いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第四十三巻_庾亮(子彬・羲・龢・弟懌・冰・條・翼)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

庾亮

原文

庾亮字元規、明穆皇后之兄也。父琛、在外戚傳。亮美姿容、善談論、性好莊老、風格峻整、動由禮節、閨門之內不肅而成、時人或以為夏侯太初・陳長文之倫也。年十六、東海王越辟為掾、不就、隨父在會稽、嶷然自守。時人皆憚其方儼、莫敢造之。
元帝為鎮東時、聞其名、辟西曹掾。及引見、風情都雅、過於所望、甚器重之。由是聘亮妹為皇太子妃、亮固讓、不許。轉丞相參軍。預討華軼功、封都亭侯、轉參丞相軍事、掌書記。中興初、拜中書郎、領著作、侍講東宮。其所論釋、多見稱述。與溫嶠俱為太子布衣之好。時帝方任刑法、以韓子賜皇太子、亮諫以申韓刻薄傷化、不足留聖心、太子甚納焉。累遷給事中・黃門侍郎・散騎常侍。時王敦在蕪湖、帝使亮詣敦籌事。敦與亮談論、不覺改席而前、退而歎曰、「庾元規賢於裴頠遠矣」。因表為中領軍。

明帝即位、以為中書監、亮上書讓曰、
臣凡庸固陋、少無殊操、昔以中州多故、舊邦喪亂、隨侍先臣遠庇有道、爰容逃難、求食而已。不悟徼時之福、遭遇嘉運。先帝龍興、垂異常之顧、既眷同國士、又申以婚姻、遂階親寵、累忝非服。弱冠濯纓、沐浴芳風、頻煩省闥、出總六軍、十餘年間、位超先達。無勞受遇、無與臣比。小人祿薄、福過災生、止足之分、臣所宜守。而偷榮昧進、日爾一日、謗讟既集、上塵聖朝。始欲自聞、而先帝登遐、區區微誠、竟未上達。
陛下踐阼、聖政惟新、宰輔賢明、庶僚咸允、康哉之歌實存于至公。而國恩不已、復以臣領中書。臣領中書、則示天下以私矣。何者。臣於陛下、后之兄也。姻婭之嫌、與骨肉中表不同。雖太上至公、聖德無私、然世之喪道、有自來矣。悠悠六合、皆私其姻、人皆有私、則天下無公矣。是以前後二漢、咸以抑后黨安、進婚族危。向使西京七族・東京六姓皆非姻族、各以平進、縱不悉全、決不盡敗。今之盡敗、更由姻昵。
臣歷觀庶姓在世、無黨於朝、無援於時、植根之本輕也薄也。苟無大瑕、猶或見容。至於外戚、憑託天地、連勢四時、根援扶疏、重矣大矣。而或居權寵、四海側目、事有不允、罪不容誅。身既招殃、國為之弊。其故何邪。由姻媾之私羣情之所不能免、是以疏附則信、姻進則疑。疑積於百姓之心、則禍成於重閨之內矣。此皆往代成鑒、可為寒心者也。夫萬物之所不通、聖賢因而不奪。冒親以求一寸之用、未若防嫌以明至公。今以臣之不才、兼如此之嫌、而使內處心膂、外總兵權、以此求治、未之聞也。以此招禍、可立待也。雖陛下二相明其愚款、朝士百僚頗識其情、天下之人安可門到戶說使皆坦然邪。
夫富貴榮寵、臣所不能忘也。刑罰貧賤、臣所不能甘也。今恭命則愈、違命則苦、臣雖不達、何事背時違上、自貽患責邪。實仰覽殷鑒、量己知弊、身不足惜、為國取悔、是以悾悾屢陳丹款。而微誠淺薄、未垂察諒、憂惶屏營不知所措。願陛下垂天地之鑒、察臣之愚、則臣雖死之日、猶生之年矣。
疏奏、帝納其言而止。

王敦既有異志、內深忌亮、而外崇重之。亮憂懼、以疾去官。復代王導為中書監。及敦舉兵、加亮左衛將軍、與諸將距錢鳳。及沈充之走吳興也、又假亮節・都督東征諸軍事、追充。事平、以功封永昌縣開國公、賜絹五千四百匹、固讓不受。轉護軍將軍。
及帝疾篤、不欲見人、羣臣無得進者。撫軍將軍・南頓王宗、右衛將軍虞胤等、素被親愛、與西陽王羕將有異謀。亮直入臥內見帝、流涕不自勝、既而正色陳羕與宗等謀廢大臣、規共輔政、社稷安否、將在今日、辭旨切至。帝深感悟、引亮升御座、遂與司徒王導受遺詔輔幼主。加亮給事中、徙中書令。太后臨朝、政事一決於亮。
先是、王導輔政、以寬和得眾、亮任法裁物、頗以此失人心。又先帝遺詔褒進大臣、而陶侃・祖約不在其例、侃・約疑亮刪除遺詔、並流怨言。亮懼亂、於是出溫嶠為江州以廣聲援、修石頭以備之。會南頓王宗復謀廢執政、亮殺宗而廢宗兄羕。宗、帝室近屬、羕、國族元老、又先帝保傅、天下咸以亮翦削宗室。
琅邪人卞咸、宗之黨也、與宗俱誅。咸兄闡亡奔蘇峻、亮符峻送闡、而峻保匿之。峻又多納亡命、專用威刑、亮知峻必為禍亂、徵為大司農。舉朝謂之不可、平南將軍溫嶠亦累書止之、皆不納。峻遂與祖約俱舉兵反。溫嶠聞峻不受詔、便欲下衛京都、三吳又欲起義兵、亮並不聽、而報嶠書曰、「吾憂西陲過於歷陽、足下無過雷池一步也」。既而峻將韓晃寇宣城、亮遣距之、不能制、峻乘勝至于京都。詔假亮節・都督征討諸軍事、戰于1.建陽門外。軍未及陣、士眾棄甲而走。亮乘小船西奔、亂兵相剝掠、亮左右射賊、誤中柂工、應弦而倒、船上咸失色欲散。亮不動容、徐曰、「此手何可使著賊」。眾心乃安。
亮攜其三弟懌・條・翼南奔溫嶠、嶠素欽重亮、雖在奔敗、猶欲推為都統。亮固辭、乃與嶠推陶侃為盟主。侃至尋陽、既有憾於亮、議者咸謂侃欲誅執政以謝天下。亮甚懼、及見侃、引咎自責、風止可觀。侃不覺釋然、乃謂亮曰、「君侯修石頭以擬老子、今曰反見求耶」。便談宴終日。亮噉薤、因留白。侃問曰、「安用此為」。亮云、「故可以種」。侃於是尤相稱歎云、「非惟風流、兼有為政之實」。
既至石頭、亮遣督護王彰討峻黨張曜、反為所敗。亮送節傳以謝侃、侃答曰、「古人三敗、君侯始二。當今事急、不宜數耳」。又曰、「朝政多門、用生國禍。喪亂之來、豈獨由峻也」。亮時以二千人守白石壘、峻步兵萬餘、四面來攻、眾皆震懼。亮激厲將士、並殊死戰、峻軍乃退、追斬數百級。

1.『晋書斠注』は、成帝紀に基づいて「建陽門」を「宣陽門」に作るべきとする。

訓読

庾亮 字は元規、明穆皇后の兄なり。父の琛は、外戚傳に在り。亮 姿容美しく、談論を善くす。性は莊老を好み、風格 峻整にして、動きて禮節に由る。閨門の內 肅まずして成らば、時人 或いは以て夏侯太初・陳長文の倫と為す。年十六にして、東海王越 辟して掾と為すも、就かず。父に隨ひて會稽に在り、嶷然として自守す。時人 皆 其の方儼なるを憚かり、敢て之に造(いた)るもの莫し。
元帝 鎮東と為る時、其の名を聞き、辟して西曹掾とす。引きて見るに及び、風情 都(とも)に雅たり、望む所より過ぎ、甚だ之を器重す。是に由りて亮の妹を聘して皇太子妃と為す。亮 固讓するも、許さず。丞相參軍に轉ず。華軼を討つ功に預り、都亭侯に封ぜられ、參丞相軍事に轉じ、書記を掌る。中興の初め、中書郎を拜し、著作を領し、東宮に侍講す。其の論釋する所、多く稱述せらる。溫嶠と與に俱に太子の布衣の好を為す。時に帝 方に刑法に任じ、韓子を以て皇太子に賜ふ。亮 諫めて以へらく、申韓は刻薄にして化を傷なひ、聖心を留むるに足らずと。太子 甚だ焉を納る。給事中・黃門侍郎・散騎常侍に累遷す。時に王敦 蕪湖に在り、帝 亮をして敦に詣りて事を籌らしむ。敦 亮と談論し、覺えずして席を改めて前む。退きて歎じて曰く、「庾元規 裴頠より賢きこと遠きなり」と。因りて表して中領軍と為す。

明帝 即位するや、以て中書監と為す。亮 上書して讓して曰く、
「臣 凡庸固陋にして、少くして殊操無し。昔 中州の多故なるを以て、舊邦 喪亂し、先臣に隨侍して遠く有道に庇はれ、容を爰(か)へて逃難し、食を求むるのみ。悟らざりき時の福を徼めて、嘉運に遭遇す。先帝 龍興するや、異常の顧を垂れ、既に眷 國士に同じく、又 申するに婚姻を以てし、遂に親寵に階して、累りに非服を忝くす。弱冠にして纓を濯ひ、芳風に沐浴し、省闥に頻煩して、出でて六軍を總べて、十餘年間、位は先達に超ぐ。勞無くして遇を受くるもの、臣と比する無し。小人 祿は薄く、福 過ぎれば災 生ず。止足の分、臣の宜しく守るべき所なり。而れども榮を偷みて進を昧ぼること、日に爾く一日、謗讟 既に集まり、上は聖朝を塵す。始めて自聞せんと欲するに、而れども先帝 登遐せり。區區たる微誠、竟に未だ上達せず。
陛下 踐阼するや、聖政 惟れ新たなり。宰輔は賢明にして、庶僚 咸 允たり。康哉の歌 實に至公に存す。而も國恩 已まず、復た臣を以て中書を領せしむ。臣 中書を領すれば、則ち天下に私を以てするを示さん。何者ぞや。臣 陛下に於て、后の兄なり。姻婭の嫌、骨肉の中表と同じからず。太上は至公にして、聖德 無私なると雖も、然れども世の道を喪ひて、自來有り。悠悠たる六合、皆 其の姻を私にす。人 皆 私有らば、則ち天下 公無し。是を以て前後の二漢、咸 后黨を抑ふるを以て安んじ、婚族を進むれば危ふし。向に西京の七族・東京の六姓の皆 姻族に非ざるものをして、各々平を以て進めしめ、縱ひ悉くは全からずとも、決して盡くは敗れず。今の盡く敗るるは、更に姻昵に由る。
臣 歷觀に庶姓として世に在り、朝に黨無く、時に援無し。根を植うるの本 輕なり薄なり。苟くも大瑕無くんば、猶ほ或いは容れられん。外戚たるに至り、天地に憑託し、勢を四時に連ね、援を扶疏に根ざし、重なり大なり。而も或いは權寵に居れば、四海 側目し、事 不允なる有るも、罪 誅を容れず。身 既に殃を招き、國 之が為に弊す。其の故は何ぞや。姻媾の私は羣情の能く免れざる所なるに由り、是を以て疏く附するときは則ち信ぜられ、姻し進むときは則ち疑はる。疑ひ百姓の心に積まば、則ち禍 重閨の內に成る。此れ皆 往代の成鑒たりて、心を寒しと為す可き者なり。夫れ萬物の通ぜざる所なれば、聖賢 因りて奪はず。親を冒して以て一寸の用を求め、未だ嫌を防ぎて以て至公を明らかにするに若かず。今 臣の不才を以て、兼せて此の如きの嫌あり、而も內は心膂に處らしめ、外は兵權を總べしめ、此を以て治を求むるは、未だ之れ聞かざるなり。此を以て禍ひを招くは、立ちて待つ可きなり。陛下 二相 其の愚款を明らかにし、朝士百僚 頗る其の情を識ると雖も、天下の人 安くにか門ごとに到り戶ごとに說きて皆をして坦然とせしむ可きや。
夫れ富貴榮寵、臣の能く忘れざる所なり。刑罰貧賤、臣の能く甘んぜざる所なり。今 命に恭ふは則ち愈なり、命に違ふは則ち苦なり。臣 不達と雖も、何事もて時に背きて上に違き、自ら患責を貽さんや。實に仰ぎて殷鑒を覽じ、己の知 弊なるを量り、身は惜しむに足らず、國の為に悔を取る。是を以て悾悾として屢々丹款を陳ぶ。而れども微誠 淺薄にして、未だ察諒を垂れず、憂惶し屏營して措く所を知らず。願はくは陛下 天地の鑒を垂れ、臣の愚を察せよ。則ち臣 死するの日と雖も、猶ほ生くるの年のごとし」と。
疏 奏せられ、帝 其の言を納れて止む。

王敦 既に異志有り、內に深く亮を忌み、而して外に之を崇重す。亮 憂懼し、疾を以て官を去る。復た王導に代はりて中書監と為る。敦 舉兵するに及び、亮に左衛將軍を加へ、諸將と與に錢鳳を距ぐ。沈充の吳興に走るに及ぶや、又 亮に節・都督東征諸軍事を假し、充を追はしむ。事 平らぐや、功を以て永昌縣開國公に封じ、絹五千四百匹を賜はるも、固讓して受けず。護軍將軍に轉ず。
帝 疾篤に及び、人に見るを欲せず、羣臣 得て進む者無し。撫軍將軍・南頓王宗、右衛將軍の虞胤ら、素より親愛を被り、西陽王羕と與に將に異謀有らんとす。亮 直ちに臥內に入りて帝に見え、流涕して自ら勝へず。既にして色を正して羕と宗らの大臣を廢せんと謀り、共に輔政するを規り、社稷の安否、將に今日に在るを陳す。辭旨 切至たり。帝 深く感悟し、亮を引きて御座に升し、遂に司徒の王導と與に遺詔を受けて幼主を輔けしむ。亮に給事中を加へ、中書令に徙す。太后 臨朝するや、政事 一に亮に決せらる。
是より先、王導 輔政するや、寬和を以て眾を得たり。亮 法に任せて物を裁き、頗る此を以て人心を失ふ。又 先帝 遺詔して大臣を褒進し、而れども陶侃・祖約 其の例に在らず、侃・約 亮 遺詔を刪除するを疑ひ、並びに怨言を流す。亮 亂を懼れ、是に於て溫嶠を出して江州と為して以て聲援を廣め、石頭を修めて以て之に備ふ。會々南頓王宗 復た廢して執政を謀り、亮 宗を殺して宗の兄の羕を廢す。宗は、帝室の近屬なり。羕は、國族の元老にして、又 先帝の保傅なり。天下 咸 以へらく亮 宗室を翦削すと。
琅邪の人の卞咸、宗の黨なり、宗と與に俱に誅せらる。咸の兄の闡 蘇峻に亡奔し、亮 峻に符して闡に送らしめ、而れども峻 之を保匿す。峻 又 多く亡命を納れ、專ら威刑を用ふ。亮 峻 必ず禍亂を為すことを知り、徵して大司農と為す。朝を舉げて之を不可と謂ひて、平南將軍の溫嶠も亦た書を累ねて之を止むるも、皆 納れず。峻 遂に祖約と與に俱に兵を舉げて反す。溫嶠 峻 詔を受けざるを聞き、便ち下りて京都を衛らんと欲し、三吳も又 義兵を起さんと欲するも、亮 並びに聽さず。而して嶠の書に報へて曰く、「吾 西陲を憂ふに歷陽に過ぎたり、足下 雷池を過ぐること一步だにする無かれ」と。既にして峻の將の韓晃 宣城を寇し、亮 遣はして之を距がしむるも、制する能はず、峻 勝に乘じて京都に至る。詔して亮に節を假し都督征討諸軍事たらしめ、建陽門(宣陽門)外に戰はしむ。軍 未だ陣に及ばざるに、士眾 甲を棄てて走る。亮 小船に乘りて西奔り、亂兵 相 剝掠し、亮の左右 賊を射て、誤りて柂工に中て、弦に應じて倒れ、船上 咸 色を失ひて散ぜんと欲す。亮 容を動ぜず、徐ろに曰く、「此の手 何ぞ賊に著かしむ可き」と。眾心 乃ち安らぐ。
亮 其の三弟たる懌・條・翼を攜へて南のかた溫嶠に奔り、嶠 素より亮を欽重せば、奔敗に在ると雖も、猶ほ推して都統と為さんと欲す。亮 固辭し、乃ち嶠と與に陶侃を推して盟主と為す。侃 尋陽に至るや、既に亮を憾む有り、議者 咸 謂へらく侃 執政(ゆりよう)を誅して以て天下に謝せんと欲すと。亮 甚だ懼れ、侃に見るに及び、咎を引きて自責し、風止 觀る可し。侃 覺らずして釋然とし、乃ち亮に謂ひて曰く、「君侯 石頭を修めて以て老子に擬す。今曰 反りて求められずや」と。便ち談宴すること終日。亮 薤を噉するも、因りて白を留む。侃 問ひて曰く、「安にして此を用て為す」と。亮云く、「故に以て種う可し」と。侃 是に於て尤も相 稱歎して云く、「惟れ風流なるのみに非ず、兼せて為政の實有り」と。
既に石頭に至るや、亮 督護の王彰を遣はして峻の黨の張曜を討たしめ、反りて敗る所と為る。亮 節傳を送りて以て侃に謝す。侃 答へて曰く、「古人 三たび敗れ、君侯は始めて二たびなり。當今の事 急なれば、宜しく數(せ)むべからざるのみ」と。又 曰く、「朝政に門多く、用て國禍を生ず。喪亂の來は、豈に獨り峻に由るのみや」と。亮 時に二千人を以て白石壘を守る。峻の步兵 萬餘、四面 來攻し、眾 皆 震懼す。亮 將士を激厲し、並びに殊死もて戰ひ、峻の軍 乃ち退き、追ひて數百級を斬る。

現代語訳

庾亮は字を元規といい、明穆皇后の兄である。父の庾琛は、外戚伝に事績がある。庾亮は姿形が美しく、談論を得意とした。老荘を好きこのみ、風格は厳正であり、行動は礼節に基づいた。家中のものは躾けずとも(庾亮の影響により)礼節を守ったので、当時の人は庾亮を夏侯太初(夏侯玄)や陳長文(陳羣)と同類であるとした。十六歳のとき、東海王越(司馬越)が辟召して掾としたが、着任しなかった。父に従って会稽におり、超然として身を保った。当時の人はみなその厳格さを憚り、訪問することがなかった。
元帝が鎮東将軍になったとき、庾亮の名声を聞き、辟召して西曹掾とした。招いて面会すると、佇まいが優雅であり、予想より優れていたので、とても尊重した。これによって庾亮の妹を嫁入りさせて皇太子妃とした。庾亮は固辞したが、許さなかった。丞相参軍に転じた。華軼を討伐した功績により、都亭侯に封建され、参丞相軍事に転じ、文書記録を司った。中興(東晋)の初め、中書郎を拝し、著作を領し、東宮に侍講した。その講釈は、多くが書き留められた。温嶠とともに太子と(立場を超えて)布衣の交際をした。このとき元帝は刑法を制定しており、『韓子』を皇太子に賜わった。庾亮は諫めて、申不害と韓非子は刻薄な(刑罰を論じた)書物で教化を傷つけるため、太子が心に留める必要はありませんと言った。太子は心から同意した。給事中・黄門侍郎・散騎常侍に累遷した。このとき王敦が蕪湖におり、元帝は庾亮に王敦のもとを訪問させて政策を話し合わせた。王敦は庾亮と談論し、思わず座席を前に進めた。別れてから感嘆し、「庾元規(庾亮)は裴頠よりも遥かに賢い」と言った。そこで上表して中領軍とした。

