いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第五十六巻_張軌(子寔・寔弟茂・寔子駿・駿子重華・重華子耀霊・耀霊伯父祚・耀霊弟玄靚・玄靚叔天錫)

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。
〈主催者注〉張寔伝以降を、21年8月22日に掲載し、本巻の翻訳は完結しました。

張軌

原文

張軌、字士彥、安定烏氏人、漢常山景王耳十七代孫也。家世孝廉、以儒學顯。父溫、爲太官令。軌少明敏好學、有器望、姿儀・典則、與同郡皇甫謐善、隱于宜陽女几山。泰始初、受叔父錫官五品。中書監張華與軌論經義及政事損益、甚器之、謂安定中正爲蔽善抑才、乃美爲之談、以爲二品之精。衞將軍楊珧辟爲掾、除太子舍人、累遷散騎常侍・征西軍司。
軌以時方多難、陰圖據河西、筮之、遇泰之觀、乃投筴喜曰「霸者兆也。」於是求爲涼州。公卿亦舉軌才堪御遠。永寧初、出爲護羌校尉・涼州刺史。于時鮮卑反叛、寇盜從橫、軌到官、即討破之、斬首萬餘級、遂威著西州、化行河右。以宋配・陰充・氾瑗・陰澹爲股肱謀主、徵九郡冑子五百人、立學校、始置崇文祭酒、位視別駕、春秋行郷射之禮。祕書監繆世徵・少府摯虞夜觀星象、相與言曰「天下方亂、避難之國唯涼土耳。張涼州德量不恒、殆其人乎。」及河閒・成都二王之難、遣兵三千、東赴京師。初、漢末金城人陽成遠殺太守以叛、郡人馮忠赴尸號哭、嘔血而死。張掖人吳詠爲護羌校尉馬賢所辟、後爲太尉龐參掾、參・賢相誣、罪應死、各引詠爲證、詠計理無兩直、遂自刎而死。參・賢慚悔、自相和釋。軌皆祭其墓而旌其子孫。永興中、鮮卑・若羅拔能皆爲寇、軌遣司馬宋配擊之、斬拔能、俘十餘萬口、威名大震。惠帝遣加安西將軍、封安樂郷侯、邑千戸。於是大城姑臧。其城本匈奴所築也、南北七里、東西三里、地有龍形、故名臥龍城。初、漢末博士敦煌侯瑾謂其門人曰「後城西泉水當竭、有雙闕起其上、與東門相望、中有霸者出焉。」至魏嘉平中、郡官果起學館、築雙闕于泉上、與東門正相望矣。至是、張氏遂霸河西。
永嘉初、會東羌校尉韓稚殺秦州刺史張輔、軌少府司馬楊胤言於軌曰「今稚逆命、擅殺張輔。明公杖鉞一方、宜懲不恪。此亦春秋之義、諸侯相滅亡、桓公不能救、則桓公恥之。」軌從焉、遣中督護氾瑗率眾二萬討之、先遺稚書曰「今王綱紛撓、牧守宜勠力勤王。適得雍州檄、云卿稱兵内侮。吾董任一方、義在伐叛。武旅三萬、駱驛繼發、伐木之感、心豈可言。古之行師、全國爲上、卿若單馬軍門者、當與卿共平世難也。」稚得書而降。
遣主簿令狐亞聘南陽王模、模甚悦、遺軌以帝所賜劍、謂軌曰「自隴以西、征伐・斷割悉以相委、如此劍矣。」俄而王彌寇洛陽、軌遣北宮純・張纂・馬魴・陰濬等率州軍擊破之、又敗劉聰于河東、京師歌之曰「涼州大馬、橫行天下。涼州鴟苕、寇賊消、鴟苕翩翩、怖殺人。」帝嘉其忠、進封西平郡公、不受。
張掖臨松山石有「金馬」字、磨滅粗可識、而「張」字分明、又有文曰「初祚天下、西方安萬年。」姑臧又有玄石、白點成二十八宿。于時天下既亂、所在使命莫有至者、軌遣使貢獻、歲時不替。朝廷嘉之、屢降璽書慰勞。
軌後患風、口不能言、使子茂攝州事。酒泉太守張鎮潛引秦州刺史賈龕以代軌、密使詣京師、請尚書侍郎曹袪爲西平太守、圖爲輔車之勢。軌別駕麴晁欲專威福、又遣使詣長安、告南陽王模、稱軌廢疾、以請賈龕、而龕將受之。其兄讓龕曰「張涼州一時名士、威著西州、汝何德以代之。」龕乃止。更以侍中爰瑜爲涼州刺史。治中楊澹馳詣長安、割耳盤上、訴軌之被誣、模乃表停之。
晉昌張越、涼州大族、讖言張氏霸涼、自以才力應之。從隴西内史遷梁州刺史。越志在涼州、遂託病歸河西、陰圖代軌、乃遣兄鎮及曹袪・麴佩移檄廢軌、以軍司杜耽攝州事、使耽表越爲刺史。軌令曰「吾在州八年、不能綏靖區域、又値中州兵亂、秦隴倒懸、加以寢患委篤、實思斂迹避賢。但負荷任重、未便輒遂。不圖諸人橫興此變、是不明吾心也。吾視去貴州如脱屣耳。」欲遣主簿尉髦奉表詣闕、便速脂轄、將歸老宜陽。長史王融・參軍孟暢蹹折鎮檄、排閤入諫曰「晉室多故、人神塗炭、實賴明公撫寧西夏。張鎮兄弟敢肆凶逆、宜聲其罪而戮之、不可成其志也。」軌嘿然。融等出而戒嚴。武威太守張琠遣子坦馳詣京、表曰「魏尚安邊而獲戻、充國盡忠而被譴、皆前史之所譏、今日之明鑒也。順陽之思劉陶、守闕者千人。刺史之莅臣州、若慈母之於赤子、百姓之愛臣軌、若旱苗之得膏雨。伏聞信惑流言、當有遷代。民情嗷嗷、如失父母。今戎夷猾夏、不宜搔動一方。」尋以子寔爲中督護、率兵討鎮。遣鎮外甥太府主簿令狐亞前喩鎮曰「舅何不審安危、明成敗。主公西河著德、兵馬如雲、此猶烈火已焚、待江漢之水、溺於洪流、望越人之助。其何及哉。今數萬之軍已臨近境、今唯全老親、存門戸、輸誠歸官、必保萬全之福。」鎮流涕曰「人誤我也。」乃委罪功曹魯連而斬之、詣寔歸罪。南討曹袪、走之。張坦至自京師、帝優詔勞軌、依模所表、命誅曹袪。軌大悦、赦州内殊死已下。命寔率尹員・宋配步騎三萬討袪、別遣從事田迥・王豐率騎八百自姑臧西南出石驢、據長寧。袪遣麴晁距戰于黃阪。寔詭道出浩亹、戰于破羌。軌斬袪及牙門田囂。
遣治中張閬送義兵五千及郡國秀孝・貢計・器甲・方物歸于京師。令有司可推詳立州已來清貞德素、嘉遁遺榮、高才碩學、著述經史、臨危殉義、殺身爲君、忠諫而嬰禍、專對而釋患、權智雄勇、爲時除難、諂佞誤主、傷陷忠賢、具狀以聞。州中父老莫不相慶。光祿傅祗・太常摯虞遺軌書、告京師飢匱、軌即遣參軍杜勳獻馬五百匹・㲜布三萬匹。帝遣使者進拜鎮西將軍・都督隴右諸軍事、封霸城侯。進車騎將軍・開府辟召儀同三司、策未至、而王彌遂逼洛陽、軌遣將軍張斐・北宮純・郭敷等率精騎五千來衞京都。及京都陷、斐等皆沒於賊。中州避難來者日月相繼、分武威置武興郡以居之。太府主簿馬魴言於軌曰「四海傾覆、乘輿未反。明公以全州之力徑造平陽、必當萬里風披、有征無戰。未審何憚不爲此舉。」軌曰「是孤心也。」又聞秦王入關、乃馳檄關中曰「主上遘危、遷幸非所、普天分崩、率土喪氣。秦王天挺聖德、神武應期。世祖之孫、王今爲長。凡我晉人、食土之類、龜筮克從、幽明同款。宜簡令辰、奉登皇位。今遣前鋒督護宋配步騎二萬、徑至長安、翼衞乘輿、折衝左右。西中郎寔中軍三萬、武威太守張琠胡騎二萬、駱驛繼發、仲秋中旬會于臨晉。」
俄而秦王爲皇太子、遣使拜軌爲驃騎大將軍・儀同三司、固辭。秦州刺史裴苞・東羌校尉貫與據險斷使、命宋配討之。西平王叔與曹袪餘黨麴儒等劫前福祿令麴恪爲主、執太守趙彝、東應裴苞。寔迴師討之、斬儒等。左督護陰預與苞戰狹西、大敗之、苞奔桑凶塢。是歲、北宮純降劉聰。皇太子遣使重申前授、固辭。左司馬竇濤言於軌曰「曲阜周旦弗辭、營丘齊望承命、所以明國憲、厲殊勳。天下崩亂、皇輿遷幸、州雖僻遠、不忘匡衞、故朝廷傾懷、嘉命屢集。宜從朝旨、以副羣心。」軌不從。
初、寔平麴儒、徙元惡六百餘家。治中令狐瀏曰「夫除惡人、猶農夫之去草、令絕其本、勿使能滋。今宜悉徙、以1.(後絕)〔絕後〕患。」寔不納。儒黨果叛、寔進平之。
愍帝即位、進位司空、固讓。太府參軍索輔言於軌曰「古以金貝皮幣爲貨、息穀帛量度之秏。二漢制五銖錢、通易不滯。泰始中、河西荒廢、遂不用錢、裂匹以爲段數。縑布既壞、市易又難、徒壞女工、不任衣用、弊之甚也。今中州雖亂、此方安全、宜復五銖以濟通變之會。」軌納之、立制準布用錢、錢遂大行、人賴其利。是時劉曜寇北地、軌又遣參軍麴陶領三千人衞長安。帝遣大鴻臚辛攀拜軌侍中・太尉・涼州牧・西平公、軌又固辭。
在州十三年、寢疾、遺令曰「吾無德於人、今疾病彌留、殆將命也。文武將佐咸當弘盡忠規、務安百姓、上思報國、下以寧家。素棺薄葬、無藏金玉。善相安遜、以聽朝旨。」表立子寔爲世子。卒年六十。諡曰武公。

1.周家禄『晉書校勘記』に従い、「後」と「絕」の順序を入れ替える。

訓読

張軌、字は士彥、安定烏氏の人にして、漢の常山景王耳の十七代の孫なり。家は世々孝廉にして、儒學を以て顯る。父の溫、太官令と爲る。軌、少くして明敏にして學を好み、器望有り、姿儀・典則あり、同郡の皇甫謐(こうほひつ)と善く、宜陽の女几山に隱る。泰始の初め、叔父の錫の官五品を受く。中書監の張華、軌と與に經義及び政事の損益を論ずるや、甚だ之を器とし、安定中正は善を蔽い才を抑うるを爲すと謂い、乃ち美して之が爲に談じ、以て二品の精と爲る。衞將軍の楊珧(ようよう)、辟して掾と爲し、太子舍人に除せられ、累遷して散騎常侍・征西軍司たり。
軌、時に方に難多きを以て、陰かに河西に據らんことを圖り、之を筮うや、泰の觀に遇いたれば、乃ち筴を投じて喜びて曰く「霸者の兆なり」と。是に於いて涼州と爲らんことを求む。公卿も亦た軌は才遠きを御すに堪うと舉ぐ。永寧の初め、出でて護羌校尉・涼州刺史と爲る。時に鮮卑反叛し、寇盜すること從橫なるに、軌、官に到るや、即ち討ちて之を破り、首を斬ること萬餘級、遂に威は西州に著れ、化は河右に行わる。宋配・陰充・氾瑗(はんえん)・陰澹(いんたん)を以て股肱の謀主と爲し、九郡の冑子五百人を徵し、學校を立て、始めて崇文祭酒を置き、位は別駕に視え、春秋に郷射の禮を行わしむ。祕書監の繆世徵(びゅうせいちょう)・少府の摯虞(しぐ)、夜に星象を觀、相い與に言いて曰く「天下方に亂れんとするに、難を避くるの國は唯だ涼土のみ。張涼州は德量恒ならず、殆ど其の人なるかな」と。河閒・成都二王の難あるに及び、兵三千を遣わし、東のかた京師に赴かしむ。初め、漢末の金城の人の陽成遠の太守を殺して以て叛するや、郡人の馮忠(ふうちゅう)は尸に赴きて號哭し、血を嘔きて死す。張掖の人の吳詠は護羌校尉の馬賢の辟す所と爲り、後に太尉の龐參(ほうさん)の掾と爲るに、參・賢、相い誣し、罪は應に死すべしとし、各々詠を引きて證と爲さんとしたれば、詠は理として兩つながら直たる無しと計り、遂に自刎して死す。參・賢、慚悔し、自ら相い和釋す。軌、皆な其の墓を祭りて其の子孫を旌す。永興中、鮮卑・若羅拔能〔一〕、皆な寇を爲したれば、軌、司馬の宋配を遣わして之を擊ち、拔能を斬り、十餘萬口を俘にし、威名は大いに震う。惠帝、遣わして安西將軍を加え、安樂郷侯に封じ、邑は千戸。是に於いて大いに姑臧に城く。其の城は本と匈奴の築く所にして、南北七里、東西三里、地は龍形有れば、故に臥龍城と名づく。初め、漢末の博士の敦煌の侯瑾(こうきん)、其の門人に謂いて曰く「後に城西の泉水の竭るるに當たり、雙闕の其の上に起つる有り、東門と相い望み、中に霸者有りて焉より出でん」と。魏の嘉平中に至り、郡官、果たして學館を起て、雙闕を泉上に築き、東門と正に相い望む。是に至り、張氏、遂に河西に霸たり。
永嘉の初め、會々東羌校尉の韓稚(かんち)、秦州刺史の張輔を殺すや、軌の少府司馬〔二〕の楊胤(よういん)、軌に言いて曰く「今、稚は命に逆らい、擅に張輔を殺す。明公は鉞を一方に杖きたれば、宜しく不恪を懲らしむべし。此れ亦た春秋の義にして、諸侯の相い滅亡するに、桓公、救う能わざれば、則ち桓公、之を恥ず」と。軌、焉に從い、中督護の氾瑗を遣わして眾二萬を率いて之を討たしむるに、先に稚に書を遺りて曰く「今、王綱は紛撓たり、牧守は宜しく力を勠せて王に勤むべし。適に雍州の檄を得るに、云わく、卿は兵を稱ぐも内に侮ゆ、と。吾、董すに一方を任せられ、義は叛せしを伐つに在り。武旅三萬、駱驛として繼ぎて發せば、伐木の感、心に豈に言うべけんや。古の行師、國を全くするを上と爲せば、卿、若し軍門に單馬せば、當に卿と共に世難を平ぐべきなり」と。稚、書を得て降る。
主簿の令狐亞を遣わして南陽王模に聘うや、模、甚だ悦び、軌に遺るに帝の賜いし所の劍を以てし、軌に謂いて曰く「隴より以西、征伐・斷割は悉く以て相い委ぬること、此の劍の如くにせん」と。俄かにして王彌(おうび)の洛陽に寇するや、軌、北宮純・張纂(ちょうさん)・馬魴(ばほう)・陰濬(いんしゅん)等を遣わして州軍を率いて之を擊破せしめ、又た劉聰を河東に敗りたれば、京師は之を歌いて曰く「涼州の大馬、天下に橫行す。涼州の鴟苕、寇賊消え、鴟苕翩翩として、人を殺さんことを怖る」と。帝、其の忠を嘉し、封を西平郡公に進むるも、受けず。
張掖の臨松山の石に「金馬」の字有り、磨滅するも粗(あらま)し識るべく、而して「張」の字、分明たり、又た文有りて曰く「初めて天下に祚し、西方安んずること萬年」と。姑臧に又た玄石有り、白點は二十八宿を成す。時に天下は既に亂れ、所在の使命は至る者有る莫けれども、軌、使を遣わして貢獻し、歲時替えず。朝廷、之を嘉し、屢々璽書を降して慰勞す。
軌、後に風を患い、口に言う能わざれば、子の茂をして州事を攝らしむ。酒泉太守の張鎮、潛かに秦州刺史の賈龕(かかん)を引きて以て軌に代えんとし、密かに使をして京師に詣らしめ、尚書侍郎の曹袪(そうきょ)を請いて西平太守と爲し、輔車の勢を爲さんことを圖る。軌の別駕の麴晁(きくちょう)、威福を專らにせんと欲し、又た使を遣わして長安に詣らしめ、南陽王模に告げ、軌は廢疾たり〔三〕と稱し、以て賈龕を請い、而して龕、將に之を受けんとす。其の兄、龕を讓めて曰く「張涼州は一時の名士にして、威は西州に著われたるに、汝、何の德かありて以て之に代わらんとす」と。龕、乃ち止む。更めて侍中の爰瑜(えんゆ)を以て涼州刺史と爲す。治中の楊澹(ようたん)、馳せて長安に詣り、耳を盤上に割き、軌は誣を被けたりと訴えたれば、模、乃ち表して之を停む。
晉昌の張越、涼州の大族にして、讖に張氏は涼に霸たりと言いたれば、自ら以えらく、才力之に應ず、と。隴西内史より梁州刺史に遷る。越は志涼州に在れば、遂に病に託して河西に歸り、陰かに軌に代わらんことを圖り、乃ち兄の鎮及び曹袪・麴佩(きくはい)を遣わして檄を移して軌を廢し、軍司の杜耽(とたん)を以て州事を攝らしめ、耽をして越を表して刺史と爲さしめんとす。軌、令して曰く「吾、州に在ること八年、區域を綏靖する能わず、又た中州の兵亂、秦隴の倒懸に値たり、加うるに寢く委篤を患うを以てすれば、實に迹を斂め賢に避けんことを思う。但だ任重を負荷すれば、未だ輒ち遂ぐるに便ならざるのみ。圖らざりき、諸人の橫に此の變を興さんとは。是れ吾が心を明らかにせざるなり。吾、視るに、貴州を去るは屣を脱ぐが如きのみ」と。主簿の尉髦(うつぼう)を遣わして表を奉じて闕に詣らしめ、便ち速やかに轄に脂し、將に宜陽に歸老せんと欲す。長史の王融・參軍の孟暢(もうちょう)、鎮の檄を蹹折し、閤を排して入りて諫めて曰く「晉室は故多く、人神は塗炭なれば、實に明公を賴りて西夏を撫寧せん。張鎮の兄弟は敢えて凶逆を肆にしたれば、宜しく其の罪を聲べて之を戮し、其の志を成すべからざらしむべきなり」と。軌、嘿然とす。融等、出でて戒嚴す。武威太守の張琠(ちょうてん)、子の坦を遣わして馳せて京に詣らしめ、表して曰く「魏尚の邊を安んずるも戻を獲、充國の忠を盡くすも譴を被るは、皆な前史の譏る所にして、今日の明鑒なり。順陽の劉陶を思うや、闕を守る者は千人。刺史の臣州に莅むや、慈母の赤子に於けるが若く、百姓の臣軌を愛すや、旱苗の膏雨を得るが若し。伏して聞くならく、信に流言に惑い、當に遷代有らんとす、と。民情は嗷嗷として、父母を失うが如し。今、戎夷は夏を猾したれば、宜しく一方を搔動すべからず」と。尋いで子の寔を以て中督護と爲し、兵を率いて鎮を討たしむ。鎮の外甥の太府主簿の令狐亞を遣わして前みて鎮を喩さしめて曰く「舅は何ぞ安危を審かにし、成敗を明らかにせざらんや。主公は西河に德を著し、兵馬は雲の如くなれば、此れ猶お烈火已に焚くに、江漢の水を待ち、洪流に溺れ、越人の助けを望むがごとし。其れ何ぞ及ばんや。今、數萬の軍、已に近境に臨みたれば、今、唯だ老親を全くし、門戸を存せんとするのみにして、誠を輸して官に歸せば、必ず萬全の福を保たん」と。鎮、流涕して曰く「人、我を誤るなり」と。乃ち罪を功曹の魯連に委せて之を斬り、寔に詣りて罪に歸す。南のかた曹袪を討ち、之を走らす。張坦、至るに京師よりするや、帝、優詔もて軌を勞い、模の表する所に依り、曹袪を誅せんことを命ず。軌、大いに悦び、州内の殊死已下を赦す。寔に命じて尹員(いんいん)・宋配の步騎三萬を率いて袪を討たしめ、別に從事の田迥(でんけい)・王豐を遣わして騎八百を率いて姑臧の西南より石驢に出で、長寧に據らしむ。袪、麴晁を遣わして黃阪に距戰せしむ。寔、詭道より浩亹に出で、破羌に戰う。軌、袪及び牙門の田囂(でんごう)を斬る。
治中の張閬(ちょうろう)を遣わして義兵五千及び郡國の秀孝・貢計・器甲・方物を送りて京師に歸せしむ。有司をして推詳すべき立州已來の清貞にして德素あり、嘉く遁れて榮を遺てしもの、高才碩學にして、經史を著述せしもの、危に臨みて義に殉じ、身を殺して君の爲にせしもの、忠諫して禍に嬰り、專對して患を釋きしもの、權智・雄勇にして、時の爲に難を除きしもの、諂佞して主を誤り、忠賢を傷陷せしものもて、狀を具して以て聞せしむ。州中の父老、相い慶ばざるは莫し。光祿の傅祗(ふし)・太常の摯虞(しぐ)は軌に書を遺り、京師の飢匱せるを告げたれば、軌、即ち參軍の杜勳を遣わして馬五百匹・㲜布三萬匹を獻ぜしむ。帝、使者を遣わして進めて鎮西將軍・都督隴右諸軍事に拜し、霸城侯に封ず。車騎將軍・開府辟召儀同三司に進むるも、策未だ至らずして、而して王彌、遂に洛陽に逼りたれば、軌、將軍の張斐(ちょうはい)・北宮純・郭敷(かくふ)等を遣わして精騎五千を率いて來りて京都を衞らしむ。京都の陷つるに及び、斐等は皆な賊に沒す。中州の難を避けて來る者、日月に相い繼ぎたれば、武威を分かちて武興郡を置き以て之に居らしむ。太府主簿の馬魴、軌に言いて曰く「四海は傾覆し、乘輿は未だ反らず。明公、全州の力を以て徑ちに平陽に造らば、必ず當に萬里に風披し、征有るも戰無かるべし〔四〕。未だ何をか憚りて此の舉を爲さざるかを審かにせず」と。軌曰く「是れ孤の心なり」と。又た秦王の關に入るを聞くや、乃ち檄を關中に馳せて曰く「主上は危に遘い、遷りて非所に幸し、普天は分崩し、率土は氣を喪う。秦王は天挺にして聖德あり、神武にして期に應ず。世祖の孫、王は今や長と爲る。凡そ我が晉人、食土の類、龜筮克く從い、幽明同に款ぶ。宜しく令辰を簡び、奉じて皇位に登すべし。今、前鋒督護の宋配の步騎二萬を遣わし、徑ちに長安に至らしめ、乘輿を翼衞し、左右に折衝せん。西中郎の寔の中軍三萬、武威太守の張琠の胡騎二萬、駱驛として繼ぎて發すれば、仲秋の中旬に臨晉に會せん」と。
俄かにして秦王の皇太子と爲るや、使を遣わして軌を拜して驃騎大將軍・儀同三司と爲すも、固辭す。秦州刺史の裴苞(はいほう)・東羌校尉の貫與、險に據りて使を斷ちたれば、宋配に命じて之を討たしむ。西平の王叔、曹袪の餘黨の麴儒(きくじゅ)等と與に前の福祿令の麴恪(きくかく)を劫して主と爲し、太守の趙彝(ちょうい)を執え、東のかた裴苞に應ず。寔、師を迴して之を討ち、儒等を斬る。左督護の陰預、苞と狹西に戰い、大いに之を敗り、苞は桑凶塢に奔る。是の歲、北宮純、劉聰に降る。皇太子、使を遣わして重ねて前授を申せしむるも、固辭す。左司馬の竇濤(とうとう)、軌に言いて曰く「曲阜もて周旦の辭せず、營丘もて齊望の命を承けしは、國憲を明らかにし、殊勳を厲ます所以なり。天下は崩亂し、皇輿は遷幸せるに、州は僻遠なりと雖も、匡衞するを忘れざれば、故に朝廷は傾懷するも、嘉命は屢々集(いた)る。宜しく朝旨に從い、以て羣心に副うべし」と。軌、從わず。
初め、寔の麴儒を平ぐるや、元惡六百餘家を徙す。治中の令狐瀏(れいこりゅう)曰く「夫れ惡人を除くは、猶お農夫の草を去るがごとく、其の本を絕たしめ、能く滋らしむ勿し。今、宜しく悉く徙し、以て後患を絕つべし」と。寔、納れず。儒の黨、果たして叛し、寔、進みて之を平ぐ。
愍帝の即位するや、位を司空に進むるも、固く讓る。太府參軍の索輔(さくほ)、軌に言いて曰く「古、金貝皮幣を以て貨と爲し、穀帛の量度の秏〔五〕を息む。二漢は五銖錢を制し、通易して滯らず。泰始中、河西は荒廢し、遂に錢を用いず、匹を裂いて以て段數を爲す。縑布既に壞れ、市易も又た難く、徒らに女工を壞ち、衣用に任えざるは、弊の甚しきなり。今、中州は亂ると雖も、此の方は安全なれば、宜しく五銖を復して以て通變の會を濟すべし」と。軌、之を納れ、立ちどころに制して布に準えて錢を用いしむるや、錢は遂に大いに行し、人は其の利に賴る。是の時、劉曜は北地に寇したれば、軌、又た參軍の麴陶(きくとう)を遣わして三千人を領して長安を衞らしむ。帝、大鴻臚の辛攀(しんはん)を遣わして軌を侍中・太尉・涼州牧・西平公に拜するも、軌、又た固辭す。
州に在ること十三年、疾に寢ぬるや、遺令して曰く「吾、人に德無く、今、疾病は彌しく留まり、殆ど將に命ならんとするなり。文武の將佐は咸な當に弘く忠規を盡くし、務めて百姓を安んじ、上は國に報いんことを思い、下は家を寧んぜんことを以うべし。素棺もて薄葬し、金玉を藏する無かれ。善く安遜を相け、以て朝旨を聽(ま)て」と。表して子の寔を立てて世子と爲す。卒年六十。諡して武公と曰う。

〔一〕「鮮卑の若羅抜能」と読みたいところだが、そうすると直後の「皆」が不自然となる。ここでは、「皆」のニュアンスを活かして「鮮卑や若羅抜能」として訳したが、「鮮卑若羅拔能等皆~」の「等」が抜け落ちている、あるいは省略されているだけで、「鮮卑の若羅抜能らは皆~」の意味である可能性も十分にあることを指摘しておく。
〔二〕前涼では、「太府」と「少府」の二府を中心にして政権運営が行われた。『資治通鑑』巻九十・晉紀十二・中宗元皇帝上・建武元年正月の条の胡三省注によれば、太府とは都督府のことで、少府とは涼州府のことであるという。
〔三〕「廃疾」は現代日本では差別用語として忌避されているが、ここでは原文のニュアンスを尊重して訳にも用いた。他意はないこと、ご理解いただきたい。
〔四〕「征有るも戰無し」とは、『荀子』議兵篇が出典であるが、漢魏晋期の人の解釈では、王者は征伐の軍を起こしても、戦闘を行うことなく徳によって相手を帰服させるという意味に捉え、『孫子』の「百戰して百勝するは、善の善なる者に非ざるなり。戰わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。」という考えに通ずるものと見ているようである。
〔五〕後文で示されるような、布帛などを貨幣として用いる際に、実用に資さなくなってしまう部分が多く生じてしまうという弊害。

