いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第九巻_前燕_慕容皝(慕容翰・陽裕)

翻訳者:山田龍之
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慕容皝

原文

慕容皝、字元真、廆第三子也。龍顏版齒、身長七尺八寸。雄毅多權略、尚經學、善天文。廆爲遼東公、立爲世子。建武初、拜爲冠軍將軍・左賢王、封望平侯、率眾征討、累有功。太寧末、拜平北將軍、進封朝鮮公。廆卒、嗣位、以平北將軍行平州刺史、督攝部内。尋而宇文乞得龜爲其別部逸豆歸所逐、奔死於外、皝率騎討之。逸豆歸懼而請和、遂築榆陰・安晉二城而還。
初、皝庶兄建威翰驍武有雄才、素爲皝所忌、母弟征虜仁・廣武昭並有寵於廆、皝亦不平之。及廆卒、並懼不自容。至此、翰出奔段遼、仁勸昭舉兵廢皝。皝殺昭、遣使按檢仁之虛實、遇仁於險瀆。仁知事發、殺皝使、東歸平郭。皝遣其弟建武幼・司馬佟壽等討之。仁盡眾距戰、幼等大敗、皆沒於仁。襄平令王冰・將軍孫機以遼東叛于皝、東夷校尉封抽・護軍乙逸・遼東相韓矯・玄菟太守高詡等棄城奔還。仁於是盡有遼左之地、自稱車騎將軍・平州刺史・遼東公。宇文歸・段遼及鮮卑諸部並爲之援。
咸和九年、皝遣其司馬封弈攻鮮卑木堤于白狼、揚威淑虞攻烏丸悉羅侯於平堈、皆斬之。材官劉佩攻乙連、不克、段遼遂寇徒河。皝將張萌逆擊、敗之。遼弟蘭與翰寇柳城。都尉石琮擊敗之。旬餘、蘭・翰復圍柳城、皝遣寧遠慕容汗及封弈等救之。皝戒汗曰「賊眾氣銳、難與爭鋒、宜顧萬全、慎勿輕進、必須兵集陣整、然後擊之。」汗性驍銳、遣千餘騎爲前鋒而進。封弈止之、汗不從、爲蘭所敗、死者太半。蘭復攻柳城、爲飛梯・地道、圍守二旬。石琮躬勒將士出擊、敗之、斬首千五百級、蘭乃遁歸。
是歲、成帝遣謁者徐孟・閭丘幸等持節拜皝鎮軍大將軍・平州刺史・大單于・遼東公、持節・都督・承制封拜、一如廆故事。
皝自征遼東、克襄平。仁所署居就令劉程以城降、新昌人張衡執縣宰以降。於是斬仁所置守宰、分徙遼東大姓於棘城、置和陽・武次・西樂三縣而歸。
咸康初、遣封弈襲宇文別部涉奕于、大獲而還。涉奕于率騎追戰于渾水、又敗之。皝將乘海討仁、羣下咸諫以、海道危阻、宜從陸路。皝曰「舊海水無凌、自仁反已來、凍合者三矣。昔漢光武因滹沱之冰以濟大業。天其或者欲吾乘此而克之乎。吾計決矣。有沮謀者斬。」乃率三軍從昌黎踐凌而進。仁不虞皝之至也、軍去平郭七里、候騎乃告、仁狼狽出戰、爲皝所擒。殺仁而還。
立藉田於朝陽門東、置官司以主之。
段遼遣其將李詠夜襲武興、遇雨、引還。都尉張萌追擊、擒詠。段蘭擁眾數萬屯于曲水亭、將攻柳城、宇文歸入寇安晉、爲蘭聲援。皝以步騎五萬擊之。師次柳城、蘭・歸皆遁。遣封弈率輕騎追擊、敗之、收其軍實、館穀二旬而還。謂諸將曰「二虜恥無功而歸、必復重至、宜於柳城左右設伏以待之。」遣封弈率騎潛于馬兜山諸道。俄而遼騎果至、弈夾擊、大敗之、斬其將榮保。遣兼長史劉斌・郎中令陽景送徐孟等歸于京師。使其世子儁伐段遼諸城、封弈攻宇文別部、皆大捷而歸。
立納諫之木、以開讜言之路。
後徙昌黎郡、築好城於乙連東、使將軍蘭勃戍之、以逼乙連。又城曲水、以爲勃援。乙連饑甚、段遼輸之粟。蘭勃要擊獲之。遼遣將屈雲攻興國、與皝將慕容遵大戰於五官水上、雲敗、斬之、盡俘其眾。
封弈等以皝任重位輕、宜稱燕王。皝於是以咸康三年僭即王位、赦其境内。以封弈爲國相、韓壽爲司馬、裴開・陽騖・王㝢・李洪・杜羣・宋該・劉瞻・石琮・皇甫真・陽協・宋晃・平熙・張泓等並爲列卿將帥。起文昌殿、乘金根車、駕六馬、出入稱警蹕。以其妻段氏爲王后、世子儁爲太子、皆如魏武・晉文輔政故事。
皝以段遼屢爲邊患、遣將軍宋回稱藩于石季龍、請師討遼。季龍於是總眾而至。皝率諸軍攻遼令支以北諸城、遼遣其將段蘭來距、大戰、敗之、斬級數千、掠五千餘戸而歸。季龍至徐無、遼奔密雲山。季龍進入令支、怒皝之不會師也、進軍擊之、至于棘城、戎卒數十萬、四面進攻、郡縣諸部叛應季龍者三十六城。相持旬餘、左右勸皝降。皝曰「孤方取天下、何乃降人乎。」遣子恪等率騎二千、晨出擊之。季龍諸軍驚擾、棄甲而遁。恪乘勝追之、斬獲三萬餘級、築戍凡城而還。段遼遣使詐降於季龍、請兵應接。季龍遣其將麻秋率眾迎遼。恪伏精騎七千於密雲山、大敗之、獲其司馬陽裕・將軍鮮于亮、擁段遼及其部眾以歸。
帝又遣使進皝爲征北大將軍・幽州牧、領平州刺史、加散騎常侍、增邑萬戸、持節・都督・單于・公如故。
皝前軍帥慕容評敗季龍將石成等于遼西、斬其將呼延晃・張支、掠千餘戸以歸。段遼謀叛、皝誅之。
季龍又使石成入攻凡城、不克、進陷廣城。皝雖稱燕王、未有朝命、乃遣其長史劉祥獻捷京師、兼言權假之意、并請大舉討平中原。又聞庾亮薨、弟冰・翼繼爲將相、乃表曰

臣究觀前代昏明之主、若能親賢並建、則功致升平、若親黨后族、必有傾辱之禍。是以周之申伯號稱賢舅、以其身藩于外、不握朝權。降及秦昭、足爲令主、委信二舅、幾至亂國。逮于漢武、推重田蚡、萬機之要、無不決之。及蚡死後、切齒追恨。成帝闇弱、不能自立、内惑艷妻、外恣五舅、卒令王莽坐取帝位。每覽斯事、孰不痛惋。設使舅氏賢若穰侯・王鳳、則但聞有二臣、不聞有二主。若其不才、則有竇憲・梁冀之禍。凡此成敗、亦既然矣。苟能易軌、可無覆墜。
陛下命世天挺、當隆晉道、而遭國多難、殷憂備嬰、追述往事、至今楚灼。迹其所由、實因故司空亮居元舅之尊、勢業之重、執政裁下、輕侮邊將、故令蘇峻・祖約不勝其忿、遂致敗國、至令太后發憤、一旦升遐。若社稷不靈、人神無助、豺狼之心當可極邪。前事不忘、後事之表、而中書監・左將軍冰等内執樞機、外擁上將、昆弟並列、人臣莫疇。陛下深敦渭陽、冰等自宜引領。臣常謂世主若欲崇顯舅氏、何不封以藩國、豐其祿賜、限其勢利、使上無偏優、下無私論。如此、榮辱何從而生。噂𠴲何辭而起。往者惟亮一人、宿有名望、尚致世變、況今居之者素無聞焉。且人情易惑、難以戸告、縱令陛下無私於彼、天下之人誰謂不私乎。
臣與冰等名位殊班、出處懸邈、又國之戚昵、理應降悅、以適事會。臣獨矯抗此言者、上爲陛下、退爲冰計、疾苟容之臣、坐鑒得失。顛而不扶、焉用彼相。昔徐福陳霍氏之戒、宣帝不從、至令忠臣更爲逆族、良由察之不審、防之無漸。臣今所陳、可謂防漸矣。但恐陛下不明臣之忠、不用臣之計、事過之日、更處焦爛之後耳。昔王章・劉向每上封事、未嘗不指斥王氏、故令二子或死或刑。谷永・張禹依違不對、故容身苟免、取譏於世。臣被髮殊俗、位爲上將、夙夜惟憂、罔知所報、惟當外殄寇讐、内盡忠規、陳力輸誠、以答國恩。臣若不言、誰當言者。

又與冰書曰

君以椒房之親、舅氏之昵、總據樞機、出内王命、兼擁列將州司之位、昆弟網羅、顯布畿甸。自秦漢以來、隆赫之極、豈有若此者乎。以吾觀之、若功就事舉、必享申伯之名、如或不立、將不免梁竇之迹矣。
每覩史傳、未嘗不寵恣母族、使執權亂朝、先有殊世之榮、尋有負乘之累、所謂「愛之適足以爲害。」吾常忿歷代之主、不盡防萌終寵之術。何不業以一土之封、令藩國相承、如周之齊陳。如此則永保南面之尊、復何黜辱之憂乎。竇武・何進好善虛己、賢士歸心、雖爲閹豎所危、天下嗟痛、猶有能履以不驕、圖國亡身故也。
方今四海有倒懸之急、中夏逋僭逆之寇、家有漉血之怨、人有復讎之憾、寧得安枕逍遙、雅談卒歲邪。吾雖寡德、過蒙先帝列將之授、以數郡之人、尚欲并吞強虜、是以自頃迄今、交鋒接刃、一時務農、三時用武、而猶師徒不頓、倉有餘粟、敵人日畏、我境日廣。況乃王者之威、堂堂之勢、豈可同年而語哉。

