いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第二巻_前趙_劉聡(子粲・陳元達)

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。

劉聡

原文

劉聰、字玄明、一名載、元海第四子也。母曰張夫人。初、聰之在孕也、張氏夢日入懷、寤而以告、元海曰「此吉徵也。慎勿言。」十五月而生聰焉、夜有白光之異。形體非常、左耳有一白毫、長二尺餘、甚光澤。幼而聰悟好學、博士朱紀大奇之。年十四、究通經史、兼綜百家之言、孫吳兵法靡不誦之。工草隸、善屬文、著述懷詩百餘篇・賦頌五十餘篇。十五習擊刺、猿臂善射、彎弓三百斤、膂力驍捷、冠絕一時。太原王渾見而悅之、謂元海曰「此兒吾所不能測也。」
弱冠游于京師、名士莫不交結、樂廣・張華尤異之也。新興太守郭頤辟爲主簿、舉良將、入爲驍騎別部司馬、累遷右部都尉、善於撫接、五部豪右無不歸之。河間王顒表爲赤沙中郎將。聰以元海在鄴、懼爲成都王穎所害、乃亡奔成都王、拜右積弩將軍、參前鋒戰事。
元海爲北單于、立爲右賢王、隨還右部。及即大單于位、更拜鹿蠡王。既殺其兄和、羣臣勸即尊位。聰初讓其弟北海王乂、乂與公卿泣涕固請、聰久而許之曰「乂及羣公正以四海未定、禍難尚殷、貪孤年長故耳。此國家之事、孤敢不祗從。今便欲遠遵魯隱、待乂年長、復子明辟。」於是以永嘉四年僭即皇帝位、大赦境内、改元光興。尊元海妻單氏曰皇太后、其母張氏爲帝太后、乂爲皇太弟、領大單于・大司徒、立其妻呼延氏爲皇后、封其子粲爲河内王、署使侍節・撫軍大將軍・都督中外諸軍事、易河間王、翼彭城王、悝高平王。遣粲及其征東王彌・龍驤劉曜等率眾四萬、長驅入洛川、遂出轘轅、周旋梁・陳・汝・潁之間、陷壘壁百餘。以其司空劉景爲大司馬、左光祿劉殷爲大司徒、右光祿王育爲大司空。
偽太后單氏姿色絕麗、聰烝焉。單即乂之母也、乂屢以爲言、單氏慚恚而死、聰悲悼無已。後知其故、乂之寵因此漸衰、然猶追念單氏、未便黜廢。又尊母爲皇太后。
署其衞尉呼延晏爲使侍節・前鋒大都督・前軍大將軍、配禁兵二萬七千、自宜陽入洛川、命王彌・劉曜及鎮軍石勒進師會之。晏比及河南、王師前後十二敗、死者三萬餘人。彌等未至、晏留輜重于張方故壘、遂寇洛陽、攻陷平昌門、焚東陽・宣陽諸門及諸府寺。懷帝遣河南尹劉默距之、王師敗于社門。晏以外繼不至、出自東陽門、掠王公已下子女二百餘人而去。時帝將濟河東遁、具船于洛水、晏盡焚之、還于張方故壘。王彌・劉曜至、復與晏會圍洛陽。時城内饑甚、人皆相食、百官分散、莫有固志。宣陽門陷、彌・晏入于南宮、升太極前殿、縱兵大掠、悉收宮人・珍寶。曜於是害諸王公及百官已下三萬餘人、於洛水北築爲京觀。遷帝及惠帝羊后・傳國六璽于平陽。聰大赦、改年嘉平、以帝爲特進・左光祿大夫・平阿公。
遣其平西趙染・安西劉雅率騎二萬攻南陽王模于長安、粲・曜率大眾繼之。染敗王師于潼關、將軍呂毅死之。軍至于下邽、模乃降染。染送模於粲、粲害模及其子范陽王黎、送衞將軍梁芬・模長史魯繇・兼散騎常侍杜驁・辛謐及北宮純等于平陽。聰以粲之害模也、大怒。粲曰「臣殺模本不以其晚識天命之故、但以其晉氏肺腑、洛陽之難不能死節、天下之惡一也、故誅之。」聰曰「雖然、吾恐汝不免誅降之殃也。夫天道至神、理無不報。」
署劉曜爲車騎大將軍・開府儀同三司・雍州牧、改封中山王、鎮長安、王彌爲大將軍、封齊公。尋而石勒等殺彌於己吾而并其眾、表彌叛狀。聰大怒、遣使讓勒專害公輔、有無上之心、又恐勒之有二志也、以彌部眾配之。劉曜既據長安、安定太守賈疋及諸氐羌皆送質任、唯雍州刺史麴特・新平太守竺恢固守不降。護軍麴允・頻陽令梁肅自京兆南山將奔安定、遇疋任子於陰密、擁還臨涇、推疋爲平南將軍、率眾五萬、攻曜於長安、扶風太守梁綜及麴特・竺恢等亦率眾十萬會之。曜遣劉雅・趙染來距、敗績而還。曜又盡長安銳卒與諸軍戰于黃丘、曜眾大敗、中流矢、退保甘渠。杜人王禿・紀特等攻劉粲于新豐、粲還平陽。曜攻陷池陽、掠萬餘人歸于長安。時閻鼎等奉秦王爲皇太子、入于雍城、關中戎晉莫不響應。
聰后呼延氏死、將納其太保劉殷女、其弟乂固諫。聰更訪之於太宰劉延年・太傅劉景、景等皆曰「臣常聞太保自云周劉康公之後。與聖氏本源既殊、納之爲允。」聰大悅、使其兼大鴻臚李弘拜殷二女爲左右貴嬪、位在昭儀上、又納殷女孫四人爲貴人、位次貴嬪。謂弘曰「此女輩皆姿色超世、女德冠時、且太保於朕實自不同、卿意安乎。」弘曰「太保胤自有周、與聖源實別、陛下正以姓同爲恨耳。且魏司空東萊王基當世大儒、豈不達禮乎。爲子納司空太原王沈女、以其姓同而源異故也。」聰大悅、賜弘黃金六十斤曰「卿當以此意諭吾子弟輩。」於是六劉之寵傾於後宮、聰稀復出外、事皆中黃門納奏、左貴嬪決之。
聰假懷帝儀同三司、封會稽郡公、庾珉等以次加秩。聰引帝入讌、謂帝曰「卿爲豫章王時、朕嘗與王武子相造、武子示朕於卿、卿言聞其名久矣。以卿所製樂府歌示朕、謂朕曰『聞君善爲辭賦、試爲看之。』朕時與武子俱爲盛德頌、卿稱善者久之。又引朕射于皇堂、朕得十二籌、卿與武子俱得九籌、卿贈朕柘弓・銀研。卿頗憶否。」帝曰「臣安敢忘之。但恨爾日不早識龍顏。」聰曰「卿家骨肉相殘、何其甚也。」帝曰「此殆非人事、皇天之意也。大漢將應乾受曆、故爲陛下自相驅除。且臣家若能奉武皇之業、九族敦睦、陛下何由得之。」至日夕乃出、以小劉貴人賜帝、謂帝曰「此名公之孫、今特以相妻。卿宜善遇之。」拜劉爲會稽國夫人。
遣其鎮北靳沖寇太原、平北卜珝率眾繼之。沖攻太原不剋、而歸罪于珝、輒斬之。聰聞之、大怒曰「此人朕所不得加刑、沖何人哉。」遣其御史中丞浩衍持節斬沖。
左都水使者襄陵王攄坐魚蟹不供、將作大匠望都公靳陵坐溫明・徽光二殿不成、皆斬于東市。聰游獵無度、常晨出暮歸、觀漁於汾水、以燭繼晝。中軍王彰諫曰「今大難未夷、餘晉假息、陛下不懼白龍魚服之禍、而昏夜忘歸。陛下當思先帝創業之艱難、嗣承之不易。鴻業已爾、四海屬情、何可墜之於垂成、隳之於將就。比竊觀陛下所爲、臣實痛心疾首有日矣。且愚人係漢之心未專、而思晉之懷猶盛、劉琨去此咫尺之間、狂狷刺客息頃而至。帝王輕出、一夫敵耳。願陛下改往修來。則億兆幸甚。」聰大怒、命斬之。上夫人王氏叩頭乞哀、乃囚之詔獄。聰母以聰刑怒過差、三日不食、弟乂・子粲並輿櫬切諫。聰怒曰「吾豈桀・紂・幽・厲乎。而汝等生來哭人。」其太宰劉延年及諸公卿・列侯百有餘人、皆免冠涕泣固諫曰「光文皇帝以聖武膺期、創建鴻祚、而六合未一、夙世升遐。陛下睿德自天、龍飛紹統、東平洛邑、南定長安、真可謂功高周成、德超夏啟。往也唐虞、今則陛下、歷觀書記、未有此比。而頃頻以小務不供而斬王公、直言忤旨、便囚大將、游獵無度、機管不修、臣等竊所未解、臣等所以破肝糜胃忘寢與食者也。」聰乃赦彰。
麴特等圍長安、劉曜連戰敗績、乃驅掠士女八萬餘口退還平陽、因攻司徒傅祗于三渚、使其右將軍劉參攻郭默于懷城。祗病卒、城陷、遷祗孫純・粹并其二萬餘戸于平陽縣。聰贈祗太保、純・粹皆給事中、謂祗子暢曰「尊公雖不達天命、然各忠其主、吾亦有以亮之。但晉主已降、天命非人所支、而虔劉南鄙、沮亂邊萌、此其罪也。以元惡之種而贈同勳舊、逆臣之孫荷榮禁闥、卿知皇漢之德弘曠以不。」暢曰「陛下每嘉先臣、不以小臣之故而虧其忠節、及是恩也、自是明主伐國弔人之義、臣輒同萬物、未敢謝生於自然。」
聰遣劉粲・劉曜等攻劉琨於晉陽、琨使張喬距之、戰于武灌、喬敗績、死之、晉陽危懼。太原太守高喬・琨別駕郝聿以晉陽降粲。琨與左右數十騎、攜其妻子奔于趙郡之亭頭、遂如常山。粲・曜入于晉陽。先是、琨與代王猗盧結爲兄弟、乃告敗於猗盧、且乞師。猗盧遣子日利孫・賓六須及將軍衞雄・姬澹等率眾數萬攻晉陽、琨收散卒千餘爲之鄉導、猗盧率眾六萬至于狼猛。曜及賓六須戰于汾東、曜墜馬、中流矢、身被七創。討虜傅武以馬授曜、曜曰「當今危亡之極、人各思免。吾創已重、自分死此矣。」武泣曰「武小人、蒙大王識拔、以至於是、常思效命。今其時矣。且皇室始基、大難未弭、天下何可一日無大王也。」於是扶曜乘馬、驅令渡汾、迴而戰死。曜入晉陽、夜與劉粲等掠百姓、踰蒙山遁歸。猗盧率騎追之、戰于藍谷、粲敗績、斬其征虜邢延、獲其鎮北劉豐。琨收合離散、保于陽曲、猗盧戍之而還。

訓読

劉聰、字は玄明、一名は載、元海の第四子なり。母は張夫人と曰う。初め、聰の孕に在るや、張氏、日の懷に入るを夢み、寤めて以て告ぐに、元海曰く「此れ吉徵なり。慎みて言う勿かれ」と。十五月にして聰を生むや、夜に白光の異有り。形體は非常にして、左耳に一白毫有り、長きこと二尺餘、甚だ光澤あり。幼くして聰悟にして學を好み、博士の朱紀は大いに之を奇とす。年十四にして、經史に究通し、百家の言を兼綜し、孫吳の兵法、之を誦んぜざるは靡し。草隸を工みにし、文を屬るを善くし、懷詩百餘篇・賦頌五十餘篇を著述す。十五にして擊刺を習い、猿臂にして射を善くし、弓を彎くこと三百斤、膂力ありて驍捷なること、一時に冠絕す。太原の王渾、見て之を悅び、元海に謂いて曰く「此の兒、吾の測る能わざる所なり」と。
弱冠にして京師に游ぶや、名士、交結せざるは莫く、樂廣・張華、尤も之を異とするなり。新興太守の郭頤(かくい)、辟して主簿と爲し、良將〔一〕に舉げられ、入りて驍騎別部司馬と爲り、累りに遷りて右部都尉たり、撫接を善くしたれば、五部の豪右、之に歸せざるは無し。河間王顒(ぎょう)、表して赤沙中郎將と爲す。聰、元海の鄴に在るを以て、成都王穎(えい)の害する所と爲らんことを懼れ、乃ち成都王に亡奔し、右積弩將軍に拜せられ、前鋒戰事に參ず。
元海の北單于と爲るや、立てて右賢王と爲し、隨いで右部に還らしむ。大單于の位に即くに及び、更めて鹿蠡王に拜す。既に其の兄の和を殺すや、羣臣、尊位に即かんことを勸む。聰、初め其の弟の北海王乂(がい)に讓るも、乂、公卿と與に泣涕して固く請いたれば、聰、久しくして之を許して曰く「乂及び羣公、正に四海は未だ定まらず、禍難は尚お殷んなるに、孤の年長なるを貪るの故を以てするのみ。此れ國家の事なれば、孤、敢えて祗だ從わず。今、便ち遠く魯隱を遵び、乂の年の長ずるを待ち、子に明辟を復さんと欲す」と。是に於いて、永嘉四年を以て皇帝位に僭即し〔二〕、境内に大赦し、光興と改元す。元海の妻の單氏を尊びて皇太后と曰い、其の母の張氏もて帝太后と爲し、乂もて皇太弟と爲し、大單于・大司徒を領せしめ、其の妻の呼延氏を立てて皇后と爲し、其の子の粲(さん)を封じて河内王と爲し、使侍節〔三〕・撫軍大將軍・都督中外諸軍事に署し、易は河間王、翼は彭城王、悝(かい)は高平王たらしむ。粲及び其の征東の王彌(おうび)・龍驤の劉曜等を遣わして眾四萬を率い、長驅して洛川に入り、遂に轘轅に出で、梁・陳・汝・潁の間を周旋せしめ、壘壁百餘を陷す。其の司空の劉景を以て大司馬と爲し、左光祿の劉殷もて大司徒と爲し、右光祿の王育もて大司空と爲す。
偽太后〔二〕の單氏は姿色絕麗なれば、聰、焉に烝す。單は即ち乂の母にして、乂は屢々以て言を爲したれば、單氏は慚恚して死し、聰、悲悼すること已む無し。後に其の故を知り、乂の寵は此に因りて漸く衰うるも、然るに猶お單氏を追念したれば、未だ便ち黜廢せず。又た母を尊びて皇太后と爲す。
其の衞尉の呼延晏(こえんあん)を署して使侍節・前鋒大都督・前軍大將軍と爲し、禁兵二萬七千を配し、宜陽より洛川に入らしめ、王彌・劉曜及び鎮軍の石勒に命じて師を進めて之と會せしむ。晏の河南に及ぶ比い、王師は前後十二敗し、死者は三萬餘人。彌等の未だ至らざるに、晏、輜重を張方の故壘に留め、遂に洛陽に寇し、攻めて平昌門を陷し、東陽・宣陽諸門及び諸府寺を焚く。懷帝、河南尹の劉默を遣わして之を距がしむるも、王師は社門に敗る。晏、外繼の至らざるを以て、出ずるに東陽門よりし、王公已下の子女二百餘人を掠めて去る。時に帝は將に河を濟りて東のかた遁れんとし、船を洛水に具うるも、晏、盡く之を焚き、張方の故壘に還る。王彌・劉曜の至るや、復た晏と會して洛陽を圍む。時に城内は饑うること甚だしく、人は皆な相い食み、百官は分散し、固志有る莫し。宣陽門の陷つるや、彌・晏、南宮に入り、太極前殿に升り、兵を縱ちて大いに掠め、悉く宮人・珍寶を收む。曜、是に於いて諸王公及び百官已下三萬餘人を害し、洛水の北に於いて築きて京觀を爲す。帝及び惠帝の羊后・傳國の六璽を平陽に遷す。聰、大赦し、嘉平と改年し、帝を以て特進・左光祿大夫・平阿公と爲す。
其の平西の趙染・安西の劉雅を遣わして騎二萬を率いて南陽王模を長安に攻めしめ、粲・曜をして大眾を率いて之に繼がしむ。染、王師を潼關に敗り、將軍の呂毅、之に死す。軍の下邽に至るや、模乃ち染に降る。染、模を粲に送り、粲、模及び其の子の范陽王黎を害し、衞將軍の梁芬(りょうふん)・模の長史の魯繇(ろよう)・兼散騎常侍の杜驁(とごう)・辛謐(しんひつ)及び北宮純等を平陽に送る。聰、粲の模を害するを以て、大いに怒る。粲曰く「臣の模を殺すは本より其の晚きに天命を識るを以ての故ならず、但だ其の晉氏の肺腑なるに、洛陽の難に死節ある能わざるを以て、天下の惡は一なれば、故に之を誅す」と。聰曰く「然りと雖も、吾、汝の誅降の殃を免れざらんことを恐るるなり。夫の天道至神、理として報ぜざるは無し」と。
劉曜を署して車騎大將軍・開府儀同三司・雍州牧と爲し、改めて中山王に封じ、長安に鎮せしめ、王彌もて大將軍と爲し、齊公に封ず。尋いで石勒等、彌を己吾に殺して其の眾を并せ、彌の叛狀を表す。聰、大いに怒り、使を遣わして勒の專ら公輔を害し、上を無するの心有るを讓めしむるも、又た勒の二志有らんことを恐れたれば、彌の部眾を以て之に配す。劉曜の既に長安に據るや、安定太守の賈疋(かひつ)及び諸氐羌は皆な質任を送るも、唯だ雍州刺史の麴特(きくとく)・新平太守の竺恢(じくかい)は固守して降らず。護軍の麴允(きくいん)・頻陽令の梁肅、京兆の南山より將に安定に奔らんとするや、疋の任子に陰密に遇いたれば、擁して臨涇に還り、疋を推して平南將軍と爲し、眾五萬を率い、曜を長安に攻め、扶風太守の梁綜及び麴特・竺恢等も亦た眾十萬を率いて之に會す。曜、劉雅・趙染を遣わして來りて距がしむるも、敗績して還る。曜、又た長安の銳卒を盡くして諸軍と黃丘に戰うも、曜の眾は大いに敗れ、流矢に中たれば、退きて甘渠を保つ。杜の人の王禿(おうとく)・紀特等、劉粲を新豐に攻めたれば、粲、平陽に還る。曜、攻めて池陽を陷し、萬餘人を掠めて長安に歸る。時に閻鼎(えんてい)等、秦王を奉じて皇太子と爲し、雍城に入りたれば、關中の戎晉、響應せざるは莫し。
聰の后の呼延氏死し、將に其の太保の劉殷(りゅういん)の女を納れんとするや、其の弟の乂、固く諫む。聰、更めて之を太宰の劉延年・太傅の劉景に訪うや、景等、皆な曰く「臣、常て聞くならく、太保は自ら周の劉康公の後なりと云う、と。聖氏と本源は既に殊なれば、之を納るるは允と爲す」と。聰、大いに悅び、其の兼大鴻臚の李弘をして殷の二女を拜して左右貴嬪と爲し、位は昭儀の上に在らしめ、又た殷の女孫四人を納れて貴人と爲し、位は貴嬪に次がしむ。弘に謂いて曰く「此の女輩は皆な姿色は世に超え、女德は時に冠たり、且つ太保は朕に於いて實に自ること同じからざるに、卿の意は安くにあらんや」と。弘曰く「太保の胤は有周よりし、聖源と實に別なるに、陛下は正に姓の同じきを以て恨みと爲すのみ。且つ魏の司空の東萊の王基は當世の大儒にして、豈に禮に達せざらんや。子の納の爲に司空の太原の王沈の女を納れたるは、其の姓は同じきも源は異なるの故を以てすればなり」と。聰、大いに悅び、弘に黃金六十斤を賜いて曰く「卿は當に此の意を以て吾が子弟の輩を諭すべし」と。是に於いて六劉の寵は後宮を傾け、聰は復た外に出ずること稀にして、事は皆な中黃門もて奏を納れしめ、左貴嬪もて之を決せしむ。
聰、懷帝に儀同三司を假し、會稽郡公に封じ、庾珉(ゆびん)等は次を以て秩を加う。聰、帝を引きて入りて讌せしむるや、帝に謂いて曰く「卿の豫章王たりし時、朕、嘗て王武子と與に相い造るや、武子、朕を卿に示し、卿は其の名を聞くこと久しと言う。卿の製る所の樂府を以て歌いて朕に示し、朕に謂いて曰く『君は善く辭賦を爲ると聞けば、試みに爲りて之を看せよ』と。朕、時に武子と俱に盛德頌を爲り、卿は善しと稱すること之を久しくす。又た朕を引きて皇堂に射し、朕は十二籌を得るも、卿は武子と俱に九籌を得たれば、卿は朕に柘弓・銀研を贈る。卿は頗る憶えしや否や」と。帝曰く「臣、安くんぞ敢えて之を忘れんや。但だ恨むらくは、爾日に早く龍顏なるを識らざりしことを」と。聰曰く「卿の家の骨肉相い殘いたること、何ぞ其れ甚しきや」と。帝曰く「此れ殆ど人事に非ず、皇天の意ならん。大漢は將に乾に應じて曆を受けんとすれば、故に陛下の爲に自ら相い驅除す。且つ臣の家、若し能く武皇の業を奉じ、九族敦睦せましかば、陛下、何に由りて之を得んや」と。日夕に至りて乃ち出で、小劉貴人を以て帝に賜い、帝に謂いて曰く「此れ名公の孫にして、今、特に以て相い妻らしめん。卿、宜しく善く之を遇すべし」と。劉を拜して會稽國夫人と爲す。
其の鎮北の靳沖(きんちゅう)を遣わして太原に寇せしめ、平北の卜珝(ぼくく)をして眾を率いて之に繼がしむ。沖、太原を攻むるも剋たず、而して罪を珝に歸し、輒りに之を斬る。聰、之を聞き、大いに怒りて曰く「此の人、朕の刑を加うるを得ざる所なるに、沖は何人なるか」と。其の御史中丞の浩衍(こうえん)を遣わして節を持ちて沖を斬らしむ。
左都水使者の襄陵王攄(ちょ)は魚蟹を供せざるに坐し、將作大匠の望都公の靳陵(きんりょう)は溫明・徽光二殿の成らざるに坐し、皆な東市に斬らる。聰、游獵すること度無く、常に晨に出でて暮に歸り、漁を汾水に觀、燭を以て晝に繼ぐ。中軍の王彰、諫めて曰く「今、大難は未だ夷がず、餘晉は假息するに、陛下は白龍魚服の禍を懼れず、而して昏夜歸るを忘る。陛下、當に先帝の創業の艱難、嗣承の不易を思うべし。鴻業は已に爾くして、四海は情を屬するに、何ぞ之を成るに垂んとするに墜(や)め、之を將に就さんとするに隳つべけんや。比ろ竊かに陛下の爲ず所を觀うに、臣、實に心を痛め首を疾むこと有日なり。且つ愚人、漢に係るの心は未だ專らならず、而して晉を思うの懷は猶お盛んなれば、劉琨(りゅうこん)は此を去ること咫尺の間にして、狂狷なる刺客は息頃にして至る。帝王、輕々しく出ずれば、一夫の敵なるのみ。願わくは陛下、往を改め來を修められんことを。則ち億兆幸甚ならん」と。聰、大いに怒り、命じて之を斬らんとす。上夫人の王氏、叩頭して哀を乞いたれば、乃ち之を詔獄に囚う。聰の母、聰の刑怒すること過差なるを以て、三日食わず、弟の乂・子の粲、並びに櫬を輿せて切諫す。聰、怒りて曰く「吾、豈に桀・紂・幽・厲ならんや。而るに汝等、生きながらにして來りて人を哭せんや」と。其の太宰の劉延年及び諸公卿・列侯百有餘人、皆な冠を免じて涕泣して固く諫めて曰く「光文皇帝は聖武を以て期を膺け、鴻祚を創建するも、而れども六合は未だ一ならず、夙世にして遐に升る。陛下、睿德は天よりし、龍飛して統を紹ぎ、東のかた洛邑を平げ、南のかた長安を定め、真に功は周成より高く、德は夏啟を超ゆと謂うべし。往は唐虞よりし、今は則ち陛下まで、書記を歷觀するに、未だ此の比は有らざるなり。而るに頃ろは頻りに小務の供せざるを以てして王公を斬り、直言して旨に忤らうもて、便ち大將を囚え、游獵すること度無く、機管は修められざるは、臣等の竊かに未だ解せざる所にして、臣等の肝を破り胃を糜れしめて寢と食とを忘るる所以の者なり」と。聰、乃ち彰を赦す。
麴特等、長安を圍み、劉曜は連戰するも敗績し、乃ち士女八萬餘口を驅掠して退きて平陽に還り、因りて司徒の傅祗(ふし)を三渚に攻め、其の右將軍の劉參をして郭默を懷城に攻めしむ。祗、病卒し、城は陷ち、祗の孫の純・粹(すい)并びに其の二萬餘戸を平陽縣に遷す。聰、祗に太保を、純・粹には皆な給事中を贈り、祗の子の暢(ちょう)に謂いて曰く「尊公は天命に達せずと雖も、然れども各々其の主に忠たれば、吾も亦た以て之を亮とすること有り。但だ晉主は已に降り、天命は人の支うる所に非ざるも、而れども南鄙に虔劉し、邊萌を沮亂するは、此れ其の罪なり。元惡の種を以てして贈は勳舊と同じく、逆臣の孫もてして榮を禁闥に荷るは、卿、皇漢の德の弘曠なるを知るや不や」と。暢曰く「陛下は每に先臣を嘉し、小臣なるの故を以て其の忠節を虧かず、是の恩に及ぶは、自より是れ明主の國を伐ちて人を弔れむの義にして、臣の輒ち萬物と同じくするは、未だ敢えて生を自然に謝せず」と。
聰の劉粲・劉曜等を遣わして劉琨を晉陽に攻めしむるや、琨、張喬(ちょうきょう)をして之を距がしめ、武灌に戰うも、喬は敗績し、之に死し、晉陽は危懼す。太原太守の高喬(こうきょう)・琨の別駕の郝聿(かくいつ)、晉陽を以て粲に降る。琨、左右の數十騎と與に、其の妻子を攜えて趙郡の亭頭に奔り、遂に常山に如く。粲・曜、晉陽に入る。是より先、琨、代王の猗盧と結びて兄弟と爲れば、乃ち敗を猗盧に告げ、且つ師を乞う。猗盧、子の日利孫・賓六須及び將軍の衞雄・姬澹(きたん)等を遣わして眾數萬を率いて晉陽を攻めしめ、琨は散卒千餘を收めて之が鄉導と爲り、猗盧は眾六萬を率いて狼猛に至る。曜及び賓六須、汾東に戰い、曜は馬より墜ち、流矢に中たり、身は七創を被く。討虜の傅武(ふぶ)、馬を以て曜に授けたれば、曜曰く「當今は危亡の極にして、人は各々免れんことを思う。吾が創は已に重ければ、自ら分(はか)るに此に死せん」と。武、泣きて曰く「武は小人なるに、大王の識拔を蒙り、以て是に至れば、常に命を效さんことを思う。今、其の時なり。且つ皇室は基を始め、大難は未だ弭まざれば、天下に何ぞ一日として大王無かるべけんや」と。是に於いて曜を扶けて馬に乘せ、驅して汾を渡らしめ、迴りて戰死す。曜、晉陽に入るや、夜に劉粲等と與に百姓を掠め、蒙山を踰えて遁歸す。猗盧、騎を率いて之を追い、藍谷に戰い、粲は敗績し、其の征虜の邢延(けいえん)を斬り、其の鎮北の劉豐を獲たり。琨、離散せるを收合し、陽曲を保ち、猗盧、之を戍りて還る。

