いつか読みたい晋書訳

晋書_列伝第六十九巻_桓玄・卞範之・殷仲文

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。
卞範之伝・殷仲文伝が先に完成したのでアップロードします。桓玄伝の残りは後日更新します。250331

桓玄

原文

桓玄字敬道、一名靈寶、大司馬溫之孼子也。其母馬氏嘗與同輩夜坐、於月下見流星墜銅盆水中、忽如二寸火珠、冏然明淨、競以瓢接取、馬氏得而吞之、若有感、遂有娠。及生玄、有光照室、占者奇之、故小名靈寶。妳媼每抱詣溫、輒易人而後至、云其重兼常兒、溫甚愛異之。臨終、命以為嗣、襲爵南郡公。
年七歲、溫服終、府州文武辭其叔父沖、沖撫玄頭曰、「此汝家之故吏也」。玄因涕淚覆面、眾並異之。及長、形貌瓌奇、風神疏朗、博綜藝術、善屬文。常負其才地、以雄豪自處、眾咸憚之、朝廷亦疑而未用。年二十三、始拜太子洗馬、時議謂溫有不臣之跡、故折玄兄弟而為素官。
太元末、出補義興太守、鬱鬱不得志。嘗登高望震澤、歎曰、「父為九州伯、兒為五湖長」。棄官歸國。自以元勳之門而負謗於世、乃上疏曰、
臣聞周公大聖而四國流言、樂毅王佐而被謗騎劫、巷伯有豺獸之慨、蘇公興飄風之刺、惡直醜正、何代無之。先臣蒙國殊遇、姻婭皇極、常欲以身報德、投袂乘機、西平巴蜀、北清伊洛、使竊號之寇繫頸北闕、園陵修復、大恥載雪、飲馬灞滻、懸旌趙魏、勤王之師、功非一捷。太和之末、皇基有潛移之懼、遂乃奉順天人、翼登聖朝、明離既朗、四凶兼澄。向使此功不建、此事不成、宗廟之事豈可孰念。昔太甲雖迷、商祚無憂。昌邑雖昏、弊無三孼。因茲而言、晉室之機危於殷漢、先臣之功高於伊霍矣。而負重既往、蒙謗清時、聖世明王黜陟之道、不聞廢忽顯明之功、探射冥冥之心、啟嫌謗之塗、開邪枉之路者也。先臣勤王艱難之勞、匡復克平之勳、朝廷若其遺之、臣亦不復計也。至於先帝龍飛九五、陛下之所以繼明南面、請問談者、誰之由邪。誰之德邪。豈惟晉室永安、祖宗血食、於陛下一門、實奇功也。 自頃權門日盛、醜政實繁、咸稱述時旨、互相扇附、以臣之兄弟皆晉之罪人、臣等復何理可以苟存聖世。何顏可以尸饗封祿。若陛下忘先臣大造之功、信貝錦萋菲之說、臣等自當奉還三封、受戮市朝、然後下從先臣、歸先帝於玄宮耳。若陛下述遵先旨、追錄舊勳、竊望少垂愷悌覆蓋之恩。
疏寢不報。
玄在荊楚積年、優游無事、荊州刺史殷仲堪甚敬憚之。及中書令王國寶用事、謀削弱方鎮、內外騷動、知王恭有憂國之言、玄潛有意於功業、乃說仲堪曰、「國寶與君諸人素已為對、唯患相弊之不速耳。今既執權要、與王緒相為表裏、其所迴易、罔不如志。孝伯居元舅之地、正情為朝野所重、必未便動之、唯當以君為事首。君為先帝所拔、超居方任、人情未以為允、咸謂君雖有思致、非方伯人。若發詔徵君為中書令、用殷顗為荊州、君何以處之」。仲堪曰、「憂之久矣、君謂計將安出」。玄曰、「國寶姦兇、天下所知、孝伯疾惡之情每至而當、今日之會、以理推之、必當過人。君若密遣一人、信說王恭、宜興晉陽之師、以內匡朝廷、己當悉荊楚之眾順流而下、推王為盟主、僕等亦皆投袂、當此無不響應。此事既行、桓文之舉也」。仲堪持疑未決。俄而王恭信至、招仲堪及玄匡正朝廷。國寶既死、於是兵罷。玄乃求為廣州、會稽王道子亦憚之、不欲使在荊楚、故順其意。
隆安初、詔以玄督交廣二州・建威將軍・平越中郎將・廣州刺史・假節、玄受命不行。其年、王恭又與庾楷起兵討江州刺史王愉及譙王尚之兄弟。玄・仲堪謂恭事必克捷、一時響應。仲堪給玄五千人、與楊佺期俱為前鋒。軍至湓口、王愉奔於臨川、玄遣偏將軍追獲之。
玄・佺期至石頭、仲堪至蕪湖。恭將劉牢之背恭歸順。恭既死、庾楷戰敗、奔於玄軍。既而詔以玄為江州、仲堪等皆被換易、乃各迴舟西還、屯於尋陽、共相結約、推玄為盟主。玄始得志、乃連名上疏申理王恭、求誅尚之・牢之等。朝廷深憚之、乃免桓脩・復仲堪以相和解。
初、玄在荊州豪縱、士庶憚之、甚於州牧。仲堪親黨勸殺之、仲堪不聽。及還尋陽、資其聲地、故推為盟主、玄逾自矜重。佺期為人驕悍、常自謂承藉華冑、江表莫比、而玄每以寒士裁之、佺期甚憾、即欲於壇所襲玄。仲堪惡佺期兄弟虓勇、恐克玄之後復為己害、苦禁之。於是各奉詔還鎮。玄亦知佺期有異謀、潛有吞并之計、於是屯於夏口。
隆安中、詔加玄都督荊州四郡、以兄偉為輔國將軍・南蠻校尉。仲堪慮玄跋扈、遂與佺期結婚為援。初、玄既與仲堪・佺期有隙、恒慮掩襲、求廣其所統。朝廷亦欲成其釁隙、故分佺期所督四郡與玄、佺期甚忿懼。會姚興侵洛陽、佺期乃建牙、聲云援洛、密欲與仲堪共襲玄。仲堪雖外結佺期而疑其心、距而不許、猶慮弗能禁、復遣從弟遹屯於北境以遏佺期。佺期既不能獨舉、且不測仲堪本意、遂息甲。南蠻校尉楊廣、佺期之兄也、欲距桓偉、仲堪不聽、乃出廣為宜都・建平二郡太守、加征虜將軍。佺期弟孜敬先為江夏相、玄以兵襲而召之。既至、以為諮議參軍。玄於是興軍西征、亦聲云救洛、與仲堪書、說佺期受國恩而棄山陵、宜共罪之。今親率戎旅、逕造金墉、使仲堪收楊廣、如其不爾、無以相信。仲堪本計欲兩全之、既得玄書、知不能禁、乃曰、「君自沔而行、不得一人入江也」。玄乃止。
後荊州大水、仲堪振恤飢者、倉廩空竭。玄乘其虛而伐之、先遣軍襲巴陵。梁州刺史郭銓當之所鎮、路經夏口、玄聲云朝廷遣1.(佺期)〔銓〕為己前鋒、乃授以江夏之眾、使督諸軍並進、密報兄偉令為內應。偉遑遽不知所為、乃自齎疏示仲堪。仲堪執偉為質、令與玄書、辭甚苦至。玄曰、「仲堪為人不能專決、常懷成敗之計、為兒子作慮、我兄必無憂矣」。
玄既至巴陵、仲堪遣眾距之、為玄所敗。玄進至楊口、又敗仲堪弟子道護、乘勝至零口、去江陵二十里、仲堪遣軍數道距之。佺期自襄陽來赴、與兄廣共擊玄、玄懼其銳、乃退軍馬頭。佺期等方復追玄苦戰、佺期敗、走還襄陽、仲堪出奔酇城、玄遣將軍馮該躡佺期、獲之。廣為人所縛、送玄、並殺之。仲堪聞佺期死、乃將數百人奔姚興、至冠軍城、為該所得、玄令害之。

