いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第四十九巻_謝尚・謝安(子琰・琰子混・安兄奕・奕子玄・安弟萬・萬弟石・石兄子朗・朗弟子邈)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

謝尚

原文

謝尚字仁祖、豫章太守鯤之子也。幼有至性。七歲喪兄、哀慟過禮、親戚異之。八歲、神悟夙成。鯤嘗攜之送客、或曰、「此兒一坐之顏回也」。尚應聲答曰、「坐無尼父、焉別顏回」。席賓莫不歎異。十餘歲、遭父憂、丹楊尹溫嶠弔之、尚號咷極哀。既而收涕告訴、舉止有異常童、嶠甚奇之。及長、開率穎秀、辨悟絕倫、脫略細行、不為流俗之事。好衣刺文袴、諸父責之、因而自改、遂知名。善音樂、博綜眾藝。司徒王導深器之、比之王戎、常呼為「小安豐」、辟為掾。襲父爵咸亭侯。始到府通謁、導以其有勝會、謂曰、「聞君能作鴝鵒舞、一坐傾想、寧有此理不」。尚曰、「佳」。便著衣幘而舞。導令坐者撫掌擊節、尚俯仰在中、傍若無人、其率詣如此。
轉西曹屬。時有遭亂與父母乖離、議者或以進仕理王事、婚姻繼百世、於理非嫌。尚議曰、「典禮之興、皆因循情理、開通弘勝。如運有屯夷、要當斷之以大義。夫無後之罪、三千所不過、今婚姻將以繼百世、崇宗緒、此固不可塞也。然至於天屬生離之哀、父子乖絕之痛、痛之深者、莫深於茲。夫以一體之小患、猶或忘思慮、損聽察、況於抱傷心之巨痛、懷忉怛之至戚、方寸既亂、豈能綜理時務哉。有心之人、決不冒榮苟進。冒榮苟進之疇、必非所求之旨、徒開偷薄之門而長流弊之路。或有執志丘園守心不革者、猶當崇其操業以弘風尚、而況含艱履慼之人、勉之以榮貴邪」。
遷會稽王友、入補給事黃門侍郎、出為建武將軍・歷陽太守、轉督江夏義陽隨三郡軍事・江夏相、將軍如故。時安西將軍庾翼鎮武昌、尚數詣翼諮謀軍事。嘗與翼共射、翼曰、「卿若破的、當以鼓吹相賞」。尚應聲中之、翼即以其副鼓吹給之。尚為政清簡、始到官、郡府以布四十匹為尚造烏布帳。尚壞之、以為軍士襦袴。建元二年、詔曰、「尚往以戎戍事要、故輟黃散、以授軍旅。所處險要、宜崇其威望。今以為南中郎將、餘官如故」。會庾冰薨、復以本號督豫州四郡、領江州刺史。俄而復轉西中郎將・督楊州之六郡諸軍事・豫州刺史・假節、鎮歷陽。
大司馬桓溫欲有事中原、使尚率眾向壽春、進號安西將軍。初、苻健將張遇降尚、尚不能綏懷之。遇怒、據許昌叛。尚討之、為遇所敗、收付廷尉。時康獻皇后臨朝、即尚之甥也、特令降號為建威將軍。初、尚之行也、使建武將軍・濮陽太守戴施據枋頭。會冉閔之子智與其大將蔣幹來附、復遣行人劉猗詣尚請救。施止猗、求傳國璽、猗歸、以告幹。幹謂尚已敗、慮不能救己、猶豫不許。施遣參軍何融率壯士百人入鄴、登三臺助戍、譎之曰、「今且可出璽付我。凶寇在外、道路梗澀、亦未敢送璽、當遣單使馳白。天子聞璽已在吾許、知卿等至誠、必遣重軍相救、并厚相餉」。幹乃出璽付融、融齎璽馳還枋頭。尚遣振武將軍胡彬率騎三百迎璽、致諸京師。時苻健將1楊平戍許昌、尚遣兵襲破之、徵授給事中、賜軺車・鼓吹、戍石頭。
永和中、拜尚書僕射、出為都督江西淮南諸軍事・前將軍・豫州刺史、給事中・僕射如故、鎮歷陽、加都督豫州揚州之五郡軍事、在任有政績。上表求入朝、因留京師、署僕射事。尋進號鎮西將軍、鎮壽陽。尚於是採拾樂人、并制石磬、以備太樂。江表有鍾石之樂、自尚始也。
桓溫北平洛陽、上疏請尚為都督司州諸軍事。將鎮洛陽、以疾病不行。升平初、又進都督豫・冀・幽・并四州。病篤、徵拜衞將軍、加散騎常侍、未至、卒於歷陽、時年五十。詔贈散騎常侍・衞將軍・開府儀同三司、諡曰簡。
無子、從弟奕以子康襲爵、早卒。康弟靜復以子肅嗣、又無子。靜子虔以子靈祐繼鯤後。

1.「楊平」は、『資治通鑑』巻九十九は「楊羣」につくる。

訓読

謝尚 字は仁祖、豫章太守たる鯤の子なり。幼くして至性有り。七歲にして兄を喪ひ、哀慟すること禮を過ぎ、親戚 之を異とす。八歲にして、神悟 夙に成る。鯤 嘗て之を攜へて客を送るに、或ひと曰く、「此の兒 一坐の顏回なり」と。尚 聲に應じて答へて曰く、「坐に尼父無し、焉んぞ顏回を別けんや」と。席賓 歎異せざる莫し。十餘歲にして、父の憂に遭ひ、丹楊尹の溫嶠 之を弔ふに、尚 號咷して哀を極む。既にして涕を收めて告訴するに、舉止 常童に異なる有り、嶠 甚だ之を奇とす。長ずるに及び、開率は穎秀、辨悟は絕倫にして、細行を脫略し、流俗の事を為さず。好みて刺文の袴を衣るに、諸父 之を責むれば、因りて自ら改め、遂に名を知らる。音樂を善くし、博く眾藝を綜す。司徒の王導 深く之を器とし、之を王戎に比へて、常に呼びて「小安豐」と為し、辟して掾と為す。父の爵の咸亭侯を襲ふ。始め府に到りて通謁するに、導 其の勝會有るを以て、謂ひて曰く、「聞くらく君 能く鴝鵒舞を作すと。一坐 想を傾く。寧ろ此の理有らんや不や」と。尚曰く、「佳し」と。便ち衣幘を著けて舞ふ。導 坐する者をして撫掌し節を擊たしめ、尚 俯仰して中に在り、傍らに人無きが若く、其の率詣 此の如し。
西曹屬に轉ず。時に遭亂ありて父母と乖離するもの有り、議する者 或いは以へらく進仕は王事を理め、婚姻は百世を繼がば、理に於て嫌ふに非ずと。尚 議して曰く、「典禮の興は、皆 情理に因循せば、開通せば弘く勝たり。如し運に屯夷有らば、要に當に之を斷むるに大義を以てすべし。夫れ後無きの罪は、三千の過(ゆる)さざる所なり。今 婚姻 將に以て百世を繼ぎ、宗緒を崇せんとす。此れ固に塞ぐ可からざるなり。然れども天屬 生離する哀、父子 乖絕するの痛に至りては、痛みの深き者は、茲より深きは莫し。夫れ一體の小患を以て、猶ほ或いは思慮を忘れ、聽察を損なふ。況んや傷心の巨痛を抱き、忉怛の至戚を懷くに於てをや。方寸 既に亂るれば、豈に能く時務を綜理するや。心有るの人、決して榮を冒して苟進せず。榮を冒して苟進するの疇は、必ず求むる所の旨に非ず、徒らに偷薄の門を開きて流弊の路を長ぜしむ。或いは志を丘園に執りて心を守りて革めざる者有らば、猶ほ當に其の操業を崇くして以て風尚を弘む、而して況んや艱を含み慼を履むの人、之を勉むるに榮貴を以てせんや」と。
會稽王友に遷り、入りて給事黃門侍郎に補せられ、出でて建武將軍・歷陽太守と為り、督江夏義陽隨三郡軍事・江夏相に轉じ、將軍たること故の如し。時に安西將軍の庾翼 武昌に鎮し、尚 數々翼に詣りて軍事に諮謀す。嘗て翼と與に共に射するに、翼曰く、「卿 若し的を破らば、當に鼓吹を以て相 賞すべし」と。尚 聲に應じて之に中て、翼 即ち其の副鼓吹を以て之に給ふ。尚の為政は清簡にして、始めて官に到るや、郡府 布四十匹を以て尚が為に烏布帳を造る。尚 之を壞し、以て軍士の襦袴と為す。建元二年、詔して曰く、「尚 往に戎戍の事要なるを以て、故に黃散に輟(とど)め、以て軍旅に授く。處る所は險要なれば、宜しく其の威望を崇むべし。今 以て南中郎將と為し、餘官は故の如くす」と。會々庾冰 薨じ、復た本號を以て豫州四郡を督し、江州刺史を領す。俄かにして復た西中郎將・督楊州之六郡諸軍事・豫州刺史・假節に轉じ、歷陽に鎮す。
大司馬の桓溫 事 中原に有らんと欲するや、尚をして眾を率ゐて壽春に向はしめ、號を安西將軍に進む。初め、苻健の將の張遇 尚に降るに、尚 之を綏懷する能はず。遇 怒り、許昌に據りて叛す。尚 之を討ち、遇の敗る所と為り、收めて廷尉に付せらる。時に康獻皇后 臨朝し、即ち尚の甥なれば、特に號を降して建威將軍と為らしむ。初め、尚の行くや、建武將軍・濮陽太守の戴施をして枋頭に據らしむ。會々冉閔の子の智 其の大將の蔣幹と與に來附し、復た行人の劉猗を遣はして尚に詣りて救を請はしむ。施 猗を止め、傳國璽を求め、猗 歸るや、以て幹に告ぐ。幹 尚 已に敗るるを謂ひ、己を救ふ能はざるを慮り、猶豫して許さず。施 參軍の何融を遣はして壯士百人を率ゐて鄴に入らしめ、三臺に登りて戍を助け、之を譎りて曰く、「今 且に璽を出だして我に付す可し。凶寇 外に在り、道路は梗澀し、亦た未だ敢て璽を送らざれば、當に單使を遣はして馳せて白すべし。天子 璽 已に吾が許に在ると聞かば、卿らの至誠を知り、必ず重軍を遣はして相 救ひ、并せて厚く相 餉せん」と。幹 乃ち璽を出だして融に付し、融 璽を齎らして馳せて枋頭に還る。尚 振武將軍の胡彬を遣はして騎三百を率ゐて璽を迎へしめ、諸を京師に致す。時に苻健の將の楊平 許昌を戍るに、尚 兵を遣はして之を襲破し、徵して給事中を授け、軺車・鼓吹を賜ひ、石頭を戍らしむ。
永和中に、尚書僕射を拜し、出でて都督江西淮南諸軍事・前將軍・豫州刺史と為り、給事中・僕射たること故の如く、歷陽に鎮す。都督豫州揚州之五郡軍事を加へ、任に在りて政績有り。上表して入朝せんことを求め、因りて京師に留まり、僕射の事を署す。尋いで號を鎮西將軍に進め、壽陽に鎮す。尚 是に於て樂人を採拾し、并せて石磬を制り、以て太樂を備ふ。江表に鍾石の樂有り、尚より始まるなり。
桓溫 北して洛陽を平らげ、上疏して尚を都督司州諸軍事と為すことを請ふ。將に洛陽に鎮せんとするに、疾病を以て行かず。升平初に、又 都督豫・冀・幽・并四州に進む。病ひ篤ければ、徵せられて衞將軍を拜し、散騎常侍を加ふ。未だ至らざるに、歷陽に卒し、時に年五十なり。詔して散騎常侍・衞將軍・開府儀同三司を贈り、諡して簡と曰ふ。
子無く、從弟の奕 子の康を以て爵を襲がしむるに、早くに卒す。康の弟の靜 復た子の肅を以て嗣がしむるも、又 子無し。靜の子の虔 子の靈祐を以て鯤の後を繼がしむ。

現代語訳

謝尚は字を仁祖といい、豫章太守である謝鯤の子である。幼くして善良な性質があった。七歳で兄を失い、哀しみ慟哭することが礼の規定を超え、親族は感心をした。八歳で、ものごとを悟るようになった。謝鯤はかつて謝尚を連れて客を(馬車で)送ったが、あるひとが、「この子はこの場の顔回である」と言った。謝尚はその声を聞くや否や、「この場に尼父(孔子)がいないのに、どうして顔回(のような賢者)を識別できるだろうか」と言った。同席した賓客は感歎しないものがなかった。十歳あまりで、父を亡くした。丹楊尹の温嶠が弔問にきたが、謝は号泣して哀を極めた。涙を収めて挨拶をすると、立ち居振る舞いは平凡な童子と異なり、温嶠はとても優秀だと認めた。成人すると、知能が並外れて高く、分別と理解力が飛び抜け、細々としたことに拘らず、世俗のことに関知しなかった。好んで刺繍の袴をつけたが、おじたちに責められると、自分から改めたので、名を知られた。音楽が得意で、ひろく芸事を習得した。司徒の王導が才気を高く評価し、謝尚を(西晋の安豊亭侯の)王戎になぞらえ、つねに「小安豊」と呼び、辟召して掾とした。父の爵位の咸亭侯を嗣いだ。はじめ(王導の)府を訪れて謁見したとき、王導は盛大な宴会を開いていた。謝に対し、「聞けばあなたは鴝鵒舞ができるそうだな。同席者はみな楽しみにしている。評判は本当かな」と聞いた。謝尚は、「分かりました」と応じた。その場で衣装をつけて舞った。王導は出席者に手拍子をさせ、謝尚は見渡してから座の中央に入り、独演会のようになった。のりの良さはこのようであった。
西曹属に転じた。このとき戦乱で父母と離別するものがいたが、仕官は帝王の事業を支えるものであり、婚姻は血筋を継承することなので、(離別は仕官と婚姻に)影響しないと意見を述べるものがいた。謝尚は、「典礼を盛んにするには、情理に従うべきで、情理を尽くせば典礼が備わるものです。災厄の運命に直面したときは、大義に基づいて決断すべきです。そもそも(婚姻せず)子孫を残さない罪は、万人が看過できないことです。いま婚姻することは未来に子孫を残し、一族の妻子を継承するものであり、妨害してはいけません。親族と別れる哀しみ、父子が離れる痛みは、これより深いものはありません。身の上に小さな悲痛があれば、思慮を忘れ、判断力が鈍ります。ましてや巨大な悲痛があり、平常心を失っているときは尚更です。心情が乱れれば、国家の政務に従事できるでしょうか。心あるひとならば、目先の栄誉のために出仕しません。栄誉に目がくらんで出仕する連中は、国家が求める人材ではありません。栄誉を目指す人でなしを登用すれば国家の弊害が助長されます。隠棲して人の心を堅持するものは、統治の支えとなり風教を高めるものです。ましてや(父母と離れる)艱難にあって心痛を味わっている人は、(仕官して)栄華と富貴を目指すはずがありません」と言った。
会稽王友に遷り、(朝廷に)入って給事黄門侍郎に任命され、出て建武将軍・歴陽太守となり、督江夏義陽隨三郡軍事・江夏相に転じ、将軍は留任とされた。このとき安西将軍の庾翼が武昌に鎮しており、謝尚はしばしば庾翼を訪れて軍事の相談を受けた。かつて庾翼とともに射術をしたが、庾翼は、「あなたが的を射抜いたら、鼓吹を褒賞としよう」と言った。謝尚は聞くや否や命中させ、庾翼はその場で副鼓吹を賜った。謝尚の政治は清らかでさっぱりとし、着任すると、郡府は(歓迎して)布四十匹で謝尚のために烏布帳を作った。謝尚はこれを壊し、兵士の襦袴(肌着とはかま)とした。建元二年、詔して、「軍事が緊迫しているので、謝尚には黄散(黄門侍郎と散騎常侍)のまま、軍務を担当させた。赴任した地は要衝なので、威望を高める必要がある。いま彼を南中郎将とし、その他の官位は現状のままとする」と言った。たまたま庾冰が薨去したので、(謝尚は)もとの官号のまま豫州四郡を督し、江州刺史を領した。にわかにして西中郎将・督楊州之六郡諸軍事・豫州刺史・仮節に転じ、歴陽に鎮した。
大司馬の桓温が中原制圧を計画すると、謝尚に軍をひきいて寿春に向かわせ、官号を安西将軍に進めた。これよりさき、苻健の将の張遇が謝尚に降伏したが、謝尚はこれを手懐けることができなかった。張遇は怒り、許昌を拠点にして叛した。謝尚は討伐したが、張遇に敗れ、廷尉に収監された。このとき康献皇后が臨朝しており、彼女は謝尚のめいなので、特別に(処罰を軽くし)官号を降格して建威将軍とした。はじめ、謝尚が進軍したとき、建武将軍・濮陽太守の戴施を枋頭に拠らせた。たまたま冉閔の子の冉智がその大将の蒋幹ととともに降伏しにきて、さらに使者の劉猗をよこして謝尚に救援を要請した。戴施は劉猗をとどめ、(冉氏のもつ)伝国璽を求めた。劉猗がもどって、これを蒋幹に告げた。蒋幹は謝尚が(張遇に)敗北したため、(謝尚が冉氏を)救援することができないと考え、結論を先延ばしにして(伝国璽の提出を)許さなかった。戴施は参軍の何融を派遣し壮士百人をひきいて(冉氏の居城の)鄴に入らせ、三台に登って防衛を支援し、冉氏をあざむいて、「すぐに伝国璽を提出せよ。敵軍が城外におり、道路は通行できず、伝国璽を届けられないというならば、使者を送って届けさせよ。(東晋の)天子が伝国璽を回収すれば、きみたちの誠意を知り、きっと重装の部隊を送って救援し、手厚く迎え入れるだろう」と言った。蒋幹は伝国璽を出して何融に託した。何融は伝国璽を持って枋頭に帰還した。謝尚は振武将軍の胡彬を派遣して騎三百をひきいて璽を迎え入れ、これを京師に提出した。このとき苻健の将の楊平(あるいは楊羣)が許昌を守っていたが、謝尚は兵を送ってこれを撃破した。徴して給事中を授けられ、軺車・鼓吹を賜わり、石頭を守った。
永和年間に、尚書僕射を拝し、出て都督江西淮南諸軍事・前将軍・豫州刺史となり、給事中・僕射は現任のままとし、歴陽に鎮した。都督豫州揚州之五郡軍事を加え、任地で治績をあげた。入朝したいと上表したので、京師に留まり、尚書僕射の職務をした。ほどなく官号を鎮西将軍に進め、寿陽に鎮した。謝尚は音楽家を集め、石磬をつくり、これを太楽の儀礼を完備させた。(唐代に)江表に鍾石の楽があるが、これは謝尚が始めたものである。
桓温が北上して洛陽を平定し、上疏して謝尚を都督司州諸軍事にしたいと要請した。洛陽に出鎮しようとしたが、病気のため赴任しなかった。升平年間のはじめ、また都督豫・冀・幽・并四州に進んだ。病が重いので、徴して衛将軍を拝し、散騎常侍を加えた。到着せぬうちに、歴陽で亡くなり、このとき五十歳だった。詔して散騎常侍・衛将軍・開府儀同三司を贈り、簡と諡した。
子がおらず、従弟の謝奕が子の謝康に爵を襲わせたが、早くに亡くなった。謝康の弟の謝静が子の謝粛に嗣がせたが、彼にも子がなかった。謝静の子の謝虔が子の謝霊祐に謝鯤の後を継がせた。

