いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第六十巻_良吏伝_魯芝・胡威・杜軫・竇允・王宏・曹攄・潘京・范晷・丁紹・喬智明・鄧攸・呉隠之

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。
この良吏伝には、魏の曹休・胡質・呉質らの子孫や、魏の丁儀・王粲、呉の潘濬らの一族の後裔、そして『後漢書』の作者である范曄の先祖など、後漢・三国時代に縁のある人物の伝が多く含まれています。三国時代の遺風を感じられるのではないでしょうか。

原文

漢宣帝有言。「百姓所以安其田里而無歎息・愁恨之心者、政平訟理也。與我共此者、其唯良二千石乎。」此則長吏之官實爲撫導之本。是以東里相鄭、西門宰鄴、潁川黃霸、蜀郡文翁、或吏不敢欺、或人懷其惠、或教移齊魯、或政務寬和。斯並惇史播其徽音、良吏以爲準的。
有晉肇茲王業、光啟霸圖、授方任能、經文緯武。泰始受禪、改物君臨、纂三葉之鴻基、膺百王之大寶、勞心庶績、埀意黎元、申敕守宰之司、屢發憂矜之詔、辭旨懇切、誨諭殷勤、欲使直道正身、抑末敦本。當此時也、可謂農安其業、吏盡其能者歟。而帝寬厚足以君人、明威未能厲俗、政刑以之私謁、賄賂於此公行、結綬者以放濁爲通、彈冠者以苟得爲貴、流遯忘反、寖以爲常。劉毅抗賣官之言、當時以爲矯枉、察其風俗、豈虛也哉。爰及惠懷、中州鼎沸、逮於江左、晉政多門、元帝比少康之隆、處仲爲梗、海西微昌邑之罪、元子亂常、既權偪是憂、故羈縻成俗。莅職者爲身擇利、銓綜者爲人擇官、下僚多英儁之才、勢位必高門之冑、遂使良能之績僅有存焉。雖復茂弘以明允贊經綸、安石以時宗鎭雅俗、然外虞孔熾、内難方殷。而匡救彌縫、方免傾覆、弘風革弊、彼則未遑。今采其政績可稱者、以爲良吏傳。

訓読

漢の宣帝に言有り。「百姓の其の田里を安んじて歎息・愁恨の心無き所以の者は、政は平にして訟は理(おさ)まることなり。我と此を共にする者は、其れ唯だ良二千石なるのみかな」と。此れ則ち長吏の官は實に撫導の本なり。是を以て東里は鄭に相たり、西門は鄴に宰たり、潁川の黃霸、蜀郡の文翁、或いは吏 敢えて欺かず、或いは人 其の惠に懷き、或いは教 齊魯より移り、或いは政 寬和に務む。斯(こ)れ並びに惇史 其の徽音を播(し)き、良吏は以て準的と爲す。
有晉 茲(ここ)に王業を肇(はじ)め、霸圖を光啟し、方を授け能を任じ、文を經とし武を緯とす。泰始に禪を受くるや、物を改めて君臨し、三葉の鴻基を纂(つ)ぎ、百王の大寶を膺(う)け、心を庶績に勞し、意を黎元に埀れ、守宰の司に申敕し、屢々(しばしば)憂矜の詔を發し、辭旨は懇切、誨諭は殷勤、道を直(なお)くして身を正し、末を抑えて本を敦(あつ)くせしめんことを欲す。此の時に當たるや、農は其の業に安んじ、吏は其の能を盡くすと謂うべき者なるかな。而れども帝は寬厚なること以て人に君たるに足るも、明威は未だ俗を厲(はげ)ます能わず、政刑は之を以て私謁し、賄賂は此に於いて公行し、綬を結ぶ者は放濁を以て通と爲し、冠を彈く者は苟得を以て貴と爲し、流遯して反るを忘れ、寖(ようや)く以て常と爲す。劉毅の賣官に抗うの言、當時は以て矯枉せりと爲すも、其の風俗を察するに、豈に虛ならんや。爰(ここ)に惠・懷に及び、中州は鼎沸し、江左に逮(およ)び、晉政は門多く、元帝は少康の隆に比するも、處仲 梗(わざわ)いを爲し、海西は昌邑の罪より微なるも、元子 常を亂し、既に權偪(せま)りて是れ憂うれば、故に羈縻もて俗と成す。職に莅(のぞ)む者は身の爲に利を擇(えら)び、銓綜する者は人の爲に官を擇び、下僚は多く英儁の才、勢位は必ず高門の冑にして、遂に良能の績をして僅かに存有らしむ。復た茂弘は明允なるを以て經綸を贊(たす)け、安石は時宗なるを以て雅俗を鎭むと雖も、然るに外虞は孔(はなは)だ熾(さか)んにして、内難も方(まさ)に殷(さか)んなり。而れども匡救・彌縫し、方に傾覆を免るるも、風を弘(ひろ)くして弊を革(あらた)むるは、彼れ則ち未だ遑(いとま)あらず。今、其の政績の稱すべき者を采(と)り、以て良吏傳と爲す。

現代語訳

(『漢書』循吏伝によれば)漢の宣帝には以下の言葉があった。「人々がその田里で安心して暮らすことができ、嘆息し憂え恨むような心を持たない状態になるには、政治が公平で裁判が公正であることが肝心である。私とともにそれを実現できるのは、ただ善良なる二千石(郡太守・国相など)のみであろうよ」と。これはすなわち長吏の官(太守や県令などの勅任官)は、実に人々を安撫して教導する大本の存在であるということである。これによって(春秋時代の鄭の)子産は鄭国の相として、(戦国時代の魏の)西門豹(せいもんほう)は鄴令となってそれぞれ見事に治め、(前漢の)潁川太守の黄覇や、蜀郡太守の文翁について、たとえば潁川の属吏は黄覇を欺こうとせずに問われたことに対して少しも隠しだてせずに答え、蜀郡の属吏や民は文翁の恩恵に懐き、また文翁の蜀の地における教化政策によりその京師への遊学者数が斉・魯地方に比肩するようになり、あるいは黄覇は寬和な政治につとめ、両者とも良い治績を修めた。これらの四人はみな惇史(徳行ある人物の言行の記録)によりその令聞が広く伝わり、良吏は彼らを模範とした。
(司馬氏の)晋は王業を創立し、覇業を拡大し、官吏に吏務を習わせ、能力ある人物を任用し、文を縦糸、武を横糸として両道兼備の政治を行った。泰始元年(二六五)に魏王朝からの禅譲を受けると、旧制を改めて君臨し、司馬懿・司馬師・司馬昭の三代の大いなる基礎を継ぎ、歴代の帝王により継がれた玉座を承け、心を多くの功業に労し、意を民衆のために注ぎ、地方長官に命を下し、民を憂い憐れむようにとの詔をしばしば発し、その文旨は懇切、訓諭は殷勤、道をまっすぐにして身を正し、末節を抑えて大本を厚くすることを彼らに期待した。その当時に限っては、農民はその生業に安心して取り組み、官吏はその能力を尽くしていたと言えよう。しかし、武帝は寛大・温厚であり君主として人々の上に立つには十分であったが、賞罰に関しては世俗を励ますことができず、そのため政治や刑罰は私的な請託により行われ、それによって賄賂は公然と行われるようになり、綬を体に結びつける者(すなわち官吏)は放縦・汚濁であることが通常になり、冠の埃を弾く者(すなわち官吏)は得るべきではないものをごまかして手に入れるのを貴いと見なし、安楽に耽って気ままに振る舞い、純真さを取り戻すのを忘れ、だんだんそれが普通になってしまった。劉毅が武帝に対して売官を非難した言葉(巻四十五を参照)について、当時の人々はそれによって過ちは正されたのだと見なしたが、その後の風俗について考察すると、劉毅の発言は結局、無駄に終わってしまったようだ。恵帝・懐帝の時代になると、中原地域では動乱が巻き起こり、江左(東晋)の時代になると、晋の政治は多くの実力者の出現によりばらばらでちぐはぐなものになってしまい、元帝の時代は(夏王朝の中興を実現した王である)少康による隆盛に比肩するものの、王敦による禍乱を招き、海西公(廃帝)は(前漢の皇帝となったが廃位された)昌邑王の罪よりは程度が軽微であるが、桓温が(仁・義・礼・智・信の)五常を乱すという事態を招き、いずれも権臣が政治を壟断して国の憂いとなったので、故にそれら権臣を懐柔することによって何とかしのぐのが通例となった。官職に臨む者は自分の身のために利益を選ぶようになり、人事を統べる者はその人のために官職を選ぶようになり、位の低い官職には多く英儁な人材が押し込められ、権勢ある位は必ず名門の血筋が占め、そのため優良で能力ある者が任用されて良い治績を上げることが滅多に見られなくなってしまった。また、王導が賢明さと誠実さによって国家の方策を助け、謝安が時の尊崇を集めて雅人と俗人の双方を安定させたとはいえ、外憂は非常に大きく、内患もまさに盛んであった。それでも世を匡正してほころびを直し、それによって何とか国家の転覆を回避したものの、徳による教化を広げ、弊害を一新するというような余裕は彼らには無かった。今、そのような中でも称えるべき政績を上げた者を選んで集め、良吏伝とする。

魯芝

原文

魯芝、字世英、扶風郿人也。世有名德、爲西州豪族。父爲郭氾所害、芝襁褓流離、年十七、乃移居雍、耽思墳籍。郡舉上計吏、州辟別駕。魏車騎將軍郭淮爲雍州刺史、深敬重之。舉孝廉、除郎中。會蜀相諸葛亮侵隴右、淮復請芝爲別駕。事平、薦於公府、辟大司馬曹眞掾、轉臨淄侯文學。鄭袤薦於司空王朗、朗即加禮命。後拜騎都尉・參軍事・行1.(安南)〔南安〕太守、遷尚書郎。曹眞出督關右、又參大司馬軍事。眞薨、宣帝代焉、乃引芝參驃騎軍事、轉天水太守。郡鄰于蜀、數被侵掠、戸口減削、寇盜充斥、芝傾心鎭衞、更造城市、數年間舊境悉復。遷廣平太守。天水夷夏慕德、老幼赴闕獻書、乞留芝。魏明帝許焉、仍策書嘉歎、勉以黃霸之美、加討寇將軍。
曹爽輔政、引爲司馬。芝屢有讜言嘉謀、爽弗能納。及宣帝起兵誅爽、芝率餘衆犯門斬關、馳出赴爽、勸爽曰「公居伊周之位、一旦以罪見黜、雖欲牽黃犬、復可得乎。若挾天子保許昌、杖大威以羽檄徴四方兵、孰敢不從。捨此而去、欲就東市。豈不痛哉。」爽愞惑不能用、遂委身受戮。芝坐爽下獄、當死、而口不訟直、志不苟免。宣帝嘉之、赦而不誅。俄而起爲使持節・領護匈奴中郎將・振威將軍・幷州刺史。以綏緝有方、遷大鴻臚。
高貴郷公即位、賜爵關内侯、邑二百戸。毋丘儉平、隨例增邑二百戸、拜揚武將軍・荊州刺史。諸葛誕以壽春叛、文帝奉魏帝出征、徴兵四方、芝率荊州文武以爲先驅。誕平、進爵武進亭侯、又增邑九百戸。遷大尚書、掌刑理。
常道郷公即位、進爵斄城郷侯、又增邑八百戸、遷監青州諸軍事・振武將軍・青州刺史、轉平東將軍。五等建、封陰平伯。
武帝踐阼、轉鎭東將軍、進爵爲侯。帝以芝清忠履正、素無居宅、使軍兵爲作屋五十間。芝以年及懸車、告老遜位、章表十餘上、於是徴爲光祿大夫、位特進、給吏卒、門施行馬。羊祜爲車騎將軍、乃以位讓芝曰「光祿大夫魯芝潔身寡欲、和而不同、服事華髮、以禮終始、未蒙此選。臣更越之、何以塞天下之望。」上不從。其爲人所重如是。
泰始九年卒。年八十四。帝爲舉哀、賵贈有加、諡曰貞、賜塋田百畝。

1.『晉書斠注』本伝では、「安南」は「南安」の誤りであるとする周家祿『晉書校勘記』の説を引く。これに従う。

訓読

魯芝(ろし)、字は世英、扶風郿の人なり。世々(よよ)名德有り、西州の豪族たり。父の郭氾〔一〕の害する所と爲るや、芝は襁褓にして流離し、年十七にして、乃ち移りて雍に居り、墳籍を耽思す。郡は上計吏に舉げ、州は別駕に辟(め)す。魏の車騎將軍の郭淮(かくわい)の雍州刺史と爲るや、深く之を敬重す。孝廉に舉げられ、郎中に除せらる。會々(たまたま)蜀の相の諸葛亮の隴右を侵すや、淮は復た芝を請いて別駕と爲す。事平ぐや、公府に薦められ、大司馬の曹眞の掾に辟され、臨淄侯の文學に轉ず。鄭袤(ていぼう) 司空の王朗に薦めたれば、朗は即ち禮命を加う。後に騎都尉・參軍事・行南安太守に拜せられ、尚書郎に遷る。曹眞の出でて關右を督するや、又た參大司馬軍事たり〔二〕。眞 薨じ、宣帝 焉(これ)に代わるや、乃ち芝を引(まね)きて參驃騎軍事たらしめ、天水太守に轉ず。郡は蜀に鄰(とな)れば、數々(しばしば)侵掠を被り、戸口は減削し、寇盜は充斥するも、芝は心を鎭衞に傾け、更(あらた)めて城市を造り、數年の間、舊境悉(ことごと)く復す。廣平太守に遷る。天水の夷夏は德を慕い、老幼は闕に赴きて書を獻じ、芝を留めんことを乞う。魏の明帝 焉を許し、仍(よ)りて策書もて嘉(よみ)して歎じ、勉(はげ)ますに黃霸の美を以てし、討寇將軍を加う。
曹爽 輔政するや、引きて司馬と爲す。芝 屢々(しばしば)讜言・嘉謀有るも、爽 納るる能わず。宣帝の起兵して爽を誅するに及び、芝は餘衆を率いて門を犯して關(かんぬき)を斬り、馳せて出でて爽に赴き、爽に勸めて曰く「公は伊周の位に居るも、一旦にして罪を以て黜せられ、黃犬を牽かんと欲すと雖も、復た得べけんや。若し天子を挾みて許昌を保ち、大威に杖(よ)りて羽檄を以て四方の兵を徴(め)さば、孰れか敢えて從わざらんや。此を捨てて去らば、東市に就かんと欲す。豈に痛ならざらんや」と。爽 愞惑して用うる能わず、遂に身を委(す)てて戮を受く。芝 爽に坐して獄に下され、死に當てらるるも、而れども口は訟直せず、志は苟免せず。宣帝 之を嘉し、赦して誅せず。俄かにして起ちて使持節〔三〕・領護匈奴中郎將・振威將軍・幷州刺史と爲る。綏緝するに方有るを以て、大鴻臚に遷る。
高貴郷公の即位するや、爵關内侯を賜い、邑は二百戸。毋丘儉(ぶきゅうけん)の平げらるるや、例に隨(したが)いて邑二百戸を增され、揚武將軍・荊州刺史に拜せらる。諸葛誕の壽春を以て叛するや、文帝は魏帝を奉じて出征し、兵を四方に徴したれば、芝は荊州の文武を率いて以て先驅と爲る。誕の平げらるるや、爵を進められて武進亭侯たり、又た邑九百戸を增さる。大尚書に遷り、刑理を掌(つかさど)る。
常道郷公の即位するや、爵を進められて斄城郷侯たり、又た邑八百戸を增され、監青州諸軍事・振武將軍・青州刺史に遷り、平東將軍に轉ず。五等建つや、陰平伯に封ぜらる。
武帝の踐阼するや、鎭東將軍に轉じ、爵を進められて侯と爲る。帝 芝は清忠にして正を履(ふ)むも、素より居宅無きを以て、軍兵をして爲に屋五十間を作らしむ。芝は年 懸車に及ぶを以て、老を告げて位を遜(ゆず)り、章表すること十餘上、是に於いて徴されて光祿大夫と爲り、位は特進たり、吏卒を給せられ、門は行馬を施す。羊祜は車騎將軍たり、乃ち位を以て芝に讓りて曰く「光祿大夫の魯芝は身を潔くして欲寡く、和して同ぜず、服事して華髮、禮を以て終始するも、未だ此の選を蒙らず。臣 更に之を越えば、何を以てか天下の望を塞がん」と〔四〕。上 從わず。其の爲人(ひととなり)の重んずる所は是(か)くの如し。
泰始九年に卒す。年は八十四。帝 舉哀を爲し、賵贈加うること有り、諡して貞と曰い、塋田百畝を賜う。

〔一〕底本には「郭氾」とあるが、後漢末に李傕らと共に朝廷の実権を握って関中に割拠した郭汜のことであろう。
〔二〕いわゆる「参軍事(参軍)」。後漢末に史料に登場し、魏晋南北朝時代を通じて機構が整備され、漢代の掾属等に代わる中下級行政官に変化していく。初めは将軍などの顧問・参謀役であったが、西晋頃から属官と化していく。
〔三〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔四〕この羊祜による上奏文の全容は、巻三十四・羊祜伝を参照。

