いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第五十二巻_陳壽・王長文・虞溥・司馬彪・王隱・虞預・孫盛・干寶・鄧粲・謝沈・習鑿歯・徐廣

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。「¥」の記号は、内容を確認して補う予定です。
この巻の翻訳は、主催者が2022年11月の完成に向けて準備していましたが、2022年9月に前倒しして公開しています(後期の大学院の授業期間中は多忙が見込まれるため、夏休み期間中に完了させました)。

陳壽

原文

陳壽字承祚、巴西安漢人也。少好學、師事同郡譙周、仕蜀為觀閣令史。宦人黃皓專弄威權、大臣皆曲意附之、壽獨不為之屈、由是屢被譴黜。遭父喪、有疾、使婢丸藥、客往見之、鄉黨以為貶議。及蜀平、坐是沈滯者累年。司空張華愛其才、以壽雖不遠嫌、原情不至貶廢、舉為孝廉、除佐著作郎、1.出補陽平令。撰蜀相諸葛亮集、奏之。除著作郎、領本郡中正。撰魏吳蜀三國志、凡六十五篇。時人稱其善敘事、有良史之才。夏侯湛時著魏書、見壽所作、便壞己書而罷。張華深善之、謂壽曰、「當以晉書相付耳」。其為時所重如此。或云、丁儀・丁廙有盛名於魏、壽謂其子曰、「可覓千斛米見與、當為尊公作佳傳」。丁不與之、竟不為立傳。壽父為馬謖參軍、謖為諸葛亮所誅、壽父亦坐被髠、諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳、謂亮將略非長、無應敵之才、言瞻惟工書、名過其實。議者以此少之。
張華將舉壽為中書郎、荀勖忌華而疾壽、遂諷吏部遷壽為長廣太守。辭母老不就。杜預將之鎮、復薦之於帝、宜補黃散。由是授御史治書。以母憂去職。母遺言令葬洛陽、壽遵其志。又坐不以母歸葬、竟被貶議。初、譙周嘗謂壽曰、「卿必以才學成名、當被損折、亦非不幸也。宜深慎之」。壽至此、再致廢辱、皆如周言。後數歲、起為太子中庶子、未拜。
元康七年、病卒、時年六十五。梁州大中正・尚書郎范頵等上表曰、「昔漢武帝詔曰、『司馬相如病甚、可遣悉取其書。』使者得其遺書、言封禪事、天子異焉。臣等案、故治書侍御史 陳壽作三國志、辭多勸誡、明乎得失、有益風化、雖文艷不若相如、而質直過之、願垂採錄」。於是詔下河南尹・洛陽令、就家寫其書。壽又撰古國志五十篇・益都耆舊傳十篇、餘文章傳於世。

1.『廿二史攷異』によると、「平陽侯相」に作るべきである。

訓読

陳壽 字は承祚、巴西安漢の人なり。少くして學を好み、同郡の譙周に師事す。蜀に仕へて觀閣令史と為る。宦人の黃皓 威權を專弄し、大臣は皆 意を曲げて之に附するも、壽のみ獨り之の為に屈せず、是に由り屢々譴黜せらる。父の喪に遭ひ、疾有り、婢をして藥を丸めしむ。客 往きて之を見て、鄉黨 以て貶議を為す。蜀 平らぐるに及ぶも、是に坐して沈滯する者 年を累(かさ)ぬ。司空の張華 其の才を愛し、以へらく壽 嫌に遠からずと雖も、情を原(たず)ぬれば貶廢するには至らずと。舉げて孝廉と為し、佐著作郎に除せられ、出でて陽平令に補せらる。蜀相の諸葛亮集を撰し、之を奏す。著作郎に除せられ、本郡の中正を領す。魏吳蜀の三國志を撰し、凡そ六十五篇なり。時人 其の善く事を敘するを稱し、良史の才有りとす。夏侯湛 時に魏書を著はすに、壽の作る所を見て、便ち己が書を壞ちて罷む。張華 深く之を善とし、壽に謂ひて曰く、「當に晉書を以て相 付すべきのみ」と。其の時に重んずる所と為ること此の如し。或いは云ふ〔一〕、丁儀・丁廙 魏に盛名有り、壽 其の子に謂ひて曰く、「可(も)し千斛の米を覓めて與へらるれば、當に尊公の為に佳傳を作らん」と、丁 之を與へざれば、竟に為に立傳せずと。壽の父 馬謖の參軍と為り、謖 諸葛亮の誅する所と為れば、壽の父も亦た坐して髠せられ、諸葛瞻 又 壽を輕んず。壽 亮の為に立傳し、謂ふらく亮の將略 長たるに非ずして、應敵の才無しと、言ふらく瞻 惟だ書に工みなるも、名は其の實より過ぐと。議者 此を以て之を少とす。 張華 將に壽を舉げて中書郎と為さんとするも、荀勖 華を忌みて壽を疾み、遂に吏部に諷して壽を遷して長廣太守と為す。母の老を辭として就かず。杜預 將に鎮に之かんとするに、復た之を帝に薦め、宜しく黃散に補すべしと。是に由り御史治書を授けらる。母の憂を以て職を去る。母 遺言して洛陽に葬らしめ、壽 其の志に遵ふ。又 母を以て歸葬せざるに坐して、竟に貶議せらる。初め、譙周 嘗て壽に謂ひて曰く、「卿 必ず才學を以て名を成すも、當に損折せられん。亦た不幸に非らざるや。宜しく深く之に慎しむべし」と。壽 此に至り、再び廢辱せらるに致り、皆 周が言の如し。後數歲にして、起ちて太子中庶子と為るも、未だ拜せず。
元康七年に、病もて卒し、時に年六十五なり。梁州大中正・尚書郎の范頵ら上表して曰く、「昔 漢の武帝 詔して曰く、『司馬相如 病 甚し、悉く其の書を取らしむ可し』と。使者 其の遺書を得るに、封禪の事を言ひ、天子 焉を異とす。臣ら案ずらく、故治書侍御史 の陳壽 三國志を作り、辭は勸誡多く、得失に明るく、風化に益有らん。文艷 相如に若かざると雖も、而れども質直たること之に過ぎ、願はくは採錄を垂れんことを」と。是に於て詔して河南尹・洛陽令に下し、家に就きて其の書を寫さしむ。壽 又 古國志五十篇・益都耆舊傳十篇を撰し、餘の文章 世に傳はる。

〔一〕福井重雅(編)『中国古代の歴史家たち 司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』(早稲田大学出版部、二〇〇六年)は、「或云」が掛かる範囲を「有盛名於魏」までとしている。ここでは、「竟不為立傳」まで掛かると理解した。

現代語訳

陳寿は字を承祚といい、巴西安漢の人である。若くして学を好み、同郡の譙周に師事した。蜀に仕えて観閣令史となった。宦官の黄皓が威権を壟断し、高官はみな意思を曲げてへつらったが、陳寿だけは屈服せず、そのためにしばしば譴責され降格された。父が死んで、病気になり、下女に薬を丸めさせた。(弔問)客が訪れてこれを目撃し、同郷の人々はこれをとりあげて非難した。蜀が平定された後も、郷党の悪評のために数年たっても世に出られなかった。司空の張華はその才能を愛し、陳寿への批判はもっともだが、心情を考えれば降格をしたり官界から排除したりするほどではないと言った。孝廉に挙げられ、佐著作郎になり、出て陽平令(平陽侯相か)に任命された。蜀の宰相の『諸葛亮集』を撰述し、上奏した。著作郎に任命され、本郡の中正を領した。魏呉蜀の『三国志』を撰述し、全体で六十五篇であった。当時の人々は陳寿は事の叙述が上手いとして、良史の才があると称えた。夏侯湛はこのとき『魏書』を著していたが、陳寿の著作を見て、すぐに自分の文書を破却して作成を中止した。張華がとても高く評価し、陳寿に、「『晋書』をきみに担当させたい」と言った。当時においてこれほど重用された。(ところが)一説によると、丁儀と丁廙は魏で名声があって、陳寿はその子に、「もし千斛の米をくれるならば、父君のためによい列伝を書こう」と言ったが、丁氏が贈らなかったので、列伝を立てずに終わったという。(あるいは)陳寿の父は馬謖の参軍であり、馬謖が諸葛亮に誅殺され、陳寿の父も連坐して髠刑にされ、しかも諸葛瞻もまた陳寿を軽んじたので、陳寿は諸葛亮伝において、諸葛亮は将略に優れず、敵に応じる才能がなかっとし、諸葛瞻は書こそ巧みだが、名声が実態を上回ると書いた。議者はこれにより陳寿を批判した。
張華が陳寿を推挙して中書郎にしようとした。ところが荀勖は張華を嫌っていたので陳寿を憎み、吏部に吹き込んで陳寿を長広太守に左遷してしまった。母の高齢を理由に着任しなかった。杜預が鎮所(荊州)に行くとき、陳寿を武帝に推薦し、黄散(黄門侍郎か散騎常侍)に任命するとよいと言った。おかげで御史治書を授けられた。母の死で官職を去った。母は洛陽に葬るようにと遺言し、陳寿はその考えに従った。ところが母を故郷に葬らなかったことを理由に、批判をこうむった。これよりさき、(師の)譙周が陳寿に、「きみは才能と学問によって名を成すだろうが、必ずや不当な批判を受ける。それも不幸なことではないか。慎重に振る舞うように」と言った。陳寿が母の埋葬をめぐり、再び罷免されたことは、すべて譙周の言葉どおりであった。のち数年で、復帰して太子中庶子となったが、まだ拝命せずにいた。
元康七(二九七)年、病没し、ときに六十五歳だった。梁州大中正・尚書郎の范頵らが上表して、「むかし漢の武帝が詔して、『司馬相如の病気が重くなると、すべての著作物を入手せよ』と言いました。使者が遺された文章群を得ると、封禅のことを言ったものがあり、天子は驚き喜びました。私たちが考えますに、もと治書侍御史の陳寿は『三国志』を作り、彼の文言には勧戒が多く、得失を明らかにしたもので、風化に役立つでしょう。文の華やかさは司馬相如に及びませんが、質実で正確なことは司馬相如を超えます。どうか採録をお許しください」と言った。そこで詔して河南尹・洛陽令に命令し、家に赴いてかれの著作物を写させた。陳寿はこれ以外に『古国志』五十篇と『益都耆旧伝』十篇を撰述し、その他の文章も世に伝えられた。

王長文

原文

王長文字德叡、廣漢郪人也。少以才學知名、而放蕩不羈、州府辟命皆不就。州辟別駕、乃微服竊出、舉州莫知所之。後於成都市中蹲踞齧胡餅。刺史知其不屈、禮遣之。閉門自守、不交人事。著書四卷、擬易、名曰通玄經、有文言・卦象、可用卜筮、時人比之揚雄太玄。同郡馬秀曰、「揚雄作太玄、惟桓譚以為必傳後世。晚遭陸績、玄道遂明。長文通玄經未遭陸績・1.君(出)〔山〕耳」。
太康中、蜀土荒饉、開倉振貸。長文居貧、貸多、後無以償。郡縣切責、送長文到州。刺史徐幹捨之、不謝而去。後成都王穎引為江源令。或問、「前不降志、今何為屈」。長文曰、「祿以養親、非為身也」。梁王肜為丞相、引為從事中郎。在洛出行、輒著白旃小鄣以載車、當時異焉。後終於洛。

1.中華書局本の校勘記に従い、「出」を「山」に改める。

訓読

王長文 字は德叡、廣漢郪の人なり。少くして才學を以て名を知られ、而れども放蕩にして羈ならず、州府の辟命あるとも皆 就かず。州 別駕に辟するや、乃ち微服して竊かに出で、州に舉(こぞ)りて之く所を知るもの莫し。後に成都市中に於て蹲踞して胡餅を齧る。刺史 其の屈せざるを知り、禮もて之を遣はす。門を閉じて自守し、人事に交はらず。書四卷を著はし、易に擬へ、名づけて通玄經と曰ひ、文言・卦象有り、卜筮を用ふ可し。時人 之を揚雄の太玄に比す。同郡の馬秀曰く、「揚雄は太玄を作り、惟だ桓譚のみ以為へらく必ず後世に傳はると。晚に陸績に遭ひ、玄道 遂に明たり。長文の通玄經は未だ陸績・君山に遭はざるのみ」と。
太康中に、蜀土 荒饉し、倉を開きて振貸す。長文 貧に居り、多を貸り、後に以て償ふ無し。郡縣 切責し、長文を送りて州に到らしむ。刺史の徐幹 之を捨つるに、謝せずして去る。後に成都王穎 引きて江源令と為す。或ひと問ふ、「前に志を降さず、今 何為れぞ屈するや」と。長文曰く、「祿は親を養ふを以てし、身が為に非ざるなり」と。梁王肜 丞相と為るや、引きて從事中郎と為す。洛に在りて出行し、輒ち白旃の小鄣を著はして以て車に載せ、當時 焉を異とす。後に洛に終る。

現代語訳

王長文は字を徳叡といい、広漢の郪県の人である。若くして才学により名を知られ、しかし放蕩して他人に縛られず、州府の辟命はすべてを断った。州府が別駕に辟召すると、人目に付かない服でひそかに立ち去り、州ではだれも行く先を知らなかった。のちに成都の市中で膝を立てて座り胡餅をかじっているのが見つかった。刺史は彼が屈服しないので、礼を尽くして使者を送った。しかし門を閉じて立てこもり、世俗との交際を断った。四巻の書物を著はし、『易』に擬え、『通玄経』と名づけた。文言と卦象があり、卜筮を用いるものであった。当時の人々はこれを(前漢末の)揚雄の『太玄経』と同類とした。同郡の馬秀は、「揚雄は『太玄経』を作り、ただ桓譚だけがこの書物が必ず後世に伝わると考えた。のちに陸績を経由し、(揚雄が込めた)玄学の道が明らかにされた。王長文の『通玄経』はまだ(理解者としての)陸績や君山(桓譚の字)に出会えていない」と言った。
太康年間、蜀の地域が荒廃して飢饉となり、官倉を開いて支給や貸与をした。王長文は貧しかったので、多くを借り入れたが、のちに返済しなかった。郡県がこれを追及し、王長文の身柄を州に引き渡した。刺史の徐幹が見逃してやったが、王長文は礼を述べずに立ち去った。のちに成都王穎(司馬穎)が招いて江源令とした。あるものが、「かつて志を保って仕官しなかったが、いま屈服したのはなぜか」と質問した。王長文は、「俸禄は親の扶養に使う、自分のためではない」と言った。梁王肜(司馬肜)が丞相になると、招いて従事中郎とした。洛陽で出かけるとき、白旃(香木)の小さな支柱を車に付け、当時の人々の注目を集めた。のちに洛陽で亡くなった。

虞溥

原文

虞溥字允源、高平昌邑人也。父祕、為偏將軍、鎮隴西。溥從父之官、專心墳籍。時疆埸閱武、人爭視之、溥未嘗寓目。郡察孝廉、除郎中、補尚書都令史。尚書令衞瓘・尚書褚䂮並器重之。溥謂瓘曰、「往者金馬啟符、大晉應天、宜復先王五等之制、以綏久長。不可承暴秦之法、遂漢魏之失也」。瓘曰、「歷代歎此、而終未能改」。
稍遷公車司馬令、除鄱陽內史。大修庠序、廣招學徒、移告屬縣曰、「學所以定情理性而積眾善者也。情定於內而行成於外、積善於心而名顯於教、故中人之性隨教而移、善積則習與性成。唐虞之時、皆比屋而可封、及其廢也、而云可誅、豈非化以成俗、教移人心者哉。自漢氏失御、天下分崩、江表寇隔、久替王教、庠序之訓、廢而莫修。今四海一統、萬里同軌、熙熙兆庶、咸休息乎太和之中、宜崇尚道素、廣開學業、以讚協時雍、光揚盛化」。
乃具為條制。於是至者七百餘人。溥乃作誥以奬訓之、曰、
文學諸生皆冠帶之流、年盛志美、始涉學庭、講修典訓、此大成之業、立德之基也。夫聖人之道淡而寡味、故始學者不好也。及至朞月、所觀彌博、所習彌多、日聞所不聞、日見所不見、然後心開意朗、敬業樂羣、忽然不覺大化之陶己、至道之入神也。故學之染人、甚於丹青。丹青吾見其久而渝矣、未見久學而渝者也。
夫工人之染、先修其質、後事其色、質修色積、而染工畢矣。學亦有質、孝悌忠信是也。君子內正其心、外修其行、行有餘力、則以學文、文質彬彬、然後為德。夫學者不患才不及、而患志不立、故曰希驥之馬、亦驥之乘、希顏之徒、亦顏之倫也。又曰㓶而舍之、朽木不知。㓶而不舍、金石可虧。斯非其效乎。
今諸生口誦聖人之典、體閑庠序之訓、比及三年、可以小成。而令名宣流、雅譽日新、朋友欽而樂之、朝士敬而歎之。於是州府交命、擇官而仕、不亦美乎。若乃含章舒藻、揮翰流離、稱述世務、探賾究奇、使楊班韜筆、仲舒結舌、亦惟才所居、固無常人也。然積一勺以成江河、累微塵以崇峻極、匪志匪勤、理無由濟也。諸生若絕人間之務、心專親學、累一以貫之、積漸以進之、則亦或遲或速、或先或後耳。何滯而不通、何遠而不至邪。
時祭酒求更起屋行禮、溥曰、「君子行禮、無常處也、故孔子射於矍相之圃、而行禮於大樹之下。況今學庭庠序、高堂顯敞乎」。
溥為政嚴而不猛、風化大行、有白烏集于郡庭。注春秋經・傳、撰江表傳及文章詩賦數十篇。卒於洛、時年六十二。子勃、過江上江表傳於元帝、詔藏于祕書。

訓読

虞溥 字は允源、高平昌邑の人なり。父の祕は、偏將軍と為り、隴西に鎮す。溥 父に從ひて官に之き、心を墳籍に專らにす。時に疆埸 武を閱し、人 爭ひて之を視るに、溥 未だ嘗て寓目せず。郡 孝廉に察し、郎中に除し、尚書都令史に補せらる。尚書令の衞瓘・尚書の褚䂮 並びに之を器重す。溥 瓘に謂ひて曰く、「往者(さき)に金馬 符を啟きて、大晉 天に應ず。宜しく先王五等の制を復して、以て久長を綏すべし。暴秦の法を承けて、漢魏の失を遂ぐ可からざるなり」と。瓘曰く、「歷代 此を歎すも、而れども終に未だ改むる能はず」と。
稍く公車司馬令に遷り、鄱陽內史に除せらる。大いに庠序を修め、廣く學徒を招き、告を屬縣に移して曰く、「學は情を定め性を理めて眾善を積む所以の者なり。情 內に定まりて行 外に成り、善を心に積みて名 教に顯はる。故に中人の性 教に隨ひて移り、善を積まば則ち習 性と與に成る。唐虞の時、皆 比屋して封ず可く、其の廢るるに及ぶや、而ち誅す可きと云ふ。豈に化 以て俗を成し、教 人心を移す者に非ざるや。漢氏 御を失ひてより、天下 分崩し、江表 寇隔して、久しく王教を替(す)つ。庠序の訓、廢れて修むる莫し。今 四海 一統し、萬里 軌を同くし、熙熙たる兆庶、咸 太和の中に休息す。宜しく道素を崇尚し、廣く學業を開きて、以て時雍を讚協し、盛化を光揚すべし」と。
乃ち具さに條制を為る。是に於て至る者は七百餘人なり。溥 乃ち誥を作りて以て之を奬訓して、曰く、
「文學の諸生は皆 冠帶の流なり。年は盛んにして志は美しく、始めて學庭に涉り、典訓を講修す。此れ大成の業、立德の基なり。夫れ聖人の道は淡にして味寡く、故に始めて學ぶ者は好まざるなり。朞月に至るに及びて、觀る所 彌々博く、習ふ所 彌々多く、日々聞かざる所を聞き、日に見ざる所を見る。然る後に心は開き意は朗らかなりて、業を敬ひて羣を樂しみ、忽然として大化の己を陶するを覺らず、至道の神に入るなり。故に學の人を染むるは、丹青よりも甚し。丹青にして吾 其の久しくして渝(かは)るを見るも、未だ久しく學びて渝る者を見ざるなり。
夫れ工人の染は、先に其の質を修めて、後に其の色を事とす。質 修めて色 積み、而して染工 畢はる。學も亦た質有り、孝悌忠信 是れなり。君子 內に其の心を正し、外に其の行を修む。行 餘力有るときは、則ち以て文を學び、文質 彬彬たるときは、然る後に德を為す。夫れ學は才の及ばざるを患はず、而して志の立たざるを患ふ。故に曰ふ驥を希むの馬、亦た驥の乘(そむ)くや、顏を希むの徒、亦た顏の倫なり。又 曰ふ㓶(きざ)みて之を舍(す)つれば、朽木を知らざるも、㓶みて舍てずんば、金石 虧く可し。斯れ其の效に非ざるや。
今 諸生 口に聖人の典を誦し、體に庠序の訓を閑(なら)はば、三年に及ぶ比に、以て小成す可し。而して令名 宣く流れ、雅譽 日々新たなり。朋友 欽みて之を樂しみ、朝士 敬ひて之を歎ず。是に於て州府 交々命じ、官を擇びて仕ふ、亦た美ならざるや。若れ乃ち章を含みて藻を舒へ、翰を揮ひて流離し、世務を稱述し、賾を探し奇を究め、楊班をして筆を韜めしめ、仲舒をして舌を結ばしむ。亦た惟だ才のみ居る所にして、固より常人無きなり。然して一勺を積みて以て江河と成り、微塵を累ねて以て峻極を崇くす。志に匪ず勤に匪ず、理として由りて濟ること無し。諸生 若し人間の務を絕ち、心は專らに學に親しみ、一を累ねて以て之を貫き、漸を積みて以て之を進むれば、則ち亦た或いは遲く或いは速く、或いは先にして或いは後なるのみ。何ぞ滯れども通ぜざる、何ぞ遠けれども至らざるや」と。
時に祭酒 更めて屋を起て禮を行はんことを求む。溥曰く、「君子 禮を行ふに、常處無きなり。故に孔子 矍相の圃に射て、禮を大樹の下に行ふ。況んや今 學庭の庠序、高堂 顯敞なるをや」と。
溥の為政 嚴なれども猛からず、風化 大いに行はれ、白烏 郡庭に集ふ有り。春秋經・傳に注し、江表傳及び文章詩賦の數十篇を撰す。洛に卒し、時に年六十二なり。子の勃は、江を過りて江表傳を元帝に上し、詔して祕書に藏せしむ。