1.『資治通鑑』に従い、「佺期」を「銓」に改める。郭銓のこと。

訓読

桓玄 字は敬道、一名は靈寶、大司馬溫の孼子なり。其の母の馬氏 嘗て同輩と與に夜坐し、月下に於て流星の銅盆水中に墜つるを見て、忽ち二寸の火珠、冏然として明淨たるが如し。競ひて瓢を以て接取し、馬氏 得て之を吞み、感有るが若く、遂に娠有り。玄を生むに及び、光の室を照らす有り、占者 之を奇とし、故に小名は靈寶とす。妳媼 每に抱きて溫に詣るや、輒ち人に易はりて後に至り、云ふらく其の重きこと常兒に兼し、溫 甚だ之を愛異す。終に臨み、命じて以て嗣と為し、爵南郡公を襲はしむ。
年七歲にして、溫の服 終はり、府州の文武 其の叔父の沖に辭するも、沖 玄の頭を撫でて曰く、「此れ汝の家の故吏なり」と。玄 因りて涕淚して面を覆ひ、眾 並びに之を異とす。長ずるに及び、形貌 瓌奇にして、風神 疏朗なり。藝術を博綜し、屬文を善くす。常に其の才地を負ひ、雄豪を以て自ら處り、眾 咸 之を憚り、朝廷も亦た疑ひて未だ用ひず。年二十三にして、始めて太子洗馬を拜し、時に議して溫に不臣の跡有ると謂ひ、故に玄の兄弟を折して素官と為す。
太元末に、出でて義興太守に補せられ、鬱鬱として志を得ず。嘗て高みに登りて震澤を望み、歎じて曰く、「父は九州の伯と為るも、兒は五湖の長と為る」と。官を棄てて國に歸る。自ら以へらく元勳の門なるも而れども謗りを世に負へば、乃ち上疏して曰く、
臣 聞くならく周公 大聖なるも而れども四國 流言し、樂毅 王佐なるも而れども謗りを騎劫に被る。巷伯 豺獸の慨有り、蘇公 飄風の刺を興す。直を惡み正を醜するは、何れの代も之無きか。先臣 國の殊遇を蒙り、皇極に姻婭す。常に身を以て報德せんと欲し、袂を投じて機に乘じ、西は巴蜀を平らげ、北は伊洛を清む。竊號の寇をして頸を北闕に繫けしめ、園陵 修復し、大恥 載ち雪ぐ。馬を灞滻に飲ませ、旌を趙魏に懸く。勤王の師、功は一捷に非ず。太和の末に、皇基 潛移の懼有り、遂に乃ち天人に奉順し、聖朝を翼登し、明離 既に朗なりて、四凶 兼せて澄む。向に使し此の功を建てず、此の事 成らずんば、宗廟の事 豈に孰念す可きか。昔 太甲 迷ふと雖も、商の祚 憂ひ無し。昌邑 昏なりと雖も、弊 三孼無し。茲に因りて言はば、晉室の機は殷漢より危ふく、先臣の功は伊霍より高し。而れども重を既往に負ひ、謗りを清時に蒙る。聖世明王の黜陟の道は、顯明の功を廢忽し、冥冥の心を探射するを聞かず。嫌謗の塗を啟き、邪枉の路を開く者なり。先臣の勤王艱難の勞、匡復克平の勳、朝廷 若し其れ之を遺はば、臣も亦た復た計らず。先帝の九五に龍飛するに至りては、陛下の繼明し南面する所以は、談ずる者に問はんことを請ふ、誰の由なるや、誰の德なるやと。豈に惟れ晉室 永安なりて、祖宗 血食のみならんや。陛下の一門に於て、實に奇功なり。
自頃 權門 日々盛なりて、醜政 實に繁なり。咸 時旨を稱述し、互相に扇附す。臣の兄弟を以て皆 晉の罪人とせば、臣ら復た何の理もて以て聖世に苟存す可き。何の顏もて以て封祿を尸饗す可き。若し陛下 先臣が大造の功を忘れ、貝錦が萋菲の說を信ずれば、臣ら自ら當に三封を奉還し、戮を市朝に受くべし。然る後に先臣に下從し、先帝に玄宮に於て歸するのみ。若し陛下 先旨を述遵し、舊勳を追錄せば、竊かに望む少しく愷悌覆蓋の恩を垂れんことを」と。
疏 寢して報せず。
玄 荊楚に在ること積年にして、優游として事無く、荊州刺史の殷仲堪 甚だ之を敬憚す。中書令の王國寶 用事するに及び、方鎮を削弱せんと謀り、內外 騷動す。王恭に憂國の言有るを知り、玄 潛かに功業に意有り、乃ち仲堪に說きて曰く、「國寶 君諸人と與に素より已に對為り。唯だ相弊の速やかならざるを患ふのみ。今 既に權要を執り、王緒と與に相 表裏を為す。其の迴易する所、志の如くならざる罔し。孝伯 元舅の地に居り、情を正し朝野の重しとする所と為る。必ず未だ便ち之を動かさず。唯だ當に君を以て事首と為すべし。君 先帝の拔く所と為り、超えて方任に居り、人情 未だ以て允と為さず。咸 謂へらく君 思致有りと雖も、方伯の人に非ずと。若し詔を發して君を徵して中書令と為し、殷顗を用て荊州と為さば、君 何を以て之に處らん」と。仲堪曰く、「之を憂ふこと久し、君 計 將に安にか出んと謂ふか」と。玄曰く、「國寶は姦兇なるは、天下の知る所なり。孝伯 疾惡の情は每に至りて當たり。今日の會、理を以て之を推すに、必ず當に人に過ぐるべし。君 若し密かに一人を遣はし、信もて王恭を說き、宜しく晉陽の師を興すべし、內を以て朝廷を匡し、己 當に荊楚の眾を悉くして流に順ひて下り、王を推して盟主と為さん。僕らも亦た皆 投袂さば、此に當たりて響應せざる無からん。此の事 既に行はば、桓文の舉なり」と。仲堪 持疑して未だ決せず。俄にして王恭の信 至り、仲堪及び玄を招きて朝廷を匡正さんとす。國寶 既に死し、是に於て兵 罷む。玄 乃ち廣州と為ることを求め、會稽王道子も亦た之を憚り、荊楚に在らしむるを欲せず、故に其の意に順ふ。
隆安の初め、詔して玄を以て督交廣二州・建威將軍・平越中郎將・廣州刺史・假節とし、玄 命を受くるも行かず。其の年、王恭 又 庾楷と與に起兵して江州刺史の王愉及び譙王尚之の兄弟を討つ。玄・仲堪 恭の事 必ず克捷すと謂ひ、一時に響應す。仲堪 玄に五千人を給し、楊佺期と與に俱に前鋒と為す。軍 湓口に至り、王愉 臨川に奔り、玄 偏將軍を遣はして追ひて之を獲ふ。
玄・佺期 石頭に至り、仲堪 蕪湖に至る。恭の將の劉牢之 恭に背きて歸順す。恭 既に死するや、庾楷 戰ひて敗れ、玄の軍に奔る。既にして詔して玄を以て江州と為し、仲堪ら皆 換易せらる。乃ち各々舟を迴して西還し、尋陽に屯し、共に相 結約し、玄を推して盟主と為す。玄 始めて志を得て、乃ち連名し上疏して王恭を申理し、尚之・牢之らを誅することを求む。朝廷 深く之を憚り、乃ち桓脩を免じて仲堪を復して以て相 和解す。
初め、玄 荊州に在りて豪縱たりて、士庶 之を憚ること、州牧よりも甚だし。仲堪の親黨 之を殺すことを勸むるも、仲堪 聽さず。尋陽に還るに及び、其の聲地を資とし、故に推して盟主と為し、玄 逾々自ら矜重たり。佺期 為人は驕悍にして、常に自ら謂へらく藉を華冑に承け、江表に比する莫しと。而れども玄 每に寒士を以て之を裁し、佺期 甚だ憾み、即ち壇所に於て玄を襲はんと欲す。仲堪 佺期兄弟の虓勇なるを惡み、玄に克つの後に復た己の害と為るを恐れ、苦に之を禁ず。是に於て各々詔を奉じて鎮に還る。玄も亦た佺期 異謀有るを知り、潛かに吞并の計有り、是に於て夏口に屯す。
隆安中、詔して玄に都督荊州四郡を加へ、兄の偉を以て輔國將軍・南蠻校尉と為す。仲堪 玄の跋扈せんことを慮り、遂に佺期と與に結婚して援と為す。初め、玄 既に仲堪・佺期と隙有り、恒に掩襲を慮り、其の統ぶる所を廣くせんことを求む。朝廷も亦た其の釁隙を成さんと欲し、故に佺期の督する所の四郡を分けて玄に與へ、佺期 甚だ忿懼す。會々姚興 洛陽を侵し、佺期 乃ち建牙し、聲して洛を援くと云ひ、密かに仲堪と與に共に玄を襲はんと欲す。仲堪 外は佺期と結ぶと雖も而れども其の心を疑ひ、距みて許さず、猶ほ能く禁ぜざるを慮り、復た從弟の遹を遣はして北境に屯して以て佺期を遏せしむ。佺期 既に獨り舉ぐる能はず、且つ仲堪の本意を測らざれば、遂に甲を息む。南蠻校尉の楊廣、佺期の兄なりて、桓偉を距まんと欲するも、仲堪 聽さず、乃ち廣を出だして宜都・建平二郡太守と為し、征虜將軍を加ふ。佺期の弟の孜敬 先に江夏相と為り、玄 兵を以て襲ひて之を召す。既に至るや、以て諮議參軍と為す。玄 是に於て軍を興して西征し、亦た聲して洛を救ふと云ひ、仲堪に書を與へて、說く佺期 國恩を受くるも山陵を棄つれば、宜しく共に之を罪とすべしと。今 親ら戎旅を率ひ、逕に金墉に造り、仲堪をして楊廣を收めしめ、如し其れ爾らずんば、以て相 信ある無しと。仲堪の本より計りて之を兩全せんと欲し、既に玄の書を得て、禁ずる能はざるを知り、乃ち曰く、「君 沔より行け、一人 江に入るを得ず」と。玄 乃ち止む。
後に荊州 大水ありて、仲堪 飢者を振恤し、倉廩 空竭たり。玄 其の虛に乘じて之を伐ち、先に軍を遣はして巴陵を襲ふ。梁州刺史の郭銓 所鎮に之くに當たり、路は夏口を經て、玄 聲して朝廷 銓を遣はして己の前鋒と為すと云ひ、乃ち授くるに江夏の眾を以てし、諸軍を督して並進せしめ、密かに兄の偉に報じて令して內應を為さしむ。偉 遑遽に為す所を知らず、乃ち自ら疏を齎して仲堪に示す。仲堪 偉を執りて質と為し、玄に書を與へしめ、辭は甚だ苦至たり。玄曰く、「仲堪の為人 專決する能はず、常に成敗の計を懷く。兒子の為に慮を作さば、我が兄 必ず憂ひ無し」と。
玄 既に巴陵に至り、仲堪 眾を遣はして之を距ぐも、玄の敗る所と為る。玄 進みて楊口に至り、又 仲堪の弟子の道護を敗り、勝に乘じて零口に至り、江陵を去ること二十里なり。仲堪 軍を遣はして數道に之を距ぐ。佺期 襄陽より來赴し、兄の廣と與に共に玄を擊つ。玄 其の銳を懼れ、乃ち軍を馬頭に退く。佺期ら方に復た玄を追ひて苦戰し、佺期 敗れ、走りて襄陽に還り、仲堪 酇城に出奔す。玄 將軍の馮該を遣はして佺期を躡し、之を獲ふ。廣 人の縛する所と為り、玄に送るや、並びに之を殺す。仲堪 佺期 死せるを聞き、乃ち數百人を將ゐて姚興に奔り、冠軍城に至り、該の得る所と為り、玄 之を害せしむ。

