翻訳者:山田龍之
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慕容廆 字弈洛瓌、昌黎棘城鮮卑人也。其先有熊氏之苗裔、世居北夷、邑于紫蒙之野、號曰東胡。其後與匈奴並盛、控弦之士二十餘萬、風俗官號與匈奴略同。秦漢之際爲匈奴所敗、分保鮮卑山、因以爲號。曾祖莫護跋、魏初率其諸部入居遼西、從宣帝伐公孫氏有功、拜率義王、始建國於棘城之北。時燕代多冠步搖冠、莫護跋見而好之、乃斂髮襲冠、諸部因呼之爲步搖、其後音訛、遂爲慕容焉。或云慕二儀之德、繼三光之容、遂以慕容爲氏。祖木延、左賢王。父涉歸、以全柳城之功、進拜鮮卑單于、遷邑於遼東北、於是漸慕諸夏之風矣。
廆幼而魁岸、美姿貌、身長八尺、雄傑有大度。安北將軍張華雅有知人之鑒、廆童冠時往謁之、華甚嘆異、謂曰「君至長必爲命世之器、匡難濟時者也。」因以所服簪幘遺廆、結殷勤而別。
涉歸死、其弟耐篡位、將謀殺廆、廆亡潛以避禍。後國人殺耐、迎廆立之。
初、涉歸有憾於宇文・鮮卑、廆將修先君之怨、表請討之、武帝弗許。廆怒、入寇遼西、殺略甚眾。帝遣幽州諸軍討廆、戰于肥如、廆眾大敗。自後復掠昌黎、每歲不絕。又率眾東伐扶餘、扶餘王依慮自殺。廆夷其國城、驅萬餘人而歸。東夷校尉何龕遣督護賈沈將迎立依慮之子爲王、廆遣其將孫丁率騎邀之。沈力戰斬丁、遂復扶餘之國。
廆謀於其眾曰「吾先公以來世奉中國。且華裔理殊、強弱固別、豈能與晉競乎。何爲不和以害吾百姓邪。」乃遣使來降。帝嘉之、拜爲鮮卑都督。廆致敬於東夷府、巾衣詣門、抗士大夫之禮。何龕嚴兵引見、廆乃改服戎衣而入。人問其故、廆曰「主人不以禮、賓復何爲哉。」龕聞而慚之、彌加敬憚。時東胡宇文鮮卑段部以廆威德日廣、懼有吞并之計、因爲寇掠、往來不絕。廆卑辭厚幣以撫之。
太康十年、廆又遷于徒河之青山。廆以大棘城即帝顓頊之墟也、元康四年乃移居之。教以農桑、法制同于上國。永寧中、燕垂大水、廆開倉振給、幽方獲濟。天子聞而嘉之、褒賜命服。
太安初、宇文莫圭遣弟屈雲寇邊城。雲別帥大素延攻掠諸部、廆親擊敗之。素延怒、率眾十萬圍棘城、眾咸懼、人無距志。廆曰「素延雖犬羊蟻聚、然軍無法制、已在吾計中矣。諸君但爲力戰、無所憂也。」乃躬貫甲冑、馳出擊之、素延大敗。追奔百里、俘斬萬餘人。
永嘉初、廆自稱鮮卑大單于。遼東太守龐本以私憾殺東夷校尉李臻。附塞鮮卑素連・木津等託爲臻報讎、實欲因而爲亂、遂攻陷諸縣、殺掠士庶。太守袁謙頻戰失利、校尉封釋懼而請和。連歲寇掠、百姓失業、流亡歸附者日月相繼。廆子翰言於廆曰「求諸侯莫如勤王、自古有爲之君靡不杖此以成事業者也。今連・津跋扈、王師覆敗、蒼生屠膾、豈甚此乎。豎子外以龐本爲名、內實幸而爲寇。封使君以誅本請和、而毒害滋深。遼東傾沒、垂已二周、中原兵亂、州師屢敗。勤王杖義、今其時也。單于宜明九伐之威、救倒懸之命、數連・津之罪、合義兵以誅之。上則興復遼邦、下則并吞二部、忠義彰於本朝、私利歸于我國。此則吾鴻漸之始也、終可以得志於諸侯。」廆從之。是日、率騎討連・津、大敗斬之、二部悉降。徙之棘城、立遼東郡而歸。
懷帝蒙塵于平陽、王浚承制以廆爲散騎常侍・冠軍將軍・前鋒大都督・大單于、廆不受。建興中、愍帝遣使拜廆鎮軍將軍・昌黎遼東二國公。建武初、元帝承制拜廆假節・散騎常侍・都督遼左雜夷流人諸軍事・龍驤將軍・大單于・昌黎公、廆讓而不受。征虜將軍魯昌說廆曰「今兩京傾沒、天子蒙塵、琅邪承制江東、實人命所係。明公雄據海朔、跨總一方、而諸部猶怙眾稱兵、未遵道化者、蓋以官非王命、又自以爲強。今宜通使琅邪、勸承大統。然後敷宣帝命、以伐有罪、誰敢不從。」廆善之、乃遣其長史王濟浮海勸進。及帝即尊位、遣謁者陶遼重申前命、授廆將軍・單于、廆固辭公封。
時二京傾覆、幽冀淪陷、廆刑政修明、虛懷引納、流亡士庶多襁負歸之。廆乃立郡以統流人、冀州人爲冀陽郡、豫州人爲成周郡、青州人爲營丘郡、并州人爲唐國郡。於是推舉賢才、委以庶政、以河東裴嶷・代郡魯昌・北平陽耽爲謀主、北海逢羨・廣平游邃・北平西方虔・渤海封抽・西河宋奭・河東裴開爲股肱、渤海封弈・平原宋該・安定皇甫岌・蘭陵繆愷以文章才儁任居樞要、會稽朱左車・太山胡毋翼・魯國孔纂以舊德清重引爲賓友、平原劉讚儒學該通、引爲東庠祭酒、其世子皝率國冑束脩受業焉。廆覽政之暇、親臨聽之、於是路有頌聲、禮讓興矣。
時平州刺史・東夷校尉崔毖自以爲南州士望、意存懷集、而流亡者莫有赴之。毖意廆拘留、乃陰結高句麗及宇文・段國等、謀滅廆以分其地。太興初、三國伐廆、廆曰「彼信崔毖虛說、邀一時之利、烏合而來耳。既無統一、莫相歸伏、吾今破之必矣。然彼軍初合、其鋒甚銳、幸我速戰。若逆擊之、落其計矣。靖以待之、必懷疑貳、迭相猜防。一則疑吾與毖譎而覆之、二則自疑三國之中與吾有韓魏之謀者、待其人情沮惑、然後取之必矣。」於是三國攻棘城、廆閉門不戰、遣使送牛酒以犒宇文、大言於眾曰「崔毖昨有使至。」於是二國果疑宇文同於廆也、引兵而歸。宇文悉獨官曰「二國雖歸、吾當獨兼其國。何用人爲。」盡眾逼城、連營三十里。廆簡銳士配皝、推鋒於前、翰領精騎爲奇兵、從旁出、直衝其營、廆方陣而進。悉獨官自恃其眾、不設備、見廆軍之至、方率兵距之。前鋒始交、翰已入其營、縱火焚之。其眾皆震擾、不知所爲、遂大敗、悉獨官僅以身免、盡俘其眾。於其營候獲皇帝玉璽三紐、遣長史裴嶷送于建鄴。崔毖懼廆之仇己也、使兄子燾偽賀廆。會三國使亦至請和、曰「非我本意也。崔平州教我耳。」廆將燾示以攻圍之處、臨之以兵、曰「汝叔父教三國滅我、何以詐來賀我乎。」燾懼、首服。廆乃遣燾歸說毖曰「降者上策、走者下策也。」以兵隨之。毖與數十騎棄家室奔于高句麗、廆悉降其眾、徙燾及高瞻等于棘城、待以賓禮。明年、高句麗寇遼東、廆遣眾擊敗之。
裴嶷至自建鄴。帝遣使者拜廆監平州諸軍事・安北將軍・平州刺史、增邑二千戶。尋加使持節・都督幽州東夷諸軍事・車騎將軍・平州牧、進封遼東郡公、邑一萬戶、常侍・單于並如故、丹書鐵券、承制海東、命備官司、置平州守宰。
段末波初統其國、而不修備、廆遣皝襲之、入令支、收其名馬寶物而還。
石勒遣使通和、廆距之、送其使於建鄴。勒怒、遣宇文乞得龜擊廆。廆遣皝距之、以裴嶷爲右部都督、率索頭爲右翼、命其少子仁自平郭趣柏林爲左翼、攻乞得龜、克之、悉虜其眾。乘勝拔其國城、收其資用億計、徙其人數萬戶以歸。
成帝即位、加廆侍中・位特進。咸和五年、又加開府儀同三司、固辭不受。
廆嘗從容言曰「獄者、人命之所懸也、不可以不慎。賢人君子、國家之基也、不可以不敬。稼穡者、國之本也、不可以不急。酒色便佞、亂德之甚也、不可以不戒。」乃著家令數千言以申其旨。
慕容廆、字は弈洛瓌、昌黎・棘城の鮮卑の人なり。其の先は有熊氏の苗裔にして、世々北夷に居り、紫蒙の野に邑し、號して東胡と曰う。其の後、匈奴と並びに盛んにして、控弦の士は二十餘萬、風俗・官號は匈奴と略ぼ同じ。秦漢の際に匈奴の敗る所と爲り、分かれて鮮卑山を保ち、因りて以て號と爲す。曾祖の莫護跋、魏初に其の諸部を率いて入りて遼西に居り、宣帝に從いて公孫氏を伐ちて功有り、率義王に拜され、始めて國を棘城の北に建つ。時に燕・代は多く步搖冠を冠し、莫護跋は見て之を好みたれば、乃ち髮を斂めて冠を襲ね、諸部は因りて之を呼びて步搖と爲し、其の後、音訛し、遂に慕容と爲す。或いは二儀の德を慕い、三光の容を繼げば、遂に慕容を以て氏と爲すと云う。祖の木延、左賢王たり。父の涉歸、柳城を全うせしの功を以て、進められて鮮卑單于に拜せられ、邑を遼東の北に遷し、是に於いて漸く諸夏の風を慕う。
廆、幼くして魁岸、姿貌美しく、身長は八尺、雄傑にして大度有り。安北將軍の張華、雅より知人の鑒有るに、廆、童冠の時に往きて之に謁するや、華は甚だ嘆異し、謂いて曰く「君は長ずるに至りて必ず命世の器にして、難を匡し時を濟う者と爲るなり」と。因りて服する所の簪幘を以て廆に遺り、結ぶこと殷勤にして別る。
涉歸の死するや、其の弟の耐、位を篡い、將に謀りて廆を殺さんとするも、廆は亡潛して以て禍を避く。後に國人は耐を殺し、廆を迎えて之を立つ。
初め、涉歸は憾みを宇文・鮮卑〔一〕に有したれば、廆、將に先君の怨を修めんとし、表して之を討たんことを請うも、武帝は許さず。廆、怒り、入りて遼西に寇し、殺略すること甚だ眾し。帝、幽州の諸軍を遣わして廆を討たしめ、肥如に戰い、廆の眾は大敗す。自後、復た昌黎を掠め、每歲絕えず。又た眾を率いて東のかた扶餘を伐ち、扶餘王の依慮は自殺す。廆、其の國城を夷げ、萬餘人を驅りて歸る。東夷校尉の何龕、督護の賈沈を遣わして將に依慮の子を迎え立てて王と爲さんとするや、廆、其の將の孫丁を遣わして騎を率いて之を邀えしむ。沈、力戰して丁を斬り、遂に扶餘の國を復す。
