翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。
劉毅字希樂、彭城沛人也。曾祖距、廣陵相。叔父鎮、左光祿大夫。毅少有大志、不修家人產業、仕為州從事、桓弘以為中兵參軍屬。
桓玄篡位、毅與劉裕・何無忌・魏詠之等起義兵、密謀討玄、毅討徐州刺史桓脩於京口、青州刺史桓弘於廣陵。裕率毅等至竹里、玄使其將皇甫敷・吳甫之北距義軍、遇之於江乘、臨陣斬甫之、進至羅落橋、又斬敷首。玄大懼、使桓謙・何澹之屯覆舟山。毅等軍至蔣山、裕使羸弱登山、多張旗幟、玄不之測、益以危懼。謙等士卒多北府人、素慴伏裕、莫敢出鬭。裕與毅等分為數隊、進突謙陣、皆殊死戰、無不一當百。時東北風急、義軍放火、煙塵張天、鼓譟之音震駭京邑、謙等諸軍一時奔散。
玄既西走、裕以毅為冠軍將軍・青州刺史、與何無忌・劉道規躡玄。玄逼帝及琅邪王西上、毅與道規及下邳太守孟懷玉等追及玄、戰於崢嶸洲。毅乘風縱火、盡銳爭先、玄眾大潰、燒輜重夜走。玄將1.郭銓・劉雅等襲陷尋陽、毅遣武威將軍劉懷肅討平之。
及玄死、桓振・桓謙復聚眾距毅於靈溪。玄將馮該以兵會於振、毅進擊、為振所敗、退次尋陽、坐免官、尋原之。劉裕命何無忌受毅節度、無忌以督攝為煩、輒便解統。毅疾無忌專擅、免其琅邪內史、以輔國將軍攝軍事、無忌遂與毅不平。毅唯自引咎、時論韙之。毅復與道規發尋陽。桓亮自號江州刺史、遣劉敬宣擊走之。毅軍次夏口。時振黨馮該戍大岸、孟山圖據魯城、桓仙客守偃月壘、眾合萬人、連艦二岸、水陸相援。毅督眾軍進討、未至夏口、遇風飄沒千餘人。毅與劉懷肅・索邈等攻魯城、道規攻偃月壘、何無忌與檀祗列艦於中流、以防越逸。毅躬貫甲冑、陵城半日而二壘俱潰、生擒仙客、而馮該遁走。毅進平巴陵。以毅為使持節・兗州刺史、將軍如故。毅號令嚴整、所經墟邑、百姓安悅。南陽太守魯宗之起義、襲襄陽、破桓蔚。毅等諸軍次江陵之馬頭。振擁乘輿、出營江津。宗之又破偽將溫楷、振自擊宗之。毅因率無忌・道規等諸軍破馮該於豫章口、推鋒而進、遂入江陵。振聞城陷、與謙北走、乘輿反正、毅執玄黨卞範之・羊僧壽・夏侯崇之・桓道恭等、皆斬之。桓振復與苻宏自鄖城襲陷江陵、與劉懷肅相持。毅遣部將擊振、殺之、并斬偽輔國將軍桓珍。毅又攻拔遷陵、斬玄太守劉叔祖於臨嶂。其餘擁眾假號以十數、皆討平之。二州既平、以毅為撫軍將軍。時刁預等作亂、屯於湘中、毅遣將分討、皆滅之。
初、毅丁憂在家、及義旗初興、遂墨絰從事。至是、軍役漸寧、上表乞還京口、以終喪禮、曰、「弘道為國者、理盡於仁孝。訴窮歸天者、莫甚於喪親。但臣凡庸、本無感概、不能隕越、故其宜耳。往年國難滔天、故志竭愚忠、靦然苟存。去春鑾駕迴軫、而狂狡未滅、雖姦凶時梟、餘燼竄伏、威懷寡方、文武勞弊、微情未申、顧景悲憤。今皇威遐肅、海內清蕩、臣窮毒艱穢、亦已具於聖聽。兼羸患滋甚、眾疾互動、如今寢頓無復人理。臣之情也、本不甘生。語其事也、亦可以沒。乞賜餘骸、終其丘墳、庶幾忠孝之道獲宥於聖世」。不許。詔以毅為都督豫州揚州之淮南歷陽廬江安豐堂邑五郡諸軍事・豫州刺史、持節・將軍・常侍如故、本府文武悉令西屬。以匡復功、封南平郡開國公、兼都督宣城軍事、給鼓吹一部。梁州刺史劉雅反、毅遣將討擒之。初、桓玄於南州起齋、悉畫盤龍於其上、號為盤龍齋。毅小字盤龍、至是、遂居之。俄進拜衞將軍・開府儀同三司。
及何無忌為盧循所敗、賊軍乘勝而進、朝廷震駭。毅具舟船討之、將發、而疾篤、內外失色。朝議欲奉乘輿北就中軍劉裕、會毅疾瘳、將率軍南征、裕與毅書曰、「吾往與妖賊戰、曉其變態。今修船垂畢、將居前撲之。克平之日、上流之任皆以相委」。又遣毅從弟藩往止之。毅大怒、謂藩曰、「我以一時之功相推耳、汝便謂我不及劉裕也」。投書於地。遂以舟師二萬發姑孰。徐道覆聞毅將至2.建鄴、報盧循曰、「劉毅兵重、成敗繫此一戰、宜併力距之」。循乃引兵發巴陵、與道覆連旗而下。毅次于桑落洲、與賊戰、敗績、棄船、以數百人步走、餘眾皆為賊所虜、輜重盈積、皆棄之。毅走、經涉蠻晉、飢困死亡、至者十二三。參軍羊邃竭力營護之、僅而獲免。劉裕深慰勉之、復其本職。毅乃以邃為諮議參軍。
1.「郭銓・劉雅」は、桓玄伝では「劉統・馮雅」につくる。『資治通鑑』巻一百十三は、桓玄伝に従っている。
2.「建鄴」は、中華書局本に引く李校によると、「建昌」の誤りか。
劉毅 字は希樂、彭城沛の人なり。曾祖の距は、廣陵相なり。叔父の鎮は、左光祿大夫なり。毅 少くして大志有り、家人の產業を修めず、仕へて州從事と為り、桓弘 以て中兵參軍屬と為す。
桓玄 篡位するや、毅 劉裕・何無忌・魏詠之らと與に義兵を起こし、密かに玄を討たんことを謀り、毅 徐州刺史の桓脩を京口に、青州刺史の桓弘を廣陵に於て討つ。裕 毅らを率ゐて竹里に至るや、玄 其の將の皇甫敷・吳甫之をして北して義軍を距がしめ、之に江乘に遇ひ、陣に臨みて甫之を斬り、進みて羅落橋に至り、又 敷の首を斬る。玄 大いに懼れ、桓謙・何澹之をして覆舟山に屯せしむ。毅らの軍 蔣山に至り、裕 羸弱をして山を登らしめ、多く旗幟を張り、玄 之もて測らざれば、益々以て危懼す。謙らの士卒 多く北府の人なれば、素より裕に慴伏せば、敢て出でて鬭ふもの莫し。裕 毅らと與に分けて數隊と為し、進みて謙の陣に突し、皆 殊死して戰ひ、一もて百に當たらざる無し。時に東北の風 急なれば、義軍 火を放ち、煙塵は張天たり、鼓譟の音 京邑を震駭し、謙らの諸軍 一時に奔散す。
玄 既に西して走るや、裕 毅を以て冠軍將軍・青州刺史と為し、何無忌・劉道規と與に玄を躡せしむ。玄 帝及び琅邪王に逼りて西上せしめ、毅 道規及び下邳太守の孟懷玉らと與に追ひて玄に及び、崢嶸洲に戰ふ。毅 風に乘じて火を縱にし、銳を盡して先を爭ひ、玄の眾 大いに潰え、輜重を燒きて夜に走る。玄の將の郭銓・劉雅ら襲ひて尋陽を陷し、毅 武威將軍の劉懷肅を遣はして之を討平せしむ。
玄 死するに及び、桓振・桓謙 復た眾を聚めて毅を靈溪に距む。玄の將の馮該 兵を以て振に會し、毅 進擊するも、振の敗る所と為り、退きて尋陽に次し、坐して免官せられ、尋いで之を原す。劉裕 何無忌に命じて毅の節度を受けしめ、無忌 督攝を以て煩と為し、輒ち便ち統を解く。毅 無忌の專擅するを疾とし、其の琅邪內史たるを免じ、輔國將軍を以て軍事に攝せしむれば、無忌 遂に毅と不平たり。毅 唯だ自ら咎を引けば、時論 之を韙とす。毅 復た道規と與に尋陽を發す。桓亮 自ら江州刺史を號し、劉敬宣を遣はして擊ちて之を走らす。毅の軍 夏口に次す。時に振の黨の馮該 大岸を戍り、孟山圖 魯城に據り、桓仙客 偃月壘を守り、眾は萬人に合し、艦を二岸に連ね、水陸 相 援く。毅 眾軍を督して進みて討ち、未だ夏口に至らざるに、風飄に遇ひて千餘人を沒す。毅 劉懷肅・索邈らと與に魯城を攻め、道規は偃月壘を攻め、何無忌は檀祗と與に艦を中流に列べ、以て越逸を防ぐ。毅 躬ら甲冑を貫き、城を陵すること半日にして二壘 俱に潰え、仙客を生擒にし、而して馮該 遁走す。毅 進みて巴陵を平らぐ。毅を以て使持節・兗州刺史と為し、將軍たること故の如し。毅の號令 嚴整たれば、經る所の墟邑は、百姓 安悅たり。南陽太守の魯宗之 起義し、襄陽を襲ひ、桓蔚を破る。毅らの諸軍 江陵の馬頭に次す。振 乘輿を擁し、出でて江津に營す。宗之 又 偽將の溫楷を破り、振 自ら宗之を擊つ。毅 因りて無忌・道規らの諸軍を率ゐて馮該を豫章口に破り、推鋒して進み、遂に江陵に入る。振 城 陷つるを聞くや、謙と與に北して走る。乘輿 反正し、毅 玄の黨の卞範之・羊僧壽・夏侯崇之・桓道恭らを執へ、皆 之を斬る。桓振 復た苻宏と與に鄖城より襲ひて江陵を陷し、劉懷肅と相 持す。毅 部將を遣はして振を擊ち、之を殺し、并せて偽輔國將軍の桓珍を斬る。毅 又 攻めて遷陵を拔き、玄の太守の劉叔祖を臨嶂に斬る。其の餘 眾を擁じて假號するもの十數を以て、皆 討ちて之を平らぐ。二州 既に平らぐや、毅を以て撫軍將軍と為す。時に刁預ら亂を作し、湘中に屯す。毅 將を遣はして分かちて討たしめ、皆 之を滅す。
初め、毅 憂に丁して家に在り、義旗 初めて興るに及び、遂に墨絰もて從事す。是に至り、軍役 漸く寧たれば、上表して京口に還りて、以て喪禮を終へんことを乞ふ。曰く、「道を弘め國の為なる者は、理として仁孝を盡す。窮を訴へ天に歸する者は、喪親より甚しきは莫し。但だ臣 凡庸にして、本は感概無く、隕越する能はず、故に其れ宜あるのみ。往年に國難 滔天し、故に志は愚忠を竭くさんとし、靦然として苟ほ存す。去春に鑾駕 迴軫し、而して狂狡 未だ滅びざれば、姦凶 時に梟すと雖も、餘燼 竄伏し、威懷 寡方にして、文武 勞弊たり。微情 未だ申せず、景を顧みて悲憤す。今 皇威 遐肅して、海內 清蕩す。臣 窮毒艱穢にして、亦た已に聖聽に具す。兼せて羸患 滋々甚しく、眾疾 互々に動じ、如今 寢頓して復人の理無し。臣の情なるや、本より生に甘んぜず。其の事を語るや、亦以て沒す可し。乞ふらくは餘骸を賜ひ、其の丘墳を終へ、庶幾はくは忠孝の道 宥を聖世に獲んことを」と。許さず。詔して毅を以て都督豫州揚州之淮南歷陽廬江安豐堂邑五郡諸軍事・豫州刺史と為し、持節・將軍・常侍たること故の如く、本府の文武 悉く西屬に令せしむ。匡復の功を以て、南平郡開國公に封じ、都督宣城軍事を兼ね、鼓吹一部を給す。梁州刺史の劉雅 反するや、毅 將を遣はして討ちて之を擒ふ。初め、桓玄 南州に於て齋を起すや、悉く盤龍を其の上に畫き、號して盤龍齋と為す。毅 小字は盤龍なれば、是に至り、遂に之に居る。俄かにして進みて衞將軍・開府儀同三司を拜す。
何無忌 盧循の敗る所と為るに及び、賊軍 勝に乘じて進み、朝廷 震駭す。毅 舟船を具へて之を討つに、將に發せんとするや、而れども疾 篤なりて、內外 色を失ふ。朝議 乘輿を奉じて北して中軍の劉裕に就かしめんと欲するに、會々毅 疾 瘳(い)ゆれば、將に軍を率ゐて南征せんとす。裕 毅に書を與へて曰く、「吾 往に妖賊と戰ひ、其の變態に曉たり。今 船を修むること畢はるに垂とし、將に前に居りて之を撲たんとす。克平の日、上流の任 皆 以て相 委ねん」。又 毅の從弟の藩を遣はして往きて之に止めしむ。毅 大いに怒り、藩に謂ひて曰く、「我 一時の功を以て相 推すのみ。汝 便ち我 劉裕に及ばざると謂ふか」と。書を地に投ず。遂に舟師二萬を以て姑孰を發す。徐道覆 毅の將に建鄴に至らんとするを聞き、盧循に報じて曰く、「劉毅の兵は重たり、成敗 此の一戰に繫る。宜しく力を併せて之を距ぐべし」と。循 乃ち兵を引きて巴陵を發し、道覆と旗を連ねて下る。毅 桑落洲に次し、賊と戰ひ、敗績す。船を棄て、數百人を以て步走し、餘眾 皆 賊の虜ふる所と為り、輜重 盈積たるに、皆 之を棄つ。毅 走り、蠻晉を經涉し、飢困し死亡するは、十に二三に至る。參軍の羊邃 力を竭して之を營護し、僅かに免るるを獲たり。劉裕 深く之を慰勉し、其の本職に復せしむ。毅 乃ち邃を以て諮議參軍と為す。
