翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。三国時代との関わりでは、蜀漢出身の李密、孫呉出身の盛彦・夏方、父を司馬昭に不当に殺害された王裒などがいます。
大矣哉、孝之為德也。分渾元而立體、道貫三靈。資品彙以順名、功苞萬象。用之于國、動天地而降休徵。行之于家、感鬼神而昭景福。若乃博施備物、尊仁安義、柔色承顏、怡怡盡樂、擊鮮就養、亹亹忘劬、集包思蓺黍之勤、循陔有採蘭之詠、事親之道也。屬屬如在、哀哀罔極、聚薪流慟、銜索興嗟、曬風樹以隤心、頫寒泉而沬泣、追遠之情也。審德筮仕、正務移官、居高匪危、在醜無爭、協修升以匡化、懷履冰而砥節、立身之行也。是以閔曾翼翼、遵六教而緝貞規。蔡董烝烝、弘七體而垂令迹。亦有至誠上感、明祇下贊、郭巨致錫金之慶、陽雍標蒔玉之祉。烏馴丹羽、巢叔和之室、鹿呈白毳、擾功文之廬。然則因彼孝慈而生友悌、理在兼綜、義歸一揆。夫天倫之重、共氣分形、心睽則葉悌荊枝、性合則華承棣萼。乃有推肥代瘦、徇急難之情。讓果同衾、盡歡愉之致:緬窺緗素、載流塵躅者歟。 晉氏始自中朝、逮于江左、雖百六之災遄及、而君子之道未消、孝悌名流、猶為繼踵。王偉元之行己、許季義之立節、夏方、盛彥體至性以馳芬、庾袞、顏含篤友于而宣範、自餘羣士、咸標懿德。採其遺絢、足厲澆風、故著孝友篇以續前史云耳。
大なるかな、孝の德為るや。渾元を分かちて體を立て、道は三靈を貫く。品彙を資けて以て名に順ひ、功は萬象を苞む。之を國に用ふれば、天地を動かして休徵を降らす。之を家に行はば、鬼神を感ぜしめて景福を昭らかにす。若乃(も)し博く施し物を備へ、仁を尊び義に安んじ、色を柔け顏を承くれば、怡怡として樂を盡し、鮮を擊ち養に就き、亹亹として劬を忘れ、集包蓺黍の勤を思ひ、循陔採蘭の詠有り、親に事ふるの道なり。如在に屬屬たり、罔極に哀哀たり、薪を聚めて流慟し、索を銜して興嗟し、風樹に曬きて以て心を隤(くだ)き、寒泉を頫して泣を沬(なが)し、遠を追ふの情なり。德を審らかにして筮仕し、務に正めて移官し、高に居りても危ふきに匪ず、醜に在りても爭ふ無く、修升に協ひて以て化を匡し、履冰を懷きて節を砥(と)ぐは、立身の行なり。是を以て閔・曾 翼翼として、六教に遵ひて貞規を緝く。蔡・董 烝烝として、七體を弘めて令迹を垂る。亦た至誠 上に感じ、明祇 下に贊け、郭巨 錫金の慶を致し、陽雍 蒔玉の祉を標し、烏 丹羽を馴しめ、叔和の室に巢ひ、鹿 白毳を呈して、功文の廬を擾がす有り。然らば則ち彼の孝慈に因らしめて友悌を生じ、理は兼綜に在り、義は一揆に歸す。夫れ天倫の重、氣を共にし形を分かち、心 睽くときは則ち葉 荊枝に悌け、性 合ふときは則ち華 棣萼を承く。乃ち有肥を推し瘦に代はり、急難の情に徇ひ、果を讓し衾を同にし、歡愉の致を盡くす有り。緬に緗素を窺き、載ち塵躅を流す者あらんか。
晉氏 中朝より始まり、江左に逮ぶまで、百六の災 遄々及ぶと雖も、而れども君子の道 未だ消えず、孝悌の名流、猶ほ繼踵と為る。王偉元の己を行ひ、許季義の節を立て、夏方・盛彥は至性を體して以て芬を馳せ、庾袞・顏含は友于に篤くして範を宣べ、自餘の羣士、咸 懿德を標す。其の遺絢を採り、澆風を厲するに足る。故に孝友篇を著はして以て前史に續ぐとしか云ふのみ。
偉大なものだ、孝という徳は。天地が成立して秩序が生まれ、その道徳は三霊(天地人)を貫く。万物に序列をつけて名に従い、その効用は万物に及ぶ。これを治国に用いれば、天地に感応して吉祥をもたらす。これを家庭で用いれば、鬼神を感応させ幸福をもたらす。もし広く万物に孝が備わり、仁を尊び義に親しみ、顔を温和にして助ければ、兄弟の仲が睦まじく、生魚を得て親に食わせ、勤勉に働いて苦労を忘れ、集包蓺黍の勤(『毛詩』唐風、田畑を耕して父母を養う勤め)を思い、循陔採蘭の歌(束晳『補亡詩』、親を養うために蘭を取って香木にする)があり、親に仕える道を歌っている。親の死後も生前と同様に仕え、悲哀を尽くし、たきぎを集めて慟哭し、孝養を尽くせなかったことを後悔し、風が樹木を揺らせば心を乱し、寒泉に俯いて涙を流すのは、故人を懐かしむ感情の表れである。節義を失わずに出仕し、職務を正して昇進すれば、高位にあっても危うくなく、政争のなかでも争わず、太平を支えて教化を進め、氷を踏むように身を正すことは、立身の行いである。ゆえに閔子騫(継母の虐待に耐えた)と曾参(母と遠隔地で通じ合った)は慎重で、六教に従って正しさを守った。蔡・董(二十四孝の蔡順・董黯)は孝順で、七体(七種の道徳)を広めて美談となった。また至誠は上天に感応し、神明が人々を助け、郭巨(後漢の人、二十四孝の一人)は金を掘り出すことができ、陽雍(羊公、陽翁伯)は玉を植えて美玉を得た(『捜神記』)。祥瑞の赤烏が懐いて、叔和(未詳)の屋敷に巣を作り、吉祥の白鹿は、功文(未詳)の屋敷に到来した。こうして父母への孝敬を基礎として兄弟の友悌が生まれるが、その道は同じもので、義において一致する(「孝友伝」の由来)。兄弟の関係は重要で、(同じ親から生まれて)気と形を分有した存在であり、もしも心が離れれば枝葉ごと枯れ、心が合致するときは満開の花が咲く。豊かなら貧困に成り代わり、危機の場面に駆けつけ、果実を譲って寝台を共有してこそ、喜びと楽しみの極致となる。遥かに記録を見れば、(親に孝、兄弟に友であった人物の)事績を伝えているではないか。
晋帝国は中朝(洛陽の西晋)から始まり、江左(建康の東晋)に及ぶまで、百六の災厄が次々と及んだが、君子の道はまだ消えず、孝悌を備えた名望家が、次々と出現した。王偉元(王裒)は身を立て、許季義(許孜)は節義があり、夏方・盛彦はすぐれた性を体現して美名を流し、庾袞・顔含は兄弟を大切にして規範を示した。その他の群士も、みな美徳を高揚した。彼らの美風を採録して称揚すれば、軽薄な風俗を戒めるのに十分である。ゆえに孝友篇を著わして前代の史書に繋げよう。
李密字令伯、犍為武陽人也、一名虔。父早亡、母何氏改醮。密時年數歲、感戀彌至、烝烝之性、遂以成疾。祖母劉氏、躬自撫養、密奉事以孝謹聞。劉氏有疾、則涕泣側息、未嘗解衣、飲膳湯藥必先嘗後進。有暇則講學忘疲、而師事譙周、周門人方之游夏。
少仕蜀、為郎。數使吳、有才辯、吳人稱之。蜀平、泰始初、詔徵為太子洗馬。密以祖母年高、無人奉養、遂不應命。乃上疏曰、
臣以險釁、夙遭閔凶、生孩六月、慈父見背、行年四歲、舅奪母志。祖母劉愍臣孤弱、躬親撫養。臣少多疾病、九歲不行、零丁辛苦、至于成立。既無伯叔、終鮮兄弟、門衰祚薄、晚有兒息。外無朞功強近之親、內無應門五尺之童、煢煢孑立、形影相弔。而劉早嬰疾病、常在牀蓐、臣侍湯藥、未嘗廢離。自奉聖朝、沐浴清化、前太守臣逵察臣孝廉、後刺史臣榮舉臣秀才。臣以供養無主、辭不赴命。明詔特下、拜臣郎中、尋蒙國恩、除臣洗馬。猥以微賤、當侍東宮、非臣隕首所能上報。臣具以表聞、辭不就職。詔書切峻、責臣逋慢、郡縣逼迫、催臣上道、州司臨門、急於星火。臣欲奉詔奔馳、則劉病日篤。苟徇私情、則告訴不許。臣之進退、實為狼狽。
伏惟聖朝以孝治天下、凡在故老、猶蒙矜卹、況臣孤苦尩羸之極。且臣少仕偽朝、歷職郎署、本圖宦達、不矜名節。今臣亡國賤俘、至微至陋、猥蒙拔擢、寵命殊私、豈敢盤桓有所希冀。但以劉日薄西山、氣息奄奄、人命危淺、朝不慮夕。臣無祖母、無以至今日。祖母無臣、無以終餘年。母孫二人更相為命、是以私情區區不敢棄遠。臣密今年四十有四、祖母劉今年九十有六、是臣盡節於陛下之日長、而報養劉之日短也。烏鳥私情、願乞終養。
臣之辛苦、非但蜀之人士及二州牧伯之所明知、皇天后土實所鑒見。伏願陛下矜愍愚誠、聽臣微志、庶劉僥倖、保卒餘年。臣生當隕身、死當結草。
帝覽之曰、「士之有名、不虛然哉」。乃停召。
後劉終、服闋、復以洗馬徵至洛。司空張華問之曰、「安樂公何如」。密曰、「可次齊桓」。華問其故、對曰、「齊桓得管仲而霸、用豎刁而蟲流。安樂公得諸葛亮而抗魏、任黃皓而喪國、是知成敗一也」。次問、「孔明言教何碎」。密曰、「昔舜・禹・皋陶相與語、故得簡雅。大誥與凡人言、宜碎。孔明與言者無己敵、言教是以碎耳」。華善之。
出為溫令、而憎疾從事、嘗與人書曰、「慶父不死、魯難未已」。從事白其書司隸、司隸以密在縣清慎、弗之劾也。密有才能、常望內轉、而朝廷無援、乃遷漢中太守、自以失分懷怨。及賜餞東堂、詔密令賦詩、末章曰、「人亦有言、有因有緣。官無中人、不如歸田。明明在上、斯語豈然」。武帝忿之、於是都官從事奏免密官。後卒於家。二子、賜・興。
賜字宗石、少能屬文、嘗為玄鳥賦、詞甚美。州辟別駕、舉秀才、未行而終。興字雋石、亦有文才、刺史羅尚辟別駕。尚為李雄所攻、使興詣鎮南將軍劉弘求救、興因願留、為弘參軍而不還。尚白弘、弘即奪其手版而遣之。興之在弘府、弘立諸葛孔明・羊叔子碣、使興俱為之文、甚有辭理。
李密 字は令伯、犍為の武陽の人なり。一名は虔なり。父は早く亡し、母の何氏 改めて醮(とつ)ぐ。密 時に年數歲なるも、感戀して彌々至り、烝烝の性もて、遂に以て疾と成る。祖母の劉氏、躬自ら撫養し、密 奉事して孝を以て謹聞す。劉氏 疾有るや、則ち涕泣して側息し、未だ嘗て衣を解かず、飲膳湯藥するに必ず先に嘗して後に進む。暇有らば則ち講學して疲れを忘れ、而して譙周に師事し、周の門人 之を游夏に方ぶ。
少くして蜀に仕へ、郎と為る。數々吳に使ひし、才辯有り、吳人 之を稱す。蜀 平らぐや、泰始の初め、詔して徵して太子洗馬と為す。密 祖母の年高、人 奉養する無きを以て、遂に命に應ぜず。乃ち上疏して曰く、
臣 險釁を以て、夙に閔凶に遭ひ、生孩六月にして、慈父に背せられ、行年四歲にして、舅 母の志を奪ふ。祖母の劉 臣の孤弱なるを愍みて、躬親ら撫養す。臣 少きとき疾病多く、九歲にして不行、零丁辛苦あるも、成立に至れり。既に伯叔無く、終に兄弟鮮なく、門は衰へ祚は薄く、晚く兒息有るのみ。外は朞功強近の親無く、內は應門五尺の童無く、煢煢として孑立し、形影 相 弔ふ。而れども劉 早く疾病を嬰り、常に牀蓐に在り、臣 湯藥に侍し、未だ嘗て廢離せず。聖朝を奉りてより、清化に沐浴し、前の太守の臣逵 臣を孝廉に察し、後の刺史 臣榮 臣を秀才に舉ぐ。臣 供養に主無きを以て、辭して命に赴かず。明詔 特に下り、臣を郎中に拜す。尋いで國恩を蒙り、臣を洗馬に除す。猥りに微賤を以て、當に東宮に侍し、臣 首を隕して能く上報する所に非ざるべし。臣 具さに以て表聞し、辭して職に就かず。詔書 切峻たりて、臣の逋慢を責め、郡縣 逼迫し、臣に上道を催し、州司 門に臨み、星火よりも急なり。臣 詔を奉りて奔馳せんと欲するも、則ち劉の病 日に篤し。苟し私情に徇せんとすれば、則ち告訴すれども許されず。臣の進退、實に狼狽為り。
伏して惟るに聖朝 孝を以て天下を治め、凡そ故老在り、猶ほ矜卹を蒙る。況んや臣 孤苦尩羸の極なり。且つ臣 少くして偽朝に仕へ、郎署を歷職し、本は宦達を圖り、名節を矜らず。今 臣 亡國の賤俘にして、至微至陋なり。猥りに拔擢を蒙り、寵命 殊に私たり。豈に敢て盤桓して希冀する所有らんや。但だ以ふに劉 日の西山に薄きがごとく、氣息奄奄たり。人命 危淺たれば、朝に夕を慮はず。臣 祖母無くんば、以て今日に至る無し。祖母 臣無くんば、以て餘年を終ふる無し。母孫二人 更々相 命と為り、是を以て私情 區區として敢て棄遠せず。臣 密 今年 四十有四にして、祖母の劉 今年 九十有六なり。是れ臣 節を陛下に盡くすの日 長けれども、而れども劉に報養するの日 短きなり。烏鳥たる私情、願はくは終養を乞はん。
臣の辛苦、但だ蜀の人士及び二州の牧伯の明知する所のみに非ず、皇天后土 實に鑒見する所なり。伏して願はくは陛下 愚誠を矜愍し、臣の微志を聽し、劉の僥倖を庶ひ、卒する餘年を保たん。臣 生きては隕身に當たり、死しては結草に當たる。
帝 之を覽じて曰く、「士の有名、虛然たらざらんや」と。乃ち召を停む。
後に劉 終はり、服闋するや、復た洗馬を以て徵されて洛に至る。司空の張華 之に問ひて曰く、「安樂公 何如」と。密曰く、「齊桓に次ぐ可し」と。華 其の故を問ふに、對へて曰く、「齊桓 管仲を得て霸たり、豎刁を用ひて蟲 流る。安樂公 諸葛亮を得て魏に抗ひ、黃皓を任じて國を喪ふ。是れ成敗の一なるを知るなり」と。次いで問ふ、「孔明の言教 何ぞ碎たる」と。密曰く、「昔 舜・禹・皋陶 相 與に語り、故に簡雅を得たり。大誥 凡人と言はば、宜しく碎なるべし。孔明 與に言ふ者は己が敵無く、言教 是を以て碎なるのみ」と。華 之を善とす。
出でて溫令と為り、而れども從事を憎疾し、嘗て人に書を與へて曰く、「慶父 死せずんば、魯の難 未だ已まず」と。從事 其の書を司隸に白し、司隸 密を以て縣に在りて清慎たれば、之を劾せざるなり。密 才能有り、常に內轉を望み、而れども朝廷に援無ければ、乃ち漢中太守に遷り、自ら分を失へるを以て怨を懷く。餞を東堂に賜するに及び、密に詔して詩を賦せしめ、末章に曰く、「人も亦た言有り、因有りて緣有り。官たりて中人たる無くんば、田に歸るに如かず。明明として上に在らば、斯の語 豈に然らんや」と。武帝 之に忿り、是に於て都官從事 密の官を免ずることを奏す。後に家に卒す。二子あり、賜・興なり。
賜 字は宗石、少くして能く屬文し、嘗て玄鳥賦を為り、詞は甚だ美なり。州 別駕に辟し、秀才に舉ぐるも、未だ行かずして終はる。興 字は雋石、亦た文才有り、刺史の羅尚 別駕に辟す。尚 李雄の攻むる所と為り、興をして鎮南將軍の劉弘に詣りて救を求めしむ。興 因りて留まることを願ひ、弘の參軍と為りて還らず。尚 弘を白すや、弘 即ち其の手版を奪ひて之を遣る。興の弘の府に在りて、弘 諸葛孔明・羊叔子の碣を立て、興をして俱に之の文を為らしめ、甚だ辭理有り。
李密は字を令伯といい、犍為の武陽の人である。一名は李虔である。父は早くに亡くなり、母の何氏は再婚し(李密と離別し)た。李密はこのとき数歳であったが、母を恋い慕ってやまず、最上の孝心があるため、病気となった。祖母の劉氏が、みずから養育し、李密は祖母にも謹しみ手厚く仕えた。劉氏が病気になると、泣きすぎて呼吸にあえぎ、衣を脱いでくつろがず、飲食と湯薬は必ず自分がさきに味見をしてから祖母に進めた。ひまがあれば講学して疲れを忘れ、譙周に師事し、譙周の門人は李密を(孔子の弟子の)子游や子夏になぞらえた。
若くして蜀漢に仕え、郎となった。しばしば呉への使者となり、弁舌の才覚があり、呉人から称賛された。蜀漢が平定されると、泰始年間の初め、詔して徴召されて太子洗馬となった。李密は祖母が高齢で、養育するひとがいないので、召命に応じなかった。このとき(晋の武帝に)上疏して、
「私は不幸にも、早くに厄災にあい、生後六ヶ月で、慈父と死別し、四歳のとき、舅が母を再婚させ(生き別れになり)ました。祖母の劉氏は病弱な私を憐れみ、みずから養育してくれました。私は幼いときから病気が多く、九歳のとき歩けなくなり、落ちぶれて苦労しましたが、成人できました。すでに父の兄弟はなく、兄弟も少なく、一門は衰えて財産が少なく、晩年の子がいるばかりです。家の外には服喪期間が一年以上の近親がおらず、家の内には面倒を見るべき子供がおらず、天涯に孤立して、寂しい限りです。しかも祖母の劉氏が早くに病気になり、寝たきりで、私が薬湯を飲ませ、介護から離れられません。(蜀漢が滅んで)聖朝を頂くようになってから、清らかな恩恵を受け、前の太守の臣逵が臣(わたくし)を孝廉に察挙し、後の刺史の臣榮が臣を秀才に推挙しました。わが家には介護者がいないので、辞退をいたしました。明詔が特別に下され、臣を郎中に任命しました。間を置かず国恩を被り、臣を(太子)洗馬に任命しました。私のような微賤のものが、東宮に出仕することは、死んでも応じられぬことです。臣は上奏し、辞退の意を伝えました。しかし詔書は厳しい言葉で、臣に催促をし、郡県の役人も、私の上洛を催促し、州府の官員も、流星よりも迫って督促します。臣は詔を奉って出仕したいところですが、祖母の病気は日ごとに悪化しています。(祖母の面倒を見たいという)要望をお伝えしても、一切認めて頂けません。私の進退は、極まっております。
