いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第三巻_前趙_劉曜

翻訳者:山田龍之
訳者は『晋書』をあまり読んだことがなく、また晋代の出来事について詳しいわけではありません。訳していく中で、皆さまのご指摘をいただきつつ、勉強して参りたいと思います。ですので、最低限のことは調べて訳したつもりではございますが、調べの足りていない部分も少なからずあるかと思いますので、何かお気づきの点がございましたら、ご意見・ご助言・ご質問等、本プロジェクトの主宰者を通じてお寄せいただければ幸いです。

劉曜

原文

劉曜、字永明、元海之族子也。少孤、見養於元海。幼而聰慧、有奇度。年八歲、從元海獵于西山、遇雨、止樹下、迅雷震樹、旁人莫不顛仆、曜神色自若。元海異之曰「此吾家千里駒也。從兄爲不亡矣。」身長九尺三寸、垂手過膝、生而眉白、目有赤光、鬚髯不過百餘根、而皆長五尺。性拓落高亮、與眾不羣。讀書志於廣覽、不精思章句、善屬文、工草隸。雄武過人、鐵厚一寸、射而洞之、于時號爲神射。尤好兵書、略皆闇誦。常輕侮吳・鄧、而自比樂毅・蕭・曹、時人莫之許也、惟聰每曰「永明、世祖・魏武之流、何數公足道哉。」
弱冠游于洛陽、坐事當誅、亡匿朝鮮、遇赦而歸。自以形質異眾、恐不容于世、隱迹管涔山、以琴書爲事。嘗夜閑居、有二童子入跪曰「管涔王使小臣奉謁趙皇帝、獻劍一口。」置前再拜而去。以燭視之、劍長二尺、光澤非常、赤玉爲室、背上有銘曰「神劍御、除眾毒。」曜遂服之。劍隨四時而變爲五色。
元海世頻歷顯職、後拜相國・都督中外諸軍事、鎮長安。靳準之難、自長安赴之。至于赤壁、太保呼延晏等自平陽奔之、與太傅朱紀・太尉范隆等上尊號。曜以太興元年僭即皇帝位、大赦境内、惟準一門不在赦例、改元光初。以朱紀領司徒、呼延晏領司空、范隆以下悉復本位。使征北劉雅・鎮北劉策次于汾陰、與石勒爲掎角之勢。
靳準遣侍中卜泰降于勒、勒囚泰、送之曜。謂泰曰「先帝末年、實亂大倫、羣閹撓政、誅滅忠良、誠是義士匡討之秋。司空執心忠烈、行伊霍之權、拯濟塗炭、使朕及此、勳高古人、德格天地。朕方寧濟大艱、終不以非命及君子賢人。司空若執忠誠、早迎大駕者、政由靳氏、祭則寡人。以朕此意布之司空、宣之朝士。」泰還平陽、具宣曜旨。準自以殺曜母兄、沈吟未從。尋而喬泰・王騰・靳康・馬忠等殺準、推尚書令靳明爲盟主、遣卜泰奉傳國六璽降于曜。曜大悅、謂泰曰「使朕獲此神璽而成帝王者、子也。」石勒聞之、怒甚、增兵攻之。明戰累敗、遣使求救于曜、曜使劉雅・劉策等迎之。明率平陽士女萬五千歸于曜、曜命誅明、靳氏男女無少長皆殺之。
使劉雅迎母胡氏喪于平陽、還葬粟邑、墓號陽陵、偽諡宣明皇太后。僭尊高祖父亮爲景皇帝、曾祖父廣爲獻皇帝、祖防懿皇帝、考曰宣成皇帝。徙都長安、起光世殿於前、紫光殿於後。立其妻羊氏爲皇后、子熙爲皇太子、封子襲爲長樂王、闡太原王、沖淮南王、敞齊王、高魯王、徽楚王、徵諸宗室皆進封郡王。繕宗廟・社稷・南北郊。以水承晉金行、國號曰趙。牲牡尚黑、旗幟尚玄、冒頓配天、元海配上帝、大赦境内殊死已下。
黃石屠各路松多起兵於新平・扶風、聚眾數千、附于南陽王保。保以其將楊曼爲雍州刺史、王連爲扶風太守、據陳倉、張顗爲新平太守、周庸爲安定太守、據陰密。松多下草壁、秦隴氐羌多歸之。曜遣其車騎劉雅・平西劉厚攻楊曼于陳倉、二旬不克。曜率中外精銳以赴之、行次雍城、太史令弁廣明言於曜曰「昨夜妖星犯月、師不宜行。」乃止。敕劉雅等攝圍固壘、以待大軍。
地震、長安尤甚。時曜妻羊氏有殊寵、頗與政事、陰有餘之徵也。
三年、曜發雍、攻陳倉、曼・連謀曰「諜者適還云『其五牛旗建、多言胡主自來、其鋒恐不可當也。』吾糧廩既少、無以支久、若頓軍城下、圍人百日、不待兵刃而吾自滅。不如率見眾以一戰。如其勝也、關中不待檄而至。如其敗也、一等死、早晚無在。」遂盡眾背城而陣、爲曜所敗、王連死之、楊曼奔于南氐。曜進攻草壁、又陷之、松多奔隴城、進陷安定。保懼、遷于桑城、氐羌悉從之。曜振旅歸于長安、署劉雅爲大司徒。
晉將李矩襲金墉、克之。曜左中郎將宋始・振威宋恕降于石勒。署其大將軍・廣平王岳爲征東大將軍、鎮洛陽。會三軍疫甚、岳遂屯澠池。石勒遣石生馳應宋始等、軍勢甚盛。曜將尹安・趙慎等以洛陽降生、岳乃班師、鎮于陝城。
西明門内大樹風吹折、經一宿、樹撥變爲人形、髮長一尺、鬚眉長三寸、皆黃白色、有斂手之狀、亦有兩腳著裙之形、惟無目鼻、每夜有聲、十日而生柯條、遂成大樹、枝葉甚茂。
長水校尉尹車謀反、潛結巴酋徐庫彭、曜乃誅車、囚庫彭等五十餘人于阿房、將殺之。光祿大夫游子遠固諫、曜不從。子遠叩頭流血、曜大怒、幽子遠而盡殺庫彭等、尸諸街巷之中十日、乃投之於水。於是巴氐盡叛、推巴歸善王句渠知爲主、四山羌・氐・巴・羯應之者三十餘萬、關中大亂、城門晝閉。子遠又從獄表諫、曜怒甚、毀其表曰「大荔奴不憂命在須臾、猶敢如此、嫌死晚邪。」叱左右速殺之。劉雅・朱紀・呼延晏等諫曰「子遠幽而尚諫者、所謂忠於社稷、不知死之將至。陛下縱弗能用、奈何殺之。若子遠朝誅、臣等亦暮死、以彰陛下過差之咎。天下之人皆當去陛下蹈西海而死耳。陛下復與誰居乎。」曜意解、乃赦之。於是敕内外戒嚴、將親討渠知。子遠進曰「陛下誠能納愚臣之計者、不勞大駕親動、一月之中可使清定。」曜曰「卿試言之。」子遠曰「彼匪有大志希竊非望也、但逼於陛下峻網耳。今死者不可追、莫若赦諸逆人之家老弱沒奚官者、使迭相撫育、聽其復業、大赦與之更始。彼生路既開、不降何待。若渠知自以罪重不即下者、願假臣弱兵五千、以爲陛下梟之。不敢勞陛下之將帥也。不爾者、今賊黨既眾、彌川被谷、雖以天威臨之、恐非年歲可除。」曜大悅、以子遠爲車騎大將軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事。大赦境内。子遠次于雍城、降者十餘萬。進軍安定、氐羌悉下、惟句氏宗黨五千餘家保于陰密、進攻平之。遂振旅循隴右、陳安郊迎。
先是、上郡氐羌十餘萬落保嶮不降、酋大虛除權渠自號秦王。子遠進師至其壁下、權渠率眾來距、五戰敗之。權渠恐、將降、其子伊餘大言於眾曰「往劉曜自來、猶無若我何。況此偏師而欲降之。」率勁卒五萬、晨壓壘門。左右勸戰、子遠曰「吾聞伊餘之勇、當今無敵、士馬之強、復非其匹。又其父新敗、怒氣甚盛。且西戎剽勁、鋒銳不可擬也。不如緩之、使氣竭而擊之。」乃堅壁不戰。伊餘有驕色、子遠候其無備、夜、誓眾蓐食。晨、大風霧、子遠曰「天贊我也。」躬先士卒、掃壁而出、遲明覆之、生擒伊餘、悉俘其眾。權渠大懼、被髮割面而降。子遠啓曜以權渠爲征西將軍・西戎公、分徙伊餘兄弟及其部落二十餘萬口于長安。西戎之中、權渠部最強、皆稟其命而爲寇暴、權渠既降、莫不歸附。
曜大悅、讌羣臣于東堂、語及平生、泫然流涕、遂下書曰「蓋褒德惟舊、聖后之所先、念惠錄孤、明王之恒典。是以世祖草創河北、而致封於嚴尤之孫、魏武勒兵梁宋、追慟於橋公之墓。前新贈大司徒・烈愍公崔岳、中書令曹恂、晉陽太守王忠、太子洗馬劉綏等、或識朕於童齔之中、或濟朕於艱窘之極、言念君子、實傷我心。詩不云乎『中心藏之、何日忘之。』岳、漢昌之初雖有褒贈、屬否運之際、禮章莫備。今可贈岳使持節・侍中・大司徒・遼東公、恂大司空・南郡公、綏左光祿大夫・平昌公、忠鎮軍將軍・安平侯、並加散騎常侍。但皆丘墓夷滅、申哀莫由。有司其速班訪岳等子孫、授以茅土、稱朕意焉。」初、曜之亡、與曹恂奔於劉綏、綏匿之於書匱、載送於忠、忠送之朝鮮。歲餘、飢窘、變姓名、客爲縣卒。岳爲朝鮮令、見而異之、推問所由。曜叩頭自首、流涕求哀。岳曰「卿謂崔元嵩不如孫賓碩乎、何懼之甚也。今詔捕卿甚峻、百姓間不可保也。此縣幽僻、勢能相濟。縱有大急、不過解印綬與卿俱去耳。吾既門衰、無兄弟之累、身又薄祜、未有兒子。卿猶吾子弟也。勿爲過憂。大丈夫處身立世、鳥獸投人、要欲濟之。而況君子乎。」給以衣服、資供書傳。曜遂從岳、質通疑滯、恩顧甚厚。岳從容謂曜曰「劉生姿宇神調、命世之才也。四海脫有微風搖之者、英雄之魁、卿其人矣。」曹恂雖於屯厄之中、事曜有君臣之禮、故皆德之。

訓読

劉曜、字は永明、元海の族子なり。少しくして孤にして、元海に養わる。幼くして聰慧にして、奇度有り。年八歲にして、元海に從いて西山に獵りするや、雨に遇いたれば、樹下に止まるに、迅雷樹を震わし、旁人は顛仆せざるは莫きも、曜は神色自若たり。元海、之を異として曰く「此れ吾が家の千里の駒なり。從兄、亡びずと爲す」と。身長は九尺三寸、手を垂るれば膝を過ぎ、生まれながらにして眉白く、目に赤光有り、鬚髯は百餘根に過ぎざるも、而れども皆な長五尺たり。性は拓落にして高亮、眾と羣れず。書を讀むに廣覽を志し、章句を精思せず、文を屬るを善くし、草隸に工みなり。雄武なること人に過ぎ、鐵の厚一寸なるもて、射て之を洞きたれば、時に號して神射と爲す。尤も兵書を好み、略し皆な闇誦す。常に吳・鄧を輕侮し、而して自ら樂毅・蕭・曹に比し、時人は之を許す莫きも、惟だ聰のみ每に曰く「永明は、世祖・魏武の流なれば、何ぞ數公、道うに足らんや」と。
弱冠にして洛陽に游び、事に坐して當に誅せられんとするや、亡げて朝鮮に匿れ、赦に遇いて歸る。自ら形質眾に異なれば、恐らくは世に容れられざらんと以い、迹を管涔山に隱し、琴書を以て事と爲す。嘗て夜に閑居するに、二童子有りて入りて跪きて曰く「管涔王、小臣を使わして謁を趙皇帝に奉ぜしめ、劍一口を獻ぜしむ」と。前に置きて再拜して去る。燭を以て之を視るに、劍は長二尺にして、光澤は常に非ず、赤玉もて室と爲し、背上に銘有りて曰く「神劍御せらるれば、眾毒を除く」と。曜、遂に之を服すに、劍、四時に隨いて變じて五色と爲る。
元海の世に頻りに顯職を歷、後に相國・都督中外諸軍事を拜し、長安に鎮す。靳準(きんじゅん)の難あるや、長安より之に赴く。赤壁に至るや、太保の呼延晏(こえんあん)等、平陽より之に奔り、太傅の朱紀・太尉范隆等と與に尊號を上る。曜、太興元年を以て皇帝位に僭即し〔一〕、境内に大赦するも、惟だ準の一門のみは赦例に在らず、光初と改元す。朱紀を以て司徒を領せしめ、呼延晏もて司空を領せしめ、范隆以下もて悉く本位に復せしむ。征北の劉雅・鎮北の劉策をして汾陰に次せしめ、石勒と掎角の勢を爲す。
靳準、侍中の卜泰を遣わして勒に降らんとするも、勒は泰を囚え、之を曜に送る。泰に謂いて曰く「先帝の末年、實に大倫を亂し、羣閹は政を撓し、忠良を誅滅し、誠に是れ義士の匡討の秋なり。司空は心を忠烈に執り、伊霍の權を行い、塗炭を拯濟せんとし、朕をして此に及ばしめたれば、勳は古人より高く、德は天地に格る。朕、方に大艱を寧濟せんとすれば、終に非命を以て君子賢人に及ぼさざらん。司空、若し忠誠を執り、早く大駕を迎えば、政は靳氏に由り、祭は寡人に則らん。朕の此の意を以て之を司空に布き、之を朝士に宣せよ」と。泰、平陽に還り、曜の旨を具宣す。準、自ら曜の母兄を殺すを以て、沈吟して未だ從わず。尋いで喬泰・王騰・靳康・馬忠等、準を殺し、尚書令の靳明を推して盟主と爲し、卜泰を遣わして傳國六璽を奉じて曜に降る。曜、大いに悅び、泰に謂いて曰く「朕をして此の神璽を獲て帝王に成らしめし者は、子なり」と。石勒、之を聞き、怒ること甚だしく、兵を增して之を攻む。明、戰うも累りに敗れ、使を遣わして救を曜に求めたれば、曜、劉雅・劉策等をして之を迎えしむ。明、平陽の士女萬五千を率いて曜に歸するも、曜、命じて明を誅し、靳氏の男女は少長と無く皆な之を殺す。
劉雅をして母の胡氏の喪を平陽より迎え、還た粟邑に葬し、墓もて陽陵と號し、宣明皇太后と偽諡す。高祖父の亮を僭尊して景皇帝と爲し、曾祖父の廣もて獻皇帝と爲し、祖の防もて懿皇帝とし、考もて宣成皇帝と曰う。都を長安に徙し、光世殿を前に、紫光殿を後に起つ。其の妻の羊氏を立てて皇后と爲し、子の熙(き)もて皇太子と爲し、子の襲を封じて長樂王と爲し、闡(せん)もて太原王とし、沖もて淮南王とし、敞(しょう)もて齊王とし、高もて魯王とし、徽(き)もて楚王とし、諸宗室を徵して皆な封を郡王に進む。宗廟・社稷・南北郊を繕う。水を以て晉の金行を承け、國號は趙と曰う。牲牡は黑を尚び、旗幟は玄を尚び、冒頓もて天に配し、元海もて上帝に配し、境内の殊死已下を大赦す。
黃石屠各の路松多、兵を新平・扶風に起て、眾を聚むること數千、南陽王保に附す。保、其の將の楊曼(ようまん)を以て雍州刺史と爲し、王連もて扶風太守と爲し、陳倉に據らしめ、張顗(ちょうぎ)もて新平太守と爲し、周庸もて安定太守と爲し、陰密に據らしむ。松多、草壁を下し、秦隴の氐羌は多く之に歸す。曜、其の車騎の劉雅・平西の劉厚を遣わして楊曼を陳倉に攻めしむるも、二旬にして克たず。曜、中外の精銳を率いて以て之に赴き、行きて雍城に次するや、太史令の弁廣明、曜に言いて曰く「昨夜、妖星の月を犯せば、師、宜しく行くべからず」と。乃ち止む。劉雅等に敕して圍を攝め壘を固め、以て大軍を待たしむ。
地震い、長安尤も甚だし。時に曜の妻の羊氏は殊寵有り、頗る政事に與りたれば、陰の有餘の徵なり。
三年、曜、雍を發し、陳倉を攻むるや、曼・連、謀りて曰く「諜者、適に還りて云く『其の五牛の旗の建ちたれば、多く胡主自ら來たると言い、其の鋒、恐らくは當たるべからざるなり』と。吾が糧廩は既に少なく、以て久を支うる無ければ、若し軍を城下に頓し、人を圍むこと百日ならば、兵刃を待たずして吾は自ら滅ばん。見眾を率いて以て一戰するに如かず。如し其れ勝たば、關中は檄を待たずして至らん。如し其れ敗れば、一等に死するに、早晚在る無し」と。遂に眾を盡くして城を背にして陣し、曜の敗る所と爲り、王連は之に死し、楊曼は南氐に奔る。曜、進みて草壁を攻め、又た之を陷し、松多、隴城に奔りたれば、進みて安定を陷とす。保、懼れ、桑城に遷り、氐羌、悉く之に從う。曜、振旅して長安に歸り、劉雅を署して大司徒と爲す。
晉將の李矩、金墉を襲い、之に克つ。曜の左中郎將の宋始・振威の宋恕、石勒に降る。其の大將軍・廣平王岳を署して征東大將軍と爲し、洛陽に鎮せしむ。會々三軍の疫すること甚しければ、岳、遂に澠池に屯す。石勒、石生を遣わして馳せて宋始等に應ぜしめ、軍勢は甚だ盛んなり。曜の將の尹安・趙慎等、洛陽を以て生に降りたれば、岳、乃ち師を班し、陝城に鎮す。
西明門内の大樹、風吹きて折れ、一宿を經るに、樹、撥りて變じて人形と爲り、髮は長一尺、鬚眉は長三寸、皆な黃白色にして、斂手の狀有り、亦た兩腳に裙を著くるの形有り、惟だ目鼻無きのみ。夜每に聲有り、十日にして柯條を生じ、遂に大樹と成り、枝葉甚だ茂る〔二〕。
長水校尉の尹車、謀反し、潛かに巴酋の徐庫彭(じょこほう)と結ばんとしたれば、曜、乃ち車を誅し、庫彭等五十餘人を阿房に囚え、將に之を殺さんとす。光祿大夫の游子遠、固く諫むるも、曜は從わず。子遠、叩頭して流血するや、曜、大いに怒り、子遠を幽して盡く庫彭等を殺し、諸を街巷の中に尸ぬること十日、乃ち之を水に投ず。是に於いて巴氐は盡く叛し、巴の歸善王の句渠知(こうきょち)を推して主と爲し、四山の羌・氐・巴・羯の之に應ずる者は三十餘萬、關中は大いに亂れ、城門は晝に閉ず。子遠、又た獄より表諫したれば、曜、怒ること甚だしく、其の表を毀りて曰く「大荔〔三〕の奴、命の須臾に在るを憂えずして、猶お敢えて此くの如くするは、死の晚きを嫌うか」と。左右を叱して速やかに之を殺さんとす。劉雅・朱紀・呼延晏等、諫めて曰く「子遠の幽せられて尚お諫むるは、所謂、社稷に忠にして、死の將に至らんとするを知らず、なり。陛下、縱い用うる能わずとも、奈何ぞ之を殺さんや。若し子遠、朝に誅せらるれば、臣等も亦た暮に死に、以て陛下の過差の咎を彰らかにせん。天下の人は皆な當に陛下を去りて西海を蹈みて死すのみならん。陛下、復た誰と與に居らんや」と。曜の意は解け、乃ち之を赦す。是に於いて内外に敕して戒嚴せしめ、將に親ら渠知を討たんとす。子遠、進みて曰く「陛下、誠に能く愚臣の計を納れば、大駕の親ら動くを勞せずして、一月の中に清定せしむべし」と。曜曰く「卿、試みに之を言え」と。子遠曰く「彼は大志有りて非望を竊むを希うに匪ず、但だ陛下の峻網に逼らるればなるのみ。今、死者は追うべからざるも、諸その逆人の家の老弱にして奚れの官も沒き者を赦し、迭いに相い撫育せしめ、其の業に復るを聽し、大赦して之と與に更始するに若くは莫し。彼、生路の既に開かば、降らずして何をか待たん。若し渠知、自ら罪の重きを以て即ちに下らずんば、願わくば臣に弱兵五千を假し、以て陛下の爲に之を梟さしめんことを。敢えて陛下の將帥を勞せざるなり。爾らずんば、今、賊黨既に眾く、川を彌い谷を被いたれば、天威を以て之に臨むと雖も、恐らくは年歲除くべきに非ざらん」と。曜、大いに悅び、子遠を以て車騎大將軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事と爲す。境内に大赦す。子遠、雍城に次するや、降る者は十餘萬。軍を安定に進め、氐羌は悉く下るも、惟だ句氏の宗黨五千餘家のみ陰密を保ちたれば、進攻して之を平らぐ。遂に振旅して隴右を循るや、陳安、郊迎す。
是より先、上郡の氐羌十餘萬落、嶮を保ちて降らず、酋大の虛除權渠(きょじょけんきょ)、自ら秦王を號す。子遠、師を進めて其の壁下に至り、權渠、眾を率いて來りて距ぐも、五戰して之を敗る。權渠、恐れ、將に降らんとするや、其の子の伊餘、眾に大言して曰く「往ろ劉曜は自ら來たるに、猶お我を若何ともする無し。況んや此の偏師にして之を降さんと欲するをや」と。勁卒五萬を率い、晨に壘門に壓る。左右は戰わんことを勸むるも、子遠曰く「吾聞くならく、伊餘の勇、當今に敵無く、士馬の強、復た其の匹に非ず、と。又た其の父は新たに敗れ、怒氣は甚だ盛んなり。且つ西戎は剽勁にして、鋒銳は擬すべからざるなり。之を緩め、氣をして竭かしめて之を擊つに如かず」と。乃ち壁を堅くして戰わず。伊餘に驕色有り、子遠、其の備え無きを候い、夜、眾に誓いて蓐食せしむ。晨、大いに風霧あり、子遠曰く「天、我を贊くるなり」と〔四〕。躬ら士卒に先んじ、壁を掃いて出で、遲明に之を覆し、生きながらにして伊餘を擒にし、悉く其の眾を俘にす。權渠、大いに懼れ、被髮割面して降る。子遠、曜に啓して權渠を以て征西將軍・西戎公と爲し、分かちて伊餘の兄弟及び其の部落二十餘萬口を長安に徙す。西戎の中、權渠の部は最も強ければ、皆な其の命を稟けて寇暴を爲すも、權渠の既に降るや、歸附せざるは莫し。
曜、大いに悅び、羣臣と東堂に讌し、語るに平生に及び、泫然として流涕し、遂に書を下して曰く「蓋し德を褒め舊を惟うは、聖后の先にする所にして、惠を念い孤を錄すは、明王の恒典なり。是を以て世祖は河北に草創するに、而して封を嚴尤(げんゆう)の孫に致し、魏武は兵を梁宋に勒するに、追いて橋公の墓に慟く。前に新贈せし大司徒・烈愍公の崔岳(さいがく)、中書令の曹恂(そうじゅん)、晉陽太守の王忠、太子洗馬の劉綏(りゅうすい)等は、或いは朕を童齔の中に識り、或いは朕を艱窘の極より濟い、言(われ)君子を念うに、實に我が心を傷つく。詩に云わずや『中心之を藏し、何れの日か之を忘れん』と。岳は、漢昌の初めに褒贈有りと雖も、否運の際に屬べば、禮章備うる莫し。今、岳に使持節・侍中・大司徒・遼東公を、恂に大司空・南郡公を、綏に左光祿大夫・平昌公を、忠に鎮軍將軍・安平侯を贈り、並びに散騎常侍を加うべし。但だ皆な丘墓は夷滅したれば、哀を申ぶるに由莫し。有司、其れ速やかに岳等の子孫を班訪し、授くるに茅土を以てし、朕の意に稱え」と。初め、曜の亡ぐるや、曹恂と與に劉綏に奔り、綏、之を書匱に匿し、載せて忠に送り、忠、之を朝鮮に送る。歲餘、飢窘し、姓名を變え、客たりて縣卒と爲る。岳の朝鮮令と爲るや、見て之を異とし、由る所を推問す。曜、叩頭して自首し、流涕して哀を求む。岳曰く「卿は、崔元嵩(さいげんすう)は孫賓碩(そんひんせき)に如かずと謂うか。何ぞ懼るることの甚しきや。今、詔して卿を捕えしむること甚だ峻にして、百姓の間、保つべからざるなり。此の縣は幽僻なれば、勢いとして能く相い濟う。縱い大急有るとも、印綬を解きて卿と俱に去るに過ぎざるのみ。吾、既に門衰え、兄弟の累無く、身は又た薄祜にして、未だ兒子有らず。卿は猶お吾が子弟のごときなり。過憂を爲す勿かれ。大丈夫、身を處きて世に立つに、鳥獸の人に投ずれば、要ず之を濟わんと欲す。而るに況んや君子をや」と。給するに衣服を以てし、書傳を資供す。曜、遂に岳に從い、質りて疑滯を通じ、恩顧は甚だ厚し。岳、從容として曜に謂いて曰く「劉生、姿宇は神調にして、命世の才なり。四海に脫し微風有りて之を搖すらば、英雄の魁、卿、其の人なり」と。曹恂は屯厄の中に於けると雖も、曜に事うるに君臣の禮有れば、故に皆な之を德とす。

