翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。
卞範之伝・殷仲文伝が先に完成したのでアップロードします。桓玄伝の残りは後日更新します。250331
桓玄伝の残りと、史臣曰・賛曰が完成しました。251011
桓玄字敬道、一名靈寶、大司馬溫之孼子也。其母馬氏嘗與同輩夜坐、於月下見流星墜銅盆水中、忽如二寸火珠、冏然明淨、競以瓢接取、馬氏得而吞之、若有感、遂有娠。及生玄、有光照室、占者奇之、故小名靈寶。妳媼每抱詣溫、輒易人而後至、云其重兼常兒、溫甚愛異之。臨終、命以為嗣、襲爵南郡公。
年七歲、溫服終、府州文武辭其叔父沖、沖撫玄頭曰、「此汝家之故吏也」。玄因涕淚覆面、眾並異之。及長、形貌瓌奇、風神疏朗、博綜藝術、善屬文。常負其才地、以雄豪自處、眾咸憚之、朝廷亦疑而未用。年二十三、始拜太子洗馬、時議謂溫有不臣之跡、故折玄兄弟而為素官。
太元末、出補義興太守、鬱鬱不得志。嘗登高望震澤、歎曰、「父為九州伯、兒為五湖長」。棄官歸國。自以元勳之門而負謗於世、乃上疏曰、
臣聞周公大聖而四國流言、樂毅王佐而被謗騎劫、巷伯有豺獸之慨、蘇公興飄風之刺、惡直醜正、何代無之。先臣蒙國殊遇、姻婭皇極、常欲以身報德、投袂乘機、西平巴蜀、北清伊洛、使竊號之寇繫頸北闕、園陵修復、大恥載雪、飲馬灞滻、懸旌趙魏、勤王之師、功非一捷。太和之末、皇基有潛移之懼、遂乃奉順天人、翼登聖朝、明離既朗、四凶兼澄。向使此功不建、此事不成、宗廟之事豈可孰念。昔太甲雖迷、商祚無憂。昌邑雖昏、弊無三孼。因茲而言、晉室之機危於殷漢、先臣之功高於伊霍矣。而負重既往、蒙謗清時、聖世明王黜陟之道、不聞廢忽顯明之功、探射冥冥之心、啟嫌謗之塗、開邪枉之路者也。先臣勤王艱難之勞、匡復克平之勳、朝廷若其遺之、臣亦不復計也。至於先帝龍飛九五、陛下之所以繼明南面、請問談者、誰之由邪。誰之德邪。豈惟晉室永安、祖宗血食、於陛下一門、實奇功也。
自頃權門日盛、醜政實繁、咸稱述時旨、互相扇附、以臣之兄弟皆晉之罪人、臣等復何理可以苟存聖世。何顏可以尸饗封祿。若陛下忘先臣大造之功、信貝錦萋菲之說、臣等自當奉還三封、受戮市朝、然後下從先臣、歸先帝於玄宮耳。若陛下述遵先旨、追錄舊勳、竊望少垂愷悌覆蓋之恩。
疏寢不報。
玄在荊楚積年、優游無事、荊州刺史殷仲堪甚敬憚之。及中書令王國寶用事、謀削弱方鎮、內外騷動、知王恭有憂國之言、玄潛有意於功業、乃說仲堪曰、「國寶與君諸人素已為對、唯患相弊之不速耳。今既執權要、與王緒相為表裏、其所迴易、罔不如志。孝伯居元舅之地、正情為朝野所重、必未便動之、唯當以君為事首。君為先帝所拔、超居方任、人情未以為允、咸謂君雖有思致、非方伯人。若發詔徵君為中書令、用殷顗為荊州、君何以處之」。仲堪曰、「憂之久矣、君謂計將安出」。玄曰、「國寶姦兇、天下所知、孝伯疾惡之情每至而當、今日之會、以理推之、必當過人。君若密遣一人、信說王恭、宜興晉陽之師、以內匡朝廷、己當悉荊楚之眾順流而下、推王為盟主、僕等亦皆投袂、當此無不響應。此事既行、桓文之舉也」。仲堪持疑未決。俄而王恭信至、招仲堪及玄匡正朝廷。國寶既死、於是兵罷。玄乃求為廣州、會稽王道子亦憚之、不欲使在荊楚、故順其意。
隆安初、詔以玄督交廣二州・建威將軍・平越中郎將・廣州刺史・假節、玄受命不行。其年、王恭又與庾楷起兵討江州刺史王愉及譙王尚之兄弟。玄・仲堪謂恭事必克捷、一時響應。仲堪給玄五千人、與楊佺期俱為前鋒。軍至湓口、王愉奔於臨川、玄遣偏將軍追獲之。
玄・佺期至石頭、仲堪至蕪湖。恭將劉牢之背恭歸順。恭既死、庾楷戰敗、奔於玄軍。既而詔以玄為江州、仲堪等皆被換易、乃各迴舟西還、屯於尋陽、共相結約、推玄為盟主。玄始得志、乃連名上疏申理王恭、求誅尚之・牢之等。朝廷深憚之、乃免桓脩・復仲堪以相和解。
初、玄在荊州豪縱、士庶憚之、甚於州牧。仲堪親黨勸殺之、仲堪不聽。及還尋陽、資其聲地、故推為盟主、玄逾自矜重。佺期為人驕悍、常自謂承藉華冑、江表莫比、而玄每以寒士裁之、佺期甚憾、即欲於壇所襲玄。仲堪惡佺期兄弟虓勇、恐克玄之後復為己害、苦禁之。於是各奉詔還鎮。玄亦知佺期有異謀、潛有吞并之計、於是屯於夏口。
隆安中、詔加玄都督荊州四郡、以兄偉為輔國將軍・南蠻校尉。仲堪慮玄跋扈、遂與佺期結婚為援。初、玄既與仲堪・佺期有隙、恒慮掩襲、求廣其所統。朝廷亦欲成其釁隙、故分佺期所督四郡與玄、佺期甚忿懼。會姚興侵洛陽、佺期乃建牙、聲云援洛、密欲與仲堪共襲玄。仲堪雖外結佺期而疑其心、距而不許、猶慮弗能禁、復遣從弟遹屯於北境以遏佺期。佺期既不能獨舉、且不測仲堪本意、遂息甲。南蠻校尉楊廣、佺期之兄也、欲距桓偉、仲堪不聽、乃出廣為宜都・建平二郡太守、加征虜將軍。佺期弟孜敬先為江夏相、玄以兵襲而召之。既至、以為諮議參軍。玄於是興軍西征、亦聲云救洛、與仲堪書、說佺期受國恩而棄山陵、宜共罪之。今親率戎旅、逕造金墉、使仲堪收楊廣、如其不爾、無以相信。仲堪本計欲兩全之、既得玄書、知不能禁、乃曰、「君自沔而行、不得一人入江也」。玄乃止。
後荊州大水、仲堪振恤飢者、倉廩空竭。玄乘其虛而伐之、先遣軍襲巴陵。梁州刺史郭銓當之所鎮、路經夏口、玄聲云朝廷遣1.(佺期)〔銓〕為己前鋒、乃授以江夏之眾、使督諸軍並進、密報兄偉令為內應。偉遑遽不知所為、乃自齎疏示仲堪。仲堪執偉為質、令與玄書、辭甚苦至。玄曰、「仲堪為人不能專決、常懷成敗之計、為兒子作慮、我兄必無憂矣」。
玄既至巴陵、仲堪遣眾距之、為玄所敗。玄進至楊口、又敗仲堪弟子道護、乘勝至零口、去江陵二十里、仲堪遣軍數道距之。佺期自襄陽來赴、與兄廣共擊玄、玄懼其銳、乃退軍馬頭。佺期等方復追玄苦戰、佺期敗、走還襄陽、仲堪出奔酇城、玄遣將軍馮該躡佺期、獲之。廣為人所縛、送玄、並殺之。仲堪聞佺期死、乃將數百人奔姚興、至冠軍城、為該所得、玄令害之。
1.『資治通鑑』に従い、「佺期」を「銓」に改める。郭銓のこと。
桓玄 字は敬道、一名は靈寶、大司馬溫の孼子なり。其の母の馬氏 嘗て同輩と與に夜坐し、月下に於て流星の銅盆水中に墜つるを見て、忽ち二寸の火珠、冏然として明淨たるが如し。競ひて瓢を以て接取し、馬氏 得て之を吞み、感有るが若く、遂に娠有り。玄を生むに及び、光の室を照らす有り、占者 之を奇とし、故に小名は靈寶とす。妳媼 每に抱きて溫に詣るや、輒ち人に易はりて後に至り、云ふらく其の重きこと常兒に兼し、溫 甚だ之を愛異す。終に臨み、命じて以て嗣と為し、爵南郡公を襲はしむ。
年七歲にして、溫の服 終はり、府州の文武 其の叔父の沖に辭するも、沖 玄の頭を撫でて曰く、「此れ汝の家の故吏なり」と。玄 因りて涕淚して面を覆ひ、眾 並びに之を異とす。長ずるに及び、形貌 瓌奇にして、風神 疏朗なり。藝術を博綜し、屬文を善くす。常に其の才地を負ひ、雄豪を以て自ら處り、眾 咸 之を憚り、朝廷も亦た疑ひて未だ用ひず。年二十三にして、始めて太子洗馬を拜し、時に議して溫に不臣の跡有ると謂ひ、故に玄の兄弟を折して素官と為す。
太元末に、出でて義興太守に補せられ、鬱鬱として志を得ず。嘗て高みに登りて震澤を望み、歎じて曰く、「父は九州の伯と為るも、兒は五湖の長と為る」と。官を棄てて國に歸る。自ら以へらく元勳の門なるも而れども謗りを世に負へば、乃ち上疏して曰く、
臣 聞くならく周公 大聖なるも而れども四國 流言し、樂毅 王佐なるも而れども謗りを騎劫に被る。巷伯 豺獸の慨有り、蘇公 飄風の刺を興す。直を惡み正を醜するは、何れの代も之無きか。先臣 國の殊遇を蒙り、皇極に姻婭す。常に身を以て報德せんと欲し、袂を投じて機に乘じ、西は巴蜀を平らげ、北は伊洛を清む。竊號の寇をして頸を北闕に繫けしめ、園陵 修復し、大恥 載ち雪ぐ。馬を灞滻に飲ませ、旌を趙魏に懸く。勤王の師、功は一捷に非ず。太和の末に、皇基 潛移の懼有り、遂に乃ち天人に奉順し、聖朝を翼登し、明離 既に朗なりて、四凶 兼せて澄む。向に使し此の功を建てず、此の事 成らずんば、宗廟の事 豈に孰念す可きか。昔 太甲 迷ふと雖も、商の祚 憂ひ無し。昌邑 昏なりと雖も、弊 三孼無し。茲に因りて言はば、晉室の機は殷漢より危ふく、先臣の功は伊霍より高し。而れども重を既往に負ひ、謗りを清時に蒙る。聖世明王の黜陟の道は、顯明の功を廢忽し、冥冥の心を探射するを聞かず。嫌謗の塗を啟き、邪枉の路を開く者なり。先臣の勤王艱難の勞、匡復克平の勳、朝廷 若し其れ之を遺はば、臣も亦た復た計らず。先帝の九五に龍飛するに至りては、陛下の繼明し南面する所以は、談ずる者に問はんことを請ふ、誰の由なるや、誰の德なるやと。豈に惟れ晉室 永安なりて、祖宗 血食のみならんや。陛下の一門に於て、實に奇功なり。
自頃 權門 日々盛なりて、醜政 實に繁なり。咸 時旨を稱述し、互相に扇附す。臣の兄弟を以て皆 晉の罪人とせば、臣ら復た何の理もて以て聖世に苟存す可き。何の顏もて以て封祿を尸饗す可き。若し陛下 先臣が大造の功を忘れ、貝錦が萋菲の說を信ずれば、臣ら自ら當に三封を奉還し、戮を市朝に受くべし。然る後に先臣に下從し、先帝に玄宮に於て歸するのみ。若し陛下 先旨を述遵し、舊勳を追錄せば、竊かに望む少しく愷悌覆蓋の恩を垂れんことを」と。
疏 寢して報せず。
玄 荊楚に在ること積年にして、優游として事無く、荊州刺史の殷仲堪 甚だ之を敬憚す。中書令の王國寶 用事するに及び、方鎮を削弱せんと謀り、內外 騷動す。王恭に憂國の言有るを知り、玄 潛かに功業に意有り、乃ち仲堪に說きて曰く、「國寶 君諸人と與に素より已に對為り。唯だ相弊の速やかならざるを患ふのみ。今 既に權要を執り、王緒と與に相 表裏を為す。其の迴易する所、志の如くならざる罔し。孝伯 元舅の地に居り、情を正し朝野の重しとする所と為る。必ず未だ便ち之を動かさず。唯だ當に君を以て事首と為すべし。君 先帝の拔く所と為り、超えて方任に居り、人情 未だ以て允と為さず。咸 謂へらく君 思致有りと雖も、方伯の人に非ずと。若し詔を發して君を徵して中書令と為し、殷顗を用て荊州と為さば、君 何を以て之に處らん」と。仲堪曰く、「之を憂ふこと久し、君 計 將に安にか出んと謂ふか」と。玄曰く、「國寶は姦兇なるは、天下の知る所なり。孝伯 疾惡の情は每に至りて當たり。今日の會、理を以て之を推すに、必ず當に人に過ぐるべし。君 若し密かに一人を遣はし、信もて王恭を說き、宜しく晉陽の師を興すべし、內を以て朝廷を匡し、己 當に荊楚の眾を悉くして流に順ひて下り、王を推して盟主と為さん。僕らも亦た皆 投袂さば、此に當たりて響應せざる無からん。此の事 既に行はば、桓文の舉なり」と。仲堪 持疑して未だ決せず。俄にして王恭の信 至り、仲堪及び玄を招きて朝廷を匡正さんとす。國寶 既に死し、是に於て兵 罷む。玄 乃ち廣州と為ることを求め、會稽王道子も亦た之を憚り、荊楚に在らしむるを欲せず、故に其の意に順ふ。
隆安の初め、詔して玄を以て督交廣二州・建威將軍・平越中郎將・廣州刺史・假節とし、玄 命を受くるも行かず。其の年、王恭 又 庾楷と與に起兵して江州刺史の王愉及び譙王尚之の兄弟を討つ。玄・仲堪 恭の事 必ず克捷すと謂ひ、一時に響應す。仲堪 玄に五千人を給し、楊佺期と與に俱に前鋒と為す。軍 湓口に至り、王愉 臨川に奔り、玄 偏將軍を遣はして追ひて之を獲ふ。
玄・佺期 石頭に至り、仲堪 蕪湖に至る。恭の將の劉牢之 恭に背きて歸順す。恭 既に死するや、庾楷 戰ひて敗れ、玄の軍に奔る。既にして詔して玄を以て江州と為し、仲堪ら皆 換易せらる。乃ち各々舟を迴して西還し、尋陽に屯し、共に相 結約し、玄を推して盟主と為す。玄 始めて志を得て、乃ち連名し上疏して王恭を申理し、尚之・牢之らを誅することを求む。朝廷 深く之を憚り、乃ち桓脩を免じて仲堪を復して以て相 和解す。
初め、玄 荊州に在りて豪縱たりて、士庶 之を憚ること、州牧よりも甚だし。仲堪の親黨 之を殺すことを勸むるも、仲堪 聽さず。尋陽に還るに及び、其の聲地を資とし、故に推して盟主と為し、玄 逾々自ら矜重たり。佺期 為人は驕悍にして、常に自ら謂へらく藉を華冑に承け、江表に比する莫しと。而れども玄 每に寒士を以て之を裁し、佺期 甚だ憾み、即ち壇所に於て玄を襲はんと欲す。仲堪 佺期兄弟の虓勇なるを惡み、玄に克つの後に復た己の害と為るを恐れ、苦に之を禁ず。是に於て各々詔を奉じて鎮に還る。玄も亦た佺期 異謀有るを知り、潛かに吞并の計有り、是に於て夏口に屯す。
隆安中、詔して玄に都督荊州四郡を加へ、兄の偉を以て輔國將軍・南蠻校尉と為す。仲堪 玄の跋扈せんことを慮り、遂に佺期と與に結婚して援と為す。初め、玄 既に仲堪・佺期と隙有り、恒に掩襲を慮り、其の統ぶる所を廣くせんことを求む。朝廷も亦た其の釁隙を成さんと欲し、故に佺期の督する所の四郡を分けて玄に與へ、佺期 甚だ忿懼す。會々姚興 洛陽を侵し、佺期 乃ち建牙し、聲して洛を援くと云ひ、密かに仲堪と與に共に玄を襲はんと欲す。仲堪 外は佺期と結ぶと雖も而れども其の心を疑ひ、距みて許さず、猶ほ能く禁ぜざるを慮り、復た從弟の遹を遣はして北境に屯して以て佺期を遏せしむ。佺期 既に獨り舉ぐる能はず、且つ仲堪の本意を測らざれば、遂に甲を息む。南蠻校尉の楊廣、佺期の兄なりて、桓偉を距まんと欲するも、仲堪 聽さず、乃ち廣を出だして宜都・建平二郡太守と為し、征虜將軍を加ふ。佺期の弟の孜敬 先に江夏相と為り、玄 兵を以て襲ひて之を召す。既に至るや、以て諮議參軍と為す。玄 是に於て軍を興して西征し、亦た聲して洛を救ふと云ひ、仲堪に書を與へて、說く佺期 國恩を受くるも山陵を棄つれば、宜しく共に之を罪とすべしと。今 親ら戎旅を率ひ、逕に金墉に造り、仲堪をして楊廣を收めしめ、如し其れ爾らずんば、以て相 信ある無しと。仲堪の本より計りて之を兩全せんと欲し、既に玄の書を得て、禁ずる能はざるを知り、乃ち曰く、「君 沔より行け、一人 江に入るを得ず」と。玄 乃ち止む。
後に荊州 大水ありて、仲堪 飢者を振恤し、倉廩 空竭たり。玄 其の虛に乘じて之を伐ち、先に軍を遣はして巴陵を襲ふ。梁州刺史の郭銓 所鎮に之くに當たり、路は夏口を經て、玄 聲して朝廷 銓を遣はして己の前鋒と為すと云ひ、乃ち授くるに江夏の眾を以てし、諸軍を督して並進せしめ、密かに兄の偉に報じて令して內應を為さしむ。偉 遑遽に為す所を知らず、乃ち自ら疏を齎して仲堪に示す。仲堪 偉を執りて質と為し、玄に書を與へしめ、辭は甚だ苦至たり。玄曰く、「仲堪の為人 專決する能はず、常に成敗の計を懷く。兒子の為に慮を作さば、我が兄 必ず憂ひ無し」と。
玄 既に巴陵に至り、仲堪 眾を遣はして之を距ぐも、玄の敗る所と為る。玄 進みて楊口に至り、又 仲堪の弟子の道護を敗り、勝に乘じて零口に至り、江陵を去ること二十里なり。仲堪 軍を遣はして數道に之を距ぐ。佺期 襄陽より來赴し、兄の廣と與に共に玄を擊つ。玄 其の銳を懼れ、乃ち軍を馬頭に退く。佺期ら方に復た玄を追ひて苦戰し、佺期 敗れ、走りて襄陽に還り、仲堪 酇城に出奔す。玄 將軍の馮該を遣はして佺期を躡し、之を獲ふ。廣 人の縛する所と為り、玄に送るや、並びに之を殺す。仲堪 佺期 死せるを聞き、乃ち數百人を將ゐて姚興に奔り、冠軍城に至り、該の得る所と為り、玄 之を害せしむ。
桓玄は字を敬道、一名を霊宝といい、大司馬の桓温の孼子(庶子)である。母の馬氏はかつて同輩とともに夜中に寝ずにいたが、月下において流星が銅盆の水のなかに墜ちるのを見た。それは二寸の火珠で、明るくて清らかであった。競って瓢ですくい取ったが、馬氏がこれを勝ち取って飲み干すと、感応があるようで、こうして桓玄を身ごもった。桓玄を生むと、光が室内を照らした。占者はこれを特別なこととし、ゆえに小名を霊宝とした。乳母が桓温に会わせるときは、いつも他の子が去った後であり、体重がふつうの子の二倍あり、桓温は格別に寵愛した。桓温が死ぬとき、継嗣とするように命じ、南郡公の爵を襲わせた。
七歳のとき、父の桓温の服喪が終わった。府州の文武の属吏らは叔父の桓沖にあいさつしたが、桓沖は桓玄の頭をなでて、「かれらはお前の家の故吏だ」と言った。桓玄は涙を流して顔を覆い、人々はみな桓玄が優れた子だと認めた。成長すると、容貌はたぐいまれで、心持ちは透き通って朗らかであった。学問も技術も万能で、文をつづるのを得意とした。つねにその才能を自負し、武勇を誇ったので、みなが桓玄を憚り、朝廷もまた(野心を)疑って登用しなかった。二十三歳のとき、はじめて太子洗馬を拝した。朝廷には桓温が不臣の跡(臣下の分限を超えた言動)があったという意見があり、ゆえに桓玄の兄弟の任官を妨げて権限のない官職だけを与えた。