現代語訳

桓玄は字を敬道、一名を霊宝といい、大司馬の桓温の孼子(庶子)である。母の馬氏はかつて同輩とともに夜中に寝ずにいたが、月下において流星が銅盆の水のなかに墜ちるのを見た。それは二寸の火珠で、明るくて清らかであった。競って瓢ですくい取ったが、馬氏がこれを勝ち取って飲み干すと、感応があるようで、こうして桓玄を身ごもった。桓玄を生むと、光が室内を照らした。占者はこれを特別なこととし、ゆえに小名を霊宝とした。乳母が桓温に会わせるときは、いつも他の子が去った後であり、体重がふつうの子の二倍あり、桓温は格別に寵愛した。桓温が死ぬとき、継嗣とするように命じ、南郡公の爵を襲わせた。
七歳のとき、父の桓温の服喪が終わった。府州の文武の属吏らは叔父の桓沖にあいさつしたが、桓沖は桓玄の頭をなでて、「かれらはお前の家の故吏だ」と言った。桓玄は涙を流して顔を覆い、人々はみな桓玄が優れた子だと認めた。成長すると、容貌はたぐいまれで、心持ちは透き通って朗らかであった。学問も技術も万能で、文をつづるのを得意とした。つねにその才能を自負し、武勇を誇ったので、みなが桓玄を憚り、朝廷もまた(野心を)疑って登用しなかった。二十三歳のとき、はじめて太子洗馬を拝した。朝廷には桓温が不臣の跡(臣下の分限を超えた言動)があったという意見があり、ゆえに桓玄の兄弟の任官を妨げて権限のない官職だけを与えた。
太元年間の末、義興太守として地方に出され、鬱鬱として志を得なかった。かつて高みに登って震沢(太湖)を望み、慨歎して、「父は九州の伯となったが、子は五湖の長となった」と言った。官職を棄てて郷里に帰った。自分は元勲の一族であるが世間から誹謗を受けていると考え、上疏して、
「臣が聞きますに周公は大いなる聖人ですが四方から中傷され、楽毅は王業を助けましたが騎劫から批判されました。巷伯(『詩経』小雅の篇名)に(讒言をするものは)豺獣に食わせよという痛烈な言葉があり、(『詩経』小雅の何人斯に)蘇公は(毛序によれば暴公を)飄風(つむじかぜ)のよう(に方向が定まらずに心を乱す人)だと批判しました。正しきものを憎んで悪口を言うものは、どの時代にもいるのでしょう。先臣(父の桓温)は国家から特別な厚遇を受け、皇室の縁者となりました。つねに身を捧げて徳に報いようと考え、奮起して好機をつかみ、西は巴蜀を平定し、北は伊水や洛水のあたりから敵軍を追い払いました。帝号を僭称する胡族の首を北門にかけ、(西晋の)陵墓を修復し、大きな恥を雪ぎました。灞水や滻水のあたりに進出して馬に水を飲ませ、国家の旗を趙や魏の地域に立てました。勤王のための戦績は、一勝に留まりません。太和年間の末に、(海西公が廃位され)晋国の権力基盤が揺らぐと、(桓温は)天を奉り人々の支持を受け、晋国を支えて、威光が明らかになり、悪臣たちも駆逐されました。もしこの功績がなく、この成功がなければ、宗廟は存続できたでしょうか。むかし(殷の)太甲が暴虐でも、殷の国運は揺らぎませんでした。(前漢の)昌邑王が暗愚でも、禍いは波及しませんでした。これら前例に照らせば、(海西公を頂いた)晋国の危機は殷や前漢よりも危うく、(皇帝を廃立した)先臣(桓温)の功績は伊尹や霍光よりも高いのです。しかし桓氏は前歴を咎められ、当世に誹謗を受けています。明君の人材登用の道とは、功績の有無を正しく判定し、中傷の発言を聞かないことです。誹謗が盛んになれば、人材登用を誤ります。先臣(桓温)が国家のために力を尽くし、秩序を回復した勲功に対して、朝廷がこれを忘れるならば、私も国家のことを忘れます。先帝(簡文帝)が即位し、陛下(孝武帝)が即位できた理由について、批判者たちに聞いてみたいものです、いったい誰が尽力したおかげなのかと(桓温のおかげでしょう)。晋帝国が長く平安で、祖先の祭りが続くことだけでなく、陛下の一門(簡文帝の皇統)のためにも、格別の手柄があったはずです。
近年は権門が日々に盛んになり、政治の腐敗が進んでいます。みな権力者に迎合し、馴れ合っています。臣の兄弟すべてを晋国の罪人とするならば、臣たちもまた晋国で生き存える理由がありません。どんな顔をして封爵を継承できましょうか。もし陛下が先臣(桓温)が先帝を擁立した功績を忘れ、貝錦や萋菲(讒言の比喩)を信じるならば、臣たちは自ら封爵を返還し、市場で死刑になりましょう。その後に先臣と合流して、陵墓の先帝に仕えるだけです。もしも陛下が先帝の考えを尊重し、古い勲功を再評価して下さるならば、どうか寛大な措置を賜りますように」と言った。
上疏は伏せられて返答がなかった。
桓玄は荊楚の地に数年間おり、ゆったりとして政治活動をしなかったが、荊州刺史の殷仲堪はおおいに桓玄を敬い憚った。中書令の王国宝が政務をあずかると、方鎮(地方の統治官)の勢力を削ろうと考え、内外の政治が混乱した。(桓玄は)王恭に国家を憂う発言があると知り、桓玄にもひそかに権力への野心があったので、桓玄は殷仲堪に説いて、「王国宝はあなたたちと対等でしたが、いまは彼に危害を加えられないかが心配です。いま王国宝は権力の中枢におり、王緒と連携しています。王国宝が行う人事異動は、すべて彼の思い通りです。孝伯(王恭)は外戚であり、正しい見識をそなえて朝野から重んじられていますから、王恭が異動させられることはないでしょう。あなた(荊州刺史の殷仲堪)が真っ先に異動させられるはずです。あなたは先帝に抜擢され、席次を抜いて方任(荊州刺史)となりましたが、世論はこれに納得しておりません。みなあなたは思慮深いが、方伯には不適任と考えています。もし詔を発せられてあなたを中央に徴して中書令とし、殷顗を荊州刺史とすれば、あなたは荊州に居られなくなります」と言った。殷仲堪は、「ずっとそれを失敗していた。どうしたらよいか」と言った。桓玄は、「王国宝が姦凶であることは、天下が知っております。孝伯(王恭)は悪事をにくむ気持ちがあり、今日の状況からすると、必ず王国宝を嫌っておりましょう。もしあなたが内密に使者を送って、書簡で王恭を説得し、(春秋末期に晋で権臣智伯を排除した)晋陽の戦いを再現するのです。内から朝廷を正し、あなたは荊楚の全軍で長江を下り、王恭を盟主としなさい。私もまた参戦すれば、みなが呼応するでしょう。これを実行すれば、桓公や文公に等しい事業です」と言った。殷仲堪は疑って決断できなかった。にわかに王恭から書簡が到着し、殷仲堪と桓玄を中央に招いて朝廷を改革しようと誘われた。王国宝が死んだので、計画を中止した。桓玄は広州刺史の位を求めた。会稽王道子(司馬道子)も桓玄を警戒して、荊楚に居らせたくなかったので、広州刺史の地位を認めた。
隆安年間の初め、詔して桓玄を督交広二州・建威将軍・平越中郎将・広州刺史・仮節とした。桓玄は拝命したが赴任しなかった。その年、王恭はふたたび庾楷ととともに起兵して江州刺史の王愉と譙王尚之(司馬尚之)の兄弟を討伐した。桓玄と殷仲堪は王恭が必ず勝つと考え、同時に呼応した。殷仲堪は桓玄に五千人を給し、楊佺期とともに先鋒とした。軍が湓口に到達したころ、王愉が臨川に逃げたので、桓玄は偏将軍を派遣して追って捕らえた。
桓玄と楊佺期は石頭に至り、殷仲堪は蕪湖に至った。王恭の将の劉牢之が王恭に背いて(東晋に)帰順した。王恭が死ぬと、庾楷は戦って敗れ、桓玄の軍に逃げてきた。戦役が終わると桓玄を江州とし、殷仲堪らはみな配置換えになった。これを受けてそれぞれ船を転換させて西に帰り、尋陽に駐屯して、みなで盟約して、桓玄を盟主とした。桓玄ははじめて志を得て、連名で上疏して王恭のために申し開き、司馬尚之と劉牢之らを誅殺することを求めた。朝廷は桓玄らをひどく憚り、桓脩を罷免して殷仲堪を復職させて和解とした。
これよりさき、桓玄は荊州にあって権勢が強く、荊州の士庶は、桓玄を州牧よりも憚った。殷仲堪の仲間は桓玄を殺害せよと進めたが、殷仲堪は認めなかった。尋陽に帰還すると、荊州での声望をもとでに、桓玄は盟主に推薦されたので、ますます傲慢になった。楊佺期は強く勇ましい人柄で、つねに自分こそ名族の出身で、江南に並ぶものがいないと誇っていた。しかし桓玄は楊佺期を寒門出身者のように取り扱ったので、楊佺期はひどく怨み、(盟約の)壇上で桓玄を襲撃しようとした。殷仲堪は楊佺期兄弟の蛮勇を嫌い、さらに(楊佺期が)桓玄を討てば次が自分が狙われると予測し、襲撃を厳しく禁じた。ここにおいて各人は詔を奉じて鎮所に還った。桓玄もまた楊佺期に害意があることを知り、ひそかに楊佺期の勢力を吸収してやろうと考え、夏口に駐屯した。
隆安年間に、詔して桓玄に都督荊州四郡を加え、兄の桓偉を輔国将軍・南蛮校尉とした。殷仲堪は桓玄の勢力伸長を警戒し、楊佺期と婚姻を結んで味方に引き込んだ。これよりさき、桓玄は殷仲堪・楊佺期の二者と対立し、挟み撃ちを恐れて、統治範囲の拡大を申請した。朝廷もまた彼らを潰し合わせようと考え、楊佺期が統治する四郡を分割して桓玄に与えたので、楊佺期はひどく怒り懼れた。たまたま姚興(後秦)が洛陽を侵略したので、楊佺期は軍を起こし、洛陽の救援だと喧伝しながら、ひそかに殷仲堪とともに桓玄を襲撃しようとした。殷仲堪は表面上は楊佺期と結んでいたが内心は疑っており、襲撃の誘いを断った。殷仲堪は窮地に陥ることを心配し、従弟の殷遹を派遣して国の北方に駐屯させて楊佺期を防いだ。楊佺期は単独では桓玄の討伐ができず、かつ殷仲堪の本心が分からないので、軍役を中止した。南蛮校尉の楊広は、楊佺期の兄であり、桓偉を排除しようとしたが、殷仲堪がこれを許さなかった。(楊佺期は)楊広を転出させて宜都・建平二郡太守とし、征虜将軍を加えた。楊佺期の弟の楊孜敬はさきに江夏相となっていたが、桓玄は兵で襲撃して楊孜敬を出頭させた。楊孜敬が桓玄のもとにやって来ると、諮議参軍とした。ここにおいて桓玄は軍を興して西方を征伐し、また洛陽の救援を名目としながら、殷仲堪に書簡を与えて、「楊佺期は国家の恩を受けながらも(洛陽を救援せず)陵墓を見捨てたので、この罪状を問うべきだ。いま私が軍隊をひきい、まっすぐ(洛陽のそばの)金墉に到達するだろう。あなた(殷仲堪)は楊広を捕らえよ。もし従わないならば、あなたを信用しない」と言った。殷仲堪はこれまで桓玄とも楊佺期とも繋がっていたが、桓玄の書簡を受け取って、もはや桓玄を止められないと悟り、「あなたは沔水から進んで下さい、ひとりでは長江に入れない」と言った。桓玄は軍役を中止した。
のちに荊州で洪水があると、殷仲堪は飢えた者を救済し、倉庫の備蓄がなくなった。桓玄はその虚に乗じて荊州を攻め、先に軍を送って巴陵を襲った。梁州刺史の郭銓は任地に行くにあたり、夏口を経由したが、桓玄は朝廷が郭銓を派遣してわが(桓玄)軍の先鋒にしたと言い触らし、郭銓に江夏の軍を授け、諸軍を督して並進させた。密かに兄の桓偉に連絡して内応を誘った。桓偉はにわかに行動を決められず、自ら書簡を持って殷仲堪に見せに行った。殷仲堪は桓偉を捕らえて人質とし、(桓偉から)桓玄に書簡を送らせたが、その言葉はひどく苦しいものであった。桓玄は、「殷仲堪は決断力に乏しく、失敗した場合に保険をかける。子供のために安全策を選ぶので、わが兄が殺されることはない」と言った。
桓玄が巴陵に到着すると、殷仲堪は兵を送ってこれを迎え撃ったが、桓玄に敗れた。桓玄が進んで楊口に到達し、また殷仲堪の弟の子の殷道護を撃破し、勝ちに乗じて零口に至り、江陵の二十里手前まで迫った。殷仲堪は軍を送って数道から桓玄を防いだ。楊佺期が襄陽から駆けつけ、兄の楊広とともに桓玄を攻撃した。桓玄は猛攻を懼れ、軍を馬頭に退けた。楊佺期らが桓玄を追撃したが苦戦し、楊佺期は敗れ、襄陽に逃げ帰り、殷仲堪は酇城に出奔した。桓玄は将軍の馮該を派遣して楊佺期を追跡し、これを捕らえた。楊広は捕縛され、桓玄に身柄を送り届けられ、桓玄はこれも殺した。殷仲堪は楊佺期が死んだと聞き、数百人を連れて(後秦)姚興のもとに逃げたが、冠軍城に来たところで、馮該に捕らえられ、桓玄はこれを殺害させた。