〔一〕晋を正統とする『晋書』にとっては、晋朝皇帝以外は真の皇帝ではないので、五胡十六国の諸王朝に関係することには、このように「偽」や「僭」の字が付される。
〔二〕当時、樹木が成長して人の形状になるというのは、帝王の徳が衰退して身分の低い者が台頭する兆候であると考えられていた。つまり、この場合、劉曜の前趙が衰退し、奴隷上がりの石勒が興隆することを示唆している。
〔三〕大荔とは地名で、雍州・馮翊郡一帯の旧名。劉曜が游子遠を「大荔の奴」と罵っているのは、彼が馮翊郡の豪族である游氏の一員であるから、そのように呼んでいるということか。
〔四〕当時の兵陰陽の考えでは、出軍するに当たって大風が吹き、その後に雨が降ると、それは大勝の兆候であるとされていた。また、出軍に当たって雨が衣を潤すことを「潤兵」もしくは「灑兵」と言い、軍に功がある兆候とされていた。風と霧が生じることに関しては不明であるが、游子遠が天の助けだと述べたのも、またそのたぐいであろう。

現代語訳

劉曜は、字を永明と言い、劉元海(劉淵)の族子である。若くして父を失い、劉元海に養育された。幼いころから聡明で、非凡な度量があった。八歳のときに劉元海に従って西山で狩りをしていたとき、雨が降ってきたので樹の下で雨宿りをしていたところ、迅雷が樹を震わし、近くの人々はみな倒れ伏したが、劉曜は顔色も変えず泰然自若としていた。劉元海は、それを並みならぬことであると思って言った。「こやつは我が家の千里の駒である。まるで従兄(劉曜の父)の生き写しのようだ」と。劉曜の身長は九尺三寸(約225㎝)で、手を垂れると膝の下まであり、生まれながらにして眉が白く、目には赤い光が宿り、あごひげやほおひげは百本あまりしかなかったが、しかしいずれも五尺(約121㎝)の長さがあった。性格は闊達かつ高尚であり、人々と馴れ合うことはしなかった。書を読むに当たっては、広く目を通すことを心掛け、一字一句を精密に考究することはせず、また文章を書くのが得意で、草書と隷書が上手かった。雄健で武に秀でている様子は常人に勝り、厚さ一寸(約2.4㎝)の鉄を射抜くことができたので、当時の人々は「神射」であると称した。特に兵書を好み、ほとんどすべて暗誦することができた。劉曜は常に(後漢の創業の功臣である)呉漢や鄧禹を軽んじ侮り、そして自らを(戦国時代の名将である)楽毅や(前漢建国の功臣である)蕭何・曹参になぞらえ、当時の人々はそれを認めようとはしなかったが、ただ劉聡のみはいつも次のように言っていた。「永明(劉曜)は、世祖(光武帝・劉秀)や魏の武帝(曹操)のたぐいの人物であるので、どうして(蕭何や曹参などの)数公など、比較とするに足りようか」と。
弱冠の年に洛陽に遊学し、ある事に関して罪に問われて誅殺されることになると、亡命して朝鮮(楽浪郡・朝鮮県)に隠れ、恩赦を受けて帰郷した。劉曜は、自分は体つきや見た目が人々とは異なるので、世に受け容れられないだろうと思い、(太原郡・汾陽県の)管涔山に隠居し、琴を演奏し、書を読んで日々を過ごした。かつて夜にくつろいでいたところ、二人の子どもが入ってきて跪いて言った。「管涔王が、私たちを遣わして趙の皇帝に拝見し、一振りの剣を献上するようお命じになりました」と。そしてその剣を前に置いて拝礼を二回行って去った。燭を近づけてそれを見ると、剣は二尺(約48㎝)の長さで、光沢は並みならず、鞘は赤玉でできており、背面には「この神剣を使いこなせば、諸々の害毒を除くことができる」という銘文が刻まれていた。そこで劉曜がその剣を身に帯びたところ、その剣は四季に応じて五色に変化した。
劉元海の世に劉曜は次々に高位の官職を歴任し、後に「相国・都督中外諸軍事」を拝命し、長安を鎮守していた。靳準(きんじゅん)の乱が起こると、長安から平陽に向かった。赤壁に差し掛かったところ、太保の呼延晏(こえんあん)らが平陽から落ち延びてきて合流し、太傅の朱紀・太尉の范隆らと一緒に劉曜に皇帝の尊号をたてまつった。劉曜は太興元年に皇帝に即位し、領域内で大赦を行ったが、ただ靳準の一門のみはその大赦の例が適用されないこととし、さらに光初と改元した。朱紀に司徒を兼任させ、呼延晏に司空を兼任させ、范隆以下もみなもとの位に復帰させた。そして、征北将軍の劉雅、鎮北将軍の劉策を汾陰に駐屯させ、石勒軍と一緒に靳準を挟み撃ちにする態勢を築いた。
靳準は、侍中の卜泰を派遣して石勒に降ろうとしたが、石勒は卜泰を捕らえて劉曜に送り届けた。そこで劉曜は卜泰に言った。「先帝の末年には、実に君臣間の大いなる倫理が乱れ、宦官たちが政治を乱し、忠良なる者を誅殺して根絶やしにしたが、今や誠に義士が立ち上がって政治を正し、奸者たちを討ち滅ぼして世を正すべきときである。司空(靳準)は忠烈な心を堅持し、(暗君を追放したり廃位して政治を立て直した)殷の伊尹や漢の霍光のような権宜の措置を行い(劉粲(りゅうさん)を退け)、人々を塗炭の苦しみから救おうとし、その結果、朕はこの位に即くことになったので、その勲功は古の人々よりも高く、徳は天地に至るほどである。朕はこの大難を安んじ救おうとしているのであり、けして君子や賢人たちに非業の死が及ぶようなことはするまい。司空がもし忠誠を誓い、早く我が大駕を迎えるのであれば、政治は靳氏に帰すことにし、私は祭祀を担うだけにしよう。そなたは朕のこのような意向を司空に伝え、また朝廷の士人たちにも宣告せよ」と。卜泰は平陽に戻り、劉曜のこの意向について申し述べた。靳準は、自分は劉曜の同母兄たちを殺してしまったからと、躊躇してなお従わなかった。するとまもなく喬泰・王騰・靳康・馬忠らが靳準を殺し、尚書令の靳明を盟主に推戴し、卜泰を派遣して伝国の六璽を奉じて劉曜に降った。劉曜は大いに喜び、卜泰に言った。「朕がこの神璽を得て真の帝王となることができたのは、そなたのおかげである」と。石勒はそれを聞いて非常に怒り、兵を増やして靳明らを攻めた。靳明は、戦っては何度も敗れ、そして使者を派遣して劉曜に救援を求めたので、劉曜は劉雅・劉策らを派遣して靳明らを迎えさせた。靳明は、平陽の男女一万五千人を率いて劉曜に帰順したが、劉曜は命を下して靳明を誅殺し、靳氏の人間を老若男女問わず皆殺しにした。
また、劉雅に母の胡氏の遺体を平陽から迎えさせ、改めて粟邑に葬り、その墓を陽陵と呼び、宣明皇太后という諡号を贈った。さらに高祖父の劉亮を尊んで景皇帝とし、曽祖父の劉広を献皇帝とし、祖父の劉防を懿皇帝とし、父を宣成皇帝と呼んだ。そして長安に遷都し、光世殿を前方に、紫光殿を後方に建てた。また、その妻の羊氏を皇后に立て、息子の劉熙(りゅうき)を皇太子とし、同じく息子の劉襲を長楽王に、劉闡(りゅうせん)を太原王に、劉沖を淮南王に、劉敞(りゅうしょう)を斉王に、劉高を魯王に、劉徽(りゅうき)を楚王に封じ、各地の宗室の人間を徴召してみな封爵を郡王に進めた。さらに宗廟・社稷・南北郊を修繕した。そして、国の五行を水徳とし、晋の金徳を継承する形とし、国号を趙とした。犠牲の牡は黒を尊び、旗や幟も黒を尊び、冒頓単于を天に配祀し、劉元海を上帝に配祀し、領域内の殊死以下の人々に対して大赦を下した。
黄石屠各の路松多は、新平郡・扶風郡で起兵し、数千の兵衆を集め、(上邽を本拠地とする)南陽王・司馬保の側についた。司馬保は、その将の楊曼(ようまん)を雍州刺史に、王連を扶風太守に任じ、陳倉を拠点とさせ、張顗(ちょうぎ)を新平太守に、周庸を安定太守に任じ、陰密を拠点とさせた。路松多は、草壁を落とし、秦隴地域の氐族・羌族たちは多く路松多らに帰順した。
劉曜は、その車騎将軍の劉雅、平西将軍の劉厚を派遣して陳倉にいる楊曼を攻めさせたが、二十日を経ても勝つことができなかった。劉曜は、中外の精鋭を率いて陳倉に赴き、その途上で雍城で宿営した際、太史令の弁広明が劉曜に言った。「昨夜、妖星が月を犯しましたので、軍隊は進行させるべきではありません」と。そこで劉曜は進むのをやめた。そして劉雅らに命じて、囲いを整え、砦を固め、そうして大軍が到着するのを待つようにさせた。
地震があり、特に長安で激しかった。時に劉曜の妻の羊氏は格別の寵愛を受けており、かなり政事に参与していたので、これはまさに(皇后を象徴する)陰の気が過剰であることの兆しである。
三年(三二〇)、劉曜が雍城を出発し、陳倉を攻めると、楊曼・王連は一緒に謀って言った。「諜者たちがちょうど戻ってきて言うには『その軍には五牛の旗が立てられているため、(現地の人々の間では)胡主(劉曜)が自らやって来たと言う者が多く、我らではおそらくその鋭鋒にはかなわないでしょう』と。ただ、我らの糧食は少なく、長い間もちこたえることはできないので、もし軍を城下に駐屯させ、百日間も包囲されれば、戦闘をするまでもなく我らは自滅することになろう。今ここにいる兵を率いて一戦を仕掛けてみるほかあるまい。もし勝てれば、関中の者たちは檄文を発するのを待つまでもなく援軍に訪れるであろう。もし敗れたとしても、遅かれ早かれ死ぬのは同じである」と。そこですべての兵衆を動員して城を背にして陣を敷いたが、劉曜に敗れ、王連はそこで死に、楊曼は南氐(前仇池)に出奔した。劉曜は進撃して草壁を攻め、またそこを陥落させ、さらに路松多が(略陽郡の)隴城に逃げたので、劉曜はそのまま安定郡を陥落させた。司馬保は恐怖し、(天水郡・上邽から隴西郡の)桑城に拠点を移し、氐族・羌族たちもみなそれに従った。劉曜は、兵を整えて長安に帰り、劉雅を大司徒に任じた。
一方、晋の将である李矩が、洛陽の金墉城を襲い、勝利した。(そこを守っていた)劉曜の左中郎将の宋始、振威将軍の宋恕らは、石勒に降った。そこで劉曜はその大将軍の広平王・劉岳を征東大将軍に任じ、洛陽を鎮守させようとした。しかし、ちょうど全軍に疫病がひどく蔓延したので、劉岳はそこで澠池に駐屯した。石勒は、石生を派遣して宋始らと呼応すべく急いで向かわせ、その軍勢は非常に盛んであった。そして劉曜の将の尹安・趙慎らが、洛陽ごと石生に降ってしまったので、劉岳はそこで軍を引き返し、陝城に鎮守した。
西明門内の大樹に風が吹いて折れ、一晩を経たところ、その樹はねじれて人の形に変わり、髪の長さは一尺(約24㎝)、あごひげと眉の長さは三寸(約7㎝)、いずれも黄白色で、拱手をしているような形状をしており、また両脚に裳裾をはいているかのような形状があり、ただ目鼻が無かった。そして毎晩声を発し、十日が経って枝を生じ、そのまま大樹に成長し、枝葉が非常に盛んに生い茂った。
長水校尉の尹車が謀反し、ひそかに巴酋の徐庫彭(じょこほう)と結ぼうとしたので、劉曜はそこで尹車を誅殺し、徐庫彭ら五十数人を阿房宮に捕らえ、彼らを殺そうとした。光禄大夫の游子遠は、それを固く諫めたが、劉曜は従わなかった。游子遠が叩頭して血を流してまで諫めると、劉曜は大いに怒り、游子遠を幽閉し、徐庫彭らを皆殺しにし、その死体を街中にさらし、十日が経つとそれらを川の中に投げ捨てた。そこで巴氐はみな叛し、巴の帰善王の句渠知(こうきょち)を主に推戴し、四方の山々の羌・氐・巴・羯の諸族で彼らに応じた者は三十数万人にも上り、関中は大いに混乱し、各地の城門は昼に閉じられるようになった。游子遠がまた獄中から上表して諫めると、劉曜は激怒し、その上表文を破って言った。「大荔の奴め、(獄死するまで)余命あとわずかだというのに、それをも顧みずこんなことをしようとは、よほど早く死にたいと見える」と。そして左右の者にどなりつけて即刻、游子遠を殺そうとした。劉雅・朱紀・呼延晏らはそれを諫めて言った。「游子遠が幽閉されてなお諫言を呈しているのは、所謂、社稷に忠実であるあまり、死が目前に迫っているのにも気づかない、というものです。陛下よ、たとえ游子遠の言葉を用いないにしても、どうして彼を殺して良いものでしょうか。もし游子遠が朝に誅殺されるとしたら、私たちもまた暮れに死に、そうして陛下の過失の咎を明らかにしましょう。そうすれば天下の人々はみな陛下のもとを去って西海に行って死ぬことになりましょう。そしたら、陛下はもはや誰と一緒にその位にいようとなさるのでしょうか」と。これにより劉曜の怒りは静まり、そこで游子遠を赦した。そうして内外に命じて戒厳させ、自ら句渠知を討ちに出ようとした。そこに游子遠が進み出て言った。「陛下が実に私の計策を採用なされば、陛下の大駕が自ら出動する手間もかけず、一ヶ月のうちに軍に平定させることができましょう」と。劉曜は言った。「そなたよ、その計策を申してみよ」と。游子遠は言った。「かの者たちは、大志が有ってそれで分を越えた望みを盗み得ようと願っているわけではなく、ただ陛下の厳しい綱紀により、刑が下ることを恐れてやむを得ず叛いたに過ぎません。今、死者については追って処置することはできませんが、すべての叛逆者の家の老人と年少者のうち、いずれの官位も持たない一般人たちを釈放し、みな互いに子どもを養育させ、それぞれ本業に復帰することを許し、大赦を下して彼らと一緒に更始するのが一番です。かの者たちは、生路が開かれた以上、降伏せずに何を待つというのでしょうか。もし句渠知が、自分はすでに重い罪を犯したから手遅れであると思って即座に降らなければ、その場合はどうか私に五千人の弱兵を授け、そして陛下のために句渠知をさらし首にすることをお許しください。わざわざ陛下の将帥の手を煩わすまでもありません。もしそうしなければ、今や賊どもは数が多く、各地の川や谷を覆い尽くしている状態ですから、天威によって彼らに臨んでも(=陛下が軍を率いて掃討しようとも)、おそらくは一年やそこらで除くことができるものではないでしょう」と。劉曜は大いに喜び、游子遠を「車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事」に任じた。そして領域内に大赦を下した。游子遠が雍城に宿営すると、降伏しに来た者は十数万人にも上った。游子遠は安定に進軍し、そこで氐族や羌族の人々はことごとく降ったが、ただ句氏の宗族やその仲間たち五千家余りのみ陰密を占拠して守ったので、游子遠は進攻して彼らを平定した。游子遠がそのまま兵を整えて隴西地域を巡ったところ、(もと司馬保の配下であった)陳安が近郊まで出てきてそれを迎えた。
それより以前、上郡の氐族や羌族の十数万落にも上る人々は険阻な地にこもって降伏しようとせず、その酋大(酋長の称号)である虚除権渠(きょじょけんきょ)は秦王を自称していた。游子遠が進軍してその塁壁附近まで来ると、虚除権渠が兵衆を率いて来てそれを防いだが、游子遠は五回戦って虚除権渠を破った。虚除権渠は恐怖し、まさに降伏しようとしたそのとき、その息子である伊余が、兵衆に向かって大声で言った。「以前、劉曜が自らやって来たが、それでも我らをどうすることもできなかった。ましてや、こんな一軍団のみで我らを降そうなどとは、なおさら何もできまい」と。そこで伊余は五万の強壮な兵士を率い、夜明けに游子遠の砦の門まで迫った。游子遠の左右の者は戦うことを勧めたが、游子遠は言った。「私の聞くところによれば、伊余の勇ましさは、今の世にそれに匹敵する者はなく、その軍隊の強さも、また匹敵するものはない、と。しかもその父は敗れたばかりであり、怒気は非常に盛んである。それに西戎の人々はすばしこくて強靭で、その鋭さは何ものも匹敵し得ないほどである。その士気を緩め、彼らの意気が尽きてから攻撃するのが一番である」と。そこで塁壁を堅く守って戦いに出ようとしなかった。やがて伊余に驕りの色が見えるようになり、遊子遠は伊余の軍が備えを怠るようになったのを確認すると、その夜、兵衆に誓言を授け、(戦に備えて)夜明け前に寝床で食事を取らせた。夜明けになると、大いに風が吹いて霧が生じたので、游子遠は言った。「天が我らに味方しているのだ」と。そして自ら兵士たちの先頭に立ち、塁壁中の兵をすべて動員して出撃し、黎明の頃に伊余軍を潰滅させ、伊余を生け捕りにし、その麾下の兵をすべて捕虜にした。虚除権渠は大いに恐れ、ざんばら髪になって顔面を傷つけ(て自ら罪人の身であることを示し)、そして降った。游子遠は劉曜に啓文を送って虚除権渠を「征西将軍・西戎公」に任じてもらい、伊余ら兄弟やその部落の二十数万人を虚除権渠から引きはがして長安に移住させた。西戎のうち、虚除権渠の部族が最も強かったので、みなその命令を受けて(劉曜の支配地に)侵略して暴挙を繰り返していたが、虚除権渠が降ると、みな劉曜に帰順した。
劉曜はそのことに大いに喜び、群臣と東堂で宴会を開いたところ、普通の暮らしをしていた昔の頃のことに話題が及び、するとはらはらと涙がしたたり落ち、そこで書を下して言った。「思うに徳を称え、旧恩に思いを馳せるのは、聖君の重視することであり、恵みを施すことを心掛け、孤児を気に掛けるのは、明王の常典である。だからこそ世祖(光武帝・劉秀)は河北で創業した際に、(かつての敵であり、やがて戦禍に倒れた)厳尤(げんゆう)の子孫を列侯に封じ、魏の武帝(曹操)は兵を率いて梁・宋の地域を通りがかった際に、橋公(橋玄)の墓でかつての恩を思って慟哭したのである。先日新たに官爵の追贈を行った(今は亡き)大司徒・烈愍公の崔岳(さいがく)、中書令の曹恂(そうじゅん)、晋陽太守の王忠、太子洗馬の劉綏(りゅうすい)らは、あるいは朕が子どもの頃から朕のことを知っており、あるいは朕を困難の極みから救ったが、まさに『私は君子のことを思う』(『詩』秦風・小戎)とあるが如く思いを馳せては、実に私の心を痛ませる。詩(『詩』小雅・隰桑)にもあるだろう、『心にその人のことを思い、いつまでも忘れることはない』と。崔岳は、(劉粲の)漢昌年間の初めに褒賞と追贈を受けたとはいえ、ちょうどまもなく(靳準の乱という)厄運に見舞われたので、礼制に基づく諸々の備えが整えられなかった。今、崔岳に『使持節・侍中・大司徒・遼東公』、曹恂に『大司空・南郡公』、劉綏に『左光禄大夫・平昌公』、王忠に『鎮軍将軍・安平侯』の位を追贈し、いずれも散騎常侍の官位を加えるのが良かろう。ただ、いずれも丘墓が破壊されて無くなってしまったので、哀悼を伝える方法が無い。官僚たちよ、速やかに崔岳らの子孫をあまねく探し出して訪問し、爵土を授け、朕の意向に沿うように」と。初め、劉曜が亡命したとき、曹恂と一緒に劉綏のもとに逃げ込み、そこで劉綏は劉曜を書箱の中に隠し、そのまま箱ごと車に載せて王忠のもとに送り、王忠はそれを朝鮮県に送った。一年余りの後、劉曜は飢えて困窮し、姓名を変え、そのまま朝鮮県に移り住むことにしてその県卒になった。崔岳が朝鮮令となると、劉曜を見て怪しく思い、出自について尋問した。劉曜は叩頭して自首し、涙を流して慈悲を求めた。崔岳は言った。「そなたは、この崔元嵩(さいげんすう)(崔岳のこと、元嵩はその字)が(後漢時代に災難に遭って亡命して姓名を変えて餅売りをしていた趙岐の異才を見破って匿い救った)孫賓碩(そんひんせき)(孫嵩、字は賓碩)に及ばないと言うのか。何とひどく恐れていることであろうか。今、詔が下されてそなたを捕えさせようと非常に厳しく取り締まっているので、喧噪の中では命を保全することはできないであろう。ただ、この県は物静かで辺鄙なところであるので、その状況からしてそなたを救うことができよう。たとえ厳しい追補の手が及んで差し迫った状況になったとしても、印綬を解いてそなたと一緒に去れば良いだけのことである。私は、すでに家門も衰え、兄弟の係累もなく、自身もまた薄幸で、まだ子どももいない。そなたは我が子弟も同然だ。心配し過ぎるな。大丈夫たるもの、この世に身を置いて立っている以上、鳥獣が人を頼ってくれば、必ずそれを救おうとするものである。ましてやそれが君子であればなおさらである」と。そこで劉曜に衣服を授け、書籍を供与した。そうして劉曜は崔岳に従うことになり、さらに崔岳は劉曜のためにお上に掛け合って嫌疑を晴らしてくれたりするなど、恩顧は非常に厚いものであった。あるとき崔岳は何気なく落ち着き払って劉曜に言った。「劉生(劉曜)は、その容姿には素晴らしき風格が備わっており、まさに世に名を轟かせることになろう逸材である。四海にもし微風が吹いて揺るがすようなことがあれば(=乱世となれば)、英雄の筆頭となるのは、まさにそなたであろう」と。また、曹恂は、劉曜が災厄に遭って困窮している中にあっても、君臣の礼を以て劉曜に仕えたので、みな曹恂を徳のある人物であると見なした。