現代語訳

虞溥は字を允源といい、高平昌邑の人である。父の虞秘は、偏将軍となり、隴西を鎮守した。虞溥は父に従って官署に赴任し、もっぱら典籍に心を寄せた。このとき国境付近では軍隊の訓練が行われ、人々は争って見物をしたが、虞溥はかつて一度も関心を持たなかった。郡が孝廉に察挙し、郎中となり、尚書都令史に任命された。尚書令の衛瓘と尚書の褚䂮はともに虞溥の器量を認めた。虞溥は衛瓘に、「むかし金馬の符瑞があって、大晋は天に応じ(帝国を建て)ました。先王の(周代の)五等爵の制度を復興し、国家を長期的に安定させるべきです。暴秦の法を継承し、漢魏の失敗をくり返してはいけません」と言った。衛瓘は、「歴代これ(五等爵を実施しないこと)を嘆いてきたが、結局は改めることができなかったのだ」と言った。
やがて公車司馬令に遷り、鄱陽内史に任命された。大いに庠序(学校)を整備し、広く学徒を招いた。属県に布告して、「学問は情を定め性をおさめて多く善を積むための基礎である。情が内で定まれば行いが外で完成され、善を心に積めば名が教えにあらわれる。ゆえに中人の性は教えによって変化し、善を積めば習は性とともに完成する。唐虞(尭舜)の時代、軒並みどの人々も諸侯に相応しく、それが(桀紂の時代に)廃れると、どの人物も誅殺すべきとなったという(『新語』無為篇)。これは(君主による)教化が風俗を作りあげ、教育が人心を変化させることをいった文ではなかろうか。漢帝国が統御を失ってから、天下は分かれて崩壊し、江表(長江の南)は隔絶され、久しく王の教えが廃れてきた。庠序の訓(学校教育)が、廃れて整備されていない。いま四海が統一され、万里に軌を同じくなり、万民は和らぎ楽しみ、みな泰平のなかで休息をしている。本来の道を大切にし、広く学業を開いて、当世を賛美し、盛んな教化を輝かせるように」と言った。
細かく学校制度をつくった。ここにおいて学生は七百人あまりが至った。虞溥は訓戒をつくって学生を指導し、
「文学の諸生はみな冠帯(地位ある知識人)の一員である。年若くて志は美しく、学問の庭を訪れて、典籍の購読をするようになる。これは大きな事業を成し、徳を立てることの基礎である。聖人の道は淡白で味が薄く、初学者が好むものではない。しかし年月を重ねると、視野がどんどん広がり、知識がますます増え、毎日のように新たな見聞との出会いがある。やがて心が開かれて思考が明らかになり、学業を敬って教えあうこと楽しみ、おおいに薫陶を受けたという自覚がなくとも、道の極致に至るのである。ゆえに学問は、絵の具以上に人を染める。絵の具は時間がたてば退色するが、学問の成果が抜けたものを見たことがない。
職人が布を染めるときは、さきに質(下地)を整えてから、色を塗る。下地を整えて色を乗せることで、職人の工程は終わる。学問にも下地があって、孝悌忠信がこれにあたる。君子は内面でその心を正しくし、外面でその行動を修める。適切に行動できたら(下地が整ったら)、文を学び、華やかさと質朴さが釣りあったら、徳となる。もともと学問とは才が及ばないことを心配せず、志が立たないことを心配するものだ。ゆえに駿馬になりたいと思った馬は、すでに駿馬と同類であるし、顔回のようにになりたいと思った人物は、顔回の仲間である(揚雄『法言』)。また刻んでも中止をすれば、朽木ですら倒せないが、最後まで刻みきれば、金属や石ですら欠けさせることができる(『荀子』勧学篇)。これが学問の効力ではなかろうか。
いま学生たちは口で聖人の典籍を暗唱し、体で学校での教えに馴染んでいる。三年もたてば、一定の成果が出るだろう。そして名前が広く伝わり、声望が日々上がるだろう。朋友は喜んで交際し、朝廷の士は敬って感服するだろう。やがて州府が次々と召し寄せて、官職を選んで仕えることになる。素晴らしいことではないか。美を隠して飾りつけ、筆を振るって流離し、世の政務について称述し、書物の真理を探究すれば、楊班(揚雄と班固)に筆を片付けさせ、董仲舒を口籠もらせることになる。ただしこれは才能の持ち主に限ったことで、普通の人にはできない。しかし水をすくい続ければ江河となり、塵を積み重ねれば高く険しい山となる。志もなく努力もせず、これが達成できる道はない。学生たちが世俗から距離をおき、学問にだけ専心し、一つずつ着実に重ね、少しずつ進めていけば、早いか遅いか、先か後かの違いはあろうが、立ち止まっても通じ、道は遠くても届くはずである」と言った。
このとき祭酒が礼をおこなう場所を改めて建てたいと言った。虞溥は、「君子が礼をおこなうには、定まった場所はない。ゆえに孔子は矍相の野で射をおこない(『礼記』射義)、礼を大樹の下で弟子に教えた(『史記』巻四十七 孔子世家)。ましていま学校では、高堂が広く大きいのに(建てる必要があろうか)」と言った。
虞溥の為政は厳格であったが猛(苛政)ではなく、風化がおおいに行われ、白烏が郡府の庭に集まった。春秋の経と伝に注釈をつけ、『江表伝』及び文章や詩賦の数十篇を撰した。洛陽で亡くなり、六十二歳だった。子の虞勃は、長江を渡ってから『江表伝』を元帝に献上し、詔して秘書府に収蔵させた。

司馬彪

原文

司馬彪字紹統、高陽王睦之長子也。出後宣帝弟敏。少篤學不倦、然好色薄行、為睦所責、故不得為嗣、雖名出繼、實廢之也。彪由此不交人事、而專精學習、故得博覽羣籍、終其綴集之務。初拜騎都尉。泰始中、為祕書郎、轉丞。注莊子、作九州春秋。以為「先王立史官以書時事、載善惡以為沮勸、撮教世之要也。是以春秋不修、則仲尼理之。關雎既亂、則師摯修之。前哲豈好煩哉。蓋不得已故也。漢氏中興、訖于建安、忠臣義士亦以昭著、而時無良史、記述煩雜、譙周雖已刪除、然猶未盡、安順以下、亡缺者多」。彪乃討論眾書、綴其所聞、起于世祖、終于孝獻、編年二百、錄世十二、通綜上下、旁貫庶事、為紀・志・傳凡八十篇、號曰續漢書。泰始初、武帝親祠南郊、彪上疏定議、語在郊祀志。後拜散騎侍郎。惠帝末年卒、時年六十餘。
初、譙周以司馬遷史記書周秦以上、或採俗語百家之言、不專據正經、周於是作古史考二十五篇、皆憑舊典、以糾遷之謬誤。彪復以周為未盡善也、條古史考中凡百二十二事為不當、多據汲冢紀年之義、亦行於世。

訓読

司馬彪 字は紹統、高陽王睦の長子なり。出でて宣帝の弟の敏に後たり。少くして篤學にして倦まず、然れども色を好み行を薄くし、睦の責むる所と為り、故に嗣と為るを得ず、名 出でて繼ぐと雖も、實は之を廢すなり。彪 此に由り人事と交らず、而して專ら學習を精し、故に羣籍をを博覽するを得、其の綴集の務めを終ふ。初め騎都尉を拜す。泰始中に、祕書郎と為り、丞に轉ず。莊子に注し、九州春秋を作る。以為へらく、「先王 史官を立てて以て時事を書し、善惡を載せて以て沮勸と為し、教世の要を撮(あつ)む。是を以て春秋 修めざれば、則ち仲尼 之を理(をさ)む。關雎 既に亂るれば、則ち師摯 之を修む。前哲 豈に煩なるを好まんや。蓋し已むを得ざる故なり。漢氏 中興し、建安に訖るまで、忠臣義士も亦た以(すで)に昭著するに、而れども時に良史無く、記述は煩雜なり。譙周 已に刪除すと雖も、然れども猶ほ未だ盡くさず、安順より以下、亡缺する者 多し」と。彪 乃ち眾書を討論し、其の聞く所を綴り、世祖より起て、孝獻に終はり、年二百を編み、世十二を錄し、上下を通綜し、旁く庶事を貫き、紀・志・傳凡八十篇を為して、號して續漢書と曰ふ。泰始の初めに、武帝 親ら南郊を祠るや、彪 上疏して議を定む、語 郊祀志に在り。後に散騎侍郎を拜す。惠帝の末年に卒し、時に年六十餘なり。
初め、譙周 司馬遷の史記 周秦より以上を書き、或いは俗語の百家の言を採り、專ら正經に據らざるを以て、周 是に於て古史考二十五篇を作り、皆 舊典に憑りて、以て遷の謬誤を糾す。彪 復た周の未だ善を盡さざると為すを以て、古史考中の凡百二十二事を條して當らざると為し、多く汲冢紀年の義に據る。亦た世に行はる。

現代語訳

司馬彪は字を紹統といい、高陽王睦(司馬睦)の長子である。家を出て宣帝(司馬懿)の弟の司馬敏の後嗣となった。若くして篤学で勤勉であったが、色を好んで行動が軽薄であったため、司馬睦から責められ、自家の継嗣となれなかった。名目上は家を出て(司馬敏)を継いだとされるが、実態は(太子から)廃されたのである。司馬彪はこれにより人と交際せず、もっぱら学問に取り組んだので、多くの典籍を広く読むことができ、収集と整理をやり遂げた。はじめ騎都尉を拝した。泰始年間に、秘書郎となり、丞に転じた。『荘子』に注釈をつけて、『九州春秋』を著した。その書のなかで、「先王は史官を立てて時事について書き、善悪について載せて教戒とし、統治における要事をまとめた。『春秋』の記述が乱れると、孔子が編纂をした。関雎(『毛詩』)の記述が乱れると、師摯(魯の楽官)が整理をした。前代の賢者は煩雑さを好んだのか。(そうではなく)やむを得なかったのである。漢帝国が中興してから、建安年間に至るまで、忠臣も義士も記録をつけてきたが、良い史官が輩出されず、記述が煩雑となった。譙周がすでに(煩雑な先行史書を)削除し整理したけれども、まだ十分とは言いがたく、安帝と順帝より以下の時代は、記述に欠落が多い」と言った。司馬彪は多くの書物を突き合わせ、伝えている内容をまとめた。世祖(光武帝)に始まり、孝献皇帝で終わるまで、二百年分を編纂し、皇帝を十二代とし、初めから終わりまで体裁を揃えて、全体に一貫性を持たせ、紀・志・伝を全部で八十篇とし、『続漢書』と名づけた。泰始年間の初め、武帝がみずから南郊を祠るとき、司馬彪は上疏して議論を定めた。そのことは郊祀志に見える。のちに散騎侍郎を拝した。恵帝の末年に亡くなり、六十歳あまりであった。
これよりさき、譙周は司馬遷の『史記』が周や秦より古い時代のことを書き、俗語の百家の言を採録した部分があり、もっぱら正統な経典に依拠していないと考えた。そこで譙周は『古史考』二十五篇を作り、すべて古い典籍(経書)に依拠して、司馬遷の誤謬を正した。司馬彪はさらに譙周が最善を尽くしていないと考え、『古史考』のなかの一百二十二の事象を箇条書きにして誤りを指摘し、多く『汲冢紀年』(汲冢書、竹書紀年)に沿って訂正した。これも世に通行した。

王隱

原文

王隱字處叔、陳郡陳人也。世寒素。父銓、歷陽令、少好學、有著述之志、每私錄晉事及功臣行狀、未就而卒。隱以儒素自守、不交勢援、博學多聞、受父遺業、西都舊事多所諳究。
建興中、過江、丞相軍諮祭酒涿郡祖納雅相知重。納好博弈、每諫止之。納曰、「聊用忘憂耳」。隱曰、「蓋古人遭時、則以功達其道。不遇、則以言達其才、故否泰不窮也。當今晉未有書、天下大亂、舊事蕩滅、非凡才所能立。君少長五都、游宦四方、華夷成敗皆在耳目、何不述而裁之。應仲遠作風俗通、崔子真作政論、蔡伯喈作勸學篇、史游作急就章、猶行於世、便為沒而不朽。當其同時、人豈少哉。而了無聞、皆由無所述作也。故君子疾沒世而無聞、易稱自強不息、況國史明乎得失之跡、何必博弈而後忘憂哉」。納喟然歎曰、「非不悅子之道、力不足也」。乃上疏薦隱。元帝以草創務殷、未遑史官、遂寢不報。
太興初、典章稍備、乃召隱及郭璞俱為著作郎、令撰晉史。豫平王敦功、賜爵平陵鄉侯。時著作郎虞預私撰晉書、而生長東南、不知中朝事、數訪於隱、并借隱所著書竊寫之、所聞漸廣。是後更疾隱、形於言色。預既豪族、交結權貴、共為朋黨、以斥隱、竟以謗免、黜歸于家。貧無資用、書遂不就、乃依征西將軍庾亮于武昌。亮供其紙筆、書乃得成、詣闕上之。隱雖好著述、而文辭鄙拙、蕪舛不倫。其書次第可觀者、皆其父所撰。文體混漫義不可解者、隱之作也。年七十餘、卒於家。
隱兄瑚、字處仲。少重武節、成都王穎舉兵向洛、以為冠軍參軍、積功、累遷游擊將軍、與司隸滿奮・河南尹周馥等俱屯大司馬門、以衞宮掖。時上官巳縱暴、瑚與奮等共謀除之、反為所害。

訓読

王隱 字は處叔、陳郡陳の人なり。世々寒素なり。父の銓は、歷陽令なり、少くして學を好み、著述の志有り、每に私かに晉事及び功臣の行狀を錄するに、未だ就かずして卒す。隱 儒素を以て自守し、勢援に交はらず、博學多聞にして、父の遺業を受け、西都の舊事 多く諳究する所なり。
建興中に、江を過り、丞相軍諮祭酒の涿郡の祖納 雅相し知重す。納 博弈を好み、每に之を諫止す。納曰く、「聊か用て憂ひを忘るのみ」と。隱曰く、「蓋し古人 時に遭はば、則ち功を以て其の道に達す。遇はざれば、則ち言を以て其の才に達す。故に否泰 窮まらず。當今 晉 未だ書有らず、天下 大いに亂れ、舊事 蕩滅す。凡才の能く立つる所に非ず。君 少きとき五都に長じ、四方に游宦す。華夷の成敗 皆 耳目に在り、何ぞ述して之を裁かざる。應仲遠 風俗通を作り、崔子真 政論を作り、蔡伯喈 勸學篇を作り、史游 急就章を作りて、猶ほ世に行はれ、便ち沒と為るも不朽なり。其の同時に當たり、人 豈に少なからんや。而れども了(つひ)に聞く無きは、皆 述作する所無きに由るなり。故に君子 世に沒して聞く無きを疾み、易には自強して息まずと稱す。況んや國史 得失の跡を明らかにす、何ぞ必ず博弈して後に憂ひを忘るるや」と。納 喟然として歎じて曰く、「子の道を悅ばざるに非ず、力 足らざるなり」と。乃ち上疏して隱を薦む。元帝 草創にして務 殷なるを以て、未だ史官に遑あらず、遂に寢ねて報いず。
太興の初に、典章 稍く備はり、乃ち隱及び郭璞を召して俱に著作郎と為し、晉史を撰ぜしむ。王敦を平らぐるの功に豫り、爵平陵鄉侯を賜はる。時に著作郎の虞預 私かに晉書を撰し、而れども東南に生長せば、中朝の事を知らず、數々隱を訪ひ、并せて隱が著す所の書を借りて竊かに之を寫し、聞く所は漸く廣し。是の後に更めて隱を疾して、言色に形はる。預 既に豪族なれば、權貴と交結し、共に朋黨を為し、以て隱を斥けて、竟に謗を以て免じ、黜して家に歸らしむ。貧にして資用無く、書 遂に就かず。乃ち征西將軍の庾亮に武昌に依るや、亮 其に紙筆を供し、書 乃ち成るを得て、闕に詣りて之を上す。隱 著述を好むと雖も、而れども文辭 鄙拙たれば、蕪舛にして倫(みち)あらず。其の書の次第 觀る可き者は、皆 其の父に撰する所なり。文體は混漫にして義は解す可からざるは、隱の作りしなり。年七十餘にして、家に卒る。
隱の兄の瑚、字は處仲なり。少くして武節を重んじ、成都王穎 兵を舉げて洛に向ふや、以て冠軍參軍と為す。功を積み、累りに游擊將軍に遷り、司隸の滿奮・河南尹の周馥らと與に俱に大司馬門に屯して、以て宮掖に衞す。時に上官巳 暴を縱にし、瑚 奮らと與に共に之を除かんと謀り、反りて害する所と為る。