劉毅は字を希楽といい、彭城沛の人である。曾祖父の劉距は、広陵相である。叔父の劉鎮は、左光禄大夫である。劉毅は若くして大志があり、家産の事業に取り組まず、仕官して州従事となり、桓弘が彼を中兵参軍属とした。
桓玄が帝位簒奪をすると、劉毅は劉裕・何無忌・魏詠之らとともに義兵を起こし、密かに桓玄の討伐を計画し、劉毅は徐州刺史の桓脩を京口において、青州刺史の桓弘を広陵において討伐した。劉裕が劉毅らを率いて竹里に到達すると、桓玄はその将の皇甫敷と呉甫之に北上して義軍を防がせ、江乗で遭遇した。(劉毅は)陣に臨んで呉甫之を斬り、進んで羅落橋に到達し、さらに皇甫敷の首を斬った。桓玄はひどく懼れ、桓謙と何澹之に命じて覆舟山に駐屯させた。劉毅らの軍は蔣山に至り、劉裕は疲弊した弱兵に山を登らせ、多く旗幟を張った。桓玄は兵力の実態を捉えそこね、ますます危ぶみ懼れた。桓謙らの士卒は多くが北府の人なので、ふだんから劉裕を恐れて屈服していたので、あえて出撃して闘うものがいなかった。劉裕は劉毅らとともに分けて数隊を編成し、進んで桓謙の陣に突撃し、みな死を覚悟して戦い、(桓謙軍は)一人で百人に匹敵しないものがなかった。このとき東北の風が強いので、義軍(劉裕軍)は火を放ち、煙と塵が空をおおい、軍鼓の音が京邑(建康)に届いて震え驚かせ、桓謙らの諸軍はまとめて逃げ散った。
桓玄が西方に逃げると、劉裕は劉毅を冠軍将軍・青州刺史とし、何無忌と劉道規とともに桓玄を追撃させた。桓玄は皇帝と琅邪王に逼って西方に遡上させたが、劉毅は劉道規及び下邳太守の孟懐玉らとともに桓玄に追いつき、崢嶸洲で戦った。劉毅は風を利用して火計を成功させ、鋭兵を駆使して先陣を争った。桓玄の兵は大いに潰乱し、輜重を焼いて夜に逃げた。桓玄の将の郭銓と劉雅(あるいは劉統・馮雅)らが尋陽を襲って陥落させたので、劉毅は武威将軍の劉懐粛を派遣してこれを討伐し平定した。
桓玄が死ぬと、桓振・桓謙がふたたび兵を集めて劉毅を霊溪で防いだ。桓玄の将の馮該は兵を連れて桓振に合流した。劉毅が進撃したが、桓振に破られ、退いて尋陽に駐屯し、敗戦の罪により免官されたが、すぐに赦された。劉裕が何無忌に命じて劉毅の節度を受けさせたが、何無忌は統率下に入ることを煩雑と訴え、すぐに統属関係を解いた。劉毅は何無忌が独断専行するのを嫌い、かれの琅邪内史の官職を剥奪し、輔国将軍として軍を統率させたたため、何無忌は劉毅と不仲となった。劉毅が自ら禍いを引き受けたので、当時の世論はこれを正しいと認めた。劉毅はまた劉道規とともに尋陽から出発した。桓亮が自ら江州刺史を号すると、劉敬宣を派遣してこれを敗走させた。劉毅の軍は夏口に駐屯していた。このとき桓振の配下の馮該は大岸を守り、孟山図は魯城に拠り、桓仙客は偃月塁を守り、一万の兵が合わさって、船を両岸に連ね、水陸の軍で連携し助けあった。劉毅は大軍を督して進んで討伐したが、夏口に到着する前に、強風に煽られて千人あまりが水没した。劉毅は劉懐粛と索邈らとともに魯城を攻め、劉道規は偃月塁を攻め、何無忌は檀祗とともに戦艦を中流に並べ、(敵船の)通過を防いだ。劉毅はみずから甲冑をつけ、防壁を攻めること半日で二塁を潰し、桓仙客を生け捕りにし、そして馮該は逃走した。劉毅は進んで巴陵を平定した。劉毅を使持節・兗州刺史とし、将軍の職は現状のままとした。劉毅の号令は厳格であったので、かれの軍が通過した荒れた邑落では、万民が安心して悦んだ。南陽太守の魯宗之が義兵を起こし、襄陽を襲い、桓蔚を破った。劉毅らの諸軍は江陵の馬頭に駐屯した。桓振は乗輿(晋帝)をたてまつり、出て江津に軍営をおいた。魯宗之がさらに偽将(桓振配下の将軍)の温楷を破ると、桓振は自ら魯宗之を攻撃した。劉毅はこれを受けて何無忌や劉道規らの諸軍を率いて馮該を豫章口で破り、攻撃の態勢で進み、かくて江陵に入った。桓振は(江陵)城が陥落したと聞くと、桓謙とともに北上して逃げた。乗輿が正しい位に帰ると(晋室が復興されると)、劉毅は桓玄の配下の卞範之・羊僧寿・夏侯崇之・桓道恭らを執らえ、全員を斬った。桓振はまた苻宏とともに鄖城から襲って江陵を陥落させ、劉懐粛と対峙した。劉毅は部将を派遣して桓振を攻撃して、これを殺し、同時に偽輔国将軍の桓珍を斬った。劉毅はさらに攻めて遷陵を抜き、桓玄の太守の劉叔祖を臨嶂で斬った。桓氏の残軍をまとめて官号を自称するものが十数人いたが、すべて討伐し平定した。二州が鎮定されると、劉毅を撫軍将軍とした。このとき刁預らが反乱し、湘中に集まった。劉毅は将を派遣して分かれて討伐させ、すべてを滅ぼした。
はじめ、劉毅は親が亡くなったので家にいたが、義旗が立てられると(義挙が起こると)、墨絰で(軍服に黒色をまぜて)従軍した。ここに至り、軍役がようやく落ち着いたので、上表して京口に還り、喪礼をやり遂げたいと願い出た。上表して、「道をひろめ国のために働くには、筋道として仁孝を尽くすものです。窮迫して生死に立ち会うなかで、親を失うことよりも悲しいことはありません。ところが臣は凡庸なので、親を失ったことの感慨が薄く、切実さに訴えることができず、その場しのぎをしてきました。先年に天まで達するほどの国難が発生したので、私は忠義を尽くそうと考え、(親の葬儀を軽んじたことを)恥じることなく平然と振る舞いました。去年春に天子の車駕が復帰なされても、凶悪な連中がまだ根絶されず、悪人をさらし首にしても、残党が潜伏しており、晋室の威権と恩徳が広がらず、文武の官は疲弊しておりました。私の微かな(親の喪に服したいという)思いを実行に移せず、日を顧みて悲憤しておりました。いま皇帝の威光が遠くに及び、海内は清められました。私が苦しみ困難に直面していることは、お聞き及びかと存じます。しかも私の病状がますます悪化し、あちこちの病気が進行し、すでに再起不能となりそうです。私は真情において、もとより命に執着いたしません。服喪さえ聞き届けられれば、死んでも構いません。どうか引退させて下さい。親の埋葬を完結させ、忠孝の道をこの聖世において実践させて下さい」と言った。認められなかった。詔して劉毅を都督豫州揚州之淮南歴陽廬江安豊堂邑五郡諸軍事・豫州刺史とし、持節・将軍・常侍は現状のままとし、本府の文武の官はすべて西に属させた。晋室復興の功績により、南平郡開国公に封建し、都督宣城軍事を兼ね、鼓吹一部を給した。梁州刺史の劉雅が反乱すると、劉毅は将を派遣して討伐しこれを捕らえた。これよりさき、桓玄が南州に齋(部屋)を設けると、すべて盤龍(わだかまった龍)をその上に描き、これを盤龍齋と呼んだ。劉毅は小字を盤龍というので、建物の地に至ると、そこに滞在した。にわかに昇進して衛将軍・開府儀同三司を拝した。
何無忌が盧循に敗れると、賊軍は勝ちに乗じて進み、朝廷は震え恐れた。劉毅は戦艦を準備して廬循を討伐しようとしたが、出発にあたり、病気が悪化し、内外は顔色を失った。朝臣は議論して晋帝を奉って北上し中軍の劉裕のもとを頼ろうとしたが、ちょうど劉毅の病気が癒えたので、改めて軍を率いて南征することになった。劉裕は劉毅に書翰を送り、「私はかつて妖賊と戦いましたが、その奇妙な様子は明らかでした。いま船の整備が終わり、前軍となってこれを打倒しようとしています。(この劉裕が)勝利したあかつきには、上流の任務はあなたに全任しましょう」と言った。また劉毅の従弟の劉藩を派遣して(劉毅の出撃を)を制止させた。劉毅は大いに怒り、劉藩に、「私は眼前の功業を推し進めようとしているだけだ。お前まで私が劉裕に敵わないと言うのか」と言った。書翰を地面に投げ捨てた。こうして水軍二万で姑孰を出発した。徐道覆は劉毅が建鄴に到着しようとしているのを聞いて、盧循に連絡して、「劉毅の兵は重装備であり、勝敗はこの一戦次第です。どうか兵力を集中させて防いで下さい」と言った。廬循は兵を率いて巴陵を出発し、徐道覆と旗を連ねて川を下った。劉毅は桑落洲に駐屯し、賊と戦ったが、敗れた。船を棄て、数百人で徒歩で移動したが、それ以外の軍はすべて賊(廬循)に捕らえられ、大量に運んできた輜重は、すべて放棄した。劉毅は逃げ、蛮地や晋の領域を歩きまわり、飢え死にした者は、十人に二、三人に及んだ。参軍の羊邃が力を振り絞って護衛したので、辛うじて免れることができた。劉裕は深くこれを慰め励まし、もとの官職に復帰させた。この働きにより劉毅は羊邃を諮議参軍とした。
及裕討循、詔毅知內外留事。毅以喪師、乞解任、降為後將軍。尋轉衞將軍・開府儀同三司・江州都督。毅上表曰、
臣聞天以盈虛為運、政以損益為道。時否而政不革、人凋而事不損、則無以救急病於已危、拯塗炭於將絕。自頃戎車屢駭、干戈溢境、所統江州、以一隅之地當逆順之衝、自桓玄以來、驅蹙殘敗、至乃男不被養、女無匹對、逃亡去就、不避幽深、自非財殫力竭、無以至此。若不曲心矜理、有所釐改、則靡遺之歎奄焉必及。
夫設官分職、軍國殊用、牧養以息務為大、武略以濟事為先。兼而領之、蓋出於權事、因藉既久、遂似常體。江州在腹心之內、憑接揚豫、藩屏所倚、實為重複。昔胡寇縱逸、朔馬臨江、抗禦之宜、蓋權爾耳。今江左區區、戶不盈數十萬、地不踰數千里、而統旅鱗次、未獲減息、大而言之、足為國恥。況乃地在無虞、而猶置軍府文武將佐、資費非要、豈所謂經國大情、揚湯去火者哉。1.自州郡邊江、百姓遼落、加郵亭險閡、畏阻風波、轉輸往復、恒有淹廢、又非所謂因其所利以濟其弊者也。愚謂宜解軍府、移鎮豫章、處十郡之中、厲簡惠之政、比及數年、可有生氣。且屬縣凋散、示有所存、而役調送迎不得止息、亦謂應隨宜并合以簡眾費。刺史庾悅、自臨莅以來、甚有恤隱之誠、但綱維不革、自非綱目所理。尋陽接蠻、宜示有遏防、可即州府千兵以助郡戍。
於是解悅、2.毅移鎮豫章、遣其親將趙恢領千兵守尋陽。俄進毅為都督荊寧秦雍四州3.〔司州〕之河東河南廣平揚州之義成四郡諸軍事・衞將軍・開府儀同三司・荊州刺史、持節・公如故。毅表荊州編戶不盈十萬、器械索然。廣州雖凋殘、猶出丹漆之用、請依先準。於是加督交・廣二州。
毅至江陵、乃輒取江州兵及豫州西府文武萬餘、留而不遣、又告疾困、請藩為副。劉裕以毅貳于己、乃奏之。安帝下詔曰、「劉毅傲很凶戾、履霜日久、中間覆敗、宜即顯戮。晉法含弘、復蒙寵授。曾不思愆內訟、怨望滋甚。賴宰輔藏疾、特加遵養、遂復推轂陝西、寵榮隆泰、庶能洗心感遇、革音改意。而長惡不悛、志為姦宄、陵上虐下、縱逸無度。既解督任、江州非復所統、而輒徙兵眾、略取軍資、驅斥舊戍、厚樹親黨。西府二局、文武盈萬、悉皆割留、曾無片言。肆心恣欲、罔顧天朝。又與從弟藩遠相影響、招聚剽狡、繕甲阻兵、外託省疾、實規伺隙、同惡相濟、圖會荊郢。尚書左僕射謝混憑藉世資、超蒙殊遇、而輕佻躁脫、職為亂階、扇動內外、連謀萬里、是而可忍、孰不可懷」。乃誅藩・混。
1.『宋書』は「其」につくる。
2.中華書局本の校勘記に引く李校によると、『宋書』庾悅傳に、「解悅都督・將軍官、移鎮豫章」とあるため、移鎮したのは庾であって劉毅ではない。『資治通鑑』巻一百十六では、では、「(悅)移鎮豫章、毅遣……」につくる。
