いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第十二巻_前秦_苻洪・苻健・苻生(苻雄・王墮)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。

苻洪

原文

苻洪字廣世、略陽臨渭氐人也。其先蓋有扈之苗裔、世為西戎酋長。始其家池中蒲生、長五丈、五節如竹形、時咸謂之蒲家、因以為氏焉。父懷歸、部落小帥。先是、隴右大雨、百姓苦之、謠曰、「雨若不止、洪水必起。」故因名曰洪。好施、多權略、驍武善騎射。
屬永嘉之亂、乃散千金、召英傑之士訪安危變通之術。宗人蒲光・蒲突遂推洪為盟主。劉曜僭號長安、光等逼洪歸曜、拜率義侯。曜敗、洪西保隴山。石季龍將攻上邽、洪又請降。季龍大悅、拜冠軍將軍、委以西方之事。季龍滅石生、洪說季龍宜徙關中豪傑及羌戎內實京師。季龍從之、以洪為龍驤將軍・流人都督、處于枋頭。累有戰功、封西平郡公、其部下賜爵關內侯者二千餘人、以洪為關內領侯將。冉閔言於季龍曰、「苻洪雄果、其諸子並非常才、宜密除之。」季龍待之愈厚。及石遵即位、閔又以為言、遵乃去洪都督、餘如前。洪怨之、乃遣使降晉。後石鑒殺遵、所在兵起、洪有眾十餘萬。
永和六年、帝以洪為征北大將軍・都督河北諸軍事・冀州刺史・廣川郡公。時有說洪稱尊號者、洪亦以讖文有「艸付應王」、又其孫堅背有「艸付」字、遂改姓苻氏、自稱大將軍・大單于・三秦王。洪謂博士胡文曰、「孤率眾十萬、居形勝之地、冉閔・慕容儁可指辰而殄、姚襄父子克之在吾數中、孤取天下、有易於漢祖。」
初、季龍以麻秋鎮枹罕、冉閔之亂、秋歸鄴、洪使子雄擊而獲之、以秋為軍師將軍。秋說洪西都長安、洪深然之。既而秋因宴鴆洪、將并其眾、世子健收而斬之。洪將死、謂健曰、「所以未入關者、言中州可指時而定。今見困豎子、中原非汝兄弟所能辦。關中形勝、吾亡後便可鼓行而西。」言終而死、年六十六。健僭位、偽諡惠武帝。

訓読

苻洪 字は廣世、略陽の臨渭の氐人なり。其の先 蓋し有扈の苗裔なり。世々西戎の酋長と為る。始め其の家の池中に蒲 生え、長さ五丈、五節ありて竹の形の如し。時に咸 之を蒲家と謂ふ。因りて以て氏と為す。父の懷歸、部落の小帥なり。是より先、隴右 大いに雨り、百姓 之に苦しむ。謠に曰く、「雨 若し止まざれば、洪水 必ず起らん」と。故に因りて名を洪と曰ふ。施を好み、權略多く、驍武にして騎射を善くす。
永嘉の亂に屬ひ、乃ち千金を散じ、英傑の士を召して安危變通の術を訪ぬ。宗人の蒲光・蒲突は遂に洪を推して盟主と為す。劉曜 長安に僭號するや、光ら洪に逼りて曜に歸し、率義侯を拜す。曜 敗れ、洪 西して隴山を保つ。石季龍 將に上邽を攻めんとし、洪 又 降ること請ふ。季龍 大いに悅び、冠軍將軍を拜す、西方の事を以て委ぬ。季龍 石生を滅すや、洪 季龍に宜しく關中の豪傑及び羌戎を徙して京師を內實すべしと說く。季龍 之に從ふ。洪を以て龍驤將軍・流人都督と為し、枋頭に處らしむ。累りに戰功有り、西平郡公に封ず。其の部下に爵關內侯を賜る者は二千餘人なり。洪を以て關內領侯將と為す。冉閔 季龍に言ひて曰く、「苻洪 雄果なり。其の諸子 並びに非常の才なり。宜しく密かに之を除くべし」と。季龍 之を待すること愈々厚し。石遵 即位するに及び、閔 又 以て言を為し、遵 乃ち洪より都督を去り、餘 前が如し。洪 之を怨み、乃ち使を遣はして晉に降る。後に石鑒 遵を殺す。所在に兵 起つ。洪 眾十餘萬有り。
永和六年、帝 洪を以て征北大將軍・都督河北諸軍事・冀州刺史・廣川郡公と為す。時に洪に尊號を稱せよと說く者有り。洪 亦 讖文に「艸付應王」と有り、又 其の孫の堅 背に「艸付」の字有るを以て、遂に姓を苻氏に改め、大將軍・大單于・三秦王を自稱す。洪 博士の胡文に謂ひて曰く、「孤 眾十萬を率ゐ、形勝の地に居る。冉閔・慕容儁 辰を指して殄す可し。姚襄の父子 之に克たば吾が數中に在り。孤 天下を取るは、漢祖より易きこと有り」と。
初め、季龍 麻秋を以て枹罕に鎮せしむ。冉閔の亂あるや、秋 鄴に歸す、洪 子の雄をして擊たしめて之を獲へ、秋を以て軍師將軍と為す。秋 洪に西のかた長安に都せよと說く。洪 深く之を然りとす。既にして秋 宴に因りて洪を鴆し、將に其の眾を并せんとす。世子の健 收めて之を斬る。洪 將に死せんとし、健に謂ひて曰く、「未だ關に入らざる所以は、中州 時を指して定む可しと言へばなり。今 豎子に困(きは)めらる。中原 汝が兄弟の能く辦ずる所に非ず。關中は形勝なり。吾 亡きの後、便ち鼓行して西す可し」と。言 終はりて死す。年六十六。健 位を僭し、偽りて惠武帝と諡す。

現代語訳

苻洪は字を広世といい、略陽の臨渭の氐族である。その祖先は恐らく有扈氏の苗裔である。代々西戎の酋長であった。はじめ家の池から蒲が生え、長さ五丈、五つの節があり竹のような形であった。当時のひとはこれを蒲の家と言った。ちなんで(蒲)氏とした。父の懐帰は、部落の小帥であった。これより先、隴右で大雨が降り、百姓は困らされた。歌謡があり、「もし雨が止まねば、洪水がきっと起こる」と言った。ちなんで洪と名付けた。(苻洪は)施しを好み、権略が多く、驍武であり騎射を得意とした。
永嘉の乱にあい、千金を散じ、英傑の士を召して存続し勝ち抜くための方策を求めた。宗人の蒲光・蒲突は苻洪を推戴して盟主とした。劉曜が長安で僭号すると、蒲光らは苻洪に迫って劉曜に帰属し、率義侯を拝した。劉曜が敗れると、苻洪は西にゆき隴山に籠もった。石季龍が上邽を攻めようとし、苻洪は降服を願い出た。季龍は大いに悦び、冠軍将軍を拝して、西方の事を委任した。季龍が石生を滅すと、苻洪は季龍に対して関中の豪傑及び羌戎を移して京師の人口を充実させなさいと説いた。季龍はこれに従った。苻洪を龍驤将軍・流人都督とし、枋頭に居らせた。連続して戦功をたて、西平郡公に封じられた。その部下で爵関内侯を賜わった者は二千餘人であった。苻洪を関内領侯将とした。冉閔が季龍に、「苻洪は果敢な英雄である。その諸子も非常の才がある。密かに排除すべきです」と言った。(ところが)季龍は苻洪をますます厚く待遇した。石遵が即位すると、冉閔は同じことを吹き込み、石遵は苻洪から都督(の称号と権限)を除き、それ以外は従来通りとした。苻洪はこれを怨み、使者を送って東晋に降服した。のちに石鑒が石遵を殺した。居た場所で兵を起こした。苻洪の兵は十餘万であった。
永和六(三五〇)年、穆帝は苻洪を征北大将軍・都督河北諸軍事・冀州刺史・広川郡公とした。このとき苻洪に尊号を称せと説く者がいた。苻洪もまた讖文に「艸付応王」と有り、その孫の苻堅の背に「艸付」という字があるから、姓を苻氏に改め、大将軍・大単于・三秦王を自称した。苻洪は博士の胡文に、「私は兵十万を率い、要害の地に居る。冉閔・慕容儁は遠からず滅ぼせる。姚襄の父子は彼ら(冉閔・慕容儁)を破ってしまえば傘下に入る。私が天下を取るのは、漢祖(劉邦)より簡単だ」と言った。
これより先、季龍は麻秋に枹罕を鎮守させた。冉閔の乱が起こると、麻秋は鄴に帰順し、苻洪は子の苻雄に攻撃させてこれを捕らえ、麻秋を軍師将軍とした。麻秋は苻洪に西のかた長安に遷都せよと説いた。苻洪は心から同意した。やがて麻秋は宴席で苻洪に鴆酒を飲ませ、その兵を奪おうとした。世子の苻健は捕らえてかれを斬った。苻洪は死の直前、苻健に、「まだ関中に入らなかった理由は、中原は時期を決めさえすれば平定できると思ったからである。いま豎子(麻秋)に追い詰められた。中原はお前たち兄弟では統治できまい。関中は地政が優れている。私の死後、軍鼓を鳴らして西に向かえ」と言った。言い終わって死んだ。年は六十六であった。苻健が僭位を嗣ぎ、不当に恵武帝と謚した。

苻健

原文

苻健字建業、洪第三子也。初、母1.(羌)〔姜〕氏夢大羆而孕之、及長、勇果便弓馬、好施、善事人、甚為石季龍父子所親愛。季龍雖外禮苻氏、心實忌之、乃陰殺其諸兄、而不害健也。及洪死、健嗣位、去秦王之號、稱晉爵、遣使告喪于京師、且聽王命。
時京兆杜洪竊據長安、自稱晉征北將軍・雍州刺史、戎夏多歸之。健密圖關中、懼洪知之、乃偽受石祗官、繕宮室於枋頭、課所部種麥、示無西意、有知而不種者、健殺之以徇。既而自稱晉征西大將軍・都督關中諸軍事・雍州刺史、盡眾西行、起浮橋於盟津以濟。遣其弟雄率步騎五千入潼關、兄子菁自軹關入河東。健執菁手曰、「事若不捷、汝死河北、我死河南、2.(比)〔不〕及黃泉、無相見也。」既濟、焚橋、自統大眾繼雄而進。
杜洪遣其將張先要健於潼關、健逆擊破之。健雖戰勝、猶修牋于洪、并送名馬珍寶、請至長安上尊號。洪曰、「幣重言甘、誘我也。」乃盡召關中之眾來距。健筮之、遇泰之臨、健曰、「小往大來、吉亨。昔往東而小、今還西而大、吉孰大焉。」是時眾星夾河西流、占者以為百姓還西之象。健遂進軍、次赤水、遣雄略地渭北、又敗張先於陰槃、擒之、諸城盡陷、菁所至無不降者、三輔略定。健引兵至長安、洪奔司竹。健入而都之、遣使獻捷京師、并修好於桓溫。

1.中華書局本に従い、改める。
2.中華書局本に従い、改める。

訓読

苻健 字は建業、洪の第三子なり。初め、母の姜氏 大羆を夢みて之を孕む。長ずるに及び、勇果にして弓馬を便とす。施を好み、善く人に事ふ。甚だ石季龍の父子の為に親愛せらる。季龍 外は苻氏に禮すと雖も、心は實に之を忌む。乃ち陰かに其の諸兄を殺し、而れども健を害せざるなり。洪 死するに及び、健 位を嗣ぎ、秦王の號を去る。晉爵を稱し、使を遣はして喪を京師に告げ、且に王命を聽く。
時に京兆の杜洪 竊かに長安に據り、自ら晉の征北將軍・雍州刺史を稱す。戎夏 多く之に歸す。健 密かに關中を圖り、洪 之を知ることを懼る。乃ち偽りて石祗の官を受け、宮室を枋頭に繕ひ、所部に種麥を課し、西するの意無きを示す。知りて種えざる者有れば、健 之を殺して以て徇ふ。既にして自ら晉の征西大將軍・都督關中諸軍事・雍州刺史を稱し、眾を盡して西行す。浮橋を盟津に起して以て濟す。其の弟の雄を遣はして步騎五千を率ゐて潼關に入らしめ、兄の子たる菁 軹關より河東に入る。健 菁の手を執りて曰く、「事 若し捷たざれば、汝 河北に死し、我 河南に死す。黃泉に及ばずんば、相 見ゆること無きなり」と。既に濟り、橋を焚く。自ら大眾を統べて雄を繼ぎて進む。
杜洪 其の將たる張先を遣はして健を潼關に要し、健 逆擊して之を破る。健 戰ひて勝つと雖も、猶ほ牋を洪に修め、并せて名馬珍寶を送る。長安に至りて尊號を上らんことを請ふ。洪曰く、「幣は重く言は甘し、我を誘ふなり」と。乃ち盡く關中の眾を召して來距す。健 之を筮ひ、泰の臨に之くに遇ふ。健曰く、「小さく往き大いに來る、吉にして亨ると。昔 東に往きて小なり。今 西に還りて大なり。吉 孰れか大ならん」と。是の時 眾星 河を夾みて西に流れ、占者 以為へらく百姓 西に還るの象なり。健 遂に軍を進め、赤水に次る。雄を遣はして地を渭北に略せしむ。又 張先を陰槃に敗り、之を擒ふ。諸城 盡く陷し、菁 至る所降らず者無し。三輔 略々定まる。健 兵を引きて長安に至り、洪 司竹に奔る。健 入りて之に都す。使を遣はして捷ちを京師に獻じ、并せて桓溫に修好す。