現代語訳

魯芝(ろし)は字を世英といい、扶風郡・郿の人である。家は代々名声・徳望があり、西州の豪族であった。後漢末に父が郭汜によって殺されると、幼児であった魯芝は流浪し、十七歳になってやっと雍に移って居を構えることができ、そこで古の典籍の思索に耽った。郡は魯芝を上計吏とし、やがて州に別駕従事として辟召された。後に魏の車騎将軍まで昇ることとなる郭淮が雍州刺史となったときには、魯芝のことを深く敬い重んじた。やがて魯芝は孝廉に挙げられ、郎中に任じられた。ちょうど蜀の丞相の諸葛亮が隴右地域に攻め込むと、郭淮はまた奏請して魯芝を雍州の別駕従事に任じた。事が収まると、公府へと推薦され、曹真の大司馬府の掾として辟召され、やがて臨淄侯の曹植の文学(官名)に転任した。(同じく臨淄侯の文学となった)鄭袤(ていぼう)が司空の王朗に対して魯芝を推薦したので、王朗は即座に魯芝を辟召した。後に「騎都尉・参軍事・行南安太守」に任じられ、やがて尚書郎に昇進した。曹真が出鎮して関西地方の都督となると、魯芝はまた「参大司馬軍事」(大司馬付きの参軍事)となった。曹真が薨去すると、宣帝(司馬懿)がその後任となり、そこで宣帝は奏請して魯芝を招き、「参驃騎軍事」(驃騎将軍の司馬懿付きの参軍事)とされたが、やがて天水太守に転任した。天水郡は蜀漢と隣接していたので、当時はしばしば侵略を被り、戸口は減少し、盗賊がはびこっていたが、魯芝は心を鎮守・防衛に注ぎ、改めて城市を修築し、数年間ですべて戦乱以前の状態まで復活させた。やがて広平太守に昇進した。しかし、天水郡の人々は夷人も漢人も魯芝の徳を慕っており、老幼問わず皇帝のもとに赴いて書を献上し、魯芝を天水郡に留めてもらえるよう願い出た。魏の明帝はこれを許可し、そこで策書を下して魯芝を賛嘆し、黄覇の美誉になぞらえて励まし、討寇将軍の位を加えた。
曹爽が輔政の任に就くと、魯芝を奏請して招いてその大将軍府の司馬に任じた。魯芝はしばしば直言や経国の良謀を献じたが、曹爽は採用することができなかった。宣帝(司馬懿)が起兵して曹爽を誅殺しようと動いた際には、魯芝は曹爽の周りに直接付き従っている兵とは別に割り振られた兵を率い、封鎖されている門のかんぬきを斬り棄てて門をこじあけ、曹爽のもとに馳せ赴き、曹爽に勧めて言った。「あなたは(殷の)伊尹や周公と同じ位にいらっしゃいますが、一旦にして罪を着せられて退けられ、秦の李斯が死刑に処される間際に息子に向かって『またお前と茶色の犬を連れて兎狩りをしたかったが、もうそれも叶わぬ』と言った、まさにそれと同じ状況に陥ってしまいました。ただ、もし天子を連れ出して許昌を保ち、その大いなる威光によって羽檄(非常時・緊急時に兵を集めるための触れ文)を発して四方の兵を徴集すれば、それに従わない者がおりましょうか。この計を捨て去ってしまえば、きっと刑場に散ることとなってしまいます。そうなってしまうのは何と痛ましいことでしょうか」と。曹爽は臆病風に吹かれて惑い、この計を用いることができず、結局は身を棄てて処刑されることになってしまった。魯芝は曹爽に連座して獄に下され、死罪に当てられたが、しかしその口は無実を訴えようともせず、その志はかりそめに罰を免れようとはしなかった。宣帝はそれを善しとして、赦免して誅殺しなかった。魯芝はにわかに起用されて「使持節・領護匈奴中郎将・振威将軍・幷州刺史」に任ぜられた。やがて、適正な方法でその地を安んじたということで大鴻臚に昇進した。
高貴郷公(曹髦(そうぼう))が皇帝に即位すると、魯芝は関内侯の爵位を賜わり、封邑は二百戸とされた。毋丘倹(ぶきゅうけん)の反乱が平定されると、通例に従って二百戸の封邑を追加され、「揚武将軍・荊州刺史」に任ぜられた。諸葛誕が寿春丸ごと反乱を起こすと、文帝(司馬昭)は魏帝(曹髦)を奉じて出征し、兵を四方から徴集したので、魯芝は荊州の文武の官吏を率いてその先駆となった。諸葛誕の反乱が平定されると、魯芝は爵を進められて武進亭侯となり、九百戸の封邑を追加された。やがて大尚書に昇進し、刑法をつかさどった。
常道郷公(曹奐)が皇帝に即位すると、魯芝は爵を進められて斄城郷侯となり、さらに八百戸の封邑を追加され、「監青州諸軍事・振武將軍・青州刺史」に昇進し、また後に平東将軍に転任した。五等爵が創設されると、陰平伯(陰平を封邑とする伯爵)に封ぜられた。
西晋の武帝が魏晋革命を経て皇帝に即位すると、魯芝は鎮東将軍に転任し、爵を進められて(陰平伯から)陰平侯となった。武帝は、魯芝が清廉でかつ忠実であり、正道を行っているにも関わらず、ずっと邸宅が無いというので、魯芝のために軍兵に命じて五十間の家屋を作らせた。やがて年齢が七十歳に及ぶと、魯芝は自分はもう年老いたからと官位を辞退し、章や表を上申すること十数回、それにより徴召されて(通常業務の無い)光禄大夫となり、特進の位(三公に次ぐ位)とされ、吏卒を給付され、その門には行馬(人馬通行止めのための木の柵)が施された。時に羊祜は車騎將軍として「開府儀同三司」の肩書きを加えられたが、そこでその「開府儀同三司」の位は魯芝にこそふさわしいとして辞退して言った。「光禄大夫の魯芝は、我が身を高潔にして欲心を少なくし、人と和らぎ親しんでも決して道理を曲げて人におもねり従うようなことはせず、君に仕えて職務に従事してすでに白髪となり、常に礼節を以て終始していますが、いまだにこの開府儀同三司の選には入っておりません。私が却って彼を越えて重用されたならば、どうして天下の期待を十分に満たすことができましょうか」と。武帝はこれに従わなかった。魯芝のひととなりやその重んじていたことは以上の通りである。
泰始九年(二七三)に死んだ。八十四歳であった。武帝は声を挙げて泣いて哀悼の意を示し、葬儀のための物品を贈り、「貞侯」という諡号を与え、百畝の墓地を賜わった。

胡威

原文

胡威、字伯武、一名貔、淮南壽春人也。父質、以忠清著稱、少與郷人蔣濟・朱績俱知名於江淮間、仕魏至征東將軍・荊州刺史。
威早厲志尚。質之爲荊州也、威自京都定省、家貧、無車馬僮僕、自驅驢單行。毎至客舍、躬放驢、取樵炊爨、食畢、復隨侶進道。既至見父、停廏中十餘日。告歸、父賜絹一匹爲裝。威曰「大人清高、不審於何得此絹。」質曰「是吾俸祿之餘、以爲汝糧耳。」威受之、辭歸。質帳下都督先威未發、請假還家、陰資裝於百餘里、要威爲伴、毎事佐助。行數百里、威疑而誘問之、既知、乃取所賜絹與都督、謝而遣之。後因他信以白質、質杖都督一百、除吏名。其父子清愼如此。於是名譽著聞。
拜侍御史、歴南郷侯・安豐太守、遷徐州刺史。勤於政術、風化大行。
後入朝、武帝語及平生、因歎其父清、謂威曰「卿孰與父清。」對曰「臣不如也。」帝曰「卿父以何爲勝耶。」對曰「臣父清恐人知、臣清恐人不知、是臣不及遠也。」帝以威言直而婉、謙而順。累遷監豫州諸軍事・右將軍・豫州刺史、入爲尚書、加奉車都尉。
威嘗諫時政之寬、帝曰「尚書郎以下、吾無所假借。」威曰「臣之所陳、豈在丞郎令史。正謂如臣等輩、始可以肅化明法耳。」拜前將軍・監青州諸軍事・青州刺史、以功封平春侯。太康元年、卒于位。追贈使持節・都督青州諸軍事・鎭東將軍、餘如故、諡曰烈。子奕嗣。
奕、字次孫、仕至平東將軍。威弟羆、字季象、亦有幹用、仕至益州刺史・安東將軍。

訓読

胡威、字は伯武〔一〕、一名は貔(ひ)、淮南壽春の人なり。父の質、忠清を以て稱を著し、少くして郷人の蔣濟(しょうせい)・朱績と俱に名を江淮の間に知られ、魏に仕えて征東將軍・荊州刺史に至る。
威は早くに志尚を厲(たか)くす。質の荊州と爲るや、威は京都より定省せんとするも、家は貧しく、車馬・僮僕無ければ、自ら驢を驅りて單行す。客舍に至る毎に、躬(みずか)ら驢を放ち、樵を取りて炊爨し、食畢(お)われば、復た侶に隨いて道を進む。既に至りて父に見(あ)い、廏中に停すること十餘日。告げて歸らんとするや、父は絹一匹を賜いて裝と爲す。威曰く「大人は清高なれば、何(いず)くに於いてか此の絹を得たるかを審(つまび)らかにせず」と。質曰く「是れ吾が俸祿の餘にして、以て汝が糧と爲すのみ」と。威 之を受け、辭して歸る。質の帳下都督 威の未だ發せざるに先んじて、假を請いて家に還り、陰(ひそ)かに裝を百餘里に資(たす)けんとし、威に伴と爲らんことを要(もと)め、事ある毎に佐助す。行くこと數百里、威は疑いて之を誘問し、既に知るや、乃ち賜わりし所の絹を取りて都督に與え、謝して之を遣(や)る。後に他信に因りて以て質に白すや、質は都督を杖すること一百、吏名を除く。其の父子の清愼なること此(か)くの如し。是に於いて名譽 著聞す。
侍御史に拜せられ、南郷侯・安豐太守を歴(へ)、徐州刺史に遷る。政術に勤め、風化大いに行わる。
後に入朝するや、武帝 語りて平生に及び、因りて其の父の清を歎じ、威に謂いて曰く「卿は父の清なるに孰(いず)れぞ」と。對(こた)えて曰く「臣 如かざるなり」と。帝曰く「卿の父は何を以てか勝(まさ)れる」と。對えて曰く「臣の父の清は人の知るを恐れ、臣の清は人の知らざるを恐るれば、是れ臣の及ばざること遠きなり」と。帝以(おも)えらく、威の言は直にして婉、謙にして順なり、と。累(しき)りに遷りて監豫州諸軍事・右將軍・豫州刺史たり、入りて尚書と爲り、奉車都尉を加えらる。
威 嘗て時政の寬なるを諫むるや、帝曰く「尚書郎以下、吾 假借する所無し」と。威曰く「臣の陳(の)ぶる所、豈に丞・郎・令史に在らんや。正に臣等の如き輩を謂いて、始めて以て化を肅(ととの)え法を明らかにすべきのみ」と。前將軍・監青州諸軍事・青州刺史に拜せられ、功を以て平春侯に封ぜらる。太康元年、位に卒す。追いて使持節・都督青州諸軍事・鎭東將軍を贈り、餘は故の如くせしめ、諡して烈と曰う。子の奕(えき)嗣ぐ。
奕、字は次孫、仕えて平東將軍に至る。威の弟の羆(ひ)、字は季象、亦た幹用有り、仕えて益州刺史・安東將軍に至る。

〔一〕『晉書斠注』本伝でも指摘されている通り、他の諸書では字を「伯虎」に作っており、これは唐代に李虎の諱を避けた結果「伯武」とされたものと思われる。

現代語訳

胡威は字を伯武(伯虎)といい、また一名を貔(ひ)といい、淮南郡・寿春の人である。父の胡質は忠良・清廉さによって誉れあり、若い頃から同郷の蔣濟(しょうせい)・朱績とともに長江・淮水地域で名を知られ、魏に仕えて「征東将軍・荊州刺史」に至った。
胡威は早くから高尚な志を抱いていた。胡質が荊州刺史に就任すると、胡威は(毎晩父母の寝具の世話をし、毎朝その安否を問うという『礼記』曲礼上篇に記されている)人の子としての礼を尽くすために京師(洛陽)から胡質のもとに赴こうとしたが、家は貧しく、車馬や奴僕が無かったので、自らロバを駆って一人で向かった。客舎に至るたびに、自分でロバの馬具を解いて放ち、薪を取って飯を炊き、食事が終われば、また同道の旅人についていって道を進んだ。到着して父の胡質に会い、十日余り厩の中に泊まった。別れを告げて帰ろうとすると、胡質は旅支度として絹一匹を与えた。胡威は言った。「父上は清廉・高潔でいらっしゃいますのに、どこでこんな絹を手に入れなさったのですか」と。胡質は言った。「これは私の俸禄の余りだ。お前の旅の食糧費のために使うといい」と。胡威はこれを受け取り、挨拶をして帰った。胡質の帳下都督は、胡威がまだ出発しないうちに先んじて休暇を申請して家に帰り、(胡質と胡威に恩を売っておくために)こっそりと百里余りに渡って胡威の旅路の支援をしようと、(面識のない)胡威に対して同道することを申し出て、事あるごとにその世話をした。しかし、数百里行ったところで何かおかしいと疑った胡威は、何気なく質問して探りを入れ、彼が父の帳下都督であることを知ると、そこで父にもらった絹を取ってその都督に与え、感謝の言葉を述べて送り返した。後日、他用で胡質に私信を送ったついでにそのことを知らせると、胡質は都督を一百打の杖刑に処し、官吏の帳簿から除籍した。胡質・胡威父子の清く慎ましい様はこの通りである。これによって名譽は顕著に知れ渡った。
やがて胡威は侍御史に任ぜられ、南郷侯相、安豊太守を歴任し、徐州刺史に昇進した。政務につとめ、徳による教化は大いに広まった。
(魏晋革命を経て)後に胡威が入朝すると、西晋の武帝はともに話をする中で話題が昔のことに及び、そこで亡き父の胡質の清廉さを賛嘆し、胡威に言った。「そなたと父の清廉さは、どちらの方がまさっているのか」と。胡威は答えて言った。「私は父には及びません」と。武帝は言った。「そなたの父はどのような点でまさっているのか」と。胡威は答えて言った。「父はその清廉さを人に知られることを恐れていましたが、私は清廉さを人に知ってもらえないことを恐れておりますので、このような点で私は遠く父に及びません」と。武帝は、胡威の言葉はまっすぐで素直であり、へりくだって慎しみ深いものであると思った。やがて胡威は何度も昇進して「監豫州諸軍事・右将軍・豫州刺史」となり、後に京師に戻って尚書となり、奉車都尉の官位を加えられた。
胡威はかつて当時の政治的措置が寛容すぎであると武帝を諫めたが、それに対して武帝は言った。「尚書郎以下に対して、私は別に大目に見てやったことはないぞ」と。胡威は言った。「私が述べたのは、どうして尚書丞・尚書郎・尚書令史のことでございましょうか。まさに(尚書という顕位にある)私らのような者たちに示してはじめて、教化を整え法をはっきりとさせるということが可能になるのです」と。やがて胡威は「前将軍・監青州諸軍事・青州刺史」に任ぜられ、功績により平春侯に封ぜられた。太康元年(二八〇)、在任中に死んだ。そこで「使持節・都督青州諸軍事・鎮東将軍」の官位を追贈され、その他は元通りの肩書きとされ、「烈侯」という諡号を与えられた。息子の胡奕(こえき)が後を嗣いだ。
胡奕は字を次孫といい、出仕して平東将軍にまで昇った。胡威の弟の胡羆(こひ)は字を季象といい、彼もまた才幹があり、出仕して「益州刺史・安東将軍」にまで昇った。

杜軫

原文

杜軫、字超宗、蜀郡成都人也。父雄、緜竹令。軫師事譙周、博渉經書。州辟不就、爲郡功曹史。時鄧艾至成都、軫白太守曰「今大軍來征、必除舊布新、明府宜避之。此全福之道也。」太守乃出。艾果遣其參軍牽弘自之郡。弘問軫前守所在、軫正色對曰「前守達去就之機、輒自出官舍以俟君子。」弘器之、命復爲功曹、軫固辭。
察孝廉、除建寧令、導以德政、風化大行、夷夏悅服。秩滿將歸、羣蠻追送、賂遺甚多、軫一無所受、去如初至。又除池陽令、爲雍州十一郡最。百姓生爲立祠、得罪者無怨言。累遷尚書郎。
軫博聞廣渉、奏議駁論多見施用。時涪人李驤亦爲尚書郎、與軫齊名、毎有論議、朝廷莫能踰之、號蜀有二郎。軫後拜犍爲太守、甚有聲譽。當遷、會病卒。年五十一。子毗。
毗、字長基。州舉秀才、成都王穎辟大將軍掾、遷尚書郎、參太傅軍事。及洛陽覆沒、毗南渡江。王敦表爲益州刺史、將與宜都太守柳純共固白帝、杜弢遣軍要毗、遂遇害。
毗弟秀、字彦穎、爲羅尚主簿。州沒、爲氐賊李驤所得。欲用爲司馬、秀不受、見害。
毗次子歆、舉秀才。
軫弟烈、明政事、察孝廉、歴平康・安陽令、所居有異績、遷衡陽太守。聞軫亡、因自表兄子幼弱、求去官、詔轉犍爲太守、蜀土榮之。後遷湘東太守、爲成都王穎郎中令、病卒。
烈弟良、舉秀才、除新都令・涪陵太守、不就、補州大中正、卒。

訓読

杜軫(としん)、字は超宗、蜀郡成都の人なり。父の雄、緜竹令たり。軫は譙周(しょうしゅう)に師事し、博く經書に渉る。州辟(め)すも就かず、郡の功曹史と爲る。時に鄧艾 成都に至るや、軫は太守に白(もう)して曰く「今、大軍來征し、必ず舊(ふる)きを除きて新しきを布(し)かんとすれば、明府 宜しく之を避くべし。此れ福を全くするの道なり」と。太守 乃ち出ず。艾 果たして其の參軍の牽弘を遣わして自ら郡に之(ゆ)かしむ。弘 軫に前守の所在を問うや、軫は色を正して對えて曰く「前守は去就の機に達すれば、輒ち自ら官舍を出でて以て君子を俟(ま)つ」と。弘は之を器とし、命じて復た功曹と爲さんとするも、軫は固く辭す。
孝廉に察せられ、建寧令に除せられ、導くに德政を以てし、風化 大いに行われ、夷夏は悅(よろこ)びて服す。秩滿ちて將に歸らんとするや、羣蠻 追いて送り、賂遺すること甚だ多きも、軫は一も受くる所無く、去ること初めて至るが如し。又た池陽令に除せられ、雍州十一郡〔一〕の最と爲る。百姓は生きながらにして爲に祠を立て、罪を得る者は怨言無し。累(しき)りに遷りて尚書郎たり。
軫は博聞・廣渉にして、奏議・駁論は多く施用せらる。時に涪人の李驤(りじょう)も亦た尚書郎たり、軫と名を齊(ひと)しくし、論議有る毎に、朝廷に能く之を踰ゆるもの莫く、「蜀に二郎有り」と號す。軫 後に犍爲太守に拜せられ、甚だ聲譽有り。當に遷らんとするに、會々(たまたま)病みて卒す。年は五十一。子の毗(ひ)。
毗、字は長基。州は秀才に舉げ、成都王穎は大將軍の掾に辟(め)し、尚書郎に遷り、參太傅軍事たり。洛陽の覆沒するに及び、毗は南のかた江を渡る。王敦 表して益州刺史と爲し、將に宜都太守の柳純と共に白帝を固めんとするや、杜弢(ととう) 軍を遣わして毗を要(むか)えしめ、遂に害に遇う。
毗の弟の秀、字は彦穎(げんえい)、羅尚の主簿と爲る。州 沒するや、氐賊の李驤〔二〕の得る所と爲る。用いて司馬と爲さんと欲するも、秀は受けざれば、害せらる。
毗の次子の歆(きん)、秀才に舉げらる。
軫の弟の烈、政事に明るく、孝廉に察せられ、平康・安陽令を歴(へ)、居る所に異績有り、衡陽太守に遷る。軫の亡(う)せるを聞き、因りて自ら兄の子の幼弱なるを表し、官を去らんことを求めたれば、詔ありて犍爲太守に轉じ、蜀土は之を榮とす。後に湘東太守に遷り、成都王穎の郎中令と爲り、病みて卒す。
烈の弟の良、秀才に舉げられ、新都令・涪陵太守に除せらるるも、就かず、州の大中正に補せられ、卒す。

