翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。いったん公開します。誤訳や誤字は随時修正していきます。
古人有言、「君子殺身以成仁、不求生以害仁」。又云、「非死之難、處死之難」。信哉斯言也。是知、隕節苟合其宜、義夫豈吝其沒。捐軀若得其所、烈士不愛其存。故能守鐵石之深衷、厲松筠之雅操。見貞心於歲暮、標勁節於嚴風、赴鼎鑊其如歸、履危亡而不顧。書名竹帛、畫象丹青。前史以為美談、後來仰其徽烈者也。
晉自元康之後、政亂朝昏、禍難荐興、艱虞孔熾、遂使姦凶放命、戎狄交侵。函夏沸騰、蒼生塗炭、干戈日用、戰爭方興。雖背恩忘義之徒不可勝載、而蹈節輕生之士無乏於時。至若嵇紹之衞難乘輿、卞壼之亡軀鋒鏑。桓雄之義高田叔、周崎之節邁解揚。羅・丁致命于舊君、辛・吉恥臣于戎虜。張禕引鴆以全節、王諒斷臂以厲忠。莫不志烈秋霜、精貫白日。足以激清風于萬古、厲薄俗于當年者歟。所謂亂世識忠臣、斯之謂也。卞壼・劉超・鍾雅・周虓等已入列傳、其餘即敘其行事以為忠義傳、用旌晉氏之有人焉。
古人に言有り、「君子 身を殺して以て仁を成す、生を求めて以て仁を害せず〔一〕」と。又 云ふ、「死することの難きに非ず、死に處すること難し」と〔二〕。信なるかな斯の言や。是に知る、隕節して苟も其の宜に合はば、義夫 豈に其の沒することを吝(を)しまん。捐軀して若し其の所に得へば、烈士 其の存を愛(を)しまん。故に能く鐵石の深衷を守り、松筠の雅操を厲(よ)くす。貞心を歲暮に見(あらは)し、勁節を嚴風に標(しる)し、鼎鑊に赴くこと其れ歸するが如く、危亡を履みて顧みず。名を竹帛に書せられ、象を丹青に畫かる〔三〕。前史 以て美談と為り、後來 其の徽烈なるを仰ぐなり。
晉の元康の後より、政は亂れ朝は昏し、禍難 荐(かさ)ねて興り、艱虞 孔(おほ)いに熾り、遂に姦凶をして放命し、戎狄をして交侵す。函夏 沸騰し、蒼生 塗炭ありて、干戈 日々用ひ、戰爭 方に興る。恩に背き義を忘るるの徒 勝げて載する可からざると雖も、而して節を蹈み生を輕んずるの士 時に乏しきこと無し。至若(しかのみならず)嵇紹の難を乘輿に衞り、卞壼の軀を鋒鏑に亡す。桓雄の義 田叔より高く〔四〕、周崎の節 解揚に邁(す)ぐ〔五〕。羅・丁 命を舊君に致し、辛・吉 戎虜に臣たることを恥づ。張禕 鴆を引きて以て節を全し、王諒 臂を斷ちて以て忠を厲す。志は秋霜より烈しく、精は白日を貫かざること莫し。以て清風を萬古に激し、薄俗を當年に厲ますに足る者か。謂ふ所の亂世 忠臣を識るは、斯の謂なり。卞壼・劉超・鍾雅・周虓ら已に列傳に入る、其の餘 即ち其の行事を敘して以て忠義傳と為し、用て晉氏の人有るを旌(あらは)さん。
〔一〕『論語』衛霊公篇に、「志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」とある。
〔二〕『三国志』巻四十四 姜維伝所引 干宝『晋紀』に、「非死之難、處死之難也」とある。さらに出典を遡れるかは未詳。
〔三〕敬仲 @JingzhongKeichu さまのご指摘によれば、『漢書』巻五十四 蘇建伝にある「竹帛所載、丹青所畫」を踏まえたもので、「丹青」は、絵の具から転じて、絵画の意味で訳するのが適切か。【訳者注】直前の「竹帛」とともに、「丹青」を表現の道具と捉えるか、表現された物と捉えるかの問題です。いずれか片方に決められないため、現代語訳は()で補い、折衷的なものとしました。
〔四〕田叔は、楚漢戦争のときの趙王張敖の臣。漢の劉邦と敵対し、張敖への忠義を貫いた。
〔五〕解揚は、春秋晋の大夫。命をかけて楚と外交交渉をした(『春秋左氏伝』文公八年、宣公十五年)。
古人は言う、「君子は身を殺して仁を成しとげ、生を求めて仁を阻害しない」と。また、「死ぬことが難しいのではない、死に対処することが難しいのだ」とも言う。この言はじつにその通りだ。だからこそ、節義に殉じて死ぬべき状況であれば、義夫はどうして命を惜しむだろうか。身体を投げ出すべき場面であれば、烈士はどうして生き残ろうとするだろうか。ゆえに鉄や石のような真心を守り、松や竹のような(不変の)優れた操を正すのである。貞節の心を歳暮に表し、強靱な節を強風に打ち立て、鼎鑊(釜茹での刑具)に赴くことすら当然のようで、危険に飛び込んで平然としている。名を竹帛に記され、姿を(絵の具で)絵画に描かれる。前代の歴史は美談となり、後世にその立派な事績を仰がれる。
晋の元康年間(二九一~二九九年)の後から、政治や朝廷が混乱し、災禍がかさねて起こり、苦難がおおいに盛んで、姦悪なものが命令を聞かず、戎狄が相次いで侵入した。中原は沸き立ち、万民は塗炭の苦しみで、闘争が日々行われ、戦争が発生した。恩に背いて義を忘れる連中は多すぎて記載できないが、節を踏み生を軽んじた人士もこのとき少なくはなかった。さらに嵇紹は(天子の)乗輿を危機から守り、卞壼は戦場で命を落とした。桓雄の義は田叔より高く、周崎の節は解揚を超える。羅と丁(羅企生と丁穆)は旧君にために殉じ、辛と吉(辛恭靖と吉挹)は戎狄の臣となることを恥じた。張禕は鴆毒を引き寄せて節を全うし、王諒は腕を断ち切って忠を正した。志は秋霜より烈しく、精は日輪を貫かぬことがない。清風を前代に激しくし、薄俗を現代に盛んにする者たちであろうか。いわゆる乱世こそ忠臣が分かるというのは、このことである。卞壼と劉超と鍾雅と周虓らはすでに列伝に入れた、それ以外の人々の行跡を記述して忠義伝とし、晋代にも(忠義の)人材がいたことを顕彰しよう。
嵇紹字延祖、魏中散大夫康之子也。十歲而孤、事母孝謹。以父得罪、靖居私門。山濤領選、啟武帝曰、「康誥有言、『父子罪不相及』。嵇紹賢侔郤缺、宜加旌命、請為祕書郎」。帝謂濤曰、「如卿所言、乃堪為丞、何但郎也」。乃發詔徵之。起家為祕書丞。
紹始入洛、或謂王戎曰、「昨於稠人中始見嵇紹、昂昂然如野鶴之在鷄羣」。戎曰、「君復未見其父耳」。累遷汝陰太守。尚書左僕射裴頠亦深器之、每曰、「使延祖為吏部尚書、可使天下無復遺才矣」。沛國戴晞少有才智、與紹從子含相友善、時人許以遠致、紹以為必不成器。晞後為司州主簿、以無行被斥、州黨稱紹有知人之明。轉豫章內史、以母憂、不之官。服闋、拜徐州刺史。時石崇為都督、性雖驕暴、而紹將之以道、崇甚親敬之。後以長子喪去職。
元康初、為給事黃門侍郎。時侍中賈謐以外戚之寵、年少居位、潘岳・杜斌等皆附託焉。謐求交於紹、紹距而不答。及謐誅、紹時在省、以不阿比凶族、封弋陽子、遷散騎常侍、領國子博士。太尉・廣陵公陳準薨、太常奏諡。紹駁曰、「諡號所以垂之不朽、大行受大名、細行受細名。文武顯於功德、靈厲表於闇蔽。自頃禮官協情、諡不依本。準諡為過、宜諡曰繆」。事下太常。時雖不從、朝廷憚焉。
趙王倫篡位、署為侍中。惠帝復阼、遂居其職。司空張華為倫所誅、議者追理其事、欲復其爵。紹又駁之曰、「臣之事君、當除煩去惑。華歷位內外、雖粗有善事、然闔棺之責、著于遠近、兆禍始亂、華實為之。故鄭討幽公之亂、斲子家之棺。魯戮隱罪、終篇貶翬。未忍重戮、事已弘矣。謂、不宜復其爵位、理其無罪」。時帝初反正、紹又上疏曰、「臣聞、改前轍者則車不傾、革往弊者則政不爽。太一統于元首、百司役于多士。故周文興于上、成康穆于下也。存不忘亡、易之善義。願陛下無忘金墉、大司馬無忘潁上、大將軍無忘黃橋、則禍亂之萌無由而兆矣」。
嵇紹 字は延祖、魏の中散大夫の康の子なり。十歲にして孤たり、母に事へて孝謹なり。父の罪を得るを以て、私門に靖居す。山濤 選を領するとき、武帝に啟して曰く、「康誥に言有り、『父子の罪 相 及ばず』と〔一〕。嵇紹の賢 郤缺に侔(ひと)し〔二〕、宜しく旌命を加ふべし、祕書郎と為すことを請ふ」と。帝 濤に謂ひて曰く、「卿の言ふ所が如くなれば、乃ち丞と為るに堪へん、何ぞ但だ郎なるのみや」と。乃ち詔を發して之を徵す。起家して祕書丞と為る。
紹 始めて洛に入るに、或ひと王戎に謂ひて曰く、「昨 稠人の中に於て始めて嵇紹を見る、昂昂然として野鶴の鷄羣に在るが如し」と。戎曰く、「君 復た未だ其の父を見ざるのみ」と。累ねて汝陰太守に遷る。尚書左僕射の裴頠 亦た深く之を器とし、每に曰く、「延祖をして吏部尚書と為らしめば、天下をして復た遺才無からしむ可し」と。沛國の戴晞 少くして才智有り、紹の從子の含と與に相 友善し、時人 許して遠致なりと以(い)ふに、紹 以て必ず器と成らざると為す。晞 後に司州主簿と為り、行無きを以て斥せられ、州黨 紹の知人の明有るを稱ふ。豫章內史に轉ずるも、母の憂を以て、官に之かず。服闋し、徐州刺史を拜す。時に石崇 都督と為り、性は驕暴なると雖も、而れども紹 之を將ゐるに道を以てし、崇 甚だ之を親敬す。後に長子の喪を以て職を去る。
元康の初に、給事黃門侍郎と為る。時に侍中の賈謐 外戚の寵を以て、年 少くして位に居り、潘岳・杜斌ら皆 焉に附託す。謐 交を紹に求め、紹 距みて答へず。謐 誅せらるに及び、紹 時に省に在り、凶族に阿比せざるを以て、弋陽子に封ぜられ、散騎常侍に遷り、國子博士を領す。太尉・廣陵公の陳準 薨ずるや、太常 諡を奏す。紹 駁して曰く、「諡號は之を不朽に垂るる所以にして、大行あれば大名を受け、細行あれば細名を受く。文武は功德を顯はし、靈厲は闇蔽を表す。自頃 禮官 情に協(あ)はせ、諡 本に依らず。準の諡 過為り、宜しく諡して繆と曰へ」と。事 太常に下す。時に從はざると雖も、朝廷 焉を憚る。
趙王倫 篡位するや、署して侍中と為す。惠帝 阼に復し、遂に其の職に居る。司空の張華 倫の誅する所と為り、議者 追ひて其の事を理め、其の爵を復せんと欲す。紹 又 之に駁して曰く、「臣の君に事ふるや、當に煩を除き惑を去るべし。華 位を內外に歷し、粗(ほ)ぼ善事有ると雖も、然れども闔棺の責、遠近に著はれ、禍を兆し亂を始むるは、華 實に之を為せり。故に鄭 幽公の亂を討つや、子家の棺を斲る〔三〕。魯は隱を戮すの罪もて、終に篇に翬と貶す〔四〕。未だ重ねて戮するに忍びず、事 已に弘なり。謂ふこころは、宜しく其の爵位を復すべからず、其の無罪を理めよ」と。時に帝 初めて正に反り、紹 又 上疏して曰く、「臣 聞くならく、前轍を改むる者は則ち車 傾せず、往弊を革むる者は則ち政 爽(たが)はず。一統を元首に太にし、司役を多士に百にす。故に周文は上に興り、成康は下に穆たり。存して亡を忘れざるは、易の善義なり。願はくは陛下 金墉を忘るること無く、大司馬 潁上を忘るること無く、大將軍 黃橋を忘るること無ければ、則ち禍亂の萌 由りて兆すこと無し」と。
〔一〕現行『尚書』康誥篇に、直接的に対応し出典となる文は見えない。
〔二〕郤缺は、春秋晋の大夫。成公の時代、趙盾に代わって執政した。
〔三〕『春秋左氏伝』宣公 伝十年に、「鄭子家卒。鄭人討幽公之亂、斲子家之棺、而逐其族」とある。
〔四〕翬は、公子翬。公子翬は、魯の隠公を殺害した。『春秋公羊伝』隠公四年に、「翬者何。公子翬也。何以不稱公子。貶。曷為貶。與弒公也」とある。
嵇紹は字を延祖といい、魏の中散大夫の嵇康の子である。十歳で父を失い、母に仕えて慎み深かった。父に罪があったので、私宅で静かに暮らした。山濤が人事権を管轄したとき、武帝に、「康誥に、『父子の罪は互いに及ばない』という言葉があります。嵇紹の賢さは郤缺に等しいので、招いて登用して下さい、秘書郎となさいませ」と申し入れた。武帝は山濤に、「もしきみの言う通りなら、(秘書)丞も務まるだろう、なぜ(秘書)郎に留めておくものか」と言った。詔を発してかれを徴召した。起家して秘書丞となった。
嵇紹が洛陽に入ったばかりのころ、あるひとが王戎に、「昨日衆人のなかで初めて嵇紹を見たが、抜きん出ており野鶴が鶏の群れにいるようだった」と言った。王戎は、「きみはかれの父(嵇康)を見たことがないだけだ」と言った。累遷して汝陰太守となった。尚書左僕射の裴頠もまた(嵇紹を)高く評価し、つねに、「延祖(嵇紹)を吏部尚書とすれば、天下から埋もれた才能が無くなるだろう」と言った。沛国の戴晞は若くして才智があり、嵇紹の従子の嵇含と仲が良く、当時の人々は(戴晞を評して)高い位に昇るだろうと言ったが、嵇紹は大成しないと言った。戴晞はのちに司州主簿となり、実績がないので排斥され、州の人々は嵇紹の人物眼を称えた。豫章内史に転じたが、母の喪により、赴任しなかった。三年喪が明けると、徐州刺史を拝した。このとき石崇が都督となり、性格が驕暴であったが、嵇紹はかれと道義をもって付き合い、石崇はとてもかれに親しみ敬った。のちに長子の喪によって職を去った。
元康年間(二九一~二九九年)の初め、給事黄門侍郎となった。このとき侍中の賈謐は外戚の恩寵により、若くして高位におり、潘岳や杜斌らはみな迎合した。賈謐が嵇紹と親交を結ぼうとしたが、嵇紹は拒絶して答えなかった。賈謐が誅殺されると、嵇紹は官府にいたが、凶族にへつらわなかったので、弋陽子に封建され、散騎常侍に遷り、国子博士を領した。太尉・広陵公の陳準が薨ずると、太常は諡を上奏した。嵇紹が反対し、「諡号は永久に伝えられるもので、大きな事績があれば大きな名を受け、小さな事績しかなければ小さな名を受けます。文や武(という諡)は功徳を表し、霊や厲(という諡)は暗愚を表します。このごろ礼官は諡を世情に流されて決め、本来の事績に基づいて決めません。陳準の諡は不適切です、諡して繆となさいませ」と言った。事案が太常に下された。このときは(嵇紹の意見に)従わなかったが、朝廷ではかれを憚った。
趙王倫が皇位を簒奪すると、任命されて侍中となった。恵帝が復位しても、同職に留まった。司空の張華は司馬倫に誅殺されたが、議者は追って実態を検証し、かれの爵位を回復しようとした。嵇紹はこれにも反対し、「臣下が君主に仕えたならば、混乱を予防せねばならない。張華は内外の官を歴任し、おおむね優れた実績があるが、しかし(張華が)死んだ原因は、内外に現れており、禍乱を招き寄せたのは、じつは張華自身の責任である。だからこそ鄭が幽公の乱を討伐すると、(責任の所在を遡及し)子家の棺を斬った。魯は隠公を弑殺した罪により、史書で(遡って公子と書かず)翬と貶められた。重ねて(張華が朝廷を乱した)罪を追及する必要はないが、実情はすでに明らかである。私の意見は、かれの爵位を復すことでなく、無罪を確定させること(だけ)である」と言った。このとき恵帝は位に返り咲いた直後であったが、嵇紹は上疏し、「臣が聞きますに、以前の失敗を改めれば馬車は転倒せず、前の弊害を改善すれば過ちがありません。王朝は安定して長続きし、職務を多くの適任者に任せられます。ですから祖先である周の文王が国を興し、子孫の成王と康王は和らぎました。生前から死を忘れないのは、『周易』のよき教訓です。どうか陛下は金墉城(に幽閉されたこと)をお忘れなく、大司馬(司馬冏)が潁上(の敗北)を忘れず、大将軍(司馬穎)が黄橋(の敗北)を忘れなければ、禍乱の萌しを抑止できます」と言った。
齊王冏既輔政、大興第舍、驕奢滋甚。紹以書諫曰、「夏禹以卑室稱美、唐虞以芧茨顯德。豐屋蔀家、無益危亡。竊承毀敗太樂以廣第舍、興造功力為三王立宅。此豈今日之先急哉。今大事始定、萬姓顒顒、咸待覆潤。宜省起造之煩、深思謙損之理。復主之勳不可棄矣、矢石之殆不可忘也」。冏雖謙順以報之、而卒不能用。紹嘗詣冏諮事、遇冏讌會。召董艾・葛旟等共論時政。艾言於冏曰、「嵇侍中善於絲竹、公可令操之」。左右進琴、紹推不受。
冏曰、「今日為歡、卿何吝此邪」。紹對曰、「公匡復社稷、當軌物作則、垂之于後。紹雖虛鄙、忝備常伯、腰紱冠冕、鳴玉殿省。豈可操執絲竹、以為伶人之事。若釋公服從私宴、所不敢辭也」。冏大慚。艾等不自得而退。頃之、以公事免、冏以為左司馬。旬日、冏被誅。初、兵交、紹奔散赴宮、有持弩在東閤下者、將射之。遇有殿中將兵蕭隆、見紹姿容長者、疑非凡人、趣前拔箭、於此得免。遂還滎陽舊宅。
尋徵為御史中丞、未拜、復為侍中。河間王顒・成都王穎舉兵向京都、以討長沙王乂、大駕次于城東。乂宣言於眾曰、「今日西討、欲誰為都督乎」。六軍之士皆曰、「願嵇侍中。勠力前驅、死猶生也」。遂拜紹使持節・平西將軍。屬乂被執、紹復為侍中。公王以下皆詣鄴謝罪於穎、紹等咸見廢黜、免為庶人。尋而朝廷復有北征之役、徵紹、復其爵位。紹以天子蒙塵、承詔馳詣行在所。值王師敗績于蕩陰、百官及侍衞莫不散潰、唯紹儼然端冕、以身捍衞。兵交御輦、飛箭雨集、紹遂被害于帝側、血濺御服。天子深哀歎之。及事定、左右欲浣衣、帝曰、「此嵇侍中血、勿去」。
初、紹之行也、侍中秦準謂曰、「今日向難、卿有佳馬否」。紹正色曰、「大駕親征、以正伐逆、理必有征無戰。若使皇輿失守、臣節有在、駿馬何為」。聞者莫不歎息。及張方逼帝遷長安、河間王顒表贈紹司空、進爵為公。會帝還洛陽、事遂未行。東海王越屯許、路經滎陽、過紹墓、哭之悲慟、刊石立碑、又表贈官爵。帝乃遣使冊贈侍中・光祿大夫、加金章紫綬、進爵為侯、賜墓田一頃、客十戶、祠以少牢。元帝為左丞相、承制、以紹死節事重、而贈禮未副勳德、更表贈太尉、祠以太牢。及帝即位、賜諡曰忠穆、復加太牢之祠。
紹誕于行己、不飾小節、然曠而有檢、通而不雜。與從子含等五人共居、撫卹如所同生。門人故吏思慕遺愛、行服墓次、畢三年者三十餘人。長子眕、有父風、早夭、以從孫翰襲封。成帝時追述紹忠、以翰為奉朝請。翰以無兄弟、自表還本宗。太元中、孝武帝詔曰、「褒德顯仁、哲王令典。故太尉・忠穆公執德高邈、在否彌宣、貞潔之風、義著千載。每念其事、愴然傷懷。忠貞之胤、蒸嘗宜遠。所以大明至節、崇奬名教。可訪其宗族、襲爵主祀」。於是復以翰孫曠為弋陽侯。
齊王冏 既に輔政するや、大いに第舍を興し、驕奢 滋々甚し。紹 書を以て諫めて曰く、「夏禹 卑室を以て美を稱へ、唐虞 芧茨を以て德を顯す。豐屋蔀家、危亡に益無し。竊かに承くるに太樂を毀敗して以て第舍を廣げ、興造するに功力もて三王の為に宅を立つ。此れ豈に今日の先急なるか。今 大事 始めて定まり、萬姓 顒顒とし、咸 覆潤を待つ。宜しく起造の煩を省き、深く謙損の理を思へ。復主の勳 棄つ可からず、矢石の殆 忘る可からざるなり」と。冏 謙順もて以て之に報ふと雖も、而して卒に能く用ゐず。紹 嘗て冏に詣りて諮事するに、冏の讌會するに遇ふ。董艾・葛旟らを召して共に時政を論ず。艾 冏に言ひて曰く、「嵇侍中 絲竹に善し、公 之を操せしむ可し」と。左右 琴を進むるも、紹 推して受けず。
