いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第五十七巻_涼武昭王李玄盛(子士業)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。

涼武昭王李玄盛(李暠)

原文

武昭王諱暠、字玄盛、小字長生、隴西成紀人、姓李氏、漢前將軍廣之十六世孫也。廣曾祖仲翔、漢初為將軍、討叛羌于素昌、素昌即狄道也、眾寡不敵、死之。仲翔子伯考奔喪、因葬于狄道之東川、遂家焉。世為西州右姓。高祖雍、曾祖柔、仕晉並歷位郡守。祖弇、仕張軌為武衞將軍・安世亭侯。父昶、幼有令名、早卒、遺腹生玄盛。少而好學、性沈敏寬和、美器度、通涉經史、尤善文義。及長、頗習武藝、誦孫吳兵法。嘗與呂光太史令郭黁及其同母弟宋繇同宿、黁起謂繇曰、「君當位極人臣、李君有國土之分、家有騧草、馬生白額駒、此其時也。」
呂光末、京兆段業自稱涼州牧、以敦煌太守趙郡孟敏為沙州刺史、署玄盛效穀令。敏尋卒、敦煌護軍馮翊郭謙・沙州治中敦煌索仙等以玄盛溫毅有惠政、推為寧朔將軍・敦煌太守。玄盛初難之、會宋繇仕於業、告歸敦煌、言於玄盛曰、「兄忘郭黁之言邪?白額駒今已生矣。」玄盛乃從之。尋進號冠軍、稱藩于業。業以玄盛為安西將軍・敦煌太守、領護西胡校尉。
及業僭稱涼王、其右衞將軍索嗣構玄盛於業、乃以嗣為敦煌太守、率騎五百而西、未至二十里、移玄盛使迎己。玄盛驚疑、將出迎之、效穀令張邈及宋繇止之曰、「呂氏政衰、段業闇弱、正是英豪有為之日。將軍處一國成資、奈何束手於人。索嗣自以本邦、謂人情附己、不虞將軍卒能距之、可一戰而擒矣。」宋繇亦曰、「大丈夫已為世所推、今日便授首於嗣、豈不為天下笑乎。大兄英姿挺傑、有雄霸之風、張王之業不足繼也。」玄盛曰、「吾少、無風雲之志、因官至此、不圖此郡士人忽爾見推。向言出迎者、未知士大夫之意故也。」因遣繇覘嗣。繇見嗣、啗以甘言、還謂玄盛曰、「嗣志驕兵弱、易擒耳。」於是遣其二子士業・讓與邈・繇及司馬尹建興等逆戰、破之、嗣奔還張掖。
玄盛素與嗣善、結為刎頸交、反為所構、故深恨之、乃罪狀嗣於段業。業將且渠男又惡嗣、至是、因勸除之。業乃殺嗣、遣使謝玄盛、分敦煌之涼興・烏澤・晉昌之宜禾三縣為涼興郡、進玄盛持節・都督涼興已西諸軍事・鎮西將軍、領護西夷校尉。時有赤氣起于玄盛後園、龍跡見于小城。

訓読

武昭王 諱は暠、字は玄盛、小字は長生。隴西の成紀の人なり。李氏を姓とす。漢の前將軍たる廣の十六世孫なり。廣の曾祖たる仲翔、漢初 將軍と為り、叛羌を素昌に討ち、素昌 即ち狄道なり。眾寡 敵せず、之に死す。仲翔の子たる伯考 喪に奔り、因りて狄道の東川に葬り、遂に焉に家す。世々西州の右姓為り。高祖の雍、曾祖の柔、晉に仕へて並びに位郡守を歷す。祖の弇、張軌に仕へて武衞將軍・安世亭侯と為る。父の昶、幼くして令名有るも、早く卒す。遺腹にして玄盛を生む。少くして學を好み、性は沈敏にして寬和なり。器度を美しく、經史に通涉し、尤も文義を善くす。長ずるに及び、頗る武藝に習ひ、孫吳の兵法を誦す。嘗て呂光の太史令たる郭黁及び其の同母弟たる宋繇と與に同宿す。黁 起きて繇に謂ひて曰く、「君 當に位 人臣を極むべし。李君 國土の分有り。家に騧草有りて、馬 白額の駒を生ぜば、此れ其の時なり」と。
呂光末、京兆の段業 自ら涼州牧を稱す。敦煌太守たる趙郡の孟敏を以て沙州刺史と為し、玄盛を效穀令に署す。敏 尋いで卒し、敦煌護軍たる馮翊の郭謙・沙州治中たる敦煌の索仙ら玄盛 溫毅にして惠政有るを以て、推して寧朔將軍・敦煌太守と為す。玄盛 初め之を難とし、會々宋繇 業に仕へ、敦煌に告歸す。玄盛に言ひて曰く、「兄、郭黁の言を忘るるや。白額の駒 今 已に生れり」と。玄盛 乃ち之に從ふ。尋いで號を冠軍に進め、藩を業に稱す。業 玄盛を以て安西將軍・敦煌太守と為し、護西胡校尉を領せしむ。
業 涼王を僭稱するに及び、其の右衞將軍たる索嗣、玄盛 業に構へしむ。乃ち嗣を以て敦煌太守と為す。騎五百を率ゐて西し、未だ二十里に至らざるに、玄盛を移して己を迎へしむ。玄盛 驚き疑ひ、將に出でて之を迎へんとす。效穀令の張邈及び宋繇 之を止めて曰く、「呂氏の政 衰へ、段業 闇弱なり。正に是れ英豪 有為の日なり。將軍 一國に處りて資を成し、奈何ぞ手を人に束ねんか。索嗣 自ら本邦を以て、人情 己に附すと謂ひ、將軍 卒に能く之を距むことを虞れず。一戰して擒ふ可し」と。宋繇 亦 曰く、「大丈夫 已に世の為に推され、今日 便ち首を嗣に授く。豈に天下の笑ひと為らんか。大兄 英姿 挺傑にして、雄霸の風有り。張王の業 繼ぐに足らざるなり」と。玄盛曰く、「吾 少きとき、風雲の志無し。官に因りて此に至り、圖らずして此の郡の士人 忽爾として推さる。言に向ひて出迎するは、未だ士大夫の意を知らざる故なり」と。因りて繇を遣はして嗣を覘しむ。繇 嗣を見、甘言を以て啗し、還りて玄盛に謂ひて曰く、「嗣 志は驕にして兵は弱し。擒ふること易きのみ」と。是に於て其の二子たる士業・讓と邈・繇及び司馬尹の建興らを遣はして逆戰せしめ、之を破る。嗣 奔りて張掖に還り。
玄盛 素より嗣と善く、結びて刎頸の交を為す。反りて構ふ所と為り、故に深く之を恨む。乃ち罪もて嗣を段業に狀す。業の將たる且渠男 又 嗣を惡む。是に至り、因りて之を除くことを勸む。業 乃ち嗣を殺す。使を遣はして玄盛に謝り、敦煌の涼興・烏澤・晉昌の宜禾三縣を分けて涼興郡と為し、玄盛を持節・都督涼興已西諸軍事・鎮西將軍に進め、護西夷校尉を領せしむ。時に赤氣の玄盛の後園に起つ有り、龍跡 小城に見はる。

現代語訳

武昭王は諱は暠、字は玄盛、小字は長生という。隴西郡の成紀県の人である。李氏を姓とする。漢の前将軍である李広の十六世孫である。李広の曾祖父である仲翔は、前漢初に将軍となり、叛羌を素昌で討伐したが、素昌は狄道のことである。少数では敵わず、そこで戦死した。仲翔の子である伯考が死体に駆けより、狄道の東川に埋葬し、そこに居住するようになった。代々西州の有力豪族となった。高祖父の李雍、曾祖父の李柔は、西晋に仕えていずれも官位は太守を歴任した。祖父の李弇(えん)は、(前涼)張軌に仕えて武衛将軍・安世亭侯となった。父の李昶は、幼くして評判が高かったが、早くに亡くなった。その死後に玄盛が生まれた。若くから学問を好み、性格は落ち着きがあり寛大であった。度量があって、経書や史書を広く読み、理解力があった。成長すると、盛んに武芸を習い、孫呉の兵法を暗誦した。かつて(後涼)呂光の太史令である郭黁及びかれの同母弟である宋繇とともに同室に泊まった。郭黁は起きて宋繇に、「きみは官位が人臣の頂点となるだろう。李君は領土を持つ素質がある。家に浅黄色の馬がおり、額の白い馬を生んだならば、これがその時節である」と言った。
呂光(後涼)末期、京兆の段業が自ら涼州牧を称した。(段業は)敦煌太守である趙郡の孟敏を沙州刺史とし、玄盛を効穀令とした。孟敏はほどなく卒し、敦煌護軍である馮翊の郭謙・沙州治中である敦煌の索仙らは玄盛が温厚でありながら果断であり政治で恵みを施したので、推戴して寧朔将軍・敦煌太守とした。玄盛はこれを渋った。宋繇が段業に仕えていたが、ちょうど敦煌に帰省した。玄盛に、「兄よ、郭黁の言葉を忘れたか。白額の駒はもう生まれているぞ」と言った。玄盛はこれに従った。ほどなく官号を冠軍将軍に進め、段業の藩屏を称した。段業は玄盛を安西将軍・敦煌太守とし、護西胡校尉を領させた。
段業が涼王を僭称すると、その右衛将軍である索嗣は、李玄盛に段業への反抗心があると吹き込んだ。(段業は)索嗣を(玄盛の後任の)敦煌太守とした。騎五百を率いて西に向かい、まだ二十里以上も手前から、玄盛を呼び付けて(索嗣を)迎えさせた。玄盛は驚き疑い、出迎えようとした。効穀令の張邈及び宋繇がこれを制止し、「呂氏(後涼)の政治は衰え、段業は闇弱です。英雄豪傑が立ち上がるべき時期です。将軍は一国におりて足場を築いているにも拘わらず、なぜ他人の配下になるのですか。索嗣は故郷において、人々の支持を得ていると考え、将軍(玄盛)が反抗するはずがないと思っています。一戦すれば捕虜にできます」と言った。宋繇はさらに、「大丈夫が世間から推戴されたにも拘わらず、むざむざと索嗣に首を差し出そうとしています。天下に笑われたいのですか。大兄は傑出した英雄の資質があり、覇王となる風格があります。張王(前涼)の事業ですら継承するだけでは物足りません(前涼より大きな国家を目指せます)」と言った。玄盛は、「私は若いとき、乱世に野心など持たなかった。官僚として敦煌に赴任し、予想外にこの郡の士人から突然に推戴された。(索嗣の)呼び出しに応じて出迎えようとしたのは、(敦煌の)士大夫からの期待を知らなかったからである」と言った。そこで宋繇を遣わして索嗣の偵察をさせた。宋繇は索嗣を見て、甘言によってへつらい、帰って玄盛に、「索嗣は驕り高ぶっているが兵は弱い。捕らえることは簡単です」と言った。そこで二子である李士業・李譲と張邈・宋繇及び司馬尹の建興らに迎撃をさせて、索嗣を破った。索嗣は張掖に逃げ還った。
玄盛はもともと索嗣と仲が良く、刎頸の交を結んでいた。転じて対立したので、深くかれのことを怨んだ。索嗣の罪を段業に報告した。段業の将である且渠男(男也、沮渠蒙遜の従兄)もまた索嗣を憎んでいた。ここにいたり、索嗣を排除することを(段業に)勧めた。段業は索嗣を殺した。使者を送って玄盛に謝り、敦煌の涼興・烏沢・晋昌の宜禾という三県を分けて涼興郡とし、玄盛を持節・都督涼興已西諸軍事・鎮西将軍に昇進させ、護西夷校尉を領させた。このとき赤気が玄盛の庭園に立ち、龍の痕跡が小城に現れた。

原文

隆安四年、晉昌太守唐瑤移檄六郡、推玄盛為大都督・大將軍・涼公・領秦涼二州牧・護羌校尉。玄盛乃赦其境內、建年為庚子、追尊祖弇曰涼景公、父昶涼簡公。以唐瑤為征東將軍、郭謙為軍諮祭酒、索仙為左長史、張邈為右長史、尹建興為左司馬、張體順為右司馬、張條為牧府左長史、令狐溢為右長史、張林為太府主簿、宋繇・張謖為從事中郎、繇加折衝將軍、謖加揚武將軍、索承明為牧府右司馬、令狐遷為武衞將軍・晉興太守、氾德瑜為寧遠將軍・西郡太守、張靖為折衝將軍・河湟太守、索訓為威遠將軍・西平太守、趙開為騂馬護軍・大夏太守、索慈為廣武太守、陰亮為西安太守、令狐赫為武威太守、索術為武興太守、以招懷東夏。又遣宋繇東伐涼興、并擊玉門已西諸城、皆下之、遂屯玉門・陽關、廣田積穀、為東伐之資。
初、呂光之稱王也、遣使市六璽玉於于窴、至是、玉至敦煌、納之郡府。仍於南門外臨水起堂、名曰靖恭之堂、以議朝政、閱武事。圖讚自古聖帝明王・忠臣孝子・烈士貞女、玄盛親為序頌、以明鑒戒之義、當時文武羣僚亦皆圖焉。有白雀翔于靖恭堂、玄盛觀之大悅。又立泮宮、增高門學生五百人。起嘉納堂於後園、以圖讚所志。