3.『資治通鑑考異』によると、桓沖伝に「司州之河東」とあり、『宋書』劉道規伝に「司州之河南」とある。これに従い、「司州」二字を補う。
裕 循を討つに及び、毅に詔して內外の留事を知せしむ。毅 師を喪ふを以て、解任を乞ひ、降りて後將軍と為る。尋いで衞將軍・開府儀同三司・江州都督に轉ず。毅 上表して曰く、
臣 聞くならく天は盈虛を以て運と為し、政は損益を以て道と為す。時 否なれば政 革めず、人 凋なれば事 損ぜず。則ち以て急病を已に危ふきに救ひ、塗炭を將に絕えんとするに拯ふ無し。自頃 戎車 屢々駭し、干戈 境に溢れ、統ぶる所の江州、一隅の地を以て逆順の衝に當たり、桓玄より以來、驅蹙して殘敗す。乃ち男は被養せず、女は匹對無きに至り、逃亡し去就するに、幽深を避けず、自ら財は殫き力は竭くるに非ざれば、以て此に至る無し。若し心を曲にして矜理せず、釐改する所有らば、則ち靡遺の歎 奄焉として必ず及ばん。
夫れ官を設け職を分くるは、軍國 用を殊にし、牧養は務めを息むるを以て大と為し、武略は事を濟ふを以て先と為す。兼せて之を領さば、蓋し權事より出で、藉に因りて既に久しければ、遂に常體が似し。江州 腹心の內に在り、揚豫に憑接せば、藩屏 倚る所にして、實に重複と為すべし。昔 胡寇 縱逸たりて、朔馬 江に臨み、抗禦の宜は、蓋し權に爾るのみ。今 江左 區區たりて、戶は數十萬に盈たず、地は數千里を踰えず。而れども統旅 鱗次たりて、未だ減息を獲ず。大にして之を言はば、國恥と為するに足る。況んや乃ち地は無虞に在り、而れども猶ほ軍府文武將佐を置き、資費は要に非ず。豈に所謂 經國の大情にして、湯を揚げて火を去る者なるか。州郡の邊江より、百姓 遼落たりて、加へて郵亭 險閡たりて、畏阻 風波す。轉輸し往復して、恒に淹廢有り、又 所謂 其の所利に因りて以て其の弊を濟ふ者に非ざるなり。愚 謂へらく宜しく軍府を解き、鎮を豫章に移し、十郡の中に處り、簡惠の政を厲まし、比に數年に及ばば、生氣有る可し。且つ屬縣 凋散たりて、存する所有るを示し、而して役調送迎 止息するを得ざれば、亦た謂へらく應に宜に隨ひて并合して以て眾費を簡すべし。刺史の庾悅は、臨莅より以來、甚だ恤隱の誠有り、但だ綱維 革めざれば、自ら綱目 理むる所に非ず。尋陽 蠻に接さば、宜しく遏防有るを示し、州府千兵を即けて以て郡戍を助く可しと。
是に於て悅を解き、毅 鎮を豫章に移し、其の親將の趙恢を遣はして千兵を領して尋陽を守らしむ。俄かにして毅を進めて都督荊寧秦雍四州司州之河東河南廣平揚州之義成四郡諸軍事・衞將軍・開府儀同三司・荊州刺史と為し、持節・公たること故の如し。毅 荊州の編戶 十萬に盈たず、器械 索然たるを表す。廣州 凋殘すと雖も、猶ほ丹漆の用を出だせば、先準に依るを請ふ。是に於て督交・廣二州を加ふ。
毅 江陵に至るや、乃ち輒ち江州兵及び豫州西府の文武萬餘を取りて、留まりて遣らず、又 疾困を告げ、藩たりて副と為らんことを請ふ。劉裕 毅 己に貳あるを以て、乃ち之を奏す。安帝 詔を下して曰く、「劉毅 傲很にして凶戾なれば、履霜して日に久しく、中間に覆敗す。宜しく即ち戮を顯らかにすべし。晉法は含弘にして、復た寵授を蒙る。曾て愆を思ひて內訟せず、怨望 滋々甚し。賴に宰輔 疾を藏せば、特に遵養を加へ、遂に復た陝西に推轂す。寵榮 隆泰なれば、能く心を感遇に洗ひ、音を革め意を改むることを庶ふ。而れども長惡 悛めず、姦宄を為すを志し、上を陵し下を虐し、縱逸すること度無し。既に督の任を解き、江州 復た統ぶる所に非ず、而れども輒ち兵眾を徙して、軍資を略取し、舊戍を驅斥し、厚く親黨を樹つ。西府の二局、文武 萬に盈ち、悉く皆 割留し、曾て片言すら無し。心を肆にし欲を恣にし、天朝を顧る罔し。又 從弟の藩と與に遠く相 影響し、剽狡なるを招聚し、甲を繕し兵を阻し、外は省疾に託すも、實に伺隙を規し、同惡 相 濟ひ、荊郢に會せんと圖る。尚書左僕射の謝混は世資に憑藉し、超て殊遇を蒙る。而れども輕佻躁脫にして、職として亂階を為し、內外を扇動し、謀を萬里に連ぬ。是れにして忍ぶ可ければ、孰れか懷す可からざるや」と。乃ち藩・混を誅す。
劉裕が廬循を討伐するにあたり、劉毅に詔して内外の留事を管轄させた。劉毅は(廬循に敗れて)軍を失ったので、解任を求め、後将軍に降格された。ほどなく衛将軍・開府儀同三司・江州都督に転じた。劉毅は上表して、
「私が聞きますに天は満ち欠けを運(めぐり)とし、政策は増減を道(方法)とします。時節が悪ければ政策を変更せず、人民が凋落すれば負担を増しません。そして病人が病人を治療することはなく、困難に陥った民が死にかけの民を救うことはありません。近年は軍隊がしばしば騒ぎ、戦闘が国土の各地で行われ、私が統治している江州は、天下の片隅にあって賊軍と官軍が衝突する地点となり、桓玄より以来、窮迫して無残に荒廃しています。男は家族を養えず、女は連れ合いがおらず、逃げ惑って、静かで深い地にすら駆けこみ、財産と体力が尽きたのでなければ、このような事態は起こりません。もしも心をくだいて筋道を大切にし、政策を改正しなければ、人民が絶滅した嘆きがきっと到来します。
そもそも官職を設けて職務を分掌するのは、軍事と民政とで機能が異なるためです。民の統治は休息させることを優先し、武略は危機の解決を優先とします。これらを兼務すれば、当初は臨機応変な判断をしますが、長くその職務を担当すると、通例のようになり(形骸化し)ます。江州は国家の腹心の内にある土地で、揚州と豫州に隣接し、外藩として(都を)支える土地なので、とても重要です。かつては胡族の侵攻がひどく、北方の馬が長江に臨みましたが、当時の防御の方策は、その時点に限れば最適なものでした。(ところが)現在は江左(東晋)の領土が狭く、戸数は数十万に満たず、地は数千里を超えません。しかし軍役は鱗のように連なり、兵や民の休息ができません。大げさに言うならば、国家の恥辱とも言える事態です。まして脅威がない地域にも、将軍府に文武の将軍や佐官を設置し、不要不急の浪費しています。どうしてこれが国家運営の優れた方針であり、湯を揚げて火を消す(最適な)体制と言えましょうか。州郡の辺縁は長江に接し、住民の分布は過疎であり、加えて郵亭は険阻なところにあり、風や波の被害が出ています。輸送が何往復しても、つねに風水のせいで(運んだ)物資が使い物にならず、これは利益を最大化して疲弊を解消するやり方ではありません。私の考えでは将軍府を解散させ、鎮所を豫章に移し、(郡治を)十郡の中心部に設置すべきです。簡素で恩恵のある政治に切り替え、数年間がたてば、万民の生気は回復するでしょう。しかも配下の県は荒廃して疎らなので、存続させる城を明らかにし、役務や輸送のうち中止できないものは、(属県を)合併して必要経費を節約すべきです。刺史の庾悅は、着任してより以来、とても民を憐れみ大切にしてきましたが、政治を改革しないので、細部に手が届いていません。尋陽は蛮族の地に接するので、ここに防備があることを示し、州府の兵千人を配置して郡の守りの助けとすべきです」と言った。
ここにおいて庾悦の任を解き、劉毅が鎮所を豫章に移し、劉毅が親任する将の趙恢を派遣して千人の兵を領して尋陽を守らせた。にわかに劉毅を都督荊寧秦雍四州司州之河東河南広平揚州之義成四郡諸軍事・衛将軍・開府儀同三司・荊州刺史に昇進させ、持節と公は現状のままとした。劉毅は荊州の戸籍が十万に満たず、武器の備えがないことを上表した。広州は荒廃しているが、しかし丹漆を産出するため、過去の(課税)水準とすることを求めた。そこで劉毅に督交・広二州を加えた。
劉毅が江陵に到着すると、その場で江州の兵と豫州西府の文武の官の一万人あまりを自分の配下とし、江陵に留まって移動せず、また病気であると告げ、この地で藩屏となり国家を支えたいと願い出た。劉裕は劉毅に二心があると見なし、それを上奏した。安帝は詔を下して、「劉毅は傲慢で凶悪であり国家に反逆し、履霜して(政乱の兆しを作り出して)年数が経過したが、途中で転覆して敗れた。すぐに誅戮して彼の罪を明らかにすべきである。晋帝国の法は寛大であり、(劉毅に)特別な配慮をしてきた。しかし過失があっても反省せず、あべこべに怨みを蓄積させた。宰相らが過失に目をつぶり、格別の優待をして、劉毅に陝西の重要な任務を与えた。さかんに寵用することで、心を入れ替え、更正することを期待した。しかし従来の悪い心を改めず、凶悪な反乱を志し、上位者を犯して下位者を虐げ、行動に際限がなかった。すでに都督の任を解き、江州は劉毅の管轄から外れたが、しかし勝手に兵を移動させ、軍の物資を略奪し、古い守備の長官を駆逐し、親しい仲間ばかりを厚く配置した。西府(荊州)の二つの拠点は、文武の官が一万人を超えるが、全員を留めて配下に加え、まったく(朝廷に)相談がなかった。劉毅は心と欲のままに振る舞い、天朝(晋帝国)を顧みることがない。また従弟の劉藩と遠隔地で呼応し、剽悍で狡猾なものを招集し、鎧を繕って兵として囲い込み、自分の病気を口実にしながら、実際には国家の間隙を狙い、悪人同士で助けあって、荊郢の地(荊州)で集まろうと画策した。(また)尚書左僕射の謝混は先代から引き継いだ輿望により、過分の厚遇を受けている。しかし軽佻浮薄であり、官職にあって混乱を生み出し、内外を扇動し、謀略を万里に連ねている。これを容認できるとすれば、いったい何を容認できないのであろうか」と言った。そこで劉藩と謝混を誅殺した。
劉裕自率眾討毅、命王弘・王鎮惡・蒯1.(思)〔恩〕等率軍至豫章口、於江津燔舟而進。毅參軍朱顯之逢鎮惡、以所統千人赴毅。鎮惡等攻陷外城、毅守內城、精銳尚數千人、戰至日昃、鎮惡以裕書示城內、毅怒、不發書而焚之。毅冀有外救、督士卒力戰。眾知裕至、莫有鬭心。既暮、鎮惡焚諸門、齊力攻之、毅眾乃散。毅自北門單騎而走、去江陵二十里而縊。經宿、居人以告、乃斬於市、子姪皆伏誅。毅兄模奔於襄陽、魯宗之斬送之。
毅剛猛沈斷、而專肆很愎、與劉裕協成大業、而功居其次、深自矜伐、不相推伏。及居方嶽、常怏怏不得志、裕每柔而順之。毅驕縱滋甚、每覽史籍、至藺相如降屈於廉頗、輒絕歎以為不可能也。嘗云、「恨不遇劉項、與之爭中原」。又謂郗僧施曰、「昔劉備之有孔明、猶魚之有水。今吾與足下雖才非古賢、而事同斯言」。眾咸惡其陵傲不遜。及敗於桑落、知物情去己、彌復憤激。初、裕征盧循、凱歸、帝大宴於西池、有詔賦詩。毅詩云、「六國多雄士、正始出風流」。自知武功不競、故示文雅有餘也。後於東府聚摴蒱大擲、一判應至數百萬、餘人並黑犢以還、唯劉裕及毅在後。毅次擲得雉、大喜、褰衣繞牀、叫謂同坐曰、「非不能盧、不事此耳」。裕惡之、因挼五木久之、曰、「老兄試為卿答」。既而四子俱黑、其一子轉躍未定、裕厲聲喝之、即成盧焉。毅意殊不快、然素黑、其面如鐵色焉、而乃和言曰、「亦知公不能以此見借」。既出西藩、雖上流分陝、而頓失內權、又頗自嫌事計、故欲擅其威強、伺隙圖裕、以至於敗。
