いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第五十一巻_王遜・蔡豹・羊鑒・劉胤・桓宣(族子伊)・朱伺・毛宝(子穆之・孫璩・宗人徳祖)・劉遐・鄧嶽(子遐)・朱序

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

王遜

原文

王遜字邵伯、魏興人也。仕郡察孝廉、為吏部令史、轉殿中將軍、累遷上洛太守。私牛馬在郡生駒犢者、秩滿悉以付官、云是郡中所產也。轉魏興太守。
惠帝末、西南夷叛、寧州刺史李毅卒、城中百餘人奉毅女固守經年。永嘉四年、治中毛孟詣京師求刺史、不見省。孟固陳曰、「君亡親喪、幽閉窮城、萬里訴哀、不垂愍救。既慚包胥無哭秦之感、又愧梁妻無崩城之驗、存不若亡、乞賜臣死」。朝廷憐之、乃以遜為南夷校尉・寧州刺史、使於郡便之鎮。
遜與孟俱行、道遇寇賊、踰年乃至。外逼李雄、內有夷寇、吏士散沒、城邑丘墟。遜披荒糾厲、收聚離散、專杖威刑、鞭撻殊俗。遜未到州、遙舉董聯為秀才、建寧功曹周悅謂聯非才、不下版檄。遜既到、收悅殺之。悅弟潛謀殺遜、以前建寧太守趙混子濤代為刺史。事覺、並誅之。又誅豪右不奉法度者數十家。征伐諸夷、俘馘千計、獲馬及牛羊數萬餘、於是莫不振服、威行寧土。又遣子澄奉表勸進於元帝、帝嘉之、累加散騎常侍・安南將軍・假節、校尉・刺史如故、賜爵褒中縣公。遜以地勢形便、上分牂柯為平夷郡、分朱提為南廣郡、分建寧為夜郎郡、分永昌為梁水郡、又改益州郡為晉寧郡、事皆施行。
先是、越巂太守李釗為李雄所執、自蜀逃歸、遜復以釗為越巂太守。李雄遣李驤・任回攻釗、釗自南秦與漢嘉太守王載共距之、戰于溫水、釗敗績、載遂以二郡附雄。後驤等又渡瀘水寇寧州、遜使將軍1.姚崇・爨琛距之、戰于堂狼、大破驤等、崇追至瀘水、透水死者千餘人。崇以道遠不敢渡水、遜以崇不窮追也、怒囚羣帥、執崇、鞭之、怒甚、髮上衝冠、冠為之裂、夜中卒。
遜在州十四年、州人復立遜中子堅行州府事。詔除堅為南夷校尉・寧州刺史・假節、諡遜曰壯。陶侃懼堅不能抗對蜀人、太寧末、表以零陵太守尹奉為寧州、徵堅還京、病卒。兄澄襲爵、歷魏興太守・散騎常侍。

1.中華書局本の校勘記によると、「姚崇」は、明帝紀・李雄載記では「姚岳」に作り、『資治通鑑』巻九十二は「姚嶽」に作る。本来の名は「岳」あるいは「嶽」であり、東晋康帝の諱を避けて「崇」にしたのであろう。

訓読

王遜 字は邵伯、魏興の人なり。郡に仕へて孝廉に察せられ、吏部令史と為り、殿中將軍に轉じ、累りに上洛太守に遷る。私の牛馬 郡に在りて駒犢の生む者は、秩 滿つるとき悉く以て官に付し、是の郡中の所產なりと云ふ。魏興太守に轉ず。
惠帝の末に、西南夷 叛し、寧州刺史の李毅 卒す。城中の百餘人 毅が女を奉りて固守すること經年。永嘉四年に、治中の毛孟 京師に詣りて刺史を求め、省られず。孟 固く陳べて曰く、「君は亡び親は喪し、窮城に幽閉し、萬里 訴哀するに、愍救を垂れず。既に包胥に慚ぢて秦に哭するの感無く、又 梁妻に愧ぢて城を崩すの驗無く、存りて亡に若かず、乞ふ臣に死を賜へと」と。朝廷 之を憐れみ、乃ち遜を以て南夷校尉・寧州刺史と為し、郡より便ち鎮に之かしむ。
遜 孟と與に俱に行き、道に寇賊に遇ひ、年を踰て乃ち至る。外は李雄に逼られ、內に夷寇有り、吏士 散沒し、城邑 丘墟たり。遜 荒を披て糾厲し、離散するを收聚し、專ら威刑に杖り、殊俗を鞭撻す。遜 未だ州に到らざるに、遙かに董聯を舉げて秀才と為し、建寧功曹の周悅 聯を才に非ずと謂ひ、版檄を下さず。遜 既に到り、悅を收めて之を殺す。悅が弟の潛 遜を殺さんと謀り、前建寧太守の趙混が子の濤を以て代へて刺史と為す。事 覺し、並びに之を誅す。又 豪右の法度を奉ぜざる者 數十家を誅す。諸夷を征伐し、俘馘すること千もて計へ、馬及び牛羊を獲ること數萬餘。是に於て振服せざるは莫く、威 寧土に行はる。又 子の澄を遣はして表を奉じて元帝を勸進す。帝 之を嘉し、累りに散騎常侍・安南將軍・假節を加へ、校尉・刺史は故の如く、爵褒中縣公を賜ふ。遜 地勢の形便を以て、牂柯を分けて平夷郡と為し、朱提を分けて南廣郡と為し、建寧を分けて夜郎郡と為し、永昌を分けて梁水郡と為し、又 益州郡を改めて晉寧郡と為すを上す。事 皆 施行せらる。
是より先、越巂太守の李釗 李雄の執ふる所と為り、蜀より逃歸し、遜 復た釗を以て越巂太守と為す。李雄 李驤・任回を遣はして釗を攻め、釗 南秦より漢嘉太守の王載と與に共に之を距み、溫水に戰ふ。釗 敗績し、載 遂に二郡を以て雄に附す。後に驤ら又 瀘水を渡りて寧州を寇し、遜 將軍の姚崇・爨琛をして之を距ましめ、堂狼に戰ひ、大いに驤らを破り、崇 追ひて瀘水に至り、水に透して死者は千餘人なり。崇 道の遠きを以て敢て水を渡らず、遜 崇の窮追せざるを以て、怒りて羣帥を囚へ、崇を執へ、之を鞭ち、怒ること甚しく、髮は上して冠を衝き、冠 之が為に裂け、夜中に卒す。
遜 州に在ること十四年、州人 復た遜が中子の堅を立てて州府の事を行せしむ。詔して堅を除して南夷校尉・寧州刺史・假節と為し、遜に諡して壯と曰ふ。陶侃 堅の能く蜀人に抗對せざるを懼れ、太寧末に、表して零陵太守の尹奉を以て寧州と為し、堅を徵して京に還らしめ、病もて卒す。兄の澄 爵を襲ひ、魏興太守・散騎常侍を歷す。

現代語訳

王遜は字を邵伯といい、魏興の人である。郡に仕えて孝廉に察挙され、吏部令史となり、殿中将軍に転じ、しきりに上洛太守に遷った。(王遜の)私有の牛馬が(上洛)郡にいるとき生んだ駒犢(子午と子牛)は、任期満了のときすべて官有とし、この郡中の産物だと言った。魏興太守に転じた。
恵帝の末期、西南夷が叛乱し、寧州刺史の李毅が亡くなった。城中の百人あまりは李毅の娘を奉戴して堅守し年をまたいだ。永嘉四(三一〇)年、治中の毛孟が京師を訪れて(後任の)刺史を任命するように求めたが、無視された。毛孟は強く要請し、「上官が死んで親も死に、窮迫した城に閉じ込められ、万里を越えて(京師にきて)哀訴しても、憐みと救済を得られない。もはや(楚の)申包胥が秦に(援軍を要請し)哭泣したときの気持ちもなく、また杞梁の妻が(斉と戦って死んだ夫のために悲しんで)城壁がくずれた状況とも異なります。生きているよりも死んだほうが良いので、私に死を賜ってください」と言った。朝廷はこれに感じ入り、王遜を南夷校尉・寧州刺史とし、魏興郡からすぐに(寧州の)鎮所に行かせた。
王遜は毛孟と同行したが、道中で盗賊と遭遇し(赴任が遅れ)、年をこえて到着した。外からは李雄に圧迫され、内では異民族の侵略があり、吏士は散りぢりで、城邑は廃墟であった。王遜は荒廃した地域をひらいて糾合し、離散したものを集め直し、もっぱら威刑を行使し、異民族を強制的にまとめあげた。王遜がまだ寧州に到着する前、遠方から董聯を秀才に挙げたが、建寧功曹の周悦は董聯の才能が適任でないとし、必要な文書を発行しなかった。王遜が到着すると、周悦を捕らえて殺した。周悦の弟の周潜が王遜を殺そうと計画し、前建寧太守の趙混の子の趙濤を寧州刺史に代えようとした。計画が発覚し、関係者を誅殺した。また法制を守らない豪族の数十家を誅殺した。さまざまな夷族を征伐し、首を斬ったものは千単位で、馬や牛羊の数万あまりを獲得した。かくして王遜に服従しないものはおらず、威勢が寧州に行き渡った。また子の王澄を派遣して上表して元帝に帝位を勧進した。元帝はこれを喜び、しきりに散騎常侍・安南将軍・仮節を加え、校尉・刺史は現状どおりとし、褒中県公の爵位を賜った。王遜は土地の実勢に基づき、牂柯を分けて平夷郡とし、朱提を分けて南広郡とし、建寧を分けて夜郎郡とし、永昌を分けて梁水郡とし、また益州郡を改めて晋寧郡とするよう上言した。すべて施行された。
これよりさき、越巂太守の李釗が李雄に捕らえられて、蜀から逃げ帰ったが、王遜はふたたび王釗を越巂太守とした。李雄は李驤と任回を派遣して李釗を攻撃した。李釗は南秦から漢嘉太守の王載とともにこれを防ぎ、温水で戦った。李釗は敗退し、そして王載は二郡をあげて李雄に帰属した。のちに李驤がまた瀘水を渡って寧州に侵略すると、王遜は将軍の姚崇(姚岳・姚嶽)と爨琛にこれを防がせ、堂狼で戦い、大いに李驤らを破り、姚崇は追って瀘水に到達し、(李驤の軍は)川を通過するとき千人あまりが死んだ。姚崇は距離が遠いのであえて川を渡らなかった。王遜は姚崇がきびしく追跡しなかったので、怒って指揮官を収監し、姚崇を捕らえ、鞭で打った。(王遜は姚崇に)ひどく怒り、髪の毛が立って冠を衝きあげ、それで冠が裂け、夜中に亡くなった。
王遜は寧州に十四年間おり、州の人々は王遜の中子の王堅を立てて州府の政務を代行させた。詔して王堅を南夷校尉・寧州刺史・仮節に任命し、王遜に諡して壮とした。陶侃は王堅では蜀人(成漢)に対抗できないことを懼れ、太寧年間の末(~三二六年)、上表して零陵太守の尹奉を寧州刺史とし、王堅を京師に召還した。病没した。兄の王澄が爵位を襲い、魏興太守・散騎常侍を歴任した。

蔡豹

原文

蔡豹字士宣、陳留圉城人。高祖質、漢衞尉、左中郎將邕之叔父也。祖睦、魏尚書。父宏、陰平太守。豹有氣幹、歷河南丞、長樂・清河太守。避亂南渡、元帝以為振武將軍・臨淮太守、遷建威將軍・徐州刺史。初、祖逖為徐州、豹為司馬、素易豹。至是、逖為豫州、而豹為徐州、俱受征討之寄、逖甚愧之。
是時太山太守徐龕與彭城內史劉遐同討反賊周撫於寒山、龕將于藥斬撫。及論功、而遐先之。龕怒、以太山叛、自號安北將軍・兗州刺史、攻破東莞太守1.侯史旄而據其塢。石季龍伐之、龕懼、求降、元帝許焉。既而復叛歸石勒、勒遣其將2.王伏都3.張景等數百騎助龕。詔征虜將軍羊鑒・武威將軍侯禮・臨淮太守劉遐・鮮卑段文鴦等與豹共討之。諸將畏愞、頓兵下邳、不敢前。豹欲進軍、鑒固不許。龕遣使請救於勒、勒辭以外難、而多求於龕。又王伏都等淫其室。龕知勒不救、且患伏都等縱暴、乃殺之、復求降。元帝惡其反覆、不納、敕豹・鑒以時進討。鑒及劉遐等並疑憚不相聽從、互有表聞、故豹久不得進。尚書令刁協奏曰、「臣等伏思淮北征軍已失不速、今方盛暑、冒涉山險、山人便弓弩、習土俗、一人守阨、百夫不當。且運漕至難、一朝糧乏、非復智力所能防禦也。書云寧致人、不致於人。宜頓兵所在、深壁固壘、至秋不了、乃進大軍」。詔曰、「知難而退、誠合兵家之言。然小賊雖狡猾、故成擒耳。未戰而退、先自摧衄、亦古之所忌。且邵存已據賊壘、威勢既振、不可退一步也」。於是遣治書御史郝嘏為行臺、催攝令進討。豹欲逕進、鑒執不聽。協又奏免鑒官、委豹為前鋒、以鑒兵配之、降號折衝將軍、以責後效。豹進據卞城、欲以逼龕。時石季龍屯鉅平、將攻豹、豹夜遁、退守下邳。徐龕襲取豹輜重於檀丘、將軍留寵・陸黨力戰、死之。
豹既敗、將歸謝罪、北中郎王舒止之、曰、「胡寇方至、使君且當攝職、為百姓障扞。賊退謝罪、不晚也」。豹從之。元帝聞豹退、使收之。使者至、王舒夜以兵圍豹、豹以為他難、率麾下擊之、聞有詔乃止。舒執豹、送至建康、斬之、尸于市三日、時年五十二。
豹在徐土、內撫將士、外懷諸眾、甚得遠近情、聞其死、多悼惜之。無子、兄子裔字元子、散騎常侍・兗州刺史・高陽鄉侯。殷浩北伐、使裔率眾出彭城、卒於軍。

1.中華書局本の校勘記によると、「侯史旄」は侯史光の孫であり、侯史光伝は「侯史施」に作っている。
2.石勒載記は「王步都」に作る。
3.石勒載記と『資治通鑑』巻九十一は「張敬」に作る。

訓読

蔡豹 字は士宣、陳留圉城の人なり。高祖の質は、漢の衞尉にして、左中郎將邕の叔父なり。祖の睦は、魏の尚書なり。父の宏、陰平太守なり。豹 氣幹有り、河南丞、長樂・清河太守を歷す。亂を避けて南渡し、元帝 以て振武將軍・臨淮太守と為し、建威將軍・徐州刺史に遷す。初め、祖逖 徐州と為り、豹 司馬為りて、素より豹を易んず。是に至り、逖 豫州と為り、而して豹 徐州と為り、俱に征討の寄を受け、逖 甚だ之を愧づ。
是の時 太山太守の徐龕 彭城內史の劉遐と與に同に反賊の周撫を寒山に討ち、龕の將の于藥 撫を斬る。功を論ずるに及びて、遐 之を先とす。龕 怒り、太山を以て叛し、自ら安北將軍・兗州刺史を號し、攻めて東莞太守の侯史旄を破りて其の塢に據る。石季龍 之を伐つ。龕 懼れ、降らんことを求め、元帝 焉を許す。既にして復た叛して石勒に歸し、勒 其の將の王伏都・張景ら數百騎を遣はして龕を助けしむ。征虜將軍の羊鑒・武威將軍の侯禮・臨淮太守の劉遐・鮮卑段の文鴦らに詔して豹と與に共に之を討たしむ。諸將 畏愞し、兵を下邳に頓め、敢て前まず。豹 軍を進めんと欲するに、鑒 固く許さず。龕 使を遣はして救を勒に請ひ、勒 辭するに外難を以てし、而して多いに龕に求む。又 王伏都ら其の室を淫す。龕 勒の救はざるを知り、且つ伏都らの縱暴を患ひ、乃ち之を殺し、復た降らんことを求む。元帝 其の反覆するを惡み、納れず、豹・鑒に敕して時を以て進みて討たしむ。鑒及び劉遐ら並びに疑ひ憚りて相 聽從せず、互いに表聞有り、故に豹 久しく進むを得ず。尚書令の刁協 奏して曰く、「臣ら伏して思ふに淮北の征軍 已に速からざるに失す。今 方に盛暑にして、山險を冒涉せば、山人 弓弩に便たり、土俗に習へば、一人 阨を守せば、百夫 當たらず。且つ運漕 至難にして、一朝に糧 乏せば、復た智力の能く防禦する所に非ざるなり。書に云ふ寧ろ人を致すも、人に致されずと〔一〕。宜しく兵を所在に頓め、壁を深くし壘を固くし、秋に至りて了せずんば、乃ち大軍を進めよ」と。詔して曰く、「難を知りて退くは、誠に兵家の言に合ふ。然れども小賊 狡猾なると雖も、故に擒と成すのみ。未だ戰はずして退き、先自づ摧衄するは、亦た古の忌む所なり。且つ邵存 已に賊壘に據り〔二〕、威勢 既に振ひ、一步を退く可からざるなり」と。是に於て治書御史の郝嘏を遣はして行臺と為し、催攝して進み討たしむ。豹 逕に進まんと欲するに、鑒 執らへて聽さず。協 又 鑒の官を免ぜんことを奏し、豹に委ねて前鋒と為し、鑒の兵を以て之に配し、號を折衝將軍に降し、以て後の效を責む。豹 進みて卞城に據り、以て龕に逼らんと欲す。時に石季龍 鉅平に屯し、將に豹を攻めんとす。豹 夜に遁し、退きて下邳を守る。徐龕 襲ひて豹の輜重を檀丘に取り、將軍の留寵・陸黨 力戰して、之に死す。
豹 既に敗れ、將に歸りて謝罪せんとするに、北中郎の王舒 之を止めて、曰く、「胡寇 方に至らんとし、使君 且に當に職を攝り、百姓の為に障扞すべし。賊 退きて謝罪せば、晚からざるなり」と。豹 之に從ふ。元帝 豹の退くを聞き、之を收めしむ。使者 至り、王舒 夜に兵を以て豹を圍む。豹 他の難と以為ひ、麾下を率ゐて之を擊つ。詔有ると聞きて乃ち止む。舒 豹を執へ、送りて建康に至る。之を斬る、市に尸すること三日、時に年五十二なり。
豹 徐土に在りて、內は將士を撫し、外は諸眾を懷け、甚だ遠近の情を得たり。其の死するを聞き、多く悼み之を惜む。子無し。兄の子の裔 字は元子、散騎常侍・兗州刺史・高陽鄉侯なり。殷浩 北伐するに、裔をして眾を率ゐて彭城に出でしめ、軍に卒す。

〔一〕『孫子』虚実篇に、「故善戰者、致人而不致于人」とある。
〔二〕中華書局本は、「邵存」を固有名詞とし、人名として扱うが、文中では初出。

現代語訳

蔡豹は字を士宣といい、陳留圉城の人である。高祖父の蔡質は、後漢の衛尉で、左中郎将の蔡邕の叔父である。祖父の蔡睦は、魏の尚書である。父の蔡宏は、陰平太守である。蔡豹は気性に芯があり、河南丞、長楽・清河太守を歴任した。乱を避けて江南に渡り、元帝は彼を振武将軍・臨淮太守とし、建威将軍・徐州刺史に遷した。これよりさき、祖逖が徐州刺史であり、蔡豹が(祖逖の部下の)司馬であったので、祖逖は蔡豹を軽んじてきた。ここに至り、祖逖が豫州刺史、蔡豹が徐州刺史となり、同格で征伐軍を編成するように命じられると、祖逖はひどく恥じた。
このとき太山太守の徐龕は彭城内史の劉遐とともに反乱した賊の周撫を寒山で討伐し、徐龕の将の于薬が周撫を斬った。功績を論じるとき、劉遐は于薬の働きを第一とした。徐龕は怒り、太山で叛し、自ら安北将軍・兗州刺史と号し、東莞太守の侯史旄を攻め破りその塢を拠点とした。石季龍(石虎)が徐龕を討伐した。徐龕は懼れ、(東晋に)降服したいと求め、元帝はこれを許した。のちに再び(徐龕は東晋から)離叛して石勒に帰順し、(石勒は)その将の王伏都と張景ら数百騎を派遣して徐龕を助けさせた。征虜将軍の羊鑒と武威将軍の侯礼と臨淮太守の劉遐と鮮卑段の文鴦らに詔して蔡豹とともに徐龕を討伐させた。諸将は(徐龕を)畏れて恐がり、兵を下邳にとどめ、あえて進まなかった。蔡豹が軍を進めようとしたが、羊鑒は強く反対した。徐龕は使者を派遣して石勒に救援を求めたが、石勒は国外の困難を理由に断り、(あべこべに)徐龕に大いに援助を求めた。さらに王伏都らが徐龕の妻と姦通した。徐龕は石勒に救援するつもりがないことを知り、しかも王伏都らがほしいままに暴虐することを嫌い、王伏都らを殺し、また(東晋に)降服を願い出た。元帝は度重なる裏切りをにくみ、聞き入れず、蔡豹と羊鑒に敕して時を見計らって進軍して討伐せよと命じた。羊鑒および劉遐らは二人とも憚り疑ってたがいに勅命に従わず、銘々に上表を行い、このせいで蔡豹は長いこと進めなかった。尚書令の刁協が上奏して、「私たちが伏して思いますに淮北の征伐はすでに速攻の時機を逃しました。いま猛暑であり、険しい山地を強行すれば、山地の人々は弓弩を得意とし、現地の事情に精通しているため、一人が狭い場所を守れば、百人の兵でも敵いません。しかも兵糧の運送が至難であり、糧食が欠乏する日がくれば、もはや智恵や力の持ち主でも防ぎ止めることができません。兵法書に他人を自分の思うようにするが、(自分は)他人の思うようにされないとあります。兵を現在地にとどめ、城塁を高くし土塁を固め、秋になっても(賊の抵抗が)続いていれば、大軍を進めなさい」と言った。詔して、「苦難を知って退くことは、兵家の言葉と合致する。しかし小勢力の賊は狡猾であっても、捕らえてしまえば十分だ。戦わずに退き、こちらから先に挫けて敗れることも、古くから戒められてきたことだ。しかも邵存はすでに賊の基地に拠り、威勢がすでに振るっているので、一歩も退いてはならない」と言った。ここにおいて治書御史の郝嘏を派遣として行台とし、(徐州の軍を)督促して進み(徐龕を)討伐させた。蔡豹はただちに進もうとしたが、羊鑒が抵抗して拒んだ。刁協はさらに羊鑒の官職を罷免することを上奏し、蔡豹に前鋒をまかせ、羊鑒の兵を蔡豹の配下に移し、(羊鑒の)官号を折衝将軍に降格し、(進軍を遅延させた)責任を取らせた。蔡豹は進んで卞城に拠り、何龕に接近した。このとき石季龍は鉅平に駐屯し、蔡豹に攻めかかろうとした。蔡豹は夜に逃げ、退いて下邳を守った。徐龕は襲撃して蔡豹の輜重を檀丘で奪いとり、将軍の留寵と陸党は奮戦して、この戦いで死んだ。
蔡豹は敗退し、(建康に)帰って謝罪しようとしたが、北中郎の王舒が制止して、「胡賊の襲撃が迫っています、あなたは指揮官として、万民のため防衛の職務を果たしなさい。賊が撤退してから(元帝に)謝罪しても、遅くありません」と言った。蔡豹はこれに従った。元帝は蔡豹が撤退したことを聞き、彼を捕らえさせた。使者が到着すると、王舒は夜に兵をつかって蔡豹を囲んだ。蔡豹は(包囲したものを)敵と誤認し、麾下の兵を使って攻撃した。詔があると聞いて攻撃をやめた。王舒は蔡豹を捕らえ、建康に送り届けた。蔡豹を斬って、市にさらすこと三日、時に五十二歳であった。
蔡豹は徐州の地におり、内では将士を慰撫し、外では諸種の民を懐柔し、遠近から強く支持された。彼が死んだと聞き、多くのものが悼み惜しんだ。子はいなかった。兄の子の蔡裔は字を元子といいい、散騎常侍・兗州刺史・高陽郷侯である。殷浩が北伐するとき、蔡裔に軍を率いて彭城に進ませ、軍中で亡くなった。