訓読

隆安四年、晉昌太守の唐瑤 檄を六郡に移し、玄盛を推して大都督・大將軍・涼公・領秦涼二州牧・護羌校尉と為す。玄盛 乃ち其の境內を赦し、年を建てて庚子と為し、祖の弇を追尊して涼景公と曰ひ、父の昶を涼簡公といふ。唐瑤を以て征東將軍と為し、郭謙を軍諮祭酒と為し、索仙を左長史と為し、張邈を右長史と為し、尹建興を左司馬と為し、張體順を右司馬と為し、張條を牧府左長史と為し、令狐溢を右長史と為し、張林を太府主簿と為し、宋繇・張謖を從事中郎と為す。繇に折衝將軍を加へ、謖に揚武將軍を加ふ。索承明を牧府右司馬と為し、令狐遷を武衞將軍・晉興太守と為し、氾德瑜を寧遠將軍・西郡太守と為し、張靖を折衝將軍・河湟太守と為し、索訓を威遠將軍・西平太守と為し、趙開を騂馬護軍・大夏太守と為し、索慈を廣武太守と為し、陰亮を西安太守と為し、令狐赫を武威太守と為し、索術を武興太守と為し、以て東夏を招懷す。又 宋繇を遣はして東のかた涼興を伐たしめ、并せて玉門已西の諸城を擊ち、皆 之を下す。遂に玉門・陽關に屯し、田を廣げ穀を積み、東伐の資と為す。
初め、呂光の王を稱するや、使を遣はして六璽の玉を窴に市(もと)む。是に至り、玉 敦煌に至り、之を郡府に納る。仍りて南門外に水に臨みて堂を起て、名づけて靖恭の堂と曰ひ、以て朝政を議し、武事を閱(けみ)す。古よりの聖帝明王・忠臣孝子・烈士貞女を圖讚し、玄盛 親ら序頌を為り、以て鑒戒の義を明らかにし、時に當りて文武の羣僚 亦 皆 焉を圖る。白雀の靖恭堂に翔くる有り、玄盛 之を觀て大いに悅ぶ。又 泮宮を立て、高門の學生五百人を增す。嘉納堂を後園に起て、以て志す所を圖讚す。

現代語訳

隆安四(四〇〇)年、晋昌太守の唐瑤が檄文を六郡に回付し、玄盛を推戴して大都督・大将軍・涼公・領秦涼二州牧・護羌校尉とした。玄盛は領内を赦し、庚子と年号を立て、祖父の李弇を追尊して涼景公とし、父の李昶を涼簡公とした。唐瑤を征東将軍とし、郭謙を軍諮祭酒とし、索仙を左長史とし、張邈を右長史とし、尹建興を左司馬とし、張体順を右司馬とし、張條を牧府左長史とし、令狐溢を右長史とし、張林を太府主簿とした。宋繇・張謖を従事中郎とし、宋繇に折衝将軍を加え、張謖に揚武将軍を加えた。索承明を牧府右司馬とし、令狐遷を武衛将軍・晋興太守とし、氾徳瑜を寧遠将軍・西郡太守とし、張靖を折衝将軍・河湟太守とし、索訓を威遠将軍・西平太守とし、趙開を騂馬護軍・大夏太守とし、索慈を広武太守とし、陰亮を西安太守とし、令狐赫を武威太守とし、索術を武興太守とし、東方の漢民族の人材を招いて味方にした。さらに宋繇に東のかた涼興を討伐させ、あわせて玉門関より西の諸城を攻撃し、すべてを降服させた。こうして玉門・陽関に駐屯し、田地を広げて穀物を蓄積し、東方征伐の原資とした。
これより先、呂光が王を称すると、使者を派遣して六璽(の材料とする)玉を窴に買い求めた。このとき、玉が敦煌に到着し、これを郡府に収容した。南門の外に川沿いに堂を建て、靖恭の堂と名づけ、ここで朝政を議論し、軍事を検討した。先古よりの聖帝明王・忠臣孝子・烈士貞女を描いて讃え、玄盛がみずから序頌(の文)を作り、教訓を明確に示し、かれのもとの文武の官僚たちもまた(先古の偉人を)目標とした。白雀が靖恭堂に飛来すると、玄盛がこれを見て大喜びした。さらに泮宮を建て、名門の学生五百人を増員し(教育し)た。嘉納堂を後園に建て、目標とする人物を描いて讃えた。

原文

義熙元年、玄盛改元為建初、遣舍人黃始・梁興間行奉表詣闕曰、
昔漢運將終、三國鼎峙、鈞天之曆、數鍾皇晉。高祖闡鴻基、景文弘帝業、嗣武受終、要荒率服、六合同風、宇宙齊貫。而惠皇失馭、權臣亂紀、懷愍屯邅、蒙塵于外、懸象上分、九服下裂、眷言顧之、普天同憾。伏惟中宗元皇帝基天紹命、遷幸江表、荊揚蒙弘覆之矜、五都為荒榛之藪。故太尉・西平武公軌當元康之初、屬擾攘之際、受命典方、出撫此州、威略所振、聲蓋海內。1.明・盛繼統、不隕前志、長旌所指、仍闢三秦、義立兵強、拓境萬里。文桓嗣位、奕葉載德、囊括關西、化被崐裔、遐邇款藩、世修職貢。晉德之遠揚、繄此州是賴。大都督・大將軍天錫以英挺之姿、承七世之業、志匡時難、剋隆先勳、而中年降災、兵寇侵境、皇威遐邈、同奬弗及、以一方之師抗七州之眾、兵孤力屈、社稷以喪。
臣聞曆數相推、歸餘於終、帝王之興、必有閏位。是以共工亂象於黃農之間、秦項篡竊於周漢之際、皆機不轉踵、覆餗成凶。自戎狄陵華、已涉百齡、五胡僭襲、期運將杪、四海顒顒、懸心象魏。故師次東關、趙魏莫不企踵。淮南大捷、三方欣然引領。伏惟陛下道協少康、德侔光武、繼天統位、志清函夏。至如此州、世篤忠義、臣之羣僚以臣高祖東莞太守雍・曾祖北地太守柔荷寵前朝、參忝時務、伯祖龍驤將軍・廣晉太守・長寧侯卓、亡祖武衞將軍・天水太守・安世亭侯弇毗佐涼州、著功秦隴、殊寵之隆、勒于天府、妄臣無庸、輒依竇融故事、迫臣以義、上臣大都督・大將軍・涼公・領秦涼二州牧・護羌校尉。臣以為荊楚替貢、齊桓興召陵之師、諸侯不恭、晉文起城濮之役、用能勳光踐土、業隆一匡、九域賴其弘猷、春秋恕其專命、功冠當時、美垂千祀。況今帝居未復、諸夏昏墊、大禹所經、奄為戎墟、五嶽神山、狄汙其三、九州名都、夷穢其七、辛有所言、於茲而驗。微臣所以叩心絕氣、忘寢與食、雕肝焦慮、不遑寧息者也。江涼雖遼、義誠密邇、風雲苟通、實如脣齒。臣雖名未結于天臺、量未著于海內、然憑賴累祖寵光餘烈、義不細辭、以稽大務、輒順羣議、亡身即事。轅弱任重、懼忝威命。昔在春秋、諸侯宗周、國皆稱元、以布時令。今天臺邈遠、正朔未加、發號施令、無以紀數、輒年冠建初、以崇國憲。冀杖寵靈、全制一方、使義誠著于所天、玄風扇于九壤、殉命灰身、隕越慷慨。

1.中華書局本によると、「明」は張寔、「成」は張茂である。張寔の謚は昭公であるが「明」に作ったのは、司馬昭を避諱したから可能性があるという。

訓読

義熙元年、玄盛 改元して建初と為し、舍人の黃始・梁興を遣はして間行して表を奉じて闕に詣りて曰く、
昔 漢運 將に終らんとし、三國 鼎峙す。鈞天の曆、數々皇晉に鍾(あつま)る。高祖 鴻基を闡(ひら)き、景文 帝業を弘くし、武を嗣ぎ終を受け、要荒 率服し、六合 同風し、宇宙 齊貫す。而れども惠皇 馭を失ひ、權臣 紀を亂し、懷愍 屯邅し、外に蒙塵し、懸象 上に分かれ、九服 下に裂す。言を眷(かへり)み之を顧みて、普天 同じく憾む。伏して惟るに中宗元皇帝 天に基づき命を紹(つ)ぎ、江表に遷幸す。荊揚は弘覆の矜を蒙れども、五都は荒榛の藪と為る。故太尉・西平武公軌 元康の初に當たり、擾攘の際に屬(あ)ひ、命を受け方を典り、出でて此の州を撫し、威略の振ふ所、聲 海內を蓋ふ。明・盛 統を繼ぎて、前志を隕さず、長旌の指す所、仍に三秦を闢(ひら)く。義は立ちて兵は強く、境を萬里に拓く。文・桓 位を嗣ぎ、葉を奕(かさ)ねて德を載(かさ)ぬ。關西を囊括し、崐裔を被はしめ、遐邇 藩を款(たた)き、世々職貢を修む。晉德の遠く揚り、繄(ここ)に此の州に是れ賴る。大都督・大將軍の天錫 英挺の姿を以て、七世の業を承く。志は時難を匡し、剋く先勳を隆んにし、而れども中年に災を降し、兵寇 境を侵す。皇威 遐邈にして、同奬 及ばず、一方の師を以て七州の眾に抗し、兵 孤に力屈し、社稷 以て喪ふ。
臣 聞くならく曆數 相 推し、餘を終に歸す。帝王の興、必ず閏位有り。是を以て共工 象を黃農の間に亂し、秦・項 周漢の際に篡竊す。皆 機ありて踵を轉ぜず、覆餗して凶を成す。戎狄 華を陵して自り、已に百齡に涉り、五胡 僭襲し、期運 將に杪(すゑ)ならんとし、四海 顒顒として、心を象魏に懸く。故に師 東關に次れば、趙魏 踵を企てざる莫し。淮南 大捷せば、三方 欣然として引領す。伏して惟るに陛下 道は少康に協ひ、德は光武に侔しく、天を繼ぎ位を統め、志は函夏を清む。此の州が如きに至り、世々忠義に篤く、臣の羣僚 臣を高祖たる東莞太守の雍・曾祖たる北地太守の柔 前朝に荷寵し、時務に參忝し、伯祖の龍驤將軍・廣晉太守・長寧侯たる卓、亡祖の武衞將軍・天水太守・安世亭侯たる弇 涼州に毗佐し、功を秦隴に著はし、殊寵の隆、天府に勒せらるを以て、妄りに臣 無庸なるに、輒ち竇融の故事に依り、臣に迫るに義を以てし、臣を大都督・大將軍・涼公・領秦涼二州牧・護羌校尉に上す。臣 以為へらく荊楚 替貢し、齊桓 召陵の師を興すに、諸侯 恭ならず、晉文 城濮の役を起し、用て能く勳を踐土に光かせ、業 一匡に隆く、九域 其の弘猷に賴り、春秋 其の專命を恕す。功 當時に冠たりて、美 千祀に垂る。況んや今 帝 居りて未だ復せず、諸夏 昏墊たり。大禹の經る所、奄かに戎墟と為り、五嶽の神山、狄 其の三を汙(けが)し、九州の名都、夷 其の七を穢し、辛有の言ふ所〔一〕、茲に於て驗あり。微臣 叩心絕氣し、忘寢與食する所以にして、雕肝して焦慮し、寧息する遑あらざるなり。江涼 遼かなると雖も、義は誠に密邇なり。風雲 苟しくも通ずれば、實に脣齒の如くあらん。臣 名は未だ天臺に結ばず、量 未だ海內に著はれざると雖も、然れども累祖の寵光餘烈に憑賴し、義において細辭せず、以て大務を稽み、輒ち羣議に順ひ、身を亡して事に即かん。轅は弱くして任は重く、懼くは威命を忝くす。昔 春秋に在り、諸侯 周を宗とし、國 皆 元を稱し、以て時令を布す。今 天臺 邈遠たり、正朔 未だ加へず。號を發し令を施すは、紀數を以てすること無く、輒ち年に建初を冠し、以て國憲を崇くせん。冀くは寵靈に杖り、全く一方を制し、義誠をして所天に著はし、玄風をして九壤に扇ぎ、命を殉へ身を灰とし、隕越 慷慨せん」と。