伏して考えますに聖朝(晋帝国)は孝によって天下を治め、老齢者には、憐憫をかけています。まして臣は孤立して困窮した人間です。それに臣は若いとき偽朝(蜀漢)に仕え、郎の署を歴任し、官僚として栄達することを目指していました。名節に拘るものではありません(状況が許せば仕官に積極的な人間です)。いま臣は亡国の賤俘(賤しい捕虜)で、貧しく鄙陋の極致にありながら、みだりに抜擢され、過分な任命を受けています。(身に余る光栄に対し)どうして返答を先送りするものでしょう。ただ祖母の劉氏は日が西の山に沈むように、生命が尽きかけています。死に際になれば、朝に夕方のことを考えません。祖母がいなければ、今日の臣はおりませんでした。臣がいなければ、祖母は残りの寿命を終えられません。祖母と孫は結びつきが強く、見捨てることができません。臣密(わたくし)は今年四十四歳であり、祖母の劉氏は九十六歳です。臣が陛下のために尽力できる期間はまだ長いですが、祖母を扶養できる期間は短いのです。烏鳥の(雛が親鳥に報いる)心情を、成し遂げさせて下さい。
臣の(家庭の)辛苦は、ただ蜀の人士や二州の牧伯がよく知るだけでなく、皇天后土もよくご覧になっています。どうか陛下はわが誠意を憐み、わが願いを聞き届け、祖母劉氏の幸せを願い、残された命を生きさせて下さい。臣は生きては献身を惜しまず、死んでも結草(報恩)する所存です」と言った。
武帝はこれを見て、「(李密の)士人としての名望は、理由なきものではないのだな」と言った。こうして徴召を中止した。
のちに祖母の劉氏が亡くなり、喪が明けると、また洗馬として徴されて洛陽に至った。司空の張華が李密に、「安楽公(劉禅)はいかなる人物か」と質問した。李密は、「斉の桓公に次ぐと言えましょう」と言った。張華がその理由を聞くと、李密は答えて、「斉の桓公は管仲を得て(春秋の)覇者となり、豎刁を信任して死後に遺体を虫に覆われました。安楽公は諸葛亮を得て魏に対抗し、黄皓を信任して国家を失いました。このように成功と失敗が同じなのです」と言った。続いて張華は、「孔明の指導の言葉はどうして細々としてくどかったのか」と質問した。李密は、「むかし舜・禹・皋陶が(聖人のみで)語りあえば、簡潔な言葉で通じ合えました。『尚書』周書「大誥」篇を凡人と語り合うならば、(簡潔な表現では伝わらないので)細密にするべきです。孔明が言説を与えた相手はすべて彼よりも劣るので、指導の言葉はくどく細密になりました」と言った。張華はこれを善しとした。
(朝廷から)出て温令となったが、現地の従事を憎悪した。かつて人に書簡を送って、「慶父(魯の荘公の同母弟)が死ぬまで、魯の混乱は静まらなかった」と言った(温県の従事を魯の慶父に準えた)。従事はその書簡を司隷校尉に提出した。司隷校尉は温県で(為政が)清廉であり慎みがあったので、李密を弾劾しなかった。李密は才覚があり、朝廷の官への転入を希望したが、朝廷に人脈がないので実現しなかった。漢中太守に遷ると、活躍の場が与えられないので怨みを抱いた。武帝が東堂で見送りをするとき、李密に命じて詩を作らせた。詩の末尾の章で、「人には言葉があり、縁やゆかりがある。官僚となっても朝廷に居られないなら、田野に帰ったほうがよい。聖明な君主が上におられたら、こんなことを言うまいに」と当てこすった。武帝は怒り、ここにおいて都官従事が李密の免官を上奏した。のちに在家で亡くなった。二人の子がおり、李賜と李興である。
李賜は字を宗石といい、若いときから文を綴るのがうまく、「玄鳥賦」を作り、その詞はとても美しかった。州が別駕に辟し、秀才に挙げたが、着任する前に死んだ。李興は字を雋石といい、(兄の李賜と)同じく文才があった。刺史の羅尚が別駕に辟した。羅尚が李雄に攻撃されると、李興に(荊州の)鎮南将軍の劉弘のもとに赴いて救援を要請させた。李興は荊州に留まることを希望し、劉弘の参軍となって(益州に)帰らなかった。羅尚が劉弘に(李興の帰還を)催促すると、劉弘は李興から手版を奪って(益州に)帰らせた。李興が劉弘の府にいるとき、劉弘は諸葛孔明と羊叔子(羊祜)を顕彰する石碑を立てたが、李興に二つの碑文を作らせ、ともに筋の通った名文であった。
盛彥字翁子、廣陵人也。少有異才。年八歲、詣吳太尉戴昌、昌贈詩以觀之、彥於坐答之、辭甚慷慨。母王氏因疾失明、彥每言及、未嘗不流涕。於是不應辟召、躬自侍養、母食必自哺之。母既疾久、至于婢使數見捶撻。婢忿恨、伺彥暫行、取蠐螬炙飴之。母食以為美、然疑是異物、密藏以示彥。彥見之、抱母慟哭、絕而復蘇。母目豁然即開、從此遂愈。
彥仕吳、至中書侍郎。吳平、陸雲薦之於刺史周浚、本邑大中正劉頌又舉彥為小中正。太康中卒。
盛彥 字は翁子、廣陵の人なり。少くして異才有り。年八歲にして、吳の太尉の戴昌に詣り、昌 詩を贈りて以て之を觀しむに、彥 坐に於て之に答へ、辭 甚だ慷慨たり。母の王氏 疾に因りて失明し、彥 每に言及するに、未だ嘗て流涕せずんばあらず。是に於て辟召に應ぜず、躬自ら侍養し、母 食らへば必ず自ら之を哺す。母 既に疾むこと久しく、婢使を數々捶撻せらるに至る。婢 忿恨し、彥 暫らく行くを伺ひ、蠐螬を取りて炙りて之を飴す。母 食して以て美を為とし、然れども是れ異物なるを疑ひ、密かに藏して以て彥に示す。彥 之を見て、母を抱へて慟哭し、絕して復た蘇る。母の目 豁然として即ち開き、此れ從り遂に愈ゆ。
彥 吳に仕へ、中書侍郎に至る。吳 平らぐや、陸雲 之を刺史の周浚に薦め、本邑の大中正たる劉頌 又 彥を舉げて小中正と為す。太康中に卒す。
盛彦は字を翁子といい、広陵の人である。若くして秀でた才能があった。八歳のとき、呉の太尉の戴昌のもとを訪れた。戴昌が詩を盛彦に贈ると、盛彦は即座に返答の詩をつくり、その表現はとても意気盛んであった。母の王氏が病気で失明し、盛彦はつねにこれに言及すると、涙を流さないことがなかった。そこで辟召に応じず、自ら母の面倒をみて、母の食べ物は必ず自分が口に含んだ。母の病気が長引き、召使いをしばしば鞭で叩いた。召使いは怨みを抱き、盛彦が外出したのを見計らい、蠐螬(すくもむし)(地中の巨大ないもむし)をあぶって母に食わせた。母はこれを食べて美味いと思ったが、異物であることを疑い、ひそかに隠して盛彦に見せた。盛彦はこれを見て、母を抱いて慟哭し、気絶してまた意識を取り戻した。母の目が突然開いて、これにより眼病が完全に癒えた。
盛彦は三国呉に仕え、中書侍郎に至った。呉が平定されると、陸雲は彼を刺史の周浚に薦め、本邑の大中正である劉頌もまた盛彦を推挙して小中正とした。太康年間に亡くなった。
夏方字文正、會稽永興人也。家遭疫癘、父母伯叔羣從死者十三人。方年十四、夜則號哭、晝則負土、十有七載、葬送得畢、因廬于墓側、種植松柏、烏鳥猛獸馴擾其旁。
吳時拜仁義都尉、累遷五官中郎將。朝會未嘗乘車、行必讓路。吳平、除高山令。百姓有罪應加捶撻者、方向之涕泣而不加罪、大小莫敢犯焉。在官三年、州舉秀才、還家、卒、年八十七。
夏方 字は文正、會稽の永興の人なり。家 疫癘に遭ひ、父母伯叔羣從に死者は十三人なり。方 年十四にして、夜は則ち號哭し、晝は則ち土を負ひ、十有七載にして、葬送し畢はるを得て、因りて墓側に廬し、松柏を種植し、烏鳥猛獸 其の旁に馴擾す。
吳 時に仁義都尉に拜し、五官中郎將に累遷す。朝會に未だ嘗て乘車せず、行かば必ず路を讓る。吳 平らぐや、高山令に除せらる。百姓に罪有りて應に捶撻を加ふべき者は、方 之に向ひて涕泣して罪を加へず、大小 敢て焉を犯す莫し。官に在ること三年、州 秀才に舉ぐ。家に還りて、卒す。年八十七なり。
夏方は字を文正といい、会稽の永興の人である。家族に疫病が流行り、父母と伯叔や親族ら十三人が死んだ。夏方はこのとき十四歳で、夜に号哭し、昼は土を背負って(埋葬をして)、十七歳のとき、埋葬を終えることができ、墓のそばに草盧を立て、松柏を植えて、鳥や猛獣はそのそばに懐き集まった。
三国呉でこのとき仁義都尉を拝し、五官中郎将に累遷した。朝廷の会議に行くときに馬車に乗らず、進むときは必ず道を他人に譲った。呉が平定されると、高山令に任命された。民草で罪があって鞭打ちの刑に相当するものに、夏方は向きあって涙を流して刑罰を加えなかったので、民草は罪を犯さなくなった。県令を三年務め、州は秀才に挙げた。(辞職し)家に還って、亡くなった。八十七歳だった。
王裒字偉元、城陽營陵人也。祖修、有名魏世。父儀、高亮雅直、為文帝司馬。東關之役、帝問於眾曰、「近日之事、誰任其咎」。儀對曰、「責在元帥」。帝怒曰、「司馬欲委罪於孤邪」。遂引出斬之。
裒少立操尚、行己以禮、身長八尺四寸、容貌絕異、音聲清亮、辭氣雅正、博學多能、痛父非命、未嘗西向而坐、示不臣朝廷也。於是隱居教授、三徵七辟皆不就。廬于墓側、旦夕常至墓所拜跪、攀柏悲號、涕淚著樹、樹為之枯。母性畏雷、母沒、每雷、輒到墓曰、「裒在此」。及讀詩至「哀哀父母、生我劬勞」、未嘗不三復流涕、門人受業者並廢蓼莪之篇。
家貧、躬耕、計口而田、度身而蠶。或有助之者、不聽。諸生密為刈麥、裒遂棄之。知舊有致遺者、皆不受。門人為本縣所役、告裒求屬令、裒曰、「卿學不足以庇身、吾德薄不足以蔭卿、屬之何益。且吾不執筆已四十年矣」。乃步擔乾飯、兒負鹽豉草屩、送所役生到縣、門徒隨從者千餘人。安丘令以為詣己、整衣出迎之。裒乃下道至土牛旁、磬折而立、云、「門生為縣所役、故來送別」。因執手涕泣而去。令即放之、一縣以為恥。
鄉人管彥少有才而未知名、裒獨以為必當自達、拔而友之、男女各始生、便共許為婚。彥後為西夷校尉、卒而葬于洛陽、裒後更嫁其女。彥弟馥問裒、裒曰、「吾薄志畢願山藪、昔嫁姊妹皆遠、吉凶斷絕、每以此自誓。今賢兄子葬父于洛陽、此則京邑之人也、豈吾結好之本意哉」。馥曰、「嫂、齊人也、當還臨淄」。裒曰、「安有葬父河南而隨母還齊。用意如此、何婚之有」。
北海邴春少立志操、寒苦自居、負笈遊學、鄉邑僉以為邴原復出。裒以春性險狹慕名、終必不成。其後春果無行、學業不終、有識以此歸之。裒常以為人之所行期於當歸善道、何必以所能而責人所不能。
及洛京傾覆、寇盜蜂起、親族悉欲移渡江東、裒戀墳壟不去。賊大盛、方行、猶思慕不能進、遂為賊所害。
王裒 字は偉元、城陽營陵の人なり。祖の修、名 魏世に有り。父の儀、高亮にして雅直、文帝の司馬と為る。東關の役に、帝 眾に問ひて曰く、「近日の事、誰か其の咎を任(にな)ふ」と。儀 對へて曰く、「責は元帥に在り」と〔一〕。帝 怒りて曰く、「司馬 罪を孤に委せんと欲するか」と。遂に引き出だして之を斬る。
裒 少くして立ちて操尚たり、己を行ふに禮を以てし、身長は八尺四寸、容貌は絕異、音聲は清亮、辭氣は雅正なり。博學にして多能、父の非命を痛み、未だ嘗て西向して坐せず、朝廷に臣せざるを示す。是に於て隱居して教授し、三たび徵せられ七たび辟せらるるも皆 就かず。墓側に廬し、旦夕に常に墓に至りて拜跪する所なり。柏に攀りて悲號し、淚を涕ひて樹に著し、樹 之が為に枯る。母 性は雷を畏るれば、母 沒するや、雷ある每に、輒ち墓に到りて曰く、「裒 此に在り」と。及びて詩を讀みて至り「哀哀たる父母、我を生みて劬勞す」と。未だ嘗て三復して流涕せずんばあらず、門人 業を受くる者 並びに蓼莪の篇を廢す。
家 貧しく、躬ら耕し、口を計りて田し、身を度りて蠶す。或とき之を助くる者有るも、聽かず。諸生 密かに為に麥を刈るも、裒 遂に之を棄つ。知舊の遺るを致す者有るも、皆 受けず。門人 本縣の役する所と為り、裒に告げて令に屬することを求むるや、裒曰く、「卿の學 以て身を庇ふに足らず、吾が德 薄くして以て卿を蔭ふに足らず。之に屬するも何の益あらん。且つ吾 筆を執らざること已に四十年なり」と。乃ち步きて乾飯を擔ぎ、兒は鹽豉草屩を負ひ、役する所の生を送りて縣に到り、門徒の隨從する者千餘人なり。安丘令 己に詣ると以為ひ、衣を整へて出でて之を迎ふ。裒 乃ち道を下りて土牛の旁に至り、磬折して立ち、云く、「門生 縣の役する所と為る。故に來たりて送別す」と。因りて手を執りて涕泣して去る。令 即ち之を放ち、一縣 以て恥と為す。
鄉人の管彥 少くして才有るも未だ名を知られず、裒 獨り必ず當に自達すると以為ひ、拔して之を友とし、男女 各々始めて生まるるや、便ち共に許して婚を為す。彥 後に西夷校尉と為り、卒して洛陽に葬らるるも、裒 後に更に其の女を嫁す。彥の弟の馥 裒に問ふや、裒曰く、「吾が薄志は願ひを山藪を畢へん。昔 姊妹を嫁がすも皆 遠く、吉凶 斷絕す。每に此を以て自ら誓ふなり。今 賢兄の子 父を洛陽に葬り、此れ則ち京邑の人なり。豈に吾 好を結ぶの本意なるや」と。馥曰く、「嫂は、齊の人なり、當に臨淄に還るべし」と。裒曰く、「安んぞ父を河南に葬りて母に隨ひて齊に還ること有らん。意を用ふること此の如くんば、何ぞ婚すること之れ有あらん」と。
北海の邴春 少くして志操を立て、寒苦して自居し、笈を負ひて遊學し、鄉邑 僉 邴原 復た出づと以為ふ。裒 以へらく春の性 險狹にして名を慕ひ、終に必ず成らずと。其の後 春 果たして無行にして、學業 終へず、有識 此を以て之に歸す。裒 常に以為へらく人の行ふ所 當に善道に歸すべきを期す、何ぞ必ずしも能くする所を以て人の能はざる所を責めんやと。
洛京 傾覆し、寇盜 蜂起するに及び、親族 悉く移りて江東を渡らんと欲するも、裒 墳壟を戀ひて去らず。賊 大いに盛り、方に行かんとするに、猶ほ思慕して能く進まず、遂に賊の害する所と為る。
〔一〕『春秋左氏伝』宣公 伝十二年に、「韓獻子謂桓子曰、彘子以偏師陷。子罪大矣。子為元帥。師不用命。誰之罪也。失屬亡師。為罪已重」とある。敗戦は「元帥」の責任とされ、王儀の発言はこれを踏まえている。
王裒は字を偉元といい、城陽営陵の人である。祖父の王修は、魏代に名声があった。父の王儀は、高く明らかで正直で、文帝(司馬昭)の司馬となった。東関の戦役で(敗北すると)、文帝は人々に、「今回のことは、誰の責任だろうか」と言った。王儀は、「責任は元帥(司馬昭)にあります」と言った。文帝は怒って、「司馬(王儀)は罪を私になすりつけるのか」と言った。(会議の席から)引きずり出して斬った。
王裒は若いときから志操があり、行動は礼に則り、身長は八尺四寸、容貌は絶異で、声は清らかに響き、発言は公正であった。博学で多能、父が不当に(司馬昭に)殺されたを悲痛に思い、かつて西向きに座ったことがなく、(司馬氏の)朝廷に臣従しない意思を示した。隠棲して学問を教え、三たび徴召され七たび辟召されたが拒絶を貫いた。墓のそばに草盧を作り、朝夕に墓の前で拝跪した。柏に登って声を揚げて泣き、払った涙が柏の木について、柏の木は枯れてしまった。母が雷を恐がったので、母が亡くなると、雷が鳴るたび、墓の側にいって、「私はここにいます」と慰めた。『毛詩』(小雅 谷風之什 蓼莪)の「哀哀たる父母、我を生みて劬勞す」を読むたび、三回繰り返して泣かないことがなく、王裒の門人は蓼莪の篇の部分を取り除いた。