羊鑒

原文

羊鑒字景期、太山人也。父濟、匈奴中郎將。兄煒、歷太僕・兗徐二州刺史。鑒為東陽太守、累遷太子左衞率。時徐龕反叛、司徒王導以鑒是龕州里冠族、必能制之、請遣北討。鑒深辭才非將帥。太尉郗鑒亦表謂鑒非才、不宜妄使。導不納、強啟授以征討都督、果敗績。導以舉鑒非才、請自貶、帝不從。有司正鑒斬刑、元帝詔以鑒太妃外屬、特免死、除名。
久之、為少府。及王敦反、明帝以鑒敦舅、又素相親黨、微被嫌責。及成帝即位、豫討蘇峻、以功封豐城縣侯、徙光祿勳、卒。

訓読

羊鑒 字は景期、太山の人なり。父の濟は、匈奴中郎將なり。兄の煒は、太僕・兗徐二州刺史を歷す。鑒 東陽太守と為り、累りに太子左衞率に遷る。時に徐龕 反叛し、司徒の王導 鑒の是れ龕の州里の冠族たるを以て、必ず能く之を制すれば、請ひて北討に遣はす。鑒 深く才の將帥に非ずと辭す。太尉の郗鑒も亦た表して鑒 才に非ず、宜しく妄りに使はすべからずと謂ふ。導 納れず、強ひて啟して授くるに征討都督を以てし、果たして敗績す。導 鑒の非才を舉ぐるを以て、自ら貶すを請ひ、帝 從はず。有司 正に鑒を斬刑とすべしとし、元帝 詔して鑒の太妃の外屬を以て、特に死を免れ、除名す。
久之、少府と為る。王敦 反するに及び、明帝 鑒は敦の舅なるを以て、又 素より相 親黨なれば、嫌責せらる微し。成帝 即位するに及び、蘇峻を討つに豫り、功を以て豐城縣侯に封ぜられ、光祿勳に徙り、卒す。

現代語訳

羊鑒は字を景期といい、太山の人である。父の羊済は、匈奴中郎将である。兄の羊煒は、太僕・兗徐二州刺史を歴任した。羊鑒は東陽太守となり、しきりに太子左衛率に遷った。このとき徐龕が反乱し、司徒の王導は羊鑒が徐龕と同郷の名族であるため、きっと制圧できると考え、北伐に派遣しようとした。羊鑒は自分には将帥の才覚がありませんと辞退した。太尉の郗鑒もまた上表して羊鑒はその才覚がなく、みだりに任命すべきでないと言った。王導は聞き入れず、強引に上啓して羊鑒に征討都督を授けたが、果たして敗北をした。王導は不適任の羊鑒を推挙した責任で、みずから降格を申し出たが、元帝は認めなかった。担当官は羊鑒が斬刑にあたると述べたが、元帝は詔して羊鑒が太妃の母系親族であるから、特別に死刑を免除し、除名した。
しばらくして、少府となった。王敦が反すると、明帝は羊鑒が王敦の舅であり、ふだんから親しい仲間であるとして、(羊鑒は)追及されなかった。成帝が即位すると、蘇峻の討伐に参加し、その功績で豊城県侯に封建され、光禄勲に移り、亡くなった。

劉胤

原文

劉胤字承胤、東萊掖人、漢齊悼惠王肥之後也。美姿容、善自任遇、交結時豪、名著海岱間、士咸慕之。舉賢良、辟司空掾、並不就。
會天下大亂、攜母欲避地遼東、路經幽州、刺史王浚留胤、表為渤海太守。浚敗、轉依冀州刺史邵續。續徒眾寡弱、謀降於石勒、胤言於續曰、「夫田單・包胥、齊楚之小吏耳、猶能存已滅之邦、全喪敗之國。今將軍杖精銳之眾、居全勝之城、如何墜將登之功於一蕢、委忠信之人於豺狼乎。且項羽・袁紹非不強也、高祖縞冠、人應如響。曹公奉帝、而諸侯綏穆。何者。蓋逆順之理殊、自然之數定也。況夷戎醜類、屯結無賴、雖有犬羊之盛、終有庖宰之患、而欲託根結援、無乃殆哉」。續曰、「若如君言、計將安出」。胤曰、「琅邪王以聖德欽明、創基江左、中興之隆可企踵而待。今為將軍計者、莫若抗大順以激義士之心、奉忠正以厲軍人之志。夫機事在密、時至難違、存亡廢興、在此舉矣」。續從之、乃殺異議者數人、遣使江南、朝廷嘉之。胤仍求自行、續厚遣之。
既至、元帝命為丞相參軍、累遷尚書吏部郎。胤聞石季龍攻厭次、言於元帝曰、「北方方鎮皆沒、惟餘邵續而已。如使君為季龍所制、孤義士之心、阻歸本之路。愚謂宜存救援」。元帝將遣救之、會續已沒而止。王敦素與胤交、甚欽貴之、請為右司馬。胤知敦有不臣心、枕疾不視事、以是忤敦意、出為豫章太守、辭以腳疾、詔就家授印綬。郡人莫鴻、南土豪族、因亂、殺本縣令、橫恣無道、百姓患之。胤至、誅鴻及諸豪右、界內肅然。咸和初、為平南軍司、加散騎常侍。蘇峻作亂、溫嶠率眾而下、留胤等守湓口。事平、以勳賜爵豐城子。俄而代嶠為平南將軍・都督江州諸軍事・領江州刺史・假節。
胤位任轉高、矜豪日甚、縱酒耽樂、不恤政事、大殖財貨、商販百萬。初、胤之代嶠也、遠近皆謂非選。陶侃・郗鑒咸云胤非方伯才、朝廷不從。或問王悅曰、「今大難之後、綱紀弛頓、自江陵至于建康三千餘里、流人萬計、布在江州。江州、國之南藩、要害之地、而胤以侈忲之性、臥而對之、不有外變、必有內患」。悅曰、「聞溫平南語家公云、連得惡夢、思見代者。尋云可用劉胤。此乃溫意、非家公也」。是時朝廷空罄、百官無祿、惟資江州運漕。而胤商旅繼路、以私廢公。有司奏免胤官。書始下、而胤為郭默所害、年四十九。
子赤松嗣、尚南平長公主、位至黃門郎・義興太守。

訓読

劉胤 字は承胤、東萊掖の人にして、漢の齊悼惠王肥の後なり。姿容美しく、善く自ら任遇し、時豪と交結し、名を海岱の間に著はし、士 咸 之を慕ふ。賢良に舉げ、司空掾に辟せらるるも、並びに就かず。
會 天下 大いに亂れ、母を攜へて地を遼東に避けんと欲し、路は幽州を經るに、刺史の王浚 胤を留め、表して渤海太守と為す。浚 敗るるや、轉じて冀州刺史の邵續に依る。續の徒眾 寡弱なれば、石勒に降らんことを謀る。胤 續に言ひて曰く、「夫れ田單・包胥は、齊楚の小吏なるのみに、猶ほ能く已に滅ぶの邦に存し、喪敗の國を全す。今 將軍 精銳の眾を杖し、全勝の城に居るに、如何ぞ將に之に登らんとするの功を一蕢に墜とし、忠信の人を豺狼に委ぬるか。且つ項羽・袁紹 強ならざるに非ざるなり、高祖 縞冠するや、人 應ずること響が如し。曹公 帝を奉るや、諸侯 綏穆す。何者ぞや。蓋し逆順の理 殊なり、自然の數 定まればなり。況んや夷戎醜類、無賴を屯結す、犬羊の盛有りと雖も、終に庖宰の患有り、而して根を託し援を結ばんと欲するは、乃ち殆きこと無きや」と。續曰く、「若し君の言が如くんば、計 將に安に出でん」と。胤曰く、「琅邪王 聖德欽明なるを以て、基を江左に創め、中興の隆 企踵して待つ可し。今 將軍の為に計らば、大順を抗(すす)めて以て義士の心を激くし、忠正を奉して以て軍人の志を厲ますに若くは莫し。夫れ機事 密に在り、時 至りて違ひ難く、存亡廢興、此の舉に在らん」と。續 之に從ひ、乃ち異議する者數人を殺し、使を江南に遣はし、朝廷 之を嘉す。胤 仍りて自ら行かんことを求め、續 厚く之を遣はす。
既に至るや、元帝 命じて丞相參軍と為し、累りに尚書吏部郎に遷る。胤 石季龍 厭次を攻むるを聞き、元帝に言ひて曰く、「北方の方鎮 皆 沒し、惟だ餘は邵續のみ。如し使君 季龍の制する所と為れば、義士の心を孤とし、歸本の路を阻まん。愚 謂へらく宜しく救援存せしむべし」と。元帝 將に遣はして之を救はんとするに、會々續 已に沒して止む。王敦 素より胤と交はり、甚だ之を欽貴し、請ひて右司馬と為す。胤 敦に不臣の心有るを知り、枕疾して事を視ず。是を以て敦の意に忤らひ、出でて豫章太守と為すに、辭するに腳疾を以てす。詔して家に就きて印綬を授けしむ。郡人の莫鴻、南土の豪族にして、亂に因り、本の縣令を殺し、橫恣無道にして、百姓 之を患ふ。胤 至るや、鴻及び諸々の豪右を誅し、界內 肅然たり。咸和の初に、平南軍司と為り、散騎常侍を加ふ。蘇峻 亂を作し、溫嶠 眾を率ゐて下り、胤らを留めて湓口を守せしむ。事 平らぎ、勳を以て爵豐城子を賜はる。俄かにして嶠に代はりて平南將軍・都督江州諸軍事・領江州刺史・假節と為る。
胤 位任は轉た高く、矜豪 日に甚しく、酒を縱にして耽樂し、政事を恤まず、大いに財貨を殖し、商販すること百萬なり。初め、胤の嶠に代はるや、遠近 皆 非選なりと謂ふ。陶侃・郗鑒 咸 胤 方伯の才に非ざると云ふも、朝廷 從はず。或ひと王悅に問ひて曰く、「今 大難の後にして、綱紀 弛頓す。江陵より建康に至るまで三千餘里。流人 萬もて計へ、江州に布在す。江州は、國の南藩にして、要害の地なり。而れども胤 侈忲の性を以て、臥して之に對す。外變有らざれども、必ず內患有らん」と。悅曰く、「聞くに溫平南の家公〔一〕に語りて云はく、連りに惡夢を得て、代はる者を見んと思ふと。尋いで劉胤を用ふ可しと云ふ。此れ乃ち溫の意にして、家公に非ざるなり」と。是の時 朝廷 空罄にして、百官 祿無く、惟だ江州の運漕を資とす。而れども胤の商旅 路を繼ぎ、私を以て公を廢す。有司 奏して胤の官を免ず。書 始めて下り、而して胤 郭默の害する所と為り、年は四十九なり。
子の赤松 嗣ぎ、南平長公主を尚し、位は黃門郎・義興太守に至る。

〔一〕家公は、父、あるいは祖父。だれを指すのか要調査。

現代語訳

劉胤は字を承胤といい、東萊掖県の人で、漢の斉悼恵王の劉肥の後裔である。容姿が立派で、自ら人士をもてなし、時の豪傑と交際し、名声が海岱の地域にあらわれ、士人はみな彼を慕った。賢良に挙げられ、司空掾に辟せられたが、どちらも就かなかった。
このとき天下が大いに乱れ、母を連れて遼東に避難しようとした。幽州を通過すると、幽州刺史の王浚が劉胤をとどめ、上表して渤海太守とした。王浚が敗れると、転じて冀州刺史の邵続を頼った。邵続は(冀州の)兵士が少なく弱いので、石勒に降服しようと考えた。劉胤は邵続に、「そもそも田単と申包胥は、斉と楚の下級役人でしたが、それでも滅びかけた国にいて、亡国を存続させました。いま将軍は精鋭の兵を指揮し、勝利必至の地域にいるのに、どうして(田単らと)同じ功績を(立てることを)軽々しく台無しにし、忠信の人々を豺狼(石勒)に委ねるのですか。しかも項羽や袁紹は十分に強かったにも拘わらず、高祖(劉邦)が白い冠をつけると、響くように人が応じました。曹公(曹操)が皇帝を奉ると、諸侯は安んじて帰順しました。なぜでしょうか。逆順の理に区別があり、おのずと定まる命運が決まっているからです。ましてや異民族の醜悪なものが、無頼をかき集めれば、犬や羊のような勇ましさはありますが、庖宰の災い(食糧配分の問題)が起こるもので、それなのに(石勒に)地盤をゆだねて助けを求めるのは、危険ではないでしょうか」と言った。邵続は、「きみの考えでは、どうしたらよいか」と言った。劉胤は、「琅邪王(司馬睿)は聖徳をそなえて聡明で、江東で建国をしています、中興の繁栄をつま先立って待つべきです。いま将軍のために思案するなら、道理にかなうことを勧めて義士の心を励まし、忠正な人々を奉じて兵士の志を駆り立てるのが最良でしょう。緊急で重要なことは、時期を逃してはならず、存亡と興廃は、この行動にかかっています」と言った。邵続はこれに従い、反対者の数人を殺し、使者を江南に派遣したところ、朝廷はこれを喜んだ。劉胤は自身が江南に行きたいと求め、邵続は丁重に彼を送り出した。
劉胤が(建康に)到着すると、元帝は任命して丞相参軍とし、尚書吏部郎に累遷した。劉胤は石季龍(石虎)が厭次を攻撃したと聞き、元帝に、「北方の方鎮はすべて陥落し、残っているのは邵続だけです。もし使君(邵続)が石季龍に制圧されたら、義士の心は孤立し、本国(東晋)帰る道を妨げます。救援すべきと考えます」と言った。元帝は救援を出そうとしたが、同じころ邵続がすでに敗北したので中止した。王敦はふだんから劉胤と交際し、とても尊重し、要望して(配下の)右司馬とした。劉胤は王敦に不臣の心があるのを見抜き、病床にいて政務をしなかった。このことで王敦に反感を持たれ、転出して豫章太守とされたが、足の病気を理由に辞退した。詔して家で印綬を受けさせた。(豫章)郡の人の莫鴻は、南方地域の豪族で、混乱に乗じて、当地の県令を殺し、横暴をきわめて際限がなく、万民は彼に困らされた。劉胤が着任すると、莫鴻および豪族たちを誅殺し、域内は粛然となった。咸和年間の初め、平南軍司となり、散騎常侍を加えた。蘇峻が乱を起こすと、温嶠は軍を率いて(長江を)下り、劉胤らを留めて湓口を守らせた。蘇峻を平定すると、勲功により豊城子の爵位を賜った。ほどなく温嶠に代わって平南将軍・都督江州諸軍事・領江州刺史・仮節となった。
劉胤は官位が一転して高くなり、傲慢さが日々に増し、酒に溺れて楽しみにふけり、政務を蔑ろにし、おおいに金儲けをし、商売は百万の規模であった。これよりさき、劉胤が温嶠から交替するとき、遠近の人々はみな適任でないと言った。陶侃と郗鑒はどちらも劉胤には方伯の才がないと言ったが、朝廷は従わなかった。あるひとが王悦に質問し、「いま大きな政難のあとで、秩序が緩んでいます。江陵より建康に至るまで三千里あまり。流人が万の単位でおり、江州に散在しています。江州は、国家の南の垣根であり、要害の地です。しかし劉胤は奢侈に走るばかりで、横になったまま統治しています。外から異変が起こらずとも、内側から危機が生じるでしょう」と言った。王悦は、「聞けば温平南(温嶠)は家公に、悪夢を連続で見るから、後任者がほしいと言ったとのこと。(温嶠は)すぐに劉胤を用いるべきと言いました。これは温嶠の意思であり、家公の考えではありません」と言った。このとき国庫が枯渇し、百官に俸禄がなく、江州から輸送される物資だけに支えられていた。だが劉胤の商人が輸送路をおさえ、私利を優先して公益を損ねた。担当官が上奏して劉胤の官職を免じた。(罷免の)文書が下されたとき、劉胤は郭黙に殺害された、このとき四十九だった。
子の劉赤松が嗣ぎ、南平長公主をめとり、官位は黄門郎・義興太守に至った。

桓宣 族子伊

原文

桓宣、譙國銍人也。祖詡、義陽太守。父弼、冠軍長史。宣開濟篤素、為元帝丞相舍人。時塢主張平自稱豫州刺史、樊雅自號譙郡太守、各據一城、眾數千人。帝以宣信厚、又與平・雅同州里、轉宣為參軍、使就平・雅。平・雅遣軍主簿隨宣詣丞相府受節度、帝皆加四品將軍、即其所部、使扦禦北方。南中郎將王含請宣為參軍。
頃之、豫州刺史祖逖出屯1.(蘆州)〔蘆洲〕、遣參軍殷乂詣平・雅。乂意輕平、視其屋、云當持作馬廄、見大鑊、欲鑄作鐵器。平曰、「此是帝王大鑊、天下定後方當用之、奈何打破」。乂曰、「卿能保頭不。而惜大鑊邪」。平大怒、於坐斬乂、阻兵固守。歲餘、逖攻平殺之、而雅據譙城。逖以力弱、求助於含、含遣宣領兵五百助逖。逖謂宣曰、「卿先已說平・雅、信義大著於彼。今復為我說雅。雅若降者、方相擢用、不但免死而已」。宣復單馬從兩人詣雅、曰、「祖逖方欲平蕩二寇、每倚卿為援。前殷乂輕薄、非豫州意。今若和解、則忠勳可立、富貴可保。若猶固執、東府赫然更遣猛將、以卿烏合之眾、憑阻窮城、強賊伺其北、國家攻其南、萬無一全也。願善量之」。雅與宣置酒結友、遣子隨宣詣逖。少日、雅便自詣逖。逖遣雅還撫其眾。
2.(雅)僉謂前數罵辱、懼罪不敢降。雅復閉城自守。逖往攻之、復遣宣入說雅、雅即斬異己者、遂出降。未幾、石勒別將圍譙城、含又遣宣率眾救逖、未至而賊退。逖留宣討諸未服、皆破之。遷譙國內史。
祖約之棄譙城也、宣以牋諫。不從、由是石勒遂有陳留。及約與蘇峻同反、宣謂祖智曰、「今強胡未滅、將勠力以討之、而與峻俱反、此安得久乎。使君若欲為雄霸、何不助國討峻、威名自舉」。智等不能用。宣欲諫約、遣其子戎白約求入。約知宣必諫、不聽。宣遂距約、不與之同。邵陵人陳光率部落數百家降宣、宣皆慰撫之。約還歷陽、宣將數千家欲南投尋陽、營於馬頭山。值3.祖煥欲襲湓口、陶侃使毛寶救之。煥遣眾攻宣、宣使戎求救於寶。寶擊煥、破之、宣因投溫嶠。嶠以戎為參軍。賊平、宣居於武昌、戎復為劉胤參軍。郭默害胤、復以戎為參軍。
陶侃討默、默遣戎求救於宣、宣偽許之。西陽太守郭嶽・武昌太守劉詡皆疑宣與默同。豫州西曹王隨曰、「宣尚背祖約、何緣同郭默邪」。嶽・詡乃遣隨詣宣以觀之。隨謂宣曰、「明府心雖不爾、無以自明、惟有以戎付隨耳」。宣乃遣戎與隨俱迎陶侃。辟戎為掾、上宣為武昌太守。尋遷監沔中軍事・南中郎將・江夏相。
石勒荊州刺史郭敬戍襄陽。陶侃使其子平西參軍斌與宣俱攻樊城、拔之。竟陵太守李陽又破新野。敬懼、遁走。宣與陽遂平襄陽。侃使宣鎮之、以其淮南部曲立義成郡。宣招懷初附、勸課農桑、簡刑罰、略威儀、或載鉏耒於軺軒、或親芸穫於隴畝。十餘年間、石季龍再遣騎攻之、宣能得眾心、每以寡弱距守。論者以為、次於祖逖・周訪。
侃方欲使宣北事中原、會侃薨。後庾亮為荊州、將謀北伐、以宣為都督沔北前鋒征討軍事・平北將軍・司州刺史・假節、鎮襄陽。季龍使騎七千渡沔攻之、亮遣司馬王愆期・輔國將軍毛寶救宣。賊三面為地窟攻城、宣募精勇、出其不意、殺傷數百、多獲鎧馬、賊解圍退走。久之、宣遣步騎收南陽諸郡百姓沒賊者八千餘人以歸。庾翼代亮、欲傾國北討、更以宣為都督司梁雍三州荊州之南陽襄陽新野南鄉四郡軍事・梁州刺史・持節、將軍如故。以前後功、封竟陵縣男。
宣久在襄陽、綏撫僑舊、甚有稱績。庾翼遷鎮襄陽、令宣進伐石季龍將李羆、軍次丹水、為賊所敗。翼怒、貶宣為建威將軍、使移戍峴山。宣望實俱喪、兼以老疾、時南蠻校尉王愆期守江陵、以疾求代、翼以宣為鎮南將軍・南郡太守、代愆期。宣不得志、未之官、發憤卒。追贈鎮南將軍。戎官至新野太守。

1.中華書局本の校勘記に従い、「蘆州」を「蘆洲」に改める。
2.中華書局本の校勘記に従い、「雅」一字を削る。
3.「祖煥」は、中華書局本の校勘記によると、祖約伝・蘇峻伝及び『資治通鑑』では「祖渙」に作る。