現代語訳

張軌は、字を士彦と言い、安定郡・烏氏の人であり、漢の常山景王・張耳の十七代の子孫である。家は代々孝廉に挙げられている家柄で、儒学で名を揚げていた。父の張温は、太官令にまで昇った。張軌は、若い頃から聡明・機敏であり、学問を好み、才気と名望があり、容貌も優れ、立ち居振る舞いはのりに従うものであり、同郡出身の皇甫謐(こうほひつ)と親しく、宜陽県の女几山に隠棲した。(西晋の武帝の)泰始年間の初め、叔父の張錫(ちょうせき)の官品に基づいて五品の郷品を得た。中書監の張華は、経義や、政務の良い点・悪い点について張軌と一緒に論じたところ、張軌を非常に高く評価し、(張軌に郷品五品を与えた)安定郡の中正は善人を衆人の目から覆い隠し、才人を世に出られないように抑えるようなことをしていると考え、そこで張軌のために彼を賛美して人々に語り、それによって張軌は華々しい郷品二品を得ることができた。衛将軍の楊珧(ようよう)は、張軌を辟召して掾に任じ、その後、張軌は太子舍人に任命され、何度も昇進して散騎常侍・征西軍司(征西将軍つきの軍司)となった。
張軌は、時勢がちょうど多難であることから、こっそり河西の地に割拠しようと図り、そのことを筮竹で占うと、泰の卦が出たので、そこで筮竹を放り出して喜んで言った。「これは覇者の兆である」と。そこで張軌は涼州刺史への就任を求めた。公卿もまた、張軌の才能は僻遠の地を統治するのに十分であるとして、彼を推挙した。(恵帝の)永寧年間の初め、張軌は地方に出て護羌校尉・涼州刺史となった。時に鮮卑が反乱を起こし、好き勝手に略奪を行っていたが、張軌は赴任するとすぐにこれを討伐して破り、斬首一万級余りの功績を上げ、そうしてその威厳は西州一帯に知れわたり、その教化は河西の地に広まった。張軌は宋配・陰充・氾瑗(はんえん)・陰澹(いんたん)を股肱の謀主とし、九郡(金城・西平・武威・張掖・西郡・酒泉・敦煌・西海・晋昌)の冑子(士大夫の長子)五百人を召し出し、学校を建て、初めて崇文祭酒の官職を設置し、別駕従事に準ずる位とし、春と秋に郷射の礼を行わせた。祕書監の繆世徴(びゅうせいちょう)と少府の摯虞(しぐ)は、夜に天体の様子を観察し、互いに言い合った。「天下は今まさに乱れようとしているが、この禍難を避けられる地域はただ涼州だけである。張涼州(張軌)は、徳も器量も並みならず、おそらくはこの人のことを指しているのであろう」と。河間王・司馬顒(しばぎょう)、成都王・司馬穎(しばえい)の二王の禍難が起こると、張軌は兵三千を派遣し、東の京師に赴かせた。かつて、後漢末の金城郡の人である陽成遠が金城太守を殺して反乱を起こすと、金城郡の人である馮忠(ふうちゅう)はその太守の遺体に駆け寄って慟哭し、血を吐いて死んだ。また、(後漢後期の)張掖郡の人である呉詠は、護羌校尉の馬賢に辟召されたことがあったが、後に太尉の龐参(ほうさん)の掾に任じられた際に、龐参と馬賢が互いに誣告し合い、それぞれ罪は死刑に相当すると主張し、二人とも呉詠を招いて証人にしようとしたので、呉詠は道理として両方に対して正直であることはできないと考え、そこで自刎して死んだ。龐参と馬賢は恥じて後悔し、自分から進んで和解し合った。張軌は、馮忠と呉詠の二人ともに対して、その墓を祭ってその子孫を表彰した。(恵帝の)永興年間、鮮卑や若羅抜能らがみな侵略を行っていたので、張軌は司馬の宋配を派遣して攻撃させ、若羅抜能を斬り、十数万人を捕虜にし、その威名は大いに振るった。恵帝は、使者を遣わして張軌に安西将軍の官位を加え、安楽郷侯に封じ、封邑は千戸とした。そこで張軌は大いに姑臧の城壁を増築した。その城はもともと匈奴の築いたもので、南北は七里、東西は三里、その地形は山間で龍のようであるため、臥龍城と名付けられた。かつて、後漢末に博士に任じられた敦煌郡の人である侯瑾(こうきん)は、その門人に言った。「後に城の西の泉の水が枯れたとき、その上には双闕が建てられ、城の東門と向き合い、覇者となる者がその中から現れるであろう」と。魏の(斉王・曹芳の)嘉平年間になると、果たして(姑臧県の属する)武威郡の官吏が学館を建て、双闕を泉の上に築き、城の東門と正対して向き合うことになった。そして、このときになって、張氏がとうとう河西に覇を唱えたのであった。
(懐帝の)永嘉年間の初め、ちょうど東羌校尉の韓稚(かんち)が秦州刺史の張輔を殺すと、張軌の少府司馬の楊胤(よういん)が張軌に言った。「今、韓稚は朝廷の命に逆らって勝手に張輔を殺しました。あなたはこの涼州という一地方で鉞をつく役目(つまり軍事長官)を任されておりますので、不敬なる者を懲らしめるべきです。これはまさに『春秋』の義であり、諸侯が滅亡した際に、(覇者である)斉の桓公は、それを救うことができないと、そのことを恥じたと言います」と。張軌はその言葉に従い、中督護の氾瑗を派遣して二万の兵衆を率いて討伐させたが、それに先立って韓稚に書を送って言った。「今、国の綱紀は乱れ、刺史や太守たちがみな力を合わせて陛下のために尽くすべきときである。ちょうど雍州の檄文を得たところ、そこには、そなたは兵を挙げたものの内心ではそれを後悔しているとあった。私は一地方を監督することを任され、義は反乱を起こした者を討伐することに在る。しかし、三万の軍が次々に続いて進発してしまえば、そなたに対して(親族や友人同士での親和を詠う『詩』小雅の)『伐木』の詩の情感を、真心として言うことができようか。古の用兵では、敵国を保全して降伏させるのが上策であると言うが、そなたがもし我が軍門に単騎でやって来るのなら、そなたと一緒に世の困難を平らげることができよう」と。韓稚は、その書を受け取ると降伏した。
張軌が主簿の令狐亜を派遣して(関中を拠点とする)南陽王・司馬模に贈り物をして友好関係を求めると、司馬模は非常に喜び、懐帝に賜わった剣を張軌に贈り、張軌に言った。「隴山地域より西の征伐・裁断については、すべてそなたに委任するということは、この剣が保証する」と。その後、まもなく王弥(おうび)が洛陽に侵攻すると、張軌は北宮純・張纂(ちょうさん)・馬魴(ばほう)・陰濬(いんしゅん)らを派遣して涼州軍を率いてそれを撃破させ、また彼らは劉聡を河東の地で破ったので、京師(洛陽)の人々はこのことを歌って言った。「涼州の大馬が天下を自在に行き交っている。涼州の獰猛なハイタカのおかげで賊は消えたが、その獰猛なハイタカはすばしっこく飛び回り、人を殺してしまうのではないかと心配している」と。懐帝は、張軌の忠義を称え、封爵を進めて西平郡公としたが、張軌は受け取らなかった。
(武威郡の)張掖県の臨松山で発見された岩石には、(金徳である司馬氏の晋王朝を象徴する)「金馬」の文字が記されており、摩滅しているものの、おおむね判別することができる程度のものであったが、「張」の文字についてははっきりと見え、さらに「初めて天下に福が下され、西方の安泰は万年にわたる」という文が記されていた。姑臧県でもまた黒い岩石が発見され、白い斑点が二十八宿を描いていた。時に天下は乱れ、いずれの地の(州郡の)使者も洛陽に来ることは無かったが、張軌だけは使者を派遣して貢物を献上し、必ず定められた時期にそれを行った。朝廷はそれを称え、しばしば璽書を下して慰労した。
張軌は後に中風をわずらい、言葉が話せなくなったので、息子の張茂に涼州の事務を代行させた。酒泉太守の張鎮は、ひそかに秦州刺史の賈龕(かかん)を招いて張軌に取って代わらせようとし、内密に使者を派遣して京師(洛陽)に赴かせ、尚書侍郎の曹袪(そうきょ)を西平太守に任ずることを請い、頬骨と下あごの骨の関係のように相互に助け合う態勢を築こうと図った。張軌の別駕従事の麹晁(きくちょう)も、刑賞の権柄を自ら掌握しようとし、また使者を派遣して長安に赴かせ、南陽王・司馬模に、張軌は廃疾者となったと告げ、そこで賈龕を涼州刺史に任ずることを請い、そして賈龕もその任命を受けようとしていた。ところが、賈龕の兄が賈龕をとがめて言った。「張涼州(張軌)は一世の名士であり、その威厳は西州に知れわたっているというのに、お前は何の徳があってそれに取って代わろうとしているのか」と。賈龕はそこで涼州刺史の任命を受けるのをやめた。そこで朝廷は、改めて侍中の爰瑜(えんゆ)を涼州刺史に任じた。張軌の治中従事の楊澹(ようたん)は、馳せて長安に赴き、耳を盤上にて割き(意気込みを示し)、張軌は誣告を受けたのだと訴えたので、司馬模はそこで上表して涼州刺史の交代をやめさせた。
晋昌郡の人である張越は、涼州の大族であり、讖文に張氏が涼州に覇を唱えるとあったので、自分こそまさに才能からしてこれに相当するのだと考えた。張越は隴西内史から梁州刺史に昇進した。張越は涼州刺史となることを望んでいたので、そこで病と称して河西に帰り、陰で張軌に取って代わろうと画策し、そこで兄の張鎮や曹袪・麹佩(きくはい)を派遣して檄文を各地に飛ばし、張軌を涼州刺史の座から引きずり下ろし、軍司の杜耽(とたん)に涼州の事務を代行させようとし、さらに杜耽に、張越を涼州刺史に任じるよう上表させようとした。張軌は令を下して言った。「私が涼州刺史に就任してから八年が経つが、管轄区域を安んずることもできず、また中原の兵乱や、秦嶺・隴山地域の転覆に直面し、しかも私自身も次第に重篤な病をわずらうことになったので、実に引退して賢者に道を譲ろうと思っている。ただ重大な責任を負うことになるので、ささっといい加減に事を運ぶわけにはいかなかったというだけである。しかし、思いもよらなかった。諸人が横暴にもこのような事変を起こそうとは。これは我が心が理解できていないに違いない。私は、そなたらの州(涼州)を去るのは、靴を脱ぐのと同じくらいにしか思っていない(涼州刺史の地位に固執しているわけではない)というに」と。張軌は主簿の尉髦(うつぼう)を派遣して上表文を奉じて宮廷に赴かせ、そこで速やかに出発の準備をし、官を辞して宜陽で余生を過ごそうとした。すると長史の王融と参軍の孟暢(もうちょう)が、張鎮の檄文を踏みつけてくしゃくしゃにし、扉を押し開けて入ってきて、張軌を諫めて言った。「晋の王室は多難であり、人・神ともに塗炭の苦しみを味わい、実に西中国をなだめ安んじるために、あなたの力を必要としているのです。張鎮の兄弟は立場もわきまえずに暴虐の限りを尽くしていますので、その罪を宣示して誅殺し、奴らの思い通りにさせないようにするべきです」と。張軌は押し黙ってしまった。王融らは、外に出て戒厳令を敷いた。また、武威太守の張琠(ちょうてん)は、息子の張坦を派遣して馳せて京師に赴かせ、上表して言った。「(前漢の)魏尚は辺境を安んじたにもかかわらず罪に問われ、(同じく前漢の)趙充国は忠義を尽くしたにもかかわらず譴責を受けましたが、それらはいずれも従来の史書で非難されていることでございまして、今日の鑑とすべき明瞭な故事でございます。(後漢の)順陽県の人々は(順陽県長であった)劉陶の治政の恩を思い、劉陶が罷免された際に宮城の門につめかけて罷免を取り消すよう求めた者は千人にも上りました。刺史(張軌)が我が州に赴任しましたところ、慈愛深き母が赤子に注ぐような愛を民衆に注ぎ、民衆が我が張軌を愛する様子は、干からびた苗が潤いの雨を得たかのようであります。つつしんで拝聞いたしましたところ、なんと流言に惑わされ、涼州刺史を交替させようとなされているとか。民情は父母を失ったかのように悲しみに打ちひしがれています。今、戎夷が中国を乱している状況ですので、むやみに一地方を騒がし動揺させるべきではありません」と。まもなく張軌は息子の張寔を中督護に任じ、兵を率いて張鎮を討伐させた。そこで張鎮の姉妹の子である太府主簿の令狐亜を派遣して張鎮のもとに進み出させ、令狐亜は張鎮に対して次のように喩した。「おじうえは何と安泰や危険、成功や失敗についてお分かりになっていないのでしょうか。主公(張軌)は西河の地域に徳を知れわたらせ、雲のように多くの兵馬を有していますので、これはあたかも烈火に身を焼かれたからといって、長江や漢水の水を頼りにし、その巨大な流れの中に身を投じて溺れ、(遠く離れた)越人の助けを期待しているようなものです。どうして助けが間に合いましょうか。今、数万の軍がすでに近くまで来ていますので、今はただ老親の安全と家系の存続のみを図り、誠心誠意を尽くして州府に帰順すれば、きっと万全の福を保つことができましょう」と。張鎮は涙を流して言った。「他人の言葉に惑わされてしまったのだ」と。そこで張鎮は罪を功曹の魯連になすりつけて斬り、張寔のもとに出頭して罪を詫びた。張寔は南進して曹袪を討伐し、敗走させた。ちょうど張坦が京師から戻り、その手にもたらされた懐帝の手厚い詔では、張軌のことを労い、司馬模の上表に従って、曹袪を誅殺することを命じていた。張軌は非常に喜び、州内の殊死刑に相当する罪以下の罪を犯した者に対して赦令を下した。そして張寔に命じて尹員(いんいん)・宋配らとその麾下の歩兵・騎兵合わせて三万人を率いて曹袪を討伐させ、それとは別に従事の田迥(でんけい)・王豊を派遣して騎兵八百を率いて姑臧県の西南から石驢山に進出させ、(それを越えて曹袪の本拠地の背後に当たる)長寧県に駐屯させた。曹袪は、麹晁を派遣して黄阪の地で迎撃させようとした。張寔は、間道を通って浩亹に出て、破羌の地で戦った。そして張軌は、曹袪およびその牙門将の田囂(でんごう)を斬った。
その後、張軌は治中従事の張閬(ちょうろう)を派遣して、五千人の義兵、郡国の秀才や孝廉、貢物と計簿、武器と防具、地方の特産品を送って京師に献納した。また、官吏に命じ、調べがつく限りの(前漢の武帝期に)涼州が初めて立てられたとき以来の、清廉で正道を守り、徳性を備え、隠遁すべき時に隠遁して栄誉にこだわらなかった者、才能が高く博学で、経典や歴史について著述を行った者、危難に臨んで義に殉じ、身命を投じて主君(刺史や太守など)に尽くした者、忠心から諫言を行って禍をこうむったり、機に即して応対して献策し、患難を除いたりした者、臨機応変の智を有し、雄略や武勇を備え、時世のために困難を除いた者、媚びへつらって主君を誤らせたり、忠実な人や賢人を中傷して陥れたりした者について、詳しく事情を備えて報告させた。それによって涼州中の父老はみな喜んだ。光禄勲の傅祗(ふし)と太常の摯虞(しぐ)は張軌に書を送り、京師が飢餓に陥り物資が欠乏していることを知らせたので、張軌はすぐに参軍の杜勲を派遣して馬五百匹・毛織の布三万匹を献上させた。懐帝は、使者を派遣して張軌の官位を進めて「鎮西将軍・都督隴右諸軍事」に任じ、覇城侯に封じた。また、さらに「車騎将軍・開府辟召儀同三司」に官位を進めようとしたが、その策書が張軌のもとに到着しないうちに、王弥軍が洛陽に迫ってきたので、張軌は、将軍の張斐(ちょうはい)・北宮純・郭敷(かくふ)らを派遣して精鋭の騎兵五千を率いて京師を防衛させた。やがて京師が陥落すると、張斐らはみな賊に捕らえられてしまった。それ以降、中原の禍難を避けて涼州にやって来る者が、日に日に続々と増えてきたので、武威郡を分割して武興郡を設置し、彼らをそこに居住させた。そこで太府主簿の馬魴が張軌に言った。「天下は転覆し、陛下はなお(漢趙の都の平陽に拉致されたまま)お帰りになりません。あなたがもし、涼州のすべての力を投入して直ちに平陽に向かえば、必ず万里にわたって人々が風になびくように帰服し、まさに『誅罰の軍はあるが、戦争というものはない』という王者の兵事となりましょう。何を憚ってこの一挙を行わないのか、それが私には理解できません」と。張軌は言った。「これぞ我が念願である」と。また、秦王(後の愍帝・司馬鄴)が関中入りしたことを聞くと、張軌はそこで檄文を関中に飛ばして言った。「主上は危難に遭い、本来あるべきでない場所にお移りになり、天下は分裂し、全土が意気を阻喪している。秦王は生まれつき卓越して聖徳を備え、優れた武を有しておられ、それはまさに時運に応ずるものである。世祖(武帝)の子孫の中では、秦王は今や最年長者でいらっしゃる。農耕民たる我が晋人すべてが亀卜や占筮によく従うことにより、人々と鬼神がともに喜ぶ結果をもたらすことができる。そこで吉日を選び、秦王を皇帝として奉ずるべきである。今、前鋒督護の宋配の率いる歩兵・騎兵合わせて二万を派遣し、ただちに長安に赴かせ、陛下をお守りし、その左右にて敵を撃退しよう。そして、西中郎将の張寔の中軍三万、武威太守の張琠の胡騎(胡人の騎兵)二万を、続々と後に継がせるので、仲秋(八月)の中旬に我らと一緒に臨晋に集結するべし」と。
まもなく秦王が皇太子として立てられると、秦王の朝廷は使者を派遣して張軌を「驃騎大将軍・儀同三司」に任じたが、張軌は固辞した。秦州刺史の裴苞(はいほう)・東羌校尉の貫与は、険阻な地を拠点として朝廷の使者の往来を妨げたので、張軌は宋配に命じて討伐させた。また、西平郡の人である王叔が、曹袪の残党の麹儒(きくじゅ)らと一緒に、もと福禄令の麹恪(きくかく)を脅して主に据え、西平太守の趙彝(ちょうい)を捕らえ、東の裴苞に呼応した。張寔は、軍を引き返して彼らを討伐し、麹儒らを斬った。張軌軍の左督護の陰預は、裴苞と狹西の地で戦ってこれを大破し、裴苞は桑凶塢に逃れ去った。この年、(趙漢軍から洛陽を守るために張軌により派遣されていた)北宮純が、劉聡に降伏した。皇太子(秦王)は、使者を派遣し、張軌に以前に授けようとした官職を再度授けようとしたが、張軌はまた固辞した。そこで左司馬の竇涛(とうとう)が張軌に言った。「周公旦が曲阜に封じられた際に辞退せず、斉の太公望が営丘に封じられた際にその命を奉じたのは、国の制度を明らかにし、格別な勲功を立てることを奨励しようとしたからです。天下は分裂して乱れ、陛下は蒙塵されましたが、我が涼州は僻遠の地にあるとはいえ、王室を正し助けようとする志を忘れてはおりませんので、朝廷が一度崩壊したにもかかわらず、官爵を授ける朝廷の命がしばしばもたらされています。ここは朝廷の聖旨に従い、それによって人々の期待に沿うべきです」と。張軌は従わなかった。
初め、張寔が麹儒を平定した際、首謀者たちの六百家余りだけを現地から移住させた。そのとき、治中従事の令狐瀏(れいこりゅう)が言った。「そもそも悪人を除く際には、農夫が除草をするように、その根元から取り除き、繁殖できないようにさせるものです。今、彼らをすべて移住させ、後患を絶つべきでございましょう」と。張寔はそれを採用しなかった。すると果たして、麹儒らの残党が後に反乱を起こしたので、張寔は進軍してそれを平定した。
愍帝(秦王・司馬鄴)が即位すると、張軌の位を司空に進めようとしたが、張軌は固く辞退した。太府参軍の索輔(さくほ)が張軌に言った。「古では五金(金・銀・銅・鉛・鉄)や貝殻、毛皮やあやぎぬを貨幣とし、穀物や布帛を貨幣として用いて計量する際の損耗を無くしました。(前漢・後漢の)両漢は、五銖錢を通貨と定め、それが流通して交易に用いられ、滞ることがありませんでした。(西晋の武帝の)泰始年間に至り、河西は荒廃し、そのため銭を用いなくなり、一匹の布を分割し、いくつかの寸法に分けて貨幣単位として用いるようになりました。絹織物が細切れにされてしまった以上、交易には使いづらく、無駄に女工の手を煩わせる結果となり、衣服として用いられない状態になってしまうのは、甚だしい弊害です。今、中原は混乱しているとはいえ、この涼州の地方は安全ですので、五銖銭を復活させて流通の中心地を築き上げるべきです」と。張軌はその意見を採用し、すぐさま貨幣制度を定め、それまで使用されてきた布の貨幣単位に準拠して銭を使用させたところ、銭が大いに流通し、人々はその利益を頼みとした。この時、劉曜が北地郡に侵攻してきたので、張軌はまた参軍の麹陶(きくとう)を派遣して三千人を率いて長安を防衛させた。愍帝は、大鴻臚の辛攀(しんはん)を派遣して張軌を「侍中・太尉・涼州牧・西平公」としたが、張軌はまた固辞した。
涼州刺史に在任すること十三年、病が重くなって寝込むようになると、張軌は遺令を下して言った。「私は人に恩徳を施すことができず、今や病を患って久しく癒えず、おそらくもう寿命が来ているのであろう。文官・武官を問わず将帥や属官たちはいずれもみな、大いに忠心を尽くして物事を謀り、民衆を安んずることに努め、上は国家の恩に報いることを思い、下は家の安寧を図るべきである。(私が死んだら)飾り気の無い質素な棺を用いて薄葬し、財宝を一緒に収めてはならぬ。よく安遜(張寔)を補佐し、そうして朝廷の聖旨が至るまで待機せよ」と。そこで張軌は上表して息子の張寔を西平公国の世子(諸侯の跡継ぎ)に立てた。享年六十歳。「武公」という諡号を授かった。

張寔~

原文

寔、字安遜。學尚明察、敬賢愛士、以秀才爲郎中。永嘉初、固辭驍騎將軍、請還涼州、許之、改授議郎。及至姑臧、以討曹袪功、封建武亭侯。尋遷西中郎將、進爵福祿縣侯。建興初、除西中郎將・領護羌校尉。軌卒、州人推寔攝父位。愍帝因下策書曰「維乃父武公、著勳西夏。頃胡賊狡猾、侵逼近甸、義兵・鋭卒、萬里相尋、方貢・遠珍、府無虛歲。方委專征、蕩清九域、昊天不弔、凋余藩后、朕用悼厥心。維爾雋劭英毅、宜世表西海。今授持節・都督涼州諸軍事・西中郎將・涼州刺史・領護羌校尉・西平公。往欽哉。其闡弘先緒、俾屏王室。」
蘭池長趙奭上軍士張冰得璽、文曰「皇帝璽」。羣僚上慶稱德、寔曰「孤常忿袁本初擬肘、諸君何忽有此言。」因送于京師。下令國中曰「忝紹前蹤、庶幾刑政不爲百姓之患、而比年飢旱、殆由庶事有缺。竊慕箴誦之言、以補不逮。自今有面刺孤罪者、酬以束帛、翰墨陳孤過者、答以筐篚、謗言於市者、報以羊米。」賊曹佐高昌隗瑾進言曰「聖王將舉大事、必崇三訊之法、朝置諫官以匡大理、疑・承・輔・弼以補闕拾遺。今事無巨細、盡決聖慮、興軍布令、朝中不知、若有謬闕、則下無分謗。竊謂宜偃聰塞智、開納羣言、政刑大小、與眾共之。若恒内斷聖心、則羣僚畏威而面從矣。善惡專歸於上、雖賞千金、終無言也。」寔納之、增位三等、賜帛四十匹。遣督護王該送諸郡貢計、獻名馬方珍・經史圖籍于京師。
會劉曜逼長安、寔遣將軍王該率眾以援京城。帝嘉之、拜都督陝西諸軍事。及帝將降于劉曜、下詔于寔曰「天步厄運、禍降晉室、京師傾陷、先帝晏駕賊庭。朕流漂宛許、爰曁舊京。羣臣以宗廟無主、歸之於朕、遂以沖眇之身託于王公之上。自踐寶位、四載于茲、不能翦除巨寇以救危難、元元兆庶仍遭塗炭、皆朕不明所致。羯賊劉載僭稱大號、禍加先帝、肆殺藩王、深惟仇恥、枕戈待旦。劉曜自去年九月率其蟻眾、乘虛深寇、劫質羌胡、攻沒北地。麴允總戎在外、六軍敗績、侵逼京城、矢流宮闕。胡崧等雖赴國難、殿而無效、圍塹十重、外救不至、糧盡人窮、遂爲降虜。仰慚乾靈、俯痛宗廟。君世篤忠亮、勳隆西夏、四海具瞻、朕所憑賴。今進君大都督・涼州牧・侍中・司空、承制行事。琅邪王宗室親賢、遠在江表。今朝廷播越、社稷倒懸、朕以詔王、時攝大位。君其挾贊琅邪、共濟艱運。若不忘主、宗廟有賴。明便出降、故夜見公卿、屬以後事、密遣黃門郎史淑・侍御史王沖齎詔假授。臨出寄命。公其勉之。」寔以天子蒙塵、沖讓不拜。
建威將軍・西海太守張肅、寔叔父也。以京師危逼、請爲先鋒擊劉曜。寔以肅年老、弗許。肅曰「狐死首丘、心不忘本。鍾儀在晉、楚弁南音。肅受晉寵、剖符列位。羯逆滔天、朝廷傾覆、肅宴安方裔、難至不奮、何以爲人臣。」寔曰「門戸受重恩、自當闔宗效死、忠衞社稷、以申先公之志。但叔父春秋已高、氣力衰竭、軍旅之事非耆耄所堪。」乃止。既而聞京師陷沒、肅悲憤而卒。
寔知劉曜逼遷天子、大臨三日。遣太府司馬韓璞・滅寇將軍田齊・撫戎將軍張閬・前鋒督護陰預步騎一萬、東赴國難。命討虜將軍陳安・故太守賈騫・隴西太守吳紹各統郡兵爲璞等前驅。戒璞曰「前遣諸將、多違機信、所執不同、致有乖阻。且内不和親、焉能服物。今遣卿督五將兵事、當如一體。不得令乖異之問達孤耳也。」復遺南陽王保書曰「王室有事、不忘投軀。孤州遠域、首尾多難、是以前遣賈騫、瞻望公舉。中被符命、敕騫還軍。忽聞北地陷沒、寇逼長安、胡崧不進、麴允持金五百請救於崧、是以決遣騫等進軍度嶺。會聞朝廷傾覆、爲忠不達於主、遣兵不及於難、痛慨之深、死有餘責。今更遣韓璞等、唯公命是從。」及璞次南安、諸羌斷軍路、相持百餘日、糧竭矢盡。璞殺駕牛饗軍、泣謂眾曰「汝曹念父母乎。」曰「念。」「念妻子乎。」曰「念。」「欲生還乎。」曰「欲。」「從我令乎。」曰「諾。」乃鼓譟進戰。會張閬率金城軍繼至、夾擊、大敗之、斬級數千。
時焦崧・陳安寇隴右、東與劉曜相持、雍秦之人死者十八九。初、永嘉中、長安謠曰「秦川中、血沒腕、惟有涼州、倚柱觀。」至是、謠言驗矣。焦崧・陳安逼上邽、南陽王保遣使告急。以金城太守竇濤爲輕車將軍、率威遠將軍宋毅及和苞・張閬・宋輯・辛韜・張選・董廣步騎二萬赴之。軍次新陽、會愍帝崩問至、素服舉哀、大臨三日。
時南陽王保謀稱尊號、破羌都尉張詵言於寔曰「南陽王忘莫大之恥、而欲自尊、天不受其圖籙、德不足以應運、終非濟時救難者也。晉王明德昵藩、先帝憑屬、宜表稱聖德、勸即尊號。傳檄諸藩、副言相府、則欲競之心息、未合之徒散矣。」從之。於是馳檄天下、推崇晉王爲天子、遣牙門蔡忠奉表江南、勸即尊位。是歲、元帝即位于建鄴、改年太興、寔猶稱建興六年、不從中興之所改也。
保聞愍帝崩、自稱晉王、建元、署置百官、遣使拜寔征西大將軍・儀同三司、增邑三千戸。俄而保爲陳安所叛、氐羌皆應之。保窘迫、遂去上邽、遷祁山、寔遣將韓璞步騎五千赴難。陳安退保緜諸、保歸上邽。未幾、保復爲安所敗、使詣寔乞師。寔遣宋毅赴之、而安退。會保爲劉曜所逼、遷于桑城、將謀奔寔。寔以其宗室之望、若至河右、必動物情、遣其將陰監逆保、聲言翼衞、實禦之也。會保薨、其眾散奔涼州者萬餘人。寔自恃險遠、頗自驕恣。
初、寔寢室梁間有人像、無頭、久而乃滅、寔甚惡之。京兆人劉弘者、挾左道、客居天梯・第五山、然燈懸鏡於山穴中爲光明、以惑百姓、受道者千餘人、寔左右皆事之。帳下閻沙・牙門趙仰皆弘郷人、弘謂之曰「天與我神璽、應王涼州。」沙・仰信之、密與寔左右十餘人謀殺寔、奉弘爲主。寔潛知其謀、收弘殺之。沙等不之知、以其夜害寔。在位六年。私諡曰昭公、元帝賜諡曰元。子駿、年幼、弟茂攝事。

訓読

寔、字は安遜。學尚く明察、賢を敬い士を愛し、秀才を以て郎中と爲る。永嘉の初め、驍騎將軍を固辭し、涼州に還らんことを請うや、之を許され、改めて議郎を授かる。姑臧に至るに及び、曹袪を討つの功を以て、建武亭侯に封ぜらる。尋いで西中郎將に遷り、爵を福祿縣侯に進めらる。建興の初め、西中郎將・領護羌校尉に除せらる。軌の卒するや、州人は寔を推して父の位を攝らしむ。愍帝、因りて策書を下して曰く「維れ乃父の武公、勳を西夏に著す。頃ろ胡賊の狡猾にして、近甸に侵逼するや、義兵・鋭卒、萬里相い尋ぎ、方貢・遠珍、府に虛歲無し。方に專ら征せんことを委ね、九域を蕩清せしめんとするも、昊天は弔まず、余の藩后を凋いたれば、朕、用て厥の心に悼む。維れ爾、雋劭英毅なれば、宜しく西海に世表たるべし。今、持節〔一〕・都督涼州諸軍事・西中郎將・涼州刺史・領護羌校尉・西平公を授く。往きて欽まんや。其れ先緒を闡弘し、王室を屏(たす)けしめん」と。
蘭池長の趙奭(ちょうせき)、軍士の張冰(ちょうひょう)の得たる璽を上したるに、文に「皇帝璽」と曰う。羣僚、慶を上り德を稱うるも、寔曰く「孤、常に袁本初の肘に擬するを忿るに、諸君、何ぞ忽ち此の言有りや」と。因りて京師に送る。令を國中に下して曰く「忝くも前蹤を紹ぎ、刑政の百姓の患と爲らざることを庶幾うも、而れども比年飢旱あるは、殆ど庶事に缺有るに由るならん。竊かに箴誦の言を慕い、以て逮ばざるを補わん。今より孤の罪を面刺する者有らば、酬ゆるに束帛を以てし、翰墨もて孤の過を陳ぶる者あらば、答うるに筐篚を以てし、市に謗言する者あらば、報ゆるに羊米を以てせん」と。賊曹佐の高昌の隗瑾(かいきん)、進言して曰く「聖王の將に大事を舉げんとするや、必ず三訊の法〔二〕を崇び、朝に諫官を置きて以て大理を匡し、疑・承・輔・弼〔三〕ありて以て闕を補い遺ちたるを拾う。今、事に巨細無く、盡く聖慮に決し、軍を興して令を布くに、朝中知らざれば、若し謬闕有らば、則ち下に分謗無し。竊かに謂うに、宜しく聰を偃せ智を塞ぎ、羣言を開納し、政刑大小、眾と之を共にすべし。若し恒に内に聖心に斷ぜば、則ち羣僚は威を畏れて面從せん。善惡の專ら上に歸せば、千金を賞すと雖も、終に言無きなり」と。寔、之を納れ、位を增すこと三等、帛四十匹を賜う。督護の王該を遣わして諸郡の貢計を送らしめ、名馬方珍・經史圖籍を京師に獻ず。
會々劉曜の長安に逼りたれば、寔、將軍の王該を遣わして眾を率いて以て京城を援けしむ。帝、之を嘉し、都督陝西諸軍事に拜す。帝の將に劉曜に降らんとするに及び、詔を寔に下して曰く「天步は厄運にして、禍は晉室に降り、京師は傾陷し、先帝は賊庭に晏駕す。朕、宛許に流漂し、爰に舊京に曁ぶ。羣臣は宗廟に主無きを以て、之を朕に歸したれば、遂に沖眇の身を以て王公の上に託す。寶位を踐みてより、茲に四載、巨寇を翦除して以て危難を救う能わず、元元兆庶の仍お塗炭に遭うは、皆な朕の不明の致す所なり。羯賊の劉載〔四〕大號を僭稱し、禍もて先帝に加え、肆に藩王を殺したれば、深く仇恥を惟い、戈を枕として旦を待つ。劉曜は去年の九月より其の蟻眾を率い、虛に乘じて深く寇し、羌胡を劫質し、攻めて北地を沒す。麴允(きくいん)は戎を總べて外に在るも、六軍敗績し、京城に侵逼し、矢は宮闕に流る。胡崧(こすう)等は國難に赴くと雖も、殿して效無く、圍塹十重、外救は至らず、糧は盡き人は窮し、遂に降虜と爲る。仰ぎては乾靈に慚じ、俯きては宗廟に痛む。君は世々忠亮に篤く、勳は西夏に隆んにして、四海具に瞻、朕の憑賴する所なり。今、君を大都督・涼州牧・侍中・司空に進め、制を承けて事を行せしむ。琅邪王は宗室の親賢にして、遠く江表に在り。今、朝廷は播越し、社稷は倒懸したれば、朕、以て王に詔し、時に大位を攝らしむ。君、其れ琅邪を挾贊し、共に艱運を濟え。若し主を忘れずんば、宗廟に賴有り。明けに便ち出でて降らんとすれば、故に夜に公卿に見い、屬するに後事を以てし、密かに黃門郎の史淑(ししゅく)・侍御史の王沖(おうちゅう)を遣わして詔を齎らして假授す。出ずるに臨みて命を寄す。公、其れ之に勉めよ」と。寔、天子の蒙塵せるを以て、沖讓して拜せず。
建威將軍・西海太守の張肅は、寔の叔父なり。京師の危逼せるを以て、先鋒と爲りて劉曜を擊たんことを請う。寔、肅の年老いたるを以て、許さず。肅曰く「狐の死して丘に首するは、心に本を忘れざればなり。鍾儀(しょうぎ)は晉に在り、楚弁して南音す。肅は晉の寵を受け、符を剖きて位に列す。羯逆は天に滔り、朝廷は傾覆するに、肅、方裔に宴安として、難至るも奮わざれば、何を以てか人臣たらん」と。寔曰く「門戸は重恩を受けたれば、自より當に闔宗もて死を效し、忠もて社稷を衞り、以て先公の志を申すべし。但だ叔父、春秋は已に高く、氣力は衰竭したれば、軍旅の事、耆耄の堪うる所に非ず」と。乃ち止む。既にして京師の陷沒するを聞くや、肅、悲憤して卒す。
寔、劉曜の逼りて天子を遷すを知るや、大いに臨すること三日。太府司馬〔五〕の韓璞(かんはく)・滅寇將軍の田齊・撫戎將軍の張閬(ちょうろう)・前鋒督護の陰預の步騎一萬を遣わし、東のかた國難に赴かしむ。討虜將軍の陳安・故の太守の賈騫(かけん)〔六〕・隴西太守の吳紹に命じて各々郡兵を統べて璞等の前驅と爲さしむ。璞を戒めて曰く「前に諸將を遣わすや、多く機信に違い、執る所は同じからず、乖阻有るを致す。且つ内に和親せずんば、焉くんぞ能く物を服せしめんや。今、卿を遣わして五將の兵事を督せしむるに、當に一體の如くなるべし。乖異の問をして孤の耳に達せしむるを得ず」と。復た南陽王保に書を遺りて曰く「王室の有事なれば、軀を投ずるを忘れず。孤の州は遠域にして、首尾多難なれば、是こを以て前に賈騫を遣わし、公の舉を瞻望す。中に符命を被り、騫に敕して軍を還さしむ。忽ちにして北地は陷沒し、寇は長安に逼るも、胡崧(こすう)は進まず、麴允(きくいん)は金五百を持ちて崧に救を請うと聞きたれば、是こを以て騫等を遣わして進軍して嶺を度(こ)えしめんことを決す。會々朝廷の傾覆せるを聞き、忠を爲すも主に達せず、兵を遣わすも難に及ばず、痛慨の深きこと、死すとも餘責有り。今、更めて韓璞等を遣わし、唯だ公の命にのみ是れ從う」と。璞の南安に次するに及び、諸羌は軍路を斷ち、相い持すること百餘日、糧は竭き矢は盡く。璞、駕牛を殺して軍を饗し、泣きて眾に謂いて曰く「汝らが曹は父母を念うか」と。曰く「念う」と。「妻子を念うか」と。曰く「念う」と。「生きて還らんと欲するか」と。曰く「欲す」と。「我が令に從うか」と。曰く「諾」と。乃ち鼓譟して進み戰う。會々張閬、金城の軍を率いて繼ぎて至り、夾擊し、大いに之を敗り、斬級數千。
時に焦崧(しょうすう)〔七〕・陳安は隴右に寇し、東のかた劉曜と相い持するに、雍秦の人、死する者は十に八九。初め、永嘉中、長安の謠に曰く「秦川の中、血は腕を沒するも、惟だ涼州を有つのみにして、柱觀に倚る」と。是に至り、謠言驗あり。焦崧・陳安の上邽に逼るや、南陽王保、使を遣わして急を告ぐ。金城太守の竇濤(とうとう)を以て輕車將軍と爲し、威遠將軍の宋毅及び和苞(かほう)・張閬・宋輯(そうしゅう)・辛韜(しんとう)・張選・董廣の步騎二萬を率いて之に赴かしむ。軍の新陽に次するや、會々愍帝の崩問至れば、素服して哀を舉げ、大いに臨すること三日。
時に南陽王保の謀りて尊號を稱せんとするや、破羌都尉の張詵(ちょうしん)、寔に言いて曰く「南陽王は莫大の恥を忘れ、而して自ら尊ばんと欲するも、天は其の圖籙を受(さず)けず、德は以て運に應ずるに足らず、終に時を濟い難を救う者に非ざるなり。晉王は明德・昵藩にして、先帝、憑屬したれば、宜しく表して聖德を稱え、尊號に即かんことを勸むべし。檄を諸藩に傳え、言を相府に副うれば、則ち競わんと欲するの心は息み、未だ合せざるの徒は散ぜん」と。之に從う。是に於いて檄を天下に馳せ、晉王を推崇して天子と爲し、牙門の蔡忠を遣わして表を江南に奉ぜしめ、尊位に即かんことを勸む。是の歲、元帝は建鄴に即位し、年を太興に改むるも、寔は猶お建興六年と稱し、中興の改むる所に從わざるなり。
保、愍帝の崩ずるを聞くや、自ら晉王を稱し、建元し、署して百官を置き、使を遣わして寔を征西大將軍・儀同三司に拜し、邑を增すこと三千戸。俄かにして保は陳安の叛く所と爲り、氐羌は皆な之に應ず。保は窘迫し、遂に上邽を去り、祁山に遷りたれば、寔、將の韓璞の步騎五千を遣わして難に赴かしむ。陳安、退きて緜諸を保ち、保、上邽に歸る。未だ幾もあらずして、保、復た安の敗る所と爲り、使をして寔に詣りて師を乞わしむ。寔、宋毅を遣わして之に赴かしめ、而して安退く。會々保は劉曜の逼る所と爲り、桑城に遷り、將に寔に奔らんことを謀る。寔、其の宗室の望なれば、若し河右に至らば、必ず物情を動かさんと以い、其の將の陰監を遣わして保を逆えしめ、翼衞せんと聲言するも、實は之を禦ぐなり。會々保薨じ、其の眾の散じて涼州に奔る者は萬餘人。寔、自ら險遠を恃み、頗る自ら驕恣す。
初め、寔の寢室の梁間に人像有り、頭無く、久くして乃ち滅びたれば、寔、甚だ之を惡む。京兆の人の劉弘なる者、左道を挾み、天梯・第五山に客居し、燈を然やして鏡を山穴中に懸けて光明と爲し、以て百姓を惑わし、道を受くる者は千餘人、寔の左右は皆な之に事う。帳下の閻沙(えんさ)・牙門の趙仰(ちょうぎょう)は皆な弘の郷人にして、弘、之に謂いて曰く「天は我に神璽を與えたれば、應に涼州に王たるべし」と。沙・仰、之を信じ、密かに寔の左右の十餘人と與に寔を殺し、弘を奉じて主と爲さんことを謀る。寔、潛かに其の謀を知り、弘を收めて之を殺す。沙等、之を知らず、其の夜を以て寔を害す。在位六年。私かに諡して昭公と曰い、元帝は諡を賜いて元と曰う。子の駿、年幼ければ、弟の茂、事を攝る。

〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔二〕裁判を行う際に、慎重を期すために第三者の意見を三回にわたって聴取すること。『孔子家語』刑政篇の王粛注によれば、群臣に尋ね、群吏に尋ね、万民に尋ねるのが「三訊」であるという。
〔三〕疑・承・輔・弼は、「四隣」もしくは「四輔」とも呼ばれ、虞・夏・殷・周の四代に置かれたとされている顧問応対の官職である。「承」は「丞」ともされる。
〔四〕劉聡のこと。別名を劉載と言う。
〔五〕前涼では、「太府」と「少府」の二府を中心にして政権運営が行われた。『資治通鑑』巻九十・晉紀十二・中宗元皇帝上・建武元年正月の条の胡三省注によれば、太府とは都督府のことで、少府とは涼州府のことであるという。
〔六〕中華書局本の校勘記では、『資治通鑑』の該当箇所では「故太守」ではなく「故安太守」とあり、その胡三省注にもある通り、前涼では故安郡が置かれていたことから、『晉書』のこの箇所も「安」が脱落しているだけで、「故安太守」が正しいのではないかとする。非常に妥当な解釈であるが、ここではとりあえず『晉書』の元のテキストに従って訳した。
〔七〕焦崧は、史料上では「崧」の異体字の「嵩」を用いて、「焦嵩」と記されることが多い。