〔一〕『春秋左氏伝』僖公 伝二十二年に、辛有の語として、「不及百年、此其戎乎。其礼先亡矣」とあり、これを踏まえている。

現代語訳

義熙元(四〇五)年、玄盛は建初と改元し、舎人の黄始・梁興を派遣し(東晋に)間道を通って上表を提出し、
むかし漢帝国の天命が終わろうとし、三国が鼎立しました。天からの命令は、しばしば大いなる晋に寄せられました。高祖(司馬懿)が基礎を開き、景帝と文帝が帝業を大きくし、武帝が魏帝国から禅譲を受け、遠隔地は服従し、天地四方は教化になびき、万物が統一されました。しかし恵帝は統御を失い、権臣が秩序を乱し、懐帝と愍帝は悩み苦しみ、都から投げ出され、天体は上空で乖離し、地上の領土も分裂しました。言行を後悔し、天下は怨みに思いました。ところが中宗元皇帝(司馬睿)が天命に基づいて継承し、江東に拠点を移しました。荊州や揚州は転覆の手当を受けましたが、五都(洛陽・長安・許昌・鄴・譙)は荒れ地となりました。もと太尉・西平武公の張軌は元康の初め(二九〇~)に、内外の騒擾を受けて、地方統治を命じられ、赴任してこの涼州を安寧とし、権威が振るい、声望が海内を覆いました。昭公・成公は継承し、前代を貶めず、軍旗が目指して、三秦を平定しました。義を奉って兵は強く、領土を万里に開きました。文公・桓公は位を嗣ぎ、世代を経て徳を重ねました。関西を統括し、辺境を教化し、遠方の民族が藩屏となり、代々職貢を納めました。晋帝国の徳が遠くに及び、こうして涼州は安定しました。大都督・大将軍の張天錫は英雄の素質をもち、七世の事業を受けました。時局を救済することを志し、先代の功績を盛んにしましたが、途中で災難を被り、外敵が国土に侵入しました。晋帝の威光は遠くまで及ばず、援軍が到着せず、一方面の軍だけで七州の軍勢に対抗し、軍は孤立して屈服させられ、社稷は喪失しました。
私が聞きますに暦数は移り変わり、餘りを末年に残すと言います。帝王が興るとき、必ず正当ならざる者が即位します。ですから共工は黄帝と神農の間に割り込み、秦帝国・項羽は周王朝と漢帝国の間に紛れ込みました。いずれも時節にあって方向を変えず、覆滅して悪事を成しました。戎狄が中華を占領してから、すでに百年がたち、五胡が相次いで僭称し、(ある胡族国家の)命運が尽きかけると、四海は期待を込め、宮門を仰いで中原回復を待っています。ゆえに(東晋の)軍が東関に駐屯すれば、趙魏は切望せぬ者はおりませんでした。淮南で大勝すれば、三方は喜んで注目をしました。思いますに陛下の道義は(夏王朝を復興した)少康にならび、徳行は(後漢の)光武帝に等しく、天を継いで位を受け、中原回復を目指しておられます。この涼州について申しますと、代々忠義にあつく、私の部下の官僚たちはわが高祖父である東莞太守の李雍・曾祖父である北地太守の李柔が前朝(西晋)で官職を与えられ、時務に参画したという実績があり、伯祖の龍驤将軍・広晋太守・長寧侯である李卓、亡祖父の武衛将軍・天水太守・安世亭侯である李弇は涼州において補佐を務め、功績を秦隴地方でも明らかにし、高い位を頂戴し、晋の官僚として登録されおりましたので、(この血筋を踏まえて)私は無能でありますが、(後漢初の)竇融の故事に基づき、(群僚が)私に対して義を拠りどころに説得し、私を大都督・大将軍・涼公・領秦涼二州牧・護羌校尉に推薦しました。私は考えますに(春秋時代)荊楚の地は代わる代わるに貢献し、斉の桓公は召陵の軍役を起こすと、諸侯は恭順せず、晋の文公が城濮の軍役を起こすと、勲功を践土(会盟をした地名)で輝かせ、これら成果が周王朝の権威を高め、九域はその戦略を頼りにしたため、『春秋』はその独断専行を容認しました。功績は当時において筆頭であり、美名は千年先に伝えられました。ましてや今日は晋帝の居所が(中原に)戻っておらず、中華は混沌としています。大禹が通過した(中華の)地は、廃墟となり、五嶽の神山は、夷狄がその三を汚し、九州の名都は、夷狄がその七を穢し、(周代の)辛有の言ったことが、現実となっています。以上が私が精神を消耗し、寝食を忘れる理由であり、疲弊して焦燥し、落ち着く暇がありません。長江と涼州は遥か遠いですが、義は密接であります。風雲が通じれば、唇歯のようであります。私の名はまだ晋に(正規の官僚として)登録されず、器量は天下に知られていませんが、祖先以来の名誉と功烈を根拠として、細かな手順にこだわらず、大局を優先し、群僚の議論に従って、身を亡ぼす覚悟で(涼州を支配し)責務を担おうと思います。連絡は困難ですが重要な事柄ですから、命令をお受けしたいと思います。むかし春秋時代において、諸侯は周王を宗主としながら、国ごとに年数を数え、命令を布告しました。いま晋朝と隔絶しているため、暦を共有できません。(わが国が)号令を発するときは、(晋の)年号を用いず、建国以来の年数に建初をかぶせ(独自の年号とし)、国の規則を整えます。晋朝と縁のある祖先の霊を頼り、一方面を完全に統制し、義と誠を天下に実現し、玄風が九壤に吹き渡るよう、身命を賭して、努力いたします」と言った。

原文

玄盛謂羣僚曰、「昔河右分崩、羣豪競起、吾以寡德為眾賢所推、何嘗不忘寢與食、思濟黎庶。故前遣母弟繇董率雲騎、東殄不庭、軍之所至、莫不賓下。今惟蒙遜鴟跱一城。自張掖已東、晉之遺黎雖為戎虜所制、至於向義思風、過於殷人之望西伯。大業須定、不可安寢、吾將遷都酒泉、漸逼寇穴、諸君以為何如?」張邈贊成其議、玄盛大悅曰、「二人同心、其利斷金。張長史與孤同矣、夫復何疑。」乃以張體順為寧遠將軍・建康太守、鎮樂涫、徵宋繇為右將軍、領敦煌護軍、與其子敦煌太守讓鎮敦煌、遂遷居于酒泉。

訓読

玄盛 羣僚に謂ひて曰く、「昔 河右 分崩し、羣豪 競起す。吾 寡德を以て眾賢の為に推さる。何ぞ嘗て寢と食を忘れ、黎庶を濟ふことを思はざる。故に前に母弟の繇を遣はして雲騎を董率し、東のかた不庭を殄せしむ。軍の至る所、賓下せざる莫し。今 惟るに蒙遜 一城に鴟跱す。張掖より已東、晉の遺黎 戎虜の為に制せらると雖も、向義思風するに至る。殷人の西伯を望むことに過ぐ。大業 須らく定むべし。安寢す可からず。吾 將に都を酒泉に遷さんとす。漸く寇穴に逼らん。諸君 以て何如と為すか」と。張邈 其の議に贊成す。玄盛 大いに悅びて曰、「二人 心を同じくすれば、其の利 金を斷つ。張長史 孤と同じなり。夫れ復た何ぞ疑はんか」と。乃ち張體順を以て寧遠將軍・建康太守と為し、樂涫に鎮せしめ、宋繇を徵して右將軍と為し、敦煌護軍を領せしめ、其の子たる敦煌太守の讓と與に敦煌に鎮せしむ。遂に居を酒泉に遷す。

現代語訳

玄盛は群僚に、「むかし河右が分裂して崩壊し、豪傑たちが競って立ち上がった。私は寡徳でありながら賢者たちに推薦された。どうして寝食を忘れ、万民の救済に心を砕かぬことがあろう。ゆえに先に同母弟の宋繇を派遣して雲騎を統率させ、東の不服従勢力を討伐させた。軍が到着すると、臣従せぬ者がいなかった。いま沮渠蒙遜が一城を盗んで敵対している。張掖より以東は、晋の遺民が胡族に支配されているが、義を仰いで風教を歓迎している。(そのさまは)殷人が西伯(周の文王)を待望したときよりも熱烈である。大業を成功させねばならない。安眠をむさぼっている場合ではない。私は酒泉に本拠地を移そう。じっくり敵の領土に逼ろうと思う。諸君はどう思うか」と言った。張邈がこれに賛成した。玄盛は大いに悦んで、「二人の心が揃っていれば、金属をも断ち切れる。張長史は私と同じ考えである。もう(遷都を)迷う必要はない」と言った。張体順を寧遠将軍・建康太守とし、楽涫を鎮守させ、宋繇を徴して右将軍とし、敦煌護軍を領させ、その子である敦煌太守の李譲とともに敦煌を鎮守させた。かくして本拠地を酒泉に遷した。

原文

手令誡其諸子曰、吾自立身、不營世利。經涉累朝、通否任時。初不役智、有所要求、今日之舉、非本願也。然事會相驅、遂荷州土、憂責不輕、門戶事重。雖詳人事、未知天心、登車理轡、百慮填胸。後事付汝等、粗舉旦夕近事數條、遭意便言、不能次比。至於杜漸防萌、深識情變、此當任汝所見深淺、非吾敕誡所益也。汝等雖年未至大、若能克己纂修、比之古人、亦可以當事業矣。苟其不然、雖至白首、亦復何成。汝等其戒之慎之。
節酒慎言、喜怒必思、愛而知惡、憎而知善、動念寬恕、審而後舉。眾之所惡、勿輕承信、詳審人、核真偽、遠佞諛、近忠正。蠲刑獄、忍煩擾、存高年、恤喪病、勤省案、聽訟訴。刑法所應、和顏任理、慎勿以情輕加聲色。賞勿漏疏、罰勿容親。耳目人間、知外患苦。禁禦左右、無作威福。勿伐善施勞、逆詐億必、以示己明。廣加諮詢、無自專用、從善如順流、去惡如探湯。富貴而不驕者至難也、念此貫心、勿忘須臾。僚佐邑宿、盡禮承敬、讌饗饌食、事事留懷。古今成敗、不可不知、退朝之暇、念觀典籍、面牆而立、不成人也。
此郡世篤忠厚、人物敦雅、天下全盛時、海內猶稱之、況復今日、實是名邦。正為五百年鄉黨婚親相連、至于公理、時有小小頗迴、為當隨宜斟酌。吾臨莅五年、兵難騷動、未得休眾息役、惠康士庶。至于掩瑕藏疾、滌除疵垢、朝為寇讐、夕委心膂、雖未足希準古人、粗亦無負於新舊。事任公平、坦然無類、初不容懷、有所損益、計近便為少、經遠如有餘、亦無愧於前志也。

訓読

手令して其の諸子を誡めて曰く、「吾 自ら立身し、世利を營まず。累朝を經涉し、通否 時に任す。初めより智を役せず、要求する所有り。今日の舉、本願に非ざるなり。然れども事 會々相 驅け、遂に州土を荷ふ。責の輕からざるを憂ひ、門戶の事 重し。人事を詳らかにすると雖も、未だ天心を知らず。車に登りて轡を理め、百慮 胸に填つ。後事は汝等に付す。粗々旦夕の近事 數條を舉げて、意に遭ひて便ち言ひ、次比すること能はず。漸を杜ぎ萌を防ぐに至りては、深く情變を識り、此れ當に汝が見る所の深淺に任すべし。吾が敕誡 益する所に非ざるなり。汝ら年 未だ大に至らざると雖も、若し能く克己し纂修すれば、之を古人に比するに、亦 以て事業に當たる可きなり。苟し其れ然らざれば、白首に至ると雖も、亦た復た何をか成さんか。汝ら其れ之を戒めて之に慎め。
酒を節し言を慎しみ、喜怒 必ず思へ。愛すとも惡を知り、憎むとも善を知れ。念を動じて寬恕たれ、審らかにして後に舉げよ。眾の惡む所、輕々しく承信する勿れ。詳らかに人を審じ、真偽を核にせよ。佞諛を遠ざけ、忠正を近づけよ。刑獄を蠲き、煩擾を忍べ。高年を存し、喪病を恤め。省案に勤め、訟訴を聽け。刑法 應ずる所、和顏にして理に任せよ。慎みて情を以て輕々しく聲色を加ふる勿れ。賞して疏を漏ること勿く、罰して親を容すること勿かれ。人間を耳目して、外の患苦を知れ。禁禦の左右、威福を作す無かれ。善を伐(ほこ)り勞を施とし、詐に逆ひて必を億(はか)り、以て己が明を示す勿かれ。廣く諮詢を加へて、自ら專用する無かれ。善に從ふこと順流が如く、惡を去ること探湯を如くせよ。富貴にして驕らざるは至難なり。此を念じ心に貫き、須臾にも忘るる勿れ。僚佐 邑宿を、禮を盡して承敬し、讌饗饌食するとき、事事に懷に留めよ。古今の成敗、知らざる可からず。退朝の暇あれば、典籍を念觀せよ。牆に面して立つは、不成人なり。
此の郡 世々忠厚に篤く、人物 敦雅なり。天下 全盛の時、海內 猶ほ之を稱す。況んや復た今日、實に是れ名邦ならん。正に五百年 鄉黨婚親 相 連なるが為に、公理に至りては、時に小小頗迴し、為に隨宜に當りて斟酌ること有り。吾 臨莅すること五年、兵難騷動ありて、未だ眾を休め役を息め、士庶を惠康することを得ず。瑕を掩ひ疾を藏し、疵垢を滌除し、朝に寇讐と為り、夕に心膂を委ぬるに至る。未だ古人に希準するに足らざると雖も、粗々亦た新舊に負くこと無し。事 公平に任せて、坦然として類無し。初めより懷に容れずとも、損益する所有り。近きに計ふれば便ち少と為すとも、遠を經れば餘有るが如し。亦た前志に愧づること無きなり。