廆、其の眾と謀りて曰く「吾が先公以來、世々中國を奉ず。且つ華裔は理殊なり、強弱は固より別たれ、豈に能く晉と競わんや。何爲すれぞ和せずして以て吾が百姓を害せんや」と。乃ち使を遣わして來降す。帝、之を嘉し、拜して鮮卑都督と爲す。廆、敬を東夷府に致し、巾衣して門に詣り、士大夫の禮を抗ぐ。何龕、兵を嚴えて引見せんとしたれば、廆、乃ち服を改めて戎衣にして入る。人、其の故を問うに、廆曰く「主人、禮を以てせざれば、賓、復た何をか爲さんや」と。龕、聞きて之を慚じ、彌々敬憚を加う。時に東胡の宇文・鮮卑の段部は廆の威德の日ごとに廣まるを以て、吞并の計有るを懼れ、因りて寇掠を爲し、往來絕えず。廆、辭を卑くし幣を厚くして以て之を撫す。
太康十年、廆、又た徒河の青山に遷る。廆、大棘城は即ち帝顓頊の墟なるを以て、元康四年、乃ち移りて之に居る。教うるに農桑を以てし、法制は上國に同じ。永寧中、燕垂に大水あるや、廆、倉を開きて振給し、幽方は濟わるるを獲たり。天子は聞きて之を嘉し、命服を褒賜す。
太安の初め、宇文莫圭、弟の屈雲を遣わして邊城に寇せしむ。雲の別帥の大素延の諸部を攻掠するや、廆、親ら擊ちて之を敗る。素延、怒り、眾十萬を率いて棘城を圍むや、眾は咸な懼れ、人として距志無し。廆曰く「素延は犬羊の蟻聚なりと雖も、然れども軍に法制無く、已に吾が計中に在り。諸君、但だ爲に力戰すれば、憂うる所無かるなり」と。乃ち躬ら甲冑を貫き、馳せて出でて之を擊つや、素延、大いに敗る。追奔すること百里、俘斬は萬餘人。
永嘉の初め、廆、自ら鮮卑大單于を稱す。遼東太守の龐本、私憾を以て東夷校尉の李臻を殺す。附塞鮮卑の素連・木津等、臻の爲に讎に報いんと託し、實は因りて亂を爲さんと欲し、遂に攻めて諸縣を陷し、士庶を殺掠す。太守の袁謙、頻りに戰うも利を失い、校尉の封釋、懼れて和を請う。連歲寇掠し、百姓は業を失い、流亡して歸附する者は日月相い繼ぐ。廆の子の翰、廆に言いて曰く「諸侯を求むるに王に勤むるに如くは莫し。古より有爲の君、此に杖らずして以て事業を成す者靡きなり。今、連・津は跋扈し、王師は覆敗し、蒼生の屠膾せらるること、豈に此より甚だしきことあらんや。豎子、外は龐本を以て名と爲し、內は實は幸いて寇を爲す。封使君〔二〕、本を誅せしを以て和をうも、而れども毒害は滋々深し。遼東は傾沒し、已に二周に垂んとするに、中原は兵亂あり、州師は屢々敗る。王に勤めて義に杖るは、今、其の時なり。單于、宜しく九伐の威を明らかにし、倒懸の命を救い、連・津の罪を數め、義兵を合して以て之を誅すべし。上は則ち遼邦を興復し、下は則ち二部を并吞し、忠義は本朝に彰らかにして、私利は我が國に歸す。此れ則ち吾が鴻漸の始なり。終に以て志を諸侯に得べし」と。廆、之に從う。是の日、騎を率いて連・津を討ち、大いに敗りて之を斬り、二部は悉く降る。之を棘城に徙し、遼東郡を立てて歸る。
懷帝の平陽に蒙塵するや、王浚は制を承けて廆を以て散騎常侍・冠軍將軍・前鋒大都督・大單于と爲すも、廆は受けず。建興中、愍帝、使を遣わして廆を鎮軍將軍・昌黎遼東二國公に拜す。建武の初め、元帝、制を承けて廆を假節・散騎常侍・都督遼左雜夷流人諸軍事・龍驤將軍・大單于・昌黎公に拜すも、廆は讓りて受けず。征虜將軍の魯昌、廆に說きて曰く「今、兩京は傾沒し、天子は蒙塵し、琅邪は制を江東に承け、實に人命の係る所なり。明公は海朔に雄據し、跨りて一方を總ぶるも、而れども諸部の猶お眾を怙みて兵を稱げ、未だ道化に遵わざるは、蓋し官の王命に非ず、又た自ら以て強しと爲すを以てなり。今、宜しく使を琅邪に通じ、大統を承けんことを勸むべし。然る後に帝命を敷宣し、以て有罪を伐たば、誰か敢えて從わざらん」と。廆、之を善しとし、乃ち其の長史の王濟を遣わして海に浮かばしめて勸進す。帝の尊位に即くに及び、謁者の陶遼を遣わして重ねて前命を申し、廆に將軍・單于を授けしも、廆は固く公の封を辭す。
時に二京は傾覆し、幽冀は淪陷するも、廆の刑政は修明、懷を虛しくして引納したれば、流亡の士庶は多く襁負して之に歸す。廆、乃ち郡を立てて以て流人を統べしめ、冀州の人は冀陽郡と爲し、豫州の人は成周郡と爲し、青州の人は營丘郡と爲し、并州の人は唐國郡と爲す。是に於いて賢才を推舉し、委ぬるに庶政を以てし、河東の裴嶷・代郡の魯昌・北平の陽耽を以て謀主と爲し、北海の逢羨・廣平の游邃・北平の西方虔・渤海の封抽・西河の宋奭・河東の裴開もて股肱と爲し、渤海の封弈・平原の宋該・安定の皇甫岌・蘭陵の繆愷は文章才儁なるを以て任じて樞要に居き、會稽の朱左車・太山の胡毋翼・魯國の孔纂は舊德清重なるを以て引きて賓友と爲し、平原の劉讚は儒學該通なれば、引きて東庠祭酒と爲し、其の世子の皝、國冑を率いて束脩して業を焉に受く。廆、覽政の暇に、親ら臨みて之を聽きたれば、是に於いて路に頌聲有り、禮讓、興る。
時に平州刺史・東夷校尉の崔毖、自ら以て南州の士望なりと爲し、意は懷集するに存るも、而れども流亡者は之に赴くこと有る莫し。毖、廆の拘留すればならんと意い、乃ち陰かに高句麗及び宇文・段の國等と結び、廆を滅ぼして以て其の地を分かたんと謀る。太興の初め、三國の廆を伐つや、廆曰く「彼れ、崔毖の虛說を信じ、一時の利を邀め、烏合して來るのみ。既に統一無く、相い歸伏する莫ければ、吾、今、之を破ること必なり。然るに彼の軍は初めて合し、其の鋒は甚だ銳ければ、我の速やかに戰うを幸うらん。若し逆えて之を擊たば、其の計に落ちん。靖にして以て之を待たば、必ず疑貳を懷き、迭みに相い猜防せん。一に則ち吾の毖と與に譎りて之を覆さんことを疑い、二に則ち自ら三國の中に吾と韓魏の謀有らんことを疑えば、其の人情の沮惑するを待ち、然る後に之を取るのは必なり」と。是に於いて三國、棘城を攻むるも、廆は門を閉じて戰わず、使を遣わして牛酒を送りて以て宇文を犒い、眾に大言して曰く「崔毖、昨ろ使の至る有り」と。是に於いて二國は果たして宇文は廆に同ずるなりと疑い、兵を引きて歸る。宇文悉獨官曰く「二國は歸ると雖も、吾、當に獨り其の國を兼ぬるべし。何ぞ人爲を用いん」と。眾を盡くして城に逼り、營を連ぬること三十里。廆、銳士を簡びて皝に配し、鋒を前に推かしめ、翰をして精騎を領せしめて奇兵と爲し、旁より出でしめ、直ちに其の營を衝かしめ、廆は方陣もて進む。悉獨官、自ら其の眾を恃み、備えを設けず、廆の軍の至るを見、方めて兵を率いて之を距ぐ。前鋒始め交わるに、翰、已に其の營に入り、火を縱ちて之を焚く。其の眾は皆な震擾し、爲す所を知らず、遂に大敗し、悉獨官は僅かに身を以て免れたれば、盡く其の眾を俘う。其の營候に於いて皇帝の玉璽の三紐なるを獲たれば、長史の裴嶷を遣わして建鄴に送る。崔毖、廆の己に仇するを懼れ、兄の子の燾をして偽りて廆を賀せしむ。會々三國の使も亦た至りて和を請い、曰く「我が本意に非ざるなり。崔平州の我に教えしのみ」と。廆、燾を將いて示すに攻圍の處を以てし、之に臨むに兵を以てし、曰く「汝の叔父は三國に我を滅ぼさんことを教うるに、何を以て詐りて來りて我を賀するや」と。燾、懼れ、首服す。廆、乃ち燾を遣りて歸りて毖に說かしめて曰く「降るは上策にして、走るは下策なり」と。兵を以て之に隨わしむ。毖、數十騎と與に家室を棄てて高句麗に奔りたれば、廆は悉く其の眾を降し、燾及び高瞻等を棘城に徙し、待するに賓禮を以てす。明年、高句麗の遼東に寇するや、廆、眾を遣わして擊ちて之を敗らしむ。
裴嶷、至るに建鄴よりす。帝、使者を遣わして廆を監平州諸軍事・安北將軍・平州刺史に拜し、邑を增すこと二千戶。尋いで使持節・都督幽州東夷諸軍事・車騎將軍・平州牧を加え、封を遼東郡公に進め、邑は一萬戶、常侍・單于は並びに故の如くし、丹書・鐵券もて、制を海東に承け、命じて官司を備えしめ、平州の守宰を置かしむ。
段末波、初めて其の國を統ぶるも、而れども修備せざれば、廆、皝を遣わして之を襲わしめ、令支に入り、其の名馬・寶物を收めて還る。
石勒、使を遣わして和を通ぜんとするも、廆、之を距み、其の使を建鄴に送る。勒、怒り、宇文乞得龜を遣わして廆を擊たしむ。廆、皝を遣わして之を距がしめ、裴嶷を以て右部都督と爲し、索頭を率いしめて右翼と爲し、其の少子の仁に命じて平郭より柏林に趣かしめて左翼と爲し、乞得龜を攻めしめ、之に克ち、悉く其の眾を虜にす。勝ちに乘じて其の國城を拔き、其の資用を收むること億計、其の人數萬戶を徙して以て歸る。
成帝の即位するや、廆に侍中・位特進を加う。咸和五年、又た開府儀同三司を加うるも、固辭して受けず。
廆、嘗て從容として言いて曰く「獄は、人命の懸かる所なれば、以て慎まざるべからず。賢人君子は、國家の基なれば、以て敬わざるべからず。稼穡は、國の本なれば、以て急とせざるべからず。酒色便佞、亂德の甚なれば、以て戒まざるべからず」と。乃ち『家令』數千言を著わして以て其の旨を申す。