訓読

桓宣、譙國銍の人なり。祖の詡、義陽太守なり。父の弼、冠軍長史なり。宣 開濟篤素にして、元帝の丞相舍人と為る。時に塢主の張平 自ら豫州刺史を稱し、樊雅 自ら譙郡太守を號し、各々一城に據り、眾は數千人なり。帝 宣の信厚なるを以て、又 平・雅と州里を同じくすれば、宣を轉じて參軍と為し、平・雅に就かしむ。平・雅 軍主簿の隨宣を遣はして丞相府に詣たりて節度を受けしめ、帝 皆 四品將軍を加へ、其の部する所を即け、北方を扦禦せしむ。南中郎將の王含 宣を請ひて參軍と為す。
頃之、豫州刺史の祖逖 出でて蘆洲に屯し、參軍の殷乂を遣はして平・雅に詣らしむ。乂の意 平を輕んじ、其の屋を視て、當に持して馬廄と作すべしと云ひ、大鑊を見て、鑄して鐵器を作らんと欲す。平曰く、「此れ是れ帝王の大鑊なり、天下 定まりて後に方に當に之を用ふべし、奈何ぞ打破するや」と。乂曰く、「卿 能く頭を保つや不や。而れども大鑊を惜まんや」と。平 大いに怒り、坐に於て乂を斬り、兵を阻みて固守す。歲餘にして、逖 平を攻めて之を殺し、而して雅 譙城に據る。逖 力の弱きを以て、助を含に求め、含 宣を遣はして兵五百を領して逖を助けしむ。逖 宣に謂ひて曰く、「卿 先に已に平・雅を說き、信義 大いに彼に著はる。今 復た我が為に雅を說け。雅 若し降らば、方に相 擢用し、但だ死を免るるのみならず」と。宣 復た單馬もて兩人を從へて雅に詣りて、曰く、「祖逖 方に二寇を平蕩せんと欲するに、每に卿を倚りて援と為す。前の殷乂の輕薄せしは、豫州の意に非ず。今 若し和解せば、則ち忠勳 立つ可し、富貴 保つ可し。若し猶ほ固執せば、東府 赫然として更めて猛將を遣はし、卿の烏合の眾もて、窮城に憑阻するを以て、強賊 其の北を伺ひ、國家 其の南を攻め、萬に一も全する無きなり。願はくは善く之を量れ」と。雅 宣と置酒して結友し、子を遣はして宣に隨ひて逖に詣らしむ。少日にして、雅 便ち自ら逖に詣る。逖 雅を遣はして還りて其の眾を撫せしむ。
僉 前に數々罵辱せらるを謂ひ、罪を懼れて敢て降らず。雅 復た城を閉じて自守す。逖 往きて之を攻め、復た宣を遣はして入りて雅を說かしむ。雅 即ち己に異なる者を斬り、遂に出でて降る。未だ幾もなく、石勒の別將 譙城を圍み、含 又 宣を遣はして眾を率ゐて逖を救はしめ、未だ至らざるに賊 退く。逖 宣を留めて諸々の未だ服せざるを討ち、皆 之を破る。譙國內史に遷る。
祖約の譙城を棄つるや、宣 牋を以て諫む。從はず、是に由り石勒 遂に陳留を有つ。約 蘇峻と與に同に反するに及び、宣 祖智に謂ひて曰く、「今 強胡 未だ滅せず、將に勠力して以て之を討たんとするに、而れども峻と與に俱に反さば、此れ安ぞ久しきを得んか。使君 若し雄霸と為らんと欲さば、何ぞ國を助けて峻を討ち、威名 自ら舉げざる」と。智ら用ふる能はず。宣 約を諫めんと欲し、其の子の戎を遣はして約に白して入らんことを求む。約 宣の必ず諫むるを知り、聽さず。宣 遂に約を距み、之と同にせず。邵陵の人の陳光 部落の數百家を率ゐて宣に降り、宣 皆 之を慰撫す。約 歷陽に還り、宣 數千家を將ゐて南して尋陽に投じ、馬頭山に營せんと欲す。祖煥の湓口を襲はんと欲するに值ひ、陶侃 毛寶をして之を救はしむ。煥 眾を遣はして宣を攻むるや、宣 戎をして救を寶に求めしむ。寶 煥を擊ち、之を破り、宣 因りて溫嶠に投ず。嶠 戎を以て參軍と為す。賊 平らぐや、宣 武昌に居り、戎 復た劉胤の參軍と為る。郭默 胤を害するや、復た戎を以て參軍と為す。
陶侃 默を討つや、默 戎を遣はして救を宣に求め、宣 偽はりて之を許す。西陽太守の郭嶽・武昌太守の劉詡 皆 宣の默と與に同ずるを疑ふ。豫州西曹の王隨曰く、「宣 尚ほ祖約に背くも、何に緣りて郭默と同にするか」と。嶽・詡 乃ち隨を遣はして宣に詣りて以て之を觀しむ。隨 宣に謂ひて曰く、「明府の心 爾らずと雖も、以て自明なる無し、惟ふに戎を以て隨に付すこと有るのみ」と。宣 乃ち戎を遣はして隨と與に俱に陶侃を迎ふ。戎を辟して掾と為し、宣を上して武昌太守と為す。尋いで監沔中軍事・南中郎將・江夏相に遷る。
石勒の荊州刺史の郭敬 襄陽を戍す。陶侃 其の子の平西參軍斌をして宣と與に俱に樊城を攻めしめ、之を拔く。竟陵太守の李陽 又 新野を破る。敬 懼れ、遁走す。宣 陽と與に遂に襄陽を平らぐ。侃 宣をして之に鎮せしめ、其の淮南の部曲を以て義成郡を立てしむ。宣 初附を招懷し、農桑を勸課し、刑罰を簡とし、威儀を略し、或いは鉏耒を軺軒に載せ、或いは親ら隴畝を芸穫す。十餘年間に、石季龍 再び騎を遣はして之を攻むるれども、宣 能く眾心を得れば、每に寡弱を以て距守す。論者 以為へらく、祖逖・周訪に次ぐと。
侃 方に宣をして北して中原を事めしめんと欲し、會 侃 薨ず。後に庾亮 荊州と為り、將に北伐を謀らんとし、宣を以て都督沔北前鋒征討軍事・平北將軍・司州刺史・假節と為し、襄陽に鎮せしむ。季龍 騎七千をして沔を渡たりて之を攻めしむるや、亮 司馬の王愆期・輔國將軍の毛寶を遣はして宣を救はしむ。賊 三面に地窟を為りて城を攻むるや、宣 精勇を募りて、其の不意に出で、殺傷すること數百、多く鎧馬を獲て、賊 圍を解きて退走す。久之、宣 步騎を遣はして南陽諸郡の百姓の賊に沒する者の八千餘人を收めて以て歸る。庾翼 亮に代はるや、國を傾けて北討せんと欲し、更めて宣を以て都督司梁雍三州荊州之南陽襄陽新野南鄉四郡軍事・梁州刺史・持節と為し、將軍は故の如し。前後の功を以て、竟陵縣男に封ず。
宣 久しく襄陽に在り、僑舊を綏撫し、甚だ稱績有り。庾翼 鎮を襄陽に遷し、宣をして進みて石季龍の將の李羆を伐たしめ、軍は丹水に次り、賊の敗る所と為る。翼 怒り、宣を貶して建威將軍と為し、戍を峴山に移さしむ。宣 望實 俱に喪ひ、兼はせて老疾を以てす。時に南蠻校尉の王愆期 江陵を守るに、疾を以て代はらんことを求む。翼 宣を以て鎮南將軍・南郡太守と為し、愆期に代ふ。宣 志を得ず、未だ官に之かざるに、發憤して卒す。鎮南將軍を追贈す。戎の官 新野太守に至る。

現代語訳

桓宣は、譙國銍県の人である。祖父の桓詡は、義陽太守である。父の桓弼は、冠軍長史である。桓宣は君主の輔佐と民衆の救済に手厚く、元帝の丞相舎人となった。このとき塢主の張平が自ら豫州刺史を称し、樊雅が自ら譙郡太守を号し、それぞれ一城に拠り、軍勢は数千人であった。元帝は桓宣に誠意があり、また張平と樊雅と州里が同じなので、桓宣を転じて参軍とし、張平と樊雅のところに行かせた。張平と樊雅は軍主簿の隨宣を送って丞相府を訪れて節度を受けさせ、元帝は二人ともに四品将軍を加え、その配下を手元に残したまま、北方を防衛させた。南中郎将の王含が桓宣に求めて参軍とした。
しばらくして、豫州刺史の祖逖が(朝廷を)出て蘆洲に駐屯し、参軍の殷乂を派遣して張平と樊雅のもとを訪れた。殷乂は張平を軽視し、その屋敷を見て、馬小屋にするのが似合いだと言い、大鼎(刑罰の道具)を見て、鋳つぶして鉄の武器を作ろうとした。張平は、「これは帝王の大鼎であり、天下が定まった後に用いるものだ、どうして破壊するのか」と言った。殷乂は、「(天下が定まるまで)きみの頭が胴と繋がっていられるものか。そのくせ大鼎を惜しむのか」と言った。張平は大いに怒り、その場で殷乂を斬り、兵を使って(祖逖の)の勢力を拒絶した。一年あまりで、祖逖は張平を攻め殺し、かたや樊雅は譙城に拠った。祖逖は勢力が弱いので、助けを王含に求め、王含は桓宣を遣わして兵五百を領して祖逖を助けさせた。祖逖は桓宣に、「あなたは以前に張平と樊雅を説得し、信義が大いに表れた。いま再び私のために樊雅を説得してくれ。樊雅がもし降服すれば、きっと(樊雅を)抜擢する、ただ命を見逃すだけではない」と言った。桓宣はまた単馬で二人の従者をつれて樊雅のもとに来て、「祖逖が二つの寇賊を平定しようとし、いつもあなたを味方として頼りに思っている。かつて殷乂があなたを軽んじたのは、豫州(祖逖)の考えとは異なる。いまもし和解すれば、忠勲を立て、富貴を保つことができる。もし反対に固執すれば、東府(東晋)は憤然として改めて猛将を派遣するだろう。あなたが烏合の衆で、窮迫した城に籠もっても、強い賊が城の北を狙い、国家が城の南を攻め、万に一つも防衛できまい。どうかよく考えるように」と言った。樊雅は桓宣と酒席を設けて友として交際し、子を派遣して桓宣に従い祖逖のもとを訪れさせた。数日後、樊雅は自分でも祖逖を訪問した。祖逖は樊雅を(譙)城に帰らせて兵を慰撫させた。
(樊雅の部下は)みな以前に何度も(殷乂らに)侮辱されたことを思い出し、罪を懼れてあえて(祖逖に)降服しなかった。樊雅はまた城を閉じて籠もった。祖逖が赴いて攻撃し、また桓宣を遣わして入城して樊雅を説得させた。樊雅は反対する者を斬り、城を出て降服した。ほどなく、石勒の別将が譙城を包囲し、王含はまた桓宣を派遣して兵を率いて祖逖を救わせたが、到着する前に賊は退いた。祖逖は桓宣を留めて不服従勢力たちを討伐させ、すべてを破った。譙國内史に遷った。
祖約が譙城を棄てると、桓宣は書簡で諫めた。(祖約は)従わず、そのために石勒は陳留を手に入れた。祖約が蘇峻とともに(東晋に)反乱すると、桓宣は祖智に、「いま強い胡族がまだ滅びず、力を尽くして討伐しようというときに、かえって蘇峻とともに反乱して、命を保てるものですか。使君がもし英雄として覇を唱えたいなら、どうして国家(東晋)を助けて蘇峻を討伐し、威名を自分で高めないのですか」と言った。祖智らは(桓宣の意見を)採用できなかった。桓宣が祖約を諫めようとし、自分の子の桓戎を派遣して祖約に入城を求めた。祖約は桓宣がきっと諫めるつもりだと思い、(入城を)拒んだ。桓宣は祖約と決裂し、行動を別にした。邵陵の人の陳光が部落の数百家をつれて桓宣に降り、桓宣はこれを慰撫した。祖約が歴陽に還ると、桓宣は数千家をつれて南下して尋陽に投じ、馬頭山で生活しようとした。(桓宣は)祖煥が湓口を襲撃しようとする軍に遭遇し、陶侃は毛宝に桓宣を救わせた。祖煥が軍を送って桓宣を攻撃すると、桓宣は(子の)桓戎を派遣して救援を毛宝に求めた。毛宝が祖煥を攻撃して、これを撃破し、こうして桓宣は温嶠のもとに投じた。温嶠は桓戎を参軍とした。賊が平定されると、桓宣は武昌に居り、桓戎はまた劉胤の参軍となった。郭黙が劉胤を殺害すると、また(郭黙が)桓戎を参軍とした。
陶侃が郭黙を討伐すると、郭黙は桓戎を派遣して救援を桓宣に求め、桓宣は偽ってこれを認めた(郭黙に味方するふりをした)。西陽太守の郭嶽と武昌太守の劉詡はふたりとも桓宣が郭黙に味方したと疑った。豫州西曹の王隨は、「桓宣は祖約と対立したが、どうして郭黙などに味方するものか」と言った。郭嶽と劉詡は王隨を派遣して桓宣のもとを訪れさせ(真意を)確認させた。王隨は桓宣に、「明府の心はそうでない(郭黙に味方していない)としても、万人から見て明らかではない。(本心を示すためには息子の)桓戎を私に従わせるしかない」と言った。桓宣は桓戎を行かせて王隨とともに(討伐軍の)陶侃のもとに行った。(陶侃は)桓戎を辟召して掾とし、桓宣を上表して武昌太守とした。すぐに監沔中軍事・南中郎将・江夏相に遷った。
石勒(後趙)の荊州刺史の郭敬が襄陽を守っていた。陶侃は子の平西参軍の陶斌に命じて桓宣とともに樊城を攻撃させ、これを抜いた。竟陵太守の李陽もまた(後趙の)新野を破った。郭敬は懼れ、逃げ去った。かくして桓宣は李陽とともに襄陽を平定した。陶侃は桓宣をここに鎮させ、彼の淮南の部曲で義成郡を立てた。桓宣は帰順したばかりの人々を招いて懐かせ、農桑を推進し、刑罰を簡素にし、儀礼を減らし、農耕具を軽車に載せたり、自ら農地を耕し収穫したりした。十年あまりの期間に、石季龍(石季龍)がたびたび騎兵を派遣して攻撃したが、桓宣は民の心を得ているので、いつも少なく弱い兵で守り抜いた。論者は(桓宣を)評して、祖逖や周訪に次ぐと言った。
陶侃は桓宣に北上して中原を治めさせようとしたが、たまたま陶侃が薨去した。のちに庾亮が荊州を治め、北伐を計画し、桓宣を都督沔北前鋒征討軍事・平北将軍・司州刺史・仮節とし、襄陽に鎮させた。石季龍(石虎)が騎兵の七千に沔水を渡ってそこを攻撃させると、庾亮は司馬の王愆期と輔国将軍の毛宝を派遣して桓宣を救わせた。賊は三面から地窟を掘って城を攻めたが、桓宣は精鋭の勇士を募って、敵軍の不意を突き、数百人を殺傷し、多くの鎧や馬を奪い、賊は包囲を解いて退き逃げた。しばらくして桓宣は歩騎を派遣して南陽(周辺の)諸郡の百姓で賊に捕らわれていた八千人あまりを収容して帰った。庾翼が庾亮に代わると、国を傾けて北伐しようとし、改めて桓宣を都督司梁雍三州荊州之南陽襄陽新野南郷四郡軍事・梁州刺史・持節とし、将軍は現状のままとした。前後の功績で、竟陵県男に封建した。
桓宣は久しく襄陽におり、移住者と旧来の住人を綏撫し、とても名声と治績があった。庾翼が鎮所を襄陽に遷すと、桓宣には進んで石季龍の将の李羆を討伐させたが、軍が丹水に停泊しているとき、賊に破られた。庾翼は怒り、桓宣を降格して建威将軍とし、屯所を峴山に移させた。桓宣は名望も実権も失い、しかも老齢と病気でもあった。このとき南蛮校尉の王愆期が江陵を守っていたが、病気を理由に交代したいと願い出た。庾翼は桓宣を鎮南将軍・南郡太守とし、王愆期と交代させた。桓宣は希望が通らず、赴任する前に、発憤して亡くなった。鎮南将軍を追贈した。桓戎は官職は新野太守に至った。

原文

伊字叔夏。父景、有當世才幹、仕至侍中・丹楊尹・中領軍・護軍將軍・長社侯。
伊有武幹、標悟簡率、為王濛・劉惔所知、頻參諸府軍事、累遷大司馬參軍。時苻堅強盛、邊鄙多虞、朝議選能距捍疆埸者、乃授伊淮南太守。以綏御有方、進督豫州之十二郡揚州之江西五郡軍事・建威將軍・歷陽太守、淮南如故。與謝玄共破賊別將王鑒・張蚝等、以功封宣城縣子、又進都督豫州諸軍事・西中郎將・豫州刺史。及苻堅南寇、伊與冠軍將軍謝玄・輔國將軍謝琰俱破堅於肥水、以功封永脩縣侯、進號右軍將軍、賜錢百萬、袍表千端。
伊性謙素、雖有大功、而始終不替。善音樂、盡一時之妙、為江左第一。有蔡邕柯亭笛、常自吹之。王徽之赴召京師、泊舟青溪側。素不與徽之相識。伊於岸上過、船中客稱伊小字曰、「此桓野王也」。徽之便令人謂伊曰、「聞君善吹笛、試為我一奏」。伊是時已貴顯、素聞徽之名、便下車、踞胡牀、為作三調、弄畢、便上車去、客主不交一言。
時謝安女壻王國寶專利無檢行、安惡其為人、每抑制之。及孝武末年、嗜酒好內、而會稽王道子昏醟尤甚、惟狎昵諂邪、於是國寶讒諛之計稍行於主相之間。而好利險詖之徒、以安功名盛極、而構會之、嫌隙遂成。帝召伊飲讌、安侍坐。帝命伊吹笛。伊神色無迕、即吹為一弄、乃放笛云、「臣於箏分乃不及笛、然自足以韵合歌管、請以箏歌、并請一吹笛人」。帝善其調達、乃敕御妓奏笛。伊又云、「御府人於臣必自不合、臣有一奴、善相便串」。帝彌賞其放率、乃許召之。奴既吹笛、伊便撫箏而歌怨詩曰、「為君既不易、為臣良獨難。忠信事不顯、乃有見疑患。周旦佐文武、金縢功不刊。推心輔王政、二叔反流言」。聲節慷慨、俯仰可觀。安泣下沾衿、乃越席而就之、捋其鬚曰、「使君於此不凡」。帝甚有愧色。
伊在州十年、綏撫荒雜、甚得物情。桓沖卒、遷都督江州荊州十郡豫州四郡軍事・江州刺史、將軍如故、假節。伊到鎮、以邊境無虞、宜以寬卹為務、乃上疏以江州虛秏、加連歲不登、今餘戶有五萬六千、宜并合小縣、除諸郡逋米、移州還鎮豫章、詔令移州尋陽、其餘皆聽之。伊隨宜拯撫、百姓賴焉。在任累年、徵拜護軍將軍、以右軍府千人自隨、配護軍府。卒官。贈右將軍、加散騎常侍、諡曰烈。
初、伊有馬步鎧六百領、豫為表令、死乃上之。表曰、「臣過蒙殊寵、受任西藩。淮南之捷、逆兵奔北、人馬器鎧、隨處放散。于時收拾敗破、不足貫連。比年營繕、並已修整。今六合雖一、餘燼未滅、臣不以朽邁、猶欲輸效力命、仰報皇恩。此志永絕、銜恨泉壤。謹奉輸馬具裝百具・步鎧五百領、並在尋陽、請勒所屬領受」。詔曰、「伊忠誠不遂、益以傷懷、仍受其所上之鎧」。
子肅之嗣。卒、子陵嗣。宋受禪、國除。伊弟不才、亦有將略、討孫恩、至冠軍將軍。

訓読

伊 字は叔夏。父の景、當世に才幹有り、仕へて侍中・丹楊尹・中領軍・護軍將軍・長社侯に至る。
伊 武幹有り、標悟簡率にして、王濛・劉惔の知る所と為り、頻りに諸府の軍事に參じ、大司馬參軍に累遷す。時に苻堅 強盛にして、邊鄙 虞多く、朝議 能く疆埸を距捍する者を選び、乃ち伊に淮南太守を授く。有方を綏御するを以て、督豫州之十二郡揚州之江西五郡軍事・建威將軍・歷陽太守に進み、淮南 故の如し。謝玄と與に共に賊の別將の王鑒・張蚝らを破り、功を以て宣城縣子に封ぜられ、又 都督豫州諸軍事・西中郎將・豫州刺史に進む。苻堅 南寇するに及び、伊 冠軍將軍の謝玄・輔國將軍の謝琰と與に俱に堅を肥水に破り、功を以て永脩縣侯に封ぜられ、號を右軍將軍に進め、錢百萬、袍表千端を賜はる。
伊 性は謙素にして、大功有りと雖も、而れども始終 替はらず。音樂を善くし、一時の妙を盡くし、江左の第一為り。蔡邕の柯亭笛有り、常に自ら之を吹く。王徽之 赴きて京師に召され、舟を青溪の側に泊む。素より徽之と相 識る。伊 岸上に過り、船中の客 伊の小字を稱して曰く、「此れ桓野王なり」と。徽之 便ち人をして伊に謂はしめて曰く、「君 吹笛を善くすと聞く、試みに我が為に一奏せよ」と。伊 是の時 已に貴顯たりて、素より徽之の名を聞けば、便ち下車し、胡牀に踞し、為に三調を作し、弄し畢はるや、便ち上車して去る。客主 一言すら交へず。
時に謝安の女壻の王國寶 利を專らにして檢行無く、安 其の人と為りを惡み、每に之を抑制す。孝武の末年に及び、酒を嗜み內を好み、而して會稽王道子 昏醟にして尤も甚しく、惟だ諂邪に狎昵す。是に於て國寶が讒諛の計 稍く主相の間に行はる。而して利を好む險詖の徒は、安の功名 盛極なるを以て、而して之と構會し、嫌隙 遂に成る。帝 伊を召して飲讌するに、安 侍坐す。帝 伊に笛を吹くを命ず。伊の神色 迕らふ無く、即ち吹きて一弄を為し、乃ち笛を放ちて云はく、「臣 箏に於て分は乃ち笛に及ばず。然して自ら韵を以て歌管に合するに足る。請ふに箏歌を以てせば、并せて一吹笛の人を請はん」。帝 其の調達を善しとし、乃ち御妓に敕して笛を奏でしむ。伊 又 云はく、「御府の人 臣に必ずしも自ら合はず。臣 一奴有り、善く相 便ち串す」と。帝 彌々其の放率なるを賞し、乃ち之を召すを許す。奴 既に笛を吹き、伊 便ち箏を撫して怨詩を歌ひて曰く〔一〕、「君為ること既に易からず、臣為ること良に獨り難し。忠信の事 顯はれざれば、乃ち疑患せらる有り。周旦 文武を佐け、金縢 功 刊らず。心は王政を輔くるを推すに、二叔 反りて流言す」と。聲節 慷慨にして、俯仰 觀る可し。安 泣下して沾衿し、乃ち席を越えて之に就き、其の鬚を捋(な)でて曰く、「使君 此に於て不凡なり」と。帝 甚だ愧色有り。
伊 州に在ること十年にして、荒雜を綏撫し、甚だ物情を得たり。桓沖 卒するや、都督江州荊州十郡豫州四郡軍事・江州刺史に遷り、將軍 故の如し、假節とす。伊 鎮に到るや、邊境の虞れ無きを以て、宜しく寬卹を以て務と為すべきとし、乃ち上疏するに江州の虛秏するを以て、加へて連歲に登らず。今 餘戶 五萬六千有り、宜しく小縣を并合し、諸郡の逋米を除き、州を移して鎮を豫章に還すべしと。詔して州を尋陽に移さしめ、其の餘 皆 之を聽す。伊 宜に隨ひて拯撫し、百姓 焉を賴る。任に在ること累年にして、徵せられて護軍將軍を拜し、右軍府の千人を以て自ら隨はしめ、軍府に配護す。官に卒す。右將軍を贈り、散騎常侍を加へ、諡して烈と曰ふ。
初め、伊 馬步鎧の六百領有り、豫め表令を為し、死して乃ち之を上す。表して曰く、「臣 過ぎて殊寵を蒙り、任を西藩を受く。淮南の捷に、兵に逆ひて北を奔らせ、人馬の器鎧、隨處に放散す。時に敗破を收拾し、貫連するに足らず。比年 營繕し、並びに已に修整す。今 六合 一と雖も、餘燼 未だ滅せず。臣 朽邁を以てせず、猶ほ力命を輸效し、仰ぎて皇恩に報いんと欲す。此の志 永く絕ゆれば、泉壤に銜恨す。謹みて奉じて馬具裝百具・步鎧五百領を輸す。並びに尋陽に在り、請ふ所屬に勒して領受せよ」と。詔して曰く、「伊の忠誠 遂げず、益々以て傷懷す。仍りて其の上る所の鎧を受けよ」と。
子の肅之 嗣ぐ。卒し、子の陵 嗣ぐ。宋 受禪し、國除かる。伊の弟の不才も、亦た將略有り、孫恩を討ち、冠軍將軍に至る。