〔一〕周易 乾卦に、「君子以自強不息」とある。

現代語訳

王隠は字を処叔といい、陳郡陳の人である。代々寒門の家柄であった。父の王銓は、歴陽令である。若くして学問を好み、著述の志があり、つねに指摘に晋帝国のできごとや功臣の行状を記録していたが、(著述の官職に)就かずに亡くなった。王隠は儒者としての素行を守り、権勢家の派閥に参加せず、博学で見聞が多く、父の遺業を継承し、西都(西晋)の旧事をおおく暗誦し探究していた。
建興年間に、長江を渡り、丞相軍諮祭酒の涿郡の祖納と知りあって尊重された。祖納は博弈を好んだが、いつも王隠は諫止していた。祖納は、「憂いを紛らわすために博弈をするのだ」と言った。王隠は、「古の人は活躍できる時期に巡りあえば、功績によって道を実現しようとした。巡りあわなければ、言葉によって才能を実現しようとした。ゆえに不運と幸運とが固定化されることはなかった。現在はまだ晋帝国の(史)書がなく、天下が大いに乱れ、旧事が滅び去った。平凡な才能では(記録を)作ることができない。あなたは少年期に五つの都で成長し、四方で官職を経験した。華夷の成敗がすべて耳目にあるのに、どうして記述して判断を示さないのか。応仲遠(応劭)は『風俗通』を作り、崔子真(崔寔)は『政論』を作り、蔡伯喈(蔡邕)は『勧学篇』を作り、史游は『急就章』を作ったところ、今でも世に伝わり、かりに失われようと不朽の書物である。これらの著者たちと同時代に、ほかに人物がいなかったのだろうか。同時代の他者について伝わらないのは、述作をしなかったからである。君子は死後に世から忘れられることを嫌い、『周易』(乾卦)にも努力して怠らないという文がある。まして国家の史書を著してできごとの得失を明らかにするのは(重要な仕事であり)、博弈で憂いを紛らわしてはならない」と言った。祖納は深々と嘆いて、「あなたの言い分は分かるが、実力が伴わないのだ」と言った。そこで上疏して王隠を(史官に)推薦した。元帝は国家の草創期で忙しく、まだ史官を建てる余裕が無かったので、沙汰やみになった。
太興年間の初め、(東晋で)諸制度が少しずつ整備されると、王隠及び郭璞を召して二人を著作郎とし、晋史(晋の史書)を撰述させた。王敦平定の功績にあずかり、平陵郷侯の爵位を賜った。このとき著作郎の虞預が私的に『晋書』を撰述していたが、虞預は東南で生まれ育ったため、中朝(西晋)のことを知らず、しばしば王隠を訪問して、王隠が著した書物を借りてひそかに書き写し、複写の部分がどんどん増えていった。その後に一転して王隠のことを誹謗し、(敵意は)言葉や態度にあらわれた。虞預は豪族の出身なので、権勢のある貴族と交際し、党派を形成して、王隠を排除した。最終的に誹謗によって免官に追い込み、官職を失わせ家に帰らせた。王隠は貧しくて生産基盤を持たないので、筆記ができなかった。そこで征西将軍の庾亮は武昌に拠ると、王隠に紙と筆を支給した。書物が完成すると、宮廷を訪れて提出した。王隠は著述を好んだが、作文能力が拙劣であったので、粗雑で筋道がなかった。書物のなかで観るべき箇所は、すべて王隠の父が撰述した部分であった。文の体裁が混乱して散漫で意味が通じない箇所は、王隠が撰述した部分であった。七十歳あまりで、家で亡くなった。
王隠の兄の王瑚は、字を処仲という。少くして堂々とした節度を重んじた。成都王穎(司馬穎)が兵を挙げて洛陽に向かうと、王瑚を冠軍参軍とした。功績を積み、しきりに游撃将軍に遷り、司隷校尉の満奮と河南尹の周馥らとともに大司馬門に駐屯し、宮掖を護衛した。このとき上官巳が横暴であったので、王瑚は満奮らとともに排除しようと計画したが、反対に殺害された。

虞預

原文

虞預字叔寧、徵士喜之弟也、本名茂、犯明穆皇后母諱、故改焉。預十二而孤、少好學、有文章。餘姚風俗、各有朋黨、宗人共薦預為縣功曹、欲使沙汰穢濁。預書與其從叔父曰、「近或聞、諸君以預入寺、便應委質、則當親事、不得徒已。然預下愚、過有所懷。邪黨互瞻、異同蜂至、一旦差跌、眾鼓交鳴。毫釐之失、差以千里、此古人之炯戒、而預所大恐也」。卒如預言、未半年、遂見斥退。
太守庾琛命為主簿、預上記陳時政所失、曰、「軍寇以來、賦役繁數、兼值年荒、百姓失業、是輕繇薄斂、寬刑省役之時也。自頃長吏輕多去來、送故迎新、交錯道路。受迎者惟恐船馬之不多、見送者惟恨吏卒之常少。窮奢竭費謂之忠義、省煩從簡呼為薄俗、轉相放效、流而不反、雖有常防、莫肯遵修。加以王塗未夷、所在停滯、送者經年、永失播植。一夫不耕、十夫無食、況轉百數、所妨不訾。愚謂宜勒屬縣、若令尉先去官者、人船吏侍皆具條列、到當依法減省、使公私允當。又今統務多端、動加重制、每有特急、輒立督郵。計今直兼三十餘人、人船吏侍皆當出官、益不堪命、宜復減損、嚴為之防」。琛善之、即皆施行。太守紀瞻到、預復為主簿、轉功曹史。察孝廉、不行。安東從事中郎諸葛恢・參軍庾亮等薦預、召為丞相行參軍兼記室。遭母憂、服竟、除佐著作郎。

訓読

虞預 字は叔寧、徵士の喜の弟なり。本の名は茂、明穆皇后の母の諱を犯せば、故に焉を改む。預 十二にして孤たりて、少くして學を好み、文章有り。餘姚の風俗は、各々朋黨有り、宗人 共に預を薦して縣の功曹と為し、穢濁を沙汰せしめんと欲す。預 書もて其の從叔父に與へて曰く、「近く或いは聞くらく、諸君 預を以て寺に入るとき、便ち應に委質すべし、則ち當に事を親らにすべし、徒に已むを得ざると。然れども預 下愚にして、過まりて懷く所有り。邪黨 互に瞻て、異同 蜂のごとく至る。一旦に差跌せば、眾鼓 交々鳴らん。毫釐の失、差ふに千里を以てす、此れ古人の炯戒にして、預 大いに恐るる所なり」と。卒かに預が言が如くなり、未だ半年ならずして、遂に斥退せらる。
太守の庾琛 命じて主簿と為し、預 記を上りて時政の失ふ所を陳べて、曰く、「軍寇ありてより以來、賦役 繁數にして、兼はせて年荒に值たり、百姓 業を失ふ。是れ繇を輕くし斂を薄くし、刑を寬めて役を省くの時なり。自頃 長吏 輕しく多く去來し、故を送り新を迎り、道路に交錯す。迎を受くる者は惟だ船馬の多からざるを恐れ、送らる者は惟だ吏卒の常に少なきを恨む。奢を窮め費を竭くして之を忠義と謂ひ、煩を省き簡に從ふを呼びて薄俗と為し、轉た相 放ち效ひ、流れて反らず。常防有ると雖も、肯て遵修する莫し。加へて王塗 未だ夷せざるを以て、所在に停滯し、送る者は年を經て、永く播植を失ふ。一夫 耕さざれば、十夫 食無し。況んや轉た百もて數へ、妨ぐる所 訾(はか)らず。愚 謂へらく宜しく屬縣に勒し、若し令尉 先に官を去る者は、人船吏侍 皆 具さに條列し、到らば當に法に依りて省を減じ、公私をして允當ならしむべし。又 今 統務 多端にして、動ずれば重制を加へ、每に特急有らば、輒ち督郵を立つ。計るに今 直だ兼はせて三十餘人とし、人船吏侍 皆 當に官より出すべし。益々命に堪へざれば、宜しく復た減損して、嚴に之が防と為すべし」と。琛 之を善とし、即ち皆 施行す。太守の紀瞻 到り、預 復た主簿と為り、功曹史に轉ず。孝廉に察せらるるも、行かず。安東從事中郎の諸葛恢・參軍の庾亮ら預を薦めて、召して丞相行參軍兼記室と為す。母の憂に遭ひ、服 竟はり、佐著作郎に除せらる。

現代語訳

虞預は字を叔寧といい、徴士の虞喜の弟である。もとの名は茂といったが、明穆皇后の母の諱を犯していたので、預と改名した。十二歳のとき父を失い、若くして学問を好み、文章の才能があった。餘姚の習俗では、豪族が党派を形成し、虞氏一族はともに虞豫を推薦して県の功曹として(県府に送り込み)、汚職の口利きをさせようとした。虞預は書状でおじたちに告げ、「近ごろ聞きますに、あなたがたは私を県府に仕えさせ、この身を上官に捧げ、みずから政務をとり、いたずらに辞めてはいけないとのこと。しかし私は愚者ですので、心配ごとがあります。邪悪な党派が互い要求を出し、異なる意見が蜂をつついたように届くでしょう。もし一度でも失敗すれば、太鼓の乱れ打ちのように苦情が集まります。微細な行き違いがあれば、莫大な過失へと膨らみます。これは古の人が戒めたことで、私はとても恐れていることです」と言った。ほどなく虞豫の言うとおりとなり、半年も経たずに、県府で排斥された。
太守の庾琛は虞預を任命して主簿とした。虞預は書状を提出して現在の政治の欠点を述べて、「敵軍の侵略を受けてから、賦役が頻繁に課せられて、しかも不作の年にあたり、万民は生業を失いました。今日は賦役を軽くして収税を薄くし、刑罰を緩めて労役を減らすべき時期です。ところが最近は長吏(県の長官)が軽々しく交代し、前任の見送りと新任の出迎えをくり返し、慌ただしく道路で擦れ違っています。迎えられる者は(出迎えの)船馬が多くないことを気にかけ、送られる者は(見送りの)吏卒がいつも少ないことを恨んでいます。贅沢を極めて蕩尽することを忠義といい、煩雑な税や役務を減らすことを薄俗(風俗の劣化)といい、ふらふらと落ち着きがなく、流浪して定着しません。規則があるといっても、だれも守る気がありません。しかも王朝は平定の事業を終えておらず、各地で(軍隊が)停滞し、(兵士を)送り出す家では年をまたぎ、種まきの働き手を失っています。一人の農夫が耕さなければ、十人の食物が無くなります。ましてや百人単位で兵士に取られては、食物不足は計り知れません。私の意見では属県に通達し、令や尉でさきに官職から去るものに、送迎時の人や船の数量を詳しく報告させ、報告が届いたら法規に基づいて数量を削減させ、公私ともに規模を適正化すべきです。しかも現在は統治に困難が多く、ややすれば負担を追加し、緊急の徴収があるたびに、督郵(監督官)を設置しています。いま上限を三十人あまりとし、送迎時の人や船はすべて既存の官員と兼務とすべきです。それで任務が停滞するのであれば、さらに送迎役の人数を減少させ、以上のことを規則として徹底して下さい」と言った。庾琛はこれを認め、すべて実行した。太守の紀瞻が赴任してくると、虞預はまた主簿となり、功曹史に転じた。孝廉に察挙されたが、行かなかった。安東従事中郎の諸葛恢と参軍の庾亮らが虞預を推薦し、召して丞相行参軍兼記室とした。母が死んで(喪に服し)、喪が明けると、佐著作郎に任命された。

原文

太興二年、大旱、詔求讜言直諫之士。預上書諫曰、
大晉受命、于今五十餘載。自元康以來、王德始闕、戎翟及於中國、宗廟焚為灰燼、千里無煙爨之氣、華夏無冠帶之人、自天地開闢、書籍所載、大亂之極未有若茲者也。
陛下以聖德先覺、超然遠鑒、作鎮東南、聲教遐被、上天眷顧、人神贊謀、雖云中興、其實受命、少康・宣王誠未足喻。然南風之歌可著、而陵遲之俗未改者、何也。臣愚謂為國之要在於得才、得才之術在於抽引。苟其可用、讎賤必舉。高宗・文王思佐發夢、拔巖徒以為相、載釣老而師之。下至列國、亦有斯事、故燕重郭隗而三士競至、魏式干木而秦兵退舍。今天下雖弊、人士雖寡、十室之邑、必有忠信、世不乏驥、求則可致。而束帛未賁於丘園、蒲輪頓轂而不駕、所以大化不洽而雍熙有闕者也。
預以寇賊未平、當須良將、又上疏曰、
臣聞承平之世、其教先文、撥亂之運、非武不克。故牧野之戰、呂望杖鉞。淮夷作難、召伯專征。玁狁為暴、衞霍長驅。故陰陽不和、擢士為相。三軍不勝、拔卒為將。漢帝既定天下、猶思猛士以守四方。孝文志存鉅鹿、馮唐進說、魏尚復守。詩稱「赳赳武夫、公侯干城」、折衝之佐、豈可忽哉。況今中州荒弊、百無一存、牧守官長非戎貊之族類、即寇竊之幸脫。陛下登阼、威暢四遠、故令此等反善向化。然狼子獸心、輕薄易動、羯虜未殄、益使難安。周撫・陳川相係背叛。徐龕驕黠、無所拘忌、放兵侵掠、罪已彰灼。
昔葛伯違道、湯獻之牛。吳濞失禮、錫以几杖、惡成罪著、方復加戮。龕之小醜、可不足滅。然豫備不虞、古之善教、矧乃有虞、可不為防。為防之術、宜得良將。將不素簡、難以應敵。壽春無鎮、祖逖孤立、前有勁虜、後無係援、雖有智力、非可持久。願陛下諮之羣公、博舉於眾。若當局之才、必允其任、則宜奬厲、使不顧命。旁料宂猥、或有可者、厚加寵待、足令忘身。昔英布見慢、恚欲自裁、出觀供置、然後致力。禮遇之恩、可不隆哉。
誠知山河之量非塵露可益、神鑒之慮非愚淺所測。然匹夫嫠婦猶有憂國之言、況臣得廁朝堂之末、蒙冠帶之榮者乎。
轉琅邪國常侍、遷祕書丞・著作郎。

訓読

太興二年に、大旱ありて、詔して讜言直諫の士を求む。預 上書して諫めて曰く、
大晉 受命し、今に于るまで五十餘載なり。元康より以來、王德 始めて闕け、戎翟 中國に及び、宗廟 焚けて灰燼と為り、千里 煙爨の氣無く、華夏 冠帶の人無し。天地 開闢してより、書籍 載する所、大亂の極にして未だ茲の若き者有らざるなり。
陛下 聖德を以て先覺し、超然として遠鑒し、東南に作鎮し、聲教 遐く被ひ、上天 眷顧し、人神 謀を贊す。中興と云ふと雖も、其れ實に受命なり。少康・宣王すら誠に未だ喻ゆるに足らず。然して南風の歌 著す可きに、而れども陵遲の俗 未だ改めざるは、何ぞや。臣愚 謂へらく國を為(をさ)むるの要は才を得るに在り、才を得るの術 抽引に在り。苟し其れ用ふ可ければ、讎賤だに必ず舉ぐ。高宗・文王 佐を思ひて夢を發し、巖徒を拔きて以て相と為し、釣老を載せて之と師す。下は列國に至るまで、亦た斯の事有りて、故に燕は郭隗を重んじて三士 競ひて至り、魏は干木を式して秦兵 退舍す。今 天下 弊ると雖も、人士 寡しと雖も、十室の邑に、必ず忠信有り。世 驥に乏しからず、求むれば則ち致る可し。而れども束帛 未だ丘園に賁せず〔一〕、蒲輪 轂を頓めて駕せず。大化 洽からずして雍熙 闕有ある者なる所以なりと。
預 寇賊 未だ平らがざるを以て、當に良將を須つべしとし、又 上疏して曰く、
「臣 聞くに承平の世に、其の教 文を先にし、撥亂の運に、武に非ざれば克たず。故に牧野の戰に、呂望 鉞を杖く。淮夷 難を作すや、召伯 征を專らにす。玁狁 暴を為すや、衞霍 長驅す。故に陰陽 和せざれば、士を擢でて相と為す。三軍 勝たざれば、卒を拔きて將と為す。漢帝 既に天下を定むれども、猶ほ猛士もて以て四方を守らしめんと思ふ。孝文 志は鉅鹿に存し、馮唐 進みて說き、魏尚をして復た守らしむ。詩に稱すらく「赳赳たる武夫、公侯の干城なり」と。折衝の佐、豈に忽せにす可けんや。況んや今 中州 荒弊し、百に一すら存する無く、牧守官長 戎貊の族類に非ざれば、即ち寇竊の幸にも脫るなり。陛下 登阼し、威は四遠に暢べ、故に此らをして善に反りて化に向はしむ。然るに狼子の獸心、輕薄にして動じ易く、羯虜 未だ殄せず、益々安ずること難からしむ。周撫・陳川 相 係(つ)いで背叛す。徐龕 驕黠にして、拘忌する所無く、兵を放にして侵掠し、罪 已に彰灼たり。
昔 葛伯 道に違ひて、湯 之に牛を獻ず。吳濞 禮を失ひて、錫ふに几杖を以てす。惡 成りて罪 著はれ、方に復た戮を加ふ。龕が小醜、滅すに足らざる可し。然れども豫め不虞に備ふるは、古の善教にして、矧(いは)んや乃ち虞れ有らば、防を為さざる可けんや。防を為すの術は、宜しく良將を得べし。將 素(つね)に簡ばざれば、以て敵に應じ難し。壽春に鎮無く、祖逖 孤立し、前に勁虜有り、後に係援無し。智力有りと雖も、持久す可きに非ず。願はくは陛下 之を羣公に諮り、博く眾より舉げしめよ。若し當局の才あらば、必ず其の任に允はば、則ち宜しく奬厲して、命を顧みざらしむべし。旁々宂猥を料りて、或いは可ならん者有らば、厚く寵待を加へ、身を忘れしむに足る。昔 英布 慢を見て、恚りて自裁せんと欲し、出でて供置を觀て、然る後に力を致す。禮遇の恩、隆からざる可けんや。
誠に知りぬ山河の量 塵露の益す可きに非ず、神鑒の慮 愚淺の測る所に非ず。然れども匹夫 嫠婦すらも猶ほ憂國の言有り、況んや臣 朝堂の末に廁して、冠帶の榮を蒙るを得てたる者をや」と。
琅邪國常侍に轉じ、祕書丞・著作郎に遷る。

