以て之を資くべし。名重の士を選び、征兵五千人を配し、又 一偏將を擇び、二千兵を將ゐ、以て壽陽に益して、以て徐豫を保固して、司土を援助す可し」と。其の二に曰く、「一夫 耕さざれば、必ず其の饑を受くる者有らん。今 耕さざるの夫、動やすれば萬もて計ふこと有らん。春に勸課の制を廢し、冬に出租の令を峻くせば、下は未だ施されず、惟だ賦のみ是れ聞こゆ。賦 以て已む可からざれば、當に百姓をして以て殷實有らしめんことを思へ。司徒に田曹掾を置き、州ごとに一人とし、農桑を勸課し、吏の能否を察し、今 宜しく舊に依りて之を置くべし。必ず清恪奉公を得れば、以て惠化を宣示するに足る者にして、則ち益する所 實に弘からん」と。其の三に曰く、「諸々の外の州郡の將兵なる者及び都督府の臨敵の軍に非ざるは、且つ田して且つ守れ。又 先朝 五校をして田に出でしむ。今 四軍五校 兵有る者、及び護軍の統ぶる所の外軍は、二軍を分遣して出でしめ、并びに要處に屯せしむ可し。緣江の上下、皆 良田有らば、荒を開かば一年の後を須ちて即ち易へよ。且つ軍人 累重する者 外に在りて、樵採蔬食の人有らば、事に於て便と為せ」と。其の四に曰く、「官を建てて以て世を理め、以て人を私せざるなり。此の如くんば則ち官は寡なくして材は精たり。周制の六卿 事に莅し、春秋の時、入りて卿輔と作り、出でて三軍に將たり。後代に官を建つること漸く多きも、誠に事に由りて煩簡有るのみ。然れども今 江南六州の土、尚 又 荒殘し、之を平日に方ぶるに、數十分の一のみ。三省の軍校 兵無き者、九府の寺署 并はせて相領有る可き者、半を省く有る可き者、粗ぼ閑劇を計り、事に隨ひて之を減ぜよ。荒殘の縣、或いは同に一城に在らば、之を并合す可し。此の如く選は既に精とす可く、祿俸 優とす可く、耕に代ふるに足らしめば、然る後に責むるに清公を以てす可きのみ」と。其の五に曰く、「古者 親ら藉田を耕して以て粢盛を供し、舊に藉田・廩犧の官を置く。今 時に臨みて市(か)ひ求めれば、既に上は至敬を黷し、下は生靈を費し、宗廟の蒸嘗に虔奉する所以の旨に非ざるなり。宜しく舊制の如く、此の二官を立つべし」と。其の六に曰く、「使命 愈々遠ければ、益々宜しく才を得て、王化を宣揚し、四方に延譽すべし。人情 樂しまざれば、遂に卑品の人を取り、國命を虧辱し、患害を生長せん。故に宜しく其の選を重んじ、二千石の見に二品に居る者を減ず可からず」と。其の七に曰く、「罪 相 及ばざるは、古の制なり。近者 大逆あるは、誠に凶戾に由る。凶戾の甚しきは、一時の權用なり。今 遂に施行するは、聖朝の令典に非ざれば、宜しく先朝の如く三族の制を除くべし」と。議 奏するや、多く之を納る。
帝の疾 篤かるや、嶠 王導・郗鑒・庾亮・陸曄・卞壼らと與に同に顧命を受く。時に歷陽太守の蘇峻 亡命せしを藏匿し、朝廷 之を疑ふ。征西將軍の陶侃 威名 荊楚に有り、又 西夏を以て虞と為し、故に嶠をして上流の形援と為らしむ。咸和の初、應詹に代はりて江州刺史・持節・都督・平南將軍と為り、武昌に鎮し、甚だ惠政有り、行能を甄異し、親ら徐孺子の墓を祭る。又 陳ぶらく「豫章は十郡の要なれば、宜しく刺史を以て之に居らしむべし。尋陽は濱江なれば、都督 應に其の地に鎮すべし。今 州を以て府に帖(さだ)むるは、進退 便ならず。且つ古の鎮將 多く州を領せざるは、皆 文武形勢 同じからざるが故を以てなり。宜しく單車の刺史を選びて別に豫章を撫し、專ら黎庶を理めしめよ」と。詔して許さず。鎮に在りて王敦の畫像を見るや、曰く、「敦は大逆なり、宜しく斲棺の戮を加へ、崔杼の刑を受けしむべし。古人 棺を闔ざして諡を定め、春秋 正に居るを大び、王父の命を崇び、未だ戮を天子に受けて形を羣下に圖かるるもの有らざるなり」と。命じて之を削去せしむ。
このとき天下は疲弊し、財政が不足し、公卿より以下に詔して都を訪れて今日の政務の優先事項を議論させた。温嶠は軍事の優先事項を上奏した。第一に、「祖約は寿陽まで防衛線を後退させ、やがて危難があるでしょう。いま二方面の守備は、まだ機能し得る状況です。淮泗の都督は、力を尽くして祖約を助けるべきです。名望ある人士を選び、征兵五千人を配置し、また一偏将を選び、二千兵を率させ、寿陽に増員し、徐州や豫州方面の守りを固くし、司州方面を援護すべきです」と言った。第二に、「一人の労働力が耕さければ、その分の飢えの被害が必ずあります。いま耕していない労働力は、ややすれば一万の単位でおります。春に農業推進の政策を実行せず、冬に租税の徴収を厳しくすれば、民草は食料が不足し、ただ徴税が捗るだけです。徴税は停止できないのですから、(課税に堪えられるよう)百姓を富ませることを考えるべきです。司徒のもとに田曹掾を設置し、州ごとに定員一人とし、農桑を推進し、吏の能否を査定させます。先例に基づいて田曹掾を配置すべきです。清廉潔白で国家のために働く人材を得れば、民草への恩恵を広めることができ、国家に広大な利益があるでしょう」と言った。第三に、「各地方の州郡の将兵及び都督府のうち交戦中でない軍は、耕作と防衛を両立させますように。また前時代には五校が田に出て耕作しました。いま四軍の五校で兵がいるもの、及び護軍の統括する外軍は、二軍を分けて派遣し、要所で屯田をさせますように。長江の上流や下流の地域で、良田があれば、荒廃地を開墾し一年待ってから耕す場所を異動させなさい。軍人で累重の(養うべき妻子がいて)外地におり、薪をとり草木を食べているものがいれば、場合ごとに便宜を図って下さい」と言った。第四に、「官職を設置して世を治めるとき、私的な偏向があってはいけません。そうすれば官僚の数は少ないが人材の質が高くなります。周制では六卿が政務をとり、春秋時代には、(朝廷に)入っては卿輔となり、(地方に)出ては三軍に将となりました。後代に官職が徐々に増加しましたが、状況によって煩雑と簡略の区別があっただけです。しかし現在は江南六州の土地が、依然として荒廃しており、平時に比べると、数十分の一しか収入がありません。三省の軍校で兵がいないもの、九府の部署で兼務できるもの、半分を省けるものは、忙しさを確認して、適宜(官職の人員を)削って下さい。荒廃した県は、域内に別の城があれば、区画を併合しなさい。このように精鋭を選び、俸禄を手厚くし、精勤の代価として十分とすれば、その後に清廉と公正さを求めればよいでしょう」と言った。第五に、「いにしえ(の天子)は自ら藉田を耕して供物を作り、当時は藉田・廩犧の官が設置されました。いま必要なときに(供物を)買い求めるため、上(天)に敬意を欠き、下(民)に負担をかけ、宗廟の蒸嘗(祭祀)の本旨から逸れています。旧制のように、藉田・廩犧の官の二官を立てるべきです」と言った。第六に、「使命がいよいよ遠大ならば、才能ある人材を得て、王の教化を宣揚し、四方に栄誉を広げるべきです。官僚に不満があれば、品の低い(成り上がり)者を登用し、国家の使命を辱め、害悪を助長するでしょう。ゆえに選抜を重んじ、二千石の現任者で二品であるものを減らしてはいけません」と言った。第七に、「罪が親族や関係者に波及しないのは、古の制度です。近日の大逆事件は、凶悪な人物が原因でした。凶悪な人物の出現は、一時的な(例外の)ことです。これに連坐を適用するのは、聖朝のすぐれた法典ではないため、先朝のように三族(皆殺し)の刑罰を除くべきです」と言った。意見が上層されると、多くが採用された。
明帝の病気が重くなると、温嶠は王導・郗鑒・庾亮・陸曄・卞壼らとともに顧命(遺詔)を受けた。このとき歴陽太守の蘇峻は亡命者をかくまい、朝廷は(反逆を)疑っていた。征西将軍の陶侃は荊楚(の地域)に威名があり、また西夏を脅威と考え、温嶠を上流に配置して支えあう形勢を作ろうとした。咸和年間の初め、(温嶠は)応詹に代わって江州刺史・持節・都督・平南将軍となり、武昌に鎮し、恵み深い政治をし、有能な人物を選抜し、みずから徐孺子(後漢の徐稚)の墓を祭った。また提案して、「豫章は十郡の中枢なので、刺史をここに居らせるべきです。尋陽は長江に面しているので、都督がこの地に鎮するべきです。いま州(刺史)と(都督)府を一致させるのは、(軍事上)進退が便利ではありません。古の鎮将は多くが州(刺史の官)を兼任しなかったのは、(役割の)文武の性質と(軍事的な)形勢が一致しなかったためです。どうか単車の(軍を率いない)刺史を選んで(都督から)分けて豫章で慰撫し、民政に専念させて下さい」と言った。詔して許さなかった。(江州の)鎮所で王敦の画像を見ると、温嶠は、「王敦は国家の反逆者だ、棺を切って処罰し、崔杼(史官の筆)の刑を受けさせるべきだ。古人は棺を閉ざして諡を定め、春秋は中正さを重んじ、王父の命を尊んだ。(王敦は)天子から誅戮されたのだから姿を民を描かれてはならない」と言った。命じてこれを削り取らせた。
嶠聞蘇峻之徵也、慮必有變、求還朝以備不虞、不聽。未幾而蘇峻果反。嶠屯尋陽、遣督護王愆期・西陽太守鄧嶽・鄱陽內史1.(紀瞻)〔紀睦〕等率舟師赴難。及京師傾覆、嶠聞之號慟。人有候之者、悲哭相對。俄而庾亮來奔、宣太后詔、進嶠驃騎將軍・開府儀同三司。嶠曰、「今日之急、殄寇為先、未效勳庸而逆受榮寵、非所聞也、何以示天下乎」。固辭不受。時亮雖奔敗、嶠每推崇之、分兵給亮。遣王愆期等要陶侃同赴國難、侃恨不受顧命、不許。嶠初從之、後用其部將毛寶說、復固請侃行、語在寶傳。初、嶠與庾亮相推為盟主、嶠從弟充言於嶠曰、「征西位重兵強、宜共推之」。嶠於是遣王愆期奉侃為盟主。侃許之、遣督護龔登率兵詣嶠。嶠於是列上尚書、陳峻罪狀、有眾七千、灑泣登舟、移告四方征鎮曰、
賊臣祖約・蘇峻同惡相濟、用生邪心。天奪其魄、死期將至。譴負天地、自絕人倫。寇不可縱、宜增軍討撲、輒屯次湓口。即日護軍庾亮至、宣太后詔、寇逼宮城、王旅撓敗、出告藩臣、謀寧社稷。後將軍郭默・冠軍將軍趙胤・奮武將軍龔保與嶠督護王愆期・西陽太守鄧嶽・鄱陽內史紀2.(瞻)〔睦〕、率其所領、相尋而至。逆賊肆凶、陵蹈宗廟、火延宮掖、矢流太極、二御幽逼、宰相困迫、殘虐朝士、劫辱子女。承問悲惶、精魂飛散。嶠闇弱不武、不能徇難、哀恨自咎、五情摧隕、慚負先帝託寄之重、義在畢力、死而後已。今躬率所統、為士卒先、催進諸軍、一時電擊。西陽太守鄧嶽・尋陽太守褚誕等連旗相繼、宣城內史桓彝已勒所屬屯濱江之要、江夏相周撫乃心求征、軍已向路。
昔包胥楚國之微臣、重趼致誠、義感諸侯。藺相如趙邦之陪隸、恥君之辱、按劍秦庭。皇漢之季、董卓作亂、劫遷獻帝、虐害忠良、關東州郡相率同盟。廣陵功曹臧洪、郡之小吏耳、登壇喢血、涕淚橫流、慷慨之節、實厲羣后。況今居台鼎、據方州、列名邦、受國恩者哉。不期而會、不謀而同、不亦宜乎。
二賊合眾、不盈五千、且外畏胡寇、城內饑乏、後將軍郭默即於戰陣俘殺賊千人。賊今雖殘破都邑、其宿衞兵人即時出散、不為賊用。且祖約情性褊阨、忌克不仁、蘇峻小子、惟利是視、殘酷驕猜、權相假合。江表興義、以抗其前、強胡外寇、以躡其後、運漕隔絕、資食空懸、內乏外孤、勢何得久。
羣公征鎮、職在禦侮。征西陶公、國之耆德、忠肅義正、勳庸弘著。諸方鎮州郡咸齊斷金、同稟規略、以雪國恥、苟利社稷、死生以之。嶠雖怯劣、忝據一方、賴忠賢之規、文武之助、君子竭誠、小人盡力、高操之士被褐而從戎、負薪之徒匍匐而赴命、率其私僕、致其私杖、人士之誠、竹帛不能載也。豈嶠無德而致之哉。士稟義風、人感皇澤。且護軍庾公、帝之元舅、德望隆重、率郭後軍・趙・龔三將、與嶠勠力、得有資憑、且悲且慶、若朝廷之不泯也。其各明率所統、無後事機。賞募之信、明如日月。有能斬約峻者、封五等侯、賞布萬匹。夫忠為令德、為仁由己、萬里一契、義不在言也。
1.「紀瞻」を「紀睦」に改める。成帝紀・鄧嶽伝では「紀瞻」を「紀睦」に作り、紀瞻は明帝期に亡くなっており、咸和三年の時点で故人である。また、紀瞻が鄱陽內史になったという記録はない(中華書局本の校勘記より)。
2.同前。
嶠 蘇峻の徵せらるるを聞くや、必ず變有らんと慮り、朝に還りて以て不虞に備ふることを求むれども、聽かず。未だ幾ならずして蘇峻 果たして反す。嶠 尋陽に屯し、督護の王愆期・西陽太守の鄧嶽・鄱陽內史の紀睦らを遣はして舟師を率ゐて難に赴かしむ。京師 傾覆するに及び、嶠 之を聞きて號慟す。人の之に候する者有れば、悲哭して相 對す。俄かにして庾亮 來奔し、太后の詔を宣し、嶠を驃騎將軍・開府儀同三司に進む。嶠曰く、「今日の急、寇を殄するを先と為し、未だ勳庸を效さざるも逆に榮寵を受くるは、聞こゆる所に非ざるなり、何を以て天下に示さんか」と。固辭して受けず。時に亮 奔敗すと雖も、嶠 每に之を推崇し、兵を分けて亮に給す。王愆期らを遣はして陶侃に同に國難に赴くことを要むるも、侃 顧命を受けざることを恨み、許さず。嶠 初め之に從ふも、後に其の部將の毛寶の說を用ひ、復た固く侃に行かんことを請ふ。寶傳に在り。初め、嶠 庾亮と與に相 推して盟主と為るも、嶠の從弟の充 嶠に言ひて曰く、「征西 位は重く兵は強く、宜しく共に之を推すべし」と。嶠 是に於て王愆期を遣はして侃を奉じて盟主と為す。侃 之を許し、督護の龔登を遣はして兵を率ゐて嶠に詣る。嶠 是に於て尚書に列上し、峻の罪狀を陳べ、眾七千有り、灑泣して舟に登り、告を四方の征鎮に移して曰く、
賊臣の祖約・蘇峻 同惡 相濟し、用て邪心を生ず。天は其の魄を奪ひ、死期 將に至らんとす。天地より譴負せられ、自ら人倫を絕たん。寇 縱にす可からず、宜しく軍を增して討撲せば、輒ち湓口に屯次す。即日に護軍の庾亮 至り、太后の詔を宣す。寇は宮城に逼り、王旅 撓敗せられ、出でて藩臣に告ぎ、社稷を寧せんことを謀る。後將軍の郭默・冠軍將軍の趙胤・奮武將軍の龔保 嶠の督護の王愆期・西陽太守の鄧嶽・鄱陽內史の紀睦と與に、其の領する所を率ゐ、相 尋いで至る。逆賊 凶を肆にし、宗廟を陵蹈し、火 宮掖に延き、矢 太極に流れ、二御 幽逼せられ、宰相 困迫し、朝士を殘虐し、子女を劫辱す。問を承けて悲惶し、精魂 飛散す。嶠 闇弱不武にして、能く難を徇へざるも、哀恨 自ら咎め、五情 摧隕し、先帝が託寄の重を慚負し、義は畢力に在り、死して後に已む。今 躬ら統ぶる所を率ゐ、士卒の先と為り、諸軍を催進して、一時に電擊せん。西陽太守の鄧嶽・尋陽太守の褚誕ら旗を連ねて相 繼ぎ、宣城內史の桓彝已 屬する所を勒して濱江の要に屯し、江夏相の周撫 乃ち心に征を求め、軍 已に路に向ふ。
昔 包胥は楚國の微臣なるも、趼を重ねて誠を致さば、義は諸侯を感ぜしむ。藺相如は趙邦の陪隸なるも、君の辱を恥ぢ、劍を秦庭に按ず。皇漢の季に、董卓 亂を作し、獻帝を劫遷し、忠良を虐害するや、關東の州郡 相率して同盟す。廣陵功曹の臧洪、郡の小吏のみなるも、壇に登りて血を喢ぎ、涕淚橫流するや、慷慨の節は、實に羣后を厲ます。況んや今 台鼎に居り、方州に據り、名邦に列なり、國恩を受くる者をや。期せずして會し、謀らずして同ず、亦た宜しからずや。
二賊 眾を合するも、五千に盈たず、且つ外に胡寇を畏れ、城內 饑乏す。後將軍の郭默 戰陣に即きて賊千人を俘殺す。賊 今 都邑を殘破すと雖も、其の宿衞の兵人 即時に出散し、賊の用と為らず。且つ祖約 情性は褊阨にして、忌克不仁なり。蘇峻の小子、惟だ利のみ是れ視て、殘酷驕猜にして、權相し假合す。江表 義を興し、以て其の前を抗ぎ、強胡の外寇、以て其の後を躡まば、運漕 隔絕し、資食 空懸し、內は乏しく外は孤たりて、勢 何ぞ久しかるを得んや。