明帝が即位すると、庾亮を中書監とした。庾亮は上書して辞退し、
「臣(わたくし)は凡庸で頑迷であり、若いときから優れた節義がありません。むかし中原で戦乱が起こって、故郷が戦乱で失われ、先代の臣に随従して遠い土地で有道の君主に庇護され、着の身着のままで逃げて、食糧を求めただけです。まさか僥倖を求めて、幸運に出会えるとは思いもしませんでした。先帝が帝位につくと、特別の恩寵を垂れ、在地の臣のように厚遇され、婚姻を申し入れて頂き、高い地位を何度も登り、不相応の立場におります。弱冠にして世俗を脱し、清らかな風を浴びましたが、(意図せず)宮中で激務をあずかり、六軍を統率して出陣し、十年あまりが過ぎ、官位は先達を超えました。苦労して厚遇されたもので、私に匹敵する者はいません。つまらぬ人物は俸禄が薄いもので、俸禄をもらい過ぎれば禍いが生じます。踏み止まるべき分限を、私は守るべきであります。しかし栄光を盗んで昇進を貪ることは、日ごとに進み、誹謗中傷が集まり、朝廷にまで汚名が及ぶでしょう。わが考えを直接お伝えしようとしましたが、先帝は崩御しました。私なりの誠意を、報告できませんでした。
陛下が即位し、政治が一新されました。宰相は賢明で、官僚たちは正しく働き、(太平を褒める)康哉の歌が全域に広がっています。しかし国家の恩寵は相変わらずで、臣(わたくし)に中書を領させました。臣が中書を領すれば、天下を私物化していることになります。なぜそうなるのでしょうか。臣は陛下にとって、皇后の兄です。姻戚を公職から遠ざけることは、親族のなかで敬意を払うこととは別物です。君主は至公の政治をおこない、聖德は無私で偏りがないものですが、近年では正しい道が失われ、偏りの弊害が続いています。遠大なる帝国(西晋か)ですら、姻戚を贔屓しました。人々が私心を持つと、天下から公が去ります。ですから前後の二漢は、外戚を抑えれば安定し、外戚を昇進させれば不安定になりました。さきに西京の七姓・東京の六姓のなかで姻族でないものを、公平に評価して昇進させました。すべてが成功せずとも、すべてが失敗するわけではありません。それでもすべて失敗するならば、それは姻戚を寵用し過ぎたことが原因です。
私は歴代に庶姓として在籍し、朝廷に私党がおらず、当世に庇護者がおらず、根元が薄く軽くて不安定な立場でした。大きな失敗さえなければ、世間で辛うじて生きていけたでしょう。しかし外戚となるに至り、天地に基盤が繋がり、権勢が四時に連なり、わが一族は根を張って、重く大きな立場になりました。過剰なまでに高い地位にいるため、天下の人々から注目され、もしも不当なことをすれば、(罪が重すぎて)誅殺しても足りません。わが身が禍いを招けば、国家の体力は削られます。なぜでしょうか。ひとは姻戚に対する私情を拭いがたいので、親類を閑職におけば(群臣から)支持され、親類を要職におけば疑われます。群臣が疑念を持てば、禍いが宮室に起こります。これは歴史の教訓であり、決して脅しではありません。思い通りにならないことがあれば、明君はそれに逆らいません。姻戚として要職に登用されるよりは、群臣の反感を回避して国家のために貢献したいと思います。私は才能がない上に、外戚への敵意もあります。朝廷の内で天子のそばを占領し、朝廷の外で兵権を統率すれば、天下を安定させようとしおても、できない相談です。この体制をとれば、禍いが来るのを待っているようなものです。陛下と二名の宰相が私の本心を知り尽くし、かりに朝廷の百官も(わたくし庾亮を中書監にする)事情を理解したとしても、天下の人々に一軒ごとに訪問して納得させることができましょうか。
富貴と栄華を、私は忘れられません。刑罰と貧賤は、私は耐えられません。いま任命を受けることは楽しみであり、命令に背くことは苦しみです。私は聡明でないにせよ、なぜ敢えて時流に逆らってまで君命に背き、自ら憂慮を招くのでしょうか。歴史の教訓に学んで、わが見識の不足を自覚し、この身を惜しまずとも、国の禍いを遠ざけるためです。ですから心からの誠意を申し上げました。この誠意が浅はかで、陛下に理解されなければ、恐ろしくて身の置き所がありません。どうか天地に通ずる判断を下し、私の誠意を受け入れて下さい。もしも死んだとしても、(辞退さえ認められれば)生きているも同然です」と言った。 上疏が提出され、皇帝は任命の中止を認めた。

王敦には野心があり、内心は深く庾亮を忌み嫌っていたが、しかし表面上は尊重した。庾亮は(王敦の敵意を察知して)憂い懼れ、病気を理由に官職から去った。また王導に代わって中書監となった。王敦が挙兵すると、庾亮に左衛将軍を加え、諸将とともに銭鳳を防いだ。沈充が呉興に逃げると、さらに庾亮に節・都督東征諸軍事を仮し、沈充を追わせた。事案が平定されると、功績により永昌県開国公に封建し、絹五千四百匹を賜わったが、固辞して受けなかった。護軍将軍に転じた。
明帝は病気が重くなると、人との面会を嫌がって、群臣は謁見できるものがいなかった。撫軍将軍・南頓王宗(司馬宗)の右衛将軍の虞胤らは、ふだんから明帝に親しみ愛されていたが、西陽王羕(司馬羕)とともに謀略をしかけようとした。庾亮はすぐに宮中に入って明帝に会い、涙を流して堪えきれなかった。病状が持ち直してから司馬羕と司馬宗らが高位高官を失脚させ、二人で輔政していることを明帝に話し、国家の存続が、今日に懸かっていると報告した。発言は切迫していた。明帝は深く感じ取って悟り、庾亮を召して玉座に昇らせ、司徒の王導とともに遺詔に基づいて幼主を輔佐させた。庾亮に給事中を加え、中書令に移した。太后が臨朝すると、政務はすべて庾亮が決裁した。
これよりさき、王導が輔政すると、寛大さと調和によって支持を集めた。庾亮は法に基づいて案件を裁いたので、人々からの著しく反感を買った。また先帝(元帝)の遺詔によって高位高官に報いて昇進させたが、陶侃と祖約が昇進者に含まれなかったので、陶侃と祖約は庾亮が遺詔から削除したことを疑い、二人とも(庾亮への)怨言を流した。庾亮は政乱を懼れて、温嶠を江州刺史として外部の味方とし、石頭城を修繕して戦乱に備えた。たまたま南頓王宗(司馬宗)が再び庾亮を失脚させて自らの執政を企んだので、庾亮は司馬宗を殺して司馬宗の兄の司馬羕の藩国を廃した。司馬宗は、帝室の近親であった。司馬羕は、司馬氏の元老であり、先帝の指導役でもあった。天下の人々はみな庾亮は宗室にすら手加減がないと言った。
琅邪の人の卞咸は、司馬宗の仲間であり、司馬宗とともに誅殺された。卞咸の兄の卞闡は蘇峻のもとに逃げ込んだ。庾亮は蘇峻に対して卞闡の身柄を送還せよと命じたが、蘇峻は卞闡をかくまった。蘇峻は多くの亡命者を受け入れ、威刑を振るった。庾亮は蘇峻が必ず禍乱を起こすと予期し、(蘇峻を)徴して大司農とした。朝臣たちはこれに反対し、平南将軍の温嶠もまた書簡を連ねて制止したが、庾亮はすべて突っぱねた。そのうちに蘇峻は祖約とともに兵を挙げて反乱した。温嶠は蘇峻が詔に背いたことを聞き、すぐに長江を下って京都を防衛しようと考え、三呉の地域でも義兵を起こそうとしたが、庾亮はいずれも許可しなかった。そして温嶠の書簡に返事をして、「吾(わたし)は西陲(西の辺境)を心配して(西に軍を進め)歴陽を通過しました。足下(あなた)は雷池を一歩も過ぎることがありませんように」と言った。蘇峻の将の韓晃が宣城を侵略すると、庾亮は兵を送って防がせたが、制圧できなかった。蘇峻は勝ちに乗じて京都に至った。詔して庾亮に節を仮し都督征討諸軍事とし、建陽門(宣陽門)外で戦わせた。まだ着陣しないうちに、兵士たちは武装を捨てて逃げた。庾亮は小船に乗って西に逃げ、混乱した兵が略奪しあい、庾亮を護衛する兵士は賊を射たが、誤って自船の漕ぎ手に命中させ、矢を射るごとに漕ぎ手が倒れ、船上はみな顔面蒼白で逃げ散ろうとした。庾亮は顔色を変えず、おもむろに、「なぜその手で賊を射ないのか」と注意した。兵士たちは鎮まった。
庾亮の三人の弟である庾懌・庾條・庾翼を連れて南のかた温嶠のもとに逃げ込んだ。温嶠はふだんから庾亮を尊重していたので、敗走してきたが、それでも推薦して都統にしようとした。庾亮は固辞し、温嶠とともに陶侃を推戴して盟主とした。陶侃が尋陽に到着すると、庾亮を怨むものがいて、みな陶侃に「執政(庾亮)を誅殺して天下に謝りましょう」と建議した。庾亮はひどく懼れ、陶侃と会うと、わが責任として引き受け、態度は立派なものであった。陶侃は思わず打ち解けて、かえって庾亮に、「君侯は石頭城を修繕してこの老人(私)を守った。今曰どうして私に見返りを求めないのか」と言った。こうして一日じゅう酒宴で談笑した。庾亮は薤(おおにら)を食らったが、白い部分を残した。陶侃が質問して、「どうして白い部分を残すのか」と言った。庾亮は、「この部分を植えてくれ」と言った。陶侃はひどく感嘆して、「(庾亮は)風流なだけでなく、為政の実益にも目を配れる」と言った。
石頭に到着すると、庾亮は督護の王彰を派遣して蘇峻の仲間の張曜を討伐させたが、かえって敗北した。庾亮は節伝を送って(指揮権を返上し)陶侃に謝った。陶侃は答へて、「古人は三回敗れたが、きみはまだ二回だ。いま事態は切迫しているので、責任を取る必要はない」と言った。さらに、「朝廷の政治に多くの権門が関わり、国に禍いを招いている。喪乱を起こすのは、蘇峻だけで済むだろうか」と言った。庾亮はこのとき二千人で白石塁を守った。蘇峻の歩兵一万あまりが、四方から攻め来たり、自軍は震え懼れた。庾亮は将士を激励し、決死の覚悟で戦ったので、蘇峻の軍が撤退した。追って数百級を斬った。

原文

峻平、帝幸溫嶠舟、亮得進見、稽顙鯁噎、詔羣臣與亮俱升御坐。亮明日又泥首謝罪、乞骸骨、欲闔門投竄山海。帝遣尚書・侍中手詔慰喻、「此社稷之難、非舅之責也」。亮上疏曰、

臣凡鄙小人、才不經世、階緣戚屬、累忝非服、叨竊彌重、謗議彌興。皇家多難、未敢告退、遂隨牒展轉、便煩顯任。先帝不豫、臣參侍醫藥、登遐顧命、又豫聞後事、豈云德授、蓋以親也。臣知其不可、而不敢逃命、實以田夫之交猶有寄託、況君臣之義、道貫自然、哀悲眷戀、不敢違距。且先帝謬顧、情同布衣、既今恩重命輕、遂感遇忘身。加以陛下初在諒闇、先后親覽萬機、宣通外內、臣當其地、是以激節驅馳、不敢依違。雖知無補、志以死報。而才下位高、知進忘退、乘寵驕盈、漸不自覺。進不能撫寧外內、退不能推賢宗長、遂使四海側心、謗議沸騰。
祖約・蘇峻不堪其憤、縱肆兇逆、事由臣發。社稷傾覆、宗廟虛廢、先后以憂逼登遐、陛下旰食踰年、四海哀惶、肝腦塗地、臣之招也、臣之罪也。朝廷寸斬之、屠戮之。不足以謝祖宗七廟之靈。臣灰身滅族、不足以塞四海之責。臣負國家、其罪莫大、實天所不覆、地所不載。陛下矜而不誅、有司縱而不戮。自古及今、豈有不忠不孝如臣之甚。不能伏劍北闕、偷存視息、雖生之日、亦猶死之年、朝廷復何理齒臣於人次、臣亦何顏自次於人理。
臣欲自投草澤、思諐之心也、而明詔謂之獨善其身。聖旨不垂矜察、所以重其罪也。願陛下覽先朝謬授之失、雖垂寬宥、全其首領、猶宜棄之、任其自存自沒、則天下粗知勸戒之綱矣。

疏奏、詔曰、
省告懇惻、執以感歎、誠是仁舅處物宗之責、理亦盡矣。若大義既不開塞、舅所執理勝、何必區區其相易奪。
賊峻姦逆、書契所未有也。是天地所不容、人神所不宥。今年不反、明年當反、愚智所見也。舅與諸公勃然而召、正是不忍見無禮於君者也。論情與義、何得謂之不忠乎。若以己總率征討、事至敗喪、有司宜明直繩、以肅國體、誠則然矣。且舅遂上告方伯、席卷來下、舅躬貫甲冑、賊峻梟懸。大事既平、天下開泰、衍得反正、社稷乂安、宗廟有奉、豈非舅二三方伯忘身陳力之勳邪。方當策勳行賞、豈復議既往之咎乎。
且天下大弊、死者萬計、而與桀寇對岸。舅且當上奉先帝顧託之旨、弘濟艱難、使衍沖人永有憑賴、則天下幸甚。

亮欲遁逃山海、自暨陽東出。詔有司錄奪舟船。亮乃求外鎮自效、出為持節・都督豫州揚州之江西宣城諸軍事・平西將軍・假節・豫州刺史、領宣城內史。亮遂受命、鎮蕪湖。
頃之、後將軍郭默據湓口以叛、亮表求親征、於是以本官加征討都督、率將軍路永・毛寶・趙胤・匡術・劉仕等步騎二萬、會太尉陶侃俱討破之。亮還蕪湖、不受爵賞。侃移書曰、「夫賞罰黜陟、國之大信、竊怪矯然獨為君子」。亮曰、「元帥指撝、武臣效命、亮何功之有」。遂苦辭不受。進號鎮西將軍、又固讓。初、以誅王敦功、封永昌縣公。亮比陳讓、疏數十上、至是許之。陶侃薨、遷亮都督江・荊・豫・益・梁・雍六州諸軍事、領江・荊・豫三州刺史、進號征西將軍・開府儀同三司・假節。亮固讓開府、乃遷鎮武昌。
時王導輔政、主幼時艱、務存大綱、不拘細目、委任趙胤・賈寧等諸將、並不奉法、大臣患之。陶侃嘗欲起兵廢導、而郗鑒不從、乃止。至是、亮又欲率眾黜導、又以諮鑒、而鑒又不許。亮與鑒牋曰、

昔於蕪湖反覆謂彼罪雖重、而時弊國危、且令方嶽道勝、亦足有所鎮壓、故共隱忍、解釋陶公。自茲迄今、曾無悛改。
主上自八九歲以及成人、入則在宮人之手、出則唯武官小人、讀書無從受音句、顧問未嘗遇君子。侍臣雖非俊士、皆時之良也、知今古顧問、豈與殿中將軍・司馬督同年而語哉。不云當高選侍臣、而云高選將軍・司馬督、豈合賈生願人主之美、習以成德之意乎。秦政欲愚其黔首、天下猶知不可、況乃欲愚其主哉。主之少也、不登進賢哲以輔導聖躬。春秋既盛、宜復子明辟。不稽首歸政、甫居師傅之尊。成人之主、方受師臣之悖。主上知君臣之道不可以然、而不得不行殊禮之事。萬乘之君、寄坐上九、亢龍之爻、有位無人。挾震主之威以臨制百官、百官莫之敢忤。是先帝無顧命之臣、勢屈于驕姦而遵養之也。趙賈之徒有無君之心、是而可忍、孰不可忍。
且往日之事、含容隱忍、謂其罪可宥、良以時弊國危、兵甲不可屢動、又冀其當謝往釁、懼而修己。如頃日之縱、是上無所忌、下無所憚、謂多養無賴足以維持天下。公與下官並蒙先朝厚顧、荷託付之重、大姦不掃、何以見先帝於地下。願公深惟安國家・固社稷之遠算、次計公之與下官負荷輕重、量其所宜。
鑒又不許、故其事得息。
時石勒新死、亮有開復中原之謀、乃解豫州授輔國將軍毛寶、使與西陽太守1.樊峻精兵一萬、俱戍邾城。又以陶稱為南中郎將・江夏相、率部曲五千人入沔中。亮弟翼為南蠻校尉・南郡太守、鎮江陵。以武昌太守陳囂為輔國將軍・梁州刺史、趣子午。又遣偏軍伐蜀、至江陽、執偽荊州刺史2.李閎巴郡太守黃植、送于京都。亮當率大眾十萬、據3.石(頭)城、為諸軍聲援、乃上疏曰、「蜀胡二寇凶虐滋甚、內相誅鋤、眾叛親離。蜀甚弱而胡尚強、並佃並守、修進取之備。襄陽北接宛許、南阻漢水、其險足固、其土足食。臣宜移鎮襄陽之石城下、并遣諸軍羅布江沔。比及數年、戎士習練、乘釁齊進、以臨河洛。大勢一舉、眾知存亡、開反善之路、宥逼脅之罪、因天時、順人情、誅逋逆、雪大恥、實聖朝之所先務也。願陛下許其所陳、濟其此舉。淮泗壽陽所宜進據、臣輒簡練部分。乞槐棘參議、以定經略」。帝下其議。時王導與亮意同、郗鑒議以資用未備、不可大舉。亮又上疏、便欲遷鎮。會寇陷邾城、毛寶赴水而死。亮陳謝、自貶三等、行安西將軍。有詔復位。尋拜司空、餘官如故、固讓不拜。
亮自邾城陷沒、憂慨發疾。會王導薨、徵亮為司徒・揚州刺史・錄尚書事、又固辭、帝許之。咸康六年薨、時年五十二。追贈太尉、諡曰文康。喪至、車駕親臨。及葬、又贈永昌公印綬。亮弟冰上疏曰、「臣謹詳先事、亦曾聞臣亮對臣等之言、懇懇於斯事。是以屢自陳請、將迄十年。豈直好讓而不肅恭、顧曩時之釁近出宇下、加先帝神武、算略兼該、是以役不踰時、而凶強馘滅。計之以事、則功歸聖主。推之於運、則勝非人力。至如亮等、因聖略之弘、得效所職、事將何論。功將何賞。及後傷蹶、責踰先功、是以陛下優詔聽許。亮實思自效以報天德、何悟身潛聖世、微志長絕、存亡哀恨、痛貫心膂。願陛下發明詔、遂先恩、則臣亮死且不朽」。帝從之。亮將葬、何充會之、歎曰、「埋玉樹於土中、使人情何能已」。
初、亮所乘馬有的顱、殷浩以為不利於主、勸亮賣之。亮曰、「曷有己之不安而移之於人」。浩慚而退。亮在武昌、諸佐吏殷浩之徒、乘秋夜往共登南樓、俄而不覺亮至、諸人將起避之。亮徐曰、「諸君少住、老子於此處興復不淺」。便據胡牀與浩等談詠竟坐。其坦率行己、多此類也。三子、彬・羲・龢。