家が貧しく、自ら耕した。食べる分だけ栽培し、着る分だけ養蚕をした。援助を申し出るものがいたが、拒否した。門生らが王裒のために麦を刈ったが、王裒はそれを捨てた。旧知の友が贈り物をしたが、すべて拒絶した。門人が当県(安丘県か)で役人になり、県令への推薦状を書いてほしいと王裒に頼んだ。王裒は、「お前の学識では自分自身を守れず、私の浅い徳ではお前を庇ってやれない。推薦状を書いても何の意味があろうか。しかも私は筆を持たなくなって四十年が経っているのだ」と言った。歩いて乾飯をかつぎ、子供は塩と味噌と草履をせおった。就職した門生を見送って県の役所に行き、このとき随従する門徒は千人を超えた。安丘令は(王裒が)自分に会いに来たと勘違いし、衣服を整えて出迎えた。王裒は道から外れて土牛の傍らに立ち、腰を曲げて礼をし、「門生が就職するので、特別に別れを告げにきた」と言った。門人の手を取って涙で別れを告げて去った。安丘令は出迎えの準備をやめ、県全体でこれを恥とした。
同郷(斉方面の城陽)出身の管彦は若くして才能があったが知名度がなかった。王裒はきっと管彦が世に出ると考え、見出して友となり、両家に男子と女子が生まれると、姻戚を約束した。管彦はのちに西夷校尉となり、死ぬと(管彦の子は)管彦を洛陽に葬ったが、王裒は(約束どおり)管彦の子に娘を嫁がせた。管彦の弟の管馥がその理由を王裒に聞くと、王裒は、「私は山藪で(在野で仕官せず)一生を終えられれば十分である。むかし姉妹を嫁がせたが住居が遠く離れ、音信不通になった。いま賢兄の子(管彦の子)は父を洛陽に葬ったので、管氏は洛陽の人間ということになった。これが私が婚姻を結ぶ本意なのだ」と言った。管馥は、「あによめ(管彦の子の母)は、斉人なので、臨淄に葬るでしょう」と言った。王裒は、「(管彦の子は)どうして父(管彦)を河南(洛陽)に葬っておきながら(父の墓を捨てて)母に従って故郷の斉(臨菑)に帰るだろうか。(管彦の子が洛陽に残ると)思ったからこそ、婚姻を重ねたのだ」と言った。
北海の邴春は若いときから志操を立て、寒さに耐えて苦学し、書箱を背負って遊学し、郷里の人々はみな(後漢末の)邴原の再来に違いないと言った。王裒は邴春が狭量であり名声を望むので、大成しないと考えた。のちに邴春は果たして身を持ち崩し、学業が成就しなかった。人々は王裒の鑑識眼に感心した。王裒はつねに「人の行動が良い方面に向くことを期待する、どうして自分ができることを基準にして他人のできないことを責めようか」と言った。
洛陽が傾覆し、盗賊が蜂起すると、親族はみな江東に移住しようと言ったが、王裒は(洛陽の)墳墓から離れたくないと言って去らなかった。賊の勢力が盛んになってから、移住を考えたが、それでも墳墓のことを思って進みが遅く、賊に殺害されてしまった。
許孜字季義、東陽吳寧人也。孝友恭讓、敏而好學。年二十、師事豫章太守會稽孔沖、受詩・書・禮・易及孝經・論語。學竟、還鄉里。沖在郡喪亡、孜聞問盡哀、負擔奔赴、送喪還會稽、蔬食執役、制服三年。俄而二親沒、柴毀骨立、杖而能起、建墓于縣之東山、躬自負土、不受鄉人之助。或愍孜羸憊、苦求來助、孜晝則不逆、夜便除之。每一悲號、鳥獸翔集。孜以方營大功、乃棄其妻、鎮宿墓所、列植松柏亙五六里。時有鹿犯其松栽、孜悲歎曰、「鹿獨不念我乎」。明日、忽見鹿為猛獸所殺、置於所犯栽下。孜悵惋不已、乃為作冢、埋於隧側。猛獸即於孜前自撲而死、孜益歎息、又取埋之。自後樹木滋茂、而無犯者。積二十餘年、孜乃更娶妻、立宅墓次、烝烝朝夕、奉亡如存、鷹雉棲其梁、簷鹿與猛獸擾其庭圃、交頸同遊、不相搏噬。
元康中、郡察孝廉、不起、巾褐終身。年八十餘、卒于家。邑人號其居為孝順里。
咸康中、太守張虞上疏曰、「臣聞聖賢明訓存乎舉善、褒貶所興、不遠千載。謹案所領吳寧縣物故人許孜、至性孝友、立節清峻、與物恭讓、言行不貳。當其奉師、則在三之義盡。及其喪親、實古今之所難。咸稱殊類致感、猛獸弭害。雖臣不及見、然備聞斯語、竊謂蔡順・董黯無以過之。孜沒積年、其子尚在、性行純慤、今亦家於墓側。臣以為孜之履操、世所希逮、宜標其令跡、甄其後嗣、以酬既往、以奬方來。陽秋傳曰、『善善及其子孫。』臣不達大體、請臺量議」。疏奏、詔旌表門閭、蠲復子孫。其子生亦有孝行、圖孜像於堂、朝夕拜焉。
許孜 字は季義、東陽の吳寧の人なり。孝友にして恭讓、敏にして學を好む。年二十のとき、豫章太守たる會稽の孔沖に師事し、詩・書・禮・易及び孝經・論語を受く。學び竟はるや、鄉里に還る。沖 郡に在りて喪亡するや、孜 聞問して哀を盡し、負擔して奔り赴き、喪を送りて會稽に還り、蔬食して役を執り、制服すること三年なり。俄かにして二親 沒し、柴毀して骨立し、杖つきて能く起つ、墓を縣の東山に建つるに、躬自ら土を負ひ、鄉人の助を受けず。或ひと孜の羸憊を愍み、苦して來助せんと求むるも、孜 晝は則ち逆らはざるも、夜は便ち之を除く。一たび悲號する每に、鳥獸 翔集す。孜 方營の大功なるを以て、乃ち其の妻を棄て、宿を墓所に鎮し、松柏を列植すること亙ひに五六里なり。時に鹿 其の松栽を犯すもの有るや、孜 悲歎して曰く、「鹿 獨り我を念はざるや」と。明日に、忽ち見ゆ鹿 猛獸の殺す所と為り、犯す所の栽の下に置くを。孜 悵惋して已まず、乃ち為(ため)に冢を作り、隧の側に埋む。猛獸 即ち孜の前に於て自ら撲して死し、孜 益々歎息し、又 取りて之を埋む。後より樹木 滋茂し、而して犯す者無し。積むこと二十餘年、孜 乃ち更めて妻を娶り、宅を墓次に立て、烝烝朝夕、亡に奉ることを存するが如く、鷹雉 其の梁に棲み、簷鹿 猛獸と與に其の庭圃を擾がし、頸を交へて同に遊び、相 搏噬せず。
元康中に、郡 孝廉に察するも、起たず、巾褐にて身を終ふ。年八十餘にして、家に卒す。邑人 其の居を號して孝順里と為す。
咸康中に、太守の張虞 上疏して曰く、「臣 聞くならく、聖賢の明訓 善を舉ぐるに存し、褒貶 興る所、千載より遠からず。謹みて案ずく領する所の吳寧縣の物故せし人たる許孜、至性孝友にして、節を立てて清峻、物に與て恭讓たり、言行 貳あらず。當に其れ師を奉ずれば、則ち三の義盡に在るべし。其の親を喪ふに及び、實に古今の難しとする所なり。咸 稱すらく殊類すら感を致し、猛獸 害すら弭む。臣 見るに及ばざると雖も、然れども備て斯の語を聞き、竊かに蔡順・董黯すら以て之に過ぐる無しと謂ふ。孜 沒して積年なるも、其の子 尚ほ在り、性行は純慤にして、今 亦た墓側に家す。臣 以為へらく孜の履操、世の希に逮ぶ所なれば、宜しく其の令跡を標して、其の後嗣を甄して、以て既往に酬ひて、以て方來を奬むべし。陽秋傳に曰く、『善善は其の子孫に及ぶ』と。臣 大體に達せざるも、臺量の議を請ふ」と。疏 奏せられ、詔して門閭を旌表し、子孫を蠲復す。其の子の生も亦た孝行有り、孜の像を堂に圖き、朝夕に焉に拜す。
許孜は字を季義といい、東陽の呉寧の人である。孝友でへりくだって、明敏で学問を好んだ。二十歳のとき、豫章太守である会稽の孔沖に師事し、『詩』『書』『礼』『易』及び『孝経』『論語』を伝授された。学び終えると、郷里に帰った。孔沖が任地の豫章郡で亡くなると、許孜は弔問して哀を尽くし、荷物を担いで駆けつけ、遺体を(孔沖の故郷の)会稽まで運んで帰り、粗末な食事で運搬に従事し、三年の服喪をした。にわかに両晋が亡くなり、枯れ木のように痩せ衰え、杖がないと立てなかった。墓を県の東山に建てるとき、自ら土を担ぎ、郷里の人の助けを受けなかった。あるひとが許孜の疲弊ぶりを憐れみ、手伝おうとした。許孜は昼は助けを受けたが、夜には手助けされた土を除いた。悲しみ泣き叫ぶ度と、いつも鳥獣が集まってきた。許孜は墓地の建立が大事業なので、妻を捨て、墓地に寝泊まりし、松柏を五六里にわたって植えた。あるとき鹿が育成中の松を壊すと、許孜は悲嘆して、「鹿ですら私のことを思ってくれない」と言った。翌日、猛獣(虎)が鹿を殺して、松の根元に置いているのを見つけた。許孜はひどく嘆き悲しみ、鹿のために墓を作り、(垣根の)みぞの側に埋めた。猛獣(虎)は許孜の前で自分を殴って死に、許孜ますます嘆息し、遺体を埋めてやった。こののち樹木が生長し、破壊するものがいなかった。二十年あまりで(両親の陵墓が)完成し、許孜はあらためて妻をめとり、家を墓のそばに立て、朝夕に祭祀をおこない、生前と同様に両親に仕え、鷹や雉はその梁に棲みつき、鹿と猛獣はその庭園におり、首を交えて遊び、互いに噛まなかった。
元康年間に、郡が許孜を孝廉に察挙したが、起家せず、巾褐(庶人)で人生を過ごした。八十歳あまりで、家で亡くなった。同邑のひとはみな許孜の住み処を孝順里と呼んだ。
咸康年間に、(東陽)太守の張虞が上疏して、「臣が聞きますに、聖賢の明らかな教えは善行を挙げることであり、褒貶の評価は、千年も経たずに定まります。謹みて考えますにこの郡の呉寧県の故人である許孜は、性が孝友の至りであり、節義があって清らかで、物事に関わって献上し、言行が一致していました。学問の師(豫章太守の孔沖)に対して、最大限の恩返しをしました。両親を失ったときの服喪は、古来より難しいことです。みなが言うには禽獣にすら(許孜の孝心に)感応し、妨害を止めたとのこと。臣が見たわけではありませんが、この伝聞に触れて、ひそかに蔡順・董黯すら許孜を超えることはないと思います。許孜は死去して年数が経っていますが、その子は健在であり、性質は慎み深く、今も墓のそばに住んでいます。臣が思いますに許孜が行った節義は、世にも稀なものですから、その事績を表彰し、その後嗣を養って、過去の善行に報い、将来の手本とすべきです。『春秋(公羊)伝』(昭公二十年)に、『善善は其の子孫に及ぶ』とあります。臣は本質を分かりかねますが、朝廷で議論して下さい」と言った。上疏して審議され、詔して家門を旌表(表彰)し、子孫を免税とした。許孜の子の許生にも孝の行いがあり、許孜の像を堂に描き、朝晩に拝跪した。
庾袞字叔褒、明穆皇后伯父也。少履勤儉、篤學好問、事親以孝稱。咸寧中、大疫、二兄俱亡、次兄毗復殆、癘氣方熾、父母諸弟皆出次於外、袞獨留不去。諸父兄強之、乃曰、「袞性不畏病」。遂親自扶持、晝夜不眠、其間復撫柩哀臨不輟。如此十有餘旬、疫勢既歇、家人乃反、毗病得差、袞亦無恙。父老咸曰、「異哉此子。守人所不能守、行人所不能行、歲寒然後知松柏之後凋、始疑疫癘之不相染也」。
初、袞諸父並貴盛、惟父獨守貧約。袞躬親稼穡、以給供養、而執事勤恪、與弟子樹籬、跪以授條。或曰、「今在隱屏、先生何恭之過」。袞曰、「幽顯易操、非君子之志也」。父亡、作筥賣以養母。母見其勤、曰、「我無所食」。對曰、「母食不甘、袞將何居」。母感而安之。袞前妻荀氏、繼妻樂氏、皆官族富室、及適袞、俱棄華麗、散資財、與袞共安貧苦、相敬如賓。母終、服喪居于墓側。
歲大饑、藜羹不糝、門人欲進其飯者、而袞每曰已食、莫敢為設。及麥熟、穫者已畢、而採捃尚多、袞乃引其羣子以退、曰、「待其間」。及其捃也。不曲行、不旁掇、跪而把之、則亦大獲。又與邑人入山拾橡、分夷嶮、序長幼、推易居難、禮無違者。或有斬其墓柏、莫知其誰、乃召鄰人集于墓而自責焉、因叩頭泣涕、謝祖禰曰、「德之不修、不能庇先人之樹、袞之罪也」。父老咸亦為之垂泣、自後人莫之犯。撫諸孤以慈、奉諸寡以仁、事加於厚而教之義方、使長者體其行、幼者忘其孤。孤甥郭秀、比諸子姪、衣食而每先之。孤兄女曰芳、將嫁、美服既具、袞乃刈荊苕為箕箒、召諸子集之于堂、男女以班、命芳曰、「芳乎。汝少孤、汝逸汝豫、不汝疪瑕。今汝適人、將事舅姑、灑掃庭內、婦之道也、故賜汝此。匪器之為美、欲溫恭朝夕、雖休勿休也」。而以舊宅與其長兄子賡・翕。及翕卒、袞哀其早孤、痛其成人而未娶、乃撫柩長號、哀感行路、聞者莫不垂涕。
初、袞父誡袞以酒、每醉、輒自責曰︰「余廢先父之誡、其何以訓人」。乃於父墓前自杖三十。鄰人褚德逸者、善事其親、老而不倦、袞每拜之。嘗與諸兄過邑人陳準兄弟、諸兄友之、皆拜其母、袞獨不拜。準弟徽曰、「子不拜吾親何」。袞曰、「未知所以拜也。夫拜人之親者、將自同於人之子也、其義至重、袞敢輕之乎」。遂不拜。準・徽歎曰、「古有亮直之士、君近之矣。君若當朝、則社稷之臣歟。君若握兵、臨大節、孰能奪之。方今徵聘、君實宜之」。於是鄉黨薦之、州郡交命、察孝廉、舉秀才・清白異行、皆不降志、世遂號之為異行。
元康末、潁川太守召為功曹、袞服造役之衣、杖鍤荷斧、不俟駕而行、曰、「請受下夫之役」。太守飾車而迎、袞逡巡辭退、請徒行入郡、將命者遂逼扶升車、納於功曹舍。既而袞自取己車而寢處焉、形雖恭而神有不可動之色。太守知其不屈、乃歎曰、「非常士也、吾何以降之」。厚為之禮而遣焉。
齊王冏之唱義也、張泓等肆掠于陽翟、袞乃率其同族及庶姓保于禹山。是時百姓安寧、未知戰守之事、袞曰、「孔子云、『不教而戰、是謂棄之。』」乃集諸羣士而謀曰、「二三君子相與處於險、將以安保親尊、全妻孥也。古人有言、『千人聚而不以一人為主、不散則亂矣。』將若之何」。眾曰、「善。今日之主非君而誰」。袞默然有間、乃言曰、「古人急病讓夷、不敢逃難、然人之立主、貴從其命也」。乃誓之曰、「無恃險、無怙亂、無暴鄰、無抽屋、無樵採人所植、無謀非德、無犯非義、勠力一心、同恤危難」。眾咸從之。於是峻險阨、杜蹊徑、修壁塢、樹藩障、考功庸、計丈尺、均勞逸、通有無、繕完器備、量力任能、物應其宜、使邑推其長、里推其賢、而身率之。分數既明、號令不二、上下有禮、少長有儀、將順其美、匡救其惡。及賊至、袞乃勒部曲、整行伍、皆持滿而勿發。賊挑戰、晏然不動、且辭焉。賊服其慎而畏其整、是以皆退、如是者三。時人語曰、「所謂臨事而懼・好謀而成者、其庾異行乎」。
及冏歸于京師、踰年不朝、袞曰、「晉室卑矣、寇難方興」。乃攜其妻子適林慮山、事其新鄉如其故鄉、言忠信、行篤敬。比及朞年、而林慮之人歸之、咸曰庾賢。及石勒攻林慮、父老謀曰、「此有大頭山、九州之絕險也。上有古人遺迹、可共保之」。惠帝遷于長安、袞乃相與登于大頭山而田於其下。年穀未熟、食木實、餌石蘂、同保安之、有終焉之志。及將收穫、命子怞與之下山、中塗目眩瞀、墜崖而卒。同保赴哭曰、「天乎。獨不可舍我賢乎」。時人傷之曰、「庾賢絕塵避地、超然遠迹、固窮安陋、木食山棲、不與世同榮、不與人爭利、不免遭命、悲夫」。
袞學通詩書、非法不言、非道不行、尊事耆老、惠訓蒙幼、臨人之喪必盡哀、會人之葬必躬築、勞則先之、逸則後之、言必行之、行必安之。是以宗族鄉黨莫不崇仰、門人感慕、為之樹碑焉。
有四子、怞・蔑・澤・捃。在澤生、故名澤、因捃生、故曰捃。蔑後南渡江、中興初、為侍中。蔑生願、安成太守。
庾袞 字は叔褒、明穆皇后の伯父なり。少くして勤儉を履み、篤學好問して、親に事へて孝を以て稱せらる。咸寧中に、大いに疫あり、二兄 俱に亡し、次兄の毗 復た殆ふく、癘氣 方に熾なるや、父母諸弟 皆 出でて外に次するも、袞のみ獨り留まりて去らず。諸父兄 之に強ふるに、乃ち曰く、「袞の性 病を畏れず」と。遂に親自ら扶持し、晝夜 眠らず、其の間 復た柩を撫して哀臨 輟まず。此の如きこと十有餘旬にして、疫の勢 既に歇し、家人 乃ち反り、毗の病 差ゆるを得て、袞も亦た恙が無し。父老 咸 曰く、「異なるかな此の子は。人の能く守ざらる所を守り、人の能く行はざる所を行ふ。歲寒にして然る後に松柏の後凋するを知り、始めて疑ふ疫癘の相 染せざるを」と。
初め、袞の諸父 並びに貴盛たりて、惟だ父のみ獨り貧約を守る。袞 躬親ら稼穡して、以て供養に給し、而れども事を執りて勤恪にして、弟子と與に籬を樹つるに、跪きて以て條を授く。或ひと曰く、「今 隱屏に在り、先生 何ぞ恭たることの過ぎたる」と。袞曰く、「幽顯に操を易ふるは、君子の志に非ざるなり」と。父 亡し、筥を作りて賣りて以て母を養ふ。母 其の勤むるを見て、曰く、「我 食らふ所無し」と。對へて曰く、「母 食らひて甘せずんば、袞 將た何れに居らん」と。母 感じて之を安んず。袞の前妻の荀氏、繼妻の樂氏、皆 官族の富室にして、袞に適するに及び、俱に華麗を棄て、資財を散じ、袞と與に共に貧苦に安んじ、相 敬すること賓の如し。母 終はるや、服喪して墓側に居る。