原文

於是遂平荊雍、乃表求領江・荊二州。詔以玄都督荊司雍秦梁益寧七州・後將軍・荊州刺史・假節、以桓脩為江州刺史。玄上疏固爭江州、於是進督八州及楊豫八郡、復領江州刺史。玄又輒以偉為冠軍將軍・雍州刺史。時寇賊未平、朝廷難違其意、許之。玄於是樹用腹心、兵馬日盛、屢上疏求討孫恩、詔輒不許。其後恩逼京都、玄建牙聚眾、外託勤王、實欲觀釁而進、復上疏請討之。會恩已走、玄又奉詔解嚴。以偉為江州、鎮夏口。司馬刁暢為輔國將軍、督八郡、鎮襄陽。遣桓振・皇甫敷・馮該等戍湓口。移沮漳蠻二千戶於江南、立武寧郡。更招集流人、立綏安郡。又置諸郡丞。詔徵廣州刺史刁逵・豫章太守郭昶之、玄皆留不遣。自謂三分有二、知勢運所歸、屢上禎祥以為己瑞。
初、庾楷既奔於玄、玄之求討孫恩也、以為右將軍。玄既解嚴、楷亦去職。楷以玄方與朝廷構怨、恐事不克、禍及於己、乃密結於後將軍元顯、許為內應。元興初、元顯稱詔伐玄、玄從兄石生時為太傅長史、密書報玄。玄本謂揚土饑饉、孫恩未滅、必未遑討己、可得蓄力養眾、觀釁而動。既聞元顯將伐之、甚懼、欲保江陵。長史卞範之說玄曰、「公英略威名振於天下、元顯口尚乳臭、劉牢之大失物情、若兵臨近畿、示以威賞、則土崩之勢可翹足而待、何有延敵入境自取蹙弱者乎」。玄大悅、乃留其兄偉守江陵、抗表率眾、下至尋陽、移檄京邑、罪狀元顯。檄至、元顯大懼、下船而不克發。玄既失人情、而興師犯順、慮眾不為用、恒有迴旆之計。既過尋陽、不見王師、意甚悅、其將吏亦振。庾楷謀泄、收縶之。至姑孰、使其將馮該・苻宏・皇甫敷・索元等先攻譙王尚之、尚之敗。劉牢之遣子敬宣詣玄降。
玄至新亭、元顯自潰。玄入京師、矯詔曰、「義旗雲集、罪在元顯。太傅已別有教、其解嚴息甲、以副義心」。又矯詔加己總百揆、侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書事・揚州牧、領徐州刺史、又加假黃鉞・羽葆鼓吹・班劍二十人、置左右長史・司馬・從事中郎四人、甲仗二百人上殿。玄表列太傅道子及元顯之惡、徙道子於安成郡、害元顯於市。於是玄入居太傅府、害太傅中郎毛泰・泰弟游擊將軍邃・太傅參軍荀遜・前豫州刺史庾楷父子・吏部郎袁遵・譙王尚之等、流尚之弟丹楊尹恢之・廣晉伯允之・驃騎長史王誕・太傅主簿毛遁等於交廣諸郡、尋追害恢之・允之於道。以兄偉為安西將軍・荊州刺史、領南蠻校尉、從兄謙為左僕射・加中軍將軍・領選、脩為右將軍・徐兗二州刺史、石生為前將軍・江州刺史、長史卞範之為建武將軍・丹楊尹、王謐為中書令・領軍將軍。大赦、改元為大亨。玄讓丞相、自署太尉・領平西將軍・豫州刺史。又加袞冕之服、綠綟綬、增班劍為六十人、劍履上殿、入朝不趨、讚奏不名。
玄將出居姑孰、訪之於眾、王謐對曰、「公羊有言、周公何以不之魯。欲天下一乎周也。願靜根本、以公旦為心」。玄善其對而不能從。遂大築城府、臺館山池莫不壯麗、乃出鎮焉。既至姑孰、固辭錄尚書事、詔許之、而大政皆諮焉、小事則決於桓謙・卞範之。
自禍難屢構、干戈不戢、百姓厭之、思歸一統。及玄初至也、黜凡佞、擢儁賢、君子之道粗備、京師欣然。後乃陵侮朝廷、幽擯宰輔、豪奢縱欲、眾務繁興、於是朝野失望、人不安業。時會稽饑荒、玄令賑貸之。百姓散在江湖採梠、內史王愉悉召之還。請米、米既不多、吏不時給、頓仆道路死者十八九焉。玄又害吳興太守高素・輔國將軍竺謙之・謙之從兄高平相朗之・輔國將軍劉襲・襲弟彭城內史季武・冠軍將軍孫無終等、皆牢之之黨、北府舊將也。襲兄冀州刺史軌及寧朔將軍高雅之・牢之子敬宣並奔慕容德。玄諷朝廷以己平元顯功、封豫章公、食安成郡地方二百二十五里、邑七千五百戶。平仲堪・佺期功、封桂陽郡公、地方七十五里、邑二千五百戶。本封南郡如故。玄以豫章改封息昇、桂陽郡公賜兄子1.(俊)〔濬〕、降為西道縣公。又發詔為桓溫諱、有姓名同者一皆改之、贈其母馬氏豫章公太夫人。
元興二年、玄詐表請平姚興、又諷朝廷作詔、不許。玄本無資力、而好為大言、既不克行、乃云奉詔故止。初欲飾裝、無他處分、先使作輕舸、載服玩及書畫等物。或諫之、玄曰、「書畫服玩既宜恒在左右、且兵凶戰危、脫有不意、當使輕而易運」。眾咸笑之。