〔一〕『周易』賁卦に、「六五。賁于丘園。束帛戔戔」とある。丘園を美しく飾り、聘礼に用いる束帛を節約するという文。

現代語訳

太興二年に、甚大な日照りがあり、詔して善言により直諫できる士を求めた。虞預は上書して諫めて、
「大晋帝国が天命を受けてから、今に至るまで五十年あまりです。(恵帝の)元康年間より以来、王者の徳が欠けるようになり、野蛮な胡族が中原に侵入し、宗廟を焼いて灰燼とし、千里にわたって炊煙がなく、中華に冠帯の士(士大夫)がいなくなりました。天地が開闢してより、典籍の記録のなかでも、今日ほどの大乱はありません。
陛下(元帝)は聖徳によって先見の明を発揮し、中央の政局(八王の乱)から距離を取って、東南に鎮所を築きました。教化は遠方まで及び、上天は恩情を施し、人も神もはかりごとを称えています。中興とは言っておりますが、実際は(新たな)受命であります。(中興の君とされる)夏の少康や周の宣王ですら陛下に比べれば見劣りがします。本来であれば(天下の泰平を称える)南風の歌を作るべきですが、頽廃した習俗がまだ改善されていないのは、なぜでしょうか。私が思いますに国家統治の要諦は人材を得ることにあり、人材を得る方法とは抜擢であります。登用すべき人材がいれば、仇敵や卑賤のものであっても必ず登用します。殷の高宗(武丁)と周の文王は宰相を強く求めて(賢者を)夢にまでみて、(高宗は)岩屋の囚人(傅説)を抜擢して宰相とし、(文王は)釣りをする老人(太公望)を推戴して師と仰ぎました。時代が下って列国に至るまで、同じような前例があります。戦国燕(の昭王)が郭隗を重んじると三人の賢者が競って訪れ、戦国魏(の文侯)は段干木に敬意を払って秦兵を後退させました。いま天下は疲弊し、人士は少ないが、十室の邑があれば、必ず忠信な人物がいます(『論語』公冶長)。世に名馬は少なくなく、求めれば至るはずです。しかし束帛(招聘の礼物)を丘園に飾らず(『周易』賁卦)、(賢者の招聘に用いる)蒲輪は停止しています。(人材抜擢の不十分さが)大いなる教化が行き渡らず(天下が)和らぎ楽しむことのない理由であります」と言った。
虞預は外敵や盗賊がまだ平定されないため、良将を待つべきだとし、さらに上疏して、
「私が聞きますに泰平の世には、文による教化を優先しますが、戦乱の時代には、武人でなければ勝てません。ゆえに牧野の戦いでは、呂望(太公望)は鉞を手にしました。淮夷が兵難を起こすと、召伯(周の召公)は征伐に専心しました。玁狁(匈奴)が暴れ回ると、衛青と霍去病が遠征しました。陰陽が調和していなければ、人士を抜擢して将軍とするのです。三軍が敗れれば、兵卒を抜擢して(後任の)将軍とします。漢帝が天下を平定してからも、勇猛な兵士に四方を守らせました。孝文皇帝が(項羽と劉邦の)鉅鹿の戦いを気にかけて話題にすると、馮唐が進んで(指揮官の重要さを)説明したので、魏尚は(雲中)太守に二回任命されました(『史記』巻一百二 馮唐伝)。『毛詩』周南 兔罝に「赳赳たる武夫、公侯の干城なり」とあります。敵と対抗する指揮官(の人選)は、ゆるがせにすべきではありません。ましてや今日は中原が荒廃し、百人に一人すら生き残らず、(生き残った)牧守や官長のうち胡族の出身者でないものは、幸運にも侵略を免れたものばかりです。陛下が即位し、威が四方の遠くまで広がり、不服従勢力を善に帰順させつつあります。しかし狼のような獣心は、軽薄で裏切りやすいもので、羯虜(後趙)がまだ滅びず、安泰から遠ざかっております。周撫と陳川は相次いで離叛しました。徐龕は驕ってずる賢く、やりたい放題で、兵に自由な略奪を許し、かれらの罪は明白であります。
むかし葛伯(葛国の君主)が道を外れると、殷の湯王は牛を献じ(征伐し)ました。前漢の呉王劉濞が礼を失うと、几杖を賜り(朝見を免除し)ました。悪事が確定してから罪が明らかになり、誅戮を加えるのです。徐龕のような小悪党は滅ぼすに値しないでしょう。しかしあらかじめ不測の事態に備えるのは、古の良き教えであり、ましてや(今日のように)脅威が顕在化しているなら、尚更(防備をするべき)です。防備をする方法とは、良将を得ることです。良将を普段から選抜していないと、出現する敵に対処できません。寿春に鎮所がなく、祖逖が孤立しています。前方には凶逆な胡族(後趙)がおり、後方には支援する(東晋の)軍がいません。いくら(祖逖に)智力があっても、長く持ち堪えられないでしょう。どうか陛下はこの課題を群臣にはかり、大勢のなかから(良将を)推挙させて下さい。もし時局に当たれる人材がいれば、かならず適切な任務を与え、しっかりと激励をして、全力の戦いに差し向けて下さい。あまねく乱雑な人々を点検し、適任の人材がいれば、手厚く礼遇して、身体を忘れさせる(命を賭けさせる)ことができます。むかし前漢の英布は(淮南王に)侮られ、怒って自殺しようとしたが、営舎を出て(漢王と同格の)食事が準備されているのを見て、力を尽くしました(『史記』巻九十一 鯨布列伝)。礼遇の効果が、高くないことがありましょうか。
山や川は巨大ですから塵や露で増やすことができず、陛下のお考えは偉大ですから私には計り知ることはできません。しかし未婚者や未亡人ですら国家を憂う言葉があります、まして私は朝廷の末席に列せられ、官僚となる栄誉を被っているのですから尚更です」と言った。
琅邪国常侍に転じ、秘書丞・著作郎に遷った。

原文

咸和初、夏旱、詔眾官各陳致雨之意。預議曰、
臣聞天道貴信、地道貴誠。誠信者、蓋二儀所以生植萬物、人君所以保乂黎蒸。是以殺伐擬於震電、推恩象於雲雨。刑罰在於必信、慶賞貴於平均。臣聞間者以來、刑獄轉繁、多力者則廣牽連逮、以稽年月。無援者則嚴其檟楚、期於入重。是以百姓嗷然、感傷和氣。臣愚以為輕刑耐罪、宜速決遣、殊死重囚、重加以請。寬傜息役、務遵節儉、砥礪朝臣、使各知禁。
蓋老牛不犧、禮有常制、而自頃眾官拜授祖贈、轉相夸尚、屠殺牛犢、動有十數、醉酒流湎、無復限度、傷財敗俗、所虧不少。
昔殷宗修德以消桑穀之異、宋景善言以退熒惑之變、楚國無災、莊王是懼。盛德之君、未嘗無眚、應以信順、天祐乃隆。臣學見淺闇、言不足採。
從平王含、賜爵西鄉侯。蘇峻作亂、預先假歸家、太守王舒請為諮議參軍。峻平、進爵平康縣侯、遷散騎侍郎、著作如故。除散騎常侍、仍領著作。以年老歸、卒于家。
預雅好經史、憎疾玄虛、其論阮籍裸袒、比之伊川被髮、所以胡虜遍於中國、以為過衰周之時。著晉書四十餘卷・會稽典錄二十篇・諸虞傳十二篇、皆行於世。所著詩賦・碑誄・論難數十篇。

訓読

咸和の初めに、夏 旱ありて、眾官に詔して各々致雨の意を陳べしむ。預 議して曰く、
「臣 聞くらく天道 信を貴び、地道 誠を貴ぶと。誠と信とは、蓋し二儀 萬物を生植する所以にして、人君 黎蒸を保乂する所以なり。是を以て殺伐たるは震電に擬らへ、推恩あるは雲雨に象る。刑罰は必信に在り、慶賞は平均を貴ぶ。臣 聞くならく間者より以來、刑獄 轉た繁く、力多き者あらば則ち廣く牽きて連逮し、以て年月を稽(ひさ)しくす。援無き者は則ち其の檟楚を嚴しくし、重に入るるに期す。是を以て百姓 嗷然として、和氣を感傷す。臣愚 以為へらく輕刑の耐罪をば、宜しく速やかに決遣すべし。殊死の重囚をば、重ねて加て以て請ふべし。傜を寬くし役を息め、務めて節儉に遵ひ、朝臣をして砥礪せしめ、各々禁を知らしめよ。
蓋し老牛は犧にせず、禮に常制有り、而れども自頃 眾官の拜授の祖贈に、轉た相 夸尚し、牛犢を屠殺すること、動やもすれば十數有り、酒に醉ひて流湎し、復た限度無く、財を傷け俗を敗り、虧く所 少なからず。
昔 殷宗 德を修めて以て桑穀の異を消し、宋景の善言 以て熒惑の變を退け、楚國 災無ければ、莊王 是れ懼る。盛德の君、未だ嘗て眚無くんばあらず、應に信順を以てせば、天祐 乃ち隆からん。臣の學見 淺闇にして、言は採に足らず」と。
王含を平らぐるに從ひて、爵西鄉侯を賜はる。蘇峻 亂を作すや、預 先に假に歸家し、太守の王舒 請ひて諮議參軍と為す。峻 平らぐや、爵を平康縣侯に進め、散騎侍郎に遷り、著作 故の如し。散騎常侍に除せられ、仍りて著作を領す。年老を以て歸り、家に卒す。
預 雅より經史を好み、玄虛を憎疾し、其の阮籍が裸袒を論ずるに、之を伊川の被髮に比し、胡虜 中國に遍き所以として、以て衰周の時に過ぐると為す。晉書四十餘卷・會稽典錄二十篇・諸虞傳十二篇を著し、皆 世に行はる。著す所の詩賦・碑誄・論難 數十篇なり。

現代語訳

咸和年間の初め、夏に日照りがあり、衆官に詔して雨を降らせることについて意見を述べさせた。虞預は建議して、
「私が聞きますに天道は信を貴び、地道は誠を貴ぶそうです。誠と信とは、天地が万物を生成する原理であり、君主が万民を統治する原理でもあります。ですから荒々しい統治は雷鳴に擬えられ、恩恵ある統治は慈雨に似ています。刑罰は信実に基づくべきで、恩賞は公平さが重要です。聞きますに近年は、刑罰が重く課せられ、有力な役人は逮捕者の範囲を広げ、刑期を延長しています。後ろだてのない役人は鞭打ちを厳しくし、刑罰の強化に歩調を合わせています。ですから万民は憂い騒ぎ、調和が傷ついています。思いますに軽い罪の二年刑までの囚人は、速やかに釈放すべきです。死刑の重罪人は、再審すべきです。徭役の軽減や中止をして、質素倹約を守り、朝廷の臣を研鑽させ、それぞれ禁令を徹底なさいませ。
老牛を生贄にしないのは、礼の規則ですが、このごろ官僚の着任時の贈り物は、どんどん華美となり、牛を殺して贈ることが、ややすれば十の単位を数え、酒に泥酔して、乱れて限度がなく、財産を損ない風俗を傷つけており、弊害が少なくありません。
むかし殷宗(太戊)は(伊陟の諫言に従って)徳を修めて桑穀が生えるという妖異を消滅させ、宋の景公は善言に従って熒惑の(心宿に留まるという)異変を退けました。楚国で災がないので、荘王はこれを懼れました(出典調査中)。徳が盛んな君主には、いまだかつて災異がないことがなく、信と順によって対処すれば、天祐もまた得られるでしょう。私の学識は浅薄ですから、採択して頂くには及びません」と言った。
王含平定に従軍し、西郷侯の爵位を賜った。蘇峻が乱を起こすと、虞預はまず一時的に帰家し、太守の王舒が諮議参軍に招いた。蘇峻が平定されると、爵位を平康県侯に進め、散騎侍郎に遷り、著作の官は現状のままであった。散騎常侍に任命され、著作の官を領した。老齢により家に帰り、家で亡くなった。
虞預はふだんから経書と史書を好み、玄虚(老荘、玄学)を憎悪した。虞預は阮籍が肌脱ぎになったことを論じ、これを(辛有が)伊川でざんばら髪になったこと(『春秋左氏伝』僖公 伝二十二年)に擬え、胡族が中原を埋め尽くす原因になったとし、周王朝衰退を招いた故事よりも悪質であったと言った。『晋書』四十巻あまりと『会稽典録』二十篇、『諸虞伝』十二篇を著し、みな世に通行した。かれの著した詩賦・碑誄・論難は数十篇があった。

孫盛

原文

孫盛字安國、太原中都人。祖楚、馮翊太守。父恂、潁川太守。恂在郡遇賊、被害。盛年十歲、避難渡江。及長、博學、善言名理。于時殷浩擅名一時、與抗論者、惟盛而已。盛嘗詣浩談論、對食、奮擲麈尾、毛悉落飯中、食冷而復暖者數四、至暮忘餐、理竟不定。盛又著醫卜及易象妙於見形論、浩等竟無以難之、由是遂知名。
起家佐著作郎、以家貧親老、求為小邑、出補瀏陽令。太守陶侃請為參軍。庾亮代侃、引為征西主簿、轉參軍。時丞相王導執政、亮以元舅居外、南蠻校尉陶稱讒構其間、導・亮頗懷疑貳。盛密諫亮曰、「王公神情朗達、常有世外之懷、豈肯為凡人事邪。此必佞邪之徒欲間內外耳」。亮納之。庾翼代亮、以盛為安西諮議參軍、尋遷廷尉正。會桓溫代翼、留盛為參軍、與俱伐蜀。軍次彭模、溫自以輕兵入蜀。盛領羸老輜重在後、賊數千忽至、眾皆遑遽。盛部分諸將、并力距之、應時敗走。蜀平、賜爵安懷縣侯、累遷溫從事中郎。從入關平洛、以功進封吳昌縣侯、出補長沙太守。以家貧、頗營資貨、部從事至郡察知之、服其高名而不劾之。盛與溫牋、而辭旨放蕩、稱州遣從事觀採風聲、進無威鳳來儀之美、退無鷹鸇搏擊之用、徘徊湘川、將為怪鳥。溫得盛牋、復遣從事重案之、贓私狼籍、檻車收盛到州、捨而不罪。累遷祕書監、加給事中。年七十二卒。
盛篤學不倦、自少至老、手不釋卷。著魏氏春秋・晉陽秋、并造詩賦論難復數十篇。晉陽秋詞直而理正、咸稱良史焉。既而桓溫見之、怒謂盛子曰、「枋頭誠為失利、何至乃如尊君所說。若此史遂行、自是關君門戶事」。其子遽拜謝、謂請刪改之。時盛年老還家、性方嚴有軌憲、雖子孫班白、而庭訓愈峻。至此、諸子乃共號泣稽顙、請為百口切計。盛大怒。諸子遂爾改之。盛寫兩定本、寄於1.慕容儁。太元中、孝武帝博求異聞、始於遼東得之、以相考校、多有不同、書遂兩存。子潛・放。
潛字齊由、為豫章太守。殷仲堪之討王國寶也、潛時在郡、仲堪逼以為諮議參軍、固辭不就、以憂卒。
放字齊莊、幼稱令慧。年七八歲、在荊州、與父俱從庾亮獵、亮謂曰、「君亦來邪」。應聲答曰、「無小無大、從公于邁」。亮又問、「欲齊何莊邪」。放曰、「欲齊莊周」。亮曰、「不慕仲尼邪」。答曰、「仲尼生而知之、非希企所及」。亮大奇之、曰、「王輔嗣弗過也」。庾翼子2.爰客嘗候盛、見放而問曰、「安國何在」。放答曰、「庾稚恭家」。爰客大笑曰、「諸孫太盛、有兒如此也」。放又曰、「未若諸庾翼翼」。既而語人曰、「我故得重呼奴父也」。終於長沙相。

1.『資治通鑑考異』によると、このとき慕容儁はすでに死し、慕容暐の時代である。
2.中華書局本の校勘記によると、「爰客」は、庾亮伝では「爰之」に作る。

訓読

孫盛 字は安國、太原中都の人なり。祖の楚は、馮翊太守なり。父の恂は、潁川太守なり。恂 郡に在りて賊に遇ひ、害せらる。盛 年十歲にして、難を避けて江を渡る。長ずるに及び、學を博くし、言を善くし理を名す。時に殷浩 名を一時に擅にし、與に抗論する者は、惟だ盛あるのみ。盛 嘗て浩に詣りて談論せしとき、對食するに、麈尾を奮擲し、毛は悉く飯中に落ち、食 冷えて復た暖むること數四、暮に至りて餐を忘るれども、理は竟に定まらず。盛 又 醫卜及び易象妙於見形論を著し、浩ら竟に以て之を難ずる無く、是に由り遂に名を知らる。
起家して佐著作郎たり、家の貧にして親の老なるを以て、小邑と為るを求め、出でて瀏陽令に補せらる。太守の陶侃 請ひて參軍と為す。庾亮 侃に代はるや、引きて征西主簿と為し、參軍に轉ぜしむ。時に丞相の王導 執政し、亮 元舅の外に居るを以て、南蠻校尉の陶稱 其の間を讒構し、導・亮 頗る疑貳を懷く。盛 密かに亮に諫めて曰く、「王公の神情は朗達にして、常に世外の懷有り。豈ぞ肯て凡人の為に邪に事ふるや。此れ必ず佞邪の徒 內外を間せしめんと欲するのみ」と。亮 之を納る。庾翼 亮に代はるや、盛を以て安西諮議參軍と為し、尋いで廷尉正に遷す。會々桓溫 翼に代はるや、盛を留めて參軍と為し、與に俱に蜀を伐つ。軍 彭模に次で、溫 自ら輕兵を以て蜀に入る。盛 羸老輜重を領して後に在り、賊の數千 忽に至り、眾 皆 遑遽す。盛 諸將を部分し、力を并せて之を距ぎ、時に應じて敗走す。蜀 平らぐや、爵安懷縣侯を賜はり、累りに溫の從事中郎に遷る。關に入り洛を平らぐに從ひ、功を以て封を吳昌縣侯に進み、出でて長沙太守に補せらる。家の貧なるを以て、頗る資貨を營み、部從事 郡に至りて之を察知するに、其の高名に服して之を劾めず。盛 溫に牋を與り、而して辭旨は放蕩にして、稱すらく州は從事を遣はして風聲を觀採するに、進みては威鳳が來儀の美無く、退きては鷹鸇が搏擊の用無く、湘川を徘徊し、將に怪鳥為らんとすと。溫 盛の牋を得て、復た從事を遣はして重ねて之を案ずるに、贓私し狼籍すれば、檻車もて盛を收めて州に到り、捨てて罪せず。累りに祕書監に遷り、給事中を加ふ。年七十二にして卒す。
盛 篤學にして倦まず、少きより老に至るまで、手に卷を釋かず。魏氏春秋・晉陽秋を著し、并せて詩賦論難を造りて復た數十篇あり。晉陽秋 詞は直にして理は正、咸 良史と稱す。既にして桓溫 之を見て、怒りて盛の子に謂ひて曰く、「枋頭 誠に失利為り、何ぞ乃ち尊君の說く所が如くに至るか。若し此の史 遂行せば、是より君の門戶の事を關ざさん」と。其の子 遽かに拜謝し、謂ひて之を刪改せんことを請ふ。時に盛 年老もて家に還るに、性は方嚴にして軌憲有り、子孫班白と雖も、庭訓 愈々峻たり。此に至り、諸子 乃ち共に號泣して稽顙し、百口を為して切りに計らんことを請ふ。盛 大いに怒る。諸子 遂に爾れ之を改む。盛 兩を寫して本を定め、慕容儁に寄す。太元中に、孝武帝 博く異聞を求め、始めて遼東に於て之を得て、以て相 考校するに、多く同じからざる有り、書 遂に兩つながら存す。子は潛・放なり。
潛 字は齊由、豫章太守と為る。殷仲堪の王國寶を討つや、潛 時に郡に在り、仲堪 逼りて以て諮議參軍と為すも、固辭して就かず、憂を以て卒す。
放 字は齊莊、幼くして令慧を稱せらる。年七八歲のとき、荊州に在り、父と與に俱に庾亮に從ひて獵す。亮 謂ひて曰く、「君も亦た來たるや」と。聲に應じて答へて曰く、「小と無く大と無く、公に從ひて于(ゆ)き邁(ゆ)く」と。亮 又 問ふ、「何れの莊に齊しからんと欲するや」と。放曰く、「莊周に齊しからんと欲す」と。亮曰く、「仲尼を慕はざるや」と。答へて曰く、「仲尼は生まれながらに之を知る、希企して及ぶ所に非ず」と。亮 大いに之を奇として、曰く、「王輔嗣だに過ぎざるなり」と〔一〕。庾翼の子の爰客 嘗て盛を候し、放を見て問ひて曰く、「安の國にか何れ在る」と。放 答へて曰く、「庾稚恭が家なり」と。爰客 大いに笑ひて曰く、「諸孫 太いに盛ならん、兒の此の如き有るなり」と。放 又 曰く、「未だ諸庾の翼翼たるに若かず」と。既にして人に語りて曰く、「我 故に重ねて奴が父を呼ぶを得るなり」と。長沙相に終ふ。