太元年間の末、義興太守として地方に出され、鬱鬱として志を得なかった。かつて高みに登って震沢(太湖)を望み、慨歎して、「父は九州の伯となったが、子は五湖の長となった」と言った。官職を棄てて郷里に帰った。自分は元勲の一族であるが世間から誹謗を受けていると考え、上疏して、
「臣が聞きますに周公は大いなる聖人ですが四方から中傷され、楽毅は王業を助けましたが騎劫から批判されました。巷伯(『詩経』小雅の篇名)に(讒言をするものは)豺獣に食わせよという痛烈な言葉があり、(『詩経』小雅の何人斯に)蘇公は(毛序によれば暴公を)飄風(つむじかぜ)のよう(に方向が定まらずに心を乱す人)だと批判しました。正しきものを憎んで悪口を言うものは、どの時代にもいるのでしょう。先臣(父の桓温)は国家から特別な厚遇を受け、皇室の縁者となりました。つねに身を捧げて徳に報いようと考え、奮起して好機をつかみ、西は巴蜀を平定し、北は伊水や洛水のあたりから敵軍を追い払いました。帝号を僭称する胡族の首を北門にかけ、(西晋の)陵墓を修復し、大きな恥を雪ぎました。灞水や滻水のあたりに進出して馬に水を飲ませ、国家の旗を趙や魏の地域に立てました。勤王のための戦績は、一勝に留まりません。太和年間の末に、(海西公が廃位され)晋国の権力基盤が揺らぐと、(桓温は)天を奉り人々の支持を受け、晋国を支えて、威光が明らかになり、悪臣たちも駆逐されました。もしこの功績がなく、この成功がなければ、宗廟は存続できたでしょうか。むかし(殷の)太甲が暴虐でも、殷の国運は揺らぎませんでした。(前漢の)昌邑王が暗愚でも、禍いは波及しませんでした。これら前例に照らせば、(海西公を頂いた)晋国の危機は殷や前漢よりも危うく、(皇帝を廃立した)先臣(桓温)の功績は伊尹や霍光よりも高いのです。しかし桓氏は前歴を咎められ、当世に誹謗を受けています。明君の人材登用の道とは、功績の有無を正しく判定し、中傷の発言を聞かないことです。誹謗が盛んになれば、人材登用を誤ります。先臣(桓温)が国家のために力を尽くし、秩序を回復した勲功に対して、朝廷がこれを忘れるならば、私も国家のことを忘れます。先帝(簡文帝)が即位し、陛下(孝武帝)が即位できた理由について、批判者たちに聞いてみたいものです、いったい誰が尽力したおかげなのかと(桓温のおかげでしょう)。晋帝国が長く平安で、祖先の祭りが続くことだけでなく、陛下の一門(簡文帝の皇統)のためにも、格別の手柄があったはずです。
近年は権門が日々に盛んになり、政治の腐敗が進んでいます。みな権力者に迎合し、馴れ合っています。臣の兄弟すべてを晋国の罪人とするならば、臣たちもまた晋国で生き存える理由がありません。どんな顔をして封爵を継承できましょうか。もし陛下が先臣(桓温)が先帝を擁立した功績を忘れ、貝錦や萋菲(讒言の比喩)を信じるならば、臣たちは自ら封爵を返還し、市場で死刑になりましょう。その後に先臣と合流して、陵墓の先帝に仕えるだけです。もしも陛下が先帝の考えを尊重し、古い勲功を再評価して下さるならば、どうか寛大な措置を賜りますように」と言った。
上疏は伏せられて返答がなかった。
桓玄は荊楚の地に数年間おり、ゆったりとして政治活動をしなかったが、荊州刺史の殷仲堪はおおいに桓玄を敬い憚った。中書令の王国宝が政務をあずかると、方鎮(地方の統治官)の勢力を削ろうと考え、内外の政治が混乱した。(桓玄は)王恭に国家を憂う発言があると知り、桓玄にもひそかに権力への野心があったので、桓玄は殷仲堪に説いて、「王国宝はあなたたちと対等でしたが、いまは彼に危害を加えられないかが心配です。いま王国宝は権力の中枢におり、王緒と連携しています。王国宝が行う人事異動は、すべて彼の思い通りです。孝伯(王恭)は外戚であり、正しい見識をそなえて朝野から重んじられていますから、王恭が異動させられることはないでしょう。あなた(荊州刺史の殷仲堪)が真っ先に異動させられるはずです。あなたは先帝に抜擢され、席次を抜いて方任(荊州刺史)となりましたが、世論はこれに納得しておりません。みなあなたは思慮深いが、方伯には不適任と考えています。もし詔を発せられてあなたを中央に徴して中書令とし、殷顗を荊州刺史とすれば、あなたは荊州に居られなくなります」と言った。殷仲堪は、「ずっとそれを失敗していた。どうしたらよいか」と言った。桓玄は、「王国宝が姦凶であることは、天下が知っております。孝伯(王恭)は悪事をにくむ気持ちがあり、今日の状況からすると、必ず王国宝を嫌っておりましょう。もしあなたが内密に使者を送って、書簡で王恭を説得し、(春秋末期に晋で権臣智伯を排除した)晋陽の戦いを再現するのです。内から朝廷を正し、あなたは荊楚の全軍で長江を下り、王恭を盟主としなさい。私もまた参戦すれば、みなが呼応するでしょう。これを実行すれば、桓公や文公に等しい事業です」と言った。殷仲堪は疑って決断できなかった。にわかに王恭から書簡が到着し、殷仲堪と桓玄を中央に招いて朝廷を改革しようと誘われた。王国宝が死んだので、計画を中止した。桓玄は広州刺史の位を求めた。会稽王道子(司馬道子)も桓玄を警戒して、荊楚に居らせたくなかったので、広州刺史の地位を認めた。
隆安年間の初め、詔して桓玄を督交広二州・建威将軍・平越中郎将・広州刺史・仮節とした。桓玄は拝命したが赴任しなかった。その年、王恭はふたたび庾楷ととともに起兵して江州刺史の王愉と譙王尚之(司馬尚之)の兄弟を討伐した。桓玄と殷仲堪は王恭が必ず勝つと考え、同時に呼応した。殷仲堪は桓玄に五千人を給し、楊佺期とともに先鋒とした。軍が湓口に到達したころ、王愉が臨川に逃げたので、桓玄は偏将軍を派遣して追って捕らえた。
桓玄と楊佺期は石頭に至り、殷仲堪は蕪湖に至った。王恭の将の劉牢之が王恭に背いて(東晋に)帰順した。王恭が死ぬと、庾楷は戦って敗れ、桓玄の軍に逃げてきた。戦役が終わると桓玄を江州とし、殷仲堪らはみな配置換えになった。これを受けてそれぞれ船を転換させて西に帰り、尋陽に駐屯して、みなで盟約して、桓玄を盟主とした。桓玄ははじめて志を得て、連名で上疏して王恭のために申し開き、司馬尚之と劉牢之らを誅殺することを求めた。朝廷は桓玄らをひどく憚り、桓脩を罷免して殷仲堪を復職させて和解とした。
これよりさき、桓玄は荊州にあって権勢が強く、荊州の士庶は、桓玄を州牧よりも憚った。殷仲堪の仲間は桓玄を殺害せよと進めたが、殷仲堪は認めなかった。尋陽に帰還すると、荊州での声望をもとでに、桓玄は盟主に推薦されたので、ますます傲慢になった。楊佺期は強く勇ましい人柄で、つねに自分こそ名族の出身で、江南に並ぶものがいないと誇っていた。しかし桓玄は楊佺期を寒門出身者のように取り扱ったので、楊佺期はひどく怨み、(盟約の)壇上で桓玄を襲撃しようとした。殷仲堪は楊佺期兄弟の蛮勇を嫌い、さらに(楊佺期が)桓玄を討てば次が自分が狙われると予測し、襲撃を厳しく禁じた。ここにおいて各人は詔を奉じて鎮所に還った。桓玄もまた楊佺期に害意があることを知り、ひそかに楊佺期の勢力を吸収してやろうと考え、夏口に駐屯した。
隆安年間に、詔して桓玄に都督荊州四郡を加え、兄の桓偉を輔国将軍・南蛮校尉とした。殷仲堪は桓玄の勢力伸長を警戒し、楊佺期と婚姻を結んで味方に引き込んだ。これよりさき、桓玄は殷仲堪・楊佺期の二者と対立し、挟み撃ちを恐れて、統治範囲の拡大を申請した。朝廷もまた彼らを潰し合わせようと考え、楊佺期が統治する四郡を分割して桓玄に与えたので、楊佺期はひどく怒り懼れた。たまたま姚興(後秦)が洛陽を侵略したので、楊佺期は軍を起こし、洛陽の救援だと喧伝しながら、ひそかに殷仲堪とともに桓玄を襲撃しようとした。殷仲堪は表面上は楊佺期と結んでいたが内心は疑っており、襲撃の誘いを断った。殷仲堪は窮地に陥ることを心配し、従弟の殷遹を派遣して国の北方に駐屯させて楊佺期を防いだ。楊佺期は単独では桓玄の討伐ができず、かつ殷仲堪の本心が分からないので、軍役を中止した。南蛮校尉の楊広は、楊佺期の兄であり、桓偉を排除しようとしたが、殷仲堪がこれを許さなかった。(楊佺期は)楊広を転出させて宜都・建平二郡太守とし、征虜将軍を加えた。楊佺期の弟の楊孜敬はさきに江夏相となっていたが、桓玄は兵で襲撃して楊孜敬を出頭させた。楊孜敬が桓玄のもとにやって来ると、諮議参軍とした。ここにおいて桓玄は軍を興して西方を征伐し、また洛陽の救援を名目としながら、殷仲堪に書簡を与えて、「楊佺期は国家の恩を受けながらも(洛陽を救援せず)陵墓を見捨てたので、この罪状を問うべきだ。いま私が軍隊をひきい、まっすぐ(洛陽のそばの)金墉に到達するだろう。あなた(殷仲堪)は楊広を捕らえよ。もし従わないならば、あなたを信用しない」と言った。殷仲堪はこれまで桓玄とも楊佺期とも繋がっていたが、桓玄の書簡を受け取って、もはや桓玄を止められないと悟り、「あなたは沔水から進んで下さい、ひとりでは長江に入れない」と言った。桓玄は軍役を中止した。
のちに荊州で洪水があると、殷仲堪は飢えた者を救済し、倉庫の備蓄がなくなった。桓玄はその虚に乗じて荊州を攻め、先に軍を送って巴陵を襲った。梁州刺史の郭銓は任地に行くにあたり、夏口を経由したが、桓玄は朝廷が郭銓を派遣してわが(桓玄)軍の先鋒にしたと言い触らし、郭銓に江夏の軍を授け、諸軍を督して並進させた。密かに兄の桓偉に連絡して内応を誘った。桓偉はにわかに行動を決められず、自ら書簡を持って殷仲堪に見せに行った。殷仲堪は桓偉を捕らえて人質とし、(桓偉から)桓玄に書簡を送らせたが、その言葉はひどく苦しいものであった。桓玄は、「殷仲堪は決断力に乏しく、失敗した場合に保険をかける。子供のために安全策を選ぶので、わが兄が殺されることはない」と言った。
桓玄が巴陵に到着すると、殷仲堪は兵を送ってこれを迎え撃ったが、桓玄に敗れた。桓玄が進んで楊口に到達し、また殷仲堪の弟の子の殷道護を撃破し、勝ちに乗じて零口に至り、江陵の二十里手前まで迫った。殷仲堪は軍を送って数道から桓玄を防いだ。楊佺期が襄陽から駆けつけ、兄の楊広とともに桓玄を攻撃した。桓玄は猛攻を懼れ、軍を馬頭に退けた。楊佺期らが桓玄を追撃したが苦戦し、楊佺期は敗れ、襄陽に逃げ帰り、殷仲堪は酇城に出奔した。桓玄は将軍の馮該を派遣して楊佺期を追跡し、これを捕らえた。楊広は捕縛され、桓玄に身柄を送り届けられ、桓玄はこれも殺した。殷仲堪は楊佺期が死んだと聞き、数百人を連れて(後秦)姚興のもとに逃げたが、冠軍城に来たところで、馮該に捕らえられ、桓玄はこれを殺害させた。
於是遂平荊雍、乃表求領江・荊二州。詔以玄都督荊司雍秦梁益寧七州・後將軍・荊州刺史・假節、以桓脩為江州刺史。玄上疏固爭江州、於是進督八州及楊豫八郡、復領江州刺史。玄又輒以偉為冠軍將軍・雍州刺史。時寇賊未平、朝廷難違其意、許之。玄於是樹用腹心、兵馬日盛、屢上疏求討孫恩、詔輒不許。其後恩逼京都、玄建牙聚眾、外託勤王、實欲觀釁而進、復上疏請討之。會恩已走、玄又奉詔解嚴。以偉為江州、鎮夏口。司馬刁暢為輔國將軍、督八郡、鎮襄陽。遣桓振・皇甫敷・馮該等戍湓口。移沮漳蠻二千戶於江南、立武寧郡。更招集流人、立綏安郡。又置諸郡丞。詔徵廣州刺史刁逵・豫章太守郭昶之、玄皆留不遣。自謂三分有二、知勢運所歸、屢上禎祥以為己瑞。
初、庾楷既奔於玄、玄之求討孫恩也、以為右將軍。玄既解嚴、楷亦去職。楷以玄方與朝廷構怨、恐事不克、禍及於己、乃密結於後將軍元顯、許為內應。元興初、元顯稱詔伐玄、玄從兄石生時為太傅長史、密書報玄。玄本謂揚土饑饉、孫恩未滅、必未遑討己、可得蓄力養眾、觀釁而動。既聞元顯將伐之、甚懼、欲保江陵。長史卞範之說玄曰、「公英略威名振於天下、元顯口尚乳臭、劉牢之大失物情、若兵臨近畿、示以威賞、則土崩之勢可翹足而待、何有延敵入境自取蹙弱者乎」。玄大悅、乃留其兄偉守江陵、抗表率眾、下至尋陽、移檄京邑、罪狀元顯。檄至、元顯大懼、下船而不克發。玄既失人情、而興師犯順、慮眾不為用、恒有迴旆之計。既過尋陽、不見王師、意甚悅、其將吏亦振。庾楷謀泄、收縶之。至姑孰、使其將馮該・苻宏・皇甫敷・索元等先攻譙王尚之、尚之敗。劉牢之遣子敬宣詣玄降。
玄至新亭、元顯自潰。玄入京師、矯詔曰、「義旗雲集、罪在元顯。太傅已別有教、其解嚴息甲、以副義心」。又矯詔加己總百揆、侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書事・揚州牧、領徐州刺史、又加假黃鉞・羽葆鼓吹・班劍二十人、置左右長史・司馬・從事中郎四人、甲仗二百人上殿。玄表列太傅道子及元顯之惡、徙道子於安成郡、害元顯於市。於是玄入居太傅府、害太傅中郎毛泰・泰弟游擊將軍邃・太傅參軍荀遜・前豫州刺史庾楷父子・吏部郎袁遵・譙王尚之等、流尚之弟丹楊尹恢之・廣晉伯允之・驃騎長史王誕・太傅主簿毛遁等於交廣諸郡、尋追害恢之・允之於道。以兄偉為安西將軍・荊州刺史、領南蠻校尉、從兄謙為左僕射・加中軍將軍・領選、脩為右將軍・徐兗二州刺史、石生為前將軍・江州刺史、長史卞範之為建武將軍・丹楊尹、王謐為中書令・領軍將軍。大赦、改元為大亨。玄讓丞相、自署太尉・領平西將軍・豫州刺史。又加袞冕之服、綠綟綬、增班劍為六十人、劍履上殿、入朝不趨、讚奏不名。
玄將出居姑孰、訪之於眾、王謐對曰、「公羊有言、周公何以不之魯。欲天下一乎周也。願靜根本、以公旦為心」。玄善其對而不能從。遂大築城府、臺館山池莫不壯麗、乃出鎮焉。既至姑孰、固辭錄尚書事、詔許之、而大政皆諮焉、小事則決於桓謙・卞範之。
自禍難屢構、干戈不戢、百姓厭之、思歸一統。及玄初至也、黜凡佞、擢儁賢、君子之道粗備、京師欣然。後乃陵侮朝廷、幽擯宰輔、豪奢縱欲、眾務繁興、於是朝野失望、人不安業。時會稽饑荒、玄令賑貸之。百姓散在江湖採梠、內史王愉悉召之還。請米、米既不多、吏不時給、頓仆道路死者十八九焉。玄又害吳興太守高素・輔國將軍竺謙之・謙之從兄高平相朗之・輔國將軍劉襲・襲弟彭城內史季武・冠軍將軍孫無終等、皆牢之之黨、北府舊將也。襲兄冀州刺史軌及寧朔將軍高雅之・牢之子敬宣並奔慕容德。玄諷朝廷以己平元顯功、封豫章公、食安成郡地方二百二十五里、邑七千五百戶。平仲堪・佺期功、封桂陽郡公、地方七十五里、邑二千五百戶。本封南郡如故。玄以豫章改封息昇、桂陽郡公賜兄子1.(俊)〔濬〕、降為西道縣公。又發詔為桓溫諱、有姓名同者一皆改之、贈其母馬氏豫章公太夫人。
元興二年、玄詐表請平姚興、又諷朝廷作詔、不許。玄本無資力、而好為大言、既不克行、乃云奉詔故止。初欲飾裝、無他處分、先使作輕舸、載服玩及書畫等物。或諫之、玄曰、「書畫服玩既宜恒在左右、且兵凶戰危、脫有不意、當使輕而易運」。眾咸笑之。
1.中華書局本の校勘記に従い、「俊」を「濬」に改める。
是に於て遂に荊雍を平らげ、乃ち表して江・荊二州を領することを求む。詔して玄を以て都督荊司雍秦梁益寧七州・後將軍・荊州刺史・假節とし、桓脩を以て江州刺史と為す。玄 上疏して江州を固爭し、是に於て督八州及楊豫八郡に進み、復た江州刺史を領す。玄 又 輒ち偉を以て冠軍將軍・雍州刺史と為す。時に寇賊 未だ平らかならず、朝廷 其の意に違ひ難く、之を許す。玄 是に於て腹心を樹用し、兵馬 日々盛んにして、屢々上疏して孫恩を討つことを求むるも、詔して輒ち許さず。其の後に恩 京都に逼るや、玄 牙を建て眾を聚め、外は勤王に託し、實は釁を觀て進まんと欲し、復た上疏して之を討つことを請ふ。會々恩 已に走り、玄 又 詔を奉じて嚴を解く。偉を以て江州と為し、夏口に鎮せしむ。司馬の刁暢もて輔國將軍と為し、八郡を督し、襄陽に鎮せしむ。桓振・皇甫敷・馮該らを遣はして湓口を戍らしむ。沮漳蠻二千戶を江南に移し、武寧郡を立つ。更めて流人を招集し、綏安郡を立つ。又 諸々の郡丞を置く。詔して廣州刺史の刁逵・豫章太守の郭昶之を徵すも、玄 皆 留めて遣らず。自ら謂へらく三分して二を有ち、勢運 歸する所を知り、屢々禎祥を上して以て己の瑞と為す。
