翻訳者:豊田尚徳
訳者は康有為等の近代思想を研究対象としており、六朝・唐の用語、語法には明るくありません。中国哲学史の重要テーマである「隠逸思想」を学ぶために翻訳を担当いたしました。
魏晋には玄学が流行し、竹林七賢の世俗を逸脱した行いは有名です。この隠逸伝には彼らを凌ぐユニークな世捨て人たちが収録されています。一人目の孫登からして、阮籍・嵇康でさえも太刀打ちできないのです。
若夫穹昊垂景、少微以躔其次。「文」・「繫」探幽、貞遁以成其象。故有、避於言色。其道聞乎孔公。驕乎富貴。厥義詳於孫子。是以處柔、伊存有生之恒性。在盈斯害、惟神之常道。古先智士體其若茲、介焉超俗、浩然養素、藏聲江海之上、卷迹囂氛之表、漱流而激其清、寢巢而韜其耀。良畫以符其志、絕機以虛其心。玉輝冰潔、川渟嶽峙、修至樂之道、固無疆之休、長往邈而不追、安排窅而無悶、修身自保、悔吝弗生、詩人「考槃」之歌、抑在茲矣。至於體天作制之後、訟息刑清之時、尚乃仄席幽貞以康神化。徵聘之禮賁於巖穴、玉帛之贄委於窐衡。故「月令」曰「季春之月聘名士、禮賢者」斯之謂歟。
自典午運開、旁求隱逸。譙元彥之杜絕人事、江思悛之嘯詠林藪、峻其貞白之軌、成其出塵之迹。雖不應其嘉招、亦足激其貪競。今美其高尚之德、綴集於篇。今美其高尚之德、綴集於篇。
若し夫れ穹昊 景を垂るれば、 少微以て其の次(やど)るを躔(めぐ)る。「文」「繫」の幽なるを探(たず)ね、貞(ただ)しく遁して以て其の象を成す〔一〕。故に有り、言色を避く、其の道は孔公に聞けり〔二〕。富貴を驕(おご)る、厥(そ)の義は孫子に詳らかなり〔三〕。是を以て柔に處り、伊れ有生の恒性を存す。盈(あふ)るに在れば斯ち惟れ神の常道を害す。古先の智士の體は其の茲の若くして、介焉として俗を超(はな)れ、浩然として素を養い、聲を江海の上に藏め、迹を囂氛の表より卷き、流に漱(くちすす)がば、其の清は激にして、巢に寢して其の耀きを韜(つつ)む。良畫は以て其の志を符し、絕機は以て其の心を虛しくす。玉輝冰潔、川は渟(とど)まり嶽は峙(そび)え、至樂の道を修め、無疆の休を固め〔四〕、長往 邈(とお)くして追わず、安排 窅(ふか)くして悶(いきおど)ること無く、身を修めて自らを保ち、悔吝は生ぜず、詩人の「考槃」の歌〔五〕、抑(そもそ)も茲に在り。天に體して制を作るのの後、訟の息み刑の清なるの時に至りて、尚お乃ち幽貞を仄席するを以て神化に康んず。徵聘の禮を巖穴に賁(かざ)り、玉帛の贄を窐衡に委ぬ。故に「月令」に曰く「季春の月は名士を聘し、賢者を禮す」とは〔六〕、斯れ之の謂いなり。
典午〔七〕の運の開いてより、旁らに隱逸を求む。譙元彥の人事を杜絕し〔八〕、江思悛の林藪に嘯詠す、〔九〕、其の貞白の軌を峻とし、其の出塵の迹を成す。其の嘉招に應ぜずと雖も、亦た其の貪競を激すに足る。今 其の高尚の德を美(よみ)し、綴りて篇に集(あつ)む。
〔一〕『易』遯卦の卦辞に「遯亨、小利貞」とある。「遯」は「遁」の意。
〔二〕『論語』學而篇「巧言令色、鮮矣仁」ならびに公冶長篇「巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之」を踏まえたものである。
〔三〕『荀子』修身篇に「志意脩則驕富貴、道義重則輕王公」とある。荀子は「儒效」「議兵」等の篇や、『漢書』藝文志において「孫卿子」と称されている。
〔四〕『尚書』大甲中に「皇天眷佑有商、俾嗣王克終厥德、實萬世無疆之休」とあり、偽孔安国伝は「言王能終其德。乃天之顧佑商家。是商家萬世無窮之美」と注釈している。
〔五〕『詩経』衛風 考槃に「考槃在㵎、碩人之寬」とある。隠者の楽しみの歌。
〔六〕『礼記』月令篇に「季春之月〔…中略…〕聘名士、禮賢者」とある。(もともとは『呂氏春秋』三月紀)
〔七〕『三國志』蜀書 譙周伝に「典午者謂司馬也」とある。「典」も「司」も「つかさどる」であり、「馬」も「午」も「うま」である。
〔八〕譙秀はこの隠逸伝に立伝されており、「知天下將亂、預絕人事、雖內外宗親、不與相見。郡察孝廉、州舉秀才、皆不就」とある。
〔九〕江惇は列伝二十六に父の江統に付す形で事跡が述べられている。蘇峻の乱に際して東陽山に隠れ、官職に任命されても就任しなかった。
そもそも青く大きな天が影を下ろして夜となれば、少微の星々がその位置を運行する。『易』の文言伝と繫辞伝は奥深きを探求し、正しく隠遁することで、「遯」の卦の形象となる。だからこう言う、言葉と顔つきを飾ることは避ける、その道は孔子に聞いた。富貴を軽んじる、その義は『荀子』に詳しい。こういうわけで柔に(身を)おいて、生ある者の本性をたもつ。溢れるほどであれば、神妙なる恒常の道理を損なってしまう。往時の知士のかたちはこのようであって、節操を守って俗世から離れ、ゆったり気を養い、田舎の江湖のほとりに音を隠し、煩わしき世間の表から足跡を消して、山中の流れに口をすすげば、その流れは非常に透き通っており、住処に寝ていれば、輝きを包み隠す。すぐれた計画は志に符合するが、すぐれた巧詐は心を空虚にする。玉のように輝き氷のように清らかで、川淵のように静かで、高山のようにそびえ立ち、絶対的な(無為の)快楽の道を修め、永遠の美を固め、遠く隠遁すれば、追って引き戻すことはなく、深くものの移り変わりに安んずれば、憤ることはなく、身をおさめて、己をたもち、憂える気持ちを生ずることはない。(隠遁を楽しむ)『詩経』の「考槃」の歌は、そもそもここにあるのだ。天に基づいて制度が作られ、訴訟がやみ刑罰がおさまった時、そこで隠士のために席を設けることで神秘的な感化を受け入れる。(隠士を)招聘するための贈り物を巌穴に飾り、玉と絹の贈り物を貧小な家にたてかける。だから、『礼記』「月令篇」にいう「三月は名士を招聘し、賢者を礼遇する」とは、このことを言うのである。
司馬氏が天運を開いてから、その傍らに隠逸を求めるものがあった。譙秀の人とのかかわりと絶った行い、江惇の林の藪で吟詠した行いは、清白の道を高尚として、俗世から出でる足跡をつくった。朝廷からの招きに応じなくても、欲深さ争いを止めることができる。
今(『晋書』の編纂にあたり、隠士らの)高尚なる徳をたたえて、この隠逸伝をまとめた。
孫登字公和、汲郡共人也。無家屬、於郡北山為土窟居之、夏則編艸為裳、冬則被髮自覆。好讀『易』、撫一絃琴、見者皆親樂之。性無恚怒、人或投諸水中、欲觀其怒、登既出、便大笑。時時游人間、所經家或設衣食者、一無所辭、去皆捨棄。嘗住宜陽山、有作炭人見之、知非常人、與語、登亦不應。
文帝聞之、使阮籍往觀、既見、與語、亦不應。嵇康又從之游三年、問其所圖、終不答、康每歎息。將別、謂曰「先生竟無言乎」登乃曰「子識火乎。火生而有光。而不用其光。果在於用光。人生而有才。而不用其才・而果在於用才。故用光在乎得薪、所以保其耀。用才在乎識真、所以全其年。今子才多識寡、難乎、免於今之世矣。子無求乎」康不能用、果遭非命。乃作「幽憤詩」曰「昔慚柳下、今愧孫登」或謂登「以魏晉去就、易生嫌疑、故或嘿者也。」竟不知所終。
孫登 字は公和、汲郡共の人なり。家屬の無く、郡の北の山に於いて土窟を為(つく)りて之を居とす。夏は則ち艸を編みて裳と為し、冬は則ち被髮して自ら覆う。易を讀むこと、一絃琴を撫でるを好み、見ゆる者は皆な親しんで之を樂しむ。性は恚怒すること無く、人或るいは水中に投じて、其の怒るを觀んと欲するも、登は既に出で、便ち大いに笑らう。時に人間に游び、經る所の家或るいは衣食を設くる者あれば、一つとして辭する所は無く、去るとき皆な捨棄す。嘗て宜陽山に住き、炭を作る人有りて之に見ゆ、常人に非ざると知り、與に語らんとするも、登 亦た應ぜず。
文帝之を聞くならく、阮籍をして往觀せ使む、既に見て、與に語らんとするも、亦た應ぜず。嵇康 又た之に從いて游ぶこと三年、其の圖る所を問うも、終に答えず、康 每に歎息す。將に別れんとして、謂いて曰く「先生 竟に無言なるか」登 乃ち曰く「子は火を識るか。火 生じて光の有り、而れども其の光を用いず。果は光を用いるに在り。人 生れて才有り。而れども其の才を用いず。而して果は才を用いるに在り。故に光を用いるは薪を得るに在り、所以に其の耀きを保つ。才を用いるは真を識るに在り、所以に其の年を全うす。今 子は才 多けれど識るは寡なし、難しいかな、今の世に免れるは。子は求むること無きか」康 用いること能わず、果して非命に遭う。乃ち「幽憤詩」を作りて曰く「昔は柳下に慚じ、今は孫登に愧づ」と。或ひと謂えらく、「登は魏晉の去就、嫌疑を生じ易きを以て、故に或るとき嘿者となるなり」と。竟に終う所を知らず。
〔一〕柳下恵は魯の賢大夫。『論語』等に見え、世捨て人として孔子に評価された。
孫登は字を公和といい、汲郡共県の人である。家族が無く、一人で汲郡の北部の山に土窟をつくって暮らしていた。夏には草を編んで衣服をつくり、冬には髪をざんばらにして、自身の(体を)蔽った。『易』を読むことと、一弦の琴を奏でることを好み、彼と会う者はだれもが、親しみを感じて楽しんだ。彼の性格はいきおどるようなことは無く、とある人が孫登を水中に投げ込んで、彼が怒る様を見ようとしたが、孫登が水から出てくると大笑いしていた。常々、俗世にやってきて、彼が通りがかった家には、衣食を提供する者もあり、それを彼は一つも遠慮することなく受け取り、去る時には全て捨てていった。かつて宜陽山を訪れたとき、炭作りをする人と出会った。(会話をする前に)炭作りの者が孫登を(精神が)非常であることを感じて、語り合おうとしたが、孫登は応じなかった。
文帝(司馬昭)は孫登のことを聞いて、阮籍を会いにいかせた。阮籍が孫登と会って、語り合おうとしたが、孫登は応じなかった。嵇康も孫登のもとを訪れた、三年もの間、彼の考えを問い続けたが、とうとう孫登が答えることはなかった。嵇康はいつも嘆息していた。別れようしたとき、孫登に「先生は最後まで無言なのですか」と言った。孫登は答えた「あなたは火をご存じか。火が発生すると光も発生する。しかしながら、光は使うことはできない。結果は光を使うことにあるからだ。人が生まれると才覚もうまれる。しかしながら才覚は使うことはできない。それは結果は才覚を使うことにあるからだ。だから光を使うことは薪を得ることにある。だからそのかがやきを保てる。才覚を使うことは自然の道を知るすることにある。だから生命を全うできる。今、あなたは才覚は多いが、(自然の道)を知ることにおいては少ない。今の時代において、災難から免れることは難しいだろう。あなたは(自然の道を知ろうという)欲求が無いのか」と。
嵇康は才覚を使うことができず、とうとう(呂安に連座して処刑という)思いがけない最期を最後を迎えることとなった。ゆえに「幽憤詩」をつくり「昔の人物では魯の柳下恵に恥じ、今の人物は孫登に恥じる」と歌った。ある人は孫登について言った「魏晋交代期の去就は嫌疑を生じやすいことによって、或るときから無言となった」と。その最期を知る者はいない。
董京字威輦、不知何郡人也。初與隴西計吏 俱至洛陽。被髮而行、逍遙吟詠、常宿白社中。時乞於市、得殘碎繒絮、結以自覆、全帛佳緜則不肯受。或見推排罵辱、曾無怒色。
孫楚時為著作郎、數就社中與語。遂載與俱歸、京不肯坐。楚乃貽之書、勸以今堯舜之世、胡為懷道迷邦。京答之以詩。曰「周道斁兮頌聲沒、夏政衰兮五常汨。便便君子、顧望而逝、洋洋乎滿目、而作者七。豈不樂天地之化也。哀哉乎、時之不可與、對之以獨處。無娛我以為歡。清流可飲、至道可餐。何為棲棲、自使疲單。魚懸獸檻、鄙夫知之。夫古之至人、藏器於靈、縕袍不能令暖、軒冕不能令榮。動如川之流、靜如川之渟。鸚鵡能言、泗濱浮磬、眾人所翫、豈合物情。玄鳥紆幕、而不被害。1.□隼遠巢、咸以欲死。眄彼梁魚、逡巡倒尾、沈吟不決、忽焉失水。嗟乎。魚鳥相與、萬世而不悟。以我觀之、乃明其故。焉知不有達人。深穆其度、亦將闚我、顰顣而去。萬物皆賤、惟人為貴、動以九州為狹、靜以環堵為大」
後數年、遁去、莫知所之、於其所寢處惟有一石竹子及詩二篇。其一曰「乾道剛簡、坤體敦密。茫茫太素、是則是述。末世流奔、以文代質。悠悠世目、孰知其實。逝將去此至虛、歸我自然之室」又曰「孔子不遇時、彼感麟。麟乎麟。胡不遁世以存真」
1.偏【尺】旁【鳥】は字義不明。『大漢和辞典(縮刷版)』1968大修館書店・『漢語大字典(縮印版)』1993四川辞書出版社 湖北辞書出版社で発見できず。
董京 字を威輦、何郡の人なるかを知らざるなり。初め隴西の計吏と俱に洛陽に至る。被髮して行き、逍遙吟詠して、常に白社の中に宿す。時に市に乞い、殘碎繒絮を得て、結びて以て自ら覆う、全帛佳緜なれば則ち受くるを肯(がえ)んぜず。或るとき、推排罵辱せらるるも、曾て怒色する無し。
孫楚 時に著作郎 爲りて、數しば社の中に就きて與に語る。遂に載せて與に俱に歸らんとするも、京 坐るを肯んぜず。楚 乃ち之に書を貽(おく)り、勸むるに今の堯舜の世たりて、胡為れぞ道を懷し邦を迷わさんとするかを以てす。京 之に答うるに詩を以てす。曰く「周道の斁(やぶ)れるや 頌聲 沒し、夏政の衰うるや 五常 汨(なみだ)す。便便たる君子は、顧望して逝き、洋洋乎として目に滿ち、而して作(た)つ者は七たり〔一〕。豈に天地の化を樂しまざるや。哀しいかな 時の與にす可からずして、之に對するに獨處するを以てするは。娛(たの)しみの無きも我は以て歡びと為す。清流 飲む可き、至道 餐す可し。何為れぞ棲棲として、自ら疲單なら使むるや。魚懸と獸檻、鄙夫といえども之を知る。夫の古の至人、器を靈に藏し、縕袍といえども暖め令むる能わず、軒冕の榮え令むる能わず。川の流れの如く動き、川の渟の如く靜かにす。鸚鵡の能く言い、泗濱の磬を浮かぶるは、眾人の翫(もてあそ)ぶ所〔二〕、豈に物情に合す。玄鳥の幕をまとって、害を被らんや。【尺+鳥】隼 巢の遠ければ、咸な以て死なんと欲す。彼の梁魚を眄れば、逡巡して尾を倒し、沈吟して決せず、忽焉として水を失う。嗟乎。魚鳥の相い與に、萬世にして悟らず。以て我 之を觀れば、乃ち其の故は明らかなり。焉んぞ知る 達人の有らざるを。深く其の度を穆(やわら)ぎ、亦た將に我を闚(うかが)わんとして、顰顣して去る。萬物は皆な賤なれど、惟だ人のみを貴と為せば、動じるに九州を以て狹しと為し、靜するに環堵を以て大と為す」と。
後にすること數年、遁去して、之(ゆ)く所を知る莫く、其の寢處する所に惟だ一石の竹子及び詩二篇有り。其の一に曰く「乾道は剛にして簡、坤體は敦きにして密。茫茫たる太素は、則を是(ただ)し述を是(ただ)す。末世の流奔は、文を以て質に代う〔三〕。悠悠たる世目、孰んぞ其の實を知らん。逝くは將に此を去りて虛に至り、我が自然の室に歸らんとす」と。又曰く「孔子は遇ならざる時、彼 麟を感ず。麟や麟。胡んぞ遁世して以て真を存せざるか〔四〕」と。
〔一〕『論語』憲問篇に「“賢者辟世、其次辟地、其次辟色、其次辟言”子曰“作者七人矣”」とある。
『論語集解』ではその7人を「凡七人、謂 長沮・桀溺・丈人・石門・荷蕢・儀封人・楚狂接輿」と『論語』にみえる隠者たちと説明する。
〔二〕『尚書』禹貢に「泗濱浮磬、淮夷蠙珠暨魚」と見える。孔安国伝では「泗水涯水中見石。可以為磬」と、泗水にある岩で、打楽器にすると説明する。
〔三〕文と質は『論語』雍也篇「質勝文則野、文勝質則史。文質彬彬、然後君子」にみえ、漢代には『春秋繁露』三代改制文質篇「王者以制、一商一夏、一質一文」のような文飾を主とする王朝、質実を主とする王朝が交代する思想ができた。
〔四〕孔子と麒麟の関係は、『春秋』の哀公十四年の経文「春西狩獲麟」とあり、『春秋経伝集解』では「麟者仁獸、聖王之嘉瑞也。時無明王、出而遇獲。仲尼傷、周道之不興、感嘉瑞之無應」と解釈する。春秋三伝(とその注釈)はそれぞれで見解が異なるが、杜預の聖王がいないのに隠れずに現れたことを悲しみ、『春秋』の筆を置いたという説が近いと判断した。
董京 字は威輦、何郡の出身かは不明である。最初に隴西郡の官吏を調べる役人と一緒に洛陽にやってきた。髪をザンバラに振り乱して歩き、気ままに遊び歩き、歌を口づさみ、常に(洛陽東の地である)白社を住処とした。しばしば市へ物乞いにいき、絹と綿のくずを得ると、結んで、体に覆い被せた。欠けのない絹や美しい綿であれば、受け取ろうとはしなかった。あるとき、押しのけられ罵り辱められたが、少しも起こった顔色をすることは無かった。
孫楚は当時、著作郎であり、しばしば白社中を訪れて董京と語った。(そのうち)とうとう、孫登を車にのせて連れて帰ろうとしたが、董京は車に乗ろうとはしなかった。孫楚はそこで、董京に(仕官を)勧める手紙を送った。その旨は、「今は堯舜の世でありのに、どうして道を壊し国家を迷わすのか」というものだった。董京は詩によって回答した。「周王朝の教化がそこなわれた様といったら、朝廷の祭祀の歌声は聞こえなくなってしまった。中華の政治がすたれた様といったら、五常(仁義礼智信)が涙を流している。はきはきした君子は望み見て過ぎ去り、ひろびろとして目に見える限り、立ち去っ(て隠遁し)た者が七名いた。どうして天地の変化を楽しまないのか。哀しいではないか、時の(流れ)ともにすることができないで、これに対して孤独でいるというのは。快楽が無くても私はそれを歓びとする。飲むにはふさわしい清流があり、味わうにはふさわしいまことの道がある。どうしておちつかないで、自ら疲れの極限に追い込んでいるのか。干し魚を掛けるかぎと獣の檻はいやしい男であっても知っている。あの古の至人は、しまった器を霊妙とし、綿のはいった衣であっても暖めることはできず、高貴な車と衣服であっても栄えさせることはできない。川の流れのように動き、川のたまる所のように静かにする。しゃべるオウムと泗水の水中の岩で作った打楽器は人々が玩ぶもので、実に人々の心に適ったものだ。ツバメが幕にまとわれて、害をこうむらないことがあろうか。【尺+鳥】隼は巣が遠ければ、みな死ぬことを願う。あの梁魚をちらりと見ると、うろうろして尾を横たえ、ためらって決められないでいる内にたちまち水を得られない(で死ぬ)。ああ魚と鳥はどちらも、万世が経っても悟れない。こうして私がこのことを観察すれば、その理由ははっきりする。どうして達人がいないことが分かるだろうか。深くその態度をやわらげ、さらに私をうかがおうとして、顔をひそめて去る。万物はみないやしく、ただ人だけが貴いとすれば、行動するには中国全土をも狭いとし、静かにおるに小さい家でも広いとするのだ」と。
数年後、董京は立ち去って行方しれずとなり、寝所には一石(26.4kg)の竹及び二篇の詩があった。その一首はこうだ。「乾の道は剛強にして簡易で、坤の体は敦厚で綿密である。はっきりしない太素(天地が分かれる以前の混沌)は法則を正し、記述を正す。(道徳のただれた)末世の激流は文飾の世から質実の世に交代させる。ゆったりしている世間の目では、どうしてそのまことを知れるだろうか。過ぎ去れば、ここを去って虚に至って、私の自然の境地に帰るだろう」と。もう一首はこうだ。「孔子が不遇であった(晩年の)時、麒麟に心を動かされた。麒麟よ麒麟。どうして世から隠れずに現れ、(聖王の世に現れるという)真実をたもたないのか」と。
夏統字仲御、會稽永興人也。幼孤貧、養親以孝聞。睦於兄弟、每採梠求食、星行夜歸。或至海邊、拘螊𧑅以資養。雅善談論。宗族勸之仕、謂之曰「卿清亮質直、可作郡綱紀、與府朝接。自當顯至。如何甘辛苦於山林、畢性命於海濱也」統悖然作色曰「諸君待我乃至此乎。使統屬太平之時、當與元凱評議出處。遇濁代、念與屈生同汙共泥。若汙隆之間、自當耦耕沮溺。豈有辱身曲意於郡府之間乎。聞君之談、不覺寒毛盡戴、白汗四帀、顏如渥丹、心熱如炭。舌縮口張、兩耳壁塞」言者大慚。統自此遂不與宗族相見。
會母疾、統侍醫藥、宗親因得見之。其從父敬寧祠先人、迎女巫章丹・陳珠二人。並有國色、莊服甚麗、善歌儛、又能隱形匿影。甲夜之初、撞鐘擊鼓、間以絲竹。丹・珠乃拔刀破舌、吞刀吐火、雲霧杳冥、流光電發。統諸從兄弟欲往觀之、難統。於是共紿之曰「從父間疾病得瘳、大小以為喜慶、欲因其祭祀、並往賀之。卿可俱行乎」統從之。入門、忽見丹・珠在中庭。輕歩佪儛、靈談鬼笑、飛觸挑柈、酬酢翩翻。統驚愕而走、不由門、破藩直出。歸責諸人曰「昔淫亂之俗興、衞文公為之悲惋。螮蝀之氣見、君子尚不敢指。季桓納齊女、仲尼載馳而退。子路見夏南、憤恚而忼愾。吾常恨不得頓叔向之頭、陷華父之眼。奈何諸君迎此妖物、夜與游戲、放傲逸之情、縱奢淫之行、亂男女之禮、破貞高之節、何也」遂隱牀上、被髮而臥、不復言。眾親踧踖、即退遣丹・珠各各分散。
後其母病篤、乃詣洛市藥。會三月上巳、洛中王公已下並至浮橋、士女駢填、車服燭路。統時在船中曝所市藥。諸貴人車乘來者如雲、統並不之顧。太尉賈充怪而問之、統初不應、重問、乃徐答曰「會稽夏仲御也」充使問其土地風俗、統曰「其人循循、猶有大禹之遺風、太伯之義讓、嚴遵之抗志、黃公之高節」又問「卿居海濱、頗能隨水戲乎」答曰「可」統乃操柂正櫓、折旋中流。初作鯔鷠躍、後作鯆䱐引、飛鷁首、掇獸尾、奮長梢而船直逝者三焉。於是風波振駭、雲霧杳冥、俄而白魚跳入船者有八九。觀者皆悚遽、充心尤異之、乃更就船與語、其應如響。欲使之仕、即俛而不答。充又謂曰「昔堯亦歌、舜亦歌。子與人歌而善、必反而後和之。明先聖前哲無不盡歌。卿頗能作卿土地間曲乎」統曰「先公惟寓稽山、朝會萬國、授化鄙邦、崩殂而葬。恩澤雲布、聖化猶存、百姓感詠、遂作慕歌。又孝女曹娥、年甫十四、貞順之德過越梁宋。其父墮江不得尸、娥仰天哀號、中流悲歎、便投水而死、父子喪尸、後乃俱出。國人哀其孝義、為歌河女之章。伍子胥諫吳王、言不納用、見戮投海、國人痛其忠烈、為作小海唱。今欲歌之」眾人僉曰「善」統於是以足叩船、引聲喉囀、清激慷慨、大風應至、含水𠻳天、雲雨響集、叱咤讙呼、雷電晝冥、集氣長嘯、沙塵煙起。王公已下皆恐、止之乃已。諸人顧相謂曰「若不游洛水、安見是人。聽慕歌之聲、便髣髴見大禹之容。聞河女之音、不覺涕淚交流、即謂“伯姬高行在目前也。”聆小海之唱、謂“子胥・屈平立吾左右矣。”」充欲耀以文武鹵簿、覬其來觀、因而謝之、遂命建朱旗、舉幡校、分羽騎為隊、軍伍肅然。須臾、鼓吹亂作、胡葭長鳴、車乘紛錯、縱橫馳道、又使妓女之徒服袿襡、炫金翠、繞其船三帀。統危坐如故、若無所聞。充等各散曰「此吳兒是木人石心也」統歸會稽、竟不知所終。
夏統 字は仲御、會稽永興の人なり。幼くして孤貧たりて親を養い孝を以て聞ゆ。兄弟に睦まじ、每に梠を採りて食を求め、星みて行き夜に歸す。或いは海邊に至り、螊𧑅を拘(とら)えて以て養を資(たす)く。雅(はなは)だ談論を善くす。宗族 仕うるを之に勸め、之に謂いて曰く「卿は清亮質直なれば、郡の綱紀を作り、府朝と與に接す可し。自ら當に至を顯らかにすべし。如何ぞ山林の辛苦に甘んじ、海濱に性命を畢(おわ)らんか」と。統は悖然として色を作して曰く「諸君 我を待(たの)またんとして乃ち此に至るか。統をして太平の時に屬して、當に元凱と與に評議に出處すべし。濁代に遇い、屈生と與に汙(けが)れを同じくし泥を共にせんと念(おも)い、汙隆の間の若きは、自ら當に耦耕し沮溺たるべし。豈に郡府の間に意を曲げるの辱有らんや。君の談を聞くに、寒毛の盡く戴るを覺えず、四帀に白汗し、顏は丹を渥るが如く、心は熱すること炭の如し。舌は縮み口は張り、兩耳を壁して塞塞ぐなり」と。言う者は大いに慚ず。統は此れより遂に宗族と相い見みえんとせず。
母の疾するに會い、統 醫藥を侍し、宗親 因りて之に見ゆるを得る。其の從父の敬寧は先人を祠り、女巫章丹・陳珠二人を迎う。並びに國色有り、莊服 甚だ麗しく、歌儛を善くし、又た能く形を隱れ影を匿す。甲夜の初め、鐘を撞ち鼓を擊ち、間(まじえ)るに絲竹を以す。丹・珠乃ち刀を拔き舌を破り、刀を吞みて火を吐き、雲霧杳冥し、流光電發す。統の諸從兄弟 往きて之を觀みんと欲するも、統を難(はばか)る。是に於いて共に之に紿(あざ)むいて曰く「從父 間(この) ごろ疾病の瘳(い)えるを得て、大小 以て喜慶と為す、其の祭祀に因りて、並びに往きて之を賀さんと欲す。卿も俱に行く可きや」と。統 之に從う。門に入りて、忽ちに丹・珠の中庭に在るを見る。輕やかに歩きて佪り儛い、靈 談じて鬼 笑い、觸を飛ばし柈(おおざら)を挑(かか)げ、酬酢すること翩翻たり。統 驚愕して走り、門に由らず、藩(まがき)を破りて直に出づ。歸りて諸人を責めて曰く「昔 淫亂の俗 興り、衞の文公 之が為に悲惋す。螮蝀の氣 見(あら)わるも、君子 尚お敢えて指さず〔一〕。季桓 齊女を納めて仲尼 載ち馳せ退く〔二〕。子路 夏南に見ゆるを、憤恚忼愾す〔三〕。吾 常に恨む 叔向の頭を頓し、華父の眼を陷さんとするを得〔四〕。奈何ぞ諸君 此の妖物を迎え、夜と與に游戲し、傲逸の情を放ち、奢淫の行に縱い、男女の禮を亂し、貞高の節を破るや、何ぞや」遂に牀上に隱れ、被髮して臥し、復た言わず。眾親 踧踖として、即ち退き丹・珠をして各各を分散せ遣む。
後に其の母 病篤ければ、乃ち洛を詣うでて藥を市(か)わんとす。三月上巳に會い、洛中の王公 已に下り並びて浮橋とするに至り、士女 駢び填(うず)まり、車服 路に燭す。統 時に船中に在り市(か)った所の藥を曝(さら)す。諸貴人の車乘して來たる者 雲の如きも、統 並びに之を顧みず。太尉の賈充 怪して之に問うも、統 初めは應えず、重ねて問えば、乃ち徐(おもむ)ろに答えて曰く「會稽の夏仲御なり」と。充 其の土地風俗を問わ使む、統曰く「其の人となり循循、猶お大禹の遺風〔五〕、太伯の義讓〔六〕、嚴遵の抗志〔七〕、黃公の高節有り〔八〕」と。又た問う「卿 海濱に居り、頗る能く水に隨いて戲ぶるか」と。答えて曰く「可なり」と。統 乃ち柂を操り櫓を正し、中流を折旋す。初めは鯔鷠の躍を作し、後には鯆䱐の引くを作し、鷁首を飛ばし、獸尾を掇り、長梢を奮いて船の直逝する者は三なり。是に於いて風波 振駭し、雲霧 杳冥たり、俄かにして白魚の船に跳び入る者 八九有り。觀る者 皆な悚(おそ)れ遽(あわ)ても、充の心 尤も之に異なれば、乃ち更に船に就きて與に語り、其の應ずること響くが如し。之をして仕え使むこと欲するも、即ち俛(うつむ)きて答えず。充 又た謂いて曰く「昔 堯亦た歌えば、舜も亦た歌う。子 人と與に歌いて善く、必ず反して後に之を和す。先聖前哲 歌い盡ざること無きこと明かなり。卿 頗る能く卿が土地の間の曲を作(な)すや」と。統 曰く「先公 惟れ稽山に寓し、萬國に朝會し、化を鄙邦に授け、崩殂して葬す。恩澤 雲布し、聖化 猶お存し、百姓 感詠し、遂に慕歌を作る。又た孝女の曹娥、年 甫(わずか)に十四、貞順の德 梁宋を過越す。其の父 江に墮ちて尸を得ずも、娥 天を仰ぎて哀號し、中流に悲歎し、便ち水に投げて死し、父子尸を喪えども、後に乃ち俱に出づ。國人 其の孝義を哀しみ、為に河女の章を歌う〔九〕。伍子胥 吳王を諫め、言 納用されず、戮せられて海に投ずれば、國人 其の忠烈を痛みて、為に小海唱を作る〔十〕。今 之を歌うを欲す」と。眾人僉(み)な曰く「善し」と。統 是に於いて足を以て船を叩き、聲を引きて喉囀し、慷慨を清激し、大風應に至り、水を含みて天を𠻳すすぐ、雲雨響き集め、叱咤讙呼、雷電 冥を晝り、氣を集めて長嘯し、沙塵 煙起す。王公已下 皆な恐れ、之を止むれば乃ち已む。諸人 相いを顧みて謂いて曰く「若し洛水に游ばざれば、安くんぞ是の人を見んや、慕歌の聲を聽けば、便ち大禹の容を見るを髣髴す。河女の音を聞けば、涕淚の交流を覺えず、即ち謂えらく“伯姬の高行 目前に在るなり”と〔十一〕。小海の唱を聆(き)けば、謂えらく“子胥・屈平吾〔十二〕が左右に立てり”」と。充 文武の鹵簿を耀かすを以て、其の來觀を覬するを欲するも、因りて之を謝し、遂に命じて朱旗を建て、幡校を舉げ、羽騎を分ちて隊を為し、軍伍 肅然たり。須臾にして、鼓吹 亂れ作り、胡葭 長鳴し、車乘 紛錯し、縱橫に道を馳せ、又た妓女の徒をして 袿襡を服し、金翠を炫し、其の船を繞り三帀使む。統 危坐 故の如し、聞く所無きが若し。充等 各おの散じて曰く「此れ吳兒は是れ木人石心なるか」と。統 會稽に歸りて、竟に終う所を知らず。
〔一〕『詩経』鄘風に「蝃蝀在東、莫之敢指。女子有行、遠父母兄弟」とある。鄭箋には「虹天氣之戒。尚無敢指者、況淫奔之女誰敢視之」と虹を淫奔の女に例えている。また「蝃蝀止奔也。衞文公能以道化、其民淫奔之恥國人、不齒也」として衛文公の教化する意図があるとする。
〔二〕『論語』微子篇に「齊人歸女樂、季桓子受之。三日不朝、孔子行」とある。斉の策略で魯の政治は女性に惑わされ、孔子は諸国亡命の旅に出た。
〔三〕中華書局本の校勘記に従い「夏南」を「衞南」と解す。
『論語』雍也篇に「子見南子、子路不說。夫子矢之曰“予所否者、天厭之。天厭之” 」とあり、『論語集解』に引く孔安国注「南子者、衞靈公夫人、淫亂而靈公惑」とある。衛は南子によって政治が惑わされ、孔子がその南子に面会するとなったことに弟子の子路は不満をもった。
〔四〕晋の叔向は賢大夫であるが、『春秋左氏伝』昭公二十八年の記事によると、淫奔で関わった男を次々に不運に遭わせたとされる夏姫の娘を妻に迎えたがった。母から美女がもたらす害を聞くも主命によって結婚し、生まれた子(楊食我)によって叔向の家(羊舌氏)は滅んだ。
〔五〕禹は『墨子』節葬下篇において「禹東教乎九夷、道死、葬會稽之山」とあり、会稽山に葬られている。
〔六〕太伯は『史記』呉太伯世家に見える。周の古公亶父の子で、弟の季歴に継承させるために出奔し呉を建国した。
〔七〕嚴遵は『後漢書』逸民伝に見える會稽出身の隠者。「嚴光」の名で立伝され、「遵」は一名とされる。光武帝と同学であったが、即位後に行方をくらませ、見つかり招聘されても、光武帝の腹の上に足を乗せて寝るという振るまいをした。
〔八〕『尹文子』に見える黄公、『史記』留侯世家に見える黄石公・夏黄公のいづれも隠者ではあるが、會稽及び周辺の地と結びつかない。明確な典故は不明。
