いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第六十三巻_外戚伝

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。序文にあるように、賈充・楊駿(巻四十)・庾亮(巻七十三)・王獻之(巻八十)・王恭(巻八十四)を除く、その他の外戚たちの列伝です。

原文

詳觀往誥、逖聽前聞、階緣外戚以致顯榮者、其所由來尚矣。而多至禍敗、鮮克令終者、何哉。豈不由祿以恩升、位非德舉。識慚明悊、材謝經通。假椒房之寵靈、總軍國之樞要、或威權震主、或勢力傾朝。居安而不慮危、務進而不知退。驕奢既至、釁隙隨之者乎。是以呂霍之家誅夷於西漢、梁鄧之族剿絕於東都、其餘干紀亂常、害時蠹政者、不可勝載。至若樊靡卿之父子、竇廣國之弟兄、陰興之守約戒奢、史丹之掩惡揚善、斯並后族之所美者也。由此觀之、干時縱溢者必以凶終、守道謙沖者永保貞吉、古人所謂禍福無門、惟人所召、此非其效歟。
逮于晉難、始自宮掖。楊駿藉武帝之寵私、叨竊非據、賈謐乘惠皇之蒙昧、成此厲階、遂使悼后遇雲林之災、愍懷濫湖城之酷。天人道盡、喪亂弘多、宗廟以之顛覆、黎庶於焉殄瘁。詩云、赫赫宗周、褒姒滅之、其此之謂也。爰及江左、未改覆車。庾亮世族羽儀、王恭高門領袖、既而職兼出納、任切股肱。孝伯竟以亡身、元規幾於敗國、豈不哀哉。若褚季野之畏避朝權、王叔仁之固求出鎮、用能全身遠害、有可稱焉。賈充・楊駿・庾亮・王獻之・王恭等已入列傳、其餘即敘其成敗、以為外戚篇云。

訓読

詳らかに往誥を觀、逖(とほ)く前聞を聽き、緣りて外戚に階(た)ちて以て顯榮に致る者は、其の由來する所 尚(おほ)し。而るに多く禍敗に至り、克く令終する者鮮(すく)なきは、何ぞや。豈に祿は恩を以て升り、位は非德もて舉がるに由らざるか。識は明悊に慚じ、材は經通に謝す。椒房の寵靈を假り、軍國の樞要を總べ、或いは威權 主を震はし、或いは勢力 朝を傾く。安に居りて危を慮はず、進に務めて退を知らず。驕奢 既に至れば、釁隙 之に隨ふ者なるや。是を以て呂霍の家 西漢に誅夷せられ、梁鄧の族 東都に剿絕せられ、其の餘 紀を干し常を亂し・時を害し政を蠹(むしば)む者、勝げて載する可からず。樊靡卿の父子、竇廣國の弟兄、陰興の約を守り奢を戒め、史丹の惡を掩へ善を揚ぐるが若くに至り、斯れ並びに后族の美とする所の者なり。此に由りて之を觀るに、時を干し縱溢する者は必ず凶を以て終はり、道を守り謙沖する者は永く貞吉を保つ。古人 謂ふ所の禍福 門無し、惟だ人 召す所なりは、此れ其の效に非ざるか。
晉の難に逮び、宮掖自り始まる。楊駿 武帝の寵私を藉り、叨(みだ)りに非據を竊み〔二〕、賈謐 惠皇の蒙昧に乘じ、此の厲階を成し、遂に悼后をして雲林の災に遇ひ、愍懷をして湖城の酷に濫(うか)べしむ。天人の道 盡き、喪亂 弘多たり、宗廟 之を以て顛覆し、黎庶 焉に於いて殄瘁す。詩に云く、「赫赫たる宗周、褒姒 之を滅す」と〔三〕、其れ此の謂なり。爰に江左に及び、未だ覆車を改めず。庾亮 世族の羽儀、王恭 高門の領袖、既にして職は出納を兼ね、任は股肱を切る。孝伯は竟に以て身を亡し、元規 幾ど國を敗り、豈に哀からずや。若し褚季野の朝權を畏避し、王叔仁の固く出鎮を求め〔四〕、用て能く身を全し害を遠ざけ、稱す可き有り。賈充・楊駿・庾亮・王獻之・王恭等 已に列傳に入る、其の餘 即ち其の成敗を敘し、以て外戚篇と為すと云へり。

〔一〕樊靡卿は、樊宏のこと、後漢の光武帝の母方のおじ。竇廣國は、前漢の文帝の皇后の弟。陰興は、光武帝の陰皇后の弟。史丹は、前漢の宣帝の母系親族。
〔二〕非據は、『易経』繋辞下に「非所據而據焉、身必危」とあり、分不相応な地位にあること。
〔三〕『毛詩』小雅 正月に「赫赫宗周、褒姒烕之」とあり、出典。権勢盛んな宗周を、褒姒はみごとに滅ぼしてしまった、の意。
〔四〕褚季野は褚裒(康献皇后の父)、王叔仁は王蘊(孝武定皇后の父)。本巻に列伝がある。

現代語訳

詳らかに歴史書を閲読し、遠く前代の話を聞くに、外戚として高位となり繁栄した者は、昔から多い。しかし多くが禍いと失敗により、よい終わり方をした者が少ないのは、なぜであろうか。俸禄が恩によって上がり、位が不徳にも拘わらず高くなったからではないか。見識は明哲に劣り、才能は経通に引けをとる。後宮の寵愛を仮り、軍事と国政の枢要を統括し、あるものは威権が君主を震わせ、あるものは勢力が朝廷を傾けた。安定していると危険を忘れ、進むばかりで退くことを知らない。驕慢となり豪奢となると、失敗の芽も付随してくるのであろうか。このために呂氏や霍氏は前漢で一族が殺され、梁氏や鄧氏は後漢で根絶やしにされ、それ以外にも秩序を乱して時勢をむしばんだ者は、掲載しきれない。樊靡卿の父子や、竇広国の弟兄、陰興が倹約を守って奢侈を戒め、史丹が悪を抑えて善を宣揚した事例は、外戚のなかでも優れた者である。以上から考えるに、時世を犯して横暴をはたらく者は必ずひどい終わり方をし、道義を守って謙譲した者は長く幸運を保つ。古人がいう所の禍福には門がなく、ただ人が招き寄せるものだ、に当てはまるのではないか。
晋王朝の危難も、宮掖(後宮)から始まった。楊駿は武帝の私的な寵愛を後ろだてに、みだりに分不相応な地位を盗み、賈謐は恵皇帝の蒙昧に付け込み、その禍いの契機を作り、ついに楊悼后を雲林で災難に遭わせ、愍懐太子(司馬遹)を湖城で迫害した。天人の道は尽き、喪乱が拡大し、宗廟はこのために転覆し、万民は困窮した。『詩経』に、「権勢が盛んな宗周は、褒姒に滅ぼされた」とあるが、これを言ったものである。江左に及び、まだ同じ失敗をくり返した。庾亮は世族として宰相となり、王恭は名門として執政し、官職は内外を兼務し、任務は腹心を分断した。孝伯(王恭)は最期は身を滅ぼし、元規(庾亮)は国を葬る寸前までゆき、なんと哀しいことか。もし褚季野(褚裒)のように朝廷権力を忌避し、王叔仁(王蘊)ように強く地方転出を求めたら、身を全うして害を遠ざけられ、称賛することができよう。賈充・楊駿・庾亮・王献之・王恭らはすでに列伝に入れた、それ以外の人物の成功と失敗を記し、外戚篇とする云々。

羊琇

原文

羊琇字稚舒、景獻皇后之從父弟也。父耽、官至太常。兄瑾、尚書右僕射。琇少舉郡計、參鎮西鍾會軍事、從平蜀。及會謀反、琇正言苦諫、還、賜爵關內侯。
琇涉學有智算、少與武帝通門、甚相親狎、每接筵同席、嘗謂帝曰、若富貴見用、任領護各十年。帝戲而許之。初、帝未立為太子、而聲論不及弟攸、文帝素意重攸、恒有代宗之議。琇密為武帝畫策、甚有匡救。又觀察文帝為政損益、揆度應所顧問之事、皆令武帝默而識之。其後文帝與武帝論當世之務及人間可否、武帝答無不允、由是儲位遂定。及帝為撫軍、命琇參軍事。帝即王位後、擢琇為左衞將軍、封甘露亭侯。帝踐阼、累遷中護軍、加散騎常侍。琇在職十三年、典禁兵、豫機密、寵遇甚厚。初、杜預拜鎮南將軍、朝士畢賀、皆連榻而坐。琇與裴楷後至、曰、杜元凱乃復以連榻而坐客邪。遂不坐而去。
琇性豪侈、費用無復齊限、而屑炭和作獸形以溫酒、洛下豪貴咸競效之。又喜遊讌、以夜續晝、中外五親無男女之別、時人譏之。然黨慕勝己、其所推奉、便盡心無二。窮窘之徒、特能振恤。選用多以得意者居先、不盡銓次之理。將士有冒官位者、為其致節、不惜軀命。然放恣犯法、每為有司所貸。其後司隸校尉劉毅劾之、應至重刑、武帝以舊恩、直免官而已。尋以侯白衣領護軍。頃之、復職。
及齊王攸出鎮也、琇以切諫忤旨、左遷太僕。既失寵憤怨、遂發病、以疾篤求退。拜特進、加散騎常侍、還第、卒。帝手詔曰、琇與朕有先后之親、少小之恩、歷位外內、忠允茂著。不幸早薨、朕甚悼之。其追贈輔國大將軍・開府儀同三司、賜東園祕器、朝服一襲、錢三十萬、布百匹。諡曰威。