羣公征鎮、職は禦侮に在り。征西の陶公、國の耆德にして、忠肅 義正にして、勳庸 弘著なり。諸々の方鎮州郡 咸 斷金に齊しく、同に規略を稟け、以て國恥を雪ぎ、苟し社稷に利さば、死生 之を以てせん。嶠 怯劣なると雖も、忝くも一方に據り、忠賢の規に賴り、文武の助、君子 誠を竭し、小人 力を盡し、高操の士 被褐して戎に從ひ、負薪の徒 匍匐して命に赴き、其の私僕を率ゐ、其の私杖を致す。人士の誠、竹帛 載する能はず。豈に嶠 德無くして之に致るや。士 義風を稟け、人 皇澤に感ずればなり。且つ護軍の庾公、帝の元舅にして、德望 隆重にして、郭後軍・趙・龔の三將を率ゐ、嶠と勠力し、資憑有るを得て、且つ悲しみ且つ慶び、朝廷の泯びざるが若し。其の各々明に統ぶる所をを率ゐ、事機に後るる無し。賞募の信、明るきこと日月の如し。能く約・峻を斬る者有らば、五等侯に封じ、布萬匹を賞せん。夫れ忠は令德為り、仁為るは己に由る。萬里一契、義は言に在ざるなり。
温嶠は蘇峻が(中央に)徴されたと聞くと、必ず事変が起こると考え、朝廷に帰って不慮の事態に備えたいと思ったが、許可が下りなかった。ほどなく蘇峻がやはり反乱した。温嶠は尋陽に駐屯し、督護の王愆期・西陽太守の鄧嶽・鄱陽内史の紀睦らを派遣して水軍で戦場に向かわせた。京師(建康)が陥落すると、温嶠はこれを聞いて慟哭した。人が会いにくるたび、哭泣しあった。にわかに庾亮が駆け込み、太后の詔を伝え、温嶠を驃騎将軍・開府儀同三司に昇進させた。温嶠は、「今日に最優先は、賊を討伐することで、まだ勲功がないにも拘わらず栄寵を受けるのは、受け入れられません。天下に示しが付きません」と言った。固辞して受けなかった。このとき庾亮は敗走したが、温嶠はつねに庾亮を推戴し、自軍の兵を分けて庾亮に補給した。王愆期らを送って陶侃にともに国難を解決しようと要請したが、陶侃は(先帝から)顧命を受けていないことを怨み、同意しなかった。温嶠ははじめ(陶侃の拒絶に)従ったが、のちに温嶠の部将の毛宝の意見を用い、ふたたび粘り強く陶侃に協力を求めた。このことは毛宝伝にある。これよりさき、温嶠は庾亮とともに推薦しあって盟主となったが、温嶠の従弟の温充が温嶠に、「征西(将軍の陶侃)は地位が高く兵が強く、ともに(巻き込んで)推戴すべきです」と言った。温嶠はそこで王愆期を使わして陶侃を奉って盟主とした。陶侃はこれを認め、督護の龔登を派遣して兵を率いて温嶠に合流させた。温嶠はここにおいて尚書に文書を連ねて提出し、蘇峻の罪状を述べ、兵は七千人おり、涙を振るって船に乗り、四方の征鎮に告知し、
「賊臣の祖約と蘇峻は悪人同士で結託し、邪悪な心を生じた。天は彼らの肉体を奪い、その死期は迫っている。天地から糾弾され、自ずから同族は滅びよう。盗賊を野放しにしてはならず、軍を増やして討伐すれば、(味方は)湓口に集結するだろう。即日に護軍の庾亮が到着し、太后の詔を告げた。盗賊が宮城にせまり、天子の軍は撃ち破られると、使者(庾亮)を藩臣(温嶠)に送り、社稷の安寧について相談した。後将軍の郭黙・冠軍将軍の趙胤・奮武将軍の龔保は私(温嶠)の督護の王愆期・西陽太守の鄧嶽・鄱陽内史の紀睦とともに、その配下の兵を率い、相次いで到着した。逆賊は凶逆をほしいままにし、宗廟を踏み荒らし、宮廷を焼き払い、矢を太極殿に飛ばし、二御(天子と皇后)を追い詰め、宰相は困り果て、(賊軍が)朝廷の士人を虐殺し、子女を陵辱した。(私は)連絡を受けて悲しみ驚き、精神が飛び散った。私は暗愚で軍事に疎く、困難を打開する力がないが、悲しみと怨みが自分を咎め、感情にさいなまれ、先帝から後事を託された責任に恥じ、力を尽くすことこそ義だと思い、死ぬまで力を振り絞ろう。いま直接統括する兵士を率い、諸軍の前鋒となり、先導者となって、雷電のように突撃するだろう。西陽太守の鄧嶽・尋陽太守の褚誕らが軍旗を連ねて後ろに続き、宣城内史の桓彝已は配下を編制して長江沿いの要地に駐屯し、江夏相の周撫も征伐に賛同し、軍はすでに途についている。
むかし申包胥は楚国の下級の臣であったが、足にたこを重ね(遠距離を移動し)誠意を尽くしたので、その義が諸侯を感動させた。藺相如は趙国の食客であったが、君主の恥辱(和氏の壁の約束を反故にされたこと)に恥じ、秦国の宮廷で剣を振るった。後漢の末に、董卓が乱をなし、献帝を連れ去り、忠臣を虐殺すると、関東の州郡では声を掛けあって同盟した。広陵功曹の臧洪は、郡の小吏に過ぎないが、祭壇に登って血をすすり、涙を流すと、慷慨の節義が、諸侯(袁紹ら)を励ました。ましてや今日において台鼎(三公の位)におり、一州の長官となり、高い爵位に連なり、国恩を受けている者が励まずにはいられまい。申し合わせず集まり、謀らずして同じ行動を取ったのは、素晴らしいことではないか。
二賊(祖約と蘇峻)は兵を合わせても、五千に満たず、しかも外に胡族の侵攻を恐れ、城内は食料や物資が不足している。後将軍の郭黙は敵陣に臨んで賊千人を捕らえ殺した。賊はいま都邑(建康)を陥落させたが、その宿衛の兵士は即座に逃げ散って、賊軍に編入されなかった。しかも祖約は狭量な性質で、刻薄で不仁である。蘇峻のがきは、ただ利益に目がくらみ、残酷で驕って疑いぶかく、一時的に(祖約と)合同しているに過ぎない。江表で義をおこし、賊軍の前方を防ぎ、強い胡族が侵略し、賊軍の後方を踏めば、輸送は断絶し、資財と食料は底をつき、内は窮乏し外は孤立し、(現状の)勢力が長続きするものか。
諸公や征鎮は、防衛を任務としている。征西の陶公(征西大将軍の陶侃)は、この国で老成して徳の高い人物で、中正で義があり、功績は顕著である。各地の方鎮や州郡はすべて断金の連携を結び、統一された戦略のもと、国の恥をすすぎ、社稷の役に立てるならば、死をも恐れない。私は臆病であるが、畏れ多くも一方面をあずかり、忠賢の臣として、文武の官の力を借りており、君子は誠を尽くし、部下たちも力を尽くし、超然とした人士も軍服をきて従軍し、負薪の徒(子供が幼いもの)も命令のもとに集い、従者を率い、私的な兵力も駆使する。人士の誠は、文書で表現できない。私のように徳に欠ける人間のもとにどうしてこれほど人員が集まったのだろうか。義の風を受け、皇室の恩沢に感化されたためである。しかも護軍の庾公は、皇帝のしゅうとであり、徳望は高く、郭後軍(後将軍の郭黙)・趙(趙胤)・龔(龔保)の三将を率い、私と力をあわせ、頼りになる味方を得て、悲しみと喜びが同時に起こり、朝廷の不滅を確信した。それぞれ配下を統率し、好機に遅参してはならない。論功行賞は、日月のように明らかに行われよう。祖約・蘇峻を斬った者は、五等侯に封じ、布万匹を与えよう。忠とはすぐれた徳のことであり、仁は自ら行うものだ。万里が契りを一にし、義は言い尽くせない」と言った。
時陶侃雖許自下而未發、復追其督護龔登。嶠重與侃書曰、
僕謂軍有進而無退、宜增而不可減。近已移檄遠近、言於盟府、剋後月半大舉、南康・建安・晉安三郡軍並在路次、同赴此會、惟須仁公所統至、便齊進耳。仁公今召軍還、疑惑遠近、成敗之由、將在於此。
僕才輕任重、實憑仁公篤愛、遠稟成規。至於首啟戎行、不敢有辭、僕與仁公當如常山之蛇、首尾相衞、又脣齒之喻也。恐惑者不達高旨、將謂仁公緩於討賊、此聲難追。僕與仁公並受方嶽之任、安危休慼、理既同之。且自頃之顧、綢繆往來、情深義重、著於人士之口、一旦有急、亦望仁公悉眾見救、況社稷之難。
惟僕偏當一州、州之文武莫不翹企。假令此州不守、約峻樹置官長於此、荊楚西逼強胡、東接逆賊、因之以饑饉、將來之危乃當甚於此州之今日也。以大義言之、則社稷顛覆、主辱臣死。公進當為大晉之忠臣、參桓文之義、開國承家、銘之天府。退當以慈父雪愛子之痛。
約峻凶逆無道、囚制人士、裸其五形。近日來者、不可忍見。骨肉生離、痛感天地、人心齊一、咸皆切齒。今之進討、若以石投卵耳。今出軍既緩、復召兵還、人心乖離、是為敗於幾成也。願深察所陳、以副三軍之望。
峻時殺侃子瞻、由是侃激勵、遂率所統與嶠・亮同赴京師、戎卒六萬、旌旗七百餘里、鉦鼓之聲震於百里、直指石頭、次于蔡洲。侃屯查浦、嶠屯沙門浦。時祖約據歷陽、與峻為首尾、見嶠等軍盛、謂其黨曰、「吾本知嶠能為四公子之事、今果然矣」。
時に陶侃 自ら下るを許すと雖も未だ發せず、復た其の督護の龔登を追(よびかへ)す。嶠 重ねて侃に書を與へて曰く、
僕 謂へらく軍は進む有りて退く無く、宜しく增して減ず可からざなり。近ごろ已に檄を遠近に移し、府に盟ふと言ひ、後月半を剋して大舉し、南康・建安・晉安の三郡の軍 並びに路次に在り、同に此の會に赴き、惟だ仁公の統ぶる所 至るを須ち、便ち齊しく進まんのみ。仁公 今 軍を召して還し、遠近を疑惑せしめ、成敗の由、將に此に在らん。
僕 才は輕くも任は重く、實に仁公の篤愛に憑り、遠く成規を稟く。首めに戎行を啟くに至り、敢て辭有らず、僕 仁公と與に當に常山の蛇が如く、首尾 相 衞り、又 脣齒の喻なり。恐惑する者 高旨に達せず、將に仁公 討賊に緩たると謂はんとし、此の聲 追ひ難し。僕 仁公と與に並びに方嶽の任を受け、安危休慼、理として既に之を同じくす。且つ自頃の顧、綢繆 往來し、情は深く義は重く、人士の口に著はる。一旦 急有らば、亦た仁公の眾を悉くして救ふを見るを望み、況んや社稷の難をや。
惟ふに僕 偏に一州に當り、州の文武 翹企せざる莫し。假令 此の州 守らざれば、約・峻 官長を此に樹置せん。荊楚 西は強胡に逼り、東は逆賊に接し、之に因て以て饑饉す。將來の危 乃ち當に此の州の今日よりも甚しきなり。大義を以て之を言はば、則ち社稷 顛覆し、主 辱かば臣 死せん。公 進みては當に大晉の忠臣為り、桓文の義に參じ、國を開き家を承け、之を天府に銘むべし。退きては當に慈父を以て愛子の痛うを雪ぐべし。
約・峻 凶逆無道にして、人士を囚制し、其の五形を裸にす。近日 來たる者は、見るに忍ぶ可からず。骨肉 生きながらに離れ、天地を痛感し、人心 齊一にして、咸皆 切齒す。今の進討するは、石を以て卵に投ぐるが若きのみ。今 軍を出だして既に緩たりて、復た兵を召して還らば、人心 乖離し、是れ幾ど成に敗れんと為るなり。願はくは陳ぶる所を深察し、以て三軍の望に副へ。
峻 時に侃の子の瞻を殺し、是に由り侃 激勵し、遂に統ぶる所を率ゐて嶠・亮と與に同に京師に赴く。戎卒は六萬、旌旗は七百餘里、鉦鼓の聲 百里を震はせ、直に石頭を指し、蔡洲に次す。侃 查浦に屯し、嶠 沙門浦に屯す。時に祖約 歷陽に據り、峻と首尾と為るも、嶠らの軍 盛なるを見て、其の黨に謂ひて曰く、「吾 本より嶠の能く四公子の事を為すを知る、今 果たして然り」と。
このとき陶侃は自ら(長江を)下る(戦いに参加する)ことに同意したがまだ出発せず、かえってその督護の龔登を呼び返した。温嶠は重ねて陶侃に書簡を送り、
「私(温嶠)が考えますに軍隊は進むことがあっても退くことはなく、増やすべきであり減らしてはいけません。近日すでに各地に檄文を回付し、府と盟約し、半月後を期日として大挙し、南康・建安・晋安の三郡の軍はすべて途上にあり、ともに会盟に赴いて、ただあなたの軍の到着を待ち、同時に進むつもりです。あなたが軍を引き返せば、遠近の軍を疑い惑わせ、勝敗への分岐点は、あなたの挙動にあります。
私は才能が軽いが任務が重く、あなたの厚い仁愛を頼りに、遠くで(庾亮から)戦略を授けられました。軍事行動を起こして、あえて辞退しなかったのは、私とあなたが常山の蛇のように、前後で相互に連携し、唇歯の役割を果たすのを期待してのことです。恐れ惑うものは高尚な意思を理解せず、あなた(陶侃)が凶族の討伐に熱心でないと唱えており、この声を封殺できません。私はあなたとともに地方長官の任務を受け、安泰も危殆も、一蓮托生です。しかも最近のことを顧みるに、苦難が錯綜しようと、(あなたは)情義が深くて重いと、人士は口々に述べています。いったん危難があれば、きっとあなたが全軍を率いて救援することを期待し、ましてや社稷の危機であれば尚更であります。
私は一州(江州)を任されていますが、州の文武の官は熱望しないものはいません。もしこの州を保持できなければ、祖約と蘇峻は官長をここに任命し立てるでしょう。荊楚(荊州)は西が強い胡族と隣接し、東は逆賊(祖約と蘇峻)と隣接し、(江州が陥落すれば)東西を挟まれて飢饉となるでしょう。将来の危険性は、(陶侃の荊州のほうが)わが江州よりも深刻なのです。大義の観点から言えば、社稷が転覆し、君主が辱められれば臣下は死ぬものです。あなたは進んでは大晋帝国の忠臣であり、桓公や文公の義にならい、封国を開いて継承し、天府に名を刻むべきです。退いては慈悲ぶかい父のように可愛い子の痛みを除いてやるべきです。
祖約と蘇峻は凶逆無道であり、人々を囚人のように取り締まり、五形を裸にしています。近日逃げてきたものは、見るに忍びありません。肉親が生きながらに離別し、天地に痛みが感応し、人心は一つになり、みな悔しがっています。いま進んで討伐するのは、石を卵に投げつけるようなものです。いま軍を出しても(進軍が)緩慢であり、さらに兵を召して撤退すれば、人心は離ればなれになり、ほぼ敗北が確定します。どうか私の説を深くお考えになり、三軍の望みに副われますように」と言った。
蘇峻はこのとき陶侃の子の陶瞻を殺し、これにより陶侃は激高し、ついに配下を率いて温嶠・庾亮とともに京師に赴いた。兵士委は六万、旌旗は七百里あまり、鉦鼓の音は百里を震わせ、まっすぐ石頭を目指し、蔡洲に駐屯した。陶侃は查浦に屯営し、温嶠は沙門浦に屯営した。このとき祖約は歴陽に拠り、蘇峻と首尾(離れて連携)をしていたが、温嶠らの軍が盛んなのを見て、その部下に、「私は前から温嶠が四公子のこと(戦国時代の孟嘗君らのような事業)をなせると分かっていた。いまそれを実現をした」と言った。
峻聞嶠將至、逼大駕幸石頭。時峻軍多馬、南軍杖舟楫、不敢輕與交鋒。用將軍李根計、據白石築壘以自固、使庾亮守之。賊步騎萬餘來攻、不下而退、追斬二百餘級。嶠又於四望磯築壘以逼賊、曰、「賊必爭之、設伏以逸待勞、是制賊之一奇也」。是時義軍屢戰失利、嶠軍食盡、陶侃怒曰、「使君前云不憂無將士、惟得老僕為主耳。今數戰皆北、良將安在。荊州接胡蜀二虜、倉廩當備不虞、若復無食、僕便欲西歸、更思良算。但今歲計、殄賊不為晚也」。嶠曰、「不然。自古成監、師克在和。光武之濟昆陽、曹公之拔官渡、以寡敵眾、杖義故也。峻・約小豎、為海內所患、今日之舉、決在一戰。峻勇而無謀、藉驕勝之勢、自謂無前、今挑之戰、可一鼓而擒也。奈何捨垂立之功、設進退之計。且天子幽逼、社稷危殆、四海臣子、肝腦塗地、嶠等與公並受國恩、是致命之日。事若克濟、則臣主同祚。如其不捷、身雖灰滅、不足以謝責於先帝。今之事勢、義無旋踵、騎猛獸、安可中下哉。公若違眾獨反、人心必沮。沮眾敗事、義旗將迴指於公矣」。侃無以對、遂留不去。