1.中華書局本の校勘記に従い、「俊」を「濬」に改める。

訓読

是に於て遂に荊雍を平らげ、乃ち表して江・荊二州を領することを求む。詔して玄を以て都督荊司雍秦梁益寧七州・後將軍・荊州刺史・假節とし、桓脩を以て江州刺史と為す。玄 上疏して江州を固爭し、是に於て督八州及楊豫八郡に進み、復た江州刺史を領す。玄 又 輒ち偉を以て冠軍將軍・雍州刺史と為す。時に寇賊 未だ平らかならず、朝廷 其の意に違ひ難く、之を許す。玄 是に於て腹心を樹用し、兵馬 日々盛んにして、屢々上疏して孫恩を討つことを求むるも、詔して輒ち許さず。其の後に恩 京都に逼るや、玄 牙を建て眾を聚め、外は勤王に託し、實は釁を觀て進まんと欲し、復た上疏して之を討つことを請ふ。會々恩 已に走り、玄 又 詔を奉じて嚴を解く。偉を以て江州と為し、夏口に鎮せしむ。司馬の刁暢もて輔國將軍と為し、八郡を督し、襄陽に鎮せしむ。桓振・皇甫敷・馮該らを遣はして湓口を戍らしむ。沮漳蠻二千戶を江南に移し、武寧郡を立つ。更めて流人を招集し、綏安郡を立つ。又 諸々の郡丞を置く。詔して廣州刺史の刁逵・豫章太守の郭昶之を徵すも、玄 皆 留めて遣らず。自ら謂へらく三分して二を有ち、勢運 歸する所を知り、屢々禎祥を上して以て己の瑞と為す。
初め、庾楷 既に玄に奔り、玄の孫恩を討つことを求むるや、以て右將軍と為す。玄 既に嚴を解き、楷も亦た職を去る。楷 以へらく玄 方に朝廷と構怨し、事の克たず、禍 己に及ぶを恐れ、乃ち密かに後將軍の元顯に結び、內應を為すを許す。元興の初め、元顯 詔と稱して玄を伐ち、玄が從兄の石生 時に太傅長史為りて、密書もて玄に報ず。玄 本より謂へらく揚土 饑饉にして、孫恩 未だ滅せず、必ず未だ己を討つ遑あらず、力を蓄へて眾を養ひて、釁を觀て動くことを得可しと。既に元顯 將に之を伐つと聞き、甚だ懼れ、江陵を保たんと欲す。長史の卞範之 玄に說きて曰く、「公の英略威名 天下を振はせ、元顯は口 尚ほ乳臭にして、劉牢之 大いに物情を失ふ。若し兵 近畿に臨み、示すに威賞を以てせば、則ち土崩の勢 翹足して待つ可し。何ぞ敵の入境を延して自ら蹙弱なる者を取ること有るか」と。玄 大いに悅び、乃ち其の兄の偉を留めて江陵を守らしめ、表を抗して眾を率ゐ、下りて尋陽に至り、檄を京邑に移し、元顯を罪狀す。檄 至るや、元顯 大いに懼れ、船を下りて克く發せず。玄 既に人情を失ひ、而れども師を興し順を犯し、眾 用と為らざるを慮り、恒に迴旆の計有り。既に尋陽を過り、王師を見ざれば、意 甚だ悅び、其の將吏も亦た振ふ。庾楷の謀 泄れ、之を收縶す。姑孰に至り、其の將の馮該・苻宏・皇甫敷・索元らをして先に譙王尚之を攻めしめ、尚之 敗る。劉牢之 子の敬宣を遣はして玄に詣りて降る。
玄 新亭に至るや、元顯 自潰す。玄 京師に入り、詔を矯して曰く、「義旗 雲集し、罪は元顯に在り。太傅 已に別に教有り、其れ解嚴息甲し、以て義心に副へ」と。又 詔を矯して己に總百揆を加へ、侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書事・揚州牧、領徐州刺史、又 假黃鉞・羽葆鼓吹・班劍二十人を加へ、左右長史・司馬・從事中郎四人を置き、甲仗二百人もて上殿す。玄 表して太傅道子及び元顯の惡を列し、道子を安成郡に徙し、元顯を市に害す。是に於て玄 入りて太傅府に居り、太傅中郎の毛泰・泰が弟の游擊將軍の邃・太傅參軍の荀遜・前豫州刺史の庾楷父子・吏部郎の袁遵・譙王尚之らを害し、尚之の弟たる丹楊尹の恢之・廣晉伯の允之・驃騎長史の王誕・太傅主簿の毛遁らを交廣の諸郡に流し、尋いで追ひて恢之・允之を道に於て害す。兄の偉を以て安西將軍・荊州刺史、領南蠻校尉と為し、從兄の謙もて左僕射・加中軍將軍・領選と為し、脩もて右將軍・徐兗二州刺史と為し、石生もて前將軍・江州刺史と為し、長史の卞範之もて建武將軍・丹楊尹と為し、王謐もて中書令・領軍將軍と為す。大赦し、改元して大亨と為す。玄 丞相を讓し、自ら太尉・領平西將軍・豫州刺史に署す。又 袞冕の服、綠綟綬を加へ、班劍を增して六十人と為し、劍履上殿、入朝不趨、讚奏不名とす。
玄 將に出でて姑孰に居らんとし、之を眾に訪ぬるに、王謐 對して曰く、「公羊に言有り、周公 何を以て魯に之かざる。天下を周に一ならしめんと欲せばなり。願はくは根本を靜にし、公旦を以て心と為せ」と。玄 其の對を善とするも而れども從ふ能はず。遂に大いに城府を築き、臺館山池は壯麗ならざる莫く、乃ち出鎮す。既に姑孰に至るや、錄尚書事を固辭し、詔して之を許し、而れども大政 皆 焉を諮り、小事は則ち桓謙・卞範之に於て決せらる。
禍難 屢々構し、干戈 戢まざるより、百姓 之を厭ひ、一統に歸するを思ふ。玄 初めて至るに及ぶや、凡佞を黜し、儁賢を擢し、君子の道 粗ぼ備はり、京師 欣然たり。後に乃ち朝廷を陵侮し、宰輔を幽擯し、豪奢 縱欲たりて、眾務 繁興なり。是に於て朝野 失望し、人 業に安ぜず。時に會稽 饑荒たりて、玄 之を賑貸せしむ。百姓 散じて江湖に在りて梠を採る。內史の王愉 悉く之を召して還らしむ。米を請ふも、米 既に多からざれば、吏は時に給せず、道路に頓仆して死する者は十に八九なり。玄 又 吳興太守の高素・輔國將軍の竺謙之・謙之の從兄たる高平相の朗之・輔國將軍の劉襲・襲が弟の彭城內史たる季武・冠軍將軍の孫無終らを害す。皆 牢之の黨にして、北府の舊將なり。襲が兄の冀州刺史の軌及び寧朔將軍の高雅之・牢之が子の敬宣 並びに慕容德に奔る。玄 朝廷を諷して己が元顯を平らぐるの功を以て、豫章公に封じ、安成郡の地の方二百二十五里、邑七千五百戶を食む。仲堪・佺期を平らぐるの功もて、桂陽郡公に封ぜられ、地は方七十五里、邑二千五百戶なり。本封の南郡 故の如し。玄 豫章を以て息の昇を改封し、桂陽郡公賜の兄の子の濬もて、降して西道縣公と為す。又 詔を發して桓溫の為に諱み、姓名 同じなる者有らば一に皆 之を改めしめ、其の母の馬氏に豫章公太夫人を贈る。
元興二年、玄 表を詐りて姚興を平らげんことを請ひ、又 朝廷を諷して詔を作り、許さず。玄 本は資力無く、而れども大言を為すを好み、既に克く行はざれば、乃ち詔を奉じて故に止むと云ふ。初め飾裝せんと欲し、他の處分無ければ、先に輕舸を作らしめ、服玩及び書畫らの物を載せしむ。或ひと之を諫むるに、玄曰く、「書畫服玩は既に宜しく恒に左右に在るべし。且つ兵凶戰危、脫し不意有らば、當に輕くて運び易し」と。眾 咸 之を笑ふ。