訓読

羊琇 字は稚舒、景獻皇后の從父弟なり。父耽、官は太常に至る。兄瑾、尚書右僕射たり。琇 少くして郡計に舉げられ、鎮西鍾會が軍事に參じ、平蜀に從ふ。會 謀反するに及び、琇 言を正して苦諫し、還りて、爵關內侯を賜ふ。
琇 學を涉りて智算有り、少くして武帝と通門し、甚だ相 親狎し、每に筵を接して同席し、嘗て帝に謂ひて曰く、「若し富貴にして用ひらるれば、領護に任ずること各々十年ならん」と。帝 戲れて之を許す。初め、帝 未だ立ちて太子と為らざるに、聲論 弟攸に及ばず、文帝 素より意は攸を重んじ、恒に代宗の議有り。琇 密かに武帝の為に畫策し、甚だ匡救有り。又 文帝の為政の損益を觀察し、應に顧問する所の事を揆度し、皆 武帝をして默りて之を識らしむ。其の後 文帝 武帝と當世の務を論じ人間の可否に及び、武帝 答へて不允無く、是に由りて儲位 遂に定まる。帝 撫軍と為るに及び、琇に參軍事を命ず。帝 王位に即く後、琇を擢でて左衞將軍と為し、甘露亭侯に封ず。帝 踐阼し、累りに中護軍に遷り、散騎常侍を加ふ。琇 職に在ること十三年、禁兵を典じ、機密を豫り、寵遇 甚だ厚し。初め、杜預 鎮南將軍を拜し、朝士 賀し畢はり、皆 榻を連ねて坐る。琇 裴楷と後に至り、曰く、「杜元凱 乃ち復た以て榻を連ねて客と坐すや」と。遂に坐せずして去る。
琇の性は豪侈、費用 復た齊限無く、而して炭を屑にして和して獸形を作りて以て酒を溫め、洛下の豪貴 咸 競ひて之に效ふ〔一〕。又 遊讌を喜び、夜を以て晝に續け、中外の五親 男女の別無く、時人 之を譏る。然るに黨 慕ひて己に勝り、其の推奉する所、便ち心を盡すこと無二なり。窮窘の徒、特に能く振恤す。選用は多く意を得る者を以て先に居り、銓次の理を盡さず。將士 官位を冒す者有り、其の致節を為し、軀命を惜まず。然るに放恣にして法を犯し、每に有司の貸す所と為る。其の後 司隸校尉劉毅 之を劾め、應に重刑を至すべし、武帝 舊恩を以て、直だ官を免ずるのみ。尋いで侯を以て白衣にして護軍を領す。頃之、復た職す。
齊王攸 出鎮するに及ぶや、琇 切諫を以て旨に忤ひ、太僕に左遷せらる。既に寵を失ひて憤怨し、遂に病を發し、疾 篤かるを以て退を求む。特進を拜し、散騎常侍を加へ、第に還り、卒す。帝 手づから詔して曰く、「琇 朕と與に先后の親、少小の恩有り、位を外內に歷し、忠允 茂著たり。不幸にして早く薨ず、朕 甚だ之を悼む。其れ輔國大將軍・開府儀同三司を追贈し、東園祕器、朝服一襲、錢三十萬、布百匹を賜へ」と。諡して威と曰ふ。

〔一〕『太平御覧』巻四百九十三に引く『晉朝雜記』に、「洛下少林木炭、正如粟状。羊琇驕豪、乃搗小炭為屑、以物和之、作獸形。後何石之徒共集、乃以溫酒、火勢既猛、獸皆開口向人、赫赫然、諸豪相矜、皆服而效之」とあり、これを節略したものか。

現代語訳

羊琇は字を稚舒といい、景献皇后の従父弟である。父の羊耽は、官位は太常に至った。兄の羊瑾は、尚書右僕射であった。羊琇は若いとき(泰山の)郡計に挙げられ、鎮西将軍である鍾会の軍事に参じ、蜀の平定に従った。鍾会が謀叛すると、羊琇は正論で厳しく諫め、帰還してから、関内侯の爵位を賜った。
羊琇は学問を渉猟して智恵と計略にすぐれ、若いとき武帝と同門であり、とても仲が良く、いつも筵を並べて同席し、かつて武帝に、「もし富貴となり官僚になるなら、十年ずつ領護(の各部署)に任命してほしい」と言った。武帝は戯れてこれを認めた。これより先、武帝がまだ太子に立てられる前、声望が弟の司馬攸に及ばず、文帝は本心では司馬攸を重んじ、つねに嫡子を交替させる話があった。羊琇はひそかに武帝のために画策し、大いに助け導いてやった。また文帝の為政の得失を分析し、諮問がありそうな事柄を推測し、こっそり武帝に教えてやった。その後に文帝が武帝と当代の政務を論じ民政の可否について論じたとき、武帝の答えは完璧であり、これにより後嗣の地位が確定した。武帝が撫軍となると、羊琇を参軍事に任命した。武帝が晋王の位に即いた後、羊琇を抜擢して左衛将軍とし、甘露亭侯に封じた。武帝が皇帝になると、しきりに中護軍に遷り、散騎常侍を加えた。羊琇は職に在ること十三年、禁兵をつかさどり、機密に預かり、寵遇はとても厚かった。これより先、杜預が鎮南将軍を拝し、朝士が祝賀を終えると、みな椅子を連ねて座った。羊琇は裴楷とともに遅れて到着し、「杜元凱(杜預)は椅子を連ねて客と座るのか」と言った。けっきょく(群れることを嫌い)座らずに去った。
羊琇は奢侈を好み、浪費は際限が無く、炭を砕いて獣の形を模造して(その炭に着火し)酒を温め、洛陽の豪貴な人々はみな競って真似をした。また宴飲を楽しみ、夜に始めて昼まで続け、中外の五親(近しい親戚)は男女を区別せず、当時の人はこれを批判した。しかし党与は羊琇を慕って自分を犠牲にし、彼を信奉して、無二に心を尽くした。困窮した者がいれば、とくに厚く振給した。人材登用は気心の知れた者を優先し、官職の秩序を無視した。将士は不当に官位に就く者がいたが、羊琇のために忠誠を尽くし、身命を惜しまなかった。ただし放恣であり法を犯して、いつも担当官に睨まれていた。その後に司隸校尉の劉毅がこれを取り締まり、重刑に処するべきであったが、武帝の旧恩があるため、ただ免官されただけだった。すぐに公の爵位によって白い衣を着けて護軍を領した。しばらくして、復職した。
斉王攸(司馬攸)が出鎮することになると、羊琇は切実に諫めて(武帝の)意思に逆らい、太僕に左遷された。寵愛を失って憤怨し、とうとう発病し、病気が重いとして引退を求めた。特進を拝し、散騎常侍を加え、邸宅に帰り、卒した。武帝が手ずから詔して、「羊琇は朕とともに先后と親しく、幼少の頃から恩があり、位を内外に歴任し、忠誠心は顕著であった。不幸にして早く薨じた、朕はひどく悼む。そこで輔国大将軍・開府儀同三司を追贈し、東園の秘器、朝服の一式、銭三十万、布百匹を賜うように」と言った。威と諡した。

王恂 弟虔 愷

原文

王恂字良夫、文明皇后之弟也。父肅、魏蘭陵侯。恂文義通博、在朝忠正、累遷河南尹、建立二學、崇明五經。鬲令袁毅嘗餽以駿馬、恂不受。及毅敗、受貨者皆被廢黜焉。魏氏給公卿已下租牛客戶數各有差、自後小人憚役、多樂為之、貴勢之門動有百數。又太原諸部亦以匈奴胡人為田客、多者數千。武帝踐位、詔禁募客、恂明峻其防、所部莫敢犯者。咸寧四年卒、贈車騎將軍。恂弟虔・愷。
虔字恭祖。以功幹見稱、累遷衞尉、封安壽亭侯、拜平東將軍・假節・監青州諸軍事。徵為光祿勳、轉尚書、卒。子士文嗣、歷右衞將軍・南中郎將、鎮許昌、為劉聰所害。
愷字君夫。少有才力、歷位清顯、雖無細行、有在公之稱。以討楊駿勳、封山都縣公、邑千八百戶。遷龍驤將軍、領驍騎將軍、加散騎常侍、尋坐事免官。起為射聲校尉、久之、轉後將軍。愷既世族國戚、性復豪侈、用赤石脂泥壁。石崇與愷將為鴆毒之事、司隸校尉傅祗劾之、有司皆論正重罪、詔特原之。由是眾人僉畏愷、故敢肆其意、所欲之事無所顧憚焉。及卒、諡曰醜。

訓読

王恂 字は良夫、文明皇后の弟なり。父の肅、魏の蘭陵侯なり。恂 文義に通博し、朝に在りては忠正、累りに河南尹に遷り、二學を建立し、五經に崇明す。鬲令袁毅 嘗て駿馬を以て餽(おく)り、恂 受けず。毅 敗るるに及び、貨を受くる者 皆 廢黜せらる。魏氏 公卿已下に租牛を給ひ客戶の數ごとに各々差有り、自後 小人 役を憚り、多く之に樂しみ、貴勢の門 動も百を數ふ有り。又 太原の諸部 亦 匈奴胡人を以て田客と為し、多き者は數千なり。武帝 踐位し、詔して募客を禁じ、恂 明に其の防を峻(きび)しくし、部する所 敢へて犯す者莫し。咸寧四年 卒し、車騎將軍を贈る。恂の弟は虔・愷なり。
虔 字は恭祖。功幹を以て稱せられ、累りに衞尉に遷り、安壽亭侯に封ぜられ、平東將軍・假節・監青州諸軍事を拜す。徵して光祿勳と為り、尚書に轉じ、卒す。子の士文 嗣ぎ、右衞將軍・南中郎將を歷し、許昌に鎮し、劉聰の害する所と為る。
愷 字は君夫。少くして才力有り、清顯を歷位し、細行無きと雖も、在公の稱有り。楊駿を討つ勳を以て、山都縣公に封じ、邑千八百戶。龍驤將軍に遷り、驍騎將軍を領し、散騎常侍を加へ、尋いで事に坐して免官せらる。起ちて射聲校尉と為り、久之、後將軍に轉ず。愷 既に世族國戚たれば、性 復た豪侈たり、赤石脂を用て壁に泥ぬる。石崇 愷と將に鴆毒の事を為さんとし、司隸校尉傅祗 之を劾め、有司 皆 重罪を正さんと論ずれども、詔して特に之を原す。是に由り眾人 僉 愷を畏れ、故に敢へて其の意を肆にし、欲する所の事 顧憚する所無し。卒するに及び、諡して醜と曰ふ。