〔一〕察挙の科目の一つ。
〔二〕晋を正統とする『晋書』にとっては、晋朝皇帝以外は皇帝ではないので、五胡十六国の諸王朝に関係することには、このように「僭」や「偽」などの字が付される。
〔三〕節とは皇帝の使者であることの証。晋代以降では、「使持節」の軍事官は二千石以下の官僚・平民を平時であっても専殺でき、「持節」の場合は平時には官位の無い人のみ、軍事においては「使持節」と同様の専殺権を有し、「仮節」の場合は、軍事においてのみ専殺権を有した。

現代語訳

劉聡は、字を玄明と言い、一名を劉載と言い、劉元海(劉淵)の第四子であった。母は張夫人と言った。初め、劉聡を胎内に宿していたとき、張氏は、太陽が懐に入る夢を見て、目が覚めてそのことを劉元海に告げると、劉元海は言った。「これは吉兆である。絶対に他言してはならぬ」と。十五ヶ月が経って劉聡を生んだとき、夜に白光の異変があった。その身体は並みならぬ様であり、左耳に一本の白い毛があり、二尺余り(約50㎝)の長さで、非常に光沢があった。劉聡は幼い頃から聡明でかつ利口であり、学問を好み、博士の朱紀は非常に高く評価した。十四歳で儒家経典や史書に精通し、諸子百家の思想を広く読み、『孫子』や『呉子』の兵法に関しては、すべて暗唱できた。草書・隷書が上手で、文章を作るのが得意であり、懐詩を百篇余り、賦頌を五十篇余り著述した。十五歳で(矛や剣などの)刺突用の武器の扱いを習得し、猿のように長い腕を活かして射撃を得意とし、三百斤の弓を引くことができ、膂力があって勇猛で敏捷である様子は、当時の世に傑出していた。太原の人である王渾は、劉聡を一目見て喜び、劉元海に言った。「この子は、私には計り知れない器である」と。
弱冠(二十歳)で京師(洛陽)に遊学すると、名士たちはみな劉聡と交流し、楽広・張華は特に劉聡を重んじた。新興太守の郭頤(かくい)は、劉聡を辟召して主簿に任じ、やがて劉聡は「良将」に推挙され、京師に入って驍騎別部司馬(驍騎将軍の部下の別部司馬)となり、何度も昇進して右部都尉となり、よく民衆を慰撫して人々と交際したので、匈奴五部の豪傑たちは、みな劉聡に心を寄せた。河間王・司馬顒(しばぎょう)は、上表して劉聡を赤沙中郎將(赤沙種を監督する中郎将)に任じた。劉聡は、劉元海が(成都王・司馬穎(しばえい)の本拠地である)鄴にいるので、(司馬顒の任命を受ければ)成都王・司馬穎に殺されてしまうのではないかと恐れ、そこで成都王のもとに亡命し、右積弩将軍に任じられ、前鋒の軍事に参画した。
劉元海が北単于となると、劉聡を右賢王に任じ、まもなく匈奴右部に帰した。劉元海が大単于の位に即くと、劉聡を改めて鹿蠡王に任じた。(劉元海の死後)劉聡が兄の劉和を殺すと、臣下たちは劉聡に尊位に即くことを勧めた。劉聡は、初めは弟の北海王・劉乂(りゅうがい)こそが位にふさわしいとして謙譲したが、劉乂が公卿たちと一緒に涙を流して固く請うたので、劉聡はしばらくしてそれを許可して言った。「劉乂や大臣たちは、まさに四海がまだ平定されず、禍難がなお盛んであるので、私が年長者であるということに執着しているに過ぎない。しかし、これは国家の大事であるから、私としてもただひたすら従うというわけにはいかない。とりあえず今は、遠く(春秋時代の)魯の隠公の前例(先代の恵公が薨去した際に、跡を継ぐべき嫡子の桓公が幼いので、庶子で年長者である隠公が仮に立ち、桓公を奉戴してその成長を待つことにした前例)を尊び、乂が成長するのを待ち、そうしてから(『尚書』周書・洛誥に)『あなたに大政を返上いたします』とあるが如く、位を返上しようと思う」と。そこで、永嘉四年(310)に僭越にも皇帝位に即き、領域内で大赦を行い、改元して光興元年とした。そして、劉元海の妻の単氏を尊んで皇太后と呼び、実母の張氏を帝太后とし、劉乂を皇太弟とし、大単于・大司徒を兼任させ、劉聡の妻の呼延氏を皇后に立て、子の劉粲(りゅうさん)を河内王に封じ、「使侍節・撫軍大将軍・都督中外諸軍事」に任じ、(同じく子の)劉易を河間王とし、(同じく子の)劉翼を彭城王とし、(同じく子の)劉悝(りゅうかい)を高平王とした。やがて、劉聡は劉粲および征東将軍の王弥(おうび)・龍驤将軍の劉曜らを派遣して四万の兵衆を率い、長駆して洛川に入り、そのまま轘轅に出て、梁・陳・汝南・潁川一帯をあちこちとめぐり行かせ、百余りの砦を陥落させた。そして、司空の劉景を大司馬に任じ、左光禄大夫の劉殷を大司徒に任じ、右光禄大夫の王育を大司空に任じた。
偽太后の単氏は、容姿が絶世なほど別嬪であったので、劉聡は彼女と姦通した。単氏は劉乂の実母であり、劉乂はしばしばそのことで母をとがめたので、単氏は恥じ怒って死に、劉聡は、悲しみ悼んでやまなかった。劉聡は後に単氏が死んだ理由を知り、劉乂に対する寵はそれによって次第に衰えていったが、それでもなお単氏を追慕していたので、すぐさま劉乂を廃して除くことはしなかった。そして、実母の張氏を尊んで皇太后と呼んだ。
劉聡は、衛尉の呼延晏(こえんあん)を「使侍節・前鋒大都督・前軍大将軍」に任じ、禁兵二万七千を配備し、宜陽から洛川に入らせ、さらに王弥・劉曜および鎮軍将軍の石勒に命じて軍を進めて呼延晏に合流させた。呼延晏が河南まで到達した頃、晋の朝廷軍は前後に十二回も敗れ、死者は三万人余りに上った。王弥らがまだ到着しないうちに、呼延晏は、輜重を張方がかつて築いた砦に留め、そのまま洛陽に侵攻し、平昌門を落とし、東陽門・宣陽門などの諸門と諸々の官庁を焼いた。懐帝は、河南尹の劉黙を派遣して迎え撃たせたが、朝廷軍は社門で敗れた。呼延晏は、(王弥らの)外からの後続がまだ到着しないので、東陽門から、晋の王公以下の子女二百人余りを拉致して城外に去っていった。時に懐帝は黄河を渡って東に逃れようとし、船を洛水に浮かべて準備したが、呼延晏はそれをすべて焼き払い、張方がかつて築いた砦に戻った。王弥・劉曜が到着すると、また呼延晏と一緒に洛陽を包囲した。時に城内は飢餓がひどく、人はみなたがいに食らい合い、百官は分散し、賊に立ち向かおうとする固い意志を持つ者はいなかった。宣陽門が陥落すると、王弥と呼延晏は、南宮に入り、太極前殿に登り、兵を放って大いに略奪を働かせ、宮人・珍宝をすべて回収した。劉曜は、そこで晋の王公や百官以下の三万人余りを殺害し、洛水の北に京観(屍の山)を築いた。そして、懐帝の身柄および恵帝の皇后である羊后の身柄と、伝国の六璽を平陽に送り返した。劉聡は大赦を下し、嘉平と改元し、懐帝を「特進・左光禄大夫・平阿公」とした。
劉聡は、平西将軍の趙染、安西将軍の劉雅を派遣して二万の騎兵を率いて長安の南陽王・司馬模を攻撃させ、劉粲・劉曜に大軍を率いてその後続とさせた。趙染は、朝廷軍を潼関で破り、(晋の)将軍の呂毅が戦死した。趙染軍が下邽まで来ると、司馬模はそこで趙染に降伏した。趙染が司馬模を劉粲のもとに送ったところ、劉粲は、司馬模とその子の范陽王・司馬黎を殺害し、衛将軍の梁芬(りょうふん)、司馬模の長史の魯繇(ろよう)、兼散騎常侍の杜驁(とごう)・辛謐(しんひつ)と(前涼政権の張軌により派遣された)北宮純らを平陽に送った。劉聡は、劉粲が司馬模を殺害したことに対し、大いに怒った。劉粲は言った。「私が司馬模を殺したのは、そもそもヤツが天命を知る(=降伏する)のが遅すぎたからではなく、ただヤツが晋の宗室であるにもかかわらず、洛陽の危難に対して死節を尽くすことができず、まさに『(敵味方関係なく)天下の悪は一つである』というものでございますので、ヤツを誅殺したのです」と。劉聡は言った。「たとえそうだとしても、私は、お前が誅殺されたり降格(廃位)されたりする禍を免れることができないのを恐れている。天道や至高の神が、道理としてその行為に報いを与えるに違いない」と。
劉聡は、劉曜を「車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧」に任じ、改めて中山王に封じ、長安を鎮守させ、王弥を大将軍に任じ、斉公に封じた。まもなく石勒らが己吾の地で王弥を殺してその軍勢を併合し、王弥の叛逆の罪状を上表してきた。劉聡は大いに怒り、使者を派遣し、石勒が勝手に宰相を殺し、上を無下にする心があるのをとがめさせたが、一方で石勒に二心が生じることを恐れ、王弥の部下の兵衆を石勒に配備した。劉曜が長安を占拠すると、安定太守の賈疋(かひつ)と諸々の氐族・羌族たちはみな人質を送ってきたが、ただ雍州刺史の麹特(きくとく)、新平太守の竺恢(じくかい)は固守して降伏しなかった。護軍の麹允(きくいん)・頻陽令の梁粛は、京兆郡の南山から安定郡に逃げようとしていたところ、賈疋が派遣した任子(半分人質として相手に仕えさせるために差し出した子)に陰密県で遭遇したので、その任子を擁して(安定郡の治所である)臨涇に引き返させて一緒に向かい、賈疋を推戴して平南将軍とし、そうして賈疋が兵衆五万を率い、長安の劉曜を攻めたところ、扶風太守の梁綜や麹特・竺恢らもまた十万の兵衆を率いて合流した。劉曜は、劉雅・趙染を派遣して迎え撃ちに行かせたが、敗北して帰った。劉曜は、さらに長安の精鋭をすべて動員して諸軍と黄丘で戦ったが、劉曜軍は大敗し、劉曜自身も流矢に当たったので、退却して甘渠を保守した。また、杜県の人である王禿(おうとく)・紀特らが、新豊の劉粲を攻めたので、劉粲は平陽に帰った。劉曜は、池陽を攻めて陥落させ、一万人余りを拉致して長安に帰った。時に閻鼎(えんてい)らが、秦王・司馬鄴を奉じて皇太子とし、雍城に入ったので、関中の人々は、戎人(非漢族)も晋人(漢族)も、すべてそれに呼応した。
劉聡の皇后である呼延氏が死に、太保の劉殷(りゅういん)の娘を娶ろうとしたところ、弟の劉乂が固く諫めた。劉聡は、改めてこのことを太宰の劉延年、太傅の劉景に問うと、劉景らはみな言った。「私がかつて聞いたところによりますと、太保は自ら周の劉康公の子孫であると言っているとか。(同じ劉姓であるとはいえ)陛下の一族とは本源が異なりますので、その娘を娶るのは妥当でございます」と。劉聡は非常に喜び、兼大鴻臚の李弘を派遣して劉殷の二人の娘を左右の貴嬪に任じ、位は昭儀の上とし、さらに劉殷の四人の孫娘を迎えて貴人に任じ、位は貴嬪に次ぐものとした。(李弘を派遣するに当たって)劉聡は李弘に言った。「彼女らはみな容姿は絶世であり、女性としての徳はこの時世において最高であり、しかも太保は、朕とは実際には(先祖の)出自が異なるわけだが、そなたの意見はどうであろうか」と。李弘は言った。「太保の血筋は周に由来し、陛下の血筋とは本源が実際に異なっていますのに、陛下はまさに姓が同じであることを気に病んでおられます。それに東萊郡の人であった魏の司空の王基は当時の大儒であり、どうして礼を熟知していないことがあったでしょうか。しかし、その王基が子の王納のために太原郡の人であった司空の王沈の娘を娶らせたのは、姓は同じであっても、本源は異なっていたからでありましょう」と。劉聡は非常に喜び、李弘に黄金六十斤を賜わって言った。「そなたはこの見解を示して我が子弟たちを諭すべきである」と。そうして六人の劉氏に対する寵愛は後宮を傾け、劉聡はもはやめったに外出しなくなり、政事はみな中黄門に上奏文を持ってこさせ、左貴嬪にそれを決裁させた。
劉聡は、懐帝に儀同三司を授け、会稽郡公に封じ、(晋の旧臣である)庾珉(ゆびん)らに位に応じて秩石を加えた。劉聡は、懐帝を招き入れて宴会に参加させた際に、懐帝に言った。「そなたが豫章王であったとき、朕はかつて王武子(王済)と一緒にそなたを訪れたが、王武子が朕をそなたに紹介したとき、そなたは兼ねてから朕の名を聞いていたと言った。そこでそなたは自分で作った楽府を歌って朕に示し、そして朕にこう言った。『君は辞賦を作るのが得意だと聞いているので、ちょっと作ってみせよ』と。朕は、時に王武子と一緒に盛徳頌を作り、そなたはそれを善しと称えたが、それから長いときが経った。また、そなたは朕を招いて皇堂で射を行い、朕は十二回命中したが、そなたは王武子と並んで九回命中しただけだったので、そなたは朕に柘弓と銀の硯を贈った。そなたはそれらのことをはっきりと覚えているだろうか」と。懐帝は言った。「私がどうしてそれを忘れたりなどできましょうか。ただ恨むらくは、その当時に早くから陛下が龍顔であられる(=将来帝位に即く)ことを悟らなかったことでございます」と。劉聡は言った。「そなたの家の骨肉の争いは、何とひどいことか」と。懐帝は言った。「これはおそらく人事によるものではなく、皇天の意でございましょう。そのとき大漢は天に応じて歴数を受けようとしていたので、そこで陛下のために自ら互いに駆除することになったのです。それに私の家が、もし武皇(武帝・司馬炎)の業を奉じ、九族が親しく睦みあっていたなら、陛下がどうしてそれに代わって天下を得ることができましょうか」と。劉聡は夕暮れになってやっと宮中から出て、小劉貴人(先の劉殷の四人の孫娘のうちの一人)を懐帝に賜わり、懐帝に言った。「これは名公の孫であるが、今、特別にそなたに娶らせよう。そなたはこれをよく待遇すべきである」と。そこで小劉貴人を会稽国夫人に任じた。
劉聡は鎮北将軍の靳沖(きんちゅう)を派遣して太原に侵攻させ、さらに平北将軍の卜珝(ぼくく)を派遣して兵衆を率いてその後続とさせた。靳沖は、太原を攻めたが勝てず、その罪を卜珝になすりつけ、勝手に卜珝を斬った。劉聡はそれを聞き、大いに怒って言った。「この人(卜珝)は、朕ですら刑を加えるのを憚る(=徳望のある士大夫であるがゆえに尊重すべき)存在であるのに、靳沖は何様であるのか」と。そこで御史中丞の浩衍(こうえん)を派遣し、節を持たせて靳沖を斬らせた。
左都水使者である襄陵王・劉攄(りゅうちょ)は魚や蟹などの魚介類を供出できなかったかどにより、また、将作大匠の望都公の靳陵(きんりょう)は温明殿・徽光殿の二殿の建設を完成させることができなかったかどにより、いずれも東市で斬刑に処された。劉聡は、度を過ぎて何度も狩りに出かけては、いつも早朝に出発して暮に帰途に就き、汾水で漁を観察しては、昼では終わらず夜になっても燭を灯して留まった。そこで中軍将軍の王彰が諫めて言った。「今、大難はまだ平定されず、晋の残党が何とか命を永らえているという状態ですのに、陛下は白龍が魚の服を着て淵に遊ぶ(貴人がお忍びで遊行する喩え)ことの禍を恐れず、夜遅くになっても帰るのを忘れて熱中していらっしゃいます。陛下は、先帝の創業の艱難や、それを継承することの困難さについてお考えになるべきです。大いなる王業はここまで達成され、四海の人々も心を寄せている状態でありますのに、どうしてもうすぐ成ろうかというところでお止めになり、もうすぐ完成しようというところで台無しにしてしまってよいものでしょうか。近ごろの陛下の行いをつつしんで窺いますに、私は実に、連日、心を痛め、頭を痛めております。しかも愚人たちは、我が漢にまつろう心がまだ充分ではなく、晋を思う心がなお盛んでありますので、たとえば劉琨(りゅうこん)めはここからわずかな距離の地に割拠し、下手をすればその狂狷な刺客が一息つくくらいのわずかな時間でここまで到達し得ます。たとえ帝王であっても、軽々しく外に出てしまえば、一介の匹夫でもわたりあうことができてしまいます。陛下よどうか、これまでの行いを改め、将来に備えていただきますようお願い申し上げます。そうすれば、億兆の民にとっても幸甚でございます」と。劉聡は大いに怒り、命を下して王彰を斬ろうとした。しかし、上夫人の王氏が、叩頭して慈悲を乞うたので、そこで王彰を詔獄に繋ぐことにした。劉聡の母は、劉聡が刑殺したり激怒したりすることがあまりにも度を越しているので、三日間、何も食べず(それによって抗議し)、弟の劉乂や子の劉粲は、いずれも棺を従えて(決死の覚悟で)切実に諫めた。劉聡は怒って言った。「私がどうして(夏の)桀王・(殷の)紂王・(周の)幽王・厲王であるというのか。なのにお前らは、死んだわけでもないのに、こうしてやってきて私に向かって哭礼を行うのか」と。さらに、太宰の劉延年や諸々の公卿・列侯ら百人余りが、みな冠を外して涙を流して固く諫めて言った。「光文皇帝(劉淵)は優れた武によって天命を受け、大いなる王業を創建されましたが、世界はまだ統一されず、早くに世を去って天に昇ってしまわれました。陛下は天より叡聖なる徳を授かり、龍の如く雄飛して皇統を継ぎ、東は洛陽を平らげ、南は長安を定め、まことに功績は周の成王より高く、徳は夏の后帝啓を越えていると言えます。古は尭や舜の時代から、今上の陛下に至るまで、歴代の書物を見ますに、陛下に比肩し得る者はございません。しかし、最近ではしきりに、些細な職務に関してそれが果たされていないからとして(劉攄や靳陵などの)王公を斬り、直言して御意に逆らったとして、(王彰などの)大将を捕らえ、度を過ぎて何度も狩りに出かけ、枢要の政務をお修めにならないというのは、私どもがつつしんで理解に苦しむことであり、私どもの肝が破れ、胃がただれ、そのあまり寝食を忘れるほどになってしまいました原因でございます」と。劉聡はそこでやっと王彰を赦した。
麹特らが長安を囲むと、劉曜は連戦したが敗北し、そこで男女八万口余りを駆逐したり拉致したりして、退却して平陽に帰り、そのついでに三渚に駐屯していた(晋の)司徒の傅祗(ふし)を攻め、また麾下の右将軍の劉参を派遣して懐城の郭黙を攻撃させた。傅祗が病没して城が陥落すると、傅祗の孫の傅純・傅粋(ふすい)およびその麾下の二万戸余りを平陽県に移住させた。劉聡は傅祗に太保の位を追贈し、傅純・傅粋にはいずれも給事中の官位を授け、そして傅祗の子の傅暢(ふちょう)に言った。「ご尊父らは天命を悟らなかった(=劉聡に帰順しなかった)とはいえ、各々その君主に対して忠を尽くしたので、私もやはりそれを信義があるとして称えるだけの心がある。ただ、晋主はすでに降り、その天命は人々が支持するものではなくなったのに、南の辺境の地で略奪や殺戮を行い、辺境の人々が天命に帰するのを妨害したのは、彼らの罪である。それなのに、(傅祗は)大悪の輩でありながら、我が元勲や旧臣たちと同様の官位を追贈され、(傅純や傅粋らは)逆臣の子孫でありながら、(給事中として)宮中に参ずる栄誉をこうむるとは、そなたは我が偉大なる漢の徳が広大であることが分かったであろうか」と。傅暢は言った。「陛下はいつも亡父をお褒めいただき、(天命を悟ることのできない)小臣であるからとその忠節を評価しないということもなく、このような恩恵を賜わるとは、まさに『明主は国を征伐してもその民のことを憐れむ』という、そのような義の行いであり、それに加えて私が万民と同じく陛下の民となることができましょうとは、まさに自然に対して生を感謝すべきものではありません(=自然の道理のおかげではなく、陛下の恩徳によって生かされたのです)」と。
劉聡が劉粲・劉曜らを派遣して晋陽の劉琨を攻撃させると、劉琨は、張喬(ちょうきょう)に命じてこれを迎え撃たせ、張喬は武灌の地で戦ったが、張喬は敗北して死に、晋陽の人々は危惧した。そして太原太守の高喬(こうきょう)、劉琨の別駕従事の郝聿(かくいつ)は、晋陽を差し出して劉粲に降った。劉琨は、左右の数十騎と一緒に、自らの妻子を連れて趙郡の亭頭に逃げ、そのまま常山に赴いた。劉粲・劉曜は、晋陽城に入城した。これに先立って、劉琨は代王の猗盧と兄弟の契りを結んでいたので、そこでこのとき敗れたことを猗盧に告げ、それに加えて軍隊の派遣を要請した。猗盧は、子の日利孫・賓六須および将軍の衛雄・姬澹(きたん)らを派遣して数万の兵衆を率いて晋陽を攻めさせ、劉琨は散り散りになっていた兵卒たち千人余りをかき集めてその先導役を務め、猗盧自身は六万の兵衆を率いて狼猛に到達した。劉曜と賓六須が汾東の地で戦ったところ、劉曜は馬から落ち、流矢に当たり、体に七つの傷を負った。討虜将軍の傅武(ふぶ)が自分の馬を劉曜に与えると、劉曜は言った。「昨今は危亡の極みの時期であり、人はそれぞれ禍を免れたいと願っている。私の傷はすでに重く、思うにおそらくはここで死ぬことになるだろう」と。傅武は泣いて言った。「私は小人でありましたが、大王の知遇と抜擢を受け、そうして今の私がありますので、いつも大王のために命を捧げようと思っておりました。今がまさにその時です。しかも皇室は王業の創建を開始したばかりであり、大難はまだ収まっておりませんので、どうして天下に一日たりとも大王が無くてよいものでしょうか」と。そこで劉曜を扶けて馬に乗せ、馬を鞭打って汾水を渡らせ、傅武自身は引き返して戦死した。劉曜が戻って晋陽城に入城すると、夜に劉粲らと一緒に人々を拉致し、蒙山を越えて平陽に逃げ帰った。猗盧は、騎兵を率いてこれを追撃し、藍谷で戦い、劉粲は敗北し、征虜将軍の邢延(けいえん)は斬られ、鎮北将軍の劉豊は捕虜になった。劉琨は、離散した兵士たちを糾合し、陽曲を拠点とし、猗盧は劉琨のその一連の行動を護衛してから帰った。