冏曰く、「今日 歡を為す、卿 何ぞ此を吝しむや」と。紹 對へて曰く、「公 社稷を匡復し、當に物に軌して則を作り、之を後に垂るべし。紹 虛鄙なると雖も、忝くも常伯を備へ、紱を腰にし冕を冠し、玉を殿省に鳴らす。豈に絲竹を操執し、以て伶人の事を為す可きか。若し公服を釋きて私宴に從はば、敢て辭せざる所なり」と。冏 大いに慚づ。艾ら自ら得て退かず。頃之、公事を以て免ぜられ、冏 以て左司馬と為す。旬日に、冏 誅せらる。初め、兵 交はるや、紹 奔散して宮に赴くに、弩を持して東閤の下に在る者有り、將に之を射んとす。殿中の將兵の蕭隆有りて、紹の姿容 長者なるを見て、凡人に非ざるを疑ひ、趣前して箭を拔くに遇ひ、此に於て免るるを得たり。遂に滎陽の舊宅に還る。
尋いで徵せられて御史中丞と為り、未だ拜せざるに、復た侍中と為る。河間王顒・成都王穎 兵を舉げて京都に向かひ、以て長沙王乂を討つに、大駕 城東に次る。乂 言を眾に宣して曰く、「今日 西して討す、誰を都督と為さんと欲するか」と。六軍の士 皆 曰く、「願はくは嵇侍中と。力を勠(あ)はせて前驅せば、死すとも猶ほ生くるがごときなり」と。遂に紹に使持節・平西將軍を拜せしむ。乂の執へらるに屬(およ)び、紹 復た侍中と為る。公王より以下 皆 鄴に詣りて罪を穎に謝し、紹ら咸 廢黜せられ、免じて庶人と為す。尋いで朝廷に復た北征の役有り、紹を徵し、其の爵位を復す。紹 天子の蒙塵するを以て、詔を承けて馳せて行在所に詣る。王師 蕩陰に敗績するに值たり、百官及侍衞 散潰せざる莫く、唯だ紹のみ儼然として端冕し、身を以て捍衞す。兵 御輦に交はるに、飛箭 雨集し、紹 遂に帝の側に害せられ、血 御服を濺す。天子 深く之に哀歎す。事 定まるに及び、左右 浣衣せんと欲するに、帝曰く、「此れ嵇侍中の血なり、去る勿かれ」と。
初め、紹の行するや、侍中の秦準 謂ひて曰く、「今日 難に向かふに、卿 佳馬有りや否や」と。紹 色を正して曰く、「大駕 親征し、正を以て逆を伐つ、理は必ず征有りて戰無し。若し皇輿 守を失はしめば、臣節 在に有り、駿馬をば何にか為さん」と。聞く者 歎息せざる莫し。張方 帝に逼りて長安に遷すに及び、河間王顒 表して紹に司空を贈り、爵を進めて公と為す。會々帝 洛陽に還り、事 遂に未だ行はず。東海王越 許に屯するに、路に滎陽を經て、紹の墓を過り、之を哭して悲慟し、石を刊りて碑を立て、又 官爵を贈ることを表す。帝 乃ち使を遣はして冊もて侍中・光祿大夫を贈り、金章紫綬を加へ、爵を進めて侯と為し、墓田一頃、客十戶を賜はり、祠るに少牢を以てす。元帝 左丞相と為るや、承制し、紹の節に死すること事 重きを以て、而して贈禮 未だ勳德に副はざれば、更めて表して太尉を贈り、祠るに太牢を以てす。帝 即位するに及び、諡を賜りて忠穆と曰ひ、復た太牢の祠を加ふ。
紹 己を行なふに誕(おほ)いにし、小節を飾らず、然るに曠にして檢有り、通じて雜せず。從子の含ら五人と與に共に居し、撫卹すること同生する所の如くす。門人故吏 遺愛を思慕し、服を墓次に行ひ、三年を畢る者 三十餘人なり。長子の眕、父の風有り、早く夭し、從孫の翰を以て封を襲はしむ。成帝の時 追ひて紹の忠を述し、翰を以て奉朝請と為す。翰 兄弟無きを以て、自ら表して本宗に還る。太元中に、孝武帝 詔して曰く、「德を褒め仁を顯するは、哲王の令典なり。故太尉・忠穆公 德を執ること高邈にして、否に在るに彌々宣す、貞潔の風、義は千載に著はる。每に其の事を念じ、愴然として傷懷す。忠貞の胤、蒸嘗 宜しく遠くせしむべし。大いに至節を明らかにし、名教を崇奬する所以なり。其の宗族を訪ねて、爵を襲ひ祀を主らしむ可し」と。是に於て復た翰の孫の曠を以て弋陽侯と為す。
斉王冏が輔政すると、大規模に屋敷を作り、ますます贅沢をした。嵇紹は文書で諫め、「夏禹は質素な居室で美を称え、唐虞(尭舜)は茅屋で徳を明らかにしました。建物を派手にしても、国家の危機に役立ちません。ひそかに聞きますに太楽(の役所)を破壊して屋敷を拡張し、工事に人手を費やして三王の邸宅を建てるそうですね。これは今日において緊急のことですか。いま体制が定まったばかりで、万民は期待して仰ぎ見て、みなが経済の回復を待っています。どうか建造の負担を除き、深く謙譲の理を思い起こして下さい。君主を復位させた功績を捨ててはならず、戦場での危険を忘れてはいけません」と言った。司馬冏は恭順して返答したが、(助言を)実行できなかった。嵇紹はかつて司馬冏に会って意見を伝えようとしたが、司馬冏は酒宴の最中であった。董艾や葛旟らを召して一緒に時政を論じた。董艾が司馬冏に、「嵇侍中は楽器が得意です、こちらで演奏させてみては」と言った。左右のものが琴を進めたが、嵇紹は押しやって拒否した。
司馬冏は、「本日は宴だ、あなたはなぜ(演奏を)渋るのか」と言った。嵇紹は、「あなたは社稷を救い回復なさいました、道理に従って規準を作り、後世に伝えるべきです。私は卑しい人間ですが、かたじけなくも常伯(侍中)を拝命し、印綬を腰にさげ冕冠をかぶり、佩玉を宮殿で鳴らしています。どうして楽器を演奏し、楽人の芸をするでしょう。もし公服を脱いで私宴に出ているならば、断りはしませんでした」と言った。司馬冏はおおいに恥じた。董艾らは身動きが取れなくなった。しばらくして、公事により(侍中を)罷免され、司馬冏は(嵇紹を配下の)左司馬とした。十日ほどで、司馬冏が誅殺された。これよりさき、兵が交戦すると、嵇紹は逃げ去って宮殿に赴いたが、東閤のもとで弩を構えるものがおり、いまにも(嵇紹を)射ようとした。殿中の将兵の蕭隆が、嵇紹の姿形が立派であることから、凡人でないと考え、進み出て(発射される弩から)矢を抜きとり、おかげで命が助かった。かくして滎陽の旧宅に帰った。
ほどなく徴召されて御史中丞となり、まだ拝命せぬうちに、また侍中となった。河間王顒と成都王穎が兵を挙げて京都に向かい、長沙王乂を討伐すると、大駕(天子)は城東に停泊した。司馬乂は軍勢に声明を告げ、「これから西を討伐する、だれを都督にしようか」と言った。六軍の士はみな、「嵇侍中にして下さい。力を合わせて前進すれば、死んでもなお生きているようです」と言った。こうして嵇紹に使持節・平西将軍に拝させた。司馬乂が捕らえられると、嵇紹は侍中となった。公王より以下はみなで鄴に赴いて司馬穎に謝罪し、嵇紹らは全員が廃黜され、罷免され庶人とされた。すぐに朝廷でまた北征の役があり、嵇紹を徴召し、その爵位を回復した。嵇紹は天子が蒙塵し(都の外で流浪し)たので、詔を受けて行在所に駆けつけた。王師(天子の軍)が蕩陰で敗績すると、百官や侍衛は逃げ散ってしまったが、嵇紹のみが威儀をたもって冠を正し、身をもって護衛した。戦闘が御輦(天子)のそばで起こると、飛矢が雨のように降り注ぎ、嵇紹はこのとき恵帝のそばで殺害され、血が御服を汚した。天子は深く哀しみ嘆いた。事態が収束すると、左右のものが洗濯しようとしたが、恵帝は、「これは嵇侍中の血だ、洗い流すな」と言った。
これよりさき、嵇紹が(恵帝のもとに)向かうとき、侍中の秦準は、「これから難に向かうにあたり、あなたは良馬をお持ちか」と言った。嵇紹は顔色を正し、「大駕が親征し、正義により逆を伐つのだ、理としては必ず征があって戦はない(戦うまでもなく征伐が完了する)。もしも皇帝の乗輿が護衛を失えば、臣下としての節義はそこにあり(留まって死守する)、駿馬などは何に用いるのか(逃げるという使い道はない)」と言った。これを聞いて歎息せぬものはなかった。張方が恵帝に逼って(都を)長安に遷すと、河間王顒は上表して嵇紹に司空を贈り、爵位を進めて公とした。たまたま恵帝が洛陽に帰還したので、提案は実行されなかった。東海王越が許に駐屯するとき、滎陽を通過し、嵇紹の墓のそばを通り、かれのために悲しんで慟哭し、石を削って碑を立て、また官爵を贈ることを上表した。恵帝は使者をやって冊書で(嵇紹に)侍中・光禄大夫を贈り、金章紫綬を加え、爵位を進めて侯とし、墓田一頃、客十戸を賜わり、少牢で祭祀をした。元帝が左丞相となると、承制し、嵇紹が節に殉じたことを尊重し、しかし贈礼が勲徳と釣りあわぬとして、改めて上表して太尉を贈り、太牢で祭祀をした。元帝が即位すると、諡を賜って忠穆とし、また太牢の祭祀を加えた。
嵇紹は己の身を立派に処し、小節を飾らず、大きく節義があり、貫いて混じらなかった。従子の嵇含ら五人と暮らし、兄弟と同様に慈しんだ。門人や故吏は(嵇紹の)遺愛を思慕し、墓のそばで喪に服し、三年喪をやり遂げるものが三十人あまりいた。長子の嵇眕は、父に似ていたが、早くに死に、従孫の嵇翰に封爵をつがせた。成帝のとき追って嵇紹の忠を明らかにし、嵇翰を奉朝請とした。嵇翰は兄弟がいないので、自ら上表して本宗(生家)に還った(嵇紹直系の家が途絶えた)。太元年間(三七六~三九六)、孝武帝が詔し、「徳を褒賞し仁を顕彰するのは、賢明な王の優れた手法である。故太尉・忠穆公は徳を実践して高邁で、苦難においてますます尽くし、貞潔の風があり、節義は千年先まで伝わるものだ。つねにその事績を思い、愴然として胸を痛めていた。忠貞(嵇紹)の子孫に、祖先の祭りを長く行わせるように。さすれば至節が明らかになり、名教が尊ばれ推奨されるのである。かれの宗族からひとを探し、爵位をついで祭祀を掌らせよ」と言った。こうしてまた嵇翰の孫の嵇曠を弋陽侯とした。
含字君道。祖喜、徐州刺史。父蕃、太子舍人。含好學能屬文。家在鞏縣亳丘、自號亳丘子、門曰歸厚之門、室曰慎終之室。楚王瑋辟為掾。瑋誅、坐免。舉秀才、除郎中。
時弘農王粹以貴公子尚主、館宇甚盛、圖莊周于室。廣集朝士、使含為之讚。含援筆為弔文、文不加點。其序曰、「帝壻王弘遠華池豐屋、廣延賢彥。圖莊生垂綸之象、記先達辭聘之事。畫真人於刻桷之室、載退士於進趣之堂。可謂託非其所、可弔不可讚也」。其辭曰、「邁矣莊周、天縱特放、大塊授其生、自然資其量。器虛神清、窮玄極曠。人偽俗季、真風既散。野無訟屈之聲、朝有爭寵之歎。上下相陵、長幼失貫。於是借玄虛以助溺、引道德以自奬。戶詠恬曠之辭、家畫老莊之象。今王生沈淪名利、身尚帝女。連耀三光、有出無處。池非巖石之溜、宅非芧茨之宇。馳屈產於皇衢、畫茲象其焉取。嗟乎先生、高跡何局。生處巖岫之居、死寄彫楹之屋。託非其所、沒有餘辱。悼大道之湮晦、遂含悲而吐曲」。粹有愧色。
齊王冏辟為征西參軍、襲爵武昌鄉侯。長沙王乂召為驃騎記室督・尚書郎。1(又)〔乂〕與成都王穎交戰、穎軍轉盛、尚書郎旦出督戰、夜還理事。含言于乂曰、「昔魏武每有軍事、增置掾屬。青龍二年、尚書令陳矯以有軍務、亦奏增郎。今姦逆四逼、王路擁塞、倒懸之急、不復過此。但居曹理事、尚須增郎。況今都官中騎三曹晝出督戰、夜還理事、一人兩役、內外廢乏。含謂、今有十萬人、都督各有主帥、推轂授綏、委付大將。不宜復令臺僚雜與其間」。乂從之、乃增郎及令史。
懷帝為撫軍將軍、以含為從事中郎。惠帝北征、轉中書侍郎。及蕩陰之敗、含走歸滎陽。永興初、除太弟中庶子。西道阻閡、未得應召。范陽王虓為征南將軍、屯許昌、復以含為從事中郎。尋授振威將軍・襄城太守。虓為劉喬所破、含奔鎮南將軍劉弘於襄陽、弘待以上賓之禮。含性通敏、好薦達才賢、常欲崇趙武之諡、加臧文之罪。屬陳敏作亂、江揚震蕩、南越險遠。而廣州刺史王毅病卒、弘表含為平越中郎將・廣州刺史・假節。未發、會弘卒、時或欲留含領荊州。含性剛躁、素與弘司馬郭勱有隙。勱疑含將為己害、夜掩殺之。時年四十四。懷帝即位、諡曰憲。
1.中華書局本に従い、「又」を「乂」に改める。
含 字は君道。祖の喜、徐州刺史なり。父の蕃、太子舍人なり。含 學を好み屬文を能くす。家は鞏縣の亳丘に在れば、自ら亳丘子と號し、門を歸厚の門と曰ひ、室を慎終の室と曰ふ〔一〕。楚王瑋 辟して掾と為す。瑋 誅せられ、坐して免ぜらる。秀才に舉げ、郎中に除せらる。
時に弘農の王粹 貴公子を以て主を尚し、館宇 甚だ盛にして、莊周を室に圖く。廣く朝士を集め、含をして之の為に讚せじむ。含 筆を援(ひ)きて弔文を為り、文に點を加へず。其の序に曰く、「帝壻の王弘遠 池を華とし屋を豐とし、廣く賢彥を延す。莊生の垂綸の象を圖するも、先達の辭聘の事を記す。真人を刻桷の室に畫くも、退士を進趣の堂に載す。其の所に非ざるを託すと謂ふべし、弔ふ可し讚す可からず」と。其の辭に曰く、「邁なるかな莊周、天縱 特放せる、大塊 其の生を授け、自然 其の量を資く。器は虛にして神は清く、玄を窮め曠を極む。人偽は俗季にして、真風は既に散ず。野に訟屈の聲無く、朝に爭寵の歎有り。上下 相 陵し、長幼 貫を失ふ。是に於て玄虛を借りて以て助溺し、道德を引きて以て自奬す。戶ごとに恬曠の辭を詠し、家ごとに老莊の象を畫く。今 王生 名利に沈淪し、身に帝女を尚す。耀を三光に連ぬるも、出有りて處無し。池は巖石の溜に非ず、宅は芧茨の宇に非ず。屈產を皇衢に馳すると、茲の象を畫くは其れ焉(いづく)にか取る。嗟乎 先生よ、高跡 何ぞ局(まが)れる。生きて巖岫の居に處し、死して彫楹の屋に寄る。託は其の所に非ず、沒して餘辱有り。大道の湮晦を悼み、遂に含 悲みて曲を吐けり」と。粹 愧色有り。
齊王冏 辟して征西參軍と為し、爵武昌鄉侯を襲はしむ。長沙王乂 召して驃騎記室督・尚書郎と為す。乂 成都王穎と交戰するや、穎の軍 轉た盛たり、尚書郎 旦に出でて督戰し、夜に還りて事を理む。含 乂に言ひて曰く、「昔 魏武 每に軍事有れば、掾屬を增置す。青龍二年、尚書令の陳矯 軍務有るを以て、亦た郎を增すことを奏す。今 姦逆 四逼し、王路 擁塞し、倒懸の急も、復た此に過ぎず。但だ曹 事を理むるのみに居り、尚ほ須らく郎を增すべし。況んや今 都官の中騎三曹 晝に出でて督戰し、夜に還りて事を理む、一人 兩役し、內外 廢乏す。含 謂ふらく、今 十萬人有らば、都督 各々主帥有り、轂を推し綏を授け、大將に委付す。宜しく復た臺僚をして其の間と雜すべからず」と。乂 之に從ひ、乃ち郎及令史を增す。
懷帝 撫軍將軍と為り、含を以て從事中郎と為す。惠帝 北征するに、中書侍郎に轉ず。蕩陰の敗に及び、含 走りて滎陽に歸る。永興初に、太弟中庶子に除せらる。西道に阻閡せられ、未だ召に應ずるを得ず。范陽王虓 征南將軍と為り、許昌に屯するや、復た含を以て從事中郎と為す。尋いで振威將軍・襄城太守を授けらる。虓 劉喬の破る所と為り、含 鎮南將軍の劉弘に於て襄陽に奔るや、弘 上賓の禮を以て待す。含の性は通敏にして、才賢を薦達するを好み、常に趙武の諡を崇くし〔二〕、臧文の罪を加へんと欲す〔三〕。陳敏の亂を作すに屬ひ、江揚 震蕩し、南越 險遠たり。而も廣州刺史の王毅 病卒す。弘 含を表して平越中郎將・廣州刺史・假節と為す。未だ發せざるに、會々弘 卒し、時に或ひと含を留めて荊州を領せしめんと欲す。含の性 剛躁にして、素より弘の司馬の郭勱と隙有り。勱 含の將に己の害と為らんとするを疑ひ、夜に之を掩殺す。時に年四十四なり。懷帝 即位し、諡して憲と曰ふ。
〔一〕歸厚は、敦厚の風となること。慎終は、父母の葬祭をていねいにすること。『論語』学而篇に、「曾子曰、慎終追遠、民德歸厚矣」とあり、一連の文に見える。
〔二〕趙武は、春秋晋の人のことか。未詳。
〔三〕臧文は、未詳。深山(@miyama__akira)さまによると、臧文仲のことか。
嵇含は字を君道という。祖父の嵇喜は、徐州刺史である。父の嵇蕃は、太子舎人である。嵇含は学を好み文をつづるのを得意とした。家が鞏県の亳丘にあったので、みずから亳丘子と号し、門を帰厚の門といい、室を慎終の室といった。楚王瑋が辟召して掾とした。司馬瑋が誅されると、坐して免ぜられた。秀才に挙げ、郎中に除された。
このとき弘農郡の王粋は貴公子として公主をめとり、屋敷はとても立派で、荘周(荘子)の絵を描いた。広く朝士を集め、嵇含に讃(褒め称える文)を作らせた。嵇含は筆を引き寄せて弔文を作り、文に点を加えなかった。その序に、「皇帝の婿の王弘遠(王粋)は池や屋敷を豪華にし、広く賢士を招待した。荘子が釣り糸を垂れた図を描いておきながら、先達の人材登用のことを記した。真人を彫刻のある堂に描いておきながら、退士のことを進趣の堂に載せた。題材と文がちぐはぐと言うべきで、(荘子のために)弔うことはできても賞讃はできない」と言った。その弔辞に、「遠大である荘周は、生来の気質は自由で、大地はその生を授け、自然はその性質を助けた。器は虚ろで精神は清く、玄を究めて空虚を極めた。(今日において)為政は卑しく末期にあたり、真の(荘子の)教えはすでに散じた。在野に訴訟の声がなく、朝廷に寵愛を争う歎きがある。上下は対立し、長幼は序列を失った。ここにおいて玄虚(荘子の思想)を借りて埋め合わせ、道徳にかこつけ自ら飾っている。戸ごとにのんびりした言辞を書き、家ごとに老荘の絵を描いている。いま王生(王粋)は名利に目がくらみ、皇帝の娘を娶った。威光を日月星に連ねるが、進むばかりで止まることがない。池は岩石に溜めず、家は芧茨で作らない。屈産(名馬)を天子の道に走らせることと、その様子を描くことのどちらを選ぶのか。ああ古の賢者よ、高尚な思想のなんと台無しにされたことか。(賢者は)生きて洞窟に住み、死んで彫刻のほこらに立てられる。(ところが王粋の)題材選びが正しくなく、死んで余計な恥をかぶった。大いなる道が衰弱したことを悼み、こうして嵇含(わたし)は悲しんで妄言を吐露する」と言った。王粋は恥じ入った様子であった。
斉王冏は(嵇含を)辟召して征西参軍とし、武昌郷侯の爵をつがせた。長沙王乂は辟召して驃騎記室督・尚書郎とした。司馬乂が成都王穎と交戦すると、司馬穎の軍がにわかに盛んとなったため、尚書郎は朝に出かけて督戦し、夜に帰って事務をさばいた。嵇含は司馬乂に、「むかし魏武(曹操)はつねに軍務があるので、(丞相)掾属を増員しました。青龍二(二三四)年、尚書令の陳矯は軍務があるため、やはり(尚書)郎の増員を上奏しました。いま姦逆なものが四方から迫り、王の政道が行き詰まって、倒懸(逆さ吊り)の苦しみも、これほどではありません。担当官が事務をするだけでも、なお(尚書)郎を増員すべきでした。ましてや今では都官の中騎三曹は昼に出て督戦し、夜に帰って事務をし、一人二役で、内外(の官)は疲弊しています。私が考えますに、いま十万人の兵がいれば、都督ごとに主帥をおき、賢者を用いて権限を授け、大将のもとに配置すべきです。中央の事務官には軍事との兼務をさせぬようお願いします」と言った。司馬乂はこれに従い、(尚書)郎と(尚書)令史を増員した。