冰見表及書甚懼、以其絕遠、非所能制、遂與何充等奏聽皝稱燕王。
其年皝伐高句麗、王釗乞盟而還。明年、釗遣其世子朝於皝。

訓読

慕容皝、字は元真、廆の第三子なり。龍顏にして版齒、身長は七尺八寸。雄毅にして權略多く、經學を尚び、天文を善くす。廆の遼東公と爲るや、立てて世子と爲す。建武の初め、拜せられて冠軍將軍・左賢王と爲り、望平侯に封ぜられ、眾を率いて征討し、累りに功有り。太寧の末、平北將軍に拜せられ、封を朝鮮公に進めらる。廆の卒するや、位を嗣ぎ、平北將軍を以て平州刺史を行し、部内を督攝す。尋いで宇文乞得龜の其の別部の逸豆歸の逐う所と爲り、奔りて外に死するや、皝、騎を率いて之を討つ。逸豆歸は懼れて和を請いたれば、遂に榆陰・安晉二城を築きて還る。
初め、皝の庶兄の建威の翰は驍武にして雄才有り、素より皝の忌む所と爲り、母弟の征虜の仁・廣武の昭は並びに廆に寵有り、皝、亦た之を不平とす。廆の卒するに及び、並びに懼れて自ら容れず。此に至り、翰は段遼に出奔し、仁は昭に兵を舉げて皝を廢せんことを勸む。皝、昭を殺し、使を遣わして仁の虛實を按檢せしめ、仁に險瀆に遇う。仁、事の發せしを知り、皝の使を殺し、東のかた平郭に歸る。皝、其の弟の建武の幼・司馬の佟壽等を遣わして之を討たしむ。仁、眾を盡くして距ぎ戰い、幼等は大いに敗れ、皆な仁に沒す。襄平令の王冰・將軍の孫機、遼東を以て皝に叛き、東夷校尉の封抽・護軍の乙逸・遼東相の韓矯・玄菟太守の高詡等、城を棄てて奔り還る。仁、是に於いて盡く遼左の地を有し、自ら車騎將軍・平州刺史・遼東公を稱す。宇文歸・段遼及び鮮卑の諸部は並びに之が援を爲す。
咸和九年、皝、其の司馬の封弈を遣わして鮮卑の木堤を白狼に攻めしめ、揚威の淑虞をして烏丸の悉羅侯を平堈に攻めしめ、皆な之を斬る。材官の劉佩、乙連を攻むるも、克たざれば、段遼、遂に徒河に寇す。皝の將の張萌、逆え擊ち、之を敗る。遼の弟の蘭、翰と與に柳城に寇す。都尉の石琮、擊ちて之を敗る。旬餘、蘭・翰の復た柳城を圍むや、皝、寧遠の慕容汗及び封弈等を遣わして之を救わしむ。皝、汗を戒めて曰く「賊眾は氣銳く、與に鋒を爭うに難ければ、宜しく萬全を顧み、慎みて輕々しく進む勿く、必ず兵の集い陣の整うを須ち、然る後に之を擊つべし」と。汗は性驍銳にして、千餘騎を遣わして前鋒と爲して進む。封弈、之を止むるも、汗は從わず、蘭の敗る所と爲り、死者は太半。蘭、復た柳城を攻め、飛梯・地道を爲り、圍守すること二旬。石琮、躬ら將士を勒して出擊し、之を敗り、首を斬ること千五百級、蘭は乃ち遁れ歸る。
是の歲、成帝、謁者の徐孟・閭丘幸等を遣わして節を持たしめて皝を鎮軍大將軍・平州刺史・大單于・遼東公に拜し、持節・都督・承制封拜は、一に廆の故事の如くす。
皝、自ら遼東を征し、襄平に克つ。仁の署する所の居就令の劉程、城を以て降り、新昌の人の張衡、縣宰を執えて以て降る。是に於いて仁の置く所の守宰を斬り、遼東の大姓を棘城に分徙し、和陽・武次・西樂の三縣を置きて歸る。
咸康の初め、封弈を遣わして宇文の別部の涉奕于を襲わしめ、大いに獲えて還る。涉奕于、騎を率いて追いて渾水に戰うも、又た之を敗る。皝の將に海に乘りて仁を討たんとするや、羣下咸な諫めて以えらく、海道は危阻なれば、宜しく陸路よりすべし、と。皝曰く「舊と海水に凌無し、仁の反してより已來、凍合すること三たびなり。昔、漢の光武は滹沱の冰るに因りて以て大業を濟す。天、其れ或いは吾の此に乘じて之に克つを欲せんや。吾が計は決せり。沮謀有る者は斬とす」と。乃ち三軍を率いて昌黎より凌を踐みて進む。仁、皝の至れるを虞らざるに、軍の平郭を去ること七里にして、候騎乃ち告げたれば、仁は狼狽して出でて戰うも、皝の擒とする所と爲る。仁を殺して還る。
藉田を朝陽門の東に立て、官司を置きて以て之を主らしむ。
段遼、其の將の李詠を遣わして夜に武興を襲わしむるも、雨に遇い、引きて還る。都尉の張萌、追擊し、詠を擒にす。段蘭、眾數萬を擁して曲水亭に屯し、將に柳城を攻めんとするや、宇文歸、入りて安晉に寇し、蘭の爲に聲援す。皝、步騎五萬を以て之を擊つ。師の柳城に次するや、蘭・歸は皆な遁る。封弈を遣わして輕騎を率いて追擊せしめ、之を敗り、其の軍實を收め、館穀すること二旬にして還る。諸將に謂いて曰く「二虜は功無くして歸りしを恥じ、必ずや復た重ねて至れば、宜しく柳城の左右に於いて伏を設けて以て之を待つべし」と。封弈を遣わして騎を率いて馬兜山の諸道に潛ましむ。俄にして遼の騎、果たして至れば、弈は夾擊し、大いに之を敗り、其の將の榮保を斬る。兼長史の劉斌・郎中令の陽景を遣わして徐孟等を送りて京師に歸さしむ。其の世子の儁をして段遼の諸城を伐たしめ、封弈をして宇文の別部を攻めしめ、皆な大いに捷ちて歸る。
納諫の木を立て、以て讜言の路を開く。
後に昌黎郡に徙り、好城を乙連の東に築き、將軍の蘭勃をして之を戍らしめ、以て乙連に逼る。又た曲水に城き、以て勃の援と爲す。乙連、饑うること甚だしければ、段遼、之に粟を輸る。蘭勃、要え擊ちて之を獲。遼、將の屈雲を遣わして興國を攻めしめ、皝の將の慕容遵と大いに五官水の上に戰うも、雲は敗れ、之を斬り、盡く其の眾を俘にす。
封弈等以えらく、皝は、任は重きも位は輕ければ、宜しく燕王を稱すべし、と。皝、是に於いて咸康三年を以て王位に僭即し、其の境内に赦す。封弈を以て國相と爲し、韓壽もて司馬と爲し、裴開・陽騖・王㝢・李洪・杜羣・宋該・劉瞻・石琮・皇甫真・陽協・宋晃・平熙・張泓等もて並びに列卿・將帥と爲す。文昌殿を起て、金根車に乘り、駕は六馬、出入するに警蹕を稱す。其の妻の段氏を以て王后と爲し、世子の儁もて太子と爲すこと、皆な魏武・晉文の輔政の故事の如くす。
皝、段遼の屢々邊患を爲すを以て、將軍の宋回を遣わして藩を石季龍に稱し、師を請いて遼を討たんとす。季龍、是に於いて眾を總べて至る。皝、諸軍を率いて遼の令支以北の諸城を攻め、遼は其の將の段蘭を遣わして來り距ぎ、大いに戰いて之を敗り、斬級は數千、五千餘戸を掠めて歸る。季龍、徐無に至るや、遼、密雲山に奔る。季龍、進みて令支に入り、皝の師を會さざるを怒るや、進軍して之を擊ち、棘城に至り、戎卒は數十萬、四面より進攻し、郡縣諸部の叛して季龍に應ずる者は三十六城。相い持すること旬餘、左右は皝に降らんことを勸む。皝曰く「孤は方に天下を取らんとするに、何ぞ乃ち人に降らんや」と。子の恪等を遣わして騎二千を率い、晨に出でて之を擊たしむ。季龍の諸軍は驚擾し、甲を棄てて遁る。恪、勝ちに乘じて之を追い、斬獲すること三萬餘級、戍を凡城に築きて還る。段遼、使を遣わして詐りて季龍に降り、兵を請いて應接す。季龍、其の將の麻秋を遣わして眾を率いて遼を迎えしむ。恪、精騎七千を密雲山に伏せ、大いに之を敗り、其の司馬の陽裕・將軍の鮮于亮を獲え、段遼及び其の部眾を擁して以て歸る。
帝、又た使を遣わして皝を進めて征北大將軍・幽州牧と爲し、平州刺史を領せしめ、散騎常侍を加え、邑を增すこと萬戸、持節・都督・單于・公は故の如くす。
皝の前軍帥の慕容評、季龍の將の石成等を遼西に敗り、其の將の呼延晃・張支を斬り、千餘戸を掠めて以て歸る。段遼の謀叛するや、皝、之を誅す。
季龍、又た石成をして入りて凡城を攻めしむるも、克たず、進みて廣城を陷す。皝、燕王を稱すと雖も、未だ朝命有らざれば、乃ち其の長史の劉祥を遣わして捷を京師に獻ぜしめ、兼ねて權假の意を言し、并びに大舉して中原を討平せんことを請う。又た庾亮の薨じ、弟の冰・翼の繼ぎて將相と爲るを聞き、乃ち表して曰く

臣、前代の昏明の主を究觀するに、若し能く賢に親しみ並びに建つれば、則ち功は升平を致し、若し后族に親黨すれば、必ず傾辱の禍有り。是こを以て周の申伯は號して賢舅と稱し、其の身を以て外に藩し、朝權を握らず。降りて秦昭に及び、令主と爲すに足るも、二舅に委信して、幾ど亂國に至る。漢武に逮び、推して田蚡を重んじ、萬機の要、之に決せざるは無きに、蚡の死後に及び、切齒して追恨す。成帝は闇弱にして、自ら立つ能わず、内は艷妻に惑い、外は五舅に恣せ、卒かに王莽をして坐して帝位を取らしむ。斯の事を覽る每に、孰か痛惋せざらん。設使し舅氏の賢なること穰侯・王鳳の若くんば、則ち但だ二臣有るを聞くのみにして、二主有るを聞かず。若し其れ不才ならば、則ち竇憲・梁冀の禍有らん。凡そ此の成敗、亦た既然たり。苟くも能く軌を易うれば、覆墜すること無かるべし。
陛下は命世にして天挺、當に晉道を隆んにすべきも、而れども國の多難に遭い、殷憂は備嬰し、往事を追述するに、今の楚灼に至る。其の由る所を迹ぬるに、實に故の司空の亮の元舅の尊、勢業の重に居り、政を執り下を裁き、邊將を輕侮するに因り、故に蘇峻・祖約をして其の忿りに勝えざらしめ、遂に敗國を致し、太后をして發憤せしめ、一旦にして升遐せしむるに至る。。若し社稷に靈あらず、人神に助無くんば、豺狼の心、當に極むべけんや。前事忘れず、後事の表なるも、而れども中書監・左將軍の冰等、内は樞機を執り、外は上將を擁し、昆弟並びに列し、人臣に疇莫し。陛下は深く渭陽を敦くするも、冰等は自ら宜しく領を引くべし。臣、常に謂うに、世主、若し舅氏を崇顯せんと欲せば、何ぞ以て藩國に封じ、其の祿賜を豐かにし、其の勢利を限り、上は偏優する無からしめ、下は私論無からしめざらん。此くの如くんば、榮辱は何に從りて生じ、噂𠴲は何れの辭にして起きんや。往者は惟だ亮一人のみにして、宿より名望有るも、尚お世變を致すに、況んや今之に居る者は素より聞無し。且つ人情は惑い易く、以て戸ごとに告げ難ければ、縱令い陛下の彼に私無くとも、天下の人は誰か私せずと謂わんや。
臣、冰と名位等しきも班は殊なり、出處は懸邈にして、又た國の戚昵なれば、理として應に降り悅び、以て事會に適うべし。臣、獨り此の言に矯抗するは、上は陛下の爲にし、退きては冰の計の爲にし、苟容の臣の、坐ながらにして得失を鑒るを疾めばなり。顛りて扶けずんば、焉ぞ彼の相を用いん。昔、徐福は霍氏の戒を陳ぶるも、宣帝は從わず、忠臣をして更めて逆族と爲さしむるに至りしは、良に之を察するに審かならず、之を防ぐに漸無きに由る。臣の今陳ぶる所は、防漸と謂うべし。但だ陛下の臣の忠を明らかにせず、臣の計を用いず、事過ぐるの日、更めて焦爛の後に處るを恐るるのみ。昔、王章・劉向は封事を上る每に、未だ嘗て王氏を指斥せずんばあらざれば、故に二子をして或いは死し或いは刑せしむ。谷永・張禹は依違し對えず、故に身を容れて苟免せられ、譏りを世に取る。臣は被髮の殊俗なるに、位は上將たれば、夙夜惟だ憂うるも、報ゆる所を知る罔く、惟だ當に外は寇讐を殄ぼし、内は忠規を盡くし、力を陳べて誠を輸し、以て國恩に答うべし。臣、若し言わずんば、誰か當に言う者あるべけんや。

又た冰に書を與えて曰く

君は椒房の親、舅氏の昵を以て、樞機を總據し、王命を出内し、兼ねて列將・州司の位を擁し、昆弟は網羅し、顯らかに畿甸に布く。秦漢より以來、隆赫の極、豈に此くの若き者有らんや。吾を以て之を觀うに、若し功就り事舉げなば、必ず申伯の名を享くるも、如し或いは立たずんば、將に梁竇の迹を免れざらんとす。
史傳を覩る每に、未だ嘗て母族を寵恣し、權を執り朝を亂さしむるに、先に殊世の榮有り、尋いで負乘の累有らしめずんばあらず、所謂「之を愛するは適に以て害と爲すに足る」なり。吾、常に歷代の主の、萌を防ぎ寵を終うるの術を盡くさざるを忿る。何ぞ業とするに一土の封を以てし、藩國をして相い承くること、周の齊陳の如くせしめざる。此くの如くんば則ち永く南面の尊を保ち、復た何の黜辱の憂かあらんや。竇武・何進は善を好み己を虛しくし、賢士は心を歸し、閹豎の危うくする所と爲ると雖も、天下は嗟痛するは、猶お能く履むに不驕を以てし、國を圖り身を亡うこと有りしが故なり。
方今、四海に倒懸の急有るも、中夏に僭逆の寇を逋め、家に漉血の怨有り、人に復讎の憾有れば、寧くんぞ安枕して逍遙、雅談して歲を卒うるを得んや。吾、寡德なりと雖も、先帝の列將の授を過蒙し、數郡の人を以てするも、尚お強虜を并吞せんと欲し、是こを以て頃より今に迄るまで、鋒を交え刃を接し、一時に農に務め、三時に武を用うるも、而れども猶お師徒は頓れず、倉には餘粟有り、敵人は日ごとに畏れ、我が境は日ごとに廣まる。況んや乃ち王者の威、堂堂の勢、豈に同年にして語るべけんや。

冰、表及び書を見て甚だ懼るるも、其の絕遠にして、能く制する所に非ざるを以て、遂に何充等と與に皝の燕王を稱するを聽さんことを奏す。
其の年、皝、高句麗を伐ち、王の釗、盟を乞いて還る。明年、釗、其の世子を遣わして皝に朝せしむ。

