いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第六十八巻_王敦(沈充)・桓温(孟嘉)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

王敦(沈充)

原文

王敦字處仲、司徒導之從父兄也。父基、治書侍御史。敦少有奇人之目、尚武帝女襄城公主、拜駙馬都尉、除太子舍人。時王愷・石崇以豪侈相尚、愷嘗置酒、敦與導俱在坐、有女伎吹笛小失聲韵、愷便敺殺之、一坐改容、敦神色自若。他日、又造愷、愷使美人行酒、以客飲不盡、輒殺之。酒至敦・導所、敦故不肯持、美人悲懼失色、而敦慠然不視。導素不能飲、恐行酒者得罪、遂勉強盡觴。導還、歎曰、「處仲若當世、心懷剛忍、非令終也」。洗馬潘滔見敦而目之曰、「處仲蜂目已露、但豺聲未振、若不噬人、亦當為人所噬」。及太子遷許昌、詔東宮官屬不得送。敦及洗馬江統・潘滔、舍人杜蕤・魯瑤等、冒禁於路側望拜流涕、時論稱之。遷給事黃門侍郎。
趙王倫篡位、敦叔父彥為兗州刺史、倫遣敦慰勞之。會諸王起義兵、彥被齊王冏檄、懼倫兵強、不敢應命、敦勸彥起兵應諸王、故彥遂立勳績。惠帝反正、敦遷散騎常侍・左衞將軍・大鴻臚・侍中、出除廣武將軍・青州刺史。
永嘉初、徵為中書監。于時天下大亂、敦悉以公主時侍婢百餘人配給將士、金銀寶物散之於眾、單車還洛。東海王越自滎陽來朝、敦謂所親曰、「今威權悉在太傅、而選用表請、尚書猶以舊制裁之、太傅今至、必有誅罰」。俄而越收中書令繆播等十餘人殺之。越以敦為揚州刺史、潘滔說越曰、「今樹處仲於江外、使其肆豪強之心、是見賊也」。越不從。
其後徵拜尚書、不就。元帝召為安東軍諮祭酒。會揚州刺史劉陶卒、帝復以敦為揚州刺史、加廣武將軍。尋進左將軍・都督征討諸軍事・假節。帝初鎮江東、威名未著、敦與從弟導等同心翼戴、以隆中興、時人為之語曰、「王與馬、共天下」。尋與甘卓等討江州刺史華軼、斬之。
蜀賊杜弢作亂、荊州刺史周顗退走、敦遣武昌太守陶侃・豫章太守周訪等討弢、而敦進住豫章、為諸軍繼援。及侃破弢、敦上侃為荊州刺史。既而侃為弢將杜曾所敗、敦以處分失所、自貶為廣武將軍、帝不許。侃之滅弢也、敦以元帥進鎮東大將軍・開府儀同三司、加都督江揚荊湘交廣六州諸軍事・江州刺史、封漢安侯。敦始自選置、兼統州郡焉。頃之、杜弢將杜弘南走廣州、求討桂林賊自效、敦許之。陶侃距弘不得進、乃詣零陵太守尹奉降、奉送弘與敦、敦以為將、遂見寵待。南康人何欽所居嶮固、聚黨數千人、敦就加四品將軍、於是專擅之迹漸彰矣。

訓読

王敦 字は處仲、司徒導の從父兄なり。父の基は、治書侍御史なり。敦 少くして奇人の目有り。武帝が女の襄城公主を尚し、駙馬都尉を拜し、太子舍人に除せらる。時に王愷・石崇 豪侈を以て相 尚び、愷 嘗て置酒し、敦 導と與に俱に坐に在り、女伎 笛を吹きて小しく聲韵を失ふ有り、愷 便ち之を敺殺す。一坐 容を改むるも、敦の神色 自若たり。他日に、又 愷に造り、愷 美人をして行酒せしめ、客の飲 盡さざるを以て、輒ち之を殺す。酒 敦・導が所に至り、敦 故に持するを肯ぜず、美人 悲懼して色を失ひ、而れども敦 慠然として視ず。導 素より飲む能はず、行酒する者 罪を得るを恐れ、遂に勉強して觴を盡す。導 還り、歎じて曰く、「處仲 若し世に當らば、心に剛忍を懷き、令終〔一〕非ざるなり」と。洗馬の潘滔 敦に見えて之を目して曰く、「處仲の蜂目 已に露はれ、但だ豺聲 未だ振はず〔二〕。若し人を噬(くら)はずんば、亦た當に人の噬ふ所と為らん」と。太子 許昌に遷るに及び、東宮の官屬に詔して送るを得ず。敦及び洗馬の江統・潘滔、舍人の杜蕤・魯瑤ら、禁を冒して路側に於て望拜して流涕し、時論 之を稱ふ。給事黃門侍郎に遷る。
趙王倫 篡位するや、敦が叔父の彥 兗州刺史と為り、倫 敦を遣はして之を慰勞せしむ。會々諸王 義兵を起こし、彥 齊王冏の檄を被り、倫の兵 強きを懼れ、敢て命に應ぜず。敦 彥に起兵して諸王に應ずるを勸め、故に彥 遂に勳績を立つ。惠帝 正に反り、敦 散騎常侍・左衞將軍・大鴻臚・侍中に遷り、出でて廣武將軍・青州刺史に除せらる。
永嘉の初に、徵せられて中書監と為る。時に天下 大いに亂れ、敦 悉く公主の時の侍婢百餘人を以て將士に配給し、金銀寶物 之を眾に散じ、單車もて洛に還る。東海王越 滎陽より來朝し、敦 親しむ所に謂ひて曰く、「今 威權 悉く太傅に在り、而れども選用の表請、尚書 猶ほ舊制を以て之を裁く。太傅 今 至らば、必ず誅罰すること有らん」と。俄かにして越 中書令の繆播らを十餘人を收めて之を殺す。越 敦を以て揚州刺史と為す。潘滔 越に說きて曰く、「今 處仲を江外に樹て、其の豪強の心を肆にせしむれば、是れ見賊なり」と。越 從はず。
其の後 徵せられて尚書を拜するも、就かず。元帝 召して安東軍諮祭酒と為す。會々揚州刺史の劉陶 卒し、帝 復た敦を以て揚州刺史と為し、廣武將軍を加ふ。尋いで左將軍・都督征討諸軍事・假節に進む。帝 初めて江東に鎮するや、威名 未だ著はれず、敦 從弟の導らと與に同心翼戴し、以て中興を隆くす。時人 之が為に語りて曰く、「王と馬と、天下を共にす」と。尋いで甘卓らと與に江州刺史の華軼を討ち、之を斬る。
蜀賊の杜弢 亂を作し、荊州刺史の周顗 退走す。敦 武昌太守の陶侃・豫章太守の周訪らを遣はして弢を討ち、而も敦 進みて豫章に住まり、諸軍の繼援と為る。侃 弢を破るに及び、敦 侃を上して荊州刺史と為す。既にして侃 弢が將の杜曾の敗る所と為るや、敦 處分して所を失ふを以て、自ら貶めて廣武將軍と為すも、帝 許さず。侃の弢を滅ぼすや、敦 元帥を以て鎮東大將軍・開府儀同三司に進み、都督江揚荊湘交廣六州諸軍事・江州刺史を加へ、漢安侯に封ぜらる。敦 始めて自ら選置し、州郡を兼統す。頃之、杜弢が將の杜弘 南のかた廣州に走り、桂林の賊を討ちて自ら效すことを求め、敦 之を許す。陶侃 弘を距みて進むを得ず、乃ち零陵太守の尹奉に詣りて降り、奉 弘を送りて敦に與へ、敦 以て將と為し、遂に寵待せらる。南康の人の何欽 居る所 嶮固にして、聚黨は數千人なり。敦 就ち四品將軍を加へ、是に於て專擅の迹 漸く彰はる。

〔一〕令終は、『詩経』既酔にみえ、よい終わり、よい死にざま。
〔二〕蜂目も豺聲も、凶相。『春秋左氏伝』文公 伝元年に、「蠭目而豺聲」とある。

現代語訳

王敦は字を処仲といい、司徒王導の従父兄である。父の王基は、治書侍御史である。王敦は若いときから奇人の(凡人でない)目であった。武帝の娘の襄城公主をめとり、駙馬都尉を拝し、太子舎人に任命された。このとき王愷と石崇が豪奢を競いあい、王愷があるとき酒席を設け、王敦は王導とともに出席し、女伎が笛を吹いて少し音色を外すと、王愷はただちに殴り殺した。同席者は顔色を変えたが、王敦は平然としていた。別の日、(王敦と王導が)王愷を訪れ、王愷は美人に酒を注がせ、客が飲み干さないと、美人を殺した。酒が王敦と王導のところに巡ってきて、王敦はあえて酌を受けず、美人は悲しみ恐れたが、王敦は堂々として目もくれなかった。王導は酒を飲めないが、注ぐものが処罰されることを恐れ、無理やりに觴を飲み干した。王導が帰ってから、歎じて、「処仲(王敦)がもし政治を執れば、残忍で容赦なく、よい死に方をしない」と言った。洗馬の潘滔が王敦と会ったとき見つめ、「処仲は蜂のような目つきがすでに表れ、だが豺のような声がまだ響かない。もし他人を食らわなければ、他人に食われるだろう」と言った。太子(司馬遹)が許昌に遷るとき、東宮の官属に詔して見送りを禁じた。王敦及び洗馬の江統と潘滔、舎人の杜蕤と魯瑤らは、禁令を破って路側で望み拝して涙を流したので、当時の世論は彼らを称えた。給事黄門侍郎に遷った。
趙王倫(司馬倫)が帝位を簒奪すると、王敦の叔父の王彦は兗州刺史となり、司馬倫は王敦を派遣して彼を慰労させた。たまたま諸王が義兵を起こし、王彦は斉王冏(司馬冏)から檄文を受け取ったが、司馬倫の兵が強いことを懼れ、あえて命令に応じなかった。王敦は王彦に起兵して諸王に呼応するよう勧め、ゆえに王彦は(司馬倫討伐の)勲功を立てることができた。恵帝が帝位に復帰し、王敦は散騎常侍・左衛将軍・大鴻臚・侍中に遷り、朝廷を出て広武将軍・青州刺史に任命された。
永嘉年間の初め、徴召されて中書監となった。このとき天下が大いに乱れたので、王敦は公主(自分の妻)の百人あまりの侍婢をすべて将士に振り分け、金銀や宝物をすべて兵士にばら撒き、馬車一台で洛陽に帰った。東海王越(司馬越)が栄陽から朝廷にきたが、王敦は親しいものに、「いま威権はすべて太傅(司馬越)に集約しているが、しかし人材の登用と選抜の文書は、尚書が旧来どおり処理している。太傅がいまに到着すれば、必ず誅罰が行われるだろう」と言った。にわかにして司馬越は中書令の繆播ら十人あまりを捕らえて殺した。司馬越は王敦を揚州刺史とした。潘滔は司馬越に説いて、「いま処仲(王敦)を長江の外側に立て、彼の豪強の心を発揮させれば、賊となるだろう」と言った。司馬越は従わなかった。
その後、徴召されて尚書に任命されたが、赴任しなかった。元帝は徴召して安東軍諮祭酒とした。このとき揚州刺史の劉陶が亡くなり、元帝はまた王敦を揚州刺史とし、広武将軍を加えた。ほどなく左将軍・都督征討諸軍事・仮節に進めた。元帝は江東に鎮したばかりで、まだ威名が表れず、王敦は従弟の王導らとともに協力して輔佐し、中興(東晋)を興した。当時の人々はこの状況を、「王氏と馬氏とが、天下を共有している」と言った。ついで甘卓らとともに江州刺史の華軼を討伐し、これを斬った。
蜀賊の杜弢が乱を起こし、荊州刺史の周顗が撤退した。王敦は武昌太守の陶侃と豫章太守の周訪らを派遣して杜弢を討伐し、しかも王敦が進んで豫章に留まり、諸軍の後援となった。陶侃が杜弢を破ると、王敦は陶侃を昇進させ荊州刺史とした。やがて陶侃が杜弢の将の杜曾に敗れると、王敦は差配に失敗したとして、自らを広武将軍に降格したいと言ったが、元帝は許さなかった。陶侃が杜弢を滅ぼすと、王敦は元帥(総指揮)を務めたので鎮東大将軍・開府儀同三司に進み、都督江揚荊湘交広六州諸軍事・江州刺史を加え、漢安侯に封建された。王敦は府を設けて配下を任命し、州郡をあわせて統括した。しばらくして、杜弢の将の杜弘が南下して広州に走り、桂林の賊を討伐を志願し、王敦はこれを許した。陶侃が杜弘を妨害したので進むことができず、そこで(杜弘は)零陵太守の尹奉のもとを訪れて降服した。尹奉は杜弘を王敦に送り届けた。王敦は杜弘を自分の将とし、特別に目をかけた。南康の人の何欽の居場所は堅固で、聚党が数千人であった。王敦は何欽に四品将軍を加え、このころから専擅の振る舞いが徐々に表れてきた。

原文

建武初、又遷征南大將軍、開府如故。中興建、拜侍中・大將軍・江州牧。遣部將朱軌・趙誘伐杜曾、為曾所殺、敦自貶、免侍中、并辭牧不拜。尋加荊州牧、敦上疏曰、
昔漢祖以神武革命、開建帝業、繼以文帝之賢、纂承洪緒、清虛玄默、擬跡成康。賈誼歎息、以為天下倒懸、雖言有抑揚、不失事體。今聖朝肇建、漸振宏綱、往段匹磾遣使求效忠節、尚未有勞、便以方州與之。今靳明等為國雪恥、欲除大逆、此之志望、皆欲附翼天飛。雖功大宜報、亦宜有以裁之、當杜漸防萌、慎之在始。中間不逞、互生事變、皆非忠義、率以一朝之榮。天下漸弊、實由於此。春秋之時、天子微弱、諸侯奢侈、晉文思崇周室、至有求隧之請、襄王讓之以禮、聞義而服、自爾諸侯莫敢越度。臣謂前者賊寇未殄、苟以濟事、朝廷諸所加授、頗多爵位兼重。今自臣以下、宜皆除之、且以塞羣小矜功之望、夷狄無懕之求。若復遷延、顧望流俗、使姦狡生心、遂相怨謗、指擿朝廷、讒諛蜂起、臣有以知陛下無以正之。此安危之機、天下之望。
臣門戶特受榮任、備兼權重、渥恩偏隆、寵過公族。行路厮賤猶謂不可、臣獨何心可以安之。臣一宗誤陛下、傾覆亦將尋至。雖復灰身剖心、陛下追悔將何所及。伏願諒臣至款、及今際會、小解散之、並授賢儁、少慰有識、各得盡其所懷、則人思競勸矣。州牧之號、所不敢當、輒送所假侍中貂蟬。又宜并官省職、以塞羣小覬覦之望。
帝優詔不許。又固辭州牧、聽為刺史。

時劉隗用事、頗疏間王氏、導等甚不平之。敦上疏曰、
導昔蒙殊寵、委以事機、虛己求賢、竭誠奉國、遂藉恩私、居輔政之重。帝王體遠、事義不同、雖皇極初建、道教方闡、惟新之美、猶有所闕。臣每慷慨於遐遠、愧憤於門宗、是以前後表疏、何嘗不寄言及此。陛下未能少垂顧眄、暢臣微懷、云導頃見疏外、所陳如昨、而其萌已著、其為咎責、豈惟導身而已。羣從所蒙、並過才分。導誠不能自量、陛下亦愛忘其短。常人近情、恃恩昧進、獨犯龍鱗、迷不自了。臣竊所自憂慮、未詳所由、惶愧踧踖、情如灰土。天下事大、盡理實難、導雖凡近、未有穢濁之累。既往之勳、疇昔之顧、情好綢繆、足以厲薄俗、明君臣、合德義、同古賢。昔臣親受嘉命、云、「吾與卿及茂弘當管鮑之交」。臣忝外任、漸冉十載、訓誘之誨、日有所忘。至於斯命、銘之於心、竊猶眷眷、謂前恩不得一朝而盡。
伏惟陛下聖哲日新、廣延俊乂、臨之以政、齊之以禮。頃者令導內綜機密、出錄尚書、杖節京都、并統六軍、既為刺史、兼居重號、殊非人臣之體。流俗好評、必有譏謗、宜省錄尚書・杖節及都督。且王佐之器、當得宏達遠識・高正明斷・道德優備者、以臣闇識、未見其才。然於見人、未踰于導。加輔翼積年、實盡心力。霸王之主、何嘗不任賢使能、共相終始。管仲有三歸反坫之譏、子犯有臨河要君之責、蕭何・周勃得罪囹圄、然終為良佐。以導之才、何能無失。當令任不過分、役其所長、以功補過、要之將來。導性慎密、尤能忍事、善於斟酌、有文章才義、動靜顧問、起予聖懷、外無過寵、公私得所。今皇祚肇建、八表承風。聖恩不終、則遐邇失望。天下荒弊、人心易動。物聽一移、將致疑惑。臣非敢苟私親親、惟欲忠於社稷。
表至、導封以還敦、敦復遣奏之。

初、敦務自矯厲、雅尚清談、口不言財色。既素有重名、又立大功於江左、專任閫外、手控強兵、羣從貴顯、威權莫貳、遂欲專制朝廷、有問鼎之心。帝畏而惡之、遂引劉隗・刁協等以為心膂。敦益不能平、於是嫌隙始構矣。每酒後輒詠魏武帝樂府歌曰、「老驥伏櫪、志在千里。烈士暮年、壯心不已」。以如意打唾壺為節、壺邊盡缺。及湘州刺史甘卓遷梁州、敦欲以從事中郎陳頒代卓、帝不從、更以譙王承鎮湘州。敦復上表陳古今忠臣見疑於君、而蒼蠅之人交構其間、欲以感動天子。帝愈忌憚之。俄加敦羽葆鼓吹、增從事中郎・掾屬・舍人各二人。帝以劉隗為鎮北將軍、戴若思為征西將軍、悉發揚州奴為兵、外以討胡、實禦敦也。永昌元年、敦率眾內向、以誅隗為名、上疏曰、
劉隗前在門下、邪佞諂媚、譖毀忠良、疑惑聖聽、遂居權寵、撓亂天機、威福自由、有識杜口。大起事役、勞擾士庶。外託舉義、內自封植。奢僭過制、乃以黃散為參軍、晉魏已來、未有此比。傾盡帑藏、以自資奉。賦役不均、百姓嗟怨。免良人奴、自為惠澤。自可使其大田以充倉廩、今便割配、皆充隗軍。臣前求迎諸將妻息、聖恩聽許、而隗絕之、使三軍之士莫不怨憤。又徐州流人辛苦經載、家計始立、隗悉驅逼、以實己府。當陛下踐阼之始、投刺王官、本以非常之慶使豫蒙榮分。而更充征役、復依舊名、普取出客、從來久遠、經涉年載、或死亡滅絕、或自贖得免、或見放遣、或父兄時事身所不及、有所不得、輒罪本主、百姓哀憤、怨聲盈路。身欲北渡、以遠朝廷為名、而密知機要、潛行險慝、進人退士、高下任心、姦狡饕餮、未有隗比、雖無忌・宰嚭・弘恭・石顯未足為喻。是以遐邇憤慨、羣后失望。
臣備位宰輔、與國存亡、誠乏平勃濟時之略、然自忘駑駘、志存社稷、豈忍坐視成敗、以虧聖美。事不獲已、今輒進軍、同討姦孼、願陛下深垂省察、速斬隗首、則眾望厭服、皇祚復隆。隗首朝懸、諸軍夕退。昔太甲不能遵明湯典、顛覆厥度、幸納伊尹之勳、殷道復昌。漢武雄略、亦惑江充讒佞邪說、至乃父子相屠、流血丹地、終能克悟、不失大綱。今日之事、有逾於此、願陛下深垂三思、諮詢善道、則四海乂安、社稷永固矣。

又曰、
陛下昔鎮揚州、虛心下士、優賢任能、寬以得眾、故君子盡心、小人畢力。臣以闇蔽、豫奉徽猷、是以遐邇望風、有識自竭、王業遂隆、惟新克建、四海延頸、咸望太平。
自從信隗已來、刑罰不中、街談巷議、皆云如吳之將亡。聞之惶惑、精魂飛散、不覺胸臆摧破、泣血橫流。陛下當全祖宗之業、存神器之重、察臣前後所啟、奈何棄忽忠言、遂信姦佞、誰不痛心。願出臣表、諮之朝臣、介石之幾、不俟終日、令諸軍早還、不至虛擾。

訓読

建武初に、又 征南大將軍に遷り、開府 故の如し。中興 建つや、侍中・大將軍・江州牧を拜す。部將の朱軌・趙誘を遣はして杜曾を伐ち、曾の殺す所と為る。敦 自ら貶し、侍中を免じ、并せて牧を辭して拜せず。尋いで荊州牧を加ふ。敦 上疏して曰く、
「昔 漢祖 神武を以て革命し、帝業を開建し、繼ぐに文帝の賢を以てし、洪緒を纂承し、清虛にして玄默、跡を成康に擬ふ。賈誼 歎息し、以て天下 倒懸すと為し、言は抑揚有ると雖も、事體を失はず。今 聖朝 肇めて建ち、漸く宏綱を振ふ。往(さき)に段匹磾 使を遣はして忠節を效すことを求め、尚ほ未だ勞有らざるに、便ち方州を以て之を與ふ。今 靳明ら國の為に恥を雪ぎ、大逆を除かんと欲す。此の志望、皆 翼に附し天に飛さんと欲す。功 大にして宜しく報ずべしと雖も、亦た宜しく以て之を裁すること有るべし。當に漸を杜ぎ萌を防ぎ、之を慎しむこと始めに在るべし。中間に逞にせずんば、互に事變を生ぜん。皆 忠義に非ずして、率ふに一朝の榮を以てす。天下 漸く弊するは、實に此に由るなり。春秋の時、天子 微弱にして、諸侯 奢侈たりて、晉文 周室を思崇し、隧を求むるの請有るに至り、襄王 之に讓(せむ)るに禮を以てし、義を聞きて服す〔一〕。爾より諸侯 敢て越度する莫し。臣 謂へらく前者(さき)に賊寇 未だ殄せず、苟し以て事を濟はば、朝廷 諸々の加授する所、頗る多く爵位 兼重す。今 臣より以下、宜しく皆 之を除き、且つ以て羣小が矜功の望、夷狄が無懕の求を塞げ。若し復た遷延し、流俗を顧望せば、姦狡をして心を生ぜしめ、遂に相 怨謗し、朝廷を指擿し、讒諛 蜂起せん。臣 以て陛下の以て之を正すこと無きを知る有り。此れ安危の機、天下の望なり。
臣が門戶 特に榮任を受け、權重を備兼し、渥恩は偏に隆く、寵は公族に過ぐ。行路の厮賤も猶ほ不可なりと謂ひ、臣 獨り何の心ありて以て之に安んずる可きか。臣が一宗 陛下を誤らしめ、傾覆も亦た將た尋いで至らん。復た身を灰にし心を剖くと雖も、陛下 追悔して將た何の及ぶ所あらん。伏して願はくは臣が至款を諒せよ。今 際會に及び、小しく之を解散し、並びに賢儁に授け、少しく有識を慰め、各々其の懷く所を盡くさしむるを得れば、則ち人々競ひて勸するを思はん。州牧の號、敢て當らざる所、輒ち假する所の侍中の貂蟬を送る。又 宜しく官を并せて職を省き、以て羣小が覬覦の望を塞げ」と。
帝 優詔もて許さず。又 州牧を固辭し、刺史と為すを聽す。

時に劉隗 用事し、頗る王氏と疏間たりて、導ら甚だ之に平ならず。敦 上疏して曰く、
導 昔 殊寵を蒙り、委ぬるに事機を以てし、己を虛しくし賢を求め、誠を竭し國に奉じ、遂に恩私を藉り、輔政の重に居る。帝王の體 遠く、事義 同じからず、皇極 初めて建ち、道教 方に闡(あき)らかなると雖も、惟新の美、猶ほ闕く所有り。臣 每に遐遠に慷慨し、門宗に愧憤す。是を以て前後に表疏し、何ぞ嘗て言を寄せて此に及ばざるか。陛下 未だ能く少しく垂して顧眄し、臣が微懷を暢ぶれば、云へらく導 頃 疏外せられ、陳ぶる所 昨の如きも、其の萌 已に著はれ、其れ咎責せらる。豈に惟れ導の身のみなるや。羣從 蒙る所、並びに才分に過ぐ。導 誠に自ら量る能はず、陛下も亦た愛して其の短を忘る。常人 情に近ければ、恩を恃みて昧進し、獨り龍鱗を犯し、迷ひ自づから了せず。臣 竊かに自ら憂慮する所にして、未だ由る所を詳らかにせず、惶愧として踧踖し、情は灰土の如し。天下の事 大にして、理を盡すは實に難しく、導 凡そ近しと雖も、未だ穢濁の累有らず。既往の勳、疇昔の顧、情は綢繆を好み、以て薄俗を厲し、君臣を明らかにし、德義を合はせ、古賢と同なるに足る。昔 臣 親ら嘉命を受けて、云はく、「吾 卿及び茂弘と與に管鮑の交はりに當る」と。臣 外任を忝くし、漸冉すること十載、訓誘の誨、日々忘るる所有り。斯の命に至り、之を心に銘じ、竊かに猶ほ眷眷として、前恩 一朝にして盡すを得ざると謂ふ。
伏して惟るに陛下の聖哲 日々新たなり。俊乂を廣延し、之に臨むに政を以てし、之を齊ふるに禮を以てす。頃者 導をして內れて機密を綜べ、出でて尚書を錄せしめ、京都を杖節し、六軍を并統し、既に刺史と為り、兼せて重號に居り、殊に人臣の體に非ず。流俗 評を好み、必ず譏謗有り。宜しく錄尚書・杖節及び都督を省くべし。且つ王佐の器、當に宏達遠識・高正明斷・道德優備なる者を得るべし。臣の闇識を以て、未だ其の才を見ず。然も人を見るに、未だ導を踰えず。輔翼を加ふること積年、實に心力を盡す。霸王の主、何ぞ嘗て賢を任じ能を使ひ、共に相 終始せざるか。管仲に三歸反坫の譏有り、子犯に臨河要君の責有り、蕭何・周勃 罪を囹圄に得て、然れども終に良佐と為る。導の才を以て、何ぞ能く失ふこと無きか。當に任をして分を過ぎしめず、其の長ずる所を役(つか)ひ、功を以て過を補ひ、之を將來に要めよ。導の性 慎密にして、尤も能く忍事し、斟酌に善く、文章の才義有り、動靜あれば顧問し、起ちては聖懷に予し、外に過寵無く、公私 所を得たり。今 皇祚 肇めて建ち、八表 風を承く。聖恩 終らざれば、則ち遐邇 望を失ふ。天下 荒弊し、人心 動じ易し。物の一たび移るを聽さば、將に疑惑を致さん。臣 敢て苟も親親を私するに非ず、惟だ社稷に忠たらんと欲す。
表 至り、導 封じて以て敦に還す。敦 復た遣して之を奏す。