〔一〕『世説新語』言語篇にみえる。新釈漢文大系(明治書院)を参照した。
〔二〕『世説新語』排調篇にみえる。新釈漢文大系(明治書院)を参照した。

現代語訳

孫盛は字を安国といい、太原中都の人である。祖父の孫楚は、馮翊太守である。父の孫恂は、潁川太守である。孫恂は(潁川)郡にいたとき賊に襲撃され、殺害された。孫盛は十歳のとき、難を避けて長江を渡った。成長すると、学問を広げ、言葉を巧みに理を表現した。このとき殷浩は当時の名声を独占し、議論の相手になるのは、孫盛だけであった。孫盛がかつて殷浩を訪れて談論したとき、対面で食事をしていると、(議論に熱中して)麈尾をはげしく振り、(麈尾の)毛がすべて食事のなかに落ちた。食べ物が冷えて温め直すことが四回に及び、日暮れになっても夕食を忘れていたが、討論の決着はつかなかった。孫盛はまた 『医卜』及び『易象妙於見形論』を著し、殷浩らは内容を批判できず、これによって名を知られるようになった。
孫盛は起家して佐著作郎となったが、家が貧しくて親が老齢であるから、小さな城邑への任命を希望し、都を出て瀏陽令に任命された。太守の陶侃が要請して参軍とした。庾亮が陶侃に代わると、征西主簿に招き、参軍に転任させた。このとき丞相の王導が執政し、庾亮は元舅(母方のおじ)であるが都の外にいたので、南蛮校尉の陶称は讒言によって二人の関係を裂き、王導と庾亮はたがいに険悪な感情をもった。孫盛はひそかに庾亮を諫めて、「王公(王導)の精神は朗らかで通達し、世俗から超然としています。どうして凡人のような狭苦しい企みを持つでしょうか。これはきっと佞邪の徒が内外を対立させようと仕向けているのです」と言った。庾亮はその通りだと思った。庾翼が庾亮に代わると、孫盛を安西諮議参軍とし、ほどなく廷尉正に遷した。たまたま桓温が庾翼に交代し、孫盛を(将軍府に)留めて参軍とし、ともに成蜀を討伐した。軍が彭模に停泊したとき、桓温は軽兵を率いて蜀に入った。孫盛は(速度の遅い)疲れた兵や老兵や輜重を管轄して後方にいたが、数千の賊軍が突然あらわれ、兵士はみな狼狽した。孫盛は諸将の命令系統を整理し、力をあわせて防ぎ、敵軍は形勢をみて敗走した。成蜀が平定されると、安懐県侯の爵位を賜り、しきりに桓温の従事中郎に遷った。関中に入って洛陽平定に従軍し、功績によって呉昌県侯に封号が進められ、出て長沙太守に任命された。家が貧であるため、利殖活動にはげんだ。部従事が郡を訪れて監察してこれ(利殖の行為)を知ったが、孫盛の高名に屈服して弾劾を見送った。孫盛は桓温に書簡を送ったが、その文面は放逸で気ままであり、「州が従事を派遣して風教を調査したとき、進んでは威儀をそなえた鳳皇の美しさ(賢者の比喩)がなく、退いてはタカやハヤブサのような追捕の強制力もなく、湘川あたりをうろつき、怪鳥(ひねくれた珍妙な鳥)のようであった」と言った。桓温は孫盛の書簡を受けとり、再び従事を派遣して検分をやり直した。賄賂をとって無法状態であったので、檻車で孫盛を捕らえて州府に到らせたが、放置して処罰しなかった。しきりに秘書監に遷り、給事中を加えた。七十二歳で亡くなった。
孫盛は学問に熱心で倦むことなく、若年から老年に到るまで、片時も書物を手放さなかった。『魏氏春秋』と『晋陽秋』を著し、さらに詩賦や論難を書いた数十篇があった。『晋陽秋』の文章は率直で筋道が正確であり、みな良い史書だと称えた。桓温がこれを読んでから、怒って孫盛の子に、「枋頭の敗戦は、きみの父の書いた通りであろうか。もしこの記述で完成だというなら、以降きみの一族は出世できないぞ」と言った。孫盛の子は慌てて謝罪し、孫盛に削って書き直してほしいと頼んだ。このとき孫盛は老齢により(官職を退き)家に帰っていたが、性格は正しく厳かで原理原則を重んじ、子や孫や班白(老人)に対しても、庭訓(家庭内の教育)をますます厳しくしていた。ここに至り、子たちは号泣して額を地面に擦りつけ、ありったけの言葉で必死に(桓温に)配慮して下さいと頼んだ。孫盛は大いに怒った。子たちが結局は『晋陽秋』を書き換えた。孫盛は二書を筆写して定本を確定させ、慕容儁に預けた。太元年間に、孝武帝が広く異聞を求めると、初めて遼東で(書き換える前の)『晋陽秋』が得られ、比較検討すると、多くの異なる点があった。二種類の『晋陽秋』は現存している。孫盛の子は孫潜と孫放である。
孫潜は字を斉由といい、豫章太守となった。殷仲堪が王国宝を討伐すると、孫潜はこのとき豫章郡におり、殷仲堪が逼って諮議参軍にしようとしたが、固辞して就かなかった。病気により亡くなった。
孫放は字を斉荘といい、幼くして聡明さを称賛された。七歳か八歳のとき、荊州におり、父(孫盛)とともに庾亮に従って狩猟に出た。庾亮は孫放に、「(父の孫盛だけでなく)きみも来たのか」と言った。言い終わるや否や、「小となく大となく(若きも老いも)、あなたさまに従っていきます(『毛詩』魯頌 泮水)」と言った。庾亮はさらに、「(きみは字を斉荘というが)どの荘に斉(ひと)しくあろうと思うのか」と言った。孫放は、「荘周(荘子)と斉しくありたいと思います」と言った。庾亮は「仲尼(孔子)を慕わないのか」と言った。答えて、「仲尼(のような聖人)は生まれながらに悟るものであり、希望して到達するものではありません(『論語』季氏篇)」と言った。庾亮はおおいに感心し、「王輔嗣(王弼)でもこれほどの受け答えはできない」と言った。庾翼の子の庾爰客はかつて孫盛を訪問し、子の孫放と会って、「(父の字を安国というが)安(いず)れの国にいるのか」と聞いた。孫放は、「庾稚恭(庾翼)の家です」と言った。庾爰客はおおいに笑って、「(孫盛の姓名を掛けて)孫氏の人々はとても盛んになるだろう、このような賢い子がいるのだから」と言った。孫放は、「(庾翼の姓名に掛けて)いいえ庾氏の人々が翼翼として壮健であることには敵いません」と言った。これを他人に語って、「(意趣返しとして)かれの父の名を二回も言ってやった」と言った。長沙相で亡くなった。

干寶

原文

干寶字令升、新蔡人也。祖統、吳奮武將軍・都亭侯。父瑩、丹楊丞。寶少勤學、博覽書記、以才器召為1.〔佐〕著作郎。平杜弢有功、賜爵關內侯。
中興草創、未置史官、中書監王導上疏曰、「夫帝王之迹、莫不必書、著為令典、垂之無窮。宣皇帝廓定四海、武皇帝受禪於魏、至德大勳、等蹤上聖、而紀傳不存於王府、德音未被乎管絃。陛下聖明、當中興之盛、宜建立國史、撰集帝紀、上敷祖宗之烈、下紀佐命之勳、務以實錄、為後代之準、厭率土之望、悅人神之心、斯誠雍熙之至美、王者之弘基也。宜備史官、敕佐著作郎干寶等漸就撰集」。元帝納焉。寶於是始領國史。以家貧、求補山陰令、遷始安太守。王導請為司徒右長史、遷散騎常侍。著晉紀、自宣帝迄于愍帝五十三年、凡二十卷、奏之。其書簡略、直而能婉、咸稱良史。
性好陰陽術數、留思京房・夏侯勝等傳。寶父先有所寵侍婢、母甚妬忌、及父亡、母乃生推婢于墓中。寶兄弟年小、不之審也。後十餘年、母喪、開墓、而婢伏棺如生、載還、經日乃蘇。言其父常取飲食與之、恩情如生。在家中吉凶輒語之、考校悉驗、地中亦不覺為惡。既而嫁之、生子。又寶兄嘗病氣絕、積日不冷、後遂悟、云見天地間鬼神事、如夢覺、不自知死。寶以此遂撰集古今神祇靈異人物變化、名為搜神記、凡三十卷。以示劉惔、惔曰、「卿可謂鬼之董狐」。寶既博採異同、遂混虛實、因作序以陳其志曰、
雖考先志於載籍、收遺逸於當時、蓋非一耳一目之所親聞覩也、亦安敢謂無失實者哉。衞朔失國、二傳互其所聞。呂望事周、子長存其兩說、若此比類、往往有焉。從此觀之、聞見之難一、由來尚矣。夫書赴告之定辭、據國史之方策、猶尚若茲、況仰述千載之前、記殊俗之表、綴片言於殘闕、訪行事於故老、將使事不二迹、言無異塗、然後為信者、固亦前史之所病。然而國家不廢注記之官、學士不絕誦覽之業、豈不以其所失者小、所存者大乎。今之所集、設有承於前載者、則非余之罪也。若使采訪近世之事、苟有虛錯、願與先賢前儒分其譏謗。及其著述、亦足以明神道之不誣也。羣言百家不可勝覽、耳目所受不可勝載、今粗取足以演八略之旨、成其微說而已。幸將來好事之士錄其根體、有以游心寓目而無尤焉。
寶又為春秋左氏義外傳、注周易・周官凡數十篇、及雜文集皆行於世。

1.中華書局本の校勘記に従い、「佐」一字を補う。

訓読

干寶 字は令升、新蔡の人なり〔一〕。祖の統、吳の奮武將軍・都亭侯なり。父の瑩、丹楊丞なり。寶 少くして學に勤め、書記を博覽し、才器を以て召して佐著作郎と為る。杜弢を平らぐるに功有り、爵關內侯を賜はる。
中興 草創するや、未だ史官を置かず、中書監の王導 上疏して曰く、「夫れ帝王の迹は、必ず書せざる莫く、著して令典と為し、之を無窮に垂る。宣皇帝は四海を廓定し、武皇帝は禪を魏より受け、至德大勳は、蹤を上聖に等しくす。而れども紀傳 王府に存せず、德音 未だ管絃を被らず。陛下は聖明にして、中興の盛なるに當たる、宜しく國史を建立し、帝紀を撰集すべし。上は祖宗の烈を敷き、下は佐命の勳を紀し、務むるに實錄を以てし、後代の準と為し、率土の望を厭(み)たし、人神の心を悅ばしむべし。斯れ誠に雍熙の至美、王者の弘基なり。宜しく史官を備へ、佐著作郎の干寶らに敕して、漸(すす)めて撰集に就かすむべし」と。元帝 焉を納る。寶 是に於て始めて國史を領す。家の貧なるを以て、求めて山陰令に補せられ、始安太守に遷る。王導 請ひて司徒右長史と為し、散騎常侍に遷る。晉紀を著す、宣帝より愍帝に迄るまで五十三年、凡そ二十卷、之を奏す。其の書は簡略にして、直にして能く婉なれば、咸 良史と稱す。
性は陰陽術數を好み、思ひを京房・夏侯勝らの傳に留む。寶の父 先に寵する所侍婢の有り、母 甚だ妬忌す。父 亡するに及びて、母 乃ち生きながらに婢を墓中に推す。寶の兄弟 年小にして、之をば審らかにせざるなり。後十餘年、母の喪に、墓を開くに、而して婢 棺に伏して生けるが如く、載せ還るに、經日にして乃ち蘇る。言ふらく其の父 常に飲食を取りて之に與へ、恩情 生けるが如しと。家中に在りて吉凶あらば輒ち之に語り、考校すれば悉く驗あり、地中にも亦た惡しと為すを覺えずいふ。既にして之を嫁がしめ、子を生む。又 寶の兄 嘗て病みて氣 絕し、積日 冷たからず。後に遂に悟(さ)めて、云ふらく天地の間の鬼神の事を見たり、夢の覺むるが如くして、自ら死せるを知らずと。寶 此を以て遂に古今の神祇靈異の人物の變化を撰集し、名づけて搜神記と為し、凡そ三十卷なり。以て劉惔に示すに、惔曰く、「卿 鬼の董狐と謂ふ可し」と。寶 既に博く異同を採り、遂に虛實を混ぜ、因りて序を作りて以て其の志を陳べて曰く、
先志を載籍に考へ、遺逸を當時に收むと雖も、蓋し一耳一目の親しく聞覩する所に非ざるなり。亦た安んぞ敢て實を失する者無しと謂はんや。衞朔の國を失ふや、二傳 其の聞く所を互いにす。呂望 周に事ふるや、子長 其の兩說を存す〔二〕。此の若きの比類、往往にして焉有り。此に從りて之を觀るに、聞見の一とし難きこと、由來 尚(ひさ)し。夫れ赴告の定辭を書し、國史の方策に據りてすら、猶ほ尚ほ茲の若し。況んや仰ぎて千載の前を述し、殊俗の表を記すをや。片言を殘闕に綴り、行事を故老に訪ね、將に事をして迹を二にせず、言を異塗無からしめず、然る後に信と為さんとするは、固より亦た前史の病む所なり。然り而して國家 注記の官を廢せず、學士 誦覽の業を絕たざるも、豈に其の失ふ所の者 小さく、存する所の者 大なるを以てならずや。今の集むる所、設(も)し前載に承くる者有らば、則ち余の罪に非ざるなり。若使し近世の事を采訪し、苟しくも虛錯有らば、願はくは先賢前儒と其の譏謗を分かたん。其の著述するに及びては、亦た以て神道の誣(いつ)はらざるを明らかにするに足るなりと。羣言百家は勝げて覽る可からず、耳目の受くる所は勝げて載す可からず。今 粗ぼ以て八略の旨を演ぶるに足るを取りて、其の微說を成すのみ。幸(こいねが)はくは將來の好事の士 其の根體を錄し、以て游心寓目する有りて尤(とが)無からしめんことをと。
寶 又 春秋左氏義外傳を為り、周易・周官に注すること凡そ數十篇、及び雜文集ありて皆 世に行はる。

〔一〕干宝伝の翻訳にあたり、高西成介「六朝文人伝:『晋書』(巻八十二)干宝伝」(『中国中世文学研究』三三、一九九八年)を参考にした。
〔二〕『史記』巻三十二 齊太公世家の本文に、「或曰、太公博聞、嘗事紂」とあることを踏まえる。太公望呂尚が、はじめに殷の紂王に仕えていたことが、異聞の代表的な事例として挙げられている。

現代語訳

干宝は字を令升といい、新蔡の人である。祖父の干統は、呉の奮武将軍・都亭侯である。父の干瑩は、丹楊丞である。干宝は年少から学問に努め、書物を広く隔たりなく読み、才能と器量により召されて佐著作郎となった。杜弢の平定に功績があり、爵関内侯を賜った。
東晋の建国当初、まだ史官が設置されず、中書監の王導が上疏して、「そもそも帝王の事績は、記録されないことがなく、著述して典籍となり、永遠に伝えられます。宣皇帝(司馬懿)は四海を平定し、武皇帝(司馬炎)は魏から禅譲を受けられ、至上の徳と大きな功績は、その足跡が上代の聖人に匹敵します。しかし歴史記録が王宮に収蔵されず、徳を称えた名望が、管絃に乗せて(歌われて)いません。陛下(司馬睿)は聖明であられ、中興の盛んな時運に巡りあったので、国家に史官を設置し、帝紀を撰集するべきです。上は祖先の大功を広め、下は佐命の功臣を記し、実録であるように努め、後世の基準とし、天下全土の望みを満たし、人神の心を悦ばせてください。これこそ和楽の極致であり、王者の大いなる基礎です。どうぞ史官を具備し、佐著作郎の干宝に命じて、着実に編纂に取り組ませなさい」と言った。元帝はこれを受け入れた。干宝はこうして国史(の官)を領した。家が貧であるため、求めて山陰令に任命され、始安太守に遷った。王導は要請して(干宝を)司徒右長史とし、散騎常侍に遷った。『晋紀』を著した。宣帝より愍帝に至るまでの五十三年、全体で二十巻で、これを上奏した。その書(文体)は簡略で、直書しつつも婉曲さもあり、みなは良い史書だと称した。
陰陽術数に興味があり、京房や夏侯勝らの伝(注釈書)にずっと関心があった。干宝の父は生前に寵愛する侍女がおり、母はひどく嫉妬した。父が亡くなると、母は生きながらに侍女を(父の)墓に押し込んだ。干宝の兄弟はまだ幼少で、状況がよく分からなかった。十年あまり後、母が死んで、(合葬のため)墓を開くと、侍女は棺に伏して生きているようで、車に載せて連れ帰ると、数日で蘇生した。(侍女が)言うには父がいつも飲食物を取ってきて与え、恩情は生前と同様だったという。家のなかで吉凶があるたび語り、確認するとすべてが的中し、地中(墓のなか)もまた悪くなかったと言った。彼女を嫁がせると、子を産んだ。また干宝の兄がかつて病気で息が絶えたが、数日たっても体が冷えなかった。のちに目を覚まし、(兄が)言うには天地の間で鬼神のことを見た、夢から目覚めたようで、自分が死んでいたとは思えないという。干宝はこれらを受けて古今の神祇や霊異の人物についての怪異を撰集し、名づけて『捜神記』とし、全部で三十巻であった。これを劉惔に見せると、劉惔は、「きみは鬼の董狐(春秋時代の史官)というべきだ」と言った。干宝はひろく異聞を採録し、虚実を織りまぜたが、序を書いてその方針について述べ、
先人の事績を書物から考証し、遺事や佚文を当時(の記録)から集めたとしても、わが耳や目で直接に見聞きしたものではない。どうして実を失していないと言えようか。衛朔が国を失ったことについて、『春秋』の二伝は伝聞が対立している。呂望が周に仕えたことについて、子長(司馬遷)は二つの説を並記している。このような事例は、往々にして見られる。以上を踏まえるならば、見聞(情報)を一つに絞るのが難しいことは、昔から同じである。(『春秋』が)赴告の決まり文句を記し、(『史記』が)国家の方策(記録)に基づいて書いても、なおこれほどの不整合が起こる。ましてや仰いで千年前のことを書き表し、習俗の異なる異域のことを書き記すならば尚更である。わずかな文言を残欠(の史料)から収集し、過去のできごとを古老から聴き取ることにより、事実を二つに分岐させず、発言を別のものに変化させず、信頼性を保証することは、もとより前代の歴史家の悩みであった。だからこそ国家は注記の官(歴史の官)を廃止せず、学者は読み暗誦する作業を中断しなかったが、どうしてその(伝承されず)失われたものが些末であり、残存したものが重要であると言えるだろうか(伝承の有無と信頼性の高さは別物である)。いま撰集した史料のうち、もし前の時代(の誤り)を引き継いでいるものがあれば、私の過失ではない。近現代のことを採録し、もし錯誤があるならば、先賢や前代の儒者とその(錯誤を犯したことへの)誹謗を共有しよう。しかし(錯誤の継承や発生を避けられないにせよ)私がここに著述することが、また天道を欺いていないことを明らかにするには十分であろう。さまざまな言葉や百家(の書物)は多すぎて閲覧しきれず、わが耳目に届いたことは多すぎて記載しきれない。いまほぼ八略の内容を説明するのに十分なものだけを取り上げ、わずかな説を書きあげた。どうか将来の好事の(事に関心を持つ)人士がその根幹部分を書き留め、味わい注目して批判を受けることがないように願う(と序に述べた)。
干宝はまた『春秋左氏義外伝』を作り、『周易』と『周官(周礼)』に注釈をつけて全部で数十篇であり、また雑文集もあってすべて世に広まった。

鄧粲

原文

鄧粲、長沙人。少以高潔著名、與南陽劉驎之・南郡劉尚公同志友善、並不應州郡辟命。荊州刺史桓沖卑辭厚禮請粲為別駕、粲嘉其好賢、乃起應召。驎之・尚公謂之曰、「卿道廣學深、眾所推懷、忽然改節、誠失所望」。粲笑答曰、「足下可謂有志於隱而未知隱。夫隱之為道、朝亦可隱、市亦可隱。隱初在我、不在於物」。尚公等無以難之、然粲亦於此名譽減半矣。後患足疾、不能朝拜、求去職、不聽、令臥視事。後以病篤、乞骸骨、許之。
粲以父騫有忠信言、而世無知者、乃著元明紀十篇、注老子、並行於世。

訓読

鄧粲は、長沙の人なり。少くして高潔を以て名を著し、南陽の劉驎之・南郡の劉尚公と與に志を同じくして友善し、並びに州郡の辟命に應ぜず。荊州刺史の桓沖 辭を卑くし禮を厚くして粲に請ひて別駕と為し、粲 其の賢を好むを嘉して、乃ち起ちて召に應ず。驎之・尚公 之に謂ひて曰く、「卿 道は廣く學は深く、眾の推懷する所なり。忽然として節を改む、誠に望む所を失へり」と。粲 笑ひて答へて曰く、「足下 隱を志して未だ隱を知らざる有りと謂ふ可し。夫れ隱の道為るは、朝にありて亦た隱る可し、市にありて亦た隱る可し。隱は初めより我に在り、物に在らざるなり」と。尚公ら以て之を難ずる無く、然して粲も亦た此に於て名譽 減半せり。後に足疾を患ひ、朝拜する能はず、職を去らんことを求むるに、聽されず、臥して事を視しむ。後に病 篤かるを以て、骸骨を乞ひ、之を許さる。
粲 父の騫 忠有りて信言なるに、而れども世 知る者無きを以て、乃ち元明紀十篇を著し、老子に注し、並びに世に行はる。