現代語訳

慕容皝は、字を元真と言い、慕容廆の第三子であった。竜顔であり門歯が大きく整っていて、身長は七尺八寸(約189㎝)であった。勇武でかつ剛毅であり、謀略に長け、経学をたっとび、天文を得意としていた。慕容廆が遼東公となると、慕容皝を世子(諸侯の世継ぎ)に立てた。(東晋の元帝の)建武年間の初め、慕容皝は冠軍将軍・左賢王に任じられ、望平侯に封じられ、兵衆を率いて征討を行い、何度も功績を上げた。(明帝の)太寧年間の末、平北将軍に任じられ、封爵を朝鮮公に進められた。慕容廆が死去すると、位を嗣ぎ、平北将軍の位で平州刺史を代行して兼務し、管轄下の地域を監督して取り仕切った。まもなく宇文乞得亀がその別部の逸豆帰に駆逐され、出奔して外で死去すると、慕容皝は騎兵を率いて逸豆帰を討った。逸豆帰は恐れて和平を請うたので、そこで慕容皝は榆陰・安晋の二城を築いて帰還した。
初め、慕容皝の庶兄である建威将軍の慕容翰は、勇猛かつ威武があり、傑出した才能を有しており、もともと慕容皝に忌み嫌われており、その同母弟の征虜将軍の慕容仁、広武将軍の慕容昭はいずれも慕容廆に可愛がられていたので、慕容皝は彼らに対しても不満を懐いていた。慕容廆が死去すると、みな恐れて身の置き所がなかった。そこでこのときになって、慕容翰は段遼のもとに出奔し、慕容仁は兵を挙げて慕容皝を廃するよう慕容昭に勧めた。慕容皝は、慕容昭を殺し、慕容仁の虚実を検査させるべく使者を派遣し、険しい川のほとりで慕容仁と面会させた。慕容仁は、事が露見したのを知り、慕容皝の使を殺し、東行して平郭に帰った。慕容皝は、その弟の建武将軍の慕容幼、司馬の佟寿らを派遣して慕容仁を討たせた。慕容仁は、兵衆を総動員して防戦し、慕容幼らは大敗し、みな慕容仁に捕らわれてしまった。襄平令の王冰、将軍の孫機は、遼東郡ごと慕容皝に叛き、東夷校尉の封抽・護軍の乙逸・遼東相の韓矯・玄菟太守の高詡らは、城を捨てて逃れ帰った。慕容仁は、こうして遼東の地をことごとく占有し、自ら車騎将軍・平州刺史・遼東公を称した。宇文帰・段遼および鮮卑の諸部はいずれも慕容仁を支援した。
咸和九年(三三四)、慕容皝は、その司馬の封弈を派遣して鮮卑の木堤を白狼の地にて攻撃させ、揚威将軍の淑虞に烏丸の悉羅侯を平堈の地にて攻撃させ、いずれもその首を斬った。材官将軍の劉佩は乙連(地名)を攻めたが、攻略できず、そこで段遼は徒河に侵攻した。慕容皝の将の張萌がそれを迎え撃ち、段遼を破った。段遼の弟の段蘭が、慕容翰と一緒に柳城に侵攻した。(慕容皝配下の)都尉の石琮がそれを撃破した。十日余り後、段蘭・慕容翰がまた柳城を囲むと、慕容皝は、寧遠将軍の慕容汗および封弈等を派遣してそれを救援させた。慕容皝は、慕容汗を戒めて言った。「賊衆は気鋭で、交戦するのは難しいので、どうか万全を顧み、慎重に行動して軽々しく進軍したりなどせず、必ず兵が集合し、陣が整うのを待ってから、そこでやっと奴らを攻撃するべきである」と。慕容汗は勇猛で気鋭な性格なので、千騎余りを派遣し、それを先鋒として進軍した。封弈は、それを制止したが、慕容汗は従わず、段蘭に敗れ、死者は大半に上った。段蘭は、また柳城を攻め、飛梯を作り、地下道を掘り、包囲して監視すること二十日にわたった。石琮は、自ら将兵を整えて出撃し、段蘭を破り、首を斬ること千五百級、段蘭はそこで逃げ帰った。
この年、成帝は謁者の徐孟・閭丘幸らに節を持たせて派遣し、慕容皝を鎮軍大将軍・平州刺史・大単于・遼東公に任じ、持節・都督・承制封拝(官爵の授与について独断で行うことを皇帝の命の下に許すこと)は、すべて慕容廆の故事の通りとした。
慕容皝は、自ら遼東を征伐し、襄平を攻略した。慕容仁の任名した居就令の劉程は、城ごと慕容皝に降り、新昌の人である張衡も、県令を捕らえて降った。こうして慕容皝は、慕容仁が置いた太守・県令たちを斬り、遼東の大姓(在地の豪族)を棘城に分散して移住させ、和陽・武次・西楽の三県を置いて帰った。
咸康年間の初め、封弈を派遣して宇文部の別部である渉奕于を襲撃させ、封弈は大いに捕虜などを獲得して帰還した。渉奕于は、騎兵を率いて追撃して渾水で戦ったが、封弈はまた渉奕于を破った。慕容皝が海を渡って慕容仁を討とうとすると、部下たちはみな、「海道は危険ですので、どうか陸路から攻めるべきです」と諫めた。慕容皝は言った。「もともと海上には氷塊がなかったが、慕容仁が反して以降、氷結することが三度もあった。昔、漢の光武帝は(窮地に陥った際に)滹沱河が凍ったことにより(それを渡って逃れることができ)、最終的に大業を成すことができた。天は、ひょっとすると私がこれに乗じて慕容仁に勝つことを欲しているのかもしれない。我が計は決した。それを阻もうと謀る者は斬刑とする」と。そこで慕容皝は全軍を率いて昌黎郡から氷塊の上を踏みながら進んだ。慕容仁は、慕容皝が来るなどとは予想だにせず、慕容皝の軍が平郭から七里のところまで差し掛かった頃に、やっと斥候の騎兵がそのことを告げたので、慕容仁は狼狽して出撃して戦ったが、慕容皝に捕らわれてしまった。慕容皝は、慕容仁を殺して帰った。
藉田(祭祀用の穀物のための田畑)を朝陽門の東に設け、官署を置いてそれを主管させた。
段遼は、その将の李詠を派遣して夜に武興を襲撃させたが、雨に遇い、退却して帰った。都尉の張萌はそれを追撃し、李詠を捕虜にした。段蘭が数万の兵衆を擁して曲水亭に駐屯し、柳城を攻めようとしたところ、宇文帰が(慕容皝支配下の)安晋に侵攻し、段蘭のために後援した。慕容皝は、歩兵・騎兵合わせて五万人を率いてそれを攻撃した。軍が柳城に駐屯すると、段蘭・宇文帰はいずれも逃げた。慕容皝は封弈を派遣して軽騎を率いて追撃させ、彼らを破り、その軍の物資を奪取し、獲得した軍糧を二十日間にわたって食らい尽くしてから帰った。慕容皝は諸将に言った。「奴ら二賊は何の功も無く帰ることになるのを恥じ、必ずやまたやってくるであろうから、柳城の左右に伏兵を設けて奴らを待ち構えるべきであろう」と。そこで封弈を派遣して騎兵を率いて馬兜山の諸道に潜伏させた。まもなく段遼の騎兵が果たしてやって来たので、封弈は挟撃し、大いに段遼軍を破り、その将の栄保を斬った。慕容皝は、兼長史の劉斌・郎中令の陽景を派遣して徐孟らを京師(建康)に送り帰させた。また、その世子の慕容儁に段遼支配下の諸城を討伐させ、封弈に宇文部の別部を攻撃させ、いずれも大いに勝利して帰った。
納諫の木(諫言を受け容れることを示す木)を立て、それによって直言の道を開いた。
後に昌黎郡に移り、好城を乙連の東に築き、将軍の蘭勃にそれを守らせ、それにより乙連に圧をかけた。また曲水に城壁を築き、そうして蘭勃を支援した。乙連ではひどく飢餓に苦しんでいたので、段遼は乙連に穀物を輸送した。蘭勃は、それを迎え撃って穀物を獲得した。段遼は、その将の屈雲を派遣して興国を攻めさせ、慕容皝の将の慕容遵と五官水のほとりで大いに戦ったが、屈雲は敗れ、慕容遵は屈雲を斬り、その兵衆をことごとく捕虜にした。
封弈らは、慕容皝は任が重いのにもかかわらず位が軽いので、どうか燕王を称すべきであると述べた。慕容皝は、そこで咸康三年(三三七)に僭越にも王位に即き、その領域内に大赦を下した。封弈を国相に任じ、韓寿を司馬に任じ、裴開・陽騖・王㝢・李洪・杜群・宋該・劉瞻・石琮・皇甫真・陽協・宋晃・平熙・張泓らをみな列卿・将帥に任じた。また、文昌殿を建て、六頭立ての金根車に乗り、出入する度に先払いをさせた。さらに、その妻の段氏を王后とし、世子の慕容儁を太子とすることに関しては、いずれも魏の武帝(曹操)・晋の文帝(司馬昭)の輔政の故事の通りとした。
慕容皝は、段遼がしばしば辺境を侵犯するので、将軍の宋回を派遣して石季龍(後趙の石虎)の藩国となることを申し入れ、軍隊の派遣を要請して段遼を討とうとした。石季龍はそこで兵衆を統率してやってきた。慕容皝は、諸軍を率いて段遼の令支以北の諸城を攻め、段遼はその将の段蘭を派遣して防ぎにやってこさせたが、慕容皝は大いに戦って段蘭を破り、斬首は数千級に上り、五千戸余りを拉致して帰った。石季龍が徐無に到着すると、段遼は密雲山に逃れた。石季龍は、進軍して令支に入り、慕容皝が軍隊を合流させなかったことに怒ると、進軍して慕容皝を攻撃し、棘城に至り、兵士は数十万、四面より進軍して攻撃し、郡県・諸部のうちで慕容皝から離反して石季龍に内応した者は三十六城にも上った。対峙すること十日余りになると、左右の者は慕容皝に降伏するよう勧めた。慕容皝は言った。「私はまさに天下を取ろうとしているのに、どうして人に降ろうか」と。そこで子の慕容恪らを派遣し、二千騎を率いて夜明けに出撃して石季龍を攻撃させた。石季龍の諸軍は驚き乱れ、武器を捨てて逃げた。慕容恪は、勝ちに乗じてそれを追撃し、斬首・捕虜の数は三万級余りに上り、凡城の辺りに戍(防衛施設)を築いて帰還した。段遼は、使者を派遣して石季龍に対して偽って降伏したふりをし、軍隊の派遣を要請して接待を行った。石季龍は、その将の麻秋を派遣して兵衆を率いて段遼を迎えさせた。慕容恪は、七千の精鋭の騎兵を密雲山に潜伏させ、大いにその軍を破り、麻秋の司馬の陽裕・将軍の鮮于亮を捕らえ、段遼およびその部衆を擁して帰還した。
成帝は、また使者を派遣して慕容皝の位を進めて征北大将軍・幽州牧に任じ、平州刺史を兼任させ、散騎常侍を加え、一万戸の封邑を増し、持節・都督・単于・公の位は引き続きそのままとした。
慕容皝の前軍帥の慕容評は、石季龍の将の石成らを遼西にて破り、その将の呼延晃・張支を斬り、千戸余りを拉致して帰還した。段遼が謀叛を起こすと、慕容皝は段遼を誅殺した。
石季龍は、また石成に命じて慕容皝の領内に侵入させて凡城を攻撃させたが攻略できなかったので、進軍して広城を陥落させた。慕容皝は、燕王を称したとはいえ、まだ朝命がなかったので、そこでその長史の劉祥を派遣して京師に戦勝報告をさせ、それと一緒に、一時的な措置として仮に燕王を称した旨を言上し、さらに大挙して中原(すなわち後趙の勢力)を討伐・平定することを申請した。また、庾亮が薨去し、弟の庾冰・庾翼がその地位を継承して将軍や宰相となったのを聞き、そこで上表して言った。

私が前代の名君・暗君について詳細に観察いたしましたところ、もし賢者に親しみ軒並み抜擢することができれば、太平の功をもたらすことができ、もし皇后の親族を信任して党派を結べば、必ず国が傾き恥辱を受ける禍がふりかかることになります。だからこそ周の申伯は賢舅と呼ばれ、その身を外に置いて藩国の立場に徹し、朝廷の権力を握りませんでした。時代が降って秦の昭王の時代になると、昭王自身は優れた君主であると言うに足る人物でありましたが、二人の舅を信任して国政を委ねた結果、あやうく乱国になるところでした。漢の武帝の時代になると、田蚡を推挙して重んじ、万機の枢要はすべて田蚡によって決定されることになりましたが、田蚡が死去すると、武帝は歯ぎしりして往事のふるまいを思い出して恨み言を述べました。(前漢の)成帝は暗弱で、自立することができず、内は妖艶なる妻に惑い、外は五人の舅に好き勝手することを許し、にわかに王莽にたやすく帝位を簒奪させてしまうことになってしまいました。このことを見るにつけ、誰が痛み嘆かないことがありましょうか。もし舅が(秦の昭王の外戚である)穣侯・(前漢の成帝の外戚である)王鳳のように賢明であったら、ただこの二臣がいるということを聞くのみで、(昭王・成帝の)二主がいるということを聞かないというような(君主が空虚な存在となる)状態となってしまいます。もし舅が不才であれば、(後漢の和帝の外戚である)竇憲や(後漢の順帝~桓帝の外戚である)梁冀のような禍が起こりましょう。およそこのような事の成功・失敗の如何は、まさに以上の通りでございます。もし軌道を修正することができれば、転落することを免れることができましょう。
陛下は世に名を轟かせるほどの天賦の才をお持ちであり、まさに晋道を盛んになされるはずでございましたが、しかし国の多難に遭い、深い悲しみがまといついて離れず、往事の例に従われました結果、現状の如くむち打たれ身を焼かれるような苦しみを受けるに至りました。その原因を辿ってみますと、実に、もと司空の庾亮が外戚の長としての尊位でもって権力の座につき、執政して下々の者を裁き、辺境の将帥を軽んじ侮ったせいでございまして、故に蘇峻・祖約はその怒りにたえ切れず(反乱を起こし、一時的に建康が陥落して成帝が捕らえられ)、その結果、亡国の様相を致し、庾太后をご発憤させてにわかにご昇天させてしまうような事態に陥ったのです。もし社稷に御霊がなく、祖先の神霊のご加護が無ければ、(蘇峻らの反乱は鎮圧されずに、やつらの)豺狼の心は、きっと極致に達していたでしょう。その前事の記憶が冷めやらず、訓戒として後事の良い手本となっているにもかかわらず、中書監・左将軍の庾冰らは、内は枢機を握り、外は統帥の位を擁し、兄弟がみな高位に列し、人臣の中で彼らに並ぶ者はございません。陛下は深く舅に温情をかけていらっしゃいますが、庾冰らは自ら引退を願い出るべきでございます。私が常に思いますに、世の君主がもし舅を尊び顕揚したいのであれば、どうして彼らを藩国に封じ、その俸禄や賜与を豊かにし、一方で権勢やそれによりもたらされる利益を制限し、上は偏って優待することを無くし、下は偏私な議論を無くさせるようにしないのでしょうか。そうすれば、栄辱は何によって生じ、論争や謗り合いはどのような口実によって生じるのでしょうか(=そうすれば、権勢を得た外戚に左右されて国が盛衰したり、外戚に阿諛したり反発したりして何かにかこつけて議論が紛糾することもなくなります)。先にはただ庾亮が一人いるだけで、しかも庾亮はもともと名望がございましたが、それでも変乱を生じてしまいましたのに、ましてや今その位にいる者は、もともと名聞の無い者たちです。それに人情は惑いやすく、一戸ごとに説明してまわることも難しいので、たとえ陛下が彼らをひいきしていないとしても、天下の人々は、誰がひいきしていないなどと思いましょうか。
私は、庾冰と官品の位は等しいものの班次は異なり、出自は遠く隔たり、また庾冰は国の親戚でありますので、理として庾冰に対して身を低くして機嫌を取り、そうして時機にかなうようにすべきでございましょう。しかし、私だけがそのような言に反するような態度を取りますのは、上は陛下のためでございますし、引いては庾冰の身のためを思ってのことであり、阿諛追従の臣が労せずして得失を窺っているのを憎めばこそでございます。(『論語』季氏篇に)「転んでも助け起こさないのであれば、どうしてかの相を用いようか」と言います。昔、(前漢において)徐福は(外戚の)霍氏についての戒めを述べましたが、宣帝は従わず、その結果、忠臣を改めて逆賊に転じさせてしまうことになりましたのは、まことに宣帝がこのことをはっきりと察せず、それを防ぐきっかけを得られなかったためです。私が今述べたことは、まさにそれを防ぐきっかけと言うべきものです。ただ、陛下が私の忠を明らかにご理解いただけず、私の計を用いず、事が過ぎ去った日、すでに焦げただれて手遅れとなってしまっている状況に身をおかれることになるのを恐れるばかりです。昔、(前漢の)王章・劉向は封事(密封した上奏文)をたてまつるたびに、いつも(外戚の)王氏のことを指摘して責めたてたので、そのため二人は死に追いやられたり刑罰を受けたりする羽目に陥りました。(同じく前漢の)谷永・張禹に関しては、あるいは(谷永は、王氏の意を受けて王氏に都合の良いことを成帝に対して)曖昧にせずはっきりと伝え、あるいは(張禹は、王氏に不都合な災異の徴について成帝に対して)しっかりと答えず、故に保身してかりそめに難を免れ、それによって世に謗りを受けることとなりました。私はざんばら髪の異俗の者であるにもかかわらず、統帥の位に据えていただいておりますので、日夜憂えるばかりでございますが、それに報いるすべを知らず、ただ外は仇敵を滅ぼし、内は忠言・諫言を尽くし、誠心誠意に力を尽くし、それによって国恩に応えたいと思っている次第でございます。私がもしこのことを申し上げなければ、他に誰がこのことを申し上げましょうか。