初め、敦 務めて自ら矯厲し、雅より清談を尚び、口は財色を言はず。既に素より重名有れば、又 大功を江左に立て、專ら閫外を任じ、手に強兵を控し、羣從貴顯、威權 貳ある莫く、遂に朝廷を專制せんと欲し、問鼎の心有り。帝 畏れて之を惡み、遂に劉隗・刁協らを引きて以て心膂と為す。敦 益々平らぐ能はず、是に於て嫌隙 始めて構す。每に酒の後に輒ち魏武帝の樂府を詠して歌ひて曰く、「老驥 櫪に伏すも、志は千里に在り。烈士 暮年なるも、壯心 已まず」と。如意を以て唾壺を打ちて節と為し、壺の邊 盡く缺く。湘州刺史の甘卓 梁州に遷るに及び、敦 從事中郎の陳頒を以て卓に代へんと欲するも、帝 從はず。更に譙王承を以て湘州に鎮せしむ。敦 復た上表して古今の忠臣の君に疑はるるも、而れども蒼蠅の人 其の間に交構するを陳べ、以て天子を感動せしめんと欲す。帝 愈々之を忌憚す。俄かにして敦に羽葆鼓吹を加へ、從事中郎・掾屬・舍人もて各々二人を增す。帝 劉隗を以て鎮北將軍と為し、戴若思もて征西將軍と為し、悉く揚州の奴を發して兵と為す。外は胡を討つを以てするも、實は敦を禦するなり。永昌元年に、敦 眾を率ゐて內向し、隗を誅するを以て名と為し、上疏して曰く、

劉隗 前に門下に在り、邪佞 諂媚し、忠良を譖毀し、聖聽を疑惑し、遂に權寵に居り、天機を撓亂し、威福自由、有識 口を杜ざす。大いに事役を起こし、士庶を勞擾す。外は義を舉ぐるに託し、內は自ら封植す。奢僭 制を過ぎ、乃ち黃散を以て參軍と為し、晉魏より已來、未だ此の比ひ有らず。帑藏を傾盡して、以て自ら資奉す。賦役 均しからず、百姓 嗟怨す。良人の奴を免じて、自ら惠澤と為す。自ら其の大田をして以て倉廩に充たしむ可きに、今 便ち割配し、皆 隗の軍に充つ。臣 前に諸將の妻息を迎ふるを求め、聖恩 聽許し、而れども隗 之を絕ち、三軍の士をして怨憤ぜずんば莫からしむ。又 徐州の流人 辛苦すること經載にして、家計 始めて立つも、隗 悉く驅逼し、以て己の府を實たす。陛下 踐阼するの始に當たり、刺を王官に投じて、本に非常の慶を以て榮分を豫蒙せしむ。而れども更に征役を充たり、復た舊名に依り、普く出客を取り、從來 久遠にして、經涉すること年載なり。或いは死亡して滅絕し、或いは自贖して免るるを得て、或いは放遣せられ、或いは父兄の時事 身の及ばざる所、得ざる所有れば、輒ち本主を罪す。百姓 哀憤し、怨聲 路に盈つ。身づから北渡せんと欲して、朝廷に遠きを以て名と為し、而して密かに機要を知り、潛かに險慝を行ひ、人を進め士を退け、高下 心に任せ、姦狡 饕餮するもの、未だ隗の比ほひ有らず、無忌・宰嚭・弘恭・石顯と雖も未だ喻へと為すに足らず。是を以て遐邇 憤慨し、羣后 失望す。
臣 位は宰輔を備へ、國と存亡を與にし、誠に平勃 時を濟ふの略に乏し。然れども自ら駑駘なるを忘れ、志は社稷に存す。豈に成敗を坐視して、以て聖美を虧くに忍びん。事 已むを獲ざれば、今 輒ち軍を進め、同に姦孼を討たん。願はくは陛下 深く省察を垂れ、速やかに隗の首を斬れ。則ち眾望 厭服し、皇祚 復た隆からん。隗の首 朝に懸くれば、諸軍 夕に退かん。昔 太甲 湯典に遵明する能はず、厥の度を顛覆す。幸いに伊尹の勳を納れ、殷道 復た昌なり。漢武 雄略なるに、亦た江充の讒佞邪說に惑ひ、乃ち父子 相 屠るに至り、流血 地を丹くするも、終に能く克く悟り、大綱を失はず。今日の事、此を逾ゆる有り。願はくは陛下 深く三思を垂れ、善道を諮詢せよ。則ち四海 乂安にして、社稷 永く固からん」と。

又 曰く、
「陛下 昔 揚州に鎮し、心を下士に虛しくし、賢を優し能を任じ、寬して以て眾を得たり。故に君子 心を盡くし、小人も力を畢す。臣 闇蔽を以て、豫りて徽猷を奉ず。是を以て遐邇 風を望み、有識 自ら竭くし、王業 遂に隆んなり。惟れ新たに克く建ち、四海 頸を延し、咸 太平を望む。
隗を信づるより已來、刑罰 中たらず、街談巷議、皆 吳の將に亡びんとするが如しと云ふ。之を聞きて惶惑し、精魂 飛散す。覺えずして胸臆 摧破し、泣血 橫流す。陛下 當に祖宗の業を全し、神器の重を存すべし。臣の前後の啟する所を察し、奈何ぞ忠言を棄忽せん。遂に姦佞を信ぜば、誰か心を痛めざらん。願はくは臣の表を出だし、之を朝臣に諮れ。介石の幾、日を終はるを俟たず、諸軍をして早く還り、虛擾に至らしむるなかれ」と。

〔一〕『春秋左氏伝』僖公 伝二十五年に基づく。

現代語訳

建武年間の初め(三一七年~)、また征南大将軍に遷り、開府は従来どおりとした。中興(東晋)が建国されると、侍中・大将軍・江州牧を拝した。部将の朱軌と趙誘を派遣して杜曾を討伐したが、(朱軌と趙誘は)杜曾に殺された。王敦は自らを降格し、侍中を免じ、あわせて州牧を辞退して拝命しなかった。ほどなく荊州牧を加えた。王敦は上疏して、
「むかし漢祖(劉邦)は神がかりの武で天命を改め、帝業を開始し、文帝の賢さにより継承され、王朝は存続されて、清らかで玄妙で、施政は(周の)成王や康王を踏襲しました。賈誼が歎息し、天下は逆さづりの苦しみであると述べ、言葉に起伏があれども、体制は維持されました。いま聖朝(東晋)は建国されたばかりで、ようやく秩序が広がってきました。さきに段匹磾が使者を送って忠節を誓いました。それほど(段氏には東晋に対する)功労がありませんが、(過分にも)封建を認めました。いま靳明が国家のために恥を雪ぎ、大逆を除こうとしました。彼の志と望みに対し、みなで援護しました。功績が大きいので報いるべきですが、褒賞は限定すべきです。勢力拡大と野心の芽を摘み、慎重さを優先すべきです。(最初に大盤振る舞いをして)途中から制約を加えれば、対立を生むでしょう。みな忠義の臣でなくとも、一時の繁栄だけを求め(褒賞を目当てに国家に協力し)ます。今日の天下(西晋)が徐々に疲弊したのは、この褒賞の偏りが実際の原因です。春秋時代、天子は微弱であり、諸侯は奢侈で、晋の文公は周室を尊重しながらも、自分のために隧(天子の墓道)を作りたいと要請し、周の襄王はこれを礼に合わないと却下しました。晋の文公は義により従いました。これ以降は諸侯が礼を踏み越えることがなくなりました。思いますにまだ盗賊の侵略を根絶やしにせぬうちに、十分過ぎる褒賞で(討伐者に)報いれば、朝廷が発行する官職は、過剰になり重複します。いま私より以下、官職を一律に削り、小人物たちの射幸心と、夷狄の飽くなき欲求を退けなさい。もしまた政権が揺らぎ、荒廃した慣習に迎合すれば、狡猾な人々に野心を抱かせ、互いに怨んで憎みあい、朝廷を誹謗中傷し、讒言が一斉に起こるでしょう。陛下に是正の意図がないようにお見受けします。これは安危の分かれ目であり、天下が注目しています。
わが一族は特別に栄誉を受け、権力を併せ持ち、恩沢が集中し、寵愛が公族を上回っています。道行く下賤の人々も(琅邪王氏は)だめだと言い、いったい私はどうすれば落ち着けるでしょうか。われらが陛下を誤らせれば、国家はすぐに転覆します。身を灰にして心臓を裂いても、陛下の後悔が追い付くでしょうか。どうか私の考えを聞き届けて下さい。いまは大切な時期にあたり、少し体制を見直し、賢者に官職を授け、有識者を慰労し、それぞれの考えを実行させれば、人々は進んで国家のために働くでしょう。州牧の号は、私には適当ではなく、与えられた侍中の貂蟬を返送します。また官職を統合して減少させ、小人物たちの不相応な昇進の願いを挫きますように」と言った。
元帝は手厚い詔により退けた。さらに(王敦が)州牧を固辞したので、(折衷案で)刺史とした。

このころ劉隗が政務を担当し、劉隗は琅邪王氏と関係が悪く、王導は不満に思った。王敦は上疏して、以下のように言った。
「かつて王導は恩寵を被り、政務全般を委任され、謙虚に賢者を求め、誠心を国家に尽くし、陛下から信頼されて、輔政の重任を預かりました。帝王のありようは遠大で、臣下と立場が異なります。建国に成功し、王道の教化が明らかであっても、改革の余地は、まだあるように思います。臣(わたくし)は遠方からこれを嘆き、わが宗族(王導の至らなさ)に恥じて憤っています。これまで何度上表しても、政権批判を避けてきたことには理由があります。陛下が少しでも顧みて、わが微かな思いを汲んで下さるなら、本心を申し述べます。王導が最近やや疎んじられ、かつてと同じ進言をしても、差し出がましいと言われ、退けられています。王導一人に留まらず、わが一族が分を超えて厚遇されているためでしょう。王導は自分の力量をわきまえず、陛下も彼の短所に目をつぶって来られました。凡人ならば馴れあい、陛下の恩寵を頼みに、皇帝権力を脅かしても、気づかないところでした。臣はこれ(王導の増長)を憂慮し、判断がつかず、戦々恐々として、心は灰のように沈んでいました。天下の政務は重大なことで、理を尽くすことは実に困難です。しかし王導は陛下に近しくとも、汚濁に染まったことはありません。(王導ならば)過去の功績や、積年の厚恩を思い、細やかに考え、世俗の悪習を正し、君臣の道を明らかにし、徳義を合わせ、古の賢者を手本とするでしょう。むかし臣が賜った詔命に、「朕にとって卿と茂弘(王敦と王導)との関係は、管鮑(管仲と鮑叔)の交わりである」とありました。臣は地方統治の任を拝命し、十年ほど務めてきましたが、かつての陛下の訓戒を、ときどき忘れておりました。この詔命を胸に刻み、身を引き締めて、長年の恩顧は一日で返せないと思っています。
伏して考えますに陛下の聖明は日ごとに新たとなり、賢才を広く招き、政務に活用し、礼をもって整えています。近ごろ王導に命じて内朝で機密を統括させ、外朝で尚書を録させ、京都で杖節を取り、六軍を統率させ、刺史を兼ね、兼任を重ねさせていますが、これは人臣の分を越えるものです。世人は批評を好み、必ず非難が出ます。録尚書事・杖節・都督の兼務を外すべきです。王佐の大任には、遠大な識見、高い判断力、そして道徳に優れた人物を得るべき。臣の浅識では、そのような人物を知りません。しかし他人と比べると、王導に勝る者はいません。長年の輔佐を務め、心血を注いできました。かつて覇王の主が、有能な賢者を登用して、成功しなかった前例があるでしょうか。管仲は三帰台を作って譏られ(『論語』八佾篇)、子犯(狐偃、咎犯)が黄河を渡るとき君主(重耳)に報酬を要求したと(介子推に)非難され(『史記』晋世家)、蕭何や周勃は罪により獄に入れられました。しかし彼らは最終的に良き輔佐となりました。王導の才能を、失ってはなりません。分限を超えた任命をせず、長所を活用し、過ぎた褒賞を功績で償わせ、今後も働かせて下さい。王導は慎重な性格で、我慢づよく、物事を斟酌し、文章の才能があります。物事があるたびに熟慮し、陛下の考えを支え、外に過度の賜寵がなく、公私ともに適正です。いま晋帝国が中興し、天下四方は風を受けて帰服しています。聖恩が途絶えれば、遠近の人心は失望します。天下は荒廃し、人心は動揺しやすい。一度でも心が離れれば、深い疑念を招くでしょう。臣は私的に親族(王導)を贔屓するのでなく、社稷への忠として申し上げるのです」とした。
上表が届くと、王導は封を解かずに王敦に返した。王敦は同じ上表を再び提出した。

当初、王敦は自分を厳しく律し、清談を尊び、財貨や色欲を語らなかった。もとから高い名声があり、かつ東晋の建国に大功があり、軍事の全権を握り、配下に強兵を従え、一族も軒並み地位が高く、権勢に対抗できる者がいなくなると、朝廷の専制をもくろみ、鼎の軽重を問う(簒奪の)心を持つに至った。元帝は恐れて憎み、劉隗・刁協らを側近として重用し(王敦に対抗させ)た。王敦は冷静さを失い、元帝との関係に溝が生じた。いつも酒に酔うたび魏武帝(曹操)の楽府を吟じて、「老いた駿馬が馬槽に伏しても、志は千里にある。烈士は晩年になっても、壮志が衰えない」と歌った。気分に任せて唾壺を叩いて拍子を取るので、壺のふちがすべて欠けた。湘州刺史の甘卓が梁州に転任するとき、王敦は従事中郎の陳頒を後任にしたいと思ったが、元帝は断った。代わりに譙王承(司馬承)を湘州刺史として鎮させた。王敦は再び上表し、古今の忠臣が君主に疑われ、蒼蠅の人(讒言する小人)に陥れられた前例を引き、元帝の心を動かそうとした。だが元帝はますます王敦を忌み嫌った。にわかに元帝は王敦に羽葆鼓吹を加え、従事中郎・掾属・舎人二名ずつを増やした。その一方で元帝は劉隗を鎮北将軍とし、戴若思を征西将軍とし、揚州の奴婢をことごとく徴発して兵とした。胡族討伐を名目にしながら、実際は王敦を防ぐための兵であった。永昌元年、王敦は挙兵して朝廷に向かい、劉隗の誅殺を名目にしながら、次のように上疏した。

「劉隗は門下にいましたが、邪悪で佞り、忠良な臣を誹謗し、天子の判断を鈍らせました。寵愛を受けて権力を握ると、天意を乱し、威福をほしいままにし、有識者の口を封じました。大規模な労役を起こして、士庶を疲弊させました。外には義を掲げながらも、内では自分の権力基盤を作っています。奢侈と僭越は分限を越え、黄散を参軍に設けることは、晋魏より以来、前例のないことです。劉隗は国庫を空にして、自らの財産とし、賦役を不均衡にしたので、百姓は怨み嘆いています。良民の奴婢を解放し、それを自分の恩恵のように装いました。本来は国家の収入とするべき大田の収穫を、勝手に付け替え、劉隗軍の収入としています。臣はかつて諸将の妻子を呼び寄せることを願い、陛下の許可を得ましたが、劉隗が妨害したので、三軍の士は全員が怨み憤っています。徐州の流民は多年の苦難を経て、ようやく生計が立ったのに、劉隗は徴発して、自らの府に入れました。陛下が即位した当初、王官の財政を削って、慶賀のため臨時の分配をなさいました。しかし劉隗は重い兵役を課し、以前の制度にならって、出客を召し上げ、その徴発は、数年間に及んでいます。ある者は死んで一家が滅び、ある者は金を払って逃れ、ある者は釈放され、ある者は父兄の事情で役に就けないが、役務を果たさないと、家長が罰せられました。百姓は哀しみ憤り、怨嗟の声が道に満ちています。劉隗は北方(中原)に帰るといって、朝廷から遠い(緊密に判断を仰げない)ことを口実に、機密を握って、邪悪なこと(独立勢力の樹立)を計画しています。人の昇進と降格を、自分の心のままにして、奸悪で貪り食うような振る舞いは、古来の無忌・宰嚭・弘恭・石顕でさえ比較になりません。このため遠近の人々は憤慨し、諸侯は失望しました。
臣(わたくし)は宰相の地位にあり、国家と存亡をともにしますが、陳平や周勃のように時局を救う才略に欠いています。それでも自分の凡庸さを忘れ、社稷のために身命を捧げたいと思います。どうして劉隗の執政を見過ごし、陛下の美徳の毀損に耐えられましょうか。やむを得ず、いま軍を進め、ともに賊臣(劉隗)を討伐します。どうか陛下は深く洞察なさり、早く劉隗の首を斬って下さい。さすれば民心は収まり、皇統は再び隆盛となります。朝に劉隗の首が懸けられれば、夕に諸軍は退きます。むかし殷の太甲は湯王の法を守れず、政道を転覆させましたが、幸い伊尹のおかげで、殷王朝は持ち直しました。漢の武帝は雄略がありましたが、江充の邪説に惑わされ、父子を殺して、地を血で染めました。しかし最終的には悟り、漢帝国は存続しました。今日の事態は、当時よりも差し迫っています。どうか陛下はよくお考えになり、よい選択をなさいませ。そうすれば四海は平穏となり、国家は永久に存続します」と言った。

さらに王敦は言った。
「陛下が揚州に鎮したとき(東晋の建国前)、身を低くして人材を求め、賢者を優遇し能力に任せ、寛大な姿勢で民心を得ました。君子は心を尽くし、小人でさえ力を出しました。私は愚昧ですが、陛下の政権を支える側に回りました。このため遠近の者は陛下の風を仰ぎ、識者は心力を尽くし、王業が隆盛しました。(東晋を)新たに建国なさると、四海の民は首を伸ばして、太平を望みました。
ところが劉隗を信任なさって以来、刑罰は適正でなく、街中の評判では、三国呉が滅びたときに似ていると噂されています。これを聞いて恐れ惑い、魂が飛び散る思いです。胸が裂け、涙と血が流れそうです。陛下は祖先の事業を保全し、神器の重みを守るべきです。どうか臣が前後にわたり申し上げたことを察し、忠言をお捨てになりませんように。姦佞の信任を続ければ、誰が悲しまずにいられましょう。どうかこの上表を見せて、朝臣に諮問して下さい。事態の手遅れを待つ必要はありません。諸軍を早く撤退させ、無意味な動揺を広げないで下さい」と。

原文

敦黨吳興人沈充起兵應敦。敦至蕪湖、又上表罪狀刁協。帝大怒、下詔曰、「王敦憑恃寵靈、敢肆狂逆、方朕太甲、欲見幽囚。是可忍也、孰不可忍也。今親率六軍、以誅大逆、有殺敦者、封五千戶侯」。召戴若思・劉隗並會京師。敦兄含時為光祿勳、叛奔於敦。
敦至石頭、欲攻劉隗、其將杜弘曰、「劉隗死士眾多、未易可克、不如攻石頭。周札少恩、兵不為用、攻之必敗。札敗、則隗自走」。敦從之。札果開城門納弘。諸將與敦戰、王師敗績。既入石頭、擁兵不朝、放肆兵士劫掠內外。官省奔散、惟有侍中二人侍帝。帝脫戎衣、著朝服、顧而言曰、「欲得我處、但當早道、我自還琅邪、何至困百姓如此」。敦收周顗・戴若思害之。以敦為丞相・江州牧、進爵武昌郡公、邑萬戶、使太常荀崧就拜、又加羽葆鼓吹、並偽讓不受。還屯武昌、多害忠良、寵樹親戚、以兄含為衞將軍・都督沔南軍事・領南蠻校尉・荊州刺史、以義陽太守任愔督河北諸軍事・南中郎將、敦又自督寧・益二州。
及帝崩、太寧元年、敦諷朝廷徵己、明帝乃手詔徵之、語在明帝紀。又使兼太常應詹拜授加黃鉞、班劍武賁二十人、奏事不名、入朝不趨、劍履上殿。敦移鎮姑孰、帝使侍中阮孚齎牛酒犒勞、敦稱疾不見、使主簿受詔。以王導為司徒、敦自為揚州牧。
敦既得志、暴慢愈甚、四方貢獻多入己府、將相嶽牧悉出其門。徙含為征東將軍・都督揚州江西諸軍事、從弟舒為荊州、彬為江州、邃為徐州。含字處弘、凶頑剛暴、時所不齒、以敦貴重、故歷顯位。敦以沈充・錢鳳為謀主、諸葛瑤・鄧嶽・周撫・李恒・謝雍為爪牙。充等並凶險驕恣、共相驅扇、殺戮自己。又大起營府、侵人田宅、發掘古墓、剽掠市道、士庶解體、咸知其禍敗焉。敦從弟豫章太守棱日夜切諫、敦怒、陰殺之。敦無子、養含子應。及敦病甚、拜應為武衞將軍以自副。錢鳳謂敦曰、「脫其不諱、便當以後事付應」。敦曰、「非常之事、豈常人所能。且應年少、安可當大事。我死之後、莫若解眾放兵、歸身朝廷、保全門戶、此計之上也。退還武昌、收兵自守、貢獻不廢、亦中計也。及吾尚存、悉眾而下、萬一僥倖、計之下也」。鳳謂其黨曰、「公之下計、乃上策也」。遂與沈充定謀、須敦死後作難。
敦又忌周札、殺之而盡滅其族。常從督冉曾・公乘雄等為元帝腹心、敦又害之。以宿衞尚多、奏令三番休二。及敦病篤、詔遣侍中陳晷・散騎常侍虞𩦎問疾。時帝將討敦、微服至蕪湖、察其營壘、又屢遣大臣訊問其起居。遷含驃騎大將軍・開府儀同三司、含子瑜散騎常侍。

敦以溫嶠為丹楊尹、欲使覘伺朝廷。嶠至、具言敦逆謀。帝欲討之、知其為物情所畏服、乃偽言敦死、於是下詔曰、
先帝以聖德應運、創業江東、司徒導首居心膂、以道翼讚。故大將軍敦參處股肱、或內或外、夾輔之勳、與有力焉。階緣際會、遂據上宰、杖節專征、委以五州。刁協・劉隗立朝不允、敦抗義致討、情希鬻拳、兵雖犯順、猶嘉乃誠、禮秩優崇、人臣無貳。事解之後、劫掠城邑、放恣兵人、侵及宮省。背違赦信、誅戮大臣。縱凶極逆、不朝而退。六合阻心、人情同憤。先帝含垢忍恥、容而不責、委任如舊、禮秩有加。朕以不天、尋丁酷罰、煢煢在疚、哀悼靡寄。而敦曾無臣子追遠之誠、又無輔孤同奬之操、繕甲聚兵、盛夏來至、輒以天官假授私屬、將以威脅朝廷、傾危宗社。朕愍其狂戾、冀其覺悟、故且含隱以觀其終。而敦矜其不義之強、有侮弱朝廷之志、棄親用羇、背賢任惡。錢鳳豎子、專為謀主、逞其凶慝、誣罔忠良。周嵩亮直、讜言致禍。周札・周莚累世忠義、聽受讒構、殘夷其宗。秦人之酷、刑不過五。敦之誅戮、傍濫無辜、滅人之族、莫知其罪。天下駭心、道路以目。神怒人怨、篤疾所嬰、昏荒悖逆、日以滋甚、輒立兄息以自承代、多樹私黨、莫非同惡、未有宰相繼體而不由王命者也。頑凶相奬、無所顧忌、擅錄冶工、輒割運漕、志騁凶醜、以闚神器。社稷之危、匪夕則旦。天不長姦、敦以隕斃。鳳承凶宄、彌復煽逆。是可忍也、孰不可忍也。
今遣司徒導、鎮南將軍・丹楊尹嶠、建威將軍趙胤武旅三萬、十道並進。平西將軍邃率兗州刺史遐・奮武將軍峻・奮威將軍瞻精銳三萬、水陸齊勢。朕親御六軍、左衞將軍亮、右衞將軍胤、護軍將軍詹、領軍將軍瞻、中軍將軍壼、驍騎將軍艾、驃騎將軍・南頓王宗、鎮軍將軍・汝南王祐、太宰・西陽王羕被練三千、組甲三萬、總統諸軍、討鳳之罪。罪止一人、朕不濫刑。有能殺鳳送首、封五千戶侯、賞布五千匹。
冠軍將軍鄧嶽志氣平厚、識經邪正。前將軍周撫質性詳簡、義誠素著。功臣之冑、情義兼常、往年從敦、情節不展、畏逼首領、不得相違、論其乃心、無貳王室、朕嘉其誠、方任之以事。其餘文武、諸為敦所授用者、一無所問、刺史二千石不得輒離所職。書到奉承、自求多福、無或猜嫌、以取誅滅。敦之將士、從敦彌年、怨曠日久、或父母隕沒、或妻子喪亡、不得奔赴、銜哀從役、朕甚愍之、希不悽愴。其單丁在軍無有兼重者、皆遣歸家、終身不調、其餘皆與假三年、休訖還臺、當與宿衞同例三番。明承詔書、朕不負信。
又詔曰、「敢有捨王敦姓名而稱大將軍者、軍法從事」。

敦病轉篤、不能御眾、使錢鳳・鄧嶽・周撫等率眾三萬向京師。含謂敦曰、「此家事、吾便當行」。於是以含為元帥。鳳等問敦曰、「事克之日、天子云何」。敦曰、「尚未南郊、何得稱天子。便盡卿兵勢、保護東海王及裴妃而已」。乃上疏罪狀溫嶠、以誅姦臣為名。

含至江寧、司徒導遺含書曰、
近承大將軍困篤緜緜、或云已有不諱、悲怛之情、不能自勝。尋知錢鳳大嚴、欲肆姦逆、朝士忿憤、莫不扼腕。去月二十三日、得征北告、劉遐・陶瞻・蘇峻等深懷憂慮、不謀同辭。都邑大小及二宮宿衞咸懼有往年之掠、不復保其妻孥、是以聖主發赫斯之命、具如檄旨。近有嘉詔、崇兄八命、望兄奬羣賢忠義之心、抑姦細不逞之計、當還武昌、盡力藩任。卒奉來告、乃承與犬羊俱下、雖當逼迫、猶以罔然。兄立身率素、見信明於門宗、年踰耳順、位極人臣、仲玉・安期亦不足作佳少年、本來門戶、良可惜也。
兄之此舉、謂可得如大將軍昔年之事乎。昔年佞臣亂朝、人懷不寧、如導之徒、心思外濟。今則不然。大將軍來屯于湖、漸失人心、君子危怖、百姓勞弊。將終之日、委重安期、安期斷乳未幾日、又乏時望、便可襲宰相之迹邪。自開闢以來、頗有宰相孺子者不。諸有耳者皆是將禪代意、非人臣之事也。先帝中興、遺愛在人。聖主聰明、德洽朝野、思與賢哲弘濟艱難。不北面而執臣節、乃私相樹建、肆行威福、凡在人臣、誰不憤歎。此直錢鳳不良之心聞於遠近、自知無地、遂唱姦逆。至如鄧伯山・周道和恒有好情、往來人士咸皆明之、方欲委任、與共戮力、非徒無慮而已也。
導門戶小大受國厚恩、兄弟顯寵、可謂隆矣。導雖不武、情在寧國。今日之事、明目張膽為六軍之首、寧忠臣而死、不無賴而生矣。但恨大將軍桓文之勳不遂、而兄一旦為逆節之臣、負先人平素之志、既沒之日、何顏見諸父於黃泉、謁先帝於地下邪。執省來告、為兄羞之、且悲且慚。願速建大計、惟取錢鳳一人、使天下獲安、家國有福、故是竹素之事、非惟免禍而已。
夫福如反手、用之即是。導所統六軍、石頭萬五千人、宮內後苑二萬人、護軍屯金城六千人、劉遐已至、征北昨已濟江萬五千人。以天子之威、文武畢力、豈可當乎。事猶可追、兄早思之。大兵一奮、導以為灼炟也。
含不答。