現代語訳

張寔(ちょうしょく)は字を安遜という。学問の素養が高く、物事を明察する能力があり、賢者を敬い士大夫を愛し、秀才に察挙されて郎中に任じられた。(懐帝の)永嘉年間の初め、驍騎将軍に任じられたがそれを固辞し、涼州に帰ることを請うたところ、それを許され、改めて議郎の官位を授けられた。姑臧に到着した後、曹袪(そうきょ)を討伐した功により、建武亭侯に封じられた。まもなく西中郎将に昇進し、爵を福禄県侯に進められた。(愍帝の)建興年間の初め、「西中郎将・領護羌校尉」に任命された。張軌が死去すると、涼州の人々は張寔を推戴して父の位(涼州刺史)を代行させた。愍帝はそこで策書を下して述べた。「そなたの父である武公(張軌)は、西中国で勲功を大いに上げた。近ごろ胡賊が狡猾にも京師付近を侵犯するようになると、(張軌は)義兵や精鋭の部隊を、万里の道をものともせず相次いで送り、地方の特産品や遠方の珍品を、涼州府は毎年欠かすことなく朝廷に貢納した。ちょうど征伐の全権を委任し、天下を平定させようとしたところ、天は憐れまず、我が藩国の長(張軌)の命を奪ったので、朕は心に哀悼の念を抱かざるを得ない。そなたは俊才高く英明・剛毅であるので、西海地域において世の師表となる地位に就くべきである。今、『持節・都督涼州諸軍事・西中郎将・涼州刺史・領護羌校尉・西平公』の位を授ける。行ってつつしんで務めを果たせ。祖先の功業を宣揚して大いなるものにし、王室を助けさせよう」と。
蘭池長の趙奭(ちょうせき)が、軍士の張冰(ちょうひょう)が得た印璽を張寔に上呈したところ、そこには「皇帝璽」という文字が記されていた。涼州の官吏たちは、慶賀して張寔の徳を称えたが、張寔は言った。「私は常に、袁本初(袁紹)が玉印を(曹操の)肘に向かって挙げ(て朝廷を我が物にしようとする意思を示し)たことに対し、怒りを禁じえ得ないでいるが、諸君らはどうして突然そんなことを言い出すのか」と。そこでその印璽を京師(長安)に送った。また、令を西平公国中に下して言った。「かたじけなくも亡父の後を継ぎ、刑罰と政治が人々の悩みの種とならないようにすることを願ってそれに携わってきたが、しかし、連年、飢餓や旱魃が絶えないのは、おそらく政務に不備があるからであろう。そこで諫めの言葉を仰ぎ、至らない部分を補おうと思う。今後、面と向かって私の罪をとがめる者がいれば、一束の帛を授けることでそれに報い、文書をよこして私の過ちを述べる者がいれば、筐篚(竹製の器)を授けることによってそれに答え、市中で批判の声を上げる者がいれば、羊米を授けることでそれに報いよう」と。すると、高昌の人である賊曹佐の隗瑾(かいきん)が進言した。「聖王が大事を行おうとするときには、必ず(裁判を行う際に、群臣・郡吏・万民にそれぞれ意見を求めるという)『三訊』の原則を尊重し、朝廷に諫官を置いてそれによって大いなる道理を正し、疑・承・輔・弼を置いてそれによって欠点を補い、誤りを正しました。今、事の大小に関わらず、すべて殿下の素晴らしき思慮によって一手に決定され、軍を興して軍令を布くに当たっても、(西平公国の)朝廷の人々は(その命令が殿下の口から正式に発せられるまで)それを知らないという状態ですので、もし誤りや不備が生じてしまえば、非難の矛先を下々の者たちと一緒に分担することができずに、一手に引き受けてしまうことになります。私が思いますに、殿下のその持ち前の聡明さを隠し、叡智を抑え、群下の人々の意見を広く採用し、政令についても刑罰についても事の大小に関わらず、人々と一緒に決めるべきです。もし常に物事をその御心の内でご決定なされるのであれば、臣僚たちは殿下の威厳を恐れ、面前では誰も反対意見を述べられずに従順な態度を取ることになりましょう。善悪がすべて殿下の御心次第ということになれば、千金を賞として与えるとおっしゃいましても、結局、誰も何も言わなくなりましょう」と。張寔はこの意見を採用し、隗瑾の位を三等増し、帛四十匹を賜わった。また、張寔は督護の王該を派遣して諸郡の貢物と計簿を京師に送り、名馬や地方の特産品、経書や史書、地図や戸籍を献上した。
ちょうど劉曜軍が長安に迫って来たので、張寔は将軍の王該を派遣して兵衆を率いて京城を救援しに行かせた。愍帝はそのことを称え、張寔を都督陝西諸軍事に任命した。やがてまさに劉曜に降伏しようとするときになって、愍帝は詔を張寔に下して言った。「国運は厄難に見舞われ、禍が晋室に降りかかり、京師(洛陽)は陥落し、先帝(懐帝)は賊の朝廷で崩御された。朕は宛や許昌の地に流浪し、何とか旧京(長安)にたどり着いた。群臣は、晋の宗廟に先帝たちの位牌を備えて祭る存在(すなわち皇帝)がいなくなってしまったことから、朕を推戴してその座に据えようとしたので、そこで朕は若輩の身でありながら王公の上に立つことになった。帝位に即いてから四年が経ったが、巨大な賊を排除して危難を救うことができず、民衆がなお塗炭の苦しみを味わい続けているのは、すべて朕の不明の致すところである。羯賊の劉載(劉聡)は皇帝の大号を僭称し、禍を先帝に加え、好き勝手に藩王を殺したので、朕は深く恨みと恥とを心に抱き、夜に眠る際には戈を枕にして夜明けを待った。劉曜は去年の九月より、その蟻のように多い兵衆を率い、こちらの虚に乗じて深くまで侵攻し、羌胡を脅して人質にし、北地郡を攻めて陥落させた。麹允(きくいん)は兵を統べて京師の外に出鎮していたが、六軍は敗北し、劉曜は侵攻を続けて京師である長安城に迫り、矢は宮殿にまで及んだ。(南陽王・司馬保によって派遣された)胡崧(こすう)らは、国難を救うべく軍を率いて駆けつけたが、後方に控えたまま役に立たず、賊軍は塹壕を十重にめぐらし、外部からの救援は来ず、食糧も尽きて人々は困窮し、とうとう降伏して俘虜となろうとしている。仰ぎ見ては上天に対して恥ずかしく思い、俯き見ては宗廟に対して苦しい気持ちでいっぱいである。君は父君の代から忠節に篤く、西中国で盛んな勲功を立て、四海の人々はみな君のことを仰ぎ、朕も頼りに思っている。今、君の位を『大都督・涼州牧・侍中・司空』に進め、我が制を受けて便宜に事を行うことを許す。また、琅邪王(司馬睿)は宗室の親族でかつ賢者でもあり、遠く江南にいる。今、朝廷は流亡し、社稷は崩壊してしまったので、朕は琅邪王に、その時が来たら皇帝の大位を代行するよう詔を下してある。君はどうか琅邪王を補佐し、一緒にこの苦しき国運を救ってくれ。もし宗廟に位牌を設けて祭りを絶やさなければ(=帝位が絶えなければ)、宗廟の神霊のご加護を得られよう。明け方に長安城から出でて降伏しようと思うので、故に夜に公卿たちに会い、後事を託し、こっそりと黄門郎の史淑(ししゅく)・侍御史の王沖(おうちゅう)を派遣して詔をもたらして仮に官爵を与えることにした。降伏しに出る前に君に重任を任せる。君よ、どうか心せよ」と。張寔は、天子(愍帝)がすでに(平陽に)連れ去られてしまったので、謙譲し、その官職を拝命しなかった。
建威将軍・西海太守の張粛は、張寔の叔父であった。張粛は、京師に賊軍が迫って危険にさらされているため、自ら軍の先鋒となって劉曜軍を攻撃することを張寔に請うた。張寔は、張粛が年老いているからと、それを許さなかった。張粛は言った。「狐が死ぬときに頭を故郷の方に向けるのは、その出自を忘れていないからです。(春秋時代に晋の捕虜となった楚の楽人の)鍾儀(しょうぎ)は、晋国にありながら楚国の冠をつけ、楚国の音楽を演奏し(その出自をないがしろにしなかったことによって君子と評され)ました。私は晋室のご厚恩を受け、割符の片割れを授かり、地方長官としての位に参列することになりました。羯賊は天下に蔓延り、朝廷は崩壊の危機にありますのに、私の方は辺境で安穏とするばかりで、国難が訪れても力を振るうことができないのであれば、どうして人臣であると言えましょうか」と。張寔は言った。「我が一門は晋室からご厚恩を受けているので、当然ながら一族総出で死を顧みず、忠誠を尽くして社稷をお守りし、それによって我が亡父のご遺志を再び明らかにするべきです。ただ、叔父上はすでにご高齢であられ、気力も衰弱してきておりますので、軍事行動に携わるのは、ご老体には厳しいのではないかと思われます」と。そこでこのことは沙汰止みとなった。やがて京師(長安)が陥落したのを聞くと、張粛は、悲しみと憤りのあまり、死去した。
張寔は、劉曜が天子(愍帝)を無理やり(平陽に)連行したのを知ると、三日間、大いに哭礼を行って泣き悲しんだ。そして、太府司馬の韓璞(かんはく)、滅寇将軍の田斉、撫戎将軍の張閬(ちょうろう)、前鋒督護の陰預らとその麾下の歩兵・騎兵合わせて一万を派遣し、東行して国難を救いに行かせた。また、討虜将軍の陳安、もとの太守の賈騫(かけん)、隴西太守の呉紹に命じて各々郡兵を統率して韓璞らの前駆とさせた。張寔は韓璞を戒めて言った。「以前に諸将を派遣したとき、彼らは多く枢機に関わる命令に違反し、それぞれ独自の行動を取り、結局、軍がばらばらになってしまった。それに、内部で不和が生じてしまえば、どうして民衆を心から服従させることができようか。今、そなたを派遣して五将の兵事を監督させることとしたが、みな一心同体であるべきである。仲違いの知らせが我が耳に届くようなことはしてくれるな」と。さらに、南陽王・司馬保に書を送って言った。「王室の官吏であるからには、私は王室のために身命を投げ打つことを忘れておりません。私の州(涼州)は遠方にあり、そこから上から下まで自ら事を主導するのは難しいため、そこで以前に私は賈騫を派遣し、あなたの行動に従い、指示を仰がせることにしました。ただ、途中で命令書を授かり、そこには賈騫に命じて軍を引き返すよう記してありました。その後、まもなく北地郡が陥落し、賊は長安に迫りましたが、胡崧(こすう)は進軍せず、麴允(きくいん)は金五百を持って胡崧に救援を請うたということを聞きましたので、そこで賈騫らを派遣して進軍して山々を越えて行かせようと決めました。しかし、ちょうど朝廷が壊滅したのを聞き、忠誠を尽くそうにもそれは主上に届かず、兵を派遣したものの危難を救うのに間に合わず、その罪に対しては我ながら憤慨の念に堪えず、その深さは死んでも償いきれないほどであります。今、改めて韓璞らを派遣し、ただあなたの命令のみに従いましょう」と。韓璞が南安郡に駐屯すると、諸羌が軍路を遮断し、百日余りにわたって対峙し、軍糧も矢も尽きてしまった。韓璞は、乗っていた牛を殺して軍の人々に振る舞い、泣きながら兵衆に言った。「そなたらは父母が恋しいか」と。兵衆は言った。「恋しいです」と。「妻子が恋しいか」と問えば、「恋しいです」と。「生きて帰りたいか」と問えば、「生きて帰りたいです」と。「我が令に従うか」と問えば、「はい」と。そこで軍鼓を打って吶喊して進み戦った。ちょうど張閬が金城郡の軍を率いて後続としてやってきたので、一緒に挟撃して大いに羌軍を破り、斬首数千級の戦果を上げた。
時に(愍帝政権の残党である)焦崧(しょうすう)と(南陽王・司馬保の元配下であった)陳安が隴西地域に侵攻し、東の劉曜軍と対峙して争うようになると、雍州や秦州の人は、全体の八・九割が死ぬこととなった。これに先立ち、永嘉年間に、次のような謠言が長安で流行っていた。「秦川の地域では、血の川が腕を浸すほどまで水位を増すことになるが、ただ涼州のみが保全され、(血の川の中に在っても)その高楼にすがることができよう」と。このときになって、謠言の通りになったのである。焦崧・陳安が(司馬保の本拠地である)上邽に迫ると、南陽王・司馬保は、使者を派遣して張寔に急を要する事態になったことを知らせた。張寔は、金城太守の竇涛(とうとう)を軽車将軍に任じ、威遠将軍の宋毅および和苞(かほう)・張閬・宋輯(そうしゅう)・辛韜(しんとう)・張選・董広らとその麾下の歩兵・騎兵合わせて二万を率いて司馬保のもとに赴かせた。軍が新陽に駐屯したとき、ちょうど愍帝の訃報がもたらされたので、それを聞いた張寔は喪服を着て哀悼し、三日の間、大いに哭礼を行った。
時に南陽王・司馬保は、(拉致された愍帝に代わって)皇帝の尊号を称しようと謀っていたが、そこで破羌都尉の張詵(ちょうしん)が張寔に言った。「南陽王(司馬保)は莫大なる恥を忘れ、自ら尊号を称そうとしていますが、天は図讖を授けていませんし、南陽王の徳は時運に応じるには十分でなく、結局のところ、時世を厄難から救える人物ではございません。一方で晋王(司馬睿)は、明徳を備え、朝廷と親密な関係にある藩王であり、先帝(愍帝)が頼りにして後を託した相手でもありますので、上表して晋王の聖徳を称え、皇帝の尊位に即くことを勧めるべきであります。そして、各地の地方長官に檄文を伝達し、丞相府(丞相である晋王・司馬睿の政府)のために口添えすれば、南陽王(司馬保)が晋王と帝位を競おうとする心も失せ、まだまとまっていない南陽王派の徒党も散じることになりましょう」と。張寔はその意見に従った。そこで檄文を天下各地に飛ばし、晋王を尊び天子に推戴しようと呼びかけ、牙門将の蔡忠を派遣して上表文を奉じて江南に届けさせ、司馬睿に皇帝の尊位に即くことを勧めた。そしてこの年、元帝(司馬睿)は建鄴で即位し、年号を太興と改めたが、張寔はなお(愍帝の年号である)建興六年と称し、中興(東晋政権)により改められた年号には従わなかった。
司馬保は、愍帝が崩御したということを聞くと、晋王を自称し、独自の元号を建て、百官を置き、使者を派遣して張寔を「征西大将軍・儀同三司」に任じ、三千戸の封邑を増した。まもなく司馬保は陳安に叛かれ、氐族や羌族はみな陳安に応じた。司馬保は困窮し、そこで上邽を去り、祁山に遷都したので、張寔は、その将の韓璞とその麾下の歩兵・騎兵合わせて五千を派遣して、その危難を救いに行かせた。陳安は、退いて緜諸城に籠って守りに転じたので、司馬保は上邽に帰還した。それからまもなく、司馬保はまた陳安に敗れ、使者を張寔のもとに派遣して援軍を要請した。張寔が宋毅を派遣して司馬保のもとに赴かせたところ、陳安は退却した。ちょうど司馬保は劉曜軍に迫られ、桑城に遷都し、張寔のもとに奔走しようと計画した。張寔は、司馬保が晋の宗室の中でも期待を寄せられている人物なので、もし河西にやって来れば、必ず物情騒然となると考え、その将の陰監を派遣して司馬保を迎えさせ、南陽王(司馬保)を護衛することを名目にしていたが、その実はその侵入を防ごうとしていたのであった。ちょうど司馬保は薨去し、その配下の兵衆は解散し、そのうち涼州に逃げて来た者は一万人余りに上った。張寔は、涼州が険阻で遠方であることを自ら恃み、非常に驕慢になり、ほしいままに振る舞うようになった。
初め、張寔の寝室の梁の間に人の像があったが、頭が無く、しばらくして崩れたので、張寔はこのことを非常に忌まわしく思った。京兆の人である劉弘なる人物は、よこしまな術を身につけ、天梯山や第五山に寓居し、灯火をたいて、鏡を山中の洞穴中に懸けて(その灯火を反射させて)光明を演出し、それによって人々を惑わし、その道を信奉する者は千人余りに上り、張寔の左右の者はみなその教団に仕えた。張寔の帳下督の閻沙(えんさ)、牙門将の趙仰(ちょうぎょう)は、いずれも劉弘と同郷の人であり、そこで劉弘は彼らに次のように言った。「天は私に神璽を与えたもうたので、きっと涼州に王として君臨することになるだろう」と。閻沙・趙仰はそれを信じ、ひそかに張寔の左右の者十数人と一緒に張寔を殺し、劉弘を主として奉戴しようと謀った。張寔は裏でその謀略を知り、劉弘を捕らえて殺した。しかし、閻沙らはそのことを知らず、その夜に張寔を殺してしまった。その在位は六年。(前涼政権は)張寔に対して私的に「昭公」という諡号を与え、(東晋政権の)元帝は「元公」という諡号を賜った。張寔の子の張駿はまだ幼かったので、張寔の弟の張茂が涼州刺史の事務を代行した。

原文

茂、字成遜。虛靖好學、不以世利嬰心。建興初、南陽王保辟從事中郎、又薦爲散騎侍郎・中壘將軍、皆不就。二年、徵爲侍中、以父老固辭。尋拜平西將軍・秦州刺史。太興三年、寔既遇害、州人推茂爲大都督・太尉・涼州牧、茂不從、但受使持節・平西將軍・涼州牧。乃誅閻沙及黨與數百人、赦其境内。復以兄子駿爲撫軍將軍・武威太守・西平公。
歲餘、茂築靈鈞臺、周輪八十餘堵、基高九仞。武陵人閻曾夜叩門呼曰「武公遣我來曰何故勞百姓而築臺乎。」姑臧令辛巖以曾妖妄、請殺之。茂曰「吾信勞人。曾稱先君之令、何謂妖乎。」太府主簿馬魴諫曰「今世難未夷、唯當弘尚道素、不宜勞役崇飾臺榭。且比年已來、轉覺眾務日奢於往、毎所經營、輕違雅度。實非士女所望於明公。」茂曰「吾過也。吾過也。」命止作役。
明年、劉曜遣其將劉咸攻韓璞於冀城、呼延寔攻寧羌護軍陰鑒于桑壁。臨洮人翟楷・石琮等逐令長、以縣應曜、河西大震。參軍馬岌勸茂親征、長史氾禕怒曰「亡國之人復欲干亂大事。宜斬岌以安百姓。」岌曰「氾公書生糟粕、刺舉近才、不惟國家大計。且朝廷旰食有年矣。今大賊自至、不煩遠師、遐邇之情、實繫此州、事勢不可以不出。且宜立信勇之驗、以副秦隴之望。」茂曰「馬生之言得之矣。」乃出次石頭。茂謂參軍陳珍曰「劉曜以乘勝之聲握三秦之鋭、繕兵積年、士卒習戰、若以精騎奄克南安、席卷河外、長驅而至者、計將何出。」珍曰「曜雖乘威怙眾、恩德未結於下、又其關東離貳、内患未除、精卒寡少、多是氐羌烏合之眾、終不能近舍關東之難、增隴上之戍、曠日持久與我爭衡也。若二旬不退者、珍請爲明公率弊卒數千以擒之。」茂大悅、以珍爲平虜護軍、率卒騎一千八百救韓璞。曜陰欲引歸、聲言要先取隴西、然後迴滅桑壁。珍募發氐羌之眾、擊曜走之、克復南安。茂深嘉之、拜折衝將軍。
未幾、茂復大城姑臧、修靈鈞臺、別駕吳紹諫曰「伏惟修城築臺、蓋是懲既往之事。愚以爲恩德未洽於近侍、雖處層樓、適所以疑諸下、徒見不安之意而失士民繫託之本心、示怯弱之形、乖匡霸之勢。遐方異境窺我之齷齱也、必有乘人之規。嘗願止役省勞、與下休息。而更興功動眾、百姓豈所望於明君哉。」茂曰「亡兄怛然失身於物。王公設險、武夫重閉、亦達人之至戒也。且忠臣・義士豈不欲盡節義於亡兄哉。直以危機密發、雖有賁・育之勇、無所復施。今事未靖、不可以拘繫常言、以太平之理責人於迍邅之世。」紹無以對。
茂雅有志節、能斷大事。涼州大姓賈摹、寔之妻弟也、勢傾西土。先是、謠曰「手莫頭、圖涼州。」茂以爲信、誘而殺之。於是豪右屏跡、威行涼域。永昌初、茂使將軍韓璞率眾取隴西・南安之地、以置秦州。
太寧三年卒。臨終、執駿手泣曰「昔吾先人以孝友見稱。自漢初以來、世執忠順。今雖華夏大亂、皇輿播遷、汝當謹守人臣之節、無或失墜。吾遭擾攘之運、承先人餘德、假攝此州、以全性命。上欲不負晉室、下欲保完百姓。然官非王命、位由私議、苟以集事、豈榮之哉。氣絕之日、白帢入棺、無以朝服、以彰吾志焉。」年四十八。在位五年。私諡曰成。茂無子、駿嗣位。

訓読

茂、字は成遜。虛靖にして學を好み、世利を以て心に嬰けず。建興の初め、南陽王保、從事中郎に辟し、又た薦めて散騎侍郎・中壘將軍と爲すも、皆な就かず。二年、徵されて侍中と爲るも、父の老いたるを以て固辭す。尋いで平西將軍・秦州刺史に拜せらる。太興三年、寔の既に害に遇うや、州人、茂を推して大都督・太尉・涼州牧と爲すも、茂、從わず、但だ使持節〔一〕・平西將軍・涼州牧のみを受く。乃ち閻沙及び黨與數百人を誅し、其の境内に赦す。復た兄の子の駿を以て撫軍將軍・武威太守・西平公と爲す。
歲餘、茂、靈鈞臺を築かんとし、周輪は八十餘堵、基の高きこと九仞。武陵の人の閻曾(えんかい)、夜に門を叩きて呼びて曰く「武公、我を遣わして來らしめて曰く、何の故に百姓を勞れしめて臺を築けるや」と。姑臧令の辛(しん)巖(がん)、曾の妖妄なるを以て、之を殺さんことを請う。茂曰く「吾、信に人を勞れしむ。曾の先君の令と稱すは、何ぞ妖と謂わんや」と。太府主簿〔二〕の馬魴(ばほう)、諫めて曰く「今、世難は未だ夷らがざれば、唯だ當に弘いに道素を尚ぶべきのみにして、宜しく勞役せしめて臺榭を崇飾すべからず。且つ比年已來、轉た覺ゆるに眾務は日ごとに往より奢り、經營する所ある毎に、輕た雅度に違う。實に士女の明公に望む所には非ず」と。茂曰く「吾が過ちなり。吾が過ちなり」と。命じて作役を止めしむ。
明年、劉曜、其の將の劉咸(りゅうかん)を遣わして韓璞(かんはく)を冀城に攻めしめ、呼延寔(こえんしょく)をして寧羌護軍の陰鑒を桑壁に攻めしむ。臨洮の人の翟楷(てきかい)・石琮(せきそう)等、令長を逐い、縣を以て曜に應じたれば、河西大いに震う。參軍の馬岌(ばぎゅう)、茂に親征を勸むるも、長史の氾禕(はんい)、怒りて曰く「亡國の人、復た干して大事を亂さんと欲す。宜しく岌を斬りて以て百姓を安んずべし」と。岌曰く「氾公は書生の糟粕にして、近才を刺舉し、國家の大計を惟わず。且つ朝廷は旰食すること有年。今、大賊は自ら至れば、遠師を煩わさず、遐邇の情、實に此の州に繫ければ、事勢として以て出でざるべからず。且く宜しく信勇の驗を立て、以て秦隴の望に副うべし」と。茂曰く「馬生の言、之を得たり」と。乃ち出でて石頭に次す。茂、參軍の陳珍に謂いて曰く「劉曜は乘勝の聲を以て三秦の鋭を握り、兵を繕うこと積年、士卒は戰に習いたれば、若し精騎を以て奄かに南安に克ち、河外を席卷し、長驅して至らば、計將た何くにか出でん」と。珍曰く「曜は威に乘じ眾を怙むと雖も、恩德は未だ下に結ばれず、又た其の關東は離貳し、内患は未だ除かれず、精卒は寡少にして、多く是れ氐羌の烏合の眾なれば、終に近く關東の難を舍て、隴上の戍を增し、日を曠しくして持久して我と衡を爭う能わざるなり。若し二旬にして退かずんば、珍、請うらくは明公の爲に弊卒數千を率いて以て之を擒にせん」と。茂、大いに悅び、珍を以て平虜護軍と爲し、卒騎一千八百を率いて韓璞を救わしむ。曜、陰かに引きて歸らんと欲するも、要ず先ず隴西を取り、然る後に迴りて桑壁を滅ぼさんと聲言す。珍、募りて氐羌の眾を發し、曜を擊ちて之を走らせ、克く南安を復す。茂、深く之を嘉し、折衝將軍に拜す。
未だ幾くならずして、茂、復た大いに姑臧に城き、靈鈞臺を修めたれば、別駕の吳紹、諫めて曰く「伏して惟うに、城を修め臺を築くは、蓋し是れ既往の事に懲る。愚、以爲えらく、恩德未だ近侍に洽からざれば、層樓に處ると雖も、適に諸下を疑い、徒らに不安の意を見(しめ)して士民の繫託の本心を失い、怯弱の形を示し、匡霸の勢に乖く所以ならん、と。遐方異境、我の齷齱するを窺いたれば、必ず人に乘ずるの規有らん。嘗て役を止め勞を省き、下と與に休息せんことを願う。而るに更めて功を興して眾を動かすは、百姓、豈に明君に望む所ならんや」と。茂曰く「亡兄は怛然として身を物に失う。王公の險を設け、武夫の閉を重ぬるは、亦た達人の至戒なり。且つ忠臣・義士、豈に節義を亡兄に盡くさんと欲せざりしや。直だ危機の密かに發するを以て、賁・育の勇有りと雖も、復た施す所無かりしのみ。今、事は未だ靖んぜざれば、以て常言に拘繫し、太平の理を以て人を迍邅の世に責むべからず」と。紹、以て對うる無し。
茂、雅より志節有り、能く大事を斷ず。涼州の大姓の賈摹(かぼ)は、寔の妻の弟にして、勢は西土を傾く。是より先、謠に曰く「手莫頭〔三〕、涼州を圖らん」と。茂、信なりと以爲い、誘いて之を殺す。是に於いて豪右は跡を屏い、威は涼域に行わる。永昌の初め、茂、將軍の韓璞をして眾を率いて隴西・南安の地を取らしめ、以て秦州を置く。
太寧三年〔四〕、卒す。終わるに臨み、駿の手を執りて泣きて曰く「昔、吾が先人は孝友を以て稱せらる。漢初より以來、世々忠順を執る。今、華夏は大いに亂れ、皇輿は播遷すと雖も、汝、當に謹みて人臣の節を守り、失墜すること或る無かるべし。吾、擾攘の運に遭い、先人の餘德を承け、假りに此の州を攝り、以て性命を全うす。上は晉室に負かざらんと欲し、下は百姓を保完せんと欲す。然るに官は王命に非ず、位は私議に由り、苟めにするに事を集(な)すを以てしたれば、豈に之を榮とせんや。氣絕の日、白帢もて棺に入れ、朝服を以てする無く、以て吾が志を彰せ」と。年四十八。位に在ること五年。私かに諡して成と曰う。茂に子無ければ、駿、位を嗣ぐ。

〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔二〕前涼では、「太府」と「少府」の二府を中心にして政権運営が行われた。『資治通鑑』巻九十・晉紀十二・中宗元皇帝上・建武元年正月の条の胡三省注によれば、太府とは都督府のことで、少府とは涼州府のことであるという。
〔三〕「手」が「莫」を頭に冠すると、「摹」の字になる。
〔四〕『晋書斠注』でも指摘されているように、後文の「在位五年」の記述や、他の書の記述からも、卒年は「太寧三年」ではなく「太寧二年」が正しいものと思われるが、ここではとりあえず原文に従って訳した。

現代語訳

張茂(ちょうぼ)は、字を成遜という。落ち着いた性格で学問を好み、世俗の功利を気にかけなかった。(愍帝の)建興年間の初め、南陽王・司馬保は張茂を従事中郎に辟召し、さらに推薦して散騎侍郎・中塁将軍に任じたが、張茂はいずれにも就任しなかった。建興二年(314)、徴召されて侍中に任じられたが、父(張軌)が年老いているということを理由に固辞した。まもなく平西将軍・秦州刺史に任じられた。(元帝の)太興三年(320)、張寔が殺害されると、涼州の人々は、張茂を推戴して「大都督・太尉・涼州牧」に据えようとしたが、張茂はそれに従わず、ただ「使持節・平西将軍・涼州牧」だけを受け入れた。そこで閻沙(えんさ)およびその仲間たち数百人を誅殺し、領域内で大赦を行った。また、兄の子である張駿を「撫軍将軍・武威太守・西平公」の地位に据えた。
一年余り後、張茂は霊鈞台を築こうとし、それは周囲に八十余りの垣根をめぐらし、その台基は九仞(約15~17m)の高さにする予定であった。武陵の人である閻会(えんかい)は、夜に門を叩いて叫んで言った。「武公(張軌)が私を派遣して『なぜ人々を疲弊させてまで台を築いているのか』と伝えようとしています」と。姑臧令の辛巌(しんがん)は、閻会の言うことは出鱈目であるとして、閻会を殺すことを要請した。張茂は言った。「私は実際に人を疲弊させている。閻会が父上の令だと称しているのも、どうして出鱈目だと言えるだろうか」と。また、太府主簿の馬魴(ばほう)が諫めて言った。「今、世の中の危難はまだ平定されていませんので、ただ大いに質素の道徳を尊ぶべきであり、民を労役させて楼台を装飾させるようなことはすべきではありません。しかもここ近年ではだんだん、諸々の事務は日を経るごとに以前よりも奢侈になってきており、何かを建造するたびに、だんだんと度を越してきているように感じられます。実にこれらは、人々があなたに対して望んでいることではありません」と。張茂は言った。「私の過ちである。私の過ちである」と。そこで命じて建設をやめさせた。
明年、劉曜がその将の劉咸(りゅうかん)を派遣して冀城にいる韓璞(かんはく)を攻撃させ、呼延寔(こえんしょく)を派遣して桑壁にいる寧羌護軍の陰鑑を攻撃させた。臨洮の人である翟楷(てきかい)・石琮(せきそう)らは、(臨洮県近隣の)県令や県長を駆逐し、県ごと劉曜に呼応したので、河西は大いに震えた。参軍の馬岌(ばぎゅう)が張茂に親征を勧めたところ、長史の氾禕(はんい)が怒って言った。「国を滅亡へと導こうとする輩がまた大事に干与して乱そうとしております。この馬岌めを斬って人々を安心させるべきです」と。馬岌は言った。「氾公は役に立たない酒かすのような書生に過ぎず、才識の浅薄な者ばかりを推挙し、国家の大計について思いをめぐらしておりません。さらに朝廷(東晋政権)は長年にわたり、定時に夕食を取れないほど政務に忙殺されています(ので軍を派遣する余裕はありません)。今、大賊が自らやって来ましたので、遠征の労苦を煩わせることもなく、しかも遠近の人々の注目は実にこの州に集まっていますので、情勢として自ら出ないわけにはいきません。ひとまず信義と勇武の効験を建て、それによって秦嶺・隴山地域の人々の期待に沿うべきです」と。張茂は言った。「馬生の意見が妥当である」と。そこで出軍して石頭に駐屯した。張茂は、参軍の陳珍に言った。「劉曜は勝利に乗ずる勢いとその評判により、三秦(関中)地域の精鋭の兵士を手中に収め、長年にわたって武備を整え、兵士も戦いに習熟しているので、もし精鋭の騎兵によって迅速に南安を破り、河外(黄河の東南の地域=隴西地域)を席巻し、長駆して河西にやってきたら、どのような計をめぐらせればよいか」と。陳珍は言った。「劉曜は威に乗じて兵衆を恃んでいるとは言いましても、その恩徳はまだ下々の者に浸透せず、また関東の配下(石勒)が叛き、その内患がまだ除かれておらず、精鋭の兵士も少なく、その兵の大半は氐族や羌族から成る烏合の衆でありますので、身近な関東の危難を捨てて、隴西地域の戍(防衛施設)を増やし、無駄に月日を費やして持久戦を行い、我々と力を争うようなことは結局できますまい。もし二十日が経過しても劉曜が退かなければ、どうか疲れ果てた兵卒で構いませんので数千の兵を授かり、私がそれを率いてあなたのために劉曜を捕虜にすることをお許しください」と。張茂は非常に喜び、陳珍を平虜護軍に任じ、千八百の卒騎を率いて韓璞を救援しに行かせた。劉曜は、内心では軍を引き返して帰ろうとしていたが、表向きには必ずまず隴西を取り、その後に軍を返して桑壁を滅ぼそうと吹聴していた。陳珍は、氐羌の兵衆を募集して発兵し、劉曜を攻撃して敗走させ、南安郡を取り戻した。張茂はそれを大いに称え、陳珍を折衝将軍に任命した。
やがて張茂はまた大いに姑臧城の城壁を増築し、霊鈞台を修築しようとしたので、別駕従事の呉紹が諫めて言った。「つつしんで思いますに、城壁を修築し、台を築こうとなさるのは、おそらくかつての事(張寔が暗殺されたこと)に懲りたが故のことでしょう。私が思いますに、恩徳が近侍の者にあまねく施されていないのであれば、高楼に身を置くとしても、それはまさに部下を疑い、むやみに不安の意思を示して兵士や民衆があなたに心を寄せようとするその本心を失い、臆病で脆弱な形勢を赤裸々にし、君主を補佐する覇者の形成に違うものにしかなりません。遠方や異境の者たちは、我らが齷齪するのを窺っておりますので、必ず人の弱みに付け込む謀略が起こってしまうでしょう。かつて労役を省いてやめさせ、下々の者と一緒に休息するようお願い申し上げました。ですのに、改めて工事を興して人々を動かすというのは、どうして人々があなたに望むことでありましょうか」と。張茂は言った。「亡き兄は驚き怯えながらその命を人の手によって奪われた。(『易』や『春秋左氏伝』によれば)王公は険阻な防備を設け(て国を守り)、勇者こそ却って防備を厳重にすると言うが、それはまさに達人による深い戒めである。しかも、忠臣・義士たちが、どうして亡き兄に節義を尽くそうと思わなかったなどということがあろうか。ただ危機が裏でひそかに生じてしまったため、(戦国時代の勇士である)孟賁・夏育のような勇があったとしても、もはやどうすることもできなかったというだけである。今、大事はまだ安定していないので、平時の言葉にこだわり、困難を極めるこの乱世において、太平の世の道理によって人を責めるべきではない」と。呉紹はそれに返答することができなかった。
張茂には、もともと高い志と節操があり、大事をきっぱりと裁断できる能力があった。涼州の大姓の賈摹(かぼ)は、張寔(ちょうしょく)の妻の弟であり、その権勢は西方を傾けるほどであった。以前に、次のような謠言が流行していた。「手莫頭が、涼州の主の地位を狙っている」と。張茂は、それを本当のことであると考え、賈摹を他のことで誘い、その機会に殺した。そうして豪族たちは鳴りを潜め、張茂の威厳は涼州中に知れ渡った。(元帝の)永昌年間の初め、張茂は、将軍の韓璞に命じて兵衆を率いて隴西・南安の地を取らせ、そこに秦州を設置した。
太寧三年(325)、張茂は死去した。臨終に際し、張茂は張駿の手を取って泣きながら言った。「昔、我が先祖は孝友によって名を広めた。漢初以来、代々忠節と従順さを旨としてきた。今、中華は大いに乱れ、陛下は遠くの地に遷都したとはいえ、お前はつつしんで人臣の節を守るべきであり、それを失うようなことがあってはならない。私は騒擾の時運に遭い、先人の残した徳の余慶を受け継ぎ、仮にこの涼州刺史の事務を代行し、それによって天寿を全うした。上は晋室に背くまいと思い、下は人々の暮らしを保全しようと心掛けてきた。しかし、我が官は朝廷の命により授かったものではなく、位は涼州の人々の私的な議論により得たものでしかなく、間に合わせに成功を収めたに過ぎないので、どうしてこれが立派なものと言えようか。私の息が絶えたら、朝服ではなく、代わりに白帢(白色の帽子)を棺に入れ、それによって我が志を明らかにしてくれ」と。享年は四十八歳。在位は五年。(前涼政権は)張茂に対して私的に「成公」という諡号を与えた。張茂には子がいなかったので、張駿がその位を嗣いだ。