〔九〕曹娥は『後漢書』列女伝に見える。会稽の人。父子の遺骸が出たことは『後漢書』には見えない。王羲之の「孝女曹娥碑」では「有七日遂自投江、死經五日抱父屍出」と父と曹蛾の遺骸が出たことが記されている。
〔十〕『史記』伍子胥列伝によれば、伍子胥は呉王夫差をたびたび諫言を行ったが、太宰嚭の讒言によって自死を命じられ、亡骸は川に捨てられた。呉の人々は哀れんで祠を建てた。
〔十一〕宋の伯姬は『春秋左氏伝』襄公三十年に見える。魯の公女で、宋に嫁ぎ、火災にあったとき、婦人の義を守って焼け死んだ。
〔十二〕伍子胥と楚の屈原は『楚辞』の「哀時命」にて「子胥死而成義兮、屈原沈於汨羅」と並べられている。屈原も諫言が聞き入れられず自死するという、伍子胥同様の悲劇的な最期を遂げた。
夏統は字を仲御といい、会稽郡永興の人である。幼いころに父を失って貧しく、(母)親を養うことで孝行息子と名高かった。兄弟と仲良くし、いつも野生の芋を掘って食物を求め、星の巡行する夜に帰った。あるいは海辺に行って、小さいハマグリやカニを捕まえて家計をささえた。大変議論を得意とした。宗族(の者)は彼に仕官すること勧めて言った「おまえは清らかではっきりしており、真面目であるから、郡の法制を作る職につき、役所(の者)と交流するのがよろしい。自身で至高であることを顕示するのがよろしい。どうして山林ぐらしの辛苦に甘んじて、海辺で人生を終えようとしているのか」と。夏統は顔色を変えて怒って言った「諸君らは私を(栄達の)頼りにしようとしてやって来たのか。私は太平の時代にあってこそ、俊英らとともに評議に参加するべきなのだ。(今は)濁世であるから、屈原とともに汚濁を一緒に汚泥を一緒にしよう願い、もし盛衰の時代のようなときは、自ら長沮・桀溺のように並び耕すべきなのだ。どうして郡の役所にあって自分の意を曲げるような辱めをうけることがあろうか。あなたの話を聞いてみると、細い毛がすべて肌にあるように感じず、四周に緊張して汗かき、顔は丹を握ったように赤くなり、心は炭のように熱くなる。舌は縮んで、口は強張って、両耳が壁でふさがれてしまう」と。(夏統に仕官を)言った者はおおいに恥じた。夏統はこれ以来、宗族の者と会おうとすることはなかった。
母親が病気となった折り、夏統は医薬品を整え側で世話をし、親族のものはこれによって(夏統の一家)と会うことができた。夏統のおじの敬寧は先祖をまつり、巫女の章丹・陳珠の二人を迎えた。二人とも絶世の美女であり、おごそかな装いは大変麗しく、歌舞することが得意であり、そしてその姿をかげかたちもなく消えることができた。初更(午後7時~9時)の時分に、鐘・鼓を打ち鳴らし、(弦楽器の)絲竹の音を交えて演奏した。章丹と陳珠は刀を抜いて舌を切り、刀を飲み込んで火を吐き、雲霧がたちこめて暗くはっきりしなくなり、稲光が走る。夏統の従兄弟たちは、中に入ってこれを観賞したいと思ったが夏統のことを差し障りとなると考えた。そこで、従兄弟たちは夏統を欺いて「おじは最近、(夏統の母の)疾病が回復していることで、(宗族の)大人も子供も喜んでいます。(おじは)その祭祀するにしたがって、皆で行ってお祝いすることを望んでいます。あなたも一緒に行くべきです」と言った。夏統はこの言葉に従った。門をくぐると、すぐに章丹・陳珠が中庭にいるのを見た。軽やかに歩き回って舞っており、神霊・死者が談笑し、燭を飛ばし大皿を掲げ、上下に飛んで主賓が酒を勧め合っていた。夏統は驚愕してして逃げだし、門を通るのではなく、塀を突き破ってそのまま出た。戻って従兄弟たちを責めて言った。「昔に淫乱の風俗が起り衛の文公はこのことを嘆き悲しんだ。だから虹(淫奔の女を指す)が現れても、君子は指さして見ることはしないのだ。魯の季桓子が齊から送られた女楽を受けとると、孔子は馬車を駆けて魯国を立ち去ったのだ。子路は(孔子が)淫乱な南子に会ったことを知ると、恨み嘆き憤ったのだ。私は常々恨めしく思っている。叔向の首を切り落とし、華父督の眼球を落とすことができないことを。どうして諸君らは(神霊・死者のような)妖物を迎えいれ、夜中に遊び、尊大に好き放題したい情欲を出し、贅沢淫らな行いの欲求に従い、男女の礼を乱し、高潔たるべき節度を破るのか。どうしてなのだ」と、とうとう寝台の上に隠れて、髪をザンバラにして寝て、それから何も言わなかった。親族たちはオドオドして、すぐに立ち去り、章丹と陳珠に各々(神霊・死者)を散らし去らせた。
その後、母の病が重くなると、(都の)洛陽へ薬を買いにいった。三月三日の上巳節の折りであり、洛中の王公は、すっかり川に(船で)下りて、(船をつなげて)浮き橋をつくっており、(身分ある)男女らがぎっしりならんでおり、立派な車と服の者どもが路上に燭して列をなしている。夏統はそのとき船中におり、買った薬を見せつけていた。車に乗ってやってくる高貴な者が、雲のように数多いたが、夏統はどれにも関心を向けなかった。大尉の賈充は(その様を)怪しんで(夏統に)たずねたが、夏統は最初は答えなかった。何度も問うと、ゆるやかに「会稽郡の夏仲統です」と答えた。賈充は会稽の風俗を聞いて答えさせた。夏統は「会稽の人々は法規にまもり、今もなお夏の禹の遺風、呉の太伯の義による王位の譲渡、嚴光の権威におもねらない志、黄公の高節があります」と答えた。王充はまたたずねた。「あなたは海辺に住んでおり、水にしたがって巧に船を操ることができるだろうか」と。夏統は「可能です」と答えた。夏統は舵をとり、櫓をこぎ、川の中央で(船を)踊らせてみせた。初めはボラ・鳥(どの鳥か未詳)の躍動をなし、後にはイルカの引き寄せる動きをなし、水鳥の首を飛ばすような、獣の尾をかたどるような動きをみせ、長い船棹をふるって3艘の船が真っ直ぐすすんだ。ここで、波風が恐れ驚くように荒れ、雲霧がたちこめて暗くはっきりしなくなり、突然、8、9尾の白魚が船に飛び入った。観衆はみな恐れふためいたが、賈充の心はたいそう(大衆とは)違っていたので、夏統の船に行って語らい、打てば響くように意気投合した。夏統を仕官させたいと考えたが、夏統はうつむいて答えなかった。賈充はまたは夏統に言った。「昔、堯が歌えば、舜も応じて歌った。あなたも人と一緒に歌うことに長けており、必ず応じて、調和させている。かつての聖人・賢者たちは歌いつくすことが出来ないことは明かだ。あなたはあなたの土地の(人々の)間に伝わる曲を歌えるだろうか」と。夏統は答えた「先公(の禹)は会稽山に住み、万国に朝見し、教化を遠国にさずけ、(會稽で)崩御して葬られた。その恩沢は雲のように広がり、その教化はなお残っており、人民は感応して、慕うあまりに遂に歌をつくりました。また孝女の曹娥は14歳にして、貞順の徳は(河南の)梁・宋(の地)まで伝わっていた。父親が川中の祈祷中に溺死して遺骸が見つからない中、曹娥は天を仰いで泣き叫びに、川の中程に向かって悲歎すると、身投げして死に、父子ともに亡骸が川に流さて不明となったが、後にどちらも発見された。呉越の人々はその考義をかなしみ、彼女のために河女の章を歌った。伍子胥は呉王夫差を諫めたが、その言葉は聞き入れられず、自死を強いられて(遺骸)を海に捨てられると、呉の人々はその忠烈をいたんで、彼のために小海唱を作った。今、この2つを歌いたいと思います」と。観衆はみな「よろしい」と言った。夏統はここで、足を踏んで船を鳴らし、声を長くのばして、喉を震わし、憤り嘆きを招き、大風がちょうどやってきて、天を嗽ぐように水を巻き上げ、(雷の音は)雨雲を響き集め、(その音は)大声ではげますように音を一斉に鳴り、稲光は暗い空を区切るように光り、土気を集めて長い音をさせながら、砂塵は砂煙を立てる。王公より身分の低い者たちはみな恐れ、(夏統が)歌うのをやめると、(天変地異)は止んだ。人々はお互いに見合せながら言った。「洛水に遊びにこなければ、どうして夏統を見ることができただろうか。(禹の)慕歌の声を聞けば、大禹の姿がはっきりと見える。(曹娥の)河女の音を聞けば、不覚にも鼻水・涙が混じるほど流れてくる。そして“あの音に聞く伯姬の高行が目の前にあるかのようだ”と言った。(伍子胥の)小海の唱を聞けば“伍子胥と屈原が左右に立っているかようだ”と言った」と。賈充は文官武官の行列を顕示することで、(夏統)見に来たがるようにしようとして、夏統に別れの挨拶をすると、最後に朱色の軍旗・垂れた軍旗を立て、近衛の騎兵を分かれて隊列をつくるように命じ、粛然とした軍列を整えた。しばらくして、鼓と笛の音が交響し、胡人の笛が長鳴し、兵車が入り乱れて道を縦横に馳せ、また芸妓たちがきらびやかな装いをまとい、金と翡翠の首飾りをかがやかせ、船上でぐるぐると舞った。だが夏統は(見向きもせず)正座して普段と変わらない様子だった。(賈充は)「呉の者は体も心も木や石でできているのか」と言った。夏統は會稽に帰り、とうとうその最期を知る者はいない。
朱沖字巨容、南安人也。少有至行、閑靜寡欲、好學而貧、常以耕藝為事。鄰人失犢、認沖犢以歸。後得犢於林下、大慚。以犢還沖、沖竟不受。有牛犯其禾稼、沖屢持芻送牛而無恨色。主愧之、乃不復為暴。
咸寧四年、詔補博士、沖稱疾不應。尋又詔曰「東宮官屬亦宜得履蹈至行敦悅典籍者、其以沖為太子右庶子」沖每聞徵書至、輒逃入深山、時人以為梁管之流。沖居近夷俗、羌戎奉之若君。沖亦以禮讓為訓、邑里化之。路不拾遺、邨無凶人、毒蟲猛獸皆不為害。卒以壽終。
朱沖 字は巨容、南安の人なり。少くして至行有り、閑靜にして欲 寡し、好學にして貧しく、常に耕藝を以て事を為す。鄰人 犢を失い、沖が犢を以て歸すと認むるも、後に林下に犢を得て、大いに慚ず。犢を以て沖に還すも、沖 竟に受けず。牛の其の禾稼を犯すもの有り、沖 屢しば芻を持ちて牛を送るも恨む色無し。主 之を愧じ、乃ち復び暴を為さず。
咸寧四年、詔して博士に補す、沖 疾と稱して應ぜず。尋(つい)で又た詔して曰く「東宮の官屬 亦た宜しく至行を履蹈し 敦く典籍を悅ぶ者を得るべく、其れ沖を以て太子の右庶子と為す」と。沖 徵書の至るを聞く每に、輒と深山に逃入し、時の人以て梁管の流〔一〕と為す。沖が居 夷俗に近く、羌戎 之を奉ること君が若し。沖も亦た禮讓を以て訓(おしえ)と為し、邑里 之を化す。路 遺すを拾わず、邨(むら)に凶人無く、毒蟲猛獸 皆な害を為さず。卒に壽を以て終る。
〔一〕「梁管之流」出典不明。
朱沖は字を巨容といい、南安郡の出身である。幼少期から品行が優れて、もの静かで寡欲であり、学問好きだが貧しく、いつも田畑を耕すことを仕事としていた。隣人が子牛をなくし、(それを)朱沖が(盗んで)持ち去ったと決めつけたが、後ほど林の下で子牛を見つけたことで、大いに恥じた。子牛を朱沖に譲り渡そうとしたが、朱沖は最後まで受け取らなかった。牛が(朱沖の)穀物を盗み食うことがあり、朱沖はしばしば秣を牛にやることがあったが、(朱沖)は全く恨むことがなかった。牛の飼い主はこのことを恥じて、二度と牛がしでかすことがないようにした。
咸寧4年(278年)(朱沖に)詔がくだされて博士に任命されたが、朱沖は病と称して応じなかった。しばらくして再び詔をくだして「東宮の官属として、卓絶した品行を実践しており、典籍を大変好んでいる者を採用することがよろしく、朱沖を皇太子の右庶子に任命する」と言った。朱沖は任官の通達が来たこと聞くといつも、奥山に逃げ去り、時の人々は梁・管の流儀だといった。朱沖の住まいは異民族の居住地に近く、羌族は朱沖を君主であるかのように奉じた。朱沖もまた礼譲を教えとし、村落を教化した。道に落ちているものを拾わなくなり、村に悪人はいなくなり、 毒虫・猛獣たちも(人を)害しなくなった。(朱沖は)寿命によって亡くなった。
范粲字承明、陳留外黃人。漢萊蕪長丹之孫也。粲高亮貞正、有丹風。而博涉強記、學皆可師、遠近請益者甚眾、性不矜莊、而見之皆肅如也。魏時州府交辟、皆無所就。久之、乃應命為治中、轉別駕、辟太尉掾・尚書郎、出為征西司馬。所歷職皆有聲稱。
及宣帝輔政、遷武威太守。到郡、選良吏、立學校、勸農桑。是時戎夷頗侵疆埸、粲明設防備、敵不敢犯、西域流通、無烽燧之警。又郡壤富實、珍玩充積、粲檢制之、息其華侈。以母老罷官。郡既接近寇戎、粲以重鎮輒去職、朝廷尤之、左遷樂涫令。
頃之、轉太宰從事中郎。遭母憂、以至孝稱。服闋、復為太宰中郎。齊王芳被廢、遷于金墉城、粲素服拜送、哀慟左右。時景帝輔政、召羣官會議、粲又不到。朝廷以其時望、優容之。粲又稱疾、闔門不出。於是特詔為侍中、持節使於雍州。粲因陽狂不言、寢所乘車、足不履地。子孫恒侍左右、至有婚宦大事、輒密諮焉。合者則色無變、不合則眠寢不安。妻子以此知其旨。
武帝踐阼、泰始中、粲同郡孫和時為太子中庶子、表薦粲、稱其操行高潔、久嬰疾病、可使郡縣輿致京師、加以聖恩、賜其醫藥、若遂瘳除、必有益於政。乃詔郡縣給醫藥、又以二
千石祿養病、歲以為常、加賜帛百匹。子喬以父疾篤、辭不敢受、詔不許。以太康六年卒、時年八十四、不言三十六載、終於所寢之車。
范粲 字を承明、陳留外黃人なり。漢の萊蕪長 丹の孫なり。〔一〕粲 高亮貞正にして、丹が風有り。而して博涉強記、學 皆な師とす可く、遠近 請益する者 甚だ眾(おお)し、性 矜莊ならざれども、之を見れば皆な肅如するなり。魏の時 州府 交ごも辟すも、皆な就く所無し。之を久しくして、乃ち命に應じて治中と為り、別駕に轉じ、太尉掾・尚書郎を辟し、出でて征西司馬 為る。歷る所の職 皆な聲稱 有り。宣帝 政を輔けるに及んで、武威太守に遷る。郡に到るや、良吏を選び、學校を立て、農桑を勸む。是の時 戎夷頗りに疆埸を侵すも、粲 防備を設くるに明るければ、敵 敢て犯さず、西域 流通して、烽燧の警無し。又た郡壤 富實にして、珍玩 充積すれば、粲 之を檢制し、其の華侈を息(や)む。母老いる以て官を罷めんとす。郡 既に寇戎に接近し、粲 以て重鎮とすれば、輒ち職を去ること、朝廷 之を尤(とが)め、樂涫令に左遷す。之を頃(しばら)くして、太宰從事中郎に轉ず。母の憂うるに遭い、至孝を以て稱さる。服闋(や)み、復た太宰中郎と為る。齊王の芳 廢され、金墉城に遷り〔二〕、粲 素服にて拜送し、左右 哀慟す。時に景帝 政を輔け、羣官を召して會議するも、粲 又た到らず。朝廷 其の時の望を以て、之を優容す。粲 又た疾と稱し、門を闔(と)じて出でず。是に於いて特に詔して侍中と為し、持節 雍州に使(つかい)す。粲 因りて陽狂して言わず、乘る所の車に寢て、足 地を履まず。子孫 恒に左右に侍り、婚宦の大事有るに至れば、輒ち密に焉を諮る。合う者は則ち色 變ずること無く、合わざれば則ち眠寢して安からず。妻子 此れを以て其の旨を知る。
武帝踐阼し、泰始中、粲と同郡の孫和 時に太子中庶子と為り、表して粲を薦む。其の操行の高潔なるを稱し、久しく疾病に嬰(かか)り、郡縣をして 京師に輿致し、聖恩を以て加え、其の醫藥を賜ら使む可し。若し遂に瘳除すれば、必ず政に於いて益有らん。乃ち郡縣に詔して醫藥を給わり、又た二千石を以て養病に祿するを、歲 以て常と為し、加えて帛 百匹を賜う。子喬 父が疾の篤きを以て、辭して敢えて受けざるも、詔して許さず。太康六年を以て卒し、時に年八十四、言わざること三十六載。寢る所の車に終う。
〔一〕中華書局本の校勘記に従い、范粲の祖父の「范丹」は『後漢書』獨行伝に立伝されている范冉と解する。
〔二〕曹芳でなく曹奐の場合だが、『三國志』魏書 三少帝紀 陳留王奐において、禅譲の後、金墉城を住まいとした旨の記述がある。齊王芳では「營齊王宮於河內」という記述にとどまる。
范粲は字を承明といい、陳留郡外黄県の出身である。後漢の(桓帝のときの)萊蕪長范丹(范冉)の孫である。范粲は高潔で節度があり、范丹の遺風があった。博覧強記であり、その学問はだれもが師匠にしたいと、遠くからも近くからも教えを請う者が大変多かった。性格は自信にあふれて厳かになることはないが、范粲(の姿)を見れば誰もが厳粛とした。魏の時代には、州の役所がこもごも招聘したが、どれにも就任することはなかった。しばらくすると任命に応じて治中となり、別駕に転任し、太尉掾・尚書郎を授けられ、(中央を)出て征西司馬となった。経験した職はどれも声望があった。宣帝(司馬懿)が政治(の中心となって皇帝)をたすけるようになると、(西方の辺境である涼州)武威郡の太守となった。武威郡に赴任すると、良吏を選任し、学校を建立し、農耕養蚕を推奨した。このとき、夷狄がしきりに国境侵犯をしていたが、范粲が防備の構築が得意であることから、敵(夷狄)はすすんで侵犯することはなくなり、西域の交通が盛んとなり、(侵攻を知らせる)狼煙があがることは無かった。また武威郡の地は実り豊かであり、珍重な愛玩品が豊富であるため、范粲は倹約節制させて、奢侈をやめさせた。(范粲の)母が老いたことを理由に官職を辞めようとした。武威郡は夷狄と近接し、(夷狄が)范粲を重鎮とみなすようになっているからには、(范粲が)辞職を願う度に朝廷はとがめて、(同じ涼州内の酒泉郡の)樂涫県の県令に左遷した。しばらくすると太宰從事中郎に転任した。(范粲の)母が死去すると、この上なく孝であると称賛された。服喪を終えると太宰從事中郎に再任した。(魏の三代皇帝の)曹芳が廃位となって齊王にもどり、(洛陽近郊の)金墉城に移り住むと、(凶事に着る白い)素服で拝礼して見送り、(曹芳の)近侍の者たちは激しく嘆き悲しんだ。この時、景帝(司馬師)が政治(の中心となって皇帝)をたすけており、官僚たちを召し出して会議を開いたが、范粲は(呼ばれても)行かなかった。朝廷はその時の(范粲が)声望高いことによって、寛容に持てなそうとした。(しかし)范粲は再び病と称して、門を閉じて出なかった。ここで殊更に詔を下して侍中に任命し、(それを告げる)持節が(范粲の住む)雍州まで来たが、范粲はそこで、狂ったふりをして言葉を発しなくなり、車(輪をつけた寝台)の上に寝たままで、地面を踏んで立たなくなった。(狂ったふりをする中)子・孫らがいつも左右におり、婚姻や官職につくといった大事があると、いつもこっそりと范粲に相談した。気に入った者には表情を変えずに(正常な状態で)会い、気に入らない者であれば、眠っておだやかでなかった。(范粲の)妻子はこの態度の変化によって、合う者合わない者を理解した。
武帝(司馬炎)が即位し、泰始年間(265~274年)に(范粲と)同じ(陳留)郡出身の孫和が太子中庶子となり、上表して范粲を推薦することがあった。孫和は范粲の品行が高潔であることを称賛し、長らく病にかかっており、郡県に命じて、都の洛陽まで車で招き、(会って)天子の恩徳をさずけ、医薬をたまわるのがよろしく、もし病が治癒するれば政治を行うことに有益であるとした。そして 郡県に詔を下して(范粲に)医薬をたまわり、さらに養病のために毎年二千石の俸禄をさずけ、加えて絹帛百匹をたまわった。(范粲の)長男の范喬は父の病が篤いことを理由として、断って受け取ろうとしなかったが、詔を下してそれを許さなかった。太康六年(285年)に死去し、そのとき84歳であり、36年も(狂ったふりをして)言葉を発しなかった。車輪をつけた寝台の上で亡くなった。
長子喬字伯孫。年二歲時、祖馨臨終、撫喬首曰「恨不見汝成人」因以所用硯與之。至五歲、祖母以告喬、喬便執硯涕泣。九歲請學、在同輩之中、言無媟辭。弱冠、受業於樂安蔣國明。濟陰劉公榮有知人之鑒、見喬、深相器重。友人劉彥秋夙有聲譽、嘗謂人曰「范伯孫體應純和、理思周密。吾每欲錯其一事而終不能」光祿大夫李銓嘗論楊雄才學優於劉向。喬以為向定一代之書、正羣籍之篇、使雄當之。故非所長。遂著『劉楊優劣論』、文多不載。
喬好學不倦。父粲陽狂不言、喬與二弟並棄學業、絕人事、侍疾家庭。至粲沒、足不出邑里。司隸校尉劉毅嘗抗論於朝廷曰「使范武威疾若不篤、是為伯夷、叔齊復存於今。如其信篤、益是聖主所宜哀矜。其子久侍父疾、名德著茂、不加敘用、深為朝廷惜遺賢之譏也」元康中、詔求廉讓沖退履道寒素者、不計資、以參選敘。尚書郎王琨乃薦喬曰「喬稟德真粹、立操高潔、儒學精深、含章內奧、安貧樂道、棲志窮巷、簞瓢詠業、長而彌堅、誠當今之寒素、著厲俗之清彥」時張華領司徒、天下所舉凡十七人、於喬特發優論。又吏部郎郗隆亦思求海內幽遁之士、喬供養衡門、至於白首、於是除樂安令。辭疾不拜。喬凡一舉孝廉、八薦公府、再舉清白異行、又舉寒素、一無所就。
初、喬邑人臘夕盜斫其樹。人有告者、喬陽不聞。邑人愧而歸之。喬往喻曰「卿節日取柴、欲與父母相歡娛耳。何以愧為」其通物善導、皆此類也。外黃令高頵歎曰「諸士大夫未有不及私者。而范伯孫恂恂率道、名諱未嘗經於官曹。士之貴異、於今而見。“大道廢而有仁義”、信矣」其行身不穢、為物所歎服如此。以元康八年卒、年七十八。
長子喬 字を伯孫。年二歲の時、祖の馨 臨終に、喬が首を撫でて曰く「汝が成人するを見ざるを恨む」と。因りて用うる所の硯を以て之に與う。五歲に至り、祖母以て喬に告げば、喬 便ち硯を執りて涕泣す。九歲に學を請い、同輩の中に在りて、言 媟辭無し。弱冠し、業を樂安の蔣國明に受く。濟陰の劉公榮 人を知るの鑒有り、喬を見るや、深く相器重す。友人の劉彥秋 夙に聲譽有り、嘗て人に謂いて曰く「范伯孫 體應純和にして、理思周密なり。吾れ每に其の一事を錯うるを欲すも終に能わず」と。光祿大夫の李銓嘗 楊雄が才學 劉向に優れるを論ず。喬 向が一代の書を定め、羣籍の篇を正し〔一〕、雄をして之を當ら使むるを以て、故に長ずる所に非ざると為す。遂に『劉楊優劣論』を著すも、文多くして載せず。
喬 學を好みて倦まず。父の粲 陽狂して言わざれば、喬 二弟と與に並びて學業を棄て、人事を絕ち、疾に家庭に侍す。粲 沒するに至るも、足 邑里を出でず。司隸校尉の劉毅 嘗て朝廷に抗論して曰く「范武威が疾をして若し篤からざれば、是れ伯夷・叔齊為りて復た今に存せ使むるなり。如し其の篤きを信ずれば、益ます是れ聖主の哀矜を宜とする所なり。其の子 久しく父が疾に侍し、名德著茂なるも、敘用を加えず、深く朝廷 賢を惜遺するの譏りを為すなり」と。元康中、詔して廉讓・冲退・履道・寒素の者を求め、資を計せず、以て選敘に參す。尚書郎の王琨 乃ち喬を薦じて曰く「喬 德を稟け真粹、操を立てること高潔、儒學に精深、內奧に含章し、貧に安じて道を樂しみ、志は窮巷に棲み、簞瓢ながら業を詠み〔二〕、長にして彌いよ堅し、誠に當に今の寒素たるべく、著しく厲俗の清彥たり」と。時に張華 司徒を領し、天下の舉ぐる所のものは凡そ十七人、喬に於いて特に優論を發す。又た吏部郎の郗隆も亦た海內幽遁の士を求むるを思い、喬が衡門を供養し、白首に至り、是に於いて樂安令を除く。疾を辭して拜ず。喬 凡そ孝廉に一舉され、公府に八薦され、再び清白異行を舉げられ、又た寒素を舉げらるるも、一つだに就く所無し。
初め、喬が邑人 臘の夕に其の樹を盜斫す。人 告ぐる者有り、喬 陽(いつわ)りて聞かず。邑人愧じて之を歸す。喬 往きて喻いて曰く「卿 節日に柴を取り、父母と與ともに相い歡娛するを欲するのみ。何を以て愧と為すや」と。其の物に通じて善く導くは、皆な此の類なり。外黃令の高頵 歎じて曰く「諸士大夫 未だ私に及ばざる者有らず。而れども范伯孫 恂恂として道に率(したが)い、名諱 未だ嘗て官曹を經ず。士の貴〔三〕の異なる、今に於いて見る、大道廢れて仁義有る〔四〕は、信なるかな」と。其の行身は穢れず、物の為に歎服する所 此くの如し。元康八年を以て卒し、年 七十八なり。
〔一〕劉向は前漢の宮中の蔵書を分類し『別録』という解題をつくった。また、『荀子』の重複した篇を整理するといったテキストの整理をした。
〔二〕『論語』雍也篇「賢哉回也。一簞食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其樂。賢哉回也」を踏まえた表現である。顔回は貧しいながらもその生活を楽しんだ。
〔三〕「士之貴」は『戦国策』斉策四 を踏まえると思われる。顔斶が斉の宣王に「士貴耳、王者不貴」と王者・天子がへりくだって賢者を任用することを説いた。
〔四〕『老子』18章「大道廢、有仁義」を引用である。
(范粲の)長男の范喬は字を伯孫といった。2歳の時、祖父の范馨が死に際に范喬の首を撫でて言った「お前が成人した姿を見れないことが悔やまれる」と。そして愛用の硯を范喬に与えた。(范喬が)5歳になると、祖母が范喬に(祖父の臨終のときのこと)を告げると、范喬は硯を手にとって涙した。9歳のときに学ぶことを願いでて、同輩相手にもくだけた言葉を使うことはなかった。20歳となり、学問を楽安郡の蒋国明から受けた。済陰郡の劉公栄は 人相の判断が得意であり、范喬を見ると、並々でない顔であり優れた器量があるとした。友人の劉彥秋は早くから声望がある人物で、かつて人にこう言った「范喬は本質が温和であり、思考は緻密である。私はいつも范喬がなにかひとつ誤ることを期待したが、最後までできなかった」と。光禄大夫の李銓嘗が楊雄が才覚において劉向よりも優れていると論じた。范喬は劉向が(前漢)一代の書物を整理し(て『別録』をつくり)、多くの典籍の篇を整理したことで、楊雄を(劉向と)対等にしたのだ。だから(楊雄が)勝っているわけではないとした。そして『劉楊優劣論』(佚書)を著したが、長文であるためにここには引用しない。
范喬は学問を好んであきることは無かった。 父の范粲が狂ったふりをして言葉を発しなくなると范喬と二人の弟はともに学業を捨てて人との関わりを断絶し、早くも家庭につきそうようになった。司隸校尉の劉毅はかつて朝廷にはりあって論じて言った「武威太守であった范粲の病気が仮に重くないのであれば、伯夷・叔斉の再来とするものである。仮に重病であると信じれば、いっそうに天子様の慈悲が適当であるとさせる。范粲の息子はならがらく父の病につきそっていることで、その徳望が高いものの、(官に)任用することがないために、まことに朝廷が賢者を任用しないという誹謗を生むことになる」と。元康年間(291~299年)に詔をくだして清廉辞譲の者、謙譲する者、正道の者、清貧の者を求めて、費用を気にせずに選んで官職を授けた。尚書郎の王琨はそこで范喬を推薦して言った「范喬は天稟の徳があり純粋、品行が高潔で、儒学に造詣があり、内奥に美質があり、貧しく狭い路地に住んで、一簞一瓢の粗末な食事でありながらも、その生活、学問を楽しみ、(その志は)長くなるほどにますます固くなっているであり、実に今求めている寒素の人物であり、大変に世を励ます逸材である」と。当時、張華は司徒を授かっており、天下の優れた者、計17人を推挙し、とりわけ范喬のことを優れていると論じた。また、吏部郎の郗隆もまた天下の隠遁した士人を求めようと考え、范喬の貧しい住まいに生活の品を提供し、白髪頭(の年老いた郗隆自ら)が訪問して、楽安令に任命した。(范喬は)病を理由に断って拝命しなかった。范喬はいったい、孝廉に1度推挙、官公庁から8度推薦され、2度、清潔な品行を推挙され、また寒素なところを推挙されたが、1つとして任官することはなかった。
最初に范喬の村落の人が、冬に猟の獲物をお供えして祭っているところ、夕べに(干し肉が供えられた)木を盗んだ。それを(范喬に)告げた者がいたが、范喬は(そんなことはないと)いつわって聞き入れなかった。(盗んだ)村人は恥じ入ってもとに戻した。范喬は(盗んだ村人の元へ持って)行って「あなたは祭日に柴を刈り、両親と一緒に楽しもうとしただけだ。どこが恥じとするところがあるだろうか」と言った。范喬の物事に通じて人々を正しく導いていくのは、どれもこのようなやり方だった。(范喬の出身地の)外黄県の県令の高頵は嘆いて言った「士大夫たちの中で私に及ぶ者はまだいない。しかしながら、范喬は慎み深く道義にしたがっており、名前がまだ官吏となった経験がない。“士が尊い”とは違うことを、今現在で見ることになるとは。“無為の道が廃れて社会が混乱したから、仁義を主張する必要になった”というのは、まことであるな」と。范喬の行動・身辺は穢れることなく、物事で他人を感服させるのはこのようであった。元康八年(298年)に78歳で亡くなった。
魯勝字叔時、代郡人也。少有才操、為佐著作郎。元康初、遷建康令。到官、著『正天論』云「以冬至之後立晷測影、準度日月星。臣案日月裁徑百里、無千里。星十里、不百里」遂表上求下羣公卿士考論。「若臣言合理、當得改先代之失、而正天地之紀。如無據驗、甘即刑戮、以彰虛妄之罪」。事遂不報。嘗歲日望氣、知將來多故、便稱疾去官。中書令張華遣子勸其更仕、再徵博士、舉中書郎、皆不就。
其著述為世所稱、遭亂遺失。惟注墨辯、存其敘曰
名者所以別同異、明是非、道義之門、政化之準繩也。孔子曰「必也正名、名不正則事不成」墨子著書、作辯經以立名本。惠施・公孫龍祖述其學、以正別名顯於世。孟子非墨子、其辯言正辭則與墨同。荀卿・莊周等皆非毀名家、而不能易其論也。
名必有形、察形莫如別色。故有堅白之辯。名必有分明、分明莫如有無。故有無序之辯。是有不是、可有不可、是名兩可。同而有異、異而有同、是之謂辯同異。至同無不同、至異無不異、是謂辯同辯異。同異生是非、是非生吉凶、取辯於一物而原極天下之汙隆、名之至也。
自鄧析至秦時名家者、世有篇籍、率頗難知、後學莫復傳習、於今五百餘歲、遂亡絕。墨辯有上下經、經各有說、凡四篇、與其書眾篇連第、故獨存。今引說就經、各附其章、疑者闕之。又采諸眾雜集為『刑名』二篇、略解指歸、以俟君子。其或興微繼絕者、亦有樂乎此也。
魯勝 字は叔時、代郡の人なり。少くして才操有り、佐著作郎と為る。元康の初め、建康令に遷る。官に到るや、『正天論』を著して云う「冬至の後に晷を立て影を測る以て、日月星を準度す。臣案ずるに日月は徑を裁(さだ)むに百里にして千里無く。星 十里にして百里ならず」と。遂に上に表して、下は羣公卿士の考論するを求め「若し臣の言 理に合えば、當に先代の失を改め、而して天地の紀を正し得るべし。如し據驗無くば、甘じて即ち刑戮し、以て虛妄の罪を彰にせよ」と。事 遂に報せず。嘗て歲日 氣を望み、將來 故多きを知れば、便ち疾を稱して官を去る。中書令の張華 子を遣して其の更に仕うるを勸め、再び博士に徵し、中書郎に舉ぐるも、皆な就かず。
