いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第六十七巻_四夷伝

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お恥ずかしい限りですが、ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。宜しくお願いいたします。

原文

夫恢恢乾德、萬類之所資始。蕩蕩坤儀、九區之所均載。考羲軒於往統、肇承天而理物。訊炎昊於前辟、爰制地而疏疆。襲冠帶以辨諸華、限要荒以殊遐裔、區分中外、其來尚矣。九夷八狄、被青野而亙玄方。七戎六蠻、緜西宇而橫南極。繁種落、異君長、遇有道則時遵聲教、鍾無妄則爭肆虔劉。趨扇風塵、蓋其常性也。詳求遐議、歷選深謨、莫不待以羈縻、防其猾夏。
武帝受終衰魏、廓境全吳、威略既申、招攜斯廣。迷亂華之議、矜來遠之名、撫舊懷新、歲時無怠。凡四夷入貢者、有二十三國。既而惠皇失德、中宗遷播、凶徒分據、天邑傾淪、朝化所覃、江外而已。賝貢之禮、於茲殆絕、殊風異俗、所未能詳。故採其可知者、為之傳云。北狄竊號中壤、備於載記。在其諸部種類、今略書之。

訓読

夫れ恢恢たる乾德は、萬類の資けて始むる所なり。蕩蕩たる坤儀は、九區の均しく載する所なり。羲軒を往統に考ふるに、肇めて天を承けて物を理む。炎昊を前辟に訊きて、爰に地を制して疆を疏(わか)つ。冠帶を襲ぎて以て諸華を辨へ、要荒を限りて以て遐裔を殊にし、中外を區分し、其の來ること尚し。九夷八狄、青野を被ひて玄方に亙る。七戎六蠻、西宇に緜なりて南極に橫たはる。種落を繁くし、君長を異にし、有道に遇はば則ち時に聲教に遵ひ、無妄に鍾るときは則ち爭ひて虔劉を肆にす。風塵を趨扇するは、蓋し其の常性なり。詳らかに遐議を求め、歷く深謨を選し、待するに羈縻を以てして、其の夏を猾すを防がざる莫し。
武帝 終を衰魏に受け、境を全吳に廓げ、威略 既に申べ、招攜 斯に廣し。亂華の議に迷ひ、來遠の名を矜り、舊を撫し新を懷け、歲時 怠ること無し。凡そ四夷の入貢する者、二十三國有り。既にして惠皇 德を失ひ、中宗 遷播するや、凶徒 分據し、天邑 傾淪し、朝化の覃(およ)ぶ所、江外のみ。賝貢の禮、茲に殆ど絕えれば、殊風異俗、未だ詳らかにすること能はざる所なり。故に其の知る可き者を採り、之が傳を為ると云ふ。北狄 中壤に號を竊むは、載記に備はる。其の諸部の種類在らば、今 略ぼ之を書す。

現代語訳

そもそも広大な天の働きは、万物を助け生み出すものである。深遠な大地は、全域を等しく載せるものである。伏羲氏と軒轅氏の時代に遡って考えれば、はじめて天を受けて万物を整えた。炎帝と太昊は前代の法を聞いて、地を区切って領域を分けた。冠と帯(礼)を継承して中華をおさめ、周辺を仕切って境界を設け、中と外とを区別して、長い年月が経過した。九夷と八狄は、草原をおおって北方に広がった。七戎と六蛮は西方をうめて南方の果てに及んだ。種族の人口は多く、それぞれに首長を立て、(中国に)有道の為政者がいれば教化に従い、思いがけないことが起これば争って殺害をした。兵乱を扇動するのは、恐らく彼らの本性である。詳らかに遠き論議を求め、あまねく深い思慮を用い、彼らを羈縻(牽制して使役)し、中華を乱すのを防がねばならない。
武帝は衰えた魏から禅譲を受け、領土を呉の全域に広げ、兵威と謀略が伸張し、離れたもの招いて迎えた。(夷狄が)中華を乱すという議論(『徙戎論』か)について判断がつかず、遠方が帰順したという名分を誇り、(帰順の時期が)古いものも新しいものも綏撫し、時節ごとに礼を怠らなかった。四方の異民族で入貢したものは、二十三国であった。恵帝が徳を失い、中宗(元帝)が遷都すると、凶悪なものが割拠し、国家は傾覆し、教化が及ぶのは、長江の外側だけとなった。朝献の礼は、これでほとんど絶えたので、異民族の風俗は、詳しく分からない。そこで分かる範囲のことを、この列伝に綴る。北狄が中原で帝号を侵したことは、載記に記してある。その他の各種の部族について、ここに概略を記すこととする。

東夷 夫餘國 馬韓 辰韓 肅慎氏 倭人 裨離等十國

原文

夫餘國
夫餘國在玄菟北千餘里、南接鮮卑、北有弱水、地方二千里、戶八萬、有城邑宮室、地宜五穀。其人強勇、會同揖讓之儀有似中國。其出使、乃衣錦罽、以金銀飾腰。其法、殺人者死、沒入其家。盜者一責十二。男女淫、婦人妬、皆殺之。若有軍事、殺牛祭天、以其蹄占吉凶、蹄解者為凶、合者為吉。死者以生人殉葬、有椁無棺。其居喪、男女皆衣純白、婦人著布面衣、去玉佩。出善馬及貂豽・美珠、珠大如酸棗。其國殷富、自先世以來、未嘗被破。其王印文稱「穢王之印」。國中有古穢城、本穢貃之城也。
武帝時、頻來朝貢。至太康六年、為慕容廆所襲破、其王依慮自殺、子弟走保沃沮。帝為下詔曰、「夫餘王世守忠孝、為惡虜所滅、甚愍念之。若其遺類足以復國者、當為之方計、使得存立」。有司奏護東夷校尉鮮于嬰不救夫餘、失於機略。詔免嬰、以何龕代之。明年、夫餘後王依羅遣1.〔使〕詣龕、求率見人還復舊國、仍請援。龕上列、遣2.督郵賈沈以兵送之。廆又要之於路、沈與戰、大敗之。廆眾退、羅得復國。爾後每為廆掠其種人、賣於中國。帝愍之、又發詔以官物贖還、下司・冀二州、禁市夫餘之口。

1.『太平御覧』巻七百八十一に従い、「使」一字を補う。
2.「督郵」は、『晋書』巻一百八 慕容廆載記に従うならば、「督護」に作るべきか。

訓読

夫餘國
夫餘國は玄菟の北千餘里に在り、南は鮮卑に接し、北に弱水有り、地は方二千里、戶は八萬にして、城邑宮室有り、地は五穀に宜し。其の人 強勇にして、會同揖讓の儀 中國に似る有り。其の出て使するには、乃ち錦罽を衣し、金銀を以て腰を飾る。其の法は、人を殺す者は死とし、其の家を沒入す。盜む者は一に十二を責む。男女 淫し、婦人 妬せば、皆 之を殺す。若し軍事有らば、牛を殺して天を祭り、其の蹄を以て吉凶を占ひ、蹄 解く者は凶と為し、合ふ者は吉と為す。死者は生人を以て殉葬し、椁有りて棺無し。其の居喪は、男女 皆 純白を衣し、婦人 布の面衣を著け、玉佩を去る。善馬及び貂豽・美珠を出だし、珠は大なること酸棗が如し。其の國の殷富たること、先世より以來、未だ嘗て破られず。其の王の印文に「穢王之印」と稱す。國中に古の穢城有り、本は穢貃の城なり。
武帝の時に、頻りに來りて朝貢す。太康六年に至り、慕容廆の襲ひ破る所と為り、其の王の依慮 自殺し、子弟 走りて沃沮に保す。帝 為に詔を下して曰く、「夫れ餘王 世々忠孝を守るに、惡虜の滅する所と為り、甚だ愍れみ之を念ふ。若し其の遺類 以て國を復する者に足らば、當に之に方計を為し、得て存立せしむべし」と。有司 奏すらく護東夷校尉の鮮于嬰 夫餘を救はず、機略を失すと。詔して嬰を免じ、何龕を以て之に代ふ。明年に、夫餘の後王依羅 使を遣はして龕に詣り、見人を率ゐて還りて舊國を復するを求め、仍て援を請ふ。龕 上列し、督郵の賈沈を遣はして兵を以て之に送る。廆 又 之を路に要し、沈 與に戰ひ、大いに之を敗る。廆の眾 退き、羅 國を復するを得。爾後 每に廆の為に其の種人を掠めて、中國に賣らる。帝 之を愍れみ、又 詔を發して官物を以て贖して還し、司・冀二州に下し、夫餘の口を市ふを禁ず。

現代語訳

夫餘国
夫餘国は玄菟郡の北の千里あまりにあり、南は鮮卑に接し、北に弱水があり、地は方二千里で、戸数は八万、城邑や宮室があり、土地は五穀の生育に適する。その種族は強く勇敢で、ひとが集まり拱手の礼をするさまは中国に似ている。国外に使者として出るとき、錦と毛氈の衣をつけ、金銀で腰を飾る。その法律は、人を殺せば死罪で、家を没収する。盗んだら十二倍を償わせる。男女が淫行し、婦人が妬めば、全員を殺す。もし戦争があると、牛を殺して天を祭り、その蹄で吉凶を占い、蹄が解せば凶とし、合せば吉とした。死者には生きた人間を殉葬し、椁(外箱)はあるが棺はない。喪に服するとき、男女とも純白を身につけ、婦人は布で顔をおおい、玉佩を外す。名馬および貂や豽と美しい珠を産出し、珠は酸棗のように大きい。その国は豊かで、前代より以来、衰えたことがない。その王の印文に「穢王之印」と称する。国中に穢城の遺跡があり、もとは穢貃の城であった。
武帝のとき、頻繁に朝貢にきた。太康六(二八五)年に至り、慕容廆に襲撃されて敗れ、その王の依慮は自殺し、子弟は逃げて沃沮に籠もった。武帝はかれらのために詔を下し、「さて餘王は代々忠孝を守ってきたが、悪虜に滅ぼされた、とても憐れで悲しく思う。もし国を復興できる遺族がいるなら、計略を立て、存続をさせてやれ」と言った。担当官は上奏して護東夷校尉の鮮于嬰は夫餘を救わず、軍略に欠けていますと言った。詔して鮮于嬰を免じ、何龕に交代させた。翌年、夫餘の後王の依羅が使者を何龕に送り、配下を率いて旧国を復興したいと願い、援護を求めた。何龕は報告し、督郵(督護か)の賈沈に兵を率いて行かせた。慕容廆もこれを道で迎撃し、賈沈は戦って、大いにこれを破った。慕容廆の軍は退き、依羅は国を復興できた。以後つねに慕容廆に種族を拉致され、中国に売り飛ばされた。武帝はこれを憐み、また詔して政府の物品で買い戻して帰国させ、司州と冀州の二州に命令し、夫餘の人を買うことを禁じた。

原文

馬韓
韓種有三、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓在帶方南、東西以海為限。
馬韓居山海之間、無城郭、凡有小國五十六所、大者萬戶、小者數千家、各有渠帥。俗少綱紀、無跪拜之禮。居處作土室、形如冢、其戶向上、舉家共在其中、無長幼男女之別。不知乘牛馬、畜者但以送葬。俗不重金銀錦罽、而貴瓔珠、用以綴衣或飾髮垂耳。其男子科頭露紒、衣布袍、履草蹻、性勇悍。國中有所調役、及起築城隍、年少勇健者皆鑿其背皮、貫以大繩、以杖搖繩、終日讙呼力作、不以為痛。善用弓楯矛櫓、雖有鬭爭攻戰、而貴相屈服。俗信鬼神、常以五月耕種畢、羣聚歌舞以祭神。至十月農事畢、亦如之。國邑各立一人主祭天神、謂為天君。又置別邑、名曰蘇塗、立大木、懸鈴鼓。其蘇塗之義、有似西域浮屠也、而所行善惡有異。武帝太康元年・二年、其主頻遣使入貢方物、七年・八年・十年、又頻至。太熙元年、詣東夷校尉何龕上獻。1.咸寧三年復來、明年又請內附。
辰韓
辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之。立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。初有六國、後稍分為十二、又有弁辰、亦十二國、合四五萬戶。各有渠帥、皆屬於辰韓。辰韓常用馬韓人作主、雖世世相承、而不得自立、明其流移之人、故為馬韓所制也。地宜五穀、俗饒蠶桑、善作縑布、服牛乘馬。其風俗可類馬韓、兵器亦與之同。初生子、便以石押其頭使扁。喜舞、善彈瑟、瑟形似筑。武帝太康元年、其王遣使獻方物。二年復來朝貢、七年又來。

1.『晋書斠注』によると、咸寧三年は、太康・太熙よりも前なので、記述順序が逆転している可能性がある。

訓読

馬韓
韓の種 三有り、一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁韓と曰ふ。辰韓は帶方の南に在り、東西は海を以て限と為す。
馬韓 山海の間に居り、城郭無く、凡そ小國五十六所有り、大なる者は萬戶、小なる者は數千家、各々渠帥有り。俗は綱紀少なく、跪拜の禮無し。居處は土室に作り、形は冢が如く、其の戶 上に向き、家を舉げて共に其の中に在り、長幼男女の別無し。牛馬に乘るを知らず、畜ふ者は但だ以て葬を送る。俗は金銀錦罽を重んぜず、而れども瓔珠を貴び、用ふるに以て衣に綴り或いは髮を飾り耳に垂る。其の男子 科頭露紒にして、布袍を衣し、草蹻を履き、性は勇悍なり。國中に調役する所有り、城隍を起築するに及び、年少の勇健なる者 皆 其の背皮を鑿ち、貫くに大繩を以てし、杖を以て繩を搖らし、終日 讙呼し力作するに、以て痛しと為さず。善く弓楯矛櫓を用ひ、鬭爭攻戰有ると雖も、而れども相 屈服するを貴ぶ。俗は鬼神を信じ、常に五月を以て耕種し畢はれば、羣聚し歌舞して以て神を祭る。十月に至りて農事 畢はれば、亦た之の如し。國邑に各々一人を立てて天神を祭るを主り、謂ひて天君と為す。又 別邑を置き、名づけて蘇塗と曰ひ、大木を立て、鈴鼓を懸く。其の蘇塗の義、西域の浮屠に似る有るなり、而して所行の善惡に異有り。武帝の太康元年・二年に、其の主 頻りに使を遣はして方物を入貢し、七年・八年・十年に、又 頻りに至る。太熙元年に、東夷校尉の何龕に詣りて獻を上る。咸寧三年 復た來たり、明年 又 內附を請ふ。
辰韓
辰韓は馬韓の東に在り、自ら秦の亡人の役を避けて韓に入り、韓 東界を割きて以て之に居せしむと言ふ。城柵を立て、言語は秦人に類する有り、是に由り或いは之を謂ひて秦韓と為す。初め六國有り、後に稍く分かれて十二と為り、又 弁辰有り、亦た十二國なり、合はせて四五萬戶なり。各々渠帥有り、皆 辰韓に屬す。辰韓 常に馬韓の人を用て主と作し、世世 相 承ぐと雖も、而れども自立するを得ず、其の流移の人なること明らかなりて、故に馬韓の制する所と為るなり。地は五穀に宜しく、俗は蠶桑に饒たりて、善く縑布を作り、牛を服し馬に乘る。其の風俗 馬韓に類し、兵器も亦た之と同じとす可し。初め子を生むに、便ち石を以て其の頭を押して扁せしむ。舞を喜び、彈瑟を善くし、瑟の形 筑に似る。武帝の太康元年に、其の王 使を遣はして方物を獻ず。二年に復た來たりて朝貢し、七年に又 來たる。