懐帝が撫軍将軍となると、嵇含を従事中郎とした。恵帝が北征すると、中書侍郎に転じた。蕩陰で(天子が)敗北すると、嵇含は逃げて滎陽に帰った。永興年間(三〇四~三〇六年)の初め、太弟中庶子に除された。西への道が封鎖され、辟召に応じられずにいた。范陽王虓が征南将軍となり、許昌に駐屯すると、また嵇含を従事中郎とした。すぐに振威将軍・襄城太守を授けられた。司馬虓が劉喬に破れると、嵇含は鎮南将軍の劉弘のいる襄陽に奔り、劉弘は上賓の礼で待遇した。嵇含は明敏であり、才能のある賢者を推薦することを好み、つねに趙武の諡を高くし、臧文の罪を重くしようとした。陳敏が乱を起こすと、江州や揚州は震撼し、南越は隔絶した。しかも広州刺史の王毅が病没した。劉弘は嵇含を上表して平越中郎将・広州刺史・仮節とした。出発をする前に、たまたま劉弘が亡くなり、このとき嵇含を留めて荊州を領させようとする動きがあった。嵇含は性格が剛直であり、劉弘の司馬の郭勱と不仲であった。郭勱は嵇含から危害を加えられないかと疑い、夜に襲って殺した。このとき四十四歳だった。懐帝が即位すると、諡して憲とした。
王豹、順陽人也。少而抗直。初為豫州別駕、齊王冏為大司馬、以豹為主簿。冏驕縱、失天下心。豹致牋於冏曰、
豹聞王臣蹇蹇、匪躬之故、將以安主定時、保存社稷者也。是以為人臣而欺其君者、刑罰不足以為誅。為人主而逆其諫者、靈厲不足以為諡。伏惟明公虛心下士、開懷納善、款誠以著。而逆耳之言未入於聽。豹伏思晉政漸缺、始自元康以來、宰相在位、未有一人獲終。乃事勢使然、未為輒有不善也。今公克平禍亂、安國定家、故復因前傾敗之法、尋中間覆車之軌。欲冀長存、非所敢聞。今河間樹根於關右、成都盤桓於舊魏、新野大封於江漢。三面貴王、各以方剛強盛、並典戎馬、處險害之地。且明公興義討逆、功蓋天下、聖德光茂、名震當世。今以難賞之功、挾震主之威、獨據京都、專執大權。進則亢龍有悔、退則蒺藜生庭、冀此求安、未知其福。敢以淺見、陳寫愚情。
昔武王伐紂、封建諸侯為二伯、自陝以東、周公主之、自陝以西、召公主之。及至其末、霸國之世、不過數州之地、四海強兵不敢入闚九鼎、所以然者、天下習於所奉故也。今誠能尊用周法、以成都為北州伯、統河北之王侯、明公為南州伯、以攝南土之官長。各因本職、出居其方、樹德於外、盡忠於內、歲終率所領而貢於朝。簡良才、命賢儁、以為天子百官、則四海長寧、萬國幸甚。明公之德當與周召同其至美、危敗路塞、社稷可保。願明公思高祖納婁敬之策、悟張良履足之謀、遠臨深之危、保泰山之安。若合聖思、宛・許可都也。
書入、無報。豹重牋曰、
豹書御已來、十有二日、而聖旨高遠、未垂採察、不賜一字之令、不敕可否之宜。蓋霸王之神寶、安危之祕術、不可須臾而忽者也。伏思明公挾大功、抱大名、懷大德、執大權。此四大者、域中所不能容、賢聖所以戰戰兢兢、日昃不暇食、雖休勿休者也。昔周公以武王為兄、成王為君、伐紂有功、以親輔政、執德弘深、聖1.(思)〔恩〕博遠、至忠至仁、至孝至敬。而攝事之日、四國流言、離主出奔、居東三年、賴風雨之變、成王感悟。若不遭皇天之應、神人之察、恐公旦之禍未知所限也。至于執政、猶與召公分陝為伯。今明公自視功德孰如周公。且元康以來、宰相之患、危機竊發、不及容思、密禍潛起、輒在呼噏、豈復晏然得全生計。前鑒不遠、公所親見也。君子不有遠慮、必有近憂、憂至乃悟、悔無所及也。
今若從豹此策、皆遣王侯之國、北與成都分河為伯、成都在鄴、明公都宛、寬方千里、以與圻內侯伯子男小大相率、結好要盟、同奬皇家。貢御之法、一如周典。若合聖規、可先旨與成都共論。雖以小才、願備行人。昔厮養、燕趙之微者耳、百里奚、秦楚之商人也、一開其說、兩國以寧。況豹雖陋、大州之綱紀、加明公起事險難之主簿也。故身雖輕、其言未必否也。
冏令曰、「得前後白事、具意、輒別思量也」。
會長沙王乂至、于冏案上見豹牋、謂冏曰、「小子離間骨肉、何不銅駝下打殺」。冏既不能嘉豹之策、遂納乂言。乃奏豹曰、「臣忿姦凶肆逆、皇祚顛墜、與成都・長沙・新野共興義兵、安復社稷。唯欲勠力皇家、與親親宗室腹心從事。此臣夙夜自誓、無負神明。而主簿王豹比有白事、敢造異端、謂、臣忝備宰相、必遘危害。慮在一旦、不祥之聲可蹻足而待、欲臣與成都分陝為伯、盡出藩王。上誣聖朝鑒御之威、下長妖惑、疑阻眾心、噂𠴲背憎、巧賣兩端、訕上謗下、讒內間外、遘惡導姦、坐生猜嫌。昔孔丘匡魯、乃誅少正。子產相鄭、先戮鄧析。誠以交亂名實、若趙高詭怪之類也。豹為臣不忠不順不義、輒敕都街考竟、以明邪正」。豹將死、曰、「懸吾頭大司馬門、見兵之攻齊也」。眾庶冤之。俄而冏敗。
1.中華書局本に従い、「思」を「恩」に改める。
王豹は、順陽の人なり。少くして抗直なり。初め豫州別駕と為り、齊王冏 大司馬と為るや、豹を以て主簿と為す。冏 驕縱たりて、天下の心を失ふ。豹 牋を冏に致して曰く、
豹 聞くに王臣の蹇蹇たるは、躬の故に匪ず〔一〕、將に以て主を安んじ時を定め、社稷を保存せんとする者なり。是を以て人臣と為(し)て其の君を欺く者は、刑罰もて以て誅と為すに足らず。人主と為(し)て其の諫むる者に逆らへば、靈厲もて以て諡と為すに足らず。伏して惟るに明公 虛心に士に下り、懷を開き善を納れ、款誠 以て著はる。而るに逆耳の言 未だ聽に入れず。豹 伏して思ふに晉の政 漸く缺し、元康より以來に始め、宰相 位に在るに、未だ一人として終を獲るもの有らず。乃ち事勢 然らしむ、未だ輒ち不善有りと為さざるなり。今 公 克く禍亂を平らげ、國を安んじ家を定むるに、故(ことさら)に復た前の傾敗の法に因り、中間覆車の軌を尋ぐ。長く存することを欲冀(ねが)ふは、敢て聞く所に非ず。今 河間 根を關右に樹て、成都 舊魏に盤桓し、新野 江漢に大封あり。三面の貴王、各々以て方剛にして強盛なり、並びに戎馬を典り、險害の地に處る。且つ明公 義を興して逆を討ち、功は天下を蓋ひ、聖德 光茂にして、名は當世を震はす。今 難賞の功を以て、震主の威を挾み、獨り京都に據り、專ら大權を執る。進めば則ち亢龍 悔有り〔一〕、退かば則ち蒺藜 庭に生じ〔二〕、此に求安を冀ふとも、未だ其の福を知らず。敢て淺見を以て、愚情を陳寫す。
昔 武王 紂を伐ち、諸侯を封建して二伯と為し、陝より以東、周公 之を主り、陝より以西、召公 之を主る。其の末に至るに及び、霸國の世に、數州の地に過ぎざるも、四海の強兵 敢て入りて九鼎を闚(うかが)はず、然る所以は、天下 奉る所に習るる故なり。今 誠に能く周法を尊用し、成都を以て北州伯と為し、河北の王侯を統べしめ、明公 南州伯と為り、以て南土の官長を攝れ。各々本の職に因り、出でて其の方に居し、德を外に樹て、忠を內に盡くし、歲の終に所領を率ゐて朝に貢せ。良才を簡び、賢儁に命じ、以て天子の百官と為さば、則ち四海 長寧にして、萬國 幸甚なり。明公の德 當に周召と其の至美を同じくし、危敗 路に塞がり、社稷 保つ可し。願はくは明公 高祖の婁敬の策を納れ、張良 履足の謀を悟るを思ひ、臨深の危を遠ざけ、泰山の安を保て。若し聖思に合はば、宛・許 都と可べきなりと。
と。書 入れ、報無し。豹 牋を重ねて曰く、
豹の書 御して已來、十有二日にして、而るに聖旨 高遠にして、未だ採察を垂れず、一字の令だに賜はらず、可否の宜を敕せず。蓋し霸王の神寶、安危の祕術、須臾にして忽せにす可からざるなり。伏して思ふに明公 大功を挾み、大名を抱き、大德を懷き、大權を執る。此の四は大にして、域中 能く容るる所にあらず、賢聖 戰戰兢兢とする所以なり、日昃に食らふ暇あらず、休むと雖も休むこと勿からざるなり。昔 周公 武王を以て兄と為し、成王もて君と為し、紂を伐つに功有り、親を以て輔政し、德を執るは弘深、聖恩は博遠にして、至忠至仁、至孝至敬たり。而るに攝事の日、四國 流言せば、主を離れて出奔し、東に居すること三年、風雨の變に賴り、成王 感悟す。若し皇天の應、神人の察に遭はざれば、恐らくは公旦の禍 未だ限る所を知らざるなり。執政するに至り、猶ほ召公と與に陝を分けて伯と為す。今 明公 自ら功德を視るに周公と孰如れぞ。且つ元康より以來、宰相の患、危機 竊かに發し、容思に及ばず、密禍 潛かに起つは、輒ち呼噏に在り、豈に復た晏然として生を全するの計を得るや。前鑒は遠からず、公 親見する所なり。君子 遠慮有らざれば、必ず憂を近づくること有り、憂 至りて乃ち悟るとも、悔ひて及ぶ所無きなり。
今 若し豹の此策に從へば、皆 王侯をして國に之かしめ、北は成都と與に河を分けて伯と為し、成都 鄴に在り、明公 宛に都し、寬さ方千里、以て圻內の侯伯子男と與に小大 相 率ゐ、好を結び盟を要ひ、同に皇家を奬(たす)けよ。貢御の法、一に周典の如くあれ。若し聖規に合はば、先旨もて成都と與に共に論ず可し。小才を以てすと雖も、願はくは行人に備へん。昔 厮養にして、燕趙の微なる者なるのみ、百里奚は、秦楚の商人なり、一に其の說を開き、兩國 以て寧んず。況んや豹 陋なると雖も、大州の綱紀、加た明公 事を險難に起こすときの主簿なり。故に身 輕しと雖も、其の言 未だ必しも否ならざるなり。
と。冏 令して曰く、「前後の白事を得て、意を具にす、輒ち別に思量するなり」と。
會々長沙王乂 至り、冏の案上に于て豹の牋を見て、冏に謂ひて曰く、「小子 骨肉を離間せんとす、何ぞ銅駝の下に打殺せざる」と。冏 既に豹の策を嘉とする能はず、遂に乂の言を納る。乃ち豹を奏して曰く、「臣 姦凶 肆逆し、皇祚 顛墜するを忿り、成都・長沙・新野と與に共に義兵を興し、社稷を安復す。唯だ力を皇家に勠はせ、親親の宗室と與に腹心もて從事せんと欲す。此れ臣の夙夜に自誓し、神明に負くこと無し。而るに主簿の王豹 比りに白事有りて、敢て異端を造し、謂はく、臣 忝く宰相に備はるに、必ず危害に遘(あ)ふと。一旦に在るを慮り、不祥の聲 足を蹻(あ)げて待つ可しと。臣をして成都と與に陝を分けて伯と為り、盡く藩王を出だしめんと欲す。上は聖朝 鑒御の威を誣し、下は妖惑を長ぜしめ、眾心を疑阻し、噂𠴲 背憎し、巧に兩端を賣り、上を訕り下を謗し、內を讒し外を間し、惡を遘し姦を導き、坐ながらにして猜嫌を生ず。昔 孔丘 魯を匡すに、乃ち少正を誅す。子產 鄭に相たるに、先に鄧析を戮す。誠に以て名實を交亂し、趙高 詭怪の類が若し。豹 臣として不忠不順不義為り、輒ち都街に敕して考竟し、以て邪正を明らかにせよ」と。豹 將に死せんとするに、曰く、「吾が頭を大司馬門に懸けよ、兵の齊を攻むるを見るなり」と。眾庶 之を冤とす。俄かにして冏 敗る。
〔一〕『周易』蹇卦に、「王臣蹇蹇、匪躬之故」とある。
〔二〕『周易』乾卦に、「上九、亢龍有悔」とある。
王豹は、順陽郡の人である。若いときから強硬で正直であった。はじめ豫州別駕となり、斉王冏が大司馬になると、王豹を主簿とした。司馬冏は驕慢で、天下の支持を失った。王豹は書簡を司馬冏に送って、
私が聞きますに臣下が身を投げ出すのは、自分のためでなく、主君を安んじ時世を定め、社稷を保全するためです。ですから人臣であり君主を欺くものは、刑罰で誅殺しても足りません。人主であり諫言に逆らうものは、霊や厲という諡を付けても足りません。思いますにあなたは虚心に士人にへりくだり、懐を開いて善言を入れ、真心は明らかです。しかし耳に逆らう言葉はまだ聞き入れていません。思いますに晋帝国の政治は徐々に衰え、元康年間(二九一~二九九)以来、宰相の位にあったものは、一人も寿命を終えませんでした。時勢が原因であり、(宰相たちが)不善だったのではありません。いまあなたは禍乱を平定し、国家を安定させましたが、わざわざ失敗した前例に則り、途中で転倒した方法をまねています。命を長らえようと願っても、うまくいきません。いま河間王が関右を拠点とし、成都王が旧魏の地域で力を蓄え、新野王は江漢一帯に大きな封土があります。三つの方面の貴い王は、それぞれ強く盛んであり、いずれも軍馬を掌握し、要害の地に拠っています。あなたは義を起こして逆賊を討ち、功績は天下第一で、聖徳が輝き、名望が当世を震わせています。いま報い切れぬ功績があり、主君を脅かす威勢があり、ひとり京都にいて、大権を独占しています。高位にあって戒めないと後悔があり、低位に退いても蒺藜(とげの草)が庭に生じます、そこに安全を求めても、福は得られません。ですから私の拙い考えを、申し上げています。
むかし(周の)武王が(殷の)紂王を伐ち、諸侯を封建して二伯とし、陝より以東は、周公旦がここを掌り、陝より以西は、召公奭がここを掌りました。周の末代に至り、覇国の世(春秋戦国時代)に、(周の)領土は数州に過ぎずとも、四海の強兵があえて侵入し支配権を強奪しませんでしたが、その理由は、天下が(周王を)奉じることを慣例としたからです。いま周の方法を適用し、成都王を北州伯とし、河北の王侯を統轄させ、あなたは南州伯となり、南方の官長を統率して下さい。それぞれ本来の役割に基づき、その方面に出鎮し、徳を外に立て、忠を内に尽くし、年末に領地の部下を率いて朝貢なさいませ。良才を選び、賢俊に命じ、天子の百官とすれば、四海は長く安寧となり、万国にとって幸甚です。あなたが至高の徳を周召(周公旦と召公奭)と等しくすれば、危険や敗亡は防がれ、社稷は保全できます。どうか(前漢の)高祖が婁敬の策を聴き入れ、張良がくつで悟った謀のことを思い、深淵に近づく危険を遠ざけ、泰山のような安定を保ちなさい。もしお考えに合うならば、(南州伯は)宛か許を都となさいませ。
と言った。書簡を届けても返答がなかった。王豹は重ねて文書を送り、
わが書簡を提出して以来、十二日が経ちますが、(司馬冏の)お考えはとても深く、まだ採択のことは、一字すら返信を頂けず、可否についてお言葉がありません。恐らく覇王の神聖なる地位と、安危の秘術は、短期間で揺らぎません(返答が遅れても構いません)。伏して思いますにあなたは大きな功績を持ち、大きな名声を抱き、大きな徳を懐き、大きな権力を握っています。この四者は大きくて、天下に収まり切らないので、賢聖な人々が戦々恐々とする原因となり、昼過ぎまで食事の時間がなく、休んでも休まらないのです。むかし周公旦は武王を兄とし、成王を君主とし、紂王を伐った功績があり、血縁の近さにより輔政しましたが、広く深い徳があり、君主からの恩は広遠で、至忠至仁、至孝至敬でした。しかし政権を摂った日、四方の国が(簒奪するぞと)流言したので、主君のもとを離れて出奔し、東の藩国に居ること三年、風雨の異変が起きて、成王は(簒奪の意思がないと)納得しました。もし皇天が感応し、神と人が真実を知らなければ、恐らくは周公旦が受ける禍いは際限がなかったでしょう。執政するに至り、なお召公奭とのあいだで陝で境界として伯とし(権限の集中を避け)ました。いまあなたがご自身の功徳を顧みて周公とどちらが上でしょうか。しかも元康年間より以来、宰相にとっての危機は、ひそかに起こり、思考が追いつかず、禍いが潜在的に生まれるのは、呼吸のようで(不可避であり)、どうして落ち着いて寿命を終える見通しが立ちましょうや。前の教訓は近年のことで、あなたも直接ご覧になった通りです。君子に思慮がなければ、必ず憂危を近づけるのであり、憂危が迫ってから悟っても、後悔が追い付きません。
いまもし私のこの策に従うならば、みな王侯を国に行かせ、北は成都王とのあいだで黄河を境界として伯とし、成都王は鄴におり、あなたは宛を都とし、封土の広さは方千里とし、域内の侯伯子男とともに大小の官を率い、友好を誓って約束し、ともに皇帝の家を支えなさい。朝貢の方法は、もっぱら周典の通りにして下さい。もしお考えに沿うならば、前の書簡とあわせて成都王とともに相談して下さい。私には才能がありませんが、どうか(成都王への)使者をお任せ下さい。むかし馬の世話係は、燕や趙の卑賤なものに過ぎず、百里奚は、秦や楚の商人でしたが、ひとたび持説を述べると、両国は安寧となりました。まして私は愚か者ですが、大きな州の綱紀を務め、さらにあなたが困難に立ち向かったとき主簿でした。ゆえに軽い立場ではありますが、わが言葉は誤りではないはずです。
と言った。司馬冏は令して、「前後の意見書をもらい、よく読んだ、別に検討しよう」と言った。
たまたま長沙王乂が訪れ、司馬冏の机の上で王豹の書簡を見て、司馬冏に、「小人物が骨肉(わが一族)を離間しようとしている、なぜ銅駝のもとで打ち殺さないのだ」と言った。司馬冏はすでに王豹の策を好ましくないと思っていたので、司馬乂の言葉を聞き入れた。王豹について上奏し、「私は姦悪なものが反逆し、皇帝の権威を失墜させたことに怒り、成都王と長沙王と新野王とともに義兵を興し、社稷を安定し回復させました。ただ皇室のために力を合わせ、近親の宗室とともに真心から取り組みました。このことは私が朝夜に自ら誓い、神明に背きません。しかし主簿の王豹がしきりに提案し、わざと奇策をひねり、言うには、私が宰相の任にあり、必ず危害に遭うとのこと。危険が目前にあると心配し、不吉な予兆を身構えて待つべきだと言います。成都王と陝を境界として(南北の)伯となり、すべて藩王を(都から)出そうとしています。上には天子の権威をおびやかし、下には妖言で混乱を誘い、群臣の疑念をあおり、衆論を対立させて憎みあわせ、たくみに両端に取り入り、上も下も誹謗し、内も外も讒言で仲を裂き、悪逆なものを招き寄せ、居ながらにして猜疑心を助長しました。むかし孔丘が魯を正すとき、少正を誅しました。子産が鄭国の宰相になると、さきに鄧析を死刑にしました。まことに(王豹は)名実を混乱させ、(秦の)趙高のような奇怪な人物です。王豹は臣として不忠で不順で不義ですから、都街に命じて尋問し、正邪を明らかになさいませ」と言った。王豹は死に際に、「わが頭を大司馬門に懸けよ、兵が斉王(司馬冏)を攻めるのを見届ける」と言った。万民はかれを冤罪と考えた。ほどなく司馬冏は敗れた。
劉沈字道真、燕國薊人也。世為北州名族。少仕州郡、博學好古。太保衞瓘辟為掾、領本邑大中正。敦儒道、愛賢能、進霍原為二品。及申理張華、皆辭旨明峻、為當時所稱。
齊王冏輔政、引為左長史、遷侍中。于時李流亂蜀、詔沈以侍中・假節、統益州刺史羅尚・梁州刺史許雄等以討流。行次長安、河間王顒請留沈為軍司、遣席薳代之。後領雍州刺史。及張昌作亂、詔顒遣沈將州兵萬人并征西府五千人、自藍田關以討之。顒不奉詔。沈自領州兵至藍田、顒又逼奪其眾。長沙王乂命沈將武吏四百人還州。
張方既逼京都、王師屢敗。王1.(湖)〔瑚〕・祖逖言于乂曰、「劉沈忠義果毅、雍州兵力足制河間。宜啟上詔與沈、使發兵襲顒。顒窘急、必召張方以自救、此計之良也」。乂從之。沈奉詔馳檄四境、合七郡之眾及守防諸軍・塢壁甲士萬餘人、以安定太守2.衞博・新平太守張光・安定功曹皇甫澹為先登、襲長安。顒時頓于鄭縣之高平亭、為東軍聲援、聞沈兵起、還鎮渭城、遣督護虞夔率步騎萬餘人逆沈于好畤。接戰、夔眾敗、顒大懼、退入長安、果急呼張方。沈渡渭而壘、顒每遣兵出鬭、輒不利。沈乘勝攻之、使澹・博以精甲五千、從長安門而入、力戰至顒帳下。沈軍來遲、顒軍見澹等無繼、氣益倍。馮翊太守張輔率眾救顒、橫擊之、大戰于府門、博父子皆死之、澹又被擒。顒奇澹壯勇、將活之。澹不為之屈、於是見殺。沈軍遂敗、率餘卒屯于故營。張方遣其將敦偉夜至。沈軍大驚而潰、與麾下百餘人南遁、為陳倉令所執。沈謂顒曰、「夫知己之顧輕、在三之節重。不可違君父之詔、量強弱以苟全。投袂之日、期之必死、葅醢之戮、甘之如薺」。辭義慷慨、見者哀之。顒怒、鞭之而後腰斬。有識者以顒干上犯順、虐害忠義、知其滅亡不久也。