其の著述や世の稱さる所と為るも、亂に遭いて遺失す。惟だ『墨辯』を注し、其の敘の存するに曰く
名づく者の所以は同異を別ち、是非を明にし、道義の門、政化の準繩なり。孔子の曰く「必ずや名を正さんか、名正からざれば則ち事成らず」〔一〕と。墨子の書を著すや、辯經を作りて以て名を立つるの本とす。惠施・公孫龍 其の學を祖述し、名を正別するを以て世に顯わる。孟子 墨子を非るも、其の辯言は辭を正すにあれば則ち墨と同じくす〔二〕。荀卿・莊周等も皆な名家を非毀す〔三〕、而れども其の論を易うること能わざるなり。
名は必ず形有り、形を察して色を別つに如くは莫し。故に堅白の辯有り〔四〕。名は必ず分明する有り、分明するは有無に如くは莫し。故に無序の辯有り〔五〕。是 不是有り、可 不可有り、是を兩可と名づく〔六〕。同にして異有り、異にして同有り、是れ之を同異を辯ずと謂う〔七〕。至同 同ならざる無く、至異 異ならざる無く、是れを同を辯じ異を辯ずと謂う。同異 是非を生じて、是非 吉凶を生じ、辯を一物の於いて取りて天下の汙隆を原(たず)ね極めるは、名の至りなり。
鄧析より秦時の名家に至るは、世に篇籍有るも、率(おおむ)ね頗りに知り難き、後學復た傳習すること莫く、今に於いて五百餘歲、遂に亡絕す。墨辯上下經有り、經 各おの說有り、凡そ四篇、其の書の眾篇と與に連第し、故に獨り存す。今 說を引き經に就き、各おの其の章附け、疑う者は之を闕く。又た諸眾を采り雜集して『刑名』二篇を為し、指歸を略解し、以て君子を俟つ。其の或るいは微を興し絕を繼ぐ者、亦た此れ樂しむ有るなり。
〔一〕『論語』子路篇の「必也正名乎」「名不正、則言不順。言不順、則事不成。事不成」の引用である。
〔二〕『孟子』は滕文公篇下において楊朱と墨翟を主要な論敵としてあげている。『孟子』の「正名」の姿勢は、例えば告子と「性」についての論争に見られる(告子篇上)。
〔三〕『荀子』は非十二子篇、『荘子』は天下篇において、名家ほか、他学派を論評している。
〔四〕堅白説は『公孫龍子』堅白篇にて論じられる。石は堅・白の二性質を有しているが、堅の性質は触覚によってわかり、白の性質は視覚によってわかるものである。堅・白は相反する性質であり、片方を知覚するとき、もう方は隠れる。よって、石・堅または、石・白の二性質は同時に知覚できるが、石・堅・白の三性質は同時に知覚できないとした。
対して『墨子』は「堅白」について経上篇とその解説である経説上篇で言及する。堅・白は同一の石において得られる性質であり、堅・白は相反する性質ではないとし、公孫龍を反駁するように述べる。
〔五〕「無序」は『墨子』経上篇に「端、體之無序而最前者也」とあり、経説上篇では「是無同也」とする。なお、「無序」の「序」を張湛は「次序」と注し、王引之は「厚」の誤りとする。(『墨子間詁』)
〔六〕『列子』力命篇に「鄧析操兩可之説」とある。兩可は矛盾した2つが成り立つという詭弁。
〔七〕「同」と「異」について『墨子』の言及は以下である。
経上篇「同。重・體・合・類」
経説上篇「同。二名一實、重同也。不外於兼、體同也。俱處於室。合同也。有以同、類同也」
経上篇「異。二、不體・不合・不類」
経説上篇「異。二必異、二也。不連屬、不體也。不同所、不合也。不有同、不類也」
魯勝は字を叔時といい、代郡の出身である。若いときから才覚があり、佐著作郎となった。元康年間(291~299年)の初めに(南康郡の)建康県の県令に転任した。県令とって著した『正天論』では「冬至の後に日時計を立てて影を計測することで太陽・月・星々を測量した。私が考えるに太陽・月の直径を見定めると百里(43.56㎞)はあるが、千里(435.6㎞)もなく、星(の直径)は十里(4.36㎞)はあるが百里(43.56㎞)もないだろう」と述べた。そして上には天子に上表し、下は群臣公卿らに考査論証することを求めて「もしも私の発言が理に適っていれば、当然いままでの(天文学の)過失を改めて、天地運行の暦を正すべきだ。もし根拠が無(く間違)いとするならば、(私を)死刑として、その虚妄の罪をはっきりするのだ」と言った。(しかし)この事の結果を(魯勝に)知らせなかった。かつて元旦に気を望み見て、将来に事故が多いことを予知すると、病と称して官職を去った。中書令の張華は息子を使わして(魯勝)にもう一度官職に就くことを勧め、再び博士に招き、中書郎に推挙したが、どれにも就任しなかった。
魯勝の著作は世にもてはやされたが、戦乱にあって失われた。唯一 『墨弁』(『墨子』の経上篇・経下篇・経説上篇・経説下篇・大取篇・小取篇の6篇、論理学の篇)を注釈し、その敍文だけが残っている。
名前をつける理由とは、同じもの・違うものを区別し、是・非を明らかにし、道義の入り口、政治による教化の基準である。孔子は言った“(政治をなすにあたり一番最初に)必ず名を正そうか。名が正しくなければ、事業は成功しない”」と。墨子が書物(『墨子』)を著すと。弁経(論理学の篇)をつくって名をはっきりさせることの基本とした。(論理学派である名家の)恵施・公孫龍はその(論理)の学を受け継いで述べ、名を適正に分つことによって有名になった。孟子は墨子を非難するが、その議論は言葉を正すことにあり、(その点は)墨子と同じある。荀子・莊子等もみな名家を批判しているが、その論理を変える(新しい議論を展開する)ことはできなかった。
名称には必ず形が伴う。形・色によって区別をするのがよい。だから、堅白の議論があるのだ。名称は必ずはっきり区別するものであり、はっきり区別することは、有無を明確にするのがよい。だから「任意に一部分切り取る」の議論がある。是といっても(完全に是でなく)不是があり、可といっても(完全に可でなく)不可があり、これを両可と名付ける。同といっても(完全に同でなく)異があり、異といっても(完全に異でなく)同があり、これを同異を論じるという。至同は、完全に同であり、至異は完全に異であり、これを同を論じ異を論じるという、同異は是非を生じ、是非は吉凶を生じ、議論を一つの事物を切り取って天下の盛衰を探究することは論理学の極意である。
(春秋時代の)鄧析から秦代の名家までは、世に(論理学の)書籍があるといっても、概ねはしばしば理解し難いものであり、後学者がさらに(後輩に)伝授することもなく、今(晋代)までの500年余り経って滅んでしまった。『墨弁』は上篇下篇があり、「経篇」(の命題)には、それぞれ「経説篇」(での解説)があり、合計四篇は、『墨子』のその他もろもろの篇と一緒に『墨子』の書と収録された故に、(他の名家の説が散佚さたのに対し)ただ一つ残っている。今、「経説篇」を引用し「経篇」 について、それぞれ章をもうけ、疑わしい命題は排除した。また多くの人の説をとって雑えて編集して『刑名』二篇を著し、意向を略解して後世の君子の(批評を)まちたい。あるいは微かとなった学を再起し、断絶を継ぐ者が現れることを、また楽しみとする気持ちもある。
董養字仲道、陳留浚儀人也。泰始初、到洛下、不干祿求榮。及楊后廢、養因游太學、升堂歎曰「建斯堂也、將何為乎。每覽國家赦書、謀反大逆皆赦、至於殺祖父母・父母不赦者、以為王法所不容也。奈何公卿處議、文飾禮典、以至此乎。天人之理既滅、大亂作矣」因著『無化論』以非之。
永嘉中、洛城東北歩廣里中地陷、有二鵝出焉、其蒼者飛去、白者不能飛。養聞歎曰「昔周時所盟會狄泉、即此地也。今有二鵝、蒼者胡象、白者國家之象。其可盡言乎」顧謂謝鯤・阮孚曰「『易』稱“知機其神乎”、君等可深藏矣」乃與妻荷擔入蜀、莫知所終。
董養 字は仲道、陳留浚儀の人なり。泰始の初め、洛下に到るも、祿を干めて榮を求めず。楊后廢するに及び、養 因りて太學に游び、堂に升りて歎じて曰く「斯の堂を建つるや、將た何の為めや。每に國家の赦書を覽て、謀反大逆は皆な赦し、祖父母・父母を殺すに至りて赦さざる者、以に王法の容ざる所と為すなり。奈何ぞ公卿 處議し、禮典を文飾し、以て此に至らんか。天人の理 既に滅び、大亂作らんか」因りて『無化論』を著すを以て之を非る。
永嘉中、洛城東北の歩廣里の中 地 陷し、二鵝の出づる有り、其の蒼き者は飛去するも、白き者は飛ぶこと能わず。養 聞きて歎じて曰く「昔 周時盟會する所の狄泉、即ち此の地なり。今 二鵝有り、蒼き者は胡の象、白き者は國家の象なり。其れ言を盡す可きや」と〔一〕。顧みて謝鯤・阮孚に謂いて曰く「『易』は稱す、“機を知るは其れ神”〔二〕と、君等は深藏す可し」と。乃ち妻と與に荷を擔いて蜀に入り、終う所知る莫し。
〔一〕『晋書』五行志中においても。この怪奇現象と董養の発言が記録されており、そこでは「孝懷帝永嘉元年二月」のこととする。
〔二〕『易』繫辞伝下の「知幾其神乎」の引用である。『晋書』は「機」、現行の『易』は「幾」と相違する。
董養は字を仲道といい、陳留郡浚儀県の出身である。泰始年間(265~274年)の初めに洛陽にやってきたが禄をもらって栄達することを望まなかった。武悼楊皇后(司馬炎の二人目の皇后)が廃位されると董養は太学にやってきて、正殿に登って嘆いて言った。「この太学の正殿が建立されたのは、いったい何のためであるか。いつも国家の赦免状をみて謀反の大逆の者はみな赦免しておきながら、祖父母・父母を殺すに至った者を赦免しないというのは王法の許容できないものである。どうやって公卿が決断し、礼典を彩飾して、ようというのか。天と人の道理はもう滅んでしまったので、大乱が起こるだろう」と。よって『無化論』を著してこのことを批難した。
永嘉年間(307年2月)に、洛陽東北の歩廣里において地が陥没し、二羽のガチョウがでてきた。青いガチョウは飛び去ったが、白いガチョウは飛ぶことができなかった。董養はこのことを聞くと嘆いて言った。「かつて周代に会盟が行われた狄泉とはこの地である。いま2羽のガチョウがあり、(飛べない)青いガチョウは夷狄をかたどり、(飛び去った)白いガチョウは国家をかたどっている。さて、最後まで言うべきだろうか(五胡が侵入し晋が南に移るだろう)」と。振り返って謝鯤と阮孚に向かって言った「『易』は兆しを知ることを神という。君たちは(この予言を)深くしまっておくのがよかろう」と。そして妻と一緒に荷物を担いで蜀の地に去り、その最期を知る者はいない。
霍原字休明、燕國廣陽人也。少有志力、叔父坐法當死、原入獄訟之、楚毒備加、終免叔父。年十八、觀太學行禮、因留習之。貴游子弟聞而重之、欲與相見、以其名微、不欲晝往、乃夜共造焉。父友同郡劉岱將舉之、未果而病篤。臨終、敕其子沈曰「霍原慕道清虛、方成奇器・汝後必薦之」後歸鄉里。高陽許猛素服其名、會為幽州刺史、將詣之、主簿當車諫不可出界、猛歎恨而止。
原山居積年、門徒百數、燕王月致羊酒。及劉沈為國大中正、元康中、進原為二品、司徒不過。沈乃上表理之。詔下司徒參論、中書監張華令陳準奏為上品、詔可。元康末、原與王褒等俱以賢良徵、累下州郡、以禮發遣、皆不到。後王浚稱制謀僭、使人問之、原不答。浚心銜之。又有遼東囚徒三百餘人、依山為賊、意欲劫原為主事、亦未行。時有謠曰「天子在何許。近在豆田中」浚以豆為霍、收原斬之、懸其首。諸生悲哭、夜竊尸共埋殯之。遠近駭愕、莫不冤痛之。
霍原 字は休明、燕國廣陽人なり。少くして志力有り、叔父 法に坐して死に當り、原も獄に入り之を訟し、楚毒を備(すべ)て加え、終に叔父を免ず。年十八にして、太學 禮を行うを觀て、因りて留まりて之を習う。貴游子弟聞きて之を重じ、與に相い見えんことを欲し、以て其の名微われ、晝に往するを欲せざれば、乃ち夜に共に造(いた)る。父の友 同郡の劉岱 將に之を舉げんとするも、未だ果さずして病篤し。終りに臨んで、其の子 沈に敕して曰く「霍原 道を慕いて清虛、方に奇器を成す。汝後に必ず之を薦めよ」と。後に鄉里に歸る。高陽の許猛 素より其の名を服し、會たま幽州刺史と為り、將に之を詣でんとするも、主簿 車に當りて諫めて界を出づる可らずと、猛 歎じて恨むも止む。
原 山に居ること積年、門徒 百數、燕王 月ごとに羊酒を致す。劉沈 國大中正と為るに及び、元康中、原を進みて二品と為すも、司徒を過ぎず。沈 乃ち上表して之を理め。詔を司徒に下して參論し、中書監の張華 陳準をして奏して上品と為ら令め、詔して可とす。元康の末、原 王褒等と與に俱に賢良を以て徵れ、累(しきり)に州郡に下り、禮を以て發遣し、皆な到らず。後に王浚 制を稱して僭を謀り、人をして之を問わ使むも、原 答ず。浚が心 之を銜(ふく)む。又た遼東に囚徒三百餘人有り、山に依りて賊と為り、原を劫して主事と為さんと意欲するも、亦た未だ行かず。時に謠有りて曰く「天子何許に在り。近く豆田中に在り」と。浚 豆を以て霍と為し、原を收めて之を斬り、其の首を懸ぐ。諸生 悲哭し、夜に尸を竊みて共に埋め之を殯す。遠近 駭愕し、之を冤痛せざる莫し。
霍原は字を休明といい、燕國廣陽県の出身である。若いときから志と才力があり、叔父が法に罪せられて死刑に相当となると、霍原も獄について訴え出て、過酷な刑罰をすべて受けることで、とうとう叔父を赦免させた。18歳になると、(都の)太学で行われる礼をみたことで、(都に)留まって礼を習った。上流階級の子弟らは霍原のことを聞くと重んじて、会うことを望んだことで霍原は有名となり、(霍原が)昼に訪問されることを望まないために、夜にみんな一緒にやってくるのであった。(霍原)の父の友である、同じ燕国出身の劉岱は父を推挙しようとしたが、まだ出来ないままに(劉岱)が危篤となった。臨終にあたって劉岱の子の劉沈に命じて言った。「霍原は道義を慕って心が潔白であり、若くして才能がある。お前は後ほど必ず推挙せよ」と。後に(霍原は)帰郷すると、高陽国出身の許猛は平素から霍原の名声に敬服しており、たまたま幽州刺史となったことで、霍原を訪ねようとしたが、主簿が(許猛の乗った)車にくっついて、境界から出でてならないと諫めた。許猛は嘆いて恨んだが、訪問をとりやめた。
霍原は長年山に住み、門徒は百数人となり、燕王(司馬機)が毎月に羊と酒を送った。劉沈が国大中正と為るに及び、元康年間(291~299年)に霍原を推挙して(の郷品)を二品としたが、司徒まで通過しなかった。劉沈はそこで上表してこの件を処理した。司徒に討論するよう詔がくだされ、中書監の張華は陳準に(霍原が)上位の郷品となるよう上奏させて、詔によって許可された。元康年間(291~299年)の末、霍原は王褒らとともに賢良であると有名になり、しばしば、州郡の役所に(命令が)下り、儀礼をととのえて使者が派遣されたが、(霍原)は任官しなかった。後に(割拠している)王浚が勝手に制度をつくって僭称を謀ると、人を使って(霍原)を訪ねさせたが、霍原は答えなかった。王浚は恨んで忘れなかった。また遼東郡に囚人300人あまりが山に依拠して賊となり、霍原を脅して主事にしようと望んだが、やはり霍原は行くことはなかった。当時、はやり歌があり、「天子はどこにいる。近い豆畑にいる」といった。王浚は「豆」が霍原を指すと考え、霍原を捕らえて斬首し、その首をさらした。弟子たちは声をあげて悲しみ、夜に首を盗んで、埋葬した。遠方の者も近くの者も驚愕し、痛み悲しまない者はいなかった。
郭琦字公偉、太原晉陽人也。少方直、有雅量、博學、善五行、作『天文志』『五行傳』、注『穀梁』『京氏易』百卷。鄉人王游等皆就琦學。武帝欲以琦為佐著作郎、問琦族人尚書郭彰。彰素疾琦、答云「不識」帝曰「若如卿言、烏丸家兒能事卿、即堪為郎矣」遂決意用之。及趙王倫篡位、又欲用琦、琦曰「我已為武帝吏、不容復為今世吏」終身處於家。
郭琦 字は公偉、太原晉陽の人なり。少(わか)くして方直、雅量有りて、博學、五行を善くし、『天文志』『五行傳』を作り、『穀梁』『京氏易』百卷注す。鄉人 王游ら皆な琦に就いて學ぶ。武帝 琦を以て佐著作郎と為さん欲し、琦が族人の尚書の郭彰に問う。彰 素より琦を疾(ねた)み、答えて云く「識らざるなり」と。帝曰く「若し卿が言の如くば、烏丸の家兒 能く卿に事うれば、即ち郎と為すに堪うるや」と。遂に意を決して之を用う。趙王倫 位を篡するに及び、又た琦を用いんと欲するも、琦 曰く「我已に武帝の吏と為り、復た今世の吏と為ることを容れず」終身 家に處る。
郭琦は字を公偉といい、太原郡晋陽県の出身である。若いときから方正で心が広く、博学で、五行説に明るく『天文志』『五行伝』を著し、『春秋穀梁伝』『京氏易伝』百巻を注釈した。同郷の王游らは皆、郭琦のもとで学問をおさめた。武帝(司馬炎)は郭琦を佐著作郎にしようと望み、郭琦の一族の尚書の郭彰に訪ねた。郭彰は平素から郭琦をねたんでおり、「(郭琦のことは、よく)知りません」と答えた。武帝は「もしあなたの言葉どおり(知らない人物から登用しないというの)であれば、烏丸族の子弟があなたに仕えているが、それが(よく知っている人物だからといって)佐著作郎の任にあたり得るというのか」と言った。(郭彰は)とうとう決断して郭琦を任用した。趙王の司馬倫が帝位を簒奪すると、郭琦を再び任用しようと望んだが、郭琦は「私はもう武帝の官吏となっていたのだから、また当代の官吏となることは許容できない」と答えた。(そして)生涯を終えるまで、(任官せずに)家にいた。
伍朝字世明、武陵漢壽人也。少有雅操、閑居樂道、不修世事。性好學、以博士徵、不就。刺史劉弘薦朝為零陵太守、主者以非選例、不聽。尚書郎胡濟奏曰「臣以為當今資喪亂之餘運、承百王之遺弊、進趨者乘國故以僥倖、守道者懷蘊匵以終身。故令敦褒之化虧、退讓之風薄。案朝游心物外、不屑時務、守靜衡門、志道日新、年過耳順而所尚無虧、誠江南之奇才、丘園之逸老也。不加飾進、何以勸善。且白衣為郡、前漢有舊、宜聽光顯、以奬風尚」奏可、而朝不就、終於家。
伍朝 字は世明、武陵漢壽の人なり。少(わか)くして雅操有り、閑居して道を樂しみ、世事を修めず。性は學を好み、博士を以て徵るるも、就かず。刺史の劉弘 朝を薦めて零陵太守と為さんとするも、主者 選例に非ざるを以て、聽かず。尚書郎の胡濟 奏して曰く「臣 以為らく當に今 喪亂の餘運を資(と)り、百王の遺弊を承く、進趨する者 國故に乘じて以て僥倖し、道を守る者は懷に蘊匵して以て身を終う。故に敦褒の化 虧(か)け、退讓の風 薄くせ令む。案ずるに朝 心を物外に游び、時務に屑せず、靜を衡門に守り、道を志すこと日に新に、年 耳順を過ぎて尚ぶ所 虧(か)くこと無く、誠に江南の奇才、丘園の逸老なり。飾進を加えずして、何を以て善を勸まんか。且つ白衣 郡と為すは、前漢 舊有り、宜しく光顯して、以て風尚を奬むべし」と。奏 可となるも、朝に就かずして、家に終う。
伍朝 字は世明、武陵郡漢寿県の出身である。若いときから節操があり、閑居して道を楽しみ、世間の事を知ろうとしなかった。生まれつき学問を好み、博学であることで有名となったが(官に)就かなかった。(荆州)刺史の劉弘は伍朝を推薦して零陵郡の太守ににしようとたが、皇帝は官吏を選任する規程に反することから聞き入れなかった。尚書郎の胡濟は上奏して言った「私が考えますに、現在は動乱の余波をたくわえ、歴代の王が遺した弊害を受け継いでいます。進んで仕える者は国家の災難に乗じて幸運にあずかっているのであり、道を守る者は内心に深くしまって生涯を終えています。だからあつく賛美する教化を欠けさせ、謙譲の気風を薄くさせてしまいました。考えるに伍朝は心を俗世の外に遊ばせ、時候にわずらわせず、(心の)静を貧しい住まいに守り、日々新たに道を志し60歳を過ぎても、尊崇の姿勢を欠くことがなく、実に江南の奇才、世俗を離れた老陰者です。(伍朝を)飾り(官)にすすめることなくして、どうやって善を勧めることできるでしょうか。 そのうえ、無官の者を郡(の太守)とすることは前漢に先例があります。(伍朝の)栄誉を明らかにしすることで、気概を推奨するのがよろしいでしょう」と。上奏は認可されたが、(伍朝は)官に就くことはなく、家で(生涯を)終えた。
魯褒字元道、南陽人也。好學多聞、以貧素自立。元康之後、綱紀大壞、褒傷時之貪鄙、乃隱姓名、而著『錢神論』以刺之。其略曰
錢之為體、有乾坤之象。內則其方、外則其圓。其積如山、其流如川。動靜有時、行藏有節、市井便易、不患秏折。難折象壽、不匱象道。故能長久、為世神寶。親之如兄、字曰「孔方」、失之則貧弱、得之則富昌。無翼而飛、無足而走、解嚴毅之顏、開難發之口。錢多者處前、錢少者居後。處前者為君長、在後者為臣僕。君長者豐衍而有餘、臣僕者窮竭而不足。『詩』云「哿矣富人、哀此煢獨」
錢之為言泉也。無遠不往、無幽不至。京邑衣冠、疲勞講肄、厭聞清談、對之睡寐、見我家兄、莫不驚視。錢之所祐、吉無不利。何必讀書、然後富貴。昔呂公欣悅於空版、漢祖克之於贏二。文君解布裳而被錦繡、相如乘高蓋而解犢鼻。官尊名顯、皆錢所致。空版至虛、而況有實。贏二雖少、以致親密。由此論之、謂為神物。無德而尊、無勢而熱、排金門而入紫闥。危可使安、死可使活、貴可使賤、生可使殺。是故忿爭非錢不勝、幽滯非錢不拔、怨讎非錢不解、令問非錢不發。
洛中朱衣、當途之士、愛我家兄、皆無已已。執我之手、抱我終始、不計優劣、不論年紀、賓客輻輳、門常如市。諺曰「錢無耳、可使鬼」凡今之人、惟錢而已。故曰軍無財、士不來。軍無賞、士不往。仕無中人、不如歸田。雖有中人、而無家兄、不異無翼而欲飛、無足而欲行。
蓋疾時者共傳其文。
褒不仕、莫知其所終。
魯褒 字は元道、南陽の人なり。學を好んで聞くこと多く、貧素以て自立す。元康の後、綱紀大壞し、褒 時の貪鄙を傷めれば、乃ち姓名を隱して、『錢神論』を著し以て之を刺す。其の略に曰く
錢の體為るや、乾坤の象有り。內に則ち其れ方、外に則ち其れ圓。其の積るや山の如く、其の流るるや川の如く。動靜 時有り、行藏 節有り、市井 便ち易、秏折を患えず。折の難きは壽を象り、匱(とぼ)しからざるは道を象り。故に能く長久し、世の神寶と為す。之に親すること兄の如く、字に「孔方」と曰い、之を失えば則ち貧弱となり、之を得れば則ち富昌す。翼無くして飛び、足無くして走り、嚴毅の顏を解き、難發の口を開く。錢多き者は前に處り、錢少き者は後ろに居る。前に處る者や君長と為り、後在る者や臣僕と為る。君長なる者は豐衍にして餘り有り、臣僕なる者は窮竭にして足らず。『詩』に云う「哿(か)なり富める人、哀しいかな此の煢獨(けいどく)」〔一〕と。
錢の言為るや泉なり。遠くとも往かざる無く、幽なるとも至らざる無し。京邑の衣冠、講肄に疲勞し、清談を聞くを厭い、之に對えて睡寐し、我が家の兄を見て、驚き視ざること莫し。錢の祐く所、吉にして利せざる無し。何んぞ必ずしも書を讀みて、然る後に富貴とならんか。昔 呂公 空版に欣悅し、漢祖 之に二たび贏(もう)くるを克(よ)くす〔二〕。文君 布裳を解きて錦繡を被り、相如 高蓋に乘りて犢鼻を解く〔三〕。官尊く名顯わるは、皆な錢の致す所。空版は至虛なれども、況んや實有り。二たび贏(もう)くるは少しと雖も、以て親密を致す。此に由て之を論ずれば、神物と為すと謂う。德無くして尊し、勢無くして熱し、金門を排して紫闥に入る。危をして安から使む可く、死をして活から使む可く、貴 をして賤から使む可く、生をして殺使む可し。是の故に忿爭 錢に非ざれば勝たず、幽滯 錢非ざれば拔かず、怨讎 錢非ざれば解けず、令問 錢非ざれば發せず。
洛中の朱衣、當途の士、我が家の兄を愛すること、皆な已已すること無し。我の手を執り、我を抱えて終始し、優劣を計らず、年紀を論ぜず、賓客輻輳し、門 常に市の如し。諺に曰く「錢 耳無く、鬼とせ使む可し」と。凡そ今の人、惟だ錢のみ。故に曰く軍 財無くば、士來ず。軍 賞無くば、士往かず。仕うるに中人無くば、歸田するに如かず。中人有りと雖も、而して家兄無くば、翼無くして飛ばんと欲し、足無くして行かんと欲するに異ならず。
蓋し疾する時の者 共に其の文を傳う。
褒 仕えず、其の終わる所知る莫し。
〔一〕『詩経』小雅の正月「哿矣富人、哀此惸獨」の引用。一般民衆の不幸をいう。
〔二〕『史記』高祖本紀によれば、呂公の宴会で、当時亭長に過ぎない高祖一銭もないのに名刺に「一万銭」と書いて呂公に厚遇され、人相を評価されて、娘(後の呂后)をもらったことをいう。
〔三〕卓文君は司馬相如の妻。『史記』司馬相如伝によれば、二人が駆け落ちしたことで、卓文君の父の卓王孫は激怒し、一銭も与えなかった。二人が酒場を開いて卑しい仕事をして生活していることを知ると、止む得ず、100人の下僕、100万の銭に嫁入り道具を送った。
魯褒は字を元道といい、南陽郡の出身である。学問を好んで博識であり、清貧であることによって自立した。元康年間(291~299年)以後は(奢侈の流行や八王の乱をいうか)、綱紀は大いに壊れ、魯褒は欲深く卑しい風潮に(心を)いためると、匿名で『銭神論』を著して批判した。その大略に言う
銭の形には乾坤の象徴がある。内側の穴は四角く、外側は丸い。積もれば山のようになり、流れれば川のようになる。動く・止まる、運ぶ・しまうの時節があり、市井で交易され、摩耗・破損の心配がない。破損しにくいことは長寿を象り、欠乏しないことは道を象るだから長久となることができ、世間で神宝とされる。銭に兄であるかのように親しみ、「孔方(兄)」と(いう異称で)呼び、失えば貧しく弱まり、得れば富んで昌盛する。翼が無いのに飛び、足がないのに走り、けわしい顔を和らげ、だまった口を開かせる。銭の多ものは前におり、銭の少ないものは後ろにいる。前にいる者は主君・長官となり、後ろにいる者は家来・しもべとなる。主君・長官となる者は余りあるほどの富裕となり、家来・しもべとなった者は困窮不足となる。『詩経』にいうではないか「富裕な者はよいが、哀しいのは身よりのない者だ」と。
銭の発音は「セン」であり「泉」に通じる。遠い所であっても、奥深いところであっても到達しない場所はない。都の高官は講学に疲労し、清談を聞くことを嫌っているが、これらの議論に対応してベットに横になり、自宅の兄(銭)に目をやれば、驚き見ないことはない。銭の恩恵は吉祥に利とならないことは無い。どうして必ずしも学問に励んだ後に富貴となることがあろうか。昔、呂公は(一万銭持参と)偽った名刺を喜んで、漢の高祖は呂公から、(無料で飲食する・人相を評価されて妻を得ると)2度儲けることができた。(結婚を卓王孫から認められたことで)卓文君は粗末な衣服を脱いで、錦の刺繍を着るようになり、司馬相如は高蓋の車に乗るようになり、子牛の鼻に似た結び目の褌すがたで働くことが無くなった。官位が高く有名となるのは、どれも銭がもたらすのだ。(一万銭持参と)偽った名刺は空虚であることこの上ないが、言うまでもなく実益があった。2度の儲けは、(回数としては)少ないが、(呂公と)親密になった。こういうわけで(銭を)神物というのだ。(銭の力は)徳が無くても尊くなれ、権勢が無くても栄え、(宦官の署門の)金馬門(宦官を指す)に取り入らずとも宮廷に入ることができる。危険を安全にでき、死を生にすることができ、貴人を賤しくすることができ、生者を殺すことができる。だから怒り争うことは、銭が無ければ勝てず、埋没した人士は銭が無ければ引き立てられず、怨讐は銭がなければ、打ち解けられず、名声は銭が無ければ発生しない。
洛陽の官僚・政権を担う人士は、自宅の兄(銭)を愛するのを、だれも制止することは無い。自分の手をとること、自分を抱えることを繰り返し、優劣をくらべず、年功を議論せず、賓客が集まって、門が市場のようになる。ことわざにいう「銭には耳が無く、死者とすることはできない」と。おおかた当世の人は、ただ銭だけしかない。だから軍隊に財産も褒賞もなければ、人士は集まらない。仕官するに宦官がいないのであれば、帰農した方がよい。宦官がいても、その家に兄(銭)がなければ、翼が無いのに飛ぼうとすること、足が無いのに進もうとするのと何ら違いがない。
思うに(魯褒)が病にふせた時の事が(『銭神論』の)文章と一緒に伝わった。
魯褒は仕官せず、その最期を知る者はいない。
氾騰字無忌、敦煌人也。舉孝廉、除郎中。屬天下兵亂、去官還家。太守張閟造之、閉門不見、禮遺一無所受。歎曰「生於亂世、貴而能貧、乃可以免」散家財五十萬、以施宗族、柴門灌園、琴書自適。張軌徵之為府司馬、騰曰「門一杜、其可開乎」固辭。病兩月餘而卒。
氾騰 字は無忌、敦煌の人なり。孝廉に舉げられ、郎中に除く。天下 兵亂に屬すと、官を去りて家に還る。太守の張閟 之を造(いた)るも、門を閉じて見えず、禮遺 一として受くる所無し。歎じて曰く「亂世に生まれて、能く貧するを貴しとせば、乃ち以て免ず可し」と。家財を散ずること五十萬、以て宗族に施し、柴門に灌園し、琴書し自適す。張軌 之を徵して府司馬と為すも、騰曰く「門 一たび杜(と)ざさば、其れ開く可きや」と固く辭ず。病 兩月餘りにして卒す。
氾騰は字を無忌といい、敦煌郡の出身である。孝廉に挙げられ、郎中に任官した。天下が兵乱にあうと官をやめて家に帰った。敦煌太守の張閟が訪問したが、門を閉ざして会わず、贈り物は一つも受け取らなかった。氾騰は嘆いて「乱世に生まれて、貧しくあることが尊ばれるならば、貧しくなって(災厄から)逃れるのがよい」と言った。(そして)家財50万を宗族に付与し、粗末な家で田畑を耕し、琴を弾き読書する自適な暮らしをした。張軌は氾騰を府司馬に任命したが、氾騰は「門を一度閉ざしたら、開けるべきというのか」と言って固く閉じた。病にふせて2ヶ月あまりで死去した。
任旭字次龍、臨海章安人也。父訪、吳南海太守。旭幼孤弱、兒童時勤於學。及長、立
操清修、不染流俗、鄉曲推而愛之。郡將蔣秀嘉其名、請為功曹。秀居官貪穢、每不奉法、旭正色苦諫。秀既不納、旭謝去、閉門講習、養志而已。久之、秀坐事被收。旭狼狽營送、秀慨然歎曰「任功曹真人也。吾違其讜言、以至於此、復何言哉」尋察孝廉、除郎中、州郡仍舉為郡中正、固辭歸家。
永康初、惠帝博求清節儁異之士、太守仇馥薦旭清貞潔素、學識通博、詔下州郡以禮發遣。旭以朝廷多故、志尚隱遁、辭疾不行。尋天下大亂、陳敏作逆、江東名豪並見羈縶、惟旭與賀循守死不迴。敏卒不能屈。