現代語訳

馬韓
韓には三種があり、一は馬韓、二は辰韓、三は弁韓という。辰韓は帯方郡の南にあり、東西は海で区切られる。
馬韓は山と海のあいだに居住し、城郭はなく、五十六の小国があって、大きなものは一万戸、小さなものは数千家で、それぞれ渠帥(首長)がいる。風俗は制度が整わず、跪拝の礼がない。住居は土でつくり、形は冢(墓、丘)のようで、その戸は上向きで、家族がまとめてそこに住み、長幼や男女の区別がない。牛馬に乗ることを知らず、飼っても葬送に使うだけである。習俗は金銀や錦と毛氈を重んぜず、だた玉石や珠を尊び、衣に綴り髪に飾ったり耳から垂らしたりする。その男子は科頭(冠を着けず)露紒(髪が剥き出し)で、布袍を着け、わら靴を履き、性質は勇猛である。国中で賦役が行われ、城を建て堀を掘るとき、若く頑強なものはすべて背中の皮に穴を開け、太い縄を通し、杖でその縄を揺らして、終日にわたり大声で力仕事をして、痛みを感じない。弓や矛と大小の盾を使いこなし、戦闘と攻撃が起こるが、相手を屈服させることを尊ぶ。習俗は鬼神を信仰し、いつも五月の種まきが終わると、集まり歌舞して神を祭る。十月になり農事が終わると、また同じようにする。国邑ごとに一人を立てて天神の祭祀を主催し、天君とよぶ。また別邑を置き、蘇塗とよび、大木を立て、鈴鼓を懸ける。その蘇塗の風習は、西域の浮屠(仏教)に似ているが、行いの善悪が異なる。武帝の太康元年と二年に、その君主が頻繁に使者を送って名産を献上し、太康七年と八年と十年にも、また頻繁に到来した。太熙元年に、東夷校尉の何龕のもとに献上をした。咸寧三年にも来て、翌年に服従を願った。
辰韓
辰韓は馬韓の東にあり、自ら(祖先が)秦から亡命し労役を避けて韓に入り、韓から東部を割いてもらい居住したと言った。城柵を立て、言語は秦人に似ており、ゆえに秦韓ともいう。はじめ六国があり、後に徐々に分かれて十二となり、また弁辰があり、これも十二国があり、合計で四、五万戸であった。それぞれ渠帥がおり、すべて辰韓に属した。辰韓はいつも馬韓の人を主君とし、世代を下って継いでも、自立ができず、彼らが流浪者であることは明らかで、ゆえに馬韓に支配されたのである。土地は五穀の耕作に適し、習俗は蚕桑が豊かで、縑布(かとりぎぬ)を作り、牛を使い馬に乗った。その風俗は馬韓に似て、兵器も同じと言えよう。生まれた子は、石で頭を平たくする。舞を好み、瑟(おおごと)を弾くのが上手く、瑟の形は筑に似る。武帝の太康元年に、その王が使者を送って名産を献じた。太康二年にまた来て朝貢し、七年にも来た。

原文

肅慎氏
肅慎氏一名挹婁、在不咸山北、去夫餘可六十日行。東濱大海、西接寇漫汗國、北極弱水。其土界廣袤數千里、居深山窮谷、其路險阻、車馬不通。夏則巢居、冬則穴處。父子世為君長。無文墨、以言語為約。有馬不乘、但以為財產而已。無牛羊、多畜猪、食其肉、衣其皮、績毛以為布。有樹名雒常、若中國有聖帝代立、則其木生皮可衣。無井竈、作瓦鬲、受四五升以食。坐則箕踞、以足挾肉而啖之、得凍肉、坐其上令暖。土無鹽鐵、燒木作灰、灌取汁而食之。俗皆編髮、以布作襜、徑尺餘、以蔽前後。將嫁娶、男以毛羽插女頭、女和則持歸、然後致禮娉之。婦貞而女淫、貴壯而賤老、死者其日即葬之於野、交木作小椁、殺猪積其上、以為死者之糧。性凶悍、以無憂哀相尚。父母死、男子不哭泣、哭者謂之不壯。相盜竊、無多少皆殺之、故雖野處而不相犯。有石砮・皮骨之甲・檀弓三尺五寸・楛矢長尺有咫。其國東北有山出石、其利入鐵、將取之、必先祈神。
周武王時、獻其楛矢・石砮。逮於周公輔成王、復遣使入賀。爾後千餘年、雖秦漢之盛、莫之致也。及文帝作相、魏景元末、來貢楛矢・石砮・弓甲・貂皮之屬。魏帝詔歸於相府、賜其王傉雞・錦罽・緜帛。至武帝1.元康初、復來貢獻。元帝中興、又詣江左貢其石砮。至成帝時、通貢於石季龍、四年方達。季龍問之、答曰「每候牛馬向西南眠者三年矣、是知有大國所在、故來」云。
倭人
倭人在帶方東南大海中、依山島為國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戶有七萬。男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後、又言上古使詣中國、皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。其男子衣以橫幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地溫暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵為鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飲用俎豆。嫁娶不持錢帛、以衣迎之。死有棺無椁、封土為冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。不知正歲四節、但計秋收之時以為年紀。人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。舊以男子為主。漢末、倭人亂、攻伐不定、乃立女子為王、名曰卑彌呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絕。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
裨離等十國
裨離國在肅慎西北、馬行可二百日、領戶二萬。養雲國去裨離馬行又五十日、領戶二萬。寇莫汗國去養雲國又百日行、領戶五萬餘。一羣國去莫汗又百五十日、計去肅慎五萬餘里。其風俗土壤並未詳。泰始三年、各遣小部獻其方物。至太熙初、復有牟奴國帥逸芝惟離・模盧國帥沙支臣芝・于離末利國帥加牟臣芝・蒲都國帥因末・繩余國帥馬路・沙樓國帥釤加、各遣正副使詣東夷校尉何龕歸化。

1.『晋書斠注』によると、「太康」の誤りか。

訓読

肅慎氏
肅慎氏 一名は挹婁、不咸山の北に在り、夫餘を去ること六十日行可り。東は大海に濱し、西は寇漫汗國に接し、北は弱水を極む。其の土界 廣袤は數千里、深山窮谷に居り、其の路は險阻たりて、車馬 通ぜず。夏は則ち巢居し、冬は則ち穴處す。父子 世々君長為り。文墨無く、言語を以て約と為す。馬有れども乘らず、但だ以て財產と為すのみ。牛羊無く、多く猪を畜ひ、其の肉を食らひ、其の皮を衣(き)、毛を績(う)みて以て布と為す。樹有りて雒常と名づけ、若し中國に聖帝有り代はりて立てば、則ち其の木 皮を生じて衣る可し。井竈無く、瓦鬲を作り、四五升を受けて以て食す。坐るときは則ち箕踞し、足を以て肉を挾みて之を啖へ、凍肉を得れば、其の上に坐して暖めしむ。土に鹽鐵無く、木を燒きて灰を作り、灌て汁を取りて之を食す。俗は皆 髮を編み、布を以て襜を作り、徑は尺餘、以て前後を蔽ふ。將に嫁娶せんとするに、男 毛羽を以て女の頭に插し、女 和するときは則ち持ち歸り、然る後 禮を致し之に娉す。婦は貞にして女は淫なり、壯を貴びて老を賤しみ、死する者は其日に即ち之を野に葬り、木を交はして小椁を作り、猪を殺して其の上に積み、以て死者の糧と為す。性は凶悍にして、憂哀無きを以て相 尚ぶ。父母 死せば、男子 哭泣せず、哭く者 之を不壯と謂ふ。相 盜竊せば、多少と無く皆 之を殺し、故に野に處ると雖も相 犯さず。石砮・皮骨の甲・檀弓の三尺五寸・楛矢の長尺有咫有り。其の國 東北に山の石を出づる有り、其の利なること鐵に入り、將に之を取らんとするに、必ず先に神に祈る。
周武王の時、其の楛矢・石砮を獻ず。周公 成王を輔するに逮び、復た使を遣はして入りて賀す。爾後 千餘年、秦漢の盛なると雖も、之を致すこと莫きなり。文帝 相と作るに及び、魏の景元末に、來たりて楛矢・石砮・弓甲・貂皮の屬を貢ず。魏帝 詔して相府に歸せしめ、其の王たる傉に〔一〕雞・錦罽・緜帛を賜はる。武帝の元康初に至り、復た來たりて貢獻す。元帝 中興するや、又 江左に詣たりて其の石砮を貢す。成帝の時に至り、貢を石季龍に通じ、四年にして方に達す。季龍 之に問ひ、答へて曰く「每に牛馬を候ふに西南に向き眠る者 三年なり、是れ大國の在る所有るを知る、故に來たれり」と云々。
倭人〔二〕
倭人は帶方の東南の大海中に在り、山島に依りて國を為り、地は山林多く、良田無く、海物を食らふ。舊は百餘の小國有りて相 接し、魏の時に至り、三十國有りて通好す。戶は七萬有り。男子は大小と無く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂ひ、又 上古に使 中國に詣ると言ひ、皆 自ら大夫と稱す。昔 夏の少康の子 會稽に封ぜられ、斷髮文身して以て蛟龍の害を避くるに、今 倭人 沈沒して魚を取るを好み、亦た文身して以て水禽を厭(しづ)む。其の道里を計るに、會稽の東冶の東に當たる。其の男子 衣は橫幅を以てし、但だ結束して相 連ね、略ぼ縫綴無し。婦人 衣は單被が如く、其の中央を穿ちて以て頭を貫き、而して皆 被髮徒跣なり。其の地 溫暖にして、俗は禾稻紵麻を種えて蠶桑 織績す。土は牛馬無く、刀楯弓箭有り、鐵を以て鏃と為す。屋宇有り、父母兄弟 臥息は處を異にす。食飲は俎豆を用ふ。嫁娶は錢帛を持せず、衣を以て之を迎ふ。死すれば棺有りて椁無く、土を封じて冢と為す。初め喪あるに、哭泣し、肉を食らはず。已に葬るや、家を舉げて水に入りて澡浴して自ら潔め、以て不祥を除く。其の大事を舉ぐるに、輒ち骨を灼きて以て吉凶を占ふ。正歲四節を知らず、但だ秋收の時を計りて以て年紀と為す。人 壽多く百年、或いは八九十なり。國に婦女多く、淫せず妬まず。爭訟無く、輕罪を犯す者は其の妻孥を沒し、重き者は其の家を族滅す。舊くは男子を以て主と為す。漢末に、倭人 亂れ、攻伐 定まらざれば、乃ち女子を立てて王と為し、名を卑彌呼と曰ふ。宣帝の公孫氏を平らぐや、其の女王 使を遣はして帶方に至りて朝見し、其の後 貢聘 絕えず。文帝 相と作るに及び、又 數々至る。泰始の初に、使を遣して重譯して入貢す。
裨離ら十國
裨離國は肅慎の西北に在り、馬行して二百日可り、戶二萬を領す。養雲國は裨離を去ること馬行して又 五十日、戶二萬を領す。寇莫汗國は養雲國を去ること又 百日行、戶五萬餘を領す。一羣國は莫汗を去ること又 百五十日、計るに肅慎を去ること五萬餘里なり。其の風俗土壤 並びに未だ詳らかならず。泰始三年に、各々小部を遣はして其の方物を獻ず。太熙の初に至り、復た牟奴國の帥たる逸芝惟離・模盧國の帥たる沙支臣芝・于離末利國の帥たる加牟臣芝・蒲都國の帥たる因末・繩余國の帥たる馬路・沙樓國の帥たる釤加有り、各々正副使を遣じて東夷校尉の何龕に詣りて化に歸す。

〔一〕中華書局本に従い、傉を固有名詞(王の名)とした。「傉雞」は未詳。
〔二〕倭人(伝)の翻訳には、藤堂明保・竹田晃・影山輝國(全訳注)『倭国伝 中国正史に描かれた日本』(講談社学術文庫、二〇一〇年)がある。現段階では未参照。参照の上、必要に応じて翻訳を修正する(210521記)。

現代語訳

肅慎氏
肅慎氏は一名を挹婁といい、不咸山の北に位置し、夫餘から六十日ほどの行程。東は大海に面し、西は寇漫汗国に接し、北限は弱水である。その領域の面積は数千里で、高い山と深い谷があり、その道路は険阻で、車馬が通れない。夏は木の上に住み、冬は穴の中に住む。父子が代々君長となる。文字がなく、口頭で約束をした。馬はあるが乗らず、ただ財産とするのみである。牛羊はなく、多く猪を養い、その肉を食べ、その皮を着て、毛を紡いで布とする。樹があって雒常と名づけ、もし中国に聖帝が出現して代わりに立てば、その木の皮ができて着られる。井戸や竈がなく、瓦で釜を作り、四五升を炊けて食べた。座るときは箕踞し(両足を伸ばし)、足で肉を挟んで口に運び、凍肉を入手するとその上に座って温めた。土地は塩鉄を産出せず、木を焼いて灰を作り、注いで汁を取って食べる。習俗はみな髪を編み、布で襜(前掛け)を作り、直径は一尺あまり、これで前後を覆う。嫁取りでは、男は毛羽を女の頭に挿し、女が同意すれば持ち帰り、その後に婚礼を致して嫁ぐ。既婚の女は貞節があるが未婚の女はそうでなく、壮年を尊んで老年を賤しみ、死者はその日のうちに野に葬り、木を組んで小椁を作り、猪を殺してその上に積み、死者の糧とする。性質は凶暴で、哀しみ憂わぬことが偉いとされた。父母が死ねば、男子は哭泣せず、哭く者は弱虫とされた。窃盗があれば、多少に関わらず殺すので、野外に住んでも盗みをしない。石のやじり・皮骨の甲・三尺五寸の檀弓・長短の楛矢がある。その国は東北の山で石が採れるが、その鋭さは鉄を切ることができ、採取のときは、必ず先に神に祈る。
周の武王のとき、その楛矢と石のやじりを献じた。周公が成王を輔佐すると、また使者を派遣し入朝して祝賀した。以後千年あまり、秦や漢が栄えたが、使者をよこさなかった。文帝(司馬昭)が相となると、魏の景元年間の末に、やって来て楛矢・石砮・弓甲・貂皮の品々を献上した。魏帝は詔して相府への贈り物とし、その王である傉に鶏と錦や毛氈と綿や絹の織物を賜わった。武帝の元康(太康か)年間の初めに至り、また来て貢献した。元帝が中興すると、また東晋を訪れて石のやじりを献上した。成帝の時代に至り、石季龍への朝貢が、(後趙の建国から)四年目にやっと到達した。石季龍が(遅れた理由を)質問すると、答えて、「つねに牛馬の様子を見ていると西南を向いて三年間眠るので、大国がこちらにあると気づきました、だから来たのです」と言った、という。
倭人
倭人は帯方郡の東南の大海のなかにおり、山島に依って国をつくり、土地は山林が多く、良田がなく、海産物を食べる。かつて一百あまりの小国があって隣接し、魏の時代に至り、三十国があってよしみを通じた。戸数は七万である。男子は大人も子供も、みな顔と体に入れ墨をする。自ら太伯の子孫と言い、また上古に使者を中国に送ったと言い、みな大夫を自称する。むかし夏の少康の子が会稽に封建され、髪を切り体に入れ墨をして蛟龍の害を避けたが、いま倭人は潜水して魚を取るのが得意で、同じように体に入れ墨をして水中の生物を遠ざける。その道のりから推算すると、会稽郡の東冶県の東に当たる。その男子の衣は横幅のきれを用い、ただ結んで繋ぐだけで、ほぼ縫い目がない。婦人の衣はひとえの夜着のようで、その中央に穴をあけて頭を通し、男女とも髪を結ばず裸足である。その地域は温暖で、習俗は稲と真麻を植えて養蚕をして織る。土地に牛馬はおらず、刀楯と弓矢があり、鉄を矢じりとする。家屋をつくり、父母兄弟は別のところで眠る。飲食には俎豆(礼器)を用いる。婚姻のとき銭や帛を持たず、衣を用意して迎える。死ねば棺があって椁がなく、土を盛って冢とする。死ぬと、哭泣し、肉を食べない。埋葬がすむと、家族をあげて水に入って沐浴して清め、不祥を除く。重大な決断のとき、骨を焼いて吉凶を占う。正月や四季(暦法)を知らず、ただ秋の収穫のときで年を認識する。寿命が長く百年、あるいは八九十年ある。国に婦女が多く、淫行も嫉妬もない。訴訟がなく、軽い罪を犯したら妻子を取り上げ、重い罪ならば親族を滅ぼす。かつて男子を主君とした。漢末に、倭人が乱れ、闘争が深刻化したので、女子を立てて王とし、名を卑弥呼という。宣帝(司馬懿)が公孫氏を平定すると、その女王が使者を派遣して帯方郡に至って朝見し、その後は貢献が絶えなかった。文帝が相となると、また何度もやって来た。泰始年間の初めに、使者を派遣して翻訳を重ねて(洛陽に)入貢した。
裨離ら十国
裨離国は粛慎の西北にあり、馬で二百日ばかりの行程で、二万戸を領する。養雲国は裨離から馬でさらに五十日の行程で、二万戸を領する。寇莫汗国は養雲国からさらに百日の行程で、五万戸あまりを領する。一羣国は莫汗国からさらに百五十日で、計算すると粛慎国から五万里あまりである。その風俗や土地柄はいずれも未詳。泰始三年に、それぞれ少人数で名産を献上した。太熙年間の初め、また牟奴国の首長である逸芝惟離・模盧国の首長である沙支臣芝・于離末利国の首長である加牟臣芝・蒲都国の首長である因末・縄余国の首長である馬路・沙楼国の首長である釤加が、それぞれ正副の使を送って東夷校尉の何龕を訪れて教化を受けた。