原文

曜立太學於長樂宮東、小學於未央宮西、簡百姓年二十五已下十三已上、神志可教者千五百人、選朝賢宿儒明經篤學以教之。以中書監劉均領國子祭酒。置崇文祭酒、秩次國子。散騎侍郎董景道以明經擢爲崇文祭酒。以游子遠爲大司徒。
曜命起酆明觀、立西宮、建陵霄臺於滈池、又將於霸陵西南營壽陵。侍中喬豫・和苞上疏諫曰「臣聞人主之興作也、必仰準乾象、俯順人時。是以衞文承亂亡之後、宗廟社稷流漂無所、而猶上候營室以構楚宮。彼其急也猶尚若茲、故能興康叔・武公之迹、以延九百之慶也。奉詔書將營酆明觀、市道芻蕘咸以非之、曰一觀之功可以平涼州矣。又奉敕旨復欲擬阿房而建西宮、模瓊臺而起陵霄、此則費萬酆明、功億前役也。以此功費、亦可以吞吳蜀、翦齊魏矣。陛下何爲於中興之日而蹤亡國之事。自古聖王、人誰無過。陛下此役、實爲過舉。過貴在能改、終之實難。又伏聞敕旨將營建壽陵、周迴四里、下深二十五丈、以銅爲棺槨、黃金飾之、恐此功費非國内所能辦也。且臣聞堯葬穀林、市不改肆、顓頊葬廣陽、下不及泉。聖王之於終也如是。秦皇下錮三泉、周輪七里、身亡之後、毀不旋踵。闇主之於終也如此。向魋石椁、孔子以爲不如速朽、王孫倮葬、識者嘉其矯世。自古無有不亡之國、不掘之墓、故聖王知厚葬之招害也、故不爲之。臣子之於君父、陵墓豈不欲高廣如山岳哉。但以保全始終、安固萬世爲優耳。興亡奢儉、冏然於前。惟陛下覽之。」曜大悅、下書曰「二侍中懇懇有古人之風烈矣、可謂社稷之臣也。非二君、朕安聞此言乎。以孝明於承平之世、四海無虞之日、尚納鍾離一言而罷北宮之役、況朕之闇眇、當今極弊、而可不敬從明誨乎。今敕悉停壽陵制度、一遵霸陵之法。詩不云乎『無言不酬、無德不報。』其封豫安昌子、苞平輿子、並領諫議大夫。可敷告天下、使知區區之朝思聞過也。自今政法有不便於時、不利社稷者、其詣闕極言、勿有所諱。」省酆水囿以與貧戶。
終南山崩、長安人劉終於崩所得白玉方一尺、有文字曰「皇亡、皇亡、敗趙昌。井水竭、構五梁。咢酉小衰、困嚻喪。嗚呼、嗚呼、赤牛奮靷、其盡乎。」時羣臣咸賀、以爲勒滅之徵。曜大悅、齋七日而後受之於太廟、大赦境内、以終爲奉瑞大夫。中書監劉均進曰「臣聞國主山川、故山崩川竭、君爲之不舉。終南、京師之鎮、國之所瞻、無故而崩、其凶焉可極言。昔三代之季、其災也如是。今朝臣皆言祥瑞、臣獨言非、誠上忤聖旨、下違眾議。然臣不達大理、竊所未同。何則、玉之於山石也、猶君之於臣下。山崩石壞、象國傾人亂。『皇亡。皇亡。敗趙昌』者、此言皇室將爲趙所敗、趙因之而昌。今大趙都於秦雍、而勒跨全趙之地、趙昌之應、當在石勒、不在我也。『井水竭、構五梁』者、井謂東井、秦之分也、五謂五車、梁謂大梁、五車・大梁、趙之分也、此言秦將竭滅、以構成趙也。『咢』者、歲之次名作咢也、言歲馭作咢酉之年、當有敗軍殺將之事。『困』謂困敦、歲在子之年名、玄囂亦在子之次、言歲馭於子、國當喪亡。『赤牛奮靷』謂赤奮若、在丑之歲名也、『牛』謂牽牛、東北維之宿、丑之分也、言歲在丑當滅亡、盡無復遺也。此其誡悟蒸蒸、欲陛下勤修德化以禳之。縱爲嘉祥、尚願陛下夕惕以答之。書曰『雖休勿休。』願陛下追蹤周旦盟津之美、捐鄙虢公夢廟之凶、謹歸沐浴以待妖言之誅。」曜憮然改容。御史劾均狂言瞽說、誣罔祥瑞、請依大不敬論。曜曰「此之災瑞、誠不可知、深戒朕之不德、朕收其忠惠多矣、何罪之有乎。」
曜親征氐羌、仇池楊難敵率眾來距、前鋒擊敗之、難敵退保仇池、仇池諸氐羌多降於曜。曜後復西討楊韜于南安、韜懼、與隴西太守梁勛等降于曜、皆封列侯。使侍中喬豫率甲士五千、遷韜等及隴右萬餘戶于長安。曜又進攻仇池。時曜寢疾、兼癘疫甚、議欲班師、恐難敵躡其後、乃以其尚書郎王獷爲光國中郎將、使于仇池、以說難敵、難敵於是遣使稱藩。曜大悅、署難敵爲使持節・侍中・假黃鉞・都督益寧南秦涼梁巴六州隴上西域諸軍事・上大將軍・益寧南秦三州牧・領護南氐校尉・寧羌中郎將・武都王、子弟爲公・侯・列將・二千石者十五人。
陳安請朝、曜以疾篤不許。安怒、且以曜爲死也、遂大掠而歸。曜疾甚篤、馬輿而還、使其將呼延寔監輜重於後。陳安率精騎要之于道、寔奔戰無路、與長史魯憑俱沒于安。安囚寔而謂之曰「劉曜已死、子誰輔哉。孤當與足下終定大業。」寔叱安曰「狗輩。汝荷人榮寵、處不疑之地、前背司馬保、今復如此。汝自視何如主上。憂汝不久梟首上邽通衢、何謂大業。可速殺我、懸我首於上邽東門。觀大軍之入城也。」安怒、遂殺之。以魯憑爲參軍、又遣其弟集及將軍張明等率騎二萬追曜、曜衞軍呼延瑜逆戰、擊斬之、悉俘其眾。安懼、馳還上邽。曜至自南安。陳安使其將劉烈・趙罕襲汧城、拔之、西州氐羌悉從安。安士馬雄盛、眾十餘萬、自稱使持節・大都督・假黃鉞・大將軍・雍涼秦梁四州牧・涼王、以趙募爲相國、領左長史。魯憑對安大哭曰「吾不忍見陳安之死也。」安怒、命斬之。憑曰「死自吾分。懸吾頭於秦州通衢。觀趙之斬陳安也。」遂殺之。曜聞憑死、悲慟曰「賢人者、天下之望也。害賢人、是塞天下之情。夫承平之君猶不敢乖臣妾之心、況於四海乎。陳安今於招賢採哲之秋、而害君子、絕當時之望、吾知其無能爲也。」
休屠王石武以桑城降、曜大悅、署武爲使持節・都督秦州隴上雜夷諸軍事・平西大將軍・秦州刺史、封酒泉王。
曜后羊氏死、偽諡獻文皇后。羊氏内有特寵、外參朝政、生曜三子熙・襲・闡。
曜始禁無官者不聽乘馬、祿八百石已上婦女乃得衣錦繡、自季秋農功畢、乃聽飲酒、非宗廟社稷之祭不得殺牛、犯者皆死。
曜臨太學、引試學生之上第者拜郎中。
武功男子蘇撫・陝男子伍長平並化爲女子。石言於陝、若言勿東者。
曜將葬其父及妻、親如粟邑以規度之。負土爲墳、其下周迴二里、作者繼以脂燭、怨呼之聲盈于道路。游子遠諫曰「臣聞聖主明王・忠臣孝子之於終葬也、棺足周身、椁足周棺、藏足周椁而已、不封不樹、爲無窮之計。伏惟陛下聖慈幽被、神鑒洞遠、每以清儉恤下爲先、社稷資儲爲本。今二陵之費至以億計、計六萬夫百日作、所用六百萬功。二陵皆下錮三泉、上崇百尺、積石爲山、增土爲阜、發掘古冢以千百數、役夫呼嗟、氣塞天地、暴骸原野、哭聲盈衢。臣竊謂無益於先皇先后、而徒喪國之儲力。陛下脫仰尋堯舜之軌者、則功不盈百萬、費亦不過千計、下無怨骨、上無怨人、先帝先后有太山之安、陛下饗舜・禹・周公之美。陛下察焉。」曜不納、乃使其將劉岳等帥騎一萬、迎父及弟暉喪於太原。疫氣大行、死者十三四。上洛男子張盧死二十七日、有盜發其冢者、盧得蘇。曜葬其父、墓號永垣陵、葬妻羊氏、墓號顯平陵。大赦境内殊死已下、賜人爵二級、孤老貧病不能自存者帛各有差。

訓読

曜、太學を長樂宮の東に、小學を未央宮の西に立て、百姓の年二十五已下十三已上にして、神志の教うべき者千五百人を簡び、朝賢宿儒の明經篤學なるを選びて以て之に教えしむ。中書監の劉均を以て國子祭酒を領せしむ。崇文祭酒を置き、秩は國子に次ぐ。散騎侍郎の董景道、明經なるを以て擢かれて崇文祭酒と爲る。游子遠を以て大司徒と爲す。
曜、命じて酆明觀を起て、西宮を立て、陵霄臺を滈池に建て、又た將に霸陵の西南に於いて壽陵を營まんとす。侍中の喬豫(きょうよ)・和苞(かほう)、上疏して諫めて曰く「臣、聞くならく、人主の興作するや、必ず仰ぎては乾象に準り、俯きては人時に順う、と。是を以て衞文は亂亡の後を承け、宗廟社稷は流漂して所無けれども、而れども猶お營室を上候して以て楚宮を構う。彼、其の急なるや猶お尚お茲くの若ければ、故に能く康叔・武公の迹を興し、以て九百の慶を延ぶるなり。詔書を奉ずるに將に酆明觀を營まんとするに、市道の芻蕘は咸な以て之を非とし、一觀の功、以て涼州を平ぐべしと曰う。又た敕旨を奉ずるに復た阿房に擬して西宮を建て、瓊臺を模して陵霄を起てんと欲するも、此れ則ち費は酆明に萬たり、功は前役に億たり。此の功費を以てせば、亦た以て吳蜀を吞み、齊魏を翦ぼすべし。陛下、何爲れぞ中興の日に於いて亡國の事に蹤わんや。古よりの聖王、人として誰か過無からん。陛下の此の役、實に過舉たり。過は貴ぶこと能く改むるに在るも、之を終うるは實に難し。又た伏して敕旨を聞くに、將に壽陵を營建し、周迴四里、下は深二十五丈、銅を以て棺槨と爲し、黃金もて之を飾らんとするに、恐らくは此の功費、國内の能く辦ずる所に非ざるなり。且つ臣聞くならく、堯の穀林に葬らるるや、市は肆を改めず、顓頊(せんぎょく)の廣陽に葬らるるや、下は泉に及ばず、と。聖王の終に於けるや是くの如し。秦皇は下は三泉を錮ぎ、周輪七里なるも、身亡ぶの後、毀ること踵を旋らさず。闇主の終に於けるや此くの如し。向魋(しょうたい)の石椁、孔子は以て速やかに朽つるに如かずと爲し、王孫の倮葬、識者は其の世を矯むるを嘉す。古より不亡の國、不掘の墓有る無ければ、故に聖王は厚葬の害を招くを知り、故に之を爲さず。臣子の君父に於けるや、陵墓、豈に高廣たること山岳の如くするを欲せざらんや。但だ始終を保全し、萬世に安固するを以て優と爲すのみ。興亡奢儉、前に冏然たり。惟だ陛下、之を覽よ」と。曜、大いに悅び、書を下して曰く「二侍中、懇懇として古人の風烈有り、社稷の臣と謂うべきなり。二君に非ずんば、朕、安くんぞ此の言を聞かんや。孝明の承平の世、四海の無虞の日に於けるを以てすら、尚お鍾離の一言を納れて北宮の役を罷むるに、況んや朕は闇眇にして、當今は極めて弊るるに、而るに敬んで明誨に從わざるべけんや。今、敕して悉く壽陵の制度を停め、一に霸陵の法に遵う。詩に云わずや『言として酬えざる無く、德として報いざる無し』と。其れ豫を安昌子に、苞を平輿子に封じ、並びに諫議大夫を領せしむ。天下に敷告し、區區の朝の過を聞くを思うを知らしむべきなり。自今、政法に時に便あらず、社稷に利あらざること有らば、其れ闕に詣りて言を極め、諱む所有る勿かれ」と。酆水囿を省きて以て貧戶に與う。
終南山崩れ、長安の人の劉終、崩所に於いて白玉の方一尺なるを得るに、文字有りて曰く「皇亡、皇亡、敗趙昌。井水竭、構五梁。咢酉小衰、困嚻喪。嗚呼、嗚呼、赤牛奮靷、其盡乎。」〔一〕と。時に羣臣は咸な賀し、以て勒の滅ぶるの徵と爲す。曜、大いに悅び、齋すること七日にして後に之を太廟に受け、境内に大赦し、終を以て奉瑞大夫と爲す。中書監の劉均、進みて曰く「臣、聞くならく、國は山川を主りたれば、故に山崩じ川竭くれば、君は之が爲に舉げず、と。終南は、京師の鎮にして、國の瞻る所なれば、故無くして崩るるは、其の凶、焉くんぞ言を極むべけんや。昔、三代の季、其の災たるや是くの如し。今、朝臣は皆な祥瑞なりと言うに、臣獨り非なりと言わば、誠に上は聖旨に忤い、下は眾議に違わん。然るに臣は大理に達せざるも、竊かに未だ同ぜざる所あり。何となれば則ち、玉の山石に於けるや、猶お君の臣下に於けるがごとし。山の崩れて石の壞るるは、國の傾きて人の亂るるを象る。『皇亡び、皇亡び、敗れて趙は昌ゆ』は、此れ皇室の將に趙の敗る所と爲り、趙、之に因りて昌えんとするを言う。今、大趙は秦雍に都し、而して勒は全趙の地を跨ぎたれば、趙の昌ゆるの應は、當に石勒に在り、我に在らざるべし。『井水は竭き、五梁を構う』は、井は東井を謂い、秦の分にして、五は五車を謂い、梁は大梁を謂い、五車・大梁は、趙の分なれば、此れ秦の將に竭滅し、以て趙を構成せんとするを言うなり。『咢』は、歲の次名の作咢にして、歲の作咢に馭する酉の年、當に敗軍殺將の事有るべきを言う。『困』は困敦を謂い、歲の子に在るの年の名にして、玄囂も亦た子に在るの次なれば、歲の子に馭するや、國は當に喪亡すべきを言う。『赤牛の靷を奮う』は赤奮若を謂い、丑に在るの歲の名にして、『牛』は牽牛を謂い、東北維の宿にして、丑の分なれば、歲の丑に在るや當に滅亡し、盡きて復た遺す無かるべきを言うなり。此れ其の誡悟は蒸蒸にして、陛下の勤めて德化を修めて以て之を禳わんことを欲す。縱い嘉祥たりとも、尚お願わくば、陛下、夕べに惕して以て之に答えられんことを。書に曰く『休せらると雖も休とする勿かれ』と。願わくば陛下、周旦の盟津の美を追蹤し、虢公の夢廟の凶を捐鄙し〔二〕、謹んで沐浴に歸して以て妖言の誅を待たれんことを」と。曜、憮然として容を改む。御史、均は狂言瞽說し、祥瑞を誣罔せりと劾し、大不敬に依りて論ずるを請う。曜曰く「此の災瑞、誠に知るべからざるも、深く朕の不德を戒め、朕は其の忠惠の多きを收めたれば、何の罪か之れ有らんや」と。
曜、親ら氐羌を征するや、仇池の楊難敵、眾を率いて來りて距ぐも、前鋒は擊ちて之を敗り、難敵は退きて仇池を保ち、仇池の諸氐羌は多く曜に降る。曜、後に復た西のかた楊韜(ようとう)を南安に討つや、韜は懼れ、隴西太守の梁勛(りょうくん)等と與に曜に降り、皆な列侯に封ぜらる。侍中の喬豫をして甲士五千を率い、韜等及び隴右の萬餘戶を長安に遷さしむ。曜、又た進みて仇池を攻む。時に曜は疾に寢ね、兼ねて癘疫の甚しければ、議して師を班さんと欲するも、難敵の其の後を躡うを恐れ、乃ち其の尚書郎の王獷(おうこう)を以て光國中郎將と爲し、仇池に使せしめ、以て難敵に說きたれば、難敵、是に於いて使を遣わして藩を稱す。曜、大いに悅び、難敵を署して使持節・侍中・假黃鉞・都督益寧南秦涼梁巴六州隴上西域諸軍事・上大將軍・益寧南秦三州牧・領護南氐校尉・寧羌中郎將・武都王と爲し、子弟の公・侯・列將・二千石と爲る者は十五人。
陳安、朝せんことを請うも、曜、疾篤きを以て許さず。安、怒り、且つ曜を以て死せりと爲し、遂に大いに掠めて歸る。曜、疾甚だ篤く、馬輿にして還り、其の將の呼延寔(こえんしょく)をして輜重を後に監せしむ。陳安、精騎を率いて之を道に要えたれば、寔、奔戰するに路無く、長史の魯憑(ろひょう)と俱に安に沒す。安、寔を囚えて之に謂いて曰く「劉曜は已に死すれば、子、誰をか輔けんや。孤、當に足下と與に終に大業を定むべし」と。寔、安を叱して曰く「狗輩。汝は人の榮寵を荷り、不疑の地に處るに、前には司馬保に背き、今復た此くの如し。汝、自ら視ぶるに主上に何如。汝の久からずして首を上邽の通衢に梟されんことを憂うるに、何ぞ大業を謂わんや。速やかに我を殺し、我が首を上邽の東門に懸くべし。大軍の城に入るを觀ん」と。安、怒り、遂に之を殺す。魯憑を以て參軍と爲し、又た其の弟の集及び將軍の張明等を遣わして騎二萬を率いて曜を追わしむるも、曜の衞軍〔三〕の呼延瑜、逆えて戰い、擊ちて之を斬り、悉く其の眾を俘にす。安、懼れ、馳せて上邽に還る。曜、至るに南安よりす。陳安、其の將の劉烈・趙罕(ちょうかん)をして汧城を襲わしめ、之を拔くや、西州の氐羌は悉く安に從う。安の士馬は雄盛にして、眾は十餘萬、自ら使持節・大都督・假黃鉞・大將軍・雍涼秦梁四州牧・涼王を稱し、趙募を以て相國と爲し、左長史を領せしむ。魯憑、安に對して大いに哭して曰く「吾、陳安の死するを見るに忍びざるなり」と。安、怒り、命じて之を斬らんとす。憑曰く「死は自(もとよ)り吾が分なり。吾が頭を秦州の通衢に懸けよ。趙の陳安を斬るを觀ん」と。遂に之を殺す。曜、憑の死せるを聞き、悲慟して曰く「賢人は、天下の望なり。賢人を害するは、是れ天下の情を塞ぐ。夫れ承平の君は猶お敢えて臣妾の心に乖かざるに、況んや四海に於けるをや。陳安は今、招賢採哲の秋に於けるに、而れども君子を害し、當時の望を絕ちたれば、吾、其の能く爲す無きを知るなり」と。
休屠王の石武〔四〕、桑城を以て降りたれば、曜、大いに悅び、武を署して使持節・都督秦州隴上雜夷諸軍事・平西大將軍・秦州刺史と爲し、酒泉王に封ず。
曜の后の羊氏、死し、獻文皇后と偽諡す。羊氏、内は特寵有り、外は朝政に參じ、曜の三子の熙(き)・襲・闡(せん)を生む。
曜、始めて禁じて無官者は馬に乘るを聽さず、祿八百石已上の婦女は乃ち錦繡を衣るを得しめ、季秋の農功の畢わりてより、乃ち飲酒を聽し、宗廟社稷の祭に非ざれば牛を殺すを得ず、犯す者は皆な死とす。
曜、太學に臨み、引きて試して學生の上第なる者もて郎中に拜す。
武功の男子の蘇撫・陝の男子の伍長平、並びに化して女子と爲る〔五〕。石、陝に言い、東する勿かれと言う者の若し〔六〕。
曜、將に其の父及び妻を葬せんとし、親ら粟邑に如きて以て之を規度す。土を負いて墳を爲し、其の下は周迴二里、作者は繼ぐに脂燭を以てし、怨呼の聲は道路に盈つ。游子遠、諫めて曰く「臣、聞くならく、聖主明王・忠臣孝子の終葬に於けるや、棺は身を周らすに足り、椁は棺を周らすに足り、藏は椁を周らすに足るのみにして、封ぜず樹えず、無窮の計を爲す、と。伏して惟るに、陛下は聖慈幽被、神鑒洞遠、每に清儉にして下を恤れむを以て先と爲し、社稷の資儲もて本と爲す。今、二陵の費えは億を以て計うるに至り、六萬夫の百日の作を計るに、用うる所は六百萬功なり。二陵は皆な下は三泉を錮ぎ、上は百尺を崇し、石を積みて山と爲し、土を增して阜と爲し、古冢を發掘すること千百を以て數え、役夫は呼嗟し、氣は天地を塞ぎ、骸を原野に暴し、哭聲は衢に盈つ。臣、竊かに謂うに、先皇・先后に於いて益無く、而して徒らに國の儲力を喪わん。陛下、脫し仰ぎて堯舜の軌を尋ねば、則ち功は百萬に盈たず、費も亦た千計に過ぎず、下は怨骨無く、上は怨人無く、先帝・先后は太山の安き有り、陛下は舜・禹・周公の美を饗けん。惟だ陛下、焉を察せ」と。曜、納れず、乃ち其の將の劉岳等をして騎一萬を帥いしめ、父及び弟の暉(き)の喪を太原より迎えしむ。疫氣大いに行し、死者は十に三四。上洛の男子の張盧(ちょうろ)、死して二十七日にして、其の冢を盜發する者有るに、盧、蘇るを得たり。曜、其の父を葬し、墓は永垣陵と號し、妻の羊氏を葬し、墓は顯平陵と號す。境内の殊死已下を大赦し、人ごとに爵二級を、孤老貧病にして自ら存する能わざる者に帛を賜うこと各々差有り。