現代語訳

王恂は字を良夫といい、文明皇后の弟である。父の王粛は、魏王朝の蘭陵侯であった。王恂は文義に広く精通し、朝廷では忠正で、しきりに河南尹に遷り、(官学に)二学を立て、五経を尊崇した。鬲令の袁毅がかつて駿馬を贈ったが、王恂は受け取らなかった。袁毅が失脚すると、財貨を受け取った者はみな罷免し退けられた。魏王朝は公卿以下に耕牛を支給して(保有する)屯田の戸数ごとに差等があった。こののち小人が労役を嫌がり、多く制度的恩恵を頼りにし、権勢を持つ家は百を数えるほどであった。さらに太原の諸部もまた匈奴や胡人を田客とし(屯田に取り込み)、多い者では数千人となった。武帝が即位すると、詔して田客の募集を禁じ、王恂はこの禁令を厳しく適用したので、配下はこれを破る者がいなかった。咸寧四(二七八)年に卒し、車騎将軍を贈られた。王恂の弟は王虔・王愷である。
王虔は字を恭祖という。功績と才幹により称えられ、しきりに衛尉に遷り、安寿亭侯に封ぜられ、平東将軍・仮節・監青州諸軍事を拝した。徴して光禄勲となり、尚書に転じ、卒した。子の王士文が嗣ぎ、右衛将軍・南中郎将を歴任し、許昌に鎮守したが、劉聡に殺害された。
王愷は字を君夫という。若くして才能と力量があり、清要顕達の官位を歴任し、こまやかな行いは無いが、公務に勤勉であると称賛された。楊駿を討った功績により、山都県公に封建され、邑は千八百戸だった。龍驤将軍に遷り、驍騎将軍を領し、散騎常侍を加えられ、ほどなく事案に関わって免官された。再任官して射声校尉となり、しばらくして、後将軍に転じた。王愷は高官の家柄であり外戚でもあるので、豪奢を好む性格で、赤石脂を壁に塗った。石崇が王愷に鴆鳥を贈ろうとし、司隸校尉の傅祗がこれを取り締まり、担当官はみな重罪と判定したが、詔して特別に赦した。この事件により人々は王愷を憚るようになり、ゆえに好き勝手に振る舞い、欲望の赴くままであった。卒すると、醜と諡された。

楊文宗

原文

楊文宗、武元皇后父也。其先事漢、四世為三公。文宗為魏通事郎、襲封蓩亭侯。早卒、以后父、追贈車騎將軍、諡曰穆。

訓読

楊文宗、武元皇后の父なり。其の先は漢に事へ、四世に三公為り。文宗 魏の通事郎と為り、封を襲ひて蓩亭侯たり。早く卒し、后の父を以て、車騎將軍を追贈し、諡して穆と曰ふ。

現代語訳

楊文宗は、武元皇后の父である。その祖先は漢王朝に仕え、四世に三公であった。楊文宗は魏王朝で通事郎となり、封地を嗣いで蓩亭侯となった。早くに卒し、皇后の父なので、車騎将軍を追贈され、穆と諡された。

羊玄之

原文

羊玄之、惠皇后父、尚書右僕射瑾之子也。玄之初為尚書郎、以后父、拜光祿大夫・特進・散騎常侍、更封興晉侯。遷尚書右僕射、加侍中、進爵為公。成都王穎之攻長沙王乂也、以討玄之為名、遂憂懼而卒。追贈車騎將軍・開府儀同三司。

訓読

羊玄之、惠皇后の父にして、尚書右僕射瑾の子なり。玄之 初め尚書郎と為り、后の父なるを以て、光祿大夫・特進・散騎常侍を拜し、更めて興晉侯に封ぜらる。尚書右僕射に遷り、侍中を加へ、爵を進めて公と為る。成都王穎の長沙王乂を攻むるや、玄之を討つを以て名と為し、遂に憂懼して卒す。車騎將軍・開府儀同三司を追贈す。

現代語訳

羊玄之は、恵皇后の父であり、尚書右僕射の羊瑾の子である。羊玄之は初めに尚書郎となり、皇后の父なので、光禄大夫・特進・散騎常侍を拝し、更めて興晋侯に封建された。尚書右僕射に遷り、侍中を加えられ、爵位を進めて公となった。成都王穎(司馬穎)が長沙王乂(司馬乂)を討伐するとき、羊玄之の討伐をスローガンとしたので、憂い懼れて卒した。車騎将軍・開府儀同三司を追贈された。

虞豫 子胤

原文

虞豫、元敬皇后父也。少有美稱、州郡禮辟、並不就。拜南陽王文學。早卒。明帝即位、追贈散騎常侍・驃騎大將軍・開府儀同三司・平山縣侯。子胤嗣。
胤、敬后弟也。初拜散騎常侍、遷步兵校尉。太寧末、追贈豫官、以胤襲侯爵、轉右衞將軍。與南頓王宗俱為明帝所昵、並典禁兵。及帝不豫、宗以陰謀發覺、事連胤、帝隱忍不問、徙胤為宗正卿、加散騎常侍。咸和二年、宗伏誅、左遷胤為桂陽太守、秩中二千石。頻徙琅邪・廬陵太守。咸康元年卒、追贈衞將軍、加散騎常侍。子洪襲爵。

訓読

虞豫、元敬皇后の父なり。少くして美稱あり、有り州郡 禮もて辟し、並びに就かず。南陽王文學を拜す。早く卒す。明帝 即位し、散騎常侍・驃騎大將軍・開府儀同三司・平山縣侯を追贈す。子の胤 嗣ぐ。
胤、敬后の弟なり。初め散騎常侍を拜し、步兵校尉に遷る。太寧末、豫に官を追贈し、胤を以て侯爵を襲はしめ、右衞將軍に轉ず。南頓王宗と俱に明帝の昵む所と為り、並びに禁兵を典ず。帝 不豫なるに及び、宗 陰謀 發覺するを以て、事 胤に連なり、帝 隱忍して問はず、胤を徙して宗正卿と為し、散騎常侍を加ふ。咸和二年、宗 誅に伏し、胤を左遷して桂陽太守と為し、秩は中二千石なり。頻りに琅邪・廬陵太守に徙る。咸康元年 卒す、衞將軍を追贈し、散騎常侍を加ふ。子の洪 爵を襲ふ。

現代語訳

虞豫は、元敬皇后の父である。若いときから賛美されて評判が高く、州郡は礼を尽くして辟したが、いずれも就官しなかった。南陽王文学を拝した。早くに卒した。明帝が即位すると、散騎常侍・驃騎大将軍・開府儀同三司・平山県侯を追贈された。子の虞胤が嗣いだ。
虞胤は、敬后の弟である。はじめ散騎常侍を拝し、歩兵校尉に遷った。太寧末(-三二六)、虞豫に官位を追贈し、虞胤に侯爵を嗣がせ、右衛将軍に転じた。南頓王宗(司馬宗)とともに明帝と親睦し、並んで禁兵を掌った。明帝が病気になると、司馬宗は陰謀が発覚し、この事件に虞胤も連座したが、明帝は隠忍して(罪を)問わず、虞胤を宗正卿に移し、散騎常侍を加えた。咸和二(三二七)年、司馬宗が誅に伏すと、虞胤を左遷して桂陽太守とし、秩は中二千石であった。しきりに琅邪・廬陵太守に徙った。咸康元(三三五)年に卒し、衛将軍を追贈し、散騎常侍を加えられた。子の虞洪が爵位を嗣いだ。

庾琛

原文

庾琛字子美、明穆皇后父也。兄袞、在孝友傳。琛永嘉初為建威將軍、過江、為會稽太守、徵為丞相軍諮祭酒。卒官、以后父追贈左將軍、妻毋丘氏追封鄉君、子亮陳先志不受。咸和中、成帝又下詔追贈琛驃騎將軍・儀同三司、亮又辭焉。亮在列傳。

訓読

庾琛 字は子美、明穆皇后の父なり。兄袞、孝友傳に在り。琛 永嘉初に建威將軍と為り、江を過り、會稽太守と為り、徵して丞相軍諮祭酒と為る。官に卒し、后の父を以て左將軍を追贈し、妻毋丘氏 鄉君に追封し、子亮 先志を陳べて受けず。咸和中、成帝 又 詔を下して琛に驃騎將軍・儀同三司を追贈し、亮 又 辭す。亮 列傳在り。

現代語訳

庾琛(ゆしん)は字を子美といい、明穆皇后の父である。兄の庾袞は、孝友伝に記載がある。庾琛は永嘉初(三〇七-)に建威将軍となり、長江を渡り、会稽太守となり、徴して丞相軍諮祭酒となった。在官に卒し、皇后の父なので左将軍を追贈し、妻の毋丘氏に郷君を追封したが、子の庾亮が遺志を述べて受納しなかった。咸和中(三二六-三三四)、成帝がまた詔を下して庾琛に驃騎将軍・儀同三司を追贈したが、庾亮はまた辞退した。庾亮は専伝がある。

杜乂

原文

杜乂1.字弘理、成恭皇后父、鎮南將軍預孫、尚書左丞錫之子也。性純和、美姿容、有盛名於江左。王羲之見而目之曰、膚若凝脂、眼如點漆、此神仙人也。桓彝亦曰、衞玠神清、杜乂形清。襲封當陽侯、辟公府掾、為丹楊丞。早卒、無男。生后而乂終、妻裴氏嫠居養后、以禮自防、甚有德音。咸康初、追贈金紫光祿大夫、諡曰穆。封裴氏為高安鄉君、邑五百戶。至孝武帝時、崇進為廣德縣君。裴氏壽考、百姓號曰杜姥。初、司徒蔡謨甚器重乂、嘗言於朝曰、恨諸君不見杜乂也。其為名流所重如此。

1.中華書局本によると、『世説新語』は字を「弘治」に作る。唐代の避諱により「治」を「理」に改めたという。

訓読

杜乂 字は弘理、成恭皇后の父、鎮南將軍預の孫、尚書左丞錫の子なり。性は純和にして、姿容美しく、江左に盛名有り。王羲之 見えて之に目して曰く、「膚は凝脂の若し、眼は點漆の如し、此れ神仙の人なり」と。桓彝 亦 曰く、「衞玠は神清、杜乂は形清」と。封當陽侯を襲ひ、公府の掾に辟され、丹楊丞と為る。早く卒し、男無し。后を生みて乂 終はり、妻裴氏 嫠居して后を養ひ、禮を以て自防し、甚だ德音有り。咸康初、金紫光祿大夫を追贈し、諡して穆と曰ふ。裴氏を封じて高安鄉君と為し、邑五百戶。孝武帝の時に至り、崇進して廣德縣君と為る。裴氏の壽考、百姓 號して杜姥と曰ふ。初め、司徒蔡謨 甚だ乂を器重し、嘗て朝に言ひて曰く、「恨むらくは諸君 杜乂に見えざるを」と。其の名流の為に重ぜらる所 此の如し。