訓読

敦の黨たる吳興の人の沈充 兵を起して敦に應ず。敦 蕪湖に至るや、又 上表して刁協を罪狀す。帝 大いに怒り、詔を下して曰く、「王敦 寵靈に憑恃し、敢て狂逆を肆にし、方に朕 太甲、幽囚せられんと欲す。是れ忍ぶ可きや、孰ぞ忍ぶ可からざるや。今 親ら六軍を率ゐ、以て大逆を誅し、敦を殺す者有らば、五千戶侯に封ぜん」と。戴若思・劉隗を召して並びに京師に會せしむ。敦の兄の含 時に光祿勳為りて、叛して敦に奔る。
敦 石頭に至るや、劉隗を攻めんと欲す。其の將の杜弘曰く、「劉隗の死士 眾は多ければ、未だ克つ可きこと易からず。石頭を攻むるに如かず。周札は恩少なく、兵 用を為さざれば、之を攻むれば必ず敗れん。札 敗れば、則ち隗 自ら走らん」と。敦 之に從ふ。札 果たして城門を開きて弘を納る。諸將 敦と戰ひ、王師 敗績す。既に石頭に入るや、兵を擁して朝せず、兵士を放肆して內外を劫掠せしむ。官省 奔散し、惟だ侍中二人のみ帝に侍る有り。帝 戎衣を脫ぎ、朝服を著け、顧みて言ひて曰く、「我が處を得んと欲さば、但だ當に道を早むべし。我 自ら琅邪に還り、何ぞ百姓を困らすこと此の如きに至る」と。敦 周顗・戴若思を收めて之を害せんとす。敦 丞相・江州牧と為るを以て、爵を武昌郡公に進め、邑は萬戶。太常の荀崧をして就拜せしめ、又 羽葆鼓吹を加ふるも、並びに偽はりて讓りて受けず。還りて武昌に屯し、多く忠良を害し、寵を親戚に樹て、兄の含を以て衞將軍・都督沔南軍事・領南蠻校尉・荊州刺史と為す。義陽太守の任愔を以て督河北諸軍事・南中郎將とし、敦 又 自ら督寧・益二州たり。
帝 崩ずるに及び、太寧元年、敦 朝廷を諷して己を徵さしむ。明帝 乃ち手詔もて之を徵す。語は明帝紀に在り。又 兼太常の應詹をして拜授せしめて黃鉞、班劍武賁二十人を加へ、奏事不名、入朝不趨、劍履上殿とす。敦 鎮を姑孰に移し、帝 侍中の阮孚をして牛酒を齎して犒勞せしむ。敦 疾と稱して見えず、主簿をして詔を受けしむ。王導を以て司徒と為し、敦 自ら揚州牧と為る。
敦 既に志を得るや、暴慢 愈々甚しく、四方の貢獻 多く己の府に入れ、將相嶽牧 悉く其の門より出づ。含を徙して征東將軍・都督揚州江西諸軍事と為し、從弟の舒もて荊州と為し、彬もて江州と為し、邃もて徐州と為す。含 字は處弘、凶頑剛暴にして、時に齒せざる所にして、敦の貴重を以て、故に顯位を歷す。敦 沈充・錢鳳を以て謀主と為し、諸葛瑤・鄧嶽・周撫・李恒・謝雍もて爪牙と為す。充ら並びに凶險にして驕恣、共に相 驅扇し、殺戮 己よりす。又 大いに營府を起て、人の田宅を侵し、古墓を發掘し、市道を剽掠す。士庶 解體し、咸 其の禍敗を知れり。敦の從弟の豫章太守の棱 日夜切諫するや、敦 怒り、陰かに之を殺す。敦 子無く、含の子の應を養ふ。敦 病ひ甚しきに及び、應に拜して武衞將軍と為して以て自らの副とす。錢鳳 敦に謂ひて曰く、「其の不諱を脫さば、便ち當に後事を以て應に付すべし」と。敦曰く、「非常の事、豈に常人 能くする所なるや。且つ應は年少にして、安にか大事に當たる可き。我 死するの後、眾を解き兵を放ち、身を朝廷に歸し、門戶を保全するに若くは莫し。此れ計の上なり。退きて武昌に還り、兵を收めて自守し、貢獻 廢せざるは、亦た中計なり。吾 尚ほ存するに及び、眾を悉くして下り、萬一に僥倖するは、計の下なり」と。鳳 其の黨に謂ひて曰く、「公の下計は、乃ち上策なり」と。遂に沈充と與に謀を定め、敦の死を須ちて後に難を作す。
敦 又 周札を忌み、之を殺して盡く其の族を滅す。常從督の冉曾・公乘雄ら元帝の腹心為れば、敦 又 之を害す。宿衞 尚ほ多きを以て、奏して三番をして二を休ましむ。敦 病 篤かるに及び、詔して侍中の陳晷・散騎常侍の虞𩦎を遣はして疾を問はしむ。時に帝 將に敦を討たんとし、微服して蕪湖に至り、其の營壘を察す。又 屢々大臣を遣はして其の起居を訊問せしむ。含を驃騎大將軍・開府儀同三司に遷し、含の子の瑜を散騎常侍とす。

敦 溫嶠を以て丹楊尹と為し、朝廷を覘伺せしめんと欲す。嶠 至るや、具さに敦の逆謀を言ふ。帝 之を討たんと欲すも、其の物情の畏服する所と為るを知れば、乃ち敦 死せりと偽言し、是に於て詔を下して曰く、
先帝 聖德を以て運に應じ、江東に創業し、司徒の導 首として心膂に居りて、道を以て翼讚す。故大將軍の敦 股肱に參處し、或いは內に或は外に、夾輔の勳ありて、與に力有り。際會に階緣し、遂に上宰に據り、節を杖きて征を專らにし、委ぬるに五州を以てす。刁協・劉隗 朝に立つも允ならざれば、敦 義に抗して討を致し、情は鬻拳を希ふ。兵は順を犯すと雖も、猶ほ乃の誠を嘉し、禮秩 優崇、人臣 貳無し。事 解けるの後、城邑を劫掠し、兵人を放恣し、侵は宮省に及ぶ。赦信に背違し、大臣を誅戮す。凶を縱にし逆を極め、朝せずして退く。六合 心を阻み、人情 憤を同にす。先帝 垢を含み恥を忍び、容れて責めず、委任すること舊の如く、禮秩は加ふる有り。朕 不天を以て、尋で酷罰に丁し、煢煢として疚きに在り、哀悼 寄する靡し。而れども敦 曾て臣子 遠を追ふの誠無く、又 輔孤 奬を同にするの操無く、甲を繕ひ兵を聚め、盛夏に來至し、輒ち天官を以て私屬に假授す。將に威を以て朝廷を脅し、宗社を傾危せんとす。朕 其の狂戾を愍み、其の覺悟を冀ふ。故に且つ含隱して以て其の終を觀る。而も敦 其の不義の強を矜り、朝廷を侮弱するの志有り、親を棄て羇を用ひ、賢に背きて惡を任ず。錢鳳の豎子、專ら謀主と為り、其の凶慝を逞くし、忠良を誣罔す。周嵩 亮直なれば、讜言して禍に致る。周札・周莚 累世に忠義なるも、讒構を聽受し、其の宗を殘夷す。秦人の酷なる、刑 五に過ぎず。敦の誅戮、無辜を傍濫し、人の族を滅すも、其の罪を知る莫し。天下 駭心し、道路 以て目す。神は怒り人は怨み、篤疾 嬰(かか)る所なるも、昏荒 悖逆すること、日々以て滋々甚し。輒ち兄の息を立てて以て自ら代を承けしめ、多く私黨を樹て、同惡に非ざる莫し。未だ宰相の繼體にして王命に由らざる者有らず。頑凶 相 奬め、顧忌する所無く、擅に冶工を錄し、輒ち運漕を割き、志は凶醜を騁せて、以て神器を闚ふ。社稷の危、夕に匪ずんば則ち旦なり。天は姦を長ぜず、敦 以て隕斃す。鳳 凶宄を承け、彌々復た煽逆す。是れ忍む可きや、孰ぞ忍ぶ可からざるか。
今 司徒の導、鎮南將軍・丹楊尹の嶠、建威將軍の趙胤を遣はして武旅三萬、十道 並進す。平西將軍の邃 兗州刺史の遐・奮武將軍の峻・奮威將軍の瞻を率ゐて精銳三萬、水陸 齊勢す。朕 親ら六軍を御し、左衞將軍の亮、右衞將軍の胤、護軍將軍の詹、領軍將軍の瞻、中軍將軍の壼、驍騎將軍の艾、驃騎將軍・南頓王宗、鎮軍將軍・汝南王祐、太宰・西陽王羕は被練三千、組甲三萬、諸軍を總統し、鳳の罪を討つ。罪は一人に止め、朕 刑を濫りにせず。能く鳳を殺して首を送るもの有らば、五千戶侯に封じ、布五千匹を賞さん。
冠軍將軍の鄧嶽 志氣は平厚にして、識は邪正を經す。前將軍の周撫 質性は詳簡にして、義誠 素より著はる。功臣の冑、情義 常を兼ね、往年 敦に從ひ、情節 展べず、首領に畏逼し、相違するを得ず、其の乃心を論じ、王室に貳無し。朕 其の誠を嘉し、方に之に任ずるに事を以てす。其の餘の文武、諸々の敦の授用する所と為る者は、一に問ふ所無く、刺史二千石 輒ち職する所を離るるを得ざれ。書 到らば奉承し、自ら多福を求め、或いは猜嫌して、以て誅滅を取ること無かれ。敦の將士、敦に從ひて彌年たり。怨曠 日々久しく、或いは父母 隕沒し、或いは妻子 喪亡す。奔赴するを得ず、哀を銜みて役に從ふ。朕 甚だ之を愍れみ、悽愴ならざること希れなり。其れ單丁にして軍に在りて兼重有る無き者は、皆 家に歸らしめ、終身 調せず。其の餘 皆 假三年を與へ、休み訖はれば臺に還り、當に宿衞と例を同じうして三番す。明らかに詔書を承けよ、朕 信に負かず」と。
又 詔して曰く、「敢て王敦の姓名を捨てて大將軍と稱する者有らば、軍法もて事に從はん」と。

敦の病 轉じて篤く、眾を御する能はず、錢鳳・鄧嶽・周撫らをして眾三萬を率ゐて京師に向はしむ。含 敦に謂ひて曰く、「此れ家事なり、吾 便ち當に行くべし」と。是に於て含を以て元帥と為す。鳳ら敦に問ひて曰く、「事 克つの日、天子に何に云ふか」と。敦曰く、「尚ほ未だ南郊せざれば、何ぞ得て天子と稱す。便ち卿の兵勢を盡し、東海王及び裴妃を保護するのみ」と。乃ち上疏して罪もて溫嶠を狀し、姦臣を誅するを以て名と為す。

含 江寧に至るや、司徒の導 含に書を遺りて曰く、
近ごろ大將軍 困篤して緜緜たるを承け、或ひと云ふ已に諱まざる有りと。悲怛の情、自ら勝ふる能はず。尋いで錢鳳の大いに嚴にし、姦逆を欲肆にするを知りて、朝士 忿憤し、扼腕せざる莫し。去月二十三日、征北の告を得て、劉遐・陶瞻・蘇峻ら深く憂慮を懷き、謀らずして辭を同じくす。都邑の大小及び二宮の宿衞 咸 往年の掠有り、復た其の妻孥を保たざるを懼る。是を以て聖主 赫斯の命を發し、具さに檄旨の如し。近く嘉詔有り、兄を崇して八命す。望らくは兄 羣賢の忠義の心を奬め、姦細の不逞の計を抑ふることを。當に武昌に還り、力を藩任に盡すべし。卒に來告を奉じ、乃ち犬羊と與に俱に下るを承る。當に逼迫すべきと雖も、猶ほ以て罔然たり。兄 身を立て率素たりて、門宗に信明せられ、年 耳順を踰え、位 人臣を極め、仲玉・安期も亦た佳少年と作すに足らず。本來の門戶、良に惜む可きなり。
兄の此の舉は、謂へらく大將軍の昔年の事が如かるを得可きや。昔年 佞臣 朝を亂し、人 不寧に懷く。導の徒の如きは、心に外濟を思ふ。今 則ち然らず。大將軍 來たりて湖に屯し、漸く人心を失ふ。君子 危怖し、百姓 勞弊す。將に終はるの日、安期に委重するも、安期 乳を斷ちて未だ幾日ならず、又 時望に乏しく、便ち宰相の迹を襲ふ可きや。開闢より以來、頗(や)やも宰相の孺子なる者有るや不や。諸々の耳有る者 皆 是れ將に禪代せんのとし、人臣の事に非ざるなり。先帝 中興し、遺愛 人に在り。聖主 聰明にして、德は朝野に洽く、賢哲と與に艱難を弘濟せんと思ふ。北面して臣節を執らず、乃ち私かに相 樹建し、肆に威福を行ふ。凡そ人臣に在りて、誰か憤歎せざる。此れ直だ錢鳳の不良の心 遠近に聞こへ、自ら地無きを知り、遂に姦逆を唱す。鄧伯山・周道和 恒に好情有るが如きに至りては、往來の人士 咸皆 之を明らかにす。方に委任せんと欲し、與共に力を戮さんとす。徒らに慮無かる非ざるのみなり。
導の門戶 小大に國の厚恩を受け、兄弟 顯寵にして、隆んと謂ふべし。導 不武と雖も、情は國を寧ずるに在り。今日の事、目を明し膽を張りて六軍の首と為る。寧ろ忠臣として死すも、不賴にして生くる無し。但だ恨むらくは大將軍 桓文の勳 遂げず、而れども兄 一旦 逆節の臣と為らば、先人の平素の志に負く。既に沒するの日、何の顏もて諸父に黃泉に見せ、先帝に地下に謁せん。來告を執省し、兄の為に之を羞ぢ、且つ悲しみ且つ慚づ。願はくは速やかに大計を建て、惟だ錢鳳一人を取らへて、天下をして安を獲しめ、家國をして福有らしめよ。故に是れ竹素の事、惟だ禍を免るるのみに非ず。
夫れ福は手を反すが如し、之を用ふれば即ち是なり。導 統ぶる所の六軍、石頭の萬五千人、宮內の後苑の二萬人、護軍の金城に屯するもの六千人、劉遐 已に至り、征北 昨 已に江を濟るもの萬五千人なり。天子の威を以て、文武 力を畢すこと、豈に當にす可きか。事 猶ほ追ふ可し、兄 早く之を思へ。大兵 一たび奮はば、導 以て灼炟と為るなり」と。
含 答へず。

現代語訳

王敦の味方である呉興の沈充が兵を挙げて王敦に呼応した。王敦が蕪湖に至ると、上表して刁協の罪状を列挙した。元帝は大いに怒り、詔を下して、「王敦は寵遇を頼みに、狂逆の行いをほしいままにし、朕を殷の太甲のように幽閉しようしている。容認できようか、まさか容認できまい。いま自ら六軍を率いて、大逆(王敦)を誅殺する。王敦を殺したものは、五千戸侯に封建する」と言った。戴若思・劉隗を召して京師に集結させた。王敦の兄の王含はこのとき光禄勲であったが、叛いて王敦のもとへ走った。
王敦が石頭に到着すると、劉隗を攻撃しようとした。しかし将の杜弘が、「劉隗は死を覚悟した兵が多く、簡単に勝てません。石頭の攻略が優先です。守将の周札は恩が浅く、兵が役に立たないので、攻めれば必ず勝てます。周札が敗れれば、劉隗も逃げるでしょう」と言った。王敦はこれに従った。周札は石頭の城門を開き、杜弘を迎え入れた。諸将は王敦と戦ったが、王師(東晋軍)は敗北した。王敦が石頭城に入ると、兵を従えたまま朝廷に参上せず、兵士に内外の略奪を許した。官吏は逃げ散り、侍中二名だけが元帝のもとに残った。元帝は軍装を脱いで朝服を着け、振り返って、「私の地位が欲しいなら、さっさとやるがよい。私は自ら琅邪へ帰ろう、どうして(東晋の存続にこだわり)百官や万民をこれ以上苦しめようか」と言った。王敦は周顗と戴若思を捕らえて殺そうとした。王敦は丞相・江州牧となり、爵位を武昌郡公に進め、邑一万戸となった。太常の荀崧を任命の使者とし、羽葆鼓吹も加えたが、すべて(形式的に)辞退して受けなかった。王敦は武昌に帰って駐屯し、忠良の臣を大量殺害し、一族を寵遇した。兄の王含を衛将軍・都督沔南軍事・領南蛮校尉・荊州刺史とした。義陽太守の任愔を督河北諸軍事・南中郎将とし、王敦は自ら督寧・益二州となった。
元帝が崩御すると、太寧元年、王敦は朝廷に働きかけて自分を徴させた。明帝は直筆の詔で王敦を徴した。このことは明帝紀にある。兼太常の応詹を使者にして、王敦に黄鉞、班剣・武賁二十人を加え、奏事不名、入朝不趨、劍履上殿の特典を与えた。王敦は鎮所を姑孰に移し、明帝は侍中の阮孚を使者に立てて牛酒で慰労させた。王敦は病と称して会わず、主簿に詔を受け取らせた。王導を司徒とし、王敦は自ら揚州牧となった。
王敦は志を得ると、ますます横暴となり、四方からの献上品を多く自分の府の収入とし、将相や州牧を自分の一族から輩出した。兄の王含を征東将軍・都督揚州江西諸軍事とし、従弟の王舒を荊州刺史とし、王彬を江州刺史とし、王邃を徐州刺史とした。王含は字を処弘といい、凶暴で剛愎な人物で、当時の人々に嫌われていたが、王敦の権勢によって、高位に昇った。王敦は沈充・銭鳳を謀主(参謀)とし、諸葛瑤・鄧嶽・周撫・李恒・謝雍を爪牙(武臣)とした。沈充らは凶悪で驕慢な人物で、互いに煽り合い、不必要な殺戮を起こした。王敦は大きな府邸を造り、他人の田宅を奪い、古墓を掘り返し、市場の道を浸食した。士庶は離散し、みなが王敦の破滅を予感した。王敦の従弟の豫章太守の王棱が日夜きびしく諫めると、王敦は怒り、ひそかに殺害した。王敦には子がなく、王含の子の王応を養子とした。王敦の病が重くなると、王応を武衛将軍に任じて自分の副官とした。銭鳳が王敦に、「万一ご不幸があれば、後事を王応に託すべきです」と言った。王敦は、「常ならざる事業(簒奪)が、常人に務まるだろうか。王応は若いので、大きな事業を担えまい。私の死後、軍を解体して兵を解放し、朝廷に身を任せ、一族を保全するしかない。これが上計である。退いて武昌に帰り、兵を手元に置いて守りを固め、朝廷への献上品を絶やさないのが中計だ。私が死ぬ前に、全軍で攻め下り、万に一つの僥倖を望むのが下計だ」と言った。銭鳳は仲間たちに、「公(王敦)の言う下計こそ、本当は上策だ」と言った。そこで銭鳳は沈充らとともに挙兵の計画を整え、王敦の死を待って行動を起こそうとした。
王敦は周札を嫌い、彼とその一族を皆殺しにした。常従督の冉曾・公乗雄らは元帝の腹心であったので、王敦は彼らを殺害した。宿衛の兵がまだ多いので、王敦は三交代制として三分の二を休ませた。王敦は病が重くなると、明帝は詔して侍中の陳晷・散騎常侍の虞𩦎を遣わして見舞わせた。このとき明帝は王敦討伐を決意し、微服を着けて蕪湖に行き、その営塁を偵察した。何度も大臣を送って王敦の体調を探らせた。王含を驃騎大将軍・開府儀同三司に遷し、王含の子の王瑜を散騎常侍とした。
王敦は温嶠を丹楊尹とし、朝廷の様子を探らせた。しかし温嶠は都に到着すると、王敦の反逆の企てを報告した。明帝は王敦を討伐しようと考えたが、世論が王敦を畏怖しているため、まず王敦が死んだと偽報を流してから、詔を発した。
「先帝(元帝)は聖徳をもって時運に応じ、江東で王業を創めた。司徒の王導が筆頭にいて心膂となり、道に基づいて輔佐した。亡き大将軍の王敦(本当は存命)もまた股肱として、内外で政務を支えた実績があり、王導とともに力を尽くした。(王敦は)時代の要請により、上宰の位に登り、節を預かって征伐を専権し、五州の軍政を委任された。(王敦は)刁協や劉隗が朝廷で高位にいることを不当として、義兵を挙げて討伐し、世論もそれを支持した。(王敦の)軍事行動は禁令を犯したが、朝廷への忠誠は本物なので、特別に序列と俸禄を優遇し、人臣のなかで並ぶ者がなかった。しかし戦いが終わった後、王敦は城邑を掠奪し、兵士を解き放って、宮殿での略奪を許した。朝廷が下した赦免を無視して、高位高官を殺害した。凶悪の限りを尽くし、朝廷に参内せず退去した。天下は心を閉ざし、人々は怒りを抱いた。先帝はこの恥辱に耐えて、(王敦を)咎めず、従来どおり大きな権限を与え、むしろ礼遇を加えた。朕は天佑を受けず、酷い罰を受け(元帝が崩御し)、深い憂患に暮れても、哀悼を寄せる者が少なかった。しかし王敦は、臣下として忠義を尽くさず、孤弱の幼君を助ける役割を果たさず、軍備を整えて兵を集め、盛夏に上京すると、朝廷の官位を私的にばらまいた。兵威によって朝廷を脅かし、宗廟を傾けて危険にさらした。朕は王敦の狂気じみた無道を悲しみ、反省することを期待し、深くは糾弾せずに経過を見守った。ところが王敦は自らの不義を誇り、朝廷を侮る志を抱き、親しい者を退けて賤しい者を用い、賢者を退けて悪人を登用した。錢鳳などという小人物が、謀主の地位を独占し、凶悪の限りを尽くし、忠良な人々を陥れて破滅させた。周嵩は忠正であり、諫言したために禍いを受けた。周札・周莚は歴代の忠義の家柄であったが、讒言が用いられて、一族が皆殺しにされた。秦帝国は酷逆であったが、刑罰は五つだけだった。王敦による殺戮は、罪なき者を巻き込み、一族まで滅ぼすが、何の罪によるものか誰にも分からない。天下の人々は恐懼し、道路で目配せしている。神も怒り人も怨み、王敦は重病にかかったが、悪逆非道は、日ごとに激化している。王敦は兄の子を後継者にして、多くの私党を多く登用し、みなで悪事に加担している。宰相の後継者を朝廷の命令に依らず決めるのは前代未聞である。頑迷で凶悪な連中が、互いを推薦しあって遠慮がなく、勝手に工人を徴発し、みだりに水路を開鑿し、悪意をあらわにして、神器(帝位)を奪おうとした。(晋帝国の)社稷の危機は、今晩でなければ翌朝というほど差し迫っている。天は姦悪なものを助けず、やっと王敦が死んだ。銭鳳がその凶謀を受け継いで、いよいよ反逆を煽っている。もう黙認できようか、いや黙認するまい。
いま司徒の王導、鎮南将軍・丹楊尹の温嶠、建威将軍の趙胤を遣わして、三万の軍勢で、十道から同時に進軍させる。平西将軍の王邃は、兗州刺史の劉遐・奮武将軍の蘇峻・奮威将軍の応瞻を率いて精鋭三万を指揮し、水陸同時に攻めさせる。朕自ら六軍を率い、左衛将軍の王亮・右衛将軍の王胤・護軍将軍の応詹・領軍将軍の王瞻・中軍将軍の桓壼・驍騎将軍の桓艾・驃騎将軍の南頓王宗(司馬宗)・鎮軍将軍の汝南王祐(司馬祐)・太宰の西陽王羕(司馬羕)には練兵三千と組甲三万を与え、諸軍を総率して罪人の錢鳳を討伐させる。罪罰は銭鳳だけに止め、刑罰を拡大することはない。銭鳳を殺して首を持参する者がいれば、五千戸侯に封建し、布五千匹を賞与しよう。
(いまは王敦に協力しているが)冠軍将軍の鄧嶽は公平な性格で、人の邪正を判断できる。前将軍の周撫は誠実で賢く、義と誠信が表れている。功臣の子孫は、情と義を併せ持つ。彼らはこれまで王敦に従ってきたとはいえ、脅迫され、逆らえなかっただけで、王室に対しては、忠である。朕は彼らの誠意を認め、今後も任用しようと思う。それ以下の文武の官で、王敦に登用された者も、まったく罪を問わない、刺史や二千石の官は任地を離れるな。詔が届けば奉り、自らの良い結果を願え。猜疑して(王敦に味方し)、誅戮を受けることのないように。王敦の将兵は、王敦に長年従ってきた。そのため怨恨も深い。父母を亡くし、妻子を失っても、葬儀のために帰郷もできず、悲しみを押し殺して職務に就いてきた。朕はこれを深く哀れみ、非常に痛ましく思う。独身で軍にいて重責にない者は、すべて家に帰らせ、終身にわたり徭役を免除とする。それ以外の者は三年の休暇を与え、休暇が終われば役所に復帰し、宿衛と同じように三番制で勤務させる。以上の詔書を心に刻み、朕の期待を裏切ってはならない」と言った。
また詔して、「王敦の姓名を外して大将軍と称する者がいれば、軍法で厳罰する」と言った。

王敦の病はますます重く、軍勢を統率できなくなった。銭鳳・鄧嶽・周撫らに三万の兵を率いて京師に向かわせた。王含(王敦の兄)は王敦に、「これはわが一族のことだ、私が行こう」と言った。ここにおいて王含を元帥とした。銭鳳は王敦に、「もし京師を攻略できたら、天子(明帝)に何と言うのですか」問うた。王敦は、「まだ南郊の儀礼をしていないから、天子などと呼ぶな。きみたちの軍の勢いを活用し、東海王と裴妃を保護するだけだ」と答えた。王敦は上表し、温嶠の罪状を訴え、姦臣誅伐を進軍の名目とした。