謝安 子琰 琰子混

原文

謝安字安石、尚從弟也。父裒、太常卿。安年四歲時、譙郡桓彝見而歎曰、「此兒風神秀徹、後當不減王東海」。及總角、神識沈敏、風宇條暢、善行書。弱冠、詣王濛清言良久、既去、濛子修曰、「向客何如大人」。濛曰、「此客亹亹、為來逼人」。王導亦深器之。由是少有重名。
初辟司徒府、除佐著作郎、並以疾辭。寓居會稽、與王羲之及高陽許詢・桑門支遁遊處、出則漁弋山水、入則言詠屬文、無處世意。揚州刺史庾冰以安有重名、必欲致之、累下郡縣敦逼、不得已赴召、月餘告歸。復除尚書郎・琅邪王友、並不起。吏部尚書范汪舉安為吏部郎、安以書距絕之。有司奏安被召、歷年不至、禁錮終身、遂棲遲東土。嘗往臨安山中、坐石室、臨濬谷、悠然歎曰、「此去伯夷何遠」。嘗與孫綽等汎海、風起浪湧、諸人並懼、安吟嘯自若。舟人以安為悅、猶去不止。風轉急、安徐曰、「如此將何歸邪」。舟人承言即迴。眾咸服其雅量。安雖放情丘壑、然每游賞、必以妓女從。既累辟不就、簡文帝時為相、曰、「安石既與人同樂、必不得不與人同憂、召之必至」。時安弟萬為西中郎將、總藩任之重。安雖處衡門、其名猶出萬之右、自然有公輔之望、處家常以儀範訓子弟。安妻、劉惔妹也、既見家門富貴、而安獨靜退、乃謂曰、「丈夫不如此也」。安掩鼻曰、「恐不免耳」。及萬黜廢、安始有仕進志、時年已四十餘矣。
征西大將軍桓溫請為司馬、將發新亭、朝士咸送、中丞高崧戲之曰、「卿累違朝旨、高臥東山、諸人每相與言、安石不肯出、將如蒼生何。蒼生今亦將如卿何」。安甚有愧色。既到、溫甚喜、言生平、歡笑竟日。既出、溫問左右、「頗嘗見我有如此客不」。溫後詣安、值其理髮。安性遲緩、久而方罷、使取幘。溫見、留之曰、「令司馬著帽進」。其見重如此。
溫當北征、會萬病卒、安投牋求歸。尋除吳興太守。在官無當時譽、去後為人所思。頃之、徵拜侍中、遷吏部尚書・中護軍。
簡文帝疾篤、溫上疏薦安宜受顧命。及帝崩、溫入赴山陵、止新亭、大陳兵衞、將移晉室、呼安及王坦之、欲於坐害之。坦之甚懼、問計於安。安神色不變、曰、「晉祚存亡、在此一行」。既見溫、坦之流汗沾衣、倒執手版。安從容就席、坐定、謂溫曰、「安聞諸侯有道、守在四鄰、明公何須壁後置人邪」。溫笑曰、「正自不能不爾耳」。遂笑語移日。坦之與安初齊名、至是方知坦之之劣。溫嘗以安所作簡文帝諡議、以示坐賓曰、「此謝安石碎金也」。
時孝武帝富於春秋、政不自己、溫威振內外、人情噂𠴲、互生同異。安與坦之盡忠匡翼、終能輯穆。及溫病篤、諷朝廷加九錫、使袁宏具草。安見、輒改之、由是歷旬不就。會溫薨、錫命遂寢。

1.「涉」は、『資治通鑑』巻一百五、『通志』巻一百二十八、『建康実録』巻九、『冊府元亀』巻三百二十一は、すべて「陟」につくる。

訓読

謝安 字は安石、尚の從弟なり。父の裒は、太常卿なり。安 年四歲の時に、譙郡の桓彝 見て歎じて曰く、「此の兒 風神は秀徹にして、後に當に王東海に減ぜざるべし」と。總角に及び、神識は沈敏、風宇は條暢にして、行書を善くす。弱冠にして、王濛に詣りて清言すること良に久しく、既に去りて、濛の子の修曰く、「向の客 大人に何如」と。濛曰く、「此の客 亹亹たりて、來たりて人に逼ると為らん」と。王導も亦た深く之を器とす。是に由りて少くして重名有り。
初め司徒府に辟せられ、佐著作郎に除せらるるも、並びに疾を以て辭す。會稽に寓居し、王羲之と高陽の許詢・桑門の支遁と與に遊處し、出でて則ち山水に漁弋し、入りては則ち言詠して屬文し、世に處るの意無し。揚州刺史の庾冰 安 重名有るを以て、必ず之を致さんと欲す、累ねて郡縣に下して敦逼すれば、已むを得ずして召に赴き、月餘にして歸を告ぐ。復た尚書郎・琅邪王友に除せらるるも、並びに起たず。吏部尚書の范汪 安を舉げて吏部郎と為すも、安 書を以て之を距絕す。有司 奏すらく安 召を被るも、歷年に至らざれば、禁錮すること終身とすれば、遂に東土に棲遲す。嘗て臨安の山中に往き、石室に坐し、濬谷に臨み、悠然として歎じて曰く、「此こ伯夷を去ること何ぞ遠からんか」と。嘗て孫綽らと與に海に汎し、風 起ちて浪 湧き、諸人 並びに懼るるに、安 吟嘯して自若たり。舟人 安 悅と為すを以て、猶ほ去りて止まらず。風 轉た急なりて、安 徐ろに曰く、「此の如くんば將た何ぞ歸らんや」と。舟人 言を承けて即ち迴る。眾 咸 其の雅量に服す。安 情を丘壑に放ち、然も每に游賞すると雖も、必ず妓女を以て從はしむ。既に累ねて辟せらるも就かず、簡文帝 時に相と為るに、曰く、「安石 既に人と與に樂を同じくす、必ず人と與に憂を同じくせざるを得ず、之を召さば必ず至らん」と。時に安の弟の萬 西中郎將と為り、藩任の重を總ぶ。安 衡門に處ると雖も、其の名は猶ほ萬の右に出で、自然に公輔の望有り、家に處りて常に儀範を以て子弟に訓ふ。安の妻は、劉惔の妹なり、既に家門 富貴なるに、而れども安 獨り靜退なるを見て、乃ち謂ひて曰く、「丈夫 此に如かざるなり」と。安 鼻を掩して曰く、「免れざるを恐るるのみ」と。萬 黜廢せらるに及び、安 始めて仕進の志有り、時に年 已に四十餘なり。
征西大將軍の桓溫 請ひて司馬と為し、將に新亭を發せんとするに、朝士 咸 送る。中丞の高崧 之に戲れて曰く、「卿 累ねて朝旨に違ひ、東山に高臥す。諸人 每に相 與に言ふ、安石 出づるを肯ぜず、將た蒼生を如何せんと。蒼生 今 亦た將た卿を如何せん」と。安 甚だ愧づる色有り。既に到るや、溫 甚だ喜び、生平を言ひ、歡笑すること竟日なり。既に出づるに、溫 左右に問ふ、「頗る嘗て我 此の如き客有るを見るや不や」と。溫 後に安に詣るに、其の理髮に值たる。安の性 遲緩なれば、久しくして方に罷めんとし、幘を取らしむ。溫 見て、之を留めて曰く、「司馬をして帽を著けて進ましめよ」と。其の重んぜらるること此の如し。
溫 北征するに當たり、會々萬 病もて卒し、安 牋を投じて歸らんことを求む。尋いで吳興太守に除せらる。官に在りて時譽に當たる無けれども、去りし後に人の思ふ所と為る。頃之、徵せられて侍中を拜し、吏部尚書・中護軍に遷る。
簡文帝 疾ひ篤く、溫 上疏して安を薦めて宜しく顧命を受けしむべしとす。帝 崩ずるに及び、溫 入りて山陵に赴き、新亭に止まり、大いに兵衞を陳べ、將に晉室を移さんとし、安及び王坦之を呼び、坐に於て之を害さんと欲す。坦之 甚だ懼れ、計を安に問ふ。安 神色 變はらず、曰く、「晉祚の存亡、此の一行に在り」と。既に溫に見るに、坦之 流汗 衣を沾し、倒に手版を執る。安 從容として席に就き、坐 定まるや、溫に謂ひて曰く、「安 聞くに諸侯に道有らば、守りは四鄰に在りと。明公 何ぞ須らく壁後に人を置くべきや」と。溫 笑ひて曰く、「正に自ら爾ざる能はざるのみ」と。遂に笑語して日を移す。坦之 安と與に初めは名を齊しくするも、是に至りて方に坦之の劣なるを知る。溫 嘗て安の作す所の簡文帝の諡議を以て、以て坐賓に示して曰く、「此れ謝安石の碎金なり」と。
時に孝武帝 春秋に富み、政 自己せず、溫の威 內外に振ひ、人情 噂𠴲として、互生同異なり。安 坦之と與に忠を盡くして匡翼すれば、終に能く輯穆す。溫 病ひ篤かるに及び、朝廷に諷して九錫を加へしめ、袁宏をして具草せしむ。安 見て、輒ち之を改め、是に由り旬を歷て就かず。會々溫 薨じ、錫命 遂に寢む。

現代語訳

謝安は字を安石といい、謝尚の従弟である。父の謝裒は、太常卿である。謝安が四歳のとき、譙郡の桓彝が謝安に会って感心し、「この子は人品が秀で、成長したら王東海(王導か)に見劣りしないだろう」と言った。少年期には、落ち着いて聡く、風格は伸びやかで、行書を得意とした。弱冠のとき、王濛を訪れて清談を久しくした。帰ってから王濛が子の王修に、「さきほどの客は私と比べてどうだったか」と言った。王濛は、「あの客はつとめて倦まず、成長したらあなたを脅かすでしょう」と言った。王導もまた深く器量を認めた。これにより若くして重い名声があった。
はじめ司徒府に辟召され、佐著作郎に任命されたが、どちらも病気を理由に辞退した。会稽に寓居し、王羲之および高陽の許詢と桑門の支遁とともに遊び、外出すれば山水で狩猟し、屋内では吟詠して文をつづり、世俗と関わるつもりがなかった。揚州刺史の庾冰が謝安に高い名声があるため、きっと招致しようとして、かさねて郡県に命じて任官を手厚く迫ったので、やむを得ずに召しに応じ、一ヶ月あまりで帰宅を告げた。また尚書郎・琅邪王友に任命されたが、どちらも起家しなかった。吏部尚書の范汪が謝安を推挙して吏部郎としたが、謝安は書面で拒絶した。担当官が上奏して、謝安は召されても、連年にわたり応じないので、終身の禁固としたため、(謝安は)東方で隠棲した。かつて臨安の山中にいき、石室に座り、渓谷に臨み、悠然として歎じて、「ここは(周の食物を口にせず餓死した)伯夷からなんと遠いことか」と言った。かつて孫綽らとともに海を漂ったとき、風が起きて波がたち、人々はみな恐がったが、謝安は吟唱して落ち着いていた。船乗りは謝安が(揺れを)楽しんでいるので、船をこぎ進めた。風がさらに強くなると、謝安はおもむろに、「こんなにひどければ引き返そうか」と言った。船乗りはこれを受けて旋回した。人々は彼のゆったりとした様子に感服した。 謝安は気ままに隠棲し、山川で遊び回っていたが、必ず妓女を従わせていた。何度も辟召されたが着任せず、簡文帝はこのとき宰相であったが、「安石(謝安)は他人と楽しみを共有しているから、憂いも(他人と)共有せざるを得ないはずだ。召せば必ずやってくるだろう」と言った。このとき謝安の弟の謝萬が西中郎将となり、藩王の重任を統括していた。謝安は衡門にいた(隠棲していた)が、名声が謝萬を上回り、おのずと国家を補佐してほしいという期待が集まったが、仕官せずに子弟の模範となっていた。謝安の妻は、劉惔の妹であるが、家門(謝氏)が富貴であるにも拘わらず、謝安だけが隠居しているのを見て、「男たるものは謝安のようであるのが一番よい」と言った。謝安は鼻をおおって、免れないことを恐れるだけだ」と言った。謝萬が罷免されると、謝安ははじめて仕官する気になり、このとき四十歳を超えていた。
征西大将軍の桓温が(謝安に)要請して司馬とした。新亭を出発するとき、朝廷の人士はみなで見送ったが、中丞の高崧が謝安に戯れて、「あなたは重ねて朝廷の意向に逆らい、東山で高臥(隠棲)してきた。誰もがよく言っている、安石(謝安)は(東山から)出るのを拒んで、万民(の苦しみ)を救ってくれなかった。いま万民はあなたをいかに支えたらよいのか」と言った。謝安はとても恥じた様子であった。到着すると、桓温はとても喜び、雑談をして、終日にわたり談笑した。謝安が帰ってから、桓温は側近に、「かつて私のところにあれほどの客がきたことがあったか」と聞いた。桓温がのちに謝安を訪問したとき、謝安は髪をといていた。謝安はゆったりしているので、時間が経ってから髪をとくのをやめ、頭巾を取りに行かせようとした。桓温はこれを見て、制止して、「司馬(謝安)は(頭巾を着けず)帽子をかぶってこればよい」と言った。このように謝安は桓温から尊重された。
桓温が北征するにあたり、ちょうど謝萬が病死したので、謝安は書きつけを投じて帰ることを求めた。ほどなく呉興太守に任命された。在職中に評判が上がることはなかったが、異動後に遡って慕われた。しばらくして、徴召されて侍中を拝し、吏部尚書・中護軍に遷った。
簡文帝の病気が重くなると、桓温は上疏して謝安に顧命を受けさせるべきだと推薦した。簡文帝が崩御すると、桓温は(京師に)入って山陵に赴き、新亭に留まり、広く軍営を展開し、晋帝国の簒奪をねらった。謝安と王坦之を呼びつけ、その席で殺害しようとした。王坦之はとても懼れ、謝安に計略をたずねた。謝安は感情を揺さぶらず、「晋帝国の存亡は、今回の行動次第だ」と言った。桓温に会うと、王坦之の服は汗でびっしょりで、さかさまに手版を持っていた。謝安は落ちついて席に就き、みなが着席すると、桓温に、「聞けば諸侯に道義があれば、四方の国が守りとなるという。どうしてあなたが壁後に兵士を配置する必要があるのかね」と言った。桓温は笑って、「そうせずには居られなかっただけだ」と言った。談笑して時間を経過させた。王坦之は謝安とはじめは名声が等しかったが、このことがあって王坦之のほうが劣っていることが分かった。桓温はかつて謝安が書いた簡文帝の諡についての意見書を見て、同座の賓客に示し、「これは謝安石の黄金のかけら(名文家による言葉の一端)だ」と言った。
このとき孝武帝は年齢が低く、政治を自分で行わず、桓温の威勢は内外に振るい、意見が紛々とし、人心が定まらなかった。謝安が王坦之とともに忠を尽くして孝武帝を補佐したので、(革命の機運は)落ち着いた。桓温の病気が重くなると、朝廷に口添えして九錫を加えさせ、袁宏に草稿を作らせた。草稿が提出される都度、謝安が文章を改めたので、十日たっても完成しなかった。たまたま桓温が薨去し、九錫の命は下されずに終わった。

原文

尋為尚書僕射、領吏部、加後將軍。及中書令王坦之出為徐州刺史、詔安總關中書事。安義存輔導、雖會稽王道子亦賴弼諧之益。時強敵寇境、邊書續至、梁益不守、樊鄧陷沒、安每鎮以和靖、御以長算。德政既行、文武用命、不存小察、弘以大綱、威懷外著、人皆比之王導、謂文雅過之。嘗與王羲之登冶城、悠然遐想、有高世之志。羲之謂曰、「夏禹勤王、手足胼胝。文王旰食、日不暇給。今四郊多壘、宜思自效、而虛談廢務、浮文妨要、恐非當今所宜」。安曰、「秦任商鞅、二世而亡、豈清言致患邪」。
是時宮室毀壞、安欲繕之。尚書令王彪之等以外寇為諫、安不從、竟獨決之。宮室用成、皆仰模玄象、合體辰極、而役無勞怨。又領揚州刺史、詔以甲仗百人入殿。時帝始親萬機、進安中書監、驃騎將軍・錄尚書事、固讓軍號。于時懸象失度、亢旱彌年、安奏興滅繼絕、求晉初佐命功臣後而封之。頃之、加司徒、後軍文武盡配大府、又讓不拜。復加侍中・都督揚豫徐兗青五州幽州之燕國諸軍事・假節。
時苻堅強盛、疆埸多虞、諸將敗退相繼。安遣弟石及兄子玄等應機征討、所在克捷。拜衞將軍・開府儀同三司、封建昌縣公。堅後率眾、號百萬、次于淮肥、京師震恐。加安征討大都督。玄入問計、安夷然無懼色、答曰、「已別有旨」。既而寂然。玄不敢復言、乃令張玄重請。安遂命駕出山墅、親朋畢集、方與玄圍棊賭別墅。安常棊劣於玄、是日玄懼、便為敵手而又不勝。安顧謂其甥羊曇曰、「以墅乞汝」。安遂游1.涉、至夜乃還、指授將帥、各當其任。玄等既破堅、有驛書至、安方對客圍棊、看書既竟、便攝放牀上、了無喜色、棊如故。客問之、徐答云、「小兒輩遂已破賊」。既罷、還內、過戶限、心喜甚、不覺屐齒之折、其矯情鎮物如此。以總統功、進拜太保。
安方欲混一文軌、上疏求自北征、乃進都督揚・江・荊・司・豫・徐・兗・青・冀・幽・并・寧・益・雍・梁十五州軍事、加黃鉞、其本官悉如故、置從事中郎二人。安上疏讓太保及爵、不許。是時桓沖既卒、荊・江二州並缺、物論以玄勳望、宜以授之。安以父子皆著大勳、恐為朝廷所疑、又懼桓氏失職、桓石虔復有沔陽之功、慮其驍猛、在形勝之地、終或難制、乃以桓石民為荊州、改桓伊於中流、石虔為豫州。既以三桓據三州、彼此無怨、各得所任。其經遠無競、類皆如此。
性好音樂、自弟萬喪、十年不聽音樂。及登台輔、朞喪不廢樂。王坦之書喻之、不從、衣冠效之、遂以成俗。又於土山營墅、樓館林竹甚盛、每攜中外子姪往來游集、肴饌亦屢費百金、世頗以此譏焉、而安殊不以屑意。常疑劉牢之既不可獨任、又知王味之不宜專城。牢之既以亂終、而味之亦以貪敗、由是識者服其知人。
時會稽王道子專權、而姦諂頗相扇構、安出鎮廣陵之步丘、築壘曰新城以避之。帝出祖於西池、獻觴賦詩焉。安雖受朝寄、然東山之志始末不渝、每形於言色。及鎮新城、盡室而行、造汎海之裝、欲須經略粗定、自江道還東。雅志未就、遂遇疾篤。上疏請量宜旋旆、并召子征虜將軍琰解甲息徒、命龍驤將軍朱序進據洛陽、前鋒都督玄抗威彭沛、委以董督。若二賊假延、來年水生、東西齊舉。詔遣侍中慰勞、遂還都。聞當輿入西州門、自以本志不遂、深自慨失、因悵然謂所親曰、「昔桓溫在時、吾常懼不全。忽夢乘溫輿行十六里、見一白雞而止。乘溫輿者、代其位也。十六里、止今十六年矣。白雞主酉、今太歲在酉、吾病殆不起乎」。乃上疏遜位、詔遣侍中・尚書喻旨。先是、安發石頭、金鼓忽破、又語未嘗謬、而忽一誤、眾亦怪異之。尋薨、時年六十六。帝三日臨于朝堂、賜東園祕器・朝服一具・衣一襲・錢百萬・布千匹・蠟五百斤、贈太傅、諡曰文靖。以無下舍、詔府中備凶儀。及葬、加殊禮、依大司馬桓溫故事。又以平苻堅勳、更封廬陵郡公。
安少有盛名、時多愛慕。鄉人有罷中宿縣者、還詣安。安問其歸資、答曰、「有蒲葵扇五萬」。安乃取其中者捉之、京師士庶競市、價增數倍。安本能為洛下書生詠、有鼻疾、故其音濁、名流愛其詠而弗能及、或手掩鼻以斅之。及至新城、築埭於城北、後人追思之、名為召伯埭。
羊曇者、太山人、知名士也、為安所愛重。安薨後、輟樂彌年、行不由西州路。嘗因石頭大醉、扶路唱樂、不覺至州門。左右白曰、「此西州門」。曇悲感不已、以馬策扣扉、誦曹子建詩曰、「生存華屋處、零落歸山丘」。慟哭而去。
安有二子、瑤・琰。瑤襲爵、官至琅邪王友、早卒。子該嗣、終東陽太守。無子、弟光祿勳模以子承伯嗣、有罪、國除。
劉裕以安勳德濟世、特更封該弟澹為柴桑侯、邑千戶、奉安祀。澹少歷顯位。桓玄篡位、以澹兼太尉、與王謐俱齎冊到姑孰。元熙中、為光祿大夫、復兼太保、持節奉冊禪宋。