歲 大饑のとき、藜羹 糝せず、門人 其の飯を進めんと欲する者あり、而れども袞 每に曰はく已に食へり、敢て為に設くること莫れと。麥 熟するに及び、穫(か)る者 已に畢はり、而れども採り捃(ひろ)ふもの尚 多く、袞 乃ち其の羣子を引きて以て退き、曰く、「其の間(ひま)あるを待て」と。其の捃(ひろ)ふに及ぶや、曲行せず、旁掇せず、跪きて之を把りて、則ち亦た大いに獲れり。又 邑人と與に入山して橡を拾ひ、夷嶮を分かち、長幼を序して、易を推して難に居り、禮ありて違ふ者無し。或とき其の墓柏を斬るもの有り、其の誰やを知る莫し。乃ち鄰人を召して墓に集はして自ら焉を責め、因りて叩頭し泣涕し、祖禰に謝して曰く、「德の修めざれば、先人の樹を庇ふ能はざるは、袞の罪なり」と。父老 咸 亦た之の為に垂泣し、自後 人 之を犯すもの莫し。諸孤を撫するに慈を以てし、諸寡を奉るに仁を以てす。事 厚に加へて之に義方を教へて、長者をして其の行を體し、幼者をして其の孤を忘れしむ。孤甥の郭秀、諸子姪に比し、衣食あらば每に之を先とす。孤兄女を芳と曰ひ、將に嫁がんとするに、美服 既に具はり、袞 乃ち荊苕を刈りて箕箒を為り、諸子を召して之を堂に集はしめ、男女 班を以て、芳に命じて曰く、「芳や。汝 少くして孤にして、汝 逸して汝 豫めども、汝を疪瑕とせず。今 汝 人に適き、將に舅姑に事へんとす。庭內を灑掃し、婦の道なり。故に汝に此を賜ふ。器の美とする為に匪ず。朝夕に溫恭せんと欲し、休むと雖も休む勿かれ」と。而して舊宅を以て其の長兄の子たる賡・翕に與ふ。翕 卒するに及び、其の早くに孤なるを袞哀して、其の成人にして未だ娶らざるを痛み、乃ち柩を撫して長號し、哀は行路に感じ、聞く者 垂涕せざる莫し。
初め、袞の父 袞に誡むるに酒を以てせば、醉ふ每に、輒ち自ら責めて曰く、「余 先父の誡を廢す。其れ何ぞ以て人に訓へん」と。乃ち父の墓前に於て自ら杖すること三十。鄰人の褚德逸といふ者、善く其の親に事へ、老ひても倦まず、袞 每に之に拜す。嘗て諸兄と與に邑人の陳準兄弟を過るに、諸兄 之を友とし、皆 其の母に拜するも、袞のみ獨り拜せず。準の弟の徽曰く、「子 吾が親に拜せざるは何ぞや」と。袞曰く、「未だ拜する所以を知らざるなり。夫れ人の親に拜するは、將に自づから人の子と同じからんや。其の義 至重にして、袞 敢て之を輕んぜんや」と。遂に拜せず。準・徽 歎じて曰く、「古に亮直の士有り、君 之に近からん。君 若し朝に當たらば、則ち社稷の臣たらんか。君 若し兵を握らば、大節に臨み、孰れか能く之を奪はん。方今 徵聘あれば、君 實に宜しく之くべし」と。是に於て鄉黨 之を薦め、州郡 交々命じ、孝廉に察し、秀才・清白異行に舉ぐるも、皆 志を降さず。世 遂に之を號して異行と為す。
元康の末に、潁川太守 召して功曹と為し、袞 造役の衣を服て、鍤を杖き斧を荷ひ、駕を俟たずして行き、曰く、「下夫の役を受けんことを請ふ」と。太守 飾車もて迎ふるや、袞 逡巡して辭退し、徒行して郡に入るを請ふ。命を將(にな)ふ者 遂に逼りて扶けて升車せしめ、功曹の舍に納る。既にして袞 自ら己の車を取りて寢處す。形は恭と雖も而れども神は動かす可からざるの色有り。太守 其の不屈を知り、乃ち歎じて曰く、「非常の士なり、吾 何を以て之を降さん」と。厚く之が為に禮して遣る。
齊王冏の義を唱ふるや、張泓ら肆に陽翟を掠め、袞 乃ち其の同族及び庶姓を率ゐて禹山に保す。是の時 百姓 安寧にして、未だ戰守の事を知らず。袞曰く、「孔子云はく、『教へざるもて戰はば、是れ之を棄つと謂ふ』と」と。乃ち諸羣士を集めて謀りて曰く、「二三の君子 相 與に險に處り、將に以て親尊を安保し、妻孥を全せん。古人に言有り、『千人 聚まりて一人を以て主と為さずんば、散ぜずれども則ち亂る』と。將た之を若何せん」と。眾曰く、「善し。今日の主 君に非ずんば誰ぞ」と。袞 默然として間(しばらく)有りて、乃ち言ひて曰く、「古人 病急なれば夷を讓り、敢て難を逃れず。然して人の主を立つるは、其の命に從ふを貴ぶなり」と。乃ち之に誓ひて曰く、「險を恃むこと無く、亂を怙(たの)むこと無く、鄰を暴すること無く、屋を抽くこと無く、人の植ふる所を樵採すること無く、非德を謀ること無く、非義を犯すこと無く、力を勠はせ心を一にし、同に危難を恤へよ」と。眾 咸 之に從ふ。是に於て險阨を峻にし、蹊徑を杜ざし、壁塢を修め、藩障を樹て、功庸を考へ、丈尺を計り、勞逸を均しくし、有無を通じ、器備を繕完し、力を量りて能を任じ、物は其の宜しきに應じ、邑をして其の長を推さしめ、里をして其の賢を推さしめ、而して身ら之を率ゐる。分數 既に明らかにして、號令に二あらず、上下に禮有り、少長に儀有り、將に其の美に順ひ、其の惡を匡救す。賊 至るに及び、袞 乃ち部曲を勒し、行伍を整へ、皆 滿を持じて發する勿し。賊 挑戰するも、晏然として動かず、且くして焉を辭す。賊 其の慎めるに服して其の整へるを畏れ、是を以て皆 退き、是の如き者 三あり。時人 語りて曰く、「所謂 事に臨みて而懼れ、謀を好みて成す者は、其れ庾異行ならんか」と。
冏 京師に歸るに及び、年を踰えても朝せず。袞曰く、「晉室 卑なり、寇難 方に興らん」と。乃ち其の妻子を攜さへて林慮山に適き、其の新鄉に事すること其の故鄉の如くし、忠信を言ひ、篤敬を行ふ。朞年に及ぶ比、林慮の人 之に歸し、咸 庾賢と曰ふ。石勒 林慮を攻むるに及び、父老 謀りて曰く、「此に大頭山有り、九州の絕險なり。上に古人の遺迹有り、共に之を保つ可し」と。惠帝 長安に遷るや、袞 乃ち相 與に大頭山に登りて其の下に於て田す。年穀 未だ熟らざるに、木の實を食ひ、石蘂を餌して、同に之を保安し、終焉の志有り。將に收穫せんとするに及び、子の怞に命じて之と與に下山し、中塗に目 眩瞀し、崖に墜ちて卒す。同保 赴きて哭して曰く、「天よ。獨り我が賢を可つるべけんや」と。時人 之を傷みて曰く、「庾賢 塵を絕ち地を避け、超然として迹を遠ざく。窮を固くし陋を安んじ、木食して山棲し、世と榮を同にせず、人と利を爭はず。遭命を免れず、悲しきかな」と。
袞 學は詩書に通じ、法に非ざれば言はず、道に非ざれば行はず、耆老に尊事し、蒙幼を惠訓し、人の喪に臨まば必ず哀を盡くし、人の葬に會はば必ず躬ら築き、勞をば則ち之を先にし、逸をば則ち之を後にし、言はば必ず之を行ひ、行はば必ず之を安んず。是を以て宗族鄉黨 崇仰せざる莫く、門人 感慕し、之が為に碑を樹てり。
四子有り、怞・蔑・澤・捃なり。澤に在りて生まるれば、故に澤と名づけ、捃に因りて生まるれば、故に捃と曰ふ。蔑 後に江を南渡し、中興の初めに、侍中と為る。蔑 願を生み、安成太守なり。
庾袞は字を叔褒といい、明穆皇后の伯父である。若くして倹約に努め、学問を好んで、親への孝を称えられた。咸寧年間に、疫病が流行り、二人の兄が死に、その下の兄の庾毗も危うく、病気がひどくなると、父母と弟たちは家の外に寝泊まりしたが、庾袞だけが室内に残って去らなかった。父たちは家から出そうとしたが、庾袞は、「私は病気が恐くないのです」と言った。自分で看病し、昼夜とも眠らず、看病のあいまも二人の兄の棺を撫でて死を悲しんだ。百日あまりで、病気が収束に向かい、家人は帰宅し、庾毗の病気は回復し、庾袞も健康であった。父老はみな、「不思議な子だ、人が守れないことを守り、できないことをやる。気候が寒冷になっても(常緑樹の)松柏は最後まで枯れないが、庾袞も最後まで感染しないようだ」と言った。
これよりさき、庾袞のおじたちは(東晋の外戚として)権勢が盛んであったが、ただ父だけが倹約を守っていた。庾袞はみずから稼いで、父の面倒をみて、仕事ぶりは勤勉であった。弟子とともに垣根を作るとき、跪いて枝を手渡した。あるひとは、「いま垣根で誰にも姿を見られません、先生(庾袞)はどうしてそんなに恭しいのですか」と言った。庾袞は、「他人の目の有無で行動を変えるのは、君子の志ではない」と言った。父が亡くなると、竹かごを作り売って母を養った。母が庾袞の忙しさを見て、「私は(美味いものを)食べません」と言った。庾袞は、「母にうまい食事をさせなければ、私は心の置き所がありません」と言った。母は感じ入って扶養を受けた。庾袞の前妻の荀氏、継妻の楽氏は、どちらも富裕な貴族の出身だが、庾袞に嫁ぐと、華麗なものを捨て、資産を散じ、庾袞とともに貧困に苦しんだが、互いに賓客のように尊重しあった。母が亡くなると、服喪して墓の側に住んだ。
ひどい飢饉の年に、野菜のあつものに米を入れなかった。門人が米を庾袞に進めると、庾袞は「もう食べた」と言って、米の給侍は不用だと言った。麦が熟すると、刈り取りが終わった後にも、こぼれた粒を拾うものが多かった。庾袞は子供たちを下がらせ、「彼らが終わるのを待て」と言った。庾袞が拾う順番になると、まっすぐ進んで、蛇行せず、横に逸れて拾わず、跪いて拾ったが、それでも大量に麦が集まった。同邑のひとと山に入って橡(とち)を拾うと、地形の険しさで区域を分け、年齢によって担当を分け、平坦な場所を譲って(庾袞が)険しい場所に行き、礼に則ったので誰も逆らわなかった。
あるとき墓の柏を斬った者がおり、犯人が分からなかった。庾袞は隣人を集めて墓前で自らを責め、叩頭して泣涕し、祖先に詫びて、「私の徳が足りず、祖先の墓の樹木を守れませんでした。これは私の責任です」と言った。父老はもらい泣きをした。それ以降は木が切られなくなった。親を失ったものを慈愛の心で養い、夫を失ったものを仁愛の心で支えた。手厚い保護だけでなく正しい教導も施し、成人には徳を身につけさせ、子供には親を失った悲しみを忘れさせた。父を亡くした外甥の郭秀を、庾氏の子弟と同列に扱い、衣食を優先して与えた。亡兄の娘(めい)は庾芳という名であった。彼女が嫁ぐとき、嫁入りの美しい衣装を揃えた上で、庾袞は自ら荊の穂を刈って箒をつくった。子供たちを室内に集め、男女を年齢順に並んで座らせ、庾芳に、「芳や。お前は幼いときに父を失った。お前が今日まで穏やかに過ごしたことは、お前の失点ではない。いま他人に嫁ぎ、相手の父母に仕えることになる。庭内を掃き清めることが、婦人の道である。ゆえにこの箒を授けよう。道具は綺麗なままではいけない。朝夕に嫁ぎ先に謹んで仕え、少しも安楽に過ごしてはいけない」と言った。めいの旧宅をその長兄の子(庾袞の従子)である庾賡と庾翕に与えた。庾翕が亡くなると、庾袞は彼が幼いときに父を亡くし、成人後に未婚であったことを悲しみ、柩を撫でて長く泣き、哀痛は通行人にも伝わり、涙を流さないものはいなかった。
これよりさき、庾袞の父は飲酒を戒めたので、庾袞は酔うたびに、自分を罰して、「私は父の教えを破ってしまった。どうして他人を教導できようか」と言った。父の墓前で杖で自分を三十回叩いた。隣人に褚徳逸という人がおり、きちんと親に仕え、老いても熱心だったので、庾袞は敬服していた。かつて兄たちと同邑の人の陳準兄弟のもとを訪れると、兄たちは陳準の友となり、みな陳準の母に目通りしたが、庾袞だけが挨拶しなかった。陳準の弟の陳徽は、「あなたが私の親に挨拶しないのはなぜだ」と言った。庾袞は、「まだ挨拶をする理由がないのだ。他人の親に拝謁すれば、(自分の親を裏切って)他人の子になるのも同前だ。その義は極めて重く、私はこの義を軽んじないだけだ」と言った。こうして挨拶をしなかった。陳準と陳徽の兄弟は感嘆し、「いにしえの亮直の士は、きみ(庾袞)と同じであったに違いない。きみがもし朝廷に仕えたら、社稷の臣になるだろう。きみがもし軍隊を指揮したら、大戦の決断において、誰がきみに逆らえるだろう。いまもし朝廷から徴召されたら、是非とも仕官すべきだ」と言った。こうして郷党の人々は就官をすすめ、州郡が交々任命し、孝廉に察挙し、秀才・清白異行に挙げたが、庾袞は屈服しなかった。こうして世では庾袞のことを異行と呼んだ。
元康年間の末に、潁川太守が召して功曹としたが、庾袞は労役をする服を着て、すきと斧を引きずって、迎えの馬車を待たずに行き、「下夫の労役を命じて下さい」と言った。太守が飾りつきの馬車で迎えたが、庾袞は下がって辞退し、徒歩で郡府に入りたいと言った。送迎係は庾袞に迫って馬車に押し込み、功曹の役所に連れていった。庾袞は(役所での寝泊まりを拒み)自分の車を寝床とした。表面的には謙遜しているが、絶対に意思を変えないことを示した。太守は庾袞が屈服しないと知り、感歎して、「非常の士だ、私には服従させられない」と言った。手厚く挨拶をして帰らせた。
斉王冏(司馬冏)が義兵を挙げると、張泓らがほしいままに陽翟で略奪し、庾袞は宗族及び庶姓を率いて禹山に籠もった。このとき百姓は安寧で、防衛戦に習熟していなかった。庾袞は、「孔子は、『訓練せずに戦わせるのは、民を捨てることだ』と言った(『論語』子路篇)」と言った。羣士を集めて作戦を練り、「諸君はそれぞれ険しい地に拠り、父母や年長者を保護し、妻子を生き残りさせよう。古人は言った、『千人が集まって一人の指導者を立てなければ、離散せずとも混乱する』と。どうするか」と言った。人々は、「賛成です。今日の指導者は、あなた以外にあり得ません」と言った。庾袞はしばらく黙ってから、口を開いて、「古人は困難を引き受けて他人を楽にする(『国語』魯語上)といい、苦難から逃げなかった。指導者の人選は、その命令を聞くものが決めるべきだ」と言った。こうして庾袞は指導者になることを引き受けて誓約し、「地形の険阻さに頼らず、混乱に乗じて利益を求めず、隣人を欺かず、家屋を破壊せず、他人が植えた樹木を切らず、徳に反することをせず、義に反することをせず、力を合わせて心を一つにし、団結してこの苦難に立ち向かおう」と言った。人々は全員が従った。険しい地形を防衛に用い、進入経路を閉ざし、とりでの防壁を築き、障害物を設けた。建築の工数を計算し、長さを測量し、労役の負担を均等にし、必要なものを融通し、道具を整備し、力と能力によって仕事を配分し、臨機応変に判断した。邑ごとに長官を推薦させ、里ごとに賢者を推薦させ、庾袞が彼らを取りまとめた。職掌分担は明らかで、号令は統一され、上下に礼節があり、年齢で秩序があり、善事は推奨し、悪事は是正した。賊が襲来すると、庾袞は部曲を統率し、隊列を整え、みな満を持して備えて軽率に反応しなかった。賊が戦いを挑むと、落ち着いて動かなかったので、賊は攻めあぐねて去った。賊は(庾袞の集団が)穏やかで統率が取れていることを恐れ、撤退したが、このような襲撃が三回あった。当時の人は、「いわゆる非常事に引き締めて乱れず、よい計画を立てて成功させるとは、まさに庾異行のことではないか」と言った。
司馬冏が京師に帰ったが、年をまたいでも朝見しなかった。庾袞は、「「晋室は衰えた、寇賊が乱を起こすだろう」と言った。妻子を連れて林慮山に行き、新しい住み処でも故郷と同じように尽力し、忠信を説き、篤実な行動をした。一年が経つころ、林慮の人は庾袞に信服し、みな庾賢と呼んだ。石勒が林慮を攻撃すると、父老は相談して、「ここには大頭山があり、天下一の険しい地形です。上に古人の遺跡があります、そこに一緒に籠もりましょう」と言った。恵帝が長安に遷ると、庾袞は父老たちとともに大頭山に登ってその下で耕作した。穀物が実るまえでは、木の実を食べ、石蘂(はなごけ)を食べて、を餌して、防衛に参加し、ここで死ぬ覚悟をした。穀物の収穫の時期になり、子の庾怞に命じて山を下りると、途中でめまいがして、崖から落ちて死んだ。仲間たちは事故現場に行って哭し、「天よ。どうして我らの賢者を奪うのだ」と言った。当時の人は悼んで、「庾賢は断崖の地の避難して、超然として世俗から距離を取った。貧窮にも不満を持たず、木の実を食べて山に暮らし、世俗の名誉を求めず、他人と利益を争わなかった。悲運を逃れられなかった、悲しいことだ」と言った。