また、慕容皝は庾冰に書を与えて言った。

君は皇后の親族、舅としての近親の立場により、枢機の一切を統べ、皇帝の命を伝えたり、臣下の上奏を伝えたりする役目を担い、兼ねて将軍や州刺史の位を有し、兄弟はみな高官の地位を網羅し、(ご自身も揚州刺史として)顕著に都周辺の地に政令を布いていらっしゃいます。秦漢以来、どうしてこのように隆盛を極めた者がおりましょうか。私の立場からこのことを見ますと、もし功を立てて事を達成すれば、必ず(西周の)申伯のような名声を受けることになりましょうが、もしそれができなければ、(後漢の)竇憲や梁冀と同じ末路を辿る(=誅殺される)ことは免れないでしょう。
歴史を見るにつけても、いまだかつて、母方の一族を寵愛して好き勝手させることを許し、権勢を握らせて朝政を乱させておきながら、先に世に類い稀なる栄誉を授け、まもなく身不相応な地位にあることにより災難が訪れるということが無いようにさせられた例はなく、それはまさに「その者を愛するのはまさにかえってその者を害するのに充分である」というものです。私は、歴代の君主が、禍の萌芽を防ぎ最後まで恩寵をかけられるようにする術を尽くさなかったことに対して常に憤りを覚えます。どうして一土を封地として授けて創業させ、周代の(異性諸侯国である)斉国や陳国のように藩国を代々継承させるようにしないのか、と。そのようにすれば、永久に(諸侯国の君主として)南面する尊位を保つことができ、もはや何の排斥や恥辱の憂いがありましょうか。(後漢の外戚である)竇武・何進は善を好み虚心に振る舞い、賢士に心を寄せられ、いずれも宦官によって危害を加えられたとはいえ、天下の人々に嘆き惜しまれることになりましたのは、驕らずに行いを修め、国のことを思って自らを犠牲にすることができたからでございます。
今、四海(中国の縁辺)には転覆の危機があり、中原には尊号を僭称する逆賊を野放しにし、家々は血のしたたるような怨みを懐き、人々は復讐を遂げようとの怨みを懐いておりますので、どうして枕を高くして安眠し、ゆったり気ままに生活を楽しみ、高雅な談論を交わして一年を終えられるような状態でありましょうか。私は、徳が少ないのにもかかわらず、先帝によりかたじけなくも身不相応に列将の位を授かり、数郡の人を統治することになりましたが、それでもなお強大な敵を併呑しようと思い、そこで先ごろより今に至るまで、鋒刃を交え、一年の四分の一は農業に務め、四分の三は武力を用いておりますが、しかしそれでもなお軍隊は損壊せず、倉庫には有り余るほどの穀物があり、敵人は日に日に恐れを増し、我が境域は日に日に広がっております。ましてや(そちらは)王者の威があり、堂々たる勢がありますので、どうして(私どもと)同列に語ることができましょうか。

庾冰は、その表と書を見て非常に恐れたが、慕容皝が極めて遼遠なところにおり、制御することができないので、そこで何充らとともに慕容皝が燕王を称することを許すよう上奏した。
その年、慕容皝は高句麗を討伐し、高句麗王の釗は、盟を結ぶことを申し出て帰った。明年、釗は、その世子を派遣して慕容皝に朝貢させた。

原文

初、段遼之敗也、建威翰奔于宇文歸、自以威名夙振、終不保全、乃陽狂恣酒、被髮歌呼。歸信而不禁、故得周遊自任、至於山川形便、攻戰要路、莫不練之。皝遣商人王車陰使察翰、翰見車無言、撫膺而已。車還以白、皝曰「翰欲來也。」乃遣車遺翰弓矢。翰乃竊歸駿馬、攜其二子而還。
皝將圖石氏、從容謂諸將曰「石季龍自以安樂諸城守防嚴重、城之南北必不設備。今若詭路出其不意、冀之北土盡可破也。」於是率騎二萬出蠮螉塞、長驅至于薊城、進渡武遂津、入于高陽、所過焚燒積聚、掠徙幽冀三萬餘戶。
使陽裕・唐柱等築龍城、構宮廟、改柳城爲龍城縣。於是成帝使兼大鴻臚郭希持節拜皝侍中・大都督河北諸軍事・大將軍・燕王、其餘官皆如故、封諸功臣百餘人。
咸康七年、皝遷都龍城。率勁卒四萬、入自南陝、以伐宇文・高句麗、又使翰及子垂爲前鋒、遣長史王㝢等勒眾萬五千、從北置而進。高句麗王釗謂皝軍之從北路也、乃遣其弟武統精銳五萬距北置、躬率弱卒以防南陝。翰與釗戰于木底、大敗之、乘勝遂入丸都、釗單馬而遁。皝掘釗父利墓、載其尸并其母妻珍寶、掠男女五萬餘口、焚其宮室、毀丸都而歸。明年、釗遣使稱臣於皝、貢其方物、乃歸其父尸。
宇文歸遣其國相莫淺渾伐皝。諸將請戰、皝不許。渾以皝爲憚之、荒酒縱獵、不復設備。皝曰「渾奢怠已甚、今則可一戰矣。」遣翰率騎擊之、渾大敗、僅以身免、盡俘其眾。
皝躬巡郡縣、勸課農桑、起龍城宮闕。
尋又率騎二萬親伐宇文歸、以翰及垂爲前鋒。歸使其騎將涉奕于盡眾距翰。皝馳遣謂翰曰「奕于雄悍、宜小避之、待虜勢驕、然後取也。」翰曰「歸之精銳、盡在於此。今若克之、則歸可不勞兵而滅。奕于徒有虛名、其實易與耳、不宜縱敵挫吾兵氣。」於是前戰、斬奕于、盡俘其眾、歸遠遁漠北。皝開地千餘里、徙其部人五萬餘落於昌黎、改涉奕于城爲威德城。行飲至之禮、論功行賞各有差。
以牧牛給貧家、田于苑中、公收其八、二分入私。有牛而無地者、亦田苑中、公收其七、三分入私。皝記室參軍封裕諫曰

臣聞聖王之宰國也、薄賦而藏於百姓、分之以三等之田、十一而稅之;寒者衣之、飢者食之、使家給人足。雖水旱而不爲災者、何也。高選農官、務盡勸課、人治周田百畝、亦不假牛力、力田者受旌顯之賞、惰農者有不齒之罰。又量事置官、量官置人、使官必稱須、人不虛位、度歲入多少、裁而祿之。供百僚之外、藏之太倉、三年之耕、餘一年之粟。以斯而積、公用於何不足。水旱其如百姓何。雖務農之令屢發、二千石令長莫有志勤在公・銳盡地利者。故漢祖知其如此、以墾田不實、徵殺二千石以十數、是以明章之際、號次升平。
自永嘉喪亂、百姓流亡、中原蕭條、千里無煙、飢寒流隕、相繼溝壑。先王以神武聖略、保全一方、威以殄姦、德以懷遠、故九州之人、塞表殊類、襁負萬里、若赤子之歸慈父、流人之多舊土十倍有餘、人殷地狹、故無田者十有四焉。殿下以英聖之資、克廣先業、南摧強趙、東滅句麗、開境三千、戶增十萬、繼武闡廣之功、有高西伯。宜省罷諸苑、以業流人。人至而無資產者、賜之以牧牛。人既殿下之人、牛豈失乎。善藏者藏於百姓、若斯而已矣。邇者深副樂土之望、中國之人皆將壺餐奉迎、石季龍誰與居乎。且魏晉雖道消之世、猶削百姓不至於七八、持官牛田者官得六分、百姓得四分、私牛而官田者與官中分、百姓安之、人皆悅樂。臣猶曰非明王之道、而況增乎。且水旱之厄、堯湯所不免、王者宜濬治溝澮、循鄭・白・西門・史起溉灌之法、旱則決溝爲雨、水則入於溝瀆、上無雲漢之憂、下無昏墊之患。
句麗・百濟及宇文・段部之人、皆兵勢所徙、非如中國慕義而至、咸有思歸之心。今戶垂十萬、狹湊都城、恐方將爲國家深害、宜分其兄弟宗屬、徙于西境諸城、撫之以恩、檢之以法、使不得散在居人、知國之虛實。
今中原未平、資畜宜廣、官司猥多、游食不少、一夫不耕、歲受其飢。必取於耕者而食之、一人食一人之力、游食數萬。損亦如之、安可以家給人足、治致升平。殿下降覽古今之事多矣、政之巨患莫甚於斯。其有經略出世、才稱時求者、自可隨須置之列位。非此已往、其耕而食、蠶而衣、亦天之道也。
殿下聖性寬明、思言若渴、故人盡芻蕘、有犯無隱。前者參軍王憲・大夫劉明並竭忠獻款、以貢至言、雖頗有逆鱗、意在無責。主者奏以妖言犯上、致之於法、殿下慈弘苞納、恕其大辟、猶削黜禁錮、不齒於朝。其言是也、殿下固宜納之、如其非也、宜亮其狂狷。罪諫臣而求直言、亦猶北行詣越、豈有得邪。右長史宋該等阿媚苟容、輕劾諫士、己無骨鯁、嫉人有之、掩蔽耳目、不忠之甚。四業者國之所資。教學者有國盛事。習戰務農、尤其本也。百工商賈、猶其末耳。宜量軍國所須、置其員數、已外歸之於農、教之戰法、學者三年無成、亦宜還之於農、不可徒充大員、以塞聰儁之路。
臣之所言當也、願時速施行、非也、登加罪戮、使天下知朝廷從善如流、罰惡不淹。王憲・劉明、忠臣也、願宥忤鱗之愆、收其藥石之效。

皝乃令曰

覽封記室之諫、孤實懼焉。君以黎元爲國、黎元以穀爲命。然則農者國之本也。而二千石令長不遵孟春之令、惰農弗勸、宜以尤不修闢者措之刑法、肅厲屬城。主者明詳推檢、具狀以聞。苑囿悉可罷之、以給百姓無田業者。貧者全無資產、不能自存、各賜牧牛一頭。若私有餘力、樂取官牛墾官田者、其依魏晉舊法。溝洫溉灌、有益官私、主者量造、務盡水陸之勢。中州未平、兵難不息、勳誠既多、官僚不可以減也。待克平凶醜、徐更議之。百工商賈數、四佐與列將速定大員、餘者還農。學生不任訓教者、亦除員錄。夫人臣關言於人主、至難也、妖妄不經之事皆應蕩然不問、擇其善者而從之。王憲・劉明雖其罪應禁黜、亦猶孤之無大量也。可悉復本官、仍居諫司。封生蹇蹇、深得王臣之體。詩不云乎「無言不酬。」其賜錢五萬、明宣內外。有欲陳孤過者、不拘貴賤、勿有所諱。

時有黑龍白龍各一、見于龍山。皝親率羣僚觀之、去龍二百餘步、祭以太牢。二龍交首嬉翔、解角而去。皝大悅、還宮、赦其境內、號新宮曰和龍、立龍翔佛寺于山上。
賜其大臣子弟爲官學生者號高門生、立東庠于舊宮、以行鄉射之禮、每月臨觀、考試優劣。皝雅好文籍、勤於講授、學徒甚盛、至千餘人。親造『太上章』以代『急就』、又著『典誡』十五篇、以教冑子。
慕容恪攻高句麗南蘇、克之、置戍而還。三年、遣其世子儁與恪率騎萬七千東襲夫餘、克之、虜其王及部眾五萬餘口以還。
皝親臨東庠考試學生、其經通秀異者、擢充近侍。以久旱、丐百姓田租。罷成周・冀陽・營丘等郡。以勃海人爲興集縣、河間人爲寧集縣、廣平・魏郡人爲興平縣、東萊・北海人爲育黎縣、吳人爲吳縣、悉隸燕國。
皝嘗畋于西鄙、將濟河、見一父老、服朱衣、乘白馬、舉手麾皝曰「此非獵所。王其還也。」祕之不言、遂濟河、連日大獲。後見白兔、馳射之、馬倒被傷、乃說所見。輦而還宮、引儁屬以後事。以永和四年死。在位十五年、時年五十二。儁僭號、追諡文明皇帝。