原文

正旦、聰讌于光極前殿、逼帝行酒、光祿大夫庾珉・王儁等起而大哭、聰惡之。會有告珉等謀以平陽應劉琨者、聰遂鴆帝而誅珉・儁、復以賜帝劉夫人爲貴人、大赦境内殊死已下。
立左貴嬪劉氏爲皇后。聰將爲劉氏起䳨儀殿於後庭、廷尉陳元達諫曰「臣聞古之聖王愛國如家、故皇天亦祐之如子。夫天生蒸民而樹之君者、使爲之父母以刑賞之、不欲使殿屎黎元而蕩逸一人。晉氏闇虐、視百姓如草芥、故上天剿絕其祚。乃眷皇漢、蒼生引領息肩、懷更蘇之望有日矣。我高祖光文皇帝靖言惟茲、痛心疾首、故身衣大布、居不重茵、先皇后嬪服無綺綵。重逆羣臣之請、故建南北宮焉。今光極之前足以朝羣后饗萬國矣、昭德・溫明已後足可以容六宮、列十二等矣。陛下龍興已來、外殄二京不世之寇、内興殿觀四十餘所、重之以饑饉疾疫、死亡相屬、兵疲於外、人怨於内。爲之父母固若是乎。伏聞詔旨、將營䳨儀、中宮新立。誠臣等樂爲子來者也。竊以大難未夷、宮宇粗給、今之所營、尤實非宜。臣聞太宗承高祖之業、惠呂息役之後、以四海之富、天下之殷、尚以百金之費而輟露臺、歷代垂美、爲不朽之迹。故能斷獄四百、擬於成康。陛下之所有、不過太宗二郡地耳、戰守之備者、豈僅匈奴・南越而已哉。孝文之廣、思費如彼、陛下之狹、欲損如此、愚臣所以敢昧死犯顏色、冒不測之禍者也。」聰大怒曰「吾爲萬機主、將營一殿、豈問汝鼠子乎。不殺此奴、沮亂朕心、朕殿何當得成邪。將出斬之、并其妻子同梟東市、使羣鼠共穴。」時在逍遙園李中堂、元達抱堂下樹叫曰「臣所言者、社稷之計也、而陛下殺臣。若死者有知、臣要當上訴陛下於天、下訴陛下於先帝。朱雲有云『臣得與龍逢・比干游於地下足矣。』未審陛下何如主耳。」元達先鎖腰而入、及至、即以鎖繞樹、左右曳之不能動。聰怒甚。劉氏時在後堂、聞之、密遣中常侍私敕左右停刑、於是手疏切諫、聰乃解、引元達而謝之、易逍遙園爲納賢園、李中堂爲愧賢堂。
時愍帝即位于長安、聰遣劉曜及司隸喬智明・武牙李景年等寇長安、命趙染率眾赴之。時大都督麴允據黃白城、累爲曜・染所敗。染謂曜曰「麴允率大眾在外、長安可襲而取之。得長安、黃白城自服。願大王以重眾守此。染請輕騎襲之。」曜乃承制加染前鋒大都督・安南大將軍、以精騎五千配之而進。王師敗於渭陽、將軍王廣死之。染夜入長安外城、帝奔射雁樓、染焚燒龍尾及諸軍營、殺掠千餘人、旦退屯逍遙園。麴允率眾襲曜、連戰敗之。曜入粟邑、遂歸平陽。
時流星起於牽牛、入紫微、龍形委蛇、其光照地、落于平陽北十里。視之、則有肉長三十步、廣二十七步、臭聞于平陽、肉旁常有哭聲、晝夜不止。聰甚惡之、延公卿已下問曰「朕之不德、致有斯異、其各極言、勿有所諱。」陳元達及博士張師等進對曰「星變之異、其禍行及。臣恐後庭有三后之事。亡國喪家、靡不由此、願陛下慎之。」聰曰「此陰陽之理、何關人事。」既而劉氏產一蛇一猛獸、各害人而走、尋之不得、頃之、見在隕肉之旁。俄而劉氏死、乃失此肉、哭聲亦止。自是後宮亂寵、進御無序矣。
聰以劉易爲太尉。初置相國、官上公、有殊勳德者死乃贈之。於是大定百官、置太師・丞相、自大司馬以上七公、位皆上公、綠綟綬、遠遊冠。置輔漢、都護、中軍、上軍、輔軍、鎮・衞京、前・後・左・右・上・下軍、輔國、冠軍、龍驤、武牙大將軍、營各配兵二千、皆以諸子爲之。置左右司隸、各領戸二十餘萬、萬戸置一内史、凡内史四十三。單于左右輔、各主六夷十萬落、萬落置一都尉。省吏部、置左右選曹尚書。自司隸以下六官、皆位次僕射。置御史大夫及州牧、位皆亞公。以其子粲爲丞相・領大將軍・錄尚書事、進封晉王、食五都。劉延年錄尚書六條事、劉景爲太師、王育爲太傅、任顗爲太保、馬景爲大司徒、朱紀爲大司空、劉曜爲大司馬。
曜復次渭汭、趙染次新豐。索綝自長安東討染、染狃于累捷、有輕綝之色。長史魯徽曰「今司馬鄴君臣自相逼僭王畿、雄劣不同、必致死距我、將軍宜整陣案兵以擊之。弗可輕也。困獸猶鬭。況於國乎。」染曰「以司馬模之強、吾取之如拉朽。索綝小豎、豈能汚吾馬蹄刀刃邪。要擒之而後食。」晨率精騎數百、馳出逆之、戰于城西、敗績而歸、悔曰「吾不用魯徽之言、以至於此、何面見之。」於是斬徽。徽臨刑謂染曰「將軍愎諫違謀、戇而取敗、而復忌前害勝、誅戮忠良、以逞愚忿、亦何顏面瞬息世間哉。袁紹爲之於前、將軍踵之於後、覆亡敗喪、亦當相尋。所恨不得一見大司馬而死。死者無知則已;若其有知、下見田豐爲徒、要當訴將軍於黃泉、使將軍不得服牀枕而死。」叱刑者曰「令吾面東向。」大司馬曜聞之曰「『蹄涔不容尺鯉』、染之謂也。」
曜還師攻郭默于懷城、收其米粟八十萬斛、列三屯以守之。聰遣使謂曜曰「今長安假息、劉琨游魂、此國家所尤宜先除也。郭默小醜、何足以勞公神略。可留征虜將軍貝丘王翼光守之、公其還也。」於是曜歸蒲坂。俄而徵曜輔政。
趙染寇北地、夢魯徽大怒、引弓射之、染驚悸而寤。旦將攻城、中弩而死。
聰以粲爲相國、總百揆、省丞相以并相國。平陽地震、烈風拔樹發屋。光義人羊充妻產子二頭、其兄竊而食之、三日而死。聰以其太廟新成、大赦境内、改年建元。雨血於其東宮延明殿、徹瓦在地者深五寸。劉乂惡之、以訪其太師盧志・太傅崔瑋・太保許遐。志等曰「主上往以殿下爲太弟者、蓋以安眾望也。志在晉王久矣、王公已下莫不希旨歸之。相國之位、自魏武已來、非復人臣之官、主上本發明詔、置之爲贈官、今忽以晉王居之、羽儀威尊踰於東宮、萬機之事無不由之、置太宰・大將軍及諸王之營以爲羽翼、此事勢去矣、殿下不得立明也。然非止不得立而已、不測之危厄在於旦夕、宜早爲之所。四衞精兵不減五千、餘營諸王皆年齒尚幼、可奪而取之。相國輕佻、正可煩一刺客耳。大將軍無日不出、其營可襲而得也。殿下但當有意。二萬精兵立便可得、鼓行向雲龍門、宿衞之士孰不倒戈奉迎。大司馬不慮爲異也。」乂弗從、乃止。
聰如中護軍靳準第、納其二女爲左右貴嬪、大曰月光、小曰月華、皆國色也。數月、立月光爲皇后。
東宮舍人荀裕告盧志等勸乂謀反、乂不從之狀。聰於是收志・瑋・遐於詔獄、假以他事殺之。使冠威卜抽監守東宮、禁乂朝賀。乂憂懼不知所爲、乃上表自陳、乞爲黔首、并免諸子之封、褒美晉王粲宜登儲副、抽又抑而弗通。
其青州刺史曹嶷攻汶陽關・公丘、陷之、害齊郡太守徐浮、執建威劉宣、齊魯之間郡縣壘壁降者四十餘所。嶷遂略地、西下祝阿・平陰、眾十餘萬、臨河置戍、而歸于臨淄。嶷於是遂有雄據全齊之志。石勒以嶷之懷二也、請討之。聰又憚勒之并齊、乃寢而弗許。
劉曜濟自盟津、將攻河南、將軍魏該奔于一泉塢。曜進攻李矩于滎陽、矩遣將軍李平師於成皋、曜覆而滅之。矩恐、送質請降。
時聰以其皇后靳氏爲上皇后、立貴妃劉氏爲左皇后、右貴嬪靳氏爲右皇后。左司隸陳元達以三后之立也、極諫、聰不納、乃以元達爲右光祿大夫、外示優賢、内實奪其權也。於是太尉范隆・大司馬劉丹・大司空呼延晏・尚書令王鑒等皆抗表遜位、以讓元達。聰乃以元達爲御史大夫・儀同三司。
劉曜寇長安、頻爲王師所敗。曜曰「彼猶強盛、弗可圖矣。」引師而歸。
聰宮中鬼夜哭、三日而聲向右司隸寺、乃止。其上皇后靳氏有淫穢之行、陳元達奏之。聰廢靳、靳慚恚自殺。靳有殊寵、聰迫於元達之勢、故廢之。既而追念其姿色、深仇元達。
劉曜進師上黨、將攻陽曲、聰遣使謂曜曰「長安擅命、國家之深恥也。公宜以長安爲先、陽曲一委驃騎。天時人事、其應至矣。公其亟還。」曜迴滅郭邁、朝于聰、遂如蒲阪。
平陽地震、雨血于東宮、廣袤頃餘。
劉曜又進軍、屯于粟邑。麴允饑甚、去黃白而軍于靈武。曜進攻上郡、太守張禹與馮翊太守梁肅奔于允吾。於是關右翕然、所在應曜。曜進據黃阜。

訓読

正旦、聰、光極前殿に讌し、帝に行酒を逼るや、光祿大夫の庾珉(ゆびん)・王儁等、起ちて大いに哭したれば、聰、之を惡む。會々珉等は謀りて平陽を以て劉琨(りゅうこん)に應ぜんとすと告げし者有り、聰、遂に帝を鴆して珉・儁を誅し、復た帝に賜いし劉夫人を以て貴人と爲し、境内の殊死已下を大赦す。
左貴嬪の劉氏を立てて皇后と爲す。聰、將に劉氏の爲に䳨儀殿を後庭に起てんとするや、廷尉の陳元達、諫めて曰く「臣聞くならく、古の聖王は國を愛すること家の如く、故に皇天も亦た之を祐くること子の如し、と。夫れ天の蒸民を生みて之に君を樹つるは、之が父母と爲して以て之を刑賞せしむればなりて、黎元を殿屎せしめて一人を蕩逸せしむるを欲せず。晉氏は闇虐にして、百姓を視ること草芥の如く、故に上天は其の祚を剿絕す。乃ち皇漢を眷み、蒼生、領を引して息肩し、更蘇の望を懷くこと有日。我が高祖光文皇帝、靖みて言に茲を惟い、心を痛め首を疾み、故に身は大布を衣、居は茵を重ねず、先皇の后嬪、服に綺綵無し。羣臣の請に逆わんことを重り、故に南北宮を建つ。今、光極の前は以て羣后を朝せしめ萬國を饗すに足り、昭德・溫明已後は以て六宮を容れ、十二等を列すべきに足る。陛下の龍興して已來、外は二京の不世の寇を殄し、内は殿觀四十餘所を興し、之に重ぬるに饑饉疾疫あり、死亡するもの相い屬ぐを以てしたれば、兵は外に疲れ、人は内に怨む。之が父母と爲るは固より是くの若からんや。伏して詔旨を聞くに、將に䳨儀を營み、中宮新たに立たんとす、と。誠に臣等の樂しみて子のごとく來たるを爲す者なり。竊かに以うに、大難は未だ夷がず、宮宇は粗し給りたれば、今の營む所、尤も實に宜に非ず。臣聞くならく、太宗は高祖の業、惠呂の息役の後を承け、四海の富、天下の殷を以てすら、尚お百金の費を以てして露臺を輟め、歷代に美を垂れ、不朽の迹を爲す。故に能く斷獄すること四百、成康に擬せらる。陛下の有する所、太宗の二郡の地を過ぎざるのみにして、戰守の備えは、豈に僅かに匈奴・南越のみならんや。孝文の廣にして、費を思うこと彼の如く、陛下の狹にして、損を欲すること此くの如きは、愚臣の敢えて昧死して顏色を犯し、不測の禍を冒す所以の者なり」と。聰、大いに怒りて曰く「吾は萬機の主たれば、將に一殿を營まんとするは、豈に汝鼠子に問わんや。此奴を殺さずんば、朕の心を沮亂すれば、朕の殿、何ぞ當に得て成るべけんや。將に出だして之を斬り、其の妻子と并わせて同に東市に梟し、羣鼠をして穴を共にせしめんとす」と。時に逍遙園の李中堂に在り、元達、堂下の樹を抱えて叫びて曰く「臣の言す所の者は、社稷の計なるに、而るに陛下は臣を殺さんとす。若し死者に知有らば、臣、要ず當に上は陛下を天に訴え、下は陛下を先帝に訴うべし。朱雲に云う有り『臣、龍逢・比干と與に地下に游ぶを得ば足れり』と。未だ陛下の何如なる主ならんかを審らかにせざるのみ」と〔一〕。元達、先に腰を鎖して入り、至るに及び、即ち鎖を以て樹に繞わせたれば、左右、之を曳くも動かす能わず。聰、怒ること甚し。劉氏、時に後堂に在り、之を聞くや、密かに中常侍を遣わして私かに左右に敕して刑を停めしめ、是に於いて手ずから疏して切諫するや、聰、乃ち解け、元達を引きて之に謝し、逍遙園を易えて納賢園と爲し、李中堂もて愧賢堂と爲す。
時に愍帝、長安に即位したれば、聰、劉曜及び司隸の喬智明(きょうちめい)・武牙〔二〕の李景年等を遣わして長安に寇せしめ、趙染に命じて眾を率いて之に赴かしむ。時に大都督の麴允(きくいん)、黃白城に據り、累りに曜・染の敗る所と爲る。染、曜に謂いて曰く「麴允は大眾を率いて外に在れば、長安は襲いて之を取るべし。長安を得ば、黃白城は自ずから服せん。願わくは大王、重眾を以て此を守られんことを。染、請うらくは輕騎もて之を襲わん」と。曜、乃ち承制して染に前鋒大都督・安南大將軍を加え、精騎五千を以て之に配して進ましむ。王師、渭陽に敗れ、將軍の王廣、之に死す。染の夜に長安の外城に入るや、帝、射雁樓に奔り、染、龍尾及び諸軍營を焚燒し、殺掠すること千餘人、旦に退きて逍遙園に屯す。麴允、眾を率いて曜を襲い、連戰して之を敗る。曜、粟邑に入り、遂に平陽に歸る。
時に流星、牽牛より起ち、紫微に入り、龍形にして委蛇たり、其の光は地を照らし、平陽の北十里に落つ。之を視れば、則ち肉有り長三十步、廣二十七步、臭は平陽に聞こえ、肉旁に常に哭聲有り、晝夜止まず。聰、甚だ之を惡み、公卿已下を延きて問いて曰く「朕の不德にして、斯の異有るを致せば、其れ各々言を極め、諱む所有る勿かれ」と。陳元達及び博士の張師等、進みて對えて曰く「星變の異、其の禍、行々及ばんとす。臣、後庭に三后〔三〕有るの事を恐る。國を亡い家を喪うこと、此に由らざるは靡し。願わくは陛下、之を慎まれんことを」と。聰曰く「此れ陰陽の理なれば、何ぞ人事に關わらんや」と。既にして劉氏、一蛇一猛獸を產み、各々人を害して走り、之を尋ぬるも得ざるに、之を頃くして、隕肉の旁に在るを見る。俄かにして劉氏死し、乃ち此の肉失せ、哭聲も亦た止む。是より後宮は寵を亂し、進御は序無し。
聰、劉易を以て太尉と爲す。初めて相國を置き、官は上公たり、殊勳德有る者の死すれば乃ち之を贈る。是に於いて大いに百官を定め、太師・丞相を置き、大司馬より以上の七公〔四〕、位は皆な上公たり、綠綟綬、遠遊冠たらしむ。輔漢、都護、中軍、上軍、輔軍、鎮・衞京、前・後・左・右・上・下軍、輔國、冠軍、龍驤、武牙〔二〕大將軍を置き、營ごとに各々兵二千を配し、皆な諸子を以て之と爲す。左右司隸を置き、各々戸二十餘萬を領せしめ、萬戸ごとに一内史を置き、凡そ内史は四十三。單于左右輔は、各々六夷十萬落を主り、萬落ごとに一都尉を置く。吏部を省き、左右選曹尚書を置く。司隸より以下の六官、皆な位は僕射に次ぐ。御史大夫及び州牧を置き、位は皆な公に亞ぐ。其の子の粲を以て丞相・領大將軍・錄尚書事と爲し、封を晉王に進め、五都を食ましむ。劉延年もて尚書六條事を錄せしめ、劉景もて太師と爲し、王育もて太傅と爲し、任顗もて太保と爲し、馬景もて大司徒と爲し、朱紀もて大司空と爲し、劉曜もて大司馬と爲す。
曜、復た渭汭に次り、趙染、新豐に次る。索綝(さくちん)、長安より東のかた染を討つや、染、累捷に狃れたれば、綝を輕んずるの色有り。長史の魯徽(ろき)曰く「今、司馬鄴の君臣は自ら僭王畿〔五〕に逼り、雄劣同じからざるを相、必ず死を致して我を距がんとすれば、將軍、宜しく陣を整え兵を案じて以て之を擊つべし。輕んずべからざるなり。困獸すら猶お鬭う。況んや國をや」と。染曰く「司馬模の強を以て、吾、之を取ること朽を拉くが如し。索綝の小豎、豈に能く吾が馬蹄刀刃を汚さんや。要ず之を擒にして後に食らわん」と。晨に精騎數百を率い、馳せて出でて之を逆え、城西に戰い、敗績して歸り、悔いて曰く「吾、魯徽の言を用いず、以て此に至れば、何の面ありてか之に見えん」と。是に於いて徽を斬る。徽、刑に臨みて染に謂いて曰く「將軍、諫に愎り謀に違い、戇にして敗を取り、而も復た前を忌み勝を害し、忠良を誅戮し、以て愚忿を逞しくすれば、亦た何の顏面ありてか世間に瞬息せんや。袁紹は之を前に爲し、將軍は之を後に踵ぎ、覆亡敗喪、亦た當に相い尋ぐべし。恨む所は大司馬を一見するを得ずして死することなり。死者に知無ければ則ち已まん。若し其れ知有らば、下りて田豐に見いて徒と爲り、要ず當に將軍を黃泉に訴え、將軍をして牀枕を服して死するを得ざらしめん」と。刑者を叱りて曰く「吾が面をして東のかた向けしめよ」と。大司馬曜、之を聞きて曰く「『蹄涔、尺鯉を容れず』とは、染の謂なり」と。
曜、師を還して郭默を懷城に攻め、其の米粟八十萬斛を收め、三屯を列きて以て之を守らしむ。聰、使を遣わして曜に謂いて曰く「今、長安は假息し、劉琨(りゅうこん)は游魂たれば、此れ國家の尤も宜しく先ず除くべき所なり。郭默の小醜、何ぞ以て公の神略を勞すに足らんや。征虜將軍の貝丘王翼光を留めて之を守らしめ、公は其れ還るべきなり」と。是に於いて曜、蒲坂に歸る。俄かにして曜を徵して輔政せしむ。
趙染、北地に寇するや、魯徽の大いに怒り、弓を引きて之を射るを夢み、染、驚悸して寤む。旦に將に城を攻めんとするや、弩に中りて死す。
聰、粲を以て相國と爲し、百揆を總べしめ、丞相を省きて以て相國に并す。平陽にて地震い、烈風、樹を拔き屋を發す。光義の人の羊充の妻、子の二頭あるを產み、其の兄、竊みて之を食(やしな)うも、三日にして死す。聰、其の太廟の新たに成るを以て、境内に大赦し、年を建元に改む。血を其の東宮の延明殿に雨らし、瓦を徹りて地に在ること深さ五寸。劉乂、之を惡み、以て其の太師の盧志・太傅の崔瑋(さいい)・太保の許遐(きょか)に訪う。志等曰く「主上の往ろ殿下を以て太弟と爲すは、蓋し以て眾望を安んぜんとすればなり。志の晉王に在ること久しければ、王公已下、旨を希えて之に歸せざるは莫し。相國の位、魏武より已來、復た人臣の官に非ざれば、主上は本と明詔を發し、之を置きて贈官と爲すに、今、忽ちにして晉王を以て之に居らしめ、羽儀の威尊、東宮を踰え、萬機の事、之に由らざる無く、太宰・大將軍及び諸王の營を置きて以て羽翼と爲すは、此れ事勢の去り、殿下の立つを得ざること明らかなり。然も止だに立つを得ざるのみに非ず、不測の危厄は旦夕に在れば、宜しく早く之が所を爲すべし。四衞の精兵、五千を減ぜず、餘營の諸王は皆な年齒尚お幼ければ、奪いて之を取るべし。相國は輕佻なれば、正に一刺客を煩わすべきのみ。大將軍、日として出でざる無ければ、其の營は襲いて得べきなり。殿下、但だ當に意有るべし。二萬の精兵、立ちどころに便ち得べく、鼓行して雲龍門に向かわば、宿衞の士、孰れか戈を倒にして奉迎せざらんや。大司馬、異を爲すを慮らざらん」と。乂、從わず、乃ち止む。
聰、中護軍の靳準(きんじゅん)の第に如き、其の二女を納れて左右貴嬪と爲し、大なるは月光と曰い、小なるは月華と曰い、皆な國色なり。數月にして、月光を立てて皇后と爲す。
東宮舍人の荀裕、盧志等の乂に謀反を勸め、乂の從わざるの狀を告ぐ。聰、是に於いて志・瑋・遐を詔獄に收め、假するに他事を以てして之を殺す。冠威の卜抽をして東宮を監守せしめ、乂の朝賀するを禁ず。乂、憂懼して爲す所を知らず、乃ち上表して自ら陳べ、黔首と爲り、并びに諸子の封を免ぜんことを乞い、晉王粲を褒美して宜しく儲副に登るべしというも、抽、又た抑えて通ぜず。
其の青州刺史の曹嶷(そうぎょく)、汶陽關・公丘を攻め、之を陷し、齊郡太守の徐浮を害し、建威の劉宣を執え、齊魯の間の郡縣壘壁の降る者は四十餘所。嶷、遂に地を略し、西のかた祝阿・平陰を下し、眾は十餘萬、河に臨みて戍を置き、而して臨淄に歸る。嶷、是に於いて遂に全齊に雄據するの志有り。石勒、嶷の二を懷けるを以て、之を討たんことを請う。聰、又た勒の齊を并わすを憚り、乃ち寢めて許さず。
劉曜、濟るに盟津よりし、將に河南を攻めんとするや、將軍の魏該、一泉塢に奔る。曜の進みて李矩を滎陽に攻むるや、矩、將軍の李平の師を成皋に遣わし、曜、覆して之を滅ぼす。矩、恐れ、質を送りて降らんことを請う。
時に聰は其の皇后の靳氏を以て上皇后と爲し、貴妃の劉氏を立てて左皇后と爲し、右貴嬪の靳氏もて右皇后と爲す。左司隸の陳元達、三后の立つを以て、極諫するも、聰、納れず、乃ち元達を以て右光祿大夫と爲し、外は賢を優するを示すも、内は實は其の權を奪うなり。是に於いて、太尉の范隆・大司馬の劉丹・大司空の呼延晏・尚書令の王鑒等、皆な表を抗げて位を遜り、以て元達に讓る。聰、乃ち元達を以て御史大夫・儀同三司と爲す。
劉曜、長安に寇し、頻りに王師の敗る所と爲る。曜曰く「彼れ猶お強盛なれば、圖るべからず」と。師を引きて歸る。
聰の宮中、鬼、夜に哭し、三日にして聲、右司隸寺に向かい、乃ち止む。其の上皇后の靳氏、淫穢の行有り、陳元達、之を奏す。聰、靳を廢し、靳、慚恚して自殺す。靳、殊寵有るも、聰、元達の勢に迫られたれば、故に之を廢す。既にして其の姿色を追念し、深く元達を仇す。
劉曜、師を上黨に進め、將に陽曲を攻めんとするや、聰、使を遣わして曜に謂いて曰く「長安の命を擅にするは、國家の深恥なり。公、宜しく長安を以て先と爲し、陽曲は一に驃騎に委ぬべし。天時人事、其れ應に至るべし。公、其れ亟やかに還れ」と。曜、迴りて郭邁を滅ぼし、聰に朝し、遂に蒲阪に如く。
平陽にて地震え、血を東宮に雨らすこと、廣袤頃餘。
劉曜、又た進軍し、粟邑に屯す。麴允、饑うること甚しく、黃白を去りて靈武に軍す。曜、進みて上郡を攻め、太守の張禹、馮翊太守の梁肅と與に允吾に奔る。是に於いて關右は翕然とし、所在、曜に應ず。曜、進みて黃阜に據る。