1.中華書局本に従い、「湖」を「瑚」に改める。
2.『資治通鑑』巻八十五は、「衙」につくる。『華陽国志』巻八も、「衙」につくる。
劉沈 字は道真、燕國薊の人なり。世々北州の名族為り。少くして州郡に仕へ、學を博くし古を好む。太保の衞瓘 辟して掾と為し、本邑の大中正を領せしむ。儒道を敦くし、賢能を愛し、霍原を進めて二品と為す。張華を申理するに及び、皆 辭旨 明峻にして、當時の稱する所と為る。
齊王冏 輔政するや、引きて左長史と為し、侍中に遷る。時に于て李流 蜀を亂すや、沈に詔して侍中・假節を以て、益州刺史の羅尚・梁州刺史の許雄らを統めて以て流を討たしむ。長安に行次するに、河間王顒 請ひて沈を留めて軍司と為し、席薳を遣はして之に代ふ。後に雍州刺史を領す。張昌 亂を作すに及び、顒に詔して沈を遣はして州兵の萬人并びに征西府の五千人を將ゐて、藍田關より以て之を討たしむ。顒 詔を奉らず。沈 自ら州兵を領して藍田に至るに、顒 又 逼りて其の眾を奪ふ。長沙王乂 沈に命じて武吏四百人を將ゐて州に還らしむ。
張方 既に京都に逼り、王師 屢々敗る。王瑚・祖逖 乂に言ひて曰く、「劉沈 忠義にして果毅なり、雍州の兵力 河間を制するに足る。宜しく上に啟して詔して沈に與へ、兵を發して顒を襲はしめよ。顒 急に窘(せま)まれば、必ず張方を召して以て自ら救はしめ、此れ計の良なり」と。乂 之に從ふ。沈 詔を奉じて檄を四境に馳せ、七郡の眾及(と)守防の諸軍・塢壁の甲士萬餘人を合はせ、安定太守の衞博・新平太守の張光・安定功曹の皇甫澹を以て先登と為し、長安を襲はしむ。顒 時に鄭縣の高平亭に頓し、東軍の聲援と為るに、沈の兵 起つを聞き、還りて渭城に鎮し、督護の虞夔を遣はして步騎萬餘人を率ゐて沈を好畤に逆す。接戰するに、夔の眾 敗れ、顒 大いに懼れ、退きて長安に入り、果たして急ぎ張方を呼ぶ。沈 渭を渡りて壘し、顒 兵を遣はして出でて鬭ふ每に、輒ち利あらず。沈 勝に乘じて之を攻め、澹・博をして精甲五千を以て、長安の門より入り、力戰して顒の帳下に至る。沈の軍 來ること遲く、顒の軍 澹ら繼無きを見て、氣 益々倍す。馮翊太守の張輔 眾を率ゐて顒を救ひ、橫に之を擊ち、大いに府門に戰ひ、博の父子 皆 之に死し、澹 又 擒はる。顒 澹の壯勇を奇とし、將に之を活かさんとす。澹 之が為に屈せず、是に於て殺さる。沈の軍 遂に敗れ、餘卒を率ゐて故營に屯す。張方 其の將の敦偉を遣はして夜に至る。沈の軍 大いに驚きて潰し、麾下百餘人と與に南遁し、陳倉令の執ふる所と為る。沈 顒に謂ひて曰く、「夫れ知己の顧は輕く、在三の節は重し。君父の詔に違ひて、強弱を量りて以て苟全す可からず。投袂の日、之を必死に期す、葅醢の戮、之を甘しとすること薺(なづな)が如し〔一〕」と。辭義 慷慨たりて、見る者 之を哀しむ。顒 怒り、之を鞭ちて後に腰斬す。有識者 顒の上を干し順を犯し、忠義を虐害するを以て、其の滅亡 久しからざるを知るなり。
〔一〕『毛詩』國風 邶 谷風に、「其甘如薺」とある。
劉沈は字を道真といい、燕国薊県の人である。代々の北州(幽州)の名族である。若くして州郡に仕え、学問を広くし古を好んだ。太保の衛瓘が辟召して掾とし、本邑(幽州)の大中正を領させた。儒道を重んじ、賢能を愛し、霍原を進めて二品とした。張華について審理すると、いずれも人物評価の文が明晰で、同時代に称賛された。
斉王冏が輔政すると、(劉沈を)まねいて左長史とし、侍中に遷った。このとき李流が蜀で反乱すると、劉沈に詔して侍中・仮節とし、益州刺史の羅尚と梁州刺史の許雄らを統轄して李流を討伐させた。長安に停泊したとき、河間王顒が頼みこんで劉沈を留めて軍師とし、席薳を代わりに(李流討伐に)行かせた。のちに雍州刺史を領した。張昌が乱をなすと、司馬顒に詔して劉沈を派遣して州兵の一万人と征西府の五千人を率いて、藍田関から(出撃し)これを討伐せよと命じた。司馬顒は詔に従わなかった(征西将軍府は兵を供出しなかった)。劉沈が自ら州兵を領して藍田に至ったが、司馬顒はさらに(劉沈に)逼ってその軍勢を奪った。長沙王乂は劉沈に命じて武吏四百人を率いて(雍)州に還らせた。
張方が京都に逼り、王師(天子の軍)はしばしば敗れた。王瑚と祖逖は司馬乂に、「劉沈は忠義であり果敢です、雍州の兵力は河間王(司馬顒)を牽制するに十分です。どうか天子に啓して詔を劉沈に与え、兵を発して司馬顒(長安)を攻撃させなさい。司馬顒は危険が迫れば、必ず張方を召して自分を救わせ(京都を断念し)ます、これは良い計略です」と言った。司馬乂はこれに従った。王沈は詔を奉じて檄文を四方に伝え、七郡の軍に防衛のための諸軍や塢壁の甲士一万人あまりを合わせ、安定太守の衛博・新平太守の張光・安定功曹の皇甫澹を先駆けとし、長安を襲撃させた。司馬顒はこのとき鄭県の高平亭に駐屯し、東軍(張方)を後ろから支えていたが、劉沈の兵が起こったと聞き、還って渭城を守り、督護の虞夔に歩騎一万人あまりを率いて劉沈を好畤で迎え撃たせた。交戦すると、虞夔の軍が敗れ、司馬顒はとても懼れ、退いて長安に入り、果たして急ぎ張方を召還した。劉沈は渭水を渡って塁壁を築き、司馬顒が兵を出して戦うごとに、これを圧倒した。劉沈は勝ちに乗じてこれを攻め、皇甫澹と衛博に精甲五千で、長安城の門から突入させ、力戦して司馬顒の幕営のもとに到達した。(ところが)劉沈の軍の到着が遅れたので、司馬顒の軍は皇甫澹らに後続がいないのを見て、士気を倍増させた。馮翊太守の張輔が兵を率いて司馬顒を救い、ほしいままにこれを撃ち、大いに(司馬顒の)府門で戦ったが、衛博の父子はどちらも死に、皇甫澹も捕らえられた。司馬顒は皇甫澹の勇猛さを認め、命を助けようとした。皇甫澹はかれに屈服せず、そこで殺された。劉沈の軍はかくして敗れ、残りの兵を率いてもとの軍営に駐屯した。張方はその将の敦偉を夜に派遣した。劉沈の軍は大いに驚いて潰乱し、麾下一百人あまりとともに南に逃れ、陳倉令に捕縛された。劉沈は司馬顒に、「そもそも知己の親しみは軽く、在三(君・父・死)への節義は重い。君父の詔に違反し、強きになびいて生き残ろうとは思わぬ。決裂した日、これに命を賭けた、殺害されて塩漬けになっても、薺(なずな)のように甘く思う」と言った。言葉と態度は慷慨とし、見るものは哀しんだ。司馬顒は怒り、鞭で打ってから腰斬とした。見識のあるものは司馬顒が上に逆らい順を犯し、忠義なひと(劉沈)を虐殺したので、その滅亡が遠くないことを理解した。
麴允、金城人也。與游氏世為豪族、西州為之語曰、「麴與游、牛羊不數頭。南開朱門、北望青樓」。洛陽傾覆、閻鼎等立秦王為皇太子於長安、鼎總攝百揆。允時為安夷護軍・始平太守、心害鼎功、且規權勢。因鼎殺京兆太守梁綜、乃與綜弟馮翊太守1.緯等攻鼎、走之。會雍州刺史賈疋為屠各所殺、允代其任。
愍帝即尊位、以允為尚書左僕射・領軍・持節・西戎校尉・錄尚書事、雍州如故。時劉曜・殷凱・2.趙染數萬眾逼長安、允擊破之、擒凱於陣。曜復攻北地、允為大都督・驃騎將軍、次于青白城以救之。曜聞而轉寇上郡、允軍于靈武、以兵弱不敢進。曜後復圍北地、太守麴昌遣使求救。允率步騎赴之。去城數十里、羣賊繞城放火、煙塵蔽天。縱反間詐允曰、「郡城已陷、焚燒向盡、無及矣」。允信之、眾懼而潰。後數日、麴昌突圍赴長安、北地遂陷。
允性仁厚、無威斷。吳皮・王隱之徒、無賴凶人、皆加重爵。新平太守竺恢・始平太守楊像・扶風太守竺爽・安定太守焦嵩、皆征鎮杖節、加侍中・常侍、村塢主帥小者、猶假銀青・將軍之號、欲以撫結眾心。然諸將驕恣、恩不及下、人情頗離。由是羌胡因此跋扈、關中淆亂、劉曜復攻長安、百姓飢甚、死者太半。久之、城中窘逼、帝將出降、歎曰、「誤我事者、麴・索二公也」。帝至平陽、為劉聰所幽辱、允伏地號哭不能起。聰大怒、幽之於獄、允發憤自殺。聰嘉其忠烈、贈車騎將軍、諡節愍侯。
焦嵩、安定人。初率眾據雍。曜之逼京都、允告難於嵩、嵩素侮允、曰、「須允困、當救之」。及京都敗、嵩亦尋為寇所滅。
1.『資治通鑑』巻八十八は、「肅」につくる。
2.『晋書』愍帝紀・劉琨伝では、「趙冉」につくる。
麴允は、金城の人なり。游氏と與に世々豪族為り、西州 之の為に語りて曰く、「麴と游とは、牛羊 頭を數へず。南に朱門を開き、北に青樓を望む」と。洛陽 傾覆するや、閻鼎ら秦王を立てて長安に於て皇太子と為し、鼎 百揆を總攝す。允 時に安夷護軍・始平太守と為り、心に鼎が功を害ありとし、且つ權勢を規る。鼎が京兆太守の梁綜を殺すに因り、乃ち綜の弟の馮翊太守1.緯らと與に鼎を攻め、之を走らす。會々雍州刺史の賈疋 屠各の殺す所と為り、允 其の任に代はる。
愍帝 尊位に即くや、允を以て尚書左僕射・領軍・持節・西戎校尉・錄尚書事と為し、雍州は故の如し。時に劉曜・殷凱・趙染 數萬の眾もて長安に逼り、允 擊ちて之を破り、凱を陣に於て擒ふ。曜 復た北地を攻むるに、允を大都督・驃騎將軍と為し、青白城に次りて以て之を救はしむ。曜 聞きて轉じて上郡に寇し、允 靈武に軍し、兵の弱きを以て敢て進まず。曜 後に復た北地を圍み、太守の麴昌 使を遣はして救を求む。允 步騎を率ゐて之に赴く。城を去ること數十里、羣賊 城を繞みて放火し、煙塵 天を蔽ふ。反間を縱ちて允に詐りて曰く、「郡城 已に陷つ、焚燒して盡に向はんとす、及ぶ無し」と。允 之を信じ、眾 懼れて潰す。後に數日に、麴昌 圍を突きて長安に赴き、北地 遂に陷つ。
允 性は仁厚にして、威斷無し。吳皮・王隱の徒、無賴の凶人なるに、皆 重爵を加ふ。新平太守の竺恢・始平太守の楊像・扶風太守の竺爽・安定太守の焦嵩、皆 征鎮の杖節とし、侍中・常侍を加へ、村塢の主帥の小なる者すら、猶ほ銀青・將軍の號を假し、以て眾心を撫結せんと欲す。然るに諸將 驕恣し、恩 下に及ばず、人情は頗る離る。是に由り羌胡 此に因りて跋扈し、關中 淆亂し、劉曜 復た長安を攻め、百姓 飢は甚しく、死者は太半す。久之、城中 窘逼し、帝 將に出降せんとし、歎じて曰く、「我が事を誤るは、麴・索の二公なり」と。帝 平陽に至り、劉聰の幽辱する所と為り、允 地に伏し號哭して起つこと能はず。聰 大いに怒り、之を獄に幽するに、允 憤を發して自殺す。聰 其の忠烈を嘉し、車騎將軍を贈り、節愍侯と諡す。
焦嵩は、安定の人なり。初め眾を率ゐて雍に據る。曜の京都に逼るや、允は難を嵩に告ぐるに、嵩 素より允を侮れば、曰く、「允の困するを須ち、當に之を救ふべし」と。京都 敗るるに及び、嵩 亦た尋いで寇の滅す所と為る。
麴允は、金城郡の人である。游氏とともに代々の豪族であり、西州ではかれらについて、「麴氏と游氏とは、牛羊の頭数をかぞえない。南に朱門を開き、北に青楼を望む」と語った。洛陽が傾覆すると、閻鼎らは秦王を立てて長安で皇太子とし、閻鼎が政務全般を掌握した。麴允はこのとき安夷護軍・始平太守となり、心では閻鼎の活躍がおもしろくなく、権勢を奪おうとした。閻鼎が京兆太守の梁綜を殺したことを理由に、梁綜の弟の馮翊太守の梁緯らとともに閻鼎を攻撃し、これを敗走させた。たまたま雍州刺史の賈疋が屠各に殺されたので、麴允はその後任となった。
愍帝が帝位に即くと、麴允を尚書左僕射・領軍・持節・西戎校尉・録尚書事とし、雍州刺史は留任とした。このとき劉曜と殷凱と趙染が数万の軍で長安に逼ると、麴允はこれを撃破し、殷凱を陣で捕らえた。劉曜がまた北地郡を攻めると、麴允を大都督・驃騎将軍とし、青白城に駐屯して北地郡を救わせた。劉曜はこれを聞いて転じて上郡に進攻し、麴允は霊武に進軍したが、自軍が弱いので敢えて進まなかった。劉曜がのちにまた北地郡を囲むと、太守の麴昌が使者を送って(麴允に)救援を求めた。麴允は歩騎を率いて向かった。城の手前の数十里で、群賊が城を囲んで放火し、煙塵が天を蔽っているのを見た。(賊が)工作員を放って麴允に虚報をあたえ、「郡城はもう陥落した、炎上して全部が焼けそうだ、来ても間に合わない」と言った。麴允はこれを信じ、軍勢は懼れて潰走した。数日後、麴昌が囲みを突破して長安にゆき、こうして北地郡は陥落した。
麴允は仁厚な性格で、威権をもって決断できなかった。呉皮や王隠のような連中は、無頼の凶人であったが、みなに重い爵位を加えた。新平太守の竺恢と始平太守の楊像と扶風太守の竺爽と安定太守の焦嵩は、みなに征鎮の杖節(軍の専断権)をあたえ、侍中や常侍を加え、村塢の主帥のような小勢力ですら、なお銀青と将軍の号を仮し、人々からの支持を繋ぎ止めようとした。しかし諸将は驕って放恣し、(麴允の)恩が下に及ばず、人々の心は離れてしまった。これに便乗して羌胡が跋扈し、関中が混乱し、劉曜がまた長安を攻め、万民はひどく飢え、死者は過半数であった。しばらくして、(長安)城中が逼迫し、懐帝が出て降服しようと考え、歎じて、「私が判断を誤ったのは、麴氏と索氏の二公のせいだ」と言った。懐帝が平陽に至り、劉聡に幽閉され辱められると、麴允は地に伏せて泣き叫んで立てなかった。劉聡はとても怒り、かれを獄に幽閉すると、麴允は憤りを発して自殺した。劉聡はその忠烈を嘉し、車騎将軍を贈り、節愍侯と諡した。
焦嵩は、安定郡の人である。はじめ軍勢を率いて雍州に拠った。劉曜が京都に逼ると、麴允は困難を焦嵩に告げたが、焦嵩はもとから麴允を侮っていたので、「麴允が困窮するのを待ち、そこから救えばよい」と言った。京都が敗れると、焦嵩もすぐに寇賊に滅ぼされた。
賈渾、不知何郡人也。太安中、為介休令。及劉元海作亂、遣其將喬晞攻陷之。渾抗節不降、曰、「吾為晉守、不能全之、豈苟求生以事賊虜。何面目以視息世間哉」。晞怒、執將殺之。晞將尹崧曰、「將軍舍之、以勸事君」。晞不聽、遂害之。
賈渾は、何の郡の人なるかを知らず。太安中、介休令と為る。劉元海 亂を作すに及び、其の將の喬晞を遣はして之を攻陷せしむ。渾 抗節して降らず、曰く、「吾 晉の為に守たり、之を全うする能はざるとも、豈に苟も生を求めて以て賊虜に事ふるや。何の面目ありて以て世間に視息せんや」と。晞 怒り、執へて將に之を殺さんとす。晞の將の尹崧曰く、「將軍よ之を舍け、以て君に事ふることを勸めよ」と。晞 聽かず、遂に之を害す。
賈渾は、どこの郡の人か分からない。太安年間(三〇二~三〇三年)、介休令となった。劉元海が乱を起こすと、その将の喬晞を派遣して(介休県を)攻略させた。賈渾は節操をつらぬいて降服せず、「私は晋帝国の県令である、城を守り切れずとも、どうして命を惜しんで賊虜に仕えようか。それでは世間に顔向けして生きていられない」と言った。喬晞は、捕らえてかれを殺そうとした。喬晞の将の尹崧は、「将軍よ少し待て、君主に仕えることを勧めなさい」と言った。喬晞は聴かず、かれを殺害した。
王育字伯春、京兆人也。少孤貧、為人傭牧羊、每過小學、必歔欷流涕。時有暇、即折蒲學書、忘而失羊。為羊主所責、育將鬻己以償之。同郡許子章、敏達之士也、聞而嘉之、代育償羊、給其衣食、使與子同學、遂博通經史。身長八尺餘、鬚長三尺、容貌絕異、音聲動人。子章以兄之子妻之、為立別宅、分之資業。育受之無愧色。然行己任性、頗不偶俗。妻喪、弔之者不過四五人、然皆鄉閭名士。
太守杜宣命為主簿。俄而宣左遷萬年令。1.杜令王攸詣宣、宣不迎之。攸怒曰、「卿往為二千石、吾所敬也。今吾儕耳、何故不見迎。欲以小雀遇我、使我畏死鷂乎」。育執刀叱攸曰、「君辱臣死、自昔而然。我府君以非罪黜降、如日月之蝕耳。小縣令敢輕辱吾君。汝謂吾刀鈍邪、敢如是乎」。前將殺之。宣懼、跣下抱育、乃止。自此知名。
司徒王渾辟為掾、除南武陽令。為政清約、宿盜逃奔他郡。遷并州督護。成都王穎在鄴、又以育為振武將軍。劉元海之為北單于、育說穎曰、「元海今去、育請為殿下促之、不然、懼不至也」。穎然之、以育為破虜將軍。元海遂拘之、其後以為太傅。
1.『晋書斠注』は、「杜陵令」につくるべきとする。
王育 字は伯春、京兆の人なり。少くして孤貧たり、人の為に傭として羊を牧し、小學を過る每に、必ず歔欷し流涕す。時に暇有り、即ち蒲を折りて書を學ぶに、忘れて羊を失ふ。羊主の責むる所と為り、育 將に己を鬻ゐて以て之を償はんとす。同郡の許子章、敏達の士なり、聞きて之を嘉し、育に代はりて羊を償ひ、其の衣食を給し、子と同學せしめ、遂に博く經史に通ず。身長は八尺餘、鬚の長さは三尺、容貌 絕異にして、音聲 人を動かす。子章 兄の子を以て之に妻せ、為に別宅を立て、之に資業を分く。育 之を受けて愧色無し。然して己を行ふに性に任せ、頗る俗に偶はず。妻の喪に、之を弔ふ者 四五人に過ぎず、然るに皆 鄉閭の名士なり。
太守の杜宣 命じて主簿と為す。俄かにして宣 萬年令に左遷せられる。杜令の王攸 宣に詣るに、宣 之を迎へず。攸 怒りて曰く、「卿 往に二千石為り、吾 敬ふ所なり。今 吾 儕(ともがら)なるのみ、何の故に迎へられざる。小雀を以て我に遇はせ、我をして死鷂を畏れしめんと欲するか」と。育 刀を執り攸を叱りて曰く、「君 辱めらるときは臣 死す、昔より然り。我が府君 罪に非ざるを以て黜降せられ、日月の蝕が如きのみ。小縣令 敢て吾が君を輕辱せんか。汝 吾が刀 鈍なりと謂ふか、敢て是の如きか」と。前みて將に之を殺さんとす。宣 懼れ、跣にして下り育を抱き、乃ち止む。此より名を知らる。
司徒の王渾 辟して掾と為し、南武陽令に除せらる。為政は清約たり、宿盜 他郡に逃奔す。并州の督護に遷る。成都王穎 鄴に在るに、又 育を以て振武將軍と為す。劉元海の北單于と為るや、育 穎に說きて曰く、「元海 今 去らんす、育 殿下の為に之を促さんことを請ふ、然らずんば、懼れて至らざるなり」と。穎 之を然りとし、育を以て破虜將軍と為す。元海 遂に之を拘へ、其の後 以て太傅と為す。
王育は字を伯春といい、京兆郡の人である。若くして父を失って貧しく、人に雇われて羊を牧したが、小学に差しかかると、必ずむせび泣いた。ときに暇があり、蒲を折って書を学んでいると、忘れて羊を失った。羊の持ち主に責められ、身売りして償おうとした。同郡の許子章は、聡くて通達した士であり、聞いてこれを嘉し、王育に代わって羊を償い、かれに衣食をあたえ、子と同学させ、おかげで広く経史に通じた。身長は八尺あまり、鬚の長さは三尺、容貌はとりわけ立派で、声色はひとを感動させた。許子章は兄の子をかれの妻とし、かれのために別宅を立て、生業を分け与えた。王育はこれを受けても愧じた様子がなかった。しかも思い通りに振る舞い、常識から外れた。妻が亡くなると、弔うものは四五人しか来なかったが、みな郷閭の名士であった。
