いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第十三巻_前秦_苻堅上

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

苻堅上

原文

苻堅字永固、一名文玉、雄之子也。祖洪、從石季龍徙鄴、家於永貴里。其母苟氏嘗游漳水、祈子於西門豹祠、其夜夢與神交、因而有孕、十二月而生堅焉。有神光自天燭其庭。背有赤文、隱起成字、曰「草付臣又土王咸陽」。臂垂過膝、目有紫光。洪奇而愛之、名曰堅頭。
年七歲、聰敏好施、舉止不踰規矩。每侍洪側、輒量洪舉措、取與不失機候。洪每曰、「此兒姿貌瓌偉、質性過人、非常相也。」高平徐統有知人之鑒、遇堅於路、異之、執其手曰、「苻郎、此官之御街、小兒敢戲於此、不畏司隸縛邪。」堅曰、「司隸縛罪人、不縛小兒戲也。」統謂左右曰、「此兒有霸王之相。」左右怪之、統曰、「非爾所及也。」後又遇之、統下車屏人、密謂之曰、「苻郎骨相不恒、後當大貴、但僕不見、如何。」堅曰、「誠如公言、不敢忘德。」八歲、請師就家學。洪曰、「汝戎狄異類、世知飲酒、今乃求學邪。」欣而許之。
健之入關也、夢天神遣使者朱衣赤冠、命拜堅為龍驤將軍、健翌日為壇於曲沃以授之。健泣謂堅曰、「汝祖昔受此號、今汝復為神明所命、可不勉之。」堅揮劍捶馬、志氣感厲、士卒莫不憚服焉。性至孝、博學多才藝、有經濟大志、要結英豪、以圖緯世之宜。王猛・呂婆樓・強汪・梁平老等並有王佐之才、為其羽翼。太原薛讚・略陽權翼見而驚曰、「非常人也。」

訓読

苻堅 字は永固、一名は文玉。雄の子なり。祖の洪、石季龍に從ひ鄴に徙り、永貴里に家す。其の母の苟氏 嘗て漳水に游び、子を西門豹祠に祈る。其の夜に夢に神と交はり、因りて孕む有り。十二月にして堅を生む。神光の天より其の庭を燭す有り。背に赤文有り、隱起して字を成し、曰く「草付に臣又土あれば咸陽に王たり」と。臂 垂れて膝を過ぎ、目に紫光有り。洪 奇として之を愛し、名づけて堅頭と曰ふ。
年七歲にして、聰敏にして施を好み、舉止 規矩を踰えず。每に洪の側に侍り、輒ち洪の舉措を量り、取與 機候を失はず。洪 每に曰く、「此の兒 姿貌は瓌偉にして、質性は人に過ぐ。非常の相なり」と。高平の徐統 知人の鑒有り。堅と路に遇ひ、之を異とす。其の手を執りて曰く、「苻郎、此れ官の御街なり。小兒 敢て此に戲ぶ。司隸の縛を畏れざるや」と。堅曰く、「司隸は罪人を縛す。小兒の戲を縛さず」と。統 左右に謂ひて曰く、「此の兒 霸王の相有り」と。左右 之を怪しむ。統曰く、「爾の及ぶ所に非ざるなり」と。後に又 之に遇ふ。統 下車して人を屏し、密かに之に謂ひて曰く、「苻郎 骨相は恒ならず。後に當に大貴なるべし。但だ僕は見ず、如何」と。堅曰、「誠に公の言が如し。敢て德を忘れず」と。八歲にして、師に請ひて家學に就く。洪曰く、「汝 戎狄の異類なり。世々飲酒を知る、今 乃ち學を求むるか」と。欣びて之を許す。
健の關に入るや、天神 使者の朱衣赤冠なるを遣はすを夢みる。命じて堅に拜して龍驤將軍と為す。健 翌日 壇を曲沃に為りて以て之を授く。健 泣きて堅に謂ひて曰く、「汝の祖 昔 此の號を受け、今 汝 復た神明の為に命ぜらる。之に勉めざる可きか」と。堅 劍を揮ひて馬を捶(う)ち、志氣 感厲たり。士卒 憚服せざる莫し。性は至孝、博學にして才藝多し。經濟の大志有り、英豪と要結し、以て緯世の宜を圖る。王猛・呂婆樓・強汪・梁平老ら並びに王佐の才有り、其の羽翼と為る。太原の薛讚・略陽の權翼 見て驚きて曰く、「非常の人なり」と。

現代語訳

苻堅は字を永固といい、一名は文玉である。苻雄の子である。祖父の苻洪は、石季龍に従って鄴に移り、永貴里に家を持った。その母の苟氏はかつて漳水に遊び、子を(授かるよう)西門豹祠に祈った。その夜に夢で神と交わり、妊娠をした。十二ヵ月で苻堅を生んだ。神々しい光が天から庭を照らした。背に赤い模様があり、盛り上がって字となり、「草付に臣又土(苻堅の字を分解したもの)であれば咸陽で王となる」と読めた。腕を垂らすと膝を過ぎ、目に紫の光があった。苻洪はこれを奇として愛し、堅頭と名づけた。
七歳で聡明で施しを好み、行動は規範を外れなかった。いつも苻洪の側に侍り、苻洪の挙措を見て学び、進退は時期を失わなかった。苻洪はつねに、「この子は姿貌は魁偉であり、性質は人より優れている。非常の相である」と言っていた。高平の徐統は人物鑑定の見識があった。苻堅と路で会い、素質を見出した。その手を取って、「苻郎よ、ここは役所が並ぶ区域である。子供の遊び場じゃない。司隷に縛られるのは恐くないのか」と言った。苻堅は、「司隸は罪人を縛ります。遊んでいる子供を捕らえません」と言った。徐統は左右に、「この子には霸王の相がある」と言った。左右はそれを怪しんだ。徐統は、「きみたちには理解不能だよ」と言った。後にまた会った。徐統は下車して人を遠ざけ、ひそかに苻堅に、「苻郎の骨相は並みではない。やがて高貴となるだろう。だが私は見ることができない、何ということだ」と言った。苻堅は、「きっとあなたの予言は当たるだろう。徳を忘れまい」と言った。八歳で師について学問を習おうとした。苻洪は、「お前は戎狄の異類の出身だ。先祖は酒を飲むばかりだったが、いま学問を求めるか」と言った。感心して許した。
苻健が関中に入ると、天神の使者が朱衣赤冠を着けてやって来る夢を見た。命じて苻健に龍驤将軍を拝した。苻健は翌日に祭壇を曲沃に作って(同じ官職を)かれに授けた。苻健は泣いて苻堅に、「お前の祖父がむかしこの官号を受け、いまお前も神明から任命された。努力せずには居れまいぞ」と言った。苻堅は剣を振るって馬を打ち、意気は軒昂であった。士卒は感服しないものはなかった。性質は至孝で、博学で才芸が豊かだった。政治の大志を持ち、英雄豪傑と交際し、善政のあり方を考えた。王猛・呂婆楼・強汪・梁平老らはいずれも王佐の才があり、かれを補佐した。太原の薛讚・略陽の権翼はかれと会って驚き、「非常の人だ」と言った。

原文

及苻生嗣偽位、讚・翼說堅曰、「今主上昏虐、天下離心。有德者昌、無德受殃、天之道也。神器業重、不可令他人取之、願君王行湯武之事、以順天人之心。」堅深然之、納為謀主。生既殘虐無度、梁平老等亟以為言、堅遂弒生、以偽位讓其兄法。法自以庶孼、不敢當。堅及母苟氏並慮眾心未服、難居大位、羣僚固請、乃從之。以升平元年僭稱大秦天王、誅生佞倖臣董龍・趙韶等二十餘人、赦其境內、改元曰永興。追諡父雄為文桓皇帝、尊母苟氏為皇太后、妻苟氏為皇后、子宏為皇太子。
兄法為使持節・侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書、從祖侯為太尉、從兄柳為車騎大將軍・尚書令、封弟融為陽平公、雙河南公、子丕長樂公、暉平原公、熙廣平公、叡鉅鹿公。李威為衞將軍・尚書左僕射。梁平老為右僕射。強汪為領軍將軍。仇騰為尚書、領選。席寶為丞相長史・行太子詹事。呂婆樓為司隸校尉。王猛・薛讚為中書侍郎。權翼為給事黃門侍郎、與猛・讚並掌機密。追復魚遵・雷弱兒・毛貴・王墮・梁楞・梁安・段純・辛牢等本官、以禮改葬之、其子孫皆隨才擢授。
初、堅母以法長而賢、又得眾心、懼終為變、至此、遣殺之。堅性仁友、與法訣于東堂、慟哭嘔血、贈以本官、諡曰哀、封其子陽為東海公、敷為清河公。於是修廢職、繼絕世、禮神祇、課農桑、立學校、鰥寡孤獨高年不自存者、賜穀帛有差、其殊才異行・孝友忠義・德業可稱者、令在所以聞。

訓読

苻生 偽位を嗣ぐに及び、讚・翼 堅に說きて曰く、「今 主上 昏虐なり。天下 心を離す。德有れば昌にして、德無くば殃を受くるは、天の道なり。神器の業は重し、他人をして之を取らしむ可からず。願はくは君王 湯武の事を行ひ、以て天人の心に順へ」と。堅 深く之を然りとし、納れて謀主と為る。生 既にして殘虐にして無度なり。梁平老ら亟(しばしば)以て言を為し、堅 遂に生を弒し、偽位を以て其の兄たる法に讓る。法 自ら庶孼を以て、敢て當たらず。堅及び母の苟氏 並びに眾心の未だ服せざるを慮り、大位に居ることを難しとす。羣僚 固く請ふ。乃ち之に從ふ。升平元年を以て大秦天王を僭稱し、生の佞倖の臣たる董龍・趙韶ら二十餘人を誅し、其の境內を赦す、改元して永興と曰ふ。父の雄に追諡して文桓皇帝と為し、母の苟氏を尊びて皇太后と為し、妻の苟氏を皇后と為し、子の宏を皇太子と為す。
兄の法を使持節・侍中・都督中外諸軍事・丞相・錄尚書と為し、從祖の侯を太尉と為し、從兄の柳を車騎大將軍・尚書令と為し、弟の融を陽平公、雙を河南公、子の丕を長樂公、暉を平原公、熙を廣平公、叡を鉅鹿公に封ず。李威を衞將軍・尚書左僕射と為す。梁平老を右僕射と為す。強汪を領軍將軍と為す。仇騰を尚書、領選と為す。席寶を丞相長史・行太子詹事と為す。呂婆樓を司隸校尉と為す。王猛・薛讚を中書侍郎と為す。權翼を給事黃門侍郎と為し、猛・讚と與に並びに機密を掌らしむ。追ひて魚遵・雷弱兒・毛貴・王墮・梁楞・梁安・段純・辛牢らの本官を復し、禮を以て之を改葬す。其の子孫 皆 才に隨ひ擢授す。
初め、堅の母 法の長にして賢にして、又 眾心を得たるを以て、終に變を為すを懼る。此に至て、之を殺さしむ。堅 性は仁友にして、法と東堂に訣し、慟哭して嘔血し、贈るに本官を以てし、諡して哀と曰ふ。其の子の陽を封じて東海公と為し、敷を清河公と為す。是に於て廢職を修め、絕世を繼ぎ、神祇を禮し、農桑を課し、學校を立つ。鰥寡孤獨高年にして自ら存せざる者は、穀帛を賜ふこと差有り。其の殊才異行、孝友忠義・德業 稱する可き者は、在所をして以て聞こえしむ。

現代語訳

苻生が偽位(前秦の君位)を嗣ぐと、薛讚・権翼は苻堅に、「いま主上は昏虐です。天下は支持していません。徳があれば栄え、徳がなければ咎めを受けるのは、天の道です。皇帝の事業は重大であり、他氏に奪わせてはいけません。どうか君王は殷の湯王や周の武王のような事業をおこない、天と人の心に応えて下さい」と言った。苻堅は心から同意して、受け入れて首謀者となった。苻生は残虐で節度がなかった。梁平老らはしばしば助言し(決起を促し)、苻堅はついに苻生を弑殺し、偽位を兄の苻法に譲った。苻法は自分が庶子であるので、辞退した。苻堅及び母の苟氏はまだ世論の賛同がないことに配慮し、君位に即くことに慎重であった。群僚は強く要請した。そこで受諾した。升平元(三五七)年に大秦天王を僭称し、苻生の佞倖の臣である董龍・趙韶ら二十餘人を誅殺し、領内を赦し、永興と改元した。父の苻雄に文桓皇帝と追諡し、母の苟氏を尊んで皇太后とし、妻の苟氏を皇后とし、子の苻宏を皇太子とした。
兄の苻法を使持節・侍中・都督中外諸軍事・丞相・録尚書とし、従祖父の苻侯を太尉とし、従兄の苻柳を車騎大将軍・尚書令とし、弟の苻融を陽平公、苻雙を河南公、子の苻丕を長楽公、苻暉を平原公、苻熙を広平公、苻叡を鉅鹿公に封じた。李威を衛将軍・尚書左僕射とした。梁平老を右僕射とした。強汪を領軍将軍とした。仇騰を尚書、領選ととした。席宝を丞相長史・行太子詹事とした。呂婆楼を司隸校尉とした。王猛・薛讚を中書侍郎とした。権翼を給事黄門侍郎とし、王猛・薛讚とともに機密を管掌させた。追って魚遵・雷弱児・毛貴・王墮・梁楞・梁安・段純・辛牢らを本来の官職に復位させ、礼を以てかれらを改葬した。その子孫はみな才能に応じて抜擢し任命した。
これより先、苻堅の母は苻法が年長であり賢いため、群臣に支持されているから、政変を起こすことを警戒した。ここに至り、かれを殺させた。苻堅は性格は仁友であり、苻法と東堂で決別し、慟哭して喀血し、もとの官爵を贈り、哀と諡した。その子の苻陽を東海公に、苻敷を清河公に封建した。ここにおいて廃れた官職を整備し、途絶えた家を復興し、神祇を礼に基づいて祭り、農桑を推進し、學校を創建した。鰥寡と孤独や高年にして自活できない者には、それぞれ穀帛を賜わった。才能や行動が優れ、孝友忠義であり、徳業を称賛すべき者は、所在地で評価をさせた。

原文

其將張平以并州叛、堅率眾討之、以其建節將軍鄧羌為前鋒、率騎五千據汾上。堅至銅壁、平盡眾拒戰、為羌所敗、獲其養子蚝、送之、平懼、乃降于堅。堅赦其罪、署為右將軍、蚝武賁中郎將、加廣武將軍、徙其所部三千餘戶于長安。
堅自臨晉登龍門、顧謂其羣臣曰、「美哉山河之固。婁敬有言、『關中四塞之國』、真不虛也」。權翼・薛讚對曰、「臣聞夏殷之都非不險也、周秦之眾非不多也、終於身竄南巢、首懸白旗、軀殘於犬戎、國分於項籍者何也。德之不修故耳。吳起有言、『在德不在險。』深願陛下追蹤唐虞、懷遠以德、山河之固不足恃也」。堅大悅、乃還長安。賜為父後者爵一級、鰥寡高年穀帛有差、丐所過田租之半。是秋、大旱、堅減膳徹懸、金玉綺繡皆散之戎士、後宮悉去羅紈、衣不曳地。開山澤之利、公私共之、偃甲息兵、與境內休息。
王猛親寵愈密、朝政莫不由之。特進樊世、氐豪也、有大勳於苻氏、負氣倨傲、眾辱猛曰、「吾輩與先帝共興事業、而不預時權。君無汗馬之勞、何敢專管大任。是為我耕稼而君食之乎」。猛曰、「方當使君為宰夫、安直耕稼而已」。世大怒曰、「要當懸汝頭于長安城門、不爾者、終不處于世也」。猛言之於堅、堅怒曰、「必須殺此老氐、然後百僚可整」。俄而世入言事、堅謂猛曰、「吾欲以楊璧尚主、璧何如人也」。世勃然曰、「楊璧、臣之壻也、婚已久定、陛下安得令之尚主乎」。猛讓世曰、「陛下帝有海內、而君敢競婚、是為二天子、安有上下」。世怒起、將擊猛、左右止之。世遂醜言大罵、堅由此發怒、命斬之于西廄。諸氐紛紜、競陳猛短、堅恚甚、慢罵、或有鞭撻於殿庭者。權翼進曰、「陛下宏達大度、善馭英豪、神武卓犖、錄功捨過、有漢祖之風。然慢易之言、所宜除之」。堅笑曰、「朕之過也」。自是公卿以下無不憚猛焉。
堅起明堂、繕南北郊、郊祀其祖洪以配天、宗祀其伯健于明堂以配上帝。親耕藉田、其妻苟氏親蠶於近郊。

訓読

其の將たる張平 并州を以て叛す。堅 眾を率ゐて之を討ち、其の建節將軍の鄧羌を以て前鋒と為し、騎五千を率ゐて汾上に據らしむ。堅 銅壁に至るや、平 眾を盡くして拒戰す。羌の為に敗らる。其の養子の蚝を獲へて、之を送る。平 懼れ、乃ち堅に降る。堅 其の罪を赦し、署して右將軍と為す。蚝もて武賁中郎將とし、廣武將軍を加ふ。其の部する所の三千餘戶を長安に徙す。
堅 臨晉より龍門に登り、顧みて其の羣臣に謂ひて曰く、「美なるかな山河の固。婁敬に言有り、『關中は四塞の國』なり、真に虛ならざるなり」と。權翼・薛讚 對へて曰く、「臣 夏殷の都を聞くに險ならざるに非ず、周秦の眾 多からざるに非ず、終に身に於て南巢に竄れ、首を白旗に懸け、軀は犬戎に殘し、國は項籍に分くる者は何ぞや。德の修めざるが故のみ。吳起 言有り、『德在りて險に在あらず』と。深く願ふ陛下 唐虞に追蹤し、遠を懷き德を以て、山河の固 恃むに足らざるなり」と。堅 大いに悅び、乃ち長安に還る。父の後と為る者に爵一級を賜ひ、鰥寡高年に穀帛もて差有り、丐へし所 田租の半を過ぐ。是の秋、大いに旱あり、堅 膳を減らし懸を徹し、金玉綺繡もて皆 之を戎士に散じ、後宮 悉く羅紈を去り、衣 地を曳かず。山澤の利に開き、公私 之を共にし、甲を偃め兵を息め、境內と與に休息す。
王猛が親寵 愈々密にして、朝政 之に由らざるは莫し。特進の樊世は、氐の豪にして、大いに苻氏に勳有り、氣を負ひて倨傲なり。眾 猛を辱めて曰く、「吾輩 先帝と與に共に事業を興こし、而れども時權に預からず。君 汗馬の勞無くして、何ぞ敢て大任を專管する。是れ我をして耕稼して君 之を食すと為すか」と。猛曰く、「方に當に使君は宰夫と為るべし、安ぞ直だ耕稼すべきか」と。世 大いに怒りて曰く、「要するに當に汝の頭を長安の城門に懸くべし。爾ざれば、終に世に處らざるなり」と。猛 之を堅に言ふ。堅 怒りて曰く、「必ず須らく此の老氐を殺すべし。然る後に百僚 整ふ可し」と。俄にして世 入りて言事し、堅 猛に謂ひて曰く、「吾 楊璧を以て主を尚せしめんと欲す、璧 何如なる人なるや」と。世 勃然として曰く、「楊璧は、臣の壻なり、婚して已に久しく定まる。陛下 安んぞ得て之をして主を尚せしむるや」と。猛 世を讓(せ)めて曰く、「陛下 帝して海內を有ち、而るに君 敢て婚を競ふ。是れ二天子と為す、安んぞ上下有らんか」と。世 怒りて起く、將に猛を擊たんとするに、左右 之を止む。世 遂に醜言もて大いに罵り、堅 此に由り怒りを發し、命じて之を西廄に斬る。諸氐 紛紜とし、競ひて猛の短を陳べ、堅の恚 甚しく、慢罵し、或いは殿庭に鞭撻する者有り。權翼 進みて曰く、「陛下 宏達にして大度なり、善く英豪を馭し、神武は卓犖たりて、功を錄して過を捨て、漢祖の風有り。然らば慢易の言、宜しく之く除き所なり」と。堅 笑ひて曰く、「朕の過なり」と。是に自り公卿より以下 猛を憚らざる無し。
堅 明堂を起て、南北郊を繕ひ、其の祖の洪を郊祀して以て天に配し、其の伯の健を明堂に宗祀して以て上帝に配す。親ら藉田を耕し、其の妻の苟氏は親ら近郊に蠶す。