現代語訳

杜乂は字を弘理(弘治)といい、成恭皇后の父であって、鎮南将軍である杜預の孫、尚書左丞である杜錫の子である。性格は純朴で和やか、姿形が美しく、江東で盛名があった。王羲之が会って目配せし、「皮膚は凝脂のよう、眼は點漆のようで(黒光りし)、これぞ神仙の人である」と言った。桓彝もまた、「衛玠は神清(内面が清らか)、杜乂は形清(外見が清らか)」と言った。当陽侯の封爵を嗣ぎ、公府の掾に辟され、丹楊丞となった。早くに卒し、男子がいなかった。皇后が生まれ杜乂が早くに死んだので、妻の裴氏が一人で暮らして皇后を養い、礼をもって自らの節度を守り、とても徳望が高かった。咸康初(三三五-)、金紫光禄大夫を追贈し、穆と諡した。裴氏を封じて高安郷君とし、邑は五百戸。孝武帝の時代に至り、尊崇して広徳県君に進めた。裴氏は長寿だったので、百姓が名付けて杜姥と呼んだ。これより先、司徒の蔡謨が杜乂の器量を非常に重んじ、かつて朝廷で、「諸君が杜乂に会ったことがないのが残念だ」と言った。尊重された名士ぶりはこのようであった。

褚裒

原文

褚裒字季野、康獻皇后父也。祖䂮、有局量、以幹用稱。嘗為縣吏、事有不合、令欲鞭之、䂮曰、物各有所施、榱椽之材不合以為藩落也、願明府垂察。乃捨之。家貧、辭吏。年垂五十、鎮南將軍羊祜與䂮有舊、言於武帝、始被升用、官至安東將軍。父洽、武昌太守。
裒少有簡貴之風、與京兆杜乂俱有盛名、冠于中興。譙國桓彝見而目之曰、季野有皮裏陽秋。言其外無臧否、而內有所褒貶也。謝安亦雅重之、恒云、裒雖不言、而四時之氣亦備矣。
初辟西陽王掾・吳王文學。蘇峻之構逆也、車騎將軍郗鑒以裒為參軍。峻平、以功封都鄉亭侯、稍遷司徒從事中郎、除給事黃門侍郎。康帝為琅邪王時、將納妃、妙選素望、詔娉裒女為妃、於是出為豫章太守。及康帝即位、徵拜侍中、遷尚書。以后父、苦求外出、除建威將軍・江州刺史、鎮0.(平州)〔半洲〕。在官清約、雖居方伯、恒使私童樵採。頃之、徵為衞將軍、領中書令。裒以中書銓管詔命、不宜以姻戚居之、固讓、詔以為左將軍・兗州刺史・都督兗州徐州之琅邪諸軍事、假節、鎮金城、又領琅邪內史。
初、裒總角詣庾亮、亮使郭璞筮之。卦成、璞駭然、亮曰、有不祥乎。璞曰、此非人臣卦、不知此年少何以乃表斯祥。二十年外、吾言方驗。及此二十九年而康獻皇太后臨朝、有司以裒皇太后父、議加不臣之禮、拜侍中・衞將軍・錄尚書事、持節・都督・刺史如故。裒以近戚、懼獲譏嫌、上疏固請居藩、曰、臣以虛鄙、才不周用、過蒙國恩、累忝非據。無勞受寵、負愧實深、豈可復加殊特之命、顯號重疊。臣有何勳可以克堪。何顏可以冒進。委身聖世、豈復遺力。實懼顛墜、所誤者大。今王略未振、萬機至殷、陛下宜委誠宰輔、一遵先帝任賢之道、虛己受成、坦平心於天下、2.(不)〔無〕宜內示私親之舉、朝野失望、所損豈少。於是改授都督徐兗青揚州之晉陵吳國諸軍事、衞將軍・徐兗二州刺史、假節、鎮京口。
永和初、復徵裒、將以為揚州・錄尚書事。吏部尚書劉遐說裒曰、會稽王令德、國之周公也、足下宜以大政付之。裒長史王胡之亦勸焉、於是固辭歸藩、朝野咸歎服之。進號征北大將軍・開府儀同三司、固辭開府。裒又以政道在於得才、宜委賢任能、升敬舊齒、乃薦前光祿大夫顧和・侍中殷浩。疏奏、即以和為尚書令、浩為揚州刺史。

1.中華書局本に従い、「平州」を「半州」に改める。
2.中華書局本に従い、改める。

訓読

褚裒 字は季野、康獻皇后の父なり。祖䂮、局量有り、幹用を以て稱へらる。嘗て縣吏と為り、事 合はざる有り、令して之を鞭せんと欲し、䂮曰く、「物 各々施す所有り、榱椽の材 以て藩落と為すに合はず、願はくは明府 垂察せよ」と。乃ち之を捨つ。家 貧しく、吏を辭す。年 五十に垂とし、鎮南將軍羊祜 䂮と舊有り、武帝に言ひ、始めて升用せられ、官は安東將軍に至る。父洽、武昌太守なり。
裒 少くして簡貴の風有り、京兆杜乂と俱に盛名有り、中興に冠す。譙國桓彝 見えて之を目して曰く、「季野 皮裏の陽秋有り」と。其の外に臧否無きを言ひ、而るに內に褒貶する所有り。謝安 亦 雅に之を重んじ、恒に云はく、「裒 言はざると雖も、而るに四時の氣 亦 備はる」と。
初め西陽王掾・吳王文學に辟さる。蘇峻の構逆するや、車騎將軍郗鑒 裒を以て參軍と為す。峻 平らぎ、功を以て都鄉亭侯に封ぜられ、稍(やうや)く司徒從事中郎に遷り、給事黃門侍郎に除せらる。康帝 琅邪王為る時、將に妃を納れんとし、素望を妙選し、詔して裒の女を娉して妃と為し、是に於いて出でて豫章太守と為る。康帝 即位するに及び、徵して侍中を拜し、尚書に遷る。后の父を以て、苦(はなは)だ外出を求め、建威將軍・江州刺史に除せられ、半洲に鎮す。官に在りて清約、方伯に居ると雖も、恒に私童をして樵採せしむ。頃之、徵して衞將軍と為り、中書令を領す。裒 中書を以て詔命を銓管し、宜しく姻戚を以て之に居らしむべからざるを不て、固く讓す、詔して以て左將軍・兗州刺史、都督兗州徐州之琅邪諸軍事と為し、假節、金城に鎮し、又 琅邪內史を領す。
初め、裒 總角にして庾亮に詣り、亮 郭璞をして之を筮はしむ。卦 成り、璞 駭然として、亮曰く、「不祥有るや」と。璞曰く、「此れ人臣の卦に非ず、此の年少 何を以て乃ち斯の祥を表すかを知らず。二十年外、吾が言 方に驗れん」と。此の二十九年に及びて康獻皇太后 臨朝し、有司 裒の皇太后父たるを以て、議して不臣の禮を加へ、侍中・衞將軍・錄尚書事を拜し、持節・都督・刺史 故の如し。裒 近戚を以て、譏嫌を獲るを懼れ、上疏して固く居藩を請ひ、曰く、「臣 虛鄙を以て、才 用に周からず、過ぎて國恩を蒙り、累りに非據を忝けなくす。勞無くして寵を受け、負愧 實に深く、豈に復た殊特の命を加へ、顯號 重疊たる可きや。臣 何の勳有りて以て克く堪へる可きや。何の顏にて以て進を冒すや。身を聖世に委て、豈に復た力を遺さん。實に顛墜を懼れ、誤る所は大なり。今 王略 未だ振はず、萬機の至殷、陛下 宜しく誠を宰輔に委ね、一に先帝 任賢の道に遵ひ、己を虛しくて成を受け、心を天下に坦平せよ。宜しく內に私親の舉を示すこと無く、朝野 失望せば、損ずる所 豈に少なからんや」と。是に於いて改めて都督徐兗青揚州の晉陵吳國諸軍事、衞將軍・徐兗二州刺史、假節を授け、京口に鎮す。
永和初、復た裒を徵し、將に以て揚州・錄尚書事に為さんとす。吏部尚書劉遐 裒に說きて曰く、「會稽王は令德にして、國の周公なり、足下 宜しく大政を以て之に付すべし」と。裒の長史王胡之 亦 焉を勸め、是に於いて固く辭して歸藩し、朝野 咸 之に歎服す。號を進めて征北大將軍・開府儀同三司とし、開府を固辭す。裒 又 政道 才を得るに在り、宜しく賢に委ね能を任じ、舊齒を升敬すべきを以て、乃ち前光祿大夫顧和・侍中殷浩を薦む。疏奏し、即ち和を以て尚書令と為し、浩もて揚州刺史と為す。

現代語訳

褚裒は字を季野といい、康献皇后の父である。祖父の褚䂮は、度量があり、才幹により称えられた。かつて県吏となり、仕事がうまくゆかぬ者を、処罰しようとする案があったが、褚䂮は(県の長官に)、「物にはそれぞれ適所があり、棟木の材料は柵にはなりません、明府はこれを考慮なさって下さい」と言った。この件は見逃された。家が貧しく、県吏を辞した。五十歳になろうというとき、鎮南将軍の羊祜が褚䂮と旧知だったので、武帝に言い、はじめて登用され、官位は安東将軍に至った。父の褚洽は、武昌太守である。
褚裒は若いときから高慢な気風があり、京兆の杜乂とともに盛名があり、東晋政権の筆頭であった。譙國の桓彝が会って目配せし、「季野(褚裒)は皮裏の陽秋がある」と言った。顔には意見を出さないが、心中では厳しく良否を判断しているという意味である。謝安もまた大変重んじ、つねに、「褚裒は口には出さないが、四時の気が備わっている」と言った。
はじめ西陽王掾・呉王文学に辟された。蘇峻が反逆をなすと、車騎将軍の郗鑒が褚裒を参軍とした。蘇峻を平定すると、功績により都郷亭侯に封じられ、ついで司徒従事中郎に遷り、給事黄門侍郎に除された。康帝が琅邪王であったとき、王妃を迎えようとし、平素の声望に基づいて精選して、詔して褚裒の娘を召して妃とし、そこで(褚裒は地方に)出て豫章太守となった。康帝が即位するに及び、徴して侍中を拝し、尚書に遷った。皇后の父なので、しきりに地方に出ることを要請し、建威将軍・江州刺史に除せされ、半洲に出鎮した。官職にあっては清廉で節約し、地方長官であるが、つねに私童に柴を刈らせた。しばらくして、徴して衛将軍となり、中書令を領した。褚裒は中書として詔命を管理したが、外戚であるからこの職にあることを不適切とし、強く辞退したので、詔して左将軍・兗州刺史、兗州と徐州琅邪の諸軍事を都督し、假節として、金城に出鎮し、さらに琅邪内史を領した。
これより先、褚裒は總角(少年)のとき庾亮と会い、庾亮は郭璞に易で占わせた。卦が成ると、郭璞は愕然とし、庾亮は「不吉なのか」と言った。郭璞は、「これは人臣の卦ではない、なぜこの少年がこの結果を出したのか分からぬ。二十年以上後、私の言った意味が分かるだろう」と言った。この二十九年後になって康献皇太后が臨朝し、担当官は褚裒が皇太后の父なので、不臣の礼を加え、侍中・衛将軍・録尚書事を拝し、持節・都督・刺史は従来通りとすることを建議した。褚裒は外戚として、批判を受けることを恐れ、上疏して強く地方に出ることを求め、「私は卑鄙ですが、才能に見合わず、過ぎたる国恩を受け、不相応な地位に登りました。苦労せず寵愛を受け、恥じる気持ちはまことに深く、どうしてさらに特別な任命を受け、高い称号を重ねるのでしょうか。私のどんな功績が釣り合うのでしょうか。どんな顔をして昇進するのでしょうか。身を聖世に投げ出し、力を尽くします。不相応な昇進を切に恐れ、大きな誤りと考えます。いま晋の王法はまだ振るわず、政道を繁栄させるため、陛下は宰相の働きに期待し、ひとえに先帝が賢者を任用した道に従い、私心を無くして成果を受けとり、天下の心を平穏になさいませ。身内を特別扱いしてはならず、朝野が失望すれば、損失は少なくありません」と言った。ここにおいて改めて徐兗青揚州の晉陵吳國の諸軍事を都督し、衞將軍・徐兗二州刺史として假節を授け、京口に出鎮させた。
永和初(三四五-)、ふたたび褚裒を徴し、揚州・録尚書事としようとした。吏部尚書の劉遐が褚裒に説いて、「会稽王は名徳があり、国の周公(天子のおじ)です、あなたは政権をかれに付託すべきです」と言った。褚裒の長史である王胡之もまたこれを勧め、ここにおいて固辞して帰藩したから、朝野はみな褚裒に感嘆し敬服した。官号を進めて征北大将軍・開府儀同三司としたが、開府は固辞した。さらに褚裒は才能あるひとが執政をしていることを受け、賢者と有能な人物を任命し、年長者を敬い昇格させるべきと考え、前光禄大夫の顧和・侍中の殷浩を推薦した。提案すると、すぐに顧和を尚書令とし、殷浩を揚州刺史とした。

