いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第一巻_前趙_劉元海(子和・劉宣)

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。

原文

古者帝王乃生奇類、淳維伯禹之苗裔、豈異類哉。反首衣皮、餐羶飲湩、而震驚中域、其來自遠。天未悔禍、種落彌繁。其風俗險詖、性靈馳突、前史載之、亦以詳備。軒帝患其干紀、所以徂征、武王竄以荒服、同乎禽獸。而於露寒之野、候月覘風、覩隙揚埃、乘閒騁暴、邊城不得緩帶、百姓靡有室家。孔子曰「微管仲、吾其被髮左袵矣。」此言能教訓卒伍、整齊車甲、邊埸既伏、境内以安。然則燕築造陽之郊、秦塹臨洮之險、登天山、絕地脈、苞玄菟、款黃河、所以防夷狄之亂中華、其備豫如此。
漢宣帝初納呼韓、居之亭鄣、委以候望、始寬戎狄。光武亦以南庭數萬徙入西河、後亦轉至五原、連延七郡。董卓之亂、則汾晉之郊蕭然矣。郭欽騰牋於武帝、江統獻策於惠皇、皆以爲魏處戎夷、繡居都鄙、請移沙塞之表、定一殷周之服。統則憂諸并部、欽則慮在盟津。言猶自口、元海已至。語曰「失以豪釐」、晉卿大夫之辱也。聰之誓兵、東兼齊地、曜之馳旆、西踰隴山、覆沒兩京、蒸徒百萬。天子陵江御物、分據地險、迴首中原、力不能救、劃長淮以北、大抵棄之。胡人利我艱虞、分鑣起亂、晉臣或阻兵遐遠、接武效尤。
大凡劉元海以惠帝永興元年據離石稱漢。後九年、石勒據襄國稱趙。張氏先據河西、是歲、自石勒後三十六年也、重華自稱涼王。後一年、冉閔據鄴稱魏。後一年、苻健據長安稱秦。慕容氏先據遼東稱燕、是歲、自苻健後一年也、儁始僭號。後三十一年、後燕慕容垂據鄴。後二年、西燕慕容沖據阿房。是歲也、乞伏國仁據枹罕稱秦。後一年、慕容永據上黨。是歲也、呂光據姑臧稱涼。後十二年、慕容德據滑臺稱南燕。是歲也、禿髮烏孤據廉川稱南涼、段業據張掖稱北涼。後三年、李玄盛據敦煌稱西涼。後一年、沮渠蒙遜殺段業、自稱涼。後四年、譙縱據蜀稱成都王。後二年、赫連勃勃據朔方稱大夏。後二年、馮跋殺離班、據和龍稱北燕。提封天下、十喪其八、莫不龍旌・帝服、建社開祊、華夷咸暨、人物斯在。或篡通都之郷、或擁數州之地、雄圖内卷、師旅外并、窮兵凶於勝負、盡人命於鋒鏑、其爲戰國者一百三十六載、抑元海爲之禍首云。

訓読

古者の帝王、乃ち奇類を生むに、淳維は伯禹の苗裔なれば、豈に異類ならんや。反首して皮を衣、羶を餐らい湩を飲み、而して中域を震驚し、其の來ること自より遠し。天は未だ禍を悔いず、種落は彌々繁し。其の風俗は險詖、性靈は馳突、前史之を載するに、亦た以て詳備たり。軒帝は其の紀を干(おか)すを患えたれば、所以に徂きて征し、武王の竄(はな)つに荒服を以てするは、禽獸に同じければなり。而るに露寒の野に於いて、月を候い風を覘い、隙を覩て埃を揚げ、閒に乘じて暴を騁せ、邊城は帶を緩むを得ず、百姓は室家有る靡し。孔子曰く「管仲微かりせば、吾、其れ髮を被り袵を左にせん」と。此の言、能く卒伍に教訓し、車甲を整齊すれば、邊埸は既に伏し、境内は以て安んずるなり。然れば則ち燕は造陽の郊に築き、秦は臨洮の險を塹り、天山に登り、地脈を絕ち、玄菟を苞み、黃河に款(いた)り、夷狄の中華を亂すを防ぐ所以、其の備豫は此くの如し。
漢の宣帝、初めて呼韓を納れ、之を亭鄣に居らしめ、委ぬるに候望を以てし、始めて戎狄を寬す。光武も亦た南庭の數萬を以て徙して西河に入らしめ、後に亦た轉じて五原に至り、七郡に連延たり。董卓の亂あるや、則ち汾晉の郊は蕭然たり。郭欽の牋を武帝に騰げ、江統の策を惠皇に獻ずるに〔一〕、皆な魏は戎夷を處くに、都鄙に繡居せしむと以爲い、沙塞の表に移さんことを請い、殷周の服と一ならしめんことを定む。統は則ち諸を并部に憂い、欽は則ち慮は盟津に在り。言の猶お口よりするに、元海、已に至る。語に「失うに豪釐を以てすれば」と曰うは、晉の卿大夫の辱なり。聰の兵に誓うや、東のかた齊地を兼ね、曜の旆を馳するや、西のかた隴山を踰え、兩京を覆沒し、蒸徒は百萬。天子は江を陵ぎて物を御し、地險に分據し、首を中原に迴らすも、力は救う能わず、長淮以北を劃り、大いに之を抵棄す。胡人は我が艱虞を利とし、分鑣して亂を起こし、晉臣或いは兵を遐遠に阻み、武を接ぎて效尤す〔二〕。
大凡そ〔三〕劉元海、惠帝の永興元年を以て離石に據りて漢を稱す。後九年、石勒、襄國に據りて趙を稱す。張氏は先に河西に據り、是の歲、石勒より後三十六年なるや、重華、自ら涼王を稱す。後一年、冉閔(ぜんびん)、鄴に據りて魏を稱す。後一年、苻健(ふけん)、長安に據りて秦を稱す。慕容(ぼよう)氏、先に遼東に據りて燕を稱し、是の歲、苻健より後一年なるや、儁、始めて僭號す。後三十一年、後燕の慕容垂、鄴に據る。後二年、西燕の慕容沖、阿房に據る。是の歲なるや、乞伏國仁(きっぷくこくじん)、枹罕に據りて秦を稱す。後一年、慕容永、上黨に據る。是の歲なるや、呂光、姑臧に據り涼を稱す。後十二年、慕容德、滑臺に據りて南燕を稱す。是の歲なるや、禿髮烏孤(とくはつうこ)、廉川に據りて南涼を稱し、段業、張掖に據りて北涼を稱す。後三年、李玄盛、敦煌に據りて西涼を稱す。後一年、沮渠蒙遜(しょきょもうそん)、段業を殺し、自ら涼を稱す。後四年、譙縱(しょうじゅう)、蜀に據りて成都王を稱す。後二年、赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)、朔方に據りて大夏を稱す。後二年、馮跋(ふうばつ)、離班を殺し、和龍に據りて北燕を稱す。提封(およそ)天下、十に其の八を喪い、龍旌・帝服し、社を建て祊を開かざるは莫く、華夷咸な暨び、人物斯(ことごと)く在り。或いは通都の郷を篡い、或いは數州の地を擁し、雄圖内に卷き、師旅外に并せ、兵凶を勝負に窮め、人命を鋒鏑に盡くし、其の戰國を爲すこと一百三十六載〔四〕、抑々元海、之の禍首と爲すと云う。

〔一〕『晋書』巻九十七・四夷伝・匈奴伝、巻五十六・江統伝を参照。
〔二〕五胡十六国が相次いで建国され、中には漢族の建てた国もあったことを指す。
〔三〕以下に述べられる年譜は、おおむね正確な年代を表わしているが、石勒に関しては載記の内容と一年の誤差があり、また禿髮烏孤以降に関しては、みな等しく一年ずつ後ろにズレている。さらに、石勒が襄国を拠点としたのは312年だが、趙王を称したのはさらに後年であり、また、南燕・南涼・北涼などの国号は、後世の呼称であるため、当時の彼らが称したものではない、などという点で、正確さに欠ける部分がある。
〔四〕劉淵が漢王を称した304年から、北涼滅亡によって北魏の華北統一が達成された439年までの136年間。

現代語訳

古の帝王は往々にして奇異なる存在を生むものだが、淳維(匈奴の始祖)は夏の禹王の子孫であるので、どうして我々と異なる種族であろうか。しかし、ざんばら髪で獣皮を衣服とし、羊肉のような生臭いものを食らい、獣の乳を飲み、しかも中原を脅かし、遠い昔からそのようなことを続けてきたのである。天はなお禍を生んだことを悔いず、その種族や部落はますます繁栄し。その風俗は陰険で邪悪、性情は猪突猛進で、そのことについてはこれまでの史書に詳しく記載されている。黄帝は彼らが法紀を犯すのを憂え、故に出兵して征伐し、(周の)武王が荒服(「五服」の最周縁部で、都から二千里~二千五百里離れた地域のこと)に彼らを追放したのは、彼らが禽獣同然であったからである。しかし彼らは、露の滴る寒冷の野で、月や風の様子を窺いながら暮らしつつ、隙を見ては埃をあげて侵略を行い、好機と見るや暴虐の限りを尽くし、我が辺境の城では帯を緩めてゆったりする余裕も無く、人々は妻帯して一家を成すこともままならなかった。孔子は(『論語』憲問篇にて)こうおっしゃっている。「もし管仲がいなければ、(北方の夷狄は野放しにされ、やがてその征服を受けて)私も今ごろはざんばら髪で、衣服は左前に着ることとなっていただろう」と。この言葉によれば、兵士たちをよく教えて訓練し、戦車や鎧などを整備しさえすれば、辺境の夷狄は服従し、国内に安寧をもたらすことができるのである。それゆえ、(戦国時代の)燕国は造陽の郊外に長城を築き、秦国は臨洮の山谷の険要さを利用して塹壕とし、(漢の武帝の時代には)天山に登り(匈奴を撃破し)、(秦の始皇帝の時代には万里の長城を築くために)地脈を絶ち、(また漢の武帝の時代には)玄菟の地を併呑し、黄河のオルドス地帯まで領土を広げたのであり、このような防備を設けることにより、先人たちは夷狄が中華を乱すのを防いだのである。
漢の宣帝は、初めて(東匈奴の)呼韓邪単于を受け入れ、彼らを亭鄣(辺境の防備施設)周辺に居住させ、(西匈奴などに対する)見張りの役目を任せるなど、初めてそのように戎狄に対して寛大な処置を行った。(後漢の)光武帝もまた、南匈奴の数万人を西河郡に入れて移住させ、後にまた(その一部を)五原郡にも転じて住まわせ、結果的に七郡(北地・朔方・五原・雲中・定襄・鴈門・代郡)に匈奴人の居住地が広がった。董卓の乱が起こると、春秋時代の晋があった汾水流域の地域は(匈奴などの活動により)騒がしくなった。(西晋になって)郭欽が武帝に上奏文を提出し、江統が恵帝に策を献じた際には、二人とも、魏が戎夷を移住させるに当たり、都やその近隣の土地に刺繍を施すように雑居させたのだと言い、二人は戎夷を沙漠地帯の辺境の砦の外側に移住させることを請い、殷や周の九服と同様、王畿の周辺には漢族を住まわせ、離れた地に戎夷を置くよう建議したのである。江統は并州の匈奴五部の危険性について憂慮し、郭欽は并州の胡騎が数日で盟津に到達できることを憂慮した。しかし、そのような言葉が口から発せられているまさにその時、すでに劉元海が頭角を現していたのである。言い伝えに「ほんのわずかな誤りであっても(やがては千里の差を生むことになる)」とあるのは、まさに晋の大臣たちの恥辱である。劉聡が兵士に誓約して軍令を敷くと、東は斉の地域を併呑し、劉曜が旗を素早く振って指令を下すと、西は隴山を越え、洛陽と長安の二京を陥落させ(懐帝政権・愍帝政権を破って西晋を滅亡させ)、その支配下の民衆は百万人にも上った。天子(東晋の元帝)は長江を渡って万物を統御する立場となり、(懐帝や愍帝とは)別に険阻な地に割拠し、振り返って首を中原の方に向けたが、中原の人々を救うには力が及ばず、長江・淮水以北を区切って大いにその地を放棄した。胡人は我が中国が苦しみ憂えているのにつけこみ、袂を分かって乱を起こし、晋の臣下の中にも、はるか遠くの地で兵を恃んで割拠し、相次いでその悪事をまねた者たちもいた。
その概要を述べると次の通りである。劉元海(劉淵)は、恵帝の永興元年(304)に離石を拠点として漢を称した(すなわち漢趙)。その九年後(313)、石勒が襄国を拠点として趙を称した(すなわち後趙)。張氏はそれ以前から河西を拠点としていたが、石勒が襄国を拠点としてから三十六年後の年(349)に、張重華が涼王を自称した(すなわち前涼)。その一年後(350)、冉閔(ぜんびん)が鄴を拠点として魏を称した(すなわち冉魏)。その一年後(351)、苻健(ふけん)が長安を拠点として秦を称した(すなわち前秦)。慕容(ぼよう)氏はそれ以前から遼東を拠点として燕を称していたが、苻健が秦を称した一年後(352)、慕容儁が初めて皇帝号を僭称した(すなわち前燕)。その三十一年後(383)、後燕の慕容垂が鄴を拠点とした。その二年後(385)、西燕の慕容沖が阿房を拠点とした。同じ年には、乞伏国仁(きっぷくこくじん)が枹罕を拠点として秦を称した(すなわち西秦)。その一年後(386)、慕容永が上党を拠点とした(すなわち西燕の再興)。同じ年には、呂光が姑臧を拠点として涼を称した(すなわち後涼)。その十二年後(398)、慕容徳が滑臺を拠点として南燕を称した。同じ年には、禿髪烏孤(とくはつうこ)が廉川を拠点として南涼を称し、段業が張掖を拠点として北涼を称した。その三年後(401)、李玄盛が敦煌を拠点として西涼を称した。その一年後(402)、沮渠蒙遜(しょきょもうそん)が段業を殺し、涼を自称した。その四年後(406)、譙縦(しょうじゅう)が蜀を拠点として成都王を称した(すなわち後蜀)。その二年後(408)、赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)が朔方を拠点として大夏を称した。その二年後(410)、馮跋(ふうばつ)が離班を殺し、和龍を拠点として北燕を称した。天下全体で見れば、(晋朝は)その八割の領土を失い、(五胡十六国の諸王朝は)みな龍旌を建てて皇帝の服飾を備え、社を建て祊(宗廟祭祀の祭場)を開き、華人も夷人もみなその下に集い、人も物もすべてそこに備わっていた。四方八方に通ずる都市一帯を奪う者もいれば、数州にまたがる地を擁する者もおり、内には雄大な野望を抱き、外には軍隊を一手に掌握し、勝敗を決するために戦争という凶禍を極め尽くし、その戦争のために人の生命を注ぎ尽くし、その戦国の世は136年間続いたが、劉元海こそがこの禍乱の元凶であった。