訓読

初め、段遼の敗るるや、建威の翰、宇文歸に奔り、自ら威名の夙に振るいたれば、終に保全せざらんと以い、乃ち陽りて狂いしまねして酒を恣にし、被髮して歌呼す。歸、信じて禁めず、故に周遊すること自ら任するを得、山川の形の便なる、攻戰の要路なるに至り、之を練らざる莫し。皝、商人の王車を遣わして陰かに翰を察せしむるに、翰、車に見うも言うこと無く、膺を撫するのみ。車、還りて以て白すに、皝曰く「翰、來らんと欲するなり」と。乃ち車を遣わして翰に弓矢を遺る。翰、乃ち歸の駿馬を竊み、其の二子を攜えて還る。
皝の將に石氏を圖らんとするや、從容として諸將に謂いて曰く「石季龍は自ら安樂〔一〕諸城の守防は嚴重なりと以い、城の南北に必ず備えを設けざるらん。今、若し詭路もて其の不意に出でなば、冀の北土は盡く破るべきなり」と。是に於いて騎二萬を率いて蠮螉塞に出で、長驅して薊城に至り、進みて武遂津を渡り、高陽に入り、過ぐる所、積聚を焚燒し、幽冀三萬餘戶を掠め徙す。
陽裕・唐柱等をして龍城を築かしめ、宮廟を構え、柳城を改めて龍城縣と爲す。是に於いて、成帝、兼大鴻臚の郭希をして節を持たしめて皝を侍中・大都督河北諸軍事・大將軍・燕王に拜し、其の餘の官は皆な故の如くし、諸々の功臣百餘人を封ず。
咸康七年、皝、都を龍城に遷す。勁卒四萬を率い、入るに南陝よりし、以て宇文・高句麗を伐ち、又た翰及び子の垂をして前鋒と爲らしめ、長史の王㝢等を遣わして眾萬五千を勒し、北置より進ましむ。高句麗王の釗、皝の軍の北路よりすると謂うや、乃ち其の弟の武を遣わして精銳五萬を統べて北置を距がしめ、躬ら弱卒を率いて以て南陝を防ぐ。翰、釗と木底に戰い、大いに之を敗り、勝ちに乘じて遂に丸都に入り、釗、單馬にて遁る。皝、釗の父の利の墓を掘り、其の尸并びに其の母妻・珍寶を載せ、男女五萬餘口を掠め、其の宮室を焚き、丸都を毀ちて歸る。明年、釗、使を遣わして臣を皝に稱し、其の方物を貢ぎたれば、乃ち其の父の尸を歸す。
宇文歸、其の國相の莫淺渾を遣わして皝を伐たしむ。諸將は戰わんことを請うも、皝は許さず。渾、皝を以て之を憚れりと爲し、酒に荒れ獵を縱にし、復た備えを設けず。皝曰く「渾、奢怠なること已に甚だしければ、今、則ち一戰すべきのみ」と。翰を遣わして騎を率いて之を擊たしめ、渾は大いに敗れ、僅かに身を以て免れ、盡く其の眾を俘にす。
皝、躬ら郡縣を巡り、農桑を勸課し、龍城の宮闕を起つ。
尋いで又た騎二萬を率いて親ら宇文歸を伐ち、翰及び垂を以て前鋒と爲す。歸、其の騎將の涉奕于をして眾を盡くして翰を距がしむ。皝、馳せ遣わして翰に謂いて曰く「奕于は雄悍なれば、宜しく小や之を避け、虜の勢の驕るを待ち、然る後に取るべきなり」と。翰曰く「歸の精銳は、盡く此に在り。今、若し之に克たば、則ち歸は兵を勞せずして滅ぶべし。奕于は徒だ虛名有り、其の實は與し易きのみなれば、宜しく敵を縱ちて吾が兵氣を挫くべからず」と。是に於いて前み戰い、奕于を斬り、盡く其の眾を俘にし、歸は遠く漠北に遁る。皝、地を開くこと千餘里、其の部人五萬餘落を昌黎に徙し、涉奕于城を改めて威德城と爲す。飲至の禮を行い、論功行賞すること各々差有り。
牧牛を以て貧家に給し、苑中に田つくらしめ、公は其の八を收め、二分は私に入らしむ。牛有りて地無き者も、亦た苑中に田つくらしめ、公は其の七を收め、三分は私に入らしむ。皝の記室參軍の封裕、諫めて曰く、

臣聞くならく、聖王の國を宰るや、賦を薄くして百姓に藏し、之を分かつに三等の田を以てし、十に一にして之に稅し、寒ゆる者は之に衣せしめ、飢うる者は之に食わしめ、家ごとに給らしめ人ごとに足らしむ、と。水旱ありと雖も災と爲さざるは、何ぞや。農官を高選し、務めて勸課に盡くさしめ、人治もて田百畝に周らし、亦た牛力を假らず、田づくるに力むる者は旌顯の賞を受け、農を惰る者は不齒の罰有ればなり。又た事を量りて官を置き、官を量りて人を置き、官をして必ず須むるに稱わしめ、人をして位を虛しくせしめず、歲入の多少を度り、裁めて之に祿す。百僚に供するの外は、之を太倉に藏し、三年の耕にして、一年の粟を餘す。斯を以て積まば、公用は何に於いてか足らざらん。水旱、其れ百姓を如何せん。農に務むるの令もて屢々發すると雖も、二千石・令長に在公に勤めんと志し、銳に地利を盡くす者有る莫し。故に漢祖は其の此くの如きを知り、墾田の不實なるを以て、二千石を徵し殺すこと十を以て數え、是こを以て明章の際、升平に次ぶと號す。
永嘉の喪亂より、百姓は流亡し、中原は蕭條たり、千里に煙無く、飢寒して流隕し、相い繼ぎて溝壑す。先王は神武聖略を以て、一方を保全し、威は以て姦を殄ぼし、德は以て遠きを懷くれば、故に九州の人、塞表の殊類、襁負すること萬里、赤子の慈父に歸するが若く、流人の舊土に多きこと十倍有餘、人は殷んにして地は狹く、故に田無き者は十に四有り。殿下は英聖の資を以て、克く先業を廣め、南は強趙を摧き、東は句麗を滅ぼし、境を開くこと三千、戶の增すこと十萬、武を繼ぎて闡廣するの功は、西伯より高きこと有り。宜しく諸苑を省罷し、以て流人に業とせしむべし。人至りて資產無くんば、之に賜うに牧牛を以てせよ。人、既に殿下の人なれば、牛、豈に失わんや。善く藏する者は百姓に藏すとは、斯くの若きのみ。邇くは深く樂土の望に副い、中國の人は皆な將に壺餐して奉迎せんとすれば、石季龍、誰と與にか居らんや。且つ魏晉は道消の世なりと雖も、猶お百姓を削ぐこと七八に至らず、官の牛田を持ちし者は官の得ること六分、百姓の得ること四分にして、私牛にして官田ある者は官と中分し、百姓は之に安んじ、人は皆な悅樂す。臣は猶お明王の道に非ずと曰うに、而るに況んや增さんをや。且つ水旱の厄、堯湯も免れざる所なれば、王者は宜しく溝澮を濬治し、鄭・白・西門・史起の溉灌の法に循い、旱あれば則ち溝を決して雨と爲し、水あれば則ち溝瀆に入れ、上は雲漢の憂い無く、下は昏墊の患い無からしむべし。
句麗・百濟及び宇文・段部の人、皆な兵勢の徙す所にして、中國の如く義を慕いて至るに非ず、咸な歸らんと思うの心有り。今、戶は十萬に垂んとし、都城に狹湊し、恐らくは方に將に國家の深害と爲らんとすれば、宜しく其の兄弟宗屬を分かち、西境の諸城に徙し、之を撫するに恩を以てし、之を檢するに法を以てし、居人に散在し、國の虛實を知るを得ざらしむべし。
今、中原は未だ平がず、資畜は宜しく廣むべきも、官司は猥りに多く、游食は少なからず、一夫耕さずんば、歲、其の飢を受く。必ず耕者より取りて之を食らわすも、一人の一人を食らわするの力あるとも、游食は數萬。損うこと亦た之くの如くんば、安くんぞ以て家ごとに給らしめ人ごとに足らしめ、治は升平を致すべけんや。殿下は古今の事を降覽すること多きに、政の巨患、斯より甚しきは莫し。其れ經略の世に出で、才の時求に稱う者有らば、自ら須置の列位に隨わしむべし。此に非ずんば、已往、其の耕して食らい、蠶して衣るは、亦た天の道なり。
殿下は聖性寬明にして、言を思うこと渴くが若く、故に人は芻蕘を盡くし、無隱を犯すこと有り。前には參軍の王憲・大夫の劉明、並びに忠を竭くし款を獻じ、以て至言を貢め、頗る逆鱗有ると雖も、意は責むる無きに在り。主者、妖言して上を犯すを以て、之に法を致さんと奏するに、殿下は慈弘く苞納し、其の大辟を恕すも、猶お削黜して禁錮し、朝に齒せず。其の言、是ならば、殿下、固より宜しく之を納るべく、如し其れ非ならば、宜しく其の狂狷なるを亮らかにすべし。諫臣を罪して直言を求むるは、亦た猶お北行して越に詣るがごとく、豈に得ること有らんや。右長史の宋該等、阿媚苟容し、輕々しく諫士を劾し、己は骨鯁無く、人を嫉むこと之れ有り、耳目を掩蔽し、不忠なること之れ甚し。四業は國の資る所なり。教學は、有國の盛事なり。戰に習い農に務むるは、尤も其の本なり。百工商賈は、猶お其の末なるのみ。宜しく軍國の須むる所を量り、其の員數を置き、已外は之を農に歸し、之に戰法を教うべし。學ぶ者は三年にして成る無くんば、亦た宜しく之を農に還すべく、徒らに大員に充て、以て聰儁の路を塞ぐべからず。
臣の言す所、當ならば、願わくば時に速やかに施行し、非ならば、罪戮を登加し、天下をして朝廷の善に從うこと流の如く、惡を罰すること淹しからざるを知らしめられんことを。王憲・劉明は、忠臣なれば、願わくば忤鱗の愆を宥し、其の藥石の效を收められんことを。

と。
皝、乃ち令して曰く、

封記室の諫を覽るに、孤、實に懼る。君は黎元を以て國と爲し、黎元は穀を以て命と爲す。然れば則ち農は國の本なり。而れば二千石令長の孟春の令に遵わず、農を惰りて勸めずんば、宜しく尤も修闢せざる者を以て之に刑法を措き、屬城を肅厲すべし。主者は明詳に推檢し、狀を具して以て聞せ。苑囿は悉く之を罷め、以て百姓の田業無き者に給すべし。貧者の全く資產無く、自ら存する能わずんば、各々牧牛一頭を賜わん。若し私に餘力有るに、官牛を取りて官田を墾くを樂う者あらば、其れ魏晉の舊法に依れ。溝洫・溉灌、官私に益有らば、主者は量りて造り、務めて水陸の勢を盡くせ。中州は未だ平がず、兵難は息まず、勳誠は既に多ければ、官僚は以て減ずるべからざるなり。凶醜を克平するを待ち、徐ろに更めて之を議せん。百工商賈の數、四佐と列將とは速やかに大員を定め、餘者は農に還せ。學生の訓教に任えざる者は、亦た員錄より除け。夫れ人臣の人主に關言するは、至難なれば、妖妄不經の事、皆な應に蕩然として問わず、其の善き者を擇びて之に從うべし。王憲・劉明は其の罪は應に禁黜すべきと雖も、亦た猶お孤の大量無きなり。悉く本官を復し、仍りて諫司に居くべし。封生は蹇蹇として、深く王臣の體を得たり。『詩』に云わざらんや、「言として酬えざるは無し」と。其れ錢五萬を賜い、明らかに內外に宣べよ。孤の過を陳べんと欲する者有らば、貴賤に拘らず、諱む所有る勿かれ。

と。
時に黑龍・白龍各々一有り、龍山に見る。皝、親ら羣僚を率いて之を觀るに、龍より去ること二百餘步、祭るに太牢を以てす。二龍、首を交えて嬉れて翔び、角を解きて去る。皝、大いに悅び、宮に還るや、其の境內に赦し、新宮を號して和龍と曰い、龍翔佛寺を山上に立つ。 其の大臣の子弟の官學生と爲りし者に賜いて高門生と號し、東庠を舊宮に立て、以て鄉射の禮を行い、每月臨み觀、優劣を考試す。皝、雅より文籍を好み、講授に勤めたれば、學徒は甚だ盛んにして、千餘人に至る。親ら『太上章』を造りて以て『急就』に代え、又た『典誡』十五篇を著し、以て冑子に教う。
慕容恪、高句麗の南蘇を攻め、之に克ち、戍を置きて還る。三年、其の世子の儁を遣わして恪と與に騎萬七千を率いて東のかた夫餘を襲わしめ、之に克ち、其の王及び部眾五萬餘口を虜にして以て還る。
皝、親ら東庠に臨みて學生を考試し、其の經通秀異なる者もて、擢きて近侍に充つ。久しく旱あるを以て、百姓の田租を丐む。成周・冀陽・營丘等郡を罷む。勃海の人を以て興集縣と爲し、河間の人もて寧集縣と爲し、廣平・魏郡の人もて興平縣と爲し、東萊・北海の人もて育黎縣と爲し、吳人もて吳縣と爲し、悉く燕國に隸せしむ。
皝、嘗て西鄙に畋りし、將に河を濟らんとするや、一父老を見、朱衣を服し、白馬に乘り、手を舉げて皝に麾きて曰く「此は獵所に非ず。王、其れ還れ」と。之を祕して言わず、遂に河を濟り、連日大いに獲。後に白兔を見、馳せて之を射るに、馬倒れて傷を被くれば、乃ち見し所を說く。輦りて宮に還るや、儁を引きて屬するに後事を以てす。永和四年を以て死す。位に在ること十五年、時に年は五十二。儁の僭號するや、文明皇帝と追諡す。