現代語訳

苻健は字を建業といい、苻洪の第三子である。これより先、母の姜氏は大きなヒグマの夢を見てかれを妊娠した。成長すると、勇敢で弓馬を得意とした。施しを好み、よく人に謙った。石季龍の父子からとても可愛がられた。季龍は表面的には苻氏を礼遇していたが、本心では煙たがっていた。そこでひそかに兄たちを殺し、しかし苻健だけは殺さずにおいた。苻洪が死ぬと、苻健が位を嗣ぎ、秦王の号を除いた。東晋の爵位を称し、使者を送って訃報を京師に告げ、(東晋の)王命を聴いた。
このとき京兆の杜洪はひそかに長安に拠り、自ら晋の征北将軍・雍州刺史を称した。胡族も漢族も多くがこれに帰順した。苻健はひそかに関中をねらい、(父の)苻洪に知られることを懼れた。偽って石祗から官職を受け、宮室を枋頭で修繕し、部下に麦の種を配り、西に向かう意思がないことを示した。事情を見抜いて植えなかった者がいれば、苻健はこれを殺して(意思を)明確に示した。やがて自ら晋の征西大将軍・都督関中諸軍事・雍州刺史を称し、兵を総動員して西を目指した。浮橋を盟津に作って渡った。弟の苻雄を派遣して歩騎五千を率いて潼関から入らせ、兄の子たる苻菁は軹関から河東に入らせた。苻健は苻菁の手を握り、「もし(大移動が)成功せねば、お前は河北で死に、私は河南で死ぬ。黄泉に到着するまで、再会することはない」と言った。渡り終えると、橋を焼いた。自ら大軍を統率して苻雄に続いて進んだ。
杜洪は将である張先を派遣して潼関で待ち伏せして苻健を攻撃し、苻健は迎え撃って破った。苻健は戦って勝ったが、丁重に杜洪に書簡を送り、名馬や珍宝も贈った。長安に到着したら(杜洪に)尊号を奉りたいと言った。杜洪は、「貢ぎ物が豪華で言葉が甘いのは、私を誘って(罠にかけて)いるのだ」と言った。関中の兵を召して防戦した。苻健は筮竹で占い、泰から臨に移りゆくという結果が出た。苻健は、「小さく行き大きく来る、吉であり支障がないという結果だ。むかし(祖先が)東に行くときは少人数であった。いま西に還ってきたのは大人数である。どちらの吉が大きいか(現在の方だ)」と言った。このとき多くの星々が河を挟んで西に流れ、占者は百姓が西に還ることの表象だと言った。かくして苻健は軍を進め、赤水に停泊した。苻雄を派遣して渭北の地を攻略させた。さらに張先を陰槃で破り、これを捕らえた。諸城が全て陥落し、苻菁が通過すれば全てが降服した。三輔はほぼ平定された。苻健は兵を率いて長安に至り、杜洪は司竹に逃げた。苻健が入城してここを都とした。使者を送って勝利を京師(東晋)に献上し、あわせて桓温と友好を通じた。

原文

健軍師將軍賈玄碩等表健為侍中・大都督關中諸軍事・大單于・秦王、健怒曰、「我官位輕重、非若等所知。」既而潛使諷玄碩等使上尊號。永和七年、僭稱天王・大單于、赦境內死罪、建元皇始、繕宗廟社稷、置百官于長安。立妻強氏為天王皇后、子萇為天王皇太子、弟雄為丞相・都督中外諸軍事・車騎大將軍・領雍州刺史、自餘封授各有差。
初、杜洪之奔也、招晉梁州刺史司馬勳。至是、勳率步騎三萬入秦川、健敗之於五丈原。八年、健僭即皇帝位于太極前殿、諸公進為王、以大單于授其子萇。
杜洪屯宜秋、為其將張琚所殺、琚自立為秦王、置百官。健率步騎二萬攻琚、斬其首。健至自宜秋、遣雄・菁率眾掠關東、并援石季龍豫州刺史張遇於許昌、與晉鎮西將軍謝尚戰于潁水之上、王師敗績。雄乘勝逐北、至于壘門、殺傷太半、遂虜遇及其眾歸于長安、拜遇司空・豫州刺史、鎮許昌。雄攻王擢於隴上、擢奔涼州、雄屯隴東。張重華拜擢征東大將軍、使與其將張弘・宋脩連兵伐雄。雄與菁率眾擊敗之、獲弘・脩送長安。
初、張遇自許昌來降、健納遇後母韓氏為昭儀、每於眾中謂遇曰、「卿、吾子也。」遇慚恨、引關中諸將欲以雍州歸順、乃與健中黃門劉晃謀夜襲健、事覺、遇害。於是1.孔特起池陽、劉珍・夏侯顯起鄠、2.喬景起雍、胡陽赤起司竹、呼延毒起霸城、眾數萬人、並遣使詣征西桓溫・中軍殷浩請救。雄遣菁掠上洛郡、於豐陽縣立荊州、以引南金奇貨・弓竿漆蠟、通關市、來遠商、於是國用充足、而異賄盈積矣。

1.「孔特」は、『資治通鑑』巻九十九は、「孔持」に作る。
2.「喬景」は、『資治通鑑』巻九十九は、「喬秉」に作る。唐代の忌避であるという。

訓読

健の軍師將軍たる賈玄碩ら健を表して侍中・大都督關中諸軍事・大單于・秦王と為す。健 怒りて曰く、「我が官位の輕重、若らの知る所に非ず」と。既にして潛かに玄碩らをして諷せしめ尊號を上らしむ。永和七年、天王・大單于を僭稱し、境內の死罪を赦す。皇始と建元す。宗廟社稷を繕ひ、百官を長安に置く。妻の強氏を立てて天王皇后と為し、子の萇を天王皇太子と為し、弟の雄を丞相・都督中外諸軍事・車騎大將軍・領雍州刺史と為す。自餘の封授 各々差有り。
初め、杜洪の奔るや、晉の梁州刺史たる司馬勳を招く。是に至り、勳 步騎三萬を率ゐて秦川に入る。健 之を五丈原に敗る。八年、健 僭して皇帝の位に太極前殿に即き、諸公 進みて王と為す。大單于を以て其の子たる萇に授く。
杜洪 宜秋に屯し、其の將の張琚の為に殺され、琚 自立して秦王と為り、百官を置く。健 步騎二萬を率ゐて琚を攻め、其の首を斬る。健 宜秋より至り、雄・菁を遣はして眾を率ゐて關東を掠めしむ。并せて石季龍が豫州刺史の張遇を許昌に援け、晉の鎮西將軍の謝尚と潁水の上に戰ふ。王師 敗績す。雄 勝に乘じて北に逐ひ、壘門に至り、太半を殺傷す。遂に遇及び其の眾を虜へて長安に歸る。遇に司空・豫州刺史を拜し、許昌に鎮す。雄 王擢を隴上に攻む。擢 涼州に奔り、雄 隴東に屯す。張重華 擢を征東大將軍に拜し、其の將の張弘・宋脩と與に兵を連ねて雄を伐たしむ。雄 菁と與に眾を率ゐて擊ちて之を敗り、弘・脩を獲へて長安に送る。
初め、張遇 許昌より來りて降り、健 遇の後母の韓氏を納れて昭儀と為す。每に眾中に於て遇に謂ひて曰く、「卿は、吾が子なり」と。遇 慚恨し、關中の諸將を引きて雍州を以て歸順せんと欲す。乃ち健の中黃門の劉晃と與に夜に健を襲はんと謀る。事 覺し、害に遇ふ。是に於て孔特 池陽に起ち、劉珍・夏侯顯 鄠に起ち、喬景 雍に起ち、胡陽赤 司竹に起ち、呼延毒 霸城に起つ。眾は數萬人、並びに使を遣はして征西の桓溫・中軍の殷浩に詣りて救を請ふ。雄 菁を遣はして上洛郡を掠めしめ、豐陽縣に荊州を立て、以て南金奇貨・弓竿漆蠟を引き、關市を通じ、遠商を來らしむ。是に於て國用 充足し、異賄 盈積す。

現代語訳

苻健の軍師将軍である賈玄碩らは苻健を侍中・大都督関中諸軍事・大単于・秦王にせよと上表した。苻健は怒り、「わが官位の軽重は、お前たちの関与することではない」と言った。やがてひそかに賈玄碩らを誘導して尊号を奉らせた。永和七(三五一)年、天王・大単于を僭称し、領内の死罪を赦した。皇始と改元した。宗廟と社稷を修繕し、百官を長安に置いた。妻の強氏を天王皇后に立て、子の苻萇を天王皇太子とし、弟の苻雄を丞相・都督中外諸軍事・車騎大将軍・領雍州刺史とした。それ以下の封建や任命はそれぞれ差等があった。
これより先、杜洪が逃亡すると、東晋の梁州刺史である司馬勲を招いていた。ここに至り、司馬勲は歩騎三万を率いて秦川に入った。苻健はこれを五丈原で破った。永和八(三五二)年、苻健は僭して皇帝に太極前殿で即位し、諸公は(爵位を)進めて王とした。大単于を子の苻萇に授けた。
杜洪は宜秋に駐屯し、その将の張琚に殺され、張琚は自立して秦王となり、百官を置いた。苻健は歩騎二万を率いて張琚を攻め、その首を斬った。苻健は宜秋から到着し、苻雄・苻菁を派遣して兵を率いて関東で掠奪をさせた。さらに石季龍の豫州刺史の張遇を許昌で援け、東晋の鎮西将軍の謝尚と潁水のほとりで戦った。東晋の軍は敗北した。苻雄は勝ちに乗じて北に追い、塁門に至り、大半を殺傷した。こうして張遇及びその兵を捕まえて長安に帰った。張遇に司空・豫州刺史を拝し、許昌を鎮守させた。苻雄は王擢を隴上で攻撃した。王擢は涼州に逃げ、苻雄は隴東に駐屯した。張重華は王擢を征東大将軍に拝し、その将の張弘・宋脩とともに兵を連ねて苻雄を討伐させた。苻雄は苻菁とともに兵を率いてこれを撃ち破り、張弘・宋脩を捕らえて長安に送った。
これより先、張遇は許昌から来て降ると、苻健は張遇の後母の韓氏を娶って昭儀とした。つねに軍中で張遇に、「卿は、わが子だ」と言っていた。張遇は慚じて恨み、関中の諸将を率いて雍州をあげて(東晋に)帰順しようとした。苻健の中黄門の劉晃とともに夜に苻健を襲おうと計画した。発覚し、殺害された。ここにおいて孔特が池陽で決起し、劉珍・夏侯顕が鄠で、喬景が雍で、胡陽赤が司竹で、呼延毒が霸城で決起した。兵は数万人であり、いずれも使者を送って征西将軍の桓温・中軍将軍の殷浩を訪れて救援を求めた。苻雄は苻菁に上洛郡で掠奪させ、豊陽県に荊州を立て、南方の財貨や弓竿漆蝋を集め、関市を通じ、遠くの商人を招いた。ここにおいて財政が充足し、優れた物品が積み上がった。