西戎 吐谷渾 焉耆國 龜茲國 大宛國 康居國 大秦國

原文

吐谷渾 吐延 葉延 辟奚 視連 視熊 樹洛干
吐谷渾、慕容廆之庶長兄也、其父涉歸分部落一千七百家以隸之。及涉歸卒、廆嗣位、而二部馬鬭。廆怒曰、「先公分建有別、奈何不相遠離、而令馬鬭」。吐谷渾曰、「馬為畜耳、鬭其常性、何怒於人。乖別甚1.(異)〔易〕、當去汝於萬里之外矣」。於是遂行。廆悔之、遣其長史史那樓馮及父時耆舊追還之。吐谷渾曰、「先公稱卜筮之言、當有二子克昌、祚流後裔。我卑庶也、理無並大。今因馬而別、殆天所啟乎。諸君試驅馬令東、馬若還東、我當相隨去矣」。樓馮遣從者二千騎、擁馬東出數百步、輒悲鳴西走。如是者十餘輩。樓馮跪而言曰、「此非人事也」。遂止。鮮卑謂兄為阿干、廆追思之、作阿干之歌、歲暮窮思、常歌之。
吐谷渾謂其部落曰、「我兄弟俱當享國、廆及曾玄纔百餘年耳。我玄孫已後、庶其昌乎。」於是乃西附陰山。屬永嘉之亂、始度隴而西、其後子孫據有西零已西甘松之界、極乎白蘭數千里。然有城郭而不居、隨逐水草、廬帳為屋、以肉酪為糧。其官置長史・司馬・將軍、頗識文字。其男子通服長裙、帽或戴羃䍦。婦人以金花為首飾、辮髮縈後、綴以珠貝。其婚姻、富家厚出娉財、竊女而去。父卒、妻其羣母。兄亡、妻其諸嫂。喪服制、葬訖而除。國無常稅、調用不給、輒斂富室商人、取足而止。殺人及盜馬者罪至死、他犯則徵物以贖。地宜大麥、而多蔓菁、頗有菽粟。出蜀馬・氂牛。西北雜種謂之為阿柴虜、或號為野虜焉。吐谷渾年七十二卒、有子六十人、長曰吐延、嗣。
吐延身長七尺八寸、雄姿魁傑、羌虜憚之、號曰項羽。性俶儻不羣、嘗慷慨謂其下曰、「大丈夫生不在中國、當高光之世、與韓・彭・吳・鄧並驅中原、定天下雌雄、使名垂竹帛。而潛竄窮山、隔在殊俗、不聞禮教於上京、不得策名於天府、生與糜鹿同羣、死作氊裘之鬼。雖偷觀日月、獨不愧於心乎」。性酷忍、而負其智、不能恤下、為羌酋姜聰所刺。劍猶在其身、謂其將紇拔泥曰、「豎子刺吾、吾之過也。上負先公、下愧士女。所以控制諸羌者、以吾故也。吾死之後、善相葉延、速保白蘭」。言終而卒。在位十三年、有子十二人、長子葉延嗣。
葉延年十歲、其父為羌酋姜聰所害、每旦縛草為姜聰之象、哭而射之、中之則號泣、不中則瞋目大呼。其母謂曰、「姜聰、諸將已屠鱠之矣、汝何為如此」。葉延泣曰、「誠知射草人不益於先讐、以申罔極之志耳」。性至孝、母病、五日不食、葉延亦不食。長而沈毅、好問天地造化・帝王年曆。司馬薄洛鄰曰、「臣等不學、實未審三皇何父之子、五帝誰母所生」。延曰、「自羲皇以來、符命玄象昭言著見、而卿等面牆、何其鄙哉。語曰、夏蟲不知冬冰、良不虛也」。又曰、「禮云、公孫之子得以王父字為氏。吾祖始自昌黎光宅於此、今以吐谷渾為氏、尊祖之義也」。在位二十三年卒、年三十三。有子四人、長子辟奚嗣。
辟奚性仁厚慈惠。初聞苻堅之盛、遣使獻馬五十匹、金銀五百斤。堅大悅、拜為安遠將軍。時辟奚三弟皆專恣。長史鍾惡地恐為國害、謂司馬乞宿雲曰、「昔鄭莊公・秦昭王以一弟之寵、宗祀幾傾。況今三孼並驕、必為社稷之患。吾與公忝當元輔、若獲保首領以沒於地、先君有問、其將何辭。吾今誅之矣」。宿雲請白辟奚。惡地曰、「吾王無斷、不可以告」。於是因羣下入覲、遂執三弟而誅之。辟奚自投於牀。惡地等奔而扶之、曰、「臣昨夢先王告臣云、三弟將為逆亂、汝速除之。臣謹奉先王之命矣」。辟奚素友愛、因恍惚成疾、謂世子視連曰、「吾禍滅同生、何以見之於地下。國事大小、汝宜攝之。吾餘年殘命、寄食而已」。遂以憂卒。在位二十五年、時年四十二。有子六人、視連嗣。
視連既立、通聘於乞伏乾歸、拜為白蘭王。視連幼廉慎有志性、以父憂卒、不知政事、不飲酒遊田七年矣。鍾惡地進曰、「夫人君者、以德御世、以威齊眾、養以五味、娛以聲色。此四者、聖帝明王之所先也。而公皆略之。昔昭公儉嗇而喪、偃王仁義而亡。然則仁義所以存身、亦所以亡己。經國者、德禮也。濟世者、刑法也。二者或差、則綱維失緒。明公奕葉重光、恩結西夏、雖仁孝發於天然、猶宜憲章周孔。不可獨追徐偃之仁、使刑德委而不建」。視連泣曰、「先王追友于之痛、悲憤升遐。孤雖纂業、尸存而已。聲色遊娛、豈所安也。綱維刑禮、付之將來」。臨終、謂其子2.視熊曰、「我高祖吐谷渾公常言、子孫必有興者、永為中國之西藩、慶流百世。吾已不及、汝亦不見、當在汝之子孫輩耳」。在位十五年而卒。有二子、長曰視熊、少曰烏紇堤。
視熊性英果、有雄略、嘗從容謂博士金城騫苞曰、「易云、動靜有常、剛柔斷矣。先王以仁宰世、不任威刑、所以剛柔靡斷、取輕鄰敵。當仁不讓、豈宜拱默者乎。今將秣馬厲兵、爭衡中國。先生以為何如」。苞曰、「大王之言、高世之略、秦隴英豪所願聞也」。於是虛襟撫納、眾赴如歸。
乞伏乾歸遣使拜為使持節・都督龍涸已西諸軍事・沙州牧・白蘭王。視熊不受、謂使者曰、「自晉道不綱、姦雄競逐、劉・石虐亂、秦・燕跋扈、河南王處形勝之地。宜當糾合義兵、以懲不順。奈何私相假署、擬僭羣凶。寡人承五祖之休烈、控弦之士二萬、方欲掃氛秦隴、清彼沙涼。然後飲馬涇渭、戮問鼎之豎、以一丸泥封東關、閉燕趙之路、迎天子於西京、以盡遐藩之節。終不能如季孟・子陽妄自尊大。為吾白河南王。何不立勳帝室、策名王府、建當年之功、流芳來葉邪。」乾歸大怒、然憚其強、初猶結好、後竟遣眾擊之。視熊大敗、退保白蘭。在位十一年、年三十三卒。子樹洛干年少、傳位於烏紇堤。
烏紇堤一名大孩、性愞弱、耽酒淫色、不恤國事。乞伏乾歸之入長安也、烏紇堤屢抄其境。乾歸怒、率騎討之。烏紇堤大敗、亡失萬餘口、保於南涼、遂卒於3.胡國。在位八年、時年三十五。視羆之子樹洛干立。
樹洛干九歲而孤。其母念氏聰惠有姿色。烏紇堤妻之、有寵、遂專國事。洛干十歲便自稱世子、年十六嗣立、率所部數千家奔歸莫何川、自稱大都督・車騎大將軍・大單于・吐谷渾王。化行所部、眾庶樂業、號為戊寅可汗、沙漒雜種莫不歸附。乃宣言曰、「孤先祖避地於此、暨孤七世、思與羣賢共康休緒。今士馬桓桓、控弦數萬。孤將振威梁益、稱霸西戎、觀兵三秦、遠朝天子。諸君以為何如」。眾咸曰、「此盛德之事也、願大王自勉」。
乞伏乾歸甚忌之、率騎二萬、攻之於赤水。樹洛干大敗、遂降乾歸。乾歸拜為平狄將軍・赤水都護、又以其弟吐護真為捕虜將軍・層城都尉。其後屢為4.乞伏熾盤所破、又保白蘭、慚憤發病而卒。在位九年、時年二十四。熾磐聞其死、喜曰、「此虜矯矯、所謂有豕白蹄也」。有子四人、世子拾虔嗣。其後世嗣不絕。

1.中華書局本に従い、「異」を「易」に改める。
2.「視熊」は、『魏書』『北史』吐谷渾伝は「視羆」につくる。
3.『晋書斠注』によると、『資治通鑑』は「胡園」につくる。
4.「乞伏熾盤」は、「乞伏熾磐」にもつくる。