嶠於是創建行廟、廣設壇場、告皇天后土祖宗之靈、親讀祝文、聲氣激揚、流涕覆面、三軍莫能仰視。其日侃督水軍向石頭、亮・嶠等率精勇一萬從白石以挑戰。時峻勞其將士、因醉、突陣馬礩、為侃將所斬。峻弟逸及子碩嬰城自固。嶠乃立行臺、布告天下、凡故吏二千石・臺郎御史以下、皆令赴臺。於是至者雲集。司徒王導因奏嶠・侃錄尚書、遣間使宣旨、並讓不受。賊將匡術以臺城來降、為逸所擊、求救於嶠。江州別駕羅洞曰、「今水暴長、救之不便、不如攻榻杭。榻杭軍若敗、術圍自解」。嶠從之、遂破賊石頭軍。奮威長史滕含抱天子奔于嶠船。時陶侃雖為盟主、而處分規略一出於嶠、及賊滅、拜驃騎將軍・開府儀同三司、加散騎常侍、封始安郡公、邑三千戶。
峻 嶠 將に至らんとするを聞くや、大駕に逼りて石頭に幸せしむ。時に峻の軍 馬多く、南軍は舟楫に杖れば、敢て輕々しく與に交鋒せず。將軍の李根の計を用ひ、白石に據りて壘を築きて以て自ら固くし、庾亮をして之を守らしむ。賊の步騎の萬餘 來攻するも、下さずして退き、追ひて二百餘級を斬る。嶠 又 四望磯に於て壘を築きて以て賊に逼り、曰く、「賊 必ず之を爭ふ、伏を設けて逸を以て勞を待たば、是れ賊を制するの一奇なり」と。是の時 義軍 屢々戰ひて利を失ひ、嶠の軍は食 盡く。陶侃 怒りて曰く、「使君 前に將士無きを憂はずと云ふも、惟だ老僕を得て主と為すのみ。今 數々戰ひて皆 北れ、良將 安くにか在ある。荊州 胡蜀の二虜に接し、倉廩 當に備ふれば虞るべからず。若し復た食無くんば、僕 便ち西歸して、更めて良算を思はんと欲す。但だ今歲 計るに、賊を殄すとも晚しと為さざるなり」と。嶠曰く、「然らず。古より成監、師克は和に在り。光武の昆陽を濟ひ、曹公の官渡を拔き、寡を以て眾に敵せしは、義に杖るが故なり。峻・約は小豎にして、海內の患ふ所と為る。今日の舉、決するは一戰に在り。峻は勇なるも無謀、驕勝の勢を藉り、自ら無前と謂ふ。今 之に挑みて戰はば、一鼓して擒ふ可きなり。奈何ぞ垂立の功を捨て、進退の計を設くるや。且つ天子 幽逼せられ、社稷 危殆し、四海の臣子、肝腦 地に塗る。嶠ら公と與に並びに國恩を受け、是れ致命の日なり。事 若し克く濟はば、則ち臣主 祚を同じくす。如し其れ捷たざれば、身は灰滅すと雖も、以て先帝に謝責するに足らず。今の事勢、義は旋踵する無く、猛獸に騎るも、安にか中ごろに下るる可きや。公 若し眾に違ひて獨り反らば、人心 必ず沮れん。眾を沮りて事に敗るれば、義旗 將た公に迴指するや」と。侃 以て對ふる無く、遂に留まりて去らず。
嶠 是に於て行廟を創建し、廣く壇場を設け、皇天后土・祖宗の靈に告げ、親ら祝文を讀み、聲氣 激揚して、流涕して面を覆ひ、三軍 能く仰視する莫し。其の日 侃 水軍を督して石頭に向ひ、亮・嶠ら精勇一萬を率ひて白石より以て戰を挑む。時に峻 其の將士を勞れしめ、因りて醉ふ。陣に突して馬 礩き、侃の將の斬る所と為る。峻の弟の逸及び子の碩 城を嬰して自ら固む。嶠 乃ち行臺を立て、天下に布告すらく、凡そ故吏二千石・臺郎御史より以下、皆 臺に赴かしめよと。是に於て至る者 雲のごとく集ふ。司徒の王導 因りて嶠・侃を錄尚書に奏し、間使を遣はして宣旨するも、並びに讓りて受けず。賊將の匡術 臺城を以て來降し、逸の擊つ所と為り、救ひを嶠に求む。江州別駕の羅洞曰く、「今 水は暴かに長じ、之を救ふに便ならず。榻杭を攻むるに如かず。榻杭の軍 若し敗るれば、術の圍 自づから解けん」と。嶠 之に從ひ、遂に賊の石頭の軍を破る。奮威長史の滕含 天子を抱きて嶠船に奔る。時に陶侃 盟主為りと雖も、而れども處分規略は一に嶠より出づれば、賊 滅ぶに及び、驃騎將軍・開府儀同三司を拜し、散騎常侍を加へ、始安郡公に封じ、邑三千戶なり。
蘇峻は温嶠が接近していると聞くと、大駕(天子)に迫って石頭に移らせた。このとき蘇峻の軍に馬が多く、南軍(温嶠らの軍)は舟楫(水軍)が主力であったので、あえて軽々しく交戦しなかった。将軍の李根の計略を用い、白石を拠点とし土塁を築いて守りを固め、庾亮にそこを任せた。賊の歩騎が一万あまり攻め寄せたが、(賊軍は白石を)攻略できずに退き、(庾亮は)追撃して二百級あまりを斬った。温嶠はさらに四望磯に土塁を築いて賊軍を圧迫し、「賊は必ずこの地を奪いにくる。伏兵を設けて安逸(な自軍)で疲労(した敵軍)を待ち受ければ、賊を制圧する奇策となる」と言った。このとき義軍(温嶠らの軍)はしばしば戦っては敗れ、温嶠の軍は食料が尽きた。陶侃は怒って、「あなたは前に将士の不足は心配する必要がないと言い、この老人(陶侃)を盟主に祭りあげた。(ところが)いま何度も戦っては敗れ、良将はどこにいるのか。荊州は(中原の)胡賊と蜀(成漢)の二つの異民族国家に隣接するが、備蓄が十分ならば防御に心配がなかった。食料がなくなったならば、私は西(荊州)に帰り、改めて計画を練り直したい。今年の収穫を計上してから、賊を滅ぼしても遅くあるまい」と言った。温嶠は、「違います。いにしえより軍の統制と、勝利には和が必要です。(後漢の)光武帝は昆陽を救い、曹公(曹操)は官渡で(袁紹を)破り、少兵で多数を圧倒したのは、義に基づいたからです。蘇峻と祖約は小悪党であり、天下に忌み嫌われています。今日の討伐は、一戦で決着がつくでしょう。蘇峻は勇敢だが無謀で、勝ちに驕り、敵なしと言っています。いま戦いを挑めば、軍鼓一発で捕縛できます。どうして功績を立てる機会を捨て、撤退を考えるのでしょうか。しかも天子が幽閉され、社稷が危機に瀕し、四海の臣民は、肝脳が地にまみれています。私もあなたも国恩を受けており、今こそ使命を果たす日です。もし勝利すれば、臣下も君主も祝福するでしょう。もし敗北すれば、身が灰のように滅びても、先帝に謝罪するに足りません。今日の情勢は、撤退には義はなく、猛獣の背に乗るとも、どうして途中で降りてよいのでしょうか。あなたが衆心に背いて単独で撤退すれば、人心を失います。世論に背いて(東晋を)敗北させたなら、いったい義の旗はあなたを指すでしょうか」と言った。陶侃は返答の言葉もなく、留まって去らなかった。
温嶠は行廟を創建し、広く祭壇場を設け、皇天后土・祖宗の霊に報告し、自ら祝文を読み、声色が激高し、流涕して顔を覆った。三軍は(温嶠を)仰ぎ見ることができなかった。その日、陶侃は水軍を督して石頭に向かい、庾亮・温嶠らは勇敢な精鋭の一万を率いて白石から出撃し戦いを挑んだ。このとき蘇峻の配下の将士は疲労し、(気を紛らわすため)酔っていた。陣地に突撃すると馬がつまずき、陶侃の将に斬られた。蘇峻の弟の蘇逸及び子の蘇碩は城の防備を固めた。温嶠は行台を立て、天下に布告して、(蘇峻配下の)故吏や二千石・台郎の御史より以下、みなこの行台に来いと言った。すると雲のように人が集まった。司徒の王導はこの功績で温嶠・陶侃を録尚書にせよと上奏し、使者を送って任命を告げたが、二人とも辞退した。賊将の匡術は台城をあげて降伏して来たが、蘇逸に攻撃され、温嶠に救援を求めた。江州別駕の羅洞は、「いま急激に水量が増え、援軍を送れません。(匡術を救援するよりも)榻杭を攻撃するほうがよいです。榻杭の軍が敗れたら、匡術の包囲はおのずと解けるでしょう」と言った。温嶠はこれに従い、かくて賊軍の石頭の軍を破った。(天子が賊軍を脱出し)奮威長史の滕含が天子を抱えて温嶠の船に逃げ込んだ。このとき陶侃は盟主であったが、軍事上の決断はすべて温嶠がしたので、賊軍が滅ぶと、(温嶠は)驃騎将軍・開府儀同三司を拝し、散騎常侍を加え、始安郡公に封建し、邑三千戸とした。
初、峻黨路永・匡術・賈寧中塗悉以眾歸順、王導將褒顯之、嶠曰、「術輩首亂、罪莫大焉。晚雖改悟、未足以補前失。全其首領、為幸已過、何可復寵授哉」。導無以奪。
朝議將留輔政、嶠以導先帝所任、固辭還藩。復以京邑荒殘、資用不給、嶠借資蓄、具器用、而後旋于武昌。至牛渚磯、水深不可測、世云其下多怪物、嶠遂燬犀角而照之。須臾、見水族覆火、奇形異狀、或乘馬車著赤衣者。嶠其夜夢人謂己曰、「與君幽明道別、何意相照也」。意甚惡之。嶠先有齒疾、至是拔之、因中風、至鎮未旬而卒、時年四十二。江州士庶聞之、莫不相顧而泣。帝下冊書曰、「朕以眇身、纂承洪緒、不能光闡大道、化洽時雍、至乃狂狡滔天、社稷危逼。惟公明鑒特達、識心經遠、懼皇綱之不維、忿凶寇之縱暴、唱率羣后、五州響應、首啟戎行、元惡授馘。王室危而復安、三光幽而復明、功格宇宙、勳著八表。方賴大猷以拯區夏、天不憖遺、早世薨殂、朕用痛悼于厥心。夫褒德銘勳、先王之明典、今追贈公侍中・大將軍・持節・都督・刺史、公如故、賜錢百萬、布千匹、諡曰忠武、祠以太牢」。
初め、峻の黨の路永・匡術・賈寧 中塗に悉く眾を以て歸順し、王導 將に之を褒顯せんとす。嶠曰く、「術の輩 亂を首むれば、罪は焉より大なるは莫し。晚くに改悟すと雖も、未だ以て前失を補ふに足らず。其の首領を全せば、幸ひ為ること已に過ぐ。何ぞ復た寵授す可きや」と。導 以て奪ふ無し。
朝議 將に輔政に留めんとするに、嶠 導 先帝の任ずる所なるを以て、固辭して藩に還る。復た京邑 荒殘し、資用 給せざるを以て、嶠 資蓄を借し、器用を具へ、而して後に武昌に旋る。牛渚磯に至るや、水深 測る可からず、世に其の下に怪物多しと云へば、嶠 遂に犀角を燬ちて之を照す。須臾にして、水族 火を覆ふを見て、奇形異狀、或いは馬車に乘りて赤衣を著くる者なり。嶠 其の夜に夢みるらく人 己に謂ひて曰く、「君と幽明の道別なり、何の意ありて相 照らすや」と。意 甚だ之を惡む。嶠 先に齒疾有り、是に至りて之を拔き、中風に因り、鎮に至りて未だ旬ならずして卒す。時に年四十二なり。江州の士庶 之を聞き、相顧して泣かざる莫し。帝 冊書を下して曰く、「朕 眇身を以て、洪緒を纂承し、大道を光闡し、時雍を化洽する能はず。乃ち狂狡 滔天するに至り、社稷 危逼せり。惟ふに公は明鑒もて特達し、識心もて經遠し、皇綱の維ならざるを懼れ、寇の縱暴に忿凶す。羣后に唱率するや、五州 響應し、戎行を首啟し、元惡 馘を授く。王室 危ふくも復た安じ、三光 幽くして復た明なり。功は宇宙に格しく、勳は八表に著はる。方に大猷に賴りて以て區夏を拯ふも、天 憖遺せず、早世薨殂し、朕 用て厥の心を痛悼す。夫れ德を褒し勳を銘するは、先王の明典なり。今 公に侍中・大將軍・持節・都督・刺史を追贈し、公たること故の如く、錢百萬、布千匹を賜はり、諡して忠武と曰ひ、祠るに太牢を以てす」と。
これよりさき、蘇峻の一味の路永・匡術・賈寧は道半ばですべての兵を率いて(東晋に)帰順し、王導はこれを褒賞しようとした。温嶠は、「匡術たちは乱を始めたので、これより大きな罪はありません。遅れて改心したとしても、前の過失を補うには足りません。首と体が繋がっていれば、すでに過分の措置です。どうして褒賞すべきでしょうか」と言った。王導は言い返さなかった。
朝議は温嶠を(建康で)輔政の官に留めようとしたが、温嶠は王導が先帝から輔政に任命されているため、固辞して任地に帰った。また京邑(首都圏)が荒廃し、必要な財源がないため、温嶠は自分の資財を貸して、物品を揃えさせてから、武昌に帰った。牛渚磯に至ると、水深が計り知れず、世間では川のなかに怪物が多いと言われていた。温嶠は犀角に火をつけて(水面を)照らした。しばらくして、水族(川の怪物)の姿が見え、奇妙な形状で、馬車に乗って赤い服を着けたようにも見えた。温嶠はその夜に夢をみて、「幽明(死後の世界)との境界線を、なぜ照らし見てしまったのか」と言われた。その口調はひどく憎らしげであった。温嶠はかねて歯に疾患があったが、このときに至って歯を抜くと、中風となり、鎮所に到着して十日もせずになくなった。四十二歳だった。江州の士庶はこれを聞き、互いに顧みて泣かないものはなかった。皇帝は冊書を下して、「私は幼少の身で、皇統を継承したが、政道を明るく照らし、太平の教化を実現できずにいた。凶悪なものが野望を剥き出しにし、社稷に危機が迫った。そのとき温嶠は見識を発揮し、遠大な戦略をめぐらせ、秩序の崩壊を恐れ、反逆者の暴虐さに憤怒した。諸侯を唱導すると、五州は響くように応じ、軍隊を先導し、悪の首魁は首を差し出した。王室は傾いたが安定し、日月星の光は陰ったが明るさを取り戻した。功績が天下に等しく、勲功は全土に表れた。壮大な計画に基づいて中原を救おうとしたが、天は老成した者の命を永らえさせず、(温嶠は)若くして薨去し、朕はとても痛惜している。徳を褒めて勲功を刻むのは、先王以来の方式である。いま温嶠に侍中・大将軍・持節・都督・刺史を追贈し、公は生前どおりとし、銭百万、布千匹を賜わり、忠武と諡し、太牢を祀るものとする」と言った。
初葬于豫章、後朝廷追嶠勳德、將為造大墓於元明二帝陵之北、陶侃上表曰、「故大將軍嶠忠誠著于聖世、勳義感于人神、非臣筆墨所能稱陳。臨卒之際、與臣書別、臣藏之篋笥、時時省視、每一思述、未嘗不中夜撫膺、臨飯酸噎。『人之云亡』、嶠實當之。謹寫嶠書上呈、伏惟陛下既垂御省、傷其情旨、死不忘忠、身沒黃泉、追恨國恥、將臣勠力、救濟艱難、使亡而有知、抱恨結草、豈樂今日勞費之事。願陛下慈恩、停其移葬、使嶠棺柩無風波之危、魂靈安於后土」。詔從之。其後嶠後妻何氏卒、子放之便載喪還都。詔葬建平陵北、并贈嶠前妻王氏及何氏始安夫人印綬。
放之嗣爵、少歷清官、累至給事黃門侍郎。以貧、求為交州、朝廷許之。王述與會稽王牋曰、「放之溫嶠之子、宜見優異、而投之嶺外、竊用愕然。願遠存周禮、近參人情、則望實惟允」。時竟不納。放之既至南海、甚有威惠。將征林邑、交阯太守杜寶・別駕阮朗並不從、放之以其沮眾、誅之、勒兵而進、遂破林邑而還。卒于官。
弟式之、新建縣侯、位至散騎常侍。
初め豫章に葬り、後に朝廷 嶠の勳德を追し、將に為に大墓を元明二帝陵の北に造らんとするに、陶侃 上表して曰く、「故大將軍嶠 忠誠は聖世に著はれ、勳義は人神を感ぜしめ、臣の筆墨 能く稱陳する所に非ず。臨卒の際、臣に書を與へて別れ、臣 之を篋笥に藏し、時時に省視し、每に一々思述す。未だ嘗て中夜に膺を撫で、飯に臨みて酸噎せずんばあらず。『人の云(ここ)に亡す』は、嶠 實に之に當る〔一〕。謹みて嶠の書を寫して上呈し、伏して惟るに陛下 既に御省を垂れ、其の情旨を傷み、死して忠を忘れず、身 黃泉に沒するも、國恥を追恨し、臣を將て力を勠し、艱難を救濟せしむ。使し亡して知有らば、恨を抱み草を結び、豈に今日の勞費の事を樂しむや。願はくは陛下 慈恩もて、其の移葬を停め、嶠の棺柩をして風波の危無からしめ、魂靈をして后土に安ぜしめよ」と。詔して之に從ふ。其の後に嶠の後妻の何氏 卒し、子の放之 便ち喪を載せて都に還る。詔して建平陵の北に葬り、并はせて嶠の前妻の王氏及び何氏に始安夫人の印綬を贈る。
放之 爵を嗣ぎ、少くして清官を歷て、累ねて給事黃門侍郎に至る。貧を以て、交州と為らんことを求め、朝廷 之を許す。王述 會稽王に牋を與へて曰く、「放之は溫嶠の子なり、宜しく優異せらるべし。而れども之を嶺外に投ずるは、竊かに用て愕然す。願はくは遠くは周禮を存し、近くは人情を參し、則ち望實して惟允せんと」と。時に竟に納れず。放之 既に南海に至り、甚だ威惠有り。將に林邑を征せんとするや、交阯太守の杜寶・別駕の阮朗 並びに從はず、放之 其の眾を沮むを以て、之を誅し、兵を勒して進み、遂に林邑を破りて還る。官に卒す。
弟の式之、新建縣侯にして、位は散騎常侍に至る。
〔一〕『毛詩』大雅 瞻卬に「人之云亡、邦國殄瘁」とあり、出典。