原文

及石季龍死、裒上表請伐之、即日戒嚴、直指泗口。朝議以裒事任貴重、不宜深入、可先遣偏師。裒重陳前所遣前鋒督護王頤之等徑造彭城、示以威信、後遣督護麋嶷進軍下邳、賊即奔潰、嶷率所領據其城池、今宜速發、以成聲勢。於是除征討大都督青・揚・徐・兗・豫五州諸軍事。裒率眾三萬徑進彭城、河朔士庶歸降者日以千計、裒撫納之、甚得其歡心。先遣督護1.徐龕伐沛、獲偽相支重、郡中二千餘人歸降。魯郡山有五百餘家、亦建義請援、裒遣龕領銳卒三千迎之。龕違裒節度、軍次代陂、為石遵將2.李菟所敗、死傷太半、龕執節不撓、為賊所害。裒以春秋責帥、授任失所、威略虧損、上疏自貶、以征北將軍行事、求留鎮廣陵。詔以偏帥之責、不應引咎、逋寇未殄、方鎮任重、不宜貶降、使還鎮京口、解征討都督。
時石季龍新死、其國大亂、遺戶二十萬口渡河、將歸順、乞師救援。會裒已旋、威勢不接、莫能自拔、皆為慕容皝及苻健之眾所掠、死亡咸盡。裒以遠圖不就、憂慨發病。及至京口、聞哭聲甚眾、裒問何哭之多。左右曰、代陂之役也。裒益慚恨。永和五年卒、年四十七、遠近嗟悼、吏士哀慕之。贈侍中・太傅、本官如故、諡曰元穆。子歆、字幼安、以學行知名、歷散騎常侍・祕書監。

1.中華書局本は、「徐龕」を「王龕」に作るべきとする。
2.中華書局本は、「李菟」を「李農」に作るべきとする。

訓読

石季龍 死するに及び、裒 上表して之を伐たんと請ひ、即日 戒嚴し、直に泗口を指す。朝議 以へらく裒の事任 貴重たり、宜しく深入すべからず、先に偏師を遣はしむ可しと。裒 重ねて陳すらく前に遣る所の前鋒督護の王頤之等 徑に彭城に造(いた)り、以て威信を示し、後に督護の麋嶷を遣はして軍を下邳に進めば、賊 即ち奔潰し、嶷の領する所を率ひ其の城池に據り、今 宜しく速やかに發し、以て聲勢を成すべしと。是に於て征討大都督青・揚・徐・兗・豫五州諸軍事に除せらる。裒 眾三萬を率ゐ徑ちに彭城に進み、河朔の士庶 歸降する者 日に千を以て計へ、裒 之を撫納し、甚だ其の歡心を得。先に督護の徐龕を遣はして沛を伐たしめ、偽相の支重を獲、郡中二千餘人 歸降す。魯郡の山に五百餘家有り、亦 義を建て援を請ひ、裒 龕を遣はして銳卒三千を領し之を迎へしむ。龕 裒の節度に違ひ、軍 代陂に次り、石遵の將たる李菟の敗る所と為り、死傷太半、龕 節を執りて撓れず、賊の害する所と為る。裒 春秋を以て帥を責め、授任 所を失ひ、威略 虧損すれば、上疏して自ら貶め、征北將軍行事を以て、廣陵に留鎮するを求む。詔して偏帥の責を以て、應に咎を引くべからず、逋寇 未だ殄(た)えず、方鎮の任 重ければ、宜しく貶降すべからず、還りて京口に鎮せしめ、征討都督を解く。
時に石季龍 新たに死し、其の國 大亂し、遺戶二十萬口 河を渡り、將に歸順せんとし、師に救援を乞ふ。會 裒 已に旋し、威勢 接がず、能く自拔する莫く、皆 慕容皝及び苻健の眾の掠する所と為り、死亡し咸 盡く。裒 遠圖 就かざるを以て、憂慨して發病す。京口に至るに及び、哭聲 甚だ眾きを聞き、裒 何ぞ哭の多きやと問ふ。左右曰く、「代陂の役なり」と。裒 益々慚恨す。永和五年 卒し、年四十七、遠近 嗟悼し、吏士 之を哀慕す。侍中・太傅を贈り、本官 故の如し、諡して元穆と曰ふ。子の歆、字は幼安、學行を以て名を知られ、散騎常侍・祕書監を歷す。

現代語訳

石季龍が死ぬと、褚裒は上表して討伐することを請い、即日に戦時体制に移行し、まっすぐ泗口を目指した。朝議は褚裒の立場が重いため、深入りせず、まず偏師(主力でない部隊)を送るほうが良いと考えた。褚裒が重ねて述べることには先に派遣した前鋒督護の王頤之らが直ちに彭城に到達して、威信を示し、その次に督護の麋嶷を派遣して軍を下邳に進めれば、賊はたちまち潰走するはずなので、麋嶷の配下の兵でその城池(下邳の城壁と堀)に拠って守ればよく、いま速やかに出発すれば、優勢な戦局を作れると提案した。そこで(褚裒が)征討大都督青・揚・徐・兗・豫五州諸軍事に任命された。褚裒が軍勢三万を率いてまっすぐ彭城に進むと、河朔(河北)の士庶の帰順し投降する者は日ごとに千を数え、褚裒は彼らを慰撫して受け入れ、大いに支持された。先に督護の徐龕(正しくは王龕)を派遣して沛国を討伐させ、偽相(敵国が任命した国相)の支重を捕獲し、郡中の二千余人が帰順し投降した。魯郡の山に五百余家がおり、彼らも義を建て(東晋を支持し)救援を求めたので、褚裒は徐龕を派遣して精鋭三千でこれを迎えに行かせた。徐龕は褚裒の命令に違反し、軍を代陂に停泊させ、石遵の将である李菟に破られ、大半が死傷し、徐龕は節を持ったまま倒れず、敵軍に殺害された。褚裒は『春秋』に基づいて指揮官(自ら)の責任を問い、配下の人選を誤り、国威と戦略を傷つけたから、上疏して自らを降格し、征北将軍行事として、広陵に留まり鎮守することを求めた。詔して偏帥(主力でない部隊)の責任であるから、褚裒の失敗ではない上、逃げた賊がまだ絶滅しておらず、方鎮の任務は重要であるから、降格してはならぬと言い、還って京口を鎮守させ、征討都督の役割を解いた。
折りしも石季龍が死に、その国が大いに乱れ、遺民の二十万人が黄河を渡り、東晋に帰順しようとし、救援の軍を求めた。ちょうど褚裒は軍を撤退させたばかりで、威勢を継続的に及ぼしておらず、東晋の軍が駆けつけることができず、遺民たちは慕容皝及び苻健の軍勢に掠奪され、全滅してしまった。褚裒は遠くの計略が噛みあわないので、憂悶し慨嘆して発病した。京口に至ると、泣き声がとても多いのを聞き、褚裒は何を泣いているのかと質問した。近侍する者が、「代陂の役のことです」と答えた。褚裒はますます恥じて後悔した。永和五(三四九)年に卒し、年は四十七、遠近は嘆き悲しみ、吏士は彼を哀慕した。侍中・太傅を贈り、本官は従来通りとし、元穆と諡した。子の褚歆は、字を幼安といい、学問と徳行により名を知られ、散騎常侍・秘書監を歴任した。

何準 子澄

原文

何準字幼道、穆章皇后父也。高尚寡欲、弱冠知名、州府交辟、並不就。兄充為驃騎將軍、勸其令仕、準曰、第五之名何減驃騎。準兄弟中第五、故有此言。充居宰輔之重、權傾一時、而準散帶衡門、不及人事、唯誦佛經、修營塔廟而已。徵拜散騎郎、不起。年四十七卒。升平元年、追贈金紫光祿大夫、封晉興縣侯。子惔以父素行高潔、表讓不受。三子、放・惔・澄。放繼充。惔官至南康太守、早卒。惔子元度、西陽太守。次叔度、太常卿・尚書。
澄字季玄、起家祕書郎、轉丞、清正有器望、累遷祕書監・太常・中護軍。孝武帝深愛之、以為冠軍將軍・吳國內史。太元末、琅邪王出居外第、妙選師傅、徵拜尚書、領琅邪王師。安帝即位、遷尚書左僕射、典選・王師如故。時澄腳疾、固讓、特聽不朝、坐家視事。又領本州大中正。及桓玄執政、以疾奏免、卒于家。安帝反正、追贈金紫光祿大夫。長子籍、早卒。次子融、元熙中、為大司農。