元帝初鎮江東、聞其名、召為參軍、手書與旭。欲使必到、旭固辭以疾。後帝進位鎮東大將軍、復召之。及為左丞相、辟為祭酒、並不就。中興建、公車徵、會遭母憂。於時司空王導啟立學校、選天下明經之士。旭與會稽虞喜俱以隱學被召。事未行、會有王敦之難、尋而帝崩、事遂寢。
明帝即位、又徵拜給事中、旭稱疾篤、經年不到。尚書以稽留除名、僕射荀崧議以為不可。太寧末、明帝復下詔備禮徵旭、始下而帝崩。咸和二年卒、太守馮懷上疏謂宜贈九列、值蘇峻作亂、事竟不行。
子琚、位至大宗正、終於家。
任旭 字は次龍、臨海章安人なり。父を訪ねれば、吳の南海太守なり。旭 幼くして孤弱となり、兒童 時に學も勤む。長ずるに及んで、操を立つること清修にして、流俗に染まらず、鄉曲 推して之を愛す。郡將の蔣秀 其の名を嘉し、請うて功曹と為す。秀 官に居りて貪穢、每に法を奉ぜず、旭 色を正して苦諫す。秀 既に納れず、旭 謝去し、門を閉じて講習し、志を養うのみ。之を久しくして、秀 事に坐して收められる。旭 狼狽して營送し、秀慨然歎じて曰「任功曹は真人なり。吾れ其の讜言を違えば、以て此に至り、復た何を言わんか」尋(つい)で孝廉を察し、郎中に除し、州郡 仍お舉げて郡中正と為すも、固く辭して家に歸す。
永康の初め、惠帝博く清節儁異の士を求め、太守の仇馥 旭を薦めて清貞潔素、學識通博とす、詔を州郡に下して禮を以て發遣す。旭 朝廷を故 多く、志 隱遁を尚ぶを以て、疾のために辭して行かず。尋(つい)で天下大亂し、陳敏 逆を作し、江東名豪 並びに羈縶を見るも、惟だ旭 賀循と與に死を守りて迴せず。敏 卒に屈す能わず。
元帝 初めて江東に鎮み、其の名を聞き、召して參軍と為さんと、手づから書して旭に與う。使して必ず到らんと欲すも、旭 固く辭するに疾を以てす。後に帝 位を進みて鎮東大將軍とし、復た之を召す。左丞相と為すに及んで、辟して祭酒と為すも、並びて就かず。中に興建し、公車 徵するも〔一〕、母の憂えるに會遭す。時に於いて司空の王導 學校を啟立し、天下の明經の士を選ぶ。旭 會稽の虞喜と與に俱に隱學を以て召さる。事 未だ行かず、會たま王敦の難有り、尋(つい)で帝崩じ、事 遂に寢ぬ。
明帝即位し、又た徵して給事中を拜すも、旭 疾篤を稱し、年を經るも到らず。尚書 稽留するを以て除名し、僕射の荀崧 議して以て不可と為す。太寧の末、明帝復た詔を下し禮を備えて旭を徵し、始めて下るも帝崩ず。咸和二年卒し、太守の馮懷 疏を上げて謂う、宜しく九列を贈るべしと、蘇峻の亂を作すに值り、事 竟に行われず。
子の琚、位 大宗正に至るも、家に終わる。
〔一〕『後漢書』和帝 永元6年の『後漢書』和帝 永元6年の詔に「遣詣公車」とあり、「公車」は人材登用のためにさし向ける車を指す。しかしその注として「『前書音義』曰“ 公車 、署名也。公車所在、故以名焉”と「公車」があることから部署名であり、また、「『漢官儀』曰“公車令一人 …(中略)…凡所徵召、亦總領之」と人材徴召を担当する官職名でもある。隠逸伝内では他に「州府禮命、及公車徵、並不就」「公府八辟、公車五徵、皆不就」と他の地方・中央の官庁と並べて称される。訳す上では「公車令」として、車でないことを明確にする。
任旭は字を次龍といい、臨海郡章安県の出身である。父は呉の南海太守であった。任旭は幼少のときに父が亡くなり、少年の頃は常に学問につとめた、大人になると節操あり品行にすぐれ、世俗に染まらず、郷里の人々はすすんで彼を愛した。郡将の蒋秀は任旭の名をたたえ、願い出て功曹とした。蒋秀は官職にあって貪戻で、常に法を軽んじており、任旭は真剣な顔つきで丹念に諫めたが、蒋秀は依然として聞き入れなかった。任旭は辞去し、門を閉ざして(学問を)講習して志を養うだけ(の生活)だった。しばらくして、蒋秀事件によって収監された。任旭は狼狽して軍営に送別した。蒋秀はうれいなげいて言った「任功曹は真人である。わたしが彼の直言に違えたために、このように収監された。いまさら何も言うことはない」と。まもなく(任旭は)孝廉にするか調査し推薦され、郎中に任命し、州郡もまた、郡中正に推挙されたが、固辞して家に帰った。
永康年間の初め(300年)に恵帝(司馬衷)はひろく清廉で抜きんでた人士を求め、太守の仇馥は任旭を清潔で博学であると推薦し、州郡に詔がくだされて、儀礼をととのえて使者が派遣された。任旭は朝廷が事故が多く、志が隠遁を貴ぶことから、病と称して断り任官しなかった。まもなく天下大乱となり、陳敏が謀反をおこすと、江東の名豪たちは、押し並べて拘禁され(結果、服従し)たが、ただ任旭と賀循だけは死節を守って服従しなかった。陳敏はとうとう(二人を)屈することはできなかった。
元帝(司馬睿)はじめて江東を鎮定すると、任旭の名を聞いて招いて参軍と手づから手紙を書いて任旭に送った。使いを送って必ず(任旭)がやってくることを望んだが、任旭は病と称して固辞した。後に元帝は(任旭を)より上位の鎮東大将軍として、また招こうとした。(なかなかやってこないので、)左丞相まで引き上げたが、(やりすぎとして)下位にして祭酒としたが、(任旭は)どちらも就任しなかった。宮中で(任旭を迎える議論が)おこり、公車令が(彼を)招いたが(任旭の)母が病にふせるのにたまたま会った(のであきらめた)。この時に司空の王導は学校を開立し、天下の経学に明るい人士を選んだ。任旭は会稽郡の虞喜とともに隠逸の学者として招かれた。この件でまだ行かないうちに王敦の反乱があり、まもなく元帝も崩御して、この件はとうとう中断された。
明帝(司馬紹)が即位し、また招いて給事中を拝命したが、任旭は重病と称して、年月を経ても任官しなかった。尚書令は滞ったことを理由に除名しようとしたが、尚書僕射の荀崧は申し立てて不可とした。太寧年間(323~326年)の末、明帝はまた詔をくだし、儀礼と整えて任旭を招こうとし、ようやく(詔が)くだったが明帝は崩御した。咸和二年(337年)に(任旭は)亡くなり、太守の馬懐は九卿の位を贈るのよいと上疏したが、蘇峻の反乱が起こったために、とうとう行われなかった。
(任旭の)子の任琚は、官位は大宗正にまでなったが、(辞任して)家にあって亡くなった。
郭文字文舉、河內軹人也。少愛山水、尚嘉遁。年十三、每游山林、彌旬忘反。父母終、服畢、不娶。辭家游名山、歷華陰之崖、以觀石室之石函。洛陽陷、乃歩擔入吳興餘杭大辟山中窮谷無人之地。倚木於樹、苫覆其上而居焉、亦無壁障。時猛獸為暴、入屋害人。而文獨宿十餘年、卒無患害。恒著鹿裘葛巾、不飲酒食肉、區種菽麥、採竹葉木實、貿鹽以自供。人或酬下價者、亦即與之。後人識文、不復賤酬。食有餘穀、輒恤窮匱。人有致遺、取其粗者、示不逆而已。有猛獸殺大麀鹿於菴側、文以語人、人取賣之、分錢與文。文曰「我若須此、自當賣之。所以相語、正以不須故也」聞者皆嗟歎之。嘗有猛獸忽張口向文、文視其口中有橫骨、乃以手探去之。猛獸明旦致一鹿於其室前。獵者時往寄宿、文夜為擔水而無倦色。
餘杭令顧颺與葛洪共造之。而攜與俱歸。颺以文山行或須皮衣、贈以韋袴褶一具、文不納、辭歸山中。颺追遣使者置衣室中而去、文亦無言、韋衣乃至爛於戶內、竟不服用。
王導聞其名、遣人迎之、文不肯就船車、荷擔徒行。既至、導置之西園、園中果木成林、又有鳥獸麋鹿、因以居文焉。於是朝士咸共觀之、文頹然踑踞、傍若無人。溫嶠嘗問文曰「人皆有六親相娛、先生棄之何樂」文曰「本行學道、不謂遭世亂、欲歸無路、是以來也」又問曰「飢而思食、壯而思室、自然之性、先生安獨無情乎」文曰「情由憶生、不憶故無情」又問曰「先生獨處窮山、若疾病遭命、則為烏鳥所食、顧不酷乎」文曰「藏埋者亦為螻蟻所食、復何異乎」又問曰「猛獸害人、人之所畏、而先生獨不畏邪」文曰「人無害獸之心、則獸亦不害人」又問曰「苟世不寧、身不得安。今將用生以濟時、若何」文曰「山草之人、安能佐世」導嘗眾賓共集、絲竹並奏、試使呼之。文瞪眸不轉、跨躡華堂如行林野。於時坐者咸有“鉤深味遠”之言、文常稱不達來語。天機鏗宏、莫有闚其門者。溫嶠嘗稱曰「文有賢人之性、而無賢人之才、柳下・梁踦之亞乎」永昌中、大疫、文病亦殆。王導遺藥、文曰「命在天、不在藥也。夭壽長短、時也」
居導園七年、未嘗出入。一旦忽求還山、導不聽。後逃歸臨安、結廬舍於山中。臨安令萬寵迎置縣中。及蘇峻反、破餘杭、而臨安獨全、人皆異之、以為知機。自後不復語、但舉手指麾、以宣其意。病甚、求還山、欲枕石安尸、不令人殯葬、寵不聽。不食二十餘日、亦不瘦。寵問曰「先生復可得幾日」文三舉手。果以十五日終。寵葬之於所居之處而祭哭之。葛洪・庾闡並為作傳贊、頌其美云。
郭文 字は文舉、河內軹の人なり。少(わか)くして山水を愛し、尚お遁を嘉(よみ)す。年十三にして、每に山林に游び、彌いよ旬 反るを忘る。父母終り、服畢(おわ)るも、娶らず。家を辭して名山に游び、華陰の崖を歷て、以て石室の石函を觀る。洛陽陷ちれば、乃ち歩きて擔いて吳興餘杭の大辟山中の窮谷の無人の地に入る。木を樹に倚りて、苫覆いて其の上に居るも、亦た壁障無し。時に猛獸暴を為し、屋に入り人を害す。而れども文 獨宿すること十餘年、卒に害するに患える無し。恒に鹿裘葛巾を著て、飲酒食肉をせず、麥菽を區種し、竹葉木實を採り、鹽に貿(か)えて以て自供す。人或いは下價で酬いる者あるも、亦た即ち之に與う。後に人 文なるを識り、復び賤酬をもってせず。食 餘穀有れば、輒ち窮匱に恤す。人の致遺有りて、其の粗を取る者は、逆ならざるを示すのみ。猛獸の大麀鹿を菴の側に殺す有れば、文 以て人に語り、人 之を取りて賣り、錢を分ちて文に與う。文曰く「我 若し此に須(ま)ち、自ら當に之を賣るべし。以て相い語らう所にして、正に須(ま)たざるを以てする故なり」と。聞く者 皆な之を嗟歎す。嘗て猛獸の忽(たちま)ち口を張りて文に向うもの有り、文 其の口の中に橫骨有るを視れば、乃ち手を以て探りて之を去る。猛獸 明旦に其の室前に一鹿を致す。獵者 時に往きて寄宿すれば、文 夜に為に水を擔(にな)いて倦色すること無し。
餘杭令の顧颺 葛洪と與に共に之に造(いた)る。而して攜(たずさ)えて與に俱に歸る。颺 文 山行するを以て或いは皮衣を須(もと)むるとし、贈るに韋袴褶一具を以てするも、文 納れず、辭じて山中に歸る。颺 使者を追遣し室中に衣を置いて去るも、文 亦も言う無し、韋衣乃ち戶內に爛するに至るも、竟に服用せず。
王導 其の名を聞き、人を遣わして之を迎う。文船車に就くを肯んぜず、荷を擔(にな)いて徒行す。既に至るや、導 之を西園に置き、園中は果木 林を成し、又た鳥獸麋鹿 有り。因りて以て文を居ます。是に於いて朝士咸な共に之を觀て、文 頹然として踑踞し、傍らに人無きが若し。溫嶠 嘗て文に問いて曰く「人 皆な六親有りて相い娛しむ。先生 之を棄てて何を樂しまんか」と。文曰く「本より學を行うの道、世亂に遭うと謂わず、路無くとも歸らんと欲すれば、是れ以て來たるなり」と。又た問うて曰く「飢えて食を思い、壯じて室を思うは、自然の性なり。先生 安くんぞ獨り情 無からんか」と。文 曰く「情 憶(おも)うに由りて生じ、憶(おも)わざるが故に情 無きなり」又た問うて曰く「先生 獨り窮山に處す。若し疾病して命 遭えば、則ち烏鳥の食う所と為る。顧(あ)に酷ならざるか」と。文曰く「藏埋する者 亦た螻蟻の食らう所と為る。復た何ぞ異ならんや」と。又た問うて曰く「猛獸の人を害するは、人の畏れる所。而れども先生 獨り畏れざるや」と。文曰く「人 獸を害するの心無くば、則ち獸も亦た人を害せず」と。又た問うて曰く「苟くも世 寧からず、身 安きを得ず。今 將に先生を用いて以て時を濟(すく)わんとせん、若何」文 曰く「山草の人、安くんぞ能く世を佐けんか」と。導嘗て眾賓共に集い、絲竹並び奏で、試みに之を呼ば使む。文 瞪眸して轉せず、華堂を跨躡すること林野を行くが如し。時に於いて坐る者 咸な“深く鉤し遠きを味わう”の言有り〔一〕、文 常に語に達來せざるを稱す。天機鏗宏く、其の門を闚わんとする者有らざる莫し。溫嶠 嘗て稱えて曰く。「文 賢人の性有れども、賢人の才無し。柳下・梁踦の亞なるか〔二〕」永昌中、大いに疫し、文 病みて亦た殆し。王導 藥を遺(おく)るも、文 曰く「命 天に在り、藥に在らざるなり。夭壽長短、時なり」と。
導の園に居ること七年、未だ嘗て出入せず。一旦 忽ち山に還らんこと求むるも、導 聽かず。後に臨安に逃歸し、山中に廬舍を結ぶ。臨安令の萬寵 迎えて縣中に置く。蘇峻 反するに及び、餘杭を破り、而して臨安 獨り全し、人 皆な之を異(あや)しみ、以て機を知ると為す。後より復語せず、但だ手を舉げて指を麾(ふ)り、以て其の意を宣ぶ。病甚しく、山に還らんと求め、石を枕とし尸を安んじ、人をして殯葬せ令まざらんと欲するも、寵 聽かず。食せざること二十餘日、亦た瘦せず。寵 問いて曰く「先生 復た幾日を得る可きや」と。文 三たび手を舉ぐ。果して十五日を以て終る。寵 之を居の處の所に葬し之を祭哭す。葛洪・庾闡 並びに傳贊を作り、其の美を頌えて云うを為す。
〔一〕『易』繋辞伝上に「鉤深致遠」の引用である。現行の『易』が「致」に対し『晋書』が「味」と相違する。
〔二〕「梁踦」は何者か特定できず
郭文は字を文挙といい、河内郡軹県の出身である。幼少より山水を愛し、その上、隠遁をほめた。13歳のときにはいつも山林に遊び、とうとう10日も帰ることを忘れた。両親が亡くなり、服喪が終わっても、妻を娶らなかった。家を去って名山に遊び華陰の崖を経由して石室の石ひつを見た。(永嘉の乱で)洛陽が陥落すると、荷物をかついで歩いて呉興郡餘杭県の大辟山の窮谷の無人の地に入った。木材を樹木に立てかけて、苔が覆った上を住まいとしたが、(屋根はあっても)囲いはなかった。常々、猛獣が暴れて、屋内に入って、人に危害をくわえるものだ。しかし郭文が(山林に)ひとり住んだ10年余りの間、最後まで、危害に心配することはなかった。いつも鹿の皮衣、葛衣を着て、飲酒も肉食もせず、穀物と豆の種を区分けし。竹の葉と木の実を採取し、塩と交換して自身の食事を用意した。(郭文に)少額しか払わない者もいたが、この者とも交換した。その者は後に郭文であることを知って、それからは少額しか払わないのを止めた。食事は余剰の穀物があれば、貧者にめぐんだ。ある人に遺漏があって、その粗忽を取り上げる者がいれば、(郭文は口では言わずに)歓迎しない姿勢を示すだけだった。猛獣が大きな牝鹿雄鹿を庵の側で殺すことがあれば郭文は他の者に伝え、その者は鹿を持って行って得ると、郭文に売り上げの一部を渡した。郭文は言う「私がもしここで(鹿が殺されるのを)待ち受けていたとすれば、自分で鹿を得るのがよかろう。(そうではなく鹿は)語り合う存在であり、当然(殺される)のを待っていたわけではないためである」と。聞いた者は誰もが感嘆した。かつて猛獣がにわかに口を張って郭文に向かってきた者がいて、郭文はその口の中に横骨があるのを見ると、手で探って取り去ってやった。猛獣は翌朝に(郭文の)住み家の前に一頭の鹿を置いていった。猟師が時々やって来て寄宿すると、郭文は夜に彼の為に水を担いだが、嫌な顔をすることはなかった。
余杭県令の顧颺は葛洪と一緒に(郭文の元に)やってきた。そして(郭文を)つれて一緒に帰った。顧颺は郭文が山を歩くことから、たいがい皮衣を必要としているだろうと、 顧颺はなめし革の下がズボン状となった騎馬向けの服を一具送ったが、郭文は受け取らず、辞去して山中に帰った。顧颺は使者の追って使わして、(郭文の)住まいの中に皮衣を置いて去ったが、郭文は何も言わず、皮衣は住まいの中で焼かれ、とうとう着用することはなかった。
王導は郭文の名を聞くと、人を使わして迎えた。郭文は船や車に乗ることを断り、荷物を担いで歩いて行った。到着すると、王導は郭文を西園に住まわせ、園の中には果樹が林をなしており、また鳥獣・牝鹿雄鹿もいた。だから郭文を住まわせた。ここで朝廷の人士みなが連れ添って郭文を見にきたが、郭文はがっかりとした様子で、足を投げ出して座り、そばに誰もいないかのように振る舞った。温嶠はかつて郭文に尋ねて「人には親族があり、それを互いに楽しみとしています。先生は親族を捨てて、いったい何に楽しむのでしょうか」と言った。郭文は。「そもそも学問をする道は天下争乱に遭遇するしないを問わない。(踏み行う)道が無くても帰ろうとすれば、道はおのずから来るものだ」と答えた。また温嶠が問う「飢えれば食物を思い、30歳となれば妻を思うのは自然の性というものです。先生はどうしてひとりだけ情が無いのでしょうか」と。郭文は言う「情は思い返すことで発生します。思い返さないがために情が無いのです」と。また温嶠が問いて言った。「先生はひとり深山に住んでいます。もし疾病によって死ぬ運命にあえば、遺体が烏や鳥を食べられるでしょう。どうして残酷でないでしょうか」と。郭文は言った「埋葬した人は、やはりアリに食べられることとなるでしょう。それといったい何が違いますか」と。また温嶠が尋ねて言った「猛獣が人を傷つけるのは、人は(一般に)恐れることです。しかし先生ひとりだけはどうして恐れないのでしょうか」と。郭文は言った「人に獣を傷つけようとする心が無ければ、獣もやはり人を傷つけません」と。また温嶠が尋ねて言った「かりにも天下は安定しておらず、ひとりの身も安全を得られません。今ここに先生を用いて天下を救おうとするのは、いかがでしょうか」と。郭文は言った「山草に生きる者が、どうして天下をたすけることができましょうか」と。王導はかつて賓客たちとともに集まり、(弦楽器の)絲竹が並び奏でた。試しに郭文を呼ばった。郭文は目を見開いて転ばずに、華美な大広間を飛ぶように進む様は、まるで林野を進んでいくかのようであった。この時に参列していた者はだれもが“深い淵のものを釣り上げ遠いもの引き寄せる”と言った。郭文はいつも言葉にならない言葉を口にした。天意の奏でる音は広大であり、その門をうかがおうとする者はいなくならない。温嶠はかつて郭文をたたえて言った「郭文は賢人の性はあるが、賢人の才はない。柳下恵・梁踦に次ぐ存在だ」と。永昌年間(322~323年)は大いに疫病が流行り、郭文も病にふせて大変あやうい状況であった。王導が薬を送ったが、郭文は言った「(死生の)運命は天にあるのであり、薬にはない。夭折するも長寿となるも、時の運である」と。
王導の西園には七年にわたって住み、今までに一度も出入りすることはなかった。ある朝に突然山に帰ることを求めたが、王導は聞き入れなかった。後に臨安に逃げ帰り、山中に庵りを作った。臨安県令の万寵は迎え入れて、県の(城壁の)中に住まわせた。蘇峻が反乱すると、(王導の西園以前に住んでいた)余杭県を陥落させ、臨安県だけは安全だった、人々は不思議に思い、(郭文が)予兆を知る(ことのできる)と見なした。後に言葉を話さなくなり、ただ手を挙げ、指を振ることで、意志を伝えた。病がひどく。山に帰ることをもとめ、石を枕として(自分の)遺体を安んじて、人に土葬させないようにさせたがったが、万寵は聞き入れなかった。何も食べないまま20日あまりたったが、痩せることはなかった。万寵は尋ねて言った「先生はあと何日を生きられるのでしょうか」と。郭文は3度手を挙げた。結果として15日後に無くなった。万寵は住まいのあるところに葬り、哭礼をした。葛洪と庾闡はともに評伝をつくり、郭文の美を讃えて述べた。
龔壯字子瑋、巴西人也。潔己自守、與鄉人譙秀齊名。父叔為李特所害、壯積年不除喪、力弱不能復仇。及李壽戍漢中、與李期有嫌、期、特孫也、壯欲假壽以報、乃說壽曰「節下若能并有西土、稱藩於晉、人必樂從。且捨小就大、以危易安、莫大之策也」壽然之、遂率眾討期、果克之。壽猶襲偽號、欲官之、壯誓不仕、賂遺一無所取。會天久雨、百姓饑墊、壯上書說壽以歸順、允天心、應人望、永為國藩、福流子孫。壽省書內愧、祕而不宣。乃遣使入胡。壯又諫之、壽又不納。壯謂百行之本莫大忠孝。既假壽殺期、私仇以雪、又欲使其歸朝、以明臣節。壽既不從、壯遂稱聾、又云手不制物、終身不復至成都、惟研考經典、譚思文章、至李勢時卒。
初、壯每歎中夏多經學、而巴蜀鄙陋。兼遭李氏之難、無復學徒、乃著『邁德論』。文多不載。
龔壯 字は子瑋、巴西の人なり。己を潔め自ら守り、鄉の人 譙秀と與に名を齊しくす。父の叔 李特が為に害さる所となり、壯 年を積むも喪を除かず、力弱く仇を復すること能わず。李壽の漢中を戍るの及んで、李期に與(くみ)するも嫌(うら)み有り。期、特の孫なり。壯 壽を假りて以て報いんと欲すれば、乃ち壽に說いて曰く「節下 若し能く西土を并せ有(たも)ち、晉に藩を稱さば、人 必ず樂しみて從わん。且つ小を捨て大に就かば、危を以て安に易う、莫大の策なり」と。壽 之を然りとし、遂に眾を率いて期を討ち、果たして之に克つ。壽 猶お偽號を襲ね、之を官にせんと欲するも、壯 仕えざるを誓い、賂遺 一として取る所無し。天 久しく雨ふり、百姓 饑墊するに會い、壯 上書 して壽を說くに以て歸順し、天心に允(まこと)とし、人望に應え、永く國藩と為れば、福 子孫に流ると。壽 書を省みて內愧するも、祕して宣べず。乃ち使を遣わして胡に入る。壯 又た之を諫め、壽 又た納れず。壯 謂えらく百行の本 忠孝より大なるは莫しと。既に壽を假りて期を殺し、私仇以て雪ぎ、又た其の朝に歸せ使め、以て臣の節を明らかにせんと欲す。壽 既に從わざれば、壯 遂に聾を稱し、又た手 物を制せずと云い、終身 復たび成都に至らず、惟だ經典を研考し、思を文章に譚(かた)り、李勢が時に至りて卒す。
初め、壯 每に中夏に經學多けれども巴蜀 鄙陋なるを歎ず。兼ねて李氏の難に遭い、學を復する徒無くば、乃ち『邁德論』を著す。文多く載せず。
龔壮は字を子瑋といい、巴西郡の出身である。自身を清潔に自ら節操を守り、郷里の人は譙秀と並んで高名であるとした。父の龔叔は李特(氐族、成漢を建国した李雄の父)に殺害され、龔壮は何年経っても喪に服したままで、力がないために仇をとることができなかった。李寿(成漢の漢王)が漢中を守護するようになり、(彼は)李期(成漢の3代)に不満があった。李期は李特の孫である。龔壮は李寿の力を借りることで、仇討ちをなそうとすると李寿を説得して言った「あなたがもし西方の地を併合し保持して晋の藩国と称せば、人々は必ず安心して(あなたを)従うでしょう。その上、小(成漢)を捨てて大(晋)につけば危険を安全に変える、この上ない策です」と。李寿はこの進言に同意し、ついに兵を率いて李期を討伐して打ち破った。李寿は(一度は晋に藩となったが、)やはりもとの通り、(成漢の)皇帝を僭称することを踏襲し、(龔壮を)仕官させようとしたが、龔壮は仕官しないことを誓って、贈り物を一つも受け取らなかった。天が長雨を降らし、人民が飢える事態に直面し、龔は上書して李寿を(晋に)帰順し、天意にしたがい、人々の期待に応え、永久に(晋の)藩国となれば、福は子孫にまで流れると説得した。李寿は書の内容をふりかえり、内心、恥じたが、隠して何もいわなかった。そして胡(後趙の石虎)に使者を派遣して取り入った。龔壮は再び諫めたが、李寿は前とおなじく聞き入れなかった。龔壮は全ての行いの本において、忠孝よりもおおきいものはないと言った。すでに李寿の力を借りて李期を殺し、自身の仇はすすぎ、そして、晋朝に帰順させることで、臣下の忠節をを明かにしようとした。李寿がもう聞き入れないために、龔壮はとうとう、耳が聞こえなくなったと称し、そして手も物をつくることができないと言い、生涯また(李寿が都とする)成都へ行かず、ただ経書を研究し、思いを文章にしたため、(李寿の子で5代の)李勢の時代になると亡くなった。
最初、龔壮は中原において経学が盛んである一方、巴蜀が(学問のない)辺鄙な地であることを嘆いた。その上(成漢の)李氏による災難があり、学問を復興させる学徒はいないため、(龔壮龔は)『邁徳論』を著した。長文のためここには引用はしない。
孟陋字少孤、武昌人也。吳司空宗之曾孫也。兄嘉、桓溫征西長史。陋少而貞立、清操絕倫。布衣蔬食、以文籍自娛。口不及世事、未曾交游。時或弋釣、孤興獨往、雖家人亦不知其所之也。喪母、毀瘠殆於滅性、不飲酒食肉十有餘年。親族迭謂之曰「少孤。誰無父母。誰有父母。聖人制禮、令賢者俯就、不肖企及。若使毀性無嗣、更為不孝也」陋感此言、然後從吉。由是名著海內。
簡文帝輔政、命為參軍、稱疾不起。桓溫躬往造焉。或謂溫曰「孟陋高行、學為儒宗。宜引在府、以和鼎味」溫歎曰「會稽王尚不能屈。非敢擬議也」陋聞之曰「桓公正當以我不往故耳。億兆之人、無官者十居其九、豈皆高士哉。我疾病不堪恭相王之命、非敢為高也」由是名稱益重。
博學多通、長於三禮。注論語、行於世。卒以壽終。
孟陋 字は少孤、武昌の人なり。吳の司空の宗之の曾孫なり。兄の嘉、桓溫征西の長史なり。陋 少くして貞 立ち、清操 絕倫なり。布衣蔬食し、文籍を以て自ら娛(たの)しむ。口 世事に及ばず、未だ曾て交游せず。時或いは弋釣し、孤興にして獨り往き、家人と雖ども亦た其の之く所を知らざるなり。母を喪い、毀瘠(きせき) し滅性に殆ぶまれ、酒を飲み肉を食らわざること十有餘年。親族 迭(たがい)に之に謂いて曰く「少孤。誰ぞ父母無きや。誰ぞ父母有らん。聖人禮を制するや、賢者をして俯就せ令しめ、不肖は企(つまさきだ)てて及ばしむる〔一〕。若し性を毀ちて嗣 無から使まば、更に不孝を為すなり」と。陋 此の言に感じ、然る後に從吉す。是に由りて名を海內に著す。
簡文帝 政を輔くや、命じて參軍と為すも、疾を稱して起たず。桓溫 躬ずから往きて造(いた)る。或ひと溫に謂いて曰く「孟陋 高行し、學 儒を宗と為す。宜しく引きて府に在りて、以て鼎味を和すべし」溫 歎じて曰く「會稽王すら尚お屈すること能わず。敢えて擬議するに非ざるなり」陋 之を聞きて曰く「桓公 正に當に我の往かざるを以て故とするのみ。億兆の人、官無き者 十に其の九居り、豈に皆な高士とならんや。我 疾病して相い王の命に恭するに堪えず、敢えて高と為すに非ざるなり」と。是に由りて名の稱さること益ます重し。
博學にして多くを通じ、三禮に長ず。論語を注し、世に行わる。卒に壽を以て終う。
〔一〕『後漢書』陳蕃伝に「聖人制禮、賢者俯就、不肖企及」とある。そのさらなる典故は『禮記』檀弓上の「先王之制禮也、過之者俯而就之、不至焉者、跂而及之」である。
孟陋は字を少孤といい、武昌郡の出身である。呉の司空の宗之のひ孫である。兄の宗嘉は征西大将軍の桓温の長史となった。孟陋は若くして節制があり、品行が並外れて優れていた。粗末な衣食で、書籍を読むことを自身の楽しみとした。世間のことを口にすることはなく、今までに人と交友することはなかった。時たま狩りと釣りをし、(何にもとらわれず)孤独のまま行き、家族であっても、(孟陋が)行った先は知らなかった。母が亡くなり、その悲しみのあまり極度に痩せて衰弱し、死んでしまうことをあやぶまれ、飲酒肉食しないことが10年あまり続いた。親族たちはしばしば孟陋に言った「少孤よ。誰が父母がいないというのか。誰が父母がいるというのか。聖人は礼を制定することで、賢者は自己を屈して人に従わせ、不肖の者はつま先だたせて、なんとか及ぶようにする。もし生命を失って跡継ぎをなくならせてしまえば、いっそう不孝をおこなうことになる」と。孟陋はこの言葉に感じ入って、そして喪服を脱いで(喪を終えるときの慣習にしたがい)縁起のよい服を着た。こうして孟陋の名は天下に聞こえるようになった。
簡文帝(司馬昱)が(即位する以前に会稽王として)政治を補佐するようになると、(孟陋)に参軍に任命したが、病を称して出立しなかった。桓温が自ら(孟陋の元に)おもむきやってきた。ある人が桓温に言った。「孟陋は品行が高尚であり、学問は儒学を中心としている。役所につれていって、鼎の中の美食をともにするのがよろしいでしょう」と。桓温は嘆いて言った「会稽王(司馬昱)でさえも(孟陋を)従わせることはできなかった。決して事前の計画があるわけではない」と。孟陋はこれを聞いて言った。「桓温公はきっと私が行かないことを理由とするだけだ。億兆の人々は、官職のない者が十中九はいる、いったいどうして(無官のものたち)皆が高尚の人士であろうか。私は病気であることで、会稽王の命にしたがうことにたえられない、すすんで高尚となるとしているのはない」と。こうして(孟陋の)名はいっそう称えられるになった。
(孟陋は)博学で多くのことに通じており、三礼(『儀礼』『周礼』『礼記』)に長けていた。『論語』を注釈し、世に広く通行した。最後は寿命によって亡くなった。
韓績字興齊、廣陵人也。其先避亂、居於吳之嘉興。父建、仕吳至大鴻臚。績少好文學、以潛退為操、布衣蔬食、不交當世、由是東土並宗敬焉。司徒王導聞其名、辟以為掾、不就。咸康末、會稽內史孔愉上疏薦之、詔以安車束帛徵之。尚書令諸葛恢奏績名望猶輕、未宜備禮。於是召拜博士。稱老病不起、卒於家。
於時高密劉鮞字長魚、城陽邴郁字弘文、並有高名。鮞幼不慕俗、長而希古、篤學厲行、化流邦邑。郁、魏徵士原之曾孫。少有原風、敕身謹潔、口不妄說、耳不妄聽、端拱恂恂、舉動有禮。咸康中、成帝博求異行之士、鮞・郁並被公卿薦舉。於是依績及翟湯等例、以博士徵之。郁辭以疾、鮞隨使者到京師、自陳年老、不拜。各以壽終。
韓績 字は興齊、廣陵の人なり。其の先 亂を避け、吳の嘉興に居る。父の建、吳に仕えて大鴻臚に至る。績少くして文學を好み、潛退するを以て操を為し、布衣蔬食し、當世と交らわず、是に由りて東土 並びに宗敬す。司徒王導 其の名を聞く、辟して以て掾を為し、就かず。咸康の末、會稽の內史の孔愉 上疏し之を薦め、詔して安車束帛を以て之を徵す。尚書令の諸葛恢 績の名望 猶の輕く、未だ宜よしく禮を備えずと奏す。是に於いて召して博士を拜す。老病を稱して起きず、家に卒す。
時に於いて高密の劉鮞 字は長魚、城陽の邴郁 字は弘文、並びに高名有り。鮞 幼くして俗を慕わず、長じて古を希い、學に篤く厲行し、邦邑を化流す。郁、魏の徵士原の曾孫なり〔一〕。少くして原が風有り、身を敕(いまし)め謹潔、口 妄說せず、耳 妄聽せず、端拱恂恂してお、舉動禮有り。咸康中、成帝 博く異行の士を求め、鮞・郁並びに公卿に薦舉せらる。是に於いて績及び翟湯等の例に依りて、博士を以て 之を徵す。郁は辭するに疾を以てし、鮞 使者に隨いて京師に到るも、自ら年老を陳べて、拜せず。各おの壽を以て終う。