はじめ(温嶠を)豫章に葬り、のちに朝廷は温嶠の勲徳を追って顕彰し、温嶠のために大きな墓を元明二帝陵の北に造ろうとした。陶侃が上表して、「もと大将軍の温嶠は忠誠が聖なる御代にあらわれ、勲功は人や神に感応し、私の筆力では言い尽くしがたい人物です。臨終のとき、私に別離の文書を送り、私はこれを文箱にしまい、時々に見返して、つねに思慮を馳せています。(温嶠を失って)夜半に胸を撫でて、食事のとき悲嘆しなかったことがありません。『人の云(ここ)に亡す(賢人がいなくなり国家が危機に瀕する)』(『毛詩』大雅 瞻卬)とは、まさに温嶠のことです。謹んで温嶠の文書を写して提出します。考えますに陛下は温嶠を追憶し、死去を悲しまれていますが、(温嶠は)死後も忠を忘れず、身は黄泉に沈もうとも、国家に恥がないように懸念し、私に力を尽くさせ、困難を救済させています。もし死後も意識があるなら、(百姓の)怨みを買って墓を造営し、今日新たに労役の負担を生むことを喜ぶでしょうか。どうか陛下は慈愛をもって、温嶠の移葬を中止なされ、温嶠の棺を風や波に晒さず、霊魂を大地に落ち着けて下さい」と言った。詔してこれに従った(改葬を中止した)。のちに温嶠の後妻の何氏が亡くなると、子の温放之は(温嶠の)遺体を運んで都に還った。詔して建平陵の北に葬り、合わせて温嶠の前妻の王氏及び何氏に始安夫人の印綬を贈った。
温放之が爵位を嗣ぎ、若くして清官を歴任し、累遷して給事黄門侍郎に至った。貧を理由に、交州刺史になりたいと求め、朝廷はこれを許した。王述は会稽王に書簡を送り、「温放之はあの温嶠の子なので、優遇されるべきです。しかし彼を嶺外に行かせることに、愕然としています。どうか遠くは周代の礼を思い出し、近くは人々の思いを汲み取り、名実に適う地位を与えるべきです」と言った。この意見は不採用だった。温放之は南海に到着すると、とても威恵があった。林邑を征伐しようとすると、交阯太守の杜宝・別駕の阮朗は従わなかったので、温放之は軍役を妨げたとして、彼らを誅殺し、部隊を整えて進み、林邑を破って帰還した。在官で亡くなった。
弟の温式之は、新建県侯であり、官位は散騎常侍に至った。
郗鑒字道徽、高平金鄉人、漢御史大夫慮之玄孫也。少孤貧、博覽經籍、躬耕隴畝、吟詠不倦。以儒雅著名、不應州命。趙王倫辟為掾、知倫有不臣之迹、稱疾去職。及倫篡、其黨皆至大官、而鑒閉門自守、不染逆節。惠帝反正、參司空軍事、累遷太子中舍人・中書侍郎。東海王越辟為主簿、舉賢良、不行。征東大將軍苟晞檄為從事中郎。晞與越方以力爭、鑒不應其召。從兄旭、晞之別駕、恐禍及己、勸之赴召、鑒終不迴、晞亦不之逼也。及京師不守、寇難鋒起、鑒遂陷於陳午賊中。邑人張寔先求交於鑒、鑒不許。至是、寔於午營來省鑒疾、既而卿鑒。鑒謂寔曰、「相與邦壤、義不及通、何可怙亂至此邪」。寔大慚而退。午以鑒有名於世、將逼為主、鑒逃而獲免。午尋潰散、鑒得歸鄉里。于時所在饑荒、州中之士素有感其恩義者、相與資贍。鑒復分所得、以賉宗族及鄉曲孤老、賴而全濟者甚多、咸相謂曰、「今天子播越、中原無伯、當歸依仁德、可以後亡」。遂共推鑒為主、舉千餘家俱避難於魯之嶧山。
元帝初鎮江左、承制假鑒龍驤將軍・兗州刺史、鎮鄒山。時荀藩用李述、劉琨用兄子演、並為兗州、各屯一郡、以力相傾、闔州編戶、莫知所適。又徐龕・石勒左右交侵、日尋干戈、外無救援、百姓饑饉、或掘野鼠・蟄燕而食之、終無叛者。三年間、眾至數萬。帝就加輔國將軍・都督兗州諸軍事。
永昌初、徵拜領軍將軍、既至、轉尚書、以疾不拜。時明帝初即位、王敦專制、內外危逼、謀杖鑒為外援、由是拜安西將軍・兗州刺史・都督揚州江西諸軍・假節、鎮合肥。敦忌之、表為尚書令、徵還。道經姑孰、與敦相見、敦謂曰、「樂彥輔短才耳。後生流宕、言違名檢、考之以實、豈勝滿武秋邪」。鑒曰、「擬人必于其倫。彥輔道韵平淡、體識沖粹、處傾危之朝、不可得而親疏。及愍懷太子之廢、可謂柔而有正。武秋失節之士、何可同日而言」。敦曰、「愍懷廢徙之際、交有危機之急、人何能以死守之乎。以此相方、其不減明矣」。鑒曰、「丈夫既潔身北面、義同在三、豈可偷生屈節、靦顏天壤邪。苟道數終極、固當存亡以之耳」。敦素懷無君之心、聞鑒言、大忿之、遂不復相見、拘留不遣。敦之黨與譖毀日至、鑒舉止自若、初無懼心。敦謂錢鳳曰、「郗道徽儒雅之士、名位既重、何得害之」。乃放還臺。鑒遂與帝謀滅敦。
既而錢鳳攻逼京都、假鑒節、加衞將軍・都督從駕諸軍事。鑒以無益事實、固辭不受軍號。時議者以王含・錢鳳眾力百倍、苑城小而不固、宜及軍勢未成、大駕自出距戰。鑒曰、「羣逆縱逸、其勢不可當、可以算屈、難以力競。且含等號令不一、抄盜相尋、百姓懲往年之暴、皆人自為守。乘逆順之勢、何往不克。且賊無經略遠圖、惟恃豕突一戰、曠日持久、必啟義士之心、令謀猷得展。今以此弱力敵彼強寇、決勝負於一朝、定成敗於呼吸、雖有申胥之徒、義存投袂、何補於既往哉」。帝從之。鑒以尚書令領諸屯營。
及鳳等平、溫嶠上議、請宥敦佐吏、鑒以為、先王崇君臣之教、故貴伏死之節。昏亡之主、故開待放之門。王敦佐吏雖多逼迫、然居逆亂之朝、無出關之操、準之前訓、宜加義責。又奏錢鳳母年八十、宜蒙全宥。乃從之。封高平侯、賜絹四千八百匹。帝以其有器望、萬機動靜輒問之、乃詔鑒特草上表疏、以從簡易。王導議欲贈周札官、鑒以為不合、語在札傳。導不從。鑒於是駁之曰、「敦之逆謀、履霜日久、緣札開門、令王師不振。若敦前者之舉、義同桓文、則先帝可為幽厲邪」。朝臣雖無以難、而不能從。俄而遷車騎將軍・都督徐兗青三州軍事・兗州刺史・假節、鎮廣陵。尋而帝崩、鑒與王導・卞壼・溫嶠・庾亮・陸曄等並受遺詔、輔少主、進位車騎大將軍・開府儀同三司、加散騎常侍。
咸和初、領徐州刺史。及祖約・蘇峻反、鑒聞難、便欲率所領東赴。詔以北寇不許。於是遣司馬劉矩領三千人宿衞京都。尋而王師敗績、矩遂退還。中書令庾亮宣太后口詔、進鑒為司空。鑒去賊密邇、城孤糧絕、人情業業、莫有固志、奉詔流涕、設壇場、刑白馬、大誓三軍曰、「賊臣祖約・蘇峻不恭天命、不畏王誅、凶戾肆逆、干國之紀、陵汨五常、侮弄神器、遂制脅幽主、拔本塞原、殘害忠良、禍虐黎庶、使天地神祇靡所依歸。是以率土怨酷、兆庶泣血、咸願奉辭罰罪、以除元惡。昔戎狄泯周、齊桓糾盟。董卓陵漢、羣后致討。義存君親、古今一也。今主上幽危、百姓倒懸、忠臣正士志存報國。凡我同盟、既盟之後、勠力一心、以救社稷。若二寇不梟、義無偷安。有渝此盟、明神殛之」。鑒登壇慷慨、三軍爭為用命。乃遣將軍夏侯長等間行、謂平南將軍溫嶠曰、「今賊謀欲挾天子東入會稽、宜先立營壘、屯據要害、既防其越逸、又斷賊糧運、然後靜鎮京口、清壁以待賊。賊攻城不拔、野無所掠、東道既斷、糧運自絕、不過百日、必自潰矣」。嶠深以為然。
及陶侃為盟主、進鑒都督揚州八郡軍事。時撫軍將軍王舒・1.輔軍將軍虞潭皆受鑒節度、率眾渡江、與侃會于茄子浦。鑒築白石壘而據之。會舒・潭戰不利、鑒與後將軍郭默還丹徒、立大業・曲阿・庱亭三壘以距賊。而賊將張健來攻大業、城中乏水、郭默窘迫、遂突圍而出、三軍失色。參軍曹納以為大業京口之扞、一旦不守、賊方軌而前、勸鑒退還廣陵以俟後舉。鑒乃大會僚佐、責納曰、「吾蒙先帝厚顧、荷託付之重、正復捐軀九泉不足以報。今強寇在郊、眾心危迫、君腹心之佐、而生長異端、當何以率先義眾、鎮一三軍邪」。將斬之、久而乃釋。會峻死、大業圍解。及蘇逸等走吳興、鑒遣參軍李閎追斬之、降男女萬餘口。拜司空、加侍中、解八郡都督、更封南昌縣公、以先爵封其子曇。
時賊帥劉徵聚眾數千、浮海抄東南諸縣。鑒遂城京口、加都督揚州之晉陵吳郡諸軍事、率眾討平之。進位太尉。
後以寢疾、上疏遜位曰、「臣疾彌留、遂至沈篤、自忖氣力、差理難冀。有生有死、自然之分。但忝位過才、曾無以報、上慚先帝、下愧日月。伏枕哀歎、抱恨黃泉。臣今虛乏、救命朝夕、輒以府事付長史劉遐、乞骸骨歸丘園。惟願陛下崇山海之量、弘濟大猷、任賢使能、事從簡易、使康哉之歌復興於今、則臣雖死、猶生之日耳。臣所統錯雜、率多北人、或逼遷徙、或是新附、百姓懷土、皆有歸本之心。臣宣國恩、示以好惡、處與田宅、漸得少安。聞臣疾篤、眾情駭動、若當北渡、必啟寇心。太常臣謨、平簡貞正、素望所歸、謂可以為都督徐州刺史。臣亡兄息晉陵內史邁、謙愛養士、甚為流亡所宗、又是臣門戶子弟、堪任兗州刺史。公家之事、知無不為、是以敢希祁奚之舉」。疏奏、以蔡謨為鑒軍司。鑒尋薨、時年七十一。帝朝晡哭于朝堂、遣御史持節護喪事、贈一依溫嶠故事。冊曰、「惟公道德沖邃、體識弘遠、忠亮雅正、行為世表、歷位內外、勳庸彌著。乃者約峻狂狡、毒流朝廷、社稷之危、賴公以寧。功侔古烈、勳邁桓文。方倚大猷、藩翼時難、昊天不弔、奄忽薨殂、朕用震悼于厥心。夫爵以顯德、諡以表行、所以崇明軌迹、丕揚徽劭。今贈太宰、諡曰文成、祠以太牢。魂而有靈、嘉茲寵榮」。
初、鑒值永嘉喪亂、在鄉里甚窮餒、鄉人以鑒名德、傳共飴之。時兄子邁・外甥周翼並小、常攜之就食。鄉人曰、「各自饑困、以君賢、欲共相濟耳、恐不能兼有所存」。鑒於是獨往、食訖、以飯著兩頰邊、還吐與二兒、後並得存、同過江。邁位至護軍、翼為剡縣令。鑒之薨也、翼追撫育之恩、解職而歸、席苫心喪三年。二子、愔・曇。
1.「輔軍」は、『晋書』虞潭伝と『通志』巻一百二十六は「輔國」に作る。
郗鑒 字は道徽、高平金鄉の人にして、漢の御史大夫の慮の玄孫なり。少くして孤貧たるも、博く經籍を覽じ、躬ら隴畝を耕し、吟詠して倦まず。儒雅を以て名を著し、州命に應ぜず。趙王倫 辟して掾と為す。倫 不臣の迹有るを知るや、疾と稱して職を去る。倫 篡するに及び、其の黨 皆 大官に至るも、而れども鑒のみ閉門して自守し、逆節に染まらず。惠帝 反正するや、司空軍事に參じ、太子中舍人・中書侍郎に累遷す。東海王越 辟して主簿と為し、賢良に舉ぐるも、行かず。征東大將軍の苟晞 檄もて從事中郎と為す。晞 越と方に力を以て爭はば、鑒 其の召に應ぜず。從兄の旭、晞の別駕なれば、禍 己に及ぶを恐れ、之に召に赴くことを勸むるも、鑒 終に迴せず、晞も亦た之に逼らず。京師 守らざるに及び、寇難 鋒起し、鑒 遂に陳午の賊中に陷す。邑人の張寔 先に交を鑒に求むるも、鑒 許さず。是に至り、寔 午の營に於て來たり鑒の疾を省て、既にして鑒を卿といふ。鑒 寔に謂ひて曰く、「邦壤を相與にするに、義は通ずる及ばず、何ぞ亂に怙りて此に至る可きや」と。寔 大いに慚ぢて退く。午は鑒の名 世に有るを以て、將に逼りて主と為さんとし、鑒 逃げて免るるを獲たり。午 尋いで潰散し、鑒 鄉里に歸るを得たり。時に于て所在 饑荒し、州中の士 素より其の恩義に感ずる有者あらば、資贍を相 與ふ。鑒 復た得る所を分けて、以て宗族及び鄉曲の孤老に賉し、賴りて全濟する者 甚だ多し。咸 相 謂ひて曰く、「今 天子 播越し、中原に伯無し。當に仁德に歸依すべし、以て後に亡ぶ可し」と。遂に共に鑒を推して主と為し、千餘家を舉げて俱に難を魯の嶧山に避く。
元帝 初めて江左に鎮するや、承制し鑒を龍驤將軍・兗州刺史に假し、鄒山に鎮せしむ。時に荀藩は李述を用ひ、劉琨は兄の子の演を用ひ、並に兗州と為し、各々一郡に屯し、力を以て相 傾け、州を闔(とざ)し編戶し、適く所を知る莫し。又 徐龕・石勒 左右に交々侵し、日に干戈を尋ぎ、外に救援無く、百姓 饑饉たりて、或いは野鼠・蟄燕をを掘りて之を食らひ、終に叛する者無し。三年の間に、眾 數萬に至る。帝 就ち輔國將軍・都督兗州諸軍事を加ふ。
永昌の初め、徵せられて領軍將軍を拜し、既に至るや、尚書に轉ずるも、疾を以て拜せず。時に明帝 初めて即位し、王敦 專制し、內外は危逼し、鑒を杖りて外援と為さんと謀り、是に由りて安西將軍・兗州刺史・都督揚州江西諸軍・假節を拜し、合肥に鎮す。敦 之を忌み、表して尚書令と為し、徵して還らしむ。道に姑孰を經るに、敦と相 見え、敦 謂ひて曰く、「樂彥輔は短才なるのみ。後生 流宕し、言は名檢に違ひ、之を考するに實を以てせば、豈に滿武秋に勝るや」と。鑒曰く、「人を擬(はか)るに其の倫を必ずす。彥輔は道韵平淡、體識は沖粹にして、傾危の朝に處り、得て親疏ある可きや。愍懷太子の廢せるるに及び、柔にして正有りと謂ふ可し。武秋は失節の士なり、何ぞ同日に言ふ可きや」と。敦曰く、「愍懷の廢徙の際に、交々危機の急有り、人 何ぞ能く以て之を死守せんや。此を以て相 方ぶるに、其の減ぜざること明らかなり」と。鑒曰く、「丈夫 既に身を潔くして北面せば、義は在三に同じ。豈に生を偷みて節を屈し、天壤に靦顏す可きや。苟くも道數 終に極はれば、固に存亡 之を以て當たるのみ」と。敦 素より無君の心を懷けば、鑒の言を聞き、大いに之に忿り、遂に復た相 見ず、拘留して遣らず。敦の黨與の譖毀 日々に至るも、鑒は舉止 自若として、初めより懼心無し。敦 錢鳳に謂ひて曰く、「郗道徽は儒雅の士なり、名位 既に重く、何ぞ之を害するを得ん」と。乃ち放ちて臺に還らしむ。鑒 遂に帝と與に敦を滅さんことを謀る。
既にして錢鳳 攻めて京都に逼まるや、鑒に節を假し、衞將軍・都督從駕諸軍事を加ふ。鑒 事實に益する無きを以て、固辭して軍號を受けず。時に議者 王含・錢鳳 眾力百倍にして、苑城 小さく固からざるを以て、宜しく軍勢 未だ成らざるに及び、大駕 自ら出でて距戰すべしとす。鑒曰く、「羣逆 縱逸たりて、其の勢 當たる可からず、算を以て屈す可し、力を以て競ひ難し。且つ含ら號令 一ならず、抄盜 相 尋ぎ、百姓 往年の暴に懲りて、皆人 自ら守りを為す。逆順の勢に乘じ、何ぞ往きて克たざる。且つ賊 經略遠圖無く、惟だ豕突一戰を恃み、日を曠して持久せば、必ず義士の心を啟き、謀猷をして展ぶるを得しめん。今 此の弱力を以て彼の強寇に敵し、勝負を一朝に決し、成敗を呼吸に定めば、申胥の徒有り、義は投袂に存すと雖も、何ぞ既往を補ふや」と。帝 之に從ふ。鑒 尚書令を以て諸屯營を領す。
鳳ら平らぐに及び、溫嶠 上議し、敦の佐吏を宥さんことを請ふ。鑒 以為へらく、「先王は君臣の教を崇び、故に伏死の節を貴ぶ。昏亡の主、故に待放の門を開く。王敦の佐吏 多く逼迫せらると雖も、然れども逆亂の朝に居り、出關の操無く、之を前訓に準へ、宜しく義責を加ふべし。又 奏すらく錢鳳の母年八十、宜しく全宥を蒙れ」と。乃ち之に從ふ。高平侯に封じ、絹四千八百匹を賜はる。帝 其の器望有るを以て、萬機の動靜あらば輒ち之に問ひ、乃ち鑒に詔して特に上表疏を草するに、以て簡易に從らしむ。王導 議して周札に官を贈らんと欲するも、鑒 合はずと以為へり、語は札傳に在り。導 從はず。鑒 是に於て之に駁して曰く、「敦の逆謀、履霜ありて日々久しく、札が開門に緣りて、王師をして振はしめず。若し敦 前者の舉、義は桓文に同じければ、則ち先帝 幽厲と為る可きや」と。朝臣 以て難ずる無しと雖も、而れども從ふ能はず。俄かにして車騎將軍・都督徐兗青三州軍事・兗州刺史・假節に遷り、廣陵に鎮す。尋いで帝 崩じ、鑒 王導・卞壼・溫嶠・庾亮・陸曄らと與に並びに遺詔を受け、少主を輔け、位を車騎大將軍・開府儀同三司、加散騎常侍に進む。