初め、庾楷 既に玄に奔り、玄の孫恩を討つことを求むるや、以て右將軍と為す。玄 既に嚴を解き、楷も亦た職を去る。楷 以へらく玄 方に朝廷と構怨し、事の克たず、禍 己に及ぶを恐れ、乃ち密かに後將軍の元顯に結び、內應を為すを許す。元興の初め、元顯 詔と稱して玄を伐ち、玄が從兄の石生 時に太傅長史為りて、密書もて玄に報ず。玄 本より謂へらく揚土 饑饉にして、孫恩 未だ滅せず、必ず未だ己を討つ遑あらず、力を蓄へて眾を養ひて、釁を觀て動くことを得可しと。既に元顯 將に之を伐つと聞き、甚だ懼れ、江陵を保たんと欲す。長史の卞範之 玄に說きて曰く、「公の英略威名 天下を振はせ、元顯は口 尚ほ乳臭にして、劉牢之 大いに物情を失ふ。若し兵 近畿に臨み、示すに威賞を以てせば、則ち土崩の勢 翹足して待つ可し。何ぞ敵の入境を延して自ら蹙弱なる者を取ること有るか」と。玄 大いに悅び、乃ち其の兄の偉を留めて江陵を守らしめ、表を抗して眾を率ゐ、下りて尋陽に至り、檄を京邑に移し、元顯を罪狀す。檄 至るや、元顯 大いに懼れ、船を下りて克く發せず。玄 既に人情を失ひ、而れども師を興し順を犯し、眾 用と為らざるを慮り、恒に迴旆の計有り。既に尋陽を過り、王師を見ざれば、意 甚だ悅び、其の將吏も亦た振ふ。庾楷の謀 泄れ、之を收縶す。姑孰に至り、其の將の馮該・苻宏・皇甫敷・索元らをして先に譙王尚之を攻めしめ、尚之 敗る。劉牢之 子の敬宣を遣はして玄に詣りて降る。
玄 新亭に至るや、元顯 自潰す。玄 京師に入り、詔を矯して曰く、「義旗 雲集し、罪は元顯に在り。太傅 已に別に教有り、其れ解嚴息甲し、以て義心に副へ」と。又 詔を矯して己に總百揆を加へ、侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書事・揚州牧、領徐州刺史、又 假黃鉞・羽葆鼓吹・班劍二十人を加へ、左右長史・司馬・從事中郎四人を置き、甲仗二百人もて上殿す。玄 表して太傅道子及び元顯の惡を列し、道子を安成郡に徙し、元顯を市に害す。是に於て玄 入りて太傅府に居り、太傅中郎の毛泰・泰が弟の游擊將軍の邃・太傅參軍の荀遜・前豫州刺史の庾楷父子・吏部郎の袁遵・譙王尚之らを害し、尚之の弟たる丹楊尹の恢之・廣晉伯の允之・驃騎長史の王誕・太傅主簿の毛遁らを交廣の諸郡に流し、尋いで追ひて恢之・允之を道に於て害す。兄の偉を以て安西將軍・荊州刺史、領南蠻校尉と為し、從兄の謙もて左僕射・加中軍將軍・領選と為し、脩もて右將軍・徐兗二州刺史と為し、石生もて前將軍・江州刺史と為し、長史の卞範之もて建武將軍・丹楊尹と為し、王謐もて中書令・領軍將軍と為す。大赦し、改元して大亨と為す。玄 丞相を讓し、自ら太尉・領平西將軍・豫州刺史に署す。又 袞冕の服、綠綟綬を加へ、班劍を增して六十人と為し、劍履上殿、入朝不趨、讚奏不名とす。
玄 將に出でて姑孰に居らんとし、之を眾に訪ぬるに、王謐 對して曰く、「公羊に言有り、周公 何を以て魯に之かざる。天下を周に一ならしめんと欲せばなり。願はくは根本を靜にし、公旦を以て心と為せ」と。玄 其の對を善とするも而れども從ふ能はず。遂に大いに城府を築き、臺館山池は壯麗ならざる莫く、乃ち出鎮す。既に姑孰に至るや、錄尚書事を固辭し、詔して之を許し、而れども大政 皆 焉を諮り、小事は則ち桓謙・卞範之に於て決せらる。
禍難 屢々構し、干戈 戢まざるより、百姓 之を厭ひ、一統に歸するを思ふ。玄 初めて至るに及ぶや、凡佞を黜し、儁賢を擢し、君子の道 粗ぼ備はり、京師 欣然たり。後に乃ち朝廷を陵侮し、宰輔を幽擯し、豪奢 縱欲たりて、眾務 繁興なり。是に於て朝野 失望し、人 業に安ぜず。時に會稽 饑荒たりて、玄 之を賑貸せしむ。百姓 散じて江湖に在りて梠を採る。內史の王愉 悉く之を召して還らしむ。米を請ふも、米 既に多からざれば、吏は時に給せず、道路に頓仆して死する者は十に八九なり。玄 又 吳興太守の高素・輔國將軍の竺謙之・謙之の從兄たる高平相の朗之・輔國將軍の劉襲・襲が弟の彭城內史たる季武・冠軍將軍の孫無終らを害す。皆 牢之の黨にして、北府の舊將なり。襲が兄の冀州刺史の軌及び寧朔將軍の高雅之・牢之が子の敬宣 並びに慕容德に奔る。玄 朝廷を諷して己が元顯を平らぐるの功を以て、豫章公に封じ、安成郡の地の方二百二十五里、邑七千五百戶を食む。仲堪・佺期を平らぐるの功もて、桂陽郡公に封ぜられ、地は方七十五里、邑二千五百戶なり。本封の南郡 故の如し。玄 豫章を以て息の昇を改封し、桂陽郡公賜の兄の子の濬もて、降して西道縣公と為す。又 詔を發して桓溫の為に諱み、姓名 同じなる者有らば一に皆 之を改めしめ、其の母の馬氏に豫章公太夫人を贈る。
元興二年、玄 表を詐りて姚興を平らげんことを請ひ、又 朝廷を諷して詔を作り、許さず。玄 本は資力無く、而れども大言を為すを好み、既に克く行はざれば、乃ち詔を奉じて故に止むと云ふ。初め飾裝せんと欲し、他の處分無ければ、先に輕舸を作らしめ、服玩及び書畫らの物を載せしむ。或ひと之を諫むるに、玄曰く、「書畫服玩は既に宜しく恒に左右に在るべし。且つ兵凶戰危、脫し不意有らば、當に輕くて運び易し」と。眾 咸 之を笑ふ。
ここにおいて荊州と雍州を平定し、これを受けて上表して江・荊二州を領することを求めた。詔して桓玄を都督荊司雍秦梁益寧七州・後将軍・荊州刺史・仮節とし、桓脩を江州刺史とした。桓玄は上疏して江州刺史の地位を強く要求し、ここにおいて督八州及楊豫八郡に進み、また江州刺史も領した。桓玄は桓偉を冠軍将軍・雍州刺史とすることをねじ込んだ。このとき寇賊がまだ平定されず、朝廷は桓玄の意向に逆らえず、これを許した。桓玄はここにおいて腹心を登用し、兵馬が日々に盛んになり、しばしば上疏して孫恩の討伐を申請したが、詔してすべて却下した。その後に孫恩が京都(建康)に逼ると、桓玄は軍旗を掲げて軍隊を集め、勤王を名目として、実態は隙をついて自分の影響力を増そうとし、くり返し上疏して孫恩の討伐を申請した。たまたま孫恩が敗走すると、桓玄は詔を奉って戒厳を解除した。桓偉を江州刺史とし、夏口に鎮させた。司馬の刁暢を輔国将軍とし、八郡を督し、襄陽に鎮させた。桓振・皇甫敷・馮該らを派遣して湓口を守らせた。沮漳蛮の二千戸を江南に移し、武寧郡を設立した。追加で流人を招集し、綏安郡を設立した。また各地に郡丞を設置した。詔して広州刺史の刁逵・豫章太守の郭昶之を朝廷に徴したが、桓玄は彼らを任地に留まらせた。桓玄は国土の三分の二を保有し、権勢と天命が自分に帰属していると感じ、しばしば瑞祥を報告して自分(桓氏の王朝)にとっての瑞祥と見なした。
これよりさき、庾楷は桓玄のもとに逃げ込んでおり、桓玄が孫恩の討伐を申請すると、庾楷を右将軍とした。(孫恩の軍が首都を離れ)桓玄が戒厳を解くと、庾楷も右将軍を解任された。庾楷は桓玄が朝廷と対立しつつあり、桓玄が失敗して、禍いが自分にも及ぶと考え、秘かに後将軍の司馬元顕と結んで、内応を約束した。元興年間の初め、司馬元顕が詔と称して桓玄を討伐しようとした。桓玄の従兄の桓石生はこのとき太傅長史であり、密書で桓玄に通知した。桓玄はもともと揚州の地は飢饉で、孫恩がまだ滅びず、朝廷には自分を討伐する余裕がないため、力を蓄えて兵を養い、朝廷の隙を突けると考えていた。しかし司馬元顕が自分の討伐に着手したと聞き、とても懼れ、江陵に籠もろうとした。長史の卞範之が桓玄に説いて、「あなたさまの英略と威名は天下を振わせ、対する司馬元顕はまだ乳臭い若者であり、劉牢之は世論の支持を失ってしまう。もし兵を率いて首都に接近し、勢威と賞罰を明らかにすれば、(司馬元顕の)朝廷の軍はたちまち崩壊するでしょう。どうして敵を本拠地まで引き込んで不利な状況を作るのですか」と言った。桓玄はとても悦び、兄の桓偉を留めて江陵を守らせ、上表して兵を率い、長江を下って尋陽に至り、檄を京邑に移し、司馬元顕の罪を糾弾した。檄が到着すると、司馬元顕は大いに懼れ、船を下りて進発をやめた。桓玄は朝廷から反感を買い、しかも不正な軍役を起こしているため、兵士が役に立たないことを恐れ、引き返すことも考えていた。しかし尋陽を通過し、朝廷の軍が迎撃にやって来ないので、とても悦び、将吏も士気を上げた。庾楷は(桓玄を排除する)計画が漏れ、身柄が拘束された。姑孰に至ると、その将の馮該・苻宏・皇甫敷・索元らに先に譙王尚之(司馬尚之)を攻撃させ、司馬尚之を破った。劉牢之は子の劉敬宣をよこして桓玄に降伏した。
桓玄が新亭に到着すると、司馬元顕の軍は自壊した。桓玄は建康に入り、詔を偽造して、「義旗が雲のように集まったが、その罪は司馬元顕にある。太傅(司馬道子)に対する措置は別に教書がある。戒厳をやめて武装解除し、義心の通りにせよ」と言った。また詔を偽造して自分に政務全般の権限を付与し、侍中・都督中外諸軍事・丞相・録尚書事・揚州牧、領徐州刺史とし、さらに仮黄鉞・羽葆鼓吹・班剣二十人を加え、左右長史・司馬・従事中郎四人を置き、甲仗二百人で上殿した。桓玄は上表して太傅の司馬道子及び司馬元顕の悪事を列挙し、司馬道子を安成郡に移し、司馬元顕を市で死刑にした。ここにおいて桓玄は太傅府に入って自分の役所とし、太傅中郎の毛泰・毛泰の弟の游撃将軍の毛邃・太傅参軍の荀遜・前豫州刺史の庾楷父子・吏部郎の袁遵・譙王尚之(司馬尚之)らを殺害し、司馬尚之の弟である丹楊尹の司馬恢之・広晋伯の司馬允之・驃騎長史の王誕・太傅主簿の毛遁らを交州や広州の諸郡に流し、すぐに追いかけて司馬恢之・司馬允之を道中で殺害した。兄の桓偉を安西将軍・荊州刺史、領南蛮校尉とし、従兄の桓謙を左僕射・加中軍将軍・領選とし、桓脩を右将軍・徐兗二州刺史とし、桓石生を前将軍・江州刺史とし、長史の卞範之を建武将軍・丹楊尹とし、王謐を中書令・領軍将軍とした。大赦し、改元して大亨とした。桓玄は丞相を辞退し、自分を太尉・領平西将軍・豫州刺史に任命した。さらに袞冕の服、綠綟綬を加え、班剣を増やして六十人とし、剣履上殿、入朝不趨、讚奏不名の特権を付加した。
桓玄が建康を出て姑孰で政務を執ろうとして、群臣の意見を求めると、王謐が回答して、「公羊伝に、なぜ周公旦が(封国の)魯に赴任しなかったのか、天下の心を周の都に集中させたかったからだ、とあります(『春秋公羊伝』文公十三年)。どうか国家の中心を安定させ、周公旦を手本として下さい」と言った。桓玄はこの回答を善しとしたが従うことができなかった。こうして姑孰に大規模な城府を築き、台館の山池は壮麗でないところがなく、桓玄はここに出鎮した。姑孰に来ると、録尚書事を固辞し、詔で辞退を許したが、政務の重要事項はすべて桓玄が決め、小さな事案のみ桓謙・卞範之が決裁した。
禍難がしばしば起こり、戦争がやまないので、万民はこれを憂い、政治の安定を願った。桓玄が朝廷に乗り込むと、侫臣を追放し、俊賢を抜擢して、君子の道がほぼ備わったので、京師では桓玄を歓迎した。のちに桓玄が朝廷をあなどり、宰相を幽閉し、ほしいままに奢侈をして、労役が煩雑となった。ここにおいて朝野は失望し、生業が脅かされた。このとき会稽では不作であり、桓玄は住民に貸し出しをおこなった。百姓は逃散して江湖に入って横木を採った。内史の王愉は百姓たちを本籍地に帰らせた。米を欲したが、在庫が少ないので、吏は必要なときに支給できず、道路で倒れて死ぬものが十人に八、九人であった。桓玄はまた呉興太守の高素・輔国将軍の竺謙之・竺謙之の従兄である高平相の竺朗之・輔国将軍の劉襲・劉襲の弟で彭城内史である劉季武・冠軍将軍の孫無終らを殺害した。彼らはみな劉牢之の派閥に属し、北府の旧将であった。劉襲の兄の冀州刺史の劉軌及び寧朔将軍の高雅之・劉牢之の子の劉敬宣はすべて慕容徳のもとに逃げ去った。桓玄は朝廷を操作して司馬元顕を平定した功績の対価として、自分を豫章公に封建し、安成郡で地は方二百二十五里、邑は七千五百戸を食んだ。殷仲堪・楊佺期を平定した功績の対価として、自分を桂陽郡公に封建し、地は方七十五里、邑は二千五百戸とした。もとの封地の南郡は現状のままとした。桓玄は豫章に息子の桓昇を改封し、桂陽郡公の桓賜の兄の子の桓濬を、西道県公に降格した。さらに詔を発して桓温の名の使用を禁じ、姓名が同じものはすべて変更させた。桓玄は母の馬氏に豫章公太夫人の称号を贈った。
元興二年、桓玄は姚興(後秦)を平定したいという上表を粉飾し、さらに朝廷を動かして詔を作り、遠征を不許可とした。桓玄はもともと器量も実力もない人物だが、大言壮語を好み、もしも実行できないことがあれば、詔に制止されたという体裁をとった。服や文物で自分を飾ろうとしたが、ものを置く場所がなかったので、さきに軽舸(小型の軽舟)を作らせ、衣服と玩物や書画を乗せた。あるひとが諫めると、桓玄は、「書画や衣服などはつねに左右に置くべきものだ。もし戦争のとき、危機に陥っても、軽くて持ち運びやすい」と言った。人々はみなこれを笑った。
是歲、玄兄偉卒、贈開府・驃騎將軍、以桓脩代之。從事中郎曹靖之說玄以桓脩兄弟職居內外、恐權傾天下、玄納之、乃以南郡相桓石康為西中郎將・荊州刺史。偉服始以公除、玄便作樂。初奏、玄撫節慟哭、既而收淚盡歡。玄所親仗唯偉、偉既死、玄乃孤危。而不臣之迹已著、自知怨滿天下、欲速定篡逆、殷仲文・卞範之等又共催促之、於是先改授羣司、解琅邪王司徒、遷太宰、加殊禮、以桓謙為侍中・衞將軍・開府・錄尚書事、王謐散騎常侍・中書監、領司徒、桓胤中書令、加桓脩散騎常侍・撫軍大將軍。置學官、教授二品子弟數百人。又矯詔加其相國、總百揆、封南郡・南平・宜都・天門・零陵・營陽・桂陽・衡陽・義陽・建平十郡為楚王、揚州牧、領平西將軍・豫州刺史如故、加九錫備物、楚國置丞相已下、一遵舊典。又諷天子御前殿而策授焉。玄屢偽讓、詔遣百僚敦勸、又云、「當親降鑾輿乃受命」。矯詔贈父溫為楚王、南康公主為楚王后。以平西長史劉瑾為尚書、刁逵為中領軍、王嘏為太常、殷叔文為左衞、皇甫敷為右衞、凡眾官合六十餘人、為楚官屬。玄解平西・豫州、以平西文武配相國府。
新野人庾仄聞玄受九錫、乃起義兵、襲馮該於襄陽、走之。仄有眾七千、於城南設壇、祭祖宗七廟。南蠻參軍庾彬・安西參軍楊道護・江安令鄧襄子謀為內應。仄本仲堪黨、桓偉既死、石康未至、故乘間而發、江陵震動。桓濟之子亮起兵於羅縣、自號平南將軍・湘州刺史、以討仄為名。南蠻校尉羊僧壽與石康共攻襄陽、仄眾散、奔姚興、彬等皆遇害。長沙相陶延壽以亮乘亂起兵、遣收之。玄徙亮於衡陽、誅其同謀桓奧等。
玄偽上表求歸藩、又自作詔留之、遣使宣旨、玄又上表固請、又諷天子作手詔固留焉。玄好逞偽辭、塵穢簡牘、皆此類也。謂代謝之際宜有禎祥、乃密令所在上臨平湖開除清朗、使眾官集賀。矯詔曰、「靈瑞之事非所敢聞也、斯誠相國至德、故事為之應。太平之化、於是乎始、六合同悅、情何可言」。又詐云江州甘露降王成基家竹上。玄以歷代咸有肥遁之士、而己世獨無、乃徵皇甫謐六世孫希之為著作、并給其資用、皆令讓而不受、號曰高士、時人名為「充隱」。議復肉刑、斷錢貨、迴復改異、造革紛紜、志無一定、條制森然、動害政理。性貪鄙、好奇異、尤愛寶物、珠玉不離於手。人士有法書好畫及佳園宅者、悉欲歸己、猶難逼奪之、皆蒱博而取。遣臣佐四出、掘果移竹、不遠數千里、百姓佳果美竹無復遺餘。信悅諂譽、逆忤讜言、或奪其所憎與其所愛。
十一月、玄矯制加其冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乘金根車、駕六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、樂儛八佾、設鍾虡宮縣、妃為王后、世子為太子、其女及孫爵命之號皆如舊制。玄乃多斥朝臣為太宰僚佐、又矯詔使王謐兼太保、領司徒、奉皇帝璽禪位於己。又諷帝以禪位告廟、出居永安宮、移晉神主於琅邪廟。
初、玄恐帝不肯為手詔、又慮璽不可得、逼臨川王寶請帝自為手詔、因奪取璽。比臨軒、璽已久出、玄甚喜。百官到姑孰勸玄僭偽位、玄偽讓、朝臣固請、玄乃於城南七里立郊、登壇篡位、以玄牡告天、百僚陪列、而儀注不備、忘稱萬歲、又不易帝諱。榜為文告天皇后帝云、「晉帝欽若景運、敬順明命、以命于玄。夫天工人代、帝王所以興、匪君莫治、惟德司其元、故承天理物、必由一統。並聖不可以二君、非賢不可以無主、故世換五帝、鼎遷三代。爰暨漢魏、咸歸勳烈。晉自中葉、仍世多故、海西之亂、皇祚殆移、九代廓寧之功、升明黜陟之勳、微禹之德、左衽將及。太元之末、君子道消、積釁基亂。鍾於隆安、禍延士庶、理絕人倫。玄雖身在草澤、見棄時班、義情理感、胡能無慨。投袂克清之勞、阿衡撥亂之績、皆仰憑先德遺愛之利、玄何功焉。屬當理運之會、猥集樂推之數、以寡昧之身踵下武之重、膺革泰之始、託王公之上、誠仰藉洪基、德漸有由。夕惕祗懷、罔知攸厝。君位不可以久虛、人神不可以乏饗、是用敢不奉以欽恭大禮、敬簡良辰、升壇受禪、告類上帝、以永綏眾望、式孚萬邦、惟明靈是饗」。