現代語訳

玄盛は直筆の書簡によって諸子を教戒し、「私は公職に就いたが、世俗的な利益を求めたのではない。歴代王朝が変遷したが、仕官するか否かは時代の要請に従うものだ。初めから見通しがあったのでなく、他人から推戴をされた。今日のありさまは、本願ではない。しかし成り行きに迫られ、かように涼州統治を担っている。責任の大きさに恐縮し、(西域との)交通拠点を守る役割はとても重い。人として最善を尽くしたが、天意はまだ分からない。車に乗って馬を制御すれば、心配ごとばかりである。(敦煌の)今後のことはお前たちに委ねる。今日明日の事案は数条を挙げ、意見を書き留めるが、それ以降のことはそれができない。微かな兆候であっても(悪事を)防ぐには、深く状況を理解し、お前たちが判断せねばならぬ。(遠い未来のことは)私の教戒が直接は役に立たない。お前達はまだ若いが、自制して努めれば、先人たちにも劣らず、政務を成し遂げられるだろう。自制せねば、白髪頭になっても、何も達成できまい。これを教戒として慎むように。
酒を減らし発言を慎み、喜怒を内省せよ。愛しても悪を知り、憎んでも善を知れ。怒っても寛大になれ、後からよく吟味せよ。郡臣の悪意を、軽々しく信用するな。しっかりと人物を見極め、真偽を明らかにせよ。侫臣を遠ざけ、忠正な者を近づけよ。刑獄を省き、煩雑さを控えよ。老人を長生きさせ、死や病を憐れむように。政治文書を読み、訴訟に立ち会え。刑法に基づき、進んで基準を当てはめよ。感情を抑えて軽々しく声を荒げて顔色を変えてはならない。疎遠な人にも褒賞を漏らさず、親密な人にも刑罰を緩めるな。世間に見聞を広げ、外の心配や苦痛を知れ。政府の中心者は、権威で利益誘導をしてはならぬ。己の善行と苦労におごり、真実を洞察しても、己の聡明さを過信するな。広く討議し、自分の意見を正しいと思い込むな。善には川の流れのように従い、悪には湯の熱さを恐れるように遠ざけよ。富貴でありながら驕らないのは至難である。これを常に心に置き、一瞬たりとも忘れるな。(配下の)官僚や聚落を、礼を尽くして尊重し、宴席で飲食するとき、どんな小さなことでも肝に銘じよ。古今の成功と失敗(の原因)は、簡単には分からぬ。政庁から帰って余暇があれば、典籍を読んで考えよ。垣根に向かって立つのは、礼を知らぬ者のやることだ。
この(敦煌)郡は代々忠厚に篤く、人物は温柔で模範的である。天下が安定し(帝国が)盛んな時代ですら、海内はこれを称賛した。ましてや今日であれば、突出して優れた国と言えよう。五百年間かけて郷党は婚姻をくり返して繋がりを強めてきたから、公的な規則に照らすと、時には小さな悪事を(親族として)隠し立てし、便宜を図ることがある。私は官位にあり統治すること五年、兵難や騒動があったので、兵を休めて徭役をやめ、士庶に恵みを施すことができなかった。過失を見逃して悪事を隠し、邪悪なものを取り除いた結果、朝に仇敵であったが、夕方には腹臣となることもあった。古人の理想通りではないが、昨今においては及第点だろう。政治のあり方は公平であり、平然として類いがない。初めから全部が懐に入っていなくても、増減することはある。眼前のものを数えれば少なくとも、先々まで見渡せば余りあるようなものだ。最初の志と矛盾することはない」と言った。

原文

初、玄盛之西也、留女敬愛養於外祖尹文。文既東遷、玄盛從姑1.梁褒之母養之。其後禿髮傉檀假道於北山、鮮卑遣褒送敬愛于酒泉、并通和好。玄盛遣使報聘、贈以方物。玄盛親率騎二萬、略地至于建東、鄯善前部王遣使貢其方物。且渠蒙遜來侵、至于建康、掠三千餘戶而歸。玄盛大怒、率騎追之、及于彌安、大敗之、盡收所掠之戶。
初、苻堅建元之末、徙江漢之人萬餘戶于敦煌、中州之人有田疇不闢者、亦徙七千餘戶。郭黁之寇武威、武威・張掖已東人西奔敦煌・晉昌者數千戶。及玄盛東遷、皆徙之于酒泉、分南人五千戶置會稽郡、中州人五千戶置廣夏郡、餘萬三千戶分置武威・武興・張掖三郡、築城于敦煌南子亭、以威南虜。又以前表未報、復遣沙門法泉間行奉表、曰、
江山悠隔、朝宗無階、延首雲極、翹企遐方。伏惟陛下應期踐位、景福自天。臣去乙巳歲順從羣議、假統方城、時遣舍人黃始奉表通誠、遙途嶮曠、未知達不?吳涼懸邈、蜂蠆充衢、方珍貢使、無由展御、謹副寫前章、或希簡達。
臣以其歲、進師酒泉、戒戎廣平、庶攘茨穢、而黠虜恣睢、未率威教、憑守巢穴、阻臣前路。竊以諸事草創、倉帑未盈、故息兵按甲、務農養士。時移節邁、荏苒三年、撫劍歎憤、以日成歲。今資儲已足、器械已充、西招城郭之兵、北引丁零之眾、冀憑國威、席卷河隴、揚旌秦川、承望詔旨、盡節竭誠、隕越為效。
又臣州界迥遠、勍寇未除、當須鎮副為行留部分、輒假臣世子士業監前鋒諸軍事・撫軍將軍・護羌校尉、督攝前軍、為臣先驅。又敦煌郡大眾殷、制御西域、管轄萬里、為軍國之本、輒以次子讓為寧朔將軍・西夷校尉・敦煌太守、統攝崐裔、輯寧殊方。自餘諸子、皆在戎間、率先士伍。臣總督大綱、畢在輸力、臨機制命、動靖續聞。

1.中華書局本によると、『資治通鑑』巻百十四は「梁裒」に作る。

訓読

初め、玄盛の西にあるや、女の敬愛を留めて外祖の尹文を養はしむ。文 既に東遷し、玄盛の從姑たる梁褒の母ありて之を養はしむ。其の後 禿髮傉檀 道を北山に假り、鮮卑 褒を遣はして敬愛を酒泉に送り、并びに和好を通ず。玄盛 使を遣はして報聘し、贈るに方物を以てす。玄盛 親ら騎二萬を率ゐ、略地して建東に至り、鄯善の前部王 使を遣はして其の方物を貢す。且渠蒙遜 來侵し、建康に至り、三千餘戶を掠めて歸る。玄盛 大いに怒り、騎を率ゐて之を追ひ、彌安に及び、大いに之を敗り、盡く掠むる所の戶を收む。
初め、苻堅の建元の末、江漢の人萬餘戶を敦煌に徙す。中州の人 田疇 闢かざる者有れば、亦 七千餘戶を徙す。郭黁の武威を寇するや、武威・張掖 已東の人 西して敦煌・晉昌に奔る者は數千戶なり。玄盛 東遷するに及び、皆 之を酒泉に徙し、南人五千戶を分けて會稽郡を置き、中州人五千戶もて廣夏郡を置き、餘の萬三千戶もて分けて武威・武興・張掖三郡に置き、城を敦煌南子亭に築き、以て南虜を威す。又 前表の未だ報ぜざるを以て、復た沙門の法泉を遣はして間行より表を奉じて、曰く、
「江山 悠かに隔たり、朝宗するに階無く、首を雲極に延して、遐方に翹企す。伏して惟るに陛下 期に應じて位を踐み、景福 天よりす。臣 去る乙巳の歲 羣議に順從して、假に方城を統め、時に舍人の黃始を遣はして表を奉じて誠を通ず。遙途 嶮曠にして、未だ知達せざるか。吳涼 懸邈にして、蜂蠆 充衢す。方珍 貢使、展御するに由無く、謹みて前章を副寫して、或いは簡達を希ふ。
臣 其の歲を以て、師を酒泉に進む。戎を廣平に戒め、庶くは茨穢を攘ふ。而れども黠虜 恣睢し、未だ威教に率(したが)はず。巢穴を憑守し、臣の前路を阻む。竊かに諸事の草創、倉帑 未だ盈たざるを以て、故に兵を息め甲を按じ、農に務め士を養ふ。時は移ろひ節は邁み、荏苒すること三年、劍を撫でて歎憤し、日を以て歲と成す。今 資儲 已に足り、器械 已に充つ。西のかた城郭の兵を招き、北のかた丁零の眾を引く。冀はくは國威に憑り、河隴を席卷せん。旌を秦川に揚げ、詔旨を承望し、節を盡し誠を竭し、隕越を效と為さん。
又 臣の州界 迥遠にして、勍寇 未だ除かず。當に鎮副を須(ま)ちて行留の部分を為すべし。輒ち臣の世子たる士業を監前鋒諸軍事・撫軍將軍・護羌校尉に假し、前軍を督攝し、臣の先驅と為さしむ。又 敦煌郡 大いに眾は殷にして、西域を制御す。萬里を管轄し、軍國の本と為る。輒ち次子の讓を以て寧朔將軍・西夷校尉・敦煌太守と為し、崐裔を統攝し、殊方を輯寧せしむ。自餘の諸子、皆 戎間に在り、士伍を率先せしむ。臣 大綱を總督し、畢に在りて輸力し、機に臨みて命を制む。動靖 續聞せん」と。

現代語訳

これより先、玄盛が西にいるとき、娘の敬愛を留めて外祖父の尹文を養わせた。尹文が東に遷ってしまうと、玄盛の従姑である梁褒の母を(敬愛に)養わせた。その後に禿髪傉檀が道を借りて北山を通過し、鮮卑は梁褒を派遣して敬愛を酒泉に送り、どちらも和親を結んだ。玄盛は使者を送って返礼し、名産品を送った。玄盛は自ら騎二万を率い、地域を攻略して建東に至ると、鄯善の前部王が使者を派遣して名産品を献上した。沮渠蒙遜が来襲して、建康に至り、三千餘戸を連れ去って帰った。玄盛は大いに怒り、騎兵を率いてこれを追い、彌安で追い付き、大いにこれを破り、掠め取られたものを全て奪還した。
これより先、苻堅(前秦)の建元の末(~三八五)、江漢の人の万餘戸を敦煌に移住させた。中原の人で耕地を開拓しておらぬ者は、さらに七千餘戸を移住させた。郭黁が武威を侵略すると、武威・張掖より以東の人で西にゆき敦煌・晋昌に逃げた者は数千戸であった。玄盛が東遷すると、これら(西への移住者)を酒泉に移住させ、南人の五千戸を分けて会稽郡を置き、中州の人の五千戸で広夏郡を置き、それ以外の一万三千戸を分割して武威・武興・張掖の三郡に置き、城を敦煌の南子亭に築き、南方の敵を牽制した。さらに前回の上表の返信がまだ届かないから、再び沙門の法泉を派遣して間道から上表を提出し、
「江山は遥かに隔たり、拝謁する手段がなく、首を天まで伸ばし、遠方からつま先で立っています。思いますに陛下は時期に巡りあって即位し、天から祝福を受けています。私は去る乙巳の年に部下たちの議論に従い、かりに一地方を支配することになり、そのとき舎人の黄始を派遣して上表して誠意を伝えようとしました。しかし道は険しく遠く、まだ届いておりませんか。呉(東晋)と涼(西涼)は隔絶しており、途中に毒虫が充満しています。献上や上表の使者は、到達するのが難しいので、謹んで以前の上表を写し、再度の報告をいたします。
私は今年、軍を酒泉に進めました。軍を広平で揃え、敵を打ち払おうと思っています。しかし邪悪な胡族が跋扈し、まだ政治と教化に従いません。巣穴に籠もり、わが前進を阻んでいます。諸事を開始するにも、いまだ経済基盤が整わないので、兵を休めて武器を修理し、農業に努めて人士を養いました。時間ばかり経過し、三年を浪費してしまい、剣を撫でて歎き憤り、一日を一年に感じます。いま備蓄が充足し、兵器も準備できました。西方から城郭の兵を引き連れ、北方から丁零の兵を招きました。晋帝国の威光を頼りに、河隴を席捲したいと思います。軍旗を秦川に揚げ、詔旨を受けて仰ぎ、節義と誠を尽くし、失敗ですら成功に転じようと思います。
わが涼州は(東晋から)遠方にあり、周辺に脅威が残っています。副官に鎮守させて留守の部隊とします。わが世子である李士業を監前鋒諸軍事・撫軍将軍・護羌校尉に仮し、前軍を統括し、わが先駆けとします。敦煌郡は人口が多く、西域を制圧しています。万里を管轄し、国家の軍事行動の元手となります。そこで次子の李譲を寧朔将軍・西夷校尉・敦煌太守とし、異民族を統率し、遠方を安寧とさせます。それ以外の諸子は、軍隊のなかに身を置き、士卒を率いさせます。私は国家運営を総督し、とことん力を尽くし、機に応じて命令を定めます。動静は継続的に報告します」と言った。

原文

玄盛既遷酒泉、乃敦勸稼穡。羣僚以年穀頻登、百姓樂業、請勒銘酒泉、玄盛許之。於是使儒林祭酒劉彥明為文、刻石頌德。既而蒙遜每年侵寇不止、玄盛志在以德撫其境內、但與通和立盟、弗之校也。是時白狼・白兔・白雀・白雉・白鳩皆棲其園囿、其羣下以為白祥金精所誕、皆應時邕而至、又有神光・甘露・連理・嘉禾眾瑞、請史官記其事、玄盛從之。尋而蒙遜背盟來侵、玄盛遣世子士業要擊敗之、獲其將且渠百年。
玄盛上巳日讌于曲水、命羣僚賦詩、而親為之序。於是寫諸葛亮訓誡以勖諸子曰、「吾負荷艱難、寧濟之勳未建、雖外總良能、憑股肱之力、而戎務孔殷、坐而待旦。以維城之固、宜兼親賢、故使汝等未及師保之訓、皆弱年受任。常懼弗克、以貽咎悔。古今之事不可以不知、苟近而可師、何必遠也。覽諸葛亮訓勵、應璩奏諫、尋其終始、周孔之教盡在中矣。為國足以致安、立身足以成名、質略易通、寓目則了、雖言發往人、道師於此。且經史道德如採菽中原、勤之者則功多、汝等可不勉哉。」玄盛乃修敦煌舊塞東西二圍、以防北虜之患、築敦煌舊塞西南二圍、以威南虜。