咸和の初め、徐州刺史を領す。祖約・蘇峻 反するに及び、鑒 難を聞くや、便ち所領を率ゐて東して赴かんと欲す。詔して北寇を以て許さず。是に於て司馬の劉矩を遣はして三千人を領して京都に宿衞せしむ。尋いで王師 敗績するや、矩 遂に退き還る。中書令の庾亮 太后の口詔を宣し、鑒を進めて司空と為す。鑒 賊を去ること密邇にして、城は孤にして糧は絕え、人情 業業たりて、固志有る莫し、詔を奉じて流涕し、壇場を設け、白馬を刑し、大いに三軍に誓ひて曰く、「賊臣の祖約・蘇峻 天命を恭くせず、王誅を畏れず、凶戾にして逆を肆にし、國の紀を干にし、五常を陵汨し、神器を侮弄し、遂に制脅して主を幽(とら)へ、本を拔き原を塞ぎ、忠良を殘害し、黎庶を禍虐し、天地神祇をして依歸する所靡からしむ。是を以て率土 怨酷し、兆庶 泣血し、咸 辭を奉りて罪を罰し、以て元惡を除かんことを願ふ。昔 戎狄 周を泯すや、齊桓 盟を糾す。董卓 漢を陵し、羣后 討を致す。義は君親に存するは、古今 一なり。今 主上 幽危せられ、百姓 倒懸し、忠臣正士 志は報國に存す。凡そ我 同盟し、既に之を盟ふの後、力を勠せ心を一にし、以て社稷を救はん。若し二寇 梟せずんば、義 偷安たる無し。此の盟を渝すること有らば、明神 之を殛せよ」と。鑒 壇に登りて慷慨し、三軍 爭ひて用命と為る。乃ち將軍の夏侯長らを遣はして間行せしめ、平南將軍の溫嶠に謂ひて曰く、「今 賊 謀りて天子を挾みて東して會稽に入らんと欲す。宜しく先に營壘を立て、要害に屯據せよ。既に其の越逸を防がば、又 賊の糧運を斷ち、然る後に京口を靜鎮し、壁を清(はら)ひて以て賊を待て。賊 城を攻めて拔かず、野に掠む所無くんば、東道 既に斷ち、糧運 自ら絕え、百日を過ぎずして、必ず自づから潰せん」と。嶠 深く以て然りと為す。
陶侃 盟主と為るに及び、鑒を都督揚州八郡軍事に進む。時に撫軍將軍の王舒・輔軍將軍の虞潭 皆 鑒の節度を受け、眾を率ゐて江を渡り、侃と茄子浦に會す。鑒 白石壘を築きて之に據る。會々舒・潭 戰ひて利あらず、鑒 後將軍の郭默と與に丹徒に還り、大業・曲阿・庱亭の三壘を立てて以て賊を距む。而るに賊將の張健 來たりて大業を攻むるや、城中 水に乏しく、郭默 窘迫し、遂に圍を突きて出で、三軍 色を失ふ。參軍の曹納 以為へらく、大業は京口の扞なり、一旦に守らざれば、賊 方軌して前まん。鑒に退きて廣陵に還りて以て後舉を俟たんことを勸む。鑒 乃ち大いに僚佐を會し、納を責めて曰く、「吾 先帝の厚顧を蒙り、託付の重を荷へば、正に復た軀を九泉に捐てても以て報ゆるに足らず。今 強寇 郊に在り、眾心 危迫す。君 腹心の佐なるも、異端を生長す。當に何を以て義眾を率先し、一三軍を鎮むるや」と。將に之を斬らんとするに、久しくして乃ち釋く。會々峻 死し、大業の圍み解く。蘇逸ら吳興に走るに及び、鑒 參軍の李閎を遣はして追ひて之を斬らしめ、男女萬餘口を降す。司空を拜し、侍中を加へ、八郡都督を解き、更めて南昌縣公に封ぜられ、先爵を以て其の子の曇に封ず。
時に賊帥の劉徵 眾數千を聚め、海に浮びて東南の諸縣を抄む。鑒 遂に京口に城するや、都督揚州之晉陵吳郡諸軍事を加へ、眾を率ゐて之を討平す。位太尉に進む。
後に寢疾するを以て、上疏して位を遜りて曰く、「臣の疾 彌々留たりて、遂に沈篤に至り、自ら氣力を忖するに、差(い)ゆる理 冀ひ難し。生有らば死有るは、自然の分なり。但だ位を忝くして才に過ぎ、曾て以て報ゆる無く、上は先帝に慚ぢ、下は日月に愧づ。枕を伏して哀歎し、恨を黃泉に抱く。臣 今 虛乏たりて、命を朝夕に救はば、輒ち府事を以て長史の劉遐に付し、骸骨を乞ひて丘園に歸らん。惟ふに願はくは陛下 山海の量を崇び、大猷を弘濟し、賢を任じ能を使ひ、事は簡易に從ひ、康哉の歌をして復た今に興さしめば、則ち臣 死すと雖も、猶ほ生くるの日がごときのみ。臣 統ぶる所は錯雜たりて、多く北人を率ゐ、或いは逼られて遷徙し、或いは是れ新附たるも、百姓 土を懷き、皆 歸本の心有り。臣 國恩を宣べて、示すに好惡を以てし、處與の田宅、漸く少しく安ずるを得たり。聞くに臣 疾篤たりて、眾情 駭動すと。若し當に北渡すれば、必ず寇心を啟かん。太常の臣 謨は、平簡にして貞正、素より歸る所を望み、謂へらく以て都督徐州刺史と為す可し。臣の亡兄の息の晉陵內史の邁、謙愛にして士を養ひ、甚だ流亡の宗とする所と為り、又 是れ臣の門戶の子弟、兗州刺史に任ずるに堪ふ。公家の事、為さざる無きを知り、是を以て敢て祁奚の舉を希む」と。疏 奏せらるるや、蔡謨を以て鑒の軍司と為す。鑒 尋いで薨じ、時に年七十一なり。帝 朝晡に朝堂に哭し、御史を遣はして持節して喪事を護らしめ、贈は一に溫嶠の故事に依る。冊に曰く、「惟れ公は道德 沖邃して、體識は弘遠、忠亮にして雅正、行は世表為りて、位內外を歷し、勳庸 彌々著はる。乃者(さき)に約・峻 狂狡たるや、毒 朝廷に流れ、社稷の危に、公に賴りて以て寧たり。功は古烈に侔しく、勳は桓文に邁る。大猷に方倚し、時難に藩翼し、昊天 弔はず、奄かに忽と薨殂し、朕 用て厥の心を震悼す。夫れ爵は顯德を以てし、諡は表行を以てし、軌迹を崇明し、徽劭を丕揚する所以なり。今 太宰を贈り、諡して文成と曰ひ、祠るに太牢を以てせよ。魂ありて靈有らば、茲の寵榮を嘉せ」と。
初め、鑒 永嘉の喪亂に值ひ、鄉里に在りて甚だ窮餒し、鄉人 鑒の名德を以て、傳へて共に之に飴す。時に兄が子の邁・外甥の周翼 並びに小さく、常に之を攜へて食に就く。鄉人曰く、「各々自ら饑困し、君 賢なるを以て、共に相 濟はんと欲するのみ、恐らくは兼に存する所有る能はず」と。鑒 是に於て獨り往き、食べ訖はるや、飯を以て兩頰の邊に著け、還りて吐きて二兒に與へたれば、後に並びに存するを得て、同に江を過る。邁は位 護軍に至り、翼は剡縣令と為る。鑒の薨ずるや、翼 撫育の恩を追ひ、職を解きて歸り、苫を席(し)き心喪すること三年なり。二子あり、愔・曇なり。
郗鑒(郗鑑)は字を道徽といい、高平金郷の人で、漢の御史大夫の郗慮の玄孫である。若くして父を失って貧しかったが、広く経籍を読み、自ら耕作し、吟詠して腐らなかった。儒雅によって名を知られたが、州府の召命に応じなかった。趙王倫(司馬倫)が辟召して掾とした。司馬倫に不臣の迹(帝位への野心)があると知ると、病気と称して官職を去った。司馬倫が簒奪すると、その一党はみな高位に至ったが、郗鑒のみ門を閉じて籠もり、反逆に加担しなかった。恵帝が皇位に復帰すると、司空軍事に参じ、太子中舎人・中書侍郎に累遷した。東海王越(司馬越)が辟召して主簿とし、賢良に挙げたが、行かなかった。征東大将軍の苟晞は檄文を送り(郗鑒を)従事中郎とした。苟晞は司馬越と権力を争っていたので、郗鑒はこの召命に応じなかった。従兄の郗旭は、苟晞の別駕なので、禍いが自分に及ぶことを恐れ、郗鑒に(苟晞のもとに)赴けと勧めたが、郗鑒は結局やって来ず、苟晞もまた強制しなかった。京師(洛陽)が陥落すると、盗賊たちが鋒起し、郗鑒は陳午の賊軍のなかに捕らわれた。邑人の張寔はかつて郗鑒に交流を求めたが、郗鑒は断ったことがあった。ここにいたり、張寔は陳午の軍営にきて郗鑒の病気を見舞い、郗鑒を(知人のように)卿(あなた)と呼んだ。郗鑒は張鑒に、「国家を守り立てるべきなのに、正しい道が敗れた。どうして混乱に乗じて(親しげに)顔を出したのか」と言った。張寔はひどく恥じて退いた。陳午は郗鑒の名が世間に知られているので、首領に祭り上げようとしたが、郗鑒は逃げて回避した。陳午集団はすぐに壊滅して散り、郗鑒は郷里に帰ることができた。このとき故郷一帯は荒廃して飢餓であり、州中の人士でかねて恩義に感じるものが、(郗鑒に)資財を与えた。郗鑒は受け取った資財を再分配し、宗族及び郷曲の孤老に施し、おかげで生き存えたものが多かった。みな、「いま天子は都を去り、中原に伯(指導者)がいない。滅ぶにしても、仁徳ある人物を頼りたい」と言った。そこで共同で郗鑒を推戴して盟主とし、千家あまりで魯の嶧山に避難した。
元帝が江左(揚州)に鎮した当初、承制して郗鑒を龍驤将軍・兗州刺史に仮し、鄒山に鎮させた。このとき荀藩が李述を用い、劉琨が兄の子の劉演を用ひ、それぞれ兗州刺史とし、それぞれ一郡に屯し、力で(兗州域内を)争奪した。(郗鑒は)州を封鎖して戸籍を編成したが、主導権が定まらなかった。また徐龕と石勒がたびたび侵攻し、毎日のように戦闘があり、外から救援がなく、民草は飢え苦しみ、野鼠や蟄燕を掘って食べたが、(郗鑒から)離叛するものはいなかった。三年のうちに、民が数万人に至った。元帝は郗鑒に輔国将軍・都督兗州諸軍事を加えた。
永昌年間のはじめ、徴召されて領軍将軍を拝し、着任すると、尚書に転じたが、病気により拝さなかった。このとき明帝が即位したばかりで、王敦が専制し、内外(の官)は虐げ追い詰められ、郗鑒を立てて(朝廷の)外の援護勢力にしようと考え、安西将軍・兗州刺史・都督揚州江西諸軍・仮節を拝させ、合肥に鎮させた。王敦はこれを嫌い、上表して(郗鑒を)尚書令とし、徴召して(中央に)還らせた。姑孰を通過するとき、王敦と会い、王敦は、「楽彦輔(楽広)は才能が乏しい。後進は流宕で(ほしいままで中道にあわず)、発言は法の縛りをやぶり、彼の評価は実態を上回り、とても満武秋により優れているとは思えない」と言った。郗鑒は、「人を評価するときは倫が基準となります。楽彦輔はふるまいがあっさりし、中正なありようで、朝廷が危機となれば、親疏の区別があってよいでしょうか。愍懐太子(司馬遹)が廃位されるに及び、柔にして正であったと言えましょう。満武秋は節義を失った人物で、どうして同日に論じることができましょうか」と言った。王敦は、「愍懐(司馬遹)が廃位し(身柄を)移されたとき、緊急の知らせが交錯し、人々が命がけで守るにも難しい状況だった。混乱した事態を引き合いに出し、満武秋の評価を下げるのは適切ではない」と言った。郗鑒は、「立派な人物が身を潔くして君主に仕えるとき、義は在三(父・師・君)で区別がない。自分の命を惜しんで節度をまげ、天地に厚顔であってよいものか。もしも運命が極まれば、たとえ死のうと君主に対する義を貫くべきだ」と言った。王敦は君主を蔑ろにする心を持っていたので、郗鑒の言葉を聞いて、大いに怒り、もう二度と会わず、身柄を留めてどこにも行かせなかった。王敦の部党からの罵倒が日々に届いたが、郗鑒の態度は平常どおりで、懼れる様子がいっさいなかった。王敦は銭鳳に、「郗道徽(郗鑒)は儒雅の士で、名声と地位が重いので、殺害できない」と言った。身柄を解放して台(朝廷)に帰らせた。このことがあって郗鑒は明帝とともに王敦を滅ぼす計画をねった。
銭鳳が攻め寄せて京都に逼ると、郗鑒に節を仮し、衛将軍・都督従駕諸軍事を加えた。郗鑒は戦闘に役立たないので、固辞して軍号を受けなかった。このとき議論するものは王含・銭鳳は兵力が(東晋の)百倍いるが、(王含らの駐屯する)苑城は小さく守りが固くないので、敵軍の態勢が整わないうちに、天子が自ら出撃して抗戦すべきだと説いた。郗鑒は、「逆賊らは勢いをほしいままにし、直接戦っても勝てないので、計略で圧倒すべきであり、戦闘は好ましくない。王含らの軍令は統制がなく、強奪を繰り返している。民草は近年たびたび略奪されてきたことに懲りて、みな自衛している。これら形勢の逆順を利用して、勝たないでどうするのか。そして賊軍には遠大な計略がなく、ただ突撃して勝つことに頼っている。日数を稼いで持久戦となれば、義士の支持が集まり、われらが計略を発揮する素地ができる。いま弱い兵力で敵軍の強兵にあたり、勝負を一日で決し、一瞬で結果を求めれば、申胥(春秋楚の申包胥)のような軍略家が、義に奮い立っても、不利さを補えようか」と言った。明帝はこれに従った。郗鑒は尚書令として各地の屯営を領した。
銭鳳らを平定すると、温嶠は意見を上程し、王敦の佐吏(属官)を赦すことを要請した。郗鑒は、「先王は君臣の教えを尊び、ゆえに命を捨てる節義を重んじました。だから亡国の君主は、(全滅を防ぐため)辞職の道を開きました。王敦の佐吏は多くが脅迫され臣従を強いられましたが、反逆の集団に身を留め、(東晋に)降伏して(王敦から)去ることはありませんでした。これを先王の教えに照らせば、義による責めを免れません。ただし銭鳳の母は八十歳なので、彼女だけは一切の咎めがありませんように」と言った。明帝はこれに従った。(郗鑒を)高平侯に封じ、絹四千八百匹を賜わった。明帝は郗鑒に度量の名望があるため、政務のあらゆる問題で意見を求め、郗鑒に詔して特別の上表や上疏の起草は、簡潔であることを認めた。王導は(王敦に殺された)周札に官位を送ろうとしたが、郗鑒は不適切だと退けたが、その記述は周札伝にある。王導は従わなかった。
郗鑒は王導に反論し、「王敦の反逆計画は、前兆が現れて久しく(なかなか実現に至らなかったが)、周札が(石頭城を)開門したため、王師(東晋軍)を不利に陥れました。もし(周札が協力した)王敦の前代の行動が、義において桓公や文公に等しいというなら、先帝は(周の亡国の)幽王や厲王のようになったのではありませんか」と言った。朝臣は反論できなかったが、郗鑒に賛同もできなかった。にわかに車騎将軍・都督徐兗青三州軍事・兗州刺史・仮節に遷り、広陵に鎮した。ほどなく明帝が崩御し、郗鑒は王導・卞壼・温嶠・庾亮・陸曄らとともに遺詔を受け、幼い君主を補佐し、位を車騎大将軍・開府儀同三司、加散騎常侍に進めた。
咸和年間のはじめ、徐州刺史を領した。祖約・蘇峻が反し、郗鑒は国家の危難を聞くと、すぐに配下を率いて東に赴こうとした。(天子は)詔して北寇(中原の胡族国家)を理由に動くことを許さなかった。ここにおいて(郗鑒は)司馬の劉矩を派遣して三千人を領して京都を宿衛させた。ほどなく王師(東晋軍)が敗北すると、劉矩は撤退し還ってきた。中書令の庾亮は太后の口詔を告げ、郗鑒を司空に昇進させた。郗鑒は賊を除くことに熱意があったが、城は孤立して食糧は絶え、人々は恐慌して、混乱しているため、詔を奉じて涙を流し、壇場を設け、白馬を殺して供え、大いに三軍に誓って、「賊臣の祖約・蘇峻は天命に仕えず、王の誅伐を懼れず、凶悪で反逆をほしいままにし、国の秩序を破壊し、五常を侵害し、神器(皇位)を侮りもてあそび、天子を脅迫して捕らえ、国家の根本を停止させ、忠良な人物を惨殺し、民草を迫害し、天地神祇のよりどころを消した。こうして天下は悪事を怨み、万民は血の涙を流し、みな天子に申し上げて罪人を罰し、元凶を排除することを願っている。むかし戎狄が周を滅ぼすと、斉公や桓公が盟約を主催した。董卓が後漢を乱すと、諸侯は討伐軍を起こした。義が君親(の尊重)にあるのは、古今つねに同じだ。いま主上が幽閉され、万民は逆さづりで、忠臣や正士のは国恩に報いることを志している。われらは同盟を結び、誓約したのち、力と心を一つにあわせ、社稷を救おう。もし二寇(祖約と蘇峻)をさらし首にしなければ、かりそめの義に安穏とできない。この盟約に違反するものがいれば、神々は誅殺されますように」と言った。郗鑒は祭壇に登って慷慨し、三軍は争って指揮下に入った。将軍の夏侯長らを間道から差し向け、平南将軍の温嶠に、「いま賊は天子を拉致して東の会稽に向かっている。先回りして防塁を築き、要害に軍を配置しなさい。抜け道を防いでから、賊軍の輸送路を切断し、その後に京口を静めて鎮し、城壁を整備して賊軍を待ち受けなさい。賊が(京口)城を攻略できず、城外に略奪する物資がなければ、東への道は断ち切られ、食糧輸送も途絶え、百日も過ぎぬうちに、おのずと崩壊するだろう」と言った。温嶠は心から同意した。