原文

十年、溫率眾四萬趨長安、遣別將1.〔從均口〕入淅川、攻上洛、執健荊州刺史郭敬、而遣司馬勳掠西鄙。健遣其子萇率雄・菁等眾五萬、距溫于堯柳城愁思堆。溫轉戰而前、次于灞上、萇等退營城南。健以羸兵六千固守長安小城、遣精銳三萬為游軍以距溫。三輔郡縣多降于溫。健別使雄領騎七千、與桓沖戰于白鹿原、王師敗績、又破司馬勳于子午谷。初、健聞溫之來也、收麥清野以待之、故溫眾大飢。至是、徙關中三千餘戶而歸。及至潼關、又為萇等所敗、司馬勳奔還漢中。
其年、西虜乞沒軍邪遣子入侍、健于是置來賓館于平朔門以懷遠人。起靈臺於杜門。與百姓約法三章、薄賦卑宮、垂心政事、優禮耆老、修尚儒學、而關右稱來蘇焉。
新平有長人見、語百姓張靖曰、「苻氏應天受命、今當太平、外面者歸中而安泰。」問姓名、弗答、俄而不見。新平令以聞、健以為妖、下靖獄。會大雨霖、河渭溢、蒲津監寇登得一屐於河、長七尺三寸、人跡稱之、指長尺餘、文深一寸。健歎曰、「覆載之中何所不有、張靖所見定不虛也。」赦之。蝗蟲大起、自華澤至隴山、食百草無遺。牛馬相噉毛、猛獸及狼食人、行路斷絕。健自蠲百姓租稅、減膳徹懸、素服避正殿。
初、桓溫之入關也、其太子萇與溫戰、為流矢所中死。至是、立其子生為太子。健寢疾、菁勒兵入東宮、將殺苻生自立。時生侍健疾、菁以健為死、迴攻東掖門。健聞變、升端門陳兵、眾皆舍杖逃散、執菁殺之。數日、健死、時年2.三十九、在位3.四年。偽諡明皇帝、廟號世宗、後改曰高祖。

1.中華書局本に従い、三字を補う。
2.『太平御覧』巻百二十一に引く『前秦録』は「四十九」に作り、十歳異なる。
3.「四年」は、「五年」に作るべきという。

訓読

十年、溫 眾四萬を率ゐて長安に趨り、別將を遣はして均口より淅川に入り、上洛を攻め、健の荊州刺史の郭敬を執へ、而して司馬勳を遣はして西鄙を掠めしむ。健 其の子の萇を遣はして雄・菁ら眾五萬を率ゐ、溫を堯柳城の愁思堆に距ぐ。溫 轉戰して前み、灞上に次る。萇ら營を城南に退く。健 羸兵六千を以て長安小城を固守す。精銳三萬を遣はして游軍と為して以て溫を距がしむ。三輔の郡縣 多く溫に降る。健 別に雄をして騎七千を領し、桓沖と白鹿原に戰ふ。王師 敗績す。又 司馬勳を子午谷に破る。初め、健 溫の來るを聞くや、麥を收めて清野して以て之を待つ。故に溫の眾 大いに飢う。是に至り、關中の三千餘戶を徙して歸る。潼關に至るに及び、又 萇らの為に敗られ、司馬勳 奔りて漢中に還る。
其の年、西虜の乞沒軍邪 子を遣して入侍す。健 是に于て來賓館を平朔門に置きて以て遠人を懷く。靈臺を杜門に起つ。百姓と法三章を約し、賦を薄くし宮を卑くし、心を政事に垂れ、耆老を優禮し、儒學を修尚し、而して關右 來蘇を稱ふ。
新平に長人の見る有り。百姓の張靖に語りて曰く、「苻氏 天に應じて受命す。今 當に太平なるべし。外面する者 中に歸すれば安泰なり」と。姓名を問ふに、答へず。俄かにして見えず。新平令 以て聞こし、健 以て妖と為し、靖を獄に下す。會々大いに雨霖あり、河渭 溢る。蒲津監の寇登 一屐を河に得て、長さ七尺三寸なり。人跡 之に稱(かな)ふ。指の長(たけ) 尺餘にして、文の深さ一寸なり。健 歎きて曰く、「覆載の中 何ぞ有らざる所なる。張靖 見る所 定めて虛ならざるなり」と。之を赦す。蝗蟲 大いに起り、華澤より隴山に至り、百草を食して遺るもの無し。牛馬 相 毛を噉(くら)ひ、猛獸及び狼 人を食し、行路 斷絕す。健 自ら百姓の租稅を蠲(のぞ)き、膳を減じて徹懸し、素服して正殿を避く。
初め、桓溫の關に入るや、其の太子の萇 溫と戰ひ、流矢の中る所と為りて死す。是に至り、其の子の生を立てて太子と為す。健 寢疾し、菁 兵を勒して東宮に入り、將に苻生を殺して自ら立たんとす。時に生 健の疾に侍る。菁 健を以て死すると為し、迴りて東掖門を攻む。健 變を聞き、端門に升りて兵に陳す。眾 皆 杖を舍てて逃散し、菁を執へて之を殺す。數日にして、健 死す。時に年三十九、在位四年なり。偽りて明皇帝と諡し、廟を世宗と號し、後に改めて高祖と曰ふ。

現代語訳

永和十年、桓温は兵四万を率いて長安に赴き、別将を均口から淅川に入れ、上洛郡を攻め、苻健の荊州刺史の郭敬を捕らえ、さらに司馬勲に西鄙を奪い取らせた。苻健はその子の苻萇に苻雄・苻菁ら兵五万を率いさせ、桓温を尭柳城の愁思堆で食い止めた。桓温は転戦して進み、灞上に停泊した。苻萇らは軍営を城南に退けた。苻健は精強な六千で長安小城を固守した。精鋭三万を遊軍として桓温を防がせた。三輔の郡県は多くが桓温に降った。苻健は別に苻雄に騎七千を領させ、桓沖と白鹿原で戰った。東晋軍は敗北した。さらに司馬勲を子午谷で破った。これより先、苻健は桓温が来ると聞くと、麦を刈り取って清野としてこれを待ち受けた。ゆえに桓温の軍は大いに飢えた。ここに至り、関中の三千餘戸を移住させて(連れ去って)帰った。潼関に至るに及び、また苻萇ら敗れ、司馬勲は漢中に逃げ還った。
その年、西虜の乞没軍邪が子を遣わして入侍した。そこで苻健は来賓館を平朔門に設置して遠人を懐柔した。霊台を杜門に建てた。百姓と法三章を結び、租税を安くし宮殿を粗末にし、心を政治に注ぎ、耆老を優遇し、儒学を尊重したので、関右は善政による安泰を悦んだ。
新平で巨人の目撃情報があった。(巨人は)百姓の張靖に、「苻氏は天に応じて受命する。今に太平となるだろう。外で隣接している者は中に帰順すれば安泰である」と言った。姓名を質問したが、答えなかった。突然消えた。新平令はこれを報告し、苻健は怪しみ、張靖を獄に下した。ちょうど長雨が降り、黄河と渭水が溢れた。蒲津監の寇登が一つの履き物を黄河で拾い、長さ七尺三寸であった。人型の足跡に大きさが一致した。指の長さは一尺餘り、足跡の深さは一寸であった。苻健は歎じて、「天地には不可解なこともあるものだ。張靖が目撃したものは嘘ではなかったか」と言った。かれを赦した。蝗が大量発生し、華沢から隴山に至り、あらゆる草を食べて何も残らなかった。牛馬は毛を食べ、猛獣及び狼は人を食らい、道路は断絶した。苻健は自ら百姓の租税を除き、食膳を削って楽器を撤去し、素服して正殿に出ないようにした。
これより先、桓温が関に入ると、その太子の苻萇は桓温と戦い、流矢に当たって死んだ。ここに至り、その子の苻生を太子に立てた。苻健が病で寝込むと、苻菁は兵をとと乗せて東宮に入り、苻生を殺して自分が立とうとした。このとき苻生は苻健の看病をしていた。苻菁は苻健が死んだと考え、回って東掖門を攻めた。苻健は異変を聞き、端門に登って兵に臨んだ。兵はみな武器を投げ出して逃散した。苻菁を捕らえて殺した。数日で、苻健は死んだ。三十九歳であり、在位は四年だった。不当に明皇帝と諡し、廟を世宗と号し、後に改めて高祖とした。

苻生(苻雄・王墮)

原文

生字長生、健第三子也。幼而無賴、祖洪甚惡之。生無一目、為兒童時、洪戲之、問侍者曰、「吾聞瞎兒一淚、信乎。」侍者曰、「然。」生怒、引佩刀自刺出血、曰、「此亦一淚也。」洪大驚、鞭之。生曰、「性耐刀槊、不堪鞭捶。」洪曰、「汝為爾不已、吾將以汝為奴。」生曰、「可不如石勒也。」洪懼、跣而掩其口、謂健曰、「此兒狂勃、宜早除之、不然、長大必破人家。」健將殺之、雄止之曰、「兒長成自當修改、何至便可如此。」健乃止。及長、力舉千鈞、雄勇好殺、手格猛獸、走及奔馬、擊刺騎射、冠絕一時。桓溫之來伐也、生單馬入陣、搴旗斬將者前後十數。
萇既死、健以讖言三羊五眼應符、故立為太子。健卒、僭即皇帝位、大赦境內、改年壽光、時永和1.十二年也。尊其母強氏為皇太后、立妻梁氏為皇后。以呂婆樓為侍中・左大將軍、苻安領太尉、苻柳為征東大將軍・并州牧、鎮蒲坂、苻謏為鎮東大將軍・豫州牧、鎮陝城、自餘封授有差。
初、生將強懷與桓溫戰沒、其子延未及封而健死。會生出游、懷妻樊氏於道上書、論懷忠烈、請封其子。生怒、射而殺之。偽中書監胡文・中書令王魚言於生曰、「比頻有客星孛于大角、熒惑入于東井。大角為帝坐、東井秦之分野、於占、不出三年、國有大喪、大臣戮死。願陛下遠追周文、修德以禳之、惠和羣臣、以成康哉之美。」生曰、「皇后與朕對臨天下、亦足以塞大喪之變。毛太傅・梁車騎・梁僕射受遺輔政、可謂大臣也。」於是殺其妻梁氏及太傅毛貴、車騎・尚書令梁楞、左僕射梁安。未幾、又誅侍中・丞相雷弱兒及其九子・二十七孫。諸羌悉叛。弱兒、南安羌酋也、剛鯁好直言、見生嬖臣趙韶・董榮亂政、每大言於朝、故榮等譖而誅之。
生雖在諒闇、游飲自若、荒耽淫虐、殺戮無道、常彎弓露刃以見朝臣、錘鉗鋸鑿備置左右。又納董榮之言、誅其司空王墮以應日蝕之災。饗羣臣于太極前殿、飲酣樂奏、生親歌以和之。命其尚書令辛牢典勸、既而怒曰、「何不強酒。猶有坐者。」引弓射牢而殺之。於是百僚大懼、無不引滿昏醉、汙服失冠、蓬頭僵仆、生以為樂。

