いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第三十八巻_顧榮・紀瞻・賀循(楊方)・薛兼

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

顧榮

原文

顧榮字彥先、吳國吳人也、為南土著姓。祖雍、吳丞相。父穆、宜都太守。榮機神朗悟、弱冠仕吳、為黃門侍郎・太子輔義都尉。吳平、與陸機兄弟同入洛、時人號為「三俊」。例拜為郎中、歷尚書郎・太子中舍人・廷尉正。恒縱酒酣暢、謂友人張翰曰、「惟酒可以忘憂、但無如作病何耳」。
會趙王倫誅淮南王允、收允僚屬付廷尉、皆欲誅之、榮平心處當、多所全宥。及倫篡位、倫子虔為大將軍、以榮為長史。初、榮與同僚宴飲、見執炙者貌狀不凡、有欲炙之色、榮割炙啗之。坐者問其故、榮曰、「豈有終日執之而不知其味」。及倫敗、榮被執、將誅、而執炙者為督率、遂救之、得免。
齊王冏召為大司馬主簿。冏擅權驕恣、榮懼及禍、終日昏酣、不綜府事、以情告友人長樂馮熊。熊謂冏長史葛旟曰、「以顧榮為主簿、所以甄拔才望、委以事機、不復計南北親疏、欲平海內之心也。今府大事殷、非酒客之政」。旟曰、「榮江南望士、且居職日淺、不宜輕代易之」。熊曰、「可轉為中書侍郎、榮不失清顯、而府更收實才」。旟然之、白冏、以為中書侍郎。在職不復飲酒。人或問之曰、「何前醉而後醒邪」。榮懼罪、乃復更飲。與州里楊彥明書曰、「吾為齊王主簿、恒慮禍及、見刀與繩、每欲自殺、但人不知耳」。及冏誅、榮以討葛旟功、封嘉興伯、轉太子中庶子。
長沙王乂為驃騎、復以榮為長史。乂敗、轉成都王穎丞相從事中郎。惠帝幸臨漳、以榮兼侍中、遣行園陵。會張方據洛、不得進、避之陳留。及帝西遷長安、徵為散騎常侍、以世亂不應、遂還吳。東海王越聚兵於徐州、以榮為軍諮祭酒。
屬廣陵相陳敏反、南渡江、逐揚州刺史劉機・丹楊內史王曠、阻兵據州、分置子弟為列郡、收禮豪桀、有孫氏鼎峙之計。假榮右將軍・丹楊內史。榮數踐危亡之際、恒以恭遜自勉。會敏欲誅諸士人、榮說之曰、「中國喪亂、胡夷內侮、觀太傅今日不能復振華夏、百姓無復遺種。江南雖有石冰之寇、人物尚全。榮常憂無竇氏・孫・劉之策。有以存之耳。今將軍懷神武之略、有孫吳之能、功勳效於已著、勇略冠於當世、帶甲數萬、舳艫山積、上方雖有數州、亦可傳檄而定也。若能委信君子、各得盡懷、散蔕芥之恨、塞讒諂之口、則大事可圖也」。敏納其言、悉引諸豪族委任之。敏仍遣甘卓出橫江、堅甲利器、盡以委之。榮私於卓曰、「若江東之事可濟、當共成之。然卿觀事勢當有濟理不。敏既常才、本無大略、政令反覆、計無所定、然其子弟各已驕矜、其敗必矣。而吾等安然受其官祿、事敗之日、使江西諸軍函首送洛、題曰逆賊顧榮・甘卓之首、豈惟一身顛覆、辱及萬世、可不圖之」。卓從之。明年、周玘與榮及甘卓・紀瞻潛謀起兵攻敏。榮廢橋斂舟於南岸、敏率萬餘人出、不獲濟、榮麾以羽扇、其眾潰散。事平、還吳。永嘉初、徵拜侍中、行至彭城、見禍難方作、遂輕舟而還、語在紀瞻傳。
元帝鎮江東、以榮為軍司、加散騎常侍、凡所謀畫、皆以諮焉。榮既南州望士、躬處右職、朝野甚推敬之。時帝所幸鄭貴嬪有疾、以祈禱頗廢萬機、榮上牋諫曰、「昔文王父子兄弟乃有三聖、可謂窮理者也。而文王日昃不暇食、周公一沐三握髮、何哉。誠以一日萬機、不可不理。一言蹉跌、患必及之故也。當今衰季之末、屬亂離之運、而天子流播、豺狼塞路、公宜露營野次、星言夙駕、伏軾怒蛙以募勇士、懸膽於庭以表辛苦。貴嬪未安、藥石實急。禱祀之事、誠復可修。豈有便塞參佐白事、斷賓客問訊。今強賊臨境、流言滿國、人心萬端、去就紛紜。願沖虛納下、廣延儁彥、思畫今日之要、塞鬼道淫祀、弘九合之勤、雪天下之恥、則羣生有賴、開泰有期矣」。
時南土之士未盡才用、榮又言、「陸士光貞正清貴、金玉其質。甘季思忠款盡誠、膽幹殊快。殷慶元質略有明規、文武可施用。榮族兄公讓明亮守節、困不易操。會稽楊彥明・謝行言皆服膺儒教、足為公望。賀生沈潛、青雲之士。陶恭兄弟才幹雖少、實事極佳。凡此諸人、皆南金也」。書奏、皆納之。
六年、卒官。帝臨喪盡哀、欲表贈榮、依齊王功臣格。吳郡內史殷祐牋曰、
「昔賊臣陳敏憑寵藉權、滔天作亂、兄弟姻婭盤固州郡、威逼士庶以為臣僕、于時賢愚計無所出。故散騎常侍・安東軍司・嘉興伯顧榮經德體道、謀猷弘遠、忠貞之節、在困彌厲。崎嶇艱險之中、逼迫姦逆之下、每惟社稷、發憤慷愾。密結腹心、同謀致討。信著羣士、名冠東夏、德聲所振、莫不響應、荷戈駿奔、其會如林。榮躬當矢石、為眾率先、忠義奮發、忘家為國、歷年逋寇、一朝土崩、兵不血刃、蕩平六州、勳茂上代、義彰天下。
伏聞論功依故大司馬齊王格、不在帷幕密謀參議之例、下附州征野戰之比、不得進爵拓土、賜拜子弟、遐邇同歎、江表失望。齊王親則近屬、位為方嶽、杖節握兵、都督近畿、外有五國之援、內有宗室之助、稱兵彌時、役連天下、元功雖建、所喪亦多。榮眾無一旅、任非藩翰、孤絕江外、王命不通、臨危獨斷、以身徇國、官無一金之費、人無終朝之勞。元惡既殄、高尚成功、封閉倉廩、以俟大軍、故國安物阜、以義成俗、今日匡霸事舉、未必不由此而隆也。方之於齊、強弱不同、優劣亦異。至於齊府參佐、扶義助強、非創謀之主、皆錫珪受瑞、或公或侯。榮首建密謀、為方面盟主、功高元帥、賞卑下佐、上虧經國紀功之班、下孤忠義授命之士。夫考績幽明、王教所崇、況若榮者、濟難寧國、應天先事、歷觀古今、未有立功若彼、酬報如此者也」。
由是贈榮侍中・驃騎將軍・開府儀同三司、諡曰元。及帝為晉王、追封為公、開國、食邑。
榮素好琴、及卒、家人常置琴於靈座。吳郡張翰哭之慟、既而上牀鼓琴數曲、撫琴而歎曰、「顧彥先復能賞此不」。因又慟哭、不弔喪主而去。子毗嗣、官至散騎侍郎。

訓読

顧榮 字は彥先、吳國吳の人にして、南土の著姓為り。祖の雍は、吳の丞相なり。父の穆は、宜都太守なり。榮 機神朗悟にして、弱冠にして吳に仕へ、黃門侍郎・太子輔義都尉と為る。吳 平らぐや、陸機兄弟と與に同に洛に入り、時人 號して「三俊」と為す。例をもて拜して郎中と為り、尚書郎・太子中舍人・廷尉正を歷す。恒に酒を縱にして酣暢し、友人の張翰に謂ひて曰く、「惟だ酒のみあれば以て憂を忘る可し、但だ病を作すが如きは何んともする無きなり」と。
會々趙王倫 淮南王允を誅し、允の僚屬を收へて廷尉に付し、皆 之を誅せんと欲す。榮 心を平らかにして處當し、全宥する所多し。倫 篡位するに及び、倫の子の虔 大將軍と為り、榮を以て長史と為す。初め、榮 同僚と宴飲し、炙を執る者 貌狀不凡にして、炙を欲するの色有るを見て、榮 炙を割きて之を啗しむ。坐する者 其の故を問ふに、榮曰く、「豈に終日 之を執りて其の味を知らざるもの有らんや」と。倫 敗るるに及び、榮 執へられ、將に誅せられんとするに、而れども炙を執る者 督率と為りて、遂に之を救ひ、免るるを得たり。
齊王冏 召して大司馬主簿と為す。冏 擅權し驕恣なりて、榮 禍ひ及ぶを懼れ、終日に昏酣し、府事を綜せず、情を以て友人の長樂の馮熊に告ぐ。熊 冏の長史の葛旟に謂ひて曰く、「顧榮を以て主簿と為すは、才望を甄拔し、委ぬるに事機を以てする所以なり。復た南北親疏を計らず、海內の心を平せんと欲するなり。今 府は大にして事は殷なり、酒客の政に非ず」と。旟曰く、「榮は江南の望士なり、且つ職に居りて日は淺く、宜しく輕々しく之に代易すべからず」と。熊曰く、「轉じて中書侍郎と為す可し。榮 清顯を失はず、而れども府 更に實才を收めん」と。旟 之を然りとし、冏を白し、以て中書侍郎と為す。職に在りて復た飲酒せず。人 或いは之に問ひて曰く、「何ぞ前に醉ひて後に醒むるや」と。榮 罪を懼れ、乃ち復た更に飲す。州里の楊彥明に書を與へて曰く、「吾 齊王の主簿と為り、恒に禍ひ及ぶを慮り、刀と繩とを見れば、每に自殺せんと欲す。但だ人 知らざるのみ」と。冏 誅せらるるに及び、榮 葛旟を討つ功を以て、嘉興伯に封ぜられ、太子中庶子に轉ず。
長沙王乂 驃騎と為るや、復た榮を以て長史と為す。乂 敗るるや、成都王穎の丞相從事中郎に轉ず。惠帝 臨漳に幸するや、榮を以て侍中を兼ねしめ、遣はして園陵に行かしむ。會々張方 洛に據り、進むを得ず、之を陳留に避く。帝 長安に西遷するに及び、徵して散騎常侍と為り、世 亂るるを以て應ぜず、遂に吳に還る。東海王越 兵を徐州に聚め、榮を以て軍諮祭酒と為す。
廣陵相の陳敏 反するに屬ひ、南して渡江し、揚州刺史の劉機・丹楊內史の王曠を逐ひ、兵を阻みて州に據り、子弟を分置して列郡と為し、收めて豪桀を禮し、孫氏 鼎峙するの計有り。榮に右將軍・丹楊內史を假す。榮 數々危亡の際を踐み、恒に恭遜を以て自ら勉む。會々敏 諸々の士人を誅せんと欲するに、榮 之に說きて曰く、「中國 喪亂し、胡夷 內侮す。太傅を觀るに今日 華夏を復振する不はず、百姓 復た遺種する無し。江南 石冰の寇有りと雖も、人物 尚ほ全し。榮 常に竇氏・孫・劉の策無きを憂ひて、以て之を存する有るのみ。今 將軍 神武の略を懷き、孫吳の能有り、功勳 已に著たるに效あり、勇略 當世に冠し、帶甲數萬、舳艫山積なり。上方 數州有りと雖も、亦た檄を傳へて定む可きなり。若し能く君子に委信して、各々懷を盡くすを得しめ、蔕芥の恨を散じ、讒諂の口を塞がば、則ち大事 圖む可きなり」と。敏 其の言を納れ、悉く諸豪族を引きて之に委任す。敏 仍りて甘卓を遣はして橫江に出でしめ、甲を堅くし器を利とし、盡く以て之を委ぬ。榮 卓に私して曰く、「若し江東の事 濟ふ可ければ、當に共に之を成すべし。然れども卿 事勢 當に濟理有るや不(いな)やを觀よ。敏 既に常才にして、本より大略無く、政令は反覆し、計は定まる所無し。然して其の子弟 各々已に驕矜し、其れ敗るること必ならん。而れども吾ら安然として其の官祿を受け、事 敗るるの日に、江西の諸軍をして首を函して洛に送らしめ、題して曰く逆賊の顧榮・甘卓の首なりと。豈に惟だ一身のみ顛覆するのみや、辱 萬世に及び、之を圖らざる可からず」と。卓 之に從ふ。明年に、周玘 榮と甘卓・紀瞻と與に潛かに起兵して敏を攻むるを謀る。榮 橋を廢し舟を南岸に斂め、敏 萬餘人を率ゐて出づるも、濟(わた)るを獲ず、榮 麾するに羽扇を以てし、其の眾 潰散す。事 平らぎ、吳に還る。永嘉の初に、徵して侍中を拜し、行きて彭城に至り、禍難 方に作らんとするを見て、遂に輕舟もて還る。語は紀瞻傳に在り。
元帝 江東に鎮するや、榮を以て軍司と為し、散騎常侍を加ふ。凡そ謀畫する所、皆 以て焉に諮る。榮 既に南州の望士にして、躬は右職に處り、朝野 甚だ之を推敬す。時に帝 幸する所の鄭貴嬪 疾有り、祈禱を以て頗る萬機を廢す。榮 牋を上して諫めて曰く、「昔 文王の父子兄弟は乃ち三聖有り、窮理する者と謂ふ可きなり。而れども文王 日昃に食らふに暇あらず、周公 一たび沐すれば三たび髮を握るは、何ぞや。誠に以へらく一日の萬機、理めざる可からず。一言の蹉跌、患ひ必ず之に及ぶが故なり。當今 衰季の末にして、亂離の運に屬ひ、而も天子 流播し、豺狼 路を塞ぐ。公 宜しく露營して野次し、星みて言(ここ)に夙に駕せ。軾に怒蛙を伏せて以て勇士を募り、膽を庭に懸けて以て辛苦を表す。貴嬪 未だ安からず、藥石 實に急なり。禱祀の事、誠に復た修む可し。豈に便ち參佐の白事を塞ぎ、賓客の問訊を斷つ有らんや。今 強賊 境に臨み、流言 國に滿ち、人心の萬端、去就 紛紜たり。願はくは沖虛にして下を納れ、廣く儁彥を延き、今日の要を畫り、鬼道の淫祀を塞ぎ、九合の勤を弘くし、天下の恥を雪ぐことを思へ。則ち羣生 賴ること有り、開泰 期有らん」と。
時に南土の士 未だ盡くは才用せず、榮 又 言はく、「陸士光は貞正清貴にして、其の質を金玉にす。甘季思は忠款盡誠にして、膽幹 殊に快なり。殷慶元は質略にして明規有り、文武 施用す可し。榮の族兄の公讓は明亮守節にして、困するとも操を易えず。會稽の楊彥明・謝行言は皆 儒教を服膺し、公望と為るに足る。賀生は沈潛にして、青雲の士なり。陶恭の兄弟は才幹 少なしと雖も、實事 極めて佳し。凡そ此の諸人、皆 南の金なり」と。書 奏せられ、皆 之を納る。
六年、官に卒す。帝 喪に臨みて哀を盡し、表して榮に贈らんと欲し、齊王の功臣の格に依る。吳郡內史の殷祐 牋して曰く、
「昔 賊臣の陳敏 寵に憑り權に藉り、滔天して亂を作し、兄弟姻婭 固に州郡に盤し、士庶に威逼して以て臣僕と為す。時に于て賢愚 計は出づる所無し。故の散騎常侍・安東軍司・嘉興伯の顧榮 德を經にし道を體し、謀猷 弘遠にして、忠貞の節、困に在りて彌々厲し。艱險の中に崎嶇し、姦逆の下に逼迫し、每に社稷を惟ひて、發憤し慷愾す。密かに腹心に結び、同に討を致すを謀る。信は羣士に著はれ、名は東夏に冠し、德聲 振ふ所、響應せざる莫く、戈を荷ひて駿く奔り、其れ會すること林の如し。榮 躬ら矢石に當たり、眾の為に率先し、忠義 奮發し、家を忘れ國の為にす。歷年に逋寇し、一朝に土崩す。兵は刃を血ぬらず、六州を蕩平し、勳 上代に茂なりて、義 天下に彰はる。
伏して聞くに論功 故の大司馬齊王の格に依ると。帷幕密謀參議の例に在ず、下は州征野戰の比に附けて、爵を進め土を拓き、拜を子弟に賜はるを得ず。遐邇 同に歎き、江表 失望す。齊王の親は則ち近屬にして、位は方嶽と為り、節を杖き兵を握り、近畿を都督し、外に五國の援有り、內に宗室の助有り、兵を稱(あ)げて時に彌し、役は天下に連なる。元功 建つと雖も、喪ふ所も亦た多し。榮の眾 一旅すら無く、藩翰に非ざるを任じ、江外に孤絕し、王命 通ぜず。危に臨みて獨斷し、身を以て國に徇じ、官は一金の費無く、人は終朝の勞無し。元惡 既に殄び、高尚 功を成すや、倉廩を封閉して、以て大軍を俟つ。故に國は安く物は阜く、義を以て俗を成す。今日 匡霸事舉、未だ必ず此に由らずんば隆からず。之を齊に方ぶるに、強弱 同じからず、優劣 亦た異なり。齊府の參佐に至りては、義を扶け強を助くるに、創謀の主に非ざるも、皆 珪を錫ひ瑞を受け、或いは公たり或いは侯たり。榮 首として密謀を建て、方面の盟主と為る。功は元帥よりも高く、賞は下佐よりも卑し。上は經國紀功の班を虧き、下は忠義授命の士に孤(そむ)く。夫れ考績 幽明なるは、王教の崇ぶ所なり、況んや榮の若き者は、難を濟ひ國を寧んず。天に應じ事に先だつ。古今を歷觀するに、未だ功を立つること彼の若くなるも、酬報 此の如き者有らざるなり」と。
是に由り榮に侍中・驃騎將軍・開府儀同三司を贈り、諡して元と曰ふ。帝 晉王と為るに及び、追封して公と為し、開國、食邑あり。
榮 素より琴を好み、卒するに及び、家人 常に琴を靈座に置く。吳郡の張翰 之に哭して慟し、既にして牀に上して鼓琴すること數曲、琴を撫して歎じて曰く、「顧彥先 復た能く此を賞するや不や」と。因りて又 慟哭し、喪主を弔はずして去る。子の毗 嗣ぎ、官は散騎侍郎に至る。

