いつか読みたい晋書訳

晋書_桓彝(子雲・雲弟豁・豁子石虔・虔子振・虔弟石秀・石民・石生・石綏・石康・豁弟秘・秘弟沖・沖子嗣・嗣子胤・嗣弟謙・謙弟修・徐寧)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
この巻は、東晋の皇帝権力を脅かしたことで王敦とともに列伝をまとめられた桓温(『晋書』巻九十八)と、桓温の子で東晋から簒奪をした桓玄(『晋書』巻九十九)という父子二名を除いた、譙国桓氏の列伝です。桓彞は桓温の父です。
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

桓彝 子雲

原文

桓彝字茂倫、譙國龍亢人、漢五更榮之九世孫也。父顥、官至郎中。彝少孤貧、雖簞瓢、處之晏如。性通朗、早獲盛名。有人倫識鑒、拔才取士、或出於無聞、或得之孩抱、時人方之許・郭。少與庾亮深交、雅為周顗所重。顗嘗歎曰、「茂倫嶔崎歷落、固可笑人也」。起家州主簿。赴齊王冏義、拜騎都尉。元帝為安東將軍、版行逡遒令。尋辟丞相中兵屬、累遷中書郎・尚書吏部郎、名顯朝廷。
於時王敦擅權、嫌忌士望、彝以疾去職。嘗過輿縣、縣宰徐寧字安期、通朗博涉、彝遇之、欣然停留累日、結交而別。先是、庾亮每屬彝覓一佳吏部、及至都、謂亮曰、「為卿得一吏部矣」。亮問所在、彝曰、「人所應有而不必有、人所應無而不必無。徐寧真海岱清士」。因為敘之。即遷吏部郎、竟歷顯職。
明帝將伐王敦、拜彝散騎常侍、引參密謀。及敦平、以功封萬寧縣男。丹楊尹溫嶠上言、「宣城阻帶山川、頻經變亂、宜得望實居之、竊謂桓彝可充其選」。帝手詔曰、「適得太真表如此。今大事新定、朝廷須才、不有君子、其能國乎。方今外務差輕、欲停此事」。彝上疏深自撝挹、內外之任並非所堪、但以墳柏在此郡、欲暫結名義、遂補彝宣城內史。在郡有惠政、為百姓所懷。
蘇峻之亂也、彝糾合義眾、欲赴朝廷。其長史裨惠以郡兵寡弱、山人易擾、可案甲以須後舉。彝厲色曰、「夫見無禮於其君者、若鷹鸇之逐鳥雀。今社稷危逼、義無晏安」。乃遣將軍朱綽討賊別帥於蕪湖、破之。彝尋出石硊。會朝廷遣將軍司馬流先據慈湖、為賊所破、遂長驅逕進。彝以郡無堅城、遂退據廣德。尋王師敗績、彝聞而慷慨流涕、進屯涇縣。時州郡多遣使降峻、裨惠又勸彝偽與通和、以紓交至之禍。彝曰、「吾受國厚恩、義在致死、焉能忍垢蒙辱與醜逆通問。如其不濟、此則命也」。遣將軍俞縱守蘭石。峻遣將韓晃攻之。縱將敗、左右勸縱退軍。縱曰、「吾受桓侯厚恩、本以死報。吾之不可負桓侯、猶桓侯之不負國也」。遂力戰而死。晃因進軍攻彝。彝固守經年、勢孤力屈。賊曰、「彝若降者、當待以優禮」。將士多勸彝偽降、更思後舉。彝不從、辭氣壯烈、志節不撓。城陷、為晃所害、年五十三。時賊尚未平、諸子並流迸、宣城人紀世和率義故葬之。賊平、追贈廷尉、諡曰簡。咸安中、改贈太常。俞縱亦以死節、追贈興古太守。
初、彝與郭璞善、嘗令璞筮。卦成、璞以手壞之。彝問其故。曰、「卦與吾同。丈夫當此非命、如何」。竟如其言。有五子、溫・雲・豁・祕・沖。溫別有傳。

訓読

桓彝 字は茂倫、譙國龍亢の人なり。漢の五更榮の九世孫なり。父の顥、官は郎中に至る。彝 少くして孤貧たり、簞瓢と雖も、之に處りて晏如たり。性は通朗にして、早く盛名を獲たり。人倫の識鑒有り、才を拔き士を取り、或いは無聞を出し、或いは之を孩抱に得たり。時人 之を許・郭に方ぶ。少くして庾亮と深く交はり、雅より周顗の重ずる所と為る。顗 嘗て歎じて曰く、「茂倫 嶔崎として歷落、固に可笑(おか)しき人なり」と。起家して州主簿たり。齊王冏の義に赴き、騎都尉を拜す。元帝 安東將軍と為るや、版して逡遒令を行せしむ。尋いで丞相中兵屬に辟し、中書郎・尚書吏部郎に累遷し、名 朝廷に顯はる。
時に於て王敦 權を擅にし、士望を嫌忌す。彝 疾を以て職を去る。嘗て輿縣を過るや、縣宰の徐寧 字は安期、通朗にして博涉、彝 之に遇ふに、欣然として停留すること累日。交を結びて別る。是より先、庾亮 每に彝に屬して一の佳吏部を覓めしむ。都に至るに及び、亮に謂ひて曰く、「卿の為に一吏部を得たり」と。亮 所在を問ふに、彝曰く、「人 應に有るべき所に必ずしも有らず、人 應に無かるべき所に必ずしも無からず。徐寧 真に海岱の清士なり」と。因りて為に之を敘す。即ち吏部郎に遷り、竟に顯職を歷す。
明帝 將に王敦を伐たんとするや、彝に散騎常侍を拜し、引きて密謀に參ぜしむ。敦 平らぐるに及び、功を以て萬寧縣男に封ず。丹楊尹の溫嶠 上言すらく、「宣城は山川を阻帶し、頻りに變亂を經たり。宜しく望實を得て之に居らしむべし。竊かに謂へらく桓彝 其の選に充つ可し」と。帝 手詔して曰く、「適(まさ)に太真の表を得るに此の如し。今 大事 新たに定まり、朝廷 才を須つ。君子有らざれば、其れ國を能くせんや。方今 外務 差々輕く、此の事を停めんと欲す」。彝 上疏して深く自ら撝挹すらく、內外の任 並びに堪ふる所に非ず、但だ墳柏 此の郡に在るを以て、暫く名義を結ばんと欲すと。遂に彝を宣城內史に補す。郡に在りて惠政有り、百姓の懷く所と為る。
蘇峻の亂あるや、彝 義眾を糾合し、朝廷に赴かんと欲す。其の長史の裨惠 以へらく、郡兵 寡弱にして、山人 擾ぎ易ければ、甲を案じて以て後舉を須つ可しと。彝 色を厲まして曰く、「夫れ其の君に禮無き者を見れば、鷹鸇の鳥雀を逐ふが若くす。今 社稷 危逼にして、義にて晏安すべき無し」と。乃ち將軍の朱綽を遣はして賊の別帥を蕪湖に討たしめ、之を破る。彝 尋いで石硊に出づ。會々朝廷 將軍の司馬流を遣はして先に慈湖に據らしむるも、賊の破る所と為り、遂に長驅して逕進す。彝 郡に堅城無きを以て、遂に退きて廣德に據る。尋いで王師 敗績し、彝 聞きて慷慨して流涕し、進みて涇縣に屯す。時に州郡 多く使を遣はして峻に降り、裨惠 又 彝に勸めて偽はりて與に和を通じ、以て交至の禍を紓(ゆる)めんとす。彝曰く、「吾 國の厚恩を受け、義は致死に在る。焉ぞ能く垢を忍び辱を蒙りて醜逆と通問する。如し其れ濟はざれば、此れ則ち命なり」と。將軍の俞縱を遣はして蘭石を守らしむ。峻 將の韓晃を遣はして之を攻めしむ。縱 將に敗れんとするに、左右 縱に軍を退くるを勸む。縱曰く、「吾 桓侯の厚恩を受け、本より死を以て報ぜん。吾の桓侯に負く可からざること、猶ほ桓侯の國に負かざるなり」と。遂に力戰して死す。晃 因りて軍を進めて彝を攻む。彝 固守すること經年、勢は孤たりて力は屈す。賊曰く、「彝 若し降らば、當に待するに優禮を以てすべし」と。將士 多く彝に偽降し、更めて後舉を思へと勸む。彝 從はず、辭氣 壯烈たりて、志節 撓せず。城 陷ち、晃の害する所と為る。年五十三なり。時に賊 尚ほ未だ平らがず、諸子 並びに流迸し、宣城の人の紀世和 義故を率ゐて之を葬る。賊 平らぐや、廷尉を追贈し、諡して簡と曰ふ。咸安中に、改めて太常を贈る。俞縱も亦た死節を以て、興古太守を追贈す。
初め、彝 郭璞と善く、嘗て璞をして筮せしむ。卦 成るや、璞 手を以て之を壞す。彝 其の故を問ふ。曰く、「卦 吾と同じ。丈夫 此の非命に當たるは、如何」と。竟に其の言の如し。五子有り、溫・雲・豁・祕・沖なり。溫 別に傳有り。

現代語訳

桓彝は字を茂倫といい、譙國龍亢の人である。漢の五更の桓榮の九世孫である。父の桓顥は、官位は郎中に至った。桓彞は若くして父を失って貧しく、簞瓢(清貧)であったが、安らかに暮らしていた。性は通朗(すきとおって明らか)であり、早くに名声を得た。人物の鑑識眼があり、才能を見出して人士を採用し、知名度のないものを発掘したり、まだ抱かれるほどの幼児のなかから人材を見つけたりした。当時の人々は桓彞を(後漢末の人物鑑定家の)許劭や郭泰になぞらえた。若いときから庾亮と深く親交を結び、周顗から尊重された。周顗はかつて感嘆し、「茂倫(桓彞)は石が積み上がった山のように高潔で他を寄せつけず、本当におかしなひとだ」と言った。起家して州主簿となった。斉王冏(司馬冏)の起義に参加し、騎都尉を拝した。元帝(司馬睿)が安東将軍になると、任命状を送り逡遒令を代行させた。すぐに(司馬睿は桓彞を)丞相中兵属に辟召し、中書郎・尚書吏部郎に累遷し、名が朝廷であらわれた。
このとき王敦が権勢をほしいままにし、名望ある士を忌み嫌った。桓彞は病気を理由に官職を去った。輿県(臨淮郡)を通過したとき、県宰の徐寧は字を安期といい、通朗(すきとおって明らか)で博識であったが、桓彞は徐寧に出会うと、よろこんで停留して日数を重ねた。親交を結んで別れた。これよりさき、庾亮はつねに桓彞に吏部の適任者を推薦するように委嘱していた。都に到着すると、桓彞は庾亮に、「きみのために吏部を一人見つけた」と言った。庾亮が所在を問うと、桓彞は、「人はいるべき場所にいるとは限らず、いるべきでない場所にいないとも限らない。徐寧はまことに海岱の清士である」と言った。こうして徐寧を吏部に任命した。桓彞は吏部郎に遷り、顕職を歴任した。
明帝が王敦の討伐をしようとすると、桓彞に散騎常侍を拝し、招いて密謀に参加させた。王敦を平定すると、功績により萬寧県男に封建した。丹楊尹の温嶠は上言して、「宣城は山川によって隔てられ、しきりに変乱を起きてきた。名望と実力を備えた人物に統治させるべきです。私が思いますに桓彝こそが適任です」と言った。明帝は手詔して、「まさに太真(温嶠)の上表の言うとおりだ。いま国家が安定を取り戻したばかりで、朝廷は人材を必要としている。君子がおらねば、統治ができようか。(しかし)いま国外の脅威はやや軽く、この提案は保留としよう」と言った。桓彞は上疏して深く謙遜して、内外の任務は自分には重すぎるが、しかし墳墓の松柏(宗族の墓)が宣城郡にあるため、しばらく現地の人々と親交を結びたいと言った。こうして桓彞を宣城内史に任命した。宣城郡にいて政治で恩恵をほどこし、住民に親しまれた。
蘇峻の乱が起こると、桓彞は義兵を糾合し、朝廷に駆けつけようとした。その長史の裨恵は、「宣城の郡兵は少なく弱く、山地の民は容易に裏切るため、武装を整えて今回は見送ったほうがよい」と言った。桓彞は顔色を変えて、「君主(天子)に無礼をはたらく者を見たならば、鷹鸇が鳥雀を追い払うように猛烈に討伐すべきだ(『春秋左氏伝』文公 伝十八年)。いまは社稷の危機であり、わが身の安全を顧みるのは義ではない」と言った。ただちに将軍の朱綽を派遣して賊の別軍を蕪湖で討伐させ、これを破った。桓彞はすぐに石硊に進出した。このとき朝廷は将軍の司馬流を派遣して先に慈湖を守らせていたが、賊軍に破られ、長距離を直進した。桓彞は郡に堅城がないため、退いて広徳に拠った。ほどなく天子の軍が敗北し、桓彞はこれを聞いて慷慨して流涕し、進んで涇県に駐屯した。このとき州郡は多くが使者を送って蘇峻に降伏し、裨恵もまた桓彞に本心を偽って和親の使者を送り、次々と禍いが起こる危険性を下げようとした。桓彞は、「私は国に厚恩を受け、命を捨てるのが義である。どくして屈辱を忍んで醜悪な逆賊と連絡を取るものか。もし命を禍いで落とすならば、それが天命である」と言った。将軍の俞縦を派遣して蘭石を守らせた。蘇峻は将將の韓晃にこれを攻撃させた。俞縦が負けそうになると、側近は撤退を勧めた。俞縦は、「私は桓侯(桓彞)から厚恩を受け、死によって報いるつもりであった。私が桓侯に背かないのは、桓侯が国家に背かないことと同じだ」と言った。こうして力戦して死んだ。韓晃はそのまま軍を進めて桓彞を攻めた。桓彞は堅守して年をまたぎ、孤立して力尽きた。賊は、「もし桓彞が降伏したら、きっと礼遇するだろう」と誘った。将士は多くが桓彞にかりそめに降伏し、改めて出直しましょうと勧めた。桓彞は従わず、言葉と意気は壮烈で、志節は揺らがなかった。城が陥落し、韓晃に殺害された。五十三歳だった。このとき賊はまだ平定されず、(桓彞の)諸子はみな流亡し、宣城の人の紀世和が旧知をつれて埋葬した。賊が平定されると、廷尉を追贈し、簡と諡した。咸安年間、改めて太常を贈った。俞縦もまた命がけで抵抗したので、興古太守を追贈された。
これよりさき、桓彞は郭璞と仲が良く、郭璞に筮(占い)をさせた。卦が成ると、郭璞は手でこれを壊した。桓彞がその理由を聞いた。郭璞は、「卦が私と同じだった。立派な人物がこのように悲運であるのは、なぜだろう」と言った。結局は占いどおりになった。五人の子がおり、桓温・桓雲・桓豁・桓秘・桓沖である。桓温は別に列伝がある。

原文

雲字雲子。初為驃騎何充參軍・尚書郎、不拜。襲爵萬寧男、歷位建武將軍・義成太守。遭母憂去職。葬畢、起為江州刺史、稱疾、廬於墓次。詔書敦逼、固辭不行、服闋、然後莅職。加都督司豫二州軍事・領鎮蠻護軍・西陽太守・假節。雲招集眾力、志在足兵、多所枉濫、眾皆嗟怨。時溫執權、有司不敢彈劾。
升平四年卒、贈平南將軍、諡曰貞。子序嗣、官至宣城內史。