1.「十二年」は「十一年」に作るのが正しいという。

訓読

生 字は長生、健の第三子なり。幼くして無賴なり。祖の洪 甚だ之を惡む。生 一目無く、為に兒童の時、洪 之を戲れ、侍者に問ひて曰く、「吾 聞く瞎の兒 一淚なると。信なるか」と。侍者曰く、「然り」と。生 怒り、佩刀を引き自ら刺して血を出し、曰く、「此れ亦た一淚なり」と。洪 大いに驚き、之に鞭うつ。生曰く、「性は刀槊に耐ふれども、鞭捶に堪へず」と。洪曰く、「汝 爾を為して已ずんば、吾 將に汝を以て奴と為さん」と。生曰く、「石勒に如かざる可けんや」と。洪 懼れ、跣にして其の口を掩ぎ、健に謂ひて曰く、「此の兒 狂勃なり。宜しく早く之を除くべし。然らずんば、長大して必ず人の家を破らん」と。健 將に之を殺さんとす。雄 之を止めて曰く、「兒 長成すれば自ら當に修改すべし。何ぞ至りて便ち此の如くす可きか」と。健 乃ち止む。長ずるに及び、力 千鈞を舉げ、雄勇にして殺を好み、手づから猛獸と格す。走りて奔馬に及び、擊刺騎射、一時に冠絕たり。桓溫の來伐するや、生 單馬もて陣に入り、旗を搴り將を斬る者 前後に十數なり。
萇 既に死し、健 讖言の三羊五眼を以て符に應ずとし、故に立てて太子と為す。健 卒し、僭して皇帝の位に即く。境內を大赦し、壽光と改年す。時に永和十二年なり。其の母の強氏を尊びて皇太后と為し、妻の梁氏を立てて皇后と為す。呂婆樓を以て侍中・左大將軍と為し、苻安をして太尉を領せしめ、苻柳を征東大將軍・并州牧と為し、蒲坂に鎮せしむ。苻謏を鎮東大將軍・豫州牧と為し、陝城に鎮せしむ。自餘の封授 差有り。
初め、生 將の強懷 桓溫と戰ひて沒す。其の子の延 未だ封ずるに及ばずして健 死す。會々生 出游し、懷の妻の樊氏 道に上書し、懷の忠烈を論し、其の子を封ぜんことを請ふ。生 怒り、射て之を殺す。偽中書監の胡文・中書令の王魚 生に言ひて曰く、「比 頻りに客星 大角を孛し、熒惑 東井に入る有り。大角は帝坐為り、東井は秦の分野なり、占に於て、三年を出でず、國に大喪有り、大臣 戮死す。願はくは陛下 遠く周文を追ひ、德を修めて以て之を禳し、羣臣を惠和し、以て康哉の美を成せ」と。生曰く、「皇后 朕と天下に對臨す。亦 以て大喪の變を塞ぐに足る。毛太傅・梁車騎・梁僕射 遺を受け輔政す。大臣と謂ふ可きなり」と。是に於て其の妻の梁氏及び太傅の毛貴、車騎・尚書令の梁楞、左僕射の梁安を殺す。未だ幾くもなく、又 侍中・丞相の雷弱兒及び其の九子・二十七孫を誅す。諸羌 悉く叛す。弱兒は、南安の羌酋なり。剛鯁にして直言を好む。生の嬖臣たる趙韶・董榮 政を亂すを見て、每に朝に大言し、故に榮ら譖りて之を誅せしむ。
生 諒闇に在ると雖も、游飲 自若たり。荒耽にして淫虐し、殺戮にして無道なり。常に弓を彎し刃を露にし以て朝臣に見え、錘鉗鋸鑿 左右に備置す。又 董榮の言を納れ、其の司空の王墮を誅して以て日蝕の災に應とす。羣臣を太極前殿に饗し、飲酣にして樂奏し、生 親ら歌ひて以て之を和す。其の尚書令の辛牢に命じて勸むることを典せしむ。既にして怒りて曰く、「何ぞ酒を強ひざる。猶ほ坐する者有り」と。弓を引き牢を射て之を殺す。是に於て百僚 大いに懼れ、引滿して昏醉せざる無し。服を汙し冠を失ひ、蓬頭 僵仆し、生 以て樂と為す。

現代語訳

苻生は字を長生といい、苻健の第三子である。幼いときから無頼であった。祖父の苻洪はこれを憎んだ。苻生は片目がなく、子供のとき、苻洪がふざけて、侍者に、「聞けば片目の小僧は一涙(片方しか涙が流れない)そうだ。本当かな」と質問した。侍者は、「そうです」と言った。苻生は怒り、佩刀で自分の(見えない)目を指して血を出し、「これもまたを一涙です」と言った。苻洪は大いに驚き、かれを鞭で打った。苻生は、「武器の攻撃にならば我慢できるが、(理不尽な)鞭の仕打ちは我慢できない」と言った。苻洪は、「これでも止めぬなら、お前を奴隷に落とすぞ」と言った。苻生は、「石勒がそう(奴隷)でありましたが」と言った。苻洪は懼れ、かかとで口を塞ぎ、苻健に、「この子は狂勃である。早く殺してしまえ。さもなくば、成長したら必ずわが一族を滅ぼす」と言った。苻健はかれを殺そうとした。苻雄が止めに入り、「子供は成長すれば落ち着くものです。性急に殺してはいけません」と言った。苻健は思い止まった。成長すると、千鈞を持ち上げる力を持ち、勇猛果敢で殺人を好み、素手で猛獣と格闘した。走れば奔馬に追い付き、撃刺と騎射は、同時代の筆頭であった。桓温が来攻すると、苻生は単騎で敵陣に入り、軍旗を奪って敵将を斬ることは前後に十数回であった。
苻萇が死ぬと、苻健は讖言に三羊五眼とありこれに対応すると考え、苻生を太子とした。苻健が亡くなると、僭して皇帝の位に即いた。領内を大赦し、寿光と改元した。これは永和十二(三五六)年のことである(正しくはその一年前)。その母の強氏を尊んで皇太后とし、妻の梁氏を皇后に立てた。呂婆楼を侍中・左大将軍とし、苻安に太尉を領させ、苻柳を征東大将軍・并州牧とし、蒲坂に出鎮させた。苻謏を鎮東大将軍・豫州牧とし、陝城に出鎮させた。それ以外の封建と任命には差等があった。
これより先、苻生の将の強懐は桓温と戦って没した。その子の強延が封建をされる前に苻健が死んだ。あるとき苻生が外出していると、強懐の妻の樊氏が道で上書し、強懐の忠烈を論じ、その子を封建して下さいと願った。苻生は怒り、彼女を射殺した。中書監の胡文・中書令の王魚 は苻生に、「このごろ頻りに客星が大角を横切り、熒惑が東井に入っています。大角は帝座です、東井は秦の分野です。占いによると、三年以内に、国に大喪(君主の死)があり、大臣が死亡します。どうか陛下は遠く周の文王を踏まえ、徳を修めてこの凶兆を祓い、郡臣に恵みを垂れて調和させ、善政が賛美される世をもたらして下さい」と言った。苻生は、「皇后は朕とともに天下に君臨している。(皇后を朕の代わりに殺せば)大喪の異変に当てはめられる。毛太傅・梁車騎・梁僕射は遺詔を受けて輔政している。大臣と言ってよい人物だろう」と言った。そこでその妻の梁氏及び太傅の毛貴、車騎・尚書令の梁楞、左僕射の梁安を殺した。ほどなく、侍中・丞相の雷弱児及びその九子・二十七孫を誅殺した。(これを受けて)諸羌は悉く叛した。(なぜなら)弱児は、南安の羌族の酋長であったからである。剛直であり物言いに遠慮がなかった。苻生の寵臣である趙韶・董栄が政治を乱すのを見て、つねに朝廷で堂々と批判していた。ゆえに董栄らは讒言により弱児が誅殺されるように仕向けたのである。
苻生は父の喪中であったが、宴遊をいつも通り楽しんだ。荒淫であり残虐であって、でたらめに殺戮した。いつも弓を引いて刃を剥き出しで朝臣と面会し、錘鉗鋸鑿(武器になる道具)を左右に常備した。また董栄の発言を聞き、司空の王墮を誅殺して日食が暗示した凶事ということにした。群臣と太極前殿で饗宴し、たけなわになると演奏させ、苻生が自ら楽器に合わせて歌った。尚書令の辛牢に命じて酒の進み具合を監視させた。酒が進むと怒りだし、「なぜもっと酒を強要しないのか。まだ(酔い潰れず)座っているものがいるぞ」と言った。弓を引いて辛牢を射殺した。これを見て百僚は大いに懼れ、暴飲して昏倒しないものは居なかった。服を汚して冠を失い、頭髪を振り乱して気絶し、苻生はそれを見て楽しんだ。

原文

生聞張祚見殺、玄靚幼沖、命其征東苻柳參軍閻負・梁殊使涼州、以書喻之。負・殊至姑臧、玄靚年幼、不見殊等。其涼州牧張瓘謂負・殊曰、「孤之本朝、世執忠節、遠宗大晉、臣無境外之交、君等何為而至。」負・殊曰、「晉王以鄰藩義好、有自來矣。雖擁阻山河、然風通道會、不欲使羊・陸二公獨美於前。主上以欽明紹統、八表宅心、光被四海、格于天地。晉王思與張王齊曜大明、交玉帛之好、兼與君公同金蘭之契、是以不遠而來、有何怪乎。」瓘曰、「羊・陸一時之事、亦非純臣之義也。本朝六世重光、固忠不貳、若與苻征東交玉帛之好者、便是上違先公純誠雅志、下乖河右遵奉之情。」
負・殊曰、「昔微子去殷、項伯歸漢、雖背君違親、前史美其先覺。亡晉之餘、遠逃江會、天命去之、1.〔淪絕已久〕、故尊先王翻然改圖、北面二趙、蓋神算無方、鑒機而作。君公若欲稱制河西、眾旅非秦之敵、如欲宗歸遺晉、深乖先君雅旨、孰若遠蹤竇融附漢之規、近述先王歸趙之事、垂祚無窮、永享遐祉乎。」瓘曰、「中州無信、好食誓言。往與石氏通好、旋見寇襲。中國之風、誡在昔日、不足復論通和之事也。」負・殊曰、「三王異政、五帝殊風、趙多姦詐、秦以義信、豈可同年而語哉。張先・楊初皆擅兵一方、不供王貢、先帝命將擒之、宥其難恕之罪、加以爵封之榮。今上道合二儀、慈弘山海、信符陰陽、御物無際、不可以二趙相況也。」瓘曰、「秦若兵強化盛、自可先取江南、天下自然盡為秦有、何辱征東之命。」
負・殊曰、「先帝以大聖神武、開構鴻基、強燕納款、八州順軌。主上欽明、道必隆世、慨徽號擁于河西、正朔未加吳會、以吳必須兵、涼可以義、故遣行人先申大好。如君公不能蹈機而發者、正可緩江南數年之命、迴師西旆、恐涼州弗可保也。」瓘曰、「我跨據三州、帶甲十萬、西包崑域、東阻大河、伐人有餘、而況自固。秦何能為患。」負・殊曰、「貴州險塞、孰若崤函。五郡之眾、何如秦雍。張琚・杜洪因趙之成資、據天阻之固、策三秦之銳、藉陸海之饒、勁士風集、驍騎如雲、自謂天下可平、關中可固、先帝神矛一指、望旗冰解、人詠來蘇、不覺易主。燕雖武視關東、猶以地勢之義、逆順之理、北面稱藩、貢不踰月。致肅慎楛矢、通九夷之珍。單于屈膝、名王內附。控弦之士百有餘萬、鼓行而濟西河者、君公何以抗之。盍追遵先王臣趙故事、世享大美、為秦之西藩。」
瓘曰、「然秦之德義加於天下、江南何以不賓。」負・殊曰、「文身之俗、負阻江山、道洿先叛、化盛後賓、自古而然、豈但今也。故詩曰、『蠢爾蠻荊、大邦為仇。』言其不可以德義懷也。」
瓘曰、「秦據漢舊都、地兼將相、文武輔臣、領袖一時者誰也。」負・殊曰、「皇室懿藩、忠若公旦者、則大司馬・武都王安、征東大將軍・晉王柳。文武兼才、神器秀拔、入可允釐百工、出能折衝萬里者、衞大將軍・廣平王黃眉、後將軍・清河王法、龍驤將軍・東海王堅之兄弟。其耆年碩德、德侔尚父者、則太師・錄尚書事・廣甯公魚遵。其清素剛嚴、骨鯁貞亮、則左光祿大夫強平、金紫光祿程肱・牛夷。博聞強識、探賾索幽、則中書監胡文、中書令王魚、黃門侍郎李柔。雄毅厚重、權智無方、則左衞將軍李威、右衞將軍苻雅。才識明達、令行禁止、則特進・領御史中丞梁平老、特進・光祿大夫強汪、侍中・尚書呂婆樓。文史富贍、鬱為文宗、則尚書右僕射董榮、祕書監王颺、著作郎梁讜。驍勇多權略、攻必取、戰必勝、關張之流、萬人之敵者、則前將軍・新興王飛、建節將軍鄧羌、立忠將軍彭越、安遠將軍2.范俱難、建武將軍徐盛。常伯納言、卿校牧守、則人皆文武、莫非才賢。其餘懷經世之才、蘊佐時之略、守南山之操、遂而不奪者、王猛・朱肜之倫、相望於巖谷。濟濟多士、焉可罄言。姚襄・張平一時之傑、各擁眾數萬、狼顧偏方、皆委忠獻款、請為臣妾。小不事大、春秋所誅、惟君公圖之。」
瓘笑曰、「此事決之主上、非身所了。」負・殊曰、「涼王雖天縱英睿、然尚幼沖、君公居伊霍之任、安危所繫、見機之義、實在君公。」瓘新輔政、河西所在兵起、懼秦師之至、乃言於玄靚、遣使稱藩、生因其所稱而授之。