現代語訳

鄧粲は、長沙の人である。若いときから高潔さによって名を知られ、南陽の劉驎之と南郡の劉尚公と同じ志をもって親友となり、みな州郡の辟命に応じなかった。荊州刺史の桓沖が丁重なことばで礼を厚くして鄧粲に別駕となるように頼み込んだ。鄧粲は桓沖が賢者を好むことを喜び、起家して召命に応じた。劉驎之と劉尚公は鄧粲に、「あなたは生き方が高潔で学識が深いから、尊敬を集めてきた。ところが突然に変節し(仕官し)た。輿望を失ったぞ」と言った。鄧粲は笑って、「あなたがたは隠者を志していながら隠者のことを理解していないと言うべきだ。隠者の道とは、朝廷にあって隠れ、市井にあって隠れるものだ。隠者としての志は最初から私に備わっているもので、立場によって決まるわけではない」と言った。劉尚公らは鄧粲を批判できなかったが、鄧粲の名誉はこのことで半減した。のちに足の病気を患い、朝廷で拝礼できないので、官職を去りたいと願い出たが、許可されず、横になって政務をした。のちに病気が重くなると、引退を願い出て、許された。
鄧粲は父の鄧騫が忠臣であり、まことの発言があったが世間から知られていないため、『元明紀』十篇を著し、また老子に注釈し、どちらも世に通行した。

謝沈

原文

謝沈字行思、會稽山陰人也。曾祖斐、吳豫章太守。父秀、吳翼正都尉。沈少孤、事母至孝、博學多識、明練經史。郡命為主簿・功曹、察孝廉、太尉郗鑒辟、並不就。會稽內史何充引為參軍、以母老去職。平西將軍庾亮命為功曹、征北將軍蔡謨版為參軍、皆不就。閑居養母、不交人事、耕耘之暇、研精墳籍。康帝即位、朝議疑七廟迭毀、乃以太學博士徵、以質疑滯。以母憂去職。服闋、除尚書度支郎。
何充・庾冰並稱沈有史才、遷著作郎、撰晉書三十餘卷。會卒、時年五十二。沈先著後漢書百卷及毛詩・漢書外傳、所著述及詩賦文論皆行於世。其才學在虞預之右云。

訓読

謝沈 字は行思、會稽山陰の人なり。曾祖の斐、吳の豫章太守なり。父の秀、吳の翼正都尉なり。沈は少くして孤なり、母に事へて至孝、博學多識にして、經史に明練す。郡 命じて主簿・功曹と為し、孝廉に察し、太尉の郗鑒 辟するも、並びに就かず。會稽內史の何充 引きて參軍と為し、母の老なるを以て職を去る。平西將軍の庾亮 命じて功曹と為し、征北將軍の蔡謨版 參軍と為すに、皆 就かず。閑居して母を養ひ、人事に交はらず、耕耘の暇に、墳籍を研精す。康帝 即位するや、朝議 七廟 迭毀するを疑ひ、乃ち太學博士を以て徵し、以て疑滯を質す。母の憂を以て職を去る。服闋し、尚書度支郎に除せらる。
何充・庾冰 並びに沈に史才有りと稱し、著作郎に遷り、晉書三十餘卷を撰ぜしむ。會々卒し、時に年五十二なり。沈 先に後漢書百卷及び毛詩・漢書外傳を著し、著述する所は詩賦文論に及び皆 世に行はる。其の才學 虞預の右に在りとしか云ふ。

現代語訳

謝沈は字を行思といい、会稽山陰の人である。曾祖父の謝斐は、呉の豫章太守である。父の謝秀は、呉の翼正都尉である。謝沈は若くして父を失い、母に仕えては至孝、博学で知識が豊富で、経書と史書に精通していた。郡が命じて主簿・功曹とし、孝廉に察挙し、太尉の郗鑒が辟召したが、いずれも就かなかった。会稽内史の何充が参軍に招いたが、母の老齢を理由に職を去った。平西将軍の庾亮が功曹に任命し、征北将軍の蔡謨版も参軍としたが、どちらも就かなかった。自宅で母を養い、世俗に交わらず、耕作のあいまに、典籍を研究した。康帝が即位すると、朝議では七廟を迭毀(互いに喪に哭する礼)について疑義が出された。(謝沈を)太学博士として徴用し、疑問点を解消した。母の死によって職を去った。喪が明けると、尚書度支郎に任命された。
何充と庾冰はどちらも謝沈に史才があると称し、著作郎に遷って、『晋書』三十巻あまりを撰述させた。同じ頃に亡くなり、五十二歳であった。謝沈はさきに『後漢書』百巻及び『毛詩外伝』と『漢書外伝』を著した。著述(の範囲)は詩賦や文論にも及んで世に通行した。その才学は虞預よりも優れていると言われた。

習鑿齒

原文

習鑿齒字彥威、襄陽人也。宗族富盛、世為鄉豪。鑿齒少有志氣、博學洽聞、以文筆著稱。荊州刺史桓溫辟為從事、江夏相袁喬深器之、數稱其才於溫、轉西曹主簿、親遇隆密。
時溫有大志、追蜀人知天文者至、夜執手問國家祚運修短。答曰、「世祀方永」。溫疑其難言、乃飾辭云、「如君言、豈獨吾福、乃蒼生之幸。然今日之語自可令盡、必有小小厄運、亦宜說之」。星人曰、「太微・紫微・文昌三宮氣候如此、決無憂虞。至五十年外不論耳」。溫不悅、乃止。異日、送絹一匹・錢五千文以與之。星人乃馳詣鑿齒曰、「家在益州、被命遠下、今受旨自裁、無由致其骸骨。緣君仁厚、乞為標碣棺木耳」。鑿齒問其故、星人曰、「賜絹一匹、令僕自裁、惠錢五千、以買棺耳」。鑿齒曰、「君幾誤死。君嘗聞、干知星宿有不覆之義乎。此以絹戲君、以錢供道中資、是聽君去耳」。星人大喜、明便詣溫別。溫問去意、以鑿齒言答。溫笑曰、「鑿齒憂君誤死、君定是誤活。然徒三十年看儒書、不如一詣習主簿」。
累遷別駕。溫出征伐、鑿齒或從或守、所在任職、每處機要、莅事有績、善尺牘論議、溫甚器遇之。時清談文章之士韓伯・伏滔等並相友善、後使至京師、簡文亦雅重焉。既還、溫問、「相王何似」。答曰、「1.(生年)〔生平〕所未見」。以此大忤溫旨、左遷戶曹參軍。時有桑門釋道安、俊辯有高才、自北至荊州、與鑿齒初相見。道安曰、「彌天釋道安」。鑿齒曰、「四海習鑿齒」。時人以為佳對。
初、鑿齒與其二舅羅崇・羅友俱為州從事。及遷別駕、以坐越舅右、屢經陳請。溫後激怒既盛、乃超拔其二舅、相繼為襄陽都督、出鑿齒為滎陽太守。

1.中華書局本の校勘記に従い、「生年」を「生平」に改める。

訓読

習鑿齒 字は彥威、襄陽の人なり。宗族 富盛にして、世々鄉豪為り。鑿齒 少くして志氣有り、博學洽聞にして、文筆を以て著稱せらる。荊州刺史の桓溫 辟して從事とし、江夏相の袁喬 深く之を器とし、數々其の才を溫に稱し、西曹主簿に轉じ、親遇 隆密たり。
時に溫 大志有り、蜀人の天文を知る者を追(もと)めて至らしめ、夜に手を執りて國家の祚運の修短を問ふ。答へて曰く、「世祀 方に永(なが)し」と。溫 其の言を難とするを疑ひ、乃ち辭を飾りて云く、「君が言の如くんば、豈に獨り吾が福にして、乃ち蒼生の幸ならん。然れども今日の語 自ら盡さしむ可し。必ず小小の厄運有らん、亦た宜しく之を說け」と。星人曰く、「太微・紫微・文昌の三宮の氣候 此の如し。決して憂虞無し。五十年の外に至らば論ぜざるのみ」と。溫 悅ばず、乃ち止む。異日に、絹一匹・錢五千文を送りて以て之に與ふ。星人 乃ち馳せて鑿齒に詣りて曰く、「家は益州に在り、命を被りて遠く下る。今 旨を受けて自裁す、其の骸骨を致すに由なし。君の仁厚に緣りて、標碣・棺木を為らんことを乞ふのみ」と。鑿齒 其の故を問ふに、星人曰く、「絹一匹を賜ふは、僕をして自裁せしむ。錢五千を惠むは、以て棺を買はしむのみ」と。鑿齒曰く、「君 幾んど誤りて死せんとす。君 嘗て星宿を干(あづか)り知るは不覆の義有ることを聞くや。此れ絹を以て君に戲れ、錢を以て道中の資に供す、是れ君に去るを聽すのみ」と。星人 大いに喜び、明に便ち溫に詣りて別る。溫 去る意を問ふに、鑿齒の言を以て答ふ。溫 笑ひて曰く、「鑿齒 君の誤りて死するを憂ひ、君 定めて是れ誤りて活くるならん。然れども徒らに三十年 儒書を看るは、一たび習主簿に詣るに如かず」と。
累りに別駕に遷る。溫 出でて征伐し、鑿齒 或いは從ひ或いは守り、所在に職に任ぜられ、每に機要に處り、莅事して績有り、善く尺牘もて論議し、溫 甚だ之を器遇す。時に清談文章の士たる韓伯・伏滔ら並びに相 友善し、後に京師に至らしめ、簡文も亦た雅に焉を重んず。既に還り、溫 問ふ、「相王 何に似るか」と。答へて曰く、「生平に未だ見る所にあらず」。此を以て大いに溫の旨に忤ひ、戶曹參軍に左遷せらる。時に桑門の釋道安有り、俊辯にして高才有り、北より荊州に至り、鑿齒と初めて相 見る。道安曰く、「彌天の釋道安なり」と。鑿齒曰く、「四海の習鑿齒なり」と。時人 以て佳對と為す。
初め、鑿齒 其の二舅の羅崇・羅友と與に俱に州從事と為る。別駕に遷るに及び、坐 舅の右に越ゆるを以て、屢々陳請を經す。溫 後に激怒して既に盛なりて、乃ち其の二舅を超拔し、相 繼いで襄陽都督と為し、鑿齒を出だして滎陽太守と為す。

現代語訳

習鑿歯は字を彦威といい、襄陽の人である。習氏の宗族は富裕で強盛であり、代々郷里の豪族であった。習鑿歯は若くして高い志を持ち、見聞が広く、文筆によって称賛された。荊州刺史の桓温が辟召して従事とした。江夏相の袁喬が高く器量をみとめ、しばしば習鑿歯の才能を桓温の前で褒めたので、西曹主簿に転じ、(桓温は習鑿歯と)密接な交際をした。
このとき桓温には大きな志(簒奪の野心)があり、蜀人のなかで天文を知る者を求めて招きよせ、夜に手を握って国家の命運の長短について質問した。答えて、「(東晋の)代々の祭祀は長く続きます」と言った。桓温はその予言が(革命を)難しいとしたことに納得せず、言葉を飾って、「きみの言うとおりなら、私だけではなく、万民にとって幸福なことだ。しかし今日の答えについて掘り下げて聞きたい。きっと極めて微少な災厄ぐらいは(東晋に)あるだろう。それについて話せ」と言った。星占いは、「太微・紫微・文昌の三宮の気候は以上の通りです。まったく憂慮がありません。五十年以上も先となれば分かりませんが」と言った。桓温は不愉快になって、話し終えた。別の日に、絹一匹と銭五千文を星占いに贈った。星占いは慌てて習鑿歯のもとを訪れ、「わが家は益州にあり、命令を受けて遠く(荊州まで)下ってきました。いま(桓温に)自害をほのめかされましたが、骨を拾ってくれる人がいません。あなたの厚い仁にすがり、墓標と棺を作ってほしい」と言った。習鑿歯が事情を聞くと、星占いは、「絹一匹を賜わったのは、私を自害(縊死)をさせるためです。銭五百文を恵まれたのは、棺の代金です」と言った。習鑿歯は、「あやうく勘違いで死ぬところだ。あなたは星占いが(権力者に迎合して予言を)覆さないという規則を聞いたことがあるか。絹は戯れに贈っただけで、銭は帰りの旅費である。(桓温は)あなたに帰郷を許したのだよ」と言った。星占いは大いに喜び、翌日に桓温を訪れて別れの挨拶をした。桓温が辞去の理由を聞くと、(星占いは)習鑿歯の言葉を引いて答えた。桓温は笑って、「習鑿歯はきみが誤って死ぬことを心配したが、(実際は)きみは誤って生き残ることになった。三十年もむだに儒学の書物を読むより、いちど習主簿を訪問するほうが勝るとは」と言った。
しきりに別駕に遷った。桓温が征伐に出ると、習鑿歯は従軍したり留守を任されたりして、各所で要職を与えられ、つねに機密に携わり、任務にあって成果を出し、書簡を提出して有益な議論をし、桓温は能力をみとめて厚遇した。あるとき清談文章の士である韓伯と伏滔らと親友になり、のちに京師に行かせたところ、簡文帝もまた二人を尊重した。帰ってくると、桓温は二人に、「相王(司馬道子)はどれほどの人物であったか」と言った。答えて、「普段では見ることのない人物です」と言った。桓温の意向にひどく逆らったので、戸曹参軍に左遷された。このとき桑門の釈道安がおり、弁舌たくみで才能があった。北から荊州に至り、習鑿歯とはじめて面会した。釈道安は、「弥天の釈道安です」と名乗った。習鑿歯は、「四海の習鑿歯です」と名乗り返した。当時の人はよい受け答えだと思った。
はじめ、習鑿歯は二人の舅の羅崇と羅友とともに州従事となった。習鑿歯が別駕に遷ると、席次が舅たちの上位になるので、しばしば修正を願っていた。桓温はのちに激怒にまかせ、二人の舅を抜擢して席次を超えさせ、相次いで襄陽都督とし、習鑿歯を滎陽太守に転出させた。

原文

溫弟祕亦有才氣、素與鑿齒相親善。鑿齒既罷郡歸、與祕書曰、
吾以去五月三日來達襄陽、觸目悲感、略無歡情、痛惻之事、故非書言之所能具也。每定省家舅、從北門入、西望隆中、想臥龍之吟。東眺白沙、思鳳雛之聲。北臨樊墟、存鄧老之高。南眷城邑、懷羊公之風。縱目檀溪、念崔徐之友。肆睇魚梁、追二德之遠、未嘗不徘徊移日、惆悵極多、撫乘躊躇、慨爾而泣。曰若乃魏武之所置酒、孫堅之所隕斃、裴杜之故居、繁王之舊宅、遺事猶存、星列滿目。璅璅常流、碌碌凡士、焉足以感其方寸哉。
夫芬芳起於椒蘭、清響生乎琳琅。命世而作佐者、必垂可大之餘風。高尚而邁德者、必有明勝之遺事。若向八君子者、千載猶使義想其為人、況相去之不遠乎。彼一時也、此一時也、焉知今日之才不如疇辰、百年之後、吾與足下不並為景升乎。
其風期俊邁如此。
是時溫覬覦非望、鑿齒在郡、著漢晉春秋以裁正之。起漢光武、終於晉愍帝。於三國之時、蜀以宗室為正、魏武雖受漢禪晉、尚為篡逆、至文帝平蜀、乃為漢亡而晉始興焉。引世祖諱炎興而為禪受、明天心不可以勢力強也。凡五十四卷。後以腳疾、遂廢於里巷。
及襄陽陷於苻堅、堅素聞其名、與道安俱輿而致焉。既見、與語、大悅之、賜遺甚厚。又以其蹇疾、與諸鎮書、「昔晉氏平吳、利在二陸。今破漢南、獲士裁一人有半耳」。俄以疾歸襄陽。尋而襄鄧反正、朝廷欲徵鑿齒、使典國史、會卒、不果。

訓読

溫の弟の祕も亦た才氣有り、素より鑿齒と相 親善す。鑿齒 既に郡を罷めて歸るに、祕に書を與へて曰く、 「吾 去る五月三日を以て來たりて襄陽に達(いた)り、目に觸れて悲感し、略ぼ歡情、痛惻の事無く、故に書言の能く具にする所に非ざるなり。每に家舅を定省するに、北門より入り、西のかた隆中を望み、臥龍の吟を想ふ。東のかた白沙を眺みて、鳳雛の聲を思ふ。北のかた樊墟に臨みて、鄧老の高を存(おも)ふ。南のかた城邑を眷りて、羊公の風を懷ふ。目を檀溪に縱にし、崔徐の友を念ふ。睇を魚梁に肆にして、二德の遠きを追ふ、未だ嘗て徘徊して日を移さず、惆悵 極めて多く、乘を撫して躊躇し、慨爾として泣く。曰若し乃ち魏武の置酒する所、孫堅の隕斃する所、裴杜の居故、繁王の舊宅、遺事 猶ほ存し、星のごとく列びて目に滿つ。璅璅たる常流、碌碌たる凡士、焉ぞ以て其の方寸に感ずるに足るか。
夫れ芬芳は椒蘭に起こり、清響は琳琅に生ず。命世にして佐と作る者は、必ず可大の餘風に垂る。高尚にして德を邁むる者は、必ず明勝の遺事有り。向(さき)の八君子の若きは、千載 猶ほ義もて其の人と為りを想はしむ、況んや相 去ることの遠からざるをや。彼も一時なり、此も一時なり。焉ぞ知らん今日の才 疇辰に如かず、百年の後に、吾 足下と與に並びに景升と為らざるか」と。
其の風期 俊邁なること此の如し。
是の時 溫 非望を覬覦し、鑿齒 郡に在り、漢晉春秋を著して以て之を裁正す。漢の光武より起し、晉愍帝に終る。三國の時に於て、蜀もて宗室を以て正と為し、魏武 漢を受け晉に禪ると雖も、尚ほ篡逆と為し、文帝 蜀を平らぐるに至り、乃ち漢の亡にして晉の始めて興ると為す。世祖の諱を引きて炎興として禪より受くと為し、天心 勢力の強なるを以てす可からざることを明らかにす。凡そ五十四卷。後に腳疾を以て、遂に里巷に廢せらる。
襄陽 苻堅に陷さるに及び、堅 素より其の名を聞かば、道安と與に俱に輿して焉を致す。既に見え、與に語り、大いに之を悅びて、賜遺すること甚だ厚し。又 其の蹇疾を以て、諸鎮に書を與へ、「昔 晉氏 吳を平らぐるは、利は二陸に在り。今 漢南を破り、士を獲ること裁か一人有半なるのみ」と。俄かにして疾を以て襄陽に歸る。尋いで襄鄧 正に反り、朝廷 鑿齒を徵して、國史を典ぜしめんと欲するに、會々卒し、果たさず。