〔一〕『晉書斠注』本伝では、臧栄緒(ぞうえいちょ)の『晉書』においては「雍州十二郡」とあるのを指摘し、現行『晉書』地理志の記載から考察を行い、臧書の「十二郡」が正しく、しかもこの出来事が太康三年~七年の間のものであることを考証している。
〔二〕この「李驤」は、前に杜軫と並んで「蜀の二郎」と称されたとして登場した李驤とは同姓同名の別人である。前の李驤は蜀漢の尚書僕射となった平陽亭侯・李福の子であり、梓潼郡・涪の人で、杜軫と同じく譙周門下の人物であり、『三國志』や『華陽國志』などにその事績が記されている。一方で、この箇所の李驤は李雄の叔父であり、東羌猟将の李慕の子で、巴氐の人であり、『晉書』李雄載記などにその事績が記されている。

現代語訳

杜軫(としん)は字を超宗といい、蜀郡・成都の人である。父の杜雄は緜竹令まで昇った。杜軫は譙周(しょうしゅう)に師事し、経書を博覧した。益州により辟召されたが就任せず、蜀郡の功曹史となった。時に魏が攻めてきて、その方面軍司令官の鄧艾が成都まで来ると、杜軫は時の蜀郡太守に述べて言った。「今、大軍が来攻し、必ずもとの(蜀漢の)官僚を廃除して新しい官僚を配置するでしょうから、明府(太守の尊称)はどうか逃げて廃除されるのを避けるべきです。それこそが最後まで福を維持する道です」と。そこで太守はそれに従って逃げ出した。鄧艾は果たしてその参軍の牽弘を遣わして太守として蜀郡府に赴かせた。牽弘は杜軫に前の太守の所在を問うたが、杜軫は顔色を改めて答えて言った。「前の太守は去就の機をよく心得ていたので、すみやかに自ら官舎を出てあなた様の到来を受け容れることにしたのです」と。牽弘はこれを高く評価し、命じてまた功曹に任じようとしたが、杜軫は固辞した。
やがて杜軫は孝廉に挙げられ、建寧令に任ぜられ、徳政によって人々を教導し、徳による教化は大いに広まり、夷人も漢人も喜んで心服した。任期が終わって帰ろうとしたとき、諸々の蛮夷は杜軫を追いかけて見送りに行き、非常に多くの贈り物をしたが、杜軫は一つも受け取ることなく、初め赴任してきたときと同様の手持ちで去っていった。また、池陽令に任ぜられたが、雍州十一郡に属する県の中で一番の成績を取った。人々は、杜軫がまだ生きているときから彼のために祠を建て、罪に問われた者はその裁判の公正さに服して怨み言も無かった。やがて杜軫は何度も昇進して尚書郎となった。
杜軫は非常に博識で、その上奏文や駁議は多く採用された。時に(巴蜀地域の)涪の人である李驤(りじょう)もまた尚書郎であったが、杜軫に匹敵する名声を有し、議論が行われるたびに、朝廷にはこの二人を超えられる者はおらず、「蜀に二郎あり」と称された。杜軫は後に犍為太守に任ぜられ、非常に名声と名誉を博した。そして、まさに昇進しようというときに、ちょうど病気になって死んでしまった。五十一歳であった。息子に杜毗(とひ)がいた。
杜毗は字を長基といった。益州によって秀才に挙げられ、成都王の司馬穎に辟召されてその大将軍府の掾となり、やがて尚書郎に昇進し、後に参太傅軍事(太傅つきの参軍事)となった。永嘉の乱により洛陽が陥落すると、杜毗は南に逃れて長江を渡っ(て東晋政権に帰順し)た。東晋政権の王敦は上表して杜毗を益州刺史に任じ、宜都太守の柳純と共に白帝城を守ることになったが、(同じく蜀郡成都出身である群雄の)杜弢(ととう)が軍を派遣して杜毗らを迎え撃たせたので、それによって殺されてしまった。
杜毗の弟の杜秀は字を彦穎(げんえい)といい、(益州刺史の)羅尚の主簿となった。羅尚が死んで(成漢の建国者である)李雄の軍が益州地域を攻略すると、杜秀は氐賊(李雄軍)の将である李驤に捕らえられてしまった。李驤は杜秀を用いて司馬に任じようとしたが、杜秀はそれを受け容れなかったので殺されてしまった。
杜毗の次子の歆(きん)は、秀才に挙げられた。
杜軫の弟の杜烈は、政事に明るく、孝廉に挙げられ、平康令・安陽令を歴任し、赴任地では優れた業績を挙げ、衡陽太守に昇進した。杜軫が亡くなったことを聞くと、そこで自ら兄の子は幼弱であるから(杜軫の葬礼を行えず、自分が代わりに行いたいとして)官を去りたいと上表して求めたところ、詔が下されて(杜軫の後任として)犍為太守に転任し、蜀の地域の人々はこれを称賛した。後に湘東太守に昇進し、次いで成都王・司馬穎の成都王国の郎中令となり、やがて病気になって死んでしまった。
杜烈の弟の杜良は秀才に挙げられ、新都令・涪陵太守に任ぜられたが就任せず、益州の大中正に任ぜられ、やがて死んだ。

竇允

原文

竇允、字雅、始平人也。出自寒門、清尚自修。少仕縣、稍遷郡主簿。察孝廉、除浩亹長。勤於爲政、勸課田蠶、平均調役、百姓賴之。遷謁者。泰始中、詔曰「當官者能潔身修己、然後在公之節乃全。身善有章、雖賤必賞、此興化立教之務也。謁者竇允前爲浩亹長、以修勤清白見稱河右。是輩當擢用、使立行者有所勸。主者詳復參訪、有以旌表之。」拜臨水令。克己厲俗、改修政事、士庶悅服、咸歌詠之。遷鉅鹿太守、甚有政績。卒於官。

訓読

竇允(とういん)、字は雅、始平の人なり。出ずるに寒門よりし、清尚にして自ら修む。少(わか)くして縣に仕え、稍々(やや)遷りて郡の主簿たり。孝廉に察せられ、浩亹(こうび)長に除せらる。爲政に勤め、田蠶を勸課し、調役を平均し、百姓は之を賴る。謁者に遷る。泰始中、詔して曰く「官に當たる者は能く身を潔くし己を修め、然る後に公に在るの節 乃ち全(まった)し。身(みずか)ら善なること章有れば、賤なりと雖も必ず賞すは、此れ化を興し教を立つるの務めなり。謁者の竇允は前に浩亹長と爲り、修勤・清白なるを以て河右に稱せらる。是の輩 當に擢用し、行を立つる者をして勸(つと)むる所有らしむべし。主者は詳(つまび)らかに復た參訪し、以て之を旌表すること有らしめよ」と。臨水令に拜せらる。己に克(か)ちて俗を厲(はげ)まし、政事を改修し、士庶は悅びて服し、咸(み)な之を歌詠す。鉅鹿太守に遷り、甚だ政績有り。官に卒す。

現代語訳

竇允(とういん)は字を雅といい、始平郡の人である。低い家柄の出身であり、清廉・高尚で自ら徳を修養した。若くして県に出仕し、何度か昇進して郡の主簿となった。孝廉に挙げられ、浩亹(こうび)長に任命された。為政につとめ、農業と養蚕を奨励し、税役を均等にし、人々は竇允を頼りにした。やがて謁者に昇進した。西晋の武帝の泰始年間に、次のような詔が下された。「官に従事する者は、よく身を潔くして自己を修養し、そうしてやっと公務に従事するに当たっての節義を完備することができるのである。自ら善行に努めること明らかであれば身分が低くとも必ず賞を与えるのは、これぞまさに徳化を興し、教化を盛んにするための務めである。謁者の竇允は前に浩亹長となり、勤勉で清白なことによって河西の地で称えられた。このような人物たちは、まさに抜擢して任用し、それによって徳行を修める者を励ますようにするべきである。担当者は、あまねくまたそのような者たちがいるかどうか各地を訪問して調査し、それによってそのような者たちを顕彰するようにせよ」と。やがて竇允は臨水令に任じられた。己を律して世俗を励まし、政事を刷新し、士大夫も庶民も喜んで心服し、みな謡を歌って竇允を称えた。やがて鉅鹿太守に昇進し、非常に良い政績を挙げた。その後、鉅鹿太守在任のうちに死んだ。

王宏

原文

王宏、字正宗、高平人、魏侍中粲之從孫也。魏時辟公府、累遷尚書郎、歴給事中。泰始初、爲汲郡太守、撫百姓如家、耕桑樹藝、屋宇阡陌、莫不躬自教示、曲盡事宜、在郡有殊績。司隸校尉石鑒上其政術、武帝下詔稱之曰「朕惟人食之急、而懼天時水旱之運、夙夜警戒、念在於農。雖詔書屢下、敕厲殷勤、猶恐百姓廢惰以損生植之功。而刺史・二千石・百里長吏未能盡勤、至使地有遺利而人有餘力、毎思聞監司糾舉能不、將行其賞罰、以明沮勸。今司隸校尉石鑒上汲郡太守王宏勤恤百姓、導化有方、督勸開荒五千餘頃、而熟田常課頃畝不減。比年普饑、人食不足、而宏郡界獨無匱乏、可謂能矣。其賜宏穀千斛、布告天下、咸使聞知。」
俄遷衞尉・河南尹・大司農、無復能名、更爲苛碎。坐桎梏罪人、以泥墨塗面、置深坑中、餓不與食、又擅縱五歲刑以下二十一人、爲有司所劾。帝以宏累有政績、聽以贖罪論。太康中、代劉毅爲司隸校尉、於是檢察士庶、使車服異制、庶人不得衣紫絳及綺繡錦繢。帝常遣左右微行觀察風俗、宏緣此復遣吏科檢婦人衵服、至褰發於路。論者以爲暮年謬妄、由是獲譏於世、復坐免官。後起爲尚書。太康五年卒、追贈太常。

訓読

王宏(おうこう)、字は正宗、高平の人にして、魏の侍中の粲(さん)の從孫なり。魏の時、公府に辟(め)され、累(しき)りに遷りて尚書郎たり、給事中を歴(へ)たり。泰始の初め、汲郡太守と爲り、百姓を撫すること家の如く、耕桑樹藝、屋宇阡陌、躬自(みずか)ら教示せざるは莫く、曲(つぶさ)に事宜を盡くし、郡に在りて殊績有り。司隸校尉の石鑒の其の政術を上(のぼ)すや、武帝 詔を下して之を稱えて曰く「朕は人食の急を惟(おも)い、而して天時水旱の運を懼(おそ)れ、夙夜 警戒し、念(おも)いは農に在り。詔書屢々(しばしば)下り、敕厲すること殷勤なりと雖も、猶お百姓の廢惰して以て生植の功を損なわんことを恐る。而れども刺史・二千石・百里の長吏は未だ勤を盡くす能わず、地をして遺利有らしめて人をして餘力有らしむるに至れば、毎に監司の能不を糾舉するを聞き、將に其の賞罰を行い、以て沮勸を明らかにせんことを思う。今、司隸校尉の石鑒 上すらく、汲郡太守の王宏は百姓を勤恤し、導化 方有り、開荒を督勸すること五千餘頃、而して熟田の常課の頃畝は減ぜず、と。比年、普(あまね)く饑(う)え、人食は足らざるに、而れども宏の郡界は獨り匱乏すること無ければ、能と謂うべし。其れ宏に穀千斛を賜い、天下に布告し、咸(み)な聞知せしめよ」と。
俄かにして衞尉・河南尹・大司農に遷るも、復た能名無く、更(あらた)めて苛碎を爲す。罪人を桎梏し、泥墨を以て面を塗り、深坑の中に置き、餓うとも食を與えず、又た擅(ほしいまま)に五歲刑以下の二十一人を縱(はな)つに坐し、有司の劾する所と爲る。帝 宏は累りに政績有るを以て、贖罪を以て論ずるを聽(ゆる)す。太康中、劉毅に代わりて司隸校尉と爲り、是に於いて士庶を檢察し、車服をして制に異ならしめ、庶人は紫絳及び綺繡の錦繢を衣(き)るを得ず。帝 常に左右を遣わして微行して風俗を觀察せしめたれば、宏は此に緣(よ)りて復た吏を遣わして婦人の衵服を科檢せしめ、路に褰發するに至る。論者は以て暮年 謬妄せりと爲し、是に由りて世に譏(そし)りを獲、復た坐して官を免ぜらる。後に起ちて尚書と爲る。太康五年に卒し、追いて太常を贈らる。

現代語訳

王宏(おうこう)は字を正宗といい、高平県の人であり、魏の侍中であった王粲(おうさん)の兄弟の孫である。王宏は魏の時代に公府に辟召され、何度も昇進して尚書郎となり、やがて給事中に任じられた。西晋の武帝の泰始年間の初めに汲郡太守となり、人々を家族のように慰撫し、耕作・養蚕・定植・種蒔から家や道を作ることまで、すべて自ら教示し、みな一つ一つ丁寧に適切に処置し、汲郡に在って傑出した政績を挙げた。(汲郡の属する地域を管轄する)司隷校尉の石鑑がその政務の術を上表すると、武帝は詔を下して王宏を称えて言った。「朕は、人々の食糧不足がもはや急を要する事態であると思い、そして天候や洪水・旱魃などの天運を恐れ、朝も夜も警戒し、ひたすら農業のことばかり考えている。しばしば詔書を下し、繰り返し戒め励ましてきたが、それでもなお人々が怠けてやるべきことをやらず、農産の成果が損なわれてしまうのではないかと恐れている。それなのに、刺史や二千石(郡太守など)、百里(県や侯国など)の長吏(勅任官)はなお勤勉さを尽くすことができず、土地の生産力にはまだ余剰があり、人々にもなお余力がある状態をもたらしている。私は、監察官が能力ある者を推挙し、またそうでない者を糾弾するのを聞き、それによって賞罰を行うことで、きっと悪を阻み善を奨励することを明らかにすることができるだろうということを常に期待している。今、司隷校尉の石鑑が上奏して言うには、汲郡太守の王宏は人々を励ましいたわり、その教導・政化は適切であり、開墾を勧め促すこと五千頃余り、それでいて従来の耕作地は維持され、そこから供出される平常の納税額は減っていないという。近年では飢餓が広まり、人々の食糧は不足しているというのに、王宏の統治下にある汲郡だけ不足が無いのは、まさに有能であると言うべきであろう。そこで、王宏に穀千斛を賜い、さらに天下に布告して、その業績をみな知らしめよ」と。
王宏はやがて衛尉、河南尹、大司農と急速に昇進したが、そこではもはや有能であるとの名声は得られず、一転して過酷で煩瑣な政治を行った。そして、罪人に枷をはめ、泥や墨をその顔面に塗り、深い穴の中に放置して餓えても食を与えず、それに加えて、五年の労役刑以下の罪に当てられていた二十一人を勝手に釈放したため、担当官によって罪に問われて弾劾された。武帝は、王宏がかつて何度も良い政績を挙げていたため、贖罪に当てることを許した。太康年間、劉毅の後任として司隷校尉となると、王宏はそこで士大夫も庶民も関係なく検問し、車や服装について国の制度とは異なる制限を人々に課し、紫襈・大絳などの服や色彩鮮やかな絹織物を庶人が着用することを禁じた。武帝は常に、左右の者を派遣して身分を隠して風俗を観察させていたので、王宏はそれに備えてまた属吏を派遣して婦人の肌着を検査させ、道で婦人の衣服をまくりあげるようなことまでさせた。王宏は老年になって耄碌しておかしくなったと論者は考え、これによって王宏は世の非難を浴び、また罪に問われて官を罷免された。後に再び起家して尚書となった。太康五年(二八四)に死に、太常の官位を追贈された。