現代語訳

顧栄は字を彦先といい、呉国呉県の人で、南方の著姓(名門)であった。祖父の顧雍は孫呉の丞相であった。父の顧穆は宜都太守であった。顧栄は聡明で理解が早く、弱冠のときに孫呉に仕え、黄門侍郎・太子輔義都尉となった。呉が平定されると、陸機(と陸雲)の兄弟らと共に洛陽に入り、当時の人々は彼らを「三俊」と呼んだ。慣例により郎中に任命されて拝し、尚書郎・太子中舎人・廷尉正を歴任した。いつも酒にふけり、酔って気持ちよくなり、友人の張翰に、「ただ酒さえあれば憂いを忘れることができる。だが病気になることはどうにもならない」と語った。
そのころ趙王倫(司馬倫)が淮南王允(司馬允)を誅殺し、司馬允の部下を逮捕して廷尉に送り、みな処刑しようとした。顧栄は(廷尉正として)通常通り職務を処理し(司馬倫に媚びず)、多くの人員を無罪とした。司馬倫が帝位を簒奪し、司馬倫の子の司馬虔が大将軍になると、顧栄を長史とした。これよりさき、顧栄は同僚と酒宴をしたとき、肉を炙っているひとの容貌が只者でなく、食べたそうにしているのを見て、顧栄は肉を切り分けて食わせた。同席者が理由を問うと、「(仕事として)一日中焼いているのに、その肉の味を知らないのはあんまりだ」と言った。司馬倫が敗れると、顧栄は捕らえられ、処刑されそうになったが、かつて肉を与えた者が督率となっており、顧栄を救ったので、死なずに済んだ。
斉王冏(司馬冏)に辟召されて大司馬主簿となった。司馬冏は権力をほしいままにし、驕慢であったので、顧栄は災禍が及ぶことを恐れ、終日酒に溺れ、大司馬府の職務をせず、思いを友人の長楽の馮熊に告げた。馮熊は司馬冏の長史葛旟に、「顧栄を主簿にしたのは、才能と名望を見出し、職務の中枢を任せるためだ。(旧呉の)南方出身者でも差別せず、南北を融和させるためだ。いま大司馬府は規模が大きく仕事が多く、酔っ払いに務まらない」と言った。葛旟は、「顧栄は江南の名士であり、職に就いて日が浅いので、軽々しく交代させてはならない」と言った。馮熊は、「顧栄を中書侍郎に転任させるのがよい。顧栄の名望を傷つけず、大司馬府は実務能力のある者を採ればよい」と言った。葛旟は賛成し、司馬冏に提案し、顧栄を中書侍郎とした。顧栄は着任すると酒を飲むのを辞めた。ある人が、「なぜ前は泥酔していたのに今は素面なのか」と質問した。顧栄は罪を恐れて、飲酒を再開した。同州の楊彦明に書簡を書いて、「私が斉王(司馬冏)の主簿となってから、常に禍が及ぶのを心配し、刀や縄を見るたび、自殺したいと思った。ただ人が(わが本心を)知らぬだけだ」と書いた。のち司馬冏が誅殺されると、顧栄は葛旟討伐の功があったので、嘉興伯に封ぜられ、太子中庶子に転じた。
長沙王乂(司馬乂)が驃騎将軍となると、顧栄を長史とした。司馬乂が敗れると、成都王穎(司馬穎)の丞相従事中郎に転じた。恵帝が臨漳に行幸すると、顧栄に侍中を兼任させ、園陵の祭祀のために派遣した。このとき張方が洛陽を占拠しており、進むことができず、陳留に退避した。恵帝が長安に西遷すると、徴召して散騎常侍とされたが、政情が乱れていたため応ぜず、(故郷の)呉県に帰ってしまった。東海王越(司馬越)が徐州で兵を集めると、顧栄を軍諮祭酒とした。
広陵相の陳敏は反乱して、南に渡江し、揚州刺史の劉機・丹楊内史の王曠を追放し、武力で州城を占拠し、子弟を各郡に配置して統治し、豪族を集めて礼遇し、(三国呉の)孫氏のように鼎立の一勢力になろうとした。(陳敏は)顧栄に右将軍・丹楊内史を仮した。顧栄はしばしば死地に立たされながら、つねに恭順をもって自ら努めた。陳敏が士人たちを誅殺しようとしたとき、顧栄は陳敏を諫めて、「中原は戦乱で疲弊し、胡族が侵入している。太傅(司馬越)では中原を回復できないので、万民は絶滅するでしょう。江南に石冰集団の賊がいるが、人材はなお健在だ。私は竇氏(竇融か)・孫氏・劉氏のような策を出せないことをつねに憂い、士人たちを生存させたいと思ってきた。いま将軍(陳敏)は、孫子呉子のような兵略があり、功績はすでに明らかで、勇略は当世随一で、武装した兵は数万がおり、軍船は大量にある。(石冰の勢力圏の)長江上流の数州も、檄文を送れば平定できる。もし君子を信任し、それぞれが本懐を尽くし、小さな怨みを忘れ、讒言を塞ぐことができれば、大事を図ることができる」と述べた。陳敏はこれを採用し(士人の誅殺を中止し)、豪族を招いて任用した。陳敏は甘卓を横江に出撃させ、防具と武器を預け、すべて甘卓に任せた。顧栄はひそかに甘卓に、「まだ江東に救済の可能性があるならば、一緒にやろう。あなたには事勢の成否をよく見てほしい。陳敏は平凡な才能で、大略に欠け、政令は破れ、計画が定まらない。しかも子弟が驕り高ぶり、失敗は確定的だ。われらは安穏と(陳敏から)官禄を得ているが、陳敏が敗れた場合、江西の諸軍はわれらの首を斬って箱に入れ、逆賊の顧栄・甘卓の首と書いて洛陽へ送るだろう。一身の破滅に止まらず、恥辱は万世に及ぶ。よくよく考えねばならない」と言った。甘卓は従った。翌年、周玘が顧栄と甘卓・紀瞻とひそかに兵を挙げ、陳敏討伐の計画を立てた。顧栄が橋を壊して舟を南岸に寄せたため、陳敏が一万あまりの兵を率いていても、渡河できず、顧栄が羽扇を振るって指揮し、陳敏の軍は潰走した。陳敏の乱が平定され、顧栄は呉県に帰った。永嘉年間の初め、徴召されて侍中を拝し、彭城に赴いたが、災禍が起こりそうなのを見て、軽舟で帰郷した。このことは紀瞻伝に見える。
元帝が江東に出鎮すると、顧栄を軍司とし、散騎常侍を加えた。軍略や政務の全般は、顧栄に諮問した。顧栄は南州の名士で、要職にあり、朝野から大いに尊敬を集めた。このころ元帝が寵愛する鄭貴嬪が病み、祈祷のために政務が遅滞した。顧栄は上表して諫め、「むかし文王の父子兄弟は三聖であり、理をきわめた明君でした。しかし文王は日が暮れるまで食事する暇がなく、周公は一度の入浴で三度髪を握ったのは、なぜでしょうか。当日の政務は、翌日に持ち越してはならず、一言の過ちは、必ず災いを招くからです。いまは王朝が衰微し、天下が乱れ、天子は都を離れ、賊が道を塞いでいます。公(元帝)は(天子の苦労を慮って)城外に出て野営し、星が出ている早朝から働き始めるべきです。怒蛙を伏せて勇士を募り、胆を吊して辛労を示すべきです。貴嬪の体調がすぐれず、治療は急務ですし、祈祷に励むのも悪くはありません。しかし補佐官の報告を聞かず、賓客の来訪を断つことは、貴嬪の病気とは別問題です。強賊が領内におり、流言が国中に満ち、人々の心は、揺れ動いて(晋朝から離れて)います。どうか虚心に下士を受け入れ、俊才を広く招き、今日の急務を計り、邪祠の祈祷に没頭せず、政治に務めて、天下の恥辱を雪ぐことを優先しなさい。そうすれば万民は救われ、泰平が望めるでしょう」と言った。
このとき南方(現地揚州)の人士があまり用いられていなかった。顧栄は、「陸士光(陸曄)は貞正清廉で、品格は金や玉のようです。甘季思(甘卓)は忠誠で篤く、胆力が抜群です。殷慶元は質朴で明確な基準を持ち、文武ともに役立ちます。わが族兄の公譲は明敏にして、困窮しても節を曲げません。会稽の楊彦明・謝行言はともに儒教をよく学び、三公すら務まるでしょう。賀生は慎重ですが、志が高い人物です。陶恭の兄弟は人物として劣るかも知れませんが、実務を得意とします。彼らは、みな南方の金(宝)です」と言った。顧栄の書は元帝に提出され、すべて採用された。
永嘉六年、顧栄は在官で亡くなった。元帝は喪に臨んで深く哀しみ、斉王(司馬冏)の功臣の前例に基づいて、追贈しようとした。呉郡内史の殷祐が上奏し、
「むかし逆臣の陳敏が地位と権勢に乗じ、天を揺るがすような乱を起こし、兄弟や姻戚を任命して州郡に配置し、士庶を威圧して臣従させました。当時は賢者も愚者も方策が出せませんでした。しかし故散騎常侍・安東軍司・嘉興伯の顧栄だけは徳と道を備え、謀略は遠大で、彼の忠節の強さは、困難のなかで磨かれました。艱難にあっても奔走し、逆徒のもとで圧迫されても、つねに社稷を思い、発憤して慷慨し、密かに同志と結び、ともに陳敏討伐を計画しました。信義は士人に知られ、名声は東方に響き、顧栄の声に呼応しない者はなく、武器を携えて駆けつけ、味方は林のように増えました。顧栄は自ら戦場に立ち、兵士のために前に出て、忠義を奮い起こし、家を忘れて国に尽くしました。長年の暴徒の支配体制は、一朝にして崩壊し、武器は血で穢れることなく、六州は平定されました。勲功は上代に並び、義は天下に示されました。
聞きますに顧栄の論功行賞を大司馬斉王(司馬冏)の功臣の前例に基づくとのこと。しかしこれでは幕僚として国政を支えた顧栄の評価として不十分です。(司馬冏の功臣とすれば)州の野戦で活躍した程度の評価であり、爵位を進めて封土を開くことがなく、子弟への恩恵もありません。遠近ともに嘆き、江表の士は失望しています。斉王(司馬冏)は宗室であり、州牧の地位につき、節を授かり兵権を握り、首都近郊の全権があり、周辺五国から援軍を得られ、朝廷に宗室の味方がいました。挙兵すれば、天下から人員や物資を徴発できました。大きな功績はありますが、費やした人員や物資も多かったのです。顧栄は一旅の軍すら持たず、藩鎮でもなく、長江の南に孤立し、朝廷の命令も届かないところで、たった一人で国に殉じ、公的な費用をまったく使わず、民にまったく労役を負担させませんでした。元凶(陳敏)を滅ぼし、城を奪還した後は、倉庫を密閉して、官軍の到着を待ちました。ゆえに国は安定し物資も豊かで、風俗は正されました。今日の(元帝の)覇業は、顧栄がいなければ不可能でした。これを斉王(司馬冏)と比べれば、当初の強弱も異なり、優劣も違います。斉王府の参佐などは、初めから強い義軍を助けただけで、新たに勢力を立てたわけでもないのに、みな宝玉を賜り、公や侯に封じられました。顧栄は自分が起点となって密謀を立て、揚州の盟主となりました。勲功は元帥(司馬冏)より高いにも係わらず、賞賜は下佐(司馬冏の部下)よりも低い。これでは上は国家の論功の序列を失わせ、下は忠義を尽くした士を裏切ります。論功行賞が明らかであることは、王朝の根幹であり、まして顧栄のように、国家を救い、天に応じて率先した者を軽んじてはなりません。古今を見ますに、彼ほどの功績を立てて、彼ほど褒賞が少ないものは前例がありません」と言った。
そこで顧栄に侍中・驃騎将軍・開府儀同三司が追贈され、元と諡された。元帝が晋王になると、公を追封され、国を開き、食邑を与えられた。
顧栄は琴を好み、彼の死後も、家人はつねに琴を霊座に置いた。呉郡の張翰は顧栄のために慟哭し、床に上がって数曲を演奏し、琴を撫でて、「顧彦先(顧栄)はこれを味わうことができるだろうか」と嘆いた。感極まって慟哭し、喪主に挨拶せず去った。子の顧毗が爵位を嗣ぎ、官は散騎侍郎に至った。

紀瞻

原文

紀瞻字思遠、丹楊秣陵人也。祖亮、吳尚書令。父陟、光祿大夫。瞻少以方直知名。吳平、徙家歷陽郡。察孝廉、不行。後舉秀才。
尚書郎陸機策之曰、「昔三代明王、啟建洪業、文質殊制、而令名一致。然夏人尚忠、忠之弊也朴、救朴莫若敬。殷人革而修焉、敬之弊也鬼、救鬼莫若文。周人矯而變焉、文之弊也薄、救薄則又反之於忠。然則王道之反覆其無一定邪、亦所祖之不同而功業各異也。自無聖王、人散久矣。三代之損益、百姓之變遷、其故可得而聞邪。今將反古以救其弊、明風以蕩其穢、三代之制將何所從。太古之化有何異道」。瞻對曰、「瞻聞有國有家者、皆欲邁化隆政、以康庶績、垂歌億載、永傳于後。然而俗變事弊、得不隨時、雖經聖哲、無以易也。故忠弊質野、敬失多儀。周鑒二王之弊、崇文以辯等差、而流遁者歸薄而無款誠、款誠之薄、則又反之於忠。三代相循、如水濟火、所謂隨時之義、救弊之術也。羲皇簡朴、無為而化。後聖因承、所務或異。非賢聖之不同、世變使之然耳。今大晉闡元、聖功日隮、承天順時、九有一貫、荒服之君、莫不來同。然而大道既往、人變由久、謂當今之政宜去文存朴、以反其本、則兆庶漸化、太和可致也」。
又問、「在昔哲王象事備物、明堂所以崇上帝、清廟所以寧祖考、辟雍所以班禮教、太學所以講藝文、此蓋有國之盛典、為邦之大司。亡秦廢學、制度荒闕。諸儒之論、損益異物。漢氏遺作、居為異事、而蔡邕月令謂之一物。將何所從」。對曰、「周制明堂、所以宗其祖以配上帝、敬恭明祀、永光孝道也。其大數有六。古者聖帝明王南面而聽政、其六則以明堂為主。又其正中、皆云太廟、以順天時、施行法令、宗祀養老、訓學講肄、朝諸侯而選造士、備禮辯物、一教化之由也。故取其宗祀之類、則曰清廟。取其正室之貌、則曰太廟。取其室、則曰太室。取其堂、則曰明堂。取其四門之學、則曰太學。取其周水圜如璧、則曰璧雍。異名同事、其實一也。是以蔡邕謂之一物」。
又問、「庶明亮采、故時雍穆唐。有命既集、而多士隆周。故書稱明良之歌、易貴金蘭之美。此長世所以廢興、有邦所以崇替。夫成功之君勤於求才、立名之士急於招世、理無世不對、而事千載恒背。古之興王何道而如彼。後之衰世何闕而如此」。對曰、「興隆之政務在得賢、清平之化急於拔才、故二八登庸、則百揆序。有亂十人、而天下泰。武丁擢傅巖之徒、周文攜渭濱之士、居之上司、委之國政、故能龍奮天衢、垂勳百代。先王身下白屋、搜揚仄陋、使山無扶蘇之才、野無伐檀之詠。是以化厚物感、神祇來應、翔鳳飄颻、甘露豐墜、醴泉吐液、朱草自生、萬物滋茂、日月重光、和氣四塞、大道以成。序君臣之義、敦父子之親、明夫婦之道、別長幼之宜、自九州、被八荒、海外移心、重譯入貢、頌聲穆穆、南面垂拱也。今貢賢之塗已闓、而教學之務未廣、是以進競之志恒銳、而務學之心不修。若闢四門以延造士、宣五教以明令德、考績殿最、審其優劣、厝之百僚、置之羣司、使調物度宜、節宣國典、必協濟康哉、符契往代、明良來應、金蘭復存也」。
又問、「昔唐虞垂五刑之教、周公明四罪之制、故世歎清問而時歌緝熙。姦宄既殷、法物滋有。叔世崇三辟之文、暴秦加族誅之律、淫刑淪胥、虐濫已甚。漢魏遵承、因而弗革。亦由險泰不同、而救世異術、不得已而用之故也。寬克之中、將何立而可。族誅之法足為永制與不」。對曰、「二儀分則兆庶生、兆庶生則利害作。利害之作、有由而然也。太古之時、化道德之教、賤勇力而貴仁義。仁義貴則強不陵弱、眾不暴寡。三皇結繩而天下泰、非惟象刑緝熙而已也。且太古知法、所以遠獄。及其末、不失有罪、是以獄用彌繁、而人彌暴、法令滋章、盜賊多有。書曰、『惟敬五刑、以成三德。』叔世道衰、既興三辟、而文公之弊、又加族誅、淫刑淪胥、感傷和氣、化染後代、不能變改。故漢祖指麾而六合響應、魏承漢末、因而未革、將以俗變由久、權時之宜也。今四海一統、人思反本、漸尚簡樸、則貪夫不競。尊賢黜否、則不仁者遠。爾則斟參夷之刑、除族誅之律、品物各順其生、緝熙異世而偕也」。
又問曰、「夫五行迭代、陰陽相須、二儀所以陶育、四時所以化生。易稱『在天成象、在地成形』。形象之作、相須之道也。若陰陽不調、則大數不得不否。一氣偏廢、則萬物不得獨成。此應同之至驗、不偏之明證也。今有溫泉而無寒火、其故何也。思聞辯之、以釋不同之理」。對曰、「蓋聞陰陽升降、山澤通氣、初九純卦、潛龍勿用、泉源所託、其溫宜也。若夫水潤下、火炎上、剛柔燥溼、自然之性、故陽動而外、陰靜而內。內性柔弱、以含容為質。外動剛直、以外接為用。是以金水之明內鑒、火日之光外輝、剛施柔受、陽勝陰伏。水之受溫、含容之性也」。
又問曰、「夫窮神知化、才之盡稱。備物致用、功之極目。以之為政、則黃羲之規可踵。以之革亂、則玄古之風可紹。然而唐虞密皇人之闊網、夏殷繁帝者之約法、機心起而日進、淳德往而莫返。豈太樸一離、理不可振、將聖人之道稍有降殺邪」。對曰、「政因時以興、機隨物而動、故聖王究窮通之源、審始終之理、適時之宜、期於濟世。皇代質朴、禍難不作、結繩為信、人知所守。大道既離、智惠擾物、夷險不同、否泰異數、故唐虞密皇人之網、夏殷繁帝者之法、皆廢興有由、輕重以節、此窮神之道、知化之術、隨時之宜、非有降殺也」。