乃下書曰、「夫三才相資、天人所以成功、理由一統、貞夫所以司契、帝王之興、其源深矣。自三五已降、世代參差、雖所由或殊、其歸一也。朕皇考宣武王聖德高邈、誕啟洪基、景命攸歸、理貫自昔。中間屯險、弗克負荷、仰瞻宏業、殆若綴旒。藉否終之運、遇時來之會、用獲除姦救溺、拯拔人倫。晉氏以多難荐臻、曆數唯既、典章唐虞之準、述遵漢魏之則、用集天祿於朕躬。惟德不敏、辭不獲命、稽若令典、遂升壇燎于南郊、受終于文祖。思覃斯慶、願與億兆聿茲更始」。於是大赦、改元永始、賜天下爵二級、孝悌力田人三級、鰥寡孤獨不能自存者穀人五斛。其賞賜之制、徒設空文、無其實也。初出偽詔、改年為建始、右丞王悠之曰、「建始、趙王倫偽號也」。又改為永始、復是王莽始執權之歲、其兆號不祥、冥符僭逆如此。又下書曰、「夫三恪作賓、有自來矣。爰暨漢魏、咸建疆宇。晉氏欽若曆數、禪位于朕躬、宜則是古訓、授茲茅土。以南康之平固縣奉晉帝為平固王、車旗正朔一如舊典」。遷帝居尋陽、即陳留王處鄴宮故事。降永安皇后為零陵君、琅邪王為石陽縣公、武陵王遵為彭澤縣侯。追尊其父溫宣武皇帝、廟稱太廟、南康公主為宣皇后。封子昇為豫章郡王、叔父雲孫放之為寧都縣王、豁孫稚玉為臨沅縣王、豁次子石康為右將軍・武陵郡王、祕子蔚為醴陵縣王、贈沖太傅・宣城郡王、加殊禮、依晉安平王故事、以孫胤襲爵、為吏部尚書、沖次子謙為揚州刺史・新安郡王、謙弟脩為撫軍大將軍・安成郡王、兄歆臨賀縣王、禕富陽縣王、贈偉侍中・大將軍・義興郡王、以子濬襲爵、為輔國將軍、濬弟邈西昌縣王。封王謐為武昌公、班劍二十人、卞範之為臨汝公、殷仲文為東興公、馮該為魚復侯。又降始安郡公為縣公、長沙為臨湘縣公、廬陵為巴丘縣公、各千戶。其康樂・武昌・南昌・望蔡・建興・永脩・觀陽皆降封百戶、公侯之號如故。又普進諸征鎮軍號各有差。以相國左長史王綏為中書令。崇桓謙母庾氏為宣城太妃、加殊禮、給以輦乘。號溫墓曰永崇陵、置守衞四十人。
玄入建康宮、逆風迅激、旍旗儀飾皆傾偃。及小會于西堂、設妓樂、殿上施絳綾帳、縷黃金為顏、四角作金龍、頭銜五色羽葆旒蘇、羣臣竊相謂曰、「此頗似轜車、亦王莽仙蓋之流也。龍角、所謂亢龍有悔者也」。又造金根車、駕六馬。是月、玄臨聽訟觀閱囚徒、罪無輕重、多被原放。有干輿乞者、時或卹之。其好行小惠如此。自以水德、壬辰、臘1.(子)〔于〕祖。改尚書都官郎為賊曹、又增置五校・三將及強弩・積射武衞官。元興三年、玄之永始二年也、尚書答「春蒐」字誤為「春菟」、凡所關署皆被降黜。玄大綱不理、而糾擿纖微、皆此類也。以其妻劉氏為皇后、將修殿宇、乃移入東宮。又開東掖・平昌・廣莫及宮殿諸門、皆為三道。更造大輦、容三十人坐、以二百人舁之。性好畋遊、以體大不堪乘馬、又作徘徊輿、施轉關、令迴動無滯。既不追尊祖曾、疑其禮儀、問於羣臣。散騎常侍徐廣據晉典宜追立七廟、又敬其父則子悅、位彌高者情理得申、道愈廣者納敬必普也。玄曰、「禮云三昭・三穆、與太祖為七、然則太祖必居廟之主也、昭穆皆自下之稱、則非逆數可知也。禮、太祖東向、左昭右穆。如晉室之廟、則宣帝在昭穆之列、不得在太祖之位。昭穆既錯、太祖無寄、失之遠矣」。玄曾祖以上名位不顯、故不欲序列、且以王莽九廟見譏於前史、遂以一廟矯之、郊廟齋二日而已。祕書監卞承之曰、「祭不及祖、知楚德之不長也」。又毀晉小廟以廣臺榭。其庶母蒸嘗、靡有定所、忌日見賓客遊宴、唯至亡時一哭而已。朞服之內、不廢音樂。玄出遊水門、飄風飛其儀蓋。夜、濤水入石頭、大桁流壞、殺人甚多。大風吹朱雀門樓、上層墜地。
1.中華書局本の校勘記に従い、「子」を「于」に改める。
是の歲、玄の兄の偉 卒し、開府・驃騎將軍を贈り、桓脩を以て之に代ふ。從事中郎の曹靖之 玄に說きて以へらく桓脩の兄弟 職は內外に居り、恐らくは權は天下を傾くと。玄 之を納れ、乃ち南郡相の桓石康を以て西中郎將・荊州刺史と為す。偉の服に始めて公を以て除せられ、玄 便ち樂を作す。初めて奏するとき、玄 節を撫して慟哭し、既にして淚を收めて歡を盡す。玄 親仗する所 唯だ偉のみにして、偉 既に死し、玄 乃ち孤危なり。而れども不臣の迹 已に著はれ、自ら怨み天下に滿つるを知り、速く篡逆を定めんと欲し、殷仲文・卞範之らも又 共に之を催促す。是に於て先に改めて羣司に授け、琅邪王の司徒を解き、太宰に遷し、殊禮を加へ、桓謙を以て侍中・衞將軍・開府・錄尚書事と為し、王謐もて散騎常侍・中書監、領司徒とし、桓胤もて中書令とし、桓脩に散騎常侍・撫軍大將軍を加ふ。學官を置き、二品の子弟の數百人を教授す。又 詔を矯して其に相國を加へ、百揆を總し、南郡・南平・宜都・天門・零陵・營陽・桂陽・衡陽・義陽・建平十郡に封じて楚王と為し、揚州牧、領平西將軍・豫州刺史たること故の如く、九錫備物を加へ、楚國に丞相より已下を置き、一に舊典に遵ふ。又 天子に諷して前殿に御して焉に策授せしむ。玄 屢々偽讓し、詔して百僚を遣はして敦勸するや、又 云はく、「當に親ら鑾輿を降りて乃ち受命すべし」と。詔を矯めて父の溫に贈りて楚王と為し、南康公主もて楚王后と為す。平西長史の劉瑾を以て尚書と為し、刁逵もて中領軍と為し、王嘏もて太常と為し、殷叔文もて左衞と為し、皇甫敷もて右衞と為し、凡そ眾官 合はせて六十餘人、楚の官屬と為る。玄 平西・豫州を解き、平西の文武を以て相國府に配す。
新野の人の庾仄 玄 九錫を受くるを聞き、乃ち義兵を起こし、馮該を襄陽に襲ひ、之を走らす。仄 眾七千有り、城南に於て壇を設け、祖宗の七廟を祭る。南蠻參軍の庾彬・安西參軍の楊道護・江安令の鄧襄子 謀りて內應を為す。仄 本は仲堪の黨にして、桓偉 既に死し、石康 未だ至らざれば、故に間に乘じて發し、江陵 震動す。桓濟の子の亮 兵を羅縣に起こし、自ら平南將軍・湘州刺史を號し、仄を討つを以て名と為す。南蠻校尉の羊僧壽 石康と與に共に襄陽を攻むるや、仄の眾 散じ、姚興に奔り、彬ら皆 害に遇ふ。長沙相の陶延壽 亮 亂に乘じて起兵するを以て、遣して之を收めしむ。玄 亮を衡陽に徙し、其の同謀せし桓奧らを誅す。
玄 偽りて上表して歸藩を求め、又 自ら詔を作りて之を留め、使を遣はして宣旨す。玄 又 上表して固請し、又 天子に諷して手詔を作らしめて固く焉を留めしむ。玄 偽辭に好逞たりて、簡牘を塵穢すること、皆 此の類なり。代謝の際に宜しく禎祥有るべしと謂ひ、乃ち密かに所在をして臨平湖 開除清朗と上らしめ、眾官をして集賀せしむ。詔を矯めて曰く、「靈瑞の事 敢て聞く所に非ざるなり。斯れ誠に相國の至德にして、故に事 之が為に應ずと。太平の化、是に於て始まり、六合 同に悅す。情として何をか言ふ可きか」と。又 詐はりて云ふらく江州に甘露 王成基が家の竹上に降ると。玄 以へらく歷代 咸 肥遁の士有り、而れども己の世のみ獨り無ければ、乃ち皇甫謐の六世孫の希之を徵して著作と為し、并せて其に資用を給す。皆 令讓して受けず、號して高士と曰ひ、時人 名づけて「充隱」と為す。肉刑を復し、錢貨を斷つことを議し、迴復改異し、造革すること紛紜たりて、志は一定無く、條制 森然たりて、動かば政理を害す。性は貪鄙にして、奇異を好み、尤も寶物を愛し、珠玉 手より離さず。人士 書を法し畫を好くするもの及び園宅を佳くする者有り、悉く己に歸せしめんと欲し、猶ほ逼り難ければ之を奪ひ、皆 蒱博して取る。臣佐を遣はして四出せしめ、果を掘り竹を移すこと、數千里を遠しとせず。百姓の佳果・美竹 復た遺餘無し。諂譽を信悅し、讜言に逆忤し、或いは其の憎む所より奪ひて其の愛する所に與ふ。
十一月、玄 制を矯して其に冕十有二旒を加へ、天子の旌旗を建て、出警入蹕あり、金根車に乘り、六馬を駕し、五時の副車を備へ、旄頭雲罕を置き、樂儛は八佾にして、鍾虡宮縣を設く。妃もて王后と為し、世子もて太子と為し、其の女及び孫もて爵命の號 皆 舊制の如くす。玄 乃ち多く朝臣を斥けて太宰の僚佐と為し、又 詔を矯して王謐をして太保を兼ねて、司徒を領せしめ、皇帝の璽を奉じて己に禪位せしむ。又 帝に諷して禪位を以て廟に告げしめ、出でて永安宮に居り、晉の神主を琅邪廟に移せしむ。
初め、玄 帝の手詔を為るを肯ぜざるを恐れ、又 璽 得可からざるを慮り、臨川王寶に逼りて帝に請りて自ら手詔を為らしめ、因りて璽を奪ひ取る。軒に臨む比、璽 已に久しく出で、玄 甚だ喜ぶ。百官 姑孰に到りて玄に偽位を僭することを勸め、玄 偽はりて讓す。朝臣 固請し、玄 乃ち城南七里に於て郊を立て、登壇して篡位し、玄牡を以て天に告げ、百僚 陪列す。而れども儀注 備はらず、萬歲と稱するを忘れ、又 帝の諱を易へず。榜に文を為りて天皇后帝に告げて云く、「晉帝 景運に欽若し、明命に敬順して、以て玄に命ず。夫れ天工人代、帝王の興る所以にして、君匪ざれば治むる莫し。惟れ德 其の元を司り、故に天の理物を承くること、必ず一統に由る。聖を並べて以て二君ある可からず、賢に非ざれば以て主無かる可からず。故に世は五帝を換し、鼎は三代を遷る。爰に漢魏に暨びて、咸 勳烈に歸す。晉 中葉より、仍りて世々多故にして、海西の亂に、皇祚 殆ど移らんとす。九代の廓寧の功、升明・黜陟の勳、禹の德微かりせば、左衽 將に及ばんとす。太元の末に、君子の道 消え、釁を積み基 亂る。隆安に鍾り、禍 士庶に延べ、理 人倫を絕つ。玄 身は草澤に在り、時班に棄てらると雖も、義情理感ありて、胡ぞ能く慨する無きや。袂を投じて克清の勞あり、阿衡 撥亂の績あるも、皆 先德遺愛の利を仰憑するものにして、玄 何の功やあらん。屬々理運の會に當たり、猥りに樂推の數を集め、寡昧の身を以て下武の重を踵み、革泰の始を膺け、王公の上に託せらる。誠に洪基を仰藉し、德 漸く由有り。夕惕 祗に懷き、厝く攸を知る罔し。君位 以て久しく虛たる可からず、人神 以て饗乏(な)かる可からず。是を用て敢て欽恭の大禮を以て奉ぜざらんや。敬みて良辰を簡び、壇に升りて受禪し、上帝に告類して、以て永く眾望を綏にす。式て萬邦に孚し、惟れ明靈 是れ饗けよ」と。
乃ち書を下して曰く、「夫れ三才 相 資くるは、天人の成功する所以なり。理として一統に由り、貞夫 契を司る所以なり。帝王の興るや、其の源は深し。三五より已降、世代參差、由る所 或いは殊なると雖も、其れ一に歸するなり。朕の皇考たる宣武王 聖德高邈にして、誕いに洪基を啟き、景命の歸する攸、理 貫たること昔よりす。中間に屯險り、克く負荷せざるも、宏業を仰瞻すること、殆ど綴旒の若し。否終の運に藉り、時來の會に遇ひ、用て姦を除き溺を救ひ、人倫を拯拔するを獲たり。晉氏 多難 荐(しき)りに臻るを以て、曆數 唯れ既にし、唐虞の準を典章とし、漢魏の則を述遵し、用て天祿を朕の躬に集む。惟だ德 敏ならず 、辭 命を獲ざるも、令典に稽若し、遂に壇に升りて南郊に燎し、終を文祖に受く。斯の慶を覃するを思ひ、願はくは億兆と與に聿茲(ここ)に更始せん」と。是に於て大赦し、永始と改元し、天下に爵二級を賜はり、孝悌力田の人は三級、鰥寡孤獨にして自ら存する能はざる者は穀 人ごとに五斛とす。其の賞賜の制、徒らに空文を設け、其の實無きなり。初め偽詔を出だすや、年を改めて建始と為す。右丞の王悠之曰く、「建始は、趙王倫の偽號なり」と。又 改めて永始と為すも、復た是れ王莽の始めて執權せしの歲にして、其の兆號 不祥にして、冥に僭逆に符すること此の如し。又 書を下して曰く、「夫れ三恪 賓と作すは、自來有り。爰に漢魏に暨び、咸 疆宇を建つ。晉氏 曆數に欽若し、位を朕の躬に禪る。宜しく是の古訓に則り、茲に茅土を授けよ。南康の平固縣を以て晉帝に奉じて平固王と為し、車旗・正朔は一ら舊典の如くせよ」と。
帝を遷して尋陽に居らしめ、陳留王 鄴宮に處るの故事に即す。永安皇后を降して零陵君と為し、琅邪王もて石陽縣公と為し、武陵王遵もて彭澤縣侯と為す。其の父の溫に宣武皇帝を追尊し、廟を太廟と稱し、南康公主もて宣皇后と為す。子の昇を封じて豫章郡王と為し、叔父の雲の孫の放之もて寧都縣王と為し、豁の孫の稚玉もて臨沅縣王と為し、豁の次子の石康もて右將軍・武陵郡王と為し、祕の子の蔚もて醴陵縣王と為し、沖に太傅・宣城郡王を贈り、殊禮を加ふること、晉の安平王の故事に依り、孫の胤を以て爵を襲はしめ、吏部尚書と為し、沖の次子の謙もて揚州刺史・新安郡王と為し、謙の弟の脩もて撫軍大將軍・安成郡王と為し、兄の歆もて臨賀縣王とし、禕もて富陽縣王とし、偉に侍中・大將軍・義興郡王を贈り、子の濬を以て爵を襲はしめ、輔國將軍と為し、濬の弟の邈もて西昌縣王とす。王謐を封じて武昌公と為し、班劍二十人、卞範之もて臨汝公と為し、殷仲文もて東興公と為し、馮該もて魚復侯と為す。又 始安郡公を降して縣公と為し、長沙もて臨湘縣公と為し、廬陵もて巴丘縣公と為し、各々千戶なり。其の康樂・武昌・南昌・望蔡・建興・永脩・觀陽 皆 封を降して百戶とするも、公侯の號 故の如し。又 普く諸々の征鎮の軍號を進むこと各々差有り。相國左長史の王綏を以て中書令と為す。桓謙の母の庾氏を崇びて宣城太妃と為し、殊禮を加へ、給するに輦乘を以てす。溫の墓を號して永崇陵と曰ひ、守衞四十人を置く。
玄 建康宮に入るや、逆風 迅激にして、旍旗・儀飾 皆 傾偃す。西堂に小會するに及び、妓樂を設くるに、殿上に絳綾帳を施し、黃金を縷して顏と為し、四角に金龍を作り、頭に五色の羽葆旒蘇を銜ふ。羣臣 竊かに相 謂ひて曰く、「此れ頗る轜車に似たり、亦た王莽の仙蓋の流なり。龍角は、所謂 亢龍にして悔ゆる者有るなり」と。又 金根車を造り、六馬を駕す。是の月、玄 訟觀に臨聽して囚徒に閱し、罪は輕重と無く、多く原放せらる。輿を干して乞ふ者有らば、時に或いは之を卹む。其の小惠を行ふを好むこと此の如し。自ら水德を以て、壬辰に、祖に臘す。尚書都官郎を改めて賊曹と為し、又 五校・三將及び強弩・積射の武衞官を增置す。元興三年は、玄の永始二年なり。尚書「春蒐」の字を答へて誤りて「春菟」と為す。凡そ關署する所 皆 降黜せらる。玄の大綱 理あらず、而れども纖微を糾擿すること、皆 此の類なり。其の妻の劉氏を以て皇后と為し、將に殿宇を修めんとし、乃ち移して東宮に入らしむ。又 東掖・平昌・廣莫及び宮殿の諸門を開きて、皆 三道と為す。更めて大輦を造り、三十人の坐するを容れ、二百人を以て之を舁(かつ)ぐ。性は畋遊を好み、體 大なるを以て乘馬に堪えず、又 徘徊の輿を作り、轉關を施し、迴動して滯り無からしむ。既に祖曾すら追尊せず、其の禮儀を疑ひ、羣臣に問ふ。散騎常侍の徐廣いへらく、「晉典に據りて宜しく追ひて七廟を立つべし、又 其の父を敬へば則ち 子は悅ぶ。位 彌々高き者は情理 申すを得れば、道 愈々廣き者は敬を納るること必ず普しなり」と。玄曰、「禮に三昭・三穆と云ひ、太祖と與に七と為る。然らば則ち太祖 必ず廟の主に居り、昭穆 皆 自下の稱にして、則ち逆數非ざること知る可きなり。禮に、太祖は東向し、左は昭、右は穆なりと。晉室の廟の如きは、則ち宣帝 昭穆の列に在り、太祖の位に在るを得ず。昭穆 既に錯え、太祖 寄る無く、之を失ふこと遠し」と。玄の曾祖より以上の名位 顯らかならず、故に序列するを欲せず、且つ王莽の九廟 前史に譏らるを以て、遂に一廟を以て之に矯し、郊廟の齋 二日のみとす。祕書監の卞承之曰く、「祭 祖に及ばざれば、楚德の長からざるを知る」と。又 晉の小廟を毀ちて以て臺榭を廣くす。其の庶母の蒸嘗、定所有る靡く、忌日に賓客に見えて遊宴し、唯だ亡時に至りて一哭するのみ。朞服の內に、音樂を廢せず。玄 出でて水門に遊び、飄風 其の儀蓋を飛ばす。夜に、濤水 石頭に入り、大桁 流れ壞はれ、人を殺すこと甚だ多し。大風 朱雀の門樓を吹ばし、上層 地に墜つ。
この年、桓玄の兄の桓偉が卒すると、開府儀同三司・驃騎将軍を贈り、桓脩を後任とした。従事中郎の曹靖之が桓玄に、「桓脩の弟が内外の要職に就き、天下の権力が偏る恐れがあります」と言った。桓玄はこれを聞き入れ、南郡相の桓石康を西中郎将・荊州刺史に任じた。桓偉の服喪中に桓玄は初めて公爵になり、音楽を演奏して祝った。演奏が始まった直後は節を撫でて(兄のために)慟哭したが、涙を収めて歓喜を尽くした。桓玄が頼れる親族は兄の桓偉だけであり、桓偉が死ぬと、桓玄は孤立して不安を感じた。しかし臣下として相応しくない行動を表し、天下に怨まれていることを知り、早く簒奪を成し遂げようと思い、殷仲文・卞範之らもこれを促した。そこでまず官職を配布し、琅邪王の司徒を解任して太宰に移し、格別な礼を加え、桓謙を侍中・衛将軍・開府・録尚書事とし、王謐を散騎常侍・中書監・領司徒とし、桓胤を中書令とし、桓脩に散騎常侍・撫軍大将軍を加えた。学官を設置し、二品以上の貴族の子弟数百人を教育した。さらに桓玄は詔を偽って自らに相国を加え為、百官を統括し、南郡・南平・宜都・天門・零陵・営陽・桂陽・衡陽・義陽・建平の十郡に封建して楚王とし、(東晋の)揚州牧・平西将軍・豫州刺史の職は現状のままとし、九錫備物を加え、楚国に丞相以下の官職を設置し、すべて古の王朝を踏襲した。天子に強制して前殿に出御させ、桓玄らを任命させた。桓玄は何度も偽って辞退したが、詔で百官を派遣して勧進させると、「陛下は鳳輦を降りて私を直接任命して下さい」とまで言った。詔を偽造して父の桓温に楚王を追封し、南康公主を楚王后とした。平西長史の劉瑾を尚書とし、刁逵を中領軍とし、王嘏を太常とし、殷叔文を左衛将軍とし、皇甫敷を右衛将軍とし、六十人あまりが楚王の官属となった。桓玄は平西将軍・豫州刺史の職を解き、平西将軍府の文武の官をすべて相国府の配下とした。