現代語訳

ここにおいて荊州と雍州を平定し、これを受けて上表して江・荊二州を領することを求めた。詔して桓玄を都督荊司雍秦梁益寧七州・後将軍・荊州刺史・仮節とし、桓脩を江州刺史とした。桓玄は上疏して江州刺史の地位を強く要求し、ここにおいて督八州及楊豫八郡に進み、また江州刺史も領した。桓玄は桓偉を冠軍将軍・雍州刺史とすることをねじ込んだ。このとき寇賊がまだ平定されず、朝廷は桓玄の意向に逆らえず、これを許した。桓玄はここにおいて腹心を登用し、兵馬が日々に盛んになり、しばしば上疏して孫恩の討伐を申請したが、詔してすべて却下した。その後に孫恩が京都(建康)に逼ると、桓玄は軍旗を掲げて軍隊を集め、勤王を名目として、実態は隙をついて自分の影響力を増そうとし、くり返し上疏して孫恩の討伐を申請した。たまたま孫恩が敗走すると、桓玄は詔を奉って戒厳を解除した。桓偉を江州刺史とし、夏口に鎮させた。司馬の刁暢を輔国将軍とし、八郡を督し、襄陽に鎮させた。桓振・皇甫敷・馮該らを派遣して湓口を守らせた。沮漳蛮の二千戸を江南に移し、武寧郡を設立した。追加で流人を招集し、綏安郡を設立した。また各地に郡丞を設置した。詔して広州刺史の刁逵・豫章太守の郭昶之を朝廷に徴したが、桓玄は彼らを任地に留まらせた。桓玄は国土の三分の二を保有し、権勢と天命が自分に帰属していると感じ、しばしば瑞祥を報告して自分(桓氏の王朝)にとっての瑞祥と見なした。
これよりさき、庾楷は桓玄のもとに逃げ込んでおり、桓玄が孫恩の討伐を申請すると、庾楷を右将軍とした。(孫恩の軍が首都を離れ)桓玄が戒厳を解くと、庾楷も右将軍を解任された。庾楷は桓玄が朝廷と対立しつつあり、桓玄が失敗して、禍いが自分にも及ぶと考え、秘かに後将軍の司馬元顕と結んで、内応を約束した。元興年間の初め、司馬元顕が詔と称して桓玄を討伐しようとした。桓玄の従兄の桓石生はこのとき太傅長史であり、密書で桓玄に通知した。桓玄はもともと揚州の地は飢饉で、孫恩がまだ滅びず、朝廷には自分を討伐する余裕がないため、力を蓄えて兵を養い、朝廷の隙を突けると考えていた。しかし司馬元顕が自分の討伐に着手したと聞き、とても懼れ、江陵に籠もろうとした。長史の卞範之が桓玄に説いて、「あなたさまの英略と威名は天下を振わせ、対する司馬元顕はまだ乳臭い若者であり、劉牢之は世論の支持を失ってしまう。もし兵を率いて首都に接近し、勢威と賞罰を明らかにすれば、(司馬元顕の)朝廷の軍はたちまち崩壊するでしょう。どうして敵を本拠地まで引き込んで不利な状況を作るのですか」と言った。桓玄はとても悦び、兄の桓偉を留めて江陵を守らせ、上表して兵を率い、長江を下って尋陽に至り、檄を京邑に移し、司馬元顕の罪を糾弾した。檄が到着すると、司馬元顕は大いに懼れ、船を下りて進発をやめた。桓玄は朝廷から反感を買い、しかも不正な軍役を起こしているため、兵士が役に立たないことを恐れ、引き返すことも考えていた。しかし尋陽を通過し、朝廷の軍が迎撃にやって来ないので、とても悦び、将吏も士気を上げた。庾楷は(桓玄を排除する)計画が漏れ、身柄が拘束された。姑孰に至ると、その将の馮該・苻宏・皇甫敷・索元らに先に譙王尚之(司馬尚之)を攻撃させ、司馬尚之を破った。劉牢之は子の劉敬宣をよこして桓玄に降伏した。
桓玄が新亭に到着すると、司馬元顕の軍は自壊した。桓玄は建康に入り、詔を偽造して、「義旗が雲のように集まったが、その罪は司馬元顕にある。太傅(司馬道子)に対する措置は別に教書がある。戒厳をやめて武装解除し、義心の通りにせよ」と言った。また詔を偽造して自分に政務全般の権限を付与し、侍中・都督中外諸軍事・丞相・録尚書事・揚州牧、領徐州刺史とし、さらに仮黄鉞・羽葆鼓吹・班剣二十人を加え、左右長史・司馬・従事中郎四人を置き、甲仗二百人で上殿した。桓玄は上表して太傅の司馬道子及び司馬元顕の悪事を列挙し、司馬道子を安成郡に移し、司馬元顕を市で死刑にした。ここにおいて桓玄は太傅府に入って自分の役所とし、太傅中郎の毛泰・毛泰の弟の游撃将軍の毛邃・太傅参軍の荀遜・前豫州刺史の庾楷父子・吏部郎の袁遵・譙王尚之(司馬尚之)らを殺害し、司馬尚之の弟である丹楊尹の司馬恢之・広晋伯の司馬允之・驃騎長史の王誕・太傅主簿の毛遁らを交州や広州の諸郡に流し、すぐに追いかけて司馬恢之・司馬允之を道中で殺害した。兄の桓偉を安西将軍・荊州刺史、領南蛮校尉とし、従兄の桓謙を左僕射・加中軍将軍・領選とし、桓脩を右将軍・徐兗二州刺史とし、桓石生を前将軍・江州刺史とし、長史の卞範之を建武将軍・丹楊尹とし、王謐を中書令・領軍将軍とした。大赦し、改元して大亨とした。桓玄は丞相を辞退し、自分を太尉・領平西将軍・豫州刺史に任命した。さらに袞冕の服、綠綟綬を加え、班剣を増やして六十人とし、剣履上殿、入朝不趨、讚奏不名の特権を付加した。
桓玄が建康を出て姑孰で政務を執ろうとして、群臣の意見を求めると、王謐が回答して、「公羊伝に、なぜ周公旦が(封国の)魯に赴任しなかったのか、天下の心を周の都に集中させたかったからだ、とあります(『春秋公羊伝』文公十三年)。どうか国家の中心を安定させ、周公旦を手本として下さい」と言った。桓玄はこの回答を善しとしたが従うことができなかった。こうして姑孰に大規模な城府を築き、台館の山池は壮麗でないところがなく、桓玄はここに出鎮した。姑孰に来ると、録尚書事を固辞し、詔で辞退を許したが、政務の重要事項はすべて桓玄が決め、小さな事案のみ桓謙・卞範之が決裁した。
禍難がしばしば起こり、戦争がやまないので、万民はこれを憂い、政治の安定を願った。桓玄が朝廷に乗り込むと、侫臣を追放し、俊賢を抜擢して、君子の道がほぼ備わったので、京師では桓玄を歓迎した。のちに桓玄が朝廷をあなどり、宰相を幽閉し、ほしいままに奢侈をして、労役が煩雑となった。ここにおいて朝野は失望し、生業が脅かされた。このとき会稽では不作であり、桓玄は住民に貸し出しをおこなった。百姓は逃散して江湖に入って横木を採った。内史の王愉は百姓たちを本籍地に帰らせた。米を欲したが、在庫が少ないので、吏は必要なときに支給できず、道路で倒れて死ぬものが十人に八、九人であった。桓玄はまた呉興太守の高素・輔国将軍の竺謙之・竺謙之の従兄である高平相の竺朗之・輔国将軍の劉襲・劉襲の弟で彭城内史である劉季武・冠軍将軍の孫無終らを殺害した。彼らはみな劉牢之の派閥に属し、北府の旧将であった。劉襲の兄の冀州刺史の劉軌及び寧朔将軍の高雅之・劉牢之の子の劉敬宣はすべて慕容徳のもとに逃げ去った。桓玄は朝廷を操作して司馬元顕を平定した功績の対価として、自分を豫章公に封建し、安成郡で地は方二百二十五里、邑は七千五百戸を食んだ。殷仲堪・楊佺期を平定した功績の対価として、自分を桂陽郡公に封建し、地は方七十五里、邑は二千五百戸とした。もとの封地の南郡は現状のままとした。桓玄は豫章に息子の桓昇を改封し、桂陽郡公の桓賜の兄の子の桓濬を、西道県公に降格した。さらに詔を発して桓温の名の使用を禁じ、姓名が同じものはすべて変更させた。桓玄は母の馬氏に豫章公太夫人の称号を贈った。
元興二年、桓玄は姚興(後秦)を平定したいという上表を粉飾し、さらに朝廷を動かして詔を作り、遠征を不許可とした。桓玄はもともと器量も実力もない人物だが、大言壮語を好み、もしも実行できないことがあれば、詔に制止されたという体裁をとった。服や文物で自分を飾ろうとしたが、ものを置く場所がなかったので、さきに軽舸(小型の軽舟)を作らせ、衣服と玩物や書画を乗せた。あるひとが諫めると、桓玄は、「書画や衣服などはつねに左右に置くべきものだ。もし戦争のとき、危機に陥っても、軽くて持ち運びやすい」と言った。人々はみなこれを笑った。

桓玄伝の続きを作成中250331

卞範之

原文

卞範之字敬祖、濟陰宛句人也。識悟聰敏、見美於當世。太元中、自丹楊丞為始安太守。桓玄少與之遊、及玄為江州、引為長史、委以心膂之任、潛謀密計、莫不決之。後玄將為篡亂、以範之為丹楊尹。範之與殷仲文陰撰策命、進範之為征虜將軍・散騎常侍。玄僭位、以範之為侍中、班劍二十人、進號後將軍、封臨汝縣公。其禪詔、即範之文也。
玄既奢侈無度、範之亦盛營館第。自以佐命元勳、深懷矜伐、以富貴驕人、子弟慠慢、眾咸畏嫉之。義軍起、範之屯兵於覆舟山西、為劉毅所敗、隨玄西走、玄又以範之為尚書僕射。玄為劉毅等所敗、左右分散、唯範之在側。玄平、斬於江陵。

訓読

卞範之 字は敬祖、濟陰宛句の人なり。識悟聰敏にして、當世に美せらる。太元中に、丹楊丞より始安太守と為る。桓玄 少きとき之と與に遊び、玄 江州と為るに及び、引きて長史と為し、委ぬるに心膂の任を以てし、潛謀密計、之を決せざる莫し。後に玄 將に篡亂を為さんとするに、範之を以て丹楊尹と為す。範之 殷仲文と與に陰かに策命を撰す。範之を進めて征虜將軍・散騎常侍と為す。玄 僭位するや、範之を以て侍中と為し、班劍二十人なり。號を後將軍に進め、臨汝縣公に封ず。其の禪詔は、即ち範之の文なり。
玄 既に奢侈 無度にして、範之も亦た盛んに館第を營む。自ら佐命の元勳なるを以て、深く矜伐を懷き、富貴を以て人に驕り、子弟 慠慢たりて、眾 咸 之を畏嫉す。義軍 起つや、範之 兵を覆舟山西に屯し、劉毅の敗る所と為りて、玄に隨ひて西して走り、玄 又 範之を以て尚書僕射と為す。玄 劉毅らの敗る所と為り、左右 分散し、唯だ範之のみ側に在り。玄 平らぐや、江陵に於て斬らる。