訓読

紀瞻 字は思遠、丹楊秣陵の人なり。祖の亮、吳の尚書令なり。父の陟、光祿大夫なり。瞻 少くして方直を以て名を知らる。吳 平らぐや、家を歷陽郡に徙す。孝廉に察せらるるも、行かず。後に秀才に舉げらる。
尚書郎の陸機 之に策して曰く、「昔 三代の明王、洪業を啟き建て、文質 制を殊にし、而れども令名 一致す。然して夏人は忠を尚び、忠の弊なるは朴なり、朴を救ふは敬に若(し)くは莫し。殷人は革めて焉を修め、敬の弊なるは鬼なり、鬼を救ふは文は若くは莫し。周人は矯めて焉を變へ、文の弊なるは薄なり、薄を救ふは則ち又 之を忠に反すことなり。然らば則ち王道の反覆 其れ一定無く、亦た祖とする所の同じからずして而れば功業 各々異なり。聖王無きより、人 散じて久し。三代の損益、百姓の變遷、其の故に得て聞く可きか。今 將に古に反りて以て其の弊を救ひ、風を明にして以て其の穢を蕩はば、三代の制 將た何か從ふ所あらざる。太古の化 何ぞ道を異にすること有るや」と。瞻 對へて曰く、「瞻 聞くらく國を有(たも)ち家を有つは、皆 化を邁(とほく)くし政を隆くして、以て庶績を康くし、歌を億載に垂れ、永く後に傳へんと欲す。然而れども俗は變はり事は弊れ、時に隨はざるを得んや。經と聖哲と雖も、以て易ふる無きなり。故に忠は質野に弊し、敬は多儀に失ふ。周 二王の弊を鑒とし、文を崇くして以て等差を辯じ、而して流遁する者 薄に歸して款誠無く、款誠の薄きは、則ち又 之を忠に反す。三代 相 循すること、水の火を濟するが如くして、所謂 時に隨ふの義、弊を救ふの術なり。羲皇 簡朴にして、無為にして化す。後聖 因りて承け、務むる所 或いは異なり。賢聖の同じからざるに非ず、世の變 之を然らしむるのみ。今 大晉 闡元し、聖功 日に隮り、天を承け時に順ひ、九有一貫し、荒服の君、來同せざる莫し。然而れども大道 既に往き、人 變はりて由りて久し。謂へらく當今の政宜 文を去り朴に存すと、以て其の本に反れば、則ち兆庶 漸く化して、太和 致す可きなり」と。
又 問ふ、「在昔 哲王 事を象り物を備ふ。明堂は上帝を崇ぶ所以なり、清廟は祖考を寧んずる所以なり、辟雍は禮教を班(わか)つ所以なり、太學は藝文を講ずる所以なり。此れ蓋し國を有(たも)つの盛典、邦を為(をさ)むるの大司なり。亡秦 學を廢し、制度 荒闕す。諸儒の論ずらく、損益 物を異にすと。漢氏の遺作も、居為 事を異にすと。而して蔡邕が月令に之を一物と謂ふ。將た何れにか從ふ所ならん」と。對へて曰く、「周 明堂を制むるは、其の祖を宗として以て上帝に配し、敬して明祀を恭し、永く孝道を光かす所以なり。其の大數 六有り。古者の聖帝・明王 南面して聽政し、其の六は則ち明堂を以て主と為す。又 其の正中を、皆 太廟と云ひ、以て天時に順ひ、法令を施行し、宗祀して養老し、訓學して講肄し、諸侯を朝せしめて造士を選び、禮を備へ物を辯へ、教化の由を一にす。故に其の宗祀の類を取りては、則ち清廟と曰ふ。其の正室の貌を取りては、則ち太廟と曰ふ。其の室を取りては、則ち太室と曰ふ。其の堂を取りては、則ち明堂と曰ふ。其の四門の學を取りては、則ち太學と曰ふ。其の周れる水 圜にして璧の如きを取りては、則ち璧雍と曰ふ。名を異にするも事を同じくす、其れ實は一なり。是を以て蔡邕 之を一物と謂ふ」と。
又 問ふ、「庶明 采を亮にす、故に時雍 穆たり。唐 有命 既に集ひ、多士 周を隆んにす。故に書は明良の歌を稱し、易は金蘭の美を貴ぶ。此れ世に長たりて廢興する所以にして、有邦 崇替する所以なり。夫れ成功の君 求才に勤め、立名の士 招世に急なり。理は世として對へざる無く、而して事は千載 恒に背く。古の興王 何の道ありて彼の如くなる。後の衰世 何の闕ありて此の如くなる」と。對へて曰く、「興隆の政務 賢を得るに在り、清平の化 拔才に急たり。故に二八 登庸せらるれば、則ち百揆 序あり。有亂十人にして、天下 泰し。武丁 傅巖の徒を擢し、周文 渭濱の士を攜し、之を上司に居き、之に國政を委ぬ。故に能く天衢に龍奮して、勳を百代に垂る。先王 身ら白屋に下りて、仄陋を搜揚し、山をして扶蘇の才無からしめ、野をして伐檀の詠無からしむ。是を以て化は厚く物は感じ、神祇 來應し、翔鳳 飄颻し、甘露 豐かに墜し、醴泉 液を吐き、朱草 自づから生じ、萬物 滋々茂んにして、日月 光を重ね、和氣 四に塞がり、大道 以て成る。君臣の義を序ぢ、父子の親を敦くし、夫婦の道を明らかにし、長幼の宜を別くれば、九州より、八荒を被ひ、海外 心を移し、重譯して入貢し、頌聲 穆穆たりて、南面して垂拱せん。今 貢賢の塗 已に闓(ひら)くも、教學の務 未だ廣からず。是を以て進競の志 恒に銳く、務學の心 修めず。若し四門を闢きて以て造士を延き、五教を宣して以て令德を明らかにし、績を考へ殿最し、其の優劣を審らかにし、之を百僚に厝き、之を羣司に置き、物を調へ宜を度し、國典を節宣せしむれば、必ず康哉を協濟して、往代に符契し、明良 來應し、金蘭 復た存するなり」と。
又 問ふ、「昔 唐虞 五刑の教を垂れ、周公 四罪の制を明らかにす、故に世は清問を歎きて時は緝熙を歌ふ。姦宄 既に殷んにして、法物 滋々有り。叔世 三辟の文を崇び、暴秦 族誅の律を加ふ。淫刑 淪胥にして、虐濫 已に甚だし。漢魏 遵承し、因りて革めず。亦た險泰 同じからざるに由りて、世を救ふに術を異にす。已むを得ずして之を用ふるが故なり。寬克の中、將た何ぞ立ちて可ならん。族誅の法 永制と為する足るや不や」と。對へて曰く、「二儀 分かるれば則ち兆庶 生じ、兆庶 生ずれば則ち利害 作る。利害の作るや、由有りて然るなり。太古の時、道德の教に化し、勇力を賤みて仁義を貴ぶ。仁義 貴べば則ち強きは弱きを陵がず、眾きは寡なきを暴せず。三皇 繩を結ひて天下 泰きは、惟だ象刑 緝熙なるのみに非ざるなり。且つ太古 法を知るは、獄を遠ざくる所以なり。其の末に及び、有罪を失はず。是を以て獄用 彌々繁く、而して人 彌々暴なり。法令 滋々章らかにして、盜賊 多く有り。書に曰く、『惟れ五刑を敬みて、以て三德を成す』と。叔世に道 衰ふるに、既に三辟を興し、文公の弊に、又 族誅を加へ、淫刑 淪胥して、和氣を感傷し、後代を化染し、變改する能はず。故に漢祖 麾を指して六合 響應し、魏 漢末を承け、因りて未だ革めず。將に以へらく俗 變はりて由ること久しきは、權時の宜なり。今 四海 一統せられ、人思 本に反り、漸く簡樸を尚べば、則ち貪夫 競はず。賢を尊し否を黜くれば、則ち不仁なる者 遠し。爾らば則ち參夷の刑を斟し、族誅の律を除き、品物 各々其の生に順ひ、緝熙 世を異にするも偕ならん」と。
又 問ひて曰く、「夫れ五行 迭代し、陰陽 相須す。二儀の陶育する所以にして、四時の化生する所以なり。易に稱すらく、『天に在りては象を成し、地に在りては形を成す』と。形象の作るは、相須の道なり。若し陰陽 調はざれば、則ち大數 否からざるを得ず。一氣 偏に廢すれば、則ち萬物 獨り成ることを得ず。此れ應同の至驗にして、不偏の明證なり。今 溫き泉有りて寒き火無く、其の故は何ぞや。之を辯ずるを聞かんと思ふに、以て不同の理を釋せ」と。對へて曰く、「蓋し聞くらく陰陽 升降して、山澤 氣を通ずるは、初九の純卦にして、潛龍 用ふる勿しといふ。泉源の託る所、其れ溫にして宜なり。若し夫れ水は潤下し、火は炎上す。剛柔・燥溼は、自然の性なり。故に陽は動きて外なり、陰 靜にして內なり。內の性は柔弱にして、含容を以て質と為す。外動 剛直にして、外接を以て用と為す。是を以て金水の明らかなる內に鑒し、火日の光ある外に輝き、剛は施し柔は受け、陽は勝り陰は伏す。水の溫を受くるは、含容の性なり」と。
又 問ひて曰く、「夫れ神を窮め化を知れば、才の盡稱なり。物を備へ用を致すは、功の極目なり。之を以て政を為せば、則ち黃羲の規 踵む可し。之を以て亂を革むれば、則ち玄古の風 紹ぐ可し。然而れども唐虞 皇人の闊網より密にして、夏殷 帝者の約法より繁し。機心 起ちて日ごとに進み、淳德 往きて返ること莫し。豈に太樸 一たび離して、理 振ふ可からず、將た聖人の道 稍く降殺有るか」と。對へて曰く、「政は時に因りて以て興り、機は物に隨ひて而て動く。故に聖王 窮通の源を究め、始終の理を審らかにす。適時の宜、世を濟ふことに期す。皇代 質朴なれば、禍難 作こらず、結繩して信と為さば、人 守る所を知る。大道 既に離れ、智惠 物を擾し、夷險 同じからず、否泰 數を異にす。故に唐虞 皇人の網を密にし、夏殷 帝者の法を繁くす。皆 廢興に由有り、輕重 以て節す。此れ窮神の道にして、知化の術なり。隨時の宜、降殺有るに非ざるなり」と。

現代語訳

紀瞻は字を思遠という。丹陽郡秣陵の人。祖父の紀亮は呉の尚書令である。父の紀陟は光禄大夫であった。紀瞻は若いころから正直さで知られた。呉が平定されると、一族は歴陽郡に移住した。紀瞻は孝廉に推挙されたが、行かなかった。後に秀才に推挙された。
尚書郎の陸機が問題提起して、「むかし三代(夏殷周)の明君は、偉大な事業を開き、質と文(質朴と文飾)に違いはあったが、名声は等しい。夏王朝は忠を尊んだが、忠が行き過ぎると朴訥になる。朴訥の短所は、敬で解消できる。殷王朝は敬を尊んだが、敬が行き過ぎると神秘性を帯びる。神秘性の短所は、文(礼教)で解消できる。周王朝は文を尊んだが、文が行き過ぎると表面的になる。表面的の短所は、忠に立ち返れば解消できる。このように王道は循環し、尊ぶ基準が変わり、功業に違いが生じる。聖王がいなくなり、人々は離散して久しい。三代の変化、万民の変遷は、分からなくなった。今日(西晋で)古に立ち返って短所を解消し、風俗を明らかにして弊害を除くならば、三代のどれを手本にするべきか。太古の政治に基づくとしても方法は一つではあるまい」と言った。紀瞻は返答した。「聞きますに、国を保ち家を守るには、教化を広め、政治を盛んにし、民政を成功させることが大事で、後世に歌われ、永く伝えられていきます。しかし風俗は移り変わり、時代の変化に応じざるを得ません。経書や聖人の教えでも、変化そのものを抑止できません。ですから忠が過ぎれば朴訥となり、敬が過ぎれば本質を失います。周王朝は夏と殷の弊害を見て、文(礼教)を尊んで秩序を明確にしましたが、時が下ると表面的になって本旨が失われ、本旨が失われれば、(陸機が言うように)忠に回帰します。三代の制度の循環は、水と火が依存して成り立つようなもので、時代に応じて弊害を解消する方法として有効です。羲皇(伏羲)の時代は質朴で、無為の政治をしました。以後の聖人の後継者は、異なる方法を用いました。賢聖のあり方が変わったのではなく、時代に合わせて方法を変えただけです。いま大晋帝国が創業し、聖なる功績は日々高まり、天の時に従い、全域を統一し、遠方の異民族も、みな帰服しています。しかし古の大道が失われ、人民が劣化して久しい。今日の政治は、文飾を去って質朴を目指すのがよく、この根本に立ち返れば、万民は強化され、太平の世が実現するでしょう」と言った。
陸機の問い。「むかし賢明な王は、形式を決めて制度を定めた。明堂は上帝を尊崇するもの、清廟は祖先を安んじ祀るもの、辟雍は礼と教えを広めるもの、太学は学芸を講じるものである。いずれも国を保つための重大な典礼であり、統治の中枢となる機関である。秦が学問を破壊し、制度が廃れて失われた。諸儒の議論では、制度は増減して変化するという。漢代の遺制も、用途や役割が異なるという。しかし蔡邕は月令で、これらは一つだとした。どれに従うべきか」と。紀瞻の回答。「周が明堂を制定したのは、祖先を宗として上帝に配し、敬って明祀を行い、永く孝道を輝かせるためでした。その重要な役割は六つあります。古の聖帝や明王は南面して政治をとり、六つの政務はいずれも明堂で行われました。その中心は、いずれも太廟と呼ばれ、天時(季節)に従い、法令を施行し、祖先を祀り老人を養い、教育を行い講習し、諸侯を朝見して人材を選抜し、礼を整え事物を区別し、教化の根源を一にしました。ゆえに祖先祭祀の側面からは、清廟と呼び、正室の構えからは、太廟と呼び、室に注目すれば、太室と呼び、堂に注目すれば、明堂と呼び、四門に設けられた学に注目すれば、太学と呼び、周囲をめぐる水が璧のように丸い点からは、璧雍と呼びました。名称は異なりますが同じ物を指し、実態は一つです。だから蔡邕はこれを一つのものと言いました」と。
陸機の問い。「賢明な人材が才能を発揮して、世は和やかに治まる。唐尭に天命が下り、人材が周王朝を盛り立てた。ゆえに『尚書』は明君と良臣を讃え、『易経』(繋辞上伝)は金蘭の交わりを尊ぶ。人材登用こそ国家が興廃する理由であり、盛衰する理由でもある。実績をあげたい君主は人材を求め、名を立てたい臣下は登用されることを望む。これはどの時代も共通なのに、実際には千年を経ても君臣が噛み合わない。古の興隆した帝王はなぜ人材登用に成功したのか。のちの衰退した帝王はなぜ人材登用に失敗したのか」と。紀瞻の回答。「国家の興隆は賢人の獲得により決まり、清らかで安定した教化は才能の抜擢によって実現します。ですから二八(八元八凱、十六人)の賢臣を登用すれば、政務は安定し、有乱(治臣)が十人いれば、天下は安泰です。殷の武丁は傅巌(傅説)を抜擢し、周の文王は渭水のほとりで人材(太公望)を迎え、上位の官におき、国政を委ねました。そのため天の道は龍のように奮い、功績を百代に遺しました。先王は質素な家で、身分の低い者を探し、山に扶蘇の才を残さず(『詩経』鄭風)、野に伐檀の嘆き(『詩経』魏風)を生じませんでした。こうして教化は行き渡り、万物は感応し、鳳凰が舞い、甘露が降り、醴泉は湧き、朱草が生じ、すべてが繁茂し、日月は光を重ね、調和の気は四方に満ち、大道が成就しました。君臣の義は秩序があり、父子の親愛は厚く、夫婦の道は明らかで、長幼の分が区別されれば、九州から八荒まで、海外の民も心を寄せ、翻訳を重ねて入貢し、賛歌の声は満ち、君主は南面して政務を委任できます。いま賢人を推薦する道は開かれていますが、教育と学問が不十分です。そのため昇進競争の志ばかりが鋭く、学問が励行されません。もし四方の門を開いて人材を招き、五教を広めて徳を明らかにし、実績を査定して、優劣を正しく捉え、百官に配置し、物事を調整して適正化し、国家の制度を整えれば、必ずともに安泰を実現し、過去の盛世に符合し、(『尚書』のように)明君と良臣が呼応し、(『易経』のように)金蘭の交わりも復活するでしょう」と。
陸機の問い。「むかし唐虞(尭舜)は五刑の教だけを示し、周公は四罪の制だけを明らかにした。ゆえに世は清い評判を称え、時は光明を歌った。だが奸悪な者が盛んになると、法制度は増えていった。後の時代には三辟の刑が尊ばれ、暴秦は族誅の律を加えた。過酷な刑罰が広まり、虐政は甚だしい。漢魏はこれを受け継ぎ、改めなかった。緊迫の度合いが異なるため、世を救う方法も異なり、やむを得ず刑罰を用いたのである。寛容と厳格のあいだは、どこが適正なのか。族誅の法は、永続させるべき制度なのか」と。紀瞻の回答。「天地が分かれて万民が生じ、万民が生じれば利害が生じます。利害が生じるのには、それなりの理由があります。太古の昔、道徳に教化され、勇力を卑しみ仁義を尊びました。仁義が尊ばれれば強者が弱者を侵さず、多数が少数を圧倒しません。三皇が結縄(素朴な規則)で天下を安定させたのは、刑罰が明確だったからではありません。そもそも太古において規則を知るのは、刑罰を遠ざけるためでした。しかし時代が下り、罪の取り締まりが強化されると、刑罰が多く運用され、(規則の本旨に反し)人々は乱暴になりました。法令が明確になるほど、盗賊は増えました。『尚書』に、「五刑を敬い、三徳を成す」とあります。後世に道が衰えると、三辟(夏殷周、三代の刑法)が設けられ、悪逆な秦の文公は、族誅の刑を追加しました。過酷な刑罰が広まり、調和の気を損ない、後代を汚染し、改変できなくなりました。ですから(秦の悪政により)漢の高祖が旗を振るえば、天下が呼応しました。三国魏も漢末の争乱を継承し、刑罰を改めませんでした。これは慣例が定着した結果であり、あくまでも暫定的な措置でした。いまや(西晋は)四海を統一し、人々は本源に立ち返り、質朴を尊べば、貪欲な者は競わなくなります。賢人を尊び悪人を退ければ、不仁な者は遠ざかります。参夷の刑を減らし、族誅の律を除き、万物が生に従い、時代は異なっても古の太平が実現するでしょう」と。
陸機の問い。「五行は交替し、陰陽は表裏一体である。これは天地が万物を育み、四時が生成する理由である。『易』(繫辞上伝)に、「天にあって象を成し、地にあっては形を成す」とある。形と象の発生は、相互の作用である。もし陰陽が調和しなければ、大きな秩序は保てない。一つの気だけでも欠ければ、万物は成り立たない。これが相互に影響しあい、片方に偏らない証拠である。それでは温かい泉はあるが冷たい火がないのは、なぜなのか。この違いが生まれる理由を、説明してほしい」と。紀瞻の回答。「聞きますに、陰陽は上り下りし、山と沢は気を通じます。『易経』(乾卦)初九の純卦に、『潜龍は用いるな』とあります。泉の水源が溜まるのは、温かいところです。水は下に流れ、火は上がります。剛柔と乾湿は自然の性質です。ゆえに陽は動いて外にあり、陰は静で内にあります。内の性質は柔弱で、包容を本質とします。外に動くものは剛直で、外と接する作用があります。このため金や水は内にあって映しこみ、火や日は外にあって光を放ち、剛は施し、柔は受け、陽は勝り、陰は伏します。水が温かさを帯びるのは、包容の性質によります」と。
陸機の質問。「神妙を究め変化を知るのは、才能の極致である。物を備え用を尽くすのは、功績の最終目標である。そのように政治を行えば、黄帝や伏羲の統治を再現でき、そのように混乱を収めれば、太古の風を継げる。しかし唐虞(尭舜)の時代は、先古より法令が細かく、夏殷の時代は、先王よりも法制が煩雑になった。企みの心は日に増し、純朴な徳が戻らない。素朴さが一度失われたら、もはや道理は振るわず、聖人の道は減衰するばかりなのか」と。紀瞻の回答。「政治は時代に応じて行われ、制度は状況に応じて動きます。聖王は根源を究め、始終の理を明らかにしました。時宜に適うことで、世を救うためです。古の質朴な時代には、災いが起こらず、結縄の記録だけで、人は約束を守りました。大いなる道が失われ、小手先の知恵が物事を乱し、険悪さが生まれ、不幸が生じました。ゆえに唐虞(尭舜)は細かい法を作り、夏殷は法を煩雑にしました。いずれも法の増減には理由があり、刑の軽重を調整したものです。これが神妙を究め、変化を知る方法で、時代状況への適応であって、世代が下って衰えたわけではありません(西晋も古の聖王に劣らぬ政治ができます)」と。