原文

駿、字公庭。幼而奇偉。建興四年、封霸城侯。十歲能屬文、卓越不羈、而淫縱過度、常夜微行于邑里、國中化之。及統任、年十八。先是、愍帝使人黃門侍郎史淑在姑臧、左長史氾禕・右長史馬謨等諷淑、令拜駿使持節・大都督・大將軍・涼州牧・領護羌校尉・西平公。赦其境内、置左右前後四率官、繕南宮。劉曜又使人拜駿涼州牧・涼王。
時辛晏阻兵於枹罕、駿讌羣僚于閑豫堂、命竇濤等進討辛晏。從事劉慶諫曰「霸王不以喜怒興師、不以乾沒取勝、必須天時・人事、然後起也。辛晏父子安忍凶狂、其亡可待。奈何以饑年大舉、猛寒攻城。昔周武迴戈以須亡殷之期、曹公緩袁氏使自斃。何獨殿下以旋兵爲恥乎。」駿納之。
遣參軍王騭聘于劉曜。曜謂之曰「貴州必欲追蹤竇融、款誠和好。卿能保之乎。」騭曰「不能。」曜侍中徐邈曰「君來和同、而云不能、何也。」騭曰「齊桓貫澤之盟、憂心兢兢、諸侯不召自至。葵丘之會、驕而矜誕、叛者九國。趙國之化、常如今日可也、若政教陵遲、尚未能察邇者之變。況鄙州乎。」曜顧謂左右曰「此涼州高士、使乎得人。」禮而遣之。
太寧元年、駿猶稱建興十二年、駿親耕藉田。尋承元帝崩問、駿大臨三日。會有黃龍見于揟次之嘉泉、右長史氾禕言於駿曰「案建興之年、是少帝始起之號。帝以凶終、理應改易。朝廷越在江南、音問隔絕、宜因龍改號、以章休徵。」不從。初、駿之立也、姑臧謠曰「鴻從南來雀不驚。誰謂孤鶵尾翅生、高舉六翮鳳皇鳴。」至是而復收河南之地。
咸和初、駿遣武威太守竇濤・金城太守張閬・武興太守辛巖・揚烈將軍宋輯等率眾東會韓璞、攻討秦州諸郡。曜遣其將劉胤來距、屯于狄道城。韓璞進度沃干嶺。辛巖曰「我握眾數萬、藉氐羌之銳、宜速戰以滅之、不可以久。久則變生。」璞曰「自夏末以來、太白犯月、辰星逆行、白虹貫日、皆變之大者、不可以輕動。輕動而不捷、爲禍更深。吾將久而斃之。且曜與石勒相攻、胤亦不能久也。」積七十餘日、軍糧竭、遣辛巖督運於金城。胤聞之、大悅、謂其將士曰「韓璞之眾十倍於吾、羌胡皆叛、不爲之用。吾糧廩將懸、難以持久。今虜分兵運糧、可謂天授吾也。若敗辛巖、璞等自潰。彼眾我寡、宜以死戰。戰而不捷、當無匹馬得還。宜厲爾戈矛、竭汝智力。」眾咸奮。於是率騎三千、襲巖于沃干嶺、敗之、璞軍遂潰、死者二萬餘人。面縛歸罪、駿曰「孤之罪也。將軍何辱。」皆赦之。胤乘勝追奔、濟河、攻陷令居、入據振武、河西大震。駿遣皇甫該禦之、赦其境内。
會劉曜東討石生、長安空虛。大蒐講武、將襲秦雍、理曹郎中索詢諫曰「曜雖東征、胤猶守本。險阻路遙、爲主人甚易。胤若輕騎憑氐羌以距我者、則奔突難測、輟彼東合而逆戰者、則寇我未已。頃年頻出、戎馬生郊、外有飢羸、内資虛秏、豈是殿下子物之謂邪。」駿曰「毎患忠言不獻、面從背違、吾政教缺然而莫我匡者。卿盡辭規諫、深副孤之望也。」以羊・酒禮之。
西域諸國獻汗血馬・火浣布・犎牛・孔雀・巨象及諸珍異二百餘品。西域長史李柏請擊叛將趙貞、爲貞所敗。議者以柏造謀致敗、請誅之。駿曰「吾毎以漢世宗之殺王恢、不如秦穆之赦孟明。」竟以減死論、羣心咸悅。駿觀兵新郷、狩于北野、因討軻沒虜、破之。下令境中曰「昔鯀殛而禹興、芮誅而缺進、唐帝所以殄洪災、晉侯所以成五霸。法律犯死罪、朞親不得在朝。今盡聽之、唯不宜内參宿衞耳。」於是刑清國富、羣僚勸駿稱涼王、領秦・涼二州牧、置公卿百官、如魏武・晉文故事。駿曰「此非人臣所宜言也。敢有言此者、罪在不赦。」然境内皆稱之爲王。羣僚又請駿立世子、駿不從。中堅將軍宋輯言於駿曰「禮急儲君者、蓋重宗廟之故。周成・漢昭立於繈褓、誠以國嗣不可曠、儲宮當素定也。昔武王始有國、元王作儲君。建興之初、先王在位、殿下正名統。況今社稷彌崇、聖躬介立、大業遂殷、繼貳闕然哉。臣竊以爲國有累卵之危、而殿下以爲安踰泰山、非所謂也。」駿納之、遂立子重華爲世子。
先是、駿遣傅穎假道于蜀、通表京師、李雄弗許。駿又遣治中從事張淳稱藩于蜀、託以假道焉。雄大悅。雄又有憾於南氐楊初、淳因說曰「南氐無狀、屢爲邊害、宜先討百頃、次平上邽。二國并勢、席卷三秦、東清許洛、掃氛燕趙、拯二帝梓宮於平陽、反皇輿於洛邑、此英霸之舉、千載一時。寡君所以遣下臣冒險通誠、不遠萬里者、以陛下義聲遠播、必能愍寡君勤王之志。天下之善一也、惟陛下圖之。」雄怒、偽許之、將覆淳於東峽。蜀人橋贊密以告淳。淳言於雄曰「寡君使小臣行無迹之地、通百蠻之域、萬里表誠者、誠以陛下義矜勠力之臣、能成人之美節故也。若欲殺臣者、當顯於都市、宣示眾目、云『涼州不忘舊義、通使琅邪、爲表忠誠、假途於我、主聖臣明、發覺殺之。』當令義聲遠著、天下畏威。今盜殺江中、威刑不顯、何足以揚休烈、示天下也。」雄大驚曰「安有此邪。當相放還河右耳。」雄司隸校尉景騫言於雄曰「張淳壯士、宜留任之。」雄曰「壯士豈爲人留。且可以卿意觀之。」騫謂淳曰「卿體大、暑熱、可且遣下吏、少住須涼。」淳曰「寡君以皇輿幽辱、梓宮未反、天下之恥未雪、蒼生之命倒懸、故遣淳來、表誠大國。所論事重、非下吏能傳。若下吏所了者、則淳本亦不來。雖有火山湯海。無所辭難、豈寒暑之足避哉。」雄曰「此人矯矯、不可得用也。」厚禮遣之。謂淳曰「貴主英名蓋世、土險兵盛、何不稱帝自娛一方。」淳曰「寡君以乃祖・乃父世濟忠良、未能雪天人之大恥、解眾庶之倒懸、日昃忘食、枕戈待旦。以琅邪中興江東、故萬里翼戴、將成桓文之事。何言自娛邪。」雄有慚色曰「我乃祖・乃父亦是晉臣、往與六郡避難此都、爲同盟所推、遂有今日。琅邪若能中興大晉於中州者、亦當率眾輔之。」淳還至龍鶴、募兵通表、後皆達京師、朝廷嘉之。
駿議欲嚴刑峻制、眾咸以爲宜。參軍黃斌進曰「臣未見其可。」駿問其故。斌曰「夫法制所以經綸邦國、篤俗齊物、既立必行、不可窪隆也。若尊者犯令、則法不行矣。」駿屏机改容曰「夫法唯上行、制無高下。且微黃君、吾不聞過矣。黃君可謂忠之至也。」於坐擢爲敦煌太守。駿有計略、於是厲操改節、勤修庶政、總御文武、咸得其用、遠近嘉詠、號曰積賢君。自軌據涼州、屬天下之亂、所在征伐、軍無寧歲。至駿、境内漸平。又使其將楊宣率眾越流沙、伐龜茲・鄯善、於是西域並降。鄯善王元孟獻女、號曰美人、立賓遐觀以處之。焉耆前部・于窴王並遣使貢方物。得玉璽於河、其文曰「執萬國、建無極」。
時駿盡有隴西之地、士馬強盛、雖稱臣於晉、而不行中興正朔。舞六佾、建豹尾、所置官僚府寺擬於王者、而微異其名。又分州西界三郡置沙州、東界六郡置河州。二府官僚莫不稱臣。又於姑臧城南築城、起謙光殿、畫以五色、飾以金玉、窮盡珍巧。殿之四面各起一殿、東曰宜陽青殿、以春三月居之、章服器物皆依方色。南曰朱陽赤殿、夏三月居之。西曰政刑白殿、秋三月居之。北曰玄武黑殿、冬三月居之。其傍皆有直省内官寺署、一同方色。及末年、任所遊處、不復依四時而居。
咸和初、懼爲劉曜所逼、使將軍宋輯・魏纂將兵徙隴西・南安人二千餘家于姑臧、使聘於李雄、修鄰好。及曜攻枹罕、護軍辛晏告急、駿使韓璞・辛巖率步騎二萬擊之、戰于臨洮、大爲曜軍所敗、璞等退走、追至令居、駿遂失河南之地。初、戊己校尉趙貞不附于駿、至是、駿擊擒之、以其地爲高昌郡。及石勒殺劉曜、駿因長安亂、復收河南地、至于狄道、置武衞・石門・候和・漒川・甘松五屯護軍、與勒分境。勒遣使拜駿官爵、駿不受、留其使。後懼勒強、遣使稱臣於勒、兼貢方物、遣其使歸。
駿境内嘗大饑、穀價踊貴、市長譚詳請出倉穀與百姓、秋收三倍徵之。從事陰據諫曰「昔西門豹宰鄴、積之於人、解扁莅東封之邑、計入三倍。文侯以豹有罪而可賞、扁有功而可罰。今詳欲因人之饑、以要三倍。反裘傷皮、未足喻之。」駿納之。
初、建興中、敦煌計吏耿訪到長安、既而遇賊、不得反、奔漢中、因東渡江、以太興二年至京都、屢上書以『本州未知中興、宜遣大使。乞爲郷導。』時連有内難、許而未行。至是、始以訪守治書御史、拜駿鎮西大將軍、校尉・刺史・公如故、選西方人隴西賈陵等十二人配之。訪停梁州七年、以驛道不通、召還。訪以詔書付賈陵、託爲賈客。到長安、不敢進、以咸和八年始達涼州。駿受詔、遣部曲督王豐等報謝、并遣陵歸、上疏稱臣、而不奉正朔、猶稱建興二十一年。九年、復使訪隨豐等齎印・板、進駿大將軍。自是毎歲使命不絕。後駿遣參軍麴護上疏曰

東西隔塞、踰歷年載、夙承聖德、心繫本朝。而江吳寂蔑、餘波莫及、雖肆力修塗、同盟靡恤。奉詔之日、悲喜交并。天恩光被、褒崇輝渥、即以臣爲大將軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事。休寵振赫、萬里懷戴、嘉命顯至、銜感屏營。
伏惟陛下天挺岐嶷、堂構晉室、遭家不造、播幸吳楚、宗廟有黍離之哀、園陵有殄廢之痛、普天咨嗟、含氣悲傷。臣專命一方、職在斧鉞、遐域・僻陋、勢極秦隴。勒雄既死、人懷反正、謂季龍・李期之命曾不崇朝、而皆篡繼凶逆、鴟目有年。東西遼曠、聲援不接、遂使桃蟲鼓翼、四夷諠譁、向義之徒更思背誕、鉛刀有干將之志、螢燭希日月之光。是以臣前章懇切、欲齊力時討。而陛下雍容江表、坐觀禍敗、懷目前之安、替四祖之業、馳檄布告、徒設空文、臣所以宵吟荒漠、痛心長路者也。且兆庶離主、漸冉經世、先老消落、後生靡識、忠良受梟懸之罰、羣凶貪縱橫之利。懷君戀故、日月告流。雖時有尚義之士、畏逼首領、哀歎窮廬。
臣聞少康中興、由於一旅、光武嗣漢、眾不盈百、祀夏配天、不失舊物。況以荊揚慓悍、臣州突騎、吞噬遺羯、在於掌握哉。願陛下敷弘臣慮、永念先績、敕司空鑒・征西亮等汎舟江沔、使首尾俱至也。

自後駿遣使多爲季龍所獲、不達。後駿又遣護羌參軍陳㝢・從事徐虓・華馭等至京師。征西大將軍亮上疏言「陳㝢等冒險遠至、宜蒙銓敘。」詔除㝢西平相、虓等爲縣令。永和元年、以世子重華爲五官中郎將・涼州刺史。酒泉太守馬岌上言「酒泉南山、即崑崙之體也。周穆王見西王母、樂而忘歸、即謂此山。此山有石室玉堂、珠璣鏤飾、煥若神宮。宜立西王母祠、以裨朝廷無疆之福。」駿從之。
駿在位二十二年卒。時年四十。私諡曰文公、穆帝追諡曰忠成公。

訓読

駿、字は公庭。幼くして奇偉たり。建興四年、霸城侯に封ぜらる。十歲にして能く文を屬り、卓越にして不羈、而して淫縱なること度を過ぎ、常に夜に邑里に微行し、國中之に化す。任を統ぶるに及び、年は十八。是より先、愍帝の使人の黃門侍郎の史淑は姑臧に在れば、左長史の氾禕(はんい)・右長史の馬謨(ばぼ)等、淑に諷し、駿を使持節〔一〕・大都督・大將軍・涼州牧・領護羌校尉・西平公に拜せしむ。其の境内に赦し、左右前後の四率官を置き、南宮を繕う。劉曜、又た人をして駿を涼州牧・涼王に拜せしむ。
時に辛晏(しんあん)は兵を枹罕に阻みたれば、駿、羣僚と閑豫堂に讌するに、竇濤(とうとう)等に命じて進みて辛晏を討たしむ。從事の劉慶、諫めて曰く「霸王は喜怒を以て師を興さず、乾沒を以て勝ちを取らず、必ず天時・人事を須ち、然る後に起つなり。辛晏父子は安忍にして凶狂なれば、其の亡ぶること待つべし。奈何ぞ饑年を以て大舉し、猛寒もて城を攻めんや。昔、周武は戈を迴して以て亡殷の期を須ち、曹公は袁氏を緩めて自ら斃れしむ。何ぞ獨り殿下のみ兵を旋らすを以て恥と爲さんや」と。駿、之を納る。
參軍の王騭(おうしつ)を遣わして劉曜に聘わしむ。曜、之に謂いて曰く「貴州は必ず竇融を追蹤し、款誠もて和好せんと欲す。卿、能く之を保せんや」と。騭曰「能わず」と。曜の侍中の徐邈(じょばく)曰く「君、來りて和同するに、而るに能わずと云うは、何ぞや」と。騭曰「齊桓の貫澤の盟あるや、憂心兢兢として、諸侯、召さずして自ら至る。葵丘の會、驕りて矜誕として、叛する者九國。趙國の化、常に今日の如くんば可なるも、若し政教陵遲せば、尚お未だ邇者の變すら察する能わず。況んや鄙州をや」と。曜、顧みて左右に謂いて曰く「此れ涼州の高士にして、使なるかな、人を得たり」と。禮して之を遣る。
太寧元年、駿、猶お建興十二年と稱するに〔二〕、駿、親ら藉田を耕す。尋いで元帝の崩問を承け、駿、大いに臨すること三日。會々黃龍有りて揟次の嘉泉に見(あらわ)れたれば、右長史の氾禕、駿に言いて曰く「案ずるに建興の年、是れ少帝の始めて起つるの號なり。帝、凶を以て終わりたれば、理として應に改易すべし。朝廷は越えて江南に在り、音問は隔絕したれば、宜しく龍に因りて改號し、以て休徵を章らかにすべし」と。從わず。初め、駿の立つや、姑臧の謠に曰く「鴻、南より來たるも雀は驚かす。誰か謂わんや、孤鶵の尾翅生えて、高く六翮を舉げば鳳皇鳴かん、と。」是に至りて復た河南の地を收む。
咸和の初め、駿、武威太守の竇濤・金城太守の張閬(ちょうろう)・武興太守の辛巖(しんがん)・揚烈將軍の宋輯(そうしゅう)等を遣わして眾を率いて東のかた韓璞(かんはく)と會せしめ、攻めて秦州諸郡を討たしむ。曜、其の將の劉胤(りゅういん)を遣わして來りて距ぎ、狄道城に屯せしむ。韓璞、進みて沃干嶺を度る。辛巖曰く「我、眾數萬を握り、氐羌の銳を藉りたれば、宜しく速やかに戰いて以て之を滅し、以て久しくすべからず。久しくせば則ち變生じん」と。璞曰く「夏末より以來、太白の月を犯し、辰星の逆行し、白虹の日を貫くは、皆な變の大なる者なれば、以て輕しく動くべからず。輕しく動きて捷たずんば、禍更に深しと爲す。吾、將に久しくして之を斃さんとす。且つ曜は石勒と相い攻めたれば、胤も亦た久しくする能わざるなり」と。積むこと七十餘日、軍糧竭きたれば、辛巖を遣わして運を金城に督せしむ。胤、之を聞き、大いに悅び、其の將士に謂いて曰く「韓璞の眾は吾に十倍するも、羌胡は皆な叛き、之が用を爲さず。吾が糧廩は將に懸けんとすれば、以て持久するに難し。今、虜の兵を分かちて糧を運ぶは、天、吾に授くと謂うべきなり。若し辛巖を敗らば、璞等は自ら潰えん。彼眾く我寡ければ、宜しく以て死戰すべし。戰いて捷たずんば、當に匹馬として還るを得ること無かるべし。宜しく爾が戈矛を厲ぎ、汝が智力を竭くすべし」と。眾、咸な奮う。是に於いて騎三千を率い、巖を沃干嶺に襲い、之を敗り、璞の軍、遂に潰え、死者は二萬餘人。面縛して罪に歸するや、駿曰く「孤の罪なり。將軍、何の辱かあらん」と。皆な之を赦す。胤、勝ちに乘じて追奔し、河を濟り、攻めて令居を陷し、入りて振武に據りたれば、河西は大いに震う。駿、皇甫該を遣わして之を禦がしめ、其の境内に赦す。
會々劉曜は東のかた石生を討ち、長安、空虛たり。大いに蒐して講武し、將に秦雍を襲わんとするや、理曹郎中の索詢、諫めて曰く「曜は東征すと雖も、胤、猶お本を守る。險阻にして路遙ければ、主人甚だ易しと爲す。胤、若し輕騎もて氐羌に憑りて以て我を距がば、則ち奔突測り難く、彼の東を輟てて合して逆え戰わば、則ち我を寇すること未だ已まず。頃年、頻りに出で、戎馬は郊に生じ、外は飢羸有り、内は資虛秏したれば、豈に是れ殿下の物を子とするの謂ぞや」と。駿曰く「毎に忠言の獻ぜられず、面從して背違し、吾が政教の缺然とするも我を匡す者莫きを患う。卿の辭を盡くして規諫するは、深く孤の望に副うなり」と。羊・酒を以て之を禮す。
西域諸國、汗血馬・火浣布・犎牛・孔雀・巨象及び諸々の珍異二百餘品を獻ず。西域長史の李柏(りはく)、請いて叛將の趙貞を擊つも、貞の敗る所と爲る。議者、柏の謀を造すも敗を致すを以て、之を誅せんことを請う。駿曰く「吾、毎に以えらく、漢の世宗の王恢を殺すは、秦穆の孟明を赦すに如かず、と。」竟に減死を以て論じ、羣心は咸な悅ぶ。駿、兵を新郷に觀、北野に狩り、因りて軻沒の虜を討ち、之を破る。令を境中に下して曰く「昔、鯀は殛せられて禹は興り、芮は誅せられて缺は進むは、唐帝の洪災を殄くす所以にして、晉侯の五霸と成る所以なり。法律、死罪を犯せば、朞親〔三〕は朝に在るを得ず。今、盡く之を聽すも、唯だ宜しく宿衞に内參すべからざるのみ」と。是に於いて刑は清く國は富みたれば、羣僚は駿に涼王を稱し、秦・涼二州牧を領し、公卿百官を置くこと、魏武・晉文の故事の如くせんことを勸む。駿曰く「此れ人臣の宜しく言うべき所に非ざるなり。敢えて此を言う者有らば、罪は赦さざるに在り」と。然るに境内は皆な之を稱して王と爲す。羣僚、又た駿に世子を立てんことを請うも、駿、從わず。中堅將軍の宋輯、駿に言いて曰く「禮、儲君を急とするは、蓋し宗廟を重んずるの故なり。周成・漢昭の繈褓に立つは、誠に國嗣の曠しくすべからず、儲宮の當に素より定むべきを以てなり。昔、武王の始めて國を有つや、元王、儲君と作る。建興の初め、先王の位に在るや、殿下は名を統に正す。況んや今、社稷は彌々崇く、聖躬は介立し、大業は遂に殷んなるに、繼貳は闕然たらんや。臣、竊かに以爲えらく、國に累卵の危有るも、而れども殿下の以て安きこと泰山を踰ゆと爲すは、謂う所に非ざるなり、と。」駿、之を納れ、遂に子の重華を立てて世子と爲す。
是より先、駿、傅穎(ふえい)を遣わして道を蜀に假り、表を京師に通ぜしめんとするも、李雄、許さず。駿、又た治中從事の張淳を遣わして藩を蜀に稱し、託するに道を假るを以てす。雄、大いに悅ぶ。雄、又た南氐の楊初に憾み有れば、淳、因りて說きて曰く「南氐は無狀にして、屢々邊害を爲したれば、宜しく先ず百頃を討ち、次に上邽を平らぐべし。二國、勢を并せ、三秦を席卷し、東のかた許洛を清め、氛を燕趙に掃い、二帝の梓宮を平陽に拯い、皇輿を洛邑に反すは、此れ英霸の舉にして、千載の一時なり。寡君の下臣を遣わして險を冒して誠を通じ、萬里を遠しとせざる所以の者は、陛下の義聲の遠播し、必ず能く寡君の勤王の志を愍れむを以てなり。天下の善は一なれば、惟だ陛下、之を圖られんことを」と。雄、怒り、偽りて之を許し、將に淳を東峽に覆さんとす。蜀人の橋贊、密かに以て淳に告ぐ。淳、雄に言いて曰く「寡君の小臣をして無迹の地を行き、百蠻の域を通り、萬里に誠を表せしむるは、誠に陛下の義として勠力の臣を矜れみ、能く人の美節を成すを以ての故なり。若し臣を殺さんと欲さば、當に都市に顯らかにし、眾目に宣示し、『涼州は舊義を忘れず、使を琅邪に通じ〔四〕、爲に忠誠を表わし、途を我に假る。主は聖にして臣は明なるに、發覺したれば之を殺す』と云うべし。當に義聲をして遠く著わし、天下をして威を畏れしむべし。今、江中に盜殺し、威刑もて顯らかにせずんば、何ぞ以て休烈を揚げ、天下に示すに足らんや」と。雄、大いに驚きて曰く「安くんぞ此れ有らんや。當に相い放ちて河右に還すべきのみ」と。雄の司隸校尉の景騫(けいけん)、雄に言いて曰く「張淳は壯士なれば、宜しく留めて之を任ずべし」と。雄曰く「壯士、豈に人の爲に留まらんや。且く卿の意を以て之を觀うべし」と。騫、淳に謂いて曰く「卿の體は大きく、暑熱あれば、且く下吏を遣わし、少しく住きて涼を須つべし」と。淳曰く「寡君は皇輿の幽辱せられ、梓宮の未だ反らず、天下の恥は未だ雪がれず、蒼生の命は倒懸するを以て、故に淳を遣わして來り、誠を大國に表せしむ。論ずる所の事は重ければ、下吏の能く傳うるところに非ず。若し下吏の了(まっと)うする所ならば、則ち淳、本より亦た來らず。火山湯海有りと雖も、難を辭する所無し。豈に寒暑の避くるに足らんや」と。雄曰く「此の人、矯矯なれば、得て用うべからざるなり」と。厚く禮して之を遣る。淳に謂いて曰く「貴主は英名世を蓋い、土は險にして兵は盛んなるに、何ぞ帝を稱して自ら一方を娛まざる」と。淳曰く「寡君は乃祖・乃父の世々忠良を濟すも、未だ天人の大恥を雪ぎ、眾庶の倒懸するを解く能わざるを以て、日昃食を忘れ、戈を枕にして旦を待つ。琅邪の江東に中興せるを以て、故に萬里に翼戴し、將に桓文の事を成さんとす。何ぞ自ら娛しむを言わんや」と。雄、慚色有りて曰く「我が乃祖・乃父も亦た是れ晉臣にして、往ろ六郡と與に難を此の都に避け、同盟の推す所と爲り、遂に今日有り。琅邪、若し能く大晉を中州に中興せば、亦た當に眾を率いて之を輔くべし」と。淳、還りて龍鶴に至るや、兵を募りて表を通じ、後に皆な京師に達したれば、朝廷、之を嘉す。
駿、議して刑を嚴しくし制を峻くせんと欲するや、眾は咸な以て宜と爲す。參軍の黃斌(こうひん)、進みて曰く「臣、未だ其の可なるを見ず」と。駿、其の故を問う。斌曰く「夫れ法制は邦國を經綸し、俗を篤くし物を齊うる所以にして、既に立つれば必ず行い、窪隆すべからざるなり。若し尊者、令を犯さば、則ち法は行われず」と。駿、机を屏けて容を改めて曰く「夫れ法は唯だ上のみ行すも、制に高下無し。且し黃君微かりせば、吾、過ちを聞かず。黃君は忠の至りと謂うべきなり」と。坐に於いて擢きて敦煌太守と爲す。駿、計略有れば、是に於いて操を厲まし節を改め、勤みて庶政を修め、文武を總御し、咸な其の用を得、遠近嘉詠し、號して積賢君と曰う。軌の涼州に據りてより、天下の亂るるに屬び、所在に征伐あり、軍に寧歲無し。駿に至り、境内、漸く平らぐ。又た、其の將の楊宣をして眾を率いて流沙を越え、龜茲・鄯善を伐たしめ、是に於いて西域は並びに降る。鄯善王の元孟、女を獻じたれば、號して美人と曰い、賓遐觀を立てて以て之を處らしむ。焉耆前部・于窴王、並びに使を遣わして方物を貢ぐ。玉璽を河に得るに、其の文に曰く「萬國を執り、無極を建つ」と。
時に駿、盡く隴西の地を有ち、士馬強盛にして、臣を晉に稱すと雖も、而れども中興の正朔を行わず。六佾を舞わし、豹尾を建て、置く所の官僚府寺は王者に擬え、而して微かに其の名を異にす。又た州の西界の三郡を分かちて沙州を置き、東界の六郡もて河州を置く。二府〔五〕の官僚、臣と稱せざるは莫し。又た姑臧城の南に於いて城を築き、謙光殿を起て、畫くに五色を以てし、飾るに金玉を以てし、珍巧を窮盡す。殿の四面に各々一殿を起て、東は宜陽青殿と曰い、春三月を以て之に居り、章服・器物は皆な方色に依る。南は朱陽赤殿と曰い、夏三月もて之に居る。西は政刑白殿と曰い、秋三月もて之に居る。北は玄武黑殿と曰い、冬三月もて之に居る。其の傍らには皆な直省・内官の寺署有り、一ら方色に同じくす。末年に及び、遊ぶ所の處に任せ、復た四時に依りて居らず。
咸和の初め、劉曜の逼る所と爲るを懼れ、將軍の宋輯・魏纂(ぎさん)をして兵を將いて隴西・南安の人二千餘家を姑臧に徙さしめ、李雄を聘わしめ、鄰好を修む。曜の枹罕を攻むるに及び、護軍の辛晏は急を告げたれば、駿、韓璞・辛巖をして步騎二萬を率いて之を擊たしめ、臨洮に戰い、大いに曜の軍の敗る所と爲り、璞等は退走し、追いて令居に至り、駿、遂に河南の地を失う。初め、戊己校尉の趙貞、駿に附かざれば、是に至り、駿、擊ちて之を擒にし、其の地を以て高昌郡と爲す。石勒の劉曜を殺すに及び、駿、長安の亂るるに因りて、復た河南の地を收め、狄道に至り、武衞・石門・候和・漒川・甘松五屯の護軍を置き、勒と境を分かつ。勒、使を遣わして駿に官爵を拜せしむるも、駿は受けず、其の使を留む。後に勒の強きを懼れ、使を遣わして臣を勒に稱し、兼ねて方物を貢ぎ、其の使を遣りて歸す。
駿の境内、嘗て大いに饑え、穀價の踊貴するや、市長の譚詳(たんしょう)、倉穀を出だして百姓に與え、秋に收むるに三倍して之を徵せんことを請う。從事の陰據(いんきょ)、諫めて曰く「昔、西門豹の鄴に宰たるや、之を人に積み、解扁の東封の邑に莅むや、計入は三倍す。文侯以えらく、豹は罪有るも賞すべく、扁は功有るも罰すべし、と。今、詳は人の饑に因り、以て三倍を要めんと欲す。裘を反して皮を傷つくるも、未だ之を喩うるに足らず」と。駿、之を納る。
初め、建興中、敦煌の計吏の耿訪(こうほう)、長安に到るや、既にして賊に遇い、反るを得ず、漢中に奔り、因りて東のかた江を渡り、太興二年を以て京都に至り、屢々上書して以えらく「本州は未だ中興を知らざれば、宜しく大使を遣わすべし。乞うらくは郷導と爲らん」と。時に連りに内難有れば、許すも未だ行かず。是に至り、始めて訪を以て治書御史を守せしめ、駿を鎮西大將軍に拜し、校尉・刺史・公は故の如くし、西方の人の隴西の賈陵(かりょう)等十二人を選びて之に配す。訪、梁州に停まること七年、驛道の通ぜざるを以て、召されて還る。訪、詔書を以て賈陵に付し、託して賈の客と爲る。長安に到るも、敢えて進まず、咸和八年を以て始めて涼州に達す。駿、詔を受け、部曲督の王豐等を遣わして報謝し、并びに陵を遣わして歸し、上疏して臣を稱すも、而れども正朔を奉ぜず、猶お建興二十一年と稱す。九年、復た訪をして豐等に隨いて印・板〔六〕を齎らしめ、駿を大將軍に進む。是より毎歲、使命は絕えず。後に駿、參軍の麴護(きくご)を遣わして上疏して曰く

東西隔塞せられ、踰歷すること年載なるも、夙に聖德を承け、心は本朝に繫がる。而るに江吳は寂蔑として、餘波は及ぶ莫く、力を修塗に肆(つ)くすと雖も、同盟は恤れむこと靡し。奉詔の日、悲喜交々并さる。天恩は光被し、褒崇すること輝渥、即ち臣を以て大將軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事と爲す。休寵は振るい赫き、萬里に懷戴し、嘉命は顯らかに至り、感を銜み屏營たり。
伏して惟るに、陛下は天挺にして岐嶷、晉室を堂構するも、家の不造に遭い、吳楚に播幸し、宗廟には黍離の哀有り、園陵には殄廢の痛有り、普天は咨嗟し、含氣は悲傷す。臣、命を一方に專らにし、職は斧鉞に在り、遐域・僻陋にして、勢は秦隴に極まる。勒・雄は既に死し、人は正に反らんことを懷けば、季龍・李期の命は曾ち朝を崇えざらんと謂うも、而れども皆な篡いて凶逆を繼ぐに、鴟目すること有年。東西は遼曠にして、聲援は接せず、遂に桃蟲をして翼を鼓(ふる)わしめ、四夷をして諠譁せしめ、向義の徒をして更めて背誕を思わしめ、鉛刀をして干將の志有らしめ、螢燭をして日月の光を希わしむ。是こを以て臣、前に章するに懇切にして、力を齊しくして時に討たんことを欲す。而るに陛下は江表に雍容として、坐して禍敗を觀い、目前の安を懷き、四祖の業を替て、檄を馳せて布告するも、徒らに空文を設くのみなるは、臣の宵に荒漠に吟じ、心を長路に痛むる所以の者なり。且つ兆庶は主を離れ、漸冉にして世を經、先老は消落し、後生は識る靡く、忠良は梟懸の罰を受け、羣凶は縱橫の利を貪る。君の故を戀うるを懷うも、日月は流るるを告ぐ。時に尚義の士有りと雖も、首領を畏逼し、窮廬に哀歎す。
臣聞くならく、少康の中興するや、一旅に由り、光武の漢を嗣ぐや、眾は百に盈たず、夏を祀りて天に配し、舊物を失わず、と。況んや荊揚の慓悍、臣州の突騎を以てせば、遺羯を吞噬するは、掌握に在るをや。願わくは陛下、臣の慮を敷弘し、永く先績を念い、司空の鑒・征西の亮等に敕して舟を江沔に汎べ、首尾もて俱に至らしめられんことを。

自後、駿、使を遣わすも多く季龍の獲る所と爲り、達せず。後に駿、又た護羌參軍の陳㝢(ちんう)・從事の徐虓(じょこう)・華馭(かぎょ)等を遣わして京師に至らしむ。征西大將軍の亮、上疏して言わく「陳㝢等は險を冒して遠く至れば、宜しく銓敘を蒙るべし」と。詔して㝢を西平相に除し、虓等もて縣令と爲す。永和元年、世子の重華を以て五官中郎將・涼州刺史と爲す。酒泉太守の馬岌(ばぎゅう)、上言すらく「酒泉の南山は、即ち崑崙の體なり。周の穆王の西王母に見うや、樂しみて歸るを忘れたるは、即ち此の山を謂う。此の山に石室の玉堂有り、珠璣もて鏤飾せられ、煥らかなること神宮の若し。宜しく西王母の祠を立て、以て朝廷の無疆の福を裨うべし」と。駿、之に從う。
駿、位に在ること二十二年〔七〕にして卒す。時に年は四十。私かに諡して文公と曰い、穆帝は追諡して忠成公と曰う。

〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔二〕『晉書斠注』でも指摘されているように、「太寧元年」ではなく「太寧二年」の誤りである。太寧元年は、建興十一年に当たり、後文に「建興十二年」とあるのに合致しないばかりか、太寧元年にはまだ張茂が位にあった。その後、太寧二年に張茂が死去し、張駿が後を継いだ。
〔三〕男性に限定すると、祖父・父・兄弟・子・孫・叔父・甥など。
〔四〕ここで琅邪とあるのは、東晋の元帝がかつて西晋の琅邪王であったことにちなみ、東晋政権をそのように呼んでいるのである。成漢を建国し、皇帝を称している李雄に配慮して、その前では当時の東晋皇帝である成帝を皇帝として扱っていないのである。
〔五〕前涼では、「太府」と「少府」の二府を中心にして政権運営が行われた。『資治通鑑』巻九十・晉紀十二・中宗元皇帝上・建武元年正月の条の胡三省注によれば、太府とは都督府のことで、少府とは涼州府のことであるという。
〔六〕「板(版)」とは、古の「笏」に相当するもので、臣下としての証でもあった。東晋・南朝では、「手板(手版)」と、その「手板(手版)」を基に、古にならって作られた「笏」との二種類があり、通常の官僚は「手板(手版)」を持ち、尚書令・尚書僕射・尚書のみ「笏」を持つこととされた。
〔七〕『晋書斠注』では、年数を数えるとこれは「在位二十三年」の誤りで、張茂伝で張茂の卒年が誤って一年遅れていることに関係して、この部分の年数も一年ズレてしまったとする丁国鈞『晋書校文』の説を引いている。