1.成帝紀は、「樊峻」を「樊俊」に作る。
2.石季龍載記は、「李閎」を「李宏」に作る。
3.蔡謨伝・『資治通鑑』巻九十六・『建康実録』巻七に従い、「頭」一字を削る。

訓読

峻 平らぐや、帝 溫嶠の舟に幸き、亮 進見するを得、稽顙し鯁噎し、羣臣に詔して亮と與に俱に御坐に升らしむ。亮 明日に又 泥首して謝罪し、骸骨を乞ひ、門を闔ざして山海に投竄せんと欲す。帝 尚書・侍中を遣はして手詔もて慰喻し、「此れ社稷の難なり、舅の責に非ざるなり」と。亮 上疏して曰く、

臣 凡鄙なる小人にして、才は經世ならず、階は戚屬に緣り、累りに非服を忝くし、叨竊 彌々重く、謗議 彌々興る。皇家 多難にして、未だ敢て退を告げず、遂に牒に隨ひて展轉し、便ち顯任を煩はす。先帝 不豫なるに、臣 醫藥を參侍し、登遐して顧命し、又 後事を豫り聞けり。豈に德もて授くと云ふ、蓋し親を以てなり。臣 其の不可を知り、而して敢て逃命せず、實に田夫の交を以て猶ほ寄託有るがごとし、況んや君臣の義、道は自然を貫くをや。哀悲 眷戀し、敢て違距せず。且つ先帝 謬りて顧し、情は布衣に同じく、既に今 恩は重く命は輕く、遂に遇を感じて身を忘る。加へて陛下 初めて諒闇に在るを以て、先后 親ら萬機を覽じ、外內に宣通し、臣 其の地に當たる。是を以て節に激して驅馳し、敢て依違せず。補ふ無きを知ると雖も、志は死を以て報ふるにあり。而れども才は下く位は高く、進むを知りて退くを忘れ、寵に乘じて驕盈するも、漸く自覺せず。進みては外內を撫寧する能はず、退きては賢を推し長を宗とする能はず、遂に四海をして側心せしめ、謗議 沸騰す。
祖約・蘇峻 其の憤りに堪へず、兇逆を縱肆にせしは、事 臣より發す。社稷 傾覆し、宗廟 虛廢し、先后 憂逼を以て登遐し、陛下 旰食して年を踰え、四海 哀惶し、肝腦 地に塗れしは、臣の招くなり、臣の罪なり。朝廷 之を寸斬し、之を屠戮するも、以て祖宗七廟の靈に謝するに足らず。臣 身を灰にして族を滅するも、以て四海の責を塞ぐに足らず。臣 國家に負き、其の罪は莫大なり、實に天の覆はざる所、地の載せざる所なり。陛下 矜みて誅ぜざれば、有司 縱に戮せず。古より今に及ぶまで、豈に不忠不孝の臣の如き甚しきもの有るや。劍を北闕に伏す能はず、偷も存き視息せば、生くるの日と雖も、亦た猶ほ死するの年のごとし。朝廷 復た何の理もて臣を人次に齒するや。臣も亦た何の顏もて自ら人理に次するや。
臣 自ら草澤に投ぜんと欲するは、諐を思ふの心なり。而れども明詔 之を獨り其の身を善くするのみと謂ふ。聖旨 矜察を垂れざるは、其の罪を重くする所以なり。願はくは陛下 先朝の謬授の失を覽じ、寬宥を垂れて、其の首領を全ふせしむと雖も、猶ほ宜しく之を棄つべし。其の自存自沒に任せば、則ち天下 粗々勸戒の綱を知らん」と。

疏 奏せらるるや、詔して曰く、
告を省みるに懇惻にして、執りて以て感歎す。誠に是れ仁舅なり。物宗の責に處れば、理も亦た盡きん。若し大義 既に塞を開かず、舅 執る所の理 勝れば、何ぞ必ず區區として其れ相 易く奪はん。
賊の峻 姦逆にして、書契の未だ有らざる所なり。是れ天地の容れざる所、人神の宥せざる所なり。今年 反せずんば、明年 當に反すべきは、愚も智も見る所なり。舅 諸公と與に勃然として召すは、正に是れ君に禮無き者を見るに忍びざればなり。情と義とを論ずるに、何ぞ得て之を不忠と謂ふや。若し己 征討を總率し、事 敗喪に至るを以て、有司 宜しく直繩を明にして、以て國體を肅すべしとせば、誠に則ち然り。且つ舅 遂に上は方伯に告げて、席卷して來たり下り、舅 躬ら甲冑を貫きて、賊の峻 梟懸す。大事 既に平らぎ、天下 開泰し、衍(ちん)は反正を得て、社稷 乂安たり、宗廟 奉る有り。豈に舅と二三方伯の身を忘れて力を陳ぶるの勳に非ざるや。方に當に勳を策し賞を行ふべし。豈に復た既往の咎を議するや。
且に天下 大弊たりて、死者 萬もて計ふ。而れども桀寇と與に岸を對す。舅 且に當に先帝の顧託の旨を上奉し、艱難を弘濟し、衍をして沖人をして永く憑賴有らば、則ち天下 幸甚なり」と。

亮 山海に遁逃せんと欲するも、暨陽より東して出づ。詔して有司をして舟船を錄奪せしむ。亮 乃ち外鎮たりて自ら效あらんことを求め、出でて持節・都督豫州揚州之江西宣城諸軍事・平西將軍・假節・豫州刺史と為り、宣城內史を領す。亮 遂に命を受け、蕪湖に鎮す。
頃之、後將軍の郭默 湓口に據りて以て叛し、亮 表して親ら征せんことをを求む。是に於て本官を以て征討都督を加へ、將軍の路永・毛寶・趙胤・匡術・劉仕ら步騎二萬を率へ、太尉の陶侃に會して俱に之を討破す。亮 蕪湖に還り、爵賞を受けず。侃 書を移して曰く、「夫れ賞罰黜陟は、國の大信なり。竊かに怪しむ矯然として獨り君子為らんとするを」と。亮曰く、「元帥は指撝して、武臣は效命す。亮 何の功か之れ有あらん」と。遂に苦辭して受けず。號を鎮西將軍に進むるも、又 固讓す。初め、王敦を誅する功を以て、永昌縣公に封ぜらる。亮 比(しき)りに陳讓し、疏すること數十上、是に至りて之を許す。陶侃 薨ずるや、亮を都督江・荊・豫・益・梁・雍六州諸軍事に遷し、江・荊・豫三州刺史を領せしめ、號を征西將軍・開府儀同三司・假節に進む。亮 開府を固讓し、乃ち鎮を武昌に遷す。
時に王導 輔政し、主は幼く時は艱なれば、務めは大綱に存し、細目に拘らず、任を趙胤・賈寧ら諸將に委ぬるに、並びに法を奉らざれば、大臣 之を患ふ。陶侃 嘗て起兵して導を廢せんと欲するも、而れども郗鑒 從はざれば、乃ち止む。是に至り、亮 又 眾を率ゐて導を黜けんと欲し、又 以て鑒に諮るに、而れども鑒 又 許さず。亮 鑒に牋を與へて曰く、

昔 蕪湖に於て反覆せしとき謂へらく彼の罪 重しと雖も、而れども時は弊にして國は危ふく、且つ方嶽をして道勝せしめば、亦た鎮壓する所有るに足る。故に共に隱忍し、陶公を解釋す。茲より今に迄るまで、曾て悛改する無し。
主上 八九歲より以て成人するに及ぶまで、入りては則ち宮人の手に在り、出でては則ち唯だ武官の小人のみ。書を讀むも從りて音句を受くる無く、顧問するも未だ嘗て君子に遇はず。侍臣 俊士に非ずと雖も、皆 時の良なり。今古を知りて顧問するに、豈に殿中將軍・司馬督と同年に語らんや。當に侍臣を高選すべしと云はず、而れども將軍・司馬督を高選すと云ふ。豈に賈生 人主の美を願ひ、習ひて以て德を成すの意に合ふや。秦政 其の黔首を愚にせんと欲すれども、天下 猶ほ不可なるを知る。況んや乃ち其の主を愚にせんと欲するをや。主の少きや、賢哲を登進して以て聖躬を輔導せず。春秋 既に盛なれば、宜しく子に明辟を復すべし。稽首して政を歸さず、甫(はじ)めて師傅の尊に居る。成人の主、方に師臣の悖を受けん。主上 君臣の道 以て然る可からざるを知り、而れども殊禮の事を行はざるを得ず。萬乘の君、上九に寄坐し、亢龍の爻、位有るも人無し。震主の威を挾みて以て百官を臨制し、百官 之れ敢て忤らふもの莫し。是れ先帝 顧命の臣無く、勢は驕姦に屈して之を遵養するなり。趙賈の徒 君を無かるの心有れば、是れ忍ぶ可きや、孰ぞ忍ぶ可からざるや。
且つ往日の事、含容し隱忍し、謂へらく其の罪 宥す可く、良に時は弊し國は危ふく、兵甲 屢々動く可からざるを以て、又 其の當に往釁を謝すべきにして、懼れて己を修むむるを冀ふ。頃日の縱の如きは、是れ上は忌む所無く、下は憚る所無し。謂へらく多く無賴を養ひて以て天下を維持するに足る。公 下官と與に並びに先朝に厚顧を蒙り、託付の重を荷ふ。大姦 掃かざれば、何を以て先帝に地下に見えんや。願はくは公 深く國家を安んじ、社稷を固むるの遠算を惟ひ、次に公と下官と與に負荷の輕重を計りて、其の宜しき所を量れ」と。
鑒 又 許さず、故に其の事 息むを得たり。

時に石勒 新たに死し、亮 中原を開復するの謀有り、乃ち豫州を解きて輔國將軍の毛寶に授け、西陽太守の樊峻(樊俊)と與に精兵一萬もて、俱に邾城を戍らしむ。又 陶稱を以て南中郎將・江夏相と為し、部曲五千人を率ゐて沔中に入らしむ。亮の弟の翼もて南蠻校尉・南郡太守と為し、江陵に鎮せしむ。武昌太守の陳囂を以て輔國將軍・梁州刺史と為し、子午に趣かしむ。又 偏軍を遣はして蜀を伐たしめ、江陽に至り、偽荊州刺史の李閎(李宏)・巴郡太守の黃植を執らへ、京都に送る。亮 大眾十萬を率ゐ、石城に據り、諸軍の聲援と為るに當たり、乃ち上疏して曰く、「蜀胡の二寇 凶虐 滋々甚しく、內に相 誅鋤し、眾は叛し親は離る。蜀 甚だ弱くして胡は尚ほ強く、並びに佃し並びに守り、進取の備へを修む。襄陽 北は宛許に接し、南は漢水を阻み、其の險 固むに足り、其の土 食らふに足る。臣 宜しく鎮を襄陽の石城の下に移し、并せて諸軍を遣はして江沔に羅布せしめべし。數年に及ぶ比、戎士 習練し、釁に乘じて齊進して、以て河洛に臨め。大勢 一たび舉ぐれば、眾 存亡を知り、反善の路を開き、逼脅の罪を宥し、天の時に因り、人の情に順ひ、逋逆を誅し、大恥を雪がん。實に聖朝の先務とする所なり。願はくは陛下 其の陳ぶる所を許し、其れ此の舉を濟せ。淮泗壽陽は宜しく進據すべき所なり。臣 輒ち簡練し部分せん。乞ふらくは槐棘 參議して、以て經略を定めんことを」。帝 其の議を下す。時に王導 亮と意は同じ。郗鑒 議して以へらく資用の未だ備はらざれば、大舉す可からずと。亮 又 上疏し、便ち鎮を遷さんと欲す。會々寇 邾城を陷し、毛寶 水に赴きて死す。亮 陳謝し、自ら三等を貶め、行安西將軍とす。詔有りて位を復す。尋いで司空を拜し、餘官 故の如く、固讓して拜せず。
亮 邾城 陷沒してより、憂慨して疾を發す。會々王導 薨じ、亮を徵して司徒・揚州刺史・錄尚書事と為すも、又 固辭し、帝 之を許す。咸康六年 薨じ、時に年五十二なり。太尉を追贈し、諡して文康と曰ふ。喪 至るや、車駕 親ら臨む。葬るに及び、又 永昌公の印綬を贈る。亮の弟の冰 上疏して曰く、「臣 謹みて先事を詳にするに、亦た曾て臣亮 臣らの言に對ふるを聞き、斯の事に懇懇たり。是を以て屢々自々陳請し、將に十年に迄らんとす。豈に直だ讓を好みて肅恭ならず、曩時の釁を顧みて近く宇下に出づるや。加ふるに先帝 神武あり、算略 兼該し、是を以て役は時を踰えず、而れども凶強 馘滅す。之を計るに事を以てせば、則ち功は聖主に歸す。之を運に推せば、則ち勝は人力に非ず。亮らが如きに至り、聖略の弘に因りて、職する所に效あるを得たり。事 將た何をか論ぜん。功 將た何をか賞さん。後に傷蹶に及びては、先功に責踰するも、是を以て陛下 優詔もて聽許す。亮 實に自效して以て天德に報いんと思ふ。何ぞ悟らん身 聖世に潛し、微志 長く絕えんとは。存も亡も哀恨あり、痛は心膂を貫く。願はくは陛下 明詔を發し、先恩を遂ぐれば、則ち臣亮 死すとも且つ不朽なり」と。帝 之を從す。亮 將に葬らんとするや、何充 之に會し、歎じて曰く、「玉樹を土中に埋む、人情をして何ぞ能く已めしめん」と。
初め、亮 乘る所の馬 的顱有り、殷浩 以て主に利せざると為し、亮に之を賣ることを勸む。亮曰く、「曷ぞ己の不安有りて而して之を人に移すや」と。浩 慚じて退く。亮 武昌に在るに、諸々の佐吏と殷浩の徒、秋夜に乘りて往きて共に南樓に登り、俄かに亮 至るを覺らず、諸人 將に起ちて之を避けんとす。亮 徐ろに曰く、「諸君 少しく住(とど)まれ、老子 此の處に於て興 復た淺からず」と。便ち胡牀に據りて浩らと與に談詠して坐を竟(お)ふ。其の坦率にして己を行ふこと、多く此の類ひなり。三子あり、彬・羲・龢なり。

現代語訳

蘇峻が平定されると、皇帝は温嶠の舟に行き、庾亮は閲見する機会を得た。(庾亮は)叩頭して嗚咽したが、(皇帝は)群臣に命じて庾亮を玉座まで登らせた。庾亮は翌日に泥を首に塗って謝罪し、引退を求め、門を閉ざして山海で隠居しますと言った。皇帝は尚書・侍中を派遣して直筆の詔で慰撫し、「これは社稷の難であり、舅の責任ではない」と言った。庾亮は上疏して、

「臣(わたくし)は凡庸な小人物であり、才能は国家経営に足りませんが、外戚であるため、不相応な高い地位を頂戴し、不釣り合いがひどく、日に日に批判が興っています。皇室は多難なので、私は引退を申し出ず、任命に従って働き、要職を穢しています。先帝が病気になると、臣は医薬を持参し、崩御にあたって遺詔を受け、後事を託されました。どうして私に徳があるから(遺詔を)授けられたのでしょう、ただ血縁者だからです。臣は自分の不適任を知りながら、あえて命令を避けず、農夫ですら伝言に従いますから、君臣の間ならば、遺詔に従うのは当然のことです。(先帝の崩御で)悲哀が溢れ、逆らうことができません。先帝が遺言の相手を誤ったにせよ、心情は一個の人間としてのもので、受けた恩は重いのでわが命を軽しとし、全力で報いるつもりです。しかも陛下が喪中であられるので、先帝の皇后(庾太后)が自ら政治をとり、内外に広く通じ、私はこれに参加しています。ですから節義を振るって駆け回り、協力を惜しみません。能力が不足しても、命がけで尽くす所存です。しかし才能が低いのに地位ばかり高く、昇進ばかりで身を引くことを忘れ、寵愛に乗じて傲慢になっても、徐々に自覚が薄れます。前進しても内外を安寧にできず、後退しても賢者に道を譲ることができず、そのために天下の人から見放され、私への批判が沸騰しています。
祖約・蘇峻は私への憤りを抑え切れず、凶悪な叛乱を起こしましたが、この事件は私に原因があります。社稷が傾き、宗廟が荒廃し、先后(皇太后)が憂悶して崩御し、陛下は忙殺されて年を越し、四海が悲しみ恐れ、肝脳が地に塗れる事態は、私が招いたもので、私の罪であります。朝廷がわが身を切り刻み、死体を破壊しても、(東晋の)祖宗七廟の霊に詫びるには足りません。臣は身を灰にして一族を殺されても、四海に及んだ罪を補うには足りません。臣は国家にそむき、その罪は莫大です。まことに天が覆いきれず、地に乗せきれないほど巨大な罪です。陛下が憐れんで私を誅殺しなければ、担当官が手を下すことができません。いにしえから今日まで、私ほどの不忠不孝の臣があったでしょうか。剣を北闕に伏せ(自殺す)ることができず、命を盗んでおり、生きながらにして、死んだも同然です。朝廷はどのような理由で私を高官に並べるのでしょうか。臣もまたどんな顔をして官僚の前に立つのでしょうか。
臣は民間に身を投げ出したいのは、反省の心があるからです。しかし詔は私を擁護して下さいます。天子が適正な判断をしなければ、私の罪は重くなるばかりです。どうか先代の誤った遺詔を撤回し、寛大な処置をして、わが首を切り落とさずとも、公職からは追放をして下さい。私に生死を委ねたままでは、天下への訓戒の示しが付きません」と言った。

上疏が提出されると、詔して、
「上疏を読めば誠意が込められ、手にとって感嘆した。わが親しき舅(庾亮)が、要職の責任を負えば、政治は完全に筋道が立つだろう。もし正しい道が塞がれたままで、舅の自己申告のとおり(罪が庾亮にある)ならば、どうして軽々しく変心を迫ることができようか。
賊の蘇峻は姦悪な反逆者で、歴代の記録にないほどである。これは天地が許容せず、人も神も容認できないものである。今年に叛乱しなければ、来年に叛乱したであろうことは、愚者も賢者も同じ考えであった。舅が諸公とともに決起し(蘇峻を討伐し)たのは、君主に無礼を働くものを見逃せなかったからである。情と義の観点から、どうして(庾峻の行いを)不忠と言えようか。もし自ら征討の軍を統率し、戦って敗れたことで、担当官が法規に基づいて罪とし、国の規則を正すべきだと言ったならば、そうあるべきだ。しかし舅は上は方伯(地方官)に通告して、むしろを巻き取るように攻め下り、舅が自ら甲冑を身につけ、賊の蘇峻の首を斬ってさらした。大きな軍事行動は成功し、天下は平和になり、衍(わたし)は帝位に返り咲くことができ、社稷は安泰となり、宗廟には供物を捧げることができた。どうして舅と二三の方伯がわが身を省みずに力を尽くした勲功でないことがあろうか。勲功に応じて褒賞をすべきである。なぜ反対に罪を議論する必要があろうか。
いま天下は大いに疲弊し、死者は万の単位である。しかし寇賊は長江の対岸にいる。舅(庾亮)は先帝の遺詔を奉り、国家を苦難から救い、衍(わたし)のような平凡な君主を長く支えてくれたならば、天下にとって幸いである」と言った。