王含が江寧に到達すると、司徒の王導は書簡を送って次のように告げた。
「近ごろ大将軍(王敦)が重病にかかり、すでに死んだという者もいる。悲しみの情は、抑えがたい。しかも銭鳳が軍隊を取り仕切り、反逆を焚きつけていると聞き、朝廷の士は激怒し、拳を握らない者はいない。先月二十三日、征北将軍から(王敦討伐の)通達があり、劉遐・陶瞻・王峻らは深い憂慮を抱き、示し合わせずして同じことを言った。都邑の人々や宮中の宿衛は、前年に(王敦軍に)受けた掠奪を思い出し、妻子の身を危ぶんでいる。そこで聖主(明帝)は赫々たる詔を発し、檄文に示された。近日に嘉詔があり、兄上(王含)を崇めて八命とした。どうか兄上は賢者たちの忠義の心を励まし、不逞で奸細の計略を抑えてほしい。武昌に帰って、藩鎮の任務に尽力してほしい。しかし急ぎの報告が入り、兄上が犬羊(反逆者)とともに長江を下って(京師攻撃に参加して)いると聞いた。追い詰められた事情があるにせよ、愕然とした。兄上は長く節義を守り、一族に信望が厚く、六十歳を越えて、人臣の頂点におり、仲玉や安期生のような高士と比べても劣りません。伝統あるわが家系のために、大変惜しいと思う。
兄上の行動は、昔年の大将軍(王敦)と同じと見なすことができるのか。当時は佞臣が朝廷を乱し、人々が不安を覚えていた。導(わたくし)のような人間は、外部に(王敦の)援助を期待した。しかし今日は状況が異なる。大将軍は湖(荊州)に駐屯し、人心を失いつつある。君子は危機に感じ、百姓は疲弊している。彼は死ぬ直前に王安期(兄の子)に後事を託すと言ったが、王安期は乳離れしたばかりで、世間の信望もなく、宰相の後継者が務まらない。天地の始まりより、宰相が幼子であった例があるだろうか。人々は耳をそばだてて禅譲を警戒し、王敦の行動はもはや人臣を逸脱している。先帝(元帝)が中興し、人々はいまだに慕っている。いまの聖主(明帝)は聡明で、徳は朝野に行き渡り、賢者とともに艱難を乗り越えようとしている。兄上はこの朝廷に臣従せず、私的に権力を振るい、勝手に威福を施してきた。人臣として、これに憤らぬ者がいるだろうか。(今回の挙兵は)銭鳳の悪意が、遠近に知れ渡り、もはや逃げ場がなくなって、銭鳳が反逆を企てただけのことだ。鄧伯山(鄧嶽)や周道和(周撫)のような人々は昔から交流があり、往来の人士はみな事情を理解し、地方を支配するため、協力しようとしているだけだ。是非とも熟慮をして(王含は反乱軍の統率を辞めて軍を解散して)ほしい。
わが一族(琅邪王氏)は、国家から厚い恩を受け、兄弟が栄達し、盛んになったと言える。わたしが武には長じないが、国家の安泰を願うものだ。今回の討伐戦では、覚悟を決めて六軍の責任者となる。忠臣として死ぬほうが、不義に生きるより勝るからだ。大将軍(王敦)が斉桓公や晋文公のように(宰相として)功績を成さず、兄上(王含)が逆臣に転落し、祖先の期待に背くのが残念だ。死後、どのような顔をして祖先に会い、先帝にお目に掛かるのか。この書簡を読み返せば、兄上には申し訳なく、悲しみ恥じる気持ちでいっぱいだ。どうか速やかに考えを改め、銭鳳ただ一人だけを捕らえて、天下を安寧とし、わが一族に福をもたらせ。これはただ禍いを回避するだけでなく、後世に名を残す判断となる。
手を返せばすぐに福は得られ、銭鳳を捕獲することがそれに当たる。わたしが統率する六軍、石頭城の一万五千人、宮中の後苑の二万人、護軍の金城に駐屯する六千人と、劉遐はすでに到着し、征北将軍の一万五千人がきのう長江を渡った。天子の威光で、文武の官が力を尽くすのだから、兄上が対抗できるはずがない。まだ取り返しがつく、兄上は思い返せ。もし大軍が戦闘を始めれば、わたしは炎のように焼き尽くす」と言った。
王含はこの書簡に返答しなかった。

原文

帝遣中軍司馬曹渾等擊含于越城、含軍敗、敦聞、怒曰、「我兄老婢耳、門戶衰矣。兄弟才兼文武者、世將・處季皆早死、今世事去矣」。語參軍呂寶曰、「我當力行」。因作勢而起、困乏復臥。
鳳等至京師、屯于水南。帝親率六軍以禦鳳、頻戰破之。敦謂羊鑒及子應曰、「我亡後、應便即位、先立朝廷百官、然後乃營葬事」。初、敦始病、夢白犬自天而下嚙之、又見刁協乘軺車導從、瞋目令左右執之。俄而敦死、時年五十九。應祕不發喪、裹尸以席、蠟塗其外、埋于廳事中、與諸葛瑤等恒縱酒淫樂。
沈充自吳率眾萬餘人至、與含等合。充司馬顧颺說充曰、「今舉大事、而天子已扼其喉、情離眾沮、鋒摧勢挫、持疑猶豫、必致禍敗。今若決破柵塘、因湖水灌京邑、肆舟檻之勢、極水軍之用、此所謂不戰而屈人之兵、上策也。藉初至之銳、并東南眾軍之力、十道俱進、眾寡過倍、理必摧陷、中策也。轉禍為福、因敗為成、召錢鳳計事、因斬之以降、下策也」。充不能用、颺逃歸於吳。含復率眾渡淮、蘇峻等逆擊、大敗之、充亦燒營而退。
既而周光斬錢鳳、吳儒斬沈充、並傳首京師。有司議曰、「王敦滔天作逆、有無君之心、宜依崔杼・王淩故事、剖棺戮尸、以彰元惡」。於是發瘞出尸、焚其衣冠、跽而刑之。敦・充首同日懸于南桁、觀者莫不稱慶。敦首既懸、莫敢收葬者。尚書令郗鑒言於帝曰、「昔王莽漆頭以輗車、董卓然腹以照市、王淩儭土、徐馥焚首。前朝誅楊駿等、皆先極官刑、後聽私殯。然春秋許齊襄之葬紀侯、魏武義王修之哭袁譚。由斯言之、王誅加於上、私義行於下。臣以為可聽私葬、於義為弘」。詔許之、於是敦家收葬焉。含父子乘單船奔荊州刺史王舒、舒使人沈之于江、餘黨悉平。
敦眉目疏朗、性簡脫、有鑒裁、學通左氏、口不言財利、尤好清談、時人莫知、惟族兄戎異之。經略・指麾、千里之外肅然、而麾下擾而不能整。武帝嘗召時賢共言伎藝之事、人人皆有所說、惟敦都無所關、意色殊惡。自言知擊鼓、因振袖揚枹、音節諧韵、神氣自得、傍若無人、舉坐歎其雄爽。石崇以奢豪矜物、廁上常有十餘婢侍列、皆有容色、置甲煎粉・沈香汁、有如廁者、皆易新衣而出。客多羞脫衣、而敦脫故著新、意色無怍。羣婢相謂曰、「此客必能作賊」。又嘗荒恣於色、體為之弊、左右諫之、敦曰、「此甚易耳」。乃開後閤、驅諸婢妾數十人並放之、時人歎異焉。

訓読

帝 中軍司馬の曹渾らを遣はして含を越城に擊ち、含の軍 敗る。敦 聞き、怒りて曰く、「我が兄は老婢なるのみ、門戶 衰へり。兄弟の才 文武を兼ぬる者は、世將・處季 皆 早く死し、今の世に事 去れり」と。參軍の呂寶に語りて曰く、「我 當に力めて行くべし」と。因りて勢を作して起つも、困乏して復た臥す。
鳳ら京師に至り、水南に屯す。帝 親ら六軍を率ゐて以て鳳を禦ぎ、頻りに戰ひて之を破る。敦 羊鑒及び子の應に謂ひて曰く、「我 亡する後、應 便ち即位せよ。先に朝廷の百官を立て、然る後に乃ち葬事を營むべし」と。初め、敦 始めて病み、白犬 天より下りて之を嚙むを夢み、又 刁協の軺車に乘りて導 從ひ、目を瞋らせて左右をして之を執へしむるを見たり。俄にして敦 死し、時に年五十九なり。應 祕して喪を發せず、尸を裹するに席を以てし、蠟もて其の外を塗り、廳事の中に埋め、諸葛瑤らと與に恒に酒を縱にして淫樂す。
沈充 吳より眾萬餘人を率ゐて至り、含らと合す。充の司馬の顧颺 充に說きて曰く、「今 大事を舉げ、而れども天子 已に其の喉を扼し、情は離れて眾は沮し、鋒は摧かれ勢は挫けらる。持疑して猶豫せば、必ず禍敗を致さん。今 若し決して柵塘を破らば、因りて湖水 京邑に灌し、舟檻の勢を肆にし、水軍の用を極めん。此 所謂 戰はずして人の兵を屈す、上策なり。初めて至るの銳を藉り、東南の眾軍の力を并せ、十道 俱に進まば、眾寡 過倍し、理は必ず摧陷す、中策なり。禍を轉じて福と為し、敗に因りて成と為し、錢鳳を召して事を計り、因りて之を斬りて以て降る、下策なり」と。充 用ゐる能はず、颺 逃げて吳に歸る。含 復た眾を率ゐて淮を渡り、蘇峻ら逆擊し、大いに之を敗り、充も亦た營を燒きて退く。
既にして周光 錢鳳を斬り、吳儒 沈充を斬り、並びに首を京師に傳ふ。有司 議して曰く、「王敦 滔天して作逆し、無君の心有り。宜しく崔杼・王淩の故事に依り、棺を剖きて尸を戮し、以て元惡を彰らかにすべし」と。是に於て瘞を發し尸を出し、其の衣冠を焚き、跽して之を刑す。敦・充が首 同日に南桁に懸け、觀る者 慶を稱せざる莫し。敦が首 既に懸かり、敢て收葬する者莫し。尚書令の郗鑒 帝に言ひて曰く、「昔 王莽 頭を漆して以て車に輗け、董卓 腹を然して以て市を照す。王淩 土を儭し、徐馥 首を焚く。前朝 楊駿らを誅し、皆 先に官刑を極め、後に私殯を聽す。然して春秋 齊襄の紀侯を葬るを許し〔一〕、魏武 王修の袁譚に哭するを義とす。斯に由りて之を言はば、王誅 上に加へ、私義 下に行はる。臣 以為へらく私葬を聽す可し、義に於て弘為らん」と。詔して之を許し、是に於て敦の家 收葬せり。含の父子 單船に乘りて荊州刺史の王舒に奔り、舒 人をして之を江に沈めしめ、餘黨 悉く平らぐ。
敦 眉目疏朗にして、性は簡脫たり。鑒裁有りて、學びて左氏に通ず。口に財利を言はず、尤も清談を好む。時人 知る莫く、惟だ族兄の戎のみ之を異とす。經略・指麾は、千里の外に肅然たれども、而れども麾下 擾るれば整ふ能はず。武帝 嘗て時賢を召して共に伎藝の事を言ひ、人人 皆 說く所有り、惟だ敦のみ都て關はる所無く、意色 殊に惡たり。自ら擊鼓を知ると言ひ、因りて袖を振りて枹を揚げ、音節 諧韵たりて、神氣 自得なり。傍に人無きが若く、坐を舉げて其の雄爽なるを歎ず。石崇 奢豪を以て物を矜り、廁上に常に十餘の婢の侍列する有り、皆 容色有り、甲煎粉・沈香汁を置く。廁に如く者有らば、皆 新衣に易へて出づ。客 多く脫衣するを羞づるも、而れども敦 故を脫ぎて新を著し、意色 怍(は)づる無し。羣婢 相 謂ひて曰く、「此の客 必ず能く賊と作るなり」と。又 嘗て荒れて色を恣にし、體 之の為に弊る。左右 之を諫むるや、敦曰く、「此れ甚だ易きなるのみ」と。乃ち後閤を開き、諸々の婢妾數十人を驅りて並びに之を放つ。時人 歎異せり。

〔一〕出典を調査中。
〔二〕『三国志』巻十一 王脩伝に、「聞譚死、下馬號哭曰……」とあることを踏まえる。

現代語訳

明帝は中軍司馬の曹渾らを派遣して王含を越城で攻撃し、王含の軍は敗れた。王敦はこれを聞いて、怒り、「我が兄は老婢(年老いた下女)に過ぎず、わが門戸は衰えた。兄弟のうちで才が文武を併せ持つものは、世将と処季であったが二人とも早く死に、今日において(王氏の)事業は頓挫した」と言った。参軍の呂宝に語り、「私が自ら出陣せねばならん」と言った。軍勢を編成して出発したが、疲れ果てて再び横たわった。
銭鳳らが京師に至り、長江の南に駐屯した。明帝はみずから六軍を率いて銭鳳を防ぎ、何度も戦ってこれを破った。王敦は羊鑒とわが子の王応に、「私の死後、王応が即位せよ。先に(王氏の)朝廷の百官を立ててから、その後に私の葬儀を営め」と言った。これよりさき、王敦が病気になった当初、白犬が天から降ってきて噛む夢を見て、また刁協が軺車(兵車)に乗って王導が従い、目を怒らせて左右にこれを捕らえさせるのを見た。にわかに王敦が死に、このとき五十九歳であった。王応は隠して喪を発さず、死体をむしろで包んで、蝋でその外を塗り、役所のなかに埋め、(王応は)諸葛瑤らとともに酒宴に明け暮れて淫楽をした。
沈充が呉から一万人あまりの軍勢を率いて到着し、王含らと合流した。沈充の司馬の顧颺は沈充に説いて、「いま大きな事業を始め、しかし天子(明帝)がその喉を押さえつけました。人々の支持が失われて軍勢は敗れ、進攻が止められて形勢は不利となりました。じっとして悩んでいれば、必ず禍難を招くでしょう。いまもし堤防を決壊させれば、湖水が京邑をひたし、戦艦の勢いを味方につけ、水軍を最大限に活用できます。これがいわゆる戦わずに敵軍を屈服させることで、上策です。到着直後の勢いを利用し、東南の軍勢と兵力を合わせ、十道から同時進行すれば、兵力差がますます広がり、道理として敵軍を撃破できるでしょう、これが中策です。禍を転じて福とし、敗北を成功に変えるべく、銭鳳を(だまして)召して相談を持ちかけ、銭鳳を斬って降服する、これが下策です」と言った。沈充は(いずれの策も)用いることができず、顧颺は逃げて呉に帰った。王含はまた兵を率いて淮水を渡ったが、蘇峻らが迎撃し、大いにこれを破り、沈充もまた兵営を焼いて撤退した。
すでに周光が銭鳳を斬り、呉儒が沈充を斬り、二人の首が京師に届けられた。担当官は議論し、「王敦は罪悪をはびこらせて反逆し、君主を蔑ろにする心がありました。崔杼と王淩の故事に基づき、棺を裂いて遺体を晒し、罪悪を明らかにすべきです」と言った。そこで埋葬をあばいて死体を出し、彼らの衣冠を焼き、死体を曲げて晒した。王敦と沈充の首を同日に南桁(橋の名)に懸け、見て慶賀しないものはなかった。王敦が首が懸けられると、収容し埋葬するものはいなかった。尚書令の郗鑒が明帝に、「むかし王莽の首に漆をぬって車に結び、董卓の腹を燃やして市場を照らしました。王淩の死体を土に直接埋め、徐馥の首を焼き捨てました。前朝(西晋)は楊駿らを誅殺しましたが、いずれも先に公的な刑罰を尽くしてから、後に私的な葬儀を許しました。そして『春秋』は斉の襄公が紀侯を葬ることを認め、魏武(曹操)は王脩が袁譚のために哭したことを義としました。これらに基づくならば、王による公的な誅が上から加えられ、私的な義が下で行われたのです。思いますに私的な埋葬を許可すべきで、それが大きな義のある処置です」と言った。詔してこれを許し、王敦の親族が首を収容して埋葬した。王含の父子は単船に乗り荊州刺史の王舒のもとに逃げたが、王舒はこの船を長江に沈めさせ、残党をすべて平定した。
王敦は眉目が疏朗(透き通って朗らか)であり、性格はさっぱりとして拘りがなかった。見識と判断力があり、『春秋左氏伝』を学んで精通した。財産や利益のことを口にせず、もっとも清談を好んだ。当時の人は彼のことを知らなかったが、ただ族兄の王戎だけが見抜いていた。経略と指揮は、千里の先に離れていれば整然としていたが、配下が乱れ騒ぐと統制が取れなかった。武帝がかつて当時の賢者を集めて伎芸の談義をし、人々はみな意見を述べたが、王敦だけが話に参加せず、ひどく機嫌が悪かった。自ら鼓を撃てると言い、袖を振るって(鼓の)ばちを上げ、音節は調和して整い、得意そうであった。そばに人がいないようで、同席した者は彼の雄爽ぶりに感嘆した。石崇は奢侈で持ち物を自慢し、かわやに十人あまりの婢を侍立させ、みな姿形が美しく、甲煎粉と沈香汁を置いた。かわやに行くものがいると、みな新しい衣に着替えさせた。客は服を脱ぐのを恥ずかしがったが、王敦だけは古い服を脱ぐと新しいものが現れ、恥じる気配がなかった。婢たちは、「この客はきっと賊になる」と言いあった。またかつて色欲におぼれ、体が疲弊した。側近が諫めると、王敦は、「ぜんぜん大したことはない」と言った。奥の門を開き、婢妾の数十人を追い出した。当時の人々はすごいと感心した。

原文

沈充字士居。少好兵書、頗以雄豪聞於鄉里。敦引為參軍、充因薦同郡錢鳳。鳳字世儀、敦以為鎧曹參軍、數得進見。知敦有不臣之心、因進邪說、遂相朋構、專弄威權、言成禍福。遭父喪、外託還葬、而密為敦使、與充交構。
初、敦參軍熊甫見敦委任鳳、將有異圖、因酒酣謂敦曰、「開國承家、小人勿用、佞倖在位、鮮不敗業」。敦作色曰、「小人阿誰」。甫無懼容、因此告歸。臨與敦別、因歌曰、「徂風飇起蓋山陵、氛霧蔽日玉石焚。往事既去可長歎、念別惆悵復會難」。敦知其諷己而不納。
明帝將伐敦、遣其鄉人沈禎諭充、許以為司空。充謂禎曰、「三司具瞻之重、豈吾所任。幣厚言甘、古人所畏。且丈夫共事、終始當同、寧可中道改易、人誰容我」。禎曰、「不然。舍忠與順、未有不亡者也。大將軍阻兵不朝、爵賞自己、五尺之童知其異志。今此之舉、將行篡弒耳、豈同於往年乎。是以疆埸諸將莫不歸赴本朝、內外之士咸願致死、正以移國易主、義不北面以事之也、奈何協同逆圖、當不義之責乎。朝廷坦誠、禎所知也。賊之黨類、猶宥其罪、與之更始、況見機而作邪」。充不納。率兵臨發、謂其妻子曰、「男兒不豎豹尾、終不還也」。及敗歸吳興、亡失道、誤入其故將吳儒家。儒誘充內重壁中、因笑謂充曰、「三千戶侯也」。充曰、「封侯不足貪也。爾以大義存我、我宗族必厚報汝。若必殺我、汝族滅矣」。儒遂殺之。充子勁竟滅吳氏。勁見忠義傳。

訓読

沈充 字は士居。少くして兵書を好み、頗る雄豪を以て鄉里に聞こゆ。敦 引きて參軍と為し、充 因りて同郡の錢鳳を薦む。鳳 字は世儀、敦 以て鎧曹參軍と為し、數々進見するを得たり。敦に不臣の心有るを知り、因りて邪說を進め、遂に相 朋構し、威權を專弄し、言は禍福を成す。父の喪に遭ひ、外は還葬に託し、而れども密かに敦が使と為り、充と與に交構す。
初め、敦の參軍の熊甫 敦 任鳳に委ぬるを見て、將に異圖有らんとし、酒酣に因りて敦に謂ひて曰く、「國を開きて家を承け、小人 用ふ勿れ。佞倖 位に在らば、業を敗らざること鮮し」と。敦 色を作して曰く、「小人 誰に阿るか」と。甫 懼るる容無く、此に因りて歸を告ぐ。敦と別るるに臨み、因りて歌ひて曰く、「徂風 飇起して山陵を蓋ひ、氛霧 日を蔽ひ玉石 焚ゆ。往事 既に去りて長歎す可し、別を念ひて惆悵とし復た難に會はん」と。敦 其の己を諷するを知りて納れず。
明帝 將に敦を伐たんとし、其の鄉人の沈禎を遣はして充を諭さしめ、許すに司空と為すを以てす。充 禎に謂ひて曰く、「三司 具瞻の重にして、豈に吾の任ずる所なるか。厚を幣(おく)りて甘を言ふは、古人の畏る所なり。且つ丈夫 事を共にせば、終始 當に同じくすべし。寧ぞ中道に改易せば、人 誰か我を容るる可きか」と。禎曰く、「然らず。忠と順とを舍てて、未だ亡せざる者有らず。大將軍 兵を阻みて朝せず、爵賞 自己すれば、五尺の童すら其の異志を知るべし。今 此の舉は、將に篡弒を行はんとするのみ。豈に往年に同じなるか。是を以て疆埸の諸將 本朝に歸赴せざるは莫く、內外の士 咸 致死を願ふ。正は國を移りて主を易ふるを以てし、義は北面して以て之に事ふるにあらず。奈何れぞ逆圖に協同し、不義の責に當るや。朝廷の坦誠は、禎の知る所なり。賊の黨類すら、猶ほ其の罪を宥し、之と與に更始せんとす、況んや機(いつは)られて作すをや」と。充 納れず。兵を率ゐて發に臨み、其の妻子に謂ひて曰く、「男兒 豹尾を豎てざれば、終に還らざるなり」と。敗れて吳興に歸るに及び、亡して道を失ひ、誤りて其の故將の吳儒の家に入る。儒 充を誘ひて重壁の中に內れ、因りて笑ひて充に謂ひて曰く、「三千戶の侯たらん」と。充曰く、「封侯 貪るに足らざるなり。爾 大義の我に存するを以て、我が宗族 必ず厚く汝に報いん。若し必ず我を殺さば、汝 族滅せん」と。儒 遂に之を殺す。充が子の勁 竟に吳氏を滅す。勁 忠義傳に見ゆ。

現代語訳

沈充は字を士居という。若くして兵書を好み、豪勇ぶりを郷里で知られた。王敦が招いて参軍とすると、沈充は同郡の銭鳳を推薦した。銭鳳は字を世儀といい、王敦は彼を鎧曹参軍とし、しばしば面会を許した。(銭鳳は)王敦に不臣の心があることを知り、邪悪な考えを吹き込み、気に入られて側近となり、威権を専らにして弄び、彼の発言が(影響力を持ち)禍福を招いた。(銭鳳の)父が死ぬと、帰郷して葬ることを口実に、しかし秘かに王敦の意を受けて、沈充とつるんだ。
これよりさき、王敦の参軍の熊甫は王敦が任鳳を信認するので、不当な(帝位簒奪の)計画があると思い、酒席にかこつけて、「(あなたは)国を開いて家を継いでいます、つまらぬ人物を用いてはいけません。へつらう人物に地位を与えて、事業が失敗しないものはいません」と言った。王敦は顔色を変えて怒り、「つまらぬ人物が誰におもねっているのか」と言った。熊甫は懼れる様子がなく、帰郷(王敦への絶縁)を申し入れた。王敦と別れるとき、歌って、「吹き抜ける風が乱れ起こって山陵を蓋い、禍いの霧が日にかぶさり玉石が燃える。過日のことはもう失われて嘆かわしいことだ、別れを思って嘆き悲しみまた苦難に会うだろう」と言った。王敦は自分への批判だと気づいて無視した。
明帝が王敦を討伐しようとし、沈充と同郷の沈禎を派遣して説得をさせ、(もし王敦を裏切れば)司空の位を約束すると告げた。沈充は沈禎に、「三公とは人々が仰ぎ見る重大な地位で、どうして私などを任命するものか。厚遇でを約束して甘言を用いるのは、古人が警戒したことだ。しかも人たるものは計画に参加したならば、最後まで添い遂げるべきだ。途中で心変わりすれば、(東晋に降ったとしても)誰が私を許容しようか」と言った。沈禎は、「そうではない。忠と順を捨てて、滅亡しなかった者はいない。大将軍(王敦)は武装して朝廷に出席せず、爵賞を私物化しており、五尺の童ですら彼の異志(簒奪の心)を知っている。今回の彼の行いは、簒奪と弑逆でしかない。どうして先例と同じであろうか。だからこそ域内(荊州などの王敦の支配地域)の諸将は東晋の朝廷に帰順し駆けつけないものがおらず、内外の士は命がけの戦いを望んでいる。正しいのは国を移って主君を変えることにあり、義は北を向いて彼に仕えることにはない。どうして反逆の計画に協力し、不義の責めを受けるのか。朝廷の約束に偽りがないことは、私が請け合う。賊(王敦)の党類ですら、なおも罪を赦して、協調して改めようとしている、まして欺されて巻き込まれたもの(沈充)を赦さないことがあろうか」と言った。沈充は(懐柔を)聞き入れなかった。兵を出発させるとき、妻子に、「男たるものは豹尾を立てなければ(王敦を帝位に押し上げなければ)、二度と帰ることはない」と言った。敗れて呉興に帰ると、道に迷って、誤って彼の故将の呉儒の家に迷い込んだ。呉儒は沈充を誘って二重の壁のなかに入れ(匿うと見せかけて閉じ込め)、笑って沈充に、「(懸賞で)三千戸の侯になれる」と言った。沈充は、「封侯など貪っても仕方がない。大義は私にあるのだから、わが宗族がきっとお前に復讐するだろう。もし私を殺せば、お前は一族が死に絶えるぞ」と言った。呉儒は沈充を殺した。沈充の子の沈勁が結局は呉氏を滅ぼした。沈勁(の事績)は忠義伝に見える。

原文

史臣曰、琅邪之初鎮建鄴、龍德猶潛、雖當璧膺圖預定於冥兆、豐功厚利未被於黎氓。王敦歷官中朝、威名夙著、作牧淮海、望實逾隆、遂能託魚水之深期、定金蘭之密契、弼成王度、光佐中興、卜世延百二之期、論都創三分之業、此功固不細也。既而負勳高而圖非望、恃勢逼而肆驕陵。釁隙起自刁劉、禍難成於錢沈。興晉陽之甲、纏象魏之兵。蜂目既露、豺聲又發、擅竊國命、殺害忠良、遂欲篡盜乘輿、逼遷龜鼎。賴嗣君英略、晉祚靈長、諸侯釋位、股肱勠力、用能運茲廟算、殄彼凶徒、克固鴻圖、載清天步者矣。

訓読

史臣曰く、琅邪の初めて建鄴に鎮するや、龍德 猶ほ潛し、璧に當たり圖に膺じ冥兆に預定すると雖も、豐功厚利 未だ黎氓に被らず。王敦 官を中朝に歷し、威名は夙に著はれ、淮海に牧と作り、望實 逾々隆く、遂に能く魚水の深期に託し、金蘭の密契を定め〔一〕、王度を弼成し、中興を光佐し、世を卜して百二の期を延し、都を論じて三分の業を創む。此の功 固より細からざるなり。既にして勳の高きに負きて非望を圖り、勢の逼るに恃みて驕陵を肆にす。釁隙 刁劉より起ち、禍難 錢沈に成る。晉陽の甲を興し、象魏の兵を纏む。蜂目 既に露はれ、豺聲 又 發し、擅に國命を竊み、忠良を殺害し、遂に乘輿を篡盜せんと欲し、龜鼎を遷さんと逼る。嗣君の英略に賴り、晉祚 靈長たりて、諸侯 位を釋き、股肱 力を勠し、用て能 茲の廟算を運び、彼の凶徒を殄し、克く鴻圖を固め、載ち天步を清むる者なりと。