訓読

雲 字は雲子なり。初め驃騎の何充の參軍・尚書郎と為るも、拜せず。爵萬寧男を襲ひ、建武將軍・義成太守を歷位す。母の憂に遭ひて職を去る。葬し畢はるや、起ちて江州刺史と為るも、疾と稱し、墓次に廬す。詔書して敦逼するも、固辭して行かず、服闋するや、然る後に職に莅む。都督司豫二州軍事・領鎮蠻護軍・西陽太守・假節を加ふ。雲 眾力を招集し、志は兵を足すに在るも、枉濫する所多く、眾 皆 嗟怨す。時に溫 執權すれば、有司 敢て彈劾せず。
升平四年 卒し、平南將軍を贈り、諡して貞と曰ふ。子の序 嗣ぐ、官は宣城內史に至る。

現代語訳

桓雲は字を雲子という。はじめ驃騎将軍の何充の参軍・尚書郎となったが、拝さなかった。萬寧男の爵を襲い、建武将軍・義成太守を歴任した。母の喪によって職を去った。葬儀が終わると、再仕官して江州刺史に任命されたが、病気と称して、墓のそばに住んだ。詔書で催促したが、固辞して行かず、喪があけた後に、官位についた。都督司豫二州軍事・領鎮蛮護軍・西陽太守・仮節を加えた。桓雲は民の力を召集し、兵士の増員を目指したが、法をまげた判断が多く、兵士たちは怨嗟した。このとき(兄の)桓温が執政者であったので、担当官はあえて弾劾しなかった。
升平四年に亡くなり、平南将軍を贈り、貞と諡した。子の桓序が嗣いで、官位は宣城内史に至った。

雲弟豁 豁子石虔 虔子振

原文

豁字朗子。初辟司徒府・祕書郎、皆不就。簡文帝召為撫軍從事中郎、除吏部郎、以疾辭。遷黃門郎、未拜。時謝萬敗於梁濮、許昌・潁川諸城相次陷沒、西藩騷動。溫命豁督沔中七郡軍事・建威將軍・新野義成二郡太守、擊1.慕容屈塵、破之、進號右將軍。溫既內鎮、以豁監荊揚雍州軍事・領護南蠻校尉・荊州刺史・假節、將軍如故。時梁州刺史司馬勳以梁益叛、豁使其參軍桓羆討之。而南陽督護趙弘・趙憶等逐太守2.桓淡、據宛城以叛、豁與竟陵太守羅崇討破之。又攻偽南中郎將趙盤於宛、盤退走、豁追至魯陽、獲之、送於京師、置戍而旋。又監寧益軍事。溫薨、遷征西將軍、進督交廣并前五州軍事。
苻堅寇蜀、豁遣江夏相3.竺瑗距之。廣漢太守趙長等戰死、瑤引軍退。頃之、堅又寇涼州、弟沖遣輔國將軍朱序與豁子江州刺史石秀泝流就路、稟節度。豁遣督護桓羆與序等游軍沔漢、為涼州聲援。俄而張天錫陷沒、詔遣中書郎王尋之詣豁、諮謀邊事。豁表以梁州刺史毛憲祖監沔北軍事、兗州刺史朱序為南中郎將・監沔中軍事、鎮襄陽、以固北鄙。
太元初、遷征西大將軍・開府。豁上疏固讓曰、「臣聞三台麗天、辰極以之增耀。論道作弼、王猷以之時邕。必將仰參神契、對揚成務、弘易簡以翼化、暢玄風於宗極。故宜明揚仄陋、登庸賢雋、使版築有沖天之舉、渭濱無垂竿之逸。用乃功濟蒼生、道光千載。是以德非時望、成典所不虛授。功微賞厚、賢達不以擬心。臣實凡人、量無遠致、階藉門寵、遂叨非據。進不能闡揚皇風、贊明其政道。退不能宣力所莅、混一華戎。尸素積載、庸績莫紀。是以敢冒成命、歸陳丹款。伏願陛下迴神玄覽、追收謬眷、則具瞻革望、臣知所免」。竟不許。及苻堅陷仇池、豁以新野太守吉挹行魏興太守・督護梁州五郡軍事、戍梁州。堅陷涪城、梁州刺史楊亮・益州刺史周仲孫並委戍奔潰。豁以威略不振、所在覆敗、又上疏陳謝、固辭、不拜開府。尋卒、時年五十八。贈司空、本官如故、諡曰敬。贈錢五十萬、布五百匹、使者持節監護喪事。豁時譽雖不及沖、而甚有器度。但遇強寇、故功業不建。
初、豁聞苻堅國中有謠云、「誰謂爾堅、石打碎」。有子二十人、皆以「石」為名以應之。唯石虔・石秀・石民・石生・石綏・石康知名。

1.『晋書』哀帝紀、『資治通鑑』巻一百一は「慕容塵」に作る。
2.『晋書』海西公紀、『資治通鑑』巻一百一は「桓澹」に作る。
3.『晋書』海西公紀・苻堅載記上・桓温伝、『資治通鑑』巻一百二・一百三は「竺瑤」に作る。

訓読

豁 字は朗子なり。初め司徒府・祕書郎に辟せられ、皆 就かず。簡文帝 召して撫軍從事中郎と為し、吏部郎に除するも、疾を以て辭す。黃門郎に遷るも、未だ拜せず。時に謝萬 梁濮を敗り、許昌・潁川の諸城 相 次いで陷沒し、西藩 騷動す。溫 豁を督沔中七郡軍事・建威將軍・新野義成二郡太守に命じ、慕容屈塵を擊たしむ。之を破り、號を右將軍に進む。溫 既に鎮に內るや、豁を以て監荊揚雍州軍事・領護南蠻校尉・荊州刺史・假節とし、將軍は故の如し。時に梁州刺史の司馬勳 梁益を以て叛し、豁 其の參軍の桓羆をして之を討たしむ。而して南陽督護の趙弘・趙憶ら太守の桓淡を逐ひ、宛城に據りて以て叛す。豁 竟陵太守の羅崇と與に討ちて之を破る。又 偽南中郎將の趙盤を宛に攻む。盤 退走し、豁 追ひて魯陽に至り、之を獲らへ、京師に送り、戍を置きて旋る。又 監寧益軍事たり。溫 薨ずるや、征西將軍に遷り、督交廣并前五州軍事に進む。
苻堅 蜀を寇するや、豁 江夏相の竺瑗を遣はして之を距がしむ。廣漢太守の趙長ら戰死し、瑤 軍を引きて退く。頃之、堅 又 涼州を寇するや、弟の沖 輔國將軍の朱序と豁の子の江州刺史の石秀を遣はして流を泝りて路に就き、節度を稟けしむ。豁 督護の桓羆と序らを遣はして軍を沔漢に游ばしめ、涼州の聲援と為す。俄かにして張天錫 陷沒し、詔して中書郎の王尋之を遣はして豁に詣らしめ、邊事を諮謀す。豁 表して梁州刺史の毛憲祖を以て監沔北軍事とし、兗州刺史の朱序もて南中郎將・監沔中軍事と為し、襄陽に鎮せしめ、以て北鄙を固む。
太元の初め、征西大將軍・開府に遷る。豁 上疏して固讓して曰く、「臣 聞くならく三台 天に麗しく、辰極 之を以て耀きを增す。道を論じ弼を作し、王猷 之を以て時邕なり。必ず將に仰ぎて神契に參じ、成務を對揚し、易簡を弘めて以て化を翼け、玄風を宗極に暢びんとす。故に宜しく仄陋を明揚し、賢雋を登庸し、版築に沖天の舉有らしめ、渭濱に垂竿の逸無からしむべし。用て乃ち功は蒼生を濟ひ、道は千載に光れり。是を以て德 時望に非ざれば、成典 虛しく授けざる所なり。功 微にして賞 厚ければ、賢達 以て心に擬せず。臣 實に凡人にして、量は遠致する無く、門寵に階藉して、遂に非據を叨にす。進みては皇風を闡揚し、其の政道を贊明する能はず。退きては力を莅む所に宣べ、華戎を混一にすること能はず。尸素 載を積み、庸績 紀する莫し。是を以て敢て成命を冒して、丹款を歸陳す。伏して願はくは陛下 神を玄覽に迴らし、追ひて謬眷を收めば、則ち具瞻して望を革め、臣 免ずる所を知れ」と。竟に許さず。苻堅 仇池を陷すに及び、豁 新野太守の吉挹を以て魏興太守・督護梁州五郡軍事を行し、梁州を戍らしむ。堅 涪城を陷すや、梁州刺史の楊亮・益州刺史の周仲孫 並びに戍を委ねて奔潰す。豁 威略 振はず、所在 覆敗するを以て、又 上疏して謝を陳び、固辭し、開府を拜せず。尋いで卒し、時に年五十八なり。司空を贈り、本官は故の如く、諡して敬と曰ふ。錢五十萬、布五百匹を贈り、使者 持節して喪事を監護す。豁 時譽は沖に及ばざると雖も、而れども甚だ器度有り。但だ強寇に遇ひ、故に功業 建たず。
初め、豁 聞く苻堅の國中に謠有りて、「誰か爾(なんぢ)を堅しと謂ふや、石もて打碎せん」と云ふを。子二十人有り、皆 「石」を以て名と為して以て之に應ず。唯だ石虔・石秀・石民・石生・石綏・石康のみ名を知らる。

現代語訳

桓豁は字を朗子という。はじめ司徒府・秘書郎に辟召されたが、どちらも就かなかった。簡文帝が召して撫軍従事中郎とし、吏部郎に任命したが、病気を理由に辞退した。黄門郎に遷ったが、拝命せずにいた。このとき謝萬が梁濮を破り、許昌・潁川の諸城が相次いで陥落し、国土の西方が騒乱していた。桓温は桓豁を督沔中七郡軍事・建威将軍・新野義成二郡太守に任命し、慕容屈塵(慕容塵)を撃たせた。これを破ると、官号を右将軍に進めた。桓温が鎮(桓豁のいた城)に入ると、桓豁を監荊揚雍州軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史・仮節とし、将軍号は現状のままとした。このとき梁州刺史の司馬勳が梁州と益州を地盤にして叛乱し、桓豁はその参軍の桓羆にこれを討伐させた。しかも南陽督護の趙弘・趙憶らが太守の桓淡(桓澹)を放逐し、宛城に拠って叛乱した。桓豁は竟陵太守の羅崇とともにこれを討伐して破った。また偽南中郎将の趙盤を宛で攻めた。趙盤が敗走すると、桓豁は追って魯陽に至り、これを捕らえ、京師に送り、戍(防衛拠点)を設置して帰還した。さらに監寧益軍事となった。桓温が薨去すると、征西将軍に遷り、督交広并前五州軍事に進んだ。
苻堅が蜀に侵攻すると、桓豁は江夏相の竺瑗(竺瑤)を派遣してこれを防がせた。広漢太守の趙長らが戦死し、竺瑗(竺瑤)は軍を撤退させた。しばらくして、苻堅がさらに涼州に侵攻すると、弟の桓沖は輔国将軍の朱序と桓豁の子の江州刺史の石秀を派遣して流れを遡って涼州に向かい、(桓豁の)節度を受けさせ(指揮下に入らせ)た。桓豁は督護の桓羆と朱序らを派遣して軍を沔水と漢水の一帯に展開し、涼州を遠方から支えた。にわかに張天錫(前涼)が滅亡すると、詔して中書郎の王尋之を(朝廷から)桓豁のもとに派遣し、国境について戦略を相談した。桓豁は上表して梁州刺史の毛憲祖を監沔北軍事とし、兗州刺史の朱序を南中郎将・監沔中軍事とし、襄陽を鎮守させ、北辺の守りを固めるように進言した。
太元年間の初め、征西大将軍・開府に遷った。桓豁が上疏して固辞し、「私が聞きますに三台(紫微を守る三星)は天に麗しく、辰極(北極星)は三台によって輝きを増します。(三星に準えられる三公が)道を論じて補弼し、王の政治は泰平となります。神明を慎んで奉り、王の事業を成就させ、簡約な方法で教化し、玄風が吹き起こります。ですから下賤の人を見つけ、賢者を登用し、工人に天に届くような建物を築かせ(未詳)、渭水や濱水で釣り竿を垂らす遺賢がいないようにするべきです。さすれば万民は救済され、道義が千年にわたり輝きます。(私のように)徳が輿望に適わないものに、儀礼で空虚な称号を与えません。功績が少ないが褒賞が厚ければ、賢者は納得しません。私はまことに凡人であり、度量は遠くに及びませんが、一族が被った恩寵により、過分な官職を得ています。(私には)進んでは皇帝の威信を高め、政道を補佐することができません。退いては職務で力を発揮し、華族と戎狄を統一することができません。連年むだに俸禄を食みながら、記録すべき成果がありません。ですから敢えて命令に背き、誠意を申し上げたのです。どうか陛下は再考なさり、命令を撤回し、見解を修正され、わが辞退の意向をご理解下さい」と言った。結局は認められなかった。苻堅が仇池を滅亡させると、桓豁は新野太守の吉挹に魏興太守・督護梁州五郡軍事を代行させ、梁州を守らせた。苻堅が涪城を陥落させると、梁州刺史の楊亮・益州刺史の周仲孫が二人とも守備を放棄して逃げた。桓豁の威略は振るわず、担当地域が転覆したので、上疏して謝罪し、固辞し、開府を辞退した。ほどなく亡くなり、五十八歳だった。司空を贈り、本官は生前のままとし、敬と諡した。五十万の銭と、五百匹の布を贈り、使者が持節して葬儀を取り仕切った。桓豁は当時の声望が桓沖に及ばなかったが、大きな度量を持っていた。ただ強敵に遭遇し、功業が立たなかった。
これよりさき、桓豁は苻堅の国内(前秦)に童謡があり、「だれがお前を堅いと言った、石なら叩き壊せるぞ」とあった。桓豁には二十人の子がいたが、すべて 「石」の字を名にいれて童謡に呼応させた。ただ桓石虔・桓石秀・桓石民・桓石生・桓石綏・桓石康だけが名を知られた。

原文

石虔小字鎮惡。有才幹、趫捷絕倫。從父在荊州、於獵圍中見猛獸被數箭而伏、諸督將素知其勇、戲令拔箭。石虔因急往、拔得一箭、猛獸跳、石虔亦跳、高於獸身、猛獸伏、復拔一箭以歸。從溫入關。沖為苻健所圍、垂沒、石虔躍馬赴之、拔沖於數萬眾之中而還、莫敢抗者。三軍歎息、威震敵人。時有患瘧疾者、謂曰「桓石虔來」以怖之、病者多愈、其見畏如此。
初、袁真以壽陽叛、石虔以寧遠將軍・南頓太守帥諸將攻之、克其南城。又擊苻堅將王鑒於石橋、獲馬五百匹。除竟陵太守、以父憂去職。尋而苻堅又寇淮南、詔曰、「石虔文武器幹、御戎有方。古人絕哭、金革弗避、況在餘哀、豈得辭事。可授奮威將軍・南平太守」。尋進冠軍將軍。苻堅荊州刺史梁成(都貴)・襄陽太守閻震(閻振)率眾入寇竟陵、石虔與弟石民距之。賊阻滶水、屯管城。石虔設計夜渡水、既濟、賊始覺、力戰破之、進克管城、擒震、斬首七千級、俘獲萬人、馬數百匹、牛羊千頭、具裝鎧三百領。成以輕騎走保襄陽。石虔復領河東太守、進據樊城、逐堅兗州刺史張崇、納降二千家而還。沖卒、石虔以冠軍將軍監豫州揚州五郡軍事・豫州刺史。尋以母憂去職。服闋、復本位。久之、命移鎮馬頭、石虔求停歷陽、許之。
太元十三年卒、追贈右將軍。追論平閻震功、進爵作塘侯(唐侯)。第五子誕嗣。誕長兄洪、襄城太守。洪弟振。