曹攄

原文

曹攄、字顏遠、譙國譙人也。祖肇、魏衞將軍。攄少有孝行、好學善屬文。太尉王衍見而器之、調補臨淄令。縣有寡婦、養姑甚謹。姑以其年少、勸令改適、婦守節不移。姑愍之、密自殺。親黨告婦殺姑、官爲考鞫、寡婦不勝苦楚、乃自誣。獄當決、適値攄到。攄知其有寃、更加辨究、具得情實、時稱其明。獄有死囚、歲夕、攄行獄、愍之曰「卿等不幸致此非所、如何。新歲人情所重、豈不欲暫見家邪。」衆囚皆涕泣曰「若得暫歸、死無恨也。」攄悉開獄出之、剋日令還。掾吏固爭、咸謂不可。攄曰「此雖小人、義不見負。自爲諸君任之。」至日、相率而還、並無違者、一縣歎服、號曰聖君。入爲尚書郎、轉洛陽令、仁惠明斷、百姓懷之。時天大雨雪、宮門夜失行馬。羣官檢察、莫知所在。攄使收門士、衆官咸謂不然。攄曰「宮掖禁嚴、非外人所敢盜。必是門士以燎寒耳。」詰之、果服。以病去官。復爲洛陽令。
及齊王冏輔政、攄與左思俱爲記室督。冏嘗從容問攄曰「天子爲賊臣所逼、莫有能奮、吾率四海義兵興復王室。今入輔朝廷、匡振時艱、或有勸吾還國。於卿意如何。」攄曰「蕩平國賊、匡復帝祚、古今人臣之功未有如大王之盛也。然道罔隆而不殺、物無盛而不衰、非唯人事、抑亦天理。竊預下問、敢不盡情。願大王居高慮危、在盈思沖、精選百官、存公屏欲、舉賢進善、務得其才。然後脂車秣馬、高揖歸藩、則上下同慶、攄等幸甚。」冏不納。尋轉中書侍郎、長沙王乂以爲驃騎司馬。乂敗、免官。因丁母憂。惠帝末、起爲襄城太守。時襄城屢經寇難、攄綏懷振理、旬月剋復。
永嘉二年、高密王簡鎭襄陽、以攄爲征南司馬。其年流人王逌等聚衆屯冠軍、寇掠城邑。簡遣參軍崔曠討之、令攄督護曠。曠姦凶人也、譎攄前戰、期爲後繼、既而不至。攄獨與逌戰于酈縣、軍敗死之。故吏及百姓並奔喪會葬、號哭即路、如赴父母焉。

訓読

曹攄(そうちょ)、字は顏遠、譙國譙の人なり。祖の肇(ちょう)〔一〕は、魏の衞將軍たり。攄は少(わか)くして孝行有り、學を好みて文を屬(つづ)るを善くす。太尉の王衍(おうえん) 見て之を器とし、臨淄令に調補せらる。縣に寡婦有り、姑を養うこと甚だ謹なり。姑 其の年少なるを以て、勸めて改めて適(とつ)がしめんとするも、婦は節を守りて移らず。姑は之を愍(あわ)れみ、密かに自殺す。親黨は婦 姑を殺せりと告げ、官は考鞫を爲したれば、寡婦 苦楚に勝(た)えず、乃ち自ら誣す。獄の當に決せんとするに、適々(たまたま)攄の到るに値(あ)う。攄は其の寃有るを知り、更(あらた)めて辨究を加え、具(つぶ)さに情實を得たれば、時に其の明を稱えらる。獄に死囚有り、歲夕、攄 獄に行くや、之を愍みて曰く「卿等は不幸にして此の非所に致されたれば、如何せん。新歲は人情の重んずる所なれば、豈に暫く家を見んと欲せざらんや」と。衆囚 皆な涕泣して曰く「若し暫く歸るを得ば、死すとも恨み無きなり」と。攄 悉(ことごと)く獄を開きて之を出だし、日を剋(き)めて還らしむ。掾吏は固く爭い、咸(み)な不可なりと謂う。攄曰く「此れ小人なりと雖も、義 負かれざらん。自ら諸君の爲に之を任(にな)わん」と。日 至るや、相い率(したが)いて還り、並びに違う者無ければ、一縣 歎服し、號して聖君と曰う。入りて尚書郎と爲り、洛陽令に轉じ、仁惠・明斷、百姓は之に懷く。時に天 大いに雪雨(ふ)り、宮門 夜に行馬を失う。羣官 檢察すれども、所在を知る莫し。攄 門士を收めしむるも、衆官は咸な然らずと謂う。攄曰く「宮掖は禁 嚴なれば、外人の敢えて盜む所に非ず。必ず是れ門士の以て寒きに燎するのみ」と。之を詰するに、果たして服す〔二〕。病を以て官を去る。復た洛陽令と爲る。
齊王冏(けい)の輔政するに及び、攄は左思と俱(とも)に記室督と爲る。冏 嘗て從容として攄に問いて曰く「天子は賊臣の逼(せま)る所と爲り、能く奮うもの有る莫きも、吾 四海の義兵を率いて王室を興復す。今、入りて朝廷を輔(たす)け、時艱を匡振するに、或いは吾に國へ還らんことを勸むるもの有り。卿の意に於いて如何」と。攄曰く「國賊を蕩平し、帝祚を匡復するは、古今の人臣の功 未だ大王の盛に如(し)くもの有らざるなり。然れども道 隆(さか)んにして殺(そ)がれざるは罔(な)く、物 盛んにして衰えざるは無きとは、唯だに人事なるのみに非ず、抑々(そもそも)亦た天理なり。竊(ひそ)かに下問に預れば、敢えて情を盡くさざらんや。願わくは大王、高きに居るも危うきを慮り、盈(み)つるに在るも沖を思い、百官を精選し、公に存(こころが)け欲を屏(しりぞ)け、賢を舉げ善を進め、其の才を得ることに務められんことを。然る後に車に脂(あぶら)し馬に秣(まぐさか)い、高揖して藩に歸らば、則ち上下は同(とも)に慶(よろこ)び、攄等は幸い甚しからん」と。冏 納(い)れず。尋(つ)いで中書侍郎に轉じ、長沙王乂(がい) 以て驃騎司馬と爲す。乂の敗るるや、官を免ぜらる。因りて母の憂に丁(あ)う。惠帝の末、起ちて襄城太守と爲る。時に襄城は屢々(しばしば)寇難を經たれば、攄は綏懷して振理し、旬月にして剋復す。
永嘉二年、高密王簡の襄陽に鎭するや、攄を以て征南司馬と爲す。其の年、流人の王逌(おうゆう)等は衆を聚(あつ)めて冠軍に屯し、城邑を寇掠す。簡 參軍の崔曠(さいこう)を遣わして之を討たしめ、攄をして曠を督護せしむ。曠は姦凶の人なれば、攄を譎(いつわ)りて前戰せしめ、後繼と爲らんことを期すも、既にして至らず。攄 獨り逌と酈縣に戰い、軍敗れて之に死す。故吏及び百姓は並びに喪に奔(はし)り葬に會し、號哭して路に即くこと、父母に赴くが如し。

〔一〕曹肇は魏の征東大将軍・曹休の子。すなわち曹攄は曹休の曽孫であり、魏の宗室の後裔。
〔二〕当時の裁判では、被疑者が弾劾されると、供述聴取の後にその供述中の矛盾点・問題点を指摘して被疑者に釈明を求めるという方法で尋問が進められたが、これを「詰」と言った。それは被疑者が罪状を自認するまで行われるのが原則とされ、その後、他の関係者の証言との突き合わせという次の段階へと進むこととなる。

現代語訳

曹攄(そうちょ)は字を顔遠といい、譙國・譙の人である。祖父の曹肇(そうちょう)は、魏の衛将軍まで昇った。曹攄は若い頃から孝行者であり、学問を好み、文章が得意であった。太尉の王衍(おうえん)は曹攄を見て高く評価し、曹攄は臨淄令に任ぜられた。臨淄県にはある寡婦がいて、非常に勤勉に姑の世話を行っていた。姑は、その寡婦がまだ若いため、改めて他の家に嫁ぐことを勧めたが、寡婦は節操を守り、再婚しようとはしなかった。姑は寡婦を不憫に思い、人知れず自殺してしまった。親族はその寡婦が姑を殺したのだと役所に告発し、官吏がその寡婦を捕えて拷問して罪を認めるよう迫ったので、寡婦は苦しみに堪えられず、自分が殺したと、事実に反することを認めてしまった。まさに判決が確定されようというときに、ちょうど曹攄が到着した。曹攄は、きっと冤罪であろうということを察知し、改めて追究して処置し、真相をすべて究明したので、時の人々は曹攄の明察を称賛した。また、獄には死刑囚たちがいたが、除夜に曹攄が獄を訪れると、彼は死刑囚たちを憐れんで言った。「お前たちは不幸にもこのような監獄に入れられてしまったが、私にはもはやどうすることもできない。年始は人情として大事な時期であるから、必ずお前たちも、少しの間だけでも家の様子を見に帰りたいと思っているに違いない」と。死刑囚たちはみな涙を流して言った。「もし少しの間だけでも帰ることができれば、死んでも恨みはありません」と。そこで曹攄はすべての獄を開いて彼らを出し、期限を定めてその間だけ家に帰ることを許すことにした。掾(部局の長)や属吏たちは断固反対し、みなそれはいけないと言った。曹攄は言った。「彼らは小人であるとはいえ、義に背くことはしないであろう。諸君のために私が責任を負おう」と。そして期日になると、死刑囚たちは約束を守って戻り、違反する者は一人もいなかったので、県中の者は賛嘆して感服し、曹攄を「聖君」と呼んだ。やがて中央に戻って尚書郎となり、次いで洛陽令に転任し、仁恵深くて判断力に優れ、人々は曹攄に懐いた。雪が激しく降っていたある日、宮門にあった行馬(人馬通行止めのための木の柵)が夜のうちに無くなってしまう事件が起こった。多くの官吏たちが検問して調査したが、所在は分からなかった。そのような中、曹攄は門士を捕えさせたが、官吏たちはみな門士が犯人なはずはないと言った。曹攄は言った。「宮中への出入りの禁制は厳格であるので、外部の人間が盗めるようなものではない。きっとこれは門士が寒さをしのぐために行馬を焼いて暖を取ったに違いない」と。そこで門士を詰問すると、果たして罪を認めた。やがて曹攄は病を理由に官を退いたが、後にまた洛陽令に任ぜられた。
斉王の司馬冏(しばけい)が(恵帝から帝位を簒奪した司馬倫を打倒して)輔政の任に就くと、曹攄は左思と一緒にその大司馬府の記室督となった。司馬冏はあるとき、ゆったりと落ち着いた様子で曹攄に質問して言った。「天子(恵帝)が賊臣(司馬倫)に禅譲を迫られたとき、力の限りそれを阻止しようと立ち向かえた者はいなかったが、私は四海の義兵を率いて王室を復興した。今、京師に赴いて朝廷を輔政し、時の困難から国を助け興したが、人々の中には私に封国へ帰るべきだと勧める者もいる。そなたの意見としてはどうだ」と。曹攄は言った。「国賊を平定し、帝室を助けて復興したことについては、古今の人臣の中にも、大王の功績に勝る者はございません。ただ、(揚雄『長楊賦』などにも)道は興隆すれば必ず減退し、事物は盛んになれば必ず衰えると言いますが、これは必ずしも人の行いにのみよるというものではなく、また天の理でもあります。大王の下問をいただいたからには、どうして思いの限りを尽くさないことがありましょうか。どうか大王よ、高位にあっても警戒を怠らず、満たされた状態にあっても謙虚であることを忘れず、百官を精選し、私欲を棄てて公のことに心を注ぎ、賢人を推挙し善人を昇進させ、才能ある者を得ることに務められよ。そうして後に、車にあぶらを塗って馬にえさを与え、高揖の礼を行って別れを告げて藩国に帰れば、上下の者はみなことほぎ、私めらにとっても大変な幸いとなりましょう」と。司馬冏はそれを聞き容れなかった。曹攄はまもなく中書侍郎に転任したが、やがて長沙王の司馬乂(しばがい)によりその驃騎将軍府の司馬に任じられた。(八王の乱の最中に)司馬乂が敗れて殺されると、曹攄も官を罷免された。まもなく母が亡くなって喪に服した。恵帝の末年、再び起家して襄城太守に任ぜられた。時に襄城はしばしば賊の侵略を受けていたので、曹攄は赴任すると人々を安んじ懐けて整え治め、一か月程度で郡は回復した。
永嘉二年(三〇八)、高密王の司馬簡が襄陽に出鎮すると、曹攄をその征南大将軍府の司馬に任じた。その年、流民の王逌(おうゆう)らが人々を集めて武装化して冠軍(地名)に駐屯し、街や村を侵略した。司馬簡は、その参軍の崔曠(さいこう)を派遣してこれを討伐させ、また曹攄を派遣して崔曠を監督させた。崔曠は邪悪な人物であったので、曹攄を騙して前進して戦わせ、自分は後続となることを約束したが、そのまま兵を動かさなかった。そこで曹攄は単独で王逌と酈県で戦い、軍は敗れ曹攄は戦死した。曹攄の故吏や故民はみなその死を聞いて葬儀に参加しようと駆けつけ、まるで父母の葬儀に赴くかのように号泣しながら旅路に就いた。

潘京

原文

潘京、字世長、武陵漢壽人也。弱冠郡辟主簿、太守趙廞甚器之、嘗問曰「貴郡何以名武陵。」京曰「鄙郡本名義陵、在辰陽縣界、與夷相接、數爲所攻、光武時移東出、遂得全完、共議易號。傳曰止戈爲武、詩稱高平曰陵、於是名焉。」爲州所辟、因謁見問策、探得「不孝」字、刺史戲京曰「辟士爲不孝邪。」京舉版荅曰「今爲忠臣、不得復爲孝子。」其機辯皆此類。後太廟立、州郡皆遣使賀、京白太守曰「夫太廟立、移神主、應問訊、不應賀。」遂遣京作文、使詣京師、以爲永式。
京仍舉秀才、到洛。尚書令樂廣、京州人也、共談累日、深歎其才、謂京曰「君天才過人、恨不學耳。若學、必爲一代談宗。」京感其言、遂勤學不倦。時武陵太守戴昌亦善談論、與京共談、京假借之、昌以爲不如己、笑而遣之、令過其子若思、京方極其言論。昌竊聽之、乃歎服曰「才不可假。」遂父子俱屈焉。歴巴丘・邵陵・泉陵三令。京明於政術、路不拾遺。
遷桂林太守、不就、歸家、年五十卒。

訓読

潘京(はんけい)、字は世長、武陵漢壽の人なり。弱冠にして郡は主簿に辟(め)し、太守の趙廞(ちょうきん) 甚だ之を器とし、嘗て問いて曰く「貴郡は何を以てか武陵と名づく」と。京曰く「鄙郡は本と義陵と名づくも、辰陽の縣界に在り、夷と相い接し、數々(しばしば)攻むる所と爲るに、光武の時に移して東のかた出でしめ、遂に全完するを得たれば、共に議して號を易(か)う。傳には戈を止むるを武と爲すと曰(い)い、詩には高平を陵と曰うと稱すれば〔一〕、是に於いて焉(これ)を名づく」と。州の辟す所と爲り、謁見するに因りて問策するや〔二〕、探りて「不孝」の字を得たれば、刺史 京に戲れて曰く「辟士は不孝なるか」と。京 版〔三〕を舉げて荅えて曰く「今、忠臣たれば、復た孝子たるを得ず」と。其の機辯なること皆な此の類(たぐ)いなり。後に太廟立つや、州郡は皆な使を遣わして賀するも、京は太守に白(もう)して曰く「夫れ太廟立ち、神主を移すは、應に問訊すべきにして、應に賀すべからず」と。遂に京をして文を作らしめ、京師に詣(いた)らしめ、以て永式と爲す。
京 仍(よ)りて秀才に舉げられ、洛に到る。尚書令の樂廣は京の州人なれば、共に談(かた)ること累日、深く其の才を歎じ、京に謂いて曰く「君の天才は人に過ぐるも、恨むらくは學ばざることなるのみ。若し學ばば、必ず一代の談宗と爲らん」と。京 其の言に感じ、遂に學に勤めて倦まず。時に武陵太守の戴昌(たいしょう)も亦た談論を善くし、京と共に談(かた)るや、京 之に假借したれば、昌は以て己に如かずと爲し、笑いて之を遣り、其の子の若思を過(よぎ)らしむるに、京は方(まさ)に其の言論を極む。昌 竊(ひそ)かに之を聽き、乃ち歎服して曰く「才は假(か)るべからず」と。遂に父子俱に焉に屈す。巴丘・邵陵・泉陵三令を歴たり。京 政術に明るく、路に拾遺せず。
桂林太守に遷るも、就かず、家に歸り、年五十にして卒す。

〔一〕『詩』小雅・天保の毛伝では、『爾雅』釋地の「高平曰陸。大陸曰阜。大阜曰陵。」という文を引く。
〔二〕『藝文類聚』巻五・歲時下・社の条に引く『武陵先賢傳』によれば、「潘京爲州辟、進謁、値社會因得見、次及探得不孝。刺史問曰……。(潘京は州の辟すところと爲り、進謁するに、社會に値(あ)たりて因りて見(まみ)ゆるを得、次及ぶや、探りて『不孝』を得たり。刺史問いて曰く……)」とあり、ちょうど社の祭りがあって人が集まっており、潘京はそこで刺史に謁見し、みなで順々に占いをやっていたようである。
〔三〕目上の者に敬意を表すために官僚や士大夫が持つ儀礼用の板。「手板(手版)」とも言う。笏のようなもの。

現代語訳

潘京(はんけい)は字を世長といい、武陵郡・漢寿の人である。わずか二十歳前後の頃に早くも郡によって主簿に任ぜられ、武陵太守の趙廞(ちょうきん) は潘京を非常に高く評価し、かつて質問して言った。「君の郡はどうして『武陵』という名であるのか」と。潘京は言った。「我が郡はもともと『義陵』という名であり、郡治の義陵県は辰陽県の隣にあり、蛮夷の住む地域と接していたため、度々その攻撃を受けていたところ、後漢の光武帝の時代に郡治を東(の臨沅)に移動し、それによって郡を保全することができましたので、みなで議して名前を変えることにしました。『春秋左氏伝』には『「武」という字は戈(戦争)を止めるという意味である』とあり、『詩』(の毛伝)には『高く平らな地を「陵」と言う』とありますので、そこで『武陵』と名づけたのです」と。やがて潘京は荊州府により辟召され、謁見した際に筮竹による占いを行ったところ、「不孝」という結果が出たので、時の荊州刺史は潘京をからかって言った。「辟召した士は、なんと不孝者であったか」と。潘京は版を挙げて答えて言った。「今、忠臣であるからには、それでいてかつ孝子であることはできません(そもそも忠臣であることと孝子であることは両立できないものです)」と。潘京はこれらの例の如く、いつも機転を利かせてよく答弁した。後に(西晋の武帝が禅譲を受けて)太廟を新たに建てると、州郡はみな使者を派遣して祝賀したが、潘京は時の武陵太守に申し上げて言った。「そもそも太廟を建て、先祖の位牌をそこに移すことは、慰問するべきことであって、祝賀するべきことではありません」と。そこで潘京にその慰問の文を作らせ、それを京師(洛陽)に送ったところ、以後、それが慣例となった。
潘京はそれによって秀才に挙げられ、洛陽に到着した。(荊州・南陽郡出身の)尚書令の楽広は潘京の同州人であり、何日も一緒に語り、深く潘京の才を賛嘆し、彼に言った。「君の天賦の才能は常人より抜きん出ているが、学問を修めていないことが惜しまれる。もし学問すれば、必ず当代きっての談論者となろうに」と。潘京はその言葉に感じ入り、そこで学問に励んで飽きることがなかった。時に武陵太守の戴昌(たいしょう)もまた談論が得意であり、彼が潘京と一緒に談論したとき、潘京が彼に遠慮して調子を合わせて話したので、戴昌は潘京の才能は自分には及ばないと思い込み、笑って潘京を帰し、息子の戴若思を訪問させたが、潘京はそこでやっとその談論術を発揮した。戴昌はこっそりとそれを聞いていたが、そこで賛嘆・心服して言った。「才能を偽ることはできないのだ」と。そうして戴昌父子はともに潘京に屈した。やがて潘京は巴丘令・邵陵令・泉陵令を歴任した。潘京は政治の術に明るく、人々は道で落とし物を拾うことをしなくなった。
その後、潘京は桂林太守に昇進するも就任せず、家に帰り、五十歳で死んだ。