〔一〕怨詩は、魏の曹植の作。「君為ること……」は、『論語』子路篇に基づく。

現代語訳

桓伊は字を叔夏という。父の桓景は、当世において才能があり、出仕して侍中・丹楊尹・中領軍・護軍将軍・長社侯に至った。
桓伊は武の才能があり、高い見識を持ちさっぱりとした性格で、王濛と劉惔に知られ、しきりに諸府の軍事に参じ、大司馬参軍に累遷した。このとき苻堅(前秦)が強盛であり、周辺地域に脅威が多いため、朝廷では国境付近を防衛できる人材を選び、桓伊に淮南太守を授けた。地方を統治し落ち着けたので、督豫州之十二郡揚州之江西五郡軍事・建威将軍・歴陽太守に進み、淮南太守は現状どおりとした。謝玄とともに賊の別将の王鑒と張蚝らを破り、功績によって宣城県子に封建され、さらに都督豫州諸軍事・西中郎将・豫州刺史に進んだ。苻堅が南に侵攻すると、桓伊は冠軍将軍の謝玄と輔国将軍の謝琰とともに苻堅を肥水で破り、功績によって永脩県侯に封建され、号を右軍将軍に進め、銭百万、袍表千端を賜わった。
桓伊の性格は謙虚であり質素で、大きな功績があっても、態度は変わらなかった。音楽を得意とし、当世の優秀さを極め、江左で第一であった。蔡邕の柯亭笛を持っており、いつも自分で吹いていた。王徽之が京師に召されて訪れ、舟を青溪のそばに停泊させた。以前から王徽之と桓伊は知り合いであった。桓伊が岸の上を(馬車で)通過すると、船中の客は桓伊の小字を呼んで、「あれは桓野王だ」と言った。王徽之は人をやって桓伊に、「きみは笛を吹くのが上手いと聞いた。試みに私のために演奏してくれ」と言った。桓伊はこのとき高官であったが、王徽之の名を聞いていたので、馬車をおり、椅子に座り、王徽之のために三曲を演奏し、終えると、馬車に乗って去った。(王徽之の)客も主人も(聞き惚れて)一言も交えなかった。
このとき謝安の娘婿の王国宝が利益を独占して行動に慎みがなく、謝安はその人となりを憎み、いつも押さえつけていた。孝武帝の末年に及び、(孝武帝は)酒と女におぼれ、しかも会稽王道子(司馬道子)は酒乱がひどく、諂う邪な者たちとばかり馴れあった。ここにおいて王国宝は諂いと邪悪の思惑により君主と宰相のあいだを遠ざけた。利益を追求する心のねじ曲がった連中は、謝安の功績と名声が極めて大きいので、言い掛かりをつけ、険悪な対立が生じた。(あるとき)孝武帝は桓伊を召して酒席を設け、謝安も同席していた。孝武帝は桓伊に笛を吹けと命じた。桓伊は逆らう様子もなく、一曲を演奏し終え、笛を置いて、「私の箏の腕前は笛ほどではありません。しかし箏の弾き語りができます。弾き語りをしたいので、笛が吹ける人をつけて下さい」と言った。孝武帝はその趣向に感心し、御妓に命じて笛を吹かせた。桓伊はさらに、「御府の人(御妓)は私と相性がよくないようです。私のもとに一人の奴がおり、相性が抜群です」と言った。孝武帝は飾り気のないさまを気に入り、奴を呼ぶことを許した。奴が笛を吹き、伊尹は箏を弾いて(曹植の)怨詩を歌い、「君主であることは簡単ではない、臣下であることも難しい。忠信の行いが明らかでなければ、疑惑をかけられる。周公旦は文王と武王を輔佐したが、金縢(があったの)で功績が削られなかった。本心から王の政治を輔佐しようというのに、二叔(管叔鮮と蔡叔度)は反対に(簒奪すると)流言した」と歌った。声色は悲憤し、視線を上下に動かした。謝安は泣いて襟を濡らし、席をまたいで近づき、桓宣のひげをなでて、「使君は特別だ」と言った。孝武帝はひどく恥じ入った。
桓伊は州にいること十年で、荒廃した状況を立て直し、実情に即した措置をした。桓沖が亡くなると、都督江州荊州十郡豫州四郡軍事・江州刺史に遷り、将軍は現状のままで、仮節を授かった。桓伊が鎮所に到着すると、国境付近に脅威がないので(軍費が少なくてすみ)、負担軽減を方針とし、上疏して江州の衰弱と、連年の不作を訴えた。いま編成外の五万六千戸があるので、小県を統合し、諸郡の逋米(未納の米)を免除し、州の鎮所を豫章に戻すべきだと言った。詔して州を尋陽に移させ、その他もすべて許可した。桓伊は事態に適した救済をしたので、万民は彼を頼った。任務にあること数年で、徴召されて護軍将軍を拝命し、右軍府の千人を自分に従わせ、軍府に配備した。在官で亡くなった。右将軍を贈り、散騎常侍を加え、諡して烈とした。
これよりさき、桓伊のところに馬と歩兵の鎧が六百領あり、あらかじめ上表を作り、死後に提出させた。上表し、「臣は過ぎたる恩寵を受け、西藩の任務を預かりました。淮南で(前秦に)勝利したとき、迎撃して北に追い返し、人や馬の鎧や道具が、置き去りにされました。敗北した軍の残骸を拾いましたが、使い物になりませんでした。近年これを修繕し、使えるようにしました。いま天地四方は一つですが、戦火は消えていません。臣は老齢に拘わらず、身命を賭し、陛下の恩に報いようとしました。(死して)志が永遠に遂げられなくなれば、あの世で怨み後悔します。そこで謹んで馬具や装備一式と歩兵の鎧五百領を提出します。尋陽に配備し、兵士に支給して下さい」と言った。詔して、「桓伊は忠誠をやり遂げず、ますます痛ましく悲しい。彼の提出した鎧を受け取るように」と言った。
子の桓粛之が嗣いだ。亡くなり、子の桓陵が嗣いだ。宋が受禅し、国は除かれた。桓伊の弟の桓不才も、将軍としての智略があり、孫恩を討伐し、冠軍将軍に至った。

朱伺

原文

朱伺字仲文、安陸人。少為吳牙門將陶丹給使。吳平、內徙江夏。伺有武勇、而訥口、不知書、為郡將督、見鄉里士大夫、揖稱名而已。及為將、遂以謙恭稱。
張昌之逆、太守弓欽走灄口、伺與同輩郴寶・布興合眾討之、不克、乃與欽奔武昌。後更率部黨攻滅之。轉騎部曲督、加綏夷都尉。伺部曲等以諸縣附昌、惟本部唱義討逆、逆順有嫌、求別立縣、因此遂割安陸東界為灄陽縣而貫焉。
其後陳敏作亂、陶侃時鎮江夏、以伺能水戰、曉作舟艦、乃遣作大艦、署為左甄、據江口、摧破敏前鋒。敏弟恢稱荊州刺史、在武昌、侃率伺及諸軍進討、破之。敏・恢既平、伺以功封亭侯、領騎督。時西陽夷賊抄掠江夏、太守1.楊珉每請督將議距賊之計、伺獨不言。珉曰、「朱將軍何以不言」。伺答曰、「諸人以舌擊賊、伺惟以力耳」。珉又問、「將軍前後擊賊、何以每得勝邪」。伺曰、「兩敵共對、惟當忍之。彼不能忍、我能忍、是以勝耳」。珉大笑。
永嘉中、石勒破江夏、伺與楊珉走夏口。及陶侃來戍夏口、伺依之、加明威將軍。隨侃討杜弢、有殊功、語在侃傳。夏口之戰、伺用鐵面自衞、以弩的射賊大帥數人、皆殺之。賊挽船上岸、於水邊作陣。伺逐水上下以邀之、箭中其脛、氣色不變。諸軍尋至、賊潰、追擊之、皆棄船投水、死者太半。賊夜還長沙、伺追至蒲圻、不及而反。加威遠將軍、赤幢曲蓋。
建興中、陳聲率諸無賴二千餘家斷江抄掠、侃遣伺為督護討聲。聲眾雖少、伺容之不擊、求遣弟詣侃降、伺外許之。及聲去、伺乃遣勁勇要聲弟斬之、潛軍襲聲。聲正旦並出祭祀飲食、伺軍入其門、方覺。聲將閻晉・鄭進皆死戰、伺軍人多傷、乃還營。聲東走、保董城。伺又率諸軍圍守之、遂重柴繞城、作高櫓、以勁弩下射之、又斷其水道。城中無水、殺牛飲血。閻晉、聲婦弟也、乃斬聲首出降。又以平蜀賊襲高之功、加伺廣威將軍、領竟陵內史。
時王敦欲用從弟廙代侃為荊州、侃故將鄭攀・馬儁等乞侃於敦、敦不許。攀等以侃始滅大賊、人皆樂附、又以廙忌戾難事、謀共距之。遂屯結溳口、遣使告伺。伺外許之、而稱疾不赴。攀等遂進距廙。既而士眾疑阻、復散還橫桑口、欲入杜曾。時朱軌・趙誘・李桓率眾將擊之、攀等懼誅、以司馬孫景造謀距廙、因斬之、降軌等。
廙將西出、遣長史劉浚留鎮揚口壘。時杜曾請討第五猗於襄陽、伺謂廙曰、「曾是猾賊、外示西還、以疑眾心、欲誘引官軍使西、然後兼道襲揚口耳。宜大部分、未可便西」。廙性矜厲自用、兼以伺老怯難信、遂西行。曾等果馳還。廙乃遣伺歸、裁至壘、即為曾等所圍。劉浚以壘北門危、欲令伺守之。或說浚云、「伺與鄭攀同者」。乃轉守南門。賊知之、攻其北門。時鄭攀黨馬儁等亦來攻壘、儁妻子先在壘內、或請皮其面以示之。伺曰、「殺其妻子、未能解圍、但益其怒耳」。乃止。伺常所調弩忽噤不發、伺甚惡之。及賊攻陷北門、伺被傷退入船。初、浚開諸船底、以木掩之、名為船械。伺既入、賊舉鋋摘伺、伺逆接得鋋、反以摘賊。賊走上船屋、大喚云、「賊帥在此」。伺從船底沈行五十步、乃免。遇醫療、創小差。杜曾遣說伺云、「馬儁等感卿恩、妻孥得活。盡以卿家外內百口付儁、儁已盡心收視、卿可來也」。伺答曰、「賊無白首者、今吾年六十餘、不能復與卿作賊。吾死、當歸南、妻子付汝」。乃還甑山。時王廙與李桓・杜曾相持、累戰甑山下。軍士數驚喚云、「賊欲至」。伺驚創而卒。因葬甑山。

1.中華書局本の校勘記によると、石勒載記は「楊岠」につくる。

訓読

朱伺 字は仲文、安陸の人なり。少くして吳の牙門將の陶丹の給使と為る。吳 平らぐや、內りて江夏に徙る。伺 武勇有り、而れども訥口にして、書を知らず。郡の將督と為るや、鄉里の士大夫に見え、揖して名を稱すのみ。將と為るに及び、遂に謙恭を以て稱せらる。
張昌の逆するや、太守の弓欽 灄口に走り、伺 同輩の郴寶・布興と與に眾を合はせて之を討つ。克たず、乃ち欽と與に武昌に奔る。後に更めて部黨を率ゐて攻めて之を滅す。騎部曲督に轉じ、綏夷都尉を加ふ。伺の部曲ら諸縣を以て昌に附き、惟だ本部のみ義を唱へて逆を討ち、逆順 嫌有り、別に縣を立つることを求め、此に因り遂に安陸の東界を割きて灄陽縣と為して貫す。
其の後 陳敏 亂を作し、陶侃 時に江夏を鎮するに、伺の能く水戰し、舟艦を作るに曉るきを以て、乃ち大艦を作らしむ。署して左甄と為し、江口に據り、敏の前鋒を摧破す。敏が弟の恢 荊州刺史と稱し、武昌に在り、侃 伺及び諸軍を率ゐて進討し、之を破る。敏・恢 既に平らぐや、伺 功を以て亭侯に封ぜられ、騎督を領す。時に西陽の夷賊 江夏を抄掠し、太守の楊珉 每に督將に請ひて距賊の計を議するに、伺のみ獨り言はず。珉曰く、「朱將軍 何ぞ以て言はざる」と。伺 答へて曰く、「諸人 舌を以て賊を擊つ。伺 惟だ力を以てするのみ」と。珉 又 問ふ、「將軍 前後に賊を擊つ。何を以て每に勝を得るか」と。伺曰く、「兩敵 共に對はば、惟だ當に之を忍ぶべし。彼 忍ぶ能はず、我 能く忍べば、是を以て勝つのみ」と。珉 大いに笑ふ。
永嘉中に、石勒 江夏を破り、伺 楊珉と與に夏口に走る。陶侃 來たりて夏口を戍するに及び、伺 之に依り、明威將軍を加へらる。侃の杜弢を討つに隨ひ、殊功有り、語は侃傳に在り。夏口の戰に、伺 鐵面を用て自ら衞し、弩を以て賊の大帥數人を的射し、皆 之を殺す。賊 船を挽きて上岸し、水邊に於て陣を作す。伺 水を上下して逐ひて以て之を邀へ、箭 其の脛に中たるに、氣色 變はらず。諸軍 尋いで至り、賊 潰え、之を追擊す。皆 船を棄てて水に投じ、死者 太半なり。賊 夜に長沙に還り、伺 追ひて蒲圻に至れども、及ばずして反る。威遠將軍、赤幢曲蓋を加ふ。
建興中に、陳聲 諸々の無賴二千餘家を率ゐて江を斷ちて抄掠し、侃 伺を遣はして督護と為して聲を討たしむ。聲の眾 少なしと雖も、伺 之を容れて擊たざれば、弟を遣はして侃に詣りて降らんことを求め、伺 外に之を許す。聲 去るに及び、伺 乃ち勁勇を遣はして聲の弟を要して之を斬り、軍を潛して聲を襲ふ。聲 正旦に並びに祭祀に出でて飲食し、伺の軍 其の門に入るや、方に覺る。聲の將の閻晉・鄭進 皆 死戰し、伺の軍の人 多く傷つき、乃ち營に還る。聲 東して走り、董城を保つ。伺 又 諸軍を率ゐて圍みて之を守し、遂に柴を重ねて城を繞み、高櫓を作り、勁弩を以て之を下射し、又 其の水道を斷つ。城中 水無く、牛を殺して血を飲む。閻晉は、聲の婦弟なり、乃ち聲の首を斬りて出でて降る。又 蜀賊の襲高を平らぐるの功を以て、伺に廣威將軍を加へ、竟陵內史を領せしむ。
時に王敦 從弟の廙を用て侃に代へて荊州と為さんと欲す。侃の故將の鄭攀・馬儁ら侃を敦に乞ふに、敦 許さず。攀ら侃の始め大賊を滅し、人 皆 樂附するを以て、又 廙 難事を忌戾するを以て、共に之を距むことを謀る。遂に屯して溳口を結し、使を遣はして伺に告げしむ。伺 外に之を許し、而れども疾と稱して赴かず。攀ら遂に進みて廙を距む。既にして士眾 疑阻し、復た散じて橫桑口に還り、杜曾に入らんと欲す。時に朱軌・趙誘・李桓 眾を率ゐて將に之を擊たんとし、攀ら誅せらるるを懼れ、司馬の孫景 謀を造(はじ)めて廙を距するを以て、因りて之を斬り、軌らに降る。
廙 將に西して出でんとし、長史の劉浚を遣はして留まりて揚口壘に鎮せしむ。時に杜曾 第五猗を襄陽に討たんことを請ふ。伺 廙に謂ひて曰く、「曾 是れ猾賊なり。外は西還せんと示して、以て眾心を疑はしむ。誘ひて官軍を引きて西せしめんと欲し、然る後に兼道して揚口を襲ふのみ。宜しく大いに部分し、未だ便ち西す可からず」と。廙の性 矜厲にして自用し、兼ねて伺の老怯にして信じ難きを以て、遂に西し行く。曾ら果たして馳せ還る。廙 乃ち伺を遣はして歸らしめ、裁かに壘に至り、即ち曾らの圍む所と為る。劉浚 壘の北門の危ふきを以て、伺をして之を守らしめんと欲す。或ひと浚に說きて云はく、「伺 鄭攀と與に同にする者なり」と。乃ち轉じて南門を守らしむ。賊 之を知り、其の北門を攻む。時に鄭攀の黨の馬儁らも亦た來たりて壘を攻め、儁の妻子 先に壘內に在り、或いは其の面を皮して以て之を示さんことを請ふ。伺曰く、「其の妻子を殺さば、未だ圍を解く能はず、但だ其の怒りを益すのみ」と。乃ち止む。伺 常に調ふる所の弩 忽ち噤して發せず、伺 甚だ之を惡む。賊 攻めて北門を陷すに及び、伺 傷を被けて退きて船に入る。初め、浚 諸々の船底を開き、木を以て之を掩し、名づけて船械と為す。伺 既に入るや、賊 鋋を舉げて伺を摘し、伺 逆ひて接して鋋を得て、反りて以て賊を摘す。賊 走りて船屋に上り、大いに喚して云はく、「賊帥 此に在り」と。伺 船底より沈行すること五十步にして、乃ち免かる。醫療に遇ひ、創 小差たり。杜曾 遣りて伺を說かしめて云はく、「馬儁ら卿が恩に感じ、妻孥 活くるを得たり。盡く卿が家の外內百口を以て儁に付かしめ、儁 已に心を盡くして收視す。卿 來たる可きなり」と。伺 答へて曰く、「賊の白首なる者無し。今 吾 年六十餘なれば、復た卿と與に賊と作る能はず。吾 死さば、當に南に歸り、妻子をば汝に付すべし」と。乃ち甑山に還る。時に王廙 李桓・杜曾と與に相 持し、累りに甑山の下に戰ふ。軍士 數々驚き喚して云はく、「賊 至らんと欲す」と。伺 驚き創ありて卒す。因りて甑山に葬る。