訓読

石虔 小字は鎮惡なり。才幹有り、趫捷にして絕倫なり。父に從ひて荊州に在り、獵圍中に於て猛獸の數箭を被けて伏すを見て、諸々の督將 素より其の勇を知らば、戲れて箭を拔かしむ。石虔 因りて急ぎ往き、拔きて一箭を得るや、猛獸 跳び、石虔も亦た跳び、獸の身より高し。猛獸 伏すや、復た一箭を拔きて以て歸る。溫に從ひて關に入る。沖 苻健の圍む所と為り、沒するに垂とす。石虔 馬を躍らせて之に赴き、沖を數萬眾の中より拔きて還り、敢て抗する者莫し。三軍 歎息し、威は敵人を震はす。時に瘧疾を患らふ者有り、謂ひて「桓石虔 來たる」と曰ふや以て之を怖れ、病める者 多く愈ゆ。其の畏れらるること此の如し。
初め、袁真 壽陽を以て叛し、石虔 寧遠將軍・南頓太守を以て諸將を帥ゐて之を攻め、其の南城を克つ。又 苻堅の將の王鑒を石橋に擊ち、馬五百匹を獲たり。竟陵太守に除せられ、父の憂を以て職を去る。尋いで苻堅 又 淮南を寇するや、詔して曰く、「石虔は文武 器幹いして、戎を御ぎ方有り。古人 哭を絕ちて、金革 避けず。況んや餘哀に在りて、豈に事を辭するを得んや。奮威將軍・南平太守を授く可し」と。尋いで冠軍將軍に進む。苻堅の荊州刺史の梁成(都貴)・襄陽太守の閻震(閻振)眾を率ゐて竟陵に入寇し、石虔 弟の石民と與に之を距ぐ。賊 滶水を阻み、管城に屯す。石虔 計を設けて夜に水を渡る。既に濟るや、賊 始めて覺り、力戰して之を破り、進みて管城に克ち、震(振)を擒へ、斬首は七千級、俘獲は萬人、馬は數百匹、牛羊は千頭、具裝鎧は三百領なり。成(貴)輕騎を以て走りて襄陽を保つ。石虔 復た河東太守を領し、進みて樊城に據り、堅の兗州刺史の張崇を逐ひ、降るを納るること二千家にして還る。沖 卒し、石虔 以て冠軍將軍監豫州揚州五郡軍事・豫州刺史たり。尋いで母の憂を以て職を去る。服闋し、本位に復す。久之、命じて鎮を馬頭に移す。石虔 歷陽に停まることを求め、之を許す。
太元十三年 卒し、右將軍を追贈す。追って閻震を平らぐ功を論じ、爵を作塘侯(作唐侯)に進む。第五子の誕 嗣ぐ。誕の長兄の洪、襄城太守なり。洪の弟は振なり。

現代語訳

桓石虔は小字を鎮悪という。才幹があり、敏捷で力強かった。父に従って荊州におり、狩猟の囲いのなかで猛獣が数本の矢を受けて倒れるのを見て、督将たちは桓石虔の勇猛さを知っていたので、ふざけて桓石虔に矢を抜きに行かせた。桓石虔はすぐに猛獣に近づき、一本の矢を引き抜くと、猛獣が跳び、桓石虔も跳んだが、猛獣よりも跳躍が高かった。猛獣が倒れると、さらに一本を抜いて帰った。桓温に従って関中に入った。桓沖が苻健(前秦)に包囲され、敗北が間近となった。桓石虔は馬を躍らせて駆けつけ、桓沖を数万の敵軍の中から救出して還ったが、対抗する敵兵はいなかった。三軍は歎息し、威勢が敵兵を震わせた。このころ瘧疾(おこり)が流行したが、「桓石虔が来るぞ」と言うと恐れ、多くの患者が治癒した。桓石虔はこのように畏怖された。
これよりさき、袁真が寿陽で叛乱すると、桓石虔は寧遠将軍・南頓太守として諸将を率いてこれを攻め、その(寿陽の)南城を破った。さらに苻堅の将の王鑒を石橋で攻撃し、馬五百匹を得た。竟陵太守に任命されたが、父の喪を理由に官職を去った。ほどなく苻堅がまた淮南に侵攻すると、詔して、「桓石虔は文武の才幹があり、戎狄の防衛を得意とする。古人は親の死に哭していても、戦争を避けなかった。強い悲しみを理由に、任務を辞退できようか。(桓石虔に)奮威将軍・南平太守を授けるように」と言った。すぐに冠軍将軍に進んだ。苻堅の荊州刺史の梁成(都貴)と襄陽太守の閻震(閻振)が兵を率いて竟陵に侵入し、桓石虔は弟の桓石民とともにこれを防いだ。賊軍が滶水を防衛し、管城に駐屯した。桓石虔は計略を使って夜に川を渡った。渡り終えてから、賊軍は初めてこれに気づいた。力戦してこれを破り、進んで管城を破り、閻震(閻振)を捕らえ、七千級を斬首し、一万人の捕虜、数百匹の馬、千頭の牛羊、三百領の武具や鎧を獲得した。梁成(都貴)は軽騎で移動して襄陽をとりでとした。桓石虔はさらに河東太守を領し、進んで樊城を拠点とし、苻堅の兗州刺史の張崇を追い払い、二千家を降伏させて帰った。桓沖が亡くなると、桓石虔は冠軍将軍・監豫州揚州五郡軍事・豫州刺史となった。母の喪によって官職を去った。喪が明けると、もとの官位に戻った。しばらくして、鎮所を馬頭に移せと命じられた。桓石虔は歴陽に留まることを求め、許された。
太元十三年に亡くなり、右将軍を追贈した。追って閻震(閻振)を平定した功績により、爵を作塘侯(作唐侯)に進めた。第五子の桓誕が嗣いだ。桓誕の長兄の桓洪は、襄城太守である。桓洪の弟は桓振である。

原文

振字道全。少果銳、而無行。玄為荊州、以振為揚武將軍・淮南太守。轉江夏相、以兇橫見黜。
及玄之敗也、桓謙匿於沮中、振逃於華容之涌中。玄先令將軍王稚徽戍巴陵、稚徽遣人報振云、「桓欽(桓歆)已克京邑、馮稚等復平尋陽、劉毅諸軍並敗於中路」。振大喜。時安帝在江陵、振乃聚黨數十人襲江陵。比至城、有眾二百。謙亦聚眾而出、遂陷江陵、迎帝於行宮。振聞桓昇死、大怒、將肆逆於帝、謙苦禁之、乃止。遂命羣臣、辭以楚祚不終、百姓之心復歸於晉、更奉進璽綬、以琅邪王領徐州刺史、振為都督八州・鎮西將軍・荊州刺史。帝侍御左右、皆振之腹心。既而歎曰、「公昔早不用我、遂致此敗。若使公在、我為前鋒、天下不足定。今獨作此、安歸乎」。遂肆意酒色、暴虐無道、多所殘害。
振營於江津。南陽太守魯宗之自襄陽破振將溫楷於柞溪、進屯紀南。振聞楷敗、留其將馮該守營、自率眾與宗之大戰。振勇冠三軍、眾莫能禦、宗之敗績。振追奔、遇宗之單騎於道、弗之識也、乃問宗之所在。紿曰、「已前走矣」。於是自後而退。尋而劉毅等破馮該、平江陵。振聞該敗、眾潰而走。後與該子宏出自溳城、復襲江陵。荊州刺史司馬休之奔襄陽、振自號荊州刺史。建威將軍劉懷肅率寧遠將軍索邈、與振戰於沙橋。振兵雖少、左右皆力戰、每一合、振輒瞋目奮擊、眾莫敢當。振時醉、且中流矢、廣武將軍唐興臨陣斬之。

訓読

振 字は道全なり。少くして果銳にして、而れども行無し。玄 荊州と為るや、振を以て揚武將軍・淮南太守と為す。江夏相に轉じ、兇橫を以て黜けらる。
玄の敗るるに及ぶや、桓謙 沮中に匿れ、振 華容の涌中に逃る。玄 先に將軍の王稚徽をして巴陵を戍らしめ、稚徽 人を遣りて振に報して云はく、「桓欽(桓歆)已に京邑に克ち、馮稚ら復た尋陽を平らげ、劉毅の諸軍 並びに中路を敗る」と。振 大いに喜ぶ。時に安帝 江陵に在り、振 乃ち黨數十人を聚めて江陵を襲ふ。城に至る比、眾二百有り。謙も亦た眾を聚めて出で、遂に江陵を陷し、帝を行宮に迎ふ。振 桓昇 死するを聞き、大いに怒り、將に帝を肆逆せんとするも、謙 之を苦禁し、乃ち止む。遂に羣臣に命じ、辭すらく楚祚 終へず、百姓の心 復た晉に歸するを以てし、更めて璽綬を奉進し、琅邪王を以て徐州刺史を領し、振もて都督八州・鎮西將軍・荊州刺史と為す。帝の侍御の左右、皆 振の腹心なり。既にして歎きて曰く、「公 昔 早く我を用ひず、遂に此の敗に致る。若し公をして在らしめば、我 前鋒と為り、天下 定むるに足らず。今 獨り此と作らば、安くにか歸せんや」と。遂に意を酒色に肆にし、暴虐にして無道、多く殘害する所なり。
振 江津に營す。南陽太守の魯宗之 襄陽より振の將の溫楷を柞溪に破り、進みて紀南に屯す。振 楷の敗るるを聞くや、其の將の馮該を留めて營を守らしめ、自ら眾を率ゐて宗之と大いに戰ふ。振の勇 三軍に冠たれば、眾 能く禦ぐ莫く、宗之 敗績す。振 奔るを追ひ、宗之の單騎に道に遇ふも、之を識らざるや、乃ち宗の所在を問ふ。紿きて曰く、「已に前に走る」と。是に於て自ら後れたりとして退く。尋いで劉毅ら馮該を破り、江陵を平らぐ。振 該の敗るるを聞き、眾 潰して走る。後に該の子の宏と與に溳城より出で、復た江陵を襲ふ。荊州刺史の司馬休之 襄陽に奔り、振 自ら荊州刺史を號す。建威將軍の劉懷肅 寧遠將軍の索邈を率ゐ、振と沙橋に戰ふ。振の兵 少なしと雖も、左右 皆 力戰し、一合する每に、振 輒ち目を瞋らせ奮擊し、眾 敢て當る莫し。振 時に醉ひ、且つ流矢に中たり、廣武將軍の唐興 陣に臨みて之を斬る。

現代語訳

桓振は字を道全という。若くして決断力があったが、素行が悪かった。桓玄が荊州の長官になると、桓振を揚武将軍・淮南太守とした。江夏相に転じたが、横暴だったので罷免された。
桓玄が敗れると、桓謙は沮中に隠れ、桓振は華容の涌中に逃れた。桓玄はさきに将軍の王稚徽に巴陵を守らせていたが、王稚徽は使者を送って桓振に連絡し、「桓欽(桓歆)はすでに京邑を攻略し、馮稚らもまた尋陽を平定し、劉毅の諸軍をすべて中路で破った」と(虚偽の勝報を)伝えた。桓振は大いに喜んだ。このとき安帝は江陵におり、桓振は数十人の仲間を集めて江陵を襲った。城に至るころ、兵は二百人になった。桓謙もまた兵士を集めて出撃し、江陵を陥落させ、安帝を行宮に迎えた。桓振は桓昇の死を聞き、大いに怒り、安帝を弑逆しようとしたが、桓謙が強く制止したので、弑殺を中止した。かくて(安帝は)群臣に命じ、「楚国(桓氏)の天命は永続せず、万民の心が晋帝国に寄せられている。璽綬を送り返させ、琅邪王として徐州刺史を兼ねさせ、桓振を都督八州・鎮西将軍・荊州刺史とする」と宣言した。安帝の侍御の側近は、すべて桓振の腹心であった。桓振は嘆いて、「あなたが早く私を用いないので、このように敗北に至った。あなたが生き残っていれば、私が軍の先鋒となり、天下を安定させることすら容易だった。いまこのような事態となり、決着をどのようにつけようか」と言った。こうして酒食に溺れるようになり、暴虐にして無道で、多くの人を惨殺した。
桓振は江津に屯営した。(東晋の)南陽太守の魯宗之は襄陽から(出撃して)桓振の将の温楷を柞溪で破り、進んで紀南に駐屯した。桓振は温楷が敗れたのと聞くと、将の馮該を留めて軍営を守らせ、自ら兵を率いて魯宗之と大いに戦った。桓振は三軍のなかで抜群に勇猛なので、東晋軍は防ぐことができず、魯宗之は敗北した。桓振は追撃し、単騎の魯宗之と道で遭遇したが、顔を知らないので、魯宗之の居場所を質問した。魯宗之は欺いて、「すでに前に逃げた」と言った。桓振は遅れたと誤解して撤退した。ほどなく劉毅らが馮該を破り、江陵を平定した。桓振は馮該が敗れたと聞き、軍は潰走した。のちに馮該の子の馮宏とともに溳城から出撃し、また江陵を襲った。荊州刺史の司馬休之は襄陽に逃げ、桓振は自ら荊州刺史を自称した。建威将軍の劉懐粛が寧遠将軍の索邈を率い、桓振と沙橋で戦った。桓振の兵は少ないが、左右はみな力戦し、衝突するごとに、桓振は目を怒らせて奮撃し、東晋軍は対処できなかった。桓振は酔っていたとき、流矢に当たり、広武将軍の唐興が戦陣に臨んでこれを斬った。

虔弟石秀 石民 石生 石綏 石康

原文

石秀、幼有令名、風韵秀徹、博涉羣書、尤善老莊。常獨處一室、簡於應接、時人方之庾純。甚為簡文帝所重、豁為荊州、請為鷹揚將軍・竟陵太守、非其好也。尋代叔父沖為寧遠將軍・江州刺史・領鎮蠻護軍・西陽太守、居尋陽。性放曠、常弋釣林澤、不以榮爵嬰心。善騎射、發則命中。嘗從沖獵、登九井山、徒旅甚盛、觀者傾坐、石秀未嘗屬目、止嘯詠而已。謝安嘗訪以世務、默然不答、安甚怪之。他日、安以語其從弟嗣、嗣以問之、石秀曰、「世事此公所諳、吾又何言哉」。在州五年、以疾去職。年四十三卒於家、朝野悼惜之。追贈後將軍、後改贈太常。子稚玉嗣。玄之篡也、以石秀一門之令、封稚玉為臨沅王。
石民、弱冠知名、衞將軍謝安引為參軍。叔父沖上疏、版督荊江豫三州之十郡軍事・振武將軍、領襄城太守、戍夏口、與石虔攻苻堅荊州刺史梁成等於竟陵。明年、又與隨郡太守夏侯澄之破苻堅將慕容垂・姜成等於漳口。復領譙國內史・梁郡太守。沖薨、詔以石民監荊州軍事・西中郎將・荊州刺史。桓氏世蒞荊土、石民兼以才望、甚為人情所仰。
初、沖遣竟陵太守趙統伐襄陽。至是、石民復遣兵助之。尋而苻堅敗於淮肥、石民遣南陽太守高茂衞山陵。時堅雖破敗、而慕容垂等復盛。石民遣將軍晏謙伐弘農、賊東中郎將慕容夔降之。始置湖陝二戍。獲關中擔幢伎、以充太樂。時苻堅子丕僭號於河北、謀襲洛陽。石民遣將軍馮該討之、臨陣斬丕、及其左僕射王孚・吏部尚書苟操等、傳首京都。而丁零翟遼復侵逼山陵、石民使河南太守馮遵討之。時乞活黃淮自稱并州刺史、與遼共攻長社、眾數千人。石民復遣南平太守郭銓・松滋太守王遐之擊淮、斬之、遼走河北。以前後功、進左將軍。卒、無子。
石生、隆安中以司徒左長史遷侍中、歷驃騎・太傅長史。會稽世子元顯將伐桓玄、石生馳書報玄、玄甚德之。及玄用事、以為前將軍・江州刺史。尋卒於官。
石綏、元顯時為司徒左長史。玄用事、拜黃門郎・左衞將軍。玄敗、石綏走江西塗中、聚眾攻歷陽、後為梁州刺史傅歆之所殺。
石康、偏為玄所親愛、玄為荊州、以為振威將軍。累遷荊州刺史。討庾仄功、封武陵王、事具玄傳。