訓読

尋いで尚書僕射と為り、吏部を領し、後將軍を加へらる。中書令の王坦之 出でて徐州刺史と為るに及び、安に詔して中書の事を總關せしむ。安 義は輔導に存り、會稽王道子と雖も亦た弼諧の益に賴る。時に強敵 境を寇し、邊書 續いで至り、梁益 守らず、樊鄧 陷沒す。安 每に鎮むるに和靖を以てし、御するに長算を以てす。德政 既に行はれ、文武 命を用ひ、小察に存せず、弘むるに大綱を以てし、威懷 外に著はれ、人 皆 之を王導に比し、文雅 之に過ぐと謂ふ。嘗て王羲之と與に冶城に登り、悠然として遐想し、高世の志有り。羲之 謂ひて曰く、「夏禹 王に勤め、手足 胼胝なり。文王 食を旰し、日に暇給せず。今 四郊 壘多く、宜しく自效を思ひ、而れども虛談は務を廢し、浮文は要を妨ぐ。當今 宜しくする所に非ざるを恐る」と。安曰く、「秦 商鞅を任じ、二世にして亡ぶ、豈に清言 患を致すや」と。
是の時 宮室 毀壞し、安 之を繕せんと欲す。尚書令の王彪之ら外寇を以て諫を為すに、安 從はず、竟に獨りながらに之を決す。宮室 用て成り、皆 仰ぎて玄象を模り、體を辰極に合するも、而れども役に勞怨無し。又 揚州刺史を領し、詔して甲仗百人を以て入殿せしむ。時に帝 始めて萬機を親し、安を中書監、驃騎將軍・錄尚書事に進むるも、軍號を固讓す。時に于て懸象 度を失ひ、亢旱 彌年たれば、安 滅を興し絕を繼ぎ、晉初の佐命の功臣の後を求めて之を封ぜんことを奏す。頃之、司徒を加へ、後に軍の文武 盡く大府に配するも、又 讓して拜せず。復た侍中・都督揚豫徐兗青五州幽州之燕國諸軍事・假節を加ふ。
時に苻堅 強盛にして、疆埸 虞多く、諸將 敗退すること相 繼ぐ。安 弟の石及び兄の子の玄らを遣はして機に應じて征討せしめ、所在に克捷す。衞將軍・開府儀同三司を拜し、建昌縣公に封ぜらる。堅 後に眾を率ゐ、百萬と號し、淮肥に次し、京師 震恐す。安に征討大都督を加ふ。玄 入りて計を問ふに、安 夷然として懼るる色無し。答へて曰く、「已に別に旨有り」と。既にして寂然たり。玄 敢て復た言はず、乃ち張玄をして重ねて請はしむ。安 遂に駕に命じて山墅に出で、親朋 畢く集ひ、方に玄と與に圍棊して別墅を賭く。安 常に棊は玄に劣るに、是の日 玄 懼れ、便ち敵手と為りて又 勝たず。安 顧みて其の甥の羊曇に謂ひて曰く、「墅を以て汝に乞ふ」と。安 遂に游涉し、夜に至りて乃ち還り、將帥に指授し、各々其の任に當てしむ。玄ら既に堅を破るや、驛書 至る有り、安 方に客に對ゐて圍棊し、書を看て既に竟はり、便ち攝(をさ)めて牀上に放り、了に喜色無く、棊すること故の如し。客 之に問ふに、徐ろに答へて云く、「小兒輩 遂に已に賊を破れり」と。既に罷み、內に還り、戶限を過ぐるに、心 喜ぶこと甚だしく、屐齒の折を覺えず、其の情を矯して物を鎮すること此の如し。總統の功を以て、進みて太保を拜す。
安 方に文軌を混一せんと欲し、上疏して自ら北征せんことを求め、乃ち都督揚・江・荊・司・豫・徐・兗・青・冀・幽・并・寧・益・雍・梁十五州軍事に進み、黃鉞を加へ、其の本官 悉く故の如し。從事中郎二人を置く。安 上疏して太保及び爵を讓るも、許さず。是の時 桓沖 既に卒し、荊・江の二州 並びに缺け、物論 以ふらく玄 勳望たれば、宜しく以て之を授くべしと。安 父子 皆 大勳を著はすを以て、朝廷の疑ふ所と為るを恐れ、又 桓氏は職を失ひ、桓石虔 復た沔陽の功有り、其の驍猛にして、形勝に地に在るを慮り、終に或いは制し難きを懼れ、乃ち桓石民を以て荊州と為し、桓伊を中流に改め、石虔を豫州と為す。既に三桓を以て三州に據らしめ、彼此 怨み無く、各々所任を得たり。其の經遠にして競無きこと、類して皆 此の如し。
性は音樂を好むも、弟の萬の喪より、十年 音樂を聽かず。台輔に登るに及び、朞の喪にも樂を廢せず。王坦之 書もて之に喻すも、從はず。衣冠 之に效ひ、遂に以て俗と成る。又 土山に於て墅を營し、樓館の林竹 甚だ盛にして、每に中外の子姪を攜へて往來し游集し、肴饌も亦た屢々百金を費し、世に頗る此を以て譏られ、而れども安 殊に以て意に屑せず。常に劉牢之 既に獨り任ず可からざるを疑ひ、又 王味之 宜しく城を專らにせしむべからざるを知る。牢之 既に亂を以て終り、而も味之も亦た貪を以て敗れたれば、是に由り識者 其の人を知るに服す。
時に會稽王道子 權を專らにし、而も姦諂 頗る相 扇構すれば、安 廣陵の步丘に出鎮し、壘を築きて新城と曰ひて以て之を避く。帝 出でて西池に祖し、觴を獻じて詩を賦す。安 朝寄を受くと雖も、然れども東山の志 始末に渝せず、每に言色に形はる。新城に鎮するに及び、室を盡くして行き、汎海の裝を造り、經略 粗ぼ定まるを須ち、江道より東に還らんと欲す。雅志 未だ就かざるに、遂に疾篤に遇ふ。上疏して宜しきを量りて旋旆するを請ひ、并びに子の征虜將軍の琰を召して甲を解きて徒を息ましめ、龍驤將軍の朱序に命じて進みて洛陽に據り、前鋒都督の玄をして威を彭沛に抗せしめ、委ぬるに董督を以てす。若し二賊 假に延て、來年 水 生ぜば、東西 齊しく舉げよと。詔して侍中を遣して慰勞せしめ、遂に都に還る。輿 西州門に入るに當たるを聞きて、自ら本志 遂げざるを以て、深く自ら慨失し、因りて悵然として親しむ所に謂ひて曰く、「昔 桓溫 在りし時、吾 常に全せざらんことを懼る。忽に夢みらく溫が輿に乘りて行くこと十六里、一白雞を見て止まる。溫が輿に乘るとは、其の位に代はるなり。十六里にして止まるとは、今の十六年なり。白雞は酉を主り、今 太歲 酉に在り。吾が病 殆ど起たざるか」と。乃ち上疏して遜位す。詔して侍中・尚書を遣はして喻旨せしむ。是より先、安 石頭を發し、金鼓 忽ち破れ、又 語 未だ嘗て謬らざるに、而れども忽ち一誤あり、眾 亦た之を怪異す。尋いで薨じ、時に年六十六なり。帝 三日 朝堂に臨み、東園祕器・朝服一具・衣一襲・錢百萬・布千匹・蠟五百斤を賜はり、太傅を贈り、諡して文靖と曰ふ。下舍無きを以て、府中に詔して凶儀を備へしむ。葬に及び、殊禮を加へ、大司馬桓溫の故事に依らしむ。又 苻堅を平らぐるの勳を以て、更めて廬陵郡公に封ず。
安 少くして盛名有り、時に愛慕するもの多し。鄉人 中宿縣を罷むる者有り、還りて安に詣る。安 其の歸資を問ふに、答へて曰く、「蒲葵扇の五萬有り」と。安 乃ち其の中の者を取りて之に捉れば、京師の士庶 競ひて市ひ、價 數倍に增す。安 本より能く洛下書生の詠を為し、鼻疾有れば、故に其の音 濁り、名流 其の詠を愛するも及ぶ能はず、或いは手もて鼻を掩ひて以て之を斅す。新城に至るに及び、埭を城北に築き、後人 之を追思し、名づけて召伯埭と為す。
羊曇なる者は、太山の人にして、知名の士なり。安の愛重する所と為る。安 薨ぜし後、樂を輟ずること彌年、行くに西州路に由らず。嘗て石頭に因りて大いに醉ひ、路に扶けられ樂を唱し、覺えずして州門に至る。左右 白して曰く、「此こは西州門なり」と。曇 悲感して已まず、馬策を以て扉を扣き、曹子建の詩を誦して曰く、「生存しては華屋に處るも、零落しては山丘に歸る」と。慟哭して去る。
安に二子有り、瑤・琰なり。瑤 爵を襲ひ、官は琅邪王友に至り、早くに卒す。子の該 嗣ぎ、東陽太守に終はる。子無く、弟の光祿勳の模 子の承伯を以て嗣がしめ、罪有りて、國 除かる。
劉裕 安の勳德 濟世を以て、特に封を更めて該の弟の澹もて柴桑侯と為し、邑は千戶にして、安の祀を奉ぜしむ。澹 少くして顯位を歷す。桓玄 位を篡するや、澹を以て太尉を兼ねしめ、王謐と與に俱に冊を齎らして姑孰に到らしむ。元熙中に、光祿大夫と為り、復た太保を兼ね、持節して冊を奉じて宋に禪る。

現代語訳

ついで尚書僕射となり、吏部を領し、後将軍を加えられた。中書令の王坦之が出て徐州刺史になると、謝安に詔して中書のことを総管させた。謝安は一心に輔導に努め、会稽王道子(司馬道子)もまた謝安の働きの恩恵を受けた。このとき強敵が国境を侵し、辺境からの通達が相次いで到達し、梁州と益州は守り切れず、樊や鄧の一帯が陥落した。しかし謝安がつねに沈静化させ、すぐれた計略によって収束させた。徳政が行われ、文武の官は命令に従い、細部にこだわらず、原則をひろめ、勢威と温徳が外にあらわれ、人々は謝安を王導になぞらえ、文雅は王導より優れていると言った。かつて王羲之とともに冶城に登り、悠然として思いをめぐらせ、高世の(流俗を超えた)志を抱いた。王羲之は、「夏禹は王業(治水)につとめ、手足が擦り切れた。文王は(多忙のため)食事が遅れ、日数が不足した。いま四方に軍事拠点が多く、国益のために励んでいる。空理空論は役に立たず、浮世離れした言論は緊急性がない。今日において有害ではないかと心配だ」と言った。謝安は、「秦は商鞅を任命し(緊密な政治で天下を統一したが)、二世で滅亡した。どうして清言が患いになるだろうか」と言った。
このとき宮殿は破損し、謝安が修繕しようとした。尚書令の王彪之らは外寇を理由に諫めたが、謝安は従わず、独断で決裁した。宮殿が完成し、すべて器物が天空の星々をかたどり、かたちが北斗星に合致したが、労役による怨嗟はなかった。また揚州刺史を領し、詔して甲仗百人を宮殿に入らせた。このとき孝武帝は親政を始めたところで、謝安を中書監、驃騎将軍・録尚書事に昇進させたが、謝安は将軍号を固辞した。このとき天体の動きが不規則で、連年にわたり旱魃が起こるので、謝安は断絶した家柄を再興させ、晋帝国のはじめの佐命の功臣の子孫を探して封建しなさいと上奏した。しばらくして、司徒を加え、のちに軍の文武の官をすべて(謝安の)大府に配置したが、これも固辞して拝さなかった。また侍中・都督揚豫徐兗青五州幽州之燕国諸軍事・仮節を加えた。
このとき苻堅は強盛であり、国境に脅威が多く、諸将の敗退が相次いだ。謝安は弟の謝石及び兄の子の謝玄らを派遣して機に応じて征討させ、各地で勝利した。衛将軍・開府儀同三司を拝し、建昌県公に封建された。苻堅がのちに大軍を率い、百万と号し、淮水や肥水の一帯に駐留し、京師は震え恐れた。謝安に征討大都督を加えた。謝玄が入室して計略を質問したが、謝安は落ちついて懼れていなかった。答えて、「もう別に考えがある」と言い、言い終えると静かになった。謝玄はこれ以上は聞かず、張玄に重ねて意見を聞きに行かせた。謝安は馬車を駆って山荘に出かけ、親しい友達を集合させ、謝玄と囲碁をして別荘を賭けた。謝安はいつもは棊が謝玄より弱かったが、この日は謝玄が(苻堅の軍を)恐れ、強さが同等となり(謝玄が)負けた。謝安は振り返って甥の羊曇に、「(賭けで勝ち取った)別荘をきみにあげよう」と言った。謝安は散策し、夜になってから帰宅し、将帥に指示を出し、それぞれ任務に当たらせた。謝玄らが苻堅を破ると、駅伝で報告書が到着したが、このとき謝安は客と圍棊をしており、書面を見終えてから、閉じて寝台の上におき、さっぱり喜んだ様子がなく、変わらず棊を続けた。客が(書面について)質問すると、おもむろに答えて、「わが一族の子が賊を破った」と言った。対局を終え、戸のしきいを過ぎると、ひどく喜んで、履きものの歯が折れても気づかなかった。このように感情をおもてに出さず落ち着いていた。軍を統括した功績により、進んで太保を拝した。
謝安は文軌(文字と車幅、転じて天下)を統一しようとし、上疏して自ら北征することを要請し、都督揚・江・荊・司・豫・徐・兗・青・冀・幽・并・寧・益・雍・梁十五州軍事に進み、黄鉞を加え、その本官はすべて現状のままとした。(配下に)従事中郎を二人を置いた。謝安は上疏して太保及び爵位を辞退したが、許さなかった。このとき桓沖がすでに亡くなり、荊・江の二州の長官がどちらも不在で、世評では謝玄に勲功と声望があるから、謝玄が任命されるだろいうと噂した。謝安は父子ともに大いに勲功が明らかなので、朝廷で(簒奪を)疑われることを警戒した。また桓氏が官職を失い、しかも桓石虔は沔陽で戦功があり、彼は勇猛な人物で、要地を抑えているため、最終的に制御不能となることを恐れ、(桓氏をなだめるために)桓石民を荊州の長官とし、桓伊を中流に改め、桓石虔を豫州の長官とした。三桓(三人の桓氏)に三州を統治させたので、それぞれ恨みがなく、官職を得て落ち着いた。(謝安に)遠大な計略があり(政敵と)競合しないことは、この事例の類いであった。
謝安は音楽を好んだが、弟の謝萬が死んでから、十年間音楽を聴かなかった。台輔に登る(宰相になる)と、一年の喪でも音楽をやめなかった。王坦之が書簡で諭したが、従わなかった。衣冠(士大夫)は謝安をまね、かくて風俗となった。また土山に別宅を造営し、楼館の竹林がゆたかに繁り、つねに内外に子弟をたずさえて往来して遊びまわり、ごちそうにしばしば百金を費し、世間でひどく批判されたが、謝安はまったく意に介さなかった。つねに劉牢之に大任を委ねてはいけないと考え、また王味之に城を預けてはいけないと悟っていた。劉牢之は乱を起こして滅び、しかも王味之も貪欲のせいで敗れたので、これにより見識者は謝安のひとを見る目に感服した。
このとき会稽王道子(司馬道子)が権勢を専らにし、しかも姦悪でへつらう連中が扇動し徒党を組んだので、謝安は広陵の歩丘に出鎮し、塁を築いて新城と名づけて政局を避けた。皇帝が都を出て西池で送別すると、さかずきを献じて詩を賦した。謝安は朝廷から大権を委任されていたが、しかし東山の(隠棲の)本志は変わらず、つねに言葉や態度に表れていた。新城に鎮することになると、家財をすべて持ち込み、海路をゆく装備をこしらえ、政局が安定するのを待って、長江沿いに(海路から)東に帰ろうとした。当初の計画を実行しる前に、病気になった。上疏して時機を見て軍隊を撤退させるよう申し出て、さらに子の征虜将軍の謝琰を召して武装を解いて兵を休ませ、龍驤将軍の朱序に命じて進んで洛陽に拠らせ、前鋒都督の謝玄に彭沛で敵国に対抗させ、統括の権限を与えた。もし二賊がそこに留まっており、翌年に洪水が起きれば、東西から同時に攻め上がれと言った。詔して侍中を派遣して慰労させ、謝安は都に帰還した。(自分が乗っている)輿が西州門に入るところだと聞いて、自らの(隠遁の)本懐を遂げられなかったので、深い喪失感をいだき、失意を歎いて親しいものに、「むかし桓温が生きていたころ、私は寿命を全うできないのではないかと恐れた。夢のなかで桓温の輿に同乗して進むこと十六里で、一羽の白鶏を見て止まった。(夢のなかで私が)桓温の輿に乗っていたのは、桓温の位(宰相)に代わるという意味だった。十六里で止まったのは、今年が十六年目であることに対応する。白鶏は酉をつかさどり、いま太歳は酉にある。わが病気が治ることはないだろう」と言った。上疏して位を辞退した。詔して侍中・尚書を派遣して意向を伝えさせた。これより先、謝安が石頭から出発するとき、金鼓が破損し、また謝安は言い間違えたことがなかったのに、一つの誤りがあり、人々はこれを怪しんだ。ほどなく薨去し、このとき六十六歳だった。皇帝は三日にわたり朝堂に臨み、東園の秘器と朝服一具・衣一襲・銭百万・布千匹・蝋五百斤を賜わり、太傅を贈り、諡して文靖とした。下舎がないため、府中に詔して凶儀を備えさせた。葬儀に及び、殊礼を加え、大司馬桓温の前例を踏襲させた。また苻堅を破った勲功により、更めて廬陵郡公に封建した。
謝安は若いころから名声があり、可愛がっているものが多かった。同郷人が中宿県での職務を終え、帰郷して謝安を訪れた。謝安は帰還費用のもとでを聞くと、「蒲葵扇を売って五万銭にする」と答えた。謝安がそのなかの一つを取って用いたので、京師の士庶は(謝安にあやかろうと)競って買い求め、価格が数倍になった。謝安は洛下の書生の詠が上手であったが、鼻の病気があったので、音が濁った。風流なひとは謝安の詠を真似たいと思ったが及ばず、手で鼻を覆ってあやかるものがいた。新城に到着すると、堰を城北に築いたが、後世のひとは謝安を追思し、名づけて召伯埭とした。
羊曇というものは、太山の人であり、名を知られた士であった。謝安から大切にされた。謝安が薨去した後、連年にわたり音楽をやめ、(謝安を思い出して悲しいので)西州路を通過しなかった。かつて石頭にいて大いに酔い、導かれて音楽を歌い、自覚なく州門に到達した。同行者が、「ここは西州門です」と言った。羊曇は(謝安の死んだ場所に来てしまったことを知って)悲感して堪えきれず、馬の鞭でとびらを叩き、曹子建の詩を誦して、「生存しては華屋に処るも、零落しては山丘に帰る」(『文選』巻二十七 箜篌引)と歌った。慟哭して去った。
謝安には二人の子がおり、謝瑤と謝琰である。謝瑤は爵を襲い、官職は琅邪王友に至り、早くに亡くなった。子の謝該が嗣ぎ、東陽太守まで至った。子がおらず、弟の光禄勲の謝模は子の謝承伯に嗣がせたが、罪があり、国は除かれた。
劉裕は謝安の勲功と徳が世を救うものであったので、特別に封号を更めて謝該の弟の謝澹を柴桑侯とし、食邑は千戸で、謝安の祭祀を奉じさせた。謝澹は若くして高位を歴任した。桓玄が帝位を簒奪すると、謝澹に太尉を兼ねさせ、王謐とともに(晋帝の)冊書をもたらして姑孰に到らせた。元熙年間に、光禄大夫となり、また太保を兼ね、持節して(晋帝の)冊書を奉じさせて宋に禅譲した。