劉元海

原文

劉元海、新興匈奴人、冒頓之後也。名犯高祖廟諱、故稱其字焉。
初、漢高祖以宗女爲公主、以妻冒頓、約爲兄弟、故其子孫遂冒姓劉氏。建武初、烏珠留若鞮單于子右奧鞬日逐王比自立爲南單于、入居西河美稷。今離石左國城即單于所徙庭也。中平中、單于羌渠使子於扶羅將兵助漢、討平黃巾。會羌渠爲國人所殺、於扶羅以其眾留漢、自立爲單于。屬董卓之亂、寇掠太原・河東、屯於河内。於扶羅死、弟呼廚泉立、以於扶羅子豹爲左賢王。即元海之父也。魏武分其眾爲五部、以豹爲左部帥、其餘部帥皆以劉氏爲之。太康中、改置都尉、左部居太原茲氏、右部居祁、南部居蒲子、北部居新興、中部居大陵。劉氏雖分居五部、然皆家于晉陽汾・澗之濱。
豹妻呼延氏、魏嘉平中祈子於龍門、俄而有一大魚、頂有二角、軒鬐躍鱗而至祭所、久之乃去。巫覡皆異之曰「此嘉祥也。」其夜夢旦所見魚變爲人、左手把一物、大如半雞子、光景非常、授呼延氏曰「此是日精、服之生貴子。」寤而告豹、豹曰「吉徵也。吾昔從邯鄲張冏母司徒氏相、云吾當有貴子孫、三世必大昌。仿像相符矣。」自是十三月而生元海、左手文有其名、遂以名焉。齠齔英慧、七歲遭母憂、擗踴號叫、哀感旁鄰、宗族・部落咸共歎賞。時司空太原王昶等聞而嘉之、並遣弔賻。幼好學、師事上黨崔游、習毛詩・京氏易・馬氏尚書、尤好春秋左氏傳・孫吳兵法、略皆誦之、史・漢・諸子、無不綜覽。嘗謂同門生朱紀・范隆曰「吾毎觀書傳、常鄙隨・陸無武、絳・灌無文。道由人弘、一物之不知者、固君子之所恥也。二生遇高皇而不能建封侯之業、兩公屬太宗而不能開庠序之美、惜哉。」於是遂學武事、妙絕於眾、猿臂善射、膂力過人。姿儀魁偉、身長八尺四寸、鬚長三尺餘、當心有赤毫毛三根、長三尺六寸。有屯留崔懿之・襄陵公師彧等、皆善相人、及見元海、驚而相謂曰「此人形貌非常、吾所未見也。」於是深相崇敬、推分結恩。太原王渾虛襟友之、命子濟拜焉。
咸熙中、爲任子在洛陽、文帝深待之。泰始之後、渾又屢言之於武帝。帝召與語、大悦之、謂王濟曰「劉元海容儀機鑒、雖由余・日磾無以加也。」濟對曰「元海儀容機鑒、實如聖旨、然其文武才榦賢於二子遠矣。陛下若任之以東南之事、吳會不足平也。」帝稱善。孔恂・楊珧進曰「臣觀元海之才、當今懼無其比。陛下若輕其眾、不足以成事、若假之威權、平吳之後、恐其不復北渡也。非我族類、其心必異。任之以本部、臣竊爲陛下寒心。若舉天阻之固以資之、無乃不可乎。」帝默然。
後秦涼覆沒、帝疇咨將帥、上黨李憙曰「陛下誠能發匈奴五部之眾、假元海一將軍之號、鼓行而西、可指期而定。」孔恂曰「李公之言、未盡殄患之理也。」憙勃然曰「以匈奴之勁悍、元海之曉兵、奉宣聖威、何不盡之有。」恂曰「元海若能平涼州、斬樹機能、恐涼州方有難耳。蛟龍得雲雨、非復池中物也。」帝乃止。後王彌從洛陽東歸、元海餞彌於九曲之濱、泣謂彌曰「王渾・李憙以郷曲見知、毎相稱達、讒間因之而進、深非吾願、適足爲害。吾本無宦情、惟足下明之。恐死洛陽、永與子別。」因慷慨歔欷、縱酒長嘯、聲調亮然、坐者爲之流涕。齊王攸時在九曲、比聞而馳遣視之、見元海在焉、言於帝曰「陛下不除劉元海、臣恐并州不得久寧。」王渾進曰「元海長者、渾爲君王保明之。且大晉方表信殊俗、懷遠以德、如之何以無萌之疑殺人侍子、以示晉德不弘。」帝曰「渾言是也。」
會豹卒、以元海代爲左部帥。太康末、拜北部都尉。明刑法、禁姦邪、輕財好施、推誠接物、五部俊傑無不至者。幽冀名儒、後門秀士、不遠千里、亦皆遊焉。楊駿輔政、以元海爲建威將軍・五部大都督、封漢光郷侯。元康末、坐部人叛出塞免官。成都王穎鎮鄴、表元海行寧朔將軍、監五部軍事。
惠帝失馭、寇盜蜂起、元海從祖故北部都尉・左賢王劉宣等竊議曰「昔我先人與漢約爲兄弟、憂泰同之。自漢亡以來、魏晉代興、我單于雖有虛號、無復尺土之業、自諸王侯、降同編戸。今司馬氏骨肉相殘、四海鼎沸、興邦復業、此其時矣。左賢王元海姿器絕人、榦宇超世、天若不恢崇單于、終不虛生此人也。」於是密共推元海爲大單于。乃使其黨呼延攸詣鄴、以謀告之。元海請歸會葬、穎弗許。乃令攸先歸、告宣等招集五部、引會宜陽諸胡、聲言應穎、實背之也。
穎爲皇太弟、以元海爲太弟屯騎校尉。惠帝伐穎、次于蕩陰、穎假元海輔國將軍・督北城守事。及六軍敗績、穎以元海爲冠軍將軍、封盧奴伯。并州剌史東嬴公騰・安北將軍王浚、起兵伐穎、元海説穎曰「今二鎮跋扈、眾1.(餘)〔踰〕十萬、恐非宿衞及近都士庶所能禦之、請爲殿下還説五部、以赴國難。」穎曰「五部之眾可保發已不。縱能發之、鮮卑・烏丸勁速如風雲、何易可當邪。吾欲奉乘輿還洛陽、避其鋒鋭、徐傳檄天下、以逆順制之。君意何如。」元海曰「殿下武皇帝之子、有殊勳於王室、威恩光洽、四海欽風、孰不思爲殿下沒命投軀者哉。何難發之有乎。王浚豎子、東嬴疏屬、豈能與殿下爭衡邪。殿下一發鄴宮、示弱於人、洛陽可復至乎。縱達洛陽、威權不復在殿下也。紙檄尺書、誰爲人奉之。且東胡之悍不踰五部、願殿下勉撫士眾、靖以鎮之。當爲殿下以二部摧東嬴、三部梟王浚、二豎之首可指日而懸矣。」穎悦、拜元海爲北單于・參丞相軍事。
元海至左國城、劉宣等上大單于之號、二旬之間、眾已五萬、都于離石。
王浚使將軍祁弘率鮮卑攻鄴、穎敗、挾天子南奔洛陽。元海曰「穎不用吾言、逆自奔潰。真奴才也。然吾與其有言矣、不可不救。」於是命右於陸王劉景・左獨鹿王劉延年等率步騎二萬、將討鮮卑。劉宣等固諫曰「晉爲無道、奴隸御我、是以右賢王猛不勝其忿。屬晉綱未弛、大事不遂、右賢塗地、單于之恥也。今司馬氏父子兄弟自相魚肉、此天厭晉德、授之於我。單于積德在躬、爲晉人所服、方當興我邦族、復呼韓邪之業、鮮卑・烏丸可以爲援、奈何距之而拯仇敵。今天假手於我、不可違也。違天不祥、逆眾不濟。天與不取、反受其咎。願單于勿疑。」元海曰「善。當爲崇岡峻阜、何能爲培塿乎。夫帝王豈有常哉。大禹出於西戎、文王生於東夷、顧惟德所授耳。今見眾十餘萬、皆一當晉十、鼓行而摧亂晉、猶拉枯耳。上可成漢高之業、下不失爲魏氏。雖然、晉人未必同我。漢有天下世長、恩德結於人心、是以昭烈崎嶇於一州之地、而能抗衡於天下。吾又漢氏之甥、約爲兄弟、兄亡弟紹、不亦可乎。且可稱漢、追尊後主、以懷人望。」乃遷于左國城、遠人歸附者數萬。
永興元年、元海乃爲壇于南郊、僭即漢王位、下令曰「昔我太祖高皇帝以神武應期、廓開大業。太宗孝文皇帝重以明德、升平漢道。世宗孝武皇帝拓土攘夷、地過唐日。中宗孝宣皇帝搜揚俊乂、多士盈朝。是我祖宗道邁三王、功高五帝、故卜年倍於夏商、卜世過於姬氏。而元成多僻、哀平短祚、賊臣王莽、滔天篡逆。我世祖光武皇帝誕資聖武、恢復鴻基、祀漢配天、不失舊物、俾三光晦而復明、神器幽而復顯。顯宗孝明皇帝・肅宗孝章皇帝累葉重暉、炎光再闡。自和安已後、皇綱漸頹、天步艱難、國統頻絕。黃巾海沸於九州、羣閹毒流於四海、董卓因之肆其猖勃、曹操父子凶逆相尋。故孝愍委棄萬國、昭烈播越岷蜀、冀否終有泰、旋軫舊京。何圖天未悔禍、後帝窘辱。自社稷淪喪、宗廟之不血食四十年于茲矣。今天誘其衷、悔禍皇漢、使司馬氏父子兄弟迭相殘滅。黎庶塗炭、靡所控告。孤今猥爲羣公所推、紹修三祖之業。顧茲尫闇、戰惶靡厝。但以大恥未雪、社稷無主、銜膽栖冰、勉從羣議。」乃赦其境内、年號元熙、追尊劉禪爲孝懷皇帝、立漢高祖以下三祖五宗神主而祭之。立其妻呼延氏爲王后。置百官、以劉宣爲丞相、崔游爲御史大夫、劉宏爲太尉、其餘拜授各有差。
東嬴公騰使將軍聶玄討之、戰于大陵、玄師敗績、騰懼、率并州二萬餘戸下山東、遂所在爲寇。元海遣其建武將軍劉曜寇太原・泫氏・屯留・長子・中都、皆陷之。二年、騰又遣司馬瑜・周良・石鮮等討之、次于離石汾城。元海遣其武牙將軍劉欽等六軍距瑜等、四戰、瑜皆敗、欽振旅而歸。是歲、離石大饑、遷于黎亭、以就邸閣穀、留其太尉劉宏・護軍馬景守離石、使大司農卜豫運糧以給之。以其前將軍劉景爲使持節・征討大都督・大將軍、要擊并州刺史劉琨于版橋、爲琨所敗、琨遂據晉陽。其侍中劉殷・王育進諫元海曰「殿下自起兵以來、漸已一周、而顓守偏方、王威未震。誠能命將四出、決機一擲、梟劉琨、定河東、建帝號、鼓行而南、剋長安而都之、以關中之眾席卷洛陽、如指掌耳。此高皇帝之所以創啟鴻基、剋殄強楚者也。」元海悦曰「此孤心也。」遂進據河東、攻寇蒲坂・平陽、皆陷之。元海遂入都蒲子、河東・平陽屬縣壘壁盡降。時汲桑起兵趙魏、上郡四部鮮卑陸逐延・氐酋大單2.(于)徵・東萊王彌及石勒等並相次降之、元海悉署其官爵。
永嘉二年、元海僭即皇帝位、大赦境内、改元永鳳。以其大將軍劉和爲大司馬、封梁王、尚書令劉歡樂爲大司徒、封陳留王、御史大夫呼延翼爲大司空、封雁門郡公、宗室以親疏爲等、悉封郡縣王、異姓以勳謀爲差、皆封郡縣公侯。太史令宣于脩之言於元海曰「陛下雖龍興鳳翔、奄受大命、然遺晉未殄、皇居仄陋、紫宮之變、猶鍾晉氏、不出三年、必剋洛陽。蒲子崎嶇、非可久安。平陽勢有紫氣、兼陶唐舊都、願陛下上迎乾象、下協坤祥。」於是遷都平陽。汾水中得玉璽、文曰「有新保之」、蓋王莽時璽也。得者因增「泉海光」三字、元海以爲己瑞、大赦境内、改年河瑞。封子裕爲齊王、隆爲魯王。
於是命其子聰與王彌進寇洛陽、劉曜與趙固等爲之後繼。東海王越遣平北將軍曹武・將軍宋抽・彭默等距之、王師敗績。聰等長驅至宜陽、平昌公模遣將軍淳于定・呂毅等自長安討之、戰于宜陽、定等敗績。聰恃連勝、不設備、弘農太守垣延詐降、夜襲、聰軍大敗而還、元海素服迎師。
是冬、復大發卒、遣聰・彌與劉曜・劉景等率精騎五萬寇洛陽、使呼延翼率步卒繼之、敗王師于河南。聰進屯于西明門、護軍賈胤夜薄之、戰于大夏門、斬聰將呼延顥、其眾遂潰。聰迴軍而南、壁於洛水、尋進屯宣陽門、曜屯上東門、彌屯廣陽門、景攻大夏門、聰親祈嵩嶽、令其將劉厲・呼延朗等督留軍。東海王越命參軍孫詢・將軍丘光・樓裒等率帳下勁卒三千、自宣陽門擊朗、斬之。聰聞而馳還。厲懼聰之罪己也、赴水而死。王彌謂聰曰「今既失利、洛陽猶固、殿下不如還師、徐爲後舉。下官當於兗豫之間收兵積穀、伏聽嚴期。」宣于脩之又言於元海曰「歲在辛未、當得洛陽。今晉氣猶盛、大軍不歸、必敗。」元海馳遣黃門郎傅詢召聰等還師。王彌出自轘轅、越遣薄盛等追擊彌、戰于新汲、彌師敗績。於是攝蒲阪之戍、還於平陽。
以劉歡樂爲太傅、劉聰爲大司徒、劉延年爲大司空、劉洋爲大司馬、赦其境内。立其妻單氏爲皇后、子和爲皇太子、封子乂爲北海王。
元海寢疾、將爲顧託之計、以歡樂爲太宰、洋爲太傅、延年爲太保、聰爲大司馬・大單于、並錄尚書事、置單于臺于平陽西、以其子裕爲大司徒。元海疾篤、召歡樂及洋等入禁中受遺詔輔政。以永嘉四年死。在位六年。偽諡光文皇帝、廟號高祖、墓號永光陵。子和立。