〔一〕『周易』繋辞上伝に、「二人同心、其利斷金。同心之言、其臭如蘭」とあり、出典。

現代語訳

史臣はいう、琅邪王がはじめて建鄴に出鎮したとき、龍徳(皇帝としての徳)はまだ潜み、玉璧や図讖が神秘的な予言(東晋の建国)を示したが、豊かな功績と厚い利得をまだ万民が受けることはなかった。王敦は中朝(西晋の朝廷)で官職を歴任し、威名が早くから表れ、淮海で州牧になって、名望と実績がいよいよ高まり、水魚の交わり(劉備と諸葛亮)にかこつけ、金を断ち蘭のように芳しい友情を固め、王業を輔佐し、中興を輝かせ、(晋国の)暦数を占って百二年を延長し、都を論じて三分の事業を始めた。これらの功績はもとより小さくはない。やがて高い功績を逆手にとって不相応な望みを持ち、権勢の高さを頼って傲慢に振る舞った。内部抗争が刁氏と劉氏(刁協と劉隗)から起こり、禍難は銭氏と沈氏(銭鳳と沈充)で現実になった。晋陽の甲を興し、象魏の兵をまとめた。蜂のような目がすでに表れ、豺のような声もまた響き、ほしいままに国家の命運を盗み、忠良を殺害し、乗輿を簒奪しようとし、亀鼎(帝位)を移そうと逼った。嗣君(明帝)の英略のおかげで、晋国の命運は延長され、諸侯は位を解いて、股肱は力を合わせ、有能なものが兵略を運用し、かの凶徒を滅亡させ、偉大な計画を固め、天の歩みを清めたのであると。

桓溫(孟嘉)

原文

桓溫字元子、宣城太守彝之子也。生未朞而太原溫嶠見之、曰、「此兒有奇骨、可試使啼」。及聞其聲、曰、「真英物也」。彝以嶠所賞、故遂名之曰溫。嶠笑曰、「果爾、後將易吾姓也」。彝為韓晃所害、涇令江播豫焉。溫時年十五、枕戈泣血、志在復讎。至年十八、會播已終、子彪兄弟三人居喪、置刃杖中、以為溫備。溫詭稱弔賓、得進、刃彪於廬中、并追二弟殺之、時人稱焉。
溫豪爽有風概、姿貌甚偉、面有七星。少與沛國劉惔善、惔嘗稱之曰、「溫眼如紫石棱、鬚作蝟毛磔、孫仲謀・晉宣王之流亞也」。選尚南康長公主、拜駙馬都尉、襲爵萬寧男、除琅邪太守、累遷徐州刺史。
溫與庾翼友善、恒相期以寧濟之事。翼嘗薦溫於明帝曰、「桓溫少有雄略、願陛下勿以常人遇之、常壻畜之、宜委以方召之任、託其弘濟艱難之勳」。翼卒、以溫為都督荊梁四州諸軍事・安西將軍・荊州刺史・領護南蠻校尉・假節。
時李勢微弱、溫志在立勳于蜀、永和二年、率眾西伐。時康獻太后臨朝、溫將發、上疏而行。朝廷以蜀險遠、而溫兵寡少、深入敵場、甚以為憂。初、諸葛亮造八陣圖於魚復平沙之上、壘石為八行、行相去二丈。溫見之、謂「此常山蛇勢也」。文武皆莫能識之。及軍次彭模、乃命參軍周楚・孫盛守輜重、自將步卒直指成都。勢使其叔父福及從兄權等攻彭模、楚等禦之、福退走。溫又擊權等、三戰三捷、賊眾散、自間道歸成都。勢於是悉眾與溫戰于笮橋、參軍龔護戰沒、眾懼欲退、而鼓吏誤鳴進鼓、於是攻之、勢眾大潰。溫乘勝直進、焚其小城、勢遂夜遁九十里、至晉壽葭萌城、其將鄧嵩・昝堅勸勢降、乃面縛輿櫬請命。溫解縛焚櫬、送于京師。溫停蜀三旬、舉賢旌善、偽尚書僕射王誓・中書監王瑜・鎮東將軍鄧定・散騎常侍常璩等、皆蜀之良也、並以為參軍、百姓咸悅。軍未旋而王誓・鄧定・隗文等反、溫復討平之。振旅還江陵、進位征西大將軍・開府、封臨賀郡公。
及石季龍死、溫欲率眾北征、先上疏求朝廷議水陸之宜、久不報。時知朝廷杖殷浩等以抗己、溫甚忿之、然素知浩、弗之憚也。以國無他釁、遂得相持彌年、雖有君臣之跡、亦相羈縻而已、八州士眾資調、殆不為國家用。聲言北伐、拜表便行、順流而下、行達武昌、眾四五萬。殷浩慮為溫所廢、將謀避之、又欲以騶虞幡住溫軍、內外噂𠴲、人情震駭。簡文帝時為撫軍、與溫書明社稷大計、疑惑所由。溫即迴軍還鎮、上疏曰、

臣近親率所統、欲北掃趙魏、軍次武昌、獲撫軍大將軍・會稽王昱書、說風塵紛紜、妄生疑惑、辭旨危急、憂及社稷。省之惋愕、不解所由、形影相顧、隕越無地。臣以闇蔽、忝荷重任、雖才非其人、職在靜亂。寇讎不滅、國恥未雪、幸因開泰之期、遇可乘之會、匹夫有志、猶懷憤慨、臣亦何心、坐觀其弊。故荷戈驅馳、不遑寧處、前後表陳、于今歷年矣。丹誠坦然、公私所察、有何纖介、容此嫌忌。豈醜正之徒心懷怵惕、操弄虛說、以惑朝聽。
昔樂毅竭誠、垂涕流奔。霍光盡忠、上官告變。讒說殄行、姦邪亂德、乃歷代之常患、存亡之所由也。今主上富於陽秋、陛下以聖淑臨朝、恭己委任、責成羣下、方寄會通於羣才、布德信於遐荒。況臣世蒙殊恩、服事三朝、身非羈旅之賓、跡無韓彭之釁、而反間起於胸心、交亂過於四國、此古賢所以歎息於既往、而臣亦大懼於當年也。今寇賊冰消、大事垂定、晉之遺黎鵠立南望、赴義之眾慷慨即路、元凶之命懸在漏刻、而橫議妄生、成此貝錦、使垂滅之賊復獲蘇息、所以痛心絕氣、悲慨彌深。臣雖所存者公、所務者國。然外難未弭、而內弊交興、則臣本心陳力之志也。
進位太尉、固讓不拜。

時殷浩至洛陽修復園陵、經涉數年、屢戰屢敗、器械都盡。溫復進督司州、因朝野之怨、乃奏廢浩、自此內外大權一歸溫矣。溫遂統步騎四萬發江陵、水軍自襄陽入均口、至南鄉、步自淅川以征關中、命梁州刺史司馬勳出子午道。別軍攻上洛、獲苻健荊州刺史郭敬、進擊青泥、破之。健又遣子生・弟雄眾數萬屯嶢柳・愁思塠以距溫、遂大戰、生親自陷陣、殺溫將應誕・劉泓、死傷千數。溫軍力戰、生眾乃散。雄又與將軍桓沖戰白鹿原、又為沖所破。雄遂馳襲司馬勳、勳退次女媧堡。溫進至霸上、健以五千人深溝自固、居人皆安堵復業、持牛酒迎溫於路者十八九、耆老感泣曰、「不圖今日復見官軍」。初、溫恃麥熟、取以為軍資、而健芟苗清野、軍糧不屬、收三千餘口而還。帝使侍中黃門勞溫于襄陽。
初、溫自以雄姿風氣是宣帝・劉琨之儔、有以其比王敦者、意甚不平。及是征還、於北方得一巧作老婢、訪之、乃琨伎女也、一見溫、便潸然而泣。溫問其故、答曰、「公甚似劉司空」。溫大悅、出外整理衣冠、又呼婢問。婢云、「面甚似、恨薄。眼甚似、恨小。鬚甚似、恨赤。形甚似、恨短。聲甚似、恨雌」。溫於是褫冠解帶、昏然而睡、不怡者數日。
母孔氏卒、上疏解職、欲送葬宛陵、詔不許。贈臨賀太夫人印綬、諡曰敬、遣侍中弔祭、謁者監護喪事、旬月之中、使者八至、軺軒相望於道。溫葬畢視事、欲修復園陵、移都洛陽、表疏十餘上、不許。進溫征討大都督・督司冀二州諸軍事、委以專征之任。
溫遣督護高武據魯陽、輔國將軍戴施屯河上、勒舟師以逼許洛、以譙梁水道既通、請徐豫兵乘淮泗入河。溫自江陵北伐、行經金城、見少為琅邪時所種柳皆已十圍、慨然曰、「木猶如此、人何以堪」。攀枝執條、泫然流涕。於是過淮泗、踐北境、與諸僚屬登平乘樓、眺矚中原、慨然曰、「遂使神州陸沈、百年丘墟、王夷甫諸人不得不任其責」。袁宏曰、「運有興廢、豈必諸人之過」。溫作色謂四座曰、「頗聞劉景升有千斤大牛、噉芻豆十倍於常牛、負重致遠、曾不若一羸牸、魏武入荊州、以享軍士」。意以況宏、坐中皆失色。師次伊水、姚襄屯水北、距水而戰。溫結陣而前、親被甲督弟沖及諸將奮擊、襄大敗、自相殺死者數千人、越北芒而西走、追之不及、遂奔平陽。溫屯故太極殿前、徙入金墉城、謁先帝諸陵、陵被侵毀者皆繕復之、兼置陵令。遂旋軍、執降賊周成以歸、遷降人三千餘家於江漢之間。遣西陽太守滕畯出黃城、討蠻賊文盧等、又遣江夏相劉岵・義陽太守胡驥討妖賊李弘、皆破之、傳首京都。溫還軍之後、司・豫・青・兗復陷于賊。升平中、改封南郡公、降臨賀為縣公、以封其次子濟。

訓読

桓溫 字は元子、宣城太守たる彝の子なり。生まれて未だ朞ならずして太原の溫嶠 之を見て、曰く、「此の兒 奇骨有り、試みに啼かしむ可し」と。其の聲を聞くに及び、曰く、「真に英物なり」と。彝 嶠の賞むる所を以て、故に遂に之を名づけて溫と曰ふ。嶠 笑ひて曰く、「果たして爾り、後に將に吾が姓を易へんとす」と。彝 韓晃の害する所と為るや、涇令の江播 焉に豫る。溫 時に年十五にして、戈を枕にし血を泣し、志は復讎に在り。年十八に至り、播 已に終はるに會ひ、子の彪の兄弟三人 喪に居り、刃を杖中に置き、以て溫の備と為す。溫 詭(いつは)りて弔賓と稱し、進むを得て、彪を廬中に刃し、并せて二弟を追ひて之を殺し、時人 焉を稱す。
溫 豪爽にして風概有り、姿貌 甚だ偉にして、面に七星有り。少くして沛國の劉惔と善く、惔 嘗て之を稱して曰く、「溫の眼 紫石棱の如し、鬚 蝟毛磔と作る。孫仲謀・晉宣王の流亞なり」と。選して南康長公主を尚し、駙馬都尉を拜し、爵萬寧男を襲ひ、琅邪太守に除せられ、徐州刺史に累遷す。
溫 庾翼と友善し、恒に相 期するに寧濟の事を以てす。翼 嘗て溫を明帝に薦めて曰く、「桓溫 少くして雄略有り、願はくは陛下 常人を以て之を遇する勿れ。常に壻して之を畜ひ、宜しく委ぬるに方召の任を以てし、其の艱難を弘濟するの勳を託すべし」と。翼 卒するや、溫を以て都督荊梁四州諸軍事・安西將軍・荊州刺史・領護南蠻校尉・假節と為す。
時に李勢 微弱にして、溫 志は勳を蜀に立つるに在れば、永和二年、眾を率ゐて西伐す。時に康獻太后 臨朝し、溫 將に發せんとするや、上疏して行く。朝廷 蜀の險遠にして、而も溫の兵 寡少なるも、深く敵場に入るを以て、甚だ以て憂と為す。初め、諸葛亮 八陣圖を魚復の平沙の上に造り、石を壘ねて八行を為り、行きて相 去ること二丈なり。溫 之を見て、「此れ常山の蛇の勢なり」と謂ふ。文武 皆 能く之を識る莫し。軍 彭模に次するに及び、乃ち參軍の周楚・孫盛に命じて輜重を守らしめ、自ら步卒を將ゐて直に成都を指す。勢 其の叔父の福及び從兄の權らをして彭模を攻めしめ、楚ら之を禦ぐ。福 退走す。溫 又 權らを擊ち、三たび戰ひて三たび捷ち、賊眾 散じ、間道より成都に歸る。勢 是に於て眾を悉くして溫と笮橋に戰ひ、參軍の龔護 戰沒し、眾 懼れて退かんと欲す。而れども鼓吏 誤りて進鼓を鳴らし、是に於て之を攻め、勢の眾 大いに潰ゆ。溫 勝に乘じて直進し、其の小城を焚き、勢 遂に夜に遁ぐること九十里、晉壽の葭萌城に至る。其の將の鄧嵩・昝堅 勢に降らんことを勸め、乃ち面縛し輿櫬して命を請ふ。溫 縛を解きて櫬を焚き、京師に送る。溫 蜀に停まること三旬、賢を舉げ善を旌す。偽尚書僕射の王誓・中書監の王瑜・鎮東將軍の鄧定・散騎常侍の常璩ら、皆 蜀の良なり、並びに以て參軍と為り、百姓 咸 悅ぶ。軍 未だ旋せずして王誓・鄧定・隗文ら反し、溫 復た之を討平す。振旅し江陵に還り、位征西大將軍・開府に進み、臨賀郡公に封ぜらる。
石季龍 死するに及び、溫 眾を率ゐて北征せんと欲し、先に上疏して朝廷に水陸の宜を議することを求むるも、久しく報へず。時に朝廷 殷浩らを杖りて以て己に抗ふを知り、溫 甚だ之を忿る。然れども素より浩を知れば、之れ憚らざるなり。國 他釁無きを以て、遂に相 持するを得ること彌年なり。君臣の跡有りと雖も、亦た相 羈縻するのみ。八州の士眾の資調、殆ど國家の用を為さず。聲は北伐を言ひ、便ち行かんと拜表し、流に順ひて下り、行きて武昌に達し、眾は四五萬なり。殷浩 溫の廢する所と為るを慮り、將に謀りて之を避けんとす。又 騶虞幡を以て溫の軍に住めんと欲し、內外 噂𠴲して、人情 震駭す。簡文帝 時に撫軍為り、溫に書を與へて社稷の大計、疑惑 由る所を明らかにす。溫 即ち軍を迴して鎮に還り、上疏して曰く、

臣 近ごろ親ら統ぶる所を率ゐ、北して趙魏を掃せんと欲し、軍は武昌に次するに、撫軍大將軍・會稽王昱の書を獲たり。說くらく風塵 紛紜たりて、妄りに疑惑を生じ、辭旨 危急にして、憂は社稷に及ぶ。之を省みて惋愕し、由る所を解せず、形影 相 顧み、隕越するに地無し。臣 闇を以て蔽ひ、忝くも重任を荷ひ、才は其の人に非ざると雖も、職は亂を靜むるに在り。寇讎 滅せず、國恥 未だ雪がず。幸に開泰の期に因り、可乘の會に遇ひ、匹夫 志有り、猶ほ憤慨を懷く。臣 亦た何の心ありて、坐して其の弊を觀ん。故に戈を荷きて馳を驅け、寧處する遑あらず、前後に表陳し、今に于るまで歷年なり。丹誠 坦然たりて、公私 察する所なり。何の纖介有りて、此の嫌忌を容れん。豈に正を醜くするの徒 心に怵惕を懷き、虛說を操弄して、以て朝聽を惑はす。
昔 樂毅 誠を竭すも、垂涕して流奔す。霍光 忠を盡すも、上官 變を告ぐ。讒說 行を殄し、姦邪 德を亂すは、乃ち歷代の常患にして、存亡の由る所なり。今 主上 陽秋に富み、陛下 聖淑を以て臨朝す。己を恭くして委任し、成を羣下に責む。方に會通を羣才に寄せ、德信を遐荒に布す。況んや臣 世々殊恩を蒙り、三朝に服事し、身は羈旅の賓に非ず、跡は韓彭の釁無く、而れども反間 胸心に起ち、交亂 四國よりも過ぐ。此れ古賢の既往に歎息する所以にして、而も臣も亦た大に當年を懼るなり。今 寇賊 冰のごとく消え、大事 定まるに垂とす。晉の遺黎 鵠立して南のかた望し、赴義の眾 慷慨して路に即き、元凶の命 懸くるに漏刻に在り。而れども橫議 妄りに生じ、此に貝錦と成り、垂滅の賊をして復た蘇息を獲しめんとす。心を痛め氣を絕つ所以にして、悲慨 彌々深し。臣 存する所の者は公と雖も、務むる所の者は國なり。然れども外難 未だ弭まずして、而れども內弊 交々興る。則ち臣の本心は力を陳ぶるの志なり」と。
位を太尉に進むるも、固讓して拜せず。

時に殷浩 洛陽に至りて園陵を修復し、經涉すること數年、屢々戰ひ屢々敗れ、器械 都く盡く。溫 復た督司州に進み、朝野の怨みに因り、乃ち浩を廢することを奏し、此より內外の大權 一に溫に歸す。溫 遂に步騎四萬を統べて江陵を發し、水軍は襄陽より均口に入り、南鄉に至り、步は淅川よりし以て關中を征し、梁州刺史の司馬勳に命じて子午道に出でしむ。別軍 上洛を攻め、苻健の荊州刺史の郭敬を獲らへ、進みて青泥を擊ち、之を破る。健 又 子の生・弟の雄を遣はして眾數萬もて嶢柳・愁思塠に屯せしめて以て溫を距ぎ、遂に大戰し、生 親自ら陷陣し、溫の將の應誕・劉泓を殺し、死傷すること千數なり。溫の軍 力戰し、生の眾 乃ち散る。雄 又 將軍の桓沖と白鹿原に戰ひ、又 沖の破る所と為る。雄 遂に馳りて司馬勳を襲ひ、勳 退きて女媧堡に次す。溫 進みて霸上に至り、健 五千人を以て溝を深くして自ら固くし、居人 皆 安堵して業に復し、牛酒を持ちて溫を路に者ふる迎は十に八九、耆老 感泣して曰く、「圖らざりき今日 復た官軍を見るを」と。初め、溫 麥の熟するを恃み、取りて以て軍資と為さんとするに、而れども健 苗を芟りて清野せば、軍糧 屬がず、三千餘口を收めて還る。帝 侍中黃門をして溫を襄陽に勞はしむ。
初め、溫 自ら以へらく雄姿風氣は是れ宣帝・劉琨の儔にして、以て其の王敦に比する者有れば、意 甚だ平らかならず。是の征還に及び、北方に於て一の巧作の老婢を得て、之を訪ふに、乃ち琨の伎女なり。一たび溫を見るや、便ち潸然として泣く。溫 其の故を問ふに、答へて曰く、「公 甚だ劉司空に似たり」と。溫 大いに悅び、外に出で衣冠を整理し、又 婢を呼びて問ふ。婢云はく、「面は甚だ似たり、恨むらくは薄し。眼は甚だ似たり、恨むらくは小さし。鬚は甚だ似たり、恨むらくは赤し。形は甚だ似たり、恨むらくは短し。聲は甚だ似たり、恨らくは雌たり」と。溫 是に於て冠を褫(ぬ)ぎ帶を解き、昏然として睡り、怡(やはら)がざること數日なり。
母の孔氏 卒するや、上疏して職を解き、宛陵に送葬せんと欲するも、詔して許さず。臨賀太夫人の印綬を贈り、諡して敬と曰ひ、侍中を遣はして弔祭せしめ、謁者 喪事を監護し、旬月の中に、使者 八たび至り、軺軒 道に相 望む。溫 葬り畢りて視事し、園陵を修復し、都を洛陽に移さんと欲す。表疏すること十餘上なるも、許さず。溫を征討大都督・督司冀二州諸軍事に進め、委ぬるに專征の任を以てす。
溫 督護の高武を遣はして魯陽に據らしめ、輔國將軍の戴施を河上に屯せしめ、舟師を勒して以て許洛に逼り、譙梁の水道 既に通ずるを以て、徐豫の兵に淮泗に乘じて河に入らんことを請ふ。溫 江陵より北伐し、行きて金城を經て、少くして琅邪と為りし時に種うる所の柳を見るに皆 已に十圍たり。慨然して曰く、「木すら猶ほ此の如し。人 何を以て堪へん」と。枝に攀りて條を執り、泫然として流涕す。是に於て淮泗を過ぎ、北境を踐み、諸々の僚屬と與に平乘樓に登り、中原を眺矚す。慨然して曰く、「遂に神州をして陸沈せしめ、百年 丘墟たり。王夷甫の諸人 其の責に任ぜざるを得ず」と。袁宏曰く、「運に興廢有り、豈に必ずしも諸人の過なるや」と。溫 色を作して四座に謂ひて曰く、「頗りに聞く劉景升に千斤の大牛有り、芻豆を噉(く)らふこと常牛に十倍す。重を負ひて遠に致るは、曾て一の羸牸に若かず。魏武 荊州に入るや、以て軍士を享す」と。意は以て宏に況(たと)ふ。坐中 皆 色を失ふ。師 伊水に次するや、姚襄 水の北に屯し、水を距みて戰ふ。溫 陣を結びて前み、親ら被甲して弟の沖及び諸將を督して奮擊す。襄 大いに敗るるや、自ら相 殺死する者は數千人なり。北芒を越えて西して走るや、之を追ふも及ばず、遂に平陽に奔る。溫 故の太極殿前に屯し、徙りて金墉城に入り、先帝の諸陵に謁す。陵 侵毀せらる者は皆 之を繕復し、兼せて陵令を置く。遂に軍を旋し、降賊の周成を執らへて以て歸り、降人三千餘家を江漢の間に遷す。西陽太守の滕畯を遣はして黃城に出でしめ、蠻賊の文盧らを討ち、又 江夏相の劉岵・義陽太守の胡驥を遣はして妖賊の李弘を討たしめ、皆 之を破り、首を京都に傳ふ。溫 軍を還すの後、司・豫・青・兗 復た賊に陷さる。升平中に、南郡公に改封せられ、臨賀を降して縣公と為し、以て其の次子の濟を封ず。

現代語訳

桓温は字を元子といい、宣城太守である桓彞の子である。生まれて一年も経たぬころに太原の温嶠が(桓温を)見て、「この子には奇骨(すぐれた骨相)がある、試しに泣かせてみよう」と言った。泣き声を聞くと、「まことに傑物である」と言った。桓彞は温嶠に褒められたことに因んで、温と名づけた。温嶠は笑って、「なんてことだ、やがて(桓温が帝位につけば避諱で)わが姓(温)を変えなければならない」と言った。桓彞が韓晃に殺害され、涇令の江播がこれに関与した。桓温はこのとき十五歳で、戈を枕にして血の涙を流し、復讐を誓った。十八歳になったころ、江播が亡くなると、子の江彪ら兄弟三人が喪に服した。江彪らは刃を(喪中に用いる)杖のなかに起き、桓温(の襲撃)に備えた。桓温は弔問客のなかに紛れ、入り込むことに成功した。廬のなかで江彪に切りつけ、二人の弟を追って殺し、当時の人々はこれを称賛した。
桓温は豪爽で(意気が強くさっぱりとして)風概(気高い人品)があり、姿や顔つきは大きく優れ、顔に七星(七つのほくろ)があった。若いとき沛国の劉惔と仲がよく、劉惔は桓温を称えて、「桓温の目は紫石棱(紫色の角のある石)のようで(眼光が鋭く)、ひげはハリネズミのように広がる(威厳がある)。孫仲謀や晋宣王(孫権と司馬懿)の同類である」と言った。南康長公主をめとり、駙馬都尉を拝し、萬寧男の爵を襲い、琅邪太守に任命され、徐州刺史に累遷した。
桓温は庾翼の親友で、つねに互いに協力して国家を救おうと誓っていた。庾翼はかつて桓温を明帝に推薦し、「桓温は若いときから雄略があるので、陛下は常人なみに待遇してはいけません。つねに婿として尊重し、(西周の中興を支えた)方叔と召虎のような任務を与え、国家の危難を解決する勲功を立てさせるべきです」と言った。庾翼が亡くなると、桓温を都督荊梁四州諸軍事・安西将軍・荊州刺史・領護南蛮校尉・仮節とした。
このとき李勢(成漢)の国力は微弱であり、桓温は蜀で勲功を立てることを願っていたので、永和二年、軍を率いて西伐した。このとき康献太后が臨朝しており、桓温は出発に際して、上疏をした。朝廷は蜀が険しく遠く、しかも桓温の兵数が少ないにも拘わらず、敵地に深入りしようとしているので、失敗を懸念した。かつて、諸葛亮が八陣図を魚復の平沙の上に造り、石を重ねて八行とし、その間隔は二丈であった。桓温はこれを見て、「これは常山の蛇のかたちだ」と言った。文武の官は誰も知らなかった。軍が彭模に駐留すると、参軍の周楚・孫盛に命じて輜重を守らせ、(桓温が)自ら歩兵を率いてまっすぐ成都を目指した。李勢は叔父の李福と従兄の李権らに彭模を攻撃させ、周楚らが敵襲を防いだ。李福は敗走した。桓温はさらに李権を攻撃し、三たび戦って三たび勝ち、賊軍は散り、間道から成都に帰った。そこで李勢は全軍を動員して桓温と笮橋で戦った。(桓温の)参軍の龔護が戦没し、自軍は懼れて撤退しようとした。しかし鼓吏(軍鼓の担当)が誤って進撃を合図する鼓を鳴らしたので、攻撃に転じ、李勢の軍は大いに潰滅した。桓温は勝ちに乗じて直進し、成都の小城を焼いた。李勢は夜に九十里を逃げ、晋寿の葭萌城に至った。李勢の将の鄧嵩・昝堅が降伏を勧め、李勢は面縛し棺を背負って降伏を申し入れた。桓温は縛めを解いて棺を焼き、京師に護送した。桓温は蜀の地に三十日間留まり、賢者を推挙し善行を顕彰した。偽(成漢)の尚書僕射の王誓・中書監の王瑜・鎮東将軍の鄧定・散騎常侍の常璩らは、みな蜀の良才であり、彼らをすべて参軍とし、百姓はこれを悦んだ。軍を引き上げる前に王誓・鄧定・隗文らが反乱したので、桓温はこれを討伐し平定した。軍を引き上げて江陵に還り、征西大将軍・開府の官位に進み、臨賀郡公に封建された。
石季龍が死ぬと、桓温は軍勢を率いて北征しようとし、先に上疏して朝廷に水軍と陸軍の準備について話し合うように求めたが、長く回答がなかった。このとき朝廷で殷浩らが反対派を形成していることを知り、桓温はひどく怒った。しかし昔から殷浩のことを知っていたので、彼を憚ることはなかった。東晋は国の内外に他に争いごとがないので、桓温と(殷浩が主導する)朝廷は、数年間の牽制が続いた。表面上は君臣の礼が保たれているように見えても、実際には縛り合っているに過ぎなかった。八州から徴発した兵士や物資も、ほとんど国家のために使われなかった。桓温は北伐を口実にし、すぐにでも出陣すると上表し、長江の流れに乗って下り、武昌に到達した。その軍勢は四、五万であった。殷浩は、桓温に排除されることを恐れ、計略を立てて桓温の狙いを避けようとした。また騶虞幡(停戦を命じる旗)を桓温に送りつけて軍の動きを止めようとして、内外に対立が伝わり、人々は震えあがった。このとき簡文帝(司馬昱)は撫軍将軍として、桓温に書簡を送って、国家の大計と、疑念と対立が生じた原因を説明した。桓温はこれを受けて軍を鎮所に引き返させ、上疏した。