〔一〕後文の劉均の解釈に従えば、「皇亡び、皇亡び、敗れて趙昌ゆ。井の水は竭き、五・梁を構う。咢酉に小や衰え、困嚻に喪ぶ。嗚呼、嗚呼、赤牛の靷を奮うに、其れ盡きんか。」、すなわち「皇帝が死に、皇帝が死に、敗れて趙の地(を支配する石勒の国)が栄えよう。東井の分野(の秦地)を支配する水徳(の前趙)は尽き果て、五車・大梁の分野(の趙地を支配する石勒の国)を構成する一部となろう。(前趙は)太歳が作咢に位置する酉年にやや衰え、太歳が困敦・玄囂に位置する子年に滅びよう。ああ、ああ、赤牛がむながいを奮う牽牛・赤奮若の丑年には、(その残党も)きっと尽き果ててしまうだろう。」という意味になる。なお、当初、群臣たちがこれをどのように読んだのかは不明であるが、石勒が滅びる瑞祥だとしたということは、少なくとも冒頭に関しては「(石勒の国では)君主が死に、君主が死に、その国は敗れて、我が大趙が栄えよう。」とでも解釈したのであろう。
〔二〕「周旦盟津之美」については不祥。「虢公夢廟之凶」については、『国語』晋語二などにその話が掲載されている。それによれば、春秋時代の虢国の最後の君主である虢公醜は、無道で傲慢で民に憎まれており、ある日、夢の中で、廟の中で刑殺の神である蓐收により「晋国にお前の国を攻めさせる」という旨のことを宣告されたが、その後も虢公は態度を改めなかったので、その結果、晋に攻め入られて虢国が滅びたという。
〔三〕「衛軍」は「衛将軍」を指す場合もあれば、「衛軍将軍」を指す場合もあり、今回の場合がどちらに相当するのかは不明である。
〔四〕『晋書斠注』でも指摘されている通り、石武の本名は「石虎」であり、唐の太祖・李虎の諱を避けて、『晋書』では「石武」とされている。『晋書』では「石季龍」と記される後趙三代皇帝の石虎とは同姓同名の別人である。
〔五〕当時、男子が女子に変わるという異変は、国が滅び、王朝交代が起こる前兆であるとされていた。
〔六〕当時、時期外れの土木事業への動員などで、人々の間に怨嗟がたまると、本来言葉を発しないはずのものが言葉を発するようになると考えられていた。次の段落における皇后らのための陵墓の造営と対応する。

現代語訳

劉曜は、太学を長楽宮の東に、小学を未央宮の西に建て、十三歳以上二十五歳以下の民衆で、精神や気概として学問を教えるに足る者を千五百人選抜し、そして朝廷の賢人や熟練の儒者のうち、経学に明るく学問に篤い人物を選び出し、選抜した民衆たちに対して教授させた。そして中書監の劉均に国子祭酒を兼任させた。さらに崇文祭酒を置き、秩石は国子祭酒に次ぐものとした。散騎侍郎の董景道は、経学に明るいということで抜擢されてこの崇文祭酒に任じられた。また、游子遠を大司徒に任じた。
劉曜は、酆明観を建て、西宮を建て、滈池に陵霄台を建てるよう命を下し、さらに覇陵の西南に自分の陵墓を設営しようとした。侍中の喬豫(きょうよ)・和苞(かほう)は、上疏して諫めて言った。「私たちが聞くところによりますと、君主たるものが造営するに当たっては、必ず仰いでは天文の現象を推し量って時や場所を定め、俯いては人々の農時を避けるようその適切な時期に従うものであると言います。それゆえ(春秋時代の)衛の文公は、翟人によって一時滅亡に追いやられた後の衛国を継承し、(都が滅びたために)宗廟や社稷は流浪して安置する場所がありませんでしたが、そのような状況でもなお文公は営室(二十八宿の一つ)を仰ぎうかがって、それによって(新たな都である)楚宮を建設したのです。彼は、その差し迫った状況下でもなおそのようにしましたので、だからこそ(衛の始祖である)康叔や(衛の中興の祖である)武公の事跡を復興し、それによって衛は合計九百年にもわたる長き幸いを享受することができるようになったのです。詔書を奉じますに、酆明観を造営されようとなさっているとのことでございますが、市井や道を行く草刈りや木こりの人々はみなそれを非難し、高楼一つを建てる労力があれば、代わりにそれで涼州(前涼)を平定することができるのに、と言っております。さらに敕旨を奉じますに、それに加えて阿房宮(すなわち秦の始皇帝による失政の事跡)になぞらえて西宮を建て、瓊台(すなわち夏の桀王による失政の事跡)を模して陵霄台を建てようとされていますが、これは、費用は酆明観の何万倍にも及び、その労力も酆明観の何億倍にも上るものです。その労力や費用を用いれば、やはりそれで呉(東晋)や蜀(成漢)を併呑し、斉(曹嶷)や魏(石勒)を滅ぼすことができましょう。陛下は、どうして中興の日に当たって亡国の事にならおうとなさっているのでしょうか。古来の聖王であっても、人である以上、どうして過ちが無いなどということがありましょうか。陛下のこの役は、実に過ちの行いであります。過ちというのは、改めることができるというところに貴さがありますが、いざ改めるとなると、それを達成するのは実に難しいものです。またつつしんで勅旨を聞きましたところ、ご自身の陵墓を建設し、全周は四里(約1.7㎞)、掘り下げる深さは二十五丈(約2.4m)にも及び、銅で内棺・外棺を作り、それを黄金で装飾しようとなさっていますが、その労力や費用は、おそらく国内だけでまかなえるものではありません。それに私どもの聞いたところによりますと、昔、尭が穀林に葬られたとき、そこの市では店を改めるということはせず相変わらず営業させ、顓頊(せんぎょく)が広陽里に葬られたとき、その墓は黄泉に及ぶまで深くは掘らなかったと言います。聖王の最期に当たっての様子はこのようなものであります。一方で、秦の始皇帝は、下は三泉をせきとめ、その墓の全周は七里(約3㎞)に及びましたが、自身が死んだ後、国はまもなく滅びました。闇主の最期に当たっての様子はこのようなものであります。また、(春秋時代の宋の)向魋(しょうたい)が自分用に石棺を作らせた際、それに対して孔子は、人は死んだら速やかに朽ち果てるのが一番であると言い、(前漢の)楊王孫が死んで裸葬(棺槨や衣服を用いずに葬ること)された際には、有識者は彼がそれによって世を矯正しようとしたことを賛美しました。古来、滅亡しない国、盗掘されない墓などはございませんので、故に聖王は厚葬が害を招くということを充分に理解し、故にそれを行わなかったのです。臣下や子どもは君主や父に対し、どうしてその陵墓を山のように高く広大なものにしようと欲しないことがありましょうか。ただ、最初から最後まで墓が保全され、万世にわたって安泰であることを優先している(ため厚葬を行わない)だけです。興亡と奢侈・倹約の道理は、これらの前例からも明らかです。陛下よどうか、そのことをよくご覧になってください」と。劉曜は大いに喜び、書を下して言った。「この二侍中は、実に懇切で古の賢人たちの遺風があり、まさに社稷の臣と言うべき者たちである。この二君でなければ、朕はどうしてこのような意見を聞くことができたであろうか。(後漢の)孝明皇帝が、太平の世で、四海に憂いが無いような日々においてすら、鍾離意の一言を採用して北宮建造の労役を中止したというのに、ましてや朕は暗愚蒙昧で、しかも今の世の中は極度に疲弊しているというのにもかかわらず、つつしんでその明快な教訓に従わずにいられようか。今、ことごとく我が陵墓の制度を廃止し、専ら覇陵(薄葬を命じた前漢の文帝の陵墓)の法に従うことにするよう命ずる。詩(『詩』大雅・抑)にもあるだろう、『すべての言葉には答えが返ってくるし、すべての徳には報いが返ってくる』と。そこで、喬豫を安昌子(安昌を封邑とする子爵)に、和苞を平輿子に封じ、いずれも諫議大夫を兼任させよう。そして天下に布告し、ちっぽけな私が、自分に過ちがあればそれを指摘してくれることを願っているということを知らせるのが良かろう。今後、政治や法令に、時世に合っていなかったり、社稷に対して益がないようなことがあったりした場合には、宮城にやってきて言葉を尽くし、何も憚らずに諫めてくれ」と。そこで、酆水囿を廃止して、その土地を貧しい人々に分け与えた。
終南山が土砂崩れを起こし、長安の人である劉終が、その崩落現場で一尺(約24㎝)四方の白玉を拾い、そこには「皇亡、皇亡、敗趙昌。井水竭、構五梁。咢酉小衰、困囂喪。嗚呼、嗚呼、赤牛奮靷、其盡乎。」という文字が刻まれていた。時に群臣はみな慶賀し、それを石勒が滅びるという祥瑞であると見なした。劉曜は大いに喜び、七日にわたって斎戒し、その後にその白玉を太廟で受け取り、領域内で大赦を行い、劉終を奉瑞大夫に任じた。そこで、中書監の劉均が進み出て言った。「私が聞くところによりますと、国は山や川の祭祀をつかさどっているので、故に山に土砂崩れがあり、川が干乾びた際には、君主は食膳を減らすのだと言います。終南山は、京師の山鎮であり、国が仰ぎ望むものであるので、それが何の原因もなくいきなり土砂崩れを起こしたというのであれば、それが凶兆であることは、言葉を尽くして説明するまでもありません。昔、(夏・殷・周の)三代それぞれの末期、その災異はまさにこれと同様でありました。今、朝臣はみなそれを祥瑞だと言っております中で、私だけがそうではないのだと言うのは、実に上は聖旨に逆らい、下は人々の議論に違うこととなりましょう。しかし、私は大いなる道理に通達しているわけではありませんものの、心中ひそかに同意できないことがございます。というのも、山石にとっての玉は、臣下にとっての君と同じです。山が土砂崩れを起こして石が壊れるのは、国が傾いて人々が乱れることを象徴しております。『皇亡び、皇亡び、敗れて趙は昌ゆ』というのは、これは我が皇室が趙に敗れ、趙がそれによって栄えるということを言っているのです。今、我が大趙は秦地・雍州に都を置き、一方で石勒は趙地の全体を占拠していますので、趙が栄えるというのに対応するのは、石勒のことであり、我らのことではございません。『井水は竭き、五梁を構う』というのは、井は東井(二十八宿の一つ)のことを指し、秦地の分野に相当し、また五は五車(星官の一つ)のことを指し、梁は大梁(星次の一つ)のことを指し、五車・大梁はいずれも趙地の分野に相当するので、これはすなわち、今にも秦地が滅びて尽き、そうして趙地を構成する一部になるだろうということを言っているのです。『咢』とは太歳の次名である作咢のことであり、これは太歳が作咢に位置する酉の年に、きっと軍が破れて将が殺されるという事件が生じるだろうということを言っているのです。『困』は困敦のことを指し、これは太歳が子に位置する年の次名であり、(『囂』すなわち)玄囂(玄枵)もまた太歳が子に位置するときの星次のことであるので、すなわち太歳が子に位置する年に、国がきっと滅亡することになるだろうということを言っているのです。『赤牛、靷を奮う』というのは赤奮若のことを指し、これは太歳が丑に位置する年の次名であり、『牛』は牽牛(二十八宿の一つ)のことを指し、東北隅の星宿のことで、丑の分野であるので、これは太歳が丑に位置する年に、きっと滅亡し、跡形もなく尽き果ててしまうだろうということを言っているのです。このように、この凶兆を下すことにより天は盛んに陛下を戒め悟らせようとしているのであって、陛下が力を尽くして徳行や教化を修めて、そうしてこの禍を除くことを欲しているのです。たとえこれが瑞祥だとしても、それでも陛下よどうか、夕べに身を省みて畏れ慎むことを忘れず、そうしてこの瑞祥にお応えいただきますようお願い申し上げます。『尚書』には『立派だと言われても、本当に自分が立派であると思って安座してはならない』とあります。陛下よどうか、周公旦の盟津の美事を手本としてそれにならい、虢公が夢の中で廟にて授かった凶禍を鑑みて自分の欲張りな心を捨て、つつしんで沐浴を行い、そうして妖言の誅が下されるのに備えてください」と。劉曜は意外なことに驚いて態度を改めた。御史は、劉均は狂言を呈して出鱈目を言い、祥瑞に対してあること無いことを並べ立てて事実であるとして騙ったとして弾劾し、大不敬罪を適用することを請うた。劉曜は言った。「これが災いなのか瑞祥なのか、確かなことは分からないが、劉均は深く朕の不徳を戒め、朕はその忠誠・仁恵を多分に受け取ったわけであるから、劉均に何の罪があろうか」と。
劉曜が自ら氐族・羌族を征伐しに出向いたところ、仇池の楊難敵が兵衆を率いて迎え撃ちに出てきたが、劉曜の先鋒が楊難敵軍を打ち破り、楊難敵は仇池まで退いてそこにこもって守り、仇池の氐族・羌族たちは多く劉曜に降った。劉曜が後にさらに西進して南安郡にいる楊韜(ようとう)(司馬保の別将)を討伐しに出ると、楊韜は恐れ、隴西太守の梁勛(りょうくん)らと一緒に劉曜に降り、みな列侯に封ぜられた。そこで劉曜は、侍中の喬豫に五千人の武装兵を率いさせ、楊韜ら及び隴西の一万戸余りを長安に移住させた。劉曜は、さらに進軍して仇池を攻めた。時に劉曜は病で寝込み、しかも急性の伝染病がひどく流行したので、軍議を開いて軍を引き返そうとしたが、楊難敵がその後方から追撃をかけてくるのを恐れ、そこでその尚書郎の王獷(おうこう)を光国中郎将に任じ、仇池に使者として向かわせ、そうして楊難敵を説得させたので、そこで楊難敵は使者を派遣して藩属することを申し出た。劉曜は大いに喜び、楊難敵を「使持節、侍中、仮黄鉞、都督益・寧・南秦・涼・梁・巴六州・隴上・西域諸軍事、上大将軍、益・寧・南秦三州牧、領護南氐校尉・寧羌中郎将、武都王」に任じ、その子弟で公・侯・列将・二千石となった者は十五人にも上った。
陳安が劉曜に朝見したいと願い出たが、劉曜は病が重かったので許可しなかった。陳安は怒り、また劉曜は死んだのだと思い、そこで大いに略奪を働いて帰った。劉曜は、病が非常に重く、そのため馬車に乗って帰り、その将の呼延寔(こえんしょく)に後方で輜重を監督させた。すると陳安が精鋭の騎兵を率いてその輜重部隊を道で待ち構えて迎え撃ったので、呼延寔は逃げるにも戦うにも進む道が無く、長史の魯憑ともども陳安の捕虜となった。陳安は、呼延寔を捕らえると彼に対して言った。「劉曜はもう死んでいるというのに、あなたは誰を補佐しようというのか。私は足下とともに最後には大業を定めることができよう」と。呼延寔は陳安を怒鳴りつけて言った。「この犬め。お前は人の恩寵をこうむり、信任あつき地位におりながら、前には司馬保に背き、今またこのように裏切ろうとは。お前は、自分を我が主上に比べてどう思っているのか。お前は遠からず首を上邽の通衢(四方八方に連なる道)にさらされることになろうに、何が大業か。速やかに私を殺し、我が首を上邽城の東門に掛けておくがよい。大軍が城に入るのを見てやろうぞ」と。陳安は怒り、そこで呼延寔を殺してしまった。陳安は魯憑を参軍に任じ、さらに弟の陳集および将軍の張明らを派遣して二万騎を率いて劉曜を追撃させたが、劉曜の衛将軍(衛軍将軍?)の呼延瑜が迎え撃って陳集・張明を斬り、その兵衆をすべて捕虜にした。陳安は恐れ、急いで上邽に帰還した。やがて劉曜が南安から長安に帰還した。その後、陳安がその将の劉烈・趙罕(ちょうかん)を派遣して汧城を襲撃させ、そこを攻略すると、西方の州の氐族・羌族たちはことごとく陳安に従った。陳安の軍勢は強盛になり、兵衆は十数万に上り、「使持節、大都督、仮黄鉞、大将軍、雍・涼・秦・梁四州牧、涼王」を自称し、趙募を相国に任じ、大将軍府の左長史を兼任させた。魯憑は陳安に向かって大いに慟哭して言った。「私は陳安が死ぬのを見るに堪えない」と。陳安は怒り、魯憑を斬るよう命じた。魯憑は言った。「死するは我が本望。私の頭を秦州の通衢に掛けておくがよい。趙が陳安を斬るのを見てやろうぞ」と。陳安はそのまま魯憑を殺した。劉曜は、魯憑が死んだのを聞き、悲しみ慟哭して言った。「賢人は、天下の期待の的である。賢人を殺害するのは、天下の人々の情を塞ぐことである。そもそも太平の世の君主は、奴婢の心にすら背くまいとするものであるのに、ましてや四海の人々に対してはなおさらである。陳安は今、賢人を招き、哲人を採用すべきときであるにもかかわらず、しかし、君子を殺害し、世の期待を自ら絶つようなことをしているので、私には、ヤツが何も成すことができないで終わるということが目に見えて分かる」と。
休屠王の石武が桑城ごと劉曜に降伏したので、劉曜は大いに喜び、石武を「使持節、都督秦州・隴上雑夷諸軍事、平西大将軍、秦州刺史」に任じ、酒泉王に封じた。
劉曜の皇后の羊氏が死に、献文皇后という諡号が与えられた。羊氏は、内は格別な寵愛があり、外は朝政に参与し、劉曜との間に劉熙(りゅうき)・劉襲・劉闡(りゅうせん)という三人の子を生んだ。
劉曜は、初めて次のような禁令を出した。官位無き者が馬に乗ることを許さず、俸禄八百石以上の官吏の婦女でなければ錦繍の衣服を着ることを許さず、季秋(九月)の農事が終わるまで酒を飲むことを許さず、宗廟や社稷の祭祀でなければ牛を殺すことを許さず、それらに違犯した者にはみな死刑を下す、と。
劉曜は太学に臨み、学生たちを招いて試験をし、その中でも一等の成績を収めた者たちを郎中に任じた。
武功県の男子である蘇撫、陝県の男子である伍長平が、いずれも女子に変化した。また、陝の地で石が言葉を発し、まるで「東に行くな」と言っているかのようであった。
劉曜は、その父と妻(羊氏)の葬儀を行おうとし、自ら粟邑に赴いて陵墓の測量を行った。そして土を盛って墳墓を作り、その下方は全周二里(約871m)とし、(日が暮れた後も)役夫たちは脂燭を灯して作業を続け、怨嗟の声は道路中にあふれた。そこで游子遠が諫めて言った。「私の聞くところによりますと、聖主や明王、忠臣や孝子たちの葬儀においては、内棺は身が収まるくらいで充分であるとし、外棺は内棺が収まるくらいで充分であるとし、墓穴は外棺が収まるくらいで充分であるとし、土を盛らず木も植えず、(盗掘等を受けずに)無窮に存続するようにと計を施すと言います。つつしんで思いますに、陛下は、そのご慈悲はあまねく深く、その優れた鑑識眼は深く遠くまでを見通し、常に清廉・倹約さにより下々の者を慈しみいたわるのを第一とし、社稷の備蓄こそが大本であるとして重要視されておられます。今、二陵の建造のための費用はすでに何億銭にも上り、(労働力に関しても)六万人の役夫が百日間作業を行ったのを計算すると、六百万功の労力を費やしていることになります。二陵はいずれも、下は三泉をせきとめ、上は百尺(約24m)の高さに及び、石を積んで山を作り、土を盛り増して丘を作り、何千何百もの古い冢墓を発掘し(て取り壊し)、役夫は嘆きの声を上げ、その怨嗟の気は天地に充満するほどであり、(労役に倒れて力尽きた)死体が原野にさらされ、慟哭の声が道路中に満ちあふれています。私がひそかに思いますに、これでは(豪華であるあまり真っ先に盗掘の対象となって)先皇(劉曜の父)・先后(羊皇后)にとっても益が無いばかりか、無駄に国の備蓄や労働力を失うことになってしまいます。陛下がもし尭・舜の軌跡を尊んで(質素な葬礼を)探求されるのであれば、すなわち労働力の消費は百万功にも満たず、費用もまた数千銭程度に過ぎず、下は恨みながら死んで骨になる者も出ず、上は怨嗟の声を上げる人も出ず、先帝・先后は泰山のごとき安泰さを得ることができ、陛下は舜・禹・周公のような美誉を受けることができましょう。陛下よどうか、このことをよくお考えになってください」と。劉曜はそれを聞き容れず、そこでその将の劉岳らを派遣して一万騎を率いさせ、父および弟の劉暉(りゅうき)の遺体を太原から迎えさせた。その後、疫病が大いに流行し、死者は三~四割にまで上った。また、上洛県の男子である張盧(ちょうろ)が死んでから二十七日が経って、その冢が盗掘に遭ったが、その際に張盧が蘇ることができたという異変が起こった。劉曜は、父の葬礼を行い、その墓は永垣陵と名づけられ、妻の羊氏の葬礼を行い、その墓は顕平陵と名づけられた。そして領域内の殊死以下の人々に対して大赦を行い、人々に爵を二級ずつ賜与し、父を失ったり、年老いたり、貧乏であったり、病気であったりして自分の力で生活できない者たちに対し、それぞれの等級に応じて帛を賜った。