現代語訳

張駿は、字を公庭と言った。幼い頃から体躯が大きく並みならぬ様であった。建興四年(316)、覇城侯に封じられた。十歳で文章を得意とし、卓越した才能を持ち、自由奔放で、しかも度を越して淫乱・放縦であり、いつも夜な夜なお忍びで街中を出歩き、国中の人々が張駿に懐いた。張茂を継いで涼州刺史としての任に就いた際には、十八歳であった。これに先立って愍帝の使者である黄門侍郎の史淑が姑臧を訪れ、以降ずっと滞在していたので、左長史の氾禕(はんい)・右長史の馬謨(ばぼ)らは、史淑にそれとなくほのめかし、張駿を「使持節・大都督・大将軍・涼州牧・領護羌校尉・西平公」の地位に任じさせた。そこで、張駿は領域内で大赦を下し、左右前後の四率官を置き、南宮を修繕した。劉曜もまた使者を派遣し、張駿を「涼州牧・涼王」に任じた。
時に(張駿に反発していた)辛晏(しんあん)が枹罕の地で兵を恃みにしていたので、張駿は、配下の官僚たちと閑豫堂で宴会を開いていた際に、竇涛(とうとう)らに命じ、進軍して辛晏を討伐しに行かせた。その後、従事の劉慶が諫めて言った。「覇王は感情に任せて軍を興すようなことはせず、博打を打って勝ちを狙うようなこともせず、必ず天の時が到来し、人事が整うのを待ち、そうしてからやっと軍を興すものです。辛晏父子は残忍で凶悪なので、まもなく自滅するのを待つべきでしょう。どうして飢饉の年であるのに大挙して軍を興し、極寒の時期であるのに城を攻めさせているのでしょうか。昔、周の武王は一度軍を還して殷を滅ぼす好機を待ち、曹公(曹操)は(袁紹の死後に)袁氏追討の手を緩め、(内部争いを引き起こして)自滅させました。どうして殿下だけ軍を還すことが恥になりましょうか」と。張駿は、その意見を採用した。
やがて張駿は、参軍の王騭(おうしつ)を派遣して劉曜に表敬訪問させた。劉曜は王隲に言った。「貴殿らの州(涼州)は、きっと(両漢交替期に光武帝に臣従した群雄である)竇融の事跡にならい、誠実に和睦を結ぼうとしているに違いない。そなたは、それを保証できるのであろうか」と。王騭は言った。「できません」と。劉曜の侍中である徐邈(じょばく)が言った。「君は和睦しに来ているというのに、それができないと言うのはどういうことか」と。王騭は言った。「(春秋時代の覇者である)斉の桓公が貫沢の会盟を主催したとき、内心恐々として朝廷のことを憂えていましたが、諸侯は呼ばれなくても自分からやって来ました。しかし、葵丘の会盟を主催したときには、思い上がって驕慢な態度を取り、九国が叛きました。(劉曜の)趙国の教化が、常に今日のようであれば問題ありませんが、もし政治や教化が衰退すれば、近くの者による変乱が起こるかどうかすら予測がつきません。ましてや、遠くの我が州であればなおさらです」と。劉曜は顧みて左右の者に言った。「これは涼州の高士であり、何と立派な使者であろうか。まさに人を得ている」と。そこで礼を尽くして涼州に帰した。
太寧元年(323)、張駿はなお建興十二年と称していたが、この年、張駿は自ら(天子の行う儀礼である)藉田の儀礼を行った。まもなく元帝が崩御したという知らせを受けると、張駿は、三日間、大いに哭礼を行った。ちょうどその頃、黄龍が揟次県の嘉泉に出現したので、右長史の氾禕が張駿に言った。「思いますに、建興の年号は、少帝(愍帝)が初めて建てたものです。少帝は、凶事によって生涯を終えられたので、道理として改元すべきです。朝廷は長江を越えて江南にあり、連絡は途絶えてしまっていますので、この龍の出現にちなんで改元し、めでたい兆候を明らかにすべきです」と。張駿は従わなかった。初め、張駿が位に就いたとき、姑臧では次のような謠言が流行した。「大鳥が南からやってきても雀は驚くことはない。さて、誰が言うのだろうか、親を亡くした雛鳥に尾や羽が生え、高く両翼の六つの羽茎を高く上げて飛び立てば鳳凰が鳴くだろうなどとは」と。このときになって、張駿はまた河南の地(隴西地域)を支配下に収めた。
(成帝の)咸和年間の初め、張駿は、武威太守の竇涛、金城太守の張閬(ちょうろう)、武興太守の辛巖(しんがん)、揚烈将軍の宋輯(そうしゅう)らを派遣して兵衆を率いて東の韓璞(かんはく)と合流させ、秦州の諸郡を攻め討たせた。劉曜は、その将である劉胤(りゅういん)を派遣して防ぎに来させ、狄道城に駐屯させた。韓璞は、進軍して沃干嶺を越えた。すると辛巖が言った。「我らは数万の兵衆を握り、氐族や羌族の精鋭に頼っていますので、速やかに戦って敵を滅ぼし、時間をかけるべきではありません。もし時間をかければ、変事が生じるでしょう」と。韓璞は言った。「夏の終わり頃から、太白星が月を犯し、辰星が逆行し、白虹が太陽を貫くという現象が起こったが、これらはいずれも(大将が死ぬなど)大きな異変の予兆であるので、軽々しく動くべきではない。軽々しく動いて勝つことができなければ、禍はさらに深いものとなろう。私は、しばらくしてから敵を倒そうと考えている。しかも劉曜は石勒と攻撃し合っており、劉胤もまた長くは留まっていられないであろう」と。その後、七十日余りが経過し、軍糧が尽きたので、韓璞は辛巖を金城に派遣して軍糧の運送を監督させた。劉胤はそれを聞いて大いに喜び、その将や兵士たちに言った。「韓璞の兵衆は我が軍の十倍にも上るが、協力していた羌胡はみな叛き、役に立たなくなった。我が軍糧は欠乏しようとしているので、持久戦を行うのは難しい。今、敵が兵を分割して軍糧を運んでいるというのは、まさに天が我らに絶好の機会を授けたのだと言うべきである。もし辛巖を破れば、韓璞らは自然と壊滅するであろう。あちらの兵数は多く、こちらの兵数は少ないので、死に物狂いで戦うべきである。此度の戦いで勝てなければ、もう一騎たりとも帰還することはできないであろう。そなたらの武器をよく磨き、そなたらの智力を尽くすべきである」と。兵衆は、みな奮い立った。そこで劉胤は三千の騎兵を率い、辛巖を沃干嶺で襲撃して破り、韓璞の軍はそのまま壊滅し、死者は二万人余りに上った。帰還した韓璞が両手を後ろ手に縛って自らの罪を詫びると、張駿は言った。「私の罪である。将軍に何の恥があろうか」と。そこで張駿は皆を赦した。劉胤は、勝ちに乗じて追撃して涼州の軍を退け、黄河を渡り、令居を攻め落とし、さらに侵入して振武を拠点としたので、河西地域は大いに震えた。張駿は、皇甫該を派遣してそれを防がせ、領域内に大赦を下した。
ちょうど劉曜が東に石生を討伐しに行き、長安が空となった。そこで張駿は大いに蒐狩と講武を行い(兵士を訓練し)、秦州・雍州を襲撃しようとしたところ、理曹郎中の索詢が諫めて言った。「劉曜は東征したといいましても、劉胤がなお本拠地を守っています。かの地は険阻であり、かつ遠路であるので、防御側に非常に有利であると言えます。劉胤がもし軽騎を率いて氐族や羌族を頼って我が軍を防ごうとするようなことがあれば、どこから不意を突いてくるかも分かりませんし、劉曜が東方を捨てて劉胤に合流して我が軍を迎え撃つようなことがあれば、我が領域を攻撃することがやまなくなりましょう。また、近年では頻りに軍を出動させ、近隣の地域でも戦争が起こり、外では人々が飢えて衰弱し、内では物資が不足しておりますので、これではどうして殿下が民を我が子同然として扱っていると言えましょうか」と。張駿は言った。「私はいつも、忠言が献じられず、人々が面従腹背し、我が政治や教化に欠けるところがあっても私を正そうとする者がいないのを心配していた。そなたが言葉を尽くして諫言してくれたのは、非常に私の望みにかなうものである」と。そこで張駿は索詢に羊と酒を贈って礼遇した。
西域諸国が汗血馬・火浣布(石綿を混ぜ込んだ耐火性の布)・犎牛・孔雀・巨象および諸々の珍品二百品余りを献上してきた。また、西域長史の李柏(りはく)が上請し、叛乱を起こした将の趙貞を討伐しに出たが、李柏は趙貞に敗れた。議者は、李柏が自ら計策を建てておきながら結局敗北したとして、李柏を誅殺することを請うた。張駿は言った。「私はいつも、漢の世宗(武帝)が(計策を自ら建てておきながらそれを遂行できなかった)王恢を殺したのは、(春秋時代の)秦の穆公が(敗北を喫した)孟明視を赦したのには及ばないと考えている」と。そうして減死一等に処したので、人々はみな心に喜んだ。やがて張駿は、新郷で閲兵を行い、北野で狩りを行い(兵士を訓練し)、そこで軻没の虜を討伐し、これを破った。そして令を領域中に下して言った。「昔、鯀は(尭の時代に)流刑とされて死んだが、(その子である)禹は(代わりに抜擢されて)興隆し、(春秋時代の晋の)郤芮(げきぜい)は(晋の文公に)誅殺されたが、(その子である)郤缺(げきけつ)は(晋の文公に取り立てられて)位を進めたというのは、それぞれ尭帝が洪水の災害を絶やすことができた理由、晋の文公が五覇の一人となれた理由である。法律によれば、死罪を犯せば、一年の喪に服すべき親等以内の範囲にあるその近親は、朝廷の官職に就くことができないことになっている。今、死罪を犯した者の近親にもみな官職に就くことを許すが、ただ宿衛として内に仕えることはならぬ」と。そうして刑罰の適用は清らかになり、国は富んだので、官僚たちは張駿に対し、魏の武帝(曹操)、晋の文帝(司馬昭)の故事にならって、涼王を称し、秦州牧・涼州牧を兼任し、公卿や百官を置くことを勧めた。張駿は言った。「それは人臣が口にすべきことではない。今後、敢えてこのことを述べる者がいれば、大赦不適用の罪(死罪)とする」と。しかし、領域内の人々はみな張駿を王と呼んだ。官僚たちはさらに、張駿に対して、世子(諸侯の世継ぎ)を立てるよう要請したが、張駿は従わなかった。中堅将軍の宋輯は、張駿に言った。「礼が世継ぎを重視しているのは、思いますに宗廟を重んじているが故のことでしょう。周の成王や漢の昭帝が幼児の段階で太子とされたのは、実に国の世継ぎの位を空けておくべきではなく、東宮をあらかじめ定めておくべきであるからでございます。昔、武王(張軌)が公に封じられた際、元王(張寔)が世継ぎ(世子)となりました。(愍帝の)建興年間の初め、先王(張寔)が位に就いたとき、殿下(張駿)はその正統な後継者として指名されました。ましてや今は、我が社稷はますます尊貴になり、御身は才能が抜きんでて独立されており、大業はそのまま順調に盛んになっておりますのに、後継者の地位が空いているというのはいかがでございましょうか。私が思いますに、我が国には積み重ねた卵のような危うさがありますのに、殿下が我が国の安泰さは泰山のそれに勝るとお考えになっているのは、思い違いかと思われます」と。張駿はその意見を採用し、そこで子の張重華を世子に立てた。
これに先立って、張駿は、傅穎(ふえい)を派遣して蜀(成漢)に道を借り、京師(東晋の建康)に上表文を通じさせようとしたが、(成漢の皇帝の)李雄はそれを許さなかった。張駿はさらに、治中従事の張淳を派遣して蜀の藩国となることを申し出に行かせ、それにかこつけて道を借りようとした。李雄は非常に喜んだ。李雄はまた、南氐(前仇池)の君主である楊初に恨みを抱いていたので、張淳はそこで説いて言った。「南氐は無礼にも、しばしば辺境地域に害をもたらしていますので、まずは百頃(仇池の別名)を討ち、次に上邽(劉胤ら前趙の残存勢力)を平定すべきです。(前涼と成漢の)二国が力を合わせ、三秦(関中)を席巻し、東は許昌・洛陽地域を一掃し、燕・趙の地域のもやを払い、平陽にいます二帝(懐帝・愍帝)のご遺骸をお救いし、天子(東晋皇帝)を洛陽にお帰しするのは、これぞまさに英雄たる覇者の一挙であり、千載一遇の好機です。我が君が私を派遣して危険を冒して誠意を通達させ、万里の道のりをもものともしない理由は、陛下(李雄)の義に篤いという名声が遠く我が地にも達し、きっと我が君の勤王の志を憐れみなさるだろうと考えたからです。まさに『(敵味方関係なく)天下の善は同一』でありますので、陛下よどうか、このことについてお考えになってください」と。李雄は怒り、上辺ではそれを許すふりをして、張淳を東峡の谷底に突き落とそうとした。蜀の人である橋賛は、こっそりとそのことを張淳に知らせた。そこで張淳は李雄に言った。「我が君が私に道なき道を行かせ、諸々の蛮夷の住まう地域を通り、万里の先まで誠意を表わしに行かせたのは、実に陛下が義に篤く、義に力を尽くす臣を憐れみ、他人の美節を立てることのできるお方だと思っているためです。もし私を殺そうとなさるのであれば、都市の中で白日の下にさらし、衆目の中、『涼州は旧義を忘れず、使者を琅邪王に通じ、琅邪王のために忠誠を示し、我が国の道を借りようとした。まさに君主は聖であり、臣下は明であるが、事が発覚してしまったのでこれを殺すこととする』と宣言すべきです。そうして陛下の義に篤いという名声を遠くに知れ渡らせ、かつ天下の人々に陛下の威を恐れさせるようにすべきです。今、川辺で私を暗殺し、威刑によってそのことを明らかにすることをしなければ、どうして陛下の美業を宣揚し、天下に示すことができましょうか」と。李雄は非常に驚いて言った。「どうしてそのようなことをしようか。ただ解放して河西に帰そうとしているだけだ」と。李雄の司隷校尉の景騫(けいけん)は、李雄に言った。「張淳は壮士でありますので、彼を留めて我が国の臣下として任用すべきです」と。李雄は言った。「壮士がどうして他国の人のために留まるようなことがあろうか。とりあえずそなたの思うように様子を窺ってみるとよい」と。景騫は、張淳に言った。「そなたの体は大きく、猛暑の熱さもあるので、とりあえず下吏を涼州に派遣し、ご自身は少し時間を置いて、涼しい季節になるのを待つのが良いであろう」と。張淳は言った。「我が君は、天子が屈辱を受け、ご遺骸も戻らず、天下の恥もまだ雪がれず、民草の命が次々に失われていっているが故に、そこで私を派遣してこの地に来させ、誠意を通じて貴殿らの大国と好を通じさせようとしたのです。その議論の内容は重大事であるので、下吏ごときが伝えられるようなものではございません。もし下吏でもできるようなことなら、そもそも私はここには来ておりません。火の山や湯の海(マグマ?)が目の前に広がっていたとしても、私はその困難を避けて辞退するつもりはありません。どうして寒さや暑さ程度で、それを避ける必要がありましょうか」と。李雄は言った。「この人は非常に剛毅であるので、我が方で用いることはできまい」と。そして李雄は張淳に厚く礼を尽くして帰した。その際に、李雄は張淳に言った。「そなたの主君は、英明なる名声は世を覆うほどであり、土地は険阻で兵は盛んであるのに、どうして皇帝を称して自ら一地方に君臨する位を楽しまないのか」と。張淳は言った。「我が君は、祖父君や父君の代から代々晋室に忠良を尽くしてきましたが、まだ天と人の双方にとっての大いなる恥を雪ぐことができず、民衆が困窮の中に倒れるのを救うことができていないため、日が傾くまで食事も忘れて励み、夜には戈を枕にして寝て夜明けを待って(雪辱の心を忘れないようにして)います。そのような中で琅邪王が江東で晋室を中興したので、故に万里の遠くから推戴して補佐し、(春秋時代の覇者である)斉の桓公や晋の文公のような事業を成そうとしているのです。どうして自分だけ楽しもうなどと言いましょうか」と。李雄は恥じらいの様子を浮かべて言った。「我が祖父や父もまた晋の臣下であったが、かつて六郡の人々と一緒にこの都に避難し、同盟者たちに推戴され、今日に至った。琅邪王がもし大晋を中原地域に中興することができれば、私もまた兵衆を率いてそれを補佐しよう」と。張淳は帰途に就いて龍鶴まで到着すると、兵を募って上表文を建康に通じさせ、後に彼らがみな京師に到達したので、朝廷(東晋政府)はそれを称えた。
張駿が議を下して刑罰や取り締まりを厳しくしようとしたところ、人々はみなそうすべきであると述べた。すると、参軍の黄斌(こうひん)が進み出て言った。「私は、それが良いとは思いません」と。張駿はその理由を問うた。黄斌は言った。「そもそも法制というのは、国家の綱紀を整え、風俗を篤実なものにし、民を整え治める手段であり、法を立てた以上は必ずその通りに遂行し、手心を加えたり、手厳しくしたりすべきではありません。もし尊き者が令を犯すようなことがあれば、法がしっかりと機能することはありません」と。張駿は、机を押しのけて、居住まいを正して言った。「そもそも法というのは、ただ上にある者がそれを下すものであるが、その制度に縛られるという点では、上にいる者も下にいる者も何ら変わりはない。もし黄君がいなかったら、私は、私のやろうとしていることが過ちであるという意見を聞くことが無かったであろう。黄君は忠の至りと言うべきであろう」と。そこで、その座において、黄斌を抜擢して敦煌太守に任じた。張駿には計略があり、そこで節操を改めて励み、つつしんで諸々の政務を修め、文武の官吏を統御したところ、みなそれぞれの職務に力を発揮し、遠くの者も近くの者もそれを称えて詠嘆し、張駿を「積賢君」と呼ぶようになった。張軌が涼州を本拠地としてから、天下が乱れるに及び、至る所で征伐があり、軍には休みの年が無かった。それが張駿の代になって、領域内は次第に安定していった。また、張駿はその将の楊宣に命じて兵衆を率いて沙漠を越え、亀茲国・鄯善国を征伐させ、そうして西域諸国はみな降伏した。鄯善王の元孟はその娘を献上してきたので、張駿は彼女を美人と呼び、賓遐観を建ててそこに住まわせた。さらに焉耆前部王と于窴王が、いずれも使者を派遣して地方の特産品を貢納した。また、張駿は黄河から玉璽を得たが、その文には「万国をつかさどり、無極を建てる」とあった。
時に張駿は隴西地域をすべて手中に収め、兵士や馬は強く盛んで、晋に対して臣下の態度を取っていたが、中興(東晋)の正朔を奉じなかった。また、(諸侯よりも上位の者の舞楽である)六佾の舞を備え、(天子の鹵簿に備えるべき)豹尾を飾った車を用い、その下に置いた官僚や官府は王者のそれになぞらえ、ほんの少しだけ名前を変えたのみであった。さらに、涼州の西部の三郡を分割して沙州を置き、涼州の東部の六郡を分割して河州を置いた。太府と少府の二府の官僚たちは、みな張駿に対して自らを臣と称した。また、姑臧城の南に城を築き、謙光殿を建て、五色で彩り、金玉で飾り、珍しい技巧を極め尽くした。謙光殿の四面には、それぞれ殿を一つずつ建て、東は宜陽青殿と言い、春の三ヶ月間そこに滞在することとし、章服や器物はすべてその方位の色に従った。南は朱陽赤殿と言い、夏の三ヶ月間そこに滞在することとした。西は政刑白殿と言い、秋の三ヶ月間そこに滞在することとした。北は玄武黒殿と言い、冬の三ヶ月間そこに滞在することとした。それらの周辺にはすべて、省中に宿直する官僚や宦官・女官の官署があり、みなその方位の色と同じ色に染めた。晩年になると、張駿は居たいところに居るようになり、四季に従って滞在することはもうしなくなった。
(成帝の)咸和年間の初め、張駿は劉曜軍に迫られるのを恐れ、将軍の宋輯・魏纂(ぎさん)に命じて兵を率いて隴西郡・南安郡の人二千家余りを姑臧に移住させ、さらに使者を派遣して李雄に表敬訪問させ、隣国の誼を修めた。劉曜が枹罕を攻めると、護軍の辛晏が急を告げたので、張駿は韓璞・辛巖らに命じて歩兵・騎兵合わせて二万を率いて攻撃させ、臨洮で戦い、劉曜軍に大敗し、韓璞らは退却して逃げ、劉曜軍はそれを追撃して令居まで進軍してきたので、そうして張駿は河南の地(隴西地域)を失った。このときに先立って、戊己校尉の趙貞が張駿に従わずにいたので、このときになって、張駿は趙貞を攻撃して捕らえ、その地を高昌郡とした。石勒が劉曜を殺すと、張駿は(劉曜の前趙の首都である)長安が混乱したのにつけこんで、また河南の地(隴西地域)を支配下に組み込み、狄道まで進軍して、武衛・石門・候和・漒川・甘松の五屯の護軍を置き、石勒との境界を画定した。石勒は、使者を派遣して張駿に官爵を授けたが、張駿は受け取らず、その使者を抑留した。しかし、後に石勒の強さを恐れ、使者を派遣して石勒に対して臣従し、合わせて地方の特産品を貢納し、抑留していた石勒の使者を帰した。
かつて張駿の領域内で大飢饉が発生し、穀物の価格が高騰したとき、市長の譚詳(たんしょう)が、官府の倉の穀物を放出して人々に与え、秋の収穫の際にその三倍の量を徴収することを願い出た。すると従事の陰據(いんきょ)が諫めて言った。「昔、(戦国時代の魏の)西門豹が鄴令となると、穀物等の物資を人々に行き渡らせてその手元に積み増し(その代わり鄴の官府の備蓄はほとんど無く)、(同じく戦国時代の魏の)解扁が東封の邑の長官となると、東封の官府の収入を三倍に増やしました(が、その代わりに民は年中休みなく働かせられることになりました)。そこで魏の文侯は、西門豹には罪があるものの賞すべきであり、解扁には功績があるものの罰すべきであると考えました。今、譚詳は人々が飢えているのに付け込んで、その三倍の返済を求めようとしています。(本末転倒であることを表わす)『皮衣を表裏反対に着て、皮膚を傷つける』という諺も、この喩えとするには十分ではありません」と。張駿は、その意見を採用した。
初め、(愍帝の)建興年間に、敦煌郡の計吏である耿訪(こうほう)が(郡の会計報告のために愍帝政権の首都である)長安に訪れたところ、まもなく賊の侵攻に遭い、帰ることができなくなったので、漢中に落ち延び、そのまま東に長江を渡り、(元帝の)太興二年(319)になって京都(建康)にたどり着き、しばしば上書して「本州(涼州)はまだ陛下が晋を中興なされたのを知らないので、大使を派遣するべきです。そして、どうか私をその先導役とするようお願い申し上げます」と述べた。時に(東晋政権では)しきりに内部における変難があったので、許可は下りたものの出発できずにいた。そしてこのときになってやっと、耿訪に治書御史を仮に兼任させ、張駿を鎮西大将軍に任じ、校尉・刺史・公の官爵はそのままとさせることにし、隴西郡の人である賈陵(かりょう)を始めとする西方の人十二人を選んで耿訪の使節に配属させた。耿訪は、梁州に七年間留まり、駅馬の通る道が涼州まで通じていなかったために、召し返された。しかし、耿訪は詔書を賈陵に託し、自分は賈陵の客であると偽っ(て同行して涼州を目指し)た。長安に到着したが、それ以上進むことができず、(成帝の)咸和八年(333)になってやっと涼州に到達した。張駿は詔を受け、部曲督の王豊らを建康に派遣して返答させて感謝の意を示し、さらに賈陵を派遣して建康に帰し、上疏して臣従したが、それでも東晋の正朔を奉じず、なお建興二十一年と称した。咸和九年(334)、成帝はまた耿訪を派遣して王豊らに従わせて印や板を張駿にもたらし、張駿を大将軍の位に進めた。それ以来、毎年、使者の往来は絶えなかった。後に張駿は、参軍の麴護(きくご)を派遣して上疏して次のように述べた。

東西は隔てられて道は塞がれ、長年が経過しましたが、我が涼州は遥か以前から聖徳を受け、心は本朝(晋朝)に繋がれていました。しかし、江南の呉の地域はひっそりと孤立して、その余波は我が方に及ぶことは無く、長い道のりを越えようと力を尽くしましたが、同盟者たちは我らのことを憐れんで手を貸すようなことはありませんでした。詔を受け取って奉じた日、悲しみと喜びとがないまぜになりました。天恩は満ち溢れ、お褒めに与ることまさにつややかに輝かしく、私を『大将軍、都督陝西の雍・秦・涼州諸軍事』に任命してくださいました。めでたき恩寵は振るい輝き、万里の遠くからそれを頂戴し、めでたきご命令は明らかにこの地に到来し、感激であるとともに非常に恐れ多いことでございます。
つつしんで思いますに、陛下は天性として卓越され、幼少より聡明であられ、晋室を継承されましたが、家の不運に遭われ、呉・楚の地にお移りになり、宗廟には(周が東遷した後、旧都である鎬京の宗廟や宮室が滅んで辺り一帯が農地となってしまった哀しみを詠った『詩』王風の)『黍離』の詩に詠われたような哀しみがあり、先帝たちの園陵には放棄されてしまったという痛ましさがあり、天下の人々はあまねく嘆息し、生命ある者は悲しみ心を痛めました。私は、一地方で独自に命を下す立場にあり、職は斧鉞を手に征伐を行う将軍の任にあり、遠方で辺鄙な土地にあり、その勢力は秦嶺・隴山地域にまでしか及んでいません。(後趙の)石勒や(成漢の)李雄が死んだ以上、人々は正しき道に帰ろうと心に抱くはずであるので、(後趙の現君主である)石季龍(石虎)や(成漢の現君主である)李期の命運は長くもたないと思っておりましたが、しかし、いずれも凶逆の地位(後趙・成漢の君主の位)を簒奪して継承してから、長年にわたって鴟が目を光らせるように凶悪さを発揮してきました。東西(東晋と前涼)は遠く隔たれ、互いに支援をするにも地は続かず、そのままミソサザイなどの小鳥のように小さな悪人に過ぎなかった存在に翼を振るわせるような事態を招き、四夷をざわつかせ、義になびく人々に改めて背反・放縦の意を抱かせてしまい、なまくら刀のような人物が、名刀である干将のような地位を志すようなことになり、蛍の光や蝋燭の火のような小さな輝きの者が、太陽や月の光のような輝きを願うようなことになってしまいました。そこで私は、先に上奏した際には誠に切実に、力を合わせて時を同じくして討伐しましょうと申し上げました。しかし、陛下が江南に悠然とどっしり構え、労せずして禍いや失敗が無いようにすることだけを気にかけ、目先の安泰さにのみ囚われ、四祖(晋王朝の礎を築いて徐々に三国統一を達成していった司馬懿・司馬師・司馬昭・司馬炎の四人)の功業を捨て、檄文を各地に飛ばして布告されても、むなしく空文を綴るのみになってしまっていることこそ、私が宵に荒涼たるこの沙漠の地で呻き嘆き、この遠路を隔てた地に心を痛めている原因でございます。しかも(後趙や成漢などの支配下にある)民衆が主上の下を離れてからだんだんと世代が下り、先の世(西晋)を知る長老たちは次第にこの世を去り、それ以降に生まれた者たちは先の世を知ることもなく、(晋のために賊に対して反旗を翻すような)忠良なる者は晒し首の罰を受け、凶悪な者どもは好き勝手に利益を貪っております。陛下が昔の世の中を恋しくお思いになることを願っておりますが、日月はただ時の流れるのを告げるばかりです。時に義を尊ぶ士人がいたとしても、(賊に迫害されることを)恐れて首を縮こめ、貧しい住居の中で悲しみ嘆くしかありません。
私の聞くところによりますと、(夏王である相が反逆者によって殺されて夏王朝が一度断絶した際に、その遺児として成長した後に逆賊を討って夏王朝を再興した)少康が中興を果たした際には、わずか一旅(五百人の兵団)から始めてそれを成し遂げ、(後漢の)光武帝が漢を継承した際には、その兵衆は初め百人に満たなかったほどでありますが、(少康は)夏王朝の先祖を天に配祀し、(光武帝も)前代の法令や制度を失わずに取り戻すことができました。ましてや、陛下の手中にある荊州・揚州の剽悍な兵士と、我が涼州の突騎を以てすれば、羯賊の残りかすを併呑するのは、掌の中にあるように容易です。陛下よどうか、私の計策を広く敷き、長く先帝たちの業績を思い、司空の郗鑒(ちかん)、征西将軍の庾亮(ゆりょう)に命じて舟を長江・沔水に浮かべさせ、互いに連携して一緒に軍を到来させられますようお願い申し上げます。

それ以後、張駿が使者を派遣しても多くの場合、石季龍(石虎)に捕らえられ、建康に到達することができなかった。後に張駿は、また護羌参軍の陳㝢(ちんう)、従事の徐虓(じょこう)・華馭(かぎょ)らを派遣して京師(建康)に赴かせた。そこで征西大将軍の庾亮は上疏して言った。「陳㝢らは危険を冒してまで遠くやってきたのですから、官位の叙任を賜わるべきです」と。そこで詔を下して陳㝢を西平国相に任じ、徐虓らを県令に任じた。(穆帝の)永和元年(345)、張駿は世子の張重華を五官中郎将・涼州刺史に任じた。また、酒泉太守の馬岌(ばぎゅう)が次のように張駿に上言した。「酒泉郡の南山は、崑崙山の本体(中心)です。周の穆王が西王母に会い、楽しんで帰るのを忘れたというのは、まさにこの山での出来事であります。この山には石室の玉堂があり、珠玉がちりばめられて装飾され、光り輝く様は神宮のようでございます。ここに西王母の祠を建て、それによって朝廷の際限なき福を増すべきです」と。張駿はそれに従った。
張駿は、在位二十二年で死去した。時に四十歳であった。(前涼政権は)張駿に対して私的に「文公」という諡号を与え、穆帝は「忠成公」という諡号を追賜した。

原文

重華、字泰臨、駿之第二子也。寬和懿重、沈毅少言。父卒、時年十六。以永和二年自稱持節・大都督・太尉・護羌校尉・涼州牧・西平公・假涼王、赦其境内。尊其母嚴氏爲太王太后、居永訓宮、所生母馬氏爲王太后、居永壽宮。輕賦斂、除關稅、省園囿、以恤貧窮。
遣使奉章於石季龍。季龍使王擢・麻秋・孫伏都等侵寇不輟。金城太守張沖降于秋、於是涼州振動。重華掃境内、使其征南將軍裴恒禦之。恒壁于廣武、欲以持久弊之。牧府相司馬張耽言於重華曰「臣聞國以兵爲強、以將爲主。主將者、存亡之機、吉凶所繫。故燕任樂毅、剋平全齊、及任騎劫、喪七十城之地。是以古之明君靡不慎于將相也。今之所要、在於軍師。然議者舉將多推宿舊、未必妙盡精才也。且韓信之舉、非舊名也、穰苴之信、非舊將也、呂蒙之進、非舊勳也、魏延之用、非舊德也。蓋明王之舉、舉無常人、才之所能、則授以大事。今強寇在郊、諸將不進、人情騷動、危機稍逼。主簿謝艾、兼資文武、明識・兵略、若授以斧鉞、委以專征、必能折衝禦侮、殲殄凶類。」重華召艾、問以討寇方略。艾曰「昔耿弇不欲以賊遺君父、黃權願以萬人當寇。乞假臣兵七千、爲殿下吞王擢・麻秋等。」重華大悅、以艾爲中堅將軍、配步騎五千擊秋。引師出振武、夜有二梟鳴于牙中、艾曰「梟、邀也。六博得梟者勝。今梟鳴牙中、剋敵之兆。」於是進戰、大破之、斬首五千級。重華封艾爲福祿伯、善待之。諸寵貴惡其賢、共毀譖之、乃出爲酒泉太守。
季龍又令麻秋進陷大夏、大夏護軍梁式執太守宋晏、以城應秋。秋遣晏以書誘宛戍都尉宋矩。宋矩謂秋曰「辭父事君、當立功義。功義不立、當守名節。矩終不背主偷生於世。」於是先殺妻子、自刎而死。
是月、有司議遣司兵趙長迎秋西郊。謝艾以「春秋之義、國有大喪、省蒐狩之禮。宜待踰年。」別駕從事索遐議曰「禮、天子崩、諸侯薨、未殯、五祀不行、既殯而行之。魯宣三年、天王崩、不廢郊祀。今聖上統承大位、百揆惟新、宜在璿璣・玉衡以齊七政。立秋、萬物將成、殺氣之始、其於王事、杖麾誓眾、釁鼓禮神、所以討逆除暴、成功濟務、寧宗廟・社稷、致天下之福、不可廢也。」重華從之。
俄而麻秋進攻枹罕、時晉陽太守郎坦以「城大難守、宜棄外城。」武城太守張悛曰「棄外城則大事去矣、不可以動眾心。」寧戎校尉張璩從之、固守大城。秋率眾八萬、圍塹數重、雲梯雹車、地突百道、皆通於内。城中亦應之、殺傷秋眾已數萬。季龍復遣其將劉渾等率步騎二萬會之。郎坦恨言之不從、教軍士李嘉潛與秋通、引賊千餘人上城西北隅。璩使宋修・張弘・辛挹・郭普距之、短兵接戰、斬二百餘人、賊乃退。璩戮李嘉以徇、燒其攻具。秋退保大夏、謂諸將曰「我用兵於五都之間、攻城略地、往無不捷。及登秦隴、謂有征無戰。豈悟南襲仇池、破軍殺將、築城長最、匹馬不歸、及攻此城、傷兵挫銳。殆天所贊、非人力也。」季龍聞而歎曰「吾以偏師定九州、今以九州之力困於枹罕、真所謂『彼有人焉、未可圖也。』」
重華以謝艾爲使持節・軍師將軍、率步騎三萬、進軍臨河。秋以三萬眾距之。艾乘軺車、冠白㡊、鳴鼓而行。秋望而怒曰「艾年少書生、冠服如此、輕我也。」命黑矟・龍驤三千人馳擊之。艾左右大擾。左戰帥李偉勸艾乘馬、艾不從、乃下車踞胡牀、指麾處分。賊以爲伏兵發也、懼不敢進。張瑁從左南緣河而截其後、秋軍乃退。艾乘勝奔擊、遂大敗之、斬秋將杜勳・汲魚、俘斬一萬三千級。秋匹馬奔大夏。重華論功、以謝艾爲太府左長史、進封福祿縣伯、邑五千戸、帛八千匹。
麻秋又據枹罕、有眾十二萬、進克河内、遣王擢略地晉興・廣武、越洪池嶺、至于曲柳、姑臧大震。重華議欲親出距之、謝艾固諫以爲不可。別駕從事索遐進曰「賊眾甚盛、漸逼京畿。君者、國之鎮也、不可以親動。左長史謝艾、文武兼資、國之方邵、宜委以推轂之任。殿下居中作鎮、授以算略、小賊不足平也。」重華納之、於是以艾爲使持節・都督征討諸軍事・行衞將軍、遐爲軍正將軍、率步騎二萬距之。艾建牙旗、盟將士、有西北風吹旌旗東南指。遐曰「風爲號令、今能令旗指之、天所贊也、破之必矣。」軍次神鳥、王擢與前鋒戰、敗、遁還河南。還討叛虜斯骨真萬餘落、破之、斬首千餘級、俘擒二千八百、獲牛羊十餘萬頭。
重華自以連破勍敵、頗怠政事、希接賓客。司直索遐諫曰「殿下承四聖之基、當升平之會、荷當今之任、憂率土之塗炭、宜躬親萬機、開延英乂、夙夜乾乾、勉於庶政。自頃内外囂然、皆云『去賊投誠者應即撫慰、而彌日不接。國老・朝賢、當虛己引納、詢訪政事、比多經旬積朔、不留意接之。文奏入内、歷月不省、廢替見務、注情於棋弈之間、繾綣左右・小臣之娛、不存將相遠大之謀、至使親臣不言、朝吏杜口』、愚臣所以迴惶忘寢與食也。今王室如燬、百姓倒懸、正是殿下銜膽茹辛厲心之日。深願垂心朝政、延納直言、周爰五美、以成六德、捐彼近習、弭塞外聲、修政聽朝、使下觀而化。」重華覽之大悅、優文答謝、然不之改也。
詔遣侍御史俞歸拜重華護羌校尉・涼州刺史・假節。是時石季龍西中郎將王擢屯結隴上、爲苻雄所破、奔重華。重華厚寵之、以爲征虜將軍・秦州刺史・假節、使張弘・宗悠率步騎萬五千配擢、伐苻健。健遣苻碩禦之、戰于龍黎。擢等大敗、單騎而還、弘・悠皆沒。重華痛之、素服爲戰亡吏士舉哀號慟、各遣弔問其家。復授擢兵、使攻秦州、剋之。遣使上疏曰「季龍自斃、遺燼游魂、取亂侮亡、覩機則發。臣今遣前鋒都督裴恒步騎七萬、遙出隴上、以俟聖朝赫然之威。山東騷擾不足厝懷、長安膏腴、宜速平蕩。臣守任西荒、山川悠遠、大誓六軍、不及聽受之末、猛將鷹揚、不豫告成之次。瞻雲望日、孤憤義傷、彈劍慷慨、中情蘊結。」於是康獻皇后詔報、遣使進重華爲涼州牧。
是時御史俞歸至涼州、重華方謀爲涼王、不肯受詔、使親信人沈猛謂歸曰「我家主公奕世忠於晉室、而不如鮮卑矣。臺加慕容皝燕王、今甫授州主大將軍、何以加勸有功忠義之臣乎。明臺今宜移河右、共勸州主爲涼王。大夫出使、苟利社稷、專之可也。」歸對曰「王者之制、異姓不得稱王、九州之内、重爵不得過公。漢高一時王異姓、尋皆誅滅、蓋權時之宜、非舊體也。故王陵曰『非劉氏而王、天下共伐之。』至於戎狄、不從此例。春秋時吳楚稱王、而諸侯不以爲非者、蓋蠻夷畜之也。假令齊魯稱王、諸侯豈不伐之。故聖上以貴公忠賢、是以爵以上公、位以方伯、鮮卑北狄、豈足爲比哉。子失問也。且吾又聞之、有殊勳絕世者亦有不世之賞。若今便以貴公爲王者、設貴公以河右之眾南平巴蜀、東掃趙魏、修復舊都、以迎天子、天子復以何爵何位可以加賞。幸三思之。」猛具宣歸言、重華遂止。
重華好與羣小游戲、屢出錢帛以賜左右。徵事索振諫曰「先王寢不安席、志平天下、故繕甲兵、積資實。大業未就、懷恨九泉。殿下遭巨寇於諒闇之中、賴重餌以挫勍敵。今遺燼尚廣、倉帑虛竭、金帛之費、所宜慎之。昔世祖即位、躬親萬機、章奏詣闕、報不終日、故能隆中興之業、定萬世之功。今章奏停滯、動經時月、下情不得上達、哀窮困於囹圄、蓋非明主之事、臣竊未安。」重華善之。
將受詔、未及而卒。時年二十七。在位十一年。私諡曰昭公、後改曰桓公、穆帝賜諡曰敬烈。子耀靈嗣。