「臣(わたくし桓温)は近年みずから軍を統率し、北上して趙魏の地域を掃討するべく、武昌まで進軍しましたが、撫軍大将軍・会稽王昱(司馬昱)から書簡を受け取りました。書簡によれば、朝廷では風説が入り乱れ、不当な疑いや対立が生じているとのことです。かの書簡の文言は切迫し、国家の安危を憂慮したものでした。これを読んで驚愕し、どうしてよいか分からず、(もとは同一の)本体と影がにらみあい、地面に形を為さないほどです。臣は暗愚でありながら、重責を担い、才能が不足すれども、混乱を鎮圧する使命があります。(五胡の)怨敵はまだ滅びず、国家の恥はまだ雪がれておりません。幸いにも国家に運期がめぐり、絶好の機会を得て、一介の庶民ですら、国家のために激憤を抱いています。臣はどうして手をこまねいて、この惨状を見過ごせましょうか。そこで武器を手に取って進軍し、休息の暇もありません。前後にわたり(北伐を)上表し、すでに何年も空費しました。わが赤心に裏表がないことは、朝廷の人々が知るとおりです。どうして些細な疑いを聞き入れ、このような嫌疑を掛けられたのでしょうか。正義を嫌う徒党が、心に恐れを抱き、根拠なき説を操って、朝廷の判断を惑わせたのでしょう。
むかし楽毅は(燕王に)誠心を尽くましたが、(讒言され)涙を流して他国に亡命しました。霍光は至忠の臣でしたが、上官傑の父子の変乱によって非難を受けました。讒言が善行を滅ぼし、奸邪な者が徳を乱すことは、歴史上つねに災いとなり、国家存亡の分かれ道でした。いま主上(皇帝)は年齢が若く、陛下(太后)は聡明温淑な人物で臨朝しておられます。ご自身を慎まれ、政務を臣下に委任しています。豊かな才能の諸臣が活躍し、恩徳と信義を遠方に広めようとされております。ましてや臣(桓温)は、代々にわたって格別の恩を受け、三代の帝にお仕えしました。流れ着いた客臣ではなく、韓信や彭越のような反逆の嫌疑を受けるような行動もありません。しかし離間の策が胸中に生じ、朝廷内外の混乱は四方の国家よりも甚だしい状態です。これこそ古の賢人たちが嘆息したことで、臣もまた当代のために深く恐れる理由です。いま寇賊は氷のように消え、偉大な事業は成功が間近です。(中原の)晋の遺民は白鳥のように首を伸ばして南を望み、義に赴く兵は義憤を抱いて進軍し、元凶(五胡)の命運はまさに漏刻の水のように尽きようとしています。ところが根拠のない物議がわき起こり、せっかくの戦局を覆し、滅びかけの賊に息を吹き返させようとしています。これこそ臣が心を痛めて気も絶えんばかりに、悲憤を深める理由です。臣は三公の地位におりますが、(皇帝や皇太后の代行として)国家のために努力しています。しかし領土外はいまだ鎮まらず、朝廷内は反対派が乱しています。臣の本心は、ただ一途に力を尽くしたいという志があるのみです」と言った。
桓温の位を太尉に進めたが、固辞して拝さなかった。

このとき殷浩が洛陽に到達して陵墓を修復し、数年にわたり洛陽周辺を往来したが、戦を繰り返しては敗北し、軍の装備はすっかり失われた。そこで桓温がふたたび督司州の権限を得て、朝廷内外の怨みを後ろだてに、殷浩を罷免せよと奏上した。これ以後、内外の大権はすべて桓温一人に集約された。こうして桓温は歩兵と騎兵四万を率いて江陵から出発し、水軍は襄陽から均口に入り、南郷へ至り、歩兵は淅川から関中を討伐し、梁州刺史の司馬勳に命じて子午道から進撃させた。別働隊は上洛を攻め、苻健(前秦)の荊州刺史の郭敬を捕らえ、さらに進んで青泥で戦い、これを破った。苻健はさらに子の苻生と弟の苻雄を派遣し数万の兵で嶢柳・愁思塠に駐屯して桓温を防がせた。両軍はついに大いに戦い、苻生は自ら陣に突撃して、桓温の将の応誕と劉泓を殺し、死傷者は千人単位に達した。しかし桓温の軍も力戦し、苻生の軍勢は潰走した。苻雄も将軍の桓沖と白鹿原で戦ったが、桓沖に敗れた。苻雄は転進して司馬勳を襲撃し、司馬勳は退いて女媧堡に陣を移した。桓温が進んで覇上に到着すると、苻健は五千人を率いて深い溝を掘って防備を固めた。周辺の住民はみな安心し、もとの生業を再開し、牛や酒を持って桓温の軍を歓迎した。その数は十人のうち八、九人にも及び、老人たちは涙を流して、「まさか今日、再び官軍を見ることができようとは思わなかった」と言った。もともと桓温は、麦の収穫期を頼みとして、軍糧を現地調達しようと考えていた。しかし苻健が麦の苗を刈り、一帯を空にする清野作戦を採ったため、軍の糧食が続かず、桓温は三千あまりの民を伴って帰還した。皇帝は侍中や黄門を派遣して、襄陽で桓温を慰労した。
これよりさき、桓温は自分の風格や威勢が宣帝(司馬懿)や劉琨に匹敵すると思っており、王敦に近しいという者がいると、不機嫌になった。こたびの遠征から帰る途中、北方で身なりを整えた一人の老婢を捕らえた。尋ねると、かつての劉琨の伎女(芸妓)であった。老婢は桓温を見るなり、涙を流して泣いた。桓温が理由を問うと、老婢は答えて、「あなたさまは、劉司空(劉琨)にそっくりです」と言った。桓温は大いに喜び、外に出て衣冠を整え、もう一度老婢を呼んでさらに細かく尋ねた。すると老婢は、「お顔はそっくりですが、少し薄いようです。眼もそっくりですが、残念ながら小さいようです。髭もそっくりですが、残念ながら赤いようです。体つきもそっくりですが、残念ながら背が低いようです。声もそっくりですが、残念ながら女性的です」と言った。桓温はこれを聞くと冠を脱いで帯を解き、ぼんやりと眠り込んで、数日間落ち込んだ。
桓温の母の孔氏が亡くなると、桓温は上奏して官職を辞し、遺体を宛陵に送って葬りたいと申し出たが、詔は許可しなかった。(朝廷は)桓温の母に臨賀太夫人の印綬を追贈し、敬と諡し、侍中を派遣して弔祭を行わせ、謁者に葬儀を取り仕切らせた。十日のうちに、八度も使者が往来し、使者の車が道に並ぶほどであった。桓温は葬儀を終えて政務に復帰し、(西晋の)陵墓を修復して、都を洛陽に移そうとした。十回以上も上表して願い出たが、許されなかった。朝廷は桓温を征討大都督・督司冀二州諸軍事に進め、遠征の全権を委任した。
桓温は督護の高武を派遣して魯陽に拠らせ、輔国将軍の戴施を河上に屯させ、水軍を整えて許昌や洛陽の一帯に迫り、さらに譙や梁(豫州)の水路が開通したので、徐豫二州の兵を淮水や泗水を経由して黄河に入れたいと請願した。桓温は江陵から北伐し、金城を通過したが、その途中でかつて琅邪太守を務めたときに自分が植えた柳を見つけ、すでに幹周りが十囲に生長していた。桓温は感慨を深め、「樹木ですらこれほど成長した。人はどうして(時の経過に)耐えられようか」と言った。枝につかまり枝を手にとり、はらはらと落涙した。ここにおいて桓温は淮水と泗水を通過して、北方の地へ入り、僚属とともに平乗楼に登り、中原を見渡した。また慨然と、「神州(中原)が沈み滅びて百年、荒れ果ててしまった。王夷甫(西晋の政治を乱したとされる王衍)らはこの責任を逃れることはできまい」と言った。これに対して袁宏は、「興亡は巡り合わせです、必ずしも(王衍ら)個々人の過失ばかりとは言えますまい」と言った。桓温は顔色を変えて居合わせた人々に、「劉景升(後漢末の劉表)には千斤もの大牛がおり、草や豆を普通の牛の十倍食べた。だが重荷を背負って運ぶ力は、やせた雌牛よりも劣った。魏武(曹操)が荊州に入ったとき、この大牛を軍士に食わせたそうだ」と言った。この言葉は言外に袁宏を(見かけだけが立派で役に立たない大牛に)準えたものだった。人々はみな顔色を失った。軍が伊水に至ったとき、(前秦の将の)姚襄が北岸に陣を構えて、川を隔てて戦った。桓温は陣を整えて前進し、みずから甲冑を着けて弟の桓沖や諸将を督戦し、激しく攻撃した。姚襄の軍は大敗して、味方同士で殺し合うものが数千人いた。姚襄が北芒山を越えて西へ逃げると、追撃しても追いつかず、(姚襄は)平陽まで逃げ去った。桓温はかつての太極殿の前に駐屯し、金墉城に移り、先帝たちの陵墓に拝謁した。破壊された陵墓があればすべて修復し、さらに陵令を設置して管理させた。桓温は軍を旋回させ、降伏した賊の周成を捕えて帰還し、降服者三千戸あまりを江漢地域に移住させた。西陽太守の滕畯を黄城に派遣し、蛮賊の文盧らを討たせ、さらに江夏相の劉岵・義陽太守の胡驥を派遣して妖賊の李弘を討たせた。いずれも撃破し、首を首都(建康)に送り届けた。桓温が軍を戻したのち、司州・豫州・青州・兗州は再び賊(前秦)に占拠された。升平年間、桓温は南郡公に改封され、(もと桓温が封建されていた)臨賀郡公を降格して臨賀県公とし、次子の桓済の封土とした。

原文

隆和初、寇逼河南、太守戴施出奔、冠軍將軍陳祐告急、溫使竟陵太守鄧遐率三千人助祐、并欲還都洛陽、上疏曰、
巴蜀既平、逆胡消滅、時來之會既至、休泰之慶顯著。而人事乖違、屢喪王略、復使二賊雙起、海內崩裂、河洛蕭條、山陵危逼、所以遐邇悲惶、痛心於既往者也。伏惟陛下稟乾坤自然之姿、挺羲皇玄朗之德、鳳棲外藩、龍飛皇極、時務陵替、備徹天聽、人之情偽、盡知之矣。是以九域宅心、幽遐企踵、思佇雲羅、混網四裔。誠宜遠圖廟算、大存經略、光復舊京、疆理華夏、使惠風陽澤洽被八表、霜威寒飇陵振無外、豈不允應靈休、天人齊契。今江河悠闊、風馬殊邈、故向義之徒覆亡相尋、而建節之士猶繼踵無悔。況辰極既迴、眾星斯仰、本源既運、枝泒自遷。則晉之餘黎欣皇德之攸憑、羣凶妖逆知滅亡之無日、騁思順之心、鼓雷霆之勢、則二豎之命不誅而自絕矣。故員通貴於無滯、明哲尚於應機、砎如石焉、所以成務。若乃海運既徙、而鵬翼不舉、永結根於南垂、廢神州於龍漠、令五尺之童掩口而歎息。
夫先王經始、玄聖宅心、畫為九州、制為九服、貴中區而內諸夏、誠以晷度自中、霜露惟均、冠冕萬國、朝宗四海故也。自強胡陵暴、中華蕩覆、狼狽失據、權幸揚越、蠖屈以待龍伸之會、潛蟠以俟風雲之期、蓋屯圮所鍾、非理勝而然也。而喪亂緬邈、五十餘載、先舊徂沒、後來童幼、班荊輟音、積習成俗、遂望絕於本邦、宴安於所託。眷言悼之、不覺悲歎。臣雖庸劣、才不周務、然攝官承乏、屬當重任、願竭筋骨、宣力先鋒、翦除荊棘、驅諸豺狼。自永嘉之亂、播流江表者、請一切北徙、以實河南、資其舊業、反其土宇、勤農桑之務、盡三時之利、導之以義、齊之以禮、使文武兼宣、信順交暢、井邑既修、綱維粗舉。然後陛下建三辰之章、振旂旗之旌、冕旒鍚鑾、朝服濟江、則宇宙之內誰不幸甚。
夫人情昧安、難與圖始。非常之事、眾人所疑。伏願陛下決玄照之明、斷常均之外、責臣以興復之效、委臣以終濟之功。此事既就、此功既成、則陛下盛勳比隆前代、周宣之詠復興當年。如其不效、臣之罪也、褰裳赴鑊、其甘如薺。
詔曰、「在昔喪亂、忽涉五紀、戎狄肆暴、繼襲凶跡、眷言西顧、慨歎盈懷。知欲躬率三軍、蕩滌氛穢、廓清中畿、光復舊京、非夫外身殉國、孰能若此者哉。諸所處分、委之高算。但河洛丘墟、所營者廣、經始之勤、致勞懷也」。於是改授并・司・冀三州、以交廣遼遠、罷都督、溫表辭不受。又加侍中・大司馬・都督中外諸軍事・假黃鉞。

溫以既總督內外、不宜在遠、又上疏陳便宜七事、其一、朋黨雷同、私議沸騰、宜抑杜浮競、莫使能植。其二、戶口凋寡、不當漢之一郡、宜并官省職、令久於其事。其三、機務不可停廢、常行文案宜為限日。其四、宜明長幼之禮、奬忠公之吏。其五、褒貶賞罰、宜允其實。其六、宜述遵前典、敦明學業。其七、宜選建史官、以成晉書。有司皆奏行之。尋加羽葆鼓吹、置左右長史・司馬・從事中郎四人。受鼓吹、餘皆辭。復率舟軍進合肥。加揚州牧・錄尚書事、使侍中顏旄宣旨、召溫入參朝政。溫上疏曰、
方攘除羣凶、掃平禍亂、當竭天下智力、與眾共濟、而朝議咸疑、聖詔彌固、事異本圖、豈敢執遂。至於入參朝政、非所敢聞。臣違離宮省二十餘載、鞸䩬戎務、役勤思苦、若得解帶逍遙、鳴玉闕廷、參贊無為之契、豫聞曲成之化、雖實不敏、豈不是願。但顧以江漢艱難、不同曩日、而益梁新平、寧州始服、懸兵漢川、戍禦彌廣、加強蠻盤㸦、勢處上流、江湖悠遠、當制命侯伯、自非望實重威、無以鎮御遐外。臣知捨此之艱危、敢背之而無怨、願奮臂投身造事中原者、實恥帝道皇居仄陋於東南、痛神華桑梓遂埋於戎狄。若憑宗廟之靈、則雲徹席卷、呼吸蕩清。如當假息游魂、則臣據河洛、親臨二寇、廣宣皇靈、襟帶秦趙、遠不五載、大事必定。
今臣昱以親賢贊國、光輔二世、即無煩以臣疏鈍、並間機務。且不有行者、誰扞牧圉。表裏相濟、實深實重。伏願陛下察臣所陳、兼訪內外、乞時還屯、撫寧方隅。
詔不許、復徵溫。溫至赭圻、詔又使尚書車灌止之、溫遂城赭圻、固讓內錄、遙領揚州牧。屬鮮卑攻洛陽、陳祐出奔、簡文帝時輔政、會溫於洌洲、議征討事、溫移鎮姑孰。會哀帝崩、事遂寢。
溫性儉、每讌惟下七奠柈茶果而已。然以雄武專朝、窺覦非望、或臥對親僚曰、「為爾寂寂、將為文景所笑」。眾莫敢對。既而撫枕起曰、「既不能流芳後世、不足復遺臭萬載邪」。嘗行經王敦墓、望之曰、「可人、可人」。其心迹若是。時有遠方比丘尼名有道術、於別室浴、溫竊窺之。尼倮身先以刀自破腹、次斷兩足。浴竟出、溫問吉凶、尼云、「公若作天子、亦當如是」。
太和四年、又上疏悉眾北伐。平北將軍郗愔以疾解職、又以溫領平北將軍・徐兗二州刺史、率弟南中郎沖・西中郎袁真步騎五萬北伐。百官皆於南州祖道、都邑盡傾。軍次湖陸、攻慕容暐將慕容忠、獲之、進次金鄉。時亢旱、水道不通、乃鑿鉅野三百餘里以通舟運、自清水入河。暐將慕容垂・傅末波等率眾八萬距溫、戰于林渚。溫擊破之、遂至枋頭。先使袁真伐譙梁、開石門以通運。真討譙梁皆平之、而不能開石門、軍糧竭盡。溫焚舟步退、自東燕出倉垣、經陳留、鑿井而飲、行七百餘里。垂以八千騎追之、戰于襄邑、溫軍敗績、死者三萬人。溫甚恥之、歸罪於真、表廢為庶人。真怨溫誣己、據壽陽以自固、潛通苻堅・慕容暐。
帝遣侍中羅含以牛酒犒溫於山陽、使會稽王昱會溫于涂中、詔以溫世子給事熙為征虜將軍・豫州刺史・假節。及南康公主薨、詔賻布千匹、錢百萬、溫辭不受。又陳息熙三年之孤、且年少未宜使居偏任、詔不許。發州人築廣陵城、移鎮之。時溫行役既久、又兼疾癘、死者十四五、百姓嗟怨。
袁真病死、其將朱輔立其子瑾以嗣事。慕容暐・苻堅並遣軍援瑾、溫使督護竺瑤・矯陽之等與水軍擊之。時暐軍已至、瑤等與戰於武丘、破之。溫率二萬人自廣陵又至、瑾嬰城固守、溫築長圍守之。苻堅乃使其將王鑒・張蚝等率兵以救瑾、屯洛澗、先遣精騎五千次於肥水北。溫遣桓伊及弟子石虔等逆擊、大破之、瑾眾遂潰、生擒之、并其宗族數十人及朱輔送於京都而斬之、瑾所侍養乞活數百人悉坑之、以妻子為賞。溫以功、詔加班劍十人、犒軍於路次、文武論功賞賜各有差。
溫既負其才力、久懷異志、欲先立功河朔、還受九錫。既逢覆敗、名實頓減、於是參軍郗超進廢立之計、溫乃廢帝而立簡文帝。詔溫依諸葛亮故事、甲仗百人入殿、賜錢五千萬、絹二萬匹、布十萬匹。溫多所廢徙、誅庾倩・殷涓・曹秀等。是時溫威勢翕赫、侍中謝安見而遙拜、溫驚曰、「安石、卿何事乃爾」。安曰、「未有君拜於前、臣揖於後」。時溫有腳疾、詔乘輿入朝、既見、欲陳廢立本意、帝便泣下數十行、溫兢懼不得一言而出。
初、元明世、郭璞為讖曰、「君非無嗣、兄弟代禪」。謂成帝有子、而以國祚傳弟。又曰、「有人姓李、兒專征戰。譬如車軸、脫在一面」。兒者、子也。李去子木存、車去軸為亘、合成「桓」字也。又曰、「爾來、爾來、河內大縣」。爾來謂自爾已來為元始、溫字元子也。故河內大縣、溫也。成康既崩、桓氏始大、故連言之。又曰、「賴子之薨、延我國祚。痛子之隕、皇運其暮」。二子者、元子・道子也。溫志在篡奪、事未成而死、幸之也。會稽王道子雖首亂晉國、而其死亦晉衰之由也、故云痛也。
溫復還白石、上疏求歸姑孰。詔曰、「夫乾坤體合、而化成萬物。二人同心、則不言所利。古之哲王咸賴元輔、姬旦光于四表、而周道以隆。伊尹格于皇天、而殷化以洽。大司馬明德應期、光大深遠、上合天心、含章時發、用集大命、在予一人、功美博陸、道固萬世。今進公丞相、其大司馬本官皆如故、留公京都、以鎮社稷」。溫固辭、仍請還鎮。遣侍中王坦之徵溫入相、增邑為萬戶、又辭。詔以西府經袁真事故、軍用不足、給世子熙布三萬匹、米六萬斛、又以熙弟濟為給事中。

及帝不豫、詔溫曰、「吾遂委篤、足下便入、冀得相見。便來、便來」。於是一日一夜頻有四詔。溫上疏曰、「聖體不和、以經積日、愚心惶恐、無所寄情。夫盛衰常理、過備無害、故漢高枕疾、呂后問相、孝武不豫、霍光啟嗣。嗚噎以問身後、蓋所存者大也。今皇子幼稚、而朝賢時譽惟謝安・王坦之才識智能皆簡在聖鑒。內輔幼君、外禦強寇、實羣情之大懼、然理盡於此。陛下便宜崇授、使羣下知所寄、而安等奉命陳力、公私為宜。至如臣溫位兼將相、加陛下垂布衣之顧、但朽邁疾病、懼不支久、無所復堪託以後事」。疏未及奏而帝崩、遺詔家國事一稟之於公、如諸葛武侯・王丞相故事。溫初望簡文臨終禪位於己、不爾便為周公居攝。事既不副所望、故甚憤怨、與弟沖書曰、「遺詔使吾依武侯・王公故事耳」。王・謝處大事之際、日憤憤少懷。
及孝武即位、詔曰、「先帝遺敕云、『事大司馬如事吾。』令答表便可盡敬」。又詔、「大司馬社稷所寄、先帝託以家國、內外眾事便就關公施行」。復遣謝安徵溫入輔、加前部羽葆鼓吹、武賁六十人、溫讓不受。及溫入朝、赴山陵、詔曰、「公勳德尊重、師保朕躬、兼有風患、其無敬」。又敕尚書安等於新亭奉迎、百僚皆拜于道側。當時豫有位望者咸戰慴失色、或云因此殺王・謝、內外懷懼。溫既至、以盧悚入宮、乃收尚書陸始付廷尉、責替慢罪也。於是拜高平陵、左右覺其有異、既登車、謂從者曰、「先帝向遂靈見」。既不述帝所言、故眾莫之知、但見將拜時頻言「臣不敢」而已。又問左右殷涓形狀、答者言肥短、溫云、「向亦見在帝側」。初、殷浩既為溫所廢死、涓頗有氣尚、遂不詣溫、而與武陵王晞游、故溫疑而害之、竟不識也。及是、亦見涓為祟、因而遇疾。凡停京師十有四日、歸於姑孰、遂寢疾不起。諷朝廷加己九錫、累相催促。謝安・王坦之聞其病篤、密緩其事。錫文未及成而薨、時年六十二。皇太后與帝臨於朝堂三日、詔賜九命衮冕之服、又朝服一具、衣一襲、東園祕器、錢二百萬、布二千匹、臘五百斤、以供喪事。及葬、一依太宰安平獻王・漢大將軍霍光故事、賜九旒鸞輅、黃屋左纛、轀輬車、挽歌二部、羽葆鼓吹、武賁班劍百人、優冊即前南郡公增七千五百戶、進地方三百里、賜錢五千萬、絹二萬匹、布十萬匹、追贈丞相。

訓読

隆和の初に、寇 河南に逼るや、太守の戴施 出奔し、冠軍將軍の陳祐 急を告げ、溫 竟陵太守の鄧遐をして三千人を率ゐて祐を助けしめ、并せて都を洛陽に還さんと欲す。上疏して曰く、
「巴蜀 既に平らぎ、逆胡 消滅す。時來の會 既に至り、休泰の慶顯 著はる。而れども人事 乖違し、屢々王略を喪ふ。復た二賊をして雙起せしめ、海內 崩裂し、河洛 蕭條たりて、山陵 危逼す。遐邇 悲惶するに所以にして、心を既往に痛むる者なり。伏して惟るに陛下 乾坤自然の姿を稟け、羲皇玄朗の德を挺す。鳳は外藩に棲み、龍は皇極に飛ぶ。時務 陵替するや、備さに天聽に徹す。人の情偽、盡く之を知るなり。是を以て九域 心を宅せ、幽遐 踵を企て、雲羅に佇み、四裔を混網するを思ふ。誠に宜しく遠圖して廟算し、大いに經略を存し、舊京を光復し、華夏を疆理すべし。惠風陽澤をして八表を洽被せしめ、霜威寒飇をして無外を陵振せしめよ。豈に允に靈休に應ぜず、天人 齊契せざるや。今 江河は悠闊にして、風馬は殊邈たり。故に向義の徒 覆亡して相 尋ね、而れども建節之士 猶ほ踵を繼ぎて悔ゆる無し。況んや辰極 既に迴り、眾星 斯れ仰ぎ、本源 既に運び、枝泒 自ら遷るをや。則ち晉の餘黎 皇德の憑る攸を欣み、羣凶の妖逆 滅亡までの日無きを知り、思順の心を騁し、雷霆の勢を鼓へば、則ち二豎の命 誅せずして自ら絕えん。故に員通は無滯を貴び、明哲は應機を尚び、砎たること石の如く、務めを成す所以なり。若し乃ち海運 既に徙るも、而して鵬翼 舉げざれば、永く根を南垂に結び、神州を龍漠に廢し、五尺の童をして口を掩ひて歎息せしめん。
夫れ先王の經始、玄聖 心を宅せ、畫して九州と為し、制めて九服と為し、中區を貴びて諸夏を內にす。誠に晷度 自ら中たり、霜露 惟れ均しきは、冠冕の萬國、四海を朝宗せしむるが故を以てなり。強胡 陵暴し、中華 蕩覆してより、狼狽して據を失ひ、權に揚越に幸す。蠖屈して以て龍伸の會を待ち、潛蟠して以て風雲の期を俟つ。蓋し屯圮 鍾する所なり、理勝にして然るに非ざるなり。而れども喪亂 緬邈なること、五十餘載。先舊は徂沒し、後來は童幼にして、班荊 音を輟め、積習 俗と成り、遂に望みをば本邦に絕ち、託する所に宴安す。眷言 之を悼み、覺えずして悲歎す。臣 庸劣にして、才 務に周からざると雖も、然れども攝官 乏を承け、屬々重任に當る。願はくは筋骨を竭し、力を先鋒に宣べ、荊棘を翦除し、諸々の豺狼を驅らん。永嘉の亂より、江表に播流する者は、一切をば北徙して、以て河南を實たし、其の舊業を資け、其の土宇に反り、農桑の務に勤むることを請ふ。三時の利を盡くし、之を導くに義を以てし、之を齊ふるに禮を以てし、文武をして兼宣し、信順 交々暢べしめば、井邑 既に修め、綱維 粗ぼ舉がらん。然る後に陛下 三辰の章を建て、旂旗の旌を振り、冕旒鍚鑾、朝服 江を濟り、則ち宇宙に內 誰か幸甚ならざらん。
夫れ人情 昧安し、與に始を圖り難し。非常の事、眾人 疑ふ所なり。伏して願ふらく陛下は玄照の明を決し、常均の外を斷ち、臣に責むるに興復の效を以てし、臣に委ぬるに終濟の功を以てせよ。此の事 既に就き、此の功 既に成れば、則ち陛下の盛勳 比するに前代より隆く、周宣の詠 復た當年に興らん。如し其れ效あらずんば、臣の罪なり。裳を褰て鑊に赴くこと、其れ甘きこと薺の如し」と。
詔して曰く、「在昔 喪亂し、忽ち五紀に涉り、戎狄 暴を肆にし、凶跡を繼襲す。眷言もて西顧するに、慨歎 懷を盈たす。躬ら三軍を率ゐて、氛穢を蕩滌し、中畿を廓清し、舊京を光復せんと欲するを知る。夫れ身を外にし國に殉ずるに非ざれば、孰れか能く此の若き者あるか。諸々の處分する所、之を高算に委ぬ。但だ河洛 丘墟にして、營する所の者は廣く、經始の勤、勞懷するに致る」と。是に於て改めて并・司・冀三州を授け、交廣は遼遠なるを以て、都督を罷む。溫 表して辭して受けず。又 侍中・大司馬・都督中外諸軍事・假黃鉞を加ふ。