訓読

玄盛 既に酒泉に遷り、乃ち敦く稼穡を勸む。羣僚 年穀の頻りに登り、百姓 業に樂しむを以て、銘を酒泉に勒すことを請ひ、玄盛 之を許す。是に於て儒林祭酒の劉彥明をして文を為らしめ、石に刻みて德を頌す。既にして蒙遜 每年 侵寇して止まず。玄盛の志 德を以て其の境內を撫するに在り。但だ與に和を通じ盟を立て、之に校(まじは)らざるなり。是の時 白狼・白兔・白雀・白雉・白鳩 皆 其の園囿に棲む。其の羣下 以為へらく、白祥にして金精の誕(おほ)いにする所にして、皆 時邕に應じて至ると。又 神光・甘露・連理・嘉禾の眾瑞有り。史官に其の事を記せと請ふ。玄盛 之に從ふ。尋いで蒙遜 盟に背きて來侵し、玄盛 世子の士業を遣はして要擊して之を敗り、其の將たる且渠百年を獲ふ。
玄盛 上巳の日 曲水に讌し、羣僚に命じて詩を賦して、親ら之の序を為る。是に於て諸葛亮の訓誡を寫して以て諸子を勖(はげま)して曰く、「吾 艱難に負荷し、寧濟の勳 未だ建たず、外に良能を總べ、股肱の力に憑(よ)ると雖も、戎務 孔だ殷んにして、坐して旦を待つ。維城の固を以て、宜しく親賢を兼すべし。故に汝等らをして未だ師保の訓に及ばず、皆 弱年にして任を受けしむ。常に克くせざるを懼れ、以て咎悔を貽(のこ)す。古今の事 知らざるを以てす可からず。苟(ねがは)くは近づけて師とす可し。何ぞ必しも遠からんや。諸葛亮の訓勵、應璩の奏諫を覽じ、其の終始を尋ねよ。周孔の教 盡く中に在り。國を為にし以て安を致すに足り、身を立て以て名を成すに足る。質略にして通じ易く、目を寓せば則了す。言は往人に發すと雖も、道は此に師とならん。且つ經史道德 菽を中原に採るが如し。之に勤むる者は則ち功 多し。汝ら勉めざる可きか」と。玄盛 乃ち敦煌の舊塞東西二圍を修め、以て北虜の患を防ぐ。敦煌の舊塞西南二圍を築き、以て南虜を威す。

現代語訳

玄盛は酒泉に遷ってから、熱心に農業を立て直した。群僚は秋の実りが連続して得られ、百姓の生業が安定したので、(碑文の)銘を酒泉に記録することを申し出て、玄盛はこれを認めた。そこで儒林祭酒の劉彦明に文を作らせ、石に刻んで徳を称えた。沮渠蒙遜の侵攻が毎年続いた。玄盛の願いは徳により領内を安寧にすることであった。そこでただ和親を通じて同盟を結ぶだけで、積極的には混合しなかった。このとき白狼・白兔・白雀・白雉・白鳩がいずれも庭園に住み着いた。玄盛の郡臣は、白い吉祥は金徳を偉大にするものであり、みな泰平に感応して到来したと考えた。さらに神光・甘露・連理・嘉禾という瑞祥が多く現れた。(郡臣は)史官にそのことを記録させなさいと提案した。玄盛はこれに従った。ほどなく蒙遜が盟約を破って侵攻し、玄盛は世子の士業に反撃させて破り、その将である且渠百年を捕らえた。
玄盛は上巳の日(三月三日)曲水で宴飲し、群僚に命じて詩を作らせ、自ら序を作った。諸葛亮の訓誡を写して諸子を励まし、「私は苦難を引き受け、まだ安寧を確立できず、外に良き能臣を統括し、腹臣の力を頼っているが、軍務はとても多く、朝まで働いている。城を連ねて守りを固め、心の通ずる賢者を結集するべきだ。お前たちに十分な教育を施さず、若くから軍務に就けてしまった。務めを果たせぬことを心配し、後悔が残っていた。古今のことは知らねばならない。自分に引きつけて参考にせよ。(先古の人といえど)遠いものではない。諸葛亮の訓励、応璩の奏諫を見て、全部を頭に入れておけ。周公や孔子の教えは全てその中に含まれる。国を安泰にすることに役立ち、身を立てて名を成すためにも役立つ。簡潔で分かりやすく、目を通せば理解できる。言葉は古代の人のものだが、教えは現代においても教師となる。経史や道徳は豆類を原野で採取するようなものだ。労力を投入するものは成果が多い。お前たちは努力せずに居られまいぞ」と言った。玄盛は敦煌の古い城壁の東西二囲を修繕し、北虜の脅威を防いだ。敦煌の古い城壁の西南二囲を建築し、南虜を牽制した。

原文

玄盛以緯世之量、當呂氏之末、為羣雄所奉、遂啟霸圖、兵無血刃、坐定千里、謂張氏之業指期而成、河西十郡歲月而一。既而禿髮傉檀入據姑臧、且渠蒙遜基宇稍廣、於是慨然著述志賦焉、其辭曰。
涉至虛以誕駕、乘有輿於本無、稟玄元而陶衍、承景靈之冥符。蔭朝雲之菴藹、仰朗日之照昫。既敷既載、以育以成。幼希顏子曲肱之榮、游心上典、玩禮敦經。蔑玄冕于朱門、羨漆園之傲生。尚漁父於滄浪、善沮溺之耦耕。穢鵄鳶之籠嚇、欽飛鳳于太清。杜世競於方寸、絕時譽之嘉聲。超霄吟於崇領、奇秀木之陵霜。挺修榦之青蔥、經歲寒而彌芳。情遙遙以遠寄、想四老之暉光。將戢繁榮於常衢、控雲轡而高驤。攀瓊枝於玄圃、漱華泉之淥漿。和吟鳳之逸響、應鳴鸞于南岡。
時弗獲𩇕、心往形留、眷駕陽林、宛首一丘。衝風沐雨、載沈載浮。利害繽紛以交錯、歡感循環而相求。乾扉奄寂以重閉、天地絕津而無舟。悼貞信之道薄、謝慚德於圜流。遂乃去玄覽、應世賓、肇弱巾於東宮、並羽儀於英倫、踐宣德之祕庭、翼明后於紫宸。赫赫謙光、崇明奕奕、岌岌王居、詵詵百辟、君希虞夏、臣庶夔益。
張王頹巖、梁后墜壑。淳風杪莽以永喪、搢紳淪胥而覆溺。呂發釁於閨牆、厥構摧以傾顛。疾風飄于高木、迴湯沸於重泉。飛塵翕以蔽日、大火炎其燎原。名都幽然影絕、千邑闃而無煙。斯乃百六之恒數、起滅相因而迭然。於是人希逐鹿之圖、家有雄霸之想、闇王命而不尋、邀非分於無象。故覆車接路而繼軌、膏生靈於土壤。哀餘類之忪懞、邈靡依而靡仰。求欲專而失逾遠、寄玄珠於罔象。
悠悠涼道、鞠焉荒凶、杪杪余躬、迢迢西邦、非相期之所會、諒冥契而來同。跨弱水以建基、躡崐墟以為墉、總奔駟之駭轡、接摧轅於峻峯。崇崖崨嶫、重嶮萬尋、玄邃窈窕、磐紆嶔岑、榛棘交橫、河廣水深、狐貍夾路、鴞鵄羣吟。挺非我以為用、任至當如影響。執同心以御物、懷自彼於握掌。匪矯情而任荒、乃冥合而一往、華德是用來庭、野逸所以就鞅。
休矣時英、茂哉雋哲、庶罩網以遠籠、豈徒射鉤與斬袂。或脫梏而纓蕤、或後至而先列、採殊才於巖陸、拔翹彥於無際。思留侯之神遇、振高浪以蕩穢。想孔明於草廬、運玄籌之罔滯。洪操槃而慷慨、起三軍以激銳。詠羣豪之高軌、嘉關張之飄傑、誓報曹而歸劉、何義勇之超出。據斷橋而橫矛、亦雄姿之壯發。輝輝南珍、英英周魯、挺奇荊吳、昭文烈武、建策烏林、龍驤江浦。摧堂堂之勁陣、鬱風翔而雲舉、紹樊韓之遠蹤、侔徽猷於召武、非劉孫之鴻度、孰能臻茲大祜。信乾坤之相成、庶物希風而潤雨。
崏益既蕩、三江已清、穆穆盛勳、濟濟隆平、御羣龍而奮策、彌萬載以飛榮、仰遺塵於絕代、企高山而景行。將建朱旗以啟路、驅長轂而迅征、靡商風以抗旆、拂招搖之華旌、資神兆於皇極、協五緯之所寧。赳赳干城、翼翼上弼、恣馘奔鯨、截彼醜類。且灑游塵於當陽、拯涼德於已墜。間昌㝢之驂乘、暨襄城而按轡。知去害之在茲、體牧童之所述、審機動之至微、思遺餐而忘寐、表略韵於紈素、託精誠于白日。

訓読

玄盛 緯世の量を以て、呂氏の末に當り、羣雄の為に奉ぜられ、遂に霸圖を啟く。兵に血刃無く、坐して千里を定む。張氏の業 期を指して成り、河西十郡 歲月を一ならんとすと謂ふ。既にして禿髮傉檀 入りて姑臧に據る。且渠蒙遜 基宇 稍く廣し。是に於て慨然として述志の賦を著す。其の辭に曰ふ。
至虛を涉りて以て誕(おほ)いに駕す、有輿に乘るに本無に於てす。玄元を稟(うけ)て陶衍す、景靈の冥符を承く。朝雲の菴藹たるに蔭(おほ)はれ、朗日の照昫を仰ぐ。既に敷き既に載し、以て育し以て成る。幼にして顏子 曲肱の榮を希む。心を上典に游ばしめ、禮を玩し經を敦くす。玄冕を朱門に蔑(す)て、漆園の傲生を羨せん。漁父を滄浪に尚び、沮溺が耦耕を善くす。鵄鳶の籠嚇を穢とし、飛鳳を太清に欽しむ。世競を方寸に杜す、時譽の嘉聲を絕つ。霄を超て崇領に吟ふ。秀木の霜を陵つるを奇とす。修榦の青蔥たるを挺(ぬ)く。歲寒を經て彌芳す。情は遙遙として以て遠寄す。四老の暉光を想ふ。將に繁榮を常衢に戢(をさ)む。雲轡を高驤に控す。瓊枝を玄圃に攀(ひ)く。華泉の淥漿に漱ぐ。吟鳳の逸響を和す。鳴鸞を南岡に應ず〔一〕。
時に𩇕(かざ)ることを獲ず、心は往けども形は留まる。眷(かへりみ)て陽林に駕し、宛として一丘に首(むか)ふ。風を衝き雨に沐ひ、載ち沈み載ち浮く。利害 繽紛として以て交錯し、歡感 循環して相 求む。乾扉 奄ち寂にして以て重ねて閉づ。天地 津を絕ちて舟無し。貞信の道 薄きを悼み、德に慚(は)づるを圜流に謝(づ)づ。遂に乃ち玄覽を去りて、世賓に應ず。肇めて東宮に弱巾にして、羽儀を英倫に並ぶ。宣德の祕庭を踐み、明后を紫宸に翼く。赫赫たる謙光、崇明たること奕奕たり。岌岌たる王居、詵詵たる百辟。君 虞夏を希ひ、臣 夔益を庶ふ〔二〕。
張王 巖を頹し、梁后 壑に墜す。淳風 杪莽にして以て永喪し、搢紳 淪胥にして而して覆溺す。呂 釁を閨牆に發し、厥の構摧 以て傾顛す。疾風 高木に飄し、迴湯 重泉に沸く。飛塵 翕て以て日を蔽ひ、大火 其の燎原を炎す。名都 幽然として影 絕へ、千邑 闃として煙無し。斯れ乃ち百六の恒數にして、起滅 相 因りて迭に然り。是に於て人々逐鹿の圖を希ひ、家々雄霸の想有り。王命に闇ふして尋ねず、非分を無象に邀ふ。故に覆車 路に接して軌を繼ぎ、生靈を土壤に膏ぬる。餘類の忪懞たるを哀しみ、邈として依を靡ひて仰すること靡し。求めて欲すること專にするとも失ひて逾々遠し。玄珠を罔象に寄す〔三〕。
悠悠たる涼道、鞠まりて荒凶なり。杪杪たる余が躬、迢迢たる西邦。相期して會する所に非ず、諒に冥契して來同す。弱水に跨りて以て基を建て、崐墟を躡みて以て墉と為す。奔駟の駭轡を總べ、摧轅を峻峯に接す。崇崖 崨嶫として、重嶮 萬尋なり。玄邃 窈窕として、磐紆 嶔岑たり。榛棘 交橫し、河は廣く水は深し。狐貍 路を夾み、鴞鵄 羣れ吟ず。非我を挺てて以て用と為し、至當に任ずること影響が如し。同心を執りて以て物を御し、自彼を握掌に懷く。情を矯めて荒に任すに匪ず。乃ち冥合して一往す。華德 是を用て來庭し、野逸 鞅に就く所以なり〔四〕。
休なるかな時英、茂なるかな雋哲。庶くは罩網して以て遠く籠せんことを。豈に徒に鉤を射て袂を斬るのみならん。或は梏を脫して纓蕤たり。或いは後に至りて先に列するなり。殊才を巖陸に採り、翹彥を無際に拔く。留侯の神遇を思ひ、高浪を振ひて以て穢を蕩ふ。孔明を草廬に想ひ、玄籌の滯罔きを運らす。洪 槃を操て慷慨し、三軍を起して以て銳を激す。羣豪の高軌を詠し、關張の飄傑を嘉す。曹に報せんことを誓ひて劉に歸す。何ぞ義勇の超出するや。斷橋に據りて矛を橫たふ。亦た雄姿の壯發なるなり。輝輝たる南珍、英英たる周魯。奇を荊吳に挺(ぬきん)んで、文を昭にし武を烈す。策を烏林に建て、龍のごとく江浦に驤る。堂堂の勁陣を摧き、鬱として風 翔けて雲 舉る、樊韓の遠蹤に紹ぎ、徽猷を召武に侔つ。劉孫の鴻度に非ざれば、孰れか能く茲の大祜に臻さん。乾坤の相 成るを信じ、庶物 風に希ひて雨に潤ふ〔五〕。
崏益 既に蕩け、三江 已に清し。穆穆たる盛勳、濟濟たる隆平。羣龍を御して策を奮ひ、萬載を彌て以て榮を飛す。遺塵を絕代に仰ぎ、高山に景行するを企つ。將に朱旗を建てて以て路を啟き、長轂を驅けて迅征せんとす。商風に靡びかせて以て旆を抗し、招搖の華旌を拂ふ。神兆に皇極に資り、五緯の寧する所に協ふ。赳赳たる干城、翼翼たる上弼。恣に奔鯨を馘りて、彼の醜類を截つ。且つ游塵に當陽に灑して、涼德を已に墜つるに拯ふ。昌㝢の驂乘を間とし、襄城に暨びて轡を按ぜん。害を去るの茲に在るを知り、牧童の述ぶる所を體す。機動の至微を審にし、餐を遺して寐を忘るるを思ふ。略韵を紈素に表し、精誠を白日に託すと〔六〕。