現代語訳

卞範之は字を敬祖といい、済陰宛句の人である。知恵があり明敏で、当世に称賛された。太元年間に、丹楊丞から始安太守となった。桓玄は若いとき一緒に遊び、桓玄が江州の長官になると、招いて長史とし、輔佐の臣として信任し、ひそかな計画は、すべて卞範之が決定した。のちに桓玄が簒奪をもくろむと、卞範之を丹楊尹とした。卞範之は殷仲文とともにひそかに策文を作った。卞範之を征虜将軍・散騎常侍に昇進させた。桓玄が簒奪すると、卞範之を侍中とし、班剣(剣をもち供するもの)を二十人とした。官号を後将軍に進め、臨汝県公に宝剣した。禅譲の詔は、卞範之が書いた文である。
桓玄が奢侈に際限がなく、卞範之もまたさかんに邸宅を造営した。自ら佐命の元勲であるから、強い自負心を持ち、富貴によって人を侮り、子弟も傲慢でらい、人々は畏れて忌み嫌った。義軍が決起すると、卞範之は兵を覆舟山の西に駐屯させ、劉毅に敗れると、桓玄に随って西に逃げた。桓玄は卞範之に尚書僕射を加えた。桓玄が劉毅らに敗れると、近臣たちは解散したが、卞範之だけが側にいた。桓玄が平定されると、江陵で斬られた。

殷仲文

原文

殷仲文、南蠻校尉覬之弟也。少有才藻、美容貌。從兄仲堪薦之於會稽王道子、即引為驃騎參軍、甚相賞待。俄轉諮議參軍、後為元顯征虜長史。會桓玄與朝廷有隙、玄之姊、仲文之妻、疑而間之、左遷新安太守。仲文於玄雖為姻親、而素不交密、及聞玄平京師、便棄郡投焉。玄甚悅之、以為諮議參軍。時王謐見禮而不親、卞範之被親而少禮、而寵遇隆重、兼於王・卞矣。玄將為亂、使總領詔命、以為侍中、領左衞將軍。玄九錫、仲文之辭也。
初、玄篡位入宮、其牀忽陷、羣下失色、仲文曰、「將由聖德深厚、地不能載」。玄大悅。以佐命親貴、厚自封崇、輿馬器服、窮極綺麗、後房伎妾數十、絲竹不絕音。性貪吝、多納貨賄、家累千金、常若不足。玄為劉裕所敗、隨玄西走、其珍寶玩好悉藏地中、皆變為土。至巴陵、因奉二后投義軍、而為鎮軍長史、轉尚書。
帝初反正、抗表自解曰、「臣聞洪波振壑、川無恬鱗。驚飈拂野、林無靜柯。何者。勢弱則受制於巨力、質微則無以自保。於理雖可得而言、於臣實非所敢譬。昔桓玄之代、誠復驅逼者眾。至如微臣、罪實深矣、進不能見危授命、亡身殉國。退不能辭粟首陽、拂衣高謝。
遂乃宴安昏寵、叨昧偽封、錫文篡事、曾無獨固。名義以之俱淪、情節自茲兼撓、宜其極法、以判忠邪。會鎮軍將軍劉裕匡復社稷、大弘善貸、佇一戮於微命、申三驅於大信、既惠之以首領、又申之以縶維。於時皇輿否隔、天人未泰、用忘進退、是以僶俛從事、自同令人。今宸極反正、唯新告始、憲章既明、品物思舊、臣亦胡顏之厚、可以顯居榮次。乞解所職、待罪私門。違離闕庭、乃心慕戀」。詔不許。
仲文因月朔與眾至大司馬府、府中有老槐樹、顧之良久而歎曰、「此樹婆娑、無復生意」。仲文素有名望、自謂必當朝政、又謝混之徒疇昔所輕者、並皆比肩、常怏怏不得志。忽遷為東陽太守、意彌不平。劉毅愛才好士、深相禮接、臨當之郡、游宴彌日。行至富陽、慨然歎曰、「看此山川形勢、當復出一伯符」。何無忌甚慕之。東陽、無忌所統、仲文許當便道修謁、無忌故益欽遲之、令府中命文人殷闡・孔甯子之徒撰義構文、以俟其至。仲文失志恍惚、遂不過府。無忌疑其薄己、大怒、思中傷之。時屬慕容超南侵、無忌言於劉裕曰、「桓胤・殷仲文乃腹心之疾、北虜不足為憂」。義熙三年、又以仲文與駱球等謀反、及其弟南蠻校尉叔文並伏誅。仲文時照鏡不見其面、數日而遇禍。
仲文善屬文、為世所重、謝靈運嘗云、「若殷仲文讀書半袁豹、則文才不減班固」。言其文多而見書少也。

訓読

殷仲文は、南蠻校尉の覬の弟なり。少くして才藻有り、容貌を美せらる。從兄の仲堪 之を會稽王道子に薦め、即ち引きて驃騎參軍と為し、甚だ相 賞待せらる。俄かに諮議參軍に轉じ、後に元顯の征虜長史と為る。會々桓玄 朝廷と隙有るや、玄の姊、仲文の妻なれば、疑ひて之を間(へだた)ち、新安太守に左遷せらる。仲文 玄に於て姻親為りと雖も、而れども素より交密せず、玄 京師を平らぐを聞くに及び、便ち郡を棄てて焉に投ず。玄 甚だ之を悅び、以て諮議參軍と為す。時に王謐 禮を見るも親しまず、卞範之 親しまるも禮少なく、而して寵遇 隆重たりて、王・卞を兼ぬ。玄 將に亂を為さんとするや、詔命を總領せしめ、以て侍中と為し、左衞將軍を領せしむ。玄の九錫、仲文の辭なり。
初め、玄 位を篡して宮に入るや、其の牀 忽ち陷し、羣下 色を失ふ。仲文曰く、「將に聖德 深厚なるに由りて、地 載する能はず」と。玄 大いに悅ぶ。佐命親貴なるを以て、厚く自ら封崇し、輿馬器服、窮極に綺麗なりて、後房の伎妾は數十、絲竹 音を絕やさず。性は貪吝にして、多く貨賄を納れ、家に千金を累ぬるも、常に足らざるが若し。玄 劉裕の敗る所と為るや、玄に隨ひて西走し、其の珍寶玩好 悉く地中に藏し、皆 變じて土と為る。巴陵に至るや、因りて二后を奉じて義軍に投じ、而して鎮軍長史と為り、尚書に轉ず。
帝 初め正に反るや、表を抗して自解して曰く、「臣 聞くに洪波 壑を振はすれば、川は恬なる鱗無し。驚飈 野を拂はば、林は靜なる柯無し。何者ぞや。勢 弱なれば則ち制を巨力に受け、質 微なれば則ち以て自ら保つ無し。理に於て得て言ふ可きと雖も、臣に於て實に敢て譬する所に非ず。昔 桓玄の代に、誠に復た驅逼する者は眾し。微臣が如きに至るも、罪 實に深し。進みては危を見て命を授け、身を亡して國に殉ずる能はず。退きては粟を首陽に辭し、衣を拂ひて高謝する能はず。
遂に乃ち昏寵に宴安し、偽封に叨昧す。錫文の篡事、曾ち獨固する無し。名義は之を以て俱に淪み、情節は茲より兼撓す。宜しく其の法を極めて、以て忠邪を判ずべし。會々鎮軍將軍の劉裕 社稷を匡復し、大いに善貸を弘め、一戮を微命に佇め、三驅を大信に申し、既に之を惠むに首領を以てし、又 之を申すに縶維を以てす。時に於て皇輿 否隔たりて、天人 未だ泰からず、用て進退を忘る。是を以て僶俛して從事し、自ら令人に同ず。今 宸極 正に反り、唯だ新たに始を告す。憲章 既に明らかにして、品物 舊を思ふ。臣も亦た胡ぞ顏の厚く、以て榮次に顯居す可きか。乞ふらくは所職を解き、罪を私門に待たん。闕庭に違離し、乃ち心 慕戀す」と。詔して許さず。
仲文 月朔に因りて眾と與に大司馬府に至るに、府中に老槐樹有り、之を顧ること良に久して歎じて曰く、「此の樹 婆娑として、復た生意無し」と。仲文 素より名望有り、自ら謂へらく必ず朝政に當たると。又 謝混の徒疇 昔 輕んずる所の者、並びに皆 比肩し、常に怏怏として志を得ず。忽ち遷りて東陽太守と為り、意 彌々不平なり。劉毅 才を愛し士を好み、深く相 禮接し、臨みて郡に之くに當たり、游宴すること彌日なり。行きて富陽に至り、慨然と歎じて曰く、「此の山川の形勢を看るに、當に復た一伯符を出だすべし」と。何無忌 甚だ之を慕ふ。東陽は、無忌の統ぶる所にして、仲文 當に便道より修謁するべきことを許す。無忌 故に益々欽みて之を遲らせ、府中をして文人の殷闡・孔甯子の徒に命じて義を撰し文を構しめ、以て其の至るを俟つ。仲文 志を失ひて恍惚たりて、遂に府に過らず。無忌 其の己を薄とするを疑ひ、大いに怒り、之を中傷せんと思ふ。時に屬々慕容超 南侵するも、無忌 劉裕に言ひて曰く、「桓胤・殷仲文 乃ち腹心の疾なり。北虜 憂と為すに足らず」と。義熙三年、又 仲文 駱球らと與に謀反するを以て、及び其の弟の南蠻校尉の叔文 並びに伏誅す。仲文 時に鏡を照らすに其の面を見ず、數日にして禍に遇ふ。
仲文 屬文を善くし、世の重んずる所と為り、謝靈運 嘗て云ふ、「殷仲文の若きは讀書は袁豹に半ばするも、則ち文才は班固を減ぜず」と。其の文 多くして書を見ること少なきを言ふなり。