原文

永康初、州又舉寒素、大司馬辟東閤祭酒。其年、除鄢陵公國相、不之官。明年、左降松滋侯相。太安中、棄官歸家、與顧榮等共誅陳敏、語在榮傳。
召拜尚書郎、與榮同赴洛、在塗共論易太極。榮曰、「太極者、蓋謂混沌之時曚昧未分、日月含其輝、八卦隱其神、天地混其體、聖人藏其身。然後廓然既變、清濁乃陳、二儀著象、陰陽交泰、萬物始萌、六合闓拓。老子云『有物混成、先天地生』、誠易之太極也。而王氏云『太極天地』、愚謂未當。夫兩儀之謂、以體為稱、則是天地。以氣為名、則名陰陽。今若謂太極為天地、則是天地自生、無生天地者也。老子又云『天地所以能長且久者、以其不自生、故能長久』、『一生二、二生三、三生萬物』、以資始沖氣以為和。原元氣之本、求天地之根、恐宜以此為準也」。瞻曰、「昔庖犧畫八卦、陰陽之理盡矣。文王・仲尼係其遺業、三聖相承、共同一致、稱易準天、無復其餘也。夫天清地平、兩儀交泰、四時推移、日月輝其間、自然之數、雖經諸聖、孰知其始。吾子云『曚昧未分』、豈其然乎。聖人、人也、安得混沌之初能藏其身於未分之內。老氏先天之言、此蓋虛誕之說、非易者之意也。亦謂吾子神通體解、所不應疑。意者直謂太極極盡之稱、言其理極、無復外形。外形既極、而生兩儀。王氏指向可謂近之。古人舉至極以為驗、謂二儀生於此、非復謂有父母。若必有父母、非天地其孰在」。榮遂止。至徐州、聞亂日甚、將不行。會刺史裴盾得東海王越書、若榮等顧望、以軍禮發遣、乃與榮及陸玩等各解船棄車牛、一日一夜行三百里、得還揚州。
元帝為安東將軍、引為軍諮祭酒、轉鎮東長史。帝親幸瞻宅、與之同乘而歸。以討周馥・華軼功、封都鄉侯。石勒入寇、加揚威將軍・都督京口以南至蕪湖諸軍事、以距勒。勒退、除會稽內史。時有詐作大將軍府符收諸暨令、令已受拘、瞻覺其詐、便破檻出之、訊問使者、果伏詐妄。尋遷丞相軍諮祭酒。論討陳敏功、封臨湘縣侯。西臺除侍中、不就。
及長安不守、與王導俱入勸進。帝不許。瞻曰、「陛下性與天道、猶復役機神於史籍、觀古人之成敗、今世事舉目可知、不為難見。二帝失御、宗廟虛廢、神器去晉、于今二載、梓宮未殯、人神失御。陛下膺籙受圖、特天所授。使六合革面、遐荒來庭、宗廟既建、神主復安、億兆向風、殊俗畢至、若列宿之綰北極、百川之歸巨海、而猶欲守匹夫之謙、非所以闡七廟、隆中興也。但國賊宜誅、當以此屈己謝天下耳。而欲逆天時、違人事、失地利、三者一去、雖復傾匡於將來、豈得救祖宗之危急哉。適時之宜萬端、其可綱維大業者、惟理與當。晉祚屯否、理盡於今。促之則得、可以隆中興之祚。縱之則失、所以資姦寇之權。此所謂理也。陛下身當厄運、纂承帝緒、顧望宗室、誰復與讓。當承大位、此所謂當也。四祖廓開宇宙、大業如此。今五都燔爇、宗廟無主、劉載竊弄神器於西北、陛下方欲高讓於東南、此所謂揖讓而救火也。臣等區區、尚所不許、況大人與天地合德、日月並明、而可以失機後時哉」。帝猶不許、使殿中將軍韓績徹去御坐。瞻叱績曰︰「帝坐上應星宿、敢有動者斬」。帝為之改容。
及帝踐位、拜侍中、轉尚書、上疏諫諍、多所匡益、帝甚嘉其忠烈。會久疾、不堪朝請、上疏曰、
臣疾疢不痊、曠廢轉久、比陳誠款、未見哀察。重以尸素、抱罪枕席、憂責之重、不知垂沒之餘當所投厝。臣聞易失者時、不再者年、故古之志士義人負鼎趣走、商歌於市、誠欲及時效其忠規、名傳不朽也。然失之者億萬、得之者一兩耳。常人之情、貪求榮利。臣以凡庸、邂逅遭遇、勞無負鼎、口不商歌、橫逢大運、頻煩饕竊。雖思慕古人自效之志、竟無豪氂報塞之效、而犬馬齒衰、眾疾廢頓、僵臥救命、百有餘日、叩棺曳衾、日頓一日。如復天假之年、蒙陛下行葦之惠、適可薄存性命、枕息陋巷、亦無由復廁八坐、升降臺閣也。臣目冥齒墮、胸腹冰冷、創既不差、足復偏跛、為病受困、既以荼毒。七十之年、禮典所遺、衰老之徵、皎然露見。臣雖欲勤自藏護、隱伏何地。
臣之職掌、戶口租稅、國之所重。方今六合波盪、人未安居、始被大化、百度草創、發卒轉運、皆須人力。以臣平強、兼以晨夜、尚不及事、今俟命漏刻、而當久停機職、使王事有廢。若朝廷以之廣恩、則憂責日重。以之序官、則官廢事弊。須臣差、則臣日月衰退。今以天慈、使官曠事滯、臣受偏私之宥、於大望亦有虧損。今萬國革面、賢俊比跡、而當虛停好爵、不以縻賢、以臣穢病之餘、妨官固職、誠非古今黜進之急。惟陛下割不已之仁、賜以敝帷、隕仆之日、得以藉尸。時銓俊乂、使官修事舉、臣免罪戮、死生厚幸。
因以疾免。尋除尚書右僕射、屢辭不聽、遂稱病篤、還第、不許。
時郗鑒據鄒山、屢為石勒等所侵逼。瞻以鑒有將相之材、恐朝廷棄而不恤、上疏請徵之、曰、「臣聞皇代之興、必有爪牙之佐、扞城之用、帝王之利器也。故虞舜舉十六相而南面垂拱。伏見前輔國將軍郗鑒、少立高操、體清望峻、文武之略、時之良幹。昔與戴若思同辟、推放荒地、所在孤特、眾無一旅、救援不至。然能綏集殘餘、據險歷載、遂使凶寇不敢南侵。但士眾單寡、無以立功、既統名州、又為常伯。若使鑒從容臺闥、出內王命、必能盡抗直之規、補袞職之闕。自先朝以來、諸所授用、已有成比。戴若思以尚書為六州都督・征西將軍、復加常侍、劉隗鎮北、陳眕鎮東。以鑒年時、則與若思同。以資、則俱八坐。況鑒雅望清重、一代名器。聖朝以至公臨天下、惟平是與、是以臣寢頓陋巷、思盡聞見、惟開聖懷、垂問臣導、冀有豪氂萬分之一」。
明帝嘗獨引瞻於廣室、慨然憂天下、曰、「社稷之臣、欲無復十人、如何」。因屈指曰、「君便其一」。瞻辭讓。帝曰、「方欲與君善語、復云何崇謙讓邪」。瞻才兼文武、朝廷稱其忠亮雅正。俄轉領軍將軍、當時服其嚴毅。雖恒疾病、六軍敬憚之。瞻以久病、請去官、不聽、復加散騎常侍。及王敦之逆、帝使謂瞻曰、「卿雖病、但為朕臥護六軍、所益多矣」。乃賜布千匹。瞻不以歸家、分賞將士。賊平、復自表還家、帝不許、固辭不起。詔曰、「瞻忠亮雅正、識局經濟、屢以年耆病久、逡巡告誠。朕深明此操、重違高志、今聽所執、其以為驃騎將軍、常侍如故。服物制度、一按舊典」。遣使就拜、止家為府。尋卒、時年七十二。冊贈本官・開府儀同三司、諡曰穆、遣御史持節監護喪事。論討王含功、追封華容子、降先爵二等、封次子一人亭侯。
瞻性靜默、少交遊、好讀書、或手自抄寫、凡所著述、詩賦牋表數十篇。兼解音樂、殆盡其妙。厚自奉養、立宅於烏衣巷、館宇崇麗、園池竹木、有足賞翫焉。慎行愛士、老而彌篤。尚書閔鴻・太常薛兼・廣川太守河南褚沈・給事中宣城章遼・歷陽太守沛國武嘏、並與瞻素疏、咸藉其高義、臨終託後於瞻。瞻悉營護其家、為起居宅、同於骨肉焉。少與陸機兄弟親善、及機被誅、贍卹其家周至、及嫁機女、資送同於所生。長子景早卒。景子友嗣、官至廷尉。景弟鑒、太子庶子・大將軍從事中郎、先瞻卒。

訓読

永康の初め、州 又 寒素を舉げ、大司馬 東閤祭酒に辟す。其の年、鄢陵公國相に除せらるるも、官に之かず。明年、松滋侯相に左降す。太安中に、官を棄てて家に歸り、顧榮らと與に共に陳敏を誅す。語は榮傳に在り。
召して尚書郎を拜し、榮と與に同に洛に赴き、塗に在りて共に易の太極を論ず。榮曰く、「太極とは、蓋し謂へらく混沌の時 曚昧にして未だ分かれず、日月 其の輝を含み、八卦 其の神を隱し、天地 其の體を混し、聖人 其の身を藏す。然る後に廓然として既に變じ、清濁 乃ち陳べ、二儀 象を著はし、陰陽 交々泰し、萬物 始めて萌し、六合 闓拓す。老子 云へらく、『物有りて混成し、天地に先んじて生ず』と。誠に易の太極なり。而れども王氏 云へらく、『太極は天地なり』と。愚 謂へらく未だ當たらず。夫れ兩儀の謂は、體を以て稱と為し、則ち是れ天地なり。氣を以て名と為し、則ち陰陽と名いふ。今 若し太極を謂ひて天地と為さば、則ち是れ天地 自づから生じ、天地を生ずる者無きなり。老子 又 云へらく、『天地は能く長じて且つ久しき所以の者にして、以て其れ自づから生ぜず、故に能く長久するなり』と、『一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず』と。以へらく始めを沖氣に資りて以て和と為す。元氣の本を原とし、天地の根を求む。恐らく宜しく此を以て準と為すべきなり」と。瞻曰く、「昔 庖犧 八卦を畫き、陰陽の理 盡きたり。文王・仲尼 其の遺業に係ぎ、三聖 相承し、共同して一致し、易を稱して天に準らへ、復た其の餘無きなり。夫れ天は清く地は平らかに、兩儀 交泰し、四時 推移し、日月 其の間に輝き、自然の數、諸聖を經たりと雖へども、孰れか其の始を知らん。吾子 云へらく、『曚昧にして未だ分かれず』とは、豈に其れ然るや。聖人すら、人なり。安んぞ混沌の初 能く其の身を未分の內に藏することを得ん。老氏の天に先だつの言、此れ蓋し虛誕の說にして、易者の意に非ず。亦た謂へらく吾子 神通 體解にして、應に疑ふべからざる所なり。意ふに直だ太極と謂ふは極盡の稱にして、其の理 極まり、復た外形無きことを言ふ。外形 既に極まれば、兩儀を生ず。王氏が指向 之に近しと謂ふ可し。古人 至極を舉げて以て驗と為し、二儀 此より生ずと謂ふ。復た父母有るを謂ふに非ず。若し必ず父母有らば、天地非らざるとき其れ孰くに在るや」と。榮 遂ち止む。徐州に至り、亂 日ごとに甚しと聞き、將に行かざらんとす。會々刺史の裴盾 東海王越の書を得て、若し榮ら顧望せば、軍禮を以て發遣すといふ。乃ち榮及び陸玩らと與に各々船を解き車牛を棄て、一日一夜に行くこと三百里、得て揚州に還る。
元帝 安東將軍と為るや、引きて軍諮祭酒と為し、鎮東長史に轉ぜしむ。帝 親ら瞻の宅に幸き、之と與に同乘して歸る。周馥・華軼を討つ功を以て、都鄉侯に封ぜらる。石勒 入寇するや、揚威將軍・都督京口以南至蕪湖諸軍事を加へ、以て勒を距がしむ。勒 退くや、會稽內史に除せらる。時に詐りて大將軍府符を作りて諸暨令を收むるもの有り、令 已に拘を受く。瞻 其の詐なるを覺するや、便ち檻を破りて之を出だし、使者を訊問するに、果たして詐妄に伏す。尋いで丞相軍諮祭酒に遷る。陳敏を討つ功を論じ、臨湘縣侯に封ぜらる。西臺 侍中に除するも、就かず。
長安 守らざるに及び、王導と與に俱に入りて勸進す。帝 許さず。瞻曰く、「陛下 性は天道と與にするも、猶ほ復た機神を史籍に役す。古人の成敗を觀るに、今世の事 目を舉げて知る可し。見難しと為さず。二帝 失御し、宗廟 虛廢たり、神器 晉を去り、今に于るまで二載なり。梓宮 未だ殯せず、人神 御を失ふ。陛下 籙に膺り圖を受くるは、特だ天の授くる所なり。六合をして面を革め、遐荒をして來庭せしめ、宗廟 既に建ち、神主 復た安んずれば、億兆 向風し、殊俗 畢く至らん。列宿の北極に綰し、百川の巨海に歸するが若し。而れども猶ほ匹夫の謙を守らんと欲するは、七廟を闡き、中興を隆くする所以に非ず。但だ國賊 宜しく誅すべし。當に此を以て己を屈すて天下に謝するべきのみ。而れども天の時に逆ひ、人事に違ひ、地利を失はんと欲す。三者 一たび去れば、復た將來に於て傾匡すと雖も、豈に得て祖宗の危急を救はんや。時に適ひて宜しく萬端あるべし。其れ大業を綱維す可き者は、惟れ理と當とを與にす。晉祚 屯否し、理 今に於て盡く。之を促せば則ち得て、以て中興の祚を隆くす可し。之を縱にせば則ち失ひ、姦寇の權を資する所以たらん。此れ所謂 理なり。陛下 身は厄運に當り、帝緒を纂承し、宗室を顧望す。誰か復た與に讓せんか。當に大位を承くべし、此れ所謂 當なり。四祖 宇宙を廓開し、大業 此の如し。今 五都 燔爇し、宗廟 主無く、劉載 神器を西北に竊弄す。陛下 方に東南に高讓せんと欲さば、此れ所謂 揖讓して火を救ふなり。臣ら區區にして、尚ほ許さざる所なり、況んや大人 天地と德を合し、日月 並び明たり。而れども以て機を失ひ時に後る可きか」と。帝 猶ほ許さず、殿中將軍の韓績をして御坐を徹去せしむ。瞻 績を叱りて曰く、「帝坐 上は星宿に應ず。敢て動かす者有らば斬る」と。帝 之の為に容を改む。
帝 踐位するに及び、侍中を拜し、尚書に轉じ、上疏諫諍、多く匡益する所なれば、帝 甚だ其の忠烈を嘉す。會々久しく疾み、朝請に堪へず。上疏して曰く、
「臣の疾疢 痊えず、曠廢して轉だ久しく、比 誠款を陳ぶるも、未だ哀察を見ず。重ねて尸素を以て、罪を枕席に抱き、憂責の重、垂沒の餘 當に投厝する所を知らず。臣 聞くならく失ひ易き者は時なり、再びならざる者は年なり。故に古の志士義人 鼎を負ひて趣き走り、市に商歌す。誠に時に其の忠規を效し、名は不朽に傳はるに及ばんと欲するなり。然れども之を失ふ者 億萬あり、之を得る者 一兩のみ。常人の情は、榮利を貪求す。臣 凡庸を以て、邂逅し遭遇して、勞は鼎を負ふこと無く、口は商歌せず、橫りに大運に逢ひて、頻りに饕竊を煩はす。古人の自效の志を慕はんと思ふと雖も、竟に豪氂も報塞の效無し。而も犬馬 齒衰し、眾疾 廢頓たり。僵臥し救命するも、百有餘日、棺を叩き衾を曳き、日に頓すること一日。如し天假の年を復し、陛下の行葦の惠を蒙らば、適だ薄さか性命を存し、陋巷に枕息す可し。亦た復た八坐に廁し、臺閣に升降するに由無し。臣 目は冥く齒は墮ち、胸腹 冰冷にして、創は既に差えず、足は復た偏跛す。病の為に困を受くるに、既に荼毒を以てす。七十の年は、禮典 遺す所、衰老の徵、皎然として露見す。臣 勤めて自ら藏護せんと欲すと雖も、何れの地にか隱伏せん。
臣の職掌たる、戶口の租稅、國の重き所なり。方今 六合 波盪し、人 未だ安居せず。始めて大化を被り、百度 草創す。卒を發し轉運するは、皆 人力を須つ。臣の平強を以て、兼するに晨夜を以てするも、尚ほ事に及ばず。今 命を漏刻に俟ち、久しく機職を停むるに當たらば、王事をして廢有らしめん。若し朝廷 之を以て廣恩とせば、則ち憂責 日ごとに重し。之を以て官を序すれば、則ち官は廢れ事は弊たり。臣の差ゆるを須たば、則ち臣 日月に衰退せん。今 天慈を以て、官を曠しく事を滯らしむれば、臣 偏私の宥を受け、大望に於て亦た虧損有らん。今 萬國 面を革め、賢俊 跡を比ふ。而れども當に虛しく好爵に停め、以て賢を縻がざるべし。臣 穢病の餘を以て、官を妨げ職に固するは、誠に古今の黜進の急に非ず。惟だ陛下 不已の仁を割き、賜ふに敝帷を以てす。隕仆の日に、以て尸を藉るを得たり。時に俊乂を銓し、官を修めて事を舉げしめよ。臣 罪戮を免れ、死生あるも厚く幸ならん」と。
因りて疾を以て免ず。尋いで尚書右僕射に除せられ、屢々辭するも聽さず。遂に病篤を稱して、第に還るも、許さず。
時に郗鑒 鄒山に據り、屢々石勒らの侵逼する所と為る。瞻 以へらく鑒 將相の材有るも、朝廷 棄てて恤まざるを恐れ、上疏して之を徵すことを請ひて、曰く、「臣 聞くに皇代の興こるや、必ず爪牙の佐、扞城の用有り、帝王の利器なり。故に虞舜 十六相を舉げて南面して垂拱す。伏して見るに前の輔國將軍の郗鑒、少くして高操を立て、體は清く望は峻く、文武の略、時の良幹なり。昔 戴若思と與に同に辟せられ、荒地に推放せらて、所在に孤特なり。眾は一旅だに無く、救援 至らず。然れども能く殘餘を綏集し、險に據ること歷載、遂に凶寇をして敢て南侵せざらしむ。但だ士眾 單寡にして、以て功を立つる無く、既に名州を統べ、又 常伯と為す。若し鑒をして臺闥に從容し、王命を出內せしむれば、必ず能く抗直の規を盡くし、袞職の闕を補はん。先朝より以來、諸々の授用する所、已に比と成す有り。戴若思は尚書を以て六州都督・征西將軍と為り、復た常侍を加ふ。劉隗は鎮北、陳眕は鎮東なり。鑒の年時を以てすれば、則ち若思と同じなり。資を以てすれば、則ち俱に八坐なり。況んや鑒は雅望 清重にして、一代の名器なり。聖朝 至公を以て天下に臨まば、惟だ平 是れ與す。是を以て臣 陋巷に寢頓し、聞見を盡くさんと思ふ。惟れ聖懷を開き、問を臣導に垂れよ。冀はくは豪氂萬分の一有らんことを」と。
明帝 嘗て獨り瞻を廣室に引き、慨然として天下を憂ひて、曰く、「社稷の臣、復た十人すら無からんと欲す、如何」と。因りて指を屈して曰く、「君 便ち其の一なり」と。瞻 辭讓す。帝曰く、「方に君と善く語らんと欲するに、復た何ぞ謙讓を崇ぶと云ふか」と。瞻 才は文武を兼ね、朝廷 其の忠亮雅正を稱す。俄かに領軍將軍に轉じ、當時 其の嚴毅に服す。恒に疾病あると雖も、六軍 之を敬憚す。瞻 久病を以て、官を去ることを請ふも、聽さず、復た散騎常侍を加ふ。王敦の逆に及び、帝 使して瞻に謂ひて曰く、「卿 病と雖も、但だ朕が為に臥せて六軍を護らば、益する所 多からん」と。乃ち布千匹を賜はる。瞻 以て家に歸(おく)らず、分けて將士に賞す。賊 平らぐや、復た自ら還家を表するも、帝 許さず。固辭して起たず。詔して曰く、「瞻 忠亮雅正にして、識局 經濟す。屢々年耆病久を以て、逡巡して誠を告ぐ。朕 深く此の操を明らかにし、重ねて高志に違ふ。今 執る所を聽し、其れ以て驃騎將軍と為し、常侍たること故の如し。服物制度、一ら舊典を按ぜよ」と。使を遣はして拜に就かしめ、家に止めて府と為す。尋いで卒し、時に年七十二なり。冊して本官・開府儀同三司を贈り、諡して穆と曰ひ、御史を遣はして持節して喪事を監護せしむ。王含を討ちし功を論じ、華容子に追封し、先の爵より二等を降し、次子一人を亭侯に封ず。
瞻の性 靜默にして、交遊少なく、讀書を好み、或いは手に自ら抄寫し、凡そ著述する所に、詩賦牋表 數十篇なり。兼せて音樂を解し、殆ど其の妙を盡くす。厚く自ら奉養し、宅を烏衣巷に立て、館宇は崇麗にして、園池竹木、賞翫するに足る有り。行を慎しみ士を愛し、老いて彌々篤し。尚書の閔鴻・太常の薛兼・廣川太守たる河南の褚沈・給事中たる宣城の章遼・歷陽太守たる沛國の武嘏、並びに瞻と與に素より疏たるも、咸 其の高義に藉りて、臨終に後を瞻に託す。瞻 悉く其の家を營護し、為に居宅を起つること、骨肉に同じ。少くして陸機兄弟と與に親善たりて、機 誅せらるるに及び、贍 其の家を卹むこと周至なり。機が女を嫁するに及び、資送すること所生に同じ。長子の景 早く卒す。景の子の友 嗣ぎ、官は廷尉に至る。景の弟の鑒、太子庶子・大將軍從事中郎にして、瞻に先だちて卒す。