〔一〕李玄盛の本来の志は、隠者として一生を終えることであったという。
〔二〕隠者となる理想を捨て、官僚となることの決意が書かれている。
〔三〕李玄盛が世に出る前提条件となった、涼州の荒廃が描写されている。
〔四〕不利な条件を跳ね返し、勢力を築き始めた当初のことが書かれている。
〔五〕人材の収集について述べ、諸葛亮(を用いた劉備)を理想としている。
〔六〕実際に行動を開始し、理想の実現に乗り出すことを誓っている。

現代語訳

玄盛は天下を治める度量を持ち、呂氏(後涼)の末期に当たり、群雄によって奉戴され、ついに覇王の事業を開始した。強引な軍事行動をせず、座して千里を平定した。張氏(前涼)の事業を一昼夜で継承し、河西十郡は歳月を短く感じた。すでに禿髪傉檀は姑臧に入城して割拠した。且渠蒙遜は基礎が拡大しつつあった。そこで気力を沸き立てて述志の賦を著した。その文言は以下の通りであった。
空っぽの、無のなかを彷徨った。混沌にわずらい、暗い世界に誘われた。大きな朝雲に覆われ、明るい日光を仰ぐ。もう広がって、育っている。幼いとき顔回のような貧しさに憧れた。心を古い書物に馳せ、礼経を学んだ。先王を祭りを辞め、荘子のように仕官しない生き方に憧れた。(屈原と会った)水辺の漁師を尊重し、(孔子に反発した)長沮や桀溺のように耕作に明け暮れよう。とびの鳴き声を穢れとし、飛ぶ鳳を天空で敬おう。世俗的な競争から遠ざかり、当世の名声を諦めた。雲を超えて高い山で歌った。美しい木に霜が降るのを良しとした。青々とした木を薪にした。冬を越えてますます素晴らしく素晴らしくなった。気持ちは遥かであった。四人の(隠者の)老人の眼光を思った。世間で繁栄する生き方から遠ざかる。駿馬で高い空を駆ける。美しい枝を仙人の住処で引く。華泉の清水で口すすぐ。鳳皇の声が調和する。鳴鸞が南岡で呼応する。
ときに清く飾ることができず、心は去っても形は残っていた。ふと陽林に馬車でゆき、一つの丘に向かった。暴風雨にあい、地面が水没した。さまざまな思いが去来し、ある感情がわいた。天の扉は寂れて開かない。天地は渡し場を閉ざして船がない。忠貞の道が薄く、徳のないことを濁流を見て反省した。かくして幽冥の境地から出て、世間の要請に応えることにした。初めて役所に出仕し、優れた官僚の列に並ぶ。徳政に参加し、名君を補佐することにした。(名君の)威光は明るく、輝いている。王宮は高くそびえ、郡臣は揃っている。君主は舜と禹、臣下は(舜や禹の時代の)后夔と伯益を理想とする。
張王は岩石を崩し、梁后は谷に落下させた。美しい風俗は完全に喪失し、士大夫は連れだって沈没した。呂氏は宮廷の隙に付け込み、破壊して転覆させた。強風は高い木に吹きつけ、湯は重泉に沸き上がった。塵が舞い上がって日を覆い隠し、大火は燎原を焼き尽くした。名都は幽然として人の影が見えず、千邑はひっそりとして炊煙が立たない。これは百六(厄災)の命数にあたり、始まりと滅びは交代で現れるものだ。これを受けて人々は天下を争う野心を抱き、いろいろな一族が覇者を目指した。王命を無視して従わず、分限を超えて勢力を拡大した。ゆえに転倒した馬車が後に連なり、死体の脂が土壌を覆った。生き残りは恐怖して哀しみ、苦しみ悶えて頼れる相手がいなかった。(名君を)ひたすら求めたが遠ざかるばかりである。玄珠(真理)を罔象(虚無)に見出そうとした。
遙かなる涼州は、窮まって荒れた。ちっぽけな私は、遠い西方にいた。時流に乗ることなく、ひっそりと仲間と心を通わせた。弱水(崑崙山の川)をまたいで基礎とし、崑崙山を垣根とした。馬車を統率し、険しい山に並べた。山なみは高く、谷は険しかった。谷底は深く、岩山がそびえていた。野草が繁り、川は広く深かった。狐貍が道におり、鴞鵄が群れて鳴いた。人材を抜擢して活用し、適任を与えて響くようであった。同志と連れ立ち、集団を形成した。むりに寄せ集めたのでなく、おのずと一つにまとまった。徳望の持ち主が到来し、在野の賢者が従った。
英雄は偉大であり、俊賢は立派なものだ。遠くからも漏らさず集めたい。いたずらに鉤(帯のとめ金)を射て(管仲のように)袂を分かつものか。罪人であろうと士大夫に抜擢しよう。遅れて来ても上位に置こう。優れた才能を山中や、草原から抜擢しよう。留侯(張良)の待遇を思い、高波を振るって穢れを洗おう。(諸葛)孔明を草廬に訪ね、深い計略を巡らそう。洪(人名)は操槃(孔子の詩)を歌って慷慨し、三軍を起こして精鋭を鼓舞した。豪傑たちは規範を胸にとめ、関羽と張飛の英雄性を褒めた。曹操に報いようと誓って劉備に従った。なんと義勇が傑出したものか。(長阪で)橋を断って矛を横たえた。なんと雄姿が発揮されたものか。輝かしい南の逸材である、周魯(周瑜と魯粛)よ。奇才を荊呉の地から抜擢され、文を明らかにし武を激しくした。烏林(赤壁)で計略に立て、龍のように江東で活躍した。堂堂たる(曹操の)強い陣の挫き、風と雲を操って、樊韓(樊噲と韓信)の前例を継ぎ、良計は召武(人名)に等しい。劉備と孫権の大きな度量がなければ、この幸福があっただろうか。乾坤一擲の成功を信じ、万物は風を待って雨に濡れた。
崏益を清めれば、三江も美しくなる。慎み深い勲功と、盛んな平和よ。龍のような郡臣を使いこなして策を実行し、万年にわたり栄光を残す。遠い昔に手本を求めて、高い志を叶えようとする。まさに赤い旗を立てて道を開き、兵車を動員して出征しよう。秋風に旗を靡かせ、輝かしい旗指物を揺らす。神の恩寵を受け、天体の表象に従う。勇ましい兵士たちと、恭順な幕僚よ。狙い通りに凶暴な人の首を斬り、彼らの悪行を根絶する。且つ軽薄なやつらを当陽(地名か)で清め、徳が薄く堕落した者を救済する。昌㝢(人名か)の同乗者を休ませ、襄城に及んで轡を止めよう。害悪を除くのは今日の務めだと捉え、牧童の願いを体現する。軍隊を慎重に移動させ、食事を残して睡眠を忘れほど努力する。詩文を白絹に書いて、真心を白日のもとに明らかにすると言った。

原文

玄盛寢疾、顧命宋繇曰、「吾少離荼毒、百艱備嘗、於喪亂之際、遂為此方所推、才弱智淺、不能一同河右。今氣力惙然、當不復起矣。死者大理、吾不悲之、所恨志不申耳。居元首之位者、宜深誡危殆之機。吾終之後、世子猶卿子也、善相輔導、述吾平生、勿令居人之上、專驕自任。軍國之宜、委之於卿、無使籌略乖衷、失成敗之要。」十三年、薨、時年六十七。國人上諡曰武昭王、墓曰建世陵、廟號太祖。
先是、河右不生楸・槐・柏・漆、張駿之世、取於秦隴而植之、終於皆死、而酒泉宮之西北隅有槐樹生焉、玄盛又著槐樹賦以寄情、蓋歎僻陋遐方、立功非所也。亦命主簿梁中庸及劉彥明等並作文。感兵難繁興、時俗諠競、乃著大酒容賦以表恬豁之懷。與辛景・辛恭靖同志友善、景等歸晉、遇害江南、玄盛聞而弔之。玄盛前妻、同郡辛納女、貞順有婦儀、先卒、玄盛親為之誄。自餘詩賦數十篇。世子譚早卒、第二子士業嗣。

訓読

玄盛 寢疾し、宋繇に顧命して曰く、「吾 少きとき荼毒に離(かか)り、百艱 備に嘗(な)む。喪亂の際に於て、遂に此方の為に推さる。才は弱く智は淺く、能く河右を一同せず。今 氣力 惙然とし、當に復た起つべからず。死は大理なり、吾 之を悲まず。恨む所は志 申(の)びざるなり。元首の位に居る者は、宜しく深く危殆の機を誡むべし。吾 終るの後、世子 猶ほ卿が子のごときなり。善く相 輔導し、吾が平生を述べ、人の上に居り、專驕し自任せしむ勿かれ。軍國の宜、之を卿に委ぬ。籌略 衷に乖れて、成敗の要を失はしむこと無かれ」と。十三年、薨ず。時に年六十七。國人 諡を上りて武昭王と曰ふ。墓を建世陵と曰ひ、廟を太祖と號す。
是より先、河右 楸・槐・柏・漆を生ぜず。張駿の世、秦隴より取りて之を植え、終に皆 死す。而れども酒泉宮の西北隅に槐樹の生ずる有り。玄盛 又 槐樹賦を著して以て情を寄す。蓋し僻陋にして遐方たりて、立功 所に非ざるを歎ずるなり。亦 主簿の梁中庸及び劉彥明らに命じて並びに文を作らしむ。兵難の繁く興り、時俗 諠競なるに感じ、乃ち大酒容の賦を著して以て恬豁の懷を表す。辛景・辛恭靖と與に志を同じくして友善す。景ら晉に歸し、害に江南に遇ふ。玄盛 聞きて之を弔ふ。玄盛の前妻、同郡の辛納の女なり。貞順にして婦儀有り。先に卒す。玄盛 親ら之の誄を為る。自餘 詩賦は數十篇なり。世子たる譚 早く卒す。第二子たる士業 嗣ぐ。

現代語訳

玄盛が病に倒れ、宋繇に後事を託して、「私は若いとき害毒を食らい、百難を全て味わった。戦乱で秩序が失われ、この地方で推戴された。才能も知恵も足りず、河右を統一できなかった。いま気力は喪失し、もう立ち上がれない。死は必ず訪れるから、悲しくない。怨みに思うのは志を実現しなかったことだ。君主の地位におれば、危険を警戒して自戒すべきである。私の死後、世子はあなた(宋繇)の子も同然である。よく教育して指導し、私のあり方を伝え、人の上に立っても、驕って勝手に振る舞わせぬように。軍事と国家の全般を、あなたに委任する。戦略が適切さを失い、存続を要件を失わせることがないように」と言った。建初十三(四一七)年、薨じた。このとき六十七歳。国のひとは謚を奉り武昭王といった。墓を建世陵といい、廟を太祖と号した。
これより先、河右では楸・槐・柏・漆が生育しなかった。張駿(前涼)の時代、秦隴から移植して植えたが、結局は全部が枯れた。ところが(玄盛が都とした)酒泉宮の西北隅に槐樹が生えた。玄盛は槐樹賦を作って愛着を表明した。恐らく遠方の僻地にいて、功績を立てづらいことを歎いたのである。さらに主簿の梁中庸及び劉彦明らに命じて二人に文を作らせた。兵乱が頻繁に発生し、喧しく世知辛いので、大酒容の賦を作って快活な思いを表現した。辛景・辛恭靖と同じ志を持った友人であった。辛景らが東晋に帰順したが、江南で殺害された。玄盛はこれを聞いて弔った。玄盛の前妻は、同郡の辛納の娘であった。貞順であり婦人の規範を備えていた。先に亡くなった。玄盛は誄を自作した。これ以外にも詩賦は數十篇があった。世子である李譚は早くに亡くなった。第二子である李士業が嗣いだ。

子士業(西涼の後主、李歆)