〔一〕中華書局本の校勘記も指摘する通り、「樂安」の誤りであろう。

現代語訳

初め、段遼が敗れた際、建威将軍の慕容翰は、宇文帰のもとに逃れ、自分は威名が早くより盛んであるので、結局は身を保全することはできないであろうと考え、そこで狂ったふりをして酒に溺れ、ざんばら髪で歌い叫ぶようになった。宇文帰は、それを信じて慕容翰を拘禁せず、そのため慕容翰は自由自在にあちこちを移動することができ、山川の地形の便が良いところや攻戦における要路に訪れ、それらについてことごとく熟知した。慕容皝は、王車という名の商人を派遣してひそかに慕容翰のことを視察させたが、慕容翰は王車に会っても何も言わず、ただ胸をさするだけであった。王車が帰還してそのことを報告すると、慕容皝は言った。「慕容翰は、我がもとに来ることを欲しているのだ」と。そこで王車を派遣して慕容翰に弓矢を贈った。慕容翰は、そこで宇文帰の駿馬を盗み、自分の二人の息子を連れて帰った。
慕容皝は石氏(後趙)の攻略を図ろうとして、従容として諸将に言った。「石季龍(石虎)は安楽(楽安郡?)の諸城の守備が厳重であると自負し、居城の南北にはきっと備えを設けていないであろう。今、もし間道から進んでその不意を突けば、冀州の北側の土地はことごとく破ることができるであろう」と。そこで慕容皝は二万の騎兵を率いて蠮螉塞に出軍し、長駆して薊城に至り、進軍して武遂津を渡って高陽に侵入し、通過した諸所に積んであった物資を焼き払い、幽州・冀州の三万戸余りを拉致して移住させた。
(慕容皝は)陽裕・唐柱らに龍城を築かせ、宮殿と宗廟を建て、柳城を改めて龍城県とした。その頃、成帝は、兼大鴻臚の郭希に節を持たせて派遣し、慕容皝を「侍中・大都督河北諸軍事・大将軍・燕王」に任命し、それ以外の官職はすべて引き続き元のままとし、さらに百人余りの諸々の功臣を封建した。
咸康七年(341)、慕容皝は、龍城に遷都した。また、四万人の精兵を率い、南陝から侵入し、そうして宇文氏と高句麗を征伐し、さらに慕容翰およびその子の慕容垂を先鋒とさせ、それとは別に長史の王㝢らを派遣して一万五千人の兵衆を統率させ、北置から進ませた。高句麗王の釗は、慕容皝の本軍は北路から来るだろうと思い、そこでその弟の武を派遣して五万の精鋭を統率させて北置を防がせ、自らは弱兵を率いてそれで南陝を防いだ。慕容翰は、釗と木底にて戦い、釗の軍を大いに破り、勝ちに乗じてそのまま(高句麗の首都である)丸都に入り、釗は単騎で逃れた。慕容皝は、釗の父である利の墓を掘り、その屍と釗の母・妻および珍宝を車に積載し、五万口余りの男女を拉致し、釗の宮殿を焼き、丸都を破壊して帰った。明年、釗は、使者を派遣して慕容皝に称臣し、高句麗の特産品を貢献することにしたので、そこで慕容皝はその父の屍を返還した。
宇文帰は、その国相の莫浅渾を派遣して慕容皝を征伐させた。諸将は戦うことを請うたが、慕容皝は許さなかった。莫浅渾は、慕容皝は自分を憚っているのだと思い、酒に溺れ狩猟にふけり、もう備えを設けなくなった。慕容皝は言った。「莫浅渾は、おごり怠けることすでに甚だしいので、今となっては一戦するだけで充分であろう」と。そこで慕容翰を派遣して騎兵を率いて莫浅渾を攻撃させると、莫浅渾は大いに敗れ、何とか身一つ免れ、慕容翰はことごとく莫浅渾の兵衆を捕虜にした。
慕容皝は自ら郡県を巡り、農桑を勧め促し、また、龍城の宮殿や門闕を建てた。
まもなくまた二万の騎兵を率いて自ら宇文帰を征伐し、慕容翰および慕容垂を先鋒とした。宇文帰は、その騎将の渉奕于に全軍を率いさせて慕容翰を防がせた。慕容皝は、使者を馳せ遣わして慕容翰に次のように伝えた。「渉奕于は勇猛であるので、しばらく衝突を避け、敵勢が驕るのを待ち、そうしてから攻め取るべきであろう」と。慕容翰は言った。「宇文帰の精鋭は、ことごとくここに集結しています。今、もしこれに打ち勝てば、宇文帰は兵を労せずして滅ぼせましょう。渉奕于はただ虚名があるだけで、その実は恐れるに足りない人物でありますので、ここは敵に好き勝手させて我が方の兵気をくじくべきではございますまい」と。そこで慕容翰は進軍して戦い、渉奕于を斬り、ことごとくその兵衆を捕虜にし、宇文帰は遠く沙漠の北に逃れた。慕容皝は、それにより千里余りの領地を開き、その五万落余りの部人を昌黎に移住させ、渉奕于城を改めて威徳城と名づけた。そして飲至の礼を行い、それぞれの活躍に応じて論功行賞を行った。
(慕容皝は)牧牛を貧家に給付し、(その牧牛を用いて)慕容皝の苑中で耕作させ、その収穫物の八割を公のものとして納入させ、残りの二割はそれぞれの私的な収入とさせた。牧牛を持っているものの土地を持っていない者も、また慕容皝の苑中で耕作させ、その収穫物の七割を公のものとして納入させ、残りの三割はそれぞれの私的な収入とさせた。慕容皝の記室参軍の封裕は、それを諫めて言った。

私が聞くところによりますと、聖王が国を治めるに当たっては、賦税を軽くして人々の手元に財があるようにし、(上田・中田・下田の)三等の田畑を人々に分け与え、十分の一の税を課し、寒さに凍える者には衣服を与え、飢えに苦しむ者には食事を与え、すべての人、すべての家が充足する状態にさせるのであると言います。水害や干害があっても災害と言うまでには至らないのは何故でしょうか。それは、農官を厳選し、徹底して農業を勧め促すようつとめさせ、人による直接的な耕作を百畝(約10m四方)の田にめぐらし(=割りつける田の範囲を各人が直々に耕作できる百畝までに留め)、牛の力には頼らず、耕作に力を尽くす者は顕彰されて賞を受け、農作業をおこたる者には不歯(差別的待遇)の罰があるようにさせたからでございます。また、仕事内容を勘案してそれに応じて官を置き、官の性質を勘案してそれに応じて人員を置き、官は必ず必要に応じた分だけ置き、無駄な人員を置かないようにし、歳入の多い少ないを計算し、それを見定めて官員たちに俸禄を授けるのです。百官に供給する以外の分は、太倉に貯蔵しておき、三年の耕作で、一年分の穀物を貯蔵できるようにします。このようにして積み重ねていけば、どうして国の経費が不足するなどということがございましょうか。そうなれば、水害や干害があっても、人々に何の影響がございましょうか。農業につとめよとの令がしばしば発せられても、二千石(太守や国相)や令長(県令・県長)の中には、公事につとめようと志して切に地の利を尽くそうとする者はそうそうおりません。故に漢の世祖(後漢の光武帝)はそのような実態があることを知り、墾田が実情と符合しないということから、二千石を召し帰して誅殺すること十人以上に及び、だからこそ明帝・章帝の時代には、太平が訪れたと言われたのでございます。
永嘉の禍乱以降、人々は流亡し、中原は廃れ寂れ、千里にわたって煮炊きする煙もなく、飢え凍えて落ちのび流亡し、相次いで野垂れ死にしております。先王(慕容廆)は、神武・聖略により、この一地方を保全し、威を発揮して姦悪なる者を滅ぼし、徳を発揮して遠方の人をなつけたので、故に九州(中国)の人も、長城の外の異俗の人も、家財を背負って万里のかなたやってきて、その様子はまるで赤子が慈父になつくかのようであり、やってきた流人は原住の人々に比べて十倍余りの多きに及び、人口が多いのに対して土地は狭く、故に田地が無い者が四割にも及んでおります。殿下は英聖なる資質により、先王の業を広げることに成功し、南は強大なる趙をくじき、東は高句麗を滅ぼし、境域を拡大すること三千里、戸数を増すこと十万戸、先王の跡を継いで事業を開拓した功は、西伯(周の文王)よりも高いものがあります。どうか諸苑を廃止し、その地を流人たちに与えて諸産業に従事させるべきです。そうしてやってきた人が資産を有していなければ、その者に牧牛をお賜いなさいませ。その者はすでに殿下の人であるので(=殿下の所有物に殿下の所有物を使わせるだけでありますので)、牛が失われるなどということはございません。よく蓄える者とは、人々の手元に蓄える者を指すのであるというのは、まさにこのようなことでございます。それにより、卑近なことで言えば、深く人々の楽土の願望に沿い、中国の人はみなまさに殿下のために食事を用意して奉迎しようとするに違いありませんので、そうなれば石季龍(石虎)は誰と日々をともにしようというのでしょうか(=石季龍のもとからは人が離れていくでしょう)。それに魏や晋は伸張できずに圧迫された時代であったものの、それでもなお人々に課する納入の割合は収穫物の七割や八割には至らず、官牛・官田を支給された者は、官の取り分が六割、その者の取り分が四割で、私有物の牛を持っており官田のみを支給された者は、取り分を官と五分五分にし、人々はこれに安んじ、みな喜び楽しみました。私は、それでもなお明王の道ではないと考えますのに、ましてやそれにも増して人々から収奪なさいますとは。それに水害や干害の厄は、かの尭や(殷の)湯王でさえも避けられなかったものでありますので、だからこそ王者は水路を開き、鄭国・白公・西門豹・史起の灌漑の法に従い、干害があれば水路を決壊させて雨の代わりとし、水害があれば水路に流れ入るようにし、上は雨を願って天の河を見上げるような憂いもなく、下は陥没して溺れるくらいに水があふれる水害の憂いが無いようにさせるべきなのです。
(領内の)高句麗人・百済人および宇文部・段部の人々は、いずれも軍の力で無理やり移住させた人々でございますので、中国の人のように義を慕ってやってきた者ではなく、みな故郷に帰りたいと思う心を懐いております。今、彼らの戸数は十万に達しようとしており、都城に密集し、今にも国家の深い害になる恐れがございますので、その兄弟や宗族を分散させ、西境の諸城に移住させ、恩恵を施して慰撫し、法を布いて取り締まり、先住の居民と散在させ国の虚実を知られてしまうというようなことがないようにさせるべきです。
今、中原はまだ平定されず、物資の蓄積は拡大すべきでありますのに、官署は無駄に多く、游食者(農耕に従事せずに俸禄や供与などにより食にありつく者)は少なくなく、まさに「一夫でも農耕に従事しなければ、その年には飢餓に苦しむ者を生む」という状態でございます。必ず農耕者から食糧を徴収してそのような者に食を提供することになりますが、一人の農夫が他の一人の食を生産する力があったとしても、今や游食者は数万人にも上ります。損失がそのような状況であれば、どうしてすべての人、すべての家が充足する状態にさせ、泰平の治を実現するということができましょうか。殿下は古今のことをご覧になることが多くございますが、政においてこれより巨大な患禍はございません。そこで、国家を統治する才略が世に傑出しており、才能が時代の要求に合致している者がいれば、それぞれ諸々のあるべき地位に従って任用するべきでございます。そのような例に当てはまらない者に関しては、以後、農耕をして食糧を得、養蚕して衣服を得させるというのが、やはり天の道というものでありましょう。
殿下は、聖性として寛大・賢明であらせられ、喉が渇いて水を欲するように進言を求め、故に人々は、草刈りや木こりにも意見を求めるようなその態度に感じて進言を尽くし、忌憚なく諫言を行いました。先には参軍の王憲や大夫の劉明がいずれも忠を尽くし誠を献じ、そうして直言を呈し、すこぶる逆鱗に触れましたが、殿下のお心としては何もとがめだてされないおつもりでございました。担当官が、妖言により殿下に対して冒犯したとして、彼らを法に照らして処罰するよう上奏したところ、殿下は慈悲深く包容なされ、死刑に当てられるはずのところそれをお赦しになりましたが、それでもその官爵を剥奪して禁錮処分とし、朝廷に参列できないようにさせました。もしその意見がもっともであるのならば、殿下は当然その意見を採用すべきですし、もしその意見が見当違いであるのならば、それが虚妄であることを明らかにすべきです。諫臣を処罰して直言を求めるのは、あたかも北行して(南方の)越に赴こうとするようなもので、どうして達成することができましょうか。右長史の宋該らは、媚びへつらって迎合して世間に取り入り、軽々しく諫言の士を弾劾し、自分自身は直言を呈さず、他人を妬んでばかりで、殿下の耳目を覆い塞ぎ、不忠であること甚だしいものです。(士農工商の)四業は、国のよりどころでございます。(士大夫の業である)教学は、国をたもつための大事であります。(農民の業である)戦に習熟し、農業につとめることは、とりわけその大本であります。諸々の工人や商人たちの業は、枝葉末節のことに過ぎません。どうか軍事・国政双方における必須な官員の数を見定め、そうしてその定員の数を設定し、それ以外の者は帰農させ、戦法を教えこむべきでございます。学生に関しては、三年で大成しなければ、やはり帰農させるべきでございまして、無駄に定員の中に組み込んで、そうして聡明で英俊な者たちの道を塞ぐようなことをしてはなりません。
私の述べましたことが妥当であるのならば、どうか即刻これを施行なさり、もし妥当でないのであれば、どうか誅罰を加え、そうして朝廷が水流のごとく善に従い、早急に悪を罰するということを天下に知らしめなさいませ。王憲・劉明は忠臣でございますので、どうかその逆鱗に触れた過ちをお赦しになり、その薬草や砭石のような効能をお収めなさいませ。