原文

琰字瑗度。弱冠、以貞幹稱、美風姿。與從兄護軍淡雖比居、不往來、宗中子弟惟與才令者數人相接。拜著作郎、轉祕書丞、累遷散騎常侍・侍中。苻堅之役、安以琰有軍國才用、出為輔國將軍、以精卒八千、與從兄玄俱陷陣破堅、以勳封望蔡公。尋遭父憂去官、服闋、除征虜將軍・會稽內史。頃之、徵為尚書右僕射、領太子詹事、加散騎常侍、將軍如故。又遭母憂、朝廷疑其葬禮。時議者云、「潘岳為賈充婦宜城宣君誄云、『昔在武侯、喪禮殊倫。伉儷一體、朝儀則均。』謂宜資給葬禮、悉依太傅故事」。先是、王珣娶萬女、珣弟珉娶安女、並不終、由是與謝氏有隙。珣時為僕射、猶以前憾緩其事。琰聞恥之、遂自造轀輬車以葬、議者譏之。
太元末、為護軍將軍、加右將軍。會稽王道子以為司馬、右將軍如故。王恭舉兵、假琰節、都督前鋒軍事。恭平、遷衞將軍・徐州刺史・假節。
孫恩作亂、加督吳興・義興二郡軍事、討恩。至義興、斬賊許允之、迎太守1.魏隱還郡。進討吳興賊丘尩、破之。又詔琰與輔國將軍劉牢之俱討孫恩。恩逃於海島、朝廷憂之、以琰為會稽內史・都督五郡軍事、本官並如故。琰既以資望鎮越土、議者謂無復東顧之虞。及至郡、無綏撫之能、而不為武備。將帥皆諫曰、「強賊在海、伺人形便、宜振揚仁風、開其自新之路」。琰曰、「苻堅百萬、尚送死淮南、況孫恩奔衄歸海、何能復出。若其復至、正是天不養國賊、令速就戮耳」。遂不從其言。恩後果復寇浹口、入餘姚、破上虞、進及邢浦、去山陰北三十五里。琰遣參軍劉宣之距破恩。既而上黨太守張虔碩戰敗、羣賊銳進、人情震駭、咸以宜持重嚴備、且列水軍於南湖、分兵設伏以待之。琰不聽。賊既至、尚未食、琰曰、「要當先滅此寇而後食也」。跨馬而出。廣武將軍桓寶為前鋒、摧鋒陷陣、殺賊甚多、而塘路迮狹、琰軍魚貫而前、賊於艦中傍射之、前後斷絕。琰至千秋亭、敗績。琰帳下都督張猛於後斫琰馬、琰墮地、與二子肇・峻俱被害、寶亦死之。後劉裕左里之捷、生擒猛、送琰小子混、混刳肝生食之。詔以琰父子隕於君親、忠孝萃於一門、贈琰侍中・司空、諡曰忠肅。
三子、肇・峻・混。肇歷驃騎參軍、峻以琰勳封建昌侯。及沒於賊、詔贈肇散騎常侍、峻散騎侍郎。

1.中華書局本は、「魏鄢」につくる。『世説新語』賞譽篇及び同注引『魏氏譜』と『通鑑』巻一百十一は、「魏隱」につくる。

訓読

琰 字は瑗度なり。弱冠にして、貞幹を以て稱せられ、風姿美し。從兄の護軍の淡と與に居を比すと雖も、往來せず、宗中の子弟も惟だ才令なる者 數人とのみ相 接す。著作郎を拜し、祕書丞に轉じ、累りに散騎常侍・侍中に遷る。苻堅の役に、安は琰 軍國の才用有るを以て、出だして輔國將軍と為し、精卒八千を以て、從兄の玄と與に俱に陷陣し堅を破り、勳を以て望蔡公に封ぜらる。尋いで父の憂に遭ひて官を去り、服闋するや、征虜將軍・會稽內史に除せらる。頃之、徵して尚書右僕射と為し、太子詹事を領し、散騎常侍を加へられ、將軍たること故の如し。又 母の憂に遭ひ、朝廷 其の葬禮を疑ふ。時に議者 云ふらく、「潘岳 賈充が婦に宜城宣君誄を為りて云はく、『昔 武侯在り、喪禮 殊倫なり。伉儷 一體にして、朝儀 則ち均し』と。謂へらく宜しく葬禮を資給すること、悉く太傅の故事に依るべし」と。是より先、王珣 萬の女を娶り、珣の弟の珉 安の女を娶り、並びに終へず、是に由り謝氏と隙有り。珣 時に僕射と為り、猶ほ前憾を以て其の事を緩す。琰 聞きて之を恥ぢ、遂に自ら轀輬車を造りて以て葬り、議者 之を譏る。
太元の末に、護軍將軍と為り、右將軍を加ふ。會稽王道子 以て司馬と為し、右將軍たること故の如し。王恭 兵を舉ぐるや、琰に節を假し、前鋒軍事を都督せしむ。恭 平らぐや、衞將軍・徐州刺史・假節に遷る。
孫恩 亂を作すや、督吳興・義興二郡軍事を加へ、恩を討たしむ。義興に至るや、賊の許允之を斬り、太守の魏隱を迎へて郡に還らしむ。進みて吳興の賊の丘尩を討ち、之を破る。又 琰に詔して輔國將軍の劉牢之と與に俱に孫恩を討たしむ。恩 海島に逃げ、朝廷 之を憂ひて、琰を以て會稽內史・都督五郡軍事と為し、本官 並びに故の如し。琰 既に資望を以て越土を鎮すれば、議者 謂へらく復た東顧の虞れ無しと。郡に至るに及び、綏撫の能無く、而れども武備を為さず。將帥 皆 諫めて曰く、「強賊 海に在り、人の形便を伺ふ。宜しく仁風を振揚し、其の自新の路を開くべし」と。琰曰く、「苻堅 百萬にして、尚ほ死を淮南に送る。況んや孫恩 奔衄して海に歸す、何ぞ能く復た出でん。若し其れ復た至らば、正に是れ天 國賊を養はざれば、速やかに戮に就かしむるのみ」と。遂に其の言に從はず。恩 後に果たして復た浹口を寇し、餘姚に入り、上虞を破り、進みて邢浦に及び、山陰を去ること北に三十五里なり。琰 參軍の劉宣之を遣はして距みて恩を破らしむ。既にして上黨太守の張虔碩 戰ひて敗れ、羣賊 銳進たれば、人情 震駭し、咸 以へらく宜しく持重し嚴備し、且つ水軍を南湖に列し、兵を分かちて伏を設けて以て之を待つべしと。琰 聽かず。賊 既に至るや、尚ほ未だ食らはず。琰曰く、「當に先に此の寇を滅して後に食らふを要すなり」と。馬に跨がりて出づ。廣武將軍の桓寶 前鋒と為り、摧鋒し陷陣し、賊を殺すこと甚だ多く、而れども塘路 迮狹たれば、琰の軍 魚貫にして前み、賊 艦中に於て傍に之を射て、前後 斷絕す。琰 千秋亭に至り、敗績す。琰の帳下都督の張猛 後に琰の馬を斫り、琰 地に墮ち、二子の肇・峻と與に俱に害せられ、寶も亦た之に死す。後に劉裕が左里の捷に、猛を生擒し、琰の小子の混に送り、混 肝を刳し生きながらに之を食ふ。詔して琰の父子 君親に隕ち、忠孝 一門に萃たるを以て、琰に侍中・司空を贈り、諡して忠肅と曰ふ。
三子あり、肇・峻・混なり。肇は驃騎參軍を歷し、峻は琰の勳を以て建昌侯に封ぜらる。賊に沒するに及び、詔して肇に散騎常侍、峻に散騎侍郎を贈る。

現代語訳

謝琰は字を瑗度という。弱冠にして、節操と才幹によって称され、風采が秀でていた。従兄で護軍の謝淡の隣に住んでいたが、往来せず、宗族の子弟のうち才能が豊かな数人とだけ交流した。著作郎を拝し、秘書丞に転じ、しきりに散騎常侍・侍中に遷った。苻堅との戦いで、謝安は謝琰に軍国の才能があるため、(朝廷から)出して輔国将軍とし、精兵八千をひきい、従兄の謝玄とともに敵陣を陥落させて苻堅を破り、その勲功により望蔡公に封建された。ほどなく父が死んだため官職を去り、服喪を終えると、征虜将軍・会稽内史に任命された。しばらくして、徴召されて尚書右僕射となり、太子詹事を領し、散騎常侍を加えられ、将軍には留任とされた。さらに母が死に、朝臣は謝琰の葬礼(が規定に合わないこと)を疑った。ときに議者は、「(西晋の)潘岳は賈充の妻のために『宜城宣君誄』を作って、『むかし武侯のとき、葬礼は特別だった。伉儷(夫婦)は一体で、朝廷の儀礼は等しかった』とした。葬礼のための支給は、すべて太傅(謝安)の前例と同じくすべきです」と言った。これより先、王珣が謝萬の娘をめとり、王珣の弟の王珉は謝安の娘をめとったが、どちらも添い遂げず、これにより王氏と謝氏は不仲になった。王珣はこのとき僕射であり、前の怨みを引きずってこの件(葬礼の支給)を遅延させた。謝琰は聞いてこれを恥じ、轀輬車を自作して(母の)葬送をおこない、議者はこれを批判した。
太元年間の末、護軍将軍となり、右将軍を加えられた。会稽王道子(司馬道子)が謝琰を司馬とし、右将軍は現状のままとした。王恭が兵を挙げると、謝琰に節を仮し、前鋒軍事を都督させた。王恭が平定されると、衛将軍・徐州刺史・仮節に遷った。
孫恩が乱を起こすと、(謝琰に)督呉興・義興二郡軍事を加え、孫恩を討たせた。義興に到着すると、賊の許允之を斬り、太守の魏隠(魏鄢)を迎えて郡(の城)に還らせた。進んで呉興の賊の丘尩を討ち、これを破った。さらに謝琰に詔して輔国将軍の劉牢之とともに孫恩を討たせた。孫恩は海島に逃げたが、朝廷はこれを脅威と見なし、謝琰を会稽内史・都督五郡軍事として、本官はすべて現状どおりとした。謝琰が資格と名望によって越の地域を鎮めたので、議者はもはや東方に危惧はないと考えた。(しかし謝琰が)郡に到着しても、鎮撫する能力がなく、それなのに戦争の備えをしなかった。将帥がみな諫めて、「強賊が海におり、こちらの形勢の隙を窺っています。仁風を振るって高め、孫恩が改心する(降伏する)道を開くべきです」と言った。謝琰は、「苻堅は百万の軍がいたが、それでも淮南で(敗北し)葬送した。まして孫恩は敗戦して海に逃げた。どうして再び出てくるだろうか。もし攻めてきたら、これこそ天は国賊を助けないという状況となる。速やかに誅戮するだけだ」と言った。結局(防備をせよという)諫言に従わなかった。孫恩はのちに果たして(謝琰の予測に反して)また浹口を侵略し、餘姚に入り、上虞を破り、進んで邢浦に及び、山陰から北三十五里の地点にまで迫った。謝琰は参軍の劉宣之に孫恩を防ぎ止めさせた。上党太守の張虔碩が戦って敗れると、精強な盗賊集団が進んでくるので、人々の心は震えおののき、みなが厳重に防備し、水軍を南湖にならべ、兵を分けて伏兵にして待ち受けるべきだと言った。謝琰は聞き入れなかった。賊が到達したとき、謝琰は食事前であった。謝琰は、「さきに盗賊を滅ぼしてから食事にしよう」と言った。馬に跨がって出陣した。広武将軍の桓宝が前鋒となり、突撃して敵陣を陥落させ、大量に賊を殺したが、塘路(堤防上の道)が狭いので、謝琰の軍は魚貫で(魚を串に刺したように縦に並んで)進んだ。賊が戦艦から(縦長の)隊列を側面から射て、軍の前後が断絶した。謝琰は千秋亭に至り、敗北した。謝琰の帳下都督の張猛が後ろから謝琰の馬を斬り、謝琰は(落馬して)地に落ち、二人の子の謝肇と謝峻とともに殺害され、宝もまた戦死した。のちに劉裕が左里で勝利したとき、張猛を生け捕りにして、謝琰の幼子の謝混に(父の仇の)身柄を送り届けた。謝混は肝をえぐり生きながらに食らった。詔して謝琰の父子は主君と親のために亡くなり、忠孝な人物が一門に集まっているため、謝琰に侍中・司空を贈り、諡して忠粛とした。
三人の子がおり、謝肇・謝峻・謝混である。謝肇は驃騎参軍を歴し、謝峻は謝琰の勲功により建昌侯に封建された。賊に殺されると、詔して謝肇に散騎常侍を贈り、謝峻に散騎侍郎を贈った。

原文

混字叔源。少有美譽、善屬文。初、孝武帝為晉陵公主求壻、謂王珣曰、「主壻但如劉真長・王子敬便足。如王處仲・桓元子誠可、才小富貴、便豫人家事」。珣對曰、「謝混雖不及真長、不減子敬」。帝曰、「如此便足」。未幾、帝崩、1.(袁崧)袁山松欲以女妻之、珣曰、「卿莫近禁臠」。初、元帝始鎮建業、公私窘罄、每得一㹠、以為珍膳、項上一臠尤美、輒以薦帝、羣下未嘗敢食、于時呼為「禁臠」、故珣因以為戲。混竟尚主、襲父爵。桓玄嘗欲以安宅為營、混曰、「召伯之仁、猶惠及甘棠。文靖之德、更不保五畝之宅邪」。玄聞、慚而止。歷中書令・中領軍・尚書左僕射・領選。以黨劉毅誅、國除。及宋受禪、謝晦謂劉裕曰、「陛下應天受命、登壇日恨不得謝益壽奉璽紱」。裕亦歎曰、「吾甚恨之、使後生不得見其風流」。益壽、混小字也。

1.本伝及び『世説新語』排調篇に従って改める。

訓読

混 字は叔源なり。少くして美譽有り、屬文を善くす。初め、孝武帝 晉陵公主の為に壻を求め、王珣に謂ひて曰く、「主壻の但だ劉真長・王子敬の如くんば便ち足れり。王處仲・桓元子の如くんば誠に可なり。才かに小しき富貴なるは、便ち人の家事に豫る」と。珣 對へて曰く、「謝混 真長に及ばざると雖も、子敬を減ぜず」と。帝曰く、「此の如くんば便ち足らん」と。未だ幾もなくして、帝 崩じ、袁山松 女を以て之に妻せんと欲す。珣曰く、「卿 禁臠に近づく莫れ」と。初め、元帝 始めて建業に鎮し、公私 窘罄たり。每に一㹠を得れば、以て珍膳と為し、項上の一臠 尤も美なれば、輒ち以て帝に薦め、羣下 未だ嘗て敢て食はず、時に于て呼びて「禁臠」と為す。故に珣 因りて以て戲れを為すなり。混 竟に主を尚し、父の爵を襲ふ。桓玄 嘗て安の宅を以て營と為さんと欲す。混曰く、「召伯の仁は、猶ほ惠は甘棠に及ぶ。文靖の德は、更に五畝の宅を保たざるや」と。玄 聞き、慚ぢて止む。中書令・中領軍・尚書左僕射・領選を歷す。劉毅に黨するを以て誅せられ、國 除かる。宋 受禪するに及び、謝晦 劉裕に謂ひて曰く、「陛下 天に應じ受命し、壇に登る日に恨むらくは謝益壽をして璽紱を奉ぜしむるを得ざるを」と。裕も亦た歎じて曰く、「吾 甚だ之を恨む。後生をして其の風流を見るを得ざらしむ」。益壽は、混の小字なり。

現代語訳

謝混は字を叔源という。若くして美名があり、文を綴るのを得意とした。はじめ、孝武帝が晋陵公主のために婿を求め、王珣に、「主壻(天子の娘婿)はただ劉真長や王子敬のような人物ならば十分だ。王処仲や桓元子のような人物ならば誠によい。わずかに少し富貴な人物ならば、他人の家事に関与する(だけで物足りない)」と言った。王珣は答えて、「謝混は劉真長に及びませんが、王子敬に劣りません」と言った。孝武帝は、「それならば十分だ」と言った。ほどなく、孝武帝が崩御し、袁山松は娘を謝の妻にしようとした。王珣は、「あなたは禁臠に手を出してはいけない」と言った。かつて、元帝がはじめて建業を拠点としたとき(東晋の初期)、公私ともに欠乏し、一頭の猪が捕れると、めったにない食材であり、首筋の肉がいちばん美味なので、元帝に勧め、群臣は食べようとせず、「禁臠(手出し無用の肉)」とされた。王珣はこれに因んで戯れたのである。謝鯤は公主をめとり、父の爵位を襲った。かつて桓玄が謝安の故宅に軍営を設けようとした。謝は、「召伯の仁政は、(召伯の死後も)恩恵が甘棠の木に及びました(『詩経』召南篇)。文靖(謝安)の遺徳は、(当人の死後に)五畝の故宅すら保てないものだったのでしょうか」と言った。桓玄はこれを聞き、恥じて中止した。中書令・中領軍・尚書左僕射・領選を歴任した。劉毅と徒党を組んだとして誅殺され、国が除かれた。劉宋が受禅すると、謝晦は劉裕に、「陛下は天に応じ受命なさいましたが、受禅台に登る日に謝益寿(謝)に璽紱を奉じさせられなかったのが残念です」と言った。劉裕もまた歎じて、「私も残念に思う。後代の人が謝の風流さを見られなくなった」と言った。益寿は、謝混の小字である。

安兄奕 奕子玄

原文

奕字無奕、少有名譽。初為剡令、有老人犯法、奕以醇酒飲之、醉猶未已。安時年七八歲、在奕膝邊、諫止之。奕為改容、遣之。與桓溫善。溫辟為安西司馬、猶推布衣好。在溫坐、岸幘笑詠、無異常日。桓溫曰、「我方外司馬」。奕每因酒、無復朝廷禮、嘗逼溫飲、溫走入南康主門避之。主曰、「君若無狂司馬、我何由得相見」。奕遂攜酒就聽事、引溫一兵帥共飲、曰、「失一老兵、得一老兵、亦何所1.(在)〔怪〕」。溫不之責。 從兄尚有德政、既卒、為西藩所思、朝議以奕立行有素、必能嗣尚事、乃遷都督豫司冀并四州軍事・安西將軍・豫州刺史・假節。未幾、卒官、贈鎮西將軍。
三子、泉・靖・玄。泉早有名譽、歷義興太守。靖官至太常。

1.『太平御覧』巻八百四十四、『冊府元亀』巻八百五十五に従い、「在」を「怪」に改める。

訓読

奕 字は無奕、少くして名譽有り。初め剡令と為り、老人 法を犯すもの有り、奕 醇酒を以て之に飲ましめ、醉ひて猶ほ未だ已まず。安 時に年七八歲にして、奕の膝邊に在り、諫めて之を止む。奕 為に容を改めて、之を遣はす。桓溫と善し。溫 辟して安西司馬と為し、猶ほ布衣の好を推す。溫の坐に在り、岸幘し笑詠し、常日に異なる無し。桓溫曰く、「我 方外の司馬なり」と。奕 每に酒に因りて、復た朝廷の禮無く、嘗て溫に逼まりて飲ましめ、溫 走りて南康主の門に入りて之を避く。主曰く、「君 若し狂司馬無くんば、我 何に由りて相 見るを得ん」と。奕 遂に酒を攜へて就ち聽事し、溫が一兵帥を引きて共に飲みて、曰く、「一老兵を失ひ、一老兵を得たり。亦た何ぞ怪しむ所なるか」と。溫 之を責めず。
從兄の尚 德政有るに、既に卒し、西藩の思ふ所と為る。朝議 奕の立行 素有るを以て、必ず能く尚の事を嗣ぐとし、乃ち都督豫司冀并四州軍事・安西將軍・豫州刺史・假節に遷す。未だ幾もなくして、官に卒し、鎮西將軍を贈らる。
三子あり、泉・靖・玄なり。泉 早くに名譽有り、義興太守を歷す。靖 官は太常に至る。