初、江州刺史庾悅、隆安中為司徒長史、曾至京口。毅時甚屯窶、先就府借東堂與親故出射。而悅後與僚佐徑來詣堂、毅告之曰、「毅輩屯否之人、合一射甚難。君於諸堂並可、望以今日見讓」。悅不許。射者皆散、唯毅留射如故。既而悅食鵝、毅求其餘、悅又不答、毅常銜之。義熙中、故奪悅豫章、解其軍府、使人微示其旨、悅忿懼而死。毅之褊躁如此。
1.『宋書』蒯恩伝と『資治通鑑』巻一百十六に従い、「思」を「恩」に改める。
劉裕 自ら眾を率ゐて毅を討ち、王弘・王鎮惡・蒯恩らに命じて軍を率ゐて豫章口に至らしめ、江津に於て舟を燔きて進む。毅の參軍の朱顯之 鎮惡に逢ふや、統ぶる所の千人を以て毅に赴く。鎮惡ら攻めて外城を陷し、毅 內城を守る。精銳 尚ほ數千人ありて、戰ひて日昃に至り、鎮惡 裕の書を以て城內に示す。毅 怒り、書を發せずして之を焚く。毅 外救有るを冀ひ、士卒を督して力戰す。眾 裕の至るを知り、鬭心有る莫し。既に暮るるや、鎮惡 諸門を焚き、力を齊くして之を攻むるや、毅の眾 乃ち散ず。毅 北門より單騎もて走り、江陵より去ること二十里にして縊さる。宿を經しとき、居人 以て告げ、乃ち市に斬り、子姪 皆 誅に伏す。毅の兄の模 襄陽に奔るも、魯宗之 斬りて之を送る。
毅 剛猛沈斷にして、而れども專肆很愎たり。劉裕と與に大業を協成し、而れども功は其の次に居り、深く自ら矜伐し、相 推伏せず。方嶽に居るに及び、常に怏怏として志を得ず、裕 每に柔たりて之に順ふ。毅の驕縱たること滋々甚しく、每に史籍を覽るに、藺相如 廉頗に降屈するに至るや、輒ち絕歎して以為へらく能ふ可からざるなりと。嘗て云ふ、「恨むらくは劉項に遇ひて、之と與に中原を爭はざるを」と。又 郗僧施に謂ひて曰く、「昔 劉備の孔明を有するや、猶ほ魚の水有るがごとし。今 吾 足下と與に才は古賢に非ざると雖も、而れども事は斯の言と同じからん」と。眾 咸 其の陵傲不遜なるを惡む。桑落に敗るるに及び、物情 己より去るを知り、彌々復た憤激す。初め、裕 盧循を征するや、凱歸するに、帝 大いに西池に宴し、詔有りて詩を賦す。毅 詩に云ふ、「六國は雄士多く、正始に風流を出す」と。自ら武功 競はざるを知り、故に文雅 有餘なるを示す。後に東府に於て聚まりて摴蒱し大いに擲するに、一判の應 數百萬に至り、餘人 並びに黑犢にして以て還り、唯だ劉裕のみ毅に及びて後に在り。毅 次に擲して雉を得て、大いに喜び、衣を褰して牀に繞し、叫びて同坐に謂ひて曰く、「盧なる能はざるに非ざれば、此を事とせざるのみ」と。裕 之を惡み、因りて五木を挼(も)みて久之、曰く、「老兄 試みに卿の為に答へん」と。既にして四子 俱に黑にして、其の一子 轉躍して未だ定まらざるに、裕 聲を厲して之に喝し、即ち盧と成れり。毅の意 殊に不快にして、然も素より黑ければ、其の面 鐵色焉が如く、而して乃ち言を和して曰く、「亦た公 此を以て借を見る能はざるを知る」と。既に西藩に出づるに、上流 分陝すと雖も、而れども頓に內權を失ひ、又 頗る自ら事計を嫌(うたが)ひ、故に其の威強を擅にして、隙を伺ひ裕を圖らんと欲し、以て敗るるに至る。
初め、江州刺史の庾悅、隆安中に司徒長史と為り、曾て京口に至る。毅 時に甚だ屯窶たりて、先に府に就きて東堂を借りて親故と與に出射す。而して悅 後に僚佐と與に徑ちに來たりて堂に詣り、毅 之に告げて曰く、「毅が輩 屯否の人なり、合して一射すること甚だ難し。君 諸堂に於て並びに可なり。望むらく今日を以て讓せられんことを」と。悅 許さず。射る者 皆 散ずるや、唯だ毅のみ留まりて射ること故の如し。既にして悅 鵝を食らひ、毅 其の餘を求むるに、悅 又 答へず、毅 常に之を銜む。義熙中に、故に悅の豫章を奪ひ、其の軍府を解き、人をして微く其の旨を示さしむるや、悅 忿懼して死す。毅の褊躁たること此の如し。
劉裕は自ら兵を率いて劉毅を討ち、王弘・王鎮悪・蒯恩らに命じて軍を率いて豫章口に到達させ、江津で舟を焼いて進んだ。劉毅の参軍の朱顕之が王鎮悪に遭遇すると、統率する千人を連れて劉毅のもとに趣いた。王鎮悪らが攻撃して外城を陥落させ、劉毅は内城を守った。精鋭はまだ数千人おり、戦って昼過ぎになると、王鎮悪は劉裕の書状を城内に示した。劉毅は怒り、書状を公開せずにこれを焼いた。劉毅は外から援軍がくることを願い、士卒を督励して力戦した。劉毅の軍は劉裕が来たことを知り、戦意を喪失した。日が暮れると、王鎮悪が諸門を焼き、兵力を揃えてこれを攻めると、劉毅の軍はたちまち散った。劉毅は北門から単騎で逃げ、江陵から二十里の地点で縊り殺された。劉毅が宿を借りたとき、住民がこれを報告し、市で斬って、子や従子がすべて誅に伏した。劉毅の兄の劉模は襄陽に逃げたが、魯宗之が斬ってこれを送還した。
劉毅は他人の意見を聞かないが強気で落ち着いて決断し、ただし独断専行なので怨みを買った。劉裕とともに大業を成し遂げたが、功績は劉裕に次いで二番目であり、それがひどく気に入らず、劉裕に対抗心を燃やした。地方で全権を握ると、つねに怏々として志を得ず、しかし劉裕は柔軟に受け流して劉毅の顔を立てた。劉毅の驕慢がますますひどくなり、いつも史書を見るたび、藺相如が廉頗に屈服する箇所を読むたび、激しく慨嘆して俺ならば耐えられないと言った。かつて、「恨むらくは劉邦と項羽と同じ時代に生まれ、彼らと中原を争いたかった」と言った。また郗僧施に、「むかし劉備が孔明を手に入れたとき、まるで魚が水を得たようであった。いま私とあなたは才能は古賢(劉備ら)ほどではなくとも、状況としては劉備の言葉と同じだ」と言った。人々はその傲岸不遜さを憎んだ。桑落で敗れると、戦局や人々からの支持が自分から去ったのを悟り、ますます感情を高ぶらせた。はじめ、劉裕が盧循を征伐し、凱旋すると、晋帝は西池で大きな酒宴を開き、詔して詩を賦させた。劉毅の詩に、「六国(戦国時代)は雄士が多いが、正始年間(曹魏)には風流な人士が輩出された」と言った。(劉毅は)自分の武功では劉裕に敵わないと思い、ゆえに(自分を何晏らに準えて)文雅において圧倒できることを示したのである。のちに東府に集まって摴蒱(賭博)で(サイコロ代わりの)板を投げて遊んでいると、一回の勝負の賭金が数百万銭に釣りあがり、二人(劉毅と劉裕)以外の参加者は黒犢(出目の種類の一つ)を出して勝負から降りたが、ただ劉裕だけが劉毅を追って後ろにいた。劉毅が次の番に投げて雉(の出目)を得て、大いに喜び、衣をめくりあげて座席にかぶせ、同席者に向かって叫び、「(劉裕が)盧(の出目)を投げられなければ、あがれないぞ」と言った。劉裕は憎らしげに、五木(サイコロの板)を長くもんでから、「老兄よ試みにあなたの挑発に乗ってやろう」と言った。四子(四枚の板)がすべて黒が出て、残り一枚が転げ跳ねて(出目が)定まらないが、劉裕が声を励まして一喝し、まさに盧(の出目の組み合わせ)が完成した。劉毅はことさら不快がり、彼はもとから色黒であったが、その顔色が鉄のようになって、声の調子をあわせ、「あなたが私に勝負を譲るつもりがないことは分かっていた」と憎まれ口を叩いた。やがて西藩に転出すると、長江の上流を分断して制圧したが、権勢が衰えて中央政府への影響力を失い、また自分を陥れる計略がないかと詮索した。現地で威権を高め、隙をねらって劉裕を亡き者にしようと画策したが、結局は失敗した。
これよりさき、江州刺史の庾悅は、隆安年間に司徒長史となり、京口に立ち寄ったことがあった。劉毅はこのとき困窮していたので、さきに府を訪れて東堂(の場所)を借りて旧知の人々とともに射術をした。ところが庾悦が後から僚佐とともに東堂を訪問した(場所の取り合いとなった)。劉毅は庾悦に告げて、「私たちは貧困なので、集まって射術をすることも難しい。あなたは他の堂でも射術をやれるだろう。どうか今日のところは場所を譲ってほしい」と言った。庾悦はこれを拒否した。射手がみな散開しても、ただ劉毅だけが(東堂に)留まって射撃を続けた。あるとき庾悦が鵝(ガチョウ)を食べていると、劉毅がその残りを食べたいと言ったが、庾悦が無視したので、劉毅はつねに根に持っていた。義熙年間に、これらの衝突を理由に(劉毅が)庾悦から豫章(太守の官位)を奪い、庾悦の軍府を解散させた。ひっそりとこの仕打ちの理由を告げたので、庾悦は怒り懼れて死んだ。劉毅の心が狭くて騒がしいことはこの逸話のようであった。
邁字伯羣。少有才榦、為殷仲堪中兵參軍。桓玄之在江陵、甚豪橫、士庶畏之、過於仲堪。玄曾於仲堪廳事前戲馬、以矟擬仲堪。邁時在坐、謂玄曰、「馬矟有餘、精理不足」。玄自以才雄冠世、而心知外物不許之。仲堪為之失色。玄出、仲堪謂邁曰、「卿乃狂人也。玄夜遣殺卿、我豈能相救」。邁以正辭折仲堪、而不以為悔。仲堪使邁下都以避之。玄果令追之、邁僅而免禍。後玄得志、邁詣門稱謁、玄謂邁曰、「安知不死而敢相見」。邁對曰、「射鉤・斬袪、與邁為三、故知不死」。玄甚喜、以為刑獄參軍。後為竟陵太守。及毅與劉裕等同謀起義、邁將應之、事泄、為玄所害。
邁 字は伯羣なり。少くして才榦有り、殷仲堪の中兵參軍と為る。桓玄の江陵に在るや、甚だ豪橫たりて、士庶 之を畏るること、仲堪に過ぐ。玄 曾て仲堪の廳事の前に於て戲馬し、矟を以て仲堪に擬す。邁 時に坐に在りて、玄に謂ひて曰く、「馬矟は餘有り、精理 足らず」と。玄 自ら才 冠世に雄たるを以て、而れども心は外物の之を許さざるを知る。仲堪 之が為に色を失ふ。玄 出づるや、仲堪 邁に謂ひて曰く、「卿 乃ち狂人なり。玄 夜に卿を殺さしむれば、我 豈に能く相 救はんや」と。邁 正辭を以て仲堪を折し、而れども以て悔と為さず。仲堪 邁をして都を下りて以て之を避けしむ。玄 果たして之を追はしむるに、邁 僅かに禍を免れり。後に玄 志を得るや、邁 門に詣りて謁と稱し、玄 邁に謂ひて曰く、「安ぞ死せざると知りて敢て相 見るや」と。邁 對へて曰く、「射鉤・斬袪は、邁と三為(た)り、故に死せざるを知る」と。玄 甚だ喜び、以て刑獄參軍と為す。後に竟陵太守と為る。毅 劉裕らと與に同謀起義するに及び、邁 將に之に應ぜんとするも、事 泄れ、玄の害する所と為る。