〔一〕陳元達が樹を抱えて動こうとせず諫言を呈したのは、言中にも引用されている朱雲が欄干にすがって前漢の成帝を諫めた故事にならったものである。その結びの言葉である「未審陛下何如主耳。」も、朱雲の「未知聖朝何如耳」という結びの言葉をオマージュしている。
〔二〕『晋書』が編纂された唐代では李虎の諱を避けて「虎」を「武」としているため、伝統的な将軍号である「虎牙将軍」は「武牙将軍」と表記される。ここも他の例と同様、本来の名称は「虎牙」であろう。
〔三〕『資治通鑑考異』も指摘するように、劉聡が三人の皇后を置いたのは下文に出てくる通りこれより後の出来事であり、ここにこの記事を配列するのは、時系列としておかしい。
〔四〕『晋書斠注』では、直後の文に見える丞相(劉粲)・太師(劉景)・太傅(王育)・太保(任顗)・大司徒(馬景)・大司空(朱紀)・大司馬(劉曜)のことを七公とする『晋略』の記述を紹介する。ただ、『晋書斠注』も指摘する通り、当時、劉延年や劉易が担った太宰、劉易や范隆が担った太尉も存在し、これが含まれないのは不可解である。そして文脈からしても、あるいは当時の「上公」の概念からしても、それは三公の上の位を指すことから、七公の中には大司徒・大司空・太尉の三公は含まれず、丞相(劉粲)・太宰(劉延年)・太師(劉景)・太傅(王育)・太保(任顗)の五つに加え、上文の相国と、「自大司馬以上」とあるところの大司馬(劉曜)を加えた七公のことを指すのかもしれない。
〔五〕当時の長安は晋の愍帝政権の都であるが、劉聡ら漢朝からすれば正統な王朝ではないので、「僭」の字が付されている。

現代語訳

正月元旦、劉聡が光極前殿で宴を開き、懐帝に無理やり酌をさせると、光禄大夫の庾珉(ゆびん)・王儁らは、立ち上がって大いに声をあげて泣き出したので、劉聡はそれを不快に思った。ちょうど、庾珉らは平陽ごと劉琨(りゅうこん)に内応しようと画策していると密告した者がいたので、劉聡は、そこで懐帝を毒殺し、庾珉・王儁を誅殺し、懐帝に賜わった劉夫人をまた自分の貴人とし、領域内の殊死以下の者に対して大赦を行った。
また、左貴嬪の劉氏を皇后に立てた。劉聡が劉氏のために䳨儀殿を禁庭に建てようとしたところ、廷尉の陳元達が諫めて言った。「私が聞くところによりますと、古の聖王は家を愛するように国を愛し、それゆえ皇天もまた子を助けるように天子たる帝王を助けるのであると言います。そもそも天が民草を生んで彼らの上に君主を置いたのは、民草の父母のような存在として刑罰や恩賞を行わせるためでありまして、民草を呻吟させてたった一人を放蕩させようとしたからではありません。晋氏は暗愚かつ暴虐であり、人々を草や芥のように見なし、それゆえ上天はその国運を廃絶させたのです。そこで天は我が皇漢を顧みて天命を降し、民衆は首を伸ばして肩の荷を下ろし、ずっと再生の望みを抱いております。我らが高祖光文皇帝(劉淵)は、恭謙にこのことを思し召し、心を痛めて頭を悩まし、それゆえ身には大布(粗末な布)を身に着け、居場所には敷物を重ねて敷くことをせず、先帝の皇后・妃嬪たちには、あやぎぬの服はありませんでした。ただ、光文皇帝は臣下たちの要請に逆らうことを憚り、それゆえ南宮・北宮をお建てになりました。今、光極殿の前殿は諸侯を朝見させ万国の使節をもてなすのに十分であり、昭徳殿・温明殿より後ろは六宮(后妃たちのための六つの寝宮)を収容し、十二等の妃嬪たちを配置することができるだけの十分な広さがあります。陛下が龍のごとく興隆して以来、外は二京(洛陽・長安)の凡常ならざる賊を滅ぼし、内は宮殿や高楼を四十ヶ所余り造営し、それに加えて飢饉や疫病が蔓延し、人々が相継いで死亡する事態となりましたので、外では兵が疲れ、内では人々が怨みを抱いております。民草の父母となるというのは、どうしてこのような有り様のことを言うのでしょうか。つつしんで詔を聞きますに、䳨儀殿を造営し、中宮が新たに建とうとしているとのこと。それは実に私どもも、まさに子が親のもとに来るように、喜んでお慕い申し上げるものでございます。しかし、愚見を申し上げますと、大難はまだ平定されず、宮殿はすでにおおむね十分備わっていますので、今造営されようとしているものは、とりわけ実に妥当ではございません。私が聞くところによりますと、太宗(前漢の文帝)は高祖(劉邦)の功業、および恵帝・呂后が戦役をやめて兵役や徭役を減免した後の世を継承し、四海の富や天下の豊かさがありながら、それでも百金の費用がかかるからとして露台を建造するのをやめ、歴代にその美名を伝え、不朽の事跡を残しました。それゆえ、四百件の断獄をよく裁き、周の成王・康王になぞらえられました。陛下の領有地は太宗の時代の二郡程度の地を上回らず、戦争・防衛に必要な備えは、どうして太宗が匈奴・南越にさえ備えればよかったという程度のものでありましょうか。孝文帝(前漢の文帝)の領有地の広さにもかかわらず、浪費を思う様はそのようであり、陛下の領有地の狭さにもかかわらず、浪費をなそうとする様はこのようでありますのは、私が敢えて死を覚悟してご機嫌を損ない、不測の禍(=誅殺)を冒して申し上げる理由でございます」と。劉聡は大いに怒って言った。「私は万機を統べる主であるから、宮殿一つを造営しようとするのに、どうしてお前の如きネズミに相談などしようか。こやつを殺さなければ、朕の計画を邪魔するであろうから、朕の宮殿はどうして完成することができようか。さっさと連れ出してこやつを斬り、その妻子と一緒に東市でさらし首とし、ネズミどもを同じ穴に放り込んでくれようぞ」と。当時、劉聡らは逍遥園の李中堂におり、陳元達は、その堂下の樹を抱えて叫んで言った。「私が申し上げたことは国家のための計でありますのに、陛下は私を殺そうとなさっています。もし死者に意識というものがあるのならば、私は必ず上は陛下を天に訴え、下は陛下を先帝に訴えましょう。かの朱雲も言いました。『私は、龍逢・比干と一緒に地下で遊ぶことができれば十分です』と。さて、陛下は如何なる主であるのでしょうか」と。陳元達は、前もって腰に鎖をくくりつけて入り、劉聡のもとに至ると、すぐにその鎖を樹にまとわせていたので、劉聡の左右の者が鎖を曳いても陳元達をどかすことができなかった。劉聡は激しく怒った。(皇后の)劉氏は時に後堂におり、このことを聞くと、こっそり中常侍を派遣し、私的に劉聡の左右の者に命じて刑を止めさせ、そこで直筆で上疏文を書いて痛烈に諫めたところ、やっと劉聡の怒りは収まり、陳元達を招いて謝罪し、逍遥園の名称を納賢園に改め、李中堂を愧賢堂と呼んだ。
時に(晋の)愍帝が長安で即位したので、劉聡は、劉曜および司隷校尉の喬智明(きょうちめい)、武牙将軍(虎牙将軍)の李景年らを派遣して長安に侵攻させ、さらに趙染にも命じて兵衆を率いて長安に赴かせた。時に(晋の)大都督の麹允(きくいん)は黄白城を拠点としていたが、何度も劉曜・趙染に敗北していた。趙染は劉曜に言った。「麹允は大衆を率いて外にいるので、長安の方は襲撃すれば簡単に手に入れることができましょう。長安を手に入れれば、黄白城は自分から降服してくることでしょう。どうか大王は、重装備の兵でここをお守りください。そして、私が軽騎を率いて長安を襲撃することをどうかお許しください」と。劉曜はそこで、承制して趙染に「前鋒大都督・安南大将軍」の位を加え、精鋭の騎兵五千を趙染に配備して進軍させた。晋軍は渭陽で敗れ、将軍の王広が戦死した。趙染が夜に長安の外城に入ると、愍帝は射雁楼に逃げ、趙染は龍尾道と諸軍の営を焼き、千人余りを殺害したり拉致したりし、朝になると退いて逍遥園に駐屯した。一方で麹允は、兵衆を率いて劉曜軍を襲撃し、連戦して劉曜軍を破った。劉曜は粟邑に入り、そのまま平陽に帰った。
時に流星が牽牛(星官の名)から紫微(星官の名)に流れ入り、龍のような形でうねうねしており、その光は地を照らし、平陽の北方十里の地に墜ちた。その地点を見に行くと、そこには肉塊があり、長さは三十歩、幅は二十七歩、その臭いは平陽まで届き、肉塊の辺りからは常に誰かが泣いているかのような声が聞こえ、昼も夜もやまなかった。劉聡は非常にそれを不快に思い、公卿以下の官僚を招いて問うた。「朕の不徳によりこのような災異を招いてしまったのであろうから、どうか各々言葉を尽くし、憚ることなく指摘してくれ」と。陳元達および博士の張師らが進み出て答えて言った。「星変の災異は、その禍がやがて降りかかることになりましょう。私は、後宮に三人も皇后がいるということを恐れます。国や家を失うのは、いつもそのことに由来するものです。どうか陛下よ、このことにご注意くだされ」と。劉聡は言った。「これは陰陽の理であるので、どうして個人的な営為に関わることであろうか」と。その後まもなく、劉氏は一匹の蛇と一匹の猛獣を産み、それぞれ人を殺して逃げ去り、その跡を追っても見つからなかったが、しばらくした後、例の天より落ちて来た肉塊のそばにいるのが見つかった。すぐに劉氏は死に、そこでやっとその肉塊はなくなり、泣き声もまたやんだ。その後、後宮での劉聡の寵愛はむやみやたらなものとなり、後宮通いの頻度も度を越したものとなった。
劉聡は、劉易を太尉に任じた。また、初めて相国を置き、官位は上公(三公よりも上)とし、特別な功徳がある者が死んだ後、その官位を追贈するようにした。それを手始めに、大いに百官の制度を定め、太師・丞相を置き、大司馬以上の七公は、みな位は上公とし、その服飾は緑綟綬・遠遊冠とした。輔漢大将軍・都護大将軍・中軍大将軍・上軍大将軍・輔軍大将軍・鎮京大将軍・衛京大将軍・前軍大将軍・後軍大将軍・左軍大将軍・右軍大将軍・上軍大将軍・下軍大将軍・輔国大将軍・冠軍大将軍・龍驤大将軍・武牙大将軍(虎牙大将軍)を置き、各営にはそれぞれ兵二千を配備し、すべて劉聡の諸子をそれらの地位に任じた。また、左司隷校尉・右司隷校尉を置き、それぞれ戸二十万余りを管轄させ、一万戸ごとに内史を一人ずつ置き、内史は合計で四十三人となった。単于左輔・単于右輔を置き、それぞれ六夷十万落をつかさどり、一万落ごとに都尉を一人ずつ置いた。吏部尚書を廃止し、左選曹尚書・右選曹尚書を置いた。司隷校尉以下の六官(左右司隷校尉・単于左右輔・左右選曹尚書)は、すべて位は尚書僕射に次ぐものとした。さらに、御史大夫および州牧を置き、位はいずれも公に次ぐものとした。そして、息子である劉粲を「丞相・領大将軍(大将軍兼任)・録尚書事」に任じ、爵を「晋王」に進め、五都を封邑とさせた。また、劉延年を「録尚書六條事」に任じ、劉景を太師に任じ、王育を太傅に任じ、任顗を太保に任じ、馬景を大司徒に任じ、朱紀を大司空に任じ、劉曜を大司馬に任じた。
劉曜はさらに渭汭に駐屯し、趙染は新豊に駐屯した。(晋の愍帝政権の重鎮である)索綝(さくちん)が長安から趙染を討伐しに東に出た際、趙染はそれまでに何度も勝利していたので慢心し、索綝を侮る気色があった。趙染の長史の魯徽(ろき)が言った。「今、司馬鄴(愍帝)の君臣は、我らがその都附近に迫り、しかも優劣の差が明らかであることを自ら目の当たりにし、必ず死ぬ気で我らを防ごうとするでしょうから、将軍は陣を整え兵を適所に配備し、(そうして十分に準備してから)敵を攻撃するべきです。侮るべきではございません。追い詰められた獣ですらなお闘おうとするものです。ましてや国の場合はなおさらです」と。趙染は言った。「司馬模の強大さがあってすら、かつて私がそれを打ち破ること、朽ちた木を砕くかのよう(に容易)であった。索綝のこわっぱが、どうして我が馬蹄や刀刃を汚すことができようか。必ずヤツを捕虜にして後で食ってやろう」と。趙染は夜明けに精騎数百を率い、馳せて出て索綝を迎え撃ち、城の西で戦ったが、敗北して帰り、後悔して言った。「私は魯徽の言葉を用いず、このような事態に陥ってしまったので、どのツラ下げてあいつに会うことができようか」と。趙染はそこで魯徽を斬った。魯徽は、刑の執行に臨んで趙染に言った。「将軍は、諫めを聞かず謀略に違い、愚かにも敗北を喫し、しかも自分よりも優れた人物に対して嫉妬し、忠良なる者を誅殺し、そうしてさらに愚かな怨怒をあらわにしようとしていますが、それこそ何の面目があって世間で一呼吸すらできましょうか。(後漢末の)袁紹がその前例をなし、将軍はその過ちを後世に繰り返し、(袁紹と同様)やはり滅び破れること相継ぐこととなりましょう。残念なのは、大司馬(劉曜)に一たびお会いすることすらできずに死ぬことでございます。死者に意識というものがなければそれまでです。ただ、もし死んでも意識というものがあるのならば、地下に降りて(袁紹に殺された)田豊に会って仲間となり、必ずや将軍を黄泉で訴え、将軍を畳の上で死ねぬように仕向けてやりましょう」と。そして刑の執行人にどなりつけて言った。「我が顔面を東の方に向けさせよ」と。大司馬の劉曜は、それを聞いて言った。「『牛の蹄の跡にできた水たまりには、一尺の大きさの鯉は収まらない』というのは、まさに趙染のことを言ったものであるよ」と。
劉曜は、軍を引き返して郭黙を懐城にて攻め、その米粟八十万斛を獲得し、(指揮下の軍のうち)三屯を割いてそこを守らせた。劉聡は使者を派遣して劉曜に言った。「今、長安(の愍帝政権)も(并州の)劉琨(りゅうこん)も虫の息なので、これらこそ我が国にとって特に第一に除くべきものである。郭黙のような子悪党は、どうして公(劉曜)の神略をわずらわすに足る存在であろうか。征虜将軍の貝丘王・劉翼光を留めてそこを守らせ、公は戻るのがよかろう」と。そこで劉曜は蒲坂に帰った。まもなく劉曜を徴召して輔政させることにした。
趙染が北地に侵攻した際、夢で魯徽が大いに怒り、弓を引いて自分を射たので、趙染は激しい動悸の中、驚いて目覚めた。翌朝、城を攻めようとしたところ、趙染は敵の弩が命中して死んだ。
劉聡は、劉粲を相国に任じ、百揆を統べさせ、丞相を廃止して相国に一本化した。平陽で地震があり、激しい風が樹を引っこ抜き、家屋の屋根や壁をはがした。また、光義の人である羊充の妻が、頭が二つある子を産み、その羊充の妻の兄が、羊充のもとからこっそりと連れ出して養っていたが、三日で死んだ。劉聡は、太廟が新たに完成したことから、領域内で大赦を行い、「建元」と改元した。また、(皇太弟である劉乂の)東宮の延明殿に血の雨が降り、瓦をすり抜けて地に沁み込むこと、五寸の深さに及んだ。劉乂はそれを不快に思い、そこで太弟太師の盧志・太弟太傅の崔瑋(さいい)・太弟太保の許遐(きょか)に相談した。盧志らは言った。「主上が以前に殿下を太弟としたのは、思いますに、それによって人望を安定させようとしたからでございましょう。しかし、ずっと前から晋王(劉粲)を後継者としようと主上はお考えでございますので、王公以下、その聖旨に従ってみな晋王に心を寄せております。相国の位は、魏の武帝(曹操)以来、人臣の就くべき官ではございませんので、主上はもともと詔を発し、これを贈官として置きましたが、今、急に晋王をその官に任じ、官職の威厳を東宮(劉乂)に勝るものとし、万機の事をすべてつかさどらせ、太宰・大将軍および諸王の営を置いてその羽翼としたのは、これはすなわちすでに形勢が殿下から去ってしまったのであり、殿下がもはや即位することができないのは明らかです。しかも、ただ即位ができなくなったというだけではなく、不測の危難(=誅殺の危険性)も旦夕をおかずにまもなく訪れましょうから、早く適切な処置を行うべきです。(太弟の)四衛の精兵は五千を下らず、その他の営の諸王はみな幼少であるので、奪い取ることができましょう。相国は軽率で浮ついているので、まさに刺客一人を差し向けるだけで充分でしょう。大将軍(劉敷)は連日外出しているので、その営も襲撃して手に入れることができましょう。殿下よ、ただただご決意ください。二万の精兵をすぐに得ることができ、それから軍鼓を打って行軍して雲龍門に向かえば、宿衛の士も、誰か武器を逆さにして奉迎しない者がおりましょうか。大司馬(劉曜)も、それに反対しようとは考えないでしょう」と。劉乂はそれに従わず、そこでそのことはやめにした。
劉聡は、中護軍の靳準(きんじゅん)の屋敷に行き、その二人の娘を娶って左貴嬪・右貴嬪とし、姉の方は月光、妹の方は月華という名であり、いずれも国の中でも指折りの美色であった。数か月後、靳月光を皇后に立てた。
東宮舍人の荀裕は、盧志らが劉乂に謀反を勧め、劉乂がそれに従わなかったといういきさつを密告した。劉聡はそこで盧志・崔瑋・許遐を捕らえて詔獄に収容し、他の事にかこつけて彼らを殺した。そして、冠威将軍の卜抽に東宮を監視させ、劉乂が朝賀することを禁じた。劉乂は憂え恐れてどうすればよいか分からず、そこで上表し、自ら平民となることを申し入れ、さらに劉乂の諸子の封建も解くことを願い出て、晋王・劉粲を褒め称えて彼を皇太子となすべきであると述べたが、卜抽はその上表を握りつぶして劉聡のもとに通じさせなかった。
劉聡の青州刺史の曹嶷(そうぎょく)は、汶陽関・公丘を攻め落とし、(晋の)斉郡太守の徐浮を殺害し、(晋の)建威将軍の劉宣を捕らえ、斉や魯の一帯の郡・県・塁壁の四十ヶ所余りが降伏した。曹嶷はそのまま各地を占領していき、西は祝阿・平陰を下し、兵衆は十数万に上り、黄河に臨んで戍(防衛施設)を置き、そして臨淄に帰った。その段になって、曹嶷はそのまま斉全体に割拠しようとの志を抱いた。石勒は、曹嶷が二心を抱いているとして、曹嶷を討伐することを劉聡に請うた。劉聡はまた、石勒が斉の地を併呑してしまうことも憚り、そこでその申請には返答せず、許そうとしなかった。
劉曜が盟津から黄河を渡り、河南を攻めようとしたところ、(晋の)将軍の魏該は一泉塢に逃走した。劉曜が進軍して李矩を滎陽にて攻めると、李矩は、将軍の李平の軍を成皋に派遣し、劉曜はそれを全滅させた。李矩は恐れ、人質を送って降伏したいと申し出た。
時に劉聡は皇后の靳氏を上皇后とし、貴妃の劉氏を左皇后に立て、右貴嬪の靳氏を右皇后に立てた。左司隷校尉の陳元達は、三人の皇后を立てたことに対し、言葉を尽くして諫めたが、劉聡は聞き容れず、そこで陳元達を右光禄大夫に任じ、外面では賢者を優遇していることを示したものの、内実はその実権を奪ったのであった。そこで、太尉の范隆・大司馬の劉丹・大司空の呼延晏・尚書令の王鑑らは、みな上表して位を退き、陳元達こそがその地位にふさわしいと謙譲した。劉聡はそこで陳元達を「御史大夫・儀同三司」に任じることにした。
劉曜は長安に侵攻したが、何度も晋軍に敗北した。劉曜は言った。「あれはまだ強盛であるので、攻め取ることはできまい」と。そこで軍を率いて帰った。
劉聡の宮中で鬼が夜に泣き声を上げ、三日後、その声が右司隷寺(右司隷校尉の役所)に向かい、そこでやんだ。劉聡の上皇后の靳氏は、淫乱で猥褻な行いがあり、陳元達はそのことを上奏した。劉聡は、靳氏を廃后し、靳氏は恥じ怒って自殺した。靳氏には格別の寵愛があったが、劉聡は陳元達の勢いに押されたために靳氏を廃后せざるを得なかった。まもなくその美貌を追念し、陳元達を深く恨んだ。
劉曜が上党に進軍し、陽曲を攻めようとしたところ、劉聡が使者を派遣して劉曜に言った。「長安(愍帝政権)が(皇帝を僭称して)勝手に官民に命を下しているのは、我が国家の大いなる恥である。公は、まず長安を最優先とし、陽曲は驃騎将軍に一任するべきである。天時も人事も、その好機がまもなく到来しようとしている。公よ、速やかに戻れ」と。劉曜は、引き返して郭邁を滅ぼし、劉聡に朝見し、そのまま蒲阪に進軍した。
平陽で地震があり、東宮で一頃余りの広さにわたって血の雨が降った。
劉曜はまた進軍し、粟邑に駐屯した。麹允の軍は激しい飢餓に見舞われ、黄白城を去って霊武に駐屯した。劉曜は進軍して上郡を攻め、上郡太守の張禹は、馮翊太守の梁粛と一緒に允吾に逃亡した。この段になって、関西は安定し、至る所の勢力が劉曜に呼応した。劉曜は進軍して黄阜を占拠した。