現代語訳

その将である張平が并州で叛した。苻堅は兵を率いて討伐し、建節将軍の鄧羌を前鋒とし、騎五千を率いて汾上に拠らせた。苻堅が銅壁に至ると、張平は全軍で防戦した。鄧羌に敗れた。その養子の張蚝を捕らえて、送り付けた。張平は懼れ、苻堅に降服した。苻堅はその罪を赦し、右将軍に署した。張蚝を武賁中郎将とし、広武将軍を加えた。配下の三千餘戸を長安に移した。
苻堅は臨晋から龍門に登り、振り返って群臣に、「美しき山河の堅固さよ。婁敬(前漢の劉敬)は、『関中は四塞の国だ』と言ったが、まことにその通りだ」と言った。権翼と薛讚は答えて、「私が聞きますに夏や殷は都が堅固でないことはなく、周や秦は兵が多くないことはなく、しかし(それらの国々が)最終的に身一つで南巣に逃れ、首を白旗にかけられ、犬戎に蹂躙され、国土を項籍に分割されたのはなぜでしょう。徳を修めなかったことが原因です。呉起は、『(国の宝とは)徳であり険阻さでははい』と言いました。どうか陛下は唐虞(尭舜)を踏襲し、遠方の人々を徳によって懐かせなさい。山河の堅固さは頼りになりません」と言った。苻堅は大いに悦び、長安に還った。父の後嗣となった者に爵一級を賜わり、つれあいを失い老齢のものに穀帛をそれぞれ与え、支出総額は田租(歳入)の半分を超えた。この秋、大いに旱害があると、苻堅は食膳を減らして音楽を中止し、金玉や美しい模様の布を兵士に配り、後宮はすべて絹の布を取り除き、衣の裾を短くした。山沢の利益を解放し、公私で共有して、武装を解いて兵を休ませ、国内で一斉に休息をした。
王猛への信頼と寵用がますます重くなると、朝政の全般に王猛の考えが反映された。特進の樊世は、氐族の豪強で、苻氏に対して大きな勲功があり、血気盛んで傲慢であった。氐族の人々は王猛を辱めて、「われらは先帝とともに事業を興したが、現在の政治に携わっていない。きみは汗馬の労(軍功)がないが、どうして国家の大権を独占するのか。われらが耕作してお前を食わせたようなものだ」と言った。王猛は、「(私を食わせたければ)あなたは宰夫(料理人)になるべきで、耕すだけでは足りない」と言った。樊世は大いに怒って、「お前の首を長安の城門にかけてやろう。さもなくば、この世に居られようか」と言った。王猛はこれを苻堅に報告した。苻堅は怒って、「あの氐族の老人を殺すべきだ。そうしないと官僚の組織が整わない」と言った。ほどなく樊世が参内して意見を述べた。苻堅は王猛に、「私は楊璧に皇女を嫁がせたいが、楊璧とはどのような人物か」と言った。樊世は勃然と、「楊璧は、私の婿です。すでに結婚をして落ち着いている。陛下はどうして彼に皇女を嫁がせるのですか」と言った。王猛は樊世を責めて、「陛下は四海に君臨しているが、きみは婚姻において対抗した。これでは天子が二人いることになる、どうして上下の秩序が定まるだろう」と言った。樊世は怒って、王猛を殴ろうとしたが、左右が止めた。樊世は口汚く大いに罵った。苻堅はこれに怒り、彼を西廐で斬れと命じた。氐族たちは紛々とし、競って王猛の短所を述べた。苻堅はいよいよ怒り狂い、氐族らを罵倒し、宮殿の庭で鞭打つこともあった。権翼が進み出て、「陛下は寛大で度量があり、たくみに英雄や豪傑を制御し、神がかりの武は卓越し、功績を記憶して過ちを捨て、漢の高祖の風格があります。ですから他人を侮った発言は、慎まねばなりません」と言った。苻堅は笑って、「私が間違っていた」と言った。このことがあってから公卿より以下で王猛を憚らないものはなかった。
苻堅は明堂を建て、南北郊を修繕し、祖父の苻洪を郊祀して天に配し、伯父の苻健を明堂に宗祀して上帝に配した。苻堅は自ら藉田を耕し、苻堅の妻の苟氏は自ら近郊で養蚕をした。

原文

堅南游霸陵、顧謂羣臣曰、「漢祖起自布衣、廓平四海、佐命功臣孰為首乎」。權翼進曰、「漢書以蕭曹為功臣之冠」。堅曰、「漢祖與項羽爭天下、困於京索之間、身被七十餘創、通中六七、父母妻子為楚所囚。平城之下、七日不火食、賴陳平之謀、太上・妻子克全、免匈奴之禍。二相何得獨高也。雖有人狗之喻、豈黃中之言乎」。于是酣飲極歡、命羣臣賦詩。大赦、復改元曰甘露。以王猛為侍中・中書令・京兆尹。
其特進強德、健妻之弟也、昏酒豪橫、為百姓之患。猛捕而殺之、陳尸於市。其中丞鄧羌、性鯁直不撓、與猛協規齊志、數旬之間、貴戚・強豪誅死者二十有餘人。於是百僚震肅、豪右屏氣、路不拾遺、風化大行。堅歎曰、「吾今始知天下之有法也、天子之為尊也」。於是遣使巡察四方及戎夷種落、州郡有高年孤寡、不能自存、長吏刑罰失中、為百姓所苦、清修疾惡、勸課農桑、有便於俗、篤學至孝、義烈力田者、皆令具條以聞。
時匈奴左賢王衞辰遣使降于堅、遂請田內地、堅許之。雲中護軍賈雍遣其司馬徐斌率騎襲之、因縱兵掠奪。堅怒曰、「朕方修魏絳和戎之術、不可以小利忘大信。昔荊吳之戰、事興蠶婦。澆瓜之惠、梁宋息兵。夫怨不在大、事不在小、擾邊動眾、非國之利也。所獲資產、其悉以歸之」。免雍官、以白衣領護軍、遣使修和、示之信義。辰於是入居塞內、貢獻相尋、烏丸獨孤・鮮卑沒奕于率眾數萬又降於堅。堅初欲處之塞內、苻融以「匈奴為患、其興自古。比虜馬不敢南首者、畏威故也。今處之于內地、見其弱矣、方當闚兵郡縣、為北邊之害。不如徙之塞外、以存荒服之義」。堅從之。

訓読

堅 南のかた霸陵に游し、顧みて羣臣に謂ひて曰く、「漢祖 布衣より起ち、四海を廓平す。佐命の功臣 孰れか首と為すか」と。權翼 進みて曰く、「漢書は蕭曹を以て功臣の冠と為す」と。堅曰く、「漢祖 項羽と與に天下を爭ひ、京索の間に困するに、身に七十餘創を被り、通中すること六七、父母妻子 楚の囚ふる所と為る。平城の下、七日 火食せず、陳平の謀に賴り、太上・妻子 克く全し、匈奴の禍を免かる。二相 何ぞ獨り高なるを得るか。人狗の喻有ると雖も〔一〕、豈に黃中の言あるか」と。是に于て酣飲し歡を極め、羣臣に命じて詩を賦せしむ。大赦し、復た改元して甘露と曰ふ。王猛を以て侍中・中書令・京兆尹と為す。
其の特進の強德、健が妻の弟なり、酒に昏く豪橫たりて、百姓の患と為る。猛 捕へて之を殺し、尸を市に陳す。其の中丞の鄧羌、性は鯁直にして撓れず、猛と協規して志を齊しくし、數旬の間に、貴戚・強豪の誅死する者 二十有餘人なり。是に於て百僚 震肅し、豪右 氣を屏ひ、路に遺を拾はず、風化 大いに行はる。堅 歎じて曰く、「吾 今 始めて天下の法有り、天子の尊為るを知るなり」と。是に於て使を遣はして四方及(と)戎夷の種落を巡察せしめ、州郡に高年孤寡有りて、自存する能はず、長吏の刑罰 中を失ひ、百姓と苦とする所と為れば、疾惡を清修し、農桑を勸課して、俗に便有り、篤學至孝にして、義烈にして力田する者あらば、皆 具さに條して以て聞せしむ。
時に匈奴の左賢王の衞辰 使を遣はして堅に降り、遂に田を內地に請ひ、堅 之を許す。雲中護軍の賈雍 其の司馬の徐斌を遣はして騎を率ゐて之を襲はしめ、因りて兵を縱にして掠奪す。堅 怒りて曰く、「朕 方に魏絳が和戎の術を修めんとし、小利を以て大信を忘る可からず。昔 荊吳の戰に、事は蠶婦に興る。澆瓜の惠ありて、梁宋 兵を息む〔二〕。夫れ怨み大に在らざれども、事は小に在らず、邊を擾がし眾を動かすは、國の利に非ず。獲る所の資產は、其れ悉く以て之て歸せ」と。雍の官を免じ、白衣を以て護軍を領し、使を遣はして和を修め、之を示すに信義もてす。辰 是に於て入りて塞內に居し、貢獻 相 尋ぎ、烏丸の獨孤・鮮卑の沒奕于 眾數萬を率ゐて又 堅に降る。堅 初め之を塞內に處らしめんと欲するに、苻融 以へらく「匈奴の患為るは、其れ古より興る。比虜の馬 敢て南首せざるは、威を畏るるが故なり。今 之を內地に處すれば、其の弱を見て、方に當に兵を郡縣に闚ひ、北邊の害と為らん。之を塞外に徙して、以て荒服の義を存するに如かず」と。堅 之に從ふ。

〔一〕『漢書』巻三十九 蕭何伝に、高祖の言葉として、「夫獵、追殺獸者狗也、而發縱指示獸處者人也。今諸君徒能走得獸耳、功狗也。至如蕭何、發縱指示、功人也」とあり、これを踏まえている。
〔二〕梁の大夫の宋就が、楚の領土と隣接した地域で、瓜に水を注いだという故事。『新書』退讓篇に見える。

現代語訳

苻堅は南の霸陵で遊猟し、振り返って群臣に、「漢の高祖は布衣から身を起こし、四海を平定した。佐命の功臣でだれが最良であろう」と言った。権翼は進み出て、「漢書は蕭何と曹参を功臣の筆頭としています」と言った。苻堅は、「漢の高祖は項羽と天下を争い、京索の間に困窮し、身に七十あまりの傷を受け、六つか七つの矢が貫通し、父母や妻子が楚(項羽)に捕らえられた。平城のもと、七日も火を通したものを食わなかったが、陳平の謀のおかげで、父と妻子は生き残り、匈奴では禍いを逃れた。二人の宰相(蕭何と曹参)だけがどうして立派であろうか。(蕭何を称えた)人と狗の比喩はあるが、本質を捕らえた言葉であろうか」と言った。ここにおいて盛大に酒宴を催し、群臣に詩を賦させた。大赦し、また改元して甘露とした。王猛を侍中・中書令・京兆尹とした。
その(前秦の)特進の強徳は、苻健の妻の弟であり、酒浸りで横暴で、百姓を苦しめていた。王猛は彼を捕らえて殺し、死体を市に晒した。その中丞の鄧羌は、性格が剛直で折り合わず、王猛と協調して志を等しくし、数十日のうちに、貴戚や豪族で誅死したものは二十人あまりであった。かくして百僚は震えて身を正し、豪族は息を潜め、道路では落とし物を拾わず、風化が大いに行われた。苻堅は歎じて、「いまようやく天下で法が行われ、天子が尊いことを初めて知った」と言った。使者を派遣して四方と戎夷の集落を巡察させ、州郡の高齢者や孤児や未亡人で、自活できないものや、長吏の刑罰が正当さを失い、万民を苦しめているものがいたら、弊害を清めて是正し、農桑を推進して、人々の生活に役立て、学問に熱心で至孝であり、義に厚くて耕作に励むものがいれば、みな詳しく調査して報告させた。
このとき匈奴の左賢王の衛辰は使者を送って苻堅に降服し、耕土を内地を求め、苻堅はこれを許した。雲中護軍の賈雍は司馬の徐斌に命じて騎兵でこれを襲撃し、兵に自由な略奪を認めた。苻堅は怒って、「朕は(春秋晋の)魏絳が戎狄を手懐けた方法に学ぼうとしている。目先の利益のために大きな信義を失ってはならない。むかし荊呉の戦いは、養蚕の夫人から勃発した。瓜に水をそそぐ恩恵によって、梁の宋氏は戦争を止めた。怨みが大きくなくとも、(不用意に開戦の理由を作れば)事態は小さく収まらない。辺境を騒がせて兵を動かすのは、国家の利益にならない。獲得した資産は、すべてを返却せよ」と言った。賈雍の官職を罷免し、白衣に護軍を領させ、和平の使者を送り、信義を示した。衛辰は塞内(長城の南)に居住し、献上品があいつぎ、烏丸の独孤と鮮卑の没奕于も数万の民を率いて苻堅に降服した。苻堅ははじめ彼らを塞内に居住させようとしたが、苻融が「匈奴の脅威は、いにしえ以来のものです。騎兵を編成して南を目指さないのは、(国境守備の)威勢を畏れるからです。いま彼らを内地に居住させれば、内地の弱みを見つけ、兵で郡県をねらい、北辺の害となるでしょう。彼らを塞外に移し、荒服(国外の民)として義を結ぶのが宜しい」と言った。苻堅はこれに従った。

原文

堅僭位五年、鳳皇集於東闕、大赦其境內、百僚進位一級。初、堅之將為赦也、與王猛・苻融密議於露堂、悉屏左右。堅親為赦文、猛・融供進紙墨。有一大蒼蠅入自牗間、鳴聲甚大、集於筆端、驅而復來。俄而長安街巷市里人相告曰、「官今大赦」。有司以聞。堅驚謂融・猛曰、「禁中無耳屬之理、事何從泄也」。於是敕外窮推之、咸言有一小人衣黑衣、大呼於市曰、「官今大赦」。須臾不見。堅歎曰、「其向蒼蠅乎。聲狀非常、吾固惡之。諺曰、『欲人勿知、莫若勿為。』聲無細而弗聞、事未形而必彰者、其此之謂也」。
堅廣修學官、召郡國學生通一經以上充之、公卿已下子孫並遣受業。其有學為通儒、才堪幹事、清修廉直、孝悌力田者、皆旌表之。于是人思勸勵、號稱多士、盜賊止息、請託路絕、田疇修闢、帑藏充盈、典章法物靡不悉備。堅親臨太學、考學生經義優劣、品而第之。問難五經、博士多不能對。堅謂博士王寔曰、「朕一月三臨太學、黜陟幽明、躬親奬勵、罔敢倦違、庶幾周孔微言不由朕而墜、漢之二武其可追乎」。寔對曰、「自劉石擾覆華畿、二都鞠為茂艸、儒生罕有或存、墳籍滅而莫紀、經淪學廢、奄若秦皇。陛下神武撥亂、道隆虞夏、開庠序之美、弘儒教之風、化盛隆周、垂馨千祀、漢之二武焉足論哉」。堅自是每月一臨太學、諸生競勸焉。
屠各張罔聚眾數千、自稱大單于、寇掠郡縣。堅以其尚書鄧羌為建節將軍、率眾七千討平之。

訓読

堅 僭位すること五年、鳳皇 東闕に集ひ、其の境內を大赦し、百僚は位一級を進む。初め、堅の將に赦を為さんとするや、王猛・苻融と密かに露堂に議し、悉く左右を屏す。堅 親ら赦文を為り、猛・融 供に紙墨を進む。一の大なる蒼蠅 牗間より入る有り、鳴聲は甚だ大にして、筆端に集ひ、驅せて復た來る。俄かにして長安の街巷の市里の人 相 告げて曰く、「官 今 大赦す」と。有司 以て聞す。堅 驚きて融・猛に謂ひて曰く、「禁中に耳屬の理無く、事 何ぞ從りて泄るるや」と。是に於て外に敕して之を窮推するに、咸 言ふ一小人の黑衣を衣るもの有りて、大いに市に呼びて曰く、「官 今 大赦す」と。須臾にして見えず。堅 歎じて曰く、「其れ向の蒼蠅なるや。聲狀は常に非ず、吾 固より之を惡む。諺に曰く、『人に知らること勿からんと欲すれば、為す勿きに若くは莫し』と。聲は細として聞かざる無く、事は未だ形れずして必ず彰はるるは、其れ此の謂ひや」と。
堅 廣く學官を修め、郡國の學生にして一經に通ずるを召して以て上して之を充たしめ、公卿より已下の子孫 並びに遣りて業を受く。其の學の通儒為りて、才は幹事に堪え、清修廉直にして、孝悌力田なる者有らば、皆 之を旌表せしむ。是に于て人 勸勵せんと思ひ、號して多士と稱し、盜賊 止息し、請託は路に絕え、田疇は闢を修め、帑藏は充盈し、典章法物は悉く備はざるは靡し。堅は親ら太學に臨び、學生が經義の優劣を考じ、品して之を第す。五經を問難し、博士 多く對ふる能はず。堅 博士の王寔に謂ひて曰く、「朕 一月に三たび太學に臨み、幽明を黜陟し、躬親ら奬勵す。敢て倦違する罔れ。庶幾はくは周孔の微言 朕に由りて墜ちず、漢の二武 其れ追ふ可きや」と。寔 對へて曰く、「劉石の華畿を擾覆せしより、二都 鞠して茂艸と為り、儒生 罕に或いは存する有り、墳籍 滅して紀す莫く、經淪の學は廢れ、奄に秦皇が若し。陛下は神武もて亂を撥し、道は虞夏より隆く、庠序の美を開き、儒教の風を弘め、化の盛なること周より隆く、馨を千祀に垂る。漢の二武すら焉ぞ論ずるに足るや」と。堅 是より每月ごとに一たび太學に臨み、諸生 競ひて焉に勸む。
屠各の張罔 眾數千を聚め、自ら大單于と稱し、郡縣を寇掠す。堅 其の尚書の鄧羌を以て建節將軍と為し、眾七千を率ゐて討たしめて之を平らぐ。

現代語訳

苻堅が帝位を僭称すること五年で、鳳皇が東闕に集まり、その領内を大赦し、百僚は位一級を進めた。これに先立ち、苻堅が赦を行おうとし、王猛と苻融と密かに露堂(甘露堂か)で議論し、左右の官をすべて遠ざけた。苻堅が自分で赦の文を作り、王猛と苻融が紙墨を差し出した。一匹の大きな蒼蝿が窓のあいだから入り、羽音がとても大きく、筆の端にたかり、飛び去っては戻ってきた。その直後に長安の巷間で人々が、「国家がもうすぐ大赦をするぞ」と噂した。担当官がこれを報告した。苻堅は驚いて苻融と王猛に、「禁中には耳目を遮断する方法がないのか、なぜ漏洩したのだろう」と言った。宮殿の外を詳細に調査させると、皆が言うには黒衣をつけた小人が現れ、市場にて大声で、「国家が大赦するぞ」と言って、すぐに消滅したという。苻堅は歎じて、「あのときの蒼蝿かも知れない。羽音が普通ではなく、私は鬱陶しく思ったのだ。諺にいう、『人に知られたくなければ、やらないに越したことはない』と。些細な声でも聞かれないことはなく、形にする前に見破られてしまうのは、これを言ったものだ」と述べた。
苻堅は広く学官を整備し、郡国の学生で一経に精通したものを召して(中央の)学官に集め、公卿より以下は子弟や孫を入学させた。通儒の学を修め、才能が職務に堪え、清廉潔白で正直であり、孝悌や耕作に励むものは、すべてを顕彰した。ここにおいて人々は儒学に熱心に取り組み、多士と称され、盗賊はいなくなり、賄賂や口利きは行われず、田地が開墾され、倉庫は充足し、法制や儀礼が完全に整った。苻堅は自ら太学に出向き、学生の経学についての見解を査定し、順位をつけて登用した。五経について難問を出すと、博士は多くが回答できなかった。苻堅は博士の王寔に、「朕は一ヵ月に三回ずつ太学にきて、賢愚を査定し、学問を奨励しよう。倦怠し手を抜いてはいけない。周公や孔子の微言を朕が拾いあげ、漢の二武(武帝と光武帝)に出来なかったことをやろう」と言った。王寔は答えて、「劉氏と石氏(前趙と後趙)が中原の首都圏を破壊してから、二都(洛陽と長安)は草木がうっそうと茂り、儒学者はほぼ根絶やしで、聖人の書物は滅びて伝わらず、儒教の経学が廃れて、まるで秦の始皇帝の再来です。陛下は神武によって乱を収束させ、その道は虞夏(舜や禹)よりも高く、すばらしき庠序(学校制度)を復興し、儒教の風化を広めており、教化の盛んなことは周王朝よりも優れ、美風は千年先にまで伝わります。漢の二武ですら比較するに足りましょうや」と言った。苻堅はこれより毎月太学に出向き、学生らは競って学問に励んだ。
屠各の張罔が数千の兵を集め、大単于と自称し、郡県を侵略した。苻堅はその尚書の鄧羌を建節将軍とし、兵七千で討伐させて平定をした。