現代語訳

(謝安の兄の)謝奕は字を無奕といい、若くして名望があった。はじめ剡令となり、法を犯した老人がいたが、謝奕は(罰として)濃い酒を飲ませ、老人が泥酔しても止めなかった。謝安はこのとき七、八歳であり、謝奕のそばにいて、諫めて(酒を勧めるのを)辞めさせようとした。謝奕は態度を改めて、老人を解放した。桓温と仲が良かった。桓温が辟召して安西司馬としたが、無位無冠のような対等な付き合いを続けた。桓温と同席しても、岸幘し(頭巾を上げて馴れ馴れしく)笑って歌い、普段と異なることがなかった。桓温は、「(謝奕は)私にとって方外の(世俗から外れた)司馬だ」と言った。謝奕はつねに酒に酔って、朝廷の礼義を守らず、桓温に飲酒を強要し、桓温は(酔わされて)南康公主の門に入って(謝奕から)逃げたことがあった。公主は、「あなたの配下に狂司馬(謝奕)がいなければ、私はあなたと会えなかったでしょう」と言った。謝奕は酒を携えて(桓温の)府にやってくると、桓温の部下の指揮官が招いて酒に付き合い、(謝奕は)「一人の老兵(桓温)を取り逃したが、代わりに別の老兵を見つけた。なんと不思議なものか」と言った。桓温は咎めなかった。
従兄の謝尚は徳政を行ったが、すでに亡く、西藩に思慕されていた。朝廷では謝奕のひとがらに素質があり、きっと謝尚の事業を継承できると考え、都督豫司冀并四州軍事・安西将軍・豫州刺史・仮節に遷した。ほどなく、在官で亡くなり、鎮西将軍を贈られた。
三人の子がおり、謝泉・謝靖・謝玄である。謝泉は早くから名望があり、義興太守を経験した。謝靖は官位は太常に至った。

原文

玄字幼度。少穎悟、與從兄朗俱為叔父安所器重。安嘗戒約子姪、因曰、「子弟亦何豫人事、而正欲使其佳」。諸人莫有言者。玄答曰、「譬如芝蘭玉樹、欲使其生於庭階耳」。安悅。玄少好佩紫羅香囊、安患之、而不欲傷其意、因戲賭取、即焚之、於此遂止。
及長、有經國才略、屢辟不起。後與王珣俱被桓溫辟為掾、並禮重之。轉征西將軍桓豁司馬・領南郡相・監北征諸軍事。于時苻堅強盛、邊境數被侵寇、朝廷求文武良將可以鎮禦北方者、安乃以玄應舉。中書郎郗超雖素與玄不善、聞而歎之、曰、「安違眾舉親、明也。玄必不負舉、才也」。時咸以為不然。超曰、「吾嘗與玄共在桓公府、見其使才、雖履屐間亦得其任、所以知之」。於是徵還、拜建武將軍・兗州刺史・領廣陵相・監江北諸軍事。
時苻堅遣軍圍襄陽、車騎將軍桓沖禦之。詔玄發三州人1.(下)〔丁〕、遣彭城內史2.何謙之游軍淮泗、以為形援。襄陽既沒、堅將彭超攻龍驤將軍戴𨔵於彭城。玄率東莞太守高衡・後軍將軍何謙之次於泗口、欲遣間使報𨔵、令知救至、其道無由。小將田泓請行、乃沒水潛行、將趣城、為賊所獲。賊厚賂泓、使云「南軍已敗」。泓偽許之。既而、告城中曰、「南軍垂至、我單行來報、為賊所得、勉之」。遂遇害。時彭超置輜重於留城、玄乃揚聲遣謙等向留城。超聞之、還保輜重。謙馳進、解彭城圍。超復進軍南侵、堅將句難・毛當自襄陽來會。超圍幽州刺史田洛於三阿、有眾六萬。詔征虜將軍謝石率水軍次涂中、右衞將軍毛安之・游擊將軍河間王曇之・淮南太守楊廣・宣城內史丘準次堂邑。既而盱眙城陷、高密內史3.毛藻沒、安之等軍人相驚、遂各散退、朝廷震動。玄於是自廣陵西討難等。何謙解田洛圍、進據白馬、與賊大戰、破之、斬其偽將4.(都督顏)〔都顏〕。因復進擊、又破之、斬其偽將邵保。超・難引退。玄率何謙・戴𨔵・田洛追之、戰于君川、復大破之。玄參軍劉牢之攻破浮航及白船、督護諸葛侃・單父令李都又破其運艦。難等相率北走、僅以身免。於是罷彭城・下邳二戍。詔遣殿中將軍慰勞、進號冠軍、加領徐州刺史、還于廣陵、以功封東興縣侯。
及苻堅自率兵次於項城、眾號百萬、而涼州之師始達咸陽、蜀漢順流、幽并係至。先遣苻融・慕容暐・張蚝・苻方等至潁口、梁成・5.(王先)〔王顯〕等屯洛澗。詔以玄為前鋒・都督徐兗青三州揚州之晉陵幽州之燕國諸軍事、與叔父征虜將軍石・從弟輔國將軍琰・西中郎將桓伊・龍驤將軍檀玄・建威將軍戴熙・揚武將軍陶隱等距之、眾凡八萬。玄先遣廣陵相劉牢之五千人直指洛澗、即斬梁成及成弟雲、步騎崩潰、爭赴淮水。牢之縱兵追之、生擒堅偽將梁他・王顯・梁悌・慕容屈氏等、收其軍實。堅進屯壽陽、列陣臨肥水、玄軍不得渡。玄使謂苻融曰、「君遠涉吾境、而臨水為陣、是不欲速戰。諸君稍却、令將士得周旋、僕與諸君緩轡而觀之、不亦樂乎」。堅眾皆曰、「宜阻肥水、莫令得上。我眾彼寡、勢必萬全」。堅曰、「但却軍、令得過、而我以鐵騎數十萬向水、逼而殺之」。融亦以為然、遂麾使却陣、眾因亂不能止。於是玄與琰・伊等以精銳八千涉渡肥水。石軍距張蚝、小退。玄・琰仍進、決戰肥水南。堅中流矢、臨陣斬融。堅眾奔潰、自相蹈藉投水死者不可勝計、肥水為之不流。餘眾棄甲宵遁、聞風聲鶴唳、皆以為王師已至、草行露宿、重以飢凍、死者十七八。獲堅乘輿雲母車、儀服・器械・軍資・珍寶山積、牛馬驢騾駱駝十萬餘。詔遣殿中將軍慰勞、進號前將軍・假節、固讓不受。賜錢百萬、綵千匹。
既而安奏苻堅喪敗、宜乘其釁會、以玄為前鋒都督、率冠軍將軍桓石虔徑造渦潁、經略舊都。玄復率眾次于彭城、遣參軍劉襲攻堅兗州刺史張崇於鄄城、走之、使劉牢之守鄄城。兗州既平、玄患水道險澀、糧運艱難、用督護聞人奭謀、堰呂梁水、樹柵、立七埭為派、擁二岸之流、以利運漕、自此公私利便。又進伐青州、故謂之青州派。遣淮陵太守高素以三千人向廣固、降堅青州刺史苻朗。又進伐冀州、遣龍驤將軍劉牢之・濟北太守丁匡據碻磝、濟陽太守郭滿據滑臺、奮武將軍6.顏雄渡河立營。堅子丕遣將桑據屯黎陽。玄命劉襲夜襲據、走之。丕惶遽欲降、玄許之。丕告飢、玄7.(潰)〔饋〕丕米二千斛。又遣晉陵太守滕恬之渡河守黎陽、三魏皆降。以兗・青・司・豫平、加玄都督徐・兗・青・司・冀・幽・并七州軍事。玄上疏以方平河北、幽冀宜須總督、司州懸遠、應統豫州。以勳封康樂縣公。玄請以先封東興侯賜兄子玩、詔聽之、更封玩豫寧伯。復遣寧遠將軍昋演伐申凱於魏郡、破之。玄欲令豫州刺史朱序鎮梁國、玄住彭城、北固河上、西援洛陽、內藩朝廷。朝議以征役既久、宜置戍而還、使玄還鎮淮陰、序鎮壽陽。會翟遼據黎陽反、執滕恬之、又泰山太守張願舉郡叛、河北騷動、玄自以處分失所、上疏送節、盡求解所職。詔慰勞、令且還鎮淮陰、以朱序代鎮彭城。

1.『冊府元亀』巻三百五十に従い、「下」を「丁」に改める。
2.中華書局本は、「何謙」に作る。
3.孝武紀・苻堅載記は、「毛璪之」に作る。『通鑑』巻一百四も「毛璪之」に作る。
4.苻堅載記に従い、「都督顏」を「都顏」に改める。
5.下文及び苻堅載記に従い、「王先」を「王顯」に改める。
6.「顏雄」は、苻堅載記・『通鑑』巻一百五は「顏肱」につくる。
7.『冊府元亀』巻三百五十に従い、改める。

訓読

玄 字は幼度なり。少くして穎悟にして、從兄の朗と與に俱に叔父の安の器重する所と為る。安 嘗て子姪を戒約し、因りて曰く、「子弟も亦た何ぞ人事に豫らん、而も正に其れをして佳ならしめんと欲す」と。諸人 言有る者莫し。玄のみ答へて曰く、「譬へば芝蘭玉樹の如くんば、其れをして庭階に生ぜしめんと欲するのみ」と。安 悅ぶ。玄 少くして紫羅香囊を佩くを好み、安 之を患ひ、而れども其の意を傷つくるを欲せず、因に戲れに賭取し、即ち之を焚き、此に於て遂に止む。
長ずるに及び、經國の才略有り、屢々辟せらるとも起たず。後に王珣と與に俱に桓溫に辟せられて掾と為り、並びに之を禮重す。征西將軍の桓豁の司馬・領南郡相・監北征諸軍事に轉ず。時に于て苻堅 強盛たりて、邊境 數々侵寇を被り、朝廷 文武の良將にして以て北方を鎮禦す可き者を求め、安 乃ち玄を以て應に舉すべしとす。中書郎の郗超 素より玄と不善なると雖も、聞きて之を歎じて、曰く、「安 眾に違ひて親を舉ぐるは、明なり。玄は必ず舉に負かざるは、才あればなり」と。時に咸 以為へらく然らずと。超曰く、「吾 嘗て玄と與に共に桓公の府に在り、其の使才を見る。履屐の間と雖も亦た其の任を得て、所以に之を知るなり」と。是に於て徵せられて還り、建武將軍・兗州刺史・領廣陵相・監江北諸軍事を拜す。
時に苻堅 軍を遣はして襄陽を圍み、車騎將軍の桓沖 之を禦ぐ。玄に詔して三州の人丁を發せしめ、彭城內史の何謙之を遣はして淮泗に游軍たりて、以て形援と為す。襄陽 既に沒するや、堅の將の彭超 龍驤將軍の戴𨔵を彭城に攻む。玄 東莞太守の高衡・後軍將軍の何謙之を率ゐて泗口に次し、間使を遣はして𨔵に報じ、救ひ至るを知らしめんと欲するも、其の道 由る無し。小將の田泓 行かんことを請ひ、乃ち水に沒して潛行し、將に城に趣かんとするに、賊の獲ふる所と為る。賊 厚く泓に賂し、「南軍 已に敗れり」と云はしむ。泓 偽はりて之を許す。既にして、城中に告げて曰く、「南軍 至るに垂とす、我 單行して來たりて報ずるも、賊の得る所と為る。之に勉めよ」と。遂に害に遇ふ。時に彭超 輜重を留城に置き、玄 乃ち揚聲して謙らを遣はして留城に向はしむ。超 之を聞き、還りて輜重を保つ。謙 馳せ進み、彭の城の圍みを解く。超 復た進軍して南のかた侵し、堅の將の句難・毛當 襄陽より來たりて會す。超 幽州刺史の田洛を三阿に圍み、眾六萬有り。征虜將軍の謝石に詔して水軍を率ゐて涂中に次し、右衞將軍の毛安之・游擊將軍の河間の王曇之・淮南太守の楊廣・宣城內史の丘準をして堂邑に次せしむ。既にして盱眙の城 陷ち、高密內史の毛藻 沒し、安之らの軍の人 相 驚き、遂に各々散退したれば、朝廷 震動す。玄 是に於て廣陵より西して難らを討つ。何謙 田洛の圍ひを解き、進みて白馬に據り、賊と大いに戰ひ、之を破り、其の偽將の都顏を斬る。因りて復た進擊し、又 之を破り、其の偽將の邵保を斬る。超・難 引き退く。玄 何謙・戴𨔵・田洛を率ゐて之を追ひ、君川に戰ひ、復た大いに之を破る。玄の參軍の劉牢之 攻めて浮航及び白船を破り、督護の諸葛侃・單父令の李都 又 其の運艦を破る。難ら相 率ゐて北して走り、僅かに身を以て免る。是に於て彭城・下邳の二戍を罷む。詔して殿中將軍を遣はして慰勞せしめ、號を冠軍に進め、領徐州刺史を加へ、廣陵に還らしめ、功を以て東興縣侯に封ぜらる。
苻堅 自ら兵を率ゐて項城に次して、眾 百萬と號すに及びて、而して涼州の師 始めて咸陽に達し、蜀漢 流に順ひ、幽并 係(つ)ぎて至る。先に苻融・慕容暐・張蚝・苻方らを遣はして潁口に至らしめ、梁成・王顯ら洛澗に屯す。詔して玄を以て前鋒・都督徐兗青三州揚州之晉陵幽州之燕國諸軍事と為し、叔父の征虜將軍の石・從弟の輔國將軍の琰・西中郎將の桓伊・龍驤將軍の檀玄・建威將軍の戴熙・揚武將軍の陶隱らと與に之を距がしめ、眾は凡そ八萬なり。玄 先に廣陵相の劉牢之の五千人を遣はして直に洛澗を指し、即ち梁成及び成の弟の雲を斬り、步騎 崩潰し、爭ひて淮水に赴く。牢之 兵を縱にして之を追ひ、堅の偽將の梁他・王顯・梁悌・慕容屈氏らを生擒し、其の軍實を收む。堅 進みて壽陽に屯し、陣を列ねて肥水に臨む。玄の軍 渡るを得ず。玄の使 苻融に謂ひて曰く、「君 遠く吾が境に涉り、而れども水に臨みて陣を為す。是れ速やかに戰ふを欲せざるなり。諸君 稍く却き、將士をして周旋せしむるを得れば、僕 諸君と轡を緩めて之を觀ん。亦た樂しからずや」と。堅の眾 皆 曰く、「宜しく肥水を阻み、上るを得しむ莫れ。我は眾く彼は寡なし、勢として必ず萬全ならん」と。堅曰く、「但だ軍を却し、過ぐるを得しめ、而して我 鐵騎數十萬を以て水に向ひ、逼りて之を殺さん」と。融も亦た以て然りと為し、遂に麾して陣を却かしめ、眾 因りて亂れて止む能はず。是に於て玄 琰・伊らと與に精銳八千を以て肥水を涉渡す。石の軍 張蚝を距ぎ、小しく退く。玄・琰 仍りて進み、肥水の南に決戰す。堅 流矢に中り、陣に臨みて融を斬る。堅の眾 奔潰し、自ら相 蹈藉し投水して死する者 勝て計ふ可からず、肥水 之が為に流れず。餘眾 甲を棄てて宵に遁げ、風聲鶴唳を聞き、皆 以て王師 已に至ると為し、草に行し露に宿して、重ねて飢凍を以て、死者は十に七八なり。堅の乘輿雲母車を獲て、儀服・器械・軍資・珍寶 山のごとく積み、牛馬驢騾駱駝は十萬餘なり。詔して殿中將軍を遣はして慰勞せしめ、號を前將軍・假節に進むるも、固く讓して受けず。錢百萬、綵千匹を賜はる。
既にして安 苻堅 喪敗せば、宜しく其の釁に乘して會すべしと奏し、玄を以て前鋒都督と為し、冠軍將軍の桓石虔を率ゐて徑に渦潁に造り、舊都を經略せしむ。玄 復た眾を率ゐて彭城に次し、參軍の劉襲を遣はして堅の兗州刺史の張崇を鄄城に攻め、之を走らせ、劉牢之をして鄄城を守らしむ。兗州 既に平らぐや、玄 水道 險澀にして、糧運 艱難なるを患れ、督護の聞人奭の謀を用ゐ、呂梁水を堰し、柵を樹て、七埭を立てて派と為し、二岸の流を擁し、以て運漕に利せしめ、此より公私 利便なり。又 進みて青州を伐たば、故に之を青州派と謂ふ。淮陵太守の高素を遣はして三千人を以て廣固に向はしめ、堅の青州刺史の苻朗を降す。又 進みて冀州を伐ち、龍驤將軍の劉牢之・濟北太守の丁匡を遣はして碻磝に據らしめ、濟陽太守の郭滿をして滑臺に據らしめ、奮武將軍の顏雄をして渡河して營を立たしむ。堅の子の丕 將の桑據を遣はして黎陽に屯せしむ。玄 劉襲に命じて據を夜襲せしめ、之を走らす。丕 惶遽して降らんと欲し、玄 之を許す。丕 飢を告げ、玄 丕に米二千斛を饋る。又 晉陵太守の滕恬之を遣はして渡河して黎陽を守らしめ、三魏 皆 降る。兗・青・司・豫 平らぐを以て、玄に都督徐・兗・青・司・冀・幽・并七州軍事を加ふ。玄 上疏すらく方に河北を平らぐるを以て、幽冀 宜しく須からく總督すべきに、司州 懸遠なれば、應に豫州を統すべしと。勳を以て康樂縣公に封ぜらる。玄 先に東興侯に封ぜらるを以て兄の子の玩に賜らんことを請ひ、詔して之を聽し、更めて玩を豫寧伯に封ず。復た寧遠將軍の昋演を遣はして申凱を魏郡に伐たしめ、之を破る。玄 豫州刺史の朱序をして梁國に鎮ぜしめ、玄は彭城に住まりて、北のかた河上を固め、西のかた洛陽を援け、朝廷に內藩たらんと欲す。朝議 征役 既に久しきを以て、宜しく戍を置きて還るべしとし、玄をして還りて淮陰に鎮せしめ、序をして壽陽に鎮せしむ。會々翟遼 黎陽に據りて反し、滕恬之を執らへ、又 泰山太守の張願 郡を舉げて叛す。河北 騷動し、玄 自ら處分 失ふ所を以て、上疏して節を送り、盡く職する所を解くことを求む。詔して慰勞し、且つ還りて淮陰に鎮せしめ、朱序を以て代はりて彭城に鎮せしむ。