現代語訳

永康年間の初め、州はまた寒門出身者を挙げ、大司馬は(紀瞻を)東閤祭酒に辟召した。その年、鄢陵公国相に任命されたが、赴任しなかった。翌年、松滋侯相に左遷しれた。太安年間、官位を棄てて家に帰り、顧栄らとともに陳敏を誅殺した。このことは顧栄伝に見える。
紀瞻は徴召され尚書郎に任ぜられ、顧栄とともに洛陽に赴き、道中で『易』の太極を論じた。顧栄は、「太極とは、混沌の段階でぼんやりと暗くて未分化で、日月の光を含み、八卦の霊妙を隠し、二儀は形体が混ざり、聖人はそこに身を隠すものだ。その後に開かれて変化し、清と濁が分かれ、天地が姿をあらわし、陰陽が相互に調和し、万物が芽生え、世界が広がる。『老子』(二十五章)に、『物有りて混成し、天地に先んじて生ず』とある。これこそ『易』の太極のことを言っている。しかし王氏(『老子』王弼注)は『太極は天地だ』とした。私は正しくないと思う。両儀(二儀)とは、体からみた呼称で、天地のことである。気からみた呼称は、陰陽である。もし太極を天地というなら、天地が自ずから生じたことになり、天地を生み出すものがない。『老子』は、『天地は能く長じて且つ久しき所以の者にして、以て其れ自づから生ぜず、故に能く長久するなり』(第七章)と言い、『一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず』(第四十二章)ともいう。すべての始まりは沖気により和をなす。陰陽の根本、天地の根源を求めるなら、これ(未分化の太極がそれ以前にあるという説)に従うべきだろう」と言った。紀瞻の回答。「むかし庖犧が八卦を描き、陰陽の理はそこに尽くされた。周の文王と仲尼(孔子)がその遺業を継ぎ(伝や十翼を書き)、三代の聖人が継承し、ともに一致して、『易』に天の規範があると考え、余すところがない。そもそも天は清く地は平らかで、両儀は相互に作用し、季節がめぐり、日月はその間に輝く。自然の数は、多くの聖人の手を経たが、だれが始原を知るのだろうか。あなたが『ぼんやりと暗く未分化』と言ったが、なぜそれが言えるのか。聖人すら、人である。どうして混沌の初めに、その身を未分化のなかに置くことができよう。老子が『天に先立つ』というのは、おそらく虚妄の説であり、『易』を学ぶ者の考えではない。あなたは神妙に通じ、道理を体得しているのだから、『老子』に惑わされるべきではないと思う。私の考えでは太極というのは極限のことで、理が極まり、外形がないことをいう。外形が定まれば、両儀(天地)が生ずる。王氏(王弼注)の説は、これに近いと言えよう。古人は極限を想定し、二儀がそこから生じると考えた。(あくまで概念操作であり)父母のように生み出す物があると言ったのではない。もし必ず父母が必要なら、天地が生じる前に(天地を生み出すものが)どこにあったのか」と言った。顧栄は議論を止めた。徐州に着くと、乱が日ごとに激しいと聞き、都に行くのを辞めようとした。たまたま徐州刺史の裴盾が東海王越(司馬越)の書を手に入れ、もし顧栄らが願うならば、軍礼で(都に)届けようと言った。これを受けて紀瞻は顧栄や陸玩らとともに、船を片付けて車や牛を捨て、一日一夜で三百里を進み、ようやく揚州へ戻ることができた。
元帝が安東将軍となると、紀瞻を招いて軍諮祭酒とし、鎮東長史に転任させた。元帝は自ら瞻の邸を訪問し、馬車に同乗して帰った。周馥・華軼を討った功績で、都郷侯に封ぜられた。石勒が侵入すると、揚威将軍・都督京口以南から蕪湖に至るまでの諸軍事を加えられ、石勒を防いだ。石勒が撤退すると、会稽内史に任ぜられた。このとき偽って大将軍府の符を作り、諸暨令を捕える者があり、県令はすでに拘束されていた。紀瞻は偽りを見抜くと、すぐに檻を破って県令を釈放し、使者を取り調べると、果たして偽妄を認めた。まもなく丞相軍諮祭酒に遷った。陳敏を討った功績で、臨湘県侯に封ぜられた。西台(長安政府)は侍中に任じたが、赴任しなかった。
長安が陥落すると、紀瞻は王導とともに入朝し、元帝に皇帝即位を勧めた。元帝は断った。紀瞻が、「陛下の性は天道に適うのに、まだ後世の評価を気に懸けています。古人の成功と失敗に照らし、いまの世のことを顔を上げてご覧になるべきです。難しいことではありません。二帝(西晋の懐帝と愍帝)は統治に失敗し、宗廟は空しく廃れ、皇帝の位は晋朝から離れ、すでに二年が経ちました。しかし二帝の遺体は葬られず、人も神も統御を失いました。陛下に図讖や瑞祥が表れているのは、天の意思です。天下を一新し、遠方の地の人々を朝見させ、宗廟を再建し、神主を安置すれば、億兆の民は風に向かうように帰服し、異なる風俗の者も来朝します。星々が北極を中心とし、すべての川が大海に注ぐようなものです。しかし、なお匹夫の謙譲を守ろうとするのは、(祖先のために)七廟を開き、中興を盛んにする方法ではありません。ただ国賊を誅殺してから、(僭称の罪を)身を屈して天下に謝れば宜しい。しかし天の時に逆らい、人の事に背き、地の利を失おうとしていらっしゃる。天地人の三つが一度去れば、後から立て直そうとしても、祖先の屈辱を二度と雪ぐことはできません。時宜に応じて政務を執りなさい。大業の実現は、ただ理と当に従います。晋朝の国運は行き詰まり、いま理は尽きました。理を捕捉すれば得られ、中興は成し遂げられます。理を放置すれば失い、賊の権勢を助長することになります。これが理というものです。陛下は王朝の危機に直面し、皇統を継承し、宗室を代表する立場にあり、あなた以上の適任者はいません。皇位を受けるべきで、これが当というものです。四祖(歴代の司馬氏)は天地を切り開き、大業を営んできました。いま五都は焼かれ、宗廟は主を失い、劉載(前趙)は神器を西北に盗み去りました。陛下が東南で辞退にこだわるのは、手を使わず消火活動をするようなもので(前趙の討伐は不可能で)す。われら取るに足らぬ者ですら、(前趙の専横を)許しがたいのに、まして陛下のように天地と徳を合し、日月と同じように明るい人が、時機を見過ごしてよいでしょうか」と言った。元帝はなおも許さず、殿中将軍の韓績に命じて御座を撤去させた。紀瞻は韓績を叱って、「皇帝の御座は天の星宿に応じたものだ。あえて動かならば斬る」と。元帝はこれを知って顔色を改めた。
元帝が即位するに及び、侍中を拝し、尚書に転じ、上疏し諫争することが、朝政を導いて役立ったので、元帝は紀瞻の忠烈を大いに嘉した。長患いで、朝廷の出仕に堪えられなくなった。紀瞻は上疏して、
「臣の病は癒えず、ずっと欠勤をして、近ごろ誠意を述べても、まだ哀れみ察して(辞職を受理して)頂けません。むだな俸禄を受け続け、病床から罪を増やし、憂い責めの重さに、残り少ない寿命のなかで身の置き場がありません。聞きますに、失いやすいのは時であり、二度と来ないのは年とのこと。ゆえに古の志士や義人は鼎を背負って走り、(晋の甯戚は)市で商人の歌を唱い(登用され)ました。まことにその忠諫さを示し、名を不朽に伝えようとしたためです。しかしこれを失う者は億万おり、これを得る者は一人か二人です。人間の情として栄利を貪り求めます。臣は凡庸ですが、偶然の出会いにより、鼎を負う苦労もなく、商歌を唱うこともなく、みだりに幸運に恵まれ(登用されましたが)、(病気で働けずに)俸禄を盗んでいます。古人のような功績を願っても、毛先ほども報いることができません。犬馬のように歯が衰え、多くの病で倒れ伏しています。寝込んで治療を受け、百日あまり、棺を叩き衾を引き、日ごとに衰えています。もし天が寿命を与え、陛下の恩恵が草木まで及ぶなら、辛うじて生命を保ち、陋屋で安静に過ごしましょう。もはや八坐(尚書)に連なり、台閣に上り下りする体力はありません。臣は視力が衰え歯は抜け、胸腹は氷のように冷え、創はまだ癒えず、まっすぐ歩けません。病の苦しみは、苛烈を極めています。七十歳の年は、礼典の定めるところで、衰老の兆しは、明白に表れています。臣が身を隠すにも、どこに隠れて過ごせばよいでしょうか。
臣の職掌である、戸口からの徴税は、国家の重要事です。いま天地四方は波のように揺れ、民草の生活は安定しません。(新たに東晋を建国し)大いなる教化が始まり、諸制度が作り始められました。兵士を徴発し輸送するには、人の力が必要です。臣が健康なとき、朝から夜まで働いても、仕事が終わりませんでした。いま余命が僅かな身で、長く職務を停滞させれば、王事に損失を与えます。もし朝廷が(病欠を認めて)恩を施せば、わが憂責は日ごとに重くなります。臣を官職から外さなければ、官制が廃れて事業に弊害を生じます。臣の回復を待って頂いても、日ごとに衰弱するばかりです。いま天の慈しみをもって(留任させ)仕事を無益に停滞させれば、臣は不当な厚遇を受けたことになり、帝室の仕事を傷つけるでしょう。いま万国は面目を改め、賢俊が次々と現れています。(病身で働けない老人を)空しく高い官爵にとどめ、賢者の席を奪ってはなりません。臣は死にかけの病人でありながら、官事を妨げ役割を手放さないのは、出処進退の重要性を踏みにじる行為です。ただ陛下の尽きない仁を施して、破れた帷だけを頂けませんか。死後に、わが屍に敷くことに使います。当世の賢者を選抜し、彼らに官職を与えて王事に参加させて下さい。臣は罪戮を免れ、死んでも幸せです」と言った。
こうして病を理由に免官された。ほどなく尚書右僕射に任じられ、何度辞しても許されなかった。重病を理由に、邸宅に帰ろうとしたが、許されなかった。
このとき郗鑒が鄒山に拠り、しばしば石勒らの侵略を受けていた。紀瞻は、郗鑒に将相の才があるにも拘わらず、朝廷が郗鑒を顧みず救わないことを恐れ、上疏して郗鑒を徴召せよと請い、次のように言った。「臣が聞きますに、皇帝の世が興るときは、必ず爪牙の臣の助け、城を守る働きをさせ、帝王の武器として活用します。ですから虞舜は十六相を登用したおかげで、無為の統治を実現しました。伏して見ますに前の輔国将軍の郗鑒は、若くして高い節操を立て、身は清く名望は高く、文武の方略は、当世の良き支えです。むかし戴若思とともに辟され、荒地に赴任させられ、行く先々で孤立しました。兵員は一旅すらなく、救援も至りませんでした。しかし残された味方を集めて手懐け、険地に拠ること数年、ついに凶敵(石勒ら)の南進を食い止めました。兵士が少なく、功績を立てることができないまま、名州を統べ、常伯の任を受けました。もし郗鑒を朝廷に受け入れ、(尚書として)王命を管理させれば、必ずや公平な判断で、政治の偏りを防ぐでしょう。先朝より以来、このような任用には、すでに前例があります。戴若思は尚書のままで六州都督・征西将軍となり、常侍も加えられました。劉隗は鎮北将軍であり、陳眕は鎮東将軍です。郗鑒の年次でいえば、戴若思と同じであり、資質でいえば、八坐(尚書)に並びます。まして郗鑒は名望が清く重く、一代の器量の主です。聖朝が至公をもって天下に臨むなら、公平な処遇をするべきです。(郗慮のことが心配で)臣は陋屋の病床にあっても、意見を提出しました。どうか聖なるお心を開き、臣らを導いて下さい。万分の一でも聞き入れて頂けることを願います」と言った。
明帝はあるとき紀瞻だけを広室に招き、慨然として天下を憂い、「社稷の臣が、十人すら集まらない、どうしたものか」と言った。明帝は指を折って(忠臣を数え)、「君がそのうちの一人だ」と言った。紀瞻は自分は違いますと言った。明帝は、「いま君と本心で語ろうというのに、どうして謙遜ばかりするのか」と言った。紀瞻は才が文武を兼ね、朝廷はその忠誠と公正さを称えた。にわかに領軍将軍に転じ、当時の人々は紀瞻の厳格さに威服した。ずっと病気であったが、六軍は紀瞻を敬い恐れた。紀瞻は持病を理由に官を去ることを願ったが、聞き入れられず、さらに散騎常侍を加えられた。王敦が反逆すると、明帝は使者を紀瞻に送って、「あなたは病気だが、横になったままでも六軍を統率してくれれば、朝廷としては助かる」と言った。布千匹を賜った。紀瞻はそれを家に送らず、将士に分け与えた。王敦が平定されると、また帰宅(辞任)を願い出たが、明帝は許さなかった。紀瞻は辞意を貫いて奉職しなかった。詔して、「紀瞻は忠実で公平で、識見と器量は治世を救うものだ。老齢と病気を理由に、ためらいながら辞意を告げた。朕は紀瞻が高節の士なので、何度も引き止めた。いま彼の辞意を聞き入れ、驃騎将軍とし、常侍は現状のままとせよ。服物や制度は、もっぱら旧典に従え」と言った。使者を遣わして拝命させ、家に留めて驃騎将軍府とした。まもなく亡くなり、七十二歳であった。冊書して本官・開府儀同三司を贈り、穆と諡し、御史を遣わして持節し、葬儀を管轄させた。王含を討った功績を論じ、華容子に追封し、先の爵から二等を降し、次子一人を亭侯に封じた。
紀瞻は物静かで口数が少なく、交遊範囲を広げず、読書を好み、自分で書き写すこともあり、著述したものは、詩賦牋表の数十篇があった。音楽に精通し、その妙を尽くした。豊かな生活をして、邸宅を烏衣巷に建て、館宇は壮麗で、庭園の池や竹木は賞玩するに足りた。行いを慎み人士を愛し、老いていよいよ篤かった。尚書の閔鴻・太常の薛兼・広川太守である河南の褚沈・給事中である宣城の章遼・歴陽太守である沛国の武嘏は、いずれも紀瞻と疎遠であったが、みな紀瞻の高義を頼って、死後のことを紀瞻に託した。紀瞻は彼らの遺族を守り、肉親と同じように、住居を建ててやった。若いころ陸機兄弟と親しく、陸機が誅殺されると、陸氏の遺族を手厚く支援した。陸機の娘が嫁ぐとき、自分の娘と同様に、財物を用意してやった。長子の紀景は早くに亡くなった。紀景の子の紀友が爵位を嗣ぎ、官は廷尉に至った。紀景の弟の紀鑒は太子庶子・大将軍従事中郎で、紀瞻より先に亡くなった。

賀循(楊方)

原文

賀循字彥先、會稽山陰人也。其先慶普、漢世傳禮、世所謂慶氏學。族高祖純、博學有重名、漢安帝時為侍中、避安帝父諱、改為賀氏。曾祖齊、仕吳為名將。祖景、滅賊校尉。父邵、中書令、為孫晧所殺、徙家屬邊郡。
循少嬰家難、流放海隅、吳平、乃還本郡。操尚高厲、童齔不羣、言行進止、必以禮讓。國相丁乂請為五官掾。刺史嵇喜舉秀才、除陽羨令、以寬惠為本、不求課最。後為武康令、俗多厚葬、及有拘忌迴避歲月、停喪不葬者、循皆禁焉。政教大行、鄰城宗之。然無援於朝、久不進序。著作郎陸機上疏薦循曰、「伏見武康令賀循德量邃茂、才鑒清遠、服膺道素、風操凝峻、歷試二城、刑政肅穆。前蒸陽令郭訥風度簡曠、器識朗拔、通濟敏悟、才足幹事。循守下縣、編名凡悴。訥歸家巷、棲遲有年。皆出自新邦、朝無知己、居在遐外、志不自營、年時倏忽、而邈無階緒、實州黨愚智所為恨恨。臣等伏思臺郎所以使州、州有人、非徒以均分顯路、惠及外州而已。誠以庶士殊風、四方異俗、壅隔之害、遠國益甚。至于荊・揚二州、戶各數十萬、今揚州無郎、而荊州江南乃無一人為京城職者、誠非聖朝待四方之本心。至於才望資品、循可尚書郎、訥可太子洗馬・舍人。此乃眾望所積、非但企及清塗、苟充方選也。謹條資品、乞蒙簡察」。久之、召補太子舍人。
趙王倫篡位、轉侍御史、辭疾去職。後除南中郎長史、不就。會逆賊李辰起兵江夏、征鎮不能討、皆望塵奔走。辰別帥石冰略有揚州、逐會稽相張景、以前寧遠護軍程超代之、以其長史宰與領山陰令。前南平內史王矩・吳興內史顧祕・前秀才周玘等唱義、傳檄州郡以討之、循亦合眾應之。冰大將抗寵有眾數千、屯郡講堂。循移檄於寵、為陳逆順、寵遂遁走、超・與皆降、一郡悉平。循迎景還郡、即謝遣兵士、杜門不出、論功報賞、一無豫焉。
及陳敏之亂、詐稱詔書、以循為丹楊內史。循辭以腳疾、手不制筆、又服寒食散、露髮袒身、示不可用、敏竟不敢逼。是時州內豪傑皆見維縶、或有老疾、就加秩命、惟循與吳郡朱誕不豫其事。及敏破、征東將軍周馥上循領會稽相、尋除吳國內史、公車徵賢良、皆不就。 元帝為安東將軍、復上循為吳國內史、與循言及吳時事、因問曰、「孫晧嘗燒鋸截一賀頭、是誰邪」。循未及言、帝悟曰、「是賀邵也」。循流涕曰、「先父遭遇無道、循創巨痛深、無以上答」。帝甚愧之、三日不出。東海王越命為參軍、徵拜博士、並不起。
及帝遷鎮東大將軍、以軍司顧榮卒、引循代之。循稱疾篤、牋疏十餘上。帝遺之書曰、
夫百行不同、故出處道殊、因性而用、各任其真耳。當宇宙清泰、彝倫攸序、隨運所遇、動默在己。或有遐棲高蹈、輕舉絕俗、逍遙養和、恬神自足、斯蓋道隆人逸、勢使其然。若乃時運屯弊、主危國急、義士救時、驅馳拯世、燭之武乘縋以入秦、園綺彈冠而匡漢、豈非大雅君子卷舒合道乎。
虛薄寡德、忝備近親、謬荷寵位、受任方鎮、餐服玄風、景羨高矩、常願棄結駟之軒軌、策柴篳而造門、徒有其懷、而無從賢之實者何。良以寇逆殷擾、諸夏分崩、皇居失御、黎元荼毒、是以日夜憂懷、慷慨發憤、志在竭節耳。
前者顧公臨朝、深賴高算。元凱既登、巢許獲逸。至於今日、所謂道之云亡、邦國殄悴、羣望顒顒、實在君侯。苟義之所在、豈得讓勞居逸。想達者亦一以貫之也。庶稟徽猷、以弘遠規。今上尚書、屈德為軍司、謹遣參軍沈禎銜命奉授、望必屈臨、以副傾遲。
循猶不起。