庾亮は山海に逃れて隠れようとして、暨陽から東に向かって出た。詔して担当官に船舶を接収させ(庾亮の引退を阻止し)た。庾亮は外鎮として功績を立てたいと考え、(地方に)出て持節・都督豫州揚州之江西宣城諸軍事・平西将軍・仮節・豫州刺史となり、宣城内史を領した。庾亮は命令を受け、蕪湖に鎮した。
しばらくして、後将軍の郭黙が湓口を拠点に叛乱し、庾亮は上表して自ら征伐したいと言った。そこで本官のまま征討都督を加え、将軍の路永・毛宝・趙胤・匡術・劉仕ら歩騎二万を率い、太尉の陶侃に合流して(郭黙を)ともに討伐し撃破した。庾亮は蕪湖に還り、爵賞を受けなかった。陶侃は書簡を回付して、「賞罰や進退は、国の信用の根本である。(庾亮が褒賞を辞退し)かってに自分一人だけが君子のふりをするつもりか」と言った。庾亮は、「元帥が指揮をして、武臣は命令に従って戦った。私には何の功績があるものでしょうか」と言った。粘り強く辞退した。官号を鎮西将軍に進めたが、これも辞退した。これよりさき、王敦を誅殺した功績で、永昌県公に封建された。庾亮は何度も辞退を申し入れ、上疏すること数十回におよび、ようやく許可された。陶侃が薨去すると、庾亮を都督江・荊・豫・益・梁・雍六州諸軍事に遷し、江・荊・豫三州刺史を領させ、官号を征西将軍・開府儀同三司・仮節に進めた。庾亮は開府を固辞し、鎮を武昌に遷した。
このとき王導が輔政したが、皇帝が幼く困難な時勢なので、政治は大づかみとし、細部にこだわらず、実務を趙胤や賈寧ら諸将に委任したが、二人とも法を守らなかったので、高官たちはこれを憂えた。陶侃はかつて兵を起こして王導を失脚させようとしたが、郗鑒が従わなかったので、計画を中止した。ここに至り、庾亮はまた軍を率いて王導を失脚させようとし、郗鑒に意見を求めたが、郗鑒は賛同しなかった。庾亮は郗鑒に書簡を与えて、

「むかし(王敦が)蕪湖が叛乱したとき彼(王導)の罪は重大でしたが、当時は国家が疲弊して危機にあり、方嶽(地方官)が正しい行いをすれば、(蕪湖を)鎮圧するに十分でした。ゆえにともに我慢をして、陶公(陶侃)を説得し(王導を糾弾することを中止し)ました。しかし当時から現在まで、(王導は)反省する様子がありません。
主上は八九歳の子供だったときから成人するまで、宮殿のなかでは宮人の言いなりで、宮殿の外では武官の小人物に従っています。書物を読んでも音や文意を正しく知らず、すぐれた指導役と巡り遭っていません。侍臣を勤めるのは賢俊の士ではないにせよ、当世の良才であるべきです。古今に鑑みるに、(侍臣の選出を)どうして殿中将軍・司馬督(宮人や武官)の選出と同列に語れましょうか。侍臣の人選に努めず、将軍・司馬督の人選に努めると言っています。これがどうして賈生(前漢の賈誼)が君主の人格を完成させ、徳行を習得させようとした意図に合致するでしょうか。秦の政(始皇帝)は愚民化の政策をしましたが、天下はその方針を拒否しました。ましてや君主を愚者に仕向けてよいはずがありません。君主が幼いとき、賢哲を推薦して善導させることがありませんでした。君主が成人したならば、政権を返還すべきです。(ところが王導は)謹んで政務を返還するでもなく、師傅の高い地位にいます。成人した君主は、師傅にして臣下であるもの(王導)の掣肘を受けてしまいます。主上は君臣のあり方が正しくないとは知りつつも、殊礼により特別扱いせざるを得ません。萬乗の君(天子)は、上九(最高の位)に位置しますが、いま亢龍の爻(易の上九)は、位はあっても人がいません。君主を圧倒する権勢をもって百官に臨めば、百官は逆らえません。これは先帝が遺詔を託した大臣がおらず、驕慢な人に屈服して(現実的な権限を)削がずに擁護してきた結果です。趙氏や賈氏のような連中が君主を蔑ろにする心を持てば、これを容認すべきか否か、どちらでしょうか。
しかも先日の(蕪湖の叛乱の)ことで、寛容になって容認し、彼の罪を赦すべきと言ったのは、(当時は)国家が疲弊した危機にあり、頻繁に軍隊を動かすべきではなかったからで、彼が過ちを認めて、反省するのを期待してのことでした。近日は(反省せず)好き勝手にしており、上に遠慮せず、下に憚ることがありません。(王導は)無頼をたくさん養えば天下を維持できるとうそぶいています。あなた(郗鑒)は下官(わたし)とともに先代皇帝に厚恩を受け、ともに後事を託されました。大姦を排除しなければ、いかにして死後に先帝と再会できましょう。どうか公は国家を安定させ、社稷を強固にするための見通しを持ち、私とともに重責を分担し、均衡を作り出して下さい」と言った。
郗鑒は賛成せず、それゆえに計画は中止された。

このとき石勒が死んだばかりで、庾亮は中原を回復する計画を立て、豫州刺史の地位を輔国将軍の毛宝に授け、西陽太守の樊峻(樊俊)とともに精兵一万で、ともに邾城を守らせた。また陶称を南中郎将・江夏相とし、部曲五千人を率いて沔中に入らせた。庾亮の弟の庾翼を南蛮校尉・南郡太守とし、江陵に鎮させた。武昌太守の陳囂を輔国将軍・梁州刺史とし、子午に行かせた。また偏軍を派遣して蜀を討伐させ、江陽に至り、偽荊州刺史の李閎(李宏)・巴郡太守の黄植を捕らえ、京都に送った。庾亮は十万の大軍を率い、石城に拠り、諸軍を遠隔地から支えながら、上疏して、「蜀と胡(成漢と後趙)の二寇は凶虐がいよいよ甚だしく、内部で誅戮しあい、軍は反乱し親族は反目しています。蜀はとても弱く胡族は依然として強い状況です。自軍は屯田したり防衛したりして、進軍の準備をしています。襄陽は北は宛と許に近接し、南は漢水で隔てられ、その地勢の険しさは守るに十分で、土地は耕作して食糧をまかなうに十分です。臣(わたくし)は宜しく鎮を襄陽の石城の下に移し、あわせて諸軍を派遣して江水と沔水一帯に配置すべきと考えます。数年も経てば、兵士は訓練が成り、敵国の隙に乗じて一斉に進軍し、黄河や洛水に臨めます。大軍がひとたび動けば、(敵国の)万民は滅亡を悟り、反善の(善に返る)路を開き、追い詰められた罪を許し、天の時に依り、人の情に従い、逆賊を誅殺し、大きな恥を雪ぐでしょう。これこそ聖なるわが国の優先事項です。どうか陛下は以上の内容を許可し、実行に移して下さい。淮水と泗水一帯と寿陽は進んで拠点とすべき場所です。私は兵士を選抜して部分せん。槐棘(朝廷)で議論して、国家の方針を決めて下さい」と言った。皇帝は議題を下した。このとき王導は庾亮と同じ意見だった。郗鑒は財政の悪化を理由に、大軍を起こすべきでないと言った。庾亮はまた上疏し、鎮の移動を提案した。たまたま寇賊が邾城を陥落させ、毛宝は川に追い詰められて死んだ。庾亮は陳謝し、自ら三等の降格をして、行安西将軍とした。詔があって地位が回復された。ほどなく司空を拝し、それ以外の官職は現状のままとされたが、固辞して拝さなかった。
庾亮は邾城が陥落させられてから、憂鬱で憤慨して病気になった。たまたま王導が薨去したので、庾亮を徴召して司徒・揚州刺史・録尚書事としたが、これも固辞し、皇帝はそれを許した。咸康六年に薨去し、このとき五十二歳だった。太尉を追贈し、文康と諡した。遺体が到着すると、天子がみずから立ち会った。葬るとき、また永昌公の印綬を贈った。庾亮の弟の庾冰は上疏して、
「臣(わたくし)が謹んで前年のことを参照し、かつて臣亮(庾亮)が私たちに告げた言葉を考えますと、(生前の庾亮は)いつも誠実でした。ですから何度も(地位が高すぎることを)自分で訴え、十年近くも取り下げませんでした。ただ謙譲して地位を下ることを願い、先年の戦乱や権臣の対立は自分が原因であると考えていました。しかも先帝には神がかった武で、周到な戦略があり、戦役は年をまたがずに、叛乱者を破滅させました。このように、平定をしてきた功績は聖なる君主のものです。天命に照らして、勝利は人間の力ではありません。庾亮のような人間は、君主の戦略に頼って、職務のなかで成果を上げたに過ぎません。どうして(死後に)評価して褒賞を加えるべき功績があるでしょうか。のちに(先帝の死後)叛乱が起きたときは、先年以上の功績を立てようとして、陛下から許可を頂戴しました。庾亮は尽力して天の徳に報いようとしたのです。まさか聖王の時代を生きながら、微志が永遠に絶えるとは思ってもいなかったでしょう。生きても死んでも(国家のために働けなかった)悲しみと後悔があり、痛みは心身を貫いています。どうか陛下は詔を発行し、恩賞は先年のままとして(追加の褒賞を中止して)頂けたなら、庾亮は死んでも不朽です」と言った。皇帝はこれを許した。庾亮を葬るとき、何充がこれに立ち会って、悲嘆して、「玉樹を土中に埋めてしまう、人の心としてどうして割り切れようか」と言った。
これよりさき、庾亮の乗馬に的顱(白い斑点)があり、殷浩は乗り手に危害があるとし、庾亮に売り払うことを勧めた。庾亮は、「どうして自分に不吉だからといって他人に押しつけるのか」と言った。殷浩は恥じて退いた。庾亮が武昌にいたとき、諸々の佐吏と殷浩らは、秋の夜を味わうために南楼に登ったが、庾亮が到着したことに気づかず、立ち上がって場所を譲ろうとした。庾亮は徐ろに、「諸君はそのまま動かなくてよい。老子(わし)はここ(端っこ)にいても味わいは損なわれない」と言った。そして胡牀に座って殷浩らとともに吟詠してその会を過ごした。その坦率(飾り気がないこと)は、多くがこのようであった。三人の子がおり、庾彬・庾羲・庾龢である。

(庾亮)子彬 羲 龢

原文

彬年數歲、雅量過人。溫嶠嘗隱暗怛之、彬神色恬如也、乃徐跪謂嶠曰、「君侯何至於此」。論者謂不減於亮。蘇峻之亂、遇害。
羲少有時譽、初為吳國內史。時穆帝頗愛文義、羲至郡獻詩、頗存諷諫。因上表曰、「陛下以聖明之德、方隆唐虞之化、而事役殷曠、百姓凋殘。以數州之資、經贍四海之務、其為勞弊、豈可具言。昔漢文居隆盛之世、躬自儉約、斷獄四百、殆致刑厝。賈誼歎息、猶有積薪之言。以古況今、所以益其憂懼。陛下明鑒天挺、無幽不燭、弘濟之道、豈待瞽言。臣受恩奕世、思盡絲髮。受任到東、親臨所見、敢緣弘政、獻其丹愚。伏願聽斷之暇、少垂察覽」。其詩文多不載。羲方見授用而卒。
子準、太元中、自侍中代桓石虔為豫州刺史・西中郎將、鎮歷陽、卒官。準子悅、義熙中江州刺史。準弟楷、自有傳。

訓読

彬 年數歲にして、雅量 人に過ぎたり。溫嶠 嘗て隱暗(ひそ)かに之を怛(おどろ)かすも、彬の神色 恬如たり。乃ち徐ろに跪きて嶠に謂ひて曰く、「君侯 何の此に至る」と。論者 謂へらく亮に減ぜずと。蘇峻の亂に、害に遇ふ。
羲 少くして時譽有り、初め吳國內史と為る。時に穆帝 頗る文義を愛し、羲 郡に至るや詩を獻じ、頗る諷諫する存り。因りて上表して曰く、「陛下 聖明の德を以て、方に唐虞の化を隆んにせんとし、而れども事役 殷曠にして、百姓 凋殘す。數州の資を以て、四海の務を經贍せば、其の勞弊と為るは、豈に具さに言ふ可きや。昔 漢文 隆盛の世に居りて、躬自ら儉約し、斷獄は四百、殆ど刑厝に致る。賈誼 歎息し、猶ほ積薪の言有り。古を以て今を況るに、其の憂懼を益す所以なり。陛下 明鑒にして天挺なり、幽として燭せざる無く、弘濟の道、豈に瞽言を待つや。臣 恩を受くること奕世、絲髮を盡くさんと思ふ。任を受けて東に到り、親ら臨みて見る所、敢て弘政に緣り、其の丹愚を獻ぜん。伏して願はくは聽斷の暇に、少しく察覽を垂れよ」と。其の詩文 多ければ載せず。羲 方に授用せらるれども卒す。
子の準、太元中に、侍中より桓石虔に代はりて豫州刺史・西中郎將と為り、歷陽に鎮し、官に卒す。準の子の悅、義熙中に江州刺史たり。準の弟の楷、自ら傳有り。

現代語訳

庾彬はわずか数歳にして、人よりも雅量があった。温嶠が身を隠して驚かせても、庾彬はまったく平気で落ち着いていた。温嶠に気づくとゆっくりと跪き、「君侯はどうしてこんなことをなさる」と言った。論者は庾亮にも劣らないと言った。蘇峻の乱で、殺害された。
庾羲は若くして当世の声望があり、はじめ呉国内史となった。このとき穆帝はとても文章で論じることを愛好したが、庾羲が呉郡に到着すると詩を献上し、少なからず諫言をほのめかす内容だった。また上表して、「陛下は聖明の徳によって、尭舜のような教化を興しておられますが、労役の負担が長期化し、万民は疲弊しています。数州からの収入で、天下の務めをまかなえば、負担が過重となることは、言うまでもありません。むかし前漢の文帝は繁栄期にあっても、みずから倹約し、裁判は四百のみで、ほとんど刑罰が執行されませんでした。賈誼が歎息し、積薪の言(潜在的な脅威)を述べました。いにしえを参考にしますと、憂懼が増えるばかりです。陛下は聡明であらせられ、一つとして見落としがなく、広い救済の道は、贅言を費やす必要はありません。わが一族は累世に恩寵を受けたので、僅かでも報いようと思いました。任務を受けて東方(呉郡)に到達し、現地を直接見た結果、よりよい政治を願い、わが誠意を示しました。どうか政治の判断をするとき、少しだけでも顧みて頂ければ幸いです」と言った。庾羲の詩文は多いので列伝には掲載しない。庾羲は任用されたころに亡くなった。
子の庾準は、太元年間に、侍中から桓石虔に代わって豫州刺史・西中郎将となり、歴陽に鎮し、在官で亡くなった。庾準の子の庾悅は、義熙年間に江州刺史となった。庾準の弟の庾楷は、列伝がある(『晋書』巻八十四)。

原文

龢字道季、好學、有文章。叔父翼將遷襄陽、龢年十五、以書諫曰、「承進據襄陽、耀威荊楚、且田且戍、漸臨河洛、使向化之萌懷德而附、凶愚之徒畏威反善、太平之基、便在於旦夕。昔殷伐鬼方、三年而克。樂生守齊、遂至歷載。今皇朝雖隆、無有殷之盛。凶羯雖衰、猶醜類有徒。而沔漢之水、無萬仞之固。方城雖峻、無千尋之險。加以運漕供繼有泝流之艱、征夫勤役有勞來之歎。若窮寇慮逼、送死一決、東西互出、首尾俱進、則廩糧有抄截之患、遠略乏率然之勢。進退惟思、不見其可。此明闇所共見、賢愚所共聞、況於臨事者乎。願迴師反旆、詳擇全勝、修城池、立壘壁、勤耕農、練兵甲。若凶運有極、天亡此虜、則可泛舟北濟、方軌齊進、水陸騁邁、亦不踰旬朔矣。願詳思遠猷、算其可者」。翼甚奇之。
升平中、代孔嚴為丹楊尹、表除重役六十餘事。太和初、代王恪為中領軍、卒於官。子恒、尚書僕射、贈光祿大夫。

訓読

龢 字は道季、學を好み、文章有り。叔父の翼 將に襄陽に遷らんとするに、龢 年十五にして、書を以て諫めて曰く、「承るらく據を襄陽に進め、威を荊楚に耀すと。且つ田し且つ戍り、漸く河洛に臨み、向化の萌(たみ)をして德を懷きて附かしめ、凶愚の徒をして威を畏れて善に反らしむれば、太平の基、便ち旦夕に在らん。昔 殷 鬼方を伐ち、三年にして克つ。樂生 齊を守り、遂に歷載に至る。今 皇朝 隆んと雖も、有殷の盛無し。凶羯 衰ふと雖も、猶ほ醜類 徒有り。而も沔漢の水、萬仞の固無し。方城 峻と雖も、千尋の險無し。加た運漕の供繼 泝流の艱有り、征夫の勤役 勞來の歎有るを以てす。若し窮寇 逼ることを慮りて、死を一決に送り、東西 互に出で、首尾 俱に進めば、則ち廩糧 抄截の患有り、遠略 率然の勢に乏し。進退 惟れ思ふに、其の可を見ず。此れ明闇 共に見る所にして、賢愚 共に聞く所なり。況んや事に臨む者をや。願はくは師を迴し旆を反し、詳らかに全勝を擇び、城池を修め、壘壁を立て、耕農に勤め、兵甲を練れ。若し凶運 極まる有り、天 此の虜を亡さば、則ち舟を泛かべて北濟し、軌を方べて齊しく進む可し。水陸 騁せ邁めば、亦た旬朔を踰えざらん。願はくは詳らかに遠猷を思ひ、其の可なるを算せ」と。翼 甚だ之を奇とす。
升平中に、孔嚴に代はり丹楊尹と為り、重役六十餘事を除くことを表す。太和の初、王恪に代はりて中領軍と為り、官に卒す。子の恒、尚書僕射たり、光祿大夫を贈らる。