1.中華書局本に従い、四字を補う。
2.「范俱難」は「范」は衍字が疑われる。

訓読

生 張祚 殺さるるを聞き、玄靚 幼沖なれば、其の征東の苻柳が參軍たる閻負・梁殊に命じて涼州に使せしめ、書を以て之を喻す。負・殊 姑臧に至り、玄靚 年幼なれば、殊らに見えず。其の涼州牧の張瓘 負・殊に謂ひて曰く、「孤の本朝、世々忠節を執り、遠く大晉を宗とす。臣 境外の交無し。君ら何の為にして至らんか」と。負・殊曰く、「晉王 以へらく鄰藩の義好、自來有り。山河に擁阻せらると雖も、然れども風は通じ道は會す。羊・陸の二公をして前に美と獨りにせしむるを欲せず。主上 欽明を以て紹統し、八表 心を宅す。光は四海を被ひ、天地に格る。晉王 思ふらく張王と與に曜を大明に齊しくし、玉帛の好を交はし、兼せて君と公とを金蘭の契と同じくせんと。是を以て遠しとせず來る。何ぞ怪しむこと有るか」と。瓘曰く、「羊・陸 一時の事なり。亦 純臣の義に非ざるなり。本朝 六世に光を重ね、忠を固くして貳あらず。若し苻征東と與に玉帛の好を交はす者は、便ち是れ上は先公の純誠の雅志に違ひ、下は河右の遵奉の情に乖る」と。
負・殊 曰く、「昔 微子 殷を去り、項伯 漢に歸す。君に背き親に違ふと雖も、前史 其の先覺を美す。亡晉の餘、遠く江會に逃れ、天命 之より去り、淪絕して已に久し。故に尊先王 翻然として圖を改め、二趙に北面す。蓋し神算 無方にして、機を鑒て作すなり。君公 若し河西に稱制せんと欲さば、眾旅 秦の敵に非ず。如し遺晉に宗歸せんと欲さば、深く先君の雅旨に乖る。遠く竇融の漢に附するの規を蹤み、近く先王の歸趙の事を述し、祚を垂るること無窮にして、永く遐祉を享くるに孰若(いづ)れぞ」と。瓘曰く、「中州 信無し、誓言を食するを好む。往 石氏と通好し、旋して寇襲せらる。中國の風、誡めは昔日に在り。復た通和の事を論ずるに足らず」と。負・殊曰く、「三王 政を異にし、五帝 風を殊にす。趙 姦詐多く、秦 義を以て信あり。豈に同年にして語る可けんや。張先・楊初 皆 兵を一方に擅にし、王貢を供せず。先帝 將に命じて之を擒へ、其の難恕の罪を宥し、加ふるに爵封の榮を以てす。今 上道は二儀に合ひ、慈は山海より弘く、信は陰陽に符し、物を御して無際なり。二趙を以て相 況ぶる可からざるなり」と。瓘曰く、「秦 若し兵は強く化は盛なれば、自ら先に江南を取る可し。天下 自ら然り盡く秦の有と為る。何ぞ征東の命を辱しむるや」と。
負・殊曰く、「先帝 大聖神武を以て、鴻基を開構す。強燕に款を納れ、八州に軌に順ふ。主上 欽明にして、道 必ず世に隆くす。徽號 河西に擁するとも、正朔 未だ吳會を加せざるを慨す。吳は必ず兵を須つを以て、涼は義を以てす可しとす。故に行人を遣はして先に大好を申す。如し君公 能く機を蹈みて發せざれば、正に江南の數年の命を緩め、師を迴して西旆す可し。恐らくは涼州 保つ可からざるなり」と。瓘曰く、「我 三州に跨據し、帶甲は十萬、西は崑域を包み、東は大河に阻む。人を伐ちて餘有り。而るに況んや自ら固むることをや。秦 何ぞ能く患と為らんか」と。負・殊曰く、「貴州の險塞、崤函と孰若(いづれ)れぞ。五郡の眾、秦雍と何如。張琚・杜洪 趙の成資に因り、天阻の固に據り、三秦の銳を策ち、陸海の饒を藉る。勁士 風集し、驍騎 雲の如し。自ら天下 平らぐ可し、關中 固む可しと謂ふ。先帝の神矛もて一指せば、望旗して冰解し、人 來蘇を詠し、覺えずして主を易ふ。燕 武は關東を視ると雖も、猶ほ地勢の義、逆順の理を以て、北面して稱藩し、貢 月を踰えず。肅慎の楛矢を致し、九夷の珍を通ず。單于 膝を屈し、名王 內附す。控弦の士は百有餘萬なり、鼓行して西河を濟れば、君公 何ぞ以て之を抗せんか。盍ぞ先王の趙に臣するの故事を追遵し、世に大美を享け、秦の西藩と為らざる」と。
瓘曰く、「然らば秦の德義 天下に加ふるに、江南 何を以て賓せざる」と。負・殊曰く、「文身の俗、負(そむ)ひて江山を阻む。道 先叛を洿し、化 後賓を盛となるは、古より然り、豈に但だ今のみならんや。故に詩に曰く、蠢たる蠻荊は、大邦をば仇と為すと。其の德義を以て懷く可からざるを言ふなり」と。
瓘曰く、「秦 漢の舊都に據り、地は將相を兼はす。文武の輔臣、一時に領袖たる者は誰なるや」と。負・殊曰く、「皇室の懿藩、忠は公旦が若き者、則ち大司馬・武都王の安、征東大將軍・晉王の柳なり。文武の兼才にして、神器の秀拔にして、入りて允に百工を釐(をさ)む可く、出でて能く萬里を折衝する者は、衞大將軍・廣平王の黃眉、後將軍・清河王の法、龍驤將軍・東海王の堅の兄弟なり。其の耆年の碩德、德は尚父に侔しき者は、則ち太師・錄尚書事・廣甯公の魚遵なり。其の清素の剛嚴にして、骨鯁の貞亮なるは、則ち左光祿大夫の強平、金紫光祿の程肱・牛夷なり。博聞強識にして、賾を探し幽を索するは、則ち中書監の胡文、中書令の王魚、黃門侍郎の李柔なり。雄毅厚重にして、權智 無方なるは、則ち左衞將軍の李威、右衞將軍の苻雅なり。才識明達にして、令すれば行ひ禁ずれば止むるは、則ち特進・領御史中丞の梁平老、特進・光祿大夫の強汪、侍中・尚書の呂婆樓なり。文史の富贍にして、鬱として文宗を為すは、則ち尚書右僕射の董榮、祕書監の王颺、著作郎の梁讜なり。驍勇にして權略多く、攻むれば必ず取り、戰へば必ず勝ち、關張の流、萬人の敵なるは、則ち前將軍・新興王の飛、建節將軍の鄧羌、立忠將軍の彭越、安遠將軍の范俱難、建武將軍の徐盛なり。常伯納言、卿校牧守は、則ち人 皆 文武にして、才賢に非ざる莫し。其の餘 經世の才を懷き、佐時の略を蘊(たくは)へ、南山の操を守り、遂にして奪はざる者は、王猛・朱肜の倫、相 巖谷を望む。濟濟多士、焉ぞ罄言す可き。姚襄・張平 一時の傑なり、各々眾數萬を擁し、偏方に狼顧す。皆 忠を委ね款を獻じ、請ひて臣妾と為る。小 大に事へざるは、春秋の誅する所、惟だ君公 之を圖れ」と。
瓘 笑ひて曰く、「此の事 之を決するは主上なり。身の了する所に非ず」と。負・殊曰く、「涼王 天は英睿を縱にすと雖も、然れども尚ほ幼沖なり。君公 伊霍の任に居り、安危 繫ぐ所なり。機を見るの義、實に君公に在り」と。瓘 新たに輔政し、河西の所在 兵 起こり、秦師の至を懼れ、乃ち玄靚に言ふ。使を遣はして稱藩し、生 因りて其の稱する所をして之を授く。

〔一〕『毛詩』小雅 南有嘉魚之什 采芑に、「蠢爾蠻荊、大邦為讎」とあり、出典。

現代語訳

苻生は張祚が殺されたのを聞き、玄靚が幼君なので、征東将軍の苻柳の参軍である閻負・梁殊に命じて涼州に使者として向かわせ、文書を送って(国交の開始を)告げた。閻負・梁殊は姑臧に至ったが、玄靚は年若いので、梁殊らと謁見してくれなかった。その(前涼の)涼州牧の張瓘は閻負・梁殊に、「わが国家は、代々忠節を守り、遠く晋帝国を宗主としてきた。私たちは(晋の)領域外とは交際をしない。きみらは何をしに来たのか」と言った。閻負・梁殊は、「晋の藩国が近隣と友好を結ぶのは、理由がある。山河に隔絶されても、風は通じて道は繋がっている。羊祜・陸抗の二公だけを前代の美談としておく必要はない。主上(苻生)は明徳によって国家を嗣ぎ、各地で心を寄せられている。光が四海をおおい、天地に届いている。晋王はきっと張王(前涼)がともに輝きを共有し、玉帛のような友好を交え、金蘭のような盟約を結ぶことを望んでいる。だから遠路を厭わず到来したのだ。どうして怪しむことがあろう」と言った。張瓘は、「羊祜と陸抗の関係は一時的なことである。しかも(二人がやったのは)純粋な臣下としての正義から外れている。本朝(前涼)は六世に栄光を重ね、忠誠を固くして二心がない。もし苻征東(苻生)と玉帛の友好を結べば、上は先代の純粋な忠誠心を破ることになり、下は河右の民からの支持に背いてしまう」と言った。
閻負・梁殊は、「むかし微子は殷を去り、(楚漢時代に)項伯は漢に帰した。君主に背き親族と仲違いしたが、歴史書は先見性を褒めている。亡国の晋の残党は、遠く江南に逃れ、天命は晋から去り、落ちぶれて久しい。ゆえに(前涼の)尊き先王は翻然と戦略を変更し、二趙(前趙・後趙)に臣従したのだ。けだし神のような計略は限りなく、時勢を見極めて決断したのだろう。君公がもし河西で独立しても、軍隊はわが前秦の敵ではない。もしあくまで亡国の晋を宗主国とするなら、先君の優れた判断から離れてしまう。遠く(後漢初に)竇融が光武帝に味方したことを手本とし、近くは(前涼の)先王が趙国に帰属したことを踏まえ、国家を永続させ、長く祝福を受けることとどちらがよいか」と言った。張瓘は、「中原の人々は信用できず、前言撤回を好む。かつて石氏(後趙)と通好したが、裏切って襲撃をされた。中原の風土を、警戒せよという教訓になった。外交について論ずる価値はない」と言った。閻負・梁殊は、「(古の)三王は政治が異なり、五帝は風化が違った。趙国は悪事と嘘ばかりであったが、前秦には信義がある。どうして同列に論じてよかろうか。張先・楊初は一方面で軍事力を振るい、前秦への貢献を怠った。先帝は将に命じて捕らえたが、許しがたき罪を許し、封爵の栄誉を与えたのだ。いま(前秦の)優れた統治は天地に合い、慈愛は山河より広く、信用は陰陽に符合し、統治は無窮である。二趙などと比べられては困る」と言った。張瓘は、「前秦の軍隊が強く教化が盛んならば、自ら江南(晋)を攻略してみよ。天下は自然と前秦のものになろう。なぜ(無益な議論を私に吹っかけて)征東(苻生)の命令を辱めるのか」と言った。
閻負・梁殊は、「(前秦の)先帝は聖なる神武により、国家を創建した。強国の燕から使者が訪れ、八州を組み入れた。主上は賢明であるから、必ず道義を世に高める。帝号を河西で名乗ったが、(前秦の)正朔がまだ呉会の地(東晋)に及ばぬことを慨嘆している。呉は武力で討伐をするしかないが、涼州は義により味方にできると考えた。ゆえに(私たちのような)使者を送って外交を申し出ている。もし(前涼の)君公が趨勢を理解して決断ができねば、江南の寿命を数年だけ延ばし、(南征の)軍を回して西に向かわせよう。涼州は守り切れまい」と言った。張瓘は、「われらは三州に割拠し、兵力は十万、西は崑域を包み、東は大河で(敵軍を)防げる。他国を討伐してもお釣りがくる。まして自国を守るぐらい簡単だ。前秦などは脅威にならない」と言った。閻負・梁殊は、「貴国の土地の険しさは、(かつて前秦が滅ぼした)崤函と比べてどうだろう。五郡の兵は、秦雍と比べたらどうだ。張琚・杜洪は趙の国力を頼り、天与の険しい地に拠り、三秦の精鋭を動員し、陸海の蓄えを借りた。強兵が風に吹かれるように集まり、驍騎も雲のようであった。(張琚・杜洪は)自ら天下を平定できる、関中を地盤にできると自任していた。しかし先帝が神のような軍略を用いた途端、旗を見ただけで軍隊がくずれ、人々は仁政を歓迎し、おのずと主君を変更していた。燕は関東を窺える武力を備えていたが、地政学、道理の順逆に照らして、北面して(前秦に)称藩し、貢献の使者はすぐに訪れた。遠方の異民族が、名産品を献上をした。単于は膝を屈し、名王は臣従した。(前秦が)出撃できる兵は百餘万であり、軍鼓を鳴らして黄河を西に渡れば、君公(前涼)には防ぎようがないぞ。どうして先王が趙に臣従したという前例を参考にし、世論に賛美されつつ、前秦の西方の藩国とならぬのか」と言った。
張瓘は、「仰るように前秦の徳義を天下に加えても、なぜ江南(東晋)が服従しておらぬのですか」と言った。閻負・梁殊は、「刺青をするような習俗の持ち主は、背いて江山で抵抗をする。道義は先に叛した者を汚し、教化は後から服従した者で盛んとなるのは、古来から同じであり、今日だけのことではない。だから『詩経』に、うごめくは荊の南蛮、わが大邦に仇をなすとある。徳義により懐柔されぬ国(東晋)述べているのだ」と言った。
張瓘は、「前秦は前漢の旧都を本拠地とし、領地は将相(の産地)を併合している。文武の輔臣、当世の領袖にはどんな者がいるか」と言った。閻負・梁殊は、「皇室の懿藩、忠は周公旦のような者は、大司馬・武都王の苻安、征東大將軍・晋王の苻柳がいる。文武の兼才にして、神器の秀抜であり、朝廷に入れば百官を統括でき、出れば万里と渡り合える者は、衛大将軍・広平王の黄眉、後将軍・清河王の苻法、龍驤将軍・東海王の苻堅の兄弟がいる。老年であり徳を積み、徳は尚父(太公望)に等しい者は、太師・録尚書事・広寧公の魚遵である。清素の剛厳であり、硬骨の賢臣は、左光禄大夫の強平、金紫光禄の程肱・牛夷である。博聞強識であり、奥深い真理を追究するのは、中書監の胡文、中書令の王魚、黄門侍郎の李柔である。雄毅厚重であり、知謀が自在なのは、左衛将軍の李威、右衛将軍の苻雅である。才識明達であり、命令すれば必ずおこなって禁ずれば必ず止めるのは、特進・領御史中丞の梁平老、特進・光禄大夫の強汪、侍中・尚書の呂婆楼である。文史の富贍であり、鬱として文の模範であるのは、尚書右僕射の董栄、秘書監の王颺、著作郎の梁讜である。驍勇であり権略が多く、攻めれば必ず奪い、戦えば必ず勝ち、関羽と張飛の流れをくみ、万人の敵であるのは、前将軍・新興王の苻飛、建節将軍の鄧羌、立忠将軍の彭越、安遠将軍の(范)俱難、建武将軍の徐盛である。常伯納言、卿校牧守は、任命された人材は文武の資質を持ち、才能ある賢者でない者はいない。それ以外も経世の才を持ち、佐時の略を蓄え、南山の操を守り、当を失せぬ者は、王猛・朱肜のような人々で、巖谷を望んでいる。多士済々、全てを言うことはできない。姚襄・張平は当代の英傑であり、それぞれ兵数万を擁し、その方面で狼顧していた。みな忠誠を委ね真心を献じ、支配下に入った。小国でありながら大国に仕えなければ、『春秋』で誅を受けた。これをお考えなさい」と。
張瓘は笑って、「このことを決定するのは主上だ。私が決裁できない」と言った。閻負・梁殊は、「涼王は英俊な素質に恵まれたが、まだ幼年である。君公は伊尹や霍光のような任務におり、国家の存亡を決める立場だ。時勢の見極めは、あなたの仕事だ」と言った。張瓘は新たに輔政したばかりで、河西の各地で兵が決起していたから、前秦の軍が来ることを恐れ、以上を玄靚に報告した。使者を送って(前秦に)称藩し、苻生は(前涼の)自称をそのまま追認して授けた。