訓読

重華、字は泰臨、駿の第二子なり。寬和にして懿重、沈毅にして言少なし。父の卒するや、時に年は十六。永和二年を以て自ら持節・大都督・太尉・護羌校尉・涼州牧・西平公・假涼王を稱し、其の境内に赦す。其の母の嚴氏を尊びて太王太后と爲し、永訓宮に居らしめ、生む所の母の馬氏もて王太后と爲し、永壽宮に居らしむ。賦斂を輕くし、關稅を除き、園囿を省き、以て貧窮に恤む。
使を遣わして章を石季龍に奉ず。季龍、王擢(おうてき)・麻秋・孫伏都等をして侵寇せしむること輟まず。金城太守の張沖、秋に降り、是に於いて涼州は振動す。重華、境内を掃い、其の征南將軍の裴恒(はいこう)をして之を禦がしむ。恒、廣武に壁し、持久を以て之を弊れしめんと欲す。牧府相司馬の張耽(ちょうたん)、重華に言いて曰く「臣聞くならく、國は兵を以て強と爲し、將を以て主と爲す、と。主將なる者は、存亡の機にして、吉凶の繫る所なり。故に燕の樂毅を任ずるや、剋く全齊を平ぐるも、騎劫を任ずるに及び、七十城の地を喪う。是こを以て古の明君は將相に慎しまざる靡きなり。今の要する所は、軍師に在り。然るに議者は將を舉ぐるに多く宿舊を推し、未だ必ずしも精才を妙盡せざるなり。且つ韓信の舉げられしは、舊名あればに非ず、穰苴の信ぜられしは、舊將なればに非ず、呂蒙の進められしは、舊勳あればに非ず、魏延の用いられしは、舊德あればに非ざるなり。蓋し明王の舉は、舉ぐるに常人無く、才の能くする所なれば、則ち授くるに大事を以てす。今、強寇は郊に在るも、諸將は進まず、人情は騷動し、危機は稍く逼る。主簿の謝艾(しゃがい)は、資文武を兼ね、明識・兵略あれば、若し授くるに斧鉞を以てし、委ぬるに專征を以てせば、必ず能く折衝・禦侮し、凶類を殲殄せん」と。重華、艾を召し、問うに討寇の方略を以てす。艾曰く「昔、耿弇は賊を以て君父に遺すを欲せず、黃權は萬人を以て寇に當たらんことを願う。乞うらくは臣に兵七千を假し、殿下の爲に王擢・麻秋等を吞まんことを」と。重華、大いに悅び、艾を以て中堅將軍と爲し、步騎五千を配して秋を擊たしむ。師を引きて振武に出ずるや、夜に二梟の牙中に鳴く有れば、艾曰く「梟は、邀なり〔一〕。六博にて梟を得る者は勝つ。今、梟の牙中に鳴くは、敵に剋つの兆なり」と。是に於いて進み戰い、大いに之を破り、斬首すること五千級。重華、艾を封じて福祿伯と爲し、善く之を待す。諸々の寵貴は其の賢なるを惡み、共に之を毀譖したれば、乃ち出でて酒泉太守と爲る。
季龍の又た麻秋をして進みて大夏を陷さしむるや、大夏護軍の梁式、太守の宋晏(そうあん)を執え、城を以て秋に應ず。秋、晏を遣わして書を以て宛戍都尉の宋矩を誘わしむ。宋矩、秋に謂いて曰く「父に辭して君に事うれば、當に功義を立つべし。功義立たずんば、當に名節を守るべし。矩、終に主に背きて生を世に偷まず」と。是に於いて先ず妻子を殺し、自刎して死す〔二〕。
是の月、有司、司兵の趙長を遣わして秋を西郊に迎えしめんことを議す。謝艾以えらく「春秋の義、國に大喪有れば、蒐狩の禮を省く。宜しく年を踰ゆるを待つべし」と。別駕從事の索遐(さくか)、議して曰く「禮に、天子の崩じ、諸侯の薨ずるに、未だ殯せざれば、五祀行わず、既に殯して之を行う、とあり。魯宣の三年、天王崩ずるに、郊祀を廢せず。今、聖上は大位を統承し、百揆は惟新したれば、宜しく璿璣・玉衡を在(み)て以て七政を齊しくすべし。立秋、萬物將に成らんとし、殺氣の始めにして、其の王事に於けるや、杖もて麾いて眾を誓め、鼓を釁りて神に禮するは、逆を討ちて暴を除き、功を成し務めを濟し、宗廟・社稷を寧んじ、天下の福を致す所以なれば、廢すべからざるなり」と。重華、之に從う。
俄かにして麻秋の進みて枹罕を攻むるや、時に晉陽太守の郎坦(ろうたん)以えらく「城は大きく守り難ければ、宜しく外城を棄つべし」と。武城太守の張悛(ちょうしゅん)曰く「外城を棄てば則ち大事は去らんも、以て眾心を動ずべからず」と。寧戎校尉の張璩(ちょうきょ)、之に從い、固く大城を守る。秋、眾八萬を率い、圍塹數重、雲梯・雹車あり、地突百道、皆な内に通ず。城中も亦た之に應じ、秋の眾を殺傷すること已に數萬。季龍、復た其の將の劉渾(りゅうこん)等を遣わして步騎二萬を率いて之に會せしむ。郎坦、言の從われざるを恨み、軍士の李嘉をして潛かに秋と通ぜしめ、賊千餘人を引きて城西の北隅に上らしむ。璩、宋修・張弘・辛挹(しんゆう)・郭普をして之を距がしめ、短兵もて接戰し、二百餘人を斬りたれば、賊は乃ち退く。璩、李嘉を戮して以て徇え、其の攻具を燒く。秋、退きて大夏を保ち、諸將に謂いて曰く「我、兵を五都の間に用い、城を攻め地を略するに、往きて捷たざるは無し。秦隴に登るに及び、征有るも戰無しと謂えり〔三〕。豈に悟らんや、南のかた仇池を襲うや、軍を破り將を殺し、城を長最に築くや、匹馬として歸らず、此の城を攻むるに及び、兵を傷い銳を挫かんとは。殆ど天の贊くる所にして、人力に非ざるなり」と。季龍、聞きて歎じて曰く「吾、偏師を以て九州を定めしも、今、九州の力を以て枹罕に困しむは、真に所謂『彼に人有れば、未だ圖るべからざるなり』なり」と。
重華、謝艾を以て使持節〔四〕・軍師將軍と爲し、步騎三萬を率い、軍を進めて河に臨ましむ。秋、三萬の眾を以て之を距ぐ。艾、軺車に乘り、白㡊を冠し、鼓を鳴らして行く。秋、望みて怒りて曰く「艾は年少の書生にして、冠服すること此くの如きは、我を輕んずるなり」と。黑矟・龍驤に命じて三千人もて馳せて之を擊たしむ。艾の左右、大いに擾る。左戰帥の李偉(りい)、艾に馬に乘らんことを勸むるも、艾、從わず、乃ち下車して胡牀に踞し、指麾處分す。賊は以て伏兵發せんと爲し、懼れて敢えて進まず。張瑁、左南の緣河よりして其の後を截ちたれば、秋の軍は乃ち退く。艾、勝ちに乘じて奔擊し、遂に大いに之を敗り、秋の將の杜勳・汲魚(きゅうぎょ)を斬り、俘斬すること一萬三千級。秋、匹馬にして大夏に奔る。重華、功を論じ、謝艾を以て太府左長史〔五〕と爲し、封を福祿縣伯に進め、邑は五千戸、帛は八千匹。
麻秋、又た枹罕に據り、眾十二萬を有し、進みて河内に克ち、王擢を遣わして晉興・廣武を略地せしめ、洪池嶺を越え、曲柳に至れば、姑臧は大いに震う。重華、議して親ら出でて之を距がんと欲するも、謝艾、固く諫めて以て不可と爲す。別駕從事の索遐、進みて曰く「賊眾は甚だ盛んにして、漸く京畿に逼る。君なる者は、國の鎮なれば、以て親ら動くべからず。左長史の謝艾は、文武に資を兼ね、國の方邵たれば、宜しく委ぬるに推轂の任を以てすべし。殿下は中に居りて鎮を作し、授くるに算略を以てせば、小賊は平ぐるに足らざるなり」と。重華、之を納れ、是に於いて艾を以て使持節・都督征討諸軍事・行衞將軍と爲し、遐もて軍正將軍と爲し、步騎二萬を率いて之を距がしむ。艾、牙旗を建て、將士に盟うや、西北の風有りて旌旗に吹きて東南のかた指す。遐曰く「風は號令たり、今、能く旗をして之を指さしむるは、天の贊くる所なれば、之を破ること必なり」と。軍、神鳥に次し、王擢、前鋒と戰い、敗れ、遁れて河南に還る。還りて叛虜の斯骨真の萬餘落を討ち、之を破り、斬首すること千餘級、俘擒は二千八百、牛羊十餘萬頭を獲たり。
重華、自ら連りに勍敵を破るを以て、頗る政事を怠り、賓客を接するを希う。司直の索遐、諫めて曰く「殿下は四聖の基を承け、升平の會に當たり、當今の任を荷い、率土の塗炭を憂うれば、宜しく躬ら萬機を親しくし、英乂を開延し、夙夜乾乾として、庶政に勉むべし。頃より内外は囂然とし、皆な『賊を去り誠を投ぜし者は應に即ち撫慰せらるべきに、而れども彌日接せず。國老・朝賢は、當に己を虛にして引納し、政事を詢訪すべきも、多く旬を經て朔を積むに比ぶも、意を之を接するに留めず。文奏内に入るも、月を歷て省られず、見務を廢替し、情を棋弈の間に注ぎ、左右・小臣の娛に繾綣とし、將相の遠大の謀を存わず、親臣をして言わず、朝吏をして口を杜ざさしむるに至る』と云うは、愚臣の迴惶して寢と食とを忘るる所以なり。今、王室は燬くが如く、百姓は倒懸したれば、正に是れ殿下の膽を銜み辛を茹らいて心を厲ますの日なり。深く願わくは、心を朝政に垂れ、直言を延納し、周く爰に五美〔六〕あり、以て六德〔七〕を成し、彼の近習を捐て、塞外の聲を弭め、政を修め朝を聽(おさ)め、下をして觀て化せしめられんことを」と。重華、之を覽て大いに悅び、優文もて答謝するも、然れども之を改めざるなり。
詔して侍御史の俞歸(ゆき)を遣わして重華を護羌校尉・涼州刺史・假節に拜せしむ。是の時、石季龍の西中郎將の王擢、隴上に屯結するも、苻雄の破る所と爲り、重華に奔る。重華、厚く之を寵し、以て征虜將軍・秦州刺史・假節と爲し、張弘・宗悠〔八〕をして步騎萬五千を率いしめて擢に配し、苻健を伐たしむ。健、苻碩(ふせき)を遣わして之を禦がしめ、龍黎に戰う。擢等、大いに敗れ、單騎にして還り、弘・悠は皆な沒す。重華、之を痛み、素服して戰亡の吏士の爲に哀を舉げて號慟し、各々其の家を弔問せしむ。復た擢に兵を授け、秦州を攻めしむるや、之に剋つ。使を遣わして上疏して曰く「季龍は自ら斃れ、遺燼は游魂たれば、亂るるを取り亡ぶるを侮らんと、機を覩いて則ち發せん。臣、今、前鋒都督の裴恒(はいこう)の步騎七萬を遣わし、遙かに隴上に出でしめ、以て聖朝の赫然の威を俟たん。山東は騷擾して厝懷するに足らず、長安は膏腴たれば、宜しく速やかに平蕩すべし。臣、任を西荒に守り、山川は悠遠なれば、大いに六軍を誓むも、聽受の末に及ばず、猛將は鷹揚たるも、告成の次に豫らず。雲を瞻て日を望み、孤り義の傷わるるを憤り、劍を彈じて慷慨し、中情は蘊結す」と。是に於いて康獻皇后、詔して報じ、使を遣わして重華を進めて涼州牧と爲す。
是の時、御史の俞歸は涼州に至るも、重華、方に謀りて涼王と爲らんとしたれば、肯えて詔を受けず、親信の人の沈猛(しんもう)をして歸に謂わしめて曰く「我が家の主公は奕世晉室に忠たるも、而れども鮮卑に如かず。臺は慕容皝(ぼようこう)に燕王を加うるに、今、甫めて州主に大將軍を授くるは、何を以て有功忠義の臣を加勸せんや。明臺は今、宜しく河右に移し、共に州主に勸めて涼王と爲すべし。大夫、出使するに、苟くも社稷を利さば、之を專らにすとも可なり」と。歸、對えて曰く「王者の制、異姓は王を稱するを得ず、九州の内、重爵は公を過ぐるを得ず。漢高、一時は異姓を王たらしむるも、尋いで皆な誅滅せられたれば、蓋し權時の宜にして、舊體に非ざるなり。故に王陵曰く『劉氏に非ずして王たれば、天下共に之を伐て』と。戎狄に至りては、此の例に從わず。春秋の時、吳楚は王を稱すも、而れども諸侯は以て非と爲さざるは、蓋し蠻夷は之を畜(い)るればなり。假令(も)し齊魯の王を稱さば、諸侯、豈に之を伐たざらまし。故に聖上は貴公の忠賢なるを以て、是こを以て爵は上公を以てし、位は方伯を以したれば、鮮卑北狄、豈に比と爲すに足らんや。子は問いを失するなり。且つ吾は又た之を聞くならく、殊勳の世に絕ゆる者有れば亦た不世の賞有り、と。若し今、便ち貴公を以て王と爲さば、設し貴公、河右の眾を以て南のかた巴蜀を平らげ、東のかた趙魏を掃い、舊都を修復し、以て天子を迎えば、天子も復た何の爵、何の位を以てか以て賞を加うべけん。幸わくは之を三思せんことを」と。猛、歸の言を具宣するや、重華、遂に止む。
重華、好みて羣小と與に游戲し、屢々錢帛を出だして以て左右に賜う。徵事の索振、諫めて曰く「先王は寢ぬるに安席せず、天下を平らげんことを志したれば、故に甲兵を繕い、資實を積む。大業未だ就らずして、恨みを九泉に懷く。殿下は巨寇に諒闇の中に遭い、重餌を賴みて以て勍敵を挫く。今、遺燼は尚お廣く、倉帑は虛竭し、金帛の費、宜しく之を慎しむ所なり。昔、世祖(武帝・司馬炎)の即位するや、躬ら萬機を親しくし、章奏の闕に詣るや、報ずること日を終えざれば、故に能く中興の業を隆くし、萬世の功を定む。今、章奏は停滯し、動れば時月を經、下情は上達するを得ず、哀は囹圄に窮困するは、蓋し明主の事に非ざれば、臣、竊かに未だ安んぜず」と。重華、之を善しとす。
將に詔を受けんとするに、未だ及ばずして卒す。時に年は二十七。位に在ること十一年〔九〕。私かに諡して昭公と曰い、後に改めて桓公と曰い、穆帝は諡を賜いて敬烈と曰う。子の耀靈、嗣ぐ。

〔一〕「梟」と「邀」は同音であるが故に、これに掛けたのであろう。
〔二〕この部分については、『晋書』巻八十九・忠義伝・宋矩伝にも同じ記事が載っている。ただ、そこでは、宋矩のセリフの最終句が「矩、終に主に背き宗を覆して生を世に偷まず。(矩終不背主覆宗偷生於世。)」となっており、張重華伝では「覆宗」の二字が省略されていることが分かり、より君主に対する忠義が強調される形となっている。ここで宋矩が徹底抗戦を選ばず、自刎を選んだ理由は定かではないが、わざわざ宋晏が派遣されている点と、宋矩のセリフの中に「父に辭し」とあることから、宋晏は宋矩の父であった可能性が考えられる。そうであれば、父である宋晏に背いて徹底抗戦を選べば不孝となり、かといって父に従って敵に降れば不忠となるので、「名節を守る」ために自刎を選んだのかもしれない。
〔三〕「征有るも戰無し」とは、『荀子』議兵篇が出典であるが、漢魏晋期の人の解釈では、王者は征伐の軍を起こしても、戦闘を行うことなく徳によって相手を帰服させるという意味に捉え、『孫子』の「百戰して百勝するは、善の善なる者に非ざるなり。戰わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。」という考えに通ずるものと見ているようである。
〔四〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔五〕前涼では、「太府」と「少府」の二府を中心にして政権運営が行われた。『資治通鑑』巻九十・晉紀十二・中宗元皇帝上・建武元年正月の条の胡三省注によれば、太府とは都督府のことで、少府とは涼州府のことであるという。
〔六〕「五美」とは、為政者が則るべき五つの美徳のこと。『論語』堯曰篇によれば、「惠みて費やさず、勞して怨みず、欲して貪らず、泰らかにして驕らず、威ありて猛ならず。」(適切に恵みを施すが無駄な浪費はしない、民を労役させるが不満の起こらないようにする、欲することはあっても貪りはしない、安泰であっても傲慢にはならない、威厳はあっても猛然とはならない)の五つのこと。
〔七〕「六徳」とは、『周礼』地官司徒・大司徒によれば、知・仁・聖・義・忠・和の六つの徳のこと。『国語』魯語下の韋昭注によれば、諏・謀・度・詢・咨・周の六つの徳のこと。
〔八〕『晋書斠注』では、丁国鈞『晋書校文』に基づき、宗悠は上文にも登場した「宋修」の誤りであるとする。
〔九〕この享年と在位年数に関しても、『晋書』の他の記事や他の史料と齟齬があることが、『晋書斠注』やそれ以前の学者によって指摘されている。ただ、いずれが正しいかは判然としない。

現代語訳

張重華は、字を泰臨と言い、張駿の第二子であった。寛大でかつ温和であり、非常に慎重で、そして沈着かつ毅然としており、言葉数が少なかった。父の張駿が死去したとき、張重華は十六歳だった。(穆帝の)永和二年(346)に「持節・大都督・太尉・護羌校尉・涼州牧・西平公・仮涼王」を自称し、その領域内で大赦を行った。その母(張駿の妃)の厳氏を尊んで太王太后とし、永訓宮に居住させ、生母の馬氏を王太后とし、永寿宮に居住させた。そして賦税の徴収を軽くし、関税を除き、園囿を縮小し、それによって貧窮している人々に恵みを与えた。
張重華は、使者を派遣して上章文を石季龍(石虎)に奉呈した。しかし、石季龍は(それを受け容れず)、王擢(おうてき)・麻秋・孫伏都らに引き続き侵攻を続けさせた。金城太守の張沖は、麻秋に降り、そこで涼州は動揺した。張重華は、領域内のすべての力をかき集め、その征南将軍の裴恒に命じてそれを防がせた。裴恒は広武に砦を築き、持久戦によって敵軍を疲弊させようとした。牧府相司馬の張耽(ちょうたん)が、張重華に言った。「私が聞くところによりますと、国は軍隊の力によって民衆に対して強威を与え、将帥を任命してその軍隊の主とさせると言います。主将というものは、国の存亡の機を握り、国の吉凶に関わる存在であります。故に(戦国時代の)燕が楽毅を主将に任じると、斉国を丸ごと平定することができましたが、その後、騎劫を主将に任じると、(斉から奪った)七十城の地を失いました。そうであるからこそ、古の明君はみな将軍や宰相を選ぶ際には慎重にしないわけにはいかなかったのです。今、我々にとって重要なのは軍隊です。しかし、議者は将帥を推薦する際に、多くの場合、官歴を積んだ長者を挙げますが、それらの人物は必ずしも軍事に精通し、その優れた才能を充分に発揮できるというような者ではありません。しかも、(前漢の初頭に)韓信が推挙されたのは、元から知名度が高かったからではなく、(春秋時代の斉国で)司馬穣苴が信任されたのは、元から将帥としての経験を積んでいたからではなく、(後漢末の孫権政権で)呂蒙が抜擢されたのは、元から勲功があったからではなく、(後漢末・蜀初の劉備政権で)魏延が採用されたのは、元から徳があったからではありません。思いますに英明なる王者が人を登用する際には、常人を登用することは無く、それを達成する能力があればこそ、大事を授けるのです。今、強大な賊の侵攻が近郊まで到来していますが、諸将は進軍せず、民情は動揺してざわめき、危機はだんだんと迫っています。主簿の謝艾(しゃがい)は、資質は文武を兼ね、明識と兵略を有しているので、もし斧鉞を授け、征伐を一手に握らせれば、きっと敵軍の攻撃を防いで追い返し、凶悪な者どもを殲滅することができましょう」と。張重華は、謝艾を召し出し、賊を討伐する方策を問うた。謝艾は言った。「昔、(後漢の)耿弇は(張歩討伐の途上で光武帝が近くまでやって来た際に)賊の討伐を天子に丸投げして残すことを欲せず(張歩を撃破し)、(蜀漢の)黄権は一万人の兵力で賊の討伐に当たることを願いました。どうか私に七千の兵を授け、殿下のために王擢・麻秋らを平らげることをお許しください」と。張重華は非常に喜び、謝艾を中堅将軍に任じ、歩兵・騎兵合わせて五千を配備して麻秋を攻撃させた。謝艾が軍を率いて振武に出兵すると、夜に二羽の梟が牙門の中(将帥の帳中)で鳴いたので、謝艾は言った。「『梟』とは『邀』(敵の攻撃を遮る)ということである。六博(すごろくに類する遊戯)では、梟を得た者が勝つものである。今、梟が牙門の中で鳴いたのは、敵に勝つという兆である」と。そこで進軍して戦い、大いに敵軍を破り、斬首五千級の功績を上げた。張重華は、謝艾を福禄伯に封じ、非常に厚遇した。しかし、特に恩寵を受けている諸々の貴人たちは、謝艾の賢明さを憎み、一緒になって讒言して陥れたので、そこで謝艾は地方に出されて酒泉太守となった。
石季龍(石虎)がまた麻秋に命じて進軍して大夏郡を落とそうとすると、大夏護軍の梁式は、大夏太守の宋晏(そうあん)を捕らえ、城ごと降って麻秋に呼応した。麻秋は、宋晏を派遣して書を伝えさせて宛戍都尉の宋矩を誘わせた。宋矩は、麻秋に言った。「父に別れを告げて(家を出て)主君に仕えた以上、功や義を立てるべきである。功や義を立てられないのであれば、名節を守るべきである。私は最後まで、君主に背いてまで世にあって生を貪り盗むようなことはするまい」と。そうしてまず妻子を殺し、その後、自刎して死んだ。
この月、官吏は、司兵の趙長を派遣して秋気を西郊で迎える儀礼をさせるべきであるということを議した。それに対して謝艾は言った。「春秋の義では、国に大喪(君主やその妃や世継ぎの喪)があった場合には、蒐狩の儀礼を省くとあります。年越しを待つべきです」と。また、別駕従事の索遐(さくか)が議して言った。「礼(『礼記』曽子問篇)によりますと、天子が崩御したり、諸侯が薨去したりした際には、まだかりもがりをしていない場合には五祀は行わず、かりもがりが終わってからそれを行う、とあります。魯の宣公の三年に、天王が崩御した際にも、郊祀を取りやめることはしませんでした。今、聖上(張重華)は大位を継承し、万機が維新されたので、(舜のように)璿璣・玉衡(いずれも玉製の天文観測機器)で七政(太陽・月・金星・木星・水星・火星・土星)が一つに集まるのを観察(し、自らが天の心にかなっているのかどうかを判断)すべきです。立秋には、万物が今にも成熟しようとし、殺気(寒気)の始まりの時期であり、王事に関しては、杖を振るって兵衆に誓を下し、鼓に犠牲の血を塗って神に対して祀るというのは、逆賊を討って暴虐なる者を除き、功を成して務めを果たし、宗廟や社稷を安んじ、天下の福をもたらすためでありますので、その礼を取りやめるべきではありません」と。張重華は、この意見に従った。
まもなく麻秋が進軍して枹罕を攻めると、時に(枹罕城を守っていた)晋陽太守の郎坦(ろうたん)が言った。「城は大きく守り難いので、外城を放棄すべきである」と。それに対して、(同じく枹罕城を守っていた)武城太守の張悛(ちょうしゅん)が言った。「外城を放棄すれば大事は去ろうが、それによって人々の心を動揺させるべきではない」と。寧戎校尉の張璩(ちょうきょ)もそれに従い、外城を固守した。麻秋は、八万の兵衆を率い、塹壕を何重にもめぐらせ(て脱出を防ぎ)、雲梯・雹車(投石車)を用い、さらに地下道を数えきれないほどたくさん掘り、みな城内に通じさせた。城中側もまたそれに対応し、麻秋の兵衆を殺傷することすでに数万人に上った。石季龍は、さらにその将である劉渾(りゅうこん)らを派遣して歩兵・騎兵合わせて二万を率いて合流させた。郎坦は、自分の意見が採用されなかったことを恨み、軍士の李嘉に命じてこっそり麻秋と内通させ、賊兵千人余りを率いて西側の城壁の北の隅に登らせた。張璩は、宋修・張弘・辛挹(しんゆう)・郭普に命じてそれを防がせ、短兵(刀や剣のたぐい)で接近戦を行い、二百人余りを斬ったので、賊はそこで退いた。張璩は、李嘉を殺して見せしめにし、その攻城兵器を焼いた。麻秋は、退却して大夏に籠り、諸将に言った。「私は、五都(洛陽・邯鄲・臨淄・宛・成都)の間の地域で軍を動かし、そして城を攻め、地を攻略するに当たっては、向かうところ勝たなかったことは無かった。だから、秦嶺・隴山地域に登るに当たっては、『誅罰の軍はあるが、戦争というものはない』と言うように、戦わずしてみな降ると思っていた。どうして思いも寄ろうか、南の仇池を襲撃したら軍は敗れ、将は殺され、長最に城を築いたら(敗れて)一騎も帰還することなく、この城を攻めたら兵を損傷して鋭気を挫かれようなどとは。これはきっと天の助けを得ているからであり、人の力によるものではないに違いない」と。石季龍は、それを聞いて嘆いて言った。「私は、(全軍を挙げてではなく)部分的な兵を用いて九つの州を平定したが、今、その九つの州の総力を挙げても枹罕を落とすのに難儀しているのは、実に所謂『彼の方には人材がいるので、まだ攻め破ることはできまい』というものである」と。
張重華は、謝艾を「使持節・軍師将軍」に任じ、歩兵・騎兵合わせて三万を率いて、軍を進めて黄河に臨ませた。麻秋は、三万の兵衆でそれを迎え撃った。謝艾は、軺車(一頭立ての馬車)に乗り、白㡊(士大夫のかぶる白い帽子)をかぶり、鼓を鳴らして行進した。麻秋はそれを遠目に見て怒って言った。「謝艾は年少の書生のくせに、あのような恰好をするとは、私を見くびっているのだ」と。そこで麻秋は黒矟将軍・龍驤将軍に命じて三千人を率いて急ぎ謝艾を攻撃させた。謝艾の左右の者は取り乱して大騒ぎした。左戦帥の李偉(りい)は、謝艾に乗馬することを勧めたが、謝艾は従わず、なんと下車して胡牀(腰掛けの一種)に足を投げ出して座り、将兵を指揮して配置につかせた。賊(麻秋軍)は伏兵が襲い掛かって来ると思い込み、恐れて進むことができなかった。その隙に張瑁が左南県の河沿いから麻秋軍の後方を断ったので、麻秋軍はそこで退却した。謝艾は、勝ちに乗じて追撃し、そのまま麻秋軍を大いに破り、麻秋の将の杜勲・汲魚(きゅうぎょ)を斬り、その他、捕虜・斬首合わせて一万三千級の功績を上げた。麻秋は単騎で大夏に逃れた。張重華は、功を論じ、謝艾を太府左長史に任じ、爵位を福禄県伯に進め、邑は五千戸とし、帛八千匹を賜わった。
麻秋はまた枹罕を占拠し、兵衆十二万を擁し、進軍して河内(河西地域)で勝利し、王擢を派遣して晋興・広武を攻略させ、洪池嶺を越え、曲柳までやってきたので、姑臧の人々は大いに震えた。張重華は、自ら出撃してこれを防ごうと議したが、謝艾は固く諫め、それはならないと述べた。別駕従事の索遐も進み出て言った。「賊衆は非常に盛んであり、だんだんと京畿(姑臧周辺)に迫ってきております。君主というものは、国の抑えでありますので、自ら動くべきではありません。左長史の謝艾は、文武の資質を兼ね備え、我が国にとっての方叔・召虎(いずれも周の中興の祖である宣王の名臣)でありますので、推轂の礼を行って軍隊の全権を委任するべきです。殿下は宮中に在って国の抑えとなり、ただ算略を授けるようにすれば、小賊は平らげるまでもないでしょう」と。張重華はそれを採用し、そこで謝艾を「使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍(衛将軍代行)」に任じ、索遐を軍正将軍に任じ、歩兵・騎兵合わせて二万を率いて迎え撃たせた。謝艾が牙旗を建て、将帥や兵士たちに対して盟を行った際に、西北の風が吹いて旗を東南に向けてなびかせた。索遐は言った。「風は号令であり、今、(その風によって)旗が東南にいる賊めがけてなびいたのは、まさに天の助けによるものであるので、間違いなく賊を破ることができよう」と。謝艾らの軍は神鳥に駐屯し、(後趙軍の)王擢がその前鋒と戦うも敗れ、河南(隴西地域)に逃れ帰った。謝艾らは引き返し、叛乱を起こした賊の斯骨真が率いる一万落余りを討伐し、それを破り、斬首千級余り、俘擒二千八百の功績を上げ、牛や羊など十数万頭を獲得した。
張重華は、何度も強敵を破ったことを自負し、頗る政務を怠るようになり、(お気に入りの)賓客をもてなすことばかりを願うようになった。そこで司直の索遐が諫めて言った。「殿下は四聖(張軌・張寔・張茂・張駿)の基業を継承し、太平の機会に当たり、当今の任を担い、全土の人々が塗炭の苦しみを受けているのを憂えるべき立場にありますので、自ら万機を握り、英傑を広く招き、朝から晩まで休むことなく働き、諸々の政務に励むべきです。最近では内外ともに落ち着きなく騒然とし、『賊を退けて忠誠を尽くした者は即座に慰労されるべきであるのに、しかし終日待ってももてなされることはない。国の重臣や朝廷の賢者たちについても、虚心に招き入れ、彼らに政事について諮問すべきであるのに、長い月日が経っても、殿下は彼らを招致することに意をお注ぎにならない。上奏文が宮中に届けられても、何ヶ月経ってもご覧になることはなく、現今の務めを放棄され、囲碁などの遊戯に意を注ぎ、左右の者や小臣の提供する娯楽にばかり気を取られて離れず、将軍や宰相たちの提出する遠大な策謀についてお考えになることもなく、それによって親しい臣下は何も言わなくなり、朝廷の官吏は口を閉ざすという事態を招いている』とみなが言っているのは、私めが頭がくらくらして恐懼するあまり、寝食を忘れてしまうほどになった原因でございます。今、王室は火に焼かれるかの如く戦争に苛まれ、人々は次々に倒れ伏していくような有り様でありますので、これはまさに殿下が苦いきもを口に含み、刺激的なものを食らい、心を励ますべきときでございます。どうか心を朝政に傾け、直言を受け容れ、広く五美を備え、それによって六徳を成し、かの親近の者を遠ざけ、塞外(外国)の音楽にかまけるのをやめ、朝廷に臨んで政務を修め、下々の者にその姿勢を見せて教化に与らせることを深くお願い申し上げます」と。張重華は、これを見て非常に喜び、褒賞の文によって返答して感謝したが、態度を改めることは無かった。
(東晋の穆帝は)詔を下して張重華を「護羌校尉・涼州刺史・仮節」に任ずべく、侍御史の兪帰(ゆき)を派遣した。このとき、石季龍(石虎)配下の西中郎将であった王擢が兵を集めて隴山付近に駐屯していたが、(前秦の)苻雄に敗れ、張重華のもとに亡命してきた。張重華は王擢を厚くもてなし、「征虜将軍・秦州刺史・仮節」に任じ、張弘・宗悠に命じて歩兵・騎兵一万五千を率いさせて王擢に配属させ、苻健を討伐させた。苻健は、苻碩(ふせき)を派遣してそれを迎え撃たせ、龍黎の地で会戦した。王擢らは大いに敗れ、王擢は単騎で逃げ帰り、張弘・宗悠はみな敵軍に捕らえられた。張重華はそれを痛ましく思い、喪服を着て戦死した軍吏や兵士たちのために哀しみを表わして慟哭し、それぞれの家を弔問させた。張重華はまた王擢に兵を授け、秦州を攻めさせたところ、敵軍に勝利した。張重華は(建康の東晋政権に対して)使者を派遣して上疏して言った。「石季龍(石虎)は自ら死に倒れ、残された人々はかりそめに何とか命を永らえているという状態ですので、『乱れているものを攻め取り、滅びようとしているものを侮辱する』とあるように、機を窺って軍を発しようと思っております。そこで私は今、前鋒都督の裴恒(はいこう)とその麾下の歩兵・騎兵合わせて七万を派遣し、はるかに隴山地域に出撃させ、聖朝の輝かしき盛大な威令が下るのを待つことといたします。山東(太行山脈の東の地域)は混乱をきたしているので今は気にする必要はなく、長安は肥沃の地でありますので、速やかに平定すべきです。私は西の果てを統治する任務を守り、山川ははるか遠く隔たっていますので、これまで大いに六軍に誓言して(功績を上げて)も、陛下が褒賞を下され、その名誉を拝聴・拝受する末端の席に据えられるにも及ばず、猛将が意気盛んに武勇を奮っても、功業の達成を報告する列に加えられませんでした。雲を仰ぎ、太陽を望み、義が損なわれることを独り憤激し、剣の柄をたたいて(不満を胸に)慷慨し、内心は鬱積しております」と。(その上疏文が建康に到着すると)そこで康献皇后は、詔を下して返答し、張重華の位を涼州牧に進めるべく使者を派遣した。
この頃、(先に建康を出発した)御史の兪帰が涼州に到着したが、張重華はちょうど涼王となることを画策していたので、(張重華を「護羌校尉・涼州刺史・仮節」に任ずるという)詔を受けようとはせず、信任している側近の沈猛(しんもう)に命じ、兪帰に対して次のように言わせた。「我が国の主公は代々晋室に対して忠誠を尽くしてきましたが、その位は鮮卑(前燕)に及びません。朝廷は慕容皝(ぼようこう)に対して燕王の位を加えましたのに、今、我が州主(張重華)に対してはわずかに大将軍の位を授けるだけだというのは、どうして功績があり、忠義を尽くした臣下を褒賞して奨励するというものでありましょうか。明台(あなた)は今、河西に文書を送付し、一緒に州主に涼王となることを勧めるべきです。(『春秋公羊伝』の義によれば、)『大夫は使命を奉じて出立したら、もし社稷に利益をもたらすのであれば、独断専行しても良い』と言います」と。兪帰は答えて言った。「王者の制度として、異姓の者が王を称することはできず、九州のうちであれば、いくら爵位が高くとも公より上に登ることはできない。漢の高帝(劉邦)は、一時的に異姓を王としたが、まもなくみな誅滅されたので、思うにそれは便宜的な仮の措置であり、もとからそれが当然であったわけではない。故に(前漢の)王陵は(劉邦の言葉として)『劉氏でないのに王となる者がいれば、天下の人々が力を合わせてそれを討て』と言ったのである。ただ、戎狄に関しては例外である。春秋時代に、呉や楚は王を称したが、諸侯がそれを非であるとしなかったのは、思うに蛮夷の場合にはそれを許容したからである。もし斉や魯が王を称したら、諸侯はどうしてそれを討伐しないことがあろうか。故に聖上は貴公(張重華)が忠良で賢明であるからと、上公(公の上位)の爵位や、方伯(刺史)の官位を授けたのであって、鮮卑や北狄などと、どうして比べる必要があろうか。あなたの問いは失言である。それに私は次のようなことを耳にしたことがある。絶世の殊勲を上げた者がいれば、世にも稀な大賞を授ける、と。もし今、貴公を王とするのであれば、たとえば貴公が河西の兵衆により南は巴・蜀の地域を平らげ、東は趙・魏の地域を掃討し、旧都(洛陽)を修復し、そうして天子を迎えるくらいすれば、天子もまた何の爵、何の位によって褒賞を加えることができようか。どうかこのことを三思していただきたい」と。沈猛が兪帰の言葉を張重華に報告すると、張重華はそこで涼王となることをやめた。
張重華は、小人たちと一緒に遊戯を楽しむのを好み、しばしば官府の銭や帛を出して左右の者に賜わった。そこで徴事の索振が諫めて言った。「先王(張駿)は寝るにも安眠できず、天下を平定することばかりを志していたので、武器や防具を修繕し、軍需物資を蓄積しました。しかし、大業が成就しないうちに(薨去され)、黄泉で恨みを抱えることとなりました。殿下は三年の喪に服している間に巨大な賊の侵攻に遭い、(東晋朝廷からの)厚い俸禄を頼りにして、それによって強敵を挫きました。今、(後趙の)残存勢力はまだ広く割拠し、我が倉庫の蓄えは枯渇し、金銭や帛の出費は、慎重に行うべきものであります。昔、世祖(武帝・司馬炎)は即位すると、自ら万機に携わり、上章や上奏が宮中にもたらされると、その日のうちに返答していたので、故に中興の基業を盛んにし、万世にわたる功業を定めることができました。今、上章や上奏は溜まりに溜まり、ややもすれば一ヶ月や一季節分も放置され、下々の意見を上に伝達することができず、監獄の中で困苦する悲しみが溢れているのは、思うに明主のなすことではありませんので、私は心穏やかではありません」と。張重華は、それを善しとした。
(先述の康献皇后の使者が携えてきた)詔を受け取る寸前で、使者がまだ到着しないうちに張重華は死去した。時に二十七歳であった。在位は十一年。(前涼政権は)張重華に対して私的に「昭公」という諡号を与え、後に「桓公」と改め、一方で穆帝は「敬烈公」という諡号を賜わった。子の張耀霊が後を継いだ。