原文

時商人趙掇・丁妃・鄒瓫等皆家累千金、車服之盛、擬則王侯、堅之諸公競引之為國二卿。黃門侍郎程憲言於堅曰、「趙掇等皆商販醜豎、市郭小人、車馬衣服僭同王者、官齊君子、為藩國列卿、傷風敗俗、有塵聖化、宜肅明典法、使清濁顯分」。堅於是推檢引掇等為國卿者、降其爵。乃下制、「非命士已上、不得乘車馬於都城百里之內。金銀錦繡、工商・皁隸・婦女不得服之、犯者棄市」。
興寧三年、堅又改元為建元。慕容暐遣其太宰慕容恪攻拔洛陽、略地至於崤澠。堅懼其入關、親屯陝城以備之。
匈奴右賢王曹轂・左賢王衞辰舉兵叛、率眾二萬攻其杏城已南郡縣、屯於馬蘭山。索虜烏延等亦叛堅而通于辰・轂。堅率中外精銳以討之、以其前將軍楊安・鎮軍毛盛等為前鋒都督。轂遣弟活距戰于同官川、安大敗之、斬活并四千餘級、轂懼而降。堅徙其酋豪六千餘戶於長安。進擊烏延、斬之。鄧羌討衞辰、擒之於木根山。堅自驄馬城如朔方、巡撫夷狄、以衞辰為夏陽公以統其眾。轂尋死、分其部落、貳城已西二萬餘落封其長子璽為駱川侯、貳城已東二萬餘落封其小子寅為力川侯、故號東・西曹。
秦・雍二州地震裂、水泉湧出、金象生毛、長安大風震電、壞屋殺人、堅懼而愈修德政焉。
使王猛・楊安等率眾二萬寇荊州北鄙諸郡、掠漢陽萬餘戶而還。羌斂岐叛堅、自稱益州刺史、率部落四千餘家西依張天錫叛將李儼。堅遣王猛與隴西太守姜衡・南安太守邵羌討斂岐於略陽。張天錫率步騎三萬擊李儼、攻其大夏・武始二郡、克之。天錫將掌據又敗儼諸軍於葵谷、儼懼、遣兄子純謝罪於堅、仍請救。尋而猛攻破略陽、斂岐奔白馬。堅遣楊安與建威王撫率眾會猛以救儼。猛遣邵羌追斂岐、使王撫守侯和、姜衡守白石。猛與楊安救枹罕、及天錫將楊遹戰于枹罕東、1.猛不利。邵羌擒斂岐於白馬、送之長安。天錫遂引師而歸。儼猶憑城未出、猛乃服白乘輿、從數十人、請與相見。儼開門延之、未及設備、而將士續入、遂虜儼而還。堅以其將軍彭越為平西將軍・涼州刺史、鎮枹罕。以儼為光祿勳・歸安侯。
是歲、苻雙據上邽、苻柳據蒲坂叛於堅、2.苻庾據陝城、苻武據安定並應之、將共伐長安。堅遣使諭之、各齧梨以為信、皆不受堅命、阻兵自守。堅遣後禁將軍楊成世・左將軍毛嵩等討雙・武、王猛・鄧羌攻蒲坂、楊安・張蚝攻陝城。成世・毛嵩為雙・武所敗、堅又遣其武衞王鑒・寧朔呂光等率中外精銳以討之、左衞苻雅・左禁竇衝率羽林騎七千繼發。雙・武乘勝至於榆眉、鑒等擊敗之、斬獲萬五千人。武棄安定、隨雙奔上邽、鑒等攻之。苻柳出挑戰、猛閉壘不應。柳以猛為憚己、留其世子良守薄坂、率眾二萬、3.(將攻長安)。長安去蒲坂百餘里、鄧羌率勁騎七千夜襲敗之、柳引軍還、猛又盡眾邀擊、悉俘其卒、柳與數百騎入於蒲坂。鑒等攻上邽、克之、斬雙・武。猛又尋破蒲坂、斬柳及其妻子、傳首長安。猛屯蒲坂、遣鄧羌與王鑒等攻陷陝城、克之、送庾於長安、殺之。

1.「猛不利」について、張天錫伝は「天錫敗績」に作り、勝敗が異なる。『資治通鑑』巻一百一は、「猛大破之」に作り、王猛の勝利としている。
2.「苻庾」は、慕容暐載記では「苻謏」に作る。
3.中華書局本の校勘記に従い、「將攻長安」四字を削る。

訓読

時に商人の趙掇・丁妃・鄒瓫ら皆 家に千金を累ね、車服の盛、王侯に擬則す、堅の諸公 競ひて之を引きて國の二卿と為す。黃門侍郎の程憲 堅に言ひて曰く、「趙掇ら皆 商販の醜豎にして、市郭の小人なり。車馬・衣服 僭して王者に同じく、官は君子に齊しく、藩國の列卿と為り、風を傷つけ俗を敗り、聖化を塵する有り。宜しく典法を肅明し、清濁をして顯分せしむべし」と。堅 是に於て推して掇らを國の卿と為す者を檢引し、其の爵を降す。乃ち制を下し、「命士より已上に非ざれば、車馬に都城の百里の內に乘るを得ず。金銀と錦繡とは、工商・皁隸・婦女 之に服するを得ず、犯す者は棄市せよ」と。 興寧三年に、堅 又 改元して建元と為す。慕容暐 其の太宰の慕容恪を遣はして攻めて洛陽を拔き、地を略して崤澠に至る。堅 其の關に入るを懼れ、親ら陝城に屯して以て之を備ふ。 匈奴の右賢王の曹轂・左賢王の衞辰 兵を舉げて叛き、眾二萬を率ゐ其の杏城より已南の郡縣を攻め、馬蘭山に屯す。索虜の烏延らも亦た堅に叛きて辰・轂に通ず。堅 中外の精銳を率ゐて以て之を討ち、其の前將軍の楊安・鎮軍の毛盛らを以て前鋒都督と為す。轂は弟の活を遣はして同官川に距戰し、安 大いに之を敗り、活に四千餘級を并せて斬り、轂 懼れて降る。堅 其の酋豪の六千餘戶を長安に徙す。進みて烏延を擊ち、之を斬る。鄧羌 衞辰を討ち、之を木根山に擒ふ。堅 驄馬城より朔方に如き、夷狄を巡撫す、衞辰を以て夏陽公と為して以て其の眾を統べしむ。轂 尋いで死し、其の部落を分け、貳城より已西の二萬餘落もて其の長子の璽を封じて駱川侯と為し、貳城より已東の二萬餘落もて其の小子の寅を封じて力川侯と為し、故に東・西曹と號す。 秦・雍の二州 地 震へて裂け、水泉 湧き出で、金象 毛を生じ、長安 大風 震電し、屋を壞し人を殺し、堅 懼れて愈々德政を修む。 王猛・楊安らをして眾二萬を率ゐて荊州の北鄙の諸郡を寇し、漢陽の萬餘戶を掠して還る。羌の斂岐 堅に叛し、自ら益州刺史を稱し、部落四千餘家を率ゐて西のかた張天錫の叛將の李儼に依る。堅 王猛を遣はして隴西太守の姜衡・南安太守の邵羌と與に斂岐を略陽に討たしむ。張天錫 步騎三萬を率ゐて李儼を擊ち、其の大夏・武始二郡を攻め、之に克つ。天錫が將の掌據 又 儼の諸軍を葵谷に敗り、儼 懼れ、兄子の純を遣はして堅に謝罪し、仍ち救はんことを請む。尋いで猛 略陽を攻破し、斂岐 白馬に奔る。堅 楊安を遣はして建威の王撫と與に眾を率ゐて猛に會して以て儼を救はしむ。猛 邵羌を遣はして斂岐を追はしめ、王撫をして侯和を守らしめ、姜衡をして白石を守らしむ。猛 楊安と與に枹罕を救ひ、天錫の將の楊遹に及びて枹罕の東に戰ひ、猛 利あらず。邵羌 斂岐を白馬に擒へ、之を長安に送る。天錫 遂に師を引きて歸り。儼 猶ほ城に憑りて未だ出でず、猛 乃ち服白乘輿し、數十人を從へ、與に相 見えんことを請ふ。儼 開門して之を延き、未だ設備するに及ばざるに、將士 續き入り、遂に儼を虜へて還る。堅 其の將軍の彭越を以て平西將軍・涼州刺史と為し、枹罕に鎮せしむ。儼を以て光祿勳・歸安侯と為す。
是の歲、苻雙は上邽に據り、苻柳は蒲坂に據りて堅に叛し、苻庾は陝城に據り、苻武は安定に據りて並せて之に應い、將に共に長安を伐たんとす。堅 使を遣はして之を諭し、各々梨を齧りて以て信と為し、皆 堅の命を受けず、兵を阻みて自守す。堅 後禁將軍の楊成世・左將軍の毛嵩らを遣はして雙・武を討たしめ、王猛・鄧羌は蒲坂を攻め、楊安・張蚝は陝城を攻む。成世・毛嵩 雙・武の敗る所と為り、堅 又 其の武衞の王鑒・寧朔の呂光らを遣はして中外の精銳を率ゐて以て之を討たしめ、左衞の苻雅・左禁の竇衝 羽林騎七千を率ゐて繼いで發す。雙・武 勝ちに乘じて榆眉に至るに、鑒ら擊ちて之を敗り、斬獲すること萬五千人なり。武 安定を棄て、雙に隨ひて上邽に奔り、鑒ら之を攻む。苻柳 出でて挑戰するに、猛 壘を閉じて應ぜず。柳 猛を以て己を憚ると為し、其の世子の良を留めて薄坂を守り、眾二萬を率ゐる。長安は蒲坂を去ること百餘里にして、鄧羌 勁騎七千を率ゐて夜襲して之を敗り、柳 軍を引きて還り、猛 又 眾を盡くして邀擊し、悉く其の卒を俘し、柳 數百騎と與に蒲坂に入る。鑒ら上邽を攻め、之に克ち、雙・武を斬る。猛 又 尋いで蒲坂を破り、柳及び其の妻子を斬り、首を長安に傳ふ。猛 蒲坂に屯し、鄧羌を遣はして王鑒らと與に攻めて陝城を陷し、之に克ち、庾を長安に送り、之を殺す。

現代語訳

このとき商人の趙掇や丁妃や鄒瓫らはみな家に千金を貯めこみ、馬車は衣服の豪華さは、まるで王侯に匹敵し、苻堅のもとの諸公は競って招き国の二卿とした。黄門侍郎の程憲は苻堅に、「趙掇らはみな醜悪な商売人であり、市井の小物です。車馬や衣服が不遜にも王者と同じで、官位が君子に並んで、藩国の列卿となっており、風俗を傷つけて損ない、聖化を穢しています。法規を正しく運用し、清と濁とを明確に区別なさいませ」と言った。苻堅はここにおいて趙掇らを国卿としたものを取り調べ、その爵位を降格した。制書を下し、「(王に任じられた)命士より以上でなければ、都城の百里以内で馬車の乗ることを禁ずる。金銀や錦繡は、工人と商人や奴隷や婦女が身に着けることを禁ずる。違反したものは棄市せよ」と言った。
興寧三年、苻堅はまた改元して建元とした。慕容暐はその太宰の慕容恪を派遣して洛陽を突破し、領地を侵略して崤澠に到達した。苻堅は関に入られることを懼れ、みずから陝城に駐屯してこれに備えた。
匈奴の右賢王の曹轂と左賢王の衛辰が兵を挙げて(苻堅に)叛き、兵二万を率いてその杏城より以南の郡県を攻め、馬蘭山に駐屯した。索虜の烏延らもまた苻堅に叛いて衛辰と曹轂に通じた。苻堅は中外の精鋭を率いてこれを討伐し、前将軍の楊安と鎮軍の毛盛らを前鋒都督とした。曹轂は弟の曹活を派遣して同官川で防戦したが、楊安は大いにこれを破り、曹活及び四千級あまりをまとめて斬り、曹轂は懼れて降服した。苻堅はその種族の豪強の六千戸あまりを長安に移した。進んで烏延を攻撃し、これを斬った。鄧羌は衛辰を討伐し、これを木根山で捕らえた。苻堅は驄馬城から朔方に向かい、夷狄を巡察して慰撫し、衛辰を夏陽公としてその兵を統率させた。曹轂がほどなく死ぬと、その部落を分割し、貳城より以西の二万落あまりに長子の曹璽に封建して駱川侯とし、貳城より以東の二万落あまりを末子の曹寅に封建して力川侯とし、ゆえに東西曹と呼称した。
秦州と雍州の二州で地震と地割れがあり、水が湧き出て、金象が毛を生じ、長安は大風で震えて雷鳴が起こり、家屋が壊れて人が死んだ。苻堅は懼れていよいよ徳政を心がけた。
王猛と楊安らに兵二万を率いて荊州北端の諸郡を侵略させ、漢陽の一万戸あまりを略奪して還った。羌族の斂岐が苻堅に叛して、自ら益州刺史を称し、部落の四千家あまりを率いて西のかた張天錫の叛将の李儼を頼った。苻堅は王猛を派遣して隴西太守の姜衡と南安太守の邵羌とともに斂岐を略陽で討伐した。張天錫は歩騎三万を率いて李儼を攻撃し、その大夏と武始の二郡を攻め、これらを破った。天錫の将の掌據もまた李儼の諸軍を葵谷で破ったので、李儼は懼れ、兄の子の李純を送って苻堅に謝罪し、救援を要請した。すぐに王猛が略陽を攻めて突破し、斂岐は白馬に逃げた。苻堅は楊安を派遣して建威の王撫とともに兵を率いて王猛と合流して李儼を救わせた。王猛は邵羌に斂岐を追わせ、王撫に侯和を守らせ、姜衡に白石を守らせた。王猛は楊安とともに枹罕を救い、天錫の将の楊遹に追い付いて枹罕の東で戦ったが、王猛は勝てなかった(別の史料によると天錫の軍が敗れた)。邵羌が斂岐を白馬で捕らえ、これを長安に送った。天錫は兵を退いて帰還した。李儼はなおも城に籠もって出てこないので、王猛は白い服で輿に乗り、数十人を従え、会見を申し入れた。李儼が開門して王猛を招くと、まだ防備が整う前に、将士が付け入って、李儼を捕まえて帰った。苻堅は将軍の彭越を平西将軍・涼州刺史とし、枹罕に鎮させた。李儼を光禄勲・帰安侯とした。
この歳、苻雙が上邽を拠点とし、苻柳が蒲坂を拠点として苻堅に叛し、苻庾は陝城を拠点とし、苻武は安定を拠点として苻雙らに呼応し、共同で長安の攻撃を計画した。苻堅は使者を派遣して彼らを説得したが、それぞれ梨を齧って誓いの証とし、みな苻堅の命令を拒み、兵を用いて自衛した。苻堅は後禁将軍の楊成世と左将軍の毛嵩らを派遣して苻雙と苻武を討伐し、王猛と鄧羌は蒲坂を攻め、楊安と張蚝は陝城を攻めた。楊成世と毛嵩が苻雙と苻武に敗れたので、苻堅はさらに武衛の王鑒と寧朔の呂光らを派遣して中外の精鋭を率いて討伐させ、左衛の苻雅と左禁の竇衝は羽林騎の七千を率いて後続の軍を発した。苻雙と苻武は勝ちに乗じて榆眉に至ったところ、王鑒らがこれを撃ち破り、一万五千人を斬獲した。苻武は安定を棄て、苻雙に随って上邽に逃げたが、王鑒らはこれを攻めた。苻柳が出撃し戦いを挑んだが、王猛は防塁を閉じて応戦しなかった。苻柳は王猛が自分を懼れていると考え、その世子の苻良を留めて薄坂を守らせ、自身は兵二万を率いた。長安は蒲坂から百里あまりの位置にあり、鄧羌は勁騎の七千を率いて夜襲して苻柳を破った。苻柳が軍を引いて帰還すると、王猛はまた兵を総動員して迎撃し、すべての兵を捕虜とし、苻柳は数百騎とともに蒲坂に入った。王鑒らは上邽を攻め、ここを突破し、苻雙と苻武を斬った。王猛はさらに蒲坂を破り、苻柳及びその妻子を斬り、首を長安に届けた。王猛は蒲坂に駐屯し、鄧羌を派遣して王鑒らとともに陝城を攻め落とした。苻庾を長安に送り、これを殺した。

原文

太和四年、晉大司馬桓溫伐慕容暐、次於枋頭。暐眾屢敗、遣使乞師於堅、請割武牢以西之地。堅亦欲與暐連橫、乃遣其將苟池等率步騎二萬救暐。王師尋敗、引歸、池乃還。
是時慕容垂避害奔於堅、王猛言於堅曰、「慕容垂、燕之戚屬、世雄東夏、寬仁惠下、恩結士庶、燕趙之間咸有奉戴之意。觀其才略、權智無方、兼其諸子明毅有幹藝、人之傑也。蛟龍猛獸、非可馴之物、不如除之」。堅曰、「吾方以義致英豪、建不世之功。且其初至、吾告之至誠、今而害之、人將謂我何」。
王師既旋、慕容暐悔割武牢之地、遣使謂堅曰、「頃者割地、行人失辭。有國有家、分災救患、理之常也」。堅大怒、遣王猛與建威梁成・鄧羌率步騎三萬、署慕容垂為冠軍將軍、以為鄉導、攻暐洛州刺史慕容筑於洛陽。暐遣其將慕容臧率精卒十萬、將解筑圍。猛使梁成等以精銳萬人卷甲赴之、大破臧於滎陽。筑懼而請降、猛陳師以受之、留鄧羌鎮金墉、猛振旅而歸。

訓読

太和四年、晉の大司馬の桓溫 慕容暐を伐ち、枋頭に次る。暐の眾 屢々敗れ、使を遣はして師を堅に乞ひ、武牢より以西の地を割かんことを請ふ。堅も亦 暐と連橫せんと欲し、乃ち其の將の苟池らを遣はして步騎二萬を率ゐて暐を救はしむ。王師 尋いで敗れ、引きて歸り、池 乃ち還る。
是の時 慕容垂 害を堅に避け、王猛 堅に言ひて曰く、「慕容垂は、燕の戚屬なり。世々東夏に雄たり、寬仁にして下を惠み、恩を士庶を結び、燕趙の間に咸 奉戴の意有り。其の才略を觀るに、權智は無方にして、兼はせて其の諸子は明毅にして幹藝有り、人の傑なり。蛟龍猛獸は、馴す可きの物に非ず、之を除くに如かず」。堅曰く、「吾 方に義を以て英豪を致し、不世の功を建てんとす。且つ其の初めて至り、吾 之に至誠を告ぐるに、今にして之を害さば、人 將た我を何と謂はん」と。
王師 既に旋するや、慕容暐は武牢の地を割くことを悔ひ、使を遣はして堅を謂ひて曰く、「頃者 地を割くは、行人 辭を失へばなり。國有りて家有らば、災を分けて患を救ふは、理の常なり」と。堅 大いに怒り、王猛を遣はして建威の梁成・鄧羌と與に步騎三萬を率ゐ、慕容垂を署して冠軍將軍と為し、以て鄉導と為し、暐の洛州刺史の慕容筑を洛陽に攻む。暐 其の將の慕容臧を遣はして精卒十萬を率ゐて、將に筑の圍を解かんとす。猛 梁成らをして精銳萬人を以て卷甲して之に赴かしめ、大いに臧を滎陽に破る。筑 懼れて降らんことを請ひ、猛 師を陳べて以て之を受け、鄧羌を留めて金墉に鎮せしめ、猛 振旅して歸る。

現代語訳

太和四年、晋の大司馬の桓温が慕容暐を討伐し、枋頭に駐屯した。慕容暐の軍はしばしば敗れ、(慕容暐は)使者を送って苻堅に援軍を求め、(援軍を受ける代償として)武牢より以西の地を割譲したいと申し入れた。苻堅もまた連横(東西で連携)しようと重い、その将の苟池らに歩騎二万を率いさせて慕容暐を救った。王師(晋軍)がほどなく敗れ、撤退して帰還し、苟池も引き返した。
このとき慕容垂は(本拠地での)危害を避けて苻堅を頼っていた。王猛は苻堅に、「慕容垂は、燕国の君主の一族です。代々東方の英雄であり、寛大で恵みが深く下位者に仁を施し、恩を士庶を結び、燕や趙の地域では彼を奉戴したいという世論があります。その才略を分析するに、智略は際限がなく、しかも子供たちは明晰で決断力があり才能に恵まれ、人傑であります。蛟龍や猛獣は、飼い慣らすことができません、除くのがよいでしょう」と言った。苻堅は、「私は義によって英雄や豪傑を招き、不世出の功績を建てたいと思っている。しかも頼ってきた当初は、至上の誠意を伝えたのに、手のひらを返して殺害すれば、人々は私のことをどう思うだろう」と言った。
王師(晋軍)が引き返すと、慕容暐は武牢の地を(前秦に)割譲したことを後悔し、使者を苻堅に送って、「さきごろ土地を割譲したのは、行人(使者)の失言です。国や家が並び立っていれば、災難を分かちあって危機を救うのは、普通のことでしょう」と言った。苻堅は大いに怒り、王猛を派遣して建威の梁成と鄧羌とともに歩騎三万を率い、慕容垂を冠軍将軍に任命して、郷導(軍の道案内)とし、慕容暐の任命した洛州刺史の慕容筑を洛陽において攻撃した。慕容暐はその将の慕容臧に精兵十万を率いさせ、慕容筑の包囲を解こうとした。王猛は梁成らに精鋭一万人を武装させて投入し、慕容臧を滎陽で破った。慕容筑は懼れて降服を申し出て、王猛は軍を展開してこれを受け入れた。鄧羌を留めて金墉に鎮させ、王猛は軍を引き上げて帰った。