原文

聰武庫陷入地一丈五尺。時聰中常侍王沈・宣懷・俞容、中宮僕射郭猗、中黃門陵修等皆寵幸用事。聰游宴後宮、或百日不出、羣臣皆因沈等言事、多不呈聰、率以其意愛憎而決之、故或有勳舊功臣而弗見敘錄、姦佞小人數日而便至二千石者。軍旅無歲不興、而將士無錢帛之賞、後宮之家賜賚及於僮僕、動至數千萬。沈等車服宅宇皆踰於諸王、子弟・中表布衣爲内史令長者三十餘人、皆奢僭貪殘、賊害良善。靳準合宗内外諂以事之。
郭猗有憾於劉乂、謂劉粲曰「太弟於主上之世猶懷不逞之志。此則殿下父子之深仇、四海蒼生之重怨也。而主上過垂寬仁、猶不替二尊之位、一旦有風塵之變、臣竊爲殿下寒心。且殿下高祖之世孫、主上之嫡統、凡在含齒、孰不係仰。萬機事大、何可與人。臣昨聞太弟與大將軍相見、極有言矣、若事成、許以主上爲太上皇、大將軍爲皇太子。乂又許衞軍爲大單于、二王已許之矣。二王居不疑之地、並握重兵、以此舉事、事何不成。臣謂二王茲舉、禽獸之不若也。背父親人、人豈親之。今又苟貪其一切之力耳、事成之後、主上豈有全理。殿下兄弟故在忘言、東宮・相國・單于在武陵兄弟、何肯與人。許以三月上巳因讌作難、事淹變生、宜早爲之所。春秋傳曰『蔓草猶不可除。況君之寵弟乎。』臣屢啓主上、主上性敦友于、謂臣言不實。刑臣刀鋸之餘、而蒙主上・殿下成造之恩、故不慮逆鱗之誅、每所聞必言、冀垂採納。臣當入言之、願殿下不泄、密表其狀也。若不信臣言、可呼大將軍從事中郎王皮・衞軍司馬劉惇。假之恩顧、通其歸善之路以問之、必可知也。」粲深然之。猗密謂皮・惇曰「二王逆狀、主・相已具知之矣、卿同之乎。」二人驚曰「無之。」猗曰「此事必無疑、吾憐卿親舊并見族耳。」於是歔欷流涕。皮・惇大懼、叩頭求哀。猗曰「吾爲卿作計。卿能用不。」二人皆曰「謹奉大人之教。」猗曰「相國必問卿、卿但云有之。若責卿何不先啓、卿即答云『臣誠負死罪、然仰惟主上聖性寬慈、殿下篤於骨肉、恐言成詿偽故也。』」皮・惇許諾。粲俄而召問二人、至不同時、而辭若畫一、粲以爲信然。
初、靳準從妹爲乂孺子、淫于侍人、乂怒殺之、而屢以嘲準。準深慚恚、說粲曰「東宮萬機之副、殿下宜自居之、以領相國、使天下知早有所繫望也。」至是、準又說粲曰「昔孝成距子政之言、使王氏卒成篡逆、可乎。」粲曰「何可之有。」準曰「然、誠如聖旨。下官亟欲有所言矣、但以德非更生、親非皇宗、恐忠言暫出、霜威已及、故不敢耳。」粲曰「君但言之。」準曰「聞風塵之言、謂大將軍・衞將軍及左右輔皆謀奉太弟、剋季春構變、殿下宜爲之備。不然、恐有商臣之禍。」粲曰「爲之奈何。」準曰「主上愛信於太弟、恐卒聞未必信也。如下官愚意、宜緩東宮之禁固、勿絕太弟賓客、使輕薄之徒得與交游。太弟既素好待士、必不思防此嫌、輕薄小人不能無逆意以勸太弟之心。小人有始無終、不能如貫高之流也。然後下官爲殿下露表其罪、殿下與太宰拘太弟所與交通者考問之、窮其事原、主上必以無將之罪罪之。不然、今朝望多歸太弟、主上一旦晏駕、恐殿下不得立矣。」於是粲命卜抽引兵去東宮。
聰自去冬至是、遂不復受朝賀、軍國之事一決於粲、唯發中旨殺生除授、王沈・郭猗等意所欲皆從之。又立市於後庭、與宮人讌戲、或三日不醒。聰臨上秋閤、誅其特進綦毋達、太中大夫公師彧、尚書王琰・田歆、少府陳休、左衞卜崇、大司農朱誕等、皆羣閹所忌也。侍中卜榦泣諫聰曰「陛下方隆武宣之化、欲使幽谷無考槃、奈何一旦先誅忠良。將何以垂之於後。昔秦愛三良而殺之、君子知其不霸。以晉厲之無道、尸三卿之後、猶有不忍之心、陛下如何忽信左右愛憎之言、欲一日尸七卿。詔尚在臣間、猶未宣露、乞垂昊天之澤、迴雷霆之威。且陛下直欲誅之耳、不露其罪名、何以示四海。此豈是帝王三訊之法邪。」因叩頭流血。王沈叱榦曰「卜侍中欲距詔乎。」聰拂衣而入、免榦爲庶人。
太宰劉易及大將軍劉敷・御史大夫陳元達・金紫光祿大夫王延等詣闕諫曰「臣聞善人者、乾坤之紀、政教之本也、邪佞者、宇宙之螟螣、王化之蟊賊也。故文王以多士基周、桓靈以羣閹亡漢、國之興亡、未有不由此也。自古明王之世、未嘗有宦者與政、武・元・安・順豈足爲故事乎。今王沈等乃處常伯之位、握生死與奪於中、勢傾海内、愛憎任之、矯弄詔旨、欺誣日月、内諂陛下、外佞相國、威權之重、侔於人主矣、王公見之駭目、卿宰望塵下車、銓衡迫之、選舉不復以實、士以屬舉、政以賄成、多樹姦徒、殘毒忠善。知王琰等忠臣、必盡節於陛下、懼其姦萌發露、陷之極刑。陛下不垂三察、猥加誅戮、怨感穹蒼、痛入九泉、四海悲惋、賢愚傷懼。沈等皆刀鋸之餘、背恩忘義之類、豈能如士人君子感恩展效、以答乾澤也。陛下何故親近之、何故貴任之。昔齊桓公任易牙而亂、孝懷委黃皓而滅、此皆覆車於前、殷鑒不遠。比年地震日蝕、雨血火災、皆沈等之由。願陛下割翦凶醜與政之流、引尚書・御史朝省萬機、相國與公卿五日一入、會議政事、使大臣得極其言、忠臣得逞其意、則眾災自弭、和氣呈祥。今遺晉未殄、巴蜀未賓、石勒潛有跨趙魏之志、曹嶷密有王全齊之心、而復以沈等助亂大政、陛下心腹四支何處無患。復誅巫咸、戮扁鵲、臣恐遂成桓侯膏肓之疾、後雖欲療之、其如病何。請免沈等官、付有司定罪。」聰以表示沈等、笑曰「是兒等爲元達所引、遂成癡也。」寢之。沈等頓首泣曰「臣等小人、過蒙陛下識拔、幸得備洒掃宮閤、而王公朝士疾臣等如仇讐、又深恨陛下。願收大造之恩、以臣等膏之鼎鑊、皇朝上下自然雍穆矣。」聰曰「此等狂言恒然、卿復何足恨乎。」更以訪粲、粲盛稱沈等忠清、乃心王室。聰大悅、封沈等爲列侯。太宰劉易詣闕、又上疏固諫。聰大怒、手壞其表、易遂忿恚而死。元達哭之悲慟曰「人之云亡、邦國殄悴。吾既不復能言、安用此默默生乎。」歸而自殺。
北地饑甚、人相食噉。羌酋大軍須運糧以給麴昌、劉雅擊敗之。麴允與劉曜戰于磻石谷、王師敗績、允奔靈武。
平陽大饑、流叛死亡十有五六。石勒遣石越率騎二萬、屯于并州、以懷撫叛者。聰使黃門侍郎喬詩讓勒、勒不奉命、潛結曹嶷、規爲鼎峙之勢。
聰立上皇后樊氏。即張氏之侍婢也。時四后之外、佩皇后璽綬者七人。朝廷内外無復綱紀、阿諛日進、貨賄公行、軍旅在外、饑疫相仍、後宮賞賜動至千萬。劉敷屢泣言之、聰不納、怒曰「爾欲得使汝公死乎。朝朝夕夕生來哭人。」敷憂忿發病而死。
河東大蝗、唯不食黍豆。靳準率部人收而埋之、哭聲聞於十餘里。後乃鑽土飛出、復食黍豆。平陽饑甚、司隸部人奔于冀州二十萬戶、石越招之故也。
犬與豕交于相國府門、又交于宮門、又交司隸・御史門。有豕著進賢冠、升聰坐。犬冠武冠、帶綬、與豕並升。俄而鬭死殿上。宿衞莫有見其入者。而聰昏虐愈甚、無誡懼之心。
讌羣臣于光極前殿、引見其太弟乂、容貌毀悴、鬢髮蒼然、涕泣陳謝。聰亦對之悲慟、縱酒極歡、待之如初。

訓読

聰の武庫、地に陷入すること一丈五尺。時に聰の中常侍の王沈・宣懷・俞容(ゆよう)、中宮僕射の郭猗(かくい)、中黃門の陵修等、皆な寵幸せられて事を用う。聰、後宮に游宴し、或いは百日出でず、羣臣は皆な沈等の言事に因り、多く聰に呈せず、率ね其の意の愛憎を以てして之を決したれば、故に或いは勳舊・功臣にして敘錄せられず、姦佞・小人の數日にして便ち二千石に至る者有り。軍旅は歲として興さざる無く、而して將士は錢帛の賞無く、後宮の家は賜賚の僮僕に及ぶこと、動れば數千萬に至る。沈等の車服・宅宇は皆な諸王を踰え、子弟・中表の布衣の内史・令・長と爲る者は三十餘人、皆な奢僭貪殘にして、良善を賊害す。靳準(きんじゅん)、宗の内外を合して諂いて以て之に事う。
郭猗、憾みを劉乂に有し、劉粲に謂いて曰く「太弟は主上の世に於けるに猶お不逞の志を懷く。此れ則ち殿下の父子の深仇にして、四海の蒼生の重怨なり。而れども主上は過ぎて寬仁を垂れ、猶お二尊の位を替えざれば、一旦に風塵の變有らば、臣竊かに殿下の爲に寒心す。且つ殿下は高祖の世孫、主上の嫡統なれば、凡そ含齒に在るもの、孰れか係仰せざらんや。萬機は事大なれば、何ぞ人と與にすべけんや。臣、昨ろ聞くならく、太弟、大將軍と相い見うや、極めて言有り、若し事成ならば、主上を以て太上皇と爲し、大將軍もて皇太子と爲すを許し、乂、又た衞軍〔一〕の大單于と爲らんことを許し、二王は已に之を許す、と。二王は不疑の地に居り、並びに重兵を握りたれば、此を以て事を舉げば、事、何ぞ成らざらん。臣謂うに、二王の茲の舉、禽獸の不若なり。父に背き人に親しむとも、人、豈に之に親しまん。今、又た苟くも其の一切の力を貪らば、事成るの後、主上は豈に全理有らんや。殿下の兄弟は故より忘言に在り、東宮・相國・單于は武陵の兄弟に在り、何ぞ肯えて人と與にせんや。三月上巳を以て讌に因りて難を作すを許し、事淹なれば變生ぜんとすれば、宜しく早く之が所を爲すべし。春秋傳に曰く『蔓草すら猶お除くべからず。況んや君の寵弟をや』と。臣、屢々主上に啓すも、主上は性、友于に敦ければ、臣の言は實ならずと謂う。刑臣は刀鋸の餘なるも、而れども主上・殿下の成造の恩を蒙りたれば、故に逆鱗の誅を慮らず、每に聞く所は必ず言し、採納を垂れられんことを冀う。臣、當に入りて之を言さんとすれば、殿下の泄らさず、密かに其の狀を表されんことを願うなり。若し臣の言を信ぜずんば、大將軍從事中郎の王皮・衞軍司馬の劉惇を呼ぶべし。之に恩顧を假し、其の歸善の路を通ぜしめて以て之に問わば、必ず知るべきなり」と。粲、深く之を然りとす。猗、密かに皮・惇に謂いて曰く「二王の逆狀、主・相は已に具さに之を知りたるに、卿は之と同にせるや」と。二人驚きて曰く「之れ無し」と。猗曰く「此の事は必ず疑無ければ、吾、卿の親舊の并びに族せられんことを憐れむのみ」と。是に於いて歔欷して流涕す。皮・惇、大いに懼れ、叩頭して哀を求む。猗曰く「吾、卿の爲に計を作さん。卿、能く用うるや不や」と。二人、皆な曰く「謹みて大人の教を奉ぜん」と。猗曰く「相國は必ず卿に問えば、卿、但だ之れ有りと云え。若し卿を何ぞ先に啓せずと責むれば、卿、即ち答えて『臣、誠に死罪を負うも、然れども仰ぎて主上の聖性寬慈にして、殿下の骨肉に篤きを惟えば、言の詿偽と成らんことを恐れしが故なり』と云え」と。皮・惇、許諾す。粲、俄かにして召して二人に問い、至るに時を同じくせざるも、而れども辭は畫一なるが若きなれば、粲、以て信に然りと爲す。
初め、靳準の從妹、乂の孺子と爲るも、侍人と淫したれば、乂、怒りて之を殺し、而して屢々以て準を嘲る。準、深く慚恚し、粲に說きて曰く「東宮は萬機の副なれば、殿下、宜しく自ら之に居り、以て相國を領し、天下をして早く繫望する所有るを知らしむべきなり」と。是に至り、準、又た粲に說きて曰く「昔、孝成、子政の言を距み、王氏をして卒に篡逆を成さしむるは、可ならんや」と。粲曰く「何ぞ之れ有るべけんや」と。準曰く「然り、誠に聖旨の如し。下官、亟やかに言す所有らんと欲するも、但だ德は更生に非ず、親は皇宗に非ざるを以て、忠言の暫く出でて、霜威の已に及ばんことを恐れ、故に敢えてせざるのみ」と。粲曰く「君、但だ之を言せ」と。準曰く「風塵の言を聞くに、大將軍・衞將軍及び左右輔は皆な謀りて太弟を奉じ、季春に剋めて變を構えんとすと謂えば、殿下、宜しく之が備えを爲すべし。然らずんば、恐らくは商臣の禍有らん」と。粲曰く「之を爲すに奈何せん」と。準曰く「主上は太弟を愛信したれば、恐らくは卒かに聞くに未だ必ずしも信ぜざるなり。下官の愚意の如くんば、宜しく東宮の禁固を緩め、太弟の賓客を絕つ勿からしめ、輕薄の徒をして與に交游するを得しむべし。太弟は既に素より士を待するを好みたれば、必ず此の嫌を防がんと思わず、輕薄の小人、意を逆えて以て太弟の心を勸むる無かる能わず。小人は始め有りて終わり無く、貫高の流の如くする能わざるなり。然る後、下官、殿下の爲に其の罪を露表し、殿下、太宰と與に太弟の與に交通する所の者を拘えて之を考問し、其の事原を窮めば、主上は必ず無將の罪を以て之を罪せん。然らずんば、今、朝望は多く太弟に歸すれば、主上の一旦にして晏駕せば、恐らくは殿下、立つを得ざらん」と。是に於いて、粲、卜抽に命じて兵を引きて東宮を去らしむ。
聰、去冬より是に至り、遂に復た朝賀を受けず、軍國の事は一に粲に決せしめ、唯だ中旨を發して殺生除授するのみにして、王沈・郭猗等の意の欲する所は皆な之に從う。又た市を後庭に立て、宮人と與に讌戲し、或いは三日醒めず。聰、上秋閤に臨み、其の特進の綦毋達(きぶたつ)、太中大夫の公師彧(こうしいく)、尚書の王琰(おうえん)・田歆(でんきん)、少府の陳休、左衞の卜崇、大司農の朱誕等を誅せんとするに、皆な羣閹の忌む所なり。侍中の卜榦、泣きて聰を諫めて曰く「陛下、方に武宣の化を隆にし、幽谷をして考槃無からしめんと欲するに、奈何ぞ一旦にして先ず忠良を誅せんとするや。將に何を以てか之を後に垂れんとせんや。昔、秦は三良を愛して之を殺し、君子は其の霸ならざるを知る。晉厲の無道なるを以てすら、三卿を尸すの後、猶お忍びざるの心有るに、陛下、如何ぞ忽ちにして左右の愛憎の言を信じ、一日に七卿を尸さんと欲せんや。詔は尚お臣間に在り、猶お未だ宣露せざれば、乞うらくは昊天の澤を垂れ、雷霆の威を迴されんことを。且つ陛下、直ちに之を誅せんと欲し、其の罪名を露わさざるに、何を以てか四海に示さん。此れ豈に是れ帝王の三訊〔二〕の法ならんや」と。因りて叩頭して流血す。王沈、榦を叱りて曰く「卜侍中は詔を距まんと欲するか」と。聰、衣を拂いて入り、榦を免じて庶人と爲す。
太宰の劉易及び大將軍の劉敷・御史大夫の陳元達・金紫光祿大夫の王延等、闕に詣りて諫めて曰く「臣聞くならく、善人なる者は、乾坤の紀、政教の本にして、邪佞なる者は、宇宙の螟螣、王化の蟊賊なり、と。故に文王は多士を以て周を基づけ、桓靈は羣閹を以て漢を亡ぼし、國の興亡、未だ此に由らざること有らざるなり。古よりの明王の世、未だ嘗て宦者の政に與ること有らず、武・元・安・順、豈に故事と爲すに足らんや。今、王沈等、乃ち常伯の位に處り、生死與奪を中に握り、勢は海内を傾け、愛憎もて之を任せ、詔旨を矯弄し、日月を欺誣し、内は陛下に諂い、外は相國に佞り、威權の重、人主に侔しく、王公は之を見るや目を駭かし、卿宰は塵を望むや下車し、銓衡は之に迫りたれば、選舉は復た實を以てせず、士は屬を以て舉げられ、政は賄を以て成り、多く姦徒を樹て、忠善を殘毒す。王琰等の忠臣、必ず節を陛下に盡くすを知るも、其の姦萌の發露し、之を極刑に陷れんことを懼る。陛下、三察を垂れず、猥りに誅戮を加えば、怨は穹蒼を感ぜしめ、痛は九泉に入り、四海は悲惋し、賢愚は傷懼せん。沈等は皆な刀鋸の餘にして、恩に背き義を忘るるの類なれば、豈に能く士人・君子の如く恩を感じ效を展べ、以て乾澤に答えんや。陛下、何の故にか之を親近し、何の故にか之を貴任す。昔、齊の桓公は易牙を任じて亂れ、孝懷は黃皓に委ねて滅ぶに、此れ皆な車を前に覆すものにして、殷鑒遠からず。比年、地震・日蝕、雨血・火災あるは、皆な沈等の由なり。願わくは陛下、凶醜の與政の流を割ち翦り、尚書・御史を朝省の萬機に引き、相國をして公卿と與に五日に一たび入らしめ、政事を會議せしめ、大臣をして其の言を極むるを得しめ、忠臣をして其の意を逞しくするを得しめば、則ち眾災は自ら弭み、和氣は祥を呈せん。今、遺晉は未だ殄きず、巴蜀は未だ賓わず、石勒は潛かに趙魏に跨らんとするの志有り、曹嶷(そうぎょく)は密かに全齊に王たらんとするの心有り、而して復た沈等の大政を亂すを助くるを以てせば、陛下の心腹四支、何れの處か患無からん。復た巫咸(ふかん)を誅し、扁鵲(へんじゃく)を戮せば、臣、恐るるに、遂に桓侯の膏肓の疾を成し、後に之を療やさんと欲すと雖も、其れ病を如何せん。請うらくは沈等の官を免じ、有司に付して罪を定められんことを」と。聰、表を以て沈等に示し、笑いて曰く「是の兒等、元達の引く所と爲り、遂に癡と成るなり」と。之を寢む。沈等、頓首して泣きて曰く「臣等の小人、過ぎて陛下の識拔を蒙り、幸いにして宮閤を洒掃するに備えらるるを得るも、而れども王公朝士は臣等を疾むこと仇讐の如くし、又た深く陛下を恨む。願わくは大造の恩を收め、臣等を以て之を鼎鑊に膏せば、皇朝の上下、自然と雍穆せん」と。聰曰く「此等の狂言すること恒然たれば、卿、復た何ぞ恨むに足らんや」と。更めて以て粲に訪うや、粲、盛んに沈等は忠清にして、乃心王室にありと稱す。聰、大いに悅び、沈等を封じて列侯と爲す。太宰の劉易、闕に詣り、又た上疏して固く諫む。聰、大いに怒り、手ずから其の表を壞りたれば、易、遂に忿恚して死す。元達、之を哭すること悲慟にして曰く「人の亡げんことを云えば、邦國殄悴す〔三〕。吾、既に復た能く言わざれば、安くんぞ此を用て默默として生きんや」と。歸りて自殺す。
北地の饑うること甚だしく、人は相い食噉す。羌の酋大の軍須、糧を運びて以て麴昌に給するや、劉雅、擊ちて之を敗る。麴允、劉曜と磻石谷に戰い、王師は敗績し、允、靈武に奔る。
平陽、大いに饑え、流叛死亡するもの十に五六有り。石勒、石越を遣わして騎二萬を率い、并州に屯せしめ、以て叛者を懷撫せしむ。聰、黃門侍郎の喬詩をして勒を讓むるも、勒は命を奉ぜず、潛かに曹嶷と結び、鼎峙の勢を爲さんと規る。
聰、上皇后樊氏を立つ。即ち張氏の侍婢なり。時に四后の外、皇后の璽綬を佩ぶる者は七人。朝廷の内外、復た綱紀無く、阿諛は日ごとに進み、貨賄は公行し、軍旅は外に在り、饑疫は相い仍ぐも、後宮の賞賜、動れば千萬に至る。劉敷、屢々泣きて之を言すも、聰、納れず、怒りて曰く「爾、汝が公をして死せしめんことを得んと欲するか。朝朝夕夕、生きながらにして來りて人を哭せるは」と。敷、憂忿して病を發して死す。
河東に大蝗あるも、唯だ黍豆のみ食らわず。靳準、部人を率いて收めて之を埋むるや、哭聲、十餘里に聞こゆ。後に乃ち土を鑽るや飛び出し、復た黍豆を食らう。平陽の饑うること甚しく、司隸の部人の冀州に奔るもの二十萬戶なるは、石越の之を招きしが故なり。
犬、豕と相國府門に交わり、又た宮門に交わり、又た司隸・御史門に交わる。豕の進賢冠を著くるもの有り、聰の坐に升る。犬の武冠を冠し、綬を帶ぶるものあり、豕と並びに升る。俄かにして鬭いて殿上に死す。宿衞、其の入るを見る者有る莫し。而して聰の昏虐なること愈々甚しく、誡懼の心無し。
羣臣と光極前殿に讌し、引きて其の太弟の乂に見うや、容貌は毀悴し、鬢髮は蒼然たり、涕泣して陳謝す。聰も亦た之に對して悲慟し、縱酒して歡を極め、之を待すること初めの如し。

〔一〕「衛軍」とは、「衛軍将軍」を指すほかに、「衛将軍(衛大将軍)」を指す場合もある。後文によれば、劉聡の息子である劉勱が衛大将軍であったという。大将軍・劉敷もまた劉聡の息子であり、故に後文で(郭猗のでっちあげた)二王の叛逆に関して「父に背き」とあるのである。
〔二〕「三訊」とは、裁判を行う際に、慎重を期すために第三者の意見を三回にわたって聴取すること。『孔子家語』刑政篇の王粛注によれば、群臣に尋ね、群吏に尋ね、万民に尋ねるのが「三訊」であるという。
〔三〕『詩』大雅「瞻卬」の句。様々な解釈があるが、時代も近く、後の「不復能言~」の句との関連性からも、ここでは鄭玄の解釈で訳出した。