訓読

何準 字は幼道、穆章皇后の父なり。高尚にして寡欲、弱冠にして名を知られ、州府 交辟し、並びに就かず。兄充 驃騎將軍と為り、其に勸めて仕へしめ、準曰く、「第五の名 何ぞ驃騎に減(ゆず)らんか」と。準は兄弟中の第五、故に此の言有り。充 宰輔の重に居り、權 一時に傾き、而るに準 衡門に散帶して〔一〕、人事に及ばず、唯だ佛經を誦じ、塔廟を修營するのみ。徵して散騎郎を拜するも、起せず。年四十七に卒す。升平元年、金紫光祿大夫を追贈し、晉興縣侯に封ず。子の惔 父の素行高潔たるを以て、表して讓りて受けず。三子あり、放・惔・澄なり。放は充を繼ぐ。惔 官は南康太守に至り、早く卒す。惔の子元度、西陽太守なり。次は叔度、太常卿・尚書なり。
澄 字は季玄、祕書郎に起家し、丞に轉じ、清正にして器望有り、累りに祕書監・太常・中護軍に遷る。孝武帝 深く之を愛し、以て冠軍將軍・吳國內史と為す。太元末、琅邪王 出て外第に居し、師傅を妙選し、徵して尚書を拜し、琅邪王師を領す。安帝 即位し、尚書左僕射に遷り、典選・王師 故の如し。時に澄 腳疾あり、固く讓し、特に不朝を聽し、家に坐して視事す。又 本州大中正を領す。桓玄 執政するに及び、疾を以て免を奏し、家に卒す。安帝 正に反り、金紫光禄大夫を追贈す。長子籍、早く卒す。次子融、元熙中、大司農と為る。

〔一〕衡門は、『詩経』陳風 衡門に「衡門之下、可以棲遲」とあり、衡門は木を横たえて門にしたもの。散帶は、喪服の一種。『礼記』雜記上に「大功以上散帶」とある。新釈漢文大系によると、大功以上の喪には、まず撚(ひね)りをかけない麻紐の帯絰を用い、三日後から撚りをかけたものを用いる。

現代語訳

何準は字を幼道といい、穆章皇后の父である。高尚で寡欲であり、弱冠にして名を知られ、州府が次々と辟したが、いずれも就かなかった。兄の何充が驃騎将軍となり、何準に(兄に)仕えよと勧めたが、何準は、「第五の名はなぜ驃騎に劣ろうか」と言った。何準は兄弟のなかで第五(五番目)なので、このように言ったのである。何充は宰輔という重職にあって、ある時期に権勢が傾いたが、何準は邸宅に引きこもり、政治に関与せず、ただ仏典を誦して、塔廟を修営するだけであった。徴して散騎郎を拝したが、就官しなかった。年四十七で卒した。升平元(三五七)年、金紫光禄大夫を追贈し、晋興県侯に封建した。子の何惔は父の素行が高潔であったことから、上表して辞退し受けなかった。三人の子がおり、何放・何惔・何澄である。何放は(おじ)何充を継いだ。何惔は官位が南康太守に至り、早くに卒した。何惔の子の何元度は、西陽太守である。次男の何叔度は、太常卿・尚書である。
何澄は字を季玄といい、秘書郎から起家し、丞に転じ、清廉で器量と名望があり、しきりに秘書監・太常・中護軍に遷った。孝武帝に深く愛され、冠軍将軍・呉国内史となった。太元末(-三九六)、琅邪王が出て外の邸宅に居住し、師傅を精選したとき、(何澄が)徴されて尚書を拝し、琅邪王師を領した。安帝が即位すると、尚書左僕射に遷り、典選・王師は従来どおりとした。このとき何澄は脚に病があり、強く辞退したが、特別に朝廷に来ず、家で執務することを許可した。さらに出身の州大中正を領した。桓玄が執政するに及び、病気を理由に引退を申請し、家で卒した。安帝が正位に返ると、金紫光禄大夫を追贈した。長子の何籍は、早くに卒した。次子の何融は、元熙中(四一九-四二〇)、大司農となった。

王濛 子脩

原文

王濛字仲祖、哀靖皇后父也。曾祖黯、歷位尚書。祖佑、北軍中候。父訥、新淦令。濛少時放縱不羈、不為鄉曲所齒、晚節始克己勵行、有風流美譽、虛己應物、恕而後行、莫不敬愛焉。事諸母甚謹、奉祿資產常推厚居薄、喜慍不形於色、不修小潔、而以清約見稱。善隸書。美姿容、嘗覽鏡自照、稱其父字曰、王文開生如此兒邪。居貧、帽敗、自入市買之、嫗悅其貌、遺以新帽、時人以為達。與沛國劉惔齊名友善、惔常稱濛性至通、而自然有節、濛每云、劉君知我、勝我自知。時人以惔方荀奉倩、濛比袁曜卿、凡稱風流者、舉濛・惔為宗焉。
司徒王導辟為掾。導復引匡術弟孝、濛致牋於導曰、開國承家、小人勿用。杖德義以尹天下、方將澄清彝倫、崇重名器。夫軍國殊用、文武異容、豈可令涇渭混流、虧清穆之風、1.以允答具瞻、儀形海內。導不答。後出補長山令、復為司徒左西屬。濛以此職有譴則應受杖、固辭。詔為停罰、猶不就。徙中書郎。
簡文帝之為會稽王也、嘗與孫綽商略諸風流人、綽言曰、劉惔清蔚簡令、王濛溫潤恬和、桓溫高爽邁出、謝尚清易令達、而濛性和暢、能言理・辭簡而有會。及簡文帝輔政、益貴幸之、與劉惔號為入室之賓。轉司徒左長史。晚求為東陽、不許。及濛病、乃恨不用之。濛聞之曰、人言會稽王癡、竟癡也。疾漸篤、於燈下轉麈尾視之、歎曰、如此人曾不得四十也。年三十九卒。臨殯、劉惔以犀杷麈尾置棺中、因慟絕久之。謝安亦常稱美濛云、王長史語甚不多、可謂有令音。有二子、脩・蘊。
脩字敬仁、小字2.(荀子)〔苟子〕、明秀有美稱、善隸書、號曰流奕清舉。年十二、作賢全論。濛以示劉惔曰、敬仁此論、便足以參微言。起家著作郎、琅邪王文學、轉中軍司馬、未拜而卒、年二十四。臨終、歎曰、無愧古人、年與之齊矣。

1.『通志』巻百六十五、『冊府元亀』巻七百二十三は、「以」の上に「何」字がある。
2.中華書局本に従い、改める。

訓読

王濛 字は仲祖、哀靖皇后の父なり。曾祖黯、位尚書を歷す。祖佑、北軍中候なり。父訥、新淦令なり。濛 少なき時 放縱不羈にして、鄉曲の齒(よはい)する所と為らず、晚節に始めて克己勵行し、風流美譽有り、己を虛しくして物に應じ、恕して後に行ひ、敬愛せざる莫し。諸母に事へて甚だ謹たり、奉祿資產もて常に居薄に推厚し、喜慍 色に形はず、小潔を修めず、而して清約を以て稱へらる。隸書を善くす。姿容美しく、嘗て鏡を覽て自ら照し、其の父の字を稱して曰く、「王文開 此の兒の如きを生むや」と。貧に居り、帽 敗れ、自ら市に入りて之を買ひ、嫗 其の貌を悅び、新帽を以て遺り、時人 以て達と為す。沛國の劉惔と名を齊しく友善し、惔 常に濛の性 至通にして、而して自然に節有るを稱し、濛 每に云はく、「劉君 我を知るは、我 自ら知るに勝る」と。時人 惔を以て荀奉倩に方べ、濛もて袁曜卿に比し、凡そ風流を稱へれば、濛・惔を舉げて宗と為す。
司徒王導 辟して掾と為す。導 復た匡術の弟孝を引き、濛 牋を導に致して曰く、「國を開き家を承け、小人 用ゐる勿かれ。德義に杖りて以て天下に尹たり、方に將に彝倫を澄清し、名器を崇重せんとす。夫れ軍國 用を殊にし、文武 容を異にし、豈に涇渭の混流をして、清穆の風を虧けば、以て具瞻に允答し、儀を海內に形す可きや」と。導 答へず。後に出でて長山令に補せられ、復た司徒左西屬と為る。濛 此の職を以て譴有れば則ち應に杖を受くべければ、固辭す。詔して為に罰を停むるとも、猶ほ就かず。中書郎に徙る。
簡文帝の會稽王と為るや、嘗て孫綽と與に諸々の風流人を商略し、綽 言ひて曰く、「劉惔は清蔚簡令、王濛は溫潤恬和、桓溫は高爽邁出、謝尚は清易令達〔一〕、而して濛の性 和暢にして、言理・辭簡を能くして會有り」と。簡文帝 輔政するに及び、益々之を貴幸し、劉惔と與に號して入室の賓と為す。司徒左長史に轉ず。晚に東陽と為るを求め、許さず。濛 病むに及び、乃ち之を用ゐざるを恨む。濛 之を聞きて曰く「人 會稽王 癡あると言ひ、竟に癡なり」と。疾 漸く篤く、燈下に於て麈尾を轉じて之を視、歎じて曰く、「此の如く人 曾て四十を得ざるなり」と。年三十九にして卒す。殯に臨み、劉惔 犀杷麈尾を以て棺中に置き、因りて慟絕すること之を久くす。謝安 亦 常に濛を稱美して云はく、「王長史 語は甚だ多からず、令音有ると謂ふ可し」と。二子有り、脩・蘊なり。
脩 字は敬仁、小字は苟子、明秀にして美稱有り、隸書を善くし、號して流奕清舉と曰ふ〔二〕。年十二にして、賢全論を作る。濛 以て劉惔に示して曰く、「敬仁の此の論、便ち以て微言を參ずに足る」と。著作郎に起家し、琅邪王文學、中軍司馬に轉じ、未だ拜せずして卒す、年二十四なり。臨終に、歎じて曰く、「古人に愧づる無く、年 之と齊し」と〔三〕。

〔一〕『世説新語』品藻篇が出典。新釈漢文大系の訳文に拠った。
〔二〕『世説新語』文学篇に引く『文字志』が出典。新釈漢文体系の訳文に従う。
〔三〕『世説新語』文学篇に引く『文字志』によると、曹魏の王弼が没した年齢と等しいことを、王脩の弟である王熙が述べた言葉。