訓読

石秀、幼くして令名有り、風韵 秀徹にして、博く羣書を涉り、尤も老莊を善くす。常に獨り一室に處り、應接に簡なり。時人 之を庾純に方ぶ。甚だ簡文帝の重んずる所と為り、豁 荊州と為るや、請ひて鷹揚將軍・竟陵太守と為すも、其の好むに非ず。尋いで叔父の沖に代はりて寧遠將軍・江州刺史・領鎮蠻護軍・西陽太守と為り、尋陽に居す。性は放曠にして、常に林澤に弋釣し、榮爵を以て嬰心せず。騎射を善くし、發すれば則ち命中す。嘗て沖に從ひて獵し、九井山に登り、徒旅 甚だ盛んにして、觀る者 傾坐するに、石秀 未だ嘗て屬目せず、止まりて嘯詠するのみ。謝安 嘗て訪ぬるに世務を以てするも、默然として答へず。安 甚だ之を怪しむ。他日に、安 以て其の從弟の嗣に語るに、嗣 以て之を問ふ。石秀曰く、「世事は此れ公の諳ずる所なり、吾 又 何をか言はんや」と。州に在ること五年、疾を以て職を去る。年四十三にして家に卒し、朝野 之を悼惜す。後將軍を追贈し、後に改めて太常を贈る。子の稚玉 嗣ぐ。玄の篡するや、石秀は一門の令なるを以て、稚玉を封じて臨沅王と為す。
石民、弱冠にして名を知られ、衞將軍の謝安 引きて參軍と為す。叔父の沖 上疏し、督荊江豫三州之十郡軍事・振武將軍に版せられ、襄城太守を領り、夏口を戍る。石虔と與に苻堅の荊州刺史の梁成らを竟陵に攻む。明年、又 隨郡太守の夏侯澄之と與に苻堅の將の慕容垂・姜成らを漳口に破る。復た譙國內史・梁郡太守を領す。沖 薨ずるや、詔して石民を以て監荊州軍事・西中郎將・荊州刺史とす。桓氏の世に荊土に蒞み、石民 兼ねて才望を以て、甚だ人情の仰ぐ所と為る。
初め、沖 竟陵太守の趙統を遣はして襄陽を伐たしむ。是に至り、石民 復た兵を遣はして之を助く。尋いで苻堅 淮肥に敗るるや、石民 南陽太守の高茂を遣はして山陵を衞らしむ。時に堅 破敗すと雖も、而れども慕容垂ら復た盛なり。石民 將軍の晏謙を遣はして弘農を伐たしめ、賊の東中郎將の慕容夔 之に降る。始めて湖陝二戍を置く。關中の擔幢伎を獲て、以て太樂を充たす。時に苻堅の子の丕 河北に僭號し、洛陽を襲はんと謀る。石民 將軍の馮該を遣はして之を討たしめ、陣に臨みて丕、及び其の左僕射の王孚・吏部尚書の苟操らを斬り、首を京都に傳ふ。而して丁零の翟遼 復た山陵を侵逼するや、石民 河南太守の馮遵をして之を討たしむ。時に乞活の黃淮 并州刺史を自稱し、遼と與に共に長社を攻め、眾は數千人なり。石民 復た南平太守の郭銓・松滋太守の王遐之を遣はして淮を擊たしめ、之を斬り、遼 河北に走る。前後の功を以て、左將軍に進む。卒し、子無し。
石生、隆安中に司徒左長史を以て侍中に遷り、驃騎・太傅長史を歷す。會稽世子元顯 將に桓玄を伐たんとするに、石生 書を馳せて玄に報せ、玄 甚だ之を德とす。玄 用事するに及び、以て前將軍・江州刺史と為す。尋いで官に於す。
石綏、元顯の時 司徒左長史と為る。玄 用事するや、黃門郎・左衞將軍を拜す。玄 敗るるや、石綏 江西の塗中(涂中)に走り、眾を聚めて歷陽を攻む。後に梁州刺史の傅歆(傅韶)の殺す所と為る。
石康、偏へに玄の親愛する所と為り、玄 荊州と為るや、以て振威將軍と為る。荊州刺史に累遷す。庾仄を討つの功もて、武陵王を封ぜらる。事は玄傳に具さなり。

現代語訳

桓石秀は、幼くして名声があり、気高い風采があり、広く諸書を読破し、もっとも『老子』『荘子』の学問を得意とした。つねに一人で部屋におり、あまり人と交際しなかった。当時の人々は桓石秀を庾純の同類とした。簡文帝に重んじられ、桓豁が荊州の長官となると、鷹揚将軍・竟陵太守とすることを求めたが、桓石秀は不本意であった。ほどなく叔父の桓沖に代わって寧遠将軍・江州刺史・領鎮蛮護軍・西陽太守となり、尋陽を治所とした。豪放な性格で、つねに林沢で鳥や魚をとり、地位の高さに執着しなかった。騎射を得意とし、射れば必ず命中した。かつて桓沖に従って狩猟をして、九井山に登り、(桓沖の)従者が盛大で、見るものは恐れ入って跪いたが、桓石秀は目もくれず、ただ立ち止まって歌を吟じるだけだった。謝安がかつて訪問して時務について意見を求めたが、桓石秀は黙って答えなかった。謝安は不審に思った。別の日に、謝安が従弟の桓嗣にこのことを話すと、桓嗣は(なぜ謝安に応答しなかったか)理由を聞いた。桓石秀は、「時務は謝安どのが熟知したおり、私が付け加えることはない」と言った。荊州にいること五年、病気により官職を去った。四十三歳で家で亡くなり、朝野は悼み惜しんだ。後将軍を追贈し、後に改めて太常を贈った。子の桓稚玉が嗣いだ。桓玄が簒奪すると、桓石秀は一門のなかの好人物であったので、桓稚玉を臨沅王に封建した。
桓石民は、弱冠にして名を知られ、衛将軍の謝安に招かれて参軍となった。叔父の桓沖の上疏によって、督荊江豫三州之十郡軍事・振武将軍に任命され、襄城太守を兼ね、夏口を守った。桓石虔とともに苻堅の荊州刺史の梁成らを竟陵で攻撃した。翌年、また隨郡太守の夏侯澄之ともに苻堅の将の慕容垂・姜成らを漳口で破った。さらに譙国内史・梁郡太守を兼ねた。桓沖が薨去すると、詔して桓石民を監荊州軍事・西中郎将・荊州刺史とした。桓氏の世に荊州の地を治め、桓石民は才望もあったので、領民に仰ぎ見られた。
これよりさき、桓沖は竟陵太守の趙統に襄陽を討伐させた。ここにいたり、桓石民がまた兵を送ってこれを助けた。ほどなく苻堅が淮肥(淝水)で敗れると、桓石民は南陽太守の高茂に(西晋の皇帝らの)山陵を護衛させた。このとき苻堅の軍は敗れたが、慕容垂の軍は強盛であった。桓石民は将軍の晏謙に弘農を討伐させ、賊の東中郎将の慕容夔がこれに降った。はじめて湖陝の二戍を置いた。関中の擔幢伎(古代の雑技の演者)を捕らえ、太楽に入れた。このとき苻堅の子の苻丕が河北で僭号し、洛陽の襲撃を計画した。桓石民は将軍の馮該に苻丕を討伐させ、戦陣に臨んで苻丕とその左僕射の王孚・吏部尚書の苟操らを斬り、首を京都に送った。そして丁零の翟遼がまた山陵に迫ると、桓石民は河南太守の馮遵にこれを討伐させた。このとき乞活の黄淮が并州刺史を自称し、翟遼とともに長社を攻め、兵は数千人であった。桓石民はまた南平太守の郭銓・松滋太守の王遐之を派遣して黄淮を攻撃させ、これを斬り、翟遼は河北に逃げた。前後の功により、桓石民を左将軍に進めた。亡くなり、子がいなかった。
桓石生は、隆安年間に司徒左長史から侍中に遷り、驃騎・太傅長史を歴任した。会稽世子元顕(司馬元顕)が桓玄を討伐する際に、桓石生は書簡を送って桓玄に知らせ、桓玄はこの行動を徳であると認めた。桓玄が執政すると、桓石生を前将軍・江州刺史とした。まもなく在官で亡くなった。
桓石綏は、司馬元顕の執政期に司徒左長史となった。桓玄が執政すると、黄門郎・左衛将軍を拝した。桓玄が敗れると、桓石綏は江西の塗中(涂中)に逃げ、兵を集めて歴陽を攻めた。のちに梁州刺史の傅歆(傅韶)に殺された。
桓石康は、ひたすら桓玄に可愛がられ、桓玄が荊州の長官になると、振威将軍となった。荊州刺史に累遷した。庾仄を討伐した功績で、武陵王に封建された。事績は桓玄伝に詳しく見える。

豁弟祕

原文

祕字穆子。少有才氣、不倫於俗。初拜祕書郎、兄溫抑而不用。久之、為輔國將軍・宣城內史。時梁州刺史司馬勳叛入蜀、祕以本官監梁益二州征討軍事・假節。勳平、還郡。後為散騎常侍、徙中領軍。孝武帝初即位、妖賊盧竦入宮、祕與左衞將軍殷康俱入擊之。溫入朝、窮考竦事、收尚書陸始等、罹罪者甚眾。祕亦免官、居于宛陵、每憤憤有不平之色。溫疾篤、祕與溫子熙・濟等謀共廢沖。沖密知之、不敢入。頃溫氣絕、先遣力士拘錄熙・濟、而後臨喪。祕於是廢棄、遂居於墓所、放志田園、好遊山水。後起為散騎常侍、凡三表自陳。詔曰、「祕受遇先朝、是以延之、而頻有讓表、以棲尚告誠、兼有疾疢、省用增歎。可順其所執」。祕素輕沖、沖時貴盛、祕恥常侍位卑、故不應朝命。與謝安書及詩十首、辭理可觀、其文多引簡文帝之眄遇。先沖卒。長子蔚、官至散騎常侍・游擊將軍。玄篡、以為醴陵王。

訓読

祕 字は穆子なり。少くして才氣有り、俗に倫ならず。初め祕書郎を拜し、兄の溫 抑へて用ひず。久之、輔國將軍・宣城內史と為る。時に梁州刺史の司馬勳 叛して蜀に入り、祕 本官を以て監梁益二州征討軍事・假節たり。勳 平らぐや、郡に還る。後に散騎常侍と為り、中領軍に徙る。孝武帝 初めて即位するや、妖賊の盧竦 宮に入り、祕 左衞將軍の殷康と與に俱に入りて之に擊る。溫 入朝するや、竦の事を窮考し、尚書の陸始らを收め、罪に罹る者は甚だ眾し。祕も亦た免官せられ、宛陵に居し、每に憤憤として不平の色有り。溫の疾 篤かるや、祕 溫の子の熙・濟らと與に謀りて共に沖を廢せんとす。沖 密かに之を知れば、敢て入らず。頃して溫 氣絕し、先に力士を遣はして熙・濟を拘錄し、而して後に喪を臨す。祕 是に於て廢棄せられ、遂に墓所に居り、志を田園に放ち、山水に遊ぶを好む。後に起ちて散騎常侍と為すも、凡そ三たび表して自ら陳す。詔して曰く、「祕 遇を先朝に受け、是を以て之を延く。而れども頻りに讓表有り、棲尚を以て誠を告げ、兼せて疾疢有り、省きて用て歎を增す。其の執る所に順ふ可し」と。祕 素より沖を輕んじ、沖 時に貴盛たれば、祕 常侍の位 卑しきを恥ぢ、故に朝命に應ぜず。謝安に書を與へて詩は十首に及び、辭理は觀る可く、其の文 多く簡文帝の眄遇を引く。沖に先んじて卒す。長子の蔚、官は散騎常侍・游擊將軍に至る。玄 篡するや、以て醴陵王と為す。

現代語訳

桓秘は字を穆子という。若くして才気があり、俗に染まらなかった。はじめ秘書郎を拝したが、兄の桓温が抑えて任用されなかった。しばらくして、輔国将軍・宣城内史となった。このとき梁州刺史の司馬勳が叛乱して蜀に入り、桓秘は本官のまま監梁益二州征討軍事・仮節となった。司馬勳が平定されると、宣城郡に帰還した。のちに散騎常侍となり、中領軍に移った。孝武帝が即位した当初、妖賊の盧竦(盧悚)が宮殿に入ったので、桓秘は左衛将軍の殷康とともに入って妖賊を攻撃した。桓温が入朝すると、盧竦の事件を責任追及し、尚書の陸始らを捕らえ、有罪になった者はとても多かった。桓秘もまた免官せられ、宛陵に住まわされ、つねに怒って不平な様子であった。桓温の病気が重くなると、桓秘は桓温の子の桓熙・桓済らとともに計画して桓沖を失脚させようとした。桓沖はひそかにこれを察知したので、敢えて入朝しなかった。しばらくして桓温の意識がなくなったころ、さきに腕力のある兵士を派遣して桓熙と桓済を拘束し、その後に桓温の喪礼をした。桓秘はここにおいて失脚し、(桓温の)墓所のそばに住み、田舎で気を紛らわし、山水で遊ぶことを好んだ。のちに仕官して散騎常侍となったが、三たび上表して心情を述べ(辞退し)た。詔して、「桓秘は先代の朝廷で寵遇され、ゆえに招いたが、納戸も辞退を表明した。隠棲することで誠意を表し、病気でもあるとし、任用することは難しいようだ。彼のこだわりを尊重しよう」と言った。桓秘はかねて桓沖を軽んじ、このとき桓沖が権勢を持っていたので、桓秘は散騎常侍の地位の低さを恥じて、それゆえに朝命に応じなかったのである。謝安に書簡を送って詩は十首に及び、表現も内容も見所があり、その文は多くが簡文帝から気に入られ評価を得た。桓沖より先に亡くなった。長子の桓蔚は、官は散騎常侍・游撃将軍に至った。桓玄が簒奪すると、醴陵王とした。