范晷

原文

范晷、字彦長、南陽順陽人也。少游學清河、遂徙家僑居。郡命爲五官掾、歴河内郡丞。太守裴楷雅知之、薦爲侍御史。調補上谷太守、遭喪、不之官。後爲司徒左長史、轉馮翊太守、甚有政能、善於綏撫、百姓愛悅之。徴拜少府、出爲涼州刺史、轉雍州。于時西土荒毀、氐羌蹈藉、田桑失收、百姓困弊、晷傾心化導、勸以農桑、所部甚賴之。元康中、加左將軍、卒於官。二子廣・稚。
廣、字仲將。舉孝廉、除靈壽令、不之官。姊適孫氏、早亡、有孫名邁、廣負以南奔、雖盜賊艱急、終不棄之。元帝承制、以爲堂邑令。丞劉榮坐事當死、郡劾以付縣。榮即縣人、家有老母、至節、廣輒聽暫還、榮亦如期而反。縣堂爲野火所及、榮脫械救火、事畢、還自著械。後大旱、米貴、廣散私穀振饑人至數千斛、遠近流寓歸投之、戸口十倍。卒於官。
稚少知名、辟大將軍掾、早卒。子汪、別有傳。

訓読

范晷(はんき)、字は彦長、南陽順陽の人なり。少(わか)くして清河に游學し、遂に家を徙(うつ)して僑居す。郡 命じて五官掾と爲し、河内郡の丞を歴(へ)たり。太守の裴楷(はいかい)は雅(もと)より之を知りたれば、薦められて侍御史と爲る。上谷太守に調補せらるるも、喪に遭いたれば、官に之(ゆ)かず。後に司徒左長史と爲り、馮翊太守に轉じ、甚だ政能有り、綏撫を善くし、百姓 之を愛悅す。徴されて少府を拜し、出でて涼州刺史と爲り、雍州に轉ず。時に西土は荒毀し、氐羌は蹈藉し、田桑は收を失い、百姓は困弊したれば、晷 心を化導に傾け、勸むるに農桑を以てし、部する所 甚だ之を賴る。元康中、左將軍を加えられ、官に卒す。二子あり、廣と稚。
廣、字は仲將。孝廉に舉げられ、靈壽令に除せらるるも、官に之かず。姊は孫氏に適(とつ)ぐも、早くに亡(う)せ、孫有りて名は邁(ばい)、廣 負いて以て南のかた奔り、盜賊艱急ありと雖も、終に之を棄(す)てず。元帝の承制するや、以て堂邑令と爲す。丞の劉榮は事に坐して死に當てられ、郡 劾して以て縣に付す。榮は即ち縣人にして、家に老母有り、至節なれば、廣 輒(みだ)りに暫(しばら)く還るを聽(ゆる)し、榮も亦た期の如くして反(かえ)る。縣堂の野火の及ぶ所と爲るや、榮 械を脫して火を救い、事畢(お)わるや、還りて自ら械を著(つ)く。後に大いに旱し、米貴(たか)ければ、廣 私穀を散じて饑人を振(すく)うこと數千斛に至り、遠近の流寓は之に歸投し、戸口は十倍す。官に卒す。
稚は少くして名を知られ、大將軍掾に辟(め)され、早くに卒す。子の汪、別に傳有り。

現代語訳

范晷(はんき)は字を彦長といい、南陽国(南陽郡)・順陽の人である。若い頃に清河に遊学し、そのまま家をそこに移して仮住まいするようになった。やがて南陽郡府によりその五官掾に任じられ、やがて河内郡の丞となった。河内太守の裴楷(はいかい)はもともと范晷のことを知っており、その推薦により侍御史に任じられた。やがて上谷太守に任じられたが、喪に服すこととなったので、就任しなかった。後に司徒府の左長史となり、次いで馮翊太守に転任し、非常に政治に有能で、上手く人々をなだめ安んじたので、人々は范晷を愛しその統治を喜んだ。徴召されて少府に任じられ、地方に出て涼州刺史となり、やがて雍州刺史に転任した。時に西方の地は荒れ果て、氐族や羌族によって踏みにじられ、農業や桑業による収穫は無くなり、人々は困窮していたので、范晷は心を教化・教導に傾け、農耕と蚕業を奨励し、その治下の雍州の人々は范晷を非常に頼りにした。恵帝の元康年間に左将軍の位を加えられ、その在任中に死んだ。范晷には二人の子がいて、范広と范稚という名であった。
范広は字を仲将と言った。孝廉に挙げられ、霊寿令に任じられたが、就任しなかった。姉は孫氏に嫁いでいたが、早くに亡くなり、(八王の乱・永嘉の乱の混乱の中で)その孫である幼児の孫邁(そんばい)が残されてしまったので、范広は孫邁を背負って南に逃れ、盗賊の襲撃などの困難があっても最後まで孫邁を捨てなかった。元帝(東晋の創始者・司馬睿)が(晋王を称し)天子の命を受けて国政を総裁するようになると、范広は堂邑令に任ぜられた。堂邑県丞の劉栄は死刑に当たる罪に問われ、堂邑郡は劉栄を弾劾して堂邑県に身柄を委ねた。劉栄は范広の同県人であり、家に老母がいて、劉栄自身は非常に節操高い人物であったので、范広は独断で少しの間だけ家に帰ることを許し、劉栄もまた約束の期日通りに戻ってきた。野火が起こって県の建物にまで及ぶと、劉栄は械(かせ)を外して火消しを行い、事が済むと、戻って自分から械をはめた。後に大旱魃が起こり、米価が高騰すると、 范広は私有の穀物を飢餓する人々に分け与えて救ったが、その量は数千斛に至り、遠近の流人たちは范広に身を寄せて帰服し、戸口は十倍になった。その後、在任のまま死んだ。
范稚は若い頃より名を知られ、やがて大将軍府の掾に辟召されたが、早くに死んでしまった。その子の范汪は、別に(『晋書』巻七十五に)伝を立ててある。

丁紹

原文

丁紹、字叔倫、譙國人也。少開朗公正、早歴清官。爲廣平太守、政平訟理、道化大行。于時河北騷擾、靡有完邑、而廣平一郡四境乂安、是以皆悅其法而從其令。及臨漳被圍、南陽王模窘急、紹率郡兵赴之、模賴以獲全。模感紹恩、生爲立碑。遷徐州刺史、士庶戀慕、攀附如歸。未之官、復轉荊州刺史。從車千乘、南渡河至許。時南陽王模爲都督、留紹、啟轉爲冀州刺史。到鎭、率州兵討破汲桑有功、加寧北將軍・假節・監冀州諸軍事。時境内羯賊爲患、紹捕而誅之、號爲嚴肅、河北人畏而愛之。
紹自以爲、才足爲物雄、當官莅政、毎事剋舉、視天下之事若運於掌握。遂慨然有董正四海之志矣。是時王浚盛於幽州、苟晞盛於青州、然紹視二人蔑如也。永嘉三年、暴疾而卒、臨終歎曰「此乃天亡冀州。豈吾命哉。」懷帝策贈車騎將軍。

訓読

丁紹、字は叔倫、譙(しょう)國の人なり。少(わか)くして開朗公正、早くに清官を歴たり。廣平太守と爲るや、政は平らかにして訟は理(おさ)まり、道化 大いに行わる。時に河北は騷擾し、完邑有る靡(な)きも、而れども廣平の一郡は四境 乂安なれば、是を以て皆な其の法を悅びて其の令に從う。臨漳(りんしょう)の圍まるるに及び、南陽王の模は窘急なるも、紹 郡兵を率いて之に赴きたれば、模は賴りて以て全きを獲たり。模 紹の恩に感じ、生きながらにして爲に碑を立つ。徐州刺史に遷るや、士庶 戀慕し、攀附すること歸るが如し。未だ官に之かざるに、復た荊州刺史に轉ず。從車千乘、南のかた河を渡りて許に至る。時に南陽王の模は都督と爲り〔一〕、紹を留めんとし、啟(もう)して轉じて冀州刺史と爲す。鎭に到るや、州兵を率いて討ちて汲桑(きゅうそう)を破りて功有り、寧北將軍・假節〔二〕・監冀州諸軍事を加えらる。時に境内は羯賊 患いと爲るも、紹 捕えて之を誅したれば〔三〕、號して嚴肅と爲し、河北の人は畏れて之を愛す。
紹 自ら以爲(おも)えらく、才は物雄たるに足り、官に當たりて政に莅(のぞ)むや、事ある毎に剋舉したれば、天下の事を視ること掌握に運ぶが若し、と。遂に慨然として四海を董正するの志有り。是の時、王浚(おうしゅん)は幽州に盛んにして、苟晞(こうき)は青州に盛んなるも、然るに紹は二人を視(くら)ぶること蔑如たりとす。永嘉三年、暴(にわ)かに疾(や)みて卒し、臨終にて歎じて曰く「此れ乃ち天 冀州を亡ぼすなり。豈に吾が命ならんや」と。懷帝 策して車騎將軍を贈る。

〔一〕『晉書』巻五・孝懷帝紀・永嘉元年(三〇七)三月庚辰の条によれば、司馬模はこのとき「征西大将軍・都督秦雍梁益四州諸軍事」となり、長安を鎮守することなった。
〔二〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔三〕後に後趙を建国する石勒は羯人であり、上文にある汲桑とともに反乱を起こしていたが、ともに丁紹に敗れた。そのとき、石勒は無事に逃れることができたが、汲桑は捕えられて斬られた。この文は、その出来事を指す。

現代語訳

丁紹は、字を叔倫といい、譙(しょう)国の人である。若い頃から開放的で朗らかであり、また公正であって、早くに清官を歴任した。広平太守となると、政治は公平で裁判はよく治まり、教化は大いに広まった。時に河北は動乱の中にあって、無事な城邑は無かったが、ただ広平の一郡のみはいずれの場所も泰平であったので、それによってみな丁紹の法を喜び、その命令に従った。臨漳(りんしょう)(鄴の新名)が敵に包囲されると、そこを鎮守していた南陽王の司馬模は窮地に陥ったが、丁紹が郡兵を率いて救援に向かうと、司馬模はそれを頼りに事無きを得た。司馬模は丁紹の恩に感じ入り、生前であるにも関わらず丁紹のために碑を立てた。やがて丁紹が徐州刺史に昇進すると、士人も庶民も丁紹を仰ぎ慕い、まるで家に帰るかのように帰服した。徐州刺史として赴任する前に、さらに荊州刺史に転任となった。その道のりにおいて従車は千乗にも上り、南のかた黄河を渡って(司馬模の鎮守する)許に到着した。時に南陽王の司馬模は都督とな(って西方を鎮守することにな)り、丁紹を東方に留めようとし、上奏して願い出て丁紹を冀州刺史に転任させた。鎮所に到着すると、丁紹は冀州の兵を率いて賊の汲桑(きゅうそう)を討伐して破り、その功績によって「寧北将軍・仮節・監冀州諸軍事」の肩書きを加えられた。時に冀州の領内は羯族の反乱軍が憂いとなっていたが、丁紹は彼らを捕えて誅殺したので、厳粛であると称せられ、河北の人は丁紹を畏れる一方で敬愛した。
丁紹は、自分の才能は雄傑であるに足り、官に当たって政治に臨み、事ある毎に思惑通りに成功を収めてきたので、天下の事は掌中に転がすように何もかもが分かる、と自らを評していた。そこで心を奮わせ、四海を正さんとの志を抱いた。この時、王浚(おうしゅん)が幽州の地で盛んであり、苟晞(こうき)が青州の地で盛んであったが、丁紹は二人を自分と比べて劣るものと見なしていた。しかし、永嘉三年(三〇九)、丁紹は急に病気になって死んでしまい、臨終に際して嘆いて言った。「これは天が冀州を滅ぼそうとしているのである。どうして私の命運によるものであろうか」と。懐帝は策書を下して丁紹に車騎将軍の位を追贈した。

喬智明

原文

喬智明、字元達、鮮卑前部人也。少喪二親、哀毀過禮、長而以德行著稱。成都王穎辟爲輔國將軍。穎之敗趙王倫也、表智明爲殄寇將軍・隆慮・共二縣令。二縣愛之、號爲「神君」。部人張兌爲父報仇、母老單身、有妻無子、智明愍之、停其獄。歲餘、令兌將妻入獄、兼陰縱之。人有勸兌逃者、兌曰「有君如此、吾何忍累之。縱吾得免、作何面目視息世間。」於獄産一男。會赦、得免。其仁感如是。
惠帝之伐鄴也、穎以智明爲折衝將軍・參丞相前鋒軍事。智明勸穎奉迎乘輿、穎大怒曰「卿名曉事、投身事孤。主上爲羣小所逼、將加非罪於孤、卿奈何欲使孤束手就刑邪。共事之義、正若此乎。」智明乃止。尋屬永嘉之亂、仕於劉曜。

訓読

喬智明(きょうちめい)、字は元達、鮮卑前部の人なり。少(わか)くして二親を喪(うしな)うや、哀毀すること禮に過ぎ、長じて德行を以て稱を著す。成都王の穎(えい) 辟(め)して輔國將軍と爲す。穎の趙王倫を敗るや、智明を表して殄寇將軍、隆慮・共二縣令と爲す。二縣 之を愛し、號して「神君」と爲す。部人の張兌(ちょうたい) 父の爲に仇を報ずるも、母は老いて單身、妻有るも子無ければ、智明 之を愍(あわ)れみ、其の獄を停(や)む。歲餘、兌をして妻を將(ともな)いて獄に入れしめ、兼ねて陰(ひそ)かに之を縱(ゆる)さんとす。人に兌に逃れんことを勸むる者有るも、兌曰く「君の此(か)くの如き有るに、吾 何ぞ之を累(わずら)わすに忍びんや。縱(たと)い吾 免るるを得とも、何の面目を作(な)してか世間に視息せん」と。獄に於いて一男を産む。赦に會い、免るるを得たり。其の仁の感ずること是(か)くの如し。
惠帝の鄴を伐つや、穎 智明を以て折衝將軍・參丞相前鋒軍事と爲す。智明 穎に乘輿を奉迎せんことを勸むるも、穎 大いに怒りて曰く「卿は名ありて事を曉(さと)り、身を投じて孤に事(つか)う。主上は羣小の逼(せま)る所と爲り、將に孤に非罪を加えんとするに、卿は奈何ぞ孤をして束手して刑に就かしめんと欲するや。共事の義、正に此(か)くの若けんや」と。智明 乃ち止む。尋(つ)いで永嘉の亂に屬(およ)ぶや、劉曜に仕う。

現代語訳

喬智明(きょうちめい)は字を元達といい、鮮卑前部の人である。若い頃に両親を失い、哀しみのあまり身をやつす様子は常礼を逸しており、成長すると徳行によって名が聞こえるようになった。成都王の司馬穎(しばえい)は喬智明を辟召して輔国将軍とした。司馬穎は趙王の司馬倫を破ると、上表して喬智明を殄寇将軍に任じ、隆慮県・共県の二県令を兼ねさせた。二県の人々は喬智明を愛し、「神君」と呼んだ。管轄下の地の人である張兌(ちょうたい)は、父のために仇討ちをしたが、その母は年老いて単身であり、妻がいたものの子はいなかったので、喬智明は張兌を憐れみ、その裁判を中止した。一年余り後、張兌に妻を連れて獄に入らせ、その一方でこっそり張兌を見逃そうとした。そこで張兌に脱走することを勧める者がいたが、張兌は言った。「このような君(喬智明)がいらっしゃるというのに、私はどうして(脱走を許したということで)喬君に迷惑をかけられようか。たとえそうして私が罪を免れたとしても、何の面目があって世間で生きていられようか」と。そのまま獄中で男子一人を産んだ。ちょうど恩赦に遭い、免れることができた。喬智明の仁徳は、このように人々を感化したのであった。
(東海王の司馬越に擁された)恵帝が鄴を鎮守する司馬穎を征伐しに出軍すると、司馬穎は喬智明を「折衝将軍・参丞相前鋒軍事(丞相つきの前鋒を担う参軍事)」に任じた。喬智明は司馬穎に天子を奉迎することを勧めたが、司馬穎は大いに怒って言った。「そなたは名声があり物事をよく理解し、身を投じて私に仕えた。陛下は小人たちに迫られ、私に謂われ無き罪を押し付けようとしているのに、そなたはどうして私に大人しく刑に服させようとするのか。事を共にする信義というのは、こんなものであってよいものだろうか」と。そこで喬智明は主張をやめた。まもなく永嘉の乱が起こり、喬智明は(前趙の)劉曜に仕えた。