庾袞は『詩』『書』に精通し、礼法に合わねば発言せず、道義に合わねば行動しなかった。老人を尊敬し、幼児を教育し、人の葬式にであえば哀を尽くし、人の埋葬にであえば土を担ぎ、率先して苦労して、安逸を後回しにし、言えば必ず実行し、行えば必ず適切であった。宗族や郷党は尊崇しないものがなく、門人は思慕して、庾袞のために石碑を立てた。
四人の子がおり、庾怞・庾蔑・庾沢・庾捃である。沢にいるとき生まれたので、庾沢と名づけ、麦の穂を捃(ひろ)っているとき生まれたので、捃と名づけた。庾蔑はのちに長江を渡り、中興(東晋)の初め、侍中となった。庾蔑の子が庾願で、安成太守となった。
孫晷字文度、吳國富春人、吳伏波將軍秀之曾孫也。晷為兒童、未嘗被呵怒。顧榮見而稱之、謂其外祖薛兼曰、「此兒神明清審、志氣貞立、非常童也」。及長、恭孝清約、學識有理義、每獨處幽闇之中、容止瞻望未嘗傾邪。雖侯家豐厚、而晷常布衣蔬食、躬親壟畝、誦詠不廢、欣然獨得。父母愍其如此、欲加優饒、而夙興夜寐、無暫懈也。父母起居嘗饌、雖諸兄親饋、而晷不離左右。富春車道既少、動經山川、父難於風波、每行乘籃輿、晷躬自扶侍、所詣之處、則於門外樹下藩屏之間隱息、初不令主人知之。兄嘗篤疾經年、晷躬自扶侍、藥石甘苦、必經心目、跋涉山水、祈求懇至。而聞人之善、欣若有得。聞人之惡、慘若有失。見人饑寒、並周贍之、鄉里贈遺、一無所受。親故有窮老者數人、恒往來告索、人多厭慢之、而晷見之、欣敬逾甚、寒則與同衾、食則與同器、或解衣推被以卹之。時年饑穀貴、人有生刈其稻者、晷見而避之、須去而出、既而自刈送與之。鄉鄰感愧、莫敢侵犯。
會稽虞喜隱居海嵎、有高世之風。晷欽其德、聘喜弟預女為妻。喜戒女棄華尚素、與晷同志。時人號為梁鴻夫婦。濟陽江惇少有高操、聞晷學行過人、自東陽往候之、始面、便終日譚宴、結歡而別。
司空何充為揚州、檄晷為主簿、司徒蔡謨辟為掾屬、並不就。尚書張國明、州土之望、表薦晷、公車特徵。會卒、時年三十八、朝野嗟痛之。晷未及大斂、有一老父縕袍草屨、不通姓名、徑入撫柩而哭、哀聲慷慨、感于左右。哭止便出、容貌甚清、眼瞳又方、門者告之喪主、怪而追焉。直去不顧。同郡顧和等百餘人歎其神貌有異、而莫之測也。
孫晷 字は文度、吳國富春の人にして、吳の伏波將軍の秀の曾孫なり。晷 兒童為りしとき、未だ嘗て呵怒せられず。顧榮 見て之を稱し、其の外祖の薛兼に謂ひて曰く、「此の兒 神明は清審にして、志氣 貞立なり。非常の童なり」と。長ずるに及び、恭孝清約にして、學識は理義有り、每に獨り幽闇の中に處りて、容止瞻望 未だ嘗て邪に傾かず。侯家 豐厚と雖も、而れども晷 常に布衣蔬食し、躬親ら壟畝し、誦詠して廢せず、欣然として獨り得たり。父母 其の此の如きを愍み、優饒を加へんと欲し、而れども夙に興き夜に寐ね、暫くも懈する無し。父母の起居 嘗饌し、諸兄 親ら饋ると雖も、晷 左右を離れず。富春の車道 既に少なく、動ずれば山川を經て、父 風波に難(なや)み、每に行くに籃輿に乘り、晷 躬自ら扶侍し、詣る所の處あれば、則ち門外の樹下藩屏の間に於て隱息し、初めより主人をして之を知らしめず。兄 嘗て篤疾なること經年、晷 躬自ら扶侍し、藥石の甘苦、必ず心目を經て、山水を跋涉し、祈求すること懇至なり。而も人の善を聞くに、欣びて得有るが若し。人の惡を聞かば、慘して失有るが若し。人の饑寒を見れば、並びに之を周贍し、鄉里の贈遺、一だに受くる所無し。親故に窮老なる者數人有り、恒に往來して告索す。人 多く之を厭慢するも、而れども晷 之を見て、欣敬すること逾々甚だしく、寒ければ則ち與に同衾し、食らへば則ち與に同器す。或とき衣を解きて推被して以て之を卹む。時に年饑にして穀 貴く、人 生えながらに其の稻を刈る者有り、晷 見て之を避け、去るを須ちて出で、既にして自ら刈りて之を送與す。鄉鄰 感愧し、敢て侵犯するもの莫し。
會稽の虞喜 海嵎に隱居し、高世の風有り。晷 其の德を欽み、喜が弟の預の女を聘して妻と為す。喜 女を戒めて華を棄て素を尚ばしめ、晷と志を同じくす。時人 號して梁鴻の夫婦と為す。濟陽の江惇 少くして高操有り、晷の學行 人に過ぐるを聞きて、東陽より往きて之に候ひ、始めて面するや、便ち終日 譚宴し、歡を結びて別る。
司空の何充 揚州と為るや、晷に檄して主簿と為し、司徒の蔡謨 辟して掾屬と為すも、並びに就かず。尚書の張國明、州土の望にして、表して晷を薦し、公車もて特徵す。會々卒し、時に年三十八なり。朝野 之を嗟痛す。晷 未だ大斂に及ばざるに、一老父の縕袍草屨たりて、姓名を通ぜず、徑ちに入りて柩を撫じて哭くもの有り、哀聲 慷慨たりて、左右を感ぜしむ。哭き止みて便ち出で、容貌 甚だ清にして、眼瞳 又 方なり。門者 之を喪主に告げ、怪しみて焉を追ふ。直ちに去りて顧みず。同郡の顧和ら百餘人 其の神貌 異有るを歎じ、而れども之を測るもの莫きなり。
孫晷(そんき)は字を文度といい、呉国富春の人で、呉の伏波将軍の孫秀の曾孫である。まだ小さな子供だったときも、一度も怒られたことがなかった。顧榮は孫晷に会って称え、外祖父の薛兼に、「この子の精神は清明で、意思は堅固である。ふつうの子と違う」と言った。成長すると、謹んで倹約し、学識に筋道が通っており、一人で引きこもって、挙止が邪悪に傾くことがなかった。侯爵の家なので富裕であったが、孫晷は粗末な衣食をして、自ら耕作し、読書をやめず、満足して暮らした。父母がこの生活を心配して、いい思いをさせてやろうとしたが、孫晷は早く起きて遅くまで寝ず、生活を少しも緩めなかった。
父母が日ごろ食事をするとき、兄たちは自分の食事をとったが、孫晷だけは両親の左右を離れなかった。富春は車道が少なく、少し進めば山川にぶつかった。父は風や波に当たるのを嫌い、移動するときはいつも籃輿に乗ったが、孫晷は父の輿を自ら担いで、目的地に着けば、門外の垣根のあいだで待機し、訪問先に(孫晷が来ていることを)悟られなかった。兄の病気が長期化したとき、孫晷は自ら給仕して、薬石の味は、必ず自分で確認し、山川を探し歩いて、良薬を探し求めた。他人の幸福を聞けば、自分のことのように喜んだ。他人の不幸を聞けば、自分のことのように悲しんだ。他人が飢えて寒ければ、贈り物をする一方で、郷里からの贈り物は、一切受け取らなかった。故郷の困窮した老人たちは、いつも人の家を訪れて物乞いし、人々は忌み嫌っていたが、孫晷の行いを見て、敬意を払うようになり、寒ければ衣服を分けあい、同じ器で食べるようになった。あるとき孫晷は自分の服を脱いで施した。この歳は不作なので穀物価格が高騰し、(孫晷の田で)収穫前の稲を刈るものがいたが、孫晷は気付かれないように隠れ、去るのを待ってから刈り取って、それも贈ってしまった。近隣は自分の行動を恥じて、もう田から盗むことはなかった。
会稽の虞喜は海沿いに隠居し、世俗を超越した風格があった。孫晷はその徳を尊重し、虞喜の弟の虞預の娘を妻とした。虞喜は娘を戒めて華美を捨てて質素を重んじさせ、孫晷と志を同じにした。当時の人は梁鴻の夫婦と呼んだ。済陽の江惇は若いときから高い操があり、孫晷の学問と行動が人より優れていると聞いて、東陽から会いに行き、初めての対面だが、終日語り合い、友情を誓って別れた。
司空の何充が揚州刺史になると、孫晷を招いて主簿とし、司徒の蔡謨は辟して掾属としたが、どちらも就官しなかった。尚書の張国明、揚州の名望家であり、上表して孫晷を推薦し、公車で特徴した。このとき亡くなり、三十八歳だった。朝廷も在野も嘆き悲しんだ。孫晷の大斂(死後三日)より前に、ひとりの老父が粗末な服に草履を履いて、姓名を告げず、まっすぐ棺のもとに進んで撫でて哭した。泣き声は悲嘆の極みで、その場の人を感動させた。哭し終えて立ち去ったが、容貌は清らかで、瞳が方形(長寿の顔)であった。門人がこれを喪主に告げ、怪しんで追跡した。老人はまっすぐ去って振り返らなかった。同郡の顧和ら百人あまりがその老人の神秘性に驚いたが、何者かは分からなかった。
顏含字弘都、琅邪莘人也。祖欽、給事中。父默、汝陰太守。含少有操行、以孝聞。兄畿、咸寧中得疾、就醫自療、遂死於醫家。家人迎喪、旐每繞樹而不可解、引喪者顛仆、稱畿言曰、「我壽命未死、但服藥太多、傷我五藏耳。今當復活、慎無葬也」。其父祝之曰、「若爾有命復生、豈非骨肉所願。今但欲還家、不爾葬也」。旐乃解。及還、其婦夢之曰、「吾當復生、可急開棺」。婦頗說之。其夕、母及家人又夢之、即欲開棺、而父不聽。含時尚少、乃慨然曰、「非常之事、古則有之、今靈異至此、開棺之痛、孰與不開相負」。父母從之、乃共發棺、果有生驗、以手刮棺、指爪盡傷、然氣息甚微、存亡不分矣。飲哺將護、累月猶不能語、飲食所須、託之以夢。闔家營視、頓廢生業、雖在母妻、不能無倦矣。含乃絕棄人事、躬親侍養、足不出戶者十有三年。石崇重含淳行、贈以甘旨、含謝而不受。或問其故、答曰、「病者綿昧、生理未全、既不能進噉、又未識人惠、若當謬留、豈施者之意也」。畿竟不起。
含二親既終、兩兄繼沒、次嫂樊氏因疾失明、含課勵家人、盡心奉養、每日自嘗省藥饌、察問息秏、必簪屨束帶。醫人疏方、應須髯蛇膽、而尋求備至、無由得之、含憂歎累時。嘗晝獨坐、忽有一青衣童子年可十三四、持一青囊授含、含開視、乃蛇膽也。童子逡巡出戶、化成青鳥飛去。得膽、藥成、嫂病即愈。由是著名。
本州辟、不就。東海王越以為太傅參軍、出補闓陽令。元帝初鎮下邳、復命為參軍。過江、以含為上虞令、轉王國郎中・丞相東閤祭酒、出為東陽太守。東宮初建、含以儒素篤行補太子中庶子、遷黃門侍郎・本州大中正、歷散騎常侍・大司農。豫討蘇峻功、封西平縣侯、拜侍中、除吳郡太守。王導問含曰、「卿今莅名郡、政將何先」。答曰、「王師歲動、編戶虛秏、南北權豪競招遊食、國弊家豐、執事之憂。且當徵之勢門、使反田桑、數年之間、欲令戶給人足、如其禮樂、俟之明宰」。含所歷簡而有恩、明而能斷、然以威御下。導歎曰、「顏公在事、吳人斂手矣」。未之官、復為侍中。尋除國子祭酒、加散騎常侍、遷光祿勳、以年老遜位。成帝美其素行、就加右光祿大夫、門施行馬、賜牀帳被褥、敕太官四時致膳、固辭不受。
于時論者以王導帝之師傅、名位隆重、百僚宜為降禮。太常馮懷以問於含、含曰、「王公雖重、理無偏敬、降禮之言、或是諸君事宜。鄙人老矣、不識時務」。既而告人曰、「吾聞伐國不問仁人。向馮祖思問佞於我、我有邪德乎」。人嘗論少正卯・盜跖其惡孰深。或曰、「正卯雖姦、不至剖人充膳、盜跖為甚」。含曰、「為惡彰露、人思加戮。隱伏之姦、非聖不誅。由此言之、少正為甚」。眾咸服焉。郭璞嘗遇含、欲為之筮。含曰、「年在天、位在人、修己而天不與者、命也。守道而人不知者、性也。自有性命、無勞蓍龜」。桓溫求婚於含、含以其盛滿、不許。惟與鄧攸深交。或問江左羣士優劣、答曰、「周伯仁之正、鄧伯道之清、卞望之之節、餘則吾不知也」。其雅重行實、抑絕浮偽如此。
致仕二十餘年、年九十三卒。遺命素棺薄斂。諡曰靖。喪在殯而鄰家失火、移棺紼斷、火將至而滅、僉以為淳誠所感也。三子、髦・謙・約。髦歷黃門郎・侍中・光祿勳、謙至安成太守、約零陵太守、並有聲譽。
顏含 字は弘都、琅邪莘の人なり。祖の欽は、給事中なり。父の默は、汝陰太守なり。含 少くして操行有り、孝を以て聞こゆ。兄の畿、咸寧中に疾を得て、醫に就て自療し、遂に醫家に死す。家人 喪を迎ふるに、旐(はた) 每に樹を繞りて解く可からず、喪を引く者は顛仆し、畿と稱して言ひて曰く、「我が壽命 未だ死せず、但だ服藥 太だ多く、我が五藏を傷つくのみ。今 當に復活すべし、慎みて葬る無かれ」と。其の父 之を祝して曰く、「若し爾の命 復た生くる有らば、豈に骨肉の願ふ所に非ざるや。今 但だ家に還らんと欲す、爾を葬らざるなり」。旐 乃ち解く。還るに及び、其の婦 之を夢みて曰く、「吾 當に復生すべし、急ぎ棺を開く可し」と。婦 頗る之を說ぶ。其の夕に、母及び家人 又 之を夢みて、即ち棺を開かんと欲すも、而れども父 聽さず。含 時に尚ほ少く、乃ち慨然として曰く、「非常の事、古に則ち之有り。今 靈異 此の至り、棺を開くの痛、開かずして相 負くに孰れぞ」と。父母 之に從ひ、乃ち共に棺を發し、果たして生驗有り、手を以て棺を刮き、指の爪 盡く傷つき、然れども氣息 甚だ微にして、存亡 分ならず。飲哺 將に護らんとして、累月に猶ほ能く語らず、飲食 須つ所、之を託すに夢を以てす。闔家 營視し、生業を頓廢し、母妻在りと雖も、倦む無きこと能はず。含 乃ち人事を絕棄し、躬親ら侍養し、戶を出でざること十有三年に足る。石崇 含の淳行を重んじ、贈るに甘旨を以てす。含 謝すれども受けず。或ひと其の故を問ふに、答へて曰く、「病める者 綿昧にして、生理 未だ全からず。既に進噉する能はず、又 未だ人惠を識らず。若し謬り留むに當らば、豈に施者の意ならんや」と。畿 竟に起たず。
含の二親 既に終はり、兩兄 繼いで沒し、次嫂の樊氏 疾に因りて失明す。含 家人を課勵し、心を盡して奉養し、每日 自ら藥饌を嘗省し、息秏を察問するに、必ず簪屨束帶す。醫人 方を疏して、應に髯蛇膽を須つべしといふ、而して尋ね求めて備へ至れども、之を得る由無ければ、含 憂歎して時を累ぬ。嘗て晝に獨坐し、忽ち一青衣童子 年の十三四可りなるもの有り、一青囊を持ちて含に授け、含 開き視れば、乃ち蛇の膽なり。童子 逡巡して戶を出で、化けて青鳥と成りて飛び去る。膽を得て、藥 成り、嫂の病 即ち愈ゆ。是に由り名を著はす。
本州 辟するも、就かず。東海王越 以て太傅參軍と為し、出だして闓陽令に補す。元帝 初めて下邳に鎮するや、復た命じて參軍と為す。江を過るや、含を以て上虞令と為し、王國郎中・丞相東閤祭酒に轉じ、出でて東陽太守と為る。東宮 初めて建つや、含 儒素篤行を以て太子中庶子に補し、黃門侍郎・本州大中正に遷り、散騎常侍・大司農を歷す。蘇峻を討つの功に豫り、西平縣侯に封じ、侍中に拜し、吳郡太守に除せらる。王導 含に問ひて曰く、「卿 今 名郡に莅むに、政 將に何をか先とせん」と。答へて曰く、「王師 歲ごとに動き、編戶 虛秏す。南北の權豪 競ひて遊食を招き、國は弊し家は豐むこと、執事の憂なり。且つ當に勢門より徵して、田桑に反らしむべし。數年の間に、戶々をして給し人々をして足らしめんと欲す。其の禮樂の如きは、之を明宰に俟たん」と。含 歷する所 簡にして恩有り、明にして能く斷じ、然れども威を以て下を御す。導 歎じて曰く、「顏公 事に在り、吳人 手を斂めん」と。未だ官に之かざるに、復た侍中と為る。尋いで國子祭酒に除し、散騎常侍を加へ、光祿勳に遷り、年老を以て遜位す。成帝 其の素行を美し、就ち右光祿大夫を加へ、門に行馬を施し、牀帳被褥を賜はり、太官に敕して四時に致膳せしむ。固辭して受けず。
時に論者 王導 帝の師傅にして、名位 隆重なるを以て、百僚 宜しく降禮を為すべしと。太常の馮懷 以て含に問ふ。含曰く、「王公 重しと雖も、理として偏りて敬ひ、降禮の言あること無し。或いは是れ諸君の事なれば宜しからん。鄙人 老いれば、時務を識らず」と。既にして人に告げて曰く、「吾 聞くならく國を伐つは仁人に問はずと。向に馮祖思 佞を我に問ひ、我 邪德有りや」と。人 嘗て少正卯・盜跖を論じ其の惡 孰れか深きと。或ひと曰く、「正卯 姦と雖も、人を剖き膳に充たすに至らず、盜跖 甚と為す」と。含曰く、「惡為ること彰露なれば、人 戮を加へんことを思ふ。隱伏の姦、聖に非ざれば誅せず。此に由りて之を言ふに、少正 甚たり」と。眾 咸 焉に服す。郭璞 嘗て含に遇ひ、之が為に筮せんと欲す。含曰く、「年は天に在り、位は人に在り。己を修めて天 與せざる者は、命なり。道を守りて人 知らざる者は、性なり。自ら性命有り、蓍龜を勞する無し」と。桓溫 婚を含に求むるに、含 其の盛滿を以て、許さず。惟だ鄧攸と深く交はる。或ひと江左の羣士の優劣を問ふ。答へて曰く、「周伯仁の正、鄧伯道の清、卞望之の節。餘は則ち吾 知らざるなり」と。其の雅より行實を重んじ、浮偽を抑絕すること此の如し。