劉邁は字を伯羣という。若くして能力が高く、殷仲堪の中兵参軍となった。桓玄が江陵にいたとき、劉邁は豪強さを頼み好き勝手にふるまい、士庶が彼を畏れることは、殷仲堪よりも甚だしかった。桓玄がかつて殷仲堪の役所の前で戯馬(馬の乗って曲芸)したとき矟(馬上で用いる矛)で殷仲堪に擬し(狙うふりをし)た。劉邁はこのとき同席しており、桓玄に、「馬と矟をあやつる技術は十分だが、精微の理が足りない」と言った。桓玄は自分の才能が当世随一であるが、他人が必ずしもそれを受け入れないことを知っていた。殷仲堪は劉邁のために顔色を失った。桓玄が退出すると、殷仲堪は劉邁に、「きみは狂人だぞ。桓玄が夜にきみに刺客を差し向ければ、私はきみを救えるものか」と言った。劉邁は言葉を正して殷仲堪をなじり、しかし後悔はなかった。殷仲堪は劉邁に都から離れて(桓玄による殺害を)避けさせた。桓玄は果たして彼を追わせたが、劉邁は辛うじて禍いを免れた。のちに桓玄が志を得る(簒奪する)と、劉邁は門前を訪れて謁見したいと告げた。桓玄は劉邁に、「どうして死なないと思って謁見に来たのか」と言った。劉邁は答えて、「(管仲が斉桓公の?)鉤(かぎ)を射たことと(前漢哀帝が董賢のために?)袪(そで)を斬ったことは、この劉邁のことと合わせて三件の美談です、ゆえに死なないと分かっていた」と言った。桓玄はとても喜び、劉邁を刑獄参軍とした。のちに竟陵太守となった。劉毅が劉裕らとともに(桓玄を滅ぼす)計画を決行すると、劉邁はこれに呼応しようとしたが、計画が漏れて、桓玄に殺害された。
諸葛長民、琅邪陽都人也。有文武榦用、然不持行檢、無鄉曲之譽。桓玄引為參軍平西軍事、尋以貪刻免。及劉裕建義、與之定謀、為揚武將軍。從裕討桓玄、以功拜輔國將軍・宣城內史。于時桓歆聚眾向歷陽、長民擊走之、又與劉敬宣破歆于芍陂、封新淦縣公、食邑二千五百戶、以本官督淮北諸軍事、鎮山陽。義熙初、慕容超寇下邳、長民遣部將徐琰擊走之、進位使持節・督青揚二州諸軍事・青州刺史、領晉陵太守、鎮丹徒、本號及公如故。
及何無忌為徐道覆所害、賊乘勝逼京師、朝廷震駭、長民率眾入衞京都、因表曰、「妖賊1.(伐船集木)〔集船伐木〕、而南康相郭澄之隱蔽經年、又深相保明、屢欺無忌、罪合斬刑」。詔原澄之。及盧循之敗劉毅也。循與道覆連旗而下、京都危懼、長民勸劉裕權移天子過江。裕不聽、令長民與劉毅屯于北陵、以備石頭。事平、轉督豫州揚州之六郡諸軍事・豫州刺史、領淮南太守。
及裕討毅、以長民監太尉留府事、詔以甲杖五十人入殿。長民驕縱貪侈、不恤政事、多聚珍寶美色、營建第宅、不知紀極、所在殘虐、為百姓所苦。自以多行無禮、恒懼國憲。及劉毅被誅、長民謂所親曰、「昔年醢彭越、前年殺韓信、禍其至矣」。謀欲為亂、問劉穆之曰、「人間論者謂太尉與我不平、其故何也」。穆之曰、「相公西征、老母弱弟委之將軍、何謂不平」。長民弟黎民輕狡好利、固勸之曰、「黥彭異體而勢不偏全、劉毅之誅、亦諸葛氏之懼、可因裕未還以圖之」。長民猶豫未發、既而歎曰、「貧賤常思富貴、富貴必履機危。今日欲為丹徒布衣、豈可得也」。裕深疑之、駱驛繼遣輜重兼行而下、前剋至日、百司於道候之、輒差其期。既而輕舟徑進、潛入東府。明旦、長民聞之、驚而至門、裕伏壯士丁旿於幙中、引長民進語、素所未盡皆說焉。長民悅、旿自後拉而殺之、輿尸付廷尉。使收黎民、黎民驍勇絕人、與捕者苦戰而死。小弟幼民為大司馬參軍、逃于山中、追擒戮之。諸葛氏之誅也、士庶咸恨正刑之晚、若釋桎梏焉。
初、長民富貴之後、常一月中輒十數夜眠中驚起、跳踉、如與人相打。毛修之嘗與同宿、見之駭愕、問其故。長民答曰、「正見一物、甚黑而有毛、脚不分明、奇健、非我無以制之」。其後來轉數。屋中柱及椽桷間、悉見有蛇頭、令人以刀懸斫、應刃隱藏、去輒復出。又擣衣杵相與語如人聲、不可解。於壁見有巨手、長七八尺、臂大數圍、令斫之、豁然不見。未幾伏誅。
1.中華書局本の校勘記に従い、語順を改める。
諸葛長民は、琅邪陽都の人なり。文武の榦用有り、然れども行檢を持せざれば、鄉曲の譽無し。桓玄 引きて參軍平西軍事と為し、尋いで貪刻を以て免ぜらる。劉裕 建義するに及び、之に與りて謀を定め、揚武將軍と為る。裕の桓玄を討つに從ひ、功を以て輔國將軍・宣城內史を拜す。時に桓歆 眾を聚めて歷陽に向ひ、長民 擊ちて之を走らせ、又 劉敬宣と與に歆を芍陂に破り、新淦縣公に封ぜられ、食邑は二千五百戶にして、本官を以て淮北諸軍事を督し、山陽に鎮す。義熙の初に、慕容超 下邳を寇するや、長民 部將の徐琰を遣はして擊ちて之を走らせ、位を使持節・督青揚二州諸軍事・青州刺史に進め、晉陵太守を領し、丹徒に鎮し、本號及び公たること故の如し。
何無忌 徐道覆の害する所と為るに及び、賊 勝に乘じて京師に逼り、朝廷 震駭す。長民 眾を率ゐて入りて京都を衞り、因りて表して曰く、「妖賊 船を集め木を伐り、而して南康相の郭澄之 隱蔽すること經年にして、又 深く相 保明し、屢々無忌を欺く。罪は斬刑に合す」と。詔して澄之を原す。盧循の劉毅を敗るに及ぶや、循 道覆と與に旗を連ねて下り、京都 危懼す。長民 劉裕に權に天子を移して江を過らしむるを勸む。裕 聽さず、長民をして劉毅と與に北陵に屯せしめ、以て石頭に備へしむ。事 平らぐや、督豫州揚州之六郡諸軍事・豫州刺史に轉じ、淮南太守を領す。
裕 毅を討つに及び、長民を以て監太尉留府事とし、詔して甲杖五十人を以て入殿せしむ。長民 驕縱貪侈にして、政事を恤せず、多く珍寶美色を聚め、第宅を營建し、紀極を知らず、所在に殘虐たれば、百姓 苦しむ所と為る。自ら多行にして無禮なるを以て、恒に國憲を懼る。劉毅 誅せらるるに及び、長民 親しむ所に謂ひて曰く、「昔年 彭越を醢せしときは、前年に韓信を殺す、禍ひ其れ至らん」と。謀りて亂を為さんと欲し、劉穆之に問ひて曰く、「人間の論者 太尉 我と不平なりと謂ふ、其の故 何なるや」と。穆之曰く、「相公 西征するや、老母弱弟 之を將軍に委ぬ、何ぞ不平なりと謂ふや」と。長民の弟の黎民 輕狡にして利を好み、固く之に勸めて曰く、「黥と彭とは體を異にして勢は偏全ならず。劉毅の誅せられしは、亦た諸葛氏の懼れなり。裕の未だ還らざるに因りて以て之を圖る可し」と。長民 猶豫して未だ發せず、既にして歎じて曰く、「貧賤なれば常に富貴を思ひ、富貴なれば必ず機危を履む。今日 丹徒の布衣と為らんと欲するも、豈に得可きや」と。裕 深く之を疑ひ、駱驛して繼ぎて輜重を遣はして兼行して下り、至る日を前剋し、百司 道に於て之を候つに、輒ち其の期に差ふ。既にして輕舟もて徑ちに進み、潛かに東府に入る。明旦に、長民 之を聞き、驚きて門に至り、裕 壯士の丁旿を幙中に伏し、長民を引きて進語し、素より未だ盡くせざることもて皆 焉に說く。長民 悅ぶや、旿に後より拉して之を殺し、尸を輿して廷尉に付す。黎民を收めしむるに、黎民 驍勇にして絕人たれば、捕る者と苦戰して死す。小弟の幼民 大司馬參軍と為るに、山中に逃げ、追擒して之を戮す。諸葛氏の誅するや、士庶 咸 正刑の晚きを恨み、桎梏を釋くが若し。
初め、長民 富貴たりし後、常に一月中に輒ち十數夜 眠中に驚き起き、跳踉し、人と相 打つが如し。毛修之 嘗て與に同宿し、之を見て駭愕し、其の故を問ふ。長民 答へて曰く、「正に一物を見て、甚だ黑くして毛有り、脚は分明ならず、奇健にして、我に非ざれば以て之を制する無し」と。其の後に來轉すること數々なり。屋中の柱及び椽桷の間に、悉く蛇頭有るを見て、人をして刀を以て懸斫せしめ、刃に應じて隱藏し、去るや輒ち復た出づ。又 衣杵を擣して相 與に語ること人聲が如きも、解す可からず。壁に於て巨手有るを見て、長さ七八尺にして、臂の大は數圍なり。之を斫らしむるや、豁然として見えず。未だ幾ばくもなくして誅に伏す。
諸葛長民は、琅邪陽都の人である。文武の能力が高かったが、品行方正でなかったので、郷里で声望がなかった。桓玄が彼を招いて参軍平西軍事としたが、ほどなく貪欲で刻薄であったために罷免された。劉裕が(桓玄を討つ)義事を起こすとき、これに参加して計画を定め、揚武将軍となった。劉裕による桓玄の討伐戦に従い、功績により輔国将軍・宣城内史を拝した。このとき桓歆が兵衆を集めて歴陽に向かったが、諸葛長民は攻撃してこれを敗走させ、また劉敬宣とともに桓歆を芍陂で破った。新淦県公に封建され、食邑は二千五百戸であり、本官のまま淮北諸軍事を督し、山陽に鎮した。義熙の初め、慕容超が下邳を侵略すると、諸葛長民は部将の徐琰を派遣して攻撃しこれを敗走させ、官位を使持節・督青揚二州諸軍事・青州刺史に進め、晋陵太守を領し、丹徒に鎮したが、官号と公は現状のままとした。
何無忌が徐道覆に殺害されると、賊は勝ちに乗じて京師に逼り、朝廷は震え畏れた。諸葛長民は軍勢を率いて入って京都を防衛し、上表して、「妖賊は船を集めて木を切り倒しましたが、南康相の郭澄之は数年にわたり隠蔽し、また妖賊をかばって釈明し、しばしば何無忌を欺きました。罪は斬刑に相当します」と言った。(しかし?)詔して郭澄之をゆるした。劉毅を破った盧循は、徐道覆とともに旗を連ねて川を下り、京都は危ぶみ懼れた。諸葛長民は劉裕に対して一時的に天子を移し長江を渡らせることを勧めた。劉裕は許さず、諸葛長民に劉毅とともに北陵に駐屯させ、石頭に備えさせた。廬循が平定されると、諸葛長民は督豫州揚州之六郡諸軍事・豫州刺史に転じ、淮南太守を領した。
劉裕が劉毅を討つに及び、諸葛長民を監太尉留府事とし、詔して甲杖五十人をひきいて入殿させた。諸葛長民は傲慢で奢侈であり、まじめに政事に取り組まず、珍宝や容貌の美しいものを集めるばかりであった。邸宅を造営し、際限を知らず、任地において残虐であったので、万民は苦しめられた。彼は自分の行動が度を過ぎて節度に欠いているので、つねに国家の裁きを懼れた。劉毅が誅殺されると、諸葛長民は親しいものに、「むかし(前漢の初め)彭越を醢(の刑)したとき、その前年には韓信を殺していた。(劉毅が死んだので)次は私のところに禍いが至るだろう」と言った。謀略により乱を起こそうとし、劉穆之に質問して、「世間の論者は太尉(劉裕)と私が不仲であると言っている、その理由は何だろうか」と言った。劉穆之は、「相公(劉裕)が西征するとき、老母や弱弟をあなたに委ねました。どうして不仲だと言うでしょうか」と言った。諸葛長民の弟の諸葛黎民は軽狡で利を好み、(長民に謀反を)強く勧めて、「鯨布と彭越は状況は違うにせよ(諸侯として)二人とも一地方を保てなかった。劉毅が誅殺されたのは、諸葛氏にとっても脅威だ。劉裕が帰還しないうちに(謀反を)決行すべきだ」と言った。諸葛長民は迷って実行に移らず、やがて歎じて、「貧賤であれば常に富貴を願ったものだが、富貴となれば必ず(滅亡の)危険性が高まる。もはや今日となっては丹徒で無位無官として暮らそうと思っても、それは望めないことだ」と言った。劉裕は深く疑い、駅伝をついで輜重を運ばせて倍速でくだり、合流の日付を連絡し、役人たちに道路で待たせたが、期日が合わずにすれ違った。そこで軽舟でただちに進み、ひそかに東府に入った。翌朝、諸葛長民は(劉裕の帰還を)聞き、驚いて(訪問し)門前にきた。劉裕は壮士の丁旿を幕のなかに隠れさせ、諸葛長民を引き入れて会話し、普段は話さないことも全部を伝えた。諸葛長民が悦んでいると、丁旿が後ろから打ち殺し、死体を車にのせて廷尉に引き渡した。諸葛黎民を捕らえに行かせたが、彼は勇猛さが比類なく、捕らえにきた役人と死闘のすえに死んだ。小弟の諸葛幼民は大司馬参軍となっていたが、山中に逃げたので、追捕してこれを殺した。諸葛氏を誅殺すると、士庶はみな正しい刑罰の執行が遅かったことを怨み、桎梏が解かれたように喜んだ。