現代語訳

朱伺は字を仲文といい、安陸の人である。若いとき呉の牙門將の陶丹の給使となった。呉が平定されると、入って江夏に移住した。朱伺は武勇があり、しかし訥言で、文字を知らなかった。郡の将督となると、郷里の士大夫に会い、揖して(両手を揃えて礼をし)名を呼んだだけだった。将となると、恭謙ぶりを称えられた。
張昌が反逆すると、太守の弓欽は灄口に逃げてしまい、朱伺は同輩の郴寶と布興とともに兵を合わせて討伐した。(朱伺は張昌に)敗れ、弓欽とともに武昌に奔った。のちに再起して部下を率いて張昌を攻め滅ぼした。騎部曲督に転じ、綏夷都尉を加えられた。朱伺の部曲らは諸県をあげて張昌に味方し、ただ本隊の部曲のみが義を唱えて反逆者を討伐した。逆順(張昌の乱のときの態度の違い)から内部で対立したので、別に県を立てる(分かれて住む)ことを要求し、こうして安陸の東の部分を分割して灄陽県として落ち着いた。
その後に陳敏が乱を起こし、陶侃はこのとき江夏に鎮してした。朱伺は水戦を得意とし、船艦の建造に精通していたので、(陶侃は朱伺に)大艦を作らせた。左甄(左方の陣)を任され、江口に拠り、陳敏の前鋒を撃破した。陳敏の弟の陳恢が荊州刺史を称し、武昌にいたが、陶侃は朱伺及び諸軍を率いて進撃し、これを破った。陳敏と陳恢の平定が終わると、朱伺は功績で亭侯に封建され、騎督を領した。このとき西陽の夷賊が江夏を侵略し、太守の楊珉はつねに督将に賊を防ぐ計略を議論するように求めたが、朱伺だけが発言しなかった。楊珉は、「朱将軍はどうして何も言わないのか」と言った。朱伺は答えて、「諸人(督将ら)は舌(口先)で賊を攻撃する。私はただ力で攻撃するだけだ」と言った。楊珉はまた、「将軍は先後に賊を撃破してきた。どうやっていつも勝ちを収めるのか」と質問した。朱伺は、「(敵味方の)両軍が対峙すれば、ただ我慢あるのみです。敵軍が我慢できず、自軍が我慢できれば、これにより勝利するだけです」と言った。楊珉は大いに笑った。
永嘉年間、石勒が江夏郡を破り、朱伺は楊珉とともに夏口に逃げた。陶侃がやって来て夏口を守るようになると、朱伺は彼のもとで、明威将軍を加えられた。陶侃による杜弢の討伐に従軍し、大きな功績があったが、記述は陶侃伝にある。夏口の戦いで、朱伺は鉄面で自分を守り、弩で賊の大帥の数人を射撃し、すべてを殺した。賊は船を引いて上陸し、水辺に陣を作った。朱伺は川を上ったり下ったりして迎え撃ち、矢が足にあたったが、顔色を変えなかった。諸軍が次々と到着すると、賊は潰走し、これを追撃した。みな船を棄てて川に飛び込み、大半が死んだ。賊は夜に長沙に還り、朱伺は追って蒲圻に至ったが、追いつけずに帰還した。威遠将軍、赤幢曲蓋を加えられた。
建興年間、陳声が諸々の無頼の二千家あまりを率いて長江を分断して略奪した。陶侃は朱伺を派遣して督護として陳声を討伐させた。陳声の兵は少ないが、朱伺が降服を認めて攻撃しなかったので、(陳声は)弟を派遣して陶侃のもとに来て降服を願い出た。朱伺はそれを表向きは許した。陳声が(和解したと騙されて)去ると、朱伺は強く勇敢な兵を派遣して陳声の弟を待ち伏せして斬り、軍を潜めて陳声を襲撃した。陳声は正月一日に一同で祭祀のため外で飲食しており、朱伺の軍がその門を入ってくると、(騙されたと)悟った。陳声の将の閻晋と鄭進は二人とも死力を尽くして戦ったので、朱伺の兵は多くが怪我をして、軍営に還った。陳声は東にむかって逃げ、董城に籠もった。朱伺はまた諸軍を率いて包囲し、柴を重ねて城をかこみ、高櫓を作り、(高櫓の上から)強弩を下に向けて射て、さらに水路を断った。城中に水がなくなり、牛を殺して血を飲んだ。閻晋は、陳声の妻の弟であるが、陳声の首を斬って(城を)出て降服した。また蜀賊の襲高を平定した功績により、朱伺に広威将軍を加え、竟陵内史を領させた。
このとき王敦は従弟の王廙を陶侃に代えて荊州(の長官)にしようとした。陶侃の故将の鄭攀と馬儁らは陶侃(の留任)を王敦に求めたが、王敦は許さなかった。鄭攀らは陶侃が大勢の賊を滅ぼしたばかりで、人々は(陶侃を)懐き慕っており、また王廙は困難なことを忌避したがるので、一緒に(長官の交代を)阻止しようと計画した。そこで駐屯して溳口を閉ざし、使者を送って朱伺に告げさせた。朱伺は表向きはこれ(王廙の着任中止)を許し、しかし病気と称して赴かなかった。鄭攀らはこうして前進して王廙(の着任)を拒んだ。兵士たちは疑い阻み、また散って横桑口に還り、杜曾のもとに入ろうとした。このとき朱軌と趙誘と李桓は兵を率いてこれを攻撃しようとし、鄭攀らは誅殺されることを懼れた。司馬の孫景は(鄭攀が)王廙を拒む計画の発案者であることから、彼を斬り、朱軌らに降った。
王廙は西に進出しようとし、長史の劉浚を留めて揚口の塁に鎮させた。このとき杜曾は第五猗を襄陽で討伐したいと願い出た。朱伺は王廙に、「杜曾は狡猾な賊です。外では西に還ろうと示し、兵士たちを疑わせています。官軍を西に誘い込もうとしていますが、(官軍が西に行けば)その後に速度をあげて揚口を襲うだけです。軍の秩序を厳しく保ち、西に行ってはいけません」と言った。王廙の性格は驕慢で自信家で、朱伺を臆病な老人で信用できないと考え、そのまま西に向かった。杜曾らは果たして(襄陽に向かわず)馳せ還った。王廙は朱伺に命じて帰らせ、少数の兵で塁に到着すると、杜曾に囲まれた。劉浚は塁の北門が危ういので、朱伺にそこを守らせようとした。あるひとが劉浚に、「朱伺は(敵軍の)鄭攀と同調しています」と説いた。そこで変更し(朱伺に)南門を守らせた。賊はこれを知り、塁の北門を攻めた。このとき鄭攀の仲間の馬儁らも来て塁を攻めていた。馬儁の妻子は先に塁のなかに入っており、あるひとが(朱伺に)彼女の顔面の皮を剥いで見せしめにしようと提案した。朱伺は、「彼(敵将の馬儁)の妻子を殺しても、包囲を解くことができず、ただ怒りを買うだけだ」と言った。そこで中止した。朱伺がいつも整備している弩が故障して発射できず、朱伺はとても嫌がった。賊が攻めて北門を陥落させると、朱伺は傷を負って退いて船に入った。これよりさき、劉浚はそれぞれの船底を開き、木でとめて、船械と名づけた。朱伺が(撤退し船に)入ってくると、賊は手ぼこを挙げて朱伺を押さえ、朱伺は反対に手ぼこを握り、賊を押さえた。賊は逃げて船屋にのぼり、大声で叫んで、「賊将がここにいる」と言った。朱伺は船底から潜って五十歩(の距離)を泳いで逃げ、離脱できた。医者に出会い、軽症ですんだ。(敵将の)杜曾が使者を朱伺に送り、「(わが軍の)馬儁らはあなたに恩を感じ、(馬儁の)妻子は死なずにすんだ。あなたの家族や配下の百人を馬儁に預ければ、馬儁は心を尽くして面倒を見るだろう。あなたは(降服しこちらに)来るべきだ」と言った。朱伺は答えて、「賊で白髪のものはいない。いま私は六十歳を超えており、きみたちと賊になることはできない。私が死んだとしても、南に帰るのがよく、わが妻子はきみたちに託そう」と言った。甑山に還った。このとき王廙は李桓と杜曾と対峙し、何度も甑山のもとで戦った。兵士はしばしば大騒ぎして、「賊がやって来ます」と言った。朱伺は驚いて傷口が開いて亡くなった。甑山に葬った。

毛寶 子穆之 孫璩 安之 宗人德祖

原文

毛寶字碩真、滎陽陽武人也。王敦以為臨湘令。敦卒、為溫嶠平南參軍。蘇峻作逆、嶠將赴難、而征西將軍陶侃懷疑不從。嶠屢說不能迴。更遣使順侃意曰、「仁公且守、僕宜先下」。遣信已二日、會寶別使還、聞之、說嶠曰、「凡舉大事、當與天下共同、眾克在和、不聞有異。假令可疑、猶當外示不覺、況自作疑邪。便宜急追信、改舊書、說必應俱征。若不及前信、宜更遣使」。嶠意悟、即追信改書、侃果共征峻。寶領千人為嶠前鋒、俱次茄子浦。
初、嶠以南軍習水、峻軍便步、欲以所長制之、宣令三軍、有上岸者死。時蘇峻送米萬斛饋祖約、約遣司馬桓撫等迎之。寶告其眾曰、「兵法、軍令有所不從、豈可不上岸邪」。乃設變力戰、悉獲其米、虜殺萬計、約用大飢。嶠嘉其勳、上為廬江太守。
約遣祖煥・桓撫等欲襲湓口、陶侃將自擊之、寶曰、「義軍恃公、公不可動、寶請討之」。侃顧謂坐客曰、「此年少言可用也」。乃使寶行。先是、桓宣背約、南屯馬頭山、為煥・撫所攻、求救於寶。寶眾以宣本是約黨、疑之。宣遣子戎重請、寶即隨戎赴之。未至、而賊已與宣戰。寶軍懸兵少、器杖濫惡、大為煥・撫所破。寶中箭、貫髀徹鞍、使人蹋鞍拔箭、血流滿鞾、夜奔船所百餘里、望星而行。到、先哭戰亡將士、洗瘡訖、夜還救宣。寶至宣營、而煥・撫亦退。寶進攻祖約、軍次東關、破合肥、尋召歸石頭。
陶侃・溫嶠未能破賊、侃欲率眾南還。寶謂嶠曰、「下官能留之」。乃往說侃曰、「公本應領蕪湖、為南北勢援、前既已下、勢不可還。且軍政有進無退、非直整齊三軍、示眾必死而已、亦謂退無所據、終至滅亡。往者杜弢非不強盛、公竟滅之、何至於峻獨不可破邪。賊亦畏死、非皆勇健、公可試與寶兵、使上岸斷賊資糧、出其不意、使賊困蹙。若寶不立效、然後公去、人心不恨」。侃然之、加寶督護。寶燒峻句容・湖孰積聚、峻頗乏食、侃遂留不去。
峻既死、匡術以苑城降。侃使寶守南城、鄧嶽守西城。賊遣韓晃攻之、寶登城射殺數十人。晃問寶曰、「君是毛廬江邪」。寶曰、「是」。晃曰、「君名壯勇、何不出鬭」。寶曰、「君若健將、何不入鬭」。晃笑而退。賊平、封州陵縣開國侯、千六百戶。
庾亮西鎮、請為輔國將軍・江夏相・督隨義陽二郡、鎮上明。又進南中郎。隨亮討郭默。默平、與亮司馬王愆期等救桓宣於章山、擊賊將石遇、破之、進征虜將軍。亮謀北伐、上疏解豫州、請以授寶。於是詔以寶監揚州之江西諸軍事・豫州刺史、將軍如故、與西陽太守1.樊峻以萬人守邾城。石季龍惡之、乃遣其子鑒與其將夔安・李菟等五萬人來寇、2.張格度二萬騎攻邾城。寶求救於亮、亮以城固、不時遣軍、城遂陷。寶・峻等率左右突圍出、赴江死者六千人、寶亦溺死。亮哭之慟、因發疾、遂薨。
詔曰、「寶之傾敗、宜在貶裁。然蘇峻之難、致力王室。今咎其過、故不加贈、祭之可也」。其後公卿言寶有重勳、加死王事、不宜奪爵。升平三年、乃下詔復本封。
初、寶在武昌、軍人有於市買得一白龜、長四五寸、養之漸大、放諸江中。邾城之敗、養龜人被鎧持刀、自投於水中、如覺墮一石上、視之、乃先所養白龜、長五六尺、送至東岸、遂得免焉。寶二子、穆之・安之。

1.中華書局本の校勘記によれば、成帝紀は「樊俊」に作る。
2.『晋書斠注』は「張格度」に作るが、中華書局本は「張狢渡」に作り、その校勘記によれば、成帝紀では「張貉」に作り、石季龍載記では「張賀度」に作るが、同一人物である。

訓読

毛寶 字は碩真、滎陽陽武の人なり。王敦 以て臨湘令と為す。敦 卒するや、溫嶠の平南參軍と為る。蘇峻 逆を作すや、嶠 將に難に赴かんとし、而して征西將軍の陶侃 疑を懷きて從はず。嶠 屢々說くも迴する能はず。更めて使を遣はして侃の意に順ひて曰く、「仁公 且に守れ、僕 宜しく先に下るべし」と。信を遣はして已に二日にして、會々寶 別に還らしめ、之を聞き、嶠に說きて曰く、「凡そ大事を舉ぐるには、當に天下と與に共同すべし。眾 克つは和に在り、異有るを聞かず。假令 疑ふ可きも、猶ほ當に外に覺えざると示す、況んや自ら疑ひを作すをや。便ち宜しく急に信(つかひ)を追ひ、舊書を改め、必ず應に俱に征すべきを說け。若し前信に及ばざれば、宜しく更めて使を遣はせ」と。嶠 意に悟り、即ち信を追ひて書を改め、侃 果たして共に峻を征つ。寶 千人を領して嶠の前鋒と為り、俱に茄子浦に次る。
初め、嶠 南軍の水に習ひ、峻の軍 步に便なるを以て、長ずる所を以て之を制せんと欲し、宣く三軍に令し、上岸する者有らば死とす。時に蘇峻 米萬斛を送りて祖約に饋り、約 司馬の桓撫らを遣はして之を迎ふ。寶 其の眾に告げて曰く、「兵法に、軍令に從はざる所有り、豈に上岸せざる可きか」と。乃ち變を設けて力戰し、悉く其の米を獲て、虜殺すること萬もて計へ、約 用て大いに飢う。嶠 其の勳を嘉し、上して廬江太守と為す。
約 祖煥・桓撫らを遣はして湓口を襲はんと欲し、陶侃 將に自ら之を擊たんとす。寶曰く、「義軍 公を恃み、公 動く可からず。寶 之を討たんことを請ふ」と。侃 顧みて坐客に謂ひて曰く、「此の年少の言 用ふ可きなり」と。乃ち寶をして行かしむ。是より先、桓宣 約に背き、南して馬頭山に屯し、煥・撫の攻むる所と為り、救を寶に求む。寶の眾 宣の本は是れ約の黨なるを以て、之を疑ふ。宣 子の戎を遣りて重ねて請ひ、寶 即ち戎に隨ひて之に赴く。未だ至らざるに、而して賊 已に宣と戰ふ。寶の軍 兵の少なく、器杖の濫惡なるを懸し、大いに煥・撫の破る所と為る。寶 箭に中たり、髀を貫き鞍を徹し、人をして鞍を蹋し箭を拔かしめ、血 流れて鞾を滿たし、夜に船の所 百餘里に奔り、星を望みて行く。到るや、先に戰亡の將士に哭し、瘡を洗ひ訖はり、夜に還り宣を救ふ。寶 宣が營に至るや、而して煥・撫 亦た退く。寶 進みて祖約を攻め、軍 東關に次し、合肥を破り、尋いで召されて石頭に歸る。
陶侃・溫嶠 未だ能く賊を破らざるに、侃 眾を率ゐて南還せんと欲す。寶 嶠に謂ひて曰く、「下官 能く之を留む」と。乃ち往きて侃に說きて曰く、「公 本は應に蕪湖を領して南北の勢援と為るべきに、前みて既に已に下らば、勢 還る可からず。且つ軍政に進む有れども退く無く、直だ三軍を整齊するに非ざれば、眾に必死を示すのみ。亦た退きて據る所無く、終に滅亡に至る謂ふ。往者 杜弢 強盛ならざるに非ざるに、公 竟に之を滅すに、何ぞ峻に獨り破る可からざるに至るや。賊も亦た死を畏れ、皆 勇健なるに非ず。公 試みに寶に兵を與へ、岸に上りて賊の資糧を斷ち、其の不意に出で、賊をして困蹙せしむ可し。若し寶 效を立てずんば、然る後に公 去るとも、人心 恨みず」と。侃 之を然りとし、寶に督護を加ふ。寶 峻の句容・湖孰の積聚を燒き、峻 頗る食に乏し。侃 遂に留まりて去らず。
峻 既に死し、匡術 苑城を以て降る。侃 寶をして南城を守らしめ、鄧嶽 西城を守す。賊 韓晃を遣はして之を攻むるに、寶 城に登りて射殺すること數十人なり。晃 寶に問ひて曰く、「君 是れ毛廬江なるか」と。寶曰く、「是なり」と。晃曰く、「君 壯勇を名とするに、何ぞ出でて鬭はざる」と。寶曰く、「君 若し健將ならば、何ぞ入りて鬭はざる」と。晃 笑ひて退く。賊 平らぐや、州陵縣の開國侯に封じ、千六百戶なり。
庾亮 西鎮たるや、請ひて輔國將軍・江夏相・督隨義陽二郡と為し、上明に鎮せしむ。又 南中郎に進む。亮に隨ひて郭默を討つ。默 平らぐや、亮の司馬の王愆期らと與に桓宣を章山に救ひ、賊將の石遇を擊ち、之を破る。征虜將軍に進む。亮 北伐せんと謀り、上疏して豫州を解き、以て寶に授けんことを請ふ。是に於て詔して寶を以て監揚州之江西諸軍事・豫州刺史とし、將軍 故の如し。西陽太守の樊峻と與に萬人を以て邾城を守せしむ。石季龍 之を惡み、乃ち其の子の鑒を其の將の夔安・李菟らと與に五萬人を遣はして來寇し、張格度をして二萬騎もて邾城を攻めしむ。寶 救を亮に求むるに、亮 城の固きを以て、時に軍を遣はさず、城 遂に陷つ。寶・峻ら左右を率ゐて圍を突きて出で、江に赴きて死する者六千人なり。寶も亦た溺死す。亮 之に哭して慟し、因りて疾を發し、遂に薨ず。
詔して曰く、「寶の傾敗、宜しく貶裁在るべし。然れども蘇峻の難に、力を王室に致す。今 其の過を咎め、故に加贈せざれども、之を祭るは可なり」と。其の後 公卿 寶に重勳有るを言ひ、加へて王事に死すれば、宜しく爵を奪ふべからずと。升平三年に、乃ち詔を下して本封を復す。
初め、寶 武昌に在るに、軍人の市に於て買ひて一白龜を得る有り、長さ四五寸なり。之を養ひて漸く大なりて、諸江の中に放す。邾城の敗に、龜を養ふ人 鎧を被て刀を持ち、自ら水中に投ずるに、一石上に墮つると覺ゆるが如く、之を視るに、乃ち先に養ふ所の白龜なり。長さ五六尺、送りて東岸に至り、遂に免るるを得たり。寶の二子、穆之・安之なり。

現代語訳

毛宝は字を碩真といい、滎陽陽武の人である。王敦は彼を臨湘令とした。王敦が亡くなると、温嶠の平南参軍となった。蘇峻が反逆すると、温嶠は危難に赴こうとしたが、征西将軍の陶侃は疑念を抱いて従わなかった。温嶠はしばしば説得したが失敗した。あらためて使者を送って陶侃の意に沿い、「仁公は守っていればいい、私は先に(川を)下る」と言った。使者を派遣して二日後、たまたま毛宝が別に帰ってきたが、これを聞いて、温嶠に、「大きな事業をするなら、天下の人々と協力すべきです。軍が勝つのは意見が揃うからで、対立があって勝つとは聞きません。もし疑念を持つべき状況でも、外にはそう思わせてはならず、まして自分から疑いを起こしてはいけません。すぐに使者を追いかけ、古い書面を書き換え、共同で征伐しようと説得しなさい。もし先発の使者に追い付かなければ、改めて別の使者を出しなさい」と言った。温嶠はその通りだと思い、使者を追って書面を改め、陶侃は果たして一緒に蘇峻を征伐した。毛宝は千人を領して温嶠の前鋒となり、ともに茄子浦に停泊した。
これよりさき、温嶠は(自分の)南方の軍が水戦に熟達し、(敵の)蘇峻の軍は歩兵が強いので、長所を活かして制圧しようと、広く三軍に命令し、岸に上がったら死刑だと言った。このとき蘇峻は米の一万斛を送って祖約に送り、祖約は司馬の桓撫らを遣わしてこれを受け入れていた。毛宝は配下の兵に告げ、「兵法に、軍令には服従しないことがあるという。どうして上陸してはいけないものか」と言った。命令に逆らって強襲し、すべて(敵軍の)米を略奪し、捕虜にして殺害したものが万を数え、祖約は大いに飢えた。温嶠はその勲功を褒め、上表して廬江太守とした。
祖約が祖煥と桓撫らを派遣して湓口を襲おうとすると、陶侃は自分で(祖煥らを)攻撃しようとした。毛宝は、「義軍はあなたを頼みに思っています。あなたは動いてはいけません。私に討伐をお任せください」と言った。陶侃は顧みて同席の客に「この若者の言葉を用いよう」と言った。そこで毛宝を行かせた。これより先、桓宣は祖約に背き、南下して馬頭山に屯営したが、祖煥と桓撫に攻撃され、救援を毛宝に求めた。毛宝の軍は桓宣がもとは祖約の仲間なので、これを疑った。桓宣は子の桓戎を派遣して重ねて願い、毛宝はそこで桓戎に付いて(桓宣のもとに)赴いた。まだ到着する前に、賊はすでに桓宣と戦い始めていた。毛宝の軍は兵が少なく、兵器の品質が悪かったので、大いに祖煥と桓撫に破られた。毛宝は矢があたり、ももを貫いて鞍に縫いつけられた。人に鞍を踏みつけて矢を抜かせ、血が流れて靴に満ちた。夜に船のある百里あまり先まで走り、星を見て(方角を確かめ)進んだ。到着すると、先に戦死した将士のために哭してから、傷を洗い終え、夜に(戦地に)戻って桓宣を救った。毛宝が桓宣の軍営に到着すると、祖煥と桓撫もまた撤退した。毛宝は進んで祖約を攻め、軍は東関に停泊し、合肥を破り、すぐに召されて石頭に帰った。
陶侃と温嶠がまだ賊を撃破できないうちに、陶侃は兵を率いて南に還ろうとした。毛宝は温嶠に、「下官(わたし)が留めることができます」と言った。行って陶侃に説き、「あなたは本来は蕪湖(の兵)を領して南北の援軍となるべきですが、さきに(持ち場を離れて)下れば、形勢は立て直せません。軍の差配には進むことはあるが退くことはなく、三軍が整わなければ、兵士に必ず死ぬことを示すだけです。また退いても拠る場所がなく、結局は滅亡するだけとも言います。かつて杜弢は強盛でないことはないが、あなたは最後に彼を滅ぼしたました。どうして蘇峻のほうは撃破できないのでしょうか。賊もまた死を畏れ、みなが勇敢な強兵ではありません。試みに私に兵を与えなさい。上陸して賊の軍資輸送を分断し、賊の不意を突いて、困窮させてやりましょう。私が失敗してから、その後であなたが戦線を離脱しても、人々はあなたを怨みません」と言った。陶侃は同意し、毛宝に督護を加え(兵を貸し)た。毛宝は蘇峻が句容と湖孰に蓄積した軍資を焼き、蘇峻はひどく食糧に不足した。陶侃は留まって離脱しなかった。
蘇峻が死ぬと、匡術は苑城をあげて降った。陶侃は毛宝に南城を守らせ、鄧嶽に西城を守らせた。賊の韓晃にこの城を攻めさせたが、毛宝が城壁を登って数十人を射殺した。韓晃は毛宝に、「きみは毛廬江か」と問いかけた。毛宝は、「そうだ」と言った。韓晃は、「きみは勇敢で知られているが、なぜ(城を)出て闘わないのか」と言った。毛宝は、「きみが猛将ならば、どうして(城に)入って闘わないのか」と言い返した。韓晃は笑って退いた。賊を平定すると、州陵県の開国侯に封建し、千六百戸であった。
庾亮が西鎮となると、(毛宝に)要請して輔国将軍・江夏相・督隨義陽二郡とし、上明に鎮させた。また南中郎に進めた。(毛宝は)庾亮に随って郭黙を討伐した。郭黙が平定されると、庾亮の司馬の王愆期らとともに桓宣を章山で救い、賊将の石遇を攻撃し、これを破った。征虜将軍に進めた。庾亮が北伐を計画し、上疏して(庾亮の)豫州の任を解き、その職を毛宝に授けたいと願い出た。これを受けて詔して毛宝を監揚州之江西諸軍事・豫州刺史とし、将軍は現状のままとした。西陽太守の樊峻とともに一万人で邾城を守らせた。石季龍はこれを嫌い、彼の子の石鑒をその将の夔安と李菟らとともに五万人で派遣して攻め来たり、張格度に二万騎で邾城を攻めさせた。毛宝は救いを庾亮に求めたが、庾亮は城が固いので、すぐには軍を派遣せず、城は陥落してしまった。毛宝と樊峻は左右を率いて囲みを突破したが、長江に向かい死ぬ者は六千人であった。毛宝もまた溺死した。庾亮は彼のために慟哭し、そのせいで発病し、薨去した。
詔して、「毛宝は軍を傾け敗北したので、待遇を削るべきである。しかし蘇峻の兵難のとき、王室のために力を尽くした。いまその失敗を咎め、加贈をしないが、祭ることは許す」と言った。その後に公卿は毛宝に大きな功績があることを述べ、しかも国家のために死んだので、爵位を削ってはならないと言った。升平三年、詔を下してもとの封爵を回復した。
これよりさき、毛宝が武昌にいたとき、軍人が市場で一匹の白い亀を買い取り、体長は四寸か五寸であった。これを飼うと徐々に大きくなり、川のなかに逃がした。邾城で敗れると、亀を飼っていた人は鎧を着て刀を持ち、自ら水中に身を投げたが、一つの石の上に落ちたように感じ、見ると、むかし飼っていた白い亀であった。体長は五尺か六尺あり、東岸に送り届けてくれ、生き残ることができた。毛宝の二人の子は、毛穆之と毛安之である。