〔一〕邴原は『三國志』魏書に立伝されている。
韓績は字は興斉といい、広陵郡の出身である。その祖先は戦乱を避けて、呉の嘉興郡に居住した。父の韓健は呉に仕え大鴻臚となった。韓績は若い頃から学問を好み、隠遁して、品行よくし、粗末な衣食でくらし、世間と交流しないことで、東国(東晋の領土)の人々はみな崇敬した。司徒の王導はその名を聞いて招いて椽に任命したが就任しなかった。咸康年間(335~342年)の末、会稽郡の内史の孔愉は上疏して韓績を推薦し、詔がくだされて(座って乗る)安車し束ねた絹を贈って韓績を招いた。尚書令の諸葛恢は上奏し韓績の名望に対して軽く、まだ儀礼が不足していると主張した。ここでまた招いて博士に任命した。だが韓績は老病と称して出立せず、家で亡くなった。
その当時、高密郡の劉鮞、字を長魚という者と、城陽郡の邴郁、字を弘文という者が、並んで高名があった。劉鮞は幼少の頃から世俗の風潮にとらわれず、大人になってから、古をうやまい慕い、学問を重んじて厳しく厳格にふるまい、地域の人々を教化した。邴郁は魏隠士の邴原の曾孫である。若くして邴原の遺風があり、自身をいましめて清廉にし、口はみだりに言わず、耳はみだりにきかず、慎み深くあるがままに姿勢を正して、立ち振る舞いに礼があった。咸康年間(335~342年)に成帝(司馬衍)は広く品行に優れた人士を求め。劉鮞・邴郁は二人とも公卿に推挙された。ここで韓績及び翟湯等の例によって、博士に任命して招いた。邴郁は病を理由に断り。劉鮞は使者にしたがって都(建康)にやってきたが、みずから年老いているの述べて、拝命しなかった。それぞれ寿命によって亡くなった。
譙秀字元彥、巴西人也。祖周、以儒學著稱、顯明蜀朝。秀少而靜默、不交於世。知天下將亂、預絕人事、雖內外宗親、不與相見。郡察孝廉、州舉秀才、皆不就。及李雄據蜀、略有巴西、雄叔父驤、驤子壽皆慕秀名、具束帛安車徵之、皆不應。常冠皮弁、弊衣、躬耕山藪、龔壯常歎服焉。桓溫滅蜀、上疏薦之、朝廷以秀年在篤老、兼道遠、故不徵、遣使敕所在四時存問。尋而范賁・蕭敬相繼作亂、秀避難宕渠、鄉里宗族依憑之者以百數。秀年出八十、眾人欲代之負擔、秀曰「各有老弱、當先營護。吾氣力猶足自堪。豈以垂朽之年累諸君也」年九十餘卒。
譙秀 字は元彥、巴西の人なり。祖の周、儒學を以て稱を著し、蜀朝に顯明す。秀 少くして靜默、世と交わらず・天下の將に亂れんとするを知り、預め人事を絕ち、內外の宗親と雖ども、與に相い見えず。郡 孝廉に察し、州 秀才に舉ぐるも、皆な就かず。李雄の蜀に據り、巴西を略有するに及び、雄が叔父の驤、驤が子の壽 皆な秀が名を慕い、束帛安車を具えて之を徵するも、皆な應ぜず。常に皮弁を冠し、弊衣、躬ずから山藪を耕し、龔壯常に歎服す。桓溫 蜀を滅し、上疏して之を薦むも、朝廷 秀を 年 篤老に在り、兼ねて道遠きを以て、故に徵せず、使を遣して所在を敕(いまし)め四時存問す。尋(つ)いで范賁・蕭敬 相い繼いで亂を作し、秀 宕渠に難を避け、鄉里の宗族 之に依憑する者 百を以て數う。秀 年八十を出で、眾人 之に代りて擔を負わんと欲するも、秀曰く「各おの老弱有り、當に先し營護すべし。吾れ氣力 猶お足りて自ら堪う。豈に垂朽の年を以て諸君を累せんや」と。年 九十餘りにして卒す。
譙秀は字を元彦といい、巴西郡の出身である。祖父の譙周は儒学によって名があわられ、蜀漢にておいて誉れ高かった。譙秀は若いころから慎み深く物静かで、世俗と交流しなかった。天下がこれから乱れようとすることを知ると、あらかじめ人との交流を絶って、親族であっても(血縁の)遠近をとわず、たがいに顔をあわせなかった。郡が孝廉に推薦し、州が秀才に推挙したが、どれにも就任しなかった。(氐族、成漢を建国した)李雄が蜀の地に割拠し、巴西郡を占領すると、李雄の叔父の李驤と、その子の李寿(成漢の4代)は二人とも譙秀の名をしたって、束ねた絹に(座って乗る)安車をこしらえて、譙秀を招いたが、どちらにも応じなかった。(譙秀は)いつも白鹿皮の冠をかぶり、ボロボロの着物で、みずから山藪をたがやしており、龔壯はいつも嘆服していた。桓温が蜀を征服し成漢を滅ぼすと、上奏して譙秀を推薦したが、朝廷は譙秀を高齢であり、かつ、(都の建康)までの道が遠いことを理由として招かなかった。使者を派遣して譙秀の所在を管理し、春夏秋冬ごとに慰問させた。すぐに范賁・蕭敬が相次いで反乱をおこし、譙秀は宕渠郡に批難し、郷里の宗族で譙秀についてしたがう者が、100名もいた。譙秀は80歳を過ぎ、人々は譙秀に代わって荷を背負おうとするしたが、譙秀は言った「皆それぞれにも年老いて力の弱くなった者がいるから、当然そちらを先に助けてまもるのがよかろう。私は気力がまだ十分であり、(重荷も)自分で耐えられる。どうして年老いているからといって、諸君らを疲れさせることがあろうか」と。(譙秀は)90歳あまりで亡くなった。
翟湯 字道深、尋陽人。篤行純素、仁讓廉潔。不屑世事、耕而後食。人有饋贈、雖釜庾一無所受。永嘉末、寇害相繼、聞湯名德、皆不敢犯、鄉人賴之。
司徒王導辟し、隱於縣界南山。始安太守干寶與湯通家、遣船餉之、敕吏云「翟公廉讓、卿致書訖、便委船還」湯無人反致、乃貨易絹物、因寄還寶。寶本以為惠、而更煩之、益愧歎焉。
咸康中、征西大將軍庾亮上疏薦之。成帝徵為國子博士、湯不起。建元初、安西將軍庾翼北征石季龍、大發僮客以充戎役、敕有司特蠲湯所調。湯悉推僕使委之鄉吏、吏奉旨一無所受。湯依所調限、放免其僕、使令編戶為百姓。
康帝復以散騎常侍徵湯、固辭老疾、不至。年七十三、卒於家。
翟湯 字は道深、尋陽の人なり。篤行純素、仁讓廉潔。世事を屑(かえり)みず、耕して後に食らう。人 饋贈うる有るも、釜庾と雖ども一として受くる所無し。永嘉の末、寇害相い繼ぐも、湯が名德を聞き、皆な敢えて犯さず、鄉人 之を賴る。
司徒の王導 辟するも、就かず、縣界の南山に隱くる。始安の太守 干寶 湯と家を通じ、船を遣わし之に餉(おく)り、吏に敕(いまし)めて云う「翟公 廉讓、卿 書を致すを訖(おわ)れば、便ち船を委ねて還せ」と。湯 人に反すを致すこと無くば、乃ち絹物を貨易して、寄する因りて寶に還す。寶 本より以て惠を為す、而して更に之を煩し、益ます愧じて歎ず。
咸康中、征西大將軍の庾亮 上疏して之を薦む。成帝 徵して國子博士と為すも、湯 起こさず。建元の初め、安西將軍の庾翼と北征の石季龍、大いに僮客を發して以て戎役に充つ、有司に敕し特に湯が所 調を蠲(のぞ)かる。湯 悉く僕使を推し之を鄉吏に委ね、吏 旨を奉じて一として受くる所無く。湯 調の限る所に依りて、其の僕使を放免され、戶を編して百姓と為さ令む。
康帝 復た散騎常侍を以て湯を徵すも、固く老疾によって辭し、至らず。年七十三、家に卒す。
翟湯は字を道深といい、尋陽郡の出身である。行いが誠実で純朴であり、やさしく謙虚で清廉である。世間のことを気にせず、(みずから)耕すことで食べ(て生活し)た。ある人が食べ物を贈ることがあったが、わずかであっても一度だに受け取らなかった。永嘉年間(307~313年)の末、(五胡による)侵攻の被害が相次ぎ、翟湯の徳高き声を聞いておりと、進んで侵犯することがなく、郷里の人は彼を頼った。
司徒の王導が招いたが、(官職に)就かずに県の境界の南山に隠れた。始安郡の太守の干寶は翟湯と交流があり、船をつかわして食物をおくり、官吏に命じて言った「翟湯公は清廉謙虚であり、翟湯公が手紙を書き終えたら、船を(翟湯に)ゆだねて返却してもらう」と。翟湯は人に(手紙)返信することがないため、絹物をを買い、それを干寶に送ることによって船を返却した。干寶はもともと(翟湯に)贈り物をしていたため、(この船を返すために逆に贈り物されたことで)いっそうもだえて、ますます恥じいって嘆いた。
咸康年間(335~342年)に征西大将軍の庾亮は上疏して翟湯を推薦した。成帝(司馬衍)は国子博士としたが、翟湯は就かなかった。建元のはじめ(343年)、安西将軍の庾翼と北征将軍の石季龍は大規模に奴僕を徴発して、異民族征伐に連れて行った。役人に命じて、翟湯の家は徴発の対象外とした。翟湯は(自分の)下僕たちをすべて推薦した郷里の官吏にゆだねたが、官吏は命令をを守って、一人も(推薦を)受け取らなかった。翟湯は徴発を終えたという理由で、その(翟湯の家の)下僕たちは放免され、(また徴発されないように)戸籍に整備して、百姓とさせた。
康帝(司馬岳)は再び散騎常侍として翟湯を招いたが、老いと病を理由に固辞して行かなかった。73歳で家にあって亡くなった。
子莊字祖休。少以孝友著名。遵湯之操、不交人物、耕而後食、語不及俗、惟以弋釣為事。及長、不復獵。或問「漁獵同是害生之事、而先生止去其一、何哉」莊曰「獵自我、釣自物。未能頓盡。故先節其甚者。且夫貪餌吞鈎。豈我哉」時人以為知言。晚節亦不復釣。端居篳門、歠菽飲水。州府禮命、及公車徵、並不就。年五十六、卒。
子矯亦有高操、屢辭辟命。矯子法賜、孝武帝以散騎郎徵、亦不至。世有隱行云。
子の莊 字は祖休。少(わか)くして孝友を以て名 著わる、湯の操に遵(したが)い、人物と交わらず、耕して後に食らい、語るに俗に及ばず、惟だ弋釣するを以て事と為す。長ずるに及んで、復た獵せず。或ひと問う「漁獵 同じく是れ生を害するの事、而れども先生止めて其の一を去る、何ぞや」と。莊曰く「獵は我に自らし、釣は物の自らす。未だ能く頓(やぶ)り盡さず。故に先ず其の甚しき者を節す。且つ夫の餌を貪り鈎を吞む。豈に我のみなるか」時に人 以て言を知ると為す。晚節亦た復び釣りせず。居を篳門に端(ただ)し、菽(まめ)を歠(すす)り水を飲む。州府禮命し、公車 徵するに及ぶも、並びて就かず。年五十六、卒す。
子の矯も亦た高操有り、屢しば辟命を辭す。矯の子の法賜、孝武帝 以て散騎郎に徵するも、亦た至らず。世に隱行の有ると云う。
息子の翟荘は字を祖休といい、若いころから孝行でいつくしみ深いことで有名でああった。翟湯の品行を守って、人や物事と交流せず、(自分で)耕すことで食っ(て生活し)ており、語るにあたって世俗のことを言及することはなく、ただ、いぐるみを使用した狩りと釣りだけをしていた。大人になってからは狩りをしなくなった。あるひとがたずねた「釣りをするのも狩りをするのも、どちらも同じく生命を害することだが、先生はその一方(の狩り)だけを止めた。これはどうしてでしょうか」と。 翟荘は言った「狩りは私自身がすることであり、釣りは他者である魚自身がすることだ。まだ殺し尽くしてしまわない、だから、そのよりひどい方を止めるのだ。その上、(魚は)エサをむさぼり食べて、針をのみこむ。どうして私だけ(が害している)だろうか」と。ある時、晩年には二度と釣りもしなくなった。住まいは閑居に整え、(粗末な食事である)豆を食べて水を飲んだ。州の役所は礼儀を整えて迎え、公車令も招いたが、(翟荘は)どちらから(官に)就かなかった。56歳で亡くなった。
(翟荘)の子の翟矯もまた高い品行があり、しばしば招く命令を断った。翟矯の子の翟法賜は、孝武帝(司馬曜)は散騎郎として招いたが、やはり行かなかった。世に隠行があるということである。
郭翻字長翔、武昌人也。伯父訥、廣州刺史。父察、安城太守。翻少有志操、辭州郡辟及賢良之舉。家於臨川、不交世事、惟以漁釣射獵為娛。居貧無業、欲墾荒田、先立表題、經年無主、然後乃作。稻將熟、有認之者、悉推與之。縣令聞而詰之、以稻還翻、翻遂不受。嘗以車獵、去家百餘里、道中逢病人、以車送之、徒歩而歸。其漁獵所得、或從買者、便與之而不取直、亦不告姓名。由是士庶咸敬貴焉。
與翟湯俱為庾亮所薦、公車博士徵、不就。咸康末、乘小船暫歸武昌省墳墓。安西將軍庾翼以帝舅之重、躬往造翻、欲強起之。翻曰「人性各有所短、焉可強逼」翼又以其船小狹、欲引就大船。翻曰「使君不以鄙賤而辱臨之。此固野人之舟也」翼俯屈入其船中、終日而去。
嘗墜刀於水、路人有為取者、因與之。路人不取、固辭、翻曰「爾向不取、我豈能得」路人曰「我若取此、將為天地鬼神所責矣」翻知其終不受、復沈刀於水。路人悵焉、乃復沈沒取之。翻於是不逆其意、乃以十倍刀價與之。其廉不受惠、皆此類也。卒於家。
郭翻 字は長翔、武昌の人なり。伯父の訥、廣州刺史なり。父の察、安城太守なり。翻 少(わか)くして志操有り、州郡の辟を辭し、賢良の舉 及ぶも。臨川に家(いえ)し、世事と交わらず、惟だ漁釣し射獵するのみを以て娛しみと為す。居 貧しく業無く、荒田を墾さんと欲し、先ず表題を立て、年經るも主無く、然る後に乃ち作る。稻 將に熟せんとして、之を認むる者有れば、悉く推して之に與う。縣令 聞きて之を詰め、稻を以て翻に還すも、翻 遂に受けず。嘗て車を以て獵し、家を去ること百餘里、道中に病人に逢えば、車を以て之を送り、徒歩して歸る。其の漁獵し得る所、或とき買者に從いて、便ち之に與えて直(あたい)を取らず、亦た姓名を告げず。是に由りて士庶 咸(み)な敬貴す。
翟湯と俱に庾亮と薦める所と為り、公車博士の徵するも、就かず。咸康の末、小船に乘りて暫く武昌に歸りて墳墓を省みる。安西將軍の庾翼 帝の舅の重きを以て、躬ずから往きて翻がもとに造(いた)る、強いて之を起こさんと欲す。翻曰く「人性 各おの短き所有り、焉ぞ強逼す可きや」と。翼又た其の船の小狹なるを以て、大船に就きて引かんと欲す。翻曰く「使君 鄙賤を以てせずして辱めて之に臨む。此れ固より野人の舟なり」と。 翼 俯き屈みて其の船の中に入り、終日にして去る。
嘗て刀を水に墜とし、路人 為に取る者 有り、因りて之に與う。路人 取らず、固く辭するも、翻曰く「爾 向(も)し取ざれば、我 豈に能く得えんや」と。路人曰く「我 若し此を取れば、將に天地鬼神の責む所と為らんとす」と。翻 其の終に受けざるを知り、復た刀を水に沈む。路人 焉を悵(いた)み、乃ち復た沈沒して之を取る。翻 是に於いて其の意に逆らわず、乃ち十倍の刀價を以て之に與う。其の廉なりて惠を受けざる、皆な此の類なり。家に卒す。
郭翻は字を長翔といい、武昌郡の出身である。伯父の郭訥は広州刺史である。父の郭察は安城郡の太守である。郭翻は若いころから決意と節操があり、州郡の役所からの招きを断り、賢良に挙げられても臨川郡に家を構え、世間の事に係わらず、ただ、釣りと弓で狩りだけを娯楽とした。生活は貧しく、なりわいも無いため、荒れた畑をたがやそうとして、はじめに看板を立てて、一年経っても持ち主が現れないことを確認してから、耕作をした。稲がいまに熟しようとたとき、(その土地の持ち主と自ら)認める者が現れると、(郭翻は収穫の)全てを積極的にその者に与えた。県令が耳にしてこの件を追求し、稲を郭翻に返却させたが、郭翻は最後まで受け取らなかった。かつて馬車で狩りにでかけ、家から100里余り(43㎞以上)遠くに離れ、道中に病人と遭遇すると馬車によって病人を(家まで)送り、(自身は)徒歩で帰った。釣りと狩りによって得たものは、あるとき商人の後について、そして与えて、対価を受け取らず、姓名を告げなかった。これによって士大夫から庶民にいったるまで、だれもが(郭翻に)敬服して貴んだ。
(郭翻は)翟湯とともに庾亮に推薦され、公車博士に招かれたが就任しなかった。咸康年間(335~342年)の末、小船に乗ってやっとのことで武昌郡に帰り、(船の上から)墳墓を振り返っていた。安西将軍の庾翼は帝の舅ととして(権勢が)思いことによって、自ら郭翻のもとに来て、無理に郭翻を官につけようとした。郭翻は言った「人の性質として、それぞれ短所があります。どうして強引に迫るのがよろしいでしょうか」と。庾翼はまた、郭翻の船が狭く小さいことによって、大船によって引っ張ろうとした。郭翻は言った「あなたは謙譲によらず、辱めることで私に臨んだ。これはどうして野人の船でないことがあろうか」と。庾翼はうつむきかがんで船の中に入り、その日の内に去った。
(郭翻は)かつて刀を川に落とし、道ゆく人で(郭翻の)ために刀を回収した者がいて、これによって(郭翻は)刀を(その人に)与えた。道ゆく人は受け取らず固辞すると、郭翻は言った「あたながもし回収しなければ、どうして私が得られただろうか」と。道ゆく人は言った「私がもし刀を受け取れば、きっと天地鬼神に(罪を)責められることになるだろう」と。郭翻は道ゆく人がとうとう受け取らないことを理解すると、再び刀を川にしずめた。道ゆく人は郭翻の行動に心を失い、そしてまた潜って刀を回収した。郭翻はここで道ゆく人の意思にそむかず、刀の価値の10倍のお金を道ゆく人に与えた。郭翻の清廉で恵をうけないというのは、すべてこうしたたぐいのものである。(官に仕えず)家で亡くなった。
辛謐字叔重、隴西狄道人也。父怡、幽州刺史、世稱冠族。謐少有志尚、博學善屬文、工草隸書、為時楷法。性恬靜、不妄交游。召拜太子舍人・諸王文學、累徵不起。永嘉末、以謐兼散騎常侍、慰撫關中。謐以洛陽將敗、故應之。及長安陷沒於劉聰、聰拜太中大夫、固辭不受。又歷石勒・季龍之世、並不應辟命。雖處喪亂之中、頹然高邁、視榮利蔑如也。
及冉閔僭號、復備禮徵為太常。謐遺閔書曰「昔許由辭堯、以天下讓之、全其清高之節。伯夷去國、子推逃賞、皆顯史牒、傳之無窮。此往而不反者也。然賢人君子雖居廟堂之上、無異於山林之中・斯窮理盡性之妙、豈有識之者邪。是故不嬰於禍難者、非為避之。但冥心至趣而與吉會耳。謐聞物極則變、冬夏是也。致高則危、累棋是也。君王功以成矣、而久處之、非所以顧萬全遠危亡之禍也。宜因茲大捷、歸身本朝。必有許由・伯夷之廉、享松喬之壽、永為世輔、豈不美哉」因不食而卒。
辛謐 字は叔重、隴西狄道の人なり。父の怡、幽州刺史となり、世の冠族と稱さる。謐少(わか)くして志尚 有り、博學にして善く文を屬(つづ)り、草隸書に工(たく)みにして、時の楷法と為る。性 恬靜にして、妄りに交游せず。太子舍人・諸王文學を召拜され、累(しきり)に徵さるも起こさず。永嘉の末、謐を以て散騎常侍を兼ね、關中を慰撫させんとす。謐 洛陽の將に敗れんとするを以て、故に之に應ず。長安の劉聰に陷沒するに及び、太中大夫を聰拜するも、固く辭して受けず。又た石勒・季龍の世を歷て、並びに辟命さるるも應ぜず。處 喪亂の中と雖ども、頹然として高邁し、榮利を視ては蔑するが如きなり。
冉閔の僭號するに及びて、復た禮を備えて徵し太常と為す。謐 閔に書を遺りて曰く「昔 許由 堯に、天下を以て之を讓らんとするを辭し〔一〕、其の清高の節を全うす。伯夷 國を去り〔二〕、子推 賞を逃れ〔三〕、皆な史牒に顯わる、之を傳うこと無窮なり。此れ往きて反する者なり。然るに賢人君子 廟堂の上に居りと雖ども、山林の中に異ならざる無し。斯れ理を窮めて性を盡くすの妙、豈に之を識る者 有らんや。是の故に禍難に嬰(かか)らざる者、之を避くる為に非ず。但だ至趣に冥心して吉と與に會するのみ。謐 聞くならく 物 極まれば則ち變ず、冬夏是れなり。高を致せば則ち危となる、累棋是れなり。君王功以て成るなり、而して久しく之に處れば、萬全を顧みて危亡の禍を遠ざく所以に非ざるなり。宜しく茲の大捷の因りて、身を本朝に歸すべし。必ず許由・伯夷の廉 有らば、松喬の壽を享し〔四〕、永らく世の輔けと為る、豈に美ならざらんや」と。因りて食わずして卒す。
〔一〕許由が堯から天下を譲られる故事は『荘子』逍揺遊篇に見える。有名な耳を洗う話は『説苑』に見える。
〔二〕『史記』伯夷列伝に見える。孤竹国の公子伯夷と叔斉は互いに公位を譲り合い、二人とも国を去った。
〔三〕介子推は『春秋左氏伝』僖公24年の伝に見える。(『左伝』では介之推)晋の文公19年の亡命を終えて帰国した際、文公の即位がなったのは、亡命に追従した者たちが天ではなく自分たちの力と考えていることを軽蔑し、下野して身を隠して死んだ。
〔四〕赤松子と王子喬は神仙。両者の神仙としての記述は『列仙伝』にくわしい。
辛謐は字を叔重といい、隴西郡狄道県の出身である。父の辛怡は幽州刺史となり、世間で高貴な一族ともてはやされた。辛謐は若いことから決心があり、博学で文章がうまく、草書隷書が得意で、当時の手本とされた。性格は大人しく、やたらに交遊したなかった。太子舍人・諸王の文学に任命され、何度も招かれたが、官に就かなかった。永嘉年間(307~313年)の末、辛謐を散騎常侍を兼任させ、関中の地を慰撫させようとした。辛謐は洛陽が(匈奴の漢、後の前趙によって)陥落しようとしていることから、任命に応じた。長安が劉聰(漢、後の前趙の3代)によって陥落すると、太中大夫に任命されたが固辞して就かなかった。さらに石勒(後趙初代)・石虎(後趙3代)の時代に、どちらからも官に招かれたが応じなかった。喪乱の中に身をおいても、失意でありながら俗を脱して邁進し、栄利を見たときは蔑視するかのようであった。
冉閔が(冉魏の天王)を僭称すると、(彼も)また(辛謐を)儀礼を整えて、招いて太常とした。辛謐は冉閔に手紙を送って言った「昔、許由は堯から天下を譲られようとしたが、断って、その清廉高潔の節をまっとうした。伯夷は(公とならずに)国を去り、介子推は褒賞を受け取らず、これらは全て史書で顕彰され、人に伝えられることは無限大である。これらは(ひとたび)去ったら、戻ってこない者たちである。 つまり賢人君子が廟堂の上にいるといっても、山林の中にいることと変わりがない。これは物事の本質をきわめ、自身の本性を他者に発揮することの神妙は、なんとこのことを知る者であるか。この故に災難にこうむらない者は、災難を避けたためではない。ただ趣のいくところの雑念を断って心を平穏にして、吉とともに集うだけである。私はこう聞いている、物事は限界に達すれば変化する。(例としては)冬と夏がそうだ。高くなれば、危うくなる。(例としては碁石を積み重ねること)がそうだ。君王には功績によって就くが、長い間その地位にいることは、万全を思い、危急存亡の禍を遠ざける理由ではない。当然、この大勝利によって、(冉閔)の身を晋朝に帰順するのがよろしい。かならず許由と伯夷の清廉があれば、赤松子と王子喬のような長寿を享受でき、長らく天下をたすけることができる。どうして美ではないでしょうか」と。そこで(辛謐は)食事をせず亡くなった。
劉驎之字子驥、南陽人、光祿大夫耽之族也。驎之少尚質素、虛退寡欲、不修儀操、人莫之知。好游山澤、志存遁逸。嘗採藥至衡山、深入忘反、見有一澗水、水南有二石囷、一囷閉、一囷開、水深廣不得過。欲還、失道、遇伐弓人、問徑、僅得還家。或說、囷中皆仙靈方藥諸雜物。驎之欲更尋索、終不復知處也。
車騎將軍桓沖聞其名、請為長史、驎之固辭不受。沖嘗到其家、驎之於樹條桑。使者致命、驎之曰「使君既枉駕光臨、宜先詣家君」沖聞大愧、於是乃造其父。父命驎之、然後方還、拂短褐與沖言話、父使驎之於內自持濁酒蔬菜供賓。沖敕人代驎之斟酌、父辭曰「若使從者、非野人之意也」沖慨然、至昏乃退。
驎之雖冠冕之族、信義著於羣小、凡厮伍之家婚娶葬送、無不躬自造焉。居於陽岐、在官道之側、人物來往、莫不投之。驎之躬自供給。士君子頗以勞累、更憚過焉。凡人致贈、一無所受。去驎之家百餘里、有一孤姥、病將死、歎息謂人曰「誰當埋我、惟有劉長史耳!何由令知」驎之先聞其有患、故往候之、值其命終、乃身為營棺殯送之。其仁愛隱惻若此。卒以壽終。
劉驎之 字は子驥、南陽の人にして、光祿大夫の耽之の族なり。驎之 少(わか)くして質素を尚び、虛退寡欲にして、儀操を修めず、人 之を知る莫し。好んで山澤に游び、志 遁逸に存す。嘗て藥を採りて衡山に至り、深く入いて反るを忘れ、一澗水の有るを見て、水の南に二石の囷(こめぐら) 有り、一囷 閉じ、一囷 開く、水 深く廣く過ぎるを得ず。還らんと欲すも、道を失い、弓を伐つ人に遇い、徑を問い、僅かに家に還える得る。或ひと說く、囷中皆な仙靈方藥諸雜物なりと。驎之 更に尋索せんと欲するも、終に復た處を知らざるなり。
車騎將軍の桓沖 其の名を聞きて、請うて長史と為すも、驎之 固く辭して受けず。沖 嘗て其の家に到り、驎之 樹に於いて條桑す。使者 命を致すも、驎之 曰く「使君 既に枉駕光臨するも、宜しく先ず家君を詣ずべし」と沖 聞きて大いに愧じ、是に於いて乃ち其の父に造(いた)る。父 驎之に命じ、然る後に方に還り、短褐を拂いて沖と言話し、父 驎之をして內 自り濁酒蔬菜を持ちて供賓せ使む。沖 人に敕して驎之に代りて斟酌せんとすも、父 辭して曰く「若し從者をして使めば、野人の意に非ざるなり」と沖 慨然し、昏に至りて乃ち退く。
驎之 冠冕の族と雖ども、信義を羣小に著し、凡そ厮伍の家の婚娶葬送、躬自(みず)から造(いた)らざる無し。陽岐に居りて〔一〕、官道の側に在り、人物來往し、之に投ぜざる莫し。驎之 躬自(みず)から供給す。士君子 頗る勞累を以て、更(あ)に憚りて過ぐるや。凡そ人 贈を致せば、一として受く所無し。驎之の家を去ること百餘里、一孤姥 有り、病みて將に死せんとし、歎息して人に謂いて曰く「誰れぞ當に我を埋めんか、惟だ劉長史 有るのみ。何に由りてか知ら令めんか」と。驎之 先ず其の患いの有るを聞き、故に往いて之を候(うかが)い、其の命の終うるに值りて、乃ち身(みずか)ら為に棺殯を營み之を送る。其の仁愛隱惻 此く若し。卒に壽を以て終わる。
〔一〕陽岐は『晋書斠注』に引く『東晋疆域志』に「石首有陽岐」とある。
劉驎之は字を子驥といい、南陽郡の出身で、光禄大夫の耽之の一族の者である。劉驎之は若い頃から質素をとうとび、俗世を避けて寡欲であり、態度節操をおさめず、(世間で)劉驎之のことを知る者はいなかった。好きこのんで山沢にいき、志は隠遁することにあった。かつて薬をとるために衡山にやってきて、深入りして帰ることを忘れ、ある谷川の流れを見つけると、川の南に2つの米倉があり、ひとつは閉じ、ひとつは開いており、川は深く広いために渡ることは出来なかった。帰ろうとしたが、道に迷い、弓で狩りをする人に出会って、道をたずねて、かろうじて家に帰ることができた。あるひとが言う、米倉の中は全て神仙の方薬等のさまざまな者であると。劉驎之はまた探そうとしたが、とうとうまたその場所を見つけることができなかった。
車騎将軍の桓沖は劉驎之の高名を聞いて、長史とすることを願いでたが、劉驎之は固辞して受けなかった。桓沖はかつて劉驎之の家にやってきて、劉驎之は樹木で桑を取っていた。桓沖の使者がその命を告げたが、劉驎之は言った「あたなはもうおいでになったが、まず家長を訪れるのがよろしい」と。桓沖は(この言葉を)聞いてたいへん恥じ、ここで劉驎之の父をたずねた。父は劉驎之に命じてあとに(桓沖のところに)戻り、粗布の短衣を払って桓沖と話をして、劉驎之に奥から濁り酒と野菜料理をもってこさせ、もてなしをさせた。桓沖は従者に命じて劉驎之に代わって酌をさせようとしたが、父が断って言った「もし従者にさせたのならば、私の(おもてなししようという)意図からはずれます」と。桓沖は嘆いて夕方になると帰っていった。
劉驎之は官吏の一族とはいっても、信義を(国でなく)小さな群れに発揮し、いったい下僕たちの家の婚礼葬送で自分から行かないことは無かった。南郡石首県の陽岐に住まいを構えて、国家の整備した大路の側に位置し、人や物が往来して、逗留しない者はいなかった。劉驎之みずから提供したため、士大夫が大変疲れて、どうして(寄らず)に通り過ぎることがあろうか。おおよそ、人から物をおくられると、一つだに受け取ることは無かった。劉驎之の家から100里余り(43㎞以上)離れたところにに一人の孤独なお婆さんがいた。病でまさに死のうとしたとき、嘆息して人に言った「いったい誰が私を埋葬するだろうか、それはただ長史の劉驎之だけである。どうやって彼に伝えようか」と。劉驎之はまずおばさんが病気であるこを聞いたために、おもむいて診察し、その命を終えたとき、(劉驎之は)そこで自らお婆さんのために葬儀を営んで送った。劉驎之の仁愛で、人のことをほうっておけずに自分のこととする様はこのようであった。最後は寿命によって亡くなった。
索襲字偉祖、敦煌人也。虛靖好學、不應州郡之命、舉孝廉・賢良方正、皆以疾辭。游思於陰陽之術、著天文地理十餘篇、多所啟發。不與當世交通、或獨語獨笑、或長歎涕泣、或請問不言。
張茂時、敦煌太守陰澹奇而造焉、經日忘反。出而歎曰「索先生碩德名儒、真可以諮大義」澹欲行鄉射之禮、請襲為三老、曰「今四表輯寧、將行鄉射之禮、先生年耆望重、道冠一時、養老之義、實繫儒賢。既樹非梧桐、而希鸞鳳降翼。器謝曹公、而冀蓋公枉駕、誠非所謂也。然夫子至聖、有召赴焉。孟軻大德、無聘不至。蓋欲弘闡大猷、敷明道化故也。今之相屈、遵道崇教、非有爵位、意者或可然乎」會病卒、時年七十九。澹素服會葬、贈錢二萬。澹曰「世人之所有餘者、富貴也。目之所好者、五色也。耳之所玩者、五音也。而先生棄眾人之所收、收眾人之所棄、味無味於慌惚之際、兼重玄於眾妙之內。宅不彌畝而志忽九州、形居塵俗而棲心天外、雖黔婁之高遠、莊生之不願、蔑以過也」乃諡曰玄居先生。
索襲 字は偉祖、敦煌の人なり。虛靖にして學を好み、州郡の命の應ぜず、孝廉・賢良方正に舉げらるるも、皆な疾を以て辭す。陰陽の術を游思し、天文地理十餘篇を著し、啟發さるる所 多し。當世と與に交通せず、或るときは獨り語りて獨り笑い、或るときは長く歎き涕泣し、或るときは問うを請いて言わず。