これよりさき、諸葛長民が富貴になってから、いつも一ヵ月のうち十数夜は眠っている途中で驚いて目を覚まし、跳んだり踊ったりして、誰かと格闘しているようだった。毛修之がかつて一緒に泊まり、これをみて驚愕し、その理由を聞いた。諸葛長民は答えて、「何かがいて、真っ黒で毛が生え、脚は判別できず、怪しく強いもので、私でなければ制圧できない」と言った。その後も(睡眠中に)しばしば転げ回った。家のなかの柱や椽桷(たるき)のあいだに、すべて蛇のあたまが見え、ひとに刀で斬りかからせたが、刃がせまると身を隠し、退治を止めるとまた出現した。また衣杵をつくと(その音が)人語に似ていて会話をしたが、意味は分からなかった。壁に巨大な手があり、長さ七八尺で、手首まわりの太さは数囲であった。これを斬らせると、ぱっと消滅した。ほどなく(諸葛長民は)誅に伏した。
何無忌、東海郯人也。少有大志、忠亮任氣、人有不稱其心者、輒形於言色。州辟從事、轉太學博士。鎮北將軍劉牢之、即其舅也、時鎮京口、每有大事、常與參議之。會稽世子元顯子1.彥章封東海王、以無忌為國中尉、加廣武將軍。及桓玄害彥章於市、無忌入市慟哭而出、時人義焉。隨牢之南征桓玄。牢之將降於玄也、無忌屢諫、辭旨甚切、牢之不從。及玄篡位、無忌與玄吏部郎曹靖之有舊、請莅小縣。靖之白玄、玄不許、無忌乃還京口。
初、劉裕嘗為劉牢之參軍、與無忌素相親結。至是、因密共圖玄。劉毅家在京口、與無忌素善、言及興復之事、無忌曰、「桓氏強盛、其可圖乎」。毅曰、「天下自有強弱、雖強易弱、正患事主難得耳」。無忌曰、「天下草澤之中非無英雄也」。毅曰、「所見唯有劉下邳」。無忌笑而不答、還以告裕、因共要毅、與相推結、遂共舉義兵、襲京口。無忌偽著傳詔服、稱敕使、城中無敢動者。
初、桓玄聞裕等及無忌之起兵也、甚懼。其黨曰、「劉裕烏合之眾、勢必無成、願不以為慮」。玄曰、「劉裕勇冠三軍、當今無敵。劉毅家無儋石之儲、摴蒱一擲百萬。何無忌、劉牢之之甥、酷似其舅。共舉大事、何謂無成」。其見憚如此。及玄敗走、武陵王遵承制以無忌為輔國將軍・琅邪內史、以會稽王道子所部精兵悉配之、南追桓玄、與振武將軍劉道規俱受冠軍將軍劉毅節度。玄留其龍驤將軍何澹之・前將軍郭銓・江州刺史郭昶之守湓口。無忌等次桑落洲、澹之等率軍來戰。澹之常所乘舫旌旗甚盛、無忌曰、「賊帥必不居此、欲詐我耳、宜亟攻之」。眾咸曰、「澹之不在其中、其徒得之無益」。無忌謂道規曰、「今眾寡不敵、戰無全勝。澹之雖不居此舫、取則易獲、因縱兵騰之、可以一鼓而敗也」。道規從之、遂獲賊舫、因傳呼曰、「已得何澹之矣」。賊中驚擾、無忌之眾亦謂為然。道規乘勝徑進、無忌又鼓譟赴之、澹之遂潰。進據尋陽、遣使奉送宗廟主祏及武康公主・琅邪王妃還京都。又與毅・道規破走玄於崢嶸洲。無忌進據巴陵。玄從兄謙・從子振乘間陷江陵、無忌・道規進攻謙於馬頭、攻桓蔚於龍泉、皆破之。既而為桓振所敗、退還尋陽。無忌與毅・道規復進討振、克夏口三城、遂平巴陵、進次馬頭。桓謙請割荊・江二州、奉送天子、無忌不許。進軍破江陵、謙等敗走。無忌侍衞安帝還京師、以無忌督豫州揚州淮南廬江安豐歷陽堂邑五郡軍事・右將軍・豫州刺史・加節、甲杖五十人入殿、未之職。遷會稽內史・督江東五郡軍事、持節・將軍如故、給鼓吹一部。義熙二年、遷都督江荊二州江夏隨義陽綏安豫州西陽新蔡汝南潁川八郡軍事・江州刺史、將軍・持節如故。以興復之功、封2.(安城)〔安城〕郡開國公、食邑三千戶、增督司州之弘農揚州之松滋、加散騎侍郎、進鎮南將軍。
盧循遣別帥徐道覆順流而下、舟艦皆重樓。無忌將率眾距之、長史鄧潛之諫曰、「今以神武之師抗彼逆眾、迴山壓卵、未足為譬。然國家之計在此一舉。聞其舟艦大盛、勢居上流。蜂蠆之毒、邾魯成鑒。宜決破南塘、守二城以待之、其必不敢捨我遠下。蓄力俟其疲老、然後擊之。若棄萬全之長策、而決成敗於一戰、如其失利、悔無及矣」。無忌不從、遂以舟師距之。既及、賊令強弩數百登西岸小山以邀射之、而薄于山側。俄而西風暴急、無忌所乘小艦被飄東岸、賊乘風以大艦逼之、眾遂奔敗、無忌尚厲聲曰、「取我蘇武節來」。節至、乃躬執以督戰。賊眾雲集、登艦者數十人。無忌辭色無撓、遂握節死之。詔曰、「無忌秉哲履正、忠亮明允、亡身殉國、則契協英謨。經綸屯昧、則重氛載廓。及敷政方夏、實播風惠。妖寇搆亂、侵擾邦畿、投袂致討、志清王略。而事出慮外、臨危彌厲、握節隕難、誠貫古賢、朕用傷慟于厥懷。其贈侍中・司空、本官如故、諡曰忠肅」。子邕嗣。
初、桓玄克京邑、劉裕東征、無忌密至裕軍所、潛謀舉義、勸裕於山陰起兵。裕以玄大逆未彰、恐在遠舉事、克濟為難。若玄遂竊天位、然後於京口圖之、事未晚也。無忌乃還。及義師之舉、參贊大勳、皆以算略攻取為效、而此舉敗於輕脫、朝野痛之。
1.「彥章」は、安帝紀と元四王伝では「彥璋」につくる。
2.安帝紀と本伝に従い、「安城」を「安成」に改める。『資治通鑑』巻一百十四も「安成」につくる。
何無忌は、東海郯の人なり。少くして大志有り、忠亮にして任氣、人 其の心を稱へざる者有らば、輒ち言色に形はる。州 從事に辟し、太學博士に轉ず。鎮北將軍の劉牢之、即ち其の舅なり、時に京口に鎮し、每に大事有るや、常に與に之を參議す。會稽世子元顯の子の彥章 東海王に封ぜらるるや、無忌を以て國中尉と為し、廣武將軍を加ふ。桓玄 彥章を市に害するに及び、無忌 市に入りて慟哭して出で、時人 焉を義とす。牢之の桓玄を南征するに隨ふ。牢之 將に玄に降らんとするや、無忌 屢々諫め、辭旨は甚だ切たるに、牢之 從はず。玄 篡位するに及び、無忌 玄の吏部郎の曹靖之と舊有れば、小縣に莅するを請ふ。靖之 玄に白すも、玄 許さず、無忌 乃ち京口に還る。
初め、劉裕 嘗て劉牢の參軍と為り、無忌と素より相 親結す。是に至り、因りて密かに共に玄を圖らんとす。劉毅 家は京口に在り、無忌と素より善ければ、言は興復の事に及ぶや、無忌曰く、「桓氏 強盛なり、其れ圖る可きや」と。毅曰く、「天下 自ら強弱有り、強きと雖も弱に易はる。正に事主 得難きを患ふのみ」と。無忌曰く、「天下の草澤の中に英雄無きに非ざるなり」と。毅曰く、「見る所 唯だ劉下邳有るのみ」と。無忌 笑ひて答へず、還りて以て裕に告げ、因りて共に毅を要め、與に相 推結し、遂に共に義兵を舉げ、京口を襲ふ。無忌 偽りて傳詔の服を著け、敕使と稱し、城中 敢て動く者無し。
初め、桓玄 裕ら及び無忌の起兵するを聞くや、甚だ懼る。其の黨曰く、「劉裕は烏合の眾なり、勢として必ず成る無し。願はくは以て慮と為さざるを」と。玄曰く、「劉裕 勇は三軍に冠し、當今 敵無し。劉毅 家は儋石の儲無きも、摴蒱 一擲して百萬なり。何無忌は、劉牢之の甥にして、酷く其の舅に似る。共に大事を舉ぐれば、何ぞ成る無しと謂ふや」と。其の憚らること此の如し。玄 敗走するに及び、武陵王遵 承制して無忌を以て輔國將軍・琅邪內史と為し、會稽王道子 部する所の精兵を以て悉く之を配し、南のかた桓玄を追はしめ、振武將軍の劉道規と與に俱に冠軍將軍の劉毅の節度を受けしむ。玄 其の龍驤將軍の何澹之・前將軍の郭銓・江州刺史の郭昶之を留めて湓口を守らしむ。無忌ら桑落洲に次し、澹之ら軍を率ゐて來たりて戰ふ。澹之 常に乘る所の舫は旌旗 甚だ盛なり。無忌曰く、「賊帥 必ず此に居らず、我を詐はらんと欲するのみ。宜しく亟やかに之を攻めよ」と。眾 咸 曰く、「澹之 其の中に在らず、其の徒 之を得ても益無し」と。無忌 道規に謂ひて曰く、「今 眾寡 敵せず、戰ひても全勝無し。澹之 此の舫に居らずと雖も、取らば則ち獲易し。因りて兵を縱にして之を騰ぐれば、一鼓を以て敗る可きなり」と。道規 之に從ひ、遂に賊の舫を獲たり。因りて傳呼して曰く、「已に何澹之を得たり」と。賊中 驚擾し、無忌の眾も亦た然る為りと謂ふ。道規 勝に乘じて徑に進み、無忌 又 鼓譟して之に赴き、澹之 遂に潰す。進みて尋陽に據り、使を遣はして宗廟の主祏及び武康公主・琅邪王妃を奉送して京都に還る。又 毅・道規と與に破りて玄を崢嶸洲に走らす。無忌 進みて巴陵に據る。玄の從兄の謙・從子の振 間に乘じて江陵を陷せば、無忌・道規 進みて謙を馬頭に攻め、桓蔚を龍泉に攻め、皆 之を破る。既にして桓振の敗る所と為り、退きて尋陽に還る。無忌 毅・道規と與に復た進みて振を討ち、夏口の三城を克し、遂に巴陵を平らげ、進みて馬頭に次す。桓謙 荊・江二州を割きて、天子を奉送せんことを請ふも、無忌 許さず。軍を進めて江陵を破り、謙ら敗走す。無忌 安帝を侍衞して京師に還り、無忌を以て督豫州揚州淮南廬江安豐歷陽堂邑五郡軍事・右將軍・豫州刺史・加節とし、甲杖五十人もて殿に入らしむるに、未だ職に之かず。會稽內史・督江東五郡軍事に遷り、持節・將軍は故の如く、鼓吹一部を給はる。義熙二年、都督江荊二州江夏隨義陽綏安豫州西陽新蔡汝南潁川八郡軍事・江州刺史に遷り、將軍・持節たること故の如し。興復の功を以て、安城郡開國公に封ぜられ、食邑は三千戶なり。督司州之弘農揚州之松滋を增し、散騎侍郎を加へ、鎮南將軍に進む。
盧循 別帥の徐道覆を遣はして流に順ひて下り、舟艦 皆 重樓なり。無忌 將に眾を率ゐて之を距がんとするに、長史の鄧潛之 諫めて曰く、「今 神武の師を以て彼の逆眾を抗ぐことは、山を迴して卵を壓するも、未だ譬へと為すに足らず。然れども國家の計 此の一舉に在り。聞かば其の舟艦 大いに盛なりて、勢として上流に居る。蜂蠆の毒は、邾魯 鑒と成す。宜しく南塘を決破して、二城を守りて以て之を待つべし。其れ必ず敢て我を捨てて遠下せざらん。力を蓄へて其の疲老を俟ち、然る後に之を擊て。若し萬全の長策を棄てて、而して成敗を一戰に決し、如し其の利を失はば、悔ひても及ぶ無し」と。無忌 從はず、遂に舟師を以て之を距ぐ。既に及ぶや、賊 強弩數百をして西岸の小山に登りて以て邀へて之を射たしめ、而して山側に薄す。俄にして西風 暴かに急たりて、無忌 乘る所の小艦 東岸に飄せられ、賊 風に乘じて大艦を以て之に逼り、眾 遂に奔敗し、無忌 尚ほ聲を厲して曰く、「我が蘇武節〔一〕を取りて來たれ」と。節 至るや、乃ち躬ら執りて以て督戰す。賊眾 雲集し、艦に登る者は數十人なり。無忌 辭色 撓む無く、遂に節を握りて之に死す。詔して曰く、「無忌 哲を秉り正を履み、忠亮 明允なりて、身を亡し國に殉ずれば、則ち英謨を契協す。經綸 屯昧なれば、則ち重氛 載廓なり。政を方夏に敷くに及び、實に風惠を播す。妖寇 搆亂し、邦畿を侵擾するや、袂を投じて討に致り、志は王略を清む。而れども事 慮外に出で、危に臨みて彌々厲み、節を握りて難に隕つ。誠に古賢を貫く。朕 用て傷みて厥の懷に慟す。其れ侍中・司空を贈り、本官 故の如く、諡して忠肅と曰へ」と。子の邕 嗣ぐ。
初め、桓玄 京邑を克するや、劉裕 東征す。無忌 密かに裕の軍所に至り、潛かに義を舉げんことを謀り、裕に山陰に於て起兵するを勸む。裕 以へらく、玄の大逆 未だ彰はれず、恐らくは遠きに在りて事を舉ぐれども、克濟 難為り、若し玄 遂に天位を竊まば、然る後に京口に於て之を圖りても、事 未だ晚からざるなりと。無忌 乃ち還る。義師の舉に及び、大勳に參贊し、皆 算略もて攻取するを以て效と為し、而れども此の舉 輕脫に敗るれば、朝野 之を痛む。