現代語訳

劉聡の武庫が、一丈五尺(約3・65m)にわたって地に陥没した。時に劉聡の中常侍の王沈・宣懐・兪容(ゆよう)、中宮僕射の郭猗(かくい)、中黄門の陵修らは、みな寵愛を受けて権勢を握っていた。劉聡は、後宮に通って宴に耽り、時には百日間出てこないこともあり、群臣はみな王沈らを通じて言上せざるを得ず、多くの場合、劉聡に対して上申の書類を提出することができず、王沈らはたいてい彼ら自身の愛憎の意のままに様々なことを決定したので、勲功ある旧臣や功臣であっても、その功が記録されることがなかったり、邪佞な人物や小人であっても、数日で即座に二千石の位に至る者がいたりした。軍隊は一年たりとも出動しない年はなく、それなのに将帥や兵士には銭や帛の恩賞も無く、一方で後宮の后妃たちの家には僮僕にまで賞賜が及び、その額はともすれば数千万銭にも上った。王沈らの車や服・邸宅はみな諸王のそれを凌駕し、その子弟や異姓の親戚で、平民であったものの急に内史や県令・県長に任じられた者は三十人余りに上り、みな奢侈・僭越・貪欲・残忍で、善良な者を迫害したり殺害したりした。靳準(きんじゅん)は、宗族や姻族全体で王沈らに諂って従事した。
郭猗は劉乂に対して恨みを抱いており、劉粲に言った。「太弟(劉乂)は主上(劉聡)の世においてすら不満を抱いております。これはすなわち殿下の父子にとっての深い仇敵でございまして、四海の民草にとっての重い怨恨の対象です。しかし、主上は過度に寛容なる仁愛を施され、まだ儲君(帝位継承者)の位を交替させることをなさりませんので、もしある日突然、風塵のごとき急変が生じてしまったらと考えると、私は殿下のためにぞっとする思いです。しかも殿下は高祖(劉淵)の嫡孫であり、主上の嫡子でいらっしゃいますので、およそ人たるもの、誰か殿下を敬慕しない者がおりましょうか。万機は重大事であるので、どうして他の者と一緒に統べることができましょうか。私が先日聞いたところによりますと、太弟は大将軍(劉敷)と面会して非常に話し込み、もし事が成功すれば、主上を太上皇とし、大将軍を皇太子とすることを認め、劉乂は、さらに衛将軍(劉勱(りゅうばい))が大単于となることを認め、二王(劉敷・劉勱)はすでにそれに賛同しているとか。二王は主上の信任を得て疑われることのない立場にあり、いずれも強力な軍を握っているので、その兵力を用いて事を起こせば、どうして成功しないことがありましょうか。私が思いますに、二王のこの暴挙は、禽獣のごとき不義であります。父に背いて他人(劉乂)と親しくしようとも、どうしてその人(劉乂)に親しまれることがありましょうか。それに加え、もし太弟が一時の権力を貪るようなことがあれば、事が成功したあかつきには、どうして主上は安泰であるなどということがありましょうか。ましてや殿下やご兄弟については言うまでもなく、そして東宮(皇太子)や相国・単于の位はすべて(劉敷や劉勱ではなく劉乂の息子である)武陵王らの兄弟により占められるに違いなく、どうして太弟が他の者とその権勢を一緒に分有することなどありましょうか。太弟らは三月上巳(最初の巳の日)に宴会の機会を狙って禍難を起こそうと示し合わせており、ぐずぐずしていると事変が起こってしまいますので、どうか早く適切な処置を施すべきです。『春秋左氏伝』にも『蔓延している草ですら除くことはできません。ましてや君の寵愛を受けている弟であればなおさらです』とあります。私はしばしば主上にこのことを申し上げているのですが、主上は兄弟への友愛に厚い性格であらせられるので、私の言葉は事実ではないとお考えになっています。私は刀鋸によって宮刑に処されて宦官になった身でありますが、しかし、主上や殿下によってお恵みを授けられるという恩をこうむりましたので、そこで逆鱗に触れて誅殺される危険を顧みず、いつも見聞したことは必ず言上し、意見をご採用いただけることを願っています。私はこれから宮中に入って主上にこのことを申し上げようと思いますので、殿下におかれましては、事を他人に漏洩せず、主上に対して内密にその状況を上表されますようお願い申し上げます。もし私の言葉が信用できないのであれば、大将軍府の従事中郎である王皮、衛将軍府の司馬である劉惇を呼ぶと良いでしょう。彼らに恩顧を施し、善に立ち帰る道を開いてから彼らに問えば、きっと分かります」と。劉粲は、その通りであると大変納得した。そして郭猗は、内密に王皮・劉惇に言った。「二王が叛逆を企てている状況については、主上も相国(劉粲)もすでに詳しく知っているが、そなたらは二王と共謀しているのか」と。二人は驚いて言った。「そんなことはありません」と。郭猗は言った。「この事は必ず疑いの無い事実であるので、私は、(連座して)そなたらの親族や旧友たちがまとめて一族皆殺しにされることを哀れに思うのだ」と。そこで郭猗はむせび泣いて涙を流した。王皮・劉惇は大いに恐れ、叩頭して憐れみを乞うた。郭猗は言った。「私は、そなたらのために一計を講じよう。そなたらは従うことができるか」と。二人とも言った。「つつしんであなた様のご教示を奉じましょう」と。郭猗は言った。「相国は必ずそなたらにこのことをお問いになるであろうから、そこでそなたらは、ただその事実があったとだけ言いなさい。もし相国が、どうして先にそのことを告発しなかったのかとそなたらをお責めになったら、そなたらは即座にこう答えなさい。『私は、誠に死刑に相当する罪を負いましたが、しかし、主上が寛容で慈悲深きご性格であらせられ、殿下が親族に対して篤実でいらっしゃることを思うと、私がそれを申し上げても嘘偽りであると見なされてしまうのではないかと恐れたためであります』と。」王皮と劉惇は、それを許諾した。劉粲がまもなく二人を召し出して問うと、示し合わせて同時に来たわけでも無いのに二人の述べた内容がほぼ一致していたので、劉粲は、本当にそうであると信じた。
初め、靳準の従妹は劉乂の貴妾となったが、侍人と姦通したので、劉乂は怒って彼女を殺し、そしてしばしばそのことで靳準を嘲笑った。靳準は深く恥じ怒り、劉粲に説いて言った。「東宮は万機をつかさどる副次の地位でありますので、殿下はどうか自らその地位に就き、そして相国を兼任し、すでに心のよりどころがあるのだということを天下に知らせるべきです」と。そしてこの段になって、靳準はまた劉粲に説いて言った。「昔、孝成皇帝(前漢の成帝)が、子政(劉向)の意見を退け、最終的に王氏に簒奪を許してしまったのは、よろしいことでしょうか」と。劉粲は言った。「どうしてそんなことがあってよいものか」と。靳準は言った。「はい、まことに殿下のおっしゃる通りでございます。ところで、私めには速やかに申し上げるべきことがございましたが、ただ更生(劉向)のような徳も無く、(また劉向とは異なり)皇室の宗族の身でもないので、忠言を突然呈したために、そのせいでまもなく我が身に厳刑が下されるのではないかと恐れ、故に言い出せずにいました」と。劉粲は言った。「君よ、気にせず申せ」と。靳準は言った。「風の便りに聞いたところによりますと、大将軍・衛将軍および左輔・右輔たちはみな太弟を奉戴し、季春を期として事変を起こそうと謀っているとのことですので、殿下よ、どうかそれに備えるべきです。さもなければ、おそらくは、昔、楚の商臣が父の成王を弑殺して即位したのと同じ禍が起こりましょう」と。劉粲は言った。「どうすればいい」と。靳準は言った。「主上は太弟を寵愛して信用しているので、おそらくは突然そのことを聞いても必ずしも信じないでしょう。私の愚見の通りであれば、どうか東宮の禁固を緩め、太弟の賓客の出入りを禁止せず、軽薄な輩に太弟と交流することができるようにさせるべきです。太弟はもともと士人を厚遇することを好んでいましたので、きっと嫌疑がかかることを防ごうとせず(に交流を行い)、軽薄な小人たちは、太弟の意思に迎合してその心をそそのかそうとしないはずがありません。そのような小人たちは(周の景王のとき、大夫の賓起が王の嫡子を殺して庶子を立てようとしたが計画倒れで失敗して殺されたのと同様に)始めがあっても終わりがなく(=始めは良くても終わりは良くなく)、(前漢の高祖のとき、趙国の相であった貫高が、高祖に虐げられている趙王のために義憤に駆られて高祖暗殺を謀り、失敗して拷問を受けたものの、最後まで趙王には罪がないことを訴え、その結果、趙王は罪を赦され、目的が果たされたことを知った貫高は節義を貫いて自ら命を絶ったが、その)壮士・貫高のように振る舞うこともできないでしょう。その後、私が殿下のためにその罪を暴露し、殿下が太宰(劉易)と一緒に、太弟と交流して悪だくみをしていた者たちを捕らえて拷問し、その事の起こりを究明すれば、主上は必ず『君主や親に対しては叛逆や弑殺の心を抱くことすら許されない。もし少しでも抱こうものなら、誅あるのみ』という罪状で刑を下されるでしょう。さもなければ、今、朝廷の期待は多く太弟に集まっていますので、主上がある日突然崩御されてしまえば、おそらくは殿下が即位することはできないでしょう」と。そこで、劉粲は(劉乂の監視をしていた)卜抽に命じて兵を引き払って東宮から退去させた。
劉聡は、昨年の冬からこのときに至るまで、もはや朝賀を受けることなく、軍事や国政に関してはすべて劉粲に決定させ、ただ宮中より手書きの詔を発して生殺や官爵の授与に関して命ずるだけになり、王沈・郭猗らの意向にはすべて従った。また、市を後宮に立て、宮人たちと一緒に宴会を開いて娯楽に耽り、時には三日間ずっと泥酔し続けていたこともあった。劉聡は、上秋閤に臨み、特進の綦毋達(きぶたつ)、太中大夫の公師彧(こうしいく)、尚書の王琰(おうえん)・田歆(でんきん)、少府の陳休、左衞将軍の卜崇、大司農の朱誕らを誅殺しようとしたが、いずれも宦官たちの忌み嫌う者たちであった。侍中の卜幹は、泣きながら劉聡を諫めて言った。「陛下は、ちょうど(前漢の)武帝や宣帝のような教化を盛んにさせ、(賢者をあまねく登用して)深い山谷の中に賢者が隠棲するようなことが無いようにさせようとなさっていますのに、どうして突然それよりも先に忠良なる者を誅殺されようとするのでしょうか。それによってどのような訓戒を後世に伝えようとされているのでしょうか。昔、秦の穆公は奄息(えんそく)・仲行・鍼虎(しんこ)の三人の良臣を愛しましたが、薨去する際にこの三人を殉死させ、それにより君子は穆公が覇者たり得なかった理由を悟りました。無道なる晋の厲公ですら、郤氏の三卿を殺して屍をさらした後、さらに欒書(らんしょ)・中行偃(ちゅうこうえん)の二卿を誅殺することを勧められた際に、それ以上、卿たちを殺すのは忍びないとしてやめたといいますのに、陛下はどうしてにわかに左右の者の愛憎の言葉を信じ、一日に七卿を殺して屍をさらそうとなさるのですか。詔はなお私の手元にあり、まだ宣布しておりませんので、どうか昊天のごとき恩沢をお施しになり、雷霆のごとき威刑を撤回されますよう、お願い申し上げます。しかも陛下は、ただちに彼らを誅殺されようとし、その罪名を明瞭にしていませんが、どのような戒めを四海に示されようとしているのでしょうか。どうしてこれが(裁判を行う際に、群臣・郡吏・万民にそれぞれ意見を求めるという)帝王の『三訊』の原則に沿ったものでありましょうか」と。そこで叩頭して流血した。王沈は、卜幹をどなりつけて言った。「卜侍中は詔を拒もうというのか」と。劉聡は怒って衣を払って宮中に帰り、卜幹を罷免して(さらに爵位を剥奪して)庶人の身分に落とした。
太宰の劉易および大将軍の劉敷、御史大夫の陳元達、金紫光禄大夫の王延らは、宮門まで出向いて諫めて言った。「私めらが聞くところによりますと、善人というものは、乾坤におけるかなめ、政教における根本であり、邪佞なる者というのは、宇宙におけるズイムシやハクイムシのような害虫、王の教化におけるネキリムシのような害虫であると言います。故に(周の)文王は多くの士人を用いて周王朝を基礎づけ、(後漢の)桓帝・霊帝は宦官たちを用いて漢を滅亡へと導き、まさに国の興亡は、すべてこのことに起因するものであります。古来の明王の世にあっては、宦官が政治に参与することはなく、(前漢の)武帝や元帝、(後漢の)安帝や順帝も、どうして故事とするに十分な治世であったでしょうか。今、王沈らは、古の常伯の位(=中常侍)におり、生殺与奪の権力を宮中で握り、その権勢は海内を傾け、愛憎に任せて生殺与奪を行い、詔にかこつけて聖旨を弄び、日月をあざむき、内は陛下に諂い、外は相国におもねり、権威の重さは君主に等しく、王公は彼らの姿を不意に見かけると驚きの表情を浮かべ、宰相や大臣たちは遠くに塵が立ち上って彼らの車がやってくると分かると下車するほどであり、彼らは人事の考課・選抜に関して担当官に無理強いするので、選挙はもはや実際の成果や資質などに即して行われなくなり、士人はその仲間であることにより推挙され、政治は賄賂によって決定され、多く姦邪なる徒党を組み、忠実・善良なる者に害を加えています。王琰らの忠臣は、必ず陛下に節義を尽くす人物であることは明白ですが、宦官らの姦邪な萌芽が発露し、彼らを極刑に陥れようとしていることを我々は危惧しています。陛下が『三訊』を施されず、むやみに誅殺を行えば、その怨嗟は蒼天を感応させ、その痛苦は黄泉に入(って亡き先人たちに知れわた)り、四海は悲しみ恨み、賢者はいたみ、愚者は恐れることになりましょう。王沈らはみな刀鋸の刑罰を受けた身であり、恩に背き義を忘れた類の輩なので、どうして士人や君子のように恩を感じて力を尽くし、そうして天恩に応えることができましょうか。陛下は、なぜ彼らを側に置いて親しみ、なぜ彼らを貴び信任するのですか。昔、(春秋時代の覇者である)斉の桓公は易牙を信任して政治を乱し、孝懐皇帝(蜀漢の劉禅)は黄皓に政治を委ねて国を滅ぼしましたが、これらはいずれも教訓とすべき失敗の前例であり、まさに『殷が戒めとすべき反面教師は遠くにあるわけではない(夏王朝の世がまさにそうであった)』というものであります。近年、地震や日蝕、血の雨や火災が生じましたのは、いずれも王沈らのせいです。どうか陛下よ、凶悪で醜悪な者たちが政治に参与する流れを断ち切り、朝廷の万機を諮る際には尚書や御史を招き、相国に命じて公卿と一緒に五日ごとに一回入朝させ、政事について会議させ、大臣たちに各々の意見を出し尽くすことができるようにさせ、忠臣たちに各々の意見を発揮できるようにさせれば、諸々の災異は自然とやみ、調和した気が瑞祥を呈するようになりましょう。今、晋の残党はまだ尽きず、巴蜀(成漢)はまだ服従せず、石勒はこっそりと趙や魏の地を占拠しようとの異志を抱き、曹嶷(そうぎょく)はひそかに斉全土に王として君臨しようとの異心を抱き、それに加えてさらに王沈らが大政を乱すのを助長するようなことがあれば、陛下の心臓・腹・四肢に至るまで、患部の無いところが無いというような状態になってしまいます。その上さらに巫咸(ふかん)(医者として有名な伝説上の人物)を誅し、扁鵲(へんじゃく)(名医として有名な戦国時代の人)を殺してしまえば、私めらが恐れますに、そのまま(早急に病を治療すべきであるという扁鵲の忠告を無視した結果、手遅れになってしまった)桓侯のような膏肓の病を生じてしまい、後からそれを治療しようとしても、もはやどうしようもないというような状態になってしまいかねません。どうか王沈らの官を罷免し、担当官に命じて罪を定めさせられますようお願い申し上げます」と。劉聡は、その上表文を王沈らに見せ、笑って言った。「こいつらは、元達に誘われて、とうとう頭がおかしくなってしまったようだ」と。そのまま上表に返答せず立ち消えにした。王沈らは、頓首して泣きながら言った。「私めら小人は、過度に陛下の知遇と抜擢をこうむり、幸いに宮殿の掃除係として備えられる機会を得ましたが、しかし王公や朝廷の士人たちは私めらを仇敵のように憎み、さらには陛下のことまで深く恨んでおります。どうか大いなる恩恵を取り消し、私めらを釜茹での刑に処してください。そうすれば、朝廷は上下みな、打ち解け合うことになりましょう」と。劉聡は言った。「こいつらが狂言を呈するのはいつものことであるから、そなたらにとってそれはどうして恨みに思うに足るものであろうか」と。そこで劉聡が改めて劉粲に諮問すると、劉粲は、王沈らは忠実・潔癖であり、まさに「その心は王室にあり」というものであると盛んに称えた。劉聡は非常に喜び、王沈らを列侯に封じた。太宰の劉易は宮門に出向いて、また上疏して固く諫めた。劉聡は大いに怒り、自らの手でその上表文を破ったので、劉易はそのまま怒って死んでしまった。陳元達は、劉易のために慟哭すること非常に悲哀に満ち、そして言った。「まさに『賢人たちが逃亡を口にするとき、国はまもなく疲弊しきってしまうだろう』という状態である。私はもはや何も言うことはできないが、だからといってどうして黙々と生きていくことができようか」と。そして帰って自殺してしまった。
(晋の愍帝政権下の)北地郡では激しく飢饉に見舞われ、人々は互いに食らい合った。羌の酋大(酋長)である軍須は、食糧を運んで(北地太守の)麹昌に供給しようとしたが、(劉聡配下の)劉雅がそれを襲撃して破った。また(愍帝政権の)麹允は、劉曜と磻石谷で戦い、晋軍は敗北し、麹允は霊武に逃亡した。
平陽でも非常に飢餓が蔓延し、流亡したり叛乱を起こしたり死亡したりする者が五・六割に上った。石勒は、石越を派遣して騎兵二万を率いて并州に駐屯させ、そこで劉聡に叛いた者たちを懐柔・安撫させ(て自分の勢力に取り込もうとし)た。劉聡は、黄門侍郎の喬詩を派遣して石勒をとがめさせたが、石勒は劉聡の命を奉じず、ひそかに曹嶷と結託し、三者鼎立の情勢を形成しようと画策していた。
劉聡は樊氏を上皇后に立てた。樊氏は張氏の侍婢であった。時に四后(上皇后・樊氏、左皇后・劉氏、右皇后・靳氏、もう一人は不明)の他にも、皇后の璽綬を帯びている者は七人いた。朝廷の内外にはもはや綱紀はなく、阿諛追従は日増しに盛んになって賄賂が公然と行われるようになり、軍隊は外にあって飢餓や疫病が相継いでいたが、後宮における賞賜はともすれば一千万銭にも上った。劉敷は、何度も泣きながらこの惨状について述べたが、劉聡は聞き容れず、怒って言った。「お前は、父を死人にさせようとしているのか。朝な夕なわざわざやってきて、生きている人間に向かって(死者に対して行う)哭礼を行うとは」と。そうして劉敷は、憂い怒って病を発して死んでしまった。
河東郡で大規模な蝗害があったが、ただ黍と豆のみは食らわなかった。靳準が部下を率いて蝗たちを捕まえて埋めたところ、泣き声が十数里にわたって響きわたった。そこで後に土を掘ると、蝗たちが飛び出し、また黍や豆を食らった。また、平陽での飢餓が激しくなり、司隷校尉部の人で冀州に逃亡する者は二十万戸に上ったが、それは石越が彼らを招いたためであった。
相国府門で犬が豚と交尾し、次いで宮門でも交尾し、さらには司隷校尉府・御史台の門でも交尾した。そして進賢冠をかぶった豚が現れ、劉聡の玉座に上った。また、武冠をかぶり、綬を帯びた犬も現れ、その豚と一緒に劉聡の玉座に上った。すると急にその豚と犬は闘争を始め、やがて殿上で死んだ。宿衛の者の中には、誰もその豚や犬が中に入ったのを見た者がいなかった。そのようなことがあってからというもの、劉聡が愚昧・暴虐になっていく様はますますひどくなり、自重したり恐れたりする心は無かった。
劉聡が臣下たちと光極前殿で宴を開き、太弟の劉乂を招いて顔を合わせたところ、その容貌はやつれて憔悴し、頭髪は蒼白になり、涙を流して謝罪の言葉を述べた。劉聡もまた劉乂に対して悲しみ慟哭し、酒を存分に飲んで歓楽の情を極め、初めの頃のように劉乂に接した。

原文

劉曜陷長安外城、愍帝使侍中宋敞送牋于曜、帝肉袒牽羊、輿櫬銜璧出降。及至平陽、聰以帝爲光祿大夫・懷安侯、使粲告于太廟、大赦境内、改年麟嘉。麴允自殺。
聰東宮四門無故自壞、後内史女人化爲丈夫。時聰子約死、一指猶暖、遂不殯殮。及蘇、言見元海於不周山、經五日、遂復從至崐崘山、三日而復返於不周、見諸王公卿將相死者悉在、宮室甚壯麗、號曰蒙珠離國。元海謂約曰「東北有遮須夷國、無主久、待汝父爲之。汝父後三年當來。來後國中大亂相殺害、吾家死亡略盡、但可永明輩十數人在耳。汝且還。後年當來、見汝不久。」約拜辭而歸、道遇一國、曰猗尼渠餘國、引約入宮、與約皮囊一枚曰「爲吾遺漢皇帝。」約辭而歸、謂約曰「劉郎後年來必見過、當以小女相妻。」約歸、置皮囊於机上。俄而蘇、使左右机上取皮囊開之、有一方白玉、題文曰「猗尼渠餘國天王敬信遮須夷國天王。歲在攝提、當相見也。」馳使呈聰、聰曰「若審如此、吾不懼死也。」及聰死、與此玉并葬焉。
時東宮鬼哭。赤虹經天、南有一歧。三日並照、各有兩珥、五色甚鮮。客星歷紫宮入於天獄而滅。太史令康相言於聰曰「蛇虹見彌天、一歧南徹、三日並照、客星入紫宮。此皆大異、其徵不遠也。今虹達東西者、許洛以南不可圖也。一歧南徹者、李氏當仍跨巴蜀、司馬叡終據全吳之象、天下其三分乎。月爲胡王。皇漢雖苞括二京、龍騰九五、然世雄燕代、肇基北朔、太陰之變其在漢域乎。漢既據中原、曆命所屬、紫宮之異、亦不在他。此之深重、胡可盡言。石勒鴟視趙魏、曹嶷狼顧東齊、鮮卑之眾星布燕代、齊・代・燕・趙皆有將大之氣。願陛下以東夏爲慮、勿顧西南。吳蜀之不能北侵、猶大漢之不能南向也。今京師寡弱、勒眾精盛、若盡趙魏之銳、燕之突騎自上黨而來、曹嶷率三齊之眾以繼之、陛下將何以抗之。紫宮之變何必不在此乎。願陛下早爲之所、無使兆人生心。陛下誠能發詔、外以遠追秦皇・漢武循海之事、内爲高帝圖楚之計、無不剋矣。」聰覽之不悅。
劉粲使王平謂劉乂曰「適奉中詔、云京師將有變、敕裹甲以備之。」乂以爲信然、令命宮臣裹甲以居。粲馳遣告靳準・王沈等曰「向也王平告云東宮陰備非常。將若之何。」準白之、聰大驚曰「豈有此乎。」王沈等同聲曰「臣等久聞、但恐言之陛下弗信。」於是使粲圍東宮。粲遣沈・準收氐羌酋長十餘人、窮問之、皆懸首高格、燒鐵灼目、乃自誣與乂同造逆謀。聰謂沈等言曰「而今而後、吾知卿等忠於朕也、當念爲知無不言。勿恨往日言不用也。」於是誅乂素所親厚大臣及東宮官屬數十人、皆靳準及閹豎所怨也。廢乂爲北部王。粲使準賊殺之、坑士眾萬五千餘人、平陽街巷爲之空。氐羌叛者十餘萬落、以靳準行車騎大將軍以討之。時聰境内大蝗、平陽・冀・雍尤甚。靳準討之、震其二子而死。河汾大溢、漂沒千餘家。東宮災異、門閤宮殿蕩然。立粲爲皇太子、大赦殊死已下。以粲領相國・大單于、總攝朝政如前。
聰校獵上林、以帝行車騎將軍、戎服執戟前導、行三驅之禮。粲言於聰曰「今司馬氏跨據江東、趙固・李矩同逆相濟、興兵聚眾者皆以子鄴爲名、不如除之、以絕其望。」聰然之。
趙固・郭默攻其河東、至於絳邑、右司隸部人盜牧馬負妻子奔之者三萬餘騎。騎兵將軍劉勳追討之、殺萬餘人、固・默引歸。劉頡遮邀擊之、爲固所敗。使粲及劉雅等伐趙固、次于小平津、固揚言曰「要當生縛劉粲以贖天子。」聰聞而惡之。
李矩使郭默・郭誦救趙固、屯于洛汭、遣耿稚・張皮潛濟、襲粲。貝丘王翼光自厘城覘之、以告粲。粲曰「征北南渡、趙固望聲逃竄、彼方憂自固、何暇來邪。且聞上身在此、自當不敢北視、況敢濟乎。不須驚動將士也。」是夜、稚等襲敗粲軍、粲奔據陽鄉、稚館穀粲壘。雅聞而馳還、柵于壘外、與稚相持。聰聞粲敗、使太尉范隆率騎赴之、稚等懼、率眾五千、突圍趨北山而南。劉勳追之、戰于河陽、稚師大敗、死者三千五百人、投河死者千餘人。
聰所居螽斯則百堂災、焚其子會稽王衷已下二十有一人。聰聞之、自投於牀、哀塞氣絕、良久乃蘇。平陽西明門牡自亡。霍山崩。
署其驃騎大將軍・濟南王劉驥爲大將軍・都督中外諸軍事・錄尚書、衞大將軍・齊王劉勱爲大司徒。
中常侍王沈養女年十四、有妙色、聰立爲左皇后。尚書令王鑒・中書監崔懿之・中書令曹恂等諫曰「臣聞王者之立后也、將以上配乾坤之性、象二儀敷育之義、生承宗廟、母臨天下、亡配后土、執饋皇姑、必擇世德名宗、幽閑淑令、副四海之望、稱神祇之心。是故周文造舟、姒氏以興、關雎之化饗、則百世之祚永。孝成任心縱欲、以婢爲后、使皇統亡絕、社稷淪傾。有周之隆既如彼矣、大漢之禍又如此矣。從麟嘉以來、亂淫於色、縱沈之弟女、刑餘小醜猶不可塵瓊寢、汙清廟、況其家婢邪。六宮妃嬪皆公子公孫、奈何一旦以婢主之。何異象榱・玉簀而對腐木・朽楹哉。臣恐無福於國家也。」聰覽之大怒、使宣懷謂粲曰「鑒等小子、慢侮國家、狂言自口、無復君臣上下之禮、其速考竟。」於是收鑒等送市。金紫光祿大夫王延馳將入諫、門者弗通。鑒等臨刑、王沈以杖叩之曰「庸奴、復能爲惡乎。乃公何與汝事。」鑒瞋目叱之曰「豎子、使皇漢滅者、坐汝鼠輩與靳準耳。要當訴汝於先帝、取汝等於地下。」懿之曰「靳準梟聲鏡形、必爲國患。汝既食人、人亦當食汝。」皆斬之。聰又立其中常侍宣懷養女爲中皇后。
鬼哭於光極殿、又哭於建始殿。雨血平陽、廣袤十里。時聰子約已死、至是晝見。聰甚惡之、謂粲曰「吾寢疾惙頓、怪異特甚。往以約之言爲妖、比累日見之。此兒必來迎吾也。何圖人死定有神靈。如是。吾不悲死也。今世難未夷、非諒闇之日、朝終夕殮、旬日而葬。」徵劉曜爲丞相・錄尚書、輔政、固辭乃止。仍以劉景爲太宰、劉驥爲大司馬、劉顗爲太師、朱紀爲太傅、呼延晏爲太保、並錄尚書事、范隆守尚書令・儀同三司、靳準爲大司空・領司隸校尉、皆迭決尚書奏事。
太興元年、聰死。在位九年。偽諡曰昭武皇帝、廟號烈宗。