原文

耀靈、字元舒。年十歲嗣事、稱大司馬・校尉・刺史・西平公。伯父長寧侯祚性傾巧、善承内外、初與重華寵臣趙長・尉緝等結異姓兄弟。長等矯稱重華遺令、以祚爲持節・督中外諸軍・撫軍將軍、輔政。長等議以耀靈沖幼、時難未夷、宜立長君。祚先烝重華母馬氏、馬氏遂從緝議、命廢耀靈爲涼寧侯而立祚。祚尋使楊秋胡害耀靈於東苑、埋之於沙坑、私諡曰哀公。

訓読

耀靈、字は元舒。年十歲にして事を嗣ぎ、大司馬・校尉・刺史・西平公を稱す。伯父の長寧侯の祚、性は傾巧にして、善く内外に承け、初め重華の寵臣の趙長・尉緝(うつしゅう)等と與に結びて異姓兄弟たり。長等、矯めて重華の遺令と稱し、祚を以て持節・督中外諸軍・撫軍將軍と爲し、輔政せしむ。長等、議して以えらく、耀靈は沖幼にして、時難は未だ夷がざれば、宜しく長君を立つべし、と。祚、先に重華の母の馬氏に烝したれば、馬氏、遂に緝の議に從い、命じて耀靈を廢して涼寧侯と爲して祚を立つ。祚、尋いで楊秋胡をして耀靈を東苑に害し、之を沙坑に埋めしめ、私かに諡して哀公と曰う。

現代語訳

張耀霊は、字を元舒と言った。十歳で位を嗣ぎ、「大司馬・護羌校尉・涼州刺史・西平公」を称した。伯父である長寧侯の張祚(ちょうそ)は、狡猾な性格で、内外の人々に対して従順でウケが良く、初め、張重華の寵臣の趙長・尉緝(うつしゅう)らと異姓兄弟の契りを結んでいた。趙長らは、偽って張重華の遺令であると称し、張祚を「持節・督中外諸軍・撫軍将軍」に任じ、輔政させた。また、趙長らは、張耀霊は幼弱で、しかも時の危難はまだ収まっていないので、年長者を君主として立てるべきだと議した。張祚は、以前に張重華の生母の馬氏(馬太后)と姦通していたので、馬氏も尉緝の議に従い、命を下して張耀霊を廃位して涼寧侯とし、張祚を代わりに立てた。張祚は、まもなく楊秋胡に命じて張耀霊を東苑で殺害し、沙漠地帯のくぼ地の中に埋めさせ、私的に「哀公」という諡号を与えた。

原文

祚、字太伯、博學・雄武、有政事之才。既立、自稱大都督・大將軍・涼州牧・涼公。淫暴不道、又通重華妻裴氏、自閤内媵妾及駿・重華未嫁子女、無不暴亂、國人相目、咸賦牆茨之詩。
永和十年、祚納尉緝・趙長等議、僭稱帝位、立宗廟、舞八佾、置百官、下書曰「昔金行失馭、戎狄亂華、胡・羯・氐・羌咸懷竊璽。我武公以神武撥亂、保寧西夏、貢款勤王、旬朔不絕。四祖承光、忠誠彌著。往受晉禪、天下所知、謙沖遜讓、四十年于茲矣。今中原喪亂、華裔無主、羣后僉以九州之望無所依歸、神祇嶽瀆罔所憑係、逼孤攝行大統、以一四海之心。辭不獲已、勉從羣議。待掃穢二京、蕩清周魏、然後迎帝舊都、謝罪天闕、思與兆庶同茲更始。」改建興四十二年爲和平元年、赦殊死、賜鰥寡帛、加文武爵各一級。追崇曾祖軌爲武王、祖寔爲昭王、從祖茂爲成王、父駿爲文王、弟重華爲明王。立妻辛氏爲皇后、弟天錫爲長寧王、子泰和爲太子、庭堅爲建康王、耀靈弟玄靚爲涼武侯。其夜、天有光如車蓋、聲若雷霆、震動城邑。明日、大風拔木。災異屢見、而祚凶虐愈甚。其尚書馬岌以切諫免官。郎中丁琪又諫曰「先公累執忠節、遠宗吳會、持盈守謙、五十餘載。蒼生所以鵠企西望、四海所以注心大涼、皇天垂贊、士庶效死者、正以先公道高彭昆、忠踰西伯、萬里通虔、任節不貳故也。能以一州之眾抗崩天之虜、師徒歲起、人不告疲。陛下雖以大聖・雄姿纂戎鴻緒、勳德未高於先公、而行革命之事、臣竊未見其可。華夷所以歸系大涼、義兵所以千里響赴者、以陛下爲本朝之故。今既自尊、人斯高競、一隅之地何以當中國之師。城峻衝生、負乘致寇。惟陛下圖之。」祚大怒、斬之于闕下。遣其將和昊率眾伐驪靬戎於南山、大敗而還。
太尉桓溫入關、王擢時鎮隴西、馳使於祚、言溫善用兵、勢在難測。祚既震懼、又慮擢反噬、即召馬岌復位而與之謀。密遣親人刺擢、事覺、不剋。祚益懼、大聚眾、聲言東征、實欲西保敦煌。會溫還而止。更遣其平東將軍・秦州刺史牛霸、司兵張芳率三千人擊擢、破之。擢奔于苻健。其國中五月霜降、殺苗稼・果實。
祚宗人張瓘時鎮枹罕、祚惡其強、遣其將易揣・張玲率步騎萬三千以襲之。時張掖人王鸞頗知神道、言於祚曰「軍出不復還、涼國將有不利矣。」祚大怒、以鸞訞言沮眾、斬之以徇、三軍乃發。鸞臨刑曰「我死不二十日、軍必敗。」時有神降於玄武殿、自稱玄冥、與人交語。祚日夜祈之、神言與之福利、祚甚信之。祚又遣張掖太守索孚代瓘鎮枹罕、爲瓘所殺。玲等濟河未畢、又爲瓘兵所破。揣單騎奔走、瓘軍躡之、祚眾震懼。敦煌人宋混與弟澄等聚眾以應瓘。趙長・張璹等懼罪、入閤呼重華母馬氏出殿拜耀靈庶弟玄靚爲主。揣等率眾入殿伐長、殺之。瓘弟琚及子嵩募數百市人、揚聲言「張祚無道、我兄大軍已到城東。敢有舉手者誅三族。」祚眾披散。琚・嵩率眾入城、祚按劍殿上、大呼、令左右死戰、祚既失眾心、莫有鬭志、於是被殺。梟其首、宣示内外、暴尸道左、國内咸稱萬歲。祚篡立三年而亡。

訓読

祚、字は太伯、博學・雄武にして、政事の才有り。既に立つや、自ら大都督・大將軍・涼州牧・涼公を稱す。淫暴にして不道、又た重華の妻の裴氏と通じ、閤内の媵妾より駿・重華の未だ嫁がざる子女に及ぶまで、暴亂せざるは無く、國人は相い目し、咸な牆茨の詩を賦す。
永和十年、祚、尉緝(うつしゅう)・趙長等の議を納れ、帝位を僭稱し、宗廟を立て、八佾を舞わせ、百官を置き、書を下して曰く〔一〕「昔、金行は馭を失い、戎狄は華を亂し、胡・羯・氐・羌は咸な璽を竊まんことを懷く。我が武公は神武を以て亂を撥め、西夏を保寧し、款を貢ぎ王に勤め、旬朔絕えず。四祖は承光し、忠誠は彌々著わる。往ろ晉の禪を受けしは、天下の知る所なれども、謙沖遜讓し、茲に四十年たり。今、中原は喪亂し、華裔に主無ければ、羣后は僉な九州の望の依歸する所無く、神祇嶽瀆の憑係する所罔きを以て、孤に逼りて大統を攝行し、以て四海の心を一にせんとす。辭すれども已むを獲ず、勉めて羣議に從う。穢れを二京に掃い、周魏を蕩清するを待ち、然る後に帝を舊都に迎え、天闕に謝罪し、兆庶と同に茲に更始せんことを思う」と。建興四十二年を改めて和平元年と爲し、殊死を赦し、鰥寡に帛を賜い、文武の爵を加うること各々一級。曾祖の軌を追崇して武王と爲し、祖の寔もて昭王と爲し、從祖の茂もて成王と爲し、父の駿もて文王と爲し、弟の重華もて明王と爲す。妻の辛氏を立てて皇后と爲し、弟の天錫もて長寧王と爲し、子の泰和もて太子と爲し、庭堅もて建康王と爲し、耀靈の弟の玄靚もて涼武侯と爲す。其の夜、天に光は車蓋の如く、聲は雷霆の若きもの有り、城邑を震動す。明日、大いに風ふきて木を拔く。災異屢々見れ、而して祚の凶虐なること愈々甚し。其の尚書の馬岌(ばぎゅう)、切諫するを以て官を免ぜらる。郎中の丁琪(ていき)、又た諫めて曰く「先公は累ねて忠節を執り、遠く吳會を宗とし、盈を持して謙を守ること、五十餘載。蒼生の鵠企して西のかた望む所以、四海の心を大涼に注ぎ、皇天の贊を垂れ、士庶の死を效す所以の者は、正に先公の道は彭・昆〔二〕より高く、忠は西伯を踰え、萬里に虔を通じ、節を任いて貳かざるを以ての故なり。能く一州の眾を以て崩天の虜に抗たり、師徒歲ごとに起くとも、人は疲るるを告げず。陛下は大聖・雄姿を以て鴻緒を纂戎すと雖も、勳德は未だ先公より高からざるに、而るに革命の事を行うは、臣、竊かに未だ其の可なるを見ず。華夷の大涼に歸系する所以、義兵の千里に響赴する所以の者は、陛下の本朝の爲にするを以ての故なり。今、既に自ら尊び、人斯に高く競わば、一隅の地、何を以て中國の師に當たらん。城峻しければ衝生じ、負いて乘れば寇を致す。惟だ陛下、之を圖られんことを」と。祚、大いに怒り、之を闕下に斬る。其の將の和昊(かこう)を遣わして眾を率いて驪靬戎を南山に伐たしむるも、大いに敗れて還る。
太尉の桓溫の關に入るや、王擢、時に隴西に鎮し、使を祚に馳せ、溫は用兵を善くし、勢は測り難きに在りと言う。祚、既に震懼し、又た擢の反噬するを慮り、即ち馬岌を召して位を復して之と謀る。密かに親人を遣わして擢を刺さしめんとするも、事覺られ、剋たず。祚、益々懼れ、大いに眾を聚め、東のかた征せんと聲言するも、實は西のかた敦煌を保たんと欲す。會々溫は還りて止む。更めて其の平東將軍・秦州刺史の牛霸、司兵の張芳を遣わして三千人を率いて擢を擊たしめ、之を破る。擢、苻健に奔る。其の國中、五月に霜降り、苗稼・果實を殺す。
祚の宗人の張瓘(ちょうかん)、時に枹罕に鎮するに、祚は其の強きを惡み、其の將の易揣(えきすい)・張玲(ちょうれい)を遣わして步騎萬三千を率いて以て之を襲わしむ。時に張掖の人の王鸞(おうらん)、頗る神道を知りたれば、祚に言いて曰く「軍は出でて復た還らず、涼國に將に不利有らんとす」と。祚、大いに怒り、鸞の訞言して眾を沮むを以て、之を斬りて以て徇え、三軍乃ち發す。鸞、刑に臨みて曰く「我の死して二十日ならずして、軍は必ず敗れん」と。時に神の玄武殿に降る有り、自ら玄冥を稱し、人と交語す。祚、日夜之に祈るや、神は之に福利を與えんと言い、祚、甚だ之を信ず。祚、又た張掖太守の索孚(さくふ)を遣わして瓘に代わりて枹罕に鎮せしめんとするも、瓘の殺す所と爲る。玲等、河を濟りて未だ畢わらざるや、又た瓘の兵の破る所と爲る。揣、單騎にして奔走し、瓘の軍、之を躡いたれば、祚の眾は震懼す。敦煌の人の宋混、弟の澄等と與に眾を聚めて以て瓘に應ず。趙長・張璹(ちょうしゅく)等、罪を懼れ、閤に入りて重華の母の馬氏を呼びて殿に出でて耀靈の庶弟の玄靚(げんせい)を拜して主と爲さしむ。揣等、眾を率いて殿に入りて長を伐ち、之を殺す。瓘の弟の琚(きょ)及び子の嵩(すう)、數百の市人を募り、揚聲して言わく「張祚は無道にして、我が兄の大軍は已に城東に到る。敢えて手を舉ぐる者有らば三族を誅す」と。祚の眾は披散す。琚・嵩の眾を率いて城に入るや、祚、劍を殿上に按じ、大いに呼び、左右をして死戰せしめんとするも、祚は既に眾心を失えば、鬭志有る莫く、是に於いて殺さる。其の首を梟し、内外に宣示し、尸を道左に暴し、國内は咸な萬歲を稱す。祚、篡立して三年にして亡ぶ。

〔一〕張祚は皇帝を称したので、本来であれば「詔を下し」となるはずであるが、『晋書』は西晋・東晋以外の国を正統な王朝として認めないので、その立場から「詔」ではなく「書」と表記されている。
〔二〕詳細は不明。天彭山(彭祖山)と崑崙山のことか。

現代語訳

張祚(ちょうそ)は、字を太伯と言い、博学・雄武であり、政事の才幹があった。張祚は位に就くと、「大都督・大将軍・涼州牧・涼公」を自称した。淫乱かつ暴虐でしかも不道であり、さらに張重華の妻の裴氏と姦通し、宮中の侍女や妾女を始め、張駿や張重華の娘たちの中でもまだ嫁いでない者に至るまで、乱暴しなかったことはなく、国の人々は互いに目を見合わせ、みな(春秋時代の衛の宣公の夫人である宣姜が、宣公の死後に腹違いの兄弟と姦通した醜悪さを謡った『詩』国風・鄘風の)「牆有茨」の詩を歌った。
(穆帝の)永和十年(354)、張祚は、尉緝(うつしゅう)・趙長らの議を採用し、帝位を僭称し、宗廟を立て、(天子の備える舞楽である)八佾の舞を備え、百官を置き、書を下して言った。「昔、金行(五行の金徳の王朝である晋)は天下を統御する力を失い、戎狄は中華を乱し、胡・羯・氐・羌はみな玉璽を盗もう(=帝位に即こう)と考えた。我が武公(張軌)は優れた武によって乱を治め、西中国を保全し、忠誠を致して晋室のために力を尽くし、長年にわたってそれを絶やすことがなかった。四祖(張軌・張寔・張茂・張駿)はその基業を代々受け継いであまねく広め、忠誠はますます顕著となった。かつて(張寔が)晋の(愍帝の)禅譲を受けたのは、天下が知るところであるが、謙譲して遜って(受けず)、それから四十年が経った。今、中原は失われて混乱に陥り、華夏人(漢族)の後裔から君主が現れないので、諸侯や公卿たちはみな、天下の人々にとっても期待を寄せる相手がなく、天地や山川の神々にとっても頼るべき相手がないことから、私に迫って帝位を代行させ、それによって四海の人々の心を一つにしようとした。私は辞退したが、それでもやむを得ないので、勉めて人々の議に従うことにした。洛陽・長安の二京の穢れを掃い、周や魏の地を平定して賊を一掃してから、その後に陛下を旧京(洛陽)に迎え、朝廷に謝罪し、民衆と一緒に改めて一から出発し直そうと思う」と。建興四十二年(354)を改めて和平元年とし、殊死刑の罪人を赦し、妻や夫を亡くした人々に帛を賜い、(領域内の人々に対して)文爵・武爵を一級ずつ上昇させた。また、曽祖父の張軌を追尊して武王とし、祖父の張寔を追尊して昭王とし、従祖父の張茂を追尊して成王とし、父の張駿を追尊して文王とし、弟の重華を追尊して明王とした。さらに妻の辛氏を皇后に立て、弟の張天錫(ちょうてんせき)を長寧王に立て、子の張泰和を太子に立て、(同じく子の)張庭堅を建康王に立て、張耀霊の弟の張玄靚(ちょうげんせい)を涼武侯に立てた。その夜、天に、車蓋のような光を発し、雷霆のような音を発するものが現れ、城邑を振動させた。明日、暴風が吹いて木を抜き去った。このように災異がしばしば現れ、そして張祚の凶虐さはますますひどくなった。その尚書の馬岌(ばぎゅう)は、懇切に諫言したために官を罷免された。郎中の丁琪(ていき)もまた、諫めて言った。「先代たちは累代、忠節を守り、遠く呉や会稽(すなわち東晋政権)を主として奉じ、栄華を手にしても謙虚さを守ること五十年余りとなりました。民草が白鳥のように首を伸ばし、足をつま立てて西方はるかに我が国を望み、四海の人々が心を大涼(前涼)に傾け、大いなる天が我らをお助けになり、士人も庶民も死を顧みずに力を尽くしている理由は、まさに先代たちの徳が彭・昆より高く、忠は西伯(周の文王)を越え、はるか万里(の東晋政権)に誠心を通達し、節義を守って二心が無かったためであります。(先代たちは)わずか一州の兵衆で、天を崩すほどの賊に対抗するという業を成し遂げ、軍隊は連年出動しましたが、疲れを口にする人はいませんでした。陛下は大いなる聖徳と雄姿によって先代たちの大いなる王業を継承されたとはいえ、勲功や徳はまだ先代たちよりも高いものではございませんのに、それなのに革命の事を行うのは、私がつつしんで思いますに、ふさわしくないことでございます。華夏人(漢族)も夷人も大涼に帰服し、義兵が千里の遠さをものともせずに駆け付ける理由は、陛下が本朝(晋室)のために動いているからでございます。今、陛下が自ら尊号を称して、それによって(中原の)人々が我も我もと高位(帝位)を望んで競うようになれば、この一地方の辺鄙な地で、どうして中原の軍隊に対抗できなどしましょうか。城壁が高く険しいと敵は衝車を使用するようにな(ってより攻撃が激しくな)り、小人が分不相応に貴人の車に乗れば、盗賊を招くことになる、と言います。陛下よどうか、このことをよくお考えになってください」と。張祚は非常に怒り、丁琪を闕下で斬った。また、その将の和昊(かこう)を派遣して兵衆を率いて南山の驪靬戎を討伐させたが、大敗して帰還した。
太尉の桓温が関中に入ると、王擢(おうてき)が時に隴西を鎮守しており、使者を張祚に急ぎ派遣し、桓温は用兵が巧みで、その勢いは測りがたいと述べた。張祚は震え恐れ、その上、王擢が反旗を翻すことを憂慮し、即座に馬岌を召し返して位を元に戻し、一緒に策を謀った。そこで密かに信任している側近を派遣して王擢を刺殺させようとしたが、事が発覚し、殺すことができなかった。張祚はますます恐れ、大いに兵衆を集め、東征するのだと公言したが、実は西に移動して敦煌を保守しようとしていたのであった。ちょうど桓温が帰還したので、それはやめることにした。そして、改めてその「平東将軍・秦州刺史」の牛覇、司兵の張芳を派遣して三千人を率いて王擢を攻撃させ、王擢軍を破った。王擢は、(前秦の)苻健のもとに亡命した。前涼の国中では、五月に霜が降り、穀物や果実を駄目にした。
張祚と同宗の一族である張瓘(ちょうかん)は、時に枹罕を鎮守していたが、張祚はその強さを忌み、その将の易揣(えきすい)・張玲(ちょうれい)を派遣して歩兵・騎兵合わせて一万三千を率いて襲撃させた。時に張掖郡の人である王鸞(おうらん)は、頗る神術を心得ていたので、張祚に言った。「この軍は出撃したら(全滅して)二度と帰ってくることはなく、涼国に不利をもたらすことになりましょう」と。張祚は非常に怒り、王鸞は妖言を弄して人々の意気を挫こうとしたとして、王鸞を斬って見せしめにし、三軍はそこで出発した。王鸞は、刑の執行の間際に言った。「私が死んで二十日も経たないうちに、軍は必ず敗れるだろう」と。時に神が玄武殿に降臨し、自分は玄冥であると称し、人々と言葉を交わした。張祚は、日夜この神に祈り、神は張祚に福利を授けようと言い、張祚はそれを甚だ信じていた。張祚は、さらに張掖太守の索孚(さくふ)を派遣して張瓘に代わって枹罕を鎮守させようとしたが、張瓘に殺されてしまった。張玲らは、黄河を渡る際に、まだ全軍が渡り切らないうちに、さらに張瓘軍に(攻撃されて)敗れた。易揣は単騎で逃げ、張瓘の軍はそれを追撃したので、張祚軍の兵衆は震え恐れた。敦煌郡の人である宋混は、弟の宋澄らと一緒に兵衆を集め、そうして張瓘に呼応した。趙長・張璹(ちょうしゅく)らは、罪を畏れ、宮中に入って張重華の母の馬氏を殿に呼び出し、(張祚を廃して)張耀霊の庶弟である張玄靚(ちょうげんせい)を涼国の主に据えさせた。易揣らは、兵衆を率いて殿に入って趙長を討伐して殺した。張瓘の弟の張琚(ちょうきょ)と、張瓘の子の張嵩(ちょうすう)は、市井の人々を数百人募り、声高らかに言った。「張祚は無道であり、我が兄の大軍は(張祚を討つべく)すでに城の東に到着している。敢えて手出しする者がいれば三族を誅滅する」と。そこで張祚の兵衆はばらばらに逃げ散った。張琚と張嵩が兵衆を率いて城に入ると、張祚は殿上で剣を抜き、大いに叫び、左右の者に死にものぐるいで戦うよう命じたが、張祚はもはや人々の心を失っていたので、闘志ある者はおらず、そうして殺された。張琚らは張祚の首をさらし、内外にはっきりと示し、屍体を道端にさらし、国内の人々はみな万歳を唱えた。張祚は、君主の地位を簒奪してから三年で滅んだ。

原文

玄靚、字元安。既立、自號大都督・大將軍・校尉・涼州牧・西平公、赦其國内、廢和平之號、復稱建興四十三年。誅祚二子、以張瓘爲衞將軍、領兵萬人、行大將軍事、改易僚屬。
有隴西人李儼、誅大姓彭姚、自立於隴右、奉中興年號、百姓悅之。玄靚遣牛霸率眾討之、未達、而西平人衞綝又據郡叛。霸眾潰、單騎而還。瓘先欲征綝、以兄珪在綝中爲疑、綝亦以弟在瓘中、故彼我經年不相伐。西平人郭勛解天文、不應州郡之命、綝禮聘之。勛曰「張氏應衰、衞氏當興、豈得以一弟而滅一門。宜速伐瓘。」綝將從之、瓘遣弟琚領大眾征綝、敗之。西平田旋要酒泉太守馬基背瓘應綝。旋謂基曰「綝擊其東、我等絕其西、不六旬、天下可定。斯『閉口捕舌』也。」基許之。瓘遣司馬張姚・王國將二千人伐基、敗之、斬基・旋二人之首、傳姑臧。
瓘兄弟強盛、負其勳力、有篡立之謀。輔國宋混與弟澄共討瓘、盡夷其屬。玄靚以混爲都督中外諸軍事・車騎大將軍・假節、輔政。混卒、又以澄代之。玄靚右司馬張邕惡澄專擅、殺之、遂滅宋氏。玄靚乃以邕爲中護軍、叔父天錫爲中領軍、共輔政。
邕自以功大、驕矜淫縱、又通馬氏、樹黨專權、國人患之。天錫腹心郭增・劉肅二人、並年十八九、因寢謂天錫曰「天下事欲未靜。」天錫曰「何謂也。」二人曰「今護軍出入、有似長寧。」天錫大驚曰「我早疑之、未敢出口。計當云何。」肅曰「政當速除之耳。」天錫曰「安得其人。」肅曰「肅即是也。」天錫曰「汝年少、更求可與謀者。」肅曰「趙白駒及肅二人足以辦之矣。」於是天錫從兵四百人、與邕俱入朝、肅與白駒剔刀鞘出刃、從天錫入。值邕於門下、肅斫之不中、白駒繼之、又不剋、二人與天錫俱入禁中。邕得逸走、因率甲士三百餘人反攻禁門。天錫上屋大呼、謂將士曰「張邕凶逆、所行無道。諸宋何罪、盡誅滅之。傾覆國家、肆亂社稷。我不惜死、實懼先人廢祀、事不獲已故耳。我家門戸事、而將士豈可以干戈見向。今之所取、邕身而已。天地有靈、吾不食言。」邕眾聞之、悉散走、邕以劍自刎而死。於是悉誅邕黨。
玄靚年既幼沖、性又仁弱、天錫既剋邕、專掌朝政、改建興四十九年、奉升平之號。
興寧元年、駿妻馬氏卒、玄靚以其庶母郭氏爲太妃。郭氏以天錫專政、與大臣張欽等謀討之。事泄、欽等伏法。
是歲、天錫率眾入禁門、潛害玄靚、宣言暴薨。時年十四。在位九年。私諡曰沖公、孝武帝賜諡曰敬悼公。

訓読

玄靚(げんせい)、字は元安。既に立つや、自ら大都督・大將軍・校尉・涼州牧・西平公を號し、其の國内に赦し、和平の號を廢し、復た建興四十三年と稱す。祚(そ)の二子を誅し、張瓘(ちょうかん)を以て衞將軍と爲し、兵を領すること萬人、大將軍の事を行せしめ、僚屬を改易す。
隴西の人の李儼(りげん)なるもの有り、大姓の彭姚(ほうよう)を誅し、自ら隴右に立ち、中興の年號を奉じ、百姓は之を悅ぶ。玄靚、牛霸を遣わして眾を率いて之を討たしむるも、未だ達せずして、而して西平の人の衞綝(えいちん)も又た郡に據りて叛す。霸の眾は潰え、單騎にして還る。瓘、先ず綝を征たんと欲するも、兄の珪の綝中に在るを以て疑と爲し、綝も亦た弟の瓘中に在るを以て、故に彼我、經年相い伐たず。西平の人の郭勛(かくくん)、天文を解し、州郡の命に應ぜざるに、綝、之を禮聘す。勛曰く「張氏は應に衰えんとし、衞氏は當に興らんとしたれば、豈に一弟を以てして一門を滅ぼすを得んや。宜しく速やかに瓘を伐つべし」と。綝、將に之に從わんとするや、瓘、弟の琚(きょ)を遣わして大眾を領して綝を征たしめ、之を敗る。西平の田旋、酒泉太守の馬基に瓘に背きて綝に應ぜんことを要む。旋、基に謂いて曰く「綝、其の東を擊ち、我等、其の西を絕たば、六旬ならずして、天下は定むべし。斯れ『口を閉ざして舌を捕う』なり」と。基、之を許す。瓘、司馬の張姚(ちょうよう)・王國を遣わして二千人を將いて基を伐たしめ、之を敗り、基・旋の二人の首を斬り、姑臧に傳う。
瓘の兄弟は強盛にして、其の勳力を負み、篡立の謀有り。輔國の宋混、弟の澄と共に瓘を討ち、盡く其の屬を夷ぐ。玄靚、混を以て都督中外諸軍事・車騎大將軍・假節〔一〕と爲し、輔政せしむ。混の卒するや、又た澄を以て之に代う。玄靚の右司馬の張邕(ちょうよう)、澄の專擅せるを惡み、之を殺し、遂に宋氏を滅ぼす。玄靚、乃ち邕を以て中護軍と爲し、叔父の天錫(てんせき)もて中領軍と爲し、共に輔政せしむ。
邕、自ら功は大なりと以い、驕矜にして淫縱たり、又た馬氏と通じ、黨を樹て權を專らにし、國人は之を患う。天錫の腹心の郭增・劉肅の二人、並びに年は十八九にして、寢ぬるに因りて天錫に謂いて曰く「天下の事、未だ靜ならざらんと欲す」と。天錫曰く「何の謂ぞや」と。二人曰く「今、護軍の出入すること、長寧に似たる有り」と。天錫、大いに驚きて曰く「我、早くに之を疑うも、未だ敢えて口に出さず。計るに當に云何にすべけんや」と。肅曰く「政だ當に速やかに之を除くべきのみ」と。天錫曰く「安くにか其の人を得ん」と。肅曰く「肅、即ち是れなり」と。天錫曰く「汝は年少なれば、更めて與に謀るべき者を求めん」と。肅曰く「趙白駒及び肅の二人、以て之を辦ずるに足れり」と。是に於いて天錫、兵四百人を從え、邕と俱に入朝するや、肅、白駒と與に刀鞘より剔りて刃を出だし、天錫に從いて入る。邕と門下に值うや、肅、之を斫るも中らず、白駒、之に繼ぐも、又た剋たず、二人は天錫と俱に禁中に入る。邕、逸走するを得、因りて甲士三百餘人を率いて反りて禁門を攻む。天錫、屋に上りて大いに呼び、將士に謂いて曰く「張邕は凶逆にして、行う所は無道なり。諸宋に何の罪ありて、盡く之を誅滅せんや。國家を傾覆し、肆に社稷を亂す。我は死を惜しまざるも、實に先人の祀を廢せられんことを懼れ、事、已むを獲ざるが故なるのみ。我が家の門戸の事なるに、而るに將士、豈に干戈を以て見(われ)に向くべけんや。今の取る所は、邕の身なるのみ。天地に靈有らば、吾、言を食まず」と。邕の眾、之を聞き、悉く散走し、邕、劍を以て自刎して死す。是に於いて悉く邕の黨を誅す。
玄靚、年既に幼沖にして、性も又た仁弱なれば、天錫、既に邕に剋つや、專ら朝政を掌り、建興四十九年を改め、升平の號を奉ず。
興寧元年、駿の妻の馬氏の卒するや、玄靚、其の庶母の郭氏を以て太妃と爲す。郭氏、天錫の政を專らにせるを以て、大臣の張欽(ちょうきん)等と與に謀りて之を討たんとす。事泄れ、欽等は法に伏す。
是の歲、天錫、眾を率いて禁門に入り、潛かに玄靚を害し、暴かに薨ずと宣言す。時に年は十四。位に在ること九年。私かに諡して沖公と曰い、孝武帝、諡を賜いて敬悼公と曰う。