(京兆)太守の杜宣は(王育を)任命して主簿とした。にわかに杜宣は万年令に左遷された。杜令(杜陵令か)の王攸が杜宣のもとにくると、杜宣はこれを迎えなかった。王攸は怒って、「あなたはかつて二千石であり、私は尊敬していた。だが現在は私と同格であり、なぜ出迎えないのか。小さな雀(取次の小役人)を私に会わせ、死んだ鷂(はしたか)を畏れさせようというのか」と言った。王育は刀を執って王攸を叱り、「君主が辱められたら臣下は死ぬ、昔からそうである。わが府君は罪がないのに降格され、日食や月食のようなものだ。たかが県令がわが府君を侮辱してよいものか。私の刀がなまくらと思っているのか、どうかな」と言った。進んでかれを殺そうとした。杜宣は懼れ、はだしで下りて王育を抱き、殺さずにすんだ。これにより名を知られた。
司徒の王渾が辟召して掾とし、南武陽令に除された。為政は清らかで節度があり、強大な盗賊は他郡に逃げ散った。并州の督護に遷った。成都王穎が鄴にいると、また王育を振武将軍とした。劉元海が北単于になると、王育は司馬穎に、「劉元海がいま去ろうとしている、私は殿下のためにかれを促そうと思います、さもなくば、懼れて出て来ません」と言った。司馬穎はこれに同意し、王育を破虜将軍とした。劉元海はかれを捕らえ、その後に太傅とした。
韋忠字子節、平陽人也。少慷慨、有不可奪之志。好學博通、性不虛諾。閉門修己、不交當世、每至吉凶、親表贈遺、一無所受。年十二、喪父、哀慕毀悴、杖而後起。司空裴秀弔之、匍匐號訴、哀慟感人。秀出而告人曰、「此子長大必為佳器」。歸而命子頠造焉。服闋、遂廬於墓所。頠慕而造之、皆託行不見。家貧、藜藿不充、人不堪其憂、而忠不改其樂。頠為僕射、數言之於司空張華。華辟之、辭疾不起。人問其故、忠曰、「吾茨簷賤士、本無宦情。且茂先華而不實、裴頠慾而無厭。棄典禮而附賊后。若此、豈大丈夫之所宜行邪。裴常有心託我、常恐洪濤蕩嶽、餘波見漂、況可臨尾閭而闚沃焦哉」。
太守陳楚迫為功曹。會山羌破郡、楚攜子出走、賊射之、中三創。忠冒刃伏楚、以身捍之。泣曰、「韋忠願以身代君。乞諸君哀之」。亦遭五矢。賊相謂曰、「義士也」、舍之。忠於是負楚以歸。後仕劉聰、為鎮西大將軍・平羌校尉、討叛羌、矢盡、不屈節而死。
韋忠 字は子節、平陽の人なり。少くして慷慨あり、奪ふ可からざるの志有り。學を好み博く通じ、性は諾を虛しくせず。門を閉じて己を修め、當世に交はらず、吉凶に至る每に、親ら贈遺を表し、一も受くる所無し。年十二にして、父を喪ひ、哀慕して毀悴し、杖つきて後に起つ。司空の裴秀 之を弔ふや、匍匐し號訴し、哀慟 人を感ず。秀 出でて人も告げて曰く、「此の子 長大すれば必ず佳器と為らん」と。歸りて子の頠に命じて焉に造らしむ。服闋し、遂に墓所に廬す。頠 慕ひて之に造り、皆 行に託して見えず。家 貧にして、藜藿だに充ちず、人 其の憂に堪へず、而れども忠 其の樂を改めず。頠 僕射と為るや、數々之を司空の張華に言ふ。華 之を辟するに、疾と辭して起たず。人 其の故を問ふに、忠曰く、「吾 茨簷の賤士なり、本より宦情無し。且つ茂先 華にして實あらず、裴頠 慾ありて厭くこと無し。典禮を棄てて賊后に附す。此の若きは、豈に大丈夫の宜しく行ふ所とならん。裴 常に我に託するに心有り、常に恐らくは洪濤 嶽を蕩(あら)ひ、餘波 漂せらる、況んや尾閭に臨みて沃焦を闚ふ可けんや」と。
太守の陳楚 迫りて功曹と為す。會々山羌 郡を破り、楚 子を攜(たづさ)へて出走し、賊 之を射るに、中たること三創なり。忠 刃を冒し楚を伏せしめ、身を以て之を捍す。泣きて曰く、「韋忠 願はくは身を以て君に代はらんと。乞ふ諸君 之を哀(あは)れめ」。亦た五矢に遭ふ。賊 相 謂ひて、「義士なり」と曰ひ、之を舍つ。忠 是に於て楚を負ひて以て歸る。後に劉聰に仕へ、鎮西大將軍・平羌校尉と為り、叛羌を討ち、矢 盡き、節を屈せずして死す。
韋忠 字を子節といい、平陽郡の人である。若くして意気盛んで、奪い得ぬ志があった。学を好んで広く通じ、いい加減に同意をしなかった。門を閉じて己を修め、俗世間と交わらず、慶弔があるたび、みずから贈り物をしたが、(反対に)一つも受け取らなかった。年十二で、父をうしない、哀慕して消耗し、杖でやっと立つほどだった。司空の裴秀がこれを弔うと、這ってゆき泣き叫び、哀しみ慟哭して感動を誘った。裴秀は退出してから、「この子が成長すれば必ず良い人材となる」とひとに話した。帰って子の裴頠に命じて訪問をさせた。(韋忠は)三年喪を終え、墓のそばで暮らした。裴頠が慕ってそこを訪問すると、外出を理由に会わなかった。家は貧しく、藜(あかざ)や藿(いばら)(粗末な草)ですら不足し、ひとから心配されたが、韋忠はその生活を好んで改めなかった。裴頠が僕射になると、しばしば(韋忠のことを)司空の張華に伝えた。張華がかれを辟召すると、病気を理由に辞退した。ひとがその理由を質問すると、韋忠は、「私はあばら屋に住む賤しい人物で、もとより仕官の希望がない。しかも茂先(張華)は華やかであるが実がなく、裴頠は欲ぶかくて際限がない。典礼を棄てて賊后(賈氏)に味方している。このようなことは、すぐれた人物のやることではない。裴氏はいつも私を頼りに思っている、おそらくは洪濤(津波)は山々にかかり、余波をかぶる、ましてや尾閭(川の出口)にいて沃焦(山名)を窺えようか」と言った。
(平陽)太守の陳楚は迫って功曹とした。たまたま山羌が郡城を破り、陳楚は子を携えて逃げ出したが、賊がこれを射ると、三箇所に当たった。韋忠は刀をふるって陳楚を伏せさせ、身をもって護衛した。泣いて、「わが身をもってあなたに代わりたい。諸君らよ憐れめ」と言った。さらに五矢が飛んできた。賊はたがいに、「義士だ」と言い、見逃した。韋忠はここにおいて陳楚を背負って帰還した。のちに劉聡に仕え、鎮西大将軍・平羌校尉となり、反乱した羌族を討ち、矢が尽き、屈服を拒んで死んだ。
辛勉字伯力、隴西狄道人也。父洪、左衞將軍。勉博學、有貞固之操。懷帝世、累遷為侍中。及洛陽陷、隨帝至平陽。劉聰將署為光祿大夫、勉固辭不受。聰遣其黃門侍郎喬度齎藥酒逼之。勉曰、「大丈夫豈以數年之命而虧高節、事二姓、下見武皇帝哉」。引藥將飲、度遽止之曰、「主上相試耳、君真高士也」。歎息而去。聰嘉其貞節、深敬異之、為築室于平陽西山、月致酒米、勉亦辭而不受。年八十、卒。
勉族弟賓、愍帝時為尚書郎。及帝蒙塵於平陽、劉聰使帝行酒洗爵、欲觀晉臣在朝者意。賓起而抱帝大哭。聰曰、「前殺庾珉輩、故不足為戒邪」。引出、遂加害焉。
辛勉 字は伯力、隴西狄道の人なり。父の洪、左衞將軍なり。勉 博學にして、貞固の操有り。懷帝の世に、累ねて遷りて侍中と為る。洛陽 陷するに及び、帝に隨ひて平陽に至る。劉聰 將に署して光祿大夫と為さんとするに、勉 固辭して受けず。聰 其の黃門侍郎の喬度を遣はして藥酒を齎らして之に逼る。勉曰く、「大丈夫 豈に數年の命を以て高節を虧き、二姓に事へ、下りて武皇帝に見えんか」と。藥を引きて將に飲まんとするに、度 遽(には)かに之を止めて曰く、「主上 相 試すのみ、君 真の高士なり」と。歎息して去る。聰 其の貞節を嘉し、深く之を敬異し、築室を平陽の西山に為り、月ごとに酒米を致すも、勉 亦た辭して受けず。年八十にして、卒す。
勉の族弟の賓、愍帝の時に尚書郎と為る。帝 平陽に蒙塵するに及び、劉聰 帝をして酒を行し爵を洗はしめ、晉臣の朝に在る者の意を觀んと欲す。賓 起ちて帝を抱きて大哭す。聰曰く、「前に庾珉の輩を殺す、故(な)ほ戒と為すに足らざるかと」。引きて出だし、遂に焉に害を加ふ。
辛勉は字を伯力といい、隴西郡狄道県の人である。父の辛洪は、左衛将軍である。辛勉は博学で、正しく揺らがぬ操があった。懐帝の世に、累遷して侍中となった。洛陽が陥落すると、懐帝に随って平陽に至った。劉聡が任命し光禄大夫にしようとすると、辛勉は固辞して受けなかった。劉聡はその黄門侍郎の喬度を遣わして薬酒(毒酒)をもたらしてかれに(仕官を)逼った。辛勉は、「すぐれた人士がなぜ数年の命を惜しんで高い節義を欠き、二姓(二つめの帝国)に仕え、死して武皇帝(司馬炎)に謁見できようか」と言った。薬酒を引き寄せて飲もうとしたが、喬度はにわかに止め、「主上は試しただけだ、きみは真の高士だ」と言った。歎息して去った。劉聡はその貞節を嘉し、深く敬意をもって認め、築室を平陽の西山につくり、月ごとに酒米を届けたが、辛勉も辞退して受けなかった。八十歳で、卒した。
辛勉の族弟の辛賓は、愍帝のとき尚書郎となった。愍帝が平陽に放浪すると、劉聡は愍帝に酒を注がせて爵を洗わせ、晋臣で(劉聡の)朝廷にいるものの意思を見極めようとした。辛賓は立って愍帝を抱いて大いに哭した。劉聡は、「まえに庾珉のやつを殺した、それでも戒めとするに足りないか」と言った。引き出して、かれを殺害した。
劉敏元字道光、北海人也。厲己修學、不以險難改心。好星曆陰陽術數、潛心易・太玄、不好讀史、常謂同志曰、「誦書當味義根、何為費功於浮辭之文。易者、義之源、太玄、理之門、能明此者、即吾師也」。
永嘉之亂、自齊西奔。同縣管平年七十餘、隨敏元而西、行及滎陽、為盜所劫。敏元已免、乃還謂賊曰、「此公孤老、餘年無幾、敏元請以身代、願諸君舍之」。賊曰、「此公於君何親」。敏元曰、「同邑人也。窮窶無子、依敏元為命。諸君若欲役之、老不堪使、若欲食之、復不如敏元、乞諸君哀也」。有一賊瞋目叱敏元曰、「吾不放此公、憂不得汝乎」。敏元奮劍曰、「吾豈望生邪。當殺汝而後死。此公窮老、神祇尚當哀矜之。吾親非骨肉、義非師友。但以見投之故、乞以身代。諸大夫慈惠、皆有聽吾之色、汝何有靦面目而發斯言」。顧謂諸盜長曰、「夫仁義何常、寧可失諸君子。上當為高皇・光武之事、下豈失為陳項乎。當取之由道、使所過稱詠威德。柰何容畜此人以損盛美。當為諸君除此人、以成諸君霸王之業」。前將斬之。盜長遽止之、而相謂曰、「義士也。害之犯義」。乃俱免之。後仕劉曜、為中書侍郎・太尉長史。
劉敏元 字は道光、北海の人なり。己を厲し學を修め、險難を以て心を改めず。星曆陰陽術數を好み、心を易・太玄に潛め、史を讀むを好まず、常に同志に謂ひて曰く、「書を誦して當に義の根を味ふべし、何為れぞ功を浮辭の文に費やす。易は、義の源なり、太玄は、理の門なり、能く此を明らかにせば、即ち吾が師なり」と。
永嘉の亂に、齊より西奔す。同縣の管平 年は七十餘なり、敏元に隨ひて西し、行きて滎陽に及び、盜の劫する所と為る。敏元 已に免じ、乃ち還りて賊に謂ひて曰く、「此の公 孤老なり、餘年 幾ばくも無し、敏元 身を以て代はることを請ふ、願はくは諸君 之を舍け」と。賊曰く、「此の公 君に於て何の親なるや」と。敏元曰く、「同邑の人なり。窮窶にして子無く、敏元に依りて命と為す。諸君 若し之を役せんと欲せば、老にして使に堪へず、若し之を食はんと欲せば、復た敏元に如かず、諸君に哀を乞ふなり」と。一賊の目を瞋りて敏元を叱るもの有りて曰く、「吾 此の公を放たずとも、汝を得ざるを憂はんや」と。敏元 劍を奮ひて曰く、「吾 豈に生を望まんか。當に汝を殺して後に死せん。此の公 窮老なり、神祇 尚ほ當に之を哀矜すべし。吾 親は骨肉に非らず、義は師友に非ず。但だ投ぜらるの故を以て、身を以て代はらんと乞ふ。諸大夫 慈惠あり、皆 吾を聽すの色有り、汝 何ぞ靦(あつかま)しき面目有りて斯の言を發するか」と。顧みて諸の盜長に謂ひて曰く、「夫れ仁義 何の常あらん、寧んぞ諸君子に失ふ可きか。上は當に高皇・光武の事を為すべし、下は豈に失ひて陳項と為るか。當に之を取るに道に由り、過る所に威德を稱詠せしむべし。柰何ぞ此の人を容畜して以て盛美を損ずるか。當に諸君の為に此の人を除け、以て諸君の霸王の業を成せ」と。前みて將に之を斬らんとす。盜長 遽かに之を止め、而して相 謂ひて曰く、「義士なり。之を害せば義に犯す」と。乃ち俱に之を免ず。後に劉曜に仕へ、中書侍郎・太尉長史と為る。
劉敏元は字を道光といい、北海郡の人である。己を励まし学問を修め、険難にあっても心を改めなかった。星暦や陰陽の術数学を好み、心を易と太玄に潜め、史書を読むのを好まず、つねに同志に、「書を誦して義の根本を味わうべきだ、どうして(学びの)努力を浮ついた文辞に費やすのだ。易は、義の源であり、太玄は、理の門である、これを明らかにできれば、わが師である」と言った。
永嘉の乱で、斉から西に逃げた。同県の管平は七十歳あまりで、劉敏元に随って西にゆき、滎陽に到着すると、盗賊に襲われた。劉敏元は助かったが、わざわざ戻ってゆき賊に、「このひとは孤老であり、余命も短い、私と身柄を交換してくれ、諸君は見逃してくれ」と言った。賊は、「こいつとどんな関係か」と言った。劉敏元は、「同邑の人だ。困窮して子がおらず、私を頼ってきた。諸君がもし労働をさせようにも、老いて役に立たず、食らおうとしても、私(を食らう)には劣る」と言った。一人の賊が目をいからせ陳元達を叱り、「こいつを逃がさずとも、お前を捕まえられるぞ」と言った。劉敏元は剣を振るい、「私は命が惜しくない。きみを殺してから私も死のう。このひとは窮迫した老人だ、神祇はかれを憐れむだろう。親として血縁でなく、義として師友でもない。ただ頼られたという経緯から、身代わりになろうと思うのだ。諸大夫(ほかの盗賊ら)は慈恵があり、私の頼みを聞こうとした、なぜきみは厚かましいことを言うのか」と言った。振り返って賊の頭目たちに、「そもそも仁義に一定の規則があろうか、どうしてあなたがたが(盗賊だからといって)失ってよいものか。上をめざすなら(両漢の)高皇帝や光武帝の事業をなすべきだ。下におちても陳勝や項羽に劣ってよいのか。道に基づいて行動し、活動した地域で威徳を歌いあげよ。どうしてこのひとを捕まえて盛んな美を損なうのか。諸君ら自身のためにこの人を解放せよ、そして覇王の業を成し遂げよ」と言った。進んでこれを斬ろうとした。盗賊の長はにわかに止め、仲間たちに、「義士だ。かれを殺せば義に抵触する」と言った。(賊は)二人とも見逃した。のちに(劉敏元は)劉曜に仕え、中書侍郎・太尉長史となった。
周該、天門人也。性果烈、以義勇稱。雖不好學、而率由名教。叔父級為宜都內史、亦忠節士也。聞譙王承立義湘州、甘卓又不同王敦之舉、而書檄不至、級謂該曰、「吾嘗疾王敦挾陵上之心、今稱兵構逆、有危社稷之勢。譙王宗室之望、據方州之重、建旗誓眾、圖襲武昌。甘安南少著勇名、士馬器械當今為盛、聞與譙王剋期舉義。此乃烈士急病之秋、吾致死之時也。汝其成吾之志、申款于譙王乎」。該欣然奉命、潛至湘州、與承相見、口陳至誠。承大悅。會王敦遣其將魏乂圍承甚急、該乃與湘州從事周崎間出反命、俱為乂所執、考之至死、竟不言其故、級由是獲免王敦之難。
周該は、天門の人なり。性は果烈にして、義勇を以て稱へらる。學を好まざると雖も、而れども名教に率由す。叔父の級 宜都內史と為り、亦た忠節の士なり。譙王承 義を湘州に立て、甘卓 又 王敦の舉に同ぜざるを聞くや、而して書檄 至らざるに、級 該に謂ひて曰く、「吾 嘗て王敦の陵上の心を挾むを疾とし、今 兵を稱へて構逆し、社稷を危くするの勢有り。譙王は宗室の望なり、方州の重に據り、旗を建て眾に誓ひ、武昌を襲ふことを圖る。甘安南は少くして勇名を著はし、士馬器械 當今 盛と為り、聞くに譙王と與に期を剋して義を舉ぐ。此れ乃ち烈士の急病の秋にして、吾 致死の時なり。汝 其れ吾の志を成せ、款を譙王に申せんか」と。該 欣然として命を奉り、潛かに湘州に至り、承と相 見え、口に至誠を陳ぶ。承 大いに悅ぶ。會々王敦 其の將の魏乂を遣はして承を圍むこと甚だ急なり、該 乃ち湘州從事の周崎と與に間出し反命せんとするに、俱に乂の執ふる所と為り、之を考して死に至るに、竟に其の故を言はず、級 是に由り王敦の難を免るるを獲たり。
周該は、天門郡の人である。性格は果烈で、義勇を称えられた。学を好まないが、名教に依り従っていた。叔父の周級は宜都内史で、かれも忠節の士であった。譙王承が義を湘州で立てて、甘卓もまた王敦の挙に同調しなかったと聞くと、書檄が到着しておらぬのに、周級は周該に、「私はかねて王敦が天子を脅かす心の持ち主であることを危険視してきたが、いま兵を整えてことを構え、社稷を危うくする形勢である。譙王は宗室の望で、一方の州に拠った重鎮であり、旗を建てて兵と誓い、武昌を襲うことを計画している。甘安南(甘卓)は若くして勇名が知れわたり、軍馬や兵器が十分に備わり、聞けば譙王と約束して合流し義挙を行うそうだ。これは烈士にとって緊急のときであり、私が命を賭するときである。きみは私の志を成功させ、真心(協力の申し出)を譙王に伝えてくれないか」と言った。周該は欣然として命令を受け、ひそかに湘州に至り、司馬承と面会し、口頭で至誠を述べた。司馬承は大いに悦んだ。たまたま王敦がその将の魏乂を派遣して司馬承をきびしく包囲した。周該は湘州従事の周崎とともに抜け出て帰命しようとしたが、魏乂の捕まり、取り調べられて死に至ったが、ついに事情を言わず、周級はおかげで王敦の難を免れることができた。
桓雄、長沙人也。少仕州郡。譙王承為湘州刺史、命為主簿。王敦之逆、承為敦將魏乂所執、佐吏奔散。雄與西曹韓階・從事武延並毀服為僮豎、隨承向武昌。乂見雄姿貌長者、進退有禮、知非凡人、有畏憚之色、因害之。
桓雄は、長沙の人なり。少くして州郡に仕ふ。譙王承 湘州刺史と為るに、命じて主簿と為す。王敦の逆に、承 敦の將の魏乂の執ふる所と為り、佐吏 奔散す。雄は西曹の韓階・從事の武延と與に並びに服を毀ちて僮豎と為り、承に隨ひて武昌に向かふ。乂 雄の姿貌 長者にして、進退 禮有るを見て、凡人に非ざるを知り、畏憚の色有り、因りて之を害す。
桓雄は、長沙郡の人である。若くして州郡に仕えた。譙王承が湘州刺史になると、任命して主簿とした。王敦が反逆すると、司馬承は王敦の将の魏乂に捕らえられ、佐吏は逃げ散った。桓雄は西曹の韓階と従事の武延とともに衣服をやぶいて僮豎(召使いや奴隷)となり、司馬承に随って武昌に向かった。魏乂は桓雄の姿貌が長者であり、進退の動作に礼があるので、凡人でないと見抜き、かれを畏れ憚って、殺害した。
韓階、長沙人也。性廉謹篤慎、為閭里所敬愛。刺史・譙王承辟為議曹祭酒、轉西曹書佐。及承為魏乂所執、送武昌、階與武延等同心隨從、在承左右。桓雄被害之後、二人執志愈固。及承遇禍、階・延親營殯斂、送柩還都、朝夕哭奠、俱葬畢乃還。
韓階は、長沙の人なり。性は廉謹篤慎にして、閭里の敬愛する所と為る。刺史・譙王承 辟して議曹祭酒と為し、西曹書佐に轉ず。承 魏乂の執ふる所と為り、武昌に送らるるに及び、階 武延らと與に心を同じくして隨從し、承の左右に在り。桓雄 害せらるるの後、二人 志を執ること愈々固し。承 禍に遇ふに及び、階・延 親ら殯斂を營み、柩を送りて都に還り、朝夕に哭奠し、俱に葬り畢はりて乃ち還る。