新野の人の庾仄は、桓玄が九錫を受けたと聞き、義兵を挙げ、馮該を襄陽で攻めて敗走させた。庾仄の兵は七千人に及び、城南に壇を築いて、祖先の七廟を祀った。南蛮参軍の庾彬・安西参軍の楊道護・江安令の鄧襄子らが内応を図った。庾仄はもと殷仲堪の一派であり、桓偉が死に、まだ桓石康が着任する前に、隙を突いて挙兵し、江陵は大いに動揺した。桓済の子の桓亮は羅県で兵を起こし、自ら平南将軍・湘州刺史と号し、庾仄討伐を挙兵の名目とした。南蛮校尉の羊僧寿が桓石康とともに襄陽を攻めると、庾仄の軍は潰走して姚興(後秦)に逃亡し、庾彬らは殺害された。長沙相の陶延寿が桓亮が起こした乱に乗じて挙兵したので、桓玄は兵を派遣して陶延寿を捕らえた。桓玄は桓亮を衡陽に左遷し、共謀した桓奧らを誅殺した。
桓玄は本心を偽って帰藩したいと上表し、その裏では自分を引き止めるための詔を自作し、使者に持って来させた。桓玄は重ねて上表して帰藩を求め、天子に強制して直筆の詔を書いて引き止めさせた。桓玄は偽りの書簡を作るのが得意で、このようにして、公的な簡牘を著しく穢した。王朝交替のために吉祥が必要だと考え、秘かに現地長官に臨平湖の水が澄んだと報告させ、群臣に祝賀させた。詔を偽作して、「このような霊妙な瑞祥は聞いたことがない。これは相国(桓玄)の至徳に感応して、現れた吉祥に違いない。太平の教化は、まさに始まり、天下は喜び合っている。(禅譲に相応しい)情況が整ったことについて、これ以上言うことがない」とした。また偽って江州で王成基の家の竹の上に甘露が降ったと報告した。桓玄は歴代国家には肥遁(高邁な隠逸の)人士がいたが、自分の国にそのような人物がいないので、皇甫謐の六世孫の皇甫希之を徴召して著作の官とし、生活物資を支給した。皇甫希之が辞退したので、彼を高士と呼び、当時の人々は「充隠」(むりに隠逸の士を割り当てた)と言った。肉刑をの復活と、銭貨の削減を議論し、制度の変更と削減、新設と増加がめまぐるしく、方針に一貫性がなく、法令が大量に出され、政治に筋道がなかった。桓玄の性格は貪欲で卑しく、奇異を好み、宝物を愛し、珠玉を手から放さず、書画のうまい人物や庭園や邸宅を作れる人物を、すべて自分の手元に置こうとして、断られても強制し、むりやりに集めた。部下を四方に出張させ、果物の木や竹を移植して集め、数千里先でも厭わなかった。そのせいで民のための果物や美しい竹は完全になくなった。お世辞を喜び、諫言に腹を立て、嫌いな人からものを取り上げて好きな人物に与えた。
十一月、桓玄は制書を偽造して自分に十二旒の冕冠を加え、天子の旌旗を建て、出警入蹕を設け、金根車に乗り、六頭の馬で引き、五時の副車を備え、旄頭と雲罕を置き、八佾の舞を設け、鍾虡と宮県を設けた。妃を王后とし、世子を太子とし、娘と孫の爵命の号を旧制のとおりとした。桓玄は多くの朝臣を引き抜いて太宰の僚佐とし、また詔を偽造して王謐に太保を兼ねて、司徒を領させ、(王謐を晋帝の使者として)皇帝の璽を奉じて自分に帝位を禅譲させた。また晋帝に迫って禅譲を宗廟に報告させ、永安宮に転居し、晋の神主を琅邪廟に移させた。
これよりさき、桓玄は晋帝が手詔(直筆の詔)を作らず、また皇帝の璽が手に入らないことを恐れ、臨川王宝(司馬宝)に迫って手詔を作らせ、皇帝の璽を奪い取った。玉座に臨むころ、とうに璽を入手済だったので、桓玄はとても喜んだ。百官は姑孰に至ると桓玄に偽位の僭称を勧進したが、桓玄は本心を偽って辞譲した。朝臣が強く求めたので、桓玄は城南七里の地に郊壇を設け、壇に登って帝位を簒奪し、玄牡を供えて天に報告し、百官は整列した。しかし儀礼の次第が整わず、万歳と叫ぶのを忘れ、皇帝の諱の字を避け忘れた。桓玄は文を提示して天皇后帝(天地)に次のように告げた。「晋帝は天の意向を敬い、明らかな命令に従って、私に帝位を譲りました。そもそも天の職務を人間が代行するのが、帝王の建国する由来であり、君王がいなければ地上は治まりません。徳はその根源を定めており、ゆえに天命を承ける者は、必ず天下の統一者となります。聖王を並存して二君とすることはできず、賢者でなければ君主の資格を得られません。ゆえに五帝は次々と交代し、王権は三代(夏殷周)のあいだを変遷しました。漢魏の時代に及んで以降も、(統治の)勲功がある者が王権を握りました。晋の中期より、統治は乱れ、海西王の変で、皇統が失われかけました。(晋室は)九代にわたり天下を安寧にし、人材を活用してきた功績がありますが、禹のような(至上の)徳がないので、異民族に領土を明け渡しそうになりました。太元年間の末(~三九六年)より、君子の道は廃れ、乱の萌芽が育ちました。隆安年間(三九六~四〇一年)に及んで禍乱が士庶に広がり、人倫は絶えました。私は身を草野に置き、政権から追放されても、義や理に感じるところがあり、見過ごせませんでした。身を投じて乱の鎮圧に取り組み、阿衡(司馬道子)が起こした混乱に対抗しましたが、これは先徳が遺した恩徳の力を頼っただけで、私の功績ではありません。ただ運命がめぐり、私を支持する声が起こり、群臣から推挙を受け、微細の身ながら軍事の権限を握り、朝廷を刷新した結果、王公より上位に押し上げられただけです。まことに偉大な基礎を頼りにして、少しずつ徳を重ねただけです。天下のために憂悶を胸に抱き、心の置きどころがありません。君位を長く空席にすべきでなく、人や神のための祭祀を断絶させてはいけません。畏れ多くも与えられた役割を果たさずにいられましょうか。そこで吉日を選び、祭壇に登って禅譲を受け、上帝に報告して、永遠に民草の期待に応えようと思います。万国を祝福し、天地神明はこれを聞き届けて下さい」と言った。
そして桓玄は書を下して、「天地と人が支え合うのは、天命を成就させるためだ。天下は一統によって安定し、正しい秩序が生まれる。帝王が興ることの、起源は非常に深い。三皇五帝より以来、世代ごとに変化し、依拠するものは違えども、理は一つに帰する。わが父の宣武王(桓温)は聖徳が高邁で、偉大な事業を開き、点目が帰するところは、先年より明確であった。途中で挫折して、帝位に昇れなかったが、私は亡父の偉業を、旗印のように仰ぎ見てきた。不運の後に、再び時運が巡り、姦悪な者を除いて溺れた人を救い、人倫を立て直すことができた。晋室には苦難が連続して訪れることから、天命はすでに尽きているので、唐虞(尭舜)を手本に、漢魏を前例とし、天命を私に託することになった。わが仁徳は浅く、わが言葉は天命を言い表せないが、典拠に従って、祭壇に登って南郊で柴を焼き、禅譲を受けた。この慶びを伝えるので、どうか億兆の民はともに新しい時代を始めよう」と言った。ここにおいて大赦し、永始と改元し、天下全員に爵二級の与え、孝悌力田の人には三級を与え、家族をなくして自活できない者には一人あたり五斛の穀物を与えた。しかしその賞賜は、空文ばかりで、実態を伴わなかった。はじめに偽詔を出したとき、建始と改元した。右丞の王悠之が、「建始は、趙王倫(司馬倫)が簒奪したとき用いた年号です」と言った。そこで永始と改めたが、これも王莽が権力を握ったときの年号で、不吉なものであり、この偶然の一致が桓玄の即位が簒奪であることを示していた。また書を下して、「前代の王朝の子孫を三恪として賓遇するのは、古来からの制度である。漢魏の時代に及び、みな領地を割いて封建してきた。晋氏は天命に従い、帝位を私に譲った。だから典拠の通りに、封土を与えよう。南康の平固県を晋帝の封地として平固王と名乗らせ、車旗・正朔は旧制のままとせよ」と言った。
晋帝を尋陽に遷したが、これは(西晋が魏の)陳留王を鄴宮に置いた故事に従ったものである。永安皇后を降して零陵君とし、琅邪王を石陽県公とし、武陵王遵(司馬遵)を彭澤県侯とした。桓玄の父の桓温に宣武皇帝を追尊し、廟を太廟と称し、南康公主を宣皇后とした。子の桓昇を豫章郡王に封建し、叔父の桓雲の孫の桓放之を寧都県王とし、桓豁の孫の桓稚玉を臨沅県王とし、桓豁の次子の桓石康を右将軍・武陵郡王とし、桓秘の子の桓蔚を醴陵県王とし、桓沖に太傅・宣城郡王を贈り、殊礼を加えるのは、晋の安平王(司馬孚)の故事に依った。孫の桓胤に爵位を襲わせ、吏部尚書とし、桓沖の次子の桓謙を揚州刺史・新安郡王とし、桓謙の弟の桓脩を撫軍大将軍・安成郡王とし、兄の桓歆を臨賀県王とし、桓禕を富陽県王とし、桓偉に侍中・大将軍・義興郡王を贈り、その子の桓濬に爵位を襲わせ、輔国将軍とし、桓濬の弟の桓邈を西昌県王とした。王謐を武昌公に封建し、班剣二十人を認め、卞範之を臨汝公とし、殷仲文を東興公と為し、馮該を魚復侯とした。また(晋国の)始安郡公を降して始安県公とし、長沙郡公を臨湘県公と為し、廬陵郡公を巴丘県公とし、それぞれ千戸とした。(晋国の)康楽・武昌・南昌・望蔡・建興・永脩・観陽侯はすべて封戸を削って百戸としたが、公侯の号は現状のままとした。また(楚国の)各署の征鎮の将軍号をそれぞれ昇格させて差等があった。相国左長史の王綏を中書令とした。桓謙の母の庾氏に宣城太妃の称号を贈って、殊礼を加え、輦乗を支給した。桓温の墓を永崇陵と号し、守衛四十人を置いた。
桓玄が建康宮に入ると、逆風が激しく吹き、旍旗・儀飾はすべて薙ぎ倒された。桓玄が西堂で小宴を開いたとき、妓楽を設けたが、殿上に絳(あか)綾の帳を張り、黄金の糸で刺繍し、四隅に金の龍を飾り、龍の頭に五色の羽の房飾りを付けた。群臣は秘かに語り合って、「この飾りはまるで轜車(葬送の車)のようだ。王莽が使った仙蓋に似ている。四隅の龍は、まさに亢龍が悔いる(傲慢な龍が滅ぶ)兆しと言える」と言った。さらに桓玄は金根車を造り、六頭の馬に引かせた。この月、桓玄は訟観(裁判所)に臨んで囚人を閲し、罪の軽重に拘わらず、多くを赦免した。桓玄の輿に駆け寄って嘆願する者がいれば、訴えを聞き入れることもあった。桓玄はこのように表面的で小さな慈しみを好んだ。桓玄は自分の王朝が水徳なので、壬辰の日に、祖先を臘に祭った。尚書都官郎を改めて賊曹とし、五校・三将及び強弩・積射の武衛官を増設した。(東晋の)元興三年は、桓玄の永始二年である。尚書の官僚が「春蒐」を書き誤って「春菟」としたので、桓玄は関係部署をすべて降格や免職とした。桓玄の政治は大きな方向性において道理を欠いていたが、細かい誤りをあげつらうことばかり熱心であった。妻の劉氏を皇后とし、宮殿を修繕するので、東宮に移らせた。東掖門・平昌門・広莫門及び他の宮門をすべて開いて、三つの通路とした。大輦(巨大な輿)を作らせ、三十人が同乗でき、二百人で担いだ。桓玄は狩猟や遊行を好んだが、体が大きく、馬に乗るのが苦手なので、猟場を回るための輿を作り、車輪を付けて、自在に方向転換ができるようにした。祖父や曾祖父すら追尊していなかったが、その礼制に疑問を持ち、群臣に質問した。散騎常侍の徐広は、「晋代の典礼に基づき、遡って七廟を立てるべきです。父を敬えば子は喜びます。位が高い者ほど遠い祖先まで祭ることができ、道を体現した者ほど敬意を広く及ぼすのです」と言った。これに対して桓玄は、「礼に三昭・三穆があり、太祖を加えて七廟とする。太祖(王朝の始祖)は廟の主となり、昭と穆はその下位の称であり、上下が逆転することはない。礼では、太祖(の木主は)は東を向き、左に昭、右に穆を置く。ところが晋室の廟は、宣帝(司馬懿)を昭穆の列に置き、太祖の位に置かなかった。これでは昭穆の秩序が乱れ、太祖の居場所もない。ひどい誤りである(晋代の前例に従うべきでない)」と言った。桓玄の曾祖より前の名や官位は不明なので、七廟を立てることを望まず、しかも(より祖先に遡った)王莽の九廟が『漢書』で非難されていることから、一廟のみを設けて、廟の祭りも二日だけとした。秘書監の卞承之は、「祭祀が祖父にも及ばないので、楚国の徳は長くない」と言った。さらに桓玄は晋の小廟を壊して跡地に台閣や楼閣を広げた。庶母の祭祀も、方法が定まらず、忌日に客人を招いて宴を開き、ただ命日が来ると一度だけ哭する程度であった。喪に服する一年の間も、音楽を慎まなかった。あるとき桓玄は水門に遊びに出たが、突風が彼の儀仗の蓋を吹き飛ばした。その夜、津波が石頭に押し寄せ、大きな橋桁が流されて壊れ、多くの人が死んだ。暴風は朱雀門の楼閣をも吹き倒し、上層は地上に落ちた。
玄自篡盜之後、驕奢荒侈、遊獵無度、以夜繼晝。兄偉葬日、旦哭晚遊、或一日之中屢出馳騁。性又急暴、呼召嚴速、直官咸繫馬省前、禁內讙雜、無復朝廷之體。於是百姓疲苦、朝野勞瘁、怨怒思亂者十室八九焉。於是劉裕・劉毅・何無忌等共謀興復。裕等斬桓脩於京口、斬桓弘於廣陵、河內太守辛扈興・弘農太守王元德・振威將軍童厚之・竟陵太守劉邁謀為內應。至期、裕遣周安穆報之、而邁惶遽、遂以告玄。玄震駭、即殺扈興等、安穆馳去得免。封邁安重侯、一宿又殺之。
裕率義軍至竹里、玄移還上宮、百僚步從、召侍官皆入止省中。赦揚・豫・徐・兗・青・冀六州、加桓謙征討都督・假節、以殷仲文代桓脩、遣頓丘太守吳甫之・右衞將軍皇甫敷北距義軍。裕等於江乘與戰、臨陣斬甫之、進至羅落橋、與敷戰、復梟其首。玄聞之大懼、乃召諸道術人推算數為厭勝之法、乃問眾曰、「朕其敗乎」。曹靖之對曰、「神怒人怨、臣實懼焉」。玄曰、「人或可怨、神何為怒」。對曰、「移晉宗廟、飄泊失所、大楚之祭、不及於祖、此其所以怒也」。玄曰、「卿何不諫」。對曰、「輦上諸君子皆以為堯舜之世、臣何敢言」。玄愈忿懼、使桓謙・何澹之屯東陵、卞範之屯覆舟山西、眾合二萬、以距義軍。裕至蔣山、使羸弱貫油帔登山、分張旗幟、數道並前。玄偵候還云、「裕軍四塞、不知多少」。玄益憂惶、遣武衞將軍庾頤之配以精卒、副援諸軍。於時東北風急、義軍放火、煙塵張天、鼓譟之音震駭京邑。劉裕執鉞麾而進、謙等諸軍一時奔潰。玄率親信數千人聲言赴戰、遂將其子昇・兄子濬出南掖門、西至石頭、使殷仲文具船、相與南奔。
初、玄在姑孰、將相星屢有變。篡位之夕、月及太白、又入羽林、玄甚惡之。及敗走、腹心勸其戰、玄不暇答、直以策指天。而經日不得食、左右進以粗飯、咽不能下。昇時年數歲、抱玄胸而撫之、玄悲不自勝。
劉裕以武陵王遵攝萬機、立行臺、總百官。遣劉毅・劉道規躡玄、誅玄諸兄子及石康兄權・振兄洪等。
玄至尋陽、江州刺史郭昶之給其器用兵力。殷仲文自後至、望見玄舟、旌旗輿服備帝者之儀、歎息曰、「敗中復振、故可也」。玄於是逼乘輿西上。桓歆聚黨向歷陽、宣城內史諸葛長民擊破之。玄於道作起居注、敘其距義軍之事、自謂經略指授、算無遺策、諸將違節度、以致虧喪、非戰之罪。於是不遑與羣下謀議、唯耽思誦述、宣示遠近。玄至江陵、石康納之、張幔屋於城南、署置百官、以卞範之為尚書僕射、其餘職多用輕資。於是大修舟師、曾未三旬、眾且二萬、樓船器械甚盛。謂其羣黨曰、「卿等並清塗翼從朕躬、都下竊位者方應謝罪軍門、其觀卿等入石頭、無異雲霄中人也」。
玄以奔敗之後、懼法令不肅、遂輕怒妄殺、人多離怨。殷仲文諫曰、「陛下少播英譽、遠近所服、遂掃平荊雍、一匡京室、聲被八荒矣。既據有極位、而遇此圮運、非為威不足也。百姓喁喁、想望皇澤、宜弘仁風、以收物情」。玄怒曰、「漢高・魏武幾遇敗、但諸將失利耳。以天文惡、故還都舊楚、而羣小愚惑、妄生是非、方當糾之以猛、未宜施之以恩也」。玄左右稱玄為「桓詔」、桓胤諫曰、「詔者、施於辭令、不以為稱謂也。漢魏之主皆無此言、唯聞北虜以苻堅為『苻詔』耳。願陛下稽古帝則、令萬世可法」。玄曰、「此事已行、今宣敕罷之、更為不祥。必其宜革、可待事平也」。荊州郡守以玄播越、或遣使通表、有匪寧之辭、玄悉不受、仍乃更令所在表賀遷都。