原文

太和五年、又遣猛率楊安・張蚝・鄧羌等十將率步騎六萬伐暐。堅親送猛於霸東、謂曰、「今授卿精兵、委以重任、便可從壺關・上黨出潞川、此捷濟之機、所謂捷雷不及掩耳。吾當躬自率眾以繼卿後、於鄴相見。已敕運漕相繼、但憂賊、不煩後慮也」。猛曰、「臣庸劣孤生、操無豪介、蒙陛下恩榮、內侍帷幄、出總戎旅、藉宗廟之靈、稟陛下神算、殘胡不足平也。願不煩鑾軫、冒犯霜露。臣雖不武、望克不淹時。但願速敕有司、部置鮮卑之所」。堅大悅。
於是進師。楊安攻晉陽。猛攻壺關、執暐上黨太守慕容越、所經郡縣皆降於猛、猛留屯騎校尉苟萇戍壺關。會楊安攻晉陽、為地道、遣張蚝率壯士數百人入其城中、大呼斬關、猛・安遂入晉陽、執暐并州刺史慕容莊。暐遣其太傅慕容評率眾四十餘萬以救二城、評憚猛不敢進、屯於潞川。猛留將軍毛當戍晉陽、進師與評相持。遣游擊郭慶以銳卒五千、夜從間道出評營後、傍山起火、燒其輜重、火見鄴中。暐懼、遣使讓評、催之速戰。猛知評賣水鬻薪、有可乘之會、評又求戰、乃陣於渭原而誓眾曰、「王景略受國厚恩、任兼內外、今與諸君深入賊地、宜各勉進、不可退也。願勠力行間、以報恩顧、受爵明君之朝、慶觴父母之室、不亦美乎」。眾皆勇奮、破釜棄糧、大呼競進。猛望評師之眾也、惡之、謂鄧羌曰、「今日之事、非將軍莫可以捷。成敗之機、在斯一舉。將軍其勉之」。羌曰、「若以司隸見與者、公無以為憂」。猛曰、「此非吾之所及也。必以安定太守・萬戶侯相處」。羌不悅而退。俄而兵交、猛召之、羌寢而弗應。猛馳就許之、羌於是大飲帳中、與張蚝・徐成等跨馬運矛、馳入評軍、出入數四、旁若無人、搴旗斬將、殺傷甚眾。及日中、評眾大敗、俘斬五萬有餘、乘勝追擊、又降斬十萬、於是進師圍鄴。
堅聞之、留李威輔其太子宏守長安、以苻融鎮洛陽、躬率精銳十萬向鄴。七日而至於安陽、過舊閭、引諸耆老語及祖父之事、泫然流涕、乃停信宿。猛潛至安陽迎堅、堅謂之曰、「昔亞夫不出軍迎漢文、將軍何以臨敵而棄眾也」。猛曰、「臣每覽亞夫之事、嘗謂前却人主、以此而為名將、竊未多之。臣奉陛下神算、擊垂亡之虜、若摧枯拉朽、何足慮也。監國沖幼、鑾駕遠臨、脫有不虞、其如宗廟何」。堅遂攻鄴、陷之。慕容暐出奔高陽、堅將郭慶執而送之。堅入鄴宮、閱其名籍、凡郡百五十七、縣一千五百七十九、戶二百四十五萬八千九百六十九、口九百九十八萬七千九百三十五。諸州郡牧守及六夷渠帥盡降於堅。郭慶窮追餘燼、慕容評奔於高句麗、慶追至遼海、句麗縛評送之。堅散暐宮人珍寶以賜將士、論功封賞各有差。以王猛為使持節・都督關東六州諸軍事・車騎大將軍・開府儀同三司・冀州牧、鎮鄴、以郭慶為持節・都督幽州諸軍事・揚武將軍・幽州刺史、鎮薊。
堅自鄴如枋頭、讌諸父老、改枋頭為永昌縣、復之終世。堅至自永昌、行飲至之禮、歌勞止之詩、以饗其羣臣。赦慕容暐及其王公已下、皆徙於長安、封授有差。堅於是行禮於辟雍、祀先師孔子、其太子及公侯卿大夫士之元子、皆束脩釋奠焉。徙關東豪傑及諸雜夷十萬戶於關中、處烏丸雜類於馮翊・北地、丁零翟斌于新安、徙陳留・東阿萬戶以實青州。諸因亂流移、避仇遠徙、欲還舊業者、悉聽之。

訓読

太和五年、又 猛を遣はして楊安・張蚝・鄧羌ら十將步騎六萬を率ゐて暐を伐たしむ。堅は親ら猛を霸東に送りて、謂ひて曰く、「今 卿に精兵を授け、委ぬるに重任を以てす。便ち壺關・上黨より潞川に出づ可し。此れ捷濟の機にして、所謂 捷雷 掩ふに及ばざるなるのみ。吾 當に躬自ら眾を率ゐて以て卿が後繼となるべし。鄴に於て相 見えん。已に敕して運漕 相 繼げば、但だ賊を憂ひ、後慮を煩はざれ」。猛曰く、「臣 庸劣の孤生にして、操は豪介無きも、陛下の恩榮を蒙り、內は帷幄に侍り、出は戎旅を總べ、宗廟の靈を藉り、陛下の神算に稟く。殘胡 平ぐるに足らず。鑾軫し煩はせ、霜露を冒犯せざるを願ふ。臣 武ならず雖もと、克を望みて時を淹せず。但だ願はくは速やかに有司に敕し、部して鮮卑の所に置け」と。堅 大いに悅ぶ。
是に於て師を進む。楊安 晉陽を攻む。猛 壺關を攻め、暐の上黨太守の慕容越を執へ、經る所の郡縣は皆 猛に降り、猛 屯騎校尉の苟萇を留めて壺關を戍らしむ。楊安 晉陽を攻むるに會ひ、地道を為り、張蚝を遣はして壯士數百人を率ゐて其の城中に入らしめ、大呼して關を斬り、猛・安 遂に晉陽に入り、暐の并州刺史の慕容莊を執ふ。暐 其の太傅の慕容評を遣はして眾四十餘萬を率ゐて以て二城を救はしめ、評 猛を憚かりて敢て進まず、潞川に屯す。猛 將軍の毛當を留めて晉陽を戍らしめ、師を進めて評と與に相 持す。游擊の郭慶を遣はして銳卒五千を以て、夜に間道より評の營後に出で、傍山に火を起し、其の輜重を燒き、火は鄴中を見はす。暐 懼れ、使を遣はし評を讓め、之に速戰せんことを催す。猛 評の水を賣り薪を鬻し、乘ず可きの會有るを知る。評 又 戰はんことを求むれば、乃ち渭原に陣して眾に誓ひて曰く、「王景略 國に厚恩を受け、任は內外を兼す。今 諸君と與に深く賊地に入る。宜しく各々勉めて進むべし、退く可からざるなり。願はくは行間に勠力して、以て恩顧に報ひ、爵を明君の朝に受け、觴を父母の室に慶さば、亦た美ならざるや」と。眾 皆 勇奮し、釜を破りて糧を棄て、大呼して競ひて進む。猛 評の師の眾きを望るや、之を惡み、鄧羌に謂ひて曰く、「今日の事は、將軍に非ずんば以て捷つ可きこと莫し。成敗の機は、斯の一舉に在り。將軍 其れ之に勉めんか」と。羌曰く、「若し司隸を以て與へらるれば、公 以て憂と為す無かれ」と。猛曰く、「此れ吾の及ぶ所に非ざるなり。必ず安定太守・萬戶侯を以て相 處さん」と。羌 悅ばずして退く。俄かにして兵 交し、猛 之を召すに、羌 寢ねて應ぜず。猛 馳せて就きて之を許すや、羌 是に於て大いに帳中に飲み、張蚝・徐成らと與に馬に跨りて矛を運らせ、馳せて評が軍に入り、出入すること數四、旁若無人にして、旗を搴りて將を斬り、殺傷すること甚だ眾し。日中に及び、評の眾 大いに敗れ、俘斬するもの五萬有餘なり。勝に乘じて追擊し、又 降斬するもの十萬にして、是に於て師を進めて鄴を圍む。
堅 之を聞き、李威を留めて其の太子宏を輔けて長安を守らしめ、苻融を以て洛陽に鎮せしめ、躬ら精銳十萬を率ゐて鄴に向ふ。七日にして安陽に至り、舊閭を過り、諸の耆老を引きて語りて祖父の事に及び、泫然として流涕し、乃ち信宿に停す。猛 潛かに安陽に至りて堅を迎ふ。堅 之に謂ひて曰く、「昔 亞夫は軍を出だして漢文を迎へず、將軍 何を以て敵に臨みて眾を棄つるや」と。猛曰く、「臣 每に亞夫の事を覽ずるに、嘗て謂ふらく前に人主を却け、此を以て名將と為すは、竊かに未だ之を多とせず。臣 陛下の神算を奉り、垂亡の虜を擊つこと、枯を摧し朽を拉すが若し。何ぞ慮るに足るや。監國は沖幼なるとも、鑾駕 遠くに臨み、脫して虞れざること有り、其れ宗廟を如何せん」と。堅 遂に鄴を攻め、之を陷す。慕容暐 出でて高陽に奔り、堅の將の郭慶 執へて之を送る。堅 鄴宮に入り、其の名籍を閱するに、凡そ郡は百五十七、縣は一千五百七十九、戶は二百四十五萬八千九百六十九、口は九百九十八萬七千九百三十五なり。諸々の州郡の牧守及び六夷の渠帥 盡く堅に降る。郭慶 餘燼に窮追し、慕容評 高句麗に奔り、慶 追ひて遼海に至り、句麗 評を縛りて之を送る。堅 暐の宮人の珍寶を散じて以て將士に賜ひ、論功封賞は各々差有り。王猛を以て使持節・都督關東六州諸軍事・車騎大將軍・開府儀同三司・冀州牧と為し、鄴に鎮せしめ、郭慶を以て持節・都督幽州諸軍事・揚武將軍・幽州刺史と為し、薊に鎮せしむ。
堅 鄴より枋頭に如き、諸の父老と讌し、枋頭を改めて永昌縣と為し、之を終世に復す。堅 永昌より至り、飲至の禮を行ひ、勞止の詩を歌ひ、以て其の羣臣を饗す。慕容暐及び其の王公より已下を赦し、皆 長安に徙し、封授は差有り。堅 是に於て禮を辟雍に行ひ、先師と孔子と祀り、其の太子及(と)公侯卿大夫士の元子をして、皆 釋奠を束脩せしむ。關東の豪傑及(と)諸々の雜夷の十萬戶を關中に徙し、烏丸の雜類を馮翊・北地に、丁零の翟斌を新安に處らしめ、陳留・東阿の萬戶を以て青州を實たす。諸々の亂に因り流移し、仇を避けて遠徙し、舊業に還らんと欲する者は、悉く之を聽す。

現代語訳

太和五年、また王猛を派遣して楊安・張蚝・鄧羌ら十将と歩騎六万を率いて慕容暐を討伐させた。苻堅はみずから王猛を霸東で見送り、彼に向けて、「今回あなたに精兵を授け、重要な任務を委ねる。壺関・上党から潞川に出るように。これは確実な勝機であり、いわゆる迅雷から(耳目を)覆えないと言うものだ。私はみずから兵を率いてあなたの後続の軍となる。鄴で再会しよう。すでに兵糧輸送を命じてあるから、ただ賊軍の心配だけをして、背後を懸念する必要はない」と言った。王猛は、「私は無能で平凡な人間で、宰相や豪傑の素質はないが、陛下の恩寵をこうむり、内では軍事機密を預かり、外では軍の指揮官となり、宗廟の霊にたより、陛下の神算に受けました。胡族の残党は平定するまでもありません。天子の御車を煩わせ、霜や露に身をさらして頂きたくありません。私は勇将ではありませんが、ほどなく勝利をお目に掛けます。どうぞ担当官に指示を出し、鮮卑の地の統治官を任命して下さい」と言った。苻堅は大いに悦んだ。
かくして(王猛は)進軍した。楊安が晋陽を攻めた。王猛は壺関を攻め、慕容暐の任命した上党太守の慕容越を捕らえ、通過した郡県はすべて王猛に降った。王猛は屯騎校尉の苟萇を留めて壺関を守らせた。楊安が晋陽を攻めるとき、地下の道を掘り、張蚝に壮士数百人を率いて城内に侵入させ、大声をあげて城門を破った。王猛と楊安はかくして晋陽に入り、慕容暐の并州刺史の慕容荘を捕らえた。慕容暐はその太傅の慕容評に四十万人あまりを率いて二城を救援させたが、慕容評は王猛を憚って進もうとせず、潞川に駐屯した。王猛は将軍の毛当を留めて晋陽を守らせ、軍を進めて慕容評と対峙した。游撃の郭慶に精鋭五千を与え、夜に間道から慕容評の軍営の後ろに出没させた。周囲の山で火を起こし、敵軍の輜重を焼き、火が鄴の城内を照らした。慕容暐は懼れ、使者を送って慕容評を糾弾し、速やかに戦えと催促した。王猛は慕容評が水や薪を売っているので、乗じる隙があると考えた。慕容評もまた決戦を望んでいた。(王猛は)渭原に陣を布いて兵たちと盟誓し、「この王景略(王猛)は国から厚い恩を受け、権限において内外を兼務している。いま諸君とともに深く賊の土地に踏み込んだ。みな努めて進み、退いてはならない。戦場で力を尽くして、恩顧に報い、明君の朝廷で爵位を受け、父母の家で祝いの觴を交わすのは、素晴らしいことではないか」と言った。兵士たちは勇んで奮い、釜を壊して食糧を捨て、大声で叫んで競って進んだ。王猛は慕容評の兵数が多いことを望みみて、これを警戒し、鄧羌に、「今日の戦いは、将軍でなければ勝てない。勝敗の分かれ目は、この戦い次第だ。将軍には活躍を期待する」と言った。鄧羌は、「司隷校尉にしてくれるなら、あなたの心配を取り除いてやろう」と言った。王猛は、「それは私には決められない。必ずや安定太守・萬戸侯を約束しよう」と言った。鄧羌は不快そうに退いた。ほどなく開戦し、王猛が鄧羌を召したが、鄧羌は横になったまま応じなかった。王猛は彼のもとに駆けつけて(司隷校尉を)約束したところ、鄧羌は幕営のなかで大酒を飲み、張蚝や徐成らとともに馬に跨がって矛を振り回し、馳せて慕容評の軍に突入し、出入りすること四たびで、敵兵を物ともせず、旗を抜き取って将軍を斬り、大量に殺傷した。日中に及び、慕容評の軍は大いに敗走し、捕らえて斬ったものは五万人あまりであった。勝ちに乗じて追撃し、さらに降服させ斬ったものは十万人であった。そのまま進軍して鄴を包囲した。
苻堅はこれを聞き、李威を留めて太子の苻宏の輔佐として長安を守らせ、苻融を洛陽に鎮させて、自ら精鋭十万人を率いて鄴に向かった。七日で安陽に到着し、郷里を通過すると、その地で老人を招くと話題が祖父のことに及び、はらはらと落涙して、そこに二泊した。王猛はひそかに安陽を訪れて苻堅を迎えた。苻堅は彼に、「むかし周亜夫は軍を出して前漢の文帝を出迎えなかったが、将軍はなぜ敵前の軍から離脱したのか」と言った。王猛は、「私はいつも周亜夫のことを読むたび、かつて彼は君主(文帝)を(軍営で)特別扱いせず、この振る舞いによって名将と認定されましたが、私は(周亜夫が)正しいとは思いません。私は陛下の神算を奉り、滅亡寸前の敵軍を攻撃しており、朽ち木を破壊するようなものです。どうして厄介な事業でしょうか。監国(苻宏)は幼少ですが、天子の車馬を遠く臨み、天子(苻堅)が不在でも(長安は)揺らぎません。(敵軍が前秦の)宗廟を揺るがすことなどありましょうか」と言った。苻堅はかくて鄴を攻め、ここを陥落させた。慕容暐は高陽に脱出したが、苻堅の将の郭慶が(慕容暐を)捕らえて送ってきた。苻堅は鄴の宮殿に入り、その戸籍を点検すると、合計で郡は一百五十七、県は一千五百七十九、戸数は二百四十五万八千九百六十九、口数は九百九十八万七千九百三十五であった。各地の州郡の牧守及び六夷の首長はすべて苻堅に降服した。郭慶は残党を駆逐し、慕容評は高句麗に逃げた。郭慶は追って遼海に至り、高句麗は慕容評を縛って送ってきた。苻堅は慕容氏の宮人の珍宝をばらまいて将士に賜わり、論功と封賞はそれぞれ差等があった。王猛を使持節・都督関東六州諸軍事・車騎大将軍・開府儀同三司・冀州牧とし、鄴に鎮させ、郭慶を持節・都督幽州諸軍事・揚武将軍・幽州刺史とし、薊に鎮させた。
苻堅が鄴から枋頭に行き、その地の父老と酒盛りし、枋頭を改めて永昌県とし、永久に無税とした。苻堅は永昌から至り、飲至の礼を行い、労止の詩を歌い、群臣と饗宴した。慕容暐及びその王公より以下を赦し、みな長安に移住させ、与えた官爵は差等があった。苻堅はここにおいて礼を辟雍で行い、先師と孔子と祭り、自国の太子と公侯や卿大夫士の嫡子に、みな釋奠(の礼)を修めさせた。関東の豪傑と各種の胡族の十万戸を関中に移住させ、烏丸のさまざまな種族を馮翊・北地に、丁零の翟斌を新安に居住させた。陳留と東阿の一万戸を移して青州を満たした。戦乱のせいで流浪し、仇敵を避けて遠くに移っているが、本籍地で生業を営みたいものは、すべてを許可した。

原文

晉叛臣袁瑾固守壽春、為大司馬桓溫所圍、遣使請救於堅。堅遣王鑒・張蚝率步騎二萬救之、鑒據洛澗、蚝屯八公山。桓溫遣諸將夜襲鑒・蚝、敗之、鑒・蚝屯慎城。
初、仇池氐楊世以地降於堅、堅署為平南將軍・秦州刺史・仇池公。既而歸順於晉。世死、子纂代立、遂受天子爵命而絕於堅。世弟統驍武得眾、起兵武都、與纂分爭。堅遣其將苻雅・楊安與益州刺史王統率步騎七萬、先取仇池、1.進(圍)〔圖〕寧益。雅等次于鷲陜、纂率眾五萬距雅。晉梁州刺史楊亮遣督護郭寶率騎千餘救之、戰於陜中、為雅等所敗、纂收眾奔還。雅進攻仇池、楊統帥武都之眾降於雅。纂將楊他遣子碩密降於雅、請為內應。纂懼、面縛出降。雅釋其縛、送之長安。以楊統為平遠將軍・南秦州刺史、加楊安都督、鎮仇池。
先是、王猛獲張天錫將敦煌陰據及甲士五千、堅既東平六州、西擒楊纂、欲以德懷遠、且跨威河右、至是悉送所獲還涼州。天錫懼而遣使謝罪稱藩、堅大悅、即署天錫為使持節・散騎常侍・都督河右諸軍事・驃騎大將軍・開府儀同三司・涼州刺史・西域都護・西平公。
吐谷渾碎奚以楊纂既降、懼而遣使送馬五千匹・金銀五百斤。堅拜2.(纂)〔奚〕安遠將軍・漒川侯。
堅嘗如鄴、狩于西山、旬餘、樂而忘返。伶人王洛叩馬諫曰、「臣聞、千金之子坐不垂堂、萬乘之主行不履危。故文帝馳車、袁公止轡。孝武好田、相如獻規。陛下為百姓父母、蒼生所繫、何可盤于游田、以玷聖德。若禍起須臾、變在不測者、其如宗廟何。其如太后何」。堅曰、「善。昔文公悟愆於虞人、朕聞罪於王洛、吾過也」。自是遂不復獵。