1.『晋書斠注』に従い、「餘」を「踰」に改める。
2.『資治通鑑考異』に従い、「于」を衍字と見なす。

訓読

劉元海は、新興の匈奴の人にして、冒頓の後なり。名、高祖の廟諱を犯したれば、故に其の字を稱す。
初め、漢の高祖、宗女を以て公主と爲し、以て冒頓に妻し、約して兄弟と爲りたれば、故に其の子孫は遂に姓劉氏を冒す。建武の初め、烏珠留若鞮單于の子の右奧鞬日逐王の比、自ら立ちて南單于と爲り、入りて西河の美稷に居る。今の離石の左國城は即ち單于の庭を徙しし所なり。中平中、單于の羌渠(きょうきょ)、子の於扶羅(おふら)をして兵を將いて漢を助け、黃巾を討平せしむ。會々羌渠は國人の殺す所と爲り、於扶羅、其の眾を以て漢に留まり、自ら立ちて單于と爲る。董卓の亂あるに屬(およ)び、太原・河東を寇掠し、河内に屯す。於扶羅の死するや、弟の呼廚泉(こちゅうせん)、立ち、於扶羅の子の豹を以て左賢王と爲す。即ち元海の父なり。魏武、其の眾を分かちて五部と爲し、豹を以て左部帥と爲し、其の餘の部帥も皆な劉氏を以て之と爲す。太康中、改めて都尉を置き、左部は太原の茲氏に居り、右部は祁に居り、南部は蒲子に居り、北部は新興に居り、中部は大陵に居る。劉氏は分かれて五部に居ると雖も、然れども皆な晉陽の汾・澗の濱に家す。
豹の妻の呼延氏、魏の嘉平中に子を龍門に祈るや、俄かにして一大魚有り、頂に二角有り、鬐を軒げ鱗を躍らせて祭所に至り、之を久しくして乃ち去る。巫覡は皆な之を異として曰く「此れ嘉祥なり」と。其の夜、夢みるに、旦に見る所の魚、變じて人と爲り、左手に一物を把り、大なること半雞子の如く、光景は常に非ざるに、呼延氏に授けて曰く「此れ是れ日精にして、之を服せば貴子を生まん」と。寤めて豹に告ぐるや、豹曰く「吉徵なり。吾、昔、邯鄲の張冏(ちょうけい)の母の司徒氏の相に從うに、云く、吾に當に貴子孫有り、三世必ず大いに昌(さか)ゆべし、と。相い符するに仿像す」と。是より十三月にして元海を生み、左手文に其の名有れば、遂に以て焉を名づく。齠齔にして英慧、七歲にして母の憂いに遭い、擗踴して號叫し、哀は旁鄰を感ぜしめ、宗族・部落は咸な共に歎賞す。時に司空の太原の王昶(おうちょう)等、聞きて之を嘉し、並びに弔賻を遣る。幼くして學を好み、上黨の崔游(さいゆう)に師事し、毛詩・京氏易・馬氏尚書を習い、尤も春秋左氏傳・孫吳兵法を好み、略(あらま)し皆な之を誦じ、史・漢・諸子、綜覽せざるは無し。嘗て同門生の朱紀・范隆に謂いて曰く「吾、書傳を觀る毎に、常に隨・陸に武無く、絳・灌に文無きを鄙しむ。道は人に由りて弘まれば、一物の知らざるは、固より君子の恥ずる所なり。二生は高皇に遇せらるるも封侯の業を建つる能わず、兩公は太宗に屬せらるるも庠序の美を開く能わず、惜しいかな」と。是に於いて遂に武事を學び、眾に妙絕たり、猿臂にして射を善くし、膂力は人に過ぐ。姿儀は魁偉にして、身の長きこと八尺四寸、鬚の長きこと三尺餘、心に當たりて赤毫毛三根有り、長きこと三尺六寸。屯留の崔懿之(さいいし)・襄陵の公師彧(こうしいく)等有り、皆な人を相るを善くし、元海を見るに及び、驚きて相い謂いて曰く「此の人の形貌は常に非ず、吾の未だ見ざる所なり」と。是に於いて深く相い崇敬し、分を推して恩を結ぶ。太原の王渾(おうこん)、襟を虛しくして之を友とし、子の濟に命じて焉に拜せしむ。
咸熙中、任子と爲りて洛陽に在るや、文帝、深く之を待す。泰始の後、渾、又た屢々之を武帝に言す。帝、召して與に語り、大いに之を悦び、王濟に謂いて曰く「劉元海の容儀・機鑒、由余・日磾と雖も以て加うる無きなり」と。濟、對えて曰く「元海の儀容・機鑒、實に聖旨の如く、然して其の文武の才榦、二子より賢ること遠し。陛下、若し之に任ずるに東南の事を以てせば、吳會は平ぐるに足らざるなり」と。帝、善しと稱す。孔恂(こうじゅん)・楊珧(ようよう)、進みて曰く「臣、元海の才を觀うに、當今に其の比無きことを懼る。陛下、若し其の眾を輕くせば、以て事を成すに足らず、若し之に威權を假さば、吳を平ぐるの後、恐らくは其れ復た北のかた渡らざらん。我が族類に非ざれば、其の心は必ず異なる。之に任ずるに本部〔一〕を以てするすら、臣は竊かに陛下の爲に心を寒からしむ。若し天阻の固を舉げて以て之を資けば、乃ち不可なる無からんや」と。帝、默然とす。
後に秦涼の覆沒するや、帝、將帥を疇咨するに、上黨の李憙曰く「陛下、誠に能く匈奴五部の眾を發し、元海に一將軍の號を假し、鼓行して西せしめば、期を指して定むべし」と。孔恂曰く「李公の言、未だ殄患の理を盡くさざるなり」と。憙、勃然として曰く「匈奴の勁悍、元海の曉兵を以て、聖威を奉宣せば、何ぞ盡さざること之れ有らんや」と。恂曰く「元海、若し能く涼州を平らげ、樹機能を斬らば、恐らくは涼州は方に難有らんのみ。蛟龍、雲雨を得ば、復た池中の物には非ざるなり」と。帝、乃ち止む。後に王彌(おうび)の洛陽より東歸するや、元海、彌を九曲の濱に餞し、泣きて彌に謂いて曰く「王渾・李憙、郷曲なるを以て見(われ)を知り、毎に相い稱達するも、讒間之に因りて進み、深く吾が願いに非ず、適に害せらるるに足らん。吾の本より宦情無きは、惟だ足下のみ之を明らかにす。恐らくは洛陽に死すれば、永く子と別れん」と。因りて慷慨して歔欷し、酒を縱にして長嘯し、聲調は亮然たれば、坐する者は之が爲に流涕す。齊王攸、時に九曲に在り、聞くに比びて馳遣して之を視しめ、元海の焉に在るを見るや、帝に言いて曰く「陛下、劉元海を除かずんば、臣、并州の久寧を得ざらんことを恐る」と。王渾、進みて曰く「元海の長者たること、渾、君王の爲に之を保明す。且つ大晉、方に信を殊俗に表し、遠きを懷くに德を以てせんとするに、之を如何ぞ無萌の疑を以て人の侍子を殺し、以て晉德の弘からざることを示さんや」と。帝曰く「渾の言、是なり」と。
會々豹は卒したれば、元海を以て代えて左部帥と爲す。太康の末、北部都尉に拜せらる。刑法を明らかにし、姦邪を禁ぎ、財を輕んじ施しを好み、誠を推して物に接し、五部の俊傑、至らざる者無し。幽冀の名儒、後門の秀士、千里を遠しとせず、亦た皆な焉と遊ぶ。楊駿の輔政するや、元海を以て建威將軍・五部大都督と爲し、漢光郷侯に封ず。元康の末、部人の叛して塞を出ずるに坐し官を免ぜらる。成都王穎の鄴に鎮するや、元海を表して寧朔將軍を行し、五部の軍事を監せしむ。
惠帝の馭を失い、寇盜の蜂起するや、元海の從祖の故の北部都尉・左賢王の劉宣等、竊かに議して曰く「昔、我が先人は漢と約して兄弟と爲り、憂泰之を同にす。漢の亡びてより以來、魏晉代わるがわるに興り、我が單于は虛號有りと雖も、復た尺土の業無く、諸王侯と自(いえど)も、降りて編戸に同じ。今、司馬氏は骨肉相い殘(そこな)い、四海は鼎沸したれば、邦を興し業を復すは、此れ其の時なり。左賢王の元海、姿器は人に絕し、榦宇は世を超え、天若し單于を恢崇せずんば、終に虛しく此の人を生まざるなり」と。是に於いて密かに共に元海を推して大單于と爲さんとす。乃ち其の黨の呼延攸をして鄴に詣らしめ、謀を以て之に告ぐ。元海、歸りて會葬せんことを請うも、穎、許さず。乃ち攸をして先に歸らしめ、宣等に告げて五部を招集せしめ、引きて宜陽の諸胡を會し、穎に應ぜんと聲言するも、實は之に背けるなり。
穎の皇太弟と爲るや、元海を以て太弟屯騎校尉と爲す。惠帝の穎を伐たんとし、蕩陰に次るや、穎は元海に輔國將軍・督北城守事を假す。六軍の敗績するに及び、穎、元海を以て冠軍將軍と爲し、盧奴伯に封ず。并州剌史の東嬴公騰・安北將軍の王浚、起兵して穎を伐たんとするや、元海、穎に説きて曰く「今、二鎮は跋扈し、眾は十萬を踰え、恐らくは宿衞及び近都の士庶の能く之を禦ぐ所に非ざれば、請うらくは殿下の爲に還りて五部に説き、以て國難に赴かしめんことを」と。穎曰く「五部の眾、發するに保すべきのみや不(いな)や。縱い能く之を發すとも、鮮卑・烏丸、勁速なること風雲の如くなれば、何ぞ當つべきに易からんや。吾、乘輿を奉じて洛陽に還り、其の鋒鋭を避け、徐ろに檄を天下に傳え、逆順を以て之を制さんと欲す。君の意は何如」と。元海曰く「殿下は武皇帝の子にして、殊勳を王室に有し、威恩は光洽として、四海は風を欽しみ、孰れか殿下の爲に命を沒し軀を投ぜんと思わざらんや。何ぞ發し難きこと之れ有らんや。王浚の豎子、東嬴の疏屬、豈に能く殿下と衡を爭わんや。殿下の一たび鄴宮を發し、弱きを人に示さば、洛陽も復た至るべけんや。縱い洛陽に達すとも、威權は復た殿下に在らざるなり。紙檄尺書、誰(いず)か人の爲に之を奉ぜんや。且つ東胡の悍は五部を踰えざれば、願はくは殿下、士眾を勉撫し、靖んじて以て之を鎮せられんことを。當に殿下の爲に二部を以て東嬴を摧き、三部もて王浚を梟し、二豎の首、日を指して懸くべし」と。穎、悦び、元海を拜して北單于・參丞相軍事と爲す。
元海、左國城に至るや、劉宣等、大單于の號を上り、二旬の間、眾は已に五萬、離石に都す。
王浚、將軍の祁弘(きこう)をして鮮卑を率いて鄴を攻めしむるや、穎は敗れ、天子を挾みて南のかた洛陽に奔る。元海曰く「穎は吾が言を用いず、逆いて自ら奔潰す。真に奴才なり。然れども吾、其と言有れば、救わざるべからず」と。是に於いて右於陸王の劉景・左獨鹿王の劉延年等に命じて步騎二萬を率いしめ、將に鮮卑を討たんとす。劉宣等、固く諫めて曰く「晉は無道たり、奴隸のごと我を御したれば、是こを以て右賢王猛は其の忿に勝えず〔二〕。屬々晉綱は未だ弛まざれば、大事遂げず、右賢の地に塗れしは、單于の恥なり。今、司馬氏の父子兄弟の自ら相い魚肉たるは、此れ天の晉德を厭て、之を我に授けんとするなり。單于は積德躬に在り、晉人の服す所と爲り、方に當に我が邦族を興し、呼韓邪の業を復すべくして、鮮卑・烏丸は以て援と爲すべきに、奈何ぞ之を距ぎて仇敵を拯わんや。今、天は手を我に假りんとすれば、違うべからざるなり。天に違けば祥ならず、眾に逆けば濟げず。天與うるに取らざれば、反って其の咎を受く。願わくは單于、疑うこと勿かれ」と。元海曰く「善し。當に崇岡峻阜を爲らんとするに、何ぞ能く培塿を爲らんや。夫れ帝王は豈に常有らんや。大禹は西戎より出で、文王は東夷に生まれたれば、顧(すなわ)ち惟だ德の授く所なるのみ。今、眾十餘萬を見るに、皆な一にして晉の十に當たれば、鼓行して亂晉を摧くは、猶お枯を拉くがごときのみ。上は漢高の業を成すべく、下は魏氏と爲るに失せざらん。然りと雖も、晉人、未だ必ずしも我に同ぜず。漢は天下を有つに世長く、恩德は人心に結ばれ、是こを以て昭烈は一州の地に崎嶇し、而して能く天下に抗衡す。吾も又た漢氏の甥にして、約して兄弟と爲れば、兄亡びて弟紹ぐは、亦た可ならずや。且く漢と稱し、後主を追尊し、以て人望を懷くべし」と。乃ち左國城に遷り、遠人の歸附する者は數萬。
永興元年、元海、乃ち壇を南郊に爲り、僭して漢王の位に即き、令を下して曰く「昔、我が太祖高皇帝は神武を以て期に應じ、大業を廓開す。太宗孝文皇帝は重ぬるに明德を以てし、漢道を升平す。世宗孝武皇帝は土を拓き夷を攘い、地は唐日を過ぐ。中宗孝宣皇帝は俊乂を搜揚し、士多く朝に盈つ。是れ我が祖宗の道は三王〔三〕に邁(す)ぎ、功は五帝より高く、故に卜年は夏商より倍し、卜世は姬氏に過ぐ。而るに元成は僻多く、哀平は祚短く、賊臣王莽、天に滔り篡逆す。我が世祖光武皇帝は誕資聖武にして、鴻基を恢復し、漢を祀りて天に配し、舊物を失わず、三光をして晦けれども復た明らかならしめ、神器をして幽けれども復た顯らかならしむ。顯宗孝明皇帝・肅宗孝章皇帝は累葉暉を重ね、炎光は再び闡たり。和安より已後、皇綱は漸く頹れ、天步は艱難にして、國統は頻りに絕ゆ〔四〕。黃巾は九州に海沸し、羣閹は四海に毒流し、董卓は之に因りて其の猖勃を肆にし、曹操の父子は凶逆相い尋ぐ。故に孝愍は萬國を委棄し、昭烈は岷蜀に播越し、否の終わりて泰有り、軫を舊京に旋らさんことを冀う。何ぞ圖らんや、天、未だ禍を悔いず、後帝、窘辱せられんとは。社稷の淪喪してより、宗廟の血食せざること茲に四十年なり。今、天は其の衷を誘い、禍を皇漢に悔い、司馬氏の父子兄弟をして迭いに相い殘滅せしめ。黎庶は塗炭にして、控告する所靡し。孤は今、猥りに羣公の推す所と爲り、紹ぎて三祖の業を修む。茲の尫闇なるを顧みるに、戰惶して厝く靡し。但だ大恥の未だ雪がれず、社稷に主無きを以て、膽を銜み冰に栖み、勉めて羣議に從わん」と。乃ち其の境内に赦し、年、元熙と號し、劉禪を追尊して孝懷皇帝と爲し、漢の高祖以下三祖・五宗の神主を立てて之を祭る。其の妻の呼延氏を立てて王后と爲す。百官を置き、劉宣を以て丞相と爲し、崔游もて御史大夫と爲し、劉宏もて太尉と爲し、其の餘、拜授すること各々差有り。
東嬴公騰、將軍の聶玄(じょうげん)をして之を討たしめ、大陵に戰い、玄の師は敗績したれば、騰、懼れ、并州の二萬餘戸を率いて山東に下り、遂に所在に寇を爲す。元海、其の建武將軍の劉曜を遣わして太原・泫氏・屯留・長子・中都に寇し、皆な之を陷す。二年、騰、又た司馬瑜(しばゆ)・周良・石鮮等を遣わして之を討たしめ、離石の汾城に次す。元海、其の武牙將軍〔五〕の劉欽等六軍を遣わして瑜等を距がしめ、四たび戰い、瑜、皆な敗れたれば、欽は振旅して歸る。是の歲、離石は大いに饑えたれば、黎亭に遷り、以て邸閣の穀に就き、其の太尉の劉宏・護軍〔六〕の馬景を留めて離石を守らしめ、大司農の卜豫をして糧を運びて以て之に給せしむ。其の前將軍の劉景を以て使持節・征討大都督・大將軍と爲し、并州刺史の劉琨を版橋に要擊せしむるも、琨の敗る所と爲り、琨、遂に晉陽に據る。其の侍中の劉殷・王育、進みて元海を諫めて曰く「殿下、起兵してより以來、漸く已に一周ならんとするも、而れども顓ら偏方を守るのみにして、王威は未だ震わず。誠に能く將に命じて四出せしめ、機を決めて一擲し、劉琨を梟し、河東を定め、帝號を建て、鼓行して南し、長安に剋ちて之に都せば、關中の眾を以て洛陽を席卷するは、掌を指すが如きのみ。此れ高皇帝の鴻基を創啟し、強楚を剋殄せし所以の者なり」と。元海、悦びて曰く「此れ孤の心なり」と。遂に進みて河東に據り、攻めて蒲坂・平陽に寇し、皆な之を陷す。元海、遂に入りて蒲子に都し、河東・平陽の屬縣の壘壁は盡く降る。時に汲桑は兵を趙魏に起こし、上郡四部鮮卑の陸逐延・氐の酋大の單徵・東萊の王彌及び石勒等、並びに相い次ぎて之に降り、元海、悉く其の官爵を署す。
永嘉二年、元海、僭して皇帝位に即き、境内に大赦し、永鳳と改元す。其の大將軍の劉和を以て大司馬と爲し、梁王に封じ、尚書令の劉歡樂もて大司徒と爲し、陳留王に封じ、御史大夫の呼延翼もて大司空と爲し、雁門郡公に封じ、宗室は親疏を以て等を爲し、悉く郡縣王に封じ、異姓は勳謀を以て差を爲し、皆な郡縣公侯に封ず。太史令の宣于脩之〔七〕、元海に言いて曰く「陛下は龍興鳳翔し、奄にして大命を受くと雖も、然れども遺晉未だ殄きず、皇居は仄陋にして、紫宮の變、猶お晉氏に鍾まるも、三年を出でずして、必ず洛陽に剋たん。蒲子は崎嶇にして、久しく安んずべきに非ず。平陽は勢い紫氣を有し、兼ねて陶唐の舊都なれば、願わくは陛下、上は乾象を迎え、下は坤祥に協われんことを」と。是に於いて都を平陽に遷す。汾水中に玉璽を得、文に「有新之を保つ」と曰いたれば、蓋し王莽の時の璽なり。得し者因りて「泉海光」〔八〕の三字を增したれば、元海、以て己が瑞と爲し、境内に大赦し、河瑞と改年す。子の裕を封じて齊王と爲し、隆もて魯王と爲す。
是に於いて其の子の聰に命じて王彌と與に進みて洛陽に寇せしめ、劉曜をして趙固等と與に之の後繼と爲さしむ。東海王越、平北將軍の曹武・將軍の宋抽(そうちゅう)・彭默(ほうもく)等を遣わして之を距がしむるも、王師は敗績す。聰等、長驅して宜陽に至るや、平昌公模、將軍の淳于定(じゅんうてい)・呂毅(りょき)等を遣わして長安より之を討たしめ、宜陽に戰うも、定等、敗績す。聰、連勝せしを恃み、備えを設けざれば、弘農太守の垣延、詐りて降り、夜に襲い、聰の軍は大いに敗れて還り、元海、素服して師を迎う。
是の冬、復た大いに卒を發し、聰・彌を遣わして劉曜・劉景等と與に精騎五萬を率いて洛陽に寇せしめ、呼延翼をして步卒を率いて之に繼がしめ、王師を河南に敗る。聰、進みて西明門に屯するや、護軍〔六〕の賈胤(かいん)、夜に之に薄(せま)り、大夏門に戰い、聰の將の呼延顥(こえんこう)を斬り、其の眾、遂に潰ゆ。聰、軍を迴して南し、洛水に壁し、尋いで進みて宣陽門に屯し、曜は上東門に屯し、彌は廣陽門に屯し、景は大夏門を攻め、聰は親ら嵩嶽に祈り、其の將の劉厲(りゅうれい)・呼延朗等をして留軍を督せしむ。東海王越、參軍の孫詢(そんじゅん)・將軍の丘光・樓裒(ろうほう)等に命じて帳下の勁卒三千を率いしめ、宣陽門より朗を擊ち、之を斬る。聰、聞きて馳せて還る。厲、聰の己を罪せんことを懼れ、水に赴きて死す。王彌、聰に謂いて曰く「今、既に利を失い、洛陽は猶お固ければ、殿下、師を還し、徐ろに後舉を爲すに如かず。下官は當に兗豫の間に於いて兵を收め穀を積み、伏して期を嚴うるを聽くべし」と。宣于脩之、又た元海に言いて曰く「歲、辛未に在りて、當に洛陽を得べし。今、晉氣は猶お盛んなれば、大軍歸らずんば、必ず敗れん」と。元海、馳せて黃門郎の傅詢(ふじゅん)を遣わして聰等を召して師を還さしむ。王彌、出ずるに轘轅よりするや、越は薄盛等を遣わして追いて彌を擊たしめ、新汲に戰い、彌の師は敗績す。是に於いて蒲阪の戍を攝め、平陽に還る。
劉歡樂を以て太傅と爲し、劉聰もて大司徒と爲し、劉延年もて大司空と爲し、劉洋もて大司馬と爲し、其の境内に赦す。其の妻の單氏を立てて皇后と爲し、子の和もて皇太子と爲し、子の乂を封じて北海王と爲す。
元海、疾に寢ね、將に顧託の計を爲さんとするに、歡樂を以て太宰と爲し、洋もて太傅と爲し、延年もて太保と爲し、聰もて大司馬・大單于と爲し、並びに尚書の事を錄せしめ、單于臺を平陽の西に置き、其の子の裕を以て大司徒と爲す。元海、疾の篤くなるや、歡樂及び洋等を召して禁中に入り遺詔を受けて輔政せしむ。永嘉四年を以て死す。位に在ること六年。光文皇帝と偽諡し〔九〕、廟は高祖と號し、墓は永光陵と號す。子の和、立つ。