鄧攸

原文

鄧攸、字伯道、平陽襄陵人也。祖殷、亮直彊正。鍾會伐蜀、奇其才、自黽池令召爲主簿。賈充伐吳、請殷爲長史。後授皇太子詩、爲淮南太守。夢行水邊、見一女子、猛獸自後斷其盤囊。占者以爲「水邊有女、汝字也。斷盤囊者、新獸頭代故獸頭也。不作汝陰、當汝南也。」果遷汝陰太守。後爲中庶子。
攸七歲喪父、尋喪母及祖母、居喪九年、以孝致稱。清和平簡、貞正寡欲。少孤、與弟同居。初、祖父殷有賜官、敕攸受之。後太守勸攸去王官、欲舉爲孝廉、攸曰「先人所賜、不可改也。」嘗詣鎭軍賈混、混以人訟事示攸、使決之。攸不視曰「孔子稱『聽訟、吾猶人也。必也使無訟乎。』」混奇之、以女妻焉。舉灼然二品、爲吳王文學、歴太子洗馬・東海王越參軍。越欽其爲人、轉爲世子文學・吏部郎。越弟騰爲東中郎將、請攸爲長史。出爲河東太守。
永嘉末、沒于石勒。然勒宿忌諸官長二千石、聞攸在營、馳召、將殺之。攸至門、門幹乃攸爲郎時幹、識攸、攸求紙筆作辭。幹候勒和悅、致之。勒重其辭、乃勿殺。勒長史張賓先與攸比舍、重攸名操、因稱攸于勒。勒召至幕下、與語、悅之、以爲參軍、給車馬。勒毎東西、置攸車營中。勒夜禁火、犯之者死。攸與胡鄰轂、胡夜失火燒車。吏按問、胡乃誣攸。攸度不可與爭、遂對以弟婦散發溫酒爲辭。勒赦之。既而胡人深感、自縛詣勒以明攸、而陰遺攸馬驢、諸胡莫不歎息宗敬之。
石勒過泗水、攸乃斫壞車、以牛馬負妻子而逃。又遇賊、掠其牛馬、步走、擔其兒及其弟子綏。度不能兩全、乃謂其妻曰「吾弟早亡、唯有一息、理不可絕。止應自棄我兒耳。幸而得存、我後當有子。」妻泣而從之、乃棄之。其子朝棄而暮及。明日、攸繫之於樹而去。
至新鄭、投李矩。三年將去、而矩不聽、荀組以爲陳郡・汝南太守、愍帝徴爲尚書左丞・長水校尉、皆不果就。後密捨矩去、投荀組於許昌、矩深恨焉、久之、乃送家屬還攸。攸與刁協・周顗素厚、遂至江東。元帝以攸爲太子中庶子。時吳郡闕守、人多欲之、帝以授攸。攸載米之郡、俸祿無所受、唯飲吳水而已。時郡中大饑、攸表振貸、未報、乃輒開倉救之。臺遣散騎常侍桓彝・虞𩦎慰勞饑人、觀聽善不、乃劾攸以擅出穀。俄而有詔原之。攸在郡刑政清明、百姓歡悅、爲中興良守。後稱疾去職。郡常有送迎錢數百萬、攸去郡、不受一錢。百姓數千人留牽攸船、不得進、攸乃小停、夜中發去。吳人歌之曰「紞如打五鼓、鷄鳴天欲曙。鄧侯拖不留、謝令推不去。」百姓詣臺乞留一歲、不聽。拜侍中。歲餘、轉吏部尚書。蔬食弊衣、周急振乏。性謙和、善與人交、賓無貴賤、待之若一、而頗敬媚權貴。
永昌中、代周顗爲護軍將軍。太寧二年、王敦反、明帝密謀起兵、乃遷攸爲會稽太守。初、王敦伐都之後、中外兵數毎月言之於敦。攸已出在家、不復知護軍事、有惡攸者、誣攸尚白敦兵數。帝聞而未之信、轉攸爲太常。時帝南郊、攸病不能從。車駕過攸問疾、攸力病出拜。有司奏攸不堪行郊而拜道左、坐免。攸毎有進退、無喜慍之色。久之、遷尚書右僕射。咸和元年卒。贈光祿大夫、加金章紫綬、祠以少牢。
攸棄子之後、妻不復孕。過江、納妾、甚寵之。訊其家屬、說是北人遭亂。憶父母姓名、乃攸之甥。攸素有德行、聞之感恨、遂不復畜妾、卒以無嗣。時人義而哀之、爲之語曰「天道無知、使鄧伯道無兒。」弟子綬服攸喪三年。

訓読

鄧攸(とうゆう)、字は伯道、平陽襄陵の人なり。祖の殷は、亮直彊正。鍾會 蜀を伐つや、其の才を奇とし、黽池令より召して主簿と爲ず。賈充 吳を伐つや、殷を請いて長史と爲す。後に皇太子に詩を授け、淮南太守と爲る。夢に水邊に行き、一女子を見、猛獸 後ろより其の盤囊を斷つ。占者以爲(おも)えらく「水邊に女有るは、汝の字なり。盤囊を斷つは、新獸の頭の故獸の頭に代わるなり〔一〕。汝陰と作(な)らずんば、當に汝南たるべし」と。果たして汝陰太守に遷る。後に中庶子と爲る。
攸は七歲にして父を喪(うしな)い、尋(つ)いで母及び祖母を喪い、喪に居ること九年、孝を以て稱を致す。清和にして平簡、貞正にして寡欲。少(わか)くして孤たり、弟と同居す。初め、祖父の殷に賜官有れば、攸に敕して之を受けしむ。後に太守は攸に王官を去らんことを勸め、舉げて孝廉と爲さんと欲するも、攸曰く「先人の賜いし所、改むべからざるなり」と。嘗て鎭軍の賈混(かこん)に詣(いた)るや、混は人の訟事を以て攸に示し、之を決せしむ。攸 視ずして曰く「孔子 稱すらく『訟を聽くは、吾 猶お人のごとし。必ずや訟無からしめんか』と」と。混 之を奇とし、女を以て焉(これ)に妻(めあわ)す。灼然二品に舉げられ、吳王の文學と爲り、太子洗馬・東海王越の參軍を歴(へ)たり。越 其の爲人(ひととなり)を欽(つつ)しみ、轉じて世子の文學・吏部郎と爲る。越の弟の騰の東中郎將と爲るや、攸を請いて長史と爲す。出でて河東太守と爲る。
永嘉の末、石勒に沒せらる。然(しか)して勒は宿(もと)より諸官長二千石を忌みたれば、攸の營に在るを聞くや、馳召し、將に之を殺さんとす。攸の門に至るや、門幹は乃ち攸の郎たりし時の幹にして、攸を識りたれば、攸は紙筆を求めて辭を作る。幹 勒の和悅するを候(うかが)い、之を致す。勒 其の辭を重んじ、乃ち殺すこと勿(な)し。勒の長史の張賓(ちょうひん) 先に攸と舍を比(なら)べ、攸の名操を重んじたれば、因りて攸を勒に稱(あ)ぐ。勒 召して幕下に至らしめ、與(とも)に語り、之を悅び、以て參軍と爲し、車馬を給す。勒 東西する毎に、攸を車營中に置く。勒 夜に火を禁じ、之を犯す者は死とす。攸 胡と鄰轂したるに、胡 夜に失火して車を燒く。吏の按問するや、胡は乃ち攸を誣す。攸 與(とも)に爭うべからずと度(はか)り、遂に對(こた)うるに弟の婦の溫酒を散發するを以て辭と爲す。勒 之を赦す。既にして胡人 深く感じ、自ら縛りて勒に詣りて以て攸を明らかにし、而して陰(ひそ)かに攸に馬驢を遺(おく)りたれば、諸胡 歎息して之を宗敬せざるは莫し。
石勒の泗水を過ぎるや、攸は乃ち車を斫壞し、牛馬を以て妻子を負わしめて逃ぐ。又た賊に遇い、其の牛馬を掠(かす)めたれば、步にて走り、其の兒及び其の弟の子の綏(すい)を擔う。兩つながら全(まった)くすること能わずと度り、乃ち其の妻に謂いて曰く「吾が弟は早くに亡(う)せ、唯だ一息有るのみなれば、理として絕やすべからず。止(た)だ應に自ら我が兒を棄(す)つべきのみ。幸いにも存するを得ば、我 後に當に子有るべし」と。妻 泣きて之に從い、乃ち之を棄つ。其の子 朝に棄てらるるも暮に及ぶ。明日、攸 之を樹に繫ぎて去る。
新鄭に至り、李矩(りく)に投ず。三年にして將に去らんとするも、而れども矩は聽(ゆる)さざれば、荀組 以て陳郡・汝南太守と爲し、愍帝 徴(め)して尚書左丞・長水校尉と爲すも、皆な就くを果たさず。後に密かに矩を捨てて去り、荀組に許昌に投じたれば、矩は深く焉(これ)を恨むも、之を久しくして、乃ち家屬を送りて攸に還す。攸 刁協(ちょうきょう)・周顗(しゅうぎ)と素より厚ければ、遂に江東に至る。元帝 攸を以て太子中庶子と爲す。時に吳郡は守を闕(か)き、人 多く之を欲したるに、帝 以て攸に授く。攸 米を載(たずさ)えて郡に之(ゆ)き、俸祿 受くる所無く、唯だ吳水を飲むのみ。時に郡中は大いに饑(う)えたれば、攸 振貸せんことを表するも、未だ報ぜざるに、乃ち輒(みだ)りに倉を開きて之を救う。臺〔二〕の散騎常侍の桓彝(かんい)・虞𩦎(ぐひ)を遣わして饑人を慰勞し、善不を觀聽せしむるや、乃ち攸を劾するに擅(ほしいまま)に穀を出だすを以てす。俄かにして詔有りて之を原(ゆる)す。攸は郡に在りて刑政 清明、百姓 歡悅し、中興の良守と爲す。後に疾と稱して職を去る。郡 常に送迎錢數百萬有るも、攸 郡を去るに、一錢も受けず。百姓數千人 攸の船を留牽し、進むを得ざれば、攸は乃ち小々(やや)停まり、夜中に發去す。吳人 之を歌いて曰く「紞如として五鼓を打ち、鷄鳴きて天 曙(あ)けんと欲す。鄧侯は拖(ひ)きて留まらず、謝令は推して去らず〔三〕」と。百姓 臺に詣りて留めんこと一歲なるを乞うも、聽かれず。侍中を拜す。歲餘、吏部尚書に轉ず。蔬食弊衣にして、急を周(すく)い乏を振(すく)う。性 謙和にして、善く人と交わり、賓に貴賤無く、之を待するに一の若く、而して頗る權貴に敬媚す。
永昌中、周顗に代わりて護軍將軍と爲る。太寧二年、王敦の反するや、明帝は密かに起兵せんことを謀り、乃ち攸を遷して會稽太守と爲す。初め、王敦の都を伐つの後、中外の兵數 月毎に之を敦に言う。攸 已に出でて家に在り、復た護軍の事を知せざるも、攸を惡(にく)む者有り、攸は尚お敦に兵數を白すと誣す。帝 聞きて未だ之を信ぜず、攸を轉じて太常と爲す。時に帝 南郊するも、攸は病みて從う能わず。車駕の攸を過(よぎ)りて疾を問うや、攸は力病して出でて拜す。有司は攸は郊に行くに堪えずして道左に拜せりと奏し、坐して免ぜらる。攸 進退有る毎に、喜慍の色無し。之を久しくして、尚書右僕射に遷る。咸和元年に卒す。光祿大夫を贈り、金章紫綬を加え、祠(まつ)るに少牢を以てす。
攸の子を棄つるの後、妻は復た孕まず。江を過ぐるや、妾を納(い)れ、甚だ之を寵す。其の家屬を訊(と)うや、是れ北人にして亂に遭うと説(い)う。父母の姓名を憶(おぼ)えたるに、乃ち攸の甥なり。攸 素より德行有れば、之を聞きて感恨し、遂に復た妾を畜(い)れず、卒(つい)に以て嗣無し。時人は義として之を哀れみ、之が爲に語りて曰く「天道は無知にして、鄧伯道をして兒無からしむ」と。弟の子の綏(すい) 攸の喪に服すること三年。

〔一〕当時の革袋には、獣の頭の文様があしらわれていた。その獣の頭の文様を後ろから猛獣が切り裂いたということは、獣の「頭」が新たに代わること、すなわち長官が代わることを意味すると占者は解いたのである。
〔二〕「臺司」「臺輔」は三公などの宰相を指し、「臺省」「臺官」は尚書臺もしくは尚書臺官を指すが、「臺中」「臺閣」となると中央政府のことを象徴的に表わす場合もあった。「臺」一字だといずれとも判断しがたいが、今回は仮に三者目の解釈を取った。
〔三〕『册府元龜』巻六八二・遺愛・鄧攸の条に附せられた原注によれば、「謝令」は人名であるが、その名前はすでに北宋代には分からなくなってしまっていたという。これに従えば、「謝令」は「謝」という姓で、「令」と呼ばれる職に就いていた人物となる。

現代語訳

鄧攸(とうゆう)は字を伯道といい、平陽郡・襄陵の人である。祖父の鄧殷は、誠実かつ正直で、剛正でおもねらない性格であった。鍾会は蜀を討伐する際に、鄧殷の才を高く評価し、黽池令だったところを申請して招いてその(鎮西将軍府の)主簿とした。賈充が呉を討伐するときには、奏請して鄧殷をその(太尉府の)長史とした。鄧殷は後に皇太子に『詩(詩経)』を教授し、やがて淮南太守となった。あるとき次のような夢を見た。水辺に行くと、一人の女子がいて、その後ろから猛獣が女子の革袋を引き裂いた、というものだった。その夢解きをしてもらったところ、占者は以下のように解釈した。「水辺に女がいたというのは、すなわち『汝』という字を表わしています。猛獣が後ろから革袋を引き裂いたというのは、新たな獣の頭が、もとの獣の頭に取って代わるということ(すなわち「頭」が入れ代わること)を指します。きっとあなたは汝陰太守となるか、そうでなければ汝南太守となるでしょう」と。果たして鄧殷は汝陰太守に昇進した。鄧殷は後に太子中庶子となった。
鄧攸は七歲で父を亡くし、まもなく母と祖母をも亡くし、九年間に渡って喪に服し、孝行者であると称えられた。性格は清廉かつ穏和で親しみやすく、節操が固く方正で寡欲であった。若くして孤児となった後は、弟と同居していた。初め、祖父の鄧殷は封邑を賜り、その封国に官を置くことを許されており、鄧殷に命じてこの封国の官に任じた。後に平陽太守はその封邑の官職を辞任することを鄧攸に勧め、孝廉に挙げ(て勅任官にさせ)ようとしたが、鄧攸は言った。「先人に賜ったものを、改めることはできません」と。かつて鄧攸が鎮軍将軍の賈混(かこん)のもとを訪れたところ、賈混は他人のある訴訟に関しての書類を鄧攸に示し、これを解決させようとした。鄧攸はそれを見ずに言った。「(『論語』顔淵篇などにおける)孔子の言葉に『訴訟を処理する能力は、私は他人と同じである。ただ違うのは、きっとそもそも訴訟が起こることが無いようにさせていることであろうよ』というものがあります」と。賈混は鄧攸を高く評価し、娘を鄧攸に娶わせた。やがて鄧攸は「灼然二品」(「灼然」としての郷品二品)を与えられ、呉王の文学(官名)となり、太子洗馬や東海王の司馬越の参軍を歴任した。司馬越はその為人(ひととなり)を尊敬し、世子(王の跡継ぎ)の文学・吏部郎に転任させた。司馬越の弟の司馬騰が東中郎将となると、司馬騰は奏請して鄧攸を東中郎将府の長史に任じた。やがて河東太守に転出した。
懐帝の永嘉年間の末になると、鄧攸は(後趙の創始者である)石勒の軍に捕えられてしまった。石勒はもともと諸々の官長や二千石の官(太守など)を憎んでおり、鄧攸が営中にいるということを聞くと、急ぎ呼び出し、鄧攸を殺そうとした。鄧攸が營門に到着すると、門番はなんと鄧攸が郎であったときに門番を務めていた者であり、鄧攸のことを知っていたので、鄧攸は紙と筆を求めて文書をしたためた。その門番は、石勒の機嫌が良いときを見計らって、この文書を石勒に提出した。石勒はその文書の言葉を重んじ、そこで殺すことをやめた。石勒の長史の張賓(ちょうひん)は、以前、鄧攸と住居が隣り合っており、鄧攸の名声と節操を重んじていたので、そのため鄧攸を石勒に推薦した。石勒は鄧攸を幕下に呼び出し、ともに語り、鄧攸の人柄を喜び参軍に任じ、車馬を支給した。石勒は東や西へ征伐に向かうたびに、鄧攸を車営(車を連ねて作った営)の中に置いた。石勒は夜に火を起こすことを禁じ、違反者は死罪としていた。鄧攸の車は、ある胡人の車と隣り合っていたが、その胡人は夜に失火して車を焼いてしまった。官吏が取り調べを行うと、その胡人はあろうことか、これは鄧攸がやったことだと誣告した。鄧攸は、ここで争い合うべきではないと考え、その誣告に合わせて、弟の嫁が温酒を出そうとして失火したと答えて弁明とした。すると、石勒は鄧攸を赦した。まもなくその胡人は深く感じ入り、自ら縛って石勒のもとに出頭して鄧攸の無実を証明し、そして、ひそかにその財産たる馬やロバを鄧攸に贈ったので、諸々の胡人たちはみな嘆息して鄧攸を尊敬した。
石勒が泗水を渡ると、鄧攸はそこで自分の車を斬り壊し、牛馬に妻子を背負わせて逃走した。さらに賊に遭遇し、牛馬を略奪されたので、徒歩で逃げ、自分の幼子と弟の子の鄧綏(とうすい)を背負った。しかし、このままでは二人とも救うことはできないと考え、そこで妻に言った。「私の弟は早くに亡くなり、ただこの一人息子がいるだけなので、道理として後を絶やしてはならない。我らの子を捨てるしかないのだ。幸いにも我々が生き延びることができれば、その後にきっと子をもうけよう」と。妻は泣いてそれに従い、そこで彼らは自分たちの子を置き去りにした。その幼子は朝に捨てられたが、両親を追いかけて暮になって追いついた。そこで明日、鄧攸はその幼子を樹にくくりつけて去った。
新鄭に辿り着くと、(群雄の)李矩(りく)のもとに身を寄せた。三年が経ち、鄧攸は李矩のもとを去ろうとしたが、李矩がそれを許さなかったので、(東晋政権の司馬睿を盟主に推戴した)荀組が鄧攸を陳郡太守・汝南太守に任じようとしても、あるいは(西晋の残存勢力である)愍帝が徴召して尚書左丞・長水校尉に任じようとしても、どれも就任することができなかった。後にこっそりと李矩を見限って去り、許昌において荀組に身を寄せたので、李矩は鄧攸を深く恨んだが、しばらくすると家族を鄧攸のもとに送り帰した。鄧攸は(司馬睿の東晋政権の)刁協(ちょうきょう)・周顗(しゅうぎ)らともともと親交が厚かったので、そのまま江東に赴いた。元帝(司馬睿)は鄧攸を太子中庶子に任じた。時に呉郡の太守が欠員となり、多くの者がその地位を望んだが、元帝は呉郡太守の官職を鄧攸に授けた。鄧攸は(自分と家族の今後の食用の)米を携えて郡に赴任し、俸禄を受けず、(自分で持参した米以外は)ただ呉郡の水を飲んだだけであった。時に呉郡の人々は大いに飢餓していたので、鄧攸は官府の食糧を分け与えて救うことを上表したが、まだ返事が無いうちに、なんと独断で倉を開いて人々を救った。中央政府が散騎常侍の桓彝(かんい)・虞𩦎(ぐひ)を派遣して飢餓する人々を慰労し、官吏の善悪を調査させたとき、そこで鄧攸は勝手に穀物を放出したとして弾劾された。しかし、にわかに詔が下されて鄧攸は赦された。鄧攸は呉郡の太守としてその刑罰や政治は清らかで公明であり、人々は喜び、鄧攸は中興の名太守であると称えられた。後に病と称して辞任した。呉郡ではいつも「送迎銭」数百万銭を太守に贈る習わしがあったが、鄧攸が呉郡を去る際には一銭も受け取らなかった。また、(鄧攸が船で川を遡って去ろうとすると)数千人の人々が鄧攸の船を引っ張り留め、進むことができなかったので、鄧攸はそこで少しだけ停泊し、夜中にこっそりと出発した。呉人は鄧攸のことを歌って言った。「ドンドンと五更(午前四時頃)の太鼓が打たれ、鶏が鳴いて空が明けようとしている。鄧侯(鄧攸)は船を引いて去ってしまって留まることなく、謝令は推して去ることは無かった」と。人々は中央政府に押しかけて鄧攸を一年だけ呉郡太守に留めてほしいと願い出たが、聞き容れられなかった。鄧攸はやがて侍中に任ぜられた。一年余りすると、吏部尚書に転任した。そして粗末な食事を取って粗末な衣服を着て、困窮して差し迫った人々や貧乏な人々を救った。鄧攸は謙虚で穏和な性格で、よく人と交流し、賓客は貴賤の区別なく、いずれにも分け隔てなく接し、それでいて権力者や高貴な人々にも大いに敬い親しんだ。
元帝の永昌年間、周顗の後任として護軍将軍となった。明帝の太寧二年(三二四)、王敦が反乱を起こすと、明帝はこっそり起兵しようと謀り、そこで鄧攸を会稽太守に昇進させようとした。初め、(元帝期の第一次王敦の乱の際に)王敦が都を攻撃した後、中軍・外軍の兵数について王敦に毎月知らせることとなっていた。鄧攸はすでに護軍将軍を解任されて宮中から出て家におり、もう護軍将軍の職をつかさどっていなかったが、鄧攸に恨みを持つ者がいて、鄧攸はなおも王敦に兵数を知らせていると誣告した。明帝はこれを聞いて鄧攸を信じられなくなり、鄧攸を太常に転任させた。時に元帝は南郊の祭祀を行ったが、鄧攸は病気になって付き従うことができなかった。元帝が鄧攸のもとに立ち寄って病気見舞いをすると、鄧攸は病をおして家の外に出ていって拝礼を行った。そこで担当官は、鄧攸は(祭祀をつかさどる太常でありながら)南郊に行くことができずに道端で拝礼を行ったと弾劾し、鄧攸は罪に問われて罷免された。鄧攸は、昇進したり降任・罷免されたりするたび、喜んだり不満を抱くといった様子を見せなかった。しばらくして、尚書右僕射に昇進した。成帝の咸和元年(三二六)に死に、光禄大夫を追贈され、金章紫綬を加えられ、少牢(羊と豚の犠牲)の礼で祭られた。
鄧攸が子を捨てた後、妻は二度と子を孕むことはなかった。長江を渡った後、鄧攸は妾を取り、非常に可愛がった。その妾に家族のことを尋ねると、彼女は北方の出身で、乱に遭って南に来たのだと答えた。彼女は父母の姓名を覚えており、それを聞くと、なんとその妾は鄧攸の姪(姉妹の子)であった。鄧攸はもともと徳行ある人物であったので、これを聞いて(知らなかったとはいえ姪を妾にしてしまったことを)後悔し、それから二度と妾を取ることはせず、結局、後嗣は無いままであった。当時の人々は、それを義であるとしながらも、一方で憐れみ、そのために語って言った。「天道は無知であり、鄧伯道(鄧攸)に子を授けなかった」と。(鄧攸が自分の子の代わりに救った)弟の子の鄧綏は、鄧攸のために三年の喪に服した。