〔一〕「宇文鮮卑」については、「宇文の鮮卑」(宇文部の鮮卑)と訳すことも可能であるが、後文で「東胡の宇文・鮮卑の段部」とあるように、宇文部は鮮卑とは別の扱いを受けているため、ここではそれに合わせて「宇文・鮮卑」(宇文部や鮮卑)と訳した。
〔二〕「使君」は刺史の尊称。当時、東夷校尉は平州刺史が兼任するということが慣例化していたので、要するに封釈は平州刺史・東夷校尉を兼任していたものと思われる。
慕容廆は、字を弈洛瓌と言い、昌黎郡・棘城の鮮卑の人である。その先祖は有熊氏の末裔で、代々北夷におり、紫蒙の野に本拠地を置き、東胡と呼ばれた。その後、匈奴と並んで盛んになり、弓を引く兵士は二十数万人おり、風俗や官号については匈奴とほとんど同じであった。秦漢交替期に匈奴に敗れ、分散して鮮卑山を根城とするようになり、それにちなんで鮮卑という名称が取られた。慕容廆の曽祖父の莫護跋は、(三国時代の)魏の初めにその諸部を率いて長城の内側に入って遼西に居住し、宣帝(司馬懿)に従って公孫氏(公孫淵)を討伐して功績があり、率義王に任じられ、そこで初めて国を棘城の北に建てた。時に燕や代の地域の人は多く歩揺冠をかぶっており、莫護跋はそれを見て気に入ったので、そこで髪を束ねてそれを収めるように冠をかぶり、諸部の人々はそれにちなんで莫護跋を「歩揺」と呼ぶようになり、その後、その音が変化して、そこで「慕容」と呼ばれるようになった。あるいは、天地の二儀の徳を慕い、日・月・星の三光の容を継ぐのだということで、そこで「慕容」という氏を名乗ったとも言われる。慕容廆の祖父の慕容木延は、左賢王であった。慕容廆の父の慕容渉帰は、柳城を保全した功績により、位を進められて鮮卑単于に任じられ、本拠地を遼東の北に移し、そうして次第に諸夏(中国)の風俗を慕うようになった。
慕容廆は幼い頃から魁偉で、容姿が美しく、身長は八尺(約187㎝)もあり、雄傑で大きな度量があった。安北将軍の張華は昔から人を見る目があったが、慕容廆が青少年のときに張華のもとを訪れて謁見したところ、張華は非常に驚嘆して言った。「君は、成長すればきっと世に名を著わすほどの器となり、艱難を正し、時世を救う者となろう」と。そこで張華は身に着けていた簪と幘を慕容廆に与え、慇懃に交流を結んでから別れた。
慕容渉帰が死ぬと、その弟の慕容耐が位を簒奪し、慕容廆を殺そうと謀ったが、慕容廆は逃げて潜伏し、そうして禍を避けた。後に慕容部の国人たちは慕容耐を殺し、慕容廆を迎えて君主に立てた。
初め、慕容渉帰は宇文部や鮮卑に対して恨みを持っていたので、慕容廆は先君の怨みを晴らそうと、(西晋朝廷に)上表して宇文部を討ちたいと請うたが、武帝(司馬炎)は許さなかった。慕容廆は怒り、長城内部に侵入して遼西に侵攻し、殺害・略奪を行うこと非常に多くにわたった。武帝は幽州の諸軍を派遣して慕容廆を討伐させ、討伐軍は肥如にて戦闘を行い、慕容廆の兵衆は大敗した。その後、慕容廆はさらに昌黎郡で略奪を行い、そのような行為が毎年絶えることはなかった。慕容廆はまた兵衆を率いて東進して扶余を攻撃し、扶余王の依慮は自殺した。慕容廆は、その国城を平定し、一万人余りを駆り立てて帰った。東夷校尉の何龕が、督護の賈沈を派遣して依慮の子を迎えて立てて扶余王に据えようとすると、慕容廆は、その将の孫丁を派遣して騎兵を率いてそれを迎え撃たせた。賈沈は力を尽くして戦って孫丁を斬り、そうして扶余の国を復興させた。
慕容廆は、その兵衆とともに謀って言った。「我が祖先以来、代々中国を奉戴してきた。それに、華人と我ら辺境の人とでは理(法や習俗)が異なり、強弱の差ももとからはっきりとしており、どうして晋と競うことができようか。どうして和平しないことにより我が民に害をもたらすようなことができようか」と。そこで使者を派遣して晋に帰順した。武帝はそれを善しとし、慕容廆を鮮卑都督に任じた。慕容廆は東夷校尉府に表敬し、(士大夫の服装である)頭巾や衣を身に着けてその門を訪れ、士大夫の礼を示した。しかし、何龕は兵を厳粛に整えた上で招いて面会しようとしたので、慕容廆はそこで服を改めて軍服を着て門内に入った。ある人がその理由を問うたところ、慕容廆は言った。「主人が礼を以て接しようとしないのに、賓客にもはや何ができようか」と。何龕は、それを聞いてそのことを恥じ、ますます慕容廆を敬い憚るようになった。時に東胡の宇文部や鮮卑の段部は、慕容廆の威徳が日に日に広まっていっていることから、慕容廆には自分たちを併呑する計画があるのではないかと恐れ、そこで侵略を行い、騎兵があちこちに往来することが絶えなかった。慕容廆は、へりくだった言葉遣いで厚く礼物を贈り、そうして彼らをなだめた。
太康十年(二八九)、慕容廆は、さらに徒河の青山に本拠地を移した。慕容廆は、大棘城はすなわち帝顓頊の都の跡であるからとして、元康四年(二九四)、そこで本拠地をそこに移した。慕容廆は民に農業と養蚕の方法を教え、法制は中原の諸侯王国と同じようにした。(恵帝の)永寧年間、燕の地域の辺境に大水害が起きると、慕容廆は倉庫を開いて人々に恵み与え、幽州一帯の人々は救いを得ることができた。天子(恵帝)はそれを聞いて慕容廆を褒め称え、褒美として命服(身分ごとに定められた特別な服)を賜与した。
太安年間の初め、宇文莫圭は、弟の宇文屈雲を派遣して(晋の)辺境の城に侵攻させていた。宇文屈雲の別動隊の将帥である大素延が慕容部麾下の諸部に侵攻して略奪を働くと、慕容廆は自ら出撃して大素延を破った。大素延がそれに怒り、十万人の兵衆を率いて棘城を囲むと、慕容部の人々は恐れ、防ぎ戦おうとする意志は誰にも無かった。慕容廆は言った。「大素延は犬や羊の群れのように多くの兵衆を引き連れているとはいっても、しかし、その軍中では法による統御が行われておらず、すでに我が計中に陥っている。諸君はただ力を尽くして戦いさえすれば、何も憂えることなんてありはしない」と。そこで慕容廆が自ら甲冑を身にまとい、馳せて出撃すると、大素延は大敗した。追撃すること百里(約43.5㎞)、捕虜や斬首の数は一万人余りに上った。
(懐帝の)永嘉年間の初め、慕容廆は鮮卑大単于を自称した。遼東太守の龐本が、私怨により東夷校尉の李臻を殺した。附塞鮮卑の素連・木津らは、李臻のために仇討ちをするのだということを口実にして、実はそれによって反乱を起こそうと考え、そこで諸県を攻めて陥落させ、士人や庶人たちを殺したり拉致したりした。(新任の)遼東太守の袁謙は、何度も戦ったが敗れ、(新任の)東夷校尉の封釈は、恐れて和平を請うた。そうして素連・木津らは連年侵略を行い、人々は生業を失い、流亡して慕容廆に帰順する者は日に日に相継いだ。慕容廆の子の慕容翰が、慕容廆に言った。「諸侯の位を求めるためには、王者(皇帝)のために力を尽くすのが一番です。古より、何かをなそうとする君主の中にも、このことに基づかずに事業を成した者はおりません。今、素連・木津は跋扈し、皇帝の軍は敗北して潰滅し、人々が苦しめられる有り様は、どうしてこれよりひどいことがございましょうか。やつら(素連・木津)は、外面では龐本のことを名目にし、内実は自分から願って侵略を行っています。封使君(封釈)は、龐本を誅殺したことにより和平を請いましたが、しかし害毒はますます深くなっていくばかりです。遼東郡は潰滅してめちゃくちゃになっており、すでに二年が経とうとしておりますが、中原地域には兵乱があり(討伐軍も派遣されず)、平州の軍もたびたび敗北しております。王者(皇帝)に力を尽くして義に依拠するのは、まさに今がその時でございます。単于よ、どうか九伐(九種類の悪行に対する討伐)の威を明らかにし、苦しみあえぐ命を救い、素連・木津の罪を数え上げてとがめ、義兵を糾合してそうしてやつらを誅殺すべきでございます。そうすれば、上は遼東郡を復興し、下は素連・木津らの二部を併呑し、一方では本朝(晋)に対する忠義を明らかにすることができ、他方では我が国(慕容部)に私利をもたらすことができます。これこそ我らにとっての鴻漸の始まり(出世・雄飛の始まり)でございます。そうすればゆくゆくは諸侯の位を得るという志を達成することができましょう」と。慕容廆はそれに従った。その日、慕容廆は騎兵を率いて素連・木津を討ち、大いに破って二人を斬り、二部はことごとく慕容廆に降った。慕容廆は彼らを棘城に移住させ、遼東郡を立てて帰った。