〔一〕文脈上、この「本部」は呉郡や会稽郡を含む揚州のことを指すようにも見えるが、通常「本部」とは、自分の出身の州や、刺史である人物にとっては自分の管轄している州を指す言葉であり、劉淵の場合は、その出身である匈奴五部を指すものと思われる。今回はそのように仮に訳したが、ただ、「本部」が揚州を指す可能性があることも捨てきれない。
〔二〕晋の武帝の泰始七年(271)に、匈奴中部帥・劉猛が他部も引き込んで起こした反乱のことを指す。
〔三〕「三王」と言えば、普通は夏・殷・周の三代の王たちのことを指す。ただ、ここでは文脈上、三皇・五帝・三代を順番に述べているとも考えられ、「三王」は「三皇」の誤り、もしくは「三王」で三皇のことを指す可能性も考えられる。
〔四〕先帝に子が無く、安帝・質帝・桓帝・霊帝がそれぞれ外藩の身から皇帝として迎えられたことを指す。
〔五〕「武牙将軍」とあるが、おそらくは「虎牙将軍」が本来の名称で、唐代に李虎の諱を避けて「武」とされているのであると思われる。
〔六〕一般的に、たとえば「中堅将軍」を「中堅」と称するなど、「将軍」を省いて記すことが史書ではよくあり、この「護軍」も「護軍将軍」を指している可能性がある。ただ、「護軍」に関しては、「中護軍」を「護軍」と省略する場合もあり、また単に「護軍」という名の官職もあるので、今回の「護軍」がどれに相当するのかは判然としない。
〔七〕『晋書斠注』でも指摘されている通り、『資治通鑑考異』によれば、『晋春秋』には「宣于脩之」ではなく「鮮于脩之」とされているという。
〔八〕『魏書』巻九十五・匈奴劉聡伝によれば、「泉海光」ではなく「淵海光」とされている。唐代に編纂された『晋書』では、唐の高祖・李淵の諱を避けて「淵」を「泉」と表記しているのである。なお、『晋書』の編纂者は「有新保之」を、「有新之を保つ」(新王朝がこれを保有する)と読み、王莽の玉璽であると判断したが、この玉璽を発見した者はそれに「淵海光」の三字を足し、「有新保之淵海光」すなわち「有た新たに之を保つものは淵海光なり」(ふたたび新たにこれを保有する者は「淵海光」である)もしくは「新たに之を保つもの有らば、淵海、光いならん」(新たにこれを保有する者が現れたら、淵海が大いなる存在となろう)などとも読めるようにしたのである。これらは、いずれにせよ天子となるべき者は、「淵」を名とし、「海」を字とする劉淵であることを示すものである。
〔九〕晋を正統とする『晋書』にとっては、晋朝皇帝以外は皇帝ではないので、五胡十六国の諸王朝に関係することには、このように「偽」の字が付される。