現代語訳

桓温の弟の桓秘もまた才気があり、習鑿歯と親友であった。習鑿歯が滎陽郡から帰任すると、桓秘に文書を送って、 「さる五月三日に襄陽に帰ってきた。(襄陽の)景色を目にして切なさを感じ、喜びの感情も、悲しみの感情もほぼなく、文章にうまく表せない。いつも舅の安否を伺って、(襄陽の)北門から入り、西に隆中を望むと、臥龍(諸葛亮)の(梁父)吟を思う。東のかた白沙を眺めると、鳳雛(龐統)の声を思う。北のかた樊城のあとに臨み、鄧老(鄧禹)の偉業を思う。南のかた城邑をめぐり、羊公(羊祜)の遺風を思う。檀渓に視線を走らせ、崔徐(崔州平と徐庶)という(諸葛亮の)友を思う。魚梁を脇に見れば、二徳(司馬徽と龐徳公)の遠大さを思う。周遊に長い時間はかからないが、失意の感情は極めて多く、乗馬をなでて周回し、感慨によって泣いた。魏武が酒宴を開いた場所、孫堅が戦死した場所、裴杜(¥)の旧居、繁王(¥)の旧宅は、まだ跡地があって、星のように並んで目に飛び込んでくる。細々としても絶えない流れは、平々凡々とした人士にも、胸中に感じさせるには十分ではないか。
芬芳とした良い香りは椒蘭から起こり、清く澄んだ響きは琳琅に生じる。帝王の輔佐となったものは、必ずこの地の風土を継いでいる。高尚で徳につとめたものは、必ず勝利したという故事をもつ。以上にあげた八人の君子は、千年の先まで義によって人となりを追慕される人物であるが、まして千年も経っていなければ尚更(追慕が大きいの)である。当時もひとつの時代であったが、今日もひとつの時代である。今日の人材が往年のものに匹敵せず、百年後に私とあなたが景升(劉表)にならないとも限らない」と言った。
習鑿歯の(荊州の士としての)自覚はこのように優れたものであった。
このとき桓温は簒奪の野望を持っていた。習鑿歯は郡にいて、『漢晋春秋』を著して桓温を牽制した。後漢の光武帝から筆を起こし、西晋の愍帝で終えた。三国時代の部分は、蜀が宗室なので正であるとし、魏武(曹操)は後漢から禅譲され西晋に禅譲したけれども、簒逆であると見なした。文帝(司馬昭)による蜀の平定を、漢が滅亡して晋が新たに興ったことと位置づけた。世祖の諱(炎)を取って(蜀は)炎興という年号を定めて(司馬炎が)劉禅から禅(ゆず)りを受けたと説明し、天意は勢力の強弱によって操作できないことを明らかにした。全部で五十四巻であった。のちに足の病を理由に、官職を失って巷間に置かれた。
襄陽が(前秦の)苻堅に陥落させられると、苻堅はかねて習鑿歯の名を聞いていたので、釈道安とともに輿によって招き寄せた。会って、語りあい、とても悦んで、手厚く贈り物をした。習鑿歯は下半身が不自由なので、(苻堅は)各地の鎮所に、「むかし晋帝国が孫呉を平定すると、二陸(陸機と陸雲)という収穫があった。いま漢水の南を破ったところ、逸材を一人と半分だけ手に入れた」と言った。にわかに病気を理由に襄陽に帰った。ほどなく襄鄧の一帯を東晋が回復した。朝廷は習鑿歯を徴して、国史編纂を管轄させようとしたが、同じころに亡くなって、実現しなかった。

原文

臨終上疏曰、
臣每謂皇晉宜越魏繼漢、不應以魏後為三恪。而身微官卑、無由上達、懷抱愚情、三十餘年。今沈淪重疾、性命難保、遂嘗懷此、當與之朽爛、區區之情、切所悼惜、謹力疾著論一篇、寫上如左。願陛下考尋古義、求經常之表、超然遠覽、不以臣微賤廢其所言。論曰、
或問、「魏武帝功蓋中夏、文帝受禪於漢、而吾子謂漢終有晉、豈實理乎。且魏之見廢、晉道亦病、晉之臣子寧可以同此言哉」。
答曰、「此乃所以尊晉也。但絕節赴曲、非常耳所悲、見殊心異、雖奇莫察、請為子言焉。
昔漢氏失御、九州殘隔、三國乘間、鼎跱數世、干戈日尋、流血百載、雖各有偏平、而其實亂也。宣皇帝勢逼當年、力制魏氏、蠖屈從時、遂羈戎役、晦明掩耀、龍潛下位、俛首重足、鞠躬屏息、道有不容之難、躬蹈履霜之險、可謂危矣。魏武既亡、大難獲免、始南擒孟達、東蕩海隅、西抑勁蜀、旋撫諸夏、摧吳人入侵之鋒、掃曹爽見忌之黨、植靈根以跨中嶽、樹羣才以翼子弟、命世之志既恢、非常之業亦固。景文繼之、靈武冠世、克伐貳違、以定厥庸、席卷梁益、奄征西極、功格皇天、勳侔古烈、豐規顯祚、故以灼如也。至於武皇、遂并強吳、混一宇宙、乂清四海、同軌二漢。除三國之大害、靜漢末之交爭、開九域之蒙晦、定千載之盛功者、皆司馬氏也。而推魏繼漢、以晉承魏、比義唐虞、自託純臣、豈不惜哉。
「今若以魏有代王之德、則其道不足。有靜亂之功、則孫劉鼎立。道不足則不可謂制當年、當年不制於魏、則魏未曾為天下之主。王道不足於曹、則曹未始為一日之王矣。昔共工伯有九州、秦政奄平區夏、鞭撻華戎、專總六合、猶不見序於帝王、淪沒於戰國、何況暫制數州之人、威行境內而已、便可推為一代者乎。
若以晉嘗事魏、懼傷皇德、拘惜禪名、謂不可割、則惑之甚者也。何者。隗囂據隴、公孫帝蜀、蜀隴之人雖服其役、取之大義、於彼何有。且吳楚僭號、周室未亡、子文・延陵不見貶絕。宣皇帝官魏、逼於性命、舉非擇木、何虧德美、禪代之義、不同堯舜、校實定名、必彰於後、人各有心、事胡可掩。定空虛之魏以屈於己、孰若杖義而以貶魏哉。夫命世之人正情遇物、假之際會、必兼義勇。宣皇祖考立功於漢、世篤爾勞、思報亦深。魏武超越、志在傾主、德不素積、義險冰薄、宣帝與之、情將何重。雖形屈當年、意申百世、降心全己、憤慨於下、非道服北面、有純臣之節、畢命曹氏、忘濟世之功者也。
夫成業者係於所為、不係所藉。立功者言其所濟、不言所起。是故漢高稟命於懷王、劉氏乘斃於亡秦、超二偽以遠嗣、不論近而計功、考五德於帝典、不疑道於力政、季無承楚之號、漢有繼周之業、取之既美、而己德亦重故也。凡天下事有可借喻於古以曉於今、定之往昔而足為來證者。當陽秋之時、吳楚二國皆僭號之王也、若使楚莊推鄢郢以尊有德、闔閭舉三江以奉命世、命世之君・有德之主或藉之以應天、或撫之而光宅、彼必自係於周室、不推吳楚以為代明矣。況積勳累功、靜亂寧眾、數之所錄、眾之所與、不資於燕噲之授、不賴於因藉之力、長轡廟堂、吳蜀兩斃、運奇二紀而平定天下、服魏武之所不能臣、蕩累葉之所不能除者哉。
自漢末鼎沸五六十年、吳魏犯順而強、蜀人杖正而弱、三家不能相一、萬姓曠而無主。夫有定天下之大功、為天下之所推、孰如見推於闇人、受尊於微弱。配天而為帝、方駕於三代、豈比俛首於曹氏、側足於不正。即情而1.恒實、取之而無慚、何與詭事而託偽、開亂於將來者乎。是故故舊之恩可封魏後、三恪之數不宜見列。以晉承漢、功實顯然、正名當事、情體亦厭、又何為虛尊不正之魏而虧我道於大通哉。
「昔周人詠祖宗之德、追述翦商之功。仲尼明大孝之道、高稱配天之義。然后稷勤於所職、聿來未以翦商、異於司馬氏仕乎曹族、三祖之寓於魏世矣。且夫魏自君之道不正、則三祖臣魏之義未盡。義未盡、故假塗以運高略。道不正、故君臣之節有殊。然則弘道不以輔魏而無逆取之嫌、高拱不勞汗馬而有靜亂之功者、蓋勳足以王四海、義可以登天位、雖我德慚於有周、而彼道異於殷商故也。
「今子不疑共工之不得列於帝王、不嫌漢之係周而不係秦、何至於一魏猶疑滯而不化哉。夫欲尊其君而不知推之於堯舜之道、欲重其國而反厝之於不勝之地、豈君子之高義。若猶未悟、請於是止矣」。
子辟強、才學有父風、位至驃騎從事中郎。

1.中華書局本の校勘記によると、「恒」は「衡」字の誤りか。

訓読

終に臨みて上疏して曰く、
「臣 每に謂ふらく皇晉 宜しく魏を越えて漢を繼ぐべし、應に魏の後を以て三恪と為すべからずと。而れども身は微にして官は卑しく、由りて上達する無く、愚情を懷抱して、三十餘年なり。今 重疾に沈淪して、性命 保ち難く、遂に嘗に此を懷き、當に之と與に朽爛すべきに、區區の情、切りに悼惜する所なれば、謹めて疾を力めて論一篇を著し、寫上すること左の如し。願はくは陛下 古義を考尋し、經常の表に求め、超然として遠く覽じ、臣の微賤なるを以て其の言ふ所を廢せざれ。論に曰く、
或ひと問ふ、「魏武帝 功は中夏を蓋ひ、文帝は禪を漢に受く。而れども吾子 漢 終はりて晉有りと謂ふ。豈に實の理なるか。且つ魏の廢するや、晉道も亦た病(すた)る、晉の臣子 寧ぞ以て此の言に同ずる可きや」と。
答へて曰く、「此れ乃ち晉を尊ぶ所以なり。但だ絕節の曲に赴くは、常の耳の悲しむ所に非ず。見殊なれば心も異なり、奇なりと雖も察する莫し、請ふ子の為に焉を言はんと。
昔 漢氏 御を失ひ、九州 殘隔し、三國 間に乘じ、鼎跱すること數世、干戈 日々尋ぎ、流血すること百載、各々偏平有ると雖も、而れども其の實は亂なり。宣皇帝の勢 當年に逼られ、力もて魏氏に制せられ、蠖屈して時に從ひ、遂に戎役に羈さる。明を晦し耀を掩ひ、下位に龍潛し、首を俛(ふ)せ足を重くし、躬を鞠め息を屏し、道として容れられざるの難有り、躬ら履霜の險を蹈み、危と謂ふ可し。魏武 既に亡し、大難 免るるを獲て、始めて南のかた孟達を擒へ、東のかた海隅を蕩し、西のかた勁蜀を抑へ、諸夏を旋撫し、吳人 入侵の鋒を摧き、曹爽 見忌の黨を掃き、靈根を植えて以て中嶽を跨し、羣才を樹てて以て子弟に翼せしめ、命世の志 既に恢く、非常の業 亦た固し。景文 之を繼ぎ、靈武は冠世たりて、克く貳違を伐ち、以て厥の庸を定め、梁益を席卷し、西極を奄征し、功は皇天に格しく、勳は古烈に侔しく、規を豐かにし祚を顯らかにし、故に以(すで)に灼如たり。武皇に至り、遂に強吳を并せ、宇宙を混一し、四海を乂清し、軌を二漢に同じくす。三國の大害を除き、漢末の交爭を靜め、九域の蒙晦を開き、千載の盛功を定むるは、皆 司馬氏なり。而れども魏を推して漢を繼がしめ、晉を以て魏を承ぐとす。義もて唐虞に比せらるに、自ら純臣に託す、豈に惜しからざるや。
今 若し魏を以て王に代はるの德有りとせば、則ち其の道 足らず。靜亂の功有りとせば、則ち孫劉 鼎立す。道 足らざれば、則ち當年を制すと謂ふ可からず、當年 魏に制せられずんば、則ち魏 未だ曾て天下の主と為らず。王道 曹に足らざれば、則ち曹 未だ始めて一日の王と為らず。昔 共工 伯たりて九州を有ち、秦政 區夏を奄平し、華戎を鞭撻し、六合を專總す。猶ほ序を帝王に見ず、戰國に淪沒す、何ぞ況んや暫く數州を制する人、威 境內に行はるのみもて、便ち推して一代と為す可きをや。
「若し晉を嘗て魏に事ふるを以て、皇德を傷つくるを懼れ、禪るの名を拘惜して、割く可からざると謂ふは、則ち之に惑ふこと甚しき者なり。何者ぞや。隗囂 隴に據り、公孫 蜀に帝たり、蜀隴の人 其の役に服すと雖も、之を大義に取るに、彼に於て何か有らん。且つ吳楚 僭號し、周室 未だ亡びずとも、子文・延陵 貶絕せられず。宣皇帝 魏に官たるは、性命に逼られ、舉は木を擇ぶに非ず、何ぞ德美に虧くか。禪代の義、堯舜に同じからざるは、實を校べ名を定め、必ず後に彰はる。人 各々心有り、事 胡ぞ掩ふ可きか。空虛の魏 以て己を屈せんことを定むれば、孰若れの義に杖りて以て魏を貶するや。夫れ命世の人 正情 物に遇し、之が際會を假りて、必ず義勇を兼す。宣皇祖 功を漢に立つるを考ふるに、世々爾の勞を篤くし、報を思ふことも亦た深し。魏武 超越して、志は主を傾くるに在り、德 素より積まず、義 冰薄よりも險し。宣帝 之に與するは、情 將た何か重からん。形は當年に屈すと雖も、意は百世に申し、心を降し己を全し、下に憤慨す。道 服して北面し、純臣の節有るに非ず。命を曹氏に畢くすは、濟世の功を忘るる者なり。
夫れ業を成す者は為す所に係ぎ、藉る所に係がず。功を立つる者は其の濟ふ所を言ひ、起つ所を言はず。是の故に漢高 命を懷王より稟け、劉氏 亡秦を斃すに乘じて、二偽を超えて以て遠く嗣ぎ、近きを論ぜずして功を計り、五德を帝典に考へ、道を力政に疑はず、季に楚を承くるの號無く、漢 周を繼ぐ業有り、之を既に美なるに取り、而して己の德も亦た重き故なり。凡そ天下の事 喻を古に借りて以て今を曉らかにす可く、之を往昔に定めて來證と為すに足る者有り。陽秋の時に當たり、吳楚二國 皆 僭號の王なり、若使ひ楚莊をして鄢郢を推して以て有德を尊び、闔閭をして三江を舉げて以て命世を奉ずれば、命世の君・有德の主 或いは之を藉りて以て天に應じ、或いは之を撫して光宅するとも、彼 必ず自ら周室に係り、吳楚を推して以て明に代はると為さず。況んや勳を積み功を累ね、亂を靜め眾を寧し、數の錄する所、眾の與する所にして、燕王噲にの授に資らず、因藉の力に賴らず、廟堂に長轡して、吳蜀 兩つながら斃し、奇を二紀に運びて天下を平定し、魏武の臣とする能はざる所に服し、累葉の除く能はざる所を蕩する者をや。
漢末より鼎沸すること五六十年、吳魏 順を犯して強く、蜀人 正に杖りて弱く、三家 相一にする能はず、萬姓 曠にして主無し。夫れ天下を定むるの大功有らば、天下の推す所と為る。闇人に推さるると、尊を微弱に受くるとは孰如れぞ。天に配して帝と為り、駕を三代に方べらる。豈に首を曹氏に俛して、足を不正に側つるに比ぶるか。情に即きて恒に實にして、之を取りて慚無きは、事を詭(たが)へて偽に託し、亂を將來の者に開くに何與(いづれ)ぞ。是の故に故舊の恩には魏の後を封ず可きも、三恪の數 宜しく列せらるべからず。晉を以て漢を承けんこと、功實 顯然たりて、名を正して事に當たり、情體 亦た厭(あ)ふ。又 何為れぞ虛しく不正の魏を尊びて我が道を大通に虧くことや。
昔 周人 祖宗の德を詠して、追ひて商を翦つの功を述す。仲尼 大孝の道を明らかにし、高く天に配するの義を稱す。然るに后稷 職とする所に勤め、聿來 未だ商を翦つを以てせず、司馬氏 曹族に仕へて、三祖の魏世に寓ふに異なる。且つ夫れ魏 自ら君たるの道 正しからず、則ち三祖 魏に臣するの義 未だ盡くさず。義 未だ盡さずして、故に塗を假りて以て高略を運(めぐ)らす。道 正しからざれば、故に君臣の節 殊なる有り。然らば則ち弘道して以て魏に輔たれども逆取の嫌無く、高拱して汗馬を勞せずとも亂を靜むるの功有る者は、蓋し勳は以て四海に王たるに足り、義は以て天位に登る可し。我が德 有周に慚づと雖も、而れども彼の道 殷商の故に異なれり。
今 子 共工の帝王に列せらるるを得ざるを疑はず、漢の周を係ぎて秦に係がざるを嫌はず。何ぞ一魏に至りて猶ほ疑滯して化せざるか。夫れ其の君を尊ばんと欲して之を堯舜の道に推すを知らず、其の國を重んぜんと欲して反りて之を不勝の地に厝く。豈に君子の高義ならんや。若し猶ほ未だ悟らざれば、是に於て止めんことを請ふ」と。
子の辟強、才學に父の風有り、位は驃騎從事中郎に至る。