慕容皝は、そこで令を下して言った。

封記室(封裕)の諫言を見るに、私は実におそろしさに駆られた。君主にとっては民衆こそが国であり、民衆にとっては穀物こそが命である。だとすれば、農業こそが国の大本である。よって、二千石(太守や国相)や令長(県令・県長)のうちで孟春の月令に従わず、農業を勧め促すことを怠っている者がいれば、とりわけ農地の開拓・整備ができていない者に刑法を施し、そうして属城の綱紀を粛正すべきである。担当官は明白・詳細に調査し、状を備えて報告せよ。御苑はすべて廃止し、それを田地の無い人々に給付するとよい。貧者のうち、まったく資産が無く、自ら生計を立てられない者がいれば、各々に牧牛一頭を賜与しよう。もし私財に余力がある場合でも、官牛の支給を受けて官田を開墾するのを願う者がいれば、魏晋の旧法に依拠(してその割合で収穫物を徴収)せよ。用水路や灌漑に関しては、官にも私にも利益があるのであれば、担当官はそれを計量して造り、水陸の勢を尽くすことに務めよ。中原はまだ平定されず、戦乱はやまず、また立てられた勲功や尽くされた忠誠はすでに多いので、官僚の数を減らすことはできない。凶悪なる賊どもを平定した後に、おもむろに改めてこのことについて議論しよう。(官府お抱えの)諸々の工人や商人の数、そして古の四佐(疑・丞・輔・弼)に相当する(侍従や顧問応対の)官や列将に関しては、速やかに定員を決め、残りの者は帰農させよ。学生のうち教導を受けるに適さない者に関しても、やはりその学籍を除け。そもそも人臣が君主に対して意見を呈するのは至難のことであるので、妖言・妄言・根拠のない話であっても、いずれも寛大な態度で不問とし、その善い意見を採用してそれに従うべきであろう。王憲・劉明は、その罪は禁錮・罷免に相当するが、そのような処置を下してしまったのも、やはり私に度量が無かったというべきものであろう。いずれも本官に復帰させ、さらに諫官に据えるべきであろう。封生(封裕)は忠直であり、深く王臣としての本質を備えている。『詩』(大雅・抑)にもあるではないか。「あらゆる言葉には応答がある」と。封裕に五万銭を賜与し、明らかに内外に示し広めよ。また、他にも私の過ちを述べようとする者がいれば、貴賤にこだわらず、忌み憚ることのないように。

時に黒龍・白龍がそれぞれ一匹ずつ龍山に現れた。慕容皝は、自ら官僚たちを率いてそれをうかがいに行き、龍の居場所から二百歩余り離れたところで、太牢の礼で祭った。二龍は、首をからませて戯れて飛翔し、角を落として去った。慕容皝は大いに喜び、宮に帰還すると、その領域内に赦を下し、新宮を和龍と名づけ、龍翔仏寺をその山上に立てた。
また、その大臣の子弟のうち官学の学生となった者に「高門生」の号を賜与し、東庠(学校の名前)を旧宮に建て、そこで郷射の礼を行い、慕容皝が毎月自ら視察しに赴き、優劣を試験した。慕容皝は、もともと書籍を好んでおり、講授にいそしんだので、学徒の数は非常に盛んになり、千人余りに至った。そして、自ら『太上章』を作ってそれを『急就篇』に代わる教科書とし、さらに『典誡』十五篇を著し、そうして貴族の子弟たちに教授した。
慕容恪は、高句麗の南蘇を攻め、それに勝利し、戍(防衛施設)を置いて帰還した。三年(永和三年?)、慕容皝は、その世子(諸侯の世継ぎ)の慕容儁を派遣して慕容恪と一緒に一万七千の騎兵を率いて東行して夫余を襲撃させ、それに勝利し、その王および五万口余りの部衆を捕虜にして帰還した。
慕容皝は、自ら東庠に臨んで学生の試験を行い、その中でも経学に通じて特に優秀な者を抜擢して近侍の任に充てた。久しく旱が続いたので、人々の田租を免除した。成周郡・冀陽郡・営丘郡などの郡を廃止した。そして勃海の人の集まりを興集県とし、河間の人の集まりを寧集県とし、広平郡・魏郡の人の集まりを興平県とし、東萊郡・北海郡の人の集まりを育黎県とし、呉人の集まりを呉県とし、ことごとく燕国に属させた。
慕容皝がかつて西辺に狩りをしに行き、黄河を渡ろうとしたところ、一人の父老がいるのが見え、朱色の衣を着て、白馬に乗り、手を挙げて慕容皝に指図して言った。「ここは猟場ではありませぬ。王よ、帰りなされ」と。慕容皝はその出来事を秘密にして言外せず、そのまま黄河を渡り、連日大いに獲物を得た。後に白兎がいるのを見て、馳せてそれを射たところ、馬が倒れて慕容皝は傷を負ったので、そこでやっとその体験した出来事について述べた。車に乗って宮に帰ると、慕容皝は慕容儁を招いて後事を託した。永和四年(348)に慕容皝は死去した。在位は十五年、時に五十二歳であった。慕容儁が皇帝号を僭称すると、慕容皝に対して「文明皇帝」と追諡した。

(慕容翰・陽裕)

原文

慕容翰、字元邕、廆之庶長子也。性雄豪、多權略、猨臂工射、膂力過人。廆甚奇之、委以折衝之任。行師征伐、所在有功、威聲大振、爲遠近所憚。作鎮遼東、高句麗不敢爲寇。
善撫接、愛儒學、自士大夫至于卒伍、莫不樂而從之。
及奔段遼、深爲遼所敬愛。柳城之敗、段蘭欲乘勝深入、翰慮成本國之害、詭說於蘭、蘭遂不進。後石季龍征遼、皝親將三軍略令支以北、遼議欲追之。翰知皝躬自總戎、戰必克勝、乃謂遼曰「今石氏向至、方對大敵、不宜復以小小爲事。燕王自來、士馬精銳。兵者凶器、戰有危慮、若其失利、何以南禦乎。」蘭怒曰「吾前聽卿誑說、致成今患、不復入卿計中矣。」乃率眾追皝、蘭果大敗。翰雖處仇國、因事立忠、皆此類也。
及遼奔走、翰又北投宇文歸。既而逃、歸乃遣勁騎百餘追之。翰遙謂追者曰「吾既思戀而歸、理無反面。吾之弓矢、汝曹足知。無爲相逼自取死也。吾處汝國久、恨不殺汝。汝可百步豎刀。吾射中者、汝便宜反。不中者、可來前也。」歸騎解刀豎之。翰一發便中刀鐶、追騎乃散。
既至、皝甚加恩禮。建元二年、從皝討宇文歸、臨陣爲流矢所中、臥病積時。後疾漸愈、於其家中騎馬自試、或有人告翰私習騎、疑爲非常。皝素忌之、遂賜死焉。翰臨死謂使者曰「翰懷疑外奔、罪不容誅、不能以骸骨委賊庭、故歸罪有司。天慈曲愍、不肆之市朝、今日之死、翰之生也。但逆胡跨據神州、中原未靖、翰常剋心自誓、志吞醜虜、上成先王遺旨、下謝山海之責。不圖、此心不遂、沒有餘恨。命也奈何。」仰藥而死。

訓読

慕容翰、字は元邕、廆の庶長子なり。性は雄豪にして、權略多く、猨臂にして射を工にし、膂力は人に過ぐ。廆、甚だ之を奇とし、委ぬるに折衝の任を以てす。行師征伐するに、所在に功有り、威聲は大いに振い、遠近の憚る所と爲る。鎮を遼東に作すや、高句麗は敢えて寇を爲さず。
撫接を善くし、儒學を愛し、士大夫より卒伍に至るまで、樂いて之に從わざる莫し。
段遼に奔るに及び、深く遼の敬愛する所と爲る。柳城の敗にて、段蘭、勝ちに乘じて深く入らんと欲するや、翰、本國の害と成るを慮り、詭りて蘭に說きたれば、蘭、遂に進まず。後に石季龍の遼を征するに、皝の親ら三軍を將いて令支以北を略するや、遼、議して之を追わんと欲す。翰、皝の躬自ら戎を總べたれば、戰えば必ず克勝せんことを知りたれば、乃ち遼に謂いて曰く「今、石氏は向い至り、方に大敵に對せんとすれば、宜しく復た小小を以て事と爲すべからず。燕王、自ら來たり、士馬は精銳なり。兵は凶器にして、戰に危慮有れば、若し其れ利を失わば、何を以てか南禦せん」と。蘭、怒りて曰く「吾、前に卿の誑說を聽き、今患を成すを致せば、復た卿の計中に入らず」と。乃ち眾を率いて皝を追うも、蘭は果たして大敗す。翰、仇國に處ると雖も、事に因りて忠を立つること、皆な此の類いなり。
遼の奔走するに及び、翰、又た北のかた宇文歸に投ず。既にして逃ぐるや、歸、乃ち勁騎百餘を遣わして之を追わしむ。翰、遙かに追者に謂いて曰く「吾、既に思戀して歸れば、理として反面する無し。吾の弓矢、汝が曹、知るに足らん。相い逼りて自ら死を取るを爲す無かれ。吾、汝が國に處ること久しきに、汝を殺さざりしことを恨む〔一〕。汝、百步にして刀を豎つべし。吾、射て中たらば、汝は便ち宜しく反るべし。中たらずんば、來りて前むべきなり」と。歸の騎、刀を解きて之を豎つ。翰、一發するや便ち刀鐶に中たれば、追騎は乃ち散ず。
既に至るや、皝、甚だ恩禮を加う。建元二年、皝に從いて宇文歸を討つに、陣に臨みて流矢の中たる所と爲り、病に臥すること積時。後に疾漸く愈えたれば、其の家中に於いて馬に騎して自ら試すに、或いは人有りて告ぐらく、翰は私かに騎を習えば、疑うらくは非常を爲さん、と。皝、素より之を忌みたれば、遂に焉に死を賜う。翰、死に臨みて使者に謂いて曰く「翰、懷疑して外に奔り、罪は誅を容れざるも、骸骨を以て賊庭に委ぬる能わず、故に罪を有司に歸す。天慈は曲愍し、之を市朝に肆さざれば、今日の死は、翰の生なり。但だ逆胡は神州に跨據し、中原は未だ靖まらず、翰、常に心に剋みて自ら誓い、醜虜を吞み、上は先王の遺旨を成し、下は山海の責に謝せんと志す。圖らざりき、此の心は遂げず、沒するに餘恨有らんとは。命や奈何せん」と。藥を仰いで死す。

〔一〕原文通りでは文意が通じない。『晋書斠注』では、丁国鈞『晋書校文』の次のような説を引く。すなわち、『太平御覧』に引く『十六国春秋』前燕録では、「恨不殺汝」ではなく「誓不殺汝」とし、『資治通鑑』では「恨不殺汝」ではなく「悢悢不欲殺汝」としており、この両者であれば文意が通じるとする。これに従えば、前者の「吾處汝國久、誓不殺汝」の場合、「吾、汝が國に處ること久しければ、誓いて汝を殺さず」という訓読になり、「私は、お前の国に長い間滞在していたので、お前を殺さないと誓おう」という意味になり、後者の「吾處汝國久、悢悢不欲殺汝」の場合、「吾、汝が國に處ること久しければ、悢悢として汝を殺すを欲せず」という訓読になり、「私は、お前の国に長い間滞在していたので、心が痛ましく、お前を殺すことを望まない」という意味になる。

現代語訳

慕容翰は、字を元邕と言い、慕容廆の庶長子である。性は雄壮で豪放、権謀に長け、猿のように腕が長く、射を得意とし、人並み以上の膂力があった。慕容廆は慕容翰を優れた人物であると見なし、将帥の任を委ねた。出兵して征伐を行うたびに、至る所で功績を上げ、威厳と名声は大いに盛んになり、遠近の人に憚られた。慕容翰が遼東を鎮守するようになると、高句麗は辺境に侵略することができなくなった。
人々をよく安撫して受け容れ、儒学を愛し、士大夫から末端の兵士に至るまで、みな心から喜んで慕容翰に従った。
段遼のもとに出奔すると、段遼に深く敬愛された。柳城の敗戦の際には、段蘭が勝ちに乗じて深く侵入しようとしたところ、慕容翰はそれが本国の害になることを憂慮し、段蘭をあざむいて説き伏せたので、段蘭はそこで進軍しなかった。後に石季龍(後趙の石虎)が段遼を征伐した際に、慕容皝が自ら全軍を率いて令支以北を侵略すると、段遼は、議して慕容皝を追撃しようとした。慕容翰は、慕容皝が自ら軍を統べているので、戦えば必ず勝利するだろうと分かっていたので、そこで段遼に言った。「今、石氏が向かってきており、まさに大敵と対峙しようとしていますので、もはや小事にこだわるべきではございません。燕王(慕容皝)が自らやって来ており、兵馬は精鋭でございます。兵は凶器であり、戦には万が一の危険がつきものですから、もし敗れるようなことがあれば、どうやって南の敵(石氏)を防げましょうか」と。段蘭は怒って言った。「私は以前にそなたのでたらめな言葉を聞き容れたせいで、今のような患禍をもたらすことになってしまったので、もうそなたの計中には陥らんぞ」と。そこで兵衆を率いて慕容皝を追撃したが、段蘭は果たして大敗した。慕容翰は、仇国にいたとはいえ、事あるごとに(慕容皝に対して)忠を立てた様子は、みなこのようなたぐいであった。
段遼が逃走すると、慕容翰はまた北行して宇文帰に投降した。慕容翰が脱走すると、宇文帰は、そこで百騎余りの精鋭騎兵を派遣して慕容翰を追わせた。慕容翰は、遠くから追手に対して呼びかけた。「私はもう祖国を思慕して帰る決断をしたので、理としてお前らのもとに引き返すなんてことは無い。私の弓矢の腕は、お前らも知っておろう。迫り近づいて自ら死に飛び込むような真似をあえてする必要もあるまい。私は、お前の国に長い間滞在していたが、お前を殺さなかったことを心残りに思う。お前は、百歩離れたところで刀を立てるがよい。私がそれを射て命中すれば、お前はおとなしく帰るべきであろう。もし命中しなければ、進んで来るがよい」と。宇文帰の騎兵は、刀を解いてそれを地面に立てた。慕容翰は、矢を一発放つと、それが見事に刀環に命中したので、追手の騎兵はそこで解散した。
慕容翰が本国に到着すると、慕容皝は、彼に対して非常に手厚い恩礼を加えた。建元二年(344)、慕容皝に従って宇文帰を討伐したところ、陣に臨んで流矢が命中し、それから長い間、病で寝たきりになった。後に病がだんだん癒えてきたので、その家中において試しに騎馬してみたところ、ある人が慕容皝に次のように告げ口した。「慕容翰はひそかに騎馬の練習をしておりますので、おそらくは叛逆を起こそうとしているのでしょう」と。慕容皝は、もともとそのことを危惧していたので、そこで慕容翰に死を賜わった。慕容翰は、死に臨んで使者に言った。「私は、かつて懐疑して国外に出奔し、罪は誅殺を免れないものでありましたが、骸骨を賊の政権に委ねることができず、故に(祖国に戻って)担当官に我が罪を裁くのを任せました。殿下の慈愛はかたじけなくも私を憐れみなさり、私の屍を市場にさらすようなことをされませんでしたので、今日死ぬことになるといいましても、むしろ私は生かされたのでございます。ただ、悪逆なる胡賊が中国を占拠し、中原はまだ平定されず、私は常に心に刻んで自ら誓い、醜悪なる賊を併呑し、上は先王(慕容廆)の遺志を達成し、下は山海の神霊たちのとがめに対して謝罪しようと志しておりました。しかし、思いもしませんでした。この心が遂げられず、死ぬに当たって遺恨がありましょうとは。これが天命ならばどうしようもありません」と。そこで薬をあおいで死去した。