現代語訳

劉元海は、新興県の匈奴の人であり、冒頓単于の末裔である。その名は、高祖(唐の李淵)の諱を犯しているので、故にその字(あざな)で記載する。
初め、漢の高祖(劉邦)は、一族の娘を公主と偽って冒頓単于に嫁がせ、兄弟の契りを結んだので、故にその子孫はそれによって劉氏の姓を名乗った。(後漢の光武帝の)建武年間の初頭、烏珠留若鞮單于の子であった右奧鞬日逐王の比は、自ら南単于(南匈奴の単于)に即位し、長城の南に移って西河郡の美稷に居住した。今(『晋書』が編纂された唐代)の離石県の左国城は、単于が後に宮庭を移した場所である。(後漢の霊帝の)中平年間、単于の羌渠(きょうきょ)は、子の於扶羅(おふら)に命じて兵を率いて漢を助けて黄巾賊を討伐しに行かせた。しかし、ちょうど羌渠は匈奴の国人によって殺されてしまい、於扶羅は、率いている兵衆たちと一緒に漢の領内に留まり、自ら単于に即位した。董卓の乱が起こると、於扶羅は太原郡・河東郡を侵略し、河内郡に駐屯した。於扶羅が死ぬと、弟の呼厨泉(こちゅうせん)が単于に即位し、於扶羅の子の劉豹を左賢王に任じた。この劉豹こそが劉元海の父である。魏の武帝(曹操)は、呼厨泉配下の部衆を五部に分割し、劉豹を左部帥に任じ、その他の部帥もみな劉氏の人物をその地位に任じた。(西晋の武帝の)太康年間、改めて都尉を置き、左部は太原国の茲氏県を居住地とし、右部は祁県を居住地とし、南部は蒲子県を居住地とし、北部は新興県を居住地とし、中部は大陵県を居住地とした。劉氏は五部に分散して居住していたが、しかしみな晋陽周辺の汾水・澗水流域に居住していたのである。
劉豹の妻の呼延氏は、魏の(斉王・曹芳の)嘉平年間に、龍門の地で子宝祈願の祈祷を行ったところ、突然、一匹の大きな魚が現れ、その頭頂には二本の角があり、せびれを振り上げ鱗を躍らせながら祭場にやってきて、しばらくしてからやっと立ち去った。祈祷師たちはこれを並みならぬことだと思って言った。「これは吉祥です」と。その夜、呼延氏は夢を見た。その夢では、朝に見た魚が現れて人に変身し、左手に何かを握っており、それは卵半分くらいの大きさで、光り輝く様は並みならぬものであり、その者はそれを呼延氏に授けて言った。「これは太陽の精であり、これを飲めば貴子を生むことができよう」と。夢から覚めて劉豹にそのことを告げると、劉豹は言った。「吉兆である。私は昔、邯鄲の張冏(ちょうけい)の母の司徒氏に人相を見てもらったところ、私には尊貴の地位に昇る子孫が生まれ、三代にわたって必ず大いに栄えるだろう、と言われた。どうやらこのことと合致するようである」と。その後、十三ヶ月後に劉元海が生まれ、左手の手紋がその名前(淵)の文字になっていたので、そこで「淵」と名付けた。劉元海は子どもの頃から英明・聡慧で、七歳で母を失い、胸を叩き地団駄を踏んで泣き叫び、その哀しみの様子は近隣の人々の心をうち、宗族や部落の者はみな揃ってそのことを賞賛した。時に太原の人である司空の王昶(おうちょう)らが、そのことを聞いて賛美し、みな弔賻(葬儀を助けるための金品)を贈って弔意を示した。劉元海は幼い頃から学問を好み、上党の人である崔游(さいゆう)に師事し、『詩(詩経)』の毛氏学、『易(易経)』の京氏学、『尚書(書経)』の馬氏学を習得し、とりわけ『春秋左氏伝』や『孫子』『呉子』の兵法を好み、ほとんどみな暗唱することができ、『史記』『漢書』や諸子百家の書物に至るまで、すべて総覧した。かつて同門生である朱紀・范隆に向かって言った。「私は典籍を読むごとに、いつも(漢初の人である)隨何(ずいか)・陸賈(りくか)には武の才が無く、周勃・灌嬰(かんえい)には文の才が無かったのを残念に思う。(孔子も述べるように)道というのは人の才能によって高大なものにされていくのであって、文武のいずれか片方を知らないというのは、当然、君子の恥とすることである。隨何・陸賈の二生は、高帝(劉邦)の知遇を得たが、列侯に封ぜられる功績を立てることができず、周勃・灌嬰の両公は、太宗(文帝)に宰相として政治を委任されたが、学問を興す美業を立ち上げることができず、惜しいことであるよ」と。そこで劉元海は武事を学び、人々より抜きんでた才能を発揮し、猿のように腕が長いために射術を得意とし、膂力は人よりも優れていた。容貌は魁偉であり、身長は八尺四寸(約2m)、鬚の長さは三尺余り(約70㎝)、その中心部分には赤みがかった三本の細長い毛があり、三尺六寸(約90㎝)の長さであった。屯留の人である崔懿之(さいいし)、襄陵の人である公師彧(こうしいく)らは、いずれも人相見を得意としていたが、劉元海を見るや、驚いてお互いに「この人の容貌は尋常なものではなく、私もかつて見たことがないほどである」と言い合った。そこで彼らは劉元海を尊び敬い、自らの分をわきまえて(主従関係を結んで)劉元海の恩徳を受けた。太原の人である王渾(おうこん)は、心を空にして劉元海と素直に交友を結び、子の王済に命じて劉元海に拝礼を行わせた。
(魏の元帝・曹奐の)咸熙年間、劉元海は任子となって洛陽に行き、文帝(司馬昭)は彼を非常にもてなした。(西晋の武帝の)泰始年間以降、王渾はまた何度も劉元海について武帝に語った。武帝は劉元海を召して一緒に語り、非常に喜び、王済に言った。「劉元海の容貌や振る舞い・見識は、由余(春秋時代の秦の穆公に仕えた西戎出身の賢人)・金日磾(前漢の武帝に重用された匈奴出身の大臣)でさえもこれに勝るものではない」と。王済は答えて言った。「劉元海の容貌や振る舞い・見識については、実に聖旨の通りでございまして、その文武の才幹はその二人よりもはるかに優れています。陛下がもし東南の事を劉元海に任せれば、呉郡や会稽郡の地(すなわち孫呉)は容易に平定できましょう」と。武帝はその通りだと述べた。しかし、そこで孔恂(こうじゅん)・楊珧(ようよう)が進み出て言った。「私の目から劉元海の才能を観察しますと、現在の世においてこれに匹敵する者がいないことを恐れます。(東南の事を委ねるに当たり)陛下がもし劉元海に授ける兵を少なくすれば、事を成すには十分ではなく、かといって、もし大きな威勢と権力を与えれば、呉を平定した後、おそらく劉元海は(独立して)二度と長江を渡って北に帰って来ることはないでしょう。『我らと同じ種族でなければ、その心は必ず異なる』と言います。劉元海に匈奴五部を委任するのですら、私としましては、陛下のためを思うとぞっとすることでございます。ましてや、もし(長江以南の)天然の要害の地を丸々与えて援助してしまえば、良くない結果とならないはずがありましょうか」と。武帝は押し黙った。
後に(樹機能の乱により)秦州・涼州が大混乱に陥ったとき、それを討伐する将帥として誰がふさわしいかを武帝が諮問したところ、上党の人である李憙は言った。「陛下が実に匈奴五部の民衆を徴発し、劉元海に将軍号を一つ授け、軍鼓を打って進軍して西に向かわせさえすれば、まもなく平定することができましょう」と。孔恂は言った。「李公の言葉は、禍を完全に除く道理を講じきっているとは言えません」と。李憙はむっとして言った。「匈奴の剛健さと、用兵に通暁している劉元海の才略により、聖上の威厳を奉じて宣布すれば、どうして完全でないということがあろうか」と。孔恂は言った。「劉元海がもし涼州を平らげ、樹機能を斬ることができたら、おそらくは本当の危難が涼州に訪れることになるでしょう。蛟龍が天に昇って雲や雨の中に達することができたならば、もう二度と池の中のものとはならないでしょう」と。武帝はそこで劉元海を起用するのをやめた。後に王弥が洛陽から東の故郷に帰ることになると、劉元海は王弥を九曲の浜辺で送別し、王弥に対して泣いて言った。「王渾や李憙は、同郷であるということで私のことを知り、いつも私を推挙してくださるが、それによって却って私を陛下から遠ざけようとする讒言がますます激しくなり、実に私の望みとは異なる結果を生じ、誅殺されるのに十分なほどその気運が高まっている。私にもともと仕官の意志が無いことを理解してくれているのはあなただけだ。おそらく私はこのまま洛陽で死ぬことになろうから、あなたとはこれで永遠にお別れだ」と。そこで気持ちが昂ってむせび泣き、酒を思う存分に飲み、声を長くひいて詠い、その声の調子があまりに明瞭であったので、座にいる者は劉元海のために涙を流した。斉王の司馬攸は、時に九曲におり、それを聞くと早馬を飛ばして視察させ、劉元海がそこにいるということが分かると、武帝に言った。「陛下が劉元海を除かなければ、私が思いますに、おそらく并州は長い安寧を得られないでしょう」と。すると王渾が進み出て言った。「劉元海が長者であることは、私が陛下のためにこれを保証いたします。しかも我が大晋は、今まさに習俗の異なる四夷に信義を示し、徳により遠人を懐けようとしているところでありますのに、どうして根拠のない嫌疑をかけて他人の侍子(属国から派遣されて皇帝のそばに侍る半分人質のような存在)を殺し、晋の徳が広大でないことを示そうとなさるのでしょうか」と。武帝は言った。「王渾の言葉は尤もである」と。
ちょうど劉豹が死去したので、劉元海を代わりに左部帥に任じた。(武帝の)太康年間の末、劉元海は北部都尉に任じられた。劉元海は刑法を明らかにし、邪悪な者を取り締まり、財産を惜しまず施しを好み、誠心を以て人々と交流し、五部の俊傑はみな劉元海のもとにやってきた。幽州・冀州の名儒や、寒門ではあるが才徳に秀でた士人も、千里の道のりをも遠いとは思わず、みな劉元海と交流しに来た。楊駿が輔政の任を担うようになると、劉元海を「建威将軍・五部大都督」に任じ、漢光郷侯に封じた。(恵帝の)元康年間の末、匈奴五部に所属する人が反乱を起こして長城を出て北に逃れたというかどで官を罷免された。成都王・司馬穎が鄴を鎮守することになると、司馬穎は上表して劉元海に寧朔将軍を代行させ、匈奴五部の軍事を監督させた。
恵帝が天下に対する統制力を失い、盗賊たちが各地で蜂起するようになると、劉元海の従祖父で、もと北部都尉・左賢王であった劉宣らは、こっそりと議して言った。「昔、我が先祖たちは漢と兄弟の契りを結び、憂きも安きも共に分かち合った。漢の滅亡以降、魏や晋が代わるがわるに興り、我が単于は名ばかりの称号はあっても、もはやわずかな土地さえも保有することなく、諸王侯であっても、落ちぶれて編戸(戸籍に編入された一般人)と変わらないという有様である。今、司馬氏は骨肉同士で殺し合い、天下は大混乱に陥っているので、国を復興し土地や財産を取り戻すべきときは、まさに今この時である。左賢王の劉元海は、資質や器量は他人よりもずば抜け、才幹や風格も世に飛びぬけており、天がもし単于の威光を高く大いなるものにしようとしているのでなければ、この人を無駄に生み出すようなことはしなかったであろう」と。そこで、皆でこっそり劉元海を大単于に推戴しようとした。そして仲間である呼延攸を鄴に派遣し、その謀を劉元海に告げた。劉元海は、葬儀に参加するという名目で故郷に帰ることを請うたが、司馬穎は許さなかった。そこで劉元海は呼延攸を先に帰らせ、劉宣らに告げて五部の人々を招集させ、さらに宜陽県の諸々の胡族を招集し、司馬穎に呼応しようと口では言っていたが、内実では司馬頴に背いていたのであった。
司馬穎が皇太弟となると、劉元海を太弟屯騎校尉に任じた。恵帝が司馬穎を討伐しに出て蕩陰に駐屯すると、司馬穎は劉元海に「輔国将軍・督北城守事」の官職を授けた。恵帝の六軍が司馬穎軍に敗北すると、司馬穎は劉元海を冠軍将軍に任じ、盧奴伯(盧奴県を封地とする伯爵)に封じた。并州剌史の東嬴公・司馬騰と安北将軍の王浚が起兵して司馬穎を討伐しようとすると、劉元海は司馬穎に説いて言った。「今、二鎮(司馬騰と王浚)は跋扈し、その兵衆は十万を超え、おそらくは宿衛と都付近の士人・庶民をかき集めてもこれを防ぐことはできませんので、どうか殿下のために、帰郷して五部の人々を国難に馳せ参じるよう説得しに行かせてください」と。司馬穎は言った。「五部の人々を徴発できる保証はあるのか。それにたとえ徴発できたとしても、(王浚が率いている)鮮卑・烏丸は、力強く素早いことまるで風雲のようであるので、どうしてそれに対抗できようか。私は陛下を奉じて洛陽に帰還し、その鋭い矛先を避け、ゆるりと檄文を天下に飛ばし、反逆の立場と順当の立場を明確にし、それによって奴らを制そうと思う。君の意見はどうだ」と。劉元海は言った。「殿下は武皇帝の子であり、格別な勲功を王室に対して立て、威厳や恩徳はあまねく広まり、天下はその教化を敬慕し、誰もが殿下のために身命を投げうとうと思っております。どうして徴発が難しいなどということがありましょうか。王浚のような小僧や東嬴公のような遠戚が、どうして殿下と力量を争うことができましょうか。しかし、殿下がもし鄴宮を捨て、弱みを人に見せてしまえば、洛陽にすら到達することはできないでしょう。たとえ洛陽に到達することができても、威権はもはや殿下にのもとにはなくなってしまいます。そうなってしまえば、紙きれ同然の檄文ごときを、他人のために奉ずる者は誰もおりません。しかも東胡(鮮卑や烏丸)の精悍さは五部(匈奴)に勝るものではありませんので、殿下よどうか、兵衆を激励・慰撫し、静かに鄴を鎮守し続けられますようお願い申し上げます。そうすれば、私は殿下のために二部の力で東嬴公を粉砕し、三部の力で王浚をさらし首にし、奴ら二人の首をすぐに市中に懸けることができましょう」と。司馬穎は喜び、劉元海を「北単于・参丞相軍事」に任じた。
劉元海が左国城に到着すると、劉宣らは劉元海に大単于の号をたてまつり、その後、二十日の間で兵衆は五万人にまで膨れ上がり、離石に都を置いた。