現代語訳

習鑿歯は死の直前に上疏して、
「私はいつも偉大な晋帝国は魏を越えて漢帝国を継ぐべきで、魏の皇族の子孫を三恪(前代の王として特別に待遇)すべきではないと考えてきました。しかし私は身分と官職が低いので、陛下にお伝えする方法がなく、愚かな考えを懐いたまま、三十年以上が経過しました。いま重病により落ち込み、生命を保ちがたく、本来ならば愚かな考えを懐いたまま、朽ち果てるべきでしょうが、僅かな感情があって、切迫して悔やまれるので、重病をおして論の一篇を著し、以下のように提出いたします。どうか陛下は古義に照らし、不変の道を考えて、超然として遠くを見渡し、私の微賤さを理由に無視をなさらないで下さい。私の論に、
あるひとは反論し、「魏武帝(曹操)は戦功が中原を覆い、文帝(曹丕)は禅譲を漢から受けた。しかし習鑿歯は漢が終わって晋が成立したという。それは実の理であるのか。しかも魏(の正統性)が廃れれば、晋の道も廃れることになり、晋の臣下や子孫はその意見に同意できまい」と言いました。
私は以下のように答えた。「これは晋帝国を尊重するための論である。素晴らしい楽曲を聞くことは、平凡な耳にとって悲しみではない。格別なので受け入れがたく、優秀であっても理解が追いつかないのだ。きみのために少し説明させてほしい。
むかし漢帝国が統御を失うと、九州は細かく分裂し、三国は隙に乗じて、数世のあいだ鼎立し、戦争が日々やまず、流血が百年つづいた。各地方を平定しているが、実態は乱の時代であった。宣皇帝(司馬懿)は当時の情勢に迫られて、強引に魏国に臣従させられ、一時的に体を曲げ、戦役に参加させられた。聡明さを隠して、低い位に甘んじ、首を伏せて足を重くし、身を屈めて息を潜め、道義において受け入れがたい苦難のもと、みずから霜を履んだので、危うかったと言うべきだ。魏武(曹操)が死ぬと、最悪の危機を脱したので、南では孟達を捕らえ、東では海隅(遼東)を平定し、西では蜀の強兵を抑え、中原で万民を撫育し、呉人の侵入の矛先をくじき、曹爽の忌まわしい派閥を排除し、道徳を養って中嶽をこえ、才能を育てて子弟の輔佐とした。天命の志を広げ、非凡の事業も固まった。景文(司馬師と司馬昭)がこれを継ぎ、霊妙な武は当世随一で、(淮南で)謀反人を討伐し、そこで功績を確立し、梁州と益州(蜀漢)を席巻し、西の果てまで制圧し、功業は皇天にひとしく、勲功は古の名将にひとしく、法規を整えて国運を高くした。この時点で(晋帝国の天命は)燃えるように明らかであった。武皇(司馬炎)に至り、ついに強敵の孫呉を併合し、天地を一つにまとめ、四海を討って鎮め、その事業は二漢(前漢と後漢)と同じとなった。三国の大害を除き、漢末の抗争を静め、九域の周辺を開拓し、千年の盛んな功績を定めたのは、すべて司馬氏である。しかし(司馬氏は)魏を推戴して漢を継がせ、晋のことを魏を継いだ国と認定した。義において尭舜に等しいのに、自分をもっぱら(魏の)臣下と位置づけたことは、残念ではないか。
いまもし魏に王(漢帝)に代わる徳があるというなら、その道が足りない。乱を静めたというなら、孫権と劉備が鼎立していた。道が足りなければ一時代の支配者と言うことができず、一時代の支配者でないなら、天下の主人とも認定されない。王の道が曹氏に欠けていれば、曹氏は一日たりとも王であったと認定されない。むかし共工は覇者として九州を領有し、秦の政(始皇帝)は中華を平定し、華族と戎族を統括し、天下を専有した。しかし(共工を)帝王の列には加えず、(秦を)戦国の一つに含める。まして数州のみを短期間だけ制圧し、支配力が領内にしか及ばなかった国(魏)を、祭り上げて(王朝の)一代に含めるべきだろうか。
もしも晋がかつて魏に仕えたことからで、(晋の)皇帝の徳が傷つくことを懼れ、禅譲という形式に拘って惜しみ、(魏との繋がりを)分割できないと思うならば、それこそ混乱の極みである。なぜか。隗囂は隴に割拠し、公孫述は蜀で皇帝を称し、蜀隴の人は二人の使役に甘んじたが、(漢帝国の)大義という観点から、なにか問題があったのか(強制されただけなので責任は負わない)。しかも(春秋時代に)呉や楚が(王を)僭号したとき、周室はまだ存続していたが、子文(楚の宰相)や延陵(呉の季札)は(僭号を制止できなかったとして)貶められていない。宣皇帝が魏に仕官したのは、生命の危険があったからで、この行動は良木(仕官先)を自ら選んだものでない。どうして徳や美を傷つけることになるか。(漢魏と魏晋の)禅譲の名分が、尭舜と同じではないことは、実を比べ名を定めれば、おのずと明らかになるはずだ。人にはそれぞれ心があり(実情は複雑で)、(司馬懿が曹操に仕えたという)出来事を隠す必要はない。空虚な(王者の内実を持たない)魏が己(司馬氏)を屈服させたことを確認さえすれば、何かの義に基づいて魏を貶める必要もないだろう。一時代の英雄は何らかの事態に直面すれば、その機会を利用し、必ず義と勇を発揮する。宣皇祖(司馬懿)が漢帝国に対して立てた功績を考えるに、先祖代々その働きが厚く、報恩の心も深いものであった。魏武(曹操)は僭上して、漢帝を圧倒しようと志し、徳を積むこともなく、義は薄氷よりも薄かった。宣帝がこれに仕えたのは、やむを得ない情況のせいである。当時は形式的に屈服したが、心は百年先のことを思っており、本心を隠して生命を保ち、下位にあって憤りを抱いていた。(曹氏の王者としての)道に感服して仕え、純粋な臣下となったのではない。生命を曹氏のために失うのは、(百年先に)世を救う仕事を忘れた者のすることである。
そもそも事業を成すものは結果で評価され、力を借りた相手では評価されない。功績を立てるにはその成果が問題とされ、どこから始めたかは問題とされない。だから漢の高祖(劉邦)は命令を(楚の)懐王から受けていたが、秦国の滅亡に乗じ、二つの偽国家を飛び越えて遠く(の周王朝)を嗣ぎ、現実の近さではなく(王朝の)功績の大小で計り、五徳の変遷を典籍から考え、力の強弱に惑わされなかった。劉季(劉邦)が楚(項羽)を継承したとは称さず、漢は周を継いだ国家であるとして、(前代の)麗しい王朝を選んだので、漢帝国の徳も重くなった。およそ天下のことは古から前例を取って今日のことを明らかにし、今日のことを故事と関連づけて証拠とできる。春秋時代に、呉楚の二国はどちらも王を僭号したが、もし楚の荘王が鄢郢を推戴して有徳者を尊び、(呉の)闔閭が三江をあげて命世の英雄を奉ったならば、有徳の英雄は二人の力を借りて天命に応え、あるいは二人を慰撫して聖徳を広げようとするかも知れないが、それでも周室と自分を結びつけるはずで、呉楚の王を推戴して明主(周王)に置き換えることはない。ましてや(司馬氏のように)勲功を積み重ね、乱を鎮めて民を安んじ、兵士を指揮して、民から支持され、(戦国の)燕王噲が行ったような禅譲も受けず、皇族との繋がりにも頼らず、廟堂で(軍略を練って)長い手綱をあやつり、呉蜀の両国をともに打倒して、二紀(二十四年間)の活躍して天下を平定した家柄で、本来であれば魏武(曹操)には臣従させる資格がない人物で、歴代にわたり排除できなかった(呉と蜀を)排除した者ならばどうであろうか(春秋期の英雄が周王の代わりに呉楚の王を推戴することない以上に、司馬氏が漢帝の代わりに曹操を推戴する理由がない)。
漢末から鼎沸すること五六十年で、呉と魏は順(正)を犯しているが強く、蜀人は正に依っているが弱く、三国は統一されず、万民には君主が不在となった。天下平定という大きな功績があれば、天下から推戴される。暗愚な人々(魏と呉)から推戴されるのと、尊い地位を微弱(蜀)から受けるのとではどちらが良いか。(司馬氏は)天に配して帝王として祭られており、事績は(夏殷周の)三代に匹敵する。どうして曹操のもとで首をひそめ、不正に加担した家柄と見なすのか。(曹操への仕官は)実情に迫られた行動であり、その実態に恥じることはない。実態を詐って捻じ曲げ(晋の権威を損ない)、乱の原因を将来に残すのとどちらがよいか。以上のことから(司馬氏が)古い恩に報いて魏の子孫を封侯とするに問題はないが、(先王の後裔として)三恪の列に加えるべきではない。晋帝国が漢帝国を継承していることは、功業の実態によって明らかである。名目を正して実態と向きあえば、事情と実態とが整合する。どうして正ならざる魏を尊重してわが晋帝国の道が大いに通じることを妨げるのか。
むかし周人は祖先の徳を歌い、遡って商(殷)を討伐した功績を述べた。仲尼(孔子)は大孝の道を明らかにし、天に配して祭ることの義を称えた。ただし(周の始祖である)后稷は職務に励んだだけで(商に仕えたことはなく)、その時点で商の討伐を始めたわけではない。(周の故事は)司馬氏が曹氏に仕えて、三祖(司馬懿・司馬師・司馬昭)が魏のもとで仮住まい(仕官)したこととは異なる。しかも魏は君主としての道が正しくなく、三祖が魏に臣従することは義において不十分であった。義が不十分であるから、立場を利用して(晋を建国する)高い計略をめぐらせた。(魏の君主の)道が正しくないから、君臣の節義も(殷周の故事と)同じではない。そのため道を広げて魏の臣下となったが簒奪の野心がなく、手を拱いて兵馬を疲れさせずに乱を静めた功績のある司馬氏には、勲功において四海の王者となる資格があり、義において皇帝の位に登る資格がある。わが(晋帝国の)徳が周王朝に見劣りがするとしても、司馬氏の道(建国の経緯)は殷商の故事と異なる(ので差異が問題とはならない)。
あなたは共工が帝王の列に入れないことを疑わず、漢は周を継いだのであり秦ではないという説を嫌っていない。どうして魏だけに限って疑義を唱えて納得しないのか。そもそも君主を尊重しようとして尭舜の道に擬えず、国家を重視しようとして反対に劣等の位置におく。これが立派な人物の見識であろうか。まだ賛同できないなら、留めおいてくれ」と言った」と述べた。
子の辟強は、才学に父の遺風があり、官位は驃騎従事中郎に至った。

徐廣

原文

徐廣字野民、東莞姑幕人、侍中邈之弟也。世好學、至廣尤為精純、百家數術無不研覽。謝玄為兗州、辟從事。譙王恬為鎮北、補參軍。孝武世、除祕書郎、典校祕書省。增置省職、轉員外散騎侍郎、仍領校書。尚書令王珣深相欽重、舉為祠部郎。會稽世子元顯時錄尚書、欲使百僚致敬、內外順之、使廣為議、廣常以為愧焉。元顯引為中軍參軍、遷領軍長史。桓玄輔政、以為大將軍文學祭酒。義熙初、奉詔撰車服儀注、除鎮軍諮議、領記室、封樂成侯、轉員外散騎常侍、領著作。尚書奏、「左史述言、右官書事、乘志顯於晉鄭、春秋著乎魯史。自聖代有造中興記者、道風・帝典、煥乎史策。而太和以降、世歷三朝、玄風・聖迹、儵為疇古。臣等參詳、宜敕著作郎徐廣撰成國史」。於是敕廣撰集焉。遷驍騎將軍、領徐州大中正、轉正員常侍・大司農、仍領著作如故。十二年、勒成晉紀、凡四十六卷、表上之。因乞解史任、不許。遷祕書監。
初、桓玄篡位、帝出宮、廣陪列、悲動左右。及劉裕受禪、恭帝遜位、廣獨哀感、涕泗交流。謝晦見之、謂曰、「徐公將無小過也」。廣收淚而言曰、「君為宋朝佐命、吾乃晉室遺老、憂喜之事固不同時」。乃更歔欷。因辭衰老、乞歸桑梓。性好讀書、老猶不倦。年七十四、卒于家。廣答禮問行於世。

訓読

徐廣 字は野民、東莞姑幕の人、侍中の邈の弟なり。世々學を好み、廣に至りて尤も精純為り、百家の數術 研覽せざるは無し。謝玄 兗州と為るや、從事に辟す。譙王恬 鎮北と為るや、參軍に補す。孝武の世に、祕書郎に除せられ、祕書省に典校す。增置省職ありて、員外散騎侍郎に轉じ、仍りて校書を領す。尚書令の王珣 深く相 欽重し、舉げて祠部郎と為す。會稽世子の元顯 時に尚書を錄し、百僚をして敬を致し、內外をして之に順はしめんと欲し、廣をして議を為らしむれば、廣 常に以て焉を愧と為す。元顯 引きて中軍參軍と為し、領軍長史に遷る。桓玄 輔政するや、以て大將軍文學祭酒と為る。義熙の初に、詔を奉じて車服儀注を撰し、鎮軍諮議に除せられ、記室を領し、樂成侯に封ぜられ、員外散騎常侍に轉じ、著作を領す。尚書 奏すらく、「左史は言を述し、右官は事を書す。乘志は晉鄭に顯はれ、春秋は魯史に著はる。聖代の中興の記を造る者有りてより、道風・帝典、史策に煥たり。而れども太和より以降、世々三朝を歷て、玄風・聖迹、儵に疇古と為る。臣ら參詳するに、宜しく著作郎の徐廣に敕して國史を撰成せしむべし」と。是に於て廣に敕して撰集せしむ。驍騎將軍に遷り、徐州大中正に領り、正員常侍・大司農に轉じ、仍りて著作を領すること故の如し。十二年に、晉紀を勒成し、凡そ四十六卷、表して之を上る。因りて史任を解かんことを乞ふも、許さず。祕書監に遷る。
初め、桓玄 篡位し、帝 宮を出づるや、廣 陪列し、左右を悲動せしむ。劉裕 受禪するに及び、恭帝 位を遜り、廣 獨り哀感し、涕泗 交流す。謝晦 之を見て、謂ひて曰く、「徐公 將た小過すら無からざるなり」と。廣 淚を收めて言ひて曰く、「君 宋朝の佐命と為り、吾 乃ち晉室の遺老なり。憂喜の事 固より時を同じくせず」と。乃ち更めて歔欷す。辭もて衰老なるに因り、桑梓に歸らんことを乞ふ。性は讀書を好み、老いて猶ほ倦まず。年七十四にして、家に卒す。廣 禮問に答へて世に行はる〔一〕。

〔一〕『晋書』徐広伝に言及はないが、徐広の著作として『史記音義』があり、その成果は裴駰(裴松之の子)の『史記集解』に継承された。吉川忠夫「裴駰の『史記集解』」(『加賀博士退官記念中国文史哲学論集』講談社、一九七九年)を参照。

現代語訳

徐広は字を野民といい、東莞姑幕の人で、侍中の徐邈の弟である。代々学問を好む家柄で、徐広に至って研ぎ澄まされて純化され、百家の数術で精通しないものがなかった。謝玄が兗州の長官になると、従事に辟召した。譙王恬(司馬恬)が鎮北将軍になると、徐広を参軍に任命した。孝武帝の時代、秘書郎に任命され、秘書省で書物の校合を掌った。官職の統廃合があり、員外散騎侍郎に転じ、重ねて校書も領した。尚書令の王珣と深く尊重しあい、推挙されて祠部郎となった。会稽世子の司馬元顕がこのとき尚書を録し、群僚から尊敬を集め、内外を自分に従わせるため、徐広に建議を代作させた。徐広はいつもこれを恥辱とした。司馬元顕は徐広を招いて中軍参軍とし、領軍長史に遷った。桓玄が輔政すると、大将軍文学祭酒となった。義熙年間の初め、詔を奉じて『車服儀注』を撰述し、鎮軍諮議に任命され、記室を領し、楽成侯に封建された。員外散騎常侍に転じ、著作を領した。尚書が上奏し、「左史は言を記し、右官は事を書きます。乗志(歴史)は晋や鄭で盛んになり、春秋は魯の史書で世に顕れました。聖なる晋帝国で中興の記録を作るようになってから、道徳と帝王の事績は、史書のなかで輝きました。しかし太和年間より以降、三代の朝廷を経過すると、天子の徳教が、とうに過去のものとなりました。私たちが考えますに、著作郎の徐広に敕して国史を編纂させてください」と言った。ここにおいて徐広に敕して記録を整理させた。驍騎将軍に遷り、徐州大中正を領し、正員常侍・大司農に転じたが、著作を領することは従来どおりであった。義熙十二年、『晋紀』を完成させ、全部で四十六巻であり、上表して提出した。歴史官の解任を求めたが、許されなかった。秘書監に遷った。
これよりさき、桓玄が帝位を簒奪し、晋帝が宮殿を退出すると、徐広はその列に並び、左右の者を悲しませ感動させた。劉裕が受禅するに及び、恭帝が帝位から降りたが、徐広だけが感極まって悲しみ、涙と鼻水まみれになった。謝晦がこれを見て、「徐公(徐広)には小さな過失もないでしょうに」と言った。徐広は泣き止んで、「きみは宋朝の佐命の臣となったが、私は晋室の遺老である。憂いと喜びを同時に共有することはない」と言った。改めてむせび泣いた。老衰を理由に、帰郷を願った。生まれつき読書を好み、老いても倦まなかった。七十四歳で、家で亡くなった。徐広の礼に関する問答は世に伝えられた。

原文

史臣曰、古之王者咸建史臣、昭法立訓、莫近於此。若夫原始要終、紀情括性、其言微而顯、其義皎而明、然後可以茵藹・緹油、作程遐世者也。丘明既沒、班馬迭興、奮鴻筆於西京、騁直詞於東觀。自斯已降、分明競爽、可以繼明先典者、陳壽得之乎。江漢英靈、信有之矣。允源將率之子、篤志典墳。紹統戚藩之胤、研機載籍、咸能綜緝遺文、垂諸不朽、豈必克傳門業、方擅箕裘者哉。處叔區區、勵精著述、混淆蕪舛、良不足觀。叔寧寡聞、穿窬王氏、雖勒成一家、未足多尚。令升・安國有良史之才、而所著之書惜非正典。悠悠晉室、斯文將墜。鄧粲・謝沈祖述前史、葺宇重軒之下、施牀連榻之上、奇詞異義、罕見稱焉。習氏・徐公俱云筆削、彰善癉惡、以為懲勸。夫蹈忠履正、貞士之心。背義圖榮、君子不取。而彥威跡淪寇壤、逡巡於偽國。野民運遭革命、流漣於舊朝。行不違言、廣得之矣。
贊曰、 陳壽含章、巖巖孤峙。彪・溥勵節、摛辭綜理。王恧雅才、虞慚惇史。干・孫撫翰、前良可擬。鄧・謝懷鉛、異聞無紀。習亦研思、徐非絢美。咸被簡冊、共傳遙祀。

訓読

史臣曰く、古の王者 咸 史臣を建て、法を昭らかにし訓を立つるに、此より近きは莫し。若夫れ始を原ね終を要め、情を紀し性を括し、其の言 微なれども顯、其の義 皎にして明なり。然る後に茵藹・緹油を以て、程を遐世に作す可き者なり。丘明 既に沒し、班馬 迭興し、鴻筆を西京に奮ひ、直詞を東觀に騁す。斯より已降、明を分かち爽を競ひ、以て明を先典より繼ぐ可き者は、陳壽 之を得んか。江漢の英靈、信に之有り。允源は將率の子なるに、志を典墳に篤くす。紹統 戚藩の胤なるに、機を載籍に研ぎ、咸 能く遺文を綜緝して、諸れを不朽に垂る。豈に必ずしも克く門業を傳へ、方に箕裘を擅にする者なるや。處叔 區區にして、精を著述に勵し、混淆蕪舛にして、良に觀るに足らず。叔寧 寡聞にして、王氏を穿窬す。一家を勒成すと雖も、未だ多く尚するに足らず。令升・安國 良史の才有り、而れども著す所の書 惜むらくは正典に非ず。悠悠たる晉室、斯文 將に墜ちんとす。鄧粲・謝沈 前史を祖述し、宇を重軒の下に葺き、牀を連榻の上に施す。奇詞異義、稱せらるること罕なり。習氏・徐公 俱に筆削すと云ひ、善を彰らかにし惡を癉し、以て懲勸と為す。夫れ忠を蹈み正を履むは、貞士の心なり。義に背き榮を圖るは、君子 取らざるなり。而れども彥威の跡 寇壤を淪み、偽國に逡巡す。野民の運 革命に遭ひ、漣を舊朝に流す。行 言に違はざるとは、廣 之を得たり。
贊に曰く、陳壽 章を含みて、巖巖として孤峙す。彪・溥 節を勵して、辭を摛へ理を綜ぶ。王は雅才に恧(は)ぢ、虞は惇史に慚づ。干・孫 翰を撫りて、前良もて擬す可し。鄧・謝は鉛を懷きて、異聞 紀す無し。習も亦た思を研き、徐は絢美に非ず。咸 簡冊を被ひて、共に遙祀に傳ふと。

現代語訳

史臣はいう、古の王者はみな史臣(史官)を設置したが、法を明らかにして教訓を立てるには、これよりも近道はない。そもそも(史官は)始めと終わりを探求し、情況を記して本質を計るものである。史臣の言は微かであるが(毀誉褒貶が)表れ、その義は非常に明白である。茵藹(車の敷物)や緹油(泥よけ)となり、遠い時代に橋渡しできるものである。孔子が世を去ってから、班固と司馬遷が交代で登場し、立派な文章を西京(長安)で振るい、率直な記録を東観(洛陽の史館)で残した。これより以降、歴史記録は明晰さを競いあったが、先行史書の正統な後継者となったのは、陳寿であろう。(『三国志』のなかには)江漢(呉や蜀)の英霊が、確かに生きている。允源(虞溥)は将軍の子であるが、典籍への高い志を持っていた。紹統(司馬彪)は諸侯王の子であるが、書物の学識を研ぎ澄ました。どちらも異文を収集し、不朽に伝承をした。必ずしも家業を継承し、父祖の仕事を存分に嗣いだだけであろうか。処叔(王隠)はせこせこした寒門の出身で、著述に精を出したが、文章は雑然として粗雑であり、見る価値がなかった。叔寧(虞預)は見聞が狭く、王隠の著述を剽窃した。一家の言として完成させたが、称賛するには値しない。令升(干宝)と安国(孫盛)は良史の才があったが、二人の著作は残念ながら正典(紀伝体)ではない。悠悠たる晋帝国において、斯文(儒学)が失墜しようとしていた。鄧粲と謝沈は既存の史書を祖述しただけで、軒下に屋根を葺き、寝台の上に布団を重ねたようなものだ。奇抜な文や内容は、めったに賛美されない。習公(習鑿歯)と徐公(徐広)はともに(義を基準として)筆削したとされ、善を明らかにして悪を戒め、勧善懲悪を実現した。そもそも忠正さを実践するのが、あるべき貞士の心である。義に背いて繁栄を願うのは、君子の行いではない。しかし彦威(習鑿歯)は侵略した地で埋没し、(桓温や苻堅の)偽物の国家で尻込みした。野民(徐広)は(晋宋)革命の時期に遭遇したが、旧王朝(東晋)に心を寄せ続けた。行動が発言と食い違わないとは、徐広の事績を指すのである。
賛にいう、陳寿は徳を内包し、(『三国志』の記述は)厳格であり孤高であった。司馬彪と虞溥は節義を励まし、言葉を使いこなして理をまとめた。王隠は立派な才能に恥じ、虞預は篤行の記録に恥じた。干宝と孫盛の筆づかいは、古来の作法に擬えられる。鄧粲と謝沈は鉛を懐中にもった(文筆に携わった)が、(先行史書の祖述に留まり)異聞を記さなかった。習鑿歯もまた思考を研鑽し、徐広は美文を書かなかった。みな竹簡や木簡に文字を刻み、ともに末永く伝えられたと。