訓読

賀循 字は彥先、會稽山陰の人なり。其の先の慶普は、漢世に禮を傳へ、世の謂ふ所の慶氏學なり。族高祖の純は、博學にして重名有り、漢の安帝の時に侍中と為り、安帝の父の諱を避けて、改めて賀氏と為す。曾祖の齊、吳に仕へて名將為り。祖の景、滅賊校尉なり。父の邵、中書令にして、孫晧の殺す所と為り、家屬を邊郡に徙す。
循 少くして家難に嬰り、海隅に流放せらる。吳 平らぐるや、乃ち本郡に還る。操尚高厲にして、童齔より羣れず、言行 進止あり、必ず禮讓を以てす。國相の丁乂 請ひて五官掾と為す。刺史の嵇喜 秀才に舉げ、陽羨令に除す。寬惠を以て本と為し、課最を求めず。後に武康令と為り、俗 厚葬を多くせば、拘忌迴避の歲月に、喪を停めて葬らざる者有るに及び、循 皆 焉を禁ず。政教 大いに行はれ、鄰城 之を宗とす。然れども朝に無援なれば、久しく序を進めず。著作郎の陸機 上疏して循を薦めて曰く、「伏して見るに武康令の賀循は德量 邃茂にして、才鑒 清遠なり。道素を服膺して、風操 凝峻なり。二城に歷試せしめて、刑政 肅穆たり。前の蒸陽令の郭訥 風度は簡曠、器識は朗拔にして、通濟は敏悟にして、才 幹事に足る。循 下縣を守して、名を凡悴に編まる。訥は家巷に歸りて、棲遲して年有り。皆 新邦より出でて、朝に知己無く、居して遐外に在り、志 自營せず、年時 倏忽たり。而れども邈 階緒無く、實に州黨の愚智の恨恨と為す所なり。臣ら伏して思ふに臺郎は州を使する所以にして、州に人有らば、徒らに均しく顯路を分かち、惠 外州に及ぼすを以てするのみに非ず。誠に以へらく庶士は風を殊にし、四方は俗を異にし、壅隔の害、遠國 益々甚し。荊・揚の二州に至りて、戶は各々數十萬あり、今 揚州に郎無く、而して荊州江南に乃ち一人だに京城の職と為る者無し。誠に聖朝の四方を待するの本心に非ざるなり。才望資品に至りては、循は尚書郎たる可し、訥は太子洗馬・舍人たる可し。此れ乃ち眾望の積む所にして、但だ清塗に企及し、苟に方選を充すのみに非ず。謹みて資品を條し、簡察を蒙らんことを乞ふ」と。久之、召して太子舍人に補さる。
趙王倫 篡位するや、侍御史に轉じ、疾を辭として職を去る。後に南中郎長史に除せらるるも、就かず。會々逆賊の李辰 江夏に起兵し、征鎮 討つ能はず、皆 望塵して奔走す。辰の別帥たる石冰 略して揚州を有ち、會稽相の張景を逐ひ、前寧遠護軍の程超を以て之に代へ、其の長史の宰與を以て山陰令を領せしむ。前の南平內史の王矩・吳興內史の顧祕・前秀才の周玘ら義を唱へ、檄を州郡に傳へて以て之を討つ。循も亦た眾を合して之に應ず。冰の大將の抗寵 眾數千有り、郡の講堂に屯す。循 檄を寵に移して、為に逆順を陳ぶるや、寵 遂に遁走し、超・與 皆 降り、一郡 悉く平らぐ。循 景を迎へて郡を還し、即ち兵士を謝遣して、門を杜ざして出でず、論功報賞、一すら豫る無し。
陳敏の亂に及び、詐りて詔書と稱し、循を以て丹楊內史と為す。循 辭するに腳疾を以てし、手づから制筆せず、又 服は寒く食は散じ、露髮袒身にして、用ふ可からざるを示し、敏 竟に敢て逼らず。是の時 州內の豪傑 皆 維縶せられ、或いは老疾有るも、就きて秩命を加へらる。惟だ循と吳郡の朱誕のみ其の事に豫らず。敏 破らるるに及び、征東將軍の周馥 循を上して會稽相を領せしめ、尋いで吳國內史に除し、公車もて賢良に徵するも、皆 就かず。 元帝 安東將軍と為るや、復た循を上して吳國內史と為す。循と與に言ひて吳の時事に及ぶに、因りて問ひて曰く、「孫晧 嘗て鋸を燒きて一賀頭を截る、是れ誰ずや」と。循 未だ言ふに及ばざるに、帝 悟りて曰く、「是れ賀邵なり」と。循 流涕して曰く、「先父 無道に遭遇し、循の創 巨いに痛深にして、以て上答する無し」。帝 甚だ之を愧ぢ、三日 出でず。東海王越 命じて參軍と為し、徵して博士を拜するも、並びに起たず。
帝 鎮東大將軍に遷るに及び、軍司の顧榮 卒するを以て、循を引きて之に代ふ。循 疾篤と稱し、牋疏すること十餘上なり。帝 之に書を遺りて曰く、
「夫れ百行 同じからず、故に出處の道 殊なる。性に因りて用ひ、各々其の真を任ずるのみ。宇宙 清泰にして、彝倫 序する攸に當りては、運の遇ふ所に隨ひ、動默 己に在り。或いは遐棲 高蹈し、輕舉して俗に絕ち、逍遙として和を養ひ、神を恬して自足するもの有り。斯れ蓋し道 隆にして人 逸す。勢として其れ然らしむ。若乃 時運 屯弊にして、主は危ふく國は急にして、義士 時を救ひ、驅馳して世を拯ひ、燭之武は縋に乘じて以て秦に入り〔一〕、園綺は冠を彈きて漢を匡す〔二〕。豈に大雅君子の卷舒して道に合ふに非ざるや。
虛薄の寡德、忝く近親に備はり、謬りて寵位を荷ひ、任を方鎮に受け、玄風を餐服し、高矩を景羨す。常に願はくは結駟の軒軌を棄て、柴篳を策きて門に造らんと。徒らに其の懷有りて、而して從賢の實無き者は何ぞや。良に以へらく寇逆 殷擾し、諸夏 分崩し、皇居 失御し、黎元 荼毒し、是を以て日夜 憂懷し、慷慨して發憤す。志は竭節に在るのみ。
前者 顧公 朝に臨みてし、深く高算に賴る。元凱 既に登り、巢許 逸するを獲たり。今日に至り、所謂 道の云に亡び、邦國 殄悴するなり。羣望 顒顒として、實に君侯に在り。苟に義の在る所、豈に勞を讓して逸に居るを得ん。想ふに達者も亦た一に以て之を貫くなり。庶くは徽猷を稟けて、以て遠規を弘くせよ。今 尚書に上して、德を屈して軍司と為し、謹みて參軍の沈禎を遣はして銜命して奉授せしむ。望むらくは必ず屈臨して、以て傾遲に副へ」と。
循 猶ほ起せず。

〔一〕晋・秦の連合軍が鄭を攻めた際、鄭の燭之武(燭武)が縄で城壁を登って脱出し、秦の穆公を説得して攻撃から手を引かせた(『左伝』僖公 伝三十年)。
〔二〕東園公と綺里季は、秦末に隠棲した四人の隠者(四皓)のうち二名で、前漢への出仕も拒否していたが、張良に要請され、高祖劉邦の後継者問題について助言した(『史記』巻五十五 留侯世家)。「彈冠」は服装を整えること。隠者としての自由な身なりを改め、正装して劉邦の前に出たことをいう。

現代語訳

賀循は字を彦先といい、会稽郡山陰県の人である。祖先の慶普は、漢代に礼学を伝え、世にいう慶氏学の祖である。高祖父の慶純は、博学で名声が高く、後漢の安帝のとき侍中となり、安帝の父(劉慶)の諱を避けて、姓を賀氏に改めた。曾祖父の賀斉は、三国呉に仕えて名将であった。祖父の賀景は、滅賊校尉である。父の賀邵は、中書令であったが、呉帝の孫晧に殺され、家族は辺境の郡へ移住させられた。
賀循は幼くして家の難に遭い、海辺地域に放逐された。三国呉が平定されると、故郷の郡に帰った。操行は高く厳しい性格で、幼少のころから群れず、言行や立ち居振る舞いに節度があり、つねに礼と謙譲を保った。国相の丁乂が招請して五官掾とした。刺史の嵇喜が秀才に挙げ、陽羨令に任じた。賀循の県政は寛大さと恵みを根本とし、治績の最上を求めなかった。のちに武康令となった。現地の風俗は厚葬を重んじた。(親族を失った)物忌みと服喪のとき、(厚葬に用いる物資を整えられず)埋葬を中止する者がいたので、賀循は厚葬を禁じた。政と教化は大いに行われ、近隣の県はこれを模範とした。しかし朝廷に後ろ盾がないので、ずっと昇進できなかった。著作郎の陸機が上疏し、賀循を推薦して、「伏して思いますに武康令の賀循は、徳と度量が盛んで、才能と鑑識が清らかで遠大です。質素さを実践し、風格を引き締めて峻厳です。二つの県で政治を担当し、刑罰と行政は粛然として和やかでした。前の蒸陽令の郭訥は、風度がさっぱりとして広大で、器量と識見は明朗で抜きんで、物事を通達して聡明で、事務能力があります。しかし賀循は小県を統治して、凡庸な者のなかに名が埋没し、郭訥は故郷に帰って、相応しい官職に就かずに年数を重ねました。二人とも新たに帰属した地(旧呉)出身で、朝廷に知己がおらず、遠方に押し込められ、志をもって自らを売り込めず、年月を空しく過ごしました。昇進の道筋がないのは、まことに(旧呉の)地域の士人すべてが遺憾とすることです。臣らが伏して思いますに、台郎(中央政府の定員)を設けるのは州を円滑に統括するためで、(旧呉の)州に人材がいれば、(旧魏の中原と)均しく顕職への道を開くべきです。ただ外州(旧呉)を憐れんで下さいと申しているのではありません。士民は風俗が異なり、四方は習俗が違い、隔絶した地方で起こる弊害は、遠方であるほど甚だしいものです。(旧呉の)荊・揚の二州に至っては、戸数はそれぞれ数十万あるのに、いま揚州出身者が郎に入る道がなく、荊州や江南から中央政府の官職に就く者が一人もいません。これは聖朝(西晋)が四方を正しく扱うべき道から逸脱しています。才能や名望に照らせば、賀循は尚書郎に相当し、郭訥は太子洗馬・舎人が相応しいでしょう。これが衆望の積年の思いです。ただ清い道(出世の道)が欲しくて、推薦しているのではありません。謹んで資質や等級を査定し、選抜と審査をして頂きたいと思います」と言った。しばらくして、賀循は(陸機の上疏とは異なるが)太子舎人に補せられた。
趙王倫(司馬倫)が帝位を奪うと、侍御史に転じたが、病を口実に職を去った。のちに南中郎長史に任じられたが、就かなかった。このころ逆賊の李辰が江夏で挙兵したが、征鎮(西晋の地方軍)は討伐に失敗し、みな敵軍が接近するや逃走した。李辰の別軍の将である石冰が揚州を攻略して支配し、会稽相の張景を追い払い、前の寧遠護軍の程超を後任の揚州刺史とし、その長史の宰与に山陰令を領させた。前南平内史の王矩・呉興内史の顧秘・前秀才の周玘らが義軍を集め、檄文を州郡に回付して李辰を討伐した。賀循もまた兵を集めて王矩らに応じた。石冰の大将である抗寵は数千の兵を擁し、郡の講堂に駐屯していた。賀循は檄文を抗寵に送り、順逆の理を示して説得すると、抗寵は逃走し、程超と宰与はどちらも降伏し、一郡はすべて平定された。賀循は張景を迎えて会稽郡を再び治めさせた。ねぎらって兵士を解散させ、門を閉じて外へ出ず、論功行賞は、一切を受けなかった。
陳敏が乱を起こすと、詔書だと偽り、賀循を丹楊内史に任じた。賀循は足の病を理由に辞退し、筆を手にして文書を作ることを辞め、衣は粗末で食は乏しく、髪をさらし肌をむき出しにして、登用の価値がないことを示したので、陳敏はそれ以上迫らなかった。このとき州内の有力者はみな(陳敏に)拘束され、老病であっても、官爵を与えられた。ただ賀循と呉郡の朱誕だけが巻き込まれなかった。陳敏が敗れると、征東将軍の周馥が上表して賀循に会稽相を領させ、すぐに呉国内史に任じ、公車で賢良に徴召したが、いずれも就かなかった。元帝が安東将軍となると、賀循を呉国内史とした。賀循と語り合って話題が時事に及ぶと、元帝は、「(呉の末帝の)孫晧が鋸を焼いて、賀なにがしの首を斬ったというが、それは誰か」と質問した。賀循が何かを答える前に、元帝は悟って、「賀邵(賀循の父)であった」と言った。賀循は涙を流して、「先父(賀邵)は無道な君主に遭遇し、わが傷の痛みは深い。申し上げる言葉はありません」と言った。元帝はひどく恥じ、三日間外出しなかった。東海王越(司馬越)が命じて賀循を参軍とし、徴して博士としたが、いずれも着任しなかった。
元帝が鎮東大将軍に遷り、軍師の顧栄が卒すると、賀循を後任に招こうとした。賀循は病が重いと称し、断りの書簡を十通あまり送った。元帝が賀循に返書して、
「行動はさまざまで、出処進退の道もさまざまだ。性に従って用い、好きに生きればよい。天下が清らかで安泰で、倫理が整ったときは、巡り合わせのまま、出処進退は自分で決めればよい。遠くに隠れて高く踏みとどまり(仕官せず)、軽々と俗世間から離れ、ゆったりと平穏な生活をして、心を静めて自足することができる。政道が盛んであれば、人々には余裕があり、情勢が彼らの隠棲を許すのである。ところが、時運が行き詰まり、君主も国家も危険に晒されれば、義士は時を救い、駆けつけて世を救う。燭之武は縄に取りすがって秦軍に入り(『左伝』僖公 伝三十年)、園綺(東園公と綺里季)は服装を整えて前漢を助けた(『史記』巻五十五 留侯世家)。これこそ立派な君子の進退が道にかなった事例ではないか。
わたしは頼りがいがなく寡徳であるが、かたじけなくも皇族の一員であり、誤って高位を与えられ、方鎮の任を受けた。古の玄妙の風を受けて、高い規矩を慕う。つねに願うのは四頭立ての馬車を捨て、粗末な身なりで(賢者を)訪問することだ。この思いがあっても、賢者がわたしに従ってもらえないのはなぜか。叛逆者が盛んに乱し、中夏は分裂し、皇帝は統御を失い、万民は苦しみ疲弊している。日夜憂いを抱き、慷慨し発憤している。わが志はただ節義を尽くすことにある。
先ごろ顧公(顧栄)が朝廷に臨み、彼の優れた計略を頼りにした。元凱(八元八凱、古の賢臣)が登用されれば、巣父や許由のような隠逸の士を採用できる。今日に至り、いわゆる道が失われ、国家が衰退している。衆望が仰ぎ待つのは、あなた(のような隠逸の士の協力)である。もし義の心があるならば、どうして仕官から遠ざかり一人だけ安逸でいられようか。通達の士は一つの道理で貫かれるという。どうか(亡き顧栄のような)優れた策謀を授け、遠大な計画を広めよ。いま尚書に上申して、徳を屈して軍師とし、参軍の沈禎を遣わせて任命書を届けさせる。必ず身を屈して、今からでも出仕してくれ」と言った。
賀循はなお仕官しなかった。

原文

及帝承制、復以為軍諮祭酒。循稱疾、敦逼不得已、乃轝疾至。帝親幸其舟、因諮以政道。循羸疾不堪拜謁、乃就加朝服、賜第一區、車馬牀帳衣褥等物。循辭讓、一無所受。
廷尉張闓住在小市、將奪左右近宅以廣其居、乃私作都門、早閉晏開、人多患之、訟於州府、皆不見省。會循出、至破岡、連名詣循質之。循曰、「見張廷尉、當為言及之」。闓聞而遽毀其門、詣循致謝。其為世所敬服如此。
時江東草創、盜賊多有、帝思所以防之、以問於循。循答曰、「江道萬里、通涉五州、朝貢商旅之所來往也。今議者欲出宣城以鎮江渚、或欲使諸縣領兵。愚謂令長威弱、而兼才難備、發憚役之人、而御之不肅、恐未必為用。以循所聞、江中劇地惟有闔廬一處、地勢險奧、亡逃所聚。特宜以重兵備戍、隨勢討除、絕其根蔕。沿江諸縣各有分界、分界之內、官長所任、自可度土分力、多置亭候、恒使徼行、峻其綱目、嚴其刑賞、使越常科、勤則有殊榮之報、墮則有一身之罪、謂於大理不得不肅。所給人以時番休、役不至困、代易有期。案漢制十里一亭、亦以防禁切密故也。當今縱不能爾、要宜籌量、使力足相周。若寇劫強多、不能獨制者、可指其蹤跡、言所在都督尋當致討。今不明部分、使所在百姓與軍家雜其徼備、兩情俱墮、莫適任負、故所以徒有備名而不能為益者也」。帝從之。
及愍帝即位、徵為宗正。元帝在鎮、又表為侍中、道險不行。以討華軼功、將封鄉侯、循自以臥疾私門、固讓不受。建武初、為中書令、加散騎常侍、又以老疾固辭。帝下令曰、「孤以寡德、忝當大位、若涉巨川、罔知所憑。循言行以禮、乃時之望、俗之表也。實賴其謀猷、以康萬機。疾患有素、猶望臥相規輔、而固守撝謙、自陳懇至、此賢履信思順、苟以讓為高者也。今從其所執」。於是改拜太常、常侍如故。循以九卿舊不加官、今又疾患、不宜兼處此職、惟拜太常而已。
時宗廟始建、舊儀多闕、或以惠懷二帝應各為世、則潁川世數過七、宜在迭毀。事下太常。循議以為、禮、兄弟不相為後、不得以承代為世。殷之盤庚不序陽甲、漢之光武不繼成帝、別立廟寢、使臣下祭之、此前代之明典、而承繼之著義也。惠帝無後、懷帝承統、弟不後兄、則懷帝自上繼世祖、不繼惠帝、當同殷之陽甲、漢之成帝。議者以聖德沖遠、未便改舊。諸如此禮、通所未論。是以惠帝尚在太廟、而懷帝復入、數則盈八。盈八之理、由惠帝不出、非上祖宜遷也。下世既升、上世乃遷、遷毀對代、不得相通、未有下升一世而上毀二世者也。惠懷二帝俱繼世祖、兄弟旁親、同為一世、而上毀二為一世。今以惠帝之崩已毀豫章、懷帝之入復毀潁川、如此則一世再遷、祖位橫折、求之古義、未見此例。惠帝宜出、尚未輕論、況可輕毀一祖而無義例乎。潁川既無可毀之理、則見神之數居然自八、此盡有由而然、非謂數之常也。既有八神、則不得不於七室之外權安一位也。至尊於惠懷俱是兄弟、自上後世祖、不繼二帝、則二帝之神行應別出、不為廟中恒有八室也。又武帝初成太廟時、正神止七、而楊元后之神亦權立一室。永熙元年、告世祖諡於太廟八室、此是苟有八神、不拘於七之舊例也。
又議者以景帝俱已在廟、則惠懷一例。景帝盛德元功、王基之本、義著祖宗、百世不毀、故所以特在本廟、且亦世代尚近、數得相容、安神而已、無逼上祖、如王氏昭穆既滿、終應別廟也。以今方之、既輕重義異、又七廟七世之親。昭穆、父子位也。若當兄弟旁滿、輒毀上祖、則祖位空懸、世數不足、何取於三昭三穆與太祖之廟然後成七哉。今七廟之義、出於王氏。從禰以上至於高祖、親廟四世、高祖以上復有五世六世無服之祖、故為三昭三穆并太祖而七也。故世祖郊定廟禮、京兆・潁川曾・高之親、豫章五世、征西六世、以應此義。今至尊繼統、亦宜有五六世之祖、豫章六世、潁川五世、俱不應毀。今既云豫章先毀、又當重毀潁川、此為廟中之親惟從高祖已下、無復高祖以上二世之祖、於王氏之義、三昭三穆廢闕其二、甚非宗廟之本所據承、又違世祖祭征西・豫章之意、於一王定禮所闕不少。
時尚書僕射刁協與循異議、循答義深備、辭多不載、竟從循議焉。朝廷疑滯皆諮之於循、循輒依經禮而對、為當世儒宗。
其後帝以循清貧、下令曰、「循冰清玉潔、行為俗表、位處上卿、而居身服物蓋周形而已、屋室財庇風雨。孤近造其廬、以為慨然。其賜六尺牀薦席褥并錢二十萬、以表至德、暢孤意焉」。循又讓、不許、不得已留之、初不服用。及帝踐位、有司奏琅邪恭王宜稱皇考、循又議曰、「案禮、子不敢以己爵加父」。帝納之。俄以循行太子太傅、太常如故。
循自以枕疾廢頓、臣節不修、上隆降尊之義、下替交敘之敬、懼非垂典之教也、累表固讓。帝以循體德率物、有不言之益、敦厲備至、期於不許、命皇太子親往拜焉。循有羸疾、而恭於接對。詔斷賓客、其崇遇如此。疾漸焉、表乞骸骨、上還印綬、改授左光祿大夫・開府儀同三司。帝臨軒、遣使持節、加印綬。循雖口不能言、指麾左右、推去章服。車駕親幸、執手流涕。太子親臨者三焉、往還皆拜、儒者以為榮。太興二年卒、時年六十。帝素服舉哀、哭之甚慟。贈司空、諡曰穆。將葬、帝又出臨其柩、哭之盡哀、遣兼侍御史持節監護。皇太子追送近塗、望船流涕。
循少玩篇籍、善屬文、博覽眾書、尤精禮傳。雅有知人之鑒、拔同郡楊方於卑陋、卒成名於世。子隰、康帝時官至臨海太守。