祕弟沖 沖子嗣 嗣子胤 嗣弟謙 謙弟脩 徐寧

原文

沖字幼子、溫諸弟中最淹識、有武幹、溫甚器之。弱冠、太宰・武陵王晞辟、不就。除鷹揚將軍・鎮蠻護軍・西陽太守。從溫征伐有功、遷督荊州之南陽襄陽新野義陽順陽雍州之京兆揚州之義成七郡軍事・寧朔將軍・義成新野二郡太守、鎮襄陽。又從溫破姚襄。及虜周成、進號征虜將軍、賜爵豐城公。尋遷振威將軍・江州刺史・領鎮蠻護軍・西陽譙二郡太守。溫之破姚襄也、獲襄將張駿・楊凝等、徙于尋陽。沖在江陵、未及之職、而駿率其徒五百人殺江州督護趙毗、掠武昌府庫、將妻子北叛。沖遣將討獲之、遽還所鎮。
初、彝亡後、沖兄弟並少、家貧、母患、須羊以解、無由得之、溫乃以沖為質。羊主甚富、言不欲為質、幸為養買德郎。買德郎、沖小字也。及沖為江州、出射、羊主於堂邊看、沖識之、謂曰、「我買德也」。遂厚報之。頃之、進監江荊豫三州之六郡軍事・南中郎將・假節、州郡如故。
在江州凡十三年而溫薨。孝武帝詔沖為中軍將軍・都督揚江豫三州軍事・揚豫二州刺史・假節。時詔賻溫錢布漆蠟等物、而不及大殮。沖上疏陳溫素懷每存清儉、且私物足舉凶事、求還官庫。詔不許、沖猶固執不受。初、溫執權、大辟之罪皆自己決。沖既莅事、上疏以為生殺之重、古今所慎、凡諸死罪、先上、須報。沖既代溫居任、盡忠王室。或勸沖誅除時望、專執權衡、沖不從。
謝安以時望輔政、為羣情所歸、沖懼逼、寧康三年、乃解揚州、自求外出。桓氏黨與以為非計、莫不扼腕苦諫、郗超亦深止之。沖皆不納、處之澹然、不以為恨、忠言嘉謀、每盡心力。於是改授都督徐兗豫青揚五州之六郡軍事・車騎將軍・徐州刺史、以北中郎府并中軍、鎮京口、假節。又詔沖及謝安並加侍中、以甲杖五十人入殿。時丹楊尹王蘊以后父之重昵於安、安意欲出蘊為方伯、乃復解沖徐州、直以車騎將軍都督豫江二州之六郡軍事、自京口遷鎮姑熟。

既而苻堅寇涼州、沖遣宣城內史朱序・豫州刺史桓伊率眾向壽陽、淮南太守劉波汎舟淮泗、乘虛致討、以救涼州、乃表曰、
氐賊自并東胡、醜類實繁、而蜀漢寡弱、西涼無備、斯誠暴與疾顛、衹速其亡。然而天未剿絕、屢為國患。臣聞勝於無形、功立事表、伐謀之道、兵之上略。況此賊陸梁、終必越逸。北狄陵縱、常在秋冬。今日月迅邁、高風行起、臣輒較量畿甸、守衞重複、又淮泗通流、長江如海、荊楚偏遠、密邇寇讎、方城・漢水無天險之實、而過備之重勢在西門。
臣雖凡庸、識乏武略、然猥荷重任、思在投袂。請率所統、徑進南郡、與征西將軍臣豁參同謀猷。賊若果驅犬羊、送死沔漢、庶仰憑正順、因致人利、一舉乘風、掃清氛穢、不復重勞王師、有事三秦、則先帝盛業永隆於聖世、宣武遺志無恨於在昔。如其懾憚皇威、闚𨵦計屈、則觀兵伺釁、更議進取、振旅旋旆、遲速唯宜。伏願陛下覽臣所陳、特垂聽許。
詔答曰、「醜類違天、比年縱肆、梁益不守、河西傾喪。每惟宇內未一、憤歎盈懷。將軍經略深長、思算重復、忠國之誠、形於義旨。覽省未周、以感以慨。寇雖乘間竊利、而以無道臨之、黷武窮兇、虐用其眾、滅亡之期、勢何得久。然備豫不虞、軍之善政。輒詢于羣后、敬從高算。想與征西協參令圖、嘉謀遠猷、動靜以聞」。會張天錫陷沒、於是罷兵。俄而豁卒、遷都督江荊梁益寧交廣七州揚州之義成雍州之京兆司州之河東軍事・領護南蠻校尉・荊州刺史・持節、將軍・侍中如故。又以其子嗣為江州刺史。沖將之鎮、帝餞於西堂、賜錢五十萬。又以酒三百四十石・牛五十頭犒賜文武。謝安送至溧洲。

沖既到江陵、時苻堅強盛、沖欲移阻江南、乃上疏曰、「自中興以來、荊州所鎮、隨宜迴轉。臣亡兄溫以石季龍死、經略中原、因江陵路便、即而鎮之。事與時遷、勢無常定。且兵者詭道、示之以弱、今宜全重江南、輕戍江北。南平孱陵縣界、地名上明、田土膏良、可以資業軍人。在吳時樂鄉城以上四十餘里、北枕大江、西接三峽。若狂狡送死、則舊郢以北堅壁不戰、接會濟江、路不云遠、乘其疲墮、撲翦為易。臣司存閫外、輒隨宜處分」。於是移鎮上明、使冠軍將軍劉波守江陵、諮議參軍楊亮守江夏。詔以荊州水旱饑荒、又沖新移草創、歲運米三十萬斛以供軍資、須年豐乃止。
堅遣其將苻融寇樊・鄧、石越寇魯陽、姚萇寇南鄉、韋鍾寇魏興、所在陷沒。沖遣江夏相劉奭・南中郎將朱序擊之、而奭畏懦不進、序又為賊所擒。沖深自咎責、上疏送章節、請解職、不許。遣左衞將軍張玄之詣沖諮謀軍事。沖率前將軍劉波及兄子振威將軍石民・冠軍將軍石虔等伐苻堅、拔堅筑陽。攻武當、走堅兗州刺史張崇。堅遣慕容垂・毛當寇鄧城、苻熙・石越寇新野。沖既憚堅眾、又以疾疫、還鎮上明。表以「夏口江沔衝要、密邇強寇、兄子石民堪居此任、輒版督荊江十郡軍事・振武將軍・襄城太守。尋陽北接強蠻、西連荊郢、亦一任之要。今府州既分、請以王薈補江州刺史」。詔從之。時薈始遭兄劭喪、[一四]始遭兄劭喪 「劭」、各本作「邵」、今從宋本及王劭傳。將葬、辭不欲出。於是衞將軍謝安更以中領軍謝輶代之。沖聞之而怒、上疏以為輶文武無堪、求自領江州、帝許之。沖使石虔伐堅襄陽太守閻震、擒之、及大小帥二十九人、送於京都、詔歸沖府。以平震功、封次子謙宜陽侯。堅使其將郝貴守襄陽、[一五]郝貴 勞校、孝武紀作「都貴」。按、通鑑一〇四亦作「都貴」。疑「郝」「都」形近誤。沖使揚威將軍朱綽討之、遂焚燒沔北田稻、拔六百餘戶而還。又遣上庸太守郭寶伐堅魏興太守褚垣・上庸太守段方、並降之。新城太守麴常遁走、三郡皆平。詔賜錢百萬、袍表千端。
初、沖之西鎮、以賊寇方強、故移鎮上明、謂江東力弱、正可保固封疆、自守而已。又以將相異宜、自以德望不逮謝安、故委之內相、而四方鎮扞、以為己任。又與朱序款密。俄而序沒於賊、沖深用愧惋。既而苻堅盡國內侵、沖深以根本為慮、乃遣精銳三千來赴京都。謝安謂三千人不足以為損益、而欲外示閑暇、聞軍在近、固不聽。報云、「朝廷處分已定、兵革無闕、西藩宜以為防」。時安已遣兄子玄及桓伊等諸軍、沖謂不足以為廢興、召佐吏、對之歎曰、「謝安乃有廟堂之量、不閑將略。今大敵垂至、方遊談不暇、雖遣諸不經事少年、眾又寡弱、天下事可知、吾其左衽矣」。俄而聞堅破、大勳克舉、又知朱序因以得還、沖本疾病、加以慚恥、發病而卒、時年五十七。贈太尉、本官如故、諡曰宣穆。賻錢五十萬、布五百匹。
沖性儉素、而謙虛愛士。嘗浴後、其妻送以新衣、沖大怒、促令持去。其妻復送之、而謂曰、「衣不經新、何緣得故」。沖笑而服之。命處士南陽劉驎之為長史、驎之不屈、親往迎之、禮之甚厚。又辟處士長沙鄧粲為別駕、備禮盡恭。粲感其好賢、乃起應命。初、郗鑒・庾亮・庾翼臨終皆有表、樹置親戚、唯沖獨與謝安書云、「妙靈・靈寶尚小、亡兄寄託不終、以此為恨」。言不及私、論者益嘉之。及喪下江陵、士女老幼皆臨江瞻送、號哭盡哀。後玄篡位、追贈太傅・宣城王。有七子、嗣・謙・脩・崇・弘・羨・怡。

訓読

沖 字は幼子、溫の諸弟中に最も淹識にして、武幹有り、溫 甚だ之を器とす。弱冠にして、太宰・武陵王晞 辟すとも、就かず。鷹揚將軍・鎮蠻護軍・西陽太守に除せらる。溫に從ひて征伐して功有り、督荊州之南陽襄陽新野義陽順陽雍州之京兆揚州之義成七郡軍事・寧朔將軍・義成新野二郡太守に遷り、襄陽に鎮す。又 溫に從ひて姚襄を破る。周成を虜するに及び、號を征虜將軍に進め、爵豐城公を賜はる。尋いで振威將軍・江州刺史・領鎮蠻護軍・西陽譙二郡太守に遷る。溫の姚襄を破るや、襄の將の張駿・楊凝らを獲らへ、尋陽に徙る。沖 江陵に在り、未だ職に之かざるに及び、而して駿 其の徒の五百人を率ゐて江州督護の趙毗を殺し、武昌の府庫を掠め、妻子を將ゐて北して叛す。沖 將を遣はして討ちて之を獲て、遽かに鎮する所に還る。
初め、彝 亡き後、沖の兄弟 並びに少なく、家は貧しく、母 患あり、羊を須(もと)めて以て解せんとするも、由りて之を得る無ければ、溫 乃ち沖を以て質と為す。羊主 甚だ富み、言はく質と為さんことを欲せず、幸くは為に買德郎を養はんと。買德郎は、沖の小字なり。沖 江州と為るに及び、出でて射て、羊主 堂邊に於て看る。沖 之を識り、謂ひて曰く、「我 買德なり」と。遂に厚く之に報ゆ。頃之、監江荊豫三州之六郡軍事・南中郎將・假節に進み、州郡は故の如し。
江州に在ること凡そ十三年にして溫 薨ず。孝武帝 沖に詔して中軍將軍・都督揚江豫三州軍事・揚豫二州刺史・假節と為す。時に詔して溫に錢布漆蠟らの物を賻り、而れども大殮に及ばず。沖 上疏して溫の素懷 每に清儉に存するを陳べ、且つ私物 凶事を舉ぐるに足り、官庫に還すことを求む。詔して許さず、沖 猶ほ固執して受けず。初め、溫 權を執るや、大辟の罪 皆 己より決す。沖 既に事に莅むや、上疏して以為へらく生殺の重は、古今の慎しむ所にして、凡そ諸々の死罪は、上を先にし、報を須たんと。沖 既に溫に代はりて任に居り、忠を王室に盡す。或ひと沖に時望を誅除して、專ら權衡を執ることを勸むるも、沖 從はず。
謝安 時望を以て輔政し、羣情の歸する所と為り、沖 逼らるることを懼れ、寧康三年、乃ち揚州を解き、自ら外に出づるを求む。桓氏の黨 與に以て非計と為し、扼腕して苦諫せざる莫し。郗超も亦た深く之を止む。沖 皆 納れず、之に處して澹然たりて、以て恨みと為さず、忠言嘉謀して、每に心力を盡す。是に於て改めて都督徐兗豫青揚五州之六郡軍事・車騎將軍・徐州刺史を授し、北中郎府を以て中軍に并はせ、京口に鎮し、假節とす。又 沖及び謝安に詔して並びに侍中を加へ、甲杖五十人を以て入殿せしむ。時に丹楊尹の王蘊 后父の重を以て安に昵み、安の意 蘊を出だして方伯に為さんと欲さば、乃ち復た沖の徐州を解き、直だ車騎將軍都督豫江二州之六郡軍事を以て、京口より遷して姑熟に鎮せしむ。

既にして苻堅 涼州を寇し、沖 宣城內史の朱序・豫州刺史の桓伊を遣はして眾を率ゐて壽陽に向はしめ、淮南太守の劉波 舟を淮泗に汎(う)かべ、虛に乘じて討を致して、以て涼州を救はしむ。乃ち表して曰く、
「氐賊 東胡を并はせてより、醜類 實に繁たり。而も蜀漢 寡弱にして、西涼 備へ無し。斯れ誠に暴(には)かに與さば疾(と)く顛れ、衹に其の亡を速めん。然而れども天 未だ剿絕せず、屢々國の患と為る。臣 聞くならく無形に勝ちて、功 立ち事 表はると。謀を伐つの道は、兵の上略なり。況んや此の賊 陸梁して、終に必ず越逸あらん。北狄 陵縱するは、常に秋冬に在り。今 日月 迅邁し、高風 行起す。臣 輒ち畿甸を較量するに、守衞は重複たり。又 淮泗 通流し、長江は海の如く、荊楚は偏遠たりて、寇讎に密邇す。方城・漢水 天險の實無く、而して過備の重きは勢は西門に在り。
「臣 凡庸にして、識は武略に乏しきと雖も、然れども猥りに重任を荷ひ、投袂に在らんと思ふ。請ふらくは統ぶる所を率ゐて、徑ちに南郡に進み、征西將軍の臣豁と與に謀猷に參同せんことを。賊 若し果たして犬羊を驅り、死を沔漢に送らば、庶はくは仰ぎて正順に憑り、因りて人利を致さん。一たび舉げて風に乘らば、氛穢を掃清し、復た重ねて王師を勞らはさず。事 三秦に有らしむれば、則ち先帝の盛業 永く聖世に隆からん。宣・武の遺志 恨み在昔に無し。如し其れ皇威を懾憚し、闚𨵦して計 屈さば、則ち兵を觀て釁を伺ひ、更めて進取を議し、振旅 旋旆し、遲速 唯だ宜しくせん。伏して願はくは陛下 臣の陳ぶる所を覽じ、特に聽許を垂れよ。
詔して答へて曰く、「醜類 天に違ひ、比年 縱肆なり。梁益 守らず、河西 傾喪す。每に惟ふらく宇內 未だ一ならず、憤歎は懷に盈つ。將軍の經略 深長にして、思算 重復す。忠國の誠、義旨に形はる。覽省 未だ周ならず、以て感じ以て慨す。寇 間に乘じ利を竊むと雖も、而れども無道を以て之に臨み、武を黷し兇を窮め、虐げて其の眾を用ふ、滅亡の期、勢として何ぞ久しきを得ん。然れども不虞に備豫するは、軍の善政なり。輒ち羣后に詢へ、敬みて高算に從へ。想ふに征西と與に令圖と協參し、嘉謀遠猷あらば、動靜 以て聞せよ」と。會々張天錫 陷沒し、是に於て兵を罷む。俄かにして豁 卒し、都督江荊梁益寧交廣七州揚州之義成雍州之京兆司州之河東軍事・領護南蠻校尉・荊州刺史・持節に遷り、將軍・侍中は故の如し。又 其の子の嗣を以て江州刺史と為す。沖 將に鎮に之かんとするに、帝 西堂に餞し、錢五十萬を賜ふ。又 酒三百四十石・牛五十頭を以て文武に犒賜す。謝安 送りて溧洲に至る。