懐帝が(匈奴漢によって)平陽に連れ去られると、(群雄の)王浚は皇帝の制を承けたとして慕容廆を散騎常侍・冠軍将軍・前鋒大都督・大単于に任じたが、慕容廆は受け取らなかった。建興年間、愍帝は使者を派遣して慕容廆を鎮軍将軍、昌黎国・遼東国の二国公に任じた。建武年間の初め、(当時はまだ王であった)元帝は、皇帝の制を承けたとして慕容廆を仮節・散騎常侍・都督遼左雑夷流人諸軍事・龍驤将軍・大単于・昌黎公に任じたが、慕容廆は謙譲して受け取らなかった。征虜将軍の魯昌は、慕容廆に説いて言った。「今、両京(洛陽の懐帝政権、長安の愍帝政権)は潰滅し、天子は連れ去られ、琅邪王(後の元帝・司馬睿)は江東にて皇帝の制を承け、実に民意が寄せられている存在でございます。あなた様は海北の地に雄大に割拠し、一地方を占めて総統していますが、しかし諸部がなお兵衆を恃んで兵を挙げ、まだ道による教化に従いませんのは、思うにあなた様が皇帝の命に基づく官をお持ちにならず、また彼らが自分たちのことを強大であると自負しているからでございます。今、どうか琅邪王に使者を通じ、皇帝位を継承することを勧進すべきでございます。その後に皇帝の命を敷き広め、そうして罪ある者を討伐すれば、従わない者がおりましょうか」と。慕容廆はそれを善しとし、そこでその長史の王済を派遣して海を渡らせ、勧進を行った。元帝が皇帝に即位すると、謁者の陶遼を派遣して重ねて先の任命を繰り返し伝え、慕容廆に将軍・単于の位を授けたが、慕容廆は公の封に関しては固く辞退した。
時に(洛陽の懐帝政権・長安の愍帝政権の)二京は潰滅し、幽州・冀州は崩壊していたが、慕容廆の刑罰と政治は明らかでよく治まり、へりくだって虚心に人々を招き寄せたので、流亡していた士人や庶民たちは多く荷物を背負って慕容廆に帰順した。慕容廆は、そこで郡を立て、そうして流人を統べさせ、冀州の人のために冀陽郡を立て、豫州の人のために成周郡を立て、青州の人のために営丘郡を立て、并州の人のために唐国郡を立てた。そして賢才を抜擢し、諸々の政務を委ね、河東の人である裴嶷、代郡の人である魯昌、北平の人である陽耽を謀主とし、北海の人である逢羨、広平の人である游邃、北平の人である西方虔、渤海の人である封抽、西河の人である宋奭、河東の人である裴開を股肱とし、渤海の人である封弈、平原の人である宋該、安定の人である皇甫岌、蘭陵の人である繆愷は文章の才能に秀でているため任用して枢要の地位に据えおき、会稽の人である朱左車、太山の人である胡毋翼、魯国の人である孔纂は徳望高く清らかで穏重であるため招いて賓客・友人とし、平原の人である劉讃は儒学に広く通じていたので、招いて東庠祭酒に任じ、慕容廆の世子(諸侯の跡継ぎ)の慕容皝は、慕容氏の子弟を率いて束脩(入学する際に持参する礼物)を持参して劉讃から学業を授かった。慕容廆は、政務を見る中で手が空いたときに、自らその場に臨んで授業を聴いたので、そこで道端には太平を謳歌する声が響き、(その統治下の地域では)礼を備えて謙譲し合う風潮が興った。
時に平州刺史・東夷校尉の崔毖は、南州にて輿望のある名門であることを自負し、人々を懐柔して招き集めることに意を注いでいたが、しかし流亡者は崔毖のもとに赴かなかった。崔毖は、慕容廆が流亡者たちを拘留しているせいだと思い、そこでひそかに高句麗や宇文氏・段氏の国などと結び、慕容廆を滅ぼし、そしてその領地を山分けしようと謀った。元帝の太興年間の初め、その三国が慕容廆を攻撃すると、慕容廆は言った。「彼ら(三国)は崔毖の虚妄の説を信じ、一時の利益を求め、烏合して来ただけである。その軍勢は統一されておらず、彼らが崔毖に帰服しているわけでもないので、私が今、彼らを破ることは必定である。ただ、彼らの軍勢は合流したばかりで、その勢いは非常に鋭く盛んであるので、我らが速やかに撃って出ることを望んでいることであろう。もし、我らが彼らを迎え撃ちに出れば、その計にはまることになる。一方で、じっとして彼らを待っていれば、必ずや彼らはお互いに嫌疑を抱き、互いに猜疑し合って防衛し合うようになるであろう。あるいは私が崔毖とともに三国を騙して転覆させようとしているのではないかと疑い、あるいは三国の中から韓魏の謀(春秋時代末期の晋国において智氏と趙氏が対立して戦争した際に、智氏側についていた韓氏・魏氏が趙氏側に寝返って智氏を滅ぼして晋を三分割することになった故事)が生じるのではないかと疑うようになれば、それによって彼らの勢力下の人心が惑乱するのにつけこみ、その後に我らが彼らを攻め取るという趨勢になろうことは必定である」と。そこで三国が棘城を攻めても、慕容廆は門を閉じて戦わず、使者を派遣して牛や酒を送って宇文氏の軍をねぎらいに行かせ、人々に対して次のように大言させた。「崔毖のもとから先日使者がやってきた」と。そうすると高句麗・段氏の二国は果たして、宇文氏は慕容廆側についたのだと疑い、兵を引き上げて帰った。宇文悉独官は言った。「二国は帰ってしまったが、私は単独で慕容廆の国を併呑してやろうぞ。どうして人の力などあてにしようか」と。そこで宇文悉独官は兵衆を総動員して城に迫り、軍営を連ねること三十里(約13㎞)にわたった。慕容廆は、精鋭の兵士をえりすぐって慕容皝の下に配備し、先鋒として前方で敵に当たらせ、慕容翰には精鋭騎兵を統率させてそれを奇兵とし、わきから出撃させて直接に宇文悉独官の本営を突かせ、慕容廆自身は方陣を敷いて進軍した。宇文悉独官は、自らその兵衆を恃み、備えを設けず、慕容廆の軍が来るのを見て、やっとそこで兵を率いてそれを防ごうとした。先鋒同士が交戦を開始した頃、慕容翰はすでに宇文悉独官の本営に入り、火を放ってその本営を焼いた。宇文悉独官の麾下の兵衆はみな震え乱れ、為すすべを知らず、そのまま宇文悉独官の軍は大敗を喫し、宇文悉独官はわずかに身一つで逃れたという有り様だったので、慕容廆はその兵衆をことごとく捕虜にした。宇文悉独官の軍営の見張り台にて三紐の装飾を施した皇帝の玉璽を獲得したので、長史の裴嶷を派遣して(東晋の都である)建鄴に送った。崔毖は、慕容廆が自分のことを恨むのを恐れ、兄の子である崔燾を派遣して慕容廆を祝賀するふりをさせた。ちょうど(高句麗など)三国の使者もまたやってきて和平を請い、そして言った。「私たちの本意ではありませんでした。崔平州(=平州刺史の崔毖)が私たちにそう指示したのです」と。慕容廆は、崔燾を引き連れて三国に攻撃されて包囲された場所を示し、兵を並べて臨み、そして言った。「お前の叔父は三国に対して私を滅ぼすよう指示したのに、どうして偽ってやってきて私を祝賀するのか」と。崔燾は恐れ、自白して罪に服した。慕容廆は、そこで崔燾を釈放して帰らせ、崔毖に対して「降るのが上策であり、逃げるのは下策である」と説かせることにした。そうして慕容廆は崔燾に兵を従わせて帰した。崔毖は、数十騎を従えて家族を捨てて高句麗に出奔したので、慕容廆はことごとくその兵衆を降し、崔燾および高瞻らを棘城に移住させ、賓客の礼で待遇した。明年、高句麗が遼東郡に侵攻すると、慕容廆は兵衆を派遣し、それを撃ち破った。
裴嶷が建鄴から帰還した。元帝は、(裴嶷に随行させて)使者を派遣して慕容廆を監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史に任じ、封邑二千戸を増加した。まもなく使持節・都督幽州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧の位を加え、封爵を遼東郡公に進め、邑は一万戸とし、散騎常侍・大単于の位はいずれも元通り授け、丹書・鉄券を与え、海東の地で皇帝の制を承け、官署を備え、平州の太守・県令を独自の判断で置くことを許した。
(鮮卑段部の)段末波が(段部を統一して)初めてその国を統治することとなったが、防備を整えていなかったので、慕容廆は慕容皝を派遣してそれを襲撃させ、令支県に入り、その名馬・宝物を収奪して帰還した。
石勒が使者を派遣して和平を通じようとしたが、慕容廆はそれを拒み、その使者を建鄴に送った。石勒は怒り、宇文乞得亀を派遣して慕容廆を攻撃させた。慕容廆は、慕容皝を(総大将として)派遣してそれを防がせ、裴嶷を右部都督に任じ、索頭(部族名)を率いさせてその軍勢を右翼とし、慕容廆の少子の慕容仁に命じて平郭から柏林に赴かせてその軍勢を左翼とし、(その編成で)宇文乞得亀を攻めさせ、その軍に勝利し、ことごとくその兵衆を捕虜にした。さらに勝ちに乗じてその国城を抜き、その財物を奪取すること何億銭にも上り、数万戸にわたるその民衆を移住させて帰還した。
成帝が即位すると、慕容廆に侍中・特進の位を加えた。咸和五年(三三〇)、さらに開府儀同三司の位を加えたが、慕容廆は固辞して受けとらなかった。
慕容廆は、かつて従容として言った。「獄は、人命に関わるものであるので、慎まないわけにはいかない。賢人や君子は、国家の基礎であるので、敬わないわけにはいかない。農業は、国の大本であるので、重視しないわけにはいかない。酒色や巧弁・佞言は、徳を乱すこと甚だしいものであるので、戒めないわけにはいかない」と。そこで『家令』数千言を著わし、そうしてその趣旨を慎重に触れ下した。