陶侃が盟主となると、郗鑒を都督揚州八郡軍事に昇進させた。このとき撫軍将軍の王舒・輔軍将軍(輔国将軍)の虞潭はどちらも郗鑒の節度を受け(統制下に入り)、軍を率いて長江を渡り、陶侃と茄子浦で合流した。郗鑒は白石塁を築いてここに拠った。このとき王舒と虞潭は戦って敗れると、郗鑒は後将軍の郭黙とともに還り、大業・曲阿・庱亭の三塁を築いて賊軍を防いだ。しかし賊将の張健がきて大業の塁を攻めめると、城中は水が乏しく、郭黙は追い詰められ、 包囲に突撃して脱出し、三軍は顔色を失った。参軍の曹納は、「大業は京口の防御拠点であり、ここを守らねば、賊は勢いに乗って進むでしょう」と言い、郗鑒には退いて広陵に還って後続の挙兵を待ちなさいと勧めた。郗鑒は僚佐を大集合させ、曹納を責めて、「私は先帝から厚恩を受け、後嗣を託された。体を九泉に捨てようとも(死のうとも)報いるには十分でない。いま強敵が郊外におり、兵士らは危難を感じている。きみは腹心の僚佐でありながら、(天子を見捨てる)筋違いの意見を出した。そんなことで義兵の先頭に立ち、軍隊の統制が取れようか」と言った。彼を斬ろうとしたが、後にやっと拘束を解いた。ちょうど蘇峻が死に、大業の塁の包囲が解けた。蘇逸らが呉興に逃げると、郗鑒は参軍の李閎を派遣して追撃して斬らせ、男女一万口あまりを降伏させた。司空を拝し、侍中を加え、八郡の都督を解き、更めて南昌県公に封され、これまでの爵に子の郗曇を封じた。
このとき賊の指導者の劉徴は数千の兵を集め、海路から東南の諸県で略奪をした。郗鑒は京口の城に鎮すると、都督揚州の晋陵呉郡諸軍事を加えられ、兵を率いてこれを討伐し平定した。太尉の位に進んだ。
のちに病気になると、(郗鑒は)上疏して位を返上し、「私の病気は悪化して、重篤となり、気力は尽きて、回復は見込めません。生があれば死があるのは、自然の摂理です。わが才能に過分な地位を頂き、相応の働きがなく、上は先帝に慚じ、下は日月に愧じています。枕に伏せて哀しみ歎き、怨みを黄泉に抱きます。体力が枯渇し、朝晩の命ですので、司徒府の政務を長史の劉遐に託し、引退して故郷に帰りたく存じます。どうか陛下は山海のような寛大さで、正しい政務を行い、賢者や有能な人物を用い、政治は簡略を旨とし、太平の歌を復興すれば、私は死のうとも、生きているのと同じです。私の統治下には出身地がさまざまな人物が入り交じり、多くは北来の人で、あるいは仕方がなく移住し、新たに頼ってきたばかりのものがいますが、民草は郷里を懐かしみ、帰郷を願っています。私は国恩を広げ、善悪を示し、(移住者は)私が割り当てた土地や住居で、かろうじて落ち着きました。聞けば私が病気になったことで、彼らは驚き動揺しているそうです。もし(私の管轄地を離れて)北に渡れば、盗賊の餌食となるでしょう。太常の蔡謨(陳留の人)は、慎んで忠正で、故郷(北方)に帰ることを望んでいるので、都督徐州刺史に適任です。私の亡兄の子の晋陵内史の郗邁は、手厚く人士を保護し、流亡者から慕われており、私の一族の子弟でありますが、兗州刺史に適任です。国家のことは、関知しないことはないと言いますので、(春秋晋の)祁奚のように(血縁で区別せず)人物を推挙します」と言った。上疏が提出されると、蔡謨を郗鑒の軍司(軍師)とした。郗鑒はほどなく薨去し、七十一歳だった。皇帝は朝夕に朝堂で哭し、御史を派遣して持節して葬儀を護らせ、追贈はすべて温嶠の故事と同じとした。冊書に、「郗鑒は道徳が奥深く、見識は弘遠で、忠亮で雅やかで正しく、行動は世の模範で、内外の官を歴任し、功績はますます顕著であった。さきに祖約・蘇峻が狂い乱すと、害毒が朝廷に流れ、社稷は危うくなったが、郗鑒のおかげで安寧を得た。功績は昔の烈士に等しく、勲功は桓公や文公に勝る。大きな計画に基づき、政局の困難を支えたが、昊天は幸いせず、にわかに薨去し、朕は心から哀悼する。爵位とは徳を顕彰し、諡は行動を示し、事績を尊び明らかにし、努力を称揚するものである。いま太宰の官を贈り、文成と諡し、太牢を祠るように。霊魂があるなら、この栄誉を喜んでほしい」と言った。
かつて、郗鑒は永嘉の乱のとき、郷里にいて飢え苦しんだ。同郷の人は郗鑒の名徳を慕って、施しをした。兄の子の郗邁と外甥の周翼はどちらも幼少で、郗鑒に同伴して食糧にありついた。郷里の人は、「みなそれぞれ困窮しているが、あなたが賢者なので、援助している。(二人の甥にも与えると)与える側が共倒れになるのではないか」と苦言を呈した。郗鑒は一人で施しを受けに行き、食べ終わると、飯をほおの内側にとどめ、帰宅後に(吐き出して)二人の甥に与えたので、甥たちも生き存えることができ、ともに長江を渡った。郗邁は護軍の位に至り、周翼は剡縣令となった。郗鑒が薨去すると、周翼は保護し養育された恩により、官職から離れて帰宅し、むしろを敷いて三年の服喪をした。子が二人おり、郗愔・郗曇である。
愔字方回。少不交競、弱冠、除散騎侍郎、不拜。性至孝、居父母憂、殆將滅性。服闋、襲爵南昌公、徵拜中書侍郎。驃騎何充輔政、征北將軍褚裒鎮京口、皆以愔為長史。再遷黃門侍郎。時吳郡守闋、欲以愔為太守。愔自以資望少、不宜超莅大郡、朝議嘉之。轉為臨海太守。會弟曇卒、益無處世意、在郡優游、頗稱簡默、與姊夫王羲之・高士許詢並有邁世之風、許1.(恂)〔詢〕俱棲心絕穀、修黃老之術。後以疾去職、乃築宅章安、有終焉之志。十許年間、人事頓絕。
簡文帝輔政、與尚書僕射江虨等薦愔、以為、執德存正、識懷沈敏、而辭職遺榮、有不拔之操、成務須才、豈得遂其獨善、宜見徵引、以參政術。於是徵為光祿大夫、加散騎常侍。既到、更除太常、固讓不拜。深抱沖退、樂補遠郡、從之、出為輔國將軍・會稽內史。大司馬桓溫以愔與徐兗有故義、乃遷愔都督徐兗青幽揚州之晉陵諸軍事・領徐兗二州刺史・假節。雖居藩鎮、非其好也。
俄屬桓溫北伐、愔請督所部出河上、用其子超計、以己非將帥才、不堪軍旅、又固辭解職、勸溫并領己所統。轉冠軍將軍・會稽內史。
及帝踐阼、就加鎮軍・都督浙江東五郡軍事。久之、以年老乞骸骨、因居會稽。徵拜司空、詔書優美、敦奬殷勤、固辭不起。太元九年卒、時年七十二。追贈侍中・司空、諡曰文穆。三子、超・融・沖。超最知名。
1.中華書局本の校勘記に従い、「恂」を「詢」に改める。
愔 字は方回なり。少くして交競せず、弱冠にして、散騎侍郎に除せらるるも、拜せず。性は至孝にして、父母の憂に居り、殆ど將に性を滅せんとす。服闋するや、爵南昌公を襲ひ、徵せられて中書侍郎を拜す。驃騎の何充 輔政するや、征北將軍の褚裒 京口に鎮し、皆 愔を以て長史と為す。再び黃門侍郎に遷る。時に吳郡 闋を守り、愔を以て太守と為さんと欲す。愔 自ら資望 少なきを以て、宜しく超えて大郡に莅(のぞ)むべからずとし、朝議 之を嘉す。轉じて臨海太守と為る。會々弟の曇 卒し、益々世に處るの意無く、郡に在りて優游し、頗る簡默を稱せられ、姊の夫の王羲之・高士の許詢と與に並びに邁世の風有り、許詢 俱に棲心し穀を絕ち、黃老の術を修む。後に疾を以て職を去り、乃ち宅を章安に築き、終焉の志有り。十許年の間に、人事 頓絕す。
簡文帝 輔政するや、尚書僕射の江虨らと與に愔を薦め、以為へらく、「德を執り正に存し、識懷 沈敏にして、而れども職を辭し榮を遺し、不拔の操有り。務を成すは才を須つ、豈に其の獨善を遂ぐるを得んや。宜しく見えて徵引し、以て政術を參すべし」と。是に於て徵せられて光祿大夫と為り、散騎常侍を加へらる。既に到るや、更めて太常に除せらるるも、固く讓して拜せず。深く沖退を抱き、遠郡に補せらるるを樂しめば、之に從ひ、出でて輔國將軍・會稽內史と為る。大司馬の桓溫 愔 徐兗と與に故義有るを以て、乃ち愔を遷して都督徐兗青幽揚州之晉陵諸軍事・領徐兗二州刺史・假節とす。藩鎮に居ると雖も、其の好むに非ざるなり。
俄かに桓溫の北伐に屬ひ、愔 部する所を督して河上に出でんことを請ふ。其の子たる超の計を用ひ、「己は將帥の才に非ざれば、軍旅に堪へず」と以ひ、又 固辭して解職し、溫に己の統する所を并領するを勸む。冠軍將軍・會稽內史に轉ず。
帝 踐阼するに及び、就ち鎮軍・都督浙江東五郡軍事を加ふ。久之、年老を以て骸骨を乞ひ、因りて會稽に居る。徵せられて司空を拜し、詔書 優美にして、敦奬殷勤たるも、固辭して起たず。太元九年 卒し、時に年は七十二なり。侍中・司空を追贈し、諡して文穆と曰ふ。三子あり、超・融・沖なり。超 最も名を知らる。
郗愔は字を方回という。若くして他者と交わらず競わず、弱冠のとき、散騎侍郎に任命されたが、拝さなかった。至孝であり、父母が死ぬと、生死の境をさまようほど悲しんだ。喪が明けると、南昌公の爵位をつぎ、徴召されて中書侍郎を拝した。驃騎将軍の何充が輔政し、征北将軍の褚裒が京口に鎮すると、どちらも(何充も褚裒も)郗愔を長史とした。また黄門侍郎に遷った。このとき呉郡では(郗愔が)服喪をやり遂げたことから、かれを太守にしようとした。郗愔は自分は資質と名望が乏しく、(着任の順序を)飛び越えて大郡を治めるべきでないと辞退し、朝廷はこれを褒めた。転じて臨海太守となった。たまたま弟の郗曇が亡くなり、ますます官界にいる意思がなくなり、故郷の郡でゆったりと過ごした。世俗を離れて慎ましく暮らしていることが讃えられ、姉の夫の王羲之・高士の許詢とともに時世を超越した風格をそなえた。許詢とともに隠棲して穀物を絶ち、黄老の術を修めた。のちに病気で官職を去り、章安に邸宅を築き、そこで人生を終えようとした。十年ばかりの期間、世間と連絡を断った。
簡文帝が輔政すると、(簡文帝は)尚書僕射の江虨らとともに郗愔を推薦し、「(郗愔は)徳を持ち正しく振る舞い、見識は深くて賢く、しかし官職を辞して栄誉を遠ざけ、不伐の操がある。政務を成すには才能のある人材が必要で、どうして一人だけ生きざまを貫いてよいのだろうか。朝廷に出てきて謁見し、政治に参加するように」と言った。ここにおいて徴召されて光禄大夫となり、散騎常侍を加えられた。到着すると、改めて太常に任命されたが、固く辞退して拝さなかった。深く謙遜して、遠郡への任命を希望したので、これに従い、(地方に)出て輔国将軍・会稽内史となった。大司馬の桓温は郗愔が徐州や兗州と旧縁があるので、郗愔を都督徐兗青幽揚州之晋陵諸軍事・領徐兗二州刺史・仮節に遷した。藩鎮への着任は、当人の希望ではなかった。
にわかに桓温の北伐が起こり、郗愔は配下の兵を督して河上(黄河流域)に進出したいと求めた。(しかし)その子の郗超の計略を用い、「私(郗愔)には将帥の才能がなく、軍旅に不適任です」と言い、遠征軍から離れて官職を解き、自軍の兵は桓温に預けたいとした。冠軍将軍・会稽内史に転じた。
簡文帝が即位すると、鎮軍・都督浙江東五郡軍事を加えた。しばらくして、老齢を理由に辞職を願い、会稽に住んだ。徴召されて司空を拝し、詔書は丁寧な文面で、手厚く就任するように説いたが、固辞を貫いた。太元九年に亡くなり、七十二歳だった。侍中・司空を追贈し、文穆と諡した。三子あり、郗超・郗融・郗沖である。郗超がもっとも名を知られた。
超字景興、一字嘉賓。少卓犖不羈、有曠世之度、交游士林、每存勝拔、善談論、義理精微。愔事天師道、而超奉佛。愔又好聚斂、積錢數千萬、嘗開庫、任超所取。超性好施、一日中散與親故都盡。其任心獨詣、皆此類也。
桓溫辟為征西大將軍掾。溫遷大司馬、又轉為參軍。溫英氣高邁、罕有所推、與超言、常謂不能測、遂傾意禮待。超亦深自結納。時王珣為溫主簿、亦為溫所重。府中語曰、「髯參軍、短主簿、能令公喜、能令公怒」。超髯、珣短故也。尋除散騎侍郎。時愔在北府、徐州人多勁悍、溫恒云「京口酒可飲、兵可用」、深不欲愔居之。而愔暗於事機、遣牋詣溫、欲共奬王室、修復園陵。超取視、寸寸毀裂、乃更作牋、自陳老病、甚不堪人間、乞閑地自養。溫得牋大喜、即轉愔為會稽太守。溫懷不軌、欲立霸王之基、超為之謀。謝安與王坦之嘗詣溫論事、溫令超帳中臥聽之、風動帳開、安笑曰、「郗生可謂入幕之賓矣」。
太和中、溫將伐慕容氏於臨漳、超諫以、道遠、汴水又淺、運道不通。溫不從、遂引軍自濟入河、超又進策於溫曰、「清水入河、無通運理。若寇不戰、運道又難、因資無所、實為深慮也。今盛夏、悉力徑造鄴城、彼伏公威略、必望陣而走、退還幽朔矣。若能決戰、呼吸可定。設欲城鄴、難為功力。百姓布野、盡為官有。易水以南、必交臂請命。但恐此計輕決、公必務其持重耳。若此計不從、使當頓兵河濟、控引糧運、令資儲充備、足及來夏、雖如賒遲、終亦濟克。若舍此二策而連軍西進、進不速決、退必愆乏。賊因此勢、日月相引、僶俛秋冬、船道澀滯、且北土早寒、三軍裘褐者少、恐不可以涉冬。此大限閡、非惟無食而已」。溫不從、果有枋頭之敗、溫深慚之。尋而有壽陽之捷、問超曰、「此足以雪枋頭之恥乎」。超曰、「未厭有識之情也」。既而超就溫宿、中夜謂溫曰、「明公都有慮不」。溫曰、「卿欲有所言邪」。超曰、「明公既居重任、天下之責將歸於公矣。若不能行廢立大事、為伊霍之舉者、不足鎮壓四海、震服宇內、豈可不深思哉」。溫既素有此計、深納其言。遂定廢立、超始謀也。
遷中書侍郎。謝安嘗與王文度共詣超、日旰未得前、文度便欲去、安曰、「不能為性命忍俄頃邪」。其權重當時如此。轉司徒左長史、母喪去職。常謂其父名公之子、位遇應在謝安右、而安入掌機權、愔優游而已、恒懷憤憤、發言慷慨、由是與謝氏不穆。安亦深恨之。服闋、除散騎常侍、不起。以為臨海太守、加宣威將軍、不拜。年四十二、先愔卒。
初、超雖實黨桓氏、以愔忠於王室、不令知之。將亡、出一箱書、付門生曰、「本欲焚之恐公年尊、必以傷愍為弊。我亡後、若大損眠食、可呈此箱。不爾、便燒之」。愔後果哀悼成疾、門生依旨呈之、則悉與溫往反密計。愔於是大怒曰、「小子死恨晚矣」。更不復哭。凡超所交友、皆一時秀美、雖寒門後進、亦拔而友之。及死之日、貴賤操筆而為誄者四十餘人、其為眾所宗貴如此。王獻之兄弟、自超未亡、見愔、常躡履問訊、甚修舅甥之禮。及超死、見愔慢怠、屐而候之、命席便遷延辭避。愔每慨然曰、「使嘉賓不死、鼠子敢爾邪」。性好聞人棲遁、有能辭榮拂衣者、超為之起屋宇、作器服、畜僕豎、費百金而不吝。又沙門支遁以清談著名于時、風流勝貴、莫不崇敬、以為造微之功、足參諸正始。而遁常重超、以為一時之儁、甚相知賞。超無子、從弟儉之以子僧施嗣。
僧施字惠脫、襲爵南昌公。弱冠、與王綏・桓胤齊名、累居清顯、領宣城內史、入補丹楊尹。劉毅鎮江陵、請為南蠻校尉・假節。與毅俱誅、國除。
超 字は景興、一字は嘉賓なり。少くして卓犖にして不羈、曠世の度有り、士林と交游し、每に勝拔に存し、談論を善くし、義理は精微なり。愔は天師道に事へ、而れども超は佛を奉る。愔 又 聚斂を好み、錢を積むこと數千萬、嘗て庫を開き、超の取る所に任せしむ。超 性は施を好み、一日中に親故に與へ都て盡く。其の心に任せて獨り詣ること、皆 此の類なり。
桓溫 辟して征西大將軍掾と為す。溫 大司馬に遷るや、又 轉じて參軍と為る。溫は英氣高邁にして、罕(まれ)に推す所有り、超と與に言ふに、常に測る能はざるを謂へば、遂に意を傾けて禮待す。超も亦た深く自ら結納す。時に王珣 溫の主簿と為り、亦た溫の重んずる所と為る。府中 語りて曰く、「髯の參軍、短の主簿、能く公をして喜ばしめ、能く公をして怒らしむ」。超は髯なり、珣は短なるが故なり。尋いで散騎侍郎に除せらる。時に愔 北府に在り、徐州の人 多く勁悍なれば、溫 恒に「京口の酒は飲む可し、兵は用ふ可し」と云ひ、深く愔 之に居るを欲せず。而して愔 事機に暗く、牋を遣りて溫に詣り、共に王室を奬し、園陵を修復せんと欲す。超 取視し、寸寸に毀裂す。乃ち更めて牋を作り、自ら陳ぶらく老病にして、甚だ人間に堪へざれば、閑地に自養せんことを乞ふ。溫 牋を得て大いに喜び、即ち愔を轉じて會稽太守と為す。溫 不軌を懷き、霸王の基を立てんと欲し、超 之が為に謀る。謝安 王坦之と與に嘗て溫に詣りて事を論じ、溫 超をして帳中に臥して之を聽かしむるに、風 帳を動かして開き、安 笑ひて曰く、「郗生は幕に入るの賓と謂ふ可し」と。