訓読

吐谷渾 吐延 葉延 辟奚 視連 視熊 樹洛干
吐谷渾は、慕容廆の庶長兄なり、其の父の涉歸 部落一千七百家を分けて以て之に隸(したが)はしむ。涉歸 卒するに及び、廆 位を嗣ぐに、而して二部の馬 鬭ふ。廆 怒りて曰く、「先公 分建して別有り、奈何ぞ相 遠離せずして、而して馬をして鬭はしむ」と。吐谷渾曰く、「馬 畜為るのみ、鬭は其の常性なり、何ぞ人に怒る。乖別するは甚だ易し、當に汝より萬里の外に去らん」と。是に於て遂に行く。廆 之を悔ひ、其の長史の史那樓馮及び父の時の耆舊を遣はして追ひて之を還らしむ。吐谷渾曰く、「先公 卜筮の言と稱し、當に二子有りて克く昌んなれば、祚は後裔に流るべしと。我 卑庶なり、理は並びに大なる無し。今 馬に因りて別るるは、殆ど天の啟く所なるか。諸君 試みに馬を驅りて東せしめ、馬 若し東に還らば、我 當に相 隨ひて去るべし」と。樓馮 從者二千騎を遣はして、馬を擁して東のかた數百步を出づるに、輒ち悲鳴して西走す。是の如き者は十餘輩なり。樓馮 跪きて言ひて曰く、「此れ人事に非ざるなり」と。遂に止む。鮮卑 兄を謂ひて阿干と為せば、廆 之を追思し、阿干の歌を作り、歲暮に窮思し、常に之を歌ふ。
吐谷渾 其の部落に謂ひて曰く、「我が兄弟 俱に當に享國あるべし、廆は曾玄に及び纔か百餘年のみ。我が玄孫より已後、庶はくは其れ昌ならんか」と。是に於て乃ち西して陰山に附す。永嘉の亂に屬ひ、始めて隴を度りて西し、其の後 子孫 據りて西零より已西の甘松の界を有ち、白蘭に極して數千里なり。然るに城郭有るとも居せず、水草に隨逐し、廬帳もて屋と為し、肉酪を以て糧と為す。其の官 長史・司馬・將軍を置き、頗る文字を識る。其の男子 通じて長裙を服し、帽は或いは羃䍦を戴す。婦人は金花を以て首飾と為し、辮髮して後に縈(から)め、綴ぐに珠貝を以てす。其の婚姻するに、富家 厚く娉財を出し、女を竊みて去る。父 卒すれば、其の羣母を妻る。兄 亡すれば、其の諸嫂を妻る。喪服の制、葬 訖はれば除く。國は常稅無く、調用 給せざれば、輒ち富室商人より斂め、取りて足れば止む。殺人及び盜馬する者 罪は死に至り、他を犯さば則ち物を徵して以て贖はしむ。地は大麥に宜しく、而して蔓菁多く、頗る菽粟有り。蜀馬・氂牛を出す。西北の雜種 之を謂ひて阿柴虜と為し、或いは號して野虜と為す。吐谷渾 年七十二に卒し、子六十人有り、長は吐延と曰ひ、嗣ぐ。
吐延 身長は七尺八寸、雄姿は魁傑にして、羌虜 之を憚り、號して項羽と曰ふ。性は俶儻にして羣れず、嘗て慷慨して其の下に謂ひて曰く、「大丈夫 生きて中國に在らず、高光の世に當たれば、韓・彭・吳・鄧と與に並びて中原を驅け、天下の雌雄を定め、名をして竹帛に垂れしめん。而れども窮山に潛竄し、隔して殊俗に在り、禮教を上京に聞かず、策名を天府に得ず、生きて糜鹿と與に同羣し、死して氊裘の鬼と作らん。日月を偷觀すと雖も、獨り心に愧ぢざらんか」と。性は酷忍にして、而して其の智を負ひ、下を恤れむ能はず、羌酋の姜聰の刺す所と為る。劍 猶ほ其の身に在るに、其の將の紇拔泥に謂ひて曰く、「豎子 吾を刺すは、吾の過なり。上は先公に負き、下は士女に愧づ。諸羌を控制する所以は、吾が故を以てなり。吾 死するの後、善く葉延に相たりて、速やかに白蘭を保て」と。言ひ終はりて卒す。位に在ること十三年、子十二人有り、長子の葉延 嗣ぐ。
葉延 年は十歲、其の父 羌酋の姜聰の害す所と為り、每旦に草を縛りて姜聰の象を為り、哭して之を射、之に中つれば則ち號泣し、中たらざれば則ち目を瞋して大呼す。其の母 謂ひて曰く、「姜聰は、諸將 已に之を屠鱠す、汝 何為れぞ此の如くするや」と。葉延 泣きて曰く、「誠に草人を射るとも先讐に益せざるを知る、以て罔極の志を申すのみ」と。性は至孝なり、母 病み、五日 食らはざれば、葉延も亦た食さず。長じて沈毅にして、天地の造化・帝王の年曆を問ふを好む。司馬の薄洛鄰曰く、「臣ら學あらず、實に未だ三皇 何の父の子、五帝 誰の母の生む所かに審らかならず」。延曰く、「羲皇より以來、符命玄象 昭言は著はに見るに、而れども卿らの面牆、何ぞ其の鄙なるや。語に曰く、夏蟲 冬冰を知らずと、良に虛ならざるやり」と。又曰く、「禮に云ふ、公孫の子 得て王父の字を以て氏と為す〔一〕と。吾が祖 始め昌黎より此に光宅す、今 吐谷渾を以て氏と為すは、祖を尊ぶの義なり」と。位に在ること二十三年にして卒し、年は三十三。子四人有り、長子の辟奚 嗣ぐ。
辟奚 性は仁厚にして慈惠なり。初め苻堅の盛なるを聞き、使を遣はして馬五十匹、金銀五百斤を獻ず。堅 大いに悅び、拜して安遠將軍と為す。時に辟奚の三弟 皆 專恣す。長史の鍾惡地 國害と為るを恐れ、司馬の乞宿雲に謂ひて曰く、「昔 鄭の莊公・秦の昭王 一弟の寵を以て、宗祀 幾ど傾く。況んや今 三孼 並びに驕なり、必ず社稷の患と為らん。吾 公と與に忝くも元輔に當たる、若し獲て首領を保ちて以て地に沒すれば、先君 問ふ有り、其れ將に何もて辭せんとす。吾 今 之を誅せん」と。宿雲 辟奚に白すを請ふ。惡地曰く、「吾が王 無斷なり、以て告ぐ可からず」と。是に於て羣下に因りて入覲し、遂に三弟を執らへて之を誅す。辟奚 自ら牀に投す。惡地ら奔りて之を扶け、曰く、「臣 昨に夢みて先王 臣に告げて云はく、三弟 將に逆亂を為さんとす、汝 速やかに之を除くべしと。臣 謹みて先王の命を奉ぜり」と。辟奚 素より友愛たりて、因りて恍惚として疾と成り、世子の視連に謂ひて曰く、「吾が禍滅 同に生ず、何を以て之を地下に見しめん。國事の大小、汝 宜しく之を攝れ。吾が餘年の殘命、寄食するのみ」と。遂に憂を以て卒す。位に在ること二十五年、時に年四十二なり。子六人有り、視連 嗣ぐ。
視連 既に立つや、聘を乞伏乾歸に通じ、拜して白蘭王と為る。視連 幼くして廉慎にして志性有り、父の憂卒するを以て、政事に知らず、飲酒し遊田せざること七年なり。鍾惡地 進みて曰く、「夫れ人君とは、德を以て世を御し、威を以て眾を齊へ、養ふに五味を以てし、娛しむに聲色を以てす。此の四者は、聖帝明王の先とする所なり。而るに公 皆 之を略す。昔 昭公 儉嗇にして喪し、偃王 仁義にして亡ぶ。然れば則ち仁義は身を存する所以にして、亦た己を亡す所以なり。經國とは、德禮なり。濟世とは、刑法なり。二者は或いは差へば、則ち綱維 緒を失す。明公 奕葉重光し、恩は西夏に結び、仁孝 天然に發すと雖も、猶ほ宜しく周孔を憲章すべし。獨り徐偃の仁を追ひて、刑德を委てて建たざらしむ可からず」と。視連 泣きて曰く、「先王 友于の痛を追ひて、悲憤して升遐す。孤 業を纂ふと雖も、尸存するのみ。聲色遊娛、豈に安らかとする所や。綱維刑禮、之を將來に付せん」。終に臨み、其の子の視熊に謂ひて曰く、「我が高祖の吐谷渾 公に常に言ふらく、子孫 必ず興る者有り、永く中國の西藩と為りて、慶は百世に流ると。吾 已に及ばず、汝も亦た見ず、當に汝の子孫輩に在るのみ」と。位に在ること十五年にして卒す。二子有り、長なるは視熊と曰ひ、少なるは烏紇堤と曰ふ。
視熊 性は英果にして、雄略有り、嘗て從容として博士の金城の騫苞に謂ひて曰く、「易に云ふ、動靜 常有り、剛柔 斷ずと〔二〕。先王 仁を以て世に宰し、威刑を任(たも)たざるは、剛柔 斷ぜず、輕を鄰敵に取る所以なり。當に仁は讓るべし、豈に宜しく拱默する者や。今 將に馬に秣し兵を厲し、中國を爭衡せんとす。先生 以て何如と為すか」と。苞曰く、「大王の言は、高世の略にして、秦隴の英豪 聞くを願ふを所なり」と。是に於て虛襟に撫納し、眾 赴くこと歸るが如し。
乞伏乾歸 使を遣はして拜して使持節・都督龍涸已西諸軍事・沙州牧・白蘭王と為す。視熊 受けず、使者に謂ひて曰く、「晉道 綱ならざるより、姦雄 競逐し、劉・石 虐亂し、秦・燕 跋扈し、河南王 形勝の地に處る。宜しく當に義兵を糾合し、以て不順なるを懲らすべし。奈何ぞ私かに相 假署せられ、羣凶に擬僭せん。寡人 五祖の休烈を承け、控弦の士は二萬、方に氛を秦隴に掃ひ、彼を沙涼に清めんと欲す。然る後 馬を涇渭に飲ましめ、問鼎の豎を戮し、一丸の泥を以て東關を封じ、燕趙の路を閉ざし、天子を西京に迎へ、以て遐藩の節を盡くさん。終に季孟・子陽が如く妄りに自ら尊大する能はず。為に吾 河南王に白さん。何ぞ勳を帝室に立て、名を王府に策し、當年の功を建て、芳を來葉に流さざるや」と。乾歸 大いに怒り、然るに其の強きを憚り、初め猶ほ好を結び、後に竟に眾を遣はして之を擊つ。視熊 大いに敗れ、退きて白蘭を保つ。位に在ること十一年、年は三十三に卒す。子の樹洛干 年は少なく、位を烏紇堤に傳ふ。
烏紇堤 一名を大孩、性は愞弱にして、酒に耽り色に淫し、國事を恤まず。乞伏乾歸の長安に入るや、烏紇堤 屢々其の境を抄む。乾歸 怒り、騎を率ゐて之を討つ。烏紇堤 大いに敗れ、亡失すること萬餘口、南涼を保ち、遂に胡國に卒す。位に在ること八年、時に年三十五なり。視熊の子の樹洛干 立つ。
樹洛干 九歲にして孤なり。其の母の念氏 聰惠にして姿色有り。烏紇堤 之を妻とし、寵有り、遂に國事を專らにす。洛干 十歲にして便ち自ら世子を稱し、年十六にして嗣立し、部する所の數千家を率ゐて奔りて莫何川に歸し、自ら大都督・車騎大將軍・大單于・吐谷渾王を稱す。化を部する所に行ひ、眾庶 業を樂しみ、號して戊寅可汗と為し、沙漒の雜種 歸附せざる莫し。乃ち宣言して曰く、「孤の先祖 地を此に避け、孤に暨ぶまで七世、羣賢と共に休緒を康んぜんと思ふ。今 士馬は桓桓として、控弦は數萬あり。孤 將に威を梁益に振ひ、霸を西戎に稱し、兵を三秦に觀て、遠く天子に朝せんとす。諸君 以て何如と為すか」と。眾 咸 曰く、「此れ盛德の事なり、願はくは大王 自ら勉めよ」と。
乞伏乾歸 甚だ之を忌み、騎二萬を率ゐ、之を赤水に攻む。樹洛干 大いに敗れ、遂に乾歸に降る。乾歸 拜して平狄將軍・赤水都護と為し、又 其の弟の吐護真を以て捕虜將軍・層城都尉と為す。其の後 屢々乞伏熾盤の破る所と為り、又 白蘭に保し、慚憤し發病して卒す。位に在ること九年、時に年二十四なり。熾磐 其の死を聞き、喜びて曰く、「此の虜 矯矯たり、所謂 豕の白蹄有るなり〔三〕」と。子四人有り、世子の拾虔 嗣ぐ。其の後 世々嗣は絕えず。

〔一〕『春秋公羊伝』成公十五年に、「孫以王父字為氏也」とあり、もっとも近い。
〔二〕『周易』繋辞上に、「動靜有常、剛柔斷矣」とある。
〔三〕『毛詩』小雅 漸漸之石に、「有豕白蹢、烝涉波矣」とあり、これを踏まえた表現。

現代語訳

吐谷渾 吐延 葉延 辟奚 視連 視熊 樹洛干
吐谷渾は、慕容廆の庶長兄(正妻の子でない最年長の兄)であり、その父の渉帰は部落の一千七百家を分割してかれに帰属させた。渉帰が卒すると、慕容廆が位を嗣いだが、二部(慕容廆と吐谷渾)の馬が闘った。慕容廆は怒って、「先公(父)が部族を分割したのに、なぜ遠く離れず、馬に闘わせるのか」と言った。吐谷渾は、「馬は畜生でしかなく、戦闘はその本能だ、なぜ持ち主に怒るのか。距離を取るのは容易いことだ、お前から一万里の外に離れてやろう」と言った。かくして出発した。慕容廆は後悔し、その長史の史那楼馮と父の代からの旧臣を遣わして呼び戻した。吐谷渾は、「先公が卜筮の言(占文)として、二人の子が栄えれば、命運が子孫まで伝わると言った。私は卑しい庶子であり、理屈として並び栄えることはない。いま馬が原因で離れるのは、天の導きではなかろうか。諸君は試みに馬を駆って(来た道を戻って)東に行かせ、もし馬が東に帰れば(そのまま本国に向かえば)、私もこれに従って行く(帰国する)だろう」と言った。楼馮は従者の二千騎を遣わし、馬を連れて東に数百歩に進んだが、悲鳴をあげて西に走った。このようなものが十隊あまりいた。楼馮は跪いて、「これは人の裁量で決められることではない」と言った。こうして諦めた。鮮卑では兄を阿干と呼ぶので、慕容廆はかれを追慕し、阿干の歌を作り、年の暮れに切なさに迫られ、つねにこれを歌った。
吐谷渾は配下の部族に、「わが兄弟はともに国祚を受ける(君臨する資格を得る)だろうが、慕容廆(の年数)は曾孫や玄孫まで百年あまりの間だけだ。わが玄孫より以後、(入れ替わりで)繁栄するだろう」と言った。こうして西にゆき陰山のそばに住んだ。永嘉の乱に遭い、はじめて隴水をわたって西にゆき、その後は子孫がここを拠点とし西零より以西の甘松の地域を領有し、白蘭までの数千里を支配した。城郭はあるが居住せず、水場や牧草のありかに従って移り、廬帳(テント)を家とし、肉や乳を食糧とした。その官職は長史・司馬・将軍を設置し、文字を使いこなした。その男子はいつも長い裙(もすそ)を着て、帽子はあるいは羃䍦をかぶった。婦人は金花を首飾とし、編んだ髪を後ろで結び、珠貝でとめた。婚姻のとき、富家は大量に財産を差し出し、女をさらって去った。父が死ぬと、亡父の妻たちを娶った。兄が死ぬと、亡兄の妻たちを娶った。喪服の制は、葬儀が終わると除いた。国には常設の税がなく、歳入や人手が足りなければ、富家や商人から徴収し、足りれば停止した。人殺しと馬を盗んだものは死罪で、その他の罪は物品で償わせた。土地は大麦の耕作に適し、蔓菁(かぶら)が多く、豆類や穀類もとても多い。蜀馬と氂牛を産出する。西北の各種族は阿柴虜と呼ばれ、あるいは野虜と呼ぶ。吐谷渾は七十二歳で卒し、子が六十人おり、年長のものは吐延といい、嗣いだ。
吐延は身長は七尺八寸で、りっぱな容姿の豪傑であり、羌族たちはかれを憚り、項羽と呼んだ。性格は才気が高くて群れず、あるとき憤り嘆いて配下に、「大丈夫として中国に生まれ落ちず、もし(漢の)高祖や光武帝の世であれば、韓信・彭越・呉漢・鄧禹と並んで中原を駆け、天下の雌雄を決し、名を竹帛に刻んだだろうに。ところが狭苦しい山地に逼塞し、隔絶された異域におり、礼教を京都で聞かず、策命を天府で受けず、生きては弱った鹿と群れ、死んでは毛皮の霊となるだろう。日月を盗み見ても、心に恥じるばかりではないか」と言った。性格は酷薄で残忍で、しかし知恵を備え、部下を憐れむことができず、羌族の首長の姜聡に刺された。剣がまだ身体に刺さったまま、その将の紇抜泥に、「豎子が私を刺したのは、私が招いた失敗だ。上は先公に背き、下は士女に恥じる。(だが)諸羌を支配する(正当な)理由が、私の死で生まれた。私が死んだら、葉延を輔佐して、速やかに白蘭を制圧せよ」と言った。言い終えて卒した。位にあること十三年、子は十二人おり、長子の葉延が嗣いだ。
葉延は十歳で、父が羌の首長の姜聡に殺害されたので、毎朝草を縛って姜聡をかたどり、哭してこれを射て、あたれば号泣し、あたらねば目を釣りあげ怒鳴った。母が、「姜聡は、諸将がすでに殺して切り刻んだ、お前はなぜそうするのですか」と言った。葉延は泣いて、「草の人形を射ても父の敵を取れないことは分かっています、尽きざる志を伸ばしているのです」と言った。性質は至孝であり、母が病んで、五日食べないと、葉延も食べなかった。成長すると沈着で強く、天地の成り立ちや帝王の歴史を質問することを好んだ。司馬の薄洛隣は、「私たちは学がなく、三皇の父が誰で、五帝の母が誰なのかもよく知りません」と言った。葉延は、「羲皇(伏羲)より以来、符命や玄象の啓事が明らかに現れているのに、君たちは無知で、なんと蒙昧なのだ。(『荘子』秋水篇の)語に、夏の虫は冬の氷を知らない(世間知らず)という。まことにその通りだな」と言った。また、「礼によると、公孫の子は王父の字を氏とする(『春秋公羊伝』十五年)。わが祖父ははじめ昌黎から徳を及ぼした、いま吐谷渾を氏とするのは、祖父を尊ぶ正しい行いだ」とあった。位にあること二十三年で卒し、年は三十三だった。子が四人おり、長子の辟奚が嗣いだ。
辟奚の性格は仁愛で恵みが深かった。はじめ(前秦の)苻堅が盛んと聞き、使者を派遣して馬五十匹、金銀の五百斤を献上した。苻堅は大いに悦び、拝して安遠将軍とした。このとき辟奚の三人の弟はみな専横した。長史の鍾惡地は国の害悪となることを恐れ、司馬の乞宿雲に、「むかし鄭の荘公と秦の昭王は一人の弟の権寵で、宗祀が傾きかけた。ましてや今日は三人もの悪人が並んで驕慢である、必ず社稷の憂いとなるだろう。私はあなたとともに忝くも宰相の任にある、もし(決起せず)首が繋がったまま死ねば、先君に質問され、なんと答えるのか。今こそ彼らを誅殺しよう」と言った。宿雲は辟奚に提案しようと言った。鍾悪地は、「わが王は決断力がない、(事前に)告げてはならない」と言った。そこで群臣に従い入殿し、三弟を捕らえて誅殺した。辟奚は長椅子に身を投じた。鍾悪地らが走り寄って助け起こし、「私は昨夜に夢を見て先王から、三人の弟が謀叛を起こす、速やかに除けと告げられました。私は謹んで先王の命に従ったのです」と言った。辟奚は軟弱な性格で、意識が混濁して病気となり、世子の視連に、「私に禍いと滅びが同時に生じた、どのような顔をして地下で(祖先に)会えば良いのか。国政は大小となく、お前が摂るように。残りの寿命は、人を頼って生きる」と言った。こうして精神を病んで卒した。位にあること二十五年、このとき四十二歳だった。子が六人おり、視連が嗣いだ。
視連が君位に立つと、乞伏乾帰と通婚し、拝して白蘭王となった。視連は幼いときは清廉で慎ましく志があった。父が病没すると、政治をせず、飲酒も狩猟もせずに七年が経過した。鍾悪地が進言し、「そもそも人君とは、徳で世を治め、威で軍を整え、五味を満たしてやり、声色を楽しませるもの。この四つは、聖帝や明王が重んじたことです。しかしあなたは全部を拒絶しています。むかし昭公は倹約で死に、偃王は仁義で亡びました。このように仁義は身を生かす原因にも、己を殺す原因にもなるのです。国家の統治は、徳と礼で行うもの。万民の救済は刑と法で行うもの。二者が食い違えば、秩序が失われます。明公は累世に徳を輝かせ、恩は西夏に及び、仁孝は本性から生じていますが、なお周公や孔子を手本とせねばなりません。ただ徐偃の仁をくり返し、刑徳を捨てて国を傾けてはいけません」と言った。視連は泣いて、「先王(父の辟奚)は兄弟が殺されたことを悼み、悲憤して亡くなった。私は事業を継いだにせよ、抜け殻に過ぎない。声色や遊娯を、どうして楽しめようか。綱維や刑礼は、これを将来に託そう」と言った。臨終のとき、子の視熊(子羆)に、「わが高祖父の吐谷渾はつねに公言し、子孫に必ず興隆する者がおり、永遠に中国の西藩となって、国の祭りは百世代に伝わるとした。私はそれに及ばず、お前もまたそうではない、お前の子孫のことだろう」と言った。位にあること十五年で卒した。二子がおり、年長は視熊といい、年少は烏紇堤といった。
視熊の性格は果断で、雄略があり、かつて従容として博士の金城郡の騫苞に、「『周易』に、動静には常のすがたがあり、剛柔は区別があるという。先代の王は仁で世を治め、威刑を行使しなかったので、剛柔の区別が失われ、隣接する敵(乞伏乾帰)に軽んじられる原因となった。仁を退けるべきで、どうして黙って恭順できようか。いま馬に秣を食わせて兵を励まし、中国で覇権を競おう。先生はどうお考えか」と言った。騫苞は、「大王の言葉は、世に高い戦略であり、秦隴の英雄や豪傑が待望するものです」と言った。ここにおいて心を開いて歓迎し、軍兵は帰ってくるかのように集まった。
乞伏乾帰は使者を派遣して拝して使持節・都督龍涸已西諸軍事・沙州牧・白蘭王とした。視熊は受けず、使者に、「晋帝国の秩序が失われ、姦雄が競って駆逐しあい、劉氏と石氏は残虐に乱し、秦と燕が跋扈し、河南王は形勝の地にいる。義兵を糾合し、(晋帝国に)反抗的なものを懲罰すべきだ。どうして勝手な官爵に組み込まれ、凶悪な諸勢力に加わろうか。私は五代のめでたき国祚を嗣ぎ、弓兵は二万、まさに禍いを秦隴地方で掃い、かれを沙涼地域で清めようとしている。その後に馬に涇水や渭水を飲ませ、鼎の重さを問う悪童を殺戮し、ひとつまみの泥で東関を封じ、燕や趙の経路を閉ざし、天子を西京(長安)に迎え、遠方の藩としての節義を尽くそう。季孫氏と孟孫氏や子陽(公孫述)のように妄りに自ら尊大となって終わらせられない。そのため私は河南王に連絡しよう。なぜ勲功を帝室のために立て、名前を王府に刻みこみ、適時の功績を立て、美名を未来に伝えないものか」と言った。乾帰は大いに怒り、しかしその強さを憚り、当初は友好を保ち、のちに軍勢を派遣して攻撃した。視熊は大いに敗れ、退いて白蘭に籠もった。位にあること十一年、年は三十三で卒した。子の樹洛干が幼いので、位を烏紇堤に伝えた。
烏紇堤は一名を大孩といい、性質は劣弱で、酒と色に惑溺し、国政を顧みなかった。乞伏乾帰が長安に入ると、烏紇堤はしばしば国境を掠めた。乾帰は怒り、騎兵を率いてこれを討伐した。烏紇堤は大いに敗れ、一万口あまりを失い、南涼に籠もり、胡国で卒した。位にあること八年、時に三十五歳であった。視熊の子の樹洛干が立った。
樹洛干は九歳で父を失った。その母の念氏は聡明で思いやりがあって美しかった。烏紇堤はこれを妻とし、寵愛したので、国政を握ることになった。洛干は十歳で自ら世子と称し、十六歳で位を嗣いで立ち、配下の数千家を率いて移動して莫何川に依り、自ら大都督・車騎大将軍・大単于・吐谷渾王を称した。配下を教化し、民たちは生業を楽しみ、戊寅可汗と号し、沙漒の各種族は帰附しないものがなかった。広く伝え、「わが先祖はこの地に避難し、私に及ぶまで七世である、群賢とともに安寧を実現したいと思う。いま兵馬は桓桓として(猛々しく)、弓兵は数万である。私は兵威を梁益に振るい、覇権を西戎に確立し、軍兵を三秦に送って、遠く(晋帝国の)天子に臣従しようと思う。諸君はどう思うか」と言った。兵たちはみな、「これぞ徳を盛んにする事業です、どうか大王は成し遂げて下さい」と言った。
乞伏乾帰は強く警戒し、騎兵二万を率い、これを赤水で攻めた。樹洛干は大いに敗れ、ついに乾帰に降服した。乾帰は拝して平狄将軍・赤水都護とし、またその弟の吐護真を捕虜将軍・層城都尉とした。その後にしばしば乞伏熾盤(乞伏熾磐)に敗れ、また白蘭に籠もり、恥じ怒って発病し卒した。位にあること九年、時に二十四歳であった。熾磐はその死を聞き、喜んで、「この虜は矯矯とし(武勇があり)、いわゆる白い蹄の猪であった」と言った。子が四人おり、世子の拾虔が嗣いだ。その子孫は代々継承して絶えなかった。