原文

穆之字憲祖、小字1.武生、名犯王靖后諱、故行字、後又以桓溫母名憲、乃更稱小字。穆之果毅有父風、安西將軍庾翼以為參軍、襲爵州陵侯。翼等專威陝西、以子方之為建武將軍、守襄陽。方之年少、翼選武將可信杖者為輔弼、乃以穆之為建武司馬。俄而翼薨、大將干瓚・戴羲等作亂、穆之與安西長史江虨・司馬朱燾等共平之。
桓溫代翼、復取為參軍。從溫平蜀、以功賜次子都鄉侯。尋除2.揚威將軍・潁川太守、隨溫平洛、入關。溫將旋師、以謝尚未至、留穆之以二千人衞山陵。升平初、遷督寧州諸軍事・揚威將軍・寧州刺史。以桓溫封南郡、徙穆之為建安侯、復為溫太尉參軍、加冠軍將軍、以所募兵配之。溫伐慕容暐、使穆之監鑿鉅野百餘里、引汶會于濟川。及溫焚舟步歸、使穆之督東燕四郡軍事、領東燕太守、本官如故。袁真以壽陽叛、溫將征之。穆之以冠軍領淮南太守、守歷陽。真平、餘黨分散、乃以穆之督揚州之江西軍事、復領陳郡太守。俄而徙督揚州之義成荊州五郡雍州之京兆軍事・襄陽義成河南三郡太守、將軍如故。尋進領梁州刺史。頃之、以疾解職、詔以冠軍徵還。
苻堅別將寇彭城、復以將軍假節・監江北軍事、鎮廣陵。遷右將軍・宣城內史・假節、鎮姑孰。穆之以為、戍在近畿、無復軍警、不宜加節。上疏辭讓、許之。苻堅別將圍襄陽、詔穆之就上明受桓沖節度。沖使穆之游軍沔中。穆之始至、而朱序陷沒、引軍還郡。堅眾又寇蜀漢、梁州刺史楊亮・益州刺史周仲孫奔退、沖使穆之督梁州之三郡軍事・右將軍・西蠻校尉・益州刺史・領建平太守・假節、戍巴郡。以子球為梓潼太守。穆之與球伐堅、至于巴西郡、以糧運乏少、退屯巴東、病卒。追贈中軍將軍、諡曰烈。子珍嗣、位至天門太守。珍弟璩・3.球・璠・瑾・瑗、璩最知名。

1.中華書局本の校勘記によると、もとの名は「虎生」で、唐代の避諱による。
2.中華書局本の校勘記によると、「揚武」に作るべきである。
3.中華書局本の校勘記によると、下に「璩兄球」とあるため、兄弟順に記すならば、「球・璠」を反転させるべきである。

訓読

穆之 字は憲祖、小字は武生、名 王靖后の諱を犯せば、故に字を行ひ、後に又 桓溫の母の名 憲たる以て、乃ち更めて小字を稱す。穆之 果毅にして父の風有り、安西將軍の庾翼 以て參軍と為し、爵州陵侯を襲ふ。翼ら威を陝西に專らにし、子の方之を以て建武將軍と為し、襄陽を守らしむ。方之 年少なれば、翼 武將の信杖す可き者を選びて輔弼と為し、乃ち穆之を以て建武司馬と為す。俄かにして翼 薨じ、大將の干瓚・戴羲ら亂を作し、穆之 安西長史の江虨・司馬の朱燾らと與に共に之を平らぐ。
桓溫 翼に代はるや、復た取りて參軍と為す。溫の平蜀に從ひ、功を以て次子に都鄉侯を賜はる。尋いで揚威將軍・潁川太守に除せられ、溫の平洛に隨ひ、關に入る。溫 將に旋師せんとするに、謝尚の未だ至らざるを以て、穆之を留めて二千人を以て山陵を衞らしむ。升平の初に、督寧州諸軍事・揚威將軍・寧州刺史に遷る。桓溫 南郡に封ぜらるを以て、穆之を徙して建安侯と為し、復た溫の太尉參軍と為り、冠軍將軍を加へ、募る所の兵を以て之に配す。溫 慕容暐を伐ち、穆之をして鉅野百餘里を鑿し、汶を引きて濟川に會するを監せしむ。溫 舟を焚き步歸するに及び、穆之をして東燕四郡軍事を督し、東燕太守を領せしめ、本官 故の如し。袁真 壽陽を以て叛するや、溫 將に之を征せんとす。穆之 冠軍を以て淮南太守を領し、歷陽を守る。真 平らぐや、餘黨 分散し、乃ち穆之を以て揚州之江西軍事を督せしめ、復た陳郡太守を領せしむ。俄かにして督揚州之義成荊州五郡雍州之京兆軍事・襄陽義成河南三郡太守に徙り、將軍たること故の如し。尋いで進みて梁州刺史を領す。頃之、疾を以て職を解き、詔して冠軍を以て徵還す。 苻堅の別將 彭城を寇し、復た將軍假節・監江北軍事を以て、廣陵に鎮す。右將軍・宣城內史・假節に遷り、姑孰に鎮す。穆之 以為へらく、戍 近畿に在り、復た軍警無し、宜しく節を加ふべからずと。上疏して辭讓し、之を許す。苻堅の別將 襄陽を圍み、穆之に詔して上明に就きて桓沖の節度を受けしむ。沖 穆之をして沔中に游軍とせしむ。穆之 始め至るに、而れども朱序 陷沒し、軍を引きて郡に還る。堅の眾 又 蜀漢を寇し、梁州刺史の楊亮・益州刺史の周仲孫 奔退し、沖 穆之をして督梁州之三郡軍事・右將軍・西蠻校尉・益州刺史・領建平太守・假節とし、巴郡を戍らしむ。子の球を以て梓潼太守と為す。穆之 球と與に堅を伐ち、巴西郡に至るに、糧運の乏少なるを以て、退きて巴東に屯し、病もて卒す。中軍將軍を追贈し、諡して烈と曰ふ。子の珍 嗣ぎ、位は天門太守に至る。珍が弟の璩・球・璠・瑾・瑗あり、璩 最も名を知らる。

現代語訳

毛穆之は字を憲祖といい、小字は武生(虎生)で、名(穆之)が王靖后の諱と重なったので、字(憲祖)を用い、のちに桓温の母の名が憲なので、改めて小字(虎生)を名乗った。毛穆之は果断で父の遺風があり、安西将軍の庾翼が彼を参軍とした。州陵侯の爵位を継いだ。庾翼らが権勢を陝西で独占し、(庾翼の)子の庾方之を建武将軍とし、襄陽を守らせた。庾方之が年少なので、庾翼は信頼できる武将を選んで輔佐とし、毛穆之を建武司馬とした。ほどなく庾翼が薨去し、大将の干瓚と戴羲らが乱を起こしたが、毛穆之は安西長史の江虨と司馬の朱燾らとこれを平定した。
桓温が庾翼に交代すると、(庾翼と同様に)毛穆之を登用し参軍とした。桓温の蜀平定に従い、功績により次子に都郷侯を賜わった。すぐに揚威将軍・潁川太守に任命され、桓温の洛陽平定に随行し、関(の内側)に入った。桓温が軍を返そうとしたが、まだ謝尚が到着していないので、毛穆之を留めて二千人で山陵を護衛させた。升平年間の初め、督寧州諸軍事・揚威将軍・寧州刺史に遷った。桓温が南郡に封建されると、毛穆之を徙して建安侯とした。また桓温の太尉参軍となり、冠軍将軍を加え、募った兵を配下に付けた。桓温が慕容暐を討伐すると、毛穆之に鉅野の百里あまりを開鑿させ、汶川の水を引き入れ済川に合流させる工事を主管させた。桓温が舟を焼いて徒歩で帰ることになると、毛穆之に東燕四郡の軍事を督し、東燕太守を領させ、本官は現状のままとした。袁真が寿陽で叛乱すると、桓温はこれを征伐しようとした。毛穆之は冠軍将軍のまま淮南太守を領し、歴陽を守った。袁真が平定されると、残党が分散した。毛穆之に揚州之江西軍事を督させ、また陳郡太守を領させた。にわかに督揚州之義成荊州五郡雍州之京兆軍事・襄陽義成河南三郡太守に移り、将軍職は現状のままとした。ほどなく昇進し梁州刺史を領した。しばらくして、病気で官職を解かれ、詔して冠軍将軍として(朝廷に)徴し還した。
苻堅の別将が彭城を侵略すると、また(毛穆之を)将軍と仮節・監江北軍事として、広陵に鎮させた。右将軍・宣城内史・仮節に遷り、姑孰に鎮した。毛穆之は、「防衛拠点が都の近くにあり、軍の警戒を伝える体制がありません、私に節を加えないで下さい」と言った。上疏して辞退し、これが許された。苻堅の別将が襄陽を囲むと、毛穆之に詔して上明(桓沖が築いた城)にいて桓沖の節度を受けさせた。桓沖は毛穆之に命じて沔中で游軍とした。毛穆之が到着したばかりのとき、朱序が陣を突破されて敗北したので、軍を引いて郡に還った。苻堅の軍がまた蜀漢に侵攻すると、梁州刺史の楊亮と益州刺史の周仲孫が逃げて撤退した。桓沖は毛穆之を督梁州之三郡軍事・右将軍・西蛮校尉・益州刺史・領建平太守・仮節とし、巴郡を守らせた。子の毛球を梓潼太守とした。毛穆之は毛球とともに苻堅を討伐し、巴西郡まで来たが、糧食の輸送量が少ないので、退いて巴東に駐屯し、病気で亡くなった。中軍将軍を追贈し、諡して烈とした。子の毛珍が嗣ぎ、位は天門太守に至った。毛珍の弟には毛璩・毛球・毛璠・毛瑾・毛瑗がおり、毛璩がもっとも名を知られた。

原文

璩字叔璉。弱冠、右將軍桓豁以為參軍。尋遭父憂。服闋、為謝安衞將軍參軍、除尚書郎。安復請為參軍、轉安子琰征虜司馬。淮肥之役、苻堅迸走、璩與田次之共躡堅、至中陽、不及而歸。遷寧朔將軍・淮南太守。尋補鎮北將軍・譙王恬司馬。海陵縣界地名青蒲、四面湖澤、皆是菰葑、逃亡所聚、威令不能及。璩建議率千人討之。時大旱、璩因放火、菰葑盡然、亡戶窘迫、悉出詣璩自首、近有萬戶、皆以補兵、朝廷嘉之。轉西中郎司馬・龍驤將軍・譙梁二郡內史。尋代郭銓為建威將軍・益州刺史。
安帝初、進征虜將軍。及桓玄篡位、遣使加璩散騎常侍・左將軍。璩執留玄使、不受命。玄以桓希為梁州刺史、王异據涪、郭法戍宕渠、師寂戍巴郡、周道子戍白帝以防之。璩傳檄遠近、列玄罪狀、遣巴東太守柳約之・建平太守羅述・征虜司馬甄季之擊破希等、仍率眾次於白帝。武陵王令曰、「益州刺史毛璩忠誠慤亮、自桓玄萌禍、常思躡其後。今若平殄兇逆、肅清荊郢者、便當即授上流之任」。 初、璩弟寧州刺史璠卒官、璩兄球孫祐之及參軍費恬以數百人送喪、葬江陵。會玄敗、謀奔梁州。璩弟瑾子脩之時為玄屯騎校尉、誘玄使入蜀。既而脩之與祐之・費恬及漢嘉人馮遷共殺玄。約之等聞玄死、進軍到枝江、而桓振復攻沒江陵。劉毅等還尋陽、約之亦退。俄而季之・述之皆病、約之詣振偽降、因欲襲振。事泄、被害。約之司馬時延祖・涪陵太守文處茂等撫其餘眾、保涪陵。振遣桓放之為益州、屯西陵。處茂距擊、破之。振死、安帝反正、詔曰、「夫貞松標於歲寒、忠臣亮於國危。益州刺史璩體識弘正、誠契義旗、受命偏師、次于近畿、匡翼之勳、實感朕心。可進征西將軍、加散騎常侍、都督益梁秦涼寧五州軍事、行宜都・寧蜀太守。文處茂宣讚蕃牧、蒙險夷難、可輔國將軍・西夷校尉・巴西梓潼二郡太守」。又詔西夷校尉瑾為持節・監梁秦二州軍事・征虜將軍・梁秦二州刺史・略陽武都太守。瑾弟蜀郡太守瑗為輔國將軍・寧州刺史。 初、璩聞振陷江陵、率眾赴難、使瑾・瑗順外江而下、使參軍譙縱領巴西・梓潼二郡軍下涪水、當與璩軍會於巴郡。蜀人不樂東征、縱因人情思歸、於五城水口反、還襲涪、害瑾、瑾留府長史鄭純之自成都馳使告璩。璩時在略城、去成都四百里、遣參軍王瓊討反者、相距於廣漢。僰道令何林聚黨助縱、而璩下人受縱誘說、遂共害璩及瑗、并子姪之在蜀者、一時殄沒。璩子弘之嗣。
義熙中、時延祖為始康太守、上疏訟璩兄弟、於是詔曰、「故益州刺史璩・西夷校尉瑾・蜀郡太守瑗勤王忠烈、事乖慮外。葬送日近、益懷惻愴。可皆贈先所授官、給錢三十萬・布三百匹」。論璩討桓玄功、追封歸鄉公、千五百戶。又以祐之斬玄功、封夷道縣侯。
自寶至璩三葉、擁旄開國者四人、將帥之家、與尋陽周氏為輩、而人物不及也。
瑾子脩之、頻歷清顯、至右衞將軍、從劉裕平姚泓。後為安西司馬、沒於魏。

訓読

璩 字は叔璉なり。弱冠にして、右將軍の桓豁 以て參軍と為す。尋いで父の憂に遭ふ。服闋し、謝安の衞將軍參軍と為り、尚書郎に除せらる。安 復た請ひて參軍と為し、安が子の琰の征虜司馬に轉ず。淮肥の役に、苻堅 迸走し、璩 田次之と與に共に堅を躡し、中陽に至り、及ばずして歸る。寧朔將軍・淮南太守に遷る。尋いで鎮北將軍・譙王恬司馬に補せらる。海陵の縣界の地 青蒲と名いひ、四面の湖澤、皆 是れ菰葑たりて、逃亡し聚す所、威令 能く及ばず。璩 建議して千人を率ゐて之を討つ。時に大旱たり、璩 因りて火を放ち、菰葑 盡く然き、亡戶 窘迫し、悉く出でて璩に詣たりて自首し、萬戶有るに近く、皆 以て兵を補ひ、朝廷 之を嘉す。西中郎司馬・龍驤將軍・譙梁二郡內史に轉ず。尋いで郭銓に代はりて建威將軍・益州刺史と為る。
安帝の初に、征虜將軍に進む。桓玄 篡位するに及び、使を遣はして璩に散騎常侍・左將軍を加ふ。璩 玄の使を執留し、命を受けず。玄 桓希を以て梁州刺史と為すや、王异 涪に據り、郭法 宕渠を戍り、師寂 巴郡を戍し、周道子 白帝を戍りて以て之を防ぐ。璩 檄を遠近に傳へ、玄の罪狀を列し、巴東太守の柳約之・建平太守の羅述・征虜司馬の甄季之を遣はして希らを擊破し、仍りて眾を率ゐて白帝に次す。武陵王令曰く、「益州刺史の毛璩 忠誠にして慤亮、桓玄の禍を萌すより、常に其の後を躡まんと思ふ。今 若し兇逆を平殄し、荊郢を肅清すれば、便ち當に即ち上流の任を授くべし」と。
初め、璩の弟の寧州刺史の璠 官に卒し、璩が兄の球の孫の祐之及び參軍の費恬 數百人を以て喪を送り、江陵に葬る。會々玄 敗れ、梁州に奔らんことを謀る。璩が弟の瑾の子の脩之 時に玄の屯騎校尉と為り、玄を誘ひて蜀に入らしむ。既にして脩之 祐之・費恬及び漢嘉の人の馮遷と與に共に玄を殺す。約之ら玄の死するを聞き、軍を進めて枝江に到り、而して桓振 復た攻めて江陵を沒す。劉毅ら尋陽に還り、約之も亦た退く。俄かにして季之・述之 皆 病み、約之 振に詣りて偽はりて降り、因りて振を襲はんと欲す。事 泄れ、害せらる。約之の司馬の時延祖・涪陵太守の文處茂ら其の餘眾を撫して、涪陵に保す。振 桓放之を遣はして益州と為し、西陵に屯せしむ。處茂 距擊し、之を破る。振 死し、安帝 正に反り、詔して曰く、「夫れ貞松 歲寒に標はれ、忠臣 國危に亮たり。益州刺史の璩は體識 弘正にして、誠に義旗に契ひ、命を偏師に受け、近畿に次す。匡翼の勳、實に朕が心を感ぜしむ。征西將軍に進め、散騎常侍を加へ、都督益梁秦涼寧五州軍事、行宜都・寧蜀太守とす可し。文處茂 宣く蕃牧を讚し、險に蒙り難を夷す。輔國將軍・西夷校尉・巴西梓潼二郡太守とす可し」と。又 西夷校尉の瑾に詔して持節・監梁秦二州軍事・征虜將軍・梁秦二州刺史・略陽武都太守と為す。瑾が弟の蜀郡太守の瑗 輔國將軍・寧州刺史と為る。
初め、璩 振 江陵を陷つと聞き、眾を率ゐて難に赴き、瑾・瑗をして外江に順ひて下らしめ、參軍の譙縱をして巴西・梓潼二郡の軍を領して涪水を下らしめ、當に璩の軍と巴郡に會すべしとす。蜀人 東征を樂しまず。縱 人情に因りて歸らんと思ひ、五城水口に於て反し、還りて涪を襲ひ、瑾を害す。瑾の留府長史の鄭純之 成都より馳せて璩に告ぐ。璩 時に略城に在り、成都を去ること四百里、參軍の王瓊を遣はして反する者を討ち、廣漢に相 距む。僰道令の何林 黨を聚めて縱を助く。而して璩が下人 縱の誘說を受け、遂に共に璩及び瑗を害し、并はせて子姪の蜀に在る者、一時に殄沒す。璩の子の弘之 嗣ぐ。
義熙中に、時延祖 始康太守と為り、上疏して璩の兄弟を訟ふ。是に於て詔して曰く、「故の益州刺史の璩・西夷校尉の瑾・蜀郡太守の瑗 勤王にして忠烈、事 慮外に乖る。葬送の日 近く、益々惻愴を懷く。皆 先に授くる所の官を贈り、錢三十萬・布三百匹を給ふ可し」と。璩の桓玄を討つの功を論じ、追ひて歸鄉公に封じ、千五百戶なり。又 祐之の玄を斬るの功を以て、夷道縣侯に封ず。
寶より璩に至るまで三葉、擁旄し開國する者は四人、將帥の家、尋陽の周氏と輩と為り、而れども人物 及ばざるなり。
瑾の子の脩之、頻りに清顯を歷し、右衞將軍に至り、劉裕に從ひて姚泓を平らぐ。後に安西司馬と為り、魏に沒す。