太和中に、溫 將に慕容氏を臨漳に伐たんとするも、超 諫めて以へらく、「道は遠く、汴水 又 淺く、運道 通ぜず」と。溫 從はず、遂に軍を引きて濟より河に入り、超 又 策を溫に進めて曰く、「清水 河に入り、運を通ずるの理無し。若し寇 戰はずんば、運道 又 難しく、資に因らんにも所無く、實に深慮を為せ。今は盛夏にして、力を悉くし徑に鄴城に造らば、彼 公の威略に伏し、必ず陣を望むや而ち走り、退きて幽朔に還らん。若し能く決戰せば、呼吸するや定む可し。設し鄴に城せんと欲さば、功力を為し難し。百姓 野に布き、盡く官有為り。易水 以て南し、必ず臂を交へて命を請ふ。但だ恐るらくは此の計 輕決せん。公 必ず其の持重に務むるのみ。若し此の計 從はずんば、當に兵を河濟に頓めて、糧運を控引せしめ、資儲をして充備しむれば、來夏に及ぶに足らん。賒遲なるが如しと雖も、終に亦た濟克せん。若し此の二策を舍てて軍を連ねて西進せば、進むも速決せず、退くも必ず愆乏せん。賊 此の勢に因りて、日月に相 引き、秋冬を僶俛ならしめば、船道は澀滯し、且つ北土は早く寒ければ、三軍に裘褐する者は少く、恐らくは以て冬を涉る可からず。此れ大限閡なり、惟だ食無きのみに非ず」と。溫 從はず、果たして枋頭の敗有り、溫 深く之を慚む。尋いで壽陽の捷有り、超に問ひて曰く、「此れ以て枋頭の恥を雪ぐに足るか」と。超曰く、「未だ有識の情を厭(おさ)へざるなり」と。既にして超 溫の宿に就き、中夜に溫に謂ひて曰く、「明公 都て慮有るや不や」と。溫曰く、「卿 言ふ所有らんと欲するか」と。超曰く、「明公 既に重任に居り、天下の責 將に公に歸せんとす。若し廢立の大事を行ひて、伊霍の舉を為す能はずんば、四海を鎮壓し、宇內を震服するに足らず。豈に深思せざる可きか」と。溫 既に素より此の計有れば、深く其の言を納る。遂に廢立を定むるは、超 謀を始めたればなり。
中書侍郎に遷る。謝安 嘗て王文度と與に共に超に詣り、日旰 未だ前むを得ず、文度 便ち去らんと欲するに、安曰く、「性命の為に俄頃を忍ぶこと能はざるや」と。其の權重 時に當たりて此の如し。司徒左長史に轉じ、母喪もて職を去る。常に其の父は名公の子なるを謂ひ、位は遇して應に謝安の右に在るべきも、而れども安 機權を入掌し、愔 優游するのみなれば、恒に憤憤を懷き、言を發して慷慨し、是に由り謝氏と穆ならず。安も亦た深く之を恨む。服闋するや、散騎常侍に除せらるるも、起せず。以て臨海太守と為し、宣威將軍を加ふるも、拜せず。年四十二にして、愔に先んじて卒す。
初め、超 實は桓氏に黨たると雖も、王室に愔の忠たるを以て、之を知らしめず。將に亡びんとするや、一箱書を出だし、門生に付して曰く、「本は之を焚かんと欲す。恐らくは公 年尊し、必ず傷愍を以て弊と為らん。我 亡ぶの後、若し大いに眠食を損へば、此の箱を呈す可し。爾らずんば、便ち之を燒け」と。愔 後に果たして哀悼して疾と成り、門生 旨に依りて之を呈せば、則ち悉く溫と與にせし往の反の密計なり。愔 是に於て大いに怒りて曰く、「小子の死 晚きを恨む」と。更めて復た哭せず。凡そ超の交友する所、皆 一時の秀美にして、寒門後進と雖も、亦た拔して之を友とす。死するの日に及び、貴賤 筆を操りて誄を為る者は四十餘人、其の眾の宗貴する所と為るは此の如し。王獻之の兄弟は、超 未だ亡びざるより、愔に見え、常に躡履して問訊し、甚だ舅甥の禮を修む。超 死するに及び、愔に見るに慢怠にして、屐して之に候ひ、席するを命ずれば便ち延を遷して辭避す。愔 每に慨然して曰く、「嘉賓をして死せざらしめば、鼠子 敢て爾るや」と。性は人の棲遁を聞くを好み、能く榮を辭し衣を拂ふ者有らば、超 之が為に屋宇を起て、器服を作り、僕豎を畜ひ、百金を費すも吝まず。又 沙門の支遁 清談を以て名を時に著はし、風流 勝貴たれば、崇敬せざる莫く、以て造微の功と為し、正始に參諸するに足る。而れども遁 常に超を重んじ、以て一時の儁と為し、甚だ相 知賞す。超 子無く、從弟の儉之 子の僧施を以て嗣がしむ。
僧施 字は惠脫、爵南昌公を襲ふ。弱冠にして、王綏・桓胤と名を齊しくし、累ねて清顯に居りて、宣城內史を領し、入りて丹楊尹に補せらる。劉毅 江陵に鎮するや、請ひて南蠻校尉・假節と為す。毅と與に俱に誅せられ、國 除かる。
郗超は字を景興といい、一字を嘉賓という。若くして権謀があって非凡で、世に稀な見識があり、士林と交友し、つねに仲間内で卓越し、談論を得意とし、論理は精微であった。郗は天師道に仕えたが、郗超は仏道を奉った。郗愔は蓄財を好み、数千万の銭を集めたが、あるとき倉庫を開き、郗超に自由に取らせた。郗超は施しを好み、一日のうちに親しいものに与えて全部を使い切った。心の赴くままに行動するのは、この類いであった。
桓温が辟召して征西大将軍掾とした。桓温が大司馬に遷ると、また転じて参軍となった。桓温は意気盛んで、ほとんど他人を認めることがなかったが、郗超と話すと、つねに底知れないと思い、特別に敬意を払って礼遇した。郗超もまた深く桓温を受け入れた。このとき王珣が桓温の主簿となり、彼もまた桓温に重んじられていた。府中で、「ひげの参軍(郗超)、ちびの主簿(王珣)は、桓温を喜ばせたり、怒らせたりできる」と言われた。郗超はひげが立派で、王珣は背が低いのでこのように言われた。ほどなく(郗超は)散騎侍郎に任命された。このとき郗愔が北府(京口)におり、徐州の人は強く勇敢であったので、桓温はつねに「京口の酒を飲み、(京口の)兵を使いたいものだ」といい、郗愔が京口にいることを煙たがった。しかし郗愔は時局を見極められず(桓温の叛意を知らず)、書簡を桓温に送って、ともに王室(東晋)を支えて、園陵を修復しようと言った。郗超はこれを見て取ると、細切れに破壊した。書簡を作り直し、「私は老齢で病気で、職務がつらいので、静かな地で療養したい」と書いた。桓温は書簡を見て大いに悦び、郗愔を会稽太守に転じさせた。桓温が人の道に外れて、霸王の事業を打ち立てようと考え、郗超は計画に参加した。謝安は王坦之とともに桓温を訪れて政事を論じ、桓温は郗超にとばりのなかに伏せて盗み聞きさせたが、風が吹いてとばりが開き(郗超は姿を見られ)、謝安は笑って、「郗生は(正式に着座せず)幕に潜り込んだ賓客だな」と言った。
太和年間に、桓温が慕容氏を臨漳で討伐しようとしたが、郗超は諫めて、「道は遠く、そして汴水は浅く(船が座礁する危険があり)、輸送路が通じていません」と言った。桓温は従わず、軍を率いて済水から黄河に入った。郗超はまた桓温に策書を提出し、「清水は黄河に流れ込み、水路を通行できる理がありません。もし敵軍が戦わなければ、輸送も難しい上に、(敵軍から)略奪もできないので、ご再考が必要です。いまは盛夏なので、力を振り絞って鄴城(臨漳)に直行すれば、敵軍はあなたの兵威に屈服し、軍勢を目にするや逃げ出し、(故郷の)北方に去るでしょう。もし戦闘に持ち込めれば、呼吸する間に勝利が決まるはずです。(しかし)もしも鄴城に籠もられたら、戦力を発揮できません。民草が野に広がっていますが、すべて官の所有です。易水から南下し、必ず手を束ねて命を請うでしょう。ただしこの計画を軽々しく決行してはなりません。あなたは慎重に努めるべきです。もしこの計略に従わないならば、兵を黄河や済水に留め、兵糧輸送を引き上げ、備蓄を充実させれば、来年夏には十分になるでしょう。鈍重のようですが、最終的には勝利できるのです。もしこの二つの策を捨てて西に進めば、前進しても速やかに決着がつかず、撤退しても必ず物資が不足するでしょう。賊はこの情勢を利用し、戦いを長引かせ、秋冬に引き込めば、水路は交通が滞り、しかも北方は寒くなるのが早いので、三軍は防寒の装備が足りず、冬を越すことができません。これは大きな制約と損失であり、食糧不足だけではすみません」と言った。桓温は従わず、果たして枋頭で敗北し、桓温はこれを深く恥じた。すぐに寿陽で勝利し、郗超に、「これで枋頭の恥を雪げたか」と質問した。郗超は、「まだ有識者を納得させるには不十分です」と言った。郗超は桓温の宿舎に行き、夜中に桓温に、「あなたには考えがあるのではありませんか」と言った。桓温は、「きみには言いたいことがあるのか」と言った。郗超は、「あなたは重要な地位にあり、天下の責任がすべてあなたに掛かっています。(皇帝の)廃立という重大事を決行するにあたり、伊尹や霍光のようでなければ、国内全土を鎮圧し、天下を畏服させるには足りません。どうして深く考えずにおけましょうか」と言った。桓温はもとより廃立を考えていたため、その言葉を心から受け入れた。廃立の決行は、郗超が言い出したことである。
中書侍郎に遷った。謝安がかつて王文度とともに郗超をたずねたが、日が暮れても邸宅に入れず、王文度は去ろうとしたが、 謝安は、「生き残るために僅かな時間すら我慢できないのか」と言った。その権力の重さは当時はこれほどであった。司徒左長史に転じ、母の死によって官職を去った。父(郗愔)が名公(郗鑒)の子であることから、謝安よりも席次が上位にあるべきだと思っていたが、謝安が権力の中枢を掌握し、郗愔は(政治に消極的で)ゆったりとするばかりなので、つねに不満を持ち、口を開いては憤慨し、そのせいで謝氏と不仲であった。謝安もまた郗超を深く怨んでいた。喪が明けると、散騎常侍に任命されたが、着任しなかった。臨海太守となり、宣威将軍を加えられたが、拝さなかった。四十二歳で、(父の)郗愔より先に亡くなった。
これよりさき、郗超は実態は桓氏に仲間であったが、(父の)郗愔が王室に忠で(桓温と敵対関係に)あるため、これを知らせなかった。死に際に、一箱の書状を出し、門生に託して、「これを焼き捨てるつもりだった。父(郗愔)は老齢なので、きっと健康を損なうだろう。私が死んだあと、もし父が(私の死を気に病んで)食事や睡眠が取れなくなれば、この箱を渡してほしい。その機会が無ければ、焼き捨てろ」と言った。郗愔は果たして(郗超の死を)哀悼して病気となった。門生が伝言とともに箱を手渡すと、(箱のなかは)すべて桓温とともに国家反逆を企む書簡であった。郗愔は大いに怒って、「わが子は死ぬのが遅すぎたぐらいだ」と言った。二度と泣くことはなかった。郗超が交遊したのは、当時の優秀な人物ばかりで、寒門出身や年少者であっても、見出して友とした。郗超が死んだとき、貴賤に区別なく筆をとって誄を作ったものは四十人あまりで、大勢から尊重されたのはこのようであった。王献之(母が郗鑒の娘)の兄弟は、郗超が死ぬ前は、郗愔に会ったとき、くつを脱いでご機嫌を伺い、手厚く舅と甥のあいだの礼を修めた。郗超が死ぬと、(王献之が)郗愔に会うときの態度が怠慢となり、靴を履いたまま会い、(郗愔が)着席を命じると(王献之は)むしろを移し延ばして逃げた。郗愔はつねに歎いて、「嘉賓〈郗超のあざな〉が生きていれば、あいつは無礼な態度を取らなかったのだが」と言った。郗超は人の隠遁を聞くのが好きで、世俗の栄誉を遠ざけて隠棲したものがいると、郗超はその人のために屋敷を建て、器物や服を作り、召使いを雇い、百金すら惜しまなかった。また沙門(仏教者)の支遁は清談によって当時名声があり、最上の風流さをそなえ、尊敬しないものがおらず、絶妙の領域に達して、(三国魏の)正始の明賢にすら匹敵するとされた。しかし支遁はつねに郗超を重んじ、この時代の英俊とし、知己として賞賛した。郗超に子はおらず、従弟の郗倹之は子の郗僧施にこれを嗣がせた。
郗僧施は字を恵脱といい、南昌公の爵を襲った。弱冠で、王綏・桓胤と名を等しくし、かさねて、清廉で高い地位におり、宣城内史を領し、(朝廷に)入って丹楊尹に任命された。劉毅が江陵に鎮すると、(劉毅に)要請されて南蛮校尉・仮節となった。劉毅とともに誅殺され、国は除かれた。
曇字重熙、少賜爵東安縣開國伯。司徒王導辟祕書郎。朝論以曇名臣之子、每逼以憲制、年三十、始拜通直散騎侍郎、遷中書侍郎。簡文帝為撫軍、引為司馬。尋除尚書吏部郎、拜御史中丞。時北中郎荀羨有疾、朝廷以曇為羨軍司、加散騎常侍。頃之、羨徵還、仍除北中郎將・都督徐兗青幽揚州之晉陵諸軍事・領徐兗二州刺史・假節、鎮下邳。後與賊帥傅末波等戰失利、降號建威將軍。尋卒、年四十二。追贈北中郎、諡曰簡。子恢嗣。
曇 字は重熙、少くして爵東安縣開國伯を賜はる。司徒の王導 辟して祕書郎とす。朝論 以へらく曇は名臣の子なれば、每に逼るに憲制を以てし、年三十にして、始めて通直散騎侍郎を拜し、中書侍郎に遷る。簡文帝 撫軍と為るや、引きて司馬と為す。尋いで尚書吏部郎に除せられ、御史中丞を拜す。時に北中郎の荀羨 疾有り、朝廷 曇を以て羨の軍司と為し、散騎常侍を加ふ。頃之、羨 徵せられて還り、仍りて北中郎將・都督徐兗青幽揚州之晉陵諸軍事・領徐兗二州刺史・假節に除せられ、下邳に鎮す。後に賊帥の傅末波らと戰ひて利を失ひ、號を建威將軍に降す。尋いで卒し、年四十二なり。北中郎を追贈し、諡して簡と曰ふ。子の恢 嗣ぐ。
郗曇は字を重熙といい、若くして東安県開国伯の爵を賜った。司徒の王導は辟召して秘書郎とした。朝廷の世論は郗曇が名臣の子なので、つねに国家のおきてを守ることを求めた。三十歳で、はじめて通直散騎侍郎を拝し、中書侍郎に遷った。簡文帝が撫軍となると、招いて司馬とした。すぐに尚書吏部郎に任命され、御史中丞を拝した。このとき北中郎の荀羨が病気なので、朝廷は郗曇を荀羨の軍司(軍師)とし、散騎常侍を加えた。しばらくして、、荀羨が徴せられて(中央に)還り、郗曇が(代わりに)北中郎将・都督徐兗青幽揚州之晋陵諸軍事・領徐兗二州刺史・仮節に任命され、下邳に鎮した。のちに賊帥の傅末波らと戦って敗れ、官号を建威将軍に降格された。ほどなく亡くなり、四十二歳だった。北中郎を追贈し、簡と諡した。子の郗恢が嗣いだ。
恢字道胤、少襲父爵、散騎侍郎、累遷給事黃門侍郎、領太子右衞率。恢身長八尺、美鬚髯、孝武帝深器之、以為有藩伯之望。會朱序自表去職、擢恢為梁秦雍司荊揚并等州諸軍事・建威將軍・雍州刺史・假節、鎮襄陽。恢甚得關隴之和、降附者動有千計。
初、姚萇將竇衝來降、拜東羌校尉。衝後舉兵反、入漢川、襲梁州。時關中有巴蜀之眾、皆背萇、據弘農以結苻登。而登署衝為左丞相、徙屯華陰。河南太守楊佺期遣上黨太守荀靜戍皇天塢以距之。衝數來攻、恢遣將軍趙睦守金墉城、而佺期率眾次湖城、討衝、走之。
尋而慕容垂圍慕容永於潞川、永窮蹙、遣其子弘求救於恢、并獻玉璽一紐。恢獻璽於臺、又陳「垂若并永、其勢難測。今於國計、謂宜救永。永・垂並存、自為仇讎、連雞不棲、無能為患。然後乘機雙斃、則河北可平」。孝武帝以為然、詔王恭・庾楷救之、未及發而永沒。楊佺期以疾去職。
恢以隨郡太守夏侯宗之為河南太守、戍洛陽。姚萇遣其子略攻湖城及上洛、又使其將楊佛嵩圍洛陽。恢遣建武將軍辛1.(恭靜)〔恭靖〕救洛陽、梁州刺史王正胤率眾出子午谷、以為聲援。略懼而退。恢以功進征虜將軍、又領秦州刺史、加督隴上軍。