溫 既に內外を總督し、宜しく遠きに在るべからざるを以て、又 上疏して便宜を陳ぶること七事なり。其の一、朋黨 雷同し、私議 沸騰す。宜しく浮競を抑杜し、能をして植(よ)らしむること莫れ。其に二、戶口 凋寡たりて、漢の一郡にすら當らざれば、宜しく官を并せて職を省し、其の事を久しくせしむべし。其の三、機務 停廢す可からず、常行の文案 宜しく限日を為るべし。其の四に、宜しく長幼の禮を明らかにし、忠公の吏を奬むべし。其の五に、褒貶賞罰、宜しく其の實に允(あ)つべし。其の六に、宜しく前典を述遵し、學業を敦明すべし。其の七に、宜しく史官を選建し、以て晉書を成すべし。有司 皆 奏もて之を行ふ。尋いで羽葆鼓吹を加へ、左右長史・司馬・從事中郎四人を置く。鼓吹のみ受け、餘は皆 辭す。復た舟軍を率ゐて合肥に進む。揚州牧・錄尚書事を加へ、侍中の顏旄をして宣旨せしめ、溫を召して朝政に入參せしむ。溫 上疏して曰く、
「方に羣凶を攘除し、禍亂を掃平し、當に天下の智力を竭し、眾と與に共に濟ふべし。而れども朝議 咸 疑ひ、聖詔 彌々固く、事 本圖と異なる。豈に敢て執りて遂ぐるや。朝政にに入參するに至りては、敢て聞く所に非ず。臣 宮省を違離すること二十餘載、鞸䩬の戎務、役勤 思苦す。若し逍遙を解帶し、闕廷に鳴玉するを得れば、無為の契を參贊し、曲成の化を豫聞す。實に敏ならざると雖も、豈に是れ願はざるか。但だ江漢 艱難を以て顧るに、曩日に同じからず、而も益梁 新たに平らぎ、寧州 始めて服す。兵を漢川に懸にし、戍禦 彌々廣し。加へて強蠻 盤㸦し、勢は上流に處る。江湖 悠遠なれば、當に命を侯伯に制さば、自ら望實重威に非ず、以て遐外を鎮御する無し。臣 此の艱危を捨て、敢て之に背くも怨無きを知る。願はくは臂を奮ひ身を投じて中原に造事する者ならん。實に恥づらく帝道皇居 東南に仄陋し、痛むらく神華桑梓 遂に戎狄に埋むるを。若し宗廟の靈に憑らば、則ち雲徹して席卷し、呼吸して蕩清せん。如し當に游魂を假息すべければ、則ち臣 河洛に據り、親ら二寇に臨み、皇靈を廣宣し、秦趙に襟帶す。遠くも五載ならず、大事 必ず定めん。
今 臣昱 親賢を以て贊國し、二世を光輔して、即ち臣の疏鈍を以て煩ふこと無く、並びに機務に間る。且つ行く有らざれば者、誰か牧圉を扞せん。表裏 相 濟ひ、實に深く實に重し。伏して願はくは陛下 臣の陳ぶる所を察し、兼ねて內外に訪ね、時に屯を還し、方隅を撫寧せんことを乞ふ」と。
詔して許さず、復た溫を徵す。溫 赭圻に至り、詔して又 尚書の車灌をして之を止めしめ、溫 遂に赭圻に城り、內錄を固讓し、揚州牧を遙領す。屬(たまたま)鮮卑の洛陽を攻むるや、陳祐 出奔し、簡文帝 時に輔政し、溫に洌洲に會し、征討の事を議す。溫 鎮を姑孰に移す。會々哀帝 崩じ、事 遂に寢む。

溫 性は儉にして、每に讌すること惟だ七奠の柈を下り茶果あるのみ。然るに雄武を以て朝を專らにし、非望を窺覦す。或とき臥して親僚に對ひて曰く、「為に爾が寂寂たる、將(は)た文景の笑ふ所と為る」と。眾 敢て對ふる莫し。既にして枕を撫して起ちて曰く、「既に後世に流芳すること能はざるも、復た臭を萬載に遺すに足らざるや」と。嘗て行きて王敦の墓を經て、之を望みて曰く、「可(よ)き人、可よ人」と。其の心迹 是の若し。時に遠方の比丘尼有りて道術有りと名いひ、別室に於て浴す。溫 竊かに之を窺ふ。尼 倮身にして先に刀を以て自ら腹を破り、次に兩足を斷つ。浴し竟はりて出づ。溫 吉凶を問ふに、尼云はく、「公 若し天子と作らば、亦た當に是の如くなるべし」と。

太和四年、又 眾を悉くして北伐するを上疏す。平北將軍の郗愔 疾を以て職を解き、又 溫を以て領平北將軍・徐兗二州刺史とし、弟の南中郎の沖・西中郎の袁真の步騎五萬を率ゐて北伐す。百官 皆 南州に於て祖道し、都邑 盡く傾く。軍 湖陸に次し、慕容暐の將の慕容忠を攻めて、之を獲へ、進みて金鄉に次し。時に亢旱たりて、水道 通ぜず、乃ち鉅野の三百餘里を鑿して以て舟運を通ぜしめ、清水より河に入る。暐の將の慕容垂・傅末波ら眾八萬を率ゐて溫を距ぎ、林渚に戰ふ。溫 擊ちて之を破り、遂に枋頭に至る。先に袁真をして譙梁を伐たしめ、石門を開きて以て運を通ぜしむ。真 譙梁を討ちて皆 之を平らぎ、而れども石門を開く能はず、軍糧 竭盡す。溫 舟を焚きて步もて退き、東燕より倉垣に出で、陳留を經て、井を鑿して飲み、行くこと七百餘里。垂 八千騎を以て之を追ひ、襄邑に戰ふ。溫の軍 敗績し、死する者三萬人なり。溫 甚だ之を恥ぢ、罪を真に歸し、表して廢して庶人と為す。真は溫 己を誣せるを怨み、壽陽に據りて以て自ら固め、潛かに苻堅・慕容暐に通ず。
帝 侍中の羅含を遣はして牛酒を以て溫を山陽に犒し、會稽王昱をして溫に涂中に會せしめ、詔して溫の世子の給事の熙を以て征虜將軍・豫州刺史・假節と為す。南康公主 薨ずるに及び、詔して布千匹、錢百萬を賻ふるも、溫 辭して受けず。又 息の熙 三年の孤を陳べ、且つ年少にして未だ宜しく偏任に居らしむべからざれば、詔して許さず。州人を發して廣陵城を築き、鎮を之に移す。時に溫 行役すること既に久しく、又 兼せて疾癘、死者は十に四五なれば、百姓 嗟怨す。
袁真 病死し、其の將の朱輔 其の子の瑾を立てて以て事を嗣がしむ。慕容暐・苻堅 並びに軍を遣はして瑾を援け、溫 督護の竺瑤・矯陽之らに水軍を與へて之を擊たしむ。時に暐の軍 已に至り、瑤ら與に武丘に於て戰ひ、之を破る。溫 二萬人を率ゐて廣陵より又 至る。瑾 嬰城して固守し、溫 長圍を築きて之を守る。苻堅 乃ち其の將の王鑒・張蚝らをして兵を率ゐて以て瑾を救はしめ、洛澗に屯せしむ。先に精騎五千を遣はして肥水の北に次す。溫 桓伊及び弟の子の石虔らを遣はして逆擊せしめ、大いに之を破り、瑾の眾 遂に潰え、之を生擒にす。其の宗族の數十人及び朱輔を并せて京都に送りて之を斬り、瑾の侍養する所の乞活の數百人 悉く之を坑めし、妻子を以て賞と為す。溫 功を以て、詔して班劍十人を加へ、軍を路次に犒ひ、文武 功を論じて賞賜すること各々差有り。
溫 既に其の才力を負ひ、久しく異志を懷き、先に功を河朔に立てて、還りて九錫を受けんと欲す。既に覆敗するに逢ひ、名實 頓減し、是に於て參軍の郗超 廢立の計を進め、溫 乃ち帝を廢して簡文帝を立つ。溫に詔して諸葛亮の故事に依らしめ、甲仗百人もて入殿せしめ、錢五千萬、絹二萬匹、布十萬匹を賜ふ。溫 廢徙する所多く、庾倩・殷涓・曹秀らを誅す。是の時 溫の威勢 翕赫たりて、侍中の謝安 見て遙拜す。溫 驚きて曰く、「安石、卿 何の事ありて乃ち爾るか」と。安曰、「未だ有らず君 前に拜す、臣 後に揖す」と。時に溫 腳疾有り、詔して乘輿して入朝せしめ、既に見るや、廢立の本意を陳べんと欲す。帝 便ち泣下すること數十行、溫 兢懼して一言だに出すを得ず。
初め、元・明の世に、郭璞 讖を為りて曰く、「君 嗣無きに非ず、兄弟 代禪す」と。成帝に子有り、而して國祚を以て弟に傳ふと謂ふ。又 曰く、「人の李を姓とするもの有り、兒 專ら征戰す。譬ふれば車軸の、脫して一面在るが如し」と。兒といふは、子なり。李 子を去れば木のみ存し、車 軸を去れば亘と為り、合さば「桓」の字と成るなり。又 曰く、「爾來、爾來、河內の大縣」と。爾來は爾(これ)より已來 元始為(た)るを謂ひ、溫の字の元子なり。故に河內の大縣は、溫なり。成・康 既に崩ずるや、桓氏 始めて大たりて、故に之を連言す。又曰く、「子の薨に賴りて、我が國祚を延ぶ。子の隕を痛みて、皇運 其れ暮れん」と。二子とは、元子・道子なり。溫 志は篡奪に在り、事 未だ成らずして死するは、之を幸とす。會稽王道子 亂を晉國に首むと雖も、而れども其の死も亦た晉 衰ふるの由なり。故に痛むと云ふなり。
溫 復た白石に還るや、上疏して姑孰に歸ることを求む。詔して曰く、「夫れ乾坤 體合して、而して萬物を化成す。二人 心を同じくせば、則ち利する所を言はず。古の哲王 咸 元輔に賴り、姬旦 四表を光かし、而して周の道 以て隆んなり。伊尹 皇天に格しく、而して殷の化 以て洽し。大司馬 明德にして期に應じ、光大深遠にして、上は天心に合ひ、章(あや)を時發に含み、用て大命を集む。予一人に在り、功は博陸より美しく、道は固に萬世なり。今 公を丞相に進め、其れ大司馬の本官 皆 故の如くし、公を京都に留めて、以て社稷を鎮めしむ」と。溫 固辭し、仍りに鎮に還らんことを請ふ。侍中の王坦之を遣はして溫を徵して入りて相たらしめ、邑を增して萬戶と為すも、又 辭す。詔して西府 袁真の事故を經るを以て、軍用 足らざれば、世子の熙に布三萬匹、米六萬斛を給はり、又 熙の弟の濟を以て給事中と為す。

帝 不豫たるに及び、溫に詔して曰く、「吾 遂に委篤たれば、足下 便ち入り、相 見ゆるを得んことを冀ふ。便ち來たれ、便ち來たれ」と。是に於て一日一夜 頻りに四たび詔有り。溫 上疏して曰く、「聖體 和ならず、以て積日を經たり。愚の心 惶恐し、情を寄する所無し。夫れ盛衰は常理して、過備すれば害無く、故に漢高 疾に枕するに、呂后 相を問ひ、孝武 不豫なれば、霍光 嗣を啟く。嗚噎して以て身後を問ふは、蓋し存する所の者 大なり。今 皇子は幼稚にして、而れども朝賢の時譽は惟れ謝安・王坦之ありて才識智能 皆 簡にして聖鑒に在り。內は幼君を輔け、外は強寇を禦がん。實に羣情の大懼は、然して理 此に盡く。陛下 便ち宜しく崇授して、羣下をして寄る所を知らしむべし。而も安ら命を奉じて力を陳ぶれば、公私 宜と為らん。臣溫の如きに至りては位 將相を兼ね、加へて陛下 布衣の顧を垂る。但だ疾病を朽邁せば、久しく支へざるを懼る。復た託するに後事を以てするに堪ふる所無し」と。疏 未だ奏するに及ばずして帝 崩じ、遺詔すらく家國の事 一に之を公より稟くること、諸葛武侯・王丞相の故事の如くす。溫 初め簡文の臨終に己に禪位するを望み、爾らずんば便ち周公の居攝を為さんとす。事 既に望む所に副はざれば、故に甚だ憤怨し、弟の沖に書を與へて曰く、「遺詔して吾をして武侯・王公の故事に依らしむるのみ」と。王・謝 大事の際に處り、日々憤憤として懷くこと少なし。
孝武 即位するに及び、詔して曰く、「先帝の遺敕に云はく、『大司馬に事ふること吾に事ふるが如くせよ』と。答表は便ち敬を盡くさしむ可し」と。又 詔すらく、「大司馬は社稷の寄る所にして、先帝 託するに家國を以てす。內外の眾事 便就ち公の施行に關せよ」と。復た謝安を遣はして溫を徵して入輔せしめ、前部羽葆鼓吹、武賁六十人を加ふるも、溫 讓りて受けず。溫 入朝するに及び、山陵に赴く。詔して曰く、「公の勳德 尊重たりて、朕の躬に師保たり。兼せて風患有れば、其れ敬すること無かれ」と。又 尚書の安らに敕して新亭に於て奉迎せしめ、百僚 皆 道の側に拜す。當時 豫め位望有る者は咸 戰慴して色を失ひ、或ひと云はく此に因りて王・謝を殺すと。內外 懼を懷く。溫 既に至るや、盧悚 宮に入るを以て、乃ち尚書の陸始を收めて廷尉に付し、替慢の罪を責む。是に於て高平陵に拜し、左右 其の異有るを覺ゆ。既に車に登るや、從者に謂ひて曰く、「先帝 向(さき)に遂に靈 見はる」と。既に帝の言ふ所を述べざれば、故に眾 之れをば知る莫く、但だ將に拜せんとする時に頻りに「臣 敢てせず」と言ふを見るのみ。又 左右に殷涓が形狀を問ひ、答ふる者 肥短たりと言ふ。溫 云はく、「向に亦た帝の側に在るを見たり」と。初め、殷浩 既に溫の廢死する所と為り、涓 頗る氣尚有れば、遂に溫に詣らず。而も武陵王晞と與に游べば、故に溫 疑ひて之を害し、竟に識らざるなり。是に及び、亦た涓を見て祟と為し、因りて疾に遇ふ。凡そ京師に停まること十有四日にして、姑孰に歸り、遂に疾に寢ねて起たず。朝廷に諷して己に九錫を加へんとし、累りに相 催促す。謝安・王坦之 其の病 篤かるを聞きて、密かに其の事を緩む。錫文 未だ成るに及ばずして薨じ、時に年六十二なり。皇太后 帝と與に朝堂に臨むこと三日、詔して九命衮冕の服を賜ひ、又 朝服一具、衣一襲、東園の祕器、錢二百萬、布二千匹、臘五百斤もて、以て喪事に供ふ。葬るに及び、一に太宰の安平獻王・漢の大將軍の霍光の故事に依り、九旒鸞輅、黃屋左纛、轀輬車、挽歌二部、羽葆鼓吹、武賁班劍百人を賜はり、優冊して前南郡公に即けて七千五百戶を增し、地方三百里に進め、錢五千萬、絹二萬匹、布十萬匹を賜はり、丞相を追贈す。

現代語訳

隆和年間の初め、賊軍が河南(洛陽)に迫ると、河南太守の戴施は逃亡し、冠軍将軍の陳祐が急使を送った。桓温は竟陵太守の鄧遐に三千の兵を率いて陳祐を救援させ、あわせて都を(建康から)洛陽へ戻すことを計画した。桓温は上奏して、以下のように述べた。
「巴蜀の地が平定され、反逆した胡族は殲滅されました。時運の巡り合わせが味方し、太平の兆しは明らかです。しかし朝臣同士が対立し、何度も王者の(中原回復の)大略を失ってきました。その結果、またもや二種の賊が同時に決起し、天下は崩れ、河洛(中原)は荒れ果て、陵墓は危険に晒されています。これが遠近の民が悲しみ恐れ、往年の失策を痛むがゆえであります。伏して考えますに陛下は天地自然の気を受け、古の聖王のように明徳を備えています。鳳が外藩に宿り、龍が皇極に昇っています(吉祥が呼応しています)。政事が衰えれば、陛下は察知なさいます。人心の虚実もお見通しでしょう。ですから九州は陛下に心を寄せ、辺境の地も足を伸ばし、雲をかき集めて、天下統一の形勢があります。今こそ遠大な計画を立て、優れた戦略を話し合い、旧都洛陽を回復し、中原を統治なさいませ。陛下の恵みの風で八方を覆い、厳しい威令を四海に浸透させるべきです。どうして霊妙な働きが呼応せず、天と人が心を一致させないことがありましょうか。いま黄河と長江(中原と東晋)は遠く、互いを求めても隔てられています。しかし義を慕う者たちは敗れながらも支え合い、節義を掲げた士は後に続いて後悔がありません。ましてや天象がすでに転換し、星々が陛下を仰いでいます。根本が動き出せば、枝葉は自ずから移ります。晋の遺民たちは陛下という拠りどころを得たことを喜び、群逆の徒が滅びる日が近いことも明らかです。忠義の心を馳せ、雷霆の勢いで討てば、二種の奸賊は討たずとも自滅するでしょう。物事は滞りなく進めることが尊いのであり、賢者は時機に応じることを重んじます。石のように固く決意し、務めを成し遂げるのです。すでに天命が東晋に移っているのに、大鵬のように翼を広げて飛び立たなけば、永く南方に根を張り、神州(中原)を完全に放棄し、五尺の童(子ども)ですら口をふさいで嘆き悲しむでしょう。
そもそも昔の聖王が統治を始めたとき、聖人(禹)が決意を固め、天下を九つの州に区分し、九服の区分を定め、中央地域(中夏)に諸侯を配しました。太陽の運行も中心に合致し、霜や露も均等に降りそそいだのは、中央に冠冕の(文化水準の高い)諸侯国があり、周辺諸国(異民族)が朝貢するという秩序を整えたからです。しかし(西晋末に)強い胡族が侵略して暴れ、中原が転覆して以来、人々は狼狽して拠りどころを失い、長江流域に身を寄せるしかありませんでした。身を縮めて龍のように伸びる時を待ち、地に潜んで風雲の好機を待つようなものです。(わが晋朝に)困難が集まっているのは、それなりの理由はありましたが本来の姿ではありません。しかし乱世がすでに五十年あまり続きました。南渡した第一世代は亡くなり、後から生まれた者はまだ幼く、かつての望郷の声も絶え、現状の習俗が定着してしまい、本来の故郷への望みを失い、この地での安逸に過ごすようになりました。これを思うと胸が痛み、意図せず悲嘆が漏れます。臣は凡庸で、才能もない者ですが、官職の座席を占めて、重責を担ってきました。願わくは身を尽くし、力を先頭に掲げ、荊棘を切り払い、さまざまな賊敵を追い払いたいと思います。永嘉の乱より以来、江南に逃れてきた人々は、すべて北方へ再び移住させ、河南の地の人口を回復させ、旧来の生業を助け、もとの土地へ戻って、農耕・養蚕に励むようにさせたいと思います。四季の恵みを活かし、人々を義によって導き、礼によって正し、文の教化と武の威をともに示し、信義と従順さが行き渡れば、村落は整備され、国家の機構も立て直されるでしょう。そののちに陛下が三星の紋章を掲げ、旗を振り立て、冕旒を正し鈴を鳴らし、朝服のまま長江を渡られるならば、天下の内でこれほどの慶事がありましょうか。
人の心は安逸に流れやすく、大計を持ちかけても、協力を得られないものです。まして重大な事業であれば、なおさら疑念を招くでしょう。どうか陛下におかれましては明晰な洞察力をもって、現状の均衡に惑わされず、臣に天下再興の使命を委ね、成功するまでお任せ下さい。もしこの事業に取りかかり、成果が完結すれば、陛下の偉勲は前代よりも高く、周の(王朝を再興した)宣王の讃歌を今日また聞けるでしょう。もし功績が上がらねば、すべて臣の罪です。私は裳をからげて灼熱の鼎に飛び込む覚悟であり、はまびしを食べるように甘受します」と言った。
詔して、「むかし戦乱が始まり、たちまち五十年に及び、戎狄は暴虐をほしいままにし、凶悪な国を受け継いできた。西方を振り返れば、嘆きと憤りで胸が満ちる。(桓温が)自ら三軍を率いて穢れを一掃し、河南周辺を清め、旧都洛陽を復興する志を理解した。保身に走らずに国家に殉じなければ、どうしてこのような上疏をするだろうか。北伐の計画と実行は、きみの遠大な目算に委ねる。しかし黄河や洛水流域は廃墟なので、遠征に必要な仕事は多く、開拓や復興の任務は、非常に大きな労苦となるだろう」と言った。ここにおいて改めて并・司・冀三州の長官の職を授け、また交州と広州は遠隔なので、南の二州の都督は解任した。桓温は上表して辞退し受けなかった。さらに侍中・大司馬・中外諸軍事の都督・仮黄鉞を加えた。

桓温は内外の軍政を総督し、朝廷から離れるべきでないので、さらに上疏し政務改善のための七ヶ条を提案した。第一、朋党を組んで互いに同調し合い、私的な議論が沸き立っている。浮ついた競争心を抑え、有能な者を妨げてはならない。第二、戸籍に登録されている人口が減少し、漢代の一郡にすら及ばない。官署を統合して人員を削り、仕事を長く担当させるべきである。第三、政務を停滞させてはならず、日常の文書処理は、期限を切るべきである。第四、長幼の礼を明らかにし、忠義で公正な役人を奨励すべきである。第五、褒賞と罰は、実際の功罪に即するべきである。第六、古の制度を遵守し、学問を盛んにすべきである。第七、記録官を選抜し、歴史書を完成させるべきである。これら提案を、担当官からも上奏した。桓温には羽葆鼓吹を加え、左右長史・司馬・従事中郎の四名を設置した。桓温は鼓吹だけを受け、残りは辞退した。また水軍を率いて合肥に進んだ。揚州牧・録尚書事を加え、侍中の顔旄(使者)を派遣し、桓温を召して(遠征を中断し)朝政に参与せよと命じた。温は上疏して、次のように言った。
「いまこそ群がる凶賊を討ち払い、禍乱を鎮圧し、天下の知恵と力を尽くし、団結して大事を成し遂げるべきです。ところが朝臣は反対ばかりして、陛下の詔も慎重になり、当初の計画から逸れてきました。どうして私だけが強引に進められましょうか。まして(遠征を中断し)朝政に参入せよという命令には、とても従えません。臣は二十年以上も朝廷を離れ、軍務に明け暮れ、国外で苦労してきました。もしゆったりと武装を解き、宮廷に参内して玉を鳴らす立場に戻れるなら、無為の政治に参加し、かりそめの調和を目指すでしょう。わが志とは異なりますが、それを願わないでもありません。しかし江漢地域の困難は、悪化の一途をたどり、益州と梁州を平定したばかりで、寧州もようやく服属しかけています。軍隊は漢水沿いにも展開し、防衛の範囲は延びています。さらに強勢の蛮族が、上流に陣取っています。江湖(荊州以西)は朝廷から遠く、この地を侯伯(地方長官)に丸投げすれば、その地域で威勢を振るうよりは、辺境の防御が手薄になるだけでしょう。私は(東晋が)この統治困難な土地を放棄しても、人々が怨まぬことを知っています(安逸に流されて現状維持に走れば領土縮小は必至です)。しかし私は腕を奮って身を投じ、中原を目指す者でありたいと思います。わが国が天下の東南の片隅に追いやられ、祖先の地が異民族に奪われたままであることを、私は強烈に恥じています。もし宗廟の神々(晋帝の祖先)の助けを得られれば、雲を払うように敵を掃討し、呼吸するように中原を平定できるでしょう。一時の猶予を頂けるなら、臣が河洛を拠点として二種の賊と対峙し、皇室の威光を宣揚し、秦や趙の地域を帯のように繋ぎましょう。五年もかけずに、事業を成功させて見せます。
いま臣昱(司馬昱)が皇族の賢者として国家を補佐し、二代の皇帝を輔けています。ですから愚鈍な私が朝政に参加する必要はなく、政権中枢に支障がありません。しかも私が前線を離れれば、誰が現地の牧畜や農業を維持するのでしょうか。朝廷の内外は助け合い、それぞれの役割が重要なのです。どうか陛下におかれては私の提案を汲んで、広く意見を求めて、私を前線の屯所に戻し、国境地帯を安寧にして頂きたいと思います」と言った。
しかし詔は桓温の願いを許さず、再び朝廷に徴した。桓温が赭圻に進んだころ、詔して尚書の車灌を派遣し、また桓温を引き止めた。桓温は赭圻に留まり、朝廷内の官位を辞退しし、揚州牧の位のみを遙領した。そのころ鮮卑が洛陽を攻撃し、陳祐が出奔した。輔政の簡文帝(司馬昱)が、桓温と洌洲で合流し、洛陽討伐を議論した。桓温は鎮所を姑孰に移した。このころ哀帝が崩御し、北伐計画は中止された。

桓温は質素を好み、宴会の際は小皿七枚の軽食と茶菓子を出すだけであった。しかし武勇と威勢で朝権を専らにし、度外の(帝位簒奪の)希望を抱いた。あるとき桓温は横になって側近に、「お前たちがそんなに遠慮深くては、文帝や景帝(司馬昭や司馬師)に笑われる」と言った(簒奪の実行計画を求めた)。誰一人として返答できなかった。桓温は枕を叩いて起き上がり、「後世に美名を残せずとも、悪名を万世に残せるだろうに」と言った。あるとき王敦の墓前を通過し、墓を眺めて、「立派な人だ、惜しかった」と言った。桓温の心根はこのようであった。そのころ遠方から道術に優れるという比丘尼が来ており、別室で身を清めていた。温はこっそり覗いた。尼僧は裸体のまま刀で腹を切り裂き、両脚も切り落とした。やがて何事もなかったように出てきた。桓温が吉凶を問うと、尼僧は、「もしあなたが天子になろうとすれば、同じようになります(自滅します)」と言った。