原文

太寧元年、陳安攻曜征西劉貢於南安、休屠王石武自桑城將攻上邽、以解南安之圍。安聞之懼、馳歸上邽、遇於瓜田。武以眾寡不敵、奔保張春故壘。安引軍追武曰「叛逆胡奴。要當生縛此奴、然後斬劉貢。」武閉壘距之。貢敗安後軍、俘斬萬餘。安馳還赴救、貢逆擊敗之。俄而武騎大至、安眾大潰、收騎八千、奔于隴城。貢乃留武督後眾、躬先士卒、戰輒敗之、遂圍安于隴城。
大雨霖、震曜父墓門屋、大風飄發其父寢堂于垣外五十餘步。曜避正殿、素服哭于東堂五日、使其鎮軍劉襲・太常梁胥等繕復之。松柏眾木植已成林、至是悉枯。
署其大司馬劉雅爲太宰、加劍履上殿、入朝不趨、讚拜不名、給千兵百騎、甲仗百人入殿、增班劍六十人、前後鼓吹各二部。
曜親征陳安、圍安于隴城。安頻出挑戰、累擊敗之、斬獲八千餘級。右軍劉榦攻平襄、克之、隴上諸縣悉降。曲赦隴右殊死已下、惟陳安・趙募不在其例。安留楊伯支・姜沖兒等守隴城、帥騎數百突圍而出、欲引上邽・平襄之眾還解隴城之圍。安既出、知上邽被圍、平襄已敗、乃南走陝中。曜使其將軍平先・丘中伯率勁騎追安、頻戰敗之、俘斬四百餘級。安與壯士十餘騎於陝中格戰。安左手奮七尺大刀、右手執丈八蛇矛、近交則刀矛俱發、輒害五六、遠則雙帶鞬服、左右馳射而走。平先亦壯健絕人、勇捷如飛、與安搏戰、三交、奪其蛇矛而退。會日暮、雨甚、安棄馬、與左右五六人步踰山嶺、匿于溪澗。翌日尋之、遂不知所在。會連雨始霽、輔威呼延清尋其徑迹、斬安于澗曲。曜大悅。
安善於撫接、吉凶夷險與眾同之、及其死、隴上歌之曰「隴上壯士有陳安、驅榦雖小腹中寬、愛養將士同心肝。䯀驄父馬鐵瑕鞍、七尺大刀奮如湍、丈八蛇矛左右盤、十盪十決無當前。戰始三交失蛇矛、棄我䯀驄竄巖幽、爲我外援而懸頭。西流之水東流河、一去不還奈子何。」曜聞而嘉傷、命樂府歌之。
楊伯支斬姜沖兒、以隴城降。宋亭斬趙募、以上邽降。徙秦州大姓楊・姜諸族二千餘戶于長安。氐羌悉下、並送質任。
時劉岳與涼州刺史張茂相持于河上、曜自隴長驅至西河、戎卒二十八萬五千、臨河列營、百餘里中、鍾鼓之聲沸河動地、自古軍旅之盛未有斯比。茂臨河諸戍皆望風奔退。揚聲欲百道俱渡、直至姑臧、涼州大怖、人無固志。諸將咸欲速濟、曜曰「吾軍旅雖盛、不踰魏武之東也。畏威而來者、三有二焉。中軍宿衞已皆疲老、不可用也。張氏以吾新平陳安、師徒殷盛、以形聲言之、非彼五郡之眾所能抗也。必怖而歸命、受制稱藩、吾復何求。卿等試之。不出中旬、張茂之表不至者、吾爲負卿矣。」茂懼、果遣使稱藩、獻馬一千五百匹、牛三千頭、羊十萬口、黃金三百八十斤、銀七百斤、女妓二十人、及諸珍寶珠玉・方域美貨不可勝紀。曜大悅、使其大鴻臚田崧署茂使持節・假黃鉞・侍中・都督涼南北秦梁益巴漢隴右西域雜夷匈奴諸軍事・太師・領大司馬・涼州牧・領西域大都護・護氐羌校尉・涼王。
曜至自河西、遣胡元增其父及妻墓高九十尺。
楊難敵以陳安既平、内懷危懼、奔于漢中。鎮西劉厚追擊之、獲其輜重千餘兩、士女六千餘人、還之仇池。曜以大鴻臚田崧爲鎮南大將軍・益州刺史、鎮仇池、以劉岳爲侍中・都督中外諸軍事、進封中山王。
初、靳準之亂、曜世子胤沒于黑匿郁鞠部、至是、胤自言、郁鞠大驚、資給衣馬、遣子送之。曜對胤悲慟、嘉郁鞠忠款、署使持節・散騎常侍・忠義大將軍・左賢王。胤字義孫、美姿貌、善機對。年十歲、身長七尺五寸、眉鬢如畫。聰奇之、謂曜曰「此兒神氣豈同義真乎。固當應爲卿之冢嫡。卿可思文王廢伯邑考立武王之意也。」曜曰「臣之藩國、僅能守祭祀便足矣。不可以亂長幼之倫也。」聰曰「卿勳格天地、國兼百城、當世祚太師、受專征之任、五侯九伯得專征之者、卿之子孫。柰何言同諸藩國也。義真既不能遠追太伯高讓之風、吾不過爲卿封之以一國。」義真、曜子儉之字也。於是封儉爲臨海王、立胤爲世子。胤雖少離屯難、流躓殊荒、而風骨俊茂、爽朗卓然。身長八尺三寸、髮與身齊、多力善射、驍捷如風雲、曜因以重之、其朝臣亦屬意焉。曜於是顧謂羣下曰「義孫可謂歲寒而不凋、涅而不淄者矣。義光雖先已樹立、然沖幼儒謹、恐難乎爲今世之儲貳也。懼非所以上固社稷、下愛義光。義孫年長明德、又先世子也。朕欲遠追周文、近蹤光武、使宗廟有太山之安、義光饗無疆之福、於諸卿意如何。」其太傅呼延晏等咸曰「陛下遠擬周漢、爲國家無窮之計、豈惟臣等賴之。實亦宗廟四海之慶。」左光祿卜泰・太子太保韓廣等進曰「陛下若以廢立爲是也、則不應降日月之明、垂訪羣下。若以爲疑也、固思聞臣等異同之言。竊以誠廢太子非也。何則、昔周文以未建之前、擇聖表而超樹之可也。光武緣母色而廢立、豈足爲聖朝之模範。光武誠以東海纂統、何必不如明帝。皇子胤文武才略、神度弘遠、信獨絕一時、足以擬蹤周發。然太子孝友仁慈、志尚沖雅、亦足以堂負聖基、爲承平之賢主。何況儲宮者、六合人神所繫望也、不可輕以廢易。陛下誠實爾者、臣等有死而已、未敢奉詔。」曜默然。胤前泣曰「慈父之於子也、當務存尸鳩之仁、何可替熙而立臣也。陛下謬恩乃爾者、臣請死於此、以明赤心。且陛下若愛忘其醜、以臣微堪指授、亦當能輔導義光、仰遵聖軌。」因歔欷流涕、悲感朝臣。曜亦以太子羊氏所生、羊有寵、哀之不忍廢、乃止。追諡前妻卜氏爲元悼皇后。胤之母也。卜泰、胤之舅、曜嘉之、拜上光祿大夫・儀同三司・領太子太傅。封胤爲永安王、署侍中・衞大將軍・都督二宮禁衞諸軍事・開府儀同三司・錄尚書事・領太子太傅、號曰皇子。命熙於胤盡家人之禮。
時有鳳皇將五子翔於故未央殿五日、悲鳴不食皆死。曜立后劉氏。
石勒將石他自雁門出上郡、襲安國將軍・北羌王盆句除、俘三千餘落、獲牛馬羊百餘萬而歸。曜大怒、投袂而起。是日次于渭城、遣劉岳追之。曜次于富平、爲岳聲援。岳及石他戰于河濱、敗之、斬他及其甲士一千五百級、赴河死者五千餘人、悉收所虜、振旅而歸。
楊難敵自漢中還襲仇池、克之、執田崧、立之於前。難敵左右叱崧令拜、崧瞋目叱之曰「氐狗。安有天子牧伯而向賊拜乎。」難敵曰「子岱、吾當與子終定大事。子謂劉氏可爲盡忠、吾獨不可乎。」崧厲色大言曰「若賊氐奴才、安敢欲希覬非分。吾寧爲國家鬼、豈可爲汝臣。何不速殺我。」顧排一人、取其劍、前刺難敵、不中、爲難敵所殺。
曜遣劉岳攻石生于洛陽、配以近郡甲士五千、宿衞精卒一萬、濟自盟津。鎮東呼延謨率荊司之眾自崤澠而東。岳攻石勒盟津・石梁二戍、克之、斬獲五千餘級、進圍石生于金墉。石季龍率步騎四萬入自成皋關、岳陳兵以待之。戰于洛西、岳師敗績、岳中流矢、退保石梁。季龍遂塹柵列圍、遏絕内外。岳眾飢甚、殺馬食之。季龍又敗呼延謨、斬之。曜親率軍援岳、季龍率騎三萬來距。曜前軍劉黑大敗季龍將石聰于八特坂。曜次于金谷、夜無故大驚、軍中潰散、乃退如澠池。夜中又驚、士卒奔潰、遂歸長安。季龍執劉岳及其將王騰等八十餘人、并氐羌三千餘人、送于襄國、坑士卒一萬六千。曜至自澠池、素服郊哭、七日乃入城。

訓読

太寧元年、陳安、曜の征西の劉貢を南安に攻むるや、休屠王の石武、桑城よりして將に上邽を攻め、以て南安の圍を解かんとす。安、之を聞きて懼れ、馳せて上邽に歸るや、瓜田に遇う。武、眾寡敵せざるを以て、奔りて張春故壘を保つ。安、軍を引きて武を追いて曰く「叛逆の胡奴。要ず當に此の奴を生縛して、然る後に劉貢を斬らん」と。武、壘を閉じて之を距ぐ。貢、安の後軍を敗り、俘斬すること萬餘。安、馳せて還りて救に赴くも、貢、逆え擊ちて之を敗る。俄かにして武の騎、大いに至り、安の眾は大いに潰え、騎八千を收め、隴城に奔る。貢、乃ち武を留めて後眾を督せしめ、躬ら士卒に先んじ、戰いて輒ち之を敗り、遂に安を隴城に圍む。
大いに霖雨り、曜の父の墓の門屋に震あり、大いに風飄ありて其の父の寢堂を垣の外に發くこと五十餘步。曜、正殿に避け、素服して東堂に哭すること五日、其の鎮軍の劉襲・太常の梁胥(りょうしょ)らをして之を繕復せしむ。松柏眾木、植りて已に林と成るも、是に至りて悉く枯る。
其の大司馬の劉雅を署して太宰と爲し、劍履上殿・入朝不趨・讚拜不名を加え、千兵百騎を給し、甲仗百人もて殿に入らしめ、班劍六十人を增し、前後の鼓吹は各々二部とす。
曜、親ら陳安を征し、安を隴城に圍む。安、頻りに出でて挑戰するも、累りに擊ちて之を敗り、斬獲すること八千餘級。右軍の劉榦、平襄を攻め、之に克ち、隴上の諸縣は悉く降る。隴右の殊死已下に曲赦するも、惟だ陳安・趙募のみ其の例に在らず。安、楊伯支・姜沖兒(きょうちゅうじ)等を留めて隴城を守らしめ、騎數百を帥いて圍を突きて出で、上邽・平襄の眾を引きて還りて隴城の圍を解かんと欲す。安、既に出で、上邽の圍まれ、平襄の已に敗れしを知り、乃ち南のかた陝中に走る。曜、其の將軍の平先・丘中伯をして勁騎を率いて安を追わしめ、頻りに戰いて之を敗り、俘斬すること四百餘級。安、壯士十餘騎と與に陝中に於いて格戰す。安、左手に七尺の大刀を奮い、右手に丈八の蛇矛を執り、近く交わりては則ち刀矛もて俱に發し、輒ち五六を害し、遠ざかりては則ち鞬服を雙帶し、左右に馳射して走る。平先も亦た壯健なること人に絕し、勇捷なること飛ぶが如きに、安と搏戰し、三たび交わり、其の蛇矛を奪いて退く。會々日は暮れ、雨ふること甚だしければ、安、馬を棄て、左右の五六人と與に步にて山嶺を踰え、溪澗に匿る。翌日、之を尋ぬるも、遂に所在を知らず。會々連雨始めて霽れ、輔威の呼延清、其の徑迹を尋ね、安を澗曲に斬る。曜、大いに悅ぶ。
安、撫接を善くし、吉凶夷險は眾と之を同にしたれば、其の死するに及び、隴上は之を歌いて曰く「隴上の壯士に陳安有り、驅榦は小なりと雖も腹中は寬く、將士を愛養して心肝を同にす。䯀驄の父馬、鐵瑕の鞍、七尺の大刀は奮うこと湍の如く、丈八の蛇矛は左右に盤り、十盪十決、前に當たる無し。戰い始まりて三交、蛇矛を失い、我が䯀驄を棄てて巖幽に竄れ、我が外援と爲りて頭を懸く。西流の水は東のかた河に流れ、一たび去りて還らざるに子を奈何せん」と。曜、聞きて嘉し傷み、樂府に命じて之を歌わしむ。
楊伯支、姜沖兒を斬り、隴城を以て降る。宋亭、趙募を斬り、上邽を以て降る。秦州の大姓の楊・姜諸族二千餘戶を長安に徙す。氐羌は悉く下り、並びに質任を送る。
時に劉岳は涼州刺史の張茂と河上に相い持するに、曜、隴より長驅して西河に至り、戎卒は二十八萬五千、河に臨みて營を列ね、百餘里の中、鍾鼓の聲は河を沸かし地を動かし、古よりの軍旅の盛んなること未だ斯の比有らず。百道俱に渡り、直に姑臧に至らんと欲すと揚聲するや、涼州は大いに怖れ、人に固志無し。諸將は咸な速やかに濟らんと欲するも、曜曰く「吾が軍旅は盛んなりと雖も、魏武の東するを踰えず。威を畏れて來る者は、三に二有り。中軍・宿衞は已に皆な疲老し、用うべからざるなり。張氏は以うらん、吾の新たに陳安を平らげ、師徒は殷盛なれば、形聲を以て之を言えば、彼の五郡の眾の能く抗する所に非ず、と。必ず怖れて歸命し、制を受けて藩を稱せば、吾は復た何をか求めん。卿等、之を試みよ。中旬を出でずして、張茂の表至らずんば、吾、爲に卿に負わん」と。茂、懼れ、果たして使を遣わして藩を稱し、馬一千五百匹、牛三千頭、羊十萬口、黃金三百八十斤、銀七百斤、女妓二十人、及び諸珍寶・珠玉・方域の美貨を獻ずること勝げて紀すべからず。曜、大いに悅び、其の大鴻臚の田崧(でんすう)を使わして茂を使持節・假黃鉞・侍中・都督涼南北秦梁益巴漢隴右西域雜夷匈奴諸軍事・太師・領大司馬・涼州牧・領西域大都護・護氐羌校尉・涼王に署す。
曜、至るに河西よりし、胡元を遣わして其の父及び妻の墓を增すこと高九十尺。
楊難敵、陳安の既に平らげらるるを以て、内に危懼を懷き、漢中に奔る。鎮西の劉厚、之を追擊し、其の輜重千餘兩、士女六千餘人を獲、之を仇池に還す。曜、大鴻臚の田崧を以て鎮南大將軍・益州刺史と爲し、仇池に鎮せしめ、劉岳を以て侍中・都督中外諸軍事と爲し、封を中山王に進む。
初め、靳準(きんじゅん)の亂あるや、曜の世子の胤(いん)、黑匿郁鞠(こくとくいくきく)の部に沒するも、是に至り、胤、自ら言いたれば、郁鞠は大いに驚き、衣馬を資給し、子を遣わして之を送らしむ。曜、胤に對して悲慟し、郁鞠の忠款を嘉し、使持節・散騎常侍・忠義大將軍・左賢王に署す。胤、字は義孫、姿貌美しく、機對を善くす。年十歲にして、身長は七尺五寸、眉鬢は畫の如し。聰、之を奇とし、曜に謂いて曰く「此の兒の神氣、豈に義真と同じからんや。固より當に應に卿の冢嫡と爲すべし。卿、文王の伯邑考を廢して武王を立つるの意を思うべきなり」と。曜曰く「臣の藩國、僅かに能く祭祀を守らば便ち足れり。以て長幼の倫を亂すべからざるなり」と。聰曰く「卿、勳は天地に格り、國は百城を兼ね、當に世々太師を祚し、專征の任を受け、五侯九伯は專ら之を征するを得べき者は、卿の子孫なり。柰何ぞ諸藩國と同じと言わんや。義真は既に遠く太伯の高讓の風を追う能わざれば、吾、卿の爲に之を封ずるに一國を以てせんとするに過ぎず」と。義真は、曜の子の儉の字なり。是に於いて儉を封じて臨海王と爲し、胤を立てて世子と爲す。胤、少くして屯難に離り、流れて殊荒に躓くと雖も、而れども風骨は俊茂にして、爽朗なること卓然たり。身長は八尺三寸、髮は身と齊しく、力多く射を善くし、驍捷なること風雲の如く、曜、因りて以て之を重んじ、其の朝臣も亦た意を焉に屬す。曜、是に於いて顧みて羣下に謂いて曰く「義孫は、歲寒けれども凋まず、涅むれども淄まざる者と謂うべし。義光は先に已に樹立すと雖も、然るに沖幼にして儒謹なれば、恐らくは今世の儲貳と爲すに難きなり。上は社稷を固め、下は義光を愛する所以に非ざるを懼る。義孫は年長にして明德、又た先の世子なり。朕、遠くは周文を追い、近くは光武に蹤い、宗廟をして太山の安き有らしめ、義光をして無疆の福を饗けしめんと欲するに、諸卿の意に於いて如何」と。其の太傅の呼延晏(こえんあん)等、咸な曰く「陛下は遠く周漢に擬え、國家の無窮の計を爲さんとすれば、豈に惟だに臣等のみ之を賴まんや。實に亦た宗廟四海の慶なり」と。左光祿の卜泰・太子太保の韓廣等、進みて曰く「陛下、若し廢立を以て是と爲さば、則ち應に日月の明を降し、訪を羣下に少くして垂るべからず。若し以て疑と爲さば、固より臣等の異同の言を聞くを思え。竊かに以えらく、誠に太子を廢するは非なり。何となれば則ち、昔、周文の未だ之を建つるの前を以て、聖表を擇びて之を超樹するは可なり。光武は母色に緣りて廢立したれば、豈に聖朝の模範と爲すに足らんや。光武は誠に東海を以て統を纂がせたれば、何ぞ必ずしも明帝に如かんや。皇子の胤、文武の才略あり、神度は弘遠、信に獨り一時に絕し、以て周發に擬蹤するに足れり。然るに太子は孝友仁慈にして、志は沖雅を尚びたれば、亦た以て聖基を堂負し、承平の賢主と爲るに足れり。何ぞ況んや儲宮なる者は、六合の人神の望を繫く所なれば、輕々しく廢易を以てすべからず。陛下、誠に實に爾せば、臣等、死有るのみにして、未だ敢えて詔を奉ぜす」と。曜、默然とす。胤、前みて泣きて曰く「慈父の子に於けるや、當に務めて尸鳩の仁を存うべきに、何ぞ熙を替りて臣を立つべきならんや。陛下の恩を謬ること、乃ち爾らば、臣、此に死し、以て赤心を明らかにせんことを請う。且つ陛下、若し愛して其の醜を忘るるに、臣の微かに指授に堪うるを以てせば、亦た當に能く義光を輔導し、仰ぎて聖軌に遵わしむべし」と。因りて歔欷流涕し、悲は朝臣を感かす。曜も亦た太子は羊氏の生む所にして、羊に寵有るを以て、之を哀みて廢するに忍びす、乃ち止む。前妻の卜氏を追諡して元悼皇后と爲す。胤の母なり。卜泰は、胤の舅なれば、曜、之を嘉し、上光祿大夫・儀同三司・領太子太傅を拜す。胤を封じて永安王と爲し、侍中・衞大將軍・都督二宮禁衞諸軍事・開府儀同三司・錄尚書事・領太子太傅に署し、號して皇子と曰う。熙に命じて胤に家人の禮を盡くさしむ。
時に鳳皇有りて五子を將いて故未央殿に翔ぶこと五日にして、悲鳴して食らわずして皆な死す。曜、后劉氏を立つ。
石勒の將の石他、雁門より上郡に出で、安國將軍・北羌王の盆句除を襲い、三千餘落を俘にし、牛馬羊百餘萬を獲て歸る。曜、大いに怒り、袂を投いて起つ。是の日、渭城に次し、劉岳を遣わして之を追わしむ。曜、富平に次し、岳の聲援と爲る。岳、石他に及びて河濱に戰い、之を敗り、他及び其の甲士一千五百級を斬り、河に赴きて死する者は五千餘人、悉く虜にせし所を收え、振旅して歸る。
楊難敵、漢中より還りて仇池を襲い、之に克ち、田崧を執え、之を前に立たしむ。難敵の左右、崧を叱して拜せしめんとするも、崧、目を瞋らして之を叱して曰く「氐狗。安くんぞ天子牧伯にして賊に向かいて拜するもの有らんや」と。難敵曰「子岱、吾れ當に子と與に終に大事を定むべし。子、劉氏は爲に忠を盡くすべしと謂うも、吾、獨り不可ならんや」と。崧、厲色にして大言して曰く「若賊氐の奴才、安くんぞ敢えて非分を希覬せんと欲せんや。吾、寧ろ國家の鬼と爲るとも、豈に汝が臣と爲るべけんや。何ぞ速やかに我を殺さざる」と。顧みて一人を排し、其の劍を取り、前みて難敵を刺さんとするも、中らず、難敵の殺ず所と爲る。
曜、劉岳を遣わして石生を洛陽に攻めしめ、配するに近郡の甲士五千、宿衞の精卒一萬を以てし、濟るに盟津よりせしむ。鎮東の呼延謨(こえんぼ)、荊司の眾を率いて崤澠より東す。岳、石勒の盟津・石梁の二戍を攻め、之に克ち、斬獲すること五千餘級、進みて石生を金墉に圍む。石季龍、步騎四萬を率いて入るに成皋關よりし、岳、兵を陳ねて以て之を待つ。洛西に戰うや、岳の師は敗績し、岳は流矢に中り、退きて石梁を保つ。季龍、遂に塹柵もて圍を列ね、内外を遏絕す。岳の眾は飢うること甚だしく、馬を殺して之を食らう。季龍、又た呼延謨を敗り、之を斬る。曜、親ら軍を率いて岳を援けんとするや、季龍、騎三萬を率いて來たり距ぐ。曜の前軍の劉黑、大いに季龍の將の石聰を八特坂に敗る。曜、金谷に次するや、夜に故無くして大いに驚き、軍中潰散したれば、乃ち退きて澠池に如く。夜中に又た驚き、士卒奔潰したれば、遂に長安に歸る。季龍、劉岳及び其の將の王騰等八十餘人、并びに氐羌三千餘人を執え、襄國に送り、士卒一萬六千を坑にす。曜、至るに澠池よりし、素服して郊に哭し、七日にして乃ち城に入る。