現代語訳

殷仲文は、南蛮校尉の殷覬の弟である。若くして才智と文藻があり、容貌をほめられた。従兄の殷仲堪は彼を会稽王道子(司馬道子)に薦め、司馬道子は殷仲文を招いて驃騎参軍とし、とても尊重された。にわかに諮議参軍に転じ、のちに司馬元顕の征虜長史となった。このころ桓玄が朝廷と対立すると、桓玄の姉が、殷仲文の妻であったことから、疑われて(東晋で)疎んぜられ、新安太守に左遷された。殷仲文は桓玄と婚姻を結んでいたが、かねて桓玄と親密ではなかった。桓玄が京師(東晋の都)を陥落させたと聞いて、殷仲文は(任地の新安)郡を捨てて慌てて桓玄のもとに身を投じた。桓玄はとても喜び、諮議参軍とした。時に王謐は(桓玄に)礼遇されても親愛されず、卞範之は親愛されても礼遇されていなかった。殷仲文への親愛と礼遇はどちらも高く、王謐と卞範之を合わせたものであった。桓玄が簒奪に着手すると、殷仲文に詔命をすべて管轄させ、侍中とし、左衛将軍を領させた。桓玄の九錫の文は、殷仲文の作である。
これよりさき、桓玄が皇位を簒奪して宮殿に入ると、(桓玄が座った)長椅子が陥没し、群臣は顔色を失った。殷仲文は、「陛下の聖徳が重厚なので、地が支えられなかったのです」と言った。桓玄は大いに悦んだ。佐命の臣であり(桓玄から)親愛と礼遇を受けていたので、自ら地位を高くし、輿馬や器服は、極めて豪華であり、後房の伎妾は数十人おり、音楽の演奏がつねに絶えなかった。貪欲でけちな性格で、多くの賄賂を受けとり、家に千金を積み重ねたが、それでも満足しなかった。桓玄が劉裕に敗れると、桓玄に従って西に逃げた。持っていた珍宝や趣味の品々を地中に隠したが、すべてが土に還った。巴陵に至ると、二人の后を連れて義軍に投降した。鎮軍長史となり、尚書に転じた。
東晋の皇帝が復位すると、殷仲文は上表して弁明し、「臣が聞きますに大きな波は谷を震わせれば、川に棲む魚は安らかでいられません。疾風が野原に吹けば、林の木々は静かではいられません。なぜでしょうか。弱いものは強い力から影響を受け、小さなものは自分の身を保てないからです。これが必然の道理でありますが、臣も同じでしたとまでは申しません。むかし桓玄が簒奪すると、(強い波や風のように)多くのものを圧迫して同調を求めました。臣のようなものでも、(桓玄に協調にした)罪はとても重いのです。進んでは(東晋の)危難に命を捧げ、死して国家に殉じることができませんでした。退いては(伯夷と叔斉のように)桓玄の国のものを口にせず、隠者に徹することができませんでした。
桓玄のでたらめな厚遇に甘んじ、不正な官職を受けました。九錫の賜与と簒奪に対して、ひとり抵抗を貫けませんでした。大義名分をねじまげ、邪悪な考えに乱されました。どうか法規に基づいて、忠邪を判定して下さい。たまたま鎮軍将軍の劉裕が(桓玄を討伐して)社稷を回復させたとき、大いに罪を赦し、死刑の執行を延期し、逃げ道を作って、わが首を切り落とさなかったので、まだ生き残っています。あのころは皇帝が行き場を失い、天も人も不安定でしたので、私は混乱しておりました。国家のために働き、善行に努めようと思います。いま皇帝が復位し、政治が一新されました。法規の運用が正常化され、万物が復古しています。どうして臣は恥を知らず、朝廷の高い地位にいてよいものでしょうか。どうか官職を解いて下さい、自宅で判決を待ちたいと思います。宮廷から離れても、心では国家を恋い慕っています」と言った。詔して(解任を)許さなかった。
殷仲文が月初に同僚たちと大司馬府に出勤したとき、府内に老槐樹(えんじゅの老木)があった。これを長く眺めてから(自分を境遇を重ねて)悲嘆し、「この木は枯れそうだ、もう復活するまい」と言った。殷仲文はかねて名望があり、朝廷で政治を執るという自負があった。また謝混のようにかつて軽んじていたものと、同じ地位に甘んじていたので、つねに不満そうだった。とつぜん東陽太守に任命され、いよいよ不服であった。劉毅は才能と人材を愛し、殷仲文を尊んで付き合っていたので、郡に赴任する前に、数日かけて酒宴を催した。出発して富陽に至ると、心を奮い起こして嘆き、「この山川の地形を見たところ、ふたたび伯符(後漢末の孫策)を輩出するに違いない」と言った。何無忌は殷仲文を慕っていた。(殷仲文が地形を褒めた)東陽は、(江州刺史の)何無忌が統治していた。殷仲文は道中に立ち寄って何無忌に面会する約束をした。何無忌はますます喜んで殷仲文の行路を遅らせ、府中に命じて文人の殷闡・孔甯子らに命じて親交を結ぶ書簡を作り、殷仲文の到着を待った。ところが殷仲文は落胆してぼんやりとし、何無忌の府を通過した。何無忌は軽んじられたと思い、大いに怒り、殷仲文を誹謗中傷しようと考えた。このとき慕容超が南侵していたが、何無忌は劉裕に、「桓胤・殷仲文は腹中の病です。北虜(国外の慕容超)よりも悪質な脅威です」と言った。義熙三年、殷仲文は駱球らとともに謀反を企んだとして、その弟で南蛮校尉の殷叔文とともに誅殺された。殷仲文はこのとき鏡を見たが顔が映らず、数日後に禍いに遇った。
殷仲文は文をつづるのを得意とし、世に重んじられた。謝霊運はかつて、「殷仲文は読書は(同じ東晋の)袁豹の半分だが、文章の才は(前漢の)班固にも劣らない」と言った。殷仲文は文章の量は多いが読書の量が少ないことを言ったのである。

原文

史臣曰、桓玄纂凶、父之餘基。挾姦回之本性、含怒於失。苞藏其豕心、抗表以稱冤。登高以發憤、觀釁而動、竊圖非望。始則假寵於仲堪、俄而戮殷以逞欲、遂得據全楚之地、驅勁勇之兵、因晉政之陵遲、乘會稽之酗醟、縱其狙詐之計、扇其陵暴之心、敢率犬羊、稱兵內侮。天長喪亂、凶力實繁、踰年之間、奄傾晉祚、自謂法堯禪舜、改物君臨、鼎業方隆、卜年惟永。俄而義旗電發、忠勇雷奔、半辰而都邑廓清、踰月而凶渠即戮、更延墜曆、復振頹綱。是知神器不可以闇干、天祿不可以妄處者也。夫帝王者、功高宇內、道濟含靈、龍宮鳳曆表其祥、彤雲玄石呈其瑞、然後光臨大寶、克享鴻名、允徯后之心、副樂推之望。若桓玄之幺麼、豈足數哉。適所以干紀亂常、傾宗絕嗣、肇金行之禍難、成宋氏之驅除者乎。
贊曰、靈寶隱賊、世載凶德。信順未孚、姦回是則。肆逆遷鼎、憑威縱慝。違天虐人、覆宗殄國。

訓読

史臣曰く、桓玄の纂凶は、父の餘基なり。姦回の本性を挾み、怒りを職を失ふことに含む。其の豕心を苞藏し、表を抗して以て冤を稱す。高みに登るに發憤を以てし、釁を觀て動き、竊かに非望を圖る。始めは則ち寵を仲堪に假るも、俄かにして殷を戮して以て欲を逞くす。遂に全楚の地に據るを得るや、勁勇の兵を驅り、晉政の陵遲に因りて、會稽の酗醟に乘じて、其の狙詐の計を縱にし、其の陵暴の心を扇(さか)んにす。敢て犬羊を率ゐて、兵を稱するも內に侮す。天長 喪亂し、凶力 實繁たり。踰年の間に、奄ち晉祚を傾く。自ら謂ふらく堯の舜に禪るに法り、物を改めて君臨す。鼎業 方に隆んなりて、年を卜すること惟だ永し。俄かにして義旗 電のごとく發し、忠勇 雷のごとく奔し、半辰にして都邑 廓(おほ)いに清たり。踰月にして凶渠 即ち戮し、更に墜曆を延ばし、復た頹綱を振ふ。是れ神器 闇を以て干す可からず、天祿 妄を以て處る可からざる者なることを知らん。夫れ帝王なる者は、功は宇內に高く、道は含靈を濟ひ、龍宮鳳曆 其の祥を表はし、彤雲玄石 其の瑞を呈し、然る後に大寶に光臨し、克く鴻名を享け、徯后の心を允にし、樂推の望に副ふ。桓玄の幺麼が若きは、豈に數ふるに足らんや。適に紀を干し常を亂し、宗を傾け嗣を絕つ所以にして、金行の禍難を肇め、宋氏の驅除と成る者なるか。
贊に曰く、靈寶 賊を隱し、世 凶德を載す。信順 未だ孚ならず、姦回 是れ則なり。逆を肆にし鼎を遷し、威に憑きて慝を縱にす。天に違ひて人を虐げ、宗を覆し國を殄す。

現代語訳

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