時魏氏強盛、山陵危逼、恢遣江夏相鄧啟方等以萬人距之、與魏主拓跋珪戰於滎陽、大敗而還。
及王恭討王國寶、桓玄・殷仲堪皆舉兵應恭、恢與朝廷掎角玄等。襄陽太守夏侯宗之・府司馬郭毗並以為不可、恢皆殺之。既而玄等退守尋陽。以恢為尚書、將家還都、至楊口、仲堪陰使人於道殺之、及其四子、託以羣蠻所殺。喪還京師、贈鎮軍將軍。子循嗣。
1.辛恭靖伝及び『通鑑』巻一百十一に従って改める。
恢 字は道胤、少くして父の爵を襲ひ、散騎侍郎たりて、累りに給事黃門侍郎に遷り、太子右衞率を領す。恢の身長は八尺、鬚髯美しく、孝武帝 深く之を器とし、以為へらく藩伯の望有りと。會々朱序 自ら表して職を去り、恢を擢して梁秦雍司荊揚并等州諸軍事・建威將軍・雍州刺史・假節と為し、襄陽に鎮せしむ。恢 甚だ關隴の和を得て、降附する者 動やすれば千もて計ふる有り。
初め、姚萇の將の竇衝 來降し、東羌校尉を拜す。衝 後に兵を舉げて反し、漢川に入り、梁州を襲ふ。時に關中に巴蜀の眾有り、皆 萇に背き、弘農に據りて以て苻登に結ぶ。而して登 衝を署して左丞相と為し、徙りて華陰に屯せしむ。河南太守の楊佺期 上黨太守の荀靜を遣はして皇天塢を戍りて以て之を距がしむ。衝 數々來攻し、恢 將軍の趙睦を遣はして金墉城を守らしめ、而して佺期 眾を率ゐて湖城に次し、衝を討ち、之を走らす。
尋いで慕容垂 慕容永を潞川に圍み、永 窮蹙すれば、其の子の弘を遣はして救を恢に求め、并せて玉璽一紐を獻ず。恢 璽を臺に獻じ、又 陳ぶらく「垂 若し永を并せば、其の勢 測り難し。今 國計に於て、謂へらく宜しく永を救ふべしと。永・垂 並存せば、自ら仇讎と為らん。連雞 棲せず、能く患と為る無し。然る後に機に乘じて雙ながら斃せば、則ち河北 平らぐ可し」と。孝武帝 以て然りと為し、王恭・庾楷に詔して之を救はしめ、未だ發するに及ばざるに永 沒す。楊佺期 疾を以て職を去る。
恢 隨郡太守の夏侯宗之を以て河南太守と為し、洛陽を戍らしむ。姚萇 其の子の略を遣はして湖城及び上洛を攻め、又 其の將の楊佛嵩を使はして洛陽を圍はしむ。恢 建武將軍の辛恭靖を遣はして洛陽を救はしめ、梁州刺史の王正胤 眾を率ゐて子午谷に出でて、以て聲援と為る。略 懼れて退く。恢 功を以て征虜將軍に進み、又 秦州刺史に領し、督隴上軍を加へらる。
時に魏氏 強盛にして、山陵 危逼たれば、恢 江夏相の鄧啟方らを遣はして萬人を以て之を距がしめ、魏主の拓跋珪と滎陽に於て戰ひ、大いに敗りて還る。
王恭 王國寶を討つに及び、桓玄・殷仲堪 皆 兵を舉げて恭に應じ、恢 朝廷と玄らを掎角とす。襄陽太守の夏侯宗之・府司馬の郭毗 並びに不可と以為へば、恢 皆 之を殺す。既にして玄ら退きて尋陽を守る。恢を以て尚書と為すや、家を將ゐて都に還り、楊口に至るや、仲堪 陰かに人をして道に於て之を殺さしめ、其の四子に及び、託するに羣蠻 殺す所を以てす。喪 京師に還り、鎮軍將軍を贈る。子の循 嗣ぐ。
郗恢は字を道胤といい、若くして父の爵を襲い、散騎侍郎となり、給事黄門侍郎に累遷し、太子右衛率を領した。郗恢の身長は八尺で、ひげが美しく、孝武帝は深く愛し、藩伯の望だと褒めそやした。たまたま朱序が自ら上表して職を去ると、郗恢を抜擢して梁秦雍司荊揚并等州諸軍事・建威将軍・雍州刺史・仮節とし、襄陽に鎮させた。郗恢は関隴地域と和親を結び、帰順し降伏するものが千人単位であった。
これよりさき、姚萇の将の竇衝が来降し、東羌校尉を拝した。竇衝はのちに兵を挙げて反乱し、漢川に入り、梁州を襲った。このとき関中には巴蜀の民がおり、みな姚萇に背いて、弘農に拠って苻登と結んだ。そして苻登は竇衝を左丞相に任命し、移って華陰に屯させた。河南太守の楊佺期は上党太守の荀静を派遣して皇天塢を拠点にこれを防がせた。竇衝はしばしば攻め来たり、郗恢は将軍の趙睦を派遣して金墉城を守らせ、楊佺期は兵を率いて湖城に駐屯し、竇衝を討伐し、敗走させた。
ほどなく慕容垂が慕容永を潞川で包囲し、慕容永が追い詰められたので、子の慕容弘をよこして郗恢に救援を求め、あわせて玉璽一紐を献上した。郗恢は玉璽を台に提出し、また「慕容垂がもし慕容永を併合すれば、その勢力は計り知れない。いま国家の方針として、慕容永を救うべきです。慕容永と慕容垂が併存すれば、自ずから仇敵となるでしょう。二羽の鶏は共存せず、(東晋の)脅威を除けます。その後に好機に乗じて両者を倒せば、河北を平定できます」と言った。孝武帝は同意し、王恭・庾楷に詔してこれを救わせたが、出発する前に慕容永が没した。楊佺期が病気で官職を去った。
郗恢は隨郡太守の夏侯宗之を河南太守とし、洛陽を守らせた。姚萇はその子の姚略を派遣して湖城及び上洛を攻めさせ、またその将の楊仏嵩を派遣して洛陽を包囲させた。郗恢は建武将軍の辛恭靖を送って洛陽を救わせ、梁州刺史の王正胤は軍を率いて子午谷に出て、声援となった。姚略は(王正胤を)懼れて撤退した。郗恢は功績により征虜将軍に進み、また秦州刺史を領し、督隴上軍を加えられた。
このとき北魏は強盛で、(洛陽周辺の)山陵に危険が迫ったので、郗恢は江夏相の鄧啓方らを派遣して一万人でこれを防ぎ止めさせ、魏主の拓跋珪と滎陽で戦い、大いに破って帰った。
王恭が王国宝を討伐すると、桓玄・殷仲堪はどちらも兵を挙げて王恭に呼応した。郗恢は朝廷とともに桓玄らを掎角(遠隔地で牽制)した。襄陽太守の夏侯宗之・府司馬の郭毗が反対したので、郗恢は二人を殺した。桓玄らは退いて尋陽を守った。郗恢が尚書になると、家族をひきいて都に還ろうとしたが、楊口に来たとき、殷仲堪が秘かに人をやって郗恢を暗殺し、四人の子も殺害されたが、(殷仲堪は)蛮族のしわざとした。遺体が都に帰着すると、鎮軍将軍を贈られた。子の郗循が嗣いだ。
隆字弘始、蹇亮有匪躬之節。初為尚書郎、轉左丞、在朝為百僚所憚、坐漏洩事免。頃之、為吏部郎、復免。補東郡太守。
隆少為趙王倫所善、及倫專擅、召為散騎常侍。倫之篡也、以為揚州刺史。僚屬有犯、輒依臺閣峻制繩之、遠近咸怨。尋加寧東將軍、未拜、而齊王冏檄至、中州人在軍者皆欲赴義、隆以兄子鑒為趙王掾、諸子悉在京洛、故猶豫未決。主簿趙誘・前秀才虞潭白隆曰、「當今上計、明使君自將精兵徑赴齊王。中計、明使君可留督攝、速遣猛將率精兵疾赴。下計、示遣兵將助、而稱背倫」。隆素敬別駕顧彥、密與謀之。彥曰、「趙誘下計、乃上策也」。1.西曹留承聞彥言、請見、曰、「不審明使君當今何施」。隆曰、「我俱受二帝恩、無所偏助、惟欲守州而已」。承曰、「天下者、世祖皇帝之天下也。太上承代已積十年、今上取四海不平、齊王應天順時、成敗之事可見。使君若顧二帝、自可不行、宜急下檄文、速遣精兵猛將。若其疑惑、此州豈可得保也」。隆無所言、而停檄六日。時寧遠將軍陳留王邃領東海都尉、鎮石頭、隆軍人西赴邃甚眾。隆遣從事於牛渚禁之、不得止。將士憤怒、夜扶邃為主而攻之、隆父子皆死、顧彥亦被害、誣隆聚合遠近、圖為不軌。隆之死也、時議莫不痛惜焉。
1.「西曹留承」は、趙誘伝では「治中留寶」に作る。
隆 字は弘始、蹇亮にして匪躬の節有り。初め尚書郎と為り、左丞に轉じ、朝に在りて百僚の憚る所と為るも、漏洩の事に坐して免ぜらる。頃之、吏部郎と為り、復た免ぜらる。東郡太守に補せらる。
隆 少くして趙王倫の善くする所と為り、倫 專擅するに及び、召されて散騎常侍と為る。倫の篡するや、以て揚州刺史と為る。僚屬 犯す有らば、輒ち臺閣の峻制に依りて之を繩し、遠近 咸 怨む。尋いで寧東將軍を加へらるも、未だ拜せず、而して齊王冏の檄 至るや、中州の人にして軍に在る者は皆 義に赴かんと欲し、隆 兄子の鑒 趙王の掾と為りて、諸子 悉く京洛に在るを以て、故に猶豫して未だ決せず。主簿の趙誘・前秀才の虞潭 隆に白して曰く、「當今の上計は、明使君 自ら精兵を將ゐて徑に齊王に赴くことなり。中計は、明使君 督攝に留りて、速やかに猛將を遣はして精兵を率ゐて疾く赴く可し。下計は、兵を遣はし將に助けんとすと示して、而して倫に背くと稱すなり」と。隆 素より別駕の顧彥を敬へば、密かに與に之を謀る。彥曰く、「趙誘の下計、乃ち上策なり」と。西曹の留承 彥の言を聞き、見えんことを請ひ、曰く、「明使君 當今 何をか施すに審らかならず」と。隆曰く、「我 俱に二帝の恩を受け、偏助する所無し。惟だ州を守らんと欲すのみ」と。承曰く、「天下は、世祖皇帝の天下なり。太上 承代して已に十年を積む。今上 四海の不平を取り、齊王 天に應じ時に順ふ。成敗の事 見る可し。使君 若し二帝を顧みれば、自ら行かざる可し。宜しく急ぎ檄文を下し、速やかに精兵猛將を遣はすべし。若し其れ疑惑せば、此の州 豈に保つを得可きや」と。隆 言ふ所無く、而して檄を停むること六日。時に寧遠將軍の陳留王邃 東海都尉を領し、石頭に鎮す。隆の軍の人 西して邃に赴くもの甚だ眾し。隆 從事を牛渚に遣はして之を禁ずるも、止むるを得ず。將士 憤怒し、夜に邃を扶けて主と為して之を攻む。隆の父子 皆 死し、顧彥もた亦た害せられ、隆 遠近を聚合し、不軌を為さんと圖れりと誣す。隆の死するや、時議 痛惜せざる莫し。
(郗鑒の叔父の)郗隆は字を弘始といい、愚直にわが身を顧みずに国家に仕える忠節があった。はじめ尚書郎となり、左丞に転じ、朝廷で百官から憚られたが、機密事件に連坐して罷免された。しばらくして、吏部郎となり、また罷免された。東郡太守に任命された。
郗隆は若くして趙王倫(司馬倫)と仲が良く、司馬倫が専政すると、召されて散騎常侍となった。司馬倫が簒奪すると、揚州刺史となった。属僚で違反するものがいれば、台閣の厳しい法規を適用して捕らえ、遠近から怨まれた。ほどなく寧東将軍を加えられたが、まだ拝命する前に、斉王冏(司馬冏)の檄文が到着した。中原出身の軍内にいるものは(司馬冏に味方して)みな義に赴こうとしたが、郗隆は兄の子の郗鑒が趙王の掾となり、諸子がすべて京洛にいるため、迷って決断できなかった。主簿の趙誘・前秀才の虞潭は郗隆に、「今日の上計は、あなたさまが自ら精兵を率いて直ちに斉王(司馬冏)のもとに赴くことです。中計は、あなたさまは鎮所(揚州)に留まり、速やかに猛将を派遣して精兵を率いて素早く(斉王のもとに)駆けつけることです。下計は、兵を派遣して助ける姿勢だけ見せながら、司馬倫には味方しないと唱えることです」と言った。郗隆はふだんから別駕の顧彦を敬っていたので、ひそかに相談した。顧彦は、「趙誘の下計こそ、上策なのです」と言った。西曹の留承(治中の留宝)は顧彦の言葉を聞き、郗隆に面会を求め、「あなたは為すべきことが分かっておられない」と言った。郗隆は、「私は二帝(恵帝と司馬倫)からいずれも恩を受け、片方だけを助けられない。ただこの揚州を守りたいだけだ」と言った。留承(留宝)は、「天下は、世祖皇帝(司馬炎)の天下です。太上(恵帝)は(司馬炎を)継承してすでに十年の実績があります。今上(司馬倫)は天下から不満を持たれ、斉王(司馬冏)は天の時に呼応しました。勝敗は明らかです。あなたがもし二帝とも立てたければ、自分で行く必要はありません。急ぎ檄文を下し、速やかに精兵と猛将を派遣しなさい。もし迷っていれば、この揚州ですら保てましょうか」と言った。郗隆は言い返せず、しかし檄文を六日も留め置いた。このとき寧遠将軍の陳留の王邃が東海都尉を領し、石頭に鎮していた。郗慮の軍の人は西にゆき王邃のもとに赴くものがとても多かった。郗隆は従事を牛渚に送ってこれを妨げようとしたが、止められなかった。将士は(郗隆の無策に)憤怒し、夜に王邃を盟主に祭りあげて郗慮を攻めた。郗隆の父子はみな死に、顧彦も殺害された。郗隆は遠近に呼ぶかけ、邪悪な陰謀があったと言い触らした。郗隆が死ぬと、当時の人々は痛惜しないものがなかった。
史臣曰、忠臣本乎孝子、奉上資乎愛親、自家刑國、於斯極矣。太真性履純深、譽流邦族、始則承顏候色、老萊弗之加也。既而辭親蹈義、申胥何以尚焉。封狐萬里、投軀而弗顧。猰窳千羣、探穴而忘死。竟能宣力王室、揚名本朝、負荷受遺、繼之全節。言念主辱、義聲動於天地。祗赴國屯、信誓明於日月。枕戈雨泣、若雪分天之仇。皇輿旋軫、卒復夷庚之躅。微夫人之誠懇、大盜幾移國乎。道徽儒雅、柔而有正、協德始安、頗均連璧。方回踵武、奕世登台。露冕為飾、援高人以同志、抑惟大隱者歟。愛子云亡、省遺文而輟泣、殊有大義之風矣。
贊曰、太真懷貞、勤宣乃誠。謀敦翦峻、奮節摛名。道徽忠勁、高芬遠映。愔克負荷、超慚雅正。
史臣曰く、忠臣は孝子に本づき、上に奉ずることは親を愛するに資り、家より國に刑(のり)するは、斯こに極まる。太真 性は純深を履み、譽は邦族に流れ、始めは則ち顏を承け色を候ひ、老萊も之に加えず。既にして親に辭して義を蹈み、申胥も何を以て焉に尚らん。封狐 萬里、軀を投じて顧みず。猰窳 千羣、穴を探して死を忘れず。竟に能く力を王室に宣べ、名を本朝に揚け、負荷して遺を受け、之を繼ぐに節を全す。言に主の辱を念ひて、義聲は天地を動かす。祗て國屯に赴き、信誓は日月より明るし。戈を枕にし泣を雨し、分天の仇を雪ぐがが若し。皇輿 旋軫し、卒かに夷庚の躅に復す。夫人の誠懇微かりせば、大盜 幾んど國を移さんか。道徽 儒雅にして、柔にして正有り、德を始安に協へて、頗る連璧に均し。方回 武を踵(つ)いで、奕世に台に登る。露冕 飾を為し、高人を援けて以て志を同じくし、抑々惟れ大隱なる者か。愛子 云(ここ)に亡び、遺文を省みて泣くを輟め、殊に大義の風有り。
贊に曰く、太真 貞を懷き、勤めて乃誠を宣ぶ。敦を謀り峻を翦り、節を奮ひて名を摛(し)く。道徽は忠勁なり、高芬 遠映す。愔は克く負荷するも、超は雅正に慚づ。
史臣はいう、忠臣のありようは孝行な子にを手本とし、君主を奉ることは親を大切にすることを手本とし、家族のあり方を国に当てはめることが、第一の基準となる。太真(温嶠)は根から純粋な性格で、声望が故郷の宗族に伝わり、他人の気持ちを尊重して逆らわず、老萊(老子)であってもこれほどではない。親族と別れて(国家の)義を遂行し、申胥であってもこれに勝るであろうか。封狐(悪人)が万里にはびこると、身を投じて顧みなかった。猰窳(悪人)が千匹群れると、墓穴を探して死を忘れなかった。王室(東晋)のため力を振るい、国家で名を揚げ、任務を負って遺詔を受け、節義を全うして報いた。(祖約と蘇峻を討伐するとき)主君の恥を述べて、義声は天地を動かした。国の屯営に赴き、誓いは日月より明るかった。戈を枕にして雨のように涙を流し、不倶戴天の敵に仇を雪ぐようであった。皇帝が拉致され、蛮行の徒に踏み荒らされた。夫人(皇太后)が(温嶠に参戦を)懇請しなければ、盗賊がほとんど国家を転覆したであろう。道徽(郗鑒)は儒雅であり、柔にして正で、(東晋の)初期に徳を和らげ、まるで(温嶠と並んで)連璧(一対の玉)のようであった。方回(郗愔)は武を継いで、累世に三公となった。露冕(仙人の冠)で飾り、高邁な人を助けて志を同じくし、まさに大いなる隠者であろうか。まな息子(郗超)を亡くしたが、遺された(桓温と交わした)文を見て泣くのを止め、大義の風格があった。
賛にいう、太真(温嶠)は正しい心を抱き、努めて忠誠を実現した。王敦を謀殺し蘇峻を征伐し、節義を発揮して名を広めた。道徽(郗鑒)は忠実で力強く、高い香りが遠くまで及んだ。郗愔は立派に職責を果たしたが、郗超は雅さと正しさに欠いた。