現代語訳

庾龢は字を道季といい、学問を好み、文章が上手かった。叔父の庾翼が襄陽に移ろうとしたとき、庾龢は十五歳で、書簡を送って諫めて、「拠点を襄陽に進出させ、勢威を荊楚に輝かせようとしていると窺いました。耕作と防衛を両立させ、徐々に黄河や洛水に近づき、教化を民に施して徳のもとに集め、凶悪な胡族を圧倒して帰順させたならば、太平の基礎は、朝夕のうちに整うでしょう。むかし殷王朝は鬼方を討伐し、三年で勝ちました。楽生は斉を守り、年をまたぎました。いま皇朝(東晋)は盛んですが、殷王朝ほど盛んではありません。凶悪な羯族は衰えましたが、まだ兵力が十分にあります。しかも沔水と漢水は、萬仞の強固な守りではありません。(襄陽の)方城は険固ですが、千尋の谷ほど深い守りではありません。しかも軍事物資の輸送は川を遡らねばならず、従事者の労役は苦しいものになります。もし敵国の窮迫を見越して、戦いを決行し、東西から同時に進んで、前後で連携すれば、兵糧が途絶える心配があり、柔軟な連携をすることが困難です。進んでも退いても、難しい状況です。これは智者も愚者も同じように見て、同じように聞くことです。まして実際の戦う者が分からないはずがありません。どうか軍隊を引き返させ、必勝の策略を選びとり、城と堀を修繕し、防塁を築き、農耕に努め、武器を整えますように。もし胡族の悪運が尽きて、天が胡族を滅ぼしたならば、艦隊を浮かべて川を北上させ、(陸路に)馬車のわだちを並べて一斉に進んで下さい。水陸から並進すれば、一ヵ月以内に勝利が決まります。どうか遠望をもって、有利な作戦を採って下さい」と言った。庾翼は心から感心した。
升平年間に、孔厳に代わって丹楊尹となり、重い労役の六十件あまりの削減を上表した。太和年間の初め、王恪に代わって中領軍となり、在官で亡くなった。子の庾恒は、尚書僕射であり、光禄大夫を贈られた。

(庾亮)弟懌 冰 條 翼

原文

懌字叔預、少以通簡為兄亮所稱。弱冠、西陽王羕辟、不就。東海王沖為長水校尉、清選綱紀、以懌為功曹、除暨陽令、又為沖中軍司馬、轉散騎侍郎、遷左衛將軍。以討蘇峻功、封廣饒男、出補臨川太守、歷監梁・雍二州軍事、轉輔國將軍・梁州刺史・假節、鎮魏興。時兄亮總統六州、以懌寬厚容眾、故授以遠任、為東西勢援。尋進監秦州氐羌諸軍事。懌遣牙門霍佐迎將士妻子、佐驅三百餘口亡入石季龍。亮表上、貶懌為建威將軍。朝議欲召還、亮上疏曰、「懌御眾簡而有惠、州戶雖小、賴其寬政。佐等同惡、大數不多。且懌名號大、不可以小故輕議進退。其文武之心轉已安定、賊帥艾秀遣使歸誠、上洛附賊降者五百餘口、冀一安隱、無復怵惕」。從之。後以所鎮險遠、糧運不繼、詔懌以將軍率所領還屯半洲。尋遷輔國將軍・豫州刺史、進號西中郎將・監宣城廬江歷陽安豐四郡軍事・假節、鎮蕪湖。
懌嘗以白羽扇獻成帝、帝嫌其非新、反之。侍中劉劭曰、「柏梁雲構、大匠先居其下。管弦繁奏、夔牙先聆其音。懌之上扇、以好不以新」。後懌聞之、曰、「此人宜在帝之左右」。又嘗以毒酒餉江州刺史王允之。王允之覺其有毒、飲犬、犬斃、乃密奏之。帝曰、「大舅已亂天下、小舅復欲爾邪」。懌聞、遂飲鴆而卒、時年五十。贈侍中・衛將軍、諡曰簡。子統嗣。
統字長仁、少有令名、司空、太尉辟、皆不就。調補撫軍、會稽王司馬、出為建威將軍、寧夷護軍、尋陽太守。年二十九、卒、時人稱其才器、甚痛惜之。子玄之、官至宣城內史。

訓読

懌 字は叔預、少くして通簡を以て兄の亮の稱する所と為る。弱冠にして、西陽王羕 辟するも、就かず。東海王沖 長水校尉と為す。綱紀を清選し、懌を以て功曹と為し、暨陽令に除し、又 沖の中軍司馬と為り、散騎侍郎に轉じ、左衛將軍に遷る。蘇峻を討つの功を以て、廣饒男に封じ、出でて臨川太守に補せられ、監梁・雍二州軍事を歷し、輔國將軍・梁州刺史・假節を轉し、魏興に鎮す。時に兄の亮 六州を總統すれば、懌 寬厚にして眾を容るるを以て、故に授くるに遠任を以てし、東西の勢援と為す。尋いで監秦州氐羌諸軍事に進む。懌 牙門の霍佐を遣はして將士妻子を迎へしむるも、佐 三百餘口を驅りて亡して石季龍に入る。亮 表上し、懌を貶めて建威將軍と為す。朝議 召還せんと欲するや、亮 上疏して曰く、「懌 眾を御するに簡にして惠有り、州戶 小なりと雖も、其の寬政を賴る。佐らの同惡、大數 多からず。且つ懌の名號 大にして、小故を以て輕々しく進退を議す可からず。其れ文武の心 轉じて已に安定すれば、賊帥の艾秀 使を遣はして誠に歸す。上洛の賊に附きて降る者は五百餘口のみ、冀くは一に安隱し、復た怵惕する無かれ」。之に從ふ。後に鎮する所 險遠にして、糧運 繼がざるを以て、懌に詔して將軍を以て領する所を率ゐて還りて半洲に屯せしむ。尋いで輔國將軍・豫州刺史に遷り、號を西中郎將・監宣城廬江歷陽安豐四郡軍事・假節に進め、蕪湖に鎮せしむ。
懌 嘗て白羽扇を以て成帝に獻じ、帝 其の新に非ざるを嫌ひ、之を反す。侍中の劉劭曰く、「柏梁 雲のごとき構なれば、大匠 先に其の下に居す。管弦の繁奏、夔牙 先に其の音を聆す。懌の上扇、好を以てし新を以てせざるなり」と。後に懌 之を聞き、曰く、「此の人 宜しく帝の左右に在るべし」と。又 嘗て毒酒を以て江州刺史の王允之に餉る。王允之 其の毒有るを覺り、犬に飲ましむるや、犬は斃る。乃ち密かに之を奏す。帝曰く、「大舅 已に天下を亂し、小舅 復た爾(しか)らしめんと欲するか」と。懌 聞き、遂に鴆を飲いて卒し、時に年五十なり。侍中・衛將軍を贈り、諡して簡と曰ふ。子の統 嗣ぐ。
統 字は長仁、少くして令名有り、司空・太尉 辟するも、皆 就かず。調して撫軍・會稽王司馬に補せられ、出でて建威將軍・寧夷護軍・尋陽太守と為る。年二十九にして、卒す。時人 其の才器を稱し、甚だ之を痛惜す。子の玄之、官は宣城內史に至る。

現代語訳

庾懌は字を叔預といい、若くして闊達なので兄の庾亮から評価された。弱冠のとき、西陽王羕(司馬羕)が辟召したが、着任しなかった。東海王沖(司馬沖)が長水校尉に任命した。適正な人材を選抜して、庾懌を功曹とし、暨陽令に任命し、また司馬沖の中軍司馬となり、散騎侍郎に転じ、左衛将軍に遷った。蘇峻を討った功績により、広饒男に封建され、転出して臨川太守に任命され、監梁・雍二州軍事を経て、輔国将軍・梁州刺史・仮節に転じ、魏興に鎮した。このとき兄の庾亮が六州を総統していたので、庾懌は寛容で他人を受け入れることができたので、遠い任地を任せて、東西で連携の形勢をつくった。ほどなく監秦州氐羌諸軍事に進んだ。庾懌は牙門の霍佐を派遣して將士の妻子を迎えに行かせたが、霍佐は三百口あまりを連れて石季龍のもとに亡命した。庾亮は上表し、于懌を降格して建威将軍とした。朝議は(庾懌を朝廷に)召還しようとすると、庾亮は上疏して、「庾懌による軍隊の統御はゆるくて恩恵があり、州の戸数は少ないですが、彼の寛治を慕っています。霍佐らの不法のやからは、人数は多くありません。しかも庾懌の名声は大きく、小さな過失によって軽々しく進退を論じるべきではありません。文官と武官の心もすでに安定し、賊帥の艾秀は使者をよこして帰順しています。上洛で賊(後趙)に降伏したものは五百口あまりです。どうか鎮静を優先し、不安を煽らないで頂きたい」と言った。これに従った。のちに鎮する場所が険しく遠く、物資の輸送が繋がらないので、庾懌に詔して将軍職として配下の兵を率いて引き上げて半洲に屯させた。すぐに輔国将軍・豫州刺史に遷り、官号を西中郎將・監宣城廬江歴陽安豊四郡軍事・仮節に進め、蕪湖に鎮させた。
庾懌はかつて白羽扇を成帝に献上したが、成帝は新品でないことを嫌がり、返却した。侍中の劉劭は、「柏梁の宮殿は雲のように偉大ですが、(建築を担当する)大匠がさきにその下に入ります。管弦楽器が一斉に鳴らすとき、(演奏者の)夔と伯牙がさきに音を聞きます(天子がつねに一番乗りではありません)。庾懌が扇を献上したのは、よい品だからであり新しいからではありません」と言った。のちに庾懌はこれを聞き、「劉劭のような人こそ皇帝のそばに侍るべきだ」と言った。またかつて庾懌は毒酒を江州刺史の王允之に贈った。王允之は毒入りを悟り、犬に飲ませると、犬が倒れた。これを受けて秘かに成帝に報告した。成帝は、「大舅(庾亮)は天下を乱したが、小舅(庾懌)も同じことを繰り返すのか」と言った。庾懌はこれを聞き、鴆毒を飲んで亡くなり、このとき五十歳であった。侍中・衛将軍を贈り、簡と諡した。子の庾統が嗣いだ。
庾統は字を長仁といい、若いときから令名があり、司空・太尉が辟召したが、どちらも着任しなかった。徴されて撫軍・会稽王司馬に任命され、(地方に)出て建威将軍・寧夷護軍・尋陽太守となった。二十九歳で、亡くなった。当時の人々はその才能と器量を称え、ひどく悼み惜しんだ。子の庾玄之は、官位は宣城内史に至った。

原文

冰字季堅。兄亮以名德流訓、冰以雅素垂風、諸弟相率莫不好禮、為世論所重、亮常以為庾氏之寶。司徒辟、不就、徵祕書郎。預討華軼功、封都鄉侯。王導請為司徒右長史、出補吳國內史。
會蘇峻作逆、遣兵攻冰、冰不能禦、便棄郡奔會稽。會稽內史王舒以冰行奮武將軍、距峻別率張健於吳中。時健黨甚眾、諸將莫敢先進。冰率眾擊健走之、於是乘勝西進、赴于京都。又遣司馬滕含攻賊石頭城、拔之。冰勳為多、封新吳縣侯、固辭不受。遷給事黃門侍郎、又讓不拜。司空郗鑒請為長史、不就。出補振威將軍・會稽內史。徵為領軍將軍、又辭。尋入為中書監・揚州刺史・都督揚豫兗三州軍事・征虜將軍・假節。
是時王導新喪、人情恇然。冰兄亮既固辭不入、眾望歸冰。既當重任、經綸時務、不捨夙夜、賓禮朝賢、升擢後進、由是朝野注心、咸曰賢相。初、導輔政、每從寬惠、冰頗任威刑。殷融諫之、冰曰、「前相之賢、猶不堪其弘、況吾者哉」。范汪謂冰曰、「頃天文錯度、足下宜盡消禦之道」。冰曰、「玄象豈吾所測、正當勤盡人事耳」。又隱實戶口、料出無名萬餘人、以充軍實。詔復論前功、冰上疏曰、「臣門戶不幸、以短才贊務、釁及天庭、殃流邦族、若晉典休明、夷戮久矣。而于時顛沛、刑憲暫墜、遂令臣等復得為時陳力。徇國之臣、因之而奮、立功於大罪之後、建義於顛覆之餘、此是臣等所以復得視息於天壤、王憲不復必明於往諐也。此之厚幸、可謂弘矣、豈復得計勞納封、受賞司勳哉。願陛下曲降靈澤、哀恕由中、申命有司、惠臣所乞、則愚臣之願於此畢矣」。許之。
成帝疾篤、時有妄為尚書符、敕宮門宰相不得前、左右皆失色。冰神氣自若、曰、「是必虛妄」。推問、果詐、眾心乃定。進號左將軍。康帝即位、又進車騎將軍。冰懼權盛、乃求外出。會弟翼當伐石季龍、於是以本號除都督江荊寧益梁交廣七州豫州之四郡軍事・領江州刺史・假節、鎮武昌、以為翼援。冰臨發、上疏曰、

臣因循家寵、冠冕當世、而志無殊操、量不及遠。頃皇家多難、釁故頻仍、朝望國器、與時殲落、遂令天眷下墜、降及臣身。俯仰伏事、於今五年。上不能光贊聖猷、下不能緝熙政道、而陛下遇之過分、求之不已、復策敗駕之駟、以冀萬里之功、非天眷之隆、將何以至此。是以敢竭狂瞽、以獻血誠、願陛下暫屏旒纊、以弘聽納。
今強寇未殄、戎車未戢、兵弱於郊、人疲於內、寇之侵逸、未可量也。黎庶之困、未之安也。羣才之用、未之盡也。而陛下崇高、事與下隔、視聽察覽、必寄之羣下。羣下宜忠、不引不進。百司宜勤、不督不勸。是以古之帝王勤於降納、雖日總萬機、猶兼聽將相。或借訟輿人、或求謗芻蕘、良有以也。況今日之弊、開闢之極、而陛下曆數屬當其運、否剝之難嬰之聖躬、普天所以痛心於既往而傾首於將來者也。實冀否終而泰、屬運在今。誠願陛下弘天覆之量、深地載之厚、宅沖虛以為本、勤訓督以為務。廣引時彥、詢於政道、朝之得失必關聖聽、人之情偽必達天聰。然後覽其大當、以總國綱、躬儉節用、堯舜豈遠。大布之衣、衛文何人。是以古人有云、「非知之難、行之難。非行之難、安之難也」。願陛下既思日側於勞謙、納其起予之情、則天下幸甚矣。臣朝夕伏膺、猶不能暢、臨疏徘徊、不覺辭盡。

頃之、獻皇后臨朝、徵冰輔政、冰辭以疾篤。尋而卒、時年四十九。冊贈侍中・司空、諡曰忠成、祠以太牢。
冰天性清慎、常以儉約自居。中子襲嘗貸官絹十匹、冰怒、捶之、市絹還官。臨卒、謂長史江虨曰、「吾將逝矣、恨報國之志不展、命也如何。死之日、斂以時服、無以官物也」。及卒、無絹為衾。又室無妾媵、家無私積、世以此稱之。冰七子、希・襲・友・蘊・倩・邈・柔。

訓読

冰 字は季堅。兄の亮は名德を以て流訓、冰は雅素を以て垂風し、諸弟 相 率ひて禮を好まざる莫く、世論の重んずる所と為る。亮 常に以て庾氏の寶と為す。司徒 辟するも、就かず、祕書郎に徵せらる。華軼を討つ功に預り、都鄉侯に封ぜらる。王導 請ひて司徒右長史と為し、出でて吳國內史に補せらる。
會々蘇峻 逆を作すや、兵を遣りて冰を攻め、冰 禦ぐ能はず、便ち郡を棄てて會稽に奔る。會稽內史の王舒 冰を以て奮武將軍を行せしめ、峻の別率の張健を吳中に距がしむ。時に健の黨 甚だ眾く、諸將 敢て先に進む莫し。冰 眾を率ゐて健を擊ちて之を走らせ、是に於て勝に乘じて西進し、京都に赴く。又 司馬の滕含を遣はして賊を石頭城に攻め、之を拔く。冰の勳 多しと為し、新吳縣侯に封ずるも、固辭して受けず。給事黃門侍郎に遷すも、又 讓して拜せず。司空の郗鑒 請ひて長史と為すも、就かず。出でて振威將軍・會稽內史に補せらる。徵して領軍將軍と為すも、又 辭す。尋いで入りて中書監・揚州刺史・都督揚豫兗三州軍事・征虜將軍・假節と為る。
是の時 王導 新たに喪し、人情 恇然たり。冰の兄の亮 既に固辭して入らざれば、眾望 冰に歸す。既に重任に當たり、時務を經綸し、夙夜を捨かず、朝賢に賓禮し、後進を升擢し、是に由り朝野 心を注ぎ、咸 賢相と曰ふ。初め、導 輔政するや、每に寬惠によるも、冰 頗る威刑を任ず。殷融 之を諫むるや、冰曰く、「前相の賢、猶ほ其の弘に堪へず、況吾をや」と。范汪 冰に謂ひて曰く、「頃 天文 度を錯ふ。足下 宜しく消禦の道を盡すべし」と。冰曰く、「玄象 豈に吾の測る所なるか。正に當に勤めて人事を盡すべきのみ」と。又 戶口を隱實して、料りて無名の萬餘人を出し、以て軍實に充つ。詔して復た前の功を論ずるや、冰 上疏して曰く、「臣の門戶 幸あらず、短才を以て務に贊じ、釁は天庭に及び、殃ひ邦族に流る。若し晉典 休明なれば、夷戮せられんこと久しきや。而れども時に于て顛沛し、刑憲 暫く墜ち、遂に臣らをして復た時の為に力を陳ぶるを得しむ。國に徇(じゆん)ずる臣、之に因りて奮ひ、功を大罪の後に立て、義を顛覆の餘に建つ。此れ是れ臣らの復た天壤に視息するを得て、王憲 復た必ずしも往諐を明らかにせざる所以なり。此の厚幸、弘と謂ふべし。豈に復た勞を計り封を納て、賞を司勳に受くるを得んや。願はくは陛下 曲げて靈澤を降し、哀恕 中に由り、申て有司に命じ、臣が乞る所を惠まば、則ち愚臣の願 此に於て畢きん」と。之を許す。
成帝 疾 篤かるや、時に妄りに尚書の符を為りて、宮門に敕して宰相は前むを得ずといふもの有り、左右 皆 色を失ふ。冰 神氣 自若たりて、曰く、「是れ必ず虛妄なり」と。推問するに、果たして詐たりて、眾心 乃ち定まる。號を左將軍に進む。康帝 即位するや、又 車騎將軍に進む。冰 權盛を懼れ、乃ち外に出づるを求む。會々弟の翼 石季龍を伐つに當たり、是に於て本號を以て都督江荊寧益梁交廣七州豫州之四郡軍事・領江州刺史・假節に除せられ、武昌に鎮し、以て翼の援と為る。冰 發するに臨み、上疏して曰く、