韓階は、長沙郡の人である。無欲で慎み深く、閭里(郷里)で敬愛された。刺史の譙王承が辟召して議曹祭酒とし、西曹書佐に転じた。司馬承が魏乂に捕らえられ、武昌に送られると、韓階は武延らとともに心を同じくして随従し、司馬承の左右にいた。桓雄が殺害された後、二人はますます(司馬承を守ろうと)志を強くした。司馬承が殺害されると、韓階と武延はみずから殯斂を営み、柩を送って都に還り、朝夕に哭奠(祭祀)をおこない、ともに葬ってから還った。
周崎、邵陵人也。為湘州從事。王敦之難、譙王承使崎求救于外、與周該俱為魏乂偵人所執。乂責崎辭情、臨以白刃。崎曰、「州將使求援于外、本無定指、隨時制宜耳」。又謂崎曰、「汝為我語城中、稱大將軍已破劉隗・戴若思、甘卓住襄陽、無復異議、三江州郡、萬里肅清、外援理絕。如是者、我當活汝」。崎偽許之。既到城下、大呼曰、「王敦軍敗於于湖、甘安南已克武昌、即日分遣大眾來赴此急。努力堅守、賊今散矣」。乂於是數而殺之。
周崎は、邵陵の人なり。湘州從事と為る。王敦の難に、譙王承 崎をしてを外に救を求めしめ、周該と與に俱に魏乂の偵人の執ふる所と為る。乂 崎の辭情を責め、臨むに白刃を以てす。崎曰く、「州將 援を外に求めしむ、本より定指無し、時に隨ひて宜を制するのみ」と。又 崎に謂ひて曰く、「汝 我の為に城中に語り、大將軍 已に劉隗・戴若思を破り、甘卓 襄陽に住まり、復た異議無く、三江の州郡、萬里は肅清として、外援 理絕すと稱せ。是の如くんば、我 當に汝を活かすべし」と。崎 偽りて之を許す。既に城下に到るや、大呼して曰く、「王敦の軍 于湖に敗る、甘安南 已に武昌に克つ、即日に分けて大眾を遣はして來りて此の急に赴かん。努力し堅守せよ、賊 今に散ぜん」と。乂 是に於て數めて之を殺す。
周崎は、邵陵郡の人である。湘州従事となった。王敦の難のとき、譙王承は周崎に外へ救援を求めさせたが、周該とともに魏乂の偵察に捕らわれた。魏乂は周崎を尋問し、白刃で脅迫した。周崎は、「州将(司馬承)は救援を外に求めたが、とくに目的地はなく、状況により対処するつもりだった」と言った(宜都内史の周級の名を伏せた)。さらに(魏乂は)周崎に、「お前が私のために城中に語り、大将軍(王敦)はすでに劉隗と戴若思を破り、甘卓は襄陽で動かず、反抗の心はなく、三江の州郡は、万里が粛然とし、外からの救援は期待できないと言え。さすれば、お前を助けてやろう」と言った。周崎は偽ってこれを承諾した。城下に到ると、大声で叫び、「王敦の軍は于湖で敗れた、甘安南(甘卓)はすでに武昌を破った、即日に大軍を分けて派遣しこの危急に駆けつける。努力し堅守せよ、賊はいまに包囲を解くぞ」と言った。魏乂はかれを責めて殺した。
易雄字興長、長沙瀏陽人也。少為縣吏、自念卑賤、無由自達、乃脫幘挂縣門而去。因習律令及施行故事、交結豪右、州里稍稱之。仕郡、為主簿。張昌之亂也、執太守萬嗣、將斬之。雄與賊爭論曲直。賊怒、叱使牽雄斬之、雄趨出自若。賊又呼問之、雄對如初。如此者三、賊乃舍之。嗣由是獲免、雄遂知名。舉孝廉、為州主簿、遷別駕。自以門寒、不宜久處上綱、謝職還家。後為舂陵令。
刺史・譙王承既距王敦、將謀起兵以赴朝廷。雄承符馳檄遠近、列敦罪惡、宣募縣境。數日之中、有眾千人、負糧荷戈而從之。承既固守、而湘中殘荒之後、城池不完、兵資又闕。敦遣魏乂・李恒攻之。雄勉厲所統、扞禦累旬、士卒死傷者相枕。力屈城陷、為乂所虜、意氣慷慨、神無懼色。送到武昌、敦遣人以檄示雄而數之。雄曰、「此實有之、惜雄位微力弱、不能救國之難。王室如燬、雄安用生為。今日即戮、得作忠鬼、乃所願也」。敦憚其辭正、釋之。眾人皆賀、雄笑曰、「昨夜夢乘車、挂肉其傍。夫肉必有筋、筋者斤也、車傍有斤、吾其戮乎」。尋而敦遣殺之。當時見者、莫不傷惋。
易雄 字は興長、長沙瀏陽の人なり。少くして縣吏と為るに、自ら念ふらく卑賤にして、由無くして自達せば、乃ち幘を脫し縣門に挂けて去る。因りて律令及(と)故事を施行するに習ひ、豪右と交結し、州里 稍く之を稱ふ。郡に仕へ、主簿と為る。張昌の亂するや、太守の萬嗣を執へ、將に之を斬らんとす。雄 賊と論の曲直を爭ふ。賊 怒り、叱りて雄を牽かしめ之を斬らんとし、雄 趨り出でて自若たり。賊 又 呼びて之に問ひ、雄 對ふること初の如し。此の如きこと三たび、賊 乃ち之を舍く。嗣 是に由り免るるを獲、雄 遂に知名あり。孝廉に舉げられ、州の主簿と為り、別駕に遷る。自ら門の寒なるを以て、宜しく久しく上綱に處るべからずとして、職を謝して家に還る。後に舂陵令と為る。
刺史・譙王承 既に王敦を距ぎ、將に起兵して以て朝廷に赴かんと謀る。雄 符を承け遠近に檄を馳せ、敦の罪惡を列し、宣く縣境に募る。數日の中に、眾千人有り、糧を負ひ戈を荷ひて之に從ふ。承 既に固守し、而して湘中 殘荒するの後、城池 完からず、兵資 又 闕く。敦 魏乂・李恒を遣はして之を攻む。雄 統ぶる所を勉厲し、扞禦すること累旬、士卒の死傷する者 相 枕す。力は屈し城は陷ち、乂の虜ふる所と為るに、意氣は慷慨たりて、神は懼色無し。送りて武昌に到り、敦 人を遣はして檄を以て雄に示して之を數む。雄曰く、「此れ實に之有り、惜しむらくは雄の位は微にして力は弱く、國の難を救ふ能はざるなり。王室 如し燬(も)ゆれば、雄 安ぞ用て生くること為さん。今日 即ち戮せ、忠鬼と作るを得たるは、乃ち願ふ所なり」と。敦 其の辭の正なるを憚り、之を釋く。眾人 皆 賀し、雄 笑ひて曰く、「昨夜 夢みて車に乘り、肉を其の傍を挂(か)く。夫れ肉は必ず筋有り、筋なるは斤なり、車の傍に斤有るは、吾 其の戮せらるか」と。尋いで敦 之を殺さしむ。當時 見る者、傷惋せざる莫し。
易雄は字を興長といい、長沙郡瀏陽県の人である。若くして県吏となったが、卑賤の出身にも拘わらず、仕官してしまったので、幘を脱いで県門にかけて去った。こうして律令と前例に基づいた(律令の)運用に習熟し、豪右と交際し、州里から徐々に認められた。郡に仕え、主簿となった。張昌が乱を起こすと、太守の萬嗣を執らえ、まさにかれを斬ろうとした。易雄は賊とともに論の曲直(太守殺害の違法性)を争った。賊は怒り、叱って易雄を引いて斬ろうとしたが、易雄は自力で抜けて平然としていた。賊がまた問答を仕掛けたが、易雄は前回と同様に答えた。三回くり返し、賊はあきらめた。萬嗣はおかげで助かり、易雄は名声を得た。孝廉に挙げられ、州の主簿となり、別駕に遷った。みずから寒門の出身なので、高い地位に留まるべきでないとし、辞職して家に還った。のちに舂陵令となった。
刺史の譙王承が王敦を警戒し、兵を起こして朝廷に行こうとした。易雄は書簡を受けて遠近に檄文を送り、王敦の罪悪を列挙し、ひろく県内で(兵を)募った。数日のうちに、千人の兵が、食糧と武器を持って従った。司馬承は堅守したが、湘州は荒廃し、城壁や堀が完全でなく、兵や物資が不足した。王敦は魏乂と李恒を遣ってこれを攻撃した。易雄は配下を励まして、防衛すること数十日、士卒の死傷者がたがいに枕した。力は屈し城は陥ち、魏乂に捕らわれたが、意気は盛んで、懼れる気配がなかった。送られて武昌に到り、王敦は人をやって(易雄が書いた)檄文を示して問責した。易雄は、「これは本当のことを書いたのだ、残念ながら私は地位が低くて兵力が弱く、国の危難を救えなかった。王室がもし破滅すれば、どうして私は生き存えよう。すぐに殺せ、忠鬼(国家の殉死者)となれるのは、願ってもないことだ」と言った。王敦はその言葉の正しさを憚り、解放した。人々は祝ってくれたが、易雄は笑って、「昨夜の夢で車に乗り、肉を側面にかけていた。肉には必ず筋があり、筋は斤である、車の側面に斤があり(斬の字となり)、わたしは殺害されるだろう」と。ほどなく王敦はかれを殺させた。これを見た人々は、傷み嘆かぬものがなかった。
樂道融、丹楊人也。少有大志、好學不倦、與朋友信、每約己而務周給、有國士之風。為王敦參軍。
敦將圖逆、謀害朝賢、以告甘卓。卓以為不可、遲留不赴。敦遣道融召之。道融雖為敦佐、忿其逆節。因說卓曰、「主上躬統萬機、非專任劉隗。今慮七國之禍、故割湘州以削諸侯、而王氏擅權日久。卒見分政、便謂被奪耳。王敦背恩肆逆、舉兵伐主。國家待君至厚。今若同之、豈不負義。生為逆臣、死為愚鬼、永成宗黨之恥邪。君當偽許應命、而馳襲武昌。敦眾聞之、必不戰自散、大勳可就矣」。卓大然之、乃與巴東監軍柳純等露檄陳敦過逆、率所統致討、又遣齎表詣臺。卓性不果決、且年老多疑、遂待諸方同進、出軍稽遲。至猪口、敦聞卓已下兵。卓兄子卬時為敦參軍、使卬求和於卓、令其旋軍。卓信之、將旋。主簿鄧騫與道融勸卓曰、「將軍起義兵而中廢、為敗軍之將、竊為將軍不取。今將軍之下、士卒各求其利、一旦而還、恐不可得也」。卓不從。道融晝夜涕泣諫卓、憂憤而死。
樂道融は、丹楊の人なり。少くして大志有り、學を好みて倦まず、朋友と信あり、每に己を約して周給を務め、國士の風有り。王敦が參軍と為る。
敦 將に逆を圖らんとするや、朝賢を害せんと謀り、以て甘卓に告ぐ。卓 以為へらく不可とし、遲留して赴かず。敦 道融を遣はして之を召す。道融 敦の佐と為ると雖も、其の逆節を忿る。因りて卓に說きて曰く、「主上 躬ら萬機を統べ、劉隗に專任するに非ず。今 七國の禍を慮り、故に湘州を割きて以て諸侯を削り、而して王氏 權を擅にすること日に久し。卒かに政を分たれて、便ち奪はると謂ふのみ。王敦 恩に背きて肆逆し、兵を舉げて主を伐たんとす。國家 君を待つこと至厚なり。今 若し之に同せば、豈に義に負かざるか。生きて逆臣と為り、死して愚鬼と為り、永く宗黨の恥と成るか。君 當に偽りて許して命に應じ、而して馳せて武昌を襲ふべし。敦が眾 之を聞かば、必ず戰はずして自ら散じ、大勳 就く可し」と。卓 大いに之を然りとし、乃ち巴東監軍の柳純らと與に露檄して敦の過逆を陳べ、統ぶる所を率ゐて討を致し、又 表を齎らして臺に詣らしむ。卓の性 果たして決せず、且つ年老にして疑多く、遂に諸方 同に進むを待ち、軍を出すも稽遲す。猪口に至り、敦 卓の已に兵を下すと聞く。卓の兄の子の卬 時に敦の參軍と為り、卬をして和を卓に求めしめ、其に令して軍を旋せしむ。卓 之を信じ、將に旋せんとす。主簿の鄧騫 道融と與に卓に勸めて曰く、「將軍 義兵を起して中ごろに廢せば、敗軍の將と為り、竊かに將軍の為に取らざる。今 將軍の下、士卒 各々其の利を求む、一旦にして還れば、恐らくは得可からざるなり」。卓 從はず。道融 晝夜 涕泣して卓を諫め、憂憤して死す。
楽道融は、丹楊郡の人である。若くして大きな志があり、学問を好んで倦まず、朋友から信頼され、つねに自分は節約をして振給に努め、国士の風があった。王敦の参軍となった。
王敦が反逆し、朝廷の賢士に危害を加えようと計画すると、甘卓に協力を持ちかけた。甘卓は反対し、(任地に)留まって駆けつけなかった。王敦は楽道融を派遣してかれを召した。楽道融は王敦の部下であるが、かれが節義に逆らうことに怒った。そこで甘卓に、「主上は万機を親政し、劉隗に全権を委任していません。いま(前漢の呉楚)七国の乱を教訓とし、湘州を割いて諸侯(の封土)を削り、王氏が権力を独占して日数が経ちました。にわかに(諸侯の)権限を分割したせいで、(王氏に主導権を)奪われたのです。王敦が恩に背いて反逆し、兵を挙げて主上を伐とうとしています。国家はあなたを必要としてします。もしこれに同調すれば、どうして義に背かぬのでしょう。生きて逆臣となり、死して愚鬼となり、永遠に宗族の恥となるのですか。あなたは偽って(王敦の)呼び出しに応じ、軍を向けて武昌(王敦)を襲いなさい。王敦の軍勢はこれを聞けば、きっと戦わずに自ら散り、大きな勲功を立てられます」と説いた。甘卓はまさにその通りだとし、巴東監軍の柳純らとともに露檄で王敦の過失と反逆を述べ、部下を率いて討伐し、さらに上表をもたらして朝廷に提出した。ところが甘卓は決断できず、しかも高齢で迷いが多く、各方面からの同時進行を待ち、軍を動員したが停留させた。猪口に至り、王敦は甘卓がすでに兵を動かしたと聞いた。甘卓の兄の子の甘卬はこのとき王敦の参軍であったが、(王敦は)甘卬を使者として甘卓と和睦を試み、軍を反転し帰還せよと命じた。甘卓はこれを受け入れ、まさに軍を反転させようとした。主簿の鄧騫は楽道融とともに甘卓に、「将軍が義兵を起したにも拘わらず中止すれば、敗軍の将となり、将軍のためになりません。いま将軍のもとで、士卒はそれぞれ利得を求めています、いちど撤退してしまえば、二度と同じ精鋭は得られません」と言った。甘卓は従わなかった。楽道融は昼夜に涕泣して甘卓を諫め、憂憤して死んだ。
虞悝、長沙人也。弟望、字子都。並有士操、孝悌廉信為鄉黨所稱。而俱好臧否、以人倫為己任。少仕州郡、兄弟更為治中・別駕。元帝為丞相、招延四方之士、多辟府掾、時人謂之「百六掾」。望亦被召、恥而不應。
譙王承臨州、知其名、檄悝為長史。未到、遭母喪。會王敦作逆、承往弔悝、因留與語曰、「吾前被詔、遣鎮此州、正以王敦專擅、防其為禍。今敦果為逆謀。吾受任一方、欲率所領馳赴朝廷、而眾少糧乏、且始到貴州、恩信未著。卿兄弟南夏之翹儁、而智勇遠聞。古人墨絰即戎、況今鯨鯢塞路、王室危急、安得遂罔極之情、忘忠義之節乎。如今起事、將士器械可以濟不」。悝・望對曰、「王敦居分陝之任、一旦構逆、圖危社稷。此天地所不容、人神所忿疾。大王不以猥劣、枉駕訪及、悝兄弟並受國恩、敢不自奮。今天朝中興、人思晉德、大王以宗子之親、奉信順而誅有罪、孰不荷戈致命。但鄙州荒弊、糧器空竭、舟艦寡少、難以進討。宜且收眾固守、傳檄四方。其勢必分、然後圖之、事可捷也」。承以為然、乃命悝為長史、望為司馬、督護諸軍。
湘東太守鄭澹、敦之姊夫也、不順承旨。遣望討之。望率眾一旅、直入郡斬澹、以徇四境。及魏乂來攻、望每先登、力戰而死。城破、悝復為乂所執。將害之、子弟對之號泣。悝謂曰、「人生有死、闔門為忠義鬼、亦何恨哉」。及王敦平、贈悝襄陽太守、望滎陽太守、遣謁者至墓、祭以少牢。
虞悝は、長沙の人なり。弟の望、字は子都なり。並びに士操有り、孝悌廉信にして鄉黨の稱ふる所と為る。而して俱に臧否を好みて、人倫を以て己が任と為す。少くして州郡に仕へ、兄弟 更々治中・別駕と為る。元帝 丞相と為るや、四方の士を招延し、多く府掾に辟し、時人 之を謂ひて「百六掾」となす。望 亦た召せらるも、恥じて應ぜず。
譙王承 州に臨み、其の名を知り、悝に檄して長史と為す。未だ到らざるに、母の喪に遭ふ。會々王敦 逆を作すに、承 往きて悝を弔ひ、因りて留りて與に語りて曰く、「吾 前に詔を被り、此の州に鎮せしめ、正に王敦を專擅なるを以て、其の禍を為すを防す。今 敦 果たして逆謀を為す。吾 任を一方に受け、所領を率ゐて馳せて朝廷に赴かんと欲するに、眾は少なく糧は乏し、且つ始め貴州に到り、恩信 未だ著れず。卿の兄弟は南夏の翹儁にして、智勇 遠く聞こゆ。古人 墨絰 戎に即け、況んや今 鯨鯢 路を塞ぎ、王室 危急し、安ぞ罔極の情を遂げ、忠義の節を忘るることを得んや。如今 事を起こすに、將士器械 以て濟す可きや不や」と。悝・望 對へて曰く、「王敦 分陝の任に居り、一旦に構逆し、社稷を危ふくせんと圖る。此れ天地の容れざる所にして、人神 忿疾する所なり。大王 猥劣を以てせず、枉駕 訪及す、悝の兄弟 並びに國恩を受くるに、敢て自ら奮はざるや。今 天朝 中興し、人 晉の德を思ひ、大王 宗子の親を以て、信順を奉りて有罪を誅し、孰か戈を荷ひ命を致さん。但だ鄙州 荒弊し、糧器 空竭し、舟艦 寡少なり、以て進討し難し。宜しく且つ眾を收め固守し、檄を四方に傳へよ。其の勢 必ず分かれ、然る後 之を圖らば、事 捷つ可きなり」。承 以て然りと為し、乃ち悝に命じて長史と為し、望を司馬と為し、諸軍を督護せしむ。
湘東太守の鄭澹、敦の姊の夫なり、承が旨に順はず。望を遣はして之を討たしむ。望 眾一旅を率ゐ、直に郡に入り澹を斬りて、以て四境を徇ふ。魏乂 來攻するに及び、望 每に先登し、力戰して死す。城 破るるや、悝 復た乂の執ふる所と為る。將に之を害せんとし、子弟 之に對ひて號泣す。悝 謂ひて曰く、「人生 死有りて、闔門 忠義の鬼と為らば、亦た何をか恨まんか」。王敦 平らぐに及び、悝に襄陽太守、望に滎陽太守を贈り、謁者を遣はして墓に至り、祭るに少牢を以てす。
虞悝は、長沙郡の人である。弟の虞望は、字を子都という。どちらも士として節度があり、孝悌廉信として郷党で称えられた。そして二人とも善悪の批判を好み、人倫を定めることを自分の役割とした。若くして州郡に仕え、兄弟はそれぞれ治中や別駕となった。元帝が丞相となると、四方の士を広く招き、多く府掾に辟召し、当時のひとは「百六掾」と言った。虞望もまた辟召されたが、恥じて応じなかった。
譙王承が湘州に赴任すると、その名を知り、虞悝を召して長史とした。就官する前に、母が亡くなった。たまたま王敦が反逆したので、司馬承は虞悝を弔いにゆき、そこに留まって語りあい、「私は前に詔を受け、この州に鎮したが、王敦が専断するので、禍いを防げと命ぜられた。いま王敦は果たして反逆した。私は一方面を任され、配下を率いて朝廷に赴きたいが、兵が少なく糧が乏しく、しかもこの州に着任したばかりで、恩信が明らかでない。あなたがた兄弟は南夏の翹儁(当地の名望家)であり、智勇は遠くに聞こえている。古人は墨絰(黒色の入った喪服)で軍務についた、まして現在は鯨鯢(くじら)が道を塞ぎ、王室は危急している、どうして際限なき思い(母の服喪)をやり遂げ、忠義の節を忘れてよいものか。今からことを始めるにあたり、将士や兵器を整えられぬだろうか」と言った。虞悝と虞望は、「王敦は分陝の任(周公旦らの役割)を担い、ところが反逆し、社稷を転覆させようとしました。これは天や地に容認されることではなく、人も神も怒り憎んでいます。大王にご足労をかけ、訪問して頂きました、われら兄弟はどちらも国恩を受け、奮起せずにおりましょうか。いま天朝は中興し、人々は晋の徳を思い、大王は宗室の親として、真心を奉じて罪人を誅されます、どうして戈を担ぎ命令に従わずにいましょうか。しかしこの州は荒廃し、食糧や兵器が枯渇し、船舶は少なく、進軍は困難です。どうか兵を集めて固守し、檄文を四方に伝えなさい。かれ(王敦)の権勢が分裂し、その後に攻略すれば、勝利できるでしょう」と言った。司馬承はその通りだと考え、虞悝を長史に、虞望を司馬に任命し、諸軍を督護させた。