致仕すること二十餘年、年九十三に卒す。素棺薄斂を遺命す。諡して靖と曰ふ。喪 殯に在りて鄰家 失火し、棺を移さんとして紼 斷す。火 將に至らんとするに滅し、僉 以て淳誠の感ずる所と為す。三子あり、髦・謙・約なり。髦 黃門郎・侍中・光祿勳を歷し、謙は安成太守に至り、約は零陵太守なり。並びに聲譽有り。
顔含は字を弘都といい、琅邪の莘の人である。祖父の顔欽は、給事中である。父の顔黙は、汝陰太守である。顔含は若くして操行があり、孝によって聞こえた。兄の顔畿が、咸寧年間に病気になり、医者の治療を受けたが、医者の家で亡くなった。家人が遺体を迎えると、旗が樹木にまとわりついて解けず、棺を引くものは転倒し、(死者が憑依し)顔畿と自称して、「わが寿命はまだ尽きておらず、ただ服薬が多すぎたので、わが五臓を傷つけて死んだのだ。きっと息を吹き返すぞ、どうか埋葬しないでくれ」と言った。父はこれを祝って、「もしお前の寿命がまだ残っているならば、それは親族の願いである。いま(棺を運んでいるの)は家に帰るだけだ、埋葬に行くのではない」と言った。旗がほどけた。帰宅すると、その妻が夢をみて、「わたしは復活するぞ、急いで棺を開けてくれ」と言った。妻はとても喜んだ。その日の夕方、母及び家人も夢に見て、棺を開けようとしたが、父が許さなかった。顔含はまだこのとき子供であったが、憂い悲しんで、「尋常でないことは、いにしえにも起きた。いま霊異がこのように起き、棺を開くことの悲痛と、開かずに夢に逆らう悲痛とどちらが辛いのだろう」と言った。父母は夢に従い、一緒に棺を開けると、生命力が感じられ、手で棺をひっかき、指の爪がすべて割れ、しかし呼吸はとても弱く、生死が不詳であった。飲食の世話をしても、数ヶ月話すことはできず、飲食したいときは、夢のなかで告げた。一家を挙げて面倒をみて、生業が停滞した。母や妻であっても、世話が辛くなってきた。顔含は世俗との関係を断ち切り、みずから蘇生した兄の面倒をみて、十三年間も外出しなかった。石崇が顔含の手厚い行いを尊重し、うまい食べ物を贈った。顔含は礼を言ったが受け取らなかった。あるひとが理由を聞くと、顔含は答えて、「病人は精神が混濁し、生きる力がない。自力で食事ができず、他人の恩恵も分からない。ありもしない期待をさせても、施した人の好意に逆らうことになる」と言った。顔畿は回復しなかった。
顔含の両親が亡くなり、二人の兄も相次いで没し、次兄の嫁の樊氏が病気で失明した。顔含は家人を励まして、心を尽くして世話をさせ、毎日自分で薬を味見した。病状を窺うときは、(兄嫁は目が見えないが)簪履束帯の正装をした。医者の処方では、髯蛇の膽が必要であった。探し求めても入手する方法がないので、顔含は落ち込んで時を過ごした。かつて昼に一人座っていると、一人の青衣の童子で年齢が十三か十四歳ばかりのものが出現し、青い袋を顔含に授けた。開けて見ると、蛇の膽であった。童子は後ずさりして戸を出て、青鳥に姿を変えて飛び去った。膽を入手し、薬が完成し、兄嫁の病気はたちまち癒えた。これにより顔含は名を知られた。
本州(徐州)が辟したが、就かなかった。東海王越(司馬越)が顔含を太傅参軍とし、出して闓陽令に任命した。元帝が初めて下邳に鎮すると、顔含を参軍に任命した。長江を渡ると、顔含を上虞令とし、王国郎中・丞相東閤祭酒に転じ、出て東陽太守となった。東宮が創設されると、顔含は儒学に通じて行動が正しいので太子中庶子に任命し、黄門侍郎・本州大中正に遷り、散騎常侍・大司農を歴任した。蘇峻を討伐した功績にあずかり、西平県侯に封建し、侍中を拝し、呉郡太守に任命された。王導が顔含に質問して、「あなたはいま名門の郡を治めるにあたり、政治は何を優先するか」と言った。顔含は答えて、「王の軍隊が毎年のように動員され、戸籍に登録された住民は消耗しています。しかし南北の豪族は競って酒宴を開催しています。国家が貧しく豪族が豊かであることが、為政者の悩みです。豊かな権門の家から(奴隷を)徴発して、農桑に戻らせます。数年のうちに、戸籍に登録された家々の労働力を充足させたいと思います。礼楽などの政策は、(後任の)賢明な太守に任せるつもりです」と言った。これまで顔含の担当した職務では、簡約だが恩沢があり、公正に裁判をしたが、権威によって下を統括した。王道は感歎して、「顔公が呉郡太守となれば、呉人(豪族)は手をこまねくしかない」と言った。着任するより前に、侍中となった。ほどなく国子祭酒に任命され、散騎常侍を加え、光禄勲に遷ったが、老齢により位を退いた。成帝はその行動を称え、右光禄大夫を加え、門に行馬を設けて、牀帳被褥を賜わり、太官に命じて四季の食べ物を届けさせた。固辞して受けなかった。
このとき論者は王導が皇帝の師傅であり、名声も地位も重いため、官僚たちから王導への礼を重くするべきだと言った。太常の馮懐がこれについて顔含に意見を求めた。顔含は、「王公の立場は重いが、彼だけを尊重して、礼を変更する道理がない。諸君がやりたければやればよいが、私は老人なので、(王導に媚びる)世論に関知しない」と言った。それから顔含は人に告げて、「国家の討伐について仁人に問い合わせないものだ。馮祖思(馮懐)は先日私に(王導に)媚びることについて意見を求めたが、私の徳がよこしま(で仁がない)なのだろうか」と言った。あるとき少正卯と盜跖のどちらの悪が深いかが議論になった。あるひとは、「少正卯は姦悪であったが、人肉を食べなかった(盗跖が人肉を食べたことは、『荘子』盗跖篇)。盗跖のほうが悪い」と言った。顔含は、「悪が表出していれば、人は処罰を加えようと思う。包み隠した姦悪は、聖人でなければ処罰できない。だから少正卯の悪のほうが根深い」と言った。みな感服した。郭璞が顔含に会ったとき、顔含のために筮竹で占おうとした。顔含は、「寿命は天次第で、地位は人次第だ。自己を修養しても天に味方されないのは、命だ。道を守っても他人から評価されないのは、性だ。性と命は決まったもので、占うまでもない」と言った。桓温が顔含に婚姻を求めたが、権勢が盛んで傲慢なので、断った。ただ鄧攸とだけ深く友好を結んだ。あるひとが江左(東晋)の人士たちの優劣を訊ねた。顔含は答えて、「周伯仁の正、鄧伯道の清、卞望之の節は見所がある。それ以外は知らない」と言った。実直な言動を重んじ、軽薄さを慎んだのはこのようであった。
官職を退いて二十年あまり、九十三歳で亡くなった。質素な棺で薄葬することを遺言で命じた。靖と諡した。死体を殯しているとき隣家で火事が起こり、棺を移動させようよとしたが棺をひく縄が切れた。(ところが)火は棺に到達する直前で消え、みな顔含の篤実さのおかげだと考えた。三人の子がおり、顔髦・顔謙・顔約である。顔髦は黄門郎・侍中・光禄勲を歴任し、顔謙は安成太守に至り、顔約は零陵太守となった。三人とも声誉があった。
劉殷字長盛、新興人也。高祖陵、漢光祿大夫。殷七歲喪父、哀毀過禮、服喪三年、未曾見齒。曾祖母王氏、盛冬思菫而不言、食不飽者一旬矣。殷怪而問之、王言其故。殷時年九歲、乃於澤中慟哭、曰、「殷罪釁深重、幼丁艱罰、王母在堂、無旬月之養。殷為人子、而所思無獲、皇天后土、願垂哀愍」。聲不絕者半日、於是忽若有人云、「止、止聲」。殷收淚視地、便有菫生焉、因得斛餘而歸、食而不減、至時菫生乃盡。又嘗夜夢人謂之曰、「西籬下有粟」。寤而掘之、得粟十五鍾、銘曰「七年粟百石、以賜孝子劉殷」。自是食之、七載方盡。時人嘉其至性通感、競以穀帛遺之。殷受而不謝、直云待後貴當相酬耳。
弱冠、博通經史、綜核羣言、文章詩賦靡不該覽。性倜儻、有濟世之志、儉而不陋、清而不介、望之頹然而不可侵也。鄉黨親族莫不稱之。郡命主簿、州辟從事、皆以供養無主、辭不赴命。司空・齊王攸辟為掾、征南將軍羊祜召參軍事、皆以疾辭。同郡張宣子、識達之士也、勸殷就徵。殷曰、「當今二公、有晉之棟楹也。吾方希達如榱椽耳、不憑之、豈能立乎。吾今王母在堂、既應他命、無容不竭盡臣禮、便不得就養。子輿所以辭齊大夫、良以色養無主故耳」。宣子曰、「如子所言、豈庸人所識哉。而今而後、吾子當為吾師矣」。遂以女妻之。宣子者、并州豪族也、家富於財、其妻怒曰、「我女年始十四、姿識如此、何慮不得為公侯妃、而遽以妻劉殷乎」。宣子曰、「非爾所及也」。誡其女曰、「劉殷至孝冥感、兼才識超世、此人終當遠達、為世名公、汝其謹事之」。張氏性亦婉順、事王母以孝聞、奉殷如君父焉。及王氏卒、殷夫婦毀瘠、幾至滅性。時柩在殯而西鄰失火、風勢甚盛、殷夫婦叩殯號哭、火遂越燒東家。後有二白鳩巢其庭樹、自是名譽彌顯。
太傅楊駿輔政、備禮聘殷、殷以母老固辭。駿於是表之、優詔遂其高志、聽終色養、敕所在供其衣食、蠲其傜賦、賜帛二百匹、穀五百斛。趙王倫篡位、孫秀夙重殷名、以散騎常侍徵之、殷逃奔雁門。及齊王冏輔政、辟為大司馬軍諮祭酒。既至、謂殷曰、「先王虛心召君、君不至。今孤辟君、君何能屈也」。殷曰、「世祖以大聖應期、先王以至德輔世、既堯舜為君、稷契為佐、故殷希以一夫而距千乘、為不可迴之圖、幸邀唐虞之世、是以不懼斧鉞之戮耳。今殿下以神武睿姿、除殘反政、然聖迹稍粗、嚴威滋肅、殷若復爾、恐招華士之誅、故不敢不至也」。冏奇之、轉拜新興太守、明刑旌善、甚有政能。
屬永嘉之亂、沒於劉聰。聰奇其才而擢任之、累至侍中・太保・錄尚書事。殷恒戒子孫曰、「事君之法、當務幾諫、凡人尚不可面斥其過、而況萬乘乎。夫犯顏之禍、將彰君過、宜上思召公咨商之義、下念鮑勛觸鱗之誅也」。在聰之朝、與公卿恂恂然、常有後己之色。士不修操行者、無得入其門、然滯理不申、藉殷而濟者、亦已百數。
有七子、五子各授一經、一子授太史公、一子授漢書、一門之內、七業俱興、北州之學、殷門為盛。竟以壽終。
劉殷 字は長盛、新興の人なり。高祖の陵、漢の光祿大夫なり。殷 七歲にして父を喪ひ、哀毀は禮を過ぎ、服喪すること三年、未だ曾て齒を見せず。曾祖母の王氏、盛冬に菫を思ひて言はず、食は飽きざる者 一旬なり。殷 怪しみて之を問ふに、王 其の故を言ふ。殷 時に年九歲にして、乃ち澤中に於て慟哭して、曰く、「殷の罪釁 深重たり、幼くして艱罰に丁ひ、王母 堂に在り、旬月の養無し。殷 人の子と為して、思ふ所 獲る無く、皇天后土、願はくは哀愍を垂れよ」と。聲 絕えざること半日、是に於て忽ち人の「止め、止めよ聲を」と云ふ有るが若し。殷 淚を收めて地を視るに、便ち菫の焉に生ゆる有り、因りて斛餘を得て歸り、食らひても減らず、時の菫 生ゆるに至りて乃ち盡く。又 嘗て夜に夢みらく人 之に謂ひて曰く、「西籬の下に粟有り」と。寤りて之を掘るに、粟十五鍾を得て、銘に曰く「七年の粟 百石、以て孝子の劉殷に賜ふ」と。是より之を食らひ、七載にして方に盡く。時人 其の至性 通感するを嘉し、競ひて穀帛を以て之に遺る。殷 受けて謝せず、直だ後貴を待ちて當に相 酬ゆべきのみと云ふ。
弱冠のとき、博く經史に通じ、羣言を綜核し、文章詩賦 該覽せざる靡し。性は倜儻にして、濟世の志有り、儉するも陋せず、清くして介ならず、之を望めば頹然として侵す可からざるなり。鄉黨親族 之を稱せざる莫し。郡 主簿に命じ、州 從事に辟するも、皆 供養 主無きを以て、辭して命に赴かず。司空・齊王攸 辟して掾と為し、征南將軍の羊祜 參軍事に召すも、皆 疾を以て辭す。同郡の張宣子は、識達の士也なり。殷に徵に就くことを勸む。殷曰く、「當今の二公、有晉の棟楹なり。吾 方に達を希ふこと榱椽が如きのみ。之に憑かずんば、豈に能く立たんや。吾 今 王母 堂に在り、既に他命に應じ、臣禮を竭盡ざるを容るる無ければ、便ち就養するを得ず。子輿が齊の大夫を辭する所以にして、良に色養無主を以ての故なり」と。宣子曰く、「子の言ふ所の如くんば、豈に庸人の識る所ならん。而今より後、吾子をば當に吾が師と為すべし」と。遂に女を以て之に妻はす。宣子なる者は、并州の豪族なり。家は財に富み、其の妻 怒りて曰く、「我が女 年は始めて十四、姿識 此の如し。何ぞ公侯の妃と為るを得ざると慮はん。而れども遽かに以て劉殷に妻はすや」と。宣子曰く、「爾の及ぶ所に非ざるなり」と。其の女を誡めて曰く、「劉殷は至孝にして冥感、兼はせて才識は超世なり。此の人 終に當に遠達し、世の名公と為るべし。汝 其れ謹みて之に事へよ」と。張氏 性は亦た婉順にして、王母に事へて以て孝もて聞こえ、殷を奉ずること君父が如し。王氏 卒するに及び、殷の夫婦 毀瘠し、幾ど滅性に至る。時に柩 殯に在りて西鄰 失火し、風勢 甚だ盛なり。殷の夫婦 殯を叩きて號哭せば、火 遂に越えて東家を燒く。後に二白鳩の其の庭の樹に巢する有り、是より名譽 彌々顯たり。
太傅の楊駿 輔政するや、禮を備へて殷を聘す。殷 母老を以て固辭す。駿 是に於て之を表し、優詔もて其の高志を遂げしめ、色養を終ふるを聽し、所在に敕して其の衣食を供し、其の傜賦を蠲し、帛二百匹、穀五百斛をを賜ふ。趙王倫 篡位するや、孫秀 夙に殷の名を重んじ、散騎常侍を以て之を徵すに、殷 逃げて雁門に奔る。齊王冏 輔政するに及び、辟して大司馬軍諮祭酒と為す。既に至るや、殷に謂ひて曰く、「先王 虛心に君を召すも、君 至らず。今 孤 君を辟するに、君 何ぞ能く屈するや」と。殷曰く、「世祖 大聖を以て期に應じ、先王 至德を以て世を輔く。既に堯舜 君と為るや、稷契 佐と為る。故に殷 一夫を以て千乘に距たり、迴る可からざるの圖を為さんと希ふ。幸ひに唐虞の世に邀ひ、是を以て斧鉞の戮を懼れざるのみ。今 殿下 神武睿姿を以て、殘を除き政を反(かへ)し、然れども聖迹 稍く粗たりて、嚴威 滋々肅たり。殷 若し復た爾らば、華士の誅を招くを恐る。故に敢て至らずんばあらざるなり」と。冏 之を奇とし、轉じて新興太守を拜せしむ。刑を明にし善を旌し、甚だ政能有り。
永嘉の亂に屬ひ、劉聰に沒す。聰 其の才を奇として擢して之を任じ、累ねて侍中・太保・錄尚書事に至る。殷 恒に子孫を戒めて曰く、「君に事ふるの法は、當に幾諫を務とすべし。凡人すら尚ほ其の過を面斥す可からず、而も況んや萬乘をや。夫れ顏を犯すの禍あり、將に君の過を彰さんとせば、宜しく上は召公 咨商の義を思ひ、下は鮑勛 觸鱗の誅を念ずべきなり」と。聰の朝に在り、公卿と恂恂然たりて、常に後己の色有り。士 操行を修めざる者は、其の門に入るを得る無く、然れども滯理 申さず、殷を藉りて濟す者は、亦た已に百もて數ふ。
七子有り、五子は各々一經を授け、一子は太史公を授け、一子は漢書を授く。一門の內、七業 俱に興り、北州の學、殷の門に盛と為る。竟に壽を以て終る。
劉殷は字を長盛といい、新興の人である。高祖父の劉陵は、漢の光禄大夫である。劉殷は七歳のとき父を失い、悲しみは礼を超え、服喪の三年間で、歯を見せたことがなかった。曾祖母の王氏は、盛冬に菫菜(野芹)を食べたいがそれを言わず、十日間も食事が喉を通らなかった。劉殷が怪しんで聞くと、王氏は希望を伝えた。劉殷はこのとき九歳で、沢のなかで慟哭して、「私の罪は重大なので、幼くして父を失い、曾祖母が生きていても、近ごろ満足に扶養もできない。私は人の子として、欲しいものを得られない。皇天后土よ、どうか憐れみを垂れてくれ」と言った。泣き続けること半日、どこからか「もうよい、泣くな」と聞こえたようだった。劉殷が泣き止んで地面を見ると、菫菜(野芹)が生えていた。一斛あまりを摘んで帰り、食べても減らず、菫菜(野芹)が自生する季節になると食べ終えた。また劉殷は夜に夢をみて、「西籬の下に粟がある」と言われた。目を覚まして掘ってみると、粟十五鍾を手に入れ、その銘に「七年分の粟百石を、孝子の劉殷に賜わる」とあった。七年目になって、粟を食べ終えた。当時の人々は劉殷の至性が(神霊に)感応したことを祝い、競って穀帛を贈った。劉殷は受け取っても礼を言わず、出世してから報いるとだけ言った。