王浚が将軍の祁弘(きこう)に命じて鮮卑を率いて鄴を攻撃させると、司馬穎は敗れ、天子を無理やり連れて南下して洛陽に逃れた。劉元海は言った。「司馬穎は私の意見を用いず、却って自滅の道を選んだ。実に馬鹿なヤツよ。しかし、ヤツと約束したからには、救わないわけにもいかない」と。そこで右於陸王の劉景・左獨鹿王の劉延年らに命じて歩兵・騎兵合わせて二万を率いさせ、鮮卑を討とうとした。すると、劉宣らが固く諫めて言った。「晋は無道であり、奴隷のように我らを支配下に置いたので、そのため右賢王の劉猛は、その怒りにたえられませんでした。そのときはまだ晋の綱紀は緩んでいなかったので、大事は遂げられず、右賢王は地に塗れて死ぬことになってしまいましたが、これは単于(劉元海)にとっての恥でございます。今、司馬氏の父子・兄弟が魚肉のように刻まれて分裂しているのは、これは天が晋の徳を見限り、代わってその天下を我々に授けようとしているのです。単于は徳を積んで身に宿し、晋人(漢族)にも帰服され、今はまさしく我ら匈奴族の国を復興して呼韓邪単于の大業を回復すべきときであり、鮮卑や烏桓はその助けとなすべきでありますのに、どうしてこれを防ぎ戦って仇敵を救おうとなさるのですか。今、天は我らの力を借りようとしているのですから、それに違うべきではありません。天に逆らうのは不祥であり、人々の意に背けば事を成し遂げられません。『天がその機会を与えているのにも拘わらずそれを受け入れなければ、却って天の咎を受けることになる』と言います。単于よ、どうか疑ってはなりません」と。劉元海は言った。「その通りである。高く険しい丘を築こうとしているときに、どうして小さな丘を築いていられようか(大きな節義の前では、小さな節義は捨てるべきであろう)。そもそも帝王はどうして同じ場所から生まれるものであろうか。大禹(夏の禹王)は西戎出身であり、(周の)文王は東夷の地で生まれのだから、つまり彼らはその徳によって帝王の位を授けられているに過ぎない。今、十数万の我が兵衆を見れば、みな一人で晋の十人の兵に対抗できる力があるので、軍鼓を打って行軍し、混乱に陥った晋を打ち砕くのは、まさに朽ち木をへし折るように容易なことである。上手くいけば漢の高帝のような功業を成すことができるであろうし、下手しても曹魏のような立場にはなることができよう。しかし、そうはいっても、晋人(漢族)はまだ必ずしも私に賛同しているわけではない。漢は非常に長い世代にわたって天下を保有し、その恩徳は人々の心に浸透し、そのため昭烈帝(劉備)は益州という一州で辛酸をなめながらも、天下を争って他国に対抗することができた。私もまた漢氏の甥であり、漢と匈奴が兄弟の契りを結んだ以上、兄が死んで弟が跡を継ぐというのは、ふさわしきことではないか。ひとまず国号を漢と称し、後主(劉禅)を追尊し、それによって民心をつかむべきである」と。そこで左国城に遷都し、帰順した遠人(まつろわぬもの)は数万人に上った。
永興元年(304)、劉元海は南郊に壇を設け、僭越にも漢王に即位し、令を下して言った。「昔、我が太祖高皇帝(高帝・劉邦)は神のごとき武によって機運に応じ、大業を切り開かれた。太宗孝文皇帝(文帝)は明徳によりその事業を継ぎ、漢の道を高く泰平なものとされた。世宗孝武皇帝(武帝)は領土を拡大して四夷を追い払い、その領域の広さは尭の時代よりも勝ることになった。中宗孝宣皇帝(宣帝)は才徳に優れた人物を探し求めて抜擢し、士大夫が多く朝廷に満ちていた。つまり我が祖先たちの道は三王よりも優れ、功は五帝よりも高く、故に命数として授けられた年は夏や殷よりも多く、命数として授けられた御世は周よりも長いはずであった。しかし、元帝や成帝の時代には邪悪なことを行う者が多く、哀帝や平帝は在位が短く、賊臣の王莽が現れ、その権勢は天に届くほどであり、悪逆にも簒奪を行った。我が世祖光武皇帝(光武帝)は天資として聖明・英武さを備え、偉大なる基業を大いに回復し、漢の先帝たちを天に配祀し、昔日の典章を失うことなく、日・月・星の三光が暗くなってしまったのを再び明るさを取り戻させ、神器の輝きがほの暗くなってしまったのをまたはっきりとしたものになさった。そして顕宗孝明皇帝(明帝)・粛宗孝章皇帝(章帝)と代を重ねるごとに輝きは増し、太陽の如き大漢の光は再び鮮明なものとなった。和帝・安帝の時代以降、朝廷の綱紀はだんだんと崩れ、国の時運は困難を極め、国の正統(直系の血筋)は何度も途絶えた。黄巾賊が怒涛のように国中で湧きあがり、宦官たちが天下に毒を振りまき、董卓がそれに乗じて思うがままに暴虐さを振るい、曹操・曹丕の父子がさらに凶悪さを重ねた。故に孝愍皇帝(献帝・劉協)は天下を放棄し、昭烈皇帝(劉備)は岷蜀(益州)の地域に流亡し、(陰陽が調和せず君子の道が塞がれる)「否」の凶運が終わって(陰陽が調和して国家が安泰となる)「泰」の吉運に移るのを待ち、そうしてその車を旧都に戻そうと願われた。しかし、どうして想像できただろうか、天がなお禍を下したことを悔いず、後帝(劉禅)が困苦と恥辱を受けられようとは。漢の社稷が滅びてからというもの、宗廟の祭祀が行われず、犠牲が供えられない状態がすでに四十年続いている。今、天はそのまごころを動かし、大いなる漢に禍を下したことを悔い、司馬氏の父子兄弟たちに互いに殺し合い・滅ぼし合いをさせ、それによって人々は塗炭の苦しみに陥り、訴え出る先も無い有様である。私は今、かたじけなくも諸公の推戴を受け、三祖(高祖・劉邦、世祖・劉秀、烈祖・劉備)の事業を継承することになった。我が身の脆弱さ・愚昧さを顧みると、戦慄のあまり、どうすればよいか分からないような思いである。ただ、大いなる恥辱がまだ雪がれず、漢の社稷を祭る者がいない状態なので、苦胆を口に含み、氷の中を住処とするような思いで刻苦勉励し、力を尽くして皆の議に従おう」と。そこでその国内で大赦を行い、元熙という年号を建て、劉禅を追尊して孝懐皇帝の諡号をたてまつり、漢の高祖以下の三祖と五宗(上文に挙がっている文帝・武帝・宣帝・明帝・章帝の五帝)の位牌を立てて祭った。そして、その妻の呼延氏を王后に立てた。さらに百官を置き、劉宣を丞相に任じ、崔游を御史大夫に任じ、劉宏を太尉に任じ、その他、それぞれの位に応じて官職を授けた。
東嬴公・司馬騰は、将軍の聶玄(じょうげん)に命じて劉元海を討伐させ、大陵の地で戦ったところ、聶玄の軍は敗北してしまったので、司馬騰は恐れ、并州の二万戸余りを率いて山東(太行山脈の東側)に下り、そのまま至る所で侵略を行った。劉元海は、その建武将軍の劉曜を派遣して太原・泫氏・屯留・長子・中都に侵攻し、すべて陥落させた。元熙二年(305)、司馬騰はさらに司馬瑜(しばゆ)・周良・石鮮らを派遣して劉元海を討伐させ、彼らは離石県の汾城に駐屯した。劉元海は、その武牙将軍(虎牙将軍?)の劉欽ら六軍を派遣して司馬瑜らを迎え撃たせ、四回戦い、司馬瑜はそのいずれにおいても敗れたので、劉欽は軍を整えて帰った。この年、離石は飢饉に陥ったので、劉元海は黎亭に遷都し、そうして邸閣(糧食などの物資を蓄えておく倉庫)の食糧を求めて移動し、その太尉の劉宏・護軍の馬景を留めて離石を守らせ、大司農の卜豫に食糧を運んで劉宏らに支給させた。そして、その前将軍の劉景を「使持節・征討大都督・大将軍」に任じ、并州刺史の劉琨の軍を版橋の地で迎え撃たせたが、劉景は劉琨に敗れ、劉琨はそこで晋陽を拠点とした。劉元海の侍中の劉殷・王育は、進み出て劉元海を諫めて言った。「殿下が起兵してからもうすぐ一年になろうとしておりますが、ただ一地方を押さえているだけであり、王の威信はまだ奮いません。実にただ将帥に命じて四方を征伐させ、機を見定めて大勝負に出、劉琨をさらし首にし、河東を平定し、帝号を建て、軍鼓を打って行軍して南進し、長安を陥してそこを都とすれば、関中の兵衆を得て洛陽を席巻するのは、右手の指で左手の掌を指さすように容易なことでございます。これこそ、高皇帝(劉邦)が大いなる基業を切り開き、強大なる楚に打ち勝って滅ぼすことができた秘訣でございます」と。劉元海は喜んで言った。「これぞ我が念願である」と。そこで進軍して河東を拠点とし、蒲坂県・平陽県に侵攻し、いずれも陥落させた。劉元海はそのまま蒲子城に入ってそこを都とし、河東郡・平陽郡の属県で砦を築いて自衛していた勢力はことごとく降伏した。時に汲桑が趙郡・魏郡の地で起兵していたが、その汲桑や、上郡四部鮮卑の陸逐延、氐族の酋大(氐族や羌族などの酋長の称号)の単徴、東萊の人である王弥、石勒らは、みな相次いで劉元海に降り、劉元海は彼ら全員に官爵を授けた。
永嘉二年(308)、劉元海は僭越にも皇帝に即位し、その領域内に対して大赦を行い、永鳳と改元した。そして、その大将軍の劉和を大司馬に任じて梁王に封じ、尚書令の劉歓楽を大司徒に任じて陳留王に封じ、御史大夫の呼延翼を大司空に任じて雁門郡公に封じ、その他、宗室の人々に関しては親等の近さに応じて等級を定め、みな郡王や県王に封じ、異姓(宗室以外)の人々に関しては勲功や謀略にとる貢献によって差をつけ、みな郡公・県公・郡侯・県侯に封じた。太史令の宣于脩之が劉元海に言った。「陛下は龍のごとく飛躍し、鳳凰のごとく飛翔し、たちまちにして大いなる天命を受けたとはいいましても、しかし、晋の残党はまだ滅びず、陛下の領域は狭くみすぼらしく、紫宮(天帝の居所を守る星官)の変化は、なお晋に応じておりますが、三年以内に必ず洛陽(の晋の朝廷)に勝つことができましょう。蒲子は険阻であり、帝王の長く安座すべき地ではありません。平陽は運勢として紫気(帝王の気)を有しており、しかも陶唐(尭)の旧都でありますので、陛下よどうか、上は天体の現象を迎え入れ、下は大地の祥気に従われますようお願い申し上げます」と。そこで劉元海は平陽に遷都した。また、汾水の中から玉璽を手に入れたが、そこに「有新之を保つ(新王朝がこれを保有する)」という文字が彫り付けてあったので、おそらくは王莽の時の玉璽であろう。ただ、その玉璽を発見した者はそこで「泉海光(淵海光)」の三字を付け加えたので、劉元海はそれを自分の瑞祥であると見なし、国内に対して大赦を行い、河瑞と改元した。そして、息子の劉裕を斉王に封じ、同じく息子の劉隆を魯王に封じた。
そこで、劉元海は息子の劉聡に命じて王弥と一緒に進軍して洛陽に侵攻させ、劉曜に命じて趙固らと一緒にその後詰めとさせた。東海王・司馬越は、平北将軍の曹武、将軍の宋抽(そうちゅう)・彭默(ほうもく)らを派遣してこれを防がせたが、晋王朝軍は敗北した。劉聡らが長駆して宜陽に至ると、平昌公・司馬模により将軍の淳于定(じゅんうてい)・呂毅(りょき)らが長安から討伐のために派遣されてきたのにかち合い、宜陽で戦ったところ、淳于定らは敗北した。劉聡は連勝して得意になり、備えを怠ったので、弘農太守の垣延が詐って降伏し、夜襲を行うと、劉聡の軍は大敗して逃れ帰り、劉元海は喪服を着て軍を迎えた。
この冬、また大々的に兵卒を徴発し、劉聡・王弥を派遣して劉曜・劉景らと一緒に精騎五万を率いて洛陽に侵攻させ、呼延翼に歩兵を率いてその後詰めをさせ、晋王朝軍を河南で敗った。劉聡が進軍して西明門に駐屯すると、(晋朝の)護軍の賈胤(かいん)の軍が夜に迫ってきたので、大夏門で戦い、劉聡の将である呼延顥(こえんこう)が斬られ、その軍はそのまま壊滅した。劉聡は軍を引き返して南に向かい、洛水に砦を築き、まもなく進軍して宣陽門に駐屯し、劉曜は上東門に駐屯し、王弥は広陽門に駐屯し、劉景は大夏門を攻め、劉聡自らは嵩山に行って祈祷し、その将の劉厲(りゅうれい)・呼延朗に留守中の軍を監督させた。東海王・司馬越は、参軍の孫詢(そんじゅん)、将軍の丘光・楼裒(ろうほう)らに命じて帳下(親衛隊)の精兵三千を率いさせ、宣陽門から呼延朗を攻撃し、呼延朗を斬ることに成功した。劉聡はこれを聞いて馳せ戻った。劉厲は、劉聡が自分のことを罪に問うのではないかと恐れ、入水自殺した。王弥は劉聡に言った。「今、我々は利を失い、洛陽もなお守りが固い以上、殿下としては軍を返し、やがて再起を図るに越したことはございません。下官(私)は兗州・豫州の間で兵を集めて食糧を入手し、期を定め(て再起す)るご命令をつつしんで待ちましょう」と。(一方で都の平陽では)宣于脩之もまた劉元海に次のように言った。「(天文によれば)辛未の年(311)に洛陽を得られましょう。今、晋の気はまだ盛んでありますので、大軍が帰らなければ、必ず敗れることになりましょう」と。劉元海は、黄門郎の傅詢(ふじゅん)を派遣して急行させ、劉聡らを召して軍を戻させた。(すでに兗州・豫州方面に向けて出発していた)王弥が轘轅から出ると、司馬越は薄盛らを派遣して王弥を追撃させ、新汲の地で戦い、王弥の軍は敗北した。こうして劉聡らは蒲阪の戍(防備施設)を整え、平陽に帰還した。
やがて劉歓楽を太傅に任じ、劉聡を大司徒に任じ、劉延年を大司空に任じ、劉洋を大司馬に任じ、その国内に対して大赦を行った。そしてその妻の単氏を皇后に立て、息子の劉和を皇太子に立て、同じく息子の劉乂を北海王に封じた。
劉元海が病に倒れると、後事を託す計策を建てようとし、劉歓楽を太宰に任じ、劉洋を太傅に任じ、劉延年を太保に任じ、劉聡を「大司馬・大単于」に任じ、みな録尚書事とし、単于台を平陽の西に置き、息子の劉裕を大司徒に任じた。劉元海の病が篤くなると、劉歓楽や劉洋らを召して禁中に入らせ、遺詔を受けて輔政するよう命じた。劉元海は永嘉四年(310)に死去した。在位は六年。「光文皇帝」という諡号、「高祖」という廟号を贈られ、墓は「永光陵」と呼ばれた。息子の劉和が皇帝位を継いだ。