原文

焉耆國
焉耆國西去洛陽八千二百里、其地南至尉犂、北與烏孫接、方四百里。四面有大山、道險隘、百人守之、千人不過。其俗丈夫剪髮、婦人衣襦、著大袴。婚姻同華夏。好貨利、任姦詭。王有侍衞數十人、皆倨慢無尊卑之禮。
武帝太康中、其王龍安遣子入侍。安夫人獪胡之女、姙身十二月、剖脅生子、曰會、立之為世子。會少而勇傑。安病篤、謂會曰、「我嘗為龜茲王白山所辱、不忘於心。汝能雪之、乃吾子也」。及會立、襲滅白山、遂據其國、遣子熙歸本國為王。會有膽氣籌略、遂霸西胡、蔥嶺以東莫不率服。然恃勇輕率、嘗出宿於外、為龜茲國人羅雲所殺。
其後張駿遣沙州刺史楊宣率眾疆理西域、宣以部將張植為前鋒、所向風靡。軍次其國、熙距戰於賁崙城、為植所敗。植進屯鐵門、未至十餘里、熙又率眾先要之於遮留谷。植將至、或曰、「漢祖畏於柏人、岑彭死於彭亡。今谷名遮留。殆將有伏」。植單騎嘗之、果有伏發。植馳擊敗之、進據尉犂。熙率羣下四萬人肉袒降於宣。呂光討西域、復降於光。及光僭位、熙又遣子入侍。
龜茲國
龜茲國西去洛陽八千二百八十里、俗有城郭、其城三重、中有佛塔廟千所。人以田種畜牧為業、男女皆翦髮垂項。王宮壯麗、煥若神居。武帝太康中、其王遣子入侍。惠懷末、以中國亂、遣使貢方物於張重華。苻堅時、堅遣其將呂光率眾七萬伐之。其王白純距境不降、光進軍討平之。
大宛國
大宛西去洛陽萬三千三百五十里、南至大月氏、北接康居、大小七十餘城。土宜稻麥、有蒲陶酒、多善馬、馬汗血。其人皆深目多鬚。其俗娶婦先以金同心指鐶為娉。又以三婢試之、不男者絕婚。姦淫有子、皆卑其母。與人馬乘不調墜死者、馬主出斂具。善市賈、爭分銖之利、得中國金銀、輒為器物、不用為幣也。太康六年、武帝遣使楊顥拜其王藍庾為大宛王。藍庾卒、其子摩之立、遣使貢汗血馬。
康居國
康居國在大宛西北可二千里、與粟弋・伊列鄰接。其王居蘇薤城。風俗及人貌・衣服略同大宛。地和暖、饒桐柳・蒲陶、多牛羊、出好馬。泰始中、其王那鼻遣使上封事、并獻善馬。
大秦國
大秦國一名犂鞬、在西海之西、其地東西南北各數千里。有城邑、其城周迴百餘里。屋宇皆以珊瑚為梲栭、琉璃為牆壁、水精為柱礎。其王有五宮、其宮相去各十里、每旦於一宮聽事、終而復始。若國有災異、輒更立賢人、放其舊王、被放者亦不敢怨。有官曹簿領、而文字習胡、亦有白蓋小車・旌旗之屬、及郵驛制置、一如中州。其人長大、貌類中國人而胡服。其土多出金玉寶物・明珠・大貝、有夜光璧・駭雞犀及火浣布、又能刺金縷繡及織錦縷罽。以金銀為錢、銀錢十當金錢之一。安息・天竺人與之交市於海中、其利百倍。鄰國使到者、輒廩以金錢。途經大海、海水鹹苦不可食、商客往來皆齎三歲糧、是以至者稀少。漢時都護班超遣掾甘英使其國、入海、船人曰、「海中有思慕之物、往者莫不悲懷。若漢使不戀父母妻子者、可入」。英不能渡。武帝太康中、其王遣使貢獻。

訓読

焉耆國
焉耆國は西に洛陽を去ること八千二百里、其の地 南は尉犂に至り、北は烏孫と接し、方四百里なり。四面に大山有り、道は險隘にして、百人 之を守れば、千人 過ぎず。其の俗は丈夫は髮を剪り、婦人は襦を衣、大袴を著く。婚姻 華夏と同じ。貨利を好み、姦詭に任す。王に侍衞數十人有り、皆 倨慢にして尊卑の禮無し。
武帝の太康中に、其の王の龍安 子を遣はして入侍せしむ。安の夫人たる獪胡の女、姙身すること十二月、生子を剖脅し、會と曰ひ、之を立てて世子と為す。會 少くして勇傑なり。安の病 篤く、會に謂ひて曰く、「我 嘗て龜茲王の白山の辱むる所と為り、心に忘れず。汝 能く之を雪がば、乃ち吾が子なり」と。會 立つるに及び、襲ひて白山を滅し、遂に其の國に據り、子の熙を遣はして本國に歸りて王と為らしむ。會 膽氣籌略有り、遂に西胡に霸たり、蔥嶺以東 率服せざる莫し。然るに勇に恃みて輕率にして、嘗て出でて外に宿すに、龜茲の國人の羅雲の殺す所と為る。
其の後 張駿 沙州刺史の楊宣を遣はして眾を率ゐて西域を疆理し、宣の部將の張植を以て前鋒と為すや、向ふ所風靡す。軍 其の國に次り、熙 賁崙城に距戰し、植の敗る所と為る。植 進みて鐵門に屯し、未だ十餘里に至らざるに、熙 又 眾を率ゐて先に之を遮留谷に要す。植 將に至らんとするに、或ひと曰く、「漢祖 柏人に畏れ、岑彭 彭亡に死す。今 谷の名 遮留なり。殆ど將に伏有らんとせんか」と。植 單騎にて之を嘗するに、果して伏有りて發す。植 馳せて擊ちて之を敗り、進みて尉犂に據る。熙 羣下の四萬人を率ゐて肉袒して宣に降る。呂光 西域を討つに、復た光に降る。光 僭位するに及び、熙 又 子を遣はして入侍す。
龜茲國
龜茲國は西に洛陽を去ること八千二百八十里、俗は城郭有り、其の城 三重にして、中に佛塔廟千所有り。人 田種畜牧を以て業と為し、男女 皆 髮を翦りて項に垂る。王宮 壯麗にして、煥として神居の若し。武帝の太康中に、其の王 子を遣はして入侍せしむ。惠懷の末に、中國の亂るるを以て、使を遣はして方物を張重華に貢す。苻堅の時に、堅 其の將の呂光を遣はして眾七萬を率ゐて之を伐たしむ。其の王の白純 境を距ぎて降らず、光 進軍して討ちて之を平らぐ。
大宛國
大宛は西は洛陽を去ること萬三千三百五十里にして、南は大月氏に至り、北は康居に接し、大小七十餘城あり。土は宜しく稻麥すべく、蒲陶酒有り、善き馬多く、馬は汗血す。其の人 皆 深目にして鬚多し。其の俗 婦を娶るには先に金の同心の指鐶を以て娉と為す。又 三婢を以て之に試し、不男なる者は婚を絕つ。姦淫して子有らば、皆 其の母を卑しむ。人に馬を與へて乘らしむるに調せずして墜ちて死する者は、馬主 斂具を出す。善く市賈し、分銖の利を爭ひ、中國の金銀を得れば、輒ち器物を為り、用て幣と為さざるなり。太康六年に、武帝 使の楊顥を遣はして其の王の藍庾に拜して大宛王と為す。藍庾 卒するや、其の子の摩之 立ち、使を遣はして汗血馬を貢す。
康居國
康居國は大宛の西北 二千里可りに在り、粟弋・伊列と鄰接す。其の王 蘇薤城に居す。風俗及(と)人貌・衣服は略ぼ大宛に同じ。地は和暖にして、桐柳・蒲陶に饒にして、牛羊多く、好馬を出す。泰始中に、其の王の那鼻 使を遣はして封事を上り、并はせて善馬を獻ず。
大秦國
大秦國は一名を犂鞬といひ、西海の西に在り、其の地 東西南北 各々數千里なり。城邑有り、其の城の周迴は百餘里なり。屋宇 皆 珊瑚を以て梲栭を為り、琉璃もて牆壁を為り、水精もて柱礎を為る。其の王 五宮有り、其の宮 相 去ること各々十里、每旦に一宮に於て聽事し、終はりて復た始む。若し國に災異有らば、輒ち更めて賢人を立て、其の舊王を放ち、放たるる者も亦た敢て怨みず。官曹の簿領有り、而して文字 胡に習ひ、亦た白蓋の小車・旌旗の屬有り、郵驛 制置するに及び、一に中州が如し。其の人 長大にして、貌は中國の人に類るとも胡服す。其の土 多く金玉寶物・明珠・大貝を出し、夜光璧・駭雞犀及び火浣布有り、又 能く金縷繡及び織錦縷罽を刺す。金銀を以て錢を為り、銀錢十は金錢の一に當たる。安息・天竺の人 之と與に海中に交市し、其の利 百倍す。鄰國の使 到る者は、輒ち廩くるに金錢を以てす。途は大海を經て、海水 鹹苦にして食らふ可からず、商客の往來 皆 三歲の糧を齎し、是を以て至る者 稀少なり。漢の時 都護の班超 掾の甘英を遣はして其の國に使ひせしめ、海に入り、船人曰く、「海中に思慕の物有り、往者 悲懷せざる莫し。若し漢使 父母妻子を戀はざる者は、入る可し」と。英 渡ること能はず。武帝の太康中に、其の王 使を遣はして貢獻す。