湘東太守の鄭澹は、王敦の姉の夫であり、司馬承の命令に従わなかった。虞望を派遣してこれを討伐させた。虞望は一旅の兵を率い、ただちに郡に入って鄭澹を斬り、四境を鎮定した。魏乂が来攻すると、虞望はつねに先駆けとなり、力戦して死んだ。城が陥落すると、虞悝もまた魏乂に捕らわれた。死に臨み、子弟はかれに向かって号泣した。虞悝は、「人が生きれば死は不可避だ、(死んで)一門が忠義の鬼となるなら、何を恨もうか」と言った。王敦が平定されると、虞悝に襄陽太守、虞望に滎陽太守を贈り、謁者を墓に派遣し、少牢で祭った。
沈勁字世堅、吳興武康人也。父充、與王敦構逆、眾敗而逃、為部曲將吳儒所殺。勁當坐誅、鄉人錢舉匿之得免。其後竟殺讎人。
勁少有節操、哀父死于非義、志欲立勳以雪先恥。年三十餘、以刑家不得仕進。郡將王胡之深異之。及遷平北將軍・司州刺史、將鎮洛陽、上疏曰、「臣當藩衞山陵、式遏戎狄、雖義督羣心、人思自百。然方翦荊棘、奉宣國恩、艱難急病、非才不濟。吳興男子沈勁、清操著於鄉邦、貞固足以幹事。且臣今西、文武義故。吳興人最多、若令勁參臣府事者、見人既悅、義附亦眾。勁父充昔雖得罪先朝、然其門戶累蒙曠蕩、不審可得特垂沛然、許臣所上否」。詔聽之。勁既應命、胡之以疾病解職。
升平中、慕容恪侵逼山陵。時冠軍將軍陳祐守洛陽、眾不過二千、勁自表求配祐效力。因以勁補冠軍長史、令自募壯士、得千餘人。以助祐擊賊、頻以寡制眾。而糧盡援絕、祐懼不能保全。會賊寇許昌、祐因以救許昌為名、1.興寧三年、留勁以五百人守城、祐率眾而東。會許昌已沒、祐因奔崖塢。勁志欲致命、欣獲死所。尋為恪所攻、城陷、被執、神氣自若。恪奇而將宥之、其中軍將軍慕容虔曰、「勁雖奇士、觀其志度、終不為人用。今若赦之、必為後患」。遂遇害。恪還、從容言於慕容暐曰、「前平廣固、不能濟辟閭、今定洛陽而殺沈勁、實有愧於四海」。朝廷聞而嘉之、贈東陽太守。子赤黔為大長秋。赤黔子叔任、義熙中為益州刺史。
1.『資治通鑑』は、これを興寧二年のこととする。
沈勁 字は世堅なり、吳興武康の人なり。父の充、王敦と與に構逆し、眾 敗れて逃れ、部曲將の吳儒の殺す所と為る。勁 當に誅に坐すべきに、鄉人の錢舉 之を匿ひて免るるを得たり。其の後 竟に讎人を殺す。
勁 少くして節操有り、父の非義に死することを哀しみて、志して立勳して以て先恥を雪がんと欲す。年三十餘に、刑家を以て仕進するを得ず。郡將の王胡之 深く之と異す。平北將軍・司州刺史に遷るに及び、將に洛陽に鎮せんとし、上疏に曰く、「臣 當に山陵に藩衞として、戎狄を式遏して、義もて羣心を督すと雖も、人の思 自ら百あり。然して方に荊棘を翦りて、國恩を奉宣するに、艱難 急病たりて、非才にして濟はず。吳興の男子の沈勁、清操 鄉邦に著はれ、貞固 以て幹事するに足る。且つ臣 今 西するは、文武の義故なり。吳興の人 最も多く、若し勁をして臣の府事に參せしむれば、見人 既に悅び、義附するもの亦た眾し。勁が父の充 昔 罪を先朝に得たりと雖も、然るに其の門戶 累りに曠蕩を蒙り、特に沛然を垂るることを得可きを審らかにせんや、臣の上する所を許すや否や」と。詔して之を聽す。勁 既に命に應ずるや、胡之 疾病を以て職を解かる。
升平中に、慕容恪 山陵を侵逼す。時に冠軍將軍の陳祐 洛陽を守し、眾 二千を過ぎず、勁 自ら表して祐に效力を配するを求む。因りて勁を以て冠軍長史に補し、自ら壯士を募らしめ、千餘人を得たり。以て祐を助けて賊を擊ち、頻りに寡を以て眾を制す。而して糧は盡き援は絕ち、祐 保全する能はざるを懼る。會々賊 許昌を寇するや、祐 因りて許昌を救ふを以て名と為し、1.興寧三年、勁を留めて五百人を以て城を守らしめ、祐 眾を率ゐて東す。會々許昌 已に沒し、祐 因りて崖塢に奔る。勁の志 命を致さんと欲し、獲へて死する所を欣ぶ。尋いで恪の攻むる所と為り、城 陷ち、執へらるるも、神氣 自若たり。恪 奇として將に之を宥めんとし、其の中軍將軍の慕容虔曰く、「勁 奇士なると雖も、其の志度を觀るに、終に人の用と為らず。今 若し之を赦さば、必ず後患と為らん」。遂に害に遇ふ。恪 還り、從容として慕容暐に言ひて曰く、「前に廣固を平らげ、辟閭を濟ふこと能はず、今 洛陽を定めて沈勁を殺す、實に四海に愧有り」と。朝廷 聞きて之を嘉し、東陽太守を贈る。子の赤黔 大長秋と為る。赤黔の子の叔任、義熙中に益州刺史と為る。
沈勁は字を世堅といい、呉興郡武康県の人である。父の沈充は、王敦とともに反逆し、軍が敗れて逃げ、部曲将の呉儒に殺された。沈勁は連坐し誅殺されるはずであったが、同郷の銭挙がかれを匿ったので助かった。のちに父の仇敵を殺した。
沈勁は若くして節義があり、父が正義に逆らって死んだことを哀しみ、功績を立てて父の恥を雪ごうと志した。三十歳あまりになっても、刑罰を受けた家なので仕官できなかった。郡将の王胡之がかれを認めた。(王胡之が)平北将軍・司州刺史に遷り、洛陽に鎮することになると、上疏して、「私は皇帝の陵墓を守り、胡賊を制圧し、義によって衆心を導きましたが、人々の思惑はまちまちでした。荊棘を切って、国恩を奉り(洛陽を奪回し)ましたが、艱難が差し迫り、非才のせいで救えませんでした。(さて)呉興の男子の沈勁は、清らかな志が郷里で知られ、正しい意思があり任務に堪えます。しかも私が西に連れてきたのは、文武の官の旧知です。呉興の出身者がもっとも多く、もしも沈勁をわが府に参じさせれば、義により味方するものが多いでしょう。沈勁の父の沈充はむかし先朝で罪を得ましたが、しかしその一族に寛大な処置をあたえ、恵みを施して頂けませんか、ご検討くださいませ」と言った。詔してこれを許した。沈勁が任命に応じると、王胡之は病気により解任された。
升平年間(三五七~三六一年)に、慕容恪が山陵を侵略した。このとき冠軍将軍の陳祐が洛陽を守っていたが、兵数は二千を下回ったので、沈勁は自ら上表して陳祐に兵力を配備するよう求めた。これを受けて沈勁を冠軍長史に補任し、自ら壮士を募らせ、千人あまりを得た。そして陳祐を助けて賊を攻撃し、たびたび少数で多数を制した。しかし兵糧が尽きて援軍が来ないので、陳祐は持ち堪えられぬことを懼れた。たまたま賊が許昌を侵略すると、陳祐は許昌の救援を名目とし、興寧三(三六五)年、沈勁を(洛陽に)留めて五百人で城を守らせ、陳祐は兵を率いて東に向かった。たまたま許昌が陥落し、陳祐は崖塢に逃げた。沈勁は任務に殉じようと考え、捕らえられて死ぬことを良しとした。ほどなく慕容恪に攻撃され、城が陥落し、捕らえられたが、意気は平然としていた。慕容恪はかれを見出して許そうとしたが、その中軍将軍の慕容虔は、「沈勁は優れた士であるが、かれの志や態度を見るに、他国に使われる人物ではない。もし赦せば、のちに脅威となる」と言った。こうして殺害された。慕容恪は帰還すると、従容として慕容暐に、「さきに広固を平定し、辟閭を救えず、いま洛陽を平定して沈勁を殺しました、まことに四海に恥をさらしました」と言った。朝廷(東晋)はかれを嘉し、東陽太守を贈った。子の沈赤黔は大長秋となった。沈赤黔の子の沈叔任は、義熙年間に益州刺史となった。
吉挹字祖沖、馮翊蓮芍人也。祖朗、愍帝時為御史中丞。西朝不守、朗歎曰、「吾智不能謀、勇不能死、何忍君臣相隨北面事賊虜乎」、乃自殺。
挹少有志節。孝武帝初、苻堅陷梁益、桓豁表挹為魏興太守、尋加輕車將軍、領晉昌太守。以距堅之功、拜員外散騎侍郎。苻堅將韋鍾攻魏興、挹遣眾距之、斬七百餘級、加督五郡軍事。鍾率眾欲趣襄陽、挹又邀擊、斬五千餘級。鍾怒、迴軍圍之、挹又屢挫其銳。其後賊眾繼至、挹力不能抗、城將陷、引刃欲自殺。其友止之曰、「且苟存以展他計、為計不立、死未晚也」。挹不從、友人逼奪其刀。會賊執之、挹閉口不言、不食而死。
車騎將軍桓沖上言曰、「故輕車將軍・魏興太守吉挹祖朗、西臺傾覆、隕身守節。挹世篤忠孝、乃心本朝。臣亡兄溫昔伐咸陽、軍次灞水、挹攜將二弟、單馬來奔。錄其此誠、仍加擢授、自新野太守轉在魏興。久處兵任、委以邊戍、疆埸歸懷、著稱所莅。前年狡氐縱逸、浮河而下、挹孤城獨立、眾無一旅、外摧凶銳、內固津要、虜賊舟船、俘馘千計。而賊并力攻圍、經歷時月。會襄陽失守、邊情沮喪、加眾寡勢殊、以至陷沒。挹辭氣慷慨、志在不辱、杖刃推戈、期之以隕、將吏持守、用不即斃、遂乃杜口無言、絕粒而死。挹參軍史穎、近於賊中得1.〔還〕、齎挹臨終手疏、并具說意狀。挹之忠志、猶在可錄。若蒙天地垂曲宥之恩、則榮加枯朽、惠隆泉壤矣」。帝嘉之、追贈益州刺史。
1.中華書局本に従い、「還」一字を補う。
吉挹 字は祖沖なり、馮翊蓮芍の人なり。祖の朗、愍帝の時 御史中丞為(た)り。西朝 守らず、朗 歎じて曰く、「吾が智 謀する能はず、勇 死する能はず、何ぞ君臣 相 隨ひて北面し賊虜に事ふること忍びんか」と、乃ち自殺す。
挹 少くして志節有り。孝武帝の初、苻堅 梁益を陷し、桓豁 挹を表して魏興太守と為し、尋いで輕車將軍を加へ、晉昌太守を領せしむ。堅を距むの功を以て、員外散騎侍郎を拜す。苻堅の將の韋鍾 魏興を攻め、挹 眾を遣はして之を距む、七百餘級を斬り、督五郡軍事を加へらる。鍾 眾を率ゐて襄陽に趣かんと欲するに、挹 又 邀擊し、五千餘級を斬る。鍾 怒り、軍を迴して之を圍み、挹 又 屢々其の銳を挫く。其の後 賊眾 繼いで至り、挹 力は抗する能はず、城 將に陷せんとし、刃に引きて自殺せんと欲す。其の友 之を止めて曰く、「且に苟存して以て他計を展べ、為(は)た計 立たずんば、死して未だ晚からざるなり」と。挹 從はず、友人 逼りて其の刀を奪ふ。賊 之を執ふるに會ふに、挹 口を閉じて言はず、食はずして死す。
車騎將軍の桓沖 上言して曰く、「故の輕車將軍・魏興太守の吉挹の祖の朗、西臺 傾覆するとき、身を隕し節を守す。挹 世々忠孝を篤くし、乃ち本朝に心あり。臣が亡兄の溫 昔 咸陽を伐つに、軍 灞水に次り、挹 二弟を攜將して、單馬にして來奔す。其の此の誠を錄して、仍(しき)りに擢授を加へ、新野太守より轉じて魏興に在り。久しくして兵任に處り、委するに邊戍を以てし、疆埸 懷に歸し、稱を莅する所に著す。前年 狡氐 縱逸し、河に浮かびて下り、挹 孤城 獨立して、眾 一旅も無く、外は凶銳を摧き、內は津要を固くし、賊の舟船を虜へて、俘馘すること千もて計ふ。而るに賊 力を并はせて攻圍し、時月を經歷す。會々襄陽 守を失ひ、邊情 沮喪するに、加た眾寡 勢殊にして、以て陷沒に至る。挹の辭氣 慷慨にして、志 辱めらるに在らず、刃を杖つき戈を推し、之を期するに隕を以てし、將吏 持守して、用て斃に即(つ)かしめず、遂に乃ち口を杜ざして言無く、粒を絕ちて死す。挹が參軍の史穎、近ごろ賊中より還るを得て、挹が臨終の手疏を齎し、并に具さに意狀を說く。挹の忠志、猶ほ錄す可きに在り。若し天地を蒙り曲宥の恩を垂るれば、則ち榮は枯朽に加はり、惠は泉壤に隆からん」と。帝 之を嘉し、追ひて益州刺史を贈る。
吉挹は字を祖沖といい、馮翊郡蓮芍県の人である。祖父の吉朗は、愍帝のとき御史中丞であった。西晋の防衛が破られると吉朗は歎じ、「わが智では立て直すことができず、わが勇では死ぬこともできない、どうして君臣が連れ立って北面し賊虜に仕えることに耐えられようか」と言って、自殺した。
吉挹は若くして志節があった。孝武帝の初期、苻堅が梁州と益州を陥落させると、桓豁は上表して吉挹を魏興太守とし、すぐに軽車将軍を加え、晋昌太守を領させた。苻堅を防いだ功績により、員外散騎侍郎を拝した。苻堅の将の韋鍾が魏興郡を攻めると、吉挹は兵を回してこれを拒み、七百級あまりを斬り、督五郡軍事を加えられた。韋鍾が軍を率いて襄陽に向かおうとすると、吉挹はまた迎撃し、五千級あまりを斬った。韋鍾は怒り、軍を返してこれを包囲したが、吉挹はしばしばその鋭い兵勢を挫いた。のちに賊軍が相次いで到着すると、吉挹は対抗できず、城が陥落しそうになると、刀を引き寄せて自殺しようとした。かれの友人が止めて、「生き存えて他の計略を考えよ、計略が立たなければ、それから死んでも遅くない」と言った。吉挹は従わず、友人に逼ってその刀を奪った。賊がかれを捕らえると、吉挹は口を閉ざして沈黙し、ものを食わずに死んだ。
車騎将軍の桓沖が上言し、「もと軽車将軍・魏興太守の吉挹の祖父の吉朗は、西の都(長安)が傾覆すると、身を滅ぼして節義を守りました。吉挹は代々忠孝を篤くし、本朝にも尽くしました。わが亡兄の桓温がむかし咸陽を討伐すると、軍を灞水に停泊させましたが、吉挹は二人の弟を連れて、単馬で駆けつけました。その忠誠により、しきりに抜擢して、新野太守から魏興太守に転任させました。長く軍務に従事し、辺境の守りを委ねると、国境は懐いて帰順し、その地域で称賛されました。前年に狡猾な氐族(前秦)が横暴を働き、黄河を下ると、吉挹は孤立した城を守り、兵数は一旅も届きませんが、外は凶悪な強敵を挫き、内は渡し場や要衝を固め、賊の船舶を奪って、千を獲得しました。賊が力を合わせて包囲すると、数ヵ月を耐えました。たまたま襄陽が陥落し、辺境は士気が下がり、さらに兵数の差が広がり、攻め落とされました。吉挹の意気は慷慨であり、屈辱を拒絶し、刀と矛を携え、命を捨てて立ち向かい、将吏は守りを維持し、疲弊に便乗されず、最後は口を閉ざしてものを言わず、食糧を絶って死にました。吉挹の参軍の史穎が、近ごろ賊の捕虜から脱出し、吉挹の死に際の直筆の書をもたらし、考えと状況を詳しく伝えました。吉挹の忠心は、記録すべきことです。もし天地を受けて特別に許して恩を与えれば、栄誉は遺体に加えられ、恩恵は泉下に高まりましょう」と言った。皇帝はこれを嘉し、追って益州刺史を贈った。
王諒字幼成、丹楊人也。少有幹略、為王敦所擢、參其府事、稍遷武昌太守。
初、新昌太守梁碩專威交土、迎立陶咸為刺史。咸卒、王敦以王機為刺史、碩發兵距機、自領交阯太守、乃迎前刺史修則子湛行州事。
永興三年、敦以諒為交州刺史。諒將之任、敦謂曰、「修湛・梁碩皆國賊也、卿至、便收斬之」。諒既到境、湛退還九真。廣州刺史陶侃遣人誘湛來詣諒所。諒敕從人不得入閤、既前、執之。碩時在坐、曰、「湛故州將之子、有罪可遣、不足殺也」。諒曰、「是君義故、無豫我事」。即斬之。碩怒而出。諒陰謀誅碩、使客刺之、弗克。遂率眾圍諒於龍編。陶侃遣軍救之、未至而諒敗。碩逼諒奪其節、諒固執不與、遂斷諒右臂。諒正色曰、「死且不畏、臂斷何有」。十餘日、憤恚而卒。碩據交州、凶暴酷虐、一境患之。竟為侃軍所滅、傳首京都。
王諒 字は幼成、丹楊の人なり。少くして幹略有り、王敦の擢する所と為り、其の府事に參じ、稍く武昌太守に遷る。
初め、新昌太守の梁碩 威を交土に專らにし、陶咸を迎立して刺史と為す。咸 卒し、王敦 王機を以て刺史と為すや、碩 兵を發して機を距み、自ら交阯太守を領し、乃ち前の刺史たる修則の子の湛を迎へて州事を行せしむ。
永興三年、敦 諒を以て交州刺史と為す。諒 將に任に之かんとするに、敦 謂ひて曰く、「修湛・梁碩 皆 國賊なり、卿 至らば、便ち收めて之を斬れ」と。諒 既に境に到り、湛 退きて九真に還る。廣州刺史の陶侃 人を遣はして湛を誘ひて諒の所に來詣せしむ。諒 從人に敕して閤に入ることを得しめず、既に前みて、之を執ふ。碩 時に坐に在り、曰く、「湛は故の州將の子なり、罪有らば遣はす可し、殺すに足らざるなり」と。諒曰く、「是れ君の義故なり、我が事に豫ること無し」と。即ち之を斬る。碩 怒りて出づ。諒 陰かに碩を誅するを謀り、客をして之を刺さしむるも、克たず。遂に眾を率ゐて諒を龍編に圍む。陶侃 軍を遣はして之を救ひ、未だ至らざるに諒 敗る。碩 諒に逼りて其の節を奪ひ、諒 固く執して與へず、遂に諒の右臂を斷つ。諒 色を正して曰く、「死すら且つ畏れず、臂の斷 何ぞ有らんか」と。十餘日にして、憤恚して卒す。碩 交州に據るに、凶暴酷虐にして、一境 之を患ふ。竟に侃の軍の滅す所と為り、首を京都に傳ふ。
王諒は字を幼成といい、丹楊郡の人である。若くして処理能力と謀略があり、王敦に抜擢され、その府事に参じ、位をあげて武昌太守に遷った。
これより先、新昌太守の梁碩は威勢を交州の地で独占し、陶咸を迎えて刺史に奉ろうとした。陶咸が卒し、王敦が王機を刺史にすると、梁碩は兵を動員して王機をふせぎ、みずから交阯太守を領し、前の刺史である修則の子の修湛を迎えて州の政務を代行させていた。
永興三(三〇六)年、王敦は王諒を交州刺史とした。王諒が赴任しようとすると、王敦はかれに、「修湛・梁碩はどちらも国賊である、卿(きみ)が到着したら、すぐに捕らえて斬るように」と言った。王諒が州内に到着すると、修湛は退いて九真に還った。広州刺史の陶侃はひとを派遣して修湛を誘って王諒のところを訪問させた。王諒は従者に命じて(修湛が)役所に入ることを禁止し、それでも進入すると、これを捕らえた。梁碩はこのとき同席しており、「修湛はもとの州将(刺史)の子です、罪があるなら追い払えばよく、殺すほどではありません」と言った。王諒は、「それはきみにとっての旧縁であり、わたしの関知することではない」と言った。すぐに(修湛を)斬った。梁碩は怒って退出した。王諒はひそかに梁碩の誅殺を計画し、刺客に襲撃させたが、失敗した。こうして(梁碩は)兵をひきいて王諒を龍編で包囲した。陶侃が軍を派遣してこれを救援したが、到着する前に王諒は敗北した。梁碩は王諒にせまってその(交州刺史の)節を奪おうとしたが、王諒は強く握って渡さず、ついに王諒の右腕を切り落とした。王諒は色を正して、「死すら畏れないのだ、腕の切断ぐらい何でもない」と言った。十日あまりで、憤激して卒した。梁碩が交州を支配すると、凶暴酷虐であり、一州はこれに苦しんだ。最後には陶侃の軍によって滅ぼされ、首を京都に届けた。
宋矩字處規、敦煌人也。慷慨有志節。張重華據涼州地、以矩為宛戍都尉。石季龍遣將麻秋攻大夏、護軍1.梁(彧)〔式〕執太守宋晏、以城應秋。秋遣晏以書致矩。矩既至、謂秋曰、「辭父事君、當立功與義。苟功義不立、當守名節。矩終不背主覆宗、偷生於世」。先殺妻子、自刎而死。秋曰、「義士也」。命葬之。重華嘉其誠節、贈振威將軍。
1.張重華伝・『資治通鑑』巻九十七に従い、「彧」を「式」に改める。
宋矩 字は處規、敦煌の人なり。慷慨にして志節有り。張重華 涼州の地に據るや〔一〕、矩を以て宛戍都尉と為す。石季龍 將の麻秋を遣はして大夏を攻むるや、護軍の梁式 太守の宋晏を執へ、城を以て秋に應ず。秋 晏を遣はして書を以て矩を致す。矩 既に至り、秋に謂ひて曰く、「父に辭して君に事へれば、當に功と義を立つべし。苟も功義 立たざれば、當に名節を守るべし。矩 終に主に背きて宗を覆す、生を世に偷まず」と。先に妻子を殺して、自刎して死す。秋曰く、「義士なり」と。命じて之を葬る。重華 其の誠節を嘉し、振威將軍を贈る。
〔一〕張重華の臣である本項の宋矩と、次項の車済が、忠義伝を立てられているのは『晋書』の特色か。