1.中華書局本の校勘記に基づき、「圍」を「圖」に改める。 2.中華書局本の校勘記に基づき、「纂」を「奚」に改める。

訓読

晉の叛臣たる袁瑾 壽春を固守し、大司馬の桓溫 圍むと所と為り、使を遣はして救ひを堅に請ふ。堅 王鑒・張蚝 步騎二萬を率ゐて之を救はしめ、鑒は洛澗に據り、蚝は八公山に屯す。桓溫 諸將を遣はして夜に鑒・蚝を襲ひ、之を敗り、鑒・蚝 慎城に屯す。
初め、仇池氐の楊世 地を以て堅に降り、堅 署して平南將軍・秦州刺史・仇池公と為す。既にして晉に歸順す。世 死するや、子の纂 代はりて立ち、遂に天子の爵命を受けて堅と絕つ。世が弟の統 驍武にして眾を得、兵を武都に起こし、纂と與に分爭す。堅 其の將の苻雅・楊安を遣はして益州刺史の王統と與に步騎七萬を率ゐて、先に仇池を取らしめ、進みて寧益を圖る。雅ら鷲陜に次り、纂 眾五萬を率ゐて雅を距む。晉の梁州刺史の楊亮 督護の郭寶を遣はして騎千餘を率はして之を救はし、陜中に戰ひ、雅らの敗る所と為り、纂 眾を收めて奔還す。雅 進みて仇池に攻め、楊統 武都の眾を帥を雅に降る。纂の將の楊他 子の碩密を遣はして雅に降り、內應を為すを請ふ。纂 懼れ、面縛して出でて降る。雅 其の縛を釋き、之を長安に送る。楊統を以て平遠將軍・南秦州刺史と為し、楊安都督を加へ、仇池に鎮せしむ。
是より先、王猛 張天錫の將の敦煌の陰據及び甲士五千を獲ふ。堅 既に東のかた六州を平らげ、西のかた楊纂を擒らへ、德を以て遠を懷けんと欲し、且つ威を河右に跨せば、是に至りて悉く獲ふる所を送りて涼州に還す。天錫 懼れて使を遣はして謝罪して稱藩し、堅 大いに悅ぶ。即ち天錫を署して使持節・散騎常侍・都督河右諸軍事・驃騎大將軍・開府儀同三司・涼州刺史・西域都護・西平公と為す。
吐谷渾の碎奚 楊纂の既に降るを以て、懼れて使を遣はして馬五千匹・金銀五百斤を送る。堅 奚に安遠將軍・漒川侯を拜す。
堅 嘗て鄴に如き、西山に狩りて、旬餘に、樂しみて返ることを忘る。伶人の王洛 馬を叩きて諫めて曰く、「臣 聞くらく、千金の子は坐して堂に垂せず、萬乘の主は行きて危を履まず。故に文帝 車を馳すれば、袁公 轡を止む。孝武 田を好めば、相如 規を獻ず。陛下は百姓の父母にして、蒼生 繫る所為り。何ぞ游田に盤して、以て聖德を玷(か)く可きか。若し禍 起ること須臾なれば、變は測あらざる者に在り。其れ宗廟を如何せん、其れ太后を如何せん」と。堅曰く、「善し。昔 文公 愆を虞人に悟り、朕 罪を王洛を聞く。吾が過なり」と。是により遂に復た獵せず。

現代語訳

晋の叛臣である袁瑾が寿春を固く守り、大司馬の桓温に包囲された。(袁瑾は)使者を送って苻堅に救いを求めた。苻堅は王鑒・張蚝に歩騎二万を率いてこれを救援させ、王鑒は洛澗を拠点とし、張蚝は八公山に駐屯した。桓温は諸将を派遣して夜に王鑒と張蚝を襲撃して、これを破り、王鑒と張蚝は慎城に駐屯した。
これよりさき、仇池の氐族の楊世は領地をあげて苻堅に降服し、苻堅は(楊世を)平南将軍・秦州刺史・仇池公に任命した。のちに楊世が晋に帰順した。楊世が死ぬと、子の楊纂が代わりに立ち、(晋の)天子の爵命を受けて苻堅と絶交した。楊世の弟の楊統は勇ましく武力があって軍を掌握し、武都で挙兵し、楊纂と分裂して争った。苻堅はその将の苻雅と楊安を派遣して益州刺史の王統とともに歩騎七万を率い、先に仇池を攻略させて、さらに進んで寧州と益州を狙った。苻雅らが鷲陜に停泊すると、楊纂は兵五万を率いて苻雅を防ぎ止めた。晋の梁州刺史の楊亮は督護の郭宝を派遣して騎馬の千あまりを率いてこれを救援し、陜中で戦い、苻雅らに敗れた。楊纂は兵を収容して逃げ還った。苻雅は進んで仇池を攻め、楊統は武都の兵を連れて苻雅に降服した。楊纂の将の楊他は子の楊碩密を使者にして苻雅に降服し、内応をしたいと申し出た。楊纂は(内応者が出ることを)懼れ、面縛して出頭し降服した。楊雅はその縛めをほどき、彼を長安に送った。楊統を平遠将軍・南秦州刺史とし、楊安都督を加え、仇池に鎮させた。
これより先、王猛は張天錫の将の敦煌の陰據及び甲士五千を捕らえた。苻堅は東方では六州を平定し、西方では楊纂を捕らえており、徳によって遠方を懐けようと思い、しかも権勢が河右を覆っていたので、捕らえたものをすべて涼州に送り返した。天錫は懼れて使者を派遣し謝罪して藩を称し、苻堅は大いに悦んだ。そこで天錫を任命して使持節・散騎常侍・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史・西域都護・西平公とした。
吐谷渾の碎奚は楊纂がすでに降服したので、懼れて使者を送って馬五千匹と金銀五百斤をよこした。苻堅は碎奚に安遠将軍・漒川侯を拝命させた。
苻堅はかつて鄴に行き、西山で狩りをして、十日以上も、楽しんで帰ることを忘れた。伶人の王洛が馬を叩いて諫め、「私が聞きますに、千金の子は(瓦が落ちてくる)堂上の隅に座らず、万乗の主は危険なことをしません。ゆえに(前漢の)文帝が馬車を飛ばすと、袁公(袁盎)がくつわを止めました。(前漢の)武帝が田猟を好むと、司馬相如は教訓を(賦で)献じました。陛下は百姓の父母であり、民草の拠りどころです。どうして狩猟にあけくれ、聖徳を傷つけるのですか。もし禍いが突然起これば、それは不測の事態を招きます。さすれば宗廟や太后はどうなるのですか」と言った。苻堅は、「言う通りだ。むかし文公は虞人をみて過ちを悟ったが、朕は罪を王洛から聞けた。私が間違っていた」と言った。これ以降は二度と狩りをしなかった。

原文

堅聞桓溫廢海西公也、謂羣臣曰、「溫前敗灞上、後敗枋頭、十五年間、再傾國師。六十歲公舉動如此、不能思愆免退、以謝百姓、方廢君以自悅、將如四海何。諺云『怒其室而作色於父』者、其桓溫之謂乎」。
堅以境內旱、課百姓區種。懼歲不登、省節穀帛之費、太官・後宮減常度二等、百僚之秩以次降之。復魏晉士籍、使役有常聞、諸非正道、典學一皆禁之。堅臨太學、考學生經義、上第擢敘者八十三人。自永嘉之亂、庠序無聞、及堅之僭、頗留心儒學、王猛整齊風俗、政理稱舉、學校漸興。關隴清晏、百姓豐樂、自長安至于諸州、皆夾路樹槐柳、二十里一亭、四十里一驛、旅行者取給於途、工商貿販於道。百姓歌之曰、「長安大街、夾樹楊槐。下走朱輪、上有鸞栖。英彥雲集、誨我萌黎」。
是歲、有大風從西南來、俄而晦冥、恒星皆見、又有赤星見於西南。太史令魏延言於堅曰、「於占西南國亡、明年必當平蜀漢」。堅大悅、命秦梁密嚴戎備。乃以王猛為丞相、以苻融為鎮東大將軍、代猛為冀州牧。融將發、堅祖於霸東、奏樂賦詩。堅母苟氏以融少子、甚愛之、比發、三至灞上、其夕又竊如融所、內外莫知。是夜、堅寢於前殿、魏延上言、「天市南門屏內后妃星失明、左右閽寺不見、后妃移動之象」。堅推問知之、驚曰、「天道與人何其不遠」。遂重星官。王猛至長安、加都督中外諸軍事、猛辭讓再三、堅不許。
其後天鼓鳴、有彗星出於尾箕、長十餘丈、名蚩尤旗、經太微、掃東井、自夏及秋冬不滅。太史令張孟言於堅曰、「彗起尾箕、而掃東井、此燕滅秦之象」。因勸堅誅慕容暐及其子弟。堅不納、更以暐為尚書、垂為京兆尹、沖為平陽太守。苻融聞之、上疏於堅曰、「臣聞、東胡在燕、曆數彌久、逮于石亂、遂據華夏、跨有六州、南面稱帝。陛下爰命六師、大舉征討、勞卒頻年、勤而後獲、本非慕義懷德歸化。而今父子兄弟列官滿朝、執權履職、勢傾勞舊、陛下親而幸之。臣愚以為猛獸不可養、狼子野心。往年星異、災起於燕、願少留意、以思天戒。臣據可言之地、不容默已。詩曰、『兄弟急難』、『朋友好合』。昔劉向以肺腑之親、尚能極言、況於臣乎」。堅報之曰、「汝為德未充而懷是非、立善未稱而名過其實。詩云、『德輶如毛、人鮮克舉。』君子處高、戒懼傾敗、可不務乎。今四海事曠、兆庶未寧、黎元應撫、夷狄應和、方將混六合以一家、同有形於赤子、汝其息之、勿懷耿介。夫天道助順、修德則禳災。苟求諸己、何懼外患焉」。

訓読

堅 桓溫 海西公を廢すと聞くや、羣臣に謂ひて曰く、「溫 前に灞上に敗れ、後に枋頭に敗る。十五年の間に、再び國師を傾く。六十歲の公 舉動は此の如く、愆を思ひて免退し、以て百姓に謝する能はず。方に君を廢して以て自ら悅ばせ、將た四海を如何せん。諺に云く『其の室に怒りて色を父に作す』とは、其れ桓溫の謂なるか」と。
堅 境內の旱なるを以て、百姓に區種を課す。歲の登らざるを懼れ、穀帛の費を省節し、太官・後宮 常度より減ずること二等、百僚の秩 次を以て之に降す。魏晉の士籍を復し、役をして常聞有らしむ。諸々の正道に非ざるは、典學に一に皆 之を禁ぜしむ。堅 太學に臨み、學生の經義を考し、上第もて擢敘せらる者は八十三人なり。永嘉の亂より、庠序 聞く無きも、堅の僭するに及び、頗る心を儒學を留め、王猛 風俗を整齊し、政理は舉を稱し、學校は漸く興る。關隴 清晏にして、百姓 豐樂たり。長安より諸州に至るまで、皆 路を夾みて槐柳を樹え、二十里ごとに一亭、四十里ごとに一驛あり、旅行者 途に取給し、工商 道に貿販す。百姓 之を歌ひて曰く、「長安は大街、楊槐を夾樹す。下は朱輪を走らせ、上は鸞栖有り。英彥 雲集し、我が萌黎を誨ふ」と。
是の歲、大風 西南より來る有り、俄にして晦冥なり。恒星 皆 見え、又 赤星 西南に見はる有り。太史令の魏延 堅に言ひて曰く、「占に於て西南の國 亡ぶ。明年 必ず當に蜀漢を平らぐべし」と。堅 大いに悅び、秦梁に命じて密かに戎備を嚴せしむ。乃ち王猛を以て丞相と為し、苻融を以て鎮東大將軍と為し、猛に代へて冀州牧と為す。融 將に發せんとするに、堅 霸東に祖し、樂を奏し詩を賦す。堅の母の苟氏 融の少子なるを以て、甚だ之を愛す。發する比、三たび灞上に至り、其の夕に又 竊かに融の所に如くも、內外 知る莫し。是の夜、堅 前殿に寢ね、魏延 上言すらく、「天市 南門の屏內の后妃星 明を失ひ、左右の閽寺 見れず。后妃 移動するの象なり」。堅 推問して之を知り、驚きて曰く、「天道 人と何ぞ其れ遠からざる」と。遂に星官を重んず。王猛 長安に至り、都督中外諸軍事を加ふ。猛 辭讓すること再三なるも、堅 許さず。
其の後 天鼓 鳴り、彗星 尾箕に出づる有り、長さは十餘丈にして、蚩尤旗と名いひ、太微を經て、東井を掃き、夏より秋冬に及ぶまで滅せず。太史令の張孟 堅に言ひて曰く、「彗の尾箕に起こりて、東井を掃く。此れ燕 秦を滅するの象なり」と。因りて堅に慕容暐及び其の子弟を誅せんことを勸む。堅 納れず、更めて暐を以て尚書と為し、垂を京兆尹と為し、沖を平陽太守と為す。苻融 之を聞き、堅に上疏して曰く、「臣 聞くらく、東胡に燕在り、曆數は彌々久し。石の亂に逮び、遂に華夏に據り、六州を跨有し、南面して帝を稱す。陛下 爰に六師を命じ、大舉して征討し、卒を勞すること頻年、勤めて後に獲れば、本より義を慕ひて德を懷きて歸化するに非ず。而れども今 父子兄弟 官に列して朝を滿たし、權を執りて職を履み、勢は勞舊を傾け、陛下 親しみて之を幸す。臣愚 以為へらく猛獸は養ふ可からず、狼子は野心あり。往年の星の異、災 は燕より起らん。願はくは少しく意に留めて、以て天戒を思へ。臣 言ふ可きの地に據りて、默すること容れざるのみ。詩に曰く、『兄弟は急難す』、『朋友は好合す』と〔一〕。昔 劉向 肺腑の親を以て、尚ほ能く極言す、況んや臣に於いてをや」と。堅 之に報いて曰く、「汝 德を為して未だ充たざるに是非を懷き、善を立てて未だ稱せずして名は其の實を過ぐ。詩に云はく、『德の輶(かる)きこと毛の如きも、人 克く舉ぐること鮮なし』と。君子 高に處れば、傾敗するを戒懼す、務ざる可からざるか。今 四海の事は曠く、兆庶は未だ寧ならず、黎元 應に撫すべし、夷狄 應に和すべし。方に將に六合を混ぜて以て一家とせんとし、有形を赤子に同じうす。汝 其れ之を息め、耿介を懷く勿れ。夫れ天道は順を助け、德を修むれば則ち災を禳(はら)はん。苟も諸を己に求むれば、何ぞ外患を懼れんか」と。

〔一〕『毛詩』小雅 鹿鳴之什 常棣に、「脊令在原、兄弟急難。每有良朋、況也永歎。……妻子好合、如鼓瑟琴」とあり字句に異同がある。
〔二〕『毛詩』大雅 蕩之什 烝民に、「德輶如毛、民鮮克舉之」とあり出典。

現代語訳

苻堅は桓温が海西公を廃位したと聞くと、群臣に、「桓温はかつて灞上で敗北し、のちに枋頭でも敗北した。十五年のうちに、二度も国家の軍を傾けた。六十歳にして彼の挙動はこのありさまなので、過失を反省してを身を引き、百姓に謝ることができない。君主を廃位して自分を悦ばせる男に、天下を支配できようか。諺にいう、『自分の妻に怒って父に刃向かう』とは、桓温のことを言ったものだ」と言った。
苻堅は領内で旱魃が起きたので、百姓に耕地を区切って種を植えさせた。秋の収穫がないことを警戒し、穀帛の支出を節約し、太官や後宮への支給額を二等減らし、百僚も秩禄を序列によって減らした。また魏晋期の士籍を作り直し、労役の負担を適正化した。正しい道でない学問を、取り締まって禁止にした。苻堅は太学に出向き、学生の経学の水準を試験し、成績上位で抜擢されたものが八十三人いた。永嘉の乱より、地方の学校が廃れたが、苻堅が僭号すると、儒学に心血を注ぎ、王猛が風俗を整備し、国家として学問を称揚し、学校教育が徐々に盛んになった。関隴の地域は清らかで安寧で、百姓は豊かな生活を楽しんだ。長安から諸州に至るまで、みな道路の両側に槐柳を植え、二十里ごとに一亭、四十里ごとに一駅を設けたので、旅行者はそこで支給を受け、工人や商人は道沿いで商売をした。百姓はこの様子を歌い、「長安の街は大きく、楊槐が道を挟んで植えられた。下には朱輪(貴人の車)を走らせ、上には鸞栖(鳳皇の巣)がある。英俊が雲のように集まり、わが民草を教化している」と言った。
この年、強風が西南から起こり、にわかに暗くなった。恒星がすべて見え、また赤星が西南に出現した。太史令の魏延は苻堅に、「占いによると西南の国が亡びます。来年はきっと蜀漢を平定できます」と言った。苻堅は大いに悦び、秦梁に命じて軍備を整えさせた。王猛を丞相とし、苻融を鎮東大将軍とし、王猛に代えて冀州牧とした。苻融の出発にあたり、苻堅は霸東で送別の宴をひらき、音楽を奏でて詩を賦した。苻堅の母の苟氏は苻融が末子なので、とても可愛がった。出発のとき、三たび灞上にゆき、その夕方にも苻融のところに行ったが、内外に知るものはなかった。同日夜、苻堅は前殿で寝ていると、魏延が上言し、「天市の南門屏内で后妃の星が明るさを失い、左右の宦官もいません。后妃が移動している形象です」と言った。苻堅が調査してこれを知り、驚いて、「天道と人はこれほど密接なのか」と言った。こうして星官を重んじるようになった。王猛が長安に至り、都督中外諸軍事を加えた。王猛は三たび辞譲したが、苻堅は許さなかった。
その後に天鼓(雷のような音)が鳴り、彗星が尾箕(尾宿と箕宿)から出現し、長さは十丈あまりで、蚩尤旗と呼び、太微を通って、東井にかかり、夏から秋冬に及ぶまで消滅しなかった。太史令の張孟が苻堅に、「彗星が尾箕に出現し、東井にかかりました。これは燕が秦を滅ぼす形象です」と言った。そこで苻堅に慕容暐及びその子弟を誅伐せよと勧めた。苻堅は聞き入れず、改めて慕容暐を尚書とし、慕容垂を京兆尹とし、慕容沖を平陽太守とした。苻融はこれを聞き、苻堅に上疏して、「私が聞きますに、東胡に燕があり、暦数はいよいよ長く、石氏の乱に及び、ついに中華に拠点を得て、六州にまたがって領有し、南面して帝を称しました。陛下は六師に任命し、大挙して(燕国を)征討し、連年にわたり兵を費やし、力で併合したのであり、もとより義を慕い徳に懐いて帰順したのではありません。しかし今その(慕容氏の)父子や兄弟を官僚にして朝廷を満たし、権力を与えて職務につけ、彼らの権勢が(前秦の)旧来の功臣を圧倒しているが、陛下は親しみ厚遇しています。私が思いますに猛獣(虎)は飼い慣らせず、狼には野心があります。先年の天体異常は、災難が燕から起こるというものでした。どうか少しく意に留め、天に戒めに従いなさい。私は発言せずにはおれず、沈黙を守れませんでした。詩に、『兄弟は迫った危機を救う』、『朋友は心が通じあう』とあります。むかし劉向は皇族の一員として、きつく諫言をしました、ましてや私ならば尚更です」と言った。苻堅はこれに答えて、「お前は徳を実行せずに是非を論じ、善を立てて称さずに名が実を過ぎている。詩に、『徳は毛のように軽いが、これを実行できる人は少ない』という。君子が高みに居れば、傾覆することを戒め懼れている。どうして警戒を怠っていようか。いま四海の政治は完成せず、万民は安寧になっていない、民草は慰撫すべきで、夷狄は和睦すべきだ。六合を混ぜて一家とし、万物を赤子と見なしている。お前は発言を慎み、余計な心配をしなくてよい。そもそも天道は順なるものを助ける、徳を修めれば災いを払うだろう。これを自分に求めるなら、どうして外患を懼れるだろう」と言った。

原文

晉梁州刺史楊亮遣子廣襲仇池、與堅將楊安戰、廣敗績、晉沮水諸戍皆委城奔潰、亮懼而退守磬險、安遂進寇漢川。堅遣王統・朱彤率卒二萬為前鋒寇蜀、前禁將軍毛當・鷹揚將軍徐成率步騎三萬入自劍閣。楊亮率巴獠萬餘拒之、戰于青谷、王師不利、亮奔固西城。彤乘勝陷漢中、徐成又攻二劍、克之、楊安進據梓潼。晉奮威將軍・西蠻校尉周虓降于彤。揚武將軍・益州刺史周仲孫勒兵距彤等于緜竹、聞堅將毛當將至成都、仲孫率騎五千奔於南中。安・當進兵、遂陷益州。於是西南夷邛莋・夜郎等皆歸之。堅以安為右大將軍・益州牧、鎮成都。毛當為鎮西將軍・梁州刺史、鎮漢中。姚萇為寧州刺史・領西蠻校尉。王統為南秦州刺史、鎮仇池。
蜀人張育・楊光等起兵、與巴獠相應、以叛於堅。晉益州刺史竺瑤・威遠將軍桓石虔率眾三萬據墊江。育乃自號蜀王、遣使歸順、與巴獠酋帥張重・尹萬等五萬餘人進圍成都。尋而育與萬爭權、舉兵相持、堅遣鄧羌與楊安等擊敗之、育・光退屯緜竹。安又敗張重・尹萬于成都南、重死之、及首級二萬三千。鄧羌復擊張育・楊光于緜竹、皆害之。桓石虔敗姚萇於墊江、萇退據五城、石虔與竺瑤移屯巴東。
時有人於堅明光殿大呼謂堅曰、「甲申乙酉、魚羊食人、悲哉無復遺」。堅命執之、俄而不見。祕書監朱彤等因請誅鮮卑、堅不從。遣使巡行四方、觀風俗、問政道、明黜陟、恤孤獨不能自存者。以安車蒲輪徵隱士樂陵1.王(勸)〔歡〕為國子祭酒。及王猛卒、堅置聽訟觀於未央之南。禁老・莊・圖讖之學。中外四禁・二衞・四軍長上將士、皆令修學。課後宮、置典學、立內司、以授于掖庭、選閹人及女隸有聰識者署博士以授經。