沖 既に江陵に到るや、時に苻堅 強盛にして、沖 移りて江南を阻せんと欲し、乃ち上疏して曰く、「中興より以來、荊州の鎮する所、宜に隨ひて迴轉す。臣の亡兄の溫 石季龍 死するを以て、中原を經略し、江陵 路 便なるに因りて、即きて之に鎮す。事 時と與に遷り、勢は常に定まる無し。且つ兵は詭道なり。之を示すに弱を以てせば、今 宜しく全く江南を重くし、輕く江北を戍るべし。南平の孱陵の縣界は、地は上明と名いひ、田土は膏良にして、以て軍人に資業す可し。吳の時の樂鄉城より以上四十餘里に在り、北は大江を枕し、西は三峽に接す。若し狂狡 死を送らば、則ち舊の郢より以北 堅壁して戰はず、江を濟るに接會せば、路は遠しと云はず、其の疲墮に乘じ、撲翦すること易為り。臣 閫外に司存たれば、輒ち宜に隨ひて處分す」と。是に於て鎮を上明に移し、冠軍將軍の劉波をして江陵を守らしめ、諮議參軍の楊亮をして江夏を守らしむ。詔して荊州 水旱ありて饑荒し、又 沖 新たに移りて草創するを以て、歲ごとに米三十萬斛を運びて以て軍資に供し、年豐を須ちて乃ち止めよと。
堅 其の將の苻融を遣はして樊・鄧を寇し、石越 魯陽を寇し、姚萇 南鄉を寇し、韋鍾 魏興を寇し、所在 陷沒す。沖 江夏相の劉奭・南中郎將の朱序を遣はして之を擊たしめ、而れども奭 畏懦にして進まず、序 又 賊の擒ふる所と為る。沖 深く自ら咎責し、上疏して章節を送り、職を解くことを請ふも、許さず。左衞將軍の張玄之を遣はして沖に詣りて軍事に諮謀せしむ。沖 前將軍の劉波及び兄の子の振威將軍の石民・冠軍將軍の石虔らを率はして苻堅を伐たしめ、堅の筑陽を拔く。武當を攻め、堅の兗州刺史の張崇を走らす。堅 慕容垂・毛當を遣はして鄧城を寇せしめ、苻熙・石越をして新野を寇せしむ。沖 既に堅の眾を憚り、又 疾疫を以て、還りて上明に鎮す。表して以へらく、「夏口の江沔は衝要なり、強寇に密邇たりて、兄の子の石民 此の任に居るに堪へれば、輒ち督荊江十郡軍事・振武將軍・襄城太守に版せよ。尋陽は北は強蠻に接し、西は荊郢に連なり、亦た一任の要なり。今 府州 既に分かれ、請ふらくは王薈を以て江州刺史に補せ」と。詔して之に從ふ。時に薈 始め兄の劭(邵)の喪に遭ひ、將に葬らんとするに、辭して出でざるを欲す。是に於て衞將軍の謝安 更めて中領軍の謝輶を以て之に代ふ。沖 之を聞きて怒り、上疏して以為へらく輶の文武 堪ふる無しと。自ら江州を領せんと求め、帝 之を許す。沖 石虔をして堅の襄陽太守の閻震を伐ち、之を擒らへ、大小帥二十九人に及び、京都に送り、詔して沖の府に歸せしむ。震を平らぐの功を以て、次子の謙を宜陽侯に封ず。堅 其の將の都貴(郝貴)をして襄陽を守らしむ。沖 揚威將軍の朱綽をして之を討たしめ、遂に沔北の田稻を焚燒し、六百餘戶を拔きて還る。又 上庸太守の郭寶を遣はして堅の魏興太守の褚垣・上庸太守の段方を伐たしめ、並びに之を降す。新城太守の麴常 遁走し、三郡 皆 平らぐ。詔して錢百萬、袍表千端を賜ふ。
初め、沖の西鎮るや、賊寇 方に強きを以て、故に鎮を上明に移す。謂はく江東 力は弱く、正に固を保ち疆を封じ、自守す可きのみと。又 將相 宜を異にし、自ら德望を以て謝安に逮ばざるを以て、故に之を內相に委ね、而して四方の鎮扞、以て己の任と為す。又 朱序と款密たり。俄かにして序 賊に沒し、沖 深く用て愧惋す。既にして苻堅 國を盡くして內侵するや、沖 深く根本を以て慮と為し、乃ち精銳三千を遣はして來たりて京都に赴く。謝安 謂へらく三千人は以て損益を為すに足らず、而れども外に閑暇を示さんと欲し、軍 近きに在るを聞くとも、固く聽さず。報じて云はく、「朝廷の處分 已に定まり、兵革 闕(あやま)ち無し。西藩 宜しく以て防を為すべし」と。時に安 已に兄子の玄及び桓伊らの諸軍を遣はす。沖 謂へらく以て廢興を為すに足らずと。佐吏を召し、之に對ひて歎じて曰く、「謝安 乃ち廟堂の量有るも、將略に閑せず。今 大敵 至り垂んとするも、方に遊談して暇あらず。諸々の事を經ざる少年を遣はすと雖も、眾 又 寡弱なり。天下の事 知る可し。吾 其れ左衽せん」と。俄かにして堅 破るるを聞き、大勳 克く舉げ、又 朱序 因りて以て還るを得たるを知き、沖 本より疾病あれば、加ふるに慚恥を以てし、病を發して卒し、時に年五十七なり。太尉を贈り、本官は故の如し、諡して宣穆と曰ふ。錢五十萬、布五百匹を賻(おく)る。
沖の性 儉素たりて、而して謙虛に士を愛す。嘗て浴する後、其の妻 送るに新衣を以てするや、沖 大いに怒り、促して持ち去らむ。其の妻 復た之を送り、而して謂ひて曰く、「衣 新しきを經ずんば、何に緣よりて故きを得る」と。沖 笑ひて之を服す。處士たる南陽の劉驎之を命じて長史と為すも、驎之 屈せず、親ら往きて之を迎へ、之を禮すること甚だ厚し。又 處士たる長沙の鄧粲を辟して別駕と為し、禮を備へて恭を盡す。粲 其の賢を好むに感じ、乃ち起ちて命に應ず。初め、郗鑒・庾亮・庾翼 終に臨みて皆 表有り、親戚を樹置せよといふ。唯だ沖のみ獨り謝安に書を與へて云はく、「妙靈・靈寶 尚ほ小し。亡兄の寄託 終へず、此を以て恨みと為すのみ」と。言は私に及ばず、論者 益々之を嘉す。喪下の江陵に及ぶや、士女老幼 皆 江に臨みて瞻送し、號哭して哀を盡す。後に玄 篡位するや、太傅・宣城王を追贈す。七子有り、嗣・謙・脩・崇・弘・羨・怡なり。

現代語訳

桓沖は字を幼子といい、桓温の弟たちのなかで最も博識で、武の才幹があり、桓温から器量を認められた。弱冠にして、太宰・武陵王晞(司馬晞)が辟召したが、就かなかった。鷹揚将軍・鎮蛮護軍・西陽太守に任命された。桓温に従って(成漢を)征伐して功績があり、督荊州之南陽襄陽新野義陽順陽雍州之京兆揚州之義成七郡軍事・寧朔将軍・義成新野二郡太守に遷り、襄陽に鎮した。さらに桓温に従って姚襄を破った。周成を捕らえると、号を征虜将軍に進め、豊城公の爵を賜った。ほどなく振威将軍・江州刺史・領鎮蛮護軍・西陽譙二郡太守に遷った。桓温が姚襄を破ると、姚襄の将の張駿・楊凝らを獲らえ、尋陽に移った。桓沖は江陵におり、まだ赴任する前に、張駿はその仲間の五百人を率いて江州督護の趙毗を殺し、武昌の府庫を略奪し、妻子を連れて北上して叛した。桓沖は将を派遣して討伐してこれを捕らえ、すぐに鎮所に還った。
かつて、(父の)桓彝が亡くなった後、桓沖の兄弟はみな幼く、家は貧しく、母は病気で、羊を購入して治療したかったが、入手する方法がないので、桓温は桓沖の身柄を代価とした。羊の持ち主はとても裕福で、桓沖の身柄など要らないから、買徳郎(徳を買う男子)を養育しようと言った。買徳郎が、桓沖の小字となった。桓沖が江州の長官になると、射猟に出かけ、かつての羊の持ち主を建物のわきで再会した。桓沖はこれに気づき、話しかけて、「私は買徳です」と言った。厚く(養育の)恩に報いた。しばらくして、監江荊豫三州之六郡軍事・南中郎将・仮節に進み、州郡は現状のままだった。
(桓沖が)江州にきてから十三年で桓温が薨去した。孝武帝は桓沖に詔して中軍将軍・都督揚江豫三州軍事・揚豫二州刺史・仮節とした。このとき詔して桓温に銭や布や漆や蝋らを贈ったが、(桓氏は)大規模な殯葬はしなかった。桓沖が上疏して桓温はつねづね清廉と節約を心がけており、自家の財物で葬儀を上げるには十分であるとし、国庫に返還したいと言った。詔して許さなかったが、桓沖は固執して受け取りを辞退した。かつて、桓温が政権を握ると、大辟(死刑)の罪はすべて自分で決裁した。桓沖が政権をとると、上疏して人の生死は、古より君子が慎重に判断したことであり、すべての死罪は、先に皇帝にお伺いを立て、返答を待ちたいと言った。桓沖は桓温に代わって政務を執ったが、(桓温と異なり)王室に忠誠を尽くした。あるひとが桓沖に当世の名望家を誅殺して排除し、政治権限を集中することを勧めたが、桓沖は従わなかった。
謝安は時望(当世の名望)によって輔政し、諸臣に支持された。桓沖は謝安とせめぎあうことを懼れ、寧康三年、揚州の長官を解任し、自ら朝廷の外に出ることを求めた。桓氏の党与はこれを悪手であると考え、悔しがって強く諫止した。郗超もまた強く制止した。桓沖はまったく聞かず、静かに落ち着いて、怨みとせず、(朝廷に)忠言して良計を提出し、つねに全力を尽くした。ここにおいて改めて都督徐兗豫青揚五州之六郡軍事・車騎将軍・徐州刺史を授けられ、北中郎府(の軍)を中軍に併合し、京口に鎮し、仮節とした。また桓沖と謝安に詔して二人に侍中を加冠し、甲杖五十人を与えて入殿させた。このとき丹楊尹の王蘊は皇后の父という立場で謝安に接近し、謝安は王蘊を地方に出して方伯(州の長官)にしたいと思ったので、桓沖から徐州刺史を解任し、ただ車騎将軍都督豫江二州之六郡軍事として、京口から移って姑熟に鎮させた。

このころ苻堅(前秦)が涼州に侵略しており、桓沖は宣城内史の朱序・豫州刺史の桓伊を派遣して軍を率いて寿陽に向かわせ、淮南太守の劉波は淮水と泗水から水軍を進め、虚に乗じて討伐し、涼州を救った。出兵に際して上表し、
「氐賊(前秦)が東胡を併合してから、兵力は充実し、蜀漢(成漢)は兵が少なく弱く、西涼に防備がありませんでした。(前秦は)短期間で拡大したので、滅亡するときも短期間でしょう。しかし天はいまだ逆賊を滅ぼさず、しばしば国家(東晋)の脅威となってきました。私が聞きますに無形で(形勢が定まる前に)勝てば、輝かしい戦功を立てられます。計略によって圧倒するのが、兵法の上策です。ましてこの賊軍は増長しているので、必ず見落としがあります。北狄が侵略を行うのは、いつも秋冬の季節です。いま月日が流れ、秋風が吹き始めています。私が畿内(建康)を分析しますに、守備は厳重ですが、淮水と泗水は四方に通じ、長江は海のようです。荊楚の地は遠く隔たり、賊の国土と接近しています。方城と漢水は天険の守りとして機能せず、防衛上の要地は西側の入口です。
私は凡庸であり、武略に乏しいですが、重い責務を担い、奮起を誓っています。どうか統率する兵を率い、まっすぐ南郡に進み、(畿内防衛のために)征西将軍の桓豁と共同作戦を行わせて下さい。賊がもしも犬羊を駆り立て、死兵を沔水や漢水に送ってこれば、正義の行動を起こし、民草のために戦います。もし形勢が動き出せば、汚れた空気を一掃し(前秦に完勝し)、二度と天子の軍隊に苦労をかけません。三秦に攻め進めば、晋帝国歴代の盛んな事業が永遠に栄えるでしょう。(国土を回復すれば)宣帝と武帝(司馬懿と司馬炎)の遺志に恥じる必要がなくなります。(賊軍の前秦が)皇帝の威光を恐れ、侵略を思い止まるならば、改めてわが戦略を練り直し、軍隊の進退を、すばやく切り替えましょう。どうか陛下は私の意見をご覧になり、許可を頂けますように」と言った。
詔して答え、「北狄な天の意向に逆らい、連年にわたり暴虐である。梁州と益州は守りを突破され、河西も傾覆した。つねに思うに天下はまだ一つにならず、憤りと歎きが胸に満ちている。将軍の侵略は深く優れ、思慮が重ねられている。国への忠誠は、上表に現れている。読み終える前から、感慨を禁じ得ない。寇賊は隙に乗じて利益を掠めとっているが、無道による略奪で、武力を濫用して凶悪さを極め、民を虐待している。彼らの滅亡まで、それほど長い期間がかかるまい。しかし不測の事態に備えるのは、軍事の上策である。高位高官に意見を求め、彼らに相談して決めるように。征西将軍と共同作戦をおこない、すぐれた計略があれば、状況に応じて報告するように」と言った。たまたま張天錫が滅亡し、それを受けて軍事行動を中止した。にわかに桓豁が亡くなり、(桓沖は)都督江荊梁益寧交広七州揚州之義成雍州之京兆司州之河東軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史・持節に遷り、将軍・侍中は現任のままとした。またその子の桓嗣を江州刺史とした。桓沖が鎮所に赴任するとき、皇帝は西堂ではなむけし、銭五十万を賜った。また酒三百四十石・牛五十頭を文武の官に支給した。謝安は溧洲まで見送った。