遣使與太尉陶侃箋曰
明公使君轂下振德曜威、撫寧方夏、勞心文武、士馬無恙、欽高仰止、注情彌久。王塗嶮遠、隔以燕越、每瞻江湄、延首遐外。
天降艱難、禍害屢臻、舊都不守、奄爲虜庭、使皇輿遷幸、假勢吳楚。大晉啓基、祚流萬世、天命未改、玄象著明、是以義烈之士深懷憤踴。猥以功薄、受國殊寵、上不能掃除羣羯、下不能身赴國難、仍縱賊臣、屢逼京輦。王敦唱禍於前、蘇峻肆毒於後、凶暴過於董卓、惡逆甚於傕氾、普天率土、誰不同忿。深怪文武之士、過荷朝榮、不能滅中原之寇、刷天下之恥。
君侯植根江陽、發曜荊衡、杖葉公之權、有包胥之志、而令白公・伍員殆得極其暴、竊爲丘明恥之。區區楚國子重之徒、猶恥君弱羣臣不及先大夫、厲己戒眾、以服陳鄭、越之種蠡尚能弼佐句踐、取威黃池。況今吳土英賢比肩、而不輔翼聖主、陵江北伐。以義聲之直、討逆暴之羯、檄命舊邦之士、招懷存本之人、豈不若因風振落、頓坂走輪哉。且孫氏之初、以長沙之眾摧破董卓、志匡漢室。雖中遇寇害、雅志不遂、原其心誠、乃忽身命。及權據揚越、外杖周張、內馮顧陸、距魏赤壁、克取襄陽。自茲以降、世主相襲、咸能侵逼徐豫、令魏朝旰食。不知今之江表爲賢儁匿智、藏其勇略邪。將呂蒙・凌統高蹤曠世哉。況今凶羯虐暴、中州人士逼迫勢促、其顛沛之危、甚於累卵。假號之強、眾心所去、敵有釁矣、易可震蕩。王郎・袁術雖自詐偽、皆基淺根微、禍不旋踵、此皆君侯之所聞見者矣。
王司徒清虛寡欲、善於全己、昔曹參亦崇此道、著畫一之稱也。庾公居元舅之尊、處申伯之任、超然高蹈、明智之權。廆於寇難之際、受大晉累世之恩、自恨絕域、無益聖朝、徒係心萬里、望風懷憤。今海內之望、足爲楚漢輕重者、惟在君侯。若勠力盡心、悉五州之眾、據兗豫之郊、使向義之士倒戈釋甲、則羯寇必滅、國恥必除。廆在一方、敢不竭命。孤軍輕進、不足使勒畏首畏尾、則懷舊之士欲爲內應、無由自發故也。故遠陳寫、言不宣盡。
廆使者遭風沒海。其後廆更寫前箋、并齎其東夷校尉封抽・行遼東相韓矯等三十餘人疏上侃府曰
自古有國有家、鮮不極盛而衰。自大晉龍興、克平㟭會、神武之略、邁蹤前史。惠皇之末、后黨構難、禍結京畿、釁成公族、遂使羯寇乘虛、傾覆諸夏、舊都淪滅、山陵毀掘、人神悲悼、幽明發憤。昔獫狁之強、匈奴之盛、未有如今日羯寇之暴、跨躡華裔、盜稱尊號者也。
天祚有晉、挺授英傑。車騎將軍慕容廆自弱冠涖國、忠於王室、明允恭肅、志在立勳。屬海內分崩、皇輿遷幸、元皇中興、初唱大業、肅祖繼統、蕩平江外。廆雖限以山海、隔以羯寇、翹首引領、係心京師、常假寤寐、欲憂國忘身。貢篚相尋、連舟載路、戎不稅駕、動成義舉。今羯寇滔天、怙其醜類、樹基趙魏、跨略燕齊。廆雖率義眾、誅討大逆、然管仲相齊、猶曰寵不足以御下。況廆輔翼王室、有匡霸之功、而位卑爵輕、九命未加、非所以寵異藩翰、敦奬殊勳者也。
方今詔命隔絕、王路嶮遠、貢使往來、動彌年載。今燕之舊壤、北周沙漠、東盡樂浪、西暨代山、南極冀方、而悉爲虜庭、非復國家之域。將佐等以爲宜遠遵周室、近準漢初、進封廆爲燕王、行大將軍事、上以總統諸部、下以割損賊境。使冀州之人望風向化、廆得祗承詔命、率合諸國、奉辭夷逆、以成桓文之功。苟利社稷、專之可也。而廆固執謙光、守節彌高、每詔所加、讓動積年、非將佐等所能敦逼。今區區所陳、不欲苟相崇重、而愚情至心、實爲國計。
侃報抽等書、其略曰「車騎將軍憂國忘身、貢篚載路、羯賊求和、執使送之、西討段國、北伐塞外、遠綏索頭、荒服以獻。惟北部未賓、屢遣征伐。又知東方官號、高下齊班、進無統攝之權、退無等差之降、欲進車騎爲燕王、一二具之。夫功成進爵、古之成制也。車騎雖未能爲官摧勒、然忠義竭誠。今騰牋上聽、可不・遲速、當任天臺也。」朝議未定、八年、廆卒、乃止。時年六十五、在位四十九年。帝遣使者策贈大將軍・開府儀同三司、諡曰襄。及儁僭號、偽諡武宣皇帝。
使を遣わして太尉の陶侃に與えし箋に曰く
明公使君轂下、德を振い威を曜かし、方夏を撫寧し、心を文武に勞し、士馬は恙無く、高きを欽み仰ぎ、情を注ぐこと彌々久し。王塗は嶮遠にして、隔つるに燕越を以てし、江湄を瞻る每に、首を遐外に延ぶ。
天は艱難を降し、禍害は屢々臻り、舊都は守らず、奄かに虜庭と爲り、皇輿をして遷幸せしめ、勢を吳楚に假らしむ。大晉の基を啓くや、祚は萬世に流るれば、天命は未だ改まらず、玄象は著明にして、是こを以て義烈の士は深く憤踴を懷く。猥りに功薄きを以て、國の殊寵を受くるも、上は羣羯を掃除する能わず、下は身ずから國難に赴く能わず、仍りて賊臣を縱し、屢々京輦に逼らしむ。王敦は禍を前に唱え、蘇峻は毒を後に肆にし、凶暴なること董卓に過ぎ、惡逆なること傕氾より甚だしく、普天率土、誰か同に忿らざらん。深く怪むらくは、文武の士、朝榮を過荷するも、中原の寇を滅し、天下の恥を刷ぐ能わざることを。
君侯は根を江陽に植え、曜を荊衡に發し、葉公の權に杖り、包胥の志を有するも、而れども白公・伍員をして殆ど其の暴を極むるを得しめたれば、竊かに丘明の爲めに之を恥ず。區區たる楚國の子重の徒すら、猶お君の弱く羣臣の先大夫に及ばざるを恥じ、己を厲い眾を戒め、以て陳鄭を服せしめ、越の種蠡すら尚お能く句踐を弼佐し、威を黃池に取る。況んや今、吳土の英賢は肩を比ぶるに、而るに聖主を輔翼し、江を陵ぎて北伐せず。義聲の直を以て、逆暴の羯を討ち、舊邦の士に檄命し、存本の人を招懷せば、豈に風に因りて振落し、坂に頓めて輪を走らすが若からざらんや。且つ孫氏の初め、長沙の眾を以て董卓を摧破するや、漢室を匡さんことを志す。中に寇害に遇い、雅志は遂げざると雖も、其の心誠を原ぬるに、乃ち身命を忽にす。權の揚越に據るに及び、外は周張に杖り、內は顧陸に馮り、魏を赤壁に距ぎ、克ちて襄陽を取る。茲より以降、世主相い襲い、咸な能く徐豫を侵逼し、魏朝をして旰食せしむ。知らず、今の江表は賢儁をして智を匿し、其の勇略を藏さしめんや。將に呂蒙・凌統の高蹤もて曠世ならしめんや。況んや今、凶羯は虐暴にして、中州の人士は逼迫せられて勢は促り、其の顛沛の危、累卵より甚だし。假號の強、眾心の去る所にして、敵に釁有らば、震蕩すべきに易し。王郎・袁術は自ら詐偽すると雖も、皆な基は淺く根は微ければ、禍は踵を旋さざりしは、此れ皆な君侯の聞見する所の者なり。
王司徒は清虛・寡欲にして、己を全くするを善くし、昔、曹參も亦た此の道を崇び、畫一の稱を著すなり。庾公は元舅の尊に居り、申伯の任に處り、超然として高蹈、明智の權あり。廆は寇難の際に於いて、大晉の累世の恩を受くるに、自ら恨むらくは、絕域にして、聖朝に益する無く、徒だ心を萬里に係け、風を望みて憤を懷くのみなることを。今、海內の望、楚漢の輕重を爲すに足る者は、惟だ君侯に在るのみ。若し力を勠わせ心を盡くし、五州の眾を悉くし、兗豫の郊に據り、向義の士をして戈を倒まにして甲を釋かしむれば、則ち羯寇は必ず滅び、國恥は必ず除かれん。廆は一方に在り、敢えて命を竭くさず。孤軍にして輕々しく進むとも、勒をして畏首畏尾せしむるに足らざれば、則ち懷舊の士は內應を爲さんと欲するも、自ら發するに由無きが故なり。故に遠く陳寫するも、言は宣盡せず。
廆の使者、風に遭いて海に沒す。其の後、廆、更めて前箋を寫し、并びに其の東夷校尉の封抽・行遼東相の韓矯等三十餘人の疏を齎らして侃の府に上して曰く
古より國有り家有るに、盛を極めて衰えざるは鮮し。大晉の龍興してより、㟭會を克平し、神武の略、前史に邁蹤す。惠皇の末、后黨は難を構え、禍は京畿に結ばれ、釁は公族に成り、遂に羯寇をして虛に乘じ、諸夏を傾覆せしめ、舊都は淪滅し、山陵は毀掘され、人神は悲悼し、幽明は發憤す。昔、獫狁の強、匈奴の盛、未だ今日の羯寇の暴の如く、華裔を跨躡し、尊號を盜み稱せし者有らざるなり。
天祚は晉に有り、英傑を挺き授く。車騎將軍の慕容廆は、弱冠より國に涖み、王室に忠にして、明允・恭肅、志は勳を立つるに在り。海內の分崩し、皇輿の遷幸するに屬たり、元皇は中興し、初めて大業を唱え、肅祖は統を繼ぎ、江外を蕩平す。廆は限るに山海を以てし、隔つるに羯寇を以てすると雖も、首を翹げ領を引き、心を京師に係け、常に假寤寐し、國を憂え身を忘れんと欲す。貢篚相い尋ぎ、連舟路に載ち、戎は駕を稅かず、動は義舉を成す。今、羯寇は天に滔り、其の醜類を怙み、基を趙魏に樹て、燕齊を跨略す。廆、義眾を率い、大逆を誅討せんと雖も、然るに管仲の齊に相たるも、猶お寵は以て下を御するに足らずと曰う。況んや廆は王室を輔翼し、匡霸の功有るも、而れども位は卑く爵は輕く、九命は未だ加えられざるは、藩翰を寵異し、敦く殊勳を奬むる所以の者に非ざるなり。