現代語訳

(謝奕の子で、謝安の従子にあたる)謝玄は字を幼度という。若いときから聡明で、従兄の謝朗とともに叔父の謝安に器量を重んじられた。謝安がかつて子弟や従子たちに教訓を垂れて、「きみたち子弟の処世なんて(私と)どんな関わりがあるものか、それなのに立派に育ってほしいと思ってしまう」と言った。子弟らは発言しなかった。謝玄だけが答えて、「芝蘭玉樹(すぐれた子弟の比喩)のようなものなら、自家の庭で生長させたいと思うでしょう」と言い返した。謝安は悦んだ(『世説新語』言語篇より)。謝玄は若いのに紫羅の香り袋を身につけるのを好み、謝安はこれを憂慮して、しかし謝玄の気分を損ねたくないので、戯れに賭けごとで勝って奪い、焼き捨てたので、謝玄は身につけるのを止めた。
成長すると、国家経営の才略があり、しばしば辟召されたが起家しなかった。のちに王珣とともに桓温に辟召されて掾となり、どちらも礼遇し重んじられた。征西将軍の桓豁の司馬・領南郡相・監北征諸軍事に転じた。このとき苻堅が強盛で、国境付近はしばしば侵攻を受けており、朝廷は文武の良将で北方を鎮定し防御できるものを求めた。謝安は謝玄を挙げるべきだと考えた。中書郎の郗超はふだんは謝玄と不仲であったが、これを聞いて歎じ、「謝安が衆論に逆らって親族を推薦したのは、よい判断である。謝玄がこの推薦を裏切らないのは、才能があればこそだ」と言った。このとき朝臣たちはみな反対した。郗超は、「私はかつて謝玄とともに桓公の府に仕えたが、その才能が発揮されるのを見た。どんな些細なことにも才能が行き届き、ゆえに私は謝玄が適任だと分かったのだ」と言った。ここにおいて徴召されて(朝廷に)還り、建武将軍・兗州刺史・領広陵相・監江北諸軍事を拝した。
このとき苻堅は軍を派遣して襄陽を包囲し、車騎将軍の桓沖がこれを防いでいた。謝玄に詔して三州から男子を徴発させ、彭城内史の何謙之(何謙)を派遣して淮水や泗水のあたりで遊軍となり、襄陽を助ける形勢をつくった。襄陽が陥落すると、苻堅の将の彭超が龍驤将軍の戴𨔵を彭城で攻撃した。謝玄は東莞太守の高衡と後軍将軍の何謙之(何謙)を率いて泗口に停留し、間道から使者をやって戴𨔵に通知し、救援の接近を伝えようとしたが、道が見つからなかった。小将の田泓が行くことを志願し、川に潜って進んだが、彭城に到達する前に、賊に捕らえられた。賊は厚く田泓に財物をあたえ、「南軍(東晋の軍)はすでに敗れた」と言わせようとした。田泓は偽って同意した。連れて行かれ、城中に告げて、「南軍は到着が間近だ。私は一人で来て知らせようとしたが、賊に捕らえられた。辛抱せよ」と言った。田泓は殺害された。このとき彭超は輜重を留城に置いてきており、謝玄は「何謙之らを留城に向かわせる」と喧伝した。彭超はこれを聞き、引き返して輜重を守った。何謙之が素早く進み、彭城を包囲から解放した。彭超はふたたび南下して侵略し、苻堅の将の句難と毛当が襄陽から来て合流した。彭超は幽州刺史の田洛を三阿で包囲し、軍勢は六万であった。征虜将軍の謝石に詔して水軍を率いて涂中に留め、右衛将軍の毛安之と游撃将軍の河間の王曇之と淮南太守の楊広と宣城内史の丘準を堂邑に駐留させた。盱眙の城が陥落すると、高密内史の毛藻(毛璪之)が敵軍の捕らわれた。毛安之らの軍の兵は驚いて、銘々に散って退いたので、朝廷は恐れて動揺した。これを打開するために謝玄は広陵から西に進んで句難らを討伐した。何謙之は田洛を包囲から解放し、進んで白馬に拠り、賊と大いに戦って、これを破り、その偽将(前秦の将)の都顔を斬った。さらに進軍をして、また敵軍を破り、偽将の邵保を斬った。彭超と句難は撤退した。謝玄は何謙之と戴𨔵と田洛を率いて追撃し、君川で戦い、また大いにこれを破った。謝玄の参軍の劉牢之が攻撃して浮航と白船を破り、督護の諸葛侃と単父令の李都も敵軍の運艦を破った。句難らは連れだって北に逃げ、辛うじて単身で逃れた。ここにおいて彭城と下邳の二拠点の守りをやめた。詔して殿中将軍を派遣して慰労させ、(謝玄の)官号を冠軍将軍に進め、領徐州刺史を加え、広陵に還らせ、功績により東興県侯に封建された。
苻堅は自ら兵をひきいて項城に駐留し、兵百万と宣言すると、涼州の軍勢がはじめて咸陽に到達し、蜀漢の軍勢も流れに従って(長江を下り)、幽州や并州の兵も相次いで(東晋攻撃のために)到来した。(苻堅は)さきに苻融・慕容暐・張蚝・苻方らを派遣して潁口に到達させ、梁成・王顕らが洛澗に駐屯した。(これを受けて東晋では)詔して謝玄を前鋒・都督徐兗青三州揚州之晋陵幽州之燕国諸軍事とし、(謝玄に)叔父の征虜将軍の謝石と従弟の輔国将軍の謝琰と西中郎将の桓伊と龍驤将軍の檀玄と建威将軍の戴熙と揚武将軍の陶隠らとともに(苻堅の軍を)防がせ、全部で八万の兵であった。謝玄はさきに広陵相の劉牢之の五千人を遣わしてまっすぐ洛澗を目指し、到着してすぐに梁成及び梁成の弟の梁雲を斬り、(梁成配下の)歩騎は崩壊し、争って淮水に向かった。劉牢之は兵を自在にあやつってこれを追撃し、苻堅の偽将の梁他・王顕・梁悌・慕容屈氏らを生け捕りにし、その軍資を収容した。苻堅は進軍して寿陽に駐屯し、陣をつらねて肥水に臨んだ。謝玄の軍は渡ることができなかった。謝玄は使者を送って苻融に、「きみたちは遠路からわが国土に来たが、川に臨んで陣を布いた。これは速戦を望まないからだろう。諸君が少しだけ後ろに下がり、将士が身動きできる場所を作るならば、わが軍は諸君とともに手綱を緩めて(戦いを仕掛けずに)見守ってやろう。そうするのもまた楽しいではないか」と言った。苻堅の軍はみな、「肥水で防衛して食い止め、東晋軍に肥水を渡らせてはいけません。わが軍は多く敵軍は少ない。形勢としては(現状が)万全でありましょう」と言った。苻堅は、「少しだけ軍を後ろに下げて、敵軍に渡らせてやり、その上でわが鉄騎の数十万で肥水に追い詰めれば、敵軍を殺すことができよう」と言った。苻融もまた苻堅に賛成し、ついに指令をして陣を下げさせたが、軍勢がそのせいで乱れて統制が取れなくなった。ここにおいて謝玄は謝琰と桓伊とともに精鋭八千で肥水を渡った。謝石の軍が張蚝を食い止め、少しだけ退いた。謝玄と謝琰がその勢いで進み、肥水の南で決戦した。苻堅は流矢にあたり、敵陣に臨んで苻融を斬った。苻堅の兵は潰走し、たがいを踏みつけて肥水に身を投じて死んだものは数え切れず、肥水はせき止められた。残りの兵はよろいを捨てて夜に逃げ、風や鳥の声をきいて、みな東晋軍に追いつかれたと勘違いし、野外に露営して、飢えと寒さによって、十人のうち七、八人が死んだ。苻堅の乗輿である雲母車を獲得し、(戦場で得た)儀服・器械・軍資・珍宝が山のごとく積み、牛馬と驢騾と駱駝は十万あまりであった。詔して殿中将軍を派遣して慰労させ、(謝玄の)官号を前将軍・仮節に進めたが、固辞して受けなかった。銭百万、綵千匹を賜わった。
謝安はすでに苻堅が敗走したので、この隙に乗じて軍を招集すべきですと上奏し、謝玄を前鋒都督とし、冠軍将軍の桓石虔をひきいてまっすぐ渦潁にいたり、旧都(洛陽)を攻略させた。謝玄はふたたび軍をひきいて彭城に駐留し、参軍の劉襲を派遣して苻堅の兗州刺史の張崇を鄄城で攻め、これを敗走させ、劉牢之に鄄城を守らせた。兗州が平定されると、謝玄は水路の通行が険しく、糧食の運送が難しいことを心配し、督護の聞人奭の計画を採用し、呂梁水の流れを止め、柵を立て、七つの堰を立てて川を分割し、両岸の流れをとどめて、水運として活用し、これにより公私とも便益を得た。水運を活用して青州を討伐に進んだので、これを青州派と呼んだ。淮陵太守の高素を派遣して三千人で広固に向かわせ、苻堅の青州刺史の苻朗を降した。さらに進んで冀州を討伐し、龍驤将軍の劉牢之と済北太守の丁匡を派遣して碻磝に拠らせ、済陽太守の郭満を滑台に拠らせ、奮武将軍の顔雄(顔肱)に黄河を渡って軍営を立てさせた。苻堅の子の苻丕は将の桑拠を派遣して黎陽に駐屯させた。謝玄は劉襲に命じて桑拠を夜襲させ、これを敗走させた。苻丕は驚惶して降伏を申し出たので、謝玄はこれを許した。苻が飢えを告げると、謝玄は苻丕に米二千斛を贈った。また晋陵太守の滕恬之を派遣して渡河して黎陽を守らせ、三魏はすべて降伏した。兗州・青州・司州・豫州が平定されたので、謝玄に都督徐・兗・青・司・冀・幽・并七州軍事を加えた。謝玄は上疏して河北を平定したので、幽州と冀州を統括すべきだが、司州は遠隔地なので、(司州ではなく)豫州を統括したいと述べた。勲功により康楽県公に封建された。謝玄はさきに東興侯に封建されていたので兄の子の謝玩に賜ることを願い、詔してこれを許し、あらためて謝玩を豫寧伯に封建した。また寧遠将軍の昋演を派遣して申凱を魏郡で討伐させ、これを破った。謝玄は豫州刺史の朱序に梁国に鎮させ、謝玄は彭城に留まって、北方で黄河周辺を固め、西のかた洛陽を支援し、朝廷で内藩になりたいと願った。朝廷の議論では征伐の軍役が長期化しているので、戍(防衛拠点)を設置して軍を帰還させるべきだと唱えたので、謝玄に帰還して淮陰に鎮させ、朱序に寿陽に鎮させた。ちょうどそのとき翟遼が黎陽に拠って反乱したので、滕恬之がこれを捕らえ、また泰山太守の張願が郡をあげて叛した。河北が騒動し、謝玄は自分の措置の失敗であるとして、上疏して節を返却し、すべての官職の解任を求めた。詔して慰労し、かつ(謝玄に)帰還させて淮陰に鎮させ、朱序に代わりに彭城に鎮させた。

原文

玄既還、遇疾、上疏解職、詔書不許。玄又自陳、既不堪攝職、慮有曠廢。詔又使移鎮東陽城。玄即路、於道疾篤、上疏曰、

臣以常人、才不佐世、忽蒙殊遇、不復自量、遂從戎政。驅馳十載、不辭鳴鏑之險、每有征事、輒請為軍鋒、由恩厚忘軀、甘死若生也。冀有毫釐、上報榮寵。天祚大晉、王威屢舉、實由陛下神武英斷、無思不服。亡叔臣安協贊雍熙、以成天工。而雰霧尚翳、六合未朗、遺黎塗炭、巢窟宜除、復命臣荷戈前驅、董司戎首。冀仰憑皇威、宇宙寧一、陛下致太平之化、庸臣以塵露報恩、然後從亡叔臣安退身東山、以道養壽。此誠以形于文旨、達于聖聽矣。臣所以區區家國、實在於此。不謂臣愆咎夙積、罪鍾中年、上延亡叔臣安・亡兄臣靖、數月之間、相係殂背、下逮稚子、尋復夭昏。哀毒兼纏、痛百常情。臣不勝禍酷暴集、每一慟殆弊。所以含哀忍悲、期之必存者、雖哲輔傾落、聖明方融、伊周嗣作、人懷自厲、猶欲申臣本志、隆國保家、故能豁其情滯、同之無心耳。
去冬奉司徒道子告括囊遠圖、逮問臣進止之宜。臣進不達事機、以蹙境為恥、退不自揆、故欲順其宿心。豈謂經略不振、自貽斯戾。是以奉送章節、待罪有司、執徇常儀、實有愧心。而聖恩赦過、黷法垂宥、使抱罪之臣復得更名於所司。木石猶感、而況臣乎。顧將身不良、動與釁會、謙德不著、害盈是荷、先疾既動、便至委篤。陛下體臣疢重、使還藩淮側。甫欲休兵靜眾、綏懷善撫、兼苦自療、冀日月漸瘳、繕甲俟會、思更奮迅。而所患沈頓、有增無損。今者惙惙、救命朝夕。臣之平日、率其常矩、加以匪懈、猶不能令政理弘宣、況今內外天隔、永不復接、寧可臥居重任、以招患慮。
追尋前事、可為寒心。臣之微身、復何足惜、區區血誠、憂國實深。謹遣兼長史劉濟重奉送節蓋章傳。伏願陛下垂天地之仁、拯將絕之氣、時遣軍司鎮慰荒雜、聽臣所乞、盡醫藥消息、歸誠道門、冀神祇之祐。若此而不差、修短命也。使臣得及視息、瞻覩墳柏、以此之盡、公私真無恨矣。伏枕悲慨、不覺流涕。

詔遣高手醫一人、令自消息、又使還京口療疾。
玄奉詔便還、病久不差、又上疏曰、「臣同生七人、凋落相繼、惟臣一己、孑然獨存。在生荼酷、無如臣比。所以含哀忍痛、希延視息者、欲報之德、實懷罔極、庶蒙一瘳、申其此志。且臣孤遺滿目、顧之惻然、為欲極其求生之心、未能自分於灰土。慺慺之情、可哀可愍。伏願陛下矜其所訴、霈然垂恕、不令微臣銜恨泉壤」。表寢不報。前後表疏十餘上、久之、乃轉授散騎常侍・左將軍・會稽內史。時吳興太守晉寧侯張玄之亦以才學顯、自吏部尚書與玄同年之郡、而玄之名亞於玄、時人稱為「南北二玄」、論者美之。
玄既輿疾之郡、十三年、卒于官、時年四十六。追贈車騎將軍・開府儀同三司、諡曰獻武。
子瑍嗣、祕書郎、早卒。子靈運嗣。瑍少不惠、而靈運文藻艷逸、玄嘗稱曰、「我尚生瑍、瑍那得1.(不)生靈運」。永熙中、為劉裕世子左衞率。
始從玄征伐者、何謙字恭子、東海人、戴𨔵字安丘、處士逵之弟、並驍果多權略。逵厲操東山、而𨔵以武勇顯。謝安嘗謂𨔵曰、「卿兄弟志業何殊」。𨔵曰、「下官不堪其憂、家兄不改其樂」。𨔵以軍功封廣信侯、位至大司農。

1.中華書局本の校勘記に従い、「不」一字を削る。

訓読

玄 既に還るや、疾に遇ひ、職を解かんことを上疏するも、詔書もて許さず。玄 又 自ら陳し、既に職に攝するに堪へず、曠廢有るを慮る。詔して又 鎮を東陽城に移さしむ。玄 路に即くや、道に於て疾 篤く、上疏して曰く、

臣 常人にして、才 佐世ならざるを以て、忽に殊遇を蒙り、復た自ら量らず、遂に戎政に從ふ。驅馳すること十載、鳴鏑の險を辭せず、每に征事有らば、輒ち請ひて軍鋒と為り、恩の厚きに由りて軀を忘れ、死に甘んじて生けるが若きなり。冀はくは毫釐だに、上は榮寵に報いる有らん。天 大晉に祚し、王威 屢々舉げ、實に陛下の神武英斷に由りて、思ひて服せざる無し。亡叔臣の安 協贊し雍熙し、以て天工を成す。而れども雰霧 尚ほ翳り、六合 未だ朗らかならず、遺黎 塗炭にして、巢窟 宜しく除くべし。復た臣に命じて戈を荷ひて前驅し、戎首を董司す。冀はくは皇威に仰憑し、宇宙 寧一たりて、陛下 太平の化を致さば、庸臣 塵露を以て報恩し、然る後に亡叔臣の安に從ひて身を東山に退け、以て養壽を道とせんとす。此れ誠に以て文旨を形はし、聖聽に達するなり。臣 家國に區區たる所以は、實に此に在り。謂はざりし臣の愆咎 夙に積もり、罪 中年に鍾たり、上は亡叔臣安・亡兄臣靖に延き、數月の間に、相 係いで殂背し、下は稚子に逮び、尋いで復た夭昏するを。哀毒 兼せ纏ひ、常情に痛百なり。臣 禍酷 暴かに集ふに勝へず、每に一慟せれば殆ど弊れん。所以に哀を含み悲を忍び、之を必ず存する期するは、哲輔 傾落すと雖も、聖明 方に融なれば、伊周 嗣いで作り、人 自ら厲さんことを懷へばなり。猶ほ臣の本志を申さんと欲するは、國を隆くし家を保たんとすればなり。故に能く其の情滯を豁して、之を無心に同にするのみ。
去る冬 司徒道子 括囊の遠圖を告げ、臣に進止の宜を逮問するを奉る。臣 進みては事機に達せず、境を蹙するを以て恥と為し、退きては自ら揆せず、故に其の宿心に順はんと欲す。豈に經略 振はず、自ら斯の戾に貽んと謂ふや。是を以て章節を奉送して、罪を有司に待ち、常儀を執徇し、實に愧づる心有り。而れども聖恩 過を赦し、法を黷して宥を垂れ、抱罪の臣をして復た名を所司に更むるを得しむ。木石すら猶ほ感ず、而して況んや臣をや。顧みるに身を將て良からず、動かば釁と會ひ、謙德 著はれず、害 盈ちて是れ荷ふ。先に疾ありて既に動じ、便ち委篤に至る。陛下 臣が疢重を體とし、藩として淮側に還らしむ。甫して兵を休めて眾を靜めんと欲し、綏懷し善撫し、兼せて苦(つと)めて自療し、日々月々に漸く瘳ゆるを冀ひ、甲を繕ひ會を俟ち、更に奮迅せんと思ふ。而れども患ふ所沈頓にして、增すこと有りて損ずる無し。今者 惙惙として、命を朝夕に救ふ。臣の平日は、其の常矩に率ひ、加ふるに匪懈を以てするも、猶ほ政理をして弘宣せしむる能はず。況んや今 內外は天隔し、永く復た接せず。寧ぞ重任に臥居して、以て患慮を招く可きや。
追ひて前事を尋ぬるに、寒心を為す可し。臣の微身、復た何ぞ惜しむに足らん。區區たる血誠、國を憂ふること實に深し。謹みて兼長史の劉濟を遣はして重ねて奉りて節蓋章傳を送らしむ。伏して願ふ陛下 天地の仁を垂れ、將絕の氣を拯ひ、時に軍司を遣はして荒雜を鎮慰し、臣が乞ふ所を聽し、醫藥を盡盡して消息し、誠を道門に歸さば、冀はくは神祇の祐あらん。此の若けれども差えず、短命を修むるなり。臣をして視息に及ばしめ、墳柏を瞻覩するを得しめば、此の盡くせるを以て、公私 真に恨み無し。枕に伏して悲慨し、覺えずして流涕すと。

詔して高手の醫一人を遣はし、自ら消息せしめ、又 京口に還りて療疾せしむ。
玄 詔を奉りて便ち還るに、病 久しくして差えず、又 上疏して曰く、「臣が同生の七人は、凋落 相 繼ぎ、惟だ臣 一己のみ、孑然として獨り存す。在生は荼酷にして、臣が比の如きは無し。所以に哀を含み痛を忍び、視息を延するを希ふは、之の德に報いんと欲し、實に罔極を懷けばなり。一たび瘳を蒙りて、其に此の志を申さんと庶ふ。且つ臣 孤遺なること滿目なりて、之を顧るに惻然たり。其の生を求むるの心を極めんと欲するが為に、未だ自ら灰土を分とする能はず。慺慺の情、哀しむ可し愍れむ可し。伏して願はくは陛下 其の訴ふる所を矜して、霈然として垂恕し、微臣をして恨みを泉壤に銜せしめざるを」と。表 寢して報ぜず。前後に表疏すること十餘上、久之、乃ち轉じて散騎常侍・左將軍・會稽內史を授く。時に吳興太守の晉寧侯の張玄之も亦た才學を以て顯はれ、吏部尚書より玄と同年に郡に之き、而も玄之の名 玄に亞がば、時人 稱して「南北二玄」と為し、論者 之を美す。
玄 既に疾に輿して郡に之き、十三年、官に卒し、時に年は四十六なり。車騎將軍・開府儀同三司を追贈し、諡して獻武と曰ふ。
子の瑍 嗣ぎ、祕書郎たりて、早く卒す。子の靈運 嗣ぐ。瑍 少くして不惠にして、而れども靈運の文藻 艷逸にして、玄 嘗て稱して曰く、「我 尚ほ瑍を生む、瑍 那ぞ靈運を生むを得んか」と。永熙中に、劉裕の世子左衞率と為る。
始め玄に從ひて征伐する者は、何謙 字は恭子、東海の人なり。戴𨔵 字は安丘、處士の逵の弟にして、並びに驍果にして權略多し。逵 操を東山に厲し、而れども𨔵 武勇を以て顯はる。謝安 嘗て𨔵に謂ひて曰く、「卿の兄弟 志業は何ぞ殊ならん」と。𨔵曰く、「下官 其の憂に堪へざるも、家兄 其の樂を改めざるなり」と。𨔵 軍功を以て廣信侯に封ぜられ、位は大司農に至る。

現代語訳

謝玄は帰還すると、病気となり、職務を解いてほしいと上疏したが、詔書で許されなかった。謝玄は重ねて自ら陳情し、すでに職務に堪えず、おろそかにして失敗することを懸念した。詔してまた鎮所を東陽城に移させた。謝玄は移動を始めたが、道中で病気が重くなり、上疏して、