張茂の時、敦煌太守の陰澹 奇りて造(いた)り、日を經るも反るを忘る。出でて歎じて曰く「索先生 碩德名儒、真に以て大義を諮る可し」と。澹 鄉射の禮を行わんと欲し、襲に請いて三老と為して、曰く「今 四表輯寧、將に鄉射の禮を行わんとするに、先生 年耆望重、道に一時を冠し、老を養うの義、實に儒賢 繫し。既に樹 梧桐に非ざるも鸞鳳の翼を降すを希う〔一〕。器 曹公に謝し、而して蓋公の枉駕を冀うは〔二〕、誠に謂う所に非ざるなり。然れども夫子の至聖、召 有りて赴く。孟軻の大德、聘 無くば至らず。蓋し大猷を闡(ひら)くを弘め、道化を敷きて明かにせんと欲する故なり。今の相屈、道に遵い教を崇ぶ、爵位の有るに非らず。意者(そもそも)或いは然る可きか」と。病に會いて卒し、時に年七十九。澹 素服して葬に會し、錢二萬を贈る。澹 曰く「世人の餘り有る所の者、富貴なり。目の好む所の者は、五色なり。耳の玩ぶ所の者は、五音なり。而れども先生 眾人の收む所を棄て、眾人の棄つる所を收め、無味を慌惚の際に味わい、重玄を眾妙の內に兼ぬ〔三〕。宅 畝を彌(つく)ろわずして志 九州を忽い、形 塵俗に居りて心を天外に棲み、黔婁の高遠〔四〕、莊生の願わずと雖ども、以て過るを蔑するなり」と。乃ち諡して曰く玄居先生と。
〔一〕『詩経』大雅 巻阿に「鳳凰鳴矣、于彼高岡。梧桐生矣、于彼朝陽」とある。
〔二〕『史記』曹相国世家では、曹參が斉の相だったとき、蓋公を招き、彼から黄老の術による統治を進言された。結果よく治まり曹參は賢相と称えられた。
〔三〕『老子』35章に「道之出口、淡乎其無味」とあり、1章に「玄之又玄、衆妙之門とある。これらを踏まえた表現であろう。
〔四〕『漢書』芸文志に「黔婁子四篇」があり、著者について「齊隱士、守道不詘、威王下之」と説明されている。
索襲は字を偉祖といい、敦煌郡の人である。心静かで学問を好み、州郡(の役所)からの任命に応じず、孝廉・賢良方正に推挙されたが、どれも病を理由に断った。専一というわけではないが、陰陽の術を考え、天文地理について10篇あまりの書物を著し、それには啓発される所が多く(優れたもので)あった。当世(の人々)とは交流せず、あるときは一人で語って、一人で笑い、あるときは長く嘆いて涙を流し、あるときは、訪問をもとめておきながら、(実際にたずねると)何も言わないでいた。
張茂(前涼の3代)の時代に敦煌太守の陰澹が立ち寄りに来て、(話し込んで)帰るの忘れて一日経過するほどであった。(索襲の)家を出て嘆いて言った。「索襲先生が碩徳の優れた儒者であり、じつに大義を相談するのによろしい」と。陰澹は(春と秋に民を集めて弓術と礼を習う)郷射の礼を行うと考え、 陰澹に申し出て彼を(教化をおこなう官の)三老にして言った。「今、天下は安寧のときであり、郷射の礼を行おうとするにあたり、索襲先生は年老いて名望高く、その学問は当代で最も優れ、老人を養うの義は、まことに賢き儒者が盛んにしている。もうすでに木は(鳳凰がとまる)梧桐ではないが、鸞鳥と鳳凰が翼をおろすのをのぞむ。才能が曹参に及ばないがために蓋公がいらっしゃるのを願うのは、本当に言ってないことである。しかしながら最上の聖人である孔子は招かれておもむいた。大徳ある孟子は招聘されなければ、やってこなかった。思うに国を治める大道を開くことをひろめ、教化の道を敷いて明らかにしようとした故である。今の行き詰まった中、学問の教えにしたがうのは、爵位が有るためではない。ほんとうに適切でしょうか」と。(索襲は)病気にかかって亡くなり、時に79歳であった。陰澹は(凶事に着る白い)素服で葬儀に参列し、銭2万を贈った。陰澹は言った「世の人が余りあるものは、富貴である。目で見るのを好むのは、きらびやかな色彩である。耳で聞いて楽しむのは、美しい音楽である。しかしながら索襲先生は、人々が受け入れるものを捨て、人々が捨てるものを受け入れ、はっきりとしない中で無味を味わい、奥深いうえに奥深いものをあらゆる微妙なものに兼ねている。住まいは畝を直さず、そして志は天下をおざなりにし、体は世俗にあるが、心ははるか天の外にあり、黔婁の高尚遠大さは、荘子は目指すものものとは違ったとはいえ、通り過ぎてしまうことは、さげずんだ」と。そして玄居先生と諡をつけた。
楊軻、天水人也。少好『易』、長而不娶、學業精微、養徒數百、常食麤飲水、衣褐縕袍、人不堪其憂、而軻悠然自得、疏賓異客、音旨未曾交也。雖受業門徒、非入室弟子、莫得親言。欲所論授、須旁無雜人、授入室弟子、令遞相宣授。
劉曜僭號、徵拜太常、軻固辭不起。曜亦敬而不逼、遂隱於隴山。曜後為石勒所擒、秦人東徙、軻留長安。及石季龍嗣偽位、備玄纁束帛安車徵之、軻以疾辭。迫之、乃發。既見季龍、不拜、與語、不言、命舍之於永昌乙第。其有司以軻倨傲、請從大不敬論、季龍不從、下書任軻所尚。
軻在永昌、季龍每有饋餼、輒口授弟子、使為表謝。其文甚美、覽者歎有深致。季龍欲觀其真趣、乃密令美女夜以動之、軻蕭然不顧。又使人將其弟子盡行、遣魁壯羯士衣甲持刀、臨之以兵。并竊其所賜衣服而去。軻視而言、了無懼色。常臥土牀、覆以布被、倮寢其中、下無茵褥。潁川荀鋪、好奇之士也。造而談經、軻瞑目不答。鋪發軻被、露其形、大笑之。軻神體頹然、無驚怒之狀。于時咸以為焦先之徒、未有能量其深淺也。
後上疏陳鄉思、求還。季龍送以安車蒲輪、蠲十戶供之。自歸秦州、仍教授不絕。其後秦人西奔涼州、軻弟子以牛負之。為戍軍追擒、并為所害。
楊軻、天水の人なり。少(わか)くして『易』を好み、長じて娶らず、學業精微にして、徒を養うこと數百、常に麤を食し水を飲み、 褐せし縕袍を衣(き)、人 其の憂いを堪えざるも〔一〕、軻 悠然として自得し、疏賓異客、音旨 未だ曾て交わざるなり。 業を受く門徒と雖ども、室に入る弟子に非ざれば、親しく言うを得る莫し。論授する所を欲するも、旁に雜人無くを須(もと)め、室に入る弟子に授け、遞相(たが)いに宣授せ令む。
劉曜 僭號し、徵して太常を拜すも、軻 固辭して起こさず。曜 亦た敬して逼らざるも、遂に隴山に隱る。曜 後に石勒の擒わる所と為り、秦人 東に徙(うつ)り〔二〕、軻 長安に留まる。石季龍 偽位を嗣ぐに及びて、玄纁 束帛 安車を備え之を徵すも、軻 疾を以て辭す。之に迫れば、乃ち發す。既に季龍に見ゆるも、拜せず、與に語らんとするも、言わず、命じて之を永昌の乙第に舍す。其の有司 軻の倨傲を以て、請うて大不敬の論に從わんとするも、季龍從わず、下書して軻の尚ぶ所に任ず。
軻 永昌に在りて、季龍 每に饋餼 有り、輒ち弟子に口授し、表を為して謝せ使む。其の文 甚だ美しく、覽る者 歎じて深致 有り。季龍 其の真趣を觀んと欲すれば、乃ち密かに美女をして夜に以て之を動ぜ令むるも、軻 蕭然として顧みず。又た人をして將に其の弟子たらんとして行いを盡さ使め、魁壯羯士をして甲を衣 刀を持ち、之に臨むに兵を以たせ遣む。并せてに其の賜わる所の衣服を竊みて去ぬ。軻 視るも言わず、了りて懼色 無し。常に土牀に臥せ、覆うに布被を以てし、倮にて其の中に寢、下 茵褥 無し。潁川の荀鋪、奇を好むの士なり。造(いた)りて經を談ぜんとすも、軻 目を瞑いて答えず。鋪 軻の被を發(あば)き、其の形 露わにし、大いに之を笑う。軻 神體頹然として、驚怒の狀 無し。時に于いて咸な以為らく焦先の徒にして〔三〕、未だ能く 其の深淺を量ること有らざるなり。
後に上疏して鄉思を陳べ、還ることを求む。季龍 送るに安車蒲輪を以て、十戶を蠲(のぞ)きて之に供とす。自ら秦州に歸り、仍お教授絕えず。其の後に秦人 涼州に西奔し、軻が弟子 牛を以て之を負う。戍軍の為に擒を追い、并せて害さる所と為る。
〔一〕『論語』雍也篇に「賢哉回也。一簞食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其樂。賢哉回也」とあり、子罕篇に「衣敝縕袍、與衣狐貉者立、而不恥者、其由也與」とある。どちらも貧しい生活ながら学問をする故事。
〔二〕秦人が何者を指すか不明。羯族の元の居住地は山西である。
〔三〕焦先は後漢末から魏の隠者。『神仙伝』『高士伝』及び『三国志』の裴松之注に引かれる『魏略』等に見える。いづれにも服を着ていなかったと記載されている。
楊軻は天水郡の出身である。若いことから『易』を好み、大人になっても妻を娶らず、学問は精密であった。弟子数百名を養い、いつも粗食をたべ、(酒を飲まずに)水を飲み、粗末な綿入れを着ており、そんな普通の人がたえられない辛い生活も、楊軻はゆったりと満足しており、めずらしく疎遠な賓客がきても、今までに一度も言葉を交え(ず相手にし)なかった。教えを受ける門徒であっても、(楊軻の)部屋に入ることのできる高弟でなければ、親しく話すことはできなかった。(弟子が)講義を受けたくても、(楊軻は)傍らに雑人がいないことをもとめ、部屋に入れる高弟に教えを授け、(弟子たちに)互いに教え合いさせた。
劉曜(匈奴、漢の5代、国号を変更し前趙の初代)は帝位僭称すると(楊軻を)招いて太常に任命したが、楊軻は固辞して就かなかった。劉曜はただ(楊軻を)敬って、(仕えるよう)強いてはこなかったが、隴山に隠れた。劉曜は後に石勒(羯族、後趙の初代)にとらわれて、秦の地の人々は東方へ移住し、楊軻は長安に留まった。石虎(後趙の3代)が後を継いで僭称すると、(紅黒色の織物である)玄纁・束ねた絹・(座って乗る)安車をそろえて(楊軻を)招いたが、楊軻は病を理由に断った。脅迫すると(楊軻は)出立した。石虎に謁見すると、拝礼せず、ともに語ろうとしても、言葉を発せず、(石虎は)命令して(はるか南方の辺境の地である)永昌郡の乙第に住まわせた。その地の役人は楊軻の傲慢な態度によって、大不敬の罪という見解に適用しようと願い出たが、石虎は承認せず、手紙を送って命じて楊軻の好きなようにさせた。
楊軻は永昌郡にあって、石虎はいつも食物を送ってきたので、弟子に口伝えで、上表文を書かせて感謝した。その文章は大変美しく、読んだ者は感嘆させる、深い風情があった。石虎はその本当の心を知りたがり、そこで、(石虎の意向とは)隠して美女に夜間に(楊軻に近づいて)動揺させようとしたが、楊軻は無心な様子で振り返って見なかった。また(石虎は)ある者を(楊軻の)弟子になろうと尽力させ、(そして)強壮な羯族の者に鎧を着て刀を持たせ、楊軻と会うにあたって兵士を引き連れさせた。(弟子として潜り込ませた者と武装した羯族の者の)二人でともに、(楊軻に)賜った衣服を盗みさった。楊軻は見ても何も言わず、(盗まれ)終わっても、おそれて顔色を変えることは無かった。いつも土のベッドに寝て、布をかぶせているのであり、(服を盗まれたこの時も)裸で布を被って寝ており、その下には、敷物は無かった。潁川郡の荀鋪は新奇なものを好む人物で、(楊軻の元を)訪れて経書について論じようとしたが、楊軻は目を瞑って答えなかった。
荀鋪は楊軻が被っている布を暴いて、楊軻の裸を露わにして、彼を大笑いした。楊軻は心身ともにぐったりとして、驚き怒る様子が無かった。当時、みな(楊軻を服を着ない隠者である)焦先の類いであり、今もなお、彼が何を大事にしているか推測することはできないと考えた。
(楊軻は)上疏して故郷への思いを述べ、帰ることを求めた。石虎は蒲の穂で車輪を覆っ(て揺れにくくし)た(座って乗る)安車で送り、(永昌郡から)十戸を取り除いて楊軻のお供とした。(楊軻は)自分で(故郷の天水郡のある)秦州に帰っても、依然として教学を止めなかった。その後に秦の地の人が西の涼州に逃げ、楊軻の弟子たちは牛に荷を背負わせ(て逃げ)た。守備兵のために、鳥を狩っていたが、(敵に守備兵と)一緒に(楊軻とその一門は)殺害された。
公孫鳳字子鸞、上谷人也。隱於昌黎之九城山谷、冬衣單布、寢處土牀、夏則并食於器、停令臭敗、然後食之。彈琴吟咏、陶然自得。人咸異之、莫能測也。慕容暐以安車徵至鄴、及見暐、不言不拜、衣食舉動如在九城。賓客造請、尟得與言。數年病卒。
公孫鳳 字は子鸞、上谷の人なり。昌黎の九城山谷に隱れ、冬衣 單布、寢處 土牀、夏 則ち食を器に并せ、臭敗を停令し、然る後に之を食う。琴を彈きて吟咏し、陶然自得す。人 咸な之を異とすも、能く測る莫きなり。慕容暐 安車を以て徵して鄴に至り、暐に見みゆるに及び、言わず拜せず、衣食し舉動すること九城に在るが如し。賓客 造請するも、與に言うを得ること尟(すくな)し。數年にして病みて卒す。
公孫鳳は字を子鸞といい上谷郡の出身である。昌黎郡の九城山谷に隠れ住み、冬の衣は一枚の布であり、寝る所は土の寝台であり、夏になると食物を器と一つにして、風味が落ちるのを止めて、それから食べた。琴を弾き吟詠し、自ら喜び楽しんだ。人々は誰もが、公孫鳳を(常人と)違って優れるとしたが、確かめることはできなかった。慕容暐(鮮卑族、前燕の3代)が(座って乗る)安車によって招いて、鄴に到着し、慕容暐と会見すると、何も言わず、拝礼もせず、衣食や立ち振る舞いがまるで九城山谷にいるかのようであった。賓客がうかがいにきても、一緒に話してもらえる者はすくなかった。数年後、病気で亡くなった。
公孫永字子陽、襄平人也。少而好學恬虛、隱於平郭南山、不娶妻妾。非身所墾植、則不衣食之。吟詠巖間、欣然自得。年餘九十、操尚不虧。
與公孫鳳俱被慕容暐徵至鄴、及見暐、不拜。王公以下造之、皆不與言、雖經隆冬盛暑、端然自若。一歲餘、詐狂、暐送之平郭。後苻堅又將備禮徵之、難其年耆路遠、乃遣使者致問。未至而永亡、堅深悼之、諡曰崇虛先生。
公孫永 字は子陽、襄平の人なり。少(わか)くして學を好み恬虛、平郭南山に隱れ〔一〕、妻妾を娶らず。身づから墾植する所に非ざれば、則ち之を衣食せず。巖間に吟詠し、欣然として自得す。年 九十に餘り、操尚 虧(か)けず。
公孫鳳と與俱(とも)に慕容暐に徵され鄴に至り、暐に見ゆるに及びて、拜せず。王公以下之に造(いた)るも、皆な與に言わず。隆冬盛暑を經ると雖も、端然自若なり。一歲餘りにして、狂を詐り、暐 之を平郭に送る。後に苻堅 又た將に禮を備えて之を徵せんとするも、其の年耆なれば路遠きを難しとせば、乃ち使者をして問を致さ遣む。未だ至らずして永亡し、堅 深く之を悼み、諡して曰く崇虛先生と。
〔一〕『晋書』地理志には平郭の地名は見えないが、『後漢書』地理志では、遼東郡に平郭県が見える。
公孫永は字を子陽といい遼東国襄平県の出身である。若い頃から学問を好み、心が静かで物事にとらわれなかった。平郭県の南山に隠れ、妻も妾も娶らなかった。自身で耕し植えたものでなければ、衣食としなかった。岩間で吟詠し、愉快な様子で自ら満足した。年齢は90歳あまりで、優れた品行が欠けることはなかった。
公孫永は公孫鳳と一緒に慕容暐(鮮卑、前燕の3代)に招かれて鄴にやってきて、 慕容暐に謁見すると、拝礼せず、王公とそれ以下の者が訪問してきても、だれに対しても一緒に話すことはなかった。厳しい冬の寒さ、夏の暑さを経験しても、きちんと落ち着いていた。一年あまり経って、狂ったふりをすると慕容暐は平郭県に送り返した。後に苻堅(前秦の3代)が同じく礼儀を整えて公孫永を招こうとしたが、年老いて遠路であることで難しいとして、使者に訪問させた。まだ(使者が)到着しないうちに(公孫永は)亡くなった。符堅は深く公孫永を悼み、崇虛先生と諡をつけた。
張忠字巨和、中山人也。永嘉之亂、隱於泰山。恬靜寡欲、清虛服氣、餐芝餌石、修導養之法。冬則縕袍、夏則帶索、端拱若尸。無琴書之適、不修經典、勸教但以至道虛無為宗。其居依崇巖幽谷、鑿地為窟室。弟子亦以窟居、去忠六十餘歩、五日一朝。其教以形不以言、弟子受業、觀形而退。立道壇於窟上、每旦朝拜之。食用瓦器、鑿石為釜。左右居人饋之衣食、一無所受。好事少年頗或問以水旱之祥。忠曰「天不言而四時行焉、萬物生焉。陰陽之事非窮山野叟所能知之」其遣諸外物、皆此類也。年在期頤、而視聽無爽。
苻堅遣使徵之。使者至、忠沐浴而起、謂弟子曰「吾餘年無幾、不可以逆時主之意」浴訖就車。及至長安、堅賜以冠衣、辭曰「年朽髮落、不堪衣冠。請以野服入覲」從之。及見、堅謂之曰「先生考磐山林、研精道素、獨善之美有餘、兼濟之功未也。故遠屈先生、將任齊尚父」忠曰「昔因喪亂、避地泰山、與鳥獸為侶、以全朝夕之命。屬堯舜之世、思一奉聖顏。年衰志謝。不堪展效、尚父之況、非敢竊擬。山棲之性、情存巖岫、乞還餘齒、歸死岱宗」堅以安車送之。行達華山、歎曰「我東嶽道士、沒於西嶽、命也、奈何」行五十里、及關而死。使者馳驛白之、堅遣黃門郎韋華持節策弔。祀以太牢、褒賜命服、諡曰安道先生。
張忠 字は巨和、中山の人なり。永嘉の亂に、泰山に隱る。恬靜にして欲 寡し、清虛氣を服し、芝を餐し石を餌とし、導養の法を修む。冬は則ち縕袍し、夏は則ち帶索し、端拱すること尸の若し。琴書の適 無く、經典を修めず、教を勸むに但だ道に至り虛無たるを以て宗と為す。其の居 崇巖幽谷に依り、地を鑿ちて窟室と為す。弟子も亦た窟を以て居とし、忠を去ること六十餘歩、五日に一朝。其の教えは形を以てして言うを以てせず、弟子 業を受け、形を觀れば退く。道壇を窟上に立て、每旦朝に之を拜す。食に瓦器を用ち、石を鑿ちて釜と為す。左右の居人 之に衣食を饋(おく)り、一として受く所 無し。好事の少年 頗りに或問に水旱の祥を以す。忠 曰く「天 言ずして四時行い、萬物 生ず。陰陽の事 窮山の野叟が能く之を知る所に非ず」と。其の諸外物を遣(つか)うや、皆な此の類なり。年 期頤に在りて視聽 爽(たがわ)ざる無し。
苻堅 使を遣(つかわ)して之を徵す。使者 至ると、忠 沐浴して起き、弟子に謂いて曰く「吾餘年 幾 無く、以て時の主の意に逆く可からず」と。浴し訖(おわ)りて車に就く。長安に至るに及び、堅 冠衣を以て賜うも、辭して曰く「年 朽し髮 落ち、衣冠堪えず。請うて野服を以て入覲す」と。之に從う。見に及び、堅 之に謂いて曰く「先生 磐の山林に考じ、道素を研精し、獨善の美 餘り有りも、兼濟の功 未だなり。故に遠く先生 屈し、將に齊の尚父に任ぜんとす〔一〕」と。忠 曰く「昔 喪亂に因りて、地を泰山に避け、鳥獸と與に侶を為し、以て朝夕の命を全うす。堯舜の世に屬し、一たび聖顏を奉ぜんと思う。年 衰うるも志謝し、展效を堪えず、尚父の況(たと)え、敢えて竊に擬うに非ず。山棲の性、情 巖岫に存す。乞う餘齒を還り、歸して岱宗に死せん」と。堅 安車を以て之を送る。行きて華山に達す、歎じて曰く「我 東嶽の道士にして、西嶽に沒すは、命や、奈何」と。行くこと五十里、關に及びて死す。使者 驛に馳せて之に白し、堅 黃門郎の韋華をして節を持たし策して弔わ遣む。祀るに太牢を以し、命服を褒賜し、諡して曰く安道先生と。
〔一〕太公望(呂尚・姜子牙)は周の文王・武王を支え、斉の地に奉じられた。『史記』斉太公世家にて武王に尚父と称されたことの記述がある。
張忠は字を巨和、中山郡の出身である。永嘉の乱にあたって、泰山に隠れた。物静かで欲が少なく、心安らかに呼吸法を行い、芝や石を食事とし、養生法を修めた。冬には綿入れを著て、夏には縄を帯とする粗末な着物を着て、正座し手をそろえて拝礼する姿は死体のようであった、琴を弾いたり、書を読むといった楽しみはなく、経典を修めることもなく、教えの実践はただ道に到達して虚無となることを宗とした。崇厳な幽谷を住まいとし、地に穴をあけて穴ぐらの部屋を作った。その弟子もまた、張忠から60歩あまり離れたところに穴ぐらにあけて住まいとした、5日に一度(張忠を)訪れた。張忠の教えは体の動きによるもので、言葉によるものではなかった。弟子たちは教えを受けて、(張忠の)動作を見ると退いた。(祭祀を行う)道壇をほら穴の上につくり、毎朝の日の出のときに拝礼した。食事には瓦の器の用い、石に穴開けて釜とした。近くにに住む者は張忠に衣食を贈ったが、一つをだに受け取らなかった。変わったことを好む少年が何度も洪水と日照りの災について質問した。張忠は言った。「天はもの言わずに四季を運行し、万物を生じさせる。陰陽のはたらきの事は、奥山に住む老人が知っていることではない」と。身体の外の物を使うときは、みなこのような類い(の知らないという態度)であった。年齢が100歳となって、見るもの聞くものに誤ることがなくなった。
符堅は使者を派遣して張忠を招いた。使者がやってくると張忠は沐浴して起き、弟子に言った「私は残りの寿命がほとんど無い、よって時の君主の意向に背くべきではない」と。沐浴が終わると(符堅のよこした)車に乗った。長安に到着すると、符堅は(張忠に)冠と衣服を賜ったが、断って言った「私は年取って髪が抜け落ち、(官吏の)衣冠の着用に耐えられません。野服を着て謁見することを願います」と。張忠の願いにしたがった。謁見に及び、符堅は張忠に言った「張忠先生は岩の山林に考究し、純朴な徳行を研鑽し、自身だけ修める美が、十分にあるが、天下の民衆への功績はまだない。故に遠くから先生に従っていただき斉の尚父(太公望:呂尚)(の役割)をお任せしたい」と。張忠は言った「昔 永嘉の乱によって居住を泰山に避け、鳥獣を連れ合いとして、一朝一夕の命を全うしたしました。(前秦による)堯舜の世(のような素晴しい時代)に生きており、一度、(皇帝陛下の)聖顔を拝見したいと思っておりました。(しかし私は)年衰えたことで辞謝します。国家への貢献することに耐えられず、太公望の例えは、私見では決して擬えるものではありません。山に住む者の本性は、情も山洞に存在します。お願いします。残りの人生を反していただき、帰って泰山に死にたいのです」と。符堅は(座って乗る)安車によって張忠を送った。道を進んで華山に到達すると(張忠は)嘆いて言った。「私は東岳である泰山の道士であるのに西岳の華山で死ぬのは、天命だというのか、どうしてか」と。進むこと50里の関所に到達すると亡くなった。使者は駅まで馳せて張忠が亡くなったことを報告し、符堅は黃門郎の韋華に(君命の)節を持たせ文書を書かせて弔わせた。(牛・羊・豚が揃った最上の)太牢で祀り、(上等の官吏に賜う)命服を賜わり、安道先生と諡をつけた。
石垣字洪孫、自云北海劇人。居無定所、不娶妻妾、不營產業、食不求美、衣必粗弊。或有遺其衣服、受而施人。人有喪葬、輒杖策弔之。路無遠近、時有寒暑、必在其中。或同日共時、咸皆見焉。又能闇中取物、如晝無差。姚萇之亂、莫知所終。
石垣 字は洪孫、自ら北海劇の人と云う〔一〕。居 定まる所無く、妻妾を娶らず、產業を營まず、食 美を求めず、衣 必ず粗弊なり。或ひと其の衣服を遺ること有り、受けて人に施す。人 喪葬有れば、輒ち杖つきて策して之を弔う。路に遠近無く、時 寒暑有れば、必ず其の中に在り。或とき日を同じく時を共にして、咸皆(みな)な見ゆ。又た能く闇中に物を取り、晝の如く差無し。姚萇の亂、終う所を知る莫し。
〔一〕劇の地は『晋書』地理志には見えないが、『後漢書』地理志には北海国に劇県がある。
石垣は字を洪孫といい、北海郡劇県の出身と自称した。住まいは一定でなく、妻も妾も娶らず、なりわいをせず、美食を求めず、必ずボロ著ていた。あるひとが(石垣に)衣服を贈ったが、(石垣は)他の人に与えてしまった。他人に葬儀があれば、杖をついていき、文書をつくって弔いをした。遠かろうと近かろうと構わずに人のもとへ行き、寒いときも暑いときも、必ずその(厳しい)中で過ごした。あるときには、同じ日同じ時に皆が(石垣に)会いに来るということが会った。(それでけ慕われていた)また、暗闇の中でも、物を取ることができ、昼と変わらないようであった。姚萇(羌族、後秦の初代)の乱にあい、その最期を知るものはいない。
宋纖字令艾、敦煌效穀人也。少有遠操、沈靖不與世交、隱居於酒泉南山。明究經緯、弟子受業三千餘人、不應州郡辟命、惟與陰顒、齊好友善。張祚時、太守楊宣畫其象於閤上、出入視之、作頌曰「為枕何石。為漱何流。身不可見、名不可求」酒泉太守馬岌、高尚之士也、具威儀、鳴鐃鼓、造焉。纖高樓重閣、距而不見。岌歎曰「名可聞而身不可見、德可仰而形不可覩。吾而今而後知先生人中之龍也」銘詩於石壁曰「丹崖百丈、青壁萬尋。奇木蓊鬱、蔚若鄧林。其人如玉、維國之琛。室邇人遐、實勞我心」
纖注『論語』、及為詩頌數萬言。年八十、篤學不倦。張祚後遣使者張興備禮徵為太子友。興逼喻甚切。纖喟然歎曰「德非莊生、才非干木、何敢稽停明命」遂隨興至姑臧。祚遣其太子太和以執友禮造之、纖稱疾不見、贈遺一皆不受。尋遷太子太傅。頃之、上疏曰「臣受生方外、心慕太古。生不喜存、死不悲沒。素有遺屬。屬諸知識、在山投山、臨水投水、處澤露形、在人親土。聲聞書疏、勿告我家。今當命終。乞如素願」遂不食而卒、時年八十二、諡曰玄虛先生。
宋纖 字は令艾、敦煌效穀の人なり。少(わか)くして遠操有り、沈靖にして世と與に交わず、酒泉の南山に隱居す。經緯を明究し、弟子の業を受く三千餘人、州郡の辟命に應ぜず、惟だ陰顒と與に、好みを齊しく友善す。張祚の時、太守の楊宣 其の象を閤上に畫き、出入し之を視て、頌を作りて曰く「枕と為すは何の石なるか。漱ぐを為すは何の流れか。身 見る可からず、名 求む可からず」と。酒泉太守の馬岌、高尚の士なり、威儀を具え、鐃鼓を鳴らし、造(いた)る。纖 高樓重閣、距(へだ)てて見えず。岌 歎じて曰く「名 聞く可きも身 見る可からず、德 仰ぐ可きも形 覩る可からず。吾れ今にして後に先生 人中の龍なるを知るなり」詩を石壁に銘じて曰く「丹崖 百丈、青壁 萬尋。奇木 蓊鬱、蔚として鄧林の若し〔一〕。其の人 玉の如し、維國の琛なり。室 邇(ちか)きも人 遐(はるか)、實に我が心を勞す」と。
纖は『論語』を注し、詩頌を為すこと數萬言に及ぶ。年八十にして、學に篤く倦まず。張祚 後に使者張興を遣し、禮を備えて徵して太子友と為さんとす。興 逼(せま)り喻(さと)すこと甚だ切なり。纖 喟然として歎じて曰く「德 莊生に非ず、才 干木に非ざれば〔二〕、何ぞ敢て明命を稽停せんや」と。遂に興に隨いて姑臧に至る。祚 其の太子の太和をして以て友の禮を執らんと之に造ら遣むも、纖 疾を稱して見えず、贈遺 一として皆な受けず。尋(しばら)くして太子太傅に遷る。之を頃(しばら)くして、上疏して曰く「臣 生を方外に受け、心は太古を慕う。生きて存するを喜ばず、死して沒するを悲しまず。素より遺屬 有り。諸知識を屬(つづ)り、山に在りては山に投じ、水に臨みては水に投じ、澤に處りては形を露わし、人に在りて土に親しむ。聲 聞き書 疏すも、我が家に告ぐ勿れ。今 當に命を終うべし。乞う素願の如し」と。遂に食わずして卒し、時に年八十二、諡して曰く玄虛先生と。
〔一〕鄧林は『荀子』『列子』等に見える大森林。『荀子』議兵篇によれば、河南省に位置し、『列子』湯問篇によると、夸父という者が日光を追いかけて死んだ。その遺体から、鄧林が生じたされる。
〔二〕段干木は子夏の弟子。『孟子』滕文公篇下には、魏の文侯が仕官をすすめるために訪問すると、垣根を越えて逃げた逸話がある。
宋纖は字を令艾といい、敦煌郡效穀県の出身である。若いころから品行が非凡であり、もの静かで世間と交流せず、酒泉郡の南山に隠れ住んだ。経書・緯書を研究し、その教えを受ける弟子は3000人あまりおり、州郡(の役所)からの任官の命令には応ぜず、ただ趣向が同じである陰顒と親しくした。張祚(前涼の7代)の時代に(敦煌郡の)太守の楊宣は(宋纖の)肖像を楼閣の上に描き、出入りするたびにその画を見て、頌(賛頌する詩)をつくって言った「(宋纖)が枕とするのはどんな石だろうか、口をすすぐのはどの川だろうか。姿は見ることができず、名は求めることはできない」と。酒泉太守の馬岌は高尚の人士であり、儀礼を整え、鐃(シンバル)と鼓を鳴らして(宋纖を)たずねた。宋纖は高い楼閣におり、離れていて(その姿は)見えなかった。馬岌は嘆いて言った。「(宋纖の)高名を聞くことができても体は見ることはできず、徳を仰ぐことはできても、姿を見ることはできない。私は今にして、後世に先生が人の中の龍であることが分かった」と。(そして)詩を石壁に刻み、その詩は「赤い岩壁は百丈の高さ、青い塀壁は万尋の高さ、見事な木が生い茂り、その盛んな様は鄧林のようである。宋纖は玉のようで、国家を保たせる美玉である。部屋は近いが、人は遠く会うことはできない、実に私の心を悩ませる」と。
宋纖は『論語』を注釈し、つくった詩歌は数万言にも達する。80歳になっても、篤学で飽きることはなかった。張祚は後に使者として張興を派遣し、礼儀を整えて招いて太子友に任命しようとした。張興は(宋纖に)大変切迫に説得した。宋纖はため息をついて嘆いて言った「徳は荘子に及ばない、才能は段干木に及ばなければ、どうしてすすんで君命を停めるだろうか」と。とうとう張興について(前涼の都の)武威郡の姑臧県にやってきた。張祚はその太子の張太和に太子友に任命する儀礼執り行なわせようと呼び寄せたが、宋纖は疾病を称して現れなかった。(宋纖は)贈り物をされても一つも受け取らなかった。しばらくすると太子太傅に昇進した。またしばらくすると(宋纖は)上疏して言った「私は辺境に生まれ、心は太古を慕っています。生存することを喜ばず、死没することを悲しみません。以前から死後のことを遺託してあります。もろもろの知識を文に書き表してあり、山で死ねば山に遺体を投棄し、川の近くで死ねば川に投棄し、沢では姿そのまま捨ててもらい、人のいるところでは、土に埋めてもらう。声を聞き書物を書いても、私の家には(死んだことを)告げないでください。今、当然、命を終えるべきなのです。当初の願いのように死なせてください」と。とうとう食事をしなくなって亡くなった。そのとき82歳であり、玄虚先生と諡をつけた。
郭荷字承休、略陽人也。六世祖整、漢安順之世、公府八辟、公車五徵、皆不就。自整及荷、世以經學致位。荷明究羣籍、特善史書。不應州郡之命。張祚遣使者以安車束帛徵為博士祭酒、使者迫而致之。及至、署太子友。荷上疏乞還、祚許之、遣以安車蒲輪送還張掖東山。年八十四卒、諡曰玄德先生。
郭荷 字は承休、略陽の人なり。六世の祖の整、漢安順の世、公府 八たび辟し、公車 五たび徵するも、皆な就かず。整より荷に及び、世 經學を以て位を致す。荷 羣籍を明究し、特に史書を善くす。州郡の命に應ぜず。張祚 使者を遣わして安車束帛を以て徵し博士祭酒に為さんとす、使者 迫りて之を致す。至に及びて、太子友に署す。荷 上疏し還るを乞い、祚 之を許し、遣るに安車蒲輪を以て張掖東山に送還す。年 八十四に卒し、諡して曰く玄德先生と。