玄遣遊擊將軍何澹之・武衞將軍庾稚祖・江夏太守桓道恭就郭銓以數千人守湓口。又遣輔國將軍桓振往義陽聚眾、至弋陽、為龍驤將軍胡譁所破、振單騎走還。何無忌・劉道規等破郭銓・何澹之・郭昶之於桑落洲、進師尋陽。玄率舟艦二百發江陵、使苻宏・羊僧壽為前鋒。以鄱陽太守徐放為散騎常侍、欲遣說解義軍、謂放曰、「諸人不識天命、致此妄作、遂懼禍屯結、不能自反。卿三州所信、可明示朕心、若退軍散甲、當與之更始、各授位任、令不失分。江水在此、朕不食言」。放對曰、「劉裕為唱端之主、劉毅兄為陛下所誅、並不可說也。輒當申聖旨於何無忌」。玄曰、「卿使若有功、當以吳興相敘」。放遂受使、入無忌軍。
魏詠之破桓歆於歷陽、諸葛長民又敗歆於芍陂、歆單馬渡淮。毅率道規及下邳太守孟懷玉與玄戰於崢嶸洲。於時義軍數千、玄兵甚盛、而玄懼有敗衄、常漾輕舸於舫側、故其眾莫有鬭心。義軍乘風縱火、盡銳爭先、玄眾大潰、燒輜重夜遁、郭銓歸降。玄故將劉統・馮稚等聚黨四百人、襲破尋陽城、毅遣建威將軍劉懷肅討平之。玄留永安皇后及皇后於巴陵。殷仲文時在玄艦、求出別船收集散軍、因叛玄、奉二后奔於夏口。玄入江陵城、馮該勸使更下戰、玄不從、欲出漢川、投梁州刺史桓希、而人情乖阻、制令不行。玄乘馬出城、至門、左右於闇中斫之、不中、前後相殺交橫、玄僅得至船。於是荊州別駕王康產奉帝入南郡府舍、太守王騰之率文武營衞。
時益州刺史毛璩使其從孫祐之・參軍費恬送弟璠喪葬江陵、有眾二百、璩弟子修之為玄屯騎校尉、誘玄以入蜀、玄從之。達枚回洲、恬與祐之迎擊玄、矢下如雨。玄嬖人丁仙期・萬蓋等以身蔽玄、並中數十箭而死。玄被箭、其子昇輒拔去之。益州督護馮遷抽刀而前、玄拔頭上玉導與之、仍曰、「是何人邪。敢殺天子」。遷曰、「欲殺天子之賊耳」。遂斬之、時年三十六。又斬石康及濬等五級、庾頤之戰死。昇云、「我是豫章王、諸君勿見殺」。送至江陵市斬之。
初、玄在宮中、恒覺不安、若為鬼神所擾、語其所親云、「恐己當死、故與時競」。元興中、衡陽有雌雞化為雄、八十日而冠萎。及玄建國於楚、衡陽屬焉、自篡盜至敗、時凡八旬矣。其時有童謠云、「長干巷、巷長干、今年殺郎君、後年斬諸桓」。其凶兆符會如此。郎君、謂元顯也。
是月、王騰之奉帝入居太府。桓謙亦聚眾沮中、為玄舉哀、立喪庭、偽諡為武悼皇帝。毅等傳送玄首、梟於大桁、百姓觀者莫不欣幸。
何無忌等攻桓謙於馬頭、桓蔚於龍洲、皆破之。義軍乘勝競進、振・該等距戰於靈溪、道規等敗績、死沒者千餘人。義軍退次尋陽、更繕舟甲。毛璩自領梁州、遣將攻漢中、殺桓希。江夏相張暢之・高平太守劉懷肅攻何澹之於西塞磯、破之。振遣桓蔚代王曠守襄陽。道規進討武昌、破偽太守王旻。魏詠之・劉藩破桓石綏於白茅。義軍發尋陽。桓亮自號江州刺史、侵豫章、江州刺史劉敬宣討走之。義軍進次夏口。偽鎮東將軍馮該等守夏口、揚武將軍孟山圖據魯城、輔國將軍桓山客守偃月壘。劉毅攻魯城、道規攻偃月壘、無忌與檀祗列艦中流、以防越逸。義軍騰赴、叫聲動山谷、自辰及午、二城俱潰、馮該散走、生擒山客。毅等平巴陵。毛璩遣涪陵太守文處茂東下、振遣桓放之為益州、屯夷陵、處茂距戰、放之敗走、還江陵。
玄 篡盜するの後より、驕奢荒侈にして、遊獵 度無く、夜を以て晝に繼ぐ。兄の偉の葬日に、旦に哭し晚に遊び、或いは一日の中に屢々出でて馳騁す。性 又 急暴にして、呼召すること嚴速にして、直官 咸 馬を省前に繫ぎ、禁內 讙雜たりて、朝廷の體を復する無し。是に於て百姓 疲苦し、朝野 勞瘁し、怨怒して亂を思ふ者 十室に八九なり。是に於て劉裕・劉毅・何無忌ら共に興復せんと謀る。裕ら桓脩を京口に斬り、桓弘を廣陵に斬り、河內太守の辛扈興・弘農太守の王元德・振威將軍の童厚之・竟陵太守の劉邁 謀りて內應を為す。期に至るや、裕 周安穆を遣はして之に報じ、而れども邁 惶遽し、遂に以て玄に告ぐ。玄 震駭し、即ち扈興らを殺し、安穆 馳せ去りて免るるを得たり。邁を安重侯に封ずるも、一宿ありて又 之を殺す。
裕 義軍を率ゐて竹里に至り、玄 移りて上宮に還り、百僚 步もて從ひ、侍官を召して皆 省中に入止せしむ。揚・豫・徐・兗・青・冀六州を赦し、桓謙に征討都督・假節を加へ、殷仲文を以て桓脩に代へ、頓丘太守の吳甫之・右衞將軍の皇甫敷を遣はして北のかた義軍を距がしむ。裕ら江乘に於て與に戰ひ、陣に臨むや甫之を斬り、進みて羅落橋に至り、敷と戰ひ、復た其の首を梟す。玄 之を聞きて大いに懼れ、乃ち諸々の道術人を召して算數を推して厭勝の法を為さしめ、乃ち眾に問ひて曰く、「朕 其れ敗るるか」と。曹靖之 對へて曰く、「神は怒り人は怨み、臣 實に焉を懼る」と。玄曰く、「人 或いは怨む可し、神 何ぞ怒りを為すか」と。對へて曰く、「晉の宗廟を移し、飄泊して所を失ひ、大楚の祭、祖に及ばず。此れ其の怒る所以なり」と。玄曰く、「卿 何ぞ諫めざる」と。對へて曰く、「輦上の諸君子 皆 以て堯舜の世と為す、臣 何ぞ敢て言はん」と。玄 愈々忿懼し、桓謙・何澹之をして東陵に屯せしめ、卞範之をして覆舟山の西に屯せしめ、眾は二萬を合はせ、以て義軍を距ぐ。裕 蔣山に至り、羸弱をして油帔を貫きて登山せしめ、分かちて旗幟を張り、數道に並び前む。玄の偵候 還りて云ふ、「裕の軍 四塞し、多少を知らず」と。玄 益々憂惶し、武衞將軍の庾頤之を遣はして配するに精卒を以てし、諸軍を副援せしむ。時に於て東北の風 急にして、義軍 火を放ち、煙塵 天を張し、鼓譟の音 京邑を震駭はす。劉裕 鉞麾を執りて進み、謙らの諸軍 一時に奔潰す。玄 親信の數千人を率ゐて赴戰と聲言し、遂に其の子の昇・兄子の濬を將ゐて南掖門を出で、西して石頭に至り、殷仲文をして船を具へしめ、相 與に南奔す。
初め、玄 姑孰に在るに、將相の星 屢々變有り。篡位の夕に、月及太白、又 羽林に入り、玄 甚だ之を惡む。敗走するに及び、腹心 其に戰ふことを勸むるも、玄 答ふるに暇あらず、直だ策を以て天を指す。而して日を經て食らふを得ず、左右 進むるに粗飯を以てするも、咽(む)せて下だす能はず。昇 時に年數歲にして、玄の胸に抱かれて之を撫し、玄 悲しみて自ら勝へず。
劉裕 武陵王遵を以て萬機を攝らしめ、行臺を立て、百官を總べしむ。劉毅・劉道規を遣はして玄を躡ひ、玄の諸々の兄子及び石康の兄の權・振の兄の洪らを誅せしむ。
玄 尋陽に至るや、江州刺史の郭昶之 其に器用兵力を給す。殷仲文 自ら後れて至り、玄の舟を望見するに、旌旗・輿服 帝者の儀を備ふ。歎息して曰く、「敗中に復た振ふ、故に可なり」と。玄 是に於て乘輿に逼りて西上す。桓歆 黨を聚めて歷陽に向かふも、宣城內史の諸葛長民 之を擊破す。玄 道に於て起居注を作らしめ、其の義軍を距ぐの事を敘し、自ら謂へらく經略 指授し、算は遺策無きも、諸將 節度に違ひ、以て虧喪に致り、戰の罪に非ずと。是に於て羣下と與に謀議するに遑あらず、唯だ耽思して誦述し、遠近に宣示す。玄 江陵に至るや、石康 之を納れ、幔屋を城南に張り、百官を署置し、卞範之を以て尚書僕射と為し、其の餘職 多いに輕資を用ふ。是に於て大いに舟師を修め、曾ち未だ三旬ならざるに、眾 且に二萬あり、樓船・器械 甚だ盛なり。其の羣黨に謂ひて曰く、「卿ら並びに塗を清めて朕躬に翼從し、都下 位に竊る者 方に應に軍門に謝罪すべし。其れ卿ら石頭に入るを觀るに、雲霄中の人に異なる無し」と。
玄 奔敗の後を以て、法令 肅ならざるを懼れ、遂に輕々しく怒りて妄りに殺し、人 離怨するもの多し。殷仲文 諫めて曰く、「陛下 少くして英譽を播し、遠近 服する所なり。遂に荊雍を掃平し、京室を一たび匡すや、聲 八荒を被ふ。既に據りて極位に有り、而れども此の圮運に遇ふは、威の足らざると為すに非ず。百姓 喁喁として、皇澤を想望すれば、宜しく仁風を弘くして、以て物情を收むべし」と。玄 怒りて曰く、「漢高・魏武 幾ふく敗に遇ふは、但だ諸將 利を失ふのみ。天文の惡を以て、故に還りて舊楚に都す。而れども羣小 愚惑し、妄りに是非を生ずれば、方に當に之を糾すに猛を以てせん。未だ宜しく之に施すに恩を以てせざるなり」と。玄の左右 玄を稱して「桓詔」と為す。桓胤 諫めて曰く、「詔者は、辭令を施すなり。以て稱謂と為さず。漢魏の主 皆 此の言無し、唯だ聞くらく北虜 苻堅を以て『苻詔』と為すのみ。願はくは陛下 帝則を稽古し、萬世をして法らしむ可し」と。玄曰く、「此の事 已に行はれ、今 宣敕して之を罷むれば、更に不祥と為らん。必ず其れ宜しく革むべければ、事平を待つ可し」と。荊州の郡守 玄の播越するを以て、或いは使を遣はして表を通ずるも、匪寧の辭有り。玄 悉く受けず、仍りて乃ち更めて所在をして遷都を表賀せしむ。
玄 遊擊將軍の何澹之・武衞將軍の庾稚祖・江夏太守の桓道恭を遣はして郭銓に就きて數千人を以て湓口を守らしむ。又 輔國將軍の桓振を遣はして義陽に往きて眾を聚めしむるも、弋陽に至るや、龍驤將軍の胡譁の破る所と為り、振 單騎もて走り還る。何無忌・劉道規ら郭銓・何澹之・郭昶之を桑落洲に破り、師を尋陽に進む。玄 舟艦二百を率ゐて江陵を發し、苻宏・羊僧壽をして前鋒と為らしむ。鄱陽太守の徐放を以て散騎常侍と為し、遣りて說きて義軍を解せしめんと欲し、放に謂ひて曰く、「諸人 天命を識らず、此の妄りに作すに致り、遂に懼禍 屯結し、自ら反る能はず。卿 三州の信ある所なり、朕の心を明示す可し。若し軍を退け甲を散ずれば、當に之と與に更始すべし。各々位任を授け、分を失はしめず。江水 此に在り、朕 食言せず」と。放 對へて曰く、「劉裕 唱端の主と為り、劉毅が兄は陛下の誅する所と為る。並びに說く可からざるなり。輒ち當に聖旨を何無忌に申すべし」と。玄曰く、「卿 若し功有らば、當に吳興を以て相 敘せん」と。放 遂に使を受け、無忌の軍に入る。
魏詠之 桓歆を歷陽に破り、諸葛長民 又 歆を芍陂に敗り、歆 單馬もて淮を渡る。毅 道規及び下邳太守の孟懷玉を率ゐて玄と崢嶸洲に戰ふ。時に於て義軍は數千、玄の兵 甚だ盛なり。而れども玄 敗衄有るを懼れ、常に輕舸を舫側に漾し、故に其の眾 鬭心有る莫し。義軍 風に乘じて縱火し、銳を盡くして先を爭ふ。玄の眾 大いに潰え、輜重を燒きて夜に遁げ、郭銓 歸降す。玄の故將の劉統・馮稚ら黨四百人を聚め、襲ひて尋陽城を破れば、毅 建威將軍の劉懷肅を遣はして之を討平す。玄 永安皇后及び皇后を巴陵に留む。殷仲文 時に玄の艦に在り、別船を出して散軍を收集するを求め、因りて玄に叛し、二后を奉じて夏口に奔る。玄 江陵城に入り、馮該 更に下りて戰はしむるを勸むるも、玄 從はず、漢川に出でて、梁州刺史の桓希に投ぜんと欲す。而して人情 乖阻し、制令 行はれず。玄 乘馬して城を出て、門に至るに、左右 闇中に於て之を斫る。中らずして、前後 相 殺すこと交橫たりて、玄 僅かに船に至るを得たり。是に於て荊州別駕の王康產 帝を奉じて南郡の府舍に入り、太守の王騰之 文武を率ゐて營衞す。
時に益州刺史の毛璩 其の從孫の祐之・參軍の費恬をして弟の璠の喪葬を江陵に送らしめ、眾二百有り、璩の弟子の修之 玄の屯騎校尉と為り、玄を誘ひて以て蜀に入らんとし、玄 之に從ふ。枚回洲に達し、恬 祐之と與に玄を迎擊し、矢 下ること雨の如し。玄の嬖人の丁仙期・萬蓋ら身を以て玄を蔽ひ、並びに數十箭に中たりて死す。玄 箭を被るや、其の子の昇 輒ち拔きて之を去る。益州督護の馮遷 刀を抽きて前み、玄 頭上の玉導を拔きて之に與へ、仍りて曰く、「是れ何人か。敢て天子を殺すか」と。遷曰く、「天子の賊を殺さんと欲するのみ」と。遂に之を斬り、時に年三十六なり。又 石康及び濬ら五級を斬り、庾頤之 戰死す。昇 云はく、「我 是れ豫章王なり、諸君 殺さるる勿れ」と。送りて江陵市に至りて之を斬る。
初め、玄 宮中に在るに、恒に不安を覺え、鬼神の擾ぐ所と為るが若し。其の親しき所に語りて云く、「恐らく己 當に死するべし、故に時と競はん」と。元興中に、衡陽に雌雞の化して雄と為るもの有り、八十日にして冠 萎ゆ。玄 楚を建國するに及び、衡陽 焉に屬し、篡盜してより敗に至るまで、時は凡そ八旬なり。其の時 童謠有りて云はく、「長干巷、巷長干、今年 郎君を殺し、後年に諸桓を斬る」と。其の凶兆 符會すること此の如し。郎君は、元顯を謂ふなり。
是の月、王騰之 帝を奉じて入りて太府に居る。桓謙も亦た眾を沮中に聚め、玄の為に哀を舉げ、喪庭を立て、偽諡して武悼皇帝と為す。毅ら玄の首を傳送し、大桁に梟す。百姓 觀る者 欣幸せざる莫し。
何無忌ら桓謙を馬頭に、桓蔚を龍洲に攻め、皆 之を破る。義軍 勝に乘じて競ひて進み、振・該ら靈溪に距戰するも、道規ら敗績し、死沒する者 千餘人なり。義軍 退きて尋陽に次し、更めて舟甲を繕ふ。毛璩 自ら梁州を領し、將を遣はして漢中を攻め、桓希を殺す。江夏相の張暢之・高平太守の劉懷肅 何澹之を西塞磯に攻め、之を破る。振 桓蔚を遣はして王曠に代へて襄陽を守らしむ。道規 進みて武昌を討ち、偽太守の王旻を破る。魏詠之・劉藩 桓石綏を白茅に破る。義軍 尋陽を發す。桓亮 自ら江州刺史を號し、豫章を侵し、江州刺史の劉敬宣 討ちて之を走らす。義軍 進みて夏口に次す。偽鎮東將軍の馮該ら夏口を守り、揚武將軍の孟山圖 魯城に據り、輔國將軍の桓山客 偃月壘を守す。劉毅 魯城を攻め、道規 偃月壘を攻め、無忌 檀祗と與に艦を列して中流し、以て越逸するを防ぐ。義軍 騰赴し、叫聲 山谷を動かし、辰より午に及ぶまで、二城 俱に潰え、馮該 散走し、山客を生擒す。毅ら巴陵を平らぐ。毛璩 涪陵太守の文處茂を遣はして東下せしめ、振 桓放之を遣はして益州と為し、夷陵に屯せしめ、處茂 距戰すれば、放之 敗走し、江陵に還る。
桓玄が簒奪してから、傲慢で奢侈となり、遊猟に節度がなく、昼夜を問わずに駆け回った。兄の桓偉の葬儀の日は、朝に慟哭したのに晚には遊猟して、一日のうちに複数回やることもあった。性格は短気で粗暴で、召集をしたら臣下がすぐに来ないと怒るので、直官はみな馬を役所の前に繋いだ。禁中は騒がしくて雑然とし、朝廷の礼は整備されなかった。ここにおいて万民は疲れ苦しみ、朝野は疲弊し、怨み怒って反乱を期待する者が十家のうち八か九であった。ここにおいて劉裕・劉毅・何無忌らがともに晋朝復興を計画した。劉裕らは桓脩を京口で斬り、桓弘を広陵で斬り、河内太守の辛扈興・弘農太守の王元徳・振威将軍の童厚之・竟陵太守の劉邁が謀って内応した。決起のときが来ると、劉裕は周安穆を使者にして触れ回ったが、劉邁は恐怖に駆られ、桓玄に報告した。桓玄は震え驚き、即座に辛扈興らを殺し、周安穆は逃げ去ったので命が助かった。劉邁を安重侯に封建したが、一夜明けるとこれを殺した。
劉裕は義軍を率いて竹里に至り、桓玄は移りて上宮に還り、百僚は徒歩で従い、侍官を召して、彼らを宮殿に出入りさせた。揚・豫・徐・兗・青・冀の六州に赦し、桓謙に征討都督・仮節を加え、殷仲文を桓脩の後任とし、頓丘太守の呉甫之・右衛将軍の皇甫敷を遣わして北方で義軍を防がせた。劉裕らは江乗で交戦し、戦陣に臨むや否や呉甫之を斬り、進んで羅落橋に至り、皇甫敷と戦い、またその首も梟した。桓玄はこれを聞いて大いに恐れ、道術士たちを召して数術を用いて勝利を祈祷させ、道士たちに、「朕は負けるのか」と質問した。曹靖之は、「神は怒り人は怨み、臣はまことにこれを懼れます」と答えた。桓玄は、「人には怨まれるかも知れないが、なぜ神が怒るのか」と言った。答えて、「晋の宗廟を移し、行く当てもなく、大楚の祭祀は、祖父にすらに及びません。これが神が怒る原因です」と言った。桓玄は、「なぜ諫めなかったか」と言った。答えて、「高位高官の皆さまは、みな尭舜の世に等しいと仰っていました、私に口出しできましょうか」と言った。桓玄はいよいよ怒り懼れ、桓謙・何澹之に命じて東陵に駐屯させ、卞範之を覆舟山の西に駐屯させ、二万の軍勢を併せ、義軍を防いだ。劉裕は蔣山に至り、弱兵に油帔(油を塗った雨具)を着用して登山させ、各地に自軍の旗幟を立てさせ(大軍に見せかけ)、数道から並進した。桓玄の偵察は帰還して、「劉裕の軍が四方を塞ぎ、人数は分かりません」と言った。桓玄はますます憂い恐れ、武衛将軍の庾頤之のもとに精兵を配置し、諸軍を助けさせた。このとき東北の風が強く、義軍は火を放ち、煙塵が天を覆い、鼓譟の音が京邑を驚かせた。劉裕は鉞麾を手に持って進み、桓謙らの諸軍はまとめて潰走した。桓玄は信頼する直属の数千人を率いて戦場に赴くと宣伝しながら、(実際には)子の桓昇・兄の子の桓濬を連れて南掖門から出て、西上して石頭に至り、殷仲文に船団を整えさせ、連れ立って南に逃げた。
これよりさき、桓玄が姑孰にいたとき、将相の星にしばしば異変があった。簒奪した日の夕に、月と太白(金星)が、羽林(の星座の領域)に入り、桓玄はこれを強く嫌った。敗走するに及び、腹心は桓玄に戦闘継続を勧めたが、桓玄は答える暇もなく、ただ策(むち)で天を指した。数日間食事が喉を通らず、左右が粗飯を進めたが、咽せて飲み下せなかった。子の桓昇がこのとき数歳で、桓玄の胸に抱かれながら父を撫で、桓玄は悲しみが堪え切れなかった。