原文

涼後主諱歆、字士業。玄盛薨時、府僚奉為大都督・大將軍・涼公・領涼州牧・護羌校尉、大赦境內、改年為嘉興。尊母尹氏為太后、以宋繇為武衞將軍・廣夏太守・軍諮祭酒・錄三府事、索仙為征虜將軍・張掖太守。
且渠蒙遜遣其張掖太守且渠廣宗詐降誘士業、士業遣武衞溫宜等赴之、親勒大軍為之後繼。蒙遜率眾三萬、設伏于蓼泉。士業聞、引兵還、為遜所逼。士業親貫甲先登、大敗之、追奔百餘里、俘斬七千餘級。明年、蒙遜又伐士業、士業將出距之、左長史張體順固諫、乃止。蒙遜大芟秋稼而還。是歲、朝廷以士業為持節・都督七郡諸軍事・鎮西大將軍・護羌校尉・酒泉公。
士業用刑頗嚴、又繕築不止、從事中郎張顯上疏諫曰、「入歲已來、陰陽失序、屢有賊風暴雨、犯傷和氣。今區域三分、勢不久並、并兼之本、實在農戰、懷遠之略、事歸寬簡。而更繁刑峻法、宮室是務、人力凋殘、百姓愁悴。致災之咎、實此之由。」

訓読

涼の後主 諱は歆、字は士業なり。玄盛 薨ずる時、府僚 奉じて大都督・大將軍・涼公・領涼州牧・護羌校尉と為す。境內を大赦し、年を改めて嘉興と為す。母尹氏を尊びて太后と為し、宋繇を以て武衞將軍・廣夏太守・軍諮祭酒・錄三府事と為す。索仙を征虜將軍・張掖太守と為す。
且渠蒙遜 其の張掖太守たる且渠廣宗を遣はして詐りて降りて士業を誘ふ。士業 武衞の溫宜らを遣はして之に赴かしめ、親ら大軍を勒して之の後繼と為る。蒙遜 眾三萬を率ゐ、伏を蓼泉に設く。士業 聞き、兵を引きて還り、遜の為に逼らる。士業 親ら甲を貫きて先登す。大いに之を敗り、追奔すること百餘里、俘斬すること七千餘級。明年、蒙遜 又 士業を伐つ。士業 將に出でて之を距がんとするに、左長史の張體順 固く諫め、乃ち止む。蒙遜 大いに秋稼を芟りて還る。是の歲、朝廷 士業を以て持節・都督七郡諸軍事・鎮西大將軍・護羌校尉・酒泉公と為す。
士業 刑を用ひるに頗嚴たり。又 繕築 止まず。從事中郎の張顯 上疏して諫めて曰く、「歲に入りて已來、陰陽 序を失ひ、屢々賊風暴雨有り、和氣を犯傷す。今 區域 三分す。勢 久しく並ばず。并兼の本、實に農戰に在り。懷遠の略、事は寬簡に歸す。而れども更に刑を繁く法を峻とす。宮室 是れ務め、人力 凋殘し、百姓 愁悴す。致災の咎、實に此の由なり」と。

現代語訳

(西)涼の後主は諱を歆といい、字を士業という。玄盛が薨ずるとき、府僚は奉戴して大都督・大将軍・涼公・領涼州牧・護羌校尉とした。領内を大赦し、嘉興と改元した。母の尹氏を尊んで太后とし、宋繇を武衞将軍・広夏太守・軍諮祭酒・録三府事とした。索仙を征虜将軍・張掖太守とした。
且渠蒙遜はその張掖太守である且渠広宗を派遣して詐って(西涼に)降服して士業を誘った。士業は武衛将軍の温宜らを派遣して彼のもとに行かせ、みずから大軍をひきいて後続となった。蒙遜は兵三万を率い、伏兵を蓼泉に設けた。士業はこれを聞き、兵を撤退させたが、蒙遜に圧迫された。士業はみずから鎧を着て戦陣に立った。大いに蒙遜を破り、追撃すること百餘里、捕らえ斬ったものは七千餘級であった。翌年、蒙遜がふたたび士業を攻撃した。士業は防戦に出ようとすると、左長史の張体順が強く諫めたので、思い止まった。蒙遜は大いに秋の実りを刈り取って還った。この歳、朝廷は士業を持節・都督七郡諸軍事・鎮西大将軍・護羌校尉・酒泉公とした。
士業の刑罰を厳しく煩雑であった。さらに修築を続けた。従事中郎の張顕は上疏して諫めて、「今年に入ってから、陰陽は秩序を失い、しばしば暴風雨があり、調和が毀損されています。いま(河右)地域は三分割されています。競合者は長く並存できません。併呑の戦いの根本は、農業と戦さです。遠方を懐かせる方法は、(刑罰が)寛大で簡素であることです。しかし刑罰を煩雑にして法令を厳格にしております。宮室の修繕により、人々は疲弊し、百姓は怨んでいます。天災のとがめは、これが原因です」と言った。

原文

主簿氾稱又上疏諫曰、臣聞天之子愛人后、殷勤至矣。故政之不修、則垂災譴以戒之。改者雖危必昌、宋景是也。其不改者、雖安必亡、虢公是也。元年三月癸卯、敦煌謙德堂陷。八月、效穀地裂。二年元日、昏霧四塞。四月、日赤無光、二旬乃復。十一月、狐上南門。今茲春夏地頻五震。六月、隕星于建康。臣雖學不稽古、敏謝仲舒、頗亦聞道於先師、且行年五十有九、請為殿下略言耳目之所聞見、不復能遠論書傳之事也。
乃者咸安之初、西平地裂、狐入謙光殿前、俄而秦師奄至、都城不守。梁熙既為涼州、藉秦氏兵亂、規有全涼之地、外不撫百姓、內多聚斂、建元十九年姑臧南門崩、隕石於閑豫堂、二十年而呂光東反、子敗於前、身戮於後。段業因羣胡創亂、遂稱制此方、三年之中、地震五十餘所、既而先王龍興瓜州、蒙遜殺之張掖。此皆目前之成事、亦殿下之所聞知。效穀、先王鴻漸之始、謙德、即尊之室、基陷地裂、大凶之徵也。日者太陽之精、中國之象、赤而無光、中國將為胡夷之所陵滅。諺曰、「野獸入家、主人將去。」今狐上南門、亦災之大也。又狐者胡也、天意若曰將有胡人居于此城、南面而居者也。昔春秋之世、星隕于宋、襄公卒為楚所擒。地者至陰、胡夷之象、當靜而動、反亂天常、天意若曰胡夷將震動中國、中國若不修德、將有宋襄之禍。
臣蒙先朝布衣之眷、輒自同子弟之親、是以不避忤上之誅、昧死而進愚款。願殿下親仁善鄰、養威觀釁、罷宮室之務、止游畋之娛。後宮嬪妃・諸夷子女、躬受分田、身勸蠶績、以清儉素德為榮、息茲奢靡之費、百姓租稅、專擬軍國。虛衿下士、廣招英雋、修秦氏之術、以強國富俗。待國有數年之積、庭盈文武之士、然後命韓白為前驅、納子房之妙算、一鼓而姑臧可平、長驅可以飲馬涇渭、方東面而爭天下、豈蒙遜之足憂。不然、臣恐宗廟之危必不出紀。 士業並不納。

訓読

主簿の氾稱 又 上疏して諫めて曰く、「臣 聞くならく天 人后を子愛するは、殷勤 至れり。故に政の修めざれば、則ち災譴を垂れて以て之を戒む。改むる者は危と雖も必ず昌ゆ。宋景 是なり。其の改めざる者、安たりと雖も必ず亡ぶ。虢公 是なり。元年三月癸卯、敦煌の謙德堂 陷つ。八月、效穀に地 裂く。二年元日、昏霧 四塞す。四月、日 赤くして光無く、二旬して乃ち復す。十一月、狐 南門を上る。今茲 春夏に地 頻りに五震す。六月、星 建康に隕つ。臣 學 稽古せず、敏 仲舒に謝すと雖も、頗る亦た道を先師に聞く。且つ行年五十有九なり。請ふ殿下の為に耳目の聞見する所を略言せん。復た遠く書傳の事を論ずること能はざるなり。
乃者(さきに) 咸安の初、西平に地 裂け、狐 謙光殿の前に入る。俄かにして秦師 奄(には)かに至り、都城 守らず。梁熙 既に涼州と為り、秦氏の兵亂を藉り、全涼の地を有たんと規(はか)る。外に百姓を撫せず、內に聚斂すること多し。建元十九年 姑臧の南門 崩れ、隕石 閑豫堂にあり。二十年にして呂光 東のかた反し、子 前に敗れ、身 後に戮せらる。段業 羣胡 亂を創むるに因り、遂に此の方に稱制す。三年の中、地震 五十餘所あり。既にして先王 瓜州に龍興し、蒙遜 之を張掖に殺す。此 皆 目前の成事なり。亦 殿下の聞知する所なり。效穀は、先王 鴻漸の始なり。謙德は、即尊の室なり。基は陷し地は裂くるは、大凶の徵なり。日は太陽の精にして、中國の象なり。赤くして光無きは、中國 將に胡夷の為に陵滅せられるとす。諺に曰く、「野獸 家に入らば、主人 將に去らんとす」と。今 狐 南門に上るは、亦 災の大なり。又 狐は胡なり。天意 若し將に胡人の此の城に居する有らんとすと曰へば、南面して居るなり。昔 春秋の世、星 宋に隕ち、襄公 卒かに楚の為に擒はる。地は至陰にして、胡夷の象なり。當に靜なるべきに動くは、反りて天常を亂す。天意 若し胡夷 將に中國を震動せんとすと曰ひ、中國 若し德を修めざれば、將に宋襄の禍有らん。
臣 先朝に布衣の眷を蒙り、輒ち自ら子弟の親を同にす。是を以て忤上の誅を避けず、昧死して愚款を進む。願はくは殿下 仁に親しみ鄰と善くし、威を養ひ釁を觀よ。宮室の務を罷め、游畋の娛を止めよ。後宮の嬪妃・諸夷の子女、躬ら分田を受け、身づから蠶績を勸む。清儉素德を以て榮と為し、茲の奢靡の費を息めよ。百姓の租稅、專ら軍國に擬(む)けよ。虛に下士に衿し、廣く英雋を招け。秦氏の術を修め、以て國を強くし俗を富せ。國に數年の積有り、庭に文武の士を盈つるを待て。然る後に韓白に命じて前驅と為し、子房の妙算を納れよ。一鼓にして姑臧 平らぐ可し。長驅して以て馬に涇渭を飲ましむ可し。東面に方(むか)ひて天下を爭へ。豈に蒙遜 之を憂ふに足るか。然らずんば、臣 宗廟の危 必ず紀を出でざるを恐ると。士業 並びに納れず。

現代語訳

主簿の氾称も上疏して諫め、「聞きますに天が人君を子のように愛するのは、行き届いたものです。ですから政治が適切でなければ、災譴によって戒めます。(天譴を受けて政治を)改めるならば危うかった者でも繁栄します。宋の景公がその例です。改めなければ、安定していた者でも必ず滅亡します。虢公がその例です。元年三月癸卯、敦煌の謙徳堂が崩れました。八月、効穀県で地面が裂けました。二年元日、濃霧が四方を塞ぎました。四月、太陽が赤くなり光がなく、二十日で回復しました。十一月、狐が南門を登りました。今年は春夏に五回の地震がありました。六月、星が建康に落下しました。私は先古の学問に通じておらず、董仲舒に遥かに劣りますが、道を先師に聞いております。もう私は五十九歳です。殿下に概略だけをお伝えします。経典の厳密な議論はできませんが。
さきに咸安の初め(三七一年~)、西平で地が裂け、狐が謙光殿の前に入りました。にわかに秦の軍が殺到し、都城は防衛に失敗しました。梁熙が涼州長官となると、秦国の兵乱に付け込み、涼州全域の支配を目論みました。外には百姓を安撫しませんでしたが、内には支持を取りつけました。(前秦の)建元十九(三八三)年に姑臧の南門が崩れ、隕石が閑豫堂に落ちました。建元二十(三八四)年に呂光が東方で反乱し、(君主の)子がさきに敗れ、君主自身も後に殺害されました。段業は胡族が反乱を始めたことを受け、この地方で自立しました。三年のうちに、地震が五十餘りの場所で起きました。先王(玄盛)が瓜州で事業を始めましたが、蒙遜はこれを張掖で殺しました。これらは近年に本当に起きたことです。殿下もご存知でしょう。効穀は、先王が創業した場所です。謙徳殿は、(先王が)即位した建物です。基礎が陥没して地面が裂けるのは、大凶の前兆です。日は太陽の精であり、中国をかたどります。赤くて光がないのは、中国が胡夷に滅亡させられる前兆です。諺に、「野生の獣が家に入ると、主人は立ち去ろうとする」とあります。いま狐が南門を登ったのも、災厄の大きな予兆です。狐は胡族と対応します。天意がもし胡人がこの城を得るだろうと言えば、(実現して)南面して居住するでしょう。むかし春秋時代、星が宋に落ち、宋の襄公がにわかに楚国に捕らわれました。地は至陰であり、胡夷をかたどります。本来は静かであるものが動くのは、天の常態を乱すということです。天意がもし胡夷が中国を震撼させると言いながら、中国(の支配者)が徳を修めなければ、宋の襄公の二の舞となるでしょう。
私は先王と親密にして頂き、子弟同様に近しい関係でした。ですから意向に逆らって誅殺されようと、死を覚悟して愚見を提出しました。殿下は国内には仁愛をほどこし隣国には友好な関係となり、兵威を養って(敵国の)隙を窺って下さい。宮室の造営を中止し、狩猟の娯楽を謹みなさい。後宮の妃嬪・諸夷の子女は、田地を分け与えられ、蓄財に励んでいます。質素倹約を誇りとし、この奢侈の浪費を辞めさせなさい。百姓の租税は、軍事にだけ振り分けなさい。目下に敬意を払い、広く英俊を招きなさい。秦氏(前秦)の政治を参考にし、国家を強くし民間を富ませなさい。国に数年間の備蓄があり、宮廷に文武の人材が満ちあふれるのを待ちなさい。その後に韓信や白起(のような武将)に命じて先駆けとし、張良のような計略を用いなさい。軍鼓を一回鳴らせば姑臧は平定できます。遠征して馬に涇水と渭水で(川の水を)飲ませることができます。東に向かって天下を争いなさい。どうして蒙遜なぞが脅威となりましょうか。さもなくば(諫言を聞き入れねば)、宗廟が転覆する危険性があります」と言った。士業はいずれも聞き入れなかった。