桓沖が江陵に着任したとき、苻堅が強盛であったので、桓沖は(鎮所を)移動させて江南を守ろうと考え、上疏して、「中興より以来(東晋に入ってから)、荊州の鎮所は、状況に応じて移転してきました。私の亡兄の桓温は石季龍が死ぬと、中原を攻略し、江陵は中原に進出しやすいので、ここを拠点としました。時勢は時とともに変遷し、状況は一定ではありませんでした。わが国の軍の弱さに鑑みれば、いまは江南の守りを重点化し、江北の守りは手薄にせざるを得ません。南平と孱陵の両県のあいだは、上明という地名で、田地は肥沃であり、兵員を養うのに適します。三国呉のとき楽郷城より以北の四十里あまりにあり、北は大江に臨み、西は三峽に隣接しています。もし凶悪な賊が決死の兵を送ってきたら、むかしの郢より以北は城壁に籠もって戦わず、(賊軍が南下し)長江を渡ってはじめて開戦すれば、わが軍の移動距離は長くならず、(長距離の移動に疲れた)敵軍の疲弊に乗じて、殲滅することが容易です。私は朝廷の域外(荊州)の司令官ですので、状況に応じて判断いたします」と言った。ここにおいて鎮所を上明に移し、冠軍将軍の劉波に江陵を守らせ、諮議参軍の楊亮に江夏を守らせた。詔して荊州に洪水や干害があって飢えて荒廃し、そのなかで桓沖が新たに地域を立て直したので、一年に米三十万斛を(揚州から)運び入れて軍資とし、豊作の年まで供給を続けさせた。
苻堅(前秦)は将の苻融を派遣して樊城と鄧城を侵略し、石越が魯陽を侵略し、姚萇が南郷を侵略し、韋鍾が魏興を侵略し、各地の城が陥落した。桓沖は江夏相の劉奭と南中郎将の朱序を派遣して敵軍を攻撃させたが、劉奭は臆病で進軍せず、朱序は賊の捕虜となった。桓沖は自ら責任を深く感じ、上疏して章節を返送し、解任を申し出たが、天子は許さなかった。左衛将軍の張玄之を派遣して桓沖のもとで軍事の参謀とした。桓沖は前将軍の劉波及び兄の子の振威将軍の桓石民・冠軍将軍の桓石虔を率いて苻堅を攻撃し、苻堅の筑陽を抜いた。武当を攻め、苻堅の兗州刺史の張崇を敗走させた。苻堅は慕容垂と毛当を派遣して鄧城を侵略させ、苻熙と石越に新野を侵略させた。桓沖は苻堅の軍を憚り、疫病が流行ったので、引き返して上明に鎮した。上表して、「夏口の長江と沔水の交わる要衝であり、強敵に接近しています。兄の子の桓石民はこの地を守る任務に堪えるので、督荊江十郡軍事・振武将軍・襄城太守に任命して下さい。尋陽は北は強い蛮賊に接し、西は荊郢に連なり、ここもまた要衝です。いま将軍府と州府がすでに別の場所にあるので、王薈を江州刺史に任命して下さい」と言った。詔してこれに従った。このとき王薈は兄の王劭(王邵)が亡くなったばかりで、葬ろうとしており、辞退して赴任を拒んだ。ここにおいて衛将軍の謝安が更めて中領軍の謝輶に交替させた。桓沖はこれを聞いて怒り、上疏して謝輶の文武の才では役割が務まらないと言った。(桓沖は)自分で江州刺史を兼ねることを求め、皇帝はこれを許した。桓沖は桓石虔に苻堅の襄陽太守の閻震を討伐させ、これを捕らえ、大小の帥(指揮官)の二十九人を捕らえ、京都に送った。詔してこれを桓沖の府に送り返した。閻震を平定した功績により、次子の桓謙を宜陽侯に封建した。苻堅は将の都貴(郝貴)に襄陽を守らせていた。桓沖は揚威将軍の朱綽にこれを討伐させ、沔水の北の水田を焼き、六百戸あまりを連れて帰った。また上庸太守の郭宝を派遣して苻堅の魏興太守の褚垣・上庸太守の段方を討伐させ、二人の太守を降した。新城太守の麴常が逃げて、三郡はすべて平定された。詔して銭百万と、袍表千端を賜わった。
これよりさき、桓沖が西鎮となると、賊の侵入が強力なので、鎮所を上明に移した。その理由は江東(東晋)の軍事力が弱く、守りを固めて国境を封鎖し、防衛するためであった。将相の意見がまとまらず、(桓沖の)徳望が謝安に及ばないため、謝安に朝廷の宰相を委任し、自分は四方の守りを担当し、(荊州の)守りに専念した。また(桓沖は)朱序と親密であったが、突如として朱序が賊に捕らわれたので(理解者を失い)、大きな脅威を感じるようになった。苻堅(前秦)が国力をあげて侵入すると、桓沖は国家中枢の危機と見なし、精兵三千を派遣して京都(建康)に赴かせた。謝安は三千人では何の足しにもならないが、国外に(荊州の)守りの薄さを示すと考え、精兵は京都のすぐそばにいたが、受け入れなかった。返答して、「朝廷の兵の配置はすでに定まり、万が一にも失敗はない。西藩(荊州)は防備を固めていよ」と言った。このとき謝安はすでに兄の子の謝玄及び桓伊らの諸軍を派遣した後だった。桓沖は(謝安の決めた陣容では)国家の危機を救えないと考えた。佐吏を召し、彼に向かって嘆いて、「謝安は内政の才能はあるが、軍事はだめだ。いま大軍が接近しているのに、談笑ばかりしている。経験不足の若者たちを派遣しても、軍は少なくて弱い。天下の運命はすでに決した。私は胡族の捕虜となるだろう」と言った。にわかに苻堅が敗れたと聞いて、大きな軍功があがり、朱序が帰還できたと聞いた。桓沖はかねて体調が悪く、しかも予想を外したことを恥じて、発病して亡くなり、五十七歳であった。太尉を贈り、本官は生前のままとし、宣穆と諡した。銭五十万、布五百匹を贈った。
桓沖は質素倹約で、謙虚に人士を重んじた。入浴した後、妻が新しい衣を差し出すと、桓沖は大いに怒り、急かして持ち帰らせた。妻は同じ新しい衣を差し出し、桓沖に、「どんな衣も最初は新品です、新品を経由せずに中古になりません」と言った。桓沖は笑ってこれを来た。処士である南陽の劉驎之を長史に任命したが、劉驎之は屈服しなかった。桓沖は自ら訪問して迎え、とても厚遇した。また処士である長沙の鄧粲を別駕に辟召したが、礼を備えて敬意を払った。鄧粲は賢者を重んじるさまに感動し、任命を受け入れた。はじめ、郗鑒・庾亮・庾翼は臨終のときに上表して、親族を要職につけるように申し送ったが、桓沖だけは謝安に書簡を送り、「(兄の遺児の)妙霊と霊宝はまだ幼い。亡き兄から養育を託されたのに、成し遂げられないのが残念だ」とだけ言った。私的な申し送りをしなかったので、論者はますます桓沖を称賛した。遺体が江陵を通過すると、士女や老幼となく長江に臨んで見送り、号哭して悲しみを尽くした。のちに桓玄が簒奪すると、太傅・宣城王を追贈した。七人の子がおり、桓嗣・桓謙・桓脩・桓崇・桓弘・桓羨・桓怡である。

原文

嗣字恭祖。少有清譽、與豁子石秀並為桓氏子姪之冠。沖既代豁西鎮、詔以嗣督荊州之三郡豫州之四郡軍事・建威將軍・江州刺史。莅事簡約、修所住齋、應作版檐、嗣命以茅代之、版付船官。轉西陽・襄城二郡太守、鎮夏口。後領江夏相、卒官。追贈南中郎將、諡曰靖。子胤嗣。

訓読

嗣 字は恭祖なり。少くして清譽有り、豁の子の石秀と與に並びに桓氏の子姪の冠と為る。沖 既に豁に代はりて西鎮たるや、詔して嗣を以て督荊州之三郡豫州之四郡軍事・建威將軍・江州刺史とす。事に莅みて簡約たりて、修めて住齋する所は、應に版檐を作るべきも、嗣 命ずるに茅を以て之に代へ、版を船官に付す。西陽・襄城二郡太守に轉じ、夏口に鎮す。後に江夏相に領じ、官に卒す。南中郎將を追贈し、諡して靖と曰ふ。子の胤 嗣ぐ。

現代語訳

桓嗣は字を恭祖という。若くして高い名望があり、桓豁の子の桓石秀とともに桓氏の子弟のなかで随一とされた。桓沖が桓豁に代わって西鎮になると、詔して桓嗣を督荊州之三郡豫州之四郡軍事・建威将軍・江州刺史とした。政務は簡約であり、居住して政務を執るところは、木の板で修築するべきであったが、桓嗣は茅でこれを葺き、木材を船官に支給した。西陽・襄城二郡太守に転じ、夏口に鎮した。のちに江夏相を領し、在官で亡くなった。南中郎将を追贈し、靖と諡した。子の桓胤が嗣いだ。

原文

胤字茂遠。少有清操、雖奕世華貴、甚以恬退見稱。初拜祕書丞、累遷中書郎・祕書監。玄甚欽愛之、遷中書令。玄篡位、為吏部尚書、隨玄西奔。玄死、歸降。詔曰、「夫善著則祚遠、勳彰故事殊。以宣孟之忠、蒙後晉國。子文之德、世嗣獲存。故太尉沖、昔藩陝西、忠誠王室。諸子染凶、自貽罪戮。念沖遺勤、用悽於懷。其孫胤宜見矜宥、以奬為善。可特全生命、徙于新安」。及東陽太守殷仲文・永嘉太守駱球等謀反、陰欲立胤為玄嗣、事覺、伏誅。

訓読

胤 字は茂遠。少くして清操有り、奕世に華貴と雖も、甚だ恬退を以て稱せらる。初め祕書丞を拜し、中書郎・祕書監に累遷す。玄 甚だ之を欽愛し、中書令に遷る。玄 篡位するや、吏部尚書と為り、玄に隨ひて西奔す。玄 死するや、歸降す。詔して曰く、「夫れ善の著なるときは則ち祚は遠く、勳 彰はるるるが故に事 殊なり。宣孟の忠を以て、後を晉國に蒙る。子文の德ありて、世嗣 存することを獲たり。故に太尉の沖、昔 陝西に藩たりて、王室に忠誠あり。諸子 凶に染まり、自ら罪戮を貽る。沖の遺勤を念ひ、用て懷に悽む。其の孫の胤 宜しく矜宥せられ、以て善を為すを奬むべきなり。特に生命を全し、新安に徙す可し」と。東陽太守の殷仲文・永嘉太守の駱球ら謀反するに及び、陰かに胤を立てて玄の嗣と為さんと欲するも、事 覺し、誅に伏す。

現代語訳

桓胤は字を茂遠という。若くして高尚で節操があり、数世代にわたり顕貴な家柄の出身であるが、栄利にこだわらずに称えられた。はじめ秘書丞を拝し、中書郎・秘書監を累遷した。桓玄は桓胤を敬愛し、中書令に遷した。桓玄が簒奪すると、吏部尚書となり、桓玄に従って西に逃げた。桓玄が死ぬと、(東晋に)降伏し帰順した。詔して、「善行が明らかであれば幸運は続き、勲功が明らかならば特別扱いされる。宣孟(春秋晋の趙盾)は忠であったので、子孫が晋国で優遇された。子文(春秋楚の闘穀於菟)は徳があったので、世嗣(闘克黄)が生き残った。さて太尉の桓沖は、むかし陝西で藩屏となり、王室に忠誠であった。諸子が凶悪さに染まり(簒奪し)、自分の罪で殺戮をこうむった。桓沖の亡き勲功を思い、これを惜しく思う。桓沖の孫の桓胤を憐れんで許し、善行を推奨すべきである。特別に命を助け、新安に移すように」と言った。東陽太守の殷仲文・永嘉太守の駱球らが謀反すると、ひそかに桓胤を立てて桓玄の継嗣にしようとしたが、計画が発覚し、誅殺された。

原文

謙字敬祖、詳正有器望。初以父功封宜陽縣開國侯、累遷輔國將軍・吳國內史。孫恩之亂、謙出奔無錫。徵拜尚書、驃騎大將軍元顯引為諮議參軍、轉司馬。元興初、朝廷將伐玄、以桓氏世在陝西、謙父沖有遺惠於荊楚、懼人情向背、乃用謙為持節・都督荊益寧梁四州諸軍事・西中郎將・荊州刺史・假節、以安荊楚。
玄既用事、以謙為尚書左僕射、領吏部、加中軍將軍。謙兄弟顯列、玄甚倚杖之、而內不能善也。改封謙為寧都侯、拜尚書令、加散騎常侍。遷侍中・衞將軍・開府・錄尚書事。玄篡位、復領揚州刺史、本官如故、封新安王。
及桓振作亂、謙保護乘輿、頗有功焉。然而暗愞、尤不可以造事。初、勸振率軍下戰、己守江陵。振既輕謙用事、故不從。及振敗、謙奔於姚興。先是、譙縱稱藩於姚興、縱與盧循通使、潛相影響、乃表興請謙共順流東下。興問謙、謙曰、「臣門著恩荊楚、從弟玄末雖篡位、皆是逼迫、人神所明。今臣與縱東下、百姓自應駭動」。興曰、「小水不容大舟、若縱才力足以濟事、亦不假君為鱗翼。宜自求多福」。遂遣之。謙至蜀、欲虛懷引士、縱疑之、乃置謙於龍格、使人守之。謙向諸弟泣曰、「姚主言神矣」。後與縱引譙道福俱下、謙於道占募、百姓感沖遺惠、投者二萬人。劉道規破謙、斬之。

訓読

謙 字は敬祖、詳正にして器望有り。初め父の功を以て宜陽縣開國侯に封ぜられ、輔國將軍・吳國內史に累遷す。孫恩の亂に、謙 無錫に出奔す。徵せられて尚書を拜し、驃騎大將軍元顯 引きて諮議參軍と為し、司馬に轉ぜしむ。元興の初、朝廷 將に玄を伐たんとし、桓氏の世々陝西に在り、謙の父の沖 遺惠 荊楚に有るを以て、人情 向背するを懼れ、乃ち謙を用て持節・都督荊益寧梁四州諸軍事・西中郎將・荊州刺史・假節と為し、以て荊楚を安んぜしむ。
玄 既に用事するや、謙を以て尚書左僕射と為し、吏部を領せしめ、中軍將軍を加ふ。謙の兄弟 顯列たれば、玄 甚だ之に倚杖し、而れども內に善かる能はず。謙を改封して寧都侯と為し、尚書令を拜し、散騎常侍を加ふ。侍中・衞將軍・開府・錄尚書事に遷る。玄 篡位するや、復た揚州刺史を領し、本官 故の如く、新安王に封ず。
桓振 亂を作すに及び、謙 乘輿を保護し、頗る功有り。然れども暗愞にして、尤も以て事を造す可からず。初め、振に軍を率ゐて下戰するを勸め、己は江陵を守る。振 既に謙の用事を輕くし、故に從はず。振 敗るるに及び、謙 姚興に奔る。是より先、譙縱 姚興に稱藩し、縱は盧循と使を通じ、潛かに相 影響す。乃ち興を表して謙を請ひて共に流に順ひて東下せんとす。興 謙に問ふに、謙曰く、「臣の門 恩を荊楚に著はし、從弟の玄 末に篡位すと雖も、皆 是れ逼迫せられ、人神 明らかなる所なり。今 臣 縱と與に東下せば、百姓 自ら應じて駭動せん」と。興曰く、「小水は大舟を容れず。若し縱の才力 以て事を濟ふに足らば、亦た君を假して鱗翼と為さざらん。宜しく自ら多福を求むべし」と。遂に之を遣はす。謙 蜀に至るや、虛懷に士を引かんと欲し、縱 之を疑ふ。乃ち謙を龍格に置きて、人をして之を守らしむ。謙 諸弟に向ひて泣きて曰く、「姚主の言 神なり」と。後に縱と與に譙道福を引(ひき)ゐて俱に下る。謙 道に於て占募するに、百姓 沖の遺惠を感ひ、投ずる者は二萬人なり。劉道規 謙を破り、之を斬る。