方今、詔命は隔絕し、王路は嶮遠にして、貢使の往來、動れば年載を彌る。今、燕の舊壤、北は沙漠を周り、東は樂浪に盡き、西は代山に暨び、南は冀方に極むれども、而れども悉く虜庭と爲り、復た國家の域に非ず。將佐等以爲えらく、宜しく遠くは周室に遵い、近くは漢初に準い、廆を進封して燕王と爲し、大將軍の事を行せしめ、上は以て諸部を總統し、下は以て賊境を割損せしむべし、と。冀州の人をして風を望みて化に向かわしめなば、廆は祗みて詔命を承け、諸國を率合し、辭を奉じて逆を夷らげ、以て桓文の功を成すを得ん。苟くも社稷に利あらば、之を專らにするとも可なり。而れども廆は謙光に固執し、節を守ること彌々高く、詔の加うる所ある每に、讓ること動れば積年なれば、將佐等の能く敦逼する所に非ず。今、區區として陳ぶる所、苟めに相い崇重せんと欲せず、而して愚情至心、實に國計の爲にす。
侃、抽等の書に報ずるに、其の略に曰く「車騎將軍は國を憂え身を忘れ、貢篚は路に載ち、羯賊は和を求むるも、使を執えて之を送り、西は段國を討ち、北は塞外を伐ち、遠く索頭を綏んじ、荒服は以て獻ず。惟だ北部のみ未だ賓わず、屢々遣わして征伐す。又た東方の官號、高下班を齊しくし、進みては統攝の權無く、退きては等差の降無きを知り、車騎を進めて燕王と爲さんと欲し、一二之を具す。夫れ功成りて爵を進むるは、古の成制なり。車騎は未だ官の爲に勒を摧く能わざると雖も、然るに忠義は誠を竭くす。今、牋を騰し聽に上さん。可不・遲速は、當に天臺に任すべきなり」と。朝議未だ定まらざるに、八年、廆卒したれば、乃ち止む。時に年は六十五、位に在ること四十九年。帝、使者を遣わして策して大將軍・開府儀同三司を贈り、諡して襄と曰う。儁の僭號するに及び、武宣皇帝と偽諡す〔一〕。
〔一〕晋を正統とする『晋書』にとっては、晋朝皇帝以外は皇帝ではないので、五胡十六国の諸王朝に関係することには、このように「偽」の字が付される。
(慕容廆が)使者を派遣して太尉の陶侃に送った箋(文書の一種)には次のようにあった。
使君閣下様(=陶侃)は、徳を振るい、威を輝かし、中国を安んじなだめ、文武にわたってお心を注ぎ、軍隊は恙無く、天子を仰ぎ慕い、情を注ぐこといっそう久しくあられます。天子のましますおところまでは遠く険しく、(我らと朝廷とは)燕の地と越の地に隔絶し、長江の岸辺を見るたびに、この辺縁の地にて恐縮するばかりです。
天は艱難を下され、禍害は何度も訪れ、旧都は守ることができず、たちまち胡賊の領地となり、皇帝の身柄は(匈奴漢の首都である平陽に)移されることになり、(晋の)勢力は呉や楚の地に仮に依拠することになりました。大晋が国家の基を開いたとき、その命運は万世にわたって流れることになったので、未だ天命は改まらず、(晋に天命を下す)天文現象は顕著にあらわれており、そこで義烈の士は深く憤慨・勇躍の心を懐いております。私はかたじけなくも功績が薄いのにもかかわらず、国の格別な恩寵を受けることとなりましたが、上は羯賊(石勒)どもを排除することができず、下は自ら国難に馳せ参じることができず、それによって賊臣に好き勝手することを許してしまい、しばしば京師(建康)に迫らせることになってしまいました。(たとえば)先には王敦が禍乱を巻き起こし、後には蘇峻が害毒を好き勝手にふりまき、いずれも凶暴であることは(後漢末の)董卓よりもひどく、悪逆であることは(後漢末の)李傕・郭汜よりも甚だしく、天下全土において、どうしてともに怒らない者がおりましょうか。深く怪しまざるを得ないのは、文武の士が、過度に朝廷の恩寵をこうむりながらも、中原の賊を滅ぼし、天下の恥をすすぐことができないでいることでございます。
あなた様は江北を本拠とし、輝きを荊州・衡山地域に発し、(春秋時代の楚国の)葉公のような権勢を恃みにし、(春秋時代の楚国の)申包胥のような志を有しながらも、(春秋時代の楚国の)白公勝や伍員(伍子胥)のような人物にその暴虐を極めることを大いに許してしまわれたので、(そのことを『春秋左氏伝』に記して戒めた)左丘明のためにも内心それを恥ずかしく思います。(春秋時代の)ちっぽけな楚国の子重(当時の宰相)のような人物でさえも、君主が弱年で群臣が先代の大夫たちに及ばないことを恥じ、己を奮い立たせ、人々を戒め、そうして陳国や鄭国を服従させましたし、(同じくちっぽけな)越国の文種・范蠡ですら越王の句践を補佐し、黄池の会盟の際に(覇者である呉王の夫差を滅ぼして)威を発揮することに成功しました。ましてや今、(楚国や越国より強大な晋の)呉の地の英傑・賢人は肩を並べておりますのに、天子を補佐し、長江を越えて北伐しようとはしておりません。正直なる大義名分を掲げて暴虐なる羯賊(石勒)を討ち、旧国土の士人たちに檄を飛ばして命じ、本土に残っている人々を招き懐かせれば、どうして木の枝にかろうじて残る枯れ葉が風に吹かれて振るい落とされたり、坂に停められた車がひとりでに車輪をまわして転げ落ちていったりというような状態に(羯賊が)ならないことがありましょうか。それに、(三国時代の孫呉の)孫氏の初期に、(孫堅は)長沙郡の人々を率いて董卓をくじき破りましたが、その志は漢室を正そうとすることにありました。途中で賊による殺害の目に遭い、もともとの志を遂げることはできませんでしたが、その心の誠実さを推し量ると、やはり身命を惜しまず戦ったと言えましょう。孫権が揚州・越の地に割拠すると、外は周瑜・張昭に頼り、内は顧雍・陸遜に頼り、魏を赤壁で防ぎ、勝利して襄陽を奪取しました。それ以後、代々の君主が位を継承し、いずれも徐州・豫州に侵攻して迫り、それにより魏朝の皇帝は、政務に励んで遅くに食事を取らなければならないような羽目になりました。それがどうでしょうか。今の江南(東晋)は、賢人・英傑に智を隠させ、その勇略を出し惜しみさせようというのでしょうか。(孫呉の)呂蒙・凌統のような高尚な行跡を空前のものにしてしまおうというのでしょうか。ましてや今、凶悪なる羯賊は暴虐であり、中原の人士たちは逼迫して勢い窮まり、その転覆の危うさは、積み重ねた卵よりも甚だしいものです。自称する号が強すぎると、民衆の心は離れ、そうして敵に落ち度があれば、震動させることは容易なものです。(たとえば、両漢交替期の)王郎・(後漢末の)袁術は自ら天子を僭称しましたが、いずれも基盤が根付いておらず浅く薄かったので、禍がまもなく訪れましたが、それらはいずれもあなた様もご存知のことでしょう。
王司徒(王導)は清らかでかつ虚心であり、欲も少なく、己を保全することを得意とし、昔、(前漢の)曹参もまたこの道を尊び、画一であるとの定評を顕著にしました。庾公(庾亮)は外戚の長としての尊位におり、(西周の)申伯の任にあり、超然として世俗を超脱し、明智の権変を有しています。私は賊の侵略による国難の際に、大晋による累世にわたる恩を受けましたが、自ら恨めしく思うのは、私が絶域におり、聖朝(晋朝)のお役に立つことができず、ただ心を万里の遠くに馳せ、知らせを聞いて憤慨を抱くことしかできないということでございます。今、天下の期待を集め、(秦漢交替期の)楚漢戦争の勝敗の鍵を握った韓信のような立場になり得る者は、ただあなた様だけです。もし力を合わせ心を尽くし、五州の兵衆を総動員し、兗州・豫州の郊外に本拠地を置き、(石勒にやむなく従っている)義に従う士人たちに武器を捨てて鎧を脱がせて帰順させれば、羯賊は必ず滅び、国恥は必ず除かれましょう。私は一地方にあって、これまであえて忠義を尽くして命を捧げることをしませんでした。それは、たとえ私が単独で軽々しく軍を進めても、石勒をちぢこまらせることができなければ、大晋の旧恩を慕う人々が内応しようと思っても、自ら起ち上がるすべがないためでございます。故にこうして遠くから申し述べさせていただきましたが、言葉では言い尽くすことができません。
慕容廆の使者は、風に遭って船ごと海に沈んでしまった。その後、慕容廆は改めて先の箋を写し、さらに(以下に掲載する)その東夷校尉の封抽、行遼東相の韓矯ら三十数人の上疏を添えて送り、陶侃の官府にたてまつった。
古よりいずれの国も家も、繁栄を極めた後に衰えなかったものはほとんどございません。大晋が龍のごとく興隆してからというもの、岷山の地域(蜀漢)や会稽の地域(孫呉)に勝利して平定し、その神武の略は、前史に勝るとも劣らないものでございます。恵皇帝の末年に、賈后の党派が反対派と党争を繰り広げ、禍乱が京師にて巻き起こり、皇族の間で仲違いが起こり、そのまま羯賊にその虚に乗じて諸夏(中国)を転覆させることを許してしまい、旧都は潰滅し、(歴代皇帝や皇后などの)陵墓は破壊されて掘り起こされ、人々も御霊も悲しみ嘆き、生きている者も鬼神も憤慨に駆られることになりました。昔、(西周時代の)獫狁や(前漢時代の)匈奴が強盛でありましたが、それでも今日の暴虐なる羯賊のように、中原を占領し、皇帝の尊号を盗み称するような者はございませんでした。