吳隱之

原文

吳隱之、字處默、濮陽鄄城人、魏侍中質六世孫也。隱之美姿容、善談論、博涉文史、以儒雅標名。弱冠而介立、有清操、雖日晏歠菽、不饗非其粟、儋石無儲、不取非其道。年十餘、丁父憂、毎號泣、行人爲之流涕。事母孝謹、及其執喪、哀毀過禮。家貧、無人鳴鼓、毎至哭臨之時、恆有雙鶴警叫、及祥練之夕、復有羣雁俱集、時人咸以爲孝感所至。嘗食鹹菹、以其味旨、掇而棄之。
與太常韓康伯鄰居。康伯母、殷浩之姊、賢明婦人也。毎聞隱之哭聲、輟餐投筯、爲之悲泣。既而謂康伯曰「汝若居銓衡、當舉如此輩人。」及康伯爲吏部尚書、隱之遂階清級、解褐輔國功曹、轉參征虜軍事。兄坦之爲袁眞功曹、眞敗、將及禍、隱之詣桓溫、乞代兄命、溫矜而釋之。遂爲溫所知賞、拜奉朝請・尚書郎、累遷晉陵太守。在郡清儉、妻自負薪。入爲中書侍郎・國子博士・太子右衞率、轉散騎常侍、領著作郎。孝武帝欲用爲黃門郎、以隱之貌類簡文帝、乃止。尋守廷尉・祕書監・御史中丞、領著作如故、遷左衞將軍。雖居清顯、祿賜皆班親族、冬月無被、嘗澣衣、乃披絮、勤苦同於貧庶。
廣州包帶山海、珍異所出、一篋之寶、可資數世、然多瘴疫、人情憚焉。唯貧窶不能自立者、求補長1.(史)〔吏〕、故前後刺史皆多黷貨。朝廷欲革嶺南之弊、隆安中、以隱之爲龍驤將軍・廣州刺史・假節、領平越中郎將。未至州二十里、地名石門、有水曰貪泉、飲者懷無厭之欲。隱之既至、語其親人曰「不見可欲、使心不亂。越嶺喪清、吾知之矣。」乃至泉所、酌而飲之、因賦詩曰「古人云此水、一歃懷千金。試使夷齊飲、終當不易心。」及在州、清操踰厲、常食不過菜及乾魚而已、帷帳器服皆付外庫、時人頗謂其矯、然亦終始不易。帳下人進魚、毎剔去骨存肉、隱之覺其用意、罰而黜焉。元興初、詔曰「夫孝行篤於閨門、清節厲乎風霜、實立人之所難、而君子之美致也。龍驤將軍・廣州刺史吳隱之孝友過人、祿均九族、菲己潔素、儉愈魚飧。夫處可欲之地、而能不改其操、饗惟錯之富、而家人不易其服、革奢務嗇、南域改觀、朕有嘉焉。可進號前將軍、賜錢五十萬・穀千斛。」
及盧循寇南海、隱之率厲將士、固守彌時、長子曠之戰沒。循攻擊百有餘日、踰城放火、焚燒三千餘家、死者萬餘人、城遂陷。隱之攜家累出、欲奔還都、爲循所得。循表朝廷、以隱之黨附桓玄、宜加裁戮、詔不許。劉裕與循書、令遣隱之還、久方得反。歸舟之日、裝無餘資。及至、數畝小宅、籬垣仄陋、内外茅屋六間、不容妻子。劉裕賜車牛、更爲起宅、固辭。尋拜度支尚書・太常、以竹篷爲屏風、坐無氊席。後遷中領軍、清儉不革、毎月初得祿、裁留身糧、其餘悉分振親族、家人績紡以供朝夕。時有困絕、或幷日而食、身恆布衣不完、妻子不霑寸祿。
義熙八年、請老致事、優詔許之、授光祿大夫、加金章紫綬、賜錢十萬・米三百斛。九年、卒、追贈左光祿大夫、加散騎常侍。隱之清操不渝、屢被襃飾、致事及於身沒、常蒙優錫顯贈、廉士以爲榮。
初、隱之爲奉朝請、謝石請爲衞將軍主簿。隱之將嫁女、石知其貧素、遣女必當率薄、乃令移廚帳助其經營。使者至、方見婢牽犬賣之、此外蕭然無辦。後至自番禺、其妻劉氏齎沈香一斤、隱之見之、遂投於湖亭之水。
子延之復厲清操、爲鄱陽太守。延之弟及子爲郡縣者、常以廉愼爲門法、雖才學不逮隱之、而孝悌潔敬猶爲不替。

1.古代から近世に至るまで、史料上、「史」と「吏」はよく間違われる。今回も、文脈上ここで突然「長史」(公府・将軍府などの次官)が登場する意味が分からず、「故に」以下の文の内容と繋がらないので、「長吏」(刺史を含む勅任官)とすべきであろう。実際に、清の屈大均『廣東新語』では、この『晉書』吳隱之伝を引用しているが、そこでは「惟貧窶不能自立者求補長吏」となっている。

訓読

吳隱之、字は處默、濮陽鄄城の人にして、魏の侍中の質の六世の孫なり。隱之は姿容 美しく、談論を善くし、文史に博涉し、儒雅を以て名を標(あらわ)す。弱冠にして介立し、清操有り、日 晏(おそ)しと雖も菽を歠(の)み、其の粟に非ざるを饗(く)らわず、儋石も儲無く、其の道に非ざるを取らず。年十餘にして、父の憂に丁(あ)い、毎(つね)に號泣したれば、行人は之が爲に流涕す。母に事(つか)うるに孝謹、其の喪を執るに及び、哀毀すること禮に過ぐ。家は貧にして、人無くして鼓 鳴り、哭臨の時に至る毎に、恆(つね)に雙鶴の警叫する有り、祥練の夕(とき)に及び、復た羣雁の俱(とも)に集う有れば、時人咸(み)な以爲(おも)えらく、孝感の至る所なり、と。嘗て鹹菹を食らうに、其の味の旨きを以て、掇(と)りて之を棄(す)つ。
太常の韓康伯と鄰居す。康伯の母は、殷浩の姊にして、賢明なる婦人なり。隱之の哭聲を聞く毎に、餐を輟(や)めて筯を投じ、之が爲に悲泣す。既にして康伯に謂いて曰く「汝 若し銓衡に居らば、當に此の輩の如き人を舉ぐべし」と。康伯の吏部尚書と爲るに及び、隱之 遂に清級に階(はしご)し、褐を解いて輔國功曹たり、參征虜軍事に轉ず。兄の坦之は袁眞の功曹と爲り、眞 敗れ、將に禍の及ばんとするや、隱之は桓溫に詣(いた)り、兄の命に代わらんことを乞いたれば、溫 矜(あわ)れみて之を釋(ゆる)す。遂に溫の知賞する所と爲り、奉朝請・尚書郎を拜し、累遷して晉陵太守たり。郡に在りては清儉、妻は自ら薪を負う。入りて中書侍郎・國子博士・太子右衞率と爲り、散騎常侍に轉じ、著作郎を領す。孝武帝 用いて黃門郎と爲さんと欲するも、隱之の貌の簡文帝に類(に)たるを以て、乃ち止む〔一〕。尋(つ)いで廷尉・祕書監・御史中丞を守し、著作を領すること故の如くし、左衞將軍に遷る〔二〕。清顯に居ると雖も、祿賜は皆な親族に班(わ)かち、冬月に被は無く、嘗(つね)に澣衣し、乃ち絮を披(き)、勤苦すること貧庶と同じくす。
廣州は山海を包帶し、珍異の出ずる所にして、一篋の寶、數世を資(たす)くべきも、然れども瘴疫多く、人情 焉(これ)を憚る。唯だ貧窶して自立する能わざる者のみ、長吏に補せられんことを求むれば、故に前後の刺史は皆な多く黷貨す。朝廷は嶺南の弊を革(あらた)めんと欲し、隆安中、隱之を以て龍驤將軍・廣州刺史・假節〔三〕と爲し、平越中郎將を領せしむ。未だ州に至らざること二十里、地は石門を名とし、水有りて貪泉と曰い、飲む者は無厭の欲を懷く。隱之 既に至るや、其の親人に語りて曰く「欲する可(ところ)を見(しめ)さざれば、心をして亂れざらしむ。嶺を越えて清を喪(うしな)うは、吾 之を知る」と。乃ち泉所に至り、酌みて之を飲み、因りて詩を賦して曰く「古人云わく此の水、一歃すれば千金を懷く、と。試みに夷・齊をして飲ましむとも、終に當に心を易(か)えざるべし」と。州に在るに及び、清操は踰々(いよいよ)厲(たか)く、常に食は菜及び乾魚のみに過ぎず、帷帳・器服は皆な外庫に付したれば、時人 頗る其の矯(いつわ)りならんことを謂(おも)うも、然れども亦た終始 易わらず。帳下の人〔四〕の魚を進むるに、毎に骨を剔去して肉を存すれば、隱之 其の意を用うるを覺(さと)り、罰して焉を黜す。元興の初め、詔して曰く「夫れ孝行は閨門に篤く、清節は風霜より厲しく、實に人の難しとする所を立て、而して君子の美は致す。龍驤將軍・廣州刺史の吳隱之は孝友なること人に過ぎ、祿は九族に均(ひと)しくし、己を菲(うす)くし絜素にして、儉は愈(すぐ)れ魚飧す。夫れ可欲の地に處(お)るも、而れども能く其の操を改めず、惟錯の富を饗(う)くるも、而れども家人をして其の服を易えしめず、奢を革(あらた)め嗇に務め、南域は觀を改めたれば、朕 有(ま)た焉を嘉(よみ)す。號を前將軍に進め、錢五十萬・穀千斛を賜うべし」と。
盧循(ろじゅん)の南海に寇するに及び、隱之は將士を率厲し、固守すること時を彌(わた)るも、長子の曠之(こうし)は戰沒す。循 攻擊すること百有餘日、城を踰(こ)えて火を放ち、焚燒すること三千餘家、死する者は萬餘人、城 遂に陷つ。隱之 家累を攜えて出で、奔(はし)りて都に還らんと欲するも、循の得る所と爲る。循 朝廷に表し、隱之は桓玄に黨附したれば、宜しく裁戮を加うべしと以(い)うも、詔して許さず。劉裕は循に書を與え、隱之を遣りて還さしめんとしたれば、久しくして方(まさ)に反(かえ)るを得たり。歸舟の日、裝に餘資 無し。至るに及び、數畝の小宅、籬垣は仄陋、内外の茅屋は六間、妻子を容れず。劉裕 車牛を賜い、更に爲に宅を起てんとするも、固辭す。尋(つ)いで度支尚書・太常を拜し、竹篷を以て屏風と爲し、坐に氊席無し。後に中領軍に遷るも、清儉なること革めず、月初に祿を得る毎に、裁(わず)かに身の糧のみを留め、其の餘は悉(ことごと)く分かちて親族を振(すく)い、家人は績紡して以て朝夕に供す。時に困絕有り、或いは日を幷(あ)わせて食らい、身は恆に布衣 完(まった)からず、妻子は寸祿も霑(うるお)わず。
義熙八年、老を請いて致事せんとするや、優詔して之を許し、光祿大夫を授け、金章紫綬を加え、錢十萬・米三百斛を賜う。九年、卒し、左光祿大夫を追贈し、散騎常侍を加う。隱之は清操なること渝(か)わらず、屢々(しばしば)襃飾を被り、致事して及び身の沒するに於いて、常に優錫・顯贈を蒙(こうむ)り、廉士は以て榮と爲す。
初め、隱之の奉朝請と爲るや、謝石は請いて衞將軍主簿と爲す。隱之 將に女を嫁がしめんとするや、石は其の貧素にして、女を遣(や)るに必ず當に率薄なるべきことを知り、乃ち廚帳に移して其の經營を助けしむ。使者 至るや、方に婢の犬を牽きて之を賣るを見るも、此の外には蕭然として辦ずる無し。後に至ること番禺よりするや、其の妻の劉氏は沈香一斤を齎(もた)らしたれば、隱之 之を見るや、遂に湖亭の水に投ず。
子の延之も復た清操を厲(たか)くし、鄱陽太守と爲る。延之の弟及び子の郡縣と爲る者、常に廉愼を以て門法と爲し、才學は隱之に逮(およ)ばずと雖も、而れども孝悌・絜敬なること猶お替(おとろ)えずと爲す。