臣(わたくし)は平凡な人間で、治世を補佐する才能はありませんが、いたずらに格別の待遇を受け、身の程をわきまえず、軍政に従事しました。戦場を駆け回ること十年、鏑矢が飛びかう危険な戦地すらも避けず、つねに征伐の計画があれば、毎回先鋒を引き受け、厚い恩によってわが身を忘れ、戦死すらも甘受するつもりでした。どれほど些細な功績でも、陛下の恩寵に報いて奉ろうと考えてきました。天は晋帝国を祝福し、王者の威信がしばしば宣揚され、まことに陛下の神がかりの武力を頼り、思慕をして帰服しないものがおりませんでした。亡きわが叔父の謝安が晋帝国を補佐して平和をもたらし、名君としての事業を完成させました。しかし暗い霧が依然として立ちこめ、天下は晴れ渡らず、没落した万民は苦しんでいますから、悪逆な賊は排除されるべきです。そこで私に命じて戈を担いで戦地を駆けて、軍事を統括させました。晋帝国の威光を頼りに、天下を統一することを願い、陛下の太平の教化をもたらすために、愚かな私は塵やほこりをかぶって恩に報い、成功したあかつきには亡き叔父の謝安のように東山に隠棲し、養生しようと考えていました。以上が私の本心を表したものであり、陛下に申し述べます。私が国家と一族のために奔走した理由は、実際にこの考えに基づくものでした。まさか私の罪過がにわかに積み重なり、天罰が中年になって相次いで下り、上は亡き叔父の謝安と亡き兄の謝靖に及び、数ヶ月の短期間で、次々と亡くなり、下は幼子に及び、次々と夭折するとは思いも寄りませんでした。哀しみ悼む気持ちが交錯し、苦しみ続けております。私は突然の惨禍に見舞われたことに堪えきれず、ひとたび悲慟すればそのまま倒れそうです。しかしながら悲哀を耐え忍び、辛うじて命を繋いでいるのは、もしも賢明な宰相が世を去っても、主君が英明でさえあれば、伊尹や周公(のような人物)が相次いで現れ、人々は自発的に努力するものであると期待するためです。なおも私の本心をお伝えしたかったのは、国を栄えさせて家を保ちたいと思うからです。閉塞した状況を開き、まさに無心そのものです。
昨年の冬に司徒の司馬道子が括囊の(袋の口を括ったように極秘の)遠大な計画を告げ、私に軍を進退させる策略について意見を求めました。私は進んでは時機を捉えられず、国土を広げられなかったことを恥とし、退いては自ら思うままにならず、かねてよりの宿願を遂げたいと考えました。まさか(河北支配の)計略が失敗し、自らその罪に服するとは思いませんでした。失敗を受けて印綬や節を返却し、担当官から罪を言い渡されるのをっておりました。通常どおり務めを果たしていても、心では恥じ入っていました。しかし(天子の)聖恩が過失をお許しになり、法をまげて寛大な処置とし、罪のある私に改めて重要な職務をお与えになりました。木石ですら恩を感じます、ましてや私は感激いたしております。顧みれば私の成果は乏しく、行動すれば失敗し、謙譲の徳が表れず、(傲慢による)危害を被っています。以前より体調が悪く、深刻な状況であります。陛下は私の病気の重さに鑑み(前線から下げ)、藩屏として淮水のほとりに退かせました。軍勢を休養させ、安静にして善行を奨励し、努めて療養して、日々病状が改善するのを願い、武具を修理して機会を待ち、(機会がこれば)改めて奮迅しようと思ってはいます。しかし病気は重篤であり、ひどくなる一方で治る気配がありません。いま心が鬱々とし、辛うじて朝夕に命を繋いでおります。私は常日頃から、定められた規則にしたがい、怠りなく公務に励んでいますが、よき政道を広めることができませんでした。ましてや今日は天下が分裂し、長く(中原と)接触がありません。どうして私が病身で重任におり、外患を悪化させてよいのでしょうか。
遡って以前のことを考えますと、心が寒くなります。私の卑賤な身を、どうして惜しむでしょうか。せめてもの真っ赤な誠意で、国家を憂う気持ちがまことに深くあります。謹んで兼長史の劉済を派遣して重ねて節と車蓋と印章を返還いたします。どうか陛下には天地のような仁を垂れ、途絶えそうな気息をお救いになり、将軍を派遣して荒廃した地域を鎮撫し、私の願いを聞き届けられ、一心に治療に努め、道門に帰依すれば、神祇の助けがあることを期待します。それでも病気が治らなければ、寿命の短さを受け入れます。私に生き存えさせ、墓地の松柏を見に行かせて下されば、たとえ死んでも、公私にわたり怨みはありません。枕に伏せって哀しみ、覚えずして涙が流れます、といった。

詔して腕のよい医師一人を派遣し、謝玄を休養させ、また京口に還って療養させた。
謝玄は詔を受けると還ったが、病気は長く癒えなかった。また上疏して、「私の同生(兄弟)七人は、相次いで世を去り、私一人だけが、ぽつんと生き残りました。処世の行き詰まりは、私ほど苛酷なものはいません。ですが哀しみと痛みに耐え、生き存えたいと願うのは、陛下の徳に報いたいと、無限の思いを抱くからです。(ですから)ひとたび病気となると、その本心を申し上げたいと思いました。しかも私は見渡す限り親族が死に絶え、一族を顧みると痛ましく思います。生き残りたいと願うあまり、灰土となる(死ぬ)運命を受け入れられません。この懇願の気持ちを、憐れんで頂ければと思います。どうか陛下は私の訴えをお聞き入れになり、雨のような恵みを施し、微臣(わたし)の恨みをあの世に持ち越させないようにして下さい」と言った。上表は寝かされて返答がなかった。前後に上表を十回あまり奉り、しばらくして、転じて(謝玄に)散騎常侍・左将軍・会稽内史を授けた。このとき呉興太守で晋寧侯の張玄之もまた才学によって名を知られ、吏部尚書から(転任して)謝玄と同年に郡に赴任し、しかも張玄之の名が謝玄に次いだので、当時の人々は「南北二玄」と称し、論者はこれを称賛した。
謝玄は病気を押して会稽郡に赴任し、十三年、在官で亡くなり、このとき四十六歳だった。車騎将軍・開府儀同三司を追贈し、諡して献武とした。
子の謝瑍が嗣ぎ、秘書郎となったが、早くに亡くなった。子の謝霊運が嗣いだ。謝瑍は若いころから賢くなく、しかし謝霊運は文藻が艶逸であったので、謝玄はかつて「私は謝瑍の父であるが、(賢くない)謝瑍が(賢い)謝霊運の父になれるものか」と言った。永熙年間に、劉裕の世子左衛率となった。
はじめ謝玄に従って(苻堅を)征伐したものは、何謙は字を恭子といい、東海の人である。戴𨔵は字を安丘という、処士の戴逵の弟であり、どちらも強く決断力があり権謀が多かった。戴逵は隠棲の節義を研ぎ澄ませたが、一方で(弟の)戴𨔵は武勇によって名を著した。謝安はかつて戴𨔵に、「きみの兄弟の志と生き方はどうして異なるのか」と言った。戴𨔵は、「下官(わたし)はわが憂いに堪えられませんが、わが兄は楽しみを改めないのです」と言った。戴𨔵は軍功によって広信侯に封建され、官位は大司農に至った。

安弟萬 萬弟石 石兄子朗 朗弟子邈

原文

萬字萬石、才器雋秀、雖器量不及安、而善自衒曜、故早有時譽。工言論、善屬文、敘漁父・屈原・季主・賈誼・楚老・龔勝・孫登・嵇康四隱四顯為八賢論、其旨以處者為優、出者為劣、以示孫綽。綽與往反、以體玄識遠者則出處同歸。嘗與蔡系送客於征虜亭、與系爭言。系推萬落牀、冠帽傾脫。萬徐拂衣就席、神意自若、坐定、謂系曰、「卿幾壞我面」。系曰、「本不為卿面計」。然俱不以介意、時亦以此稱之。
弱冠、辟司徒掾、遷右西屬、不就。簡文帝作相、聞其名、召為撫軍從事中郎。萬著白綸巾、鶴氅裘、履1.版而前。既見、與帝共談移日。太原王述、萬之妻父也、為揚州刺史。萬嘗衣白綸巾、乘平肩輿、徑至聽事前、謂述曰、「人言君侯癡、君侯信自癡」。述曰、「非無此論、但晚合耳」。
萬再遷豫州刺史・領淮南太守・監司豫冀并四州軍事・假節。王羲之與桓溫箋曰、「謝萬才流經通、處廊廟、參諷議、故是後來一器。而今屈其邁往之氣、以俯順荒餘、近是違才易務矣」。溫不從。
萬既受任北征、矜豪慠物、嘗以嘯詠自高、未嘗撫眾。兄安深憂之、自隊主將帥已下、安無不慰勉。謂萬曰、「汝為元帥、諸將宜數接對、以悅其心、豈有慠誕若斯而能濟事也」。萬乃召集諸將、都無所說、直以如意指四坐云、「諸將皆勁卒」。諸將益恨之。既而先遣征虜將軍劉建修治馬頭城池、自率眾入渦潁、以援洛陽。北中郎將郗曇以疾病退還彭城、萬以為賊盛致退、便引軍還、眾遂潰散、狼狽單歸、廢為庶人。後復以為散騎常侍、會卒、時年四十二、因以為贈。
子韶、字穆度、少有名。時謝氏尤彥秀者、稱封・胡・羯・末。封謂韶、胡謂朗、羯謂玄、末謂川、皆其小字也。韶・朗・川並早卒、惟玄以功名終。韶至車騎司馬。韶子恩、字景伯、宏達有遠略、3.(韶)為黃門郎・武昌太守。恩三子、曜・弘・微、皆歷顯位。

1.中華書局本の校勘記に引く李校によると、「版」は「屐」に作るべきである。
2.中華書局本の校勘記に引く李校に従い、「合」を「令」に改める。
3.中華書局本の校勘記によると、「韻」は誤りが疑われるため、削除する。

訓読

萬 字は萬石、才器 雋秀にして、器量 安に及ばざると雖も、而れども善く自ら衒曜し、故に早くに時譽有り。言論を工にし、屬文を善くし、漁父・屈原・季主・賈誼・楚老・龔勝・孫登・嵇康の四隱四顯を敘して八賢論を為り、其の旨 處る者を以て優と為し、出る者もて劣と為し、以て孫綽に示す。綽 與に往反し、以へらく玄を體し遠きを識る者は則ち出處 歸を同にすと。嘗て蔡系と與に客を征虜亭に送り、系と言を爭ふ。系 萬を推して牀より落とし、冠帽 傾脫す。萬 徐ろに衣を拂ひて席に就き、神意 自若たりて、坐 定まりて、系に謂ひて曰く、「卿 幾ど我が面を壞さんとす」と。系曰く、「本は卿が面の為に計らず」と。然れども俱に以て意に介せず、時は亦た此を以て之を稱す。
弱冠にして、司徒掾に辟せられ、右西屬に遷るに、就かず。簡文帝 相と作るや、其の名を聞き、召して撫軍從事中郎と為す。萬 白綸巾、鶴氅裘を著け、版を履きて前む。既に見るや、帝と與に共に談じて日を移す。太原の王述、萬の妻の父にして、揚州刺史と為る。萬 嘗て白綸巾を衣け、平肩輿に乘り、徑ちに聽事の前に至り、述に謂ひて曰く、「人 君侯を癡と言ひ、君侯 信に自ら癡なるや」と。述曰く、「此の論無きこと非ず、但だ晚ならば合せんのみ」と。
萬 再び豫州刺史・領淮南太守・監司豫冀并四州軍事・假節に遷る。王羲之 桓溫に箋を與へて曰く、「謝萬は才流 經通にして、廊廟に處りて、諷議に參ぜば、故に是れ後來の一器ならん。而れども今 其の邁往の氣に屈して、以て俯きて荒餘に順はしむ。是れ才に違ひ務を易ふるに近し」と。溫 從はず。
萬 既に任を北征に受け、豪を矜り物に慠り、嘗て嘯詠を以て自ら高しとし、未だ嘗て眾を撫せず。兄の安 深く之を憂ひ、隊主將帥より已下、安 慰勉せざる無し。萬に謂ひて曰く、「汝 元帥と為れば、諸將 宜しく數々接對して、以て其の心を悅ばしむべし。豈に慠誕 斯の若くして能く事を濟すもの有らんや」と。萬 乃ち諸將を召集するに、都て說く所無く、直だ意の如きを以て四坐を指して云はく、「諸將 皆 勁卒なり」と。諸將 益々之を恨む。既にして先に征虜將軍の劉建修を遣はして馬頭城の池を治めしめ、自ら眾を率ゐて渦潁に入り、以て洛陽を援く。北中郎將の郗曇 疾病を以て退きて彭城に還り、萬 以為へらく賊 盛なれば退を致すとし、便ち軍を引きて還す。眾 遂に潰散し、狼狽して單歸し、廢して庶人と為らる。後に復た以て散騎常侍と為り、會々卒し、時に年は四十二、因りて以て贈を為す。
子の韶、字は穆度、少くして名有り。時に謝氏の尤も彥秀なる者は、封・胡・羯・末と稱す。封は韶を謂ひ、胡は朗を謂ひ、羯は玄を謂ひ、末は川を謂ひ、皆 其の小字なり。韶・朗・川 並びに早くに卒し、惟だ玄のみ功名を以て終はる。韶は車騎司馬に至る。韶の子の恩は、字を景伯、宏達にして遠略有り、黃門郎・武昌太守と為る。恩の三子は、曜・弘・微なり、皆 顯位を歷す。

現代語訳

謝萬は字を萬石といい、才智と器量が優秀で、器量は謝安に及ばないが、うまく誇示してくらませ、ゆえに早くから当世に声誉があった。言論にたくみで、文をつづるのが得意で、漁父・屈原・季主・賈誼・楚老・龔勝・孫登・嵇康の四隠四顕を叙述して「八賢論」をつくり、そのなかで在野にいたものを優とし、出仕したものを劣とし、これを孫綽に示した。孫綽は返答し、玄(奥深い真理)を体現して遠きを識るものは進退(在野と出仕)に区別がないと言った。かつて蔡系とともに客を征虜亭に見送り、蔡系と言い争った。蔡系は謝萬を押して長椅子から落とし、冠と帽が傾き脱げた。謝萬はおもむろに衣服を払って席につき、少しも感情を乱さずに、姿勢が定まってから、「きみは私の顔面を壊そうとしたな」と言った。蔡系は、「あなたの顔面のことなど気にしていなかった」と言った。しかし二人とも意に介せず、当時の人々はこれを称えた。
弱冠で、司徒掾に辟召され、右西属に遷されたが、就かなかった。簡文帝が宰相になると、その名声を聞き、辟召して撫軍従事中郎とした。謝萬は白綸巾と、鶴氅裘を身につけ、木製の靴で出仕した。会うと(意気投合し)、簡文帝とともに長きにわたり対談した。太原の王述は、謝萬の妻の父であり、揚州刺史となった。謝萬はかつて白綸巾を着け、平肩輿に乗り、すぐに政庁の前に至り、王述に、「ひとは君侯(あなた)を気狂いと言っていますが、君侯は本当に気狂いなんですか」と言った。王述は、「そのような言説がないことはないが、やがて(実態に)合った評価が得られるだろう」と言った。
謝萬は再び豫州刺史・領淮南太守・監司豫冀并四州軍事・仮節に遷った。王羲之が桓温に書簡を送って、「謝萬は才能が広く経典に通暁し、朝廷にいて、議論に参加させれば、将来の(宰相の)器であります。しかしいま進取の気概をくじいて、(国境の)荒れた地域に赴任させようとしています。不適任であり任務を代えるべきです」と言った。桓温は従わなかった。
謝萬が北征の任務を受けると、傲慢に振る舞って、自らは吟詠するばかりで、軍隊の指揮をしなかった。兄の謝安はひどく心配し、隊長や将帥より以下は、謝安が(謝萬の代わりに)慰めたり励ましたりした。(謝安が)謝萬に、「きみは元帥なのだから、諸将とていねいに接し、彼らの心を悦ばせるべきだ。傲慢に好き放題をしていたら(北征の)事業を成功させられようか」と言った。これを受けて謝萬が諸将を招集したが、何も伝えることはなく、ただ気ままに座の四方を指さして、「諸将はみな精強である」と言うだけだった。諸将はますます謝萬を恨んだ。さきに征虜将軍の劉建修を派遣して馬頭城の池を修築させたが、(謝萬も)みずから軍をひきいて渦水や潁水に進入し、洛陽を救援した。北中郎将の郗曇は病気によって彭城に撤退したが、謝萬は賊が強盛なので撤退すると言い出して、軍を引き返したので、軍勢が潰走し、(謝萬は)狼狽して一人で帰った。廃されて庶人とされた。のちにまた散騎常侍となったが、同じころに亡くなり、四十二歳であった。散騎常侍を送った。 子の謝韶は、字を穆度といい、若くして名声があった。このとき謝氏のなかで特別に優秀なものは、封・胡・羯・末であると言われた。封は謝韶のこと、胡は謝朗のこと、羯は謝玄のこと、末は謝川のことで、すべて彼らの小字である。謝韶・謝朗・謝川は三人とも早くに亡くなり、ただ謝玄だけが功名を立てて亡くなった。謝韶は車騎司馬に至った。謝韶の子の謝恩は、字を景伯といい、見識が広く達して遠望があり、黄門郎・武昌太守となった。謝恩の三子は、謝曜・謝弘・謝微であり、みな高位についた。

原文

朗字長度。父據、早卒。朗善言玄理、文義艷發、名亞於玄。總角時、病新起、體甚羸、未堪勞、於叔父安前與沙門支遁講論、遂至相苦。其母王氏再遣信令還、安欲留、使竟論、王氏因出云、「新婦少遭艱難、一生所寄惟在此兒」。遂流涕攜朗去。安謂坐客曰、「家嫂辭情慷慨、恨不使朝士見之」。朗終於東陽太守。
子重、字景重、明秀有才名、為會稽王道子驃騎長史。嘗因侍坐、于時月夜明淨、道子歎以為佳。重率爾曰、「意謂乃不如微雲點綴」。道子因戲重曰、「卿居心不淨、乃復強欲滓穢太清邪」。
子絢、字宣映、曾於公坐戲調、無禮於其舅袁湛。湛甚不堪之、謂曰、「汝父昔已輕舅、汝今復來加我、可謂世無渭陽情也」。絢父重、即王胡之外孫、與舅亦有不協之論、湛故有此及云。

訓読

朗 字は長度なり。父の據は、早くに卒す。朗 玄理を言ふを善くし、文義 艷發にして、名は玄に亞ぐ。總角の時に、病 新たに起こり、體は甚だ羸にして、未だ勞に堪えず、叔父の安の前に於て沙門の支遁と講論し、遂に相 苦するに至る。其の母の王氏 再び信を遣りて還らしめんとするに、安 留めんと欲し、論を竟へしめ、王氏 因りて出でて云はく、「新婦 少きとき艱難に遭ひ、一生 寄る所は惟だ此の兒在るのみ」と。遂に流涕して朗を攜へて去る。安 坐客に謂ひて曰く、「家嫂の辭情 慷慨たり、恨むらくは朝士をして之を見しめざるを」と。朗 東陽太守に終はる。
子の重、字は景重、明秀にして才名有り、會稽王道子の驃騎長史と為る。嘗て因りて侍坐し、時に月夜 明淨にして、道子 歎じて以て佳と為す。重 率爾して曰く、「意ふに乃ち微雲 點綴するに如かざると謂ふ」と。道子 因りて重に戲れて曰く、「卿の居心 不淨なり、乃ち復た強ひて太清を滓穢せんと欲するや」と。
子の絢、字は宣映、曾て公坐に於て戲調し、其舅の袁湛に無禮なり。湛 甚だ之に堪へず、謂ひて曰く、「汝の父 昔 已に舅を輕んじ、汝も今 復た來たりて我に加ふ。世々渭陽の情無しと謂ふ可し」と。絢の父の重は、即ち王胡之の外孫にして、舅と與に亦た不協の論有り、湛 故に此れに及ぶこと有りとしか云ふ。