劉裕は武陵王遵(司馬遵)に政務全般を摂行させ、行台を立て、百官を統括させた。劉毅・劉道規に桓玄を追わせ、桓玄の兄の子たちや桓石康の兄の桓権、桓振の兄の桓洪らを誅殺した。
桓玄が尋陽に到達すると、江州刺史の郭昶之が軍備と兵力を供給した。殷仲文が遅れて到着して、桓玄の船を遠くから見ると、旌旗・輿服は皇帝の威儀を備えていた。歎息して、「敗走中でも威容を失わない、まだ望みがある」と言った。桓玄は乗輿(晋帝)に逼って西上した。桓歆は仲間を集めて歴陽に向かったが、宣城内史の諸葛長民がこれを撃破した。桓玄は道中に起居注を作らせ、義軍を防いだことを記述させ、(桓玄が)直接計略を立てて、作戦に失敗はなかったが、諸将が命令どおり動かないせいで、敗北に至り、責任が桓玄にはないと書かせた。ここにおいて群臣に相談する暇もなく、ただ考え込んで声に出し、遠近に命令を発した。桓玄が江陵に到着すると、桓石康がこれを受け入れ、幔屋を城南に張り、百官を配置し、卞範之を尚書僕射とし、それ以下の職に資質の軽い人材を宛てがった。ここおいて大いに水軍を整え、三十日も経たないうちに、軍勢は二万に膨れ上がり、楼船・器械もとても立派であった。部下たちに、「きみたちは道を清めて朕を助けて従った。都下で帝位を盗んでいる者(劉裕・司馬遵ら)はわが軍門に謝罪すべきだ。きみたちが石頭に入城する姿は、まさに天空の高みにいる人に見えた」と言った。
桓玄は敗走した後なので、法令が正しく行われないことを恐れ、軽々しく違反者を殺したので、離脱し怨む者が多かった。殷仲文が諫めて、「陛下は若くして英雄の誉れを延べ、遠近は威服しています。荊州と雍州を掃討して、都を粛清(受禅)すると、声は八荒に及びました。すでに最高の位にいらっしゃり、今回の戦いで負けたのは、権威が足りないためではありません。万民が仰ぎ見て、陛下の恩沢を望んでいるのですから、仁政に努めて、人々の不満を鎮めて下さい」と言った。桓玄は怒って、「漢高と魏武(劉邦と曹操)の滅亡の危機は、諸将の敗北によってもたらされた(戦敗を軽視すべきでない)。天文が不吉なので、これから帰還して旧楚に都を置こうと思う。しかし配下の連中が愚かに惑い、妄りに悪事を行うので、猛政の態度でこれを正すのだ。まだ寛治によって恩沢を施す段階にない」と言った。さて桓玄の側近は桓玄を「桓詔」と呼んだ。桓胤が諫めて、「詔とは、命令を伝える文書のことで、皇帝の呼称ではありません。漢魏の君主もこのように呼ばれませんでした。ただ北虜(前秦)の苻堅を「苻詔」と呼んだそうです。どうか陛下は本来の礼制に立ち返り、萬世の手本となるべきです」と言った。桓玄は、「もうそのように呼ばれているのだから、いま勅命を出して禁止するほうが、もっと不吉であろう。どうしても修正が必要ならば、この戦争が終わるのを待て」と言った。荊州の郡守は桓玄が都から脱出したので、使者を寄越して挨拶する者がいたが、穏当でない言葉が含まれていた。桓玄はすべてを拒絶し、改めて現在の居場所への遷都を祝う文面を再提出させた。
桓玄は遊撃将軍の何澹之・武衛将軍の庾稚祖・江夏太守の桓道恭を遣わして郭銓に従って数千人をで湓口を守らせた。また輔国将軍の桓振を遣わして義陽に言って兵数を集めさせようとしたが、弋陽に到着すると、龍驤将軍の胡譁に敗れ、桓振は単騎で逃げ帰った。何無忌・劉道規らが郭銓・何澹之・郭昶之を桑落洲で破り、軍勢を尋陽に進めた。桓玄は二百の船艦を率いて江陵を出発し、苻宏・羊僧壽をして前鋒とした。鄱陽太守の徐放を散騎常侍とし、遣わして義軍を説得により解散させようとした。桓玄は徐放に、「(劉裕ら)諸人は天命を識らず、妄りに軍を起こした結果、恐怖と災厄に苦しい、引っ込みが付かなくなっている。あなたは三州に信があるから、朕の心を彼らに理解させてやってくれ。もし敵軍が退いて解散したら、わが王朝は仕切り直しだ。(敵対した者も)それぞれ官爵を授け、立場を保証しよう。長江に誓って、朕は嘘をつかない」と言った。徐放が答えて、「劉裕は謀反の首謀者であり、劉毅の兄を陛下が誅殺しました。二人の説得は不可能です。ですから何無忌を口説きましょう」と言った。桓玄は、「もし功績があれば、呉興の任を授けよう」と言った。徐放は使者となり、何無忌の軍に入った。
魏詠之は桓歆を歴陽で破り、諸葛長民もまた芍陂で桓歆を破り、桓歆はただ一騎で淮河を渡って逃れた。劉毅は劉道規と下邳太守の孟懐玉を率いて、桓玄と崢嶸洲で戦った。このとき義軍の兵は数千人に過ぎず、桓玄の軍勢のほうが非常に強大であった。しかし桓玄は敗北した場合に備えて、つねに軽船を大艦の傍らに浮かべていたので、桓玄軍は戦意を喪失した。義軍は風に乗じて火を放ち、鋭気を奮って先を争った。桓玄の軍は大敗し、輜重を焼いて夜に逃げ去り、郭銓は投降した。桓玄の旧将の劉統・馮稚らは残党四百人を集め、尋陽城を破って占領したが、劉毅は建威将軍の劉懐粛を遣わして討ち平らげた。桓玄は永安皇后及び皇后を巴陵に残した。殷仲文はこのとき桓玄の艦中にいたが、別船を出して敗残兵を集めることを口実に、別行動して桓玄から離叛し、二后の身柄を奉じて夏口に逃走した。桓玄は江陵城に入り、馮該が再び出撃して敵と戦おうと進言したが、桓玄は従わず、漢川に出て、梁州刺史の桓希を頼ろうとした。だが人々の心は離れ、桓玄の命令に従わなかった。桓玄は馬に乗って城を出ようとし、城門に至ったとき、左右の者が暗がりから斬りつけた。刃は当たらず、混乱して味方同士が殺し合う騒ぎとなり、桓玄は辛うじて船に逃げ込むことができた。ここにおいて荊州別駕の王康産は晋帝を奉じて南郡の府舎に入り、太守の王騰之が文武の官を率いてこれを警護した。
そのころ益州刺史の毛璩は、従孫の毛祐之と参軍の費恬に命じ、弟の毛璠の遺体を江陵に送らせており、同行者が二百人いた。毛璩の弟の子の毛修之は桓玄の屯騎校尉となっていたが、桓玄に蜀に逃れようと誘い、桓玄はこれに従った。枚回洲に到達したとき、費恬は毛祐之とともに桓玄を迎撃し、矢が雨のように降り注いだ。桓玄の寵臣の丁仙期と萬蓋らは身を呈して桓玄にかぶさり、数十本の矢を受けて死んだ。桓玄に矢が当たると、桓玄の子の桓昇がこれを抜き去った。益州督護の馮遷が刀を抜いて前進すると、桓玄は冠の玉飾りを引き抜いて与え、「きみは何者だ。天子を殺すつもりか」と言った。馮遷は、「天子の仇を殺すだけだ」と言った。ついに桓玄を斬った。このとき三十六歳であった。また桓石康や桓濬ら五人の首級を斬り、庾頤之は戦死した。桓昇は、「私は豫章王である、みな死ぬなよ」と言った。桓昇は捕縛されて江陵の市に送って斬られた。
これよりさき、桓玄は宮中にいたとき、つねに不安を覚え、鬼神に悩まされているようであった。親しい者に、「恐らく私は死ぬ運命にある。だからこそ(簒奪を)急ぐのだ」と言った。元興年間、衡陽で一羽の雌鶏が雄鶏に化したが、八十日後には冠が萎んだ。桓玄が楚を建国したとき、衡陽はその領土に含まれ、簒奪から滅亡までの日数もまた八十日ほどであった。当時、童謡が歌われ、「長干巷、巷長干(ともに建康の南のことか)、今年に郎君を殺し、後年に諸桓(桓氏一族)を斬る」と言った。その凶兆は現実化した。郎君とは、司馬元顕のことである。
この月、王騰之が晋帝を奉じて太府に入った。桓謙もまた軍勢を沮中で集め、桓玄のために哀を挙げ、喪庭(棺を安置する場所)を設けて、偽諡して武悼皇帝とした。龍毅らは桓玄の首を送り伝え、大桁に梟した。万民は桓玄の首級を見て、みな心から喜んだ。
何無忌らは桓謙を馬頭で、桓蔚を龍洲で攻撃し、どちらも撃破した。義軍は勝ちに乗じて競って前進し、桓振・馮該らは霊溪で防戦したが、劉道規らが敗北し、死没した者が千人あまりであった。義軍は退いて尋陽に駐屯し、改めて戦艦を修繕した。毛璩が自ら梁州を領し、将軍を派遣して漢中を攻め、桓希を殺した。江夏相の張暢之・高平太守の劉懐粛は何澹之を西塞磯で攻撃し、これを破った。桓振は桓蔚を派遣して王曠に代えて襄陽を守らせた。劉道規は進んで武昌を討伐し、偽太守の王旻を破った。魏詠之・劉藩は桓石綏を白茅で破った。義軍は尋陽を出発した。桓亮は自ら江州刺史を号し、豫章を侵略したが、江州刺史の劉敬宣が討伐して桓亮を敗走させた。義軍が進んで夏口に駐屯した。偽鎮東将軍の馮該らが夏口を守り、揚武将軍の孟山図が魯城に拠り、輔国将軍の桓山客が偃月塁を守った。劉毅が魯城を攻め、劉道規が偃月塁を攻め、何無忌が檀祗ととともに戦艦を並べて川のまんなかを占め、敵軍の逃亡を防いだ。義軍が勢いよく進み、叫び声が山谷に響き、辰刻から午刻までのあいだに、二城がともに陥落し、馮該は潰走し、桓山客を生け捕りにした。劉毅らが巴陵を平定した。毛璩は涪陵太守の文処茂を派遣して東に下らせ、桓振は桓放之を派遣して益州の長官とし、夷陵に駐屯させたが、文処茂がこれを防いで戦ったので、桓放之は敗走し、江陵に還った。
義熙元年正月、南陽太守魯宗之起義兵襲襄陽、破偽雍州刺史桓蔚。無忌諸軍次江陵之馬頭、振擁帝出營江津。魯宗之率眾於柞溪、破偽武賁中郎溫楷、進至紀南。振自擊宗之、宗之失利。時蜀軍據靈溪、毅率無忌・道規等破馮該軍、推鋒而前、即平江陵。振見火起、知城已陷、乃與謙等北走。是日、安帝反正。大赦天下、唯逆黨就戮、詔特免桓胤一人。桓亮自豫章、自號鎮南將軍・湘州刺史。苻宏寇安成・廬陵、劉敬宣遣將討之、宏走入湘中。二月、桓謙・何澹之・溫楷等奔於姚興。桓振與宏出自溳城、襲破江陵、劉懷肅自雲杜伐振等、破之。廣武將軍唐興斬振及偽輔國將軍桓珍、毅於臨鄣斬偽零陵太守劉叔祖。桓亮・苻宏復出寇湘中、害郡守長吏、檀祗討宏於湘東、斬之、廣武將軍郭彌斬亮於益陽、其餘擁眾假號皆討平之。詔徙桓胤及諸黨與於新安諸郡。
三年、東陽太守殷仲文與永嘉太守駱球謀反、欲建桓胤為嗣、曹靖之・桓石松・卞承之・劉延祖等潛相交結、劉裕以次收斬之、并誅其家屬。後桓謙走入蜀、蜀賊譙縱以謙為荊州刺史、使率兵而下、荊楚之眾多應之。謙至枝江、荊州刺史劉道規斬之、梁州刺史傅歆又斬桓石綏、桓氏遂滅。
義熙元年正月、南陽太守の魯宗之 義兵を起こして襄陽を襲め、偽雍州刺史の桓蔚を破る。無忌の諸軍 江陵の馬頭に次し、振 帝を擁して出でて江津に營す。魯宗之 眾を柞溪に於て率ゐ、偽武賁中郎の溫楷を破り、進みて紀南に至る。振 自ら宗之を擊し、宗之 利を失ふ。時に蜀軍 靈溪に據り、毅 無忌・道規らを率ゐて馮該の軍を破り、鋒を推して前み、即ち江陵を平らぐ。振 火の起こるを見て、城 已に陷つるを知り、乃ち謙らと與に北走す。是の日、安帝 反正す。天下を大赦し、唯だ逆黨のみ戮に就かしめ、詔して特に桓胤一人を免ず。桓亮 豫章より、自ら鎮南將軍・湘州刺史を號す。苻宏 安成・廬陵を寇するや、劉敬宣 將を遣はして之を討ち、宏 走りて湘中に入る。二月、桓謙・何澹之・溫楷ら姚興に奔る。桓振 宏と與に溳城より出で、襲ひて江陵を破るも、劉懷肅 雲杜より振らを伐ち、之を破る。廣武將軍の唐興 振及び偽輔國將軍の桓珍を斬り、毅 臨鄣に於て偽零陵太守の劉叔祖を斬る。桓亮・苻宏 復た出でて湘中を寇し、郡守長吏を害するや、檀祗 宏を湘東に討ち、之を斬り、廣武將軍の郭彌 亮を益陽に斬り、其の餘 眾を擁して假號するも皆 之を討平す。詔して桓胤及び諸々の黨與を新安の諸郡に徙す。
三年、東陽太守の殷仲文 永嘉太守の駱球と與に謀反し、桓胤を建てて嗣と為さんと欲し、曹靖之・桓石松・卞承之・劉延祖ら潛かに相 交結し、劉裕 次を以て之を收斬し、并せて其の家屬を誅す。後に桓謙 走りて蜀に入り、蜀賊の譙縱 謙を以て荊州刺史と為し、兵を率ゐて下らしめ、荊楚の眾 多く之に應ず。謙 枝江に至るや、荊州刺史の劉道規 之を斬り、梁州刺史の傅歆 又 桓石綏を斬りて、桓氏 遂に滅ぶ。
義熙元(四〇五)年正月、南陽太守の魯宗之が義兵を挙げて襄陽を攻め、偽雍州刺史の桓蔚を破った。何無忌らの諸軍は江陵の馬頭に駐屯し、桓振は安帝を擁して江津に着陣した。魯宗之は軍勢を柞溪で率い、偽武賁中郎・温楷を破り、紀南まで進軍した。桓振は自ら魯宗之を攻撃し、魯宗之は敗勢となった。そのころ蜀の軍勢は霊溪に拠っていたが、劉毅が何無忌・劉道規らを率いて馮該の軍を破り、勢いに乗って進んで江陵を平定した。桓振は火が上がるのを見て、城の陥落を知り、桓謙らとともに北に逃走した。この日、安帝は復位し、天下を大赦したが、逆賊の仲間だけは誅戮とし、詔で特別に桓胤一人だけを赦免した。桓亮は豫章から鎮南将軍・湘州刺史を自傷した。苻宏が安成・廬陵を侵略すると、劉敬宣が将を派遣してこれを討伐し、苻宏は敗れて湘中へ逃げ込んだ。二月、桓謙・何澹之・温楷らは姚興(後秦)に亡命した。桓振は苻宏とともに溳城から出撃し、江陵を襲って突破したが、劉懐粛が雲杜から出撃して桓振を討伐し、これを破った。広武将軍の唐興が桓振および偽輔国将軍の桓珍を斬り、劉毅は臨鄣で偽零陵太守の劉叔祖を斬った。桓亮と苻宏はその後も湘中を侵略し、郡県の長官をを殺害したが、檀祗が苻宏を湘東で討伐して斬り、広武将軍の郭弥が桓亮を益陽で斬り、それ以外の軍勢を擁して偽の官号を自称した者たちも平定した。朝廷は詔を下し桓胤とその党与を新安郡などに移住させた。
義熙三(四〇七)年、東陽太守の殷仲文が永嘉太守の駱球と謀反して、桓胤を擁立して帝位を嗣がせようと企て、曹靖之・桓石松・卞承之・劉延祖らが密かに結託した。しかし劉裕が陰謀を察知して一同を捕らえて斬首し、その家属を誅殺した。のちに桓謙は蜀に逃れ、蜀賊の譙縱が彼を荊州刺史に任命して、軍を率いて(長江を)下らせ、荊楚の民衆の多くがこれに呼応した。桓謙が枝江に到着すると、荊州刺史の劉道規がこれを斬り、梁州刺史の傅歆も桓石綏を斬った。こうして桓氏の一族は滅亡した。
卞範之字敬祖、濟陰宛句人也。識悟聰敏、見美於當世。太元中、自丹楊丞為始安太守。桓玄少與之遊、及玄為江州、引為長史、委以心膂之任、潛謀密計、莫不決之。後玄將為篡亂、以範之為丹楊尹。範之與殷仲文陰撰策命、進範之為征虜將軍・散騎常侍。玄僭位、以範之為侍中、班劍二十人、進號後將軍、封臨汝縣公。其禪詔、即範之文也。
玄既奢侈無度、範之亦盛營館第。自以佐命元勳、深懷矜伐、以富貴驕人、子弟慠慢、眾咸畏嫉之。義軍起、範之屯兵於覆舟山西、為劉毅所敗、隨玄西走、玄又以範之為尚書僕射。玄為劉毅等所敗、左右分散、唯範之在側。玄平、斬於江陵。
卞範之 字は敬祖、濟陰宛句の人なり。識悟聰敏にして、當世に美せらる。太元中に、丹楊丞より始安太守と為る。桓玄 少きとき之と與に遊び、玄 江州と為るに及び、引きて長史と為し、委ぬるに心膂の任を以てし、潛謀密計、之を決せざる莫し。後に玄 將に篡亂を為さんとするに、範之を以て丹楊尹と為す。範之 殷仲文と與に陰かに策命を撰す。範之を進めて征虜將軍・散騎常侍と為す。玄 僭位するや、範之を以て侍中と為し、班劍二十人なり。號を後將軍に進め、臨汝縣公に封ず。其の禪詔は、即ち範之の文なり。
玄 既に奢侈 無度にして、範之も亦た盛んに館第を營む。自ら佐命の元勳なるを以て、深く矜伐を懷き、富貴を以て人に驕り、子弟 慠慢たりて、眾 咸 之を畏嫉す。義軍 起つや、範之 兵を覆舟山西に屯し、劉毅の敗る所と為りて、玄に隨ひて西して走り、玄 又 範之を以て尚書僕射と為す。玄 劉毅らの敗る所と為り、左右 分散し、唯だ範之のみ側に在り。玄 平らぐや、江陵に於て斬らる。
卞範之は字を敬祖といい、済陰宛句の人である。知恵があり明敏で、当世に称賛された。太元年間に、丹楊丞から始安太守となった。桓玄は若いとき一緒に遊び、桓玄が江州の長官になると、招いて長史とし、輔佐の臣として信任し、ひそかな計画は、すべて卞範之が決定した。のちに桓玄が簒奪をもくろむと、卞範之を丹楊尹とした。卞範之は殷仲文とともにひそかに策文を作った。卞範之を征虜将軍・散騎常侍に昇進させた。桓玄が簒奪すると、卞範之を侍中とし、班剣(剣をもち供するもの)を二十人とした。官号を後将軍に進め、臨汝県公に宝剣した。禅譲の詔は、卞範之が書いた文である。
桓玄が奢侈に際限がなく、卞範之もまたさかんに邸宅を造営した。自ら佐命の元勲であるから、強い自負心を持ち、富貴によって人を侮り、子弟も傲慢でらい、人々は畏れて忌み嫌った。義軍が決起すると、卞範之は兵を覆舟山の西に駐屯させ、劉毅に敗れると、桓玄に随って西に逃げた。桓玄は卞範之に尚書僕射を加えた。桓玄が劉毅らに敗れると、近臣たちは解散したが、卞範之だけが側にいた。桓玄が平定されると、江陵で斬られた。