1.中華書局本の校勘記に従い、「勸」を「歡」に改める。『晋書』儒林 王歡伝も「歡」につくる。

訓読

晉の梁州刺史の楊亮 子の廣を遣はして仇池を襲はしめ、堅が將の楊安と戰ふ。廣 敗績し、晉の沮水の諸戍 皆 城を委てて奔潰し、亮 懼れて退きて磬險を守り、安 遂に進みて漢川を寇す。堅 王統・朱彤を遣はして卒二萬を率ゐて前鋒を為して蜀を寇せしめ、前禁將軍の毛當・鷹揚將軍の徐成 步騎三萬を率ゐて劍閣より入る。楊亮 巴獠の萬餘を率ゐて之を拒む。青谷に戰ひ、王師 利あらず、亮 奔りて西城を固む。彤 勝に乘じて漢中を陷し、徐成 又 二劍を攻め、之に克ち、楊安 進みて梓潼に據る。晉の奮威將軍・西蠻校尉の周虓 彤に降る。揚武將軍・益州刺史の周仲孫 兵を勒して彤らを緜竹に距ぎ、堅の將の毛當 將に成都に至らんとするを聞き、仲孫 騎五千を率ゐて南中に奔る。安・當 兵を進め、遂に益州を陷す。是に於て西南夷の邛莋・夜郎ら皆 之を歸す。堅 安を以て右大將軍・益州牧と為し、成都に鎮せしむ。毛當もて鎮西將軍・梁州刺史と為し、漢中に鎮す。姚萇もて寧州刺史・領西蠻校尉と為す。王統もて南秦州刺史と為し、仇池に鎮せしむ。
蜀人の張育・楊光ら兵を起こし、巴獠と與に相 應じ、以て堅に叛す。晉の益州刺史の竺瑤・威遠將軍の桓石虔 眾三萬を率ゐて墊江に據る。育 乃ち自ら蜀王を號し、使を遣はして歸順し、巴獠の酋帥の張重・尹萬ら五萬餘人と與に進みて成都を圍む。尋いで育 萬と權を爭ひ、兵を舉げて相 持す。堅 鄧羌を遣はして楊安らと與に擊ちて之を敗り、育・光 退きて緜竹に屯す。安 又 張重・尹萬を成都の南に敗り、重 之に死し、首級は二萬三千に及ぶ。鄧羌 復た張育・楊光を緜竹に擊ち、皆 之を害す。桓石虔 姚萇を墊江に敗り、萇 退きて五城に據りて、石虔 竺瑤と與に屯を巴東に移す。
時に人の堅を明光殿に大呼する有りて堅に謂ひて曰く、「甲申乙酉に、魚羊 人を食らひ、悲しきな復た遺る無し」と。堅 命じて之を執ふるに、俄かにして見ず。祕書監の朱彤ら因りて鮮卑を誅せんことを請ふも、堅 從はず。使を遣はして四方に巡行し、風俗を觀、政道を問ひ、黜陟を明らかにし、孤獨の自存する能はざる者を恤ふ。安車蒲輪を以て隱士たる樂陵の王歡を徵して國子祭酒と為す。王猛 卒するに及び、堅 聽訟觀を未央の南に置く。老・莊・圖讖の學を禁ず。中外の四禁・二衞・四軍長上の將士、皆 修學せしむ。後宮を課し、典學を置き、內司を立て、以て掖庭に授け、閹人及び女隸を選びて聰識なる者有らば博士に署して以て經を授けしむ。

現代語訳

晋の梁州刺史の楊亮は子の楊広を送り出して仇池を襲撃し、苻堅の将の楊安と戦った。楊広は敗北し、晋の沮水の防衛拠点はすべて城から逃げて崩壊し、楊亮は懼れて退いて磬険を守り、楊安はそのまま進んで漢川を侵略した。苻堅は王統と朱彤を派遣して二万の兵を率いて前鋒として蜀に侵攻させ、前禁将軍の毛当・鷹揚将軍の徐成は歩騎三万を率いて剣閣から入った。楊亮は巴獠の一万あまりを率いてこれを防いだ。青谷で戦ったが、王師が不利となり、楊亮は逃げて西城を固めた。朱彤は勝ちに乗じて漢中を陥落させ、徐成もまた二剣を攻め、これを破り、楊安は進んで梓潼を拠点とした。晋の奮威将軍・西蛮校尉の周虓は朱彤に降服した。揚武将軍・益州刺史の周仲孫は兵を整えて朱彤らを緜竹で防いでいたが、苻堅の将の毛当が成都に到着しそうだと聞き、周仲孫は五千騎を率いて南中に逃げた。楊安と毛当は兵を進め、ついに益州を陥落させた。ここにおいて西南夷の邛莋や夜郎らはすべて帰順した。苻堅は楊安を右大将軍・益州牧とし、成都に鎮させた。毛当を鎮西将軍・梁州刺史とし、漢中に鎮させた。姚萇を寧州刺史・領西蛮校尉とした。王統を南秦州刺史とし、仇池に鎮させた。
蜀人の張育と楊光らが兵を起こして、巴獠と呼応し、苻堅に叛乱した。晋の益州刺史の竺瑤と威遠将軍の桓石虔は三万の兵を率いて墊江に拠った。張育は自ら蜀王を号し、使者を送って帰順し、巴獠の酋帥の張重と尹萬ら五万人あまりとともに進んで成都を包囲した。ほどなく張育は尹萬と権力を争い、兵を挙げて対峙した。苻堅は鄧羌を派遣して楊安らとともにこれを攻めて破り、張育と楊光は退いて緜竹に駐屯した。楊安もまた張重と尹萬を成都の南で撃破し、張重はこの戦いで死に、首級は二万三千に及んだ。鄧羌もまた張育と楊光を緜竹で攻撃し、すべて殺害した。桓石虔は姚萇を墊江で破り、姚萇は退いて五城を拠点とし、桓石虔は竺瑤とともに駐屯地を巴東に移した。
あるとき苻堅を明光殿で大声で呼ぶものがいて、「甲申乙酉(の年)に、魚や羊が人を食らい、悲しいことに何も残らない」と言った。苻堅が命じて捕らえさせたが、突然消えた。秘書監の朱彤らはこの機会に鮮卑の誅伐を提案したが、苻堅は従わなかった。使者を派遣して四方に巡行させ、風俗を視察し、政道を問い、官僚の進退を明らかにし、孤児や未亡人で自活できないものを救済した。安車蒲輪により隠士である楽陵の王歓を徴して国子祭酒とした。王猛が亡くなると、苻堅は聴訟観を未央宮の南に置いた。老壮と図讖の学問を禁じた。中外の四禁・二衛・四軍長上の将士は、みな学問を修めさせた。後宮で人員を点検し、典学を置き、内司を立て、掖庭の人々を教育し、閹人及び女奴隷から選んで聡明なものを博士に任命して経学を授けさせた。

原文

遣其武衞苟萇・1.左將軍毛盛・中書令梁熙・步兵校尉姚萇等率騎十三萬伐張天錫於姑臧。遣尚書郎閻負・梁殊銜命軍前、下書徵天錫。堅嚴飾鹵簿、親餞萇等於城西、賞行將各有差。又遣其秦州刺史苟池・河州刺史李辯・涼州刺史王統、率三州之眾以繼之。閻負等到涼州、天錫自以晉之列藩、志在保境、命斬之、遣將軍馬建出距萇等。俄而梁熙・王統等自清石津攻其將2.梁粲於河會城、陷之。苟萇濟自石城津、與梁熙等會攻纏縮城、又陷之。馬建懼、自楊非退還清塞。天錫又遣將軍掌據率眾三萬、與馬建陣於洪池。苟萇遣姚萇以甲卒三千挑戰、諸將勸據擊之、以挫其鋒、據不從。天錫乃率中軍三萬次金昌。萇・熙聞天錫來逼、急攻據・建、建降於萇、遂攻據、害之、及其軍司席仂。萇進軍入清塞、乘高列陣。天錫又遣司兵趙充哲為前鋒、率勁勇五萬、與萇等戰於赤岸、哲大敗。天錫懼而奔還、致牋請降。萇至姑臧、天錫乘素車白馬、面縛輿櫬、降於軍門。萇釋縛焚櫬、送之於長安、諸郡縣悉降。堅以梁熙為持節・西中郎將・涼州刺史、領護西羌校尉、鎮姑臧。徙豪右七千餘戶於關中、五品稅百姓金銀一萬三千斤以賞軍士、餘皆安堵如故。堅封天錫重光縣之東寧鄉二百戶、號歸義侯。初、萇等將征天錫、堅為其立第於長安、至是而居之。
堅既平涼州、又遣其安北將軍・幽州刺史苻洛為北討大都督、率幽州兵十萬討代王涉翼犍。又遣後將軍俱難與鄧羌等率步騎二十萬東出和龍、西出上郡、與洛會於涉翼犍庭。翼犍戰敗、遁於弱水。苻洛逐之、勢窘迫、退還陰山。其子翼圭縛父請降、洛等振旅而還、封賞有差。堅以翼犍荒俗、未參仁義、令入太學習禮。以翼圭執父不孝、遷之於蜀。散其部落於漢鄣邊故地、立尉・監行事、官僚領押、課之治業營生、三五取丁、優復三年無稅租。其渠帥歲終令朝獻、出入行來為之制限。堅嘗之太學、召涉翼犍問曰、「中國以學養性、而人壽考、漠北噉牛羊而人不壽、何也」。翼犍不能答。又問、「卿種人有堪將者、可召為國家用」。對曰、「漠北人能捕六畜、善馳走、逐水草而已、何堪為將」。又問、「好學否」。對曰、「若不好學、陛下用教臣何為」。堅善其答。
堅以關中水旱不時、議依鄭白故事、發其王侯已下及豪望富室僮隸三萬人、開涇水上源、鑿山起堤、通渠引瀆、以溉岡鹵之田。及春而成、百姓賴其利。以涼州新附、復租賦一年。為父後者賜爵一級、孝悌力田爵二級、孤寡高年穀帛有差、女子百戶牛酒、大酺三日。
遣其尚書令苻丕率司馬慕容暐・苟萇等步騎七萬寇襄陽。使楊安將樊鄧之眾為前鋒、屯騎校尉石越率精騎一萬出魯陽關、慕容垂與姚萇出自南鄉、苟池等與強弩王顯將勁卒四萬從武當繼進、大會漢陽。師次沔北、晉南中郎將朱序以丕軍無舟檝、不以為虞、石越遂游馬以渡。序大懼、固守中城。越攻陷外郛、獲船百餘艘以濟軍。丕率諸將進攻中城、遣苟池・石越・毛當以眾五萬屯於江陵。晉車騎將軍桓沖擁眾七萬為序聲援、憚池等不進、保據上明。兗州刺史彭超遣使上言於堅曰、「晉沛郡太守戴𨔵以卒數千戍彭城、臣請率精銳五萬攻之、願更遣重將討淮南諸城」。堅於是又遣其後將軍俱難率右將軍毛當・後禁毛盛・陵江邵保等步騎七萬寇淮陰・盱眙。揚武彭超寇彭城。梁州刺史韋鍾寇魏興、攻太守吉挹於西城。晉將軍毛武生率眾五萬距之、與俱難等相持於淮南。
先是、梁熙遣使西域、稱揚堅之威德、并以繒綵賜諸國王、於是朝獻者十有餘國。大宛獻天馬千里駒、皆汗血・朱鬣・五色・鳳膺・麟身、及諸珍異五百餘種。堅曰、「吾思漢文之返千里馬、咨嗟美詠。今所獻馬、其悉返之、庶克念前王、髣髴古人矣」。乃命羣臣作止馬詩而遣之、示無欲也。其下以為盛德之事、遠同漢文、於是獻詩者四百餘人。

1.「左將軍毛盛」は、張天錫伝では「毛盛」を「毛當」に作る。下文に、「右將軍毛當・後禁毛盛」があり、名と将軍号の組み合わせが異なる。
2.「梁粲」は、『資治通鑑』巻一百四は、「梁濟」に作る。

訓読

其の武衞の苟萇・左將軍の毛盛・中書令の梁熙・步兵校尉の姚萇らを遣はして騎十三萬を率ゐて張天錫を姑臧に伐つ。尚書郎の閻負・梁殊を遣はして命を軍前に銜み、書を下して天錫を徵す。堅 嚴かに鹵簿を飾り、親しく萇らを城西に餞け、賞行 將に各々差有らんとす。又 其の秦州刺史の苟池・河州刺史の李辯・涼州刺史の王統を遣はして、三州の眾を率ゐて以て之に繼がしむ。閻負ら涼州に到り、天錫 自ら晉の列藩たるを以て、志は境を保つに在れば、之を斬れと命じ、將軍の馬建を遣はして出でて萇らを距ましむ。俄かにして梁熙・王統ら清石津より其の將の梁粲を河會城に攻め、之を陷す。苟萇 濟るに石城津よりし、梁熙らと會して纏縮城を攻め、又 之を陷す。馬建 懼れ、楊非より退きて清塞に還る。天錫 又 將軍の掌據を遣はして眾三萬を率ゐ、馬建と洪池に陣す。苟萇 姚萇を遣はして甲卒三千を以て挑戰し、諸將 據に之を擊たんことを勸め、以て其の鋒を挫かんとするに、據 從はず。天錫 乃ち中軍三萬を率ゐて金昌に次づ。萇・熙 天錫の來逼せしを聞き、據・建を急攻し、建は萇に降り、遂に據を攻め、之を害し、其の軍司席仂に及ぶ。萇 軍を進めて清塞に入り、高みに乘じて陣を列ぶ。天錫 又 司兵の趙充哲を遣はして前鋒と為し、勁勇五萬を率ゐ、萇らと赤岸に戰ひ、哲 大いに敗る。天錫 懼れて奔り還り、牋を致して降らんことを請ふ。萇 姑臧に至り、天錫 素車白馬に乘り、面縛して輿櫬し、軍門に降る。萇 縛を釋き櫬を焚き、之を長安に送り、諸々の郡縣 悉く降る。堅 梁熙を以て持節・西中郎將・涼州刺史と為し、護西羌校尉を領し、姑臧に鎮せしむ。豪右七千餘戶を關中に徙し、五品に百姓に金銀一萬三千斤を稅して以て軍士に賞し、餘は皆 安堵すること故の如し。堅 天錫を重光縣の東の寧鄉二百戶に封じ、歸義侯と號す。初め、萇ら將に天錫を征せんとするや、堅 其の為に第を長安に立て、是に至り之に居せしむ。
堅 既に涼州を平らぐるや、又 其の安北將軍・幽州刺史苻洛を遣はして北討大都督と為し、幽州の兵十萬を率ゐて代王涉翼犍を討たしむ。又 後將軍の俱難を遣はして鄧羌らと與に步騎二十萬を率ゐて東のかた和龍に出で、西のかた上郡に出で、洛と涉翼犍の庭に會す。翼犍 戰ひて敗れ、弱水に遁る。苻洛 之を逐ひ、勢は窘迫し、退きて陰山に還る。其の子の翼圭 父を縛りて降らんことを請ひ、洛ら振旅して還り、封賞は差有り。堅 翼犍の荒俗にして、未だ仁義に參ぜざるを以て、太學に入りて禮を習はしむ。翼圭の父を執へて不孝なるを以て、之を蜀に遷す。其の部落を漢鄣邊の故地に散じ、尉・監行事を立て、官僚もて領押し、之に課して治業し營生せしめ、三五に丁を取り、優に三年を復して稅租無し。其の渠帥の歲終をして朝獻せしめ、出入行來は之の為に制限す。堅 嘗て太學に之き、涉翼犍を召して問ひて曰く、「中國は學を以て性を養ひ、而して人の壽考、漠北 牛羊を噉ひて人は壽ならず、何ぞや」と。翼犍 答ふる能はず。又 問ふ、「卿の種人 將に堪ふる者有らば、召して國家の用と為す可し」と。對へて曰く、「漠北の人 能く六畜を捕へ、馳走を善くし、水草を逐ふのみ、何ぞ將と為るに堪ふるか」と。又 問ふ、「學を好むや否や」と。對へて曰く、「若し學を好まざれば、陛下 用て臣をして何をか為しむ」と。堅 其の答を善しとす。
堅 關中の水旱 時ならざるを以て、鄭白の故事に依らんことを議し、其の王侯より已下及び豪望の富室より僮隸の三萬人を發し、涇水の上源を開きて、山を鑿ち堤を起こし、渠を通じて瀆を引き、以て岡鹵の田を溉す。春に及びて成り、百姓 其の利に賴る。涼州の新附せるを以て、租賦一年を復す。父の後と為る者は爵一級、孝悌力田に爵二級、孤寡高年に穀帛を賜はりて差有り、女子は百戶ごとに牛酒、大酺すること三日なり。
其の尚書令の苻丕を遣はして司馬の慕容暐・苟萇ら步騎七萬を率ゐて襄陽を寇せしむ。楊安をして樊鄧の眾を將ゐて前鋒と為し、屯騎校尉の石越をして精騎一萬を率ゐて魯陽關を出で、慕容垂をして姚萇と與に南鄉より出で、苟池らをして強弩の王顯と與に勁卒四萬を將ゐて武當より繼いで進み、大いに漢陽に會せしむ。師 沔北に次ぢ、晉の南中郎將の朱序 丕の軍の舟檝無き以て、以て虞と為さず、石越 遂に游馬もて以て渡る。序 大いに懼れ、中城を固守す。越 外郛を攻陷し、船百餘艘を獲て以て軍を濟ふ。丕 諸將を率ゐて中城に進攻し、苟池・石越・毛當を遣はして眾五萬を以て江陵に屯せしむ。晉の車騎將軍の桓沖 眾七萬を擁して序が聲援と為すに、池らを憚かりて進まず、保ちて上明に據る。兗州刺史の彭超 使を遣はして堅に上言して曰く、「晉の沛郡太守の戴𨔵 卒數千を以て彭城を戍る。臣 請ふらくは精銳五萬を率ゐて之を攻め、願はくは更めて重將を遣はして淮南の諸城を討たしめよ」と。堅 是に於て又 其の後將軍の俱難を遣はして右將軍の毛當・後禁の毛盛・陵江の邵保ら步騎七萬を率ゐて淮陰・盱眙を寇せしむ。揚武の彭超 彭城を寇す。梁州刺史の韋鍾 魏興を寇し、太守の吉挹を西城に攻む。晉の將軍の毛武生 眾五萬を率ゐて之を距ぎ、俱難らと淮南に相 持す。
是より先、梁熙 使を西域に遣はし、堅の威德を揚稱し、并せて繒綵を以て諸國の王に賜はる。是に於て朝獻する者は十有餘國なり。大宛は天馬千里駒を獻じ、皆 汗血・朱鬣・五色・鳳膺・麟身にして、諸々の珍異の五百餘種を及ぼす。堅曰く、「吾 漢文の千里馬を返せしことを思ひ、咨嗟し美詠す。今 獻ずる所の馬、其れ悉く之を返し、庶はくは克く前王を念ひ、古人を髣髴せよ」と。乃ち羣臣に命じて止馬詩を作らしめて之を遣るは、無欲を示せばなり。其れ下すに以て盛德の事を為し、遠くは漢文に同じく、是に於て詩を獻ずる者は四百餘人なり。