〔一〕蘇武節は、天子が外国への使者に持たせる節の名。蘇武は、前漢時代に匈奴への使者となった人物。匈奴に幽閉されたが、前漢の臣としての態度をくずさなかった。
何無忌は、東海郯の人である。若くして大きな志があり、忠信であり勇気を振るい、彼の心ばえを称えない者がいれば、言葉や態度に表れた。州が従事として辟召し、太学博士に転じた。鎮北将軍の劉牢之は、何無忌の舅であるが、このとき京口に鎮し、重要なことがあると、つねに何無忌に相談をした。会稽世子の元顕(司馬元顕)の子の司馬彦章が東海王に封建されると、何無忌を国中尉とし、広武将軍を加えた。桓玄が司馬彦章を市で殺害すると、何無忌は市に入って慟哭して去り、当時の人々はこの行動を義であるとした。劉牢之が桓玄を南征する軍に随った。劉牢之が桓玄に降伏しようとすると、何無忌はしばしば諫め、説得はとても切実であったが、劉牢之は従わなかった。桓玄が帝位を簒奪すると、何無忌が桓玄の吏部郎の曹靖之と旧知なので、小県に赴任したいと口利きをさせた。曹靖之が桓玄に申し入れたが、桓玄は許さず、何無忌は京口に還った。
これよりさき、劉裕はかつて劉牢之の参軍となり、何無忌とはふだんから親交を結んでいた。このときに至り、密かにともに桓玄を打倒しようとした。劉毅は家が京口にあり、何無忌とかねて仲が良かったが、話題が(晋帝国の)復興のことに及ぶと、何無忌は、「桓氏は強盛である、打倒できようか」と言った。劉毅は、「天下にはおのずから強者と弱者がおり、強者であっても弱体化するものだ。正しい君主を得がたいことだけが心配だ」と言った。何無忌は、「天下の草沢(在野)に英雄がいないわけではない」と言った。劉毅は、「私の見たところただ劉下邳がいるだけだ」と言った。何無忌は笑って答えず、還ってこれを劉裕に告げた。これを受けてともに劉毅を巻き込み、ともに決起を誓い、義兵を挙げ、京口を襲撃した。何無忌は偽って詔を伝える使者の服をつけ、敕使と称した。城中で敢えて動くものはなかった。
はじめ、桓玄は劉裕ら及び何無忌が起兵するを聞いて、ひどく懼れた。その配下は、「劉裕は烏合の衆であり、形勢として成功するはずがありません。どうかご心配なさらぬように」と言った。桓玄は、「劉裕は勇が三軍に冠し、当今において敵無しだ。劉毅は家は儋石の儲(備蓄)はないが、摴蒱(博打)で一擲すれば百万(の軍資金)を得る。何無忌は、劉牢之の甥であり、とても舅に似ている。彼らが協同して決起すれば、どうして成功しないというのか」と言った。このように警戒された。桓玄が敗走するに及び、武陵王遵(司馬遵)が承制して何無忌を輔国将軍・琅邪内史とし、会稽王道子(司馬道子)が率いる精兵をすべて何無忌の配下とし、南のかた桓玄を追わせ、振武将軍の劉道規とともに冠軍将軍の劉毅の節度を受けさせた。桓玄はその龍驤将軍の何澹之・前将軍の郭銓・江州刺史の郭昶之を留めて湓口を守らせた。何無忌ら桑落洲に駐屯し、何澹之らが軍を率いて来てそこで戦った。何澹之が乗っている船はいつも旌旗がたくさん立てられていた。何無忌は、「賊帥は必ずこの船に乗っていない、私を偽ろうとしているのだ。速やかに攻撃せよ」と言った。兵士たちはみな、「何澹之はこのなかにいなければ、眼前の敵軍を捕らえても無意味です」と言った。何無忌は劉道規に、「いま少数の兵では多数に勝てず、戦っても全勝はできない。何澹之がこの船にいなくても、攻め取ることは容易だ。その勢いで兵を自在の動かして士気を高めれば、軍鼓をひとたび鳴らせば敵軍を敗れるようになる」と言った。劉道規はこれに従い、ついに賊軍の船を確保した。これを広く告げて叫ばせ、「すでに何澹之を捕らえた」と言った。賊軍は驚き騒ぎ、何無忌の軍もまた(劉道規の軍と)同じことを触れ回った。劉道規は勝ちに乗じてまっすぐ進み、何無忌もまた軍鼓を打ち鳴らして殺到し、何澹之の軍は潰走するに至った。進んで尋陽に拠り、使者を送って宗廟の主祏及び武康公主・琅邪王妃を奉戴して京都に送り返した。また劉毅と劉道規とともに桓玄を破って崢嶸洲に走らせた。何無忌は進んで巴陵に拠った。桓玄の従兄の桓謙と従子の桓振がすきに乗じて江陵を陥落させたので、何無忌と劉道規は進んで桓謙を馬頭で攻撃し、桓蔚を龍泉で攻撃し、どちらも破った。(何無忌は)桓振に敗れると、退いて尋陽に還った。何無忌が劉毅・劉道規とともに再び進んで桓振を討伐し、夏口の三城を破り、かくして巴陵を平定し、進んで馬頭に駐屯した。桓謙は荊・江二州を割いて、天子を連れてきて奉戴したいと言ったが、何無忌は許さなかった。軍を進めて江陵を破り、何謙らは敗走した。何無忌は安帝を侍衛して京師に還った。何無忌を督豫州揚州淮南廬江安豊歴陽堂邑五郡軍事・右将軍・豫州刺史・加節とし、甲杖五十人を与えて殿に入らせる権限を賜ったが、着任せずにいた。会稽内史・督江東五郡軍事に遷り、持節・将軍は現状のままとし、鼓吹一部を給わった。義熙二年、都督江荊二州江夏隨義陽綏安豫州西陽新蔡汝南潁川八郡軍事・江州刺史に遷り、将軍・持節は現状のままとした。帝室復興の功績により、安城郡開国公に封建され、食邑は三千戸であった。督司州之弘農揚州之松滋を増し、散騎侍郎を加え、鎮南将軍に進んだ。
盧循が別帥の徐道覆を派遣して流れに乗って下ったが、(徐道覆の)水軍の船はすべて(高殿を備えた)重楼であった。何無忌が軍を率いてこれを防ごうとしたが、長史の鄧潜之が諫めて、「いま神がかった軍で反乱軍を防ぐことは、山をひっくり返して卵をつぶすことさえ、比喩にならないほど簡単です。しかし国家の展望はこの一戦にかかっています。聞くところでは敵軍の戦艦はとても立派で、川の上流で流れを味方に付けています。ハチやサソリの毒は(小さな虫ですが)、邾や魯でも警戒されました(『春秋左氏伝』僖公 伝二十二年)。どうか南塘を決壊させ、二城を守って待ち受けるべきです。敵軍は二城を放置して先に進むことはないのではありませんか。力を蓄えて敵軍が疲弊するのを待ち、その後に攻撃を仕掛けなさい。もし(軽々しく出撃し)万全の長策を捨てて、勝敗を賭けた場合、かりに敗れれば、後悔しても間に合いません」と言った。何無忌は従わず、水軍を繰り出して防いだ。何無忌軍が到着すると、賊は強弩の部隊の数百人を西岸の小山に登って迎撃させて射かけ、(川幅の狭い)山のそばで肉薄した。にわかに西風が強く吹き、何無忌が乗っている小艦が東岸に吹き寄せられ、賊は風を利用して大艦で接近した。何無忌軍は逃げて敗れたが、何無忌はそれでも声を励まして、「わが蘇武の節を取ってこい」と言った。節が到着すると、自ら手にとって督戦した。賊軍が雲のように集まり、数十人が何無忌の船に登ってきた。何無忌は言葉も態度もくじけることなく、節を握ったまま戦死した。詔して、「何無忌は賢明で行いが正しく、忠亮で誠意があり、身を滅ぼして国に殉じ、すぐれた計画に参画した。天下の統治が閉塞し、災禍が拡大している。善政を四方に及ぼすと、恵みが浸透した。妖賊が反乱し、国土を侵略すると、決然討伐に臨み、志は天子の世を清めた。しかし予想外の戦況となり、危機に陥ってもいよいよ奮起し、節を握ったまま戦没した。まことに古の賢者(蘇武)に等しい。朕は悲しんで彼のために慟哭する。そこで何無忌に侍中・司空を贈り、本官は生前のままとし、忠粛と諡せよ」と言った。子の何邕が嗣いだ。
かつて、桓玄が京邑を破ったとき、劉裕は東征していた。何無忌はひそかに劉裕の軍営を訪れ、義軍を挙げることを打診し、劉裕に山陰で挙兵せよと勧めた。劉裕は、「桓玄の大逆はまだ表に出ておらず、遠くで決起したところで、成功する可能性は高くない。桓玄が天子の位を盗んでから、京口で決起しても、遅くはない」と言った。何無忌は引き下がって帰った。(桓玄の簒奪が現実となり)義軍を決起させることになると、大きな勲功を立てる事業に参加し、すぐれた計略で(桓玄の軍を)攻め破って功績を立てた。ところが最後には軽率な作戦によって敗れたので、朝野は何無忌のことを痛み悲しんだ。
檀憑之字慶子、高平人也。少有志力。閨門邕肅、為世所稱。從兄子韶兄弟五人、皆稚弱而孤、憑之撫養若己所生。初為會稽王驃騎行參軍、轉桓脩長流參軍、領東莞太守、加寧遠將軍。與劉裕有州閭之舊、又數同東討、情好甚密。義旗之建、憑之與劉毅俱以私艱、墨絰而赴。雖才望居毅之後、而官次及威聲過之、故裕以為建武將軍。
裕將義舉也、嘗與何無忌・魏詠之同會憑之所。會善相者晉陵韋叟見憑之、大驚曰、「卿有急兵之厄、其候不過三四日耳。且深藏以避之、不可輕出」。及桓玄將皇甫敷之至羅落橋也、憑之與裕各領一隊而戰、軍敗、為敷軍所害。贈冀州刺史。義熙初、詔曰、「夫旌善紀功、有國之通典、沒而不朽、節義之篤行。故冀州刺史檀憑之忠烈果毅、亡身為國、既義敦其情、故臨危授命。考諸心迹、古人無以遠過、近者之贈、意猶恨焉。可加贈散騎常侍、本官如故。既隕身王事、亦宜追論封賞。可封曲阿縣公、邑三千戶」。
檀憑之 字は慶子、高平の人なり。少くして志力有り。閨門 邕肅たりて、世の稱する所と為る。從兄の子の韶 兄弟五人ありて、皆 稚弱にして孤なれば、憑之 撫養すること己の生む所が若し。初め會稽王驃騎行參軍と為り、桓脩が長流參軍に轉じ、東莞太守を領し、寧遠將軍を加ふ。劉裕と州閭の舊有りて、又 數々同に東討せば、情好 甚だ密なり。義旗の建つるとき、憑之 劉毅と與に俱に私艱を以て、墨絰して赴く。才望 毅の後に居ると雖も、而れども官次及び威聲 之に過ぎれば、故に裕 以て建武將軍と為す。
裕 將に義舉せんとするや、嘗て何無忌・魏詠之と與に同に憑之の所に會す。會々善く相する者たる晉陵の韋叟 憑之を見て、大いに驚きて曰く、「卿 急兵の厄有り、其の候 三四日を過ぎざるのみ。且つ深く藏して以て之を避けよ。輕々しく出づる可からず」と。桓玄が將の皇甫敷の羅落橋に至るに及び、憑之 裕と與に各々一隊を領して戰ふ。軍 敗れ、敷の軍の害する所と為る。冀州刺史を贈る。義熙の初に、詔して曰く、「夫れ善を旌し功を紀すは、有國の通典にして、沒して朽ちざるは、節義の篤行なり。故冀州刺史の檀憑之は忠烈果毅にして、身を亡して國が為にし、既に義として其の情に敦く、故に危に臨みて命を授く。諸心の迹を考ふるに、古人 以て遠過する無く、近者の贈は、意として猶ほ焉を恨めり。加へて散騎常侍を贈り、本官 故の如くす可し。既に身を王事に隕せば、亦た宜しく追ひて封賞を論ずべし。曲阿縣公に封じ、邑三千戶とす可し」と。