弱冠のとき、博く経史に通じ、さまざまな文章を総合的に理解し、文章や詩賦は精通しないものはなかった。性質は衆人から図抜け、世を救う志があった。倹約しても卑屈にならず、清らかでも孤立しなかった。劉殷の態度は恭順でも他人が侵犯できない雰囲気があった。郷里や親族は称賛しないものがなかった。郡は主簿に任命し、州は従事に辟したが、どちらも介護の人手がいないとして、辞退して着任しなかった。司空・斉王攸(司馬攸)が辟して掾とし、征南将軍の羊祜が参軍事に召したが、病気を理由に断った。同郡の張宣子は、人物の見識眼のある士だった。劉殷に徴辟に応じることを勧めた。劉殷は、「現在の二公(司馬攸と羊祜)は、晋帝国を支える棟木と柱である。私の志は(国家の)垂木になることである。この辟召に応じなければ、志は実現できまい。しかし曾祖母の王氏が家にいる。もし彼らの辟召に応じれば、臣下として全力で職務に励まざるを得ないから、扶養する人手がいなくなる。これが子輿(曾子)が斉の大夫の職務を辞退した事情と同じであり、介護すれば主人を持たないという判断なのだ」と言った。張宣子は、「きみの考えることは、一般には理解されまい。これ以後は、あなたをわが師にしよう」と言った。張宣子は娘を劉殷に嫁がせた。張宣子とは、并州の豪族である。家家は財に富み、彼の妻は怒って、「わが娘はようやく十四歳になったばかりで、姿も見識もこの通りです。公侯の妃も望めなくもないでしょう。いったいなぜ劉殷などの妻とするのですか」と言った。張宣子は、「お前の関知することではない」と言った。その娘に戒めて、「劉殷は至孝であり誠心が神明に感応し、しかも才能と見識は世で抜群である。この人物は最終的に昇進し、当世の名公となるだろう。謹んで仕えるように」と言った。(劉殷の妻となった)張氏の性も婉順であり、曾祖母の王氏に仕えて孝によって評判が立ち、父のように劉殷に仕えた。王氏が亡くなると、劉殷の夫婦は痩せ衰え、ほぼ死にかけた。このとき柩を殯していると西隣で火事が起こり、強風が吹いた。劉殷の夫婦が棺を叩いて号泣すると、火は飛び越えて東隣の家に燃え移った。のちに二羽の白い鳩が庭の樹に巣を作り、これにより名望がますます知れ渡った。
太傅の楊駿が輔政すると、礼を備えて劉殷を召した。劉殷は母の老齢を理由に固辞した。そこで楊駿は上表し、優詔により高い志を成し遂げさせ、老母の扶養を認め、劉殷がいる地方に命じて衣食を支給させ、徭役や賦を免除し、帛二百匹と、穀五百斛を賜わった。趙王倫(司馬倫)が皇位を簒奪すると、孫秀はかねて劉殷の名望を重んじており、散騎常侍として徴したが、劉殷は逃げて雁門に奔った。斉王冏(司馬冏)が輔政すると、辟して大司馬軍諮祭酒とした。劉殷が辟召に応じて着任すると、司馬冏は劉殷に、「先代の王たちが虚心に召しても、きみは至らなかった。いま私が辟した途端に、なぜきみは屈服したのか」と質問した。劉殷は、「世祖(武帝)は大いなる聖人として天の期に応じ、先王(恵帝)は至徳によってを以て世を助けました。むかし尭舜が君主になると、稷と契ですら(任命を拒まずに)輔佐となりました。私が一夫でありながら千乗の天子の(徴辟の)命令に逆らったのは、譲れない願い(母の扶養)があったためです。幸いに(武帝と恵帝の時代は)尭舜に等しい善政が行われ、(命令に背いても)斧鉞で死刑にされないと思ったのです。いま殿下(司馬冏)は神がかり武の英姿によって、残賊(司馬倫)を除いて(恵帝を)帝位に復帰させましたが、政治のやり方が粗略で、厳罰化しています。もしも私が命令を拒めば、華士の誅を招く恐れがあります。ゆえに命令に背かなかったのです」と言った。司馬冏は劉殷を高く評価し、転じて新興太守を拝させた。刑罰を明らかにして善行を表彰し、政治の能力を発揮した。
永嘉の乱のとき、劉聡に捕らわれた。劉聡は劉殷の才能を認めて抜擢し、累遷して侍中・太保・録尚書事に至った。劉殷はつねに子弟を戒めて、「君主に仕えるならば、幾諫(それとなく諫めること)に努めるべきだ。凡人ですら正面から過失を指摘してはならない、万乗の天子なら尚更である。君主の面目をつぶせば禍いがある。もしも過失を指摘したいならば、上は召公(召公奭)の話し合いを手本とし、下は鮑勛が(魏の文帝曹丕の)逆鱗に触れて誅殺されたことを想起すべきである」と言った。劉殷は劉聡の朝廷にあって、公卿と協調し、つねに他人の顔を立てた。士人で節義のないものは、劉殷の門に入ることができなかった。しかし陳情できない事案を、劉殷の口を借りて申し開きできたものは、百人以上いた。
劉殷には七人の子がおり、五人の子にそれぞれ(五経のうち)一経を伝授し、残りの一人には『太史公書(史記)』を授け、もう一人には『漢書』を伝授した。一門のなかで、七つの学問がともに勃興し、劉殷の一族は盛んになった。寿命で亡くなった。
王延字延元、西河人也。九歲喪母、泣血三年、幾至滅性。每至忌日、則悲啼至旬。繼母卜氏遇之無道、恒以蒲穰及敗麻頭與延貯衣。其姑聞而問之、延知而不言、事母彌謹。卜氏嘗盛冬思生魚、敕延求而不獲、抶之流血。延尋汾叩凌而哭、忽有一魚長五尺、踊出水上、延取以進母。卜氏食之、積日不盡、於是心悟、撫延如己生。延事親色養、夏則扇枕席、冬則以身溫被、隆冬盛寒、體無全衣、而親極滋味。晝則傭賃、夜則誦書、遂究覽經史、皆通大義。州郡禮辟、貪供養不起。父母終後、廬于墓側、非其蠶不衣、非其耕不食。
屬天下喪亂、隨劉元海遷于平陽、農蠶之暇、訓誘宗族、侃侃不倦。家牛生一犢、他人認之、延牽而授與、初無吝色。其人後自知妄認、送犢還延、叩頭謝罪、延仍以與之、不復取也。
年六十、方仕於劉聰、稍遷尚書左丞、至金紫光祿大夫。聰死後、靳準將作亂、謀之于延、延不從。準既誅劉氏、自號漢天王、以延為左光祿大夫、延又大罵不受、準遂殺之。
王延 字は延元、西河の人なり。九歲のとき母を喪ひ、泣血すること三年、幾ど性を滅すに至る。忌日に至る每に、則ち悲啼すること旬に至る。繼母の卜氏 之を遇するに道無く、恒に蒲穰及び敗麻頭を以て延が與(ため)に衣に貯(わた)とす。其の姑 聞きて之を問るに、延 知りても言はず、母に事ふること彌々謹たり。卜氏 嘗て盛冬に生魚を思ひ、延に敕して求むるれども獲ず、之を抶して血を流す。延 汾を尋ねて凌を叩きて哭くや、忽ち一魚の長さ五尺、踊りて水上に出づるもの有り、延 取りて以て母に進む。卜氏 之を食らふに、積日なるも盡きず、是に於て心 悟り、延を撫すこと己の生むが如し。延 親に事へて色養し、夏は則ち枕席を扇ぎ、冬は則ち身を以て溫被し、隆冬盛寒にも、體に全衣無く、而れども親は滋味を極む。晝は則ち傭賃し、夜は則ち誦書し、遂に經史を究覽し、皆 大義に通ず。州郡 禮辟するも、供養を貪りて起たず。父母 終はる後に、墓側に廬し、其の蠶に非ざれば衣ず、其の耕に非ざれば食はず。
天下の喪亂するに屬ひ、劉元海に隨ひて平陽に遷り、農蠶の暇に、宗族を訓誘し、侃侃して倦まず。家牛 一犢を生み、他人 之を認するや、延 牽きて授與し、初めより吝色無り。其の人 後に自ら妄認せしを知りて、犢を送りて延に還し、叩頭して謝罪す。延 仍りて以て之に與へ、復た取らず。
年六十にして、方に劉聰に仕へ、稍く尚書左丞に遷り、金紫光祿大夫に至る。聰 死する後、靳準 將に亂を作さんとするや、之を延に謀るも、延 從はず。準 既に劉氏を誅するや、自ら漢天王を號し、延を以て左光祿大夫と為す。延 又 大いに罵りて受けず、準 遂に之を殺す。
王延は字を延元といい、西河の人である。九歳のとき母を喪い、血の涙を流すこと三年、ほぼ死にかけた。命日がくるたび、十日にわたり悲泣した。継母の卜氏は王延を虐待し、ガマとヨモギ及び腐ったアサの切れ端ばかりを王延の衣に詰めた。姑がこれを聞いて問い詰めたが、王延は分かってても言わず、ますます継母に謹んで仕えた。卜氏がかつて盛冬に生魚を食べたいと思い、王延に調達を命じたが捕獲できず、王延を鞭打って血を流した。王延は汾水に赴いて(川面の)氷を叩いて哭すると、たちまち長さ五尺の魚が出現し、水上に躍り上がった。王延はこれを捕獲して母に献上した。卜氏がこれを食べると、数日経っても食べ尽くせず、このことがあって心を入れ替え、王延を実子のように可愛がった。王延は熱心に親に仕え、夏は枕席を扇であおぎ、冬は身体で服を温め、極寒の真冬に、自分の衣服が足りずとも、父母には栄養が豊富な食事を供した。昼は賃労働し、夜は読書をして、経史を通読し、すべて大義を理解した。州郡が礼をもって辟召したが、親に仕えることを優先して就官しなかった。父母の死後、墓のそばに廬を結び、自分で育てた蚕のみを着て、自分で耕した穀物のみを食べた。
天下が喪乱すると、劉元海に随って平陽に遷り、農業と養蚕のあいまに、宗族を訓読し、剛直で熱心であった。自家の牛が子供を産み、他人がこれを自分のものだと誤認すると、王延は子牛を引いて授け、まったく惜しまなかった。その人が後に誤認に気づいて、子牛を返却にきて、叩頭して謝罪した。王延はそのまま与え、返却を受け付けなかった。
六十歳でようやく劉聡(前趙)に仕え、ようやく尚書左丞に遷り、金紫光禄大夫に至った。劉聡が死ぬと、靳準が乱を起こそうとし、王延に協力を求めたが、王延は共謀しなかった。靳準が劉氏を誅すると、漢天王を自称し、王延を左光禄大夫とした。王延はまた大いに罵って拝命せず、靳準は王延を殺してしまった。
王談、吳興烏程人也。年十歲、父為鄰人竇度所殺。談陰有復讎志、而懼為度所疑、寸刃不畜、日夜伺度、未得。至年十八、乃密市利鍤、陽若耕鉏者。度常乘船出入、經一橋下、談伺度行還、伏草中、度既過、談於橋上以鍤斬之、應手而死。既而歸罪有司、大守孔巖義其孝勇、列上宥之。巖諸子為孫恩所害、無嗣、談乃移居會稽、修理巖父子墳墓、盡其心力。後太守孔廞究其義行、元興三年、舉談為孝廉、時稱其得人。談不應召、終于家。
王談は、吳興烏程の人なり。年十歲にして、父 鄰人の竇度の殺す所と為る。談 陰かに復讎の志有り、而れども度の疑ふ所と為るを懼れ、寸刃だに畜せざれば、日夜 度を伺ふも、未だ得ず。年十八に至り、乃ち密かに利鍤を市ひ、陽りて耕鉏する者の若くす。度 常に船に乘りて出入し、一橋の下を經るに、談 度の行還するを伺ひ、草中に伏せ、度 既に過るや、談 橋上に於て鍤を以て之を斬り、手に應じて死す。既にして罪を有司に歸す。大守の孔巖 其の孝勇を義とし、列上して之を宥す。巖の諸子 孫恩の害する所と為り、嗣無し。談 乃ち居を會稽に移し、巖の父子の墳墓を修理し、其の心力を盡す。後に太守の孔廞 其の義行を究め、元興三年に、談を舉げて孝廉と為す。時に其の人を得るを稱す。談 召に應ぜす、家に終はる。
王談は、呉興烏程の人である。十歳のとき、父が隣人の竇度に殺された。王談はひそかに復讐を志したが、竇度から疑われることを懼れ、寸刃すら持っていなかったので、日夜つねに竇度の様子を伺っていても、好機がなかった。十八歳のとき、ひそかに鋭い鍤(すき)を購入し、草刈り用だと偽った。竇度はつねに船に乗って出入りし、ある橋の下を(船で)通過していた。王談は竇度の往来する経路を見計らい、草中に伏せ、竇度(の船)が橋の下を通過した瞬間、橋の上から鍤(すき)で斬りつけ、即座に死に至らしめた。復讐を遂げると担当官に殺人罪で自首した。大守の孔巖(孔嚴、孔厳)はその孝勇を義と認め、上程して赦免した。孔巖の諸子が孫恩に殺害され、継嗣がいなかった。王談は会稽に引っ越し、孔巖の父子の墳墓を修理し、心と労力を尽くした。のちに太守の孔廞がその義行を調べ、元興三年に、王談を孝廉に挙げた。当時はみな孔廞の人選を称えた。王談はこれに応じず、在家で亡くなった。
桑虞字子深、魏郡黎陽人也。父沖、有深識遠量、惠帝時為黃門郎。河間王顒執權、引為司馬。沖知顒必敗、就職一旬、便稱疾求退。虞仁孝自天至、年十四喪父、毀瘠過禮、日以米百粒用糝藜藿、其姊諭之曰、「汝毀瘠如此、必至滅性、滅性不孝、宜自抑割」。虞曰、「藜藿雜米、足以勝哀」。虞有園在宅北數里、瓜果初熟、有人踰垣盜之。虞以園援多棘刺、恐偷見人驚走而致傷損、乃使奴為之開道。及偷負瓜將出、見道通利、知虞使除之、乃送所盜瓜、叩頭請罪。虞乃歡然、盡以瓜與之。嘗行、寄宿逆旅、同宿客失脯、疑虞為盜。虞默然無言、便解衣償之。主人曰、「此舍數失魚肉雞鴨、多是狐貍偷去、君何以疑人」。乃將脯主至山冢間尋求、果得之。客求還衣、虞投之不顧。
虞諸兄仕于石勒之世、咸登顯位、惟虞恥臣非類、陰欲避地海東、會丁母憂、遂止。哀毀骨立、廬于墓側。五年後、石勒以為武城令。虞以密邇黃河、去海微近、將申前志、欣然就職。石季龍太守劉徵甚器重之、徵遷青州刺史、請虞為長史、帶祝阿郡。徵遇疾還鄴、令虞監行州府屬。季龍死、國中大亂、朝廷以虞名父之子、必能立功海岱、潛遣東莞人華挺授虞寧朔將軍・青州刺史。虞曰、「功名非吾志也」。乃附使者啟讓刺史、靖居海右、不交境外。雖歷偽朝、而不豫亂、世以此高之。卒于官。
虞五世同居、閨門邕穆。苻堅青州刺史苻朗甚重之、嘗詣虞家、升堂拜其母、時人以為榮。
桑虞 字は子深、魏郡黎陽の人なり。父の沖、深識遠量有り、惠帝の時 黃門郎と為る。河間王顒 權を執るや、引きて司馬と為す。沖 顒の必ず敗れんことを知り、職に就くこと一旬のみにして、便ち疾と稱して退くことを求む。虞の仁孝 天より至り、年十四のとき父を喪ひ、毀瘠すること禮に過ぎ、日に米百粒を以て用て藜藿に糝し、其の姊 之に諭して曰く、「汝 毀瘠すること此の如し、必ず性を滅するに至らん。性を滅すは不孝なり、宜しく自ら抑割すべし」と。虞曰く、「藜藿 米を雜ぜれば、以て哀に勝ふるに足る」と。虞 園有り宅の北數里に在り、瓜果 初めて熟し、人 垣を踰えて之を盜む有り。虞 園援 棘刺多きを以て、偷びと人を見みて驚き走りて傷損するに致るを恐れ、乃ち奴をして之が為に道を開かしむ。偷びと瓜を負ひて將に出でんとするに及び、道 通利するを見て、虞 之を除かしむを知り、乃ち盜む所の瓜を送りて、叩頭し罪を請ふ。虞 乃ち歡然として、盡く瓜を以て之に與ふ。嘗て行するに、逆旅に寄宿し、同宿の客 脯を失ひて、虞 盜を為すを疑ふ。虞 默然として言ふ無く、便ち衣を解きて之を償ふ。主人曰く、「此の舍 數々魚肉雞鴨を失ひ、多く是れ狐貍 偷み去るなり、君 何を以て人を疑ふ」と。乃ち脯主を將ゐて山冢の間に至りて尋求するに、果たして之を得たり。客 衣を還さんと求むるも、虞 之を投じて顧みず。
虞の諸兄 石勒の世に仕へ、咸 顯位に登るも、惟だ虞のみ非類に臣たるを恥ぢ、陰かに地を海東に避けんと欲す。會々母の憂に丁ひ、遂に止む。哀毀 骨立し、墓側に廬す。五年の後に、石勒 以て武城令と為す。虞 黃河に密邇たり、海を去ること微近なるを以て、將に前志を申べんとし、欣然として職に就く。石季龍の太守の劉徵 甚だ之を器重す。徵 青州刺史に遷るや、虞に長史と為ることを請ひ、祝阿郡に帶せしむ。徵 疾に遇ひて鄴に還るや、虞をして州府の屬を監行せしむ。季龍 死するや、國中 大いに亂れ、朝廷 虞 名父の子なるを以て、必ず能く功を海岱に立てんとし、潛かに東莞の人の華挺を遣はして虞に寧朔將軍・青州刺史を授く。虞曰く、「功名 吾が志に非ざるなり」と。乃ち使者に啟を附して刺史を讓り、海右に靖居して、境外に交はらず。偽朝に歷すと雖も、而れども亂に豫らず、世は此を以て之を高しとす。官に卒す。
虞 五世 同居して、閨門 邕穆なり。苻堅の青州刺史の苻朗 甚だ之を重んじ、嘗て虞の家に詣り、升堂して其の母に拜し、時人 以て榮と為す。