現代語訳

桓謙は字を敬祖といい、詳正で(公正で)器量と名望があった。はじめ父(桓沖)の功績により宜陽県開国侯に封建され、輔国将軍・呉国内史に累遷した。孫恩の乱のとき、桓謙は無錫に出奔した。徴召されて尚書を拝した。驃騎大将軍の司馬元顕が招いて諮議参軍とし、司馬に転じさせた。元興年間の初め、朝廷が桓玄を討伐する際に、桓氏が代々陝西におり、桓謙の父の桓沖がかつて荊楚地域に恩恵を施したことから、民情が(東晋に)背を向けることを恐れ、桓謙を持節・都督荊益寧梁四州諸軍事・西中郎将・荊州刺史・仮節とし、荊楚地域を安定させた。
桓玄が執政すると、桓謙を尚書左僕射とし、吏部を兼務させ、中軍将軍を加えた。桓謙の兄弟が並びに要職につき、桓玄は彼らを強く頼りにしたが、本心から睦まじいわけではなかった。桓謙の封爵を改めて寧都侯とし、尚書令を拝させ、散騎常侍を加えた。侍中・衛将軍・開府・録尚書事に遷った。桓玄が簒奪すると、また揚州刺史を領し、本官は現状のままで、新安王に封建した。
桓振が乱を起こすと、桓謙は天子の乗輿を護衛し、大きな功績があった。しかしながら(桓謙は)暗愚であり、政務に堪えられなかった。これよりさき、(桓謙は)桓振に軍を率いて(長江を)下って戦うことを勧め、桓謙自身は江陵を守った。しかし桓振はすでに(桓謙の)権能を軽んじていたので、(桓謙は)従わなかった。桓振が敗れると、桓謙は姚興のもと(後秦)に逃げた。これよりさき、譙縦は姚興の藩屏を称し、譙縦は盧循と使者を交わして、ひそかに連携していた。そこで(譙縦は)姚興に上表して桓謙とともに(長江を)東に下る(東晋を襲撃する)ことを提案した。姚興が桓謙に聞くと、桓謙は、「わが一族は荊楚地域に大きな恩をほどこし、従弟の桓玄は最後には簒奪したが、すべて脅迫されてやむを得ずやったことで、民も神も(桓氏の正しさを)分かっております。いま私が譙縦とともに東に下れば、万民は自ら呼応して騒いで(東晋を)混乱させるはずです」と言った。姚興は、「小さな川に大きな船は浮かばない。もし譙縦の才能と手腕が十分であれば、きみに龍の鱗と鳳皇の翼を授けるだろう。その場合は幸運を求めるがよい」と言った。こうして(姚興は桓謙を)行かせた。桓謙が蜀に至ると、謙虚に人士を招き募ったので、譙縦は(桓謙に)他意があるものと疑った。そこで桓謙を龍格に居らせ、人に見晴らせた。桓謙は弟たちに向かって泣いて、「姚主の言は神である(予言が的中した、譙縦に王佐の才はない)」と言った。のちに譙縦とともに譙道福をつれて長江を下った。桓謙が道中で味方を募ると、百姓は桓沖の遺恵を慕い、二万人が身を投じて従った。劉道規が桓謙を破り、これを斬った。

原文

脩字承祖。尚簡文帝女武昌公主、歷吏部郎、稍遷左衞將軍。王恭將伐譙王尚之、先遣何澹之、孫無終向句容。脩以左衞領振武將軍、與輔國將軍陶無忌距之。脩次句容。俄而恭敗、無終遣書求降。脩既旋軍、而楊佺期已至石頭、時朝廷無備、內外崩駭。脩進說曰、「殷、桓之下、專恃王恭、恭既破滅、莫不失色。今若優詔用玄、玄必內喜、則能制仲堪、佺期、使並順命」。朝廷納之。以脩為龍驤將軍、荊州刺史、假節、權領左衞文武之鎮。又令劉牢之以千人送之。轉仲堪為廣州。脩未及發、而玄等盟於尋陽、求誅牢之。尚之并訴仲堪無罪、獨被降黜。於是詔復仲堪荊州。御史中丞江績奏脩承受楊佺期之言、交通信命、宣傳不盡、以為身計、疑誤朝算、請收付廷尉。特詔免官。尋代王凝之為中護軍。頃之、玄破仲堪、佺期、詔以脩為征虜將軍、江州刺史。尋復為中護軍。 玄執政、以脩都督六州・右將軍・徐兗二州刺史・假節。尋進撫軍將軍、加散騎常侍。玄篡、以為撫軍大將軍、封安成王。劉裕義旗起、斬之。

訓読

脩 字は承祖。簡文帝の女の武昌公主を尚し、吏部郎を歷し、稍く左衞將軍に遷る。王恭 將に譙王尚之を伐たんとするや、先に何澹之・孫無終を遣はして句容に向はしむ。脩 左衞を以て振武將軍を領し、輔國將軍の陶無忌と與に之を距ぐ。脩 句容に次す。俄かにして恭 敗れ、無終 書を遣はして降らことを求む。脩 既に軍を旋し、而して楊佺期 已に石頭に至る。時に朝廷 備へ無く、內外 崩駭す。脩 進みて說きて曰く、「殷・桓の下、專ら王恭を恃むも、恭 既に破滅し、色を失はざる莫し。今 若し優詔して玄を用ふれば、玄は必ず內に喜び、則ち能く仲堪・佺期を制し、並びに命に順はしめん」と。朝廷 之を納る。脩を以て龍驤將軍・荊州刺史・假節と為し、權に左衞の文武の鎮に領す。又 劉牢之をして千人を以て之を送らしむ。仲堪を轉じて廣州と為す。脩 未だ發するに及ばざるに、玄ら尋陽に盟ひ、牢之を誅せんことを求む。尚之 并びに仲堪の無罪を訴へ、獨り降黜せらる。是に於て詔して仲堪を荊州に復す。御史中丞の江績 奏すらく脩は楊佺期の言を承受し、信命を交通するも、宣傳すること盡さず、以て身の計と為し、朝算を疑誤す。廷尉に收付することを請ふと。特に詔して官を免ず。尋いで王凝之に代はりて中護軍と為る。頃之、玄 仲堪・佺期を破るや、詔して脩を以て征虜將軍・江州刺史と為す。尋いで復た中護軍と為る。
玄 執政するや、脩を以て都督六州・右將軍・徐兗二州刺史・假節とす。尋いで撫軍將軍に進み、散騎常侍を加へらる。玄 篡するや、以て撫軍大將軍と為し、安成王に封ず。劉裕の義旗 起つや、之を斬る。

現代語訳

桓脩は字を承祖という。簡文帝の娘の武昌公主の婿となり、吏部郎を経験し、ようやく左衛将軍に遷った。王恭が譙王尚之(司馬尚之)を討伐するとき、先に何澹之・孫無終を句容に向かわせた。桓脩は左衛将軍として振武将軍を兼務し、輔国将軍の陶無忌ととともに抗戦した。桓脩は句容に駐留し、にわかに王恭が敗れ、孫無終は書簡を送って降伏を申し入れた。桓脩は軍を撤退させ(抗戦を辞め)たが、楊佺期が石頭に到着した。このとき朝廷に防備がなく、内外は驚き崩れた。桓脩は進言し、「殷氏と桓氏のもとで、もっぱら王恭を頼みにしましたが、王恭の軍はもはや破滅し、顔色を失わないものはいません。いまもし優詔(手厚い詔)で桓玄を登用すれば、桓玄は内心で必ず喜び、きっと殷仲堪と楊佺期を牽制し、二人を朝命に従わせることができます」と言った。朝廷はこの意見を用いた。桓脩を龍驤将軍・荊州刺史・仮節とし、一時的に左衛の文武の官員の鎮所を管轄させた。さらに劉牢之に千人の兵を送らせた。殷仲堪を転じて広州刺史とした。桓脩が出発する前に、桓玄らは尋陽で盟約し、劉牢之を誅殺するように求めた。司馬尚之はあわせて殷仲堪の無罪を訴えたが、かえって彼が降格された。ここにおいて詔して殷仲堪を荊州刺史に復した。御史中丞の江績は上奏して、「桓脩は楊佺期から意見を聞き、書簡を交換していたが、これを十分に周知せず、自分の計略のように扱って、朝廷の決定を誤らせました。捕らえて廷尉に引き渡してください」と言った。詔によって特別に官職だけを罷免した。すぐに王凝之に代わって中護軍となった。しばらくして、桓玄が殷仲堪と楊佺期を破ると、詔して桓脩を征虜将軍・江州刺史とした。ほどなくまた中護軍となった。
桓玄が執政すると、桓脩を都督六州・右将軍・徐兗二州刺史・仮節とした。さらに撫軍将軍に進み、散騎常侍を加えられた。桓玄が簒奪すると、桓脩を撫軍大将軍とし、安成王に封建した。劉裕が義軍の旗を立てると、桓脩を斬った。

原文

徐寧者、東海郯人也。少知名、為輿縣令。時廷尉桓彝稱有人倫鑒識、彝嘗去職、至廣陵尋親舊、還遇風、停浦中、累日憂悒、因上岸、見一室宇、有似廨署、訪之、云是輿縣。彝乃造之。寧清惠博涉、相遇欣然、因留數夕。彝大賞之、結交而別。至都、謂庾亮曰、「吾為卿得一佳吏部郎」。語在彝傳。即遷吏部郎・左將軍・江州刺史、卒官。

訓読

徐寧は、東海郯の人なり。少くして名を知られ、輿縣令と為る。時に廷尉の桓彝 人倫の鑒識有りと稱せらる。彝 嘗て職を去りて、廣陵に至りて親舊を尋ぬ。還るに風に遇ひ、浦中に停まり、日を累ねて憂悒し、因りて岸に上り、一室宇を見る。廨署に似たる有り、之を訪ふに、是(ここ)は輿縣と云ふ。彝 乃ち之に造る。寧 清惠にして博涉、相 遇ひて欣然たり、因りて留まること數夕なり。彝 大いに之を賞し、交を結びて別る。都に至るや、庾亮に謂ひて曰く、「吾 卿の為に一の佳き吏部郎を得たり」と。語 彝傳に在り。即ち吏部郎・左將軍・江州刺史に遷り、官に卒す。

現代語訳

徐寧は、東海の郯県の人である。若くして名を知られ、輿県令となった。このとき廷尉の桓彝は人物の鑑識眼があると認められていた。かつて桓彞が官職を去ったとき、広陵に至って旧知を訪問した。帰路で逆風に吹かれ、浦中に留まった。数日たって(風向きが変わらず)鬱屈し、岸に上陸すると、一軒の家を見つけた。役所のようでもあり、何の建物か聞けば、果たして輿県の県庁であった。桓彞はここを訪問した。徐寧はさっぱりとして気前がよくて博識で、この出会いを互いに喜び、桓彞は数日間ここに泊まった。桓彞は徐寧を大いにたたえ、親交を結んで別れた。都に至ると、庾亮に、「きみのためによき吏部郎の人材を一人見つけた」と言った。このことは桓彞伝にある(『晋書』巻七十四)。かくして徐寧は吏部郎・左将軍・江州刺史に遷り、在官で亡くなった。

原文

史臣曰、醨風潛煽、醇源浸竭、遺道德於情性、顯忠信於名教。首陽高節、求仁而得仁。泗上微言、朝聞而夕死。原軫免冑、懍然於往策。季路絕纓、邈矣於前志。況交霜雪於杪歲、晦風雨於將晨、喈響或以變其音、貞柯罕能全其性。桓茂倫抱中和之氣、懷不撓之節、邁周庾之清塵、遵許郭之遐軌。懼臨危於取免、知處死之為易、揚芬千載之上、淪骨九泉之下。仁者之勇、不其然乎。至夫基構迭汙隆、龍蛇俱山澤、沖逡巡於內輔、豁陵厲於上游、虔振北門之威、秀坦西陽之務、外有扞城之用、裏無末大之嫌、求之名臣、抑亦可算。而溫為亢極之資、玄遂履霜之業、是知敬仲之美不息檀臺之亂、寧俞之忠無救弈棊之禍。子文之不血食、悲夫。
贊曰、矯矯宣城、貞心莫陵。身隨露夭、名與雲興。虔豁重世、沖秀雙美。國賴忠臣、家推才子。振武謙文、尋邑為羣。歸之篡亂、曷足之云。

訓読

史臣曰く、醨風 潛かに煽ぎ、醇源 浸(やうや)く竭く。道德を情性に遺し、忠信を名教に顯はす。首陽の高節、仁を求めて仁を得たり。泗上の微言、朝に聞きて夕に死す。原軫 冑を免ぎ、往策に懍然たり。季路は纓を絕つも、前志に邈矣なり。況んや霜雪を杪歲に交し、風雨を將晨に晦し、喈響 或いは以て其の音を變じ、貞柯 能く其の性を全すること罕きをや。桓茂倫は中和の氣を抱き、不撓の節を懷き、周・庾の清塵に邁み、許・郭の遐軌に遵ふ。臨危に取免を懼れ、處死の為易るを知れば、芬を千載の上に揚げ、骨を九泉の下に淪む。仁者の勇、其れ然らざるや。夫の基構 迭々に汙隆し、龍蛇 山澤を俱にするに至り、沖 內輔に逡巡し、豁 上游に陵厲し、虔振は北門の威、秀は西陽の務を坦らかにし、外に扞城の用有り、裏(うち)に末大の嫌無し。之を名臣に求むるに、抑々亦た算ふ可きか。而れども溫 亢極の資為りて、玄 履霜の業を遂ぐ。是に敬仲の美 檀臺の亂を息めざるを知る。寧俞の忠だに弈棊の禍を救ふこと無きか。子文のごとく血食せざるは、悲しきかな。
贊に曰く、矯矯たる宣城、貞心 陵ること莫し。身は露に隨ひて夭し、名は雲と與に興る。虔・豁 世を重ねて、沖・秀 美を雙にす。國は忠臣に賴り、家は才子を推す。振が武と謙が文、尋・邑 羣を為す。之を篡亂に歸するは、曷ぞ之を云ふに足るか。

現代語訳

史臣はいう、軽薄な風潮がひそかに蔓延し、芳醇な根源は徐々に後退した。道徳は個人の情性のなかに残り、忠誠や信義は名教を治めた人物に現れた。(殷末の伯夷・叔斉の)首陽山の高い節義は、仁義を求めて仁義に至ったものである。(孔子が)泗水のほとりで微言大義を論じ、朝に道を聞けば夕べに死んでもよいと言った。原軫(春秋晋の先軫)はかぶとを脱いで敵軍に突入し、決死の覚悟を示した。季路(孔子の弟子の子路)は纓(冠のひも)が切れたが(結び直してから死んで)、最期は士人の意地を見せた(『左氏伝』哀公 伝十五年)。まして年の暮れに雪が降り、風雨が明け方を陰らせ、鳥の鳴き声が変調したとき、堅い枝が曲がらざるを得ないときは尚更(個人が節義を貫くのは困難)である。桓茂倫(桓彞)は中庸の気をもち、不屈の気を抱き、周顗や庾亮よりも清らかで、郭邁や郭璞のように世俗から離れた。(蘇峻の乱が起こると)危険を回避することを願わず、死地にいても志を守り、名声を千年の後にあげ、遺骨を九泉の下に沈めた。まさに仁者の勇とは、桓彞のことではないか。国家の基礎が興亡をくり返し、龍と蛇(賢者と愚者)が山沢に同居した。桓沖は恭順して朝廷を支え、桓豁は長江の上流(荊州)で国家を支え、桓石虔・桓振は北門(豫州方面)に威望があり、桓石秀は西陽(太守)を務め、朝廷の外では国家の防壁となり、朝廷の内では枝葉を肥大させる副作用もなかった。桓氏を名臣の基準に照らしたとき、名臣に数え入れても遜色がない。しかし桓温は危険な高みに登り(東晋の帝位を脅かし)、桓玄は桓温の事業を継いだ。これは敬仲の美徳が檀台の乱を鎮められず(『史記』巻四十六 田敬仲完世家)、寧俞(春秋衛の甯武子)の忠誠が社稷の禍いを救えなかったことと同じである。子文(春秋楚の闘穀於菟)のように祭祀が継続しなかった(桓氏の子孫が途絶えた)のは、悲しいことだ。
賛にいう、剛強な宣城(太守の桓彞)は、正しい心が不屈であった。体は戦場の露となったが、名は(桓彞の子の)桓雲とともに高まった。桓石虔・桓豁は世代を重ねて、桓沖・桓石秀はともに声望があった。国は忠臣に頼り、家は才子を重んじる。桓振は勇敢であり桓謙は文才があり、尋・邑(未詳)はその同類である。この桓氏一族の結末が簒奪に終わったことは、(残念で)言い表しようがない。