現代語訳

太寧元年(三二三)、陳安が劉曜の征西将軍の劉貢を南安の地にて攻撃すると、休屠王の石武は桑城から出向き、(陳安の本境地である天水郡の)上邽を攻めて、それによって南安の包囲を解こうとした。陳安はそれを聞いて恐れ、急いで上邽に引き返したところ、瓜田において石武軍と遭遇した。石武は衆寡敵せずと考え、逃走して(司馬保の元配下であったが司馬保を殺して後に陳安に敗れた)張春がかつて用いていた砦にこもって守った。陳安は軍を率いて石武を追撃して言った。「叛逆者の胡奴め。必ずやこやつをまず生け捕りにして、その後で劉貢を斬ってやろうぞ」と。石武は、塁門を閉じて陳安軍を防いだ。劉貢は、陳安の後軍を破り、一万人余りを捕虜にしたり斬ったりした。陳安は急ぎ戻って救援に赴いたが、劉貢はそれを迎え撃って破った。まもなく石武の騎兵が大々的にやってきて、陳安の兵衆は大いに潰滅し、陳安は八千の騎兵を回収し、隴城に逃げた。そこで劉貢は、石武をそこに留めて後続部隊を監督させ、自らは兵士の先頭に立って戦い、そのたびに陳安軍を破り、そのまま陳安を隴城で包囲した。
大いに長雨が降り、劉曜の父の墓の門屋(入口に設置された建造物)に雷が落ち、また暴風が大いに吹いてその父の陵墓の寝堂(祭祀を行うための建物)の屋根を吹きはがし、垣の外五十数歩(72m以上)のところまで飛ばした。劉曜は正殿に避難し、喪服を着て東堂で五日にわたって哭礼を行い、その鎮軍将軍の劉襲・太常の梁胥(りょうしょ)らにそれを修復させた。(墓に植えられた)松や柏などの木々は、すでに生い茂って林となっていたが、そのときになってことごとく枯れてしまった。
劉曜は、その大司馬の劉雅を太宰に任じ、剣履上殿(剣を帯び履物をはいたまま上殿してよいという特権)・入朝不趨(入朝した際に小走りで移動せずともよいという特権)・讃拝不名(謁見の際の讃礼において姓名を直接呼ばれずに尊重されるという特権)の三つの特権を加え、歩兵千人・騎兵百人を支給し、百人の武装兵を従えて入殿することを許し、班剣を有した兵士六十人を増し、前後の鼓吹隊はそれぞれ二部ずつとさせた。
劉曜は、自ら陳安を征伐しに出向き、陳安を隴城で包囲した。陳安は、何度も出てきて挑戦したが、劉曜はそれを繰り返し撃破し、八千級余りを斬ったり獲得したりした。一方で、右軍将軍の劉幹が(同じ略陽郡の)平襄を攻めて勝利し、隴城周辺の諸県はことごとく劉曜に降った。そこで劉曜は隴西地域の殊死以下の人々に対して曲赦(局所的な恩赦)を行ったが、ただ陳安・趙募だけはその例に含まれないものとした。陳安は、楊伯支・姜沖児(きょうちゅうじ)らを隴城に留めて守らせ、自らは数百騎を率いて包囲を突破し、上邽・平襄の兵衆を率いて戻ってきて隴城の包囲を解こうとした。陳安が包囲を突破して出たところ、上邽は包囲され、平襄はすでに敗れたということを知り、そこで南進して陝中に逃げた。劉曜は、その将軍の平先・丘中伯に精鋭の騎兵を率いさせて陳安を追撃させ、平先らは何度も戦って陳安を破り、四百級余りを獲得したり斬ったりした。陳安は、十数騎の壮士と一緒に陝中で白兵戦を繰り広げた。陳安は、左手に七尺(約170㎝)の大刀を奮い、右手に丈八(約435㎝)の蛇矛を握り、近接戦になれば刀と矛を両方駆使し、そのたびに五~六割の相手を殺し、遠ざかっては左右両側に二つのやなぐいを装着し、左右に騎射しながら逃げ去った。平先もまた常人を超越した壮健さを有し、まるで飛ぶかのように勇を奮って敏捷であったが、陳安と真っ向勝負を行い、三たび交戦し、その蛇矛を奪って退いた。ちょうど日が暮れ、雨が激しく降っていたので、陳安は馬を捨て、左右の五、六人と一緒に徒歩で山嶺を越え、渓流に身を潜めた。翌日、劉曜軍は陳安の居場所を探したが、結局、所在が分からなかった。やがて、ちょうど長雨がやっと晴れたので、輔威将軍の呼延清は、その足跡を辿り、渓流の湾曲地帯で陳安を斬った。劉曜は、それを聞いて大いに喜んだ。
陳安はよく人々を慰撫し、吉運の中でも凶運の中でも平安の中でも困難な中でも、人々と心を一つにしてやってきたので、陳安が死ぬと、隴城一帯の地域の人々は次のように陳安のことを歌った。「隴の地域の壮士に陳安という者がおり、体躯は小さかったが腹の中は広く寛容で、将兵を愛し養って思いをともにした。葦毛の雄の駿馬に、鉄でできた傷だらけの鞍、七尺の大刀は奮うこと早瀬の如く、丈八の蛇矛は(蛇のごとく)左右にうねり、十戦十勝、その目の前に立つ者は無かった。戦い始めて三たび交戦して蛇矛を失い、我らが葦毛の駿馬を棄てて山奥に身をくらませ、我らの外援となるも遂には首を吊るされた。西から流れる川は東に流れて黄河に注ぎ、一たび去れば戻ることはないが、さてあなたをどうすればよいのか」と。劉曜は、それを聞いて賛美するとともに悲しみ悼み、楽府に命じてその歌を記録させて歌わせた。
楊伯支が姜沖児を斬り、隴城ごと劉曜に降った。また、宋亭なる者が趙募を斬り、上邽ごと降った。そこで劉曜は、秦州の大姓(在地の名家)である楊氏・姜氏らの諸族二千戸余りを長安に移住させた。氐族・羌族たちはことごとく劉曜に降り、みな人質を送った。
時に劉岳が涼州刺史の張茂(前涼の三代目君主)と黄河のほとりで対峙していたが、劉曜は隴から長駆して西河に至り、兵士は二十八万五千人に上り、黄河に臨んで軍営を連ね、その長さ百里あまりの間では、鍾や鼓の音が黄河を沸かし、地を動かし、古より、これに匹敵するほど軍隊が盛んであったことは未だかつてなかった。張茂の黄河沿いの諸戍(防衛施設)の者たちは、みなその噂を聞いて逃げ帰ってしまった。そして、劉曜軍が、百方面から一気に黄河を渡り、直に(前涼の首都である)姑臧に向かおうということを言い触らすと、涼州(前涼)の人々は大いに恐怖し、固い意志を保てる者はいなかった(=人々の心は非常にぐらついた)。劉曜の諸将はみな速やかに黄河を渡ることを望んだが、劉曜は言った。「我が軍隊は盛んであるとはいっても、魏の武帝(曹操)の東征には及ばない。それに我が威厳を恐れてやむなく来た者は、全体の三分の二にも及ぶだろう。そして、中軍や宿衛の兵はすでにみな疲労し、彼らを用いることはできない。一方で張氏は次のように考えているであろう。我らは陳安を平らげたばかりで、軍士たちは数も多く意気盛んであるので、その気勢から言えば、到底あちらの涼州五郡の兵衆だけで対抗できる相手ではない、と。必ずや恐れて帰順し、我が制書を受けて藩属を申し出てくるであろうから、私はそれ以上何を望もうか。そなたらよ、試しに見ておれ。もし中旬が過ぎるまでに張茂の上表が来なければ、私はそなたらに対して申し訳なく思う」と。張茂は恐れ、果たして使者を派遣して藩属を申し出て、一千五百匹の馬、三千頭の牛、十万口の羊、三百八十斤の黄金、七百斤の銀、二十人の妓女、および諸々の珍宝・珠玉・地方の美しい財貨を献上したが、その数は記し尽くすことができないほどであった。劉曜は大いに喜び、その大鴻臚の田崧(でんすう)を使者として派遣し、張茂を「使持節、仮黄鉞、侍中、都督涼・南北秦・梁・益・巴漢・隴右・西域の雑夷・匈奴諸軍事、太師、領大司馬、涼州牧、領西域大都護、護氐羌校尉、涼王」に任じた。
劉曜が河西から長安に帰還すると、胡元を派遣してその父および妻の墓の高さを、九十尺(約22m)だけ増築させた。
楊難敵は、陳安が劉曜に平定されたことにより、内心、危惧を抱き、(仇池から)漢中に逃げた。劉曜の鎮西将軍の劉厚は、楊難敵を追撃し、その千両あまりの輜重と、六千人余りの男女を獲得し、彼らを仇池に戻した。劉曜は、大鴻臚の田崧を「鎮南大将軍・益州刺史」に任じ、仇池を鎮守させ、劉岳を「侍中・都督中外諸軍事」に任じ、封を中山王に進めた。
初め、靳準(きんじゅん)の乱が起こると、劉曜の世子(諸侯の後嗣)の劉胤(りゅういん)は、黒匿郁鞠(こくとくいくきく)の部族に捕まってそこに連行されていたが、このときになって劉胤が自らの素性を明かしたので、黒匿郁鞠は大いに驚き、劉胤に衣服と馬を支給し、子を派遣して劉胤を劉曜のもとに送らせた。劉曜は、劉胤に向かって悲しみ慟哭し、黒匿郁鞠の忠誠を褒め、「使持節・散騎常侍・忠義大将軍・左賢王」に任命した。劉胤は、字を義孫と言い、容姿は美しく、機微に応じた受け答えが得意であった。十歳で身長は七尺五寸(約182㎝)まで伸び、眉やもみあげはまるで絵に描いたかのようであった。かつて劉聡は、劉胤を高く評価し、劉曜に向かって言った。「この子の気風は、どうして義真と同等であろうか。必ずそなたの嫡子とすべきである。そなたは、(周の)文王が(長子である)伯邑考を廃して武王を太子に立てた意について考えるべきである」と。劉曜は言った。「私の藩国は、ただ祭祀を守ることさえできればそれで充分です。そのようにして長幼の大倫を乱すべきではありません」と。劉聡は言った。「そなたは、勲功は天地に至るほど高大であり、藩国は百城を有しており、まさに太公望が、子孫代々太師の位を継承することを許され、征伐を専らにする任を受け、五侯(公・侯・伯・子・男の諸侯たち)や九伯(九つの州の方伯)を専ら征伐できる権限を授けられたのと同様の待遇を受けるべきは、そなたの子孫である。どうして諸々の藩国と同じだなどというのか。義真は遠く(周代の呉国の始祖である)太伯の謙譲の気風にならって国を劉胤に譲ることができないようであるので、私はただそなたのために義真を改めて一国に封じようと思うのだ」と。義真とは、劉曜の子の劉倹の字である。そこで劉聡は劉倹を臨海王に封じ、劉胤を劉曜の世子として立てた。劉胤は、若くして厄難をこうむり、流浪して遠い異域でつまずき苦しんだとはいえ、気骨は秀逸で、抜きんでて明朗に育った。身長は八尺三寸(約201㎝)で、髪の長さは背丈と等しく、力が強く射術が得意で、まるで風雲のように勇猛かつ敏捷であり、劉曜はそれゆえ劉胤を重んじ、その朝臣たちもまた劉胤に期待の目を向けた。劉曜はそこで顧みて群臣たちに言った。「義孫は、『(松や柏は)寒さが厳しいときにもなかなかしぼまない』(『論語』子罕篇)、『黒く染めようとしても黒く染まらない』(『論語』陽貨篇)というような(苦難の中でも節操を曲げず固い意志を貫く)者であると言うべきである。義光(太子の劉熙(りゅうき))は、以前にすでに太子に立てたとはいえ、まだ幼く、しかも温厚な性格なので、おそらく今の世の太子とするには厳しいのではないかと思う。よって、(このまま義光を太子の座につけておくのは)上は社稷を固め、下は義光を愛するためにも不適切なのではないか。義孫は年長であり聡明かつ徳行があり、それにかつての世子でもあった。朕は、遠くは周の文王が伯邑考を廃して武王を太子にしたことにならい、近くは光武帝が劉彊(りゅうきょう)を廃して明帝を太子にしたことに従い、宗廟に泰山のごとき安泰さをもたらし、義光に果てしない福を授けようと思うのだが、諸卿はどう思うか」と。その太傅の呼延晏(こえんあん)らはみな言った。「陛下は遠く周や漢に準じ、国家の無窮の計を実施しようとなされていますので、どうして私どもだけがそれを頼みに思いましょうか。実に宗廟や四海の人々にとっての慶福でもあります」と。ところが、左光禄大夫の卜泰、太子太保の韓広らが進み出て言った。「陛下がもし廃立を妥当なことだとお考えになるのでしたら、太陽や月のごとき光明を曇らせ、群臣に諮問するようなことはすべきではございません。もし疑念がございますのであれば、必ず私どもの異議の言葉を聞くことをどうかお考えください。内心ひそかに思いますに、太子を廃するのは実にやってはならないことです。というのも、昔、周の文王は太子を立てる前に、模範的な人物を選び、そうして長子を差し置いて太子に立てましたが(そもそも伯邑考を太子に立ててその後に廃立したというわけではないので)、それには何の問題もございません。一方で光武帝は、その母(郭皇后)への寵愛が薄れたことにより(皇后の廃立に伴って)皇太子を廃立したので、どうして陛下の模範とするに足りましょうか。光武帝は実に(劉彊を)東海王に封じ、その王統を継がせましたので(=王に封じられるだけの才徳があったので)、どうして必ずしも明帝に才徳が及ばないと言えましょうか。皇子の劉胤は、文武の才略があり、度量は広大で、まことに世に一人抜きんでており、まさに周の姫発(武王)になぞらえるのに充分でございます。ただ、太子(劉熙)には孝友仁慈の心があり、その志は典雅であることを貴んでおられますので、やはり陛下の築いた基礎を背負ってそれを盤石なものにし、太平の世の賢主となるのに充分でございます。ましてや太子というのは、世界の人々や神々が期待をかける存在でありますので、軽々しく廃立を行うべきではございません。陛下がもし本当にそのようなことをされるのであれば、私どもはまさに死有るのみでして、どうあってもその詔を奉ずることはできません」と。劉曜は黙りこくってしまった。そこで劉胤が、進み出て泣きながら言った。「慈父は子に対して、必ず(七羽の子に等しくエサを与えて養育するという)カッコウのような仁を心掛けるべきでありますのに、どうして熙を退けて私を立ててよいものでございましょうか。(不徳な私に)こんなにも誤った恩恵が陛下より下されるのであれば、私はここで死に、そうして赤裸々な誠心を明らかにすることを望みます。それに陛下がもし、私が人々を教導するに足る資質をわずかに備えているという点を愛して、私のその他の欠点に目をつむろうとされているのであれば、私はやはりその能力で義光を補佐して導き、聖人の規範を仰ぎ遵守させることもできましょう」と。そこでむせび泣いて涙を流し、その悲哀は朝臣たちの心を揺り動かした。劉曜もまた、太子は羊氏が生んだ子であり、劉曜が羊氏を寵愛していたこともあって、劉熙を憐れんで廃するに忍びなくなり、そこで廃立をやめた。そこで劉曜は、前妻の卜氏に元悼皇后という諡号を追贈した。彼女が劉胤の母である。卜泰は、劉胤の叔父であった(のにもかかわらず、そのようなことを申し述べた)ので、劉曜は卜泰のことを賛美し、「上光禄大夫・儀同三司・領太子太傅」に拝命した。さらに劉胤を永安王に封じ、「侍中・衛大将軍・都督二宮禁衛諸軍事・開府儀同三司・録尚書事・領太子太傅」に任じ、「皇子」と呼んだ。そして劉熙には、劉胤に対して(臣下としてではなく)家族としての礼を尽くすよう命じた。
時に鳳凰が五羽の子を連れて、昔の未央殿に飛翔し、その五日後、悲しみ鳴いて何も食べずにみな死んでしまった。劉曜は、劉氏を皇后に立てた。
石勒の将の石他が、雁門から上郡に進出し、劉曜麾下の安国将軍・北羌王の盆句除を襲撃し、三千落余りを捕虜とし、百万頭あまりの牛・馬・羊を獲得して帰った。劉曜は大いに怒り、袂を振り払って立ち上がった。この日、劉曜は渭城に宿営し、劉岳を派遣して石他を追わせた。やがて劉曜は富平に宿営し、劉岳の後ろ盾となった。劉岳は、石他に追いついて黄河の岸辺で戦って破り、石他およびその一千五百人の兵士の首級を斬り、さらに黄河を渡ろうとして溺死した者は五千人あまりに及び、劉岳は捕虜にした者たちをことごとく縛って連行し、軍を整えて帰った。
楊難敵が漢中より戻って仇池を襲撃し、勝利して田崧を捕らえ、田崧を目の前に立たせた。楊難敵の左右の者は、田崧を怒鳴りつけて拝礼を行わせようとしたが、田崧は目を怒らせて彼らに怒鳴りつけて言った。「氐の犬め。どうして天子の牧伯でありながら賊に向かって拝礼を行う者などおろうか」と。楊難敵は言った。「子岱(田崧の字)よ、私はあなたと一緒に最後には大事を定めることができよう。あなたは、劉氏は忠誠を尽くすべき者だと言うが、なぜ私では駄目なのだろうか」と。田崧は、怒りを露わにして大声で言った。「お前のような賊氐の無能が、どうして僭越にも分を超えた望みを抱こうとするのか。私は、国家の鬼となろうとも、どうしてお前の臣下になどなろうものか。なぜ速やかに私を殺さないのか」と。すると田崧は振り返って一人を押しのけ、その剣を奪い、進み出て楊難敵を刺そうとしたが命中せず、楊難敵に殺されてしまった。
劉曜は、劉岳を派遣して洛陽にいる石生を攻めさせ、近郡の五千人の兵士、一万人の宿衛の精兵を授け、盟津から黄河を渡らせた。さらに鎮東将軍の呼延謨(こえんぼ)が荊州・司州の兵衆を率いて崤山・澠池の地域から東進した。劉岳は、石勒の盟津・石梁の二つの戍を攻め、それに打ち勝ち、五千級余りを獲得したり斬ったりし、進軍して石生を金墉城にて包囲した。石季龍(石虎)が歩兵・騎兵合わせて四万人を率いて成皐関から進入すると、劉岳は兵士を陣列させてそれを待ち受けた。そして洛西で戦ったところ、劉岳の軍は敗北し、劉岳は流矢に当たり、退却して石梁に籠って守った。石季龍は、そのまま塹壕と柵を設けて包囲を形成し、石梁戍の内外の連絡を遮断した。劉岳の兵衆は甚だ飢え、馬を殺してそれを食べた。石季龍はさらに呼延謨を破って斬った。劉曜が自ら軍を率いて劉岳を救援しに出向くと、石季龍は三万騎を率いてそれを防ぎに来た。劉曜の前軍将軍の劉黒が、石季龍の将である石聡を八特坂で大いに破った。劉曜が金谷に宿営すると、その夜に理由もないのに騒ぎが起こって兵士たちが大いに恐れ驚き、軍中が崩壊してみな逃げ散ってしまったので、そこで劉曜は退却して澠池に赴いた。するとまた夜中に騒ぎが起こり、兵士たちがさらに逃げ散って軍が潰滅してしまったので、劉曜はそのまま長安に帰った。石季龍は、劉岳およびその将の王騰ら八十人あまりと、氐族・羌族たち三千人あまりを捕らえ、(後趙の首都である)襄国に送り、その他の兵士一万六千人を生き埋めにした。劉曜が澠池から戻ってきて長安に帰還すると、喪服を着て近郊で哭礼を行い、そうして七日を経てやっと城に入った。

原文

武功豕生犬、上邽馬生牛、及諸妖變不可勝記。曜命其公卿各舉博識直言之士一人、司空劉均舉參軍臺產、曜親臨東堂、遣中黃門策問之。產極言其故、曜覽而嘉之、引見東堂、訪以政事。產流涕歔欷、具陳災變之禍、政化之闕、辭旨諒直、曜改容禮之、即拜博士祭酒・諫議大夫、領太史令。其後所言皆驗、曜彌重之、歲中三遷、歷位尚書・光祿大夫・太子少師、位特進。
曜署劉胤爲大司馬、進封南陽王、以漢陽諸郡十三爲國;置單于臺于渭城、拜大單于、置左右賢王已下、皆以胡・羯・鮮卑・氐・羌豪桀爲之。
曜自還長安、憤恚發病、至是疾瘳、曲赦長安殊死已下。署其汝南王劉咸爲太尉・錄尚書事、光祿大夫劉綏爲大司徒、卜泰爲大司空。
曜妻劉氏疾甚、曜親省臨之、問其所欲言。劉泣曰「妾叔父昶無子、妾少養於叔、恩撫甚隆、無以報德、願陛下貴之。妾叔皚女芳有德色、願備後宮。」曜許之。言終而死、偽諡獻烈皇后。以劉昶爲使持節・侍中・大司徒・錄尚書事、進封河南郡公、封昶妻張氏爲慈鄉君、立劉皚女芳爲皇后、追念劉氏之言也。俄署驃騎劉述爲大司徒、劉昶爲太保。召公卿已下子弟有勇榦者爲親御郎、被甲乘鎧馬、動止自隨、以充折衝之任。尚書郝述・都水使者支當等固諫、曜大怒、鴆而殺之。
咸和三年、夜夢三人金面丹脣、東向浚巡、不言而退、曜拜而履其跡。旦召公卿已下議之、朝臣咸賀以爲吉祥、惟太史令任義進曰「三者、曆運統之極也。東爲震位、王者之始次也。金爲兌位、物衰落也。脣丹不言、事之畢也。逡巡揖讓、退舍之道也。爲之拜者、屈伏於人也。履跡而行、慎不出疆也。東井、秦分也。五車、趙分也。秦兵必暴起、亡主喪師、留敗趙地。遠至三年、近七百日、其應不遠。願陛下思而防之。」曜大懼、於是躬親二郊、飾繕神祠、望秩山川、靡不周及。大赦殊死已下、復百姓租稅之半。長安自春不雨、至於五月。
曜遣其武衞劉朗率騎三萬襲楊難敵于仇池、弗克、掠三千餘戶而歸。張駿聞曜軍爲石氏所敗、乃去曜官號、復稱晉大將軍・涼州牧、遣金城太守張閬及枹罕護軍辛晏・將軍韓璞等率眾數萬人、自大夏攻掠秦州諸郡。曜遣劉胤率步騎四萬擊之、夾洮相持七十餘日。冠軍呼延那雞率親御郎二千騎、絕其運路。胤濟師逼之、璞軍大潰、奔還涼州。胤追之、及于令居、斬級二萬。張閬・辛晏率眾數萬降于曜、皆拜將軍、封列侯。
石勒遣石季龍率眾四萬、自軹關西入伐曜、河東應之者五十餘縣、進攻蒲坂。曜將東救蒲坂、懼張駿・楊難敵承虛襲長安、遣其河間王述發氐羌之眾屯于秦州。曜盡中外精銳水陸赴之、自衞關北濟。季龍懼、引師而退。追之、及于高候、大戰、敗之、斬其將軍石瞻、枕尸二百餘里、收其資仗億計。季龍奔于朝歌。曜遂濟自大陽、攻石生于金墉、決千金堨以灌之。曜不撫士眾、專與嬖臣飲博、左右或諫、曜怒、以爲妖言、斬之。大風拔樹、昏霧四塞。聞季龍進據石門、續知勒自率大眾已濟、始議增滎陽戍、杜黃馬關。俄而洛水候者與勒前鋒交戰、擒羯、送之。曜問曰「大胡自來邪。其眾大小復如何。」羯曰「大胡自來。軍盛不可當也。」曜色變、使攝金墉之圍、陳于洛西、南北十餘里。曜少而淫酒、末年尤甚。勒至、曜將戰、飲酒數斗、常乘赤馬無故跼頓、乃乘小馬。比出、復飲酒斗餘。至於西陽門、撝陣就平、勒將石堪因而乘之、師遂大潰。曜昏醉奔退、馬陷石渠、墜于冰上、被瘡十餘、通中者三、爲堪所執、送于勒所。曜曰「石王、憶重門之盟不。」勒使徐光謂曜曰「今日之事、天使其然。復云何邪。」幽曜于河南丞廨、使金瘡醫李永療之、歸于襄國。
曜瘡甚、勒載以馬輿、使李永與同載。北苑市三老孫機上禮求見曜、勒許之。機進酒于曜曰「僕谷王、關右稱帝皇。當持重、保土疆、輕用兵、敗洛陽、祚運窮、天所亡。開大分、持一觴。」曜曰「何以健邪。當爲翁飲。」勒聞之、悽然改容曰「亡國之人、足令老叟數之。」舍曜于襄國永豐小城、給其妓妾、嚴兵圍守。遣劉岳・劉震等乘馬、從男女、衣㡊以見曜、曜曰「久謂卿等爲灰土。石王仁厚、全宥至今、而我殺石1.〔他〕(生)、負盟之甚。今日之禍、自其分耳。」留宴終日而去。勒諭曜與其太子熙書、令速降之、曜但敕熙「與諸大臣匡維社稷。勿以吾易意也。」勒覽而惡之、後爲勒所殺。
熙及劉胤・劉咸等議西保秦州、尚書胡勳曰「今雖喪主、國尚全完、將士情一、未有離叛、可共并力距險。走未晚也。」胤不從、怒其沮眾、斬之、遂率百官奔于上邽、劉厚・劉策皆捐鎮奔之。關中擾亂、將軍蔣英・辛恕擁眾數十萬、據長安、遣使招勒、勒遣石生率洛陽之眾以赴之。胤及劉遵率眾數萬、自上邽將攻石生于長安、隴東・武都・安定・新平・北地・扶風・始平諸郡戎夏皆起兵應胤。胤次于仲橋、石生固守長安。勒使石季龍率騎二萬距胤、戰於義渠、爲季龍所敗、死者五千餘人。胤奔上邽、季龍乘勝追戰、枕尸千里、上邽潰。季龍執其偽太子熙・南陽王劉胤并將相諸王等及其諸卿校公侯已下三千餘人、皆殺之。徙其臺省文武・關東流人・秦雍大族九千餘人于襄國、又坑其王公等及五郡屠各五千餘人于洛陽。曜在位十年而敗。始、元海以懷帝永嘉四年僭位、至曜三世、凡二十有七載、以成帝咸和四年滅。