宋矩は字を處規といい、敦煌郡の人である。意気さかんで志節があった。張重華が涼州の地に拠ると、宋矩を宛戍都尉とした。石季龍が将の麻秋を派遣して大夏を攻めると、護軍の梁式は(大夏)太守の宋晏を捕らえ、城をあげて麻秋に呼応した。麻秋は宋晏を派遣して文書で宋矩をまねいた。宋矩は訪問し、麻秋に、「父に別れて君主に仕えたならば、功と義を立てるべきだ。もしも功と義が立たぬのならば、せめて名節を守るべきだ。矩(わたし)は結局は主君に背いて宗族を滅ぼした、この世で命を盗まない」と言った。さきに妻子を殺してから、自刎して死んだ。麻秋は、「義士である」と言った。命じてこれを葬った。張重華はその誠節を讃え、振威将軍を贈った。
車濟字萬度、敦煌人也。果毅有大量。張重華以為金城令、為石季龍將麻秋所陷、濟不為秋屈。秋必欲降之、乃臨之以兵。濟辭色不撓、曰、「吾雖才非龐德、而受任同之。身可殺、志不可移」。乃伏劍而死。秋歎其忠節、以禮葬之。後重華迎致其喪、親臨慟哭、贈宜禾都尉。
車濟 字は萬度、敦煌の人なり。果毅にして大量有り。張重華 以て金城令と為し、石季龍の將の麻秋の陷す所と為るも、濟 秋の為に屈せず。秋 必ず之を降さんと欲し、乃ち之に臨むに兵を以てす。濟 辭色 撓(みだ)さず、曰く、「吾 才は龐德に非ざると雖も、而れども任を受くること之と同じなり。身は殺す可けれども、志は移す可からず」と。乃ち劍に伏して死す。秋 其の忠節に歎じ、禮を以て之を葬る。後に重華 其の喪を迎致し、親ら臨みて慟哭し、宜禾都尉を贈る。
車済は字は萬度といい、敦煌郡の人である。意思がつよく決断力があり度量が大きかった。張重華が金城令とし、石季龍の将の麻秋に(県城を)陥落させられたが、車済は麻秋に屈服しなかった。麻秋は絶対にかれを服従させようと、兵を引き連れて対面した。車済は態度を乱さず、「私の才能は龐徳ほどではないが、与えられた任務はかれと同じである。体は殺せても、志は奪えないぞ」と言った。剣に伏して死んだ。麻秋はその忠節に感嘆し、礼をもって葬った。のちに張重華がその遺体を引き取り、みずから臨んで慟哭し、宜禾都尉を贈った。
丁穆字彥遠、譙國人也。積功勞、封真定侯、累遷為順陽太守。太元四年、除振武將軍・梁州刺史。受詔未發、會苻堅遣眾寇順陽、穆戰敗。被執至長安、稱疾不仕偽朝。堅又傾國南寇、穆與關中人士唱義、謀襲長安。事泄、遇害、臨死作表以付其妻周。
其後周得至京師、詣闕上之。孝武帝下詔曰、「故順陽太守・真定侯丁穆力屈身陷、而誠節彌固。直亮壯勁、義貫古烈。其喪柩始反、言尋傷悼。可贈龍驤將軍・雍州刺史、賻賜一依周虓故事。為立屋宅、并給其妻衣食、以終厥身」。
丁穆 字は彥遠、譙國の人なり。功勞を積み、真定侯に封ぜられ、累遷して順陽太守と為る。太元四年、振武將軍・梁州刺史に除せらる。詔を受けて未だ發せざるに、會々苻堅 眾を遣はして順陽を寇し、穆 戰ひて敗る。執へられて長安に至れども、疾と稱して偽朝に仕へず。堅 又 國を傾けて南寇するや、穆 關中の人士と與に義を唱へ、長安を襲はんと謀る。事 泄れ、害に遇ひ、死に臨みて表を作りて以て其の妻の周に付す。
其の後 周 京師に至ることを得、闕に詣りて之を上る。孝武帝 詔を下して曰く、「故の順陽太守・真定侯の丁穆 力は屈し身は陷ちて、而れども誠節 彌々固し。直亮にして壯勁なり、義は古烈を貫く。其の喪柩 始めて反(かへ)り、言は尋いで傷悼す。龍驤將軍・雍州刺史を贈り、賻賜 一に周虓の故事〔一〕に依る可し。為に屋宅を立て、并せて其の妻に衣食を給して、以て厥の身を終へしめよ」と。
〔一〕周虓は、『晋書』巻五十八 周訪伝附周虓伝参照。
丁穆は字を彦遠といい、譙国の人である。功労を積み、真定侯に封建され、累遷して順陽太守となった。太元四(三七九)年、振武将軍・梁州刺史に除された。詔を受けてまだ出発せぬうちに、たまたま苻堅が軍を派遣して順陽に侵略し、丁穆は戦って敗れた。捕らわれて長安に至ったが、病気と称して偽朝(前秦)に仕えなかった。苻堅が国を傾けて南寇すると(淝水の戦い)、丁穆は関中の人士とともに義を唱え、(前秦の都)長安の襲撃を計画した。 計画がもれ、殺害され、死に際に上表を作ってその妻の周氏に託した。
のちに周氏が京師(建康)に帰ることができ、役所に上表を提出した。孝武帝は詔を下して、「もとの順陽太守・真定侯の丁穆は力尽きて捕虜となり、しかし忠誠心はいよいよ強固であった。誠実で強靱であり、義は古の烈士に劣らない。その遺体がようやく帰還し、遺言は痛ましい。龍驤将軍・雍州刺史を贈り、賜与はひとえに周虓の故事〔一〕に準拠するように。(遺族の)ために屋敷をたて、あわせて妻に衣食を支給し、寿命を全うさせるように」と言った。
辛恭靖、隴西狄道人也。少有器幹、才量過人。隆安中、為河南太守。會姚興來寇、恭靖固守百餘日、以無救而陷、被執至長安。興謂之曰、「朕將任卿以東南之事、可乎」。恭靖厲色曰、「我寧為國家鬼、不為羌賊臣」。興怒、幽之別室。經三年、至元興中、誑守者、乃踰垣而遁、歸于江東。安帝嘉之。桓玄請為諮議參軍、置之朝首。尋而病卒。
辛恭靖、隴西狄道の人なり。少くして器幹有り、才量 人に過ぐ。隆安中、河南太守と為る。會々姚興 來寇し、恭靖 固守すること百餘日、救無きを以て陷し、執へられ長安に至る。興 之に謂ひて曰く、「朕 將に卿を任ずるに東南の事を以てせんとす、可きか」と。恭靖 色を厲して曰く、「我 寧ろ國家の鬼と為るとも、羌賊の臣と為らず」と。興 怒り、之を別室に幽す。經ること三年、元興中に至るに、守者を誑し、乃ち垣を踰えて遁げ、江東に歸る。安帝 之を嘉す。桓玄 請ひて諮議參軍と為し、之を朝首に置く。尋いで病卒す。
辛恭靖は、隴西郡狄道県の人である。若くして働きがあり、才能と器量が人より優れていた。隆安年間、河南太守となった。たまたま姚興が来襲し、辛恭靖は百日あまり固守したが、救援がなく陥落し、捕らえられて長安に連れてゆかれた。姚興はかれに、「朕は卿(あなた)に東南のことを委任しようと思うが、どうだろうか」と言った。辛恭靖は色を励まして、「わたしは国家の鬼となろうと、羌賊の臣にはならぬ」と言った。姚興は怒り、かれを別室に幽閉した。三年が経過し、元興年間になると、看守をだまし、垣をこえて逃げ、江東に帰った。安帝はこれを讃えた。桓玄が求めて諮議参軍とし、かれを席次の筆頭においた。ほどなく病没した。
羅企生字宗伯、豫章人也。多才藝。初拜佐著作郎、以家貧親老、求補臨汝令。刺史王凝之請為別駕。殷仲堪之鎮江陵、引為功曹。累遷武陵太守。未之郡而桓玄攻仲堪、仲堪更以企生為諮議參軍。仲堪多疑少決、企生深憂之、謂弟遵生曰、「殷侯仁而無斷、事必無成。成敗、天也、吾當死生以之」。仲堪果走、文武無送者、唯企生從焉。路經家門、遵生曰、「作如此分離、何可不執手」。企生迴馬授手、遵生有勇力、便牽下之、謂曰、「家有老母、將欲何之」。企生揮淚曰、「今日之事、我必死之。汝等奉養不失子道、一門之中有忠與孝、亦復何恨」。遵生抱之愈急。仲堪於路待之、企生遙呼曰、「生死是同、願少見待」。仲堪見企生無脫理、策馬而去。
玄至荊州、人士無不詣者、企生獨不往、而營理仲堪家。或謂之曰、「玄猜忍之性、未能取卿誠節。若遂不詣、禍必至矣」。企生正色曰、「我是殷侯吏、見遇以國士。為弟以力見制、遂不我從。不能共殄醜逆、致此奔敗、亦何面目復就桓求生乎」。
玄聞之大怒、然素待企生厚、先遣人謂曰、「若謝我、當釋汝」。企生曰、「為殷荊州吏、荊州奔亡、存亡未判、何顏復謝」。玄即收企生、遣人問欲何言。答曰、「文帝殺嵇康、嵇紹為晉忠臣。從公乞一弟、以養老母」。玄許之。又引企生於前、謂曰、「吾相遇甚厚、何以見負。今者死矣」。企生對曰、「使君既興晉陽之甲、軍次尋陽。並奉王命、各還所鎮、升壇盟誓、口血未乾、而生姦計。自傷力劣、不能翦滅凶逆、恨死晚也」。玄遂害之、時年三十七。眾咸悼焉。先是、玄以羔裘遺企生母胡氏。及企生遇害、即日焚裘。
羅企生 字は宗伯、豫章の人なり。才藝多し。初め佐著作郎を拜するに、家 貧にして親 老なるを以て、臨汝令に補せらることを求む。刺史の王凝之 請ひて別駕と為す。殷仲堪の江陵に鎮するや、引きて功曹と為す。累ねて武陵太守に遷る。未だ郡に之(ゆ)かずして桓玄 仲堪を攻め、仲堪 更めて企生を以て諮議參軍と為す。仲堪 疑多く決少なく、企生 深く之を憂ひ、弟の遵生に謂ひて曰く、「殷侯 仁にして斷無し、事 必ず成ること無からん。成敗は、天なり、吾 當に死生 之を以てすべし」と。仲堪 果たして走るに、文武 送る者無く、唯だ企生のみ從ふ。路に家門を經るに、遵生 曰く、「此の如き分離を作す、何ぞ手を執らざる可きか」と。企生 馬を迴して手を授くるに、遵生 勇力有り、便ち之を牽下し、謂ひて曰く、「家に老母有り、將た何にか之(ゆ)かんと欲す」と。企生 淚を揮ひて曰く、「今日の事、我 必ず之に死せん。汝ら奉養して子道を失はざれば、一門の中に忠と孝有り、亦た復た何ぞ恨みん」と。遵生 之を抱くこと愈々急なり。仲堪 路に之を待ち、企生 遙かに呼びて曰く、「生死 是れ同(とも)にせん、願はくは少(しば)らく待たれよ」と。仲堪 企生の脫(のが)るるの理無きを見、馬に策ちて去る。
玄 荊州に至るや、人士 詣らざる者無く、企生のみ獨り往かずして、仲堪の家を營理す。或 之に謂ひて曰く、「玄 猜忍の性あり、未だ卿の誠節を取ること能はず。若し遂に詣らざれば、禍 必ず至らん」と。企生 色を正して曰く、「我 是れ殷侯の吏なり、遇するに國士を以てせらる。弟の力を以て制せらるるが為に、遂に我をして從はしめず。共に醜逆を殄すること能はず、此の奔敗を致す、亦た何の面目ありて復た桓に就きて生を求めんか」と。
玄 之を聞きて大いに怒り、然れども素より企生を待すること厚ければ、先に人を遣はして謂ひて曰く、「若し我に謝まらば、當に汝を釋すべし」と。企生曰く、「殷荊州の吏と為り、荊州 奔亡し、存亡 未だ判ぜざるに、何なる顏ありて復た謝らんや」と。玄 即ち企生を收め、人をして何をか言はんと欲すと問はしむ。答へて曰く、「文帝 嵇康を殺すとも、嵇紹 晉の忠臣と為る。公に從りて一弟を乞ひて、以て老母を養はん」と。玄 之を許す。又 企生を前に引き、謂ひて曰く、「吾 相 遇すること甚だ厚し、何を以てか負かるるや。今は死なり」と。企生 對へて曰く、「使君 既に晉陽の甲を興こし、軍 尋陽に次る。並びに王命を奉り、各々鎮する所に還り、壇に升りて盟誓するに、口の血 未だ乾かざるに、而れども姦計を生ず。自ら傷あり力は劣り、凶逆を翦滅すること能はず、死の晚きことを恨むなり」と。玄 遂に之を害し、時に年三十七なり。眾 咸 焉を悼む。是より先、玄 羔裘を以て企生の母の胡氏に遺る。企生 害に遇ふに及び、即日に裘を焚く。
羅企生は字は宗伯といい、豫章郡の人である。才智と技芸が豊かであった。はじめ佐著作郎を拝命したが、家が貧しく親が老いているので、臨汝令への任命を求めた。刺史の王凝之が頼んで(羅企生を)別駕とした。殷仲堪が江陵を鎮守すると、招いて功曹とした。かさねて武陵太守に遷った。まだ郡に赴任せぬうちに桓玄が殷仲堪を攻撃し、殷仲堪はあらためて羅企生を諮議参軍とした。殷仲堪は迷いが多くて決断できず、羅企生はこれを深く心配し、弟の羅遵生に、「殷侯は仁であるが決断力がない、抗争に勝利することはないだろう。勝敗は、天が決めるものだ、私は生死をこれに委ねよう」と言った。はたして殷仲堪が敗走すると、文官も武官も送るものがおらず、ただ羅企生だけが従った。(逃走の途中で)羅企生の家の門前を通ると、(弟の)羅遵生は、「このような別れをするのです、どうして手を握らずにおれましょう」と言った。羅企生が馬を返して手を伸ばすと、羅遵生は力が強かったので、(兄の企生を)ひきずり下ろし、「家に老母がいます、なぜ行こうとするのですか」と言った。羅企生は涙をふるい、「今日の事態(上官の殷仲堪の敗北)で、私はきっと死ぬだろう。おまえたちが孝行して子としての道を失わなければ、一門なかに(兄の)忠と(弟の)孝があることになり、少しも恨みに思わない」と言った。羅遵生はますますきつく抱きしめた。殷仲堪は道路でこれを待っており、羅企生が遠くから叫んで、「生死のお供をします、どうかしばらくお待ちください」と言った。殷仲堪は羅企生が(弟から)解放される様子がないのを見て、馬に鞭をあてて去った。
桓玄が荊州に至ると、人士は全員が駆けつけたが、羅企生だけは行かず、殷仲堪の家を維持し護衛した。あるひとがかれに、「桓玄は妬み深くて残忍な性格です、あなたの(殷仲堪への)誠意ある忠節を許容できません。もし駆けつけなければ、禍いが必ず至るでしょう」と言った。羅企生は色を正して、「わたしは殷侯の吏であり、国士として処遇していただいた。弟が力尽くで逃がしてくれず、私はお供することを妨げられた。ともに醜逆(桓玄)を討伐することができず、このような敗北を招いてしまった。どんな面目があって桓氏(桓玄)を訪れて命乞いをするものか」と言った。
桓玄はこれを聞いてとても怒ったが、かねて羅企生に敬意を払っていたので、先にひとを派遣して、「もし私に謝るならば、きみを許してやろう」と告げた。羅企生は、「殷荊州の吏となり、荊州が敗亡し、(殷仲堪の)生死がいまだ判明していないのに、どうして謝る理由があるのでしょうか」と言った。桓玄はただちに羅企生を捕らえ、ひとをやり何か言いたいことはないかと問わせた。答えて、「文帝(司馬昭)は嵇康を殺したが、(子の)嵇紹は晋の忠臣となりました。あなたには一弟を見逃していただき、老母を養わせてください」と言った。桓玄はこれを認めた。また羅企生を前に連れてきて、「私はきみを厚遇したはずだ、どうして裏切られたのか。いまは死刑となったぞ」と言った。羅企生は答えて、「使君(あなたさま)は晋陽で軍役を起こし、軍は尋陽に駐屯しました。ともに王命を奉り、それぞれ鎮所に還り、壇にのぼって盟約を交わしたのに、口の血がまだ乾かぬうちに、よこしまな計画を生じました。みずから欠点があって力が劣り、凶逆なもの(桓玄のこと)を殲滅できませんでした、死ぬのが遅かったことを怨みに思います」と言った。桓玄はついにかれを殺害し、このとき三十七歳であった。みながかれを悼んだ。これより先、桓玄は羔裘(子羊の皮衣)を羅企生の母の胡氏に贈った。羅企生が殺害されると、(母は)その日のうちに羔裘を焼いた。
1.張禕、吳郡人也。少有操行。恭帝為琅邪王、以禕為郎中令。及帝踐阼、劉裕以禕帝之故吏、素所親信、封藥酒一甖付禕、密令鴆帝。禕既受命而歎曰、「鴆君而求生、何面目視息世間哉、不如死也」。因自飲之而死。
1.『資治通鑑』巻百十九は、「張偉」につくる。
張禕は、吳郡の人なり。少くして操行有り。恭帝 琅邪王と為るや、禕を以て郎中令と為す。帝 踐阼するに及び、劉裕 禕 帝の故吏にして、素より親信する所なるを以て、藥酒一甖を封じて禕に付し、密かに帝を鴆せしむ。禕 既に命を受けて歎じて曰く、「君を鴆して生を求むれば、何の面目ありて世間に視息せんや、死に如かざるなり」と。因りて自ら之を飲みて死す。
張禕は、呉郡の人である。若くして正しい行いがあった。恭帝が琅邪王となると、張禕を郎中令とした。恭帝が即位するに及び、劉裕は張禕が恭帝の故吏であり、以前から信頼されていることから、薬酒ひとかめに封をして張禕に与え、ひそかに恭帝を鴆殺させ(ようとし)た。張禕は命令を受けてしまうと嘆いて、「君主を鴆殺して(自分の)命を助ければ、どんな面目があって世間に生き存えていられよう、死んだほうがましだ」と言った。そこでみずから鴆酒を飲んで死んだ。
史臣曰、中散以膚受見誅、王儀以抗言獲戾、時皆可謂死非其罪也。偉元恥臣晉室、延祖甘赴危亡、所由之理雖同、所趣之塗即異、而並見稱當世、垂芳竹帛。豈不以君父居在三之極、忠孝為百行之先者乎。且裒獨善其身、故得全其孝、而紹兼濟于物、理宜竭其忠。可謂蘭桂異質而齊芳、韶武殊音而並美。或有論紹者以死難獲譏、揚搉言之、未為篤論。夫君、天也、天可讎乎。安既享其榮、危乃違其禍、進退無據、何以立人。嵇生之隕身全節、用此道也。
贊曰、重義輕生、亡軀殉節。勁松方操、嚴霜比烈。白刃可陵、貞心難折。道光振古、芳流來哲。
史臣曰く、中散 膚受を以て誅せられ、王儀 抗言を以て戾を獲、時に皆 死は其の罪に非らざると謂ふ可し。偉元 晉室に臣たるを恥ぢ、延祖 甘んじて危亡に赴き、由る所の理 同じと雖も、趣く所の塗 即ち異なり、而して並に當世に稱せられ、芳を竹帛に垂る。豈に以はずや君父 在三の極に居り、忠孝 百行の先為ると。且つ裒 獨り其の身を善くし、故に其の孝を全するを得て、而して紹は兼ねて物を濟し、理もて宜しく其の忠を竭くすべしとす。蘭桂 質に異にして芳を齊しくし、韶武 音を殊にして美を並ふと謂ふ可し。或いは紹を論ずる者有りて以て難に死して譏を獲たるは、揚搉に之を言ふに、未だ篤論と為す。夫れ君は、天なり、天は讎(こた)ふ可けんや。安ずるときは既に其の榮を享け、危きときは乃ち其の禍に違はば、進退 據る無く、何を以て人を立つか。嵇生の身を隕し節を全するは、此の道を用ふなり。
贊に曰く、義を重んじ生を輕んじ、軀を亡し節に殉ず。勁松に操を方べ、嚴霜に烈を比ぶ。白刃は陵す可きも、貞心は折き難し。道 振古に光り、芳 來哲に流(わた)る。
史臣はいう、中散(大夫の嵇康)は身に差し迫って誅され、王儀は直言して(司馬昭に)殺されたが、いずれも自身の罪によって死んだのではない。偉元(王裒)は晋室の臣下となることを恥じ、延祖(嵇紹)は甘んじて危険な戦地に赴いたが、行動の原理は同じであっても、その結果は同じでなく、しかしどちらも当世で称賛され、美名を竹帛に残した。どうして君父が最も尊重すべきもので、忠孝があらゆる行動の最優先ではなかろうか。王裒は自分の身だけを守り、ゆえにその孝を全うすることができ、一方で嵇紹は万物を大切にし、理として忠を尽くすべきと考えた。蘭と桂は性質が異なるが美名が等しく、『韶武』は音が違ってもどちらも美音であるのと同様である。あるひとは嵇紹を論じて苦難で死んだことを譏るが、概して言えば、まだ十全な論とは言えない。そもそも君主は、天であり、天は応答するだろうか。安全なときその栄誉を受け、危険なときその禍いから逃げれば、(臣下の)進退は拠りどころがなく、人は何に基づいて立つのだろうか。嵇生(嵇紹)が身を捨てて節義を守ったことは、この道に沿ったものである。
賛にいう、義を重んじ生を軽んじ、体を損ない節に殉ずる。常緑の松に臣節をなぞらえ、厳しい霜に忠烈をなぞらえる。白刃で脅せても、貞心は折るのが難しい。(忠義の)道は古来より輝き、美名は未来の賢者に伝わるのだ。