檀憑之は字を慶子といい、高平の人である。若いときから志と力を備えた。家庭が和らぎ厳粛であったので、世で称賛された。従兄の子の檀韶は兄弟が五人おり、みな幼弱のときに父を失ったため、檀憑之は自分の子のように養育した。はじめ会稽王驃騎行参軍となり、桓脩の長流参軍に転じ、東莞太守を領し、寧遠将軍を加えられた。劉裕と同郷の旧知であり、しばしば同行して東方を征伐したので、友情がとても親密だった。(晋室復興の)義旗の建てるとき、檀憑之と劉毅はどちらも私艱(父母の喪)であったので、墨絰して(軍服に黒色をまぜて)趣いた。檀憑之于の才望は劉毅よりも低かったが、官僚としての席次と威望が劉毅よりも高かったので、劉裕は檀憑之を建武将軍とした。
劉裕が義挙(打倒桓玄の挙兵)をするとき、何無忌と魏詠之が檀憑之のところに集まった。たまたま人相見である晋陵の韋叟が檀憑之を見て、ひどく驚いて、「あなたには戦争の災難があるが、この徴候は三、四日でおさまる。慎重に隠れて戦争を避けなさい。軽々しく出撃してはいけない」と言った。桓玄の将の皇甫敷が羅落橋に到達すると、檀憑之は劉裕とともに一隊ずつを領して戦った。軍が敗れ、皇甫敷の軍に殺害された。冀州刺史を贈られた。義熙の初に、詔して、「善行を表彰し功績を記録するのは、国家の原則であり、死後も不朽であるのは、節義の誠実な実行である。もと冀州刺史の檀憑之は忠烈果敢であり、国のために身を滅ぼしたが、情義に厚いので、危険な役割を与えた。心のあり方を考えるに、いにしえの人にすら比肩し、近年の追贈は不十分と思われる。加えて散騎常侍を贈り、本官はそのままとせよ。王の事業のために落命したので、封賞を追加すべきであるから、曲阿県公に封じ、邑三千戸とせよ」と言った。
魏詠之字長道、任城人也。家世貧素、而躬耕為事、好學不倦。生而兔缺。有善相者謂之曰、「卿當富貴」。年十八、聞荊州刺史殷仲堪帳下有名醫能療之、貧無行裝、謂家人曰、「殘醜如此、用活何為」。遂齎數斛米西上、以投仲堪。既至、造門自通。仲堪與語、嘉其盛意、召醫視之。醫曰、「可割而補之、但須百日進粥、不得語笑」。詠之曰、「半生不語、而有半生、亦當療之、況百日邪」。仲堪於是處之別屋、令醫善療之。詠之遂閉口不語、唯食薄粥、其厲志如此。及差、仲堪厚資遣之。
初為州主簿、嘗見桓玄。既出、玄鄙其精神不雋、謂坐客曰、「庸神而宅偉幹、不成令器」。竟不調而遣之。詠之早與劉裕游款、及玄篡位、協贊義謀。玄敗、授建威將軍・豫州刺史。桓歆寇歷陽、詠之率眾擊走之。義熙初、進征虜將軍・吳國內史、尋轉荊州刺史・持節・都督六州、領南蠻校尉。詠之初在布衣、不以貧賤為恥。及居顯位、亦不以富貴驕人。始為殷仲堪之客、未幾竟踐其位、論者稱之。尋卒于官。詔曰、「魏詠之器宇弘劭、識局貞隱、同奬之誠、實銘王府。敷績之效、垂惠在人。奄致隕喪、惻愴于心。可贈太常、加散騎常侍」。其後錄其贊義之功、追封江陵縣公、食邑二千五百戶、諡曰桓。弟順之至琅邪內史。
魏詠之 字は長道、任城の人なり。家は世々貧素にして、而れども躬ら耕して事と為し、學を好みて倦まず。生まれながらに兔缺なり。相を善くする者有りて之に謂ひて曰く、「卿 當に富貴たるべし」と。年十八にして、荊州刺史の殷仲堪の帳下に名醫の能く之を療する有りと聞く。貧にして行裝無く、家人に謂ひて曰く、「殘醜たること此の如し、活を用て何為せん」と。遂に數斛の米を齎して西上し、以て仲堪に投ず。既に至り、門に造るや自ら通ず。仲堪 與に語り、其の盛意を嘉し、醫を召して之を視しむ。醫曰く、「割きて之を補ふ可し。但だ百日は粥を進めて語笑するを得ざるを須つのみ」と。詠之曰く、「半生 語らず。而れども半生有りて、亦た之を療するに當たる。況んや百日をや」と。仲堪 是に於て之を別屋に處らしめ、醫をして善く之を療せしむ。詠之 遂に口を閉じて語らず、唯だ薄粥のみを食らひ、其の志を厲すこと此の如し。差ゆるに及び、仲堪 厚く資して之を遣はす。
初め州主簿と為り、嘗て桓玄に見ゆ。既に出づるや、玄 其の精神 不雋なるを鄙とし、坐客に謂ひて曰く、「庸神にして偉幹に宅す。令器と成らず」と。竟に調せずして之を遣る。詠之 早くに劉裕と游款し、玄 篡位するに及び、義謀に協贊す。玄 敗るるや、建威將軍・豫州刺史を授けらる。桓歆 歷陽を寇するや、詠之 眾を率ゐて擊ちて之を走らす。義熙の初に、征虜將軍・吳國內史に進み、尋いで荊州刺史・持節・都督六州に轉じ、南蠻校尉を領す。詠之 初めは布衣に在りて、貧賤を以て恥と為さず。顯位に居るに及び、亦た富貴を以て人に驕らず。始め殷仲堪の客と為り、未だ幾もなくして竟に其の位を踐む。論者 之を稱す。尋いで官に卒す。詔して曰く、「魏詠の器宇は弘劭にして、識局 貞隱なり。同奬の誠は、實に王府に銘す。敷績の效ありて、垂惠 人に在り。奄に隕喪に致り、心に惻愴す。太常を贈り、散騎常侍を加ふ可し」。其の後 其の贊義の功を錄し、江陵縣公を追封し、食邑は二千五百戶なり。諡して桓と曰ふ。弟の順之は琅邪內史に至る。
魏詠之は字を長道といい、任城の人である。家は代々貧しく、しかし自ら耕して家業を成り立たせ、学問を好んで倦まなかった。生まれながらに兔缺(上唇が裂けている)であった。人相見が魏詠之に対して、「あなたはきっと富貴になる」と言った。十八歳のとき、荊州刺史の殷仲堪の帳下に名医がいて(兔缺を)治療できると聞いた。貧しくて旅支度が整わず、家人に、「このように見すぼらしい、活(道中の食料か)をどうしたものか」と言った。こうして(厳しい家計から)数斛の米を持参して西方に遡上し、殷仲堪のもとを目指した。到着すると、門に到着すると自ずと通過できた。殷仲堪が語りあい、魏詠之の盛んな意気を気に入り、医者に診察させた。医者は、「切り裂いて補うとよい。しかし百日間は安静にして粥をすすり(通常の食事はできず)語笑することはできない」と言った。魏詠之は、「前半生で語ることがなく、しかし人生の半ばで、治療の機会に恵まれた。たった百日ならば我慢できます」と言った。殷仲堪は魏詠之を別棟に移し、医師に治療させた。魏詠之はずっと口を閉じて語らず、ただ薄粥だけを食べ、その意志の硬さはこのようであった。治癒すると、殷仲堪は十分な物資を持たせて帰らせた。
はじめ(魏詠之は)州主簿となり、かつて桓玄に会った。退出すると、桓玄は魏詠之の心だてに優れた点がないことを嫌い、同席した客に、「平凡な精神が立派な体に宿っている。(ちぐはぐで)大成する器ではない」と言った。こうして(自分の属官として)召さずに帰らせた。魏詠之は早くから劉裕と交流をもち、桓玄が帝位を簒奪すると、(晋室復興の)義挙に協力した。桓玄が敗れると、建威将軍・豫州刺史を授けられた。桓歆が歴陽を攻撃すると、魏詠之は兵を率いて攻撃しこれを敗走させた。義熙年間の初め、征虜将軍・呉国内史に進み、ほどなく荊州刺史・持節・都督六州に転じ、南蛮校尉を領した。魏詠之は生まれが布衣なので、貧賤を恥としなかった。高位高官になっても、富貴によって他人を侮らなかった。かつて殷仲堪の食客となったが、やがて同じ地位に就いた。論者はこれを称賛した。まもなく在官で亡くなった。詔して、「魏詠の器量は広大であり、見識は節度があり正しかった。ともに(義挙を)推進した誠意は、王府に刻まれる。高い戦績があって、恩恵を人に施した。にわかに死去し、心から痛み悲しむ。太常を贈り、散騎常侍を加えよ」といった。その後に義挙に参加した功績によって、江陵県公に追って封建し、食邑は二千五百戸であった。桓と諡した。弟の魏順之は琅邪内史にまで至った。
史臣曰、臣觀自古承平之化、必杖正人。非常之業、莫先奇士。當衰晉陵夷之際、逆玄僭擅之秋、外乏桓文、內無平勃、不有雄傑、安能濟之哉。此數子者、氣足以冠時、才足以經世、屬大亨數窮之運、乘義熙天啟之資、建大功若轉圜、翦羣兇如拉朽、勢傾百辟、祿極萬鍾、斯亦丈夫之盛也。然希樂陵傲而速禍、諸葛驕淫以成釁、造宋而乖同德、復晉而異純臣、謀之不臧、自取夷滅。無忌挾功名之大志、挺文武之良才、追舊而慟感時人、率義而響震勍敵、因機效捷、處死不懦、比乎向時之輩、豈同日而言歟。
贊曰、劉生剛愎、葛侯凶恣。患結滿盈、禍生疑貳。安成英武、體茲忠烈。捨家殉義、忘生存節。檀實棱威、身隕名飛。魏終協契、效績揚輝。
史臣曰く、臣 觀るに古より承平の化は、必ず正人に杖る。非常の業は、奇士を先とする莫し。衰晉 陵夷の際、逆玄 僭擅の秋に當たり、外は桓文に乏しく、內に平勃無し。雄傑有らずんば、安ぞ能く之を濟はんや。此の數子は、氣は以て時に冠するに足り、才は以て世を經するに足り、大亨 數窮の運に屬ひ、義熙 天啟の資に乘り、大功を建つること圜を轉すが若く、羣兇を翦すること朽を拉するが如し。勢は百辟を傾け、祿は萬鍾を極む。斯れも亦た丈夫の盛なり。然れども希樂は陵傲にして禍を速やかにし、諸葛は驕淫にして以て釁を成し、宋に造りて同德に乖し、晉を復して純臣に異なり。謀の臧ならずして、自ら夷滅を取る。無忌 功名の大志を挾み、文武の良才を挺し、舊を追ひて時人を慟感せしめ、義に率して勍敵を響震せしむ。機に因りて捷を效し、死に處りて懦せず。向時の輩に比して、豈に日を同じくして言ふや。
贊に曰く、劉生は剛愎にして、葛侯は凶恣なり。患 滿盈を結び、禍 疑貳を生ず。安成 英武にして、茲の忠烈を體す。家を捨て義に殉じ、生を忘れ節を存す。檀 實に棱威なりて、身は隕つるも名は飛す。魏は終に協契し、績を效し輝を揚ぐ。
史臣はいう、私が考えますに古より太平の世が続くのは、正しい人のおかげです。常ならぬ事業は、すぐれた人士が先導しないことがありません。晋帝国が衰亡すると、逆臣の桓玄が専横の機会をとらえました。外には桓文(斉桓公や晋文公のような藩屏)がおらず、内には平勃(陳平と周勃のような謀臣)がいませんでした。英雄でなければ、どうして救済できましょうか。この巻に列伝を収めた人々は、気概は当時において随一で、才力は世を正すために十分であり、国家の命運が尽きかけた時期、義熙年間(安帝期)において天の助けを味方につけました。大功を建てることは丸いものを転がすようで、凶悪なものを征伐することは朽ち木を破るようでした。形勢を生み出して諸臣の支持を取りつけ、賜与された俸禄は極大でありました。これらはみな立派な人物の盛んな事績です。しかし希樂(劉毅)は傲慢なので禍いを招き寄せ、諸葛(長民)は強欲なので不仲を生じ、宋代に至っては同徳(天子)に背き、晋に戻ったとしても純臣とは異なりました。はかりごとが不十分で、自ら滅亡を招きました。何無忌は功名を立てる大きな志を持ち、文武の良才を抜擢しました。先人を踏襲して感動させ、義兵を率いて強敵を震え上がらせました。戦機をつかんで勝利し、死地でも怯みませんでした。むかしの人々と比べ、同列に扱うことができましょうかと。
賛にいう、劉生(劉毅)は強情でひとの話を聞かず、葛侯(諸葛長民)は凶逆で自分勝手あった。困難が積み重なって現実となり、災難が疑惑と二心を招いた。安成(何無忌)はすぐれた武人であり、その忠烈を体現した。家を捨てて義に殉じ、命を顧みずに節を実行した。檀憑之はじつに威厳が高く、身は滅びたが声望は高まった。魏無忌は(生家が貧しいが)ついには大きな事業に参加し、功績を立てて栄誉を輝かせたと。