原文

慕容儁遣將慕輿長卿等率眾七千入自軹關、攻幽州刺史1.張哲于裴氏堡。晉將軍劉度等率眾四千、攻青州刺史2.袁朗于盧氏。生遣其前將軍苻飛距晉、建節鄧羌距燕。飛未至而度退。羌及長卿戰于堡南、大敗之、獲長卿及甲首二千七百餘級。
姚襄率眾萬餘、攻其平陽太守苻產于匈奴堡、苻柳救之、為襄所敗、引還蒲坂。襄遂攻堡、克之、殺苻產、盡坑其眾、遣使從生假道、將還隴西。生將許之、苻堅諫曰、「姚襄、人傑也、今還隴西、必為深害、不如誘以厚利、伺隙而擊之。」生乃止。遣使拜襄官爵、襄不受、斬其使者、焚所送章策、寇掠河東。生怒、命其大將軍張平討之。襄乃卑辭厚幣與平結為兄弟、平更與襄通和。生發三輔人營渭橋、金紫光祿大夫程肱以妨農害時、上疏極諫。生怒、殺之。
長安大風、發屋拔樹、行人顛頓、宮中奔擾、或稱賊至、宮門晝閉、五日乃止。生推告賊者、殺之、刳而出其心。左光祿大夫強平諫曰、「元正盛旦、日有蝕之、正陽神朔、昏風大起、兼水旱不時、獸災未息、此皆由陛下不勉強於政事、乖和氣所致也。願陛下務養元元、平章百姓、棄纖介之嫌、含山嶽之過、致敬宗社、愛禮公卿、去秋霜之威、垂三春之澤、則姦回寢止、妖祲自消、乾靈祗祐皇家、永保無窮之美矣。」生怒、以為妖言、鑿其頂而殺之。平之囚也、偽衞將軍苻黃眉・前將軍苻飛・建節鄧羌侍讌禁中、叩頭固諫、以太后為言。平即生母強氏之弟也。生既弗許、強氏憂恨而死。
生下書曰、「朕受皇天之命、承祖宗之業、君臨萬邦、子育百姓、嗣統已來、有何不善、而謗讟之音扇滿天下。殺不過千、而謂刑虐。行者比肩、未足為稀。方當峻刑極罰、復如朕何。」時猛獸及狼大暴、晝則斷道、夜則發屋、惟害人而不食六畜。自生立一年、獸殺七百餘人、百姓苦之、皆聚而邑居。為害滋甚、遂廢農桑、內外兇懼。羣臣奏請禳灾、生曰、「野獸飢則食人、飽當自止、終不能累年為患也。天豈不子愛羣生、而年年降罰、正以百姓犯罪不已、將助朕專殺而施刑教故耳。但勿犯罪、何為怨天而尤人哉。」
生如阿房、遇兄與妹俱行者、逼令為非禮、不從、生怒殺之。又讌羣臣于咸陽故城、有後至者、皆斬之。嘗使太醫令程延合安胎藥、問人參好惡并藥分多少、延曰、「雖小小不具、自可堪用。」生以為譏其目、鑿延目出、然後斬之。有司奏、「太白犯東井。東井、秦之分也。太白罰星、必有暴兵起于京師。」生曰、「星入井者、必將渴耳、何所怪乎。」
姚襄遣姚蘭・王欽盧等招動鄜城・定陽・北地・芹川諸羌胡、皆應之、有眾二萬七千、進據黃落。生遣苻黃眉・苻堅・鄧羌率步騎萬五千討之。襄深溝高壘、固守不戰。鄧羌說黃眉曰、「傷弓之鳥、落於虛發。襄頻為桓溫・張平所敗、銳氣喪矣。今謀固壘不戰、是窮寇也。襄性剛很、易以剛動、若長驅鼓行、直壓其壘、襄必忿而出師、可一戰擒也。」黃眉從之、遣羌率騎三千軍於壘門。襄怒、盡銳出戰。羌偽不勝、引騎而退、襄追之于三原、羌迴騎距襄。俄而黃眉與堅至、大戰、斬之、盡俘其眾、黃眉等振旅而歸。黃眉雖有大功、生不加旌賞、每於眾中辱之。黃眉怒、謀殺生自立、事發、伏誅、其王公親戚多有死者。

1.『資治通鑑』巻百は、「強哲」に作る。
2.『資治通鑑』巻百は、「王朗」に作る。

訓読

慕容儁 將の慕輿長卿らを遣はして眾七千を率ゐて軹關より入り、幽州刺史の張哲を裴氏堡に攻めしむ。晉の將軍の劉度ら眾四千を率ゐ、青州刺史の袁朗を盧氏に攻めしむ。生 其の前將軍の苻飛を遣はして晉を距ぎ、建節の鄧羌をして燕を距がしむ。飛 未だ至らざるに度 退く。羌及び長卿 堡南に戰ひ、大いに之を敗る。長卿及び甲首二千七百餘級を獲たり。
姚襄 眾萬餘を率ゐ、其の平陽太守の苻產を匈奴堡に攻む。苻柳 之を救ひ、襄の為に敗らる。引きて蒲坂に還る。襄 遂に堡を攻め、之に克つ。苻產を殺し、盡く其の眾を坑す。使を遣はして生より道を假り、將に隴西に還らんとす。生 將に之を許さんとす。苻堅 諫めて曰く、「姚襄、人傑なり。今 隴西に還れば、必ず深害と為らん。誘ふに厚利を以てし、伺隙して之を擊つに如かず」と。生 乃ち止む。使を遣はし襄に官爵を拜す。襄 受けず、其の使者を斬る。送る所の章策を焚き、河東を寇掠す。生 怒り、其の大將軍の張平に命じて之を討たしむ。襄 乃ち辭を卑くし幣を厚くして平と結びて兄弟と為る。平 更めて襄と和を通ず。生 三輔の人を發して渭橋を營せしむ。金紫光祿大夫の程肱 農を妨げ時を害するを以て、上疏して極諫す。生 怒り、之を殺す。
長安 大風あり、屋を發し樹を拔く。行人 顛頓し、宮中 奔擾す。或いは賊の至ると稱し、宮門 晝に閉づ。五日にして乃ち止む。生 賊を告ぐる者を推し、之を殺す。刳して其の心を出す。左光祿大夫の強平 諫めて曰く、「元正盛旦、日の之を蝕する有り、正陽神朔、昏風 大いに起る。兼せて水旱 時ならず、獸災 未だ息まず。此れ皆 陛下の政事に勉強せざるに由り、和氣を乖し致る所なり。願はくは陛下 元元を務養し、百姓を平章せよ。纖介の嫌を棄て、山嶽の過を含せ。宗社を致敬し、公卿を愛禮し、秋霜の威を去り、三春の澤を垂れよ。則ち姦回 寢止し、妖祲 自ら消ゆ。乾靈 皇家を祗祐し、永く無窮の美を保たん」と。生 怒り、以て妖言と為し、其の頂を鑿ちて之を殺す。平の囚はるるや、偽衞將軍の苻黃眉・前將軍の苻飛・建節の鄧羌 禁中に侍讌するに、叩頭して固諫し、太后を以て言と為す。平 即ち生母強氏の弟なり。生 既にして許さず、強氏 憂恨して死す。
生 書を下して曰く、「朕 皇天の命を受け、祖宗の業を承く。君 萬邦に臨み、子のごとく百姓を育む。統を嗣いで已來、何ぞ不善有らんか。而れども謗讟の音 天下に扇滿す。殺は千を過ぎざるに、而れども刑虐と謂ふ。行者 比肩し、未だ稀と為すに足らず。方に當に峻刑極罰すべし、復た朕を如何とす」と。時に猛獸及び狼 大いに暴れ、晝に則ち道を斷ち、夜に則ち屋を發す。惟だ人を害して六畜を食はず。生 立ちてより一年、獸 七百餘人を殺し、百姓 之に苦しむ。皆 聚まりて邑居す。害を為すこと滋々甚だし。遂に農桑を廢し、內外 兇懼す。羣臣 奏して灾を禳ふことを請ふ。生曰く、「野獸 飢えれば則ち人を食ふ。飽くれば當に自ら止むべし。終に累年に患と為る能はざるなり。天 豈に羣生を子愛せざる。而るに年年に罰を降す。正に百姓の犯罪を以て已まざればなり。將た朕を助けて殺を專らしにして刑教を施さしむるのみ。但だ罪を犯す勿かれ。何為れぞ天を怨みて人を尤(とが)めんや」と。
苻生は文書を下し、「朕は皇天の命を受け、祖宗の業を承けた。君主とは万邦に臨み、子のように百姓を育むものだ。統を嗣いで以来、私がどんな不善を働いたのか。しかし批判の声が天下に充満している。殺したのは千人未満であるが、刑罰が残虐とされた。通行人は肩を並べており、まだ過疎とは言えまい。もっと刑罰は厳しくしてよい、私を責めるのはお門違いだ」と言った。このとき猛獣及び狼が大いに暴れ、昼に道は通行できず、夜に家屋を破壊した。(獣は)人ばかりを殺して六畜を食べなかった。苻生が立ってから一年で、獣は七百餘人を殺し、万民はこれに苦しんだ。集住して聚落を作った。獣害はますますひどくなった。農桑を廃業し、内外は恐怖に陥った。群臣は上奏して災厄を祓って下さいと申し出た。苻生は、「野獣は飢えれば人を食らう。満腹になれば止めるだろう。獣害が何年も続くはずがない。なぜ天は万民を子のように愛さぬのか。それどころか年々に罰を降している。(その理由は)万民が犯罪を止めぬからである。朕は死刑を増やして刑教を施すしかない。もう罪を犯すな。なぜ(群臣は)天を怨んで人(朕)を咎めるのか(原因を作っているのは百姓の犯罪である)」と言った。
生 阿房に如き、兄の妹と俱に行く者に遇ふ。逼りて非禮を為さしむ。從はず、生 怒りて之を殺す。又 羣臣と咸陽故城に讌し、後に至る者有れば、皆 之を斬す。嘗て太醫令の程延をして安胎藥を合せしめ、人參の好惡并びに藥分の多少を問ふ。延曰く、「小小にして具へざると雖も、自ら用に堪ふ可し」と。生 以て其の目を譏ると為し、延の目を鑿ちて出し、然る後 之を斬る。有司 奏すらく、「太白 東井を犯す。東井は、秦の分なり。太白 星を罰す。必ず暴兵の京師に起こる有り」と。生曰く、「星 井に入るは、必ず將に渴するのみ、何ぞ怪しむ所あらんか」と。
姚襄 姚蘭・王欽盧らを遣はして招きて鄜城・定陽・北地・芹川の諸羌胡を動かし、皆 之に應ず。眾二萬七千有り、進みて黃落に據る。生 苻黃眉・苻堅・鄧羌を遣はして步騎萬五千を率ゐて之を討たしむ。襄 溝を深くして壘を高くし、固守して戰はず。鄧羌 黃眉に說きて曰く、「傷弓の鳥、虛發に落つ〔一〕。襄 頻りに桓溫・張平の為に敗られ、銳氣 喪へり。今 謀りて壘を固めて戰はず。是れ窮寇なり。襄の性は剛很にして、以て剛動し易く、若し長驅して鼓行せば、直ちに其の壘を壓せん。襄 必ず忿りて師を出す。一戰して擒ふ可きなり」と。黃眉 之に從ひ、羌を遣はして騎三千を率ゐて壘門に軍せしむ。襄 怒り、銳を盡して出て戰ふ。羌 偽りて勝たず、騎を引きて退く。襄 之を三原に追ひ、羌 騎を迴して襄を距ぐ。俄かにして黃眉 堅と與に至る。大いに戰ひ、之を斬る。盡く其の眾を俘し、黃眉ら振旅して歸る。黃眉 大功有ると雖も、生 旌賞を加へず、每に眾中に於て之を辱しむ。黃眉 怒り、生を殺して自立せんことを謀る。事 發し、誅に伏す。其の王公親戚 多く死する者有り。