〔一〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。

現代語訳

張玄靚(ちょうげんせい)は、字を元安と言った。(前涼の君主として)立つと、自ら「大都督・大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公」を自称し、その国内に大赦を下し、和平の年号を廃し、再び建興四十三年(355)と称した。張祚(ちょうそ)の二人の子を誅殺し、張瓘(ちょうかん)を衛将軍に任じ、一万人の兵を統率させ、(張玄靚の)大将軍の事務を代行させ、(大将軍府の)属僚を一新した。
隴西郡の人である李儼(りげん)は、大姓の彭姚(ほうよう)を殺し、隴西地域で独立し、中興(東晋)の年号を奉じ、人々はそれを喜んで迎えた。張玄靚は、牛覇を派遣して兵衆を率いて李儼を討伐させたが、まだ到着しないうちに、西平国の人である衛綝(えいちん)もまた郡を占拠して叛いた。そして牛覇の兵衆は壊滅し、牛覇は単騎で逃げ帰った。張瓘は、まず衛綝を征伐しようとしたが、張瓘の兄の張珪が衛綝に捕らわれていたので躊躇し、衛綝もまた、弟が張瓘に捕らわれていたので、そうして連年、双方互いに攻撃できずにいた。西平国の人である郭勛(かくくん)は、天文を理解し、州郡の招聘に応じなかったが、衛綝は礼を尽くして彼を招聘した。郭勛は言った。「張氏はまさに衰退し、衛氏はまさに興隆しようとしているので、どうして弟一人のために一門を滅ぼす必要がありましょうか。速やかに張瓘を伐つべきです」と。衛綝がそれに従おうとしたところ、張瓘が(先手を打って)弟の張琚(ちょうきょ)を派遣して大軍を統率して衛綝を討伐させ、衛綝を打ち破った。西平国の人である田旋は、酒泉太守の馬基に対して、張瓘に背いて衛綝に呼応するよう要請した。田旋は、馬基に言った。「衛綝がその東を攻撃し、我等がその西を断てば、二ヶ月足らずで、天下を平定することができましょう。これぞまさに『口を閉じて舌を押さえる』(舌を出しているときに口を閉じれば、舌の根元が押さえられて動かなくなるように、身動きの取れないようになることの喩え)というものです」と。馬基はそれを許可した。張瓘は、司馬の張姚(ちょうよう)・王国を派遣して二千人を率いて馬基を討伐させ、馬基を破り、馬基・田旋の二人の首を斬り、姑臧に送った。
張瓘兄弟は強く盛んで、その勲功や権力を恃みにし、簒奪の謀略を立てた。輔国将軍の宋混は、弟の宋澄と一緒に張瓘を討ち、その一族を皆殺しにした。張玄靚は、宋混を「都督中外諸軍事・車騎大将軍・仮節」に任じ、輔政させた。宋混が死去すると、また宋澄をその後任とした。張玄靚の右司馬の張邕(ちょうよう)は、宋澄が専断しているのを忌み、宋澄を殺し、そうして宋氏を滅ぼした。張玄靚は、張邕を中護軍に任じ、叔父の張天錫(ちょうてんせき)を中領軍に任じ、一緒に輔政させた。
張邕は、功績が大きいことを自負し、驕慢になって淫乱・放縦な振る舞いをするようになり、さらに馬太后と姦通し、徒党を組んで専権し、国人はこれを悩みの種とした。張天錫の腹心である郭増・劉粛の二人は、両者とも年は十八・十九歳であったが、張天錫が眠りに就く間際を狙って、張天錫に言った。「天下は不穏な事態に陥りそうです」と。張天錫は言った。「どういうことだ」と。二人は言った。「今、護軍(張邕)が出入りをする様子は、長寧侯(張祚)が殺された際の人々の動きに似ています」と。張天錫は非常に驚いて言った。「私は前々からヤツを疑っていたが、口に出すことができなかった。どのような計をめぐらすべきか」と。劉粛は言った。「ただ速やかにヤツを除くべきです」と。張天錫は言った。「どこに適任者がおろうか」と。劉肅は言った。「私こそが適任でございましょう」と。張天錫は言った。「お前は年少であるので、改めて一緒に謀るべき者を探そう」と。劉肅は言った。「趙白駒と私の二人がいれば、事を処理するには十分です」と。そこで張天錫が兵四百人を従え、張邕と一緒に入朝した際に、劉粛は、趙白駒と一緒に鞘から刀を抜いて刃を剥き出しにし、張天錫の後に続いて入った。張邕と門下で遭遇すると、劉粛が張邕に斬りかかったが当たらず、趙白駒がそれに続いて斬りかかったが、殺すことができず、二人は張天錫と一緒に禁中に入った。張邕は、何とか免れて逃げ延びることができ、そこで武装兵三百人余りを率いて引き返して禁門を攻めた。張天錫は、建物の上に登り、大声で将帥・兵士に向かって言った。「張邕は凶悪・暴虐であり、行いは無道である。宋氏の人々は何の罪があって、皆殺しにされなければならなかったのか。張邕は国家を転覆させ、好き勝手に社稷を乱した。私は死を惜しみなどしないが、実に(前涼が滅んで)我が先祖たちの祭祀が絶えることを恐れており、この一挙もやむを得ず起こしたに過ぎない。これは我が一族の門戸に関する事であるのに、将帥や兵士たちよ、どうして武器を我が方に向けるべきであろうか。今、私たちが求めているのは、張邕の身柄だけである。もし天地に霊魂があれば、私の言葉に偽りの無いことを明白にご理解いただけるに違いない」と。張邕の兵衆は、それを聞き、ことごとく逃げ散り、張邕は剣で自刎して死んだ。そこで、張天錫は張邕の徒党を皆殺しにした。
張玄靚は、年齢は幼く、そのうえ性格も軟弱であるので、張天錫が張邕に勝利すると、張天錫が専ら朝政を握り、建興四十九年(361)を改め、(東晋の穆帝の)升平の年号を奉じることにした。
(哀帝の)興寧元年(363)、張駿の妻の馬氏(馬太后)が死去すると、張玄靚は、その庶母である郭氏を太妃とした。郭氏は、張天錫が政治を壟断しているとして、大臣の張欽(ちょうきん)らと一緒に張天錫を討とうと謀った。しかし事は漏洩し、張欽らは処刑された。
この年、張天錫は、兵衆を率いて禁門に入り、人知れず張玄靚を殺害し、張玄靚が急に薨去してしまったと公表した。時に十四歳であった。在位は九年。(前涼政権は)私的に「沖公」という諡を与え、(東晋の)孝武帝は、「敬悼公」という諡を賜わった。

原文

天錫、字純嘏、駿少子也。小名獨活。初字公純嘏、入朝、人笑其三字、因自改焉。玄靚死、國人立之、自號大將軍・校尉・涼州牧・西平公。遣司馬綸騫奉章請命、并送御史俞歸還京都。太和初、詔以天錫爲大將軍・大都督・督隴右關中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史・西平公。
天錫數宴園池、政事頗廢。盪難將軍・校書祭酒索商上疏極諫、天錫答曰「吾非好行、行有得也。觀朝榮、則敬才秀之士、翫芝蘭、則愛德行之臣、覩松竹、則思貞操之賢、臨清流、則貴廉潔之行、覽蔓草、則賤貪穢之吏、逢飈風、則惡凶狡之徒。若引而申之、觸類而長之、庶無遺漏矣。」
羌廉岐自稱益州刺史、率略陽四千家背苻堅就李儼。天錫自往討之、以別駕楊遹爲監前鋒軍事・前將軍、趣金城、晉興相常據爲使持節・征東將軍、向左南、游擊將軍張統出白土、天錫自率三萬人次倉松、伐儼。儼大敗、入城固守、遣子純求救於苻堅。堅使其將王猛救之。天錫敗績、死者十二三。天錫乃還。立子大懷爲世子。
自天錫之嗣事也、連年地震山崩、水泉湧出、柳化爲松、火生泥中。而天錫荒于聲色、不卹政事。初、安定梁景・敦煌劉肅並以門冑、總角與天錫友昵。張邕之誅、肅・景有勳、天錫深德之、賜姓張氏、又改其字、以爲己子。天錫諸子皆以「大」爲字、故景曰大奕、肅曰大誠。廢大懷爲高昌公、更立嬖子大豫爲世子、景・肅等俱參政事。人情怨懼、從弟從事中郎憲切諫、不納。
時苻堅強盛、每攻之、兵無寧歲。天錫甚懼、乃立壇刑牲、率典軍將軍張寧・中堅將軍馬芮等、遙與晉三公盟誓、獻書大司馬桓溫、剋六年夏誓同大舉。遣從事中郎韓博・奮節將軍康妙奉表、并送盟文。博有口才、溫甚稱之。嘗大會、溫使司馬刁彝嘲之、彝謂博曰「君是韓盧後邪。」博曰「卿是韓盧後。」溫笑曰「刁以君姓韓、故相問焉。他自姓刁、那得韓盧後邪。」博曰「明公脫未之思、短尾者則爲刁也。」一坐推歎焉。
太元元年、苻堅遣其將苟萇・毛當・梁熙・姚萇來寇、渡石城津。天錫集議、中錄事席仂曰「先公既有故事、徐思後變、此孫仲謀屈伸之略也。」眾以仂爲老怯、咸曰「龍驤將軍馬達、精兵萬人距之、必不敢進。」廣武太守辛章保城固守。章與晉興相彭知正・西平相趙疑謀曰「馬達出於行陣、必不爲用、則秦軍深入。吾相與率三郡精卒、斷其糧運、決一朝命矣。」征東常據亦欲先擊姚萇、須天錫命。天錫率萬人頓金昌城。馬達率萬人逆萇等、因請降、兵人散走。常據・席仂皆戰死。司兵趙充哲與萇苦戰、又死。中衞將軍史景亦沒于陣。天錫大懼、出城自戰、城内又反。天錫窘逼、降于萇等。初、天錫所居安昌門及平章殿無故而崩、旬日而國亡。即位凡十三年。自軌爲涼州、至天錫、凡九世、七十六年矣。苻堅先爲天錫起宅、至、以爲尚書、封歸義侯。
堅大敗于淮肥時、天錫爲苻融征南司馬、於陣歸國。詔曰「昔孟明不替、終顯厥功、豈以一眚而廢才用。其以天錫爲散騎常侍左員外。」又詔曰「故太尉・西平公張軌著德遐域、世襲前勞。強兵縱害、遂至失守。散騎常侍天錫拔迹登朝、先祀淪替、用增矜慨、可復天錫西平郡公爵。」俄拜金紫光祿大夫。
天錫少有文才、流譽遠近。及歸朝、甚被恩遇。朝士以其國破身虜、多共毀之。會稽王道子嘗問其西土所出、天錫應聲曰「桑葚甜甘、鴟鴞革響、乳酪養性、人無妬心。」後形神昏喪、雖處列位、不復被齒遇。隆安中、會稽世子元顯用事、常延致之、以爲戲弄。以其家貧、拜廬江太守、本官如故。桓玄時、欲招懷四遠、乃用天錫爲護羌校尉・涼州刺史。尋卒。年六十一。追贈金紫光祿大夫。

訓読

天錫、字は純嘏、駿の少子なり。小名は獨活。初め字は公純嘏なるも、入朝するに、人、其の三字なるを笑いたれば、因りて自ら焉を改む。玄靚の死するや、國人は之を立て、自ら大將軍・校尉・涼州牧・西平公を號す。司馬の綸騫(りんけん)を遣わして章を奉じて命を請い、并びに御史の俞歸(ゆき)を送りて京都に還す。太和の初め、詔して天錫を以て大將軍・大都督・督隴右關中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史・西平公と爲す。
天錫、數々園池に宴し、政事は頗る廢せらる。盪難將軍・校書祭酒の索商の上疏して極諫するや、天錫、答えて曰く「吾、行を好むに非ず、行に得ること有ればなり。朝榮を觀ては、則ち才秀の士を敬い、芝蘭を翫でては、則ち德行の臣を愛し、松竹を覩ては、則ち貞操の賢を思い、清流に臨みては、則ち廉潔の行を貴び、蔓草を覽ては、則ち貪穢の吏を賤しみ、飈風に逢いては、則ち凶狡の徒を惡む。若し引きて之を申べ、類に觸れて之を長ぜば、遺漏無かるに庶からん」と。
羌の廉岐(れんき)〔一〕、自ら益州刺史を稱し、略陽の四千家を率いて苻堅に背きて李儼(りげん)に就く。天錫、自ら往きて之を討たんとし、別駕の楊遹(よういつ)を以て監前鋒軍事・前將軍と爲し、金城に趣かしめ、晉興相の常據(じょうきょ)もて使持節〔二〕・征東將軍と爲し、左南に向かわしめ、游擊將軍の張統もて白土に出でしめ、天錫は自ら三萬人を率いて倉松に次し、儼を伐つ。儼、大いに敗れ、城に入りて固守し、子の純を遣わして救を苻堅に求めしむ。堅、其の將の王猛をして之を救わしむ。天錫、敗績し、死者は十に二三。天錫、乃ち還る。子の大懷を立てて世子と爲す。
天錫の事を嗣いでより、連年地は震え山は崩れ、水泉は湧き出で、柳は化して松と爲り、火は泥中に生ず。而るに天錫は聲色を荒げ、政事を卹えず。初め、安定の梁景・敦煌の劉肅は並びに門冑なるを以て、總角にして天錫と友昵す。張邕(ちょうよう)の誅せらるるや、肅・景に勳有り、天錫、深く之を德とし、姓張氏を賜い、又た其の字を改め、以て己が子と爲す。天錫の諸子は皆な「大」を以て字と爲せば、故に景もて大奕と曰い、肅もて大誠と曰う。大懷を廢して高昌公と爲し、更めて嬖子の大豫(だいよ)を立てて世子と爲し、景・肅等もて俱に政事に參ぜしむ。人情は怨懼し、從弟の從事中郎の憲、切諫するも、納れず。
時に苻堅は強盛にして、每に之を攻めたれば、兵に寧歲無し。天錫、甚だ懼れ、乃ち壇を立てて牲を刑し、典軍將軍の張寧・中堅將軍の馬芮(ばぜい)等を率い、遙かに晉の三公と盟誓せんとし、書を大司馬の桓溫に獻じ、六年夏に剋めて同に大舉せんことを誓う。從事中郎の韓博・奮節將軍の康妙を遣わして表を奉じ、并びに盟文を送る。博は口才有り、溫は甚だ之を稱す。嘗て大いに會するに、溫、司馬の刁彝(ちょうい)をして之を嘲らしめ、彝、博に謂いて曰く「君は是れ韓盧の後ならんか」と。博曰く「卿は是れ韓盧の後ならん」と。溫、笑いて曰く「刁は君の姓の韓なるを以て、故に相い焉を問う。他は自り姓刁なれば、那ぞ韓盧の後なるを得んや」と。博曰く「明公、脫(ある)いは未だ之を思わざらんか、尾の短き者は則ち刁と爲す〔三〕、と。」一坐は推して焉を歎ず。
太元元年、苻堅、其の將の苟萇(こうちょう)・毛當〔四〕・梁熙(りょうき)・姚萇(ようちょう)を遣わして來寇せしめ、石城津を渡る。天錫、集議するや、中錄事の席仂(せきろく)曰く「先公に既に故事有り、徐ろに後變を思うは、此れ孫仲謀の屈伸の略なり」と。眾は仂を以て老怯と爲し、咸な曰く「龍驤將軍の馬達〔五〕、精兵萬人もて之を距がば、必ず敢えて進まざらん」と。廣武太守の辛章、城を保ちて固く守る。章、晉興相の彭知正・西平相の趙疑と與に謀りて曰く「馬達、行陣に出ずるに、必ず用を爲さざれば、則ち秦軍は深く入らん。吾、相い與に三郡の精卒を率い、其の糧運を斷たば、一朝の命を決せん」と。征東の常據も亦た先ず姚萇を擊たんと欲し、天錫の命を須つ。天錫、萬人を率いて金昌城に頓す。馬達、萬人を率いて萇等を逆うるも、因りて降らんことを請い、兵人は散走す。常據・席仂は皆な戰死す。司兵の趙充哲、萇と苦戰し、又た死す。中衞將軍の史景も亦た陣に沒す。天錫、大いに懼れ、城を出でて自ら戰うも、城内又た反す。天錫、窘逼し、萇等に降る。初め、天錫の居る所の安昌門及び平章殿、故無くして崩れ、旬日にして國亡ぶ。位に即くこと凡そ十三年。軌の涼州と爲りてより、天錫に至るまで、凡そ九世、七十六年なり〔六〕。苻堅、先ず天錫の爲に宅を起て、至るや、以て尚書と爲し、歸義侯に封ず。
堅の大いに淮肥に敗れし時、天錫は苻融の征南司馬たるも、陣より國に歸す。詔して曰く「昔、孟明は替てられず、終に厥の功を顯らかにしたれば、豈に一眚を以てして才用を廢せんや。其れ天錫を以て散騎常侍の左員外と爲す」と。又た詔して曰く「故の太尉・西平公の張軌は德を遐域に著わし、世々前勞を襲う。強兵害を縱にし、遂に守を失うに至る。散騎常侍の天錫は迹を拔きて朝に登るも、先祀は淪替し、用て矜慨を增したれば、天錫の西平郡公の爵を復すべし」と。俄かに金紫光祿大夫を拜す。
天錫は少くして文才有り、譽を遠近に流す。朝に歸するに及び、甚だ恩遇を被る。朝士は其の國は破れ身は虜とせらるを以て、多く共に之を毀る。會稽王道子、嘗て其の西土の出だす所を問うや、天錫、聲に應じて曰く「桑葚は甜甘にして、鴟鴞は響きを革め、乳酪は性を養い、人は妬心無し」と。後に形神昏喪し、列位に處ると雖も、復た齒遇を被らず。隆安中、會稽世子の元顯の事を用うるや、常に之を延致するに、以て戲弄を爲す。其の家の貧しきを以て、廬江太守を拜し、本官は故の如し。桓玄の時、四遠を招懷せんと欲し、乃ち天錫を用て護羌校尉・涼州刺史と爲す。尋いで卒す。年は六十一。金紫光祿大夫を追贈す。

〔一〕『晋書斠注』でも指摘されている通り、『晋書』の他の記事や他書では「歛岐」とされている。
〔二〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔三〕「刁」は「䂏」と音通する。䂏とは、尻尾の短い犬のこと。
〔四〕『晋書斠注』でも指摘されている通り、『晋書』の他の記事や他書では「毛盛」とされている。
〔五〕『晋書斠注』でも指摘されている通り、『晋書』の他の記事では「馬建」とされている。
〔六〕『晋書斠注』では、これは「七十五年」の誤りであるとする丁国鈞『晋書校文』の説を載せている。

現代語訳

張天錫(ちょうてんせき)は、字を純嘏と言い、張駿の少子であった。幼名は独活と言い、字は初め公純嘏と言ったが、入朝した際に、三字であることを人に笑われたので、そこで自ら字を改めた。張玄靚(ちょうげんせい)が死ぬと、国人は張天錫を立て、そこで張天錫は「大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公」を自称した。張天錫は、司馬の綸騫(りんけん)を(東晋政権に)派遣して上章文を奉じて朝命を請い、同時に御史の兪帰(ゆき)を京都(建康)に送り帰した。(廃帝の)太和年間の初め、(東晋の廃帝の)詔が下され、張天錫は「大将軍・大都督・督隴右關中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史・西平公」に任じられた。
張天錫は、しばしば池を備えた園地で宴を催し、政務は顧みられなかった。「盪難将軍・校書祭酒」の索商が上疏して切実に諫めると、張天錫は答えて言った、「私は、行楽を好んでいるのではなく、行楽の中にも得ることがあるから、それを行っているに過ぎない。朝に咲く花を見ては才能の秀でた士人を敬い、霊芝や蘭を鑑賞しては徳行の優れた臣を愛し、松や竹を見ては貞操ある賢者を思い、清流に臨んでは廉潔の行いを貴び、カズラを見ては貪婪で穢濁な吏を卑しみ、つむじ風に遭遇しては凶悪で狡猾なやからを憎む。もしこれを他のことにも敷衍し、類似のことに触れた折に応用すれば、遺漏も無いというものよ」と。
羌人である廉岐(れんき)が、益州刺史を自称し、略陽の四千家を率いて(前秦の)苻堅に背いて李儼(りげん)に就いた。張天錫は、自ら出向いてそれを討とうとし、別駕従事の楊遹(よういつ)を「監前鋒軍事・前将軍」に任じて金城県に赴かせ、晋興相の常據(じょうきょ)を「使持節・征東将軍」に任じて左南県に向かわせ、游撃将軍の張統を白土県に出動させ、張天錫自身は三万人を率いて倉松県に駐屯し、李儼を征伐しに出た。李儼は大敗し、城に入って固守し、子の李純を派遣して苻堅に救援を求めた。苻堅は、その将の王猛に命じて救援に行かせた。張天錫軍は敗北し、死者は全体の二~三割に上った。張天錫は、そこで帰還した。また、張天錫は子の張大懐を世子(諸侯の世継ぎ)に立てた。
張天錫が事を継いでからというもの、連年、地震や土砂崩れが発生し、水泉が湧き出て、柳が松に変化し、泥の中に火が生じるなどの出来事が起こった。しかし、張天錫は顔色や声を荒げるだけで、政事に意を注ぐことはなかった。初め、安定郡の人である梁景と、敦煌郡の人である劉粛は、いずれも代々の名門の出自であったので、子どもの頃から張天錫と交友して親しかった。張邕(ちょうよう)が誅殺された際には、劉粛・梁景はともに勲功を立て、張天錫はそれに対して深く恩を感じ、張氏の姓を賜い、さらに彼らの字(あざな)を改め、二人を自分の養子とした。張天錫の息子たちはみな「大」の字(じ)を字(あざな)の中に含んでいたので、そこで張景(梁景)の字(あざな)を「大奕」とし、張粛(劉粛)の字(あざな)を「大誠」とした。そして、(世子の)張大懐を廃位して高昌公とし、改めて庶子の張大豫(ちょうだいよ)を世子に立て、張景・張粛らを一緒に政事に参画させた。人々はこのことを心に恨み、あるいは恐れ、従弟である従事中郎の張憲がそれを切実に諫めたが、張天錫は聞き容れなかった。
時に苻堅(前秦)は強く盛んで、いつも前涼を攻めていたので、前涼の兵には安息の年がなかった。張天錫は非常に恐れ、そこで壇を立てて犠牲を殺して供え(て誓いを立て)、典軍将軍の張寧、中堅将軍の馬芮(ばぜい)らを率い、さらに、はるか遠くの晋の三公と盟誓を行おうと、大司馬の桓温に対し、太和六年(371)夏を期日としてともに大挙しようと誓うための文書を献じることにした。そして従事中郎の韓博と、奮節将軍の康妙を派遣して上表文を奉じ、それと一緒にその盟文も送った。韓博には弁舌の才能があり、桓温は韓博のことを大いに称えた。かつて大きな会合を開いた際に、桓温は、司馬の刁彝(ちょうい)に韓博をからかわせ、そこで刁彝は韓博に言った。「君は韓盧(戦国時代の説話に登場する犬の名前)の子孫であろうか」と。韓博は言った。「そなたこそきっと韓盧の子孫に違いない」と。桓温は笑って言った。「刁のヤツは、君の姓が『韓』であるから、そのように問うたのだ。彼の姓はそもそも『刁』であるから、どうして韓盧の子孫であるはずがあろうか」と。韓博は言った。「あなたは、あるいはこのようなことを想起されませんか。尾の短い犬を『刁』と言う、と。」一座の者はその応対を称えて感嘆した。
(孝武帝の)太元元年(376)、苻堅は、その将の苟萇(こうちょう)・毛当・梁熙(りょうき)・姚萇(ようちょう)を派遣して前涼を攻撃しに行かせ、苟萇らは石城津を渡った。張天錫が集議を開くと、中録事の席仂(せきろく)が言った。「我が先代にもすでに同様の故事があり、その通りにゆったりと敵中に変事が生じるのを待ち、それにつけ込むことを図るのは、まさに(三国時代の呉の)孫仲謀(孫権)が取った進退に関する策略でございます」と。人々は、席仂は老いぼれて臆病になっているのだと考え、みな言った。「龍驤将軍の馬達が精兵一万人を率いてこれを迎え撃てば、きっと敵は進軍することができなくなるでしょう」と。(一方、前線では、)広武太守の辛章が、城を保全して固く守っていた。辛章は、晋興相の彭知正、西平相の趙疑と一緒に謀って言った。「馬達が出陣しても、きっと役には立たないだろうから、秦軍は深く侵入してくることであろう。そこで我らが一緒に三郡の精鋭を率い、秦軍の糧運を断てば、朝廷の命運を決することができよう」と。征東将軍の常據もまた、まず姚萇を攻撃しようとし、張天錫の命を待っていた。張天錫は、一万人を率いて金昌城に駐屯した。馬達は、一万人を率いて姚萇らを迎え撃ったが、まもなく秦に降伏することを請い、その麾下の兵士たちは逃げ散った。常據・席仂はいずれも戦死した。司兵の趙充哲も姚萇と戦ったが苦戦し、彼もまた死んでしまった。中衛将軍の史景もまた陣没した。張天錫は大いに恐れ、金昌城を出て自ら軍を指揮して戦ったが、金昌城内の人々も張天錫に叛いた。張天錫は困窮し、姚萇らに降った。初め、張天錫の居所の安昌門と平章殿が、特に何かあったわけでもないのにひとりでに崩壊するという事件があったが、それから十日前後で国が滅びた。張天錫が即位してから十三年のことであった。張軌が涼州刺史となってから、張天錫に至って国が亡びるまで、(前涼の君主は)合わせて九代、七十六年の統治であった。苻堅は、先立って張天錫のために邸宅を建て、張天錫が(前秦の都である長安に)到着すると、尚書に任じ、帰義侯に封じた。
苻堅が淮水・肥水で大敗した時、張天錫は苻融の征南大将軍府の司馬であったが、陣中からそのまま国(東晋)に帰順した。そして(東晋の孝武帝により)次のような詔が下された。「昔、(春秋時代の秦の)孟明視は(戦いに敗れて捕らえられても)見捨てられず、それによって最終的に(秦に復帰して)功績を上げること顕著であったので、朕もどうして些細な過失によってその才能を捨て去るようなことをしようか。張天錫を散騎常侍の左員外(左員外散騎常侍)に任ずる」と。さらに次のような詔が下された。「もとの太尉・西平公の張軌は、徳をはるか遠くの地に広め、その後も代々、前代の功労を踏襲した。しかし、賊の強兵が好き勝手に害を振りまき、そうして国を失ってしまった。散騎常侍の張天錫は、抜擢されて一躍朝廷の顕位に登ったが、先祖の祭祀は廃れ、矜哀や憤慨の念もひとしおであるため、張天錫の西平郡公の爵位を復活させるべきであろう」と。まもなく張天錫は金紫光禄大夫に任じられた。
張天錫は若い頃から文才があり、その名誉は遠近に知れわたっていた。朝廷に帰順すると、非常な恩遇を賜わった。しかし、朝廷の士人たちは、張天錫の国は破れ、その身は捕虜となったことから、多くの者が一緒になって張天錫を謗った。会稽王・司馬道子がかつて西方の特産品について尋ねると、張天錫はすぐさま答えた。「桑の実は甘く、フクロウは声の響きが異なり、乳製品は心身を養い、人々には妬みの心がありません」と。やがて心身ともに衰えてすり減り、高爵の身分でありながら、もう他の高爵者と同じように礼遇されることはなかった。(安帝の)隆安年間、会稽王の世子の司馬元顕が朝廷の実権を握ると、いつも張天錫を招致しては、彼をからかった。やがて、張天錫の家が貧しいということから、張天錫は廬江太守に任じられ、本官(金紫光禄大夫)は元のままとされた。桓玄が皇帝に即位すると、四方の人々を招き懐けようとし、そこで張天錫を「護羌校尉・涼州刺史」に任じた。まもなく張天錫は死去した。六十一歳であった。(復興した東晋政権によって)金紫光禄大夫の官位を追贈された。

原文

史臣曰。長河外區、流沙作紀、玉關懸險、金城負固。有苗攸竄、帝舜投而不羈、渠搜是居、大禹即而方敘。世逢多難、嬰五郡以誰何、時遇兵凶、阻三邊而高視。雖非久安之地、足爲苟全之所乎。周公保之而立功、士彥擁之而延世。摯虞觀象、記洪災之不流、侯瑾覘泉、知霸者之斯在。匪唯地勢、抑亦有天道歟。茂・駿・重華資忠踵武、崎嶇僻陋、無忘本朝、故能西控諸戎、東攘巨猾、綰累葉之珪組、賦絕域之琛賨、振曜遐荒、良由杖順之效矣。祚以卑孼、陰傾冢嗣、播有茨於彤管、擬宸居於黑山、丁琪以切諫遇誅夷、王鸞以讜言嬰顯戮、境内雲擾、讐其竊名、卒致梟懸、自然之理也。純嘏微弱、竟亡其眾、奉身魏闕、齒迹朝流、再襲銀黃、祖德之延慶矣。

贊曰。三象構氛、九土瓜分。鼎遷江介、地絕河濆。歸誠晉室、美矣張君。内撫遺黎、外攘逋寇。世既緜遠、國亦完富。杖順爲基、蓋天所祐。

訓読

史臣曰く。
長河の外區、流沙紀を作し、玉關は懸險にして、金城は固を負う。有苗の竄るる攸、帝舜は投じて羈がず、渠搜は是こに居り、大禹の即きて方に敘たり。世に多難に逢えば、五郡を嬰らして以て誰何し、時に兵凶に遇えば、三邊を阻みて高視す。久しく安ずるの地に非ずと雖も、苟全の所と爲すに足れり。周公は之を保ちて功を立て、士彥は之を擁して世に延ぶ。摯虞(しぐ)の象を觀るや、洪災の流れざるを記(し)り、侯瑾(こうきん)の泉を覘うや、霸者の斯に在るを知る〔一〕。唯だに地勢のみに匪ず、抑も亦た天道有らんか。茂・駿・重華は資は忠にして武(あと)を踵ぎ、僻陋に崎嶇するも、本朝を忘るること無ければ、故に能く西は諸戎を控え、東は巨猾を攘い、累葉の珪組を綰ぎ、絕域の琛賨を賦し、遐荒を振曜するは、良に杖順の效に由る。祚は卑孼を以て、陰かに冢嗣を傾け〔二〕、有茨を彤管に播き、宸居を黑山〔三〕に擬し、丁琪(ていき)は切諫せるを以て誅夷に遇い、王鸞(おうらん)は讜言を以て顯戮を嬰(こうむ)り、境内は雲擾し、其の名を竊むに讐い、卒かに梟懸せらるるを致すは、自然の理なり。純嘏は微弱にして、竟に其の眾を亡うも、身を魏闕に奉じ、迹を朝流に齒し、再び銀黃を襲うは、祖德の延慶なり。

贊に曰く。
三象は氛を構え、九土は瓜分す。鼎は江介に遷り、地は河濆に絕ゆ。誠を晉室に歸し、美しきかな張君。内は遺黎を撫し、外は逋寇を攘う。世は既に緜遠にして、國は亦た完富たり。杖順もて基と爲し、蓋天の祐くる所なり。

〔一〕摯虞のことも侯瑾のことも張軌伝を参照。摯虞のことに関して「洪災」と表現しているのは、張寔伝に「長安謠曰『秦川中、血沒腕、惟有涼州、倚柱觀。』」とあるのを踏まえたものか。詳細は張寔伝を参照。
〔二〕張耀霊を暗殺したことを指す。
〔三〕詳細は不明。古の黒水流域の山々という意味であろうか。

現代語訳

史臣の評
長き黄河が区切った外側の地域(河西)では、沙漠が歴史を刻み、玉門関が険阻にそびえ立ち、金城が堅固さを誇る。そこは(尭の時代に)三苗が罪を得て流された地であり、(そのとき執政していた)舜帝は捨て置いてつなぎ留めず、(西戎の一種である)渠搜がこの地に割拠し、(夏の)禹王が即位してやっと(来服して)秩序が保たれるようになった。(その地の人々は)多難な世に遭えば、(両漢交替期の竇融政権のように)河西五郡で力を合わせて防備を固めて守り、誰か一人を主として推戴し、戦乱の時代に遭えば、三辺を固めて、遠くから朝廷を奉じ仰いで時勢を窺った。(百年単位の)長きにわたって政権を安定させられる地ではないが、(数十年単位で)一時的に保全する地とするには十分である。周公はこの地を保有して功を立て、士彦(張軌)もこの地を保有して代々その地位を伝えた。(西晋の)摯虞は天文を観測して、洪水の如き厄災が涼州には流れ及ばないということを記憶に留め、(後漢末の)侯瑾は泉の様子を窺って、後にその地に覇者が現れることを知った。それはただ地勢のみによるものではなく、天道によるものでもあったのである。張茂・張駿・張重華は、資質は忠良であり、先代の事業を継承し、僻遠の地で辛酸をなめながらも、本朝(晋朝)への忠義を忘れることが無かったので、西は諸戎を牽制し、東は巨大な賊の侵攻を追い払い、代々の珪や綬(それぞれ爵位と官職の象徴)をつなぎ、はるか彼方の地の貢税を納めることができたのであり、そうして辺境の地を振興させることができたのは、実に朝廷に従順であったからこそのものである。張祚は庶子でありながら、陰で嫡子の家系を断絶させ、「牆有茨」の詩に詠われるような醜悪な姦通を宮女・女官たちに対して広く行い、黒山の地域で皇帝の真似事を行い、丁琪(ていき)は切実に諫言したがゆえに誅殺され、王鸞(おうらん)は直言したがゆえに処刑されて見せしめにされ、領域内は雲のように不安定になり、張祚がその名位を盗み得たのに対して人々が報復し、突然、さらし首にされてしまったのは、自然の道理である。純嘏(張天錫(ちょうてんせき))は弱小であり、結局、その配下の民衆を失ったが、朝廷に身を奉じ、朝廷の官僚たちと並んで事跡を残し、再び銀印や金印を授かるほどの高位の官職を得て爵位を継ぐことができたのは、先祖たちの徳の余慶である。


日・月・星の三象は凶運の気に接し、九州の地は瓜を割ったかのように分裂した。鼎(帝位)は江東に移り、土地は(淮水や長江などの)河辺に沿って切断された。晋室に誠心を捧げ奉じるとは、張君(張軌、ひいてはその後継者たち)は何と美しきことよ。内は晋の遺民を慰撫し、外は流賊の侵攻を撃退した。世代を経て長い時が経って、国は富んで豊かになった。朝廷に従順であることを国の基礎とし、天の助けを得ることができた。