原文

陽裕、字士倫、右北平無終人也。少孤、兄弟皆早亡、單煢獨立。雖宗族無能識者、惟叔父耽幼而奇之、曰「此兒非惟吾門之標秀、乃佐時之良器也。」刺史和演辟爲主簿。王浚領州、轉治中從事、忌而不能任。
石勒既克薊城、問棗嵩曰「幽州人士、誰最可者。」嵩曰「燕國劉翰、德素長者。北平陽裕、榦事之才。」勒曰「若如君言、王公何以不任。」嵩曰「王公由不能任、所以爲明公擒也。」勒方任之、裕乃微服潛遁。
時鮮卑單于段眷爲晉驃騎大將軍・遼西公、雅好人物、虛心延裕。裕謂友人成泮曰「仲尼喜佛肸之召、以匏瓜自喻。伊尹亦稱、何事非君、何使非民。聖賢尚如此。況吾曹乎。眷今召我、豈徒然哉。」泮曰「今華夏分崩、九州幅裂、軌迹所及、易水而已。欲偃蹇考槃、以待大通者、俟河之清也。人壽幾何。古人以爲白駒之歎。少游有云、郡掾足以蔭後。況國相乎。卿追蹤伊孔、抑亦知機其神也。」裕乃應之。拜郎中令・中軍將軍、處上卿位。歷事段氏五主、甚見尊重。
段遼與皝相攻、裕諫曰「臣聞親仁善鄰、國之寶也。慕容與國世爲婚姻、且皝令德之主、不宜連兵構怨、凋殘百姓。臣恐禍害之興、將由於此。願兩追前失、通款如初、使國家有太山之安、蒼生蒙息肩之惠。」遼不從。出爲燕郡太守。石季龍克令支、裕以郡降、拜北平太守、徵爲尚書左丞。
段遼之請迎於季龍也、裕以左丞領征東麻秋司馬。秋敗、裕爲軍人所執、將詣皝。皝素聞裕名、即命釋其囚、拜郎中令、遷大將軍左司馬。東破高句麗、北滅宇文歸、皆豫其謀、皝甚器重之。及遷都和龍、裕雅有巧思、皝所制城池宮閤、皆裕之規模。裕雖仕皝日近、寵秩在舊人之右、性謙恭清儉、剛簡慈篤、雖歷居朝端、若布衣之士。士大夫流亡羈絕者、莫不經營收葬、存恤孤遺、士無賢不肖皆傾身待之、是以所在推仰。
初、范陽盧諶每稱之曰「吾及晉之清平、歷觀朝士多矣、忠清簡毅、篤信義烈、如陽士倫者、實亦未幾。」及死、皝甚悼之。時年六十二。

訓読

陽裕、字は士倫、右北平無終の人なり。少くして孤、兄弟は皆な早くに亡せたれば、單煢にして獨立す。宗族に能く識る者無しと雖も、惟だ叔父の耽のみ幼くして之を奇とし、曰く「此の兒、惟だに吾が門の標秀なるのみに非ず、乃ち佐時の良器なり」と。刺史の和演、辟して主簿と爲す。王浚の州を領するや、治中從事に轉ずるも、忌みて任ずる能わず。
石勒の既に薊城に克つや、棗嵩に問いて曰く「幽州の人士、誰か最も可なる者ならん」と。嵩曰く「燕國の劉翰は、德は素より長者なり。北平の陽裕は、榦事の才なり」と。勒曰く「若し君の言の如くんば、王公は何を以てか任ぜざる」と。嵩曰く「王公は任ずる能わざるに由り、所以に明公に擒にせらるるなり」と。勒、方に之に任ぜんとするに、裕、乃ち微服して潛遁す。
時に鮮卑單于の段眷、晉の驃騎大將軍・遼西公と爲るに、雅より人物を好み、虛心に裕を延く。裕、友人の成泮に謂いて曰く「仲尼は佛肸の召を喜び、匏瓜を以て自ら喻す。伊尹も亦た稱すらく、何れに事うるとしてか君に非ざらん、何れを使うとしてか民に非ざらん、と。聖賢すら尚お此くの如し。況んや吾が曹をや。眷、今我を召すに、豈に徒らに然らんや」と。泮曰く「今、華夏は分崩し、九州は幅裂し、軌迹の及ぶ所は、易水のみ。偃蹇として槃を考し、以て大通を待たんと欲するは、河の清むを俟つなり。人壽は幾何そ。古人は以て白駒の歎を爲す。少游に云う有り、郡掾は以て後を蔭うに足る、と。況んや國相をや。卿の伊・孔を追蹤するは、抑も亦た機を知ること其れ神ならん」と。裕、乃ち之に應ず。郎中令・中軍將軍を拜し、上卿の位に處る。段氏の五主に歷事し、甚だ尊重せらる。
段遼の皝と相い攻むるや、裕、諫めて曰く「臣聞くならく、仁に親しみ鄰と善くするは、國の寶なり、と。慕容は國と世々婚姻を爲し、且つ皝は令德の主なれば、宜しく兵を連ねて怨を構え、百姓を凋殘せしむべからず。臣、禍害の興、將に此に由らんとするを恐る。願わくば兩つながら前失を追い、款を通ずること初めの如くし、國家をして太山の安き有らしめ、蒼生をして息肩の惠を蒙らしめられんことを」と。遼、從わず。出でて燕郡太守と爲る。石季龍の令支に克つや、裕、郡を以て降り、北平太守を拜し、徵されて尚書左丞と爲る。
段遼の季龍を迎えんことを請うや、裕、左丞を以て征東の麻秋の司馬を領す。秋の敗るるや、裕、軍人の執うる所と爲り、將に皝に詣らんとす。皝、素より裕の名を聞きたれば、即ち命じて其の囚を釋き、郎中令に拜し、大將軍左司馬に遷る。東のかた高句麗を破り、北のかた宇文歸を滅ぼすに、皆な其の謀に豫れば、皝、甚だ之を器重す。和龍に遷都するに及び、裕、雅より巧思有れば、皝の制する所の城池・宮閤は、皆な裕の規模なり。裕、皝に仕うること日近しと雖も、寵秩は舊人の右に在り、性は謙恭にして清儉、剛簡にして慈篤、朝端に歷居すると雖も、布衣の士の若し。士大夫の流亡して羈絕ゆれば、經營して收葬し、孤遺を存恤せざるは莫く、士は賢不肖と無く皆な傾身して之を待し、是こを以て所在に推仰せらる。
初め、范陽の盧諶、每に之を稱して曰く「吾、晉の清平に及び、朝士を歷觀すること多きも、忠清簡毅、篤信義烈なること、陽士倫の如き者は、實に亦た未だ幾もあらず」と。死するに及び、皝、甚だ之を悼む。時に年は六十二。

現代語訳

陽裕は、字を士倫と言い、右北平郡・無終の人である。若いうちに親を亡くし、兄弟もみな早逝してしまったので、よるべもなく孤立していた。宗族の中には、陽裕のことをよく理解する者がいなかったが、ただ叔父の陽耽だけは、幼い陽裕を優れた人物であると見ぬき、言った。「この子は、ただ我が一門における逸材であるというのみならず、君主を助けて時政を補佐する良器となろう」と。幽州刺史の和演は、陽裕を辟召して主簿に任じた。王浚が幽州刺史を兼任すると、治中従事に転任したが、王浚は陽裕を忌避して信任することができなかった。
石勒が薊城を攻略すると、棗嵩に問うた。「幽州の人士の中では、誰か最も優れているか」と。棗嵩は言った。「燕国の人である劉翰は、もともと長者と言うべき徳を備えております。北平の人である陽裕は、物事を処理する才能があります」と。石勒は言った。「もし君の言葉通りであれば、王公(王浚)はなぜ彼らを信任しなかったのか」と。棗嵩は言った。「王公は彼らを信任することができなかったからこそ、あなたに捕らえられたのです」と。石勒は陽裕を任用しようとしたが、陽裕は服を換えて身分を隠し、潜伏して逃れた。
時に鮮卑単于の段眷は、晋から驃騎大将軍・遼西公に任じられており、もともと人物を好み、虚心に陽裕を招いた。陽裕は、友人の成泮に言った。「かつて仲尼(孔子)は(不善を行っていた)佛肸に招聘されたのを喜び、自分を苦瓜に喩えて(自分はその不善には染まらないから招聘に応じても大丈夫であると)諭した。伊尹もまた(ふさわしくない君主には仕えず、ふさわしくない民を治めようとせず、世の中が乱れている際には隠遁して政治に関わろうとしなかった伯夷の態度と対照的に)『仕えるからにはどのような君主でも君主は君主であり、治めるからにはどのような民でも民は民である(=世の中が治まっていようと乱れていようと進んで政治に携わる)』と言っていた。聖人・賢者ですらそうなのである。ましてや私たちはなおさら(たとえ乱世でも不善の君主であっても世の中を正すために仕えるべき)であろう。今、段眷が私を召そうとしているが、これがどうして偶然であろうか」と。成泮は言った。「今、中華は分かたれ崩壊し、九州は布が切り裂かれるかのように分裂しており、往事の状態を保っているのは易水地域のみである。お高くとまって世から逃れて隠れ家を作り、そうして天下に道が行われるのを待とうとするのは、まるで黄河が澄むのを待つようなものである。人の寿命など、どれだけあろうか。古人はだからこそ、(『詩』小雅の)『白駒』の嘆きを詠ったのである。(かつて後漢の)馬少游は言った。『郡の掾にでもなれれば、もうそれで子孫への恩恵は十分である』と。ましてや国相の位であればなおさらである。そなたが伊尹や孔子にならうことができれば、それはまたまさに『物事の変化のきざしを察知するのは、神わざであろうか』というものであろう」と。陽裕は、そこでその招聘に応じた。やがて郎中令・中軍将軍に任じられ、上卿の位に据えられることになった。そのまま段氏の五人の君主に歴代仕え、非常に尊重された。
段遼が慕容皝と攻撃し合うようになると、陽裕はそれを諫めて言った。「私が聞くところによりますと、仁者に親しみ隣国と仲良くするのは国の宝であると言います。慕容氏は我が国と代々婚姻を結び、しかも慕容皝は優れた徳を有する君主でありますので、戦を交えて仇怨を結び、それによって人々を凋落させるようなことをすべきではございません。私は、禍害がまさにこれによってもたらされようとしているのではないかと恐れます。どうか、双方に過去の過失を遡って謝罪し、かつてのように和を結び、そうして国家には泰山の如き安寧をもたらし、民草には肩の荷を下ろして休む恵みをもたらすようになさいませ」と。段遼はそれに従わなかった。やがて陽裕は地方に出されて燕郡太守となった。石季龍(後趙の石虎)が令支を攻略すると、陽裕は郡ごと石季龍に降伏し、北平太守に任じられ、やがて徴召されて尚書左丞となった。
段遼が石季龍を迎えることを請うと、陽裕は、尚書左丞の位にありながら征東将軍である麻秋の幕府の司馬を兼任した。麻秋が敗れると、陽裕は慕容皝の軍人に捕らえられ、慕容皝のもとに送られることとなった。慕容皝は、もともと陽裕の名を聞いていたので、すぐさま命じて拘束を解き、郎中令に任じ、さらに大将軍府の左司馬に昇進させた。慕容皝が東行して高句麗を破り、北行して宇文帰を滅ぼすに当たり、陽裕はいずれにおいてもその謀略に参与したので、慕容皝は非常に陽裕を尊重した。和龍に遷都することになると、陽裕はもとから精巧な構想を有していたので、慕容皝が制作させた城壁・水堀・宮殿はいずれも陽裕の設計で築かれた。陽裕は、慕容皝に仕えてから日が浅かったにもかかわらず、恩寵や授けられた官秩は旧来の人よりも上とされ、その性は謙虚で恭しく、清廉でつましく、剛健で細かいことにこだわらず、慈愛深く人情に厚く、朝廷の高官を歴任しているにもかかわらず、まるで布衣の士(平民)のように振る舞った。士大夫が流亡して消息が途絶えてしまうたびに、いつもその人のために葬儀を計画して取り仕切り、みなしごを憐れんで救済し、故に士人たちは賢者と不肖の者とを問わずみな陽裕に心を尽くして待遇し、そうして陽裕は至る所で敬い尊ばれた。
初め、范陽の人である盧諶は、いつも陽裕のことを称賛して言った。「私は、晋の清平の世になって、たくさんの朝廷の士人たちを逐一観察してきたが、忠実で清廉、剛毅で細かいことにこだわらず、篤実で誠信・義烈であること、陽士倫(陽裕)に及ぶ者は、実にほとんどいなかった」と。陽裕が死去すると、慕容皝は非常に陽裕のことを哀悼した。時に六十二歳であった。