劉和

原文

和、字玄泰。身長八尺、雄毅美姿儀、好學夙成、習毛詩・左氏春秋・鄭氏易。及爲儲貳、内多猜忌、馭下無恩。
元海死、和嗣偽位。其衞尉西昌王劉鋭・宗正呼延攸恨不參顧命也、説和曰「先帝不惟輕重之計、而使三王總強兵於内、大司馬握十萬勁卒居于近郊、陛下今便爲寄坐耳。此之禍難、未可測也。願陛下早爲之所。」和即攸之甥也、深然之、召其領軍劉盛及劉欽・馬景等告之。盛曰「先帝尚在殯宮、四王未有逆節、今忽一旦自相魚肉、臣恐人不食陛下之餘。四海未定、大業甫爾、願陛下以上成先帝鴻基爲志、且塞耳勿聽此狂簡之言也。詩云『豈無他人、不如我同父。』陛下既不信諸弟、復誰可信哉。」鋭・攸怒曰「今日之議、理無有二。」於是命左右刃之。景懼曰「惟陛下詔、臣等以死奉之、蔑不濟矣。」乃相與盟于東堂、使鋭・景攻聰、攸率劉安國攻裕、使侍中劉乘・武衞劉欽攻魯王隆、尚書田密・武衞劉璿攻北海王乂。
密・璿等使人斬關奔于聰、聰命貫甲以待之。鋭知聰之有備也、馳還、與攸・乘等會攻隆・裕。攸・乘懼安國・欽之有異志也、斬之。是日、斬裕及隆。聰攻西明門、剋之。鋭等奔入南宮、前鋒隨之、斬和于光極西室。鋭・攸梟首通衢。