現代語訳

武衛の苟萇・左将軍の毛盛・中書令の梁熙・歩兵校尉の姚萇らを派遣して十三万騎を率いて張天錫を姑臧において討伐した。尚書郎の閻負と梁殊を派遣して軍に先んじて行かせ、書簡を届けて天錫を徴した。苻堅はおごそかに鹵簿を飾り、みずから苟萇らを城西に見送り、差等をつけ褒賞することを約束した。また秦州刺史の苟池・河州刺史の李辯・涼州刺史の王統を動員して、三州の兵を率いて後続の軍とした。閻負らが涼州に到着すると、天錫は自ら晋帝国の列藩であり、領土を保持することを志とし、(前秦の)使者を斬れと命じ、将軍の馬建に命じて苟萇らを防がせた。にわかに梁熙と王統らが清石津からその将の梁粲を河会城において攻撃し、これを陥落させた。苟萇は石城津から渡り、梁熙らと合流して纏縮城を攻撃し、ここも陥落させた。馬建は懼れ、楊非から退いて清塞に還った。天錫はまた将軍の掌據を派遣して三万の兵を率い、馬建とともに洪池で布陣させた。苟萇が姚萇に甲卒三千で戦いを挑ませると、(天錫の)諸将は掌據に姚萇を攻撃して、敵軍の矛先を挫けと勧めたが、掌據は従わなかった。天錫は中軍三万を率いて金昌に進軍した。苟萇(あるいは姚萇)と梁熙は天錫が接近していると聞き、掌據と馬建をはげしく攻撃した。馬建は苟萇に降り、そして掌據を攻め、これを殺害し、軍司の席仂に及んだ。苟萇は軍を進めて清塞に入り、高みを利用して戦陣を並べた。天錫はまた司兵の趙充哲を前鋒とし、強くて勇敢な五万を率いさせ、苟萇らと赤岸で戦ったが、趙充哲は大いに敗れた。天錫は懼れて逃げ還り、書簡を送って降服を申し出た。苟萇が姑臧に至ると、天錫は白い車と馬に乗り、面縛して棺を担ぎ、軍門に降った。苟萇は縛めを解いて棺を焼き、彼を長安に送り、諸々の郡県はすべて降服した。苻堅は梁熙を持節・西中郎将・涼州刺史とし、護西羌校尉を領し、姑臧に鎮させた。豪族の七千戸あまりを関中に移し、五品で(未詳)百姓に金銀一万三千斤を課税して軍士の褒賞とし、それ以外は現状を保証した。苻堅は天錫を重光剣の東の寧郷二百戸に封建し、帰義侯と号した。はじめ、苟萇らが天錫の征伐に向かうとき、苻堅は天錫のために邸宅を長安に立て、征服後にここに住まわせた。
苻堅が涼州の平定を終えると、また安北将軍・幽州刺史の苻洛を北討大都督とし、幽州の兵十万を率いて代王の渉翼犍を討伐させた。また後将軍の俱難を派遣して鄧羌らとともに歩騎二十万を率いて東は和龍に出て、西は上郡に出て、苻洛とともに渉翼犍の領土で合流させた。渉翼犍は戦って敗れ、弱水に逃げた。苻洛はこれを追ったが、兵勢が尽きて窮迫したので、退いて陰山に還った。渉翼犍の子の翼圭が父を縛って降服を申し出たので、苻洛らは軍を引き返して帰り、封賞に差等があった。苻堅は翼犍の風俗が荒々しく、まだ仁義を身に着けていないので、太学に入れて礼を学ばせた。翼圭は父を執えたことが不孝であるとして、蜀に遷した。その部落を漢鄣一帯の故地に散在させ、尉や監といった組織を設け、官僚の管理下におき、生業を興して自活させ、十五歳の成年を徴発し、特別に三年の租税を免除した。その渠帥の老人を朝見させ、出入や進退は彼らのために規則を作った。苻堅はあるとき太学にゆき、渉翼犍を召して問いかけ、「中国では学によって性を養うものだ。ひとの寿命は、漠北では牛羊を食らって短命だが、なぜか」と言った。翼犍は答えられなかった。さらに問いかけ、「きみの種族に将軍の任に堪えるものがいたら、召して国家に登用しよう」と言った。答えて、「漠北の人は六畜を捕え、駆け回れるが、飲み水や牧草を追うだけだ。将軍が務まるわけがない」と言った。また、「学問を好むか」と質問した。答えて、「もし学問を好まなければ、陛下は私に何をさせるのか」と言った。苻堅はその答えを善しとした。
苻堅は関中で水害と旱害が不規則に起こるので、鄭白の故事に則ることを議論し、王侯より以下及び豪族や名望家の富豪から奴隷の三万人を徴発して、涇水の水源を開鑿し、山をくずして堤防を築き、運河を通して水を引き、高地や痩せた耕地に灌漑をした。春になって完成し、百姓はその利益を受けた。涼州が新たに服従したので、一年の租税を免除した。父の後嗣となった者には爵一級を、孝悌と力田には爵二級を、孤寡と高年には穀帛を賜って差等があり、女子は百戸ごとに牛酒を賜り、三日間の酒盛りを許した。
その(前秦の)尚書令の苻丕を派遣して司馬の慕容暐・苟萇ら歩騎七万を率いて襄陽に侵攻させた。楊安には樊鄧の兵を率いさせて前鋒とし、屯騎校尉の石越には精騎一万を率させて魯陽関を出て、慕容垂には姚萇とともに南郷から出て、苟池らには強弩の王顕とともに強兵四万を率いさせて武当から後続の軍とし、大いに漢陽で集合させた。軍は沔水の北に停泊したが、晋の南中郎将の朱序は符丕の軍に船の装備がないので、脅威と見なさなかった。石越は馬を躍らせて沔水を渡った。朱序は大いに懼れ、中城(中の城郭)を固守した。石越は外の城郭を攻め落とし、船百艘あまりを手に入れて軍に補充した。符丕は諸将を率いて中の城郭に進攻し、苟池と石越と毛当に兵五万で江陵に駐屯させた。晋の車騎将軍の桓沖は兵七万を擁して朱序の声援となったが、苟池らを憚かって進まず、上明を拠点とした。兗州刺史の彭超は使者を送って苻堅に上言し、「晋の沛郡太守の戴𨔵は数千の兵で彭城を守っています。私が精鋭五万を率いて攻めるので、重鎮の将を遣わして淮南の諸城を討伐させて下さい」と言った。苻堅はここにおいてまた後将軍の俱難に右将軍の毛当・後禁の毛盛・陵江の邵保ら歩騎七万を率させて淮陰・盱眙を侵略した。揚武の彭超が彭城を侵略した。梁州刺史の韋鍾は魏興を侵略し、太守の吉挹を西城で攻撃した。晋の将軍の毛武生(虎生、毛穆之)は兵五万を率いてこれを防ぎ、俱難らと淮南で対峙した。
これより先、梁熙は使者を西域に派遣して、苻堅の威徳を称揚し、あわせて繒綵(彩色の絹)を諸国の王に賜った。ここにおいて十国あまりが朝貢した。大宛は天馬の千里駒を献上し、すべて汗血・朱鬣・五色・鳳膺・麟身といった品種であり、各国からの珍宝は五百種を超えた。苻堅は、「私は漢の文帝が千里馬を返却した故事を思い、感心して称賛してきた。いま献上された馬は、すべてを返却し、前代の王を想起し、いにしえの名君を思わせるように」と言った。群臣に命じて止馬詩を作らせて贈ったのは、無欲を示すためである。下賜は盛徳(の王)の方法に従い、遠くは漢の文帝に準え、四百人あまりが詩を献じた。

原文

是時苻丕久圍襄陽、御史中丞李柔劾丕以師老無功、請徵下廷尉。堅曰、「丕等費廣無成、實宜貶戮。但師已淹時、不可虛然中返、其特原之、令以功成贖罪」。因遣其黃門郎韋華持節切讓丕等、仍賜以劍、曰、「來春不捷者、汝可自裁、不足復持面見吾也」。初、丕之寇襄陽也、將急攻之、苟萇諫曰、「今以十倍之眾、積粟如山、但掠徙荊楚之人內於許洛、絕其糧運、使外援不接、糧盡無人、不攻自潰、何為促攻以傷將士之命」。丕從之。及堅讓至、眾咸疑懼、莫知所為。征南主簿河東王施進曰、「以大將軍英秀、諸將勇銳、以攻小城、何異洪鑪燎羽毛。所以緩攻、欲以計制之。若決一旦之機、可指日而定。今破襄陽・上明自遁、復何所疑。願請一旬之期、以展三軍之勢。如其不捷、施請為戮首」。丕於是促圍攻之。堅將親率眾助丕等、使苻融將關東甲卒會于壽春、梁熙統河西之眾以繼中軍。融・熙並上言、以為未可興師、乃止。
太元四年、晉兗州刺史謝玄率眾數萬次于泗汭、將救彭城。苻丕陷襄陽、執南中郎將朱序、送于長安、堅署為度支尚書。以其中壘梁成為南中郎將・都督荊揚州諸軍事・荊州刺史、領護南蠻校尉、配兵一萬鎮襄陽、以征南府器仗給之。彭超圍彭城也、置輜重於留城。至是、晉將謝玄遣將軍何謙之・高衡率眾萬餘、聲趣留城、超引軍赴之。戴𨔵率彭城之眾奔於謝玄、超留其治中徐褒守彭城而復寇盱眙。俱難既陷淮陰、留邵保戍之、與超會師而南。晉將毛武生救魏興、遣前鋒督護趙福・將軍袁虞等將水軍一萬、溯江而上。堅南巴校尉姜宇遣將張紹・仇生等水陸五千距之、戰於南縣、王師敗績。尋而韋鍾攻陷魏興、執太守吉挹。毛當與王顯自襄陽而東、會攻淮南。彭超陷盱眙、獲晉建威將軍・高密內史毛璪之、遂攻晉幽州刺史田洛於三阿、去廣陵百里、京都大震、臨江列戍。孝武帝遣征虜將軍謝石率水軍次于涂中、右衞將軍毛安之・游擊將軍河間王曇之次于堂邑、謝玄自廣陵救三阿。毛當・毛盛馳襲安之、王師敗績。玄率眾三萬次於白馬塘、俱難遣其將都顏率騎逆玄、戰於塘西、玄大敗之、斬顏。玄進兵至三阿、與難・超戰、超等又敗、退保盱眙。玄進次石梁、與田洛攻盱眙、難・超出戰、復敗、退屯淮陰。玄遣將軍何謙之・督護諸葛侃率舟師乘潮而上、焚淮橋、又與難等合戰、謙之斬其將邵保、難・超退師淮北。難歸罪彭超、斬其司馬柳渾。堅聞之、大怒、檻車徵超下獄、超自殺、難免為庶人。
堅以毛當為平南將軍・徐州刺史、鎮彭城。毛盛為平東將軍・兗州刺史、鎮胡陸。王顯為平吳校尉・揚州刺史、戍下邳、賞堂邑之功也。又以苻洛為散騎常侍・持節・都督益寧西南夷諸軍事・征南大將軍・益州牧、領護西夷校尉、鎮成都、命從伊闕自襄陽溯漢而上。洛、健之兄子也。雄勇多力、而猛氣絕人、堅深忌之、故常為邊牧。洛有征伐之功而未賞、及是遷也、恚怒、謀於眾曰、「孤於帝室、至親也、主上不能以將相任孤、常擯孤於外、既投之西裔、復不聽過京師、此必有伏計、令梁成沈孤於漢水矣。為宜束手就命、為追晉陽之事以匡社稷邪。諸君意如何」。其治中1.平顏妄陳祥瑞、勸洛舉兵。洛因攘袂大言曰、「孤計決矣、沮謀者斬」。於是自稱大將軍・大都督・秦王、署置官司、以平顏為輔國將軍・幽州刺史、為其謀主。分遣使者徵兵於鮮卑・烏丸・高句麗・百濟及薛羅・休忍等諸國、並不從。洛懼而欲止、平顏曰、「且宜聲言受詔、盡幽并之兵出自中山・常山、陽平公必郊迎於路、因而執之、進據冀州、總關東之眾以圖秦雍、可使百姓不覺易主而大業定矣」。洛從之、乃率眾七萬發和龍、將圖長安。於是關中騷動、盜賊並起。堅遣使數之曰、「天下未一家、兄弟匪他、何為而反。可還和龍、當以幽州永為世封」。洛謂使者曰、「汝還白東海王、幽州褊阨、不足容萬乘、須還王咸陽、以承高祖之業。若能候駕潼關者、位為上公、爵歸本國」。堅大怒、遣其左將軍竇衝及呂光率步騎四萬討之、右將軍都貴馳傳詣鄴、率冀州兵三萬為前鋒、以苻融為大都督、授之節度。使石越率騎一萬、自東萊出石徑、襲和龍、海行四百餘里。苻重亦盡薊城之眾會洛、次於中山、有眾十萬。衝等與洛戰於中山、大敗之、執洛及其將蘭殊、送於長安。呂光追斬苻重於幽州、石越克和龍、斬平顏及其黨與百餘人。堅赦蘭殊、署為將軍、徙洛於涼州、徵苻融為車騎大將軍・領宗正・錄尚書事。

1.「平顏」は、『資治通鑑』巻一百四では、「平規」に作る。以下同じ。

訓読

是の時 苻丕 久しく襄陽を圍み、御史中丞の李柔 劾すらく丕の師は老にして功無きを以てし、徵して廷尉に下さんことを請ふ。堅曰く、「丕ら費は廣にして成無く、實に宜しく貶戮すべし。但だ師は已に淹時たれば、虛然と中ばに返す可からず、其れ特に之を原して、功の成を以て贖罪せしめよ」と。因りて其の黃門郎の韋華を遣はして持節して切りに丕らを讓め、仍ち賜はるに劍を以てして、曰く、「來春 捷たざれば、汝 自裁す可し。復た面を持して吾に見ゆるに足らず」と。初め、丕の襄陽を寇するや、將に之を急攻せんとするに、苟萇 諫めて曰く、「今 十倍の眾を以て、積粟は山の如し。但だ掠めて荊楚の人を徙して許洛に內れ、其の糧運を絕ち、外援をして接さず、糧 盡きて人無からしむれば、攻めずして自潰せん。何為れぞ促りに攻めて以て將士の命を傷するか」と。丕 之に從ふ。堅が讓 至るに及び、眾 咸 疑懼し、為す所を知る莫し。征南主簿たる河東の王施 進みて曰く、「大將軍の英秀、諸將の勇銳を以て、以て小城を攻むるは、何ぞ洪鑪もて羽毛を燎くに異ならんか。緩攻する所以は、計を以て之を制せんと欲すればなり。若し一旦の機を決すれば、日を指して定む可し。今 襄陽・上明を破りて自ら遁れしむるは、復た何をか疑ふ所なるか。願はくは一旬の期を請ひ、以て三軍の勢を展べよ。如し其れ捷たざれば、施 請ふ戮首と為らんことを」と。丕 是に於て促りに圍みて之を攻む。堅 將に親ら眾を率ゐて丕らを助けんとし、苻融をして關東の甲卒を將ゐて壽春に會せしめ、梁熙をして河西の眾を統べて以て中軍を繼がしむ。融・熙 並びに上言し、以為へらく未だ師を興す可からずと。乃ち止む。
太元四年、晉の兗州刺史の謝玄 眾數萬を率ゐて泗汭に次り、將に彭城を救はんとす。苻丕 襄陽を陷し、南中郎將の朱序を執へ、長安に送り、堅 署して度支尚書と為す。其の中壘の梁成を以て南中郎將・都督荊揚州諸軍事・荊州刺史と為し、護南蠻校尉を領せしめ、兵一萬を配して襄陽に鎮せしめ、征南府の器仗を以て之に給す。彭超 彭城を圍むや、輜重を留城に置く。是に至り、晉將の謝玄 將軍の何謙之・高衡を遣はして眾萬餘を率ゐ、留城に趣かんと聲し、超 軍を引きて之に赴く。戴𨔵 彭城の眾を率ゐて謝玄に奔り、超 其の治中の徐褒を留めて彭城を守らしめて復た盱眙を寇す。俱難 既に淮陰を陷し、邵保を留めて之を戍らしめ、超と師を會して南す。晉將の毛武生 魏興を救ひ、前鋒督護の趙福・將軍の袁虞らを遣はして水軍一萬を將ゐ、江を溯りて上らしむ。堅の南巴校尉の姜宇 將の張紹・仇生らを遣はして水陸五千もて之を距ぎ、南縣に戰ひ、王師 敗績す。尋いで韋鍾 攻めて魏興を陷し、太守の吉挹を執ふ。毛當 王顯と與に襄陽より東し、會して淮南を攻む。彭超 盱眙を陷し、晉の建威將軍・高密內史の毛璪之を獲へ、遂に晉の幽州刺史の田洛を三阿に攻め、廣陵を去ること百里にして、京都 大いに震へ、江に臨みて戍を列ぶ。孝武帝 征虜將軍の謝石を遣はして水軍を率ゐて涂中に次らしめ、右衞將軍の毛安之・游擊將軍たる河間王曇之 堂邑に次り、謝玄 廣陵より三阿を救ふ。毛當・毛盛 馳せて安之を襲ひ、王師 敗績す。玄 眾三萬を率ゐて白馬塘に次り、俱難 其の將の都顏を遣はして騎を率ゐて玄を逆へ、塘西に戰ひ、玄 大いに之を敗り、顏を斬る。玄 兵を進めて三阿に至り、難・超と戰ひ、超ら又 敗れ、退きて盱眙を保つ。玄 進みて石梁に次ぢ、田洛と與に盱眙を攻め、難・超 出でて戰ひ、復た敗れ、退きて淮陰に屯す。玄 將軍の何謙之・督護の諸葛侃を遣はして舟師を率ゐて潮に乘じて上り、淮橋を焚き、又 難らと合戰し、謙之 其の將の邵保を斬り、難・超 師を淮北に退く。難 罪を彭超に歸し、其の司馬の柳渾を斬る。堅 之を聞き、大いに怒り、檻車もて超を徵して下獄す。超 自殺し、難 免じて庶人と為す。
堅 毛當を以て平南將軍・徐州刺史と為し、彭城に鎮せしむ。毛盛もて平東將軍・兗州刺史と為し、胡陸に鎮せしむ。王顯もて平吳校尉・揚州刺史と為し、下邳を戍らしめ、堂邑の功を賞するなり。又 苻洛を以て散騎常侍・持節・都督益寧西南夷諸軍事・征南大將軍・益州牧と為し、護西夷校尉を領し、成都に鎮せしめ、伊闕より襄陽より漢を溯りて上ることを命ず。洛は、健の兄の子なり。雄勇にして力多く、而して猛氣は人に絕し、堅 深く之を忌み、故に常に邊牧と為す。洛は征伐の功有りて未だ賞せられず、是に及びて遷るや、恚怒し、眾に謀りて曰く、「孤は帝室に於て、至親なり。主上 將相を以て孤を任ずる能はず、常に孤を外に擯(しりぞ)け、既に之を西裔に投ず。復た京師を過るを聽さず。此れ必ず伏計有りて、梁成をして孤を漢水に沈めしめん。宜しく手を束ねて命に就くを為すは、晉陽の事を追ひて以て社稷を匡すことと為らんか。諸君の意や如何」と。其の治中の平顏 妄りに祥瑞を陳め、洛に舉兵を勸む。洛 因りて袂を攘ちて大言して曰く、「孤の計 決せり、謀を沮む者は斬る」と。是に於て自ら大將軍・大都督・秦王を稱し、官司を署置し、平顏を以て輔國將軍・幽州刺史と為し、其の謀主と為す。使者を分遣けして兵を鮮卑・烏丸・高句麗・百濟及び薛羅・休忍ら諸國より徵すに、並びに從はず。洛 懼れて止めんと欲す。平顏曰く、「且く宜しく聲言して詔を受くべし。幽并の兵を盡くして中山・常山より出さば、陽平公 必ず路に郊迎せん。因りて之を執らへ、進みて冀州に據り、關東の眾を總べて以て秦雍を圖れば、百姓をして覺えずして主を易へめ、大業 定む可し」と。洛 之に從ひ、乃ち眾七萬を率ゐて和龍を發し、將に長安を圖らんとす。是に於て關中 騷動し、盜賊 並び起つ。堅 使を遣りて之を數めて曰く、「天下 未だ一家ならず、兄弟 他に匪ざるに、何為れぞ反するか。和龍に還りて、當に幽州を以て永に世封と為す可し」と。洛 使者に謂ひて曰く、「汝 還りて東海の王に白すべし。幽州 褊阨にして、萬乘を容るるに足らず、須らく還りて咸陽に王たりて、以て高祖の業を承ぐべし。若し能く駕を潼關に候たば、位は上公と為り、爵は本國に歸せん」と。堅 大いに怒り、其の左將軍の竇衝及び呂光を遣はして步騎四萬を率ゐて之を討たしめ、右將軍の都貴をして傳を馳せて鄴に詣らしめ、冀州の兵三萬を率ゐて前鋒と為して、苻融を以て大都督と為し、之に節度を授けしむ。石越をして騎一萬を率ゐて、東萊より石徑に出で、和龍を襲はしめ、海行すること四百餘里なり。苻重も亦た薊城の眾を盡くして洛に會ひ、中山に次で、眾十萬有り。衝ら洛と中山に戰ひ、大いに之を敗り、洛及び其將の蘭殊を執へて、長安に送る。呂光 追ひて苻重を幽州に斬り、石越 和龍に克ち、平顏及び其の黨與百餘人を斬る。堅 蘭殊を赦し、署して將軍と為し、洛を涼州に徙し、苻融を徵して車騎大將軍・領宗正・錄尚書事と為す。