現代語訳

毛璩は字を叔璉という。弱冠(二十歳)で、右将軍の桓豁の参軍となった。ほどなく父が死んだ。服喪し、謝安の衛将軍参軍となり、尚書郎に任命された。謝安がまた要請して参軍とし、謝安の子の謝琰の征虜司馬に転じた。淮肥の役(淝水の戦い)で、苻堅が逃げ去ると、毛璩は田次之とともに苻堅を追って、中陽に至ったが、追い付かずに帰った。寧朔将軍・淮南太守に遷った。すぐに鎮北将軍・譙王恬司馬に任命された。海陵県の域内に青蒲という地があり、四面の湖や沢が、すべて菰(まこも)や葑(かぶら)に覆われ、(戸籍から)逃げた民が集まり、(政府の)威令が及ばなかった。毛璩が建議して千人を率いてここを討伐した。このとき日照りがひどく、毛璩は火をはなち、菰や葑をすべて焼いた。逃げた民は行き詰まり、みな毛璩のもとに出頭した。一万戸近くを(戸籍に)登録し、彼らで兵員を補い、朝廷はこれを褒めた。西中郎司馬・龍驤将軍・譙梁二郡内史に転じた。ほどなく郭銓に代わって建威将軍・益州刺史となった。
安帝の初め、征虜将軍に進んだ。桓玄が帝位を簒奪すると、使者を派遣して毛璩に散騎常侍・左将軍を加えた。毛璩は桓玄の使者を留め置き、任命を受けなかった。桓玄が桓希を梁州刺史とすると、(対抗して)王异が涪に拠り、郭法が宕渠を守り、師寂が巴郡を守り、周道子が白帝を守ってこれを阻んだ。毛璩は檄文を遠近に伝え、桓玄の罪状を列挙し、巴東太守の柳約之と建平太守の羅述と征虜司馬の甄季之を遣わして桓希らを撃破し、兵を率いて白帝に停留した。武陵王の令に、「益州刺史の毛璩は忠誠で慎み深く、桓玄が禍いを起こそうとすると、つねに牽制をした。いま凶逆なものを平定し、荊州と郢州が粛然となれば、上流の任務を授けるべきだ」と言った。
これよりさき、毛璩の弟の寧州刺史の毛璠が在官で亡くなり、毛璩の兄の毛球の孫の毛祐之及び参軍の費恬が数百人で遺体を送り届け、江陵に葬った。たまたま桓玄が敗れ、梁州に逃げようとした。毛璩の弟の毛瑾の子の毛脩之はこのとき桓玄の屯騎校尉であり、桓玄を誘って蜀に入らせた。毛脩之は毛祐之と費恬及び漢嘉の人の馮遷とともに桓玄を殺した。柳約之らは桓玄が死んだと聞き、軍を進めて枝江に到ったが、一方で桓振は江陵を攻め落とした。劉毅らは尋陽に還り、柳約之もまた撤退した。にわかに甄季之と羅述(羅述之)はどちらも病気になった。柳約之は桓振のもとに偽って投降し、桓振を襲撃しようとした。計画が発覚し、殺害された。柳約之の司馬の時延祖と涪陵太守の文処茂らはその残兵をまとめ、涪陵に籠もった。桓振は桓放之を派遣して益州(長官)とし、西陵に駐屯させた。文処茂が(桓放之の着任を)妨げて攻撃し、これを破った。桓振が死に、安帝が皇位に復帰すると、詔して、「そもそも常緑の松は寒い季節に目立ち、忠臣は国家の危機に明らかになる。益州刺史の毛璩は態度と見識が広く正しく、正義の旗のために誓い、命令を一軍の長として受け、都の近くに駐屯している。国を正して支えた勲功は、朕の心を感動させた。征西将軍に進め、散騎常侍を加え、都督益梁秦涼寧五州軍事、行宜都・寧蜀太守とせよ。文処茂は周辺地域を味方につけ、危険を克服した。輔国将軍・西夷校尉・巴西梓潼二郡太守とせよ」と言った。さらに西夷校尉の毛瑾に詔して持節・監梁秦二州軍事・征虜将軍・梁秦二州刺史・略陽武都太守とした。毛瑾の弟の蜀郡太守の毛瑗は輔国将軍・寧州刺史となった。
これよりさき、毛璩は桓振が江陵を陥落させたと聞き、兵を率いて危難に駆けつけ、毛瑾と毛瑗には外江に沿って(水路を)下らせ、参軍の譙縦に巴西と梓潼二郡の軍を領して涪水を下らせ、毛璩の軍と巴郡で合流せよと命じた。蜀人は(荊州に)東征することに不満があった。譙縦は(蜀の)人々の思いにこたえて帰ろうと思い、五城水口で反乱し、引き返して涪を襲い、毛瑾を殺害した。毛瑾の留府長史の鄭純之が成都から馳せて毛璩に(譙縦の反乱を)告げた。毛璩はこのとき略城におり、成都から四百里の距離であり、参軍の王瓊を派遣して反乱した者を討伐させ、広漢で対峙した。僰道令の何林は配下を集めて譙縦を助けた。このとき毛璩の下人が譙縦の誘いを受け入れ、毛璩及び毛瑗を殺害した。しかも蜀にいる(毛氏の)子女は、すべて殺害された。毛璩の子の毛弘之が嗣いだ。
義熙年間、時延祖が始康太守となり、上疏して毛璩の兄弟について訴えた。そこで詔して、「もと益州刺史の毛璩と西夷校尉の毛瑾と蜀郡太守の毛瑗は勤王であり忠烈で、不慮のことで亡くなりました。葬送をしてまだ日が経たず、ますます悲愴に思います。全員にかつての官位を贈り、銭三十万と布三百匹を支給なさいませ」と言った。毛璩が桓玄を討伐した功績を論じ、追って帰郷公に封建し、千五百戸とした。また毛祐之は桓玄を斬った功績があるので、夷道県侯に封建された。
毛宝から毛璩に至るまで三世代、はたぼこを擁し(将軍となり)開国したものは四人で、将帥の家として、尋陽の周氏と同等であったが、人物の点で及ばなかった。
毛瑾の子の毛脩之は、しきりに清顕の官職を歴任し、右衛将軍に至り、劉裕に従って姚泓を平定した。のちに安西司馬となり、北魏に捕らわれた。

原文

安之字仲祖、亦有武幹、累遷撫軍參軍・魏郡太守。簡文輔政、委以爪牙。及登阼、安之領兵從駕、使止宿宮中。尋拜游擊將軍。時庾希入京口、朝廷震動、命安之督城門諸軍事。孝武即位、妖賊盧悚突入殿廷。安之聞難、率眾直入雲龍門、手自奮擊。既而左衞將軍殷康・領軍將軍桓祕等至、與安之并力、悚因剿滅。遷右衞將軍。定后崩、領將作大匠。卒官。追贈光祿勳。
四子、潭・泰・邃・遁。潭嗣爵、官至江夏相。泰歷太傅從事中郎・後軍諮議參軍、與邃俱為會稽王父子所昵、乃追論安之討盧悚勳、賜爵平都子、命潭襲爵。元顯嘗宴泰家、既而欲去、泰苦留之曰、「公若遂去、當取公腳」。元顯大怒、奮衣而出、遂與元顯有隙。及元顯敗、泰時為冠軍將軍・堂邑太山二郡太守。邃為游擊將軍、遁為太傅主簿。桓玄得志、使泰收元顯、送于新亭、泰因宿恨、手加毆辱。俄並為玄所殺、惟遁被徙廣州。義熙初、得還、至宜都太守。
德祖、璩宗人也。父祖並沒于賊中。德祖兄弟五人、相攜南渡、皆有武幹。荊州刺史劉道規以德祖為建武將軍・始平太守、又徙涪陵太守。盧循之役、道規又以為參軍、伐徐道覆於始興。尋遭母憂。
劉裕伐司馬休之、版補太尉參軍・義陽太守、賜爵遷陵縣侯、轉南陽太守。從劉裕伐姚泓、頻攻滎陽・扶風・南安・馮翊數郡、所在克捷。裕嘉之、以為龍驤將軍・秦州刺史。裕留第二子義真為安西將軍・雍州刺史。以德祖為中兵參軍、領天水太守、從義真還。裕以德祖督河東平陽二郡軍事・輔國將軍・河東太守、代劉遵考守蒲坂。及河北覆敗、德祖全軍而歸。裕方欲蕩平關洛、先以德祖督九郡軍事・冠軍將軍・滎陽京兆太守、以前後功、賜爵灌陽縣1.男、尋遷督司雍并三州諸軍事・冠軍將軍・司州刺史、戍武牢、為魏所沒。
德祖次弟嶷、嶷弟辯、並有志節。嶷死於盧循之難、辯沒於魯宗2.之役、並奮不顧命、為世所歎。

1.中華書局本の校勘記によると、「男」は「伯」に改めるべきである。
2.中華書局本の校勘記によると、「之」の字を二回重ねるべきである。

訓読

毛安之 字を仲祖、亦た武幹有り、累りに撫軍參軍・魏郡太守に遷る。簡文 輔政するや、委ぬるに爪牙を以てす。登阼するに及び、安之 兵を領して駕に從ひ、宮中に止宿せしむ。尋いで游擊將軍を拜す。時に庾希 京口に入り、朝廷 震動し、安之に命じて城門諸軍事を督せしむ。孝武 即位するや、妖賊の盧悚 殿廷に突入す。安之 難を聞き、眾を率ゐて直に雲龍門に入り、手づから自ら奮擊す。既にして左衞將軍の殷康・領軍將軍の桓祕ら至るや、安之と與に力を并はせ、悚 因りて剿滅せらる。右衞將軍に遷る。定后 崩ずるや、將作大匠を領す。官に卒す。光祿勳を追贈せらる。
四子あり、潭・泰・邃・遁なり。潭 爵を嗣ぎ、官は江夏相に至る。泰 太傅從事中郎・後軍諮議參軍を歷し、邃と與に俱に會稽王父子の昵む所と為り、乃ち追ひて安之の盧悚を討ちし勳を論じ、爵平都子を賜はり、潭に命じて爵を襲はしむ。元顯 嘗て泰が家に宴し、既にして去らんと欲し、泰 之を苦留して曰く、「公 若し遂に去らば、當に公の腳を取らるべし」と。元顯 大いに怒り、衣を奮ひて出で、遂に元顯と隙有り。元顯 敗るるに及び、泰 時に冠軍將軍・堂邑太山二郡太守と為る。邃 游擊將軍と為り、遁 太傅主簿と為る。桓玄 志を得て、泰をして元顯を收め、新亭に送らしむ。泰 宿恨に因り、手づから毆辱を加ふ。俄かにして並びに玄の殺す所と為り、惟だ遁のみ廣州に徙さる。義熙の初に、還るを得、宜都太守に至る。
德祖、璩の宗人なり。父祖 並びに賊中に沒す。德祖の兄弟五人、相 攜へて南渡し、皆 武幹有り。荊州刺史の劉道規 德祖を以て建武將軍・始平太守と為し、又 涪陵太守に徙す。盧循の役に、道規 又 以て參軍と為し、徐道覆を始興に伐つ。尋いで母の憂に遭ふ。
劉裕 司馬休之を伐つや、版もて太尉參軍・義陽太守に補せられ、爵を賜ひ陵縣侯に遷り、南陽太守に轉ず。劉裕の姚泓を伐つに從ひ、頻りに滎陽・扶風・南安・馮翊の數郡を攻め、所在に克捷す。裕 之を嘉し、以て龍驤將軍・秦州刺史と為す。裕 第二子の義真を留めて安西將軍・雍州刺史と為す。德祖を以て中兵參軍と為し、天水太守を領し、義真に從ひて還らしむ。裕 德祖を以て督河東平陽二郡軍事・輔國將軍・河東太守とし、劉遵考に代はりて蒲坂を守らしむ。河北 覆敗するに及び、德祖 軍を全して歸る。裕 方に關洛を蕩平せんと欲し、先に德祖を以て督九郡軍事・冠軍將軍・滎陽京兆太守とし、前後の功を以て、爵灌陽縣男を賜ひ、尋いで督司雍并三州諸軍事・冠軍將軍・司州刺史に遷し、武牢を戍らしむるに、魏の沒する所と為る。
德祖の次弟の嶷、嶷の弟の辯、並びに志節有り。嶷 盧循の難に死し、辯 魯宗之の役に沒し、並びに奮ひて命を顧みず、世の歎ずる所と為る。

現代語訳

毛安之は字を仲祖といい、彼にも武の才能があり、しきりに撫軍参軍や魏郡太守に遷った。簡文帝が輔政すると、爪牙(武官)を委ねた。(簡文帝が)帝位に登ると、毛安之は兵を領して車駕に従い、宮中に宿泊した。ほどなく游撃将軍を拝命した。このとき庾希が京口に入り、朝廷が動揺したので、毛安之に命じて城門諸軍事を督させた。孝武帝が即位すると、妖賊の盧悚が殿中に飛び込んだ。毛安之は危難を聞き、兵を率いてすぐに雲龍門に入り、直接戦闘をした。左衛将軍の殷康と領軍将軍の桓秘らが到着すると、毛安之と力を合わせ、盧悚を撃滅した。右衛将軍に遷った。定后が崩御すると、将作大匠を領した。在官で亡くなった。光禄勲を追贈された。
子が四人おり、毛潭・毛泰・毛邃・毛遁である。毛潭が爵位を嗣ぎ、官は江夏相に至った。毛泰は太傅従事中郎や後軍諮議参軍を歴任し、毛邃ととともに会稽王の父子の昵懇となった。遡って毛安之が盧悚を討った功績を論じ、平都子の爵位を賜わり、毛潭に命じて爵位を継がせた。司馬元顕があるとき毛泰の家で酒宴に出席し、帰ろうとすると、毛泰はむりに引き止めて、「もし帰るならば、足を奪ってやるぞ」と言った。司馬元顕はとても怒り、衣を振り払って帰り、こうして司馬元顕と不仲になった。司馬元顕が敗れたとき、毛泰は冠軍将軍・堂邑太山二郡太守であった。毛邃は游撃将軍となり、毛遁は太傅主簿となった。桓玄が志を得ると、毛泰に司馬元顕を捕らえて、新亭に護送させた。毛泰は長年の怨みがあり、直接殴って(元顕を)辱めた。ほどなく(毛氏は)みな桓玄に殺され、ただ毛遁のみが広州に徙された。義熙年間の初め、還ることができ、宜都太守に至った。
毛徳祖は、毛璩の宗人(同族)である。父祖はみな賊に捕らわれた。毛徳祖は兄弟五人で、助けあって南に渡り、みな武の才能があった。荊州刺史の劉道規は毛徳祖を建武将軍・始平太守とし、また涪陵太守に徙した。盧循の役で、劉道規はまた彼を参軍とし、徐道覆を始興で討伐した。このころ母が死んだ。
劉裕が司馬休之を討伐すると、簡牘で太尉参軍・義陽太守に任命され、爵を賜わって陵県侯に遷り、南陽太守に転じた。劉裕による姚泓の討伐に従軍し、しきりに滎陽・扶風・南安・馮翊の数郡を攻め、各地で勝利した。劉裕はこれを褒め、彼を龍驤将軍・秦州刺史とした。劉裕の第二子の劉義真を留めて安西将軍・雍州刺史とした。毛徳祖を中兵参軍とし、天水太守を領し、劉義真に従って還らせた。劉裕は毛徳祖を督河東平陽二郡軍事・輔国将軍・河東太守とし、劉遵考に代わって蒲坂を守らせた。河北が敗れて転覆すると、毛徳祖は軍を損なわずに帰った。劉裕が関中や洛陽を平定しようとし、さきに毛徳祖を督九郡軍事・冠軍将軍・滎陽京兆太守とした。前後の功により、灌陽県男の爵位を賜わり、すぐに督司雍并三州諸軍事・冠軍将軍・司州刺史に遷った。武牢を守らせたが、北魏に捕らわれた。
毛徳祖の次弟の毛嶷と、毛嶷の弟の毛辯は、どちらも志と節度があった。毛嶷は盧循の兵難で死に、毛辯は魯宗之の戦役で死に、どちらも奮戦して命を顧みず、世で感嘆された。

劉遐

原文

劉遐字正長、廣平易陽人也。性果毅、便弓馬、開豁勇壯。值天下大亂、遐為塢主、每擊賊、率壯士陷堅摧鋒、冀方比之張飛・關羽。鄉人冀州刺史邵續深器之、以女妻焉、遂壁于河濟之間、賊不敢逼。遐間道遣使受元帝節度、朝廷嘉之、璽書慰勉、以為龍驤將軍・平原內史。建武初、元帝令曰、「遐忠勇果毅、義誠可嘉。以遐為下邳內史、將軍如故」。
初、沛人周堅、一名撫、與同郡周默因天下亂、各為塢主、以寇抄為事。默降祖逖、撫怒、遂襲殺默、以彭城叛、石勒遣騎援之。詔遐領彭城內史、與徐州刺史蔡豹・太山太守徐龕共討撫、戰於寒山、撫敗走。詔徙遐為臨淮太守。徐龕復反、事平、以遐為北中郎將・兗州刺史。
太寧初、自彭城移屯泗口。王含反、遐與蘇峻俱赴京都。含敗、隨丹楊尹溫嶠追含至于淮南、遐頗放兵虜掠。嶠曰、「天道助順、故王含剿絕、不可因亂為亂也」。遐深自陳而拜謝。事平、以功封泉陵公、遷散騎常侍・監淮北軍事・北1.(軍)中郎將・徐州刺史・假節、代王邃鎮淮陰。咸和元年卒、追贈安北將軍。
子肇年幼、成帝以徐州授郗鑒、以郭默為北中郎將、領遐部曲。遐妹夫田防及遐故將史迭・卞咸・李龍等不樂他屬、共立肇、襲遐故位以叛。成帝遣郭默等率諸郡討之。默等始上道、而臨淮太守劉矯率將士數百掩襲遐營、迭等迸走、斬田防及督護卞咸等、追斬迭・龍于下邳、傳首詣闕。遐母妻子・參佐將士悉還建康。
遐妻驍果有父風。遐嘗為石季龍所圍、妻單將數騎、拔遐出於萬眾之中。及田防等欲為亂、遐妻止之、不從、乃密起火燒甲杖都盡。
肇襲爵、官至散騎侍郎。肇卒、子舉嗣。卒、子遵之嗣。卒、子伯齡嗣。宋受禪、國除。

1.中華書局本の校勘記に従い、「軍」一字を削る。

訓読

劉遐 字は正長、廣平易陽の人なり。性は果毅にして、弓馬に便にして、開豁勇壯なり。天下 大いに亂るるに值り、遐 塢主と為り、每に賊を擊ち、壯士を率ゐて堅を陷し鋒を摧ち、冀方 之を張飛・關羽に比ふ。鄉人の冀州刺史の邵續 深く之を器とし、女を以て焉に妻す。遂に河濟の間に壁し、賊 敢て逼らず。遐 間道に使を遣はして元帝の節度を受く。朝廷 之を嘉し、璽書もて慰勉し、以て龍驤將軍・平原內史と為す。建武の初に、元帝 令して曰く、「遐 忠勇にして果毅、義は誠に嘉す可し。遐を以て下邳內史と為し、將軍は故の如し」と。
初め、沛の人の周堅、一名は撫、同郡の周默と與に天下の亂るるに因り、各々塢主と為り、寇抄を以て事と為す。默 祖逖に降るや、撫 怒り、遂に襲ひて默を殺し、彭城を以て叛し、石勒 騎を遣はして之を援く。遐に詔して彭城內史を領せしめ、徐州刺史の蔡豹・太山太守の徐龕と與に共に撫を討たしむ。寒山に戰ひ、撫 敗走す。詔して遐を徙して臨淮太守と為す。徐龕 復た反し、事 平らぐや、遐を以て北中郎將・兗州刺史と為す。
太寧の初め、彭城より移りて泗口に屯す。王含 反するや、遐 蘇峻と與に俱に京都に赴く。含 敗るるや、丹楊尹の溫嶠に隨ひて含を追ひて淮南に至り、遐 頗る兵を放ちて虜掠す。嶠曰く、「天道は順を助け、故に王含 剿絕す。亂に因りて亂を為す可からざるなり」と。遐 深く自ら陳して拜謝す。事 平らぎ、功を以て泉陵公に封ぜられ、散騎常侍・監淮北軍事・北中郎將・徐州刺史・假節に遷り、王邃に代はりて淮陰に鎮す。咸和元年に卒し、安北將軍を追贈せらる。
子の肇は年 幼にして、成帝 徐州を以て郗鑒に授け、郭默を以て北中郎將と為し、遐の部曲を領せしむ。遐の妹夫の田防及び遐の故將の史迭・卞咸・李龍ら他屬するを樂まず、共に肇を立て、遐の故位を襲はんと以て叛す。成帝 郭默らを遣はして諸郡を率ゐて之を討たしむ。默ら始め道を上るに、而れども臨淮太守の劉矯 將士の數百を率ゐて遐が營を掩襲す。迭ら迸走し、田防及び督護の卞咸らを斬り、追ひて迭・龍を下邳に斬り、首を傳へて闕に詣らしむ。遐の母妻子・參佐將士 悉く建康に還る。
遐の妻 驍果にして父の風有り。遐 嘗て石季龍の圍ふ所と為り、妻 單り數騎を將ゐ、遐を拔きて萬眾の中に出でしむ。田防ら亂を為さんと欲するに及び、遐の妻 之を止む。從はずして、乃ち密かに火を起こして甲杖を燒き都て盡くす。
肇 爵を襲ひ、官は散騎侍郎に至る。肇 卒し、子の舉 嗣ぐ。卒し、子の遵之 嗣ぐ。卒し、子の伯齡 嗣ぐ。宋 受禪し、國 除かる。

現代語訳

劉遐は字を正長といい、広平易陽の人である。性格は果断で強く、弓馬が上手く、度量が大きく勇壮であった。天下がひどく乱れると、劉遐は塢主となり、つねに賊を撃ち、壮士を率いて(敵軍の)堅陣を落とし攻勢を挫き、冀州地域では彼を張飛や関羽に準えた。同郷出身で冀州刺史の邵続は高く評価し、娘を娶せた。黄河と済水のあたりに防壁を築き、賊はあえて接近しなかった。劉遐は間道から使者を派遣して元帝の節度を受けた。朝廷はこれを良しとし、璽書を送って慰労して励まし、劉遐を龍驤将軍・平原内史とした。建武年間のはじめ、元帝は令して、「劉遐は忠勇で果断であり、義は称賛すべきものだ。劉遐を下邳内史とし、将軍は現状のままとする」と言った。
これよりさき、沛の人の周堅は、一名を撫といったが、同郡の周黙とともに天下の混乱を受け、それぞれ塢主となり、略奪をはたらいた。郭黙が祖逖に降ると、周撫は怒り、郭黙を襲撃して殺し、彭城をあげて叛乱し、石勒は騎兵を派遣して(周撫を)援助した。劉遐に詔して彭城内史を領させ、徐州刺史の蔡豹と太山太守の徐龕とともに周撫を討伐させた。寒山で戦い、周撫は敗走した。詔して劉遐を臨淮太守に移した。徐龕がまた反乱し、平定がすむと、劉遐を北中郎将・兗州刺史とした。
太寧年間の初め、彭城から移って泗口に駐屯した。王含が反乱すると、劉遐は蘇峻とともに京都に赴いた。王含が敗れると、丹楊尹の温嶠に従って王含を追って淮南に至ったが、劉遐は兵に自由な略奪を許した。温嶠は、「天道は順な(筋道にかなう)ものを助けるので、王含は滅亡した。乱に乗じて乱を働いてはならない」と言った。劉遐は深く反省して謝罪した。平定が完了し、功績により泉陵公に封建され、散騎常侍・監淮北軍事・北中郎将・徐州刺史・仮節に遷り、王邃に代わって淮陰に鎮した。咸和元年に亡くなり、安北将軍を追贈された。
子の劉肇は年少なので、成帝は徐州を郗鑒に授け、郭黙を北中郎将とし、劉遐の部曲を領させた。劉遐の妹の夫の田防及び劉遐の故将の史迭・卞咸・李龍らは(劉肇でなく)他人の指揮下に入ることを嫌がり、ともに劉肇を立て、劉遐の生前の官位を継がせようとして叛乱した。成帝は郭黙らに諸郡の軍を率いて討伐させた。郭黙らは道を遡っていたが、臨淮太守の劉矯が数百人の将士をひきいて劉遐の軍営を奇襲した。史迭らは逃走し、田防及び督護の卞咸らを斬り、追って史迭と李龍を下邳で斬り、首を朝廷に届けた。劉遐の母や妻子と輔佐や将士はすべて建康に帰った。
劉遐の妻は勇敢で決断力があって父(邵続)の気風を受け継いでいた。劉遐がかつて石季龍に包囲されると、妻だけで数騎をひきい、劉遐を数万の敵軍の中から救出したことがあった。田防らが乱を起こそうとすると、劉遐の妻はこれを止めた。(田防らが)従わなかったため、ひそかに放火して武具をすべて焼き捨てた。
劉肇は(劉遐の)爵位を襲い、官は散騎侍郎に至った。劉肇が亡くなると、子の劉挙が嗣いだ。亡くなると、子の劉遵之が嗣いだ。亡くなると、子の劉伯齢が嗣いだ。宋が受禅し、国は除かれた。