臣 家寵に因循して、當世に冠冕たり。而れども志は殊操無く、量は遠くに及ばず。頃ごろ皇家 多難にして、釁故 頻りに仍り、朝望國器、時と與に殲落す。遂に天眷をして下墜せしめ、降りて臣が身に及ぶ。俯仰して事に伏し、今に於るまで五年なり。上は聖猷を光贊する能はず、下は政道を緝熙する能はず、而れども陛下 之を遇すること過分にして、之を求めて已まず、復た敗駕の駟を策(むちう)ちて、以て萬里の功を冀ふ。天眷の隆なるに非ずんば、將た何を以て此に至らん。是を以て敢て狂瞽を竭して、以て血誠を獻ず。願はくは陛下 暫く旒纊を屏して、以て聽納を弘めよ。
今 強寇 未だ殄びず、戎車 未だ戢まず。兵は郊に弱く、人は內に疲る。寇の侵逸、未だ量る可からず。黎庶の困、未だ之れ安んぜず。羣才の用、未だ之れ盡くさず。而も陛下 崇高なれば、事 下と隔たれば、視聽し察覽し、必ず之を羣下に寄せよ。羣下 宜しく忠なるべし、引(ひき)ゐずんば進まず。百司 宜しく勤むべし、督せずんば勸めず。是を以て古の帝王 降納に勤め、萬機を總ぶと曰ふと雖も、猶ほ兼せて將相に聽く。或いは訟を借り人を輿し、或いは謗を求めて蕘を芻るは、良に以(ゆゑ)有るなり。況んや今日の弊、開闢の極にして、而して陛下の曆數 其の運に當たるに屬ひ、否剝の難 之を聖躬に嬰ふ。普天 心を既往に痛めて首を將來に傾する所以なり。實に冀くは否 終はりて泰とし、運に屬ふは今に在り。誠に願はくは陛下 天覆の量を弘くし、地載の厚を深くし、沖虛に宅せて以て本と為し、訓督に勤めて以て務と為せ。廣く時彥を引き、政道を詢ふれば、朝の得失 必ず聖聽に關り、人の情偽 必ず天聰に達せん。然る後に其の大當を覽じ、以て國綱を總べ、儉を躬し用を節さば、堯舜 豈に遠からんや。大布の衣、衛文 何人ぞ。是を以て古人 云ふ有り、「知ることの難に非ず、行ふことの難なり。行ふことの難に非ず、安ずることの難なり」と。願はくは陛下 既に日側に勞謙を思ひ、其の起予の情を納るれば、則ち天下 幸甚なり。臣 朝夕に伏膺するも、猶ほ暢ぶる能はず。疏に臨みて徘徊し、辭 盡くるを覺えず」と。

頃之、獻皇后 臨朝し、冰を徵して輔政せしむ。冰 辭するに疾篤を以てす。尋いで卒し、時に年四十九なり。冊して侍中・司空を贈り、諡して忠成と曰ひ、祠るに太牢を以てす。
冰の天性 清慎にして、常に儉約を以て自居す。中子の襲 嘗て官絹十匹を貸る。冰 怒り、之を捶ち、絹を市ひて官に還す。卒するに臨み、長史の江虨に謂ひて曰く、「吾 將に逝かんとす。報國の志 展べざるを恨む。命なりや如何。死するの日、斂むるに時服を以てし、官物を以てする無かれ」と。卒するに及び、絹を衾と為す無し。又 室に妾媵無く、家に私積無く、世々此を以て之を稱す。冰に七子あり、希・襲・友・蘊・倩・邈・柔なり。

現代語訳

庾冰は字を季堅という。兄の庾亮は名徳によって教導し、庾冰は風雅によって教化したので、弟たちは礼を好まないものがおらず、当世に重んじられた。庾亮はつねに(庾冰を)庾氏の宝とした。司徒が辟召したが、着任しなかった。秘書郎に徴召された。華軼の討伐に参加した功績で、都郷侯に封建された。王導が要請して司徒右長史とし、(朝廷を)出て呉国内史に任命された。
蘇峻が反逆したとき、兵を送って庾冰を攻撃した。庾冰は守り切れず、呉郡を捨てて会稽に逃げた。会稽内史の王舒は庾冰に奮武将軍を代行させ、蘇峻の別部隊の張健を呉郡のなかで防がせた。このとき張健の兵がとても多く、諸将は前進するものがいなかった。庾冰は軍を率いて張健を攻撃して敗走させ、その勝ちの勢いに乗って西に進み、京都に行った。また司馬の滕含を派遣して賊を石頭城で攻め、ここを抜いた。庾冰の勲功が評価され、新呉県侯に封建されたが、固辞して受けなかった。給事黄門侍郎に遷したが、これも辞退して拝命しなかった。司空の郗鑒が要請して長史にしようとしたが、着任しなかった。出て振威将軍・会稽内史に任命された。徴召され領軍将軍とされたが、これも辞退した。ほどなく(朝廷に)入って中書監・揚州刺史・都督揚豫兗三州軍事・征虜将軍・仮節となった。
このとき王導が亡くなった直後で、人々は恐怖に陥っていた。庾冰の兄の庾亮が固辞して(朝廷に宰相として)入らなかったので、世論の期待は庾冰に集まった。庾冰が要職につくと、当代の政治について論じ、朝晩の区別なく働き、朝廷の賢者をもてなし、後進を抜擢した。これにより官民ともに庾冰を支持し、賢い宰相だと言いあった。これよりさき、王導が輔政したとき、寛大な恩恵を施したが、(対照的に)庾冰は厳しく刑罰を用いた。殷融がこれを諫めると、庾冰は、「前任の宰相(王導)の賢さがあっても、寛容な政策(のさじ加減)をうまくできなかった(権臣の叛乱が起きた)。まして私が(難易度の高い)寛容な政策ができようか」と言った。范汪は庾冰に、「このごろ天体の動きが異常です。あなたには災難を予防する政策を実行してほしい」と言った。庾冰は、「天体の動きはどうして私に関知できましょうか。人としての務めを果たすだけです」と言った。また戸数を調査して、戸籍から漏れていた一万人あまりを登録し、兵士として徴用した。詔してこれまでの功績を論じると、庾冰は上疏して(褒賞を辞退し)、「わが一門は不幸にも、才能がないにも拘わらず重責を担い、罪は天体運行にまで及び、禍いが故郷の民に及んでいます。もし晋帝国の法規が厳密に運用されていれば、とうに族殺されていたはずです。しかし国家が転覆して、法規の運用が停止したので、私は当世のために力を発揮する機会を得ました。国に殉じる臣として、力を尽くします。大罪のあとに功績を上げ、転覆のあとに正義を立てます。これが私たちが天地の間に生き残り、国家が過去の過ちを裁かずにおく理由です。国家の恩寵は、もはや過分であります。なぜさらに功労に応じて封爵を賜り、賞賜を受ける資格がありましょうか。どうか陛下は神妙な恩沢を下し、ご寛恕を施し、担当官に指示をして下さい。私の願い(辞退)を聞き届けて頂ければ、これ以上の喜びはありません」と言った。これを許した。
成帝の病状が重くなると、尚書の符が濫発され、宮門の衛兵に宰相(庾冰)を入れるなと命じられたので、近臣らは顔色を失った。庾冰は取り乱すことなく、「これは絶対に虚妄だ」と言い切った。尋問すると、やはり詐りと判明し、人々は落ち着いた。官号を左将軍に進めた。康帝が即位すると、さらに車騎将軍に進んだ。庾冰は権臣との衝突を懼れ、地方への転出を求めた。ちょうど弟の庾翼が石季龍を討伐する計画があったので、(庾冰は)本官のまま都督江荊寧益梁交広七州豫州之四郡軍事・領江州刺史・仮節に任命され、武昌に鎮し、庾翼を外から援護した。庾冰が出発するとき、上疏して、

「臣(わたくし)の家は代々皇室から厚遇され、第一の家柄となりました。しかし特段の志操はなく、器量は遠く及びません。近年の皇室は多難であり、災難が連続して降りかかり、国家の体制は、日ごとに衰退しています。そのなかで天子の恵みが下され、私に及びました。俯いたり仰いだりして職務にあたり、今年で五年目です。上は天子の徳を輝かせることができず、下は政治を正しく整えることができず、陛下からの恩寵は過分であり、次々と任命されるため、私は痩せ馬に鞭をうって、万里を進むような功績を立てようと誓いました。もし天子の恵みが潤沢でなければ、どうしてこれほど機会を頂けたでしょうか。無智な私ではありますが、赤心を捧げます。どうか陛下は目と耳を塞いで、私の願いを受け入れて下さい。
いま強い戎狄はまだ滅びず、軍隊の往来は続いています。わが軍は国外で戦っても弱く、人民は国内で疲労しています。寇賊の侵略は、予測できないほど盛んです。民草の困窮は、慰めることができません。群臣の才能は、すべてを活用していません。ですから聡明な陛下は、意見が臣下と異なることがあれば、よくご覧になって考え、必ず群臣にお伝え下さい。群臣は忠正であるべきですが、引っ張らなければ進みません。百官は勤勉であるべきですが、励まさなければ努力しません。ですから古の帝王は臣下に接して、萬機を統べると言っても、宰相や将軍から意見を聞いた。訴え人を車に乗せたり、草を刈って批判を聞き取る(出典を調査中)のは、まさにこれが理由です。まして今日の衰乱は、前代未聞であり、陛下はこの時局に巡り合わせたので、不運や困難が身に降りかかっています。天下全土の人々は過去に心を痛めて未来を待ち望んでいます。どうか不運を終わらせて安泰とし、命運を転換させるのは今日です。どうか陛下は天を覆うほど器量を広くし、地面を乗せられるほど度量を厚くし、謙虚で偏りがないことを根本とし、指導や訓戒に努めて下さい。今日の賢良の士を広く招き、政治の道について意見を求めれば、朝廷の得失はきっと陛下の耳に届き、民草の真偽をきっと見極められるでしょう。その後に重要な方針を決定し、国政を整備して、倹約して役立てれば、尭舜ですら遠くありません。粗布を着ければ、衛文公ですらどれほどのものでしょう。いにしえの人は、「知ることが難しいのではなく、行うことが難しいのだ。行うことが難しいのではなく、定着させることが難しいのだ」と言いました。どうか陛下は日々に勤労をして、私の意見を認めて下されば、天下にとって幸福であります。私は朝晩に精勤していますが、まだ十分ではありません。この上疏を提出に迷い、言い尽くせたとも思いません」と言った。

しばらくして、献皇后が臨朝し、庾冰を徴して輔政させた。庾冰は重病を理由に辞退した。ほどなく亡くなり、このとき四十九歳だった。冊書で侍中・司空を贈り、忠成と諡し、太牢で祠った。
庾冰は生まれながらに清らかで慎みがあり、つねに倹約して暮らした。中子の庾襲はかつて官庫から絹十匹を貸りた。庾冰は怒り、これを(杖で)叩き、絹を購入して官庫に戻した。死に際に、長史の庾江虨に、「私の命はもう長くない。報国の志を発揮できないことが残念だ。天命をいかんともしがたい。死んだならば、時服を着せて埋葬し、官のものを用いてはならない」と言った。亡くなると、絹を帯びなかった。また家に正妻以外の女性がおらず、私財を蓄積せず、代々これが称えられた。庾冰に七人の子がおり、庾希・庾襲・庾友・庾蘊・庾倩・庾邈・庾柔である。

原文

希字始彥。初拜祕書郎、累遷司徒右長史・黃門侍郎・建安太守、未拜、復為長史兼右衛將軍、遷侍中、出為輔國將軍・吳國內史。希既后之戚屬、冰女又為海西公妃、故希兄弟並顯貴。太和中(隆和中)、希為北中郎將・徐兗二州刺史、蘊為廣州刺史、並假節、友東陽太守、倩太宰長史、邈會稽王參軍、柔散騎常侍。倩最有才器、桓溫深忌之。
初、慕容厲圍梁父、斷澗水、太山太守諸葛攸奔鄒山、魯・高平等數郡皆沒、希坐免官。頃之、徵為護軍將軍。希怒、固辭。希初免時、多盜北府軍資、溫諷有司劾之、復以罪免、遂客於晉陵之暨陽。初、郭璞筮冰云、「子孫必有大禍、唯用三陽可以有後」。故希求鎮山陽、友為東陽、家于暨陽。
及海西公廢、桓溫陷倩及柔以武陵王黨、殺之。希聞難、便與弟邈及子攸之逃于海陵陂澤中。蘊於廣州飲鴆而死。及友當伏誅、友子婦、桓祕女也、請溫、故得免。故青州刺史武沈、希之從母兄也、潛餉給希經年。溫後知之、遣兵捕希。武沈之子遵與希聚眾于海濱、略漁人船、夜入京口城。平北司馬卞耽踰城奔曲阿、吏士皆散走。希放城內囚徒數百人、配以器杖、遵於外聚眾、宣令云逆賊桓溫廢帝殺王、稱海西公密旨、誅除凶逆。京都震擾、內外戒嚴、屯備六門。平北參軍劉奭與高平太守郗逸之・遊軍督護郭龍等集眾距之。卞耽又與曲阿人弘戎發諸縣兵二千、并力屯新城以擊希。希戰敗、閉城自守。溫遣東海太守周少孫討之、城陷、被擒。希・邈及子姪五人斬于建康市、遵及黨與並伏誅、唯友及蘊諸子獲全。
友子叔宣、右衛將軍。蘊子廓之、東陽太守。

訓読

希 字は始彥。初め祕書郎を拜し、司徒右長史・黃門侍郎・建安太守に累遷す。未だ拜せざるに、復た長史兼右衛將軍と為り、侍中に遷り、出でて輔國將軍・吳國內史と為る。希 既に后の戚屬にして、冰の女 又 海西公妃為れば、故に希の兄弟 並びに顯貴たり。太和中(隆和中)、希もて北中郎將・徐兗二州刺史と為し、蘊もて廣州刺史と為し、並びに假節なり。友もて東陽太守、倩もて太宰長史、邈もて會稽王參軍、柔もて散騎常侍とす。倩は最も才器有り、桓溫 深く之を忌む。
初め、慕容厲 梁父を圍むや、澗水を斷つ。太山太守の諸葛攸 鄒山に奔り、魯・高平らの數郡 皆 沒し、希 坐して免官せらる。頃之、徵して護軍將軍と為す。希 怒り、固辭す。希 初め免ぜらるる時、多く北府の軍資を盜む。溫 有司に諷して之を劾せしめ、復た罪を以て免じ、遂に晉陵の暨陽に客す。初め、郭璞 冰を筮して云はく、「子孫に必ず大禍有り、唯だ三陽を用てすれば以て後有る可し」と。故に希は山陽に鎮し、友は東陽と為ることを求め、暨陽に家す。
海西公 廢せらるるに及び、桓溫 倩及び柔を陷るるに武陵王の黨を以てし、之を殺す。希 難を聞くや、便ち弟の邈及び子の攸之と與に海陵の陂澤中に逃ぐ。蘊 廣州に於て鴆を飲みて死す。友 誅に伏するに當たるに及び、友の子の婦は、桓祕の女たれば、溫に請ひ、故に免るるを得たり。故青州刺史の武沈は、希の從母兄にして、潛かに餉して希に給すること經年なり。溫 後に之を知り、兵を遣りて希を捕ふ。武沈の子の遵 希と與に眾を海濱に聚め、漁人の船を略し、夜に京口城に入る。平北司馬の卞耽 城を踰えて曲阿に奔り、吏士 皆 散走す。希 城內の囚徒數百人を放ち、配するに器杖を以てし、外に於て眾を聚め、宣令して云ふらく、逆賊の桓溫 帝を廢し王を殺し、海西公の密旨と稱して、凶逆を誅除すといふ。京都 震擾し、內外 戒嚴し、六門に屯備す。平北參軍の劉奭 高平太守の郗逸之・遊軍督護の郭龍らと與に眾を集めて之を距ぐ。卞耽 又 曲阿の人の弘戎と與に諸縣の兵二千を發し、力を并はせて新城に屯して以て希を擊つ。希 戰ひて敗れ、城を閉じて自守す。溫 東海太守の周少孫を遣はして之を討たしめ、城 陷つるや、擒へらる。希・邈及び子姪の五人 建康市に斬られ、遵及び黨與 並びに誅に伏す。唯だ友及び蘊の諸子のみ全するを獲たり。
友の子の叔宣、右衛將軍なり。蘊の子の廓之、東陽太守なり。

現代語訳

庾希は字を始彦という。はじめ秘書郎を拝し、司徒右長史・黄門侍郎・建安太守に累遷した。拝命する前に、また長史兼右衛将軍となり、侍中に遷り、出て輔国将軍・呉国内史となった。庾希は皇后の一族で、庾冰の娘も海西公妃であったので、庾希の兄弟はみな地位が高かった。太和中(隆和中)、庾希を北中郎将・徐兗二州刺史とし、庾蘊を広州刺史とし、二人とも仮節であった。庾友を東陽太守、庾倩を太宰長史、庾邈を会稽王参軍、庾柔を散騎常侍とした。庾倩はもっとも才覚と器量があり、桓温は深くこれを憚った。
これよりさき、慕容厲が梁父を包囲すると、澗水を断ち切った。太山太守の諸葛攸は鄒山に逃げ、魯・高平などの数郡がすべて陥落し、庾希はその責任をとって免官された。しばらくして、徴召して護軍将軍とした。庾希は怒り、固辞した。庾希が一度目に罷免されたとき、北府の軍資を大量に盗んだ。桓温は担当官に指図して(庾希を)弾劾させたので、ふたたび罪により罷免され、晋陵の暨陽に客居した。かつて、郭璞が庾冰を卜筮で占って、「子孫に必ず大きな禍いがある、ただし三陽によって存続できる」と言った。ゆえに庾希は山陽に鎮し、庾友は東陽太守になることを求め、(庾希は)暨陽に住んだ。
海西公が廃位されると、桓温は庾倩と庾柔を武陵王の一味であったとして失脚させ、これを殺した。庾希がこれを聞くと、すぐに弟の庾邈と子の庾攸之をともに海陵の陂沢中に逃がした。庾蘊は広州で鴆毒を飲んで死んだ。庾友が誅殺されるとき、庾友の子の妻は、桓秘の娘だったので、桓温に助けを求め、死を免れることができた。もと青州刺史の武沈は、庾希の従母兄なので、ひそかに数年にわたって(暨陽に住む)庾希に食糧を送った。桓温はのちにこれを知り、兵を送って庾希を捕えようとした。武沈の子の武遵は庾希とともに兵士を海浜で集め、漁師の舟を奪い、夜に京口城に入った。平北司馬の卞耽は城壁を越えて曲阿に逃げ、吏士はみな逃げ散った。庾希は(京口)城内の数百人の囚人を釈放し、武器を支給して持たせ、外で兵士を集め、逆賊の桓温が皇帝を廃して王を殺したと唱え、(庾希は)海西公の密旨と称して、凶逆(桓温)を誅伐すると宣言した。京都は震え騒ぎ、内外は厳戒態勢をとり、六門の防衛を固めた。平北参軍の劉奭は高平太守の郗逸之・遊軍督護の郭龍らとともに兵士を集めて庾希を防いだ。卞耽もまた曲阿の人の弘戎とともに諸県の兵二千を調発し、力を合わせて新城に駐屯して庾希を攻撃した。庾希は戦ったが敗れ、城門を閉じて守った。桓温は東海太守の周少孫を派遣してこれを討伐させ、(京口)城が陥落すると、捕縛された。庾希・庾邈及び子姪の五人は建康の市で斬られ、庾遵及び党与はすべて誅殺された。ただ庾友及び庾蘊の諸子だけが生き残ることができた。
庾友の子の庾叔宣は、右衛将軍である。庾蘊の子の庾廓之は、東陽太守である。

原文

條字幼序。初辟太宰府、累遷黃門郎・豫章太守。徵拜祕書監、賜爵鄉亭侯、出為冠軍將軍・臨川太守。豫章黃韜自稱孝神皇帝、臨川人李高為相、聚黨數百人、乘犢車、衣皁袍、攻郡縣、條討平之。條於兄弟最凡劣、故祿位不至。卒官、贈左將軍。

訓読

條 字は幼序なり。初め太宰府に辟され、黃門郎・豫章太守に累遷す。徵せられて祕書監を拜し、爵鄉亭侯を賜はり、出でて冠軍將軍・臨川太守と為る。豫章の黃韜 自ら孝神皇帝を稱するや、臨川の人の李高 相と為り、黨數百人を聚め、犢車に乘り、皁袍を衣て、郡縣を攻む。條 討ちて之を平らぐ。條 兄弟に於て最も凡劣にして、故に祿位 至らず。官に卒し、左將軍を贈る。