現代語訳

このとき苻丕は襄陽を長らく包囲し、御史中丞の李柔が糾弾して符丕の軍は出陣が長期化しているが功績がないので、徴して廷尉に下すべきですと言った。苻堅は、「符丕らは費用が膨らむが成果がない、地位を下げて処罰すべきだ。しかし滞陣が長引いているから、理由なく途中で撤退させるわけにもいかない。特別に大目に見るから、功績により贖罪させよ」と言った。そこで黄門郎の韋華を派遣して持節して符丕らを追及し、剣を賜って、「来春までに勝たなければ、きみは(この剣で)自決せよ。もはや呼び返して面会するまでもない」と言った。これよりさき、符丕が襄陽に侵攻したとき、短期決戦を試みたが、苟萇が諫めて、「いま(兵法が唱える)十倍の兵がおり、備蓄の穀物は山のようです。ただ荊楚の人を許洛に追い立て、敵軍の兵糧輸送を絶ち、外から援軍の接近を許さず、兵糧も人員も(襄陽から)無くせば、攻撃せずとも自潰するでしょう。どうして激しく攻撃して将士の命を損なうのですか」と言った。符丕はこれに従った。苻堅から追及されると、将士はみな疑い懼れ、どうしたらよいか分からなかった。征南主簿である河東の王施が進み出て、「大将軍の優秀さと、諸将の勇力や精鋭により、小さな城を攻めるのは、大きな鑪で羽毛を焼くことと少しも異なりません。緩やかに攻めたのは、計略により制圧しようと考えたからです。もし総攻撃の決断をすれば、期日を区切って制圧できます。いま襄陽と上明を破って敵軍を自壊させることに、失敗の余地がありません。どうか十日間の期限を設け、三軍の攻勢を展開しなさい。もしこれで勝てなければ、私の首を刎ねて下さい」と言った。符丕はここにおいて包囲を狭めて攻撃した。苻堅は自ら兵を率いて符丕を助けに行き、苻融に関東の武装兵を率いて寿春で合流し、梁熙に河西の軍を統率して中軍に続かせようとした。苻融と梁熙が二人とも上言し、まだ兵を起こしてはいけませんと言った。中止になった。
太元四年、晋の兗州刺史の謝玄が数万の兵を率いて泗汭に駐屯し、彭城を救おうとした。苻丕は襄陽を陥落させ、南中郎将の朱序を捕らえ、長安に送ったところ、苻堅は彼を度支尚書に任命した。その中塁の梁成を南中郎将・都督荊揚州諸軍事・荊州刺史とし、護南蛮校尉を領させ、兵一万を配備して襄陽に鎮させ、征南(将軍)府の器仗を支給した。彭超が彭城を包囲すると、輜重を留城に残してきた。ここに至り、晋将の謝玄が将軍の何謙之と高衡を派遣して一万あまりの兵を率い、留城に向かうと声を揚げたので、彭超は軍を引いてそこに赴いた。戴𨔵が彭城の兵を率いて謝玄のもとに走り、彭超はその治中の徐褒を留めて彭城を守らせてまた盱眙に侵攻した。俱難がすでに淮陰を陥落させると、邵保を留めてそこを守らせ、彭超と軍を合わせて南下した。晋将の毛武生が魏興を救い、前鋒督護の趙福と将軍の袁虞らに水軍一万を率いて、長江を遡上させた。苻堅の南巴校尉の姜宇は将の張紹・仇生らを派遣して水陸五千の兵でこれを防ぎ、南県で戦い、王師は敗績した。ほどなく韋鍾が魏興を攻め落とし、太守の吉挹を捕らえた。毛当は王顕とともに襄陽から東に向かい、合流して淮南を攻めた。彭超は盱眙を陥落させ、晋の建威将軍と高密内史の毛璪之を捕らえ、そして晋の幽州刺史の田洛を三阿で攻撃したが、広陵から百里を離れたところで、京都で大きな地震があり、長江に臨んで陣列を並べた。孝武帝は征虜将軍の謝石を派遣して水軍を率いて涂中に駐屯させ、右衛将軍の毛安之と游撃将軍である河間王曇之(司馬曇之)は堂邑に駐屯し、謝玄は広陵から三阿を救った。毛当と毛盛は馳せて毛安之を襲い、王師が敗績した。謝玄は三万の兵を率いて白馬塘に停泊し、俱難はその将の都顔に騎兵を率いて謝玄を迎撃させ、塘西で戦ったが、謝玄は大いにこれを破り、都顔を斬った。謝玄は兵を進めて三阿に至り、俱難や彭超と戦い、彭超らもまた敗れ、退いて盱眙を保った。謝玄は進んで石梁に停泊し、田洛とともに盱眙を攻撃し、俱難と彭超が出撃して戦ったが、また敗れ、退いて淮陰に駐屯した。謝玄は将軍の何謙之と督護の諸葛侃に水軍を率いて潮流に乗って遡らせ、淮橋を焼いた。また俱難らと合戦し、何謙之がその将の邵保を斬り、俱難と彭超は軍を淮北に撤退させた。俱難は罪を彭超になすりつけ、その司馬の柳渾を斬った。苻堅はこれを聞き、大いに怒り、檻車で俱超を徴して獄に下した。彭超は自殺し、俱難を罷免して庶人とした。
苻堅は毛当を平南将軍・徐州刺史とし、彭城に鎮させた。毛盛を平東将軍・兗州刺史とし、胡陸に鎮させた。王顕を平呉校尉・揚州刺史とし、下邳を守らせたが、これは堂邑での功績に対する褒賞である。さらに苻洛を散騎常侍・持節・都督益寧西南夷諸軍事・征南大将軍・益州牧とし、護西夷校尉を領し、成都に鎮させ、伊闕から襄陽を通って漢水を遡って赴任せよと命じた。苻洛は、苻健の兄の子である。雄々しく勇敢で力が強く、猛気が絶倫なので、苻堅は彼をきびしく警戒し、ゆえに辺境の地方官とした。苻洛は征伐の功績があるにも拘わらず賞賜がなく、このたび異動を命じられたので、激怒して、部下たちと相談し、「私は帝室において、もっとも近しい血縁である。(ところが)主上は将軍や宰相の地位を私に与えられず、いつも私を外部に阻害し、西の端に左遷した。しかも京師を通過することを許さなかった。これには極秘の計略があり、梁成に命じて私を漢水に沈めるつもりだ。手を束ねて大人しく命令に従うのは、晋陽のことを追って社稷を正すことになるだろうか。諸君はどう思うか」と言った。配下の治中の平顔はみだりに祥瑞を並べ、苻洛に挙兵せよと勧めた。苻洛はそこで袂を叩いて大きな声で、「私の考えは固まった、計画を妨げるものは斬る」と言った。ここにおいて自ら大将軍・大都督・秦王を称し、属官を設置して任命し、平顔を輔国将軍・幽州刺史とし、彼を謀主とした。使者を分けて送り兵を鮮卑・烏丸・高句麗・百済及び薛羅・休忍らの諸国から徴発したが、いずれも命令に従わなかった。苻洛は懼れて(挙兵を)中止しようとした。平顔は、「しばし声をあげて詔を受けなさい。幽并の兵を総動員して中山や常山から出せば、陽平公はきっと郊外の道路で出迎えるはず。その場で(陽平公を)捕らえ、進んで冀州に拠り、関東の兵をまとめて秦雍をねらえば、万民はおのずと主君を乗り換え、大業を定めることができましょう」と言った。苻洛はこれに従い、七万の兵を率いて和龍を出発し、長安を攻め取ろうとした。ここにおいて関中は騒いで動揺し、盗賊が次々と現れた。苻堅は使者を送って苻洛をとがめ、「天下はまだ一家となっておらず、兄弟は他人ではないのに、どうして逆らうのか。和龍に帰還し、幽州で末代までの世襲の諸侯となるように」と言った。苻洛は使者に、「お前は引き返して東海の王(苻堅)に伝えよ。幽州は手狭な辺境であり、万乗(天子の軍)を収容するには足りない。(私が関中に)帰還して咸陽で王となり、高祖の業を継ごう。もし車駕に乗って潼関で出迎えるなら、(苻堅の)位を上公とし、封爵は本国に戻してやろう」と言った。苻堅は大いに怒り、その左将軍の竇衝及び呂光を派遣して歩騎四万を率いてこれを討伐させ、右将軍の都貴に割符を持って鄴に入城させ、冀州の兵三万を率いて前鋒として、苻融を大都督とし、節度を授けさせた。石越に命じて一万騎を率いて、東萊から石徑に出て、和龍を襲撃するため、海路を四百里あまり進ませた。苻重もまた薊城の兵を総動員して苻洛に合流し、中山に停泊したが、兵数は十万であった。竇衝らは苻洛と中山で戦い、大いにこれを破り、苻洛及びその将の蘭殊を捕らえて、長安に送った。呂光は追撃して苻重を幽州で斬り、石越は(苻洛の本拠地の)和龍を突破し、平顔及びその党与の百人あまりを斬った。苻堅は蘭殊を赦して、将軍に任命し、苻洛を涼州に徙し、苻融を徴召して車騎大将軍・領宗正・録尚書事とした。

原文

洛既平、堅以關東地廣人殷、思所以鎮靜之、引其羣臣於東堂議曰、「凡我族類、支胤彌繁、今欲分三原・九嵕・武都・汧・雍十五萬戶於諸方要鎮、不忘舊德、為磐石之宗、於諸君之意如何」。皆曰、「此有周所以祚隆八百、社稷之利也」。於是分四帥子弟三千戶、以配苻丕鎮鄴、如世封諸侯、為新券主。堅送丕於灞上、流涕而別。諸戎子弟離其父兄者、皆悲號哀慟、酸感行人、識者以為喪亂流離之象。於是分幽州置平州、以石越為平州刺史、領護鮮卑中郎將、鎮龍城。大鴻臚韓胤領護赤沙中郎將、移烏丸府于代郡之平城。中書梁讜為安遠將軍・幽州刺史、鎮薊城。毛興為鎮西將軍・河州刺史、鎮枹罕。王騰為鷹揚將軍・并州刺史、領謢匈奴中郎將、鎮晉陽。二州各配1.支戶三千。苻暉為鎮東大將軍・豫州牧、鎮洛陽。苻叡為安東將軍・雍州刺史、鎮蒲坂。
先是、高陸人穿井得龜、大三尺、背有八卦文、堅命太卜池養之、食以粟、及此而死、藏其骨於太廟。其夜廟丞高虜夢龜謂之曰、「我本出將歸江南、遭時不遇、隕命秦庭」。又有人夢中謂虜曰、「龜三千六百歲而終、終必妖興、亡國之徵也」。
堅自平諸國之後、國內殷實、遂示人以侈、懸珠簾於正殿、以朝羣臣、宮宇車乘、器物服御、悉以珠璣・琅玕・奇寶・珍怪飾之。尚書郎裴元略諫曰、「臣聞堯舜茅茨、周卑宮室、故致和平、慶隆八百。始皇窮極奢麗、嗣不及孫。願陛下則采椽之不琢、鄙瓊室而不居、敷純風於天下、流休範於無窮、賤金玉、珍穀帛、勤恤人隱、勸課農桑、捐無用之器、棄難得之貨、敦至道以厲薄俗、修文德以懷遠人。然後一軌九州、同風天下、刑措既登、先成東嶽、蹤軒皇以齊美、哂二漢之徙封、臣之願也」。堅大悅、命去珠廉、以元略為諫議大夫。
鄯善王・車師前部王來朝、大宛獻汗血馬、肅慎貢楛矢、天竺獻火浣布、康居・於闐及海東諸國、凡六十有二王、皆遣使貢其方物。
初、堅母少寡、將軍李威有辟陽之寵、史官載之。至是、堅收起居注及著作所錄而觀之、見其事、慚怒、乃焚其書而大檢史官、將加其罪。2.著作郎趙泉・車敬等已死、乃止。
荊州刺史3.都貴遣其司馬閻振・中兵參軍吳仲等率眾二萬寇竟陵、留輜重于管城、水陸輕進。桓沖遣南平太守桓石虔・竟陵太守郭銓等水陸二萬距之、相持月餘、戰於滶水。振等大敗、退保管城。石虔乘勝攻破之、斬振及仲、俘斬萬七千。

1.「支戶」は、『資治通鑑』巻一百四は、「氐戸」に改めている。
2.「著作郎趙泉」は、『史通』正史篇によると、前秦の史官に、趙淵・車敬がいた。趙淵が、唐代の避諱により「趙泉」に改められている。
3.「都貴」は、桓沖伝では「郝貴」、桓石虔伝では「梁成」に作る。「司馬閻振」は、孝武紀及び桓沖伝・桓石虔伝では「襄陽太守閻震」に作る。

訓読

洛 既に平らぐや、堅 關東の地は廣く人は殷きを以て、之を鎮靜せしむ所以を思ひて、其の羣臣を東堂に引きて議して曰く、「凡そ我が族類、支胤は彌繁にして、今 三原・九嵕・武都・汧・雍の十五萬戶を諸方の要鎮に分けて、舊德を忘れず、磐石の宗と為さんと欲す、諸君の意に於て如何」と。皆曰く、「此れ有周の祚を八百より隆くし、社稷の利とする所以なり」と。是に於て四帥の子弟三千戶を分けて、以て苻丕に配して鄴に鎮せしめ、世封の諸侯が如くし、新券主と為す。堅 丕を灞上に送り、流涕して別る。諸戎の子弟 其の父兄と離るる者は、皆 悲號して哀慟し、行人を酸感せしめ、識者 以て喪亂流離の象と為す。是に於て幽州を分けて平州を置き、石越を以て平州刺史と為し、護鮮卑中郎將を領し、龍城に鎮せしむ。大鴻臚の韓胤もて護赤沙中郎將を領せしめ、烏丸府を代郡の平城に移す。中書の梁讜もて安遠將軍・幽州刺史と為し、薊城に鎮せしむ。毛興もて鎮西將軍・河州刺史と為し、枹罕に鎮せしむ。王騰もて鷹揚將軍・并州刺史と為し、護匈奴中郎將を領し、晉陽に鎮せしむ。二州に各々支戶三千を配す。苻暉もて鎮東大將軍・豫州牧と為し、洛陽に鎮せしむ。苻叡もて安東將軍・雍州刺史と為し、蒲坂に鎮せしむ。
是より先、高陸の人 井を穿ちて龜を得て、大きさ三尺、背に八卦の文有り、堅 太卜に命じて池に之を養ひ、食するに粟を以てし、此に及びて死し、其の骨を太廟に藏す。其の夜 廟丞の高虜 龜の之に謂ふを夢みて曰く、「我 本は出でて將に江南に歸らんとするに、時に遭ひて遇はず、命を秦庭に隕とす」と。又 人の夢中に虜に謂ふもの有りて曰く、「龜は三千六百歲にして終はり、終に必ず妖 興こる。亡國の徵なり」と。
堅 諸國を平らぐるの後より、國內 殷實し、遂に人に示すに侈を以てし、珠簾を正殿に懸けて、以て羣臣を朝せしめ、宮宇車乘、器物服御、悉く珠璣・琅玕・奇寶・珍怪を以て之を飾る。尚書郎の裴元略 諫めて曰く、「臣 聞くらく堯舜は茅茨たりて、周は宮室を卑しくすれば、故に和平に致し、慶は八百より隆し。始皇は奢麗を窮極すれば、嗣は孫に及ばず。願はくは陛下 采椽の琢せざるに則し、瓊室を鄙めて居らざれば、純風を天下に敷き、休範を無窮に流し、金玉を賤しみ、穀帛を珍し、人隱を勤恤し、農桑を勸課し、無用の器を捐て、得難きの貨を棄て、至道を敦くして以て薄俗を厲まし、文德を修めて以て遠人を懷かしめよ。然る後に軌を九州に一にし、風を天下に同にし、刑 措くこと既に登り、成を東嶽に先にし、軒皇を蹤みて以て美を齊しくし、二漢の封を徙すを哂(わら)ふは、臣の願なり」と。堅 大いに悅び、命じて珠廉を去り、元略を以て諫議大夫と為す。
鄯善王・車師の前部王 來朝し、大宛 汗血馬を獻じ、肅慎 楛矢を貢じ、天竺 火浣布を獻じ、康居・於闐及(と)海東の諸國、凡そ六十有二王、皆 使を遣はして其の方物を貢す。
初め、堅の母 少くして寡なり、將軍の李威 辟陽の寵有り、史官 之を載す。是に至り、堅 起居注及(と)著作の錄する所を收めて之を觀、其の事を見て、慚怒し、乃ち其の書を焚して大いに史官を檢め、將に其の罪を加へんとす。著作郎の趙泉・車敬ら已に死すれば、乃ち止む。
荊州刺史の都貴 其の司馬の閻振・中兵參軍の吳仲らを遣はして眾二萬を率ゐて竟陵を寇し、輜重を管城に留め、水陸 輕進す。桓沖 南平太守の桓石虔・竟陵太守の郭銓ら遣はして水陸二萬より之を距む、相 持すこと月餘、滶水に戰ふ。振ら大いに敗れ、退きて管城を保つ。石虔 勝に乘じて攻めて之を破り、振及(と)仲を斬り、俘斬すること萬七千なり。

現代語訳

洛陽を平定すると、苻堅は関東は土地が広く人口が多いので、ここを安定支配する方法について考え、群臣を東堂に集めて議論して、「わが種族は、支族や分家が増えてきた、いま三原・九嵕・武都・汧・雍の十五万戸を各地の要所に分け、旧徳を忘れず、宗家を支える盤石の支えとしたい。諸君はどう思うか」と言った。みな、「これぞ周王朝が国運を八百年以上たもち、社稷の助けとした方法です」と言った。そこで四帥の子弟から三千戸を分けて、苻丕を鄴に出鎮させ、世襲の諸侯のようにし、新券主とした。苻堅は符丕を灞上で見送り、涙を流して別れた。諸戎の子弟でその父や兄と離れるものは、みな声をあげて泣き、道行く人の哀切を誘ったが、識者は国家が滅亡し離散する予兆だと感じた。ここにおいて幽州を分けて平州を置き、石越を平州刺史とし、護鮮卑中郎將を領し、龍城に鎮させた。大鴻臚の韓胤に護赤沙中郎將を領させ、烏丸府を代郡の平城に移した。中書の梁讜を安遠将軍・幽州刺史とし、薊城に鎮させた。毛興を鎮西将軍・河州刺史とし、枹罕に鎮させた。王騰を鷹揚将軍・并州刺史とし、護匈奴中郎将を領し、晋陽に鎮させた。二州にそれぞれ支戸(氐戸)三千を配した。苻暉を鎮東大将軍・豫州牧とし、洛陽に鎮させた。苻叡を安東将軍・雍州刺史とし、蒲坂に鎮させた。
これより先、高陸の人が井戸を掘ったところ亀を捕まえ、大きさは三尺で、背に八卦の文様があった。苻堅は太卜に命じて池でこれを飼い、穀物を食わせたが、このとき死に、その骨を太廟に収納した。その夜に廟丞の高虜が亀がしゃべる夢を見て、「私は本当は(地中を)出て江南に行こうとしたが、時節が巡りあわず、秦の領土で命を落とした」と言った。また夢のなかである人物が高虜に、「亀は三千六百歳で寿命を終え、その終わりに必ず妖異が起こる。亡国の前兆である」と言った。
苻堅は諸国の平定が終わると、国内は充実して栄え、人々に奢侈を見せつけ、珠廉を正殿にかけて、羣臣に朝見させ、宮殿や馬車、器物や衣服は、すべて各種の稀少な宝玉で飾りつけた。尚書郎の裴元略が諫めて、「私が聞きますに尭舜はあばら屋で政務をとり、周室は宮殿を質素にしたので、平穏が実現し、国運が八百年を超えました。始皇帝は奢麗を極めたので、帝位が孫に伝わりませんでした。どうか陛下は未加工の建材(粗末な建物)を手本とされ、宮室から宝玉を取り除けば、教化が天下に浸透し、よい規範がすみずみに伝わるでしょう。金玉を賤しんで、穀帛を大切にし、人民の苦しみを労り、農桑を推奨し、無用の器物を捨て、希少な宝を手放し、至上の道を重んじて軽薄な風潮を正し、文徳を修めて遠方の人々を懐かせますように。そして軌(の幅)を九州で統一し、風化を天下に波及させ、刑罰をする必要がなく、成果を泰山に報告し、黄帝を踏襲して美名を等しくし、二漢が封地を移したことを笑うのが、私の願いです」と言った。苻堅は大いに悦んで、珠廉を取り除けと命じ、裴元略を諫議大夫とした。
鄯善王と車師の前部王が来朝し、大宛は汗血馬を、粛慎は楛矢を、天竺は火浣布を献上した。康居と於闐や海東の諸国から、全部で六十二の王が、みな使者を送って名産を提出した。
かつて、苻堅の母は若いとき夫を失ったが、将軍の李威に辟陽の寵があり(苻堅の母と密通し)、史官はこれを記載した。ここにいたり、苻堅は起居注と著作(の官)による記録を手に入れて閲覧し、その内容を見て、羞じて怒り、文書を焼き捨てて史官を取り調べ、罪を罰しようとした。著作郎の趙泉と車敬らがすでに死んでいたので、事案は収束した。
(前秦の)荊州刺史の都貴はその司馬の閻振と中兵参軍の呉仲らを派遣して二万の兵を率いて竟陵を侵略させ、輜重を管城に留め、水陸を高速で進んだ。(東晋の)桓沖は南平太守の桓石虔と竟陵太守の郭銓らを派遣して水陸の兵二万でこれを防がせ、対峙すること一ヵ月あまりで、滶水で戦った。閻振らは大いに敗れ、退いて管城を保った。桓石虔が勝ちに乗じてこれを攻め破り、閻振と呉仲を斬り、一万七千を捕虜にし斬殺した。