現代語訳

王濛(おうもう)は字を仲祖といい、哀靖皇后の父である。曾祖父の王黯は、官位は尚書を歴任した。祖父の王佑は、北軍中候である。父の王訥は、新淦令である。王濛は若いときは勝手気ままで、地元のひとに相手にされなかったが、晩節になって克己励行し、風流と名誉を獲得し、己を虚しくして物事にあたり、相手を思ってから行動し、皆から敬愛された。諸母に仕えて謹み深く、俸禄や財産をいつも貧しい人に分け与え、喜怒を顔に出さず、細かな問題に拘らず、清貧と倹約により称えられた。隸書が上手かった。容姿が美しく、かつて自分を鏡で見て、父の名を唱えて、「王文開はこのような子を生んだのか」と言った。貧しいとき、かぶり物が破れ、自ら市場に買いに行くと、店のばあさんが顔に惚れて、新しい帽子を贈り、当時の人はこれを洒落たこととした。沛国の劉惔と名声が等しく親友であり、劉惔はいつも王濛の性格が通達の極みであり、しかし自然と節度があることを称えたので、王濛はいつも、「劉君は私のことを、私自身よりもよく分かっている」と言った。当時の人は劉惔を荀奉倩(荀彧の子の荀粲)に準え、王濛を袁曜卿(袁渙)に比し、風流を話題にするときは、王濛・劉惔を筆頭にあげた。
司徒の王導が辟して掾とした。王導はさらに匡術の弟である匡孝を招いたが、王濛が書簡を王導に送り、「国を開き家を継ぐのなら、小人を用いてはいけない。徳義によって天下の長となるのだから、常理を清らかにし、名望家を尊重しなければならない。そもそも軍事と国政では人員登用は異なるし、文と武でも役割が異なるのだから、涇水や渭水の濁流で、清静な風を損なえば、どうして万民の期待に答え、海内に威儀を形成できようか」と言った。王導は答えなかった。後に出て長山令に補され、また司徒左西属となった。王濛はこの官職は罪人を杖で打つので、固辞した。詔して罰(杖刑)を停止したが、なお就官しなかった。中書郎に移った。
簡文帝が会稽王となると、かつて孫綽と風流人を比較検討し、孫綽は、「劉惔はすっきりと麗しく大らかで上品、王濛は穏やかで潤いがありあっさりとして和やか、桓温はさっそうとして高邁、謝尚はあっさりしていて上品で自由ですが、王濛の性質は和やかで伸びやか、弁論・作文が上手いので有用です」と言った。簡文帝が輔政するに及び、ますますこれを尊重し、劉惔とともに入室の賓と号された。司徒左長史に転じた。晩年に東陽(太守)となることを求めたが、許可されなかった。王濛が病むと、(会稽王が)彼を用いなかったことを悔やんだ。王濛がこれを聞いて、「人は会稽王に癡(思慮不足)があると言うが、それが表れたぞ」と言った。病が徐々に重くなると、燈下で麈尾(しゅび)を振ってこれを見て、慨嘆して、「かように人間というものは四十歳まで生きられないのか」と。三十九歳で卒した。殯に臨み、劉惔が犀角を柄にした麈尾を棺のなかに置き、久しく慟哭した。謝安もまた王濛を賞美して、「王長史は口数は多くなかったが、善言があったとすべきだ」と言った。二子あり、王脩・王蘊である。
王脩は字を敬仁といい、小字は苟子(こうし)、聡明な秀才で名声があり、隷書を得意として、流奕清挙(しなやかで美しくすっきりとした筆致)と言われた。年十二にして、賢全論を著した。王濛はこれを劉惔に示して、「敬仁(王脩)のこの論は、短くならば論評する価値がある」と言った。著作郎に起家し、琅邪王文学となり、中軍司馬に転じたが、拝命する前に卒し、年は二十四であった。臨終のとき、歎じて、「古人に比べて恥ずかしくない、年齢は彼(王弼)と同じだ」と言った。

王遐

原文

王遐字桓子、1.簡順皇后父、驃騎將軍述之從叔也。少以華族、仕至光祿勳。寧康初、追贈特進・光祿大夫、加散騎常侍、諡曰靖。長子恪、領軍將軍。恪子欣之、豫章太守、秩中二千石。欣之弟歡之、廣州刺史。遐少子臻、崇德衞尉。

1.中華書局本によれば、「簡」は「簡文」に作るべきである。

訓読

王遐 字は桓子、簡順皇后の父、驃騎將軍述の從叔なり。少くして華族を以て、仕へて光祿勳に至る。寧康初、特進・光祿大夫を追贈し、散騎常侍を加へ、諡して靖と曰ふ。長子恪、領軍將軍なり。恪の子欣之、豫章太守にして、秩は中二千石なり。欣の弟歡之、廣州刺史なり。遐の少子臻、崇德衞尉なり。

現代語訳

王遐は字を桓子といい、簡(簡文)順皇后の父で、驃騎将軍の王述の従叔である。若いときから華族であり、仕えて光禄勲に至った。寧康初(三七三-)、特進・光禄大夫を追贈され、散騎常侍を加へ、靖と諡された。長子の王恪は、領軍将軍である。王恪の子である王欣之は、豫章太守であり、秩は中二千石であった。王欣の弟の王歓之は、広州刺史である。王遐の末子の王臻は、崇徳衛尉である。

王蘊 子爽

原文

王蘊字叔仁、孝武定皇后父、司徒左長史濛之子也。起家佐著作郎、累遷尚書吏部郎。性平和、不抑寒素、每一官缺、求者十輩、蘊無所是非。時簡文帝為會稽王、輔政、蘊輒連狀白之、曰、某人有地、某人有才。務存進達、各隨其方、故不得者無怨焉。補吳興太守、甚有德政。屬郡荒人飢、輒開倉贍卹。主簿執諫、請先列表上待報、蘊曰、今百姓嗷然、路有饑饉、若表上須報、何以救將死之命乎。專輒之愆、罪在太守、且行仁義而敗、無所恨也。於是大振貸之、賴蘊全者十七八焉。朝廷以違科免蘊官、士庶詣闕訟之、詔特左降晉陵太守。復有惠化、百姓歌之。
定后立、以后父、遷光祿大夫、領五兵尚書・本州大中正、封建昌縣侯。蘊以恩澤賜爵、非三代令典、固辭不受。朝廷敦勸、終不肯拜、乃授都督京口諸軍事・左將軍・徐州刺史・假節、復固讓。謝安謂蘊曰:「卿居后父之重、不應妄自菲薄、以虧時遇、宜依褚公故事、但令在貴權於事不事耳。可暫臨此任、以紓國姻之重。」於是乃受命、鎮於京口。頃之、徵拜尚書左僕射、將軍如故、遷丹楊尹、即本軍號加散騎常侍。蘊以姻戚、不欲在內、苦求外出、復以為都督浙江東五郡・鎮軍將軍・會稽內史、常侍如故。
蘊素嗜酒、末年尤甚。及在會稽、略少醒日、然猶以和簡為百姓所悅。時王悅來拜墓、蘊子恭往省之、素相善、遂留十餘日方還。蘊問其故、恭曰、與阿太語、蟬連不得歸。蘊曰、恐阿太非爾之友。阿太、悅小字也。後竟乖初好、時以為知人。太元九年卒、年五十五、追贈左光祿大夫・開府儀同三司。
長子華、早卒。次恭、在列傳。恭弟爽、字季明、強正有志力、歷給事黃門侍郎・侍中。孝武帝崩、王國寶夜欲開門入為遺詔、爽距之、曰、大行晏駕、皇太子未至、敢入者斬。乃止。爽嘗與會稽王道子飲、道子醉呼爽為小子、爽曰、亡祖長史與簡文皇帝為布衣之交、亡姑・亡姊伉儷二宮、何小子之有。及國寶執權、免爽官。後兄恭再起事、並以爽為寧朔將軍、參預軍事。恭敗、被誅。

訓読

王蘊 字は叔仁、孝武定皇后の父、司徒左長史濛の子なり。佐著作郎に起家し、累りに尚書吏部郎に遷る。性は平和、寒素を抑へず、一官 缺く每に、求むる者は十輩、蘊 是非とする所無し。時に簡文帝 會稽王と為り、輔政し、蘊 輒ち狀を連ねて之に白して、曰く、「某人 地有り、某人 才有り」と。務めて進達に存れば、各々其の方に隨ひ、故に得ざる者は怨むこと無し。吳興太守に補し、甚だ德政有り。屬郡の荒人 飢えれば、輒ち倉を開きて贍卹す。主簿 諫を執り、先に列ねて表上して報を待つを請ひ、蘊曰く、「今 百姓 嗷然として、路に饑饉有り、若し表上 報を須(ま)てば、何を以て將に死せんとするの命を救はんか。專輒の愆、罪は太守に在り、且に仁義を行ひて敗れば、恨む所無きなり」と。是に於て大いに之を振貸し、蘊を賴りて全き者十七八なり。朝廷 違科を以て蘊の官を免じ、士庶 闕に詣りて之を訟へ、詔して特に晉陵太守に左降す。復た惠化有り、百姓 之を歌ふ。
定めて后 立ち、后の父を以て、光祿大夫に遷り、五兵尚書・本州大中正を領し、建昌縣侯に封ず。蘊 恩澤を以て爵を賜ふは、三代の令典に非ざれば、固辭して受けず。朝廷 敦く勸め、終に拜を肯んぜず、乃ち都督京口諸軍事・左將軍・徐州刺史・假節を授け、復た固讓す。謝安 蘊に謂ひて曰く、「卿 后父の重に居れば、應に妄りに自ら菲薄し、以て時遇を虧くべからず、宜しく褚公の故事に依り、但だ貴權に在りて事に於いて事へざらしむのみ。暫く此の任に臨み、以て國姻の重を紓(ゆる)む可し」と。是に於て乃ち受命し、京口に鎮す。頃之、徵して尚書左僕射を拜し、將軍 故の如し、丹楊尹に遷り、本軍の號に即けて散騎常侍を加ふ。蘊 姻戚を以て、內に在るを欲せず、苦だ外出を求め、復た以て都督浙江東五郡・鎮軍將軍・會稽內史と為り、常侍 故の如し。
蘊 素より酒を嗜み、末年 尤も甚し。會稽に在るに及び、略 醒める日少なく、然るに猶ほ和簡を以て百姓 悅ぶ所と為る。時に王悅 來りて墓に拜し、蘊の子恭 往きて之を省、素より相 善く、遂に十餘日留めて方(はじめ)て還る。蘊 其の故を問ひ、恭曰く、「阿太と語り、蟬連(せんれん)して歸るを得ず」と。蘊曰く、「恐らくは阿太は爾(なんぢ)の友に非(あら)じ」と。阿太、悅の小字なり。後に竟に初好に乖(そむ)き、時に以て人を知ると為す〔一〕。太元九年 卒し、年五十五、左光祿大夫・開府儀同三司を追贈す。
長子華、早く卒す。次恭、列傳在り。恭の弟爽、字は季明、強正にして志力有り、給事黃門侍郎・侍中を歷す。孝武帝 崩じ、王國寶 夜に開門して入りて遺詔を為らんと欲し、爽 之を距み、曰く、「大行 晏駕し、皇太子 未だ至らず、敢て入る者は斬る」と。乃ち止む。爽 嘗て會稽王道子と飲み、道子 醉ひて爽を呼びて小子と為し、爽曰く、「亡祖長史 簡文皇帝と與に布衣の交を為し、亡姑・亡姊 二宮に伉儷す、何ぞ小子 之 有るか」と。國寶 權を執るに及び、爽の官を免ず。後に兄恭 再び起事し、並びに爽を以て寧朔將軍と為し、軍事に參預せしむ。恭 敗れ、誅せらる。