訓読

和(か)、字は玄泰。身長は八尺、雄毅にして姿儀美しく、學を好みて夙に成り、毛詩・左氏春秋・鄭氏易を習う。儲貳と爲るに及び、内に猜忌多く、下を馭むるに恩無し。
元海の死するや、和、偽位〔一〕を嗣ぐ。其の衞尉の西昌王劉鋭・宗正の呼延攸(こえんゆう)、顧命に參ぜざるを恨みたれば、和に説きて曰く「先帝は輕重の計を惟わず、而して三王をして強兵を内に總べしめ、大司馬をして十萬の勁卒を握りて近郊に居らしめたれば、陛下は今、便ち寄坐を爲すのみ。此の禍難、未だ測るべからざるなり。願わくは陛下、早く之が所を爲されんことを」と。和は即ち攸の甥なれば、深く之を然りとし、其の領軍〔二〕の劉盛及び劉欽・馬景等を召して之を告ぐ。盛曰く「先帝は尚お殯宮に在り、四王は未だ逆節有らざるに、今、忽ち一旦にして自ら相い魚肉たれば、臣、人の陛下の餘を食せざらんことを恐る〔三〕。四海未だ定まらず、大業は甫爾たれば、願わくは陛下、先帝の鴻基を上成するを以て志と爲し、且く耳を塞ぎて此の狂簡の言を聽く勿れ。『詩』に云く『豈に他人無からんや、我が同父に如かず』と。陛下、既に諸弟を信ぜずんば、復た誰をか信ずべからんや」と。鋭・攸、怒りて曰く「今日の議、理として二有る無し」と。是に於いて左右に命じて之を刃す。景懼れて曰く「惟だ陛下詔せば、臣等、死を以て之を奉ずれば、濟さざる蔑からん」と。乃ち相い與に東堂に盟い、鋭・景をして聰を攻めしめ、攸をして劉安國を率いて裕を攻めしめ、侍中の劉乘・武衞の劉欽(りゅうきん)をして魯王隆を攻めしめ、尚書の田密・武衞の劉璿(りゅうせん)〔四〕をして北海王乂を攻めしむ。
密・璿ら、人をして關を斬りて聰に奔らしめたれば、聰、命じて貫甲して以て之を待つ。鋭、聰の備え有るを知るや、馳せて還り、攸・乘等と會して隆・裕を攻む。攸・乘、安國・欽の異志有らんことを懼れ、之を斬る。是の日、裕及び隆を斬る。聰、西明門を攻め、之に剋つ。鋭等、奔りて南宮に入るや、前鋒は之に隨い、和を光極西室に斬る。鋭・攸、首を通衢に梟さる。

〔一〕晋を正統とする『晋書』にとっては、晋朝皇帝以外は真の皇帝ではないので、五胡十六国の諸王朝に関係することには、このように「偽」の字が付される。
〔二〕「領軍」とは、中領軍もしくは領軍将軍のこと。ここではどちらを指すかは判然としない。
〔三〕すなわち、劉和の血筋が続かなくなる、もしくは国自体が滅びるということを指す。
〔四〕ここでは武衛将軍が二人登場するが、隋唐の武衛将軍は左右の二員が置かれており、劉淵の漢朝でも左武衛将軍と右武衛将軍が置かれていたのかもしれない。

現代語訳

劉和(りゅうか)は、字を玄泰と言った。身長は八尺(約193m)で、壮雄・剛毅であり、容貌は立派で、学問を好んで早熟し、『詩(詩経)』の毛氏学、『春秋』の左氏学、『易(易経)』の鄭氏学を習得した。皇太子となった頃には、心のうちに猜疑を抱くことが多く、下々を統率するに当たっては恩徳を施すことはなかった。
劉元海が死去すると、劉和はその位を継いだ。その衛尉の西昌王・劉鋭、宗正の呼延攸(こえんゆう)は、劉元海の臨終の際の命にあずかれなかったことを恨みに思っていたので、劉和に説いて言った。「先帝は君臣間の権力に関して軽重の均衡を考慮せず、三王(劉和の弟である斉王・劉裕、魯王・劉隆、北海王・劉乂(りゅうがい))に命じて強兵を内に統べさせ、大司馬(劉聡)に命じて十万の精兵を掌握させて近郊に駐屯させなさったので、陛下は今、まさに実権の無い客坐に据えられているに過ぎません。この禍難は計り知れません。陛下よどうか、早く適切な状態になるように処置なされますようお願い申し上げます」と。劉和は呼延攸の姉妹の子に当たるので、これを非常に尤もだと思い、その領軍の劉盛および劉欽・馬景らを召してこのことを告げた。劉盛は言った。「先帝のご遺体はまだ殯宮(かりもがりの宮殿)にいらっしゃり、四王(上記の三王と楚王・劉聡)はまだ反逆を起こそうとする素振りもありませぬのに、今、たちまち自分から魚肉が割かれるように兄弟間で分裂するような事態を招けば、私が思いますに、おそらく人々は陛下の子孫のために祭祀を行わなくなるでしょう。天下はまだ平定されず、大業は始まったばかりですので、陛下よどうか、先帝の大いなる基業を完成させることを志とし、しばらく耳を塞いでこのような狂妄で牽強付会な言葉を聞いてはなりません。『詩』(唐風・杕杜)に『異姓の知り合いがいないわけではないが、その親しみは我が兄弟には及ばない』とあります。陛下が諸弟を信じることができないというのでしたら、他に誰を信じることができるというのでしょうか」と。劉鋭と呼延攸は怒って言った。「今日の議については、理として異議があってはならぬのである」と。そこで左右の者に命じて劉盛を斬り殺してしまった。馬景は恐れて言った。「陛下がただ詔をお下しになれば、私たちは死を惜しまずそれを奉じますので、上手くいかないことなどありますまい」と。そこで互いに東堂において盟を結び、劉鋭・馬景に命じて劉聡を攻めさせ、呼延攸に命じて劉安国を率いて劉裕を攻めさせ、侍中の劉乗・武衛将軍の劉欽(りゅうきん)に命じて魯王・劉隆を攻めさせ、尚書の田密・武衛将軍の劉璿(りゅうせん)に命じて海王・劉乂を攻めさせた。
しかし、田密・王璿らが人を派遣して閂を斬って城門を突破させて劉聡のもとに出奔させ(て事の次第を知らせ)たので、劉聡は部下の将兵に命じて武装させて劉鋭らを迎え撃った。劉鋭は、劉聡が備えを設けているのを知ると、馳せて戻り、呼延攸・劉乗らと合流して劉隆・劉裕を攻めた。呼延攸・劉乗は、劉安国・劉欽に異心があるのではないかと疑い、二人を斬った。この日、劉鋭らは劉裕と劉隆を斬った。その後、劉聡は西明門を攻め、勝利してそこを突破した。劉鋭らが逃れて南宮に入ると、劉聡軍の先鋒はそれに続いて宮城内に入り、劉和を光極殿の西室にて斬った。劉鋭・呼延攸は、首を通衢(四方に通ずる大通り)にさらされた。

劉宣

原文

劉宣、字士則。朴鈍少言、好學修絜。師事樂安孫炎、沈精積思、不舍晝夜、好毛詩・左氏傳。炎毎嘆之曰「宣若遇漢武、當踰於金日磾也。」學成而返、不出門閭蓋數年。毎讀漢書、至蕭何・鄧禹傳、未曾不反覆詠之、曰「大丈夫若遭二祖、終不令二公獨擅美於前矣。」
并州刺史王廣言之於武帝、帝召見、嘉其占對、因曰「吾未見宣、謂廣言虛耳。今見其進止風儀、真所謂『如珪如璋』、觀其性質、足能撫集本部。」乃以宣爲右部都尉、特給赤幢・曲蓋。莅官清恪、所部懷之。元海即王位、宣之謀也。故特荷尊重、勳戚莫二、軍國内外靡不專之。

訓読

劉宣、字は士則。朴鈍にして言少なく、學を好みて修絜たり。樂安の孫炎に師事し、精を積思に沈め、晝夜を舍かず、毛詩・左氏傳を好む。炎、毎に之を嘆じて曰く「宣、若し漢武に遇わば、當に金日磾を踰ゆべきならまし」と。學成りて返るや、門閭を出でざること蓋し數年。漢書〔一〕を讀み、蕭何・鄧禹傳に至る毎に、未だ曾て反覆して之を詠まずんばあらず、曰く「大丈夫、若し二祖に遭わば、終に二公をして獨り美を前に擅にせしめざらまし」と。
并州刺史の王廣、之を武帝に言すや、帝、召見し、其の占對を嘉し、因りて曰く「吾、未だ宣を見ざるや、廣の言の虛なるを謂いしのみ。今、其の進止風儀を見るに、真に所謂『珪の如く璋の如く』にして、其の性質を觀るに、能く本部を撫集するに足る」と。乃ち宣を以て右部都尉と爲し、特に赤幢・曲蓋を給す。官に莅むに清恪にして、部する所、之に懷く。元海の王位に即くは、宣の謀なり。故に特に尊重を荷り、勳戚に二ぶもの莫く、軍國内外、之を專らにせざるは靡し。

〔一〕『漢書』には、後漢建国の功臣である鄧禹の伝は無い。ただ、唐代以降、「漢書」で『漢書』と『後漢書』の双方を指す場合があった。もちろん、劉宣の時代にはまだ范曄の『後漢書』は存在しないので、ここでは他の「後漢書」を指す。おそらくこの場合は、当時、後漢の歴史書として流布していた『東観漢記』を指すものと思われる。

現代語訳

劉宣は、字を士則と言った。純朴で言葉数は少なく、学問を好み、よく身を修めて清廉であった。楽安の人である孫炎に師事し、その精神を長時間にわたって思索することに集中させ、昼も夜もやむことなく、『詩』の毛氏学と『春秋』の左氏学を好んだ。孫炎は、いつも劉宣のことを讃嘆して言った。「劉宣がもし漢の武帝の時代に知遇を得ていたら、金日磾を越える存在となっていたであろう」と。学問が成就して帰郷すると、数年くらい門閭(郷里もしくは家)を出ることはなかった。『漢書』や『東観漢記』を読み、蕭何伝・鄧禹伝まで読み進めると、そのたびにいつも声に出してその二伝を繰り返し読み、そして言った。「大丈夫たるもの、もし二祖(太祖・高帝の劉邦、世祖・光武帝の劉秀)の時代に知遇を得ていたら、最終的に前史において二公(蕭何・鄧禹)だけに創業の美誉を独り占めさせることはなかったであろうに」と。
并州刺史の王広が劉宣のことを武帝に語ると、武帝は劉宣を召して面会し、その受け答えをよしとし、そして言った。「私は、まだ劉宣に会う前は、王広の言葉は虚言にすぎないと思っていた。しかし今、その所作や態度を見たところ、真に所謂『珪や璋のようにきりっとした威容がある』というものであり、その性質をうかがったところ、匈奴五部を慰撫して懐けるのに十分なものである」と。そこで劉宣を右部都尉に任じ、特別に赤幢・曲蓋を給付した。劉宣はその官に在っては清廉・謹直であり、右部の人々は劉宣によく服した。劉元海が漢王に即位したのは、劉宣の策謀であった。故に特別に尊重され、元勲や(劉元海の)親戚の中でも劉宣に並ぶものはおらず、軍事や国政に関しては内外の双方にわたり、劉宣がそれらをすべて専掌した。