天の命運は晋にあり、英傑を生みだして(晋に)授けてくれています。車騎将軍の慕容廆は、弱冠の年から国を統治し、皇室に忠実であり、明智・誠信でかつ恭謙で厳粛、その志は勲功を立てることにございます。天下が分裂・崩壊して、皇帝の身柄が(匈奴漢の首都である平陽に)移されることになると、元皇帝は晋朝を中興し、初めて大業を成し、粛祖(明帝)はその皇統を継ぎ、江南を平定なさいました。慕容廆は、山や海、あるいは羯賊によって地が隔絶されているとはいえ、首を長くして京師に心を馳せ、常に衣冠を解かずに寝起きし、国を憂い、身を忘れる思いを懐いております。(東晋への)進貢はあいつぎ、艦隊が水路に満ち、軍隊は厳戒態勢を解かず、その行動は常に義挙を成そうとしております。今、羯賊の勢いは天に溢れわたるほどに盛んで、その悪人仲間を恃みとし、趙や魏の地に基盤を築き、燕や斉の地を占領しております。慕容廆は、義兵を率い、大逆人を誅伐しようとしているとはいえ、しかし、(春秋時代の名宰相である)管仲が斉国の宰相になった際であっても、その管仲に対する恩寵は下々の者を統御するには不足していると言われました。ましてや、慕容廆は皇室を補佐し、晋が覇業を成すのを助けた功績があるにもかかわらず、位は低く爵は軽く、九命(周の制度において最上級の位とされたもの)の待遇がいまだ加えられないのは、藩国に恩寵を加えて礼遇し、格別な勲功のある者を厚く褒め称えるというような行いに反するものです。
今、(東晋からの)詔命は隔絶し、朝廷までの道は険しく遠く、朝貢の使者が往来するにも、ややもすれば何年もかかる場合があります。今、燕の旧土は、北は沙漠に接し、東は楽浪まで達し、西は代山まで及び、南は中原地域まで伸びていますが、いずれも胡賊の占領地となり、もはや国家の領域ではございません。そこで部将や属吏たちは次のように考えています。どうか遠くは周の時代に従い、近くは漢初にならい、慕容廆の爵位を進めて燕王に封じ、大将軍の事務を代行させ、上はそうして諸部を総統させ、下は賊の領域を削り取らせるべきです、と。冀州の人々がそのことを聞いて教化に向かうようになれば、慕容廆はつつしんで詔命をうけ、諸国を合わせ率い、陛下の辞を奉じて逆賊を平らげ、そうして(春秋時代の覇者である)斉の桓公や晋の文公のような功を成すことができましょう。「もし社稷に利益があるのであれば、専ら独断でそのことを行うのもよい」と言います。しかし、慕容廆は(そのような独断を善しとせず)謙遜して徳を輝かせることに固執し、節義を守ることますます高く、詔によって官位や爵位を加えられる際にはいつも、ややもすれば積年にわたって謙譲して受けないというようなありさまですので、そのように(独断で燕王・行大将軍事に就任しろなどと)勧めたり迫ったりすることは、部将や属吏たちにはとうていできることではございません。今、まごころから述べさせていただきましたことは、慕容廆をいいかげんに尊重したいがために申し上げたのではなく、誠心誠意、実に国家の大計のために申し上げたのでございます。
陶侃は、封抽らの書に返答したが、その概略は次の通りであった。「車騎将軍(慕容廆)は国を憂い、身を忘れ、進貢の列は路に満ち、羯賊が和平を求めてもその使者を捕らえてその身柄を送ってよこし、西は段氏の国を討ち、北は長城の外側の夷狄を伐ち、遠く索頭を綏撫し、それによって荒服の地域(辺境地帯)は貢献の使者をよこすようになった。ただ北部のみがまだ従わず、しばしば軍を派遣して征伐を行っている。また、東方(慕容廆の支配領域である遼東周辺の地域)の諸官の官号について、(実質的には上下の立場にあっても、その)上下の者の班位が同等であり、進んではそれらの諸官を統合する権限がなく、引いては位の上下の差異が無いことを理解し、(東方の官僚たちは)車騎将軍(慕容廆)の位を進めて燕王に据えようとし、一々そのことを申し述べてきた。そもそも功績を成せば爵を進めるのは、古来の定制である。車騎将軍は、まだ朝廷のために石勒をくじくことができていないとはいえ、しかしその忠義は至誠である。今、箋(文書の一種)をたてまつって陛下のお耳に入れよう。その可否や、返答の遅い早いは、中央次第となろう」と。朝議がまだ定まらないうちに、咸和八年(三三三)に慕容廆が死去したので、そこでその議論は取りやめとなった。時に六十五歳であり、在位は四十九年であった。成帝は使者を派遣して策書を下して慕容廆に大将軍・開府儀同三司の位を追贈し、「襄公」という諡号を授けた。慕容儁が皇帝を僭称すると、慕容廆に「武宣皇帝」という謚号を贈った。
裴嶷、字文冀、河東聞喜人也。父昶、司隸校尉。嶷清方有幹略、累遷至中書侍郎、轉給事黃門郎・滎陽太守。屬天下亂、嶷兄武先爲玄菟太守、嶷遂求爲昌黎太守。至郡、久之、武卒、嶷被徵、乃將武子開送喪俱南。既達遼西、道路梗塞、乃與開投廆。時諸流寓之士見廆草創、並懷去就。嶷首定名分、爲羣士啟行。廆甚悅、以嶷爲長史、委以軍國之謀。
及悉獨官寇逼城下、外內騷動。廆問策於嶷、嶷曰「悉獨官雖擁大眾、軍無號令、眾無部陣、若簡精兵乘其無備、則成擒耳。」廆從之、遂陷寇營。廆威德於此甚振。將遣使獻捷於建鄴、妙簡行人、令嶷將命。
初、朝廷以廆僻在荒遠、猶以邊裔之豪處之。嶷既使至、盛言廆威略。又知四海英賢並爲其用、舉朝改觀焉。嶷將還、帝試留嶷以觀之、嶷辭曰「臣世荷朝恩、濯纓華省、因事遠寄、投迹荒遐。今遭開泰、得覩朝廷、復賜恩詔、即留京輦、於臣之私、誠爲厚幸。顧以皇居播遷、山陵幽辱、慕容龍驤將軍越在遐表、乃心王室、慷慨之誠、義感天地、方掃平中壤、奉迎皇輿、故遣使臣、萬里表誠。今若留臣、必謂國家遺其僻陋、孤其丹心、使懷義懈怠。是以微臣區區忘身爲國、貪還反命耳。」帝曰「卿言是也。」乃遣嶷還。廆後謂羣僚曰「裴長史名重中朝、而降屈于此、豈非天以授孤也。」出爲遼東相、轉樂浪太守。
裴嶷、字は文冀、河東・聞喜の人なり。父の昶、司隸校尉たり。嶷、清方にして幹略有り、累りに遷りて中書侍郎に至り、給事黃門郎・滎陽太守に轉ず。天下の亂るるに屬たり、嶷の兄の武、先に玄菟太守と爲りたれば、嶷、遂に求めて昌黎太守と爲る。郡に至るや、之を久しくして、武は卒し、嶷は徵を被けたれば、乃ち武の子の開を將いて喪を送りて俱に南す。既に遼西に達するや、道路は梗塞したれば、乃ち開と與に廆に投ず。時に諸流寓の士、廆の草創を見るや、並びに去就を懷く。嶷、首めに名分を定め、羣士の爲に啟行す。廆、甚だ悅び、嶷を以て長史と爲し、委ぬるに軍國の謀を以てす。
悉獨官の城下に寇逼するに及び、外內は騷動す。廆、策を嶷に問うに、嶷曰く「悉獨官は大眾を擁すると雖も、軍に號令無く、眾に部陣無ければ、若し精兵を簡びて其の備え無きに乘ぜば、則ち擒と成るのみ」と。廆、之に從い、遂に寇營を陷す。廆の威德は此に於いて甚だ振るう。將に使を遣わして捷を建鄴に獻ぜんとするや、行人を妙簡し、嶷をして命を將わしむ。
初め、朝廷は廆の荒遠に僻在するを以て、猶お邊裔の豪を以て之を處す。嶷、既に使して至るや、盛んに廆の威略を言す。又た四海の英賢の並びに其の用を爲すを知り、朝を舉げて改めて焉を觀る。嶷の將に還らんとするや、帝、試みに嶷を留めんとして以て之を觀るに、嶷、辭して曰く「臣は世々朝恩を荷り、纓を華省に濯うも、事に因りて遠寄し、迹を荒遐に投ず。今、開泰に遭い、朝廷を覩うを得、復た恩詔を賜り、即ち京輦に留めんとするは、臣の私に於いて、誠に厚幸と爲す。顧みて以うに、皇居は播遷し、山陵は幽辱せられ、慕容龍驤將は遐表に越在し、乃心は王室にあり、慷慨の誠、義は天地を感ぜしめ、方に中壤を掃平し、皇輿を奉迎せんとすれば、故に使臣を遣わし、萬里に誠を表ず。今、若し臣を留めなば、必ず國家は其の僻陋を遺て、其の丹心に孤けりと謂い、懷義をして懈怠せしめん。是こを以て微臣は區區として身を忘れ國の爲にし、貪りて還りて反命せんのみ」と。帝曰く「卿の言、是なり」と。乃ち嶷を遣りて還す。廆、後に羣僚に謂いて曰く「裴長史、名は中朝に重けれども、而れども降りて此に屈するは、豈に天の以て孤に授くるに非ざらんや」と。出でて遼東相と爲り、樂浪太守に轉ず。
裴嶷は、字を文冀と言い、河東郡・聞喜の人である。父の裴昶は、司隷校尉にまで上った。裴嶷は清廉・方正であり、才幹と智略を有し、(西晋において)何度も昇進して中書侍郎に至り、給事黄門郎に転任し、滎陽太守に任じられた。天下が乱れると、ちょうど裴嶷の兄の裴武がそれに先立って玄菟太守となっていたので、そこで裴嶷は(玄菟郡の近隣である)昌黎太守の位を求めてそれに就任した。昌黎郡に着任すると、しばらくして裴武が死去し、裴嶷自身も徴召を受けたので、そこで裴武の子の裴開を連れて裴武の遺体を送るべく一緒に南下した。遼西にたどり着くと、それ以上南下する道が塞がれていたので、そこで裴開と一緒に慕容廆に帰順した。時に流浪して寓居していた諸々の士人たちは、慕容廆が創業するのを見ると、みな身の去就について考えた。裴嶷は先頭に立って名分を定め、諸々の士人たちのために道を切り開いた。慕容廆は、非常に喜び、裴嶷を長史に任じ、軍事・国政双方の謀略を委ねた。