桑虞は字を子深といい、魏郡黎陽の人である。父の桑沖は、広大な見識と度量があり、恵帝のとき黄門郎となった。河間王顒(司馬顒)が執政すると、招いて司馬とした。桑沖は司馬顒が必ず敗れることを察知し、十日だけ官職におり、病気と称して退職を求めた。桑虞の仁孝は天からの授かりもので、十四歳のとき父が亡くなり、礼の定めを超えて痩せ衰え、一日に米百粒だけをあかざと豆に混ぜてかゆを作った。姉が桑虞を諭して、「あなたがそんなに痩せては、命の危険があります。命を失うのは親不孝なので、もう少し栄養を取りなさい」と言った。桑虞は、「あかざと豆に米を混ぜているので、悲しみに堪える体力が十分にあります」と言った。桑虞の家から北へ数里のところに畑があって、瓜が実ったころ、垣を越えて盗むものがいた。桑虞は畑の囲いにはいばらの棘が多いので、盗人が人に見つかって驚いて逃げるときに体を傷つけることを恐れ、奴隷に(いばらを切り)逃げ道を開かせた。盗人が瓜を背負って出て行こうとするとき、逃げ道が用意されており、桑虞がいばらを除かせたこを知り、盗んだ瓜を持って自首し、叩頭して罪を請うた。桑虞は喜んで、盗んだ瓜をすべて与えてやった。かつて旅行したとき、宿舎に泊まると、同宿の客が脯(ほじし)を無くし、客は桑虞が盗んだものと疑った。桑虞は黙ったまま言い返さず、上着を脱いで弁償した。宿舎の主人は、「この宿では頻繁に魚や肉や鶏や鴨が無くなりますが、狐や貍が盗み去るのです、どうしてあなたは他人を疑うのですか」と言った。脯の持ち主を連れて山の上を探し求めると、案の定見つかった。客は上着を返却しようとしたが、桑虞は手放して顧みなかった。
桑虞の兄たちは石勒の世(後趙)に仕え、みな高位に昇ったが、ただ桑虞だけが異民族に臣従することを恥じ、ひそかに海東の地(海沿い)に逃れようとした。たまたま母が亡くなり、移動を中止した。悲しんで痩せ衰え、墓のそばに廬を結んで喪に服した。五年後、石勒が武城令とした。桑虞は(武城県が)黄河に近く、海からも遠くないので、計画どおり海東に逃れる足がかりにしようと、喜んで職務に就いた。石季龍の太守の劉徴はとても桑虞を尊重した。劉徴が青州刺史に遷ると、桑虞に長史になってほしいと請い、祝阿郡に居らせた。劉徴が病気で鄴に還ると、桑虞に州府の属吏を監行させた。石季龍が死ぬと、国中が大いに乱れ、(後趙の)朝廷は桑虞が名望家の子であるから、必ず海岱(青州方面)で功績を立てられると期待し、ひそかに東莞の人の華挺を派遣して(説得し)桑虞に寧朔将軍・青州刺史を授けようとした。桑虞は、「功名はわが志ではない」と断った。使者に言付けして刺史を辞退し、海沿いに引きこもり、外部との交流を断った。歴代の偽朝(後趙)に仕えたが、乱に関与しなかったので、世はこのことを高邁だと言った。在官で亡くなった。
桑虞は五世代が同居しても、一族が融和していた。苻堅(前秦)の青州刺史の苻朗がとても尊重し、かつて虞預の家を訪れ、升堂してその母に拝し、当時の人々はこれを栄誉とした。
何琦字萬倫、司空充之從兄也。祖父龕、後將軍。父阜、淮南內史。琦年十四喪父、哀毀過禮。性沈敏有識度、好古博學、居于宣城陽穀縣、事母孜孜、朝夕色養。常患甘鮮不贍、乃為郡主簿、察孝廉、除郎中、以選補宣城涇縣令。司徒王導引為參軍、不就。
及丁母憂、居喪泣血、杖而後起。停柩在殯、為鄰火所逼、煙焰已交、家乏僮使、計無從出、乃匍匐撫棺號哭。俄而風止火息、堂屋一間免燒、其精誠所感如此。服闋、乃慨然歎曰、「所以出身仕者、非謂有尺寸之能以效智力、實利微祿、私展供養。一旦煢然、無復恃怙、豈可復以朽鈍之質塵黷清朝哉」。於是養志衡門、不交人事、耽翫典籍、以琴書自娛。不營產業、節儉寡欲、豐約與鄉鄰共之。鄉里遭亂、姊沒人家、琦惟有一婢、便為購贖。然不為小謙、凡有贈遺、亦不苟讓、但於己有餘、輒復隨而散之。任心而行、率意而動、不占卜、無所事。司空陸玩・太尉桓溫並辟命、皆不就。詔徵博士、又不起。簡文帝時為撫軍、欽其名行、召為參軍、固辭以疾。公車再徵通直散騎侍郎・散騎常侍、不行。由是君子仰德、莫能屈也。桓溫嘗登琦縣界山、喟然歎曰、「此山南有人焉、何公真止足者也」。
琦善養性、老而不衰、布褐蔬食、恒以述作為事、著三國評論、凡所撰錄百許篇、皆行于世。年八十二卒。
1.「三國評論」は、『隋書』経籍志二は「論三國志」に作る。
何琦 字は萬倫、司空充の從兄なり。祖父の龕は、後將軍なり。父の阜は、淮南內史なり。琦 年十四にして父を喪ひ、哀毀 禮を過ぐ。性は沈敏にして識度有り、古を好み學を博くし、宣城の陽穀縣に居り、母に事ふること孜孜たり、朝夕に色養す。常に甘鮮の贍らざることを患ふ。乃ち郡の主簿と為り、孝廉に察せられ、郎中に除せられ、以て宣城涇縣令に選補せらる。司徒の王導 引きて參軍と為すも、就かず。
母の憂に丁(あ)たるに及び、喪に居りて泣血し、杖つきて後に起つ。柩を停めて殯に在るに、鄰火の逼る所と為れば、煙焰 已に交はり、家 僮使を乏つれば、計り從りて出づべき無く、乃ち匍匐して棺を撫でて號哭す。俄かにして風は止み火は息み、堂屋の一間のみ燒くるを免がる。其の精誠にして感ずる所 此の如し。服闋するや、乃ち慨然として歎じて曰く、「身を出だし仕ふる所以の者は、尺寸の能もて以て智力を效すに有ると謂ふに非ず、實は微祿を利とし、私かに供養を展べんとす。一旦に煢然として、復た恃怙する無し。豈に復た朽鈍の質を以て清朝を塵黷す可けんや」と。是に於て志を養ひて衡門し、人事に不はらず、典籍を耽翫して、琴書を以て自娛とす。產業を營まず、節儉にして寡欲たり、豐約 鄉鄰と與に之を共にす。鄉里 亂に遭ふや、姊 人家沒く、琦 惟だ一婢有るは、便ち為めに購贖するものなり。然れども小謙を為さず、凡そ贈遺有れば、亦た苟讓せず、但だ己に餘有れば、輒ち復た隨ひて之を散ず。心に任せて行ひ、意に率ひて動き、占卜せず、事とする所無し。司空の陸玩・太尉の桓溫 並びに辟命するも、皆 就かず。詔して博士に徵すも、又 起たず。簡文帝 時に撫軍為りて、其の名行を欽み、召して參軍と為すも、固辭するに疾を以てす。公車もて再び通直散騎侍郎・散騎常侍に徵すも、行かず。是に由りて君子 德を仰ぎ、能く屈する莫し。桓溫 嘗て琦の縣の界山に登り、喟然として歎じて曰く、「此の山の南に人有り、何公は真の止足なる者なり」と。
琦 善く性を養ひ、老ひても衰へず、布褐蔬食して、恒に述作を以て事と為し、三國評論を著はす。凡そ撰錄する所 百許篇にして、皆 世に行はる。年八十二に卒す。
何琦は字を萬倫といい、司空の何充の従兄である。祖父の何龕は、後将軍である。父の何阜は、淮南内史である。何琦は十四歳のとき父を失い、悲しんで痩せ衰えることは礼の水準を超えた。落ち着いて聡明で、判断力と度量があり、古を好んで博学で、宣城の陽穀県に住んで、熱心に母に仕え、朝夕に顔色から気持ちを伺い、つねに(母の食べ物が)美味しくないことを心配した。郡の主簿となり、孝廉に察挙され、郎中に任命され、宣城の涇県令に任命された。司徒の王導が召して参軍としたが、着任しなかった。
母が亡くなると、遺体のそばで血の涙を流し、杖をつかないと立てなかった。柩を家に置いて殯していると、隣家の火事が延焼し、煙と炎に包まれたが、何琦の家は召使いを雇っていなかったので、避難経路を案内するものがいなかった。何琦は地を這って母の棺のところに進み、棺を撫でて号泣した。にわかに風が吹き止んで火が消え、棺のある一部屋だけが焼け残った。母を思う気持ちが、このような現象を起こしたのである。喪が明けると、乃ち憂い悲しんで歎き、「官僚になって仕えていたのは、この身の僅かな才能を発揮したいからではない。わずかな俸禄を得て、母を養おうと思ったからである。このたび母を失って独り身となり、扶養するものがいない。ふたたび愚鈍な才覚を持ち込んで清らかな国家を穢すことはできまい」と言った。そこで志を養って門を閉ざし、世間と関わらず、典籍を読みふけり、琴と書物を楽しみとした。生業を営まず、節約して寡欲で、近隣と貧富をともにした。郷里で戦乱があり、姉が家を失うと(姉と同居すると)、何琦は一人の婢を雇ったが、これは姉のために買ったものである。ただし細々とした謙譲に拘らず、贈り物があれば、辞退せずに受け取ったが、もしも余裕ができれば、すぐに財物を他人に施した。心のとおり行動し、考えのまま振る舞い、占卜を行わず、事業に携わらなかった。司空の陸玩・太尉の桓温が何琦を辟命したが、どちらにも就かなった。詔して博士の位に徴したが、これにも応じなかった。簡文帝がこのとき撫軍で、何琦の名声と行動を尊重し、参軍に召したが、病気を理由に固辞した。公車徴により通直散騎侍郎・散騎常侍に招いたが、行かなかった。こうして君子は何琦の徳を仰ぐようになり、だれも服属させられなかった。桓温がかつて何琦が住む県の界山に登り、嘆息して、「この山の南にあの人物がいる、何公は止まり自足することを弁えた人物である」と言った。
何琦は正しく性を養い、老いても衰えず、粗末な衣食をして、つねに著作に取り組み、『三国評論』を著した。撰録した書物は百篇あまりで、みな世で読まれた。八十二歳で亡くなった。
吳逵、吳興人也。經荒饑疾病、合門死者十有三人、逵時亦病篤、其喪皆鄰里以葦席裹而埋之。逵夫妻既存、家極貧窘、冬無衣被、晝則傭賃、夜燒磚甓、晝夜在山、未嘗休止、遇毒蟲猛獸、輒為之下道。朞年、成七墓・十三棺。時有賻贈、一無所受。太守張崇義之、以羔雁之禮禮焉。卒於家。
吳逵は、吳興の人なり。荒饑疾病を經て、合門に死者十有三人、逵 時に亦た病篤たりて、其の喪 皆 鄰里に葦席を以て裹(つつ)みて之を埋む。逵の夫妻 既に存するも、家 貧窘を極め、冬に衣被無し。晝は則ち傭賃し、夜は磚甓を燒き、晝夜 山に在り、未だ嘗て休止せず。毒蟲猛獸に遇はば、輒ち之が為に道を下る。朞年にして、七墓・十三棺を成す。時に賻贈有るも、一だに受くる所無し。太守の張崇 之を義とし、羔雁の禮を以て焉を禮す。家に卒す。
呉逵は、呉興の人である。荒乱や飢饉と疫病があったため、一族全体で十人のうち三人が死に、呉逵もまた病気が重く、一族の遺体を(正式に埋葬する余裕がなく)郷里の近隣にむしろで包んで埋めた。呉逵の夫妻は生き残ったが、家は貧困を極め、冬になっても上着がなかった。昼や賃労働をして、夜は瓦やかめを焼き、昼夜問わず山におり、休息したことがなかった。毒虫や猛獣に遭遇しても、(虫や獣が呉逵に)道を譲って避けた。一年で、七の墓と十三の棺を完成させた。見舞いの贈り物は、一切受け取らなかった。太守の張崇はこれを義とし、小羊と雁の贈り物をした。(仕官せず)家で亡くなった。
史臣曰、尊親之道、禮經之明訓。孝友之義、詩人之美談、是知人倫之本、罔茲攸尚。盛翁子立行淳至、素蓄異才、流慟致其感通、含哺申其就養、戴昌賞其清韵、陸雲嘉其茂德。王裒隱居不從其辟、行己莫逾其禮、枯柏以應其誠、驚雷以危其慮。永言董蔡、異時均美。許孜少而敏學、禮備在三、馴雉棲其梁棟、猛獸擾其庭圃、居喪之禮、實古今之所難焉。庾叔褒不匱表於執勤、則裕存乎敬業、幽顯不易其操、疫癘不駭其心、急病讓夷之規、有古人之風烈矣。孫晷之匪懈、王談之復讎、神人惜其亡、良守宥其罪。劉殷幼丁艱酷、柴毀逾制、發三冬之菫、賜七年之粟、至誠之契、義形于茲。王延叩冰而召鱗、扇席而清暑、雖黃香・孟宗、抑為倫輩。其餘羣子、並孝養可崇、清風素範、高山景行、會其宗流、同斯志也。
贊曰、德之所屆、有感必徵。孝哉王許、永慕烝烝。揮泗凋柏、對榥巢鷹。密・彥・夏・庾、夙標至性。文度・弘都、勤修懿行。敦彼孝友、載光謠詠。鳩馴長盛、魚薦延元。談桑義闡、琦吳道存。專洞之德、咸摛左言。
史臣曰く、親を尊ぶの道は、禮經の明訓なり。孝友の義は、詩人の美談なり。是(ここ)に知りぬ人倫の本、茲より攸ぶ尚罔しと。盛翁子は行を立つること淳至たりて、素より異才を蓄へ、流慟 其の感通を致し、含哺 其の就養を申ぶ。戴昌は其の清韵を賞し、陸雲は其の茂德を嘉す。王裒は隱居して其の辟に從はず、己を行ひて其の禮を逾ゆる莫く、枯柏 以て其の誠に應じ、驚雷 以て其の慮を危ぶむ。永言の董・蔡、時を異にして美を均しくす。許孜 少くして學に敏く、禮 在三を備へ、馴雉 其の梁棟に棲み、猛獸 其の庭圃に擾なり、居喪の禮、實に古今の難する所なり。庾叔褒はせず勤を執るを表はし、則ち裕に敬業を存し、幽顯 其の操を易へず、疫癘 其の心を駭さず、急病の讓夷の規、古人の風烈有り。孫晷の 匪懈、王談の復讎、神人 其の亡を惜み、良守 其の罪を宥す。劉殷 幼くして艱酷に丁り、柴毀 制に逾へ、三冬の菫を發し、七年の粟を賜ふ。至誠の契、義 茲に形はる。王延 冰を叩きて鱗を召し、席を扇ぎて暑を清くす。黃香・孟宗と雖も、抑々倫輩為り。其の餘の羣子、並びに孝養なりて崇ぶ可し。清風素範、高山景行、其の宗流を會し、斯の志を同くす。
贊に曰く、德の屆る所、感有れば必ず徵あり。孝なるかな王・許よ、永慕なりて烝烝たり。泗(なみだ)を揮ひて柏を凋して、榥に對して鷹を巢はしむ。密・彥・夏・庾、夙に至の性を標す。文度・弘都、勤めて懿行を修む。彼の孝友を敦くして、載ち謠詠に光れり。鳩は長盛に馴れ、魚は延元に薦む。談・桑の義 闡かに、琦・吳の道 存す。專洞の德、咸 左言に摛ふ。
史臣はいう、親を尊ぶの道は、礼経(儒家経典)の明らかな教えである。孝友の義は、詩人が歌にした美談である。人倫の基本として、これよりも崇高なものはない。盛翁子(盛彦)は言行が至孝であり、秀でた才能があったが、(失明した母のために)涙を流して天に通じ、食べ物を口に含んで養った。(孫呉の太尉の)戴昌は(盛彦が作った返答の詩を)ほめ、陸雲はその立派な徳を賛美した。王裒は隠棲して辟召に従わず、身を立てて行動が礼を損なわず、(司馬昭に殺された父のために流した涙で)柏の木がその誠意に応じて枯れ、(雷を恐がった母の死後も)母の恐怖を墓前でなだめた。伝説上の(孝行者の)蔡順・董黯とも、時代は異なれども共通した美徳がある。許孜は若いときから学問が得意で、在三(父・師・君)に対する礼を備え、(許孜の孝心に感応して)鳥が懐いて梁に住み、猛獣が庭園で従った。服喪の礼は、まことに古来より難しいものである。庾叔褒(庾袞)は倦まず勤勉の手本となり、自給自足で暮らし、他人の目の有無で行動を変えず、(兄がかかった)流行病を恐れず、感染を顧みず看病したのは、古人の風烈がある。孫晷は怠けず(父母に仕え)、王談は仇を取り(父を殺した隣人を殺し)、神明は孫晷の死亡を惜しみ(孫晷が死ぬと神仙が現れ)、すぐれた太守は王談の罪を赦した。劉殷は幼いとき艱難にあい、(親の死を悲しんで)枯れ木のように痩せたが、祖母が欲しがった菫菜(野芹)が生え、七年分の粟を(掘り出して)賜った。孝心があれば、このような感応があるのだ。王延が氷を叩くと魚が踊り出て、夏は継母の枕元を仰いで涼しくした。(孝行で有名な)黄香や孟宗であっても、彼らと同類と言えるだろう。その他の人々も、みな孝で親類を養った尊い人物である。清らかで高潔で、徳を実践した人々は、同じ源流をもち、共通の志を持つものなのだ。
賛にいう、徳が行われれば、必ず感応して徴が表れる。なんと孝であるか王裒・許孜は、二人はあつく父母を思慕した。(王裒は)涙をふるって柏の木を枯らし、(許孜)は棟木に鷹が巣を作った。李密・盛彦・夏方・庾袞は、早くから(孝友の)性が発露した。文度(孫晷)・弘都(顔含)は、正しい行為に努めた。彼らは孝友な人物として、詩賦に歌われた。鳩が長盛(劉殷)に懐き(二羽の白鳩が庭の木に巣を作り)、魚は延元(王延)の前に現れた(継母への贈り物になった)。王談と虞桑は義は明らかで、何琦と呉逵の道は世に残った。純粋で一徹の徳は、みなこの巻(孝友伝)に採録したとおりである。