1.『十七史商榷』および『晋書斠注』に従い、「石生」を「石他」に改める。

訓読

武功の豕、犬を生み、上邽の馬、牛を生み、及び諸々の妖變、勝げて記すべからず〔一〕。曜、其の公卿に命じて各々博識直言の士一人を舉げしむるや、司空の劉均、參軍の臺產を舉げたれば、曜、親ら東堂に臨み、中黃門を遣わして之に策問せしむ。產、言を其の故に極め、曜、覽て之を嘉し、東堂に引見し、訪うに政事を以てす。產、流涕歔欷し、具さに災變の禍、政化の闕を陳べ、辭旨は諒直なれば、曜、容を改めて之を禮し、即ち「博士祭酒・諫議大夫」に拜し、太史令を領せしむ。其の後、言う所は皆な驗あれば、曜、彌々之を重んじ、歲中に三遷し、尚書・光祿大夫・太子少師を歷位し、位特進たり。
曜、劉胤を署して大司馬と爲し、封を南陽王に進め、漢陽の諸郡十三を以て國と爲し、單于臺を渭城に置き、大單于に拜し、左右賢王已下を置き、皆な胡・羯・鮮卑・氐・羌の豪桀を以て之と爲す。
曜、長安に還りてより、憤恚して病を發するも、是に至りて疾瘳え、長安の殊死已下を曲赦す。其の汝南王の劉咸を署して太尉・錄尚書事と爲し、光祿大夫の劉綏もて大司徒と爲し、卜泰もて大司空と爲す。
曜の妻の劉氏、疾甚だしく、曜、親ら省て之に臨み、其の言わんと欲する所を問う。劉、泣きて曰く「妾の叔父の昶(ちょう)は子無く、妾、少くして叔に養われ、恩撫は甚だ隆けれども、以て德に報ゆる無ければ、願わくば陛下、之を貴ばれんことを。妾の叔の皚(がい)の女の芳は德色有れば、願わくば後宮に備えられんことを」と。曜、之を許す。言終わりて死し、獻烈皇后と偽諡す。劉昶を以て使持節・侍中・大司徒・錄尚書事と爲し、封を河南郡公に進め、昶の妻の張氏を封じて慈鄉君と爲し、劉皚の女の芳を立てて皇后と爲すは、劉氏の言を追念すればなり。俄かに驃騎の劉述を署して大司徒と爲し、劉昶もて太保と爲す。公卿已下の子弟の勇榦有る者を召して親御郎と爲し、甲を被て鎧馬に乘らしめ、動止に自ら隨わしめ、以て折衝の任に充つ。尚書の郝述(かくじゅつ)・都水使者の支當等、固く諫むるや、曜、大いに怒り、鴆して之を殺す。
咸和三年、夜に夢みるに、三人ありて金面丹脣、東向して浚巡し、言わずして退き、曜、拜して其の跡を履む。旦、公卿已下を召して之を議するや、朝臣は咸な賀して以て吉祥と爲すも、惟だ太史令の任義のみ進みて曰く「三は、曆運にして統の極なり。東は震位たり、王者の始次なり。金は兌位たり、物、衰落するなり。脣丹くして言わざるは、事の畢わるなり。逡巡して揖讓するは、退舍の道なり。之が爲に拜するは、人に屈伏するなり。跡を履みて行くは、慎みて疆を出でざるなり。東井は、秦の分なり。五車は、趙の分なり。秦兵必ず暴かに起ち、亡主は師を喪い、趙地に留まり敗れん。遠くは三年に至り、近くは七百日にして、其の應は遠からず。願わくば陛下、思いて之を防がれんことを」と。曜、大いに懼れ、是に於いて躬ら二郊を親らし、神祠を飾繕し、山川を望秩し、周く及ばざるは靡し。殊死已下を大赦し、百姓の租稅の半を復す。長安、春より雨ふらず、五月に至る。
曜、其の武衞の劉朗を遣わして騎三萬を率いて楊難敵を仇池に襲わしむるも、克たず、三千餘戶を掠して歸る。張駿、曜の軍の石氏の敗る所と爲るを聞き、乃ち曜の官號を去り、復た晉の大將軍・涼州牧を稱し、金城太守の張閬(ちょうろう)及び枹罕護軍の辛晏(しんあん)・將軍の韓璞(かんはく)等を遣わして眾數萬人を率いしめ、大夏より秦州諸郡を攻掠せしむ。曜、劉胤を遣わして步騎四萬を率いて之を擊たしめ、洮を夾みて相い持すること七十餘日。冠軍の呼延那雞、親御郎二千騎を率い、其の運路を絕つ。胤、師を濟して之に逼り、璞軍大いに潰え、奔りて涼州に還る。胤、之を追い、令居に及び、級二萬を斬る。張閬・辛晏、眾數萬を率いて曜に降り、皆な將軍に拜し、列侯に封ず。
石勒、石季龍を遣わして眾四萬を率い、軹關より西のかた入りて曜を伐たしむるや、河東の之に應ずる者は五十餘縣、蒲坂に進攻す。曜、將に東のかた蒲坂を救わんとするも、張駿・楊難敵の虛を承けて長安を襲わんことを懼れ、其の河間王述を遣わして氐羌の眾を發して秦州に屯せしむ。曜、中外の精銳を盡くして水陸もて之に赴き、衞關より北のかた濟る。季龍、懼れ、師を引きて退く。之を追い、高候に及び、大いに戰い、之を敗り、其の將軍の石瞻(せきせん)を斬り、尸に枕(のぞ)むこと二百餘里、其の資仗を收むること億計なり。季龍、朝歌に奔る。曜、遂に濟るに大陽よりし、石生を金墉に攻め、千金堨を決して以て之に灌ぐ。曜、士眾を撫でず、專ら嬖臣と與に飲博し、左右或いは諫むるも、曜、怒り、以て妖言と爲し、之を斬る。大風ありて樹を拔き、昏霧ありて四塞す。季龍の進みて石門に據るを聞き、續きて勒の自ら大眾を率いて已に濟るを知り、始めて議して滎陽戍を增し、黃馬關を杜ず。俄かにして洛水の候者、勒の前鋒と交戰し、羯を擒にし、之を送る。曜、問いて曰く「大胡、自ら來たれるか。其の眾の大小は復た如何」と。羯曰く「大胡、自ら來たれり。軍は盛んにして當たるべからざるなり」と。曜、色變じ、金墉の圍を攝めしめ、洛西に陳すること、南北十餘里。曜、少くして酒に淫し、末年、尤も甚だし。勒の至るや、曜、將に戰わんとするに、酒を飲むこと數斗、常に赤馬に乘るも故無くして跼頓したれば、乃ち小馬に乘る。出ずるに比び、復た酒を飲むこと斗餘。西陽門に至り、陣を撝きて平に就き、勒の將の石堪、因りて之に乘じ、師は遂に大いに潰ゆ。曜、昏醉して奔退するも、馬は石渠に陷り、冰上に墜ち、瘡を被くること十餘、中に通ずること三たび、堪の執うる所と爲り、勒の所に送らる。曜曰く「石王、重門の盟を憶ゆるや不や」と。勒、徐光を使わして曜に謂いて曰く「今日の事、天、其れ然らしむ。復た何をか云わんや」と。曜を河南丞廨に幽し、金瘡醫の李永をして之を療やさしめ、襄國に歸る。
曜の瘡は甚だしければ、勒、載するに馬輿を以てし、李永をして與に同に載らしむ。北苑の市の三老の孫機、上禮して曜に見えんことを求むるや、勒、之を許す。機、酒を曜に進めて曰く「僕谷王〔二〕、關右に帝皇を稱し、當に重きを持し、土疆を保つべきに、輕々しく兵を用い、洛陽に敗れ、祚運窮まり、天の亡ぼす所たり。大分を開かんとし、一觴を持す」と。曜曰く「何を以てか健ならんや。當に翁の爲に飲むべし」と。勒、之を聞き、悽然として容を改めて曰く「亡國の人、老叟をして之を數めしむるに足れり」と。曜を襄國の永豐小城に舍らしめ、其れに妓妾を給し、兵を嚴えて圍守せしむ。劉岳・劉震等をして馬に乘り、男女を從え、㡊を衣て以て曜に見えしむるや、曜曰く「久しく卿等は灰土と爲ると謂えり。石王は仁厚にして、全宥して今に至るに、而るに我は石他を殺し、盟に負くこと之れ甚だし。今日の禍、自より其の分なるのみ」と。留まりて宴すること終日にして去る。勒、曜に其の太子の熙に書を與えんことを諭し、速やかに之を降さしめんとするも、曜は但だ熙に敕すらく「諸大臣と與に社稷を匡維せよ。吾を以て意を易うる勿かれ」と。勒、覽て之を惡み、後に勒の殺す所と爲る。
熙及び劉胤・劉咸等、西のかた秦州を保たんことを議するに、尚書の胡勳曰く「今、主を喪うと雖も、國は尚お全完たり、將士の情は一にして、未だ離叛するもの有らざれば、共に力を并せて險を距ぐべし。走るは未だ晚からざるなり」と。胤、從わず、其の眾を沮むを怒り、之を斬り、遂に百官を率いて上邽に奔り、劉厚・劉策らは皆な鎮を捐てて之に奔る。關中は擾亂し、將軍の蔣英・辛恕、眾數十萬を擁し、長安に據り、使を遣わして勒を招きたれば、勒、石生を遣わして洛陽の眾を率いて以て之に赴かしむ。胤及び劉遵、眾數萬を率い、上邽より將に石生を長安に攻めんとするや、隴東・武都・安定・新平・北地・扶風・始平諸郡の戎夏は皆な起兵して胤に應ず。胤、仲橋に次し、石生は固く長安を守る。勒、石季龍をして騎二萬を率いて胤を距がしめ、義渠に戰い、季龍の敗る所と爲り、死者は五千餘人。胤は上邽に奔り、季龍は勝ちに乘じて追いて戰い、尸に枕むこと千里、上邽は潰ゆ。季龍、其の偽太子の熙・南陽王の劉胤并びに將相諸王等及び其の諸卿校公侯已下三千餘人を執え、皆な之を殺す。其の臺省の文武・關東の流人・秦雍の大族九千餘人を襄國に徙し、又た其の王公等及び五郡の屠各五千餘人を洛陽に坑にす。曜、在位十年にして敗る。始め、元海は懷帝の永嘉四年を以て僭位し、曜に至るまで三世、凡そ二十有七載、成帝の咸和四年を以て滅ぶ〔三〕。

〔一〕当時の伝統的な解釈として、豚が犬を生むのは、国が乱れ、君主の首がすげ変わる予兆だとされていた。また、馬が牛などの六畜を生むのは、君主に大事がある予兆だとされていた。
〔二〕『晋書』巻九十五・芸術伝・仏図澄伝によれば、「僕谷」というのは、羯語で劉曜の「胡位」を表わす言葉だという。
〔三〕『晋書斠注』でも指摘されているように、永嘉四年に即位したのは劉淵ではなく劉聡である。また、劉淵が漢王を称した永興元年(三〇四)から数えても、滅亡まで合計で二十六年にしかならず、合わせて二十七年という数字にも問題があることも、『晋書斠注』の指摘する通りである。

現代語訳

武功県の豚が犬を生み、上邽県の馬が牛を生み、それ以外にも記しきれないほどの諸々の怪異が起こった。そこで劉曜がその公卿たちに命じて博識な直言の士を各々一人ずつ推挙させたところ、司空の劉均が参軍の台産を推挙したので、劉曜は自ら東堂に臨み、中黄門を派遣して台産を試問させた。台産はその問いに対して言葉を尽くして答え、劉曜はその答案を見て賛美し、東堂に招き入れて面会し、政事について問うた。台産は、涙を流してむせび泣き、災異の禍や、劉曜の政治・教化の欠点についてことごとく述べ、その言葉の内容が誠実で正直なものであったので、劉曜は態度を改めて礼を尽くして手厚く待遇し、即座に「博士祭酒・諫議大夫」に拝命し、太史令を兼任させた。その後、台産が述べた予言がすべて的中したので、劉曜はますます台産を重んじ、台産は一年の間に三度も昇進し、尚書、光禄大夫、太子少師を歴任し、やがて特進の位に就いた。
劉曜は、劉胤を大司馬に任じ、封を南陽王に進め、漢水の南の十三の諸郡を授けてそれを南陽国とし、さらに単于台を渭城に置き、劉胤を大単于に拝命し、左賢王・右賢王以下を置き、いずれも胡・羯・鮮卑・氐・羌の豪桀にそれらの位を授けた。
劉曜は、長安に帰って来てから、憤りのあまり発病していたが、このときになってやっと病が治癒し、長安の殊死以下の人々に対して曲赦(局所的な恩赦)を下した。そして、その汝南王の劉咸を「太尉・録尚書事」に任じ、光禄大夫の劉綏(りゅうすい)を大司徒に任じ、同じく光禄大夫であった卜泰を大司空に任じた。
劉曜の妻(皇后)の劉氏は、病がひどく、そこで劉曜は自ら見舞いに行ってその目の前に臨み、その言いたいことについて問うた。劉氏は泣きながら言った。「私の叔父の劉昶(りゅうちょう)には子がおらず、私は若い頃からその叔父に養われ、慈恩は非常に深かったにもかかわらず、私はその徳に報いることができませんでしたので、陛下よどうか、彼をお貴びなさってください。また、(もう一人の)叔父である劉皚(りゅうがい)の娘の劉芳は、徳も容姿も優れていますので、どうか後宮に備えられませ」と。劉曜は、それを許可した。劉氏は言い終わると息絶え、劉曜は彼女に献烈皇后という諡号を授けた。そして劉昶を「使持節・侍中・大司徒・録尚書事」に任じ、封を河南郡公に進め、劉昶の妻の張氏を慈郷君に封じ、劉皚の娘の劉芳を皇后に立てたが、(それらの措置を行ったのは)劉氏の言を思い返したからである。その後、すぐに驃騎将軍の劉述を大司徒に任じ、劉昶は太保に任じた。また、公卿以下の子弟で勇気と才幹のある者を召して親御郎に任じ、甲冑を身に付け、鎧を着た馬に乗らせ、移動するときも、同じ場所に留まっているときも、自分の側に付き従わせ、そうして敵を退ける任務に就かせた。尚書の郝述(かくじゅつ)・都水使者の支当らがそれを固く諫めると、劉曜は大いに怒り、彼らを毒殺した。
咸和三年(三二八)、劉曜は夜に次のような夢を見た。金色の顔で赤い唇をした三人の人物が東を向きながら後ずさりをし、何も言わずに退き、劉曜は拝礼を行って、彼らがいた跡を踏んだ。(目が覚めて)明朝、劉曜が公卿以下を召してこのことについて話し合ったところ、朝臣はみな慶賀してそれを吉祥であると見なしたが、ただ太史令の任義のみが進み出て言った。「三というのは歴運のことを指し、統(=所謂「三統」)が互いに循環するに当たっての極限の数であります(=王朝交代を示唆する数です)。東は震の位であり、王者の始まりの場所でございます。金は兌の位であり、物事が衰え落ち込むことになります。唇が赤くて何も言わないというのは、事が終わることを示しています。後ずさりして譲り合うというのは、(その国に憂いが生じ、将が死に、国が傾き敗れることを示す)退舎の道でございます。彼らのために拝礼を行ったというのは、人に屈伏することを表わしています。彼らのいた跡を踏んで行ったというのは、けして国境を出るなということを言っているのです。東井は、秦地の分野でございます。五車は、趙地の分野でございます。すなわち、秦地の兵が必ずにわかに起ち、そして亡国の君主が軍を失い、趙地に留まり敗れることになりましょう。遠くとも三年以内、近ければ七百日、それが顕現するのはそう遠くないことでしょう。陛下よどうか、このことをよくお考えになり、禍を防がれますように」と。劉曜は大いに恐れ、そこで自ら南郊・北郊の二郊の祭祀を行い、神を祭る祠堂を修繕し、山川の祭祀を行い、あまねくあらゆる措置を講じた。また、殊死以下の人々に大赦を下し、民衆の租税の半分を免除した。長安では春から雨が降らず、そのまま五月に至った。
劉曜は、その武衛将軍の劉朗を派遣して三万騎を率いて仇池にいる楊難敵を襲わせたが、勝てなかったので、劉朗は三千戸あまりの人々を拉致して帰った。張駿(前涼の四代目君主)は、劉曜の軍が石氏に敗れたということを聞き、そこで劉曜から授けられていた官号を捨て、また晋の大将軍・涼州牧を称し、金城太守の張閬(ちょうろう)および枹罕護軍の辛晏(しんあん)、将軍の韓璞(かんはく)らを派遣して数万人の兵衆を率いさせ、大夏から出撃して秦州の諸郡を攻略させた。劉曜は、劉胤を派遣して歩兵・騎兵合わせて四万人を率いて韓璞らの軍を攻撃させ、両軍は七十日あまりにわたって洮水を挟んで対峙することになった。やがて冠軍将軍の呼延那鶏が親御郎二千騎を率い、韓璞らの軍糧運搬路を絶った。そして劉胤は軍隊に洮水を渡らせて韓璞軍に迫り、韓璞軍は大いに潰滅し、涼州に逃げ帰った。劉胤はそれを追いかけ、令居で追いつき、二万級の首を斬った。張閬・辛晏は数万の兵衆を率いて劉曜に降り、みな将軍に任じられ、列侯に封ぜられた。
石勒が石季龍(石虎)を派遣して四万の兵衆を率いさせ、軹関から西進して関中に入って劉曜を討伐させようとしたところ、河東の地でそれに応じたのは五十県あまりにも及び、そのまま石季龍は蒲坂に進攻した。劉曜は、東進して蒲坂を救いに行こうとしたが、張駿・楊難敵らが留守を狙って長安を襲撃することを恐れ、その河間王の劉述を派遣して氐族・羌族の人々を徴発して秦州に駐屯させた。劉曜は、中外の精鋭を総動員して水陸両面から蒲坂の救援に赴き、衛関から黄河を北に渡った。石季龍は恐れ、軍を引き返して退却した。劉曜はそれを追い、高候で追いつき、大いに戦って石季龍軍を破り、その将軍の石瞻(せきせん)を斬り、二百里(約87㎞)あまりにわたって死体が附近に散乱し、そこで得た石季龍軍の物資や武具は何億にも上った。石季龍は、朝歌に逃げた。劉曜は、そのまま大陽から黄河を南に渡り、金墉城にいる石生を攻め、千金堨を決壊させて金墉城に流し込んだ。その頃、劉曜は兵衆を慰撫せず、お気に入りの臣下と一緒に酒を飲んで博戯で遊んでばかりであり、左右の者が諫めると、劉曜は怒り、妖言であるとして斬ってしまった。その後、暴風が吹いて樹を根元から抜き去り、濃霧が辺り一面に充満した。劉曜は、石季龍が進軍して石門を占拠したのを聞き、また続けて石勒が自ら大軍を率いてすでに黄河を渡っているというのを知り、そこでやっと軍議を開いて滎陽戍の守りを増やし、黄馬関を閉ざした。まもなく洛水に放った斥候が、石勒軍の先鋒と接触して交戦し、羯人を捕虜にして劉曜のもとに送った。劉曜は、その羯人に問うた。「大胡(石勒)が自らやって来たのか。そしてその兵の大小はまたどのくらいであるのか」と。羯人は言った。「大胡が自ら来ました。軍勢は盛んで、きっとかなわないでしょう」と。劉曜は、顔色を変え、金墉城の包囲を整え固めさせ、洛西において南北十里(約4.4㎞)あまりにわたって陣を敷いた。劉曜は若い頃から酒に溺れ、末年になってそれが特にひどくなった。石勒が到着すると、劉曜は戦いに出るに当たって数斗(一斗は約2L)の酒を飲み、また、いつもは赤い馬に乗っていたが、理由もなくいきなりつまずいたので、そこで小さい馬に乗って出ることにした。出撃する間際、劉曜はまた一斗あまりの酒を飲んだ。劉曜は西陽門に至り、陣に指図して平坦な場所に移動させたが、石勒の将の石堪がそれに乗じて攻撃をかけ、劉曜の軍はそこで大いに潰滅した。劉曜は泥酔したまま逃げて退いたが、馬が石渠(石を敷き詰めて作った水路)に墜ち、石勒は氷の上に叩き落とされ、敵兵により十数ヶ所の傷を受け、そのうち三ヶ所は中まで刃が突き刺さり、やがて石堪に捕らえられ、石勒のところまで送られた。劉曜は言った。「石王よ、重門の盟を覚えているか」と。石勒は徐光を派遣して劉曜に言った。「今日の事は、天がそのようにさせたのだ。これ以上、何を言うことがあろうか」と。そして石勒は、劉曜を河南郡丞の役所に幽閉し、金瘡医(刃による傷を専門とする医)の李永に劉曜を治療させ、自身は襄国に帰った。
劉曜の傷がひどかったので、石勒は劉曜を馬車に載せ、李永に同乗させた。そのような中、北苑の市の三老の孫機が、石勒に対して礼品を献上し、劉曜に面会することを求めると、石勒はそれを許可した。孫機は、劉曜に酒を進めて言った。「僕谷王(劉曜)は関西で皇帝を称し、まさに祭祀を行い、領土の保持に努めるべきでありましたのに、軽々しく兵を用い、洛陽で敗れ、国運は窮まり、天に滅ぼされることとなりました。そこであなたとの友好を開くため、酒杯を一つ持ってきました」と。劉曜は言った。「私など、どうして大した人物であろうか。ただ、翁のために飲もう」と。石勒はそれを聞き、あまりに悲しくなって顔色を改めて言った。「亡国の人というのは、その罪をとがめるのには老翁でも事足りてしまうのか」と。石勒は、劉曜を襄国県の永豊小城に居住させ、侍女を与え、その周りを囲うように兵を配置して監視させた。そして劉岳・劉震らを遣わし、馬に乗って男女を従え㡊(絹のかぶりもの)をかぶって劉曜に面会させたところ、劉曜は言った。「私は長らくそなたらがすでに死んで灰や土になっているものと思っていた。石王は仁が深く寛容で、罪をすべて赦して命を保全させてくれて、それで今に至るというのに、私は石他を殺し、甚だ盟約に背いてしまった。今日の禍は、もとより私の運命である」と。劉岳らは、そこに留まって朝から暮れまで宴を開き、そして去っていった。また、石勒は劉曜に対し、その太子の劉熙(りゅうき)に書を送るよう言い聞かせ、速やかに劉熙らを降伏させようとしたが、劉曜はただ劉熙に対して次のように命じた。「諸大臣とともに社稷を正して維持せよ。私のせいで意志を曲げるようなことがあってはならない」と。石勒はそれを見て劉曜を憎み、劉曜は後に石勒に殺されてしまった。
劉熙および劉胤・劉咸らは、西に逃れて秦州を保全しようと話し合ったが、尚書の胡勲が言った。「今、主君を失ったとは言いましても、国はなお完全なまま残っており、将兵の心は一つであり、まだ離叛する者もいませんので、ともに力を合わせて険要の地を守るべきでございます。それを試してから逃げても遅くはありますまい」と。劉胤はその意見に従わず、胡勲が衆議を阻んだことに怒り、胡勲を斬り、そのまま百官を率いて上邽に逃げ、劉厚・劉策らもみな鎮所を放棄して上邽に逃げ込んだ。関中は混乱し、将軍の蒋英・辛恕が数十万の兵衆を擁し、長安を占拠し、使者を派遣して石勒を招き入れようとしたので、石勒は石生を派遣して洛陽の兵衆を率いて長安に向かわせた。劉胤および劉遵が数万の兵衆を率い、上邽から出撃して長安にいる石生を攻めようとしたところ、隴東・武都・安定・新平・北地・扶風・始平などの諸郡の戎人(非漢族)・夏人(漢族)はみな起兵して劉胤に応じた。劉胤は仲橋に宿営し、石生は固く長安を守った。石勒は、石季龍に二万騎を率いさせて劉胤を防がせ、両軍は義渠の地で戦い、劉胤は石季龍に敗れ、死者は五千人あまりに上った。劉胤は上邽に逃げ、石季龍は勝ちに乗じて追撃して戦い、千里(約436㎞)あまりにわたって死体が附近に散乱し、そして上邽は潰滅した。石季龍は、劉曜の太子の劉熙、南陽王の劉胤、そして将軍・宰相・諸王らおよび諸卿・校尉・公・侯以下三千人あまりを捕らえ、彼らをみな殺した。また、その中央政府の文武の官吏、関東から来た流民、秦州・雍州の大族、合わせて九千人あまりを襄国に移住させ、さらに(劉胤たちとは別に各地にいた)王・公らおよび五郡の屠各の人々、合わせて五千人あまりを洛陽で生き埋めにした。劉曜は、在位十年で敗れた。初め、劉元海(劉淵)は懐帝の永嘉四年(三一〇)に位を僭称し、劉曜に至るまで三世、合わせて二十七年、(東晋の)成帝の咸和四年(三二九)に滅亡した。