宇文悉独官が城下に迫ると、内外の者は動揺して騒いだ。慕容廆が策を裴嶷に問うと、裴嶷は言った。「宇文悉独官は大軍を擁しているとは言いましても、軍中には軍令がしっかりとしかれておらず、兵衆には隊伍の整備が無いので、もし精鋭の兵士をえりすぐってその無防備に乗じれば、捕虜とすることができましょう」と。慕容廆はそれに従い、そうして賊の軍営を陥落させた。慕容廆の威徳はそれによって非常に振興した。使者を派遣して(東晋の首都である)建鄴に戦勝報告を行おうとした際、慕容廆は使者を厳選し、裴嶷に命を奉じさせることにした。
初め、朝廷は、慕容廆が遠く僻地にいることから、単なる辺境の一介の豪傑として慕容廆を扱っていた。しかし、裴嶷が使者として建鄴に到着すると、盛んに慕容廆の威勢や智略について述べた。また、天下の英傑・賢者たちがみな慕容廆のためにその力になっていることが分かると、朝廷の人々はみなこぞって改めて慕容廆のことを見直した。裴嶷が帰還しようとした際、元帝は裴嶷を都に留めようと試み、そこで裴嶷に面会したところ、裴嶷は辞退して言った。「私は代々朝廷のご恩をこうむり、高貴な役所で冠のひもを洗っておりました(=高官の地位につけさせていただいておりました)が、諸々の事情によって世の外にいることになり、辺境の地に身を投じました。今、朝廷が安泰を開くのにめぐりあい、こうして朝廷を目にすることができ、また恩詔を賜わり、私を都にお留めなされようとしているのは、私の私的な感情としましては、まことに厚き幸いでございます。しかし、顧みて思いますに、皇帝のまします御所は遠くにお移りになり、(歴代皇帝等の)陵墓は辱めを受け、そこで慕容龍驤将軍(慕容廆)は遠く辺縁にありながらも、その心を皇室に尽くし、誠心により憤激し、その義は天地を感応させ、ちょうど中原を掃討・平定し、陛下の乗輿を奉迎しようと思えばこそ、故にこうして私を使者として派遣し、万里の遠くに忠誠を表明することにしたのです。今、もし私をお留めになってしまえば、必ずや彼らは、国家はその辺縁の地を捨て、その忠誠心を裏切ったのだと考え、義を懐く心を懈怠させてしまうことでしょう。だからこそ私は、誠心誠意を尽くし、身を忘れ、国家のためにも、結果を報告しに帰ることをお許しいただきたいのでございます」と。元帝は言った。「そなたの言葉はもっともである」と。そこで裴嶷を解放して帰した。慕容廆は、後に属僚たちに対して言った。「裴長史(裴嶷)は、その名声は中朝(西晋)においてすでに重かったが、しかし私に帰順して腰を低くしているのは、きっと天が私に裴長史を授けてくれたということに違いない」と。裴嶷は(慕容廆の軍府の属吏から)外に出て(慕容廆の領域下の)遼東相となり、やがて楽浪太守に転任した。
高瞻字子前、渤海蓨人也。少而英爽有俊才、身長八尺二寸。光熙中、調補尚書郎。屬永嘉之亂、還鄉里、乃與父老議曰「今皇綱不振、兵革雲擾、此郡沃壤、憑固河海、若兵荒歲儉、必爲寇庭、非謂圖安之所。王彭祖先在幽薊、據燕代之資、兵強國富、可以託也。諸君以爲何如。」眾咸善之。乃與叔父隱率數千家北徙幽州。既而以王浚政令無恒、乃依崔毖、隨毖如遼東。
毖之與三國謀伐廆也、瞻固諫以爲不可、毖不從。及毖奔敗、瞻隨眾降于廆。廆署爲將軍、瞻稱疾不起。廆敬其姿器、數臨候之、撫其心曰「君之疾在此、不在餘也。今天子播越、四海分崩、蒼生紛擾、莫知所係。孤思與諸君匡復帝室、翦鯨豕于二京、迎天子於吳會、廓清八表、侔勳古烈。此孤之心也、孤之願也。君中州大族、冠冕之餘、宜痛心疾首、枕戈待旦。柰何以華夷之異、有懷介然。且大禹出于西羌、文王生于東夷、但問志略何如耳。豈以殊俗不可降心乎。」瞻仍辭疾篤、廆深不平之。瞻又與宋該有隙、該陰勸廆除之。瞻聞其言、彌不自安、遂以憂死。
高瞻、字は子前、渤海蓨の人なり。少くして英爽にして俊才有り、身長は八尺二寸。光熙中、調せられて尚書郎に補せらる。永嘉の亂に屬たり、鄉里に還るや、乃ち父老と議して曰く「今、皇綱は振わず、兵革は雲擾するに、此の郡は沃壤にして、河海に憑り固めらるれば、若し兵荒にして歲儉ならば、必ずや寇庭と爲り、安きを圖るの所と謂うに非ず。王彭祖は先に幽薊に在り、燕代の資に據り、兵は強く國は富み、以て託すべきなり。諸君、以爲うに何如」と。眾は咸な之を善しとす。乃ち叔父の隱と與に數千家を率いて北のかた幽州に徙る。既にして王浚の政令の恒無きを以て、乃ち崔毖に依り、毖に隨いて遼東に如く。
毖の三國と與に廆を伐たんと謀るや、瞻、固く諫めて以て不可と爲すも、毖は從わず。毖の奔敗するに及び、瞻、眾に隨いて廆に降る。廆、署して將軍と爲すも、瞻、疾と稱して起たず。廆、其の姿器を敬い、數々臨みて之を候い、其の心を撫して曰く「君の疾は此に在り、餘に在らざるなり。今、天子は播越し、四海は分崩し、蒼生は紛擾し、係る所を知る莫し。孤、諸君と與に帝室を匡し復し、鯨豕を二京に翦ぼし、天子を吳會より迎え、八表を廓清し、勳を古烈に侔しくせんことを思う。此れ孤の心なり、孤の願いなり。君は中州の大族にして、冠冕の餘なれば、宜しく心を痛め首を疾まし、戈を枕にして旦を待つべし。柰何ぞ華夷の異を以て、懷を有つこと介然たらんや。且つ大禹は西羌より出で、文王は東夷に生まるれば、但だ志略の何如を問うのみ。豈に俗の殊なるを以て心を降すべからざらんや」と。瞻、仍お疾篤しと辭したれば、廆、深く之を不平とす。瞻、又た宋該と隙有り、該、陰かに廆に之を除かんことを勸む。瞻、其の言を聞き、彌々自ら安んぜず、遂に憂いを以て死す。
高瞻は、字を子前と言い、渤海郡・蓨の人である。若い頃から英俊・豪爽で、卓越した才能があり、身長は八尺二寸(約198㎝)であった。(恵帝の)光熙年間、尚書郎に叙任された。永嘉の乱が起こり、郷里に帰ると、そこで父老たちと議して言った。「今、朝廷の綱紀は振るわず、戦乱があちこちで巻き起こっているが、この郡は肥沃な土地であり、黄河や海に囲まれて固く守られているため、もし戦乱により飢饉となり、凶作となれば、必ずや賊の占領地となるに違いなく、安泰を図る場所であるとは言えない。王彭祖(王浚)は先に幽州の薊に拠点を置き、燕や代の地の資源に依拠し、兵は強く国は富んでおり、身を寄せるのに絶好である。諸君はいかがお考えか」と。人々はみなそれを善しとした。そこで叔父の高隠と一緒に数千家を率いて北行して幽州に移住した。王浚の政令が乱れて常無き状態になると、そこで崔毖のもとに身を寄せ、崔毖に随行して遼東に赴いた。
崔毖が(高句麗等の)三国と一緒に慕容廆を討とうと謀ると、高瞻は、それはならないと固く諫めたが、崔毖は従わなかった。崔毖が敗れて出奔すると、高瞻は人々に従って慕容廆に降った。慕容廆は高瞻を将軍に任じたが、高瞻は病と称して起ち上がらなかった。慕容廆は、その資質と才器を敬い、しばしば自ら足を運んで高瞻を訪ね、その心臓附近を手でさすって言った。「君の病はここにあり、その他の場所にはないはずだ。今、天子は流亡し、天下は分裂・崩壊し、民衆は混乱し、誰を頼れば良いのかも分からない状況である。私は、諸君とともに帝室を正し復興させ、鯨や豚のような悪逆で欲深い者どもを(洛陽・長安の)二京から駆逐して滅ぼし、(東晋の)天子を呉や会稽の地から迎え入れ、八方の外側まで清め正し、古の義烈の士に並ぶ勲功を立てようと思っている。それこそが私の心であり、私の願いである。君は中原の大族の出身で、代々官僚を輩出した家柄の一員であるから、どうか心を痛め、頭を悩ませ、戈を枕にして(報復の心を忘れず)夜明けを待つような心持ちであるべきである。なのに、どうして我らが華人(漢族)と夷人で異なるからと言って、こうも高潔な心を保とうとするのか。それに、かの偉大なる(夏の)禹王は西羌の出身であり、かの(周の)文王は東夷で生まれたのであるから、(華人なのか夷人なのかという出自ではなく)志や才略の如何が問われるべきであろう。どうして、習俗が異なるからといって、心を降すことができないなどということがあろうか」と。高瞻は、なお病が篤いからと言って辞退したので、慕容廆はそれを深く不満に思った。高瞻はさらに宋該と折り合いが悪く、宋該はひそかに慕容廆に対して高瞻を排除するよう勧めた。高瞻はその話を聞き、ますます自ら不安になり、そのまま憂いのために死去した。