訓読

劉曜の長安外城を陷すや、愍帝、侍中の宋敞をして牋を曜に送り、帝、肉袒して羊を牽き、櫬を輿して璧を銜みて出でて降る。平陽に至るに及び、聰、帝を以て光祿大夫・懷安侯と爲し、粲をして太廟に告げしめ、境内に大赦し、麟嘉と改年す。麴允、自殺す。
聰の東宮の四門、故無くして自壞し、後に内史の女人、化して丈夫と爲る。時に聰の子の約は死するも、一指猶お暖かければ、遂に殯殮せず。蘇るに及び、言わく、元海に不周山に見え、經ること五日、遂に復た從いて崐崘山に至り、三日にして復た不周に返り、諸王公卿將相の死せる者の悉く在るを見、宮室は甚だ壯麗にして、號して蒙珠離國と曰う。元海、約に謂いて曰く「東北に遮須夷國有り、主無きこと久しければ、汝の父を待ちて之と爲さん。汝の父、後三年にして當に來るべし。來る後、國中は大いに亂れて相い殺害し、吾が家は死亡して略し盡くも、但だ永明の輩十數人のみ在るべきのみ。汝、且く還れ。後年當に來るべければ、汝を見ること久しからず」と。約、拜して辭して歸るに、道に一國に遇い、猗尼渠餘國と曰い、約を引きて宮に入れ、約に皮囊一枚を與えて曰く「吾が爲に漢皇帝に遺れ」と。約、辭して歸らんとするや、約に謂いて曰く「劉郎、後年來りて必ず見(われ)を過れば、當に小女を以て相い妻らしむべし」と。約、歸り、皮囊を机上に置く。俄かにして蘇り、左右をして机上に皮囊を取りて之を開かしむるや、一方白玉有り、題文に曰く「猗尼渠餘國天王、敬みて遮須夷國天王に信にせん。歲は攝提に在り、當に相い見ゆべきなり」と。使を馳せて聰に呈するや、聰曰く「若し審らかなること此くの如くんば、吾、死を懼れざるなり」と。聰の死するに及び、此の玉と并びに葬る。
時に東宮に鬼、哭す。赤虹、天に經、南に一歧有り。三日、並びに照り、各々兩珥有り、五色にして甚だ鮮やかなり。客星、紫宮を歷て天獄に入りて滅す。太史令の康相、聰に言いて曰く「蛇虹、彌天に見れ、一歧ありて南のかた徹り、三日、並びに照り、客星、紫宮に入る。此れ皆な大異にして、其の徵は遠からざるなり。今、虹の東西に達するは、許洛以南、圖るべからざるなり。一歧ありて南のかた徹るは、李氏の當に仍お巴蜀に跨るべく、司馬叡の終に全吳に據るの象にして、天下其れ三分せんか。月は胡王たり。皇漢は二京を苞括し、九五に龍騰すと雖も、然れども世々燕・代に雄たり、基を北朔に肇むれば、太陰の變、其れ漢域に在らんか。漢、既に中原に據り、曆命の屬する所なれば、紫宮の異、亦た他に在らず。此の深重なるは、胡ぞ盡く言うべけんや。石勒は趙・魏を鴟視し、曹嶷は東齊を狼顧し、鮮卑の眾は燕・代に星布し、齊・代・燕・趙は皆な將に大ならんとするの氣有り。願わくは陛下、東夏を以て慮と爲し、西南を顧みること勿からんことを。吳蜀の北のかた侵す能わざるは、猶お大漢の南のかた向かう能わざるがごときなり。今、京師は寡弱にして、勒の眾は精盛なれば、若し趙・魏の銳を盡くし、燕の突騎、上黨よりして來り、曹嶷、三齊の眾を率いて以て之に繼がば、陛下、將た何を以てか之に抗せんや。紫宮の變、何ぞ必ずしも此に在らざらんや。願わくは陛下、早く之が所を爲し、兆人をして心を生ましむること無からんことを。陛下、誠に能く詔を發し、外は遠く秦皇・漢武の循海の事を追うを以てし、内は高帝の圖楚の計を爲すをもてせば、剋たざる無からん」と。聰、之を覽て悅ばず。
劉粲、王平をして劉乂に謂わしめて曰く「適に中詔を奉じたるに、京師に將に變有らんとすと云い、裹甲して以て之に備えよと敕す」と。乂、以て信に然りと爲し、令して宮臣に命じて裹甲して以て居らしむ。粲、馳せて遣わして靳準・王沈等に告げて曰く「向也、王平、告ぐに東宮は陰かに非常に備うと云う。將に之を若何せんとす」と。準の之を白すや、聰、大いに驚きて曰く「豈に此れ有らんや」と。王沈等、聲を同じくして曰く「臣等、久しく聞きたるも、但だ之を言うも陛下の信ぜざるを恐れり」と。是に於いて粲をして東宮を圍ましむ。粲、沈・準を遣わして氐羌の酋長十餘人を收めしめ、之を窮問するに、皆な首を高格に懸け、鐵を燒きて目を灼けば、乃ち自ら乂と同に逆謀を造すと誣す。聰、沈等に謂いて言いて曰く「而今而後、吾、卿等の朕に忠なるを知れば、當に知れば言わざる無きを爲すことを念うべし。往日の言の用いられざるを恨む勿かれ」と。是に於いて乂の素より親厚する所の大臣及び東宮の官屬數十人を誅するに、皆な靳準及び閹豎の怨む所なり。乂を廢して北部王と爲す。粲、準をして之を賊殺せしめ、士眾萬五千餘人を坑にし、平陽の街巷、之が爲に空し。氐羌の叛する者は十餘萬落、靳準を以て車騎大將軍を行せしめて以て之を討たしむ。時に聰の境内に大蝗あり、平陽・冀・雍〔一〕、尤も甚だし。靳準、之を討(のぞ)くや〔二〕、其の二子に震いて死す。河汾、大いに溢れ、千餘家を漂沒す。東宮に災異あり、門閤宮殿、蕩然とす。粲を立てて皇太子と爲し、殊死已下を大赦す。粲を以て相國・大單于を領せしめ、朝政を總攝せしむること前の如し。
聰、上林に校獵するや、帝を以て車騎將軍を行せしめ、戎服・執戟して前導せしめ、三驅の禮を行わしむ。粲、聰に言いて曰く「今、司馬氏は江東に跨據し、趙固・李矩(りく)は同に逆して相い濟い、兵を興し眾を聚むる者は皆な子鄴を以て名と爲せば、之を除き、以て其の望を絕つに如かず」と。聰、之を然りとす。
趙固・郭默、其の河東を攻め、絳邑に至るや、右司隸部の人の牧馬を盜み妻子を負いて之に奔る者、三萬餘騎。騎兵將軍の劉勳、追いて之を討ち、萬餘人を殺したれば、固・默、引きて歸る。劉頡(りゅうけつ)、遮邀して之を擊つも、固の敗る所と爲る。粲及び劉雅等をして趙固を伐たしめ、小平津に次するや、固、揚言して曰く「要ず當に劉粲を生縛して以て天子を贖うべし」と。聰、聞きて之を惡む。
李矩、郭默・郭誦をして趙固を救わしめ、洛汭に屯せしめ、耿稚(こうち)・張皮を遣わして潛かに濟り、粲を襲わしめんとす。貝丘王翼光、厘城より之を覘い、以て粲に告ぐ。粲曰く「征北の南のかた渡るや、趙固、聲を望みて逃竄し、彼は方に憂えて自ら固くすれば、何ぞ來るに暇あらんや。且つ上の身の此に在るを聞きたれば、自ら當に敢えて北視せざるべきに、況んや敢えて濟るをや。將士を驚動するを須いざるなり」と。是の夜、稚等、襲いて粲の軍を敗り、粲、奔りて陽鄉に據り、稚、粲の壘に館穀す。雅、聞きて馳せて還り、壘外に柵し、稚と相い持す。聰、粲の敗れしを聞き、太尉の范隆をして騎を率いて之に赴かしむるや、稚等、懼れ、眾五千を率い、圍を突きて北山に趨きて南す。劉勳、之を追い、河陽に戰うや、稚の師は大敗し、死者は三千五百人、河に投じて死する者は千餘人。
聰の居る所の螽斯則百堂に災あり、其の子の會稽王衷已下二十有一人を焚く。聰、之を聞き、自ら牀に投じ、哀塞して氣絕えしも、良々久しくして乃ち蘇る。平陽の西明門の牡、自ら亡す。霍山、崩る。
其の驃騎大將軍・濟南王劉驥(りゅうき)を署して大將軍・都督中外諸軍事・錄尚書と爲し、衞大將軍・齊王の劉勱(りゅうばい)もて大司徒と爲す。
中常侍の王沈の養女は年十四にして、妙色有り、聰、立てて左皇后と爲す。尚書令の王鑒・中書監の崔懿之(さいいし)・中書令の曹恂(そうじゅん)等、諫めて曰く「臣聞くならく、王者の后を立つるや、將に上は乾坤の性に配たり、二儀敷育の義に象るを以てせんとし、生きては宗廟を承け、天下に母臨し、亡せては后土に配し、饋を皇姑に執れば、必ず世德の名宗にして、幽閑淑令なるを擇び、四海の望に副い、神祇の心に稱わんとす、と。是の故に周文の舟を造ぶるや、姒氏は以て興り、關雎の化の饗くれば、則ち百世の祚は永し。孝成は心に任せ欲を縱にし、婢を以て后と爲せば、皇統をして亡絕せしめ、社稷をして淪傾せしむ。有周の隆は既に彼の如く、大漢の禍は又た此くの如し。麟嘉より以來、亂りに色に淫し、沈の弟の女に縱たるも、刑餘の小醜すら猶お瓊寢を塵し、清廟を汙すべからざるに、況んや其の家婢をや。六宮の妃嬪は皆な公子・公孫なるに、奈何ぞ一旦にして婢を以て之を主らしめんや。何ぞ象榱・玉簀にして腐木・朽楹に對するに異ならんや。臣、國家に福無きを恐るるなり」と。聰、之を覽て大いに怒り、宣懷をして粲に謂わしめて曰く「鑒等の小子、國家を慢侮し、狂言、口よりし、復た君臣上下の禮無ければ、其れ速やかに考竟せよ」と。是に於いて鑒等を收めて市に送る。金紫光祿大夫の王延、馳せて將に入りて諫めんとするも、門者は通さず。鑒等の刑に臨むや、王沈、杖を以て之を叩きて曰く「庸奴、復た能く惡を爲さんや。乃公、何ぞ汝の事に與らんや」と。鑒、目を瞋らして之を叱して曰く「豎子、皇漢をして滅ばしむる者は、坐に汝が鼠輩と靳準なるのみ。要ず當に汝を先帝に訴え、汝等を地下に取るべし」と。懿之曰く「靳準は梟聲にして鏡形なれば、必ず國の患と爲らん。汝、既に人を食らえば、人も亦た當に汝を食らうべし」と。皆な之を斬る。聰、又た其の中常侍の宣懷の養女を立てて中皇后と爲す。
鬼、光極殿に哭し、又た建始殿に哭す。血を平陽に雨らすこと、廣袤十里。時に聰の子の約は已に死せしも、是に至りて晝に見る。聰、甚だ之を惡み、粲に謂いて曰く「吾、疾に寢ねて惙頓たるに、怪異、特に甚だし。往ろ約の言を以て妖と爲すも、比ろ累日之を見る。此の兒、必ずや來りて吾を迎うるなり。何ぞ圖らんや、人の死に定めて神靈有らんとは。是くの如くんば、吾、死を悲しまざるなり〔三〕。今、世難は未だ夷がず、諒闇の日に非ざれば、朝終わりて夕に殮し、旬日にして葬せ」と。劉曜を徵して丞相・錄尚書と爲し、輔政せしめんとするも、固く辭せば乃ち止む。仍りて劉景を以て太宰と爲し、劉驥もて大司馬と爲し、劉顗(りゅうぎ)もて太師と爲し、朱紀もて太傅と爲し、呼延晏(こえんあん)もて太保と爲し、並びに尚書の事を錄せしめ、范隆もて守尚書令・儀同三司たらしめ、靳準もて大司空・領司隸校尉と爲し、皆な迭々尚書の奏事を決す。
太興元年、聰、死す。位に在ること九年。偽諡は昭武皇帝と曰い、廟は烈宗と號す。

〔一〕この「冀」「雍」が「冀州」「雍州」のことを指しているのか、「天水郡の冀県」「扶風郡の雍県」を指しているのかは判然としない。平陽と一緒に並べられていること、そして冀州は石勒の支配地域であることを考えると、後者の可能性が高いようにも思われる。
〔二〕文脈上、「之」は蝗のことを指すが、蝗を「討」するというのはあまり見られない。ただ、前文に蝗を地中に埋めたという記事もあり、また苻堅載記下に「所司奏『劉蘭討蝗幽州、經秋冬不滅、請徵下廷尉詔獄。』」(所司奏すらく『劉蘭は蝗を幽州に討つも、秋冬を經て滅せざれば、請うらくは徵して廷尉詔獄に下されんことを』と。)ともあるので、どうやら当時は蝗害に対して、それを駆除するという方策を取ることがあったようである。
〔三〕前文にある通り、劉聡は息子たちが火災で死んだ際に、一時的に呼吸停止するほどにショックを受けていた。その息子たちが死んだ「螽斯則百堂」は、名前からしてまさに劉聡の子宝祈願を象徴しており、皇后や息子たちを含む家族への情の深さ、およびそれが火災で焼け落ちたことにより息子たちの命が奪われたということへの悲哀の深さが見て取れる。ここで「不悲死」と言っているのは、あるいはそのことも含め、家族の死というものが念頭にあったのかもしれない。

現代語訳

劉曜が長安の外城を落とすと、愍帝は、侍中の宋敞を派遣して牋(文書の一種)を劉曜に送り、愍帝自身は肌脱ぎになって羊を牽き、棺を車に載せて従わせ、璧を口にくわえ、降伏しに出てきた。愍帝が平陽に到着すると、劉聡は、愍帝を「光禄大夫・懐安侯」とし、劉粲に太廟に報告しに行かせ、領域内で大赦を行い、麟嘉と改元した。麹允は自殺した。
劉聡の東宮の四つの門が、突如、何もないのにひとりでに壊れ、また、後に内史所属の女人が男に変化した。時に劉聡の子の劉約が死んだが、一本の指がまだ温かかったので、そこで殯殮(葬儀の一環として死者を棺に納めて仮埋葬する儀式)を行わなかった。やがて劉約は蘇生し、そして言うには、不周山にて劉元海(劉淵)に会い、五日経つと、そのままさらに劉元海に従って崐崘山へ赴き、さらに三日経ってまた不周山に戻り、死んだ諸王や公卿・将帥・大臣たちが皆いるのを目にし、宮室は非常に壮麗で、そこは蒙珠離国と呼ばれていたのだという。そして劉元海は劉約に言った。「東北に遮須夷国があり、長きにわたって君主の座が空いているので、お前の父(劉聡)がこちらに来るのを待ってその座に就けようと思う。お前の父は、三年後にこちらに来るであろう。お前の父がこちらに来た後、(漢の)国中は大いに乱れて互いに殺し合い、我が家の人々は死亡してほとんど尽きることになるが、ただ永明(劉曜)ら十数人のみが生き永らえることができよう。お前はひとまず帰れ。後年、また来ることになろうから、近いうちに再会することになろう」と。劉約が拝礼を行って挨拶して帰途に就くと、道中で一つの国を通過したが、そこは猗尼渠余国と言い、その君主は劉約を招いて宮殿に入らせ、劉約に皮袋一つを与えて言った。「私のためにこれを漢の皇帝に渡してもらいたい」と。劉約が挨拶して帰ろうとすると、その君主は劉約に言った。「劉郎よ、後年、こちらに来たらきっと私のもとに訪れることになろうから、そのときは私の末娘を娶らせたい」と。劉約は、帰ってその皮袋を机の上に置いた。そこで劉約は突然蘇生し、左右の者に机の上の皮袋を取りに行かせて中を開けさせると、一つの方形の白玉があり、その題文には「猗尼渠余国の天王が、つつしんで遮須夷国の天王にお約束申し上げます。摂提格の年(太歳が寅に位置する年)に、ぜひともお会いしましょう」とあったという。劉約が使者を急ぎ派遣して劉聡にそのことを上呈すると、劉聡は言った。「もしそのように死期がはっきりとしているのであれば、私はもはやいつ死が訪れるのかとびくびくする必要はないわな」と。後に劉聡が死ぬと、この玉と一緒に葬った。
時に東宮にて鬼が泣き声を上げた。また、赤い虹が天にかかり、南の方で二手に分かれた。さらに、三つの太陽が同時に照り輝き、それぞれに二つの珥(みみだま)のようなものがあり、五色で非常に鮮やかであった。それに加えて、客星が紫宮(星官の名称)を経て天獄(星官の名称)に流れ入って消滅した。太史令の康相は、劉聡に言った。「蛇のような虹が空一面に現れ、二手に分かれて南に達し、三つの太陽が同時に照り輝き、客星が紫宮に流れ入りました。これらはいずれも大いなる災異であり、その兆候の顕現はそう遠い時期ではないでしょう。今、虹が東西に達しているのは、許昌・洛陽以南は奪取することができないということを示しています。それが二手に分かれて南に達しているのは、李氏(成漢)がなお巴蜀を占拠し続け、司馬叡(東晋)が最終的に呉全土を占拠するという象徴であり、天下が三分されるということでしょう。月は胡王を示しています。我が皇漢は二京(洛陽・長安)を包括し、帝王の位に竜飛しましたが、しかし、代々燕や代の地で雄飛し、初め北朔の地に基礎を築きましたので、この太陰の異変は、漢の領域内のことを指すということになりましょう。漢は中原を占拠し、暦数や天命が帰していますので、紫宮の異変もやはり他ならぬ漢のことを示しておりましょう。これらがいかに深く重要であるかは、どうして言い尽くすことができましょうか。石勒は梟のようにその凶悪かつ狡猾な目を趙や魏の地に光らせ、曹嶷は狼のように貪婪で飢えた瞳を東方の斉の地に向け、鮮卑の兵衆は星のように燕や代の地に広がって分布し、彼らの占拠する斉・代・燕・趙の地ではいずれも、これから大きくなろうとする気があります。どうか陛下よ、東夏(東中国)のことを憂慮し、西南を顧みることをおやめになりますようお願い申し上げます。呉(東晋)や蜀(成漢)が北に侵攻することができないのは、我が大漢が南に向かうことができないのと同様です。今、京師(平陽)は人口も少なく弱々しく、一方で石勒の兵衆は精強でございますので、もし彼が趙・魏の精鋭をつぎ込み、それに加えて燕の鮮卑の突騎が上党郡から来襲し、さらに曹嶷が三斉の兵衆を率いてそれに続けば、陛下はどうしてこれに対抗できましょうか。紫宮の異変は、どうして必ずしもこのことを指していないと限りましょうか。どうか陛下よ、早く適切な処置を施し、民衆に異心を抱かせることのないようになされますようお願い申し上げます。陛下が実に詔を発し、外は秦の始皇帝や漢の武帝が海岸に沿って諸国を征服した故事に従い、内は高帝(劉邦)が楚を囲んだ計略をなすことができれば、勝利できないことなどありますまい」と。劉聡は、それを見て喜ばしく思わなかった。
劉粲は、王平を差し向けて劉乂に次のように言わせた。「今しがた中詔(宮中から直接発布される詔令)を奉じましたが、それによるとまさに京師に変事が起ころうとしているとありまして、衣の下に鎧を着てそれに備えよ、とお命じになっていました」と。劉乂はそれをそのまま信じ、令を発して宮臣たちに命じて衣の下に鎧を着て待機するようにさせた。劉粲は、急ぎ使者を派遣して靳準・王沈らに告げた。「先ほど王平が、東宮(劉乂)はこっそりと非常事態に備えていると言っていた。これをどうしようか」と。靳準がそのことを劉聡に直接口頭で報告すると、劉聡は大いに驚いて言った。「どうしてそんなことがあろうか」と。王沈らは、声を揃えて言った。「私どもは、以前からこのことを耳にしていましたが、ただ、それを申し上げても陛下がお信じにならないことを恐れておりました」と。そこで劉聡は、劉粲に命じて東宮を囲ませた。劉粲は、王沈・靳準を派遣して(劉乂の母方の部族である)氐羌の酋長十数人を捕らえさせ、詰問するに当たって、みな高い格(物干し竿とそのスタンドを組み合わせたような木製の器具)に首をつるし、熱した鉄で目を炙り焼いたので、そこで彼らは、劉乂と一緒に叛逆の謀略をめぐらしていたと偽りの自白をした。劉聡は王沈らに言った。「今後は、そなたらが朕に忠実であるということが分かったから、どうか『国家の利となるものは、そうと分かれば何事も言上する』ということを実行するよう心掛けてほしい。これまで意見が用いられなかったのを恨まないでくれ」と。そうして、劉乂が元から親しくして厚遇していた大臣や、東宮の属官たち合わせて数十人を誅殺したが、それらはみな靳準や宦官たちの怨みを買っていた人物であった。劉聡は、劉乂を廃して(匈奴)北部王とした。劉粲は、靳準に劉乂を殺害させ、劉乂の兵衆一万五千人余りを生き埋めにし、平陽の街中はそのために空っぽになった。(酋長を殺された)氐羌たちは叛乱を起こし、その数は十数万落に及んだが、劉聡は靳準に命じて車騎大将軍を一時的に代行させてそれを討伐させた。時に劉聡の領域内で大規模な蝗害があり、平陽・冀・雍の被害が特にひどかった。靳準がそれらの蝗を駆除すると、劉聡の二人の子に雷が落ちて死んでしまった。また、黄河と汾水が大いに氾濫し、千家余りを水没・漂流させた。さらに、東宮で災異があり、門から宮殿まで何も無くなってまっさらになってしまった。劉聡は劉粲を皇太子に立て、殊死以下の罪人に対して大赦を行った。劉聡はさらに劉粲に「相国・大単于」を兼任させ、朝政を総裁するというのは以前の通りとした。
劉聡は、上林苑で校猟(追い込み猟)を行った際に、愍帝に車騎将軍を一時的に代行させ、軍服を着させ戟を持たせて先導役とし、「三駆」の礼を行わせた。劉粲は劉聡に言った。「今、司馬氏(東晋)は江東を占拠し、趙固・李矩(りく)はその叛逆に一緒に加担して互いに救援し合い、(彼ら以外にも)軍を興して兵衆を集めている者はいずれも子鄴(愍帝)の奪還を名分としていますので、彼を除き、それによってヤツらの希望を絶つのが一番でしょう」と。劉聡はその通りだと考えた。
趙固・郭黙が劉聡支配下の河東郡を攻め、絳邑に至ると、右司隷部の人で軍馬を盗んで妻子を乗せて趙固らのもとに亡命する者が、三万騎余りに上った。(劉聡配下の)騎兵将軍の劉勲は、それを追撃して一万人余りを殺したので、趙固と郭黙は退却して帰った。劉頡(りゅうけつ)がそれを遮って迎え撃ったが、趙固に敗れた。劉聡は、劉粲および劉雅らに趙固を討伐しに向かわせ、彼らが小平津に駐屯すると、趙固は声高らかに言った。「必ず劉粲を生け捕りにして天子(愍帝)と交換せねばならない」と。劉聡は、それを伝え聞いて不快に思った。
李矩は、郭黙・郭誦に命じて趙固を救援しに行かせ、洛汭に駐屯させ、さらに耿稚(こうち)・張皮を派遣してこっそりと黄河を渡らせ、劉粲を襲撃させようとした。貝丘王・劉翼光は、厘城から偵察していたところそれを目撃し、そこで劉粲に報告した。劉粲は言った。「征北将軍(劉雅)が南岸に渡ると、趙固はそのことを聞いて逃げ隠れ、敵はちょうど憂慮に駆られて防備を固めているところであろうから、どうして襲来する余裕などあろうか。それに、ヤツらからすれば、皇帝(愍帝)の身柄がこちらにあるということをすでに耳にしているから、北方を直視することすらできないであろうに、ましてや敢えて河を渡ってくることなどできようものか。将帥や兵士たちを騒がせ煩わせる必要はない」と。その夜、耿稚らは劉粲の軍を襲撃して破り、劉粲は逃走して陽郷を占拠し、耿稚軍は劉粲が使っていた塁砦に駐屯してその食糧を食らった。劉雅は、それを聞くと馳せ戻り、その塁砦の外側に柵をめぐらし、耿稚軍と対峙した。劉聡が、劉粲が敗れたということを聞き、太尉の范隆に命じて騎兵を率いてそこに赴かせたところ、耿稚らは恐れ、兵衆五千を率い、包囲を突き破って北山に向かって南下した。劉勲はそれを追撃し、河陽で戦ったところ、耿稚の軍は大敗し、戦死者は三千五百人に上り、さらに黄河に身を投げて死んだ者は千人余りに上った。
劉聡のいた螽斯則百堂で火災があり、その子の会稽王・劉衷以下の二十一人が焼け死んだ。劉聡はそれを聞き、自ら牀に身を投げ出し、悲しみのあまり呼吸停止に陥ったが、しばらくして何とか蘇生した。また、平陽の西明門の牡(かんぬきの穴の部分)がひとりでに無くなった。さらに、霍山が崩落した。
劉聡は、驃騎大将軍・済南王の劉驥(りゅうき)を「大将軍・都督中外諸軍事・録尚書」に任じ、衛大将軍・斉王の劉勱(りゅうばい)を大司徒に任じた。
中常侍の王沈の養女は当時十四歳であったが、妙麗であったので、劉聡は彼女を左皇后に立てた。すると、尚書令の王鑑、中書監の崔懿之(さいいし)、中書令の曹恂(そうじゅん)らは諫めて言った。「私めらが聞くところによりますと、王者が后を立てる際には、上は乾坤の性に相当し、天地陰陽が万物を生み出し長育するという義にかなう人物を選ぼうとするものであり、また、(皇后は)生きているうちは天子の宗廟を継承し、母として天下に君臨し、死んだら后土に配祀され、死後の世界で皇姑(皇后にとっての姑=皇帝の母)の食事の世話をする立場であるので、必ず代々徳望で知られる名門の家柄で、静かで奥ゆかしく徳の麗しい人物を選び、それによって四海の期待に沿い、神祇の心にかなおうとするものだと言います。それゆえ周の文王が舟を並べて橋をつくって徳篤き太姒を妃に迎えると、太姒は(武王や周公旦を産んで)周を興隆させたのであり、(『詩』周南の)『関雎』の詩に歌われる(君子たる夫と淑女たる妻が親しみ楽しみ合うという)教化が持続すれば、百世の後も永く国運が続くことになるのです。一方で孝成皇帝(前漢の成帝)は、心のままに欲望のままに、婢を皇后としたので、皇統を絶やし、社稷を滅亡させることになりました。周が先述のようにして隆盛を誇ったのに対し、大漢はまたこのようにして禍を招いたのです。麟嘉年間以来、陛下はむやみに女色に耽り、王沈の弟の娘にぞっこんになっていらっしゃいますが、刑罰を受けた小悪党自身が太廟やその寝(廟の奥の区画)を汚すことすらもってのほかでありますのに、その家婢であるとなればなおさらです。六宮の妃嬪たちはみな公の娘や孫娘たちでございますのに、どうしてある日突然、婢ごときを皇后にして彼女らを統括させようとなさるのでしょうか。それはどうして象牙のたるきや玉製のすのこを、腐った木や朽ちた柱と組み合わせるのと異なるものでしょうか。私めらは、そのようなことが国家に何ら福をもたらさないことを恐れます」と。劉聡は、その上奏文を見て大いに怒り、宣懐を派遣して劉粲に次のように伝えさせた。「王鑑らこわっぱどもは、国家を軽んじ侮り、狂言を口にし、もはや君臣間の上下の礼を欠いているので、速やかに拷問して殺せ」と。そこで王鑑らを捕らえて市に送った。金紫光祿大夫の王延は、馳せて宮中に入って劉聡を諫めようとしたが、門番は通さなかった。王鑑らが処刑される間際、王沈は杖で王鑑を叩いて言った。「愚か者め、これでもはや悪事をなせまい。俺がどうしてお前の思い通りになろうか」と。王鑑は、目を見開いてにらみつけ、どなりつけて言った。「豎子め、皇漢を滅亡させる者は、まさにお前ら鼠どもと靳準である。(死んだら)必ずお前のことを先帝(劉淵)に訴え、お前らを地下に引きずり込んでとっ捕まえてやろうぞ」と。崔懿之が言った。「靳準は(母を食らうという悪鳥の)梟のような声をしており、(父を食らうという悪獣の)破鏡のような見た目をしているので、必ずや国の禍となろう。人を食らった以上、お前もまた人(靳準)に食われることになろうぞ」と。そうして王鑑らはみな斬られた。劉聡はさらに、中常侍の宣懐の養女を中皇后に立てた。
鬼が光極殿で泣き声を上げ、さらに建始殿でも泣き声を上げた。また、平陽で十里四方にわたって血の雨が降った。時に劉聡の子の劉約はすでに死んでいたが、この段になって昼に姿を現すようになった。劉聡は非常に不快に思い、劉粲に言った。「私が病で寝込んで疲れ果ててからというもの、怪異現象が特にひどくなった。これまで、約の言葉は妖言に過ぎないと思っていたが、最近では連日、約の姿を見るようになった。こやつはきっと私を迎えに来たのだ。どうして思いもしようか、人の死には必ず神霊が関わっていようとは。そうと知っていれば、私は人々の死を悲しんだりなどしなかったのに。今はまだ世の困難が平定されておらず、諒闇(天子による服喪)を行うべきときではないので、朝会をしっかりと行ってそれが終わってから夕べに殮(葬儀の一環として遺体を棺に納めて安置する儀式)を行い、十日経ったらもう葬(本埋葬)を行ってよい」と。そして、劉曜を徴召して「丞相・録尚書」に任じ、輔政させようとしたが、劉曜が固辞したので取りやめた。そこで劉景を太宰に任じ、劉驥を大司馬に任じ、劉顗(りゅうぎ)を太師に任じ、朱紀を太傅に任じ、呼延晏(こえんあん)を太保に任じ、いずれも「録尚書事」とし、范隆を「守尚書令・儀同三司」に任じ、靳準を「大司空・領司隷校尉」に任じ、尚書から送られてくる上奏案件の決裁をみなで代わる代わる行わせることとした。
太興元年(318)、劉聡は死んだ。在位は九年。諡号は「昭武皇帝」とされ、廟号は「烈宗」とされた。