現代語訳

焉耆国
焉耆国は西に洛陽を去ること八千二百里、その地は南は尉犂に至り、北は烏孫と接し、方四百里である。四方に高い山があり、道は険隘で、百人でそこを守れば、千人が通過できない。その習俗は成人男性は髪を切り、婦人は襦(腰までの衣)を着て、大袴を着ける。婚姻は中華と同じ。利殖を好み、姦計で儲けを奪う。王に侍衛が数十人おり、みな傲慢で尊卑の礼がない。
武帝の太康年間、その王の龍安が子を派遣して(晋帝国に)入侍させた。龍安の夫人である獪胡の娘は、妊娠すること十二ヵ月で、生きた胎児を取り出し、会と名づけ、これを世子に立てた。会は若くして勇猛な豪傑であった。龍安の病が重くなると、会に、「私はかつて亀茲王の白山によって辱められ、決して忘れなかった。お前が恥を雪いでこそ、わが子である」と言った。会が君位に立つに及び、襲って白山を滅ぼし、こうしてその国を拠点とし、子の熙を派遣して本国に帰って王位に就かせた。会は胆力と軍略があり、ついに西胡で覇権を持ち、蔥嶺以東は服従しないものがなかった。しかし勇猛さに任せて軽率で、かつて出かけて外で宿泊し、亀茲の国人の羅雲に殺された。
その後に張駿が沙州刺史の楊宣を派遣して軍を率いて西域の境界線を整理し、楊宣の部将の張植を前鋒とすると、現地の者は風に靡くように従った。軍が焉耆国に駐屯すると、熙は賁崙城で防戦し、楊植に敗れた。楊植は進んで鉄門に駐屯し、まだ十里あまりの手前で、熙もまた軍を率いて先にこれを遮留谷で要撃した。楊植が戦地に行こうとすると、ある人が、「前漢の高祖は柏人で畏れ、岑彭は彭亡で死にました。いま谷の名は遮留です。(字面からして)ほぼ確実に伏兵があるでしょう」と言った。楊植が単騎で確認すると、果たして伏兵が出現した。楊植は馳せて撃ち破り、進んで尉犂に拠った。熙は配下の四万人を率いて肌脱ぎになって楊宣に降服した。呂光が西域を討伐すると、さらに呂光に降った。呂光が君位を僭称すると、熙はまた子を派遣して入侍させた。
亀茲国
亀茲国は西に洛陽から八千二百八十里の距離にあり、その習俗は城郭を作り、城は三重で、城のなかに仏塔や廟が一千ヵ所ある。人々は農作と牧畜を生業とし、男女はみな髪を切って後ろに垂らす。王宮は壮麗で、壯麗にして、華やかさは神殿のようである。武帝の太康年間に、その王は子を派遣して入侍させた。恵帝や懐帝の末に、中国が乱れたので、使者を派遣して名産を張重華に献上した。苻堅のとき、苻堅はその将の呂光を派遣して七万の兵でこれを討伐した。その王の白純は国境を守って降らず、呂光は進軍して討伐しこれを平定した。
大宛国
大宛は西に洛陽から一万三千三百五十里の距離にあり、南は大月氏に至り、北は康居に接し、大小の城が七十あまり。土は稲や麦の生育に適し、蒲陶酒があり、善い馬が多く、馬は血の汗を流す。その人種はみな目が深くひげが多い。その習俗は婦人を娶るとき先に金でできた婚約指輪を贈って婚約とする。また三人の女奴隷で男性を試し、男性として不能ならば婚姻を解消する。姦淫して子ができれば、必ずその母のほうを卑しむ。人に馬を与えて乗らせたところ調教が不十分で落ちて死んだならば、馬主が葬儀費用を負担する。交易を得意とし、わずかな利益を追求し、中国の金銀を手に入れると、すぐに器物を作り、貨幣としては使用しない。太康六年、武帝が使者の楊顥を派遣してその王の藍庾を大宛王に任命した。藍庾が卒すると、その子の摩之が立ち、使者を送って汗血馬を献上した。
康居国
康居国は大宛の西北の二千里ばかりにあり、粟弋や伊列と隣接する。その王は蘇薤城に居する。風俗や顔つきと衣服はほぼ大宛に同じ。土地は温和であり、桐柳や蒲陶が豊かで、牛羊が多く、よい馬を産出する。泰始年間に、その王の那鼻が使者を派遣して封事をたてまつり、あわせて善馬を献上した。
大秦国
大秦国は一名を犂鞬といい、西海郡の西にあり、領地は東西南北がそれぞれ数千里であった。城邑があり、城の周囲は一百里あまり。屋敷は珊瑚で仕切りをつくり、琉璃で障壁をつくり、水晶で柱礎をつくる。王は五つの宮殿をもち、宮殿のあいだは十里ずつ離れ、毎朝ひとつの宮殿で政治をとり、一巡したらもとに戻る。もし国に災異があれば、替わりに賢人を立て、前任の王を放逐するが、放逐されても怨みに思わない。官庁には帳簿があるが、文字は胡族に習い、また白蓋の小車や旌旗の類いもあり、駅制が整備されているのは、まさに中国のようである。人種は身長が高く、顔は中国の人に似ているが胡服を着る。領地は多くの金玉や宝物・明珠・大貝を産出し、夜光璧や駭鶏犀および火浣布があり、また金縷繡や錦の織物を作ることができる。金銀で銭をつくり、銀銭が十枚で金銭一枚に相当する。安息や天竺の人はかれらと海上で交易し、その売上高は(仕入値の)百倍である。隣国から使者が到着すると、金銭を与える。行くには大海を経由するが、海水は塩辛くて飲めなず、商人が往復するときはつねに三年分の食料を必要とし、だからやって来ることはめったにない。漢代に都護の班超が掾の甘英を派遣してその国への使者としたが、海に出ると、船乗りが、「海のなかに思い慕うもの(貴重な品々か)が沈んでおり、ゆく者は悲しみ思わないものがない。もし漢帝国の使者に父母妻子が恋しくない者がいれば、入り(拾いあげ)なさい」と言った。甘英は(海に)潜れなかった。武帝の太康年間に、その王が使者を派遣して貢献した。

南蠻 林邑 扶南

原文

林邑國
林邑國本漢時象林縣、則馬援鑄柱之處也、去南海三千里。後漢末、縣功曹姓區、有子曰連、殺令自立為王、子孫相承。其後王無嗣、外孫范熊代立。熊死、子逸立。其俗皆開北戶以向日、至於居止、或東西無定。人性凶悍、果於戰鬭、便山習水、不閑平地。四時暄暖、無霜無雪、人皆倮露徒跣、以黑色為美。貴女賤男、同姓為婚、婦先娉壻。女嫁之時、著迦盤衣、橫幅合縫如井欄、首戴寶花。居喪翦鬢謂之孝、燔尸中野謂之葬。其王服天冠、被纓絡、每聽政、子弟侍臣皆不得近之。自孫權以來、不朝中國。至武帝太康中、始來貢獻。咸康二年、范逸死、奴文篡位。
文、日南西卷縣夷帥范椎奴也。嘗牧牛澗中、獲二鯉魚、化成鐵、用以為刀。刀成、乃對大石嶂而呪之曰、「鯉魚變化、冶成雙刀、石嶂破者、是有神靈」。進斫之、石即瓦解。文知其神、乃懷之。隨商賈往來、見上國制度、至林邑、遂教逸作宮室・城邑及器械。逸甚愛信之、使為將。文乃譖逸諸子、或徙或奔。及逸死、無嗣、文遂自立為王。以逸妻妾悉置之高樓、從己者納之、不從者絕其食。於是乃攻大岐界・小岐界・式僕・徐狼・屈都・乾魯・扶單等諸國、并之、有眾四五萬人。遣使通表入貢於帝、其書皆胡字。至永和三年、文率其眾攻陷日南、害太守夏侯覽、殺五六千人。餘奔九真。以覽尸祭天、鏟平西卷縣城、遂據日南。告交州刺史朱蕃、求以日南北鄙橫山為界。
初、徼外諸國嘗齎寶物自海路來貿貨、而交州刺史・日南太守多貪利侵侮、十折二三。至刺史姜壯時、使韓戢領日南太守、戢估較太半、又伐船調枹、聲云征伐、由是諸國恚憤。且林邑少田、貪日南之地。戢死、繼以謝擢、侵刻如初。及覽至郡、又耽荒於酒、政教愈亂、故被破滅。
既而文還林邑。是歲、朱蕃使督護劉雄戍於日南、文復攻陷之。四年、文又襲九真、害士庶十八九。明年、征西督護滕畯率交廣之兵伐文於盧容、為文所敗、退次九真。其年、文死、子佛嗣。升平末、廣州刺史滕含率眾伐之、佛懼、請降、含與盟而還。至孝武帝寧康中、遣使貢獻。至義熙中、每歲又來寇日南・九真・九德等諸郡、殺傷甚眾、交州遂致虛弱、而林邑亦用疲弊。佛死、子胡達立、上疏貢金盤椀及金鉦等物。
扶南國
扶南西去林邑三千餘里、在海大灣中、其境廣袤三千里、有城邑宮室。人皆醜黑拳髮、倮身跣行。性質直、不為寇盜、以耕種為務、一歲種、三歲穫。又好雕文刻鏤、食器多以銀為之、貢賦以金銀珠香。亦有書記府庫、文字有類於胡。喪葬婚姻略同林邑。
其王本是女子、字葉柳。時有外國人混潰者、先事神、夢神賜之弓、又教載舶入海。混潰旦詣神祠、得弓、遂隨賈人汎海至扶南外邑。葉柳率眾禦之、混潰舉弓、葉柳懼、遂降之。於是混潰納以為妻、而據其國。後胤衰微、子孫不紹、其將范尋復世王扶南矣。武帝泰始初、遣使貢獻。太康中、又頻來。穆帝升平初、復有竺旃檀稱王、遣使貢馴象。帝以殊方異獸、恐為人患、詔還之。

1.中華書局本によると、「絕」は衍字か。

訓読

林邑國
林邑國は本は漢の時の象林縣にして、則ち馬援 柱を鑄するの處なり、南海を去ること三千里なり。後漢の末に、縣の功曹の姓は區、子有りて連と曰ひ、令を殺して自立して王と為り、子孫 相 承ぐ。其の後 王 嗣無く、外孫の范熊 代はりて立つ。熊 死し、子の逸 立つ。其の俗 皆 北戶を開きて以て日に向ひ、居止に至ては、或いは東西 定むる無し。人の性は凶悍にして、戰鬭に果なり、山に便(なら)ひ水に習ひ、平地を閑(な)れず。四時 暄暖にして、霜無く雪無く、人 皆 倮露徒跣にして、黑色を以て美と為す。女を貴び男を賤しみ、同姓 婚を為し、婦 先に壻(むこ)を娉(めと)る。女 嫁ぐの時、迦盤衣を著(つ)け、橫幅 合縫すること井欄の如く、首に寶花を戴す。喪に居るに鬢を翦して之を孝と謂ひ、尸を中野に燔き之を葬と謂ふ。其の王 天冠を服(お)び、纓絡を被て、每に聽政し、子弟侍臣 皆 之に近づくを得ず。孫權より以來、中國に朝せず。武帝の太康中に至り、始めて來りて貢獻す。咸康二年、范逸 死し、奴文 位を篡す。
文は、日南の西卷縣の夷帥たる范椎奴なり。嘗て牛を澗中に牧し、二鯉魚を獲、化して鐵と成り、用ひて以て刀を為る。刀 成り、乃ち大なる石嶂に對ひて之を呪して曰く、「鯉魚 變化し、雙刀を冶成す、石嶂をば破る者は、是れ神靈有らん」と。進みて之を斫り、石 即ち瓦解す。文 其の神を知り、乃ち之を懷く。商賈に隨ひて往來し、上國の制度を見、林邑に至り、遂に逸に宮室・城邑及び器械を作るを教ふ。逸 甚だ之を愛信し、將と為らしむ。文 乃ち逸の諸子を譖り、或いは徙し或いは奔る。
逸 死するに及び、嗣無く、文 遂に自立して王と為る。逸の妻妾を以て悉く之を高樓に置き、己に從ふ者は之を納れ、從はざる者は其の食を絕つ。是に於て乃ち大岐界・小岐界・式僕・徐狼・屈都・乾魯・扶單ら諸國を攻め、之を并はせ、眾四五萬人有り。使を遣はして通表し帝に入貢するに、其の書 皆 胡字なり。永和三年に至り、文 其の眾を率ゐて攻めて日南を陷し、太守の夏侯覽を害し、五六千人を殺す。餘は九真に奔る。覽の尸を以て天を祭し、鏟(けづ)りて西卷の縣城を平らげ、遂に日南に據る。交州刺史の朱蕃に告げ、日南の北鄙の橫山を以て界と為すことを求む。
初め、徼外の諸國 嘗て寶物を齎して海路より來りて貿貨するに、而れども交州刺史・日南太守 多く利を貪り侵侮し、十に二三を折(さしひ)く。刺史の姜壯の時に至り、韓戢をして日南太守を領せしめ、戢 太半を估較し、又 船を伐ち枹を調し、聲に征伐すと云ひ、是に由り諸國 恚憤す。且つ林邑 田少なく、日南の地を貪る。戢 死絕し、繼ぐに謝擢を以てし、侵刻すること初の如し。覽 郡に至るに及び、又 酒に耽荒し、政教 愈々亂れ、故に破滅せらる。
既にして文 林邑に還る。是の歲、朱蕃 督護の劉雄をして日南を戍らしめ、文 復た攻めて之を陷す。四年、文 又 九真を襲ひ、士庶の十に八九を害す。明年に、征西督護の滕畯 交廣の兵を率ゐて文を盧容に伐ち、文の敗る所と為り、退きて九真に次す。其の年に、文 死し、子の佛 嗣ぐ。升平の末に、廣州刺史の滕含 眾を率ゐて之を伐ち、佛 懼れ、降らんことを請ひ、含は與に盟して還る。孝武帝の寧康中に至り、使を遣はして貢獻す。義熙中に至り、每歲 又 日南・九真・九德ら諸郡に來寇し、殺傷すること甚だ眾く、交州 遂に虛弱なるに致り、而して林邑も亦た用て疲弊す。佛 死し、子の胡達 立ち、上疏して金盤椀及び金鉦らの物を貢す。
これよりさき、辺外の諸国はかつて宝物を持って海路から貿易をしたが、交州刺史・日南太守はおおく利益をむさぼって侵害し、二割や三割を差し引いた。交州刺史が姜壮の時代に至り、韓戢に日南太守を領させ、韓戢は大半を収奪し、さらに船を壊し枹(なら)の木を調発し、征伐を掛け声にしたので、これにより諸国は激憤した。しかも林邑は耕地が少ないので、日南の地をむさぼった。韓戢が死亡すると、謝擢に後任を任せたが、利益の侵害は以前と同じであった。夏侯覧が郡に着任すると、酒にふけって、政治と教化はますます乱れ、ゆえに破滅させられたのである。
戦い終えて奴文は林邑に帰還した。この年、朱蕃は督護の劉雄に日南郡を守らせたが、奴文が再び攻めて陥落させた。永和四年、奴文はまた九真郡を襲い、士庶の八割や九割を殺した。翌年に、征西督護の滕畯が交州と広州の兵をひきいて奴文を盧容で討伐したが、奴文に敗れ、退いて九真郡に駐屯した。その年、奴文が死に、子の仏が嗣いだ。升平年間の末に、広州刺史の滕含が軍勢を率いてこれを討伐すると、奴仏は懼れ、降伏を申し出たので、滕含は盟約を結んで帰った。孝武帝の寧康年間に至り、使者を送って貢献した。義熙年間に至り、毎年また日南・九真・九徳ら諸郡に攻め込み、大量の殺傷をしたので、交州はこうして衰退し、林邑もまたこれにより疲弊した。奴仏が死ぬと、子の胡達が立ち、上疏して金盤椀および金鉦らの名産を献上した。
扶南國
扶南は西のかた林邑を去ること三千餘里、海の大灣の中に在り、其の境の廣袤は三千里、城邑宮室有り。人 皆 醜黑にして髮を拳(ま)き、倮身にして跣行す。性は質直にして、寇盜を為さず、耕種を以て務と為し、一歲に種て、三歲に穫る。又 文を雕し鏤を刻むを好み、食器 多く銀を以て之を為り、貢賦 金銀珠香を以てす。亦た書記府庫有り、文字 胡に類(に)る有り。喪葬婚姻 略ぼ林邑に同じ。
其の王 本は是れ女子にして、字は葉柳。時に外國人の混潰といふ者有り、先に神に事ふるに、夢に神 之に弓を賜ひ、又 舶に載りて海に入るを教ふ。混潰 旦に神祠に詣るに、弓を得、遂に賈人に隨ひて海に汎(う)きて扶南の外邑に至る。葉柳 眾を率ゐて之を禦ぐに、混潰 弓を舉げ、葉柳 懼れ、遂に之に降る。是に於て混潰 納れて以て妻と為し、而して其の國に據る。後に胤 衰微し、子孫 紹がず、其の將の范尋 復た世々扶南に王たり。武帝の泰始の初に、使を遣はして貢獻す。太康中に、又 頻りに來る。穆帝の升平の初に、復た竺旃檀有りて王を稱し、使を遣はして馴象を貢す。帝 殊方の異獸たるを以て、人の患と為ることを恐れ、詔して之を還らしむ。