原文

士業立四年而宋受禪、士業將謀東伐、張體順切諫、乃止。士業聞蒙遜南伐禿髮傉檀、命中外戒嚴、將攻張掖。尹氏固諫、不聽、宋繇又固諫、士業並不從。繇退而歎曰、「大事去矣、吾見師之出、不見師之還也。」士業遂率步騎三萬東伐、次于都瀆澗。蒙遜自浩亹來、距戰於懷城、為蒙遜所敗。左右勸士業還酒泉、士業曰、「吾違太后明誨、遠取敗辱、不殺此胡、復何面目以見母也。」勒眾復戰、敗于蓼泉、為蒙遜所害。士業諸弟酒泉太守翻・新城太守預・領羽林右監密・左將軍眺・右將軍亮等西奔敦煌、蒙遜遂入于酒泉。
士業之未敗也、有大蛇從南門而入、至于恭德殿前。有雙雉飛出宮內。通街大樹上有烏鵲爭巢、鵲為烏所殺。又有敦煌父老令狐熾夢白頭公衣帢。而謂熾曰、「南風動、吹長木、胡桐椎、不中轂。」言訖忽然不見。士業小字桐椎、至是而亡。
翻及弟敦煌太守恂與諸子等棄敦煌、奔于北山、蒙遜以索嗣子元緒行敦煌太守。元緒粗嶮好殺、大失人和。郡人宋承・張弘以恂在郡有惠政、密信招恂。恂率數十騎入于敦煌、元緒東奔涼興、宋承等推恂為冠軍將軍・涼州刺史。蒙遜遣世子德政率眾攻恂、恂閉門不戰、蒙遜自率眾二萬攻之、三面起隄、以水灌城。恂遣壯士一千、連版為橋、潛欲決隄、蒙遜勒兵逆戰、屠其城。士業子重耳、脫身奔于江左、仕于宋。後歸魏、為恒農太守。蒙遜徙翻子寶等于姑臧、歲餘、北奔伊吾、後歸于魏、獨尹氏及諸女死於伊吾。
玄盛以安帝隆安四年立、至宋少帝景平元年滅、據河右凡二十四年。

訓読

士業 立つこと四年にして宋 受禪す。士業 將に東伐を謀らんとす。張體順 切諫し、乃ち止む。士業 蒙遜 南して禿髮傉檀を伐つと聞く。中外に戒嚴を命じ、將に張掖を攻めんとす。尹氏 固く諫むれども、聽かず。宋繇 又 固く諫め、士業 並びに從はず。繇 退きて歎きて曰く、「大事 去れり。吾 師の出づるを見れども、師の還るを見ざるなり」と。士業 遂に步騎三萬を率ゐて東のかた伐ち、都瀆の澗に次る。蒙遜 浩亹より來り、懷城に距戰す。蒙遜の為に敗らる。左右 士業に酒泉に還ることをを勸む。士業曰く、「吾 太后の明誨に違ひ、遠く敗辱を取る。此の胡を殺さずんば、復た何の面目ありて以て母に見えんか」と。眾を勒して復た戰ひ、蓼泉に敗れ、蒙遜の為に害せらる。士業の諸弟たる酒泉太守の翻・新城太守の預・領羽林右監の密・左將軍の眺・右將軍の亮ら西して敦煌に奔る。蒙遜 遂に酒泉に入る。
士業の未だ敗れざるや、大蛇の南門より入り、恭德殿前に至る有り。雙雉 飛びて宮內より出づる有り。通街の大樹上に烏鵲の巢を爭ふ有り、鵲 烏の為に殺せらる。又 敦煌の父老たる令狐熾 夢に白頭公有りて帢を衣す。熾に謂ひて曰く、「南風 動き、長木を吹く。胡ぞ桐椎、轂に中らざるや」と。言ひ訖りて忽然と見えず。士業 小字 桐椎なり。是に至りて亡す。
翻及び弟たる敦煌太守の恂 諸子らと與に敦煌を棄て、北山に奔る。蒙遜 索嗣が子の元緒を以て行敦煌太守とす。元緒 粗嶮にして殺を好み、大いに人の和を失ふ。郡人の宋承・張弘 恂 郡に在るとき惠政有るを以て、密信もて恂を招く。恂 數十騎を率ゐて敦煌に入る。元緒 東して涼興に奔る。宋承ら恂を推して冠軍將軍・涼州刺史と為す。蒙遜 世子の德政を遣はして眾を率ゐて恂を攻めしむ。恂 閉門して戰はず。蒙遜 自ら眾二萬を率ゐて之を攻む。三面に隄を起し、水を以て城を灌す。恂 壯士一千を遣はし、版を連ねて橋と為し、潛かに隄を決せんと欲す。蒙遜 兵を勒して逆戰し、其の城を屠る。士業の子たる重耳、身を脫して江左に奔り、宋に仕ふ。後に魏に歸し、恒農太守と為る。蒙遜 翻が子の寶らを姑臧に徙す。歲餘して、北のかた伊吾に奔り、後に魏に歸す。獨り尹氏及び諸女のみ伊吾に死す。
玄盛 安帝の隆安四年を以て立ち、宋の少帝の景平元年に至りて滅ぶ。河右に據ること凡そ二十四年なり。

現代語訳

士業が即位して四年で宋が受禅した。士業は東の征伐を計画した。張体順は切諫し、思い止まった。士業は蒙遜が南下して禿髪傉檀を討伐すると聞いた。中外に戒厳を命じ、張掖を攻撃しようとした。尹氏が強く諫めたが、聞き入れなかった。宋繇も必死に諫めたが、士業は拒絶した。宋繇は退庁して歎き、「大いなる(国家の)事業は去った。私は軍の出発を見るが、帰還を見ることはない」と言った。士業は歩騎三万をひきいて東を討伐し、都瀆の澗に駐屯した。蒙遜が浩亹から来て、懐城で防戦した。蒙遜に破られた。左右は士業に酒泉への撤退を勧めた。士業は、「私は太后(母)の忠告に逆らい、遠くで敗北の屈辱を受けた。この胡族を殺さぬ限り、母に合わせる顔がない」と言った。兵を整えて再び戦い、蓼泉で破られ、蒙遜に殺害された。士業の諸弟である酒泉太守の李翻・新城太守の李預・領羽林右監の李密・左将軍の李眺・右将軍の李亮らが西にゆき敦煌に逃げた。かくして蒙遜は酒泉に入った。
士業が敗北する前、大蛇が南門から入り、恭徳殿前に至った。二羽の雉が宮内から飛び去った。通街の大樹の上で烏(からす)と鵲(かささぎ)が巣づくりを争い、鵲が烏に殺された。さらに敦煌の父老である令狐熾は夢に白頭公が出てきて軍帽をかぶっていた。令孤熾に、「南風が動き、長木に吹いた。どうして桐椎は、轂(こしき)に当たらないのか」と言った。言い終わって忽然と姿を消した。士業の小字は桐椎である。このような予兆があって(士業は)死亡した。
李翻及び弟である敦煌太守の李恂は諸子らとともに敦煌を棄て、北山に逃げ込んだ。蒙遜は索嗣の子である索元緒を行敦煌太守とした。索元緒は粗野で殺人を好み、求心力を失った。敦煌郡の人である宋承・張弘は李恂が郡にいたときに恵みのある政治をしたので、ひそかに文書を送って李恂を招いた。李恂は数十騎をひきいて敦煌に入った。索元緒は東にゆき涼興に逃げ去った。宋承らは李恂を推戴して冠軍将軍・涼州刺史とした。蒙遜は世子の沮渠徳政を派遣して軍勢をひきいて李恂を攻撃させた。李恂は門を閉ざして戦わなかった。蒙遜は自ら兵二万をひきいてこれを攻撃した。三面に堤防を築き、水で城を浸した。李恂は壮士一千を遣わし、木の板を並べて橋とし、ひそかに堤防を決壊させようとした。蒙遜は兵を整えて迎撃し、敦煌の郡城を破却した。士業の子である李重耳は、脱出して江東に逃げ、劉宋に仕えた。のちに北魏に帰順し、恒農太守となった。蒙遜は李翻の子である李宝らを姑臧に移住させた。一年餘りで、北のかた伊吾に逃げ、後に北魏に帰順した。尹氏及び娘たちのみが伊吾で死んだ。
玄盛は安帝の隆安四(四〇一)年に立ち、宋の少帝の景平元(四二三)年に至って滅んだ。河右に二十四年にわたって割拠した。

原文

贊曰、武昭英叡、忠勇霸世。王室雖微、乃誠無替。遺黎飲德、絕壤霑惠。積祉丕基、克昌來裔。
史臣曰、王者受圖、咸資世德、猶混成之先大帝、若一氣之生兩儀。是以中陽勃興、資豢龍之構趾。景亳垂統、本吞鷰之開基。涼武昭王英姿傑出、運陰陽而緯武、應變之道如神。吞日月以經天、成物之功若歲。故能懷荒弭暴、開國化家、宅五郡以稱藩、屈三分而奉順。若乃詩褒秦仲、後嗣建削平之業。頌美公劉、末孫興配天之祚。或發迹於汧渭、或布化於邠岐、覆簣創元天之基、疏涓開環海之宅。彼既有漸、此亦同符、是知景命攸歸、非一朝之可致、累功積慶、其所由來遠矣。

訓読

史臣曰く、王者 圖を受くること、咸 世德に資(よ)る。猶 混成の大帝に先だつがごとし。一氣の兩儀を生ずるが若し。是を以て中陽 勃興することは、豢龍の趾を構ふに資る。景亳 統を垂るることは、吞鷰の開基を本とす〔一〕。涼武昭王 英姿は傑出し、陰陽を運して武に緯し、應變の道 神の如し。日月を吞みて以て天に經す。成物の功 歲の若し。故に能く荒を懷け暴を弭め、國を開き家を化す。五郡に宅(やすん)じて以て藩を稱す。三分を屈して順を奉ず。若乃 詩の秦仲を褒めしかば、後嗣 削平の業を建つ。公劉を頌美しかば、末孫 配天の祚を興す。或いは迹を汧渭に發し、或いは化を邠岐に布く。簣(もっこ)を覆して元天の基を創む。涓(しづく)を疏(とほ)して環海の宅を開く。彼 既に漸有り、此 亦 同符す。是に景命の歸する攸を知りぬ。一朝の致す可きに非ず。功を累ね慶を積み、其の由來する所 遠きかな。
贊に曰く、武昭 英叡にして、忠勇 世に霸たり。王室 微なると雖も、乃ち誠 無替なり。遺黎 德に飲し、絕壤 惠を霑(うるほ)す。祉を積み基を丕(おほいに)し、克く來裔を昌にす〔二〕。

〔一〕中陽は、前漢の高祖劉邦の出身地を指すか。劉邦の母の上に龍がわだかまり、劉邦を妊娠したという神話がある。一方、母が龍の足跡を踏むことで生まれたとされるのは、周の始祖の后稷であり、混同が疑われる。なお、次の文は、殷の始祖の神話を指すと考えられ、漢及び周のいずれよりも早いため、時代の順序を参考にして読み解くことはできない。また、豢龍は古の官名であり、虞舜のとき、董氏がこの官にあって功績があり、氏の名としたが、該当しないと思われる。
〔二〕唐帝国の李氏は、李玄盛の子孫を称している。

現代語訳

史臣はいう、王者が天命を受けることは、代々の徳に基づく。混成(渾然一体とした自然の状況)が大帝の時代に先立つようなものである。一つの気が両儀(天と地)を発生するようなものである。ゆえに中陽(出身の前漢の高祖)が勃興したのは、龍の足跡を踏んだことにより帝王となった。景亳(に居した殷の湯王)が王統を継承したのは、(簡狄が)つばめの卵を呑み込んだのを起点とした。涼武昭王は英雄として傑出し、陰陽の理によって武を運用した。応変の方策は神のようであった。日月を呑んで天を運営した。事業の成功は歳星のようであった。ゆえによく遠方を懐けて粗暴さを鎮め、国を創建して家を教化した。五郡を拠点として(東晋の)藩を称した。三つの割拠勢力を屈服させて道理を奉戴した。『詩』(国風 秦 車鄰篇)が秦仲(秦の襄公の祖父)を褒めたように、後嗣が平定の事業を成し遂げた。(大雅 篤公劉篇が)公劉を賛美したように、末孫が配天の祭りを興した。かたや(始皇帝が)事績を汧渭から始め、かたや(周王が)教化を邠岐の地で広めた。土木工事をして天下支配の基礎を始めた。水滴を集めて海をめぐる領土を開いた。彼らは徐々に拡大し、こちらも符合している。めでたき天命の帰する所が分かるのである。一朝一夕で到来するのではない。功績を積んで祝福が重なり、その根源となるところは遠いのである。
賛にいう、武昭(玄盛)は英雄であり、忠勇は当世の筆頭であった。晋の王室が衰微していたが、忠誠は尽きなかった。亡国の民(移住者)は徳に浴し、辺境の地を恩恵で潤した。実績を残して基礎を大きくしたので、子孫に至るまで繁栄した。