原文

史臣曰
彼戎狄者、人面獸心、見利則棄君親、臨財則忘仁義者也。投之遐遠、猶懼外侵、而處以封畿、窺我中釁。昔者幽后不綱、胡塵暗於戲水、襄王失御、戎馬生于關洛。至于算強弱、妙兵權、體興衰、知利害、於我中華未可量也。況元海人傑、必致青雲之上、許以殊才、不居庸劣之下。是以策馬鴻騫、乘機豹變、五部高嘯、一旦推雄、皇枝相害、未有與之爭衡者矣。伊秩啓興王之略、骨都論克定之秋、單于無北顧之懷、獫狁有南郊之祭、大哉天地、茲爲不仁矣。若乃習以華風、溫乎雅度、兼其舊俗、則罕規模。雖復石勒稱藩、王彌效款、終爲夷狄之邦、未辯君臣之位。至於不遠儒風、虛襟正直、則昔賢所謂并仁義而盜之者焉。
僞主斯亡、玄明篡嗣、樹恩戎旅、既總威權、關河開曩日之疆、士馬倍前人之氣。然則信不由中、自乖弘遠、貌之爲美、處事難終。縱武窮兵、殘忠害謇、佞人方轡、並后載馳、閹竪類於迴天、凝科踰於炮烙。遣豺狼之將、逐鷹犬之師、懸旌俯渭、分麾陷洛、鐵馬陵山、胡笳遵渚、粉忠貞於戎手、聚搢紳於京觀。先王井賦、乃眷維桑、舊都宮室、咸成茂草、墜露沾衣、行人洒泪。若乃上古敦龐、不親其子、功成高讓、歸諸有德。爰及三代、乃用干戈、將以拯厥版蕩、恭膺天命。懿彼武王、殷之列辟、載旆乘時、興兵誓野、投焚既隕、可以絕言。而輕呂旁揮、彤弧三發、豈若響清蹕於常道之門、馳金車於山陽之館。故知黔首來蘇、居今愛古;白旗陳肆、古不如今。胡寇不仁、有同豺豕、役天子以行觴、驅乘輿以執蓋、庾珉之淚既盡、辛賓加之以血。若乃有生之貴、處死爲難、弘在三之義、忘七尺之重、主憂之恨、畢命同歸、自古篡奪、於斯爲甚。是以災氣呈形、賊臣苞亂、政荒民散、可以危亡。劉聰竟得壽終、非不幸也。
曜則天資虓勇、運偶時艱、用兵則王翦之倫、好殺亦董公之亞。而承基醜類、或有可稱。子遠納忠、高旌暫偃、和苞獻直、酆明罷觀。而師之所處、荊棘生焉、自絕強藩、禍成勁敵。天之所厭、人事以之、駭戰士而宵奔、酌戎杯而不醒、有若假手、同乎拾芥。豈石氏之興歟。何不支之甚也。

贊曰
惟皇不範、邇甸居穹。丹朱罕嗣、冒頓爭雄。胡旌颺月、朔馬騰風。埃塵淮浦、虓呼河宮。未央朝寂、謻門旦空。郭欽之慮、辛有知戎。

訓読

史臣曰く
彼の戎狄なる者は、人面にして獸心、利を見れば則ち君親を棄て、財に臨めば則ち仁義を忘るる者なり。之を遐遠に投ずるも、猶お外侵を懼れ、而るに處くに封畿を以てするも、我が中釁を窺う。昔者、幽后は綱せず、胡塵は戲水を暗い、襄王は御を失い、戎馬は關洛に生ず。強弱を算り、兵權を妙にし、興衰を體し、利害を知るに至りては、我が中華に於いて未だ量るべからざるなり。況んや元海は人傑なれば、必ず青雲の上を致し、許すに殊才を以てすれば、庸劣の下に居らず。是を以て馬に策うち鴻騫し、機に乘じて豹變し、五部は高嘯し、一旦にして雄を推し、皇枝は相い害し、未だ之と衡を爭う者有らず。伊秩は興王の略を啓し、骨都は克定の秋を論じ、單于に北顧の懷無く、獫狁に南郊の祭有るは、大なるかな天地、茲に不仁を爲す。乃ち習うに華風を以てし、雅度を溫め、其の舊俗を兼ぬるに若るは、則ち規模罕なり。復た石勒は藩を稱し、王彌は款を效し、終に夷狄の邦を爲すと雖も、未だ君臣の位を辯ぜず。儒風を遠ざけず、虛襟にして正直なるに至りては、則ち昔賢の所謂仁義を并せて之を盜む者なり。
僞主は斯に亡せ、玄明、嗣を篡い、恩を戎旅に樹て、既に威權を總べ、關河は曩日の疆を開き、士馬は前人の氣に倍す。然れば則ち信の中に由らず、自ら乖くこと弘遠にして、之を貌んじて美と爲せば、事に處るに終え難し。武を縱にし兵を窮め、忠を殘い謇を害し、佞人は轡を方べ、后と並びて載ち馳せ、閹竪は天を迴らすに類たり、凝科は炮烙を踰ゆ。豺狼の將を遣わし、鷹犬の師を逐い、旌を懸け渭を俯せ、分麾して洛を陷とし、鐵馬は山を陵ぎ、胡笳は渚に遵い、忠貞を戎手に粉き、搢紳を京觀に聚む。先王は井賦せられ〔一〕、乃ち維桑を眷み、舊都の宮室、咸な茂草と成り、墜露は衣を沾し、行人は泪を洒ぐ。乃ち上古の敦龐に若りては、其の子を親まず、功成るも高讓にして、諸を有德に歸す。爰に三代に及び、乃ち干戈を用い、將に以て厥の版蕩を拯い、恭しく天命を膺けんとす。懿しき彼の武王、殷の列辟にして、旆を載び時に乘じ、兵を興し野に誓い、焚に投じて既に隕せるは、以て言を絕つべし。而るに輕呂もて旁りに揮い、彤弧もて三たび發するは、豈に清蹕を常道の門に響かし、金車を山陽の館に馳せしに若かんや。故に黔首の來りて蘇うは、今に居りて古を愛し、白旗の陳肆するは、古の今に如かざるを知る。胡寇は仁ならず、豺豕と同じきこと有り、天子を役して以て行觴せしめ、乘輿を驅りて以て蓋を執らしめ、庾珉(ゆびん)は淚既に盡き、辛賓は之に加うるに血を以てす。乃ち生を有つを之れ貴び、死に處するを難しと爲すも、在三の義を弘いにし、七尺の重きを忘れ、主の憂うを之れ恨み、命を畢えて歸を同じくするに若りては、古よりの篡奪、斯に於いて甚だしと爲す。是を以て災氣は形を呈し、賊臣は苞亂たり、政は荒み民は散じ、以て危うく亡ぶべし。劉聰の竟に壽終を得るは、不幸に非ざるなり。
曜は則ち天資虓勇、時艱に運偶するに、兵を用うるは則ち王翦の倫にして、殺すを好むは亦た董公の亞なり。而るに基を醜類に承け、或いは稱すべきこと有り。子遠は忠を納め、高旌は暫く偃み、和苞(かほう)は直を獻じ、酆明は觀を罷む。而るに師の處る所、荊棘焉に生じ、自ら強藩を絕ち、禍は勁敵に成る。天の厭する所、人事之を以てし、戰士を駭かせて宵に奔らしめ、戎杯に酌みて醒ましめず、手を假るが若きこと有るに、芥を拾うに同じ。豈に石氏の興ればならんや。何ぞ支えざることの甚しきや〔二〕。

贊に曰く
惟れ皇は範らず、邇甸にて穹に居る。丹朱は嗣罕にして、冒頓は雄を爭う。胡旌は月に颺がり、朔馬は風に騰る。淮浦に埃塵あり、河宮に虓呼す。未央は朝に寂しく、謻門は旦に空し。郭欽(かくきん)は之れ慮り、辛有は戎を知る〔三〕。

〔一〕『周礼』地官・遂師に「乃經土地而井牧其田野。九夫爲井、四井爲邑、四邑爲丘、四丘爲甸、四甸爲縣、四縣爲都、以任地事而令貢賦、凡税斂之事。」とあり、その鄭玄の注に「此謂造都鄙也。」とある。つまり、土地を測量して井田制を行い、そこから田賦を取らせるということが『周礼』に記されているのに対して、鄭玄は、それは「都鄙」すなわち公・卿・大夫や、王の子弟の封地を設定する様子を記しているものだとする。つまり、本文の「先王井賦」とは、「先王」すなわち懐帝が、「井賦」すなわち井田を設定され、賦を朝廷に納付する役割を与えられたこと、言い換えれば平阿公・会稽郡公などとして諸侯に封ぜられたことを示す。
〔二〕『国語』周語下に出典がある。かつて周の武王が殷を倒した際に、『支』という題名の詩を作り、後世への戒めとした。その詩には、「天が支え助けている相手は、何者もそれを衰亡させることはできない。天が衰亡させようとしている相手は、やはり何者もそれを支え助けることはできない」とあり、そこには、天地の営為を理解し、日々我が身を省みて畏れ慎むようにとの訓戒が込められていた。しかし、西周最後の王である幽王は、徳が無く放蕩さを悔い改めなかったことから、天は周を支え助けるのをやめ、衰亡させるようになり、その状況はもはや取り返しのつかないものとなったのだという。
〔三〕郭欽については『晋書』巻九十七・四夷列伝・北狄匈奴伝、もしくは巻一百一・載記序文を、辛有については『春秋左氏伝』僖公二十二年を参照のこと。

現代語訳

史臣の評
かの戎狄なる者たちは、人の面をしながら獣のような心を持ち、利益と見るや君主や親を捨て、財宝を目の前にすれば仁義を忘れるような者たちである。彼らを遠くに放っておいても、なお外から侵攻する恐れがあり、かといって都の近郊に置いておいても、我らの内部争いの隙を窺うようになる。昔、周の幽王の后である褒姒(ほうじ)のせいで綱紀が失われた結果、胡人が侵攻してきて砂塵を巻き上げ、それが戯水を覆うことになり、また、周の襄王が統制力を失った結果、戎人たちの乗った馬が関中や洛陽一帯に生じることになった。強弱を見定め、兵権を巧みに操り、興衰をよく理解し、利害を知るという彼らの能力については、我が中華の人々と比較しても、計り知れないほどである。ましてや劉元海はその中でもひときわ人傑であったので、青雲の上の高位を獲得することは必至であり、その特殊な才気は周りにも認められていたので、庸劣な者の下に立つことはなかった。だからこそ、馬にむちうち鴻の如く飛翔し、機に乗じて豹変し(て高貴な位に上り)、五部は声高らかに互いに呼びかけて集まり、ある日、劉元海は忽然として覇を唱え、一方で皇帝の支族たち(=八王たち)は互いに殺し合い、劉元海と力を争える者はいなかった。(前漢時代に東匈奴の呼韓邪単于のために)左伊秩訾王は王業を興す計略について述べ(た結果、呼韓邪単于が漢に臣属し)、(後漢時代に南匈奴の単于の屯屠何に対して)骨都侯が今こそ北匈奴を平定するときであると論じ(た結果、北匈奴をモンゴル高原から駆逐することに成功し)、(南匈奴の)単于には北方に帰ろうという望みも無く(中国内地に留まり続け)、(劉元海の時代となって自立して皇帝を称し)匈奴が(中華の皇帝が行うべき)南郊・北郊の祭祀を行うに至るとは、大いなる天地よ、なんと不仁であることよ。中華の風教に習熟し、高雅な度量を究め、しかも匈奴の旧俗を兼ね備えるなどというのは、それまでに前例がほぼ無い空前のことであった。さらに石勒が藩属を申し出、王弥が忠誠を誓い、とうとう夷狄の手に成る国を築き上げたとはいえ、(自らは漢王を名乗り、臣下にも王の位を与えており)まだ君臣の位を明確に分かつことはしなかった。劉元海がそれ以降も儒風を遠ざけず、虚心で正直であったことに関しては、これぞすなわち、昔の賢者(荘子)が言う所の「仁義ごと国を盗む」というものであろう。
やがて偽主(劉淵)は死に、玄明(劉聡)が(劉和から)位を奪い、かねてからの軍事的活躍により人々の支持を取り付け、皇帝となって権勢を統べた後、轘轅関や黄河沿岸の一帯を攻略してそれまでに比べて領域を拡大し、劉聡らの兵馬の気勢は前人(劉淵)のそれの何倍も盛んになった。そのよう(に力に物を言わせて位を奪ったということ)であるから、劉聡は内に信の心があったわけではなく、自ら信に背くこと甚だしく、むしろそれを軽んじることを美としていたので、そもそも皇帝としての務めを果たすのには無理があった。身勝手に武力を振るい、軍隊を濫用し、忠実な者を殺し、誠直な者を殺し、佞人が轡を並べて闊歩し、皇后たちと一緒に亡国への道を馳せることになり、宦官たちはまるで天の向きさえ変えられるかのような強大な権勢を得て、過酷な刑罰は(殷の紂王が行った)炮烙の刑をしのぐものとなった。豺狼のような獰猛な将を派遣し、猟鷹や猟犬のような弱小の軍隊を駆逐し、旗を掲げて(進軍して)渭水の地域を見下ろし(て南陽王・司馬模を滅ぼし)、また別に軍を派遣して(西晋の都である)洛陽を陥落させ、鎧を着た馬が山を越え、胡笳(西北の異民族が用いた葦笛)の音が渚に沿って響き渡り、忠義・貞節ある者たちが戎人たちの手により打ち砕かれ、士大夫たちは(殺されて)京観(武功を示したり敵を威嚇したりするために死体を積み重ねたもの)に集められた。先王(懐帝)は(平陽に連行されて)諸侯に封じられ、振り返って故地(洛陽)を恋い慕うようになり、旧都(洛陽)の宮殿は、みな草がぼうぼうと生い茂る原っぱになってしまい、(懐帝の目から)こぼれる涙は衣を濡らし、道行く人々も涙を流した。(尭や舜などの)上古の敦厚なる帝王におかれては、我が子を可愛がらず(そのためその子に位を継承させようとはせず)、功が成っても謙遜し、その功を有徳の者に帰して位を譲った。(夏・殷・周の)三代になると、そこで(王朝交代時に)武力を用いるようになり、それによって無道なる君主によりもたらされた政治の混乱を救い、恭しく天命を受けようとするようになった。うるわしきかの(周の)武王は、殷の諸侯であったが、旗を持ち、時機に乗じ、兵を興し、野で誓言を立て、その結果、紂王が火に身を投げてまもなく死んだということについては、何も言うことはない。しかし、(武王が紂王やその愛妾たちの死んだところまでわざわざ出向き、その死体に対して)軽呂(剣の名前)をみだりに振るい、彤弓を三発ずつ放ったのは、どうして(晋の文帝・司馬昭や武帝・司馬炎が)先払いの声を常道郷公(魏の元帝・曹奐)の門まで響かせたことや、(魏の武帝・曹操や文帝・曹丕が)金根車を山陽公(後漢の献帝・劉協)の館に馳せたこと(すなわち両者が禅譲により王朝交代したこと)に及ぼうか。故に、武王がやってきたことにより民衆が休息を得たという点に関しては、今にあってもなお古を愛する所以であるが、武王が紂王やその愛妾たちの首を白旗に吊るして並べたという点に関しては、古は(禅譲による王朝交代が主流となった)今には及ばないということが分かる。胡賊(劉聡)には仁の心が無く、豺や豚のような残虐さを発揮することがあり、天子(懐帝・愍帝)を使役して酌をさせ、皇帝(愍帝)をこき使って器の蓋を取らせたりするなど召使いの役目を担わせ、(懐帝の境遇を嘆いた)庾珉(ゆびん)の涙はすっかり尽き果て、(愍帝を憐れんで慟哭した)辛賓は(殺されて)血塗れとなった。人は生命を保つことを貴び、だからこそ勇気を奮って死ぬしか無い状況に敢えて飛び込み対処するのは難しいことであるが、(庾珉や辛賓のように)父・師・君主の三者に仕える際の節義を大いなるものにし、我が身命の重さも忘れ、主君が憂い苦しんでいるのを恥じ恨むあまり、忠義を尽くして横死するという点で行きつくところはみな同じである様は、古から行われてきた諸々の簒奪においても、このときほど甚だしいものは無かった。だからこそ災気は様々な怪異として現れ、賊臣・靳準(きんじゅん)が国を乱しに乱し、政治は荒廃し、民衆は離散し、それによって滅亡寸前にまで至った。劉聡が最後には天寿をまっとうできたというのは、(当人にとって)非常に幸運なことであった。
劉曜は天性として勇猛であり、困難な時局にめぐり合ったが、用兵の才能は(秦の)王翦に並ぶものであり、人を殺すのを好む残虐さは(後漢の)董公(董卓)と同類である。ただ、劉聡のようなひどい人物から基業を受け継いだということもあって、その行いには称賛すべきこともあった。游子遠が忠言を呈し、それによって(戦乱が収まって)軍旗を高々と掲げて戦争を行う必要がしばらくなくなり、和苞(かほう)が直言を献じ、それによって酆明に観(高楼)を建てるのは中止された。しかし、軍隊が駐在した場所では耕地が放置された結果、荊や棘のある草木ばかりが生えることになり(そのようにして武力を濫用する者に対しては、その行為に対する悪い報いが天より下されるものであるのだが、劉曜もその例に漏れず)、劉曜は自ら強大な藩国(石勒)と断交し、禍はその強大な敵によりもたらされた。天は人事に干渉してその罰を下し、戦士たちを驚き騒がせて宵に逃げ散るよう働きかけ、(劉曜の)軍中の酒杯に酒をついで酔いが醒めないように仕向け、そうして雑草を抜き取るように容易く、(自ら直接手を下すのではなく)人の手によってその目的を果たしたようである。(劉曜が滅んだのは)どうして石氏が興隆したからであろうか。何と天はこうも劉曜を支え助けずに衰亡させたことよ。


皇帝は道に則らず、(国が滅びて連行されて)都の郊外近くの地で穹盧(ゲル)に住まわされた。(尭の子である)丹朱には子孫がほとんどおらず(すなわち西晋の皇室に連なる諸王の勢力はほとんど振るわず)、一方で(匈奴帝国の創始者である)冒頓単于は覇を競った(すなわちその子孫である匈奴の勢力が栄えた)。胡族の旗は月に届くかのように高く上がり、胡族の馬は風に乗るかのように各地を馳せた。その砂埃は淮水のほとりにまで及び、河神の宮殿にまでその勇猛な雄叫びを響かせた。しかし、(劉曜が滅んで長安の)未央宮は朝も静まりかえるようになり、その通用門は朝でも誰も通らなくなった。(西晋・武帝期の)郭欽(かくきん)はこれらの禍乱を憂慮したのであり、(やがて伊川の地が戎人のものとなると予見した春秋時代の周の)辛有はまことに戎人について理解していたのであった。