郭荷は字を承休といい、略陽郡の出身である。六代遡った先祖の郭整は後漢の安帝・順帝の時代に、三公の役所から8度招かれ、公車令から5度招かれたが、どれにも就かなかった。郭整から郭荷にいたるまで、代々、経学によって官職を得た。郭荷は諸々の書籍を研究し、とくに史書を得意とした。州郡(の役所)の命令には応じなかった。張祚(前涼の7代)は使者を派遣し、(座って乗る)安車と絹の束をそろえて(郭荷を)招いて博士祭酒にしようとし、使者は強いて郭整を安車に乗せた。(張祚の元に)到着すると、太子友に郭荷に任命した。郭荷は上疏して帰ることを願いでると、張祚は許可し、蒲の穂で車輪を覆っ(て揺れにくくし)た安車によって張掖郡の東山まで送り返した。年齢84歳で亡くなり、玄徳先生と諡をつけた。
郭瑀字元瑜、敦煌人也。少有超俗之操、東游張掖、師事郭荷、盡傳其業。精通經義、雅辯談論、多才藝、善屬文。荷卒、瑀以為父生之、師成之、君爵之。而五服之制、師不服重。蓋聖人謙也。遂服斬衰、廬墓三年。禮畢、隱於臨松薤谷、鑿石窟而居、服柏實以輕身、作『春秋墨說』・『孝經錯緯』、弟子著錄千餘人。
張天錫遣使者孟公明持節、以蒲輪玄纁備禮徵之、遺瑀書曰「先生潛光九臯、懷真獨遠、心與至境冥符。志與四時消息。豈知蒼生倒懸、四海待拯者乎。孤忝承時運、負荷大業、思與賢明、同贊帝道。昔傅說龍翔殷朝、尚父鷹揚周室、孔聖車不停軌、墨子駕不俟旦。皆以黔首之禍不可以不救。君不獨立、道由人弘故也。況今九服分為狄場、二都盡為戎穴、天子僻陋江東、名教淪於左袵。創毒之甚、開闢未聞。先生懷濟世之才、坐觀而不救。其於仁智、孤竊惑焉。故遣使者虛左授綏、鶴企先生、乃眷下國」公明至山。瑀指翔鴻以示之曰「此鳥也、安可籠哉」遂深逃絕迹。公明拘其門人。瑀歎曰「吾逃祿。非避罪也。豈得隱居行義、害及門人」乃出而就徵。及至姑臧、值天錫母卒、瑀括髮入弔、三踊而出、還於南山。
及天錫滅、苻堅又以安車徵瑀定禮儀、會父喪而止。太守辛章遣書生三百人就受業焉。及苻氏之末、略陽王穆起兵酒泉、以應張大豫。遣使招瑀。瑀歎曰「臨河救溺、不卜命之短長。脈病三年、不豫絕其餐饋。魯連在趙、義不結舌。況人將左袵而不救之」乃與敦煌索嘏起兵五千、運粟三萬石、東應王穆。穆以瑀為太府左長史・軍師將軍。雖居元佐、而口詠黃老、冀功成世定、追伯成之蹤。
穆惑於讒間、西伐索嘏。瑀諫曰「昔漢定天下、然後誅功臣。今事業未建而誅之、立見麋鹿游於此庭矣」穆不從。瑀出城大哭、舉手謝城曰「吾不復見汝矣」還而引被覆面、不與人言、不食七日、輿疾而歸、旦夕祈死。夜夢乘青龍上天、至屋而止。寤而歎曰「龍飛在天、今止於屋。屋之為字、尸下至也。龍飛至尸、吾其死也。古之君子不卒內寢、況吾正士乎」遂還酒泉南山赤厓閣、飲氣而卒。
郭瑀 字は元瑜、敦煌の人なり。少(わか)くして俗を超(はな)るの操有り、東のかた張掖に游び、郭荷に師事し、盡く其の業を傳わる。經義に精通し、雅(はなは)だ談論を辯じ、才藝 多く、文を屬(つづ)るを善くす。荷 卒し、瑀 以為らく 父 之を生じ、師 之を成し、君 之を爵す。而れども五服の制、師 重く服せず。蓋し聖人の謙なりと。遂に斬衰に服し、墓に廬すること三年。禮畢(おわ)りて、臨松の薤谷に隱れ、石窟を鑿ちて居とし、柏實を服し以て身を輕くし、『春秋墨說』・『孝經錯緯』作り、弟子の著錄するは千餘人なり。
張天錫 使者孟公明をして節を持し、蒲輪玄纁を以て禮を備えて之を徵せ遣む。瑀に書を遺りて曰く「先生 光を九臯に潛め、真を懷うこと獨り遠く、心は至境と與に冥符す。志は四時と與に消息す。豈ぞ知る蒼生 倒懸され、四海 拯(たす)くるを待つ者をや。孤 忝(はずかし)くも時運を承り、大業を負荷し、賢明と與にせんと思い、帝道を贊うるを同じくせん。昔 傅說に殷朝に龍翔び〔一〕、尚父 周室を鷹揚し〔二〕、孔聖が車 軌を停めず、墨子 駕するに旦を俟たず〔三〕。皆な以て黔首の禍 以て救わざる可からず。君の獨り立たざるは、道の人に由りて弘む故なり。況んや今 九服 分ちて狄場と為り、二都 盡きて戎穴と為り、天子 江東に僻陋し、名教 左袵に淪(しず)む。創毒の甚しき、開闢 未だ聞かず。先生 濟世の才を懷き、坐して觀みて救わず。其の仁智に於いてや、孤 竊に惑う。故に使者をして左を虛し綏を授せ遣しめ、先生、乃ち下國に眷(かえり)みんことを鶴企す」と。公明 山に至る。瑀 翔ぶ鴻を指して以て之に示して曰く「此の鳥や、安んぞ籠にす可きや」と。遂に深く逃げて迹を絕つ。公明 其の門人を拘(とら)う。瑀 歎じて曰く「吾れ祿を逃る。罪を避くるに非ざるなり。豈に隱居して義を行うを得るに、害 門人に及ばんや」と。乃ち出でて徵に就く。及ち姑臧を至り、天錫が母 卒するに值り、瑀 髮を括り弔に入り、三たび踊りて出づ、南山に還る。
天錫 滅ぶに及び、苻堅 又た安車を以て瑀を徵し禮儀を定むも、父の喪に會して止む。太守の辛章 書生三百人をして就きて業を受けさせ遣む。苻氏の末に及びて、略陽の王穆 兵を酒泉に起こし、以て張大豫に應ず。使を遣りて瑀を招く。瑀 歎じて曰く「河に臨みて溺れるを救い、命の短長を卜(うらな)わず。病を脈すること三年、豫め其の餐饋を絕たず。魯連 趙に在りては、義 舌を結ばず〔四〕。況んや人 將に左袵せんとして之を救わざらんや」と。乃ち敦煌の索嘏と與に兵五千を起こし、粟 三萬石を運び、東のかた王穆に應ず。穆 瑀を以て太府左長史・軍師將軍と為す。 元佐に居ると雖ども、而して口に黃老を詠み、冀(こいねが)わくは功 成て世を定め、伯成の蹤(あと)を追わんと〔五〕。
穆 讒間に惑い、西のかた索嘏を伐つ。瑀 諫めて曰く「昔 漢の天下を定め、然る後に功臣を誅す。今 事業 未だ建たずして之を誅するは、麋鹿の此の庭に游ぶを立見るなり〔六〕」と。穆 從わず。瑀 城を出て大いに哭き、手を舉げて城に謝して曰く「吾れ復た汝に見えず」と。還りて被を引きて面を覆い、人と言わず、食わざること七日、輿 疾くして歸し、旦夕に死を祈す。夜夢に青龍に乘りて天に上り、屋に至りて止まる。寤して歎じて曰く「龍 飛びて天に在り、今 屋に止まる。“屋”の字の為(つく)り、“尸”の下に“至”なり。龍 飛びて尸に至れば、吾れ其の死なり。古の君子 內寢に卒せず、況んや吾れ正士ならん」と。遂に酒泉南山赤厓閣に還りて、氣を飲みて卒す。
〔一〕出典不明。
〔二〕『詩経』大雅の大明「維師尚父、時維鷹揚」とあり、周の武王が殷を伐った牧野の戦いで太公望が軍を指揮したことを言う。
〔三〕出典不明。「孔席暖まらず墨突黔まず」の意か。
〔四〕魯連は魯仲連。『史記』魯仲連鄒陽列伝では、趙の都が秦の包囲を受けていたとき、魏からの客将を説得し、趙の味方につけた。
〔五〕伯成子高は『荘子』天地篇に見える。堯舜の時には諸侯であったが、禹が継ぐと下野し、禹の人為の統治を批判した。
〔六〕『史記』淮南衡山列伝に伍子胥が呉王夫差に諫めて言った言葉として「臣今見麋鹿游姑蘇之臺也」(私は今に鹿たちが荒れ果て都の姑蘇の楼台であそぶのが見える)とある。
郭瑀は字を元瑜といい、敦煌郡の出身である。若いころから世俗を逸脱した品行があり、東の張掖郡に遊学し、郭荷に師事し、余すことなく彼の学問を伝えられた。経書の義に精通し、大変議論を(上手に)述べ、才芸が多く、文章を書くのを得意とした。郭荷が亡くなると、郭瑀は考えた。父親が産み、師匠が完成させ、君主が官位につける。しかしながら、(服喪の重さ・期間を等親で定める)五服の制は、師匠への服喪が重くしていない。思うにこれは聖人の謙遜によるものだと。そして(5段階の服喪の最も重い)斬衰によって服し、庵を建てて3年間、墓守をした。服喪が終わると臨松郡の薤谷に隠れ住み、石窟に穴を開けて住まいとし、柏の実を食して体を軽くし、『春秋墨說』・『孝經錯緯』を著述し、弟子で記録されている者は1000人あまりいた。
張天錫(前涼の9代)は孟公明を使者として(君命の)節を持たせ、蒲の穂で車輪を覆っ(て揺れにくくし)た車と(紅黒色の織物である)玄纁を用意し、礼儀を整えて、郭瑀を招かせた。張天錫が郭瑀に送った手紙にいう「郭瑀先生は光を奥深い沢に潜め、ひとり遠く真を思い、心は最高の境地とともにあることに暗合します。志は四季とともに変化します。どうして分かりましょうか。人民が手足を縛って逆さまに吊され、天下に救われることを待つ者がいることを。私ははずかしくも(君主となる)時のまわり合わせを承り、(統治の)大業の荷を負い、賢明の者とともにしようと思い、君主として統治をする道を一緒にたたえたい。昔の伝説には、殷王朝では龍が飛翔し、太公望は周王朝を鷹が奮い立つようにたすけ、孔子の車は止まらないために、そのわだちに切れ目がなく、墨子は朝日を待たずに車に乗って出かけた。どれも人民の禍を救わないではいられないことを表しています。君主がひとりだけで立つものではないのは、道が(ひとりでなくたくさんの)人によって広がるためです。まして今は天下が分断されて夷狄の領域となり、(洛陽・長安の)二都は灰燼に帰して夷狄の住まいとなり、(晋の)天子ははるか田舎の江東におり、聖人の教えは左前の夷狄に埋没しています。(この)毒の生み出される甚だしさは(天地)開闢以来聞いたことがありません。郭瑀先生は世を救う才能をお持ちなのに、座って傍観するだけでお救いになりません。その仁智(を世のために用いないこと)について、私は内心で理解に苦しんでいます。その故に使者に(尊い)左の席を空け、旗印をさずけさせ、郭瑀先生が私の国を思い親しんでいただくのを、鶴のように首を長くして待っています」と。孟公明は(郭瑀の住む)山に到着した。(すると)郭瑀は空を飛ぶ鴻を指さして弟子に示して言った「この鳥をどうして籠に入れることができようか」と。とうと深く逃げて足跡を絶った。(すると)孟公明は郭瑀の門人を拘束した。郭瑀を嘆いて言った「私は俸禄から逃れたのだ。罪を避けたのではない。どうして隠居して義を行うことを得るために、門人に害が及ぶのであるか」と。そして出てきて招きに応じて官に就いた。そして(前涼の都の)武威郡の姑臧県に到着すると、 張天錫の母が亡くなる事態に直面し、郭瑀の髪を括って葬儀に参列し、三度踊って退出し、南山へ帰った。
張天錫の(前涼が前秦のために)滅ぶと、苻堅(前秦の3代)は(座って乗る)安車を用意して郭瑀を招き、礼儀を制定したが、 (郭瑀の)父の喪にあっため取りやめた。太守の辛章は書生300人を(郭瑀のもとに派遣し)教えを受けさせた。(前秦の)苻氏の末になると、略陽郡の王穆が酒泉郡で挙兵し、張大豫に呼応した。(王穆は)使者を派遣して郭瑀を招いた。郭瑀は嘆いて言った「河の前では溺れる者を救い、寿命の長短は占わない。病気を脈をとって診察すること3年、あらかじめ食事を贈ることを止めない。魯仲連が趙にいたとき、義について言うべきことを全て言った。まして(今は)人々が(夷狄の支配を受けて)左前になろうとしているのに、救わないことがあろうか」と。そして敦煌郡の索嘏とともに兵5000名で挙兵し、粟3万石を運んで、剥がしの王穆に呼応した。王穆は郭瑀を太府左長史・軍師将軍とした。(郭瑀は)幕僚の首位にあるとはいっても、黄老の言葉を口ずさみ、成功して世を治まったら、伯成子高のように下野したいと願った。
王穆は仲を裂く讒言に惑わされ、西の索嘏を伐った。郭瑀は諫めて言った「昔、漢王朝が天下を安定させると、その後に功臣を誅殺しました。今、事業がまだ建立していないのに、索嘏を誅殺するのは、鹿たちが荒れ果てたこの庭で遊ぶのを予見します」と。王穆は従わなかった。郭瑀は都市を出て、大いに声を出して泣き、手を挙げて都市に別れを告げて言った「私は再びあなた(王穆)に会うことはありません」と。(市中に)戻り、掛け布団を引き出して顔を覆い隠し、人と話さず、食事しないこと7日、車で急いで帰り、朝夕に死を祈願した。夜の夢で青龍に乗って天に昇り、屋根に到着すると止まった。(郭瑀は)目を覚まして言った「龍が飛んで天にあった。今、屋に止まった。“屋”の字の形は“尸”の下に“至”がある。龍が飛んで尸に至るということは、私が死ぬということである。古の君子は寝室で亡くならないものだ、ましては私は正直の士であるのだ」と。とうとう酒泉郡の南山の赤厓閣に帰り、怒りに耐えて亡くなった。
祈嘉字孔賓、酒泉人也。少清貧、好學。年二十餘、夜忽窗中有聲呼曰「祈孔賓、祈孔賓。隱去來、隱去來。修飾人世、甚苦不可諧。所得未毛銖、所喪如山崖」旦而逃去、西至敦煌。依學官誦書、貧無衣食。為書生都養以自給、遂博通經傳、精究大義。西游海渚、教授門生百餘人。張重華徵為儒林祭酒。性和裕、教授不倦、依『孝經』作『二九神經』。在朝卿士・郡縣守令彭和正等受業獨拜牀下者二千餘人。天錫謂為先生而不名之。竟以壽終。
祈嘉 字は孔賓、酒泉の人なり。少(わか)くして清貧、學を好む。年二十餘り、夜 忽ち窗中に聲有りて呼んで曰く「祈孔賓よ、祈孔賓よ。隱れなん去來(いざ)、隱れなん去來(いざ)。人世を修飾するは、甚しく苦しくして諧(やわ)らぐ可からず。得る所 未だ毛銖ならず、喪う所 山崖の如し」旦にして逃げて去り、西のかた敦煌に至る。學官に依りて書を誦み、貧しくして衣食無し。書生の都養と為りて以て自給し、遂に經傳に博く通じ、大義を精究す。西のかた海渚に游び、門生 百餘人に教授す。張重華 徵して儒林祭酒と為す。性 和裕、教授して倦まず、『孝經』に依りて『二九神經』を作る。朝に在る卿士・郡縣の守令の彭和正等 業を受け獨り牀下に拜する者 二千餘人。天錫 謂いて先生と為して之を名いわず。竟に壽を以て終う。
祈嘉は字を孔賓といい、酒泉郡の出身である。若いころから清貧で学問を好んだ。20歳あまりのこと、夜ににわかに窓の中から声が有り、次のように呼んで言った「祈孔賓よ、祈孔賓よ。さあ隠遁しよう、さあ隠遁しよう。人の世を飾り立てるのは、大変苦しいこと(ばかり)で、やらわげることはできない。得られるものは1毛1銖の軽さで、うしなう者は山や崖のように大きい」と。朝になると逃げ去って、西方の敦煌郡にたどり着いた。学官のもとで書物を読誦し、衣食が無いほど貧しかった。書生の人のために料理を作る担当となることで自給し、とうとう、経書とその伝注に博通し、その大義を精究した。西方の(青海湖の)浜辺にあそび、門生100人余りに教授した。張重華(前涼の5代)が(祈嘉を)招いて儒林祭酒とした。(祈嘉は)性格が和やかで、教授することに飽きず、『孝経』にもとづいて『二九神経』を著作した。(前涼の)朝廷にある卿士と郡県の太守県令には彭和正らの(祈嘉に)教えを受け、寝台のちかくで拝することできる者が2000人余りいた。張天錫(前涼の7代)は(祈嘉を)先生と呼んで、(一般の臣下のように)名を言うことはなかった。その最期は寿命で亡くなった。
瞿硎先生者、不得姓名、亦不知何許人也。太和末、常居宣城郡界文脊山中、山有瞿硎、因以為名焉。大司馬桓溫嘗往造之。既至、見先生被鹿裘、坐於石室、神無忤色。溫及僚佐數十人、皆莫測之、乃命伏滔為之銘贊。竟卒於山中。
瞿硎先生なる者は、姓名を得ず、亦た何許の人なるか知らざるなり。太和の末、常に宣城郡の界の文脊山の中に居り、山に瞿硎 有り、因りて以て名と為す。大司馬の桓溫 嘗て往きて之に造(いた)る。既に至り、先生を見れば、鹿裘を被り、石室に坐し、神に忤色 無し。溫 及び僚佐 數十人、皆な之を測る莫くば、乃ち伏滔に命じて之が為の銘贊す。竟に山中に卒す。
瞿硎先生は性名は分からず、どこの出身であるかも分からない。太和年間(366~371)の末に、いつも宣城郡の境界の山の中におり、山に瞿硎(見て驚くような大きな砥石)があり、それによって名付けた。大司馬の桓温が嘗て訪問したことがあった。到着し、瞿硎先生を見ると、鹿の皮衣を被り、石室に座り、表情に怨怒の様子は無かった。桓温と幕僚数十人はだれも瞿硎先生の(心を)推し測ることができず、そこで伏滔に瞿硎先生をたたえる文を刻むように命じた。最後まで山の中にいて亡くなった。
謝敷字慶緒、會稽人也。性澄靖寡欲、入太平山十餘年。鎮軍郗愔召為主簿、臺徵博士。皆不就。
初、月犯少微。少微一名處士星、占者以隱士當之。譙國戴逵有美才、人或憂之。俄而敷死。故會稽人士以嘲吳人云「吳中高士、便是求死不得死」
謝敷 字は慶緒、會稽の人なり。性 澄靖にして欲 寡し、太平山に入り十餘年。鎮軍の郗愔 召して主簿と為し、臺(とど)まりて博士に徵す。皆な就かず。
初、月 少微を犯す。少微 一名を處士星、占者 隱士を以て是に當つるとす。譙國の戴逵 美才有り、人或いは之を憂う。俄にして敷 死す。故に會稽の人士 以て吳人を嘲けりて云う「吳中の高士、便ち是れ死を求めて死を得ず」と。
謝敷は字を慶緒といい、会稽郡の出身である。性格は清く静かで、寡欲であり、太平山に入って10年あまり過ごした。鎮軍の郗愔が主簿に任官するよう招き、時間をおいて博士に招いた。(しかし)どれにの就任しなかった。
事の起こりは、月が少微の星に重なって覆い隠したことにある。少微はまたの名を処士星といい、占い士は隠士を処士星に当てはめる。譙国の戴逵は優れた才能があり、人々は戴逵が亡くなるのではないかと心配した。(しかし)突然に謝敷が亡くなった。だから(謝敷の地元の)会稽郡の人士は呉の地の(戴逵の死を心配した)人々をあざけって言った「呉の高士は死ぬこと求めたが、死ねなかった」と。
戴逵字安道、譙國人也。少博學、好談論、善屬文、能鼓琴、工書畫。其餘巧藝靡不畢綜。總角時、以鷄卵汁溲白瓦屑作鄭玄碑、又為文而自鐫之、詞麗器妙、時人莫不驚歎。性不樂當世、常以琴書自娛。師事術士范宣於豫章、宣異之、以兄女妻焉。太宰・武陵王晞聞其善鼓琴、使人召之。逵對使者破琴曰「戴安道不為王門伶人」晞怒、乃更引其兄述。述聞命、欣然擁琴而往。
逵後徙居會稽之剡縣。性高潔、常以禮度自處、深以放達為非道、乃著論曰
夫親沒而採藥不反者、不仁之子也。君危而屢出近關者、苟免之臣也。而古之人未始以彼害名教之體者何?達其旨故也。達其旨、故不惑其迹。若元康之人、可謂好遁跡而不求其本、故有捐本徇末之弊、舍實逐聲之行。是猶美西施而學其顰眉、慕有道而折其巾角。所以為慕者、非其所以為美、徒貴貌似而已矣。夫紫之亂朱、以其似朱也。故鄉原似中和、所以亂德。放者似達、所以亂道。然竹林之為放、有疾而為顰者也、元康之為放、無德而折巾者也、可無察乎。
且儒家尚譽者、本以興賢也。既失其本、則有色取之行。懷情喪真、以容貌相欺、其弊必至於末偽。道家去名者、欲以篤實也。苟失其本、又有越檢之行。情禮俱虧、則仰詠兼忘、其弊必至於本薄。夫偽薄者、非二本之失。而為弊者必託二本以自通。夫道有常經、而弊無常情、是以六經有失、王政有弊。苟乖其本、固聖賢所無奈何也。
嗟夫。行道之人自非性足體備、闇蹈而當者。亦曷能不棲情古烈、擬規前修。苟迷擬之然後動、議之然後言。固當先辯其趣舍之極、求其用心之本、識其枉尺直尋之旨、採其被褐懷玉之由。若斯、塗雖殊、而其歸可觀也。跡雖亂、而其契不乖也。不然、則流遁忘反、為風波之行、自驅以物、自誑以偽、外眩囂華、內喪道實、以矜尚奪其真主、以塵垢翳其天正、貽笑千載、可不慎歟。
孝武帝時、以散騎常侍・國子博士累徵、辭父疾不就。郡縣敦逼不已、乃逃於吳。吳國內史王珣有別館在武丘山、逵潛詣之、與珣游處積旬。會稽內史謝玄慮逵遠遁不反、乃上疏曰「伏見譙國 戴逵希心俗表、不嬰世務、棲遲衡門、與琴書為友。雖策命屢加、幽操不回、超然絕跡、自求其志。且年垂耳順、常抱羸疾、時或失適、轉至委篤。今王命未回、將離風霜之患。陛下既已愛而器之、亦宜使其身名並存、請絕其召命」疏奏、帝許之、逵復還剡。
後王珣為尚書僕射、上疏復請。徵為國子祭酒、加散騎常侍、徵之、復不至。太元二十年、皇太子始出東宮、太子太傅會稽王道子、少傅王雅、詹事王珣又上疏曰「逵執操貞厲、含味獨游。年在耆老、清風彌劭。東宮虛德、式延事外。宜加旌命、以參僚侍。逵既重幽居之操、必以難進為美、宜下所在備禮發遣」會病卒。
長子勃、有父風。義熙初、以散騎侍郎徵、不起、尋卒。
戴逵 字は安道、譙國の人なり。少(わか)くして學 博く、談論を好み、文を屬(つづ)るを善くし、能く鼓琴し、書畫に工みなり。其の餘の巧藝 靡(ちり)て綜てを畢さず。總角の時、鷄卵の汁を以て白瓦の屑を溲(ひた)して鄭玄の碑を作り、又た文を為して自ら之に鐫(ほ)る。詞 麗しく 器 妙なり、時の人 驚歎せざる莫し。性 世に當つるを樂まず、常に琴書を以て自ら娛む。術士の范宣に豫章に師事し、宣 之を異とし、兄の女を以て妻わす。太宰・武陵王の晞 其の善く鼓琴するを聞き、人をして之を召さ使む。逵 使者に對いて琴を破りて曰く「戴安道 王門の伶人を為らず」と。晞 怒れば、乃ち更に其の兄の述を引く。述 命を聞き欣然として、琴を擁して往く。
逵 後に居を會稽の剡縣に徙(うつ)す。性 高潔、常に禮度を以て自ら處り、深く放達を以て道に非ざるを為し、乃ち論を著して曰く
夫の親 沒して藥を採りて反らずる者は、不仁の子なり。君 危にして屢しば近關出ずる者は、苟免の臣なり。而して古の人の未だ始より以て彼の名教の體を害せざる者 何ぞや。其の旨の達する故なり。其の旨の達す、故に其の迹に惑わず。元康の人の若きは、遁跡を好みて其の本を求めず、故に本を捐して末に徇(したが)うの弊有り、實を舍てて聲を逐うを行うと謂う可し。是れ猶お西施を美しとして其の眉を顰めるを學び、道の有るを慕いて其の巾角を折る〔一〕がごとし。慕うを為す所以の者は、其の美と為す所以に非ず、徒らに貌の似るを貴ぶのみ。夫の紫の朱を亂して、以て其の朱に似んとするなり。故に鄉原は中和に似て、德を亂る所以なり。放なる者を達に似んとするは、道を亂す所以なり。然るに竹林の放を為し、疾有りて顰みを為す者や、元康の放を為し、德の無くして巾を折る者や、無みす可きを察す。
且つ儒家の譽れを尚ぶは、本より賢を興すを以てするなり。既に其の本を失えば、則ち色取の行 有り。情を懷いて真を喪い、容貌を以て相い欺き、其の弊 必ず末 偽に至る。道家 名を去るは、以て篤實を欲するなり。苟も其の本を失えば、又た檢を越うるの行 有り。情禮 俱に虧ければ、則ち仰詠 兼に忘れ、其の弊 必ず本の薄きに至る。夫の偽薄の者は、二本の失に非ず。而して弊を為す者は必ず二本に託して以て自ら通とす。夫の道 常經 有るも、弊 常情 無くば、是を以て六經 失 有り、王政 弊 有り。苟も其の本に乖(もと)れば、固より聖賢の奈何する無き所なり。
嗟夫(ああ)。道を行うの人 自ら性 足り體 備わり、闇に蹈みて當る者に非ず。亦た曷んぞ能く情 古烈に棲み、規 前修に擬せず。苟しくも迷えば之を擬え然る後に動き、之を議して然る後に言う。固より當に先に其の趣舍の極みを辯じ、其の用心の本を求め、其の尺を枉(ま)げて尋を直くすの旨を識り、其の褐を被り玉を懷くの由を採る。斯くの若し、塗に殊なると雖ども、而して其の歸 觀る可きなり。跡 亂ると雖ども、而して其の契 乖(へだ)てざるなり。然らざれば、則ち遁に流れて反るを忘れ、風波の行を為し、自ら驅るに物を以てし、自ら誑すに偽を以てし、外に囂華に眩み、內に道實を喪い、矜尚を以て其の真主を奪い、塵垢を以て其の天正を翳らせ、笑い 千載に貽(のこ)すは、慎まざる可きか。
孝武帝の時、散騎常侍・國子博士を以て累(かさ)ねて徵さるも、父の疾のために辭して就かず。郡縣 敦く逼(せま)ること已まず、乃ち吳に逃る。吳國の內史の王珣 別館 武丘山に在りて有り、逵 潛(ひそ)かに之を詣で、珣と與に游處して旬を積む。會稽の內史の謝玄 逵が遠く遁して反らざるを慮(おもんばか)り、乃ち上疏して曰く「伏して見るに譙國の戴逵 俗表を希心し、世務に嬰(ふれ)ず、衡門に棲遲し、琴書と與にし友と為す。策命屢しば加うると雖ども、幽操して回らず、超然として跡を絕ち、自ら其の志を求む。且つ年 耳順を垂れ、常に羸疾を抱え、時或いは適を失い、轉じて委篤に至る。今 王命 未だ回らず、將に風霜の患を離れんとす。陛下 既已に愛しみて之を器とし、亦た宜しく其の身名 並びて存せ使むべし、請う其の召命を絕たん」と。疏奏し、帝 之を許し、逵 復た剡に還る。
後に王珣 尚書僕射と為り、上疏して復た請う。徵するに國子祭酒と為し、散騎常侍を加えんと、之を徵すも、復た至らず。太元二十年、皇太子 始めて東宮を出で、太子太傅の會稽王道子・少傅の王雅・詹事の王珣 又た上疏して曰く「逵 執操貞厲にして、味を含みて獨り游ぶ。年 耆老に在り、清風彌いよ劭(すす)む。東宮 德に虛しく、式 事外に延ぶ。宜しく旌命を加え、以て僚侍を參すべし。逵 既に幽居の操を重じれば、必ず進むに難を以て美と為し、宜しく所在に下るに禮を備えて發遣すべし」病に會いて卒す。
長子の勃、父の風有り。義熙の初め、散騎侍郎を以て徵すも、起こさず、尋(しばら)くして卒す。
〔一〕『荘子』天運篇 傾国の美女の西施が胸の病で眉をひそめていると、醜女が眉をひそめる姿を真似たら、人々が逃げ出した。
また『後漢書』郭太伝 郭太が雨に濡れて角巾が折れ曲がったのを見て、人々がわざと、自分の角巾をおりまげ、郭太の字の林宗にちなんで林宗巾と名付けた。
どちらも本当の理由を知らずに形だけ真似た故事である。
戴逵は字は安道、譙国の出身である。若い頃から博学で、議論を好み、文章を書くのを得意とし、上手に鼓を鳴らし琴を弾き、書画に巧みであった。分散して全てに力を尽くしはしなかった。少年の頃、鶏卵の液で白瓦の粉を浸して鄭玄の碑を作り、また文を作ってみずから碑に彫った。文詞はうるわしく、碑は見事であり、その時の人々で驚嘆しない者はいなかった。性質として出仕することを喜ばず、いつも琴を弾き読書して自らの楽しみとした。豫章郡で術士の范宣に師事すると、范宣は戴逵を奇才として、自身の兄の娘を(戴逵に)嫁がせた。太宰で武陵王の司馬晞が(戴逵が)鼓と琴が上手であることを聞いて、使者を送って戴逵を呼びつけた。戴逵は使者の前で琴を壊して言った「この戴安道は王族の演奏係にはならない」と。(それを聞いた)司馬晞は怒り、そこで、(戴逵の)兄の戴術を呼びつけた。戴術は命令を聞き、喜んで琴を抱いて(司馬晞の元)に行った。
戴逵は後に住まいを会稽郡の剡県に移した。性格は高潔で、いつも礼儀正しくたたずんでおり、詳細に(礼にとらわれない)放達が道から外れているとして、その論著に次のようにある。
いったい親が亡くなってから、薬を採取に行って戻らない者は不仁の子である。君主が危ういというのに、しばしば都城ちかくの関を出る者はその場から逃れる臣下である。そして古の人がかの名教がはじまってこの方、その本体を害しないでいるはどうしてだろうか。その主旨に通じている故である。その主旨に通じていれば、故にその行迹に惑うことはない。元康(291~299)を生きる当代の人は、隠遁の行迹を好むが、その根本を求めず、だから、根本を見失って末端にとらわれる弊害があり、実を捨てて名を追うと言うねばならない。これはちょうど西施が美しいからといって、眉をひそめる行動を学び、(郭太が)道があるのを慕って(真似て)巾角を折るようなものだ。慕うわけは、美徳を行うゆえでなく、むやみやたらに姿を似せることを貴んでいるだけである。あの紫色が朱色をみだして、朱色に似せようしているの(と同じ)だ。だから(偽君子の)郷原が中庸でおだやかであるのに似て、徳を乱しているわけである。(とらわれない)「放」が(名教に通じる)「達」に似せようとしているのは、道を乱す原因である。だから(当代の清談をする)竹林の「放」を行い、(西施を真似て)病気があって眉をひそめる者、(当代の)元康の「放」を行い、徳が無いのに(郭太を真似て)巾角を折る者は、(本質を)失うはずであることが分かる。
その上、儒家が誉れをとうとぶのは、もともとは賢者を任用するためである。もうその根本を失ってしまえば、容姿で任用するようになる。感情にとらわれて正しさをうしない、容貌によって互いに欺き合い、その弊害として必ず末端を偽りをするようになってしまう。道家が(表面の)名を捨て去るのは篤実を追求するためである。もしもその根本を失えば、また法度を破るようになる。感情も礼儀も一緒に欠けてしまえば、敬仰することも、詠んでたたえること、どちらも忘れてしまい、その弊害として根本の薄まってしまう。かの(末端を)偽り、(根本の)薄い者は、(偽と薄の)2本の喪失だけではない。そしてこの弊害を行う者は必ずこの2本にことよせて、自分で「通」であるとする。いったい道は常に変わらない道義があるが、弊害には感情が一定ではなく、これによって、六経(の教え)は失われ、王道の政治はくずれてしまう。かりにも根本に背いてしまうことは、聖賢であってももとからどうすることもできないことだ。
ああ。道を行う人は自ら心性が十分で、肉体が備わっており、暗闇を進んで(見えずに)ぶつかるような者ではない。またどうして感情は古の烈士に(思いを)とどめ、規範は昔の賢者になぞらえないのか。かりにも迷えば、烈士になぞらえて、その後に動き、賢者を議論してその後にいう。元来、先に取捨の極みを弁じ、心を尽くす本を求め、1尺だけを曲げて8尺を伸ばす(小さな犠牲で大きな成果を得る)旨を理解し、粗末な着物を着ていても玉をいただいている由をとる。このように方法は違うとはいっても、そのたどり着く先は、見てみるのがよろしい。足跡は乱れはするが、その刻んだ跡は、乖離しない。そうでなければ、隠遁に流れて戻る野を忘れ、風や波のような行動をして、物事によって自身を駆り、偽ることで、自身をたぶらかし、外に賑やかさにくらみ、内に道理をうしない、おごり高ぶって賢明な君主を奪い、塵埃の汚れによって天の正しさを陰らせ、1000年先も伝わって笑われるようなことは、つつしむがよいだろうか。
孝武帝(司馬脩)の時、(戴逵を)散騎常侍・国子博士として、かさねて招いたが、(戴逵は)父の疾病のために断り就任しなかった。郡県(の役所)があつく(就任を)せまり続けたため、呉国に逃れた。呉国の内史の王珣は武丘山に別館があり、戴逵はこっそりとその別館を訪ね、(居候となって)王珣と一緒に住んで、日々を送った。会稽郡の内史の謝玄は戴逵が遠くに遁走して戻ってこないことを憂慮して、次のように上疏した「私がうかがいますに譙國の戴逵は俗世を思慕していますが、世間の事に関わらず、粗末な住まいにとどまり、(人と交流せず)琴と書物を友としています。辞令書を何度も送っていますが、隠遁の操を守って(命令書をたずさえて)やって来ず、超然と足跡を絶って、自身の志を追求しています。その上、年齢は60歳を過ぎ、常に持病を抱えており、あるときには快適を失い、転じて重篤にいたっています。今、天子の命令(書)はまだ戻らず、長年の艱難から離れようとしています。皇帝陛下はもはや(戴逵)をめぐんで、道具としてお使いになり、また戴逵の身(の安楽)も名(の高さ)もどちらもそのままにさせるのがよろしいでしょう。願わくば戴逵を招く命令を止めてください」と。進言したところ孝武帝は承認し、戴逵は(もと住んできた会稽郡)の剡県に帰った。