〔一〕以上の官歴について。この記述によれば、呉隠之は晋陵太守(第五品)となった後、「中書侍郎・國子博士・太子右衞率」(中書侍郎も太子右衞率も第五品で太守よりも位次が上)となり、「散騎常侍(第三品)、領著作郎」に転任して、その後、孝武帝により黄門郎(第五品)に抜擢されるはずであったが、呉隠之が亡き父帝の簡文帝に似ていたために遠慮して取りやめたとされる。この中で呉隠之は、第五品の中書侍郎からいきなり第三品の散騎常侍に昇進しており、しかもその後にまた第五品の黄門郎に抜擢されようとしており、非常に不可解である。おそらくこの「散騎常侍」は「散騎侍郎」の誤りであろう。第五品の中では、給事中が最も位が高く、それに次いで黄門郎、そして散騎侍郎、さらに中書侍郎と続き、第五品の中の下位に郡太守が位置するので、もし「散騎常侍」が「散騎侍郎」の誤りであるとすれば、呉隠之は、郡太守→中書侍郎→散騎侍郎→黄門郎と、順当に第五品の中を昇進していったことになる。
〔二〕「守」とは、キャリアや出身など様々な理由により、本来その資格が無い者がその官職を代任することを指し、場合によっては試用を意味し、本官以外にそれを兼任するのが基本であった。「守廷尉・祕書監・御史中丞」とあるのは、これまで呉隠之は順当に第五品の中で昇進してきたが、まだ廷尉・秘書監(いずれも第三品)などになるほどのキャリアが無かったためであろう。その後、左衛将軍(第四品)に「遷った(昇進した)」とあるのがその証拠となる。すなわち、呉隠之は「散騎侍郎(第五品)、領著作郎」から、散騎侍郎を本官としたまま、「散騎侍郎、守廷尉・祕書監・御史中丞」あるいは「散騎侍郎、守廷尉」→「散騎侍郎、守祕書監」→「散騎侍郎、守御史中丞」と転じていき、その後「左衛将軍(第四品)」に昇進したという流れであろう。
〔三〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。
〔四〕「帳下」は、後漢末以降、将の身辺警護のための親兵を指し、初めは校尉や都尉がその長として任じられていたが、曹魏頃から「帳下都督(帳下督・帳下守督)」が設置されてその役目を担った。また、帳下は将の身辺警護の外に、将やその家族の身辺の諸雑務を担っていたが、晋代になるとその諸雑務、特に賄い役や厨房の担当者としての比重が増していき、東晋末・南朝になると賄い役や厨房の担当者としての帳下と、身辺警護の親兵組織(「随身」など様々な語で呼ばれる)とは分離した。

現代語訳

呉隠之は字を処黙といい、濮陽郡(濮陽国)・鄄城の人であり、魏の侍中の呉質の六世の子孫である。呉隠之は容姿うるわしく、談論を得意とし、文学や史学に博く通じ、典雅な人物として著名であった。二十歳前後で孤高さを備え、清らかな節操があり、晩ご飯にも豆の汁物しか飲まず、自分で手に入れた粟しか口にせず、わずかな食糧の備蓄も無く、敷地内の道にあるもの以外は採取しなかった。十数歳で父が亡くなり、いつも号泣していたので、道行く人は彼のために涙を流した。母に対して謹んで孝行を尽くし、母の喪に服することとなると、その哀しみのあまり身をやつす様子は常礼を逸していた。家は貧しく、召し抱えている人もいないのに時刻を知らせる鼓の音が鳴り、また、喪中の哭礼を行うときになると、いつも二羽の鶴が来て叫んで知らせ、さらに、祥練(父母の死後、十一ヶ月後、十三ヶ月後、二十五ヶ月後などに行う祭祀や儀礼)のときになると、多くの雁が群がり集まったので、当時の人々はみな、これは呉隠之の孝が極まって、その感応により起こったものであるに違いないと思った。かつて塩漬けを食べたところ、その味が旨かったので、これを取って捨ててしまった。
呉隠之の家は、太常の韓康伯の家と隣合わせであった。韓康伯の母は、殷浩の姉であり、賢明な婦人であった。彼女は呉隠之の哭する声を聞くたびに、食事をやめて箸を置き、彼のために悲しみ泣いた。まもなく韓康伯に言った。「お前がもし官僚人事担当になったら、このような人物を抜擢しなさい」と。韓康伯が(官僚人事を担当する)吏部尚書となると、呉隠之はそれによって清官のはしごを登ることとなり、粗末な服を脱いで出仕し、輔国将軍府の功曹となり、やがて参征虜軍事(征虜将軍つきの参軍事)に転任した。兄の呉坦之は袁真の功曹となったが、袁真が(反乱を起こして)敗れ、禍が及びそうになると、呉隱之は(時の権力者である)桓温のもとを訪れ、自分が代わりになるから兄の命を助けてほしいと懇願したので、桓温は憐れんで呉坦之を赦した。こうして呉隠之は桓温に高く買われることになり、奉朝請・尚書郎に任じられ、何度も昇進して晋陵太守となった。郡に在っては清く倹約に努め、妻は自ら薪を負って生活した。中央に入って中書侍郎・国子博士・太子右衛率となり、散騎常侍(散騎侍郎?)に転任し、著作郎を兼任した。孝武帝は呉隱之を黄門郎に任用しようとしたが、呉隱之の容姿が簡文帝に似ていたので、そこで取りやめた。まもなく廷尉・秘書監・御史中丞を代任し、もと通り著作郎を兼任し、やがて左衛将軍に昇進した。呉隱之は顕要な清官に在任していたにも関わらず、俸禄や賜物はすべて親族に分け与え(自分の手元にはほとんど残さず)、冬でも夜着も無く、常に着古した衣を身にまとい、そしてぼろぼろの服を羽織り、貧しい庶民と同様に苦労して励んだ。
広州は山や海に囲まれ、珍品を産出する地であり、小箱ひとつ分の宝で数世代が暮らしていけるほどであるが、しかしその一方で毒気による病(風土病)が多く、人情としてその地に赴任することを憚った。そして、貧窮して自立することができない者ばかりがその長吏(勅任官)に任用されることを願い出たので、そのため前後の広州刺史はみな多く賄賂をむさぼるような人物であった。朝廷は嶺南地域のその悪習を改めようとし、安帝の隆安年間に、呉隠之を「龍驤将軍・広州刺史・仮節」に任じ、平越中郎将を兼任させた。州治である番禺の手前二十里には、石門という地があり、そこには「貪泉」という泉があって、その水を飲む者は飽くなき欲を懐くようになってしまうと言われていた。呉隠之がそこに到着すると、親しい人に語って言った。「(『老子』には)『欲望を刺激するようなものが人々の目にふれないようにすれば、人々の心は乱されずに平静になる』という。南嶺を越えて清貧さを失うというのは、必ずそういう理由からであろう(つまり、この泉のせいではない)」と。そこで泉のある所に赴き、水を酌んで飲み、そして次のような詩を作った。「古人は言った。一度この水を飲めば千金を懐く、と。だが、試しに(殷の時代の清貧なる賢者の)伯夷・叔斉にこの水を飲ませても、最後まで心を変えることはないであろう」と。果たして、刺史として州に在っては、その清らかな節操はますます高く、食事はいつも野菜と乾魚を食べるのみで、余計な帷幄や器物・衣服などの官給品はすべて外庫にしまっておいたので、当時の人々は呉隠之が清廉なふりをしているだけなのではないかと非常に疑ったが、しかし最後までその様子を変えることはなかった。帳下(賄い役)の人が呉隠之に魚を進めるとき、いつも骨を除去して肉だけを出してきたので、呉隠之はその意図するところを察知すると、罰してその者を退けた。安帝の元興年間の初め、次のような詔が下された。「そもそも孝行が家庭内で篤く、清らかな節操が風や霜より激しく、実に人の行い難いことを成し遂げ、そうして君子の美というものは極められるのである。龍驤将軍・広州刺史の呉隠之は、その父母に対する孝行、兄弟に対する友愛は他人より優れ、俸禄を九族に等しく分け与え、自らを清貧に置いて質素な暮らしをし、大いに倹約に努めて粗末な魚の食事を取っていた。欲望を刺激するようなものに溢れた土地に居ながらも、その節操を改めることなく、様々な種類の富を手にしても、家人にその服を変えることを許さず、広州の豪奢な習俗を改め節約に務め、南域の人々は考えを改め、朕はまたこれを喜ばしく思う。号を前将軍に進め、銭五十万・穀千斛を賜うがよい」と。
(盧循の乱が起こり)盧循(ろじゅん)が南海郡に侵攻すると、呉隠之は将士を激励し、長いこと固守していたが、長子の呉曠之(ごこうし)は戦死してしまった。盧循は百日余り攻撃を続けた後、城壁を越えて城に火を放ち、三千家余りを焼き、死者は一万人余りに昇り、城はとうとう陥落してしまった。呉隠之は家族を連れて脱出し、逃げて都に戻ろうとしたが、盧循に捕まってしまった。盧循は朝廷に上表し、呉隠之は(帝位を簒奪してまもなく滅びた)桓玄におもねり味方していたので、誅殺すべきであると述べたが、それを許さないとの詔が下された。(時の権力者である)劉裕は盧循に書簡を与え、呉隠之を解放して帰すよう述べたので、長い時を経てやっと帰還することができた。呉隠之が広州から舟で帰る日、その旅の荷物に余計な物資は無かった。到着すると、数畝しかない自宅や田園の敷地は、そのかきねは狭くてみすぼらしく、内外のかやぶきの家屋は六間しかなく、妻子とともに暮らすには狭かった。劉裕は呉隠之に牛車を与え、さらに呉隠之のために新たな家宅を建てようとしたが、呉隠之は固辞した。まもなく度支尚書・太常に任じられたが、竹で作った篷を屏風とし、座席には毛織の座布団が無かった。後に中領軍に昇進したが、清く倹約に努めることをやめず、月初に俸禄をもらうと、いつもわずかに自分の食糧分のみを手元に残し、それ以外はすべて親族に分け与えて困窮を救い、家人は紡績を行って生活費とした。時には自身が困窮に陥り、一日分の食事を二日に分けて食べたこともあり、その身にまとっている粗末な衣服はいつもつぎはぎだらけで、妻子は少しも俸禄の恩恵を受けなかった。
安帝の義熙八年(四一二)、呉隠之が致仕を願い出ると、呉隠之を称える詔が下されてそれを許し、光禄大夫の官位を授け、金章紫綬を加え、銭十万・米三百斛を賜わった。翌九年、呉隠之は死に、左光祿大夫を追贈され、散騎常侍を加えられた。呉隠之は清らかな節操を生涯に渡って改めることなく、それによってしばしば褒め称えられ、致仕したときにも死んだ際にも、常に厚い賞賜や高らかな贈りものを受け、廉士はそれを称えた。
初め、呉隠之が奉朝請であったとき、謝石は奏請して呉隠之をその衛将軍府の主簿に任じた。やがて呉隠之が娘を他家に嫁がせようとしたとき、謝石は、呉隠之が清貧で質素であるため、娘を嫁がせるに当たっての結納品も簡素なものにしてしまうに違いないと覚り、そこで帳下の厨房に文書を下して援助させようとした。謝石の使者が呉隠之の家を訪れると、ちょうど婢が犬を牽いてその犬を売ったのを目撃したが、それ以外には何も用意しようとする様子もなかった。後に呉隠之が(盧循に解放されて)番禺から帰るに当たり、その妻の劉氏は沈香(香木の一種)一斤を持ち出してきていたが、呉隠之はそれを見ると、そのまま湖亭の水の中に投げ捨ててしまった。
呉隠之の子の呉延之もまた清らかな節操に努め、やがて鄱陽太守となった。呉延之の弟や子で郡県の官吏となった者は、常に清廉・勤慎であることを家風とし、才能や学問は呉隱之に及ばなかったとはいえ、親に孝行し、兄弟を敬愛し、清廉でつつましやかであることに関してはなお廃れることは無かった。

原文

史臣曰。魯芝等建旟剖竹、布政宣條、存樹威恩、沒留遺愛、咸見知明主、流譽當年。若伯武之絜己克勤、顏遠之申寃緩獄、鄧攸贏糧以述職、吳隱酌水以厲精、晉代良能、此焉爲最。而攸棄子存姪、以義斷恩。若力所不能、自可割情忍痛、何至預加徽纆、絕其奔走者乎。斯豈慈父仁人之所用心也。卒以絕嗣、宜哉。勿謂天道無知、此乃有知矣。世英盡節曹氏、犯門斬關、宣帝收雷霆之威、奬忠貞之烈、豈非「既已在我、欲其罵人」者歟。
贊曰。猗歟良宰、嗣美前賢。威同御黠、靜若烹鮮。唯嘗吳水、但挹貪泉。人風既偃、俗化斯遷。

訓読

史臣曰く。
魯芝等は旟を建て竹を剖(わか)ち〔一〕、政を布(し)き條を宣(とお)し、存(あ)りては威恩を樹(た)て、沒しては遺愛を留め、咸(み)な明主に知られ、譽を當年に流す。伯武の己を絜(いさぎよ)くして克(よ)く勤め、顏遠の寃を申(の)べ獄を緩め、鄧攸の糧を贏(にな)いて以て職に述(したが)い、吳隱の水を酌みて以て精を厲(たか)くせしが若きは、晉代の良能、此れ焉(すなわ)ち最と爲す。而れども攸は子を棄てて姪を存せしめ、義を以て恩を斷つ。若し力の能わざる所なれば、自ら情を割きて痛みを忍ぶべきも、何ぞ預(あらかじ)め徽纆を加え、其の奔走せんことを絕つに至る者ならんや。斯(こ)れ豈に慈父・仁人の心を用いる所ならんや。卒して以て嗣を絕やすは、宜なるかな。天道は無知なりと謂う勿かれ。此れ乃ち知有るなり。世英の節を曹氏に盡くし、門を犯して關を斬り、宣帝 雷霆の威を收め、忠貞の烈を奬(ほ)むるは、豈に「既に已(すで)に我に在れば、其の人を罵らんことを欲す」〔二〕なる者に非ざらんや。
贊に曰く。
猗歟(ああ)良宰、美は前賢を嗣ぐ。威なること黠を御するに同じくし、靜なること鮮を烹(に)るが若し。唯だ吳水を嘗(な)め、但だ貪泉を挹(く)む。人風は既に偃(やす)まり、俗化は斯(ことごと)く遷る。

〔一〕『周礼』春官・司常の条およびその鄭玄注によれば、周代の冬の閲兵式では、州里の長官は「旟」すなわち烏や隼を描いた旗を建てた。烏や隼を描いたのは、その勇武や敏捷さを表わしているのだという。また、漢代の地方長官は、各種の徴発を行う権限の象徴として竹製の割り符の片割れを授けられていた。要するに「旟を建て竹を剖ち」というのは、地方長官としての任務を授かったことを指す。
〔二〕直接の典拠は范曄『後漢書』列伝十八上・馮衍(ふうえん)伝上における、馮衍が語った言葉である。そこではさらに『戰國策』秦策一「陳軫去楚之秦」において、陳軫(ちんしん)が秦王に対して語った楚を舞台とした話が典拠とされている。その楚を舞台とした話とは以下の通りである。楚国に二人の妻を持つ者がいた。そこに、その人妻を口説いてモノにしようとする男が現れた。その男が二人の人妻のうち年長の方に言い寄ると、その人妻はその男を罵った。その男が年若い方の人妻に言い寄ると、その人妻は口説きに応じて不倫した。まもなくその二人の人妻の夫が死ぬと、その男は年長の方の寡婦を選んで自分の妻とした。その男の客人が、自分と睦まじくしていた年若い方ではなく、自分を罵った年長の方を選んだ理由を問うと、その男は答えた。彼女らが亡夫の妻であったときには、その夫を裏切って私と睦まじくしてくれる方が私にとっては望ましかったが、現に私の妻とするからには、他人が言い寄ってきたら私のためにそいつを罵ってくれる人の方が望ましいからである、と。馮衍は以上の話を踏まえる。両漢交替期において、馮衍は更始帝政権に属し、光武帝政権とは長きに渡って対立し続けたが、更始帝が滅んだことを知った後に光武帝に帰順する。早々に帰順しなかったことで光武帝に疎まれ、長らく任用されなかったことに対して、一緒に光武帝に帰順したかつての仲間から慰めの言葉をかけられたとき、馮衍は上記の楚の話を引いて自分の意志を語った。すなわち、その男が罵られた方の人妻を貞操が固いと評価して妻として選んだように、敵方に最後まで忠誠を尽くした自分をいずれは光武帝も高く評価してくれるに違いないと期待をかけたのである。『晋書』の本文では、曹氏に忠誠を尽くした魯芝を司馬懿が高く評価したことを、更始帝に忠誠を尽くした馮衍を光武帝が高く評価するということになぞらえているのである。

現代語訳

史臣の評
魯芝らは烏や隼を描いた旗を建て、竹符を分け与えられて地方長官として文武の務めを担い、統治を敷いて秩序を行き渡らせ、生前には威厳と恩恵を施し、死後には仁愛を留めて後世にも慕われ、みな賢明な君主に認められ、名誉を当代に広めた。伯武(胡威)が己を慎しみ清くしてよく励み、顔遠(曹攄)が寡婦の冤罪を表明して哀れな死刑囚のために獄を緩め、鄧攸が食糧を持参して赴任して職につとめ、呉隠之が貪泉の水を酌んでいっそう清廉な精神を高めたようなことを考えると、晋代の善良で有能な者としては、これらの人物こそが最高である。ただ、鄧攸は我が子を棄てて弟の子を生き永らえさせ、義を取って子に対する恩を捨てた。もし力が及ばなかったのであれば、私情を振り払って痛みに耐えてそのようにせざるを得なかったのも仕方の無いことだが、どうして前もって息子を縄で樹に縛り、逃げられないようにしておく必要があっただろうか。どうしてこれが慈父・仁者の心の用い方であろうか。そのようなことをしたからには、死んで後嗣が絶えたというのも、然るべきことであろうよ。(当時の人々は天道は無知であると言ったが、)こうして見ると、天道は無知であると言うべきではない。これは天に知があるからこその報いであるのだ。世英(魯芝)が曹真・曹爽の一族に節義を尽くし、かんぬきを斬り棄てて門をこじあけ、宣帝(司馬懿)が激しい怒りを抑え、その忠烈の固さを称えたのは、まさに「すでに我がものとなったからには、自分のために他人を罵ってくれる者を望む」ということに外ならない。

ああ、良き地方官は、前代の賢人たちの素晴らしさを受け継いでいるものよ。狡賢い馬を御するときにくつわと鞭を利用するように威厳を以て法を用い、小魚を煮るときに身が崩れないようにかきまわすことなく穏やかに調理するように無為の政治を行った。鄧攸は呉郡の水だけを味わい、呉隠之はむなしくも貪泉の水を酌んだ。民情はとても安らかになり、習俗の教化はすっかり行き渡った。