訓読

帝 承制するに及び、復た以て軍諮祭酒と為す。循 疾と稱するも、敦く逼りて已むを得ず、乃ち轝 疾く至る。帝 親ら其の舟を幸するに、因りて諮るに政道を以てす。循 羸疾にして拜謁に堪へず、乃ち就きて朝服を加へ、第一區を賜はるに、車馬牀帳衣褥らの物もてす。循 辭讓し、一すら受くる所無し。
廷尉の張闓 住みて小市に在り、將に左右の近宅を奪ひて以て其の居を廣げんとし、乃ち私かに都門を作り、早く閉ぢ晏く開き、人 多く之を患ひ、州府に訟ふるも、皆 省せられず。會々循 出で、破岡に至るに、名を連ねて循に詣りて之を質す。循曰く、「張廷尉に見(あ)へば、當に為に之に言及すべし」と。闓 聞きて遽かに其の門を毀ち、循に詣りて致謝す。其の世の敬服する所と為ること此の如し。
時に江東 草創にして、盜賊 多く有り、帝 之を防ぐ所以を思ひ、以て循に問ふ。循 答へて曰く、「江道 萬里にして、五州に通涉す。朝貢の商旅の來往する所なり。今 議者 宣城を出して以て江渚に鎮とせんと欲し、或いは諸縣をして領兵せしめんと欲す。愚 謂へらく令長の威 弱く、而も兼才 備へ難し。憚役の人を發するも、而れども之を御すること肅ならず、未だ必ず用と為さざるを恐る。循が聞く所を以てすれば、江中の劇地 惟だ闔廬の一處有り、地勢は險奧にして、亡逃の聚まる所なり。特に宜しく重兵を以て備戍し、勢に隨ひて討除し、其の根蔕を絕つべし。沿江の諸縣に各々分界有り、分界の內は、官長 任ずる所、自ら土を度り力を分け、多く亭候を置く可し。恒に徼行せしめ、其の綱目を峻にし、其の刑賞を嚴にし、使し常科を越えれば、勤むれば則ち殊榮の報有り、墮(おこた)れば則ち一身の罪有らしめよ。謂ふに大理に於て肅ならざるを得ず。所の給する人 時を以て番々に休せば、役 困するに至らず、代易すること期有り。漢制を案ずるに十里ごとに一亭あり、亦た防禁切密なるを以ての故なり。當今 縱ひ爾る能はざるも、宜を要し量を籌し、力 相周するに足らしめよ。若し寇劫 強多にして、獨り制する能はざる者は、其の蹤跡を指して、所在の都督に言ひて尋いで當に討を致す可し。今 部分を明らかにせず、所在の百姓をして軍家と與に其の徼備を雜ぜしむれば、兩情 俱に墮し、任負するに適する莫し。故に徒らに備名有るも而れども益と為すこと能はざる所以なり」と。帝 之に從ふ。
愍帝 即位するに及び、徵して宗正と為す。元帝 鎮に在り、又 表して侍中と為すも、道險にして行かず。華軼を討つ功を以て、將に鄉侯に封ぜんとす。循 自ら以へらく私門に臥疾すといひ、固讓して受けず。建武の初、中書令と為し、散騎常侍を加ふるも、又 老疾を以て固辭す。帝 令を下して曰く、「孤 寡德を以て、忝くも大位に當たる。巨川を涉るが若く、憑る所を知る罔し。循は言行 禮を以てし、乃ち時の望にして、俗の表なり。實に其の謀猷に賴らば、以て萬機を康んぜん。疾患 素有り、猶ほ臥して相 規輔せんことを望み、而も固く撝謙を守りて、自ら陳すること懇至たり。此れ賢 信を履み順を思ひて、苟に讓を以て高為る者なり。今 其の執る所に從へ」と。是に於て改めて太常に拜し、常侍たること故の如し。循 以へらく九卿は舊にして加官にあらず、今 又 疾患あれば、宜しく此の職に兼處すべからず、惟だ太常を拜するのみ。
時に宗廟 始めて建ち、舊儀 多く闕く〔一〕。或ひと以へらく惠懷の二帝は應に各々世と為すべし、則ち潁川は世數 七を過ぎれば、宜しく迭毀に在るべしと。事 太常に下す。循 議して以為へらく、「禮は、兄弟 相 後と為さず、以て代を承けて世と為すを得ず。殷の盤庚 陽甲を序せず、漢の光武 成帝を繼がず、別に廟寢を立て、臣下をして之を祭らしむ。此れ前代の明典にして、承繼の著義なり。惠帝 後無く、懷帝 統を承ぐも、弟 兄に後たらざれば、則ち懷帝 自ら上りて世祖を繼ぎ、惠帝を繼がず。當に殷の陽甲、漢の成帝に同じかるべし。議者 以へらく聖德 沖遠にして、未だ便ち舊を改めずと。諸れ此の禮の如きは、通じて未だ論ぜざる所なり。是を以て惠帝 尚ほ太廟に在り、而も懷帝 復た入るれば、數は則ち八に盈つ。八を盈たすの理もて、惠帝の出ださずに由り、上祖 宜しく遷すべきに非ざるなり。下世 既に升りて、上世 乃ち遷さば、遷毀對代、相 通ずるを得ず、未だ下に一世を升す有りて上に二世を毀つ者あらざるなり。惠懷の二帝 俱に世祖を繼ぎ、兄弟は旁親にして、同に一世為り。而も上に二を毀ちて一世と為す。今 惠帝の崩を以て已に豫章を毀し、懷帝の入るや復た潁川を毀たば、此の如くんば則ち一世に再遷せば、祖位 橫りに折すなり。之を古義に求むるに、未だ此の例を見ず。惠帝 宜しく出だすべし。尚ほ未だ輕々しく論ずべからず、況んや輕々しく一祖を毀ちて義例無かる可きや。潁川 既に毀つ可きの理無きも、則ち神の數を見れば居然として自づから八あり、此れ盡く由有りて然るも、數の常を謂ふには非ず。既に八神有れば、則ち七室の外に於て權に一位を安んぜざるを得ず。至尊 惠懷に於て俱に是れ兄弟なれば、自上 世祖に後たりて、二帝を繼がず、則ち二帝の神 行々應に別に出だし、廟中に恒に八室有りと為すべからず。又 武帝 初めて太廟を成しし時、正神は七に止まり、而れども楊元后の神も亦た權に一室を立つ。永熙元年、世祖の諡を太廟の八室に告ぐ。此れ是れ苟に八神有れば、七の舊例に拘はらざるなり。
又 議者 以へらく景帝 俱に已に廟に在るは、則ち惠・懷の一例なり。景帝は盛德の元功にして、王基の本なり。義は祖宗に著はれ、百世 不毀なり。故に特に本廟に在る所以にして、且に亦た世代 尚ほ近ければ、數 相 容るるを得て、神を安んず。上祖に逼ること無く、王氏の昭穆 既に滿つれば、終に應に別廟とすべきが如し。今を以て之を方ぶるに、既に輕重ありて義 異なり、又 七廟七世の親なり。昭穆は、父子の位なり。若し兄弟 旁らに滿つるに當たり、輒ち上祖を毀さば、則ち祖位 空懸たり、世數 足らず。何ぞ三昭三穆を太祖の廟と與に取りて、然る後に七と成すや。今 七廟の義、王氏より出づ。禰より以上 高祖に至るまで、親廟は四世なり。高祖より以上 復た五世六世に無服の祖有り。故に三昭三穆もて太祖と并せて七と為すなり。故に世祖 郊に廟禮を定め、京兆・潁川は曾・高の親なり、豫章は五世なり、征西は六世なれば、以て此の義に應ず。今 至尊 繼統するや、亦た宜しく五六世の祖有るべし。豫章は六世なり、潁川は五世なり、俱に應に毀つべからず。今 既に豫章 先に毀つと云ひ、又 重ねて潁川を毀つに當たる。此れ廟中の親は惟だ高祖より已下にして、復た高祖より以上の二世の祖無しと為す。王氏の義に於て、三昭三穆 其の二を廢闕するは、甚だ宗廟の本より據承する所に非ず、又 世祖 征西・豫章を祭るの意に違ふ。一王の定禮に於て闕く所 少なからず」と。
時に尚書僕射の刁協 循と與に議を異にし、循の答義 深く備はる。辭 多ければ載せず。竟に循の議に從へり。朝廷の疑滯 皆 之を循に諮り、循 輒ち經禮に依りて對へ、當世の儒宗為り。
其の後 帝 循の清貧なるを以て、令を下して曰く、「循 冰のごとく清く玉のごとく潔く、行為は俗の表にして、位は上卿に處る。而れども身を居き物を服すること蓋し形に周きのみ、屋室は財(わづ)かに風雨を庇ふのみ。孤 近ごろ其の廬に造りて、以て慨然為り。其れ六尺の牀薦席褥 并びに錢二十萬を賜はり、以て至德を表して、孤の意を暢べよ」と。循 又 讓すも、許さず、已むを得ずして之を留むるも、初めより服用せず。帝 踐位するに及び、有司 奏すらく琅邪恭王もて宜しく皇考と稱すべしと。循 又 議して曰く、「禮を案ずるに、子 敢て己の爵を以て父に加へず」と。帝 之を納る。俄かにして循を以て太子太傅を行せしめ、太常たること故の如し。
循 自ら疾に枕(ふ)して廢頓し、臣節 修めざるを以て、上は降尊の義を隆くし、下は交敘の敬を替し、垂典の教に非ざるを懼れ、累りに表して固讓す。帝 循は德を體し物を率ふるを以て、不言の益有り、敦厲 備至たれば、許さざるを期し、皇太子に命じて親ら往き焉に拜せしむ。循 羸疾有りるも、接對するに恭たり。詔して賓客を斷たしめ、其の崇遇すること此の如し。疾 漸たりて、表して骸骨を乞ひ、印綬を上還す。改めて左光祿大夫・開府儀同三司を授く。帝 臨軒し、使を遣はして持節し、印綬を加へしむ。循 口は言ふ能はざると雖も、左右を指麾し、推して章服を去らしむ。車駕 親ら幸き、手を執りて流涕す。太子 親ら臨むこと三たび、往還するや皆 拜し、儒者 以て榮と為す。太興二年 卒し、時に年六十なり。帝 素服して哀を舉げ、之に哭すること甚だ慟たり。司空を贈り、諡して穆と曰ふ。將に葬らんとするに、帝 又 出でて其の柩に臨み、之に哭して哀を盡し、兼侍御史を遣はして持節し監護せしむ。皇太子 追送して塗に近づき、船に望みて流涕す。
循 少くして篇籍を玩し、屬文を善くし、博く眾書を覽じ、尤も禮傳に精はし。雅より知人の鑒有り、同郡の楊方を卑陋より拔き、卒に名を世に成す。子の隰、康帝の時に官 臨海太守に至る。

〔一〕七廟制の議論に係わるので、晋帝国の皇統を示す。世代が下るときに「―」とし、同世代は「()」で補う。征西将軍の司馬鈞―豫章太守の司馬量―潁川太守の司馬儁―京兆尹の司馬防―宣帝の司馬懿―文帝の司馬昭(兄は景帝の司馬昭)―武帝の司馬炎―恵帝の司馬衷(弟は懐帝の司馬熾)―愍帝の司馬鄴(恵帝・懐帝のおい)

現代語訳

元帝が承制するに及び、また賀循を軍諮祭酒とした。賀循は病だと称したが、丁重に迫られたので断り切れず、輿に乗って急いで(元帝を)訪ねた。このとき元帝は舟で行幸しており、政治の道について諮問した。賀循は病身で拝謁に堪えないので、その場で朝服を着けた。もっとも優遇し、車馬・寝台・帳・衣・敷物などを賜った。賀循は辞退して、ひとつも受け取らなかった。
廷尉の張闓は小市に住み、左右の近隣の家を奪って住居を広げようとし、ひそかに私的に門を設置し、夕には早く閉めて朝には遅く開けたので、人々は多くが迷惑し、州府に訴えたが、すべて無視された。たまたま賀循が外出して破岡を訪れたとき、人々が名を連ねて賀循を訪ね、これを訴えた。賀循は、「張廷尉に会えば、このことに言及しよう」と言った。張闓はこれを聞くや否や、慌ててその門を壊し、賀循に謝罪した。世の賀循に敬服したのは、このようであった。
このとき江東はまだ建国直後で、盗賊が多かった。元帝は盗賊を防ぐ方法を、賀循に質問した。賀循は答えて、「長江の水路は万里に及び、五州に通じて往来します。朝貢の使節や商人や旅人が行き来するところです。いま政策立案者は宣城を出して長江の中洲に鎮所を設置しようとし、あるいは諸県に軍隊を設置しようとしています。わたしの考えでは県令や県長の権威は弱く、指揮官の才能の持ち主を備えることは難しい。諸県で兵士を徴発しても、統制が厳正でなく、必ずしも役に立たないことを恐れます。聞くところでは、江中の険悪な地はただ闔廬(会稽の山地)の一ヶ所だけで、地勢は険しく奥深く、逃亡者が集まるところです。特にここだけは厳重な兵備で守り、情勢に応じて討伐や排除をして、反逆の根を断つべきです。川沿いの諸県にはそれぞれ区画があり、区画のなかは、官長の所管ですから、自ら土地を量り、人員を分配させ、多くの亭候(見張りの拠点)を置くべきです。つねに巡察させ、統制を厳格にして、賞罰を正しく運用して下さい。規定を超えて励めば、特別の栄賞を与え、怠れば身に罪が及ぶようにしなさい。そうすれば自ずと厳粛に治まるはずです。配置する人々を交代制で休ませれば、労役で疲弊することもなく、任期に終わりがあります。漢の制度では十里ごとに一亭がありましたが、これも防備と禁令を厳密にするためです。いま漢代ほど細かく整備できずとも、制度の心を押さえて計画を立て、相互に補い合えるようにすべきです。もし盗賊が強大で多く、独力で制圧できないなら、その活動範囲を調べ、所在の都督に告げて、討伐を加えるのです。いま担当区域を明確にせず、その土地の民草を徴発して軍隊に参加させれば、兵士も民草が混乱して士気が下がり、責任の所在が曖昧になります。ただ形だけの防備となり、実際には役に立たないでしょう」と言った。元帝はこれに従った。
愍帝が(長安で)即位すると、徴して宗正とした。元帝は鎮所(揚州)におり、上表して賀循を侍中としたが、道が険しいとして行かなかった。華軼を討った功績で、郷侯に封じようとした。賀循は私宅で病臥していると自ら言い、固辞して受けなかった。建武年間の初め、中書令とし、散騎常侍を加えたが、これも老病を理由に固辞した。元帝が令を下して、「弧(わたし)は寡徳であるが、重責を任されている。巨大な川を渡るように、足がかりがない。賀循は言行が礼に適い、当世の名望家であり、社会の手本である。賀循の謀議と計略に頼れば、万機を安泰にできよう。持病があるならば、横になったままでよいから政権を輔佐してほしい。しかし謙譲を守って、辞退がねんごろである。これは賢者が信義に基づいて行動し、謙虚さを美徳とするためだ。もう彼の言うとおりにせよ(担当職務を与えるな)」と言った。改めて太常に任じ、常侍はそのままとした。賀循は九卿(太常)は旧来より(担当職務のない)加官ではなく、また病気なので兼職すべきでないといい、太常だけを拝した。
このとき宗廟が設立されたばかりで、旧来の儀礼が分からなくなっていた。「恵帝と懐帝は(兄弟であるが)それぞれ一代として数えるべきだ。すると潁川(司馬雋)は七世以上前なので、順番に廟を壊すべきである」とした。案件は太常に下された。賀循は提議した。「礼において、兄弟は後継者とならず、即位しても世の数に入りません。殷の盤庚は(兄弟で継承した)陽甲を世数に入れず、後漢の光武帝は(高祖劉邦から同じ世代数の)前漢の成帝を継承したと見なさず、別に廟寝を立て、臣下に祭らせました。これは前代の明らかな典例であり、継承の規則です。恵帝に後嗣がおらず、(弟の)懐帝が帝位を継ぎましたが、弟は兄の後嗣とならないので、懐帝から遡って世祖(武帝)を継いだと見なし、恵帝を継いだとは見なしません。殷の陽甲や漢の成帝と同じです。議者は聖徳は深遠で、軽々しく旧例を改めないと言いますが、七廟制における世の数え方は、まだ議論が尽くされていません。そのため恵帝がなお太廟に祭られ、追加で懐帝を入れれば、木主(位牌)が八つとなります。八つになり(七廟を超え)、恵帝を残すために、もっとも古い祖先(潁川太守の司馬儁)を追い出すべきではありません。下の世代の(兄弟や傍系からの継承という)事情で、上の世代を移動させるならば、木主の遷移や廃棄が、つじつまが合わなくなります。下の一世代で、祖先の二世分を廃棄するという法はありません。恵帝と懐帝はどちらも世祖(武帝の司馬炎)を継いだと見なし、兄弟は横並びで、一世と数えます。しかし(恵帝を残せば一世代で)上の世代を二つ押し出すことになります。恵帝が崩御したとき豫章(豫章太守の司馬量。司馬儁の父)の廟を毀し、懐帝を加えるときさらに潁川(司馬儁)を毀し、一世代で祖先の二世代を廟から出せば、みだりに祖先の神主を壊したことになります。古義に求めても、前例がありません。恵帝の木主を七廟から出すべきです。この問題は軽々しく論じるべきなく、まして義例に基づかずに軽率に祖先の廟を壊してよいはずがありません。潁川(司馬儁)を壊すべき理はありませんが、現に神主の数が八つになっており、これには相応の理由がありましたが、七廟の常制には違反します。すでに神主が八つあるので、七室の外に、暫定的に一位を置かざるを得ません。至尊(元帝)は恵帝と懐帝に対して兄弟(同世代)ですから、世祖(武帝)の後継者にあたり、二帝(恵帝と懐帝)を継ぐことにならないので、二帝の神主は順次出して別に置き、廟中を八室のままとしてはいけません。ただし武帝が初めて太廟を作ったとき、祖先の神主は七つだけでしたが、楊元后(武帝の皇后)の神主のためにも暫定的に一室を設けました。永熙元年(二九〇年)、(恵帝は)世祖の諡を太廟の八室に告げました。暫定的にせよ現に八神があれば七廟の旧例に拘らないという前例です(恵帝と懐帝の神主を即刻除かなくても構いません)。
また議者は、景帝(司馬師、文帝の兄)の廟もすでにあるので、恵帝と懐帝もこれと同じだとも言います。しかし景帝は盛徳の元功であり、建国者の一人です。義は歴代皇帝のなかでも明らかで、百世に不毀とすべきです。だから特別に本廟にあり、しかもまだ世代が近いので、特例として景帝廟は容認され、神主を安置しても良いのです。世代数のみを理由に祖先を押し出すことはありません。これは王氏(王粛)の説が(世代が下って歴代皇帝が増え)昭穆が満ちた後、別廟とすると述べた通りです。景帝に比べれば、恵帝と懐帝は重要性が違って扱いが異なります。しかも七廟は七世の祖先を祭るもので、(歴代の)昭穆は父子の関係にて繋ぐものです。もし兄弟が傍系で継ぐたび、すぐ祖先の神主を毀つなら、(元帝のように皇統が変遷すると)祖先の位には欠員が出て、祭る祖先の世代数が足りなくなります。そもそもなぜ三昭三穆を太祖廟と合わせて、七つとするのでしょうか。晋朝の七廟制は王氏(王粛)の説から出ています。始祖から高祖に至るまで、親廟は四世です。高祖より上に、五世六世の無服の祖先がいます。だから三昭三穆を太祖と合わせて七とするのです。世祖(武帝司馬炎)が郊廟の礼を定めたとき、京兆(司馬防)と潁川(司馬儁)は曾祖父と高祖父にあたり、豫章(司馬量)は五世祖、征西(司馬鈞)は六世祖なので、この規則が適応されました。いま至尊(元帝)が皇統を継ぐなら、五世祖と六世祖を祭るべきです。豫章(司馬量)は六世祖、潁川(司馬儁)は五世祖にあたるので、まだ神主を毀してはなりません。いますでに豫章を先に毀し、重ねて潁川も毀そうとしています。すると廟中の祖先は高祖(宣帝司馬懿)以下だけとなり、高祖より上の二世の祖が欠けてしまいます。王氏の義(王粛説)に照らし、三昭三穆のうち二つを欠くのは、宗廟の根本を継承したと言えず、世祖(武帝)が征西・豫章を祭ったときの趣旨にも背きます。一王朝の制度としてあまりに欠陥が大きいのです」と言った。
このとき尚書僕射の刁協は賀循と違う意見を持っていたが、賀循の答えは十全な内容であった。これ以降の議論は長文にわたるので『晋書』に掲載しない。結局が賀循の意見に従った。朝廷は疑義が生じるとすべて賀循に諮問し、賀循は経書や礼制に基づいて答え、当世の儒宗とされた。
その後、元帝は賀循が清貧であるため、令を下して言った。「賀循は氷や玉のように清潔で、行動は世の手本で、位は上卿にある。しかし衣食住は最低限の形を整えるだけで、家屋は風雨をしのぐのみだ。近ごろ賀循の庵を訪れ、慨然とした。六尺の寝台と敷物ならびに銭二十万を賜わり、至徳を顕彰し、わが思いを明らかにせよ」と言った。賀循は辞退したが、それを認めず、やむなく受け取ったが、一度も使用しなかった。元帝が皇帝に即位すると、担当官が琅邪恭王(司馬覲)を皇考(皇帝の父)と称せよと提言した。賀循は意見を述べて、「礼に照らせば、子は自分の爵位で父に加えない」と言った。元帝はこれを聞き入れた。ほどなく賀循を太子太傅を行させ、太常は留任とした。
賀循は病床に伏し、臣下の務めを果たせなくなった。上は謙譲の美徳を盛んにし、下は職分に謹むことを明らかにし、(自分が職分を果たさないことで)悪しき前例を作ることを恐れ、しきりに上表して辞職を申し出た。元帝は賀循が徳を体現して人々の模範となり、発言せずとも朝廷のためになっており、務めを果たす意欲も十分なので、辞任の願いを退けようとして、皇太子に命じて直接会いに行かせた。賀循は病身であっても、応対が恭しかった。詔して賓客を断たせ、極めて厚遇した。病が次第に重くなり、上表して骸骨を乞い、印綬を返上した。改めて左光禄大夫・開府儀同三司を授けた。元帝は朝堂に臨み、持節の使者を遣わし、賀循に印綬を加えた。賀循は言葉を発せられないが、左右に指示し、押し留めて礼服を脱がせた。車駕が行幸し、手を執って涙を流した。太子は自ら臨むこと三度、往来のたびに面会し、儒者はこれを栄誉とした。太興二年に卒し、六十歳であった。元帝は喪服を着けて哀悼を示し、賀循のために痛切に哭した。司空を贈り、諡して穆とした。葬るとき、元帝はお出ましして柩に臨み、哭して哀を尽くし、兼侍御史を遣わせて持節し葬儀を取り仕切らせた。皇太子が道ばたで見送り、船を望んで涙を流した。
賀循は幼いころから書籍に親しみ、文章を作るのに巧みで、さまざまな書物を読み、とくに礼伝に精通した。人物の鑑識眼があり、同郡の楊方を卑賎から抜擢して、世に名を成させた。子の賀隰は、康帝のとき臨海太守に至った。