現代語訳

庾條は字を幼序という。はじめ太宰府に辟召され、黄門郎・豫章太守に累遷した。徴召されて秘書監を拝し、郷亭侯の爵位を賜わり、(朝廷を)出て冠軍将軍・臨川太守となった。豫章の黄韜が孝神皇帝を自称すると、臨川の人の李高は宰相となり、数百人の仲間を集め、犢車に乗り、皁袍を着て、郡県を攻めた。庾條は討伐しこれを平定した。庾條は兄弟のなかでもっとも平凡で劣り、地位が上がらなかった。在官で亡くなり、左将軍を贈られた。

原文

翼字稚恭。風儀秀偉、少有經綸大略。京兆杜乂・陳郡殷浩並才名冠世、而翼弗之重也、每語人曰、「此輩宜束之高閣、俟天下太平、然後議其任耳」。見桓溫總角之中、便期之以遠略、因言於成帝曰、「桓溫有英雄之才、願陛下勿以常人遇之、常壻畜之、宜委以方邵之任、必有弘濟艱難之勳」。
蘇峻作逆、翼時年二十二、兄亮使白衣領數百人、備石頭。亮敗、與翼俱奔。事平、始辟太尉陶侃府、轉參軍、累遷從事中郎。在公府、雍容諷議。頃之、除振威將軍・鄱陽太守。轉建威將軍・西陽太守。撫和百姓、甚得歡心。遷南蠻校尉、領南郡太守、加輔國將軍・假節。及邾城失守、石城被圍、翼屢設奇兵、潛致糧杖。石城得全、翼之勳也。賜爵都亭侯。
及亮卒、授都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西將軍・荊州刺史・假節、代亮鎮武昌。翼以帝舅、年少超居大任、遐邇屬目、慮其不稱。翼每竭志能、勞謙匪懈、戎政嚴明、經略深遠、數年之中、公私充實、人情翕然、稱其才幹。由是自河以南皆懷歸附、石季龍汝南太守戴開率數千人詣翼降。又遣使東至遼東、西到涼州、要給二方、欲同大舉。慕容皝・張駿並報使請期。翼雅有大志、欲以滅胡平蜀為己任、言論慷慨、形于辭色。將兵都尉錢頎陳事合旨、翼拔為五品將軍、賜穀二百斛。時東土多賦役、百姓乃從海道入廣州、刺史鄧嶽大開鼓鑄、諸夷因此知造兵器。翼表陳東境國家所資、侵擾不已、逃逸漸多、夷人常伺隙、若知造鑄之利、將不可禁。
時殷浩徵命無所就、而翼請為司馬及軍司、並不肯赴。翼遺浩書、因致其意。先是、浩父羨為長沙、在郡貪殘、兄冰與翼書屬之。翼報曰、「殷君始往、雖多驕豪、實有風力之益、亦似由有佳兒・弟、故不令物情難之。自頃以來、奉公更退、私累日滋、亦不稍以此寥蕭之也。既雅敬洪遠、又與浩親善、其父兄得失、豈以小小計之。大較江東政、以傴儛豪強、以為民蠹、時有行法、輒施之寒劣。如往年偷石頭倉米一百萬斛、皆是豪將輩、而直打殺倉督監以塞責。山遐作餘姚半年、而為官出二千戶、政雖不倫、公強官長也、而羣共驅之、不得安席。紀睦・徐寧奉王使糾罪人、船頭到渚、桓逸還復、而二使免官。雖皆前宰之惛謬、江東事去、實此之由也。兄弟不幸、橫陷此中、自不能拔腳於風塵之外、當共明目而治之。荊州所統一二十郡、唯長沙最惡。惡而不黜、與殺督監者復何異耶」。翼有風力格裁、發言立論皆如此。 康帝即位、翼欲率眾北伐、上疏曰、「賊季龍年已六十、奢淫理盡、醜類怨叛、又欲決死遼東。皝雖驍果、未必能固。若北無掣手之虜、則江南將不異遼左矣。臣所以輒發良人、不顧忿咎。然東西形援未必齊舉、且欲北進、移鎮安陸、入沔五百、溳水通流。輒率南郡太守王愆期・江夏相謝尚・尋陽太守袁真・西陽太守曹據等精銳三萬、風馳上道、并勒平北將軍桓宣撲取黃季、欲并丹水、搖蕩秦雍。御以長轡、用逸待勞、比及數年、興復可冀。臣既臨許洛、竊謂桓溫可渡戍廣陵、何充可移據淮泗赭圻、路永進屯合肥。伏願表御之日便決聖聽、不可廣詢同異、以乖事會。兵聞拙速、不聞工之久也」。於是並發所統六州奴及車牛驢馬、百姓嗟怨。時欲向襄陽、慮朝廷不許、故以安陸為辭。帝及朝士皆遣使譬止、車騎參軍孫綽亦致書諫。翼不從、遂違詔輒行。至夏口、復上表曰、

臣近以胡寇有弊亡之勢、暫率所統、致討山北、並分見眾、略復江夏數城。臣等以九月十九日發武昌、以二十四日達夏口、輒簡卒搜乘停當上道。而所調借牛馬、來處皆遠、百姓所稸、穀草不充、並多羸瘠、難以涉路。加以向冬、野草漸枯、往反二千、或容躓頓、輒便隨事籌量、權停此舉。又山南諸城、每至秋冬、水多燥涸、運漕用功、實為艱阻。
計襄陽、荊楚之舊、西接益梁、與關隴咫尺、北去洛河、不盈千里、土沃田良、方城險峻、水路流通、轉運無滯、進可以掃盪秦趙、退可以保據上流。臣雖不武、意略淺短、荷國重恩、志存立效。是以受任四年、唯以習戎為務、實欲上憑聖朝威靈高略、下藉士民義慨之誠、因寇衰弊、漸臨逼之。而八年春上表請據樂鄉、廣農稸穀、以伺二寇之釁、而值天高聽邈、未垂察照、朝議紛紜、遂令微誠不暢。
自爾以來、上參天人之徵、下採降俘之言、胡寇衰滅、其日不遠。臣雖未獲長驅中原、馘截凶醜、亦不可以不進據要害、思攻取之宜。是以輒量宜入沔、徙鎮襄陽。其謝尚・王愆期等、悉令還據本戍、須到所在、馳遣啟聞。

翼時有眾四萬、詔加都督征討軍事。師次襄陽、大會僚佐、陳旌甲、親授弧矢、曰、「我之行也、若此射矣」。遂三起三疊、徒眾屬目、其氣十倍。初、翼遷襄陽、舉朝謂之不可、議者或謂避衰、唯兄冰意同、桓溫及譙王無忌贊成其計。至是、冰求鎮武昌、為翼繼援。朝議謂冰不宜出、冰乃止。又進翼征西將軍、領南蠻校尉。胡賊五六百騎出樊城、翼遣冠軍將軍曹據追擊於撓溝北、破之、死者近半、獲馬百匹。翼綏來荒遠、務盡招納之宜、立客館、置典賓參軍。桓宣卒、翼以長子方之為義成太守、代領宣眾、司馬應誕為龍驤將軍・襄陽太守、參軍司馬勳為建威將軍・梁州刺史、戍西城。康帝崩、兄冰卒、以家國情事、留方之戍襄陽、還鎮夏口、悉取冰所領兵自配、以兄子統為尋陽太守。詔使翼還督江州、又領豫州刺史、辭豫州。復欲移鎮樂鄉、詔不許。繕修軍器、大佃積穀、欲圖後舉。遣益州刺史周撫・西陽太守曹據伐蜀、破蜀將李桓於江陽。
翼如厠、見一物如方相、俄而疽發背。疾篤、表第二子爰之行輔國將軍・荊州刺史、司馬朱燾為南蠻校尉、以千人守巴陵。永和元年卒、時年四十一。追贈車騎將軍、諡曰肅。翼卒未幾、部將干瓚・戴羲等作亂、殺將軍曹據。翼長史江虨・司馬朱燾・將軍袁真等共誅之。
爰之有翼風、尋為桓溫所廢。溫既廢爰之、又以征虜將軍劉惔監沔中軍事、領義成太守、代方之。而方之・爰之並遷徙于豫章。

訓読

翼 字は稚恭なり。風儀 秀偉にして、少くして經綸の大略有り。京兆の杜乂・陳郡の殷浩 並びに才名 世に冠し、而れども翼 之を重んぜず、每に人に語りて曰く、「此の輩 宜しく之を束ねて高く閣(の)せ、天下の太平を俟つべし。然る後に其の任を議すのみ」と。桓溫に總角の中に見え、便ち之を期するに遠略を以てし、因りて成帝に言ひて曰く、「桓溫 英雄の才有り。願はくは陛下 常人を以て之を遇すること勿れ。常に壻(むこ)として之を畜へ、宜しく委ぬるに方邵の任を以てせよ。必ず艱難を弘濟するの勳有らん」と。
蘇峻 逆を作すや、翼 時に年二十二なり。兄の亮 白衣もて數百人を領し、石頭に備へしむ。亮 敗るるや、翼と與に俱に奔る。事 平らぐや、始めて太尉の陶侃の府に辟せられ、參軍に轉じ、從事中郎に累遷す。公府に在り、雍容として諷議す。頃之、振威將軍・鄱陽太守に除せらる。建威將軍・西陽太守に轉ず。百姓を撫和し、甚だ歡心を得たり。南蠻校尉に遷り、南郡太守を領し、輔國將軍・假節を加へらる。邾城 守を失ふに及び、石城 圍まる。翼 屢々奇兵を設め、潛かに糧杖を致す。石城 全うするを得るは、翼の勳なり。爵都亭侯を賜はる。
亮 卒するに及び、都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西將軍・荊州刺史・假節を授け、亮に代はりて武昌に鎮す。翼 帝舅なるを以て、年 少くして超えて大任に居り、遐邇 屬目し、其の稱(かな)はざらんことを慮る。翼 每に志能を竭くし、勞謙して懈たる匪らず、戎政 嚴明にして、經略 深遠なり。數年の中に、公私 充實し、人情 翕然として、其の才幹を稱す。是に由り河より以南 皆 歸附を懷き、石季龍の汝南太守の戴開 數千人を率ゐて翼に詣りて降る。又 使を遣はして東は遼東に至り、西は涼州に到り、二方を要給し、大舉を同にせんと欲す。慕容皝・張駿 並びに使を報じて期することを請ふ。翼 雅に大志有り、胡を滅して蜀を平らぐるを以て己の任と為さんと欲し、言論 慷慨して、辭色に形はる。將兵都尉の錢頎 事を陳べて旨に合へば、翼 拔きて五品將軍と為し、穀二百斛を賜ふ。時に東土 賦役多く、百姓 乃ち海道より廣州に入り、刺史の鄧嶽 大いに鼓鑄を開き、諸夷 此に因りて兵器を造るを知る。翼 表して陳ぶらく東境は國家の資する所なるも、侵擾して已まず、逃逸 漸く多く、夷人 常に隙を伺ふ。若し造鑄の利を知らば、將に禁ず可からずと。
時に殷浩 徵命あるも就く所無く、而して翼 司馬及(と)軍司と為すことを請ふも、並びに赴くを肯ぜず。翼 浩に書を遺りて、因りて其の意を致す。是より先、浩の父の羨 長沙と為り、郡に在りて貪殘たりしかば、兄の冰 翼に書を與へて之を屬す。翼 報いて曰く、「殷君 始めて往くとき、驕豪多しと雖も、實に風力の益有り。亦た佳兒・弟有るに由るが似し。故に物情をして之を難ならしめず。自頃より以來、奉公は更に退き、私累は日々滋し。亦た稍く此を以て之を寥蕭にせざるなり。既に雅より洪遠を敬ひ、又 浩と親善す。其の父兄の得失、豈に小小を以て之を計へんや。大いに江東の政に較ぶるに、豪強を傴儛するを以て、以て民の蠹と為す。時に法を行ふ有らば、輒ち之を寒劣に施す。往年 石頭の倉米一百萬斛を偷むが如し。皆 是れ豪將の輩なるも、而れども直だ倉督監を打殺して以て責を塞ぐ。山遐 餘姚と作ること半年なるも、而れども官の為に二千戶を出だす。政 倫しからざるとと雖も、公強の官長なり。而して羣共 之を驅りて、席を安んずるを得ざらしむ。紀睦・徐寧 王使を奉じて罪人を糾すも、船頭 渚に到るや、桓逸 還り復り、而して二使 官を免ず。皆 前宰の惛謬と雖も、江東の事 去るは、實に此の由なり。兄弟 不幸にして、橫に此の中に陷ち、自ら腳を風塵の外に拔く能はず、當に共に目を明らかにして之を治むべし。荊州 統ぶる所の一二十郡、唯だ長沙のみ最も惡し。惡にして黜せずんば、督監する者を殺すと復た何か異なるか」と。翼 風力の格裁有りて、言を發し論を立つること皆 此の如し。
康帝 即位するや、翼 眾を率ゐて北伐せんと欲し、上疏して曰く、「賊の季龍 年は已に六十にして、奢淫 理盡にして、醜類 怨叛し、又 死を遼東に決せんと欲す。皝は驍果なりと雖も、未だ必ず固くする能はず。若し北に掣手の虜無くば、則ち江南 將た遼左と異ならざらん。臣 所以に輒ち良人を發し、忿咎を顧みず。然して東西の形援 未だ必ずしも齊しく舉げず、且つ北進せんと欲す。鎮を安陸に移し、沔に五百を入るれば、溳水 流れを通ず。輒ち南郡太守の王愆期・江夏相の謝尚・尋陽太守の袁真・西陽太守の曹據ら精銳三萬を率ゐ、風馳して道を上り、并せて平北將軍の桓宣を勒して黃季を撲取し、丹水を并はせて、秦雍を搖蕩せんと欲す。御するに長轡を以てし、逸を用て勞を待たば、數年に及ぶ比、興復 冀ふ可し。臣 既に許洛に臨み、竊かに謂へらく桓溫は渡たりて廣陵を戍る可し。何充は據を淮泗の赭圻に移し、路永は進みて合肥に屯す可し。伏して願はくは表 御するの日 便ち聖聽を決せよ。廣く同異を詢へて、以て事會に乖く可からず。兵 拙速を聞き、工の久を聞かざるなり」と。是に於て並びに統ぶる所の六州の奴及び車牛驢馬を發し、百姓 嗟怨す。時に襄陽に向はんと欲するも、朝廷 許さざるを慮ひて、故に安陸を以て辭と為す。帝及び朝士 皆 使を遣はして止を譬(さと)し、車騎參軍の孫綽も亦た書を致たして諫む。翼 從はず、遂に詔に違ひて輒ち行く。夏口に至り、復た上表して曰く、

「臣 近く胡寇 弊亡の勢有るを以て、暫く統ぶる所を率ゐ、討を山北に致し、並せて見眾を分け、略ぼ江夏の數城を復す。臣ら九月十九日を以て武昌を發し、二十四日を以て夏口に達し、輒ち卒を簡び乘を搜り停當して道に上らんとす。而れども調借する所の牛馬、來處に皆 遠く、百姓 稸(たくは)ふる所、穀草 充たず、並びに羸瘠多く、以て路を涉るに難し。加へて冬に向ふを以て、野草 漸く枯れ、往反の二千、或いは躓頓を容れ、輒便ち事に隨ひて籌量するに、權に此の舉を停む。又 山南の諸城、每に秋冬に至るや、水jは多く燥涸し、運漕の用功、實に艱阻と為る。
襄陽を計るに、荊楚の舊にして、西は益梁に接し、關隴と咫尺にして、北は洛河を去ること、千里に盈たず。土は沃(こ)え田は良く、方城は險峻にして、水路 流通し、轉運 滯ること無し。進はば以て秦趙を掃盪す可く、退かば以て上流を保據す可し。臣 不武にして、意略は淺短なると雖も、國の重恩を荷ひ、志は效を立つるに存す。是を以て任を受くること四年、唯だ戎に習ふを以て務と為す。實に上は聖朝の威靈高略に憑り、下は士民義慨の誠を藉りんと欲す。寇 衰弊するに因りて、漸く臨みて之に逼る。而して八年春の上表に樂鄉を據り、農を廣め穀を稸へ、以て二寇の釁を伺ふことを請ふ。而れども天 高く聽 邈なるに值ひ、未だ察照を垂れず、朝議 紛紜たりて、遂に微誠をして暢べしめず。
爾より以來、上は天人の徵を參(かんが)へ、下は降俘の言を採る。胡寇の衰滅、其の日 遠からず。臣 未だ中原に長驅し、凶醜を馘截するを獲ざると雖も、亦た以て進みて要害に據り、攻取の宜を思はざる可からず。是を以て輒ち宜を量りて沔に入り、鎮を襄陽に徙す。其れ謝尚・王愆期ら、悉く還りて本戍に據らしめ、所在に到るを須ちて、馳遣して啟聞せん」と。

翼 時に眾四萬有り、詔して都督征討軍事を加ふ。師 襄陽に次し、大いに僚佐に會し、旌甲を陳べ、親ら弧矢を授けて、曰く、「我の行くこと、此の射の若し」と。遂に三起三疊し、徒眾 屬目し、其の氣 十倍す。初め、翼 襄陽に遷るや、朝を舉げて之を不可と謂ひ、議者 或いは衰を避くと謂ふ。唯だ兄の冰のみ意 同じく、桓溫及び譙王無忌 其の計に贊成す。是に至り、冰 武昌に鎮して、翼の繼援と為ることを求む。朝議 謂へらく冰は宜しく出るべからずと。冰 乃ち止む。又 翼を征西將軍に進め、南蠻校尉を領せしむ。胡賊五六百騎 樊城に出づるや、翼 冠軍將軍の曹據を遣はして撓溝の北に追擊せしめ、之を破り、死者は半に近く、馬を獲ること百匹なり。翼 荒遠を綏來して、務めて招納の宜を盡くし、客館を立て、典賓參軍を置く。桓宣 卒するや、翼 長子の方之を以て義成(義城)太守と為し、代はりて宣の眾を領せしめ、司馬の應誕もて龍驤將軍・襄陽太守と為し、參軍の司馬勳もて建威將軍・梁州刺史と為し、西城を戍らしむ。康帝 崩ずるや、兄の冰 卒し、家國の情事を以て、方之を留めて襄陽を戍らしめ、還りて夏口に鎮す。悉く冰の領する所の兵を取りて自ら配し、兄の子の統を以て尋陽太守と為す。詔して翼をして還りて江州を督し、又 豫州刺史を領せしむも、豫州を辭す。復た鎮を樂鄉に移さんと欲するも、詔して許さず。軍器を繕修し、大いに佃して穀を積み、後舉を圖らんと欲す。益州刺史の周撫・西陽太守の曹據を遣はして蜀を伐ち、蜀將の李桓(李恒)を江陽に破る。
翼 厠に如くや、一物の方相(=墓守)の如くなるを見て、俄かにして疽 背に發す。疾 篤く、第二子の爰之を表して行輔國將軍・荊州刺史とし、司馬の朱燾もて南蠻校尉と為し、千人を以て巴陵を守らしむ。永和元年 卒し、時に年四十一なり。車騎將軍を追贈し、諡して肅と曰ふ。翼 卒して未だ幾ならずざるに、部將の干瓚・戴羲ら亂を作し、將軍の曹據を殺す。翼の長史の江虨・司馬の朱燾・將軍の袁真ら共に之を誅す。
爰之 翼の風有り、尋いで桓溫の廢する所と為る。溫 既に爰之を廢するや、又 征虜將軍の劉惔を以て沔中軍事を監し、義成太守を領せしめ、方之に代へしむ。而して方之・爰之 並びに豫章に遷徙せらる。