現代語訳

林邑国
林邑国はもとは漢代の象林県で、馬援が柱を鋳したところで、南海郡から三千里である。後漢の末に、県の功曹で姓は区というものに、連という子がいて、県令を殺して自立して王となり、子孫が継承した。後に王に継嗣がおらず、外孫の范熊が代わりに立った。范熊が死に、子の范逸が立った。習俗はみな北の戸を開いて日に向かい(南北の区別がつかず)、住居には、東西の区別もない。ひとの性質は狂暴で、戦闘に果敢で、山中や川での生活に親しみ、平地に寄りつかない。四季を通じて温暖で、霜や雪がなく、ひとはみな裸と裸足で、黒色を美しいとする。女を尊び男を卑しみ、同姓で結婚し、女性がさきに婿をとる。女性が嫁ぐときは、迦盤衣を着用し、横幅の布を縫い合わせるのは井欄のようで、頭に宝花を乗せる。親が死ねばひげを切ることを孝とし、死体を野原で焼くことを葬という。王は天冠を身につけ、纓絡を着て、つねに政治に臨み、子弟や侍臣はだれも近づくことが出来ない。孫権より以来、中原に入朝しなかった。武帝の太康年間に至り、はじめて訪れて名産を献上した。咸康二年、范逸が死ぬと、奴文が位を簒奪した。
奴文は、日南郡の西巻県の夷族の首長である范椎奴である。かつて牛を谷間で放牧していると、二匹の鯉をつかまえ、変化して鉄となり、それを材料に刀を作った。刀が完成すると、大きな石峰に向かって願掛けをし、「鯉が変化し、二本の刀が完成した、石峰を壊すことができたら、これは神霊の意向である」と言った。前進して切りつけると、石がたちまち粉々になった。奴文はその神意を悟り、刀を懐に入れた。商人に従って往来し、すぐれた国の制度を見てから、林邑に至り、范逸に宮室や城邑と道具の作り方を教えた。范逸はとても寵用して信頼し、将に任命した。奴文は范逸の子供たちを謗り、徙刑にしたり出奔させたりした。
范逸が死ぬと、後嗣がおらず、かくして奴文は自立して王となった。范逸の妻妾をすべて高楼に追い込み、自分に従うものは娶り、従わないものは食料を絶った。ここにおいて大岐界・小岐界・式僕・徐狼・屈都・乾魯・扶単ら諸国を攻め、これらを併合し、軍勢は四五万人を擁した。使者を派遣し文書を送って皇帝に入貢したが、使われているのは胡族の字であった。永和三年に至り、奴文はその軍勢を率いて日南郡を攻め落とし、太守の夏侯覧と、五六千人を殺害した。残りは九真郡に逃げた。夏侯覧の死体を捧げて天を祭り、侵略して西巻の諸県を平定し、ついに日南郡に拠った。交州刺史の朱蕃に告げ、日南の北辺の横山を国境とすることを求めた。
扶南国
扶南は西方の林邑から三千里あまり、海の大湾のなかにあり、その国の面積は三千里、城邑や宮室があった。ひとはみな色黒で髪を巻き、裸で裸足である。性格は実直で、盗みをせず、農耕を営み、一年目に植え、三年目に収穫する。また入れ墨を彫って飾りつけを好み、食器は多くを銀でつくり、貢賦は金銀珠香で行う。また記録庫があり、文字は胡族に似ている。冠婚葬祭はほぼ林邑と同じ。
その王はもとは女性であり、名を葉柳といった。あるとき外国人に混潰というものがおり、さきに神に仕えていたが、夢で神から弓を賜り、また船に乗って海に出よと教わった。混潰は朝になると神祠にゆき、弓を手に入れ、かくして商人に随って海にこぎ出して扶南の外邑に到着した。葉柳は軍を率いてこれを防いだが、混潰が弓をあげると、葉柳は恐れて、かれに降伏した。こうして混潰は彼女を妻とし、その国を支配した。のちに子孫が衰退し、一族のものが位を継がず、その将の范尋がまた代々扶南で王となった。武帝の泰始年間の初め、使者を派遣して名産を献じた。太康年間に、また頻繁に入朝した。穆帝の升平年間の初めに、また竺旃檀というものがいて王を称し、使者を派遣して訓練された象を献上した。穆帝は遠方の奇妙な獣であり、ひとに害をなすことを恐れ、詔して持ち帰らせた。

北狄

原文

匈奴
匈奴之類、總謂之北狄。匈奴地南接燕趙、北暨沙漠、東連九夷、西距六戎。世世自相君臣、不稟中國正朔。夏曰薰鬻、殷曰鬼方、周曰獫狁、漢曰匈奴。其強弱盛衰、風俗好尚、區域所在、皆列於前史。
前漢末、匈奴大亂、五單于爭立、而呼韓邪單于失其國、攜率部落、入臣於漢。漢嘉其意、割并州北界以安之。於是匈奴五千餘落入居朔方諸郡、與漢人雜處。呼韓邪感漢恩、來朝。漢因留之、賜其邸舍、猶因本號、聽稱單于、歲給緜絹錢穀、有如列侯。子孫傳襲、歷代不絕。其部落隨所居郡縣、使宰牧之、與編戶大同、而不輸貢賦。多歷年所、戶口漸滋、彌漫北朔、轉難禁制。後漢末、天下騷動、羣臣競言、胡人猥多、懼必為寇、宜先為其防。建安中、魏武帝始分其眾為五部、部立其中貴者為帥、選漢人為司馬以監督之。魏末、復改帥為都尉。其左部都尉所統可萬餘落、居於太原故茲氏縣。右部都尉可六千餘落、居祁縣。南部都尉可三千餘落、居蒲子縣。北部都尉可四千餘落、居新興縣。中部都尉可六千餘落、居1.(太)〔大〕陵縣。
武帝踐阼後、塞外匈奴大水、塞泥・黑難等二萬餘落歸化、帝復納之、使居河西故宜陽城下。後復與晉人雜居、由是平陽・西河・太原・新興・上黨・樂平諸郡靡不有焉。泰始七年、單于猛叛、屯孔邪城。武帝遣婁侯何楨持節討之。楨素有志略、以猛眾凶悍、非少兵所制、乃潛誘猛左部督李恪殺猛。於是匈奴震服、積年不敢復反。其後稍因忿恨、殺害長史、漸為邊患。侍御史西河郭欽上疏曰、「戎狄強獷、歷古為患。魏初人寡、西北諸郡皆為戎居。今雖服從、若百年之後有風塵之警、胡騎自平陽・上黨不三日而至孟津、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡盡為狄庭矣。宜及平吳之威、謀臣・猛將之略、出北地・西河・安定、復上郡、實馮翊、於平陽已北諸縣募取死罪、徙三河・三魏見士四萬家以充之。裔不亂華、漸徙平陽・弘農・魏郡・京兆・上黨雜胡、峻四夷出入之防、明先王荒服之制、萬世之長策也」。帝不納。
至太康五年、復有匈奴胡太阿厚率其部落二萬九千三百人歸化。七年、又有匈奴胡都大博及萎莎胡等各率種類大小凡十萬餘口、詣雍州刺史扶風王駿降附。明年、匈奴都督大豆得一育鞠等復率種落大小萬一千五百口、牛二萬二千頭、羊十萬五千口、車廬什物不可勝紀、來降、并貢其方物。帝並撫納之。
北狄以部落為類、其入居塞者有屠各種・鮮支種・寇頭種・烏譚種・赤勒種・捍蛭種・黑狼種・赤沙種・鬱鞞種・萎莎種・禿童種・勃蔑種・羌渠種・賀賴種・鍾跂種・大樓種・雍屈種・真樹種・力羯種、凡十九種、皆有部落、不相雜錯。屠各最豪貴、故得為單于、統領諸種。其國號有左賢王・右賢王・左奕蠡王・右奕蠡王・左於陸王・右於陸王・左漸尚王・右漸尚王・左朔方王・右朔方王・左獨鹿王・右獨鹿王・左顯祿王・右顯祿王・左安樂王・右安樂王、凡十六等、皆用單于親子弟也。其左賢王最貴、唯太子得居之。其四姓、有呼延氏・卜氏・蘭氏・喬氏。而呼延氏最貴、則有左日逐・右日逐、世為輔相。卜氏則有左沮渠・右沮渠。蘭氏則有左當戶・右當戶。喬氏則有左都侯・右都侯。又有車陽・沮渠・餘地諸雜號、猶中國百官也。其國人有綦毋氏・勒氏、皆勇健、好反叛。武帝時、有騎督綦毋俔邪伐吳有功、遷赤沙都尉。
惠帝元康中、匈奴郝散攻上黨、殺長吏、入守上郡。明年、散弟度元又率馮翊・北地羌胡攻破二郡。自此已後、北狄漸盛、中原亂矣。

1.中華書局本に従い、「太」を「大」に改める。

訓読

匈奴の類、總て之を北狄と謂ふ。匈奴の地 南は燕趙に接し、北は沙漠に暨び、東は九夷に連なり、西は六戎に距(いた)る。世世 自ら相 君臣たりて、中國の正朔を稟(う)けず。夏は薰鬻と曰ひ、殷は鬼方と曰ひ、周は獫狁と曰ひ、漢は匈奴と曰ふ。其の強弱盛衰、風俗好尚、區域の所在、皆 前史に列せり。
前漢の末に、匈奴 大いに亂れ、五單于 爭ひて立ち、而して呼韓邪單于 其の國を失ひ、部落を攜(つら)ね率ゐて、入りて漢に臣す。漢 其の意を嘉し、并州の北界を割きて以て之を安んず。是に於て匈奴の五千餘落 入りて朔方の諸郡に居し、漢人と雜處す。呼韓邪 漢の恩に感じ、來朝す。漢 因りて之を留め、其の邸舍を賜ひ、猶ほ本號に因り、單于と稱することを聽し、歲ごとに緜絹錢穀を給ひ、有つこと列侯が如し。子孫 傳襲し、代を歷て絕へず。其の部落 居る所の郡縣に隨ひ、之を宰牧するに、編戶と大(あらま)し同じく、而れども貢賦を輸さず。多く年を歷る所に、戶口 漸く滋く、彌々北朔に漫(ひろ)がり、轉た禁制し難し。後漢の末に、天下 騷動するや、羣臣 競ひて言ふらく、胡人 猥りに多く、懼らくは必ず寇を為す、宜しく先に其の防を為すべしと。建安中に、魏武帝 始めて其の眾を分けて五部と為し、部ごとに其の中の貴なる者を立てて帥と為し、漢人を選びて司馬と為して以て之を監督せしむ。魏の末に、復た帥を改めて都尉と為す。其の左部都尉 統ぶる所は萬餘落可(ばか)り、太原の故の茲氏縣に居す。右部都尉 六千餘落可り、祁縣に居す。南部都尉 三千餘落可り、蒲子縣に居す。北部都尉 四千餘落可り、新興縣に居す。中部都尉 六千餘落可り、大陵縣に居す。
武帝 踐阼する後、塞外の匈奴 大いに水あれば、塞泥・黑難ら二萬餘落 歸化し、帝 復た之を納れ、河西の故の宜陽の城下に居せしむ。後に復た晉人と雜居し、是に由り平陽・西河・太原・新興・上黨・樂平の諸郡 有らざる靡し。泰始七年に、單于の猛 叛し、孔邪城に屯す。武帝 婁侯の何楨を遣はして持節して之を討たしむ。楨 素より志略有り、猛の眾 凶悍なるを以て、少兵の制する所に非ざれば、乃ち潛かに猛の左部督の李恪を誘ひて猛を殺さしむ。是に於て匈奴 震服し、積年に敢て復た反せず。其の後 稍く忿恨に因り、長史を殺害し、漸く邊患と為る。侍御史の西河の郭欽 上疏して曰く、「戎狄 強獷にして、歷古 患為り。魏初は人 寡なく、西北の諸郡 皆 戎の居と為る。今 服從すと雖も、若し百年の後 風塵の警有らば、胡騎 平陽・上黨より三日ならずして孟津に至り、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡 盡く狄の庭と為らん。宜しく平吳の威、謀臣・猛將の略を及ぼし、北地・西河・安定に出で、上郡を復し、馮翊を實たし、平陽已北の諸縣に於て死罪を募取し、三河・三魏の見士の四萬家を徙して以て之を充たすべし。裔 華を亂さざれば、漸く平陽・弘農・魏郡・京兆・上黨の雜胡を徙し、四夷の出入の防を峻(たか)くし、先王の荒服の制を明らかにせば、萬世の長策なり」と。帝 納れず。
太康五年に至り、復た匈奴の胡太阿厚 其の部落二萬九千三百人を率ゐて歸化する有り。七年に、又 匈奴の胡都大博及(と)萎莎胡ら各々種類大小凡十萬餘口を率ゐ、雍州刺史の扶風王駿に詣りて降附する有り。明年に、匈奴の都督大豆得一育鞠ら復た種落の大小萬一千五百口、牛二萬二千頭、羊十萬五千口を率ゐて、車廬什物 勝げて紀す可からず、來降し、并せて其の方物を貢す。帝 並びに撫して之を納る。
北狄 部落を以て類と為し、其の入りて塞に居する者は屠各種・鮮支種・寇頭種・烏譚種・赤勒種・捍蛭種・黑狼種・赤沙種・鬱鞞種・萎莎種・禿童種・勃蔑種・羌渠種・賀賴種・鍾跂種・大樓種・雍屈種・真樹種・力羯種、凡そ十九種有り、皆 部落有り、相 雜錯せず。屠各 最も豪貴たりて、故に單于と為るを得、諸種を統領す。其の國 號は左賢王・右賢王・左奕蠡王・右奕蠡王・左於陸王・右於陸王・左漸尚王・右漸尚王・左朔方王・右朔方王・左獨鹿王・右獨鹿王・左顯祿王・右顯祿王・左安樂王・右安樂王、凡そ十六等有り、皆 單于の親子弟を用ふるなり。其の左賢王 最も貴く、唯だ太子のみ之に居るを得。其の四姓に、呼延氏・卜氏・蘭氏・喬氏有り。而して呼延氏 最も貴ければ、則ち左日逐・右日逐有り、世々輔相為り。卜氏 則ち左沮渠・右沮渠有り。蘭氏 則ち左當戶・右當戶有り。喬氏 則ち左都侯・右都侯有り。又 車陽・沮渠・餘地の諸雜號有り、猶ほ中國の百官のごときなり。其の國人 綦毋氏・勒氏有り、皆 勇健にして、反叛を好む。武帝の時に、騎督の綦毋俔邪有りて伐吳に功有り、赤沙都尉に遷る。
惠帝の元康中に、匈奴の郝散 上黨を攻め、長吏を殺し、入りて上郡を守る。明年に、散の弟の度元 又 馮翊・北地の羌胡を率ゐて攻めて二郡を破る。此より已後、北狄 漸く盛んにして、中原 亂れり。