後に王珣が尚書僕射になると、上疏してまた請願した。(戴逵を)招いて国子祭酒とし、散騎常侍を兼任させようと、戴逵を招いたが、やはりやってこなかった。太元20年(396年)、皇太子(司馬徳宗、後の安帝、13歳)がはじめて宮殿から出るにあたり、太子太傅の会稽王の司馬道子・少傅の王雅・詹事の王珣がさらに上疏して言った「戴逵は節操正道を守り、趣をあじわって孤独に学んでおります。年齢は6、70歳で、清潔な風格がますます高まっています。皇太子殿下は徳が無く、(宮殿の外にでる)式が思いの外、先延ばしとなりました。 賢者を招く命令を施し、近侍の者を加えるのがよろしいかと。戴逵は以前より、隠遁の操を重んじているため、必ず(戴逵に)困難が美であると進言し、住まいに行くに儀礼を整えて(使者を)派遣するべきです」と。(戴逵は)病にかかって亡くなった。
(戴逵)の長男の戴勃は、父の遺風があった。義熙年間(405~418年)のはじめ、散騎侍郎として招いたが、就任せず、しばらくして亡くなった。
龔玄之字道玄、武陵漢壽人也。父登、歷長沙相・散騎常侍。玄之好學潛默、安於陋巷。州舉秀才、公府辟、不就。孝武帝下詔曰「夫哲王御世、必搜揚幽隱。故空谷流縶維之詠、丘園旅束帛之觀。譙國戴逵・武陵龔玄之並高尚其操、依仁游藝、潔己貞鮮、學弘儒業、朕虛懷久矣。二三君子、豈其戢賢於懷抱哉。思挹雅言、虛誠諷議、可並以為散騎常侍、領國子博士。指下所在備禮發遣、不得循常、以稽側席之望」郡縣敦逼、苦辭疾篤、不行。尋卒、時年五十八。
弟子元壽、亦有德操、高尚不仕。舉秀才及州辟召、並稱疾不就。孝武帝以太學博士・散騎侍郎・給事中累徵、遂不起。卒於家。
龔玄之 字は道玄、武陵漢壽人のなり。父の登、長沙の相・散騎常侍を歷る。玄之 學を好みて潛默し、陋巷に安んず。州 秀才に舉げ、公府 辟すも、就かず。孝武帝 詔を下して曰く「夫の哲王の御世、必ず幽隱を搜揚す。故に空谷は縶維の詠〔一〕を流し、丘園は束帛の觀〔二〕を旅す。譙國の戴逵・武陵の龔玄之 並びて其の操を高尚にし、仁に依りて藝に游び、己を潔く貞鮮、學 儒業を弘め、朕 懷を虛しくすること久し。二三の君子、豈に其の賢を懷抱に戢(かく)さんか。雅言を挹(く)み、虛誠諷議せられんと思い、並びて以て散騎常侍と為し、國子博士を領す可し。指して所在に下し禮を備えて發遣するをも、常に循い、以て席を側にし稽(と)うの望みを得ず」と。郡縣 敦く逼るも、苦辭し篤く疾して、行かず。尋(しばら)くして卒す。時に年五十八なり。
弟子の元壽、亦た德操 有り、高尚にして仕えず。秀才に舉げられ及び州 辟召すも、並びに疾を稱して就かず。孝武帝 太學博士・散騎侍郎・給事中を以て累(かさ)ねて徵すも、遂に起こさず。家に卒す。
〔一〕『詩経』小雅 白駒 第一章に「皎皎白駒、食我場苗、縶之維之、以永今朝」とあり、第四章に「皎皎白駒、在彼空谷」とある。白い馬に乗った隠賢者を馬をつなぎとめて、引き留める詩。
〔二〕『易』賁卦の爻辞に「六五。賁于丘園、束帛戔戔」とある。質素の地である丘園の賢者をたくさんの絹を贈って飾りたてる、招くという意味。
龔玄之は字を道玄といい、武陵郡漢壽県の出身である。父の龔登は長沙国の相・散騎常侍を歴任した。龔玄之は学問を好み寡黙で、狭い小路に安住した。州(の役所)は秀才に推挙し、公府も招いたが、就任しなかった。孝武帝(司馬脩)は詔を下して言った「かの聖哲の王の御世は、必ず隠遁者を探して取り立てた。だから空谷は縶維の詩を伝えており、丘園は束ねた絹でかざるという見立てを並べている。譙国の戴逵・武陵郡の龔玄之はともに品行を高尚にし、仁によって学芸を修め、自身を清浄にして正し、儒学をひろめており、私は長らく心を開いて謙虚であろうとしている。2、3人の君子よ、どうしてその賢を抱きかかえて隠しているのか。正言をくみとり、嘘と誠を諷諫し議論してほしいと思い、二人に散騎常侍・国子博士を兼任するのがよろしい。指図し住まいに行くに儀礼を整えて(使者を)派遣したが、常軌にしたがって、席を側において問うという希望をかなえられなかた」と。郡県(の役所)を熱心にせきたてが、苦しみ病が重く、行かなかった。しばらくして亡くなった。年齢は58歳だった。
弟子の元寿もまた徳ある品行があり、高尚であって仕官しなかった。秀才に推挙され、州(の役所)からも招かれたが、ともに病を称して就任しなかった。孝武帝は太学博士・散騎侍郎・給事中(の官職)を積み上げて招いたが、とうとう仕官しなかった。家で亡くなった。
陶淡字處靜、太尉侃之孫也。父夏、以無行被廢。淡幼孤、好導養之術、謂仙道可祈。年十五六、便服食絕穀、不婚娶。家累千金、僮客百數、淡終日端拱、曾不營問。頗好讀易、善卜筮。於長沙臨湘山中結廬居之、養一白鹿以自偶。親故有候之者、輒移渡澗水、莫得近之。州舉秀才、淡聞、遂轉逃羅縣埤山中、終身不返、莫知所終。
陶淡は字を處靜、太尉の侃の孫なり。父の夏、行 無きを以て廢せらる。淡 幼くして孤となり、導養の術を好み、謂えらく仙道 祈る可しと。年十五六にして、便ち食を服するに穀を絕ち、婚娶せず。家 千金を累し、僮客 百數なるも、淡 終日 端拱し、曾て營問せず。頗る易を讀むを好み、卜筮を善くす。長沙の臨湘山の中に廬を結びて之に居まい、一白鹿を養いて以て自ら偶とす。親なる故に之に候う者有れば、輒ち澗水を移渡し、之に近づくを得る莫し。州 秀才に舉ぐるも、淡 聞きて、遂に羅縣の埤山の中に轉逃し、終身 返らず、終う所を知る莫し。
陶淡は字を処静といい、太尉の陶侃の孫である。父の陶夏は品行不良のために廃嫡された。陶淡は幼いことに父親を無くし、(道家的な)養生の術を好み、神仙の道に願うのがよろしいと言った。15、6歳で食事にあたっては穀物を絶ち、婚姻をしなかった。家には大金があり、僕僮が100名ほどいたが、陶淡は一日中姿勢を正したまま何もせず、ずっと生活を営むことも話すこともしなかった。大変『易』を読むことを好み、占いが得意だった。長沙郡の臨湘山の中に庵を作って住まいとし、一頭の白牝鹿を養ってパートナーとした。親族であるために陶淡のもとに伺う者がいれば、(陶淡)は谷間の川を渡ってしまい、近づくことはできなかった。州郡(の役所)は秀才に推挙しようとしたが、陶淡はそのことを聞くと、とうとう(長沙郡内の)羅縣の埤山の中に逃げ去り、一生帰ってこず、その最期を知る者はいない。
陶潛字元亮、大司馬侃之曾孫也。祖茂、武昌太守。潛少懷高尚、博學善屬文。穎脫不羈、任真自得、為鄉鄰之所貴。嘗著『五柳先生傳』以自況曰「先生不知何許人、不詳姓字。宅邊有五柳樹、因以為號焉。閑靜少言、不慕榮利。好讀書、不求甚解。每有會意、欣然忘食。性嗜酒、而家貧不能恒得。親舊知其如此、或置酒招之。造飲必盡、期在必醉、既醉而退、曾不吝情。環堵蕭然、不蔽風日、短褐穿結、簞瓢屢空、晏如也。常著文章自娛、頗示己志、忘懷得失、以此自終」其自序如此。時人謂之實錄。
以親老家貧、起為州祭酒、不堪吏職、少日自解歸。州召主簿、不就、躬耕自資、遂抱羸疾。復為鎮軍・建威參軍、謂親朋曰「聊欲絃歌、以為三徑之資可乎」執事者聞之、以為彭澤令。在縣公田悉令種秫穀、曰「令吾常醉於酒足矣」妻子固請種秔、乃使一頃五十畝種秫、五十畝種秔。素簡貴、不私事上官。郡遣督郵至縣、吏白應束帶見之。潛歎曰「吾不能為五斗米折腰、拳拳事鄉里小人邪」義熙二年、解印去縣、乃賦歸去來。其辭曰
歸去來兮。田園將蕪。胡不歸。既自以心為形役。奚惆悵而獨悲。悟已往之不諫、知來者之可追。實迷途其未遠、覺今是而昨非。舟遙遙以輕颺、風飄飄而吹衣、問征夫以前路、恨晨光之希微。乃瞻衡宇、載欣載奔。僮僕1.來迎、稚子候門。三徑就荒、松菊猶存。攜幼入室、有酒盈樽。引壺觴以自酌、眄庭柯以怡顏。倚南窗以寄傲、審容膝之易安。園日涉2.而成趣、門雖設而常關。策扶老而流憩、時3.翹首而遐觀。雲無心4.而出岫、鳥倦飛而知還。景翳翳5.其將入、撫孤松而盤桓。
歸去來兮。請息交以絕游。世與我而相遺。復駕言兮焉求。悅親戚之情話、樂琴書以 消憂。農人告余以6.暮春、將有事乎西疇。或命巾車、或棹孤舟。既窈窕以尋壑、亦崎嶇而經丘。木欣欣以向榮、泉涓涓而始流、善萬物之得時、感吾生之行休。
已矣乎。寓形宇內復幾時。曷不委心任去留。胡為乎遑遑欲何之。富貴非吾願、帝鄉不可期。懷良晨以孤往、或植杖而7.芸秄。登東臯以舒嘯、臨清流而賦詩。聊乘化而歸盡、樂夫天命復奚疑。
頃之、徵著作郎、不就。既絕州郡覲謁、其鄉親張野及周旋人羊松齡。寵遵等或有酒要之、或要之共至酒坐、雖不識主人、亦欣然無忤、酣醉便反。未嘗有所造詣、所之唯至田舍及廬山游觀而已。
刺史王弘以元熙中臨州、甚欽遲之。後自造焉。潛稱疾不見。既而語人云「我性不狎世、因疾守閑。幸非潔志慕聲。豈敢以王公紆軫為榮邪。夫謬以不賢、此劉公幹所以招謗君子、其罪不細也」弘每令人候之、密知當往廬山、乃遣其故人龐通之等齎酒、先於半道要之。潛既遇酒、便引酌野亭、欣然忘進。弘乃出與相見、遂歡宴窮日。潛無履、弘顧左右為之造履。左右請履度、潛便於坐申脚令度焉。弘要之還州、問其所乘、答云「素有脚疾、向乘籃輿、亦足自反」乃令一門生二兒共轝之至州、而言笑賞適、不覺其有羨於華軒也。弘後欲見、輒於林澤間候之。至於酒米乏絕、亦時相贍。
其親朋好事、或載酒肴而往、潛亦無所辭焉。每一醉、則大適融然。又不營生業、家務悉委之兒僕。未嘗有喜慍之色、惟遇酒則飲、時或無酒、亦雅詠不輟。嘗言、夏月虛閑、高臥北
窗之下、清風颯至、自謂羲皇上人。性不解音、而畜素琴一張、絃徽不具、每朋酒之會、則撫而和之、曰「但識琴中趣、何勞絃上聲」以宋元嘉中卒、時年六十三、所有文集並行於世。
1.『文選』では「歓」につくる。
2.『文選』では「以」につくる。
3.『文選』では「矯」につくる。
4.『文選』では「以」につくる。
5.『文選』では「以」につくる。
6.『文選』では「及春」につくる。
7.『文選』では「耘」につくる。
陶潛は字は元亮、大司馬 侃の曾孫なり。祖の茂、武昌太守なり。潛 少(わか)くして高尚を懷き、博學にして善く文に屬(つづ)る。穎脫して羈(つな)がれず、真に任ずるを自得し、鄉鄰の貴ぶる所と爲る。嘗て『五柳先生傳』を著し、以て自ら況(たと)えて曰く「先生 何許なる人かを知らず、姓字も詳かにせず。宅邊に五柳樹 有り、因りて以て號と為す。閑靜にして言少く、榮利を慕わず。讀書を好み、甚だしくは解するを求めず。每に意に會うこと有れば、欣然として食を忘る。性は酒を嗜めども家の貧しくして恒に得ること能わず。親舊は其の此く如きを知り、或は置酒して之を招く。飲に造(いた)らば必ず盡くし、期するは必ず醉うに在り、既に醉いて退くに、曾て情を吝(やぶさ)かにせず。環堵蕭然として、風日を蔽(さえぎ)らず、短褐を穿き結び、簞瓢 屢しば空にすも、晏如たるなり。常に文章を著して自ら娛しみ、頗る己が志を示し、得失を忘懷し、此を以て自ら終る」と。其の自序は此の如し。時の人 之を實錄と謂う。
親 老いて家 貧しきを以て、起こして州祭酒と為るも、吏職に堪えず、少日にして自ら解きて歸す。州 主簿に召くも、就かず、躬(みづか)ら耕して自ら資け、遂に羸疾を抱く。復して鎮軍・建威參軍と為り、親朋に謂いて曰く「聊(いささ)か絃歌を以て三徑〔一〕の資と為さんと欲するは可なるか」と。執事の者 之を聞き、以て彭澤令と為す。縣の公田に在りて悉く秫穀を種(う)え令め、曰く「吾をして常に酒に醉わ令むに足るか」妻子 固く秔(うるち)を種(う)うるを請い、乃ち一頃五十畝 秫を種え、五十畝 秔を種え使む。素より貴を簡(あな)どり、上官に私事せず。郡 督郵を遣りて縣に至り、吏 應に束帶して之に見ゆべしと白(もう) す。潛 歎じて曰く「吾れ五斗米を為し腰を折る、拳拳として鄉里小人に事うこと能わざるか」義熙二年、印を解きて縣を去り、乃ち「歸去來」を賦す。其の辭に曰く
歸去來兮(かえりなんいざ)。田園 將に蕪(あ)れなんとす。胡んぞ歸らざる。既に自ら心を以て形の役を為す。奚んぞ惆悵として獨り悲まんや。已往の諫めざるを悟り、來者の追う可きを知る〔二〕。實に途に迷うこと其れ未だ遠からず、今の是をして昨の非を覺る。舟 遙遙として以て輕く颺(あが)り、風 飄飄として衣を吹き、征夫に問うに前路を以てするも、晨光の希微なるを恨む。乃ち衡宇を瞻(み)て、載(すなわ)ち欣び載ち奔る。僮僕は來り迎え、稚子は門に候(ま)つ。三徑は荒に就き、松菊は猶お存す。幼を攜(たず)さえて室に入り、酒有りて樽に盈つ。壺觴を引きて以て自ら酌み、庭柯を眄(み)て以て顏を怡(よろこば)す。南窗に倚りて以て傲に寄せ、膝を容るるの安じ易きを審らかにす。園は日に涉りて趣を成し、門は設くも雖も常に關(と)ざす。扶老を策(つきつ)きて流憩し、時に首を翹(あ)げて遐觀す。雲は無心にして岫(みね)を出で、鳥は飛ぶに倦みて還るを知る。景は翳翳として其れ將に入らんとし、孤松を撫でて盤桓す。
歸去來兮(かえりなんいざ)。交りを息めて以て游を絕たんことを請う。世と我と相い遺(のこ)す。復た言(ここ)に駕して焉(なに)をか求めん。親戚の情話を悅び、琴書を樂しみて以て憂いを消さん。農人は余に告ぐるに暮春を以てし、將に西疇に事有らん。或いは巾車に命じ、或いは孤舟に棹す。既に窈窕として以て壑を尋ね、亦た崎嶇として丘を經る。木は欣欣として以て榮に向い、泉は涓涓として流れはじめ、萬物の時を得るを善(よみ)すも、吾が生の休に行くを感ず。
已ぬるかな。形を宇內に寓するは復た幾時ぞ。曷(なん)ぞ心に委ねて去留を任せざる。胡為ぞ遑遑として何くにか之かんと欲する。富貴は吾が願いに非ず、帝鄉は期す可らず。良晨を懷いて以て孤り往き、或いは杖を植(た)てて芸秄す。東臯に登りて以て舒(おもむ)ろに嘯(うそぶ)き、清流に臨みて詩を賦す。聊(いささ)か化に乘じて盡くる歸し、夫の天命を樂みて復た奚(なに)をか疑わん。
之を頃(しばら)くして、著作郎に徵すも、就かず。既に州郡の覲謁を絕し、其の鄉親の張野及び周旋人の羊松齡・寵遵等 或いは酒有りて之を要(むか)え、或いは之を要(むか)えて共に酒坐に至り、主人を識らずと雖ども、亦た欣然として忤(さから)うこと無く、酣醉すれば便ち反る。未だ嘗つて造詣する所有らず、之く所は唯だ田舍及び廬山に至り游觀するのみ。
刺史の王弘 元熙中を以て州に臨み、甚だ欽(つつし)みて之を遲(ま)つ。後に自ら造(いた)る。潛 疾と稱して見えず。既にして人に語りて云う「我が性 世に狎(な)れず、因りて疾として閑を守る。幸にも志を潔くし聲を慕うに非ず。豈に敢て王公を以て軫(うれ)いを紆(めぐ)らせて榮を為さんや。夫れ謬 賢ならざるを以て、此の劉公幹〔三〕謗りを君子に招(あば)かる所以にして、其の罪 細からならざるなり」と。弘 每に人をして之を候(うかが)い令め、密かに當に廬山に往くべきを知れば、乃ち其の故人の龐通之等に酒を齎(あた)え遣め、半道を先じて之を要(むか)う。潛 既に酒に遇えば、便ち引きて野亭に酌し、欣然として進むを忘る。弘 乃ち出でて與に相見え、遂に歡宴して日を窮す。潛 履無く、弘 左右を顧みて之が為めに履を造る。左右 履を度(はか)る請うに、潛 便ち坐に於いて脚を申(のば)して度(はか)ら令む。弘 之を要(むか)えて州に還るに、其の乘る所を問う、答えて云う「素より脚疾有り、向うに籃輿に乘り、亦た自ら反るに足る」と。乃ち一門に生る二兒をして共に之を轝(の)せ令めて州に至り、而して言笑賞適して、其の華軒に羨の有るを覺えざるなり。弘 後に見えんと欲し、輒ち林澤の間に之を候(うかが)う。酒米の乏絕するに至りて、亦た時に相い贍(み)る。
其の親朋 事を好み、或いは酒肴を載(お)びて往き、潛 亦た辭する所 無し。一醉する每に、則ち大いに適して融然たり。又た生業を營まず、家務は悉く之を兒僕に委ぬ。未だ嘗つて喜慍の色有らず、惟だ酒に遇いて則ち飲み、時 或いは酒無くば、亦た雅詠して輟(や)めず。嘗つて言う、夏月の虛閑、北窗の下に高臥し、清風 颯至し、自ら羲皇上人と謂う。性 音を解せずして素琴一張を畜え、絃徽の具らず、朋酒の會の每に、則ち撫でて之に和し、曰く「但だ琴中の趣を識り、何んぞ絃上の聲を勞らわんか」と。宋の元嘉中を以て卒し、時に年 六十三、所有する文集 並びに世に行わる。
〔一〕後述の「帰去来賦」の李善の注(『文選』)に『三舗決録』が引かれているが、不十分なため、唐代の書になるが、『蒙求』で補って説明する。前漢の蒋詡 は王莽の政に嫌気がさして隠遁し、屋敷の竹の下に3筋の小道をつくり、求仲・羊仲の二人の隠者にしたがって遊んだいう。
〔二〕『論語』微子篇に隠者の楚狂と接輿が孔子に向かって歌った歌に「往者不可諫、來者猶可追」とある。
〔三〕建安七子の劉楨。『三国志』魏書 王昶伝にて「性行不均、少所拘忌」と品行にはすぐれなかった。
〔四〕『尚書』堯典に「允釐百工、庶績咸熙」とある。
〔五〕尚平は尚長、字を子平のこと。嵇康の『高士伝』によると、王莽に招かれたが家に隠れた。また光武帝のとき、婚姻する勅令が出ると五岳を回って行方知れずとなった。
陶潜は字を元亮といい、大司馬の陶侃の曾孫である。祖父の陶茂は武昌郡の太守であった。陶潜は若い頃から高潔な隠遁を行うことをいだき、博学で文章を書くのに長けていていた。世俗の拘束を脱し、自然のままにあることを自得し、郷里の人々から貴ばれるようになった。かつて『五柳先生伝』を著し、自身のことを例えて次のように書いた「先生はどこの生まれの人か不明であり、姓も字も詳細はわからない。住まいの近くに五本の柳の木があるため、それを号とした。物静かで言葉少なく。栄利を求めず、読書を好んだが、はっきりと理解することは追求しなかった。いつも意にかなうことがあれば、喜び楽しんで食事を忘れるほどであった。性向として酒を嗜んだものの、家が貧しいためにいつも(酒を)得られなかった。親族・旧交の友は五柳先生がそのようであるのを知っており、しばしば酒を用意して五柳先生を招いた。飲みにいけば必ず飲み尽くし、必ず酔うことを願い、酔って帰るとなると、気持ちを躊躇することはなかった。家の垣根はしずかでひっそりとして、風と日光をさえぎらず、粗末な丈の短い着物を身につけ、(飲食物の器の)箪瓢がしばしば空にするほど(貧しい様子)だが、ゆったりとしていた。いつも文章を著して自分でたのしみ、ややすこし自身の志をあらわし、損得を忘れて、このように自身の人生を終えた」と。『五柳先生伝』の自序はこのようであった。(事実とは異なるのだが)当時の人々はこれを実録だと言った。
(陶潜は)親は老いて家も貧しいがために、仕官して州祭酒となったが、官吏の仕事にたえられず、数日で自ら辞めて帰郷した。州は主簿として招いたが、就任せず、自ら耕して生計を立てたが、とうとう衰弱して病気となった。復職して鎮軍・建威参軍となり、親族と友に言った「少しばかり琴と歌を隠者の庭のそえものとしようと求めるのはよろしいか」と。官僚の者がこれを聞いて、(陶潜を)豫章郡彭澤県の県令とした。彭澤県の公田にあって全てモチアワを植えさせて、言った「私を常時、酒に弱させるのに十分か」と。妻子は固くウルチを植えることを願いでると、1頃50畝(約7.5㏊)はモチアワを植え、50畝(約2.5㏊)はウルチを植えさせた。(陶潜は)以前から高貴な人をあなどっており、上役の者と私的に関係を持たなかった。豫章郡は督郵を派遣し彭澤県にやってくると、(陶潜の部下の)官吏は、当然ながら衣冠を整えて督郵に面会すべきです、と申し上げた。陶潜はなげいて言った「私は(わずか)五斗の米のために腰を折(って機嫌をと)り、勤勉に郷里の小人に仕えることなどできない」と。義熙二年(406年)に(県令の)印綬を外して彭澤県を去り、そして「帰去来」の賦をつくった。その内容はこうである
さあ帰ろう。(故郷に)田園が荒れようとしている。どうして帰らないのか。もう自身の心を体のために働かせた。なのにどうして失望してひとりで悲しんでいるのか。過ぎ去ったことは取り戻せないことを悟り、将来のことは追いかけられることを知った。まことに道に迷ったもののそれほどは遠ざかっていない、今が正しいことによって、昨日までの誤りに気が付いた。船はゆらゆらとして軽く浮き上がり、風はひゅうひゅうと衣に吹き付け、道行く旅人に先の道程をたずねたが、夜明けの光は微かであること悲しく思った。そして家を見えると、(はっ、と)うれしく駆け出した。僕僮は迎え出て、幼子は門のところで待っていた。三本の小道のある庭は荒れていたが、松と菊はまだ残っていた。幼子を抱き上げて部屋に入ると、樽に満ちた酒があった。杯を引き寄せて手酌で飲んで、庭木をみたら顔がほほえんだ。南の窓によりかかて安らぐと、膝を入れられるだけの(狭い家でも)落ち着けることがわかった。庭は日増しに趣深くなり、門は設けられているがいつも閉ざさずに開けっ放しにしていた。杖をつきながら散歩したり休んだりして、ときどき顔を上げて遠くを眺めた。雲は無心に山の峰からでてきて、鳥は飛ぶのに飽きて帰っているの見知った。太陽は薄暗く沈もうとしており、(私は)一本松を撫でてその場に引き留められている。
さあ帰ろう。世俗と交遊をやめたいと願う。世間と私とで互いすれ違うのだ。また車で出遊して何を求めようというのか。親戚の心知る話を楽しみ、琴をひき読書することを楽しみとして憂いを消すことにしよう。農夫は私に春の末となったこと告げたので、西の田畑で耕作をはじめよう。ほろのついて車を用意させたり、ただ一つの舟の棹でこいでいく。奥深く谷をおとずれ、けわしい丘を経ていく。木は生い茂って花咲き、泉はちょろちょろと流れ始めている。万物が(春の)よい時となったことを喜んでいるのに、私の人生が死に近づいていると感じる。
もうどうしようもない。体がこの宇宙に存するのはどれほどだろうか。どうして心に去就を任せないのか。どうしてそわそわしてどこに行こうするのか。富貴は私の望むものではないし、天帝の住まいにも期待できない。吉日を選んで(世を顧みずに)ひとりで進み、あるときは杖をつき建てて草を除いたり土をかけたりした。東の丘にのぼってゆったりと口ずさみ、清流に向かって詩をつくる。少しばかり(自然の)変化にまかせて命のつきるままにして、かの天命を楽しめめばなんの疑いもなくなってしまうのだ。
しばらくして著作郎に招かれたが就任しなかった。以前から州郡(の役所)からの(使者)の面会を拒絶し、同郷の張野及び門弟の羊松齡・寵遵らが、あるときは酒を整えて陶潜を呼び。またあるときは陶潜を呼んで一緒に酒席に行き、(その酒席の)のホストと面識がなくとも、よろこんだ様子で(ホストの意に)そむくことなく、十分に酔ったらすぐに帰った。まだ訪問したことのない酒席は無く、行くところはただ農村及び廬山に行って遊覧するだけである。
江州刺史の王弘は元熙年間に(419~420年)江州に着任し、大変うやうやしく陶潜がやってくるのを待った。(陶潜が来ないため)後に自ら訪ねた。陶潜は病と称して会わなかった。やがて(陶潜は)人に語っていった「私の性格は世間と親しまない、だから病を称してしずかな暮らしを守っている。幸いにも(別に)志を潔く名声を慕って(そうしている)わけではない。どうしてわざわざ王弘殿を憂慮させて(自身が)豊かになるとするだろうか。その誤りは(私が)賢者でないことで、この(私が)劉楨だという非難をは君子に暴かれてしまうためで、その罪は些細ではない」と。王弘はいつも部下の者に陶潜(の様子)をうかがわせ、(陶潜に)知られずに(陶潜と会うには)廬山に行くのがよろしいことを知ると、陶潜の旧友の龐通之らに酒を与えさせて、道中の先で陶潜を待ち受けた。陶潜は酒に遭遇したら、(酒を)引き寄せて野外の亭ですくい取って飲み、よろこんだ様子で先に進むことを忘れた。王弘はそこで、あらわれて(陶潜)と会い、とうとう愉快に日が暮れるまで宴をした。陶潜は履き物がなく、王弘は左右の者を振り返って陶潜のために履き物を作らせた。左右の者は履き物の大きさを計測したいと(陶潜に)願いでると、陶潜はそこで座りながら足を伸ばして計測させた。王弘は陶潜を出迎えて州(の城)に帰るにあたって、駕籠に乗るかどうか訪ねると、(陶潜は)答えて言った「(私は)元来、足の病気があるが、往路は竹の駕籠に乗っても、帰路は自身で(歩いて)帰ることができる」と。そこで一門に生まれた二人の子供を一緒に(駕籠に)乗らせて州(の城)までやってきて、そして談笑して楽しみ、(陶潜は)華美な車を羨ましさを感じることはなかった。王弘は後に(また陶潜と)会おうとして、そこで(彼の隠居する)林澤の地で(様子を)うかがった。(陶潜の)酒食が底つきたことで、また会うことができた。
陶潜の親族友人は風流を好み、しばしば酒肴をたずさえて訪ね、陶潜もまた断ることはなかった。大変ここちよくゆったりとした。また(自ら)生業を営まず、家の仕事は全て僕僮にゆだねた。いままで一度もよろこんだ表情も不快の表情もせず、ただ酒があれば飲んで、たまたま酒が無ければ、見事に歌って止まることはなかった。かつてこんなことを言った、夏の何事もないとき、北窓の下で寝転んでいると、清風が吹いてきたとき、自分のことを羲皇(伏羲)上人と称した。元来、音楽を解するわけではないが、木地のままの琴一張をたくわえ、弦はそろっていないが、友との酒席のたびに撫でて唱和して言った「ただ琴の中の風流を理解するのに、どうして弦のかなでる音をねぎらわないのか」と。(陶潜は)劉宋の元嘉年間(424~453年)中に亡くなり、そのとき年齢は63歳、所有していた(自作の)文集は全て世に広まった。
史臣曰君子之行殊塗。顯晦之謂也。出則允釐庶政、以道濟時。處則振拔囂埃、以卑自牧。詳求厥義、其來敻矣。公和之居窟室、裳唯編草、誡叔夜而凝神鑒。威輦之處叢祠、衣無全帛、對子荊而陳貞則。並滅景而弗追、柳禽・尚平之流亞。夏統遠邇稱其孝友、宗黨高其諒直、歌小海之曲、則伍胥猶存。固貞石之心、則公閭尤愧、時幸洛濱之觀、信乎茲言。宋纖幼懷遠操、清規映拔、楊宣頌其畫象、馬岌歎其人龍、玄虛之號、實斯為美。餘之數子、或移病而去官、或著論而矯俗、或箕踞而對時人、或弋釣而棲衡泌。含和隱璞、乘道匿輝。不屈其志、激清風於來葉者矣。
贊曰、厚秩招累、修名順欲。確乎羣士。超然絕俗。養粹巖阿、銷聲林曲。激貪止競、永垂高躅。
史臣曰く、君子の行いは塗を殊にす。顯晦の謂いなり。出れば則ち允(まこと)に政に釐庶あり〔四〕、道を以て時を濟う。處れば則ち囂埃を振り拔り、卑きを以て自ら牧(やしな)う。詳かに厥の義を求め、其の敻(とお)きを來(きた)す。公和の窟室に居りて、裳は唯だ草を編むのみ、叔夜を誡めて神鑒を凝らす。威輦の叢祠に處りて、衣は全帛 無く、子荊に對して貞則を陳ぶ。並びて景を滅して追わず、柳禽・尚平の流亞なり〔五〕。夏統の遠邇に其の孝友と稱され、宗黨 其の諒直を高しとし、小海の曲を歌えば、則ち伍胥 猶お存するがごとし。貞石の心を固めば、則ち公閭 尤も愧じ、時に洛濱の觀を幸とす、信なるかな茲の言。宋纖は幼くして遠操を懷い、清規 映え拔き、楊宣は其の畫象を頌し、馬岌は 其の人龍なるを歎じ、玄虛の號、實に斯れ美と為しすなり。餘の數子、或るものは病を移して官を去り、或るものは論を著して俗を矯し、或るものは箕踞して時の人に對し、或るものは弋釣して衡泌に棲む。和を含みて璞を隱し、道に乘りて輝を匿す。其の志を屈し、清風を來葉に激(はげ)む者なり。
贊に曰く、秩を厚くし招き累(かさ)ね、名を修めて順うを欲す。確たるかな羣士。超然として俗を絕つ。粹を巖阿に養い、聲を林曲に銷(け)す。貪を激し競を止め、永く高躅に垂る。
史臣が言う、君子の行いは(それぞれが)道を異にする。(世に)あらわれる者も隠れる者もいる。(世に)出ればまことに政治において多く功績があり、道理によって時勢をすくう。(隠れて家に)居れば俗世から抜け出して、身分低さによって自足した。詳らかに義をを求め、遠きを招く。孫登の土窟に暮らし、衣服はただ草を編んだだけであり、すぐれた観察に集中して嵆康をいましめたこと。董京の白社に住んで、衣は一枚の絹でなく(広い集めたくずで)孫楚に正しい(自然の)おきてを述べたこと。二人とも姿を消して行方知らずとなったは、柳下恵・尚長の流れを継ぐ者である。夏統の遠近(の者)に親孝行で弟を可愛がると評判で、宗族の者がそ正直さを褒め、 小海の曲を歌うと、伍子胥がまるで(そばに)いるかのようであり、固石の心を固めると、賈充も大変恥じて、その時の洛陽の川浜の様子を高揚させたのは、誠実であるなあ、その言葉は。宋纖は幼い頃から品行が非凡であろうと思い、規範を守ることがずば抜けており、敦煌太守の)楊宣は(宋纖)の肖像を見て頌をつくり、(酒泉太守の)馬岌は人の中の龍であると嘆じて、(宋纖の死後に)玄虚先生と諡したのは、実に美をするのである。残りの数名の隠者も、ある者は病の称して官職を去り、ある者は論文を著して世俗を矯正し、ある者は両足を伸ばして座って、人と対面し、ある者は狩りと釣りをして隠居の地に住んだ。温和の気をもって磨いてない玉(のような素質)を隠し、道に従って輝きを隠した。その志は屈することなく、高潔な流儀を後世にふるいたたせる者たちである。
贊に言う、俸禄を厚くし招聘をかさね、名を高めて順うことも求めた。堅固であるな諸々の隠士たちは。世俗から抜け出した。純粋さを厳石の奥まったところに生活し、声を林の中で歌って消した。欲深さをとどめ、争いを止め、ながく崇高な品行を(後世に)伝えた。