太和四(三六九)年、桓温は全軍で北伐することを上疏した。平北将軍の郗愔は病のため職を辞したので、桓温を平北将軍・徐兗二州刺史に任じ、弟の南中郎将の桓沖・西中郎将の袁真の歩騎五万を率いて北伐した。百官はみな南州で祖道(見送りの儀式)をして、都の人々はこぞって駆けつけた。軍が湖陸に進み、慕容暐(前燕)の将の慕容忠を攻めて、これを捕らえ、金郷へ進んだ。ひどい旱魃で、水路が通じないので、鉅野で三百里あまりを浚渫して水路を通し、清水から黄河に入った。慕容暐(前燕)の将の慕容垂・傅末波らが八万の兵で桓温を迎え撃ち、林渚で戦った。桓温はこれを破って進み、枋頭へ到達した。さきに袁真に命じて譙梁地域を討伐させ、石門(堤防)を開いて水路を通した。袁真は譙梁地域の平定に成功したが、石門を開くことに失敗し、軍糧を使い尽くした。桓温は船を焼いて徒歩で退却し、東燕から倉垣に出て、陳留を通過し、井戸を掘って水を得ながら、七百里以上を進んだ。慕容垂は八千騎で追撃し、襄邑で戦った。桓温の軍は大敗し、三万人が死んだ。桓温はひどく恥じ、責任を袁真に負わせ、彼を免官し庶人とするように上表した。袁真は桓温に陥れられたことを恨み、寿陽を拠点にして自立を図り、密かに苻堅・慕容暐(前秦・前燕)に連絡を取った。
皇帝(廃帝司馬奕)は侍中の羅含を派遣し、牛酒を携えて山陽で桓温を慰問した。会稽王昱(司馬昱)を遣わして桓温と道中で合流し、桓温の世子である給事の桓熙を征虜将軍・豫州刺史・仮節とする詔を届けた。南康公主(桓温の妻)が薨じると、詔して布千匹・銭百万を桓温に賜ったが、桓温はこれらを辞退して受けなかった。また子の桓熙が(嫡母の)三年喪の期間で、年少なのに長く軍務にあるのは良くないとして、朝廷は桓温の辞退を退けた。州の人員を徴発して広陵城を築き、桓温は鎮所をそこに移した。桓温の遠征事業は長期化し、疫病が蔓延して半分近くが死んだので、万民から桓温への怨嗟の声が高まった。
袁真が病死し、その将の朱輔が袁真の子の袁瑾を擁立して後を継がせた。慕容暐と苻堅(前燕・前秦)はそれぞれ軍を送って袁瑾を援助した。桓温は督護の竺瑤・矯陽之に水軍を与えて二国の軍を攻撃させた。慕容暐の援軍がすでに到着しており、竺瑤らは武丘で戦って、これを破った。桓温も二万人を率いて広陵から到着した。袁瑾は城に籠って固守したので、桓温は長大な包囲陣を築いた。苻堅は将の王鑒や張蚝らに兵を率いて袁瑾を救援させ、軍を洛澗に駐屯させ、さきに精騎五千を送って肥水の北岸に布陣した。桓温は桓伊および弟の子の桓石虔らを遣わし、苻堅の軍を迎撃して、大いに破った。袁瑾の軍勢は瓦解し、袁瑾を生け捕った。袁氏の宗族数十名と朱輔をあわせて都(建康)に送って死刑とし、袁瑾に仕えた乞活(武装流民)の数百人をすべて穴埋めにして殺し、彼らの妻子を褒賞として分配した。桓温はこの功績で、詔により班剣十人を加え、行軍の途上で慰労し、文武の官を功績に基づいて賞賜した。
桓温は才能と武力を自負し、長期間にわたり簒奪の野心を持っていた。さきに河朔(北方)で大功を立て、帰還して九錫を受けるつもりだった。北伐が失敗すると、名声と実権が損なわれた。これを受けて参軍の郗超が皇帝廃立の計画を進め、桓温は(廃帝を)退位させて簡文帝を即位させた。桓温に詔して諸葛亮の故事にならい、甲杖兵百人を従えて殿中に入ることを許し、銭五千万、絹二万匹、布十万匹を賜った。桓温は多くの官僚を罷免して異動させ、庾倩・殷涓・曹秀らを誅殺した。このとき桓温の権勢は炎のごとく盛んで、侍中の謝安は桓温に会ったとき遠くから拝礼した。桓温は驚いて、「安石(謝安)、どうしてそんなことをするのか」と言った。謝安は落ち着いて、「君主が先に拱手し、臣下が後から拝礼することなどありません」と言った。桓温は足が悪いので、乗輿で入朝することを許された。桓温は簡文帝に会い、廃立を切り出そうとした。簡文帝は桓温を見るなり、(先手を打って)大量に涙を流したので、桓温は恐れおののき、王朝交替のことを一言も口にできなかった。
これよりさき、元帝や明帝の時代、郭璞は予言して、「あなたに後継者がいないわけではないが、兄弟が代わりに譲り受ける」と言った。成帝には子がいたが、帝位は弟(明帝の弟の簡文帝)に継承されるという予言であった。郭璞は、「李というの姓の人がいて、児が出払っている。車から軸が抜けて、片側が残ったようなものだ」と言った。児とは、子のことである。「李」から「子」を除くと、「木」が残る。「車」から軸を抜くと「亘」になり、「木」「亘」を組み合わせると「桓」になる。さらに郭璞は、「爾来、爾来、河内の大県よ」と予言した。爾来(これより)とは、ものごとの始まり(元始)のことで、桓温のあざな「元子」に通じる。河内郡の大県は、温県のことで、桓温の名である。成帝と康帝が崩御した後、桓氏は権勢を持ったので、郭璞は予言を連発した。また郭璞は、「子が薨去したおかげで、わが国家の寿命は延びる。子の死を悲しみ悼んで、国家の命運は衰える」とも言った。一人目の「子」は桓温(あざなは元子)であり、二人目の「子」は司馬道子のことである。桓温は簒奪を志したが、事業を達成せずに死んだので、彼の死は晋朝にとって幸運であった。会稽王道子(司馬道子)は晋朝に混乱を引き起こしたが、彼が死ぬと晋朝は衰退した。ゆえに二人目の予言に「悲しみ悼む」とあったのである。
桓温はまた白石に還ると、上疏して姑孰への帰任を求めた。詔して、「天地は一体であり、万物を生成する。(君主と宰相の)二人が心を合わせれば、言い尽くせない利益をもたらす。古の聖王たちは、賢臣の輔佐を頼りにした。周公旦は四方に徳を輝かせて、周王朝の道を隆盛にした。伊尹は天意に通じて、殷王朝の教化を広めた。大司馬(桓温)は徳が明らかで時代の要請に応じ、功績は天意に合致し、当世において、偉大な成果を上げた。予一人(皇帝)にとって、功績は博陸侯(霍光)より高く、その道は万世に伝えられる。いま公(桓温)を丞相に昇進させ、大司馬の本官は現状通りとする。公を都に留める、社稷を鎮めるように」と言った。桓温は固辞し、鎮所への帰還を要請した。侍中の王坦之を遣わして桓温を朝廷に召還して丞相とし、封邑を増やして一万戸としたが、桓温は辞退した。詔して、西府(桓温の南郡公国)が袁真の反乱に対処して、軍事費が逼迫しているため、世子の桓熙に布三万匹、米六万斛を賜り、桓熙の弟の桓済を給事中とした。

簡文帝の病が重くなると、桓温に詔して、「私は重病になった、きみは参内して、会いにきてほしい。来てくれ、来てくれ」と言った。一昼夜のうちに四通の詔が発行された。桓温は上疏して、「陛下の体調は回復せぬまま、日を重ねております。わが心は恐れ震え、心の置き場もありません。盛衰は世の常ですから、備えがあれば災いはありません。前漢の高祖は病床で、呂后に後事を問い、孝武帝は危篤の際、霍光に後継者選びを任せました。涙ながらに死後のことを尋ねるのは、まさに重大事です。いま皇太子は幼いですが、朝廷には謝安・王坦之という名臣がいて、才能・識見ともに陛下が選抜した立派な人物です。内では幼君を補佐し、外では強敵を防げるでしょう。群臣の懸念は、謝安らがいれば解決できます。どうか陛下は二人に重責を授け、天下に拠り所を示して下さい。謝安らが遺詔を奉じて尽力すれば、公私ともに安泰でしょう。わたくしは将相の位を兼ね、陛下からは平素より対等に付き合って頂きました。しかし老いて病にかかり、長くはお役に立てません。後事を預かるほどの余力はありません」と言った。この上疏が提出される前に、簡文帝は崩御した。遺詔には、「帝室と帝国のことはすべて桓公(桓温)に委ね、諸葛武侯(孔明)・王丞相(王導)の前例に従え」とあった。桓温は簡文帝が死に際に禅譲してくれることを期待し、それが無理でも周公旦のように居摂しようと考えた。ところが遺詔が期待に副わなかったので、ひどく憤り怨み、弟の桓沖に書簡を送って、「遺詔では、私を武侯(諸葛亮)・王公(王導)に準えたに過ぎなかった」と言った。王坦之と謝安は王朝存続の危機にあっても、日々落ち着いて動揺を見せなかった。
孝武帝が即位すると、詔して、「先帝の違勅に、大司馬(桓温)には(実父の)朕と同じように仕えよとあった。桓公への答表には、最高の敬意を尽くせ」と言った。また、「大司馬は社稷の拠り所で、先帝は帝室と帝国の一切を託した。内外の万事はすべて桓公の判断に従うように」と言った。また謝安を派遣して桓温を入朝させ、前部羽葆鼓吹と武賁六十人を加えたが、桓温は辞退して受けなかった。桓温が入朝すると、山陵(簡文帝の墓)に参拝した。詔して、「桓公の勲徳は尊く重く、朕の指導役である。風疾(脚の病)があるので、敬礼は不要である」と言った。尚書の謝安らに勅して新亭で(桓温を)迎えさせ、百官は道路脇に整列して拝した。このとき高位高官は戦慄して顔色を失い、「この機に乗じて王坦之と謝安を殺すのではないか」と噂し、内外は不安に満ちた。桓温が到着すると、盧悚が宮中に入ったことを口実に、尚書の陸始を捕らえて廷尉に下し、不遜の罪を責めた。こうして高平陵で拝礼したが、左右は桓温に異変を感じた。桓温は馬車に乗り、従者に、「さっき先帝の霊が現れた」と語った。しかし桓温は先帝の霊が何を言ったのか言わず(王莽が高祖劉邦の霊から禅譲を受けた故事を踏まえる)、人々は何が起きたか分からず、ただ拝礼中に桓温がしきりに「臣には(禅譲を受けることが)できません」と呟いたのを見ただけであった。桓温は左右のものに殷涓の姿形を尋ねると、「肥えて背が低い」と答えた。桓温は、「たったいま先帝(の霊の)のそばに(殷涓の霊が)いるのを見た」と言った。これよりさき、殷浩は桓温に官位を奪われて殺され、殷涓は気概があって、桓温のもとを訪れなかった。しかも武陵王晞(司馬晞)と交際したので、桓温は敵視して殷涓を殺したが、面識はなかった。ここに及び、殷涓の亡霊に祟られたと思い、病気にかかった。桓温は京師に十四日ほど滞在して、姑孰へ戻り、病床から立てなくなった。桓温は朝廷に働きかけ、自分に九錫を加えるよう求め、側近に督促させた、謝安と王坦之は桓温が重病と知り、密かに手続きを遅らせた。九錫の文が完成する前に薨去した。桓温は六十二歳であった。皇太后は皇帝とともに朝堂に三日間臨み、詔して九命衮冕の服を賜り、朝服一具、衣一襲、東園の秘器、銭二百万、布二千匹、膠飴五百斤を支給し、葬儀に用いさせた。葬儀の礼式は、太宰の安平献王(司馬孚)や漢の大将軍の霍光の故事にならい、九旒の輿車、黄屋の左纛、轀輬車、挽歌の二隊、羽葆鼓吹、武賁班剣百人を賜わり、手厚い冊書によって前南郡公の爵位に七千五百戸を加え、封地を三百里四方とし、銭五千万、絹二万匹、布十万匹を賜り、丞相の位を追贈した。

原文

初、沖問溫以謝安・王坦之所任、溫曰、「伊等不為汝所處分」。溫知己存彼不敢異、害之無益於沖、更失時望、所以息謀。
溫六子、熙・濟・歆・禕・偉・玄。熙字伯道、初為世子、後以才弱、使沖領其眾。及溫病、熙與叔祕謀殺沖、沖知之、徙于長沙。濟字仲道、與熙同謀、俱徙長沙。歆字叔道、賜爵臨賀公。禕最愚、不辨菽麥。偉字幼道、平厚篤實、居藩為士庶所懷。歷使持節・督荊益寧秦梁五州諸軍事・安西將軍・領南蠻校尉・荊州刺史・西昌侯、贈驃騎將軍・開府儀同三司。玄嗣爵、別有傳。

訓読

初め、沖 溫に問ふに謝安・王坦之の任ずる所を以てす。溫曰く、「伊(これ)ら汝の處分する所と為らず」と。溫 己 存さば彼 敢て異ならず、之を害するも沖に益無きを知り、更に時望を失へば、所以に謀を息む。
溫の六子、熙・濟・歆・禕・偉・玄なり。熙 字は伯道、初め世子と為り、後に才 弱なるを以て、沖をして其の眾を領せしむ。溫 病むに及び、熙 叔の祕と與に沖を殺さんと謀る。沖 之を知りて、長沙に徙す。濟 字は仲道、熙と與に同に謀り、俱に長沙に徙さる。歆 字は叔道、爵臨賀公を賜はる。禕は最も愚にして、菽麥を辨ぜず。偉 字は幼道、平厚篤實にして、藩に居りて士庶の懷く所と為る。使持節・督荊益寧秦梁五州諸軍事・安西將軍・領南蠻校尉・荊州刺史・西昌侯を歷し、驃騎將軍・開府儀同三司を贈らる。玄 爵を嗣ぎ、別に傳有り。

現代語訳

これよりさき、桓沖(桓温の弟)は桓温に謝安と王坦之をいかに処遇すべきか(殺してもよいか)質問した。桓温は、「彼らの処遇はきみらが決めることではない」と言った。桓温は自分がいるうちは謝安が刃向かうことはなく、しかも謝安を殺害しても桓沖には利益がないと思い、さらに桓氏が時望を失うことから、(謝安を殺す)謀略を中止した。
桓温には六人の子がおり、桓熙・桓済・桓歆・桓禕・桓偉・桓玄である。桓熙は字を伯道といい、はじめ(桓温の)世子となり、のちに才覚がないので、桓沖にその兵を率いさせた。桓温が病気になると、桓熙は叔父の桓秘とともに桓沖を殺そうと計画した。桓沖はこれを察知し、桓熙を長沙に徙刑にした。桓済は字を仲道といい、桓熙とともに(桓沖の殺害を)計画し、ともに長沙に徙刑にされた。桓歆は字を叔道といい、臨賀公の爵を賜わった。桓禕はもっとも暗愚で、まめと麦の区別がつかなかった。桓偉は字を幼道といい、温厚で篤実で、任地にいて士庶に慕われた。使持節・督荊益寧秦梁五州諸軍事・安西将軍・領南蛮校尉・荊州刺史・西昌侯を歴任し、驃騎将軍・開府儀同三司を追贈された。桓玄が桓温の爵を嗣ぎ、別に列伝がある(『晋書』巻九十九)。

原文

孟嘉字萬年、江夏鄳人、吳司空宗曾孫也。嘉少知名、太尉庾亮領江州、辟部廬陵從事。嘉還都、亮引問風俗得失、對曰、「還傳當問吏」。亮舉麈尾掩口而笑、謂弟翼曰、「孟嘉故是盛德人」。轉勸學從事。褚裒時為豫章太守、正旦朝亮、裒有器識、亮大會州府人士、嘉坐次甚遠。裒問亮、「聞江州有孟嘉、其人何在」。亮曰、「在坐、卿但自覓」。裒歷觀、指嘉謂亮曰、「此君小異、將無是乎」。亮欣然而笑、喜裒得嘉、奇嘉為裒所得、乃益器焉。
後為征西桓溫參軍、溫甚重之。九月九日、溫燕龍山、僚佐畢集。時佐吏並著戎服、有風至、吹嘉帽墮落、嘉不之覺。溫使左右勿言、欲觀其舉止。嘉良久如廁、溫令取還之、命孫盛作文嘲嘉、著嘉坐處。嘉還見、即答之、其文甚美、四坐嗟歎。 嘉好酣飲、愈多不亂。溫問嘉、「酒有何好、而卿嗜之」。嘉曰、「公未得酒中趣耳」。又問、「聽妓、絲不如竹、竹不如肉、何謂也」。嘉答曰、「漸近使之然」。一坐咨嗟。轉從事中郎、遷長史。年五十三卒于家。

訓読

孟嘉 字は萬年、江夏鄳の人にして、吳の司空たる宗の曾孫なり。嘉は少くして知名あり、太尉の庾亮 江州を領するや、辟して廬陵從事に部せしむ。嘉 都に還るや、亮 引きて風俗の得失を問ふ。對へて曰く、「還りて傳へて當に吏に問ふべし」と。亮 麈尾を舉げ口を掩ひて笑ひ、弟の翼に謂ひて曰く、「孟嘉 故に是れ盛德の人なり」と。勸學從事に轉ず。褚裒 時に豫章太守と為り、正旦に亮に朝するや、裒 器識有り、亮 大いに州府の人士を會し、嘉の坐次 甚だ遠し。裒 亮に問ふ、「聞くらく江州に孟嘉有り、其の人 何くにか在る」と。亮曰く、「坐に在り、卿 但だ自ら覓よ」と。裒 歷觀し、嘉を指して亮に謂ひて曰く、「此の君 小異なり、將た是れに無きか」と。亮 欣然として笑ひ、裒の嘉を得るを喜び、嘉 裒の得る所と為るを奇とし、乃ち益々焉を器とす。
後に征西の桓溫の參軍と為り、溫 甚だ之を重んず。九月九日、溫 龍山に燕し、僚佐 畢く集ふ。時に佐吏 並びに戎服を著け、風至有り、嘉の帽を吹きて墮落せしめ、嘉 之を覺らず。溫 左右をして言ふ勿からしめ、其の舉止を觀んと欲す。嘉 良に久しくして廁に如くや、溫 取りて之を還さしめ、孫盛に命じて文を作りて嘉を嘲り、嘉の坐處に著けしむ。嘉 還りて見、即ち之に答ふるに、其の文 甚だ美しく、四坐 嗟歎す。
嘉 酣飲を好み、愈々多きも亂れず。溫 嘉に問ふ、「酒 何なる好有り、而して卿 之を嗜む」と。嘉曰く、「公 未だ酒中の趣を得ざるのみ」と。又 問ふ、「妓に聽くらく、絲は竹に如かず、竹は肉に如かずと、何の謂ひや」と。嘉 答へて曰く、「漸く近く之をして然らしむ」と。一坐 咨嗟す。從事中郎に轉じ、長史に遷る。年五十三にして家に卒す。

現代語訳

孟嘉は字を萬年といい、江夏郡鄳県の人で、呉の司空である孟宗の曾孫である。孟嘉は若いころから名声があり、太尉の庾亮が江州を領すると、彼を辟召して廬陵従事を担当させた。孟嘉が都に帰ると、庾亮は彼を呼び寄せ、風俗(都の情勢)の良し悪しを質問した。孟嘉は(明確に答えず)、「戻って現地の吏に確認しましょう」とはぐらかした。庾亮は麈尾(払子)を上げて口元を隠して笑い、弟の庾翼に、「孟嘉は本当に徳のある人物だ」と言った。勧学従事に転任した。そのころ褚裒が豫章太守となり、正月元旦に庾亮(の州府)に慶賀に訪れた。褚裒は識見のある人物であり、庾亮は州府の士人を大勢集めたが、孟嘉の席次はかなり後方であった。褚裒は庾亮に、「江州に孟嘉という人物がいると聞きましたが、どこに座っていますか」と尋ねた。庾亮は、「この場にいるから、あなたが自分で見つけてみよ」と言った。褚裒が見回して、孟嘉を指さして庾亮に、「この方は他の人々と少々雰囲気が違う。彼ではありませんか」と言った。庾亮は喜んで笑い、褚裒が孟嘉を見抜いたことを称賛し、ますます孟嘉の才能を評価した。
のちに孟嘉は征西(大将軍の桓温)の参軍となり、桓温は孟嘉を大変重んじた。九月九日(重陽の日)、桓温は龍山で宴会を開き、すべての幕僚が集まった。このとき佐吏たちは軍装(戎服)を着けた。強風が吹いて、孟嘉の帽子を吹き飛ばしたが、孟嘉は気づかなかった。桓温は左右のものに「言うな」と命じ、孟嘉の振る舞いを観察しようとした。しばらくして孟嘉が厠所に立つと、桓温は帽子を拾って返却させ、孫盛に命じて孟嘉をからかう文を作らせ、その文を孟嘉の席に置いた。孟嘉が戻って読み、すぐに返信したが、非常な美文であり、同席者たちは感嘆した。
孟嘉は大酒飲みで、いくら飲んでも乱れなかった。桓温が孟嘉に、「酒にはどんな良さがあって、あなたはそれほど嗜むのか」と尋ねると、孟嘉は、「あなたはまだ酒の興趣を理解なさっていないだけです」と答えた。また桓温が、「楽人によると、弦楽器は笛に及ばず、笛は肉声に及ばないそうだが、どういう意味か」と尋ねた。孟嘉は答えて、「だんだん近くなるからそうなるのです(演奏者の身体表現に近いほど味わい深い)」と答え、一座の人々は嗟嘆した。従事中郎に転じ、長史に遷った。五十三歳で自宅で亡くなった。

原文

史臣曰、桓溫挺雄豪之逸氣、韞文武之奇才、見賞通人、夙標令譽。時既豺狼孔熾、疆埸多虞、受寄扞城、用恢威略、乃踰越險阻、戡定岷峨、獨克之功、有可稱矣。及觀兵洛汭、修復五陵、引旆秦郊、威懷三輔、雖未能梟除凶逆、亦足以宣暢王靈。既而總戎馬之權、居形勝之地、自謂英猷不世、勳績冠時。挾震主之威、蓄無君之志、企景文而慨息、想處仲而思齊、睥睨漢廷、窺覦周鼎。復欲立奇功於趙魏、允歸望於天人。然後步驟前王、憲章虞夏。逮乎石門路阻、襄邑兵摧、懟謀略之乖違、恥師徒之撓敗、遷怒於朝廷、委罪於偏裨、廢主以立威、殺人以逞欲、曾弗知寶命不可以求得、神器不可以力征。豈不悖哉。豈不悖哉。斯實斧鉞之所宜加、人神之所同棄。然猶存極光寵、沒享哀榮、是知朝政之無章、主威之不立也。
贊曰、播越江濆、政弱權分。元子恃力、處仲矜勳。迹既陵上、志亦無君。罪浮浞𧴒、心窺舜禹。樹威外略、稱兵內侮。惟身與嗣、竟罹齊斧。

訓読

史臣曰く、桓溫 雄豪の逸氣に挺(ぬき)んで、文武の奇才を韞(をさ)め、通人に賞せられ、夙に令譽を標(しる)す。時に既に豺狼 孔だ熾んなりて、疆埸 虞れ多く、寄を扞城に受け、用て威略を恢にす。乃ち險阻を踰越し、岷峨を戡定す。獨克の功、稱す可き有り。兵を洛汭に觀し、五陵を修復するに及び、旆を秦郊に引きて、威は三輔を懷く。未だ能く凶逆を梟除せざると雖も、亦た以て王靈を宣暢するに足る。既にして戎馬の權を總べ、形勝の地に居り、自ら謂へらく英猷 不世にして、勳績 時に冠たりと。震主の威を挾み、無君の志を蓄ふ。景文を企てて慨息し、處仲を想ひて齊しからんと思ひ、漢廷を睥睨し、周鼎を窺覦す。復た奇功を趙魏に立て、允に望み天人に歸せんと欲す。然る後に前王を步驟し、虞夏を憲章す。石門に路 阻み、襄邑に兵 摧かるに逮ぶや、謀略の乖違を懟み、師徒の撓敗を恥ぢ、怒りを朝廷に遷し、罪を偏裨に委む。主を廢して以て威を立て、人を殺して以て欲を逞くす。曾ち寶命 以て求めて得る可からず、神器 以て力もて征(と)る可からざるを知らざるは、豈に悖(もと)らざるや。豈に悖らざるや。斯れ實に斧鉞の宜しく加ふるべき所、人神の同に棄つる所なり。然れども猶ほ存せば光寵を極め、沒せば哀榮を享く。是に朝政の章無く、主威の立たざるを知りぬ。
贊に曰く、江濆に播越し、政は弱く權は分る。元子 力に恃み、處仲 勳を矜る。迹 既に上を陵ぎ、志 亦た君無し。罪 浞𧴒に浮(す)ぐるも、心 舜禹を窺ふ。威を樹て外に略し、兵を稱へて內に侮る。惟だ身と嗣と與に、竟に齊斧に罹る。

現代語訳

史臣はいう、桓温は雄々しい豪気が抜きんでて、文武両道のすぐれた才能を内に秘め、士人のあいだで評価され、早くから名声を得ていた。当時すでに(五胡の)群雄が割拠し、国土には脅威が多かった。桓温は国を守る重責を担い、威勢と策略を広めた。険しい山川を踏破し、岷峨の地(蜀の成漢)を平定した。彼自身の戦功はたしかに称賛に値する。兵を率いて洛水の流域に至り、(西晋の)五帝の陵墓を修復するに及び、軍旗を秦の郊外に立て、威名が三輔の地(長安周辺)に響き渡った。凶悪な反逆者(前秦)を討ち滅ぼすには至らなかったが、王者の霊威を十分に宣揚した。やがて軍馬の全権を握り、天下の要衝に陣取り、「英雄としての智略が不世出で、功績は当代随一である」と自認した。晋帝を威圧するようになり、主君を顧みぬ野心を蓄えた。西晋の景帝と文帝(司馬師と司馬昭)の事業(簒奪)を計画して嘆息し、処仲(王敦)を思い浮かべて真似たいと思い、漢王朝のような権力を伺い、周王朝のような権威を盗もうとした。加えて抜群の功績を趙魏の地域で立て、天命と人望が自分に帰することを本気で望んだ。その上で、古の王者の跡を踏襲し、虞夏(禅譲を受けた舜禹)を手本にしようとした。しかし、石門の戦いで道を絶たれ、襄邑で軍勢を打ち砕かれると、桓温は計略の狂いを嘆き、敗戦を恥辱とし、怒りを朝廷に転化し、罪を部下になすりつけた。君主を廃することで自分の権威を打ち立て、他人を殺すことで欲望を満たそうとした。そもそも天命は求めて得られるものではなく、帝位は武力で奪い取れるものでもない。それを知らないとは、なんと道から外れたことであろうか。桓温の反逆行為は、本来ならば刑罰を加えるべきものであり、人も神も見捨てるものである。しかし生前は大きな栄誉を受け、死後も哀悼された。このことから東晋の政治が軸を失い、君主の威厳が失われていたことが分かる。
賛にいう、長江のほとりに天子が移り、政治は弱く権力は分かれた。元子(桓温)は力の強さに頼み、処仲(王敦)は勲功を誇った。事績がすでに君主をしのぎ、志もまた君主を蔑ろにした。罪は浞や𧴒(尭舜時代の悪人)よりもひどいが、心では舜や禹を自任していた。威権を立てて外を侵略し、軍隊を用いて内を圧倒した。彼ら自身も後継者も、結局は征伐を受けたと。