現代語訳

匈奴の種族は、すべてこれを北狄という。匈奴の領域は南は燕趙に接し、北は沙漠に及び、東は九夷に連なり、西は六戎に至る。代々その内部で君臣関係を作り、中国の正朔を用いなかった。夏では薰鬻といい、殷では鬼方といい、周では獫狁といい、漢では匈奴といった。その強弱や盛衰、風俗や好み、領地の所在は、すべて前代の史書に記されてきた。
前漢の末に、匈奴が大いに乱れ、五人の善于が争って立ち、これを受けて呼韓邪単于はその国を失い、部落を連ねて率い、入境して漢帝国の臣となった。漢帝国はその意思を認め、并州の北部を割いて安住させた。ここにおいて匈奴の五千落あまりが入境して朔方の諸郡に居住し、漢人と雑居した。呼韓邪は漢の恩に感じ、朝廷にやって来た。漢帝国はかれを(都に)留め、邸宅を賜り、もとの称号にちなみ、単于と称することを許し、歳ごとに綿と絹と銭と穀物を給わり、列侯のように存続させた。子孫が世襲し、代を重ねて絶えなかった。その部落は居住した郡県に統属し、かれらの支配は、(漢人の)世帯とほぼ同じであったが、租税や労役は免除された。長い年月を経ると、戸数と人口が徐々に多くなり、いよいよ北朔の方面に広がり、統御しづらくなった。後漢の末に、天下が混乱すると、郡臣が競って、胡人はやたらと多く、恐らく必ず攻めてきます、さきに防衛すべきですと言った。建安年間に、魏武帝(曹操)がはじめてその人々を分割して五部とし、部ごとにその地位の高いものを立てて帥とし、漢人を選んで司馬として監督をさせた。魏代の末に、また帥を改めて都尉とした。その左部都尉が統率するのは約一万落あまりで、太原郡のもとの茲氏県に配置した。右部都尉は約六千落あまりで、祁県に配置した。南部都尉は約三千落あまりで、蒲子県に配置した。北部都尉は約四千落あまりで、新興県に配置した。中部都尉は約六千落あまりで、大陵県に配置した。
武帝が即位した後、塞外の匈奴は洪水にあったので、塞泥と黒難らは二万落あまりで帰順し、武帝はこれを受け入れ、河西のもとの宜陽の城下に居住させた。のちにまた晋人と雑居し、これにより平陽・西河・太原・新興・上党・楽平の諸郡に(匈奴が)いない郡がなくなった。泰始七年、単于の猛が叛し、孔邪城に駐屯した。武帝は婁侯の何楨を派遣して持節して討伐させた。何楨はもとより軍略をそなえ、猛の軍が精強であり、少数の兵では制圧できないため、ひそかに猛の左部督の李恪をそそのかして猛を殺させた。かくして匈奴は震えて服従し、連年にわたり絶えて反乱しなかった。その後、だんだん怒りや恨みが蓄積し、長史を殺害し、いよいよ辺境の脅威となった。侍御史の西河郡の郭欽が上疏して、「戎狄は狂暴であり、古来より脅威でした。魏の初期に(漢)人が少なく、西北の諸郡はすべて戎狄の居住地となりました。いま服従していますが、もし百年の後に(中原で)戦乱があれば、胡族の起兵は平陽や上党から三日もかけずに孟津に至り、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡はことごとく戎狄の領土となるでしょう。呉を平定した兵威と、謀臣や猛将の策略を行使し、北地・西河・安定に出撃して、上郡を回復し、馮翊(の守備を)充実させ、平陽以北の諸県で死刑囚を募って集め、三河・三魏の見士の四万家を移住させてここを(漢族で)満たされますように。夷狄が中華を乱さないようならば、平陽・弘農・魏郡・京兆・上党の諸種の胡族を移住させ、四夷の出入の防備を固め、古の王が定めた(『尚書』禹貢の)荒服の制度に従ったならば、万世の長久の方策となります」と言った。武帝は聴き入れなかった。
太康五年に至り、また匈奴の胡太阿厚がその部落の二万九千三百人を率いて帰順した。太康七年、また匈奴の胡都大博と萎莎胡らが各々の部族の(集団の)大小ふくめて全部で十万人あまり率い、雍州刺史の扶風王の司馬駿のもとにきて降伏して帰順した。翌年に、匈奴の都督の大豆得一育鞠らがまた部族の大小の一万一千五百人、牛二万二千頭、羊十万五千口を携え、車で運び込む物資は数え切れないほどで、やって来て降伏し、あわせて名産を献上した。武帝はいずれも歓迎して受け入れた。
北狄は種族ごとに集団をつくり、入境して塞内に居住したものは屠各種・鮮支種・寇頭種・烏譚種・赤勒種・捍蛭種・黒狼種・赤沙種・鬱鞞種・萎莎種・禿童種・勃蔑種・羌渠種・賀頼種・鍾跂種・大楼種・雍屈種・真樹種・力羯種で、ぜんぶで十九種おり、すべて部落を形成し、たがいに入り交じらなかった。屠各がもっとも勢力が強く、ゆえに単于を輩出でき、各種族を統率した。その国の称号は左賢王・右賢王・左奕蠡王・右奕蠡王・左於陸王・右於陸王・左漸尚王・右漸尚王・左朔方王・右朔方王・左独鹿王・右独鹿王・左顕禄王・右顕禄王・左安楽王・右安楽王で、ぜんぶで十六等あり、すべて単于の親族が登用された。なかでは左賢王が最も地位が高く、ただ太子だけが就くことができた。四姓に、呼延氏・卜氏・蘭氏・喬氏がある。呼延氏がもっとも地位が高いので、左日逐・右日逐となり、代々宰相となる。卜氏は左沮渠・右沮渠となる。蘭氏は左当戸・右当戸となる。喬氏は左都侯・右都侯となる。また車陽・沮渠・餘地という各種の雑号があり、中国の百官のようである。その国人に綦毋氏・勒氏がおり、みな勇猛果敢で、反乱を好んだ。武帝のとき、騎督の綦毋俔邪がいて伐呉に功績があり、赤沙都尉に遷った。
恵帝の元康年間、匈奴の郝散が上党を攻め、長吏を殺し、入境して上郡を守った。翌年、郝散の弟の郝度元もまた馮翊郡と北地郡の羌胡を率いて攻めて二郡を破った。これより以後、北狄は徐々に盛んになり、中原は乱れたのである。

原文

史臣曰、夫宵形稟氣、是稱萬物之靈。繫土隨方、迺有羣分之異。蹈仁義者為中㝢、肆凶獷者為外夷。譬諸草木、區以別矣。夷狄之徒、名教所絕、闚邊候隙、自古為患。稽諸前史、憑陵匪一。軒皇北逐、唐帝南征、殷后東戡、周王西狩、皆所以禦其侵亂也。嬴劉之際、匈奴最強。元成之間、呼韓委質、漢嘉其節、處之中壤。歷年斯永、種類逾繁、舛號殊名、不可勝載。
爰及泰始、匪革前迷、廣闢塞垣、更招種落、納萎莎之後附、開育鞠之新降、接帳連韝、充郊掩甸。既而沸脣成俗、鳴鏑為羣、振鴞響而挻災、恣狼心而逞暴。何楨縱策、弗沮於姦萌。郭欽馳疏、無救於妖漸。未環星紀、坐傾都邑、黎元塗地、凶族滔天。迹其所由、抑武皇之失也。
吐谷渾分緒偽燕、遠辭正嫡、率東胡之餘眾、掩西羌之舊宇。網疏政暇、地廣兵全、廓萬里之基、貽一匡之訓、弗忘忠義、良可嘉焉。吐延夙標宏偉、見方於項籍、始遵朝化、遽夭於姜聰、高節不羣、亦殊藩之秀也。葉延至孝、寄新哀於射草。辟奚深友、邁古烈於分荊。視連蒸蒸、光奉先之義。視羆矯矯、蘊經時之略。洛干童幼、早擅英規、未騁雄心、先摧凶手。奉順者必敗、豈天亡晉乎。 且渾・廆連枝、生自邊極、各謀孫而翼子、咸革裔而希華。廆胤姦凶、假鳳圖而竊號。渾嗣忠謹、距龍涸而歸誠。懷姦者數世而亡、資忠者累葉彌劭。積善餘慶、斯言信矣。
贊曰、逖矣前王、區別羣方。叛由德弛、朝因化昌。武后升圖、智昧遷胡。遽淪家國、多謝明謨。谷渾英奮、思矯穨運。克昌其緒、實資忠訓。

訓読

史臣曰く、夫れ形に宵(に)て氣を稟くるは、是れ萬物の靈と稱す。土に繫がり方に隨へば、迺(すなは)ち羣分の異有り。仁義を蹈む者は中㝢と為り、凶獷を肆にする者は外夷と為る。譬へば諸々の草木、區して以て別る。夷狄の徒、名教 絕つ所、邊を闚し隙を候ひ、古より患と為る。諸々の前史に稽るに、憑陵 一に匪ず。軒皇は北逐し、唐帝は南征し、殷后は東戡し、周王は西狩するは、皆 其の侵亂を禦する所以なり。嬴劉の際に、匈奴 最も強し。元成の間に、呼韓 質を委ね、漢 其の節を嘉し、之を中壤に處らしむ。年を歷て斯れ永く、種類 逾々繁たりて、舛號殊名、勝げて載する可からず。
爰に泰始に及び、前迷を革むる匪ず、廣く塞垣を闢き、更に種落を招き、萎莎の後附を納れ、育鞠の新降を開き、帳を接べ韝を連ね、郊を充し甸を掩ふ。既にして沸脣 俗を成し、鳴鏑 羣と為り、鴞響を振ひて災を挻き、狼心を恣にして暴を逞くす。何楨 策を縱にするとも、姦萌を沮めず。郭欽 疏を馳するとも、妖漸を救ふ無し。未だ星紀を環らず、坐して都邑を傾け、黎元 地に塗れ、凶族 天に滔る。其の由る所を迹るに、抑々武皇の失なり。
吐谷渾 緒を偽燕より分かち、遠く正嫡を辭し、東胡の餘眾を率ゐて、西羌の舊宇を掩ふ。網は疏にして政は暇なり、地は廣く兵は全く、萬里の基を廓き、一匡の訓を貽し、忠義を忘れず、良に嘉す可きなり。吐延 夙に宏偉を標し、項籍に方(くら)べられ、始めて朝化に遵ひ、遽かに姜聰に夭し、高節 羣れざるは、亦た殊藩の秀なり。葉延 至孝にして、新哀を射草に寄す。辟奚 深友にして、古烈は分荊より邁ゆ。視連 蒸蒸にして、奉先の義を光かす。視羆 矯矯なるも、經時の略を蘊(たくは)ふ。洛干 童幼にして、早く英規を擅にし、未だ雄心を騁せざるに、先に凶手に摧せられる。奉順する者は必ず敗るるは、豈に天の晉を亡ぼすか。 且つ渾・廆 枝を連ねて、邊極より生じ、各々孫を謀りて子を翼け、咸 裔を革めて華を希はしむ。廆の胤 姦凶にして、鳳圖を假りて號を竊む。渾の嗣は忠謹にして、龍涸を距ぎて誠に歸す。姦を懷く者は數世にして亡び、忠を資くる者は累葉にして彌々劭し。積善の餘慶、斯の言は信なり。
贊に曰く、逖(とほ)きかな前王、羣方を區別す。叛するは德の弛きに由り、朝するは化の昌なるに因る。武后 圖を升せられ、智は胡を遷すに昧し。遽に家國を淪め、多く明謨に謝す。谷渾の英奮にして、穨運を矯めんことを思ふ。克く其の緒を昌んにするは、實に忠訓に資る。

現代語訳

史臣はいう、形が似て気を受けるものを、万物の霊と称する。土地に結びついて風土に従えば、さまざまな区別が生じる。仁義を実践するものは中国人となり、凶逆を欲しいままにするものは外夷となる。たとえば諸々の草木は、生える地域によって別種となる。夷狄の徒は、名教が途絶えたところにおり、辺境を伺って間隙を狙い、先古より(中国の)脅威となった。さまざまな前代の史書を見るに、勇ましく荒いことは一通りではない。軒皇(軒轅)は北に駆逐し、唐帝(尭)は南に征伐し、殷后は東で勝利し、周王は西に遠征したのは、みな侵略を防ぐためであった。秦漢の交替期に、匈奴はもっとも強かった。(前漢の)元帝と成帝のころ、呼韓邪が人質を差し出し、漢帝国はその忠節を褒め、これを中原に住まわせた。長い年月が流れて、種族はどんどん増えて、官爵や称号は、数えきれぬほど増えた。
こうして(西晋の)泰始年間に及び、前代の失策を改善せず、広く国境を開き、さらに異民族を招き、(匈奴の)萎莎族が遅れて帰順すれば受け入れ、(匈奴の大豆得一)育鞠が新たに降服すれば歓迎し、軍幕を並べて弓小手を連ね、郊甸(周辺地域)が異民族で満ちあふれた。既にして沸脣(未詳)が定着し、鳴鏑(鏑矢)がひしめき、ふくろうの声が響いて災厄を誘い、狼の心が野放しになった。何楨は軍略を駆使したが、禍いの原因を絶てなかった。郭欽が上疏を提出したが、滅亡の足音を止められなかった。十二年も経たずに、無策のまま都邑(洛陽)を傾け、万民は殺されて地にまみれ、凶族の勢いが天まで溢れた。原因を作ったのは、そもそも武帝の失敗である。
吐谷渾は国の祖先が偽燕(前燕)から分かれ、距離をとって正嫡を辞退し、東胡の残党を率いて、西羌の旧領を支配した。法律はゆるく政治に簡素で、領地は広く兵は無傷で、万里の礎を開き、将来のための助言を残し、忠義を忘れず、とても優れた国であった。吐延は早くから高い志を掲げ、項籍に比べられ、初めて(東晋の)教化に従ったが、にわかに姜聡に殺され、高い節義を貫いたのは、遠方の藩として秀でていた。葉延は至孝であり、父の仇討ちを草を射ることに託した。辟奚は兄弟思いで、古烈は分荊を超えた(未詳)。視連は純一であり、(晋帝国を)奉戴する義を輝かせた。視羆は驕慢であったが、世代を重ねて軍略を蓄えた。洛干は幼少であるが、早くから英雄の頭角を現し、雄々しい志を実現する前に、(乞伏乾帰の)凶手に倒れた。恭順する者が必ず敗れるのは、天が晋帝国を滅ぼそうとしているのか。 しかも吐谷渾と慕容廆は血縁であり、辺境の片隅から発生し、どちらも将来を予期して子に道を示し、ともに子孫を改めて中華に向かわせた。(ところが)慕容廆の子孫は姦凶であり、鳳皇の図讖に仮託して帝号を盗んだ。吐谷渾の子孫は忠謹であり、(乞伏乾帰から)龍涸に封建されることを拒否して晋帝国に帰属した。邪悪な心を持つものは数世代で滅亡し、忠誠を抱くものは世代を重ねるごとに繁栄する。積善の餘慶という、(『周易』坤卦の)言葉は本当のことである。
賛にいう、遠い昔の王は、各方面を区切った。(異民族が)反乱するのは(中国の)徳が緩んだことが原因で、朝見するのは教化が届いたことが原因である。武后(晋の武帝か)は提案を受けたが、胡族を移すほどの智恵がなかった。にわかに国家を沈め、多くの良計を損なった。吐谷渾は英雄として奮い、(晋帝国の)衰運を正そうとした。(吐谷渾の)国運が盛んになったのは、まことに(晋帝国に)忠誠を尽くしたことに依る。