現代語訳

謝朗は字を長度という。父の謝拠は、早くに亡くなった。謝朗は奥深い道理を唱えることを得意とし、文体と内容はつややかで伸びやかであり、名声が謝玄に次いだ。少年のとき、大きな病気を経験し、体質は虚弱であり、疲労に堪えられなかった。叔父の謝安の前で沙門の支遁と講論し、互いに批難ほど盛り上がった。母の王氏が再三に報せを送って退かせ(体を休ませ)ようとしたが、謝安は謝朗をその場に留め、決着がつくまで議論をさせようとした。王氏は出てきて、「私は若いときに艱難にあい(親族を失い)、生涯で頼れるのは(体の弱い)この子だけなのです」と言った。涙を流して謝朗を連れて帰った。謝安は同席する客に、「わが一族の嫁の言葉と感情は激しく高ぶっていた。残念なのはこれを朝廷の皆さんにご覧に入れられなかったことだ」と言った。謝朗は東陽太守で亡くなった。
子の謝重は、字を景重といい、明敏で才名があり、会稽王道子(司馬道子)の驃騎長史となった。かつて道子に侍って座り、月が明るく澄んだ夜であり、道子が美しい月だと歎じた。謝重は慌ただしく、「わずかな雲が点々と連なっているほうが美しいと思いますが」と言葉を添えた。道子は謝重の反応に戯れて、「きみの心は澄んでいない。あえて混じりけのない清さを汚し濁そうとするのか」と言った。
子の謝絢は、字を宣映といい、かつて公の席で戯れてひとを笑い、舅の袁湛に無礼をはあらいた。袁湛は我慢できず、謝絢に、「お前の父はむかし舅(王氏)を軽んじ、お前もまた私にあざけった。代々にわたり渭陽の情(『詩経』秦風より、母方の舅を思う心)がないと言うべきだな」と言った。謝絢の父の謝重は、王胡之の外孫であり、舅と不仲であったので、袁湛はこのように言ったのである。

原文

石字石奴。初拜祕書郎、累遷尚書僕射。征句難、以勳封興平縣伯。淮肥之役、詔石解僕射、以將軍假節征討大都督、與兄子玄・琰破苻堅。先是、童謠云、「誰謂爾堅石打碎」。故桓豁皆以「石」名子、以邀功焉。堅之敗也、雖功始牢之、而成于玄・琰、然石時實為都督焉。遷中軍將軍・尚書令、更封南康郡公。于時學校陵遲、石上疏請興復國學、以訓冑子、班下州郡、普修鄉校。疏奏、孝武帝納焉。
兄安薨、石遷衞將軍、加散騎常侍。以公事與吏部郎王恭互相短長、恭甚忿恨、自陳褊阨不允、且疾源深固、乞還私門。石亦上疏遜位。有司奏、石輒去職、免官。詔曰、「石以疾求退、豈準之常制。其喻令還」。歲餘不起。表十餘上、帝不許。石乞依故尚書令王彪之例、於府綜攝、詔聽之。疾篤、進位開府儀同三司、加鼓吹、未拜、卒、時年六十二。
石少患面創、療之莫愈、乃自匿。夜有物來舐其瘡、隨舐隨差、舐處甚白、故世呼為謝白面。石在職務存文刻、既無他才望、直以宰相弟兼有大勳、遂居清顯、而聚斂無饜、取譏當世。追贈司空、禮官議諡、博士范弘之議諡曰襄墨公、語在弘之傳。朝議不從、單諡曰襄。
子汪嗣、早卒。汪從兄沖以子明慧嗣、為孫恩所害。明慧從兄喻復以子暠嗣。宋受禪、國除。

訓読

石 字は石奴なり。初め祕書郎を拜し、累りに尚書僕射に遷る。句難を征し、勳を以て興平縣伯に封ぜらる。淮肥の役に、石に詔して僕射を解き、將軍假節征討大都督を以て、兄の子の玄・琰と與に苻堅を破る。是より先、童謠に云ふ、「誰ぞ爾を堅と謂ふや、石もて打碎せん」。故に桓豁 皆 「石」の名の子を以て、以て功に邀はしむ。堅の敗るるや、功 牢之は始なり、而して玄・琰と成なりと雖も、然れども石 時に實に都督と為る。中軍將軍・尚書令に遷り、封を南康郡公に更む。時に于て學校 陵遲せば、石 上疏して國學を興復し、以て冑子に訓へ、州郡に班下し、鄉校を普修せんことを請ふ。疏 奏し、孝武帝 焉を納る。
兄の安 薨じ、石 衞將軍に遷り、散騎常侍を加ふ。公事を以て吏部郎の王恭と互相に短長す。恭 甚だ忿恨し、自ら褊阨にして允はずと陳べ、且つ疾源 深固なれば、私門に還らんことを乞ふ。石も亦た上疏して位を遜る。有司 奏すらく、石は輒ち職を去り、官を免ぜよと。詔して曰く、「石 疾を以て退を求むるは、豈に之を常制に準ふるか。其れ喻して還らしめよ」と。歲餘にして起せず。表すること十餘上なるも、帝 許さず。石 故尚書令の王彪の例に依りて、府に於て綜攝せんことを乞ひ、詔して之を聽す。疾 篤く、位を開府儀同三司に進め、鼓吹を加ふるに、未だ拜せずして、卒し、時に年六十二なり。
石 少くして面創を患ひ、之を療するも愈ゆる莫く、乃ち自ら匿す。夜に物の來たりて其の瘡を舐むるもの有り、舐めらるるに隨ひて隨ひて差え、舐むる處 甚だ白く、故に世は呼びて謝白面と為す。石 職に在りて務めて文刻を存し、既にして他の才望無く、直だ宰相の弟にして兼ねて大勳有るを以て、遂に清顯に居り、而して聚斂 饜く無く、譏りを當世に取る。司空を追贈し、禮官 諡を議するに、博士の范弘之 諡を議して曰く襄墨公と。語は弘之傳に在り。朝議 從はず、單り諡して襄と曰ふ。
子の汪 嗣ぎ、早くに卒す。汪の從兄の沖 子の明慧を以て嗣がしめ、孫恩の害する所と為る。明慧の從兄の喻 復た子の暠を以て嗣がしむ。宋 受禪し、國 除かる。

現代語訳

謝石は字を石奴という。はじめ秘書郎を拝し、しきりに尚書僕射に遷った。句難を征伐し、勲功により興平県伯に封建された。淮肥の役(淝水の戦い)で、謝石に詔して僕射を解き、将軍と仮節と征討大都督として、兄の子の謝玄と謝琰とともに苻堅を破った。これより先、童謡があり、「だれがお前を堅(かたい)と言うのか、石で打ち砕ける」と歌われた。ゆえに桓豁は「石」の名をもつ子を総動員し、功績を上げさせようとした。苻堅が敗れると、軍功は劉牢之が始(勝利を始めたという評価)であり、そして謝玄と謝琰は成(勝利を完成させたという評価)であったが、しかし実際には謝石こそが都督として勝利をもたらした。中軍将軍・尚書令に遷り、封号を南康郡公に改めた。このとき学校が衰退していたので、謝石が上疏して国学を復興し、高官の子弟を教育し、州郡に範囲を広げ、郷校をあまねく設置することを要請した。上疏が提出され、孝武帝はこれを受け入れた。
兄の謝安が薨去すると、謝石は衛将軍に遷り、散騎常侍を加えた。公事によって吏部郎の王恭と相互に指弾しあった。王恭はひどく怨みを持ち、自分の意見は偏りがあって正しくなく、また病気が根深いので、辞職して私邸に還りたいと申し出た。謝石もまた上疏して官位から降りようとした。担当官は上奏し、謝石の官職を除き、罷免すべきですと述べた。詔して、「謝石が病気を理由に引退を求めるのは、いったい通常の運用に則ったものなのか。彼を説得して復帰させよ」と言った。一年あまり復職しなかった。(辞退を)十回あまり上表したが、皇帝は許さなかった。謝石はもと尚書令の王彪の例に依り、府で政治を見ることを願い、詔してこれを許した。病気が重く、官位を開府儀同三司に進め、鼓吹を加えたが、拝する前に、亡くなり、このとき六十二歳だった。
謝石は若いときに顔面に傷をわずらい、治療しても良くならず、自ら顔を隠した。夜に何かがきて傷を舐めたが、舐められた場所から傷が癒え、その箇所はとても白く、ゆえに世間では謝石を謝白面と呼んだ。謝石は官職にあって文書作成に心をくだき、それ以外に才望がなかったが、ただ宰相の弟であり(淝水で)大きな勲功があったから、高い地位におり、しかも賦税の徴収に熱心だったので、当時において誹謗された。司空を追贈し、礼官が諡を議論したとき、博士の范弘之は(謝石の欠点に基づき)諡を襄墨公にすべきと提案した。このことは范弘之伝にある。朝議は従わず、ただ諡を一文字だけの襄とした。
子の謝汪が嗣いだが、早くに亡くなった。謝汪の従兄の謝沖は子の謝明慧に嗣がせ、孫恩に殺害された。謝明慧の従兄の謝喻はさらに子の謝暠に嗣がせた。宋が受禅し、国が除かれた。

原文

邈字茂度。父鐵、永嘉太守。邈性剛骾、無所屈撓、頗有理識。累遷侍中。時孝武帝觴樂之後多賜侍臣文詔、辭義有不雅者、邈輒焚毀之、其他侍臣被詔者或宣揚之、故論者以此多邈。後為吳興太守。孫恩之亂、為賊胡桀・郜驃等所執、1.(害之)、賊逼令北面、邈厲聲曰、「我不得罪天子、何北面之有」。遂害之。邈妻郗氏、甚妬。邈先娶妾、郗氏怨懟、與邈書告絕。邈以其書非婦人詞、疑其門下生仇玄達為之作、遂斥玄達。玄達怒、遂投孫恩、并害邈兄弟、竟至滅門。

1.下文と重複するため、「害之」二字は衍字が疑われる。省く。

訓読

邈 字は茂度。父の鐵は、永嘉太守なり。邈 性は剛骾にして、屈撓する所無く、頗る理識有り。累りに侍中に遷る。時に孝武帝 觴樂の後に多く侍臣に文詔を賜はり、辭義は雅ならざる者有り、邈 輒ち之を焚毀し、其の他の侍臣 詔を被る者は或いは之を宣揚し、故に論者 此を以て邈を多とす。後に吳興太守と為る。孫恩の亂に、賊の胡桀・郜驃らの執ふる所と為り、之を害し、賊 逼りて北面せしむ。邈 聲を厲まして曰く、「我 罪を天子に得ず、何ぞ北面すること之れ有あらんや」と。遂に之を害す。邈の妻の郗氏、甚だ妬たり。邈 先に妾を娶るや、郗氏 怨懟し、邈に書を與へて絕を告ぐ。邈 其の書 婦人の詞に非ざるを以て、其の門下生の仇玄達 之が為に作るを疑ひ、遂に玄達を斥く。玄達 怒り、遂に孫恩に投じ、并せて邈の兄弟を害し、竟に門を滅すに至る。

現代語訳

謝邈は字を茂度という。父の謝鉄は、永嘉太守である。謝邈は剛直な性格で屈服せず、たわみ曲がらず、判断力と見識があった。しきりに侍中に遷った。このとき孝武帝は酒宴のあとに多くの侍臣に文詔を賜ったが、言葉や内容が典雅でないものがあり、謝邈はもらうたびに(孝武帝の恥が残らぬように)焼き捨てたが、詔をもらった他の侍臣には文面を宣揚するものがいた。ゆえに論者は謝邈が優れているとした。のちに呉興太守となった。孫恩の乱のとき、賊の胡桀や郜驃らに捕らえられ、賊に北面(服従)を迫られた。謝邈は声を励まして、「私は罪を天子に得ていない、なぜ北面するものか」と言った。かくして殺害された。謝邈の妻の郗氏は、とても嫉妬深かった。謝邈がさきに妾を娶ると、郗氏は怨みを持ち、謝邈に文書を送って絶縁を告げた。謝邈は文面が婦人のものではないので、門下生の仇玄達が彼女のために代作したことを疑い、仇玄達を退けた。仇玄達は怒り、孫恩に身を投じ、謝邈の兄弟をどちらも殺害し、一門を滅ぼすこととなった。

原文

史臣曰、建元之後、時政多虞、巨猾陸梁、權臣橫恣。其有兼將相於中外、系存亡於社稷、負扆資之以端拱、鑿井賴之以晏安者、其惟謝氏乎。簡侯任總中臺、效彰分閫。正議云唱、喪禮墮而復弘。遺音既補、雅樂缺而還備。君子哉、斯人也。文靖始居塵外、高謝人間、嘯詠山林、浮泛江海、當此之時、蕭然有陵霞之致。暨于褫薜蘿而襲朱組、去衡泌而踐丹墀、庶績於是用康、彝倫以之載穆。苻堅百萬之眾已瞰吳江、桓溫九五之心將移晉鼎、衣冠易慮、遠邇崩心。從容而杜姦謀、宴衎而清羣寇、宸居獲太山之固、惟揚去累卵之危、斯為盛矣。然激繁會於朞服之辰、敦一歡於百金之費、廢禮於媮薄之俗、崇侈於耕戰之秋、雖欲混哀樂而同歸、齊奢儉於一致、而不知穨風已扇、雅道日淪、國之儀刑、豈期若是。琰稱貞幹、卒以忠勇垂名。混曰風流、竟以文詞獲譽、並階時宰、無墮家風。奕萬以放肆為高、石奴以褊濁興累、雖粵微纇、猶稱名實。康樂才兼文武、志存匡濟、淮肥之役、勍寇望之而土崩。渦潁之師、中州應之而席卷。方欲西平鞏洛、北定幽燕、廟算有遺、良圖不果、降齡何促、功敗垂成、拊其遺文、經綸遠矣。
贊曰、安西英爽、才兼辯博。宣力方鎮、流聲臺閣。太保沈浮、曠若虛舟。任高百辟、情惟一丘。琰邈忠壯、奕萬虛放。為龍為光、或卿或將。偉哉獻武、功宣授斧。克翦凶渠、幾清中㝢。

訓読

史臣曰く、建元の後、時政 虞れ多く、巨猾 陸梁とし、權臣 橫恣たり。其れ將相を中外に兼ね、存亡を社稷に系げ、負扆して之に資くるに端拱を以てし、鑿井して之に賴るに晏安なるを以てする者有らば、其れ惟れ謝氏ならんか。簡侯 任は中臺を總べ、效は分閫に彰はる。議を正して云唱し、喪禮 墮ちて復た弘む。遺音 既に補ひて、雅樂 缺けても還た備はる。君子なるかな、斯の人や。文靖 始めは塵外に居り、高く人間を謝し、山林に嘯詠し、江海に浮泛し、此の時に當たり、蕭然として陵霞の致有り。薜蘿を褫(ぬ)ぎて朱組を襲ひ、衡泌を去りて丹墀を踐むに暨び、庶績 是に於て用て康く、彝倫 之を以て載穆たり。苻堅 百萬の眾もて已に吳江を瞰み、桓溫 九五の心もて將に晉鼎を移さんとするや、衣冠 慮を易へて、遠邇 心を崩す。從容として姦謀を杜ぎ、宴衎して羣寇を清め、宸居 太山の固きを獲て、惟に揚は累卵の危ふきを去り、斯れ盛ん為り。然れども繁會を朞服の辰に激し、一歡を百金の費に敦くし、禮を媮薄の俗に廢し、侈を耕戰の秋に崇くす。哀樂を混ぜて歸を同じくし、奢儉を齊しくして一致せしめんと欲すと雖も、而れども知らず穨風 已に扇ぎ、雅道 日々淪し、國の儀刑、豈に是の若くなるといふを期せんや。琰 貞幹を稱せられ、卒に忠勇を以て名を垂る。混 風流と曰はれ、竟に文詞を以て譽を獲て、並びに時宰に階し、家風を墮とす無し。奕萬は放肆を以て高しと為し、石奴は褊濁を以て累を興す。粵(ここ)に微纇ありと雖も、猶ほ名實に稱(かな)へり。康樂は才は文武を兼ね、志は匡濟に存し、淮肥の役に、勍寇 之を望みて土のごとく崩る。渦潁の師、中州 之に應じて席卷す。方に西のかた鞏洛を平らげ、北のかた幽燕を定めんと欲し、廟算 遺有り、良圖 果たさず、齡を降ること何ぞ促る、功敗 成るに垂とす。其の遺文を拊すれば、經綸 遠し。
贊に曰く、安西 英爽にして、才は辯博を兼ぬ。力を方鎮に宣べ、聲を臺閣に流す。太保 沈浮して、曠として虛舟の若し。任は百辟より高けれども、情は惟だ一丘なるのみ。琰邈は忠壯にして、奕萬は虛放たり。龍為り光為り、或いは卿 或いは將なり。偉なるかな獻武、功は授斧に宣ぶ。克く凶渠を翦りて、幾ど中㝢を清しとす。

現代語訳

史臣はいう、建元年間(三四三~三四四年)より後、当時の政治は困難が多く、巨悪が陸続と出現し、権力を持った臣下がほしいままにした。この状況で将軍と宰相を内外で兼ね、社稷を存続させ、皇帝から政務全般を預かり、井戸を掘って(民政を)安定させられる一族がいるとすれば、それは謝氏ではなかろうか。簡侯(謝尚)は朝廷で政務を統括し、将帥としても功績を著した。議論を正しくして唱えたので、廃れた葬礼が復興し広がった。失われた音楽を補って、欠けた雅楽が整備された。君子であるな、この人(謝尚)は。文靖(謝安)は初めは世俗から外れ、人々との交流を絶ち、山林で歌い暮らし、江海に浮き沈みしていたが、時節が到来すると、いそいそと霞を越え(出仕し)た。薜蘿(隠者の衣)を脱いで朱組(官僚の組紐)を身につけ、衡泌(隠居の地)を去って丹墀(天子の庭)を踏むようになると、数多くの治績があって、人倫の道が厚くなった。苻堅が百万の兵で呉江の地(東晋)をにらみ、桓温が天子として晋から禅譲を受けようとすると、官僚たちは動揺し、遠近は求心力を失った。(しかし謝安だけが)落ち着いて(桓温の)邪悪な計画を防ぎ、宴席に居ながら(苻堅ら)寇賊を清めた。東晋の皇帝は太山のような盤石さを手に入れ、揚州の地は累卵の危うさが除かれ、晋帝国は盛んとなった。しかし服喪中に派手な宴会を開いたり、一回の酒宴で百金を消費したりして、礼の風俗を傷つけ、農耕や戦いの繁忙期にぜいたくをした。哀しみと楽しみ、奢侈と倹約の区別をなくそうとしたものであろうが、風俗が退廃に向かい、正しい道が日々に消え去り、国家の儀礼や刑罰がともづれに(秩序を失うことに)なると考えなかったのか。謝琰は貞節と才幹によって称えられ、忠勇の名を残し、謝混は風流とされ、文や詞によって名誉を得て、ときの宰相に列し、家風を堕落させることがなかった。謝奕と謝萬は気ままさを重んじ、謝石奴(謝石)は狭量と強欲さにより政難を招いた。これは僅かな欠点であるが、名実に釣り合っている。康楽(謝玄)は才は文武を兼ね、国家を救済しようと志した。淮肥の役(淝水の戦い)では、寇賊(苻堅ら)は謝玄の軍を遠くから望むと土のように崩れた。渦水や潁水の一帯に軍を展開すると、中原地域はこれに応じて席巻され(絡め取られ)た。西方で鞏と洛を平定し、北方で幽と燕を平定しようとしたが、廟算が完全でなく、良き計画が実現されず、寿命がせまり、成否を確定させようとした。謝玄の残した文を愛でれば、天下を統治する志は遠大であった。
賛にいう、安西(将軍の謝尚)は容姿がすぐれて気高く、論が明らかで学問も広かった。方鎮として力を発揮し、声望が台閣(朝廷)に届いた。太保(謝安)は軽やかに(海を)浮き沈みし、ものを載せていない船のように自在であった。任務は百辟(諸侯)より重かったが、気に留めたのは(隠棲した東山の)一つの丘だけだった。謝琰と謝邈は忠誠で勇ましく、謝奕と謝萬は物事に捕らわれなかった。(謝氏一族は)龍であったり光であったり、あるいは卿となったり将となったりした。偉大であることだ献武(謝玄)は、皇帝の軍権を振るって功績があった。凶悪な首領(苻堅)を討伐し、中原を清める直前まで迫った。