原文

楊方字公回。少好學、有異才。初為郡鈴下威儀、公事之暇、輒讀五經、鄉邑未之知。內史諸葛恢見而奇之、待以門人之禮、由是始得周旋貴人間。時虞喜兄弟以儒學立名、雅愛方、為之延譽。恢嘗遣方為文、薦郡功曹主簿。虞預稱美之、送以示循。循報書曰、「此子開拔有志、意只言異於凡猥耳、不圖偉才如此。其文甚有奇分、若出其胸臆、乃是一國所推、豈但牧豎中逸羣邪。聞處舊黨之中、好有謙沖之行、此亦立身之一隅。然世衰道喪、人物凋弊、每聞一介之徒有向道之志、冀之願之。如方者乃荒萊之特苗、鹵田之善秀、姿質已良、但沾染未足耳。移植豐壤、必成嘉穀。足下才為世英、位為朝右、道隆化立、然後為貴。昔許子將拔樊仲昭於賈豎、郭林宗成魏德公於畎畝。足下志隆此業、二賢之功不為難及也」。循遂稱方於京師。司徒王導辟為掾、轉東安太守、遷司徒參軍事。
方在都邑、搢紳之士咸厚遇之、自以地寒、不願久留京華、求補遠郡、欲閑居著述。導從之、上補高梁太守。在郡積年、著五經鉤枕、更撰吳越春秋、并雜文筆、皆行於世。以年老、棄郡歸。導將進之臺閣、固辭還鄉里、終于家。

訓読

楊方 字は公回なり。少くして學を好み、異才有り。初め郡の鈴下威儀と為り、公事の暇あらば、輒ち五經を讀み、鄉邑 未だ之れっを知らず。內史の諸葛恢 見て之を奇とし、待するに門人の禮を以てす、是に由り始めて貴人の間に周旋することを得たり。時に虞喜の兄弟 儒學を以て名を立て、雅より方を愛し、之が為に延譽す。恢 嘗て方をして文を為らしめ、郡の功曹主簿に薦む。虞預 之を稱美し、送りて以て循に示す。循 書を報いて曰く、「此の子 開拔にして志有り、意は只だ言 凡猥に異なるのみ、偉才を圖らざること此の如し。其の文 甚だ奇分有れば、若し其の胸臆を出さば、乃ち是れ一國の推す所ならん。豈に但だ牧豎の中の逸羣なるのみや。聞くらく舊黨の中に處り、謙沖の行有るを好む。此れ亦た立身の一隅なり。然も世は衰へ道は喪ひ、人物 凋弊す。每に聞く一介の徒に向道の志有らば、之を冀ひ之を願へと。如し方といふ者 乃ち荒萊の特苗、鹵田の善秀にして、姿質 已に良く、但だ沾染 未だ足らざるのみ。豐壤に移植すれば、必ず嘉穀を成さん。足下の才 世英為り、位は朝右為り、道 隆く化 立ち、然る後に貴と為らん。昔 許子將 樊仲昭を賈豎より拔き、郭林宗 魏德公を畎畝に成す。足下 此の業を隆くせんと志さば、二賢の功 及び難しと為さざるなり」と。循 遂に方を京師に稱す。司徒の王導 辟して掾と為し、東安太守に轉じ、司徒參軍事に遷る。
方 都邑に在り、搢紳の士 咸 之を厚遇す。自ら地寒を以て、久しく京華に留まるを願はず、遠郡に補するを求め、閑居して著述せんと欲す。導 之に從ひ、上して高梁太守に補す。郡に在ること積年にして、五經鉤枕を著はして、更めて吳越春秋を撰し、并に雜文の筆、皆 世に行はる。年老を以て、郡を棄てて歸る。導 將に之を臺閣に進めんとするに、固辭して鄉里に還り、家に終はる。

現代語訳

楊方は字を公回という。若いころから学問を好み、並外れた才能があった。はじめ郡の鈴下威儀となったが、公務の暇があれば必ず五経を読んだ。しかし郷里で彼を知る者はなかった。内史の諸葛恢が彼を見出し、門人の礼で扱ったので、貴人と交遊できるようになった。このとき虞喜兄弟が儒学で名を立て、かねて楊方を高く評価したので、楊方の名声がさらに広まった。諸葛恢は楊方に文章を作らせ、郡の功曹主簿に推薦した。虞預も楊方を称賛し、彼の文章を賀循に見せた。賀循は返信して、「この書き手は抜群の志があり、言葉の使い方が凡人と違う。底知れない逸材である。文章に独特の気品があり、もし胸中に秘めた才が表に出れば、一国が推す人物となるだろう。牧童のなかの逸材では収まらない。聞けば旧友のなかで、謙虚に振る舞っているそうだ。これも身を立てる要素である。現在は世が衰えて政道が失われ、人材が枯渇している。一人でも志があり道を求める者がいるならば、ぜひ活躍させたい。楊方という人は荒れ地に生えた特別な苗であり、痩せた田に突然現れた良い穂のようなものだ。素質は優れるが、養分がまだ足りない。肥えた土地に植え替えれば、必ずや良い実をつける。あなた(虞預)の才能は世に優れ、位は朝廷の重職にあり、徳が高く、前途が有望だ。むかし許子将(後漢末の許劭)は樊仲昭を商人から引き上げ、郭林宗(郭泰)は魏徳公を農夫から見出した。あなたも同じように人材(楊方)を発見したのだから、二人の功績にも劣らない」と言った。こうして賀循は京師で楊方を讃えた。司徒の王導が辟召して楊方を掾とし、東安太守に転じ、司徒参軍事に遷った。
楊方が都にいたとき、士大夫はみな彼を厚遇した。しかし楊方は寒門出身であることを気に病み、長く都に留まりたいと望まず、遠い郡に赴任し、静かな環境で著述したいと願った。王導は望みを聞き入れ、上表して高梁太守に任命した。郡にいた数年間で、『五経鉤枕』を著して、『呉越春秋』を撰した。他にもさまざまな文章が、世に広まった。老齢を理由に、太守を辞して帰郷した。王導が彼を台閣に登用しようとしたが固辞し、故郷に戻って、家で死んだ。

薛兼

原文

薛兼字令長、丹楊人也。祖綜、仕吳為尚書僕射。父瑩、有名吳朝。吳平、為散騎常侍。兼清素有器宇、少與同郡紀瞻・廣陵閔鴻・吳郡顧榮・會稽賀循齊名、號為「五儁」。
初入洛、司空張華見而奇之、曰、「皆南金也」。察河南孝廉、辟公府、除比陽相、莅任有能名。歷太子洗馬・散騎常侍・懷令。司空・東海王越引為參軍、轉祭酒、賜爵安陽亭侯。元帝為安東將軍、以為軍諮祭酒、稍遷丞相長史。甚勤王事、以上佐祿優、每自約損、取周而已。進爵安陽鄉侯、拜丹楊太守。中興建、轉尹、加秩中二千石、遷尚書、領太子少傅。自綜至兼、三世傅東宮、談者美之。
永昌初、王敦表兼為太常。明帝即位、加散騎常侍。帝以東宮時師傅、猶宜盡敬、乃下詔曰、「朕以不德、夙遭閔凶。猥以眇身、託于王公之上。哀煢在疚、靡所諮仰、憂懷惴惴、如臨于谷。孔子有云、『故雖天子、必有尊也。』朕將祗奉先師之禮、以諮有德。太宰西陽王秩尊望重、在貴思降。丞相武昌公・司空即丘子體道高邈、勳德兼備、先帝執友、朕之師傅。太常安陽鄉侯訓保朕躬、忠肅篤誠。夫崇親尊賢、先帝所重、朕見四君及書疏儀體、一如東宮故事」。是歲、卒。詔曰、「太常・安陽鄉侯兼履德沖素、盡忠恪己。方賴德訓、弘濟政道、不幸殂殞、痛于厥心。今遣持節侍御史贈左光祿大夫・開府儀同三司。魂而有靈、嘉茲榮寵」。及葬、屬王敦作逆、朝廷多故、不得議諡、直遣使者祭以太牢。子顒、先兼卒、無後。

訓読

薛兼 字は令長、丹楊の人なり。祖の綜、吳に仕へて尚書僕射と為る。父の瑩、吳朝に名有り。吳 平らぐや、散騎常侍と為る。兼 清素にして器宇有り、少くして同郡の紀瞻・廣陵の閔鴻・吳郡の顧榮・會稽の賀循と與に名を齊しくし、號して「五儁」と為す。
初めて洛に入るや、司空の張華 見て之を奇として、曰く、「皆 南の金なり」と。河南の孝廉に察し、公府に辟せられ、比陽相に除せられ、任に莅びて能名有り。太子洗馬・散騎常侍・懷令を歷す。司空・東海王越 引きて參軍と為し、祭酒に轉じ、爵安陽亭侯を賜はる。元帝 安東將軍と為るや、以て軍諮祭酒と為す、稍く丞相長史に遷る。甚だ王事に勤め、上佐にして祿優なるを以て、每に自ら約損し、周きを取るのみ。爵安陽鄉侯に進み、丹楊太守を拜す。中興 建つや、尹に轉じ、秩中二千石を加へ、尚書に遷り、太子少傅を領す。綜より兼に至るまで、三世に東宮に傅たりて、談者 之を美す。
永昌の初め、王敦 兼を表して太常と為す。明帝 即位するや、散騎常侍を加ふ。帝 東宮の時に師傅たりしを以て、猶ほ宜しく敬を盡すべしとし、乃ち詔を下して曰く、「朕 不德を以て、夙に閔凶に遭ふ。猥りに眇身を以て、王公の上を託さる。哀煢 疚在り、諮仰する所靡く、憂懷 惴惴として、谷に臨むが如し。孔子 云ふ有り、『故に天子と雖も、必ず尊ぶもの有り』と。朕 將に祗て先師の禮を奉り、以て有德に諮らんとす。太宰の西陽王 秩は尊く望は重く、貴に在りて降を思ふ。丞相武昌公・司空の即丘子 道を體し高邈にして、勳德 兼備し、先帝の執友にして、朕の師傅なり。太常安陽鄉侯 朕が躬を訓保して、忠肅 篤誠なり。夫れ親を崇び賢を尊ぶは、先帝 重んずる所にして、朕 四君に見へて及び書疏の儀體、一に東宮の故事の如くせよ」と。是の歲、卒す。詔して曰く、「太常・安陽鄉侯の兼 德を履みて沖素なり、忠を盡し己を恪す。方に德訓に賴りて、政道を弘濟せんとするに、不幸にして殂殞し、厥の心に痛む。今 持節侍御史を遣はして左光祿大夫・開府儀同三司を贈る。魂ありて靈有らば、茲の榮寵を嘉せ」と。葬に及び、王敦の逆を作すに屬ひ、朝廷 多故なれば、諡を議するを得ず、直だ使者を遣はして祭るに太牢を以てす。子の顒、兼に先んじて卒し、後無し。

現代語訳

薛兼は、字を令長といい、丹楊の人である。祖父の薛綜は、三国呉に仕えて尚書僕射となった。父の薛瑩も、呉朝で名望があった。呉朝が平定されると、薛瑩は散騎常侍となった。薛兼は清廉で気宇が大きく、若くして同郡の紀瞻・広陵の閔鴻・呉郡の顧栄・会稽の賀循と名声が並び、「五俊」と呼ばれた。
洛陽に入ると、司空の張華は薛兼たちと会って才能に驚き、「五人は南方の金である」と評した。薛兼は河南の孝廉に察挙され、公府に辟召され、比陽相に任命され、職務では有能さで知られた。太子洗馬・散騎常侍、懐県令を歴任した。司空の東海王越(司馬越)に招かれて参軍となり、祭酒に転じ、安陽亭侯の爵位を賜った。元帝が安東将軍となると、薛兼を軍諮祭酒とし、やがて丞相長史に進んだ。薛兼は王国の政治に勤め、上級の補佐として俸給が厚かったが、いつも倹約し、必要経費のみを取った。安陽郷侯に進封され、丹楊太守を拝した。中興(東晋)の建国後、丹陽尹に転じ、秩は中二千石に加え、尚書に遷り、太子少傅を領した。薛綜から薛兼まで、三代にわたり東宮(皇太子)の教育役を担い、人々は美談とした。
永昌年間の初め、王敦は上表して薛兼を太常とした。明帝が即位すると、薛兼に散騎常侍を加えた。明帝が東宮にいたときに師傅(指導役)だったので、敬意を尽くすべきだと考え、明帝は詔して、「朕は徳が乏しく、若くして父を失った。徳の薄い身でありながら、(皇帝として)王公の上に立った。とても心細く、頼る相手がおらず、憂鬱な気持ちで、谷の前に立つ思いである。孔子は、『天子にも尊ぶ者がいる』と言った。朕は謹んで先師の礼を奉り、有徳者に指導を求めたい。太宰の西陽王(司馬羕)は地位と名望が高く、尊貴でありながら驕らない。丞相の武昌公(王敦)と司空の即丘子(王導)は高潔な道を体現し、勲功と徳を兼ね備え、先帝の友であり朕の師傅でもある。太常・安陽郷侯(薛兼)はわが指導役であり、忠正で誠実である。親族を敬い賢者を尊ぶのは、先帝が大切にしたことである。朕は以上の四君に礼を施し、書簡の形式は、すべて東宮の故事の通りとする」と言った。この年、薛兼が亡くなった。詔して、「太常・安陽郷侯の薛兼は徳を実践して清らかで、忠を尽くし自ら慎んだ。彼に訓導を受けて、政治を支えてもらおうと思ったが、不幸にも亡くなり、痛惜に堪えない。いま持節・侍御史を派遣して、左光禄大夫・開府儀同三司を追贈する。もし死後も霊魂があるなら、この栄誉を喜んでほしい」とした。葬儀のとき、王敦の反乱が起こり、朝廷が多忙なので、諡号を議論できず、ただ使者を送り太牢で祭った。息子の薛顒は、父より先に亡くなり、後嗣がなかった。

原文

史臣曰、元帝樹基淮海、百度權輿、夢想羣材、共康庶績。顧・紀・賀・薛等並南金東箭、世冑高門、委質霸朝、豫聞邦政。典憲資其刊輯、帷幄佇其謀猷。望重搢紳、任惟元凱、官成名立、光國榮家。非惟感會所鍾、抑亦材能斯至。而循位登保傅、朝望特隆、遂使鑾蹕降臨、承明下拜。雖西漢之恩崇張禹、東都之禮重桓榮、弗是過也。
贊曰、彥先通識、思遠方直。薛既清貞、賀惟學植。逢時遇主、摶風矯翼。

訓読

史臣曰く、元帝 基を淮海に樹て、百度 權輿なり、羣材を夢想し、共に庶績を康んず。顧・紀・賀・薛ら並びに南金・東箭なり。世冑の高門、霸朝に委質し、邦政を豫聞す。典憲 其の刊輯に資り、帷幄 其の謀猷を佇す。望は搢紳に重く、任は惟れ元凱なり。官 成り名 立ち、國を光し家を榮にす。惟だ感會の鍾る所のみに非ず、抑々亦た材能 斯れ至る。而して循 位は保傅に登り、朝望 特に隆し。遂に鑾蹕をして降臨し、承明して下拜せしむ。西漢の恩 張禹を崇び、東都の禮 桓榮を重んずと雖も、是れより過ぐる弗きなり。
贊に曰く、彥先は通識にして、思遠は方直なり。薛は既に清貞にして、賀は惟れ學植なり。時に逢ひ主に遇ひ、風に摶(ま)きて翼を矯(あ)ぐ。

現代語訳

史官がいう、元帝は淮海の地(揚州)に基盤を築き、国家の大枠は形があった。才能を広く求め、ともに政治を安定させようとした。顧栄・紀瞻・賀循・薛兼らはいずれも(揚州出身で)南方の金や東方の矢のような、現地の名産品のようなもので、晋帝国に身を寄せ、国政に関与した。法制度の整備で彼らを頼り、軍略や政策立案も彼らが進めた。名望は士大夫のなかで重く、国家の重臣であった。官位に就いて名声を立て、国家を輝かせ一族を栄えさせた。これは時勢が幸いしただけでなく、才能を発揮したおかげである。賀循は保傅の地位(太子太傅)に登り、朝廷での名望はとくに高かった。天子に直接訪問を受け、ありがたくも見舞いを受けた。前漢の張禹や、後漢の桓栄が受けた厚遇よりも、さらに手厚かった。
賛にいう。彦先(顧栄)は博識で、思遠(紀瞻)は剛直である。薛兼は清廉で、賀循は学問が深い。時代と君主に恵まれ、追い風を受けて飛翔した。