殷仲文、南蠻校尉覬之弟也。少有才藻、美容貌。從兄仲堪薦之於會稽王道子、即引為驃騎參軍、甚相賞待。俄轉諮議參軍、後為元顯征虜長史。會桓玄與朝廷有隙、玄之姊、仲文之妻、疑而間之、左遷新安太守。仲文於玄雖為姻親、而素不交密、及聞玄平京師、便棄郡投焉。玄甚悅之、以為諮議參軍。時王謐見禮而不親、卞範之被親而少禮、而寵遇隆重、兼於王・卞矣。玄將為亂、使總領詔命、以為侍中、領左衞將軍。玄九錫、仲文之辭也。
初、玄篡位入宮、其牀忽陷、羣下失色、仲文曰、「將由聖德深厚、地不能載」。玄大悅。以佐命親貴、厚自封崇、輿馬器服、窮極綺麗、後房伎妾數十、絲竹不絕音。性貪吝、多納貨賄、家累千金、常若不足。玄為劉裕所敗、隨玄西走、其珍寶玩好悉藏地中、皆變為土。至巴陵、因奉二后投義軍、而為鎮軍長史、轉尚書。
帝初反正、抗表自解曰、「臣聞洪波振壑、川無恬鱗。驚飈拂野、林無靜柯。何者。勢弱則受制於巨力、質微則無以自保。於理雖可得而言、於臣實非所敢譬。昔桓玄之代、誠復驅逼者眾。至如微臣、罪實深矣、進不能見危授命、亡身殉國。退不能辭粟首陽、拂衣高謝。
遂乃宴安昏寵、叨昧偽封、錫文篡事、曾無獨固。名義以之俱淪、情節自茲兼撓、宜其極法、以判忠邪。會鎮軍將軍劉裕匡復社稷、大弘善貸、佇一戮於微命、申三驅於大信、既惠之以首領、又申之以縶維。於時皇輿否隔、天人未泰、用忘進退、是以僶俛從事、自同令人。今宸極反正、唯新告始、憲章既明、品物思舊、臣亦胡顏之厚、可以顯居榮次。乞解所職、待罪私門。違離闕庭、乃心慕戀」。詔不許。
仲文因月朔與眾至大司馬府、府中有老槐樹、顧之良久而歎曰、「此樹婆娑、無復生意」。仲文素有名望、自謂必當朝政、又謝混之徒疇昔所輕者、並皆比肩、常怏怏不得志。忽遷為東陽太守、意彌不平。劉毅愛才好士、深相禮接、臨當之郡、游宴彌日。行至富陽、慨然歎曰、「看此山川形勢、當復出一伯符」。何無忌甚慕之。東陽、無忌所統、仲文許當便道修謁、無忌故益欽遲之、令府中命文人殷闡・孔甯子之徒撰義構文、以俟其至。仲文失志恍惚、遂不過府。無忌疑其薄己、大怒、思中傷之。時屬慕容超南侵、無忌言於劉裕曰、「桓胤・殷仲文乃腹心之疾、北虜不足為憂」。義熙三年、又以仲文與駱球等謀反、及其弟南蠻校尉叔文並伏誅。仲文時照鏡不見其面、數日而遇禍。
仲文善屬文、為世所重、謝靈運嘗云、「若殷仲文讀書半袁豹、則文才不減班固」。言其文多而見書少也。
殷仲文は、南蠻校尉の覬の弟なり。少くして才藻有り、容貌を美せらる。從兄の仲堪 之を會稽王道子に薦め、即ち引きて驃騎參軍と為し、甚だ相 賞待せらる。俄かに諮議參軍に轉じ、後に元顯の征虜長史と為る。會々桓玄 朝廷と隙有るや、玄の姊、仲文の妻なれば、疑ひて之を間(へだた)ち、新安太守に左遷せらる。仲文 玄に於て姻親為りと雖も、而れども素より交密せず、玄 京師を平らぐを聞くに及び、便ち郡を棄てて焉に投ず。玄 甚だ之を悅び、以て諮議參軍と為す。時に王謐 禮を見るも親しまず、卞範之 親しまるも禮少なく、而して寵遇 隆重たりて、王・卞を兼ぬ。玄 將に亂を為さんとするや、詔命を總領せしめ、以て侍中と為し、左衞將軍を領せしむ。玄の九錫、仲文の辭なり。
初め、玄 位を篡して宮に入るや、其の牀 忽ち陷し、羣下 色を失ふ。仲文曰く、「將に聖德 深厚なるに由りて、地 載する能はず」と。玄 大いに悅ぶ。佐命親貴なるを以て、厚く自ら封崇し、輿馬器服、窮極に綺麗なりて、後房の伎妾は數十、絲竹 音を絕やさず。性は貪吝にして、多く貨賄を納れ、家に千金を累ぬるも、常に足らざるが若し。玄 劉裕の敗る所と為るや、玄に隨ひて西走し、其の珍寶玩好 悉く地中に藏し、皆 變じて土と為る。巴陵に至るや、因りて二后を奉じて義軍に投じ、而して鎮軍長史と為り、尚書に轉ず。
帝 初め正に反るや、表を抗して自解して曰く、「臣 聞くに洪波 壑を振はすれば、川は恬なる鱗無し。驚飈 野を拂はば、林は靜なる柯無し。何者ぞや。勢 弱なれば則ち制を巨力に受け、質 微なれば則ち以て自ら保つ無し。理に於て得て言ふ可きと雖も、臣に於て實に敢て譬する所に非ず。昔 桓玄の代に、誠に復た驅逼する者は眾し。微臣が如きに至るも、罪 實に深し。進みては危を見て命を授け、身を亡して國に殉ずる能はず。退きては粟を首陽に辭し、衣を拂ひて高謝する能はず。
遂に乃ち昏寵に宴安し、偽封に叨昧す。錫文の篡事、曾ち獨固する無し。名義は之を以て俱に淪み、情節は茲より兼撓す。宜しく其の法を極めて、以て忠邪を判ずべし。會々鎮軍將軍の劉裕 社稷を匡復し、大いに善貸を弘め、一戮を微命に佇め、三驅を大信に申し、既に之を惠むに首領を以てし、又 之を申すに縶維を以てす。時に於て皇輿 否隔たりて、天人 未だ泰からず、用て進退を忘る。是を以て僶俛して從事し、自ら令人に同ず。今 宸極 正に反り、唯だ新たに始を告す。憲章 既に明らかにして、品物 舊を思ふ。臣も亦た胡ぞ顏の厚く、以て榮次に顯居す可きか。乞ふらくは所職を解き、罪を私門に待たん。闕庭に違離し、乃ち心 慕戀す」と。詔して許さず。
仲文 月朔に因りて眾と與に大司馬府に至るに、府中に老槐樹有り、之を顧ること良に久して歎じて曰く、「此の樹 婆娑として、復た生意無し」と。仲文 素より名望有り、自ら謂へらく必ず朝政に當たると。又 謝混の徒疇 昔 輕んずる所の者、並びに皆 比肩し、常に怏怏として志を得ず。忽ち遷りて東陽太守と為り、意 彌々不平なり。劉毅 才を愛し士を好み、深く相 禮接し、臨みて郡に之くに當たり、游宴すること彌日なり。行きて富陽に至り、慨然と歎じて曰く、「此の山川の形勢を看るに、當に復た一伯符を出だすべし」と。何無忌 甚だ之を慕ふ。東陽は、無忌の統ぶる所にして、仲文 當に便道より修謁するべきことを許す。無忌 故に益々欽みて之を遲らせ、府中をして文人の殷闡・孔甯子の徒に命じて義を撰し文を構しめ、以て其の至るを俟つ。仲文 志を失ひて恍惚たりて、遂に府に過らず。無忌 其の己を薄とするを疑ひ、大いに怒り、之を中傷せんと思ふ。時に屬々慕容超 南侵するも、無忌 劉裕に言ひて曰く、「桓胤・殷仲文 乃ち腹心の疾なり。北虜 憂と為すに足らず」と。義熙三年、又 仲文 駱球らと與に謀反するを以て、及び其の弟の南蠻校尉の叔文 並びに伏誅す。仲文 時に鏡を照らすに其の面を見ず、數日にして禍に遇ふ。
仲文 屬文を善くし、世の重んずる所と為り、謝靈運 嘗て云ふ、「殷仲文の若きは讀書は袁豹に半ばするも、則ち文才は班固を減ぜず」と。其の文 多くして書を見ること少なきを言ふなり。
殷仲文は、南蛮校尉の殷覬の弟である。若くして才智と文藻があり、容貌をほめられた。従兄の殷仲堪は彼を会稽王道子(司馬道子)に薦め、司馬道子は殷仲文を招いて驃騎参軍とし、とても尊重された。にわかに諮議参軍に転じ、のちに司馬元顕の征虜長史となった。このころ桓玄が朝廷と対立すると、桓玄の姉が、殷仲文の妻であったことから、疑われて(東晋で)疎んぜられ、新安太守に左遷された。殷仲文は桓玄と婚姻を結んでいたが、かねて桓玄と親密ではなかった。桓玄が京師(東晋の都)を陥落させたと聞いて、殷仲文は(任地の新安)郡を捨てて慌てて桓玄のもとに身を投じた。桓玄はとても喜び、諮議参軍とした。時に王謐は(桓玄に)礼遇されても親愛されず、卞範之は親愛されても礼遇されていなかった。殷仲文への親愛と礼遇はどちらも高く、王謐と卞範之を合わせたものであった。桓玄が簒奪に着手すると、殷仲文に詔命をすべて管轄させ、侍中とし、左衛将軍を領させた。桓玄の九錫の文は、殷仲文の作である。
これよりさき、桓玄が皇位を簒奪して宮殿に入ると、(桓玄が座った)長椅子が陥没し、群臣は顔色を失った。殷仲文は、「陛下の聖徳が重厚なので、地が支えられなかったのです」と言った。桓玄は大いに悦んだ。佐命の臣であり(桓玄から)親愛と礼遇を受けていたので、自ら地位を高くし、輿馬や器服は、極めて豪華であり、後房の伎妾は数十人おり、音楽の演奏がつねに絶えなかった。貪欲でけちな性格で、多くの賄賂を受けとり、家に千金を積み重ねたが、それでも満足しなかった。桓玄が劉裕に敗れると、桓玄に従って西に逃げた。持っていた珍宝や趣味の品々を地中に隠したが、すべてが土に還った。巴陵に至ると、二人の后を連れて義軍に投降した。鎮軍長史となり、尚書に転じた。
東晋の皇帝が復位すると、殷仲文は上表して弁明し、「臣が聞きますに大きな波は谷を震わせれば、川に棲む魚は安らかでいられません。疾風が野原に吹けば、林の木々は静かではいられません。なぜでしょうか。弱いものは強い力から影響を受け、小さなものは自分の身を保てないからです。これが必然の道理でありますが、臣も同じでしたとまでは申しません。むかし桓玄が簒奪すると、(強い波や風のように)多くのものを圧迫して同調を求めました。臣のようなものでも、(桓玄に協調にした)罪はとても重いのです。進んでは(東晋の)危難に命を捧げ、死して国家に殉じることができませんでした。退いては(伯夷と叔斉のように)桓玄の国のものを口にせず、隠者に徹することができませんでした。
桓玄のでたらめな厚遇に甘んじ、不正な官職を受けました。九錫の賜与と簒奪に対して、ひとり抵抗を貫けませんでした。大義名分をねじまげ、邪悪な考えに乱されました。どうか法規に基づいて、忠邪を判定して下さい。たまたま鎮軍将軍の劉裕が(桓玄を討伐して)社稷を回復させたとき、大いに罪を赦し、死刑の執行を延期し、逃げ道を作って、わが首を切り落とさなかったので、まだ生き残っています。あのころは皇帝が行き場を失い、天も人も不安定でしたので、私は混乱しておりました。国家のために働き、善行に努めようと思います。いま皇帝が復位し、政治が一新されました。法規の運用が正常化され、万物が復古しています。どうして臣は恥を知らず、朝廷の高い地位にいてよいものでしょうか。どうか官職を解いて下さい、自宅で判決を待ちたいと思います。宮廷から離れても、心では国家を恋い慕っています」と言った。詔して(解任を)許さなかった。
殷仲文が月初に同僚たちと大司馬府に出勤したとき、府内に老槐樹(えんじゅの老木)があった。これを長く眺めてから(自分を境遇を重ねて)悲嘆し、「この木は枯れそうだ、もう復活するまい」と言った。殷仲文はかねて名望があり、朝廷で政治を執るという自負があった。また謝混のようにかつて軽んじていたものと、同じ地位に甘んじていたので、つねに不満そうだった。とつぜん東陽太守に任命され、いよいよ不服であった。劉毅は才能と人材を愛し、殷仲文を尊んで付き合っていたので、郡に赴任する前に、数日かけて酒宴を催した。出発して富陽に至ると、心を奮い起こして嘆き、「この山川の地形を見たところ、ふたたび伯符(後漢末の孫策)を輩出するに違いない」と言った。何無忌は殷仲文を慕っていた。(殷仲文が地形を褒めた)東陽は、(江州刺史の)何無忌が統治していた。殷仲文は道中に立ち寄って何無忌に面会する約束をした。何無忌はますます喜んで殷仲文の行路を遅らせ、府中に命じて文人の殷闡・孔甯子らに命じて親交を結ぶ書簡を作り、殷仲文の到着を待った。ところが殷仲文は落胆してぼんやりとし、何無忌の府を通過した。何無忌は軽んじられたと思い、大いに怒り、殷仲文を誹謗中傷しようと考えた。このとき慕容超が南侵していたが、何無忌は劉裕に、「桓胤・殷仲文は腹中の病です。北虜(国外の慕容超)よりも悪質な脅威です」と言った。義熙三年、殷仲文は駱球らとともに謀反を企んだとして、その弟で南蛮校尉の殷叔文とともに誅殺された。殷仲文はこのとき鏡を見たが顔が映らず、数日後に禍いに遇った。
殷仲文は文をつづるのを得意とし、世に重んじられた。謝霊運はかつて、「殷仲文は読書は(同じ東晋の)袁豹の半分だが、文章の才は(前漢の)班固にも劣らない」と言った。殷仲文は文章の量は多いが読書の量が少ないことを言ったのである。
史臣曰、桓玄纂凶、父之餘基。挾姦回之本性、含怒於失。苞藏其豕心、抗表以稱冤。登高以發憤、觀釁而動、竊圖非望。始則假寵於仲堪、俄而戮殷以逞欲、遂得據全楚之地、驅勁勇之兵、因晉政之陵遲、乘會稽之酗醟、縱其狙詐之計、扇其陵暴之心、敢率犬羊、稱兵內侮。天長喪亂、凶力實繁、踰年之間、奄傾晉祚、自謂法堯禪舜、改物君臨、鼎業方隆、卜年惟永。俄而義旗電發、忠勇雷奔、半辰而都邑廓清、踰月而凶渠即戮、更延墜曆、復振頹綱。是知神器不可以闇干、天祿不可以妄處者也。夫帝王者、功高宇內、道濟含靈、龍宮鳳曆表其祥、彤雲玄石呈其瑞、然後光臨大寶、克享鴻名、允徯后之心、副樂推之望。若桓玄之幺麼、豈足數哉。適所以干紀亂常、傾宗絕嗣、肇金行之禍難、成宋氏之驅除者乎。
贊曰、靈寶隱賊、世載凶德。信順未孚、姦回是則。肆逆遷鼎、憑威縱慝。違天虐人、覆宗殄國。
史臣曰く、桓玄の纂凶は、父の餘基なり。姦回の本性を挾み、怒りを職を失ふことに含む。其の豕心を苞藏し、表を抗して以て冤を稱す。高みに登るに發憤を以てし、釁を觀て動き、竊かに非望を圖る。始めは則ち寵を仲堪に假るも、俄かにして殷を戮して以て欲を逞くす。遂に全楚の地に據るを得るや、勁勇の兵を驅り、晉政の陵遲に因りて、會稽の酗醟に乘じて、其の狙詐の計を縱にし、其の陵暴の心を扇(さか)んにす。敢て犬羊を率ゐて、兵を稱するも內に侮せらる。天長 喪亂し、凶力 實繁たり。踰年の間に、奄ち晉祚を傾く。自ら謂ふらく堯の舜に禪るに法り、物を改めて君臨す。鼎業 方に隆んなりて、年を卜すること惟だ永し。俄かにして義旗 電のごとく發し、忠勇 雷のごとく奔し、半辰にして都邑 廓(おほ)いに清たり。踰月にして凶渠 即ち戮し、更に墜曆を延ばし、復た頹綱を振ふ。是れ神器 闇を以て干す可からず、天祿 妄を以て處る可からざる者なることを知らん。夫れ帝王なる者は、功は宇內に高く、道は含靈を濟ひ、龍宮鳳曆 其の祥を表はし、彤雲玄石 其の瑞を呈し、然る後に大寶に光臨し、克く鴻名を享け、徯后の心を允にし、樂推の望に副ふ。桓玄の幺麼が若きは、豈に數ふるに足らんや。適に紀を干し常を亂し、宗を傾け嗣を絕つ所以にして、金行の禍難を肇め、宋氏の驅除と成る者なるか。
贊に曰く、靈寶 賊を隱し、世 凶德を載す。信順 未だ孚ならず、姦回 是れ則なり。逆を肆にし鼎を遷し、威に憑きて慝を縱にす。天に違ひて人を虐げ、宗を覆し國を殄す。
史臣はいう、桓玄の簒奪の悪事は、父(桓温)を引き継いだものである。邪悪な本性を持ちながら、(桓温の死後に一族が警戒されて)官職を失ったことに怒った。獣のような心を包み隠し、不当な冷遇であると訴えた。激しい感情を抱いて地位を駆け上がり、政敵の隙をついて策動し、ひそかに簒奪を試みた。はじめは殷仲堪の権勢に頼ったが、にわかに殷仲堪を殺して欲望を表出させた。楚の全土を手中に収めると、強力な蛮兵を使役して、晋室の衰退に付け込み、会稽王(司馬道子)の酒乱を利用して、狡猾な計画を拡大し、暴虐さを存分に発揮した。あえて犬羊(のように資質の劣る人物)を率いて、軍権を握ったが朝臣から侮られた。悠久の(晋室に対する)天命が喪失し、凶悪な暴力が横行した。一両年のうちに、晋帝国の基盤を傾けた。尭から舜への禅譲を手本にするとうそぶき、国制を改めて皇帝となった。地方政権として強盛であり、命運が長続きするという占いの結果があった。しかし突如として雷のように義旗が立って、忠勇の将兵が殺到し、半年で都邑から逆賊を追い払った。月を跨ぐうちに逆賊の首領(桓玄)を誅戮し、一度は衰退した(晋室の)天命を延長し、破綻した体制を回復させた。このことから、悪意によって神聖な地位を奪うことができず、天命はでたらめに下らないことが分かる。そもそも帝王とは、国内で高い功績があり、魂をもつ万民を救済し、龍や鳳皇が吉祥を表し、雲や石が祥瑞を表した後、天子の地位を前にして、偉大な名を授かり、人々に待望され、推戴されて即位するものである。桓玄のようなものは、ものの数にも入らない。単純に正しい道から逸脱して乱れ、そのせいで宗族が傾いて子孫が絶滅したのである。金行(晋室)に本格的な混乱をもたらし、宋氏(劉裕)の先払いとなったに過ぎない。
賛にいう、霊宝(桓玄)は反逆心を隠し、世は凶徳の持ち主を頂いてしまった。晋室の君臣の信頼関係が揺らぎ、邪悪な者の介入を許した。(桓玄は)ほしいままに反逆して帝位を奪い、威勢を頼りに悪逆に振る舞った。天命に背いて万民を虐げたので、桓氏一族は転覆して楚国も滅んだ。