〔一〕『戦国策』趙策が出典。弓矢で傷ついた鳥は、矢を発射していない(虚発の)弓の弦音を聞くだけで恐れることをいう。

現代語訳

慕容儁は将慕輿長卿らに兵七千を率いて軹関から入り、幽州刺史の張哲に裴氏堡を攻撃させた。東晋の将軍の劉度ら兵四千を率い、青州刺史の袁朗に盧氏に攻撃させた。苻生はその前将軍の苻飛に東晋軍を食い止めさせ、建節将軍の鄧羌に燕(慕容部)を食い止めさせた。苻飛が到着する前に劉度は撤退した。鄧羌及び長卿は堡南で戦い、大いにこれを破った。長卿及び甲首二千七百餘級をもぎ取った。
姚襄は兵万餘を率い、その(前秦の)平陽太守の苻産を匈奴堡で攻撃した。苻柳はこれを救い、姚襄に敗れた。撤退して蒲坂に還った。これを受けて姚襄は堡を攻め、打ち破った。苻産を殺し、その兵を全て穴埋めにした。使者を送り苻生から道を借り、隴西に還ろうとした。苻生はこれを認可しようとした。苻堅が諫めて、「姚襄は、人傑です。いま隴西に還れば、必ず深刻な害をなします。厚い利得によって誘い、隙を見て攻撃するのが宜しい」と言った。苻生は(認可を)思い止まった。使者を送って姚襄に官爵を拝した。姚襄は受け取らず、その使者を斬った。送った章策(任命書)を焼き捨て、河東を寇掠した。苻生は怒り、その大将軍の張平に命じて討伐させた。姚襄は文言を謙遜して厚く贈り物をして張平と結んで義兄弟となった。張平は改めて姚襄と和親を通じた。苻生は三輔の人を徴発して渭橋を造営させた。金紫光禄大夫の程肱は農業の妨げとなり時期を失うため、上疏して厳しく諫めた。苻生は怒り、かれを殺した。
長安で強風が吹き、家屋を飛ばし樹木を倒した。行人は転倒し、宮中は騒動した。賊が襲来したと称する者がおり、宮門を昼に閉じた。五日で風が止んだ。苻生は賊が来たと告げた者を探しだし、これを殺した。その心臓をえぐり出した。左光禄大夫の強平は諫めて、「元日の朝、日食が置き、四月一日、強風が起きました。水害と干害は時期が外れ、獣の災害も止みません。これは陛下が政務に励んでいないため、調和が狂っているからです。どうか陛下は万民を扶養し、実務を処理して下さい。小さな欠点をとがめず、大きな失敗を抑えて下さい。宗社を尊重し、公卿を礼遇し、秋霜のような暴政を除き、三春のような恩沢を施しなさい。さすれば悪事は停止し、凶兆はおのずと消えるでしょう。天が皇室を支援し、永遠の栄光を保てます」と言った。苻生は怒り、妖言と見なし、頭頂部に穴を開けて殺した。強平が(妖言の罪で)捕らわれると、衛将軍の苻黄眉・前将軍の苻飛・建節将軍の鄧羌は禁中で侍って酒を飲んでいたが、叩頭して強く諫め、太后を理由にあげた。強平は生母の強氏の弟であった。苻生が許さなかったので、強氏は憂恨して死んだ。
苻生は阿房宮に行き、兄と妹が同行しているのに会った。強制して不貞行為をさせようとした。従わないので、苻生は怒って兄妹を殺した。また群臣と咸陽故城で宴飲し、遅れて来た者がいれば、これを斬った。かつて太医令の程延に安胎薬を調合させたが、人参の好悪ならびに薬の成分量を質問した。程延は、「小小にして具(そな)えないが、使い道はある」と言った。苻生は自分の目のことを馬鹿にされたと思い、程延の目をえぐり出し、その後で斬った。担当官は、「太白が東井を犯しました。東井は、秦の分野です。太白が星を罰しているのです。必ず暴兵が京師で起こるでしょう」と上奏した。苻生は、「星が井に入ったのは、喉が渇いただけだ、怪異であるものか」と言った。
姚襄は姚蘭・王欽盧らに鄜城・定陽・北地・芹川の諸羌胡を招いて動員させ、みな呼応した。兵二万七千がおり、進んで黄落に拠った。苻生は苻黄眉・苻堅・鄧羌に歩騎一万五千を率いてこれを討伐させた。姚襄は溝を深くして塁を高くし、堅守して戦わなかった。鄧羌は黄眉に説き、「傷弓の鳥は、弦の音を聞いただけで落ちる。姚襄は何度も桓温・張平に敗れ、士気は挫けている。だから防塁を固めて戦わないのだ。(兵法にいう)追い詰められた状態といえる。姚襄の性は強情であり、陽動しやすい。もし長駆して軍鼓を鳴らせば、防塁を圧倒できるだろう。姚襄は必ず怒って軍を出してくる。一戦すれば捕らえることができる」と言った。黄眉はこれに従い、鄧羌に騎三千を率いて塁門に進軍させた。姚襄は怒り、精鋭を総動員して出撃した。鄧羌はわざと勝たず、騎兵を撤退させた。姚襄はこれを三原まで追い、(そこで)鄧羌は騎兵の向きを変えて姚襄と衝突した。にわかに黄眉が苻堅とともに到着した。大いに戦い、これを斬った。その兵を全て捕獲し、黄眉らは凱旋した。黄眉は大功があったが、苻生は褒賞を加えず、いつも群臣のまえで辱めた。黄眉は怒り、苻生を殺して自立しようとした。発覚し、誅殺された。その王公や親戚は多くが死んだ。

原文

初、生夢大魚食蒲、又長安謠曰、「東海大魚化為龍、男便為王女為公。問在何所洛門東。」東海、苻堅封也、時為龍驤將軍、第在洛門之東。生不知是堅、以謠夢之故、誅其侍中・太師・錄尚書事魚遵及其七子・十孫。時又謠曰、「百里望空城、鬱鬱何青青。瞎兒不知法、仰不見天星。」於是悉壞諸空城以禳之。金紫光祿大夫牛夷懼不免禍、請出鎮上洛。生曰、「卿忠肅篤敬、宜左右朕躬、豈有外鎮之理。」改授中軍。夷懼、歸而自殺。
初、生少凶暴嗜酒、健臨死、恐其不能保全家業、誡之曰、「酋帥・大臣若不從汝命、可漸除之。」及即偽位、殘虐滋甚、耽湎於酒、無復晝夜。羣臣朔望朝謁、罕有見者、或至暮方出、臨朝輒怒、惟行殺戮。動連月昏醉、文奏因之遂寢。納姦佞之言、賞罰失中。左右或言陛下聖明宰世、天下惟歌太平。生曰、「媚于我也。」引而斬之。或言陛下刑罰微過。曰、「汝謗我也。」亦斬之。所幸妻妾小有忤旨、便殺之、流其尸于渭水。又遣宮人與男子裸交於殿前。生剝牛羊驢馬、活爓雞豚鵝、三五十為羣、放之殿中。或剝死囚面皮、令其歌舞、引羣臣觀之、以為嬉樂。宗室・勳舊・親戚・忠良殺害略盡、王公在位者悉以疾告歸、人情危駭、道路以目。既自有目疾、其所諱者不足・不具・少・無・缺・傷・殘・毀・偏・隻之言皆不得道、左右忤旨而死者不可勝紀、至於截脛・刳胎・拉脅・鋸頸者動有千數。
太史令康權言于生曰、「昨夜三月並出、孛星入於太微、遂入于東井。兼自去月上旬沈陰不雨、迄至于今、將有下人謀上之禍、深願陛下修德以消之。」生怒、以為妖言、撲而殺之。
生夜對侍婢曰、「阿法兄弟亦不可信、明當除之。」是夜清河王苻法夢神告之曰、「旦將禍集汝門、惟先覺者可以免之。」寤而心悸。會侍婢來告、乃與特進梁平老・強汪等率壯士數百人潛入雲龍門、苻堅與呂婆樓率麾下三百餘人鼓譟繼進、宿衞將士皆舍杖歸堅。生猶昏寐未寤。堅眾既至、引生置於別室、廢之為越王、俄而殺之。生臨死猶飲酒數斗、昏醉無所知矣。時年二十三、在位1.二年、偽諡厲王。