現代語訳

庾翼は字を稚恭という。風采が秀逸で、若くして天下を治める大略があった。京兆の杜乂と陳郡の殷浩はどちらも才能と名声が当世第一であったが、庾翼は二人を尊重せず、つねに人に語って、「かの連中は一絡げにして高い建物に乗せ、天下が泰平になってから、官職を見繕えばよい」と言った。幼少期の桓温に会い、桓温には遠くまで見通す見識があると認め、成帝に、「桓温は英雄の才があります。どうか陛下は月並みな待遇をなさらぬように。娘婿として抱き込み、召方(召公奭)のような任務を与えなさい。きっと国家の危難を救済する勲功を立てるでしょう」と言った。
蘇峻が反逆したとき、庾翼は二十二歳であった。兄の庾亮が白衣(無官)で数百人を率い、石頭城を防衛した。庾亮が敗れると、庾翼とともに逃げた。反乱が平定されると、はじめて太尉の陶侃の府に辟召され、参軍に転じ、従事中郎に累遷した。公府にいて、ゆったりと政治を論じた。しばらくして、振威将軍・鄱陽太守に任命された。建威将軍・西陽太守に転じた。百姓を慰撫し、とても慕われた。南蛮校尉に遷り、南郡太守を領し、輔国将軍・仮節を加えられた。邾城が守り切れず、石城が囲まれた。庾翼はしばしば敵軍の裏をかいて、ひそかに食糧と武器を供給した。石城が保全されたのは、庾翼の勲功である。都亭侯の爵を賜った。
庾亮が亡くなると、(庾翼に)都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西将軍・荊州刺史・仮節を授け、庾亮に代わって武昌に鎮した。庾翼は皇帝の舅なので、若くして群臣を抜いて昇進し、遠近から着目されたので、評判負けすることを恐れた。庾翼はいつも心と能力をしぼり、勤勉で怠ることがなく、軍政は正しく明らかで、国家経営の見通しは遠大であった。数年のうちに、公私が充実し、人から慕われて、才能を称えられた。そのため黄河より以南はみな庾翼に帰順したいと考え、石季龍の汝南太守の戴開は数千人を率いて降伏した。さらに使者を送って東は遼東に至り、西は涼州に至り、二方面に要請して、同時に軍事行動を起こそうとした。(遼東の)慕容皝と(涼州の)張駿は使者を返して呼応したいと言った。庾翼には大きな志があり、胡族を滅ぼして蜀を平定することを自分の責務とし、その言葉は意気盛んで、発言や態度にそれが表れた。将兵都尉の銭頎が意見を述べて(庾翼の)考えと一致したので、彼を五品将軍に抜擢し、穀二百斛を賜わった。このとき東土(東晋)は賦役が多く、百姓は(逃亡して)海路から広州に入った。刺史の鄧嶽は大規模な兵器の鋳造を行い、夷族らは兵器の製造を察知した。庾翼は上表して、国土の東部は経済的基盤であるが、騒ぎで混乱し、逃亡者が増加し、夷人がつねに隙を窺っており、もし兵器鋳造のことを知られれば、必ず侵略を受けますと言った。
このとき殷浩は(朝廷から)徴命があっても着任しなかった。庾翼は(殷浩に自分の)司馬と軍司になるように要請したが、どちらも着任を拒否された。庾翼は殷浩に書簡を送り、自分の考えを丁寧に伝えた。これより先、殷浩の父の殷羨が長沙太守となり、任地の長沙郡で利益を貪ったので、兄の庾冰は庾翼に書簡を送って(殷浩を用いるべきでないと)告げた。庾翼の返書に、「殷君(殷羨)が着任した当初は、驕慢ではありましたが、教化の成果は上がりました。しかもすぐれた子弟(殷浩)がいるようです。世間一般の評価を気にしなくてよいでしょう。近年は、国家のために励む風潮は後退し、私的な利益ばかりが日増しに蓄積されています。(父の殷羨を理由に)殷浩を排除する理由にはなりません。かねて器量の大きさを尊敬し、私は殷浩と親しくしてきました。彼の父や兄の失敗を、こまごまと数えあげる必要がありましょうか。今日における江東(東晋)の政治は、豪族に肩入れして、民の害毒となっています。法律や罰則は、もっぱら下層民にばかり執行されています。たとえばかつて石頭城の備蓄米の一百万斛が盗まれたことと同じです。(敗戦により大量の備蓄を損ねたのは)豪将の責任ですが、倉督監(倉庫の管理係)を叩き殺して責任を押しつけました。山遐(『晋書』巻四十三)は餘姚太守となって半年ですが、国家のために二千戸(の人手)を戸籍に編入しました。政治は強引で正しくなくとも、国家に益する長官です。しかし現地の豪族が山遐を追い出して、地位に留まることを妨害しました。紀睦・徐寧は王の使者を奉じて罪人を糾弾したはずが、船首が陸地に触れた途端、(糾弾されるべき)桓逸は地位を回復し、紀睦・徐寧は免官されました。以上はすべて前任の宰相の作り出した悪弊ですが、わが国家が滅ぶとしたら、これが原因となります。われら兄弟(庾冰・庾翼)は不幸にして、この悪弊のなかに落ち、濁流(当今の悪政)から足を抜くことができませんが、目を開いて正しい政治を見極めるべきです。荊州の管轄する一二十郡のなかで、長沙がもっとも頽廃していました。(長沙太守の殷羨が)悪の元凶(豪族)を排除しなければ、(責任転嫁して)倉庫の管理係を殺したことと何の違いがあるでしょうか」と言った。庾翼は他者を感化できる品格をもち、言葉を発して議論を組み立てることはこのようのであった。
康帝が即位すると、庾翼は軍勢を率いて北伐しようと考え、上疏して、「賊の石季龍はすでに六十歳であり、奢侈と姦淫は際限がなく、醜い胡族が怨んで離叛し、遼東で決死の戦いが起こりました。慕容皝は勇猛ですが、まだ国家は土台が不安定です。もし北に掣肘する勢力がいなければ、江南(東晋)も遼東と何が違うのでしょうか(中原から侵攻を受けて滅亡の戦いを強いられます)。心配で仕方がないので私は人員を調発し、(国内の)怨みや咎めを顧みないのです。しかも東西の形勢が整わず連携が不十分であるのに、北進をしようとしています。鎮を安陸に移し、沔水を五百里ひきこめば、溳水と流れが開通します。完成次第、南郡太守の王愆期・江夏相の謝尚・尋陽太守の袁真・西陽太守の曹據らが精鋭三万人を率い、先触れして北上し、同時に平北将軍の桓宣に黄季を攻め取らせ、丹水を占領して、秦州や雍州を揺さぶりましょう。長い手綱を引いて(遠征し)、自軍を安逸させて敵軍の疲弊を待てば、数年も経てば、中原の復興は実現し得ます。この私は許や洛陽に臨み、桓温は(長江を)渡って広陵を守るのが適任でしょうか。何充は拠点を淮水と泗水の赭圻に移し、路永は進んで合肥に駐屯すべきです。どうかこの上表を提出しましたら御聖断を仰ぎたいと思います。多様な意見に耳を傾け、好機を逃してはいけません。兵は拙速を尊ぶと聞きますが、巧遅がよいとは聞きません」と言った。ここにおいて統括する六州の奴と車牛驢馬を調発し、百姓は怨嗟した。このとき襄陽に向かおうとしたが、朝廷の許可が出ないことを心配し、安陸を目指すことを名目とした。康帝と朝臣は一同が使者を送って中止を説得し、車騎参軍の孫綽もまた書簡を送って諫めた。庾翼は従わず、詔に背いて決行した。夏口に至り、また上表して、

「私は近ごろ胡族国家が衰亡していることを受け、統括する兵を率い、山北を討伐し、現有兵力を割いて、ほぼ江夏の数城を回復しました。私たちは九月十九日に武昌を出発し、二十四日に夏口に到達し、兵士を選抜して車馬を点検し、遠征を始めようとしました。しかし調発した牛馬は、遠くから来たもので、百姓が飼育していたもので、飼料が不十分で、痩せて病弱で、長距離の移動には堪えられません。しかも冬が迫って、野草が枯れつつあり、往復の二千里の道程は、行き詰まる可能性があります。そこで計画を再検討して、今回の遠征を中止しました。また山南の諸城は、秋冬になると、川の水が枯渇し、水路の輸送に、支障が出ます。
襄陽の形勢を見ますに、荊楚の旧都であり、西は益州と梁州に隣接し、関隴と咫尺で(極めて接近し)、北は洛水や黄河から、千里も離れていません。土壌は肥沃で田地は優れ、城郭は険峻であり、水路が四方に通じ、輸送の停滞がありません。進めば秦と趙を征服することができ、退けば(東晋の)上流の防衛拠点となります。臣(わたくし)は将軍の才がなく、短慮ですが、国から厚恩を受け、志は功績を立てることにあります。ですから四年間のこの任務では、ただ軍事訓練に努めました。まことに上は聖朝の権威と戦略を頼りにし、下は士民の義憤を動員したいと思います。寇賊の衰亡を踏まえて、徐々に勢力圏を広げています。八年春の上表では楽郷を本拠地とし、勧農して兵糧を蓄え、二つの寇賊のすきを窺いたいと申し上げました。しかし天子のお耳に届かず、まだご覧いただけず、朝臣の紛々とした反対にあい、わが誠意は実現に至っておりません。
これより以来、上は天と人の感応について考え、下は降伏した胡族から情報収集しました。胡寇の衰退と滅亡は、それほど遠い日のことではありません。私はまだ中原に長距離の遠征をして、凶族の首を斬ることができずとも、進んで要害に拠点を作り、攻め取る好機を窺わないわけにはいきません。ですから地勢をみて沔水流域に入り、鎮を襄陽に移しました。謝尚・王愆期らは、すべて帰還して本拠地を守らせ、現地に到着したらすぐに、報告をさせて下さいますように」と言った。

庾翼はこのとき四万の兵を持ち、詔して都督征討軍事を加えた。軍が襄陽に駐留し、大いに幕僚を集め、軍旗と武具を並べ、庾翼は自ら弧矢を授けて、「わが進軍は、この矢のように進む」と言った。三たび立って三たび矢を射た。兵たちはこれを見て、士気を十倍にした(『世説新語』豪爽篇)。これよりさき、庾翼が襄陽に遷ると、朝廷はみなこれに反対し、襄陽に移ることを失敗の回避であると指摘した。ただ兄の庾冰だけが同じ考えで、桓温及び譙王無忌(司馬無忌)もこの計画に賛成した。このときに至り、庾冰は武昌に鎮して、庾翼の後援になろうと言った。朝議は庾冰が出陣することに反対した。庾冰はこれを中止した。さらに庾翼を征西将軍に進め、南蛮校尉を領させた。胡賊の五六百騎が樊城を出ると、庾翼は冠軍将軍の曹據を派遣して撓溝の北で追撃させ、これを破り、死者は半数近くで、馬を百匹捕らえた。庾翼は遠方の荒れ地を綏撫して、異民族の受け入れに努力し、客館を建て、典賓参軍を置いた。桓宣が亡くなると、庾翼は長子の庾方之を義成(義城)太守とし、桓宣の後任として兵を領させ、司馬の応誕を龍驤将軍・襄陽太守とし、参軍の司馬勳を建威将軍・梁州刺史とし、西城を守らせた。康帝が崩御すると、兄の庾冰が亡くなっており、一族と国家の事情に鑑み、庾方之を留めて襄陽を守らせ、(庾翼は)還って夏口に鎮した。庾冰が領した兵をすべて自分の指揮下とし、兄の子の庾統を尋陽太守とした。詔して庾翼に還って江州を督させ、さらに豫州刺史を領させたが、豫州刺史は辞退した。また鎮を楽郷に移そうとしたが、詔して許さなかった。軍備を修繕して整え、大規模に耕作して穀物を蓄積し、後年の遠征に備えた。益州刺史の周撫・西陽太守の曹據を派遣して蜀を討伐させ、蜀将の李桓(李恒)を江陽で破った。
庾翼が厠所にいくと、方相(まじない師)のようなものと会い、にわかに背中に腫瘍ができた。病気が重いので、上表して第二子の庾爰之を行輔国将軍・荊州刺史とし、司馬の朱燾を南蛮校尉とし、千人のを配備し巴陵を守らせるように提案した。永和元年に亡くなり、四十一歳だった。車騎将軍を追贈し、肅と諡した。庾翼が死んで期間をおかず、部将の干瓚と戴羲らが乱を起こし、将軍の曹據を殺した。庾翼の長史の江虨・司馬の朱燾・将軍の袁真らがともにこれを誅殺した。
庾爰之は庾翼の遺風があったが、すぐに桓温に失脚させられた。桓温は庾爰之を失脚させると、征虜将軍の劉惔に沔中軍事を監させ、義成太守を領させ、庾方之と交代させた。こうして庾方之・庾爰之はどちらも豫章に移住させられた。

原文

史臣曰、外戚之家、連輝椒掖、舅氏之族、同氣蘭閨、靡不憑藉寵私、階緣險謁。門藏金穴、地使其驕。馬控龍媒、勢成其逼。古者右賢左戚、用杜溺私之路、愛而知惡、深慎滿覆之災、是以厚贈瓊瑰、罕升津要。塗山在夏、靡與禼稷同驅。姒氏居周、不預燕齊等列。聖人慮遠、殊有旨哉。晉昵元規、參聞顧命。然其筆敷華藻、吻縱濤波、方駕搢紳、足為翹楚。而智小謀大、昧經邦之遠圖。才高識寡、闕安國之長算。璿萼見誅、物議稱其拔本。牙尺垂訓、帝念深於負芒。是使蘇祖尋戈、宗祧殆覆。已而猜嫌上宰、謀黜負圖。向使郗鋻協從、必且戎車犯順、則與夫台・產・安・桀、亦何以異哉。幸漏吞舟、免淪昭憲、是庾宗之大福、非晉政之不綱明矣。懌恣凶懷、鴆加連率、再世之後、三陽僅存、餘殃所及、蓋其宜也。
贊曰、元規矯迹、寵階椒掖。識闇釐道、亂由乘隙。下拜長沙、有慚忠益。季堅清貞、毓德馳名。處泰逾約、居權戒盈。稚恭慷慨、亦擅雄聲。

訓読

史臣曰く、外戚の家、輝を椒掖に連ね、舅氏の族、氣を蘭閨に同じうす。寵私に憑藉り、險謁に階緣らざるは靡し。金穴を門藏して、地 其を驕らしむ。馬 龍媒を控し〔一〕、勢 其の逼を成す。古者に賢を右に戚を左にして、用て私を溺るる路を杜ざし、愛するも惡を知り、深く滿覆の災を慎しむ。是を以て厚く瓊瑰を贈るも、津要に升らざるなり。塗山 夏に在りて、禼稷を與にし同驅する靡し。姒氏 周に居りて、燕齊の等列に預せず。聖人 遠を慮るは、殊に旨有るや。晉 元規に昵みて、顧命を參聞す。然して其の筆 華藻を敷き、吻 濤波を縱にす。駕を搢紳に方べて、翹楚と為すに足れり。而れども智 小さく謀 大きく、經邦の遠圖に昧し。才 高く識 寡く、安國の長算に闕く。璿萼 誅せられ、物議 其の本を拔くと稱す。牙尺 訓を垂れ、帝の念 負芒に深し。是に蘇・祖をして戈を尋ねて、宗祧をして殆ど覆らしむ。已にして上宰を猜嫌して、負圖を黜せんことを謀る。向に郗鋻をして協從せしめば、必ず且に戎車 順を犯さんとせば、則ち夫の台・產・安・桀と、亦た何を以て異ならんや。幸いに吞舟を漏し、昭憲に淪むるを免る。是れ庾宗の大福にして、非は晉の政の綱せざることは明けし。懌の凶懷を恣にし、鴆もて連率に加ふ。再世の後、三陽 僅かに存す。餘殃 及ぶ所なるは、蓋し其れ宜なるか。
贊に曰く、元規(庾亮)迹を矯げて、寵 椒掖に階る。識 釐道に闇く、亂 由りて隙に乘ず。下りて長沙を拜し、忠益に慚づる有り。季堅(庾冰)清貞にして、德を毓し名を馳す。泰に處りて逾々約し、權に居りて盈を戒しむ。稚恭(庾翼)は慷慨して、亦た雄聲に擅にす。

〔一〕南朝梁の庾信「喜雨詩」に、「臨河枕璧、夾道画龍媒」とあり、関わりがあるか。

現代語訳

史臣はいう、外戚の家は、輝きを後宮に連ね、舅の一族は、皇后と(同族として)気を共有する。過度な寵愛を頼りに、不当に地位を上げる。財産を蓄えると、ますます傲慢になる。馬は龍のともを連れ、権勢は他人を圧迫した。いにしえは賢者を右にし外戚を左にし(賢者を外戚より尊び)、近親者を重く用い過ぎず、親しくとも弊害に目を配り、滅亡の炎に焼かれることを予防した。だから手厚く財貨を与えても、軍事的な要地を預けなかった。塗山は夏王朝にあって、禼や稷と同乗しなかった。姒氏は周王朝にあって、燕と斉と並ばなかった。聖人が先々を見通すには、まさに道筋があったのである。晋帝国は元規(庾亮)を寵用し、(元帝が遺言を託し)顧命の大臣とした。しかも庾亮の文筆は華麗であり、談論は派手であった。高位高官と横並びで比較すれば、翹楚(傑出した逸材)とするに十分である。しかし智恵が小さいわりに謀略が大きく、国家経営の戦略に疎かった。才能はあるが知識が少なく、国家安定の計画がなかった。璿萼(皇族)が誅殺されると、世論は国の根本が傷ついたと言った。象牙のものさしに教訓を刻み、君主は(権臣を恐れ)いばらを背負うようであった。蘇峻と祖約が武力蜂起して宗祧(宗廟)は転覆させられる寸前となった。(蘇峻らは)執政者を忌み嫌い、先帝に遺詔を託された重臣を失脚させようとした。もし郗鑒が(蘇峻らに)協力していれば、軍隊が国家を覆したに違いなく、庾氏は(前漢で族滅された外戚の)呂台・呂産・上官安・上官桀と同じ命運をたどったであろう。幸いに刑罰がゆるく、処断されることを免れた。これは庾一族にとって大きな幸運であったが、ひどく晋帝国の法規を緩めた。庾懌は凶悪さをほしいままにし、害毒を太守らに広めた。その子孫は、(郭璞の予言どおり)三陽の地でしか生き残らなかった。子孫に天罰が加えられたのは、理由があることであろう。
賛にいう、元規(庾亮)は信念を曲げて、外戚として地位を上げた。政治に対する見識が疎く、そのせいで戦乱の原因を作った。下向して長沙太守となり、忠臣に恥じることとなった。季堅(庾冰)は高潔で正しく、美徳により名声を得た。気安い立場のときに倹約し、顕貴な立場になっても傲慢を慎んだ。稚恭(庾翼)は嘆き悲しみ、立派な名声を手に入れた。