(子粲・陳元達)

原文

粲、字士光。少而儁傑、才兼文武。自爲宰相、威福任情、疏遠忠賢、昵近姦佞、任性嚴刻無恩惠、距諫飾非。好興造宮室、相國之府仿像紫宮、在位無幾、作兼晝夜、飢困窮叛、死亡相繼、粲弗之恤也。
既嗣偽位、尊聰后靳氏爲皇太后、樊氏號弘道皇后、宣氏號弘德皇后、王氏號弘孝皇后。靳等年皆未滿二十、並國色也、粲晨夜烝淫於内、志不在哀。立其妻靳氏爲皇后、子元公爲太子、大赦境内、改元漢昌。雨血于平陽。
靳準將有異謀、私於粲曰「如聞諸公將欲行伊尹・霍光之事、謀先誅太保及臣、以大司馬統萬機。陛下若不先之、臣恐禍之來也不晨則夕。」粲弗納。準懼其言之不從、謂聰二靳氏曰「今諸公侯欲廢帝、立濟南王、恐吾家無復種矣。盍言之於帝。」二靳承間言之。粲誅其太宰・上洛王劉景、太師・昌國公劉顗、大司馬・濟南王劉驥、大司徒・齊王劉勱等。太傅朱紀・太尉范隆出奔長安。又誅其車騎大將軍・吳王劉逞、驥母弟也。粲大閱上林、謀討石勒。以靳準爲大將軍・錄尚書事。粲荒耽酒色、游讌後庭、軍國之事一決於準。準矯粲命、以從弟明爲車騎將軍、康爲衞將軍。
準將作亂、以金紫光祿大夫王延耆德時望、謀之于延。延弗從、馳將告之、遇靳康、劫延以歸。準勒兵入宮、升其光極前殿、下使甲士執粲、數而殺之。劉氏男女無少長皆斬于東市。發掘元海・聰墓、焚燒其宗廟。鬼大哭、聲聞百里。
準自號大將軍・漢大王、置百官、遣使稱藩于晉。左光祿劉雅出奔西平。尚書北宮純・胡崧等招集晉人、保於東宮、靳康攻滅之。準將以王延爲左光祿、延罵曰「屠各逆奴、何不速殺我。以吾左目置西陽門。觀相國之入也。右目置建春門。觀大將軍之入也。」準怒、殺之。

訓読

粲(さん)、字は士光。少くして儁傑たり、才は文武を兼ぬ。宰相と爲りてより、威福は情に任せ、忠賢を疏遠し、姦佞に昵近し、性に任せて嚴刻にして恩惠無く、諫を距み非を飾る。宮室を興造するを好み、相國の府は紫宮を仿像し、位に在ること幾くも無くして、作ること晝夜を兼ね、飢困して窮して叛し、死亡するもの相い繼ぐも、粲、之を恤れまざるなり。
既に偽位〔一〕を嗣ぐや、聰の后の靳氏を尊びて皇太后と爲し、樊氏もて弘道皇后と號し、宣氏もて弘德皇后と號し、王氏もて弘孝皇后と號す。靳等、年は皆な未だ二十に滿たず、並びに國色なれば、粲、晨夜に内に烝淫し、志は哀に在らず。其の妻の靳氏を立てて皇后と爲し、子の元公もて太子と爲し、境内に大赦し、漢昌と改元す。血を平陽に雨らす。
靳準、將に異謀有らんとし、粲に私して曰く「聞くが如くんば、諸公、將に伊尹・霍光の事を行わんと欲し、謀りて先ず太保及び臣を誅し、大司馬を以て萬機を統べしめんとす、と。陛下、若し之に先んぜずんば、臣、禍の來たること晨ならざれば則ち夕ならんことを恐る」と。粲、納れず。準、其の言の從われざるを懼れ、聰の二靳氏に謂いて曰く「今、諸公侯は帝を廢し、濟南王を立てんと欲すれば、恐らくは吾が家は復た種無からん。盍ぞ之を帝に言さざる」と。二靳、間を承けて之を言す。粲、其の太宰・上洛王の劉景、太師・昌國公の劉顗(りゅうぎ)、大司馬・濟南王の劉驥、大司徒・齊王の劉勱(りゅうばい)等を誅す。太傅の朱紀・太尉の范隆、出でて長安に奔る。又た其の車騎大將軍・吳王の劉逞(りゅうてい)を誅せしに、驥の母弟なり。粲、大いに上林に閱し、石勒を討たんことを謀る。靳準を以て大將軍・錄尚書事と爲す。粲、酒色に荒耽し、後庭に游讌し、軍國の事は一に準に決せしむ。準、粲の命と矯り、從弟の明を以て車騎將軍と爲し、康もて衞將軍と爲す。
準、將に亂を作さんとし、金紫光祿大夫の王延の耆德時望なるを以て、之を延に謀る。延、從わず、馳せて將に之を告げんとするも、靳康に遇い、延を劫して以て歸らしむ。準、兵を勒して宮に入り、其の光極前殿に升り、下りて甲士をして粲を執えしめ、數めて之を殺す。劉氏の男女は少長と無く皆な東市に斬らる。元海・聰の墓を發掘し、其の宗廟を焚燒す。鬼、大いに哭き、聲は百里に聞こゆ。
準、自ら大將軍・漢大王と號し、百官を置き、使を遣わして藩を晉に稱す。左光祿の劉雅、出でて西平に奔る。尚書の北宮純・胡崧(こすう)等、晉人を招集し、東宮に保するも、靳康、攻めて之を滅ぼす。準、將に王延を以て左光祿と爲さんとするも、延、罵りて曰く「屠各の逆奴、何ぞ速やかに我を殺さざる。吾が左目を以て西陽門に置け。相國の入るを觀ん。右目もて建春門に置け。大將軍の入るを觀ん」と。準、怒り、之を殺す。

〔一〕晋を正統とする『晋書』にとっては、晋朝皇帝以外は皇帝ではないので、五胡十六国の諸王朝に関係することには、このように「僭」や「偽」などの字が付される。

現代語訳

劉粲(りゅうさん)は、字を士光といった。若い頃から俊傑であり、才覚は文武を兼ねていた。しかし、宰相となってからは、刑罰と賞与は情に任せて行い、忠実・賢明な者を疎んじ遠ざけ、奸悪・佞邪な者を近づけ親しみ、天性に従い過酷で、恩恵を施すことなく、諫言を拒み、自らの過ちを覆い隠した。宮室を造営するのを好み、相国府は紫宮(皇帝の宮殿)を模倣し、相国の位に上ってまもなく昼夜兼行で造営したものであり、それによって飢えに苦しんで窮するあまり叛乱を起こしたり、死亡したりする者が相継いだが、劉粲はそれを慈しみいたわることがなかった。
劉粲が漢の皇帝の位を継ぐと、劉聡の皇后の靳氏を尊んで皇太后とし、樊氏を弘道皇后と呼び、宣氏を弘徳皇后と呼び、王氏を弘孝皇后と呼んだ。靳氏らはみな二十歳未満であり、いずれも国中にて屈指の美色であったので、劉粲は、朝も夜も宮中で姦淫し、劉聡の死を哀しむ心が無かった。劉粲は妻の靳氏を皇后に立て、子の劉元公を太子とし、領域内で大赦を行い、漢昌と改元した。平陽で血の雨が降った。
靳準(きんじゅん)は、叛逆の謀略をめぐらそうとし、自分の利益を図って劉粲に言った。「聞くところによりますと、諸公は、まさに(天子の追放・廃立を行った)伊尹(いいん)・霍光(かっこう)の事を行おうとし、謀略をめぐらせてまず太保(呼延晏(こえんあん))と私を誅殺し、大司馬(劉驥(りゅうき))に万機を統括させようとしているといいます。陛下よ、もし先手を打たなければ、禍が翌朝か、そうでなければその夕べかくらいの近いうちに生じてしまうのではないかと私は恐れています」と。劉粲は聞き容れなかった。靳準は自分の意見が採用されないのを恐れ、劉聡の后妃であった二人の靳氏に言った。「今、諸公や諸侯たちは陛下を廃し、済南王(劉驥)を皇帝に立てようとしているから、そうなればおそらく我が家は(一族皆殺しにされて)もう後嗣が絶えてしまうだろう。そなたらはどうしてこのことを陛下に申し上げないのだ」と。二人の靳氏は、機会を窺ってこのことを劉粲に言上した。そこで劉粲は、太宰・上洛王の劉景、太師・昌国公の劉顗(りゅうぎ)、大司馬・済南王の劉驥、大司徒・斉王の劉勱(りゅうばい)らを誅殺した。太傅の朱紀・太尉の范隆は、長安に出奔した。さらに劉粲は車騎大将軍・呉王の劉逞(りゅうてい)を誅殺したが、劉逞は劉驥の同母弟であった。また、劉粲は上林苑で大いに閲兵を行い、石勒を討伐しようと計画した。そこで靳準を「大将軍・録尚書事」に任命した。劉粲は酒色に溺れ、後宮に通って宴ばかり催し、軍事や国政についてはすべて靳準に決裁させた。そこで靳準は、劉粲の命であると偽り、従弟の靳明を車騎将軍に任じ、(同じく従弟の)靳康を衞将軍に任じた。
靳準は、まさに叛乱を起こそうとするに当たり、金紫光禄大夫の王延が時の声望を集める徳高き長老であったため、そのことを王延に謀った。王延はそれに従わず、馳せてこのことを劉粲に密告しようとしたが、たまたま靳康に遭遇し、靳康は王延を脅してむりやり帰らせた。靳準は、兵を率いて宮中に入り、光極殿の前殿に升ってから、また下りて兵士に命じて劉粲を捕らえさせ、罪を一つ一つ数え上げてとがめ、そして殺した。劉氏は老若男女を問わずみな東市で斬られた。靳準は、劉元海(劉淵)・劉聡の墓をあばき、その宗廟を焼いた。その頃、鬼が大いに泣き声を上げ、その声は百里にわたって聞こえた。
靳準は、自ら「大将軍・漢大王」と称し、百官を置き、使者を派遣して晋(東晋)に藩属した。左光禄大夫の劉雅は、西平に出奔した。尚書の北宮純・胡崧(こすう)らは、晋人(漢族)を招集し、東宮を占拠したが、靳康はそれを攻め滅ぼした。靳準は、王延を左光禄大夫に任じようとしたが、王延は靳準を罵って言った。「屠各の叛逆者め、どうして早く私を殺さないのか。(私を殺したら)我が左目を西陽門に置け。相国(劉曜)が西から攻め入るのを見届けてやろうぞ。そして右目は建春門に置け。大将軍(石勒)が東から攻め入るのを見届けてやろうぞ」と。靳準は怒り、王延を殺した。

原文

陳元達、字長宏、後部人也。本姓高、以生月妨父、故改云陳。少而孤貧、常躬耕、兼誦書、樂道行詠、忻忻如也。至年四十、不與人交通。
元海之爲左賢王、聞而招之、元達不答。及元海僭號、人謂元達曰「往劉公相屈、君蔑而不顧。今稱號龍飛、君其懼乎。」元達笑曰「是何言邪。彼人姿度卓犖、有籠羅宇宙之志、吾固知之久矣。然往日所以不往者、以期運未至、不能無事喧喧、彼自有以亮吾矣。卿但識之。吾恐不過二三日、驛書必至。」其暮、元海果徵元達爲黃門郎。人曰「君殆聖乎。」既至引見、元海曰「卿若早來、豈爲郎官而已。」元達曰「臣惟性之有分、盈分者顛。臣若早叩天門者、恐大王賜處於九卿・納言之間、此則非臣之分、臣將何以堪之。是以抑情盤桓、待分而至。大王無過授之謗、小臣免招寇之禍、不亦可乎。」元海大悅。在位忠謇、屢進讜言、退而削草、雖子弟莫得而知也。聰每謂元達曰「卿當畏朕、反使朕畏卿乎。」元達叩頭謝曰「臣聞師臣者王、友臣者霸。臣誠愚闇無可採也、幸邀陛下垂齊桓納九九之義、故使微臣得盡愚忠。昔世宗遙可汲黯之奏、故能恢隆漢道、桀紂誅諫、幽厲弭謗、是以三代之亡也忽焉。陛下以大聖應期、挺不世之量、能遠捐商周覆國之弊、近模孝武光漢之美、則天下幸甚、羣臣知免。」及其死也、人盡冤之。

訓読

陳元達、字は長宏、後部の人なり。本と姓は高なるも、生月の父を妨ぐるを以て、故に改めて陳と云う〔一〕。少くして孤貧にして、常に躬ら耕し、兼ねて書を誦し、道に行詠するを樂しむこと、忻忻如たり。年四十に至るまで、人と交通せず。
元海の左賢王と爲るや、聞きて之を招くも、元達、答えず。元海の僭號するに及び、人、元達に謂いて曰く「往ろ劉公、相い屈するに、君は蔑ろにして顧みず。今、號を稱して龍飛するに、君は其れ懼れんか」と。元達、笑いて曰く「是れ何の言か。彼の人、姿度は卓犖し、宇宙を籠羅するの志有るに、吾の固より之を知ること久し。然るに往日に往かざりし所以の者は、期運の未だ至らず、事無くして喧喧たる能わざるを以てなり。彼、自ら以て吾を亮とすること有らん。卿、但だ之を識れ。吾、恐らくは二三日を過ぎずして、驛書必ず至らん」と。其の暮、元海、果たして元達を徵して黃門郎と爲す。人曰く「君、殆ど聖ならんか」と。既に至りて引見するや、元海曰く「卿、若し早く來ませば、豈に郎官と爲るのみならましや」と。元達曰く「臣惟るに、性には之れ分有り、分を盈たせば顛る。臣、若し早く天門を叩かば、恐らくは大王、處を九卿・納言の間に賜わましも、此れ則ち臣の分に非ざれば、臣、將た何を以てか之に堪えん。是を以て情を抑えて盤桓し、分を待ちて至る。大王は過授の謗無く、小臣は招寇の禍を免るるは、亦た可ならんや」と。元海、大いに悅ぶ。位に在りて忠謇、屢々讜言を進むるも、退きて草を削り〔二〕、子弟と雖も得て知る莫きなり。聰、每に元達に謂いて曰く「卿は當に朕を畏るべきに、反って朕をして卿を畏れしめんか」と。元達、叩頭して謝して曰く「臣聞くならく、臣を師とする者は王たり、臣を友とする者は霸たり、と。臣、誠に愚闇にして採るべき無きも、幸いに陛下の齊桓の九九を納るるの義〔三〕を垂るるを邀うれば、故に微臣をして愚忠を盡くすを得しむ。昔、世宗は遙かに汲黯(きゅうあん)の奏を可とし〔四〕、故に能く漢道を恢隆し、桀紂は諫せるを誅し、幽厲は謗を弭むれば、是を以て三代の亡ぶること忽焉たり。陛下、大聖を以て期に應じ、不世の量を挺んで、能く遠きは商周の覆國の弊を捐て、近きは孝武の光漢の美に模らば、則ち天下は幸甚にして、羣臣は免るるを知らん」と。其の死するに及ぶや、人、盡く之を冤とす。

〔一〕たとえば、范曄『後漢書』張奐伝や『風俗通』の佚文などによれば、二月や五月に生まれた男子や、父が生まれたのと同じ月に生まれた男子は、成長すると父に危害を加えたり、殺したりするようになるという俗説があったという。
〔二〕現代人が、鉛筆で書いた文字を消しゴムで消すように、当時の人は、竹簡・木簡に書いた文字を刀で削り落とすことで削除していた。
〔三〕『韓詩外伝』巻三や『説苑』尊賢篇には、斉の桓公が九九の術(かけ算の九九)ができると言って謁見してきた者を採用した話を載せている。その概要については、次の通りである。斉の桓公は、桓公のもとにやってきて謁見したいという士人を迎えるために、庭にかがり火を設けたが、一年たっても誰もやってこなかった。そこに、東野の田舎者が自分は九九ができると言ってやってきたので、桓公は言った。「九九ができるという程度のことが、どうして謁見するに足ると思ったのか」と。田舎者は言った。「私は、九九ができるというのが謁見するに足るものであるとは思っておりません。聞くところによれば、主君が庭にかがり火を設けて士人を迎えようとしたところ、一年たっても士人はやってこなかったとか。士人たちがやってこない理由は、君が天下の賢君だからでございます。四方の士人たちはみな、自分は君に及ばないと考え、そのせいでやってこないのです。ところが、君が、九九ができるという程度の無能ですら礼遇するとなれば、九九以上のことができる賢人に対してはなおさらでございましょう。泰山は小石を拒まず、長江や海は小川を拒まないからこそ、あれだけ大きくなったのです。『詩』に『先人も言っているじゃないか、木こりにも諮問するのだ、と』とあるのは、広く意見を求めるということでございます」と。桓公は「善し」と言い、そこでその田舎者を礼遇した。その後一ヶ月すると、四方の士人たちが仲間を引き連れてやってくるようになった。
〔四〕『史記』『漢書』の汲黯伝には、次のようなエピソードが記載されている。「大将軍衛青が宮中に入って侍るとき、主上は起ち上らず牀のかたわらに腰かけたままで引見し、丞相公孫弘が主上の閑暇のおりに謁見すると、主上はときには冠もかむらなかった。しかしひとたび黯が謁見するときには、主上は冠をかむらないでは引見しなかった。かつて主上が武帳の中に坐していたとき、黯が進み出て事を奏上しようとした。主上は冠をかむっていなかったので、黯が来るのを望見すると、避けて帷の中に身をかくし、人に命じてその上奏を裁可させた。彼が天子に敬礼されたことはこのようであった。」(小竹武夫訳『漢書5 列伝Ⅱ』ちくま学芸文庫、1998年、67頁)

現代語訳

陳元達は、字を長宏と言い、匈奴後部の人である。もともと姓は「高」であったが、生まれた月が父に危害を加えると言われている月であったので、故に姓を「陳」に改めた。若くして父を失い、貧乏であり、常に自ら耕作しながら書物を暗誦し、喜々として道行きながら詩歌を吟詠するのを楽しんでいた。四十歳になるまで人と交流しなかった。
劉元海(劉淵)が左賢王になると、陳元達のことを伝え聞いて招いたが、陳元達はそれに応じなかった。劉元海が王号を僭称すると、ある人が陳元達に言った。「かつて劉公は、君に対して頭を下げたのに、君はそれをないがしろにして顧みなかった。今、劉公は尊号を称して龍飛してしまったが、君は恐ろしくないのか」と。陳元達は笑って言った。「何を言っておるのだ。あの人が、生まれながらの度量は群を抜いており、天下を包み込む志を有しているなんてことは、私はずっと前から分かっていた。にもかかわらず、先日行かなかったのは、機運がまだ訪れておらず、何も無いのに騒がしくするわけにもいかなかったからである。彼は当然、そのことで私を節操ある人物と見なしていることであろうよ。そなたよ、覚えておくと良い。おそらく二・三日も経たずに、きっと駅書(駅伝により届けられる公文書)が我がもとに届くであろう」と。その日の暮れに、劉元海は果たして陳元達を徴召して黄門郎に任じた。その人は言った。「君はまさか聖人なのではあるまいか」と。陳元達が劉元海のもとに出向いて謁見すると、劉元海は言った。「もしもっと早くに来ていたならば、そなたはどうして郎官になる程度に留まっていたであろうか」と。陳元達は言った。「私が思いますに、人の性には分(身の程)というものがあり、分を超えてしまえば結局ひっくり返ることになってしまいます。私がもしもっと早くに大王陛下の門を叩いていれば、おそらく大王は、私に九卿や尚書に相当する位を賜われたでしょうが、それは私の分ではございませんので、私はどうしてその任にこたえられましょうか。そこで気持ちを抑えて逗留し、分を超えないように機運が訪れるのを待ってから出向いたのです。大王にとっては、過度に位を授けたという誹謗を受けることもなく、私めにとっては、むやみに敵を作るという禍を避けることができるというのは、何とよろしいことではないでしょうか」と。劉元海は非常に喜んだ。陳元達は、位にあっては忠実であり、しばしば直言を呈したが、提出して退いた後には草稿を刀で削り(漏洩せず秘密にし)、子弟であってもその内容を知ることができなかった。劉聡は、よく陳元達に次のように言った。「そなたの方こそ朕を畏れるべきであるのに、逆に朕にそなたを畏れさせようというのか」と。陳元達は叩頭して謝罪して言った。「私が聞くところによりますと、臣下を師とする者こそが王であり、臣下を友とする者こそが覇者であると言います。私は実に暗愚であり、採用すべき良策もございませんが、九九ができると言ってやってきた者の意見を斉の桓公が採用して礼遇した義(すなわち広く下々の意見を聞くこと)を、陛下が私に対してお施しになるという恩恵を幸いにもこうむりましたので、故に私のような者でも忠誠を尽くすことができております。昔、世宗(前漢の武帝)は、汲黯(きゅうあん)が上奏しにやってきたのを望み見て、面会するのを避けながらも人を派遣してその上奏を裁可し、それゆえ漢道を広げて盛んにすることができ、夏の桀王や殷の紂王は諫言する者を誅殺し、周の幽王・厲王は批判する者を抑え込んだので、そのせいで三代(夏・殷・周)はその後まもなく滅びたのです。陛下よ、その大いなる聖徳により機運に応じ、不世出の才量を発揮し、遠くは商(殷)や周が国を転覆させた弊害を除き、近くは孝武皇帝(前漢の武帝)が漢を輝かせた美点をまねれば、天下はみな幸甚であり、臣下たちはもはや戦々恐々としなくとも良いのだと悟るでしょう」と。陳元達が死ぬと、人々はみなその死を不当なものであるとして嘆いた。