〔一〕『世説新語』識鑒篇が出典。訳文は新釈漢文大系の通釈に拠った。

現代語訳

王蘊(おううん)は字を叔仁といい、孝武定皇后の父であり、司徒左長史の王濛の子である。佐著作郎に起家し、しきりに尚書吏部郎に遷った。性格は平穏で和やか、寒門出身者を抑圧せず、一つ欠員が出るごとに、応募倍率は十倍となったが、王蘊は人材の良否を決めつけなかった。当時は簡文帝が会稽王となり、輔政しており、王蘊は箇条書きにして述べて、「某人には地(在地への影響力)がある、某人には才能がある」と述べた。官僚を推薦するときは、それぞれの長所に従ったので、選出から漏れた人も怨まなかった。呉興太守に補し、とても徳のある政治をした。任地の郡で荒人(流民)が飢えれば、官庫を開いて救済した。主簿が諫めて、先に上表して許可が下りるのを待ちなさいと要請したが、王蘊は、「いま百姓が泣き叫び、道に飢民がいる、もし返答を待てば、今にも死にそうな命を救えまい。独断専行の、罪は太守(わたし)にあり、仁義を行って罰せられるなら、恨みには思わぬ」と言った。そこで大いに支給や貸与をし、王蘊のおかげで生存者は十人のうち七八であった。朝廷は違反により王蘊の官位を免じたが、士庶が官府に至って(罪の軽減を)訴え、詔して特別に左遷して晋陵太守に降格した。ここでも恵みと教化をし、百姓は歌って讃えた。
皇后が立つと、皇后の父なので、光禄大夫に遷り、五兵尚書・本州大中正を領し、建昌県侯に封建された。王蘊は恩沢により爵位を賜るのは、三代の令典ではないとして、固辞して受けなかった。朝廷が強く勧めたが、結局は拝命せず、都督京口諸軍事・左将軍・徐州刺史・仮節を授けたが、これも固辞した。謝安が王蘊に、「卿は皇后の父という重い立場にいるから、みだりに自分を軽視し、時代の要請に逆らうべきではない、褚公(褚裒)の故事に依り、ただ高位にいて実務をしなければよい。しばらくこの役職を受けていれば、外戚の重みは緩和するだろう」と言った。ここにおいて命令を受け、京口に鎮守した。しばらくして、徴して尚書左僕射を拝し、将軍は従来どおりとし、丹楊尹に遷り、本軍の号(左将軍)に散騎常侍を加えた。王蘊は外戚なので、中央に居るのを好まず、しきりに地方転出を求め、また都督浙江東五郡・鎮軍将軍・会稽内史と為り、散騎常侍は従来どおりとした。
王蘊は普段から酒を嗜み、晩年はとくにひどかった。会稽に赴任すると、ほぼ素面の日がなく、しかしそれでも寛大ですっきりとした政治をして百姓に悦ばれた。ときに王悦がやって来て墓参りをし、王蘊の子の王恭が会いに行き、かねがね仲が良かったので、そのまま十日あまりも経ってやっと戻ってきた。王蘊がその理由を聞くと、王恭は、「阿太と語ると、ずるずると(蝉の声のように会話が途切れず)帰りそびれたのです」と言った。王蘊は、「恐らくは阿太はお前の真の友ではあるまい」と言った。阿太は、王悦の小字である。後に果たして当初の友情はこわれ、当時のひとは(王蘊が)人間を熟知していると言った。太元九(三八四)年に卒し、年は五十五、左光禄大夫・開府儀同三司を追贈した。
長子の王華は、早くに卒した。次子の王恭は、列伝がある。王恭の弟である王爽は、字を季明といい、剛直でおもねらず意志が強く、給事黄門侍郎・侍中を歴任した。孝武帝が崩じると、王国宝が夜に開門して入って遺詔を作ろうとしたが、王爽がこれを阻止し、「大行皇帝は晏駕(崩御)し、皇太子はまだ来ていない、あえて入る者は斬る」と言った。(王国宝は)中止した。王爽はかつて会稽王道子(司馬道子)と飲み、道子が酔って王爽を呼んで小子と言うと、王爽は、「なき祖父の長史は簡文皇帝とともに布衣の交があり(対等な友人で)、亡き姑・亡き姉が二人とも皇后であったが、なぜこの私が小子なものか」と言った。王国宝が政権を執ると、王爽の官を免じた。後に兄の王恭が再び官途に就くと、一緒に王爽を寧朔将軍とし、軍事に参預させた。王恭が敗れると、(王爽も)誅された。

褚爽

原文

褚爽字弘茂、小字期生、恭思皇后父也。祖裒、父歆。爽少有令稱、謝安甚重之、嘗曰、若期生不佳、我不復論士矣。為義興太守、早卒。以后父、追贈金紫光祿大夫。爽子秀之・炎之・喻之、義熙中、並歷大官。

訓読

褚爽 字は弘茂、小字は期生、恭思皇后の父なり。祖は裒、父は歆。爽 少くして令稱有り、謝安 甚だ之を重んじ、嘗て曰く、「若し期生 佳(よみ)せずんば、我 復た士を論ぜず」と。義興太守と為り、早く卒す。后の父なるを以て、金紫光祿大夫を追贈す。爽の子は秀之・炎之・喻之なり、義熙中、並びに大官を歷す。

現代語訳

褚爽は字を弘茂といい、小字は期生、恭思皇后の父である。祖父は褚裒、父は褚歆である。褚爽は若いときから令名があり、謝安がとても彼を重んじ、かつて、「もし期生(褚爽)が称賛しなければ、私はもう士を論じない」と言った。義興太守となり、早くに卒した。皇后の父なので、金紫光禄大夫を追贈された。褚爽の子は褚秀之・褚炎之・褚喻之であり、義熙中(四〇五-四一八)、いずれも高官を歴任した。

原文

史臣曰、羊琇託肺腑之親、處多聞之益、遭逢潛躍之際、預參經始之謀、故得繾綣恩私、便蕃任遇。憑寵靈而逞慾、恃勢位而驕陵、屢犯憲章、頻干國紀、幸逢寬政、得免刑書。王愷地即渭陽、家承世祿、曾弗聞於恭儉、但崇縱於奢淫、競爽於季倫、爭先於武子、既塵清論、有斁王猷、雖復議行易名、未足懲惡勸善。弘理儀形外朗、季野神鑒內融、仲祖溫潤風流、幼道清虛寡慾、皆擅名江表、見重當時、豈惟后族之英華、抑亦搢紳之令望者也。
贊曰、託屬丹掖、承輝紫宸。地既權寵、任惟執鈞。約乃寡失、驕則陵人。覆車遺戒、諒足書紳。

訓読

史臣曰く、羊琇 肺腑の親に託け、多聞の益に處り、潛躍の際に遭逢し、經始の謀に預參し、故に恩私を繾綣して、便ち任遇を蕃(しげ)くするを得。寵靈に憑きて慾を逞くし、勢位を恃みて驕陵たり、屢々憲章を犯し、頻りに國紀を干し、幸にも寬政に逢ひ、書を免ずるを得。王愷 地は渭陽に即き、家は世祿を承け、曾て恭儉を聞かず、但だ奢淫を縱にするを崇び、爽を季倫と競ひ、先を武子と爭ひ、既に清論を塵とし、王猷を斁(いや)とする有り、復た議は易名を行ふと雖も、未だ懲惡勸善に足らず。弘理は儀形外朗、季野は神鑒內融、仲祖は溫潤風流、幼道は清虛寡慾、皆 名を江表に擅にし、當時に重ぜらるは、豈に惟だ后族の英華のみなるや、抑(そもそも)亦 搢紳の令望あらんか。
贊に曰く、屬を丹掖に託し、輝を紫宸に承く。地は既に權寵、任は惟れ執鈞。約(つづま)やかなるは乃ち失寡なく、驕たれば則ち人を陵す。覆車の遺戒、諒に紳に書くに足る。

現代語訳

史臣が言うには、羊琇は(武帝の)心の友であることを利用し、情報が集まる場所にいて、こっそり活躍すべき機会(文帝の後継者選び)に遭遇し、(武帝の)事業の始まりの段階から参預し、ゆえに私的な恩義を獲得し、特別な待遇を受けた。寵愛を利用して欲を逞しくし、権勢と官位にものを言わせて傲慢になり、しばしば法規を犯し、しきりに国の秩序を破ったが、幸いにも寛大な政治のおかげで、厳しい刑罰を免れた。王愷は渭水の南に領地があり、家は代々俸禄を受け、慎み深さを聞くことがなく、ただ奢淫を欲しいままにし、季倫(石崇)と贅沢を競い、武子(王済)と先を争い、清論を塵とし、王道を嫌って、易名の議論を行ったが、勧善懲悪には達しなかった。〔ところで〕弘理(杜乂)は外見に威儀があって朗らかで、季野(褚裒)は神のような鑑識をもって内に融和し、仲祖(王濛)は温かく潤いがあって風流で、幼道(何準)は清貧で寡欲であり、いずれも名声を江表で独占し、各時点で尊重されたのは、ただ彼らが外戚だからであろうか、士大夫としての名望もあったのである。
賛に言うには、血縁によって宮殿におり、栄光を紫宸(天子)から受ける。地上では権力と寵愛を得て、任命されて全権を掌握した。切り詰めれば過失は少なく、驕り高ぶれば人を陵辱する。覆車(失敗)の教訓は、まことに紳(大帯)に書くに足りることである(肝に銘じるべきだ)。