1.「二年」は、「三年」に作るべきである。

訓読

初め、生 大魚 蒲を食するを夢みる。又 長安に謠ありて曰く、「東海の大魚 化して龍と為る。男は便ち王と為りて、女は公と為る。問ふ何の所にか洛門の東在るかと」と。東海は、苻堅の封なり。時に龍驤將軍と為り、第は洛門の東に在り。生 是れ堅なると知らず、謠夢の故を以て、其の侍中・太師・錄尚書事たる魚遵及び其七子・十孫を誅す。時に又 謠ありて曰く、「百里に空城を望む。鬱鬱として何ぞ青青たる。瞎兒 法を知らず、仰ぎて天星を見ず」と。是に於て悉く諸空城を壞して以て之を禳ふ。金紫光祿大夫の牛夷 禍を免れざるを懼れ、出でて上洛に鎮することを請ふ。生曰く、「卿 忠肅にして篤敬、宜しく朕が躬の左右たるべし。豈に外鎮の理有るや」と。改めて中軍を授く。夷 懼れ、歸りて自殺す。
初め、生 少くして凶暴にして酒を嗜む。健 死するに臨み、其の能く家業を保全せざるを恐れ、之に誡めて曰く、「酋帥・大臣 若し汝が命に從はざれば、漸く之を除く可し」と。偽位に即くに及び、殘虐 滋々甚しく、酒に耽湎し、復た晝夜無し。羣臣 朔望に朝謁すれども、罕(まれ)に見ること有り。或いは至暮に方に出で、臨朝して輒ち怒り、惟だ殺戮を行ふ。動々すれば連月 昏醉し、文奏 之に因りて遂に寢す。姦佞の言を納れ、賞罰 中を失ふ。左右 或いは言ふ、陛下 聖明にして世に宰し、天下 惟れ太平を歌ふと。生曰く、「我に媚ぶるなり」と。引きて之を斬す。或いは言ふ、陛下の刑罰 過微(な)し。曰く、「汝 我を謗るなり」と。亦 之を斬る。幸する所の妻妾 小しく忤旨有れば、便ち之を殺す。其の尸を渭水に流す。又 宮人を遣はして男子と與に裸にして殿前に交はらしむ。生 牛羊驢馬を剝ぎ、活きながらに雞豚鵝を爓(ゆ)で、三五十 羣を為して、之を殿中に放つ。或いは死囚の面皮を剝ぎ、其をして歌舞せしめ、羣臣を引きて之を觀しめ、以て嬉樂と為す。宗室・勳舊・親戚・忠良 殺害すること略々盡くす。王公 位に在る者 悉く疾を以て歸を告ぐ。人情 危駭し、道路に以て目す。既にして自ら目疾有り、其の諱む所の者は不足・不具・少・無・缺・傷・殘・毀・偏・隻の言 皆 道(い)ふことを得ず、左右 旨に忤ひて死する者 勝げて紀す可からず。截脛・刳胎・拉脅・鋸頸せらる者に至りては動々すれば千を數ふ有り。
太史令の康權 生に言ひて曰く、「昨夜 三月 並びに出づ。孛星 太微に入り、遂に東井に入る。兼せて去月上旬より沈陰にして雨ふらず、今に至る迄、將に下人の上を謀るの禍有らんとす。深く願ふ陛下 德を修め以て之を消せ」と。生 怒り、妖言を為すことを以て、撲して之を殺す。
生 夜に侍婢に對ひて曰く、「阿法の兄弟 亦 信ず可からず、明らかに當に之れを除くべし」と。是の夜 清河王の苻法 神を夢みて之に告げて曰く、「旦 將に禍 汝が門に集はん。惟だ先に覺る者 以て之を免るる可し」と。寤(めざ)めて心 悸す。會 侍婢 來りて告げ、乃ち特進の梁平老・強汪らと與に壯士數百人を率ゐて潛かに雲龍門に入り、苻堅 呂婆樓と與に麾下三百餘人を率ゐて鼓譟して繼進す。宿衞の將士 皆 杖を舍て堅に歸す。生 猶ほ昏寐して未だ寤めず。堅の眾 既に至り、生を引きて別室に置き、之を廢して越王と為し、俄かにして之を殺す。生 死に臨みて猶ほ酒數斗を飲み、昏醉して知る所無し。時に年二十三、在位二年。偽して厲王と諡す。

現代語訳

これより先、苻生は大魚が蒲を食べる夢をみた。また長安に謠言があり、「東海の大魚が変化して龍となる。子は男は王となり、娘は公となる。洛門の東はどこにあるだろう」と言った。東海は、苻堅の封地であった。このとき龍驤将軍となり、屋敷は洛門の東にあった。苻生はこれが苻堅を指すと分からず、謠言と夢を理由に、侍中・太師・録尚書事である魚遵及びその七子・十孫を誅した。さらに謠言があり、「百里に空城を望む。鬱鬱としてなんと青青としているか。片目の子は法を知らない、天星を見上げることがない」と言った。ここにおいて全ての空城を壊して謠言の実現を阻止した。金紫光禄大夫の牛夷は禍いを免れないことを懼れ、(朝廷を)出て上洛を鎮守したいと願い出た。苻生は、「卿は忠粛であり篤敬である、私をそばで補佐してくれ。なぜ外に鎮する道理があろか」と言った。改めて中軍を授けた。牛夷は懼れ、帰って自殺した。
これより先、苻生は若いときから凶暴で酒を嗜んだ。苻健が死に際、かれが家業を維持できないことを恐れ、戒めて、「酋帥や大臣がもしお前の命令に従わなければ、徐々にこれを排除してゆけ」と言った。偽位に即くと、残虐はいよいよひどく、酒の中毒となり、昼夜の区別もなかった。郡臣は朔望(月に二回)朝廷で謁見したが、(苻生が)ほとんど出席しなかった。あるいは夜中に出てきて、朝廷に臨んで怒り出し、ただ殺戮だけを行った。ややすれば複数の月にわたり昏酔し、上奏文はそのせいで放置された。姦佞の言を聞き入れ、賞罰は適切さを失った。左右のものが、陛下は聖明であり世を治め、天下は太平を賛美していますと言った。苻生は、「私に媚びたな」と言った。引き出して斬った。べつのものが、陛下の刑罰は全て適切ですと言った。(苻生は)「私を批判したな」と言った。またもや斬った。可愛がっている妻妾でも僅かに意に沿わねば、すぐに殺した。その死体を渭水に流して捨てた。また宦官を男子と一緒に裸にして殿前で交わらせた。苻生は牛羊や驢馬の皮を剥ぎ、活きながらに鶏豚やガチョウを茹で、三五十は群れをなして、殿中に放った。べつのときは死刑囚の顔の皮を剥ぎ、それに歌舞をさせ、群臣を招いて鑑賞させ、これを娯楽とした。宗室・功臣や旧臣・親戚・忠良であっても(分け隔てなく)殺害した。王公の位にあるものは全員が病気と称して帰宅を願いでた。世論はびくびくし、道路で目配せした。(苻生は)自分に目の病気があるので、かれに嫌われた人は、不足・不具・少・無・缺・傷・殘・毀・偏・隻といった言葉を口に出すことができなかった。機嫌を損ねて殺されたものは記録しきれない。截脛・刳胎・拉脅・鋸頸の(刑罰を受けた)ものは千を数えた。
太史令の康権は苻生に、「昨夜に三つの月が同時に出ました。彗星が太微に入り、さらに東井に入りました。そして去月上旬から空が暗いが雨が降らず、今に至るまで、下人が上位者を殺そうとする禍いが示唆されています。どうか陛下は徳を修めてその恐れを消して下さい」と言った。苻生は怒り、妖言をなしたとして、打って殺した。
苻生は夜に侍婢に向かい、「阿法の兄弟も信用できない、かれらを殺すべきだ」と言った。この夜、清河王の苻法は夢で神から、「明朝にお前の家に禍いが訪れようとしている。先に察知しておけば避けられる」と告げられた。目覚めても心臓が動悸していた。たまたま(苻生の語を聞いた)侍婢が来て告げ、そこで特進の梁平老・強汪らとともに壮士数百人を率いてひそかに雲龍門に入り、苻堅は呂婆楼とともに麾下三百餘人を率いて軍鼓を鳴らして士気を高めて後に続いた。宿衛の将士はみな武器を捨てて苻堅に帰順した。苻生はまだ睡眠から覚めなかった。苻堅の兵は到着し、苻生を別室に移して、かれを廃して越王とし、すぐに殺した。苻生は死に臨んでも数斗の酒を飲み、泥酔して訳が分かっていなかった。時に年は二十三、在位二年。不当に厲王と諡された。

苻雄

原文

苻雄字元才、洪之季子也。少善兵書、而多謀略、好施下士、便弓馬、有政術。健僭位、為佐命元勳、權侔人主、而謙恭奉法。健常曰、「元才,吾姬旦也。」及卒、健哭之歐血、曰、「天不欲吾定四海邪。何奪元才之速也。」子堅、別有載記。

訓読

苻雄 字は元才、洪の季子なり。少くして兵書を善くして、謀略多し。施を好み士に下り、弓馬を便とし、政術有り。健 僭位するに、佐命の元勳と為り、權は人主に侔し。而れども謙恭して法を奉る。健 常に曰く、「元才、吾が姬旦なり」と。卒するに及び、健 之に哭きて歐血し、曰く、「天 吾 四海を定むることを欲せず。何ぞ元才を奪ふことの速きや」と。子の堅、別に載記有り。

現代語訳

苻雄は字を元才といい、苻洪の末子である。若くして兵書を得意として、謀略が多かった。施しを好んで士に謙り、弓馬が上手く、為政の見識があった。苻健が僭位すると、佐命の元勲となり、権勢は人主と等しかった。だが恭順であり法を遵守した。苻健はつねに、「元才は、わが姫旦(周公旦)である」と言っていた。死に際し、苻健はかれのために哭して吐血し、「天は私に四海を平定させてくれない。なぜ元才(苻雄)をこれほど早く奪うのか」と言った。子の苻堅は、別に載記がある。

王墮

原文

王墮字安生、京兆霸城人也。博學有雄才、明天文圖緯。苻洪征梁犢、以墮為司馬、謂洪曰、「讖言苻氏應王、公其人也。」洪深然之。及為宰相、著匪躬之稱。健常歎曰、「天下羣官皆如王令君者、陰陽曷不和乎。」甚敬重之。
性剛峻疾惡、雅好直言。疾董榮・強國如仇讎、每於朝見之際、略不與言。人謂之曰、「董尚書貴幸一時、公宜降意。」墮曰、「董龍是何雞狗、而令國士與之言乎。」榮聞而慚恨、遂勸生誅之。及刑、榮謂墮曰、「君今復敢數董龍作雞狗乎。」墮瞋目而叱之。龍、榮之小字也。

訓読

王墮 字は安生、京兆の霸城の人なり。博學にして雄才有り。天文圖緯に明なり。苻洪 梁犢を征するに、墮を以て司馬と為す。洪に謂ひて曰く、「讖は苻氏 應に王たるべしと言ふ。公 其の人なり」と。洪 深く之を然りとす。宰相と為るに及び、匪躬の稱〔一〕を著す。健 常に歎じて曰く、「天下の羣官 皆 王令君の如くならば、陰陽 曷ぞ和せざらんか」と。甚だ之を敬重す。
性は剛峻にして惡を疾み、雅より直言を好む。董榮・強國を疾むこと仇讎の如し。每に朝見の際に於て、略々言を與にせず。人 之に謂ひて曰く、「董尚書 一時に貴幸たり。公 宜しく意を降すべし」と。墮曰く、「董龍は是れ何ぞ雞狗なるか。而れども國士をして之と與に言はしむか」と。榮 聞きて慚ぢて恨み、遂に生に之を誅することを勸む。刑せらるに及び、榮 墮に謂ひて曰く、「君 今 復た敢て董龍を數めて雞狗と作すか」と。墮 目を瞋せて之を叱る。龍は、榮の小字なり。

〔一〕『易経』蹇卦に「王臣蹇々す。躬の故に匪ず」とあり、出典。わが身を顧みず、主君または国家のために忠節を尽くすこと。匪躬の節。

現代語訳

王墮は字を安生といい、京兆の霸城の人である。博学で雄才があった。天文や図緯に精通していた。苻洪が梁犢を征伐するとき、王墮を司馬とした。(王墮は)苻洪に、「図讖は苻氏が王になるだろうと告げている。あなたが当てはまる」と言った。苻洪は心から同意した。宰相となると、匪躬の称を著した。苻健はいつも歎じて、「天下の官僚たち全員が王令君(王墮)のようであれば、陰陽は調和するであろうに」と言った。かれを敬い尊重した。
性格は曲がったことが嫌いで悪を憎み、直言を好んだ。董榮・強国を仇敵のように憎んでいた。朝見のとき、ほとんど言葉を交わさなかった。あるひとが、「董尚書は当代の寵臣であり高官です。意地を張ってはいけません」と言った。王墮は、「董龍なんぞは鶏や狗ではないか。そのくせ国士(王墮)と言葉を交わそうというのか」と言った。董榮はこれを聞いて恥じて恨み、苻生にかれを誅殺しなさいと勧めた。刑の執行にあたり、董榮は王墮に、「この期に及んでもまだ董龍を批判して鶏や狗だと言うか」と言った。王墮は目を怒らせて叱り飛ばした。龍は、董榮の小字である。