鄧嶽 子遐

原文

鄧嶽字伯山、陳郡人也。本名岳、以犯康帝諱、改為嶽、後竟改名為岱焉。少有將帥才略、為王敦參軍、轉從事中郎・西陽太守。王含構逆、嶽領兵隨含向京都。及含敗、嶽與周撫俱奔蠻王向蠶。後遇赦、與撫俱出。久之、司徒王導命為從事中郎、後復為西陽太守。
及蘇峻反、平南將軍溫嶠遣嶽與督護王愆期・鄱陽太守紀睦等率舟軍赴難。峻平、還郡。郭默之殺劉胤也、大司馬陶侃使嶽率西陽之眾討之。默平、遷督交廣二州軍事・建武將軍・領平越中郎將・廣州刺史・假節、錄前後勳、封宜城縣伯。咸康1.(三)〔二〕年、嶽遣軍伐夜郎、破之。加督寧州、進征虜將軍、遷平南將軍。卒、子遐嗣。
遐字應遠。勇力絕人、氣蓋當時、時人方之樊噲。桓溫以為參軍、數從溫征伐。歷冠軍將軍、數郡太守、號為名將。襄陽城北沔水中有蛟、常為人害、遐遂拔劍入水、蛟繞其足、遐揮劍截蛟數段而出。枋頭之役、溫既懷恥忿、且忌憚遐之勇果、因免遐官、尋卒。寧康中、追贈廬陵太守。
嶽弟逸、字茂山、亦有武幹。嶽卒後、以逸監交廣州・建威將軍・平越中郎將・廣州刺史・假節。

1.中華書局本の校勘記に従い、「三」を「二」に改める。

訓読

鄧嶽 字は伯山、陳郡の人なり。本名は岳、康帝の諱を犯すを以て、改めて嶽と為し、後に竟に名を改めて岱と為す。少くして將帥の才略有り、王敦の參軍と為り、從事中郎・西陽太守に轉ず。王含 構逆するや、嶽 兵を領して含に隨ひて京都に向ふ。含 敗るるに及び、嶽 周撫と與に俱に蠻王向蠶に奔る。後に赦に遇ひ、撫と與に俱に出づ。久之、司徒の王導 命じて從事中郎と為し、後に復た西陽太守と為る。
蘇峻 反するに及び、平南將軍の溫嶠 嶽を遣はして督護の王愆期・鄱陽太守の紀睦らと與に舟軍を率ゐて難に赴かしむ。峻 平らぐや、郡に還る。郭默の劉胤を殺すや、大司馬の陶侃 嶽をして西陽の眾を率ゐて之を討たしむ。默 平らぐや、督交廣二州軍事・建武將軍・領平越中郎將・廣州刺史・假節に遷り、前後の勳を錄し、宜城縣伯に封ぜらる。咸康二年、嶽 軍を遣はして夜郎を伐ち、之を破る。督寧州を加へ、征虜將軍に進め、平南將軍に遷る。卒し、子の遐 嗣ぐ。
遐 字は應遠なり。勇力 絕人にして、氣は當時を蓋ひ、時人 之を樊噲に方ぶ。桓溫 以て參軍と為し、數々溫の征伐に從ふ。冠軍將軍、數郡の太守を歷し、號して名將と為す。襄陽の城北の沔水中に蛟有り、常に人に害を為し、遐 遂に劍を拔きて水に入り、蛟 其の足を繞むに、遐 劍を揮ひて蛟を截ること數段にして出づ。枋頭の役に、溫 既に恥忿を懷き、且つ遐の勇果を忌憚し、因りて遐の官を免ず。尋いで卒す。寧康中に、廬陵太守を追贈す。
嶽の弟の逸、字は茂山、亦た武幹有り。嶽 卒するの後、逸を以て監交廣州・建威將軍・平越中郎將・廣州刺史・假節とす。

現代語訳

鄧嶽は字を伯山といい、陳郡の人である。本名は岳であったが、康帝の諱を犯すので、嶽と改め、最終的に名を岱とした。若くして将帥の才能と軍略があり、王敦の参軍となり、従事中郎・西陽太守に転じた。王含が反逆を企てると、鄧嶽は兵を領して王含に従って京都に向かった。王含が敗れると、鄧嶽は周撫とともに蛮王の向蠶のもとに奔った。のちに赦があり、周撫とともに出てきた。しばらくして、司徒の王導が従事中郎に任命し、のちにまた西陽太守となった。
蘇峻が反乱すると、平南将軍の温嶠は鄧嶽を派遣して督護の王愆期や鄱陽太守の紀睦らとともに水軍をひきいて危難に向かわせた。蘇峻が平定されると、(西陽)郡に帰った。郭黙が劉胤を殺すと、大司馬の陶侃は鄧嶽に命じて西陽の郡兵を率いてこれを討伐させた。郭黙が平定されると、督交広二州軍事・建武将軍・領平越中郎将・広州刺史・仮節に遷り、前後の勲功により、宜城県伯に封建された。咸康二年、鄧嶽は軍を派遣して夜郎を討伐し、これを破った。督寧州を加えられ、征虜将軍に進み、平南将軍に遷った。亡くなると、子の鄧遐が嗣いだ。
鄧遐は字を応遠という。勇力が人を超え、気は時代を覆い、当時の人は彼を樊噲に準えた。桓温が彼を参軍とし、しばしば桓温の征伐に従った。冠軍将軍、数郡の太守を歴任し、名将と号された。襄陽の城北の沔水には蛟がおり、いつも人に危害を加えた。鄧遐は剣を抜いて川に入り、蛟がその足でまとわりついたが、鄧遐は剣を振るって蛟を数個に断ち切って(川から)出た。枋頭の戦役で(敗れると)、桓温は恥と怒りを抱き、鄧遐の勇猛さと戦果を忌み憚ったので、鄧遐の官職を罷免した。ほどなく(鄧遐は)亡くなった。寧康年間、廬陵太守を追贈した。
鄧嶽の弟の鄧逸は、字を茂山といい、彼にも武の才能があった。鄧嶽の没後、鄧逸を監交広州・建威将軍・平越中郎将・広州刺史・仮節とした。

朱序

原文

朱序字次倫、義陽人也。父燾、以才幹歷西蠻校尉・益州刺史。序世為名將、累遷鷹揚將軍・江夏相。興寧末、梁州刺史司馬勳反、桓溫表序為征討都護往討之、以功拜征虜將軍、封襄平子。太和中、遷兗州刺史。時長城人錢弘聚黨百餘人、藏匿原鄉山。以序為中軍司馬・吳興太守。序至郡、討擒之。事訖、還兗州。
寧康初、拜使持節・監沔中諸軍事・南中郎將・梁州刺史、鎮襄陽。是歲、苻堅遣其將苻丕等率眾圍序。序固守、賊糧將盡、率眾苦攻之。初、苻丕之來攻也、序母韓自登城履行、謂西北角當先受弊、遂領百餘婢并城中女子於其角斜築城二十餘丈。賊攻西北角、果潰、眾便固新築城。丕遂引退。襄陽人謂此城為夫人城。序累戰破賊、人情勞懈、又以賊退稍遠、疑未能來、守備不謹。督護李伯護密與賊相應、襄陽遂沒、序陷於苻堅。堅殺伯護徇之、以其不忠也。序欲逃歸、潛至宜陽、藏夏揆家。堅疑揆、收之。序乃詣苻暉自首、堅嘉而不問、以為尚書。
太元中、苻堅南侵、謝石率眾距之。時堅大兵尚在項、苻融以三十萬眾先至。堅遣序說謝石、稱己兵威。序反謂石曰、「若堅百萬之眾悉到、莫可與敵。及其未會、擊之、可以得志」。於是石遣謝琰選勇士八千人涉肥水挑戰。堅眾小却、序時在其軍後、唱云、「堅敗」。眾遂大奔、序乃得歸。拜龍驤將軍・琅邪內史、轉1.〔監〕揚州豫州五郡軍事・豫州刺史、屯洛陽。
後丁零翟遼反、序遣將軍秦膺・童斌與淮泗諸郡共討之。又監兗青二州諸軍事・二州刺史、將軍如故、進鎮彭城。序求鎮淮陰、帝許焉。翟遼又使其子釗寇陳潁、序還遣秦膺討釗、走之、拜征虜將軍。表求運江州米十萬斛・布五千匹以資軍費、詔聽之。加都督司・雍・梁・秦四州軍事。帝遣廣威將軍・河南太守楊佺期、南陽太守趙睦、各領兵千人隸序。序又表求故荊州刺史桓石生府田百頃、并穀八萬斛、給之。仍戍洛陽、衞山陵也。
其後慕容永率眾向洛陽、序自河陰北濟、與永偽將王次等相遇、乃戰於沁水、次敗走、斬其支將勿支首。參軍趙睦・江夏相桓不才追永、破之于太行。永歸上黨。時楊楷聚眾數千、在湖陝、聞永敗、遣任子詣序乞降。序追永至上黨之白水、與永相持二旬。聞翟遼欲向金墉、乃還、遂攻翟釗於石門、遣參軍趙蕃破翟遼於懷縣、遼宵遁。序退次洛陽、留鷹揚將軍朱黨戍石門。序仍使子略督護洛城、趙蕃為助。序還襄陽。會稽王道子以序勝負相補、不加褒貶。
其後東羌校尉竇衝欲入漢川、安定人皇甫釗・京兆人周勳等謀納之。梁州刺史周瓊失巴西三郡、眾寡力弱、告急於序、序遣將軍皇甫貞率眾赴之。衝據長安東、釗・勳散走。
序以老病、累表解職、不許。詔斷表、遂輒去任。數旬、歸罪廷尉、詔原不問。太元十八年卒、贈左將軍・散騎常侍。

1.中華書局本の校勘記に従い、「監」一字を補う。

訓読

朱序 字は次倫、義陽の人なり。父の燾は、才幹を以て西蠻校尉・益州刺史を歷す。序 世々名將為りて、累りに鷹揚將軍・江夏相に遷る。興寧の末に、梁州刺史の司馬勳 反し、桓溫 序を表して征討都護と為して往きて之を討たしめ、功を以て征虜將軍を拜し、襄平子に封ぜらる。太和中に、兗州刺史に遷る。時に長城の人の錢弘 黨百餘人を聚め、原鄉山に藏匿す。序を以て中軍司馬・吳興太守と為す。序 郡に至たるや、討ちて之を擒ふ。事 訖はり、兗州に還る。
寧康の初に、使持節・監沔中諸軍事・南中郎將・梁州刺史を拜し、襄陽に鎮す。是の歲、苻堅 其の將の苻丕らを遣はして眾を率ゐて序を圍はしむ。序 固守し、賊の糧 將に盡きんとするに、眾を率ゐて之を苦攻す。初め、苻丕の來攻するや、序の母の韓 自ら登城して履行し、西北の角 當に先に弊を受くべしと謂ひ、遂に百餘の婢に城中の女子を并はせて領して其の角斜に城二十餘丈を築く。賊 西北角を攻め、果たして潰え、眾 便ち新たに築く城を固む。丕 遂に引き退く。襄陽の人 此の城を謂ひて夫人城と為す。序 累りに戰ひて賊を破るや、人情 勞懈し、又 賊 退きて稍く遠かるを以て、未だ能く來らざると疑ひ、守備 謹まず。督護の李伯護 密かに賊と相 應じ、襄陽 遂に沒し、序 苻堅に陷す。堅 伯護を殺して之を徇ふるに、其の不忠を以てす。序 逃げて歸らんと欲し、潛みて宜陽に至り、夏揆の家に藏る。堅 揆を疑ひ、之を收む。序 乃ち苻暉に詣りて自首し、堅 嘉して問はず、以て尚書と為す。
太元中に、苻堅 南侵し、謝石 眾を率ゐて之を距む。時に堅の大兵 尚ほ項に在り、苻融 三十萬の眾を以て先に至る。堅 序を遣はして謝石を說き、己の兵威を稱せしむ。序 反りて石に謂ひて曰く、「若し堅の百萬之眾 悉く到らば、與に敵す可きこと莫し。其の未だ會せざるに及び、之を擊たば、以て志を得可し」と。是に於て石 謝琰を遣はして勇士八千人を選びて肥水を涉りて戰を挑ましむ。堅の眾 小しく却くや、序 時に其の軍の後に在り、唱へて云く、「堅 敗れたり」と。眾 遂に大いに奔り、序 乃ち歸るを得たり。龍驤將軍・琅邪內史を拜し、監揚州豫州五郡軍事・豫州刺史に轉じ、洛陽に屯す。
後に丁零の翟遼 反し、序 將軍の秦膺・童斌を遣はして淮泗の諸郡と與に共に之を討たしむ。又 監兗青二州諸軍事・二州刺史たりて、將軍は故の如く、進みて彭城に鎮す。序 淮陰に鎮せんと求め、帝 焉を許す。翟遼 又 其の子の釗をして陳潁を寇せしめ、序 還りて秦膺を遣はして釗を討たしめ、之を走らせ、征虜將軍を拜す。表して江州の米十萬斛・布五千匹を運びて以て軍費に資さんことを求め、詔して之を聽す。都督司・雍・梁・秦四州軍事を加ふ。帝 廣威將軍・河南太守の楊佺期、南陽太守の趙睦を遣はし、各々兵千人を領して序に隸せしむ。序 又 表して故の荊州刺史の桓石生の府田百頃を求むるや、穀八萬斛を并はせて、之を給す。仍りて洛陽を戍り、山陵を衞るなり。
其の後 慕容永 眾を率ゐて洛陽に向かひ、序 河陰より北して濟り、永の偽將の王次らと相 遇し、乃ち沁水に戰ふ。次 敗走し、其の支將の勿支の首を斬る。參軍の趙睦・江夏相の桓不才 永を追ひ、之を太行に破る。永 上黨に歸る。時に楊楷 眾數千を聚め、湖陝に在り、永の敗るるを聞き、任子を遣はして序に詣りて降らんことを乞ふ。序 永を追ひて上黨の白水に至り、永と相 持すること二旬なり。翟遼 金墉に向はんと欲するを聞き、乃ち還る。遂に翟釗を石門に攻め、參軍の趙蕃を遣はして翟遼を懷縣に破り、遼 宵に遁ぐ。序 退きて洛陽に次り、鷹揚將軍の朱黨を留めて石門を戍らしむ。序 仍りて子の略をして洛城を督護せしめ、趙蕃もて助と為す。序 襄陽に還る。會稽王の道子 序の勝負 相 補ふを以て、褒貶を加へず。
其の後 東羌校尉の竇衝 漢川に入らんと欲し、安定の人の皇甫釗・京兆の人の周勳ら之を納れんと謀る。梁州刺史の周瓊 巴西の三郡を失ひ、眾は寡なく力は弱く、急を序に告ぐ。序 將軍の皇甫貞を遣はして眾を率ゐて之に赴かしむ。衝 長安の東に據り、釗・勳 散走す。
序 老病を以て、累りに職を解かんことを表するに、許さず。詔して表を斷ち、遂に輒ち任を去らしむ。數旬に、罪を廷尉に歸せらるるに、詔して原して問はず。太元十八年に卒し、左將軍・散騎常侍を贈らる。

現代語訳

朱序は字を次倫といい、義陽の人である。父の朱燾は、高い能力により西蛮校尉・益州刺史を歴任した。朱序は名将の家柄なので、しきりに鷹揚将軍・江夏相に遷った。興寧年間の末、梁州刺史の司馬勲が反乱し、桓温は上表して朱序を征討都護として討伐に向かわせ、その功績で征虜将軍を拝命し、襄平子に封建された。太和年間、兗州刺史に遷った。このとき長城の人の銭弘が党与の百人あまりをあつめ、原郷山に立て籠もった。朱序を中軍司馬・呉興太守とした。朱序は呉興郡に到着すると、討伐して銭弘を捕らえた。平定が終わり、兗州に還った。
寧康年間の初め、使持節・監沔中諸軍事・南中郎将・梁州刺史を拝命し、襄陽に鎮した。この年、苻堅がその将の苻丕らを派遣して軍を率いて(襄陽で)朱序を包囲させた。朱序は固く守り、賊軍の兵糧が尽きかけたとき、軍を率いて激しく攻撃した。これよりさき、苻丕が攻め寄せると、朱序の母の韓が自分の足で城壁に登って歩きまわり、西北の角が最初に崩れそうだと言い、百人あまりの婢(女奴隷)と城中の女子をあわせて指揮をとり角の斜めに城壁二十丈あまりを築いた。(母の見立てどおり)賊が西北の角を攻め、やはり城壁はくずれ、自軍の兵は新たに築いた城壁で防戦した。符丕は(攻めあぐねて)撤退した。襄陽の人はこの城壁を夫人城と呼んだ。朱序が連戦して賊を破ると、自軍に油断が生じ、さらに賊が遠くまで撤退し、もう攻めてくる余力がないと思い、防衛を怠った。督護の李伯護がひそかに賊と内通し、襄陽がそのせいで陥落し、朱序は苻堅に囚われた。苻堅は李伯護を殺して、その不忠を示した。朱序は逃げ帰ろうと、ひそかに宜陽に到着し、夏揆の家に匿われた。苻堅が夏揆を疑って、かれを捕らえると、朱序は(夏揆をかばって)苻暉のもとに出頭した。苻堅はこれを称えて不問とし、(朱序を前秦の)尚書とした。
太元年間、苻堅が南下して侵略し、謝石は軍を率いてこれを防いだ。このとき苻堅の大軍はまだ項県におり、苻融が三十万の軍で先に到着していた。苻堅は朱序を派遣して謝石を説得させ、自軍(前秦)の兵威を称え(降服を勧告し)た。朱序は反対に謝石に、「もし苻堅の百万の軍がすべて到着したら、(東晋は)敵わない。まだ到着していないうちに、攻撃をすれば、志を得られる(勝てる)だろう」と言った。そこで謝石は謝琰を派遣して勇士八千人を選んで肥水を渡って戦いを挑ませた。苻堅の軍が少し後退すると、朱序はこのとき軍の後方にいたが、「苻堅が敗れたぞ」と唱えた。軍勢はひどく逃げ惑い、朱序は(東晋に)帰還できた。龍驤将軍・琅邪内史を拝命し、監揚州豫州五郡軍事・豫州刺史に転任し、洛陽に駐屯した。
のちに丁零の翟遼が反乱し、朱序は将軍の秦膺と童斌を派遣して淮泗の諸郡(の軍)とともに(翟遼を)討伐した。さらに監兗青二州諸軍事・二州刺史となり、将軍号はもとのままで、進んで彭城に鎮した。朱序は淮陰に鎮することを求め、皇帝はこれを許した。翟遼がまた子の翟釗に陳潁を侵略させると、朱序はもどって秦膺を派遣して翟釗を討伐し、これを敗走させて、征虜将軍を拝命した。上表して江州の米十万斛と布五千匹を運んで戦費の足しとすることを要請し、詔で許可された。都督司・雍・梁・秦四州軍事を加えた。皇帝は広威将軍・河南太守の楊佺期と、南陽太守の趙睦を派遣し、それぞれ兵千人を領して朱序の配下とした。朱序はまた上表して前の荊州刺史の桓石生の府田百頃を求めたところ、穀八万斛を合わせて、支給された。洛陽を守り、山陵を護衛した。
のちに慕容永が兵を率いて洛陽に向かうと、朱序は河陰から北上して河を渡り、慕容永の偽将の王次らと遭遇して、沁水で戦った。王次は敗走し、その支将の勿支の首を斬った。参軍の趙睦と江夏相の桓不才が慕容永を追い、これを太行で破った。慕容永は上党に帰った。このとき楊楷が数千の兵を集め、湖陝にいたが、慕容永が敗れたと聞くと、任子を送ってきて朱序に降服を申し出た。朱序は慕容永を追って上党の白水に到達し、慕容永と二十日にわたり対峙した。翟遼が金墉に向かっていると聞き、帰還した。こうして翟釗を石門で攻撃し、参軍の趙蕃を派遣して翟遼を懐県で破り、翟遼は夜に逃げた。朱序は退いて洛陽に駐屯し、鷹揚将軍の朱党を留めて石門を守らせた。朱序は子の朱略に洛城を督護させ、趙蕃を輔佐とした。朱序は襄陽に帰還した。会稽王の司馬道子は朱序の勝敗が半ばしているので、褒貶を加えなかった。
その後に東羌校尉の竇衝が漢川に入ろうとすると、安定の人の皇甫釗と京兆の人の周勲らはこれを受け入れようと考えた。梁州刺史の周瓊は巴西の三郡を失い、軍勢は少なくて弱く、危機を朱序に告げた。朱序は将軍の皇甫貞を派遣して軍をひきいて向かわせた。竇衝は長安の東に拠り、皇甫釗と周勲の軍は逃げ散った。
朱序は老齢と病気を理由に、何度も解任してほしいと上表したが、許されなかった。詔して上表を辞めさせたが、ようやく任務を解かれた。数十日後、罪を廷尉から責められたが、詔で許して不問とした。太元十八年に亡くなり、左将軍・散騎常侍を贈られた。

原文

史臣曰、晉氏淪喪、播遷江表、內難荐臻、外虞不息、經略之道、是所未弘、將帥之功、無聞焉爾。遜・豹・宣・胤服勤於太興之間、毛・鄧・劉・朱馳騖乎咸和之後。雖人不逮古、亦足列於當世焉。
贊曰、氣分淮海、災流瀍澗。覆類玄蚖、興微鴻雁。鼓鞞在聽、兔罝有作。赳赳羣英、勤茲王略。

訓読

史臣曰く、晉氏 淪喪し、江表に播遷す。內難 荐臻し、外虞 息まず、經略の道、是れ未だ弘めざる所、將帥の功、聞く無し。遜・豹・宣・胤 太興の間に服勤し、毛・鄧・劉・朱 咸和の後に馳騖す。人の古に逮ばずと雖も、亦た當世に列するに足ると。
贊に曰く、氣 淮海に分かれ、災 瀍澗に流る。類を玄蚖に覆へし、微を鴻雁〔一〕に興す。鼓鞞 聽に在り、兔罝 作る有り。赳赳たる羣英、茲の王略に勤むと。

〔一〕鴻雁は、『毛詩』小雅の篇名で、離散した民を指す。

現代語訳

史臣はいう、晋国が沈んで滅び、江表に移動した。内側から危難が到来し、外側からの脅威が途絶えず、経略の道は、まだ広まらず、将帥の功は、聞こえない。王遜と蔡豹と桓宣と劉胤は太興年間(三一八~三一二年)に忠勤に励み、毛宝と鄧嶽と劉遐と朱序はみな咸和年間(三二六~三三四年)の後に奔走した。人材はいにしえに及ばないが、当代で並び称するには十分であると。
賛にいう、気が淮水や海に分かれ、災が瀍水や澗水に流れた。同族が玄蚖(とかげ)に転覆し、地位の低いものが鴻雁(離散した民)から立ち上がった。鼓鞞(軍鼓)が聞こえ、兔罝(うさぎを捕らえる罠)を設けた。猛々しい英雄らが、王略のために働いたと。